曹源寺
お寺が子どもたちの遊び場だった頃(1954年頃)
(2018/11/11公開 2019/09/05改稿)
(2018/11/11公開 2019/09/05改稿)
※目印は撮影位置です
1949(昭和29)年秋頃、山門をフレームに入れ曹源寺(東松山市本町1丁目)の本堂を撮った写真です。樹木の影が西側に長く落ちています。朝方のそれなりに早い時刻、写っているのはおそらく近所の子でしょう。ストリートビューはこんな感じ(2017年12月)です。肝心の本堂が写っていません。実は、本堂そのものに違いがあるのですが、何が違うかは次の写真をご参照ください。
2008年11月24日撮影の同じアングルの写真です。本堂の建物が右方向に広がっています。それだけでなく屋根の形状自体が変わっています。向拝(前方に張り出した中央の屋根)付寄棟が向拝付入母屋になっています。境内(山門向こう側)も変わっています。右手に樹木は手前の1本を残し伐採されています。2008年の写真に青い傘の人影が写り込んでいます。その手前に自動車の後部が僅かに見えています。伐採された樹木の跡は駐車スペースになりました。敷石も3列から5列に拡張しています。車の通行の便を図ったということでしょう。境内左手の生け垣も1954年の写真には無いものです。
2018年5月29日撮影の同じアングルの写真です。10年前とほとんど変わりありません。ただ、対の天水受けの色がやけに白く見えます。理由は後述します。敷石の状況はこちらの写真の方がはっきり写っています。横方向にも歩行者用敷石があります。右側は庫裏に、左側は墓地に通じています。墓地と区切りの植栽はカナメモチのようです。次に、本堂が右側に拡張する前はどんな感じだったかを見ていきます。
曹源寺を背景にした七五三の記念写真(1959年頃)等をツギハギしたものです。2008年11月24日の写真では、本堂が柱1つ(1間分)増築されていることが」わかります。その前に樹木があり、さらに右側にもかつて樹木(一部は切り株)がありました。切り株の後ろに四角い天水桶が見えます。その後ろの建物は「方丈」(住職の居所)でしょうか?
本堂左にある本堂庫裡増改築記念碑の写真(2008年3月15日撮影)です。本堂が横に拡張したのは1981(昭和56)年3月(出典:現地記念碑)でした。天水受けはだいぶ傷んでいるようですね。2018年5月29日撮影写真の天水桶が白く見えていたのは、それが新調された後だったからです。
2018年10月29日撮影の写真ではこのように天水受けが真新しくなっています。形状はほぼ同じです。
最初の写真と同時期のものです。本堂は上から見るとピラミッド型に近い寄棟の屋根であったことがわかります。
石畳の通路がはっきり移っています。墓地へ続く通路、もう1つは空き地へ通じていたことがわかります。
本堂の屋根が入母屋に変わっています。空き地へ通じていた通路の先には立派な庫裏が建っています。
本堂増築・庫裏建立、駐車場整備、時代とともに曹源寺も変わりました。しかし、一番変わったのは「お寺で遊ぶ子どもたちの姿が見られなくなったこと」かもしれません。最初の写真には子どもの姿が写り込んでいます。七五三のお祝いがお寺で行われたことも、昔はあったようです。
1954年頃は、お寺はある意味で地域のコミュニティの役割も担っていました。お寺や神社の境内は、当時の子どもたちの格好の遊び場でした。お行儀のいい子ばかりではなく、いたずら小僧も混じっていました。「落書厳禁」という山主(方丈さん)の注意書きにその思いが読み取れます。昭和(1954年)と令和(2019年)では事情が違います。鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴りなどの外遊び中心だった1950〜1960年台。その後、野球盤、人生ゲーム、オセロなどの室内ゲームが台頭し、1981年お寺から空き地が失われたことにより、子どもたちのお寺離れ(?)が加速していったと思われます。テレビゲーム、ゲーム専用機の時代を経てスマートフォン等によるネットに遊びの主流が移ってきました。もうお寺で遊ぶ意味が子どもたちには無くなってしまったのです。「落書き厳禁」の注意書きはもう必要ありません。子どもたちの姿がお寺にあったのは、社会情勢が推移する中で偶然生まれた幻のような瞬間だったのかもしれません。(2019/09/05改稿)
お宮、お寺を散歩しよう(ARCHIVES-March2016-第1933回 曹源寺)
仏教企画(仏教企画通信-過去のアーカイブ-曹洞禅グラフ No.133 2015 夏・お盆-わが寺自慢 曹源寺 )
JOOKOふぉとROOM(東松山・曹源寺の「はなまつり」※2019年3月末ジオシティーズ終了に伴いリンクが切れています。)
あゆみ観音フォトログ(「曹源寺」で検索 ※JOOKOふぉとROOMの写真が転載されています。 )