お茶の種類と特徴、製法について調べてみました。
お茶の種類にはその酸化酵素のとり扱い方(発酵のさせ方)によって大きく4つに分類することが出来ます。不発酵茶、半発酵茶、発酵茶、後発酵茶です。
お茶を摘むとすぐに酸化酵素が働き自然に発酵が始まります、茶葉の塊は呼吸熱で熱を帯びてきます。摘んだ後すぐに蒸してこの酸化の働きを止めるものが不発酵茶です。
お茶を摘んだ後速やかに蒸して酸化の進行を止めます、その後、段階を踏んで揉み、揉みながら乾かしていくお茶です。世界的には珍しい方法で、こうすることにより緑色が綺麗な茶葉に仕上がります。
玉露とかぶせ茶は、育てている茶樹に覆いをすることで成分を調整しているお茶で、玉露は20日以上、かぶせ茶は1週間から10日程覆いをします。
番茶一番茶二番茶の後の三番目に摘んだお茶や秋頃に摘む茶葉で作るお茶で、日差しが強い時期の茶葉は肉厚で揉んでも細くできず平べったい形に仕上がります。カテキンが強く渋味や苦みが引き立ちます。
抹茶は育てている茶樹に覆いをすることで成分を調整しているお茶で25日以上覆いをするとのことです。お茶を摘んだ後速やかに蒸して酸化の進行を止めるまでは緑茶と同じですが、揉まずに乾かし、最後に石臼でひいて細かい粒にします。飲み方はご存知の通り、お茶を点(た)てて飲みます。
生葉をある程度萎(しお)れされ揺らすことで酸化させ独特の香りを出したところで炒って酸化を止めたものがウーロン茶です。
酸化させる度合いがお茶の中で最も強いのが紅茶です。摘んで萎(しお)れさせた葉をよく揉み、高温多湿の環境で葉中の酸化酵素を働かせ、最後に乾燥します。
後発酵茶で有名なものがプーアール茶です。生葉を摘み炒って酸化を止め揉んだ後コウジカビをつけ乾かしたものです。
参考図書
※1 おいしいお茶の秘密 三木雄貴秀著 サイエンス・アイ新書
時代とともにお茶の飲み方は変化してきました。
尚、下記記事【】内は、改訂版 狭山茶の歴史と現在 編集・発行 入間市博物館2014年3月15日よりの引用部分です。
【唐で作られていた茶は固形の団茶(餅茶)だったと考えられています。喫茶法は、団茶を砕いて薬研で粉末に挽き、湯を沸かした釜に入れ煎じる「煎じ茶」でした。このように、茶を煎じる(煮出す)方法を「煎茶法」といいます。
『日本後紀』の中で、永忠が嵯峨天皇に茶を「煎じ奉御す」とあることからも、煎じて(煮出して)飲む「煎じ茶」だったと考えられます。しかし、日本国内で茶が生産されるようになると、団茶に加工せず、葉茶のまま乾燥させて、これを煮出して飲む方法も行われていたと考えられます。】※2p.2より引用
【宋代の中国では、茶の粉に湯を点じて立てる「点茶法:てんちゃほう」が普及します。この場合の「点じる」とは、口の長い湯瓶(とうへい)で湯を注ぐという意味です(高橋忠彦2013)。九州博多の大宰府の遺跡を中心に、12世紀前半から点茶に使う貿易陶磁の輸入が確認され、平安時代後期(院政期)には日宋貿易によって点茶法が九州に伝わっていたと考えられます。
朝廷の法会や密教寺院の儀式などでは、白湯(さゆ)で煮出す「煎じ茶」が引き続き用いられていましたが、客人のもてなしや贈答用など私的空間で用いる茶として、点茶法による「抹茶」がしだいに使用されるようになります。】※2p.3より引用
【禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の僧隠元(いんげん)(1592~1673:中国福建省出身)は承応3年(1654年)に中国(明:みん)から来日し、寛文元年(1661年)に京都宇治に黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)を創建しました。隠元の来日には多くの中国僧が随行し、明時代の中国文化を直に伝えました。それまでに、これまでに抹茶とは異なる製茶法である釜炒り茶が含まれていました。釜炒り茶は、茶の葉を鉄の釜で炒り、筵(むしろ)の上などで揉んで作る製茶法です。また、茶を粉末にせず、急須などに葉茶を入れ、湯を注いで成分を出す「淹茶(えんちゃ)法」という喫茶法で飲みます。】※2p.10より引用
【江戸時代抹茶(碾茶)の生産は、宇治の限られた茶師の特権で、一般には許されていませんでした。江戸時代中期、山城国綴喜郡湯屋谷(やましろのくにつづきぐんゆやだに)京都府宇治田原町の篤農家永谷宗円(1681~1778)は、抹茶に匹敵する新たな製茶法を開発しようと考え、従来の抹茶(碾茶)の蒸す工程と、釜炒り茶の揉んで乾かす工程を参考に、元文3年(1738年)蒸し製煎茶という新しい製茶の法を考案しました。翌年、宗円はこの新製品を持って江戸の茶商山本嘉兵衛(山本山)を訪れます。茶商山本は、「色沢鮮緑、香気馥郁(しきたくせんりょくこうきふくいく)」とした蒸し製煎茶に驚嘆し、以後、江戸の茶問屋に高値で取引されるようになります。宗円はこの製法を自分ひとりのものとせず、広く公開し伝授したことによって、後世の名声を一身に集めることになります。永谷家に残る『古今嘉木暦覧(ここんかぼくれきらん)』からは蒸し製煎茶法(宇治製法)が全国の茶産地へと波及していった様子を知ることが出来ます。宗円による蒸し製煎茶の開発は、日本茶業史上の大きな転換期をなりました。】※2p.10より引用
参考図書
※2 改訂版 狭山茶の歴史と現在 編集・発行 入間市博物館2014年3月15日