相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)
六つの〔認識の〕場所の部(六処篇・下)
【目次】
2(36). 感受に相応するもの(249.~)
1. 詩偈を有するものの章(249.~)
1. 禅定の経
2. 安楽の経
3. 捨棄の経
4. 深淵の経
5. 見られるべきものの経
6. 矢の経
7. 第一の病の経
8. 第二の病の経
9. 無常の経
10. 接触を根元とするものの経
2. 静所に赴いた者の章(259.~)
1. 静所に赴いた者の経
2. 第一の虚空の経
3. 第二の虚空の経
4. 家屋の経
5. 第一のアーナンダの経
6. 第二のアーナンダの経
7. 第一の大勢の者たちの経
8. 第二の大勢の者たちの経
9. パンチャカンガの経
10. 比丘たちの経
3. 百八の教相の章(269.~)
1. シーヴァカの経
2. 百八の経
3. 或るひとりの比丘の経
4. 過去の経
5. 知恵の経
6. 大勢の比丘たちの経
7. 第一の沙門や婆羅門たちの経
8. 第二の沙門や婆羅門たちの経
9. 第三の沙門や婆羅門たちの経
10. 単純なるものの経
11. 財貨なきものの経
3(37). 女性に相応するもの(280.~)
1. 第一の省略〔の経典〕の章(280.~)
1. 女性の経
2. 男性の経
3. 固有の苦しみの経
4. 三つの法を〔具備した女性〕の経
5. 忿激する者の経
6. 怨恨ある者の経
7. 嫉妬ある者の経
8. 物惜ある者の経
9. 姦通する者の経
10. 劣戒の者の経
11. 少聞の者の経
12. 怠惰の者の経
13. 気づきが忘却された者の経
14. 五つの怨念の経
2. 第二の省略〔の経典〕の章(294.~)
1. 忿激しない者の経
2. 怨恨なき者の経
3. 嫉妬なき者の経
4. 物惜なき者の経
5. 姦通しない者の経
6. 戒ある者の経
7. 多聞の者の経
8. 精進に励む者の経
9. 気づきが現起された者の経
10. 五つの戒の経
3. 力の章(304.~)
1. 離怖の者の経
2. 「打ち負かして」の経
3. 「征服して」の経
4. 一つのものの経
5. 支分の経
6. 「放逐し」の経
7. 因の経
8. 状況の経
9. 五つの戒と離怖の者の経
10. 増大の経
4(38). ジャンブカーダカに相応するもの(314.~)
1. 涅槃についての問いの経
2. 阿羅漢の資質についての問いの経
3. 法を説く者についての問いの経
4. 「何を義として」の経
5. 安堵に至り得た者の経
6. 最高の安堵に至り得た者の経
7. 感受についての問いの経
8. 煩悩についての問いの経
9. 無明についての問いの経
10. 渇愛についての問いの経
11. 激流についての問いの経
12. 執取についての問いの経
13. 生存についての問いの経
14. 苦しみについての問いの経
15. 身体を有することについての問いの経
16. 為し難きことについての問いの経
5(39). サーマンダカに相応するもの(330.~)
1. サーマンダカの経
2. 為し難きことについての問いの経
6(40). モッガッラーナに相応するもの(332.~)
1. 第一の瞑想についての問いの経
2. 第二の瞑想についての問いの経
3. 第三の瞑想についての問いの経
4. 第四の瞑想についての問いの経
5. 虚空無辺なる〔認識の〕場所についての問いの経
6. 識知無辺なる〔認識の〕場所についての問いの経
7. 無所有なる〔認識の〕場所についての問いの経
8. 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所についての問いの経
9. 無相についての問いの経
10. 帝釈〔天〕の経
11. チャンダナの経
7(41). チッタに相応するもの(343.~)
1. 束縛するものの経
2. 第一のイシダッタの経
3. 第二のイシダッタの経
4. マハカの神変の経
5. 第一のカーマブーの経
6. 第二のカーマブーの経
7. ゴーダッタの経
8. ニガンタ・ナータプッタの経
9. 無衣行者のカッサパの経
10. 病者の見舞いの経
8(42). 村長に相応するもの(353.~)
1. 狂暴な者の経
2. ターラプタの経
3. 軍人の経
4. 象兵の経
5. 馬兵の経
6. 刀師族の経
7. 田畑の喩えの経
8. 法螺貝の吹き手の経
9. 家の経
10. マニチューラカの経
11. バドラカの経
12. ラーシヤの経
13. パータリヤの経
9(43). 形成されたものではないものに相応するもの(366.~)
1. 第一の章(366.~)
1. 身体の在り方についての気づきの経
2. 〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の経
3. 〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有するものの経
4. 空性の禅定の経
5. 気づきの確立の経
6. 正しい精励の経
7. 神通の足場の経
8. 機能の経
9. 力の経
10. 覚りの支分の経
11. 道の経
2. 第二の章(377.~)
1. 形成されたものではないものの経
2. 傾いたものではないものの経
3-32. 煩悩なきもの等の経
33. 行き着く所の経
10(44). 説き明かされないものに相応するもの(410.~)
1. ケーマーの経
2. アヌラーダの経
3. 第一のサーリプッタとコッティカの経
4. 第二のサーリプッタとコッティカの経
5. 第三のサーリプッタとコッティカの経
6. 第四のサーリプッタとコッティカの経
7. モッガッラーナの経
8. ヴァッチャ・ゴッタの経
9. 公会堂の経
10. アーナンダの経
11. サビヤ・カッチャーナの経
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
六つの〔認識の〕場所の部(六処篇・下)
2(36). 感受に相応するもの
1. 詩偈を有するものの章
1. 禅定の経
249. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受(受:楽苦の知覚)です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔心が〕定められた者にして、正知と気づきの者たる、覚者の弟子は、そして、諸々の感受を、さらに、諸々の感受の発生を、〔あるがままに〕覚知する。
そして、そこにおいて、これら〔の感受〕が止滅するところ──〔すなわち、涅槃の境処を〕、さらに、滅尽に至る道を、〔あるがままに覚知する〕。諸々の感受の滅尽あることから、比丘は、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。〔以上が〕第一となる。
2. 安楽の経
250. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「もしくは、安楽であろうが、苦痛であろうが、苦でもなく楽でもないものと共に、そして、内に、さらに、外に、それが何であれ、感受されたものが存在するなら──
『これは、苦しみである』と知って、『虚偽の法(性質)である』『壊れ崩れるものである』〔と知って〕、接触しては接触して、〔その〕衰失を〔常に〕見ている者は、このように、そこにおいて、〔あるがままに〕識知する」と。〔以上が〕第二となる。
3. 捨棄の経
251. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、安楽の感受による貪り〔の思い〕の悪習(随眠:潜在煩悩)は、捨棄されるべきであり、苦痛の感受による敵対〔の思い〕の悪習は、捨棄されるべきであり、苦でもなく楽でもない感受による無明の悪習は、捨棄されるべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、安楽の感受による貪り〔の思い〕の悪習が、捨棄されたものと成ることから、苦痛の感受による敵対〔の思い〕の悪習が、捨棄されたものと成ることから、苦でもなく楽でもない感受による無明の悪習が、捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪習なき者であり、正しく見る者であり、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「安楽を感受している者に、感受を覚知していない者に、出離の見なき者に、〔まさに〕その、貪り〔の思い〕の悪習が有る。
苦痛を感受している者に、感受を覚知していない者に、出離の見なき者に、敵対〔の思い〕の悪習が有る。
苦でもなく楽でもない寂静なるものが、広き智慧ある者(ブッダ)によって説示された。しかしながら、もし、それに愉悦するなら、苦しみから解き放たれることは、まさしく、ない。
そして、すなわち、比丘が、熱情ある者となり、正知を遠ざけないことから、そののち、彼は、一切の感受を遍知する──賢者たる者として。
彼は、諸々の感受を遍知して、所見の法(現世)において、煩悩なき者となる。身体の破壊ののち、法(正義)に依って立つ者は、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。〔以上が〕第三となる。
4. 深淵の経
252. 「比丘たちよ、無聞の凡夫が、すなわち、『大海に深淵が存在する』と、言葉を語るのですが、比丘たちよ、また、まさに、無聞の凡夫は、〔まさに〕その、このことを、存在していないものとして、見出されていないものとして、このように、『大海に深淵が存在する』と、言葉を語ります。比丘たちよ、すなわち、この、『深淵』とは、まさに、これは、諸々の肉体的な苦痛の感受の同義語です。比丘たちよ、無聞の凡夫は、肉体的な苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、深淵において奮起せず、そして、堅地に到達しなかった』〔と〕説かれます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、肉体的な苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、まさしく、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、深淵において奮起し、そして、堅地に到達した』〔と〕説かれます」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、これらの、〔身体に〕生起した諸々の苦痛の感受を耐え忍ばず、命を奪い去る諸々の肉体的な〔苦痛の感受〕を〔耐え忍ばず〕、それら〔の苦痛の感受〕によって接触されたなら、強く動揺し──
泣き叫び、泣き悲しむ。力に劣る者であり、強さに乏しき者である、彼は、深淵において奮起せず、そこで、堅地にもまた到達しなかった。
しかしながら、すなわち、これらの、〔身体に〕生起した諸々の苦痛の感受を耐え忍び、命を奪い去る諸々の肉体的な〔苦痛の感受〕を〔耐え忍び〕、それら〔の苦痛の感受〕によって接触されたとして、動揺しない。彼は、まさに、深淵において奮起し、そこで、堅地にもまた到達した」と。〔以上が〕第四となる。
5. 見られるべきものの経
253. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、安楽の感受は、苦痛〔の観点〕から見られるべきであり、苦痛の感受は、矢〔の観点〕から見られるべきであり、苦でもなく楽でもない感受は、無常〔の観点〕から見られるべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、安楽の感受が、苦痛〔の観点〕から見られたものと成り、苦痛の感受が、矢〔の観点〕から見られたものと成り、苦でもなく楽でもない感受が、無常〔の観点〕から見られたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、正しく見る者であり、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、安楽〔の感受〕を、苦痛〔の観点〕から見たなら、苦痛〔の感受〕を、矢〔の観点〕から見たなら、苦でもなく楽でもない寂静なるものを、それを、無常〔の観点〕から見たなら──
彼は、まさに、正しく見る比丘であり、諸々の感受を遍知する。彼は、諸々の感受を遍知して、所見の法(現世)において、煩悩なき者となる。身体の破壊ののち、法(正義)に依って立つ者は、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない」と。〔以上が〕第五となる。
6. 矢の経
254. 「比丘たちよ、無聞の凡夫は、安楽の感受をもまた感受し、苦痛の感受をもまた感受し、苦でもなく楽でもない感受をもまた感受します。比丘たちよ、有聞の聖なる弟子は、安楽の感受をもまた感受し、苦痛の感受をもまた感受し、苦でもなく楽でもない感受をもまた感受します。比丘たちよ、そこで、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性(相違点)があるのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。彼は、二つの感受を感受します──かつまた、身体の属性としての〔感受〕を、かつまた、心の属性としての〔感受〕を。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人を矢で貫き、〔まさに〕その、この者を、〔第一の矢で〕貫くとおりに、第二の矢で貫くようなものです。比丘たちよ、まさに、このように、その人は、二つの矢によって、〔苦痛の〕感受を感受します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。彼は、二つの感受を感受します──かつまた、身体の属性としての〔感受〕を、かつまた、心の属性としての〔感受〕を。また、まさに、まさしく、その苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、敵対〔の思い〕ある者と成ります。〔まさに〕その、この者に、苦痛の感受による敵対〔の思い〕ある者に、すなわち、苦痛の感受による敵対〔の思い〕の悪習が、それが、悪習となります。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、欲望の安楽に愉悦します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その無聞の凡夫は、欲望の安楽より他に、苦痛の感受からの出離を覚知しないからです。そして、彼が、欲望の安楽に愉悦していると、すなわち、安楽の感受による貪り〔の思い〕の悪習が、それが、悪習となります。彼は、それらの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、それらの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知せずにいると、すなわち、苦でもなく楽でもない感受による無明の悪習が、それが、悪習となります。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛された者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛された者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛された者として、それを感受します。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、生によって、老によって、憂いによって、嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって、束縛された者である』〔と〕説かれます。『〔彼は〕苦しみによって束縛されている』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、有聞の聖なる弟子は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。彼は、一つの感受を、身体の属性としての〔感受〕を、感受します──心の属性としての〔感受〕ではなく。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、人を矢で貫き、〔まさに〕その、この者を、〔第一の矢で〕貫くとおりに、第二の矢で貫かないようなものです。比丘たちよ、まさに、このように、その人は、一つの矢によって、〔苦痛の〕感受を感受します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、有聞の聖なる弟子は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。彼は、一つの感受を、身体の属性としての〔感受〕を、感受します──心の属性としての〔感受〕ではなく。また、まさに、まさしく、その苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、敵対〔の思い〕ある者と成りません。〔まさに〕その、この者に、苦痛の感受による敵対〔の思い〕なき者に、すなわち、苦痛の感受による敵対〔の思い〕の悪習は、それは、悪習となりません。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、欲望の安楽に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その有聞の聖なる弟子は、欲望の安楽より他に、苦痛の感受からの出離を覚知するからです。彼が、欲望の安楽に愉悦せずにいると、すなわち、安楽の感受による貪り〔の思い〕の悪習は、それは、悪習となりません。彼は、それらの感受の、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、それらの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、すなわち、苦でもなく楽でもない感受による無明の悪習は、それは、悪習となりません。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、生による、老による、憂いによる、嘆きによる、諸々の苦痛による、諸々の失意による、諸々の葛藤による、束縛を離れた者である』〔と〕説かれます。『〔彼は〕苦しみによる束縛を離れている』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「智慧を有する者は、〔楽苦の〕感受を感受しない。多聞の者もまた、安楽〔の感受〕であるもまた〔感受せず〕、苦痛〔の感受〕であるもまた〔感受しない〕。そして、凡夫と、慧者と智者には、この大いなる差異が有る。
法(真理)を究めた多聞の者が、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔あるがままに〕観察しているなら、好ましいものにある諸々の法(性質)も、〔彼の〕心を掻き乱すことはなく、好ましくないからと、憤懣〔の思い〕に至らない。
彼の、諸々の共感〔の思い〕は、そこで、あるいは、諸々の反感〔の思い〕も、〔それらは〕砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しない。そして、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処を知って、正しく覚知する──〔迷いの〕生存の彼岸に至る者として」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の病の経
255. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、病舎のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として、〔死の〕時を待つべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正知の者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正知の者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として、〔死の〕時を待つべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、このように、気づきと正知の者となり、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいる、その比丘に、もし、安楽の感受が生起するなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この安楽の感受が生起するところとなった。しかしながら、まさに、それは、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。まさしく、この身体を縁として〔生起したのだ〕。また、まさに、この身体は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)である。また、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである、この身体を縁として、安楽の感受が生起したのだ。どうして、常住として有るというのだろう』と。彼は、そして、身体において、さらに、安楽の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、衰失の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼が、そして、身体において、さらに、安楽の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住んでいると、衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、離貪の随観ある者として〔世に〕住んでいると、止滅の随観ある者として〔世に〕住んでいると、放棄の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、そして、身体において、さらに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習は、それは捨棄されます。
比丘たちよ、このように、気づきと正知の者となり、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいる、その比丘に、もし、苦痛の感受が生起するなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この苦痛の感受が生起するところとなった。しかしながら、まさに、それは、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。まさしく、この身体を縁として〔生起したのだ〕。また、まさに、この身体は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである。また、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである、この身体を縁として、苦痛の感受が生起したのだ。どうして、常住として有るというのだろう』と。彼は、そして、身体において、さらに、苦痛の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、衰失の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼が、そして、身体において、さらに、苦痛の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住んでいると……略……放棄の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、そして、身体において、さらに、苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習は、それは捨棄されます。
比丘たちよ、このように、気づきと正知の者となり、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいる、その比丘に、もし、苦でもなく楽でもない感受が生起するなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この苦でもなく楽でもない感受が生起するところとなった。しかしながら、まさに、それは、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。まさしく、この身体を縁として〔生起したのだ〕。また、まさに、この身体は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである。また、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである、この身体を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起したのだ。どうして、常住として有るというのだろう』と。彼は、そして、身体において、さらに、苦でもなく楽でもない感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、衰失の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼が、そして、身体において、さらに、苦でもなく楽でもない感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住んでいると……略……放棄の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、そして、身体において、さらに、苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習は、それは捨棄されます。
彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の病の経
256. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、病舎のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として、〔死の〕時を待つべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正知の者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り……略……語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正知の者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として、〔死の〕時を待つべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、このように、気づきと正知の者となり、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいる、その比丘に、もし、安楽の感受が生起するなら、彼は、このように覚知します。『わたしに、この安楽の感受が生起するところとなった。しかしながら、まさに、それは、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。まさしく、この接触(触:感覚の発生)を縁として〔生起したのだ〕。また、まさに、この接触は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである。また、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものである、この接触を縁として、安楽の感受が生起したのだ。どうして、常住として有るというのだろう』と。彼は、そして、接触において、さらに、安楽の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、衰失の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼が、そして、接触において、さらに、安楽の感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住んでいると、衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、離貪の随観ある者として〔世に〕住んでいると、止滅の随観ある者として〔世に〕住んでいると、放棄の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、そして、接触において、さらに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習は、それは捨棄されます。
比丘たちよ、このように、気づきと正知の者となり……略……〔世に〕住んでいる、その比丘に、もし、苦痛の感受が生起するなら……略……苦でもなく楽でもない感受が生起するなら、彼は、このように覚知します。『わたしに、この苦でもなく楽でもない感受が生起するところとなった。しかしながら、まさに、それは、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。まさしく、この接触を縁として〔生起したのだ〕。……略……『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 無常の経
257. 「比丘たちよ、三つのものがあります。無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である、これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である、これらの三つの感受があります」と。〔以上が〕第九となる。
10. 接触を根元とするものの経
258. 「比丘たちよ、三つのものがあります。接触から生じ、接触を根元とし、接触を因縁とし、接触を縁とする、これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。まさしく、その、苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、二つの薪の摩擦と接合あることから、熱が生まれ、火が発現するようなものです。まさしく、それらの薪の別離と分散あることから、すなわち、それに応じるものである熱は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、接触から生じ、接触を根元とし、接触を因縁とし、接触を縁とする、これらの感受があります。それに応じる接触を縁として、それに応じる諸々の感受が生起します。それに応じる接触の止滅あることから、それに応じる諸々の感受は止滅します」と。〔以上が〕第十となる。
詩偈を有するものの章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「禅定、安楽があり、捨棄とともに、深淵があり、そして、見られるべきものとともに、まさしく、さらに、矢とともに、〔二つの〕病、無常、接触を根元とするものがあり、〔章となる〕」と。
2. 静所に赴いた者の章
1. 静所に赴いた者の経
259. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『三つの感受が、世親によって説かれた。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受である。これらの三つの感受が、世尊によって説かれた。また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある」と。いったい、まさに、何に関して、世尊によって語られたのか。「それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある」』」と。
「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、これらの三つの感受が、わたしによって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、わたしによって説かれました。また、まさに、このことが、わたしによって説かれました。『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある』と。比丘よ、また、まさに、このことは、それは、まさしく、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の無常なることに関して、わたしによって説かれました。『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある』と。比丘よ、また、まさに、このことは、それは、まさしく、諸々の形成〔作用〕の滅尽の法(性質)なることに関して、わたしによって……略……衰失の法(性質)なることに……略……離貪の法(性質)なることに……略……止滅の法(性質)なることに……略……変化の法(性質)なることに関して、わたしによって説かれました。『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある』と。比丘よ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の止滅が告げ知らされました。第一の瞑想(初禅・第一禅)の成就者には、言葉が止滅したものと成ります。第二の瞑想(第二禅)の成就者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅したものと成ります。第三の瞑想(第三禅)の成就者には、喜悦が止滅したものと成ります。第四の瞑想(第四禅)の成就者には、出息と入息が止滅したものと成ります。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)の成就者には、形態の表象が止滅したものと成ります。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)の成就者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)の成就者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)の成就者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。表象と感覚の止滅(想受滅)の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲(貪)が止滅したものと成り、憤怒(瞋)が止滅したものと成り、迷妄(痴)が止滅したものと成ります。比丘よ、そこで、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の寂止が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が寂止したものと成ります。第二の瞑想の成就者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が寂止したものと成ります。……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の成就者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が寂止したものと成ります。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、寂止したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が寂止したものと成り、憤怒が寂止したものと成り、迷妄が寂止したものと成ります。比丘よ、これらの六つの静息があります。第一の瞑想の成就者には、言葉が安息したものと成ります。第二の瞑想の成就者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が安息したものと成ります。第三の瞑想の成就者には、喜悦が安息したものと成ります。第四の瞑想の成就者には、出息と入息が安息したものと成ります。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、安息したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が安息したものと成り、憤怒が安息したものと成り、迷妄が安息したものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第一の虚空の経
260. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、虚空において、様々な種類の風が吹くようなものです。諸々の東の風もまた吹き、諸々の西の風もまた吹き、諸々の北の風もまた吹き、諸々の南の風もまた吹き、諸々の塵を有する風もまた吹き、諸々の塵なき風もまた吹き、諸々の冷たい風もまた吹き、諸々の熱い風もまた吹き、諸々の微小なる風もまた吹き、諸々の旺盛なる風もまた吹きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この身体において、様々な種類の感受が生起します。安楽の感受もまた生起し、苦痛の感受もまた生起し、苦でもなく楽でもない感受もまた生起します」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、また、虚空において、様々な種類の多々なる風が吹くように──諸々の東〔の風〕が、そして、また、諸々の西〔の風〕が、諸々の北〔の風〕が、そこで、諸々の南〔の風〕が──
諸々の塵を有するものが、そして、また、諸々の塵なきものが、諸々の冷たいものが、そして、或る時には、諸々の熱いものが、諸々の旺盛なるものが、さらに、諸々の微小なるものが、諸々の多々なる風が吹くように──
まさしく、そのように、この身体において、諸々の感受が生起する。安楽と苦痛の生起があり、さらに、すなわち、苦でもなく楽でもないものがある。
そして、すなわち、比丘が、熱情ある者となり、正知を遠ざけないことから、そののち、彼は、一切の感受を遍知する──賢者たる者として。
彼は、諸々の感受を遍知して、所見の法(現世)において、煩悩なき者となる。身体の破壊ののち、法(正義)に依って立つ者は、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第二の虚空の経
261. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、虚空において、様々な種類の風が吹くようなものです。諸々の東の風もまた吹き……略……諸々の旺盛なる風もまた吹きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この身体において、様々な種類の感受が生起します。安楽の感受もまた生起し、苦痛の感受もまた生起し、苦でもなく楽でもない感受もまた生起します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 家屋の経
262. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、来客のための家屋のようなものです。そこにおいて、〔来客たちが〕東の方角からもまた、やってきて住を営み、西の方角からもまた、やってきて住を営み、北の方角からもまた、やってきて住を営み、南の方角からもまた、やってきて住を営みます。士族たちもまた、やってきて住を営み、婆羅門たちもまた、やってきて住を営み、庶民たちもまた、やってきて住を営み、隷民たちもまた、やってきて住を営みます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この身体において、様々な種類の感受が生起します。安楽の感受もまた生起し、苦痛の感受もまた生起し、苦でもなく楽でもない感受もまた生起します。財貨を有するもの(世俗のもの)である、安楽の感受もまた生起し、財貨を有するものである、苦痛の感受もまた生起し、財貨を有するものである、苦でもなく楽でもない感受もまた生起します。財貨なきものである、安楽の感受もまた生起し、財貨なきものである、苦痛の感受もまた生起し、財貨なきものである、苦でもなく楽でもない感受もまた生起します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第一のアーナンダの経
263. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。「アーナンダよ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。アーナンダよ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから、感受の集起があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。それが、感受を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受の悦楽です。すなわち、感受が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受の危険です。それが、感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の止滅が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が止滅したものと成ります。……略……。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が止滅したものと成り、憤怒が止滅したものと成り、迷妄が止滅したものと成ります。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の寂止が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が寂止したものと成ります。……略……。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、寂止したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が寂止したものと成り、憤怒が寂止したものと成り、迷妄が寂止したものと成ります。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の安息が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が安息したものと成ります。……略……。虚空無辺なる〔認識の〕場所の成就者には、形態の表象が安息したものと成ります。識知無辺なる〔認識の〕場所の成就者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が安息したものと成ります。無所有なる〔認識の〕場所の成就者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が安息したものと成ります。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の成就者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が安息したものと成ります。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、安息したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が安息したものと成り、憤怒が安息したものと成り、迷妄が安息したものと成ります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二のアーナンダの経
264. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。アーナンダよ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから……略……。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が安息したものと成り、憤怒が安息したものと成り、迷妄が安息したものと成ります」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の大勢の者たちの経
265. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。「比丘たちよ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから、感受の集起があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。それが、感受を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受の悦楽です。すなわち、感受が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受の危険です。それが、感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です。
比丘たちよ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の止滅が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が止滅したものと成ります。……略……。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が止滅したものと成り、憤怒が止滅したものと成り、迷妄が止滅したものと成ります。比丘たちよ、そこで、また、まさに、わたしによって、諸々の形成〔作用〕の順次の寂止が告げ知らされました。第一の瞑想の成就者には、言葉が寂止したものと成ります。……略……。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が寂止したものと成り、憤怒が寂止したものと成り、迷妄が寂止したものと成ります。比丘たちよ、これらの六つの安息があります。第一の瞑想の成就者には、言葉が安息したものと成ります。第二の瞑想の成就者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が安息したものと成ります。第三の瞑想の成就者には、喜悦が安息したものと成ります。第四の瞑想の成就者には、出息と入息が安息したものと成ります。表象と感覚の止滅の成就者には、そして、表象が、さらに、感受が、安息したものと成ります。煩悩が滅尽した比丘には、貪欲が安息したものと成り、憤怒が安息したものと成り、迷妄が安息したものと成ります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の大勢の者たちの経
266. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから……略……(すなわち、前の経典におけるように、そのように詳知されるべきである)。〔以上が〕第八となる。
9. パンチャカンガの経
267. そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁が、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの感受が、世尊によって説かれたのですか」と。「棟梁よ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。棟梁よ、まさに、これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。このように説かれたとき、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。まさに(※)、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、パンチャカンガ棟梁も、尊者ウダーインを説得することができませんでした。まさに、尊者アーナンダは、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手にする、この議論と談論を耳にしました。
※ PTS版により kho を補う。
そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。
「アーナンダよ、まさに(※)、パンチャカンガ棟梁は、ウダーイン比丘の、まさしく、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、いっぽう、そして、ウダーイン比丘も、パンチャカンガ棟梁の、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、二つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。五つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。六つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。十八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三十六の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。百八の感受もまた(※※)、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されました。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく許認せず、等しく承認せず、等しく随喜しないなら、彼らには、このことが待っています。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく許認し、等しく承認し、等しく随喜するなら、彼らには、このことが待っています。和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕(※※※)。
※ PTS版により kho を補う。
※※ テキストには Aṭṭhasatampmppi とあるが、PTS版により Aṭṭhasatampi と読む。
※※※ テキストには viharissantī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
アーナンダよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。アーナンダよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは(※)、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
※ テキストには santaṃ とあるが、PTS版により sattā と読む。以下の平行箇所も同様。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼らのこの〔言葉〕を、わたしは認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。
アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、表象と感覚の止滅を言った。そして、それを、安楽〔の観点〕において報知する。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、どのようにあるのだ』と。アーナンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊は、安楽の感受に関してだけ、安楽〔の観点〕において報知するのではありません(安楽の感受に限定して、安楽と説くことはない)。友よ、その場その場に、それぞれのものにおいて、安楽が認知されるなら、それぞれのものを、如来は、安楽〔の観点〕において報知します』」と。〔以上が〕第九となる。
10. 比丘たちの経
268. 「比丘たちよ、二つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。五つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。六つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。十八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三十六の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。百八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。比丘たちよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されました。比丘たちよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく許認せず、等しく承認せず、等しく随喜しないなら、彼らには、このことが待っています。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。比丘たちよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく許認し、等しく承認し、等しく随喜するなら、彼らには、このことが待っています。和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕(※)。
※ テキストには viharissantī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。……略……。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、表象と感覚の止滅を言った。そして、それを、そして、それを、安楽〔の観点〕において報知する。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、どのようにあるのだ』と。比丘たちよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊は、安楽の感受に関してだけ、安楽〔の観点〕において報知するのではありません。友よ、その場その場に、それぞれのものにおいて、安楽が認知されるなら、それぞれのものを、如来は、安楽〔の観点〕において報知します』」と。〔以上が〕第十となる。
静所に赴いた者の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「静所に赴いた者、二つの虚空、家屋、そして、二つのアーナンダ、二つの大勢の者たちが説かれ、そして、パンチャカンガがあり、比丘たちとともに、〔章となる〕」と。
3. 百八の教相の章
1. シーヴァカの経
269. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、モーリヤ・シーヴァカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、モーリヤ・シーヴァカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
「シーヴァカよ、胆汁から等しく現起するものとしてもまた、まさに、ここに、一部の、諸々の感覚が生起します。シーヴァカよ、まさに、このことは、自らまた、知られるべきものです。すなわち、胆汁から等しく現起するものとしてもまた、ここに、一部の、諸々の感覚が生起するとおりに。シーヴァカよ、まさに、このことは、世〔の人々〕にとってもまた、真理として等しく思認されたものです。すなわち、胆汁から等しく現起するものとしてもまた、ここに、一部の、諸々の感覚が生起するとおりに。シーヴァカよ、そこで、すなわち、『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちは、かつまた、すなわち、自ら、知られるものも、そして、それを逸脱しているのであり、かつまた、すなわち、世〔の人々〕において、真理として等しく思認されているものも、そして、それを逸脱しているのです。それゆえに、『それらの沙門や婆羅門たちには、誤った〔見解がある〕』と、〔わたしは〕説きます。
シーヴァカよ、痰から等しく現起するものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、風から等しく現起するものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合のものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、季節の変化から生じるものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、変事の襲来から生じるものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、突然のものとしてもまた、まさに……略……。シーヴァカよ、行為の報い(業報)から生じるものとしてもまた、まさに、ここに、一部の、諸々の感覚が生起します。シーヴァカよ、まさに、このことは、自らまた、知られるべきものです。すなわち、行為の報いから等しく現起するものとしてもまた、ここに、一部の、諸々の感覚が生起するとおりに。シーヴァカよ、まさに、このことは、世〔の人々〕にとってもまた、真理として等しく思認されたものです。すなわち、行為の報いから等しく現起するものとしてもまた、ここに、一部の、諸々の感覚が生起するとおりに。シーヴァカよ、そこで、すなわち、『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちは、かつまた、すなわち、自ら、知られるものも、そして、それを逸脱しているのであり、かつまた、すなわち、世〔の人々〕において、真理として等しく思認されているものも、そして、それを逸脱しているのです。それゆえに、『それらの沙門や婆羅門たちには、誤った〔見解がある〕』と、〔わたしは〕説きます」と。このように説かれたとき、モーリヤ・シーヴァカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「胆汁、そして、痰、さらに、風、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合、そして、諸々の季節、変事、突然のものがあり、行為の報いによって、第八のものがある」と。〔以上が〕第一となる。
2. 百八の経
270. 「比丘たちよ、百八の教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、百八の教相であり、法(教え)の教相なのですか。比丘たちよ、二つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。五つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。六つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。十八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三十六の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。百八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。比丘たちよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されました。比丘たちよ、では、どのようなものが、二つの感受なのですか。そして、身体の属性としてのものであり、さらに、心の属性としてのものです。比丘たちよ、これらは、二つの感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの感受なのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、これらは、三つの感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、五つの感受なのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、これらは、五つの感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの感受なのですか。眼の接触から生じる感受であり……略……意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これらは、六つの感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、十八の感受なのですか。六つの悦意の細かい想念であり、六つの失意の細かい想念であり、六つの放捨の細かい想念です。比丘たちよ、これらは、十八の感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、三十六の感受なのですか。六つの家〔の生活〕に依拠した悦意であり、六つの離欲に依拠した悦意であり、六つの家〔の生活〕に依拠した失意であり、六つの離欲に依拠した失意であり、六つの家〔の生活〕に依拠した放捨であり、六つの離欲に依拠した放捨です。比丘たちよ、これらは、三十六の感受と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、百八の感受なのですか。過去の三十六の感受であり、未来の三十六の感受であり、現在の三十六の感受です。比丘たちよ、これらは、百八の感受と説かれます。比丘たちよ、これは、百八の教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第二となる。
3. 或るひとりの比丘の経
271. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の集起に至る〔実践の〕道であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。
「比丘よ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘よ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから、感受の集起があります。渇愛は、感受の集起に至る〔実践の〕道です。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。それが、感受を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受の悦楽です。すなわち、感受が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受の危険です。それが、感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です」と。〔以上が〕第三となる。
4. 過去の経
272. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の集起に至る〔実践の〕道であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道であるのか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『これらの三つの感受がある。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受である。これらは、感受と説かれる。接触の集起あることから、感受の集起がある。渇愛は、感受の集起に至る〔実践の〕道である。……略……。それが、感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離である』」と。〔以上が〕第四となる。
5. 知恵の経
273. 「比丘たちよ、『これらは、感受である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の集起である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の集起に至る〔実践の〕道である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の止滅である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の止滅に至る〔実践の〕道である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の悦楽である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の危険である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、『これは、感受の出離である』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第五となる。
6. 大勢の比丘たちの経
274. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の集起に至る〔実践の〕道であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。何が、感受の悦楽であり、何が、感受の危険であり、何が、感受の出離なのですか」と。「比丘たちよ、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、これらは、感受と説かれます。接触の集起あることから、感受の集起があります。渇愛は、感受の集起に至る〔実践の〕道です。接触の止滅あることから……略……。それが、感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の沙門や婆羅門たちの経
275. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの三つの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの三つの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の沙門や婆羅門たちの経
276. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの三つの感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第三の沙門や婆羅門たちの経
277. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、感受を覚知しないなら、感受の集起を覚知しないなら、感受の滅至を覚知しないなら、感受の滅至に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。
10. 単純なるものの経
278. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります」と。〔以上が〕第十となる。
11. 財貨なきものの経
279. 「比丘たちよ、財貨を有する喜悦が存在し、財貨なき喜悦が存在し、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦が存在します。財貨を有する安楽が存在し、財貨なき安楽が存在し、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽が存在します。財貨を有する放捨が存在し、財貨なき放捨が存在し、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨が存在します。財貨を有する解脱が存在し、財貨なき解脱が存在し、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する喜悦なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、五つの欲望の属性を縁として生起する、喜悦は、比丘たちよ、これは、財貨を有する喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき喜悦なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩の滅尽者たる比丘が、貪欲から心が解脱したのを綿密に注視していると、憤怒から心が解脱したのを綿密に注視していると、迷妄から心が解脱したのを綿密に注視していると、〔彼に〕生起する、喜悦は、比丘たちよ、これは、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する安楽なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽と悦意は、比丘たちよ、これは、財貨を有する安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき安楽なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを綿密に注視していると、憤怒から心が解脱したのを綿密に注視していると、迷妄から心が解脱したのを綿密に注視していると、〔彼に〕生起する、安楽と悦意は、比丘たちよ、これは、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する放捨なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、五つの欲望の属性を縁として生起する、放捨は、比丘たちよ、これは、財貨を有する放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき放捨なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを綿密に注視していると、憤怒から心が解脱したのを綿密に注視していると、迷妄から心が解脱したのを綿密に注視していると、〔彼に〕生起する、放捨は、比丘たちよ、これは、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する解脱なのですか。形態(色)と結び付いた解脱は、財貨を有する解脱です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき解脱なのですか。形態なきもの(無色)と結び付いた解脱は、財貨なき解脱です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを綿密に注視していると、憤怒から心が解脱したのを綿密に注視していると、迷妄から心が解脱したのを綿密に注視していると、〔彼に〕生起する、解脱は、比丘たちよ、これは、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱と説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。
百八の教相の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「シーヴァカと百八のもの、比丘、過去、そして、知恵があり、比丘たちとともに、三つの沙門や婆羅門たち、そして、単純なるもの、財貨なきものがあり、〔章となる〕」と。
感受に相応するものは〔以上で〕完結となる。
3(37). 女性に相応するもの
1. 第一の省略〔の経典〕の章
1. 女性の経
280. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した女性は、男性にとって、絶対的に意に適わない者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、形姿ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、財物ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、戒ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、怠け者として〔世に〕有ります。かつまた、その〔男性〕の子孫を得ません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、男性にとって、絶対的に意に適わない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した女性は、男性にとって、絶対的に意に適う者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、形姿ある者として〔世に〕有ります。かつまた、財物ある者として〔世に〕有ります。かつまた、戒ある者として〔世に〕有ります。かつまた、能ある者として、怠け者ではなく、〔世に〕有ります。かつまた、その〔男性〕の子孫を得ます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、男性にとって、絶対的に意に適う者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 男性の経
281. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した男性は、女性にとって、絶対的に意に適わない者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、形姿ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、財物ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、戒ある者ではなく〔世に〕有ります。かつまた、怠け者として〔世に〕有ります。かつまた、その〔女性〕の子孫を得ません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した男性は、女性にとって、絶対的に意に適わない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した男性は、女性にとって、絶対的に意に適う者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、形姿ある者として〔世に〕有ります。かつまた、財物ある者として〔世に〕有ります。かつまた、戒ある者として〔世に〕有ります。かつまた、怠け者ではなく、能ある者として〔世に〕有ります。かつまた、その〔女性〕の子孫を得ます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した男性は、女性にとって、絶対的に意に適う者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 固有の苦しみの経
282. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、女性に固有の苦しみです。それら〔の苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、女性は、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、亭主の家に赴き、親族たちとは別れ別れに成ります。比丘たちよ、これは、第一の、女性に固有の苦しみです。その〔苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。比丘たちよ、さらに、また、他に、女性は、月経ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第二の、女性に固有の苦しみです。その〔苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。比丘たちよ、さらに、また、他に、女性は、妊婦として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第三の、女性に固有の苦しみです。その〔苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。比丘たちよ、さらに、また、他に、女性は、出産します。比丘たちよ、これは、第四の、女性に固有の苦しみです。その〔苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。比丘たちよ、さらに、また、他に、女性は、男性の世話に従事します。比丘たちよ、これは、第五の、女性に固有の苦しみです。その〔苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、女性に固有の苦しみがあります。それら〔の苦しみ〕を、女性は経験します──まさしく、男性たちより他に」と。〔以上が〕第三となる。
4. 三つの法を〔具備した女性〕の経
283. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、早刻時のあいだ、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、日中時のあいだ、嫉妬〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で家に居住し、夕刻時のあいだ、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で家に居住します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した女性は、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 忿激する者の経
284. そこで、まさに、尊者アヌルッダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、女性が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しつつあるのを見ます。尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した女性が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか」と。
「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、忿激する者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 怨恨ある者の経
285. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、怨恨ある者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 嫉妬ある者の経
286. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、嫉妬ある者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 物惜ある者の経
287. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、物惜ある者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 姦通する者の経
288. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、姦通する者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は……略……再生します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 劣戒の者の経
289. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、劣戒の者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は……略……地獄に、再生します」と。〔以上が〕第十となる。
11. 少聞の者の経
290. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、少聞の者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は……略……地獄に、再生します」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 怠惰の者の経
291. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、怠惰の者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は……略……地獄に、再生します」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 気づきが忘却された者の経
292. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。かつまた、気づきが忘却された者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は……略……地獄に、再生します」と。〔以上が〕第十三となる。
14. 五つの怨念の経
293. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は……略……地獄に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。かつまた、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有ります。かつまた、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。かつまた、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第十四となる。
〔以上が〕第一の省略〔の経典〕章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「女性、そして、男性、固有のもの、そして、三つの法(性質)、忿激する者、そして、怨恨ある者、嫉妬ある者があり、さらに、物惜ある者とともに、そして、姦通する者、劣戒の者、少聞の者、怠惰の者、気づきが忘却された者、五つの怨念があり、黒分(月が欠ける期間)において明示された」と。
2. 第二の省略〔の経典〕の章
1. 忿激しない者の経
294. そこで、まさに、尊者アヌルッダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、女性が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生しつつあるのを見ます。尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した女性が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。
「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信ある者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有ります。かつまた、忿激しない者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧ある者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第一となる。
2. 怨恨なき者の経
295. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信なき者として〔世に〕有ります。かつまた、信ある者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有ります。かつまた、怨恨なき者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧ある者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 嫉妬なき者の経
296. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、信ある者として〔世に〕有ります。かつまた、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。かつまた、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有ります。かつまた、嫉妬なき者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧ある者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 物惜なき者の経
297. ……かつまた、物惜なき者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 姦通しない者の経
298. ……かつまた、姦通しない者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 戒ある者の経
299. ……かつまた、戒ある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 多聞の者の経
300. ……かつまた、多聞の者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 精進に励む者の経
301. ……かつまた、精進に励む者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 気づきが現起された者の経
302. ……かつまた、気づきが現起された者として〔世に〕有ります。かつまた、智慧浅き者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第九となる。
これらの八つの経典の簡略がある。
10. 五つの戒の経
303. 「アヌルッダよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。アヌルッダよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第十となる。
〔以上が〕第二の省略〔の経典〕章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、第二のものにおいて、忿激しない者、怨恨なき者、嫉妬なき者、物惜なき者、姦通しない者、そして、戒ある者、多聞の者、精進、気づき、さらに、戒があり、白分(月が満ちる期間)において明示された」と。
3. 力の章
1. 離怖の者の経
304. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力を具備した女性は、離怖の者となり、家に居住します」と。〔以上が〕第一となる。
2. 「打ち負かして」の経
305. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力を具備した女性は、主人を打ち負かして、家に居住します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 「征服して」の経
306. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力を具備した女性は、主人を征服して、家に居住します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 一つのものの経
307. 「比丘たちよ、しかしながら、まさに、一つの力を具備した男性は、女性を征服して転起します(行持する)。どのようなものが、一つの力なのですか。権力の力によって征服された女性を、まさしく、形姿の力は救わず、財物の力は救わず、親族の力は救わず、子の力は救わず、戒の力は救いません」と。〔以上が〕第四となる。
5. 支分の経
308. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、財物の力なくあるなら、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、財物の力もあることから、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、かつまた、親族の力なくあるなら、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、かつまた、親族の力もあることから、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、かつまた、子の力なくあるなら、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、かつまた、子の力もあることから、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、さらに、子の力もあり、かつまた、戒の力なくあるなら、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、さらに、子の力もあり、かつまた、戒の力もあることから、このように、その〔女性〕は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの女性の力があります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 「放逐し」の経
309. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、戒の力なくなるなら、彼女を、まさしく、放逐し、家において居住させません。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、かつまた、戒の力なくなるなら、彼女を、まさしく、放逐し、家において居住させません。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、かつまた、戒の力なくなるなら、彼女を、まさしく、放逐し、家において居住させません。比丘たちよ、女性が、かつまた、形姿の力を具備した者として〔世に〕有り、さらに、財物の力もあり、さらに、親族の力もあり、さらに、子の力もあり、かつまた、戒の力なくなるなら、彼女を、まさしく、放逐し、家において居住させません。比丘たちよ、女性が、かつまた、戒の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、形姿の力なくあるも、彼女を、まさしく、家において居住させ、放逐しません。比丘たちよ、女性が、かつまた、戒の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、財物の力なくあるも、彼女を、まさしく、家において居住させ、放逐しません。比丘たちよ、女性が、かつまた、戒の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、親族の力なくあるも、彼女を、まさしく、家において居住させ、放逐しません。比丘たちよ、女性が、かつまた、戒の力を具備した者として〔世に〕有り、かつまた、子の力なくあるも、彼女を、まさしく、家において居住させ、放逐しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの女性の力があります」と。〔以上が〕第六となる。
7. 因の経
310. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの女性の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。形姿の力であり、財物の力であり、親族の力であり、子の力であり、戒の力です。比丘たちよ、女性は、あるいは、形姿の力を因として、あるいは、財物の力を因として、あるいは、親族の力を因として、あるいは、子の力を因として、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しません。比丘たちよ、まさに、女性は、戒の力を因として、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの女性の力があります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 状況の経
311. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、適切なる家において生まれるであろう、という、この第一の状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴くであろう(良家に嫁ぐ)、という、この第二の状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者(単独の妻)として家に居住するであろう、という、この第三の状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者として家に居住しながら、子ある者として〔世に〕存するであろう、という、この第四の状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者として家に居住しながら、子ある者として〔世に〕存しつつ、主人を征服して転起するであろう、という、この第五の状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの状況は、〔過去に〕作り為した功徳なき女性によっては得難くあります。
比丘たちよ、五つのものがあります。これらの状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、適切なる家において生まれるであろう、という、この第一の状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴くであろう、という、この第二の状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者として家に居住するであろう、という、この第三の状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者として家に居住しながら、子ある者として〔世に〕存するであろう、という、この第四の状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。比丘たちよ、適切なる家において生まれて、適切なる家に赴いて、〔他の婦女と〕亭主を共にしない者として家に居住しながら、子ある者として〔世に〕存しつつ、主人を征服して転起するであろう、という、この第五の状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの状況は、〔過去に〕作り為した功徳ある女性によっては得易くあります」と。〔以上が〕第八となる。
9. 五つの戒と離怖の者の経
312. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、離怖の者となり、家に居住します。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。かつまた、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した女性は、離怖の者となり、家に居住します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 増大の経
313. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕増大によって増大しながら、聖なる女性在俗信者は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信によって増大し、戒によって増大し、所聞(学識)によって増大し、施捨によって増大し、智慧によって増大します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの増大によって増大しながら、聖なる女性在俗信者は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「その者が、ここに、信によって〔増大し〕、かつまた、戒によって増大するなら──智慧によって、施捨によって、さらに、同様に、所聞によって〔増大するなら〕──
そのような者である、彼女は、戒ある女性在俗信者(優婆夷)として、まさしく、この〔世において〕、自己の真髄を持す」と。〔以上が〕第十となる。
力の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「離怖の者、『打ち負かして』があり、『征服して』があり、一つのものがあり、支分とともに、『放逐し』があり、因、そして、状況、離怖の者があり、増大とともに、〔それらの〕十がある」と。
女性に相応するものは〔以上で〕完結となる。
4(38). ジャンブカーダカに相応するもの
1. 涅槃についての問いの経
314. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、マガダ〔国〕に住んでいます。ナーラカ村において。そこで、まさに、ジャンブカーダカ遍歴遊行者が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャンブカーダカ遍歴遊行者は、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「友よ、サーリプッタよ、『涅槃』『涅槃』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、涅槃なのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、涅槃と説かれます」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この涅槃の実証のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この涅槃の実証のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この涅槃の実証のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この涅槃の実証のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この涅槃の実証のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この涅槃の実証のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 阿羅漢の資質についての問いの経
315. 「友よ、サーリプッタよ、『阿羅漢の資質』『阿羅漢の資質』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、阿羅漢の資質なのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、阿羅漢の資質と説かれます」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この阿羅漢の資質の実証のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この阿羅漢の資質の実証のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この阿羅漢の資質の実証のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この阿羅漢の資質の実証のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この阿羅漢の資質の実証のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この阿羅漢の資質の実証のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 法を説く者についての問いの経
316. 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どのような者たちが、世において、法(真理)を説く者たちであり、どのような者たちが、世において、善き実践者たちであり、どのような者たちが、世において、善き至達者たちなのですか」と。「友よ、彼らが、まさに、貪欲の捨棄のために、法(教え)を説示するなら、憤怒の捨棄のために、法(教え)を説示するなら、迷妄の捨棄のために、法(教え)を説示するなら、彼らは、世において、法(真理)を説く者たちです。友よ、彼らが、まさに、貪欲の捨棄のために実践する者たちであるなら、憤怒の捨棄のために実践する者たちであるなら、迷妄の捨棄のために実践する者たちであるなら、彼らは、世において、善き実践者たちです。友よ、彼らの、まさに、貪欲が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、憤怒が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、迷妄が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、世において、善き至達者たちです」と。
「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 「何を義として」の経
317. 「友よ、サーリプッタよ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、苦しみの遍知を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この苦しみの遍知のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この苦しみの遍知のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この苦しみの遍知のための」と。
「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この苦しみの遍知のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この苦しみの遍知のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この苦しみの遍知のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 安堵に至り得た者の経
318. 「友よ、サーリプッタよ、『安堵に至り得た者』『安堵に至り得た者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、安堵に至り得た者と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、友よ、このことから、まさに、安堵に至り得た者と成ります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この安堵の実証のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この安堵の実証のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この安堵の実証のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この安堵の実証のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この安堵の実証のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この安堵の実証のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 最高の安堵に至り得た者の経
319. 「友よ、サーリプッタよ、『最高の安堵に至り得た者』『最高の安堵に至り得た者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、最高の安堵に至り得た者と成るのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、友よ、このことから、まさに、最高の安堵に至り得た者と成ります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この最高の安堵の実証のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この最高の安堵の実証のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この最高の安堵の実証のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この最高の安堵の実証のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この最高の安堵の実証のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この最高の安堵の実証のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。
7. 感受についての問いの経
320. 「友よ、サーリプッタよ、『感受』『感受』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、感受なのですか」と。「友よ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。友よ、まさに、これらの三つの感受があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの三つの感受の遍知のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの三つの感受の遍知のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの三つの感受の遍知のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの三つの感受の遍知のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの三つの感受の遍知のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの三つの感受の遍知のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 煩悩についての問いの経
321. 「友よ、サーリプッタよ、『煩悩』『煩悩』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、煩悩なのですか」と。「友よ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。友よ、まさに、これらの三つの煩悩があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの煩悩の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの煩悩の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの煩悩の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの煩悩の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの煩悩の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの煩悩の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第八となる。
9. 無明についての問いの経
322. 「友よ、サーリプッタよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明なのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、友よ、これは、無明と説かれます」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの無明の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの無明の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの無明の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの無明の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの無明の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの無明の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。
10. 渇愛についての問いの経
323. 「友よ、サーリプッタよ、『渇愛』『渇愛』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、渇愛なのですか」と。「友よ、三つのものがあります。これらの渇愛です。欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。友よ、まさに、これらの三つの渇愛があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの渇愛の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの渇愛の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの渇愛の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの渇愛の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの渇愛の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの渇愛の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十となる。
11. 激流についての問いの経
324. 「友よ、サーリプッタよ、『激流』『激流』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、激流なのですか」と。「友よ、四つのものがあります。これらの激流です。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。友よ、まさに、これらの四つの激流があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの激流の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの激流の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの激流の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの激流の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの激流の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの激流の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 執取についての問いの経
325. 「友よ、サーリプッタよ、『執取』『執取』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、執取なのですか」と。「友よ、四つのものがあります。これらの執取です。欲望への執取であり、見解への執取であり、戒や掟への執取であり、自己の論への執取です。友よ、まさに、これらの四つの執取があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの執取の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの執取の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの執取の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの執取の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの執取の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの執取の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 生存についての問いの経
326. 「友よ、サーリプッタよ、『生存』『生存』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、生存なのですか」と。「友よ、三つのものがあります。これらの生存です。欲望の生存であり、形態の生存であり、形態なき生存です。友よ、まさに、これらの三つの生存があります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの生存の捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの生存の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの生存の捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの生存の捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの生存の捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの生存の捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十三となる。
14. 苦しみについての問いの経
327. 「友よ、サーリプッタよ、『苦しみ』『苦しみ』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、苦しみなのですか」と。「友よ、三つのものがあります。これらの苦なることです。苦痛の苦なることであり、形成の苦なることであり、変化の苦なることです。友よ、まさに、これらの三つの苦なることがあります」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──これらの苦なることの捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──これらの苦なることの捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──これらの苦なることの捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──これらの苦なることの捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。これらの苦なることの捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──これらの苦なることの捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十四となる。
15. 身体を有することについての問いの経
328. 「友よ、サーリプッタよ、『身体を有すること』『身体を有すること』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、身体を有することなのですか」と。「友よ、五つのものがあります。これらの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって、身体を有することと説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって、身体を有することと説かれました」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この身体を有することの捨棄のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この身体を有することの捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この身体を有することの捨棄のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この身体を有することの捨棄のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この身体を有することの捨棄のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この身体を有することの捨棄のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十五となる。
16. 為し難きことについての問いの経
329. 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何が、この法(教え)と律において、為し難きことなのですか」と。「友よ、まさに、出家は、この法(教え)と律において、為し難きことです」と。「友よ、また、出家した者によって、何が、為し難きことなのですか」と。「友よ、出家した者によって、まさに、〔出家を〕喜び楽しむことは、為し難きことです」と。「友よ、また、〔出家を〕喜び楽しんでいる者によって、何が、為し難きことなのですか」と。「友よ、〔出家を〕喜び楽しんでいる者によって、まさに、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、為し難きことです」と。「友よ、また、どれだけの長さで、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘は、阿羅漢として〔世に〕存するのですか(阿羅漢になるのに、どれだけ時間がかかりますか)」と。「友よ、長からずして」と。〔以上が〕第十六となる。
ジャンブカーダカに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「涅槃、そして、阿羅漢の資質、法(真理)を説く者、『何を義として』があり、安堵、最高の安堵、感受、煩悩、無明、渇愛、激流、執取、生存、そして、苦しみ、身体を有すること、『この法(教え)と律において、為し難きことなのですか』があり、〔それらの十六がある〕」と。
5(39). サーマンダカに相応するもの
1. サーマンダカの経
330. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、ヴァッジー〔国〕に住んでいます。ウッカチェーラーのガンガー川の岸辺において。そこで、まさに、サーマンダカ遍歴遊行者が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サーマンダカ遍歴遊行者は、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「友よ、サーリプッタよ、『涅槃』『涅槃』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、涅槃なのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、涅槃と説かれます」と。「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この涅槃の実証のための」と。「友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この涅槃の実証のための」と。
「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この涅槃の実証のための」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です──この涅槃の実証のための。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この涅槃の実証のための」と。「友よ、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この涅槃の実証のための。友よ、サーリプッタよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。
(すなわち、ジャンブカーダカに相応するものにおけるように、そのように詳知されるべきである。)
2. 為し難きことについての問いの経
331. 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何が、この法(教え)と律において、為し難きことなのですか」と。「友よ、まさに、出家は、この法(教え)と律において、為し難きことです」と。「友よ、また、出家した者によって、何が、為し難きことなのですか」と。「友よ、出家した者によって、まさに、〔出家を〕喜び楽しむことは、為し難きことです」と。「友よ、また、〔出家を〕喜び楽しんでいる者によって、何が、為し難きことなのですか」と。「友よ、〔出家を〕喜び楽しんでいる者によって、まさに、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、為し難きことです」と。「友よ、また、どれだけの長さで、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘は、阿羅漢として〔世に〕存するのですか」と。「友よ、長からずして」と。〔以上が〕第十六となる。
(前のものと等しき摂頌となる。)
サーマンダカに相応するものは〔以上で〕完結となる。
6(40). モッガッラーナに相応するもの
1. 第一の瞑想についての問いの経
332. 或る時のことです。尊者マハー・モッガッラーナは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「友よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『「第一の瞑想」「第一の瞑想」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、第一の瞑想であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、第一の瞑想と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります(瞑想から退失する)。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、第一の瞑想に放逸であってはいけません。第一の瞑想において、心を確立させなさい。第一の瞑想において、心を専一に作り為しなさい。第一の瞑想において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第二の瞑想についての問いの経
333. ……。『「第二の瞑想」「第二の瞑想」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、第二の瞑想であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、第二の瞑想と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、第二の瞑想に放逸であってはいけません。第二の瞑想において、心を確立させなさい。第二の瞑想において、心を専一に作り為しなさい。第二の瞑想において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第三の瞑想についての問いの経
334. ……。『「第三の瞑想」「第三の瞑想」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、第三の瞑想であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、第三の瞑想と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、喜悦を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、第三の瞑想に放逸であってはいけません。第三の瞑想において、心を確立させなさい。第三の瞑想において、心を専一に作り為しなさい。第三の瞑想において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第四の瞑想についての問いの経
335. ……。『「第四の瞑想」「第四の瞑想」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、第四の瞑想であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、第四の瞑想と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、安楽を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、第四の瞑想に放逸であってはいけません。第四の瞑想において、心を確立させなさい。第四の瞑想において、心を専一に作り為しなさい。第四の瞑想において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 虚空無辺なる〔認識の〕場所についての問いの経
336. ……。『「虚空無辺なる〔認識の〕場所」「虚空無辺なる〔認識の〕場所」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、虚空無辺なる〔認識の〕場所であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、「虚空は、終極なきものである」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これは、虚空無辺なる〔認識の〕場所と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、虚空無辺なる〔認識の〕場所に放逸であってはいけません。虚空無辺なる〔認識の〕場所において、心を確立させなさい。虚空無辺なる〔認識の〕場所において、心を専一に作り為しなさい。虚空無辺なる〔認識の〕場所において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 識知無辺なる〔認識の〕場所についての問いの経
337. ……。『「識知無辺なる〔認識の〕場所」「識知無辺なる〔認識の〕場所」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、識知無辺なる〔認識の〕場所であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「識知は、終極なきものである」と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これは、識知無辺なる〔認識の〕場所と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、識知無辺なる〔認識の〕場所に放逸であってはいけません。識知無辺なる〔認識の〕場所において、心を確立させなさい。識知無辺なる〔認識の〕場所において、心を専一に作り為しなさい。識知無辺なる〔認識の〕場所において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 無所有なる〔認識の〕場所についての問いの経
338. ……。『「無所有なる〔認識の〕場所」「無所有なる〔認識の〕場所」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、無所有なる〔認識の〕場所であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「何であれ、存在しない」と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これは、無所有なる〔認識の〕場所と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、無所有なる〔認識の〕場所に放逸であってはいけません。無所有なる〔認識の〕場所において、心を確立させなさい。無所有なる〔認識の〕場所において、心を専一に作り為しなさい。無所有なる〔認識の〕場所において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所についての問いの経
339. ……。『「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所」「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に放逸であってはいけません。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所において、心を確立させなさい。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所において、心を専一に作り為しなさい。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを……略……大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 無相についての問いの経
340. ……。『「無相なる〔止寂の〕心の禅定」「無相なる〔止寂の〕心の禅定」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、無相なる〔止寂の〕心の禅定であるのか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住む。これは、無相なる〔止寂の〕心の禅定と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、形相に従い行く識知〔作用〕が有ります。
友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、無相なる〔止寂の〕心の禅定に放逸であってはいけません。無相なる〔止寂の〕心の禅定において、心を確立させなさい。無相なる〔止寂の〕心の禅定において、心を専一に作り為しなさい。無相なる〔止寂の〕心の禅定において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みました。友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 帝釈〔天〕の経
341. そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天に出現しました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、五百の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、僧団を……略……善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、六百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、七百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、八百の天神たちと共に……略……。八万の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。……略……。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、五百の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、六百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、七百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、八百の天神たちと共に……略……。八万の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、五百の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳(盛名)によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。……略……。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、六百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、七百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、八百の天神たちと共に……略……。八万の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。……略……。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴くことが有るのは。……略……。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、法(教え)のもとに赴くことが有るのは。……略……。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことが有るのは。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、帰依所として、僧団のもとに赴くことを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、五百の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、六百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、七百の天神たちと共に……略……。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、八百の天神たちと共に……略……。八万の天神たちと共に、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組にして、八者の人士たる人であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
天〔の神々〕たちのインダよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することが有るのは。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、僧団にたいする確固たる浄信を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することが有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備することを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼らは、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって」と。〔以上が〕第十となる。
11. チャンダナの経
342. そこで、まさに、チャンダナ天子は……略……。
そこで、まさに、スヤーマ天子は……略……。
そこで、まさに、サントゥシタ天子は……略……。
そこで、まさに、スニンミタ天子は……略……。
そこで、まさに、ヴァサヴァッティン天子は……略……。
(すなわち、帝釈〔天〕の経のように、そのように、これらの五つの省略〔の経典〕が詳知されるべきである。)〔以上が〕第十一となる。
モッガッラーナに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、〔粗雑なる〕思考を有するもの、思考なきものがあり、さらに、安楽とともに、放捨、まさしく、そして、虚空、識知、無所有があり、表象あるにもあらざるものとともに、そして、無相、そして、帝釈〔天〕、さらに、チャンダナがあり、十一のものによって、〔相応するものとなる〕」と。
7(41). チッタに相応するもの
1. 束縛するものの経
343. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、種々なる義(意味)であり、種々なる字音(呼称)であるのか(異義異音語であるのか)、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々であるのか(同義異音語であるのか)」と。そこで、一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かすところと成ります。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音である」と。一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かすところと成ります。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、一つの義(意味)であり、字音だけが種々である」と。
また、まさに、その時点にあって、チッタ家長が、パータリプッタに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。まさに、チッタ家長は、「どうやら、大勢の長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こったらしい。『友よ、あるいは、「束縛するもの」とは、あるいは、「諸々の束縛されるべき法(性質)」とは、これらの法(性質)は、種々なる義(意味)であり、種々なる字音(呼称)であるのか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々であるのか』と。そこで、一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かされたらしい。『友よ、あるいは、「束縛するもの」とは、あるいは、「諸々の束縛されるべき法(性質)」とは、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音である』と。一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かされたらしい。『友よ、あるいは、「束縛するもの」とは、あるいは、「諸々の束縛されるべき法(性質)」とは、これらの法(性質)は、一つの義(意味)であり、字音だけが種々である』」と耳にしました。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こったらしい。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、種々なる義(意味)であり、種々なる字音(呼称)であるのか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々であるのか」と。そこで、一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かされたらしい。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音である」と。一部の長老の比丘たちによって、このように説き明かされたらしい。「友よ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、一つの義(意味)であり、字音だけが種々である」』」と。「家長よ、そのとおりです」と。
「尊き方たちよ、あるいは、『束縛するもの』とは、あるいは、『諸々の束縛されるべき法(性質)』とは、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音(呼称)です(異義異音語である)。尊き方たちよ、まさに、それでは、あなたたちのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。尊き方たちよ、それは、たとえば、また、そして、黒の雄牛が、さらに、白の雄牛が、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられ、〔そのように〕存しているようなものです。いったい、まさに、或る者が、『黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものであり、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものである』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「家長よ、まさに、このことは、さにあらず。家長よ、まさに、黒の雄牛は、白の雄牛にとって束縛するものではなく、白の雄牛は、黒の雄牛にとって束縛するものではありません。すなわち、まさに、彼らが、一つの、あるいは、縄によって、あるいは、結び紐によって、結び付けられているなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります」と。「尊き方たちよ、まさしく、このように、まさに、眼は、諸々の形態にとって束縛するものではなく、諸々の形態は、眼にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。耳は、諸々の音声にとって……。鼻は、諸々の臭気にとって……。舌は、諸々の味感にとって……。身は、諸々の感触にとって束縛するものではなく、諸々の感触は、身にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります。意は、諸々の法(意の対象)にとって束縛するものではなく、諸々の法(意の対象)は、意にとって束縛するものではありません。しかしながら、すなわち、そこにおいて、その両者を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が生起するなら、それは、そこにおいて、束縛するものとなります」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの智慧の眼は、深遠なる覚者の言葉のうちに進み行きます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第一のイシダッタの経
344. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、長老たちは、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。まさに、長老の比丘たちは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちの承諾を見出して、坐から立ち上がって、長老の比丘たちを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、チッタ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。
そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、『界域の種々なること』『界域の種々なること』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、界域の種々なることと説かれたのですか──世尊によって」と。このように説かれたとき、尊者テーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、チッタ家長は、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、『界域の種々なること』『界域の種々なること』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、界域の種々なることと説かれたのですか──世尊によって」と。再度また、まさに、尊者テーラは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、チッタ家長は、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、『界域の種々なること』『界域の種々なること』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、界域の種々なることと説かれたのですか──世尊によって」と。三度また、まさに、尊者テーラは、沈黙の者と成りました。
また、まさに、その時点にあって、尊者イシダッタは、その比丘の僧団において、全ての者たちの新参者として有ります。そこで、まさに、尊者イシダッタは、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、わたしが、チッタ家長に、この問いを説き明かしましょう」と。「友よ、イシダッタよ、あなたは、チッタ家長に、この問いを説き明かしなさい」と。「家長よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、テーラよ、「界域の種々なること」「界域の種々なること」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、界域の種々なることと説かれたのですか──世尊によって』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「家長よ、このことが、まさに、界域の種々なることと説かれました──世尊によって。眼の界域であり、形態の界域であり、眼の識知〔作用〕の界域であり……略……意の界域であり、法(意の対象)の界域であり、意の識知〔作用〕の界域です。家長よ、このことから、まさに、界域の種々なることが説かれました──世尊によって」と。
そこで、まさに、チッタ家長は、尊者イシダッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、長老の比丘たちを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、食事を終え、鉢から手を離すと、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者テーラは、尊者イシダッタに、こう言いました。「友よ、イシダッタよ、善きかな、まさに、あなたに、この問いは明白となりました。わたしに、この問いは明白となりませんでした。友よ、イシダッタよ、まさに、それで、すなわち、他なるときもまた、このような形態の問いがやってくるなら、まさしく、あなたに、ここにおいて、明白となるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第二のイシダッタの経
345. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、長老たちは、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。まさに、長老の比丘たちは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちの承諾を見出して、坐から立ち上がって、長老の比丘たちを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、チッタ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。
そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。さらに、すなわち、これらの六十二の悪しき見解が、『梵の網〔の経〕』において話されました。尊き方よ、いったい、まさに、これらの見解は、何が存しているとき、有り、何が存していないとき、有ることがないのですか」と。
このように説かれたとき、尊者テーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、チッタ家長は……略……。三度また、まさに、チッタ家長は、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。さらに、すなわち、これらの六十二の悪しき見解が、『梵の網〔の経〕』において話されました(長部経典第一『梵網経』参照)。尊き方よ、いったい、まさに、これらの見解は、何が存しているとき、有り、何が存していないとき、有ることがないのですか」と。三度また、まさに、尊者テーラは、沈黙の者と成りました。
また、まさに、その時点にあって、尊者イシダッタは、その比丘の僧団において、全ての者たちの新参者として有ります。そこで、まさに、尊者イシダッタは、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、わたしが、チッタ家長に、この問いを説き明かしましょう」と。「友よ、イシダッタよ、あなたは、チッタ家長に、この問いを説き明かしなさい」と。「家長よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、テーラよ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、「世〔界〕は、常久である」と……略……。尊き方よ、いったい、まさに、これらの見解は、何が存しているとき、有り、何が存していないとき、有ることがないのですか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「家長よ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。さらに、すなわち、これらの六十二の悪しき見解が、『梵の網〔の経〕』において話されました。家長よ、まさに、これらの見解は、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が存しているとき、有り、身体を有するという見解が存していないとき、有ることなくあります」と。
「尊き方よ、また、どのように、身体を有するという見解が有るのですか」と。「家長よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。家長よ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。
「尊き方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。「比丘よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘よ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。
「尊き方よ、尊貴なるイシダッタは、どこからの到来ですか」と。「家長よ、まさに、アヴァンティ〔国〕からの到来です」と。「尊き方よ、アヴァンティ〔国〕に、イシダッタという名の良家の子息で、わたしどもの、〔いまだ〕見たことがない道友の出家者が存在します。尊者は、彼を見たことがありますか」と。「家長よ、そのとおりです」と。「尊き方よ、いったい、まさに、どこに、今現在、その尊者は住んでいますか」と。このように説かれたとき、尊者イシダッタは、沈黙の者と成りました。「尊き方よ、尊貴なるイシダッタではないですか」と。「家長よ、そのとおりです」と。「尊き方よ、尊貴なるイシダッタは、マッチカーサンダにおいて喜び楽しみたまえ。アンバータカ林は喜ばしきところです。わたしは、尊貴なるイシダッタのために、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)に思い入れを為しましょう(援助し支援する)」と。「家長よ、善きことが説かれます」と。
そこで、まさに、チッタ家長は、尊者イシダッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、長老の比丘たちを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、食事を終え、鉢から手を離すと、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者テーラは、尊者イシダッタに、こう言いました。「友よ、イシダッタよ、善きかな、まさに、あなたに、この問いは明白となりました。わたしに、この問いは明白となりませんでした。友よ、イシダッタよ、まさに、それで、すなわち、他なるときもまた、このような形態の問いがやってくるなら、まさしく、あなたに、ここにおいて、明白となるべきです」と。そこで、まさに、尊者イシダッタは、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、マッチカーサンダから立ち去りました。すなわち、マッチカーサンダから立ち去った、そのままに、まさしく、立ち去った者として有り、ふたたび戻り来ることはなかった、ということです。〔以上が〕第三となる。
4. マハカの神変の経
346. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、長老たちは、明日、牛舎において、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。まさに、長老の比丘たちは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちの承諾を見出して、坐から立ち上がって、長老の比丘たちを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、チッタ家長の牛舎のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。
そこで、まさに、チッタ家長は、長老の比丘たちを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、長老の比丘たちは、食事を終え、鉢から手を離すと、坐から立ち上がって、立ち去りました。チッタ家長もまた、まさに、「残りものを捨て放ちなさい」と言って、背後から背後へと、長老の比丘たちに付き従います。また、まさに、その時点にあって、煮えたぎる暑さと成ります。そして、それらの長老の比丘たちは、思うに、溶けつつあるかのような身体で赴きます──すなわち、その食を食べ終えたままに。
また、まさに、その時点にあって、尊者マハカは、その比丘の僧団において、全ての者たちの新参者として有ります。そこで、まさに、尊者マハカは、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、まさに、善きこととして存するでしょう──そして、冷たい風が吹くなら、かつまた、雷雲が存するなら、さらに、天が、ぽつぽつと雨を降らせるなら」と。
「友よ、マハカよ、まさに、善きこととして存するでしょう──そして、冷たい風が吹くなら、かつまた、雷雲が存するなら、さらに、天が、ぽつぽつと雨を降らせるなら」と。そこで、まさに、尊者マハカは、すなわち、そして、冷たい風が吹き、かつまた、雷雲が存し、さらに、天が、ぽつぽつと雨を降らせた、そのような形態の神通の神変を行作しました。そこで、まさに、チッタ家長に、この〔思い〕が有りました。「彼は、まさに、この比丘の僧団において、全ての者たちの新参者たる比丘なるも、彼に、この、このような形態の神通の神変がある」と。そこで、まさに、尊者マハカは、林園に達し得て、尊者テーラに、こう言いました。「尊き方よ、テーラよ、これだけで十分でしょうか」と。「友よ、マハカよ、これだけで十分です。友よ、マハカよ、これだけのことが為されたとは。友よ、マハカよ、これだけのことが供養されたとは」と。そこで、まさに、長老の比丘たちは、それぞれの精舎に赴きました。尊者マハカもまた、自らの精舎に赴きました。
そこで、まさに、チッタ家長は、尊者マハカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハカを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、尊者マハカに、こう言いました。「尊き方よ、どうか、尊貴なるマハカは、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見せてください」と。「家長よ、まさに、それでは、あなたは、外縁に上衣を設けて、草の束を振りまきなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、チッタ家長は、尊者マハカに答えて、外縁に上衣を設けて、草の束を振りまきました。そこで、まさに、尊者マハカは、精舎に入って、閂を施して、すなわち、そして、鍵穴から、さらに、閂の隙間から、炎が出て、諸々の草を燃やすも、上衣を燃やさなかった、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、チッタ家長は、上衣を打ち払って、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、一方に立ちました。そこで、まさに、尊者マハカは、精舎から出て、チッタ家長に、こう言いました。「家長よ、これだけで十分でしょうか」と。
「尊き方よ、マハカよ、これだけで十分です。尊き方よ、マハカよ、これだけのことが為されたとは。尊き方よ、マハカよ、これだけのことが供養されたとは」と。「尊き方よ、尊貴なるマハカは、マッチカーサンダにおいて喜び楽しみたまえ。アンバータカ林は喜ばしきところです。わたしは、尊貴なるマハカのために、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品に思い入れを為しましょう」と。「家長よ、善きことが説かれます」と。そこで、まさに、尊者マハカは、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、マッチカーサンダから立ち去りました。すなわち、マッチカーサンダから立ち去った、そのままに、まさしく、立ち去った者として有り、ふたたび戻り来ることはなかった、ということです。〔以上が〕第四となる。
5. 第一のカーマブーの経
347. 或る時のことです。尊者カーマブーは、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、尊者カーマブーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者カーマブーを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長に、尊者カーマブーは、こう言いました。
「家長よ、この〔言葉〕が説かれました。
〔すなわち〕『各部が無欠で、白い覆いをした、一なる輻(スポーク)の車が、転じ来る。見よ──〔渇愛の〕流れを断ち、結縛なく、煩悶なき者が至り来るのを』と。
家長よ、いったい、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。「尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、この〔言葉〕は、世尊によって語られたのですか」と。「家長よ、そのとおりです」と。「尊き方よ、まさに、それでは、しばらくのあいだ、すなわち、〔わたしが〕その〔言葉〕の義(意味)を見るあいだ、お待ちください」と。そこで、まさに、チッタ家長は、しばらくのあいだ、沈黙の者と成って〔そののち〕、尊者カーマブーに、こう言いました。
「尊き方よ、『各部が無欠で』とは、まさに、これは、諸戒の同義語です。尊き方よ、『白い覆いをした』とは、まさに、これは、解脱の同義語です。尊き方よ、『一なる輻』とは、まさに、これは、気づきの同義語です。尊き方よ、『転じ来る』とは、まさに、これは、前進と後進の同義語です。尊き方よ、『車』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、身体の同義語です。尊き方よ、まさに、貪欲は、煩悶です。憤怒は、煩悶です。迷妄は、煩悶です。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の煩悶〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、煩悩が滅尽した比丘は、『煩悶なき者』と説かれます。尊き方よ、『やってくる(アーヤント)』とは、まさに、これは、阿羅漢(アラハント)の同義語です。尊き方よ、『流れ』とは、まさに、これは、渇愛の同義語です。煩悩が滅尽した比丘の、その〔渇愛〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、煩悩が滅尽した比丘は、『〔渇愛の〕流れを断った者』と説かれます。尊き方よ、まさに、貪欲は、結縛です。憤怒は、結縛です。迷妄は、結縛です。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の結縛〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、煩悩が滅尽した比丘は、『結縛なき者』と説かれます。尊き方よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、世尊によって説かれました。
〔すなわち〕『各部が無欠で、白い覆いをした、一なる輻の車が、転じ来る。見よ──〔渇愛の〕流れを断ち、結縛なく、煩悶なき者が至り来るのを』と。
尊き方よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの智慧の眼は、深遠なる覚者の言葉のうちに進み行きます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二のカーマブーの経
348. 或る時のことです。尊者カーマブーは、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、尊者カーマブーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者カーマブーを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、尊者カーマブーに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの形成〔作用〕があるのですか」と。「家長よ、まさに、三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、チッタ家長は、尊者カーマブーの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者カーマブーに、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、どのようなものが、身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕なのですか」と。「家長よ、まさに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕です」と。
「尊き方よ、善きかな」と、まさに、チッタ家長は……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、何ゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕なのですか」と。「家長よ、まさに、出息と入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)は、身体と連結しています。それゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。家長よ、まさに、過去において、思考して、想念して、未来に、言葉を発します。それゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象は、さらに、感受は、心の属性であり、これらの法(性質)は、心と連結しています。それゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕です」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅への入定が有るのですか」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に止滅するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、最初に、言葉の形成〔作用〕が止滅し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔止滅し〕、そののち、心の形成〔作用〕が〔止滅します〕」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、これらの者たちには、どのような多様性(相違点)があるのですか」と。「家長よ、すなわち、この、命を終えた死者ですが、彼の、身体の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、言葉の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、心の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、寿命は完全に滅尽したものとなり、熱は寂止したものとなり、諸々の〔感官の〕機能は完全に破壊したものとなります。家長よ、さらに、すなわち、まさに、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、彼もまた、身体の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、言葉の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、心の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなるも、寿命は完全に滅尽したものとならず、熱は寂止したものとならず、諸々の〔感官の〕機能は澄浄になった〔状態のまま〕です。家長よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、それらの者たちには、この多様性があります」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅の入定からの出起が有るのですか」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に生起するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、最初に、心の形成〔作用〕が生起し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔生起し〕、そののち、言葉の形成〔作用〕が〔生起します〕」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、どれだけの接触が接触するのですか」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、三つの接触が接触します。空性の接触であり、無相の接触であり、無願の接触です」と。
「尊き方よ、善きかな」と……略……さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、何に向かい行くものと成り、何に傾倒するものと〔成り〕、何に傾斜するものと〔成るのですか〕」と。「家長よ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成ります〕」と。
「尊き方よ、善きかな」と、まさに、チッタ家長は、尊者カーマブーの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者カーマブーに、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、表象と感覚の止滅の入定のために、どれだけの諸々の法(性質)が、多くの資益あるものとなるのですか」と。「家長よ、まさに、たしかに、あなたは、すなわち、最初に問うべきものを、それを尋ねました。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。家長よ、まさに、表象と感覚の止滅の入定のために、二つの法(性質)が、多くの資益あるものとなります。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です」と。〔以上が〕第六となる。
7. ゴーダッタの経
349. 或る時のことです。尊者ゴーダッタは、マッチカーサンダに住んでいます。アンバータカ林において。そこで、まさに、チッタ家長は、尊者ゴーダッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ゴーダッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長に、尊者ゴーダッタは、こう言いました。「家長よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無所有なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、空性なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、種々なる義(意味)であり、種々なる字音(呼称)なのですか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々なのですか」と。「尊き方よ、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。尊き方よ、また、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります」と。
「尊き方よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音(呼称)となります。尊き方よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕(悲)を……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。尊き方よ、これは、無量なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
尊き方よ、では、どのようなものが、無所有なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。尊き方よ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、これは、無所有なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
尊き方よ、では、どのようなものが、空性なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。尊き方よ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって』と。尊き方よ、これは、空性なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
尊き方よ、では、どのようなものが、無相なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。尊き方よ、ここに、比丘が、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、これは、無相なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。尊き方よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。
尊き方よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります。尊き方よ、貪欲は、量を作り為すものです。憤怒は、量を作り為すものです。迷妄は、量を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の量を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。尊き方よ、およそ、まさに、諸々の無量なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。尊き方よ、まさに、貪欲は、所有(障害)です。憤怒は、所有です。迷妄は、所有です。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の所有〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。尊き方よ、およそ、まさに、諸々の無所有なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。尊き方よ、貪欲は、相を作り為すものです。憤怒は、相を作り為すものです。迷妄は、相を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の相を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。尊き方よ、およそ、まさに、諸々の無相なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。尊き方よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの智慧の眼は、深遠なる覚者の言葉のうちに進み行きます」と。〔以上が〕第七となる。
8. ニガンタ・ナータプッタの経
350. また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)が、マッチカーサンダに到着するところと成ります──大いなるニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の衆と共に。まさに、チッタ家長は、「どうやら、ニガンタ・ナータプッタが、マッチカーサンダに到着したらしい──大いなるニガンタの衆と共に」と耳にしました。そこで、まさに、チッタ家長は、大勢の在俗信者たちと共に、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長に、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。「家長よ、あなたは、信を置きますか──沙門ゴータマの『思考なく想念なき禅定は存在する』『思考と想念の止滅は存在する』〔という、この言葉に〕」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、ここにおいて、世尊への信(信仰)によって赴くのではありません──『思考なく想念なき禅定は存在する』『思考と想念の止滅は存在する』〔という、この言葉に〕」と。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、見上げて、こう言いました。「貴君たちは、このことを見たまえ。このチッタ家長が、かつまた、真っすぐな者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、狡猾なき者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、幻惑なき者である、そのかぎりを。すなわち、諸々の思考と想念を、止滅できるものと思い考えるなら、その者は、あるいは、風を、網で捕縛できるものと思い考えているのだ。すなわち、諸々の思考と想念を、止滅できるものと思い考えるなら、その者は、あるいは、ガンガー〔川〕の流れを、自らの拳で阻止できるものと思い考えているのだ」と。
「尊き方よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より精妙ですか──あるいは、知ですか、あるいは、信ですか」と。「家長よ、まさに、知こそは、信よりもより精妙です」と。「尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、まさに、このように知っている、このように見ている、〔まさに〕その(※)、わたしが、どうして、他の、あるいは、沙門への、あるいは、婆羅門への、信によって赴くというのでしょう──『思考なく想念なき禅定は存在する』『思考と想念の止滅は存在する』〔という、この言葉に〕(自ら体験するので他者の言葉を信じるまでもない)」と。
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このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、自らの衆を顧みて、こう言いました。「貴君たちは、このことを見たまえ。このチッタ家長が、かつまた、真っすぐならざる者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、狡猾ある者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、幻惑ある者である、そのかぎりを」と。
「尊き方よ、まさしく、今や、まさに、あなたの語ったものとして、わたしどもは、この〔言葉〕を、このように了知します。『貴君たちは、このことを見たまえ。このチッタ家長が、かつまた、真っすぐな者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、狡猾なき者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、幻惑なき者である、そのかぎりを』と。尊き方よ、また、そして、まさしく、今や、あなたの語ったものとして、わたしどもは、この〔言葉〕を、このように了知します。『貴君たちは、このことを見たまえ。このチッタ家長が、かつまた、真っすぐならざる者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、狡猾ある者である、そのかぎりを。このチッタ家長が、かつまた、幻惑ある者である、そのかぎりを』と。尊き方よ、それで、もし、あなたの前〔の言葉〕が真理であるなら、あなたの後〔の言葉〕は誤っています。尊き方よ、また、それで、もし、あなたの前〔の言葉〕が誤っているなら、あなたの後〔の言葉〕は真理です。尊き方よ、また、まさに、これらの十の法(真理)を共にする問いが、〔あなたに〕やってきます。〔あなたが〕それらの義(意味)を了知する、そのときは、そこで、わたしに反駁するべきです──ニガンタの衆と共に。一つの問いがあります。一つの誦説(概説)があります。一つの説き明かしがあります。二つの問いがあります。二つの誦説があります。二つの説き明かしがあります。三つの問いがあります。三つの誦説があります。三つの説き明かしがあります。四つの問いがあります。四つの誦説があります。四つの説き明かしがあります。五つの問いがあります。五つの誦説があります。五つの説き明かしがあります。六つの問いがあります。六つの誦説があります。六つの説き明かしがあります。七つの問いがあります。七つの誦説があります。七つの説き明かしがあります。八つの問いがあります。八つの誦説があります。八つの説き明かしがあります。九つの問いがあります。九つの誦説があります。九つの説き明かしがあります。十の問いがあります。十の誦説があります。十の説き明かしがあります」と。そこで、まさに、チッタ家長は、ニガンタ・ナータプッタに、これらの十の法(真理)を共にする問いを尋ねて、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第八となる。
9. 無衣行者のカッサパの経
351. また、まさに、その時点にあって、無衣行者のカッサパが、マッチカーサンダに到着するところと成ります──チッタ家長の、過去の在家の道友が。まさに、チッタ家長は、「どうやら、無衣行者のカッサパが、マッチカーサンダに到着したらしい──わたしたちの、過去の在家の道友が」と耳にしました。そこで、まさに、チッタ家長は、無衣行者のカッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のカッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チッタ家長は、無衣行者のカッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、出家者となり、どれだけの長さとなりますか」と。「家長よ、まさに、わたしが出家者となり、三十年ほどです」と。「尊き方よ、また、あなたに、これらの三十年ほどをもってして、何であれ、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「家長よ、まさに、わたしに、これらの三十年ほどをもってして、何であれ、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在することはありません。かつまた、裸身でいることより他に、かつまた、剃髪することより〔他に〕、かつまた、髪を引き抜くことより〔他に〕」と。このように説かれたとき、チッタ家長は、無衣行者のカッサパに、こう言いました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。法(真理)が見事に語られたことだ。なぜなら、そこで、まさに、三十年ほどをもってして、何であれ、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところと成らないとは。かつまた、裸身でいることより他に、かつまた、剃髪することより〔他に〕、かつまた、髪を引き抜くことより〔他に〕」と。
「家長よ、また、あなたが在俗信者たることを具した者となり、どれだけの長さとなりますか」と。「尊き方よ、また、まさに、わたしもまた、在俗信者たることを具した者となり、三十年ほどです」と。「家長よ、また、あなたに、これらの三十年ほどをもってして、何であれ、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、在家者にもまた存在します。尊き方よ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、わたしは、まさに、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、また、まさに、それで、もし、わたしが、世尊のより以前に、命を終えるとして、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、世尊は、わたしのことを、このように説き明かすでしょう。『その束縛するものによって束縛されたチッタ家長が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その、束縛するものは存在しません』」と。このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、チッタ家長に、こう言いました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。法(真理)が見事に語られたことだ。なぜなら、そこで、まさに、白衣の在家者が、このような形態の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に、平穏の住に、到達するのだ。家長よ、わたしが、この法(教え)と律において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。
そこで、まさに、チッタ家長は、無衣行者のカッサパを携えて、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、この無衣行者のカッサパは、わたしたちの、過去の在家の道友です。長老たちは、この者を、出家させたまえ。〔戒を〕成就させたまえ。わたしは、彼のために、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品に思い入れを為しましょう」と。まさに、無衣行者のカッサパは、この法(教え)と律において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、そして、尊者カッサパは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者カッサパは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第九となる。
10. 病者の見舞いの経
352. また、まさに、その時点にあって、チッタ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、大勢の、園林の天神たちが、林の天神たちが、木の天神たちが、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちが、群集して、集いあつまって、チッタ家長に、こう言いました。「家長よ、誓願したまえ。『未来の時に、転輪王として存するのだ』」と。
このように説かれたとき、チッタ家長は、それらの、園林の天神たちに、林の天神たちに、木の天神たちに、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちに、こう言いました。「それもまた、常住ではありません。それもまた、常恒ではありません。それもまた、捨棄して去り行くべきものです」と。このように説かれたとき、チッタ家長の、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、チッタ家長に、こう言いました。「主人よ、気づきを現起したまえ。語り散らしてはいけません」と。「それで、わたしは、何を説くのですか。すなわち、あなたたちは、わたしに、このように説きます。『主人よ、気づきを現起したまえ。語り散らしてはいけません』」と。「主人よ、まさに、あなたは、このように説きます。『それもまた、常住ではありません。それもまた、常恒ではありません。それもまた、捨棄して去り行くべきものです』」と。「また、なぜなら、そのように、園林の天神たちが、林の天神たちが、木の天神たちが、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちが、わたしに、このように言ったからです。『家長よ、誓願したまえ。「未来の時に、転輪王として存するのだ」』と。それで、わたしは、このように説きます。『それもまた、常住ではありません。……略……。それもまた、捨棄して去り行くべきものです』」と。「主人よ、また、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、それらの、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、このように言ったのですか。『家長よ、誓願したまえ。「未来の時に、転輪王として存するのだ」』」と。「まさに、それらの、園林の天神たちに、林の天神たちに、木の天神たちに、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、このチッタ家長は、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である。それで、もし、「未来の時に、転輪王として存するのだ」と誓願するなら、まさに、戒ある者である彼の、この心の誓願は、清浄なることから、実現するであろう。法(正義)にかなう者は、法(正義)にかなう果を随観する』と。まさに、この義(利益)たる所以を正しく見ながら、それらの、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、このように言いました。『家長よ、誓願したまえ。「未来の時に、転輪王として存するのだ」』と。それで、わたしは、このように説きます。『それもまた、常住ではありません。それもまた、常恒ではありません。それもまた、捨棄して去り行くべきものです』」と。
「主人よ、まさに、それでは、わたしたちにもまた教諭したまえ」と。「まさに、それゆえに、このように、あなたは学ぶべきです。『覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちと成るのだ。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者たちと成るのだ。「法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである」と。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者たちと成るのだ。「世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組にして、八者の人士たる人であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である」と。また、まさに、それが何であれ、家にある施すべき法(施物)は、その全てが、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されたものと成るのだ』と。まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。そこで、まさに、チッタ家長は、朋友や僚友たちに、親族や血縁たちに、そして、覚者を、かつまた、法(教え)を、さらに、僧団を、そして、施捨を、〔それらを〕受持させて、命を終えた、ということです。〔以上が〕第十となる。
チッタに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「結縛するもの、二つのイシダッタ、マハカ、そして、〔二つの〕カーマブーもまたあり、そして、ゴーダッタ、さらに、ニガンタがあり、無衣とともに、病者の見舞いがあり、〔それらの十がある〕」と。
8(42). 村長に相応するもの
1. 狂暴な者の経
353. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、狂暴な〔気質〕の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、狂暴な〔気質〕の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、まさしく、『狂暴な者』『狂暴な者』という名称に至るのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、まさしく、『温和な者』『温和な者』という名称に至るのですか」と。「村長よ、ここに、一部の者に、貪欲が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。貪欲が〔いまだ〕捨棄されていないことから、他者たちが〔彼を〕激情させます。他者たちによって激情させられながら、〔彼は〕激情を明らかと為します。彼は、まさしく、『狂暴な者』という名称に至ります。憤怒が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。憤怒が〔いまだ〕捨棄されていないことから、他者たちが〔彼を〕激情させます。他者たちによって激情させられながら、〔彼は〕激情を明らかと為します。彼は、まさしく、『狂暴な者』という名称に至ります。迷妄が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。迷妄が〔いまだ〕捨棄されていないことから、他者たちが〔彼を〕激情させます。他者たちによって激情させられながら、〔彼は〕激情を明らかと為します。彼は、まさしく、『狂暴な者』という名称に至ります。村長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、まさしく、『狂暴な者』『狂暴な者』という名称に至ります。
村長よ、また、ここに、一部の者に、貪欲が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。貪欲が〔すでに〕捨棄されたことから、他者たちが〔彼を〕激情させることはありません。他者たちによって激情させられながら、〔彼が〕激情を明らかと為すこともありません。彼は、まさしく、『温和な者』という名称に至ります。憤怒が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。憤怒が〔すでに〕捨棄されたことから、他者たちが〔彼を〕激情させることはありません。他者たちによって激情させられながら、〔彼が〕激情を明らかと為すこともありません。彼は、まさしく、『温和な者』という名称に至ります。迷妄が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。迷妄が〔すでに〕捨棄されたことから、他者たちが〔彼を〕激情させることはありません。他者たちによって激情させられながら、〔彼が〕激情を明らかと為すこともありません。彼は、まさしく、『温和な者』という名称に至ります。村長よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、まさしく、『温和な者』『温和な者』という名称に至ります」と。
このように説かれたとき、狂暴な〔気質〕の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第一となる。
2. ターラプタの経
354. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、芸人たちの村長であるターラプタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、芸人たちの村長であるターラプタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の芸人たちが語っているところとして、『すなわち、その芸人が、舞台の中で、祭礼の中で、真なる〔言葉〕や偽り〔の言葉〕によって、人を笑わせ喜ばせるなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、笑喜天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。「村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに、芸人たちの村長であるターラプタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の芸人たちが語っているところとして、『すなわち、その芸人が、舞台の中で、祭礼の中で、真なる〔言葉〕や偽り〔の言葉〕によって、人を笑わせ喜ばせるなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、笑喜天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。「村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。三度また、まさに、芸人たちの村長であるターラプタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の芸人たちが語っているところとして、『すなわち、その芸人が、舞台の中で、祭礼の中で、真なる〔言葉〕や偽り〔の言葉〕によって、人を笑わせ喜ばせるなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、笑喜天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。
「村長よ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。村長よ、過去において、まさに、貪欲を離れず貪欲の結縛によって結縛された有情たちがいます。芸人は、彼らのために、舞台の中で、祭礼の中で、それらが、貪るべき法(性質)であるなら、それらを、より一層激しく提供します。村長よ、過去において、まさに、憤怒を離れず憤怒の結縛によって結縛された有情たちがいます。芸人は、彼らのために、舞台の中で、祭礼の中で、それらが、怒るべき法(性質)であるなら、それらを、より一層激しく提供します。村長よ、過去において、まさに、迷妄を離れず迷妄の結縛によって結縛された有情たちがいます。芸人は、彼らのために、舞台の中で、祭礼の中で、それらが、迷うべき法(性質)であるなら、それらを、より一層激しく提供します。彼は、自己みずから、酔い、放逸となり、他者たちを、酔わせて、放逸にさせて、身体の破壊ののち、死後において、笑喜という名の地獄があり、そこにおいて再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような〔思いが〕有るなら、『すなわち、その芸人が、舞台の中で、祭礼の中で、真なる〔言葉〕や偽り〔の言葉〕によって、人を笑わせ喜ばせるなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、笑喜天〔の神々〕たちの同類として再生する』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。村長よ、また、まさに、誤った見解ある人士たる人には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です」と。
このように説かれたとき、芸人たちの村長であるターラプタは、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。「村長よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしは、師匠のなかの大師匠たる往古の芸人たちによって、長夜にわたり、欺かれ、騙され、誘惑されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。『すなわち、その芸人が、舞台の中で、祭礼の中で、真なる〔言葉〕や偽り〔の言葉〕によって、人を笑わせ喜ばせるなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、笑喜天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。まさに、芸人たちの村長であるターラプタは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、そして、〔戒を〕成就したばかりの尊者ターラプタは……略……阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第二となる。
3. 軍人の経
355. そこで、まさに、軍人の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、軍人の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の軍人たちが語っているところとして、『すなわち、その軍人が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔軍人〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。「村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、軍人の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の軍人たちが語っているところとして、『すなわち、その軍人が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔軍人〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。
「村長よ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。村長よ、すなわち、その軍人が、戦場において邁進し努力するなら、彼のその心は、過去において、悪しく作り為され、悪しく向けられ、〔このように〕収め取られました。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶してしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない、かくのごとく』と。〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔軍人〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝という名の地獄があり、そこにおいて再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような〔思いが〕有るなら、『すなわち、その軍人が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔軍人〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。村長よ、また、まさに、誤った見解ある人士たる人には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です」と。
このように説かれたとき、軍人の村長は、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。「村長よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしは、師匠のなかの大師匠たる往古の軍人たちによって、長夜にわたり、欺かれ、騙され、誘惑されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。『すなわち、その軍人が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔軍人〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第三となる。
4. 象兵の経
356. そこで、まさに、象兵の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第四となる。
5. 馬兵の経
357. そこで、まさに、馬兵の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、馬兵の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の馬兵たちが語っているところとして、『すなわち、その馬兵が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔馬兵〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。「村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、馬兵の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の馬兵たちが語っているところとして、『すなわち、その馬兵が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔馬兵〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。
「村長よ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。村長よ、すなわち、その馬兵が、戦場において邁進し努力するなら、彼のその心は、過去において、悪しく作り為され、悪しく向けられ、〔このように〕収め取られました。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶してしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない、かくのごとく』と。〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔馬兵〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝という名の地獄があり、そこにおいて再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような〔思いが〕有るなら、『すなわち、その馬兵が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔馬兵〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。村長よ、また、まさに、誤った見解ある人士たる人には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です」と。
このように説かれたとき、馬兵の村長は、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。「村長よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『村長よ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしは、師匠のなかの大師匠たる往古の馬兵たちによって、長夜にわたり、欺かれ、騙され、誘惑されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。『すなわち、その馬兵が、戦場において邁進し努力し、〔まさに〕その、邁進し努力している、この〔馬兵〕を、他者たちが殺し〔命を〕奪うなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、他勝天〔の神々〕たちの同類として再生する』と。尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。
6. 刀師族の経
358. 或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。そこで、まさに、刀師族の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちがいます。彼らは、命を終えた死者を、まさに、脱魂させ、まさに、説得し、まさに、天上に入らせます。尊き方よ、また、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、すなわち、一切の世〔の人々〕が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するように、そのように為すことができますか」と。「村長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください」と。
「村長よ、それを、どう思いますか。ここに、人が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕存するとします。〔まさに〕その、この者に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くとします。『この人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生せよ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、大いなる人の衆の、あるいは、懇願を因として、あるいは、賛嘆を因として、あるいは、合掌の者たちとなり、遍く従い行くことを因として、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「村長よ、それは、たとえば、また、人が、大いなる広々とした岩盤を、深い湖水のなかに投げ入れるとします。〔まさに〕その、この〔大いなる広々とした岩盤〕に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くとします。『君よ、広々とした岩盤よ、浮かび上がれ。君よ、広々とした岩盤よ、飛び上がれ。君よ、広々とした岩盤よ、陸に飛び上がれ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その広々とした岩盤は、大いなる人の衆の、あるいは、懇願を因として、あるいは、賛嘆を因として、あるいは、合掌の者たちとなり、遍く従い行くことを因として、あるいは、浮かび上がるでしょうか、あるいは、飛び上がるでしょうか、あるいは、陸に飛び上がるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「村長よ、まさしく、このように、まさに、人が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕存するなら、たとえ、何であれ、〔まさに〕その、この者に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くも、『この人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生せよ』と、そこで、まさに、その人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。
村長よ、それを、どう思いますか。ここに、人が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕存するとします。〔まさに〕その、この者に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くとします。『この人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生せよ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、大いなる人の衆の、あるいは、懇願を因として、あるいは、賛嘆を因として、あるいは、合掌の者たちとなり、遍く従い行くことを因として、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「村長よ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、酥の瓶を、あるいは、油の瓶を、深い湖水のなかに入って、破壊するとします。そこで、すなわち、あるいは、砂礫が、あるいは、小石が、〔瓶の中に〕存在するなら、それは、下に赴くものとして存するでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、そこで、あるいは、酥が、あるいは、油が、〔瓶の中に〕存在し、〔まさに〕その、この〔酥か油〕に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くとします。『君よ、酥か油よ、沈め。君よ、酥か油よ、沈み行け。君よ、酥か油よ、下に赴け』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その酥か油は、大いなる人の衆の、あるいは、懇願を因として、あるいは、賛嘆を因として、あるいは、合掌の者たちとなり、遍く従い行くことを因として、あるいは、沈むでしょうか、あるいは、沈み行くでしょうか、あるいは、下に赴くでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「村長よ、まさしく、このように、まさに、人が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕存するなら、たとえ、何であれ、〔まさに〕その、この者に、大いなる人の衆が、群集して、集いあつまって、懇願し、賛嘆し、合掌の者となり、遍く従い行くも、『この人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生せよ』と、そこで、まさに、その人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう」と。このように説かれたとき、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。
7. 田畑の喩えの経
359. 或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。そこで、まさに、刀師族の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として〔世に〕住むのではないでしょうか」と。「村長よ、そのとおりです。如来は、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として〔世に〕住みます」と。「尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、世尊は、一部の者たちに、丁寧に法(教え)を説示し、一部の者たちに、そのように、丁寧に法(教え)を説示しないのですか」と。「村長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。村長よ、それを、どう思いますか。ここに、耕作者の家長に、三つの田畑が存するとします。一つは、至高なる田畑であり、一つは、中等なる田畑であり、一つは、下劣なる田畑で、荒地にして塩気ある悪地です。村長よ、それを、どう思いますか。この耕作者の家長が、諸々の種を据え置くことを欲する者であるなら、どこにおいて、最初に据え置くでしょうか。あるいは、すなわち、この、至高なる田畑ですか、あるいは、すなわち、この、中等なる田畑ですか、あるいは、すなわち、この、下劣なる田畑で、荒地にして塩気ある悪地ですか」と。「尊き方よ、この耕作者の家長が、諸々の種を据え置くことを欲する者であるなら、すなわち、この、至高なる田畑ですが、そこにおいて据え置くでしょう。そこにおいて据え置いて〔そののち〕、すなわち、この、中等なる田畑ですが、そこにおいて据え置くでしょう。そこにおいて据え置いて〔そののち〕、すなわち、この、下劣なる田畑で、荒地にして塩気ある悪地ですが、そこにおいて、据え置くこともまたあるでしょうし、据え置かないこともまたあるでしょう。それは、何を因とするのですか。もしくは、牛の食べるところともまた成るからです」と。
「村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、この、至高なる田畑ですが、まさしく、このように、わたしにとって、比丘と比丘尼たちはあります。彼らに、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。村長よ、なぜなら、これらの者たちは、わたしを洲とする者たちとして、わたしを避難所とする者たちとして、わたしを救護所とする者たちとして、わたしを帰依所とする者たちとして、〔世に〕住むからです。村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、この、中等なる田畑ですが、まさしく、このように、わたしにとって、在俗信者と女性在俗信者たちはあります。彼らにもまた、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。村長よ、なぜなら、これらの者たちは、わたしを洲とする者たちとして、わたしを避難所とする者たちとして、わたしを救護所とする者たちとして、わたしを帰依所とする者たちとして、〔世に〕住むからです。村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、この、下劣なる田畑で、荒地にして塩気ある悪地ですが、まさしく、このように、わたしにとって、〔教えを〕他にする異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちはあります。彼らにもまた、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。まさしく、たとえ、まさに、一つの句でさえも、〔彼らが〕了知するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するからです」と。
「村長よ、それは、たとえば、また、人に、三つの水瓶があるとします。一つは、穴がなく漏れがなく完全に漏れ出ない水瓶であり、一つは、穴がなく漏れがあり完全に漏れ出る水瓶であり、一つは、穴があり漏れがあり完全に漏れ出る水瓶です。村長よ、それを、どう思いますか。この人が、水を貯め置くことを欲する者であるなら、どこにおいて、最初に貯め置くでしょうか。あるいは、すなわち、その、穴がなく漏れがなく完全に漏れ出ない水瓶ですか、あるいは、すなわち、その、穴がなく漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですか、あるいは、すなわち、その、穴があり漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですか」と。「尊き方よ、この人が、水を貯め置くことを欲する者であるなら、すなわち、その、穴がなく漏れがなく完全に漏れ出ない水瓶ですが、そこにおいて貯め置くでしょう。そこにおいて貯め置いて〔そののち〕、すなわち、その、穴がなく漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですが、そこにおいて貯め置くでしょう。そこにおいて貯め置いて〔そののち〕、すなわち、その、穴があり漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですが、そこにおいて、貯め置くこともまたあるでしょうし、貯め置かないこともまたあるでしょう。それは、何を因とするのですか。もしくは、物品を洗い清めることもまた有るからです」と。
「村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、その、穴がなく漏れがなく完全に漏れ出ない水瓶ですが、まさしく、このように、わたしにとって、比丘と比丘尼たちはあります。彼らに、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。村長よ、なぜなら、これらの者たちは、わたしを洲とする者たちとして、わたしを避難所とする者たちとして、わたしを救護所とする者たちとして、わたしを帰依所とする者たちとして、〔世に〕住むからです。村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、その、穴がなく漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですが、まさしく、このように、わたしにとって、在俗信者と女性在俗信者たちはあります。彼らにもまた、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。村長よ、なぜなら、これらの者たちは、わたしを洲とする者たちとして、わたしを避難所とする者たちとして、わたしを救護所とする者たちとして、わたしを帰依所とする者たちとして、〔世に〕住むからです。村長よ、それは、たとえば、また、すなわち、その、穴があり漏れがあり完全に漏れ出る水瓶ですが、まさしく、このように、わたしにとって、〔教えを〕他にする異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちはあります。彼らにもまた、わたしは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。それは、何を因とするのですか。まさしく、たとえ、まさに、一つの句でさえも、〔彼らが〕了知するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するからです」と。このように説かれたとき、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。
8. 法螺貝の吹き手の経
360. 或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。そこで、まさに、ニガンタの弟子である刀師族の村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、刀師族の村長に、世尊は、こう言いました。「村長よ、いったい、まさに、どのように、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちに、法(教え)を説示するのですか」と。「尊き方よ、このように、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちに、法(教え)を説示します。『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と。尊き方よ、このように、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちに、法(教え)を説示します」と。「村長よ、そして、『それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と(※)、このように存しているなら、誰であれ、悪所にある者と〔成らず〕、地獄にある者と成らないでしょう。すなわち、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには。
※ テキストには nīyati とあるが、PTS版により nīyatī’ti と読む。
村長よ、それを、どう思いますか。すなわち、その人が、命あるものを殺す者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、どちらの時間が、より多くありますか。あるいは、すなわち、彼が、命あるものを殺す、〔その時間ですか〕、あるいは、すなわち、彼が、命あるものを殺さない、〔その時間ですか〕」と。「尊き方よ、すなわち、その人が、命あるものを殺す者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、すなわち、彼が、命あるものを殺す、その時間は、より少なくあり、そこで、まさに、すなわち、彼が、命あるものを殺さない、その時間こそは、より多くあります」と。「村長よ、そして、『それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と、このように存しているなら、誰であれ、悪所にある者と〔成らず〕、地獄にある者と成らないでしょう。すなわち、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには。
村長よ、それを、どう思いますか。すなわち、その人が、与えられていないものを取る者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、どちらの時間が、より多くありますか。あるいは、すなわち、彼が、与えられていないものを取る、〔その時間ですか〕、あるいは、すなわち、彼が、与えられていないものを取らない、〔その時間ですか〕」と。「尊き方よ、すなわち、その人が、与えられていないものを取る者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、すなわち、彼が、与えられていないものを取る、その時間は、より少なくあり、そこで、まさに、すなわち、彼が、与えられていないものを取らない、その時間こそは、より多くあります」と。「村長よ、そして、『それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と、このように存しているなら、誰であれ、悪所にある者と〔成らず〕、地獄にある者と成らないでしょう。すなわち、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには。
村長よ、それを、どう思いますか。すなわち、その人が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なう者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、どちらの時間が、より多くありますか。あるいは、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なう、〔その時間ですか〕、あるいは、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわない、〔その時間ですか〕」と。「尊き方よ、すなわち、その人が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なう者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なう、その時間は、より少なくあり、そこで、まさに、すなわち、彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわない、その時間こそは、より多くあります」と。「村長よ、そして、『それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と、このように存しているなら、誰であれ、悪所にある者と〔成らず〕、地獄にある者と成らないでしょう。すなわち、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには。
村長よ、それを、どう思いますか。すなわち、その人が、虚偽を説く者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、どちらの時間が、より多くありますか。あるいは、すなわち、彼が、虚偽を話す、〔その時間ですか〕、あるいは、すなわち、彼が、虚偽を話さない、〔その時間ですか〕」と。「尊き方よ、すなわち、その人が、虚偽を説く者であるとして、あるいは、夜の、あるいは、昼の、〔その〕時間〔その〕時間に関して、すなわち、彼が、虚偽を話す、その時間は、より少なくあり、そこで、まさに、すなわち、彼が、虚偽を話さない、その時間こそは、より多くあります」と。「村長よ、そして、『それが多くあるままに〔世に住み〕、それが多くあるままに〔世に〕住むなら、それによって〔導かれ〕、それによって導かれる』と、このように存しているなら、誰であれ、悪所にある者と〔成らず〕、地獄にある者と成らないでしょう。すなわち、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには。
村長よ、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である。彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である』と。村長よ、また、まさに、その教師にたいし、弟子は、大いに浄信した者と成ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしの教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である」と。また、まさに、わたしによる命あるものを殺すことが存在する。わたしもまた、悪所にある者として、地獄にある者として、〔世に〕存している』と。〔彼は、このような〕見解を獲得します。村長よ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。『まさに、わたしの教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である」と。また、まさに、わたしによる与えられていないものを取ることが存在する。わたしもまた、悪所にある者として、地獄にある者として、〔世に〕存している』と。〔彼は、このような〕見解を獲得します。村長よ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。『まさに、わたしの教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である」と。また、まさに、わたしによる諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうことが存在する。わたしもまた、悪所にある者として、地獄にある者として、〔世に〕存している』と。〔彼は、このような〕見解を獲得します。村長よ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。『まさに、わたしの教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、悪所にある者であり、地獄にある者である」と。また、まさに、わたしによる虚偽を話すことが存在する。わたしもまた、悪所にある者として、地獄にある者として、〔世に〕存している』と。〔彼は、このような〕見解を獲得します。村長よ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。
村長よ、また、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、無数の教相によって、命あるものを殺すことを難詰し非難します。そして、『〔あなたたちは〕命あるものを殺すことから離れなさい』と言います。与えられていないものを取ることを難詰し非難します。そして、『〔あなたたちは〕与えられていないものを取ることから離れなさい』と言います。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを難詰し非難します。そして、『〔あなたたちは〕諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れなさい』と言います。虚偽を説くことを難詰し非難します。そして、『〔あなたたちは〕虚偽を説くことから離れなさい』と言います。村長よ、また、まさに、その教師にたいし、弟子は、大いに浄信した者と成ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、世尊は、無数の教相によって、命あるものを殺すことを難詰し非難する。そして、「〔あなたたちは〕命あるものを殺すことから離れなさい」と言う。また、まさに、わたしによる命あるものを殺すことが存在する──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが。また、まさに、すなわち、わたしによる命あるものを殺すことがあるなら──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが──それは、善良なることではなく、それは、善きことではない。また、まさに、まさしく、そして、わたしは、それを縁とすることから、後悔ある者として〔世に〕存するであろう。「わたしのこの悪しき行為は、為されざるものと成ることはないのだ(解消されずに果を結ぶ)」』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、そして、その、命あるものを殺すことを捨棄します。さらに、未来に、命あるものを殺すことから離間した者と成ります。このように、この悪しき行為の捨棄と成ります。このように、この悪しき行為の超越と成ります。
『まさに、世尊は、無数の教相によって、与えられていないものを取ることを難詰し非難する。そして、「〔あなたたちは〕与えられていないものを取ることから離れなさい」と言う。また、まさに、わたしによる与えられていないものを取ることが存在する──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが。また、まさに、すなわち、わたしによる与えられていないものを取ることがあるなら──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが──それは、善良なることではなく、それは、善きことではない。また、まさに、まさしく、そして、わたしは、それを縁とすることから、後悔ある者として〔世に〕存するであろう。「わたしのこの悪しき行為は、為されざるものと成ることはないのだ」』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、そして、その、与えられていないものを取ることを捨棄します。さらに、未来に、与えられていないものを取ることから離間した者と成ります。このように、この悪しき行為の捨棄と成ります。このように、この悪しき行為の超越と成ります。
『また、まさに、世尊は、無数の教相によって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを難詰し非難する。そして、「〔あなたたちは〕諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れなさい」と言う。また、まさに、わたしによる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないが存在する──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが。また、まさに、すなわち、わたしによる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないがあるなら──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが──それは、善良なることではなく、それは、善きことではない。また、まさに、まさしく、そして、わたしは、それを縁とすることから、後悔ある者として〔世に〕存するであろう。「わたしのこの悪しき行為は、為されざるものと成ることはないのだ」』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、そして、その、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄します。さらに、未来に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者と成ります。このように、この悪しき行為の捨棄と成ります。このように、この悪しき行為の超越と成ります。
『また、まさに、世尊は、無数の教相によって、虚偽を説くことを難詰し非難する。そして、「〔あなたたちは〕虚偽を説くことから離れなさい」と言う。また、まさに、わたしによる虚偽を説くことが存在する──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが。また、まさに、すなわち、わたしによる虚偽を説くことがあるなら──あるいは、それだけであろうが、あるいは、それだけのものが──それは、善良なることではなく、それは、善きことではない。また、まさに、まさしく、そして、わたしは、それを縁とすることから、後悔ある者として〔世に〕存するであろう。「わたしのこの悪しき行為は、為されざるものと成ることはないのだ」』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、そして、その、虚偽を説くことを捨棄します。さらに、未来に、虚偽を説くことから離間した者と成ります。このように、この悪しき行為の捨棄と成ります。このように、この悪しき行為の超越と成ります。
彼は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者と成ります。与えられていないものを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者と成ります。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者と成ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者と成ります。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者と成ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者と成ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者と成ります。強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕なき者と成ります。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者と成ります。誤った見解を捨棄して、正しい見解ある者と成ります。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。村長よ、それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、村長よ、まさしく、このように、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、このように修められ、このように多く為されたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。村長よ、それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、村長よ、まさしく、このように、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱が、このように修められ、このように多く為されたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません」と。このように説かれたとき、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。
9. 家の経
361. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ナーランダーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。
また、まさに、その時点にあって、ナーランダーは、飢饉と成ります──凶作で、稲穂が白くなり、蒔いたものが実を結びません。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタが、ナーランダーに滞在しています──大いなるニガンタの衆と共に。そこで、まさに、ニガンタの弟子である刀師族の村長は、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、刀師族の村長に、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。「村長よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマの論を論破しなさい。このように、あなたに、善き評価の声が上がるであろう。『刀師族の村長によって、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論は論破された』」と。
「尊き方よ、また、どのように、わたしは、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論を論破するのですか」と。「村長よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマに、このように説きなさい。『尊き方よ、まさに、世尊は、無数の教相によって、家々への、憐憫を褒め称え、守護を褒め称え、慈しみを褒め称えるのではないですか』と。村長よ、それで、もし、まさに、このように尋ねられた沙門ゴータマが、このように説き明かすなら、『村長よ、そのとおりです。如来は、無数の教相によって、家々への、憐憫を褒め称え、守護を褒め称え、慈しみを褒め称えます』と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くがよい。『尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、世尊は、飢饉のとき──凶作で、稲穂が白くなり、蒔いたものが実を結ばないとき、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩むのですか。世尊は、家々の断絶のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の不幸のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の害障のために〔道を〕行くのですか』と。村長よ、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないであろうし、まさしく、飲み下すこともできないであろう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、刀師族の村長は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、まさに、世尊は、無数の教相によって、家々への、憐憫を褒め称え、守護を褒め称え、慈しみを褒め称えるのではないですか」と。「村長よ、そのとおりです。如来は、無数の教相によって、家々への、憐憫を褒め称え、守護を褒め称え、慈しみを褒め称えます」と。「尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、世尊は、飢饉のとき──凶作で、稲穂が白くなり、蒔いたものが実を結ばないとき、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩むのですか。世尊は、家々の断絶のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の不幸のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の害障のために〔道を〕行くのですか」と。「村長よ、すなわち、わたしが随念する、〔まさに〕その、これより〔以前の〕九十一カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、調理したものである行乞〔の施食〕を供与するほどのことで過去に断滅した家を、何であれ、わたしは証知しません。そこで、まさに、すなわち、それらの家々が、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物があるなら、それらの全てが、まさしく、そして、布施〔の功徳〕によって発生したものであり、かつまた、真理〔の言葉の功徳〕によって発生したものであり、さらに、平等〔の生き方の功徳〕によって発生したものです。村長よ、まさに、八つの因があり、八つの縁があります──家々の害障のために。あるいは、王ゆえに、家々は害障に至ります。あるいは、盗賊ゆえに、家々は害障に至ります。あるいは、火ゆえに、家々は害障に至ります。あるいは、水ゆえに、家々は害障に至ります。あるいは、〔財物を〕安置した地が減損します。あるいは、悪しく専念する諸々の生業が衰滅します。あるいは、家において、『家の炭火』という〔事態が〕生起します──すなわち、それらの財物を、離散し、砕破し、砕破させる、〔そのような事態が〕。第八のものとして、まさしく、無常なることがあります(※)。かくのごとく、村長よ、まさに、これらの、八つの因があり、八つの縁があります──家々の害障のために。村長よ、まさに、これらの、八つの因が、八つの縁が、等しく見出されているとき、或る者が、わたしに、『世尊は、家々の断絶のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の不幸のために〔道を〕行くのですか。世尊は、家々の害障のために〔道を〕行くのですか』と、このように説くなら、村長よ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。このように説かれたとき、刀師族の村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第九となる。
※ テキストには aniccatāye とあるが、PTS版により aniccatā yeva と読む。
10. マニチューラカの経
362. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、王の内宮において着坐し参集している王の衆に、この合間の議論が起こりました。「釈子たる沙門たちに、金や銀は適している。釈子たる沙門たちは、金や銀を受用する。釈子たる沙門たちは、金や銀を納受する」と。
また、まさに、その時点にあって、マニチューラカ村長が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、マニチューラカ村長は、その衆に、こう言いました。「尊貴なる方よ、このように言ってはいけません。釈子たる沙門たちに、金や銀は適していません。釈子たる沙門たちは、金や銀を受用しません。釈子たる沙門たちは、金や銀を納受しません。釈子たる沙門たちは、宝珠や黄金を捨て置いた者たちであり、金や銀を離れ去った者たちです」と。まさに、マニチューラカ村長は、その衆を説得することができました。そこで、まさに、マニチューラカ村長は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マニチューラカ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、王の内宮において着坐し参集している王の衆に、この合間の議論が起こりました。『釈子たる沙門たちに、金や銀は適している。釈子たる沙門たちは、金や銀を受用する。釈子たる沙門たちは、金や銀を納受する』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その衆に、こう言いました。『尊貴なる方よ、このように言ってはいけません。釈子たる沙門たちに、金や銀は適していません。釈子たる沙門たちは、金や銀を受用しません。釈子たる沙門たちは、金や銀を納受しません。釈子たる沙門たちは、宝珠や黄金を捨て置いた者たちであり、金や銀を離れ去った者たちです』と。尊き方よ、まさに、わたしは、その衆を説得することができました。尊き方よ、どうでしょう、わたしが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者と成りますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。
「村長よ、たしかに、あなたが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。村長よ、まさに、釈子たる沙門たちに、金や銀は適していません。釈子たる沙門たちは、金や銀を受用しません。釈子たる沙門たちは、金や銀を納受しません。釈子たる沙門たちは、宝珠や黄金を捨て置いた者たちであり、金や銀を離れ去った者たちです。村長よ、その者に、まさに、金や銀が適しているなら、彼には、五つの欲望の属性もまた適しています。彼に、五つの欲望の属性が適しているなら、村長よ、このことを、『沙門の法(性質)にあらず。釈子の法(性質)にあらず』と、一定して保持するべきです。村長よ、ですが、ともあれ、わたしは、このように説きます。『草は、草を義(目的)とする者によって、遍く探し求められるべきである。木片は、木片を義(目的)とする者によって、遍く探し求められるべきである。荷車は、荷車を義(目的)とする者によって、遍く探し求められるべきである。人は、人を義(目的)とする者によって、遍く探し求められるべきである』〔と〕。村長よ、まさしく、しかし、わたしは、どのような教相によってであれ、『金や銀は、受用されるべきであり、遍く探し求められるべきである』と説きません」と。〔以上が〕第十となる。
11. バドラカの経
363. 或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕に住んでおられます。マッラ〔国〕には、ウルヴェーラカッパという名の町があります。そこで、まさに、バドラカ村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、バドラカ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示してください」と。「村長よ、もし、わたしが、あなたに、過去の時に関して、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示するなら、『このように、過去の時に有った』と、そこで、あなたに、疑いが存在するでしょうし、疑問が存在するでしょう。村長よ、もし、わたしが、あなたに、未来の時に関して、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示するなら、『このように、未来の時に有るであろう』と、そこでもまた、あなたに、疑いが存在するでしょうし、疑問が存在するでしょう。村長よ、ですが、ともあれ、わたしは、まさしく、ここに、坐っている者として、まさしく、ここにおいて、坐っている者である、あなたに、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、バドラカ村長は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「村長よ、それを、どう思いますか。ウルヴェーラカッパにおいて、それらの者たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起する、〔そのような〕人間たちが、あなたに存在しますか」と。「尊き方よ、ウルヴェーラカッパにおいて、それらの者たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する、〔そのような〕人間たちが、わたしに存在します」と。「村長よ、また、ウルヴェーラカッパにおいて、それらの者たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕人間たちが、あなたに存在しますか」と。「尊き方よ、ウルヴェーラカッパにおいて、それらの者たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕人間たちが、わたしに存在します」と。「村長よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、一部のウルヴェーラカッパの人間たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するのですか。(※)村長よ、あるいは、何を因として、何を縁として、それによって、一部のウルヴェーラカッパの人間たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないのですか(※)」と。「尊き方よ、それらのウルヴェーラカッパの人間たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するなら、わたしに、彼らにたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が存在します。尊き方よ、いっぽう、それらのウルヴェーラカッパの人間たちへの、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに(※※)、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないなら、わたしに、彼らにたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在しません」と。「村長よ、あなたは、この法(性質)によって、〔あるがままに〕見られ〔あるがままに〕知られた〔この法〕によって、時を要さずに至り得られ深解された〔この法〕によって、過去と未来についての理趣(方法・道理)を導きなさい。まさに、それが何であれ、過去の時に、苦しみが生起しつつ生起したなら、その全てが、欲〔の思い〕を根元とし、欲〔の思い〕を因縁とします。まさに、欲〔の思い〕は、苦しみの根元です。まさに、また、それが何であれ、未来の時に、苦しみが生起しつつ生起するであろうなら、その全てが、欲〔の思い〕を根元とし、欲〔の思い〕を因縁とします。まさに、欲〔の思い〕は、苦しみの根元です」と。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『それが何であれ、苦しみが生起しつつ生起するなら、その全てが、欲〔の思い〕を根元とし、欲〔の思い〕を因縁とする』と。尊き方よ、わたしに、チラヴァーシンという名の童子が存在し、外の居住所に住しています。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、早朝に起きて、下僕を送り出します。『〔おまえに〕申し付ける。赴け。チラヴァーシン童子〔の無事〕を確認せよ』と。尊き方よ、さてまた、何はともあれ、その下僕が帰ってこないあいだは、〔まさに〕その、わたしには、まさしく、〔心の〕他化(異常)が有ります。『まさしく、まさに、チラヴァーシン童子を、何であれ、悩ますことがあってはならない』」と。
※ 「村長よ」から「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないのですか」までの欠落を、PTS版により補う。
※※ PTS版により me を補う。
「村長よ、それを、どう思いますか。チラヴァーシン童子への、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに(※)、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、チラヴァーシン童子への、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに、生命の他化さえも存するでしょう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのでしょう」と。「村長よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。『それが何であれ、苦しみが生起しつつ生起するなら、その全てが、欲〔の思い〕を根元とし、欲〔の思い〕を因縁とする。まさに、欲〔の思い〕は、苦しみの根元である』と。
※ PTS版により te を補う。
村長よ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたにとって、チラヴァーシンの母が、見られたことなく有ったとき、聞かれたことなく有ったとき、あなたに、チラヴァーシンの母にたいし、あるいは、欲〔の思い〕はありますか、あるいは、貪り〔の思い〕はありますか、あるいは、愛情〔の思い〕はありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「村長よ、あなたの、あるいは、見ることに由来して、あるいは、聞くことに〔由来して〕、あなたに、このような〔思いが〕有ったのですか。『チラヴァーシンの母にたいし、あるいは、欲〔の思い〕があり、あるいは、貪り〔の思い〕があり、あるいは、愛情〔の思い〕がある』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「村長よ、それを、どう思いますか。チラヴァーシン童子の母への、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、チラヴァーシン童子の母への、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、わたしに、生命の他化さえも存するでしょう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのでしょう」と。「村長よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。『それが何であれ、苦しみが生起しつつ生起するなら、その全てが、欲〔の思い〕を根元とし、欲〔の思い〕を因縁とする。まさに、欲〔の思い〕は、苦しみの根元である』」と。〔以上が〕第十一となる。
12. ラーシヤの経
364. そこで、まさに、ラーシヤ村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ラーシヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。「村長よ、すなわち、『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま、事実ならざることによって誹謗します。
村長よ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽への専念であり(快楽主義)、さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義)。村長よ、これらの両極に、それらに近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。村長よ、では、どのようなものが、その中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。村長よ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
村長よ、三つのものがあります。まさに、これらの欲望の享受者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。(1-1)村長よ、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(1-2)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(1-3)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。
(2-1)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(2-2)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(2-3)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。
(3-1)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(3-2)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。(3-3-1)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。(3-3-2)村長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。
(1-1)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって非難されるべきです。どのような三つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第三の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって非難されるべきです。
(1-2)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって非難されるべきであり、一つの状況によって賞賛されるべきです。どのような二つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。どのような一つの状況によって賞賛されるべきですか。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって非難されるべきであり、この一つの状況によって賞賛されるべきです。
(1-3)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為すなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって非難されるべきであり、二つの状況によって賞賛されるべきです。どのような一つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって非難されるべきです。どのような二つの状況によって賞賛されるべきですか。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって非難されるべきであり、これらの二つの状況によって賞賛されるべきです。
(2-1)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって賞賛されるべきであり、三つの状況によって非難されるべきです。どのような一つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。どのような三つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第三の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの三つの状況によって非難されるべきです。
(2-2)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって賞賛されるべきであり、二つの状況によって非難されるべきです。どのような二つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。どのような二つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの二つの状況によって非難されるべきです。
(2-3)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為すなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。どのような三つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。どのような一つの状況によって非難されるべきですか。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。
(3-1)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって賞賛されるべきであり、二つの状況によって非難されるべきです。どのような一つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。どのような二つの状況によって非難されるべきですか。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの二つの状況によって非難されるべきです。
(3-2)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。どのような二つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。どのような一つの状況によって非難されるべきですか。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この一つの状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。
(3-3-1)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益するなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。どのような三つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。どのような一つの状況によって非難されるべきですか。『そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益する』と、この一つの状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。
(3-3-2)村長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益するなら、村長よ、この者は、欲望の享受者として、四つの状況によって賞賛されるべきです。どのような四つの状況によって賞賛されるべきですか。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。『そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する』と、この第四の状況によって賞賛されるべきです。村長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの四つの状況によって賞賛されるべきです。
村長よ、三つのものがあります。これらの粗野なる生き方の苦行者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。(1)村長よ、ここに、一部の粗野なる生き方の苦行者が、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『まさしく、おそらく、まさに、善なる法(性質)に到達するであろう。まさしく、おそらく、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、そして、善なる法(性質)に到達せず、さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しません。
(2)村長よ、また、ここに、一部の粗野なる生き方の苦行者が、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『まさしく、おそらく、まさに、善なる法(性質)に到達するであろう。まさしく、おそらく、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、まさに、善なる法(性質)に、まさに、到達するも、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しません。
(3)村長よ、また、ここに、一部の粗野なる生き方の苦行者が、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『まさしく、おそらく、まさに、善なる法(性質)に到達するであろう。まさしく、おそらく、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、そして、善なる法(性質)に到達し、さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証します。
(1)村長よ、そこで、すなわち、この者が、粗野なる生き方の苦行者として、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、そして、善なる法(性質)に到達せず、さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しないなら、村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、三つの状況によって非難されるべきです。どのような三つの状況によって非難されるべきですか。『自己を熱苦させ遍く熱苦させる』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『そして、善なる法(性質)に到達しない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。『さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しない』と、この第三の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、これらの三つの状況によって非難されるべきです。
(2)村長よ、そこで、すなわち、この者が、粗野なる生き方の苦行者として、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、まさに、善なる法(性質)に、まさに、到達するも、しかしながら、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しないなら、村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、二つの状況によって非難されるべきであり、一つの状況によって賞賛されるべきです。どのような二つの状況によって非難されるべきですか。『自己を熱苦させ遍く熱苦させる』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『しかしながら、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。どのような一つの状況によって賞賛されるべきですか。『まさに、善なる法(性質)に、まさに、到達する』と、この一つの状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、これらの二つの状況によって非難されるべきであり、この一つの状況によって賞賛されるべきです。
(3)村長よ、そこで、すなわち、この者が、粗野なる生き方の苦行者として、自己を熱苦させ遍く熱苦させ、そして、善なる法(性質)に到達し、さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するなら、村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、一つの状況によって非難されるべきであり、二つの状況によって賞賛されるべきです。どのような一つの状況によって非難されるべきですか。『自己を熱苦させ遍く熱苦させる』と、この一つの状況によって非難されるべきです。どのような二つの状況によって賞賛されるべきですか。『そして、善なる法(性質)に到達する』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『さらに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証する』と、この第二の状況によって非難されるべきです。村長よ、この者は、粗野なる生き方の苦行者として、この一つの状況によって非難されるべきであり、これらの二つの状況によって賞賛されるべきです。
村長よ、三つのものがあります。これらの衰尽のものにして、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。どのようなものが、三つのものなのですか。(1)すなわち、貪る者が、貪欲〔の思い〕を事因として、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁するも、貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔これは〕衰尽のものにして、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。(2)すなわち、怒る者が、憤怒〔の思い〕を事因として、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁するも、憤怒〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔これは〕衰尽のものにして、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。(3)すなわち、迷う者が、迷妄〔の思い〕を事因として、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁するも、迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔これは〕衰尽のものにして、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです」と。
このように説かれたとき、ラーシヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十二となる。
13. パータリヤの経
365. 或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、ウッタラという名の町があります。そこで、まさに、パータリヤ村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パータリヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「村長よ、すなわち、『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。「ああ、まさに、まさしく、真に、わたしどもは、信を置きません──それらの沙門や婆羅門たちの『沙門ゴータマは、幻術を知っている』『ああ、まさに、沙門ゴータマは、幻術師である』〔という、この言葉に〕」と。「村長よ、いったい、まさに、或る者が、『わたしは、幻術を知っている』と、このように説くなら、その者は、『わたしは、幻術師である』と、このように説きますか(幻術を知る者は、誰もが皆、幻術師となるのか)」と。「世尊よ、まさしく、そのように、それは有ります。善き至達者たる方よ、まさしく、そのように、それは有ります」と。「村長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。
村長よ、それを、どう思いますか。あなたは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻(もとどり)の傭兵たちを知っていますか」と。「尊き方よ、わたしは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちを知っています」と。「村長よ、それを、どう思いますか。コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、何を義(目的)とする者たちですか」と。「尊き方よ、そして、すなわち、それらの者たちが、コーリヤ〔国〕の盗賊たちであるなら、彼らを制止することであり、さらに、すなわち、それらの者たちが、コーリヤ〔国〕の使者たちであるなら、彼らを運ぶことです。尊き方よ、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、このことを義(目的)とする者たちです」と。「村長よ、それを、どう思いますか。あなたは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、彼らが、あるいは、戒ある者たちであるか、あるいは、劣戒の者たちであるかを、知っていますか」と。「尊き方よ、わたしは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っています。さらに、それらの者たちが、世において、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるなら、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、それらの者たちのなかのいずれかの者たちです」と。「村長よ、いったい、まさに、或る者が、『パータリヤ村長は、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っている』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、『パータリヤ村長もまた、劣戒にして悪しき法(性質)ある者である』と、正しく説きつつ説くべきですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、他なる者たちとして、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちはあり、他なる者として、わたしは存しています。他なる法(性質)ある者たちとして、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちはあり、他なる法(性質)ある者として、わたしは存しています」と。「村長よ、まさに、あなたは、〔結論を〕得るでしょう。『パータリヤ村長は、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っている。しかしながら、パータリヤ村長は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者ではない』と。何ゆえに、如来が、〔結論を〕得ないというのでしょう。『如来は、幻術を知っている。しかしながら、如来は、幻術師ではない』と。村長よ、そして、幻術を、かつまた、幻術の報いを、わたしは覚知します。さらに、幻術師が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。
村長よ、そして、命あるものを殺すことを、かつまた、命あるものを殺すことの報いを、わたしは覚知します。さらに、命あるものを殺す者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、与えられていないものを取ることを、かつまた、与えられていないものを取ることの報いを、わたしは覚知します。さらに、与えられていないものを取る者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの報いを、わたしは覚知します。さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、虚偽を説くことを、かつまた、虚偽を説くことの報いを、わたしは覚知します。さらに、虚偽を説く者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、中傷の言葉を、かつまた、中傷の言葉の報いを、わたしは覚知します。さらに、中傷の言葉ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、粗暴な言葉を、かつまた、粗暴な言葉の報いを、わたしは覚知します。さらに、粗暴な言葉ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、雑駁な虚論を、かつまた、雑駁な虚論の報いを、わたしは覚知します。さらに、雑駁な虚論ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、強欲〔の思い〕を、かつまた、強欲〔の思い〕の報いを、わたしは覚知します。さらに、強欲〔の思い〕ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を、かつまた、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕の報いを、わたしは覚知します。さらに、憎悪している心の者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、誤った見解を、かつまた、誤った見解の報いを、わたしは覚知します。さらに、誤った見解ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。
村長よ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と。
村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者(敵対者)を打ち負かして、生命を奪ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。
村長よ、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、〔彼の〕頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王に怨みがあり、あるいは、女の、あるいは、男の、生命を奪ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。
村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「尊き方よ、虚偽です」〔と〕。「また、すなわち、虚妄を〔談じ〕、虚偽を談じる、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、戒ある者たちですか、あるいは、劣戒の者たちですか」と。「尊き方よ、劣戒の者たちです」〔と〕。「また、すなわち、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、正しい実践者たちですか、あるいは、誤った実践者たちですか」と。「尊き方よ、誤った実践者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った実践者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、誤った見解ある者たちですか、あるいは、正しい見解ある者たちですか」と。「尊き方よ、誤った見解ある者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った見解ある者たちである、それらの者たちですが、いったい、彼らにたいし、浄信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者を打ち負かして、宝を運び去ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。
村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、あるいは、村から、あるいは、林から、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「……略……いったい、彼らにたいし、浄信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者たちの妻たちにたいし、関係を持ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。
村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、良家の婦女たちにたいし、良家の少女たちにたいし、関係を持ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「……略……いったい、彼らにたいし、浄信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王を、虚偽を説くことで笑わせたのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。
村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、義(利益)を、虚偽を説くことで壊し去ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「尊き方よ、虚偽です」〔と〕。「また、すなわち、虚妄を〔談じ〕、虚偽を談じる、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、戒ある者たちですか、あるいは、劣戒の者たちですか」と。「尊き方よ、劣戒の者たちです」〔と〕。「また、すなわち、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、正しい実践者たちですか、あるいは、誤った実践者たちですか」と。「尊き方よ、誤った実践者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った実践者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、誤った見解ある者たちですか、あるいは、正しい見解ある者たちですか」と。「尊き方よ、誤った見解ある者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った見解ある者たちである、それらの者たちですが、いったい、彼らにたいし、浄信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。
尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、わたしに、休息堂が存在します。そこにおいて、臥床が存在し、坐が存在し、水瓶が存在し、油の灯明が存在します。そこにおいて、すなわち、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、住を過ごすなら、わたしは、彼に、能のままに、力のままに、分け与えます。尊き方よ、過去の事ですが、種々なる見解があり、種々なる受認があり、種々なる嗜好がある、四者の教師たちが、その休息堂において、住に入りました。
一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。
一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。
一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない』と。
一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と。
尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、まさしく、疑いが有り、疑惑が有りました。『いったい、まさに、これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかの、誰が、真理を言っているのか、誰が、虚偽を〔言っているのか〕』」と。
「村長よ、まさに、あなたには、疑うに十分なるものがあり、疑惑するに十分なるものがあります。また、そして、疑うべき状況において、あなたに、疑惑が生起したのです」と。「尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。世尊は、すなわち、わたしが、この疑いの法(性質)を捨棄するように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる」と。
「村長よ、〔十の〕法(性質)による禅定が存在します。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。村長よ、では、どのようなものが、〔十の〕法(性質)による禅定なのですか。村長よ、ここに、聖なる弟子が、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者と成ります。(2)与えられていないものを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者と成ります。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者と成ります。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者と成ります。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者と成ります。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者と成ります。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者と成ります。(8)強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕なき者と成ります。(9)憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者と成ります。(10)誤った見解を捨棄して、正しい見解ある者と成ります。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない」「祭祀された〔供物の果〕は存在しない」「捧げられたもの〔の果〕は存在しない」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない」「この世は存在しない」「他の世は存在しない」「母は存在しない」「父は存在しない」「化生の有情たちは存在しない」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在する」「祭祀された〔供物の果〕は存在する」「捧げられたもの〔の果〕は存在する」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する」「この世は存在する」「他の世は存在する」「母は存在する」「父は存在する」「化生の有情たちは存在する」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈悲〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。……略……。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない」「祭祀された〔供物の果〕は存在しない」「捧げられたもの〔の果〕は存在しない」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない」「この世は存在しない」「他の世は存在しない」「母は存在しない」「父は存在しない」「化生の有情たちは存在しない」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在する」「祭祀された〔供物の果〕は存在する」「捧げられたもの〔の果〕は存在する」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する」「この世は存在する」「他の世は存在する」「母は存在する」「父は存在する」「化生の有情たちは存在する」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。
村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕法(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう」と。
このように説かれたとき、パータリヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十三となる。
村長に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「狂暴な者、プタ、軍人、象と馬、刀師、説示、法螺貝と家、マニチューラ、バドラとラーシヤとパータリがあり、〔それらの十三がある〕」と。
9(43). 形成されたものではないものに相応するもの
1. 第一の章
1. 身体の在り方についての気づきの経
366. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、形成されたものではないもの(無為)を、そして、形成されたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものなのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。
比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、形成されたものではないものが説示され、形成されたものではないものに至る道が〔説示されました〕。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第一となる。
2. 〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の経
367. 「比丘たちよ、では、形成されたものではないものを、そして、形成されたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものなのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有するものの経
368. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみの禅定(無尋唯伺定)であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なき禅定(無尋無伺定)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 空性の禅定の経
369. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。空性の禅定であり、無相の禅定であり、無願の禅定です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 気づきの確立の経
370. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 正しい精励の経
371. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。四つの正しい精励(四正勤)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 神通の足場の経
372. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。四つの神通の足場(四神足)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 機能の経
373. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。五つの機能(五根)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 力の経
374. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。五つの力(五力)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 覚りの支分の経
375. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。七つの覚りの支分(七覚支)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。〔以上が〕第十となる。
11. 道の経
376. 「比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、形成されたものではないものが説示され、形成されたものではないものに至る道が〔説示されました〕。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第十一となる。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「身体、〔心の〕止寂、〔粗雑なる〕思考を有するもの、空性、気づきの確立、正しい精励、神通の足場、機能と力と覚りの支分があり、道によって、第十一のものがあり、その〔章〕のための摂頌と呼ばれる」と。
2. 第二の章
1. 形成されたものではないものの経
377. 「比丘たちよ、では、形成されたものではないものを、そして、形成されたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものなのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。〔心の〕止寂です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、形成されたものではないものが説示され、形成されたものではないものに至る道が〔説示されました〕。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、では、形成されたものではないものを、そして、形成されたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものなのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、形成されたものではないものが説示され……略……。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。空性の禅定です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。無相の禅定です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。無願の禅定です。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の機能(信根)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し……略……精進の機能(精進根)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……気づきの機能(念根)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……禅定の機能(定根)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の機能(慧根)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し……略……信の力(信力)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……精進の力(精進力)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……気づきの力(念力)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……禅定の力(定力)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の力(慧力)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……略……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……略……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……略……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……略……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。……略……。
比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解(正見)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が……略……正しい思惟(正思惟)を修めます。……略……正しい言葉(正語)を修めます。……略……正しい行業(正業)を修めます。……略……正しい生き方(正命)を修めます。……略……正しい努力(正精進)を修めます。……略……正しい気づき(正念)を修めます。……略……。比丘たちよ、では、形成されたものではないものを、そして、形成されたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、形成されたものではないものに至る道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定(正定)を修めます。比丘たちよ、これは、形成されたものではないものに至る道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、形成されたものではないものが説示され、形成されたものではないものに至る道が〔説示されました〕。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第一となる。
2. 傾いたものではないものの経
378. 「比丘たちよ、では、傾いたものではないものを、そして、傾いたものではないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、傾いたものではないものなのですか。……略……(すなわち、形成されたものではないもののように、そのように詳知されるべきである)。〔以上が〕第二となる。
3-32. 煩悩なきもの等の経
379-408. 「比丘たちよ、では、煩悩なきもの(無漏)を、そして、煩悩なきものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩なきものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、真理(諦)を、そして、真理に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、真理なのですか。……略……。比丘たちよ、では、彼岸を、そして、彼岸に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、彼岸なのですか。……略……。比丘たちよ、では、精緻なるものを、そして、精緻なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、精緻なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、極めて見難いものを、そして、極めて見難いものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて見難いものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、老い朽ちないものを、そして、老い朽ちないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、老い朽ちないものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、常恒なるものを、そして、常恒なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、常恒なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、観照を、そして、観照に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、観照なのですか。……略……。比丘たちよ、では、〔目に〕見えないものを、そして、〔目に〕見えないものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔目に〕見えないものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、虚構なきものを、そして、虚構なきものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、虚構なきものなのですか。……略……。
比丘たちよ、では、寂静なるものを、そして、寂静なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、寂静なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、不死なるものを、そして、不死なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、不死なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、精妙なるものを、そして、精妙なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、精妙なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、至福を、そして、至福に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、至福なのですか。……略……。比丘たちよ、では、平安を、そして、平安に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、平安なのですか。……略……。比丘たちよ、では、渇愛の滅尽を、そして、渇愛の滅尽に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛の滅尽なのですか。……略……。
比丘たちよ、では、稀有なるものを、そして、稀有なるものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、稀有なるものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、未曾有のものを、そして、未曾有のものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、未曾有のものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、疾患なきものを、そして、疾患なきものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、疾患なきものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、疾患なき法(性質)を、そして、疾患なき法(性質)に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、疾患なき法(性質)なのですか。……略……。比丘たちよ、では、涅槃を、そして、涅槃に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、涅槃なのですか。……略……。比丘たちよ、では、憎悪なきものを、そして、憎悪なきものに至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、憎悪なきものなのですか。……略……。比丘たちよ、では、離貪を、そして、離貪に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、離貪なのですか。……略……。
比丘たちよ、では、清浄を、そして、清浄に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、清浄なのですか。……略……。比丘たちよ、では、解放を、そして、解放に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、解放なのですか。……略……。比丘たちよ、では、〔生存の〕基底なき〔状態〕を、そして、〔生存の〕基底なき〔状態〕に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔生存の〕基底なき〔状態〕なのですか。……略……。比丘たちよ、では、洲を、そして、洲に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、洲なのですか。……略……。比丘たちよ、では、避難所を、そして、避難所に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、避難所なのですか。……略……。比丘たちよ、では、救護所を、そして、救護所に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、救護所なのですか。……略……。比丘たちよ、では、帰依所を、そして、帰依所に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、帰依所なのですか。……略……教示です」と。〔以上が〕第三十二となる。
33. 行き着く所の経
409. 「比丘たちよ、では、行き着く所を、そして、行き着く所に至る道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、行き着く所なのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、行き着く所と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、行き着く所に至る道なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、これは、行き着く所に至る道と説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、あなたたちに、行き着く所が説示され、行き着く所に至る道が〔説示されました〕。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。……略……(すなわち、形成されたものではないもののように、そのように詳知されるべきである)。〔以上が〕第三十三となる。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「形成されたものではないもの、傾いたものではないもの、煩悩なきもの、そして、真理、彼岸、精緻なるもの、極めて見難いもの、老い朽ちないもの、常恒なるもの、観照、〔目に〕見えないもの、さらに、虚構なきもの、寂静なるもの──
不死なるもの、そして、精妙なるもの、さらに、至福、平安、渇愛の滅尽、そして、稀有なるもの、未曾有のもの、疾患なきもの、疾患なき法(性質)、涅槃があり、このことが、善き至達者によって説示された。
憎悪なきもの、そして、離貪、清浄、解放、〔生存の〕基底なき〔状態〕、洲、そして、避難所、かつまた、救護所、さらに、帰依所、行き着く所があり、〔章となる〕」と。
形成されたものではないものに相応するものは〔以上で〕完結となる。
10(44). 説き明かされないものに相応するもの
1. ケーマーの経
410. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ケーマー比丘尼は、コーサラ〔国〕において、遊行〔の旅〕を歩みながら、かつまた、サーヴァッティーの、かつまた、サーケータの、それぞれの中途にあるトーラナヴァットゥにおいて、住に入り、〔世に〕有ります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、サーケータからサーヴァッティーに赴きつつあり、かつまた、サーケータの、かつまた、サーヴァッティーの、それぞれの中途にあるトーラナヴァットゥにおいて、一夜の住に入りました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、トーラナヴァットゥにおいて、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、見つけてきなさい。すなわち、わたしが、今日、奉侍するべき、〔そのような者を〕」と。
「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、全面あまねく、トーラナヴァットゥを巡りながら、そのような形態の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、見ませんでした。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が奉侍するべき、〔そのような者を〕。まさに、その家来は、ケーマー比丘尼が、トーラナヴァットゥにおいて、住に入っているのを見ました。見て、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。
「陛下よ、まさに、トーラナヴァットゥにおいては、そのような形態の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、存在しません。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が奉侍するべき、〔そのような者は〕。陛下よ、しかしながら、まさに、ケーマー比丘尼が、まさに、存在します。彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、弟子です。また、まさに、その尊貴なる方には、このように、善き評価の声が上がっています。『賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者である』と。陛下は、彼女に奉侍したまえ」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ケーマー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ケーマー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ケーマー比丘尼に、こう言いました。「尊貴なる方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「大王よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「尊貴なる方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「大王よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「尊貴なる方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「大王よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「尊貴なる方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「大王よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「『尊貴なる方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る」』と、〔あなたは〕説きます。『尊貴なる方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『尊貴なる方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『尊貴なる方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。
「大王よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。大王よ、それを、どう思いますか。誰であれ、あなたに存在しますか──あるいは、『これなる〔数〕の、砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の砂となる』と、ガンガー〔川〕にある砂を数えることができる、〔まさに〕その、あるいは、計算者が、あるいは、指算者が、あるいは、目算者が」と。「尊貴なる方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、誰であれ、あなたに存在しますか──あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水を数えることができる、〔まさに〕その、あるいは、計算者が、あるいは、指算者が、あるいは、目算者が」と。「尊貴なる方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊貴なる方よ、大海は、深遠で、量りようがなく、深解し難くあるからです」と。「大王よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、形態によって(※)、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、形態による計測(名づけ)から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません。
※ テキストには yena rūpe とあるが、PTS版により yena rūpena と読む。
すなわち、感受〔作用〕によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その感受〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、感受〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません。
すなわち、表象〔作用〕によって(※)、如来のことを……略……。すなわち、諸々の形成〔作用〕によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、それらの形成〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、諸々の形成〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません。
※ テキストには Yāya saññā とあるが、PTS版により Yāya saññāya と読む。
すなわち、識知〔作用〕によって(※)、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、識知〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ケーマー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、ケーマー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
※ テキストには Yena viññāṇe とあるが、PTS版により Yena viññāṇena と読む。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、他時にあって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「大王よ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「尊き方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「大王よ、まさに、このこともまた、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「大王よ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「尊き方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「大王よ、まさに、このこともまた、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「『尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る」』と、〔あなたは〕説きます。……略……。『尊き方よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『大王よ、まさに、このこともまた、わたしによって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。
「大王よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。大王よ、それを、どう思いますか。誰であれ、あなたに存在しますか──あるいは、『これなる〔数〕の、砂となる』と……略……あるいは、『これなる〔数〕の、百千の砂となる』と、ガンガー〔川〕にある砂を数えることができる、〔まさに〕その、あるいは、計算者が、あるいは、指算者が、あるいは、目算者が」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。また、誰であれ、あなたに存在しますか──あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と……略……あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水を数えることができる、〔まさに〕その、あるいは、計算者が、あるいは、指算者が、あるいは、目算者が」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、大海は、深遠で、量りようがなく、深解し難くあるからです」と。「大王よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、形態によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、形態による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません。すなわち、感受〔作用〕によって……略……。すなわち、表象〔作用〕によって……略……。すなわち、諸々の形成〔作用〕によって……略……。
すなわち、識知〔作用〕によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。大王よ、まさに、如来は、識知〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『如来は、死後に有る』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、〔計測に〕近しく至らず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた、〔計測に〕近しく至りません」と。
「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において。尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、近づいて行って、ケーマー比丘尼に、同一の義(意味)を尋ねました。その尊貴なる方もまた、わたしに、諸々の同一の句によって、諸々の同一の文型によって、同一の義(意味)を説き明かしました──それは、すなわち、また、世尊のように。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において。尊き方よ、さあ、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去った、ということです。〔以上が〕第一となる。
2. アヌラーダの経
411. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、尊者アヌラーダが、世尊から遠く離れていないところで、林の小屋に住んでいます。そこで、まさに、大勢の〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、尊者アヌラーダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌラーダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダに、こう言いました。「友よ、アヌラーダよ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、これらの四つの状況において、報知しつつ報知します」と。「友よ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します」と。このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダに、こう言いました。「さてまた、この比丘は、彼は、新参者であり、出家したばかりであるか、また、あるいは、愚者にして明敏ならざる長老であるか、〔そのような者として〕有るのだろう」と。そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダを、そして、新参者と説くことによって〔侮蔑して〕、さらに、愚者と説くことによって侮蔑して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
そこで、まさに、尊者アヌラーダに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。「それで、もし、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、さらなることを尋ねるとして、いったい、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存するのだろう。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗しないのだろう。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かすのだろう。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることがないのだろう」と。そこで、まさに、尊者アヌラーダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、世尊から遠く離れていないところで、林の小屋に住んでいます。そこで、まさに、大勢の〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況において、報知しつつ報知します』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。『友よ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します』と。尊き方よ、このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、わたしに、こう言いました。『さてまた、この比丘は、彼は、新参者であり、出家したばかりであるか、また、あるいは、愚者にして明敏ならざる長老であるか、〔そのような者として〕有るのだろう』と。そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、わたしを、そして、新参者と説くことによって〔侮蔑して〕、さらに、愚者と説くことによって侮蔑して、坐から立ち上がって、立ち去りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、さらなることを尋ねるとして、いったい、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存するのだろう。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗しないのだろう。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かすのだろう。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることがないのだろう』」と。
「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。
「尊き方よ、無常です」〔と〕。
「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。
「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。
「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。……略……。「表象〔作用〕は……略……。「諸々の形成〔作用〕は……略……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。
「尊き方よ、無常です」〔と〕。
「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。
「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。
「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アヌラーダよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。アヌラーダよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。
アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「表象〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「諸々の形成〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態のうちに、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「形態より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕のうちに……略……。「感受〔作用〕より他に……略……。「表象〔作用〕のうちに……略……。「表象〔作用〕より他に……略……。「諸々の形成〔作用〕のうちに……略……。「諸々の形成〔作用〕より他に……略……。「識知〔作用〕のうちに、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。『形態は、感受〔作用〕は、表象〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕は(※)、如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。『この者は、彼は、形態なき者であり、感受〔作用〕なき者であり、表象〔作用〕なき者であり、諸々の形成〔作用〕なき者であり、識知〔作用〕なき者であり、如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アヌラーダよ、そして、ここにおいて、あなたに、まさしく、所見の法(現世)において、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、如来が認知されずにあるとき、いったい、あなたの、その説き明かしは、健全なるものがありますか。『すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アヌラーダよ、善きかな、善きかな。アヌラーダよ、わたしは、そして、過去において、さらに、今現在、まさしく、そして、苦しみを報知し、さらに、苦しみの止滅を〔報知します〕」と。〔以上が〕第二となる。
※ テキストには rūpaṃ, vedanaṃ, saññaṃ, saṅkhāre, viññāṇaṃ とあるが、PTS版により rūpaṃ vedanā saññā saṅkhārā viññāṇaṃ と読む。
3. 第一のサーリプッタとコッティカの経
412. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る」』と、〔あなたは〕説きます。……略……。『友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。友よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。
「友よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、形態の在り方をしたものです。『如来は、死後に有ることがない』とは、これは、形態の在り方をしたものです。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、これは、形態の在り方をしたものです。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、これは、形態の在り方をしたものです。友よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、感受〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に有ることがない』とは、これは、感受〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、これは、感受〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、これは、感受〔作用〕の在り方をしたものです。友よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、表象〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に有ることがない』とは、これは、表象〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、これは、表象〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、これは、表象〔作用〕の在り方をしたものです。友よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に有ることがない』とは、これは、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、これは、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、これは、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものです。友よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、識知〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に有ることがない』とは、これは、識知〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、これは、識知〔作用〕の在り方をしたものです。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、これは、識知〔作用〕の在り方をしたものです。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第二のサーリプッタとコッティカの経
413. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。……略……(まさしく、〔同じ〕その問いとなる)。友よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。「友よ、まさに、形態を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、形態の集起を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、形態の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、形態の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、識知〔作用〕の集起を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、識知〔作用〕の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。
友よ、しかしながら、まさに、形態を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、形態の集起を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、形態の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、形態の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、識知〔作用〕の集起を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、識知〔作用〕の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第三のサーリプッタとコッティカの経
414. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。……略……(まさしく、〔同じ〕その問いとなる)。友よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。「友よ、まさに、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていないなら、欲〔の思い〕を離れ去っていないなら、愛情〔の思い〕を離れ去っていないなら、涸渇〔の思い〕を離れ去っていないなら、苦悶〔の思い〕を離れ去っていないなら、渇愛〔の思い〕を離れ去っていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。感受〔作用〕にたいし……略……。表象〔作用〕にたいし……略……。諸々の形成〔作用〕にたいし……略……。識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていないなら、欲〔の思い〕を離れ去っていないなら、愛情〔の思い〕を離れ去っていないなら、涸渇〔の思い〕を離れ去っていないなら、苦悶〔の思い〕を離れ去っていないなら、渇愛〔の思い〕を離れ去っていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。友よ、しかしながら、まさに、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去ったなら……略……。感受〔作用〕にたいし……略……。表象〔作用〕にたいし……略……。諸々の形成〔作用〕にたいし……略……。識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去ったなら、欲〔の思い〕を離れ去ったなら、愛情〔の思い〕を離れ去ったなら、涸渇〔の思い〕を離れ去ったなら、苦悶〔の思い〕を離れ去ったなら、渇愛〔の思い〕を離れ去ったなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第四のサーリプッタとコッティカの経
415. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・コッティカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・コッティカを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「……略……。『友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。友よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。
「友よ、まさに、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜し、形態の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、彼には有り、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。友よ、まさに、感受〔作用〕を喜びとし、感受〔作用〕を喜び、感受〔作用〕に歓喜し、感受〔作用〕の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……。友よ、まさに、表象〔作用〕を喜びとし……略……。友よ、まさに、諸々の形成〔作用〕を喜びとし……略……。友よ、まさに、識知〔作用〕を喜びとし、識知〔作用〕を喜び、識知〔作用〕に歓喜し、識知〔作用〕の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。
友よ、まさに、形態を喜びとせず、形態を喜ばず、形態に歓喜せず、形態の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、感受〔作用〕を喜びとせず……略……。友よ、まさに、表象〔作用〕を喜びとせず……略……。友よ、まさに、諸々の形成〔作用〕を喜びとせず……略……。友よ、まさに、識知〔作用〕を喜びとせず、識知〔作用〕を喜ばず、識知〔作用〕に歓喜せず、識知〔作用〕の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。
「友よ、また、それによって、このことが、世尊によって説き明かされなかった、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「友よ、存在します。友よ、まさに、生存を喜びとし、生存を喜び、生存に歓喜し、生存の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。友よ、まさに、生存を喜びとせず、生存を喜ばず、生存に歓喜せず、生存の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。
「友よ、また、それによって、このことが、世尊によって説き明かされなかった、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「友よ、存在します。友よ、まさに、執取を喜びとし、執取を喜び、執取に歓喜し、執取の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。友よ、まさに、執取を喜びとせず、執取を喜ばず、執取に歓喜せず、執取の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。
「友よ、また、それによって、このことが、世尊によって説き明かされなかった、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「友よ、存在します。友よ、まさに、渇愛を喜びとし、渇愛を喜び、渇愛に歓喜し、渇愛の止滅を、事実のとおりに、知っていないなら、見ていないなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有り……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有ります。友よ、まさに、渇愛を喜びとせず、渇愛を喜ばず、渇愛に歓喜せず、渇愛の止滅を、事実のとおりに、知っているなら、見ているなら、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、彼には有ることがなく……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた、彼には有りません。友よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、このことは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。
「友よ、また、それによって、このことが、世尊によって説き明かされなかった、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここにおいて、今や、これより以上に、何を求めるというのでしょう。友よ、サーリプッタよ、渇愛の消滅において解脱した比丘に、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません(輪廻の施設はありえない)」と。〔以上が〕第六となる。
7. モッガッラーナの経
416. そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。
「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である』」と。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久ではないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久ではない』」と。「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極があるのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、終極がある』」と。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極がないないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、終極がないない』」と。「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体があるのですか(生命と肉体は同じものですか)」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』」と。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体があるのですか(生命と肉体は別のものですか)」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』」と。「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成るのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。貴君モッガッラーナよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、沙門ゴータマのばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成らないのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』ともまた、『世〔界〕は、終極がある』ともまた、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』ともまた、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』ともまた、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』ともまた、あるいは、『如来は、死後に有る』ともまた、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「ヴァッチャよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、眼を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。それゆえに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成ります──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。ヴァッチャよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、眼を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。それゆえに、如来のばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成りません──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である』」と。……略……。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成るのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、貴君ゴータマのばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成らないのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「ヴァッチャよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、眼を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。それゆえに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成ります──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。ヴァッチャよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、眼を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。それゆえに、如来のばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成りません──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』ともまた、『世〔界〕は、終極がある』ともまた、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』ともまた、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』ともまた、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』ともまた、あるいは、『如来は、死後に有る』ともまた、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において。貴君ゴータマよ、今や、わたしは、近づいて行って、沙門マハー・モッガッラーナに、同一の義(意味)を尋ねました。沙門マハー・モッガッラーナもまた、わたしに、諸々の同一の句によって、諸々の同一の文型によって、同一の義(意味)を説き明かしました──それは、すなわち、また、貴君ゴータマのように。貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において」と。〔以上が〕第七となる。
8. ヴァッチャ・ゴッタの経
417. そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である』」と。……略……。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成るのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、貴君ゴータマのばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成らないのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「ヴァッチャよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。それゆえに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成ります──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。ヴァッチャよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。それゆえに、如来のばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成りません──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、坐から立ち上がって、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である』」と。……略……。「貴君モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「貴君モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成るのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた。貴君モッガッラーナよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、沙門ゴータマのばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成らないのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「ヴァッチャよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。それゆえに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあい、このように尋ねられたなら、このような説き明かしと成ります──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。ヴァッチャよ、しかしながら、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……略……。表象〔作用〕を……略……。諸々の形成〔作用〕を……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。それゆえに、如来のばあい、このように尋ねられたとして、このような説き明かしと成りません──あるいは、『世〔界〕は、常久である』ともまた……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた」と。
「貴君モッガッラーナよ、めったにないことです。貴君モッガッラーナよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において。貴君モッガッラーナよ、今や、わたしは、近づいて行って、沙門ゴータマに、同一の義(意味)を尋ねました。沙門ゴータマもまた、わたしに、諸々の同一の句によって、諸々の同一の文型によって、同一の義(意味)を説き明かしました──それは、すなわち、また、貴君モッガッラーナのように。貴君モッガッラーナよ、めったにないことです。貴君モッガッラーナよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文型と文型が、合流し合体し、矛盾しないとは──すなわち、この、至高の句において」と。〔以上が〕第八となる。
9. 公会堂の経
418. そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。
「貴君ゴータマよ、過日のことですが、以前、大勢の種々なる異教の沙門や婆羅門たちや遍歴遊行者たちが、公会堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『まさに、このプーラナ・カッサパは、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、弟子が逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かす(授記する)。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」と。すなわち、また、彼の弟子として、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、その弟子のことをもまた、逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かす。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」』と。
『まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……。『まさに、このニガンタ・ナータプッタもまた……略……。『まさに、このサンジャヤ(※)・ベーラッタプッタもまた……略……。『まさに、このパクダ・カッチャーナもまた……略……。『まさに、このアジタ・ケーサカンバラもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、弟子が逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かす。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」と。すなわち、また、彼の弟子として、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、その弟子のことをもまた、逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かす。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」』と。
※ テキストには sañcayo とあるが、PTS版により sañjayo と読む。
『まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、弟子が逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かす。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」と。すなわち、また、彼の弟子として、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、しかしながら、その弟子のことを、逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かさない。「彼は某所に再生したのだ」「彼は某所に再生したのだ」と。さらに、また、まさに、彼のことを、このように説き明かす。「〔彼は〕渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した」』と。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしには、まさしく、疑いが有り、疑惑が有りました。『どのように、まさに、沙門ゴータマの法(教え)は証知されるべきなのか』」と。
「ヴァッチャよ、まさに、あなたには、疑うに十分なるものがあり、疑惑するに十分なるものがあります。また、そして、疑うべき状況において、あなたに、疑惑が生起したのです。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、燃料を有する者の再生を報知します──燃料なき者の〔再生〕ではなく。ヴァッチャよ、それは、たとえば、また、燃料を有する火が燃え上がるように──燃料なき〔火〕ではなく──まさしく、このように、まさに、わたしは、燃料を有する者の再生を報知します──燃料なき者の〔再生〕ではなく」と。
「貴君ゴータマよ、その時点において、炎が、風によって飛び散り、遠くにもまた赴くなら、また、このばあい、貴君ゴータマは、燃料について、何を報知しますか」と。「ヴァッチャよ、その時点において、まさに、炎が、風によって飛び散り、遠くにもまた赴くなら、わたしは、それを、風を燃料とするものと報知します。ヴァッチャよ、なぜなら、そのばあい、風が、その時点において、燃料として有るからです」と。「貴君ゴータマよ、また、さらに、その時点において、かつまた、この身体を捨置し、かつまた、有情として、或るどこかの身体に再生せずに有るなら、また、このばあい、貴君ゴータマは、燃料について、何を報知しますか」と。「ヴァッチャよ、その時点において、まさに、かつまた、この身体を捨置し、かつまた、有情として、或るどこかの身体に再生せずに有るなら、わたしは、それを、渇愛を燃料とするものと報知します。ヴァッチャよ、なぜなら、そのばあい、渇愛が、その時点において、燃料として有るからです」と。〔以上が〕第九となる。
10. アーナンダの経
419. そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自己は存在するのですか」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、自己は存在しないのですか」と。再度また、まさに、世尊は、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、坐から立ち上がって、立ち去りました。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が立ち去ったすぐあと、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どうして、世尊は、問いを尋ねられたのに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者に説き明かさなかったのですか」と。「アーナンダよ、もし、わたしが、『自己は存在するのですか』と、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『自己は存在する』と、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者に説き明かすなら、アーナンダよ、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが常久論者であるなら、この〔答え〕は、彼らの〔主張と〕一緒に成ったでしょう。アーナンダよ、もし、わたしが、『自己は存在しないのですか』と、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『自己は存在しない』と、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者に説き明かすなら、アーナンダよ、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが断絶論者であるなら、この〔答え〕は、彼らの〔主張と〕一緒に成ったでしょう。アーナンダよ、もし、わたしが、『自己は存在するのですか』と、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『自己は存在する』と、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者に説き明かすなら、アーナンダよ、さて、いったい、わたしのその〔答え〕は、随順するものと成ったでしょうか──『一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)』〔という〕知恵の生起のために」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、もし、わたしが、『自己は存在しないのですか』と、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『自己は存在しない』と、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者に説き明かすなら、アーナンダよ、等しく迷乱した者であるヴァッチャ姓の遍歴遊行者の、より一層の迷妄のために成ったでしょう──『まちがいなく、過去において、わたしの自己は有った。それが、今現在、存在しない』」と。〔以上が〕第十となる。
11. サビヤ・カッチャーナの経
420. 或る時のことです。尊者サビヤ・カッチャーナは、ニャーティカ〔村〕に住んでいます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、尊者サビヤ・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サビヤ・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、尊者サビヤ・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。
「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。
「『貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのですか」と。「ヴァッチャよ、あるいは、『形態ある者である』と、あるいは、『形態なき者である』と、あるいは、『表象ある者である』と、あるいは、『表象なき者である』と、あるいは、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である』と、報知するための、そして、すなわち、因であるなら、さらに、すなわち、縁であるなら、そして、その因が、さらに、その縁が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、何よって、彼のことを、あるいは、『形態ある者である』と、あるいは、『形態なき者である』と、あるいは、『表象ある者である』と、あるいは、『表象なき者である』と、あるいは、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である』と、報知しつつ報知するというのでしょう」と。「貴君カッチャーナよ、〔あなたが〕出家者として〔世に〕存し、どれだけの長さとなりますか」と。「友よ、長くはありません。三年です」と。「友よ、たとえ、その者に、このことが──これだけ〔の年〕で、まさしく、これだけ〔の答え〕が存するなら、それはまた、彼にとって、多きものとしてあるでしょう。このように、すばらしいことについては、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第十一となる。
説き明かされないものに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ケーマー長老尼、アヌラーダ、サーリプッタ、かくのごとく、コッティカ、そして、モッガッラーナ、さらに、ヴァッチャ、公会堂、アーナンダ、第十一のものとして、サビヤがあり、〔相応するものとなる〕」と。
六つの〔認識の〕場所の部(六処篇)が第四となる。
その〔部〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「六つの〔認識の〕場所と感受、女性、ジャンブカーダカ、サーマンダカ、モッガッラーナ、チッタ、村長、形成されたものではないもの、説き明かされないものがあり、ということで、十種となる」と。
六つの〔認識の〕場所の部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。