東上線川荒川橋梁
東武東上線玉淀駅と鉢形駅間の橋梁(1954年頃)
(2018/11/07公開)
(2018/11/07公開)
※目印は撮影位置です
1925(大正12)年に架設された東武東上線が荒川を跨ぐ位置に架設された上路式トラス橋です。三角形の集合体をトラスと呼び、その集合体の上を通行するのが上路式です。93年経過した今(2018年現在)も現役で使われています。写真は玉淀河原をやや下った河川敷から下流方向にある荒川橋梁を撮影したものです。橋の右方向に鉢形駅、左方向に玉淀駅が位置しています。橋の他は、川と岩場、樹々しか写っておらず特筆すべきことは何もありません。ストリートビュー(2015年5月)(視点は異なります)を見ても大きな変化は見られません。撮影者は、人物を中心に写真を撮っていたのに、なぜ、この1枚の風景写真を残したのでしょうか?
小さくですが人の姿が写っています。1964(昭和39)年、上流に玉淀ダムができるまでは、水量も多くこのあたりで水泳もできたようです。
左岸に人工的な何かが置かれているようですが、さっぱりわかりません。
最初の写真の撮影地点から後ろを振り向けば、吊り橋だった正喜橋が視界に入ったはずです。この写真は、人物の背景に写り込んだ吊り橋を合成して再現したものです。吊り橋の左側には人影らしきものが確認できます。こちらの方がはるかに趣のある写真が撮れそうな気がします。しかし、撮影者は吊り橋ではなく、無機質なトラス橋を被写体として選びます。それはその時代の事情があったからではないでしょうか。当時、吊り橋や木橋は時代遅れ、価値の低いものというイメージが強く、鉄骨で組んだトラス橋には未来を感じさせる何かがあったと推測されます。古いものから新しいものに切り替わる時代の変わり目にあって、吊り橋に懐かしさを覚え価値を認める感性を当時の人が持ち得なかったとしてもそれは仕方のないことです。
なお、この吊り橋については情報が錯綜しています。この吊り橋があったのは、1957(昭和32)年まで(出典:民話⑫ 正喜橋を作った人の話)、50メートルほど下流に新しい鋼製桁橋が作られた(出典:荒川ゆらり 3月第4週 映画館捜し-寄居の銀映)とあります。ところが、吊り橋と新正喜橋(鋼製桁橋)両方が写っている写真を紹介しているサイト(meron fuku商会 玉淀ライン下りの貴重な写真? (2))があります。さらに埼玉県のホームページでは、正喜橋について「架設年次:昭和46年 鋼3径間連続箱桁橋
」(引用元:埼玉県【橋りょう】 正喜橋〔寄居町〕)としています。「1957(昭和32)年に吊り橋の50m下流に鋼製桁橋が新設されたが、廃止された吊り橋は撤去されずにしばらく残っていた。」と解釈するならば、各サイトの記載内容に大きな矛盾はありません。ただし、埼玉県のサイト内の記載は別です。そして見つけました。そのまま引用します。「R0051 正喜橋 しょうき 埼玉 寄居町 県道30号 荒川 1957 145.95 鋼合成箱桁l=3x48
」(引用元:FR11:川を渡る橋・埼玉県)吊り橋の下流に新たに正喜橋が架設されたのは1957(昭和32)年で間違いありません。(2018/11/07公開)
フカダソフト(きまぐれ旅写真館-第5回 橋-鉄道橋-鉄道橋その2-東武鉄道 東上線-荒川橋梁)
はるんの気ままにぶらり(民話・郷土かるた-リスト-2ページ-民話⑫ 正喜橋を作った人の話 )
荒川ゆらり〜寄居発東京湾行 (目次へ-2008年-3月第4週 映画館捜し-寄居の銀映 )
meron fuku商会(「玉淀」で検索 )
中日本建設コンサルタント株式会社(技術情報-島田技術顧問のサイト-川と川を渡る橋お話シリーズ-FR11埼玉県)
埼玉県(総合トップ-文化・教育-観光-埼玉県の土木構造物-橋りょう-橋りょう(荒川中流域)-【橋りょう】 正喜橋〔寄居町〕)