このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2021.アナ眼とデジ眼(4)生物多様性と環境指標種.ひゃくとりむし (477): 5718–5721](2021年3月21日発行)としてください。
このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2021.アナ眼とデジ眼(4)生物多様性と環境指標種.ひゃくとりむし (477): 5718–5721](2021年3月21日発行)としてください。
前稿(ひゃくとりむし 474: 5681–5684, 2020)ではデジタル思考に基づく現行の「迷蝶」の定義の問題点とアナログ化の試みの方向性について論じた。今度は環境保全を前提とした場合の生物多様性を評価するための環境指標種について考察してみたい。
環境保全のために自然環境あるいは生物多様性を評価しようとする場合にも、何らかの指標を使うことを強いられる。やはり、基準となる何かが無いと話をしにくいからである。これにもアナログ的なものとデジタル的なものがある。
数式で表現される何らかの指数は、完全にアナログとは言い切れないものの、かなりアナログ的であり、様々な指数が提案されている。これに対して指標種を指定する場合、その個体数を問題にする場合はアナログ的であるが、基本的にデジタル的だと言って良いだろう。デジタル的である「指標種」は、これまでに論じたように、変換に伴って不可避的に生じる誤差の問題によって、アナログ的な何らかの指数より表現力において劣ることが直感的に予想される。この場合、実際には「指標種」という言葉は使われていなくても、何らかの環境を評価する場合に「指標種」と同義の概念が使われることも多い。例えば、何らかの環境を保護することを目的とした場合にしばしば使用されるシンボルになる種も、これを「指標種」だと理解してとして扱っても良いと思われる。天然記念物は必ずしも環境保全を目指したものとは言えないが、種指定の天然記念物も同様であると理解される。
その「指標種」として扱われるのは、ほとんどの場合は見た目が特徴的な種である。「指標種」の目的は多くの場合、誰でも使えることが要件とされるので、そのようにならざるを得ない。環境保護を目的とした場合、ホタルであるとか、ギフチョウであるとか、である。いくら環境指標として妥当な種であっても、小さく目立たず同定がやっかいな種は、現実的には「指標種」にするには障害が大きい。
このような指標種をシンボルとして何かの保護活動が行われる場合、残念なことに、環境を保護することではなく、おそらく無意識のうちに、そのシンボルを保護することに運動が変貌しがちである。これは手段が目的化してしまった結果である。しかしながら、これは環境保護の問題に限ったことではなく、人が何かを行おうとした場合にはしばしば起こりがちな現象であるから、これ自体を批判することに大きな意味があるとは思えない。元来人間はそのような性質を持っているものだ、と理解するのが重要だと思われる。しかし、手段が目的化ばかりしていたら、破滅への道に向かうのみである。
さて、例えばホタル(多くの場合、ゲンジボタル)がシンボルとなった場合、具体的にどんなことが行われるかと言えば、実験施設の中で人工的に増殖したり、主要な餌であるカワニナをホタルの棲息地に放飼したり、である。これらは、ホタルの現存個体数を多くすることに対してある程度有効であろうが、環境の保護を目的と考えれば、ほとんど効果がないようには見えるため、手段が目的になってしまった典型的な例であると言えよう。このような行為には、維持するためのコストが常に発生する。コストがかけられなくなってそれをやめたら元の木阿弥になる。
さすがに研究者や真に自然を理解している愛好家はこのようなことを苦々しく思っているだろうが、世間一般ではマスコミを含め、ここに書いた「ホタルの保護活動」のようなことが未だに望ましいことであると理解されているようである。そのようになるとやめられなくなり、手段が目的化してしまった問題点が表出してくる。このように、「指標種」を使った自然保護活動の最大の欠点は、無意識のうちに手段が目的に変わってしまう危険性が高いことだと言って良いだろう。
また客観的に指標種を選定することも、現実的には困難が大きいと予想される。レッドデータブックに登録される種も、誰が選定するかで、大きく変わってくると予想される。すべての生物種に精通した研究者や愛好家は現実的には存在しておらず、研究者や愛好家から見えていない種が選定される可能性は極めて低い。したがって、レッドデータブックに登録だけが重要な種である、という話には決してならない。これは、現実的には仕方がない話である。
また、天然記念物等に指定されて採集が規制されるかどうか(これは完全にデジタルである)も我々虫屋にとっては影響が大きい。しかし、天然記念物に指定された種が生息する環境は破壊されても、開発者はお咎めなしという状況は、また別の問題だと思われるので、今回は深入りしない。
以上のように、ただ一種だけ、あるいは限られた少数の種の情報を利用する「指標種」にはデジタル化に関わる多くの問題があることが明らかになった。よって、多くの種の情報を使った数式で表現される指数は、「指標種」と比較すると現実をより的確に表現できると期待できそうであると直感的に予想される。しかし、実際のところどうなのだろうか?
生物の多様度を示す指数としてよく使われるものに、「Simpsonの多様度指数」や「Shannon指数」などがある。このいずれも、指数を算出するために、種数とそれぞれの種ごとの個体数を必要とする。このことから直感されるのは、「全ての個体を種レベルで同定するのは不可能ではないか」という疑問が生じることであろう。実際に必ずしも種を同定できない場合の対応を想定して考察してみたい。
いちばんありそうなのは、「一部の分類群では種レベルまで同定されているのに、別の分類群では、属、科、あるいは目レベルでしか同定されていない」という状況ではないかと思われる。そのようになると、精度は最も上位の分類群レベルでしか同定されていないレベルに合わさざるを得ない。目レベルでしか同定されない分類群があれば、部分的に種レベルまで同定されている分類群があっても、指数を算出するためには全ての分類群について目レベルで集計した値を扱わざるを得ない。また分類群によっては大きさが異なったりするなど、同列に扱うことに疑問を感じざるを得ない場合もあるだろう。実際問題として「動物」というレベルで扱おうとすると、例えば顕微鏡でないと見えないクマムシのような動物をシカとかイノシシとかの大型哺乳類を同列に扱うことが不適切だろうということは直感的に理解される。
では実際にどのように行われるかと言えば、最初から分類群を限定することである。例えば、チョウ類とかゴミムシ類とか、である。しかし、これがまた別の問題を生じさせることは明白である。例えばチョウ類のことを考えてみれば、それぞれの種は種ごとに異なった植物に依存していることは周知の事実であり、その場所で見られるチョウ類はその場所の植生に大きく依存することが容易に予測できるからである。チョウ類の多くは日中に活動し、種の同定も容易である点では有利であるので、それを使って多様度の指数を算出して環境を評価しようとする試みが行われているが、現実問題としては適切な環境評価を行えるかどうかとなると、なかなか難しいだろうと思わざるを得ない。他の分類群を使用したとしても、同様の問題が生じることは容易に予測できるので、なかなか簡単にはいかないであろう。
近年は環境中に存在する生物由来のDNA(環境DNA、eDNA)を検出することが可能になったため、それを使うことによって生物の分類群に依存せずに生物の多様性を評価するための客観的なデータを得ることの現実性が高まったと思われる。しかし、環境中から得られるDNAの断片が、その環境に棲息している生物の種数と実際に対応しているかどうかを検証するのも困難が大きいと予想される。しかしなお、特定の分類群に絞って多様度を計算するより、はるかに客観性があるデータが得られるという期待は大きい。とは言え、得られたDNAが現在そこに棲息している生物のものなのか、過去に棲息した生物のものなのかの識別できないという問題があるらしい。しかしながら、最大の難点はこのような技術的な問題ではなく、目に見えないものを我々が許容できるかどうか、という我々の認知に関わる問題ではないかとも思う。さらに、少なくとも現時点では、手法的にアマチュアの愛好家の手の届かないところに行ってしまった、という感情も無視できないのではないかとも思う。
以上のように、数式で表現される指数は、頭の中だけて考えれば理想に近いように思われるが、現実的には様々な制約があって、むしろ有効に使えない場合、あるいは限られた範囲でしか使えない場合の方が多いので、「指標種」と比べた場合に必ずしも優れているとは言えない、というのが適切な評価ではないかと思う。
現時点では、「指標種」を使用してもかまわないが目的と手段を取り違えないように万全の注意を払う、というのが現実的な選択肢のように思える。
「アナ眼とデジ眼」という表題は、編集者の中西さんからご提案いただいた。