長部経典(ディーガ・ニカーヤ)
大いなるものの部の聖典(大篇・下)
【目次】
4(17). マハー・スダッサナの経(241.~)
5(18). ジャナヴァサバの経(273.~)
6(19). マハー・ゴーヴィンダの経(293.~)
7(20). 大いなる集いの経(331.~)
8(21). 帝釈〔天〕の問いの経(344.~)
9(22). 大いなる気づきの確立の経(372.~)
10(23). パーヤーシの経(406.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
大いなるものの部の聖典(大篇・下)
4(17). マハー・スダッサナの経
241. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林において、対なるサーラ〔樹〕(沙羅双樹)の間にあって、完全なる涅槃の時のこと。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、この、小さな城市において、不毛の城市において、枝葉の城市において、完全なる涅槃に到達してはいけません。尊き方よ、他の諸々の大いなる城市が存在します──それは、すなわち、この、チャンパーが、ラージャガハが、サーヴァッティーが、サーケータが、コーサンビーが、バーラーナシーが。ここにおいて、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。ここにおいて、多くの、士族の大家たちが、婆羅門の大家たちが、家長の大家たちが、如来にたいし大いに浄信した者たちがいます。彼らは、如来の肉体の供養を為すでしょう」と。
242. 「アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。『小さな城市であり、不毛の城市であり、枝葉の城市である』と。
クサーヴァティー王都
アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、マハー・スダッサナという名の即位灌頂した王たる士族が、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このクシナーラーが、クサーヴァティーという名の王都として有りました。かつまた、東に、かつまた、西に、長さとして、十二ヨージャナとなり、かつまた、北に、かつまた、南に、幅として、七ヨージャナとなります。アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、人間たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、天〔の神々〕たちのアーラカマンダーという名の王都が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、夜叉たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、人間たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有りました。アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、昼も、さらに、夜も、十〔種〕の音声から遠離することなく有りました──それは、すなわち、この、象の音声から、馬の音声から、車の音声から、太鼓の音声から、小鼓の音声から、琵琶の音声から、歌詠の音声から、法螺貝の音声から、鐃(シンバル)の音声から、手拍子の音声から、『食べなさい、飲みなさい、喰いなさい』という、第十の音声から。
アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、七つの城壁で遍く囲まれたものとして有りました。一つの城壁は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られ、一つは紅玉で作られ、一つは瑪瑙で作られ、一つは全ての宝玉で作られています。アーナンダよ、クサーヴァティー王都には、四つの種別ある門が有りました。一つの門は金で作られ、一つ銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。一つ一つの門において、七つ七つの埋められた石柱が有りました。三ポーリサ(高さの単位・一ポーリサは人の身長に該当)の周囲があり、三ポーリサに埋められ、高さとしては十二ポーリサとなり、一つの石柱は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られ、一つは紅玉で作られ、一つは瑪瑙で作られ、一つは全ての宝玉で作られています。アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、七つのターラ〔樹〕の並木で遍く囲まれたものとして有りました。一つのターラ〔樹〕の並木は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られ、一つは紅玉で作られ、一つは瑪瑙で作られ、一つは全ての宝玉で作られています。金で作られているターラ〔樹〕には、金で作られている幹が有りました──そして、銀で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。銀で作られているターラ〔樹〕には、銀で作られている幹が有りました──そして、金で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。瑠璃で作られているターラ〔樹〕には、瑠璃で作られている幹が有りました──そして、水晶で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。水晶で作られているターラ〔樹〕には、水晶で作られている幹が有りました──そして、瑠璃で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。紅玉で作られているターラ〔樹〕には、紅玉で作られている幹が有りました──そして、瑪瑙で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。瑪瑙で作られているターラ〔樹〕には、瑪瑙で作られている幹が有りました──そして、紅玉で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。全ての宝玉で作られているターラ〔樹〕には、全ての宝玉で作られている幹が有りました──全ての宝玉で作られている、そして、諸々の葉が、さらに、諸々の果が。アーナンダよ、また、まさに、それらのターラ〔樹〕の並木が、風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり(※)、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、五つの支分ある楽器が、善く調律され、善く打ち叩かれ、極めて巧みな奏者たちによって等しく演じられたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらのターラ〔樹〕の並木が風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、その時点にあって、クサーヴァティー王都に有った、博徒たちや大酒飲みの酔漢たちは、彼らは、それらのターラ〔樹〕の並木が風に揺られたなら、〔その〕音声によって楽しんだのでした(それで十分に満足した)。
※ テキストには khamanīyo とあるが、PTS版により kamanīyo と読む。以下の平行箇所も同様。
車輪の宝
243. アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました──そして、四つの神通を〔具備した者として〕。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)アーナンダよ、ここに、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った、マハー・スダッサナ王に、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現しました。〔それを〕見て、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、このことを、わたしは聞いた。「すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った、即位灌頂した王たる士族に、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現するなら、彼は、転輪王と成る」と。いったい、まさに、わたしは、転輪王として〔世に〕存するのであろうか』と。
244. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、左手で金の水差しを掴んで、右手で車輪の宝に降り注ぎました。『尊き車輪の宝は転起せよ。尊き車輪の宝は征圧せよ』と。アーナンダよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の方角に転起しました──まさしく、付き従って、マハー・スダッサナ王も、四つの支分ある軍団と共に。アーナンダよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住したなら、そこにおいて、マハー・スダッサナ王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。マハー・スダッサナ王は、このように言いました。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は話されるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、マハー・スダッサナ王に従い行く者たちと成りました。アーナンダよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、南の方角に転起しました……略……南の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、西の方角に転起しました……西の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、北の方角に転起しました──まさしく、付き従って、マハー・スダッサナ王も、四つの支分ある軍団と共に。アーナンダよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住したなら、そこにおいて、マハー・スダッサナ王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。マハー・スダッサナ王は、このように言いました。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は話されるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、マハー・スダッサナ王に従い行く者たちと成りました。
245. アーナンダよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、海を極限とする地を征圧して、クサーヴァティー王都に帰還して、マハー・スダッサナ王の内宮の門において、裁きの場の玄関において、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ちました──マハー・スダッサナ王の内宮を美しく荘厳しながら。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の車輪の宝が出現しました。
象の宝
246. (2)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、象の宝が出現しました。純白で、〔手足と鼻と尾と陰茎の〕七つの〔身体の〕支えがあり、神通があり、宙を赴く、ウポーサタという名の象王です。それを見て、マハー・スダッサナ王の心は浄信しました。『ああ、まさに、幸いなる象の乗物だ。それで、もし、調御に従事するなら』と。アーナンダよ、そこで、まさに、その象の宝は、それは、たとえば、また、まさに、長夜にわたり完全無欠に調御された賢く善き生まれの象のように(※)、まさしく、このように、調御に従事しました。アーナンダよ、過去の事ですが、マハー・スダッサナ王は、まさしく、その象の宝〔の能力〕を審査しながら、早刻時に、〔それに〕乗って、海を極限とする地を巡り行って、クサーヴァティー王都に帰還して、朝食を取りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の象の宝が出現しました。
※ テキストには gandhahatthājāniyo とあるが、PTS版により bhaddo hatthājāniyo と読む。
馬の宝
247. (3)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、馬の宝が出現しました。純白で、頭が黒く、ムンジャ〔草〕のようなたてがみの、神通があり、宙を赴く、ヴァラーハカという名の馬王です。それを見て、マハー・スダッサナ王の心は浄信しました。『ああ、まさに、幸いなる馬の乗物だ。それで、もし、調御に従事するなら』と。アーナンダよ、そこで、まさに、その馬の宝は、それは、たとえば、また、まさに、長夜にわたり完全無欠に調御された賢馬にして良馬たる馬のように、まさしく、このように、調御に従事しました。アーナンダよ、過去の事ですが、マハー・スダッサナ王は、まさしく、その馬の宝〔の能力〕を審査しながら、早刻時に、〔それに〕乗って、海を極限とする地を巡り行って、クサーヴァティー王都に帰還して、朝食を取りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の馬の宝が出現しました。
宝珠の宝
248. (4)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、宝珠の宝が出現しました。それは、善く事前作業が為された八面体の、透明で、澄浄で、混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠として〔世に〕有りました。アーナンダよ、また、まさに、その宝珠の宝の光は、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナに充満したものと成りました。アーナンダよ、過去の事ですが、マハー・スダッサナ王は、まさしく、その宝珠の宝〔の能力〕を審査しながら、四つの支分ある軍団を武装して、宝珠を旗の先端に掲げて、漆黒の闇夜のなか、出発しました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、遍きにわたり、村の者たちとして〔世に〕有った、それらの者たちは、その光によって、諸々の生業に専念しました──『昼だ』と思い考えながら。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の宝珠の宝が出現しました。
婦女の宝
249. (5)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、婦女の宝が出現しました。形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備し、高過ぎず、低過ぎず、痩せ過ぎず、太り過ぎず、黒過ぎず、白過ぎず、天の色艶には至り得ないも、人間の色艶を超え行った者です。アーナンダよ、また、まさに、その婦女の宝には、このような形態の身体の感触が有ります──それは、たとえば、また、まさに、あるいは、木綿の〔感触〕のように、あるいは、生綿の〔感触〕のように。アーナンダよ、また、まさに、その婦女の宝には、寒いときは暖かい五体が有り、暑いときは涼しい五体が〔有ります〕。アーナンダよ、また、まさに、その婦女の宝の、身体からは、栴檀の香りが香りただよい、口からは、青蓮の香りが〔香りただよいます〕。アーナンダよ、また、まさに、その婦女の宝は、マハー・スダッサナ王のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、また、まさに、その婦女の宝は、マハー・スダッサナ王に、たとえ、意によっても背くことはありませんでした。また、どうして、身体によって〔背くというのでしょう〕。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の婦女の宝が出現しました。
家長の宝
250. (6)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、家長の宝が出現しました。彼(家長)には、行為の報いから生じる天眼が出現しました。それによって、〔彼は〕財宝を見ます──所有者を有するものもまた、所有者なきものもまた。彼は、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『陛下よ、あなたは、思い入れ少なき者と成りたまえ。わたしが、あなたの財によって、財によって為すべきことを為しましょう』と。アーナンダよ、過去の事ですが、マハー・スダッサナ王は、まさしく、その家長の宝〔の能力〕を審査しながら、船に乗って、ガンガー川の中央において流れに入って、家長の宝に、こう言いました。『家長よ、わたしには、金貨と黄金に義(目的)がある』と。『大王よ、まさに、それでは、一つの岸に、船を近づけてください』と。『家長よ、まさしく、ここに、わたしには、金貨と黄金に義(目的)がある』と。アーナンダよ、そこで、まさに、その家長の宝は、両手で水に触れて、金貨と黄金に満ちる瓶を引き上げて、マハー・スダッサナ王に、こう言いました。『大王よ、これだけで、十分ですか。大王よ、これだけで、為すところとなりましたか。大王よ、これだけで、供養するところとなりましたか』と。マハー・スダッサナ王は、このように言いました。『家長よ、これだけで、十分である。大王よ、これだけで、為すところとなった。大王よ、これだけで、供養するところとなった』と。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の家長の宝が出現しました。
参謀の宝
251. (7)アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王には、参謀の宝が出現しました。賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、マハー・スダッサナ王に、接近させるべきところに接近させ、離去させるべきところに離去させ、止住させるべきところに止住させる能力ある者です。彼は、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『陛下よ、あなたは、思い入れ少なき者と成りたまえ。わたしが統治しましょう』と。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このような形態の参謀の宝が出現しました。
アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、これらの七つの宝を具備した者として〔世に〕有りました。
四つの神通を具備した者
252. アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、四つの神通を具備した者として〔世に〕有りました。どのようなものが、四つの神通なのですか。アーナンダよ、ここに、マハー・スダッサナ王は、他の人間たちより極端に、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、この第一の神通を具備した者として〔世に〕有りました。
アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王は、他の人間たちより極端に、長寿の者として、長きに止住する者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、この第二の神通を具備した者として〔世に〕有りました。
アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王は、他の人間たちより極端に、病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有りました──寒過ぎず暑過ぎず正しく消化する消化器官を具備した者として。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、この第三の神通を具備した者として〔世に〕有りました。
アーナンダよ、さらに、また、他に、マハー・スダッサナ王は、婆羅門や家長たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、父が、子たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、マハー・スダッサナ王は、婆羅門や家長たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王にとってもまた、婆羅門や家長たちは、愛しく意に適う者たちとして〔世に〕有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、父にとって、子たちが、愛しく意に適う者として〔世に〕有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、マハー・スダッサナ王にとってもまた、婆羅門や家長たちは、愛しく意に適う者たちとして〔世に〕有りました。
アーナンダよ、過去の事ですが、マハー・スダッサナ王は、四つの支分ある軍団とともに、庭園のある地に出かけました。アーナンダよ、そこで、まさに、婆羅門や家長たちは、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『陛下よ、急ぐことなく行きたまえ。すなわち、あなたを、わたしたちが、より長く見られるように』と。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王もまた、馭者に告げました。『馭者よ、急ぐことなく車を進めよ。すなわち、わたしが、婆羅門や家長たちを、より長く見られるように』と。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、この第四の神通を具備した者として〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、これらの四つの神通を具備した者として〔世に〕有りました。
ダンマ高楼と蓮池
253. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、これらのターラ〔樹〕の並木のあいだ、百ダヌ(尋:長さの単位・ダヌは弓)ごとに、諸々の蓮池を造作するのだ』と。
アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、それらのターラ〔樹〕の並木のあいだ、百ダヌごとに、諸々の蓮池を造作しました。アーナンダよ、また、まさに、それらの蓮池は、四つの種別ある諸々の煉瓦で積み上げられたものとして有りました。一つの煉瓦は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。
アーナンダよ、また、まさに、それらの蓮池において、四つの種別ある、四つ四つの階段が有りました。一つの階段は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。金で作られている階段には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている階段には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。瑠璃で作られている階段には、瑠璃で作られている諸々の柱が有りました──そして、水晶で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。水晶で作られている階段には、水晶で作られている諸々の柱が有りました──そして、瑠璃で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。アーナンダよ、また、まさに、それらの蓮池は、二つの欄干で遍く囲まれたものとして有りました。一つの欄干は金で作られ、一つは銀で作られています。金で作られている欄干には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている欄干には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、これらの蓮池において、このような形態の花を育てさせるのだ──全ての季節に全ての人に開放されているものとして、青蓮を、赤蓮を、黄蓮を、白蓮を』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、それらの蓮池において、このような形態の花を育てさせました──全ての季節に全ての人に開放されているものとして、青蓮を、赤蓮を、黄蓮を、白蓮を。
254. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、これらの蓮池の岸辺において、沐浴師の下僕たちを据え置くのだ。彼らは、やってきた〔人〕やってきた人を沐浴させるであろう』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、それらの蓮池の岸辺において、沐浴師の下僕たちを据え置きました。彼らは、やってきた〔人〕やってきた人を沐浴させました。
アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、これらの蓮池の岸辺において、このような形態の布施を設立するのだ──食べ物を義(目的)とする者には食べ物を、飲み物を義(目的)とする者には飲み物を、衣を義(目的)とする者には衣を、乗物を義(目的)とする者には乗物を、臥具を義(目的)とする者には臥具を、婦女を義(目的)とする者には婦女を、金貨を義(目的)とする者には金貨を、金を義(目的)とする者には金を』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、それらの蓮池の岸辺において、このような形態の布施を設立しました──食べ物を義(目的)とする者には食べ物を、飲み物を義(目的)とする者には飲み物を、衣を義(目的)とする者には衣を、乗物を義(目的)とする者には乗物を、臥具を義(目的)とする者には臥具を、婦女を義(目的)とする者には婦女を、金貨を義(目的)とする者には金貨を、金を義(目的)とする者には金を。
255. アーナンダよ、そこで、まさに、婆羅門や家長たちが、沢山の自らの所有物を携えて、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『陛下よ、この沢山の自らの所有物は、まさしく、陛下を指定して運ばれたものです。それを、陛下は納受したまえ』と。『君よ、十分である。わたしにもまた、この沢山の自らの所有物がある。法(正義)にかなう税によって行作されたものである。そして、その〔運ばれたもの〕は、あなたたちに有れ。さらに、この〔税によって行作されたもの〕から、より一層に持ち運ぶのだ』と。彼らは、王に拒絶され、一方に立ち去って、このように等しく思弁しました。『まさに、このことは、わたしたちにとって、適切なることではない。すなわち、わたしたちが、これらの自らの所有物を、まさしく、ふたたび、自らの家々に持ち帰るなら。それなら、さあ、わたしたちは、マハー・スダッサナ王のために、住居地を造作するのだ』と。彼らは、近づいて行って、マハー・スダッサナ王に、このように言いました。『陛下よ、あなたのために、〔わたしたちは〕住居地を造作しましょう』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、沈黙の状態をもって承諾しました。
256. アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕は、〔自らの〕心をとおして、マハー・スダッサナ王の心の思索を了知して、ヴィッサカンマ天子に告げました。『友よ、ヴィッサカンマよ、さあ、あなたは、マハー・スダッサナ王のために、住居地を造作しなさい──ダンマという名の高楼を』と。アーナンダよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、ヴィッサカンマ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、マハー・スダッサナ王の前に出現しました。アーナンダよ、そこで、まさに、ヴィッサカンマ天子は、マハー・スダッサナ王に、こう言いました。『陛下よ、あなたのために、〔わたしは〕住居地を造作しましょう──ダンマという名の高楼を』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、沈黙の状態をもって承諾しました。
アーナンダよ、まさに、ヴィッサカンマ天子は、マハー・スダッサナ王のために、住居地を造作しました──ダンマという名の高楼を。アーナンダよ、ダンマ高楼は、そして、東と西に、長さとして、〔一〕ヨージャナと成り、さらに、北と南に、幅として、半ヨージャナと〔成りました〕。アーナンダよ、ダンマ高楼の土台は、高さとして三ポーリサの、四つの種別ある諸々の煉瓦で積み上げられたものとして有りました。一つの煉瓦は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。
アーナンダよ、ダンマ高楼には、四つの種別ある八万四千の柱が有りました。一つの柱は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。アーナンダよ、ダンマ高楼は、四つの種別ある諸々の延べ板で取り囲まれたものとして有りました。一つの延べ板は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。
アーナンダよ、ダンマ高楼には、四つの種別ある二十四の階段が有りました。一つの階段は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。金で作られている階段には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている階段には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。瑠璃で作られている階段には、瑠璃で作られている諸々の柱が有りました──そして、水晶で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。水晶で作られている階段には、水晶で作られている諸々の柱が有りました──そして、瑠璃で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。
アーナンダよ、ダンマ高楼においては、四つの種別ある八万四千の楼閣が有りました。一つの楼閣は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。金で作られている楼閣においては、銀で作られている寝台が設置されたものとして有りました。銀で作られている楼閣においては、金で作られている寝台が設置されたものとして有りました。瑠璃で作られている楼閣においては、象牙で作られている寝台が設置されたものとして有りました。水晶で作られている楼閣においては、硬材で作られている寝台が設置されたものとして有りました。金で作られている楼閣の門においては、銀で作られているターラ〔樹〕の立木が有りました。それには、銀で作られている幹が〔有りました〕──そして、金で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。銀で作られている楼閣の門においては、金で作られているターラ〔樹〕の立木が有りました。それには、金で作られている幹が〔有りました〕──そして、銀で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。瑠璃で作られている楼閣の門においては、水晶で作られているターラ〔樹〕の立木が有りました。それには、水晶で作られている幹が〔有りました〕──そして、瑠璃で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。水晶で作られている楼閣の門においては、瑠璃で作られているターラ〔樹〕の立木が有りました。それには、瑠璃で作られている幹が〔有りました〕──そして、水晶で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。
257. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、マハー・ヴィユーハ楼閣(大いなる均整ある楼閣)の門において、全てが金で作られているターラ〔樹〕の林を造作するのだ。そこにおいて、〔わたしが〕昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために坐ることになる、〔そのような林を〕』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、マハー・ヴィユーハ楼閣の門において、全てが金で作られているターラ〔樹〕の林を造作しました。そこにおいて、〔彼が〕昼の休息のために坐った、〔そのような林を〕。アーナンダよ、ダンマ高楼は、二つの欄干で遍く囲まれたものとして有りました。一つの欄干は金で作られ、一つは銀で作られています。金で作られている欄干には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている欄干には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。
258. アーナンダよ、ダンマ高楼は、二つの鈴の網で遍く囲まれたものとして有りました。一つの網は金で作られ、一つは銀で作られています。金で作られている網には、銀で作られている諸々の鈴が有りました。銀で作られている網には、金で作られている諸々の鈴が有りました。アーナンダよ、また、まさに、それらの鈴の網が、風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、五つの支分ある楽器が、善く調律され、善く打ち叩かれ、極めて巧みな奏者たちによって等しく演じられたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらの鈴の網が風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、その時点にあって、クサーヴァティー王都に有った、博徒たちや大酒飲みの酔漢たちは、彼らは、それらの鈴の網が風に揺られたなら、〔その〕音声によって楽しんだのでした。アーナンダよ、また、まさに、出来上がったダンマ高楼は、凝視し難く、〔両の〕眼をくらますものとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、凝視し難く、〔両の〕眼をくらますものとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、ダンマ高楼は、凝視し難く、〔両の〕眼をくらますものとして有りました。
259. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、ダンマ高楼の前に、ダンマという名の蓮池を造作するのだ』と。アーナンダよ、まさに、マハー・スダッサナ王は、ダンマ高楼の前に、ダンマという名の蓮池を造作しました。アーナンダよ、ダンマ蓮池は、そして、東と西に、長さとして、〔一〕ヨージャナと成り、さらに、北と南に、幅として、半ヨージャナと〔成りました〕。アーナンダよ、ダンマ蓮池は、四つの種別ある諸々の煉瓦で積み上げられたものとして有りました。一つの煉瓦は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。
アーナンダよ、ダンマ蓮池には、四つの種別ある、二十四の階段が有りました。一つの階段は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られています。金で作られている階段には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている階段には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。瑠璃で作られている階段には、瑠璃で作られている諸々の柱が有りました──そして、水晶で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。水晶で作られている階段には、水晶で作られている諸々の柱が有りました──そして、瑠璃で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。
アーナンダよ、ダンマ蓮池は、二つの欄干で遍く囲まれたものとして有りました。一つの欄干は金で作られ、一つは銀で作られています。金で作られている欄干には、金で作られている諸々の柱が有りました──そして、銀で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。銀で作られている欄干には、銀で作られている諸々の柱が有りました──そして、金で作られている諸々の楔が、さらに、笠木が。
アーナンダよ、ダンマ蓮池は、七つのターラ〔樹〕の並木で遍く囲まれたものとして有りました。一つのターラ〔樹〕の並木は金で作られ、一つは銀で作られ、一つは瑠璃で作られ、一つは水晶で作られ、一つは紅玉で作られ、一つは瑪瑙で作られ、一つは全ての宝玉で作られています。金で作られているターラ〔樹〕には、金で作られている幹が有りました──そして、銀で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。銀で作られているターラ〔樹〕には、銀で作られている幹が有りました──そして、金で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。瑠璃で作られているターラ〔樹〕には、瑠璃で作られている幹が有りました──そして、水晶で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。水晶で作られているターラ〔樹〕には、水晶で作られている幹が有りました──そして、瑠璃で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。紅玉で作られているターラ〔樹〕には、紅玉で作られている幹が有りました──そして、瑪瑙で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。瑪瑙で作られているターラ〔樹〕には、瑪瑙で作られている幹が有りました──そして、紅玉で作られている諸々の葉が、さらに、諸々の果が。全ての宝玉で作られているターラ〔樹〕には、全ての宝玉で作られている幹が有りました──全ての宝玉で作られている、そして、諸々の葉が、さらに、諸々の果が。アーナンダよ、また、まさに、それらのターラ〔樹〕の並木が、風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、五つの支分ある楽器が、善く調律され、善く打ち叩かれ、極めて巧みな奏者たちによって等しく演じられたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらのターラ〔樹〕の並木が風に揺られたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有りました。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、その時点にあって、クサーヴァティー王都に有った、博徒たちや大酒飲みの酔漢たちは、彼らは、それらのターラ〔樹〕の並木が風に揺られたなら、〔その〕音声によって楽しんだのでした。
アーナンダよ、また、まさに、ダンマ高楼が出来上がったとき、そして、ダンマ蓮池が出来上がったとき、マハー・スダッサナ王は、それらの者たちが、その時点において、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであるなら、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちであるなら、彼らを、全ての欲望〔の対象〕によって満足させて、ダンマ高楼に登りました。
〔以上が〕第一の朗読分となる。
瞑想の得達
260. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、これは、わたしの、どのような行為の果であるのか、どのような行為の報いであるのか。それによって、わたしは、今現在、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者であるのだ』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『まさに、これは、わたしの、三つの行為の果であり、三つの行為の報いである。その〔行為〕によって、わたしは、今現在、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者であるのだ。それは、すなわち、この、布施であり、調御であり、自制である』と。
アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、マハー・ヴィユーハ楼閣のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マハー・ヴィユーハ楼閣の門において立ち、感興〔の言葉〕を唱えました。『欲望の思考よ、止まれ。憎悪の思考よ、止まれ。悩害の思考よ、止まれ。欲望の思考よ、これまでだ。憎悪の思考よ、これまでだ。悩害の思考よ、これまでだ』と。
261. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、マハー・ヴィユーハ楼閣に入って、金で作られている寝台において坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。
262. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、マハー・ヴィユーハ楼閣から出て、金で作られている楼閣に入って、銀で作られている寝台において坐り、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。
八万四千の城市等
263. アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、クサーヴァティー王都を筆頭とする八万四千の城市が有りました。ダンマ高楼を筆頭とする八万四千の高楼が有りました。マハー・ヴィユーハ楼閣を筆頭とする八万四千の楼閣が有りました。毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、金で作られ、銀で作られ、象牙で作られ、硬材で作られている、八万四千の寝台が有りました。金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、八万四千の象が有りました。金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、八万四千の馬が有りました。獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、八万四千の車が有りました。宝珠の宝を筆頭とする、八万四千の宝珠が有りました。スバッダー王妃を筆頭とする、八万四千の婦女が有りました。家長の宝を筆頭とする、八万四千の家長が有りました。従い行く者たちとして、参謀の宝を筆頭とする、八万四千の士族が有りました。黄麻のつなぎ紐があり(※)、銅の容器がある、八万四千の乳牛が有りました。繊細なる麻布の、繊細なる木綿の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、八万四千コーティ(数の単位・千万)の衣装が有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、八万四千の〔献上用の〕盛り物が有りました。夕に、朝に、食事の提供があり、〔彼のもとに〕運ばれました。
※ テキストには duhasandanāni dukūlasandānāni とあるが、PTS版により duhasandanāni を削除する。
264. アーナンダよ、また、まさに、その時点にあって、マハー・スダッサナ王のために、八万四千の象が、夕に、朝に、奉仕にやってきます。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしのために、これらの八万四千の象が、夕に、朝に、奉仕にやってくる。それなら、さあ、百年が〔経過し〕百年が経過しては、それぞれに四万二千の象が、一度ずつ、奉仕にやってくるべきである』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、参謀の宝に告げました。『友よ、参謀の宝よ、まさに、わたしのために、これらの八万四千の象が、夕に、朝に、奉仕にやってくる。友よ、参謀の宝よ、まさに、それでは、百年が〔経過し〕百年が経過しては、それぞれに四万二千の象が、一度ずつ、奉仕にやってくるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、参謀の宝は、マハー・スダッサナ王に答えました。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王のために、他時にあって、百年が〔経過し〕百年が経過しては、それぞれに四万二千の象が、一度ずつ、奉仕にやってきました。
スバッダー王妃の来参
265. アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃に、数年、数百年、数千年が経過して、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが、マハー・スダッサナ王を見たのは、〔今や〕長きこととなる(長いこと見ていない)。それなら、さあ、わたしは、マハー・スダッサナ王と会見するために近づいて行くのだ』と。アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃は、宮女に告げました。『さあ、あなたたちは、頭を洗い清め、黄の衣を着なさい。わたしたちが、マハー・スダッサナ王を見たのは、〔今や〕長きこととなります。マハー・スダッサナ王と会見するために近づいて行くのです』と。アーナンダよ、『尊貴なる方よ、わかりました』と、まさに、宮女は、スバッダー王妃に答えて、頭を洗い清めて、黄の衣を着て、スバッダー王妃のいるところに、そこへと近づいて行きました。アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃は、参謀の宝に告げました。『友よ、参謀の宝よ、四つの支分ある軍団を整えなさい。わたしたちが、マハー・スダッサナ王を見たのは、〔今や〕長きこととなります。マハー・スダッサナ王と会見するために近づいて行くのです』と。アーナンダよ、『王妃よ、わかりました』と、まさに、参謀の宝は、スバッダー王妃に答えて、四つの支分ある軍団を整えて、スバッダー王妃に知らせました。『王妃よ、まさに、四つの支分ある軍団が整えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃は、四つの支分ある軍団と共に、宮女と〔共に〕、ダンマ高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ダンマ高楼に登って、マハー・ヴィユーハ楼閣のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マハー・ヴィユーハ楼閣の門の脇にもたれかかって立ちました。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、音声を聞いて、『いったい、まさに、何なのだ。大いなる人の衆の音声のようだ』と、マハー・ヴィユーハ楼閣から出つつ、スバッダー王妃が、門の脇にもたれかかって立っているのを見ました。見て、スバッダー王妃に、こう言いました。『王妃よ、まさしく、ここにおいて、止まりなさい。入ってはいけない』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、或るひとりの家来に告げました。『さて、家来よ、さあ、おまえは、マハー・ヴィユーハ楼閣から、金で作られている寝台を運び出して、全てが金で作られているターラ〔樹〕の林のなかに設置しなさい』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その家来は、マハー・スダッサナ王に答えて、マハー・ヴィユーハ楼閣から、金で作られている寝台を運び出して、全てが金で作られているターラ〔樹〕の林のなかに設置しました。アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました(右脇を下にして獅子のように臥した)──気づきと正知の者として。
266. アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃に、この〔思い〕が有りました。『まさに、マハー・スダッサナ王の、諸々の〔感官の〕機能(根)は澄浄で、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白である。まさに、マハー・スダッサナ王が命を終えることが、まさしく、まさに、あってはならない』と。〔彼女は〕マハー・スダッサナ王に、こう言いました。
『陛下よ、あなたには、クサーヴァティー王都を筆頭とする、これらの八万四千の城市があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、ダンマ高楼を筆頭とする、これらの八万四千の高楼があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、マハー・ヴィユーハ楼閣を筆頭とする、これらの八万四千の楼閣があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、金で作られ、銀で作られ、象牙で作られ、硬材で作られている、これらの八万四千の寝台があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、これらの八万四千の象があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、これらの八万四千の馬があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、これらの八万四千の車があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、宝珠の宝を筆頭とする、これらの八万四千の宝珠があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、婦女の宝を筆頭とする、これらの八万四千の婦女があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、家長の宝を筆頭とする、これらの八万四千の家長があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、従い行く者たちとして、参謀の宝を筆頭とする、これらの八万四千の士族があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、黄麻のつなぎ紐があり(※)、銅の容器がある、これらの八万四千の乳牛があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、繊細なる麻布の、繊細なる木綿の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、八万四千コーティの衣装があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ。陛下よ、あなたには、これらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があります。夕に、朝に、食事の提供があり、〔あなたのもとに〕運ばれます。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を生じさせたまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為したまえ』と。
※ テキストには duhasandanāni とあるが、PTS版により dukūlasandānāni と読む。以下の平行箇所も同様。
267. アーナンダよ、このように説かれたとき、マハー・スダッサナ王は、スバッダー王妃に、こう言いました。
『王妃よ、あなたは、長夜にわたり、まさに、わたしに、諸々の好ましく愛らしく愛しく意に適う〔言葉〕で話しかけてくれた。そこで、また、しかしながら、あなたは、最後の時において、わたしに、諸々の好ましくなく愛らしくなく愛しくなく意に適わない〔言葉〕で話しかける』と。『陛下よ、それでは、どのように、あなたに話しかけるのですか』と。『王妃よ、あなたは、このように、まさに、わたしに話しかけなさい。「陛下よ、まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となります。陛下よ、まさに、あなたは、陛下よ、期待〔の思い〕を有する者として命を終えてはいけません。期待〔の思い〕を有する者には、苦しみの命終があります。そして、期待〔の思い〕を有する者には、非難される命終があります。陛下よ、あなたには、クサーヴァティー王都を筆頭とする、これらの八万四千の城市があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、ダンマ高楼を筆頭とする、これらの八万四千の高楼があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、マハー・ヴィユーハ楼閣を筆頭とする、これらの八万四千の楼閣があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、金で作られ、銀で作られ、象牙で作られ、硬材で作られている、これらの八万四千の寝台があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、これらの八万四千の象があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、これらの八万四千の馬があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、これらの八万四千の車があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、宝珠の宝を筆頭とする、これらの八万四千の宝珠があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、スバッダー王妃を筆頭とする、これらの八万四千の婦女があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、家長の宝を筆頭とする、これらの八万四千の家長があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、従い行く者たちとして、参謀の宝を筆頭とする、これらの八万四千の士族があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、黄麻のつなぎ紐があり、銅の容器がある、これらの八万四千の乳牛があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、繊細なる麻布の、繊細なる木綿の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、八万四千コーティの衣装があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、これらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があります。夕に、朝に、食事の提供があり、〔あなたのもとに〕運ばれます。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません」』と。
268. アーナンダよ、このように説かれたとき、スバッダー王妃は、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。アーナンダよ、そこで、まさに、スバッダー王妃は、諸々の涙を拭って、マハー・スダッサナ王に、こう言いました。
『陛下よ、まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となります。陛下よ、まさに、あなたは、陛下よ、期待〔の思い〕を有する者として命を終えてはいけません。期待〔の思い〕を有する者には、苦しみの命終があります。そして、期待〔の思い〕を有する者には、非難される命終があります。陛下よ、あなたには、クサーヴァティー王都を筆頭とする、これらの八万四千の城市があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、ダンマ高楼を筆頭とする、これらの八万四千の高楼があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、マハー・ヴィユーハ楼閣を筆頭とする、これらの八万四千の楼閣があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、金で作られ、銀で作られ、象牙で作られ、硬材で作られている、これらの八万四千の寝台があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、これらの八万四千の象があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、これらの八万四千の馬があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、これらの八万四千の車があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、宝珠の宝を筆頭とする、これらの八万四千の宝珠があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、婦女の宝を筆頭とする、これらの八万四千の婦女があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、家長の宝を筆頭とする、これらの八万四千の家長があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、従い行く者たちとして、参謀の宝を筆頭とする、これらの八万四千の士族があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、黄麻のつなぎ紐があり、銅の容器がある、これらの八万四千の乳牛があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、繊細なる麻布の、繊細なる木綿の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、八万四千コーティの衣装があります。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません。陛下よ、あなたには、これらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があります。夕に、朝に、食事の提供があり、〔あなたのもとに〕運ばれます。陛下よ、ここにおいて、欲〔の思い〕を捨棄したまえ。生命にたいし、期待〔の思い〕を作り為してはいけません』と。
梵の世に近しく赴くこと
269. アーナンダよ、そこで、まさに、マハー・スダッサナ王は、まさしく、長からずして、命を終えました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、快意なる食の食事を終えた、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、食後の睡魔が有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、マハー・スダッサナ王に、死に至る感受が有りました。アーナンダよ、そして、命を終えたマハー・スダッサナ王は、善き境遇に、梵の世に、再生しました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王は、八万四千のあいだ、王子の遊びに遊び戯れました。八万四千のあいだ、副王の権を為しました。八万四千のあいだ、王権を為しました。八万四千のあいだ、在家者として有り、ダンマ高楼において、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住(四梵住:慈・悲・喜・捨の四無量心)を修めて、身体の破壊ののち、死後において、梵の世に近しく赴く者と成りました。
270. アーナンダよ、また、まさに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、マハー・スダッサナ王として〔世に〕有ったのだ』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、マハー・スダッサナ王として〔世に〕有ったのです。わたしには、クサーヴァティー王都を筆頭とする、それらの八万四千の城市があります。わたしには、ダンマ高楼を筆頭とする、それらの八万四千の高楼があります。わたしには、マハー・ヴィユーハ楼閣を筆頭とする、それらの八万四千の楼閣があります。わたしには、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、金で作られ、銀で作られ、象牙で作られ、硬材で作られている、それらの八万四千の寝台があります。わたしには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、それらの八万四千の象があります。わたしには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、それらの八万四千の馬があります。わたしには、獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、それらの八万四千の車があります。わたしには、宝珠の宝を筆頭とする、それらの八万四千の宝珠があります。わたしには、スバッダー王妃を筆頭とする、それらの八万四千の婦女があります。わたしには、家長の宝を筆頭とする、それらの八万四千の家長があります。わたしには、従い行く者たちとして、参謀の宝を筆頭とする、それらの八万四千の士族があります。わたしには、黄麻のつなぎ紐があり、銅の容器がある、それらの八万四千の乳牛があります。わたしには、繊細なる麻布の、繊細なる絹布の、繊細なる木綿の、繊細なる毛布の、八万四千コーティの衣装があります。わたしには、それらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があります。夕に、朝に、食事の提供があり、〔わたしのもとに〕運ばれました。
271. アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の城市があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕居住する、ただ一つの城市として有るのが、それが、すなわち、この、クサーヴァティー王都なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の高楼があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕居住する、ただ一つの高楼として有るのが、それが、すなわち、この、ダンマ高楼なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の楼閣があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕居住する、ただ一つの楼閣として有るのが、それが、すなわち、この、マハー・ヴィユーハ楼閣なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の寝台があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕遍く受益する、ただ一つの寝台として有るのが、それが、すなわち、この、あるいは、金で作られているものであり、あるいは、銀で作られているものであり、あるいは、象牙で作られているものであり、あるいは、硬材で作られているものなのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の象があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕乗る、ただ一つの象として有るのが、それが、すなわち、この、ウポーサタ象王なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の馬があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕乗る、ただ一つの馬として有るのが、それが、すなわち、この、ヴァラーハカ馬王なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の車があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕乗る、ただ一つの車として有るのが、それが、すなわち、この、ヴェージャヤンタ車なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の婦女があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしに〕奉仕する、ただ一つの婦女として有るのが、それが、あるいは、士族の女であり、あるいは、庶民の女なのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの(※)八万四千コーティの衣装があるなか、すなわち、その時点にあって、〔わたしが〕まとう、ただ一つのひと組の布地として有るのが、それが、あるいは、繊細なる麻布のものであり、あるいは、繊細なる木綿のものであり、あるいは、繊細なる絹布のものであり、あるいは、繊細なる毛布のものなのです。アーナンダよ、また、まさに、それらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があるなか、ただ一つの〔献上用の〕盛り物として有るのが、そのなかから、ひと枡の最高の飯を──さらに、その〔飯〕に合っている汁を──〔わたしが〕食べる、その〔盛り物〕なのです。
※ テキストには Tesaṃ kho panānanda, vā. Tesaṃ kho panānanda とあるが、PTS版により Tesaṃ kho panānanda, vā. を削除する。
272. アーナンダよ、見なさい。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、それらの全てが、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものです。アーナンダよ、このように、まさに、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。アーナンダよ、このように、まさに、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。アーナンダよ、このように、まさに、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。アーナンダよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。
アーナンダよ、また、まさに、わたしは、六回、この地域において、肉体が捨置されたことを証知します(記憶している)。そして、それで、まさに、まさしく、転輪王として──法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として──〔世に〕存しつつ、これが、第七の肉体の捨置となります。アーナンダよ、また、まさに、わたしは、等しく随観しません──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、その地域を──すなわち、如来が、第八の肉体を捨置することになる、〔その地域を〕」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である」と。
マハー・スダッサナの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(18). ジャナヴァサバの経
ナーティカ〔村〕の者たち等への説き明かし
273. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かします(授記する)──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。「その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲(貪)と憤怒(瞋)と迷妄(痴)の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです」と。
274. まさに、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、「世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。『その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです』」と耳にしました。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成りました〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕。
275. まさに、尊者アーナンダは、「世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。『その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです』と。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成った〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と耳にしました。
アーナンダのほのめかしの言説
276. そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「また、まさに、これらのマガダ〔国〕の世話人たちで逝去し命終した世話人たちもまた、まさしく、そして、多くの者たちが、かつまた、経歴ある者たちとして、〔世に〕有った。思うに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちは〔言及が〕空無なるも、逝去し命終したアンガ〔国〕とマガダ〔国〕の世話人たち〔という観点〕からすると、また、まさに、彼らもまた、覚者にたいし浄信した者たちとして、法(教え)にたいし浄信した者たちとして、僧団にたいし浄信した者たちとして、諸戒における円満成就を為す者たちとして、〔世に〕有った。彼らは、逝去し命終したが、世尊によって説き明かされていない。彼らにもまた、善き説き明かし(授記)が存するべきである。多くの人々が浄信するであろうし、そののち、善き境遇に赴くであろう。また、まさに、この者が、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として〔世に〕有った──婆羅門や家長たちにとって、まさしく、そして、町の者たちにとって、さらに、地方の者たちにとって、利益ある者として。さてまた、まさに、人間たちは、〔彼を〕賛じ称える様子で〔世に〕住む。『このように、彼は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、わたしたちを安楽にして、命を終えたのだ。このように、わたしたちは、彼の、法(正義)にかなう法(正義)の王の、領土において、平穏のうちに〔世に〕住んだ』と。また、まさに、彼もまた、覚者にたいし浄信した者として、法(教え)にたいし浄信した者として、僧団にたいし浄信した者として、諸戒における円満成就を為す者として、〔世に〕有った。さてまた、まさに、人間たちは、このように言った。『死の時に至るまでもまた、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、世尊を賛じ称える様子で命を終えたのだ』と。彼は、逝去し命終したが、世尊によって説き明かされていない。彼にもまた、善き説き明かしが存するべきである。多くの人々が浄信するであろうし、そののち、善き境遇に赴くであろう。また、まさに、世尊の正覚は、マガダ〔国〕におけるものである。また、まさに、すなわち、世尊の正覚が、マガダ〔国〕におけるものであるなら、そこで、どうして、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないというのだろう。また、まさに、もし、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないなら、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちは、卑屈な意の者たちとして〔世に〕存するであろう。また、まさに、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちが、卑屈な意ある者たちとして〔世に〕存するなら、どうして、世尊が、彼らのことを説き明かさないというのだろう」と。
277. ここに、尊者アーナンダは、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、独り、静所にあり、熟慮して〔そののち〕、夜の早朝の時分に起きて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。「その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです」と。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成った〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕』と。尊き方よ、また、まさに、これらのマガダ〔国〕の世話人たちで逝去し命終した世話人たちもまた、まさしく、そして、多くの者たちが、かつまた、経歴ある者たちとして、〔世に〕有りました。思うに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちは〔言及が〕空無なるも、逝去し命終したアンガ〔国〕とマガダ〔国〕の世話人たち〔という観点〕からすると、また、まさに、彼らもまた、覚者にたいし浄信した者たちとして、法(教え)にたいし浄信した者たちとして、僧団にたいし浄信した者たちとして、諸戒における円満成就を為す者たちとして、〔世に〕有りました。彼らは、逝去し命終したのですが、世尊によって説き明かされていません。彼らにもまた、善き説き明かしが存するべきです。多くの人々が浄信するでしょうし、そののち、善き境遇に赴くでしょう。尊き方よ、また、まさに、この者が、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として〔世に〕有りました──婆羅門や家長たちにとって、まさしく、そして、町の者たちにとって、さらに、地方の者たちにとって、利益ある者として。さてまた、まさに、人間たちは、〔彼を〕賛じ称える様子で〔世に〕住みます。『このように、彼は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、わたしたちを安楽にして、命を終えたのだ。このように、わたしたちは、彼の、法(正義)にかなう法(正義)の王の、領土において、平穏のうちに〔世に〕住んだ』と。尊き方よ、また、まさに、彼もまた、覚者にたいし浄信した者として、法(教え)にたいし浄信した者として、僧団にたいし浄信した者として、諸戒における円満成就を為す者として、〔世に〕有りました。さてまた、まさに、人間たちは、このように言いました。『死の時に至るまでもまた、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、世尊を賛じ称える様子で命を終えたのだ』と。彼は、逝去し命終したのですが、世尊によって説き明かされていません。彼にもまた、善き説き明かしが存するべきです。多くの人々が浄信するでしょうし、そののち、善き境遇に赴くでしょう。尊き方よ、また、まさに、世尊の正覚は、マガダ〔国〕におけるものである。尊き方よ、また、まさに、すなわち、世尊の正覚が、マガダ〔国〕におけるものであるなら、そこで、どうして、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないというのでしょう。尊き方よ、また、まさに、もし、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないなら、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちは、卑屈な意の者たちとして〔世に〕存するでしょう。また、まさに、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちが、卑屈な意ある者たちとして〔世に〕存するなら、どうして、世尊が、彼らのことを説き明かさないというのでしょう」と。ここに、尊者アーナンダは、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、世尊の面前で、ほのめかしの言説を為して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
278. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ナーティカ〔村〕に〔行乞の〕食のために入りました。ナーティカ〔村〕において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、設けられた坐に坐りました。「彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』」と。まさに、世尊は、マガダ〔国〕の世話人たちを見ました。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」と。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、煉瓦作りの居住所から出て、精舎の影のもとに設けられた坐に坐りました。
279. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、寂静に見え、世尊の顔色も、光り輝いているかのようであり、諸々の〔感官の〕機能の澄浄があります。尊き方よ、まちがいなく、今日、世尊は、寂静の住によって〔世に〕住みました」と。「アーナンダよ、まさしく、すなわち、あなたが、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、まさに、わたしの面前で、ほのめかしの言説を為して、坐から立ち上がって、立ち去ったとき、まさしく、そのとき、わたしは、ナーティカ〔村〕において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、設けられた坐に坐りました。『彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」』と。アーナンダよ、まさに、わたしは、マガダ〔国〕の世話人たちを見ました。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』と。
ジャナヴァサバ夜叉
280. アーナンダよ、そこで、まさに、消没した〔状態〕の夜叉が、声を上げました。『世尊よ、わたしは、ジャナヴァサバです。善き至達者たる方よ、わたしは、ジャナヴァサバです』と。アーナンダよ、まさに、あなたは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、このような形態の命名が聞かれたことを。すなわち、この、『ジャナヴァサバ(人の牛王)』〔という命名です〕」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは証知しません──これより過去において、このような形態の命名が聞かれたことを。すなわち、この、『ジャナヴァサバ』という〔命名です〕。尊き方よ、そして、また、わたしに、諸々の身の毛のよだちがあります──『ジャナヴァサバ』という命名を聞いて。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、まちがいなく、その夜叉は、低劣ならざる者として〔世に〕有るのだ。すなわち、この、このような形態の命名が、しっかりと報知されたのだ。すなわち、この、『ジャナヴァサバ』〔という命名が〕』」と。「アーナンダよ、まさに、声が出現した直後に、わたしの面前において、秀逸なる色艶の夜叉が出現し、再度また、声を上げました。『世尊よ、わたしは、ビンビサーラです。善き至達者たる方よ、わたしは、ビンビサーラです。尊き方よ、まさに、わたしが、ヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)の同類として再生するのは、これが、七回目となります。その〔わたし〕は、そこから死滅し、人間の王として〔世に〕有ることができます』〔と〕。
〔ジャナヴァサバ夜叉が、詩偈に言いました〕『ここから、七〔回〕、そこから、七〔回〕、十四〔回〕の輪廻がある。〔過去の〕居住を、〔わたしは〕証知する。かつて、そこにおいて、わたしが住していた、〔その居住を〕』と。
281. 『尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します。また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します』と。『めったにないことです。尊者の、ジャナヴァサバ夜叉の、この〔言葉〕は。はじめてのことです。尊者の、ジャナヴァサバ夜叉の、この〔言葉〕は。そして、〔あなたは〕「尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します」と説きます。さらに、〔あなたは〕「また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します」と説きます。また、どのような因縁あることから、尊者は、ジャナヴァサバ夜叉は、このような形態の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達を了解するのですか』と。『世尊よ、あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。善き至達者たる方よ、あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。尊き方よ、わたしが、世尊にたいし、絶対的に大いに浄信した、それ以後、尊き方よ、それ以後、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します。また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します。尊き方よ、ここに、わたしは、ヴィルーラカ大王(増長天)の現前において、何らかの或る用事があり、ヴェッサヴァナ大王によって送り出されたところ、中途の道において、世尊が、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して坐っているのを見ました。「彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』」と。尊き方よ、また、まさに、このことは、めったにないことです。それを、その衆において語っている、ヴェッサヴァナ大王の、面前で聞き、面前で受けたのです。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「では、世尊に、お目にかかるのだ。そして、このことを、世尊に、お告げするのだ」と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊と会見するために近づいて行くべき、これらの二つの縁があります。
天の集会場
282. 尊き方よ、過日のことですが、以前、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、雨期が近づくとき、満ちた満月の夜、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場(善法講堂)において、着坐し参集した状態でいます。かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいます。かつまた、〔天の〕四大王(四天王)が、四方にあって、坐った状態でいます。東の方角において、ダタラッタ大王(持国天)が、西に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。南の方角において、ヴィルーラカ大王(増長天)が、北に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。西の方角において、ヴィルーパッカ大王(広目天)が、東に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。北の方角において、ヴェッサヴァナ大王(多聞天・毘沙門天)が、南に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。尊き方よ、すなわち、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいるとき、かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいるとき、かつまた、四大王が、四方にあって、坐った状態でいるとき、これが、彼らの、坐における〔坐り方〕と成ります。そこで、後ろに、わたしたちの坐が有ります。尊き方よ、すなわち、世尊のもと、梵行を歩んで、三十三〔天〕の身体に新しく再生した、それらの天〔の神々〕たちですが、彼らは、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。「ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する」と。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの浄信を見出して、これらの詩偈によって随喜しました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕「ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──
そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。
彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。
このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら」と。
尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、より一層激しく、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。「ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する」と。尊き方よ、そこで、まさに、その義(目的)によって、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいる、その義(目的)を思弁して、その義(目的)を考量して、それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を説かれたこともまた有り──それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を教示されたこともまた有り──それぞれの自らの坐において、去ることなく立っています。
〔そこで、詩偈に言いました〕「それらの王たちは、言葉を説かれ、教示を受け取って、浄信した意ある寂静なる者たちとなり、自らの坐において、〔去ることなく〕立った」と。
283. 尊き方よ、そこで、まさに、北の方角において、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現しました──天〔の神々〕たちの天の威光を、まさしく、超え行って。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。「敬愛なる者たちよ、すなわち、まさに、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現し、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するでしょう。なぜなら、梵〔天〕には、出現するにあたり、これが前兆となるからです。すなわち、この、光明が生み出され、光輝が出現します」と。
〔そこで、詩偈に言いました〕「すなわち、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するであろう。なぜなら、梵〔天〕には、広大にして大いなる光輝が、これが、〔出現の〕形相となるからである」と。
サナンクマーラの話
284. 尊き方よ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、すなわち、自らの坐において坐りました。「この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。〔天の〕四大王もまた、すなわち、自らの坐において坐りました。「この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。この〔言葉〕を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは、一境に入定しました(思いを一つにした)。「この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。
尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するときは、粗雑なる自己状態を化作して出現します。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕の元来の色艶は、それは、三十三天〔の神々〕たちの眼の視野においては対処できません。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それは、たとえば、また、黄金の姿形が、人間の姿形に輝きまさるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、その衆において、誰であれ、天〔の神〕が、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐によって招くことも、ありません。まさしく、全ての者たちが、沈黙の状態で、合掌の者たちとなり、結跏をもって坐っています。「今や、その天〔の神〕に、梵〔天〕のサナンクマーラが、長椅子を求めるなら、その天〔の神〕の長椅子のうえに、〔彼は〕坐るであろう」と。
尊き方よ、また、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、それは、たとえば、また、王権によって、新たに灌頂し即位灌頂した王たる士族が、彼が、秀逸なる信受の獲得を得るように、彼が、秀逸なる悦意の獲得を得るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、粗雑なる自己状態を化作して、パンチャシカ(音楽神の天子)の少年の色艶と成って、三十三天〔の神々〕たちに出現しました。彼は、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐りました。尊き方よ、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、善く広げられた長椅子のうえに、あるいは、平坦な土地の部分において、結跏をもって坐るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちの浄信を見出して、これらの詩偈によって随喜しました。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕「ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──
そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。
彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。
このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら」と。
285. 尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、この義(意味)を語っている、梵〔天〕のサナンクマーラには、八つの支分を具備した声が有ります。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、衆に声で伝えるとおりに、そして、彼の話し声は、衆の外に放たれることがありません。尊き方よ、また、まさに、彼には、このように、八つの支分を具備した声が有り、彼は、「梵の声ある者」と説かれます。
尊き方よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、諸々の三十三〔天〕の自己状態を化作して、三十三天〔の神々〕たちの各自の長椅子のうえに、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。「貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、彼が、世尊が、どれほどまでに実践したのかを──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために。君よ、まさに、彼らが誰であれ、帰依所として、覚者のもとに赴いた者たちであり、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者たちであり、帰依所として、僧団のもとに赴いた者たちであり、諸戒における円満成就を為す者たちであるなら、彼らは、身体の破壊ののち、死後において、一部の者たちはまた、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生します。すなわち、全てに劣る身体を円満成就させる、それらの者たちは、音楽神の身体を円満成就させます」と。
286. 尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、この義(意味)を語っている、梵〔天〕のサナンクマーラには、〔一つの〕話し声だけがあり、天〔の神々〕たちは思います。「すなわち、わたしの長椅子のうえにいる、この者は、〔まさに〕その、この者は、一者であるかのように語る」と。
〔そこで、詩偈に言いました〕「一者が語っているとき、化作された者たちの全てが語る。一者が沈黙して坐ったとき、彼らの全てが沈黙の者たちと成る。
そのとき、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは思う。『すなわち、わたしの長椅子のうえにいる、この者は、〔まさに〕その、この者は、一者であるかのように語る』」と。
尊き方よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、一なるものとして自己を近しく集中します。一なるものとして自己を近しく集中して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の長椅子のうえに、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
神通の足場を修めた者
287. 「貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、これらのものが、どれほどまでに善く報知されたのかを──四つの神通の足場(四神足)が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、神通の可能性のために、神通の発出性のために、神通の変異性のために、報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。君よ、まさに、これらの四つの神通の足場が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、神通の可能性のために、神通の発出性のために、神通の変異性のために、報知されました。
君よ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現したなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。君よ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。君よ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。まさに、貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、見ますか──わたしにもまた、このような形態の、この神通の威力があるのを」と。「大いなる梵〔天〕よ、そのとおりです(見ます)」と。「君よ、わたしもまた、まさに、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことから、多く為したことから、このように、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
三種類の〔出離の〕空間への到達
288. 「貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、これが、どれほどまでのものであるかを──三つの〔出離の〕空間への到達が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために随覚されました。どのようなものが、三つのものなのですか。君よ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕と交わりある者として、諸々の善ならざる法(性質)と交わりある者として、〔世に〕住みます。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼は、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者として、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者として、〔世に〕住みます。彼には、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者には、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者には、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者には、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者には、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第一の〔出離の〕空間への到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために随覚されました。
君よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者には、諸々の粗雑なる身体の形成〔作用〕が安息なく有り、諸々の粗雑なる言葉の形成〔作用〕が安息なく有り、諸々の粗雑なる心の形成〔作用〕が安息なく有ります。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼には、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、諸々の粗雑なる身体の形成〔作用〕が安息し、諸々の粗雑なる言葉の形成〔作用〕が安息し、諸々の粗雑なる心の形成〔作用〕が安息します。彼には、諸々の粗雑なる身体の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗雑なる言葉の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗雑なる心の形成〔作用〕の安息あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、諸々の粗雑なる身体の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗雑なる言葉の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗雑なる心の形成〔作用〕の安息あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第二の〔出離の〕空間への到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために随覚されました。
君よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、罪過を有するものである』『これは、罪過なきものである』『これは、慣れ親しむべきものである』『これは、慣れ親しむべきではないものである』『これは、下劣なるものである』『これは、精妙なるものである』『これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである』と、事実のとおりに覚知しません。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼は、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、罪過を有するものである』『これは、罪過なきものである』『これは、慣れ親しむべきものである』『これは、慣れ親しむべきではないものである』『これは、下劣なるものである』『これは、精妙なるものである』『これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。彼には、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第三の〔出離の〕空間への到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために随覚されました。君よ、まさに、これらの三つの〔出離の〕空間への到達が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために随覚されました」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
四つの気づきの確立
289. 「貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、これらのものが、どれほどまでに善く報知されたのかを──四つの気づきの確立(四念処・四念住)が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、善なるものの到達のために報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、比丘が、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みつつ、そこにおいて、正しく定められ、正しく澄浄になります。彼は、そこにおいて、正しく定められ、正しく澄浄になり、外に、他者の身体において、知見を発現させます。内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……外に、他者の諸々の感受において、知見を発現させます。内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……外に、他者の心において、知見を発現させます。内に、諸々の法(性質)における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みつつ、そこにおいて、正しく定められ、正しく澄浄になります。彼は、そこにおいて、正しく定められ、正しく澄浄になり、外に、他者の諸々の法(性質)において、知見を発現させます。君よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、善なるものの到達のために報知されました」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
七つの禅定の必需品
290. 「貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、これらのものが、どれほどまでに善く報知されたのかを──七つの禅定の必需品が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しい禅定(正定)の完全なる修行のために、正しい禅定の円満成就のために、報知されました。どのようなものが、七つのものなのですか。正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)です。君よ、すなわち、まさに、これらの七つの支分を必需品とする、心の一境性であるなら、君よ、これは、聖なる正しい禅定と説かれます──『機縁を有するもの』ともまた〔説かれ〕、『必需品を有するもの』ともまた〔説かれます〕。君よ、正しい見解ある者には、正しい思惟が発生します。正しい思惟ある者には、正しい言葉が発生します。正しい言葉ある者には、正しい行業が発生します。正しい行業ある者には、正しい生き方が発生します。正しい生き方ある者には、正しい努力が発生します。正しい努力ある者には、正しい気づきが発生します。正しい気づきある者には、正しい禅定が発生します。正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。正しい知恵ある者には、正しい解脱が発生します。君よ、まさに、すなわち、その〔法〕を、正しく説きつつ説くなら、『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、まさしく、このことを、その〔法〕として、正しく説きつつ説くべきです。君よ、まさに、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。不死の諸門は、開かれたのです。
君よ、まさに、彼らが誰であれ、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちであるなら、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者たちであるなら、僧団にたいする確固たる浄信を具備した者たちであるなら、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちであるなら、さらに、すなわち、これらの化生の者たちである、法(教え)によって教え導かれた、二百四十万を優に超過するマガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。まさしく、そして、ここにおいて、一来たる者たちも存在します」〔と)。
〔そこで、詩偈に言いました〕「そこで(※)、この、他の人々は、功徳の分有者たちとなる。かくのごとく、わたしの意はある。〔その数を〕数えようにも、もはや、できない──虚偽を説くことを咎めつつ」と。
※ テキストには Atthāyaṃ とあるが、PTS版により Athāyaṃ と読む。
291. 尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラが、この義(意味)を語っていると、ヴェッサヴァナ大王に、このような心の思索が浮かびました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態の、また、まさに、秀逸なる教師が〔世に〕有るとは。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されるとは」と。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、〔自らの〕心をとおして、ヴェッサヴァナ大王の心の思索を了知して、ヴェッサヴァナ大王に、こう言いました。「それを、どう思いますか。貴君は、ヴェッサヴァナ大王は。過去の時にもまた、このような形態の秀逸なる教師が〔世に〕有りました。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されました。未来の時にもまた、このような形態の秀逸なる教師が〔世に〕有るでしょう。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されるでしょう」』〔と、ジャナヴァサバ夜叉は、わたしに言いました〕」と。
292. 梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を(※)、三十三天〔の神々〕たちに語りました。ヴェッサヴァナ大王は、この義(意味)を、三十三天〔の神々〕たちに語っている梵〔天〕のサナンクマーラの、面前で聞き、面前で受け、自らの衆に告げました。
※ テキストには Imamatthaṃ, bhante とあるが、PTS版により bhante を削除する。
ジャナヴァサバ夜叉は、この義(意味)を、自らの衆において語っているヴェッサヴァナ大王の、面前で聞き、面前で受け、世尊に告げました。世尊は、この義(意味)を、ジャナヴァサバ夜叉の、面前で聞いて、面前で受けて、さらに、自ら証知して、尊者アーナンダに告げました。尊者アーナンダは、この義(意味)を、世尊の、面前で聞いて、面前で受けて、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちに告げました。〔まさに〕その、この梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったのです。すなわち、天〔の神々〕と人間たちによって善く明示されるまでに、ということです。
ジャナヴァサバの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(19). マハー・ゴーヴィンダの経
293. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、音楽神の子であるパンチャシカが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータ山を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、音楽神の子であるパンチャシカは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしが、三十三天〔の神々〕たちの、面前で聞き、面前で受けた、そのことを、世尊に告げます」と。「パンチャシカよ、あなたは、わたしに告げなさい」と、世尊は言いました。
天の集会場
294. 「尊き方よ、過日のことですが、以前、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔雨季の〕充足のとき、満ちた満月の夜、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場おいて、着坐し参集した状態でいます。かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいます。かつまた、〔天の〕四大王が、四方にあって、坐った状態でいます。東の方角において、ダタラッタ大王が、西に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。南の方角において、ヴィルーラカ大王が、北に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。西の方角において、ヴィルーパッカ大王が、東に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。北の方角において、ヴェッサヴァナ大王が、南に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。尊き方よ、すなわち、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいるとき、かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいるとき、かつまた、〔天の〕四大王が、四方にあって、坐った状態でいるとき、これが、彼らの、坐における〔坐り方〕と成ります。そこで、後ろに、わたしたちの坐が有ります。
尊き方よ、すなわち、世尊のもと、梵行を歩んで、三十三〔天〕の身体に新しく再生した、それらの天〔の神々〕たちですが、彼らは、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。『ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する』と。
295. 尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの浄信を見出して、これらの詩偈によって随喜しました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──
そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。
彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。
このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら』と。
尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、より一層激しく、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。『ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する』と。
八つの事実のとおりの栄誉
296. 尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの浄信を見出して、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、まさに、あなたたちは、彼の、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を聞くことを求めますか』と。『敬愛なる方よ、わたしたちは、彼の、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を聞くことを求めます』と。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を述べ伝えました。『(1)貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──さてまた、彼が、世尊が、どれほどまでに実践したのかを──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために。このように、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践した者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(2)また、まさに、法(教え)は、彼によって、世尊によって、見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。このように、導くものである法(教え)の説示者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(3)また、まさに、彼によって、世尊によって、「これは、善なるものである』と善く報知され、「これは、善ならざるものである」と善く報知され、「これは、罪過を有するものである」「これは、罪過なきものである」「これは、慣れ親しむべきものである」「これは、慣れ親しむべきではないものである」「これは、下劣なるものである」「これは、精妙なるものである」「これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである」と善く報知されました。このように、諸々の法(性質)である善なるものと善ならざるものと罪過を有するものと罪過なきものと慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものと下劣なるものと精妙なるものと黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものの報知者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(4)また、まさに、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します。それは、たとえば、また、まさに、ガンガー〔川〕の水が、ヤムナー〔川〕の水と合流し合体するように、まさしく、このように、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します。このように、涅槃に至る〔実践の〕道の報知者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(5)また、まさに、彼には、世尊には、万全の利得があり、万全の名声があります──すなわち、思うに、士族たちが、愛顧の形態ある者たちとして〔世に〕住むかぎりは。また、まさに、彼は、世尊は、驕慢を離れ去った者として、食を食します。このように、驕慢を離れ去った者として、食を食している者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(6)また、まさに、彼は、世尊は、まさしく、そして、〔いまだ〕学びある者たる実践者たちにとって、さらに、煩悩が滅尽した完成者たちにとって、道友として得られた者なるも、世尊は、彼らを追い払って、独りある喜びに専念する者として〔世に〕住みます。このように、独りある喜びに専念する者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(7)また、まさに、彼は、世尊は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。このように、法(教え)を法(教え)のままに実践する者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(8)また、まさに、彼は、世尊は、疑惑を超え渡った者であり、懐疑を離れ去った者であり、初等の梵行を志欲として思惟を完成した者です。このように、疑惑を超え渡った者を、懐疑を離れ去った者を、初等の梵行を志欲として思惟を完成した者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません』と。
297. 尊き方よ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに、世尊の、これらの八つの事実のとおりの栄誉を述べ伝えました。尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、より一層激しく、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕──世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を聞いて〔そののち〕。尊き方よ、そこで、一部の天〔の神々〕たちは、このように言いました。『敬愛なる者たちよ、ああ、まさに、四者の正等覚者が、世に生起するべきです。そして、まさしく、世尊のように、法(教え)を説示するべきです。それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう』と。一部の天〔の神々〕たちは、このように言いました。『敬愛なる者たちよ、四者の正等覚者は、さておくとしましょう。敬愛なる者たちよ、ああ、まさに、三者の正等覚者が、世に生起するべきです。そして、まさしく、世尊のように、法(教え)を説示するべきです。それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう』と。一部の天〔の神々〕たちは、このように言いました。『敬愛なる者たちよ、三者の正等覚者は、さておくとしましょう。敬愛なる者たちよ、ああ、まさに、二者の正等覚者が、世に生起するべきです。そして、まさしく、世尊のように、法(教え)を説示するべきです。それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう』と。
298. 尊き方よ、このように説かれたとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに、こう言いました。『敬愛なる者たちよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、一つの世の界域において、二者の阿羅漢にして正等覚者が、前なく後なく〔同時に〕生起することです。この状況は見出されません。敬愛なる者たちよ、ああ、まさに、彼は、世尊は、病苦少なく、病悩少なく、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住するべきです。それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう』と。尊き方よ、そこで、まさに、その義(目的)によって、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいる、その義(目的)を思弁して、その義(目的)を考量して、それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を説かれたこともまた有り──それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を教示されたこともまた有り──それぞれの自らの坐において、去ることなく立っています。
〔そこで、詩偈に言いました〕『それらの王たちは、言葉を説かれ、教示を受け取って、浄信した意ある寂静なる者たちとなり、自らの坐において、〔去ることなく〕立った』と。
299. 尊き方よ、そこで、まさに、北の方角において、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現しました──天〔の神々〕たちの天の威光を、まさしく、超え行って。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、すなわち、まさに、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現し、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するでしょう。なぜなら、梵〔天〕には、出現するにあたり、これが前兆となるからです。すなわち、この、光明が生み出され、光輝が出現します』と。
〔そこで、詩偈に言いました〕『すなわち、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するであろう。なぜなら、梵〔天〕には、広大にして大いなる光輝が、これが、〔出現の〕形相となるからである』と。
サナンクマーラの話
300. 尊き方よ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、すなわち、自らの坐において坐りました。『この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。〔天の〕四大王もまた、すなわち、自らの坐において坐りました。『この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。この〔言葉〕を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは、一境に入定しました(思いを一つにした)。『この光輝を、〔わたしたちは〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。
尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するときは、粗雑なる自己状態を化作して出現します。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕の元来の色艶は、それは、三十三天〔の神々〕たちの眼の視野においては対処できません。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それは、たとえば、また、黄金の姿形が、人間の姿形に輝きまさるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、その衆において、誰であれ、天〔の神〕が、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐によって招くことも、ありません。まさしく、全ての者たちが、沈黙の状態で、合掌の者たちとなり、結跏をもって坐っています。『今や、その天〔の神〕に、梵〔天〕のサナンクマーラが、長椅子を求めるなら、その天〔の神〕の長椅子のうえに、〔彼は〕坐るであろう』と。尊き方よ、また、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、それは、たとえば、また、王権によって、新たに灌頂し即位灌頂した王たる士族が、彼が、秀逸なる信受の獲得を得るように、彼が、秀逸なる悦意の獲得を得るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、三十三天〔の神々〕たちの浄信を見出して、消没したまま、これらの詩偈によって随喜しました。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕『ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──
そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。
彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。
このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら』と。
301. 尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、この義(意味)を語っている、梵〔天〕のサナンクマーラには、八つの支分を具備した声が有ります。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、衆に声で伝えるとおりに、そして、彼の話し声は、衆の外に放たれることがありません。尊き方よ、また、まさに、彼には、このように、八つの支分を具備した声が有り、彼は、『梵の声ある者』と説かれます。尊き方よ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、梵〔天〕のサナンクマーラに、こう言いました。『大いなる梵〔天〕よ、善きかな、まさしく、このことを、わたしたちは究明して歓喜します。さてまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって語られたものとして、彼の、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉が存在します。そして、それら〔の八つの事実のとおりの栄誉〕を、わたしたちは究明して歓喜します』と。
八つの事実のとおりの栄誉
302. 尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、わたしたちもまた、彼の、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を聞きたいものです』と。尊き方よ、『大いなる梵〔天〕よ、わかりました』と、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、梵〔天〕のサナンクマーラに、世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を述べ伝えました。
『(1)貴君は、大いなる梵〔天〕は、それを、どう思いますか──さてまた、彼が、世尊が、どれほどまでに実践したのかを──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために。このように、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践した者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(2)また、まさに、法(教え)は、彼によって、世尊によって、見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。このように、来て見るものである法(教え)の説示者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(3)また、まさに、彼によって、世尊によって、「これは、善なるものである」と善く報知され、「これは、善ならざるものである」と善く報知され、「これは、罪過を有するものである」「これは、罪過なきものである」「これは、慣れ親しむべきものである」「これは、慣れ親しむべきではないものである」「これは、下劣なるものである」「これは、精妙なるものである」「これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである」と善く報知されました。このように、諸々の法(性質)である善なるものと善ならざるものと罪過を有するものと罪過なきものと慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものと下劣なるものと精妙なるものと黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものの報知者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(4)また、まさに、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します。それは、たとえば、また、まさに、ガンガー〔川〕の水が、ヤムナー〔川〕の水と合流し合体するように、まさしく、このように、彼によって、世尊によって、弟子たちに、涅槃に至る〔実践の〕道が善く報知され、かつまた、涅槃は、かつまた、〔実践の〕道は、〔それぞれ一つに〕合流します。このように、涅槃に至る〔実践の〕道の報知者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(5)また、まさに、彼には、世尊には、万全の利得があり、万全の名声があります──すなわち、思うに、士族たちが、愛顧の形態ある者たちとして〔世に〕住むかぎりは。また、まさに、彼は、世尊は、驕慢を離れ去った者として、食を食します。このように、驕慢を離れ去った者として、食を食している者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(6)また、まさに、彼は、世尊は、まさしく、そして、〔いまだ〕学びある者たる実践者たちにとって、さらに、煩悩が滅尽した完成者たちにとって、道友として得られた者なるも、世尊は、彼らを追い払って、独りある喜びに専念する者として〔世に〕住みます。このように、独りある喜びに専念する者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(7)また、まさに、彼は、世尊は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。このように、法(教え)を法(教え)のままに実践する者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません。
(8)また、まさに、彼は、世尊は、疑惑を超え渡った者であり、懐疑を離れ去った者であり、初等の梵行を志欲として思惟を完成した者です。このように、疑惑を超え渡った者を、懐疑を離れ去った者を、初等の梵行を志欲として思惟を完成した者を、この支分をもまた具備した教師を、まさしく、過去の時において、〔わたしたちは〕等しく随観せず、また、今現在も、彼より、世尊より、他に〔等しく随観し〕ません』と。
303. 尊き方よ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、梵〔天〕のサナンクマーラに、世尊の、これらの八つの事実のとおりの栄誉を述べ伝えました。尊き方よ、それによって、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、わが意を得た者と成り、歓喜した者と〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者と〔成ります〕──世尊の、八つの事実のとおりの栄誉を聞いて〔そののち〕。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、粗雑なる自己状態を化作して、パンチャシカ(音楽神の天子)の少年の色艶と成って、三十三天〔の神々〕たちに出現しました。彼は、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐りました。尊き方よ、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、善く広げられた長椅子のうえに、あるいは、平坦な土地の部分において、結跏をもって坐るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
ゴーヴィンダ婆羅門の事
304. 『貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、それを、どう思いますか──どれほどまでに、彼が、世尊が、長夜にわたり、まさしく、大いなる智慧ある者として〔世に〕有ったのかを。君よ、過去の事ですが、ディサンパティという名の王が〔世に〕有りました。ディサンパティ王には、ゴーヴィンダという名の婆羅門の司祭が有りました。ディサンパティ王には、子として、レーヌという名の王子が有りました。ゴーヴィンダ婆羅門には、子として、ジョーティパーラという名の学徒が有りました。かくのごとく、かつまた、レーヌ王子が、かつまた、ジョーティパーラ学徒が、さらに、他の六者の士族(王族)たちが、かくのごとく、これらの八者の道友たちが〔世に〕有りました。君よ、そこで、まさに、諸々の昼夜が経過して、ゴーヴィンダ婆羅門が、命を終えました。ゴーヴィンダ婆羅門が命を終えたとき、ディサンパティ王は嘆き悲しみました。「ああ、まさに、その時点において、わたしたちが、ゴーヴィンダ婆羅門にたいし、全ての為すべきことを正しく委ねて、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむ、まさに、その時点において、ゴーヴィンダ婆羅門は、命を終えたのだ」と。君よ、このように説かれたとき、レーヌ王子は、ディサンパティ王に、こう言いました。「陛下よ、まさに、あなたは、ゴーヴィンダ婆羅門が命を終えたとき、極めて激しく嘆き悲しんではいけません。陛下よ、ゴーヴィンダ婆羅門には、子として、ジョーティパーラという名の学徒が存在します。まさしく、そして、父よりもより賢者であり、まさしく、そして、父よりもより十分なる義(意味)を見る者です。すなわち、また、彼の父が教示した、諸々の義(意味)も、それらもまた、まさしく、ジョーティパーラ学徒の教示のうちにあります」と。「王子よ、そのとおりなのか」と。「陛下よ、そのとおりです」と。
マハー・ゴーヴィンダの事
305. 君よ、そこで、まさに、ディサンパティ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、ジョーティパーラという名の学徒のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ジョーティパーラ学徒に、このように説きなさい。『貴君ジョーティパーラに、栄えが存せ。ディサンパティ王が、貴君を、ジョーティパーラ学徒を、呼んでいます。ディサンパティ王は、貴君と、ジョーティパーラ学徒と、会見することを欲しています』」と。君よ、「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、ディサンパティ王に答えて、ジョーティパーラ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ジョーティパーラ学徒に、こう言いました。「貴君ジョーティパーラに、栄えが存せ。ディサンパティ王が、貴君を、ジョーティパーラ学徒を、呼んでいます。ディサンパティ王は、貴君と、ジョーティパーラ学徒と、会見することを欲しています」と。君よ、「君よ、わかりました」と、まさに、ジョーティパーラ学徒は、その家来に答えて、ディサンパティ王いるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ディサンパティ王を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。君よ、一方に坐った、まさに、ジョーティパーラ学徒に、ディサンパティ王は、こう言いました。「貴君ジョーティパーラは、わたしたちに教示したまえ。貴君ジョーティパーラは、わたしたちへの教示を拒んではいけません。あなたを、父祖の境位に据え置きましょう。ゴーヴィンダたる〔境位〕に灌頂しましょう」と。君よ、「君よ、わかりました」と、まさに、彼は、ジョーティパーラ学徒は、ディサンパティ王に答えました。君よ、そこで、まさに、ディサンパティ王は、ジョーティパーラ学徒を、ゴーヴィンダたる〔境位〕に灌頂しました。彼を、父祖の境位に据え置きました。ゴーヴィンダたる〔境位〕に灌頂されたジョーティパーラ学徒は、父祖の境位に据え置かれ、すなわち、また、彼の父が教示した、諸々の義(意味)であるなら、それらの義(意味)をもまた教示します。すなわち、また、彼の父が教示しなかった、諸々の義(意味)であるとして、それらの義(意味)をもまた教示します。すなわち、また、彼の父が対処した、諸々の生業であるなら、それらの生業をもまた対処します。すなわち、また、彼の父が対処しなかった、諸々の生業であるとして、それらの生業をもまた対処します。〔まさに〕その、この者のことを、人間たちは、このように言いました。「ああ、まさに、ゴーヴィンダ婆羅門だ。ああ、まさに、マハー・ゴーヴィンダ(大いなるゴーヴィンダ)婆羅門だ」と。君よ、これを転機として、まさに、このように、ジョーティパーラ学徒には、まさしく、「ゴーヴィンダ」「マハー・ゴーヴィンダ」という呼称が生起しました。
王権の分与
306. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの六者の士族たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの六者の士族たちに、こう言いました。「君よ、まさに、ディサンパティ王は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者です。君よ、また、まさに、いったい、誰が、生命のことを知るというのでしょう。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ディサンパティ王が命を終えたとき、王権を為す者たちが、レーヌ王子を、王権に灌頂することです。貴君たちは、行きたまえ。レーヌ王子のいるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、レーヌ王子に、このように説くのです。『わたしたちは、まさに、貴君レーヌの道友にして、愛しく意に適う嫌悪ならざる者たちです。貴君が、それを安楽とするなら、わたしたちも、それを安楽とします。貴君が、それを苦痛とするなら、わたしたちも、それを苦痛とします。君よ、まさに、ディサンパティ王は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者です。君よ、また、まさに、いったい、誰が、生命のことを知るというのでしょう。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ディサンパティ王が命を終えたとき、王権を為す者たちが、レーヌ王子を、王権に灌頂することです。それで、もし、貴君レーヌが、王権を得るなら、わたしたちに、王権を分け与えるべきです』」と。君よ、「君よ、わかりました」と、まさに、それらの六者の士族たちは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に答えて、レーヌ王子のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、レーヌ王子に、このように言いました。「わたしたちは、まさに、貴君レーヌの道友にして、愛しく意に適う嫌悪ならざる者たちです。貴君が、それを安楽とするなら、わたしたちも、それを安楽とします。貴君が、それを苦痛とするなら、わたしたちも、それを苦痛とします。君よ、まさに、ディサンパティ王は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者です。君よ、また、まさに、いったい、誰が、生命のことを知るというのでしょう。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ディサンパティ王が命を終えたとき、王権を為す者たちが、レーヌ王子を、王権に灌頂することです。それで、もし、貴君レーヌが、王権を得るなら、わたしたちに、王権を分け与えるべきです」と。「君よ、いったい、まさに、他の誰が、わたしの領土において、安楽の者と成るというのでしょう──貴君たちより他に。君よ、それで、もし、わたしが、王権を得るなら、あなたたちに、王権を分け与えるでしょう」と。
307. 君よ、そこで、まさに、諸々の昼夜が経過して、ディサンパティ王が、命を終えました。ディサンパティ王が命を終えたとき、王権を為す者たちは、レーヌ王子を、王権に灌頂しました。王権によって、レーヌは灌頂され、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの六者の士族たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの六者の士族たちに、こう言いました。「君よ、まさに、ディサンパティ王は、命を終え、王権によって、レーヌは灌頂され、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。君よ、また、まさに、いったい、誰が知るというのでしょう。酔うべきものは、諸々の欲望〔の対象〕です。貴君たちは、行きたまえ。レーヌ王のいるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、レーヌ王に、このように説くのです。『君よ、まさに、ディサンパティ王は、命を終え、王権によって、貴君レーヌは灌頂されました。貴君は、その言葉を記憶しますか』」と。
308. 君よ、「君よ、わかりました」と、まさに、それらの六者の士族たちは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に答えて、レーヌ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、レーヌ王に、こう言いました。「君よ、まさに、ディサンパティ王は、命を終え、王権によって、貴君レーヌは灌頂されました。貴君は、その言葉を記憶しますか」と。「君よ、わたしは、その言葉を記憶します。君よ、いったい、まさに、誰が、北は長大にして、南は荷車の口であるかの、この大いなる地を、七種に等しく、善く区分されたものに区分することができるというのでしょう」と。「君よ、いったい、まさに、他の誰ができるというのでしょう──マハー・ゴーヴィンダ婆羅門より他に」と。君よ、そこで、まさに、レーヌ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、このように説きなさい。『尊き方よ、レーヌ王が、あなたを呼んでいます』」と。君よ、「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、レーヌ王に答えて、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、こう言いました。「尊き方よ、レーヌ王が、あなたを呼んでいます」と。君よ、「君よ、わかりました」と、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、その家来に答えて、レーヌ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、レーヌ王を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。君よ、一方に坐った、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、レーヌ王は、こう言いました。「さあ、貴君ゴーヴィンダは、北は長大にして、南は荷車の口であるかの、この大いなる地を、七種に等しく、善く区分されたものに区分したまえ」と。「君よ、わかりました」と、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、レーヌ王に答えて、北は長大にして、南は荷車の口であるかの、この大いなる地を、七種に等しく、善く区分されたものに区分しました。全てが〔七種に等しく〕荷車の口であるかに据え置きました。そこで、まさに、レーヌ王の地方は、〔それらの〕中央に有ります。
309. 〔そこで、詩偈に言いました〕「カーリンガ〔国〕の(※)ダンタプラが、そして、アッサカ〔国〕のポータナが──アヴァンティ〔国〕のマヘーサヤが、かつまた、ソーヴィーラ〔国〕のロールカが──
※ テキストには kaliṅgānaṃ とあるが、PTS版により kāliṅgānaṃ と読む。
かつまた、ヴィデーハ〔国〕のミティラーが、アンガ〔国〕のチャンパーが造作され、さらに、カーシ〔国〕のバーラーナシーが──これらが、ゴーヴィンダによって造作された」と。
310. 君よ、そこで、まさに、それらの六者の士族たちは、すなわち、自らの利得によって、わが意を得た者たちと成り、円満成就した思惟ある者たちと〔成りました〕。「すなわち、求めるところとして、すなわち、望むところとして、すなわち、志向するところとして、すなわち、切望するところとして、まさに、わたしたちに有った、その〔思い〕が、わたしたちの得るところとなった」と。
〔そこで、詩偈に言いました〕「サッタブー、そして、ブラフマダッタ、ヴェッサブー、バラタと共に、レーヌ、さらに、二者のダタラッタが、そのとき、七者のバーラダ(国王)として〔世に〕存した」と。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
〔善き〕評価の声が上がること
311. 君よ、そこで、まさに、それらの六者の士族たちは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、こう言いました。「すなわち、まさに、貴君ゴーヴィンダが、レーヌ王にとって、愛しく意に適う嫌悪ならざる道友であるように、まさしく、このように、まさに、貴君ゴーヴィンダは、わたしたちにとってもまた、愛しく意に適う嫌悪ならざる道友です。貴君ゴーヴィンダは、わたしたちに教示したまえ。貴君ゴーヴィンダは、わたしたちへの教示を拒んではいけません」と。「君よ、わかりました」と、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの六者の士族たちに答えました。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、そして、七者の即位灌頂した王たる士族たちに、王権について教示し、そして、七者の婆羅門の大家たちに、さらに、七百の沐浴師たちに、諸々の呪文を教授しました。
312. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、他時にあって、このように、善き評価の声が上がりました。「マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う」と。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「わたしに、まさに、このように、善き評価の声が上がっている。『マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う』と。また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ない。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともない。また、まさに、このことを、わたしは聞いた──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。それなら、さあ、わたしは、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するのだ」と。
313. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、レーヌ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、レーヌ王に、こう言いました。「君よ、わたしに、まさに、このように、善き評価の声が上がっています。『マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う』と。君よ、また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ません。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともありません。また、まさに、このことを、わたしは聞きました──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。君よ、わたしは求めます──雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、近づくことなき者として」と。「今が、そのための時と、貴君ゴーヴィンダが思うのなら〔思いのままに〕」と。
314. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの六者の士族たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの六者の士族たちに、こう言いました。「君よ、わたしに、まさに、このように、善き評価の声が上がっています。『マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う』と。君よ、また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ません。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともありません。また、まさに、このことを、わたしは聞きました──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。君よ、わたしは求めます──雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、近づくことなき者として」と。「今が、そのための時と、貴君ゴーヴィンダが思うのなら〔思いのままに〕」と。
315. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの、そして、七者の婆羅門の大家たちのいるところに、さらに、七百の沐浴師たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そして、七者の婆羅門の大家たちに、さらに、七百の沐浴師たちに、こう言いました。「君よ、わたしに、まさに、このように、善き評価の声が上がっています。『マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う』と。君よ、また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ません。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともありません。また、まさに、このことを、わたしは聞きました──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。君よ、わたしは求めます──雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、近づくことなき者として」と。「今が、そのための時と、貴君ゴーヴィンダが思うのなら〔思いのままに〕」と。
316. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、四十者の似合いの妻たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの四十者の似合いの妻たちに、こう言いました。「尊女よ、わたしに、まさに、このように、善き評価の声が上がっています。『マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕を見る。マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、じかに、梵〔天〕と、論じ合い、談じ合い、話し合う』と。尊女よ、また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ません。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともありません。また、まさに、このことを、わたしは聞きました──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。尊女よ、わたしは求めます──雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、近づくことなき者として」と。「今が、そのための時と、貴君ゴーヴィンダが思うのなら〔思いのままに〕」と。
317. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、城市の東に、新しい公会堂を造作させて、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想しました。まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、近づいて行きません。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、四月が経過して、まさしく、焦慮が有り、思い悩みが有りました。「また、まさに、このことを、わたしは聞いた──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『彼が、雨期の四月のあいだ静坐し、慈悲の瞑想を瞑想するなら、彼は、梵〔天〕を見る。梵〔天〕と論じ合い、梵〔天〕と談じ合い、梵〔天〕と話し合う』と。また、まさに、わたしは、梵〔天〕を見ない。梵〔天〕と論じ合うこともなく、梵〔天〕と談じ合うこともなく、梵〔天〕と話し合うこともない」と。
梵〔天〕との論議
318. 君よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、〔自らの〕心をとおして、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門の面前に出現しました。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、まさしく、恐怖が有り、驚愕が有り、身の毛のよだちが有りました。すなわち、そのように、過去に見たことがない形態を見て。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、梵〔天〕のサナンクマーラに、詩偈をもって語りかけました。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「色艶ある方であり、福徳ある方であり、吉祥ある方です。敬愛なる方よ、あなたは、いったい、どのような方として存しているのですか。知らずにいる者たちとして、あなたに尋ねます。どのように、わたしどもは、あなたのことを知るべきですか」と。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕「わたしのことを、まさに、永遠(サナンタナ)の童子(クマーラ)と、梵の世において、〔人々は〕知ります。天〔の神々〕たちの全てが、わたしのことを知っています。ゴーヴィンダよ、このように、知りたまえ」〔と〕。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「坐があり、水があり、足に塗る油があり、そして、甘美なる野菜があります──梵〔天〕のために。供物〔の評価〕について、貴君に尋ねます。供物〔の評価〕を為したまえ──わたしどものために、貴君は」〔と〕。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕「あなたのために、〔わたしたちは〕供物を納受します。ゴーヴィンダよ、すなわち、あなたが語る、〔その供物を〕。所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、機会が作られた者として、〔あなたは〕尋ねなさい──それが何であれ、望み求めるものを」と。
319. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、〔わたしは〕存している──梵〔天〕のサナンクマーラによって、機会が作られた者として。いったい、まさに、何を、わたしは、梵〔天〕のサナンクマーラに尋ねるべきなのか──あるいは、所見の法(現世)の義(目的)を〔尋ねるべきなのか〕、あるいは、未来の〔義〕を〔尋ねるべきなのか〕」と。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしは、諸々の所見の法(現世)の義(目的)に巧みな智ある者である。他者たちもまた、わたしに、所見の法(現世)の義(目的)を尋ねる。それなら、さあ、わたしは、梵〔天〕のサナンクマーラに、まさしく、未来の義(目的)を尋ねるのだ」と。君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、梵〔天〕のサナンクマーラに、詩偈をもって語りかけました。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「梵〔天〕のサナンクマーラに、〔わたしは〕尋ねます──疑いある者として、疑いなき方に、諸々の他者の論について。どこにおいて立脚し、そして、何について学んでいるなら、死すべき者でありながら、不死なる梵の世に至り得るのですか」と。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕「梵(婆羅門)よ、人間たち〔の世〕において、我執〔の思い〕を捨棄して、〔心が〕専一と成り、慈悲〔の思い〕を信念し(※)、生臭なく、淫事から離れ、ここにおいて立脚し、そして、ここにおいて学んでいるなら、死すべき者でありながら、不死なる梵の世に至り得ます」と。
※ テキストには karuṇedhimutto とあるが、PTS版により karuṇādhimutto と読む。以下の平行箇所も同様。
320. 「『我執〔の思い〕を捨棄して』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。ここに、一部の者は、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家します。かくのごとく、『我執〔の思い〕を捨棄して』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。『〔心が〕専一と成り』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。ここに、一部の者は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。かくのごとく、『〔心が〕専一と成り』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。『慈悲〔の思い〕に信念し』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。ここに、一部の者は、慈悲〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈悲〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。かくのごとく、『慈悲〔の思い〕に信念し』という、貴君の〔言葉を〕、わたしは、〔このように〕了知します。しかしながら、生臭について語っている貴君の〔言葉を〕、まさに、わたしは、〔いまだ〕了知しません」〔と〕。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「梵(梵天)よ、人間たち〔の世〕において、誰が、生臭の者たちなのですか。これらの者たちのことを、〔わたしは〕知りません。慧者たる方よ、ここに、説いてください。〔教示を〕為したまえ──人々は、何によって覆われ、〔悪しき臭いを〕放つのですか。悪所にある者たちとなり、梵の世が覆われているのですか」と。
〔梵天のサナンクマーラが、詩偈に言いました〕「忿激、虚偽を説くこと、そして、欺き、裏切り、吝嗇、高慢、嫉妬、欲求、物欲、さらに、他者を傷つけること、そして、貪欲(貪)、かつまた、憤怒(瞋)、さらに、驕慢(驕)、迷妄(痴)──これらのうちに束縛された者たちは、生臭なきことなく、悪所にある者たちとなり、梵の世が覆われているのです」と。
「すなわち、生臭について語っている貴君の〔言葉を〕、まさに、わたしは、〔そのとおりに〕了知します。それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「今が、そのための時と、貴君ゴーヴィンダが思うのなら〔思いのままに〕」と。
レーヌ王への申し立て
321. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、レーヌ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、レーヌ王に、こう言いました。「今や、貴君は、他の司祭を遍く探し求めたまえ。すなわち、貴君に、王権のことを教示するであろう、〔他の司祭を〕。君よ、わたしは、家から家なきへと出家することを求めます。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「地上の長たるレーヌ王に、わたしは告げる。あなたは、王権によって覚知したまえ。司祭たることに、わたしは喜び楽しまない」〔と〕。
〔レーヌ王が、詩偈に言いました〕「それで、もし、あなたに、諸々の欲望に不足があるなら、わたしは、あなたのために遍く満たそう。すなわち、あなたを害する者がいるなら、わたしは、地上の軍団長として、〔彼を〕阻止しよう。あなたは、父である、わたしは、子である。ゴーヴィンダよ、わたしたちを捨棄してはならない」〔と〕。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「わたしに、諸々の欲望に不足は存在しない。わたしを害する者は見出されない。人間ならざる者の言葉を聞いて、それゆえに、家〔の生活〕に、わたしは喜び楽しまない」〔と〕。
〔レーヌ王が、詩偈に言いました〕「人間ならざる者は、どのような色艶ある者であり、あなたに、どのような義(道理)を語ったのか。さてまた、その〔言葉〕を聞いて、わたしたちを捨棄するとは──諸々の家〔の生活〕を、そして、わたしたちの全部を」〔と〕。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「過去において、〔斎戒に〕入ったわたしに──祭祀を欲する者として存しているわたしに──クサ〔草〕の葉が遍く敷かれた、燃え盛る祭火が存した。
そののち、わたしのもとに、梵の世から、梵〔天〕のサナンクマーラが出現した。彼は、わたしの問いを説き明かした。それを聞いて、家〔の生活〕に、〔わたしは〕喜び楽しまない」〔と〕。
〔レーヌ王が、詩偈に言いました〕「わたしは、貴君に信を置く。ゴーヴィンダよ、すなわち、あなたが語る、〔そのことを〕。人間ならざる者の言葉を聞いて、どうして、他なるものとして転起できよう。
あなたの、その〔言葉〕に、〔わたしたちは〕従い転じ行くであろう。ゴーヴィンダよ、貴君は、わたしたちの教師である。すなわち、汚濁なく、垢を離れ、浄美なる、瑠璃の宝珠のように、このように、信ある者たちとして、〔わたしたちは〕歩むであろう──ゴーヴィンダの教示において」と。
「それで、もし、貴君ゴーヴィンダが、家から家なきへと出家するなら、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
六者の士族たちへの申し立て
322. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの六者の士族たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの六者の士族たちに、こう言いました。「今や、貴君たちは、他の司祭を遍く探し求めたまえ。すなわち、貴君たちに、王権について教示するであろう、〔他の司祭を〕。君よ、わたしは、家から家なきへと出家することを求めます。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。君よ、そこで、まさに、それらの六者の士族たちは、一方に立ち去って、このように等しく思弁しました。「まさに、これらの婆羅門たちは、まさに、財を貪る者たちである。それなら、さあ、わたしたちは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門〔の心変わり〕を、財によって試みるのだ」と。彼らは、近づいて行って、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、このように言いました。「君よ、まさに、これらの七つの王国において、沢山の所有物が等しく見出されます。それから、貴君は、すなわち、義(目的)としてあるかぎり、そのかぎりのものを持ち運ばれよ」と。「君よ、十分です。わたしにもまた、この沢山の所有物があります──まさしく、貴君たちに由縁するものとして。わたしは、その全てを捨棄して、家から家なきへと出家するでしょう。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。君よ、そこで、まさに、それらの六者の士族たちは、一方に立ち去って、このように等しく思弁しました。「まさに、これらの婆羅門たちは、まさに、婦女たちを貪る者たちである。それなら、さあ、わたしたちは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門〔の心変わり〕を、婦女たちによって試みるのだ」と。彼らは、近づいて行って、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、このように言いました。「君よ、まさに、これらの七つの王国において、沢山の婦女たちが等しく見出されます。それから、貴君は、すなわち、義(目的)としてあるかぎり、そのかぎりのものを持ち運ばれよ」と。「君よ、十分です。わたしにもまた、これらの四十者の似合いの妻たちがいます。わたしは、彼女たちの全てをもまた捨棄して、家から家なきへと出家するでしょう。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。
323. 「それで、もし、貴君ゴーヴィンダが、家から家なきへと出家するなら、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
〔マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、詩偈に言いました〕「それで、もし、そこにおいて、〔迷える〕凡夫が執着している、諸々の欲望〔の対象〕を、〔あなたたちが〕捨棄するなら、勉励せよ、堅固なる者たちと成れ、忍耐の力によって〔心が〕定められた者たちと〔成れ〕。
この道は、真っすぐな道。この道は、無上なるもの。正しくある者たちによって守られた正なる法(教え)。梵の世への再生のためのもの」と。
「まさに、それでは、貴君ゴーヴィンダは、七年のあいだ待ちたまえ。七年が経過して、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
「君よ、まさに、七年は長過ぎます。わたしは、貴君たちを、七年のあいだ待つことはできません。君よ、また、まさに、いったい、誰が、諸々の生命のことを知るというのでしょう。赴くべきは、未来です。考量するべきは、覚るべきは、為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、不死は存在しません。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「まさに、それでは、貴君ゴーヴィンダは、六年のあいだ待ちたまえ。……略……五年のあいだ待ちたまえ。……四年のあいだ待ちたまえ。……三年のあいだ待ちたまえ。……二年のあいだ待ちたまえ。……一年のあいだ待ちたまえ。一年が経過して、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
「君よ、まさに、一年は長過ぎます。わたしは、貴君たちを、一年のあいだ待つことはできません。君よ、また、まさに、いったい、誰が、諸々の生命のことを知るというのでしょう。赴くべきは、未来です。考量するべきは、覚るべきは、為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、不死は存在しません。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「まさに、それでは、貴君ゴーヴィンダは、七月のあいだ待ちたまえ。七月が経過して、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
「君よ、まさに、七月は長過ぎます。わたしは、貴君たちを、七月のあいだ待つことはできません。君よ、また、まさに、いったい、誰が、諸々の生命のことを知るというのでしょう。赴くべきは、未来です。考量するべきは、覚るべきは、為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、不死は存在しません。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。
「まさに、それでは、貴君ゴーヴィンダは、六月のあいだ待ちたまえ。……略……五月のあいだ待ちたまえ。……四月のあいだ待ちたまえ。……三月のあいだ待ちたまえ。……二月のあいだ待ちたまえ。……一月のあいだ待ちたまえ。……半月のあいだ待ちたまえ。半月が経過して、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
「君よ、まさに、半月は長過ぎます。わたしは、貴君たちを、半月のあいだ待つことはできません。君よ、また、まさに、いったい、誰が、諸々の生命のことを知るというのでしょう。赴くべきは、未来です。考量するべきは、覚るべきは、為すべきは、善なることです。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、不死は存在しません。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「まさに、それでは、貴君ゴーヴィンダは、七日のあいだ待ちたまえ。すなわち、わたしたちが、自らの子と妻たちに、王権によって教示するまでは。七日が経過して、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。「君よ、まさに、七日は長くありません。わたしは、貴君たちを、七日のあいだ待ちましょう」と。
婆羅門の大家等々への申し立て
324. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、それらの、そして、七者の婆羅門の大家たちのいるところに、さらに、七百の沐浴師たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの、そして、七者の婆羅門の大家たちに、さらに、七百の沐浴師たちに、こう言いました。「今や、貴君たちは、他の師匠を遍く探し求めたまえ。すなわち、貴君たちに、諸々の呪文を教授するであろう、〔他の師匠を〕。君よ、わたしは、家から家なきへと出家することを求めます。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「貴君ゴーヴィンダは、家から家なきへと出家してはいけません。君よ、出家者たちは、かつまた、権能少なき者たちであり、かつまた、利得少なき者たちです。婆羅門たることは、かつまた、大いなる権能があり、かつまた、大いなる利得があります」と。「貴君たちは、このように言ってはいけません。『君よ、出家者たちは、かつまた、権能少なき者たちであり、かつまた、利得少なき者たちです。婆羅門たることは、かつまた、大いなる権能があり、かつまた、大いなる利得があります』と。君よ、いったい、まさに、誰か、わたしより他に、あるいは、より大いなる権能ある者がいますか、あるいは、より大いなる利得ある者がいますか。君よ、まさに、わたしは、今現在、王たちにとっての王のようにあり、婆羅門たちにとっての梵〔天〕のようにあり、家長たちにとっての天神のようにあります。わたしは、その全てを捨棄して、家から家なきへと出家するでしょう。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。君よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「それで、もし、貴君ゴーヴィンダが、家から家なきへと出家するなら、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
妻たちへの申し立て
325. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、四十者の似合いの妻たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、四十者の似合いの妻たちに、こう言いました。「尊女たちのなかで、すなわち、求める者は、あるいは、自らの親族の家々に赴きなさい、あるいは、他の夫を遍く探し求めなさい。尊女よ、わたしは、家から家なきへと出家することを求めます。また、まさに、すなわち、生臭について語っている梵〔天〕の〔言葉を〕、わたしが聞いたとおりに、それらは、家に居住している者によるなら、削除し易きものならず。尊女よ、わたしは、家から家なきへと出家するでしょう」と。「あなたこそは、わたしたちにとって、親族たちのなかの親族です。また、あなたは、夫たちのなかの夫です。それで、もし、貴君ゴーヴィンダが、家から家なきへと出家するなら、わたしたちもまた、家から家なきへと出家しましょう。そこで、すなわち、あなたの赴く所は、それは、わたしたちの赴く所と成るでしょう」と。
マハー・ゴーヴィンダの出家
326. 君よ、そこで、まさに、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、その七日が経過して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。また、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が出家したところ、かつまた、七者の即位灌頂した王たる士族たちが、そして、七者の婆羅門の大家たちが、さらに、七百の沐浴師たちが、かつまた、四十者の似合いの妻たちが、さらに、幾千の士族たちが、さらに、幾千の婆羅門たちが、さらに、幾千の家長たちが、そして、宮女たちから、幾千の(※)婦女たちが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと、出家したマハー・ゴーヴィンダ婆羅門に従い出家しました。君よ、まさに、その衆に取り囲まれ、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、諸々の村や町や地方や王都において、遊行〔の旅〕を歩みます。君よ、また、まさに、すなわち、その時点において、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門が、あるいは、村へと、あるいは、町へと、近づいて行くなら、そこにおいて、王たちにとっての王のように、婆羅門たちにとっての梵〔天〕のように、家長たちにとっての天神のように、〔彼は〕有ります。また、まさに、その時点において、人間たちが、あるいは、くしゃみをするなら、あるいは、躓くなら、彼らは、このように言いました。「マハー・ゴーヴィンダ婆羅門に、礼拝が存せ。七者の司祭たちに、礼拝が存せ」と。
※ テキストには anekehi とあるが、PTS版により anekā と読む。
327. 君よ、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で……略……憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。そして、弟子たちに、梵の世における共住のための道を説示しました。
328. 君よ、また、まさに、その時点において、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門の弟子たちで、すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知した、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に、再生しました。すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知しなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、一部の者たちはまた、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生しました。すなわち、全てに劣る身体を円満成就させる、それらの者たちは、音楽神の身体を円満成就させました。君よ、かくのごとく、まさに、かくのごとく、まさに、これらの良家の子息たちの出家は、まさしく、全ての者たちの〔出家が〕、無駄ならざるものと成り、徒労なきものと〔成り〕、果を有するものと〔成り〕、生成を有するものと〔成りました〕』と。
329. 世尊は、それを記憶しますか」と。「パンチャシカよ、わたしは記憶します。その時点において、わたしは、マハー・ゴーヴィンダ婆羅門として〔世に〕有りました。わたしは、それらの弟子たちに、梵の世における共住のための道を説示しました。パンチャシカよ、また、まさに、わたしの、その梵行は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、梵の世への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起します。
パンチャシカよ、また、まさに、わたしの、この梵行は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。パンチャシカよ、では、どのようなものが、その梵行であり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。アーナンダよ、ここに、まさに、その梵行は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
330. パンチャシカよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知する、それらの者たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知しない、それらの者たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知しない、一部の者たちはまた、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。すなわち、一切によって一切にわたり、教えを了知しない、一部の者たちはまた、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。パンチャシカよ、かくのごとく、まさに、これらの良家の子息たちの出家は、まさしく、全ての者たちの〔出家が〕、無駄ならざるものであり、徒労なきものであり、果を有するものであり、生成を有するものです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た音楽神の子であるパンチャシカは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
マハー・ゴーヴィンダの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(20). 大いなる集いの経
331. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥの大いなる林において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。さらに、十の世の界域から、天神たちの多くのところが、参集した状態でいます──世尊を見るために、そして、比丘の僧団を〔見るために〕。そこで、まさに、四者の浄居〔天〕の身体ある天神たちに、この〔思い〕が有りました。「この方は、まさに、世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられる。カピラヴァットゥの大いなる林において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。さらに、十の世の界域から、天神たちの多くのところが、参集した状態でいる──世尊を見るために、そして、比丘の僧団を〔見るために〕。それなら、さあ、わたしたちもまた、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、世尊の現前において、各自に詩偈を語るのだ」と。
332. そこで、まさに、それらの天神たちは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、浄居天において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、それらの天神たちは、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「山林において、大いなる集いがあり、天の身体ある者たちが集いあつまっている。〔わたしたちは〕やってきた──この法(教え)の集いに、敗れることなき僧団を見るために」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「そこにあって、比丘たちは、〔心を〕定めた。自己の心を、真っすぐに作り為した。馭者が、諸々の手綱を掴んで〔馬たちを操る〕ように、賢者たちは、諸々の〔感官の〕機能(根)を守る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「杭を断ち切って、閂を断ち切って、インダの杭(城門に立てられた標柱)を取り払って、動揺なき者たちとなり、彼らは、〔世を〕歩む──信ある者たちとなり、〔世俗の〕垢を離れる者たちとなり、眼ある方(ブッダ)によって善く調御された、若き象たちは」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが誰であれ、帰依所として、覚者のもとに赴いたなら、彼らは、悪所の地に赴かないであろう。人間の肉身を捨棄して、天の身体を円満成就させるであろう」と。
天神たちの参集
333. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「十の世の界域における、天神たちの多くのところが、参集した状態でいます──如来を見るために、そして、比丘の僧団を〔見るために〕。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、最高のものとして、この天神たちの参集が有りました。それは、たとえば、また、今現在、わたしにあるように。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、最高のものとして、この天神たちの参集が有るでしょう。それは、たとえば、また、今現在、わたしにあるように。比丘たちよ、天の身体ある者たちの諸々の名前を告げ知らせましょう。比丘たちよ、天の身体ある者たちの諸々の名前を述べ伝えましょう。比丘たちよ、天の身体ある者たちの諸々の名前を説き示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。
334. 世尊は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕偈文を唱えよう。すなわち、地居〔の神々〕たちがいるところには、その〔地〕に依拠した〔比丘〕たちがいる。それらの、山窟に依拠した〔比丘〕たちは、自己を精励する者たちであり、〔心が〕定められた者たちである。
多くの者たちが獅子のように陰坐し、身の毛のよだちを征服する者たちであり、白き意ある清浄なる者たちであり、〔心が〕澄浄で混濁なき者たちである。
カピラヴァットゥの林にいる、五百を超える者たちのことを知って、そののち、教師は、教えを喜ぶ弟子たちに告げた。
『天の身体ある者たちが来訪している。比丘たちよ、それら〔の神々たち〕を識知しなさい』〔と〕。そして、彼らは、覚者の教えを聞いて、熱勤を為した。
彼らに、人間ならざる者たちを見る知恵が出現した。或る者たちはまた、百の者たちを見た──さらに、七万の者たちを。
或る者たちは、十万の人間ならざる者たちを見た。或る者たちはまた、無辺なる者たち見た。全ての方角が、〔人間ならざる者たちによって〕充満したものと成った。
そして、眼ある者は、その全てを、証知して、定め置いて、そののち、教師は、教えを喜ぶ弟子たちに告げた。
『天の身体ある者たちが来訪している。比丘たちよ、それら〔の神々たち〕を識知しなさい』〔と〕。それらの者たちのことを、まさに、わたしは述べ伝えよう──諸々の言葉によって、順次に。
335. それらの七千の夜叉たちが、カピラヴァットゥの地居〔の神々〕たちである、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
ヘーマヴァタ(ヒマラヤ)の六千の夜叉たちが、種々なる色艶ある者たちである、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
サーターギラ(サーター山)の三千の夜叉たちが、種々なる色艶ある者たちである、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
かのごとく、これらの一万六千の夜叉たちが、種々なる色艶ある者たちである、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
ヴェッサーミッタの五百の夜叉たちが、種々なる色艶ある者たちである、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
ラージャガハ〔の住者〕たるクンビーラは、ヴェープッラ〔山〕を住居地とし、夜叉たちのなかの十万を超える者たちが、彼に奉侍する。ラージャガハ〔の住者〕たるクンビーラが、彼もまた、集いの林にやってきた。
336. そして、東の方角を統治する、ダタラッタ王(持国天)が──音楽神たちの君主である、福徳ある大王が〔やってきた〕。
彼の多くの子たちもまた、インダの名をもつ大力の者たちであり、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
そして、南の方角を、それを統治する、ヴィルーラ(ヴィルーラカ)王(増長天)が──魔族たちの君主である、福徳ある大王が〔やってきた〕。
彼の多くの子たちもまた、インダの名をもつ大力の者たちであり、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
そして、西の方角を統治する、ヴィルーパッカ王(広目天)が──かつまた、龍たちの君主である、福徳ある大王が〔やってきた〕。
彼の多くの子たちもまた、インダの名をもつ大力の者たちであり、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
そして、北の方角を、それを統治する、クヴェーラ王(多聞天・毘沙門天)が──かつまた、夜叉たちの君主である、福徳ある大王が〔やってきた〕。
彼の多くの子たちもまた、インダの名をもつ大力の者たちであり、神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
東の方角にダタラッタ、南〔の方角〕にヴィルーラカ、西〔の方角〕にヴィルーパッカ、北の方角にクヴェーラ──
それらの四大王たちは、遍きにわたり、四つの方角に光り輝きながら、カピラヴァットゥの林に立った。
337. 彼らの奴隷たちが、幻術師にして、騙し屋たる、狡猾な者たちがやってきた。幻術者たちである、クテンドゥ、ヴィテンドゥ、そして、ヴィトゥが、ヴィトゥタと共に──
チャンダナ、そして、カーマセッタ、キンニガンドゥ、そして、ニガンドゥ、パナーダ、そして、オーパマンニャ、そして、天の馭者のマータリが──
そして、チッタセーナ音楽神、ナラ王、ジャネーサバが、まさしく、そして、パンチャシカがやってきた。ティンバルー、スーリヤ・ヴァッチャサーが──
そして、これらの者たちが、さらに、他の王たちが、音楽神たちが、王たちと共に、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
338. さらに、龍の、ナーガサたちが、ヴェーサーラたちが、タッチャカたちと共にやってきた。カンバラとアッサタラたちが、パーヤーガたちが、親族たちと共にやってきた。
ヤームナたちが、そして、ダタラッタたちが、福徳ある龍たちがやってきた。大いなる龍のエーラーヴァナが、彼もまた、集いの林にやってきた。
すなわち、龍の王たちを一気に運び去る(捕獲する)、清らかな眼をした翼ある天の鳥たちが、彼らが、宙空から林の中央に降り立っている。彼らには、『彩りあざやかな金翅鳥』という名がある。
そのとき、龍の王たちに、恐怖なき〔平安〕が存した──覚者が、金翅鳥〔の恐怖〕からの平安を作り為した、〔そのとき〕。龍たちと金翅鳥たちは、〔それぞれに〕優しい言葉で呼び合いながら、覚者を帰依所と為した。
339. 金剛手に征された、海に依拠する阿修羅たちが、ヴァーサヴァの兄弟たちが、これらの、神通ある者たちが、福徳ある者たちが──
大いなる恐怖あるカーラカンチャたちが、阿修羅のダーナヴェーガサたちが、ヴェーパチッティ、そして、スチッティ、パハーラーダが、ナムチと共に──
そして、バリの子たちの、百者の全てがヴァーローチャの名をもつ者たちが、バリの軍団を武装して、ラーフバッダ(阿修羅の王)のもとに近しく赴いた。『あなたに、幸せ〔有れ〕。集いです。今や、比丘たちの集いの林に〔行くべき時です〕』〔と〕。
340. そして、水と地と火と風の天〔の神々〕たちが、そこにやってきた。ヴァルナたちが、ヴァーラナたちが、〔それらの〕天〔の神々〕たちが、そして、ソーマが、ヤサと共に──
慈愛〔の身体〕ある者たちが、慈悲の身体ある者たちが、〔それらの〕福徳ある天〔の神々〕たちがやってきた。これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。
神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
ヴェンドゥの天〔の神々〕たちが、そして、サハリが、そして、アサマたちが、二者のヤマたちが。月に縁ある天〔の神々〕たちが、月〔の神〕を先頭にしてやってきた。
日に縁ある天〔の神々〕たちが、日〔の神〕を先頭にしてやってきた。穏やかな雲〔の神々〕たちが、星〔の神々〕たちを先頭にしてやってきた。
ヴァス〔の神々〕たちの最勝者、ヴァーサヴァにして、プリンダダたる、帝釈〔天〕もまたやってきた。これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。
神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
さらに、燃え盛る火炎のような、サハブーの天〔の神々〕たちがやってきた。ウマーの花の輝きある、そして、アリッタカたちが、そして、ロージャたちが〔やってきた〕。
ヴァルナたちが、そして、サハダンマたちが、そして、アッチュタたちが、アネージャカたちが、スーレイヤとルチラたちがやってきた。ヴァーサヴァネーシンたちがやってきた。これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。
神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
サマーナたちが、マハー・サマーナたちが、マーヌサたちが、マーヌスッタマたちが、キッダーパドーシカたちがやってきた。マノーパドーシカたちがやってきた。
さらに、ハリたちが、〔それらの〕天〔の神々〕たちがやってきた。そして、すなわち、ローヒタヴァーシンたちが、パーラガたちが、マハー・パーラガたちが、福徳ある天〔の神々〕たちがやってきた。これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。
神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
スッカたちが、カランバたちが、アルナたちが、ヴェーガナサたちと共にやってきた。オダータガイハたちを筆頭とする、ヴィチャッカナたちが、〔それらの〕天〔の神々〕たちがやってきた。
サダーマッタたちが、ハーラガジャたちが、そして、福徳あるミッサカたちが〔やってきた〕。すなわち、方々に雨を降らせる、パッジュナが、〔雷鳴を〕鳴り響かせながらやってきた。
これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
ケーミヤたちが、兜率〔天の神々〕たちが、耶摩〔天の神々〕たちが、そして、福徳あるカッタカたちが、ランビータカたちが、ラーマセッタたちが、そして、ジョーティナーマたちが、アーサヴァたちが、化楽〔天の神々〕たちがやってきた。さらに、他化〔自在天の神々〕たちがやってきた。
これらの十者の、十種の身体ある者たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが〔やってきた〕。神通ある者たちが、光輝ある者たちが、色艶ある者たちが、福徳ある者たちが、歓喜しながら、比丘たちの集いの林に来訪した。
これらの六十者の天の衆たちが、全ての者たちが種々なる色艶ある者たちが、名前の類推によって、さらに、すなわち、他の、相同の者たちと共に、やってきた。
〔彼らは言った〕『生から離住し、鬱積なく、激流を超えた、煩悩なき方を、激流を超える龍象たる方を、暗黒を超え行く月のような方を、〔わたしは〕見るのだ』〔と〕。
341. スブラフマーが、そして、パラマッタが、神通ある者たちの子たちと共に、サナンクマーラが、そして、ティッサが、彼もまた、集いの林にやってきた。
諸々の梵の世の千〔の梵天〕たちに、大いなる梵〔天〕は君臨し、再生者として、光輝ある者であり、恐怖の身体ある者であり、福徳ある者である。
ここにおいて、各自が自在の転起ある者たちである、十者のイッサラ(イーシュヴァラ神)たちがやってきた。そして、彼らの中央に、ハーリタが取り囲まれ、やってきた。
342. そして、それらの全ての天〔の神々〕たちが、インダ(インドラ神・帝釈天)と共に、梵〔天〕と共に、来訪したとき、悪魔の軍団も来訪した。見よ、黒き者の愚鈍なるを。
〔悪魔たちは言った〕『さあ、捕捉せよ、結縛せよ、おまえたちの貪欲による結縛が、〔比丘たちに〕存せ。遍きにわたり、〔比丘たちを〕取り囲め。おまえたちは解き放ってはならない──誰であれ、その者を』〔と〕。
かくのごとく、そこにおいて、マハー・セーナは、黒き者は、軍団を送った──手で地面を打って、恐ろしい音を立てて──
あたかも、雨期の雨雲が、雷光と共に〔雷鳴を〕鳴り響かせているように。そのとき、彼は、自ら自在なき者となり、忿激し、〔虚しく〕反転した。
343. そして、眼ある者は、その全てを、証知して、定め置いて、そののち、教師は、教えを喜ぶ弟子たちに告げた。
『悪魔の軍団が来訪している。比丘たちよ、それら〔の悪魔たち〕を識知しなさい』〔と〕。そして、彼らは、覚者の教えを聞いて、熱勤を為した。離貪者たちから、〔悪魔たちは〕立ち去った。彼らには、諸々の毛もさえも動かなかった。
〔悪魔たちは言った〕『全ての者たちは、戦場を制圧し、恐怖を超え行った、福徳ある者たちである。〔世の〕人々に聞こえた、それらの弟子たちは、精霊たちと共に歓喜する』」と。
大いなる集いの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(21). 帝釈〔天〕の問いの経
344. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。ラージャガハの東にアンバサンダーという名の婆羅門の村があり、その〔村〕の北にあるヴェーディヤカ山のインダサーラ窟において。また、まさに、その時点にあって、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、世尊と会見するための切なる思いが生起しました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どこに、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられるのか」と。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊が、マガダ〔国〕に住んでおられるのを見ました。ラージャガハの東にアンバサンダーという名の婆羅門の村があり、その〔村〕の北にあるヴェーディヤカ山のインダサーラ窟において。見て、三十三天〔の神々〕たちに告げました。「敬愛なる者たちよ、この方は、世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられる。ラージャガハの東にアンバサンダーという名の婆羅門の村があり、その〔村〕の北にあるヴェーディヤカ山のインダサーラ窟において。敬愛なる者たちよ、さてまた、そうであるなら、わたしたちは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くべきでは」と。「そのとおりです。あなたに、幸せ〔有れ〕」と、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えました。
345. そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、音楽神の天子たるパンチャシカに告げました。「親愛なる者よ、パンチャシカよ、この方は、世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられる。ラージャガハの東にアンバサンダーという名の婆羅門の村があり、その〔村〕の北にあるヴェーディヤカ山のインダサーラ窟において。親愛なる者よ、パンチャシカよ、さてまた、そうであるなら、わたしたちは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くべきでは」と。「そのとおりです。あなたに、幸せ〔有れ〕」と、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、黄色い栃の実のような琵琶を携えて、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の随行として従い行きました。
346. そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに取り囲まれ、音楽神の天子たるパンチャシカを先頭にし、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、マガダ〔国〕において、ラージャガハの東にアンバサンダーという名の婆羅門の村があり、その〔村〕の北にあるヴェーディヤカ山において、出現しました。また、まさに、その時点にあって、ヴェーディヤカ山は、さらに、婆羅門の村であるアンバサンダーも、極度に光が生じたものと成ります──すなわち、そのように、天〔の神々〕たちの天の威力によって。さてまた、まさに、遍く村々において、人間たちは、このように言いました。「まさに、今日、ヴェーディヤカ山は、まさに、燃え盛る。まさに、今日、ヴェーディヤカ山は、まさに、燃え上がる。まさに、今日、ヴェーディヤカ山は、まさに、光り輝く。まさに、今日、ヴェーディヤカ山は、さらに、婆羅門の村であるアンバサンダーも、まさに、どうして、極度に光が生じたのか」と。〔彼らは〕畏怖する者たちとなり、身の毛のよだちを生じた者たちと成りました。
347. そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、音楽神の天子たるパンチャシカに告げました。「親愛なる者よ、パンチャシカよ、まさに、如来たちは、瞑想を喜ぶ瞑想者として静坐しているその間は、わたしのような者によっては近づいて行き難くある。親愛なる者よ、パンチャシカよ、さてまた、そうであるなら、あなたが、世尊を、最初に喜ばせるべきでは。親愛なる者よ、あなたが最初に喜ばせた、そのあとに、わたしたちは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くべきでは」と。「そのとおりです。あなたに、幸せ〔有れ〕」と、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、黄色い栃の実のような琵琶を携えて、インダサーラ窟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、「これだけ〔の距離〕があるなら、世尊は、わたしから、まさしく、遠過ぎずに有るであろうし、近過ぎずに〔有るであろう〕。かつまた、わたしの声を聞くであろう」と、一方に立ちました。
パンチャシカによって歌われた諸々の詩偈
348. 一方に立った、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカは、黄色い栃の実のような琵琶を奏でました。そして、これらの詩偈を語りました──諸々の覚者に関わるものを、諸々の法(教え)に関わるものを、諸々の僧団に関わるものを、諸々の欲望〔の対象〕に関わるものを。
〔そこで、詩偈に言う〕「バッダーよ、太陽の威厳ある方よ、あなたの父であるティンバルに敬拝する。〔あなたは〕存している──彼によって生まれた者として、わたしに喜びを生む美女として。
熱している者たちにとって、風が愛らしくあるように、渇いている者にとって、飲み物が〔愛らしくある〕ように、わたしにとって、〔あなたは〕存している──天女として、愛しい者として。阿羅漢たちにとって、法(教え)が〔愛しくある〕ようなもの。
病める者にとっての薬のように、飢えている者にとっての食べ物のように、バッダーよ、わたし〔の火〕を消しておくれ──燃えている〔火〕を、水で〔消す〕ようにして。
花糸と花粉を擁する冷たい水の蓮池に、炎暑に焼かれた象が〔入り行く〕ように、あなたの乳房の間に入り行きたいもの。
鉤(かぎ)を超え行く象のように、わたしは、刺し棒と槍に勝利した。特相ある腿に夢中になった〔わたし〕は、〔その〕動機を覚知しない。
〔わたしは〕存している──あなたにたいし、貪り求める心ある者として。心は、変わってしまったのだ。〔もはや〕戻ることはできない──釣針を呑んだ魚のようなもの。
バッダーよ、美しい腿ある方よ、わたしを抱きたまえ。優しい眼をした方よ、わたしを抱きたまえ。美女よ、わたしを抱きしめたまえ。これは、わたしの切望するところ。
まさに、わたしに存している僅かな欲望は、巻き毛の者によって無数の状態となり、等しく生起した──阿羅漢にたいする施物のようなもの。
如なる者である阿羅漢たちにたいし、すなわち、わたしが作り為した功徳が存在する。全ての肢体が美しい者よ、わたしのその〔功徳〕は、あなたを相手に熟するのだ。
この地の圏域において、すなわち、わたしが作り為した功徳が存在する。全ての肢体が美しい者よ、わたしのその〔功徳〕は、あなたを相手に熟するのだ。
瞑想によって、専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、釈迦族の牟尼が、不死を求め願うように、太陽の威厳ある方よ、わたしは、あなたを〔求める〕。
あたかも、また、牟尼が、最上の正覚に至り得て愉悦するように、美しい方よ、このように、〔わたしは〕愉悦するであろう──あなたと交合の状態に至ったなら。
もし、帝釈〔天〕が、三十三〔天の神々〕たちのイッサラが、願い事を、わたしに与えるなら、バッダーよ、ああ、わたしは、あなたを願うであろう。このように、わたしの欲望は、堅固なるもの。
開花して間もないサーラ〔樹〕のような、あなたの父を、思慮深き方よ、敬拝しながら礼拝するであろう──彼に、このような子孫が存したからには(※)」と。
※ テキストには yassā setādisī とあるが、注釈書により yassa āsi etādisī と読む。以下の平行箇所も同様。
349. このように説かれたとき、世尊は、音楽神の天子たるパンチャシカに、こう言いました。「パンチャシカよ、まさに、あなたの弦の音曲は、歌詠の音声に適応し、かつまた、歌詠の音声も、弦の音曲に〔適応します〕。パンチャシカよ、また、そして、あなたの弦の音曲は、歌詠の音声を超克せず、かつまた、歌詠の音声も、弦の音曲を〔超克しません〕。パンチャシカよ、また、いつ、これらの詩偈は、あなたによって集められたのですか──諸々の覚者に関わるものも、諸々の法(教え)に関わるものも、諸々の僧団に関わるものも、諸々の欲望〔の対象〕に関わるものも」と。「尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕において、最初に現正覚した者として。尊き方よ、また、まさに、その時点にあって、バッダーという名の、太陽の威厳ある者が、音楽神の王のティンバルの娘がおりまして、わたしは、彼女を希求します。尊き方よ、また、まさに、その婦人は、他の者を欲し、〔世に〕有ります。シカンディンという名の、戦車の馭者のマータリの子がおりまして、彼を希求します。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしが、その婦人を、どのような様態であれ、得られなかったことから、そこで、わたしは、黄色い栃の実のような琵琶を携えて、音楽神の王のティンバルの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、黄色い栃の実のような琵琶を奏でました。そして、これらの詩偈を語りました──諸々の覚者に関わるものを、諸々の法(教え)に関わるものを、諸々の僧団に関わるものを、諸々の欲望〔の対象〕に関わるものを。
〔すなわち〕『バッダーよ、太陽の威厳ある方よ、あなたの父であるティンバルに敬拝する。〔あなたは〕存している──彼によって生まれた者として、わたしに喜びを生む美女として。……略……。
開花して間もないサーラ〔樹〕のような、あなたの父を、思慮深き方よ、敬拝しながら礼拝するであろう──彼に、このような子孫が存したからには』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、バッダーは、太陽の威厳ある者は、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、わたしは、彼を、世尊を、面前で見たことはありません。ですが、ともあれ、わたしは、彼のことを、世尊のことを、聞いたことだけはあります。三十三天〔の神々〕たちのスダンマーの集会場において、近しく踊っているときに。敬愛なる方よ、すなわち、まさに、あなたが、彼を、世尊を賛じ称えることから、今日、わたしたちに、逢瀬が有れ』と。尊き方よ、それだけが、その婦人を相手にする、わたしたちの逢瀬として有りました。しかしながら、今や、それからあとは、さにあらず」と。
帝釈〔天〕の来参
350. そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、この〔思い〕が有りました。「音楽神の天子たるパンチャシカは、世尊に挨拶し、そして、世尊も、パンチャシカに〔挨拶する〕」と。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、音楽神の天子たるパンチャシカに告げました。「親愛なる者よ、パンチャシカよ、あなたは、わたしのために、世尊に敬拝しなさい。『尊き方よ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、家臣と共に、従者と共に、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』」と。「わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕」と、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、世尊を敬拝しました(※)。「尊き方よ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、家臣と共に、従者と共に、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。「パンチャシカよ、このように、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、家臣と共に、従者と共に、安楽の者と成れ。なぜなら、安楽を欲する者たちとして、天〔の神々〕たちはあり、人間たちはあり、阿修羅たちはあり、龍たちはあり、音楽神たちはあるからです──さらに、すなわち、他の、〔世に〕存する、多々なる身体ある者たちも」と。
※ テキストには abhivādeti とあるが、PTS版により abhivādesi と読む。
351. また、そして、このように、如来たちは、このような形態の大いなる権能ある夜叉たちを迎え取ります。迎え取られた天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊のインダサーラ窟に入って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。三十三天〔の神々〕たちもまた、インダサーラ窟に入って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。音楽神の天子たるパンチャシカもまた、インダサーラ窟に入って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。
また、まさに、その時点にあって、インダサーラ窟は、凹凸が存しているところは平坦なものに変成し、狭苦しく存しているところは広々としたものに変成し、洞窟のなかの暗黒は消没し、光明が生起しました──すなわち、そのように、天〔の神々〕たちの天の威力によって。
352. そこで、まさに、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「尊者コーシヤ(帝釈天)にとって、めったにないことです。尊者コーシヤにとって、はじめてのことです。それほどまでに、多くの義務がある者にとって、多くの用事がある者にとって──すなわち、この、ここにやってくることは」と。「尊き方よ、長いあいだずっと、わたしは、世尊と会見するために近づいて行くことを欲するも、しかしながら、また、三十三天〔の神々〕たちの、あれやこれやの義務や用事によって多忙でありまして、このように、わたしは、世尊と会見するために近づいて行くことができなかったのです。尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。サララ堂において。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、世尊と会見するために、サーヴァッティーに赴きました。尊き方よ、また、まさに、その時点にあって、世尊は、或る何かの禅定によって坐った状態でおられます。そして、ブージャティという名の、ヴェッサヴァナ大王の侍女が、世尊に奉仕する者として有り、合掌の者となり、礼拝しながら立っています。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、ブージャティに、こう言いました。『姉妹よ、あなたは、わたしのために、世尊に敬拝しなさい。「尊き方よ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、家臣と共に、従者と共に、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、彼女は、ブージャティは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、世尊と会見するための時ではありません。世尊は、静坐しています』と。『姉妹よ、まさに、それでは、すなわち、世尊が、その禅定から出起した者として有るとき、そこで、わたしの言葉でもって、世尊に敬拝しなさい。「尊き方よ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、家臣と共に、従者と共に、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」』と。尊き方よ、どうでしょう、その姉妹は、わたしのために、世尊に敬拝しましたか。世尊は、その姉妹の言葉を記憶しますか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、その姉妹は、わたしに敬拝しました。わたしは、その姉妹の言葉を記憶します。ですが、また、わたしは、尊者の外輪の音で、その禅定から〔すでに〕出起していたのです」と。「尊き方よ、すなわち、わたしたちよりもより以前に三十三〔天〕の身体に再生した、それらの天〔の神々〕たちがいます。わたしは、彼らの、面前で聞き、面前で受けました。『すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起するとき、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する』と。尊き方よ、〔まさに〕その、このことを、わたしは、じかに見ました。『すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起したことから、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する』という、〔このことを〕。
ゴーパカの事
353. 尊き方よ、まさしく、ここに、カピラヴァットゥにおいて、ゴーピカーという名の釈迦〔族〕の子女が〔世に〕有りました──覚者にたいし浄信した者として、法(教え)にたいし浄信した者として、僧団にたいし浄信した者として、諸戒における円満成就を為す者として。彼女は、女性の資質を離貪させて、男性の資質を修行して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。三十三天〔の神々〕たちの同類として、わたしたちの子息の資質に到達したのです。そこで、また、彼のことを、〔神々は〕このように知ります。『ゴーパカ天子』『ゴーパカ天子』と。尊き方よ、他にもまた、三者の比丘たちが、世尊のもと、梵行を歩んで、劣った音楽神の身体に再生したのです。彼らは、五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみながら、わたしたちに奉仕するために、わたしたちを世話するために、やってきます。わたしたちに奉仕するために、わたしたちを世話するために、やってきた彼らを、ゴーパカ天子は叱責しました。『敬愛なる者たちよ、まさに、あなたたちは、どこに顔を向けて、彼の、世尊の、法(教え)を聞いたのですか。まさに、わたしは、まさに、女として〔世に〕存しつつ、覚者にたいし浄信した者として、法(教え)にたいし浄信した者として、僧団にたいし浄信した者として、諸戒における円満成就を為す者として、女性の資質を離貪させて、男性の資質を修行して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。三十三天〔の神々〕たちの同類として、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の子息の資質に到達したのです。ここに、また、わたしのことを、〔神々は〕このように知ります。「ゴーパカ天子」「ゴーパカ天子」と。敬愛なる者たちよ、いっぽう、あなたたちは、世尊のもと、梵行を歩んで、劣った音楽神の身体に再生したのです。ああ、まさに、見苦しい形態のものを、〔わたしたちは〕見ました。すなわち、法(教え)を共にする者たちが、劣った音楽神の身体に再生したのを、わたしたちは見たのです』と。尊き方よ、ゴーパカ天子によって叱責された、それらの者たちのなかの、二者の天〔の神〕は、まさしく、所見の法(現世)において、気づきを獲得し、梵輔〔天〕の身体に〔再生し〕、いっぽう、一者の天〔の神〕は、欲望のうちに居住しました(音楽神のままにあった)。
354. 〔そこで、詩偈に言う〕『〔音楽神たちに、ゴーパカ天子が言いました〕「眼ある方の女性在俗信者として、〔わたしは〕有った。わたしには、『ゴーピカー』という名もまた有った。そして、覚者にたいし、さらに、法(教え)にたいし、大いに浄信した者としてあり、かつまた、浄信した心の者として、僧団に奉仕した。
まさしく、彼の、覚者の、善き法(教え)たることによって、帝釈〔天〕の子として、大いなる威力ある者として、〔わたしは〕存している。大いなる光輝ある者として、三十三天に再生したのだ。ここに、また、わたしのことを、〔神々は〕『ゴーパカ』と知る。
そこで、過去に見たことがある比丘たちを、〔わたしは〕見た──音楽神の身体を具した、〔ここに〕住ある者たちを。これらの者たちとともに、それらの者たちが、ゴータマの弟子たちとして〔世に有った〕。さてまた、すなわち、過去に人間として有った、わたしたちである。
食べ物によって、飲み物によって、〔わたしたちは〕奉仕した──〔世尊の両の〕足に近づいて行って、自らの住居地において。まさに、これらの貴君たちは、どこに顔を向けて、覚者の諸々の法(教え)を納受したのか。
まさに、法(教え)は、各自それぞれに知られるべきものであり、眼ある方によって随覚され、見事に説示された。まさに、わたしは、あなたたちのように、〔覚者に〕近侍しながら、聖者たちの諸々の見事に語られた〔言葉〕を聞いて──
帝釈〔天〕の子として、大いなる威力ある者として、〔わたしは〕存している。大いなる光輝ある者として、〔三十〕三天に再生したのだ。いっぽう、あなたたちは、最勝の方に近侍しながら、無上なる梵行を歩んで──
貴君たちは、劣った身体に再生したのだ。随順なくあるは、貴君たちの再生である。まさに、〔わたしたちは〕見た──見苦しい形態のものを、法(教え)を共にする者たちが、劣った身体に再生したのを。
貴君たちは、音楽神の身体を具したのだ。天〔の神々〕たちを世話するために、〔あなたたちは〕やってきた。〔この〕家のなかに住しているわたしの、この殊勝なることを見よ。
女として〔世に〕有って、それが、今日、男として、天〔の神〕として、〔ここに〕存している。天の諸々の欲望〔の対象〕を保有する者と成ったのだ」〔と〕。ゴータマの弟子によって叱責された、それらの者たちは、畏怖〔の思い〕を惹起しました──〔天子となった〕ゴーパカと行き合って。
「さあ、〔わたしたちは〕努めるのだ、励むのだ。まさに、わたしたちは、他者に仕える者たちと成ってはならない」〔と〕。彼らのなかの二者は、精進に励みました──諸々のゴータマの教えを隨念しながら。
まさしく、ここに、諸々の心を離貪させて、諸々の欲望〔の対象〕における危険を見ました。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕という束縛と結縛を、諸々の超え難きパーピマント(悪魔)の束縛を──
象が諸々の縄紐を(※)〔断ち切る〕ように断ち切って、三十三天〔の神々〕たちを超え行きました。インダと共に、造物主と共に、天〔の神々〕たちの全てが、スダンマーの集会場において近しく坐っていると──
※ テキストには sannāni guṇāni とあるが、PTS版により sandāna-guṇāni と読む。
坐っているそれらの者たちのもとに、〔彼らは〕進み行きました──離塵を為す勇者たる離貪者たちは。
彼らを見て、ヴァーサヴァ(帝釈天)は、畏怖〔の思い〕を為しました──天〔の神々〕たちの群れの中央において、天の征服者は。
「まさに、これらの者たちは、彼らは、劣った身体に再生した者たちなるも、三十三天〔の神々〕たちを超え行く(※)」〔と〕。畏怖〔の思い〕を生じた者の言葉を確認して、ゴーパカは、彼は、ヴァーサヴァに語りかけました。
※ テキストには abhikkamanti とあるが、PTS版により atikkamanti と読む。
「人間たちの世において、人のインダたる覚者が存在します。欲望の征服者にして、『釈迦〔族〕の牟尼』と知られます。それらの者たちは、まさしく、彼の子(弟子)たちなるも、気づきから衰退し、わたしによって叱責されたところ、彼らは、気づきを獲得したのです。
それらの三者のなかの、一者は、ここにおいて居住ある者──音楽神の身体を具した、〔ここに〕住ある者であり、そして、二者は、正覚の道に従い行く者たちであり、〔心が〕定められたことから、天〔の神々〕たちをもまた、〔下に見て〕蔑みます。
ここにおいて、このようなものとして、法(教え)の明示があります。そこにおいて、弟子としてある者は、誰であれ、何も疑いません。激流を超え渡った方を、疑惑を断ち切った方を、覚者を、人のインダたる勝者を、〔わたしたちは〕礼拝するのです」〔と〕。
すなわち、それらの者たちは、法(教え)を、ここに了知して、彼らは、殊勝〔の地位〕に到達しました──梵輔〔天〕の身体に、殊勝〔の地位〕に至る者たちとして、彼らのなかの二者は。
その法(教え)に至り得るために、敬愛なる方よ、〔わたしたちは〕やってきました。世尊によって、機会が作られた者たちとして、敬愛なる方よ、〔わたしたちは〕問いを尋ねたいのです』」と。
355. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「長夜にわたり、清浄なる者として、まさに、この夜叉(帝釈天)はある。それが何であれ、わたしに、問いを尋ねるとして、その全てを、まさしく、義(道理)を伴ったものとして、尋ねるであろう──義(道理)を伴わないものではなく。そして、〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしが、彼に説き明かすなら、それを、まさしく、すみやかに了知するであろう」と。
356. そこで、まさに、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔そこで、詩偈に言う〕「ヴァーサヴァよ、わたしに、問いを尋ねなさい──それが何であれ、〔あなたが〕意によって求めるなら。わたしは、あなたのために、まさしく、その〔問い〕その問いの終極を為しましょう」と。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
357. 世尊によって、機会が作られた者として、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、この第一の問いを尋ねました。
「敬愛なる方よ、いった、まさに、何を束縛として、天〔の神々〕たちは、人間たちは、阿修羅たちは、龍たちは、音楽神たちは、さらに、すなわち、他の、〔世に〕存する、多々なる身体ある者たちである、それらの者たちも、『〔わたしたちは〕怨みなく、棒(武器)なく、敵なく、加害〔の思い〕なく、怨みなき者たちとして〔世に〕住むべきである』と、そして、かくのごとく、彼らに、〔このような思いが〕有るも、そこで、また、しかしながら、怨みを有し、棒を有し、敵を有し、加害〔の思い〕を有し、怨みを有する者たちとして〔世に〕住むのですか」と。まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、問いを尋ねました。彼に、世尊は、問いを尋ねられた者として説き明かしました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、嫉妬と物惜〔の思い〕を束縛として、天〔の神々〕たちは、人間たちは、阿修羅たちは、龍たちは、音楽神たちは、さらに、すなわち、他の、〔世に〕存する、多々なる身体ある者たちである、それらの者たちも、『〔わたしたちは〕怨みなく、棒(武器)なく、敵なく、加害〔の思い〕なく、怨みなき者たちとして〔世に〕住むべきである』と、そして、かくのごとく、彼らに、〔このような思いが〕有るも、そこで、また、しかしながら、怨みを有し、棒を有し、敵を有し、加害〔の思い〕を有し、怨みを有する者たちとして〔世に〕住みます」と。まさに、かくのごとく、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、問いを尋ねられた者として説き明かしました。わが意を得た天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜び、随喜しました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。ここにおいて、わたしの、疑いは超え去り、懐疑は離れ去りました──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と。
358. まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。
「敬愛なる方よ、また、嫉妬と物惜〔の思い〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。何が存しているとき、嫉妬と物惜〔の思い〕が有るのですか。何が存していないとき、嫉妬と物惜〔の思い〕が有ることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、嫉妬と物惜〔の思い〕は、愛しいものと愛しくないものを因縁とし、愛しいものと愛しくないものを集起とし、愛しいものと愛しくないものを出生とし、愛しいものと愛しくないものを起源とします。愛しいものと愛しくないものが存しているとき、嫉妬と物惜〔の思い〕が有ります。愛しいものと愛しくないものが存していないとき、嫉妬と物惜〔の思い〕が有ることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、愛しいものと愛しくないものは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。何が存しているとき、愛しいものと愛しくないものが有るのですか。何が存していないとき、愛しいものと愛しくないものが有ることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、愛しいものと愛しくないものは、欲〔の思い〕を因縁とし、欲〔の思い〕を集起とし、欲〔の思い〕を出生とし、欲〔の思い〕を起源とします。欲〔の思い〕が存しているとき、愛しいものと愛しくないものが有ります。欲〔の思い〕が存していないとき、愛しいものと愛しくないものが有ることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、欲〔の思い〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。何が存しているとき、欲〔の思い〕が有るのですか。何が存していないとき、欲〔の思い〕が有ることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、欲〔の思い〕は、思考を因縁とし、思考を集起とし、思考を出生とし、思考を起源とします。思考が存しているとき、欲〔の思い〕が有ります。思考が存していないとき、欲〔の思い〕が有ることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、思考は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。何が存しているとき、思考が有るのですか。何が存していないとき、思考が有ることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、思考は、虚構の表象と名称を因縁とし、虚構の表象と名称を集起とし、虚構の表象と名称を出生とし、虚構の表象と名称を起源とします。虚構の表象と名称が存しているとき、思考が有ります。虚構の表象と名称が存していないとき、思考が有ることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、どのように実践する比丘は、虚構の表象と名称の止滅に適切なるものに至る〔実践の〕道を実践する者と成るのですか」と。
行為の拠点としての感受
359. 「天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、悦意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、失意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、放捨を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。
360. 『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、悦意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その悦意のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この悦意に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の悦意は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その悦意のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この悦意に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の悦意は、慣れ親しむべきです。そこにおいて、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものがあるなら、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきものがあるなら、それらの、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なくあるものは、それらは、より精妙なるものとなります。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、悦意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
361. 『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、失意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その失意のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この失意に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の失意は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その失意のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この失意に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の失意は、慣れ親しむべきです。そこにおいて、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものがあるなら、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきものがあるなら、それらの、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なくあるものは、それらは、より精妙なるものとなります。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、失意を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
362. 『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、放捨を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その放捨のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この放捨に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の放捨は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その放捨のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この放捨に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の放捨は、慣れ親しむべきです。そこにおいて、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものがあるなら、すなわち、もし、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なきものがあるなら、それらの、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なくあるものは、それらは、より精妙なるものとなります。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、放捨を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
363. 天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、このように実践する比丘は、虚構の表象と名称の止滅に適切なるものに至る〔実践の〕道を実践する者と成ります」と。まさに、かくのごとく、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、問いを尋ねられた者として説き明かしました。わが意を得た天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜び、随喜しました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。ここにおいて、わたしの、疑いは超え去り、懐疑は離れ去りました──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と。
戒条による統御
364. まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。
「敬愛なる方よ、また、どのように実践する比丘は、戒条による統御のために実践する者と成るのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、身体の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、言葉の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、遍き探し求めを、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。
『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、身体の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その身体の励行のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その身体の励行のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきです。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、身体の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、言葉の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その言葉の励行のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の言葉の励行は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その言葉の励行のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の言葉の励行は、慣れ親しむべきです。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、言葉の励行を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、遍き探し求めを、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その遍き探し求めのことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この遍き探し求めに慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の遍き探し求めは、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その遍き探し求めのことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この遍き探し求めに慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の遍き探し求めは、慣れ親しむべきです。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、遍き探し求めを、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、このように実践する比丘は、戒条による統御のために実践する者と成ります」と。まさに、かくのごとく、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、問いを尋ねられた者として説き明かしました。わが意を得た天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜び、随喜しました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。ここにおいて、わたしの、疑いは超え去り、懐疑は離れ去りました──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と。
〔感官の〕機能における統御
365. まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。
「敬愛なる方よ、また、どのように実践する比丘は、〔感官の〕機能における統御のために実践する者と成るのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、眼によって識知されるべき形態を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、耳によって識知されるべき音声を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、鼻によって識知されるべき臭気を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、舌によって識知されるべき味感を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、身によって識知されるべき感触を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。天〔の神々〕たちのインダよ、わたしは、また、意によって識知されるべき法(意の対象)を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた」と。
このように説かれたとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。尊き方よ、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきです。尊き方よ、そして、まさに、そのような形態の耳によって識知されるべき音声に慣れ親しんでいると……略……鼻によって識知されるべき臭気に慣れ親しんでいると……舌によって識知されるべき味感に慣れ親しんでいると……身によって識知されるべき感触に慣れ親しんでいると……意によって識知されるべき法(意の対象)に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきです。
尊き方よ、まさに、わたしが、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知していると、ここにおいて、わたしの、疑いは超え去り、懐疑は離れ去りました──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と。
366. まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。
「敬愛なる方よ、いったい、まさに、沙門や婆羅門たちは、まさしく、全ての者たちが、単一の論ある者たちであり、単一の戒ある者たちであり、単一の欲ある者たちであり、単一の固執ある者たちなのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、全ての沙門や婆羅門たちが、単一の論ある者たちであり、単一の戒ある者たちであり、単一の欲ある者たちであり、単一の固執ある者たちであることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、何ゆえに、全ての沙門や婆羅門たちが、単一の論ある者たちであり、単一の戒ある者たちであり、単一の欲ある者たちであり、単一の固執ある者たちであることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、無数なる界域があり、種々なる界域があるのが、まさに、世です。その、無数なる界域があり、種々なる界域がある、世において、まさしく、その〔界域〕その界域に、有情たちが固着するなら、まさしく、その〔界域〕その〔界域〕に、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。それゆえに、全ての沙門や婆羅門たちが、単一の論ある者たちであり、単一の戒ある者たちであり、単一の欲ある者たちであり、単一の固執ある者たちであることはありません」と。
「敬愛なる方よ、いったい、まさに、沙門や婆羅門たちは、まさしく、全ての者たちが、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安(軛安穏)ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちなのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、全ての沙門や婆羅門たちが、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちであることはありません」と。
「敬愛なる方よ、また、何ゆえに、全ての沙門や婆羅門たちが、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちであることはないのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、すなわち、まさに、それらの沙門や婆羅門たちが(※)、渇愛の消滅において解脱した者たちであるなら、彼らは、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちです。それゆえに、全ての沙門や婆羅門たちが、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちであることはありません」と。
※ テキストには Ye kho, devānaminda, bhikkhū とあるが、PTS版により Ye kho te devānaminda samaṇabrāhmaṇā と読む。
まさに、かくのごとく、世尊は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、問いを尋ねられた者として説き明かしました。わが意を得た天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜び、随喜しました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。ここにおいて、わたしの、疑いは超え去り、懐疑は離れ去りました──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と。
367. まさに、かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、〔心の〕動揺は、病です。〔心の〕動揺は、腫物です。〔心の〕動揺は、矢です。〔心の〕動揺は、この人を、まさしく、その〔生存〕その生存へと引き回します。それゆえに、この人は、高下〔の生存〕を惹起します。尊き方よ、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちにおいては、それらの問いに、〔尋ねる〕行為の機会すらもまた得なかったのに、それらが、わたしに、世尊によって説き明かされたのです。また、そして、長夜にわたり、悪しき習いとなった、わたしの疑惑と懐疑の矢も、そして、それも、世尊によって引き抜かれたのです」と。
「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、あなたは証知しますか(記憶していますか)──これらの問いを他の沙門や婆羅門たちに尋ねたことを」と。「尊き方よ、わたしは証知します──これらの問いを他の沙門や婆羅門たちに尋ねたことを」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、また、すなわち、どのように、彼らは説き明かしましたか──それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、語りたまえ」と。「尊き方よ、まさに、わたしにとって、負担ではありません。そこにおいて存し、坐っているのが、世尊であり、あるいは、世尊の形態ある〔そのような者〕であるなら」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、それでは、語りたまえ」と。「尊き方よ、〔まさに〕その、わたしが、それらの沙門や婆羅門たちのことを、『林にある者たちであり、辺境の臥坐所ある者たちである』と思うとします。わたしは、近づいて行って、彼らに、これらの問いを尋ねます。彼らは、わたしによって、〔問いを〕尋ねられ、解答できません。解答できずにいながら、まさしく、わたしに問い返します。『尊者は、どのような名の者ですか』と。尋ねられたわたしは、彼らに説き明かします。『敬愛なる方よ、わたしは、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕です』と。彼らは、まさしく、わたしに、さらに問い返します。『天〔の神々〕たちのインダよ、また、どのような行為を為して、尊者は、この境位に至り得たのですか』と。わたしは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、彼らに説示します。彼らは、まさしく、それだけのことで、わが意を得た者たちと成ります。『さてまた、わたしたちは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕を見た。さてまた、それを、わたしたちが尋ねたなら、さてまた、それを、わたしたちに説き明かした』と。何はともあれ、彼らは、まさしく、わたしの、弟子たちとして成就しますが、しかしながら、わたしが、彼らの、ではありません。尊き方よ、また、まさに、わたしは、世尊の弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です」と。
喜悦の獲得の話
368. 「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、あなたは証知しますか──これより過去において、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を」と。「尊き方よ、わたしは証知します──これより過去において、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、また、すなわち、どのように、あなたは証知しますか──これより過去において、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を」と。
「尊き方よ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。尊き方よ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちが敗北しました。尊き方よ、その戦いを征圧して〔そののち〕、戦いを征圧した、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『今や、まさしく、そして、すなわち、天の滋養も、さらに、すなわち、阿修羅の滋養も、両者ともに、これを、天〔の神々〕たちが遍く受益するであろう』と。尊き方よ、また、まさに、わたしの、その、感嘆の獲得と喜悦の獲得は、棒を有する行境であり、刃を有する行境であり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。尊き方よ、また、まさに、わたしの、すなわち、この、世尊の法(教え)を聞いて〔獲得した〕、感嘆の獲得と喜悦の獲得は、それは、棒なき行境であり、刃なき行境であり、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。
369. 「天〔の神々〕たちのインダよ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言するのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、六つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『まさしく、ここに、天〔の神〕たる生類として止住しているわたしに、〔そのように〕存している者に──さてまた、わたしに、さらなる寿命が、〔正覚のために〕得られたのです。敬愛なる方よ、このように知りたまえ』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第一の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『わたしは、天の身体から死滅し、人間ならざる寿命を捨棄して、迷乱なき者として、〔人間の〕胎に至り行くでしょう──そこにおいて、わたしの意は喜びます』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第二の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『〔まさに〕その、わたしは、〔人間の世に〕住みながら、迷乱なき智慧ある方の教えを喜ぶ者となり、正理によって〔世に〕住むでしょう──正知と気づきの者として』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第三の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『そして、正理によって〔世を〕歩んでいるわたしに、もし、正覚が有るなら、〔わたしは〕了知者として〔世に〕住むでしょう──まさしく、それが、〔人間の生存の〕終極と成るでしょう』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第四の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『わたしは、人間の身体から死滅し、人間の寿命を捨棄して、ふたたび、天〔の神〕と成るでしょう──天の世における最上者として』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第五の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
〔そこで、詩偈に言う〕『より精妙なる者たちとして、それらの、福徳ある色究竟天〔の神々〕たちがいます。最後〔の輪廻〕が転起しているとき、それが、〔わたしの〕居住と成るでしょう』と。
尊き方よ、まさに、わたしは、この第六の義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
尊き方よ、まさに、わたしは、これらの六つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、このような形態の感嘆の獲得と喜悦の獲得を宣言します。
370. 〔そこで、詩偈に言う〕『終わりなき思惟の者として、疑惑と懐疑の者として、長時にわたり、如来を探し求めながら、〔わたしは〕渡り歩きました。
それらの者たちのことを、まさに、遠離の住ある沙門たちと思うなら、「正覚者たちである」と思いながら、彼らに近侍するべく、〔わたしは〕赴きました。
「どのように、達成は有るのか。どのように、失敗は有るのか」〔と〕、かくのごとく尋ねられ、〔彼らは〕解答できません──〔聖なる〕道について、そして、諸々の〔実践の〕道について。
すなわち、彼らが、まさに、わたしのことを知るとき、「天〔の神々〕たちの帝釈〔天〕がやってきたのだ」〔と〕、彼らは、まさに、まさしく、わたしに尋ねます──「何を為して、この〔境位〕に至り得たのか」〔と〕。
所聞のとおりに、〔わたしは〕法(教え)を、彼らに説示します──人々のなかで聞いたことを。それによって、〔彼らは〕わが意を得た者たちと成ります──さてまた、「わたしたちは、ヴァーサヴァを見たのだ」と。
しかしながら、すなわち、覚者を見たとき、疑惑の超渡があり、その〔わたし〕は、今日、恐怖を離れた者として〔世に〕存しています──正覚者に奉侍して〔そののち〕。
渇愛の矢を打ち砕く方を、対する人なき覚者を、わたしは敬拝するのです──偉大なる勇者を、太陽の眷属たる覚者を。
敬愛なる方よ、すなわち、〔わたしたちが〕天〔の神々〕たちとともに、梵〔天〕に等しく為した、その〔敬拝〕を、今日、あなたに為しましょう。さあ、〔わたしたちは〕あなたに、〔敬拝を〕等しく為します。
まさしく、あなたは、正覚者として〔世に〕存しています。あなたは、無上なる教師です。天を含む世において、あなたに、対する人は存在しません』」と。
371. そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、音楽神の子のパンチャシカに告げました。「親愛なる者よ、パンチャシカよ、あなたは、まさに、わたしにとって多くの資益ある者として存している。すなわち、あなたは、世尊を、最初に喜ばせた。親愛なる者よ、あなたが最初に喜ばせた、そのあとに、わたしたちは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行った。あるいは、〔あなたの〕父たる境位に、〔わたしは、自らを〕据え置こう。〔あなたは〕音楽神の王と成るであろう。そして、バッダーを、太陽の威厳ある者を、あなたに与えよう。なぜなら、あなたは、彼女を希求しているからだ」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、手で地を撫でて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と(※)。
※ テキストには ‘‘namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassā’’ti とあるが、PTS版により ‘‘namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa. Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa. Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassā’’ti と読む。
また、そして、この説き明かしが話されているとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。さらに、他の八万の天神たちにも。かくのごとく、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって、それらの待望の問いが尋ねられ、それらは、世尊によって説き明かされました。それゆえに、この説き明かしには、まさしく、「帝釈〔天〕の問い」という名辞がある、ということです。
帝釈〔天〕の問いの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(22). 大いなる気づきの確立の経
372. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「あなたに、幸せ〔有れ〕」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
概略
373. 「比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体(身)における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受(受)における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
概略は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の呼吸の部
374. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、轆轤(ろくろ)師が、あるいは、轆轤師の内弟子が、あるいは、長く引きつつ、『〔わたしは〕長く引く』と覚知し、あるいは、短く引きつつ、『〔わたしは〕短く引く』と覚知するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知(智)あるためのみに、気づき(念)あるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
呼吸の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の振る舞いの道の部
375. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
振る舞いの道の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の正知の部
376. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。かくのごとく、あるいは、内に……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
正知の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の嫌悪のものに意を為すことの部
377. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします──それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って綿密に注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する』と。
かくのごとく、あるいは、内に……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
嫌悪のものに意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の界域に意を為すことの部
378. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域(界)〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。
かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
界域に意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の九つの墓所の部
379. (1)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、死んで一日となり、あるいは、死んで二日となり、あるいは、死んで三日となり、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。
かくのごとく、あるいは、内に……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。
かくのごとく、あるいは、内に……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……(4)骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……(5)骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……(6)連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。
かくのごとく、あるいは、内に……略……〔世に〕住みます。
(7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……(8)山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……(9)腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
九つの墓所の部は〔以上で〕終了となる。
十四の身体の随観は〔以上で〕終了となる。
感受の随観
380. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、安楽の感受(楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦痛の感受(苦受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する安楽(世俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき安楽(非俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の感受において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の感受が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。
感受の随観は〔以上で〕終了となる。
心の随観
381. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、心において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『心が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。
心の随観は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔修行の〕妨害の部
382. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が存在しているのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が存在しているのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した憎悪〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕沈滞と眠気の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕高揚と悔恨の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、疑惑〔の思い〕(疑)が存在しているのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した疑惑〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
妨害の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔心身を構成する〕範疇の部
383. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『かくのごとく、形態(色)があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕(識)があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
〔心身を構成する〕範疇の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔認識の〕場所の部
384. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、内と外の六つの〔認識の〕場所(六処)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、眼を覚知し、さらに、諸々の形態(色)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するもの(結)が生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、耳を覚知し、さらに、諸々の音声(声)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、鼻を覚知し、さらに、諸々の臭気(香)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、舌を覚知し、さらに、諸々の味感(味)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、身を覚知し、さらに、諸々の感触(触・所触)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、意を覚知し、さらに、諸々の法(法:意の対象)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
〔認識の〕場所の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の覚りの支分の部
385. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、七つの覚りの支分(七覚支)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、気づきという正覚の支分(念覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、気づきという正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、精進という正覚の支分(精進覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、精進という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、喜悦という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、静息という正覚の支分(軽安覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、静息という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、禅定という正覚の支分(定覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、禅定という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、放捨という正覚の支分(捨覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、放捨という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
覚りの支分の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の真理の部
386. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、四つの聖なる真理(四聖諦)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
苦しみという真理についての釈示
387. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理(苦諦)なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。
388. 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。
389. 比丘たちよ、では、どのようなものが、老なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、比丘たちよ、これは、老と説かれます。
390. 比丘たちよ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶は、比丘たちよ、これは、死と説かれます。
391. 比丘たちよ、では、どのようなものが、憂いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂いは、比丘たちよ、これは、憂いと説かれます。
392. 比丘たちよ、では、どのようなものが、嘆きなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあることは、比丘たちよ、これは、嘆きと説かれます。
393. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛、身体の属性としての不快、身体の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、苦痛と説かれます。
394. 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛、心の属性としての不快、意の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、失意と説かれます。
395. 比丘たちよ、では、どのようなものが、葛藤なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤することは、比丘たちよ、これは、葛藤と説かれます。
396. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触や法(意の対象)として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する者たちとして有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合、遭遇、配備、混合の状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみと説かれます。
397. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触や法(意の対象)として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちとして──あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、兄弟が、あるいは、姉妹が、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが──有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合なきこと、遭遇なきこと、配備なきこと、混合なき状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみと説かれます。
398. 比丘たちよ、では、どのようなものが、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみなのですか。比丘たちよ、生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、老の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、老の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、老が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、病の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、病の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、病が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、死の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、死が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。
399. 比丘たちよ、では、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これらのものは、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみと説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。
集起という真理についての釈示
400. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。
比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の識知〔作用〕(識)は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の接触(触)は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の接触から生じる感受(受)は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の表象(想)は、世において……略……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の思欲(思)は、世において……略……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の渇愛(愛)は、世において……略……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の思考(尋)は、世において……略……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の想念(伺)は、世において……略……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。
止滅という真理についての釈示
401. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。
比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の識知〔作用〕は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の接触は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の接触から生じる感受は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の表象は、世において……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の思欲は、世において……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の渇愛は、世において……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の思考は、世において……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の想念は、世において……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。
道という真理についての釈示
402. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これは、正しい見解と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。比丘たちよ、これは、正しい思惟と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい言葉と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい行業と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。比丘たちよ、これは、正しい生き方と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、正しい努力と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、正しい気づきと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、正しい禅定と説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。
403. かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
真理の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観は〔以上で〕終了となる。
404. 比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七年のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知(阿羅漢果)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たること(不還果)です。
比丘たちよ、七年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六年のあいだ修めるなら……略……五年のあいだ……四年のあいだ……三年のあいだ……二年のあいだ……一年のあいだ……。比丘たちよ、一年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七月のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、七月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六月のあいだ修めるなら……略……五月のあいだ……四月のあいだ……三月のあいだ……二月のあいだ……一月のあいだ……半月のあいだ……。比丘たちよ、半月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七日のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです(※)。
※ テキストには anāgāmitā’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
405. 『比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる気づきの確立の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(23). パーヤーシの経
406. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者クマーラ・カッサパは、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、セータブヤーという名のコーサラ〔国〕の城市のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者クマーラ・カッサパは、セータブヤーに住んでいます。セータブヤーの北にあるシンサパー林において。また、まさに、その時点にあって、王族のパーヤーシが、セータブヤーに居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。
王族のパーヤーシの事
407. また、まさに、その時点にあって、王族のパーヤーシに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない」と。まさに、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、沙門ゴータマの弟子である沙門クマーラ・カッサパが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、セータブヤーに到着し、セータブヤーに住んでいる。セータブヤーの北にあるシンサパー林において。また、まさに、彼に、貴君クマーラ・カッサパに、このように、善き評価の声が上がっている。『賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者である。まさしく、そして、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』〔と〕。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、セータブヤーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かい、シンサパー林のあるところに赴きます。
408. また、まさに、その時点にあって、王族のパーヤーシは、高楼の上にあり、昼の休憩に入った状態でいます。まさに、王族のパーヤーシは、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちが、セータブヤーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かい、シンサパー林のあるところに赴きつつあるのを見ました。見て、侍従に告げました。「君よ、侍従よ、いったい、まさに、どうして、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、セータブヤーから出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かい、シンサパー林のあるところに赴くのだ」と。
「君よ、まさに、沙門ゴータマの弟子である沙門クマーラ・カッサパが存在します。コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、セータブヤーに到着し、セータブヤーに住んでいます。セータブヤーの北にあるシンサパー林において。また、まさに、彼に、貴君クマーラ・カッサパに、このように、善き評価の声が上がっています。『賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者である。まさしく、そして、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』と。これらの者たちは、彼と、貴君クマーラ・カッサパと、会見するために近づいて行きます」と。「君よ、侍従よ、まさに、それでは、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、チャンパー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、このように説きなさい。『君よ、王族のパーヤーシは、このように言っています。「まさに、貴君たちは、待ちたまえ。王族のパーヤーシもまた、沙門クマーラ・カッサパと会見するために近づいて行くでしょう」』と。沙門クマーラ・カッサパが、愚者にして明敏ならざる者たちである、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』と説得する、前にだ。君よ、侍従よ、なぜなら、他の世は存在せず、化生の有情たちは存在せず、諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しないからだ」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その侍従は、王族のパーヤーシに答えて、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、こう言いました。「君よ、王族のパーヤーシは、このように言っています。『まさに、貴君たちは、待ちたまえ。王族のパーヤーシもまた、沙門クマーラ・カッサパと会見するために近づいて行くでしょう』」と。
409. そこで、まさに、王族のパーヤーシは、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに取り囲まれ、シンサパー林のあるところに、尊者クマーラ・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者クマーラ・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。まさに、セータブヤー〔の住者〕たる婆羅門や家長たちもまた、一部の者たちはまた、尊者クマーラ・カッサパを敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、尊者クマーラ・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、尊者クマーラ・カッサパのいるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。
非存の論
410. 一方に坐った、まさに、王族のパーヤーシは、尊者クマーラ・カッサパに、こう言いました。「貴君カッサパよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、わたしは、このような論を、このような見解を、あるいは、見たことも、あるいは、聞いたことも、ありません。まさに、どうして、まさに、このように説くのですか。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』と。
月と日の喩え
411. 王族よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王族よ、それを、どう思いますか。これらの月と日は、あるいは、この世においてありますか、あるいは、他の〔世〕においてありますか。彼らは、あるいは、天〔の神々〕たちですか、あるいは、人間たちですか」と。「貴君カッサパよ、これらの月と日は、他の世においてあります──この〔世〕ではなく。彼らは、天〔の神々〕たちです──人間たちではなく」と。「王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
412. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。その教相によって、あなたに、このような〔思いが〕有るとして。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「貴君カッサパよ、教相は存在します。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺す者たちであり、与えられていないものを取る者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、中傷の言葉ある者たちであり、粗暴な言葉ある者たちであり、雑駁な虚論ある者たちであり、強欲〔の思い〕ある者たちであり、憎悪している心の者たちであり、誤った見解ある者たちであり、他時にあって、彼らが、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。すなわち、わたしが、『今や、これらの者たちは、この病苦から出起することはないであろう』と知るとき、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『君よ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「すなわち、それらの者たちが、命あるものを殺す者たちであるなら、与えられていないものを取る者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであるなら、虚偽を説く者たちであるなら、中傷の言葉ある者たちであるなら、粗暴な言葉ある者たちであるなら、雑駁な虚論ある者たちであるなら、強欲〔の思い〕ある者たちであるなら、憎悪している心の者たちであるなら、誤った見解ある者たちであるなら、彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する」と。貴君たちは、まさに、命あるものを殺す者たちであり、与えられていないものを取る者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、中傷の言葉ある者たちであり、粗暴な言葉ある者たちであり、雑駁な虚論ある者たちであり、強欲〔の思い〕ある者たちであり、憎悪している心の者たちであり、誤った見解ある者たちです。それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、貴君たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。君よ、それで、もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、わたしのいるところに戻って告げるのです。「かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する」と。また、まさに、貴君たちは、わたしにとって、信を置ける頼りになる者たちです。すなわち、貴君たちが見たものは、そのように、自ら見たものとして、このように、このことは有るでしょう』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて〔そののち〕、まさしく、戻って告げることもなく、また、使者を送り届けることもありません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
盗賊の喩え
413. 「王族よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王族よ、それを、どう思いますか。ここに、家来たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、あなたに見せるとします。『尊き方よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、刑場において、頭を断ち切りなさい』と。彼らは、『善きかな』と答えて、その男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、刑場において坐らせます。いったい、まさに、その盗賊は、刑罰執行者たちにたいし、『尊き刑罰執行者たちよ、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、何某の、あるいは、村に、あるいは、町にいます。すなわち、わたしが、彼らに指図して戻ってくるまで、それまでのあいだ、お待ちください』と、〔承諾を〕得るでしょうか、それとも、刑罰執行者たちは、まさしく、語り散らしている者の頭を断ち切るでしょうか」と。「貴君カッサパよ、まさに、その盗賊は、刑罰執行者たちにたいし、『尊き刑罰執行者たちよ、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、何某の、あるいは、村に、あるいは、町にいます。すなわち、わたしが、彼らに指図して戻ってくるまで、それまでのあいだ、お待ちください』と、〔承諾を〕得ることはないでしょう。そこで、まさに、刑罰執行者たちは、語り散らしている者の、その頭を断ち切るでしょう」と。「王族よ、まさに、その盗賊は、まさに、人間として、人間たち〔の世〕において、刑罰執行者たちにたいし、『尊き刑罰執行者たちよ、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、何某の、あるいは、村に、あるいは、町にいます。すなわち、わたしが、彼らに指図して戻ってくるまで、それまでのあいだ、お待ちください』と、〔承諾を〕得ることはないでしょう。また、どうして、あなたの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺す者たちであり、与えられていないものを取る者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、中傷の言葉ある者たちであり、粗暴な言葉ある者たちであり、雑駁な虚論ある者たちであり、強欲〔の思い〕ある者たちであり、憎悪している心の者たちであり、誤った見解ある者たちであり、身体の破壊ののち(※)、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したとして、地獄の番人たちにたいし、『尊き地獄の番人たちよ、すなわち、わたしたちが、王族のパーヤーシのもとに赴いて、「かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する」と告げるまで、それまでのあいだ、お待ちください』と、〔承諾を〕得るというのでしょう。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
※ テキストには te kāyassa bhedā とあるが、PTS版により te を削除する。
414. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。その教相によって、あなたに、このような〔思いが〕有るとして。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「貴君カッサパよ、教相は存在します。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちであり、他時にあって、彼らが、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。すなわち、わたしが、『今や、これらの者たちは、この病苦から出起することはないであろう』と知るとき、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『君よ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「すなわち、それらの者たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであるなら、与えられていないものを取ることから離間した者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであるなら、虚偽を説くことから離間した者たちであるなら、中傷の言葉から離間した者たちであるなら、粗暴な言葉から離間した者たちであるなら、雑駁な虚論から離間した者たちであるなら、強欲〔の思い〕なき者たちであるなら、憎悪していない心の者たちであるなら、正しい見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する」と。貴君たちは、まさに、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちです。それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、貴君たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。君よ、それで、もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するなら、わたしのいるところに戻って告げるのです。「かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する」と。また、まさに、貴君たちは、わたしにとって、信を置ける頼りになる者たちです。すなわち、貴君たちが見たものは、そのように、自ら見たものとして、このように、このことは有るでしょう』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて〔そののち〕、まさしく、戻って告げることもなく、また、使者を送り届けることもありません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
糞坑の人の喩え
415. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、それは、たとえば、また、糞坑のなかに頭に至るまで潜っている人が存するとします。そこで、あなたは、家来たちに命じます。『君よ、まさに、それでは、その男を、その糞坑から引き上げよ』と。彼らは、『善きかな』と答えて、その男を、その糞坑から引き上げます。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男の身体から、諸々の竹の箆で、糞を、善く拭い清めたうえにも拭い清めよ』と。彼らは、「善きかな」と答えて、その男の身体から、諸々の竹の箆で、糞を、善く拭い清めたうえにも拭い清めます。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男の身体を、黄土で、三回、善く揉みほぐしたうえにも揉みほぐせ』と。彼らは、その男の身体を、黄土で、三回、善く揉みほぐしたうえにも揉みほぐします。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男を、油で塗って、繊細な塗粉で、三回、善く洗い清められたものと為せ』と。彼らは、その男を、油で塗って、繊細な塗粉で、三回、善く洗い清められたものと為します。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男の髪と髭を整えよ』と。彼らは、その男の髪と髭を整えます。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男に、かつまた、高価な花飾を、かつまた、高価な塗料を、かつまた、諸々の高価な衣装を、提供せよ』と。彼らは、その男に、かつまた、高価な花飾を、かつまた、高価な塗料を、かつまた、諸々の高価な衣装を、提供します。彼らに、あなたは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、その男を、高楼に登らせて、五つの欲望の属性を現起させよ』と。彼らは、その男を、高楼に登らせて、五つの欲望の属性を現起させます。
王族よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その男に、善く沐浴し、善く塗油し、善く髪と髭を整え、花飾と装飾品を付け、白い衣をまとい、優美なる高楼の上に至り、五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいる者に、まさしく、ふたたび、その糞坑のなかに潜ることを欲することが存するでしょうか」と。「貴君カッサパよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君カッサパよ、不浄の糞坑は、まさしく、そして、不浄のものであり、さらに、不浄のものと見なされ、まさしく、そして、忌避されるものであり、さらに、忌避されるものと見なされ、まさしく、そして、嫌悪のものであり、さらに、嫌悪のものと見なされるからです」と。「王族よ、まさしく、このように、まさに、人間たちは、天〔の神々〕たちにとって、不浄のものであり、さらに、不浄のものと見なされ、まさしく、そして、忌避されるものであり、さらに、忌避されるものと見なされ、まさしく、そして、嫌悪のものであり、さらに、嫌悪のものと見なされます。王族よ、百ヨージャナにわたり、まさに、人間の臭いは、天〔の神々〕たちを悩まします。また、どうして、あなたの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちであり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したとして、彼らが、戻って告げるというのでしょう。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』と。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
416. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちであり、他時にあって、彼らが、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。すなわち、わたしが、『今や、これらの者たちは、この病苦から出起することはないであろう』と知るとき、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『君よ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「すなわち、それらの者たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであるなら、与えられていないものを取ることから離間した者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであるなら、虚偽を説くことから離間した者たちであるなら、中傷の言葉から離間した者たちであるなら、粗暴な言葉から離間した者たちであるなら、雑駁な虚論から離間した者たちであるなら、強欲〔の思い〕なき者たちであるなら、憎悪していない心の者たちであるなら、正しい見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生する」と。貴君たちは、まさに、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちです。それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、貴君たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生するでしょう。君よ、それで、もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生するなら、わたしのいるところに戻って告げるのです。「かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する」と。また、まさに、貴君たちは、わたしにとって、信を置ける頼りになる者たちです。すなわち、貴君たちが見たものは、そのように、自ら見たものとして、このように、このことは有るでしょう』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて〔そののち〕、まさしく、戻って告げることもなく、また、使者を送り届けることもありません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
三十三天の喩え
417. 「王族よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王族よ、また、まさに、すなわち、人間の百年は、これは、三十三天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の千年で、三十三天〔の神々〕たちの寿命の量となります。すなわち、あなたの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、中傷の言葉から離間した者たちであり、粗暴な言葉から離間した者たちであり、雑駁な虚論から離間した者たちであり、強欲〔の思い〕なき者たちであり、憎悪していない心の者たちであり、正しい見解ある者たちであり、彼らが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生したとします。また、それで、もし、彼らに、このような〔思いが〕有るとします。『まずは、あるいは、二つの、あるいは、三つの、夜と昼のあいだ、わたしたちは、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみ、そこで、わたしたちは、王族のパーヤーシのもとに赴いて告げるのだ。「かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する」』と。さて、いったい、彼らは、戻って告げるでしょうか。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。「貴君カッサパよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君カッサパよ、なぜなら、もはや、わたしたちは、すでに命を終えた者たちとして長く有るからです。貴君カッサパよ、また、誰が、このことを、貴君カッサパに告げたのですか。あるいは、『三十三天〔の神々〕たちが存在する』と。あるいは、『このような長寿の者たちとして、三十三天〔の神々〕たちはある』と。わたしたちは、貴君カッサパに信を置きません。あるいは、『三十三天〔の神々〕たちが存在する』と。あるいは、『このような長寿の者たちとして、三十三天〔の神々〕たちはある』と」と。
生まれながらの盲者の喩え
418. 「王族よ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者が、諸々の黒と白の形態を見られず、諸々の青の形態を見られず、諸々の黄の形態を見られず、諸々の赤の形態を見られず、諸々の深紅の形態を見られず、平坦と凹凸を見られず、諸々の星宿の形態を見られず、月と日を見られず、彼が、このように説くとします。『諸々の黒と白の形態は存在しない。諸々の黒と白の形態を見る者は存在しない。諸々の青の形態は存在しない。諸々の青の形態を見る者は存在しない。諸々の黄の形態は存在しない。諸々の黄の形態を見る者は存在しない。諸々の赤の形態は存在しない。諸々の赤の形態を見る者は存在しない。諸々の深紅の形態は存在しない。諸々の深紅の形態を見る者は存在しない。平坦と凹凸は存在しない。平坦と凹凸を見る者は存在しない。諸々の星宿の形態は存在しない。諸々の星宿の形態を見る者は存在しない。月と日は存在しない。月と日を見る者は存在しない。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ない。それゆえに、それは存在しない』と。王族よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「貴君カッサパよ、まさに、このことは、さにあらず。諸々の黒と白の形態は存在します。諸々の黒と白の形態を見る者は存在します。諸々の青の形態は存在します。諸々の青の形態を見る者は存在します。……略……。平坦と凹凸を見る者は存在します。諸々の星宿の形態は存在します。諸々の星宿の形態を見る者は存在します。月と日は存在します。月と日を見る者は存在します。『わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ない。それゆえに、それは存在しない』と〔説くなら〕、貴君カッサパよ、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていません」と。「王族よ、思うに、まさしく、このように、まさに、あなたは、生まれながらの盲者の如き者であることが明白となります。すなわち、あなたは、わたしに、このように説きます。
『貴君カッサパよ、また、誰が、このことを、貴君カッサパに告げたのですか。あるいは、「三十三天〔の神々〕たちが存在する」と。あるいは、「このような長寿の者たちとして、三十三天〔の神々〕たちはある」と。わたしたちは、貴君カッサパに信を置きません。あるいは、「三十三天〔の神々〕たちが存在する」と。あるいは、「このような長寿の者たちとして、三十三天〔の神々〕たちはある」と』と。王族よ、まさに、このように、他の世は見られるべきではありません。すなわち、あなたが、この肉眼によって思うように。王族よ、すなわち、まさに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する、それらの沙門や婆羅門たちがいます。彼らは、そこにおいて、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住みながら、天眼を清めます。彼らは、人間を超越した清浄の天眼によって、まさしく、そして、この世を、かつまた、他〔の世〕を、さらに、化生の者たちである有情たちを、見ます。王族よ、そして、このように、まさに、他の世は見られるべきです。まさしく、しかし、すなわち、あなたが、この肉眼によって思うように、ではなく。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
419. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、わたしは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、沙門や婆羅門たちを見ます──生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者たちです。貴君カッサパよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの尊き沙門や婆羅門たちが、このように知るなら、「ここ(現世)から、わたしたちが死んだなら、より勝るものが有るであろう」と、今や、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、毒を喰らうであろうし、あるいは、刃を持つであろうし、あるいは、〔首を〕吊って命を終えるであろうし、あるいは、深淵に落ち行くであろう。しかしながら、すなわち、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、このように知らないことから、「ここから、わたしたちが死んだなら、より勝るものが有るであろう」と、それゆえに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪し、自殺しないのだ』〔と〕。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
妊婦の喩え
420. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、或るひとりの婆羅門に、二者の夫人が有りました。一者には、あるいは、齢十年の、あるいは、齢十二年の、子が有りました。一者は、身重の妊婦です。そこで、まさに、その婆羅門は、命を終えました。そこで、まさに、その学生(婆羅門の子)は、亭主を共にする〔他の〕母(妊婦)に、こう言いました。『尊女よ、すなわち、この、あるいは、財産も、あるいは、穀物も、あるいは、銀も、あるいは、金も、その全ては、わたしのものです。ここにおいて、あなたのものは、何であれ存在しません。尊女よ、父の遺産を、わたしに引き渡したまえ』と。このように説かれたとき、その女性婆羅門は、その学生に、こう言いました。『親愛なる者よ、まずは、待ってください。すなわち、出産するまで。それで、もし、童子として有るなら、彼にもまた、一部分のものが〔遺産として〕有るでしょう。それで、もし、童女として有るなら、彼女はまた、あなたの下女と成るでしょう』と。再度また、まさに、その学生は、亭主を共にする〔他の〕母に、こう言いました。『尊女よ、すなわち、この、あるいは、財産も、あるいは、穀物も、あるいは、銀も、あるいは、金も、その全ては、わたしのものです。ここにおいて、あなたのものは、何であれ存在しません。尊女よ、父の遺産を、わたしに引き渡したまえ』と。再度また、まさに、その女性婆羅門は、その学生に、こう言いました。『親愛なる者よ、まずは、待ってください。すなわち、出産するまで。それで、もし、童子として有るなら、彼にもまた、一部分のものが〔遺産として〕有るでしょう。それで、もし、童女として有るなら、彼女はまた、あなたの下女と成るでしょう』と。三度また、まさに、その学生は、亭主を共にする〔他の〕母に、こう言いました。『尊女よ、すなわち、この、あるいは、財産も、あるいは、穀物も、あるいは、銀も、あるいは、金も、その全ては、わたしのものです。ここにおいて、あなたのものは、何であれ存在しません。尊女よ、父の遺産を、わたしに引き渡したまえ』と。
そこで、まさに、その女性婆羅門は、刃を掴んで、内室に入って、腹を切り裂きました。『すなわち、出産するまでに、あるいは、すなわち、童子であるか、あるいは、すなわち、童女であるか、〔知るのだ〕』と。彼女は、まさしく、そして、自己を、かつまた、生命を、かつまた、胎児を、さらに、自らの所有物を、失いました。すなわち、そのように、愚者にして明敏ならざる者は、根源のままならずに遺産を探し求めながら、不幸と災厄を惹起したのです。王族よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、愚者にして明敏ならざる者であり、根源のままならずに他の世を探し求めながら、不幸と災厄を惹起するでしょう。それは、たとえば、また、その女性婆羅門が、愚者にして明敏ならざる者であり、根源のままならずに遺産を探し求めながら、不幸と災厄を惹起したように。王族よ、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、沙門や婆羅門たちは、未熟のものを完熟させません。そして、また、完熟を待ちます。王族よ、なぜなら、賢者たちには、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、沙門や婆羅門たちには、生命に義(利益)があるからです。王族よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、沙門や婆羅門たちが、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住するなら、そのとおり、そのとおりに、多くの功徳を生み出し、さらに、実践します──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
421. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、家来たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、わたしに見せます。『尊き方よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、まさしく、生きているまま、瓶のなかに入れて、口を塞いで、水気のある皮で覆って、水気のある粘土で厚い塗装を為して、竈に載せて、火を着けなさい』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて、その男を、まさしく、生きているまま、瓶のなかに入れて、口を塞いで、水気のある皮で覆って、水気のある粘土で厚い塗装を為して、竈に載せて、火を着けます。すなわち、わたしたちが、『その男は、命を終えたのだ』と知るとき、そこで、その瓶を降ろして、〔塗装と皮を〕外して、口を開いて、ゆっくりと眺め見ます。『まさしく、おそらく、まさに、彼の生気(霊魂)が出つつあるのを、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼の生気が出つつあるのを、わたしたちが見ることは、まさしく、ありません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
夢の喩え
422. 「王族よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王族よ、まさに、あなたは証知しますか──昼寝に入った、夢を見ている者として、喜ばしき園を、喜ばしき林を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を」と。「貴君カッサパよ、わたしは証知します──昼寝に入った、夢を見ている者として、喜ばしき園を、喜ばしき林を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を」と。「その時点において、あなたのことを、傴僂(せむし)の女たちもまた、小人の女たちもまた、少女たちもまた、童女たちもまた、見守っていますか」と。「貴君カッサパよ、そのとおりです。その時点において、わたしのことを、傴僂の女たちもまた、小人の女たちもまた、少女たちもまた、童女たちもまた、見守っています」と。「さて、いったい、彼女たちは、あなたの生気が、あるいは、入りつつあるのを、あるいは、出つつあるのを、見ますか」と。「貴君カッサパよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「王族よ、まさに、生きている彼女たちが、まさに、生きているあなたの、〔その〕生気が、あるいは、入りつつあるのを、あるいは、出つつあるのを、見ないのです。また、どうして、あなたが、命を終えた者の、〔その〕生気が、あるいは、入りつつあるのを、あるいは、出つつあるのを、見るというのでしょう。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
423. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、家来たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、わたしに見せます。『尊き方よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒を課したまえ』と。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、まさしく、生きているまま、秤で計測して、弦で止息し、殺して〔そののち〕、まさしく、ふたたび、秤で計測しなさい』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて、その男を、まさしく、生きているまま、秤で計測して、弦で止息し、殺して〔そののち〕、まさしく、ふたたび、秤で計測します。すなわち、彼が生きているとき、そのときは、かつまた、より軽快なるものとして有り、かつまた、より柔和なるものとして〔有り〕、かつまた、より行為に適するものとして〔有ります〕。いっぽう、すなわち、彼が命を終えた者と成るとき、そのときは、かつまた、より鈍重なるものとして有り、かつまた、より沈澱したものとして〔有り〕、かつまた、より行為に適さないものとして〔有ります〕。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
熱せられた鉄の玉の喩え
424. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、それは、たとえば、また、人が、昼のあいだ熱せられた鉄の玉を、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成ったものを、秤で計測するとします。〔まさに〕その、この〔鉄の玉〕を、他時にあって、冷たくなり、鎮火したものを、秤で計測するとします。いったい、まさに、いつ、その鉄の玉は、あるいは、より軽快なるものと成りますか、あるいは、より柔和なるものと〔成りますか〕、あるいは、より行為に適するものと〔成りますか〕──あるいは、すなわち、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成ったときですか、あるいは、すなわち、冷たくなり、鎮火したときですか」と。「貴君カッサパよ、すなわち、その鉄の玉が、そして、火を共具したものとして有り、さらに、風を共具したものとして〔有り〕、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成ったとき、そのときは、かつまた、より軽快なるものと成り、かつまた、より柔和なるものと〔成り〕、かつまた、より行為に適するものと〔成ります〕。いっぽう、すなわち、その鉄の玉が、まさしく、火を共具したものではなく有り、風を共具したものではなく〔有り〕、冷たくなり、鎮火したとき、そのときは、かつまた、より鈍重なるものと成り、かつまた、より沈澱したものと〔成り〕、かつまた、より行為に適さないものと〔成ります〕」と。「王族よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この身体が、そして、寿命を共具したものとして有り、かつまた、熱を共具したものとして〔有り〕、さらに、識知〔作用〕を共具したものとして〔有る〕とき、そのときは、かつまた、より軽快なるものと成り、かつまた、より柔和なるものと〔成り〕、かつまた、より行為に適するものと〔成ります〕。いっぽう、すなわち、この身体が、まさしく、寿命を共具したものものではなく有り、熱を共具したものではなく〔有り〕、識知〔作用〕を共具したものではなく〔有る〕とき、そのときは、かつまた、より鈍重なるものと成り、かつまた、より沈澱したものと〔成り〕、かつまた、より行為に適さないものと〔成ります〕。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
425. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、家来たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、わたしに見せます。『尊き方よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒を課したまえ』と。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、かつまた、表皮を、かつまた、皮を、かつまた、肉を、かつまた、腱を、かつまた、骨を、かつまた、骨髄を、〔それらを〕損壊せずして、生命を奪いなさい。まさしく、おそらく、まさに、彼の生気が出つつあるのを、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼らは、わたしに、『善きかな』と答えて、その男を、かつまた、表皮を……略……〔それらを〕損壊せずして、生命を奪います。すなわち、彼が、半死の者と成るとき、彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、上向きに横たわらせよ。まさしく、おそらく、まさに、彼の生気が出つつあるのを、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼らは、その男を、上向きに横たわらせます。彼の生気が出つつあるのを、わたしたちが見ることは、まさしく、ありません。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男を、下向きに横たわらせよ。……脇を下に横たわらせよ。……別の脇を下に横たわらせよ。……上に立たせよ。……逆さに立たせよ……手で打て。……石で打て。……棒で打て。……刃で打て。……振り落とせ、振り回せ、振り払え。まさしく、おそらく、まさに、彼の生気が出つつあるのを、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼らは、その男を、振り落とし、振り回し、振り払います。彼の生気が出つつあるのを、わたしたちが見ることは、まさしく、ありません。彼には、まさしく、その眼が有り、それらの形態が〔有るも〕、しかしながら、その〔認識の〕場所は得知せず、まさしく、その耳が有り、それらの音声が〔有るも〕、しかしながら、その〔認識の〕場所は得知せず、まさしく、その鼻が有り、それらの臭気が〔有るも〕、しかしながら、その〔認識の〕場所は得知せず、まさしく、その舌が有り、それらの味感が〔有るも〕、しかしながら、その〔認識の〕場所は得知せず、まさしく、その身が有り、それらの感触が〔有るも〕、しかしながら、その〔認識の〕場所は得知しません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
法螺貝吹きの喩え
426. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、或るひとりの法螺貝吹きが、法螺貝を携えて、最辺境の地方に赴きました。彼は、或るひとつの村のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、村の中央に立ち、三回、法螺貝を鳴らして(※)、法螺貝を地面に置いて、一方に坐りました。王族よ、そこで、まさに、それらの辺境の地方の人間たちに、この〔思い〕が有りました。『はてさて、いったい、まさに、これは、何の音なのだ。このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように結縛するべきものであり、このように耽溺するべきものである、〔この音は〕』と。〔彼らは〕集まって、その法螺貝吹きに、こう言いました。『はてさて、いったい、まさに、これは、何の音なのだ。このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように結縛するべきものであり、このように耽溺するべきものである、〔この音は〕』と。『君よ、これは、まさに、法螺貝という名のものです。これは、その〔法螺貝〕の音です。このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように結縛するべきものであり、このように耽溺するべきものである、〔この音は〕』と。彼らは、その法螺貝を、上向きに横たわらせました。『君よ、法螺貝よ、説け。君よ、法螺貝よ、説け』と。その法螺貝が音を立てることは、まさしく、ありませんでした。彼らは、その法螺貝を、下向きに横たわらせました。……脇を下に横たわらせました。……別の脇を下に横たわらせました。……上に立たせました。……逆さに立たせました……手で打ちました。……石で打ちました。……棒で打ちました。……刃で打ちました。……振り落とし、振り回し、振り払いました。『君よ、法螺貝よ、説け。君よ、法螺貝よ、説け』と。その法螺貝が音を立てることは、まさしく、ありませんでした。
※ テキストには upalāpetvā とあるが、PTS版により upaḷāsitvā と読む。以下の平行箇所も同様。
王族よ、そこで、まさに、その法螺貝吹きに、この〔思い〕が有りました。『それほどまでに、これらの辺境の地方の人間たちが、愚者であるとは。まさに、どうして、まさに、根源のままならずに法螺貝の音を探し求めるのだろう』と。彼らが見ているなか、法螺貝を掴んで、三回、法螺貝を鳴らして、法螺貝を携えて、立ち去りました。王族よ、そこで、まさに、それらの辺境の地方の人間たちに、この〔思い〕が有りました。『君よ、どうやら、すなわち、この法螺貝が、まさに、そして、人を共具したものとして有り、かつまた、努力を共具したものとして〔有り〕、さらに、風を共具したものとして〔有る〕とき、そのとき、この法螺貝は、音を立てるらしい。いっぽう、すなわち、この法螺貝が、まさしく、人を共具したものではなく有り、かつまた、努力を共具したものではなく〔有り〕、さらに、風を共具したものではなく〔有る〕とき、そのときは、この法螺貝は、音を立てない』と。王族よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この身体が、そして、寿命を共具したものとして有り、かつまた、熱を共具したものとして〔有り〕、さらに、識知〔作用〕を共具したものとして〔有る〕とき、そのときは、前進もまたし、後進もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥をもまた営み、眼によってもまた形態を見、耳によってもまた音声を聞き、鼻によってもまた臭気を嗅ぎ、舌によってもまた味感を味わい、身によってもまた感触に触れ、意によって法(意の対象)を識知します。いっぽう、すなわち、この身体が、まさしく、寿命を共具したものではなく有り、熱を共具したものではなく〔有り〕、識知〔作用〕を共具したものではなく〔有る〕とき、そのときは、まさしく、前進することもなく、後進することもなく、立つこともなく、坐ることもなく、臥を営むこともなく、眼によってもまた形態を見ず、耳によってもまた音声を聞かず、鼻によってもまた臭気を嗅がず、舌によってもまた味感を味わわず、身によってもまた感触に触れず、意によってもまた法(意の対象)を識知しません。王族よ、この教相によってもまた、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有れ。『かくのごとくもまた、他の世は存在する。化生の有情たちは存在する。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在する』」と。
427. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「王族よ、また、教相は存在しますか。……略……。「貴君カッサパよ、教相は存在します。……略……。「王族よ、すなわち、どのように、そのごとく」と。「貴君カッサパよ、ここに、家来たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、わたしに見せます。『尊き方よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒を課したまえ』と。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男の表皮を断ちなさい。まさしく、おそらく、まさに、彼の生気を、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼らは、その男の表皮を断ちます。彼の生気を、わたしたちが見ることは、まさしく、ありません。彼らに、わたしは、このように説きます。『君よ、まさに、それでは、この男の皮を断ちなさい……。肉を断ちなさい……。腱を断ちなさい……。骨を断ちなさい……。骨髄を断ちなさい。まさしく、おそらく、まさに、彼の生気を、〔わたしたちは〕見るであろう』と。彼らは、その男の骨髄を断ちます。彼の生気を、わたしたちが見ることは、まさしく、ありません。貴君カッサパよ、これがまた、まさに、教相となります。その教相によって、わたしに、このような〔思いが〕有るのです。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。
結髪の祭火者の喩え
428. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、或るひとりの結髪の祭火者が、林所にある柴小屋において暮らしています。王族よ、そこで、まさに、或るどこかの地方において、隊商が出起しました(仕立てられた)。そこで、まさに、その隊商は、その結髪の祭火者の庵所の近隣で一夜を住して、立ち去りました。王族よ、そこで、まさに、その結髪の祭火者に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、その隊商の野営地のあるところに、そこへと近づいて行くのだ。まさしく、おそらく、まさに、ここにおいて、何かしらの資益物に到達するであろう』と。そこで、まさに、その結髪の祭火者は、まさしく、早朝に起きて、その隊商の野営地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その隊商の野営地において、愚鈍で上向きに臥す年少の童子(嬰児)が捨てられているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが見ているなか、人間たる生類が命を終えるのは。それなら、さあ、わたしは、この小児を、庵所に連れて行って、扶養し、養育し、育て上げるのだ』と。そこで、まさに、その結髪の祭火者は、その小児を、庵所に連れて行って、扶養し、養育し、育て上げました。すなわち、その小児が、あるいは、齢十年か、あるいは、齢十二年か、〔そのような者と〕成るとき、そこで、まさに、その結髪の祭火者に、地方において、何らかの或る用事が生起しました。そこで、まさに、その結髪の祭火者は、その小児に、こう言いました。『息子よ、わたしは、地方に赴くことを求める。息子よ、火を世話するのだ。そして、おまえによって、火が消えることがあってはならない。そして、それで、もし、火が消えるなら、この鉈とこれらの木片とこの火起こしの棒があるので、火を起こして、火を世話するのだ』と。そこで、まさに、その結髪の祭火者は、その小児に、このように教示して、地方に赴きました。彼が遊びを追い求めていたところ、火は消えました。
そこで、まさに、その小児に、この〔思い〕が有りました。『父は、まさに、わたしに、このように言った。「息子よ、火を世話するのだ。そして、おまえによって、火が消えることがあってはならない。そして、それで、もし、火が消えるなら、この鉈とこれらの木片とこの火起こしの棒があるので、火を起こして、火を世話するのだ」と。それなら、さあ、わたしは、火を起こすして、火を世話するのだ』と。そこで、まさに、その小児は、火起こしの棒を、鉈で加工しました。『まさしく、おそらく、まさに、火に到達するであろう』と。彼が火に到達することは、まさしく、ありませんでした。火起こしの棒を、二様に裂きました。三様に裂きました。四様に裂きました。五様に裂きました。十様に裂きました。百様に裂きました。片々と為しました。片々と為して、臼のなかで打ちました。臼のなかで打って、大風のなかに吹き放ちました。『まさしく、おそらく、まさに、火に到達するであろう』と。彼が火に到達することは、まさしく、ありませんでした。
そこで、まさに、その結髪の祭火者は、地方において、その用事を済ませて、自らの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その小児に、こう言いました。『息子よ、どうだろう、おまえによって、火が消えることはなかったかな』と。『父よ、ここに、わたしが遊びを追い求めていたところ、火は消えました。〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「父は、まさに、わたしに、このように言った。『息子よ、火を世話するのだ。そして、おまえによって、火が消えることがあってはならない。そして、それで、もし、火が消えるなら、この鉈とこれらの木片とこの火起こしの棒があるので、火を起こして、火を世話するのだ』と。それなら、さあ、わたしは、火を起こして、火を世話するのだ」と。そこで、まさに、わたしは、火起こしの棒を、鉈で加工しました。「まさしく、おそらく、まさに、火に到達するであろう」と。わたしが火に到達することは、まさしく、ありませんでした。火起こしの棒を、二様に裂きました。三様に裂きました。四様に裂きました。五様に裂きました。十様に裂きました。百様に裂きました。片々と為しました。片々と為して、臼のなかで打ちました。臼のなかで打って、大風のなかに吹き放ちました。「まさしく、おそらく、まさに、火に到達するであろう」と。わたしが火に到達することは、まさしく、ありませんでした』と。そこで、まさに、その結髪の祭火者に、この〔思い〕が有りました。『それほどまでに、この小児が、愚者にして明敏ならざる者であるとは。まさに、根源のままならずに、まさに、どのように、火を探し求めるというのだろう』と。彼が見ているなか、火起こしの棒を掴んで、火を起こして、その小児に、こう言いました。『息子よ、このように、まさに、火は起こされるべきである。まさしく、しかし、すなわち、愚者にして明敏ならざる者である、おまえが、火を探し求めるように、ではなく』と。王族よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、愚者にして明敏ならざる者であり、根源のままならずに他の世を探し求めます。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。
429. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、この、悪しきものである悪しき見解を放棄することは、まさしく、わたしはできません。コーサラ〔国〕のパセーナディ王もまた、他国の王たちもまた、わたしのことを知ります。『王族のパーヤーシは、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない」』と。貴君カッサパよ、それで、もし、わたしが、この、悪しきものである悪しき見解を放棄するなら、わたしに説く者たちが有るでしょう。『それほどまでに、王族のパーヤーシが、愚者にして明敏ならざる者であるとは、悪しく把握されたものを把握する者であるとは』と。たとえ、激情をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、偽装をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、加虐をもってしても、それを維持するでしょう」と。
二者の隊商の長の喩え
430. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、千の荷車からなる、大いなる荷車の隊商が、東の地方から西の地方に赴きました。その〔隊商〕は、〔赴いた〕ところ、赴いたところで、まさしく、すみやかに、草や薪や水を、緑の葉を、完全に取り払います。また、まさに、その隊商には、二者の隊商の長が有りました。一者は、五百の荷車の〔隊商の長として〕、一者は、五百の荷車の〔隊商の長として〕。そこで、まさに、それらの隊商の長たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これは、千の荷車からなる、大いなる荷車の隊商である。〔まさに〕その、わたしたちは、〔赴く〕ところ、赴くところで、まさしく、すみやかに、草や薪や水を、緑の葉を、完全に取り払う。それなら、さあ、わたしたちは、この隊商を、二様に区分するのだ。一方を、五百の荷車に、一方を、五百の荷車に』と。彼らは、その隊商を、二様に区分しました。一方を、五百の荷車に、一方を、五百の荷車に。一者の隊商の長は、多くの、かつまた、草を、かつまた、薪を、かつまた、水を、積載して、隊商を出発させました。また、まさに、出発して二日三日のこと、その隊商は、人が──色黒で眼が赤く、矢束を装着し、蓮華の花飾をつけ、濡れた衣と濡れた髪で、泥にまみれた車輪の牛車とともに──道の向こうからやってくるのを見ました。見て、こう言いました。『君よ、どこからやってきたのですか』と。『何某の地方から』と。『どこに赴くのですか』と。『何某という名の地方に』と。『君よ、どうでしょう、前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があるのでは』と。『君よ、そのとおりです。前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があります。諸々の冠水した道があります。多くの、かつまた、草があり、かつまた、薪があり、かつまた、水があります。君よ、諸々の古い草と薪と水を捨てなさい。諸々の軽い荷の荷車で、急ぎに急いで赴きなさい。諸々の車馬が疲弊してはいけません』と。
そこで、まさに、その隊商の長は、隊商の者たちに告げました。『君よ、この人は、このように言った。「前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があります。諸々の冠水した道があります。多くの、かつまた、草があり、かつまた、薪があり、かつまた、水があります。君よ、諸々の古い草と薪と水を捨てなさい。諸々の軽い荷の荷車で、急ぎに急いで赴きなさい。諸々の車馬が疲弊してはいけません」と。君よ、諸々の古い草と薪と水を捨てなさい。諸々の軽い荷の荷車で、隊商を出発させなさい』と。『君よ、わかりました』と、まさに、それらの隊商の者たちは、その隊商の長に答えて、諸々の古い草と薪と水を捨てて、諸々の軽い荷の荷車で、隊商を出発させました。彼らは、第一の隊商の野営地においてもまた、あるいは、草を、あるいは、薪を、あるいは、水を、見ませんでした。第二の隊商の野営地においてもまた……。第三の隊商の野営地においてもまた……。第四の隊商の野営地においてもまた……。第五の隊商の野営地においてもまた……。第六の隊商の野営地においてもまた……。第七の隊商の野営地においてもまた、あるいは、草を、あるいは、薪を、あるいは、水を、見ませんでした。まさしく、全ての不幸と災厄を惹起しました。さらに、すなわち、その隊商において、あるいは、人間たちとして〔有り〕、あるいは、家畜たちとして有った、全ての者たちを、その人間ならざる夜叉が食物としました──諸々の骨だけを残りとして。
すなわち、第二の対象の長が、『さあ、今や、まさに、その隊商が出立して多く〔の時〕となる』と了知したとき、多くの、かつまた、草を、かつまた、薪を、かつまた、水を、積載して、隊商を出発させました。また、まさに、出発して二日三日のこと、その隊商は、人が──色黒で眼が赤く、矢束を装着し、蓮華の花飾をつけ、濡れた衣と濡れた髪で、泥にまみれた車輪の牛車とともに──道の向こうからやってくるのを見ました。見て、こう言いました。『君よ、どこからやってきたのですか』と。『何某の地方から』と。『どこに赴くのですか』と。『何某という名の地方に』と。『君よ、どうでしょう、前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があるのでは』と。『君よ、そのとおりです。前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があります。諸々の冠水した道があります。多くの、かつまた、草があり、かつまた、薪があり、かつまた、水があります。君よ、諸々の古い草と薪と水を捨てなさい。諸々の軽い荷の荷車で、急ぎに急いで赴きなさい。諸々の車馬が疲弊してはいけません』と。
そこで、まさに、その隊商の長は、隊商の者たちに告げました。『君よ、この人は、このように言いました。「前方の難所において、激しく雨降らせる大いなる雨雲があります。諸々の冠水した道があります。多くの、かつまた、草があり、かつまた、薪があり、かつまた、水があります。君よ、諸々の古い草と薪と水を捨てなさい。諸々の軽い荷の荷車で、急ぎに急いで赴きなさい。諸々の車馬が疲弊してはいけません」と。君よ、この人は、わたしたちの、まさしく、朋友でもなく、親族や血縁でもありません。どうして、この者に信を置いて、わたしたちが赴くというのでしょう。あなたたちは、諸々の古い草と薪と水を捨てるべきではありません。運び込んだままの物品とともに、隊商を出発させなさい。わたしたちは、古いものを捨てることなくあるのです』と。『君よ、わかりました』と、まさに、それらの隊商の者たちは、その隊商の長に答えて、運び込んだままの物品とともに、隊商を出発させました。彼らは、第一の隊商の野営地においてもまた、あるいは、草を、あるいは、薪を、あるいは、水を、見ませんでした。第二の隊商の野営地においてもまた……。第三の隊商の野営地においてもまた……。第四の隊商の野営地においてもまた……。第五の隊商の野営地においてもまた……。第六の隊商の野営地においてもまた……。第七の隊商の野営地においてもまた、あるいは、草を、あるいは、薪を、あるいは、水を、見ませんでした。そして、不幸と災厄を惹起した、その隊商を見ました。さらに、すなわち、また、その隊商においてまた、あるいは、人間たちとして〔有り〕、あるいは、家畜たちとして有った、彼らの、そして、諸々の骨だけを見ました──その人間ならざる夜叉によって食物とされた者たちの。
そこで、まさに、その隊商の長は、隊商の者たちに告げました。『君よ、まさに、この隊商は、不幸と災厄を惹起したのです。すなわち、そのように、隊商の長にして、遍き導き手たる、その愚者によって。君よ、まさに、それでは、すなわち、諸々の少価の商品が、わたしたちの隊商にあるなら、それらを捨てて、すなわち、諸々の大価の商品が、この隊商にあるなら、それらを取りなさい』と。『君よ、わかりました』と、まさに、それらの隊商の者たちは、その隊商の長に答えて、すなわち、諸々の少価の商品が、自らの隊商にあるなら、それらを捨てて、すなわち、諸々の大価の商品が、その隊商にあるなら、それらを取って、その難所を、〔無事〕安穏に超え出ました。すなわち、そのように、隊商の長にして、遍き導き手たる、賢者によって。王族よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、愚者にして明敏ならざる者であり、根源のままならずに他の世を探し求めながら、不幸と災厄を惹起するでしょう。それは、たとえば、また、その、前者の隊商の長のように。すなわち、また、あなたの〔言葉を〕聞くべきであり信を置くべきと思い考える、それらの者たちもまた、不幸と災厄を惹起するでしょう。それは、たとえば、また、それらの隊商の者たちのように。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。
431. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、この、悪しきものである悪しき見解を放棄することは、まさしく、わたしはできません。コーサラ〔国〕のパセーナディ王もまた、他国の王たちもまた、わたしのことを知ります。『王族のパーヤーシは、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「かくのごとくもまた、他の世は存在しない。……略……報いは存在しない」』と。貴君カッサパよ、それで、もし、わたしが、この、悪しきものである悪しき見解を放棄するなら、わたしに説く者たちが有るでしょう。『それほどまでに、王族のパーヤーシが、愚者にして明敏ならざる者であるとは、悪しく把握されたものを把握する者であるとは』と。たとえ、激情をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、偽装をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、加虐をもってしても、それを維持するでしょう」と。
糞を荷とする者の喩え
432. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、或るひとりの養豚者の人が、自らの村から他の村に赴きました。そこにおいて、沢山の乾いた糞が捨てられているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『まさに、この、沢山の乾いた糞が捨てられているが、しかしながら、わたしにとっては、豚の食事である。それなら、さあ、わたしは、ここから、乾いた糞を運ぶのだ』と。彼は、上衣を広げて、沢山の乾いた糞を振りまいて、ひとまとめに結び縛って、頭に載せて、赴きました。彼に、道の途中で、大いなる雨雲が雨を降らせました。彼は、爪先に至るまで糞にまみれながら、滲み出つつ流れ出ている糞の荷を担いで、赴きました。〔まさに〕その、この者のことを、人間たちが見て、このように言いました。『話させてもらうが、まさに、おまえは、どうなのだ、狂者なのか、どうなのだ、乱心者なのか。まさに、どうして、まさに、爪先に至るまで糞にまみれながら、滲み出つつ流れ出ている糞の荷を運ぶのだ』と。『話させてもらうが、まさに、ここにおいて、おまえたちは、狂者たちである、おまえたちは、乱心者たちである。また、まさに、そのとおりに、わたしにとっては、豚の食事なのだ』と。王族よ、思うに、まさしく、このように、まさに、あなたは、糞を荷とする者の如き者であることが明白となります。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。
433. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、この、悪しきものである悪しき見解を放棄することは、まさしく、わたしはできません。コーサラ〔国〕のパセーナディ王もまた、他国の王たちもまた、わたしのことを知ります。『王族のパーヤーシは、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「かくのごとくもまた、他の世は存在しない。……略……報いは存在しない」』と。貴君カッサパよ、それで、もし、わたしが、この、悪しきものである悪しき見解を放棄するなら、わたしに説く者たちが有るでしょう。『それほどまでに、王族のパーヤーシが、愚者にして明敏ならざる者であるとは、悪しく把握されたものを把握する者であるとは』と。たとえ、激情をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、偽装をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、加虐をもってしても、それを維持するでしょう」と。
さいころ賭博師の喩え
434. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、二者のさいころ賭博師が、諸々のさいころで賭けをしました。一者のさいころ賭博師は、次から次へと〔悪しき〕賽の目を飲み込みます(悪い目が出たら、さいころを飲み込んでしまう)。まさに、第二のさいころ賭博師は、そのさいころ賭博師が、次から次へと〔悪しき〕賽の目を飲み込んでいるのを見ました。見て、そのさいころ賭博師に、こう言いました。『友よ、まさに、あなたは、一方的に勝つ。友よ、わたしに、諸々のさいころを渡したまえ。捧げものをするのだ(あなたの勝ち運にあやかりたい)』と。『友よ、わかった』と、まさに、そのさいころ賭博師は、そのさいころ賭博師に、諸々のさいころを委ねました。そこで、まさに、そのさいころ賭博師は、諸々のさいころを、毒で満たして、そのさいころ賭博師に、こう言いました。『友よ、さあ、まさに、諸々のさいころで賭けをするのだ』と。『友よ、わかった』と、まさに、そのさいころ賭博師は、そのさいころ賭博師に答えました。再度また、まさに、それらの賭博師たちは、諸々のさいころで賭けをしました。再度また、まさに、そのさいころ賭博師は、次から次へと〔悪しき〕賽の目を飲み込みます。まさに、第二のさいころ賭博師は、そのさいころ賭博師が、再度また、次から次へと〔悪しき〕賽の目を飲み込んでいるのを見ました。見て、そのさいころ賭博師に、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕『最高の劇物(猛毒)が塗られた賽子を飲みながら、人は、〔そのことを〕覚らない。悪しき博徒よ、さあ、飲め、飲め。のちに、おまえにとって、辛きものと成るであろう』と。
王族よ、思うに、まさしく、このように、まさに、あなたは、さいころ賭博師の如き者であることが明白となります。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。
435. 「たとえ、何であれ、貴君カッサパが、このように言うとして、そこで、まさに、この、悪しきものである悪しき見解を放棄することは、まさしく、わたしはできません。コーサラ〔国〕のパセーナディ王もまた、他国の王たちもまた、わたしのことを知ります。『王族のパーヤーシは、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「かくのごとくもまた、他の世は存在しない。……略……報いは存在しない」』と。貴君カッサパよ、それで、もし、わたしが、この、悪しきものである悪しき見解を放棄するなら、わたしに説く者たちが有るでしょう。『それほどまでに、王族のパーヤーシが、愚者にして明敏ならざる者であるとは、悪しく把握されたものを把握する者であるとは』と。たとえ、激情をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、偽装をもってしても、それを維持するでしょう。たとえ、加虐をもってしても、それを維持するでしょう」と。
麻を荷とする者の喩え
436. 「王族よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。王族よ、過去の事ですが、或るひとつの地方が出起しました(勃興し興起した)。そこで、まさに、道友が、道友に告げました。『友よ、行こう。その地方のあるところに、そこへと近づいて行くのだ。まさしく、おそらく、まさに、ここにおいて、何かしらの財に到達するであろう』と。『友よ、わかった』と、まさに、道友は、道友に答えました。彼らは、その地方のあるところに、或るひとつの新興の村のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、沢山の麻が捨てられているのを見ました。見て、道友は、道友に告げました。『友よ、まさに、この、沢山の麻が捨てられている。友よ、まさに、それでは、かつまた、あなたも、麻を荷として結び縛れ、かつまた、わたしも、麻を荷として結び縛ろう。両者ともに、麻を荷として担いで、赴くのだ』と。『友よ、わかった』と、まさに、道友は、道友に答えて、麻を荷として結び縛って、彼らは、両者ともに、麻を荷として担いで、或るひとつの新興の村のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、沢山の麻の糸が捨てられているのを見ました。見て、道友は、道友に告げました。『友よ、すなわち、麻を求める〔わたしたちが〕、まさに、義(目的)とする、この、沢山の麻の糸が捨てられている。友よ、まさに、それでは、かつまた、あなたも、麻の荷を捨てよ、かつまた、わたしも、麻の荷を捨てよう。両者ともに、麻の糸を荷として担いで、赴くのだ』と。『友よ、まさに、わたしにとって、この麻の荷は、かつまた、遠くから運ばれたものであり、かつまた、善く装着されたものである。わたしにとって、十分なるものである。あなたは、〔このことを〕覚知せよ』と。そこで、その道友は、麻の荷を捨てて、麻の糸を荷として担ぎました。
彼らは、或るひとつの新興の村のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、沢山の麻布が捨てられているのを見ました。見て、道友は、道友に告げました。『友よ、すなわち、あるいは、麻を、あるいは、麻の糸を、求める〔わたしたちが〕、まさに、義(目的)とする、この、沢山の麻布が捨てられている。友よ、まさに、それでは、かつまた、あなたも、麻の荷を捨てよ、かつまた、わたしも、麻の糸の荷を捨てよう。両者ともに、麻布を荷として担いで、赴くのだ』と。『友よ、まさに、わたしにとって、この麻の荷は、かつまた、遠くから運ばれたものであり、かつまた、善く装着されたものである。わたしにとって、十分なるものである。あなたは、〔このことを〕覚知せよ』と。そこで、その道友は、麻の糸の荷を捨てて、麻布を荷として担ぎました。
彼らは、或るひとつの新興の村のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、沢山の亜麻が捨てられているのを見ました。見て……略……沢山の亜麻の糸が捨てられているのを見ました。見て……沢山の亜麻の布地が捨てられているのを見ました。見て……沢山の木綿が捨てられているのを見ました。見て……沢山の木綿の糸が捨てられているのを見ました。見て……沢山の木綿の布地が捨てられているのを見ました。見て……沢山の鉄が捨てられているのを見ました。見て……沢山の銅が捨てられているのを見ました。見て……沢山の錫が捨てられているのを見ました。見て……沢山の鉛が捨てられているのを見ました。見て……沢山の銀が捨てられているのを見ました。見て……沢山の金が捨てられているのを見ました。見て、道友は、道友に告げました。『友よ、すなわち、あるいは、麻を、あるいは、麻の糸を、あるいは、麻布を、あるいは、亜麻を、あるいは、亜麻の糸を、あるいは、亜麻の布地を、あるいは、木綿を、あるいは、木綿の糸を、あるいは、木綿の布地を、あるいは、鉄を、あるいは、銅を、あるいは、錫を、あるいは、鉛を、あるいは、銀を、求める〔わたしたちが〕、まさに、義(目的)とする、この、沢山の金が捨てられている。友よ、まさに、それでは、かつまた、あなたも、麻の荷を捨てよ、かつまた、わたしも、銀の荷を捨てよう。両者ともに、金を荷として担いで、赴くのだ』と。『友よ、まさに、わたしにとって、この麻の荷は、かつまた、遠くから運ばれたものであり、かつまた、善く装着されたものである。わたしにとって、十分なるものである。あなたは、〔このことを〕覚知せよ』と。そこで、その道友は、銀の荷を捨てて、金を荷として担ぎました。
彼らは、自らの村のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、すなわち、麻の荷を担いで赴いた、その道友ですが、彼の母と父は、まさしく、大いに喜ばず、子と妻たちも大いに喜ばず、朋友や僚友たちも大いに喜ばず、さらに、それを因縁として、安楽と悦意に到達しませんでした。いっぽう、すなわち、金の荷を担いで赴いた、その道友ですが、彼の母と父もまた大いに喜び、子と妻たちもまた大いに喜び、朋友や僚友たちもまた大いに喜び、さらに、それを因縁として、安楽と悦意に到達しました。王族よ、思うに、まさしく、このように、まさに、あなたは、麻を荷とする者の如き者であることが明白となります。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。王族よ、この、悪しきものである悪しき見解を放棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。
帰依所に赴くこと
437. 「わたしは、貴君カッサパの、まさしく、最初の喩えによって、わが意を得た者となり、満悦した者となるも、しかしながら、また、わたしは、これらの種々様々な問いへの応答を聞くことを欲する者となり、このように、わたしは、貴君カッサパに反論が為されるべきと思い考えました。貴君カッサパよ、すばらしいことです。貴君カッサパよ、すばらしいことです。貴君カッサパよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君カッサパによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君カッサパよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君カッサパは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。
貴君カッサパよ、そして、わたしは、大いなる祭祀を執り行なうことを求めます。貴君カッサパは、わたしに教示したまえ。それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。
祭祀の話
438. 「王族よ、まさに、そのような形態の祭祀において、あるいは、牛たちが殺され、あるいは、山羊や羊たちが殺され、あるいは、鶏や豚たちが殺され、あるいは、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起するなら、そして、納受者たちが、誤った見解ある者たちとして、誤った思惟ある者たちとして、誤った言葉ある者たちとして、誤った行業ある者たちとして、誤った生き方ある者たちとして、誤った努力ある者たちとして、誤った気づきある者たちとして、誤った禅定ある者たちとして、〔世に〕有るなら、王族よ、まさに、このような形態の祭祀は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。王族よ、それは、たとえば、また、耕作者が、種と鋤を携えて、林に入るとします。彼は、そこにおいて、悪しき田畑であり、悪しき土地である、木株や棘が引き抜かれていないところに、破断し、腐敗し、熱風に打破され、しっかりと保管されていない、諸々の未熟ならざる種を据え置き、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか、あるいは、耕作者は、広大なる果に到達するでしょうか」と。「貴君カッサパよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「王族よ、まさしく、このように、まさに、そのような形態の祭祀において、あるいは、牛たちが殺され、あるいは、山羊や羊たちが殺され、あるいは、鶏や豚たちが殺され、あるいは、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起するなら、そして、納受者たちが、誤った見解ある者たちとして、誤った思惟ある者たちとして、誤った言葉ある者たちとして、誤った行業ある者たちとして、誤った生き方ある者たちとして、誤った努力ある者たちとして、誤った気づきある者たちとして、誤った禅定ある者たちとして、〔世に〕有るなら、王族よ、まさに、このような形態の祭祀は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。
王族よ、しかしながら、まさに、そのような形態の祭祀において、まさしく、牛たちが殺されず、山羊や羊たちが殺されず、鶏や豚たちが殺されず、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起しないなら、そして、納受者たちが、正しい見解ある者たちとして、正しい思惟ある者たちとして、正しい言葉ある者たちとして、正しい行業ある者たちとして、正しい生き方ある者たちとして、正しい努力ある者たちとして、正しい気づきある者たちとして、正しい禅定ある者たちとして、〔世に〕有るなら、王族よ、まさに、このような形態の祭祀は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。王族よ、それは、たとえば、また、耕作者が、種と鋤を携えて、林に入るとします。彼は、そこにおいて、善き田畑であり、善き土地である、木株や棘が善く引き抜かれているところに、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種を据え置き、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けるなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか、あるいは、耕作者は、広大なる果に到達するでしょうか」と。「貴君カッサパよ、そのとおりです」〔と〕。「王族よ、まさしく、このように、まさに、そのような形態の祭祀において、まさしく、牛たちが殺されず、山羊や羊たちが殺されず、鶏や豚たちが殺されず、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起しないなら、そして、納受者たちが、正しい見解ある者たちとして、正しい思惟ある者たちとして、正しい言葉ある者たちとして、正しい行業ある者たちとして、正しい生き方ある者たちとして、正しい努力ある者たちとして、正しい気づきある者たちとして、正しい禅定ある者たちとして、〔世に〕有るなら、王族よ、まさに、このような形態の祭祀は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕」と。
ウッタラ学徒の事
439. そこで、まさに、王族のパーヤーシは、布施を実施しました──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちのために。また、まさに、その布施においては、このような形態のものが施されます──食料として、酸えた粥を添え物とする屑米が──そして、諸々の衣として、毛玉のある粗野なるものが。また、まさに、その布施において、ウッタラという名の学徒が、従事者として有りました。彼は、布施を施して、このように指定します。「この布施によって、わたしは、まさしく、王族のパーヤーシと、この世において遭遇した。他〔の世〕においては、〔そのようなことが〕あってはならない」と。まさに、王族のパーヤーシは、「どうやら、ウッタラ学徒が、布施を施して、このように指定するらしい。『この布施によって、わたしは、まさしく、王族のパーヤーシと、この世において遭遇した。他〔の世〕においては、〔そのようなことが〕あってはならない』」と耳にしました。そこで、まさに、王族のパーヤーシは、ウッタラ学徒を呼び寄せて、こう言いました。「親愛なる者よ、ウッタラよ、本当に、まさに、あなたは、布施を施して、このように指定するのか。『この布施によって、わたしは、まさしく、王族のパーヤーシと、この世において遭遇した。他〔の世〕においては、〔そのようなことが〕あってはならない』」と。「君よ、そのとおりです」と。「親愛なる者よ、ウッタラよ、また、どうして、あなたは、布施を施して、このように指定するのか。『この布施によって、わたしは、まさしく、王族のパーヤーシと、この世において遭遇した。他〔の世〕においては、〔そのようなことが〕あってはならない』と。親愛なる者よ、ウッタラよ、まさに、わたしたちは、功徳を義(目的)とする者たちであり、まさしく、布施の果を期待する者たちではないのか」と。「まさに、貴君の布施においては、このような形態のものが施されます──食料として、酸えた粥を添え物とする屑米が、すなわち、貴君が、足でさえも触れることを求めず、ましてや、食べることなど〔論外の食料が〕──そして、諸々の衣として、毛玉のある粗野なるものが、すなわち、貴君が、足でさえも触れることを求めず、ましてや、まとうことなど〔論外の諸々の衣が〕。また、まさに、貴君は、わたしどもにとって、愛しく意に適う者です。どうして、わたしどもが、意に適うものを、意に適わないものと結び付けるというのでしょう」と。「親愛なる者よ、ウッタラよ、まさに、それでは、あなたは、それが、わたしが食べるような食料であるなら、そのような食料を、〔施物として〕仕立てよ。そして、それが、わたしがまとうような諸々の衣であるなら、そして、そのような諸々の衣を、〔施物として〕仕立てよ」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ウッタラ学徒は、王族のパーヤーシに答えて、それが、王族のパーヤーシが食べるような食料であるなら、そのような食料を、〔施物として〕仕立てました。そして、それが、王族のパーヤーシがまとうような諸々の衣であるなら、そして、そのような諸々の衣を、〔施物として〕仕立てました。
440. そこで、まさに、王族のパーヤーシは、恭しくなく布施を施して、自らの手でなく布施を施して、心作なく布施を施して、捨てられたものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生しました──空無なるセーリーサカ天宮に。いっぽう、すなわち、彼の布施において、従事者として有った、ウッタラという名の学徒は、彼は、恭しく布施を施して、自らの手で布施を施して、心作ある布施を施して、捨てられていないものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しました──三十三天〔の神々〕たちの同類として。
パーヤーシ天子
441. また、まさに、その時点にあって、尊者ガヴァンパティは、幾度となく、空無なるセーリーサカ天宮に、昼の休息のために赴きます。そこで、まさに、パーヤーシ天子は、尊者ガヴァンパティのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ガヴァンパティを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、パーヤーシ天子に、尊者ガヴァンパティは、こう言いました。「友よ、誰なのですか、〔ここに〕存する、あなたは」と。「尊き方よ、わたしは、王族のパーヤーシです」と。「友よ、まさに、あなたは、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ったのではないですか。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』」と。「尊き方よ、たしかに、わたしは、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有りました。『かくのごとくもまた、他の世は存在しない。化生の有情たちは存在しない。諸々の善行と悪行の行為に、果たる報いは存在しない』と。ですが、また、わたしは、尊貴なるクマーラ・カッサパによって、この、悪しきものである悪しき見解から遠離させられたのです」と。「友よ、いっぽう、すなわち、あなたの布施において、従事者として有った、ウッタラという名の学徒は、彼は、どこに再生したのですか」と。「友よ、いっぽう、すなわち、わたしの布施において、従事者として有った、ウッタラという名の学徒は、彼は、恭しく布施を施して、自らの手で布施を施して、心作ある布施を施して、捨てられていないものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです──三十三天〔の神々〕たちの同類として。尊き方よ、いっぽう、わたしは、恭しくなく布施を施して、自らの手でなく布施を施して、心作なく布施を施して、捨てられたものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生したのです──空無なるセーリーサカ天宮に。尊き方よ、ガヴァンパティよ、まさに、それでは、人間の世に赴いて、このように告げてください。『恭しく布施を施しなさい、自らの手で布施を施しなさい、心作ある布施を施しなさい、捨てられていないものの布施を施しなさい。王族のパーヤーシは、恭しくなく布施を施して、自らの手でなく布施を施して、心作なく布施を施して、捨てられたものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生したのです──空無なるセーリーサカ天宮に。いっぽう、すなわち、彼の布施において、従事者として有った、ウッタラという名の学徒は、彼は、恭しく布施を施して、自らの手で布施を施して、心作ある布施を施して、捨てられていないものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです──三十三天〔の神々〕たちの同類として』」と。
そこで、まさに、尊者ガヴァンパティは、人間の世に赴いて、このように告げました。「恭しく布施を施しなさい、自らの手で布施を施しなさい、心作ある布施を施しなさい、捨てられていないものの布施を施しなさい。王族のパーヤーシは、恭しくなく布施を施して、自らの手でなく布施を施して、心作なく布施を施して、捨てられたものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生したのです──空無なるセーリーサカ天宮に。いっぽう、すなわち、彼の布施において、従事者として有った、ウッタラという名の学徒は、彼は、恭しく布施を施して、自らの手で布施を施して、心作ある布施を施して、捨てられていないものの布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです──三十三天〔の神々〕たちの同類として」と。
パーヤーシの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
大いなるものの部は〔以上で〕終了となる。
その〔部〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる行状、因縁、そして、涅槃、スダッサナ、ジャナヴァサバ、ゴーヴィンダ、集い、帝釈〔天〕の問いなるもの、そして、大いなる気づきの確立、第十のものとして、パーヤーシが有る」〔と〕。
大いなるものの部の聖典は〔以上で〕終了となる。