日光線島川橋梁

島川橋梁付近の中川の様子(1950年頃)

(2018/11/08公開 )

※目印は撮影位置です

撮影位置は次のストリートビュー(2012年8月)の場所です。橋が異なりますが、中川に流れ込む大堀排水路(写真左部分)は残っています。写真の橋はトラス橋だった頃の島川橋梁、東武日光線幸手駅と南栗橋駅間の中川をまたぐ橋です。東武日光線(杉戸〜東武日光間)の開通は1929(昭和4)年(出典:東武鉄道 会社の沿革1921〜1940年)です。鉄道橋である島川橋梁の架設も同年ということになります。島川橋梁という名称は当時の川の名称「島川」によるものです。中川について「大正6年から昭和16年にかけて、直轄事業及び県営用排水幹線改良事業により大規模な河川改修が行われ、ほぼ現在の川の姿となった。」(引用:利根川水系 中川・綾瀬川ブロック河川整備計画 (県管理区間) 平成18年4月 埼玉県 p9)という記載があります。1929(昭和4)年時点では(河川改修が一部終わっていたとしても)完了前のため「島川」は「島川」のままであったと推定されます。

島田橋梁の形状の違いは、2004(平成16)年の島川橋梁改修(出典:株式会社テクノ・ユーエヌ 工事経歴「平成15年から平成22年度」)によるものと思われます。「思われます」としたのは、出典資料の工事概要が「RCD杭67本」とあるだけで、橋梁本体の改修の詳細が確認できなかったためです。同じトラス橋でも、当サイトの古写真「東上線荒川橋梁」とは趣を異にしています。島川橋梁はトラス橋の長さが短く、電車はトラス構造の底辺上を通行する方式となっています。そして後からできた島川橋梁の方が先にお役御免となり、荒川橋梁は現役で踏ん張っている(2018年時点)訳です。さて、この写真では、撮影者は人物(事情によりカット)を左に配置し中川と島川橋梁を背景として取り込んでいます。撮影者の関心は、橋そのものではなく橋を含む中川一帯の風景に向けられていたと思われます。

島川橋梁近くの中川で水遊びをしている人が大勢います。この日は水深はあまり無いようです。

水路が合流するあたりで何かしています。 仕掛けで魚を獲っていたのでしょうか?

土手を歩いて登る人影も確認できます。写真には写っていませんが釣りもできました。

1950年頃は近くの川で遊ぶことも日常的な光景のひとつだったと思われます。スマホどころかテレビさえ登場前、2018年時点から思うと何も無かった時代です。それでも生活の中に楽しみがあったことをこの写真から読み取ることはできると思います。(2018/11/08公開)

■参考サイト

東武鉄道ポータルサイト(企業情報-会社の沿革-1921年~1940年)

埼玉県(くらし・環境-まちづくり-河川管理-河川整備-埼玉の河川-埼玉県の河川整備計画-中川・綾瀬川ブロック河川整備計画(本文))

株式会社テクノ・ユーエヌ(工事経歴-平成15年から平成22年度 )

フカダソフト(きまぐれ旅写真館-橋〜川をまたぐ-鉄道橋-東武日光線-島川橋梁)