ばったりぎす No. 164 pp. 35–44, 2021.

このページの文章は、日本直翅類学会が発行する連絡誌『ばったりぎす』に掲載されるべき原稿として筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2021.『ばったりぎす』終刊に寄せて・・・ハサミムシとカマキリのことなど.ばったりぎす (164): 35–44](2021年11月11日発行)としてください。

『ばったりぎす』終刊に寄せて・・・ハサミムシとカマキリのことなど

河野 勝行 (KOHNO Katsuyuki)

はじめに

『ばったりぎす』へ貢献したいと思いつつも,日頃の心の余裕のなさにかまけていたら,もう20年以上投稿していなかった。また,日本直翅類学会の解散と時期をほぼ同じくして,定年退職を迎えることになった。今も再雇用で同じ職場に通い,同じような仕事をしているが,時間と心に多少の余裕ができた。さらに,新型コロナの影響で自宅待機になる日もあり,モノの片付けも多少は進展し,昔のデータにアクセスするのも容易になった。“Tettigonia”や『ばったりぎす』が健在であれば,何らかの報告が書けるようになったと思うので,非常に残念である。これが本当に最後になるということなので,何を書こうか迷ったが,筆者と直翅系昆虫や『ばったりぎす』との関わりなどを振り返ってみたいと思う。少々長くなってしまったが,最後までお読みいただければ幸いである。

岡田正哉さん

まずは名古屋の岡田正哉さんのことである。愛知県一宮市に住んでいた筆者は当時主にチョウを集めており,中学3年生になった1974年に名古屋昆虫同好会に入会した。大学受験体制に入る1977年の夏頃まで,中学時代の恩師であり,同好会の事務や会誌の編集を行っておられた安藤尚先生に連れられて毎月のように月例会に参加していた。その当時会員であったはずの岡田さんは月例会にはおいでになっていなかったようで,岡田さんのことは全く存じ上げていなかった。

1978年3月18日に大学合格が決まったと同時に虫との付き合いが半年ぶりに解禁になり,たまたまその年の3月6日の啓蟄の日に名古屋栄の中心街のビルの一室に「東海昆虫資料室」というのが開設されたことを知って(1983年4月1日発行の『名古屋昆虫館 館報』第1号を参照),まずはそこに出かけた。そこにおいでだったのが岡田さんと臼田明正さんだった。岡田さんとは初対面であったのだけれど,入学祝いとして親からせしめる予定のカメラのことを訊ねたところ,オリンパスのOM-2と50mmのマクロレンズを勧められたのだが,ついでの話としてナナフシの話も聞いた。その一つは,「シラキトビナナフシと呼ばれる未記載種がいる」という話だった。ナナフシに特に興味があったわけではなかったけれど,京都に行ってからはトビナナフシを見つけると採集した。その後,帰省するたびに昆虫用具の調達を兼ねて岡田さんを訪ねた。

愛知県を離れていたので正確な時期は把握していなかったけれど,岡田さんや臼田さんの居場所は河合塾桜山校の敷地内の「名古屋昆虫館」に移った。手元に1981年3月10日発行の「中部直翅類談話会」の連絡誌『なおばね情報』第20号がある。「名古屋昆虫館」を訪問したときにいただいたものだと記憶している。訪問するたびに『なおばね情報』をいただいていたようで,その後も飛び飛びで何号かあって,そこそこの頻度で発行されていたことがうかがわれた。その当時,ワープロやパソコンは一般には全く普及しておらず,全て手書きであり,半分以上が岡田さん執筆のものだったようだ。当時岡田さんから『ばったりぎす』の名前を聞いたような気がするが,興味の中心は鱗翅目やカメムシだったので,あまり気にしていなかった。手元にある『なおばね情報』は真性の直翅目の記事よりむしろカマキリとナナフシの記事の方が多いが,これは岡田さんの興味の中心がそちらだったのが理由であろうということは,後に『ナナフシのすべて』(1999年8月10日,トンボ出版)や『昆虫ハンター カマキリのすべて』(2001年5月10日,トンボ出版)を出版されていることからもうかがえる。

コブハサミムシ

1982年に大学院に進学した当時は「社会生物学」あるいは「行動生態学」といわれる分野の学問が日本に上陸した頃で,筆者もその波に飲み込まれないわけにいかなくなっていた。Edward O. Wilson の“Sociobiology”や Richard Dawkinsの“The Selfish Gene”が日本語に翻訳され出版されたのはその少し前の頃であった。そういうわけで筆者は当初ツノカメムシ(エサキモンキツノカメムシやヒメツノカメムシ)の卵保護習性を研究課題にしようと目論んでいた。しかし,「卵保護習性をやるならハサミムシにしたらどうか?」と先輩院生諸氏に強く勧められた。ハサミムシに関する予備知識はほとんど無かったので,戸惑いがなかったと言えば嘘になる。しかし,結局ハサミムシを材料とすることに納得したのは,岡田さんから直翅系昆虫の話をたくさん聞いていたことが影響していたと思う。

ハサミムシの文献情報は少なく,情報を集めるのに苦労した。何も知らなかったが,調査地を探していた早春は偶然にもコブハサミムシの産卵の時期であったため,産地を発見することは容易で,琵琶湖に流入する安曇川の上流の支流の江賀谷に多産地を発見することができた。そこを調査地に定めたのが学部卒業の少し前のことだった。京都北山のあちこちで採集した抱卵中のコブハサミムシを持ち帰って孵化を観察した。すると驚いたことに,一つの例外もなく,孵化後数日のうちに孵化した幼虫が母親を食べてしまったのである。江賀谷での観察でも,野外でもそれが実際に起こっているに違いないという状況証拠が多数発見された。今でこそハサミムシの「母親殺し」を知っている人は多く,すべてのハサミムシで「母親殺し」が行われると誤解している人もいるほどになったが,当時コブハサミムシの「母親殺し」について書かれているものは全く見つけられなかった。

この「母親殺し」を理解するために野外での生態を知ることは必要不可欠と考えたので,個体数の調査を週に2〜3回の頻度で行った。片道30kmを原付バイクで通っていたが,体力的にけっこうしんどかった。Jolly-Seber法を適用して個体数の変動の推定が可能になるように,ペイントマーカーを使って幼虫には調査日ごとに異なる色のマークを,成虫には個体識別が可能なマークをつけた。6月半ばから羽化が始まり,7月半ばには幼虫は全く見られなくなった。しかし,幼虫個体数の減少に見合うほどの個体数の成虫は見られず,その理由はよくわからなかった。

調査を開始した1982年のこと,台風10号は8月1日の夜に伊勢湾から能登半島に北上し,京都地方にも大雨をもたらした。台風の直後に訪れた江賀谷にも大規模な増水の形跡が認められ,流路が大きく変わっていた。コブハサミムシが見られた流れの近くの草木は根こそぎ流され,コブハサミムシはほとんど見られなくなっていた。これではデータが取れず修士論文書けなくなると悲観したが,やや頻度を減らしたものの,そのまま定期的な個体数調査を継続した。ほとんどコブハサミムシがいなくなった谷に通っていた頃,「何のためにこんなことをしているのか?」と真剣に悩み,悲観的な将来しか見えず,精神的に非常に辛かった。しかし,たった1個体のメスであったが,調査のたびに同じ場所(アブラムシか何かによって巻かれて半筒状になったウツギの葉の中)で見つかる個体があったのは心の救いだった。同じ個体であることがわかったのは,個体識別が可能なマークを付けていたからである。

10月半ばに差し掛かったころ,驚いたことにコブハサミムシの個体数が増え始めた。そのほとんどはマークが付いていない個体だった。ほんの数個体だったが,6月から7月にかけてマークした個体の再捕獲記録も得られた。11月はじめの晴れた日のこと,砂防堤の上に砂が溜まってちょっとした広場になっている場所を何かわからない虫が飛んでいるのを捕虫網で捕らえたら,それがコブハサミムシだったのを知って,また驚いた。

しかし考えてみれば,谷川の流れに近い場所に産卵し,その界隈で幼虫が暮らすコブハサミムシが,多少の増水ぐらいで絶滅するわけがないのである。どうやら夏には産卵が行われていた流れの近くから離れてどこかで夏眠していて,秋になって流れの近くに戻ってきたらしい。羽化時期の幼虫個体数の減少に見合った羽化成虫個体数の増加が見られなかったことは,羽化後すぐに夏眠に適した場所に飛び去ってしまうと考えれば,それは道理である。生涯初めての学会発表(1983年4月に東京農業大学で開催された第27回日本応用動物昆虫学会大会)では,このことを話した。

コブハサミムシの比較対照として,大学構内に棲息するヒゲジロハサミムシの生活史も同時並行して調べ,それらが修士論文になった。しかし,博士課程を修了するまで在学するつもりだった大学院も原著論文を書く前に中途で退学することになり,ちゃんとした論文の書き方を身につける前に農業試験場に就職してしまった。博士課程1回生のときに依頼されて書いた「総説もどき」を雑誌『遺伝』1984年10月号に発表してしまったのも,原著論文として発表することを難しくしてしまったと感じていた。就職したらハサミムシのことを考える時間も限られてしまった。結果として,実際に原著論文(Researches on Population Ecology 39: 11–16, 1997)として発表するまでに,就職してから10年以上の年月が必要となった。論文を投稿できたのは,初任地盛岡を離れ,次の任地の久留米に来てからのことで,実際に出版されたのは,さらに次の任地の石垣島に移ってからだった。自分の能力の不足を切実に感じされられた。

クギヌキハサミムシやそれに近縁な種にはオスのハサミの形態に多型が見られる。コブハサミムシには長鋏型に相当するルイス型と短鋏型に相当するアルマン型がある。琵琶湖の西側の比良山系から京都北山地方にかけて1,000個体以上採集あるいは観察したオスは例外なくルイス型であったが,大学院生時代に東京の篠本隆志さんに案内されて観察した丹沢山系や,自分自身で探索した愛知県三河地方では両方の型がほぼ半々で見られた。微妙なのは岐阜県の養老山地で,ここではほとんどがルイス型だったが,1個体だけアルマン型が得られた。ハサミの型の遺伝様式やアルマン型の分布がどのようになっているかは興味深いが,自分だけで調査するには敷居が高すぎるので,深追いしないことにした。しかし,久留米に転勤したとき,比較的新しく九州から報告されたソエダ型を見るチャンスだろうと思って,英彦山などにも出かけて採集した。初めてソエダ型を見た時,確かにルイス型とは多少異なるが,これも長鋏型なのだろうと思った。

写真1. 卵保護中のコブハサミムシ♀(1983年3月31日,滋賀県大津市葛川中村町 江賀谷)

写真2. 母親を食い尽くして分散が始まったコブハサミムシ1齢幼虫(1984年4月29日,滋賀県大津市葛川中村町 江賀谷)

日本直翅類学会入会

手元にある最も古い『ばったりぎす』は1997年3月30日発行の第110号である。今となっては日本直翅類学会への入会当初の経緯は全く思い出せないが,この号には西原かよ子さんによるNIFTY SERVEの「昆虫フォーラム」の開設案内の記事が掲載されていることから,筆者がNIFTY SERVEへ参加したことがきっかけで入会した可能性が高い。

いま読み返してみると,この号の冒頭に春沢圭太郎さんの「ハサミムシの生態2題」という記事が掲載されていることがわかったが,それは筆者の入会とは無関係で,「たまたま」だったような気がする。春沢さんの記事にはコブハサミムシが「成虫越冬年2化」と書かれているので,前述の雑誌『遺伝』に書いた記事をお読みいただけていなかったことが伺われた。しかし,ハサミムシの生態に興味を持っている人が筆者以外にもいることを知ることができた。

石垣島のカマキリ類

この年の4月に筆者は石垣島に移っていたが,それによりしばらく疎遠になっていた岡田さんとの連絡が再び密になった。この時の岡田さんのリクエストはヤサガタコカマキリであった。ほんの1個体か2 個体ぐらいしか採れていなかったらしい。

石垣島の公務員宿舎は市街地から遠くない産業道路沿いにあったが,住んでいた棟のすぐ裏は空地になっており,適度に草が生え,しばしば馬が繋がれていた。そこが発生源だったのか,宿舎の灯りには様々な虫が飛来し,カマキリもたくさんやってきた。岡田さんからのリクエストに従い,飛来したカマキリは基本的にすべて捕獲し,毎晩その個体数を記録した。最も個体数が多かったのはスジイリコカマキリだった。それに次いでウスバカマキリ。その他,オキナワオオカマキリ,チョウセンカマキリ,ハラビロカマキリも少ないながら飛来したが,お目当てのヤサガタコカマキリは全く飛来しなかった。これらのデータの一部は『ばったりぎす』第119号で発表したが,スジイリコカマキリとウスバカマキリに関する詳細は未発表のままである。

スジイリコカマキリの飛来数は極めて多く,緑色型も少ないながら見られた。緑色のコカマキリは見たことが無かったので,これは嬉しかった。スジイリコカマキリの緑色型は未知だったらしく,これについては岡田さんに検討ならびに発表していただいた(岡田 1998,月刊むし 329: 16–17)。

問題のヤサガタコカマキリについては,結局オスを1個体だけ採集できたのだが(河野・河野 月刊むし 370: 11–12, 2001),それには逸話があるので紹介したい。筆者は自宅前の灯火に飛来するカマキリを調査していたのであるが,それとは別に当時4歳だった筆者の三男坊があちこちで様々な虫を採っていた。ある日,向いの棟に住む長男の同級生のお母様から三男坊に連絡が届き,灯火に飛んで来たらというコカマキリを採集させていただいて虫かごに入れていたのだが,それがスジイリコカマキリではなく何とヤサガタコカマキリであった。筆者が毎日探していたのに全く出会うことがなかったのに,探していたわけではない人がたまたま採集したのがヤサガタコカマキリであったから偶然という要素を軽視してはいけないという教訓になった。石垣島を離れたのは2004年の春であったが,それまでにヤサガタコカマキリに再び出会うことはなかった。

石垣島のツダナナフシ

岡田さんから話を聞いていたツダナナフシの西表島の北岸における分布は当時既によく知られており,石垣島に赴任した年に採集に出かけた。その大きさに驚くとともに,メントールのような臭いの物質を噴射することにさらに驚いた。

西表島とは違い,石垣島における具体的な棲息地や採集記録は当時知られていなかった。当時の同僚だった高橋敬一さんは石垣島における棲息地を発見し,その情報をもとに筆者も採集し,『琉球の昆虫』(20: 28, 1999)に報告した。そのあと岡田さんと一緒にその場所を訪れ,岡田さんも採集することができた。

石垣島のツダナナフシの個体数はそれほど多くないらしく,ごく普通に海岸の岩礁近くに多量に生育する寄主植物のアダンの棘のある葉をかき分けて探索するのも苦痛であった。高橋敬一さんの探索力は驚異的である。

石垣島の渓流のドウボソハサミムシ

ハサミムシについても筆者にとって新しい知見が数々もたらされた。沖縄島の「木村組」(木村正明さん,杉本雅志さん,稲田悟司さん)が石垣島においでになったとき,ドウボソハサミムシの存在を教えていただいた。最初に見せていただいたのは幼虫だったが,普通のハサミムシなら幼虫でもハサミになっている部分が40節ぐらいからなる尾毛になっていて,まるでカワゲラの幼虫のようで驚いた。

ドウボソハサミムシは石垣島・西表島の山中の渓流沿いに見られる。幼虫は流れが緩やかになって砂や礫が堆積しているような場所の礫の下から容易に見つかる。流れの際の岩の上を走り回る幼虫を見つけ,それを流れの方に追い込んだら容易に捕獲できるだろうと思ったら甘かった。幼虫は流れの中に逃げ込んだのである(NAPI NEWS 339: 3314, 2014)。まさか水の中に潜るハサミムシがいるとは思わなかったので本当に意表を突かれた。カワゲラの幼虫のような形態は見かけだけではなかったのである。

ドウボソハサミムシの探索を始めてすぐ交尾中の成虫も見つかり,個体数も決して少なくないので生活史の解明は容易だろうと期待された。ところが,その後は交尾を目撃することはできず,産卵場所も見つけることはできなかった。その後の情報を総合すると,どうやら産卵は落ち葉の中に行われるらしく,野外での産卵場所を見つけるのは極めて困難だったようだ。考えが甘かった。

筆者はハサミムシの生態は研究したことはあったものの,分類は全く素人だったが(今ではホシカメムシの分類に関わらざるをえなかったことにより,分類学のことも多少わかるようになったけれど),市川顕彦さんと一緒に八重山でのドウボソハサミムシの記録を報告した(Tettigonia 1: 99–100, 1999)。おそらく,それを知って筆者を訪ねてこられたのだと思うが,当時東京都立大学の大学院生で,2017年に「イグノーベル賞」を共同受賞された上村佳孝さんがドウボソハサミムシの採集のために石垣島を訪問され,筆者とのお付き合いも始まった。

写真3. 一見カワゲラの幼虫のように見えるドウボソハサミムシ終齢幼虫(2004年2月11日,石垣島大浜 真栄里ダム奥の宮良川源流)

石垣島白保の海岸のヤニイロハサミムシ

大学院生時代に研究室の先輩の加藤真さんから写真を見せていただいていたので,胸部と頭部がやや単色になる茶褐色のハサミムシが石垣島白保の珊瑚礁の浜に棲息することは知っていた。石垣島に転居してから,このハサミムシを求めて白保の海岸に出かけたところ,個体数は少なくなく,容易に採集できた。このハサミムシはハマベハサミムシと色が異なるが,同種なのかどうか全く確信を持てなかった。ハマベハサミムシに似ているが幼虫とメスのハサミが細長い次の節で記しているハサミムシを含め,検討の必要性を感じたのが,とりあえずの情報を『ばったりぎす』(121: 25–27, 1999)に投稿した。この時点で,ハサミが長い個体は前胸背板が縦長である点が他と異なるので,これは別種だが,胸部と頭部が単色になる茶褐色のハサミムシはハマベハサミムシの色彩変異で同種だろうと思っていた。しかしこれは後に西川勝さんによってヤニイロハサミムシ Anisolabis piceus Shiraki, 1906 と同定された。Anisolabis piceus はそれまで Euborellia annulipes (Lucas, 1847) のシノニムとされていたから,自分がわからなかったのは無理もない。

写真4. サンゴの浜に棲息するヤニイロハサミムシ♂(2001年2月15日,石垣島白保 海岸)

まだ名前が無かったイソハサミムシ

杉本雅志さんから西表島産とトカラ産のメスのハサミが異様に長い巨大なハサミムシの標本を譲り受けた。それは珊瑚礁の潮間帯に棲息し,ウミコオロギ(ナギサスズ)を捕獲するための魚肉ソーセージを餌に使ったトラップに夜中に捕獲されるという。その話を聞いて,潮が大きく引く大潮の夜中の干潮時を狙って石垣島伊原間のサビチ洞近くの海岸に出かけた。すると期待通り,大きなハサミムシが採集された。川平の山原(ヤマバレー)の海岸にも出かけ,そこでも採集することができた。しかし,夜中の採集は身体的に辛いので,未知の場所での棲息を確認できたことに満足し,その後は昼間の干潮の時に何度か出かけたぐらいで,昼間見つけることはできなかった。ウミコオロギも昼間は見つからない。どちらも珊瑚礁の隙間に潜り込んでいるのだろう。このハサミムシはその後,珊瑚礁の潮間帯だけでなく,普通の岩の海岸や,波消しブロックが置かれている場所などからも採集され,広く日本の沿岸に棲息することが明らかになり,2008年に西川勝さんによってAnisolabis seirokuiイソハサミムシとして記載された。

2019年4月28日に放送されたNHKのテレビ番組『ダーウィンがきた』で2018年5月に行われた伊豆諸島最南端の孀婦岩の生物相調査の様子を見ることができた。ほとんど垂直にそそり立つ100m弱の巨大な岩だが,そのてっぺんにウミコオロギがいるという。トラップを仕掛けて捕獲しようとしたところ,捕獲されたのは多量の巨大なイソハサミムシだった。それまで知られていたイソハサミムシやウミコオロギの産地はほとんどが潮間帯だったが,生物相が貧弱な孀婦岩では,おそらく競争相手や天敵が棲息しないため,波打ち際を大きく離れ,高さ100m近い岩のてっぺんまで棲息することができるのだろう。一度現地を見てみたいものだが,簡単に行ける場所でもない。

写真5. イソハサミムシの棲息環境の一つの典型(2001年5月9日,石垣島川平 ヤマバレー海岸 大潮の昼間の干潮時)

屋久島のムカシハサミムシ

話は少し前後する。「木村組」の皆さんや与那国島の村松稔さんらから情報をいただいて,仕事(ミカンキジラミの調査)のために訪れた屋久島でムカシハサミムシも採集した。上村さんも,筆者の採集の経験と直感による情報をもとに,屋久島の別の場所でもムカシハサミムシを採集された。筆者は交尾器を見る余裕はなかったが,交尾器がご専門の上村さんは交尾器を見た。すると上村さんは,屋久島のムカシハサミムシの交尾器が,それまでに屋久島産の個体に名前が充てられていた Challia fletcheri Burr, 1904 のものと異なることに気づいた。それは記載すべきだ,という話になったのだが,二人とも記載分類については全くの素人で困っていた。しかしちょうどその頃,ミナミクギヌキハサミムシやミナミマルムネハサミムシの記載者として名前だけを存じ上げていた西川勝さんと連絡が取れるようになった。それにより,分類の作法を知らない筆者が無理してハサミムシのことを報告することもなくなっただろう,と自覚するようになったせいか,日本直翅類学会への報告も1999年の春を最後に途切れてしまった。仕事がらみのホシカメムシのことなどで精一杯になり,余裕がなくなってしまったことも大きかったと思う。2004年4月に三重県に転居してからは「うつ」に陥ってしまい,採集に出るのも億劫になってしまった。その後見たハサミムシのほとんどは,職場の畑にもたくさん棲息しているオオハサミムシぐらいである。

なお,屋久島のムカシハサミムシは,Challia imamuraiとして韓国に分布する同属の種とともに,西川さんによって2006年に新種記載された。

写真6. 夜になると花崗岩の岩肌に出現するムカシハサミムシ♂(2001年10月2日,屋久島 白谷雲水峡)

オオハサミムシ

オオハサミムシは捕食性の傾向が強く,畑ではいくつかの野菜の害虫の捕食性天敵として期待されるので,仕事でも調査対象とした。クギヌキハサミムシ類とはおそらく機構が異なるが,オオハサミムシにもオスのハサミに多型があり,同一集団中で混在している。幼虫が5齢を経過する小型のものと6齢を経過する大型のものがあるが,幼虫の齢数の違いに応じて幼虫期間も異なり,6齢を経過するものは幼虫期間が長くなる。飼育により,同じ卵塊から5齢型と6齢型の両方が生じることがわかった。長い幼虫期間は繁殖戦略としては不利な形質であるが,それが集団中に維持される機構に興味惹かれ,多少は交配実験を行い,幼虫齢数の決定に遺伝的要因がいくらか関わっていることはわかったものの,十分な交配実験をする前に時間切れ(定年退職)になってしまい,未解決のままである。

オオハサミムシにはオスのハサミの多型のほか,雌雄に関係ない翅型の多型もある。短翅型は飛べないが,長翅型は飛ぶことが可能で,ライトトラップなどに飛んできたのを見たことがある方も少なくないと思う。ハサミの多型と翅型の多型とはおそらく独立した現象だと想像しているが,職場の畑でわずか(1%未満)に見られる長翅型のメスから得られる幼虫を飼育しても,すべて短翅型になってしまうし,ウンカ類などと違って高密度で飼育しても(と言っても,あまりに密度が高いと共食いが激しくなるので,なかなか難しい)長翅型になるわけではない。これの機構については全く手がかりがつかめていない。

オオハサミムシの生物学的特性をなかなか明らかにできない最も大きな理由は,データを取りながらの飼育が意外に難しいことだと思う。ハサミムシ類は産卵生態が知られている種すべてについて卵保護習性が知られているが,オオハサミムシの場合,抱卵中に何か刺激を与えてしまうと,自分が産んだ卵を容易に食べてしまうのである。例えばハマベハサミムシやコバネハサミムシはそれほど卵食いの性質は強くないし,コブハサミムシに至っては相当強い刺激を与えても卵を食べるのを見たことがない。コブハサミムシの場合は生涯に一度しか産卵できない(必ず幼虫が母親を食べてしまうので,2回目の産卵ができない)から当たり前と言ってしまえば当たり前である。それ以外のハサミムシの場合,抱卵中に何かの危機が迫ったとき,それを食べてしまっても,次の産卵のための栄養とすることができるなら,被害は多少回復できる。

石森愛彦さんとハサミムシ

三重県に引っ越して4年目の2007年の春,出版社の編集者の方から「ハサミムシの話を聞きたい」という連絡があり,イラストレーターの石森愛彦さんを同伴して我が家においでいただいた。石森さんは昆虫などの生き物が好きで,ハサミムシのことを絵本にしたい,という話だった。なかなか具体的な話には進行しなかったけれど,石森さんとは思考の波長が何となく合い,筆者が出張で関東方面に出かけた時に都合が合えばご一緒して雑談し,何度か仕事のお手伝いもさせていただいた。3年ぐらい前にやっと出版社の企画に組み込まれ,月刊誌『かがくのとも』2019年11月号として『はさみむし』が出版された。最初の出会いから12年も経ってからやっと出版されたので,筆者にとっても非常に感慨深い。内容はヒゲジロハサミムシの1年を追ったもので,可能な限り科学的知見に基づいて描かれている。ハサミムシというマイナーな昆虫だけで一冊の絵本ができた,ということだけでも素晴らしいと思っている。

残された課題

筆者が関係するところの直翅系昆虫に残された課題はいろいろあるが,まず「石垣島のスジイリコカマキリとウスバカマキリの季節的発生消長」は今後誰かがデータを取れるかどうか極めて怪しいので,既にデータを持っている筆者が書くべきで,これは何とかしたいと思っている。京都で調べたヒゲジロハサミムシの周年経過についても一応オリジナルのデータはあるが,これはその気になれば誰でも調べられることなので,優先順位は多少低くなる。コブハサミムシについても,既に発表済みの一番面白そうなところ以外にもいくらか未発表の部分があるので,できればきちんと発表したい。

筆者がハサミムシ類の生態に手を付け始めたとき,周年経過が明らかにされている日本産ハサミムシはいなかったので,それほど種数が多くない日本産ハサミムシ全種の周年経過を明らかにすることは,筆者にとっての野望だった。しかし,越冬中に産卵する年1世代のコブハサミムシのほか,盛岡市で観察したクギヌキハサミムシが3齢幼虫(幼虫は4齢まである)で越冬する年1世代であることを報告しただけで(東北昆虫 31:4–5, 1993),老齢幼虫で越冬する年1世代であると思われるヒゲジロハサミムシについては学術的な報告をしないままになっている。それ以外のハサミムシについては,ほとんど進展しなかった。オオハサミムシについては,おそらく越冬態は定まっていないだろうという予想はついているが,まだ詰めきれていない部分もある。身近に見られるハサミムシ類ですら十分にわかっていないので,今後の発展に期待したい。

コブハサミムシのアルマン型,ルイス型,ソエダ型の地理的な分布や遺伝的背景についてもまだまとまった報告はないので,全国の同好者の共同作業として明らかにできたら良いと思っている。同様にオスのハサミに多型があるクギヌキハサミムシ,キバネハサミムシ等についても多型のそれぞれの型の頻度に関する報告もほとんどないので,今後明らかにしていったら面白いと思う。

オオハサミムシの生態については,周年経過,幼虫の齢数決定の遺伝的背景,幼虫の齢数と幼虫期間との関わり,翅型多型の機構などなど,突っ込んで調べたら面白そうな課題がたくさん残っている。飼育にはそれなりの手間がかかるけれど,分布が広いいわゆる普通種なので,その点では敷居は低いと思う。しかしながら,飼育用の機器を使用できる環境ではなくなったので,自分自身で発展させるのは諦めている。どなたかが興味を持たれれば,情報提供などでお手伝いしたいと考えている。

オオハサミムシについては,色彩変異についても少し気になっている。三重県津市安濃町の標高約60mの丘陵地にある職場の畑にいるオオハサミムシは,市内の伊勢湾添いの砂浜にいるオオハサミムシより黒っぽいのである。もっとも,どちらのオオハサミムシにもそれぞれ色彩変異があるので,1匹の個体を見たとき,どちらの棲息地の個体なのかを識別することはできない。ミクロの地域集団の全体を見れば違いがあるかもしれない,という程度の話である。

むすび

いま振り返ってみていると,本稿の冒頭にも書いたように,大学入学前に岡田正哉さんと出会ったことが,筆者のその後の虫屋としての人生に少なからぬ影響を与えたことがわかる。岡田さんが亡くなられた頃,筆者のうつ症状が酷く,葬儀にも参列できなかったことが心残りである。最後になったがお礼を申し上げる。

筆者が名古屋昆虫同好会に入会したのは,筆者が当時通っていた一宮市立南部中学校生物部の顧問だった安藤尚先生が,筆者が3年生になったときに名古屋の私立高校に異動され,その後生物部の顧問になった教師とうまくいかなくなったことがきっかけであった。安藤先生は筆者が虫にのめり込んで勉強に身が入らなくことを心配されていた。しかし,虫に深く関わり,何とか定年まで勤め上げることができ,恩返しできたのではないかと思っている。

最後になったが,本稿でこれまでに名前を挙げたみなさんのほか,これまでに日本直翅類学会の運営や『ばったりぎす』と“Tettigonia”の編集に携わられたみなさんにお礼申し上げる。