このページの文章は、『ひゃくとりむし』の編集者である中西元男さんの了承を得て、筆者が投稿した原稿をウェブサイト用に編集したものです。引用する場合は[河野勝行.2020アナ眼とデジ眼(3)迷蝶を定義する.ひゃくとりむし (474): 5681–5684](202012月21日発行)としてください。

アナ眼とデジ眼(3)

迷蝶を定義する

前稿(ひゃくとりむし 472: 5657–5661, 2020)ではアナログ-デジタル変換やデジタル-アナログ変換において、その時に生じる誤差が実用的に無視できるのであれば問題ないが、変換の際の誤差が大きくなってしまう「外来種かどうか」などというデジタル化は、それのみを判断基準とするのは危険である、と書いた。

前稿で例に挙げた「外来種かどうか」とか「有害かどうか」というデジタル化は二分法である。二分法は現実的に便利な場合が多い。それによって「レッテル貼り」が可能になる。しかし、レッテルを貼られることによる差別の可視化は問題が多い。しかし、ここでは基本的に虫の話をしたいので、差別の問題には深入りしない。

そこでまた「迷蝶」の話である。言うまでもなく「迷蝶かどうか」はデジタル化であり、前稿で考察したように、デジタル化に伴う誤差の発生が問題になりえる。ここで具体的にどういう問題が生じるかと言えば、例えば、迷蝶の定義を一つに定めるのが困難なので定義次第で迷蝶になったりそうでない蝶になったりする種が出てくる、ということがある。これは、具体的な線引きの問題である。筆者は「迷蝶」という概念を捨てた方が良いという立場であるが(ひゃくとりむし 445: 5330–5332, 2019)。一方、実用的に「迷蝶」という概念は便利であることも理解しているので、そのためには妥当な線引きをするための根拠に関して、可能な限り恣意性を排除する提案をしたいと考えている。その種の採れ方がランダムでないと判断されれば、その種について「迷蝶」のレッテルを外したら良いのではないかという、多少具体的な提案(ひゃくとりむし 452: 5419–5421, 2019)もその一つである。

ここであらためて「迷蝶」という概念について振り返ると、これが「ある種の個体」について当てはめられる場合と、「種そのもの」について当てはめられる場合の二つが、それぞれあまり区別されることなく使用されていることがわかる。個体の問題は、あくまで個別的な偶然に依存するので、その飛来元がどこであるかとかが考察の対象となることはあっても、それほど深く考察する必要もないように思える。そもそも既知の分布地が明らかになっており、それが日本から遠く離れた場所であり、長らく日本で1例しか記録がない種は、偶然日本に侵入したとしか考えられない。そこで興味惹かれるのは、侵入が自力での飛翔なのか、人為的な侵入なのかという、その原因についてのみである。したがって、ここでは「種」あるいは「種個体群」の問題として考察する。

種(あるいは個体群)について、その分布をミクロに見れば見るほど、「分布が変わらないという状況」がますますありえなくなる。生まれたときから死ぬまで、全く棲息場所を変えないという状況は、ほとんどありえないからである。例えば、毎年同じ場所にキャベツ畑があって、毎年そこでモンシロチョウが発生していて、一見同じ場所に定着しているように見えたとしても、ある年の春にそのキャベツ畑で発生したモンシロチョウが、その前年にそのキャベツ畑で発生したモンシロチョウの直系の子孫である可能性は、かなり0に近いであろう。かつてこれを確認するのは困難であったが、近年の遺伝子診断技術の発達により、それらが親子関係であるかどうかの確認は不可能ではなくなっているだろうから、試してみる価値はあるかも知れない。

しかし、津市上浜町というレベル、津市というレベル、三重県というレベル、というように、視点をマクロにすればするほど、「分布が変わらないという状況」になりやすくなる。ある年に津市上浜町で発生したモンシロチョウの直系の子孫は、範囲を広くとればとるほど(マクロに見ればみるほど)、「その地域内」で見つかる確率が高くなるであろう。すなわち、マクロで見れば見るほど「分布が変わらないという状況」が起こりやすくなる。全地球というレベルになれば、その確率は100%であろう。

「迷蝶」を考える時、その視点はかなりマクロだと言えるであろう。なぜなら、「迷蝶」という概念では狭い地域内での移動やその狭い地域の内外への出入りは全く無視されているからである。これをデジタル化の問題として見れば、サンプリング周波数を高くするか(よりミクロに見る場合)低くするか(よりマクロに見る場合)の違いに過ぎないことは容易に理解できよう。つまり、「迷蝶」という概念自体、本質的に誤差を生じやすいものだということが理解される。

一方、先に書いたように、「迷蝶」を定義することの有用性も理解できる。なぜなら、「迷蝶」という言葉だけで、「今そこにいる蝶は普段はここで見られないのだけれど、どこか遠くから飛んできたので今目の前にいる」という状況が何となく説明されるからである。だからこそ、可能な限り客観的に定義しようと、これまで様々な試みが行われたのだろうと想像される。それにもかかわらず、ある「迷蝶候補」の記録について、それが「迷蝶」であるかどうかという意見が一致するわけでもないので(例えば、中西、ひゃくとりむし 452: 5416–5417, 2019)、これまでに「迷蝶」を定義することに成功しているとは言えないのも確かである。

筆者は先に書いたように、「迷蝶」という概念をそろそろ捨てても良いのではないか、という立場なので、具体的な提案は無理だとしても、多少の提案をしてみようと思う。

まず、これまでのように二分法(極端なデジタル化である)によって定義しようというのではなく、何か一つの順序をつけられる尺度を使って、より細かい多くの段階に分けてはどうだろうか。ようするに、サンプリングの周波数を上げることによって変換の際の誤差を小さくするのである。もし可能であれば、その段階をさらに細かく分け、アナログ化、すなわち数限りなく細かく分けた連続的な数値として表現するのである。しかし、一つの尺度の直線上に「迷蝶候補」をプロットすること(要するに、全ての「迷蝶候補」の順位を決めることでもある)が不可能に近いことであることは容易に想像できる。

それならば、複数の尺度を使ってみてはどうであろうか、という考えが思い浮かぶ。まずは最も単純な例として、二次元の平面上に「迷蝶候補」をある二つの尺度を使ってプロットしてみよう。そこで、原点からそのプロットした点へのベクトルを考えれば、それは「迷蝶」を特徴付ける何らかの尺度に基づいた指数だと言える。そこで、ある二種の「迷蝶候補」のベクトルの絶対値が等しかったとしよう。しかし、それをx軸に投影したり、y軸に投影したりすると、その二種のベクトルが全く同じでない限り、投影された像の大きさは異なり、投影の仕方が変われば(例えば、原点を通る様々な直線に投影して見ると)、二者の大小関係も一定ではなくなる。「見方によっては大小関係が異なることもある」ということは、何となく「迷蝶」を定義するときの利点になるようにも察せられる。さらには、三次元、四次元・・・・・・の空間を考えれば、より汎用性が高い指数を作ることが可能のように思われる。そこで、二種の間の何らかの大小関係を議論したい場合は、三次元の場合は任意の二次元の平面に、四次元の場合は任意の三次元の空間に投影した時の像の大きさ(ベクトルの絶対値)を比較すれば良いのである。とは言え、四次元を超える空間を頭の中に描くことは普通の人間には無理だと思われるので、せいぜい三次元までが実用的であろう、とも思われる。

「迷蝶」を定義しようとしている人は誰か、「迷蝶」を特徴付ける連続的な数値として表現可能な複数の尺度を提案していただけないであろうか?

「アナ眼とデジ眼」という表題は、編集者の中西さんからご提案いただいた。