芝増上寺
東京タワーが捉えた再建途中の増上寺(1959年頃)
(2019/07/10公開 7/23修正 7/25加筆)
(2019/07/10公開 7/23修正 7/25加筆)
※目印は撮影位置です
撮影者は、東京タワーの展望台から東南東方向へカメラを向けてシャッターを切っています。下方に増上寺境内、続いて3棟の高層住宅、その向こうに見える橋は浜崎橋でしょうか? 東京湾に浮かぶ無数の船舶、そして光る空…、撮影者は眼前に広がる大パノラマに心踊らせて写した渾身の1枚です。おそらく東京タワー完成(1958年12月23日)からそう月日が経過していない頃に撮影されたものと思われます。
興味深い建物等が多く写り込んでいますが、ここでは「芝増上寺」に着目し調べてみました。大本山 増上寺の公式サイト内に境内の「堂宇の配置図」があり比較してみたのですが、今いちしっくり来ません。1945(昭和20)年の空襲により建造物の多くを焼失し再建中のため現在と同じであろうはずは無いのですが、それでも位置の違いが引っかかりました。まずは戦火を免れた建物のひとつ「三解脱門」(写真中央左端)から見ていきます。
撮影者が残したもう一枚の写真に三解脱門(一部)が写っていました。ほぼ同じ位置のストリートビューがこちら(2015年12月)です。「増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物」(出典:増上寺公式サイト)だそうです。門の先に電柱が見えています。参拝者が門から続く石畳の上を歩いています。撮影位置は境内側やや左寄りからであることがわかります。門の手前にストリートビューと同じ樹木はヒマラヤ杉です。いわれのある木のようで現地案内板に「グラント松」とあるそうです。門の左側、斜めの構造物は階段ですが、2階部分は非公開で登ることはできません。
最初の写真に当時の境内建造物の位置を付記してみました。左上の「三解脱門」(下の数字は建築年)は戦火を免れ同じ位置に残っています。三解脱門の左下「鐘楼堂」と上中央「経蔵」も戦火を免れた建造物で現在と同じ位置にあります。右上の台徳院霊廟の「惣門」「勅額門」「丁子門」も戦火を免れましたが、同じ位置にはありません。惣門は東方向(写真左上)に移動し、「勅額門」「丁子門」は埼玉県所沢市の狭山不動尊に移築されています。「仮本堂」は戦災後1952(昭和27)年に建築されましたが、最終的には取り壊されています。現在、その位置には「大殿」(仮でない本堂)があります。「大納骨堂」は石造のため戦火の影響はないはずですが、なぜか現在と位置が異なっています。「寺務所」に関しては文献等に記載がないため詳細不明です。右下の建物(現在の明徳幼稚園の位置)についても不明です。
ところで、仮本堂の西(写真手前)の四角く囲まれた構造物が気になります。戦火を免れた何かか、戦後再建された何かなのかも含め不明です。ただ、現在、その位置にそれらしきものは存在していないことだけは確かです。
空中写真を左に90°回転し、初めの写真と方向を揃えました。焼失から2年後、本堂はまだ再建されていません。そんな中、寺務所周辺は戦火を免れていたことがわかります。三解脱門、鐘楼堂、経蔵、台徳院霊廟惣門が残ったのは位置的な要因によるものです。明徳幼稚園(三解脱門右位置)はその姿を見せていません。
焼失から11年後の空中写真です。本堂(仮)が建築され、寺務所の建物一部は取り壊されています。台徳院霊廟惣門の位置が移動(東方向)しています。惣門右位置に明徳幼稚園(L字の屋根)が建築されています。仮本堂西の構造物は焼失せず、そのまま残っていたということがわかります。大納骨堂同様、石造の可能性が高まりました。
増上寺の公式サイトでは、寺務所が戦火を免れたことも、その後取り壊されたことも触れていません。それは歴史的価値が高いものではなく、主に庶務的な役割の建物であったからでしょう。とするならば、仮本堂西の構造物(たぶん石造)も歴史が浅く、増上寺としてそれほど重きを置くものではないものと考えられます。増上寺境内には、寺とは直接的な関わりのない石碑等がいくつかあります。め組供養碑、阿波丸事件殉難者之碑、魚供養之碑、ホテルニュージャパン罹災者慰霊のための観音像…、その中の一つ、「土木建築殉職者慰霊塔」(三解脱門を入ってすぐ左側)が仮本堂西の構造物に似ています。ストリートビューでみるとこちら(2018年10月撮影)です。いかんせん位置が違います。慰霊塔を移動したことを示す文献も見つかりませんでした。大納骨堂の方は「1980(昭和55)年に現在地に遷座(移設)」されたことが、増上寺公式サイトにより判明しています。
そして仮本堂西の構造物の裏付けとなるものがついに見つかりました。それは土木建築殉職者慰霊塔建立当時の写真です。(2019/07/10公開 、2019/07/23修正)
(出典:土木建築工事画報 第13巻 昭和12年4号 p166 )
「土木建築殉難者慰霊塔建立さる」という記事中の写真です。四角い囲いの中に建立された慰霊塔を正面から撮影したもので、その右後方に大納骨堂がはっきりと写り込んでいます。記事は「土木図書館デジタルアーカイブス」で見ることができます。
外構の形状も一致しています。雑誌写真で右後方フレーム内に大納骨堂(石塔)が入ってくる位置関係も確認できました。当初この位置に建立された慰霊塔は、おそらく堂宇再建の際に現在の三解脱門付近に移設され、外構部分は変更となったのでしょう。
ところで、土木建築殉職者慰霊塔の先端の形が建立当時と異なっていることにお気づきでしょうか? これは台風により塔最上部の法輪が落下したため(出典:建通新聞 神奈川版2008/4/17)で、記事では改修工事の竣工が伝えられています。改修工事では法輪の取り付けを行わないことにしたのでしょう。法輪の有無は増上寺境内での移設とは無関係です。「東建月報1999年12月号」(東京建設業協会刊)に法輪のある慰霊塔の写真が掲載されています。詳しくは文末「参考サイト」をご参照ください。(2019/07/25加筆)
大本山 増上寺 (由来・歴史-歴史 / 境内散歩-堂宇の配置ほか)
東京都港区公式ホームページ ( 区政情報-各種広報媒体・報道資料-広報紙-広報みなと-「広報みなとコラム」バックナンバー-芝公園発見!歴史とロマン(全4回)-芝公園発見!歴史とロマン02 増上寺6将軍の霊廟
所沢市(イイ"ところ"-学ぶ・楽しむ-文化・教養・スポーツ-文化財国の指定文化財-旧台徳院霊廟勅額門、丁子門及び御成門)
国土地理院(地図・空中写真・地理調査-地図・空中写真閲覧サービス-地名又は経緯度検索-地名又は施設名検索-「増上寺」で検索)
明徳幼稚園(明徳幼稚園とは? 「明徳幼稚園のあゆみ」)
此処彼処見聞控(このブログを「増上寺」で検索-増上寺境内のあれやこれや…ということ)
土木図書館デジタルアーカイブス(戦前図書・雑誌コレクション-土木建築工事画報-第13巻 昭和12年-4号-土木建築殉難者慰霊塔建立さる)
一般社団法人 全国建設業協会(「土木建築殉職者慰霊塔」で検索-土木建築殉職者慰霊塔について)
建通新聞(https://www.kentsu.co.jp/webnews/html/080414400012.html ※記事全文閲覧には会員登録が必要です。)
一般社団法人 東京建設業協会(広報活動-東建月報-1999年(No.609~620)-1999年12月号(No.620)-シリーズ東京の文化財:増上寺経蔵)