このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2020ガ類の採集とフェロモン.ひゃくとりむし (469): 5618–5621](202010月1日発行)としてください。

ガ類の採集とフェロモン

三重県のフチグロトゲエダシャクは第二次ブームだそうである(中西 2020,ひゃくとりむし461: 5521-5524)。第一次のことを知らないので、第二次なのかどうか実感がない。

筆者は仕事の中で「たまたま」フチグロトゲエダシャクに出会った。他の研究目的の傍ら、必ずしも実施しなくてもかまわなかったが、有機野菜畑の害虫の発生動向を把握するために粘着板式フェロモントラップを仕掛けていたら、そこに捕まったのである。職場に帰って調べてやっと名前を知ったが、それが発表するに値するものだとは露ほども思っていなかった。粘着板に張り付いたので標本にすることもできず、写真しか残っていなかったが、その後三重昆虫談話会総会の中西さんらによる奈良県曽爾高原でのこのガの観察についての講演を聴き、この記録も発表すべきだと自覚し、『ひらくら』(61: 96–97, 2017)に発表した。振り返ってみると、中西さんらの講演と筆者の『ひらくら』への発表が「第二次ブーム」を煽ったように思える。

フチグロトゲエダシャクで特徴的なのは、性フェロモンを介した配偶行動であるが,昼行性であるがゆえ、性フェロモンに対するオスの行動を観察するのが容易である(中西 2020, 前出)。夜行性のガ類の行動観察は気軽にはできない。しかし、ガ類の多くが性フェロモンを配偶行動に使っており、上に書いたように、農業害虫の発生予察において、性フェロモン剤の使用は常套手段となっている。

中西さんの指摘(中西 2020, 前出)にもあるように、初めて性フェロモン(その当時、そんな言葉は無かった)の存在に気づいた人物は、『昆虫記』で有名なファーブル(Jean-Henri Fabre, 1823–1915)であろう。1900年に出版された第7巻23章『オオクジャクヤママユ (“Le Grand-Paon”)』には、1891年に行われた「実験」のことが記されており、処女メスが何かの臭い物質を出してオスを呼び寄せることが確認されている。これによれば,その臭い物質は遥か遠くまで届き、多くのオスを集めるということらしい。

しかし,その臭い物質の実体については、ブーテナント(Adolf Butenandt, 1903–1995)らが50万匹の日本産カイコのメスから6.4mgの物質を単離して結晶化し、それを同定[(E10, Z12)-hexadecadien-1-ol (E10,Z12-16:OH)]した(Butenandt et al. 1961, Hoppe-Seylers Zeitschrift für Physiologische Chemie 324: 71–83; Butenandt et al. 1961, ibid. 324: 84–87)のが最初である。このとき初めて「フェロモン」という名前が考案され、その後定着した。[訂正:「フェロモン」という名前そのものは、カイコのフェロモンが同定される前に提案されていた]

性フェロモンはガ類の配偶行動において遥か遠くまで有効であるわけでなく、絶対的なものでもないことは,第二次大戦後に進駐軍によって日本に持ち込まれたとされているアメリカシロヒトリの研究で明らかにされている。日高敏隆(1930–2009)は処女メスを誘引源として使って夜明け前の配偶行動を野外で観察し、フェロモンは高々数メートルの範囲にしか有効ではなく、交尾に至る過程で視覚刺激も必要であることを明らかにした(Hidaka 1970, Applied Entomology and Zoology 7: 116–132)。

その当時は性フェロモンの同定において技術的な困難が大きく、よほど重要な害虫でなければ研究の対象とはされなかった。しかし、分析技術が進歩し、わずかな個体数の処女メスから性フェロモン物質を同定すること可能になり、今では多くの農業害虫の性フェロモンが同定され、それに基づいて人工合成された性フェロモン剤が市販されている(日本植物防疫協会のウェブサイトを参照のこと)。

上に書いたフチグロトゲエダシャクも、そのようなフェロモン剤を使った害虫の調査の中で出くわしたのであるが、5〜6種類のトラップのうち、2種のトラップに1 匹ずつ捕獲されたので、フェロモン剤に誘引されたのではなく、ランダムに飛んでいた個体が「たまたま」捕まってしまったと理解するのが妥当である。フチグロトゲエダシャクのフェロモン成分は全く別の物質だと予想される。

性フェロモンは種特異性が高いので,ある種を標的として作られたフェロモン剤にはほとんど標的種しか誘引されない。ところが、実際に調査に使用してみると、標的種とは別の特定の種が誘引されたという事例が少なからず報告されている。筆者らは、オオタバコガ用、タバコガ用、タマナギンウワバ用、ハスモンヨトウ用、ヨトウガ用、コナガ用、シロイチモジヨトウ用のフェロモン剤に誘引される非標的種を明らかにした(それぞれ、応動昆58: 343–350, 2014;同;関西病虫研報 54: 157–159, 2012;同 55: 101–103, 2013;同 54: 155–156, 2012;同58: 7–12, 2016;同 62: 9–13, 2020)。また、これらの情報をもとに、都道府県の病害虫防除所の害虫発生予察担当者向けの手引書も作成した(『野菜害虫発生予察用フェロモントラップに混入する非標的チョウ目昆虫識別の手引《2017年版》』(農研機構,2017);『同《2019年増補改訂版》(農研機構,2020)』)。これらは多少ともなり「仕事」に役立つ情報ではあるが,「蛾屋」の興味を惹くものとは思われない。

しかし、「オオタバコガ用のフェロモン剤にアヤモクメキリガが誘引される」という話だけは伝わっていたようである。既にこの事は、兵庫県農林水産技術総合センターの八瀬順也氏から話を聞いていたし、筆者が野菜畑で春に幼虫を時々目にしていたので、アヤモクメキリガはいわば普通種であったが、「蛾屋」からの注目を集めたらしい。どうやら今がブームのキリガ類の中で、アヤモクメキリガは採集しづらい種の一つらしいのである。

アヤモクメキリガを採集しづらいとすれば、以下の種々の理由が考えられる。冬季に成虫が出現する本種は、他のキリガ類と同様に糖蜜を使って採集されることが期待されるが、多くの「蛾屋」の間には本種が糖蜜には誘引されないという真偽が定かでない共通認識がある。次に、寒い時期に灯火採集をする人はおそらく少なく、灯火採集の効果のほどはよくわからないが、たとえ効果があったとしても、寒さの中なかなかガ類が飛来しないスクリーンの前で待ち続けるのは「苦行」に違いなく、自分ならやりたくない。最後にこれが最も重要だと思われるのだが、おそらくアヤモクメキリガは、「蛾屋」が糖蜜採集を行う雑木林などではなく、畑地や荒地などを主要な棲息場所としていて、糖蜜採集を実施する場所を外している可能性がある。おそらく、畑地や荒地で糖蜜採集をすれば採集できるような気がする。

筆者らが確認した害虫発生予察用フェロモン剤に誘引されるキリガ類には以下のものがある;オオタバコガ用:アヤモクメキリガ、キバラモクメキリガ、イチゴキリガ、ウスキトガリキリガ、チャイロキリガ;タマナギンウワバ用:ミヤマオビキリガ;ハスモンヨトウ用:アカバキリガ;ヨトウガ用:ノコメトガリキリガ、ヨモギキリガ、ゴマダラキリガ;コナガ用:ミツボシキリガ、クロミミキリガ、ホソバキリガ;シロイチモジヨトウ用:ハンノキリガ。

筆者らが最初に使った粘着板トラップ(サンケイ化学:SEトラップ®)に捕獲されたガ類を綺麗な標本にするのはほとんど不可能だが、ファネルトラップ(日本植物防疫協会経由でサンケイ化学扱いだが輸入品)を使えばほとんど損傷することなく捕獲することが可能である。トラップの形状については、まだ検討の余地はあり、他の形式のトラップも可能であると思うが、とにかくフェロモン剤を使うことによって、上記のキリガ類の採集効率は格段に高くなる。なにしろ、トラップを設置したあとは、たまに見に行けば良いのである。フェロモン剤は決して安価なものではないが(種類によって異なるが、12個入りで10,000円前後)、アマチュアが利用する価値は低くないであろう(本来の目的のためには1か月間しか有効でないが、気温が低い冬季にはおそらく1個のルアーでシーズン通して利用可能で、12人で分ければ1,000円以下である)。最大の欠点は、基本的にオスしか捕獲できないことである。メスを採集したい場合は、フェロモントラップでその場所での分布を確認したあと、糖蜜トラップなどを併用するなどすれば良いのではないかと想像する。

キリガ愛好家の健闘を祈る。