史蹟吉見百穴
1952(昭和27)年頃の吉見百穴(吉見町)
(2018/09/24公開)
(加筆:2018/10/05 2018/10/26)
(2018/09/24公開)
(加筆:2018/10/05 2018/10/26)
※目印は撮影位置です
山肌にポコポコ穴のあいているこの奇観は、埼玉県吉見町にある古墳時代後期の横穴墓群です。このストリートビュー(2017年11月)が撮影位置近く(写真はやや後方、引いた位置から)です。発掘された当初(明治時代)は、コロポックルの住居と考えられていたこともあります。大正の頃から知られている埼玉の観光地のひとつでした。古い写真や絵葉書等の貴重な記録も探せばいくつもあるはずです。さて、この写真とよく似た吉見百穴の写真が、彩の国デジタルアーカイブに公開されています。おそらく同じ頃のものであろうということで、ここで紹介した写真も撮影年を「1952年頃」ということにしました。なお、アーカイブの写真の撮影地が「吉見村(現吉見町)」となっていますが、1952年当時であれば、正確には「西吉見村」(1954年には合併して吉見村になります)だったはずです。
山の上に人影が確認できます
入口付近にも幾人もの訪問者
手前土手には自転車の乗る人の姿
山の上の松は葉をつけています。枝だけになった木もあります。手前には雑草が生い茂っているように見えますが、土手の草は伸びていません。 写り込んでいる人物の服装は長袖です。季節は暑からず寒からず、晩秋または早春といったところでしょうか? 上の2枚目の写真には、穴に群がっている人たちがいます。ところで写真左半分に看板、案内板らしきものが見受けられます。左端の縦長の看板には6文字書かれているようですが、さすがに判別できません。(2018/09/24公開)
拡大したところでぼやけていて何もわかりません。6文字が記された縦の柱が建っているのが、かろうじてわかる程度です。
こちらは別の写真、撮影年は1954(昭和29)年の夏頃です。史蹟吉見百穴の柱、その右手には五角形の高札、並んで立てられた案内板、同じ構成をしています。
写真撮影当時、吉見百穴は西吉見村にありました。「 昭和29年7月1日には昭和の大合併により4ケ村が合併して吉見村が誕生しました。」(出典:吉見町役場 町の概要)
高札の隣の「案内板」は一部しか写っていませんが、周辺地図です。文字はぼやけているものの、駅は「武州松山」(後に東松山に改名)のはずです。(2018/10/05加筆)
1984年に百穴入口付近にある案内板を撮影した写真です。2018年撮影のものと比べ、外枠部分は全く同じですが、地図の向きだけでなく、コースにも変更があります。
2018年10月25日撮影のふるさと歩道案内図「百穴コース」
「ふるさと歩道 百穴コース」を埼玉県のホームページで検索しても該当無し(2018年時点)でした。コース途中に案内標識が設置されていますので、廃止になったということはなさそうです。(2018/10/26加筆)