このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2020.私的里山考.ひゃくとりむし (456): 5462–5465](2020年3月11日発行)としてください。
このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2020.私的里山考.ひゃくとりむし (456): 5462–5465](2020年3月11日発行)としてください。
今から50年ほど前の自分が小学生だった頃に「里山」という言葉を聞いた記憶がない。昨今「里山」と呼ばれるような環境は、その当時「雑木林」と呼ばれていた。広大な沖積平野である濃尾平野のほぼ中央に位置する街の中で生まれ育ったので、「雑木林」は本の中にしか存在しない架空の存在に近いものであった。カブトムシ、クワガタ、オオムラサキ、スズメバチが集まるクヌギの樹液は憧れであった。近所の虫採りスポットであった真言宗豊山派宝部山地蔵寺(今は小中高の同級生が住職を勤めている)の境内のシラカシの樹液にはシロテンハナムグリぐらいしか来なかった。
いま思い返せば、本の中に出てくるような雑木林を初めて見たのは、大学に進学し、京都の岩倉に住んだときだった。鴨川の支流の高野川と岩倉川の間にある瓢箪崩山を中心とする山塊は、スギなどの人工林になっている部分が多かったものの、アカマツが多い部分やコナラなどの落葉広葉樹林が多い部分も残っており、それが雑木林と言えそうなものだった。春にはギフチョウ、梅雨の頃になると、愛知県ではほとんど馴染みがなかったウラミスジシジミやウラキンシジミなどを含む各種ゼフィルスが舞い飛び、クヌギなどの樹液には各種クワガタが集まっていたのが印象深い。アカマダラハナムグリを見たこともあったので、かなり良い雑木林だったかもしれない。
大学に入学した年の夏休み、憧れの日野春にも行った。韮崎市界隈には似たような環境はいくらでもあったと思うのだけれど、とにかく日野春に行ってみたかった。そこで見たのは、本で見ただけの想像上の雑木林に違いなかった。本を書いた人は東京の人がおそらく多かったから、甲府盆地や昔の武蔵野の雑木林がモデルとなって本に書かれたのだと思う。東京の人が書いたり喋ったりすることは、少なくともバイアスがかかっていることを前提として読んだり聞いたりしなくてはいけない。
それ以前の中学生時代にも、中学の生物部の顧問だった安藤尚先生に連れられて行った一宮市浅井町大野から光明寺あたりにかけての木曽川左岸の林を見ていた。当時そこで、ミズイロオナガシジミなど、雑木林の住人と言える昆虫のいくつかを見た。しかし今思い返せば、そこは河川林と言えるものだった。今では「138タワーパーク」として開発され、昔の面影は残されていないのだろうと思っていたが、ネットで検索した情報を頼りにすると、河川敷の一部は「大野極楽寺公園野鳥園」とされ、林も残っているようだが、「野鳥園」には金網のフェンスが張り巡らされ、一般人はその内部に入ることができないようである。虫屋は良い場所からとことん嫌われている感じである。
いつの頃からか、「里山」という言葉が、おそらく「生物多様性(biodiversity)」という言葉とセットで表舞台に出現し、「雑木林」という言葉があまり聞かれなくなった。「雑」という文字が入った言葉は、価値あるものとして守るために、あまり良い印象でないのは確かである。しかし、いま「里山」と呼ばれているものは、昔の「雑木林」と大雑把に一致していると考えて良いだろう。
「生物多様性」という言葉はもともと、人間の活動によって改変させられ失われていく自然を憂えたアメリカの研究者によって考案されたキャッチコピーであった。その後それに科学的な定義を与えようと試みられているが、成功しているようには思えない。自然環境を守るために、変なキャッチコピーなんかに頼るより、昔ながらの「自然を守ろう」でもよかったのではないかと思っている。まあ、いずれにせよ、「生物多様性」が高い「里山」を守ることが「大切なこと」として喧伝されるようになってきたわけである。
さて、小学校の低学年だった昭和40年代はじめごろ、街の中ではあったけれど、我が家では薪を燃やして風呂を沸かしていたし、ほとんど使っていなかったけれど竃もあった。我が家にはわずかばかりの庭があったが薪にできるような木はなかったので、薪は近所の燃料屋で買ってきていた。その薪がどこから来ていたのか定かではないが、要するに薪炭林がまだ有効に活用されていた時代だったのであろう。
我が家の燃料革命は昭和43年ごろに家を建て替えたときに訪れた。風呂は深夜の余剰電力を利用した電気給湯器になった。当時は世間一般にはガス釜が主流だったはずなので、まさに革命であった。まだ中部電力の原子力発電所の稼働が始まる前のことなので、石油や石炭での発電だったはずである。我が家の燃料革命と多少の時期の前後はあっても、高度経済成長期に我が国の世の中が都市化し、薪炭燃料をやめて化石燃料あるいは原子力に依存するようになったのは確かである。風呂を沸かすにも大変な手間がかかったことを思えば、世の中が手間や時間を省ける方向に進んだのは必然である。
それで「里山」はどうなったかと言えば、我々の生活に必要な資源を生み出さなくなって手入れもおろそかになり、利用価値も無くなって、やがて開発されて工業団地や住宅団地に変貌したわけである。そして、そのような試練を乗り越えて、開発されずに生き残った「里山」は、保護の対象のシンボルとなった。高度経済成長期以前の保護の対象は「手付かずの自然」ばかりだったから、大きな価値観の転換である。
現実的な問題として何が変わったかと言えば、守るべき対象について、それまでは「立ち入り禁止」で済ませられたものが、常にコストをかけて手入れしなくては守れなくなったことである。燃料革命以前の「里山」は有効な資源を産生し、守ろうとしなくても守られていたのであるから、完全に天地がひっくり返っている。
開発の手を逃れ、だからと言って手入れもされなくなった「里山」はどうなるのか。それは生態学の教科書のとおり遷移が進み、極相に向かって変貌を遂げることになる。もとの「里山」のままではいられないのである。筆者が今住んでいる三重県津市あたりでは、シイ・カシ林になるであろうし、既に実際にそうなっている場所も散見される。里山の保全活動は、遷移を停止させようとしている意味で、自然に逆らった行為であると言える。だから筆者は、「里山」の保全は「自然の保護」とは別の次元の活動ではないかと感じている。だからと言って、自然保護活動として「里山」の保全運動に身を投じている人を非難するつもりもない。しかし、利用されてこその「里山」であるから、都市の住民が「里山」のある環境に移住し、ライフスタイルを「里山」に合わせるのならともかく、「理想の里山」を求めて「里山的環境の維持」のみを目的として活動するのは滑稽に思える。ゆえに、都市住民としてのライフスタイルを捨てて生きていく自信のない自分は、「里山」の保全に積極的に関わる気分になれないのである。
このように突き放してしまうのも一つの態度であるが、「虫屋として何ができるか」を考えないこともない。様々な昆虫が身近な環境からいなくなったり、かつて見られなかった昆虫が普通に見られるようになったりした例は、虫屋ならいくらでも挙げることができるであろう。それは、我々の先輩諸氏が残した記録や標本が過去の自然環境の証として遺されているからである。それと同様に、いま我々が暮らしている時代の環境の証は、我々が記す記録や標本で次の世代へ遺すことができる。だから、身近な昆虫を可能な限り偏りなく記録していくことは、非常に価値が高いことであると考える。重要なのは「偏りなく」ということであるが、なかなか難しいことである。自分自身、これまであちこちに転勤し、同じ場所で継続して観察することができなかったから、様々な偏りがありまくりである。それでも、できる範囲で記録を遺しておきたいと考えている。
身近な自然のことでさえ、将来にわたって価値のある記録を遺すことも様々な困難があるわけだが、「手付かずの自然」はどうなるのであろうか。我々虫屋から隔離された多くの「手付かずの自然」は、自由に調査することもままならなくなったにもかかわらず、資本主義社会システムのパーツとして組み込まれ、観光客を呼び込むためのシンボルとなり、変貌しつつある。もう我が国には守るべき「手付かずの自然」は無くなってしまうのではないかとも思える。
しかし、既に我が国は人口が減少に転じ、人手が足りなくなり、やがて「自然」に手を入れることも難しくなっていくであろう。人間の手を離れた「自然」は「本来の自然」に戻っていくのではないかと思っている。しかし、化石燃料や原子力エネルギーが足りなくなれば、「里山」はやがて燃料の供給源としての価値が浮上し、「生物多様性」も高まるかも知れない。「里山」が効率よく必要な燃料を生み出していけるような人口になれば、それは我が国にとっての適正な人口なのかも知れない。
いま、何となく、映画『猿の惑星』のラストシーンを思い出している。