茶室は見かけは印象的ではない。それは一等小さい日本家屋よりも小さく、その建築に使われた材料は気品のある貧しさを暗示する意図が込められている。しかも、すべてのことは深い芸術的先慮から出たものであり、その細部の仕上げに払われた配慮は、どんな立派な宮殿寺院の建造に払われた配慮よりも周到であることを忘れてはならない。≪茶の本(岡倉天心著、桶谷英昭訳)≫
道誉はその曉勇諸将に卓越した豪傑であり、いかなる権威にもとらわれぬ稀にみる自由奔放な思想の持ち主として、いわゆる「ばさら」の典型として、今日、歴史的な注目をあびるようになった。
道誉は、きわめて豊かな文化的教養をになっていた。今日の伝統芸術として親しまれれている、能、狂言、申楽はもとより、茶、花、香などの芸道におよんでその真価を発掘して、その興隆に力をつくした。
《甲良町・甲良町観光協会》「茶の本」を書いて東洋文化を世界に紹介した岡倉天心。ボストンとここ五浦海岸を半年ごとに行き来する生活。天心遺跡、美術館などを訪ねてみました。
出雲祝神社
茶つみは朝早くから夕方まで競争的な仕事であったが、茶衆は午後四時ごろには一日の仕事を終えた。中にはゆかたでも着て、ぶらぶらと茶摘みのそばへ来て、娘達に冗談を言ったりしているひともあった。早く大きくなって、茶つくりをしたいと思ったものである。《狭山茶場史実録 まえがきより(吉川忠八著)》
多摩ローム層の堆積がはじまった頃は、まだ狭山丘陵も多摩丘陵もできておらず、とてつもなく広い扇状地か、流路定まらぬ多摩川の川原が一面に広がっていた。(中略)その頃になるとこの付近の隆起が目立つようになってきた。土地が隆起すると、川は大地をけずって谷を刻みはじまえる。これを川の下刻作用というが、それとともに周辺の土地の浸食を繰り返すようになる。その影響で多摩川はある時は北東方向(現在の埼玉県柳瀬川方面など)に、そして南東方向へと川筋を時々変えながら、やがて現在の多摩川に近い流路をとるようになっていくのである。
こうして多摩ローム層の堆積が終わるころ(約13~15万年前)になると多摩川の浸食をまぬがれた部分が丘陵になって残された。多摩丘陵や狭山丘陵がそれであり、とくに狭山きゅうろゆは周りをきれいに深栖奥でけずられて、紡錘形の先をあたかも多摩川の流れに向けるような形で、孤立した丘陵としてとりのこされたのである。《戸沢充則著 狭山丘陵の地形と地質 多摩湖の歴史普及版(東大和市教育委員会編)より》