享和2年(1802年)の夏、二本木村の宮大工吉川忠八温恭夫妻は麦刈りをしていたが、茶樹の下で昼食をとった時のことです。
当時は川越に伝来した茶の栽培もすっかり衰退しむしろ茶樹を残しておくのは惰農の証拠だとして百姓は努めて茶樹を伐採している状況で茶を栽培している人はわずかだったようです。そこで木陰で食事のできるような大きな茶樹もあったわけす。
夫妻は茶樹の新芽が夭々して愛すべき状況だったのでしばらく新芽を摘んでいました。そしてまた畑に戻ろうとしたとき、天候が悪化し、もう麦刈りを続けられる状況でなくなりました。
そして家に帰り摘採した新芽だけで製茶(釜製)したところ、香味凡ならず、大変おいしいということに気付いたのでした。
吉川温恭は余りのおいしさにこのお茶を飲んでもらいました。村野盛政は数椀のんで大いにその香味を賞したとのことです。
村野弥七盛政は小野派一刀流・甲源一刀流の二派を極めた剣客であるとともに俳句の指南もしていて諸地方を歴遊することが多く、様々な生活と文化に接しており、茶についても相応の理解を有し、茶葉復興を望んでいました。
吉川温恭は本業の宮大工として神社の上棟式の節、風折烏帽子(かざおりえぼし)と狩衣(かりぎぬ)着用の認可を京都の神祇官領所へ願い出ていたものが許可されたので御礼言上のため京都に上ることになりました。その時期が丁度製茶の時期だったので宇治の茶業の実際をつぶさに見学して帰りました。本来裁許状の受領は江戸で済むとことで、宇治見学の口実であったのかもしれません。
京から帰ると村野盛政と相談して蒸篭(せいろ)を考案、焙炉(ほいろ)を改造し、蒸気によって生葉を蒸し焙炉の上で手もみで揉捻する宇治製法に自信をもって近隣農家にその方法を伝授しました。
※記事は瑞穂町史を参考