長部経典(ディーガ・ニカーヤ)

 

 戒の範疇の部の聖典(戒蘊篇・上)

 

【目次】

 

1. 梵の網の経(1.~)

2. 沙門たることの果の経(150.~)

3. アンバッタの経(254.~)

4. ソーナダンダの経(300.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 戒の範疇の部の聖典(戒蘊篇・上)

 

1. 梵の網の経

 

 遍歴遊行者の話

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、かつまた、ラージャガハの、かつまた、ナーランダーの、それぞれの中途において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、スッピヤ遍歴遊行者もまた、かつまた、ラージャガハの、かつまた、ナーランダーの、それぞれの中途において、内弟子であるブラフマダッタ学徒と共に、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、スッピヤ遍歴遊行者は、無数の教相によって、覚者(:ブッダ)の栄誉ならざることを語り、法(:ダンマ)の栄誉ならざることを語り、僧団(:サンガ)の栄誉ならざることを語ります。いっぽう、スッピヤ遍歴遊行者の内弟子であるブラフマダッタ学徒は、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語ります。まさに、かくのごとく、それらの両者は、師匠と内弟子でありながら、互いに他と真に正反対の論ある者たちであり、背後から背後へと、世尊に、そして、比丘の僧団に、付き従う者たちとして〔世に〕有ります。

 

2. そこで、まさに、世尊は、アンバラッティカーにある王の別荘において、比丘の僧団と共に、一夜の住に入りました。まさに、スッピヤ遍歴遊行者もまた、アンバラッティカーにある王の別荘において、内弟子であるブラフマダッタ学徒と共に(※)、一夜の住に入りました。そこで、また、まさに、スッピヤ遍歴遊行者は、無数の教相によって、覚者の栄誉ならざることを語り、法(教え)の栄誉ならざることを語り、僧団の栄誉ならざることを語ります。いっぽう、スッピヤ遍歴遊行者の内弟子であるブラフマダッタ学徒は、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語ります。まさに、かくのごとく、それらの両者は、師匠と内弟子でありながら、互いに他と真に正反対の論ある者たちとして〔世に〕住みます。

 

※ PTS版により saddhi を補う。

 

3. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、夜の早朝の時分に起き、円形堂において着坐し参集していると、この究明するべき法(性質)が生起しました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。友よ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、有情たちの種々なる信念あることが、これほどまでに、見事に確知されたのは。まさに、この、スッピヤ遍歴遊行者は、無数の教相によって、覚者の栄誉ならざることを語り、法(教え)の栄誉ならざることを語り、僧団の栄誉ならざることを語ります。いっぽう、スッピヤ遍歴遊行者の内弟子であるブラフマダッタ学徒は、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語ります。まさに、かくのごとく、それらの両者は、師匠と内弟子でありながら、互いに他と真に正反対の論ある者たちであり、背後から背後へと、世尊に、そして、比丘の僧団に、付き従う者たちとして〔世に〕有ります」と。

 

4. そこで、まさに、世尊は、それらの比丘たちの、この究明するべき法(性質)を見出して、円形堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐し参集しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちが、夜の早朝の時分に起き、円形堂において着坐し参集していると、この究明するべき法(性質)が生起しました。『友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。友よ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、有情たちの種々なる信念あることが、これほどまでに、見事に確知されたのは。まさに、この、スッピヤ遍歴遊行者は、無数の教相によって、覚者の栄誉ならざることを語り、法(教え)の栄誉ならざることを語り、僧団の栄誉ならざることを語ります。いっぽう、スッピヤ遍歴遊行者の内弟子であるブラフマダッタ学徒は、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語ります。まさに、かくのごとく、それらの両者は、師匠と内弟子でありながら、互いに他と真に正反対の論ある者たちであり、背後から背後へと、世尊に、そして、比丘の僧団に、付き従う者たちとして〔世に〕有ります』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

5. 「比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉ならざることを語り、あるいは、法(教え)の栄誉ならざることを語り、あるいは、僧団の栄誉ならざることを語るとして、そこで、あなたたちによって、憤懣〔の思い〕が〔作り為されるべきでは〕なく、不興が〔作り為されるべきでは〕なく、心の不満が作り為されるべきではありません。比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉ならざることを語り、あるいは、法(教え)の栄誉ならざることを語り、あるいは、僧団の栄誉ならざることを語るとして、そこで、もし、あなたたちが、あるいは、激情した者たちとして、あるいは、わが意を得ない者たちとして、〔世に〕存するなら、それによって、まさしく、あなたたちに、障りが存するでしょう。比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉ならざることを語り、あるいは、法(教え)の栄誉ならざることを語り、あるいは、僧団の栄誉ならざることを語るとして、そこで、もし、あなたたちが、あるいは、激情した者たちとして、あるいは、わが意を得ない者たちとして、〔世に〕存するなら、さて、いったい、あなたたちは、他者たちの、見事に語られた〔言葉〕を、拙劣に語られた〔言葉〕を、〔正しく〕了知できるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉ならざることを語り、あるいは、法(教え)の栄誉ならざることを語り、あるいは、僧団の栄誉ならざることを語るとして、そこで、あなたたちによって、事実ならざることは、事実ならざることとして、〔あるがままに〕表明されるべきです。『かくのごとくもまた、これは、事実ならざることです。かくのごとくもまた、これは、真実ならざることです。そして、これは、わたしたちのうちに存在しません。また、そして、これは、わたしたちにおいて等しく見出されません』と。

 

6. 比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉を語り、あるいは、法(教え)の栄誉を語り、あるいは、僧団の栄誉を語るとして、そこで、あなたたちによって、歓嘆〔の思い〕が〔作り為されるべきでは〕なく、悦意が〔作り為されるべきでは〕なく、心の浮揚が作り為されるべきではありません。比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉を語り、あるいは、法(教え)の栄誉を語り、あるいは、僧団の栄誉を語るとして、そこで、もし、あなたたちが、歓嘆〔の思い〕ある者たちとして、悦意の者たちとして、〔心が〕浮揚した者たちとして、〔世に〕存するなら、それによって、まさしく、あなたたちに、障りが存するでしょう。比丘たちよ、他者たちが、あるいは、わたしの栄誉を語り、あるいは、法(教え)の栄誉を語り、あるいは、僧団の栄誉を語るとして、そこで、あなたたちによって、事実は、事実として、〔あるがままに〕表明されるべきです。『かくのごとくもまた、これは、事実です。かくのごとくもまた、これは、真実です。そして、これは、わたしたちのうちに存在します。また、そして、これは、わたしたちにおいて等しく見出されます』と。

 

 小なる戒

 

7. 比丘たちよ、また、まさに、これは、僅かばかりのことであり、ほんの些細なことであり、戒のみのことです。それによって、凡夫が、如来の栄誉を説きつつ説くとして。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、僅かばかりのことであり、ほんの些細なことであり、戒のみのことなのですか。それによって、凡夫が、如来の栄誉を説きつつ説くとして。

 

8. 『命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、沙門ゴータマはある。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住む』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 『与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として、沙門ゴータマはある。与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住む』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 『梵行(禁欲清浄行)ならざることを捨棄して、梵行者として、沙門ゴータマはある。遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者としてある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

9. 『虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、沙門ゴータマはある。真理()を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者としてある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 『中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として、沙門ゴータマはある。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者としてある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 『粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として、沙門ゴータマはある。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者としてある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 『雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として、沙門ゴータマはある。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者としてある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

10. 『種子類や草木類を損壊することから離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、まさに、あるいは、かくのごとく……略……。

 

 『一食の者として、沙門ゴータマはある。夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者としてある』……。

 

 『舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『金や銀を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『生の穀物を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『生の肉を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『婦女や少女を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『奴婢や奴隷を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『山羊や羊を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『鶏や豚を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『田畑や地所を納受することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『売買から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として、沙門ゴータマはある』……。

 

 『切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 小なる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 中なる戒

 

11. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の種子類や草木類の損壊に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、根の種であり、幹の種であり、節の種であり、枝の種であり、第五のものとして、まさしく、種の種である。かくのごとき、このような形態の種子類や草木類の損壊から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

12. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の蓄積物の遍き受益に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、食べ物の蓄積であり、飲み物の蓄積であり、衣装の蓄積であり、乗物の蓄積であり、臥具の蓄積であり、香料の蓄積であり、財貨の蓄積であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の蓄積物の遍き受益から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

13. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の〔様々な〕演芸の見物から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

14. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の賭事による放逸の境位への専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、八目〔将棋〕、十目〔将棋〕、虚空〔将棋〕、けんけん遊び、山くずし遊び、さいころ遊び、ちゃんばら遊び、手形遊び、博打、葉笛、おもちゃの鋤、逆立ち、風車遊び、葉の枡遊び、車遊び、弓遊び、文字判じ、意思判じ、不具者の物真似であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の賭事による放逸の境位への専念から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

15. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の高い臥具や大きな臥具〔の使用〕に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、高床、寝台、毛布、羊毛の上掛け、羊の白毛布、羊の毛布、綿入りのもの、毛織りのもの、両側に縁飾りがある毛の敷物、片側に縁飾りがある毛の敷物、絹織りのもの、絹布、毛氈、象の敷物、馬の敷物、車の敷物、鹿皮の絨毯、カダリー鹿の最も優れた敷物、天蓋を有するもの、両端に赤い枕があるものであり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

16. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の装飾することや装着することの境位への専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、塗身、按摩、沐浴、洗髪、鏡、塗薬、花飾の塗料、口の塗粉、口紅、腕飾、頭飾、杖、筒、剣、傘、彩色ある履物、髻、宝珠、毛扇、諸々の白衣、諸々の長袖であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の装飾することや装着することの境位への専念から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

17. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生の議論(無用論・無駄話)に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生の議論から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

18. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の口論の議論に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の口論の議論から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

19. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の使者や使節に赴くことへの専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住む。それは、すなわち、この、王のために、王の大臣たちのために、士族たちのために、婆羅門たちのために、家長たちのために、王子たちのために、「ここに赴け」「そこに赴け」「これを持ってこい」「これをそこに運べ」と、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の使者や使節に赴くことへの専念から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

20. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、そして、虚言者たちと成り、かつまた、饒舌者たちと〔成り〕、かつまた、予言者たちと〔成り〕、かつまた、詐術者たちと〔成り〕、さらに、利得による利得の追求者たちと〔成る〕。かくのごとき、このような形態の虚言や饒舌から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 中なる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 大いなる戒

 

21. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知(無益な呪術)である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、肢体〔の占い〕、形相〔の占い〕、天変〔の占い〕、夢〔の占い〕、特相〔の占い〕、鼠のかじりあと〔の占い〕、火の献供、柄杓の献供、籾殻の献供、籾糠の献供、米の献供、酥の献供、油の献供、口の献供、血の献供、肢体の呪術、地所の呪術、士族の呪術、野狐(ジャッカル)の呪術、精霊の呪術、土地の呪術、蛇の呪術、蛇の呪術、毒の呪術、蠍の呪術、鼠の呪術、鳥の呪術、烏の呪術、命数の予言、矢の護呪、獣の声〔の占い〕であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

22. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、宝珠の特相、衣装の特相、棒の特相、刃の特相、剣の特相、矢の特相、弓の特相、武器の特相、女の特相、男の特相、少年の特相、少女の特相、奴隷の特相、奴婢の特相、象の特相、馬の特相、水牛の特相、雄牛の特相、雌牛の特相、山羊の特相、羊の特相、鶏の特相、鶉の特相、大蜥蜴の特相、耳環の特相、亀の特相、鹿の特相であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

23. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、「王たちの出発が有るであろう。王たちの不出発が有るであろう」「味方の王たちの接近が有るであろう。敵方の王たちの離去が有るであろう」「敵方の王たちの接近が有るであろう。味方の王たちの離去が有るであろう」「味方の王たちの勝利が有るであろう。敵方の王たちの敗北が有るであろう」「敵方の王たちの勝利が有るであろう。味方の王たちの敗北が有るであろう」「かくのごとく、この者の勝利が有るであろう。この者の敗北が有るであろう」〔と〕、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

24. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、「月蝕が有るであろう」「日蝕が有るであろう」「星蝕が有るであろう」「月と日の順路の道行きが有るであろう」「月と日の悪路の道行きが有るであろう」「星々の順路の道行きが有るであろう」「星々の悪路の道行きが有るであろう」「流星が有るであろう」「天火が有るであろう」「地震が有るであろう」「天雷が有るであろう」「月と日と星々の上昇と下降と汚染と浄化が有るであろう」「このような報い(異熟)ある月蝕が有るであろう」「このような報いある日蝕が有るであろう」「このような報いある星蝕が有るであろう」「このような報いある月と日の順路の道行きが有るであろう」「このような報いある月と日の悪路の道行きが有るであろう」「このような報いある星々の順路の道行きが有るであろう」「このような報いある星々の悪路の道行きが有るであろう」「このような報いある流星が有るであろう」「このような報いある天火が有るであろう」「このような報いある地震が有るであろう」「このような報いある天雷が有るであろう」「このような報いある月と日と星々の上昇と下降と汚染と浄化が有るであろう」〔と〕、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

25. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、「大雨が有るであろう」「旱魃が有るであろう」「豊作が有るであろう」「飢饉が有るであろう」「平安が有るであろう」「恐怖が有るであろう」「病が有るであろう」「無病が有るであろう」〔という〕、指算術であり、計算術であり、目算術であり、詩作術であり、処世術であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

26. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、嫁とり、嫁やり、和睦、決裂、借金取立、借金貸出、幸運を作り為すこと、不幸を作り為すこと、堕胎の施術、舌の結縛、顎の麻痺、手の詠唱、顎の詠唱、耳の詠唱、鏡への問い、少女への問い、天への問い、太陽への奉仕、大いなるものへの奉仕、火を吐くこと、吉祥を招くことであり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

27. 『また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営む。それは、すなわち、この、寂静〔祈願〕の儀礼、誓願〔成就〕の儀礼、精霊の儀礼、土地の儀礼、精力増強の儀礼、精力減退の儀礼、地所の儀礼、地所の事前儀礼、洗浄、沐浴、供犠、吐剤、下剤、上の下剤、下の下剤、頭の下剤、耳の油、眼の手入れ、鼻の治療、塗薬、塗油、眼科術、外科術、小児医療、諸々の根薬の供与、諸々の薬草の除染であり、あるいは、かくのごときものである。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として、沙門ゴータマはある』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく、凡夫は、如来の栄誉を説きつつ説くでしょう。

 

 比丘たちよ、まさに、これは、僅かばかりのことであり、ほんの些細なことであり、戒のみのことです。それによって、凡夫が、如来の栄誉を説きつつ説くとして。

 

 大いなる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 過去の極についての妄想ある者たち

 

28. 比丘たちよ、まさしく、他の、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、諸々の法(真理)が存在します。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、では、どのようなものが、それらの、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、諸々の法(真理)なのですか。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

29. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。過去の極(前際:過去の種々相)についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──十八の根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、過去の極についての妄想ある者たちとなり、過去の極についての偏った見解ある者たちとなり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するのですか──十八の根拠によって。

 

 常久の論(常住論)

 

30. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──四つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知するのですか──四つの根拠によって。

 

31. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定(三昧)を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住(過去世)を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、幾多の百生をもまた、幾多の千生をもまた、幾多の百千生をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 彼は、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、幾多の百生をもまた、幾多の千生をもまた、幾多の百千生をもまたをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。これによって、わたしは、このことを知る──「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第一の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します。

 

32. 比丘たちよ、さらに、第二に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一つの展転され還転された〔世界の周期〕(世界の崩壊と再生の周期)をもまた、二つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、五つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 彼は、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。それは、すなわち、この、一つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、二つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、五つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。これによって、わたしは、このことを知る──「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第二の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します。

 

33. 比丘たちよ、さらに、第三に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、二十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 彼は、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。それは、すなわち、この、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、二十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからである。これによって、わたしは、このことを知る──「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第三の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します。

 

34. 比丘たちよ、さらに、第四に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたもの(思考を重ねたもの)を、考察に随行するもの(思考に適合するもの)を、自らの応答として、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する』と。比丘たちよ、これが、第四の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、常久の論ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します。

 

35. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──これらの四つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。

 

36. 比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は覚知します。『これらの者たちは、〔偏った〕見解を拠点とする者たちであり、このような把持ある者たちであり、このような偏執ある者たちであり、このような〔死後の〕境遇ある者たちであり、このような未来の運命ある者たちである』と。如来は、そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、彼に、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出されたのです。比丘たちよ、如来は、諸々の感受()の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱したのです。

 

37. 比丘たちよ、まさに、これらのものが、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、それらの法(真理)です。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 〔以上が〕第一の朗読分となる。

 

 一部を常久とする論(一部常住論)

 

38. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します──四つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知するのですか──四つの根拠によって。

 

39. 比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が展転する、まさに、その時と成ります(世界が崩壊する時がくる)。世が展転しているとき、多くのところとして、有情たちは、光音〔天〕に等しく転起する者たちと成ります。彼らは、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

40. 比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が還転する、まさに、その時と成ります(世界が再生する時がくる)。世が還転しているとき、空無なる梵〔天〕の宮殿が出現します。そこで、まさに、或るひとりの有情が、あるいは、寿命の滅尽あることから、あるいは、功徳の滅尽あることから、光音〔天〕の身体から死滅して、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します。彼は、そこにおいて、意によって作られる者として、喜悦を食物とする者として、自ら光輝ある者として、空中を歩む者として、浄美なる境位ある者として、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

41. 彼が、そこにおいて、独りあると、長夜にわたり居住したことから、喜びなくあることが〔生起し〕、思い悩みが生起します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、この場に到来するべきだ』と。そこで、他の有情たちもまた、あるいは、寿命の滅尽あることから、あるいは、功徳の滅尽あることから、光音〔天〕の身体から死滅して、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します──その有情の同類として。彼らもまた、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

42. 比丘たちよ、そこで、すなわち、その、最初に再生した有情ですが、彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、梵〔天〕として〔世に〕存している。大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。わたしによって、これらの有情たちは化作されたのだ。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしに、過去において、この〔思い〕が有ったからである。「ああ、まさに、他の有情たちもまた、この場に到来するべきだ」と。かくのごとく、そして、わたしに、意の誓願があり、そして、これらの有情たちが、この場に到来したのだ』と。

 

 すなわち、また、それらの、後に再生した有情たちですが、彼らにもまた、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この尊き梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。この尊き梵〔天〕によって、わたしたちは化作されたのだ。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしたちは、この方を、ここに、最初に再生した者として見たからであり、いっぽう、わたしたちは、後に再生した者たちとして〔世に〕存しているからである』と。

 

43. 比丘たちよ、そこで、すなわち、その、最初に再生した有情ですが、彼は、そして、より長き寿命ある者として、かつまた、より色艶ある者として、さらに、大いなる権能の者として、〔世に〕有ります。いっぽう、すなわち、それらの、後に再生した有情たちですが、彼らは、そして、より少なき寿命の者たちとして、かつまた、より悪しき色艶の者たちとして、さらに、より少なき権能の者たちとして、〔世に〕有ります。

 

44. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場(人間界)に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。『すなわち、まさに、その尊き梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。その尊き梵〔天〕によって、わたしたちは化作されたのだ。彼は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、その尊き梵〔天〕によって化作された者たちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ』と。比丘たちよ、これが(※)、第一の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します。

 

※ テキストには Ida kho とあるが、PTS版により kho を削除する。

 

45. 比丘たちよ、さらに、第二に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知するのですか。比丘たちよ、キッダーパドーシカ(遊びの汚点ある者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。彼らは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住みます。彼らが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んでいると、気づき()は忘却されます。気づきの忘却あることから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。

 

46. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。『すなわち、まさに、それらの尊き天〔の神々〕たちは、キッダーパドーシカたちではなく、彼らは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちではなく〔世に〕住む。彼らが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちではなく〔世に〕住んでいると、気づきは忘却されない。気づきの忘却なきことから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅せず、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、キッダーパドーシカたちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んだ。〔まさに〕その、わたしたちが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んでいると、気づきは忘却される。気づきの忘却あることから、このように、わたしたちは、その身体から死滅し、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ』と。比丘たちよ、これが、第二の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します。

 

47. 比丘たちよ、さらに、第三に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知するのですか。比丘たちよ、マノーパドーシカ(意の汚点ある者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。彼らは、末永く互いに他を嫉視します。彼らは、末永く互いに他を嫉視しながら、まさに、互いに他の心を汚します。彼らは、互いに他の心を汚し、身体が疲弊し、心が疲弊し、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。

 

48. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。『すなわち、まさに、それらの尊き天〔の神々〕たちは、マノーパドーシカたちではなく、彼らは、末永く互いに他を嫉視しない。彼らは、末永く互いに他を嫉視せずにいながら、互いに他の心を汚さない。彼らは、互いに他の心を汚さず、身体が疲弊せず、心が疲弊せず、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅せず、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、マノーパドーシカたちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く互いに他を嫉視した。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く互いに他を嫉視しながら、まさに、互いに他の心を汚した。〔まさに〕その、わたしたちは、互いに他の心を汚し、身体が疲弊し、心が疲弊し、このように、わたしたちは、その身体から死滅し、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ』と。比丘たちよ、これが、第三の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します。

 

49. 比丘たちよ、さらに、第四に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたものを、考察に随行するものを、自らの応答として、このように言います。『まさに、すなわち、この、「眼」ともまた〔説かれ〕、「耳」ともまた〔説かれ〕、「鼻」ともまた〔説かれ〕、「舌」ともまた〔説かれ〕、「身」ともまた説かれる、この自己は、常住ならず、常恒ならず、常久ならず、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、この、あるいは、「心」ともまた〔説かれ〕、あるいは、「意」ともまた〔説かれ〕、あるいは、「識知〔作用〕()」ともまた説かれる、この自己は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住する』と。比丘たちよ、これが、第四の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します。

 

50. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します──これらの四つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。

 

51. 比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は覚知します。『これらの者たちは、〔偏った〕見解を拠点とする者たちであり、このような把持ある者たちであり、このような偏執ある者たちであり、このような〔死後の〕境遇ある者たちであり、このような未来の運命ある者たちである』と。如来は、そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、彼に、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出されたのです。比丘たちよ、如来は、諸々の感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱したのです。

 

52. 比丘たちよ、まさに、これらのものが、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、それらの法(真理)です。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 終極あるものと終極なきものの論(有限無限論)

 

53. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します──四つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知するのですか──四つの根拠によって。

 

54. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、終極の表象()ある者として〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように言います。『この世〔界〕は、終極があり、周縁がある(世界は有限である)。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、終極の表象ある者として〔世に〕住むからである。これによって、わたしは、このことを知る──「この世〔界〕は、終極があり、周縁がある」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第一の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します。

 

55. 比丘たちよ、さらに、第二に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、終極の表象なき者として〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように言います。『この世〔界〕は、終極がなく、周縁がない(世界は無限である)。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、終極があり、周縁がある」と、彼らには、虚偽がある。この世〔界〕は、終極がなく、周縁がない。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、終極の表象なき者として〔世に〕住むからである。これによって、わたしは、このことを知る──「この世〔界〕は、終極がなく、周縁がない」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第二の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します。

 

56. 比丘たちよ、さらに、第三に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、上下に終極の表象ある者として、横に終極の表象なき者として、〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように言います。『この世〔界〕は、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない(世界は有限かつ無限である)。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、終極があり、周縁がある」と、彼らには、虚偽がある。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、終極がなく、周縁がない」と、彼らには、虚偽がある。この世〔界〕は、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、上下に終極の表象ある者として、横に終極の表象なき者として、〔世に〕住むからである。これによって、わたしは、このことを知る──「この世〔界〕は、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない」〔と〕、そのとおりに』と。比丘たちよ、これが、第三の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します。

 

57. 比丘たちよ、さらに、第四に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたものを、考察に随行するものを、自らの応答として、このように言います。『この世〔界〕は、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない(世界は有限でもなく無限でもない)。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、終極があり、周縁がある」と、彼らには、虚偽がある。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、終極がなく、周縁がない」と、彼らには、虚偽がある。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、このように言うとして、「この世〔界〕は、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない」と、彼らには、虚偽がある。この世〔界〕は、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない』と。比丘たちよ、これが、第四の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちとなり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します。

 

58. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します──これらの四つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。

 

59. 比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は覚知します。『これらの者たちは、〔偏った〕見解を拠点とする者たちであり、このような把持ある者たちであり、このような偏執ある者たちであり、このような〔死後の〕境遇ある者たちであり、このような未来の運命ある者たちである』と。如来は、そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、彼に、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出されたのです。比丘たちよ、如来は、諸々の感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱したのです。

 

60. 比丘たちよ、まさに、これらのものが、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、それらの法(真理)です。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 詭弁の論(詭弁論)

 

61. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します──四つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起するのですか──四つの根拠によって。

 

62. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知しません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せず、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知しない。また、まさに、もし、わたしが、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、あるいは、「これは、善なるものである」と説き明かすなら、あるいは、「これは、善ならざるものである」と説き明かすなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう。それが、わたしにとって、虚偽として存するなら、それは、わたしにとって、悩苦として存するであろう。それが、わたしにとって、悩苦として存するなら、それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。かくのごとく、彼は、虚偽を説くことへの恐怖あることから、虚偽を説くことへの忌避あることから、まさしく、『これは、善なるものである』と説き明かさず、また、『これは、善ならざるものである』と説き明かさず、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。比丘たちよ、これが、第一の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。

 

63. 比丘たちよ、さらに、第二に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知しません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せず、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知しない。また、まさに、もし、わたしが、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、あるいは、「これは、善なるものである」と説き明かすなら、あるいは、「これは、善ならざるものである」と説き明かすなら、そこにおいて、わたしに、あるいは、欲〔の思い〕()が、あるいは、貪欲〔の思い〕()が、あるいは、憤怒〔の思い〕()が、あるいは、敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)が、存するであろう。そこにおいて、わたしに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、敵対〔の思い〕が、存するなら、それは、わたしにとって、執取()として存するであろう。それが、わたしにとって、執取として存するなら、それは、悩苦として存するであろう。それが、わたしにとって、悩苦として存するなら、それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。かくのごとく、彼は、執取への恐怖あることから、執取への忌避あることから、まさしく、『これは、善なるものである』と説き明かさず、また、『これは、善ならざるものである』と説き明かさず、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。比丘たちよ、これが、第二の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。

 

64. 比丘たちよ、さらに、第三に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知しません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せず、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知しない。また、まさに、もし、わたしが、「これは、善なるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、「これは、善ならざるものである」と、事実のとおりに覚知せずにいながら、あるいは、「これは、善なるものである」と説き明かすなら、あるいは、「これは、善ならざるものである」と説き明かすなら、まさに、沙門や婆羅門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちが、まさに、存在する。彼らは、思うに、具した智慧(慧・般若)によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩む。彼らは、わたしを、そこにおいて、尋問し、審問し、査問するであろう。彼らが、わたしを、そこにおいて、尋問し、審問し、査問するなら、わたしは、彼らに解答できないであろう。わたしが、彼らに解答できないなら、それは、わたしにとって、悩苦として存するであろう。それが、わたしにとって、悩苦として存するなら、それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。かくのごとく、彼は、詰問への恐怖あることから、詰問への忌避あることから、まさしく、『これは、善なるものである』と説き明かさず、また、『これは、善ならざるものである』と説き明かさず、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。比丘たちよ、これが、第三の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。

 

65. 比丘たちよ、さらに、第四に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、愚か者として、迷愚の者として、〔世に〕有ります。彼は、愚かであることから、迷愚であることから、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「他の世は存在するのか」と、かくのごとく、もし、〔あなたが〕わたしに尋ねるとして、「他の世は存在する」と、かくのごとく、もし、わたしに〔思いが〕存するなら、「他の世は存在する」と、かくのごとく、あなたに、それを説き明かすであろうが、「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。『「他の世は存在しないのか」……略……。『「他の世は、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。『「他の世は、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。『「化生の有情たちは存在するのか」……略……。『「化生の有情たちは存在しないのか」……略……。『「化生の有情たちは、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。『「化生の有情たちは、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。『「諸々の善行と悪行の行為()の果たる報いは存在するのか」……略……。『「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは存在しないのか」……略……。『「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。『「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。『「如来は、死後に有るのか」……略……。『「如来は、死後に有ることがないのか」……略……。『「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのか」……略……。『「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのか」と、かくのごとく、もし、〔あなたが〕わたしに尋ねるとして、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、かくのごとく、もし、わたしに〔思いが〕存するなら、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、かくのごとく、あなたに、それを説き明かすであろうが、「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。比丘たちよ、これが、第四の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、詭弁ある者たちとなり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。

 

66. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します──これらの四つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの根拠によって〔惹起します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 偶発生起したものの論(無因生起論)

 

67. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します──二つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知するのですか──二つの根拠によって。

 

68. 比丘たちよ、アサンニャサッタ(表象なき有情)という名の天〔の神々〕たちが存在します。また、そして、表象の生起あることから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、表象の生起を随念し、それより他を随念しません。彼は、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、偶発生起したものである。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、過去において、〔世に〕有ったことがないからである。その〔わたし〕が、今現在、〔世に〕有ることなくして〔そののち〕、有情たることへと(※)変化し、〔世に〕存するからである』と。比丘たちよ、これが、第一の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します。

 

※ テキストには santatāya とあるが、PTS版により sattattāya と読む。

 

69. 比丘たちよ、さらに、第二に、尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたものを、考察に随行するものを、自らの応答として、このように言います。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、偶発生起したものである』と。比丘たちよ、これが、第二の〔立論の〕拠点となります。或る沙門や婆羅門たちは、それに由来して、それを対象として、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちとなり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します。

 

70. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します──これらの二つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの二つの根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

71. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、過去の極についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──これらの十八の根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの十八の根拠によって〔宣説します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。

 

72. 比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は覚知します。『これらの者たちは、〔偏った〕見解を拠点とする者たちであり、このような把持ある者たちであり、このような偏執ある者たちであり、このような〔死後の〕境遇ある者たちであり、このような未来の運命ある者たちである』と。如来は、そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、彼に、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出されたのです。比丘たちよ、如来は、諸々の感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱したのです。

 

73. 比丘たちよ、まさに、これらのものが、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、それらの法(真理)です。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 〔以上が〕第二の朗読分となる。

 

 未来の極についての妄想ある者たち

 

74. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。未来の極(後際:未来の種々相)についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──四十四の根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、未来の極についての妄想ある者たちとなり、未来の極についての偏った見解ある者たちとなり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するのですか──四十四の根拠によって。

 

 表象あるものの論(有想論)

 

75. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知します──十六の根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちとなり、表象あるものの論ある者たちとなり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知するのですか──十六の根拠によって。

 

76. 『形態あるもの()として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるものとして』と、それを報知します。『形態なきもの(無色)として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるものとして』と、それを報知します。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『かつまた、終極あるものとして、かつまた、終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、終極あるものでもなく、終極なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『一なる表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『種々なる表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『微小なる表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『無量なる表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『一方的に安楽あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『一方的に苦痛あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『安楽と苦痛あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるものとして』と、それを報知します。

 

77. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知します──これらの十六の根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの十六の根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 表象なきものの論(無想論)

 

78. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知します──八つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちとなり、表象なきものの論ある者たちとなり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知するのですか──八つの根拠によって。

 

79. 『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象なきものとして』と、それを報知します。『形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象なきものとして』と、それを報知します。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『かつまた、終極あるものとして、かつまた、終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、終極あるものでもなく、終極なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象なきものとして』と、それを報知します。

 

80. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知します──これらの八つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの八つの根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論(非有想非無想論)

 

81. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知します──八つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちとなり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちとなり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知するのですか──八つの根拠によって。

 

82. 『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものとして』と、それを報知します。『形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものとして』と、それを報知します。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『かつまた、終極あるものとして、かつまた、終極なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、終極あるものでもなく、終極なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものとして』と、それを報知します。

 

83. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知します──これらの八つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの八つの根拠によって〔報知します〕……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 断絶の論(断滅論)

 

84. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存(非有)を報知します──七つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、断絶の論ある者たちとなり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知するのですか──七つの根拠によって。

 

85. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『君よ、すなわち、まさに、この自己は、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

86. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──天のものにして形態あるものであり、欲望〔の界域〕を行境とするものであり、物質としての食(段食)を食物とするものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

87. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──天のものにして形態あるものであり、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

88. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴くものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

89. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴くものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

90. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴くものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

91. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、正しく、断絶されたものと成るのではありません。君よ、まさに、他の自己が存在します──全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に近しく赴くものが。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。君よ、まさに、その自己は、すなわち、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、〔世に〕有りません。君よ、このことから、まさに、この自己は、正しく、断絶されたものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します。

 

92. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します──これらの七つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの七つの根拠によって〔報知します〕……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 所見の法(現世)における涅槃の論(現法涅槃論)

 

93. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します──五つの根拠によって。では、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、何に由来して、何を対象として、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちとなり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知するのですか──五つの根拠によって。

 

94. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『君よ、すなわち、まさに、この自己は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。君よ、このことから、まさに、この自己は、最高のものである所見の法(現世)における涅槃に至り得たものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します。

 

95. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、まさに、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃に至り得たものと成るのではありません。それは、何を因とするのですか。君よ、なぜなら、諸々の欲望〔の対象〕は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるからです。それらに、変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起します。君よ、すなわち、まさに、この自己は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。君よ、このことから、まさに、この自己は、最高のものである所見の法(現世)における涅槃に至り得たものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します。

 

96. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、まさに、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃に至り得たものと成るのではありません。それは、何を因とするのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、〔粗雑なる〕思考があり、〔繊細なる〕想念があるなら、このことによって、これは、粗雑なるものと告げ知らされます。君よ、すなわち、まさに、この自己は、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。君よ、このことから、まさに、この自己は、最高のものである所見の法(現世)における涅槃に至り得たものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します。

 

97. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、まさに、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃に至り得たものと成るのではありません。それは、何を因とするのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、喜悦の在り方をした、心の浮揚があるなら、このことによって、これは、粗雑なるものと告げ知らされます。君よ、すなわち、まさに、この自己は、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。君よ、このことから、まさに、この自己は、最高のものである所見の法(現世)における涅槃に至り得たものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します。

 

98. 他の者は、それを、このように言います。『君よ、すなわち、あなたが説く、まさに、この自己は存在します。「これは、存在しない」と、〔わたしは〕説きません。君よ、そして、まさに、この自己は、このことから、まさに、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃に至り得たものと成るのではありません。それは、何を因とするのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、『安楽である』という、心の念慮があるなら、このことによって、これは、粗雑なるものと告げ知らされます。君よ、すなわち、まさに、この自己は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。君よ、このことから、まさに、この自己は、最高のものである所見の法(現世)における涅槃に至り得たものと成ります』と。まさに、かくのごとく、或る者たちは、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します。

 

99. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します──これらの五つの根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの五つの根拠によって〔報知します〕……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

100. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──これらの四十四の根拠によって。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四十四の根拠によって〔宣説します〕……略……。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

101. 比丘たちよ、まさに、それらの沙門や婆羅門たちは、そして、過去の極についての妄想ある者たちであり、そして、未来の極についての妄想ある者たちであり、さらに、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──これらの六十二の根拠によって。

 

102. 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、あるいは、過去の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、未来の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六十二の根拠によって〔報知します〕──あるいは、これらのなかのどれか一つによってであり、これより外に存在しません。

 

103. 比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は覚知します。『これらの者たちは、〔偏った〕見解を拠点とする者たちであり、このような把持ある者たちであり、このような偏執ある者たちであり、このような〔死後の〕境遇ある者たちであり、このような未来の運命ある者たちである』と。如来は、そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、彼に、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出されたのです。比丘たちよ、如来は、諸々の感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱したのです。

 

104. 比丘たちよ、まさに、これらのものが、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、それらの法(真理)です。それらを、如来は、自ら、証知して、実証して、〔人々に〕知らせます。それらによって、〔人々は〕如来の栄誉を、事実のとおりに、正しく説きつつ説くべきです。

 

 思い悩みと震えおののきの章

 

105. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──四つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

106. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します──四つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

107. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します──四つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

108. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します──四つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

109. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します──二つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

110. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、過去の極についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──十八の根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

111. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知します──十六の根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

112. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知します──八つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

113. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知します──八つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

114. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します──七つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

115. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します──五つの根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

116. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──四十四の根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

117. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、そして、過去の極についての妄想ある者たちであり、そして、未来の極についての妄想ある者たちであり、さらに、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──六十二の根拠によって。それもまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちの──〔あるがままに〕知っていない者たちの、〔あるがままに〕見ていない者たちの、感受されたものであり──渇愛〔の思い〕に至った者たちの、まさしく、思い悩みと震えおののきなのです。

 

 「接触という縁あることから」の章

 

118. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──四つの根拠によって。それもまた、接触(:感覚の発生)という縁あることからなのです。

 

119. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します──四つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

120. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します──四つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

121. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します──四つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

122. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します──二つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

123. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、過去の極についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──十八の根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

124. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知します──十六の根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

125. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知します──八つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

126. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知します──八つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

127. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します──七つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

128. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します──五つの根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

129. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──四十四の根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

130. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、そして、過去の極についての妄想ある者たちであり、そして、未来の極についての妄想ある者たちであり、さらに、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──六十二の根拠によって。それもまた、接触という縁あることからなのです。

 

 「この状況は見出されません」の章

 

131. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──四つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

132. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、一部を常久であり一部を常久ならざるものであると報知します──四つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

133. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり、世〔界〕の終極あることと終極なきことを報知します──四つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

134. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、詭弁ある者たちであり、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します──四つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

135. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、偶発生起したものであると報知します──二つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

136. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、過去の極についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──十八の根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

137. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるものと報知します──十六の根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

138. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象なきものと報知します──八つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

139. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり、自己を、滅後にあるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものと報知します──八つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

140. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知します──七つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

141. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり、〔世に〕存している有情に、最高のものとして所見の法(現世)の涅槃を報知します──五つの根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

142. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──四十四の根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

143. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、そして、過去の極についての妄想ある者たちであり、そして、未来の極についての妄想ある者たちであり、さらに、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──六十二の根拠によって。彼らが、まさに、接触より他に〔縁あることから〕得知することになる、という、この状況は見出されません。

 

 悪しき見解ある者を確立する転起の話

 

144. 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちは、常久の論ある者たちであり、かつまた、自己を、かつまた、世〔界〕を、常久であると報知します──四つの根拠によって。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、一部を常久とし一部を常久ならざるものとする者たちであり……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、終極あるものと終極なきもの〔の論〕ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、詭弁ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、偶発生起したもの〔の論〕ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、過去の極についての妄想ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるものの論ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象なきものの論ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、滅後にあるもの〔の論〕ある者たちであり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものの論ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、所見の法(現世)における涅槃の論ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、未来の極についての妄想ある者たちであり……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちは、そして、過去の極についての妄想ある者たちであり、そして、未来の極についての妄想ある者たちであり、さらに、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説します──六十二の根拠によって。彼らの全てが、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)によって接触しては接触して、〔楽と苦を〕得知します。彼らには、感受(:楽苦の知覚)という縁あることから、渇愛()があります。渇愛という縁あることから、執取()があります。執取という縁あることから、生存()があります。生存という縁あることから、生()があります。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。

 

 還転の話等

 

145. 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、この者は、これら〔の六十二の見解〕の、まさしく、全てのものよりも、より上なるものを覚知します。

 

146. 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、あるいは、過去の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、未来の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六十二の根拠によって、網の内に入り、ここにおいて、まさしく、依拠する者たちとなり、浮かび上がりつつ浮かび上がります。ここにおいて、〔彼らは〕進退きわまり、まさしく、網の内に入った者たちとして、浮かび上がりつつ浮かび上がります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、漁師が、あるいは、漁師の内弟子が、細い目の網で、小さな湖水を覆うとします。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、それらのものたちが誰であれ、この湖水にいる粗雑なる命あるものたちは、それらの全てが、網の内に入り、ここにおいて、まさしく、依拠するものたちとなり、浮かび上がりつつ浮かび上がる。ここにおいて、〔それらのものたちは〕進退きわまり、まさしく、網の内に入ったものたちとして、浮かび上がりつつ浮かび上がる』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、あるいは、過去の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、未来の極についての妄想ある者たちであり、あるいは、過去の極と未来の極についての妄想ある者たちであり、過去の極と未来の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極と未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した信念の境処を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六十二の根拠によって網の内に入り、ここにおいて、まさしく、依拠する者たちとなり、浮かび上がりつつ浮かび上がります。ここにおいて、〔彼らは〕進退きわまり、まさしく、網の内に入った者たちとして、浮かび上がりつつ浮かび上がります。

 

147. 比丘たちよ、如来の身体は、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)が完破されたものとして〔世に〕止住します。すなわち、彼の身体が〔世に〕止住するあいだ、それまでは、天〔の神々〕と人間たちは、それを見ます。身体の破壊ののち、以後は、生命の完全なる消尽あることから、天〔の神々〕と人間たちは、それを見ません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、アンバ〔果〕(マンゴー)の房が、〔その〕茎が切断されたものとしてあるなら、それらが何であれ、茎と連結している諸々のアンバ〔果〕は、それらの全てが、その〔茎〕に付属するものとして有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、如来の身体は、〔迷いの〕生存に導くものが完破されたものとして〔世に〕止住します。すなわち、彼の身体が〔世に〕止住するあいだ、それまでは、天〔の神々〕と人間たちは、それを見ます。身体の破壊ののち、以後は、生命の完全なる消尽あることから、天〔の神々〕と人間たちは、それを見ません」と。

 

148. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、『義(意味)の網』ともまた、それを保持しなさい。『法(教え)の網』ともまた、それを保持しなさい。『梵の網』ともまた、それを保持しなさい。『見解の網』ともまた、それを保持しなさい。『無上なる戦場の征圧』ともまた、それを保持しなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。

 

149. わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。また、そして、この説き明かしが話されているとき、十千の世の界域が揺れ動いた、ということです。

 

 梵の網の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2. 沙門たることの果の経

 

 王臣たちの話

 

150. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ジーヴァカ・コーマーラバッチャのアンバ林(マンゴーの果樹園)において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に。また、まさに、その時点にあって、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔雨期の〕四つの月が満ちたカッティカ月の満月の夜、王臣たちに取り囲まれ、優美なる高楼の上に至り、坐った状態でいます。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、斎戒のその日、感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、喜ばしき月明かりの夜である。ああ、まさに、形姿麗しき月明かりの夜である。ああ、まさに、美しき月明かりの夜である。ああ、まさに、澄浄なる月明かりの夜である。ああ、まさに、瑞祥なる月明かりの夜である。いったい、まさに、今日、どのような、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔わたしたちは〕奉侍するべきなのだろう。彼に奉持しているわたしたちの心が澄浄になるべく」と。

 

151. このように説かれたとき、或るひとりの王臣が、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、プーラナ・カッサパに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、プーラナ・カッサパに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

152. 或るひとりの王臣もまた、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、マッカリ・ゴーサーラ(六師外道の一者・運命決定論者)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、マッカリ・ゴーサーラに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、マッカリ・ゴーサーラに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

153. 或るひとりの王臣もまた、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、アジタ・ケーサカンバラ(六師外道の一者・唯物論者)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、アジタ・ケーサカンバラに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、アジタ・ケーサカンバラに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

154. 或るひとりの王臣もまた、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、パクダ・カッチャーヤナ(六師外道の一者・要素構成論者)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、パクダ・カッチャーヤナに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、パクダ・カッチャーヤナに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

155. 或るひとりの王臣もまた、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、サンジャヤ(※)・ベーラッタプッタ(六師外道の一者・不可知論者)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、サンジャヤ・ベーラッタプッタに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、サンジャヤ・ベーラッタプッタに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

※ テキストには sañcayo とあるが、PTS版により sañjayo と読む。以下のsañcayaについても、同様にsañjaya と読む。

 

156. 或るひとりの王臣もまた、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、こう言いました。「陛下よ、この者は、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されています。経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。彼に、ニガンタ・ナータプッタに、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、ニガンタ・ナータプッタに奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、沈黙の者と成りました。

 

 コーマーラバッチャ・ジーヴァカの話

 

157. また、まさに、その時点にあって、ジーヴァカ・コーマーラバッチャが、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王から遠く離れていないところで、沈黙の状態で、坐った状態でいます。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ジーヴァカ・コーマーラバッチャに、こう言いました。「友よ、ジーヴァカよ、また、あなたは、どうして、沈黙しているのだ」と。「陛下よ、この方が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、わたしどものアンバ林に住んでおられます。大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に。また、まさに、彼に、世尊に、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者(善逝:ブッダの尊称)であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼に、世尊に、陛下は奉侍されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、世尊に奉持している陛下の心は澄浄になるでしょう」と。

 

158. 「友よ、ジーヴァカよ、まさに、それでは、諸々の象の乗物を設えさせるのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に答えて、五百ばかりの雌象を──さらに、王が乗るべき雄象を──設えさせて、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に知らせました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の象の乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

159. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、五百ばかりの雌象のうえに、各自に婦人たちを乗せて、〔自身が〕乗るべき雄象に乗って、諸々の松明が保持されるなか、ラージャガハから出発しました──大いなる王の威力をもって、ジーヴァカ・コーマーラバッチャのアンバ林のあるところに、そこへと進み行きました。

 

 そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に、アンバ林から遠く離れていないところで、まさしく、恐怖が有り、驚愕が有り、身の毛のよだちが有りました。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、ジーヴァカ・コーマーラバッチャに、こう言いました。「友よ、ジーヴァカよ、どうであろう、〔あなたは〕わたしを騙しているのではないか。友よ、ジーヴァカよ、どうであろう、〔あなたは〕わたしを惑わしているのではないか。友よ、ジーヴァカよ、どうであろう、〔あなたは〕わたしを義(利益)に反する者(敵対者)たちに与えるのではないか。なぜなら、どうして、まさに、それほどに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちが、まさしく、くしゃみの音もなく、咳払いの音もなく、話し声もなく、〔そこに〕有るというのだ」と。

 

 「大王よ、恐れてはいけません。大王よ、恐れてはいけません。陛下よ、〔わたしは〕あなたを騙していません。陛下よ、〔わたしは〕あなたを惑わしていません。陛下よ、〔わたしは〕あなたを義(利益)に反する者たちに与えません。大王よ、前進されたまえ。大王よ、前進されたまえ。これらの灯明が、円形堂のなかで燃やされています」と。

 

 沙門たることの果についての問い

 

160. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、およそ、象の〔行ける〕地があるかぎり、象によって赴いて、象から降りて、まさしく、徒歩の者となり、円形堂の門のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ジーヴァカ・コーマーラバッチャに、こう言いました。「友よ、ジーヴァカよ、また、どこに、世尊はおられるのだ」と。「大王よ、この方が、世尊です。大王よ、この方が、世尊です。中央の柱に依拠して、東に向かって坐っておられます。比丘の僧団を前にして」と。

 

161. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、澄浄なる湖のように、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、感興〔の言葉〕を唱えました。「わたしのウダヤバッダ王子は、この寂止を具備した者と成れ。すなわち、今現在、〔この〕寂止を具備した者として比丘の僧団がある、〔そのとおりに〕」と。「大王よ、まさに、あなた〔の心〕は赴きました──愛情あるままに(愛しい者のことを想起した)」と。「尊き方よ、愛しきは、わたしのウダヤバッダ王子です。尊き方よ、わたしのウダヤバッダ王子は、この寂止を具備した者と成れ。すなわち、今現在、〔この〕寂止を具備した者として比丘の僧団がある、〔そのとおりに〕」と。

 

162. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊を敬拝して、比丘の僧団に合掌を手向けて、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、世尊に、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、世尊が、わたしの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「大王よ、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。

 

163. 「尊き方よ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに、それは、すなわち、この、象兵たち、馬兵たち、車兵たち、弓の使い手たち、旗手たち、司令官たち、食糧補給者たち、高貴の王子たち、突撃兵たち、巨象たち、勇士たち、皮革の戦士たち、奴隷兵たち、調理師たち、理髪師たち、沐浴師たち、料理人たち、花飾師たち、染色師たち、織物師たち、葦職人たち、陶工たち、計算者たち、指算者たちですが──また、あるいは、他にもまた、すなわち、このような在り方をした、多々なる技能の場所があるとおりに──それらの者たちは、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとしてある技能の果に依拠して生きます。彼らは、それによって、自己を安楽させ喜悦させ、母と父を安楽させ喜悦させ、子と妻を安楽させ喜悦させ、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか」と。

 

164. 「大王よ、まさに、あなたは証知しますか(記憶していますか)──この問いを他の沙門や婆羅門たちに尋ねたことを」と。「尊き方よ、わたしは証知します──この問いを他の沙門や婆羅門たちに尋ねたことを」と。「大王よ、また、すなわち、どのように、彼らは説き明かしましたか──それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、語りたまえ」と。「尊き方よ、まさに、わたしにとって、負担ではありません。そこにおいて存し、坐っているのが、世尊であり、あるいは、世尊の形態ある〔そのような者〕であるなら」と。「大王よ、まさに、それでは、語りたまえ」と。

 

 プーラナ・カッサパの論

 

165. 「尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、プーラナ・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、プーラナ・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、プーラナ・カッサパに、こう言いました。『貴君カッサパよ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに、それは、すなわち、この、象兵たち、馬兵たち、車兵たち、弓の使い手たち、旗手たち、司令官たち、食糧補給者たち、高貴の王子たち、突撃兵たち、巨象たち、勇士たち、皮革の戦士たち、奴隷兵たち、調理師たち、理髪師たち、沐浴師たち、料理人たち、花飾師たち、染色師たち、織物師たち、葦職人たち、陶工たち、計算者たち、指算者たちですが──また、あるいは、他にもまた、すなわち、このような在り方をした、多々なる技能の場所があるとおりに──それらの者たちは、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとしてある技能の果に依拠して生きます。彼らは、それによって、自己を安楽させ喜悦させ、母と父を安楽させ喜悦させ、子と妻を安楽させ喜悦させ、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。貴君カッサパよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

166. 尊き方よ、このように説かれたとき、プーラナ・カッサパは、わたしに、こう言いました。『大王よ、まさに、為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない』と。尊き方よ、まさに、かくのごとく、プーラナ・カッサパは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、無作〔の論〕(道徳否定論)を説き明かしました。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、プーラナ・カッサパは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、無作〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、プーラナ・カッサパの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 マッカリ・ゴーサーラの論

 

167. 尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、マッカリ・ゴーサーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マッカリ・ゴーサーラを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、マッカリ・ゴーサーラに、こう言いました。『貴君ゴーサーラよ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに……略……。貴君ゴーサーラよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

168. 尊き方よ、このように説かれたとき、マッカリ・ゴーサーラは、わたしに、こう言いました。『大王よ、有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。諸々の自己の為作は存在せず、諸々の他者の為作は存在せず、諸々の人の為作は存在せず、活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為()に五百のものがあり、そして、五つの行為(眼・耳・鼻・舌・身)があり、さらに、三つの行為(身業・口業・意業)があり、そして、諸々の行為(身業と口業)があり、さらに、諸々の半分の行為(意業)があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパ(中劫)があり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能()があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域()があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七百の突起があり、七つの深淵があり、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万の大いなるカッパ(大劫)があり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう」という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう』と。

 

169. 尊き方よ、まさに、かくのごとく、マッカリ・ゴーサーラは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、輪廻による清浄〔の論〕(運命決定論)を説き明かしました。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、マッカリ・ゴーサーラは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、輪廻による清浄〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、マッカリ・ゴーサーラの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 アジタ・ケーサカンバラの論

 

170. 尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、アジタ・ケーサカンバラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アジタ・ケーサカンバラを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、アジタ・ケーサカンバラに、こう言いました。『貴君アジタよ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに……略……。貴君アジタよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

171. 尊き方よ、このように説かれたとき、アジタ・ケーサカンバラは、わたしに、こう言いました。『大王よ、布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される(唱えられる)。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら(生命の死後存続を認めるなら)、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。

 

172. 尊き方よ、まさに、かくのごとく、アジタ・ケーサカンバラは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、断絶〔の論〕(唯物論)を説き明かしました。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、アジタ・ケーサカンバラは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、断絶〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、アジタ・ケーサカンバラの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 パクダ・カッチャーヤナの論

 

173. 尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、パクダ・カッチャーヤナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、パクダ・カッチャーヤナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、パクダ・カッチャーヤナに、こう言いました。『貴君パクダよ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに……略……。貴君パクダよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

174. 尊き方よ、このように説かれたとき、パクダ・カッチャーヤナは、わたしに、こう言いました。『大王よ、七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず(他に影響を及ぼさない)。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。そこにおいては、あるいは、殺す者も、あるいは、殺させる者も、あるいは、聞く者も、あるいは、聞かせる者も、あるいは、識知する者も、あるいは、識知させる者も、存在しない。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、何の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕』と。

 

175. 尊き方よ、まさに、かくのごとく、パクダ・カッチャーヤナは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、互いに他とする〔論〕(要素構成論)を説き明かしました。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、パクダ・カッチャーヤナは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、互いに他とする〔論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、パクダ・カッチャーヤナの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 ニガンタ・ナータプッタの論

 

176. 尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。『貴君アッギヴェッサナ(ニガンタ・ナータプッタ)よ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに……略……。貴君アッギヴェッサナよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

177. 尊き方よ、このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、わたしに、こう言いました。『大王よ、ここに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)は、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有る。大王よ、では、どのように、ニガンタは、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有るのか。大王よ、ここに、ニガンタは、かつまた、全ての水によって防護された者として、かつまた、全ての水によって結合された者として、かつまた、全ての水によって払拭された者として、かつまた、全ての水によって充満された者として、〔世に〕有る。大王よ、このように、まさに、ニガンタは、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有る。大王よ、すなわち、まさに、このように、ニガンタは、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ることから、大王よ、この者は、「ニガンタとして、かつまた、自己に至った者であり、かつまた、自己を制した者であり、かつまた、自己を確立した者である」〔と〕説かれる』と。

 

178. 尊き方よ、まさに、かくのごとく、ニガンタ・ナータプッタは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、四つの制戒ある統御〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、四つの制戒ある統御〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、ニガンタ・ナータプッタの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 サンジャヤ・ベーラッタプッタの論

 

179. 尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、サンジャヤ・ベーラッタプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サンジャヤ・ベーラッタプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、サンジャヤ・ベーラッタプッタに、こう言いました。『貴君サンジャヤよ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに……略……。貴君サンジャヤよ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか』と。

 

180. 尊き方よ、このように説かれたとき、サンジャヤ・ベーラッタプッタは、わたしに、こう言いました。『「他の世は存在するのか」と、かくのごとく、もし、〔あなたが〕わたしに尋ねるとして、「他の世は存在する」と、かくのごとく、もし、わたしに〔思いが〕存するなら、「他の世は存在する」と、かくのごとく、あなたに、それを説き明かすであろうが、「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない。「他の世は存在しないのか」……略……。「他の世は、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。「他の世は、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。「化生の有情たちは存在するのか」……略……。「化生の有情たちは存在しないのか」……略……。「化生の有情たちは、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。「化生の有情たちは、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは存在するのか」……略……。「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは存在しないのか」……略……。「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは、かつまた、存在し、かつまた、存在しないのか」……略……。「諸々の善行と悪行の行為の果たる報いは、まさしく、存在することもなく、存在しないこともないのか」……略……。「如来は、死後に有るのか」……略……。「如来は、死後に有ることがないのか」……略……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのか」……略……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのか」と、かくのごとく、もし、〔あなたが〕わたしに尋ねるとして、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、かくのごとく、もし、わたしに〔思いが〕存するなら、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、かくのごとく、あなたに、それを説き明かすであろうが、「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。

 

181. 尊き方よ、まさに、かくのごとく、サンジャヤ・ベーラッタプッタは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、散乱〔の論〕(不可知論)を説き明かしました。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、アンバのことを尋ねられた者が、ラブジャのことを説き明かすように、あるいは、ラブジャのことを尋ねられた者が、アンバのことを説き明かすように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、サンジャヤ・ベーラッタプッタは、まさに、わたしによって、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、散乱〔の論〕を説き明かしました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『さてまた、この者は、これらの沙門や婆羅門たちのなかでは、一番の愚者であり、一番の迷乱者である。まさに、どうして、まさに、現に見られるものとして、沙門たることの果を尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、散乱〔の論〕を説き明かすというのだろう』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思いが〕有りました。『まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、指弾するべきと思えよう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、サンジャヤ・ベーラッタプッタの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、わが意を得ず、わが意を得ない言葉を放たずして、まさしく、その言葉を収め取りながらも、なびくことなく、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 第一の現に見られるものとしてある沙門たることの果

 

182. 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、世尊にもまた尋ねます。「尊き方よ、いったい、まさに、すなわち、これらの多々なる技能の場所があるとおりに、それは、すなわち、この、象兵たち、馬兵たち、車兵たち、弓の使い手たち、旗手たち、司令官たち、食糧補給者たち、高貴の王子たち、突撃兵たち、巨象たち、勇士たち、皮革の戦士たち、奴隷兵たち、調理師たち、理髪師たち、沐浴師たち、料理人たち、花飾師たち、染色師たち、織物師たち、葦職人たち、陶工たち、計算者たち、指算者たちですが──また、あるいは、他にもまた、すなわち、このような在り方をした、多々なる技能の場所があるとおりに──それらの者たちは、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとしてある技能の果に依拠して生きます。彼らは、それによって、自己を安楽させ喜悦させ、母と父を安楽させ喜悦させ、子と妻を安楽させ喜悦させ、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか」と。

 

183. 「大王よ、できます。大王よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、人が、あなたの奴隷として存するとします──労夫として、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者であり、愛語ある者であり、顔色をうかがう者です。彼に、このような〔思いが〕存するとします。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。諸々の功徳の赴く所()は。諸々の功徳の報い(異熟)は。まさに、この、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、人間であり、わたしもまた、人間である。まさに、この、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむ──思うに、陛下として。いっぽう、わたしは、彼の奴隷として存している──労夫として、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者であり、愛語ある者であり、顔色をうかがう者である。それなら、わたしは、まさに、彼にある〔そのような〕諸々の功徳を作り為すのだ。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、身体()によって統御された者として〔世に〕住み、言葉()によって統御された者として〔世に〕住み、意()によって統御された者として〔世に〕住みます──最小限の食糧と衣服で満ち足りている者として、遠離を喜び楽しむ者として。もし、彼のことを、あなたの家来たちが、このように告げるなら、『陛下よ、どうか、お知りください。すなわち、あなたの奴隷であり、労夫として、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者であり、愛語ある者であり、顔色をうかがう者である、その男が、陛下よ、彼が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、身体によって統御された者として〔世に〕住み、言葉によって統御された者として〔世に〕住み、意によって統御された者として〔世に〕住みます──最小限の食糧と衣服で満ち足りている者として、遠離を喜び楽しむ者として』と、さて、いったい、あなたは、このように説くでしょうか。『さあ、行くのだ。その男は、まさしく、ふたたび、わたしの奴隷と成るのだ──労夫として、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者と〔成り〕、愛語ある者と〔成り〕、顔色をうかがう者と〔成るのだ〕』」と。

 

184. 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、彼を、まさしく、わたしたちは、敬拝もまたするでしょうし、立礼もまたするでしょうし、坐によって招きもまたするでしょうし、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって、彼を招待もまたするでしょうし、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配もまたするでしょう」と。

 

185. 「大王よ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、現に見られるものとして、沙門たることの果は、あるいは、有りますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか」と。「尊き方よ、たしかに、このように存しているとき、現に見られるものとして、沙門たることの果は有ります」と。「大王よ、これは、まさに、あなたに、わたしによって報知された、第一の、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとしてある沙門たることの果です」と。

 

 第二の現に見られるものとしてある沙門たることの果

 

186. 「尊き方よ、また、他にもまた、まさしく、このように、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか」と。「大王よ、できます。大王よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、人が、あなたの耕作者として存するとします──家長として、〔納税の〕義務を果たす者であり、富を増大させる者です。彼に、このような〔思いが〕存するとします。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。諸々の功徳の赴く所は。諸々の功徳の報いは。まさに、この、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、人間であり、わたしもまた、人間である。まさに、この、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむ──思うに、陛下として。いっぽう、わたしは、彼の耕作者として存している──家長として、〔納税の〕義務を果たす者であり、富を増大させる者である。それなら、わたしは、まさに、彼にある〔そのような〕諸々の功徳を作り為すのだ。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。

 

 彼は、他時にあって、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、身体によって統御された者として〔世に〕住み、言葉によって統御された者として〔世に〕住み、意によって統御された者として〔世に〕住みます──最小限の食糧と衣服で満ち足りている者として、遠離を喜び楽しむ者として。もし、彼のことを、あなたの家来たちが、このように告げるなら、『陛下よ、どうか、お知りください。すなわち、あなたの耕作者であり、家長として、〔納税の〕義務を果たす者であり、富を増大させる者である、その男が、陛下よ、彼が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、身体によって統御された者として〔世に〕住み、言葉によって統御された者として〔世に〕住み、意によって統御された者として〔世に〕住みます──最小限の食糧と衣服で満ち足りている者として、遠離を喜び楽しむ者として』と、さて、いったい、あなたは、このように説くでしょうか。『さあ、行くのだ。その男は、まさしく、ふたたび、わたしの耕作者と成るのだ、家長として、〔納税の〕義務を果たす者と〔成り〕、富を増大させる者と〔成るのだ〕』」と。

 

187. 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、彼を、まさしく、わたしたちは、敬拝もまたするでしょうし、立礼もまたするでしょうし、坐によって招きもまたするでしょうし、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待もまたするでしょうし、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配もまたするでしょう」と。

 

188. 「大王よ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、現に見られるものとして、沙門たることの果は、あるいは、有りますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか」と。「尊き方よ、たしかに、このように存しているとき、現に見られるものとして、沙門たることの果は有ります」と。「大王よ、これは、まさに、あなたに、わたしによって報知された、第二の、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとしてある沙門たることの果です」と。

 

 より精妙なるものとしてある沙門たることの果

 

189. 「尊き方よ、また、他にもまた、まさしく、所見の法(現世)において、現に見られるものとして、沙門たることの果を報知することができますか」と。「大王よ、できます。大王よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊に答えました。

 

190. 世尊は、こう言いました。「大王よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。

 

191. その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。

 

192. 彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

193. 彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます──善なる身体の行為と言葉の行為を具備した者として、完全なる清浄の生き方ある者として、戒を成就した者として、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られている者として、気づき()と正知を具備した者として、〔常に〕満ち足りている者として。

 

 小なる戒

 

194. 大王よ、では、どのように、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。大王よ、ここに、比丘が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 梵行(禁欲清浄行)ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理(真実)を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 小なる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 中なる戒

 

195. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の種子類や草木類の損壊に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、根の種であり、幹の種であり、節の種であり、枝の種であり、第五のものとして、まさしく、種の種です。かくのごとき、このような形態の種子類や草木類の損壊から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

196. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の蓄積物の遍き受益に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、食べ物の蓄積であり、飲み物の蓄積であり、衣装の蓄積であり、乗物の蓄積であり、臥具の蓄積であり、香料の蓄積であり、財貨の蓄積であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の蓄積物の遍き受益から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

197. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

198. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の賭事による放逸の境位への専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、八目〔将棋〕、十目〔将棋〕、虚空〔将棋〕、けんけん遊び、山くずし遊び、さいころ遊び、ちゃんばら遊び、手形遊び、博打、葉笛、おもちゃの鋤、逆立ち、風車遊び、葉の枡遊び、車遊び、弓遊び、文字判じ、意思判じ、不具者の物真似であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の賭事による放逸の境位への専念から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

199. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の高い臥具や大きな臥具〔の使用〕に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、高床、寝台、毛布、羊毛の上掛け、羊の白毛布、羊の毛布、綿入りのもの、毛織りのもの、両側に縁飾りがある毛の敷物、片側に縁飾りがある毛の敷物、絹織りのもの、絹布、毛氈、象の敷物、馬の敷物、車の敷物、鹿皮の絨毯、カダリー鹿の最も優れた敷物、天蓋を有するもの、両端に赤い枕があるものであり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

200. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の装飾することや装着することの境位への専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、塗身、按摩、沐浴、洗髪、鏡、塗薬、花飾の塗料、口の塗粉、口紅、腕飾、頭飾、杖、筒、剣、傘、彩色ある履物、髻、宝珠、毛扇、諸々の白衣、諸々の長袖であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の装飾することや装着することの境位への専念から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

201. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生の議論(無用論・無駄話)に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生の議論から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

202. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の口論の議論に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った』『あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として』『歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の口論の議論から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

203. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の使者や使節に赴くことへの専念に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、王のために、王の大臣たちのために、士族たちのために、婆羅門たちのために、家長たちのために、王子たちのために、『ここに赴け』『そこに赴け』『これを持ってこい』『これをそこに運べ』と、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の使者や使節に赴くことへの専念から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

204. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、そして、虚言者たちと成り、かつまた、饒舌者たちと〔成り〕、かつまた、予言者たちと〔成り〕、かつまた、詐術者たちと〔成り〕、さらに、利得による利得の追求者たちと〔成ります〕。かくのごとき、このような形態の虚言や饒舌から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

 中なる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 大いなる戒

 

205. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知(無益な呪術)である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、肢体〔の占い〕、形相〔の占い〕、天変〔の占い〕、夢〔の占い〕、特相〔の占い〕、鼠のかじりあと〔の占い〕、火の献供、柄杓の献供、籾殻の献供、籾糠の献供、米の献供、酥の献供、油の献供、口の献供、血の献供、肢体の呪術、地所の呪術、士族の呪術、野狐(ジャッカル)の呪術、精霊の呪術、土地の呪術、蛇の呪術、毒の呪術、蠍の呪術、鼠の呪術、鳥の呪術、烏の呪術、命数の予言、矢の護呪、獣の声〔の占い〕であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

206. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、宝珠の特相、衣装の特相、棒の特相、刃の特相、剣の特相、矢の特相、弓の特相、武器の特相、女の特相、男の特相、少年の特相、少女の特相、奴隷の特相、奴婢の特相、象の特相、馬の特相、水牛の特相、雄牛の特相、雌牛の特相、山羊の特相、羊の特相、鶏の特相、鶉の特相、大蜥蜴の特相、耳環の特相、亀の特相、鹿の特相であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

207. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、『王たちの出発が有るであろう。王たちの不出発が有るであろう』『味方の王たちの接近が有るであろう。敵方の王たちの離去が有るであろう』『敵方の王たちの接近が有るであろう。味方の王たちの離去が有るであろう』『味方の王たちの勝利が有るであろう。敵方の王たちの敗北が有るであろう』『敵方の王たちの勝利が有るであろう。味方の王たちの敗北が有るであろう』『かくのごとく、この者の勝利が有るであろう。この者の敗北が有るであろう』〔と〕、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

208. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、『月蝕が有るであろう』『日蝕が有るであろう』『星蝕が有るであろう』『月と日の順路の道行きが有るであろう』『月と日の悪路の道行きが有るであろう』『星々の順路の道行きが有るであろう』『星々の悪路の道行きが有るであろう』『流星が有るであろう』『天火が有るであろう』『地震が有るであろう』『天雷が有るであろう』『月と日と星々の上昇と下降と汚染と浄化が有るであろう』『このような報いある月蝕が有るであろう』『このような報いある日蝕が有るであろう』『このような報いある星蝕が有るであろう』『このような報いある月と日の順路の道行きが有るであろう』『このような報いある月と日の悪路の道行きが有るであろう』『このような報いある星々の順路の道行きが有るであろう』『このような報いある星々の悪路の道行きが有るであろう』『このような報いある流星が有るであろう』『このような報いある天火が有るであろう』『このような報いある地震が有るであろう』『このような報いある天雷が有るであろう』『このような報いある月と日と星々の上昇と下降と汚染と浄化が有るであろう』〔と〕、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

209. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、『大雨が有るであろう』『旱魃が有るであろう』『豊作が有るであろう』『飢饉が有るであろう』『平安が有るであろう』『恐怖が有るであろう』『病が有るであろう』『無病が有るであろう』〔という〕、指算術であり、計算術であり、目算術であり、詩作術であり、処世術であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

210. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、嫁とり、嫁やり、和睦、決裂、借金取立、借金貸出、幸運を作り為すこと、不幸を作り為すこと、堕胎の施術、舌の結縛、顎の麻痺、手の詠唱、顎の詠唱、耳の詠唱、鏡への問い、少女への問い、天への問い、太陽への奉仕、大いなるものへの奉仕、火を吐くこと、吉祥を招くことであり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

211. また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、寂静〔祈願〕の儀礼、誓願〔成就〕の儀礼、精霊の儀礼、土地の儀礼、精力増強の儀礼、精力減退の儀礼、地所の儀礼、地所の事前儀礼、洗浄、沐浴、供犠、吐剤、下剤、上の下剤、下の下剤、頭の下剤、耳の油、眼の手入れ、鼻の治療、塗薬、塗油、眼科術、外科術、小児医療、諸々の根薬の供与、諸々の薬草の除染であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒のうちに有ります。

 

212. 大王よ、それで、まさに、その比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。大王よ、それは、たとえば、また、即位灌頂した王たる士族が、対立者を打破したなら、すなわち、この、義(利益)に反する者〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しないように、大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。彼は、この聖なる戒の範疇(戒蘊)を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。大王よ、このように、まさに、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 大いなる戒は〔以上で〕終了となる。

 

 〔感官の〕機能における統御

 

213. 大王よ、では、どのように、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのですか。大王よ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……略……。鼻によって、臭気()を嗅いで……略……。舌によって、味感()を味わって……略……。身によって、感触(所触)と接触して……略……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。大王よ、このように、まさに、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ります。

 

 気づきと正知

 

214. 大王よ、では、どのように、比丘は、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有るのですか。大王よ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。大王よ、このように、まさに、比丘は、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 満ち足りていること

 

215. 大王よ、では、どのように、比丘は、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有るのですか。大王よ、ここに、比丘が、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。大王よ、それは、たとえば、また、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。大王よ、このように、まさに、比丘は、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。

 

 〔修行の〕妨害の捨棄

 

216. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、かつまた、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、さらに、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。

 

217. 彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

218. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、負債を負って、諸々の生業に従事し、彼の、それらの生業が等しく成功するとします。彼は、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為すでしょうし、さらに、彼には、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在するでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、負債を負って、諸々の生業に従事したが、〔まさに〕その、わたしの、それらの生業は等しく成功した。〔まさに〕その、わたしは、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為したのであり、さらに、わたしには、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

219. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします。そして、食事は、彼を喜ばせず、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在しません。彼は、他時にあって、その病苦から解き放たれます。そして、食事は、彼を喜ばせ、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在します。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有った。そして、食事は、わたしを喜ばせず、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在しなかった。その〔わたし〕は、今現在、その病苦から解き放たれ、〔世に〕存している。そして、食事は、わたしを喜ばせ、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

220. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、獄舎に結縛され、〔世に〕存するとします。彼は、他時にあって、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、獄舎に結縛され、〔世に〕有った。その〔わたし〕は、今現在、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれ、〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

221. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、奴隷として〔世に〕存するとします──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。彼は、他時にあって、その奴隷の身分から解き放たれます──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、奴隷として〔世に〕有った──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。その〔わたし〕は、今現在、その奴隷の身分から解き放たれ、〔世に〕存している──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

222. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、財産を有し財物を有する者が、飢饉にして恐怖を有する荒野の旅の道を行くとします。彼は、他時にあって、その荒野を、〔無事〕安穏に超え出、平安にして恐怖なき村の外れに至り得ます。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、財産を有し財物を有する者としてあり、飢饉にして恐怖を有する荒野の旅の道を行った。その〔わたし〕は、今現在、その荒野を、〔無事〕安穏に超え出た者として〔世に〕存している──平安にして恐怖なき村の外れに至り得た者として』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

223. 大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あたかも、負債のように、あたかも、病のように、あたかも、獄舎のように、あたかも、奴隷の身分のように、あたかも、荒野の旅の道のように、このように、これらの五つの〔修行の〕妨害(五蓋)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観します。

 

224. 大王よ、それは、たとえば、また、あたかも、無負債のように、あたかも、無病のように、あたかも、結縛からの解放のように、あたかも、自由のように、あたかも、平安の極地のように、大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観します。

 

225. 彼が、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観していると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

 

 第一の瞑想

 

226. 彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

227. 大王よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 第二の瞑想

 

228. 大王よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

229. 大王よ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 第三の瞑想

 

230. 大王よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。

 

231. 大王よ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 第四の瞑想

 

232. 大王よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。

 

233. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 〔あるがままの〕観察の知恵

 

234. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。

 

235. 大王よ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、透明で、澄浄で、混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して綿密に注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、透明で、澄浄で、混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている』と。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 意によって作られる神通の知恵

 

236. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、意によって作られる身体を化作するために、心を導引し、向かわせます。彼は、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。

 

237. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』と。大王よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された』と。大王よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた』と。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、意によって作られる身体を化作するために、心を導引し、向かわせます。彼は、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 〔種々なる〕神通の種類の知恵

 

238. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます(神足通)。

 

239. 大王よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、陶工が、あるいは、陶工の内弟子が、善く事前作業が為された粘土において、まさしく、それぞれの容器類を望むなら、まさしく、それぞれ〔の容器類〕を作り、完遂させるように、大王よ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、象牙の細工師が、あるいは、象牙の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された象牙において、まさしく、それぞれの象牙品を望むなら、まさしく、それぞれ〔の象牙品〕を作り、完遂させるように、大王よ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された金において、まさしく、それぞれの金具を望むなら、まさしく、それぞれ〔の金具〕を作り、完遂させるように、大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 天耳の知恵

 

240. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、天耳の界域〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも(天耳通)。

 

241. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、太鼓の音声をもまた〔聞き〕、小鼓の音声をもまた〔聞き〕、法螺貝や銅鼓や鐘鼓の音声をもまた聞くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『太鼓の音声である』ともまた、『小鼓の音声である』ともまた、『法螺貝や銅鼓や鐘鼓の音声である』ともまた。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、天耳の界域〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 〔他者の〕心を探知する知恵

 

242. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲()を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒()を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄()を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します(他心通)。

 

243. 大王よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を綿密に注視しながら、あるいは、染みを有するものを、『染みを有するものである』と知り、あるいは、染みなきものを、『染みなきものである』と知るように、大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 過去における居住の随念の知恵

 

244. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します(宿命通)。

 

245. 大王よ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパをもまた、無数の還転されたカッパをもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 天眼の知恵

 

246. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します(天眼通)。

 

247. 大王よ、それは、たとえば、また、十字路の中央に高楼があるとします。そこにおいて、眼ある人が立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、車道から街路へと行き来もまたするのを、十字路の中央に坐ってもまたいるのを、見るようなものです。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『人間たちが──これらの者たちが、家に入る、これらの者たちが、〔家から〕出る、これらの者たちが、車道から街路へと行き来する、これらの者たちが、十字路の中央に坐っている』と。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。

 

 諸々の煩悩の滅尽の知恵

 

248. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩()である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。この場より他に〔赴く所は〕ない』と覚知します(漏尽通)。

 

249. 大王よ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、透明で、澄浄で、混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、透明で、澄浄で、混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。大王よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。大王よ、これもまた、まさに、現に見られるものとしてある沙門たることの果であり、以前の諸々の現に見られるものとしてある沙門たることの果よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。大王よ、また、そして、この、現に見られるものとしてある沙門たることの果より、他の、現に見られるものとしてある沙門たることの果で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません」と。

 

 アジャータサットゥの在俗信者たることの宣言

 

250. このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、尊き方よ、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、権力を動機として、法(正義)にかなう法(正義)の王たる父の生命を奪いました。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

251. 「大王よ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、権力を動機として、法(正義)にかなう法(正義)の王たる父の生命を奪いました。大王よ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。大王よ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。

 

252. このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

253. そこで、まさに、世尊は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、支障ある者として、この王はあります。比丘たちよ、損壊ある者として、この王はあります。比丘たちよ、それで、もし、この王が、法(正義)にかなう法(正義)の王たる父の生命を奪わなかったなら、まさしく、この坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起したでしょう」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 沙門たることの果の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3. アンバッタの経

 

254. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。

 

 ポッカラサーティの事

 

255. また、まさに、その時点にあって、婆羅門のポッカラサーティが、ウッカッターに居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。まさに、婆羅門のポッカラサーティは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラ〔村〕に到着し、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいる。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』〔と〕。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 アンバッタ学徒

 

256. また、まさに、その時点にあって、婆羅門のポッカラサーティには、アンバッタという名の学徒が、内弟子として有りました。読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。自らの師匠伝来のものである三つのヴェーダの〔聖なる〕言葉について、「それを、わたしが知るなら、それを、あなたは知る」「それを、あなたが知るなら、それを、わたしは知る」と承認され明言される者です。

 

257. そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、アンバッタ学徒に告げました。「親愛なる者よ、アンバッタよ、この者が、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラ〔村〕に到着し、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいる。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは』と。親愛なる者よ、アンバッタよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマのことを知りなさい。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』〔と〕。わたしたちは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに見出すのだ」と。

 

258. 「君よ、また、どのように、わたしは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに知るのですか。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』」と。

 

 「親愛なる者よ、アンバッタよ、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇()だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕。親愛なる者よ、アンバッタよ、また、まさに、わたしは、諸々の呪文の与え手であり、おまえは、諸々の呪文の受け手である」と。

 

259. 「君よ、わかりました」と、まさに、アンバッタ学徒は、婆羅門のポッカラサーティに答えて、坐から立ち上がって、婆羅門のポッカラサーティを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、騾馬車に乗って、大勢の学生たちと共に、イッチャーナンガラ〔村〕の密林のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、アンバッタ学徒は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「君よ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、貴君ゴータマは住んでいますか。まさに、彼と、貴君ゴータマと会見するために、わたしたちは、ここに近づいて行ったのです」と。

 

260. そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、アンバッタ学徒は、まさしく、そして、証知された家系の者であり、さらに、証知された婆羅門のポッカラサーティの内弟子である。また、まさに、世尊にとって、このような形態の良家の子息たちを相手にする議論と談論は、負担なく有る」と。彼らは、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、この、戸が閉まっている精舎です。そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩いてください。世尊は、あなたのために、戸を開くでしょう」と。

 

261. そこで、まさに、アンバッタ学徒は、その、戸が閉まっている精舎のあるところに、そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。世尊は、戸を開きました。アンバッタ学徒は、入りました。学生たちもまた入って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。また、アンバッタ学徒は、歩きながらもまた、坐っている世尊と、何らかの或る記憶されるべき話を交わし、立ちながらもまた、坐っている世尊と、何らかの或る記憶されるべき話を交わします。

 

262. そこで、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、はてさて、あなたには、このように、年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠である、婆羅門たちを相手に議論と談論が有るのですか。すなわち、このように、歩きながら、立ちながら、坐っているわたしと、何らかの或る記憶されるべき話を交わします」と。

 

 第一の卑俗の論

 

263. 「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、なぜなら、あるいは、赴いている婆羅門は、赴いている婆羅門を相手に談論するのがふさわしいからです。貴君ゴータマよ、なぜなら、あるいは、立っている婆羅門は、立っている婆羅門を相手に談論するのがふさわしいからです。貴君ゴータマよ、なぜなら、あるいは、坐っている婆羅門は、坐っている婆羅門を相手に談論するのがふさわしいからです。貴君ゴータマよ、なぜなら、あるいは、臥している婆羅門は、臥している婆羅門を相手に談論するのがふさわしいからです。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、わたしには、このように、また、彼らを相手に議論と談論が有ります。すなわち、貴君ゴータマとのように」と。「アンバッタよ、また、まさに、義(目的)ある者として、あなたに、ここへの到来が有ったのでは。また、まさに、まさしく、その義(目的)のために、〔あなたたちが〕到来するなら、まさしく、その義(目的)に、善くしっかりと意を為すべきです。君よ、また、まさに、まさしく、未完者としてあるのに完成者と思量する、このアンバッタ学徒は、未完者であることより他の、何だというのでしょう」と。

 

264. そこで、まさに、アンバッタ学徒は、世尊によって、〔自分のことを〕未完者とする論によって説かれながら、激情し、わが意を得ない者となり、「君よ、さてまた、わたしにとって、沙門ゴータマは、悪しき者として〔世に〕有るでしょう」と、まさしく、世尊を責めながら、まさしく、世尊を誹りながら、まさしく、世尊を批判しながら、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、釈迦〔族〕の生まれは、狂暴です。貴君ゴータマよ、釈迦〔族〕の生まれは、粗暴です。貴君ゴータマよ、釈迦〔族〕の生まれは、軽佻です。貴君ゴータマよ、釈迦〔族〕の生まれは、多弁です。卑俗の者たちとして〔世に〕存しながら、卑俗の者たちとして〔世に〕存しつつ、婆羅門たちを尊敬せず、婆羅門たちを尊重せず、婆羅門たちを思慕せず、婆羅門たちを供養せず、婆羅門たちを敬恭しません。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適合ならず。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、これらの釈迦〔族〕の者たちが、卑俗の者たちとして〔世に〕存しながら、卑俗の者たちとして〔世に〕存しつつ、婆羅門たちを尊敬せず、婆羅門たちを尊重せず、婆羅門たちを思慕せず、婆羅門たちを供養せず、婆羅門たちを敬恭しないのは」と。まさに、かくのごとく、アンバッタ学徒は、この第一の、釈迦〔族〕の者たちについての卑俗の論を浴びせました。

 

 第二の卑俗の論

 

265. 「アンバッタよ、また、何か、釈迦〔族〕の者たちが、あなたに反することをしたのですか」と。「貴君ゴータマよ、これは、或る時のことです。わたしは、師匠である婆羅門のポッカラサーティの何らかの或る用事によって、カピラヴァットゥに赴き、釈迦〔族〕の者たちの公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、大勢の、まさしく、そして、釈迦〔族〕の者たちが、さらに、釈迦〔族〕の少年たちが、公会堂において、諸々の高坐に坐った状態でいます。互いに他を指で突くことで高笑し遊び戯れながら、思うに、何はともあれ、まさしく、わたしのことを笑い興じながら、誰であれ、わたしを、坐にさえも招きません。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適合ならず。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、これらの釈迦〔族〕の者たちが、卑俗の者たちとして〔世に〕存しながら、卑俗の者たちとして〔世に〕存しつつ、婆羅門たちを尊敬せず、婆羅門たちを尊重せず、婆羅門たちを思慕せず、婆羅門たちを供養せず、婆羅門たちを敬恭しないのは」と。まさに、かくのごとく、アンバッタ学徒は、この第二の、釈迦〔族〕の者たちについての卑俗の論を浴びせました。

 

 第三の卑俗の論

 

266. 「アンバッタよ、まさに、鶉(うずら)の雌鳥もまた、自らの巣において、欲するままにさえずる者と成ります。アンバッタよ、また、まさに、これは、釈迦〔族〕の者たちにとって、自らのものとしてあります。すなわち、この、カピラヴァットゥは。この少しばかりのことで、尊者たるアンバッタが憤るのは、ふさわしからず」と。「貴君ゴータマよ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの階級のなかの三つの階級は、かつまた、士族たちは、かつまた、庶民たちは、かつまた、隷民たちは、何はともあれ、まさしく、婆羅門を世話する者たちとして〔世に〕成就します。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適合ならず。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、これらの釈迦〔族〕の者たちが、卑俗の者たちとして〔世に〕存しながら、卑俗の者たちとして〔世に〕存しつつ、婆羅門たちを尊敬せず、婆羅門たちを尊重せず、婆羅門たちを思慕せず、婆羅門たちを供養せず、婆羅門たちを敬恭しないのは」と。まさに、かくのごとく、アンバッタ学徒は、この第三の、釈迦〔族〕の者たちについての卑俗の論を浴びせました。

 

 奴婢の子孫とする論

 

267. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、このアンバッタ学徒は、極めて激しく、釈迦〔族〕の者たちについて、卑俗の論によって侮辱する。それなら、さあ、わたしは、〔彼の〕姓を尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、どのような姓の者として、〔あなたは〕存しますか」と。「貴君ゴータマよ、カンハ―ヤナとして、わたしは存します」と。「アンバッタよ、また、まさに、あなたの、過去の母と父の名と姓を隨念していると、〔あなたの〕主人として、釈迦〔族〕の者たちは有り、釈迦〔族〕の者たちの奴婢の子孫として、あなたは存します。アンバッタよ、また、まさに、釈迦〔族〕の者たちは、オッカーカ王(甘蔗王:古代の大王)を父祖と定めます。

 

 アンバッタよ、過去の事ですが、オッカーカ王は、すなわち、その、愛しく意に適う王妃である彼女の子に、王権を譲ることを欲し、年上の王子たちを──オッカームカを、カラカンダを、ハッティニカを、シニスーラを──国土から追放しました。彼らは、国土から追放され、ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓にある蓮池の、大いなるサーカ〔樹〕の茂みがある岸辺において、そこにおいて、住を営みました。彼らは、生まれの混入の恐怖あることから、自らの姉妹たちを相手に共住を営みました(血統の純潔を維持した)。

 

 アンバッタよ、そこで、まさに、オッカーカ王は、家臣たちと侍臣たちに告げました。「君よ、いったい、まさに、どこで、今現在、王子たちは暮らしているのだ」と。「陛下よ、ヒマヴァントの山麓にある蓮池の、大いなるサーカ〔樹〕の茂みがある岸辺において、そこにおいて、今現在、王子たちは暮らしています。彼らは、生まれの混入の恐怖あることから、自らの姉妹たちを相手に共住を営みます」と。アンバッタよ、そこで、まさに、オッカーカ王は、感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、有能(サキャ)なるは、王子たちである。ああ、まさに、最高に有能なるは、王子たちである」と。アンバッタよ、また、まさに、それ以後、釈迦〔族〕(サキャ)の者たちが覚知されます──そして、彼(オッカーカ王)が、彼らの祖先として。

 

 アンバッタよ、また、まさに、オッカーカ王には、ディサーという名の奴婢が有りました。彼女は、カンハ(黒き者)という名の者を生みました。生まれたカンハは、〔言葉を〕発しました。『母よ、わたしを洗い清めてください。母よ、わたしを沐浴させてください。わたしを、この不浄物から完全に解き放ってください。あなたたちにとって、義(利益)のために成るでしょう』と。アンバッタよ、また、まさに、すなわち、今現在、人間たちが、魔物たちを見て、『魔物たち』と呼称するように、アンバッタよ、まさしく、このように、まさに、また、まさに、その時点にあって、人間たちは、魔物たちのことを、『カンハたち』と呼称します。彼らは、このように言いました。『この生まれた者は、〔言葉を〕発した。カンハが生まれたのだ。魔物が生まれたのだ』と。アンバッタよ、また、まさに、それ以後、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちが覚知されます──そして、彼(カンハ)が、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちの祖先として。アンバッタよ、かくのごとく、まさに、あなたの、過去の母と父の名と姓を隨念していると、釈迦〔族〕の者たちが主人として有り、釈迦〔族〕の者たちの奴婢の子孫として、あなたは存します」と。

 

268. このように説かれたとき、それらの学生たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、アンバッタを、極めて激しく、奴婢の子孫とする論によって侮辱してはいけません。貴君ゴータマよ、かつまた、アンバッタ学徒は、善き生まれの者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、良家の子息であり、かつまた、アンバッタ学徒は、多聞の者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、善き言葉遣いある者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、賢者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対することができます」と。

 

269. そこで、まさに、世尊は、それらの学生たちに、こう言いました。「学生たちよ(※)、それで、もし、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕有るなら、『かつまた、アンバッタ学徒は、悪しき生まれの者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、良家の子息ならざる者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、少聞の者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、善き言葉遣いなき者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、智慧浅き者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、沙門ゴータマを相手に、この言葉について応対することができない』と、アンバッタ学徒のことはさておき、あなたたちが、わたしを相手に、この言葉について応対したまえ。学生たちよ、また、それで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕有るなら、『かつまた、アンバッタ学徒は、善き生まれの者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、良家の子息であり、かつまた、アンバッタ学徒は、多聞の者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、善き言葉遣いある者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、賢者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、沙門ゴータマを相手に、この言葉について応対することができる』と、あなたたちのことはさておき、アンバッタ学徒が、わたしを相手に、この言葉について応対したまえ」と。

 

※ テキストには māavakāna とあるが、PTS版により māavakā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 「貴君ゴータマよ、かつまた、アンバッタ学徒は、善き生まれの者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、良家の子息であり、かつまた、アンバッタ学徒は、多聞の者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、善き言葉遣いある者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、賢者であり、かつまた、アンバッタ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対することができます。わたしたちは、沈黙の者たちと成るでしょう。アンバッタ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対したまえ」と。

 

270. そこで、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、また、まさに、この法(真理)を共にする問いが、あなたにやってきます。欲することなくも、説き明かすべきです。それで、もし、あなたが説き明かさないなら、あるいは、他から他へとはぐらかすなら、あるいは、沈黙の者と成るなら、あるいは、立ち去るなら、あなたの頭は、まさしく、この場において、七様に裂けるでしょう。アンバッタよ、それを、どう思いますか。どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちは、どこから始まり、そして、誰が、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちの祖先なのですか」と。

 

 このように説かれたとき、アンバッタ学徒は、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、それを、どう思いますか。どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちは、どこから始まり、そして、誰が、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちの祖先なのですか」と。再度また、まさに、アンバッタ学徒は、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に、こう言いました。「アンバッタよ、今や、説き明かしなさい。今や、あなたが沈黙の状態でいるための時にあらず。アンバッタよ、その者が、まさに、如来によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭は、まさしく、この場において、七様に裂けるでしょう」と。

 

271. また、まさに、その時点にあって、金剛を手にする夜叉が、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる鉄槌を携えて、アンバッタ学徒の宙空高く止住した状態でいます。「それで、もし、このアンバッタ学徒が、世尊によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭を、まさしく、この場において、七様に裂くのだ」と。また、まさに、その金剛を手にする夜叉を、まさしく、そして、世尊は見ます──さらに、アンバッタ学徒も。

 

272. そこで、まさに、アンバッタ学徒は、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、まさしく、世尊を避難所として探し求める者となり、まさしく、世尊を救護所として探し求める者となり、まさしく、世尊を帰依所として探し求める者となり、近しく坐って、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、このことを、どう言いましたか。貴君ゴータマは、ふたたび説いてください」と。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちは、どこから始まり、そして、誰が、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちの祖先なのですか」と。「貴君ゴータマよ、まさしく、このように、わたしは聞きました──貴君ゴータマが言った、まさしく、そのとおりに。彼(カンハ)から始まる者たちとして、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちはあります。そして、彼(カンハ)は、カンハ―ヤナ〔姓〕の者たちの祖先です」と。

 

 アンバッタの系統の話

 

273. このように説かれたとき、それらの学生たちは、狂躁の者たちと〔成り〕、高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。「どうやら、まさに、アンバッタ学徒は、悪しき生まれの者であるらしい。どうやら、まさに、アンバッタ学徒は、良家の子息ならざる者であるらしい。どうやら、まさに、アンバッタ学徒は、釈迦〔族〕の者たちの奴婢の子孫であるらしい。どうやら、まさに、アンバッタ学徒の主人として、釈迦〔族〕の者たちは有るらしい。どうやら、わたしたちは、まさしく、法(真理)の論ある沙門ゴータマを、指弾するべきと思い考えていたらしい」と。

 

274. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの学生たちは、アンバッタ学徒を、極めて激しく、奴婢の子孫とする論によって侮辱する。それなら、さあ、わたしは、〔彼を、侮辱から〕完全に解き放つのだ」と。そこで、まさに、世尊は、それらの学生たちに、こう言いました。「学生たちよ、まさに、あなたたちは、アンバッタ学徒を、極めて激しく、奴婢の子孫とする論によって侮辱してはいけません。彼は、カンハは、秀でた聖賢として〔世に〕有りました。彼は、南の地方に赴いて、諸々の婆羅門の呪文を学得して、オッカーカ王に、近づいて行って、娘のマッダルーピーを乞い求めました。彼に、オッカーカ王は、『はてさて、誰なのだ──このように、まあ、この者があるとは──わたしの奴婢の子として存しながら、娘のマッダルーピーを乞い求めるとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、矢を装着しました。彼は、その矢を、まさしく、放つこともできず、外すことも〔でき〕ませんでした。

 

 学生たちよ、そこで、まさに、家臣たちと侍臣たちは、近づいて行って、カンハ聖賢に、こう言いました。『あなたに、幸せ〔有れ〕。王に、安穏有れ。あなたに、幸せ〔有れ〕。王に、安穏有れ』と。『王に、安穏が有るであろう。そして、また、もしくは、王が、下に矢を放つなら、すなわち、王の領土としてあるかぎり、このかぎりにおいて、地は崩壊するであろう』と。『あなたに、幸せ〔有れ〕。王に、安穏有れ。地方に、安穏〔有れ〕』と。『王に、安穏が有るであろう。地方に、安穏が〔有るであろう〕。そして、また、もしくは、王が、上に矢を放つなら、すなわち、王の領土としてあるかぎり、このかぎりにおいて、七年のあいだ、天は、雨を降らせないであろう』と。『あなたに、幸せ〔有れ〕。王に、安穏有れ。地方に、安穏〔有れ〕。そして、天は、雨を降らせよ』と。『王に、安穏が有るであろう。地方に、安穏が〔有るであろう〕。そして、天は、雨を降らせるであろう。そして、また、王は、年上の王子に、矢を据え置きたまえ。王子は、安穏となり、安寧が有るであろう』と。学生たちよ、そこで、まさに、家臣たちと侍臣たちは、オッカーカに告げました。『王は、年上の王子に、矢を据え置きたまえ。王子は、安穏となり、安寧が有るでしょう』と。そこで、まさに、オッカーカ王は、年上の王子に、矢を据え置きました。王子は、安穏となり、安寧が発生しました。そこで、まさに、オッカーカ王は、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、梵の棒に怯え、彼に、娘のマッダルーピーを与えました。学生たちよ、まさに、あなたたちは、アンバッタ学徒を、極めて激しく、奴婢の子孫とする論によって侮辱してはいけません。彼は、カンハは、秀でた聖賢として〔世に〕有りました」と。

 

 士族の最勝の状態

 

275. そこで、まさに、世尊は、アンバッタ学徒に告げました。「アンバッタよ、それを、どう思いますか。ここに、士族の少年が、婆羅門の少女を相手に共住を営み、彼らの共住に起因して、子が生まれるとします。すなわち、その、士族の少年によって婆羅門の少女から生起した子ですが、さて、いったい、彼は、婆羅門たちにおいて、あるいは、坐を、あるいは、水を、得るでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、得るでしょう」と。「さて、いったい、彼を、婆羅門たちは受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、受益させるでしょう」と。「さて、いったい、彼に、婆羅門たちは、諸々の呪文を、あるいは、教授できますか、あるいは、〔教授でき〕ませんか」と。「貴君ゴータマよ、教授できます」と。「さて、いったい、彼に、婦女たちにおいて、あるいは、謝絶が存するでしょうか、あるいは、謝絶なきが〔存するでしょうか〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、謝絶なきが存するでしょう」と。「さて、いったい、彼を、士族たちは、士族の灌頂によって灌頂できるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、〔士族の〕母から生起した者ではないからです」と。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門の少年が、士族の少女を相手に共住を営み、彼らの共住に起因して、子が生まれるとします。すなわち、その、婆羅門の少年によって士族の少女から生起した子ですが、さて、いったい、彼は、婆羅門たちにおいて、あるいは、坐を、あるいは、水を、得るでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、得るでしょう」と。「さて、いったい、彼を、婆羅門たちは受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、受益させるでしょう」と。「さて、いったい、彼に、婆羅門たちは、諸々の呪文を、あるいは、教授できますか、あるいは、〔教授でき〕ませんか」と。「貴君ゴータマよ、教授できます」と。「さて、いったい、彼に、婦女たちにおいて、あるいは、謝絶が存するでしょうか、あるいは、謝絶なきが〔存するでしょうか〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、謝絶なきが存するでしょう」と。「さて、いったい、彼を、士族たちは、士族の灌頂によって灌頂できるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、〔士族の〕父から生起した者ではないからです」と。

 

276. 「アンバッタよ、かくのごとく、まさに、あるいは、女〔の観点〕によって、女を〔妻と〕為しても、男〔の観点〕によって、男を〔夫と〕為しても、まさしく、士族たちは、最勝であり、婆羅門たちは、劣っているのです。アンバッタよ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門たちが、婆羅門を、何らかの或る名目において、剃刀で剃髪を為して、灰袋で打って、あるいは、国土から、あるいは、城市から、追放するとします。さて、いったい、彼は、婆羅門たちにおいて、あるいは、坐を、あるいは、水を、得るでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「さて、いったい、彼を、婆羅門たちは受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「さて、いったい、彼に、婆羅門たちは、諸々の呪文を、あるいは、教授できますか、あるいは、〔教授でき〕ませんか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「さて、いったい、彼に、婦女たちにおいて、あるいは、謝絶が存するでしょうか、あるいは、謝絶なきが〔存するでしょうか〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、謝絶が存するでしょう」と。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。ここに、士族たちが、士族を、何らかの或る名目において、剃刀で剃髪を為して、灰袋で打って、あるいは、国土から、あるいは、城市から、追放するとします。さて、いったい、彼は、婆羅門たちにおいて、あるいは、坐を、あるいは、水を、得るでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、得るでしょう」と。「さて、いったい、彼を、婆羅門たちは受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、受益させるでしょう」と。「さて、いったい、彼に、婆羅門たちは、諸々の呪文を、あるいは、教授できますか、あるいは、〔教授でき〕ませんか」と。「貴君ゴータマよ、教授できます」と。「さて、いったい、彼に、婦女たちにおいて、あるいは、謝絶が存するでしょうか、あるいは、謝絶なきが〔存するでしょうか〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、謝絶なきが存するでしょう」と。

 

277. 「アンバッタよ、このかぎりにおいて、まさに、士族は、最高の下劣性に至り得た者と成ります──まさしく、すなわち、彼を、士族たちが、剃刀で剃髪を為して、灰袋で打って、あるいは、国土から、あるいは、城市から、追放するなら。アンバッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、士族が、最高の下劣性に至り得た者と成るとき、そのときでさえも、士族たちは、最勝であり、婆羅門たちは、劣っているのです。アンバッタよ、梵〔天〕のサナンクマーラによってもまた、この詩偈が語られました。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』と。

 

 アンバッタよ、また、まさに、その、この詩偈は、梵〔天〕のサナンクマーラによって、善く歌われたものであり、悪しく歌われたものではなく、見事に語られたものであり、拙劣に語られたものではなく、義(利益)を伴ったものであり、義(利益)を伴わないものではなく、わたしによって許認されたものです。アンバッタよ、まさに、わたしもまた、このように説きます。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』」と。

 

 〔以上が〕第一の朗読分となる。

 

 明知と行ないの話

 

278. 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、その行ないであり、また、そして、どのようなものが、その明知なのですか」と。「アンバッタよ、まさに、無上なる明知と行ないの成就のために、『あるいは、あなたは、わたしに値する。あるいは、あなたは、わたしに値しない』と、あるいは、出生の論が説かれることも、あるいは、氏姓の論が説かれることも、あるいは、思量(:自我意識)の論が説かれることも、ありません。アンバッタよ、そこにおいて、まさに、あるいは、嫁とりが有り、あるいは、嫁やりが有り、あるいは、嫁とりと嫁やりが有るなら、ここにおいて、この、『あるいは、あなたは、わたしに値する。あるいは、あなたは、わたしに値しない』と、あるいは、出生の論が、かくのごとくもまた、あるいは、氏姓の論が、かくのごとくもまた、あるいは、思量の論が、かくのごとくもまた、説かれます。アンバッタよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、出生の論に結縛され、あるいは、氏姓の論に結縛され、あるいは、思量の論に結縛されたなら、あるいは、嫁とりと嫁やりに結縛されたなら、彼らは、無上なる明知と行ないの成就から遠く離れています。アンバッタよ、まさに、かつまた、出生の論に結縛されたものを、かつまた、氏姓の論に結縛されたものを、かつまた、思量の論に結縛されたものを、かつまた、嫁とりと嫁やりに結縛されたものを、〔それらを〕捨棄して、無上なる明知と行ないの実証が有ります」と。

 

279. 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、その行ないであり、また、そして、どのようなものが、その明知なのですか」と。「アンバッタよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。……略……(すなわち、191等々が断絶なくあるように、このように詳知されるべきである)。

 

 彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。これもまた、彼の行ないのうちに有ります。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。これもまた、彼の行ないのうちに有ります。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。これもまた、彼の行ないのうちに有ります。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。これもまた、彼の行ないのうちに有ります。アンバッタよ、これが、まさに、その行ないとなります。

 

 アンバッタよ、彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。……略……。これもまた、彼の明知のうちに有ります。……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。これもまた、彼の明知のうちに有ります。アンバッタよ、これが、まさに、その明知となります。

 

 アンバッタよ、この比丘は、『明知の成就者』ともまた〔説かれ〕、『行ないの成就者』ともまた〔説かれ〕、『明知と行ないの成就者』ともまた説かれます。アンバッタよ、そして、明知の成就より、さらに、行ないの成就より、これより他の、そして、明知の成就で、さらに、行ないの成就で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません。

 

 四つの離去の門

 

280. アンバッタよ、この無上なる明知と行ないの成就には、四つの離去の門が有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。アンバッタよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、まさしく、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、カーリ(升目の単位・一石)の天秤棒を担いで、林地や林野に(※)深く分け入ります。『落ちた果を受益する者と成るのだ』と。彼は、何はともあれ、まさしく、明知と行ないの成就者の侍者として成就します(それだけのことである)。アンバッタよ、まさに、この無上なる明知と行ないの成就には、この第一の離去の門が有ります。

 

※ テキストには araññāyatana とあるが、以下の平行箇所に合わせて、araññavana と読む(PTS版は araññe vana)。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、さらに、落ちた果の受益をできずにいながら、鋤と籠を携えて、林地や林野に深く分け入ります。『塊茎や根や果を受益する者と成るのだ』と。彼は、何はともあれ、まさしく、明知と行ないの成就者の侍者として成就します。アンバッタよ、まさに、この無上なる明知と行ないの成就には、この第二の離去の門が有ります。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、かつまた、落ちた果の受益をできずにいながら、さらに、塊茎や根やの受益をできずにいながら、あるいは、村の近隣に、あるいは、町の近隣に、祭火堂を作って、祭火を世話しながら暮らします。彼は、何はともあれ、まさしく、明知と行ないの成就者の侍者として成就します。アンバッタよ、まさに、この無上なる明知と行ないの成就には、この第三の離去の門が有ります。

 

 アンバッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、かつまた、落ちた果の受益をできずにいながら、かつまた、塊茎や根やの受益をできずにいながら、さらに、祭火の世話をできずにいながら、大きな四つ辻において、四つの門ある家を作って暮らします。『すなわち、これらの四つの方角から、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、やってくるなら、わたしは、彼を、能のままに、力のままに、供養するのだ』と。彼は、何はともあれ、まさしく、明知と行ないの成就者の侍者として成就します。アンバッタよ、まさに、この無上なる明知と行ないの成就には、この第四の離去の門が有ります。アンバッタよ、まさに、この無上なる明知と行ないの成就には、これらの四つの離去の門が有ります。

 

281. アンバッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、この無上なる明知と行ないの成就〔の観点〕によって、〔自身が〕現見されますか──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう──師匠を有する者として。かつまた、どうして、無上なる明知と行ないの成就があるというのでしょう。貴君ゴータマよ、わたしは、無上なる明知と行ないの成就から遠く離れています──師匠を有する者として」と。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、カーリの天秤棒を担いで、林地や林野に深く分け入ったことがありますか──師匠を有する者として。『落ちた果を受益する者と成るのだ』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、さらに、落ちた果の受益をできずにいながら、鋤と籠を携えて、林地や林野に深く分け入ったことがありますか──師匠を有する者として。『塊茎や根や果を受益する者と成るのだ』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、かつまた、落ちた果の受益をできずにいながら、さらに、塊茎や根やの受益をできずにいながら、あるいは、村の近隣に、あるいは、町の近隣に、祭火堂を作って、祭火を世話しながら暮らしたことがありますか──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アンバッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就をできずにいながら、かつまた、落ちた果の受益をできずにいながら、かつまた、塊茎や根やの受益をできずにいながら、さらに、祭火の世話をできずにいながら、大きな四つ辻において、四つの門ある家を作って暮らしたことがありますか──師匠を有する者として。『すなわち、これらの四つの方角から、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、やってくるなら、わたしは、彼を、能のままに、力のままに、供養するのだ』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

282. 「アンバッタよ、かくのごとく、まさに、あなたは、まさしく、そして、この無上なる明知と行ないの成就〔の観点〕によって遍く劣っているのです──師匠を有する者として。さらに、すなわち、これらの四つの離去の門が、無上なる明知と行ないの成就〔の観点〕によって有るとして、そして、あなたは、それよりも遍く劣っているのです──師匠を有する者として。アンバッタよ、また、まさに、この言葉が、あなたの師匠である婆羅門のポッカラサーティによって語られました。『さてまた、坊主頭の似非沙門たちが何だというのだ──卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちである。さてまた、どうして、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちの論議があるというのだろう』と、自己みずから、円満成就していない、離去ある者であるもまた。アンバッタよ、見なさい──さてまた、すなわち、これほどまでに、あなたの師匠である婆羅門のポッカラサーティには、〔理に〕反するものがあるのです。

 

 往古の聖賢たちの専念〔努力〕の状態

 

283. アンバッタよ、また、まさに、師匠である婆羅門のポッカラサーティは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の施鉢を受益します。彼に、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、面前の状態さえも与えません。すなわち、また、彼と話し合うときも、布越しに話し合います。アンバッタよ、また、まさに、すなわち、法(正義)にかなうものとして出された行乞〔の施食〕を納受する、〔その〕彼に、どうして、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、面前の状態さえも与えないのでしょう。アンバッタよ、見なさい──さてまた、すなわち、これほどまでに、あなたの師匠である婆羅門のポッカラサーティには、〔理に〕反するものがあるのです。

 

284. アンバッタよ、それを、どう思いますか。ここに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、あるいは、象の首に坐り、あるいは、馬の背に坐り、車の敷物に立ち、あるいは、高貴の者たちと、あるいは、王族たちと、何らかの或る相談事を話し合うとします。彼が、その場所から立ち去って、一方に立つとします。そこで、あるいは、隷民が、あるいは、隷民の奴隷が、やってきて、その場所に立ち、まさしく、その相談事を話し合うとします。『このようにもまた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は言った。このようにもまた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は言った』と。さて、いったい、彼が、あるいは、王の話したことを話し、あるいは、王の相談事を話し合うとして、彼は、このことから、あるいは、王として、あるいは、王臣として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

285. 「アンバッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたもあります。すなわち、〔世に〕有った、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。『それらの呪文を、わたしは学得する──師匠を有する者として』と。そのことから、あなたが、あるいは、聖賢と〔成り〕、あるいは、聖賢の義(目的)のために実践する者と成るであろう、という、この状況は見出されません。

 

286. アンバッタよ、それを、どう思いますか。どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。すなわち、〔世に〕有った、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。いったい、それらの者たちは、このように、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとい、五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみますか。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「……略……。いったい、彼らは、このように、清らかな肉の汁を注ぎ黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味を遍く受益しますか。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「……略……。いったい、彼らは、このように、〔両の〕脇に房飾りをつけた女たちと楽しみますか。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「……略……。いったい、彼らは、このように、尾毛が手入れされた諸々の騾馬車で、諸々の長い鞭杖で運び手たちを打ちながら、乗り回しますか。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「……略……。いったい、彼らは、このように、諸々の堀が掘られ、諸々の閂が落とされ、諸々の城市の防備あるなかで、長剣や武器をもつ人たちに守らせますか。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アンバッタよ、かくのごとく、まさに、あなたは、まさしく、聖賢ではなく、聖賢の義(目的)のために実践する者でもありません──師匠を有する者として。アンバッタよ、また、まさに、その者に、わたしについて、あるいは、疑いがあり、あるいは、疑問があるなら、彼は、わたしに、問いによって〔尋ねるべきです〕。わたしは、説き明かしによって〔疑いを〕清めるでしょう」と。

 

 二つの特相の見なきこと

 

287. そこで、まさに、世尊は、精舎から出て、歩行場に上がりました。アンバッタ学徒もまた、精舎から出て、歩行場に上がりました。そこで、まさに、アンバッタ学徒は、歩行〔瞑想〕をしている世尊に従って歩行〔瞑想〕をしながら、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。まさに、アンバッタ学徒は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)について、さらに、広くて長い舌(広長舌)について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。

 

288. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、アンバッタ学徒は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、アンバッタ学徒が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、アンバッタ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就したものとして具備している──円満成就していないものとして、ではなく」と。〔彼は〕世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「アンバッタよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、アンバッタ学徒は、騾馬車に乗って、立ち去りました。

 

289. また、まさに、その時点にあって、婆羅門のポッカラサーティは、ウッカッターから出て、大いなる婆羅門の衆徒と共に、自らの林園において、坐った状態でいます──まさしく、アンバッタ学徒を待ち望みながら。そこで、まさに、アンバッタ学徒は、自らの林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、婆羅門のポッカラサーティのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、婆羅門のポッカラサーティを敬拝して、一方に坐りました。

 

290. 一方に坐った、まさに、アンバッタ学徒に、婆羅門のポッカラサーティは、こう言いました。「親愛なる者よ、アンバッタよ、どうであろう、彼を、貴君ゴータマを見たか」と。「君よ、まさに、わたしたちは、彼を、貴君ゴータマを見ました」と。「親愛なる者よ、アンバッタよ、どうであろう、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるか──他なるものではなく。また、どうであろう、彼は、貴君ゴータマは、そのような者であるか──他のような者ではなく」と。「君よ、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっていますが、まさしく、存している、そのとおりです──他なるものではなく。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、そのような者です──他のような者ではなく。そして、彼は、貴君ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就し、円満成就ならざるところなく、具備しています」と。「親愛なる者よ、アンバッタよ、また、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったか」と。「君よ、また、わたしに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「親愛なる者よ、アンバッタよ、また、すなわち、どのように、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったか」と。そこで、まさに、アンバッタ学徒は、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、婆羅門のポッカラサーティに告げました。

 

291. このように説かれたとき、婆羅門のポッカラサーティは、アンバッタ学徒に、こう言いました。「ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非賢者よ。ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非多聞よ。ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非三明者よ。ああ、まさに、このような形態の義(目的)の行ないによって、人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのだ。アンバッタよ、まさしく、すなわち、まさに、おまえが、彼に、貴君ゴータマに、このように襲っては襲って説いたので、そこで、まさに、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちにもまた、このように導いては導いて説いたのだ。ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非賢者よ。ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非多聞よ。ああ、まさに、まあ、わたしたちの似非三明者よ。ああ、まさに、このような形態の義(目的)の行ないによって、人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのだ」と。〔彼は〕激情し、わが意を得ない者となり、アンバッタ学徒を、まさしく、足で蹴倒しました。そして、まさしく、ただちに、世尊と会見するために近づいて行くことを求めます。

 

 ポッカラサーティの覚者のもとへの来参

 

292. そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、婆羅門のポッカラサーティに、こう言いました。「君よ、まさに、今日、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くには、極めて非時です。今や、貴君ポッカラサーティは、明日、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのです」と。そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、車に載せて、諸々の松明が保持されるなか、ウッカッターから出発し、イッチャーナンガラ〔村〕の密林のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。

 

293. 一方に坐った、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、さてまた、まさに、ここに、わたしどもの内弟子であるアンバッタ学徒がやってきましたか」と。「婆羅門よ、まさに、あなたの内弟子であるアンバッタ学徒がやってきました」と。「貴君ゴータマよ、また、あなたに、アンバッタ学徒を相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしに、アンバッタ学徒を相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「貴君ゴータマよ、また、すなわち、どのように、あなたに、アンバッタ学徒を相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、アンバッタ学徒を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、婆羅門のポッカラサーティに告げました。このように説かれたとき、婆羅門のポッカラサーティは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、アンバッタ学徒は、愚者です。貴君ゴータマは、アンバッタ学徒をお許しください」と。「婆羅門よ、アンバッタ学徒は、安楽の者と成れ」と。

 

294. そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。

 

295. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、婆羅門のポッカラサーティは、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、婆羅門のポッカラサーティが、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。

 

296. そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティに、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就したものとして具備している──円満成就していないものとして、ではなく」と。〔彼は〕世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、今日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

297. そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊の承諾を見出して、世尊に、時を告げました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、婆羅門のポッカラサーティの住居地(食事場)のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました──学生たちもまた、比丘の僧団を。そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。

 

298. 一方に坐った、まさに、婆羅門のポッカラサーティに、世尊は、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、婆羅門のポッカラサーティのことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、浄信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、婆羅門のポッカラサーティに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 ポッカラサーティの在俗信者たることの宣言

 

299. そこで、まさに、婆羅門のポッカラサーティは、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君ゴータマよ、〔まさに〕この、わたしは、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。そして、すなわち、貴君ゴータマが、ウッカッターにおいて、他の在俗信者の家々へと近づいて行くように、まさしく、このように、貴君ゴータマは、ポッカラサーティの家へと近づいて行きたまえ。そこにおいて、すなわち、それらの、あるいは、学生たちが、あるいは、女学生たちが、貴君ゴータマを、あるいは、敬拝するでしょうし、あるいは、奉仕するでしょうし、あるいは、坐を、あるいは、水を、あるいは、施すでしょうし、あるいは、心を浄信させるでしょう。それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。「婆羅門よ、善きことが説かれます」と。

 

 アンバッタの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4. ソーナダンダの経

 

 チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たち

 

300. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、チャンパーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。また、まさに、その時点にあって、ソーナダンダ婆羅門が、チャンパーに居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。

 

301. まさに、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、アンガ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、チャンパーに到着し、チャンパーに住んでいる。ガッガラーの蓮池の岸辺において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、チャンパーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、ガッガラーの蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きます。

 

302. また、まさに、その時点にあって、ソーナダンダ婆羅門は、高楼の上にあり、昼の休憩に入った状態でいます。まさに、ソーナダンダ婆羅門は、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちが、チャンパーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、ガッガラーの蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、侍従に告げました。「君よ、侍従よ、いったい、まさに、どうして、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、チャンパーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、ガッガラーの蓮池のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが存在します。アンガ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、チャンパーに到着し、チャンパーに住んでいます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これらの者たちは、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行きます」と。「君よ、侍従よ、まさに、それでは、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、このように説きなさい。『君よ、ソーナダンダ婆羅門は、このように言っています。「まさに、貴君たちは、待ちたまえ。ソーナダンダ婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう」』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その侍従は、ソーナダンダ婆羅門に答えて、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、こう言いました。「君よ、ソーナダンダ婆羅門は、このように言っています。『まさに、貴君たちは、待ちたまえ。ソーナダンダ婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう』」と。

 

 ソーナダンダの徳の話

 

303. また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、チャンパーに滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、それらの婆羅門たちは、「どうやら、ソーナダンダ婆羅門が、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、ソーナダンダ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ソーナダンダ婆羅門に、こう言いました。「本当に、まさに、貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのですか」と。「君よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『わたしもまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ』」と。

 

 「貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行ってはいけません。貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。それで、もし、貴君ソーナダンダが、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くなら、貴君ソーナダンダの盛名は衰退し、沙門ゴータマの盛名は激しく増大するでしょう。すなわち、また、貴君ソーナダンダの盛名が衰退し、沙門ゴータマの盛名が激しく増大するなら、この支分によってもまた、貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君ソーナダンダと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。すなわち、また、貴君ソーナダンダが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君ソーナダンダと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、増大した戒を具備した者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠であり、三百の学生たちに、諸々の呪文を教授します。また、まさに、種々なる方角から、種々なる地方から、多くの学生たちがやってきます──貴君ソーナダンダの現前において、呪文を義(目的)とする者たちとして、諸々の呪文を学得することを欲する者たちとして。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者です。沙門ゴータマは、まさしく、そして、若輩であり、さらに、若輩の出家者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、婆羅門のポッカラサーティにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 まさに、貴君ソーナダンダは、チャンパーに居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。すなわち、また、貴君ソーナダンダが、チャンパーに居住しているなら、有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に──この支分によってもまた、貴君ソーナダンダは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君ソーナダンダと会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。

 

 覚者の徳の話

 

304. このように説かれたとき、ソーナダンダ婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、それでは、わたしの〔言葉を〕もまた聞きたまえ。すなわち、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしく、まさしく、しかし、彼が、貴君ゴータマが、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくないとおりに。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、大いなる親族の集団を捨棄して、出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に立脚するものも、多大なる金貨と黄金を捨棄して、出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、家から家なきへと出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が滅尽した者であり、軽薄さが離れ去った者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、行為論者であり、業作論者であり、梵の資質ある人々による悪しき尊奉なき者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、混物なしの士族の家系である、高貴な家から出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、大いなる財産があり、大いなる財物がある、富裕な家から出家したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマに問いを尋ねるために、国土を超えて、地方を超えて、〔人々が〕やってきます。……略……。

 

 君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、幾千の天神たちが懸命になって赴いたのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、『来たれ、善き訪問たれ』と説く者であり、友誼ある者であり、親身の者であり、渋面なき者であり、明瞭な語り口の者であり、〔話しかけられる〕前に語る者(謙譲の語り手)です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、四つの衆(比丘・比丘尼・在俗信者・女性在俗信者)にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマにたいし、多くの、そして、天〔の神々〕たちが、さらに、人間たちが、大いに浄信したのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマが、すなわち、あるいは、村に、あるいは、町に、滞在するなら、〔まさに〕その、あるいは、村において、あるいは、町において、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちが人間たちを悩ますことはありません。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として、教祖たちのなかの至高の者と告げ知らされます。君よ、また、まさに、すなわち、これらの沙門や婆羅門たちに、いかようにも、かくようにも、盛名が生まれ来るように、まさに、このように、沙門ゴータマに、盛名が生まれ来たのではありません。そこで、まさに、無上なる明知と行ないの成就によって、沙門ゴータマに、盛名が生まれ来たのです。……略……。

 

 君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。

 

 君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。

 

 君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、婆羅門のポッカラサーティが、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、婆羅門のポッカラサーティにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。

 

 君よ、まさに、沙門ゴータマは、チャンパーに到着し、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。君よ、また、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、わたしたちの村落地にやってくるなら、彼らは、わたしたちにとって、客として有ります。また、まさに、客たちは、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマは、チャンパーに到着し、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。沙門ゴータマは、わたしたちにとって、客です。また、まさに、客は、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、わたしは、これだけのものを、彼の、貴君ゴータマの、諸々の栄誉として遍く学得します。しかしながら、まさに、彼は、貴君ゴータマは、これだけの栄誉ある者ではありません。まさに、彼は、貴君ゴータマは、無量の栄誉ある者です」と。

 

305. このように説かれたとき、それらの婆羅門たちは、ソーナダンダ婆羅門に、こう言いました。「すなわち、まさに、貴君ソーナダンダが、沙門ゴータマの諸々の栄誉を語るとおり、たとえ、もし、彼が、貴君ゴータマが、ここから百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)のところに住んでいるとして、信ある良家の子息であるなら、〔彼と〕会見するために、肩袋をかけてであろうが、近づいて行くに、まさしく、十分なるものがあります」と。「君よ、まさに、それでは、まさしく、わたしたちの全てが、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのです」と。

 

 ソーナダンダの思索

 

306. そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、ガッガラーの蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、密林を超えて〔精舎に〕至ったソーナダンダ婆羅門に、このような心の思索が浮かびました。「また、まさに、まさしく、そして、わたしが、沙門ゴータマに、問いを尋ねるとして、そこで、もし、沙門ゴータマが、わたしに、このように説くなら、『婆羅門よ、まさに、この問いは、このように尋ねるべきではありません。婆羅門よ、まさに、この問いは、このように尋ねるべきです』と、それによって、わたしのことを、この衆は貶めるであろう。『ソーナダンダ婆羅門は、愚者であり、明瞭ならざる者であり、沙門ゴータマに、根源のままに問いを尋ねることができない』と。また、まさに、その者のことを、この衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するであろう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するであろう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのだ。また、まさに、まさしく、そして、沙門ゴータマが、わたしに、問いを尋ねるとして、さらに、わたしが、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばせず、そこで、もし、沙門ゴータマが、わたしに、このように説くなら、『婆羅門よ、まさに、この問いは、このように説き明かすべきではありません。婆羅門よ、まさに、この問いは、このように説き明かすべきです』と、それによって、わたしのことを、この衆は貶めるであろう。『ソーナダンダ婆羅門は、愚者であり、明瞭ならざる者であり、問いへの説き明かしによって、沙門ゴータマの心を喜ばせることができない』と。また、まさに、その者のことを、この衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するであろう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するであろう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、このように、〔精舎の〕近くに至り、〔そのように〕存しつつ、沙門ゴータマを見ずして引き返すなら、それによって、わたしのことを、この衆は貶めるであろう。『ソーナダンダ婆羅門は、愚者であり、明瞭ならざる者であり、〔我想の〕思量(:思い上がりの心)と強情〔の思い〕ある者であり、かつまた、恐怖し、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くことに耐えられない。なぜなら、どうして、まさに、このように、〔精舎の〕近くに至り、〔そのように〕存しつつ、沙門ゴータマを見ずして引き返すのだろう』と。また、まさに、その者のことを、この衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するであろう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するであろう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのだ」と。

 

307. そこで、また、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。まさに、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちもまた、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

308. そこで、また、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、このことだけを多く隨念しながら、坐った状態でいます。「また、まさに、まさしく、そして、わたしが、沙門ゴータマに、問いを尋ねるとして、そこで、もし、沙門ゴータマが、わたしに、このように説くなら、『婆羅門よ、まさに、この問いは、このように尋ねるべきではありません。婆羅門よ、まさに、この問いは、このように尋ねるべきです』と、それによって、わたしのことを、この衆は貶めるであろう。『ソーナダンダ婆羅門は、愚者であり、明瞭ならざる者であり、沙門ゴータマに、根源のままに問いを尋ねることができない』と。また、まさに、その者のことを、この衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するであろう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するであろう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのだ。また、まさに、まさしく、そして、沙門ゴータマが、わたしに、問いを尋ねるとして、さらに、わたしが、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばせず、そこで、もし、沙門ゴータマが、わたしに、このように説くなら、『婆羅門よ、まさに、この問いは、このように説き明かすべきではありません。婆羅門よ、まさに、この問いは、このように説き明かすべきです』と、それによって、わたしのことを、この衆は貶めるであろう。『ソーナダンダ婆羅門は、愚者であり、明瞭ならざる者であり、問いへの説き明かしによって、沙門ゴータマの心を喜ばせることができない』と。また、まさに、その者のことを、この衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するであろう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するであろう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのだ。ああ、まさに、沙門ゴータマが、わたしに、自らの師匠伝来のものである三つのヴェーダの〔聖なる〕言葉について、問いを尋ねるなら、まさに、たしかに、わたしは、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばせるのだが」と。

 

 婆羅門の報知

 

309. そこで、まさに、世尊に──〔自らの〕心をとおして、ソーナダンダ婆羅門の心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。「まさに、このソーナダンダ婆羅門は、自らの心によって打ちのめされている。それなら、さあ、わたしは、ソーナダンダ婆羅門に、自らの師匠伝来のものである三つのヴェーダの〔聖なる〕言葉について、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、ソーナダンダ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、また、どのような諸々の支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知しますか。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょうか。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょうか」と。

 

310. そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、求めるところとして、すなわち、望むところとして、すなわち、志向するところとして、すなわち、切望するところとして、『ああ、まさに、沙門ゴータマが、わたしに、自らの師匠伝来のものである三つのヴェーダの〔聖なる〕言葉について、問いを尋ねるなら、まさに、たしかに、わたしは、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばせるのだが』という〔思いが〕、まさに、わたしたちに有った。そこで、沙門ゴータマは、わたしに、自らの師匠伝来のものである三つのヴェーダの〔聖なる〕言葉について、問いを尋ねる。まさに、たしかに、わたしは、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばせるであろう」と。

 

311. そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、身体を反り起こして、衆を見まわして、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、五つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう。どのようなものが、五つのものなのですか。貴君ゴータマよ、ここに、婆羅門が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、(2)読誦者として、呪文の保持者として、〔世に〕有り、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者であり、(3)形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者であり、(4)戒ある者として、増大した戒ある者として、増大した戒を具備した者として、〔世に〕有り、(5)さらに、賢者であり、思慮ある者であり、〔献供の〕杓子を差し出す者たちのなかの、あるいは、第一の者として、あるいは、第二の者として、〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、まさに、これらの五つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう」と。

 

 「婆羅門よ、また、これらの五つの支分のなかの一つの支分を除いて、四つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知することができますか。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょうか。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、できます。まさに、これらの五つの支分のなかの色艶を、〔わたしたちは〕除きます。まさに、色艶が、何を為すというのでしょう。貴君ゴータマよ、すなわち、まさに、婆羅門が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、(2)そして、読誦者として、さらに、呪文の保持者として、〔世に〕有り、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者であり、(3)かつまた、戒ある者として、増大した戒ある者として、増大した戒を具備した者として、〔世に〕有り、(4)さらに、賢者であり、思慮ある者であり、〔献供の〕杓子を差し出す者たちのなかの、あるいは、第一の者として、あるいは、第二の者として、〔世に〕有ることから、貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう」と。

 

312. 「婆羅門よ、また、これらの四つの支分のなかの一つの支分を除いて、三つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知することができますか。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょうか。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、できます。まさに、これらの四つの支分のなかの諸々の呪文を、〔わたしたちは〕除きます。まさに、諸々の呪文が、何を為すというのでしょう。貴君ゴータマよ、すなわち、まさに、婆羅門が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、(2)かつまた、戒ある者として、増大した戒ある者として、増大した戒を具備した者として、〔世に〕有り、(3)さらに、賢者であり、思慮ある者であり、〔献供の〕杓子を差し出す者たちのなかの、あるいは、第一の者として、あるいは、第二の者として、〔世に〕有ることから、貴君ゴータマよ、まさに、これらの三つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう」と。

 

 「婆羅門よ、また、これらの三つの支分のなかの一つの支分を除いて、二つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知することができますか。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょうか。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、できます。まさに、これらの三つの支分のなかの出生を、〔わたしたちは〕除きます。まさに、出生が、何を為すというのでしょう。貴君ゴータマよ、すなわち、まさに、婆羅門が、(1)戒ある者として、増大した戒ある者として、増大した戒を具備した者として、〔世に〕有り、(2)さらに、賢者であり、思慮ある者であり、〔献供の〕杓子を差し出す者たちのなかの、あるいは、第一の者として、あるいは、第二の者として、〔世に〕有ることから、貴君ゴータマよ、まさに、これらの二つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう」と。

 

313. このように説かれたとき、それらの婆羅門たちは、ソーナダンダ婆羅門に、こう言いました。「貴君ソーナダンダは、このように言ってはいけません。貴君ソーナダンダは、このように言ってはいけません。貴君ソーナダンダは、一方的に、まさしく、色艶を排斥し、諸々の呪文を排斥し、出生を排斥します。貴君ソーナダンダは、まさしく、沙門ゴータマの論に取り入ります」と。

 

314. そこで、まさに、世尊は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「婆羅門たちよ(※)、それで、もし、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕有るなら、『かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、少聞の者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、善き言葉遣いなき者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、智慧浅き者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、沙門ゴータマを相手に、この言葉について応対することができない』と、ソーナダンダ婆羅門のことはさておき、あなたたちが、わたしを相手に、この言葉について応対しなさい。婆羅門たちよ、また、それで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕有るなら、『かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、多聞の者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、善き言葉遣いある者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、賢者であり、かつまた、ソーナダンダ婆羅門は、沙門ゴータマを相手に、この言葉について応対することができる』と、あなたたちのことはさておき、ソーナダンダ婆羅門が、わたしを相手に、この言葉について応対しなさい」と。

 

※ テキストには brāhmaāna とあるが、PTS版により brāhmaā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

315. このように説かれたとき、ソーナダンダ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、さておきたまえ。貴君ゴータマは、沈黙の者と成りたまえ。まさしく、わたしが、彼らに、法(真理)を共にする反論の言葉を為しましょう」と。そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「貴君たちは、このように言ってはいけません。貴君たちは、このように言ってはいけません。『貴君ソーナダンダは、一方的に、まさしく、色艶を排斥し、諸々の呪文を排斥し、出生を排斥します。貴君ソーナダンダは、まさしく、沙門ゴータマの論に取り入ります』と。君よ、わたしが、あるいは、色艶を、あるいは、諸々の呪文を、あるいは、出生を、排斥することはありません」と。

 

316. また、まさに、その時点にあって、ソーナダンダ婆羅門の甥であるアンガカという名の学生が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「まさに、貴君たちは、わたしの甥であるアンガカ学生を見ますか」と。「君よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「君よ、まさに、アンガカ学生は、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。彼には、この衆において、色艶〔の観点〕によって、等しく同等の者は存在しません──沙門ゴータマを除いて。まさに、アンガカ学生は、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。わたしは、彼の諸々の呪文の教授者です。まさに、アンガカ学生は、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。わたしは、彼の母と父を知っています。まさに、アンガカ学生が、また、命あるものを殺すなら、また、与えられたものを取るなら、また、他者の妻のもとに赴くなら、また、虚偽を話すなら、また、酔わせるもの(酒)を飲むなら、君よ、ここにおいて、今や、色艶が、何を為すというのでしょう。諸々の呪文が、何を為すというのでしょう。出生が、何を為すというのでしょう。君よ、すなわち、まさに、すなわち、まさに、婆羅門が、そして、戒ある者として、増大した戒ある者として、増大した戒を具備した者として、〔世に〕有り、さらに、賢者であり、思慮ある者であり、〔献供の〕杓子を差し出す者たちのなかの、あるいは、第一の者として、あるいは、第二の者として、〔世に〕有ることから、君よ、まさに、これらの二つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知します。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょう。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょう」と。

 

 戒と智慧の話

 

317. 「婆羅門よ、また、これらの二つの支分のなかの一つの支分を除いて、一つの支分を具備した者を、婆羅門たちは、婆羅門と報知することができますか。かつまた、〔彼は〕『婆羅門として、〔わたしは〕存している』と、正しく説きつつ説くでしょうか。また、そして、虚偽の論を惹起しないでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、戒によって遍く洗い清められたものとして、智慧はあり、智慧によって遍く洗い清められたものとして、戒はあります。そこにおいて、戒があるなら、そこにおいて、智慧があり、そこにおいて、智慧があるなら、そこにおいて、戒があります。戒ある者には、智慧があり、智慧ある者には、戒があります。また、そして、戒と智慧は、世において、至高のものと告げ知らされます。貴君ゴータマよ、それは、すなわち、また、あるいは、手によって手を洗い清めるように、あるいは、足によって足を洗い清めるように、貴君ゴータマよ、まさしく、このように、まさに、戒によって遍く洗い清められたものとして、智慧はあり、智慧によって遍く洗い清められたものとして、戒はあります。そこにおいて、戒があるなら、そこにおいて、智慧があり、そこにおいて、智慧があるなら、そこにおいて、戒があります。戒ある者には、智慧があり、智慧ある者には、戒があります。また、そして、戒と智慧は、世において、至高のものと告げ知らされます」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、まさに、戒によって遍く洗い清められたものとして、智慧はあり、智慧によって遍く洗い清められたものとして、戒はあります。そこにおいて、戒があるなら、そこにおいて、智慧があり、そこにおいて、智慧があるなら、そこにおいて、戒があります。戒ある者には、智慧があり、智慧ある者には、戒があります。また、そして、戒と智慧は、世において、至高のものと告げ知らされます。婆羅門よ、それは、すなわち、また、あるいは、手によって手を洗い清めるように、あるいは、足によって足を洗い清めるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、戒によって遍く洗い清められたものとして、智慧はあり、智慧によって遍く洗い清められたものとして、戒はあります。そこにおいて、戒があるなら、そこにおいて、智慧があり、そこにおいて、智慧があるなら、そこにおいて、戒があります。戒ある者には、智慧があり、智慧ある者には、戒があります。また、そして、戒と智慧は、世において、至高のものと告げ知らされます。

 

318. 婆羅門よ、また、どのようなものが、その戒なのですか。どのようなものが、その智慧なのですか」と。「貴君ゴータマよ、この義(意味)については、まさしく、これだけのものを最高とする、わたしたちです(これ以上のことは不明です)。どうか、まさに、まさしく、貴君ゴータマに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(貴君ゴータマこそが答えてください)」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「婆羅門よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……(すなわち、190-212において断絶なくあるように、そのように詳知されるべきである)。婆羅門よ、このように、まさに、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。婆羅門よ、これが、まさに、その戒となります。……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。……略……。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。婆羅門よ、これが、まさに、その智慧となります」と。

 

 ソーナダンダの在俗信者たることの宣言

 

319. このように説かれたとき、ソーナダンダ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。そして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

320. そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、ソーナダンダ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。

 

321. そこで、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ソーナダンダ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、そして、わたしが、衆に赴き、〔そのように〕存しつつ、坐から立ち上がって、貴君ゴータマを敬拝するなら、それによって、わたしのことを、その衆は貶めるでしょう。また、まさに、その者のことを、その衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するでしょう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するでしょう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのです。貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、そして、わたしが、衆に赴き、〔そのように〕存しつつ、合掌を差し出すなら、貴君ゴータマは、それを、わたしの、坐からの立礼と認めたまえ。貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、さらに、わたしが、衆に赴き、〔そのように〕存しつつ、頭巾を脱ぐなら、貴君ゴータマは、それを、わたしの、頭をもっての敬拝と認めたまえ。貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、そして、わたしが、乗物に赴き、〔そのように〕存しつつ、乗物から降りて、貴君ゴータマを敬拝するなら、それによって、わたしのことを、その衆は貶めるでしょう。また、まさに、その者のことを、その衆が貶めるなら、その者の盛名もまた衰退するでしょう。また、まさに、その者の盛名が衰退するなら、その者の諸々の財物もまた衰退するでしょう。また、まさに、盛名によって得られたのが、わたしたちの財物なのです。貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、そして、わたしが、乗物に赴き、〔そのように〕存しつつ、鞭杖を反り起こすなら、貴君ゴータマは、それを、わたしの、乗物からの降下と認めたまえ。貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、さらに、わたしが、乗物に赴き、〔そのように〕存しつつ、傘蓋を取り去るなら、貴君ゴータマは、それを、わたしの、頭をもっての敬拝と認めたまえ」と。

 

322. そこで、まさに、世尊は、ソーナダンダ婆羅門に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。

 

 ソーナダンダの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。