大僧都永忠(えいちゅう/ようちゅう、天平15年(743年) - 弘仁7年4月5日(816年5月5日))
日本後紀は、平安初期の勅撰史書で 、完成は天長10年(833年)、この中に記載されているお茶に関する事項が日本最初の記録だそうです。延暦24年(805年)4月、こ嵯峨天皇に大僧都永忠が「手ずから茶を煎じ奉御す」との記載があります。(右ページの→部分)茶が栽培され、製茶され、煎じて飲んでいたことがわかります。
また、同年6月、嵯峨天皇は機内、近江、丹波、播磨等で茶を栽培して毎年献上するように命令しました。
栄西(1141年~1215年)は宋に2度渡り、臨済宗の禅とともに茶の文化も日本に持ち帰った人。日本で初めての茶書、喫茶養生紀を執筆しました。
喫茶養生記の冒頭は「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」との記載で始まります。吾妻鏡には、建保2年(1214年)に、二日酔いに苦しむ将軍源実朝に茶とともにこの本を献上したと記載されています。
盧仝(ろ・どう、生年不詳-835年)は中国・唐代中期の詩人。
代表作『月蝕詩』は、当時の皇帝、それを取り巻く宦官等の権力争いを810年11月にあった月蝕に例えて風刺した詩。また『走筆謝孟諫議寄新茶』は友人の孟諫議からお茶をもらった際の感謝を表し、中でも一碗~七碗まで飲んだ時の表現は有名、この詩も終盤の数行は地位の高い人は人民の苦しい暮らしが解るはずがない等と風刺を効かせています。
唐という大帝国14代皇帝文宗の時代、皇帝と宦官の権力争いの渦中、宦官一掃計画が失敗「甘露の変」、盧仝は、たまたま当事者、宰相王涯の邸で会食していたところ、事件とは無関係と主張したものの、一緒に処刑されたとのことです。茶を愛し、玉川泉から水を汲んで茶を煮出し玉川子と号しました。
岡倉天心(本名 角蔵・覚蔵→覚三、1863年2月14日(太陽暦)-1914年9月2日)
明治23年東京美術学校(現東京藝術大学)校長、明治31年日本美術院創立、明治36年五浦に土地と家屋を求める、「東洋の理想」をロンドンで刊行する、明治37年アメリカのボストン美術館中国・日本美術部エキスパートになる、明治38年、五浦の別荘を新築し六角堂を立てる、明治39年赤倉に別荘を建てる、「茶の本」をニューヨークで刊行する、明治43年ボストン美術館中国・日本美術部長となる、大正2年病気のためアメリカより帰国する、療養のため赤倉に移るが9月2日没する。