このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2020アナ眼とデジ眼(2)アナ・デジ変換の誤差と「外来種」.ひゃくとりむし (472): 5657–5661](202011月21日発行)としてください。

アナ眼とデジ眼(2)

アナ・デジ変換の誤差と「外来種」

前稿(ひゃくとりむし 471: 5642–5645, 2020)のむすびとして、アナログとデジタルの間に絶対的な優劣関係は存在しないので、アナログとデジタルの両方を、それぞれ得意な領域で使い、近似の方法を間違わないことが肝要である、と書いた。

近似について、前稿では離散型分布である二項分布を連続型分布である正規分布で近似することを例にした。つまり、デジタルからアナログへの近似である。その際、実用的には無視できるものの、誤差が生じることも説明した。ここでは、デジタルからアナログだけでなく、アナログからデジタルの方向でも近似が行われることを説明したい。

デジタルがアナログより優れているという印象が何となく漂っている背景として、様々なシステムがアナログからデジタルに移行していることが挙げられるだろう。我々の生活に身近なところでは、連続型の変数の代表である[時間]がデジタル化されたことが大きいと思われる。大昔は、太陽の動きを元に時間が計られ、日時計で時刻を知った。やがて機械仕掛けになって振子が時計に組み込まれることにより、時計のデジタル化が本格的に始まったと言えるであろう(それ以前の砂時計もデジタルであろうが)。それまで連続的にしか捉えられなかった時間が、振子によって刻まれるようになったのである。やがて、内部の情報を0と1で表現するコンピュータが発明されたことにより、デジタル化が推進された(それまでにも機械仕掛けのアナログコンピュータは存在していた)。その後、携帯電話もテレビもデジタル化され、既に日本にはアナログの携帯電話もテレビも残されていない。

携帯電話の音声もテレビの動画も時間を内含する事象なので、連続型の変数だと思われ、デジタルよりアナログの方に高い親和性を持つと思われる。音声情報は時間軸に沿った量の変動として記述可能なので、完全にアナログだと理解して良いと思われる。日本で採用されていたNTSC方式のアナログテレビは、1秒間に30コマの静止画像が送られていたので、その点ではデジタルであるが、それぞれの点の明るさや音声はアナログとして理解される。言わばハイブリッドである。

1980年代になるとデジタルのオーディオとしてコンパクトディスク(CD)が製品化され、それまで主流だったアナログのレコードとCDでは「どちらが良い音か」が盛んに議論された。要するに、0と1で表現したCDは本来アナログの形質である音声信号を忠実に再現できないのではないかと疑われたわけである。しかしその後、44.1kHzでサンプリングされた16ビットのCDのデジタル音声信号は、実用的には全く問題とされず、瞬く間に普及した。近年、もっと高い周波数でサンプリングされた24ビットや32ビットのハイレゾルーションオーディオ(ハイレゾ)が開発された背景には、従来のデジタルオーディオの質が低いのではないかという疑念があったわけだが、大抵の人はハイレゾの音をそれ以前のデジタルオーディオと識別できないらしい。つまり、録音するときのアナログ-デジタル(AD)変換と、再生するときのデジタル-アナログ(DA)変換という不可避的に誤差を生じる過程を経ても、従来の古いデジタルオーディオの規格ですら実用的に全く問題が無かったと言える。

日本において地上波のテレビにデジタル方式が導入されたのは2003年のことで、2011年には完全にデジタル放送に移行した。テレビのデジタル化がオーディオのデジタル化より大幅に遅れたのは、遥かに多くの情報を含む信号をADあるいはDA変換する必要があることが技術的に最も重要な問題だったと思う。しかし、デジタルコンピュータの性能が向上し、十分な変換速度を確保できるようになったことで問題が解決され、アナログより遥かに高品質のテレビを見られるようになった。これもオーディオと同じで、4Kとか8Kとかさらに高品質のテレビが開発されているが、普通の家庭では現状のデジタルテレビで十分だという人が大半ではないかと思う。

以上、オーディオとテレビでのデジタル化について、デジタルの圧勝になったことを書いたが、何でもデジタル化すれば良いわけではないことも書いておきたいと思う。筆者が既に批判した外来種(ひゃくとりむし 438: 5247–5250, 2019)のことである。

現在わが国で法的に「外来種」とされる種は、明治以降にわが国に人為的に侵入した種で、それ以前に侵入、あるいは非人為的に侵入したと考えられている種は除外されている。侵入時期という形質は全く時間軸そのものが反映されているものなので、ある生物種の侵入時期は、疑うまでもなく、アナログ的な事象である。それにもかかわらず、明治維新以前か以降かでデジタル的な二分法で分けられているから、当然のことながら、そこにはAD変換する際の誤差が生じる。たった1年の違いで、あるいは極端なことをいえば、1日の違いで「外来種」であるかどうかが決まるのは妥当なことだろうか?

上に書いた、デジタルオーディオやデジタルテレビの話では、AD変換し、さらにDA変換したときの誤差は問題にならなかった、つまり、2回の変換を経ても品質に問題が無かったと書いた。そこからの敷衍になるが、「外来種」に関しても、2回の変換を経ても誤差が問題にならなければ、その変換は妥当なものと判断しても良いのではないだろうか?

外来だとほぼ断定されていても、その古い侵入年代が特定できない種は多いので、現実的には確定できない部分もあるが、横軸として時間、縦軸としてその時点での元々日本に居なかった生物種の種数のグラフを太古の昔から現在まで描くと(情報が少なくて仮想的に描かなければいけないところもあるが)、単調に増加する右上がりの折線を描くことができる(ここでは便宜的に、ウリミバエやミカンコミバエのように、既に根絶された種もまだ存在しているものと仮定する)。ここで、現在の法的な定義に従ってこのグラフに重ねようとすると、明治維新の時点までに侵入した種をどのように扱うかで少し困る。ある種が元々は日本にいなかったことがわかっていることとすれば、その種数を明治維新以降のオフセットとして扱い、その後の種数にゲタを履かせることにしよう。そうすると、明治維新以降は両者が一致するので誤差はないが、明治維新以前のある時点においては、「元々日本にいなかった種数」とオフセットの差が誤差になる。このAD変換における誤差は許容できる程度であろうか?

次に、現時点2020年で外来種のラベルが付けられた種について、時間を横軸に、縦軸にその時点での外来種の数をとって、DA変換した結果を描いたら、現実を再現できるであろうか?これはもう絶望的としか言えない。敢えて描くとすれば、現時点と明治維新の時点と日本列島が成立した時点での種数は確定できるが、明治維新の前も後も単調に増加する折線を適当に描かざるをえない。何通りのグラフを描けるかどうか、計算はできるだろうが、相当な数になるはずである。毎年同様の比率で増加したと仮定すれば、おそらく最も誤差を小さくできるだろうと思うが、それでもその誤差は許容できないように思われる。

以上のことから、法的な外来種の定義に基づいてADあるいはDA変換したときの誤差は許容できないと思われるので、「外来種かどうか」のみに基づいて物事を判断するのは危険である、ということが言えそうである。

現実的に外来種が問題にされるのは、多くの外来種が我々にとって不都合をもたらすからであろう。ここで、有害か無害かという判断基準もその有害の程度を考慮しなければデジタルである。そのようにすると、第1表に示したようなマトリクスで、外来種か在来種かという判断基準との対応を見ることができる。ここで、(B)と(C)の部分に分類される種数が0であれば、外来種であることと有害であることを結びつけても問題ないであろう。しかし現実を見ると、日本の生態系で大きな問題になっている、ニホンジカ、ニホンイノシシ、ニホンザルは(B)に分類されるであろうし、外来の害虫に対して原産地から人為的に導入された天敵、例えば、ワタフキカイガラムシに対するベダリアテントウのような種は(C)に分類されるであろう(「有益」というランクを新たに設けて良いほどである)。したがって、外来種かどうか、有害かどうかを1:1に対応づけられないので、「外来種だから」という理由だけで何らかの行動を起こすことには問題があると言い切って良いであろう。行動を起こすかどうかは、我々にとって不都合(有害)かどうか、あるいは許容できる不都合かどうかのみ基づいて個別に判断するのが妥当なところだと思う。

第1表.[在来種 vs 外来種]×[無害 vs 有害]のマトリクス

と、ここまで書いたら、2020年9月13日(日)付けの中日新聞朝刊教育欄「Dig!」に五箇公一さん(国立環境研究所)の記事を見つけ、「Dig!」の今月(2020年9月)のテーマが「外来生物」であることを知った。問題提起は9月6日(日)の同欄で行われており、それはウェブで読むことができる(下記URL)。これに対して、五箇さんはワルモノ扱いする線引きには「(地域において)検証し、議論し、合意形成していくこと」が重要であるとし、伊勢田哲治さん(京都大学文学研究科、倫理学)は、人間の都合を優先することに理屈は立てられないが、「現実と折り合いを付けるなら、人間を優先するところから出発せざるを得ないであろう」という意見を寄せている。ここに書かれていることは、筆者がここで書いたことと視点は全く異なるが、結論的なことに筆者の考えと五箇氏および伊勢田氏の意見の間に明確な対立が感じられないことに少し安心した。

中日新聞「Dig!」 https://www.chunichi.co.jp/article/116847?rct=dig

「アナ眼とデジ眼」という表題は、編集者の中西さんからご提案いただいた。