このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2023.『ジュリーの世界』のセミ.ひゃくとりむし (520): 6238–6239](2023年6月1日発行)としてください。
このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2023.『ジュリーの世界』のセミ.ひゃくとりむし (520): 6238–6239](2023年6月1日発行)としてください。
2月のサロンの席上、N村さんから何の脈略もなく、「河野さん、『河原町のジュリー』って、ご存知ですか」と訊かれたので、一瞬たじろいでしまったが、ほとんど消し去られていた記憶の奥底からその風貌が呼び起こされてしまった。とは言え、その実物を見た記憶は残っていなかったので、色々な人から聞いた話をもとに私の頭の中で合成されただけの風貌である。「河原町のジュリー」とは、沢田研二のことではなく、当時おそらく日本一有名だった路上生活者の愛称である。
1970年代から1980年代前半にかけて京都の街で暮らした人なら、その姿を見たことはなくても、噂に聞いたことも無いような人は珍しいと思う。私に見た記憶が無いのは、おそらく「河原町のジュリー」(以降、「彼」と記す)と私の行動範囲がほとんど重なっていなかったからで、つまり、南北では四条通から三条通まで、東西では河原町通から寺町通の間でしか行動していなかった「彼」と、北東の街外れの北白川に住んで、蝶を追いかけて岩倉や北山方面ばかりに出かけていた私とでは、そもそも出会う機会がほとんど無かったのだ。
Wikipediaによれば、「彼」は1984年2月5日の早朝、普段の「彼」の行動範囲から東に大きく外れた円山公園にある山鉾収蔵庫の前で凍死しているのを発見された。その頃私は安曇川上流の江賀谷でコブハサミムシの生態調査をしていたが、その冬は殊の外寒くて雪も多く、私の調査地でも1mを超える積雪となった。このような極寒の冬は、路上生活者の「彼」にとって本当に辛かっただろう、と今更ながら思う。
そこで、なぜN村さんがこんな「彼」の話を切り出されたのか、ということだが、N村さんは何と、「彼」を題材とした小説をお読みとのことだった。それに触発されてしまった私は、すぐにそれを図書館で借りてきて読んだ。その表題は『ジュリーの世界』(増山実著、ポプラ社、2021年)。
描かれている時代の中心は1979年の春からの約1年で、それが私の京都での学生時代に重なっているせいもあり、当時の風景が色々思い出された。物語は、「彼」の内面ではなく、「彼」が行動する地域に所在する交番に勤務する新人警察官の目線から描かれており、さまざまなエピソードの中で「彼」が登場する。
読んでみると、時代考証が間違っていると思われる点にも色々気付いたのだが、ドキュメンタリーではないので、それは大きな問題ではない。しかし、虫屋として我慢できなかったのは、「アブラゼミのシャーシャーという鳴き声だ。」(124ページ)とセミの鳴き声が描写されていたことだ。「シャーシャー」と言えばクマゼミだが、場面は午後だったのでクマゼミは鳴いていなかっただろう。しかし、アブラゼミの鳴き声が「シャーシャー」では違和感に満ち満ちている。しかし、一般市民(この本の著者を含む)のセミに関する興味がその程度のものであることを再認識させられた、とも言える。
まあ、そんなわけだが、表題から想像される以上に大きなものが描かれており、充実した読後感が得られた。「彼」もあの世で喜んでいるのではないだろうか。
前振りが長かった割に肝心なことは少ししか書かれていないので、読者には申し訳なく思う。しかし、興味を持たれた方は、ぜひご一読を。