ばったりぎす No. 164 pp. 45–48, 2021.

このページの文章は、日本直翅類学会が発行する連絡誌『ばったりぎす』に掲載されるべき原稿として筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2021.ハサミムシの「母親殺し」に関する誤解の蔓延.ばったりぎす (164): 45–48](2021年11月11日発行)としてください。

ハサミムシの「母親殺し」に関する誤解の蔓延

河野 勝行 (KOHNO Katsuyuki)

ハサミムシの卵保護習性と親子関係の捉え方の変遷

筆者がハサミムシの生態の研究を始めた1982年頃,ハサミムシに興味を持っている人はほとんどおらず,卵保護習性についても「誰でも知っているようなこと」ではなかった.また,岸 由二(岸 2019)の言葉を借りれば,「黒船の襲来」にも例えられた進化生態学的な考え方も日本に届いたばかりで,昆虫の親子関係に関する行動を社会性として捉えて考えることもあまり一般的ではなかったと思う.

コブハサミムシAnechura harmandi Burrの母親が幼虫に食われることが最初に報告されたのは,おそらく篠本(1978)である.しかしながら,ここには「親が死ぬと幼虫はその死骸を食べてしまいました.」と記されているだけで,それ以上の考察は加えられていない.1975年に出版された Edward Osborne Wilson の “Sociobiology” が『社会生物学』として翻訳出版されたのが1983年から1985年にかけてであり,1976年に出版されたRichard Dawkins の “The Selfish gene” が『生物=生存機械論』として翻訳出版されたのが1980年であったから,ハサミムシ類の保護習性に関する解説記事を篠本隆志が執筆した当時は,ハサミムシ類の親子関係を社会行動として捉えるには,機が熟していなかったと言えるだろう.

筆者は1982年から1985年まで大学院生として生活したが,その間に日本でも1982年に日高敏隆らが中心となって「日本動物行動学会」が設立され,動物の社会行動が熱く議論され始めた時代であった.筆者もその波に乗り,あるいは波に呑まれ,ハサミムシの親子関係を社会生物学的な視座で捉えようとした.そのような中で,コブハサミムシの幼虫が母親を食べることが,「たまたま」ではなく「通常のこと」であると認識することにより,その進化的な背景を明らかにしようと考えた.

コブハサミムシの母親殺しの概要

筆者は,野外観察を通して得られたコブハサミムシの生態と個体群動態の特徴から,梅雨時期から夏にかけて棲息地が川の増水によって攪乱される危険があるため,早春に孵化せざるを得ない生活史を採用するに至ったことにより,早春の餌不足に直面し,最初の餌として母親の身体を利用することが複数回産卵することより適応的であった,と解釈した(河野 1984; Kohno 1997).餌不足が「母親殺し」の背景になっていることは,Suzuki et al. (2005)によって実験条件で裏付けられた.平地の林縁など,一年を通して撹乱がない場所を主要な棲息環境とするヒゲジロハサミムシAnisolabella marginalis (Dohrn)は,老齢幼虫で越冬し,1頭の♀は初夏から夏にかけて繰り返し数回産卵するが(河野 1984; 石森 2019),活動を休止する冬季を除けば餌不足に遭遇することはない.

ハサミムシ類の保護習性の多様性

筆者がハサミムシ類の生態の研究を始めた頃,ハサミムシ類の保護習性についてまとめられていたものは,カナダのブリティッシュコロンビア大学のRobert J. Lambの論文がおそらく最新だった(Lamb 1976).もちろん,幼虫が母親殺しをする種は知られていなかった.筆者がコブハサミムシの「母親殺し」が「通常のこと」であることを報告した時にも,他に「母親殺し」をするハサミムシも知られていなかった(河野 1984).

筆者は一般人向けの書籍の中でハサミムシの生態の解説記事を書いた(河野 1996).ここでの目玉は「コブハサミムシの母親殺し」だったが,その他のハサミムシの中には母親が幼虫に餌を与える種もいることを書いた.母親が幼虫に餌を与えるのだから,その種の幼虫にとっての最初の餌が母親の身体であることはありえない.

ハサミムシ類の母親による卵に対する保護習性は,産卵生態が明らかになっているすべてのハサミムシ類から知られているが,まだ産卵生態が明らかになっていない種の方が多いから,保護行動の種ごとの違いについてはまだ十分に検討されているとは言えず,今後どんな新しい発見があるかも予想できない.他にも「母親殺し」をするハサミムシ類が発見される可能性はあるだろう.

昆虫の亜社会性についてアメリカの昆虫学者James T. Costaがまとめ,2006年に出版された大著 “The Other Insect Societies” にはハサミムシ類の生態について30ページ以上にわたって紹介されている.この中で筆者の論文(Kohno 1997)の内容も約1ページを費やして紹介されているが,もちろん「母親殺し」のことが中心であり,コブハサミムシの「母親殺し」がハサミムシ類の中でも他に例がない極めて例外的なことであることとして扱われている.

代表的なハサミムシは何か

例外的であるからこそ目立つのも確かで,写真家・皆越ようせいによる写真絵本『ハサミムシのおやこ』(皆越 2008)で取り上げられているのはコブハサミムシである.これに対して,『うちの近所のいきものたち』(いしもり2009)などの著書があり,身近な生き物にこだわりがあるイラストレーター・石森愛彦による絵本『はさみむし』(石森 2019)で取り上げられているのはヒゲジロハサミムシである.東京都内でも奥多摩あたりに行けばコブハサミムシは普通に棲息しているが,東京23区内で生まれ育った石森にとってコブハサミムシは身近なハサミムシではなく,ハサミムシと言えばヒゲジロハサミムシだったのである(石森氏本人談).

いずれの絵本も,本の表題は単に「ハサミムシ」となっており,「コブ」とか「ヒゲジロ」とかは省略されて,表題だけ見ても,扱われている種はわからない.しかし,「ハサミムシ」とだけ書かれていれば,ハサミムシに詳しくない人いとって,それがハサミムシの代表種なのであろうと勘違いしても仕方がない.しかし,これはおそらく著者である皆越や石森の責任ではなく,出版社の編集者の責任である.よほど大物でない限り,著者の力はそんなに強いものではない.

ところで,単に「ハサミムシ」と言ったときに思い浮かべるハサミムシはどの種のことだろうか? 人によって暮らす地域や場所が異なるから,代表的なハサミムシも人それぞれであろうが,10年ぐらい前までなら,おそらくハマベハサミムシAnisolabis maritima (Bonelli)を挙げる人が最も多かったであろう.なぜなら,ハマベハサミムシは全国各地に分布し,市街地では家の中にも侵入することがあるだけでなく,かつて「ハサミムシ」という和名で呼ばれていたからである.(和名が変更されたのには,個々の種の名前と種群の名前が同じになる場合には個々の種の名前を変更することが推奨されるようになったという背景がある.「ナミ」とか「ヤマト」とかでなく,「ハマベ」と接頭辞がつけられた「ハサミムシ」は幸いであると思う.なぜなら,種名の ‘maritima’ は「海浜性の」という意味だからである.)

コブハサミムシの躍進

上に「10年ぐらい前なら」と書いたが,その理由は,今ならひょっとしたらコブハサミムシかも知れないと思っているからである.コブハサミムシが普通種であることは確かだが,その棲息地とヒトの生活圏との重なりが極めて小さいにもかかわらず,である.

近年になって,「ハサミムシの幼虫って,母親を食べるんですよね?」と訊かれることが多くなった.コブハサミムシの他に幼虫が母親を食べるハサミムシ類は知られていないから,ここで言う「ハサミムシ」はコブハサミムシに疑いない.そう訊いてくる人は,おそらく実際にハサミムシのことを見たことがない人である.そこで筆者は「幼虫が母親を食べるハサミムシはいますけど,それはコブハサミムシという山地に棲息するただ一種だけで,それ以外のハサミムシは食べませんよ」と答える.

コブハサミムシという名前は知らなくても,幼虫が母親を食べるハサミムシがいる,ということが一般に知られるようになって,コブハサミムシの認知度もずいぶん上がったものであるなあ,と「コブハサミムシ幼虫の母親殺し」の論文(Kohno 1997)を最初に書いた筆者としては嬉しくなる.

誤解の「重症化」と「蔓延」

今年大学生になったばかりの若手虫屋のIくんは昆虫を含む様々な生き物を飼育しているようである.2020年6月下旬のこと,Iくんが「ハサミムシの幼虫が孵化したけれど,母親を食べなかった」とFacebookの書き込んだ.よく見てみると,そのハサミムシはハマベハサミムシだったので,幼虫が母親を食べないのは当たり前である.そのことをIくんに指摘すると,「知りませんでした」と返事が来た.色々な生き物を知っていそうなIくんだったので,ちょっと衝撃的だった.Iくんは,すべてのハサミムシ類の幼虫が母親を食べる,と誤解していたようであった.

そこで思い当たったのは,先に挙げた『ハサミムシのおやこ』(皆越 2008)である.筆者はこの本を見ていないので詳しいことはわからないが,この本を読んだ感想がインターネット上にもあり,例えば遠藤美弥子氏(遠藤 2015)の文章を読むと,幼虫が母親を食うことが「ハサミムシ」の特徴であると誤解されていることが察せられる.

さらにインターネットを検索すると,同様の誤解が多数見つかった.しかし,それらのほとんどは皆越(2008)を見たのではなく,稲垣栄洋『生き物の死にざま』(稲垣 2019)に対する感想だった.筆者はこの本を見ていないが,インターネット上の『東洋経済ONLINE』で読むことができる.驚いたことに,その文章を読むとコブハサミムシの名前は全くなく,単に「ハサミムシ」と記されている.

筆者は稲垣栄洋氏のことは名前を聞いたこともなかったのでよく知らないが,静岡大学農学部教授で雑草研究者のようである.もちろん昆虫関係の集まりで会ったこともない.ましてや,ハサミムシ類の専門家ではない.

どうやらこの本はよく売れているらしく,どうやらこの本の続編のような本(稲垣 2020)も出版されているようである.このまま売れ続ければ,「ハサミムシの母親殺しに関する誤解」も拡散され続けるであろう.

ハサミムシに関する記述だけでなく,その他の記述の真偽についても心配であるし,まともに文献調査をせずにいいかげんな事を書く大学教員というのも困ったものだと思う.もちろんこの本には出版社の編集者の責任も大きいはずだが,「売れれば事実はどうでもいい」という姿勢であれば本当に困ったことである.

むすび

本稿をお読みになる皆さんは昆虫,特に直翅系昆虫に詳しい方ばかりだと思う.ハサミムシ類の「母親殺し」が一般的なものだと誤解している人がいれば,「母親殺し」がコブハサミムシに特異的なことであることを説明していただければ嬉しく思う.また,今後別の種から「母親殺し」が見つかれば,それは新規の知見となるし,「母親殺し」の進化的背景を考察する上でコブハサミムシの最適な比較対象となるので,論文として(できれば英語で)発表していただきたいと思う.河野の学説(Kohno 1997)は仮説に過ぎないのだから.

引用文献

  • Costa JT (2006) The Other Insect Societies. Harvard University Press, Cambridge and London. ISBN 978-0-674-02163-1.

  • Dawkins R(1976) The Selfish Gene. Oxford University Press, Oxford. ISBN 0-586-08316-2(日高 敏隆・岸由二・羽田 節子 訳『生物=生存機械論』,紀伊国屋書店,東京.1980, ISBN 978-4-314-00291-2).

  • 稲垣 栄洋 (2019) 子に身を捧ぐ生涯──ハサミムシ.『生き物の死にざま』,草思社,東京.ISBN 978-4-7942-2406-4. <https://toyokeizai.net/articles/-/314659> で参照可能.

  • 稲垣 栄洋 (2020) 『生き物の死にざま はかない命の物語』,草思社,東京.ISBN 978-4-7942-2460-6.

  • いしもり よしひこ (2009) 『うちの近所のいきものたち』,ハッピーオウル社,東京.ISBN 978-4-902528-34-3.

  • 石森 愛彦 (2019) 『はさみむし』,かがくのとも 2019年11月号,福音館書店,東京.

  • 岸 由二 (2019) 利己的遺伝子の小革命.八坂書房,東京.ISBN 978-4-89694-174-6.

  • 河野 勝行 (1984) コブハサミムシの特異な生活.遺伝 38 (10): 70–75.

  • 河野勝行 (1996) コブハサミムシ.昆虫ウォッチング pp. 93–95,日本自然保護協会・平凡社,東京.

  • Kohno K (1997) Possible influences of habitat characteristics on the evolution of semelparity and cannibalism in the hump earwig Anechura harmandi. Researches on Population Ecology 39: 11–16.

  • Lamb RJ (1976) Parental behavior in the Dermaptera with special reference to Forficula auricularia (Dermaptera: Forficulidae). Canadian Entomologist 108: 609-619.

  • 皆越 ようせい (2008) 『ハサミムシのおやこ』,ポプラ社,東京.ISBN 978-4-591-10346-3. (これに対する感想 :遠藤 美弥子 (2015) https://common3.pref.akita.lg.jp/kosodate/kosodate-info/books/bok50

  • 篠本 隆志 (1978) ハサミムシ類の保護習性.インセクタリゥム 15: 32–35.

  • Suzuki S, Kitamura M, Matsubayashi K (2005) Matriphagy in the hump earwig, Anechura harmandi (Dermaptera: Forficulidae), increases the survival rates of the offspring. Journal of Ethology 23: 211–213.

  • Wilson EO (1975) Sociobiology. Harvard University Press, Cambridge. (坂上 昭一 ほか 訳『社会生物学』(全5巻),新思索社,東京.1983–1985)