相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 六つの〔認識の〕場所の部(六処篇・上)

 

【目次】

 

1(35). 六つの〔認識の〕場所に相応するもの(1.~)

 

1. 無常の章(1.~)

 

1. 内なる無常の経

2. 内なる苦痛の経

3. 内なる無我の経

4. 外なる無常の経

5. 外なる苦痛の経

6. 外なる無我の経

7. 過去と未来の内なる無常の経

8. 過去と未来の内なる苦痛の経

9. 過去と未来の内なる無我の経

10. 過去と未来の外なる無常の経

11. 過去と未来の外なる苦痛の経

12. 過去と未来の外なる無我の経

 

2. 対なるものの章(13.~)

 

1. 第一の「正覚より過去において」の経

2. 第二の「正覚より過去において」の経

3. 第一の「悦楽を遍く探し求めるために」の経

4. 第二の「悦楽を遍く探し求めるために」の経

5. 第一の「もし、悦楽がなく」の経

6. 第二の「もし、悦楽がなく」の経

7. 第一の愉悦の経

8. 第二の愉悦の経

9. 第一の苦しみの生起の経

10. 第二の苦しみの生起の経

 

3. 一切の章(23.~)

 

1. 一切の経

2. 「捨棄する」の経

3. 「証知して遍知して捨棄する」の経

4. 第一の「遍知せず」の経

5. 第二の「遍知せず」の経

6. 「燃えています」の経

7. 「征服されています」の経

8. 根絶のために適切なるものの経

9. 第一の根絶のための正当なるものの経

10. 第二の根絶のための正当なるものの経

 

4. 生の法の章(33.~)

 

1-10. 生の法等の経の十なるもの

 

5. 「一切は、無常です」の章(43.~)

 

1-9. 無常等の経の九なるもの

10. 迫害の経

 

6. 無明の章(53.~)

 

1. 無明の捨棄の経

2. 束縛の捨棄の経

3. 束縛の根絶の経

4. 煩悩の捨棄の経

5. 煩悩の根絶の経

6. 悪習の捨棄の経

7. 悪習の根絶の経

8. 一切の執取の遍知の経

9. 第一の一切の執取の完全なる消尽の経

10. 第二の一切の執取の完全なる消尽の経

 

7. ミガジャーラの章(63.~)

 

1. 第一のミガジャーラの経

2. 第二のミガジャーラの経

3. 第一のサミッディの悪魔についての問いの経

4. サミッディの有情についての問いの経

5. サミッディの苦しみについての問いの経

6. サミッディの世についての問いの経

7. ウパセーナと毒蛇の経

8. ウパヴァーナと現に見られるものの経

9. 第一の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

10. 第二の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

11. 第三の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

 

8. 病者の章(74.~)

 

1. 第一の病者の経

2. 第二の病者の経

3. ラーダと無常の経

4. ラーダと苦痛の経

5. ラーダと無我の経

6. 第一の無明の捨棄の経

7. 第二の無明の捨棄の経

8. 大勢の比丘たちの経

9. 世についての問いの経

10. パッグナの問いの経

 

9. チャンナの章(84.~)

 

1. 崩壊の法の経

2. 空である世の経

3. 簡略の法の経

4. チャンナの経

5. プンナの経

6. バーヒヤの経

7. 第一の〔心の〕動揺の経

8. 第二の〔心の〕動揺の経

9. 第一の二つのものの経

10. 第二の二つのものの経

 

10. 六つのものの章(94.~)

 

1. 調御されず保護されていないものの経

2. マールキャプッタの経

3. 遍き衰退となる法の経

4. 放逸の住者の経

5. 統御の経

6. 禅定の経

7. 静坐の経

8. 第一の「あなたたちのものでないなら」の経

9. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

10. ウダカの経

 

11. 束縛からの平安ある者の章(104.~)

 

1. 束縛からの平安ある者の経

2. 「執取して」の経

3. 苦しみの集起の経

4. 世の集起の経

5. 「わたしは、勝る者として〔世に〕存している」の経

6. 束縛されるべきものの経

7. 執取されるべきものの経

8. 内なる〔認識の〕場所の遍知の経

9. 外なる〔認識の〕場所の遍知の経

10. 聞き入る者の経

 

12. 世と欲望の属性の章(114.~)

 

1. 第一の悪魔の罠の経

2. 第二の悪魔の罠の経

3. 世の終極に赴くことの経

4. 欲望の属性の経

5. 帝釈〔天〕の問いの経

6. パンチャシカの経

7. サーリプッタと共住者の経

8. ラーフラへの教諭の経

9. 束縛されるべき法の経

10. 執取されるべきものの経

 

13. 家長の章(124.~)

 

1. ヴェーサーリーの経

2. ヴァッジーの経

3. ナーランダーの経

4. バーラドヴァージャの経

5. ソーナの経

6. ゴーシタの経

7. ハーリッディカーニの経

8. ナクラピタルの経

9. ローヒッチャの経

10. ヴェーラハッチャーニの経

 

14. デーヴァダハの章(134.~)

 

1. デーヴァダハの経

2. 時節の経

3. 第一の形態を喜びとする者たちの経

4. 第二の形態を喜びとする者たちの経

5. 第一の「あなたたちのものでないなら」の経

6. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

7. 内なる無常の因の経

8. 内なる苦痛の因の経

9. 内なる無我の因の経

10. 外なる無常の因の経

11. 外なる苦痛の因の経

12. 外なる無我の因の経

 

15. 新しいものと古いものの章(146.~)

 

1. 行為の止滅の経

2. 無常と涅槃のための正当なるものの経

3. 苦痛と涅槃のための正当なるものの経

4. 無我と涅槃のための正当なるものの経

5. 涅槃のための正当なる〔実践の〕道の経

6. 内弟子の経

7. 「何を義として、梵行が」の経

8. 「まさに、教相が存在しますか」の経

9. 〔感官の〕機能の成就者の経

10. 法の講話者についての問いの経

 

16. 愉悦の滅尽の章(156.~)

 

1. 内なる愉悦の滅尽の経

2. 外なる愉悦の滅尽の経

3. 内なる無常の愉悦の滅尽の経

4. 外なる無常の愉悦の滅尽の経

5. ジーヴァカのアンバ林と禅定の経

6. ジーヴァカのアンバ林と静坐の経

7. コッティカと無常の経

8. コッティカと苦痛の経

9. コッティカと無我の経

10. 誤った見解の捨棄の経

11. 身体を有するという見解の捨棄の経

12. 自己についての偏った見解の捨棄の経

 

17. 六十の省略〔の経典〕の章(168.~)

 

1. 内なる無常と欲〔の思い〕の経

2. 内なる無常と貪り〔の思い〕の経

3. 内なる無常と欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経

4-6. 苦痛と欲〔の思い〕等の経

7-9. 無我と欲〔の思い〕等の経

10-12. 外なる無常と欲〔の思い〕等の経

13-15. 外なる苦痛と欲〔の思い〕等の経

16-18. 外なる無我と欲〔の思い〕等の経

19. 内なる過去の無常の経

20. 内なる未来の無常の経

21. 内なる現在の無常の経

22-24. 内なる過去等の苦痛の経

25-27. 内なる過去等の無我の経

28-30. 外なる過去等の無常の経

31-33. 外なる過去等の苦痛の経

34-36. 外なる過去等の無我の経

37. 内なる過去の「それが、無常であるなら」の経

38. 内なる未来の「それが、無常であるなら」の経

39. 内なる現在の「それが、無常であるなら」の経

40-42. 内なる過去等の「それが、苦痛であるなら」の経

43-45. 内なる過去等の「それが、無我であるなら」の経

46-48. 外なる過去等の「それが、無常であるなら」の経

49-51. 外なる過去等の「それが、苦痛であるなら」の経

52-54. 外なる過去等の「それが、無我であるなら」の経

55. 内なる〔認識の〕場所の無常の経

56. 内なる〔認識の〕場所の苦痛の経

57. 内なる〔認識の〕場所の無我の経

58. 外なる〔認識の〕場所の無常の経

59. 外なる〔認識の〕場所の苦痛の経

60. 外なる〔認識の〕場所の無我の経

 

18. 海の章(228.~)

 

1. 第一の海の経

2. 第二の海の経

3. 漁師の喩えの経

4. 乳の木の喩えの経

5. コッティカの経

6. カーマブーの経

7. ウダーインの経

8. 燃え盛るものの教相の経

9. 第一の手と足の喩えの経

10. 第二の手と足の喩えの経

 

19. 毒蛇の章(238.~)

 

1. 毒蛇の喩えの経

2. 車の喩えの経

3. 亀の喩えの経

4. 第一の木片の塊の喩えの経

5. 第二の木片の塊の喩えの経

6. 〔煩悩が〕漏れ出る者の教相の経

7. 苦痛の法の経

8. キンスカの経

9. 琵琶の喩えの経

10. 六つの命あるものたちの喩えの経

11. 麦の束の経

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 六つの〔認識の〕場所の部(六処篇・上)

 

1(35). 六つの〔認識の〕場所に相応するもの

 

1. 無常の章

 

1. 内なる無常の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、眼は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。耳は、無常です。それが、無常であるなら……略……。鼻は、無常です。それが、無常であるなら……略……。舌は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。身は、無常です。それが、無常であるなら……略……。意は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、耳にたいしてもまた厭離し、鼻にたいしてもまた厭離し、舌にたいしてもまた厭離し、身にたいしてもまた厭離し、意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行(禁欲清浄行)は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 内なる苦痛の経

 

2. 「比丘たちよ、眼は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。耳は、苦痛です。……略……。鼻は、苦痛です。……。舌は、苦痛です。……。身は、苦痛です。……。意は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 内なる無我の経

 

3. 「比丘たちよ、眼は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。耳は、無我です。……略……。鼻は、無我です。……。舌は、無我です。……。身は、無我です。……。意は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 外なる無常の経

 

4. 「比丘たちよ、諸々の形態()は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。諸々の音声()は……。諸々の臭気()は……。諸々の味感()は……。諸々の感触(所触)は……。諸々の法(:意の対象)は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、諸々の音声にたいしてもまた厭離し、諸々の臭気にたいしてもまた厭離し、諸々の味感にたいしてもまた厭離し、諸々の感触にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 外なる苦痛の経

 

5. 「比丘たちよ、諸々の形態は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 外なる無我の経

 

6. 「比丘たちよ、諸々の形態は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無我です。それが、無我であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 過去と未来の内なる無常の経

 

7. 「比丘たちよ、過去と未来の眼は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の眼について期待なき者と成り、未来の眼に愉悦せず、現在の眼の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の耳は、無常です。……。過去と未来の鼻は、無常です。……。過去と未来の舌は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の舌について期待なき者と成り、未来の舌に愉悦せず、現在の舌の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の身は、無常です。……略……。過去と未来の意は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の意について期待なき者と成り、未来の意に愉悦せず、現在の意の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 過去と未来の内なる苦痛の経

 

8. 「比丘たちよ、過去と未来の眼は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の眼について期待なき者と成り、未来の眼に愉悦せず、現在の眼の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の耳は、苦痛です。……略……。過去と未来の鼻は、苦痛です。……略……。過去と未来の舌は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の舌について期待なき者と成り、未来の舌に愉悦せず、現在の舌の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の身は、苦痛です。……略……。過去と未来の意は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の意について期待なき者と成り、未来の意に愉悦せず、現在の意の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 過去と未来の内なる無我の経

 

9. 「比丘たちよ、過去と未来の眼は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の眼について期待なき者と成り、未来の眼に愉悦せず、現在の眼の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の耳は、無我です。……略……。過去と未来の鼻は、無我です。……略……。過去と未来の舌は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の舌について期待なき者と成り、未来の舌に愉悦せず、現在の舌の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の身は、無我です。……略……。過去と未来の意は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の意について期待なき者と成り、未来の意に愉悦せず、現在の意の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 過去と未来の外なる無常の経

 

10. 「比丘たちよ、過去と未来の諸々の形態は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の形態について期待なき者と成り、未来の諸々の形態に愉悦せず、現在の諸々の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の諸々の音声は……。過去と未来の諸々の臭気は……。過去と未来の諸々の味感は……。過去と未来の諸々の感触は……。過去と未来の諸々の法(意の対象)は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の法(意の対象)について期待なき者と成り、未来の諸々の法(意の対象)に愉悦せず、現在の諸々の法(意の対象)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 過去と未来の外なる苦痛の経

 

11. 「比丘たちよ、過去と未来の諸々の形態は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の形態について期待なき者と成り、未来の諸々の形態に愉悦せず、現在の諸々の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。……略……」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 過去と未来の外なる無我の経

 

12. 「比丘たちよ、過去と未来の諸々の形態は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の形態について期待なき者と成り、未来の諸々の形態に愉悦せず、現在の諸々の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の諸々の音声は……。過去と未来の諸々の臭気は……。過去と未来の諸々の味感は……。過去と未来の諸々の感触は……。過去と未来の諸々の法(意の対象)は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の法(意の対象)について期待なき者と成り、未来の諸々の法(意の対象)に愉悦せず、現在の諸々の法(意の対象)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 無常の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常、苦痛、そして、無我、〔これらの〕三つのものがあり、〔それぞれに〕内なるものと外なるものが〔説かれ〕、すなわち、〔過去と未来の〕無常〔等〕によって、三つのものがあり、それぞれに内なるものと外なるものが説かれ、〔章となる〕」と。

 

2. 対なるものの章

 

1. 第一の「正覚より過去において」の経

 

13. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、眼の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。耳の、何が……略……。鼻の、何が……。舌の、何が……。身の、何が……。意の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、眼を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、眼の悦楽である。すなわち、眼が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、眼の危険である。それが、眼において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、眼の出離である。それが、耳を……略……。それが、鼻を……略……。それが、舌を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、舌の悦楽である。すなわち、舌が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、舌の危険である。それが、舌において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、舌の出離である。それが、身を……略……。それが、意を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、意の悦楽である。すなわち、意が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、意の危険である。それが、意において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、意の出離である』と。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの六つの内なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の「正覚より過去において」の経

 

14. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、諸々の形態の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。諸々の音声の、何が……略……。諸々の臭気の、何が……。諸々の味感の、何が……。諸々の感触の、何が……。諸々の法(意の対象)の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、諸々の形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形態の悦楽である。すなわち、諸々の形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の形態の危険である。それが、諸々の形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、諸々の形態の出離である。それが、諸々の音声を……。それが、諸々の臭気を……。それが、諸々の味感を……。それが、諸々の感触を……。それが、諸々の法(意の対象)を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の法(意の対象)の悦楽である。すなわち、諸々の法(意の対象)が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の法(意の対象)の危険である。それが、諸々の法(意の対象)において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、諸々の法(意の対象)の出離である』と。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの六つの外なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の「悦楽を遍く探し求めるために」の経

 

15. 「比丘たちよ、わたしは、眼の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、眼の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの眼の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、眼の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、眼の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの眼の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、眼の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、眼の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの眼の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、耳の……。比丘たちよ、わたしは、鼻の……。比丘たちよ、わたしは、舌の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、舌の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの舌の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、舌の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、舌の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの舌の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、舌の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、舌の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの舌の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。(※)比丘たちよ、わたしは、身の……。(※)比丘たちよ、わたしは、意の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、意の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの意の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、意の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、意の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの意の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、意の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、意の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの意の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

※ 「比丘たちよ」から「身の……。」までの欠落を、PTS版により補う。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの六つの内なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは……略……明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の「悦楽を遍く探し求めるために」の経

 

16. 「比丘たちよ、わたしは、諸々の形態の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の形態の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の形態の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、諸々の形態の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の形態の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の形態の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、諸々の形態の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の形態の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の形態の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、諸々の音声の……。比丘たちよ、わたしは、諸々の臭気の……。比丘たちよ、わたしは、諸々の味感の……。比丘たちよ、わたしは、諸々の感触の……。比丘たちよ、わたしは、諸々の法(意の対象)の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の法(意の対象)の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の法(意の対象)の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、諸々の法(意の対象)の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の法(意の対象)の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の法(意の対象)の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、諸々の法(意の対象)の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、諸々の法(意の対象)の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの諸々の法(意の対象)の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの六つの外なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは……略……明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の「もし、悦楽がなく」の経

 

17. 「比丘たちよ、もし、このことが、眼の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが眼にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、眼の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、眼にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、眼の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが眼にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、眼の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、眼にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、眼の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが眼にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、眼の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、眼にたいし出離します。比丘たちよ、もし、このことが、耳の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……。比丘たちよ、もし、このことが、鼻の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……。比丘たちよ、もし、このことが、舌の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが舌にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、舌の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、舌にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、舌の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが舌にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、舌の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、舌にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、舌の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが舌にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、舌の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、舌にたいし出離します。比丘たちよ、もし、このことが、身の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……。比丘たちよ、もし、このことが、意の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが意にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、意の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、意にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、意の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが意にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、意の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、意にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、意の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが意にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、意の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、意にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、これらの六つの内なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、これらの六つの内なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の「もし、悦楽がなく」の経

 

18. 「比丘たちよ、もし、このことが、諸々の形態の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の形態にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形態の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の形態にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の形態の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の形態にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形態の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の形態にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の形態の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の形態にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形態の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の形態にたいし出離します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の音声の……諸々の臭気の……諸々の味感の……諸々の感触の……諸々の法(意の対象)の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の法(意の対象)にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(意の対象)の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の法(意の対象)にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の法(意の対象)の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の法(意の対象)にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(意の対象)の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の法(意の対象)にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の法(意の対象)の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の法(意の対象)にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(意の対象)の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の法(意の対象)にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、これらの六つの外なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、これらの六つの外なる〔認識の〕場所の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の愉悦の経

 

19. 「比丘たちよ、彼が、眼に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、耳に……略……。彼が、鼻に……略……。彼が、舌に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、身に……略……。彼が、意に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼が、眼に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、耳に……略……。彼が、鼻に……略……。彼が、舌に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、身に……略……。彼が、意に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の愉悦の経

 

20. 「比丘たちよ、彼が、諸々の形態に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、諸々の音声に……略……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼が、諸々の形態に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、諸々の音声に……略……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の苦しみの生起の経

 

21. 「比丘たちよ、それが、眼の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、耳の……略……。それが、鼻の……。それが、舌の……。それが、身の……。それが、意の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。

 

 比丘たちよ、しかしながら、それが、まさに、眼の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、耳の……略……。それが、鼻の……。それが、舌の……。それが、身の……。それが、意の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の苦しみの生起の経

 

22. 「比丘たちよ、それが、諸々の形態の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、諸々の音声の……略……。それが、諸々の臭気の……。それが、諸々の味感の……。それが、諸々の感触の……。それが、諸々の法(意の対象)の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。

 

 比丘たちよ、しかしながら、それが、まさに、諸々の形態の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、諸々の音声の……略……。それが、諸々の臭気の……。それが、諸々の味感の……。それが、諸々の感触の……。それが、諸々の法(意の対象)の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 対なるものの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「正覚によって、二つのものが説かれ、悦楽によって、他に、二つのものが〔説かれ〕、『もし、〔悦楽が〕なく』があり、それによって、二つのものが説かれ、愉悦によって、他に、二つのものが〔説かれ〕、生起によって、二つのものが説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。

 

3. 一切の章

 

1. 一切の経

 

23. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、一切を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、何が、一切なのですか。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり、そして、耳であり、さらに、諸々の音声であり、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気であり、そして舌であり、さらに、諸々の味感であり、そして、身であり、さらに、諸々の感触であり、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)です。比丘たちよ、これは、一切と説かれます。比丘たちよ、或る者が、『わたしは、この一切を拒絶して、他のものを、一切と報知します』と、このように説くなら、彼には、言葉を根拠とするものだけが存在するでしょう(言葉だけの言葉でしかない)。そして、尋ねられたなら、解答できないでしょうし、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔この問いは、彼の〕境域ならざるところにあるからです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「捨棄する」の経

 

24. 「比丘たちよ、一切を捨棄するための法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、一切を捨棄するための法(教え)なのですか。比丘たちよ、眼は、捨棄されるべきです。諸々の形態は、捨棄されるべきです。眼の識知〔作用〕()は、捨棄されるべきです。眼の接触()は、捨棄されるべきです。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきです。……略……。すなわち、また、この、耳の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきです。……。すなわち、また、この、鼻の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきです。舌は、捨棄されるべきです。諸々の味感は、捨棄されるべきです。舌の識知〔作用〕は、捨棄されるべきです。舌の接触は、捨棄されるべきです。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきです。身は、捨棄されるべきです。……。意は、捨棄されるべきです。諸々の法(意の対象)は、捨棄されるべきです。意の識知〔作用〕は、捨棄されるべきです。意の接触は、捨棄されるべきです。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきです。比丘たちよ、これは、まさに、一切を捨棄するための法(教え)です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「証知して遍知して捨棄する」の経

 

25. 「比丘たちよ、一切を証知して遍知して捨棄するための法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、一切を証知して遍知して捨棄するための法(教え)なのですか。比丘たちよ、眼は、証知して遍知して捨棄されるべきです。諸々の形態は、証知して遍知して捨棄されるべきです。眼の識知〔作用〕は、証知して遍知して捨棄されるべきです。眼の接触は、証知して遍知して捨棄されるべきです。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知して遍知して捨棄されるべきです。……略……。舌は、証知して遍知して捨棄されるべきです。諸々の味感は、証知して遍知して捨棄されるべきです。舌の識知〔作用〕は、証知して遍知して捨棄されるべきです。舌の接触は、証知して遍知して捨棄されるべきです。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知して遍知して捨棄されるべきです。身は、証知して遍知して捨棄されるべきです。……。意は、証知して遍知して捨棄されるべきです。諸々の法(意の対象)は、証知して遍知して捨棄されるべきです。意の識知〔作用〕は、証知して遍知して捨棄されるべきです。意の接触は、証知して遍知して捨棄されるべきです。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知して遍知して捨棄されるべきです。比丘たちよ、これは、まさに、一切を証知して遍知して捨棄するための法(教え)です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の「遍知せず」の経

 

26. 「比丘たちよ、一切を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、では、何を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者なのですか。比丘たちよ、眼を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。諸々の形態を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。眼の識知〔作用〕を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。眼の接触を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。……略……。舌を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。諸々の味感を……略……。舌の識知〔作用〕を……略……。舌の接触を……略……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。身を……略……。意を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。諸々の法(意の対象)を……略……。意の識知〔作用〕を……略……。意の接触を……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、まさに、この一切を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。

 

 比丘たちよ、一切を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。比丘たちよ、では、何を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者なのですか。比丘たちよ、眼を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。諸々の形態を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。眼の識知〔作用〕を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。眼の接触を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。……略……。舌を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。諸々の味感を……略……。舌の識知〔作用〕を……略……。舌の接触を……略……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。身を……略……。意を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。諸々の法(意の対象)を……略……。意の識知〔作用〕を……略……。意の接触を……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。比丘たちよ、まさに、この一切を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の「遍知せず」の経

 

27. 「比丘たちよ、一切を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、では、何を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、眼は、さらに、すなわち、諸々の形態は、そして、すなわち、眼の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は……略……そして、すなわち、舌は、さらに、すなわち、諸々の味感は、そして、すなわち、舌の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は、そして、すなわち、身は、さらに、すなわち、諸々の感触は、そして、すなわち、身の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、身の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は、そして、すなわち、意は、さらに、すなわち、諸々の法(意の対象)は、そして、すなわち、意の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は──比丘たちよ、まさに、この一切を証知せず遍知せず離貪させず捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。

 

 比丘たちよ、一切を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。比丘たちよ、では、何を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、眼は、さらに、すなわち、諸々の形態は、そして、すなわち、眼の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は……略……そして、すなわち、舌は、さらに、すなわち、諸々の味感は、そして、すなわち、舌の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は、そして、すなわち、身は、さらに、すなわち、諸々の感触は、そして、すなわち、身の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、身の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は、そして、すなわち、意は、さらに、すなわち、諸々の法(意の対象)は、そして、すなわち、意の識知〔作用〕は、さらに、すなわち、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)は──比丘たちよ、まさに、この一切を証知し遍知し離貪させ捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 「燃えています」の経

 

28. 或る時のことです。世尊は、ガヤーに住んでおられます。ガヤーシーサ〔の大岩〕において、千の比丘たちと共に。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、一切は、燃えています。比丘たちよ、では、何が、一切であり、燃えているのですか。比丘たちよ、眼は、燃えています。諸々の形態は、燃えています。眼の識知〔作用〕は、燃えています。眼の接触は、燃えています。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、燃えています。何によって、燃えているのですか。『貪欲()の火によって、憤怒()の火によって、迷妄()の火によって、燃えている』『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、燃えている』と、〔わたしは〕説きます。……略……。舌は、燃えています。諸々の味感は、燃えています。舌の識知〔作用〕は、燃えています。舌の接触は、燃えています。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、燃えています。何によって、燃えているのですか。『貪欲の火によって、憤怒の火によって、迷妄の火によって、燃えている』『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、燃えている』と、〔わたしは〕説きます。……略……。意は、燃えています。諸々の法(意の対象)は、燃えています。意の識知〔作用〕は、燃えています。意の接触は、燃えています。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、燃えています。何によって、燃えているのですか。『貪欲の火によって、憤怒の火によって、迷妄の火によって、燃えている』『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、燃えている』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、それらの千の比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「征服されています」の経

 

29. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、一切は、征服されています。比丘たちよ、では、何が、一切であり、征服されているのですか。比丘たちよ、眼は、征服されています。諸々の形態は、征服されています。眼の識知〔作用〕は、征服されています。眼の接触は、征服されています。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、征服されています。何によって、征服されているのですか。『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、征服されている』と、〔わたしは〕説きます。……略……。舌は、征服されています。諸々の味感は、征服されています。舌の識知〔作用〕は、征服されています。舌の接触は、征服されています。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、征服されています。何によって、征服されているのですか。『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、征服されている』と、〔わたしは〕説きます。身は、征服されています。……略……。意は、征服されています。諸々の法(意の対象)は、征服されています。意の識知〔作用〕は、征服されています。意の接触は、征服されています。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、征服されています。何によって、征服されているのですか。『生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、征服されている』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 根絶のために適切なるものの経

 

30. 「比丘たちよ、一切の思われたものの根絶のために適切なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「比丘たちよ、では、どのようなものが、その、一切の思われたものの根絶のために適切なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼を思わず、眼について思わず、眼〔の観点〕から思わず、『眼は、わたしのものである』と思いません。諸々の形態を思わず、諸々の形態について思わず、形態〔の観点〕から思わず、『諸々の形態は、わたしのものである』と思いません。眼の識知〔作用〕を思わず、眼の識知〔作用〕について思わず、眼の識知〔作用の観点〕から思わず、『眼の識知〔作用〕は、わたしのものである』と思いません。眼の接触を思わず、眼の接触について思わず、眼の接触〔の観点〕から思わず、『眼の接触は、わたしのものである』と思いません。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。……略……。舌を思わず、舌について思わず、舌〔の観点〕から思わず、『舌は、わたしのものである』と思いません。諸々の味感を思わず、諸々の味感について思わず、味感〔の観点〕から思わず、『諸々の味感は、わたしのものである』と思いません。舌の識知〔作用〕を思わず、舌の識知〔作用〕について思わず、舌の識知〔作用の観点〕から思わず、『舌の識知〔作用〕は、わたしのものである』と思いません。舌の接触を思わず、舌の接触について思わず、舌の接触〔の観点〕から思わず、『舌の接触は、わたしのものである』と思いません。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。……略……。意を思わず、意について思わず、意〔の観点〕から思わず、『意は、わたしのものである』と思いません。諸々の法(意の対象)を思わず、諸々の法(意の対象)について思わず、法(意の対象)〔の観点〕から思わず、『諸々の法(意の対象)は、わたしのものである』と思いません。意の識知〔作用〕を思わず、意の識知〔作用〕について思わず、意の識知〔作用の観点〕から思わず、『意の識知〔作用〕は、わたしのものである』と思いません。意の接触を思わず、意の接触について思わず、意の接触〔の観点〕から思わず、『意の接触は、わたしのものである』と思いません。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。一切を思わず、一切について思わず、一切〔の観点〕から思わず、『一切は、わたしのものである』と思いません。彼は、このように思わずにいながら、そして、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、その、一切の思われたものの根絶のために適切なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の根絶のための正当なるものの経

 

31. 「比丘たちよ、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼を思わず、眼について思わず、眼〔の観点〕から思わず、『眼は、わたしのものである』と思いません。諸々の形態を思わず……略……。眼の識知〔作用〕を思わず……。眼の接触を思わず……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存()に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。……略……。舌を思わず、舌について思わず、舌〔の観点〕から思わず、『舌は、わたしのものである』と思いません。諸々の味感を思わず……略……。舌の識知〔作用〕を思わず……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。……略……。意を思わず、意について思わず、意〔の観点〕から思わず、『意は、わたしのものである』と思いません。諸々の法(意の対象)を思わず……略……。意の識知〔作用〕を思わず……。意の接触を思わず……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。比丘たちよ、すなわち、あるかぎりの範疇()と界域()と〔認識の〕場所()は、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思いません。彼は、このように思わずにいながら、そして、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、その、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の根絶のための正当なるものの経

 

32. 「比丘たちよ、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道なのですか。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は……略……。「眼の識知〔作用〕は……。「眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。

 

 「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「諸々の味感は……。「舌の識知〔作用〕は……。「舌の接触は……略……。「すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の法(意の対象)は……。「意の識知〔作用〕は……。「意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。舌にたいしてもまた厭離し、諸々の味感をもまた……略……すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、その、一切の思われたものの根絶のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 一切の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、一切、二つのまた、捨棄、他に、二つの遍知、『燃えています』があり、さらに、『征服されています』があり、適切なるもの、そして、二つの正当なるものがあり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

4. 生の法の章

 

1-10. 生の法等の経の十なるもの

 

33. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、一切は、生の法(性質)です。比丘たちよ、では、何が、一切であり、生の法(性質)なのですか。比丘たちよ、眼は、生の法(性質)です。諸々の形態は……。眼の識知〔作用〕は……。眼の接触は、生の法(性質)です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、生の法(性質)です。……略……。舌は……。諸々の味感は……。舌の識知〔作用〕は……。舌の接触は……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、生の法(性質)です。身は……略……。意は、生の法(性質)です。諸々の法(意の対象)は、生の法(性質)です。意の識知〔作用〕は、生の法(性質)です。意の接触は、生の法(性質)です。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、生の法(性質)です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態をもまた……眼の識知〔作用〕をもまた……眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

34. 「比丘たちよ、一切は、老の法(性質)です。……略……(簡略〔の箇所〕となる)。〔以上が〕第二となる。

 

35. 「比丘たちよ、一切は、病の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

36. 「比丘たちよ、一切は、死の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

37. 「比丘たちよ、一切は、憂いの法(性質)です。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

38. 「比丘たちよ、一切は、汚染の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

39. 「比丘たちよ、一切は、滅尽の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

40. 「比丘たちよ、一切は、衰失の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

41. 「比丘たちよ、一切は、集起の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

42. 「比丘たちよ、一切は、止滅の法(性質)です。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 生の法(性質)の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生と老と病と死、そして、憂い、汚染、滅尽と衰失と集起があり、止滅の法(性質)とともに、それらの十がある」と。

 

5. 「一切は、無常です」の章

 

1-9. 無常等の経の九なるもの

 

43. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、一切は、無常です。比丘たちよ、では、何が、一切であり、無常なのですか。比丘たちよ、眼は、無常です。諸々の形態は、無常です。眼の識知〔作用〕は、無常です。眼の接触は、無常です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。……略……。舌は、無常です。諸々の味感は、無常です。舌の識知〔作用〕は、無常です。舌の接触は、無常です。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。身は、無常です。……略……。意は、無常です。諸々の法(意の対象)は、無常です。意の識知〔作用〕は、無常です。意の接触は、無常です。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

44. 「比丘たちよ、一切は、苦痛です。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

45. 「比丘たちよ、一切は、無我です。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

46. 「比丘たちよ、一切は、証知されるべきです。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

47. 「比丘たちよ、一切は、遍知されるべきです。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

48. 「比丘たちよ、一切は、捨棄されるべきです。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

49. 「比丘たちよ、一切は、実証されるべきです。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

50. 「比丘たちよ、一切は、証知して遍知されるべきです。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

51. 「比丘たちよ、一切は、災禍です。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 迫害の経

 

52. 「比丘たちよ、一切は、迫害です。比丘たちよ、では、何が、一切であり、迫害なのですか。比丘たちよ、眼は、迫害です。諸々の形態は、迫害です。眼の識知〔作用〕は、迫害です。眼の接触は、迫害です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、迫害です。……略……。舌は、迫害です。諸々の味感は、迫害です。舌の識知〔作用〕は、迫害です。舌の接触は、迫害です。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、迫害です。身は、迫害です。……略……。意は、迫害です。諸々の法(意の対象)は、迫害です。意の識知〔作用〕は、迫害です。意の接触は、迫害です。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、迫害です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 「一切は、無常です」の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常、苦痛、無我、証知されるべきもの、遍知されるべきもの、捨棄されるべきもの、実証されるべきもの、証知して遍知されるべきもの、災禍、迫害があり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 六つの〔認識の〕場所の部における第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔五十なるもの〕のための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常の章、対なるもの、一切の章、生の法(性質)があり、無常の章とともに、五十〔の経〕があり、それによって、第五〔の章〕と呼ばれる」と。

 

6. 無明の章

 

1. 無明の捨棄の経

 

53. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、無明は捨棄され、明知が生起するのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、眼を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。諸々の形態を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 束縛の捨棄の経

 

54. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、諸々の束縛()は捨棄されますか」と。「比丘よ、まさに、眼を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は捨棄されます。諸々の形態を……。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は捨棄されます。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を……。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は捨棄されます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、諸々の束縛は捨棄されます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 束縛の根絶の経

 

55. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、諸々の束縛は、根絶に至るのですか」と。「比丘よ、まさに、眼を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は、根絶に至ります。諸々の形態を、無我〔の観点〕から……。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は、根絶に至ります。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を……。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の束縛は、根絶に至ります。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、諸々の束縛は、根絶に至ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 煩悩の捨棄の経

 

56. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、諸々の煩悩()は捨棄されますか」と。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 煩悩の根絶の経

 

57. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、諸々の煩悩は、根絶に至るのですか」と。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 悪習の捨棄の経

 

58. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように……略……諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は捨棄されますか」と。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 悪習の根絶の経

 

59. 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように……略……諸々の悪習は、根絶に至るのですか」と。「比丘よ、まさに、眼を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の悪習は、根絶に至ります。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を……。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、諸々の悪習は、根絶に至ります。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、諸々の悪習は、根絶に至ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 一切の執取の遍知の経

 

60. 「比丘たちよ、一切の執取()を遍知するための法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、一切の執取を遍知するための法(教え)なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触(:感覚の発生)です。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)があります。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱あることから、『執取は、わたしによって遍知された』と覚知します。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱あることから、『執取は、わたしによって遍知された』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、一切の執取を遍知するための法(教え)です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の一切の執取の完全なる消尽の経

 

61. 「比丘たちよ、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱あることから、『わたしの執取は、完全に消尽された』と覚知します。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱あることから、『わたしの執取は、完全に消尽された』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の一切の執取の完全なる消尽の経

 

62. 「比丘たちよ、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)なのですか。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は……略……。「眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「耳は……。「鼻は……。「舌は……。「身は……。「意は……。「諸々の法(意の対象)は……。「意の識知〔作用〕は……。「意の接触は……。「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。舌にたいしてもまた厭離し、諸々の味感にたいしてもまた厭離し、舌の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、舌の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する……略……。意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、一切の執取を完全に消尽するための法(教え)です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 無明の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無明、二つの束縛、煩悩によって、二つのものが説かれ、他に、二つの悪習、遍知、二つの完全なる消尽があり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

7. ミガジャーラの章

 

1. 第一のミガジャーラの経

 

63. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者ミガジャーラが、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、尊者ミガジャーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『独住者』『独住者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、独住者と成るのですか。また、そして、どのようなことから、伴侶を有する住者と成るのですか」と。

 

 「ミガジャーラよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。愉悦が存しているとき、貪染が有ります。貪染が存しているとき、束縛が有ります。ミガジャーラよ、まさに、愉悦の束縛によって束縛された比丘は、『伴侶を有する住者』と説かれます。……略……。ミガジャーラよ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。愉悦が存しているとき、貪染が有ります。貪染が存しているとき、束縛が有ります。ミガジャーラよ、まさに、愉悦の束縛によって束縛された比丘は、『伴侶を有する住者』と説かれます。(※)……略……。ミガジャーラよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。愉悦が存しているとき、貪染が有ります。貪染が存しているとき、束縛が有ります。ミガジャーラよ、まさに、愉悦の束縛によって束縛された比丘は、『伴侶を有する住者』と説かれます。(※)ミガジャーラよ、そして、このような住ある比丘は、たとえ、何であれ、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するも、そこで、まさに、『伴侶を有する住者』と説かれます。それは、何を因とするのですか。なぜなら、渇愛()は、彼にとって、伴侶としてあり、彼の、それは、〔いまだ〕捨棄されていないからです。それゆえに、『伴侶を有する住者』と説かれます。

 

※ 「……略……。ミガジャーラよ」から「『伴侶を有する住者』と説かれます。」までの欠落を、PTS版により補う。

 

 ミガジャーラよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。愉悦が存していないとき、貪染は有りません。貪染が存していないとき、束縛は有りません。ミガジャーラよ、まさに、愉悦の束縛の束縛を離れた比丘は、『独住者』と説かれます。……略……。ミガジャーラよ、そして、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。そして、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。愉悦が存していないとき、貪染は有りません。貪染が存していないとき、束縛は有りません。ミガジャーラよ、まさに、愉悦の束縛の束縛を離れた比丘は、『独住者』と説かれます。ミガジャーラよ、そして、このような住ある比丘は、たとえ、何であれ、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、村の外れに住むも、そこで、まさに、『独住者』と説かれます。それは、何を因とするのですか。なぜなら、渇愛は、彼にとって、伴侶としてあり、彼の、それは、〔すでに〕捨棄されたからです。それゆえに、『独住者』と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のミガジャーラの経

 

64. そこで、まさに、尊者ミガジャーラが、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、尊者ミガジャーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「ミガジャーラよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。ミガジャーラよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。……略……。ミガジャーラよ、まさに(※)、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。ミガジャーラよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

※ テキストには ca kho とあるが、PTS版により ca を削除する。以下の平行箇所も同様。

 

 ミガジャーラよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。ミガジャーラよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます。……略……。ミガジャーラよ、そして、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。ミガジャーラよ、そして、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。ミガジャーラよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 そこで、まさに、尊者ミガジャーラは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者ミガジャーラは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者ミガジャーラは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一のサミッディの悪魔についての問いの経

 

65. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サミッディが、世尊のおられるところに……略……世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『悪魔』『悪魔』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、あるいは、悪魔が存在するのですか、あるいは、悪魔という通称(施設:概念)が〔存在するのですか〕」と。

 

 「サミッディよ、そこにおいて、まさに、眼が存在し、諸々の形態が存在し、眼の識知〔作用〕が存在し、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。耳が存在し、諸々の音声が存在し、耳の識知〔作用〕が存在し、耳の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。鼻が存在し、諸々の臭気が存在し、鼻の識知〔作用〕が存在し、鼻の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。舌が存在し、諸々の味感が存在し、舌の識知〔作用〕が存在し、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。身が存在し、諸々の感触が存在し、身の識知〔作用〕が存在し、身の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。意が存在し、諸々の法(意の対象)が存在し、意の識知〔作用〕が存在し、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、悪魔が存在し、あるいは、悪魔という通称が〔存在します〕。

 

 サミッディよ、しかしながら、そこにおいて、まさに、眼が存在せず、諸々の形態が存在せず、眼の識知〔作用〕が存在せず、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在しないなら、そこにおいて、あるいは、悪魔は存在せず、あるいは、悪魔という通称は〔存在しません〕。耳が存在せず……略……。鼻が存在せず……略……。舌が存在せず、諸々の味感が存在せず、舌の識知〔作用〕が存在せず、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在しないなら、そこにおいて、あるいは、悪魔は存在せず、あるいは、悪魔という通称は〔存在しません〕。身が存在せず……略……。意が存在せず、諸々の法(意の対象)が存在せず、意の識知〔作用〕が存在せず、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在しないなら、そこにおいて、あるいは、悪魔は存在せず、あるいは、悪魔という通称は〔存在しません〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. サミッディの有情についての問いの経

 

66. 「尊き方よ、『有情』『有情』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、あるいは、有情が存在するのですか、あるいは、有情という通称が〔存在するのですか〕」と。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. サミッディの苦しみについての問いの経

 

67. 「尊き方よ、『苦しみ』『苦しみ』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、あるいは、苦しみが存在するのですか、あるいは、苦しみという通称が〔存在するのですか〕」と。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. サミッディの世についての問いの経

 

68. 「尊き方よ、『世』『世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、あるいは、世が存在するのですか、あるいは、世という通称が〔存在するのですか〕」と。「サミッディよ、そこにおいて、まさに、眼が存在し、諸々の形態が存在し、眼の識知〔作用〕が存在し、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、世が存在し、あるいは、世という通称が〔存在します〕。……略……。舌が存在し……略……。意が存在し、諸々の法(意の対象)が存在し、意の識知〔作用〕が存在し、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在するなら、そこにおいて、あるいは、世が存在し、あるいは、世という通称が〔存在します〕。

 

 サミッディよ、しかしながら、そこにおいて、まさに、眼が存在せず、諸々の形態が存在せず、眼の識知〔作用〕が存在せず、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在しないなら、そこにおいて、あるいは、世は存在せず、あるいは、世という通称は〔存在しません〕。……略……。舌が存在せず……略……。意が存在せず、諸々の法(意の対象)が存在せず、意の識知〔作用〕が存在せず、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)が存在しないなら、そこにおいて、あるいは、世は存在せず、あるいは、世という通称は〔存在しません〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ウパセーナと毒蛇の経

 

69. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者ウパセーナは、ラージャガハに住んでいます。シータ林のサッパソンディカ山窟(蛇の鎌首に似た洞窟)において。また、まさに、その時点にあって、尊者ウパセーナの身体に、毒蛇が落ちるところと成ります。そこで、まさに、尊者ウパセーナは、比丘たちに告げました。「友よ、さあ、わたしの身体を、臥床に載せて、外に運び出してください。この身体が、まさしく、ここに、離散する前に──それは、たとえば、また、ひと握りの籾殻のように」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者ウパセーナに、こう言いました。「また、まさに、わたしたちは見ません──尊者ウパセーナの、あるいは、身体の他化を、あるいは、諸々の〔感官の〕機能()の変化を。そこで、また、そして、尊者ウパセーナは、このように言いました。『友よ、さあ、わたしの身体を、臥床に載せて、外に運び出してください。この身体が、まさしく、ここに、離散する前に──それは、たとえば、また、ひと握りの籾殻のように』」と。「友よ、サーリプッタよ、その者に、あるいは、『わたしは眼である』と、あるいは、『わたしの眼である』と……略……あるいは、『わたしは舌である』と、あるいは、『わたしの舌である』と……略……あるいは、『わたしは意である』と、あるいは、『わたしの意である』と、たしかに、このような〔思いが〕存するなら、友よ、サーリプッタよ、彼には、あるいは、身体の他化が〔存するでしょうし〕、あるいは、諸々の〔感官の〕機能の変化が存するでしょう。友よ、サーリプッタよ、しかしながら、まさに、わたしに、あるいは、『わたしは眼である』と、あるいは、『わたしの眼である』と……略……あるいは、『わたしは舌である』と、あるいは、『わたしの舌である』と……略……あるいは、『わたしは意である』と、あるいは、『わたしの意である』と、このような〔思いは〕有りません。友よ、サーリプッタよ、そして、〔まさに〕その、わたしに、まさに、どうして、あるいは、身体の他化が有るというのでしょう、あるいは、諸々の〔感官の〕機能の変化が〔有るというのでしょう〕」と。

 

 また、なぜなら、そのように、尊者ウパセーナの、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者ウパセーナに、あるいは、「わたしは眼である」と、あるいは、「わたしの眼である」と……略……あるいは、「わたしは舌である」と、あるいは、「わたしの舌である」と……略……あるいは、「わたしは意である」と、あるいは、「わたしの意である」と、このような〔思いは〕有りません。そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者ウパセーナの身体を、臥床に載せて、外に運び出しました。そこで、まさに、尊者ウパセーナの身体は、まさしく、その場において、離散しました──それは、たとえば、また、ひと握りの籾殻のように、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. ウパヴァーナと現に見られるものの経

 

70. そこで、まさに、尊者ウパヴァーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「ウパヴァーナよ、また、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、そして、形態を得知する者として有り、かつまた、形態にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知します。ウパヴァーナよ、すなわち、それで、比丘が、眼によって、形態を見て、そして、形態を得知する者として有り、かつまた、形態にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知するなら、ウパヴァーナよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕。……略……。

 

 さらに、また、他に、比丘が、舌によって、味感を味わって、そして、味感を得知する者として有り、かつまた、味感にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知します。ウパヴァーナよ、すなわち、それで、比丘が、舌によって、味感を味わって、そして、味感を得知する者として有り、かつまた、味感にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知するなら、ウパヴァーナよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕。……略……。

 

 さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、そして、法(意の対象)を得知する者として有り、かつまた、法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知します。ウパヴァーナよ、すなわち、それで、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、そして、法(意の対象)を得知する者として有り、かつまた、法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を得知する者として〔有り〕、さらに、内に存在している、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕が存在する』と〔あるがままに〕覚知するなら、ウパヴァーナよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕。

 

 ウパヴァーナよ、また、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、そして、形態を得知する者として有り、かつまた、形態にたいする貪り〔の思い〕を得知しない者として〔有り〕、さらに、内に存在していない、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕は存在しない』と〔あるがままに〕覚知します。ウパヴァーナよ、すなわち、それで、比丘が、眼によって、形態を見て、そして、形態を得知する者として有り、かつまた、形態にたいする貪り〔の思い〕を得知しない者として〔有り〕、さらに、内に存在していない、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の形態にたいする貪り〔の思い〕は存在しない』と〔あるがままに〕覚知するなら、ウパヴァーナよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕。……略……。

 

 ウパヴァーナよ、さらに、また、他に、比丘が、舌によって、味感を味わって、そして、味感を得知する者として有り、かつまた、味感にたいする貪り〔の思い〕を得知しない者として〔有り〕、さらに、内に存在していない、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の味感にたいする貪り〔の思い〕は存在しない』と〔あるがままに〕覚知します。……略……。

 

 ウパヴァーナよ、さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、そして、法(意の対象)を得知する者として有り、かつまた、法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を得知しない者として〔有り〕、さらに、内に存在していない、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕は存在しない』と〔あるがままに〕覚知します。ウパヴァーナよ、すなわち、それで、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、そして、法(意の対象)を得知する者として有り、かつまた、法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を得知しない者として〔有り〕、さらに、内に存在していない、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕を、『わたしの内に、諸々の法(意の対象)にたいする貪り〔の思い〕は存在しない』と〔あるがままに〕覚知するなら、ウパヴァーナよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

 

71. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼によって、梵行は完成されず、彼は、この法(教え)と律から遠く離れています」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここにおいて、わたしは消え行きました。まさに、わたしは、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません」と。

 

 「比丘よ、それを、どう思いますか。眼を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、眼は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。まさしく、これは、苦しみの終極です。……略……。舌を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、舌は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。まさしく、これは、苦しみの終極です。……略……。意を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、意は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。まさしく、これは、苦しみの終極です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

 

72. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼によって、梵行は完成されず、彼は、この法(教え)と律から遠く離れています」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここにおいて、わたしは消え行き、消え去りました。まさに、わたしは、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません」と。

 

 「比丘よ、それを、どう思いますか。眼を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、眼は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。このように、あなたにとって、この、第一の接触ある〔認識の〕場所は、捨棄されたものと成るでしょう──未来に、さらなる生存なきために。……略……。

 

 舌を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、舌は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。このように、あなたにとって、この、第四の接触ある〔認識の〕場所は、捨棄されたものと成るでしょう──未来に、さらなる生存なきために。……略……。

 

 意を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘よ、善きかな。比丘よ、そして、ここにおいて、あなたにとって、意は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るでしょう。このように、あなたにとって、この、第六の接触ある〔認識の〕場所は、捨棄されたものと成るでしょう──未来に、さらなる生存なきために」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第三の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

 

73. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼によって、梵行は完成されず、彼は、この法(教え)と律から遠く離れています」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここにおいて、わたしは消え行き、消え去りました。まさに、わたしは、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません」と。

 

 「比丘よ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「耳は……。「鼻は……。「舌は……。「身は……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、耳にたいしてもまた厭離し、鼻にたいしてもまた厭離し、舌にたいしてもまた厭離し、身にたいしてもまた厭離し、意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 ミガジャーラの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ミガジャーラによって、二つのものが説かれ、さらに、サミッディによって、四つのものが〔説かれ〕、ウパセーナ、ウパヴァーナ、三つの六つの接触ある〔認識の〕場所があり、〔章となる〕」と。

 

8. 病者の章

 

1. 第一の病者の経

 

74. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、何某の精舎において、新参で未詳の或るひとりの比丘が、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。尊き方よ、どうか、世尊は、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、そして、新参の者についての話を聞いて、さらに、病者についての話を〔聞いて〕、「未詳の比丘が〔云々〕」と、かくのごとく見出して、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、その比丘は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、臥床のなかで〔身体を〕動かしました。そこで、まさに、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、十分です。あなたは、臥床のなかで〔身体を〕動かしてはいけません。〔他の者たちによって〕設けられた、これらの坐が存します。そこにおいて、わたしは坐りましょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「比丘よ、どうでしょう、あなたに、何らかの悔恨〔の思い〕はないですか、何らかの後悔〔の思い〕はないですか」と。

 

 「尊き方よ、たしかに、わたしには、少なからざる悔恨〔の思い〕があり、少なからざる後悔〔の思い〕があります」と。

 

 「比丘よ、また、どうでしょう、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判することはありません」と。

 

 「比丘よ、もし、まさに、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないなら、そこで、あなたには、そして、どのような悔恨〔の思い〕があり、さらに、どのような後悔〔の思い〕があるのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を、戒の清浄を義(目的)とするものとして了知しません」と。

 

 「比丘よ、もし、まさに、あなたが、わたしによって説示された法(教え)を、戒の清浄を義(目的)とするものとして了知しないなら、比丘よ、そこで、そうしますと、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、何を義(目的)とするものとして了知するのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を、貪欲の離貪を義(目的)とするものとして了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、貪欲の離貪を義(目的)とするものとして了知します。比丘よ、まさに、わたしによって説示された法(教え)は、貪欲の離貪を義(目的)とするものです。比丘よ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが……略……。耳は……。鼻は……。舌は……。身は……。意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、耳にたいしてもまた厭離し……略……意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たその比丘は、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、その比丘に、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の病者の経

 

75. そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……世尊に、こう言いました。「尊き方よ、何某の精舎において、新参で未詳の或るひとりの比丘が、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。尊き方よ、どうか、世尊は、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、そして、新参の者についての話を聞いて、さらに、病者についての話を〔聞いて〕、「未詳の比丘が〔云々〕」と、かくのごとく見出して、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、その比丘は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、臥床のなかで〔身体を〕動かしました。そこで、まさに、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、十分です。あなたは、臥床のなかで〔身体を〕動かしてはいけません。〔他の者たちによって〕設けられた、これらの坐が存します。そこにおいて、わたしは坐りましょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……。「尊き方よ、まさに、わたしのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判することはありません」と。

 

 「比丘よ、もし、まさに、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないなら、そこで、あなたには、そして、どのような悔恨〔の思い〕があり、さらに、どのような後悔〔の思い〕があるのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を、戒の清浄を義(目的)とするものとして了知しません」と。

 

 「比丘よ、もし、まさに、あなたが、わたしによって説示された法(教え)を、戒の清浄を義(目的)とするものとして了知しないなら、比丘よ、そこで、そうしますと、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、何を義(目的)とするものとして了知するのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)とするものとして了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)とするものとして了知します。比丘よ、まさに、わたしによって説示された法(教え)は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)とするものです。

 

 比丘よ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが……略……。耳は……。鼻は……。舌は……。身は……。意は……。意の識知〔作用〕は……。意の接触は……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘よ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……。意にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たその比丘は、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、その比丘の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. ラーダと無常の経

 

76. そこで、まさに、尊者ラーダが……略……。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「ラーダよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。(※)ラーダよ、では、何が、無常なのですか。ラーダよ、まさに、眼は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。(※)諸々の形態は、無常です。眼の識知〔作用〕は……。眼の接触は……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は……。身は……。意は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の法(意の対象)は……。意の識知〔作用〕は……。意の接触は……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

※ (※)から(※)までテキストには Kiñca, rādha, anicca tatra te chando pahātabbo? Cakkhu anicca. とあるが、PTS版により Kiñca, rādha, anicca? Cakkhu kho, rādha, anicca. Tatra te chando pahātabbo. と読む。

 

4. ラーダと苦痛の経

 

77. 「ラーダよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、苦痛なのですか。ラーダよ、まさに、眼は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の形態は……。眼の識知〔作用〕は……。眼の接触は……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、苦痛です。……。諸々の法(意の対象)は……。意の識知〔作用〕は……。意の接触は……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ラーダと無我の経

 

78. 「ラーダよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、無我なのですか。ラーダよ、まさに、眼は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の形態は……。眼の識知〔作用〕は……。眼の接触は……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから……略……。意は、無我です。……。諸々の法(意の対象)は……。意の識知〔作用〕は……。意の接触は……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の無明の捨棄の経

 

79. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「比丘よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「比丘よ、まさに、無明が、一つの法(性質)です。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのように知っていると、どのように見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起するのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、眼を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します。諸々の形態を……。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します。……略……。意を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の無明の捨棄の経

 

80. そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「比丘よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「比丘よ、まさに、無明が、一つの法(性質)です。それの捨棄あることから、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのように知っていると、どのように見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起するのですか」と。

 

 「比丘よ、ここに、比丘に、〔このような〕所聞が有ります。『一切の法(事象)は、固着するに十分ならず』と。比丘よ、もし、比丘に、〔このような〕所聞が有るなら、『一切の法(事象)は、固着するに十分ならず』と、彼は、一切の法(事象)を証知します。一切の法(事象)を証知して、一切の法(事象)を遍知します。一切の法(事象)を遍知して、一切の形相を、他なるものとして見ます。眼を、他なるものとして見ます。諸々の形態を……。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、他なるものとして見ます。……略……。意を、他なるものとして見ます。諸々の法(意の対象)を……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、他なるものとして見ます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、比丘の、無明は捨棄され、明知が生起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 大勢の比丘たちの経

 

81. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、わたしたちに、このように尋ねます。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられ、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かします。『友よ、まさに、苦しみの遍知を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。尊き方よ、どうでしょう、このように尋ねられ、わたしたちが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちと成りますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「比丘たちよ、たしかに、あなたたちが、このように尋ねられ、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。比丘たちよ、まさに、苦しみの遍知を義(目的)として、わたしのもと、梵行は住されます。比丘たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、また、どのようなものが、その苦しみなのですか。その〔苦しみ〕の遍知のために、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるとして』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、眼は、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。諸々の形態は……略……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。……略……。意は、苦しみです。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。友よ、まさに、これが、その苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 世についての問いの経

 

82. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『世』『世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『世』と説かれるのですか」と。「比丘よ、まさに、『崩壊する(ルッジャティ)』ということで、それゆえに、『世(ローカ)』と説かれます。では、何が、崩壊するのですか。比丘よ、まさに、眼は、崩壊します。諸々の形態は、崩壊します。眼の識知〔作用〕は、崩壊します。眼の接触は、崩壊します。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、崩壊します。……略……。舌は、崩壊します。……略……。意は、崩壊します。諸々の法(意の対象)は、崩壊します。意の識知〔作用〕は、崩壊します。意の接触は、崩壊します。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、崩壊します。比丘よ、まさに、『崩壊する』ということで、それゆえに、『世』と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. パッグナの問いの経

 

83. そこで、まさに、尊者パッグナが……略……。一方に坐った、まさに、尊者パッグナは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、その眼が存在しますか。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その眼によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような眼が〕。……略……。尊き方よ、いったい、まさに、その舌が存在しますか。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その舌によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような舌が〕。……略……。尊き方よ、いったい、まさに、その意が存在しますか。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その意によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような意が〕」と。

 

 「パッグナよ、まさに、その眼は存在しません。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その眼によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような眼は〕。……略……。パッグナよ、まさに、その舌は存在しません。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その舌によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような舌は〕。……略……。パッグナよ、まさに、その意は存在しません。過去の覚者が、完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克したとき、その意によって、〔彼のことを〕報知しつつ報知するであろう、〔そのような意は〕」と。〔以上が〕第十となる。

 

 病者の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「病者によって、二つのものが説かれ、ラーダによって、他に、三つのものが〔説かれ〕、さらに、無明によって、二つのものが説かれ、比丘、そして、世、パッグナがあり、〔章となる〕」と。

 

9. チャンナの章

 

1. 崩壊の法の経

 

84. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『世』『世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『世』と説かれるのですか」と。「アーナンダよ、すなわち、まさに、崩壊の法(性質)は、これは、聖者の律において、世と説かれます。アーナンダよ、では、何が、崩壊の法(性質)なのですか。アーナンダよ、まさに、眼は、崩壊の法(性質)です。諸々の形態は、崩壊の法(性質)です。眼の識知〔作用〕は、崩壊の法(性質)です。眼の接触は、崩壊の法(性質)です。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから……略……それもまた、崩壊の法(性質)です。……略……。舌は、崩壊の法(性質)です。諸々の味感は、崩壊の法(性質)です。舌の識知〔作用〕は、崩壊の法(性質)です。舌の接触は、崩壊の法(性質)です。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから……略……それもまた、崩壊の法(性質)です。……略……。意は、崩壊の法(性質)です。諸々の法(意の対象)は、崩壊の法(性質)です。意の識知〔作用〕は、崩壊の法(性質)です。意の接触は、崩壊の法(性質)です。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、崩壊の法(性質)です。アーナンダよ、すなわち、まさに、崩壊の法(性質)は、これは、聖者の律において、世と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 空である世の経

 

85. そこで、まさに、尊者アーナンダが……略……世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『空である世』『空である世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『空である世』と説かれるのですか」と。「アーナンダよ、そして、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます。アーナンダよ、では、何が、空なのですか──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、まさに、眼は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の形態は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、そして、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 簡略の法の経

 

86. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「アーナンダよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「眼の識知〔作用〕は……略……。「すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。

 

 「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「諸々の味感は……。「舌の識知〔作用〕は……。「舌の接触は……略……。「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アーナンダよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. チャンナの経

 

87. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、かつまた、尊者チャンナは、ギッジャクータ山(霊鷲山)に住んでいます。また、まさに、その時点にあって、尊者チャンナは(※)、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・チュンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタは、尊者マハー・チュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、行きましょう。尊者チャンナのいるところに、そこへと近づいて行くのです──病者を見舞う者たちとして」と。「君よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・チュンダは、尊者サーリプッタに答えました。

 

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 そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、尊者チャンナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、尊者チャンナに、こう言いました。「友よ、チャンナよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、友よ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)が、頭を撹乱します。友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……回復ではなく。友よ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、友よ、まさしく、このように、まさに、頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……回復ではなく。友よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、友よ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……回復ではなく。友よ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、友よ、まさしく、このように、まさに、身体において、旺盛なる燃焼があります。友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、〔わたしは〕刃を持つでしょう(自死する)。〔わたしは〕生命を期待しません」と。

 

 「尊者チャンナは、刃を持ってはいけません。尊者チャンナは、〔身を〕保ち行きたまえ。尊者チャンナが、〔身を〕保ち行くことを、わたしたちは求めます。それで、もし、尊者チャンナに、諸々の正当なる食料が存在しないなら、わたしが、尊者チャンナのために、諸々の正当なる食料を遍く探し求めましょう。それで、もし、尊者チャンナに、諸々の正当なる薬が存在しないなら、わたしが、尊者チャンナのために、諸々の正当なる薬を遍く探し求めましょう。それで、もし、尊者チャンナに、適切なる奉仕者たちが存在しないなら、わたしが、尊者チャンナを奉仕しましょう。尊者チャンナは、刃を持ってはいけません。尊者チャンナは、〔身を〕保ち行きたまえ。尊者チャンナが、〔身を〕保ち行くことを、わたしたちは求めます」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、わたしに、諸々の正当なる食料が存在しないのではありません。わたしに、諸々の正当なる食料は存在します。わたしに、また、諸々の正当なる薬が存在しないのではありません。わたしに、諸々の正当なる薬は存在します。わたしに、また、適切なる奉仕者たちが存在しないのではありません。わたしに、適切なる奉仕者たちは存在します。友よ、さらに、また、わたしは、長夜にわたり、まさしく、意に適うままに、教師を世話してきました──意に適わずに、ではなく。友よ、まさに、このことは、弟子にとって、適切なることです。すなわち、まさしく、意に適うままに、教師を世話することは──意に適わずに、ではなく。『チャンナ比丘は、批判されることなく、刃を持つであろう』と、友よ、サーリプッタよ、このように、このことを保持したまえ」と。

 

 「わたしたちは、尊者チャンナに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、尊者チャンナが、〔わたしたちの〕問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「友よ、サーリプッタよ、尋ねたまえ。聞いて〔そののち、お答えできるかを〕知るでしょう」と。

 

 「友よ、チャンナよ、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか。……略……。友よ、チャンナよ、舌を、舌の識知〔作用〕を、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか。……略……。友よ、チャンナよ、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。友よ、サーリプッタよ、舌を、舌の識知〔作用〕を、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。友よ、サーリプッタよ、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します」と。

 

 「友よ、チャンナよ、眼において、眼の識知〔作用〕において、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、何を見て〔そののち〕、何を証知して〔そののち〕、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか。……。友よ、チャンナよ、舌において、舌の識知〔作用〕において、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、何を見て〔そののち〕、何を証知して〔そののち〕、舌を、舌の識知〔作用〕を、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか。……。友よ、チャンナよ、意において、意の識知〔作用〕において、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、何を見て〔そののち〕、何を証知して〔そののち〕、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、眼において、眼の識知〔作用〕において、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、止滅を見て〔そののち〕、止滅を証知して〔そののち〕、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。友よ、サーリプッタよ、舌において、舌の識知〔作用〕において、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、止滅を見て〔そののち〕、止滅を証知して〔そののち〕、舌を、舌の識知〔作用〕を、舌の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。友よ、サーリプッタよ、意において、意の識知〔作用〕において、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、止滅を見て〔そののち〕、止滅を証知して〔そののち〕、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マハー・チュンナは、尊者チャンナに、こう言いました。「友よ、チャンナよ、それゆえに、ここに、彼の、世尊の、この教えもまた、常劫に、善くしっかりと、意が為されるべきです。『依存している者に、動揺が〔存在し〕、依存していない者に、動揺は存在しません。動揺が存していないとき、静息が有ります。静息が存しているとき、誘導は有りません。誘導が存していないとき、帰る所と赴く所は有りません。帰る所と赴く所が存していないとき、死滅と再生は有りません。死滅と再生が存していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間にあって、〔何も存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極です』」と。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、尊者チャンナを、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者チャンナは、それらの尊者たちが立ち去ったすぐあと、刃を持ちました(自死した)。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者チャンナによって、刃が持たれました。彼には、どのような〔死後の〕境遇()がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「サーリプッタよ、まさに、チャンナ比丘によって、まさしく、あなたの面前で、批判なくあることが説き明かされたのではないですか」と。「尊き方よ、プッバヴィッジャナという名のヴァッジー〔族〕の村が存在します。そこにおいて、尊者チャンナの朋友の家々と知人の家々は、批判されるべき家々です(悪しき家系である)」と。「サーリプッタよ、まさに、チャンナ比丘の朋友の家々と知人の家々は、これらは、批判されるべき家々として〔世に〕有ります。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは、このことから、『批判されるべきものを有している』と説きません。サーリプッタよ、すなわち、まさに、かつまた、その身体を捨置し、かつまた、他の身体に執取するなら、わたしは、彼を、『批判されるべきものを有している』と説きます。チャンナ比丘に、それは存在しません。『チャンナ比丘によって、批判されることなく、刃は持たれた』と、サーリプッタよ、このように、このことを保持しなさい」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. プンナの経

 

88. そこで、まさに、尊者プンナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、尊者プンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「プンナよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。プンナよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。……略……。プンナよ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。プンナよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。プンナよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。プンナよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます。……略……。プンナよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。プンナよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、あなたは、わたしによって、この簡略の教諭によって教え諭され、どのような地方に住むのですか」と。「尊き方よ、スナーパランタという名の地方が存在します。そこにおいて、わたしは住むでしょう」と。

 

 「プンナよ、まさに、スナーパランタの人間たちは、狂暴です。プンナよ、まさに、スナーパランタの人間たちは、粗暴です。プンナよ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたを罵倒し口撃するなら、プンナよ、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしを罵倒し口撃するなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、手で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、手で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、手で打撃を与えるなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、石で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、石で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、石で打撃を与えるなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、棒で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、棒で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、棒で打撃を与えるなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、刃で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、刃で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、刃で打撃を与えるなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしの生命を、鋭い刃で奪わない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたの生命を、鋭い刃で奪うなら、プンナよ、また、そこで、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしの生命を、鋭い刃で奪うなら、そこで、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、彼の、世尊の弟子たちが存在する。かつまた、身体〔の観点〕によって、かつまた、生命〔の観点〕によって、苦悩し、自責し、忌避しながら、〔彼らは〕刃を持つ者(殺害者)を遍く探し求める。それが、〔まさに〕この、刃を持つ者が、まさしく、遍く探し求めることなく、わたしの得るところとなった』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、善きかな、善きかな。プンナよ、まさに、あなたは、この調御と寂止を具備した者として、スナーパランタ地方において住することができるでしょう。プンナよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者プンナは、世尊の言葉を大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、スナーパランタ地方のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、スナーパランタ地方のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者プンナは、スナーパランタ地方に住んでいます。そこで、まさに、尊者プンナは、まさしく、その雨期の間に、五百ばかりの者たちを、在俗信者(優婆塞)たちとして知らしめ、まさしく、その雨期の間に、五百ばかりの者たちを、女性在俗信者(優婆夷)たちとして知らしめ、まさしく、その雨期の間に、三つの明知を実証し、まさしく、その雨期の間に、完全なる涅槃に到達しました。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、彼が、世尊によって、簡略の教諭によって教え諭された、プンナという名の良家の子息が──彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

 「比丘たちよ、良家の子息であるプンナは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、良家の子息であるプンナは、完全なる涅槃に到達したのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. バーヒヤの経

 

89. そこで、まさに、尊者バーヒヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者バーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「バーヒヤよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「眼の識知〔作用〕は……略……。「眼の接触は……略……。「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バーヒヤよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 そこで、まさに、尊者バーヒヤは、世尊の言葉を大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者バーヒヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーヒヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の〔心の〕動揺の経

 

90. 「比丘たちよ、〔心の〕動揺は、病です。〔心の〕動揺は、腫物です。〔心の〕動揺は、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、如来は、〔心の〕動揺なき者として、矢を離れた者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『〔心の〕動揺なき者として、矢を離れた者として、〔世に〕住むのだ』と望むなら、眼を思わず、眼について思わず、眼〔の観点〕から思わず、『眼は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の形態を思わず、諸々の形態について思わず、形態〔の観点〕から思わず、『諸々の形態は、わたしのものである』と思うべきではありません。眼の識知〔作用〕を思わず、眼の識知〔作用〕について思わず、眼の識知〔作用の観点〕から思わず、『眼の識知〔作用〕は、わたしのものである』と思うべきではありません。眼の接触を思わず、眼の接触について思わず、眼の接触〔の観点〕から思わず、『眼の接触は、わたしのものである』と思うべきではありません。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。

 

 耳を思わず……略……。鼻を思わず……略……。舌を思わず、舌について思わず、舌〔の観点〕から思わず、『舌は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の味感を思わず……略……。舌の識知〔作用〕を思わず……略……。舌の接触を思わず……略……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。

 

 身を思わず……略……。意を思わず、意について思わず、意〔の観点〕から思わず、『意は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の法(意の対象)を思わず……略……。意の識知〔作用〕を思わず……略……。意の接触を思わず……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。一切を思わず、一切について思わず、一切〔の観点〕から思わず、『一切は、わたしのものである』と思うべきではありません。

 

 彼は、このように思わずにいながら、たとえ、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の〔心の〕動揺の経

 

91. 「比丘たちよ、〔心の〕動揺は、病です。〔心の〕動揺は、腫物です。〔心の〕動揺は、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、如来は、〔心の〕動揺なき者として、矢を離れた者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『〔心の〕動揺なき者として、矢を離れた者として、〔世に〕住むのだ』と望むなら、眼を思わず、眼について思わず、眼〔の観点〕から思わず、『眼は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の形態を思わず……。眼の識知〔作用〕を……。眼の接触を……。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。……略……。

 

 舌を思わず、舌について思わず、舌〔の観点〕から思わず、『舌は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の味感を思わず……。舌の識知〔作用〕を……。舌の接触を……略……。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。……略……。

 

 意を思わず、意について思わず、意〔の観点〕から思わず、『意は、わたしのものである』と思うべきではありません。諸々の法(意の対象)を(※)……。意の識知〔作用〕を……。意の接触を……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。比丘たちよ、なぜなら、それを思い、それについて思い、それ〔の観点〕から思い、『それは、わたしのものである』と思うとして、そののち、それは、他なる状態となるからです。他なる状態あるも、生存に執着している、世〔の人々〕は、まさしく、生存に愉悦します。

 

※ PTS版により dhamme を補う。

 

 比丘たちよ、すなわち、あるかぎりの範疇と界域と〔認識の〕場所は、それをもまた思わず、それについてもまた思わず、それ〔の観点〕からもまた思わず、『それは、わたしのものである』と思うべきではありません。彼は、このように思わずにいながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の二つのものの経

 

92. 「比丘たちよ、二つのものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、二つのものなのですか。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態です。まさしく、そして、耳であり、さらに、諸々の音声です。まさしく、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気です。まさしく、そして、舌であり、さらに、諸々の味感です。まさしく、そして、身であり、さらに、諸々の感触です。まさしく、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)です。比丘たちよ、これは、二つのものと説かれます。

 

 比丘たちよ、或る者が、『わたしは、この二つのものを拒絶して、他のものを、二つのものと報知します』と、このように説くなら、彼には、言葉を根拠とするものだけが存在するでしょう(言葉だけの言葉でしかない)。そして、尋ねられたなら、解答できないでしょうし、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔この問いは、彼の〕境域ならざるところにあるからです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の二つのものの経

 

93. 「比丘たちよ、二つのものを縁として、識知〔作用〕が発生します。比丘たちよ、では、どのように、二つのものを縁として、識知〔作用〕が発生するのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。眼は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の形態は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。ここにおいて、この二つのものは、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。眼の識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。眼の識知〔作用〕の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した眼の識知〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの三つの法(性質)の、接合と集合と会合は、これは、眼の接触と説かれます。眼の接触もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。眼の接触の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した眼の接触が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、接触された者は、感受します。接触された者は、思弁します。接触された者は、表象します。ここにおいて、これらの法(性質)もまた、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。かつまた、耳を……略……。

 

 かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。舌は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の味感は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。ここにおいて、この二つのものは、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。舌の識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。舌の識知〔作用〕の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した舌の識知〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの三つの法(性質)の、接合と集合と会合は、これは、舌の接触と説かれます。舌の接触もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。舌の接触の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した舌の接触が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、接触された者は、感受します。接触された者は、思弁します。接触された者は、表象します。ここにおいて、これらの法(性質)もまた、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。かつまた、身を……略……。

 

 かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。意は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の法(意の対象)は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。ここにおいて、この二つのものは、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。意の識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。意の識知〔作用〕の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した意の識知〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの三つの法(性質)の、接合と集合と会合は、これは、意の接触と説かれます。意の接触もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。意の接触の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、その因もまた、その縁もまた、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、また、まさに、無常である縁を縁として生起した意の接触が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、接触された者は、感受します。接触された者は、思弁します。接触された者は、表象します。ここにおいて、これらの法(性質)もまた、まさしく、そして、揺れ動くものであり、さらに、動揺しているものであり、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、このように、まさに、二つのものを縁として、識知〔作用〕が発生します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 チャンナの章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「崩壊と空、簡略、チャンナ、そして、プンナ、バーヒヤ、そして、〔心の〕動揺によって、二つのものが説かれ、二つのものによって、他に、二つのものが〔説かれ、章となる〕」と。

 

10. 六つのものの章

 

1. 調御されず保護されていないものの経

 

94. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの接触ある〔認識の〕場所(触処)は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、眼の接触ある〔認識の〕場所は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります。……略……。比丘たちよ、舌の接触ある〔認識の〕場所は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります。……略……。比丘たちよ、意の接触ある〔認識の〕場所は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの接触ある〔認識の〕場所は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。これらの接触ある〔認識の〕場所は、善く調御され、善く保護され、善く守護され、善く統御されているなら、安楽をもたらすものと成ります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、眼の接触ある〔認識の〕場所は、善く調御され、善く保護され、善く守護され、善く統御されているなら、安楽をもたらすものと成ります。……略……。比丘たちよ、舌の接触ある〔認識の〕場所は、善く調御され、善く保護され、善く守護され、善く統御されているなら、安楽をもたらすものと成ります。……略……。比丘たちよ、意の接触ある〔認識の〕場所は、善く調御され、善く保護され、善く守護され、善く統御されているなら、安楽をもたらすものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの接触ある〔認識の〕場所は、善く調御され、善く保護され、善く守護され、善く統御されているなら、安楽をもたらすものと成ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比丘たちよ、まさしく、六つの接触ある〔認識の〕場所がある。そこにおいて、統御されていない者は、苦しみを受ける。しかしながら、すなわち、それらの統御を知った者たちは、信を伴侶とする者たちとなり、〔煩悩が〕漏れ出ることなく、〔世に〕住む。

 

 意が喜びとする諸々の形態を見て、さらに、また、意が喜びとしない〔諸々の形態〕を見て、意が喜びとするものにたいする貪欲の道を調伏し、かつまた、『わたしにとって、愛しからず』と、意を汚すことなくあるがよい。

 

 そして、愛しいものと愛しくないものの両者の音声を聞いて、愛しい音声にたいし耽溺する者として存さず、さらに、愛しくないものにたいする憤怒に至った〔心〕を調伏し、かつまた、『わたしにとって、愛しからず』と、意を汚すことなくあるがよい。

 

 そして、芳しく意が喜びとする臭気を嗅いで、さらに、また、不浄にして欲せられない〔臭気〕を嗅いで、欲せられないものにたいする敵対〔の思い〕を調伏し、かつまた、欲せられるものにたいする欲〔の思い〕に導かれることなく存するがよい。

 

 そして、〔いまだ〕受けたことなく、かつまた、美味なる味感あるものを食べて、さらに、また、或るときには美味ならざるものを食べて、美味なる味感あるものに固執して食べず、諸々の美味ならざるものにたいする反感を示すことなくあるがよい。

 

 安楽の接触によって接触されたとして夢中にならず、たとえ、苦痛〔の接触〕によって接触されたとして動揺せず、安楽と苦痛の接触の両者を放捨するがよい──何よってであれ、共感なき者となり、反感なき者となり。

 

 虚構の表象ある者たちは、いかなる者も、人として、虚構〔の生存〕に行き着く者たちであり、表象ある者たちとして、〔生と死の輪廻へと〕近しく至る。意によって作られ、かつまた、家〔の生活〕に依拠した一切〔の表象〕を除き去って、離欲〔の境地〕に依拠した〔行為〕を、〔比丘は〕振る舞う。

 

 このように、〔これらの〕六のものにおいて、意が善く修められた、そのときは、〔楽苦の接触に〕接触されたとして、心は、どこにおいても揺れ動かない。比丘たちよ、それらの貪欲と憤怒を征服して、生と死の彼岸に至る者たちと成れ」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. マールキャプッタの経

 

95. そこで、まさに、尊者マールキャプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「マールキャプッタよ、ここにおいて、〔わたしたちは〕年少の比丘たちに、今や、何を説くというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、あなたが、簡略〔の観点〕によって、教諭を乞い求めるとは」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、何であれ、わたしが、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者であるも、尊き方よ、世尊は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの義(意味)を了知するでしょう。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの相続者として存するでしょう」と。

 

 「マールキャプッタよ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの、眼によって識知されるべき諸々の形態が、〔常住のものとして〕見られず、〔常住のものとして〕過去に見られたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕見ず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕見られるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「すなわち、それらの、耳によって識知されるべき諸々の音声が、〔常住のものとして〕聞かれず、〔常住のものとして〕過去に聞かれたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕聞かず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕聞かれるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「すなわち、それらの、鼻によって識知されるべき諸々の臭気が、〔常住のものとして〕嗅がれず、〔常住のものとして〕過去に嗅がれたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕嗅がず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕嗅がれるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「すなわち、それらの、舌によって識知されるべき諸々の味感が、〔常住のものとして〕味わわれず、〔常住のものとして〕過去に味わわれたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕味わわず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕味わわれるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「すなわち、それらの、身によって識知されるべき諸々の感触が、〔常住のものとして〕接触されず、〔常住のものとして〕過去に接触されたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕接触せず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕接触されるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「すなわち、それらの、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、〔常住のものとして〕識知されず、〔常住のものとして〕過去に識知されたことがなく、そして、〔あなたが、常住のものとして〕識知せず、さらに、あなたにとって、〔常住のものとして〕識知されるべきものと成らないなら、そこにおいて、あなたに、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪り〔の思い〕が、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「マールキャプッタよ、そして、ここにおいて、あなたにとって、見られ聞かれ思われ識られた諸々の法(性質)において、見られたものにおいては、見られたもののみが有るでしょうし、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るでしょうし、思われたものにおいては、思われたもののみが有るでしょうし、識られたものにおいては、識られたもののみが有るでしょう。マールキャプッタよ、すなわち、まさに、あなたにとって、見られ聞かれ思われ識られた諸々の法(性質)において、見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、マールキャプッタよ、そのことから、あなたは、それとともに〔存在し〕ないのです。マールキャプッタよ、すなわち、あなたが、それとともに〔存在し〕ないことから、マールキャプッタよ、そのことから、あなたは、そこにおいて〔存在し〕ないのです。マールキャプッタよ、すなわち、あなたが、そこにおいて〔存在し〕ないことから、マールキャプッタよ、そのことから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間にあって、〔何も存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極です」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。

 

 〔すなわち〕『形態を見て〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づき()は忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔形態を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の形態から発生する、彼の感受(:楽苦の知覚)は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 音声を聞いて〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔音声を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の音声から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 臭気を嗅いで〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔臭気を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の臭気から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 味感を享受して〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔味感を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の味感から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 接触(身の対象)と接触して〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔接触を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の接触から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 法(意の対象)を知って〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔法を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の法(意の対象)から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、形態を見て〔そののち〕、彼は、諸々の形態にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔形態を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、形態を〔あるがままに〕見ていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、音声を聞いて〔そののち〕、彼は、諸々の音声にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔音声を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、音声を〔あるがままに〕聞いていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、臭気を嗅いで〔そののち〕、彼は、諸々の臭気にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔臭気を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、臭気を〔あるがままに〕嗅いでいると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、味感を享受して〔そののち〕、彼は、諸々の味感にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔味感を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、味感を〔あるがままに〕味わっていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、接触(身の対象)と接触して〔そののち〕、彼は、諸々の接触にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔接触を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、接触と〔あるがままに〕接触していると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。

 

 〔常に〕気づいている者は、法(意の対象)を知って〔そののち〕、彼は、諸々の法(意の対象)にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔法を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、法(意の対象)を〔あるがままに〕識知していると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる』と。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。「マールキャプッタよ、善きかな、善きかな。マールキャプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。

 

 〔すなわち〕『形態を見て〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔形態を〕感受し、そして、それに固執して止住する。

 

 諸々の形態から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。……略……。

 

 〔常に〕気づいている者は、法(意の対象)を知って〔そののち〕、彼は、諸々の法(意の対象)にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔法を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。

 

 すなわち、彼が、法(意の対象)を〔あるがままに〕識知していると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる』と。

 

 マールキャプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。

 

 そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者マールキャプッタは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 遍き衰退となる法の経

 

96. 「比丘たちよ、では、遍き衰退となる法(性質)を、そして、遍き衰退とならない法(性質)を、さらに、六つの征服ある〔認識の〕場所(六勝処)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのように、遍き衰退となる法(性質)ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして(※)生起します。比丘が、もし、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせないなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退する。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退と説かれたのだ』と。……略……。

 

※ テキストには pāpakā akusalā sarasakappā sayojaniyā とあるが、PTS版により pāpakā akusalā dhammā sarasakappā sayojaniyā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、舌によって、味感を味わって……略……。比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。比丘が、もし、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせないなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退する。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退と説かれたのだ』と。比丘たちよ、このように、まさに、遍き衰退となる法(性質)ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。比丘が、もし、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせるなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しない。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれたのだ』と。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、舌によって、味感を味わって……略……。比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。比丘が、もし、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせるなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しない。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれたのだ』と。比丘たちよ、このように、まさに、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の征服なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起しません。比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『このことは、〔認識の〕場所が征服されたのだ。まさに、このことは、世尊によって、〔認識の〕場所の征服と説かれたのだ』と。……略……。比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起しません。比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『このことは、〔認識の〕場所が征服されたのだ。まさに、このことは、世尊によって、〔認識の〕場所の征服と説かれたのだ』と。比丘たちよ、これらは、六つの〔認識の〕場所の征服と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 放逸の住者の経

 

97. 「比丘たちよ、では、放逸の住者を、そして、不放逸の住者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのように、放逸の住者と成るのですか。比丘たちよ、眼の機能を統御していない者として〔世に〕住んでいると、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、心を汚し、汚れた心の者である、彼には、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛が有ります。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。……略……。比丘たちよ、舌の機能を統御していない者として〔世に〕住んでいると、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし、心を汚し、汚れた心の者である、彼には……略……まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。……略……。比丘たちよ、意の機能を統御していない者として〔世に〕住んでいると、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、心を汚し、汚れた心の者である、彼には、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛が有ります。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。比丘たちよ、このように、まさに、放逸の住者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、不放逸の住者と成るのですか。比丘たちよ、眼の機能を統御している者として〔世に〕住んでいると、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、心を汚さず、汚れなき心の者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。……略……。比丘たちよ、舌の機能を統御している者として〔世に〕住んでいると、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし、心を汚さず、汚れなき心の者である、彼には……略……まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。……略……。比丘たちよ、意の機能を統御している者として〔世に〕住んでいると、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、心を汚さず、汚れなき心の者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。比丘たちよ、このように、まさに、不放逸の住者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 統御の経

 

98. 「比丘たちよ、では、統御を、そして、統御なき〔あり方〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのように、統御なき〔あり方〕と成るのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退する。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退と説かれたのだ』と。……略……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退する。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退と説かれたのだ』と。比丘たちよ、このように、まさに、統御なき〔あり方〕と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、統御と成るのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しない。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれたのだ』と。……略……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ(※)、比丘によって、このことが知られるべきです。『〔わたしは〕諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しない。まさに、このことは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれたのだ』と。比丘たちよ、このように、まさに、統御と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

※ PTS版により bhikkhave を補う。

 

6. 禅定の経

 

99. 「比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『眼は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『諸々の形態は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『眼の識知〔作用〕は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『眼の接触は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに覚知します。……略……。『意は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『諸々の法(意の対象)は……。『意の識知〔作用〕は……。『意の接触は……。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 静坐の経

 

100. 「比丘たちよ、静坐において〔心の〕制止(瑜伽)を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐している比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『眼は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『諸々の形態は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『眼の識知〔作用〕は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『眼の接触は、無常である』と、事実のとおりに覚知します。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに覚知します。……略……。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、静坐において〔心の〕制止を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐している比丘は、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の「あなたたちのものでないなら」の経

 

101. 「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、眼は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の形態は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。眼の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。眼の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。耳は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の音声は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。耳の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。耳の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。すなわち、また、この、耳の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。鼻は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の臭気は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。鼻の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。鼻の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。すなわち、また、この、鼻の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 舌は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の味感は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。舌の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。舌の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。

 

 意は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の法(意の対象)は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。意の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。意の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「それは、何を因とするのですか」〔と〕。

 

 「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも、あるいは、自己に属するものでも、ないからです」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の形態は、あなたたちのものではありません。……。眼の識知〔作用〕は……。眼の接触は……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

 

102. 「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、眼は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。諸々の形態は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。眼の識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。眼の接触は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ウダカの経

 

103. 「比丘たちよ、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、このように、言葉を語ります。『たしかに、これを、〔真の〕知に至る者として──たしかに、これを、一切に勝利する者として──たしかに、これを、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、〔わたしは〕掘り尽くした』と。比丘たちよ、また、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、〔まさに〕その、この〔言葉〕を、まさしく、〔真の〕知に至らない者として、〔そのように〕存しつつ、『〔真の〕知に至る者として、〔わたしは〕存している』と語り、まさしく、一切に勝利しない者として、〔そのように〕存しつつ、『一切に勝利するとして、〔わたしは〕存している』と語り、まさしく、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、『腫物の根が、わたしによって掘り尽くされたのだ』と語ります。比丘たちよ、ここに、比丘は、まさに、それを、正しく説きつつ説くべきです。『たしかに、これを、〔真の〕知に至る者として──たしかに、これを、一切に勝利する者として──たしかに、これを、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、〔わたしは〕掘り尽くした』と。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は(※)、〔真の〕知に至る者と成るのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔真の〕知に至る者と成ります。

 

※ PTS版により bhikkhu を補う。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、一切に勝利する者と成るのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、一切に勝利する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘の、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根が、掘り尽くされたものと成るのですか。比丘たちよ、『腫物』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、この身体の同義語です。比丘たちよ、『腫物の根』とは、まさに、これは、渇愛の同義語です。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、渇愛は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、比丘たちよ、このように、まさに、比丘の、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根は、掘り尽くされたものと成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、このように、言葉を語ります。『たしかに、これを、〔真の〕知に至る者として──たしかに、これを、一切に勝利する者として──たしかに、これを、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、〔わたしは〕掘り尽くした』と。比丘たちよ、また、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、〔まさに〕その、この〔言葉〕を、まさしく、〔真の〕知に至らない者として、〔そのように〕存しつつ、『〔真の〕知に至る者として、〔わたしは〕存している』と語り、まさしく、一切に勝利しない者として、〔そのように〕存しつつ、『一切に勝利するとして、〔わたしは〕存している』と語り、まさしく、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、『腫物の根が、わたしによって掘り尽くされたのだ』と語ります。比丘たちよ、ここに、比丘は、まさに、それを、正しく説きつつ説くべきです。『たしかに、これを、〔真の〕知に至る者として──たしかに、これを、一切に勝利する者として──たしかに、これを、〔いまだ〕掘り尽くされたことなき腫物の根を、〔わたしは〕掘り尽くした』」と。〔以上が〕第十となる。

 

 六つのものの章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの包摂するもの、遍き衰退、そして、放逸の住者、統御、禅定、静坐があり、『あなたたちのものでないなら』によって、二つのものが〔説かれ〕、ウダカがあり、〔章となる〕」と。

 

 六つの〔認識の〕場所の部における第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔五十なるもの〕のための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常、そして、ミガジャーラ、病者、第四のものとして、チャンナがあり、六つのものの章とともに、五十〔の経〕があり、これが、第二の五十なるものとなる」と。

 

 〔以上が〕第一の百なるものとなる。

 

11. 束縛からの平安ある者の章

 

1. 束縛からの平安ある者の経

 

104. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、束縛からの平安ある者の教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、束縛からの平安ある者の教相であり、法(教え)の教相なのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。そして、それらの捨棄のために、〔心の〕制止(:ヨーガ)を告知しました。それゆえに、如来は、『束縛からの平安ある者(軛安穏:ヨーガ・ケーミン)』と説かれます。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。そして、それらの捨棄のために、〔心の〕制止を告知しました。それゆえに、如来は、『束縛からの平安ある者』と説かれます。比丘たちよ、これは、まさに、束縛からの平安ある者の教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「執取して」の経

 

105. 「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、内に、安楽と苦痛が生起するのですか」と。

 

 「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。

 

 「比丘たちよ、まさに、眼が存しているとき、眼に執取して、内に、安楽と苦痛が生起します。……略……。意が存しているとき、意に執取して、内に、安楽と苦痛が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、内に、安楽と苦痛が生起するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(生起しない)」〔と〕。……略……。

 

 「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、内に、安楽と苦痛が生起するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。

 

 「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、内に、安楽と苦痛が生起するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 苦しみの集起の経

 

106. 「比丘たちよ、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。これは、苦しみの集起です。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。これは、苦しみの集起です。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の止滅が有ります。これは、苦しみの滅至です。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの滅至です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 世の集起の経

 

107. 「比丘たちよ、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、世の集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、世の滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「わたしは、勝る者として〔世に〕存している」の経

 

108. 「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有るのですか」と。

 

 「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。

 

 「比丘たちよ、まさに、眼が存しているとき、眼に執取して、眼に固着して、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有ります。……略……。舌が存しているとき……略……。意が存しているとき、意に執取して、意に固着して、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有り、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕有ります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。「舌は……。「身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔思いが〕存するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 束縛されるべきものの経

 

109. 「比丘たちよ、では、諸々の束縛されるべき法(性質)を、そして、束縛を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の束縛されるべき法(性質)であり、さらに、どのようなものが、束縛なのですか。比丘たちよ、眼は、束縛されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります。……略……。舌は、束縛されるべき法(性質)です。……略……。意は、束縛されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります。比丘たちよ、これらは、束縛されるべき法(性質)と説かれ、これは、束縛と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 執取されるべきものの経

 

110. 「比丘たちよ、では、諸々の執取されるべき法(性質)を、そして、執取を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の執取されるべき法(性質)であり、さらに、どのようなものが、執取なのですか。比丘たちよ、眼は、執取されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります。……略……。舌は、執取されるべき法(性質)です。……略……。意は、執取されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります。比丘たちよ、これらは、執取されるべき法(性質)と説かれ、これは、執取と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 内なる〔認識の〕場所の遍知の経

 

111. 「比丘たちよ、眼を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、眼を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。耳を……。鼻を……。舌を……。身を……。意を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 外なる〔認識の〕場所の遍知の経

 

112. 「比丘たちよ、諸々の形態を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。諸々の音声を……。諸々の臭気を……。諸々の味感を……。諸々の感触を……。諸々の法(意の対象)を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、諸々の形態を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。諸々の音声を……。諸々の臭気を……。諸々の味感を……。諸々の感触を……。諸々の法(意の対象)を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 聞き入る者の経

 

113. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、静所に赴き静坐し、この法(教え)の教相を語りました。「かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起する。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る。……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起する。……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、世尊の〔言葉に〕聞き入り、立った状態でいます。まさに、世尊は、その比丘が、〔言葉に〕聞き入り、立っているのを見ました。見て、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、まさに、あなたは、この法(教え)の教相を聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」と。「比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を把握しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を遍く学得しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を保持しなさい。比丘よ、この法(教え)の教相は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 束縛からの平安ある者の章が第十一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「束縛からの平安ある者、『執取して』があり、苦しみ、そして、世、そして、勝る者、束縛、執取、二つの遍知、聞き入る者があり、〔章となる〕」と。

 

12. 世と欲望の属性の章

 

1. 第一の悪魔の罠の経

 

114. 「比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴いた者、悪魔の支配に赴いた者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ。彼は、悪魔の結縛に結縛された者、パーピマント(悪魔)の欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴いた者、悪魔の支配に赴いた者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ。彼は、悪魔の結縛に結縛された者、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴いた者、悪魔の支配に赴いた者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ。彼は、悪魔の結縛に結縛された者、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴かない者、悪魔の支配に赴かない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ。彼は、悪魔の結縛から解放された者、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴かない者、悪魔の支配に赴かない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ。彼は、悪魔の結縛から解放された者、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の居住所に赴かない者、悪魔の支配に赴かない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ。彼は、悪魔の結縛から解放された者、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の悪魔の罠の経

 

115. 「比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし結縛された者、悪魔の居住所に赴いた者、悪魔の支配に赴いた者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ。彼は、悪魔の結縛に結縛された者、パーピマント(悪魔)の欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし結縛された者、悪魔の居住所に赴いた者、悪魔の支配に赴いた者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ。彼は、悪魔の結縛に結縛された者、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態から解き放たれた者、悪魔の居住所に赴かない者、悪魔の支配に赴かない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ。彼は、悪魔の結縛から解放された者、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)から解き放たれた者、悪魔の居住所に赴かない者、悪魔の支配に赴かない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ。彼は、悪魔の結縛から解放された者、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 世の終極に赴くことの経

 

116. 「比丘たちよ、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません」と。この〔言葉〕を言って、世尊は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません』と。友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者アーナンダは、区分したまえ」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、まさしく、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすであろうとおり、そのとおりに、あなたたちは保持するべきです」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者アーナンダは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を了知します。友よ、それによって、まさに、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成るなら〕、これは、聖者の律において、世と説かれます。友よ、では、何によって、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成るのですか〕。友よ、眼によって、まさに、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成ります〕。友よ、耳によって、まさに……。友よ、鼻によって、まさに……。友よ、舌によって、まさに、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成ります〕。友よ、身によって、まさに……。友よ、意によって、まさに、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成ります〕。友よ、それによって、まさに、世において、世の表象ある者と成り、世の思量ある者と〔成るなら〕、これは、聖者の律において、世と説かれます。友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。尊者たちよ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えて、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。比丘たちよ、また、そして、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者アーナンダによって、これらの行相によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、アーナンダは、賢者です。比丘たちよ、アーナンダは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、アーナンダによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 欲望の属性の経

 

117. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『すなわち、わたしにとって、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が、心と過去に接触したものであり、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、そこで、わたしの心は、あるいは、多くが、諸々の現在のものにたいし、赴きつつ赴くであろう──あるいは、少なくが、諸々の未来のものにたいし』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『すなわち、わたしにとって、五つの欲望の属性が、心と過去に接触したものであり、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、そこで、わたしの自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきである』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、あなたたちにとってもまた、すなわち、それらの五つの欲望の属性が、心と過去に接触したものであり、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、そこで、あなたたちの心は、あるいは、多くが、諸々の現在のものにたいし、赴きつつ赴くでしょう──あるいは、少なくが、諸々の未来のものにたいし。比丘たちよ、それゆえに、ここに、あなたたちにとってもまた、すなわち、それらの五つの欲望の属性が、心と過去に接触したものであり、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、そこで、あなたたちの自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、舌が止滅するなら、さらに、味感の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに」と。この〔言葉〕を言って、世尊は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、舌が止滅するなら、さらに、味感の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、舌が止滅するなら、さらに、味感の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、舌が止滅するなら、さらに、味感の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者アーナンダは、区分したまえ」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の……略……。尊者アーナンダは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。そこで、尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を了知します。友よ、六つの〔認識の〕場所の止滅に関して、まさに、この〔言葉〕が、世尊によって語られました。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。尊者たちよ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えて、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、舌が止滅するなら、さらに、味感の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、その〔認識の〕場所が知られるべきとき、そこにおいて、そして、眼が止滅するなら、さらに、形態の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに。……略……そこにおいて、そして、意が止滅するなら、さらに、法(意の対象)の表象も止滅します──その〔認識の〕場所が知られるべきときに」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者アーナンダによって、これらの行相によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、アーナンダは、賢者です。比丘たちよ、アーナンダは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、アーナンダによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 帝釈〔天〕の問いの経

 

118. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。

 

 「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。天〔の神々〕たちのインダよ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。……略……。

 

 天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。天〔の神々〕たちのインダよ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しません。

 

 天〔の神々〕たちのインダよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。天〔の神々〕たちのインダよ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。……略……。

 

 天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。天〔の神々〕たちのインダよ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. パンチャシカの経

 

119. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、音楽神の天子たるパンチャシカは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「パンチャシカよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。パンチャシカよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。パンチャシカよ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。パンチャシカよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しません。

 

 パンチャシカよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。パンチャシカよ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。パンチャシカよ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。パンチャシカよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. サーリプッタと共住者の経

 

120. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、或るひとりの比丘が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、共住者の比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたのです(戒を捨てて還俗した)」と。

 

 「友よ、このように、このことは有ります──諸々の〔感官の〕機能において門が守られず、食において量を知らず、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者には。友よ、まさに、その比丘が──諸々の〔感官の〕機能において門が守られず、食において量を知らず、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者が、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を相続するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、まさに、その比丘が──諸々の〔感官の〕機能において門が守られ、食において量を知り、〔眠らずに〕起きていることに専念する者が、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を相続するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 友よ、では、どのように、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。友よ、このように、まさに、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、食において量を知る者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。友よ、このように、まさに、食において量を知る者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初夜(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中夜(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後夜(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。友よ、このように、まさに、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成ります。友よ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちと成るのだ、食において量を知る者たちと〔成るのだ〕、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちと〔成るのだ〕』と。友よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ラーフラへの教諭の経

 

121. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「まさに、ラーフラには、解脱を亢進させる諸々の法(性質)が円熟している。それなら、さあ、わたしは、ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ラーフラは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。

 

 また、まさに、その時点にあって、幾千の天神たちが、世尊に付き従う者たちと成ります。「今日、世尊は、尊者ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くであろう」と。そこで、まさに、世尊は、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。

 

 「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕()の在り方をしたものも、表象〔作用〕()の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕()の在り方をしたものも、識知〔作用〕()の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。

 

 「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 (※)「諸々の味感は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。(※)

 

※ 「諸々の味感は」から「……略……。」までの欠落を、PTS版により補う。

 

 「舌の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「舌の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。

 

 「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。舌にたいしてもまた厭離し、諸々の味感にたいしてもまた厭離し、舌の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、舌の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。

 

 意にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離し、意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、意の接触にたいしてもまた厭離し、すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者ラーフラの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。さらに、幾千の天神たちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 束縛されるべき法の経

 

122. 「比丘たちよ、では、諸々の束縛されるべき法(性質)を、そして、束縛を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の束縛されるべき法(性質)であり、さらに、どのようなものが、束縛なのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これらは、諸々の束縛されるべき法(性質)と説かれます。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります。……略……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これらは、諸々の束縛されるべき法(性質)と説かれます。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 執取されるべきものの経

 

123. 「比丘たちよ、では、諸々の執取されるべき法(性質)を、そして、執取を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の執取されるべき法(性質)であり、さらに、どのようなものが、執取なのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これらは、諸々の執取されるべき法(性質)と説かれます。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります。……略……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これらは、諸々の執取されるべき法(性質)と説かれます。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 世と欲望の属性の章が第十二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪魔の罠によって、二つのものが説かれ、そして、世と欲望の属性とともに、帝釈〔天〕、まさしく、そして、パンチャシカ、さらに、サーリプッタ、ラーフラ、束縛、執取があり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

13. 家長の章

 

1. ヴェーサーリーの経

 

124. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。

 

 「家長よ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。家長よ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。……略……。家長よ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。家長よ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。家長よ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しません。

 

 家長よ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。家長よ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。……略……。家長よ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。家長よ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。家長よ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ヴァッジーの経

 

125. 或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。ハッティ村において。そこで、まさに、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「……略……(すなわち、前の経典のように、このように詳知されるべきである)。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ナーランダーの経

 

126. 或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。そこで、まさに、ウパーリ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「……略……(すなわち、前の経典のように、このように詳知されるべきである)。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. バーラドヴァージャの経

 

127. 或る時のことです。尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、ウデーナ王が、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウデーナ王は、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャに、こう言いました。「貴君バーラドヴァージャよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なくあり、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行(禁欲清浄行)を歩み、そして、歳月を送るのですか」と。「大王よ、まさに、このことが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって説かれました。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、母ほど〔の年〕の者たちにたいしては、母にたいする心を現起させなさい。姉妹ほど〔の年〕の者たちにたいしては、姉妹にたいする心を現起させなさい。娘ほど〔の年〕の者たちにたいしては、娘にたいする心を現起させなさい』と。大王よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なき者たちとして〔世に有り〕、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩み、そして、歳月を送ります」と。

 

 「貴君バーラドヴァージャよ、妄動あるのが、まさに、心です。或る時にあってはまた、母ほど〔の年〕の者たちにたいしてもまた、諸々の貪欲の法(性質)が生起し、姉妹ほど〔の年〕の者たちにたいしてもまた、諸々の貪欲の法(性質)が生起し、娘ほど〔の年〕の者たちにたいしてもまた、諸々の貪欲の法(性質)が生起します。貴君バーラドヴァージャよ、いったい、まさに、存在しますか──さらに、他の因が、さらに、他の縁が。それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり……略……そして、歳月を送ります」と。

 

 「大王よ、まさに、このことが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって説かれました。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視しなさい。「この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する」』と。大王よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり……略……そして、歳月を送ります」と。「貴君バーラドヴァージャよ、すなわち、それらの比丘たちが、身体を修め、戒を修め、心を修め、智慧を修めた者たちであるなら、彼らにとって、それは、為し易きこととして有ります。貴君バーラドヴァージャよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、身体を修めず、戒を修めず、心を修めず、智慧を修めていない者たちであるなら、彼らにとって、それは、為し難きこととして有ります。貴君バーラドヴァージャよ、或る時にあってはまた、『〔わたしは〕不浄〔の観点〕から意を為すのだ』と〔思いつつ〕、まさしく、浄美〔の観点〕から、〔思いが〕やってきます。貴君バーラドヴァージャよ、いったい、まさに、存在しますか──さらに、他の因が、さらに、他の縁が。それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり……略……そして、歳月を送ります」と。

 

 「大王よ、まさに、このことが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって説かれました。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕住みなさい。眼によって、形態を見て、形相を収め取る者たちと成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者たちと〔成っては〕いけません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践しなさい、眼の機能を守護しなさい、眼の機能における統御を惹起しなさい。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者たちと成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者たちと〔成っては〕いけません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践しなさい、意の機能を守護しなさい、意の機能における統御を惹起しなさい』と。大王よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なき者たちとして〔世に有り〕、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩み、そして、歳月を送ります」と。

 

 「貴君バーラドヴァージャよ、めったにないことです。貴君バーラドヴァージャよ、はじめてのことです。貴君バーラドヴァージャよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。貴君バーラドヴァージャよ、まさに、まさしく、これを因として、これを縁として、それによって、これらの者たちは、年少の比丘たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なき者たちとして〔世に有り〕、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩み、そして、歳月を送ります。貴君バーラドヴァージャよ、まさに、わたしもまた、その時において、まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、統御されていない諸々の〔感官の〕機能によって、内宮に入るなら、その時において、極度に、わたしを、諸々の貪欲の法(性質)が遍く打ち負かします。貴君バーラドヴァージャよ、しかしながら、まさに、わたしが、その時において、まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起されている気づきによって、統御されている諸々の〔感官の〕機能によって、内宮に入るなら、その時において、わたしを、そのように、諸々の貪欲の法(性質)が遍く打ち負かすことはありません。貴君バーラドヴァージャよ、すばらしいことです。貴君バーラドヴァージャよ、すばらしいことです。貴君バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君バーラドヴァージャによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君バーラドヴァージャよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君バーラドヴァージャは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ソーナの経

 

128. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、家長の子のソーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、家長の子のソーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「……略……(すなわち、前の経典のように、このように詳知されるべきである)。ソーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ゴーシタの経

 

129. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、ゴーシタ家長が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、ゴーシタ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、『界域の種々なること』『界域の種々なること』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、界域の種々なることと説かれたのですか──世尊によって」と。「家長よ、まさに、眼の界域が等しく見出され、そして、諸々の形態が意に適うものとして〔等しく見出され〕、さらに、眼の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。家長よ、まさに、眼の界域が等しく見出され、そして、諸々の形態が意に適わないものとして〔等しく見出され〕、さらに、眼の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。家長よ、まさに、眼の界域が等しく見出され、そして、諸々の形態が放捨として感受されるべきものとして〔等しく見出され〕(※)、さらに、眼の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。……略……。家長よ、まさに、舌の界域が等しく見出され、そして、諸々の味感が意に適うものとして〔等しく見出され〕、さらに、舌の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。家長よ、まさに、舌の界域が等しく見出され、そして、諸々の味感が意に適わないものとして〔等しく見出され〕、さらに、舌の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。家長よ、まさに、舌の界域が等しく見出され、そして、諸々の味感が放捨として感受されるべきものとして〔等しく見出され〕、さらに、舌の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。……略……。家長よ、まさに、意の界域が等しく見出され、そして、諸々の法(意の対象)が意に適うものとして〔等しく見出され〕、さらに、意の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。家長よ、まさに、意の界域が等しく見出され、そして、諸々の法(意の対象)が意に適わないものとして〔等しく見出され〕、さらに、意の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。家長よ、まさに、意の界域が等しく見出され、そして、諸々の法(意の対象)が放捨として感受されるべきものとして〔等しく見出され〕、さらに、意の識知〔作用〕が〔等しく見出され〕、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。家長よ、このことから、まさに、界域の種々なることと説かれました──世尊によって」と。〔以上が〕第六となる。

 

※ テキストには manāpā upekkhāvedaniyā とあるが、PTS版により manāpā を削除する。

 

7. ハーリッディカーニの経

 

130. 或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。クララガラのパパータ山において。そこで、まさに、ハーリッディカーニ家長が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、ハーリッディカーニ家長は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「尊き方よ、この〔言葉〕が、世尊によって説かれました。『界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します』と。尊き方よ、いったい、まさに、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのですか」と。「家長よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、『ここにおいて、これは、意に適うものである』と覚知し、眼の識知〔作用〕があり、そして、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。また、まさに、まさしく、眼によって、形態を見て、『ここにおいて、これは、意に適わないものである』と覚知し、眼の識知〔作用〕があり、そして、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。また、まさに、まさしく、眼によって、形態を見て、『ここにおいて、これは、放捨として止住するべきものである』と覚知し、眼の識知〔作用〕があり、そして、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。

 

 家長よ、さらに、また、他に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……略……舌によって、味感を味わって……略……身によって、感触と接触して……略……意によって、法(意の対象)を識知して、『ここにおいて、これは、意に適うものである』と覚知し、意の識知〔作用〕があり、そして、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。また、まさに、まさしく、意によって、法(意の対象)を識知して、『ここにおいて、これは、意に適わないものである』と覚知し、意の識知〔作用〕があり、そして、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。また、まさに、まさしく、意によって、法(意の対象)を識知して、『ここにおいて、これは、放捨として止住するべきものである』と覚知し、意の識知〔作用〕があり、そして、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。家長よ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ナクラピタルの経

 

131. 或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、ナクラピタル家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、ナクラピタル家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「家長よ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。家長よ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。……略……。家長よ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。家長よ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、それに依拠した識知〔作用〕が有り、それへの執取が〔有ります〕。家長よ、執取を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しません。

 

 家長よ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。家長よ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。……略……。家長よ、まさに、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。家長よ、まさに、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、それに依拠した識知〔作用〕は有りませんし、それへの執取も〔有り〕ません。家長よ、執取なき比丘は、完全なる涅槃に到達します。家長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ローヒッチャの経

 

132. 或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。マッカラカタの林の小屋において。そこで、まさに、ローヒッチャ婆羅門の大勢の内弟子たちである薪運びの学生たちが、尊者マハー・カッチャーナの林の小屋のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、小屋の周囲から周囲へと、こちらを歩いては、あちらを歩み、高い声をあげ大きな音をたて、あれやこれやと囃し立てを為します。「さてまた、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちです。梵の足から生まれた者たちです。これらの扶養者たちにとっては、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者たちですが」と。そこで、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、精舎から出て、それらの学生たちに、こう言いました。「学生たちよ、声を上げてはいけません。あなたたちに、法(教え)を語りましょう」と。このように説かれたとき、それらの学生たちは、沈黙の者たちと成りました。そこでまさに、尊者マハー・カッチャーナは、それらの学生たちに、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「より過去なる者たちは、戒を最上とする者たちとして〔世に〕有った──すなわち、過去を思念する、それらの婆羅門たちは。彼らの〔感官の〕門は守られ、善く守護されたものとして〔世に〕有った──忿激〔の思い〕を征服して〔そののち〕。

 

 そして、法(教え)を、さらに、瞑想を、喜ぶ者たちとして〔世に〕有った──すなわち、過去を思念する、それらの婆羅門たちは。しかしながら、これらの者たちは、〔道を〕外れて、『〔わたしたちは〕詠唱するのだ』と、氏姓に驕慢し、不正を歩む。

 

 〔彼らは〕忿激〔の思い〕に征服され、多々に棒(武器)を取っている──渇愛を有する者や渇愛なき者たちにたいし、離貪していながら。〔感官の〕門が守られていない者には、諸々の無駄が有る──人にとって、夢のなかで得た富が〔無駄である〕ように。

 

 諸々の断食、そして、諸々の野宿、かつまた、早朝の沐浴、さらに、三つのヴェーダ──

 

 粗い鹿皮、結髪と泥、諸々の呪文、戒や掟、苦行、虚言、そして、諸々の湾曲の杖、さらに、諸々の水による洗浄──

 

 これらのものが、婆羅門たちの栄誉とされ、微々たる修行として為された。しかしながら、心が善く定められ、澄浄で混濁なく、一切の生類にたいし鬱積なくあるなら、それは、梵に至り得るための道である」と。

 

 そこで、まさに、それらの学生たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、ローヒッチャ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ローヒッチャ婆羅門に、こう言いました。「どうか、尊き方は知りたまえ。沙門マハー・カッチャーナは、婆羅門たちの諸々の呪文を、一方的に排斥し弾劾します」と。このように説かれたとき、ローヒッチャ婆羅門は、激情し、わが意を得ない者と成りました。そこで、まさに、ローヒッチャ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「また、まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、何はともあれ、まさしく、学生たちの〔言葉を〕聞いて、沙門マハー・カッチャーナを罵倒し口撃するであろうなら。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って尋ねるのだ」と。

 

 そこで、まさに、ローヒッチャ婆羅門は、それらの学生たちと共に、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ローヒッチャ婆羅門は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、ここに、わたしどもの大勢の内弟子たちである薪運びの学生たちがやってきましたか」と。「婆羅門よ、まさに、ここに、あなたの大勢の内弟子たちである薪運びの学生たちがやってきました」と。「また、貴君カッチャーナに、それらの学生たちを相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしに、それらの学生たちを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「また、すなわち、どのように、貴君カッチャーナに、それらの学生たちを相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。「婆羅門よ、このように、まさに、わたしに、それらの学生たちを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました。

 

 〔すなわち〕『より過去なる者たちは、戒を最上とする者たちとして〔世に〕有った──すなわち、過去を思念する、それらの婆羅門たちは。……略……。

 ……一切の生類にたいし鬱積なくあるなら、それは、梵に至り得るための道である』と。

 

 婆羅門よ、このように、まさに、わたしに、それらの学生たちを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。

 

 「『〔感官の〕門が守られていない者』と、貴君カッチャーナは言いました。貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どのようなことから、〔感官の〕門が守られていない者と成るのですか」と。「婆羅門よ、ここに、一部の者は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺し、愛しくない形態の形態に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)を、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)を、事実のとおりに覚知しません。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺し、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。婆羅門よ、このように、まさに、〔感官の〕門が守られていない者と成ります」と。「貴君カッチャーナよ、めったにないことです。貴君カッチャーナよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君カッチャーナによって、これほどまでに、〔見事に〕告げ知らされたのは──まさしく、〔感官の〕門が守られていない者が、〔そのように〕存しつつ、『〔感官の〕門が守られていない者』と。

 

 『〔感官の〕門が守られている者』と、貴君カッチャーナは言いました。貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どのようなことから、〔感官の〕門が守られている者と成るのですか」と。「婆羅門よ、ここに、一部の者は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺せず、愛しくない形態の形態に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺せず、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。婆羅門よ、このように、まさに、〔感官の〕門が守られている者と成ります」と。

 

 「貴君カッチャーナよ、めったにないことです。貴君カッチャーナよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君カッチャーナによって、これほどまでに、〔見事に〕告げ知らされたのは──まさしく、〔感官の〕門が守られている者が、〔そのように〕存しつつ、『〔感官の〕門が守られている者』と。貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君カッチャーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君カッチャーナよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。そして、すなわち、貴君カッチャーナが、マッカラカタにおいて、在俗信者の家々に近づいて行くように、まさしく、このように、ローヒッチャの家に近づいて行きたまえ。そこにおいて、それらの、あるいは、学生たちが、あるいは、女学生たちが、貴君カッチャーナを敬拝し、立礼し、あるいは、坐を〔与え〕、あるいは、水を与えるなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ヴェーラハッチャーニの経

 

133. 或る時のことです。尊者ウダーインは、カーマンダーに住んでいます。トーデイヤ婆羅門のアンバ林において。そこで、まさに、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門の内弟子である学生が、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その学生に、尊者ウダーインは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、その学生は、尊者ウダーインによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、坐から立ち上がって、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門に、こう言いました。「尊女よ、どうか、知りたまえ。沙門ウダーインは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します」と。

 

 「学生よ、まさに、それでは、あなたは、わたしの言葉でもって、沙門ウダーインを、翌日の食事に招きなさい」と。「尊女よ、わかりました」と、まさに、その学生は、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門に答えて、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインに、こう言いました。「まさに、貴君ウダーインは、明日、わたしどもの師匠の妻であるヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門の食事〔の布施〕をお受けください」と。尊者ウダーインは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、尊者ウダーインは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門は、尊者ウダーインを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門は、尊者ウダーインが食事を終え、鉢から手を離すと、足場から登って、高き坐に坐って、頭を覆って、尊者ウダーインに、こう言いました。「沙門よ、法(教え)を話したまえ」と。「姉妹よ、〔そのための〕時が有るでしょう」と言って、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 再度また、まさに、その学生は、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その学生に、尊者ウダーインは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。再度また、まさに、その学生は、尊者ウダーインによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、坐から立ち上がって、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門に、こう言いました。「尊女よ、どうか、知りたまえ。沙門ウダーインは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します」と。

 

 「学生よ、また、まさしく、このように、あなたは、沙門ウダーインの栄誉を語ります。いっぽう、沙門ウダーインは、『沙門よ、法(教え)を話したまえ』と言われ、〔そのように〕存しつつ、『姉妹よ、〔そのための〕時が有るでしょう』と言って、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。「尊女よ、また、なぜなら、そのように、あなたは、足場から登って、高き坐に坐って、頭を覆って、尊者ウダーインに、こう言いました。『沙門よ、法(教え)を話したまえ』と。まさに、それらの尊き方たちは、法(教え)を重んじ、法(教え)を尊重する者たちです」と。「学生よ、まさに、それでは、あなたは、わたしの言葉でもって、沙門ウダーインを、翌日の食事に招きなさい」と。「尊女よ、わかりました」と、まさに、その学生は、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門に答えて、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインに、こう言いました。「まさに、貴君ウダーインは、明日、わたしどもの師匠の妻であるヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門の食事〔の布施〕をお受けください」と。尊者ウダーインは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、尊者ウダーインは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門は、尊者ウダーインを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門は、尊者ウダーインが食事を終え、鉢から手を離すと、足場から降りて、低き坐に坐って、頭を顕わにして、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何が存しているとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知し、何が存していないとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知しないのですか」と。

 

 「姉妹よ、まさに、眼が存しているとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知し、眼が存していないとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知しません。……略……。舌が存しているとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知し、舌が存していないとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知しません。……略……。意が存しているとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知し、意が存していないとき、阿羅漢たちは、楽と苦を報知しません」と。

 

 このように説かれたとき、ヴェーラハッチャーニ姓の女性婆羅門は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、尊貴なるウダーインによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊貴なるウダーインよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊貴なるウダーインは、わたしを、女性在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

 家長の章が第十三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ヴェーサーリー、ヴァッジー、ナーランダー、バーラドヴァージャ、そして、ソーナ、ゴーシタ、ハーリッディカ、ナクラピタル、ローヒッチャ、ヴェーラハッチャーニがあり、〔章となる〕」と。

 

14. デーヴァダハの章

 

1. デーヴァダハの経

 

134. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、デーヴァダハという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって為すべきことがある』と説きません。比丘たちよ、また、そして、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないことによって為すべきことはない』と説きません。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、比丘たちよ、わたしは、それらの比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないことによって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼らには、〔気づきを〕怠らないことによって〔為すべきことが〕為されたのであり、彼らは、〔気づきを〕怠ることが不可能となります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、わたしは、それらの比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないことによって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態が存在します──意が喜びとするものもまた、意が喜びとしないものもまた。それらが触れては触れても、〔修行者である〕彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心が完全に奪い去られないことから、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、これを〔気づきを〕怠らないことの果と正しく見ながら、それらの比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないことによって為すべきことがある』と説きます。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が存在します──意が喜びとするものもまた、意が喜びとしないものもまた。それらが触れては触れても、〔修行者である〕彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心が完全に奪い去られないことから、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、これを〔気づきを〕怠らないことの果と正しく見ながら、それらの比丘たちに、『六つの接触ある〔認識の〕場所において、〔気づきを〕怠らないことによって為すべきことがある』と説きます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 時節の経

 

135. 「比丘たちよ、あなたたちには、諸々の利得があります。比丘たちよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。あなたたちには、梵行の住のための時節が獲得されたのです。比丘たちよ、わたしによって、『六つの接触ある〔認識の〕場所なるもの』という名の諸々の地獄が見られました。そこにおいて、それが何であれ、眼によって、形態を見るなら、まさしく、好ましくない形態のものとして見ます──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして見ます──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして見ます──意に適う形態のものではなく。それが何であれ、耳によって、音声を聞くなら……略……。それが何であれ、鼻によって、臭気を嗅ぐなら……略……。それが何であれ、舌によって、味感を味わうなら……略……。それが何であれ、身によって、感触と接触するなら……。それが何であれ、意によって、法(意の対象)を識知するなら、まさしく、好ましくない形態のものとして識知します──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして識知します──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして識知します──意に適う形態のものではなく。比丘たちよ、あなたたちには、諸々の利得があります。比丘たちよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。あなたたちには、梵行の住のために獲得された時節があります。比丘たちよ、わたしによって、『六つの接触ある〔認識の〕場所なるもの』という名の諸々の天上が見られました。そこにおいて、それが何であれ、眼によって、形態を見るなら、まさしく、好ましい形態のものとして見ます──好ましくない形態のものではなく。まさしく、愛らしい形態のものとして見ます──愛らしくない形態のものではなく。まさしく、意に適う形態のものとして見ます──意に適わない形態のものではなく。……略……。それが何であれ、舌によって、味感を味わうなら……略……。それが何であれ、意によって、法(意の対象)を識知するなら、まさしく、好ましい形態のものとして識知します──好ましくない形態のものではなく。まさしく、愛らしい形態のものとして識知します──愛らしくない形態のものではなく。まさしく、意に適う形態のものとして識知します──意に適わない形態のものではなく。比丘たちよ、あなたたちには、諸々の利得があります。比丘たちよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。あなたたちには、梵行の住のための時節が獲得されたのです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の形態を喜びとする者たちの経

 

136. 「比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜する者たちです。比丘たちよ、形態の変化と離貪と止滅あることから、天〔の神々〕と人間たちは、苦痛ある者たちとなり、〔世に〕住みます。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、音声を喜びとし、音声を喜び、音声に歓喜する者たちです。比丘たちよ、音声の変化と離貪と止滅あることから、天〔の神々〕と人間たちは、苦痛ある者たちとなり、〔世に〕住みます。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、臭気を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、味感を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、感触を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜する者たちです。比丘たちよ、法(意の対象)の変化と離貪と止滅あることから、天〔の神々〕と人間たちは、苦痛ある者たちとなり、〔世に〕住みます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、諸々の形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、形態を喜びとせず、形態を喜ばず、形態に歓喜しない者となります。比丘たちよ、形態の変化と離貪と止滅あることから、如来は、安楽ある者となり、〔世に〕住みます。諸々の音声の……。諸々の臭気の……。諸々の味感の……。諸々の感触の……。諸々の法(意の対象)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、法(意の対象)を喜びとせず、法(意の対象)を喜ばず、法(意の対象)に歓喜しない者となります。比丘たちよ、法(意の対象)の変化と離貪と止滅あることから、如来は、安楽ある者となり、〔世に〕住みます」と(※)。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の形態、諸々の音声、諸々の味感、諸々の臭気、諸々の接触は、さらに、諸々の法(意の対象)の全部は、そして、諸々の好ましく愛らしく意に適うもので、『〔世に〕存在する』と言われる、そのかぎりのものは──

 

 これらのものは、まさに、天を含む世〔の人々〕にとって、楽しみと等しく思認されたものである。しかしながら、そこにおいて、これらのものが止滅するなら、それは、彼らにとって、苦しみと等しく思認されたものとなる。

 

 身体を有する〔という誤った見解〕の止滅は、聖者たちによって、楽しみと見られた。〔あるがままに〕見ている者たちの、この〔ものの見方〕は、一切の世〔の人々〕とは、正反対のものとして有る。

 

 それを、他者たちが、『楽しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『苦しみである』と言う。それを、他者たちが、『苦しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『楽しみである』と知る。

 

 見よ──了知し難き法(真理)を。等しく迷乱した者たちは、ここにおいて、無知なる者たちとなる。〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ていない者たちには、暗黒が〔有る〕。

 

 そして、正しくある者たちには、〔迷妄の覆いが〕開かれた〔あるがままの知見〕が有り、〔あるがままに〕見ている者たちには、ここに(※)、光明が〔有る〕。大いなる法(真理)の(※※)熟知者ならざる者たちは、〔法の〕現前にあるも、〔法を〕識知しない。

 

※ テキストには passatāmi とあるが、PTS版により passata idha と読む。

※※ テキストには maggā dhammassa とあるが、PTS版により mahādhammassa と読む。

 

 生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた者たちによって、生存にたいする貪り〔の思い〕に従い行く者たちによって、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が善く正覚されることはない。

 

 聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境処を正覚するにふさわしいというのだろう──〔まさに〕その境処を正しく了知して、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達する」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の形態を喜びとする者たちの経

 

137. 「比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜する者たちです。比丘たちよ、形態の変化と離貪と止滅あることから、天〔の神々〕と人間たちは、苦痛ある者たちとなり、〔世に〕住みます。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、音声を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、臭気を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、味感を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、感触を喜びとし……。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜する者たちです。比丘たちよ、法(意の対象)の変化と離貪と止滅あることから、天〔の神々〕と人間たちは、苦痛ある者たちとなり、〔世に〕住みます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、諸々の形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、形態を喜びとせず、形態を喜ばず、形態に歓喜しない者となります。比丘たちよ、形態の変化と離貪と止滅あることから、如来は、安楽ある者となり、〔世に〕住みます。諸々の音声の……。諸々の臭気の……。諸々の味感の……。諸々の感触の……。諸々の法(意の対象)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、法(意の対象)を喜びとせず、法(意の対象)を喜ばず、法(意の対象)に歓喜しない者となります。比丘たちよ、法(意の対象)の変化と離貪と止滅あることから、如来は、安楽ある者となり、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の「あなたたちのものでないなら」の経

 

138. 「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、眼は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。舌は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。意は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも、あるいは、自己に属するものでも、ないからです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。舌は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。意は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

 

139. 「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。諸々の形態は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。諸々の味感は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……。諸々の法(意の対象)は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それは、たとえば、また、このジェータ林にある……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の形態は、あなたたちのものではありません。それらを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。……略……」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 内なる無常の因の経

 

140. 「比丘たちよ、眼は無常です。眼の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常から発生した眼が、どうして、常住として有るというのでしょう。……略……。舌は、無常です。舌の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常から発生した舌が、どうして、常住として有るというのでしょう。……略……。意は、無常です。意の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常から発生した意が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……舌にたいしてもまた厭離し……略……意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 内なる苦痛の因の経

 

141. 「比丘たちよ、眼は苦痛です。眼の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛から発生した眼が、どうして、安楽として有るというのでしょう。……略……。舌は、苦痛です。舌の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛から発生した舌が、どうして、安楽として有るというのでしょう。……略……。意は、苦痛です。意の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛から発生した意が、どうして、安楽として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 内なる無我の因の経

 

142. 「比丘たちよ、眼は無我です。眼の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我から発生した眼が、どうして、自己として有るというのでしょう。……略……。舌は、無我です。舌の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我から発生した舌が、どうして、自己として有るというのでしょう。……略……。意は、無我です。意の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我から発生した意が、どうして、自己として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 外なる無常の因の経

 

143. 「比丘たちよ、諸々の形態は無常です。諸々の形態の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常から発生した諸々の形態が、どうして、常住として有るというのでしょう。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無常です。諸々の法(意の対象)の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常から発生した諸々の法(意の対象)が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 外なる苦痛の因の経

 

144. 「比丘たちよ、諸々の形態は苦痛です。諸々の形態の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛から発生した諸々の形態が、どうして、安楽として有るというのでしょう。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、苦痛です。諸々の法(意の対象)の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛から発生した諸々の法(意の対象)が、どうして、安楽として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 外なる無我の因の経

 

145. 「比丘たちよ、諸々の形態は無我です。諸々の形態の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我から発生した諸々の形態が、どうして、自己として有るというのでしょう。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無我です。諸々の法(意の対象)の生起のための、すなわち、また、因であるなら、すなわち、また、縁であるなら、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我から発生した諸々の法(意の対象)が、どうして、自己として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、諸々の音声にたいしてもまた厭離し、諸々の臭気にたいしてもまた厭離し、諸々の味感にたいしてもまた厭離し、諸々の感触にたいしてもまた厭離し、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 デーヴァダハの章が第十四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「デーヴァダハ、時節、〔二つの〕形態、さらに、まさしく、二つの『あなたたちのものでないなら』があり、因によってもまた、三つのものがあり、〔それぞれに〕内なるものと外なるものの二つのものが説かれ、〔章となる〕」と。

 

15. 新しいものと古いものの章

 

1. 行為の止滅の経

 

146. 「比丘たちよ、新しい〔行為〕と古い行為(旧業)を、行為の止滅を、そして、行為の止滅に至る〔実践の〕道を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、古い行為なのですか。眼は、古い行為〔が結果したもの〕であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。……略……。舌は、古い行為〔が結果したもの〕であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。……略……。意は、古い行為〔が結果したもの〕であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。……略……。比丘たちよ、これは、古い行為と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、新しい行為なのですか。比丘たちよ、まさに、今現在、その行為を為すなら──身体によって、言葉によって、意によって──比丘たちよ、これは、新しい行為と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、行為の止滅なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の行為と言葉の行為と意の行為の止滅あることから、解脱を体得するなら、比丘たちよ、これは、行為の止滅と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、行為の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。比丘たちよ、これは、行為の止滅に至る〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、古い行為が説示され、新しい行為が説示され、行為の止滅が説示され、行為の止滅に至る〔実践の〕道が説示されました。比丘たちよ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 無常と涅槃のための正当なるものの経

 

147. 「比丘たちよ、涅槃のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『眼は、無常である』と見ます。『諸々の形態は、無常である』と見ます。『眼の識知〔作用〕は、無常である』と見ます。『眼の接触は、無常である』と見ます。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と見ます。……略……。『舌は、無常である』と見ます。『諸々の味感は、無常である』と見ます。『舌の識知〔作用〕は、無常である』と見ます。『舌の接触は、無常である』と見ます。『すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と見ます。……略……。『意は、無常である』と見ます。『諸々の法(意の対象)は、無常である』と見ます。『意の識知〔作用〕は、無常である』と見ます。『意の接触は、無常である』と見ます。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と見ます。比丘たちよ、これは、まさに、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 苦痛と涅槃のための正当なるものの経

 

148. 「比丘たちよ、涅槃のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『眼は、苦痛である』と見ます。『諸々の形態は、苦痛である』と見ます。『眼の識知〔作用〕は、苦痛である』と見ます。『眼の接触は、苦痛である』と見ます。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛である』と見ます。……略……。『舌は、苦痛である』と見ます。……略……。『意は、苦痛である』と見ます。『諸々の法(意の対象)は、苦痛である』と見ます。『意の識知〔作用〕は、苦痛である』と見ます。『意の接触は、苦痛である』と見ます。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛である』と見ます。比丘たちよ、これは、まさに、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 無我と涅槃のための正当なるものの経

 

149. 「比丘たちよ、涅槃のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『眼は、無我である』と見ます。『諸々の形態は、無我である』と見ます。『眼の識知〔作用〕は、無我である』と見ます。『眼の接触は、無我である』と見ます。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無我である』と見ます。……略……。『意は、無我である』と見ます。『諸々の法(意の対象)は、無我である』と見ます。『意の識知〔作用〕は、無我である』と見ます。『意の接触は、無我である』と見ます。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無我である』と見ます。比丘たちよ、これは、まさに、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 涅槃のための正当なる〔実践の〕道の経

 

150. 「比丘たちよ、涅槃のための正当なる〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。

 

 「眼の識知〔作用〕は……。「眼の接触は……略……。「すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、その、涅槃のための正当なる〔実践の〕道です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 内弟子の経

 

151. 「比丘たちよ、この梵行は、内弟子なく師匠なきものとして住されます。比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、内弟子なく師匠なき比丘は、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住する(アントーヴァサティ)、ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)を有する者』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる(サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠を有する者(アーチャリヤ)』と説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、舌によって、味感を味わって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住する、ということで、それゆえに、『内弟子を有する者』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する者』と説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住する、ということで、それゆえに、『内弟子を有する者』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する者』と説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、内弟子なく師匠なき比丘は、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起しません。それらは、彼の内に住しません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住さない、ということで、それゆえに、『内弟子なき者』と説かれます。それらは、彼に慣行となりません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行とならない、ということで、それゆえに、『師匠なき者』と説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、舌によって、味感を味わって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起しません。それらは、彼の内に住しません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住さない、ということで、それゆえに、『内弟子なき者』と説かれます。それらは、彼に慣行となりません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行とならない、ということで、それゆえに、『師匠なき者』と説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起しません。それらは、彼の内に住しません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼の内に住さない、ということで、それゆえに、『内弟子なき者』と説かれます。それらは、彼に慣行となりません。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行とならない、ということで、それゆえに、『師匠なき者』と説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、内弟子なく師匠なき比丘は、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この梵行は、内弟子なく師匠なきものとして住されます。比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、内弟子なく師匠なき比丘は、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「何を義として、梵行が」の経

 

152. 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、苦しみの遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます』と。比丘たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、また、どのようなものが、苦しみなのですか。その〔苦しみ〕の遍知のために、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるとして』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。

 

 『友よ、まさに、眼は、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。諸々の形態は、苦しみです。それら〔の苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。眼の識知〔作用〕は、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。眼の接触は、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。……略……。舌は、苦しみです。……略……。意は、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます。友よ、まさに、これが、苦しみです。その〔苦しみ〕の遍知のために、世尊のもと、梵行は住されます』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「まさに、教相が存在しますか」の経

 

153. 「比丘たちよ、いったい、まさに、教相が存在しますか──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞(伝聞)より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、教相が存在します──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に……略……見解の納得による受認より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、あるいは、内に存している貪欲()と憤怒()と迷妄()を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知します。比丘たちよ、すなわち、それで、比丘が、眼によって、形態を見て、あるいは、内に存している貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知するなら、比丘たちよ、さて、いったい、これらの法(性質)は、あるいは、信仰によって知られるべきでしょうか、あるいは、嗜好によって知られるべきでしょうか、あるいは、聴聞によって知られるべきでしょうか、あるいは、行相による思索によって知られるべきでしょうか、あるいは、見解の納得による受認によって知られるべきでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの法(性質)は、智慧によって見て、知られるべきではないでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に……略……見解の納得による受認より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、舌によって、味感を味わって、あるいは、内に存している貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知します。比丘たちよ、すなわち、それで、比丘が、舌によって、味感を味わって、あるいは、内に存している貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知するなら、比丘たちよ、さて、いったい、これらの法(性質)は、あるいは、信仰によって知られるべきでしょうか、あるいは、嗜好によって知られるべきでしょうか、あるいは、聴聞によって知られるべきでしょうか、あるいは、行相による思索によって知られるべきでしょうか、あるいは、見解の納得による受認によって知られるべきでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの法(性質)は、智慧によって見て、知られるべきではないでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に……略……見解の納得による受認より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、あるいは、内に存している貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知します。比丘たちよ、すなわち、それで、比丘が、意によって、法(意の対象)を識知して、あるいは、内に存している貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄が存在する』と覚知し、あるいは、内に存在していない貪欲と憤怒と迷妄を、『わたしの内に、貪欲と憤怒と迷妄は存在しない』と覚知するなら、比丘たちよ、さて、いったい、これらの法(性質)は、あるいは、信仰によって知られるべきでしょうか、あるいは、嗜好によって知られるべきでしょうか、あるいは、聴聞によって知られるべきでしょうか、あるいは、行相による思索によって知られるべきでしょうか、あるいは、見解の納得による受認によって知られるべきでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの法(性質)は、智慧によって見て、知られるべきではないでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、比丘は、まさしく、信仰より他に……略……見解の納得による受認より他に、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔感官の〕機能の成就者の経

 

154. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『〔感官の〕機能()の成就者』『〔感官の〕機能の成就者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔感官の〕機能の成就者と成るのですか」と。

 

 「もし、比丘が、眼の〔感官の〕機能(眼根)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいるなら、眼の〔感官の〕機能にたいし厭離します。……略……。もし、比丘が、舌の〔感官の〕機能(舌根)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいるなら、舌の〔感官の〕機能にたいし厭離します。……略……。もし、比丘が、意の〔感官の〕機能(意根)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいるなら、意の〔感官の〕機能にたいし厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘よ、このことから、まさに、〔感官の〕機能の成就者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 法の講話者についての問いの経

 

155. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の講話者』『法(教え)の講話者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)の講話者と成るのですか」と。

 

 「もし、比丘が、眼の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、比丘が、眼の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、比丘が、眼の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。……略……。もし、比丘が、舌の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。……略……。もし、比丘が、意の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、比丘が、意の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、比丘が、意の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 新しいものと古いものの章が第十五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「行為、四つの正当なるもの、内弟子、『何を義として』があり、『いったい、まさに、教相が存在しますか』があり、そして、〔感官の〕機能と講話者とともに、〔章となる〕」と。

 

 六つの〔認識の〕場所の部における第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔五十なるもの〕のための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、束縛からの平安ある者、さらに、世、家長があり、そして、デーヴァダハとともに、新しいものと古いものとともに、それによって、第三の五十〔の経〕と説かれる」と。

 

16. 愉悦の滅尽の章

 

1. 内なる愉悦の滅尽の経

 

156. 「比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、眼を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解(正見)と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。……略……。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、舌を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから……略……『心は善く解脱している』と説かれます。……略……。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、意を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 外なる愉悦の滅尽の経

 

157. 「比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、諸々の形態を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……諸々の法(意の対象)を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 内なる無常の愉悦の滅尽の経

 

158. 「比丘たちよ、眼を、根源のままに意を為しなさい。さらに、眼の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、眼を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、眼の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、眼にたいしてもまた厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、耳を、根源のままに意を為しなさい。……。比丘たちよ、鼻を……。比丘たちよ、舌を、根源のままに意を為しなさい。さらに、舌の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、舌を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、舌の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、舌にたいしてもまた厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、身を……。比丘たちよ、意を、根源のままに意を為しなさい。さらに、意の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、意を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、意の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、意にたいしてもまた厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 外なる無常の愉悦の滅尽の経

 

159. 「比丘たちよ、諸々の形態を、根源のままに意を為しなさい。さらに、諸々の形態の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、諸々の形態を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、諸々の形態の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、諸々の形態にたいしてもまた厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、諸々の音声を……。比丘たちよ、諸々の臭気を……。比丘たちよ、諸々の味感を……。比丘たちよ、諸々の感触を……。比丘たちよ、諸々の法(意の対象)を、根源のままに意を為しなさい。さらに、諸々の法(意の対象)の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、諸々の法(意の対象)を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、諸々の法(意の対象)の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ジーヴァカのアンバ林と禅定の経

 

160. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ジーヴァカのアンバ林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。……略……。「比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘には、事実のとおりに現出します。では、何が、事実のとおりに現出するのですか。『眼は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『諸々の形態は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『眼の識知〔作用〕は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『眼の接触は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに現出します。……略……。『舌は、無常である』と、事実のとおりに現出します。……略……。『意は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『諸々の法(意の対象)は、無常である』と、事実のとおりに現出します。……略……。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに現出します。比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘には、事実のとおりに現出します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ジーヴァカのアンバ林と静坐の経

 

161. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ジーヴァカのアンバ林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。……略……。「比丘たちよ、静坐において〔心の〕制止(瑜伽)を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐している比丘には、事実のとおりに現出します。では、何が、事実のとおりに現出するのですか。『眼は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『諸々の形態は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『眼の識知〔作用〕は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『眼の接触は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに現出します。……略……。『意は、無常である』と、事実のとおりに現出します。『諸々の法(意の対象)は……。『意の識知〔作用〕は……。『意の接触は……。『すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』と、事実のとおりに現出します。比丘たちよ、静坐において〔心の〕制止を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐している比丘には、事実のとおりに現出します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. コッティカと無常の経

 

162. そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「コッティカよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、では、何が、無常なのですか。コッティカよ、まさに、眼は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の形態は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の接触は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の味感は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。舌の識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。舌の接触は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の法(意の対象)は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。意の識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。意の接触は、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. コッティカと苦痛の経

 

163. そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが……略……世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに……略……〔世に〕住むべく」と。「コッティカよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、では、何が、苦痛なのですか。コッティカよ、まさに、眼は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の形態は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の識知〔作用〕は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の接触は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の法(意の対象)は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。意の識知〔作用〕は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。意の接触は、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、苦痛です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. コッティカと無我の経

 

164. 一方に坐った……略……〔世に〕住むべく」と。「コッティカよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、では、何が、無我なのですか。コッティカよ、まさに、眼は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の形態は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の識知〔作用〕は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。眼の接触は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の法(意の対象)は、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。意の識知〔作用〕は……。意の接触は……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無我です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。コッティカよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 誤った見解の捨棄の経

 

165. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、誤った見解(邪見)は捨棄されますか」と。

 

 「比丘よ、まさに、眼を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。諸々の形態を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。眼の識知〔作用〕を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。眼の接触を、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無常〔の観点〕から、知っていると、見ていると、誤った見解は捨棄されます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、誤った見解は捨棄されます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 身体を有するという見解の捨棄の経

 

166. そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)は捨棄されますか」と。「比丘よ、まさに、眼を、苦痛〔の観点〕から、知っていると、見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます。諸々の形態を、苦痛〔の観点〕から、知っていると、見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます。眼の識知〔作用〕を、苦痛〔の観点〕から、知っていると、見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます。眼の接触を、苦痛〔の観点〕から、知っていると、見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます。……略……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、苦痛〔の観点〕から、知っていると、見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、身体を有するという見解は捨棄されます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 自己についての偏った見解の捨棄の経

 

167. そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、自己についての偏った見解(我見)は捨棄されますか」と。「比丘よ、まさに、眼を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。諸々の形態を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。眼の識知〔作用〕を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。眼の接触を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。……略……。舌を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。……略……。意を、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。諸々の法(意の対象)を……意の識知〔作用〕を。……。意の接触を。……。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、無我〔の観点〕から、知っていると、見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、自己についての偏った見解は捨棄されます」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 愉悦の滅尽の章が第十六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「愉悦の滅尽によって、四つのものが〔説かれ〕、ジーヴァカのアンバ林において、二つのものが〔説かれ〕、コッティカによって、三つのものが説かれ、誤った〔見解〕と身体を有するという〔見解〕と自己についての〔偏った見解〕があり、〔章となる〕」と。

 

17. 六十の省略〔の経典〕の章

 

1. 内なる無常と欲〔の思い〕の経

 

168. 「比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、まさに、眼は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

2. 内なる無常と貪り〔の思い〕の経

 

169. 「比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、まさに、眼は、無常です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無常です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、無常です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

3. 内なる無常と欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経

 

170. 「比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、まさに、眼は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。意は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

4-6. 苦痛と欲〔の思い〕等の経

 

171-173. 「比丘たちよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、苦痛なのですか。比丘たちよ、まさに、眼は、苦痛です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、苦痛です。……略……。意は、苦痛です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

7-9. 無我と欲〔の思い〕等の経

 

174-176. 「比丘たちよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無我なのですか。比丘たちよ、まさに、眼は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。舌は、無我です。……略……。意は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

10-12. 外なる無常と欲〔の思い〕等の経

 

177-179. 「比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、まさに、諸々の形態は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の音声は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の臭気は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の味感は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の感触は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の法(意の対象)は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

13-15. 外なる苦痛と欲〔の思い〕等の経

 

180-182. 「比丘たちよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、苦痛なのですか。比丘たちよ、まさに、諸々の形態は、苦痛です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、苦痛です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

16-18. 外なる無我と欲〔の思い〕等の経

 

183-185. 「比丘たちよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無我なのですか。比丘たちよ、まさに、諸々の形態は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、まさに、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。

 

19. 内なる過去の無常の経

 

186. 「比丘たちよ、過去の眼は、無常です。……略……。過去の舌は、無常です。……略……。過去の意は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し……略……舌にたいしてもまた厭離し……略……意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

20. 内なる未来の無常の経

 

187. 「比丘たちよ、未来の眼は、無常です。……略……。未来の舌は、無常です。……略……。未来の意は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

21. 内なる現在の無常の経

 

188. 「比丘たちよ、現在の眼は、無常です。……略……。現在の舌は、無常です。……略……。現在の意は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

22-24. 内なる過去等の苦痛の経

 

189-191. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の眼は、苦痛です。……略……。過去の……。未来の……。現在の舌は、苦痛です。……略……。過去の……。未来の……。現在の意は、苦痛です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

25-27. 内なる過去等の無我の経

 

192-194. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の眼は、無我です。……略……。過去の……。未来の……。現在の舌は、無我です。……略……。過去の……。未来の……。現在の意は、無我です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

28-30. 外なる過去等の無常の経

 

195-197. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、無常です。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

31-33. 外なる過去等の苦痛の経

 

198-200. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、苦痛です。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、苦痛です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

34-36. 外なる過去等の無我の経

 

201-203. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、無我です。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、無我です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

37. 内なる過去の「それが、無常であるなら」の経

 

204. 「比丘たちよ、過去の眼は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。過去の舌は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。過去の意は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

38. 内なる未来の「それが、無常であるなら」の経

 

205. 「比丘たちよ、未来の眼は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。未来の舌は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。未来の意は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

39. 内なる現在の「それが、無常であるなら」の経

 

206. 「比丘たちよ、現在の眼は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。現在の舌は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。現在の意は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

40-42. 内なる過去等の「それが、苦痛であるなら」の経

 

207-209. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の眼は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。過去の……。未来の……。現在の舌は、苦痛です。……略……。過去の……。未来の……。現在の意は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

43-45. 内なる過去等の「それが、無我であるなら」の経

 

210-212. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の眼は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。過去の……。未来の……。現在の舌は、無我です。……略……。過去の……。未来の……。現在の意は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

46-48. 外なる過去等の「それが、無常であるなら」の経

 

213-215. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

49-51. 外なる過去等の「それが、苦痛であるなら」の経

 

216-218. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

52-54. 外なる過去等の「それが、無我であるなら」の経

 

219-221. 「比丘たちよ、過去の……。未来の……。現在の諸々の形態は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。過去の……。未来の……。現在の諸々の音声は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の臭気は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の味感は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の感触は……。過去の……。未来の……。現在の諸々の法(意の対象)は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

55. 内なる〔認識の〕場所の無常の経

 

222. 「比丘たちよ、眼は、無常です。……略……。舌は、無常です。……略……。意は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

56. 内なる〔認識の〕場所の苦痛の経

 

223. 「比丘たちよ、眼は、苦痛です。……略……。舌は、苦痛です。……略……。意は、苦痛です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

57. 内なる〔認識の〕場所の無我の経

 

224. 「比丘たちよ、眼は、無我です。……略……。舌は、無我です。……略……。意は、無我です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

58. 外なる〔認識の〕場所の無常の経

 

225. 「比丘たちよ、諸々の形態は、無常です。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

59. 外なる〔認識の〕場所の苦痛の経

 

226. 「比丘たちよ、諸々の形態は、苦痛です。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、苦痛です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

60. 外なる〔認識の〕場所の無我の経

 

227. 「比丘たちよ、諸々の形態は、無我です。諸々の音声は……。諸々の臭気は……。諸々の味感は……。諸々の感触は……。諸々の法(意の対象)は、無我です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 六十の省略〔の経典〕の章が第十七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「欲〔の思い〕による十八のものが有り、さらに、過去〔と未来と現在〕によって、二つの九つのものが〔説かれ〕、『それが、無常であるなら』〔等〕の十八のものが説かれ、三つの〔認識の場所〕があり、〔それぞれに〕内なるものと外なるものが〔説かれ〕、省略〔の経典〕の六十なるものが説かれた」と。

 

 〔以上が〕六十の経典となる。

 

18. 海の章

 

1. 第一の海の経

 

228. 「比丘たちよ、『海』『海』と、無聞の凡夫は語ります。比丘たちよ、これは、聖者の律における海ではありません。比丘たちよ、これは、大いなる水の集積物であり、大いなる水の流動体です。比丘たちよ、眼は、人にとっての海です。その〔海〕には、形態から作られる衝動があります。彼が、その、形態から作られる衝動に耐えるなら、比丘たちよ、この者は、『波を有し、渦を有し、水鬼を有し、羅刹を有する、眼の海を超え渡った。〔海を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』〔と〕説かれます。……略……。比丘たちよ、舌は、人にとっての海です。その〔海〕には、味感から作られる衝動があります。彼が、その、味感から作られる衝動に耐えるなら、比丘たちよ、この者は、『波を有し、渦を有し、水鬼を有し、羅刹を有する、舌の海を超え渡った。〔海を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』〔と〕説かれます。……略……。比丘たちよ、意は、人にとっての海です。その〔海〕には、法(意の対象)から作られる衝動があります。彼が、その、法(意の対象)から作られる衝動に耐えるなら、比丘たちよ、この者は、『波を有し、渦を有し、水鬼を有し、羅刹を有する、意の海を超え渡った。〔海を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』〔と〕説かれます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、水鬼を有し、羅刹を有し、波を有し、渦を有し、恐怖を有する、この超え難き〔輪廻の〕海を超え渡ったなら、彼は、〔真の〕知に至る者であり、『梵行の完成者』『世の終極に至る者』『彼岸に至った者』と説かれる」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の海の経

 

229. 「比丘たちよ、『海』『海』と、無聞の凡夫は語ります。比丘たちよ、これは、聖者の律における意味ではありません。比丘たちよ、これは、大いなる水の集積物であり、大いなる水の流動体です。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これは、聖者の律における海と説かれます。ここにおいて、この、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕は、天〔の神〕や人間を含む人々は、多くのところとして、沈み込んだ者たちとなり、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり(※)、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません。……略……。

 

※ テキストには kulagaṇṭhikajātā とあるが、PTS版により gulāguṇṭhikajātā と読む。以下の並行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。比丘たちよ、これは、聖者の律における海と説かれます。ここにおいて、この、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕は、天〔の神〕や人間を含む人々は、多くのところとして、沈み込んだ者たちとなり、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼の、そして、貪欲が、かつまた、憤怒が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、彼は、水鬼を有し、羅刹を有し、波の恐怖を有する、この超え難き〔輪廻の〕海を超え渡った。

 

 執着を超え行き、死魔〔の領域〕を捨棄し、依り所なき者は、さらなる生存なきために、苦しみを捨棄した。滅却〔の道〕に至った者は、彼は、〔もはや、この世に〕戻り来ない。『〔彼は〕死魔の王を迷わせた』と、〔わたしは〕説く」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 漁師の喩えの経

 

230. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、漁師が、餌を付けた釣り針を深い湖水に投げ入れ、〔まさに〕その、この〔釣針〕を、或るどこかの餌を眼にする魚が飲み込むようなものです。比丘たちよ、まさに、このように、その魚は、漁師の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、漁師の欲するままに為される者となります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、六つのものがあります。これらの、世における、有情たちの不幸のための、命あるものたちの殺戮のための、釣針です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマント(悪魔)の欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。……略……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。

 

 比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、そして、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込まず、不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。……略……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込まず、不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 乳の木の喩えの経

 

231. 「比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら、すなわち、憤怒が、それが存在するなら、すなわち、迷妄が、それが存在するなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないなら、たとえ、もし、僅かなものであれ、眼によって識知されるべき諸々の形態が、彼の眼の視野にやってくるとして、彼の心を、まさしく、完全に奪い去ります。旺盛なるもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在するからであり、すなわち、憤怒が、それが存在するからであり、すなわち、迷妄が、それが存在するからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないからです。……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら、すなわち、憤怒が、それが存在するなら、すなわち、迷妄が、それが存在するなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないなら、たとえ、もし、僅かなものであれ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、彼の意の視野にやってくるとして、彼の心を、まさしく、完全に奪い去ります。旺盛なるもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在するからであり、すなわち、憤怒が、それが存在するからであり、すなわち、迷妄が、それが存在するからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、乳の木で、あるいは、アッサッタ〔樹〕が、あるいは、ニグローダ〔樹〕が、あるいは、ピラッカ〔樹〕が、あるいは、ウドゥンバラ〔樹〕が、年少で、幼く、若々しくあるとします。〔まさに〕その、この〔乳の木〕を、人が、鋭い斧で、そこかしこを破断するなら、乳が流れ出るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、すなわち、乳が、それが存在するからです」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら、すなわち、憤怒が、それが存在するなら、すなわち、迷妄が、それが存在するなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないなら、たとえ、もし、僅かなものであれ、眼によって識知されるべき諸々の形態が、彼の眼の視野にやってくるとして、彼の心を、まさしく、完全に奪い去ります。旺盛なるもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在するからであり、すなわち、憤怒が、それが存在するからであり、すなわち、迷妄が、それが存在するからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないからです。……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在するなら、すなわち、憤怒が、それが存在するなら、すなわち、迷妄が、それが存在するなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないなら、たとえ、もし、僅かなものであれ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、彼の意の視野にやってくるとして、彼の心を、まさしく、完全に奪い去ります。旺盛なるもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在するからであり、すなわち、憤怒が、それが存在するからであり、すなわち、迷妄が、それが存在するからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されていないからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されていないからです。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在しないなら、すなわち、憤怒が、それが存在しないなら、すなわち、迷妄が、それが存在しないなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているなら、たとえ、もし、旺盛なるものであれ、眼によって識知されるべき諸々の形態が、彼の眼の視野にやってくるとして、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。僅かなもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在しないからであり、すなわち、憤怒が、それが存在しないからであり、すなわち、迷妄が、それが存在しないからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているからです。……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……略……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在しないなら、すなわち、憤怒が、それが存在しないなら、すなわち、迷妄が、それが存在しないなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているなら、たとえ、もし、旺盛なるものであれ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、彼の意の視野にやってくるとして、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。僅かなもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在しないからであり、すなわち、憤怒が、それが存在しないからであり、すなわち、迷妄が、それが存在しないからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているからです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、乳の木で、あるいは、アッサッタ〔樹〕が、あるいは、ニグローダ〔樹〕が、あるいは、ピラッカ〔樹〕が、あるいは、ウドゥンバラ〔樹〕が、乾燥し、干涸び、年を経ているとします。〔まさに〕その、この〔乳の木〕を、人が、鋭い斧で、そこかしこを破断するなら、乳が流れ出るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、すなわち、乳が、それが存在しないからです」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在しないなら、すなわち、憤怒が、それが存在しないなら、すなわち、迷妄が、それが存在しないなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているなら、たとえ、もし、旺盛なるものであれ、眼によって識知されるべき諸々の形態が、彼の眼の視野にやってくるとして、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。僅かなもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在しないからであり、すなわち、憤怒が、それが存在しないからであり、すなわち、迷妄が、それが存在しないからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているからです。……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……略……。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、すなわち、貪欲が、それが存在しないなら、すなわち、憤怒が、それが存在しないなら、すなわち、迷妄が、それが存在しないなら、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているなら、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているなら、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているなら、たとえ、もし、旺盛なるものであれ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、彼の意の視野にやってくるとして、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。僅かなもののばあいは、また、何の論があるというのでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲が、それが存在しないからであり、すなわち、憤怒が、それが存在しないからであり、すなわち、迷妄が、それが存在しないからであり、すなわち、貪欲が、それが捨棄されているからであり、すなわち、憤怒が、それが捨棄されているからであり、すなわち、迷妄が、それが捨棄されているからです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. コッティカの経

 

232. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシー(波羅奈)に住んでいます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、眼は、諸々の形態にとって束縛するものなのですか、諸々の形態は、眼にとって束縛するものなのですか。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものなのですか、諸々の味感は、舌にとって束縛するものなのですか。……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものなのですか、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものなのですか」と。

 

 「友よ、コッティカよ、まさに、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものではなく、諸々の味感は、舌にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、そして、黒の雄牛が、さらに、白の雄牛が、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられ、〔そのように〕存しているようなものです。いったい、まさに、或る者が、『黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものであり、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものである』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものではなく、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、まさに、彼らが、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられているなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものではなく……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。

 

 友よ、あるいは、眼が、諸々の形態にとって束縛するものとして有ったなら、あるいは、諸々の形態が、眼にとって束縛するものとして〔有ったなら〕、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、眼が、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態が、眼にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなることから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。……略……。

 

 友よ、あるいは(※)、舌が、諸々の味感にとって束縛するものとして有ったなら、あるいは、諸々の味感が、舌にとって束縛するものとして〔有ったなら〕、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、舌が、諸々の味感にとって束縛するものではなく、諸々の味感が、舌にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなることから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。……略……。

 

※ PTS版により vā を補う。

 

 友よ、あるいは、意が、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものとして有ったなら、あるいは、諸々の法(意の対象)が、意にとって束縛するものとして〔有ったなら〕、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、意が、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)が、意にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなることから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 友よ、この教相によってもまた、このことが知られるべきです。すなわち、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものではなく……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。

 

 友よ、まさに、世尊に、眼は等しく見出され、世尊は、眼によって、形態を見るも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。友よ、まさに、世尊に、耳は等しく見出され、世尊は、耳によって、音声を聞くも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。友よ、まさに、世尊に、鼻は等しく見出され、世尊は、鼻によって、臭気を嗅ぐも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。友よ、まさに、世尊に、舌は等しく見出され、世尊は、舌によって、味感を味わうも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。友よ、まさに、世尊に、身は等しく見出され、世尊は、身によって、感触と接触するも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。友よ、まさに、世尊に、意は等しく見出され、世尊は、意によって、法(意の対象)を識知するも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてあります。

 

 友よ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……。耳は……。鼻は……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものではなく、諸々の味感は、舌にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。身は……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではなく、しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. カーマブーの経

 

233. 或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者カーマブーは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者カーマブーは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者カーマブーは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、眼は、諸々の形態にとって束縛するものなのですか、諸々の形態は、眼にとって束縛するものなのですか。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものなのですか、諸々の味感は、舌にとって束縛するものなのですか。……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものなのですか、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものなのですか」と。

 

 「友よ、カーマブーよ、まさに、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。……略……。舌は、諸々の味感にとって束縛するものではなく、諸々の味感は、舌にとって束縛するものではありません。……略……。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、そして、黒の雄牛が、さらに、白の雄牛が、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられ、〔そのように〕存しているようなものです。いったい、まさに、或る者が、『黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものであり、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものである』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものではなく、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、まさに、彼らが、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられているなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。友よ、まさしく、このように、まさに、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではありません。……略……。舌は……略……。意は……略……。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ウダーインの経

 

234. 或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者ウダーインは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者ウダーインは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウダーインは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、まさしく、すなわち、この身体が、世尊によって、無数の教相をもって、『かくのごとくもまた、この身体は、無我である』と、告知され、開顕され、明示されたように、まさしく、このように、識知〔作用〕もまた、これを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すことができますか──『かくのごとくもまた、この識知〔作用〕は、無我である』」と。

 

 「友よ、ウダーインよ、まさに、まさしく、すなわち、この身体が、世尊によって、無数の教相をもって、『かくのごとくもまた、この身体は、無我である』と、告知され、開顕され、明示されたように、まさしく、このように、識知〔作用〕もまた、これを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すことができます──『かくのごとくもまた、この識知〔作用〕は、無我である』と。

 

 友よ、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起するのですか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、眼の識知〔作用〕の生起のための、そして、すなわち、因であるなら、さらに、すなわち、縁であるなら、そして、その因が、さらに、その縁が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、さて、いったい、まさに、眼の識知〔作用〕は覚知されますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、このことは、世尊によって、この教相によってもまた、告知され、開顕され、明示されました──『かくのごとくもまた、この識知〔作用〕は、無我である』と。……略……。

 

 友よ、かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起するのですか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、舌の識知〔作用〕の生起のための、そして、すなわち、因であるなら、さらに、すなわち、縁であるなら、そして、その因が、さらに、その縁が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、さて、いったい、まさに、舌の識知〔作用〕は覚知されますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、このことは、世尊によって、この教相によってもまた、告知され、開顕され、明示されました──『かくのごとくもまた、この識知〔作用〕は、無我である』と。……略……。

 

 友よ、かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起するのですか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、意の識知〔作用〕の生起のための、そして、すなわち、因であるなら、さらに、すなわち、縁であるなら、そして、その因が、さらに、その縁が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、さて、いったい、まさに、意の識知〔作用〕は覚知されますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、このことは、世尊によって、この教相によってもまた、告知され、開顕され、明示されました──『かくのごとくもまた、この識知〔作用〕は、無我である』と。

 

 友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく、極めて高く生えた、大いなる芭蕉の幹を見ます。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、樹皮を剥がします。彼は、そこにおいて、軟材にさえも遭遇しません。どうして、硬材に〔遭遇するというのでしょう〕。友よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、六つの接触ある〔認識の〕場所において、まさしく、自己を〔等しく随観せ〕ず、自己に属するものを等しく随観しません。彼は、このように等しく随観せずにいながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 燃え盛るものの教相の経

 

235. 「比丘たちよ、燃え盛るものの教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、燃え盛るものの教相であり、法(教え)の教相なのですか。比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、熱せられた鉄の箆(へら)で、眼の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、眼によって識知されるべき諸々の形態において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく。比丘たちよ、識知〔作用〕が、あるいは、形相の悦楽を収め取ったものとして、あるいは、付随する特徴の悦楽を収め取ったものとして、止住しつつ止住し、もし、その時点において、命を終えるなら、この状況が見出されます。すなわち、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇に赴くであろう、〔という、この状況が〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い鉄の杭で、耳の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、耳によって識知されるべき諸々の音声において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく。比丘たちよ、識知〔作用〕が、あるいは、形相の悦楽を収め取ったものとして、あるいは、付随する特徴の悦楽を収め取ったものとして、止住しつつ止住し、もし、その時点において、命を終えるなら、この状況が見出されます。すなわち、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇に赴くであろう、〔という、この状況が〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い爪切りで、鼻の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、鼻によって識知されるべき諸々の臭気において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく。比丘たちよ、識知〔作用〕が、あるいは、形相の悦楽を収め取ったものとして、あるいは、付随する特徴の悦楽を収め取ったものとして、止住しつつ止住し、もし、その時点において、命を終えるなら、この状況が見出されます。すなわち、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇に赴くであろう、〔という、この状況が〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い剃刀で、舌の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、舌によって識知されるべき諸々の味感において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく。比丘たちよ、識知〔作用〕が、あるいは、形相の悦楽を収め取ったものとして、あるいは、付随する特徴の悦楽を収め取ったものとして、止住しつつ止住し、もし、その時点において、命を終えるなら、この状況が見出されます。すなわち、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇に赴くであろう、〔という、この状況が〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、優れているのは、燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い刃で、身の機能が擦り付けられることです──まさしく、しかし、身によって識知されるべき諸々の感触において、付随する特徴から形相を収め取ることではなく。比丘たちよ、識知〔作用〕が、あるいは、形相の悦楽を収め取ったものとして、あるいは、付随する特徴の悦楽を収め取ったものとして、止住しつつ止住し、もし、その時点において、命を終えるなら、この状況が見出されます。すなわち、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇に赴くであろう、〔という、この状況が〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、優れているのは、眠っていることです──比丘たちよ、また、まさに、わたしは、眠っていることを、諸々の生命にとっての徒労と説き、諸々の生命にとっての無果と説き、諸々の生命にとっての迷愚と説くとして──まさしく、しかし、そのような形態の諸々の思考の支配に赴いたなら、僧団を分裂させることになる、そのような形態の諸々の思考を思考することではなく。比丘たちよ、まさに、わたしは、この、諸々の生命にとっての徒労と危険を見て、このように説きます。

 

 比丘たちよ、そこにおいて、有聞の聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、熱せられた鉄の箆で、眼の機能が擦り付けられたとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、眼は、無常である。諸々の形態は、無常である。眼の識知〔作用〕は、無常である。眼の接触は、無常である。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である。

 

 燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い鉄の杭で、耳の機能が擦り付けられたとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、耳は、無常である。諸々の音声は、無常である。耳の識知〔作用〕は、無常である。耳の接触は、無常である。すなわち、また、この、耳の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である。

 

 燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い爪切りで、鼻の機能が擦り付けられたとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、鼻は、無常である。諸々の臭気は、無常である。鼻の識知〔作用〕は、無常である。鼻の接触は、無常である。すなわち、また、この、鼻の接触という縁あることから生起する、感受されたものは……略……それもまた、無常である。

 

 燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い剃刀で、舌の機能が擦り付けられたとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、舌は、無常である。諸々の味感は、無常である。舌の識知〔作用〕は、無常である。舌の接触は、無常である。すなわち、また、この、舌の接触という縁あることから生起する、感受されたものは……略……それもまた、無常である。

 

 燃え盛り、灼熱し、光を有するものと成った、鋭い刃で、身の機能が擦り付けられたとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、身は、無常である。諸々の感触は、無常である。身の識知〔作用〕は、無常である。身の接触は、無常である。すなわち、また、この、身の接触という縁あることから生起する、感受されたものは……略……それもまた、無常である。

 

 眠っているとして、まずは、ほうっておけ。さあ、わたしは、これだけに意を為すのだ。かくのごとく、意は、無常である。諸々の法(意の対象)は、無常である。意の識知〔作用〕は、無常である。意の接触は、無常である。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、無常である』〔と〕。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、諸々の形態にたいしてもまた厭離し、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離し、眼の接触にたいしてもまた厭離し……略……すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、これは、まさに、燃え盛るものの教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の手と足の喩えの経

 

236. 「比丘たちよ、〔両の〕手が存しているとき、取ることと置くことが覚知されます。〔両の〕足が存しているとき、前進と後進が覚知されます。諸々の結節が存しているとき、曲げることと伸ばすことが覚知されます。腹が存しているとき、飢えと渇きが覚知されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼が存しているとき、眼の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。……略……。舌が存しているとき、舌の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。……略……。意が存しているとき、意の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。

 

 比丘たちよ、〔両の〕手が存していないとき、取ることと置くことは覚知されません。〔両の〕足が存していないとき、前進と後進は覚知されません。諸々の結節が存していないとき、曲げることと伸ばすことは覚知されません。腹が存していないとき、飢えと渇きは覚知されません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼が存していないとき、眼の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません。……略……。舌が存していないとき、舌の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません。……略……。意が存していないとき、意の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の手と足の喩えの経

 

237. 「比丘たちよ、〔両の〕手が存しているとき、取ることと置くことが有ります。〔両の〕足が存しているとき、前進と後進が有ります。諸々の結節が存しているとき、曲げることと伸ばすことが有ります。腹が存しているとき、飢えと渇きが有ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼が存しているとき、眼の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。……略……。舌が存しているとき、舌の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。……略……。意が存しているとき、意の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起します。

 

 比丘たちよ、〔両の〕手が存していないとき、取ることと置くことは有りません。〔両の〕足が存していないとき、前進と後進は有りません。諸々の結節が存していないとき、曲げることと伸ばすことは有りません。腹が存していないとき、飢えと渇きは有りません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、眼が存していないとき、眼の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません。……略……。舌が存していないとき、舌の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません。……略……。意が存していないとき、意の接触という縁あることから、内に、安楽と苦痛が生起することはありません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 海の章が第十八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの海、漁師があり、乳の木とともに、コッティカ、カーマブー、まさしく、そして、ウダーインがあり、さらに、燃え盛るものによって、第八のものがあり、二つの手と足の喩えがあり、ということで、それによって、章と呼ばれる」と。

 

19. 毒蛇の章

 

1. 毒蛇の喩えの経

 

238. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちがいるとします。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、これらの四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちがいる。おまえが、〔その〕時〔その〕時に出起させるべき者たちであり、〔その〕時〔その〕時に沐浴させるべき者たちであり、〔その〕時〔その〕時に受益させるべき者たちであり、〔その〕時〔その〕時に横臥させるべき者たちである。さて、人士たる者よ、そして、すなわち、まさに、これらの四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちのなかの、誰であろうが、或る一者が、おまえに激情するなら、さて、人士たる者よ、そののち、おまえは、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕。さて、人士たる者よ、それが、おまえにとって為すべきことであるなら、それを為せ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、その人は、四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちに恐怖し、そこかしこに逃げ去るとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、これらの五者の殺戮者たる義(利益)に反する者たちがいる。「まさしく、そこにおいて、その者を、〔わたしたちが〕見るなら、まさしく、そこにおいて、〔わたしたちは、その者の〕生命を奪うのだ」と、背後から背後へと追いすがる者たちである。さて、人士たる者よ、それが、おまえにとって為すべきことであるなら、それを為せ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、その人は、四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちに恐怖し、五者の殺戮者にして義(利益)に反する者たちに恐怖し、そこかしこに逃げ去るとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、この第六の者である侵入者にして殺戮者たる剣を引き抜いた者がいる。「まさしく、そこにおいて、その者を、〔わたしが〕見るなら、まさしく、そこにおいて、〔わたしは、その者の〕頭を落とすのだ」と、背後から背後へと追いすがる者である。さて、人士たる者よ、それが、おまえにとって為すべきことであるなら、それを為せ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、その人は、四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちに恐怖し、五者の殺戮者にして義(利益)に反する者たちに恐怖し、第六の者である侵入者にして殺戮者たる剣を引き抜いた者に恐怖し、そこかしこに逃げ去るとします。彼は、空の村を見ます。まさしく、その〔家〕その家に入るなら、まさしく、空虚なるものに入り、まさしく、虚妄なるものに入り、まさしく、空無なるものに入ります。まさしく、その〔器〕その器に触れるなら、まさしく、空虚なるものに触れ、まさしく、虚妄なるものに触れ、まさしく、空無なるものに触れます。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、今や、この空の家に、村を襲う盗賊たちが入る。さて、人士たる者よ、それが、おまえにとって為すべきことであるなら、それを為せ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、その人は、四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たちに恐怖し、五者の殺戮者にして義(利益)に反する者たちに恐怖し、第六の者である侵入者にして殺戮者たる剣を引き抜いた者に恐怖し、村を襲う盗賊たちに恐怖し、そこかしこに逃げ去るとします。彼は、大いなる水域を見ます──危惧を有し恐怖を有する此岸を、平安にして恐怖なき彼岸を。しかしながら、渡し舟は存在しません──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。比丘たちよ、そこで、まさに、その人に、このような〔思いが〕有ります。『これは、まさに、大いなる水域である。危惧を有し恐怖を有する此岸であり、平安にして恐怖なき彼岸である。しかしながら、渡し舟は存在しない──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。それなら、さあ、わたしは、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に至るのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。〔大いなる水域を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立ちます。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『四者の激しい威力と恐るべき毒ある毒蛇たち』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素(四大種)の──地の界域(地界)の、水の界域(水界)の、火の界域(火界)の、風の界域(風界)の──同義語です。

 

 比丘たちよ、『五者の殺戮者にして義(利益)に反する者たち』とは、まさに、これは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)の──それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)の、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)の、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)の、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)の、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)の──同義語です。

 

 比丘たちよ、『第六の者である侵入者にして殺戮者たる剣を引き抜いた者』とは、まさに、これは、愉悦〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の同義語です。

 

 比丘たちよ、『空の村』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)の同義語です。比丘たちよ、もし、また、眼〔の観点〕から、それを、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者が近しく注視するなら、まさしく、空虚なるものに見え、まさしく、虚妄なるものに見え、まさしく、空無なるものに見えます。……略……。比丘たちよ、もし、また、舌〔の観点〕から、それを……略……。比丘たちよ、もし、また、意〔の観点〕から、それを、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者が近しく注視するなら、まさしく、空虚なるものに見え、まさしく、虚妄なるものに見え、まさしく、空無なるものに見えます。

 

 比丘たちよ、『村を襲う盗賊たち』とは、まさに、これは、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)の同義語です。比丘たちよ、眼は、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態について打ちのめされます。比丘たちよ、耳は……略……。比丘たちよ、鼻は……略……。比丘たちよ、舌は、諸々の意に適う〔味感〕と意に適わない味感について打ちのめされます。比丘たちよ、身は……略……。比丘たちよ、意は、諸々の意に適う〔法〕と意に適わない法(意の対象)について打ちのめされます。

 

 比丘たちよ、『大いなる水域』とは、まさに、これは、四つの激流の──欲望の激流の、生存の激流の、見解の激流の、無明の激流の──同義語です。

 

 比丘たちよ、『危惧を有し恐怖を有する此岸』とは、まさに、これは、身体を有することの同義語です。

 

 比丘たちよ、『平安にして恐怖なき彼岸』とは、まさに、これは、涅槃の同義語です。

 

 比丘たちよ、『筏』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道の──それは、すなわち、この、正しい見解の、正しい思惟の、正しい言葉の、正しい行業の、正しい生き方の、正しい努力の、正しい気づきの、正しい禅定の──同義語です。

 

 比丘たちよ、『かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励み』とは、まさに、これは、精進勉励の同義語です。

 

 比丘たちよ、『〔大いなる水域を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』とは、まさに、これは、阿羅漢の同義語です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 車の喩えの経

 

239. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として、食において量を知る者として、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。友よ、このように、まさに、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、これらの六つの〔感官の〕機能の、守護のために学び、自制のために学び、調御のために学び、寂止のために学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、食において量を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、平癒を義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、傷に〔薬を〕塗るように、また、あるいは、それは、たとえば、荷を超え渡すことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、比丘たちよ、このように、まさに、比丘が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、食において量を知る者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初夜(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中夜(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後夜(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 亀の喩えの経

 

240. 「比丘たちよ、過去の事ですが、夕刻時に、川沿いの岸において、餌場を求める大亀が〔世に〕有りました。比丘たちよ、まさに、夕刻時に、川沿いの岸において、餌場を求める野狐(ジャッカル)もまた〔世に〕有りました。比丘たちよ、まさに、大亀は、はるか遠くから、餌場を求める野狐を見ました。見て、鎌首を第五とする肢体を自らの甲羅のなかに収めて、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります。比丘たちよ、野狐もまた、まさに、はるか遠くから、餌場を求める大亀を見ました。見て、大亀のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、大亀〔の動き〕を待ち構える者と成りました。『すなわち、この大亀が、鎌首を第五とする肢体のなかの、何であろうが、どれか一つの肢体を出すとき、まさしく、そこにおいて、それを収め取って、引き裂いて、喰ってしまうのだ』と。比丘たちよ、すなわち、まさに、大亀が、鎌首を第五とする肢体のなかの、何であろうが、どれか一つの肢体を出さなかったとき、そこで、野狐は、大亀から、厭離して立ち去りました──侵入〔の機会〕を得ることなく。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、悪魔パーピマントは、あなたたち〔の動き〕をもまた、常に連続して待ち構えています。『まさしく、おそらく、まさに、わたしは、これらのなかの、あるいは、眼から、侵入〔の機会〕を得るであろうし……略……あるいは、舌から、侵入〔の機会〕を得るであろうし……略……あるいは、意から、侵入〔の機会〕を得るであろう』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕住みなさい。眼によって、形態を見て、形相を収め取る者たちと成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者たちと〔成っては〕いけません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践しなさい、眼の機能を守護しなさい、眼の機能における統御を惹起しなさい。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者たちと成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者たちと〔成っては〕いけません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践しなさい、意の機能を守護しなさい、意の機能における統御を惹起しなさい。比丘たちよ、すなわち、あなたたちが、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕住むであろうことから、そこで、悪魔パーピマントは、あなたたちからもまた、厭離して立ち去るでしょう──侵入〔の機会〕を得ることなく、野狐が、亀から、〔厭離して立ち去った〕ように」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「亀が、諸々の肢体を自らの甲羅のなかに〔収めるように〕、比丘は、諸々の意の思考を収めながら、依存なき者となり、他者を傷つけずにいる。完全なる涅槃に到達した者は、誰をも批判しないもの」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の木片の塊の喩えの経

 

241. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ガンガー川の岸辺において。まさに、世尊は、大いなる木片の塊が、ガンガー川の流れに運ばれているのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この大いなる木片の塊が、ガンガー川の流れに運ばれているのを、まさに、あなたたちは見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、それで、もし、その木片の塊が、此岸に近しく赴くことがなく、彼岸に近しく赴くことがなく、中間に沈み行くことがなく、陸地に乗り上げることがなく、人間の捕捉者が収め取ることがなく、人間ならざる捕捉者が収め取ることがなく、渦の捕捉者が収め取ることがなく、内まで腐った状態となることがないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その木片の塊は、海に向かい行くものと成り、海に傾倒するものと〔成り〕、海に傾斜するものと〔成るでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、ガンガー川の流れは、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるからです。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それで、もし、あなたたちもまた、此岸に近しく赴くことがなく、彼岸に近しく赴くことがなく、中間に沈み行くことがなく、陸地に乗り上げることがなく、人間の捕捉者が収め取ることがなく、人間ならざる捕捉者が収め取ることがなく、渦の捕捉者が収め取ることがなく、内まで腐った状態となることがないなら、比丘たちよ、このように、あなたたちは、涅槃に向かい行くものと成り、涅槃に傾倒するものと〔成り〕、涅槃に傾斜するものと〔成るでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、正しい見解は、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものであるからです」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何が、此岸であり、何が、彼岸であり、何が、中間であり、何が、陸地であり、何が、人間の捕捉者であり、何が、人間ならざる捕捉者であり、何が、渦の捕捉者であり、何が、内まで腐った状態なのですか」と。

 

 「比丘よ、『此岸』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所の同義語です。比丘よ、『彼岸』とは、まさに、これは、六つの外なる〔認識の〕場所の同義語です。比丘よ、『中間に沈み行くもの』とは、まさに、これは、愉悦〔の思い〕と貪欲〔の思い〕の同義語です。比丘よ、『陸地に乗り上げるもの』とは、まさに、これは、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の同義語です。

 

 比丘よ、では、どのようなものが、人間の捕捉者なのですか。比丘よ、ここに、在家者たちと交わる者として〔世に〕住みます。喜びを共にし、憂いを共にし、安楽の者たちのなかで安楽の者となり、苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、それらにたいし、専念〔努力〕を惹起します。比丘よ、これは、人間の捕捉者と説かれます。

 

 比丘よ、では、どのようなものが、人間ならざる捕捉者なのですか。比丘よ、ここに、一部の者は、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘よ、これは、人間ならざる捕捉者と説かれます。比丘よ、『渦の捕捉者』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲)の同義語です。

 

 比丘よ、では、どのようなものが、内まで腐った状態なのですか。比丘よ、ここに、一部の者は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者として、不浄にして励行に疑いある者として──生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として──〔世に〕有ります。比丘よ、これは、内まで腐った状態と説かれます」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、ナンダ牛飼いが、世尊から遠く離れていないところで、立った状態でいます。そこで、ナンダ牛飼いは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしが、まさに、此岸に近しく赴くことはなく、彼岸に近しく赴くことはなく、中間に沈み行くことはなく、陸地に乗り上げることはなく、わたしを、人間の捕捉者が収め取ることはなく、人間ならざる捕捉者が収め取ることはなく、渦の捕捉者が収め取ることはなく、〔わたしが〕内まで腐った状態となることはありません。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「ナンダよ、まさに、それでは、あなたは、所有者たちに、牛たちを引き渡しなさい」と。「尊き方よ、牛たちは、子牛につきっきりの〔雌牛〕たちのもとへと〔自ら〕赴くでしょう」と。「ナンダよ、まさしく、あなたは、所有者たちに、牛たちを引き渡しなさい」と。そこで、まさに、ナンダ牛飼いは、所有者たちに、牛たちを引き渡して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、所有者たちに、牛たちは引き渡されました。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。まさに、ナンダ牛飼いは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、そして、〔戒を〕成就したばかりの尊者ナンダは、独り、〔静所に〕隠棲し……略……。また、そして、尊者ナンダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の木片の塊の喩えの経

 

242. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ガンガー川の岸辺において。まさに、世尊は、大いなる木片の塊が、ガンガー川の流れに運ばれているのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この大いなる木片の塊が、ガンガー川の流れに運ばれているのを、まさに、あなたたちは見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。……略……。このように説かれたとき、尊者キミラが、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何が、此岸であり……略……。キミラよ、では、どのようなものが、内まで腐った状態なのですか。キミラよ、ここに、比丘が、何らかの或る汚染された罪を惹起した者と成り、そのような形態の罪からの出起が覚知されません。キミラよ、これは、内まで腐った状態と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 〔煩悩が〕漏れ出る者の教相の経

 

243. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂があります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。尊き方よ、それを、世尊は、最初に遍く受益したまえ。世尊によって、最初に遍く受益された、そのあと、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが遍く受益するでしょう。それは、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、新しい公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を公会堂に広げて、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が公会堂に広げられ、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちもまた(※)、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、送り出しました。「ゴータマたちよ、まさに、夜が更けました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

※ PTS版により pi を補う。

 

 そこで、まさに、世尊は、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが立ち去ったすぐあと、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った、まさに、比丘の僧団です。モッガッラーナよ、あなたに、比丘たちへの法(教え)の講話が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします(わたしに代わって説法してほしい)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「友よ、では、〔煩悩が〕漏れ出る者の教相を、そして、〔煩悩が〕漏れ出ない者の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、どのように、〔煩悩が〕漏れ出る者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺し、愛しくない形態の形態に憎悪し、さらに(※)、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。耳によって、音声を聞いて……略……。舌によって、味感を味わって……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺し、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。友よ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし〔煩悩が〕漏れ出る者……略……舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし〔煩悩が〕漏れ出る者……略……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし〔煩悩が〕漏れ出る者』〔と〕説かれます。友よ、そして、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。……略……。もし、また、彼に、舌から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。

 

※ 他の平行箇所により ca を補う。

 

 友よ、それは、たとえば、また、あるいは、葦の家があり、あるいは、草の家があり、乾燥し、干涸び、年を経たものであるとします。もし、また、その〔家〕に、東の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くなら、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。もし、また、その〔家〕に、西の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くなら……略……。もし、また、その〔家〕に、北の方角から……略……。もし、また、その〔家〕に、南の方角から……略……。もし、また、下から、その〔家〕に……略……。もし、また、その〔家〕に、上から……略……。もし、また、その〔家〕に、すなわち、どこからであれ、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くなら、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。……略……。もし、また、彼に、舌から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ますし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。友よ、そして、このような住ある比丘を、諸々の形態が征服したのであり、比丘は、諸々の形態を征服しませんでした。比丘を、諸々の音声が征服したのであり、比丘は、諸々の音声を征服しませんでした。比丘を、諸々の臭気が征服したのであり、比丘は、諸々の臭気を征服しませんでした。比丘を、諸々の味感が征服したのであり、比丘は、諸々の味感を征服しませんでした。比丘を、諸々の感触が征服したのであり、比丘は、諸々の感触を征服しませんでした。比丘を、諸々の法(意の対象)が征服したのであり、比丘は、諸々の法(意の対象)を征服しませんでした。友よ、この者は、『比丘として、形態に征服された者、音声に征服された者、臭気に征服された者、味感に征服された者、感触に征服された者、法(意の対象)に征服された者──〔それらに〕征服された者であり、〔それらを〕征服しない者である。諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報い(異熟)あるものが、未来に生と老と死となるものが、彼を征服したのだ』〔と〕説かれます。友よ、このように、まさに、〔煩悩が〕漏れ出る者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔煩悩が〕漏れ出ない者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺せず、愛しくない形態の形態に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。……略……。舌によって、味感を味わって……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺せず、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。友よ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者……略……舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者……略……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者』〔と〕説かれます。友よ、そして、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。……略……。もし、また、彼に、舌から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。

 

 友よ、それは、たとえば、また、あるいは、楼閣があり、あるいは、公会堂があり、厚い粘土の、濡れた塗装のものであるとします。もし、また、その〔家〕に、東の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くとして、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。もし、また、その〔家〕に、西の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くとして……略……。もし、また、その〔家〕に、北の方角から……略……。もし、また、その〔家〕に、南の方角から……略……。もし、また、下から、その〔家〕に……略……。もし、また、その〔家〕に、上から……略……。もし、また、その〔家〕に、すなわち、どこからであれ、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くとして、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くとして、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。……略……。もし、また、彼に、舌から、悪魔が近づいて行くとして、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くとして、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ませんし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。友よ、そして、このような住ある比丘を、諸々の形態が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の形態を征服しました。比丘を、諸々の音声が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の音声を征服しました。比丘を、諸々の臭気が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の臭気を征服しました。比丘を、諸々の味感が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の味感を征服しました。比丘を、諸々の感触が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の感触を征服しました。比丘を、諸々の法(意の対象)が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の法(意の対象)を征服しました。友よ、この者は、『比丘として、形態を征服する者、音声を征服する者、臭気を征服する者、味感を征服する者、感触を征服する者、法(意の対象)を征服する者──〔それらを〕征服する者であり、〔それらに〕征服されない者である。諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものを、さらなる生存あるものを、懊悩を有するものを、苦痛の報いあるものを、未来に生と老と死となるものを、それらを征服したのだ』〔と〕説かれます。友よ、このように、まさに、〔煩悩が〕漏れ出ない者と成ります」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、善きかな、善きかな。モッガッラーナよ、善きかな、まさに、あなたは、そして、〔煩悩が〕漏れ出る者の教相を、さらに、〔煩悩が〕漏れ出ない者の教相を、比丘たちに語りました」と。

 

 尊者マハー・モッガッラーナは、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔尊者マハー・モッガッラーナの言葉を〕正しくお認めに成りました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナの語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 苦痛の法の経

 

244. 「比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、まさしく、一切の苦痛の法(性質)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから──また、まさに、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を見ているとおり、そのとおりに、彼に、諸々の欲望〔の対象〕が、見られたものと成り、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、それが、悪習となりません──また、まさに、すなわち、〔世を〕歩みながら、〔世に〕住みながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が、悪習とならないとおり、そのとおりに、彼に、そして、歩みが、さらに、住が、随覚されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、まさしく、一切の苦痛の法(性質)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知するのですか。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、まさしく、一切の苦痛の法(性質)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を見ているとおり、そのとおりに、彼に、諸々の欲望〔の対象〕が、見られたものと成り、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、それが、悪習とならないのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があるとして、そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、火坑に引きずり込みます。彼は、まさしく、かくもあれ、かくもあれと、身体をよじります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その人に、〔このように〕知るところがあるからです。『そして、わたしは、この火坑に落ちるであろう。それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を見ているとおり、そのとおりに、彼に、諸々の欲望〔の対象〕が、見られたものと成り、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、それが、悪習となりません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、すなわち、〔世を〕歩みながら、〔世に〕住みながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が、悪習とならないとおり、そのとおりに、彼に、そして、歩みが、さらに、住が、随覚されたものと成るのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、多くの棘ある林に入るとします。彼には、東からもまた棘があり、西からもまた棘があり、北からもまた棘があり、南からもまた棘があり、下からもまた棘があり、上からもまた棘があります。彼は、まさしく、気づきの者として前進するでしょうし、まさしく、気づきの者として後進するでしょう。『わたしに、棘が〔刺さっては〕いけない』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、これは、聖者の律において、『棘』と説かれます。かくのごとく見出して、そして、統御が〔知られるべきであり〕、さらに、統御なき〔あり方〕が知られるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、統御なき〔あり方〕と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺し、愛しくない形態の形態に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。……略……。舌によって、味感を味わって……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺し、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、統御なき〔あり方〕と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、統御と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺せず、愛しくない形態の形態に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。……略……。舌によって(※)、味感を味わって……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺せず、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、統御と成ります。

 

※ テキストには jivhā とあるが、PTS版により jivhāya と読む。

 

 比丘たちよ、もし、その比丘に、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起するなら、比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その〔悪しき善ならざる法〕を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、昼のあいだ熱せられた鉄鍋のうえに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を落とすとします。比丘たちよ、〔それらの〕水滴の、〔その〕落下は遅くあるも、比丘たちよ、そこで、まさに、それは、まさしく、すみやかに、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘に、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起するなら、比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その〔悪しき善ならざる法〕を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、すなわち、〔世を〕歩みながら、〔世に〕住みながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が、悪習とならないとおり、そのとおりに、彼に、そして、歩みが、さらに、住が、随覚されたものと成ります。比丘たちよ、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、もし、その比丘に、あるいは、王たちが、あるいは、王の大臣たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族たちが、あるいは、血縁たちが、諸々の財物を運び込んで申し出るとします。『君よ、人士たる者よ、さあ、どうして、おまえのこれらの黄褐色〔の衣〕(袈裟)はよれよれなのだ。どうして、〔おまえは〕剃髪し、皿を〔携えて〕渡り歩くのだ。さあ、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ』と。比丘たちよ、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、まさに、その比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるようなものです。そこで、大勢の人の衆が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。『わたしたちは、このガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すのだ〕、西に傾倒するものと〔為すのだ〕、西に傾斜するものと為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その大勢の人の衆は、ガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すでしょうか〕、西に傾倒するものと〔為すでしょうか〕、西に傾斜するものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、ガンガー川は、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、それは、西に向かい行くものと〔為すに〕、西に傾倒するものと〔為すに〕、西に傾斜するものと為すに、為し易くはないからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その大勢の人の衆は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、もし、その比丘に、あるいは、王たちが、あるいは、王の大臣たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族たちが、あるいは、血縁たちが、諸々の財物を運び込んで申し出るとします。『君よ、人士たる者よ、さあ、どうして、おまえのこれらの黄褐色〔の衣〕はよれよれなのだ。どうして、〔おまえは〕剃髪し、皿を〔携えて〕渡り歩くのだ。さあ、下劣なところへと逆戻りして、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ』と。比丘たちよ、このように、〔世を〕歩みながら、このように、〔世に〕住みながら、まさに、その比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、すなわち、その心は、長夜にわたり、遠離に向かい行くものであり、遠離に傾倒するものであり、遠離に傾斜するものであり、そのように、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されないからです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. キンスカの経

 

245. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、四つの大いなる元素(四大種)の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。『友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その比丘は、こう言いました。『友よ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。『友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その比丘は、こう言いました。『友よ、すなわち、まさに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。『友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その比丘は、こう言いました。『友よ、すなわち、まさに、比丘が、四つの大いなる元素の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。『友よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その比丘は、こう言いました。『友よ、すなわち、まさに、比丘が、「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、比丘の見は、善く清浄と成ります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その比丘の問いへの説き明かしに満足せず、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘の見は、善く清浄と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、それは、たとえば、また、人に、キンスカ(植物名・肉色花)が、過去に見られたことなきものとして存するとします。彼が、キンスカの見ある或るひとりの人のいるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その人に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、キンスカは、どのようなものなのだ』と。彼は、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、キンスカは、黒いものだ。それは、たとえば、また、焼けた杭のように』と。比丘よ、また、まさに、その時点において、キンスカは、すなわち、また、その人の見のとおり、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。比丘よ、そこで、まさに、その人は、その人の問いへの説き明かしに満足せず、キンスカの見ある或るひとりの人のいるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その人に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、キンスカは、どのようなものなのだ』と。彼は、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、キンスカは、赤いものだ。それは、たとえば、また、肉片のように』と。比丘よ、また、まさに、その時点において、キンスカは、すなわち、また、その人の見のとおり、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。比丘よ、そこで、まさに、その人は、その人の問いへの説き明かしに満足せず、キンスカの見ある或るひとりの人のいるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その人に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、キンスカは、どのようなものなのだ』と。彼は、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、キンスカは、果皮が取れたものだ。それは、たとえば、また、シリーサ〔樹〕(アカシア)のように』と。比丘よ、また、まさに、その時点において、キンスカは、すなわち、また、その人の見のとおり、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。比丘よ、そこで、まさに、その人は、その人の問いへの説き明かしに満足せず、キンスカの見ある或るひとりの人のいるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その人に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、キンスカは、どのようなものなのだ』と。彼は、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、キンスカは、葉群が厚く影が濃い。それは、たとえば、また、ニグローダ〔樹〕(ガジュマル)のように』と。比丘よ、また、まさに、その時点において、キンスカは、すなわち、また、その人の見のとおり、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。比丘よ、まさしく、このように、まさに、そのとおり、そのとおりに、信念したそれらの正なる人士たちの見が、善く清浄と成る、そのとおり、そのとおりに、まさに、それらの正なる人士たちによって説き明かされたのです。

 

 比丘よ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な城壁と楼門があり、六つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこで、その〔城市〕の門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者としてあるとします。東の門から、ひと組の急ぎの使者がやってきて、その門番に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、この城市の城主は、どこにいるのだ』と。彼は、このように説きます。『尊き方よ、彼は、中央にある十字路に坐っています』と。そこで、まさに、そのひと組の急ぎの使者は、城主に、事実のとおりの言葉を伝えて、やってきたとおりの道を行くでしょう。西の門から、ひと組の急ぎの使者がやってきて……略……。北の門から、ひと組の急ぎの使者がやってきて……。南の門から、ひと組の急ぎの使者がやってきて、その門番に、このように説きます。『君よ、人士たる者よ、この城市の城主は、どこにいるのだ』と。彼は、このように説きます。『尊き方よ、彼は、中央にある十字路に坐っています』と。そこで、まさに、そのひと組の急ぎの使者は、城主に、事実のとおりの言葉を伝えて、やってきたとおりの道を行くでしょう。

 

 比丘よ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘よ、『城市』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、この身体の同義語です。比丘よ、『六つの門』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所の同義語です。比丘よ、『門番』とは、まさに、これは、気づき()の同義語です。比丘よ、『ひと組の急ぎの使者』とは、まさに、これは、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)と〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の同義語です。比丘よ、『城主』とは、まさに、これは、識知〔作用〕の同義語です。比丘よ、『中央にある十字路』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素の──地の界域の、水の界域の、火の界域の、風の界域の──同義語です。比丘よ、『事実のとおりの言葉』とは、まさに、これは、涅槃の同義語です。比丘よ、『やってきたとおりの道』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)の──それは、すなわち、この、正しい見解の……略……正しい禅定の──同義語です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 琵琶の喩えの経

 

246. 「比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、迷妄〔の思い〕が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕が、生起するなら、そののち、心を防護するべきです。『この道は、かつまた、恐れを有し、かつまた、恐怖を有し、かつまた、棘を有し、かつまた、茂みを有し、かつまた、邪道であり、かつまた、悪しき道であり、かつまた、厄介なところである。この道は、かつまた、正ならざる人士たちの慣れ親しむところである。この道は、かつまた、正なる人士たちの慣れ親しむところではない。おまえは、このことに値せず』と、そののち、心を防護するべきです──眼によって識知されるべき諸々の形態から。……略……。比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……略……。比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、迷妄〔の思い〕が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕が、生起するなら、そののち、心を防護するべきです。『この道は、かつまた、恐れを有し、かつまた、恐怖を有し、かつまた、棘を有し、かつまた、茂みを有し、かつまた、邪道であり、かつまた、悪しき道であり、かつまた、厄介なところである。この道は、かつまた、正ならざる人士たちの慣れ親しむところである。この道は、かつまた、正なる人士たちの慣れ親しむところではない。おまえは、このことに値せず』と、そののち、心を防護するべきです──意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)から。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、実った耕作物があるとします。しかしながら、耕作物を守る者が放逸であるとします。そして、耕作物を食べる牛は、この耕作物に入り込んで、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、驕慢を惹起し、放逸を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、六つの接触ある〔認識の〕場所において、統御されていない為し手としてあり、五つの欲望の属性にたいし、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、驕慢を惹起し、放逸を惹起します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、実った耕作物があるとします。そして、耕作物を守る者が不放逸であるとします。さらに、耕作物を食べる牛が、この耕作物に入り込むとします。耕作物を守る者は、〔まさに〕その、この〔牛〕を、鼻において善く捕捉するところとし、捕捉するでしょう。鼻において善く捕捉するところとし、捕捉して〔そののち〕、角の間において善く制御するところとし、制御するでしょう。角の間において善く制御するところとし、制御して〔そののち〕、棒によって善く打つところとし、打つでしょう。棒によって善く打つところとし、打って〔そののち〕、捨て放つでしょう。比丘たちよ、再度また、まさに……略……。比丘たちよ、三度また、まさに、耕作物を食べる牛が、この耕作物に入り込むとします。耕作物を守る者は、〔まさに〕その、この〔牛〕を、鼻において善く捕捉するところとし、捕捉するでしょう。鼻において善く捕捉するところとし、捕捉して〔そののち〕、角の間において善く制御するところとし、制御するでしょう。角の間において善く制御するところとし、制御して〔そののち〕、棒によって善く打つところとし、打つでしょう。棒によって善く打つところとし、打って〔そののち〕、捨て放つでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その耕作物を食べる牛が、あるいは、村に赴いたとして、あるいは、林に赴いたとして、あるいは、立つこと多く存するも、あるいは、坐ること多く〔存するも〕、その耕作物にふたたび入り込むことはないでしょう──まさしく、その、過去の棒の接触を等しく随念しながら。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさに、六つの接触ある〔認識の〕場所において、比丘の心は、威嚇されたものと成り、善く威嚇されたものと〔成ることから〕、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、琵琶の音が、過去に聞かれたことなきものとして存するとします。彼が、琵琶の音を聞くとします。彼は、このように説きます。『はてさて、いったい、まさに、このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように耽溺するべきものであり、このように結縛するべきものである、この〔音〕は、何の音なのだ』と。〔まさに〕その、この者に、〔人々は〕このように説きます。『尊き方よ、これは、まさに、琵琶なるものです。このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように耽溺するべきものであり、このように結縛するべきものである、この〔音〕は、その〔琵琶〕の音です』と。彼は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。わたしに、その琵琶を持ってきなさい』と。〔人々は〕彼に、その琵琶を持ってきます。〔まさに〕その、この者に、〔人々は〕このように説きます。『尊き方よ、これが、まさに、その琵琶です。このように貪るべきものであり、このように欲するべきものであり、このように酔うべきものであり、このように耽溺するべきものであり、このように結縛するべきものである、この〔音〕は、その〔琵琶〕の音です』と。彼は、このように説きます。『君よ、わたしに、その琵琶は十分である(必要ない)。わたしに、まさしく、その音を持ってきなさい』と。〔まさに〕その、この者に、〔人々は〕このように説きます。『尊き方よ、これは、まさに、琵琶なるものは、無数の要素があり、大いなる要素があり、無数の要素によって正しく勉励され、〔音が〕出ます。それは、すなわち、この、かつまた、胴を縁として、かつまた、皮を縁として、かつまた、棒を縁として、かつまた、諸々の受け具を縁として、かつまた、諸々の弦を縁として、かつまた、弓を縁として、さらに、人の、それに応じる努力を縁として。尊き方よ、このように、この、琵琶なるものは、無数の要素があり、大いなる要素があり、無数の要素によって正しく勉励され、〔音が〕出ます』と。彼は、その琵琶を、あるいは、十種に、あるいは、百種に、裂きます。あるいは、十種に、あるいは、百種に、それを裂いて、片々と為します。片々と為して、火で焼きます。火で焼いて、煤(すす)と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去ります。彼は、このように説きます。『君よ、存することなくあるは、まさに、この、琵琶なるものである──すなわち、このように、それが何であれ、琵琶なるものは。また、そして、ここにおいて、この人々は、限度を超えて、放逸となり、遊び呆けていたのだ』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査し、およそ、感受〔作用〕に赴く所があるかぎり、感受〔作用〕を正しく調査し、およそ、表象〔作用〕に赴く所があるかぎり、表象〔作用〕を正しく調査し、およそ、諸々の形成〔作用〕に赴く所があるかぎり、諸々の形成〔作用〕を正しく調査し、およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査します。彼が、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査していると、およそ、感受〔作用〕に赴く所があるかぎり、感受〔作用〕を正しく調査していると……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査していると、すなわち、また、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』と、彼に有る、その〔思い〕は、それもまた、彼には有りません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 六つの命あるものたちの喩えの経

 

247. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、五体に傷ある者として、五体が膿んだ者として、葦の林に入るとします。彼の、まさしく、そして、〔両の〕足に、諸々の草の棘が突き刺さり、さらに、五体を、諸々の葦の葉が引っ掻きます。比丘たちよ、まさに、このように、その人は、より一層激しく、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、あるいは、村に赴いたとして、あるいは、林に赴いたとして、『さてまた、この尊者は、彼は、このように為す者であり、このような励行ある者である。村の棘たる不浄の者である』と説く者を得ます。彼を、『棘たる者である』と、かくのごとく見出して、そして、統御が〔知られるべきであり〕、さらに、統御なき〔あり方〕が知られるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、統御なき〔あり方〕と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺し、愛しくない形態の形態に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺し、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、種々なる境域があり、種々なる餌場がある、六つの命あるものたちを捕捉して、堅固な縄で結縛するとします。蛇を捕捉して、堅固な縄で結縛します。鰐を捕捉して、堅固な縄で結縛します。鳥を捕捉して、堅固な縄で結縛します。犬を捕捉して、堅固な縄で結縛します。野狐を捕捉して、堅固な縄で結縛します。猿を捕捉して、堅固な縄で結縛します。堅固な縄で結縛して、中間において結び目を作り為して、投げ放ちます。比丘たちよ、そこで、まさに、種々なる境域があり、種々なる餌場がある、それらの六つの命あるものたちは、自らの〔餌場の境域〕自らの餌場の境域へと引っ張ります。蛇は、『蟻塚に入るのだ』と引っ張ります。鰐は、『水に入るのだ』と引っ張ります。鳥は、『空に飛び立つのだ』と引っ張ります。犬は、『村に入るのだ』と引っ張ります。野狐は、『墓所に入るのだ』と引っ張ります。猿は、『林に入るのだ』と引っ張ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、それらの六つの命あるものたちが、当惑し、疲弊し、〔そのように〕存するとき、そこで、まさに、その者が、それらの命あるものたちのなかの、より力ある者として存するなら、彼らは、その者に、随転し、追随し、〔その〕支配に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、修められず、多く為されていないなら、彼を、眼は、諸々の意に適う形態のうちに引っ張り、諸々の意に適わない形態は、嫌悪のものと成ります。……略……。意は、諸々の意に適う法(意の対象)のうちに引っ張り、諸々の意に適わない法(意の対象)は、嫌悪のものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、統御なき〔あり方〕と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、統御と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺せず、愛しくない形態の形態に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。……略……。舌によって、味感を味わって……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺せず、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、種々なる境域があり、種々なる餌場がある、六つの命あるものたちを捕捉して、堅固な縄で結縛するとします。蛇を捕捉して、堅固な縄で結縛します。鰐を捕捉して、堅固な縄で結縛します。鳥を捕捉して……略……。犬を捕捉して……。野狐を捕捉して……。猿を捕捉して、堅固な縄で結縛します。堅固な縄で結縛して、堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に、連結します。比丘たちよ、そこで、まさに、種々なる境域があり、種々なる餌場がある、それらの六つの命あるものたちは、自らの〔餌場の境域〕自らの餌場の境域へと引っ張ります。蛇は、『蟻塚に入るのだ』と引っ張ります。鰐は、『水に入るのだ』と引っ張ります。鳥は、『空に飛び立つのだ』と引っ張ります。犬は、『村に入るのだ』と引っ張ります。野狐は、『墓所に入るのだ』と引っ張ります。猿は、『林に入るのだ』と引っ張ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、それらの六つの命あるものたちが、当惑し、疲弊し、〔そのように〕存するとき、そこで、まさしく、その、あるいは、杭に、あるいは、柱に、近しく立つでしょうし、近しく坐るでしょうし、近しく横たわるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為されたなら、彼を、眼は、諸々の意に適う形態のうちに引っ張らず、諸々の意に適わない形態は、嫌悪のものと成りません。……略……。舌は、諸々の意に適う味感のうちに引っ張らず……略……。意は、諸々の意に適う法(意の対象)のうちに引っ張らず、諸々の意に適わない法(意の対象)は、嫌悪のものと成りません。比丘たちよ、このように、まさに、統御と成ります。

 

 比丘たちよ、『堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に』とは、まさに、これは、身体の在り方についての気づきの同義語です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『わたしたちに、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、まさに、学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 麦の束の経

 

248. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大きな四つ辻に置かれた麦の束が存し、そこで、天秤棒を手にする六者の人がやってくるとします。彼らは、麦の束を、六つの天秤棒で打ちます。比丘たちよ、まさに、このように、その麦の束は、六つの天秤棒で打たれながら、善く打たれたものとして存し、そこで、天秤棒を手にする第七の人がやってくるとします。彼は、その麦の束を、第七の天秤棒で打ちます。比丘たちよ、まさに、このように、その麦の束は、第七の天秤棒で打たれながら、より善く打たれたものとして存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、眼において、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態によって打ちのめされます。……略……。舌において、諸々の意に適う〔味感〕と意に適わない味感によって打ちのめされます。……略……。意において、諸々の意に適う〔法〕と意に適わない法(意の対象)によって打ちのめされます。比丘たちよ、それで、もし、その無聞の凡夫が、未来のさらなる生存のために思い考えるなら、比丘たちよ、まさに、このように、その愚人は、より善く打ちのめされた者として〔世に〕有ります。それは、たとえば、また、その麦の束が、第七の天秤棒で打たれながら、〔より善く打たれたものとして存するように〕。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、阿修羅たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、それで、もし、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦において、阿修羅たちが勝利し、天〔の神々〕たちが敗北するなら、それなら、彼を、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕を、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、わたしの現前に、阿修羅の都へと連行するのだ』と。比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕もまた、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、それで、もし、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦において、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちが敗北するなら、それなら、彼を、阿修羅のインダたるヴェーパチッティを、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、わたしの現前に、スダンマの天の集会場(善法講堂)へと連行するのだ』と。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、阿修羅のインダたるヴェーパチッティを、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の現前に、スダンマの天の集会場へと連行しました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛された者として有ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティに、『まさに、天〔の神々〕たちは、法(正義)にかなう者たちである。阿修羅たちは、法(正義)にかなわない者たちである。まさしく、ここに、今や、わたしは、天の都に赴く』と、このような〔思いが〕有るときは、そこで、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛から解放された自己を等しく随観します。そして、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティに、『まさに、阿修羅たちは、法(正義)にかなう者たちである。天〔の神々〕たちは、法(正義)にかなわない者たちである。まさしく、そこにおいて、今や、わたしは、阿修羅の都に赴くのだ』と、このような〔思いが〕有るときは、そこで、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛された自己を等しく随観します。そして、天の五つの欲望の属性から遍く衰退します。比丘たちよ、このように、まさに、繊細なるは、ヴェーパチッティの結縛であり、それよりもより繊細なるは、悪魔の結縛です。比丘たちよ、まさに、悪魔にとって、〔未来のさらなる生存のために〕思い考えている者は、結縛された者としてあります。パーピマント(悪魔)にとって、〔未来のさらなる生存のために〕思い考えていない者は、解放された者としてあります。

 

 比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。比丘たちよ、思い考えられたものは、病です。思い考えられたものは、腫物です。思い考えられたものは、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『思い考えていない心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、動じ動かされたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、動じ動かされたものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、動じ動かされたものです。比丘たちよ、動じ動かされたものは、病です。動じ動かされたものは、腫物です。動じ動かされたものは、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『動じ動いていない心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、震えおののかされたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、震えおののかされたものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは……略……。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは……。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、震えおののかされたものです。比丘たちよ、震えおののかされたものは、病です。震えおののかされたものは、腫物です。震えおののかされたものは、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『震えおのいていない心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、虚構されたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、虚構されたものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは……略……。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは……。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは……。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、虚構されたものです。比丘たちよ、虚構されたものは、病です。虚構されたものは、腫物です。虚構されたものは、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『虚構なき心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、〔我想の〕思量を具したものです。比丘たちよ、〔我想の〕思量を具したものは、病です。〔我想の〕思量を具したものは、腫物です。〔我想の〕思量を具したものは、矢です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『〔我想の〕思量が打ち倒された心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 毒蛇の章が第十九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「毒蛇、車、亀、二つの木片の塊、〔煩悩が〕漏れ出る者、苦痛の法(性質)、キンスカ、琵琶、六つの命あるものたち、麦の束があり、〔章となる〕」と。

 

 六つの〔認識の〕場所の部における第四の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔五十なるもの〕のための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「愉悦の滅尽、六十の理趣あるもの、海があり、そして、蛇とともに、四つの五十なるものが、これらが、諸々の集成において明示された」と。

 

 六つの〔認識の〕場所に相応するものは〔以上で〕完結となる。