稲毛海岸
潮干狩り風景、今は埋め立てられて陸地(1956年)
(2019/07/05公開)
(2019/07/05公開)
※目印は大まかな撮影位置です
1956(昭和31)年4月24日、潮干狩りをし舟で戻ってきたときの様子を捉えた一コマです。遠浅の海辺で潮干狩りする人が小さく写っています。遠方に陸地も写っています。しかし、この写真から撮影地を特定することはまず不可能です。正直、本当にここが稲毛海岸であるかどうかも定かではありません。なぜなら、今、現地を訪れてもそこに撮影場所を特定できるものが何も残っていないからです。この写真の稲毛海岸はその後埋め立てられ姿を変えてしまいました。現在の稲毛海岸(海浜公園付近)は人工の砂浜でこの写真とは位置が異なります。
昭和初期の稲毛海岸について「旅の小遣帳」(時事新報家庭部 編 正和堂書房 1930(昭和5)年刊)p254に次のように記載されています。「稲毛は海水浴場としてより、潮干狩りの場所として知られてゐる。事實滿潮になつても比較的淺く、澪にでもはいらねば、泳ぐだけの深さがない。一朝干潮になれば、遠く半里先まで砂地が露出してしまうので、子供さん達を引き具しての貝拾いには持つて來いのところである。浅蜊、蛤それから俗に云ふお化け貝の類が相當採れるので、夏場でも貝拾いで賑ふのである。」
他にも稲毛海岸での潮干狩りの様子を伝える文献、写真が多く残っています。詳しくは巻末の参考サイトをご参照願います。
背景の陸地は埋め立てられ現在との比較は無意味です。昔の陸地が写っている稲毛海岸潮干狩り写真や動画(文末参考サイト参照)を見ても、同じ場所と特定できる一致点は見いだせません。
ネットらしきものを持っています。舟右下に水跳ねがあります。水を切っているのでしょうか? 潮干狩りには違いなさそうです。背景の陸地も大きな特徴はありません。
1958年(約2年後)の稲毛海岸周辺の空中写真(駅名等は筆者補記)です。埋立前のもので、海岸線が現在(2019年)の国道14号線です。稲毛海岸へのアスセスは稲毛駅(総武線)か京成稲毛駅・黒砂駅(京成千葉線)が最寄でした。なお、黒砂駅はみどり台駅に改名、稲毛海岸駅(京葉線)は当時は海でした。稲毛浅間神社(左中央)の一の鳥居は海上にありました。この航空写真から最初の写真が稲毛海岸であることを示す有力な手掛かりはみつかりませんでした。
実は、撮影者のメモがある写真が残っていて、日付は「昭31.4.24」、場所は「千葉西海岸にて」となっています。稲毛海岸ではありません。
前の空中写真から西千葉駅から南方向を切り抜いたものです。意外と海岸が近い距離にあります。
空中写真から稲毛駅から南方向を切り抜いたのです。海岸までの距離は西千葉駅よりあることがわかります。
撮影者の記録に基づくのであれば「西千葉海岸」とするのが順当です。それをあえて「稲毛海岸」としたのにはそれなりの理由があります。ひとつは「西千葉」が地名ではなく駅名からきていると考えられるからです。つまり「西千葉駅の近くにある海岸」という意味で書いたメモではないかという推測です。次に「西千葉海岸」という海岸の存在が確認できなかったことです。加えて稲毛海岸の範囲が明確ではなく、西千葉駅から稲毛海岸の一端に足を伸ばすことも容易だったであろうと思われます。舟で行くのであれば、稲毛海岸の潮干狩り場から少々離れていたとしても不都合はありません。これはあくまでも仮定の話です。しかし、背後に写り込んでいる潮干狩りをする人たちがいる場所は少なくとも「稲毛海岸」と思われます。撮影者の足取りを考えると、西千葉駅から海岸に下り舟で潮干狩り場へ往復したと思われます。稲毛浅間神社の海上の鳥居近くまで行く理由は無かったのでしょう。ですから写真に鳥居が写り込んでいないと考えられます。(2019/07/05公開)
千葉市立図書館(地域・行政資料のページ-所蔵資料の紹介-なつかしのフォトギャラリー)
Lab通信(「このブログ内」を指定して「稲毛懐古」で検索-稲毛懐古)
シリーズ 昭和30年代 南多摩高校 No 3 稲毛海岸潮干狩り他(映像1:37〜2:23の背景)
稲毛海岸の絵葉書(映像0:32、0:43、2:00頃の背景)
磯辺地区〈街づくり〉索引(磯辺地区<街づくり>活動記録等、過去の掲載記事/索引-磯辺地区/街づくり構想(正本)-第1章=磯辺地区の現状と課題-(3)磯辺成立以前の検見川地区)
国土地理院(地図・空中写真・地理調査-地図・空中写真閲覧サービス-地名又は経緯度検索-地名又は施設名検索-「稲毛海岸」で検索)
旅の小遣帳 時事新報家庭部 編 正和堂書房 1930
千葉市の昔の海岸線を歩く 米澤 正弘著 地質学雑誌 2016年 122 巻 8 号 445-458