長部経典(ディーガ・ニカーヤ)
大いなるものの部の聖典(大篇・上)
【目次】
1(14). 大いなる行状の経(1.~)
2(15). 大いなる因縁の経(95.~)
3(16). 大いなる完全なる涅槃の経(131.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
大いなるものの部の聖典(大篇・上)
1(14). 大いなる行状の経
過去における居住に関係した話
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)にあるカレーリの小房において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、カレーリの円形堂において着坐し参集していると、過去における居住(過去世の生存)に関係した法(教え)の議論が起こりました。「かくのごとくもまた、過去における居住はある」「かくのごとくもまた、過去における居住はある」と。
2. そこで、まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、それらの比丘たちの、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、世尊は、坐から立ち上がって、カレーリの円形堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。
このように説かれたとき、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、カレーリの円形堂において着坐し参集していると、過去における居住に関係した法(教え)の議論が起こりました。『かくのごとくもまた、過去における居住はある』『かくのごとくもまた、過去における居住はある』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。
3. 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、過去における居住に関係した法(教え)の話を聞くことを求めますか」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、過去における居住に関係した法(教え)の話を為すなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
4. 「比丘たちよ、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が世に生起したのは、それは、これより九十一カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)〔の過去〕においてです。比丘たちよ、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊が世に生起したのは、それは、これより三十一カッパ〔の過去〕においてです。比丘たちよ、まさしく、その、まさに、三十一カッパ〔の過去〕において、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊が、世に生起しました。比丘たちよ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパ(賢劫:今現在のカッパ)において、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が、世に生起しました。比丘たちよ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊が、世に生起しました。比丘たちよ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、世に生起しました。比丘たちよ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、世に生起したのです。
5. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、生まれとしては婆羅門として〔世に〕有り、婆羅門の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊は、生まれとしては婆羅門として〔世に〕有り、婆羅門の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、生まれとしては婆羅門として〔世に〕有り、婆羅門の家において生起しました。比丘たちよ、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起したのです。
6. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、姓としてはカッサパとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊は、姓としてはカッサパとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、姓としてはカッサパとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、姓としてはゴータマとして〔世に〕有りました。
7. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、八万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、七万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、六万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、四万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、三万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、二万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、今現在、わたしの寿命の量は、少なく、僅かにして、軽きものであり、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。
8. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、パータリ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、プンダリーカ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊は、サーラ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、シリーサ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊は、ウドゥンバラ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、ニグローダ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、アッサッタ〔樹〕の根元において現正覚したのです。
9. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、カンダとティッサという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、アビブーとサンバヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、ソーナとウッタラという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ヴィドゥラとサンジーヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、ビッヨーサとウッタラという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、ティッサとバーラドヴァージャという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、わたしには、今現在、サーリプッタとモッガッラーナという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。
10. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──六百八十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩(漏)の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、七万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、七万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、六万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、四万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、三万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、二万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。
比丘たちよ、わたしには、今現在、千二百五十の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、わたしには、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。
11. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、アソーカという名の、比丘の奉仕者(世話係・侍者)が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、ケーマンカラという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、ウパサンタという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ブッディジャという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、ソッティジャという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、サッバミッタという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、わたしには、今現在、アーナンダという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。
12. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、バンドゥマントという名の王が、父[u1] として有り、バンドゥマティーという名の王妃が、生みの母として有り、バンドゥマント王には、バンドゥマティーという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、アルナという名の王が、父[u2] として有り、パバーヴァティーという名の王妃が、生みの母として有り、アルナ王には、アルナヴァティーという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊には、スッパティタという名の王が、父[u3] として有り、ヴァッサヴァティーという名の王妃が、生みの母として有り、スッパティタ王には、アノーマという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、アッギダッタという名の婆羅門が、父[u4] として有り、ヴィサーカーという名の女性婆羅門が、生みの母として有りました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、ケーマという名の王が〔世に〕有り、ケーマ王には、ケーマヴァティーという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、ヤンニャダッタという名の婆羅門が、父[u5] として有り、ウッタラーという名の女性婆羅門が、生みの母として有りました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、ソーバという名の王が〔世に〕有り、ソーバ王には、ソーバヴァティーという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、ブラフマダッタという名の婆羅門が、父[u6] として有り、ダナヴァティーという名の女性婆羅門が、生みの母として有りました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、キキンという名の王が〔世に〕有り、キキン王には、バーラーナシーという名の城市が、王都として有りました。
比丘たちよ、わたしには、今現在、スッドーダナという名の王が、父[u7] として有り、マーヤーという名の王妃が、生みの母として有り、カピラヴァットウという名の城市が、王都として有りました」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。
13. そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この合間の議論が起こりました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するからです。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、かくのごとく。
友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう。いったい、まさに、まさしく、如来には、この法(真理)の界域(界)が善く理解されたものとしてあり、その法(真理)の界域が善く理解されたことから、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するのでしょうか。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、かくのごとく。それとも、天神たちが、如来に、この義(意味)を告げたのであり、それによって、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するのでしょうか。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、〔かくのごとく〕」と。まさに、このことはあり、そして、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。
14. そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、カレーリの円形堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。
このように説かれたとき、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この合間の議論が起こりました。『友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するからです。「このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、「このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、かくのごとく。友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう。いったい、まさに、まさしく、如来には、この法(真理)の界域が善く理解されたものとしてあり、その法(真理)の界域が善く理解されたことから、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するのでしょうか。「このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、「このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、かくのごとく。それとも、天神たちが、如来に、この義(意味)を告げたのであり、それによって、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念するのでしょうか。「このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、「このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた、〔かくのごとく〕』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。
15. 「比丘たちよ、まさしく、如来には、この法(真理)の界域が善く理解されたものとしてあります。その法(真理)の界域が善く理解されたことから、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念します。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、かくのごとく。天神たちもまた、如来に、この義(意味)を告げました。それによって、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念します。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、かくのごとく。
比丘たちよ、まさに、あなたたちは、より一層しっかりと、過去における居住に関係した法(教え)の話を聞くことを求めますか」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、より一層しっかりと、過去における居住に関係した法(教え)の話を為すなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
16. 「比丘たちよ、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が世に生起したのは、それは、これより九十一カッパ〔の過去〕においてです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、八万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、パータリ〔樹〕の根元において現正覚したのです。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、カンダとティッサという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──六百八十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、アソーカという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、バンドゥマントという名の王が、父[u8] として有り、バンドゥマティーという名の王妃が、生みの母として有り、バンドゥマント王には、バンドゥマティーという名の城市が、王都として有りました。
菩薩の法(真理)たること
17. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩は、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入りました。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
18. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、ヴィパッシン菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。そして、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺します。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
19. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、四者の天子が、彼を守護するために、四方に近しく赴きます。『あるいは、彼を、菩薩を、あるいは、菩薩の母を、あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、あるいは、誰であれ、悩ますことがあってはならない』と。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
20. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母は、〔生来の〕性向によって〔自ずと〕戒ある者として〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離去した者として、与えられていないものを取ることから離去した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離去した者として、虚偽を説くことから離去した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離去した者として。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
21. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、男たちにたいする欲望の属性(妙欲)を伴った意図が生起せず、そして、菩薩の母は、誰であろうが、〔欲に〕染まった心の男によって犯されざる者として〔世に〕有ります。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
22. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の得者として〔世に〕有ります。彼女は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
23. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、まさしく、何であろうが、病苦が生起することはありません。菩薩の母は、安楽の者として、疲弊しない身体の者として、〔世に〕有ります。そして、菩薩の母は、胎内に至った菩薩を見ます──全ての手足と肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能(根)ある者として。比丘たちよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、透明で、澄浄で、混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して綿密に注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、透明で、澄浄で、混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、まさしく、何であろうが、病苦が生起することはありません。菩薩の母は、安楽の者として、疲弊しない身体の者として、〔世に〕有ります。そして、菩薩の母は、胎内に在る菩薩を見ます──全ての手足と肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能ある者として。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
24. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。菩薩が生まれて七日のうちに、菩薩の母は、命を終え、兜率〔天〕の身体に再生します。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
25. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、他の婦女たちが、あるいは、九〔月〕のあいだ、あるいは、十月のあいだ、胎児を、子宮で守り抜いて出産するように、このように、菩薩を、菩薩の母が出産することは、まさに、ありません。菩薩の母は、まさしく、十月のあいだ、菩薩を、子宮で守り抜いて出産します。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
26. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、他の婦女たちが、あるいは、坐り、あるいは、横になり、〔その状態で〕出産するように、このように、菩薩を、菩薩の母が出産することは、まさに、ありません。菩薩の母は、菩薩を、まさしく、立った〔状態〕で出産します。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
27. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、最初に、天〔の神々〕たちが〔彼を〕受け止めます。そのあとで、人間たちが〔受け止めます〕。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
28. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、菩薩は、地に、まさしく、至り得ることなく〔世に〕有ります。四者の天子が、彼を受け止めて、母の前に据え置きます。『王妃よ、わが意を得た者と成りたまえ。あなたの子は、偉大なる権能ある者として〔世に〕生起したのです』と。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
29. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、まさしく、清潔なる者として出ます──水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、何であれ、不浄物に汚されず、清浄なる者として、清潔なる者として。比丘たちよ、それは、たとえば、また、宝珠の宝が、カーシ産の衣のうえに置かれたなら、まさしく、宝珠の宝は、カーシ産の衣を汚さず、カーシ産の衣もまた、宝珠の宝を汚しません。それは、何を因とするのですか。両者ともに清浄なることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、まさしく、清潔なる者として出ます──水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、何であれ、不浄物に汚されず、清浄なる者として、清潔なる者として。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
30. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、二つの水の流れが、空中から出現します。一つは、冷たいものとして、一つは、熱いものとして。それによって、菩薩のために、水によって為すべきことを為します──そして、母のためにも。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
31. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。生まれると同時に、菩薩は、均等なる〔両の〕足で〔地に〕立って、北に向かい、七歩を交互に赴きます。白の傘蓋が差し掛けられるなか、そして、全ての方角を眺め見ます。そして(※)、威厳ある言葉を語ります。『世の至高者として、わたしは存している。世の最尊者として、わたしは存している。世の最勝者として、わたしは存している。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』と。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
※ PTS版により ca を補う。
32. 比丘たちよ、この法(真理)たることがあります。すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。そして、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺します。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。これが、ここにおいて、法(真理)たることとなります。
三十二の偉大なる人士の特相
33. 比丘たちよ、また、まさに、ヴィパッシン王子が生まれたとき、バンドゥマント王に、〔人々は〕知らせました。『陛下よ、あなたの子が生まれたのです。陛下は、彼を見たまえ』と。比丘たちよ、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子を見ました。見て、占い師の婆羅門たちを呼び寄せて、こう言いました。『諸君よ、占い師の婆羅門たちよ、王子を見たまえ』と。比丘たちよ、まさに、占い師の婆羅門たちは、ヴィパッシン王子を見ました。見て、バンドゥマント王に、こう言いました。『陛下よ、わが意を得た者と成りたまえ。あなたの子は、偉大なる権能ある者として〔世に〕生起したのです。大王よ、あなたには、諸々の利得があります。大王よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの家において、このような形態の子が生起したのです。陛下よ、まさに、この王子は、三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇(趣)だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。
34. 陛下よ、では、この王子は、どのような三十二の偉大なる人士の特相を具備した方なのですか。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。
35. (1)陛下よ、まさに、この王子は、善く確立された足ある方です。陛下よ、すなわち、また、この王子が、善く確立された足あるのは、これもまた、彼の、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
(2)陛下よ、この王子の、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪があります。陛下よ、すなわち、また、この王子の、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪があるのは、これもまた、彼の、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
(3)陛下よ、まさに、この王子は、長大なる踵(きびす)ある方です。……。
(4)陛下よ、まさに、この王子は、長い指ある方です。……。
(5)陛下よ、まさに、この王子は、柔和で柔弱な手足ある方です。……。
(6)陛下よ、まさに、この王子は、網のような手足ある方です。……。
(7)陛下よ、まさに、この王子は、踝(くるぶし)の高い足ある方です。……。
(8)陛下よ、まさに、この王子は、羚羊のような脛ある方です。……。
(9)陛下よ、まさに、この王子は、まさしく、立っていながら、屈むことなく、両の手の平をもって、〔両の〕膝に触れ、擦りまわします。……。
(10)陛下よ、まさに、この王子は、覆蔵された衣の陰部ある方です。……。
(11)陛下よ、まさに、この王子は、黄金の色艶があり、黄金に似た皮膚ある方です。……。
(12)陛下よ、まさに、この王子は、繊細なる肌ある方であり、肌の繊細なることから、塵と埃が身体に付着しません。……。
(13)陛下よ、まさに、この王子は、一つずつの毛ある方であり、諸々の一つずつの毛が諸々の毛穴に生じています。……。
(14)陛下よ、まさに、この王子は、屹立する毛ある方であり、諸々の屹立する毛が生じ、塗薬の色のように青く、耳飾の輪のようであり、右回りに生じています。……。
(15)陛下よ、まさに、この王子は、梵〔天〕のように真っすぐな五体ある方です。……。
(16)陛下よ、まさに、この王子は、七つの増長ある方です。……。
(17)陛下よ、まさに、この王子は、獅子のような前半身ある方です。……。
(18)陛下よ、まさに、この王子は、窪みが詰まった肩ある方です。……。
(19)陛下よ、まさに、この王子は、ニグローダ〔樹〕のような完円ある方であり、すなわち、彼の身体〔の長さ〕としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の〔一〕尋(両手を広げた長さ)となり、すなわち、彼の〔一〕尋としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の身体〔の長さ〕となります。……。
(20)陛下よ、まさに、この王子は、等しく円形の肩ある方です。……。
(21)陛下よ、まさに、この王子は、至高なるうえにも至高なる味感ある方です。……。
(22)陛下よ、まさに、この王子は、獅子のような顎ある方です。……。
(23)陛下よ、まさに、この王子は、四十の歯ある方です。……。
(24)陛下よ、まさに、この王子は、均等の歯ある方です。……。
(25)陛下よ、まさに、この王子は、隙間のない歯ある方です。……。
(26)陛下よ、まさに、この王子は、極めて白い歯ある方です。……。
(27)陛下よ、まさに、この王子は、広くて長い舌ある方です。……。
(28)陛下よ、まさに、この王子は、梵の声ある方であり、カラヴィーカ〔鳥〕の調べある方です。……。
(29)陛下よ、まさに、この王子は、紺碧の眼ある方です。……。
(30)陛下よ、まさに、この王子は、牛のような睫毛ある方です。……。
(31)陛下よ、この王子の、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫があります。陛下よ、すなわち、また、この王子の、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫があるのは、これもまた、彼の、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
(32)陛下よ、まさに、この王子は、肉髻の頭ある方です。陛下よ、すなわち、また、この王子が、肉髻の頭あるのは、これもまた、彼の、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
36. 陛下よ、まさに、この王子は、これらの三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕』と。
ヴィパッシンの呼称
37. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、占い師の婆羅門たちを、諸々の無傷の衣でまとわせて、一切の欲望〔の対象〕をもって満足させました。比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子のために、乳母たちを奉仕させました。他なる者たちが、乳を飲ませ、他なる者たちが、沐浴させ、他なる者たちが、抱きかかえ、他なる者たちが、脇にかかえて運びます。比丘たちよ、また、まさに、生まれたヴィパッシン王子のために、白の傘蓋が保持されました──まさしく、そして、昼に、さらに、夜に。『あるいは、寒さが、あるいは、暑さが、あるいは、草が、あるいは、塵が、あるいは、露が、彼を悩ますことがあってはならない』と。比丘たちよ、また、まさに、生まれたヴィパッシン王子は、多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮が、あるいは、赤蓮が、あるいは、白蓮が、多くの人々にとって、愛しく意に適うものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ヴィパッシン王子は、多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有りました。彼は、まさに、まさしく、胸から胸へと抱いて運ばれます。
38. 比丘たちよ、また、まさに、生まれたヴィパッシン王子は、かつまた、美妙なる声ある者として、かつまた、麗美なる声ある者として、かつまた、甘美なる声ある者として、かつまた、愛らしい声ある者として、〔世に〕有りました。比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヒマヴァント(ヒマラヤ)において、カラヴィーカという名の鳥の類が、かつまた、美妙なる声があり、かつまた、麗美なる声があり、かつまた、甘美なる声があり、かつまた、愛らしい声があるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、生まれたヴィパッシン王子は、かつまた、美妙なる声ある者として、かつまた、麗美なる声ある者として、かつまた、甘美なる声ある者として、かつまた、愛らしい声ある者として、〔世に〕有りました。
39. 比丘たちよ、また、まさに、生まれたヴィパッシン王子には、行為の報い(業報)から生じる天眼が出現し、その〔天眼〕によって、まさに、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)を見ます──まさしく、そして、昼に、さらに、夜に。
40. 比丘たちよ、また、まさに、生まれたヴィパッシン王子は、まばたきせずに見ます。それは、たとえば、また、三十三天〔の神々〕たちのように。『王子は、まばたきせずに見る』ということで、比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子には、まさしく、『ヴィパッシン(しっかり見る者)』『ヴィパッシン』という呼称が生起しました。
41. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、裁きの場に坐り、ヴィパッシン王子を脇に坐らせて、諸々の義(事態)を裁きます。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、父の脇に坐り、弁別しては弁別して、諸々の義(事態)を、正理によって判断します。『王子は、弁別しては弁別して、諸々の義(事態)を、正理によって判断する』ということで、比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子には、まさしく、『ヴィパッシン(しっかり見る者)』『ヴィパッシン』という呼称が生起しました。
42. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子のために、三つの高楼を作らせ、一つは雨期用のものとして、一つは冬用のものとして、一つは夏用のものとして、五つの欲望の属性を調達しました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、雨期用の高楼において、四月のあいだ、女たちだけの諸々の楽器によって楽しみながら、高楼の下に降りません」と。
〔以上が〕第一の朗読分となる。
老いた人
43. 「比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、数年、数百年、数千年が経過して、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。庭園のある地に、美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、ヴィパッシン王子に知らせました。『殿下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、立派なうえにも立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、庭園のある地に出かけました。
44. 比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子は、庭園のある地に出かけつつ、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去った人を見ました。見て、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、また、これは、何を為した人なのだ。彼の諸々の髪もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、彼の身体もまた、すなわち、他者たちのようにはない』と。『殿下よ、まさに、これが、老い朽ちた者というものなのです』と。『友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、老い朽ちた者というものは』と。『殿下よ、まさに、これが、老い朽ちた者というものなのです。今や、彼が生きるべくも、長きものと成らないでしょう』と。『友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、老の法(性質)ある者であり、老を超え行くことなき者なのか』と。『殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています』と。『友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。『厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知されることになるからだ』と。
45. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、馭者に告げて、こう言いました。『友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地で喜び楽しんだかな。友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成ったかな』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地で喜び楽しみませんでした。陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成りませんでした』と。『友よ、馭者よ、また、王子は、庭園のある地に出かけつつ、何を見たのだ』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地に出かけつつ、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去った人を見ました。見て、わたしに、こう言いました。「友よ、馭者よ、また、これは、何を為した人なのだ。彼の諸々の髪もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、彼の身体もまた、すなわち、他者たちのようにはない」と。「殿下よ、まさに、これが、老い朽ちた者というものなのです」と。「友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、老い朽ちた者というものは」と。「殿下よ、まさに、これが、老い朽ちた者というものなのです。今や、彼が生きるべくも、長きものと成らないでしょう」と。「友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、老の法(性質)ある者であり、老を超え行くことなき者なのか」と。「殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています」と。
「友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ」と。陛下よ、「殿下よ、わかりました」と、まさに、わたしは、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。陛下よ、それで、まさに、王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。「厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知されることになるからだ」』と。
病んだ人
46. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王に、この〔思い〕が有りました。
『まさに、ヴィパッシン王子が王権を為さないことが、まさしく、まさに、あってはならない。ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家することが、まさしく、まさに、あってはならない。占い師の婆羅門たちの言葉が真理(諦:真実)として存することが、まさしく、まさに、あってはならない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子のために、より一層しっかりと、五つの欲望の属性を調達しました。『すなわち、ヴィパッシン王子が王権を為すように。すなわち、ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家しないように。すなわち、占い師の婆羅門たちの言葉が誤りとして存するように』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、幾年……略……。
47. 比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子は、庭園のある地に出かけつつ、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥している人を──〔彼が〕他者たちによって起こされているのを、〔彼が〕他者たちによって寝かされているのを──見ました。見て、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、また、これは、何を為した人なのだ。彼の〔両の〕眼もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、彼の声もまた、すなわち、他者たちのようにはない』と。『殿下よ、まさに、これが、病んだ者というものなのです』と。『友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、病んだ者というものは』と。『殿下よ、まさに、これが、病んだ者というものなのです。まさしく、おそらく、まさに、その病苦から出起するのは〔むずかしいでしょう〕』と。『友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、病の法(性質)ある者であり、病を超え行くことなき者なのか』と。『殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています』と。『友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。『厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知され、病が覚知されることになるからだ』と。
48. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、馭者に告げて、こう言いました。『友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地で喜び楽しんだかな。友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成ったかな』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地で喜び楽しみませんでした。陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成りませんでした』と。『友よ、馭者よ、また、王子は、庭園のある地に出かけつつ、何を見たのだ』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地に出かけつつ、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥している人を──〔彼が〕他者たちによって起こされているのを、〔彼が〕他者たちによって寝かされているのを──見ました。見て、わたしに、こう言いました。「友よ、馭者よ、また、これは、何を為した人なのだ。彼の〔両の〕眼もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、彼の声もまた、すなわち、他者たちのようにはない」と。「殿下よ、まさに、これが、病んだ者というものなのです」と。「友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、病んだ者というものは」と。「殿下よ、まさに、これが、病んだ者というものなのです。まさしく、おそらく、まさに、その病苦から出起するのは〔むずかしいでしょう〕」と。「友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、病の法(性質)ある者であり、病を超え行くことなき者なのか」と。「殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています」と。「友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ」と。陛下よ、「殿下よ、わかりました」と、まさに、わたしは、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。陛下よ、それで、まさに、王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。「厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知され、病が覚知されることになるからだ」』と。
命を終えた人
49. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王に、この〔思い〕が有りました。『まさに、ヴィパッシン王子が王権を為さないことが、まさしく、まさに、あってはならない。まさに、ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家することが、まさしく、まさに、あってはならない。まさに、占い師の婆羅門たちの言葉が真理として存することが、まさしく、まさに、あってはならない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子のために、より一層しっかりと、五つの欲望の属性を調達しました。『すなわち、ヴィパッシン王子が王権を為すように。すなわち、ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家しないように。すなわち、占い師の婆羅門たちの言葉が誤りとして存するように』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、幾年……略……。
50. 比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子は、庭園のある地に出かけつつ、大勢の人の衆が集まり、そして、種々に染められた諸々の布地でできた駕篭(荼毘の薪山)が作られているのを見ました。見て、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、いったい、まさに、どうして、大勢の人の衆が集まり、そして、種々に染められた諸々の布地でできた駕篭が作られるのだ』と。『殿下よ、まさに、これが、命を終えた者というものなのです』と。『友よ、馭者よ、まさに、それでは、その、命を終えた者のいるところに、そこへと、車を進めるのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、その、命を終えた者のいるところに、そこへと、車を進めました。比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子は、亡者となり、命を終えた者を見ました。見て、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、命を終えた者というものは』と。『殿下よ、これが、命を終えた者というものなのです。今や、彼を、あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見ることはないでしょう。彼もまた、あるいは、母を、あるいは、父を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見ることはないでしょう』と。『友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、死の法(性質)ある者であり、死を超え行くことなき者なのか。わたしをもまた、あるいは、陛下が、あるいは、王妃が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見なくなるのだろうか。わたしもまた、あるいは、陛下を、あるいは、王妃を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見なくなるのだろうか』と。『殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています。あなたをもまた、あるいは、陛下が、あるいは、王妃が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見なくなるでしょう。あなたもまた、あるいは、陛下を、あるいは、王妃を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見なくなるでしょう』と。『友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。『厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知され、病が覚知され、死が覚知されることになるからだ』と。
51. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、馭者に告げて、こう言いました。『友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地で喜び楽しんだかな。友よ、馭者よ、どうであろう、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成ったかな』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地で喜び楽しみませんでした。陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地でわが意を得た者と成りませんでした』と。『友よ、馭者よ、また、王子は、庭園のある地に出かけつつ、何を見たのだ』と。『陛下よ、まさに、王子は、庭園のある地に出かけつつ、大勢の人の衆が集まり、種々に染められた諸々の布地でできた駕篭が作られているのを見ました。見て、わたしに、こう言いました。「友よ、馭者よ、いったい、まさに、どうして、大勢の人の衆が集まり、種々に染められた諸々の布地でできた駕篭が作られるのだ」と。「殿下よ、まさに、これが、命を終えた者というものなのです」と。「友よ、馭者よ、まさに、それでは、その、命を終えた者のいるところに、そこへと、車を進めるのだ」と。陛下よ、「殿下よ、わかりました」と、まさに、わたしは、ヴィパッシン王子に答えて、その、命を終えた者のいるところに、そこへと、車を進めました。陛下よ、まさに、ヴィパッシン王子は、亡者となり、命を終えた者を見ました。見て、わたしに、こう言いました。「友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、命を終えた者というものは」と。「殿下よ、これが、命を終えた者というものなのです。今や、彼を、あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見ることはないでしょう。彼もまた、あるいは、母を、あるいは、父を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見ることはないでしょう」と。「友よ、馭者よ、また、どうなのだ、わたしもまた、死の法(性質)ある者であり、死を超え行くことなき者なのか。わたしをもまた、あるいは、陛下が、あるいは、王妃が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見なくなるのだろうか。わたしもまた、あるいは、陛下を、あるいは、王妃を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見なくなるのだろうか」と。「殿下よ、そして、あなたも、さらに、わたしたちの全ても、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存しています。あなたをもまた、あるいは、陛下が、あるいは、王妃が、あるいは、他の親族や血縁たちが、見なくなるでしょう。あなたもまた、あるいは、陛下を、あるいは、王妃を、あるいは、他の親族や血縁たちを、見なくなるでしょう」と。「友よ、馭者よ、まさに、それでは、十分だ──今や、今日、庭園のある地に〔でかけるのは〕。まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ」と。陛下よ、「殿下よ、わかりました」と、まさに、わたしは、ヴィパッシン王子に答えて、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。陛下よ、それで、まさに、王子は、内宮に至り、苦痛の者となり、失意の者となり、困惑します。「厭わしきものとして存せ──ああ、まさに、生というものは。なぜなら、そこで、まさに、生まれた者には、老が覚知され、病が覚知され、死が覚知されることになるからだ」』と。
出家者
52. 比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王に、この〔思い〕が有りました。『まさに、ヴィパッシン王子が王権を為さないことが、まさしく、まさに、あってはならない。まさに、ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家することが、まさしく、まさに、あってはならない。まさに、占い師の婆羅門たちの言葉が真理として存することが、まさしく、まさに、あってはならない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、バンドゥマント王は、ヴィパッシン王子のために、より一層しっかりと、五つの欲望の属性を調達しました。『すなわち、ヴィパッシン王子が王権を為すように。すなわち、ヴィパッシン王子が家から家なきへと出家しないように。すなわち、占い師の婆羅門たちの言葉が誤りとして存するように』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、数年、数百年、数千年が経過して、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。庭園のある地に、美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、ヴィパッシン王子に知らせました。『殿下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、立派なうえにも立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、庭園のある地に出かけました。
53. 比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン王子は、庭園のある地に出かけつつ、剃髪の人を、黄褐色の衣(袈裟)の出家者を、見ました。見て、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、また、これは、何を為した人なのだ。彼の頭もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、彼の諸々の衣もまた、すなわち、他者たちのようにはない』と。『殿下よ、まさに、これが、出家者というものなのです』と。『友よ、馭者よ、また、何なのだ、この、出家者というものは』と。『殿下よ、これが、出家者というものなのです。善きかな、法(教え)の行ないは。善きかな、正義の行ないは。善きかな、善なるものを作り為すことは。善きかな、功徳を作り為すことは。善きかな、不害は。善きかな、生類にたいする慈しみ〔の思い〕は』と。『友よ、馭者よ、善きかな、まさに、その、出家者というものは。善きかな、法(教え)の行ないは。善きかな、正義の行ないは。善きかな、善なるものを作り為すことは。善きかな、功徳を作り為すことは。善きかな、不害は。善きかな、生類にたいする慈しみ〔の思い〕は。友よ、馭者よ、まさに、それでは、その、出家者のいるところに、そこへと、車を進めるのだ』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、その、出家者のいるところに、そこへと、車を進めました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、その出家者に、こう言いました。『友よ、また、あなたは、何を為した人なのですか。あなたの頭もまた、すなわち、他者たちのようにはなく、あなたの諸々の衣もまた、すなわち、他者たちのようにはありません』と。『殿下よ、まさに、わたしは、出家者というものです』と。『友よ、また、何なのですか、あなたは、出家者というものは』と。『殿下よ、まさに、わたしは、出家者というものです。善きかな、法(教え)の行ないは。善きかな、正義の行ないは。善きかな、善なるものを作り為すことは。善きかな、功徳を作り為すことは。善きかな、不害は。善きかな、生類にたいする慈しみ〔の思い〕は』と。『友よ、善きかな、まさに、あなたは、出家者というものです。善きかな、法(教え)の行ないは。善きかな、正義の行ないは。善きかな、善なるものを作り為すことは。善きかな、功徳を作り為すことは。善きかな、不害は。善きかな、生類にたいする慈しみ〔の思い〕は』と。
菩薩の出家
54. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン王子は、馭者に告げました。『友よ、馭者よ、まさに、それでは、車を取って、まさしく、ここから、内宮に引き返すのだ。いっぽう、わたしは、まさしく、ここに、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう』と。比丘たちよ、『殿下よ、わかりました』と、まさに、馭者は、ヴィパッシン王子に答えて、車を取って、まさしく、そこから、内宮に引き返しました。いっぽう、ヴィパッシン王子は、まさしく、その場において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。
大勢の人の衆の追随出家
55. 比丘たちよ、まさに、王都であるバンドゥマティーにおいて、大勢の人の衆である、八万四千の命ある者たちが、『どうやら、ヴィパッシン王子が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したらしい』と耳にしました。耳にして、彼らに、この〔思い〕が有りました。『そこにおいて、ヴィパッシン王子が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したなら、まさに、まちがいなく、その法(教え)と律が低劣であることはなく、その出家が低劣であることはない。まさに、ヴィパッシン王子さえも、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、その大勢の人の衆である、八万四千の命ある者たちは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと、出家したヴィパッシン菩薩に追随し出家しました。比丘たちよ、まさに、その衆に取り囲まれ、ヴィパッシン菩薩は、諸々の村や町や地方や王都において、遊行〔の旅〕を歩みます。
56. 比丘たちよ、そこで、まさに、静所に赴き静坐しているヴィパッシン菩薩に、このような心の思索が浮かびました。『まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住むのは。それなら、さあ、わたしは、独り、衆徒から隠棲し、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩は、他時にあって、独り、衆徒から隠棲し、〔世に〕住みました。それらの八万四千の出家者たちとヴィパッシン菩薩は、まさしく、互いに他の道を赴いたのでした。
菩薩の確信
57. 比丘たちよ、そこで、まさに、静所に赴き静坐しているヴィパッシン菩薩に、このような心の思索が浮かびました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すこと(如理作意)から、智慧(慧・般若)による知悉(現観)が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。どのような縁あることから、生があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存(有)が存しているとき、生が有る。生存という縁あることから、生がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生存が有るのか。どのような縁あることから、生存があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取(取)が存しているとき、生存が有る。執取という縁あることから、生存がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、執取が有るのか。どのような縁あることから、執取があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛(愛)が存しているとき、執取が有る。渇愛という縁あることから、執取がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、渇愛が有るのか。どのような縁あることから、渇愛があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受(受:楽苦の知覚)が存しているとき、渇愛が有る。感受という縁あることから、渇愛がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、感受が有るのか。どのような縁あることから、感受があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触(触:感覚の発生)が存しているとき、感受が有る。接触という縁あることから、感受がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、接触が有るのか。どのような縁あることから、接触があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)が存しているとき、接触が有る。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。どのような縁あることから、六つの〔認識の〕場所があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態(名色:心と身体)が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、名前と形態が有るのか。どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕(識:認識作用)が存しているとき、名前と形態が有る。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存しているとき、識知〔作用〕が有る。名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある』と。
58. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『まさに、この識知〔作用〕は、名前と形態から反転し、他に赴かない。このかぎりにおいて、あるいは、生まれることになり、あるいは、老いることになり、あるいは、死ぬことになり、あるいは、死滅することになり、あるいは、再生することになる。すなわち、この、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る』〔と〕。
59. 比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵(智)が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
60. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が有ることはないのか。何の止滅あることから、生の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存が存していないとき、生が有ることはない。生存の止滅あることから、生の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生存が有ることはないのか。何の止滅あることから、生存の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取が存していないとき、生存が有ることはない。執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、執取が有ることはないのか。何の止滅あることから、執取の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛が存していないとき、執取が有ることはない。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。何の止滅あることから、渇愛の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受が存していないとき、渇愛が有ることはない。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何の止滅あることから、感受の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触が存していないとき、感受が有ることはない。接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何の止滅あることから、接触の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所が存していないとき、接触が有ることはない。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何の止滅あることから、名前と形態の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と。
61. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしによって、この、正覚のための道が到達するところとなった。すなわち、この、名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』〔と〕。
62. 比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
63. 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩は、他時にあって、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みました。『かくのごとく、形態(色)があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕(識)があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。彼が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました」と。
〔以上が〕第二の朗読分となる。
梵〔天〕の懇願の話
64. 「比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、法(教え)を説示するのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう』と。
65. 比丘たちよ、さてまた、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。
〔すなわち〕『苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。
〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない』と。
比丘たちよ、まさに、かくのごとく、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きませんでした(説法を躊躇する)。
66. 比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの大いなる梵〔天〕に──〔自らの〕心をとおして、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊のいるところに、そこへと合掌を手向けて、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。
67. 比丘たちよ、このように説かれたとき、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、その大いなる梵〔天〕に、こう言いました。『梵〔天〕よ、わたしにもまた、まさに、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、法(教え)を説示するのだ」と。梵〔天〕よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすることであり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう」と。梵〔天〕よ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。
〔すなわち〕「苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。
〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない」と。
梵〔天〕よ、まさに、かくのごとく、わたしが深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きませんでした』と。
68. 比丘たちよ、再度また、まさに、その大いなる梵〔天〕は……略……。比丘たちよ、三度また、まさに、その大いなる梵〔天〕は、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。
69. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。比丘たちよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。
70. 比丘たちよ、そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、〔自らの〕心をとおして、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の心の思索を了知して、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔すなわち〕『たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って──
憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう』と。
71. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、その大いなる梵〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔すなわち〕『彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、『まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、ヴィパッシン世尊が機会を作った者として』と、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
至高の組なる弟子
72. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『まさに、この者は、かつまた、王の子であるカンダは、かつまた、司祭の子であるティッサは、〔両者ともに〕王都であるバンドゥマティーに滞在する。賢者たちであり、明敏なる者たちであり、思慮ある者たちであり、長夜にわたり、塵少なき類の者たちである。それなら、さあ、わたしは、かつまた、王の子であるカンダに、かつまた、司祭の子であるティッサに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼らは、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。
73. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、菩提樹の根元において消没し、王都であるバンドゥマティーのケーマの鹿園に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、園の番人に告げました。『友よ、園の番人よ、さあ、あなたは、王都であるバンドゥマティーに入って、かつまた、王の子であるカンダに、かつまた、司祭の子であるティッサに、このように説きなさい。「尊き方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が、王都であるバンドゥマティーに到着し、ケーマの鹿園に住んでいます。彼は、あなたたちと会見することを欲しています」』と。比丘たちよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、園の番人は、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に答えて、王都であるバンドゥマティーに入って、かつまた、王の子であるカンダに、かつまた、司祭の子であるティッサに、こう言いました。『尊き方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が、王都であるバンドゥマティーに到着し、ケーマの鹿園に住んでいます。彼は、あなたたちと会見することを欲しています』と。
74. 比丘たちよ、そこで、まさに、かつまた、王の子であるカンダは、かつまた、司祭の子であるティッサは、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派なうえにも立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、王都であるバンドゥマティーから出発し、ケーマの鹿園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者たちとなり、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊を敬拝して、一方に坐りました。
75. 阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、彼らのことを、健全なる心の者たちと、柔和なる心の者たちと、妨げを離れる心の者たちと、勇躍する心の者たちと、浄信した心の者たちと、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、かつまた、王の子であるカンダに、かつまた、司祭の子であるティッサに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と。
76. 彼らは、法(真理)を見た者たちとなり、法(真理)に至り得た者たちとなり、法(真理)を見出した者たちとなり、法(真理)を深解した者たちとなり、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなり、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、「眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る」と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに。尊き方よ、わたしたちが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように』と。
77. 比丘たちよ、まさに、かつまた、王の子であるカンダは、かつまた、司祭の子であるティッサは、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。諸々の形成〔作用〕の危険と卑賎と汚染を、涅槃における福利を、明示しました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊によって、彼らが、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられていると、まさしく、長からずして、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。
大勢の人の衆の出家
78. 比丘たちよ、王都であるバンドゥマティーにおいて、大勢の人の衆である、八万四千の命ある者たちが、『どうやら、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が、王都であるバンドゥマティーに到着し、ケーマの鹿園に住んでいるらしい。どうやら、かつまた、王の子であるカンダが、かつまた、司祭の子であるティッサが、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の現前において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したらしい』と耳にしました。耳にして、彼らに、この〔思い〕が有りました。『そこにおいて、かつまた、王の子であるカンダが、かつまた、司祭の子であるティッサが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したなら、まさに、まちがいなく、その法(教え)と律が低劣であることはなく、その出家が低劣であることはない。かつまた、王の子であるカンダが、かつまた、司祭の子であるティッサが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その大勢の人の衆である、八万四千の命ある者たちは、王都であるバンドゥマティーから出立して、ケーマの鹿園のあるところに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊を敬拝して、一方に坐りました。
79. 阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、〔適切な〕順序にもとづく講話を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、彼らのことを、健全なる心の者たちと、柔和なる心の者たちと、妨げを離れる心の者たちと、勇躍する心の者たちと、浄信した心の者たちと、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、それらの八万四千の命ある者たちに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と。
80. 彼らは、法(真理)を見た者たちとなり、法(真理)に至り得た者たちとなり、法(真理)を見出した者たちとなり、法(真理)を深解した者たちとなり、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなり、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、「眼ある者たちは、諸々の形態を見る」と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしたちが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように』と。
81. 比丘たちよ、まさに、それらの八万四千の命ある者たちは、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。諸々の形成〔作用〕の危険と卑賎と汚染を、涅槃における福利を、明示しました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊によって、彼らが、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられていると、まさしく、長からずして、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。
前の出家者たちの法の知悉
82. 比丘たちよ、それらの、前の八万四千の出家者たちが、『どうやら、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が、王都であるバンドゥマティーに到着し、ケーマの鹿園に住んでいるらしい。そして、どうやら、法(教え)を説示するらしい』と耳にしました。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの八万四千の出家者たちは、王都であるバンドゥマティーのあるところに、ケーマの鹿園のあるところに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊を敬拝して、一方に坐りました。
83. 阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、〔適切な〕順序にもとづく講話を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、彼らのことを、健全なる心の者たちと、柔和なる心の者たちと、妨げを離れる心の者たちと、勇躍する心の者たちと、浄信した心の者たちと、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、それらの八万四千の命ある者たちに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と。
84. 彼らは、法(真理)を見た者たちとなり、法(真理)に至り得た者たちとなり、法(真理)を見出した者たちとなり、法(真理)を深解した者たちとなり、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなり、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、「眼ある者たちは、諸々の形態を見る」と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしたちが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように』と。
85. 比丘たちよ、まさに、それらの八万四千の出家者たちは、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、彼らに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。諸々の形成〔作用〕の危険と卑賎と汚染を、涅槃における福利を、明示しました。阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊によって、彼らが、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられていると、まさしく、長からずして、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。
遊行の許可
86. 比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、王都であるバンドゥマティーにおいて、大いなる比丘の僧団である、六百八十万の比丘たちが滞在しています。比丘たちよ、そこで、まさに、静所に赴き静坐している阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、このような心の思索が浮かびました。『まさに、今現在、王都であるバンドゥマティーにおいて、大いなる比丘の僧団である、六百八十万の比丘たちが滞在している。それなら、さあ、わたしは、比丘たちに、〔遊行を〕許可するのだ。「比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しなさい。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう。そして、また、六年ごとに、経過して〔そののち〕、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべきです」』と。
87. 比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの大いなる梵〔天〕が、〔自らの〕心をとおして、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊の前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、一つの肩に上衣を掛けて、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊のいるところに、そこへと合掌を手向けて、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、こう言いました。『世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、まさに、今現在、王都であるバンドゥマティーにおいて、大いなる比丘の僧団である、六百八十万の比丘たちが滞在しています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、〔遊行を〕許可されたまえ。「比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しなさい。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう」と。尊き方よ、そして、また、すなわち、比丘たちが、六年ごとに、経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くなら、わたしたちも、そのように為すでしょう』と。比丘たちよ、その大いなる梵〔天〕は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
88. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、ここに、わたしに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、今現在、王都であるバンドゥマティーにおいて、大いなる比丘の僧団である、六百八十万の比丘たちが滞在している。それなら、さあ、わたしは、比丘たちに、〔遊行を〕許可するのだ。『比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しなさい。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう。そして、また、六年ごとに、経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべきです』」と。
比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの大いなる梵〔天〕が、〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。そこで、まさに、その大いなる梵〔天〕は、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、まさに、今現在、王都であるバンドゥマティーにおいて、大いなる比丘の僧団である、六百八十万の比丘たちが滞在しています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、〔遊行を〕許可されたまえ。『比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。……略……。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。尊き方よ、そして、また、すなわち、比丘たちが、六年ごとに、経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くなら、わたしたちも、そのように為すでしょう」と。比丘たちよ、その大いなる梵〔天〕は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
比丘たちよ、わたしは、〔遊行を〕許可します。比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しなさい。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう。そして、また、六年ごとに、経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべきです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、比丘たちは、多くのところは、まさしく、一日で、地方の遊行へと立ち去りました。
89. また、まさに、その時点にあって、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)において、八万四千の居住所が有ります。まさに、一年が過ぎたとき、天神たちは、声を上げました。『敬愛なる方たちよ、まさに、一年が過ぎました。今や、残りは、五年です。五年が経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべきです』と。二年が過ぎたとき……。三年が過ぎたとき……。四年が過ぎたとき……。五年が過ぎたとき、天神たちは、声を上げました。『敬愛なる方たちよ、まさに、五年が過ぎました。今や、残りは、一年です。一年が経過して〔そののち〕、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべきです』と。六年が過ぎたとき、天神たちは、声を上げました。『敬愛なる方たちよ、まさに、六年が過ぎました。今や、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行くべき時です』と。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、一部の者たちはまた、自らの神通の威力によって、一部の者たちはまた、天神たちの神通の威力によって、まさしく、一日で、戒条の誦説のために、王都であるバンドゥマティーに近づいて行った、ということです。
90. 比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、比丘の僧団において、このように、戒条を誦説します。
〔そこで、詩偈に言う〕『「忍耐と忍受は、最高の苦行である。涅槃は、最高〔の安楽〕である」〔と〕、覚者たちは説く。他者を害する者は、まさに、出家者にあらず。他者を悩ましている者が、沙門と成ることはない。
一切の悪を為さないこと、善を成就すること、自らの心を遍く清めること──これは、覚者たちの教えである。
〔他者を〕批判しないこと、害さないこと、そして、戒条において統御すること、かつまた、食について量を知ること、かつまた、辺境に臥坐すること、さらに、卓越の心(瞑想)に専念すること──これは、覚者たちの教えである』と。
天神たちの告示
91. 比丘たちよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウッカッターに住んでいます。スバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において。比丘たちよ、〔まさに〕その、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に居住したことのない、まさに、その有情の居住所は、得るに易き形態のものではない(浄居天以外はすべて居住してきた)。それなら、さあ、わたしは、諸々の浄居天のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ウッカッターのスバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において消没し、無煩天〔の神々〕たちのなかに出現しました(五浄居天の一つである無煩天に赴いた)。比丘たちよ、その天の衆における、幾千の天神たちが、幾百千の天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ(※)、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が世に生起したのは、それは、これより九十一カッパ〔の過去〕においてです。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、八万年の寿命の量が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、パータリ〔樹〕の根元において現正覚したのです。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、カンダとティッサという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──六百八十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、アソーカという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、バンドゥマントという名の王が、父[u9] として有り、バンドゥマティーという名の王妃が、生みの母として有り、バンドゥマント王には、バンドゥマティーという名の城市が、王都として有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、このような出立が有り、このような出家が〔有り〕、このような精励が〔有り〕、このような現正覚が〔有り〕、このような法(真理)の輪の転起(転法輪)が〔有りました〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、ヴィパッシン世尊のもと、梵行を歩んで、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、ここに生起したのです』と。……略……。
※ テキストには mārisā とあるが、PTS版により mārisa と読む。以下も同様。
比丘たちよ、まさに、まさしく、その天の衆における、幾千の天神たちが、幾百千の天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、世尊は、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、世に生起したのです。敬愛なる方よ、世尊は、生まれとしては士族であり、士族の家において生起したのです。敬愛なる方よ、世尊は、姓としてはゴータマです。敬愛なる方よ、世尊の寿命の量は、少なく、僅かにして、軽きものであり、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。敬愛なる方よ、世尊は、アッサッタ〔樹〕の根元において現正覚したのです。敬愛なる方よ、世尊には、サーリプッタとモッガッラーナという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。敬愛なる方よ、世尊には、千二百五十の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、世尊には、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、世尊には、アーナンダという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。敬愛なる方よ、世尊には、スッドーダナという名の王が、父[u10] として有り、マーヤーという名の王妃が、生みの母として有り、カピラヴァットウという名の城市が、王都として有りました敬愛なる方よ、世尊には、このような出立が有り、このような出家が〔有り〕、このような精励が〔有り〕、このような現正覚が〔有り〕、このような法(真理)の輪の転起が〔有りました〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊のもと、梵行を歩んで、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、ここに生起したのです』と。
92. 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、無煩天〔の神々〕たちと共に、無熱天〔の神々〕たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、かつまた、無煩天〔の神々〕たちと、かつまた、無熱天〔の神々〕と──〔彼らと〕共に、善現天〔の神々〕たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。……。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、かつまた、無煩天〔の神々〕たちと、かつまた、無熱天〔の神々〕と、かつまた、善現天〔の神々〕と──〔彼らと〕共に、善見天〔の神々〕たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。……。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、かつまた、無煩天〔の神々〕たちと、かつまた、無熱天〔の神々〕と、かつまた、善現天〔の神々〕と、かつまた、善見天〔の神々〕と──〔彼らと〕共に、色究竟天〔の神々〕たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。(五浄居天の無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天を順に赴いた)。比丘たちよ、その天の衆における、幾千の天神たちが、幾百千の天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。
比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊が世に生起したのは、それは、これより九十一カッパ〔の過去〕においてです。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、生まれとしては士族として〔世に〕有り、士族の家において生起しました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、姓としてはコンダンニャとして〔世に〕有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、八万年の寿命の量が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊は、パータリ〔樹〕の根元において現正覚したのです。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、カンダとティッサという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、三つの弟子たちの参集が有りました──六百八十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、十万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有り、八万の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、これらの、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、三つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、アソーカという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、バンドゥマントという名の王が、父[u11] として有り、バンドゥマティーという名の王妃が、生みの母として有り、バンドゥマント王には、バンドゥマティーという名の城市が、王都として有りました。敬愛なる方よ、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊には、このような出立が有り、このような出家が〔有り〕、このような精励が〔有り〕、このような現正覚が〔有り〕、このような法(真理)の輪の転起が〔有りました〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、ヴィパッシン世尊のもと、梵行を歩んで、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、ここに生起したのです』と。比丘たちよ、その天の衆における、幾千の天神たちが、幾百千の天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊が世に生起したのは、それは、これより三十一カッパ〔の過去〕においてです。……略……。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、シキン世尊のもと……略……。敬愛なる方よ、まさしく、その、まさに、三十一カッパ〔の過去〕において、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊が(※)……略……。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、ヴェッサブー世尊のもと……略……。敬愛なる方よ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ……コーナーガマナ……カッサパ世尊が、世に生起しました。……略……。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、カクサンダ……コーナーガマナ……カッサパ世尊のもと、梵行を歩んで、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、ここに生起したのです』と。
※ テキストには yaṃ vessabhū bhagavā とあるが、平行箇所により yaṃ を削除する(PTS版は、この箇所を省略)。
93. 比丘たちよ、まさに、まさしく、その天の衆における、幾千の天神たちが、幾百千の天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさしく、この、まさに、幸いなるカッパにおいて、世尊は、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる者であり、世に生起したのです。敬愛なる方よ、世尊は、生まれとしては士族であり、士族の家において生起したのです。敬愛なる方よ、世尊は、姓としてはゴータマです。敬愛なる方よ、世尊の寿命の量は、少なく、僅かにして、軽きものであり、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。敬愛なる方よ、世尊は、アッサッタ〔樹〕の根元において現正覚したのです。敬愛なる方よ、世尊には、サーリプッタとモッガッラーナという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。敬愛なる方よ、世尊には、千二百五十の比丘からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、世尊には、この、まさしく、全ての者たちが煩悩の滅尽者からなる、一つの弟子たちの参集が有りました。敬愛なる方よ、世尊には、アーナンダという名の、比丘の奉仕者が有りました──至高の奉仕者として。敬愛なる方よ、世尊には、スッドーダナという名の王が、父[u12] として有り、マーヤーという名の王妃が、生みの母として有り、カピラヴァットウという名の城市が、王都として有りました敬愛なる方よ、世尊には、このような出立が有り、このような出家が〔有り〕、このような精励が〔有り〕、このような現正覚が〔有り〕、このような法(真理)の輪の転起が〔有りました〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊のもと、梵行を歩んで、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、ここに生起したのです』と。
94. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、まさしく、如来には、この法(真理)の界域が善く理解されたものとしてあり、その法(真理)の界域が善く理解されたことから、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念します。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、かくのごとく。
天神たちもまた、如来に、この義(意味)を告げたのであり、それによって、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──生まれ〔の観点〕からもまた隨念し、名〔の観点〕からもまた隨念し、姓〔の観点〕からもまた隨念し、寿命の量〔の観点〕からもまた隨念し、組なる弟子〔の観点〕からもまた隨念し、弟子たちの参集〔の観点〕からもまた隨念します。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、『このような名の者たちとして、このような姓の者たちとして、このような戒の者たちとして、このような法(性質)の者たちとして、このような智慧の者たちとして、このような住の者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた、〔かくのごとく〕」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる行状の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(15). 大いなる因縁の経
縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕
95. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、それほどまでに、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)が、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものであるとは。そこで、また、しかしながら、わたしには、明瞭のうえにも明瞭であるように思えます」と。「アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです。アーナンダよ、この法(性質)の随覚なく理解なきことから、このように、この〔世の〕人々は、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり(※)、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません。
※ テキストには kulagaṇṭhikajātā とあるが、PTS版により gulāguṇṭhikajātā と読む。
96. アーナンダよ、『この縁あることから、老と死が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、老と死があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『生という縁あることから、老と死がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、生が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、生があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『生存という縁あることから、生がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、生存が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、生存があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『執取という縁あることから、生存がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、執取が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、執取があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『渇愛という縁あることから、執取がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、渇愛が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、渇愛があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『感受という縁あることから、渇愛がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、感受が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、感受があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『接触という縁あることから、感受がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、接触が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、接触があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『名前と形態という縁あることから、接触がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、名前と形態が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
アーナンダよ、『この縁あることから、識知〔作用〕が存在するのか』と、かくのごとく問われ、〔そのように〕存しているなら、彼には、『存在する』と説かれるべきものがあります。『どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と、もし、かくのごとく説くなら、彼には、『名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある』と、かくのごとく説かれるべきものがあります。
97. アーナンダよ、かくのごとく、まさに、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。
98. アーナンダよ、『生という縁あることから、老と死がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、生という縁あることから、老と死があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、生が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、あるいは、天〔の神々〕たちに、天〔の神〕たることのために、あるいは、音楽神たちに、音楽神たることのために、あるいは、夜叉たちに、夜叉たることのために、あるいは、精霊たちに、精霊たることのために、あるいは、人間たちに、人間たることのために、あるいは、四足のものたちに、四足のものたることのために、あるいは、翼あるものたちに、翼あるものたることのために、あるいは、蛇行するものたちに、蛇行するものたることのために、アーナンダよ、まさに、そして、それぞれの有情たちに、その〔有情〕たることのために、生が有ることなくあったなら、全てにわたり、生が存していないとき、生の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、老と死は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(覚知されません)」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、老と死には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、生です。
99. アーナンダよ、『生存という縁あることから、生がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、生存という縁あることから、生があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、生存が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、あるいは、欲望の生存(欲有)が、あるいは、形態の生存(色有)が、あるいは、形態なき生存(無色有)が、全てにわたり、生存が存していないとき、生存の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、生は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、生には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、生存です。
100. アーナンダよ、『執取という縁あることから、生存がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、執取という縁あることから、生存があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、執取が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、あるいは、欲望への執取が、あるいは、見解への執取が、あるいは、戒や掟への執取が、あるいは、自己の論への執取が、全てにわたり、執取が存していないとき、執取の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、生存は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、生存には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、執取です。
101. アーナンダよ、『渇愛という縁あることから、執取がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、渇愛という縁あることから、執取があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、渇愛が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、形態(色)の渇愛が、音声(声)の渇愛が、臭気(香)の渇愛が、味感(味)の渇愛が、感触(触・所触)の渇愛が、法(意の対象)の渇愛が、全てにわたり、渇愛が存していないとき、渇愛の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、執取は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、執取には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、渇愛です。
102. アーナンダよ、『感受という縁あることから、渇愛がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、感受という縁あることから、渇愛があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、感受が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、眼の接触から生じる感受が、耳の接触から生じる感受が、鼻の接触から生じる感受が、舌の接触から生じる感受が、身の接触から生じる感受が、意の接触から生じる感受が、全てにわたり、感受が存していないとき、感受の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、渇愛は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、渇愛には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、感受です。
103. アーナンダよ、また、まさに、かくのごとく、感受を縁として、渇愛があります。渇愛を縁として、遍き探し求めがあります。遍き探し求めを縁として、利得があります。利得を縁として、〔断定的〕判断があります。〔断定的〕判断を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があります。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、固執があります。固執を縁として、執持〔の対象〕(所有物)があります。執持〔の対象〕を縁として、物惜があります。物惜を縁として、守護があります。守護を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。
104. アーナンダよ、『守護を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、守護を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、守護が有ることなくあったなら、全てにわたり、守護が存していないとき、守護の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことには、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、守護です。
105. アーナンダよ、『物惜を縁として、守護があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、物惜を縁として、守護があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、物惜が有ることなくあったなら、全てにわたり、物惜が存していないとき、守護は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、守護には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、物惜です。
106. アーナンダよ、『執持〔の対象〕を縁として、物惜があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、執持〔の対象〕を縁として、物惜があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、執持〔の対象〕が有ることなくあったなら、全てにわたり、執持〔の対象〕が存していないとき、物惜は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、物惜には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、執持〔の対象〕です。
107. アーナンダよ、『固執を縁として、執持〔の対象〕があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、固執を縁として、執持〔の対象〕があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、固執が有ることなくあったなら、全てにわたり、固執が存していないとき、執持〔の対象〕は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、執持〔の対象〕には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、固執です。
108. アーナンダよ、『欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、固執があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、固執があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が有ることなくあったなら、全てにわたり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が存していないとき、固執は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、固執には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕です。
109. アーナンダよ、『〔断定的〕判断を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、〔断定的〕判断を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、〔断定的〕判断が有ることなくあったなら、全てにわたり、〔断定的〕判断が存していないとき、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、〔断定的〕判断です。
110. アーナンダよ、『利得を縁として、〔断定的〕判断があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、利得を縁として、〔断定的〕判断があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、利得が有ることなくあったなら、全てにわたり、利得が存していないとき、〔断定的〕判断は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔断定的〕判断には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、利得です。
111. アーナンダよ、『遍き探し求めを縁として、利得があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、遍き探し求めを縁として、利得があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、遍き探し求めが有ることなくあったなら、全てにわたり、遍き探し求めが存していないとき、利得は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、利得には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、遍き探し求めです。
112. アーナンダよ、『渇愛を縁として、遍き探し求めがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、渇愛を縁として、遍き探し求めがあるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、渇愛が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)が、生存の渇愛(有愛)が、非生存の渇愛(非有愛)が、全てにわたり、渇愛が存していないとき、遍き探し求めは覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、遍き探し求めには、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、渇愛です。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、これらの二つの法(渇愛という縁あることから、執取がある・渇愛を縁として、遍き探し求めがある)は、両者ともに、感受において、一つに集結するものと成ります。
113. アーナンダよ、『接触という縁あることから、感受がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、接触という縁あることから、感受があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、誰にであれ、誰においてであれ、接触が有ることなくあったなら、それは、すなわち、この、眼の接触が、耳の接触が、鼻の接触が、舌の接触が、身の接触が、意の接触が、全てにわたり、接触が存していないとき、接触の止滅あることから、さて、いっさい、まさに、感受は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、感受には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、接触です。
114. アーナンダよ、『名前と形態という縁あることから、接触がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、名前と形態という縁あることから、接触があるとおりに。アーナンダよ、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、それらの素性によって、名前の身体(名身:精神的事象の体系)の報知(施設)が有るとして、それらの行相において、それらの徴表において、それらの形相において、それらの素性において、形態の身体(色身:物質的事象の体系)が存していないとき、さて、いっさい、まさに、名辞の接触は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、それらの素性によって、形態の身体の報知が有るとして、それらの行相において……略……それらの素性において、名前の身体が存していないとき、さて、いっさい、まさに、敵対するもの(有対・障礙:対峙対立するもの・客体物)の接触は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それらの行相によって……略……それらの素性によって、そして、名前の身体の、さらに、形態の身体の、報知が有るとして、それらの行相において……略……それらの素性において、〔名前の身体と形態の身体が〕存していないとき、さて、いっさい、まさに、あるいは、名辞の接触は〔覚知されますか〕、あるいは、敵対するものの接触は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それらの行相によって……略……それらの素性によって、名前と形態の報知が有るとして、それらの行相において……略……それらの素性において、〔名前と形態が〕存していないとき、さて、いっさい、まさに、接触は覚知されますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、接触には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、名前と形態です。
115. アーナンダよ、『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、識知〔作用〕が、母の子宮において入胎しなかったなら、さて、いっさい、まさに、名前と形態は、母の子宮において積集するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、まさに、そして、識知〔作用〕が、母の子宮において入胎して〔そののち〕、離れ行ったなら、さて、いっさい、まさに、名前と形態は、この場〔の状態〕(現世)へと発現するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、まさに、そして、あるいは、童子であれ、あるいは、童女であれ、まさしく、年少の者としてあり、〔そのように〕存している者の識知〔作用〕が、〔その時点で〕断ち切られたなら、さて、いっさい、まさに、名前と形態は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、名前と形態には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、識知〔作用〕です。
116. アーナンダよ、『名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があるとおりに。アーナンダよ、まさに、そして、識知〔作用〕が、名前と形態において、立脚するものを得なかったなら、さて、いっさい、まさに、未来に、老と死は、苦しみの集起の発生は、覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、識知〔作用〕には、まさしく、これが因となり、これが因縁となり、これが集起となり、これが縁となります。すなわち、この、名前と形態です。アーナンダよ、まさに、このかぎりにおいて、あるいは、生まれることになり、あるいは、老いることになり、あるいは、死ぬことになり、あるいは、死滅することになり、あるいは、再生することになります。このかぎりにおいて、名辞の道があり、このかぎりにおいて、言語の道があり、このかぎりにおいて、報知の道があり、このかぎりにおいて、智慧の行境があり、このかぎりにおいて、〔輪廻の〕転起が、この場〔の状態〕を報知するために転起します。すなわち、この、名前と形態が、識知〔作用〕と共に、互いに他を縁とすることから転起します。
自己の報知
117. アーナンダよ、では、どのようなことから、自己を報知しつつ報知するのですか。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態ある微小なるものとして、自己を報知しつつ報知します──『形態ある微小なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態ある無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知します──『形態ある無辺なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態なき微小なるものとして、自己を報知しつつ報知します──『形態なき微小なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態なき無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知します──『形態なき無辺なるものとして、わたしの自己はある』と。
118. アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態ある微小なるものとして、自己を報知しつつ報知するなら、あるいは、彼は、今現在、形態ある微小なるものとして、自己を報知しつつ報知し、あるいは、彼は、そこ(未来)において状態ある、形態ある微小なるものとして、自己を報知しつつ報知します。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いが〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いが〕、彼に有ります。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態ある微小なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとなる』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態ある無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知するなら、あるいは、彼は、今現在、形態ある無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知し、あるいは、彼は、そこにおいて状態ある、形態ある無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知します。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いが〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いが〕、彼に有ります。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態ある無辺なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとなる』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態なき微小なるものとして、自己を報知しつつ報知するなら、あるいは、彼は、今現在、形態なき微小なるものとして、自己を報知しつつ報知し、あるいは、彼は、そこ(未来)において状態ある、形態なき微小なるものとして、自己を報知しつつ報知します。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いが〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いが〕、彼に有ります。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態なき微小なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとなる』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態なき無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知するなら、あるいは、彼は、今現在、形態なき無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知し、あるいは、彼は、そこにおいて状態ある、形態なき無辺なるものとして、自己を報知しつつ報知します。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いが〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いが〕、彼に有ります。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態なき無辺なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとなる』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。アーナンダよ、このようなことから、まさに、自己を報知しつつ報知します。
自己の報知なきこと
119. アーナンダよ、では、どのようなことから、自己を報知せずにいながら報知しないのですか。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態ある微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません──『形態ある微小なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態ある無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません──『形態ある無辺なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態なき微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません──『形態なき微小なるものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、形態なき無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません──『形態なき無辺なるものとして、わたしの自己はある』と。
120. アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態ある微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しないなら、あるいは、彼は、今現在、形態ある微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知せず、あるいは、彼は、そこ(未来)において状態ある、形態ある微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いも〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いも〕、彼に有りません。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態ある微小なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとならない』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態ある無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しないなら、あるいは、彼は、今現在、形態ある無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知せず、あるいは、彼は、そこにおいて状態ある、形態ある無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いも〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いも〕、彼に有りません。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態ある無辺なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとならない』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態なき微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しないなら、あるいは、彼は、今現在、形態なき微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知せず、あるいは、彼は、そこ(未来)において状態ある、形態なき微小なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いも〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いも〕、彼に有りません。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態なき微小なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとならない』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。
アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、形態なき無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しないなら、あるいは、彼は、今現在、形態なき無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知せず、あるいは、彼は、そこにおいて状態ある、形態なき無辺なるものとして、自己を報知せずにいながら報知しません。また、あるいは、『真実ならざるものとして存しているものを、真実なるものへと調整するのだ』という〔思いも〕、また、あるいは、かくのごとき〔思いも〕、彼に有りません。アーナンダよ、このように存しているなら、まさに、『形態なき無辺なるものを自己とする偏った見解が悪しき習いとならない』と、かくのごとき言葉たるに十分なるものがあります。アーナンダよ、このようなことから、まさに、自己を報知せずにいながら報知しません。
自己を等しく随観すること
121. アーナンダよ、では、どのようなことから、自己を等しく随観しつつ等しく随観するのですか。アーナンダよ、まさに、あるいは、感受〔作用〕(受)として、自己を等しく随観しつつ等しく随観します──『感受〔作用〕として、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、かくのごとく、自己を等しく随観しつつ等しく随観します──『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとして、わたしの自己はある』と。アーナンダよ、まさに、あるいは、かくのごとく、自己を等しく随観しつつ等しく随観します──『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとしてもまた、わたしの自己はなく、わたしの自己は感受する。なぜなら、感受〔作用〕の法(性質)あるものとして、わたしの自己はあるからである』と。
122. アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、『感受〔作用〕として、わたしの自己はある』と、このように言ったなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。あなたは、まさに、これらの三つの感受のなかのどれを、「自己である」と等しく随観するのですか』と。アーナンダよ、その時点において、安楽の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、苦痛の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、安楽の感受だけを感受します。アーナンダよ、その時点において、苦痛の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、苦痛の感受だけを感受します。アーナンダよ、その時点において、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦痛の感受を感受することもなく、その時点においては、苦でもなく楽でもない感受だけを感受します。
123. アーナンダよ、まさに、安楽の感受もまた、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アーナンダよ、まさに、苦痛の感受もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アーナンダよ、まさに、苦でもなく楽でもない感受もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。彼が、安楽の感受を感受していると、『これは、わたしの自己である』という〔思いが〕有ります。まさしく、彼には、安楽の感受の止滅あることから、『わたしの自己は、離れ去ったのだ』という〔思いが〕有ります。苦痛の感受を感受していると、『これは、わたしの自己である』という〔思いが〕有ります。まさしく、彼には、苦痛の感受の止滅あることから、『わたしの自己は、離れ去ったのだ』という〔思いが〕有ります。苦でもなく楽でもない感受を感受していると、『これは、わたしの自己である』という〔思いが〕有ります。まさしく、彼には、苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、『わたしの自己は、離れ去ったのだ』という〔思いが〕有ります。かくのごとく、彼は、まさしく、所見の法(現法:現世)において、安楽と苦痛が混在した無常なるものとして、生起と衰失の法(性質)あるものとして、自己を等しく随観しつつ等しく随観します。すなわち、その者が、『感受〔作用〕として、わたしの自己はある』と、このように言ったなら、アーナンダよ、それゆえに、ここに、このことによってもまた、『感受〔作用〕として、わたしの自己はある』と等しく随観することは、このことは受認されません。
124. アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとして、わたしの自己はある』と、このように言ったなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、また、そこにおいて、全てにわたり、感受されたものが存在しないなら、さて、いったい、まさに、そこにおいて、「これは、わたしとして存在する」という〔思いが〕存するでしょうか』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、このことによってもまた、『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとして、わたしの自己はある』と等しく随観することは、このことは受認されません。
125. アーナンダよ、そこで、すなわち、その者が、『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとしてもまた、わたしの自己はなく、わたしの自己は感受する。なぜなら、感受〔作用〕の法(性質)あるものとして、わたしの自己はあるからである』と、このように言ったなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、そして、諸々の感受〔作用〕が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、全てにわたり、感受〔作用〕が存在しないとき、感受〔作用〕の止滅あることから、さて、いったい、まさに、そこにおいて、「これは、わたしとして存在する」という〔思いが〕存するでしょうか』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、このことによってもまた、『まさしく、まさに、感受〔作用〕として、まさに、わたしの自己はなく、得知なきものとしてもまた、わたしの自己はなく、わたしの自己は感受する。なぜなら、感受〔作用〕の法(性質)あるものとして、わたしの自己はあるからである』と等しく随観することは、このことは受認されません。
126. アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、まさしく、感受〔作用〕として、自己を等しく随観することもなく、得知なきものとして、自己を等しく随観することもまたなく、『わたしの自己は感受する。なぜなら、感受〔作用〕の法(性質)あるものとして、わたしの自己はあるからである』と等しく随観することもまたないことから、彼は、このように等しく随観せずにいながら、そして、世において、何であれ執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。アーナンダよ、このように、まさに、心が解脱した比丘のことを、或る者が、このよう説くなら──『「如来は、死後に有る」という見解が、彼にある』と〔説くなら〕、それは、健全なるものがなく、『「如来は、死後に有ることがない」という見解が、彼にある』と〔説くなら〕、それは、健全なるものがなく、『「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」という見解が、彼にある』と〔説くなら〕、それは、健全なるものがなく、『「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という見解が、彼にある』と〔説くなら〕、それは、健全なるものがありません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、すなわち、名辞としてあるかぎり、すなわち、名辞の道としてあるかぎり、すなわち、言語としてあるかぎり、すなわち、言語の道としてあるかぎり、すなわち、報知としてあるかぎり、すなわち、報知の道としてあるかぎり、すなわち、智慧としてあるかぎり、すなわち、智慧の行境としてあるかぎり、すなわち、〔輪廻の〕転起としてあるかぎり、すなわち、〔輪廻が〕転起するかぎり、比丘は、それを証知して解脱したからです。それを証知して解脱した比丘のことを、『「〔彼は〕知らず、〔彼は〕見ない」という見解が、彼にある』と〔説くなら〕、それは、健全なるものがありません。
七つの識知〔作用〕の止住
127. アーナンダよ、まさに、七つの識知〔作用〕の止住(識住)があり、二つの〔認識の〕場所(処)があります。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)アーナンダよ、種々なる身体と種々なる表象(想)ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。(2)アーナンダよ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。(3)アーナンダよ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。(4)アーナンダよ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。(5)アーナンダよ、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。(6)アーナンダよ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。(7)アーナンダよ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です。(1)表象なき有情の〔認識の〕場所があり、(2)第二のものとして、まさしく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)があります。
128. アーナンダよ、そこで、すなわち、この、第一の識知〔作用〕の止住があり、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちがいます。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。アーナンダよ、いったい、まさに、或る者が、かつまた、それを覚知し、そして、それの集起を覚知し、さらに、それの滅至を覚知し、そして、それの悦楽を覚知し、かつまた、それの危険を覚知し、さらに、それの出離を覚知するなら、はたして、それによって、それを愉悦するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。「アーナンダよ、そこで、すなわち、この、表象なき有情の〔認識の〕場所があります。アーナンダよ、いったい、まさに、或る者が、かつまた、それを覚知し、そして、それの集起を覚知し、さらに、それの滅至を覚知し、そして、それの悦楽を覚知し、かつまた、それの危険を覚知し、さらに、それの出離を覚知するなら、はたして、それによって、それを愉悦するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、そこで、すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所があります。アーナンダよ、いったい、まさに、或る者が、かつまた、それを覚知し、そして、それの集起を覚知し、さらに、それの滅至を覚知し、そして、それの悦楽を覚知し、かつまた、それの危険を覚知し、さらに、それの出離を覚知するなら、はたして、それによって、それを愉悦するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、これらの七つの識知〔作用〕の止住の、さらに、これらの二つの〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、アーナンダよ、この比丘は、『〔観察の〕智慧による解脱者』と説かれます。
八つの解脱
129. アーナンダよ、八つのものがあります。まさに、これらの解脱です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。アーナンダよ、まさに、これらの八つの解脱があります。
130. アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、これらの八つの解脱に、順にもまた入定し、逆にもまた入定し、順逆にもまた入定することから、求めるところで求めるときに求めるかぎり、入定もまたし、出起もまたします。そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。アーナンダよ、この比丘は、『両部の解脱者』と説かれます。アーナンダよ、そして、この両部の解脱より、他の両部の解脱で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる因縁の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(16). 大いなる完全なる涅槃の経
131. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲し、〔世に〕有ります。彼は、このように言いました。「まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ」と。
132. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲しています。彼は、このように言いました。「まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ」』と。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおりに、それを、善くしっかりと収め取って、わたしに告げるがよい。なぜなら、如来たちは、真実を離れることを話さないからだ」と。
ヴァッサカーラ婆羅門
133. 「君よ、わかりました」と、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派なうえにも立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ラージャガハから出発し、ギッジャクータ山のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。貴君ゴータマよ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲しています。彼は、このように言いました。『まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ』」と。
王の遍き衰退とならない法
134. また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちである』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちである』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちとして〔世に〕有るあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為す』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為す』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為すあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持する』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持する』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持するあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考える』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考える』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考えるあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させない』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させない』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させないあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それら〔の塔廟〕を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それら〔の塔廟〕に、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させない』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それら〔の塔廟〕を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それら〔の塔廟〕に、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させない』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それら〔の塔廟〕を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それら〔の塔廟〕に、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させないあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有る。「どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか」』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有る。「どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか」』」と。「アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有るあいだは、『どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか』と、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。
135. そこで、まさに、世尊は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーサーリーに住んでいます。サーランダダ塔廟において。婆羅門よ、そこで、わたしは、ヴァッジー〔族〕の者たちに、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)を説示しました。婆羅門よ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、ヴァッジー〔国〕の者たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、ヴァッジー〔国〕の者たちが現見されるあいだは、婆羅門よ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。
このように説かれたとき、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、一つ一つの遍き衰退とならない法(性質)であれ、〔それを〕具備しているなら、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。七つの遍き衰退とならない法(性質)を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう。貴君ゴータマよ、まさしく、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、ヴァッジー〔国〕の者たちに為すべきことはありません──すなわち、この、戦いのための、懐柔より他には、内部分裂より他には。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「婆羅門よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
比丘の遍き衰退とならない法
136. そこで、まさに、世尊は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門が立ち去ったすぐあと、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたは赴きなさい。すなわち、ラージャガハに近しく依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、すなわち、ラージャガハに依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、比丘の僧団が集まりました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、世尊は、坐から立ち上がって、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々の僧団の為すべきことを為すあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、制定されたとおりの諸々の学びの境処(戒律)において、〔それらを〕受持して行持するあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、すなわち、それらの長老の比丘たちが、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たる者たちであり、僧団の遍き導き手たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考えるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、生起した渇愛の、さらなる生存あるものの、支配に赴かないあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、諸々の林にある臥坐所について期待〔の思い〕を有する者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、まさしく、各自それぞれに、気づきを現起させるあいだは、『どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない梵行を共にする博愛なる者たちが到来し、かつまた、〔すでに〕到来している梵行を共にする博愛なる者たちが平穏のうちに〔世に〕住むであろうか』と、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
137. 比丘たちよ、他にもまた、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、作業を喜びとする者たちではなく、作業を喜ぶ者たちではなく、作業を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、談義を喜びとする者たちではなく、談義を喜ぶ者たちではなく、談義を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、睡眠を喜びとする者たちではなく、睡眠を喜ぶ者たちではなく、睡眠を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、社交を喜びとする者たちではなく、社交を喜ぶ者たちではなく、社交を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、悪しき欲求ある者たちではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、悪しき朋友ある者たちではなく、悪しき道友ある者たちではなく、悪しき友人ある者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、ほんの些細な殊勝〔の境地〕の到達によって、中途において完成〔の思い〕を惹起しないあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく
138. 比丘たちよ、他にもまた、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。……略……。「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、信ある者たちとして〔世に〕有るあいだは……略……恥〔の思い〕(慚)ある者たちとして〔世に〕有るあいだは……〔良心の〕咎め(愧)ある者たちとして〔世に〕有るあいだは……多聞の者たちとして〔世に〕有るあいだは……精進に励む者たちとして〔世に〕有るあいだは……気づき(念)が現起された者たちとして〔世に〕有るあいだは……智慧ある者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
139. 比丘たちよ、他にもまた、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めるあいだは……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めるあいだは……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めるあいだは……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めるあいだは……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めるあいだは……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めるあいだは……放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく
140. 比丘たちよ、他にもまた、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、無常の表象を修めるあいだは……略……無我の表象を修めるあいだは……不浄の表象を修めるあいだは……危険の表象を修めるあいだは……捨棄の表象を修めるあいだは……離貪の表象を修めるあいだは……止滅の表象を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく
141. 比丘たちよ、六つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為(身業)を現起させるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為(口業)を現起させるあいだは……略……慈愛〔の思い〕ある意の行為(意業)を現起させるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者たちとして、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者たちとして、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、すなわち、それらの(※)諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者たちとして〔世に〕住むあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
※ テキストには kāni とあるが、PTS版により tāni と読む。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者たちとして〔世に〕住むあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの六つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの六つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。
142. そこで、まさに、世尊は、ラージャガハに住みながら、ギッジャクータ山において、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒(戒)はあり、かくのごとく、禅定(定・三昧)はあり、かくのごとく、智慧(慧・般若)はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
143. そこで、まさに、世尊は、ラージャガハにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。アンバラッティカーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、アンバラッティカーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、アンバラッティカーに住んでおられます。王の別荘において。そこで、また、まさに、世尊は、アンバラッティカーに住みながら、王の別荘において、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
144. そこで、まさに、世尊は、アンバラッティカーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ナーランダーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ナーランダーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。
サーリプッタの獅子吼
145. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。『そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は』」と。「サーリプッタよ、まさに、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれました。『尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は」』と。
サーリプッタよ、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような法(教え)ある者たちとして、このような智慧ある者たちとして、このような住ある者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』ともまた。『このような法(教え)ある者たちとして、このような智慧ある者たちとして、このような住ある者たちとして、このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者として、世尊はある』ともまた。『このような法(教え)ある者として、このような智慧ある者として、このような住ある者として、このような解脱者として、世尊はある』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「サーリプッタよ、まさに、そして、ここにおいて、あなたに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。サーリプッタよ、そこで、そうしますと、どうして、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれたのですか。『尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は」』」と。
146. 「尊き方よ、まさに、わたしに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。しかしながら、また、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な塀と楼門があり、一つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこに、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕存するとします。彼は、その城市の、遍きにわたり、巡回する道を巡り行きながら、あるいは、塀の境目を、あるいは、塀の隙間を、もしくは、たとえ、山猫が出るほどのものであろうが、〔それらの全てを〕見ることはありません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、彼らが誰であれ、粗雑なる命あるものたちが、この城市を、あるいは、入るなら、あるいは、出るなら、彼らの全てが、まさしく、この門をとおり、あるいは、入り、あるいは、出る』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分(七覚支)を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚しました。尊き方よ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚するでしょう。尊き方よ、世尊もまた、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚したのです」と。
147. そこで、また、まさに、世尊は、ナーランダーに住みながら、パーヴァーリカのアンバ林において、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
劣戒の者の危険
148. そこで、まさに、世尊は、ナーランダーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。パータリ村のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、パータリ村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、パータリ村の在俗信者たちは、「どうやら、世尊が、パータリ村に到着したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、わたしたちの休息堂を、〔臥坐所として〕お受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、休息堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を休息堂に広げて、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が休息堂に広げられ、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、休息堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、パータリ村の在俗信者たちもまた、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。
149. そこで、まさに、世尊は、パータリ村の在俗信者たちに告げました。「家長たちよ、五つのものがあります。これらの、劣戒の者の戒の衰滅(破戒)における危険(患・過患)です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長たちよ、ここに、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、放逸を事因とする大いなる財物の衰退に遭遇します。これは、第一の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。
家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者に、戒が衰滅したなら、悪しき評価の声が上がります。これは、第二の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。
家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れず、愕然と成った者として近づいて行きます。これは、第三の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。
家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、等しく迷乱した者として命を終えます。これは、第四の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。
家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。これは、第五の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。家長たちよ、まさに、これらの五つの、劣戒の者の戒の衰滅における危険があります。
戒ある者の福利
150. 家長たちよ、五つのものがあります。これらの、戒ある者の戒の成就(守戒)における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長たちよ、ここに、戒ある者は、戒が成就したなら、不放逸を事因とする大いなる財物の範疇に遭遇します。これは、第一の、戒ある者の戒の成就における福利です。
家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者に、戒が成就したなら、善き評価の声が上がります。これは、第二の、戒ある者の戒の成就における福利です。
家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。これは、第三の、戒ある者の戒の成就における福利です。
家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、等しく迷乱しない者として命を終えます。これは、第四の、戒ある者の戒の成就における福利です。
家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します。これは、第五の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、まさに、これらの五つの、戒ある者の戒の成就における福利があります」と。
151. そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、パータリ村の在俗信者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔彼らを〕送り出しました。「家長たちよ、まさに、夜が更けました。今が、そのための時と、あなたたちが思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、パータリ村の在俗信者たちが立ち去ったすぐあと、空屋に入られました。
パータリプッタの城市の造作
152. また、まさに、その時点にあって、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで。また、まさに、その時点にあって、まさしく、千にもなる、大勢の天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取ります。その地域において、大いなる権能ある天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、大いなる権能ある王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、中等の天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、中等の王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、低劣な天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、低劣な王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、まさしく、千にもなる、それらの天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取っているのを見ました。そこで、まさに、世尊は、夜の早朝の時分に、起き上がって、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、いったい、まさに、どのような者たちが、パータリ村において、城市を造作するのですか」と。「尊き方よ、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで」と。「アーナンダよ、それは、たとえば、また、三十三天〔の神々〕たちと共に話し合って〔決めた〕かのように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで。アーナンダよ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、まさしく、千にもなる、大勢の天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取っているのを見ました。アーナンダよ、その地域において、大いなる権能ある天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、大いなる権能ある王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、中等の天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、中等の王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、低劣な天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、低劣な王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。アーナンダよ、およそ、聖なる場所があるかぎり、およそ、商いの通路があるかぎり、このパータリプッタは、至高の城市として、物資の集散地として、〔世に〕有るでしょう。アーナンダよ、パータリプッタには、まさに、三つの障りが有るでしょう──あるいは、火から、あるいは、水から、あるいは、敵の破壊から」と。
153. そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、今日、わたしたちの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊の承諾を見出して、自らの居住所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、自らの居住所において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。
そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラの居住所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラに、世尊は、これらの詩偈によって随喜しました。
〔そこで、詩偈に言う〕「その地域において、賢者たる類の者が住を営むなら、ここにおいて、自制ある梵行者たる戒ある者たちを受益させて──
そこにおいて、それらの天神たちが〔先住者として〕存していたなら、彼らのために、〔その賢者は〕施物を献じるべきである。彼らは、供養された者たちとして、〔彼を〕供養し、思慕された者たちとして、彼を思慕し──
そののち、彼を慈しむ──母が、わが子を〔慈しむ〕ように。天神たちに慈しまれたなら、人は、常に、諸々の幸せを見る」と。
そこで、まさに、世尊は、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラを、これらの詩偈によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
154. また、まさに、その時点にあって、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、背後から背後へと、世尊に付き従う者たちと成ります。「今日、沙門ゴータマが出るであろう、その門であるが、それは、『ゴータマの門』という名と成るであろう。〔沙門ゴータマが〕ガンガー川を渡るであろう、その渡し場であるが、それは、『ゴータマの渡し場』という名と成るであろう」と。そこで、まさに、世尊が出た、その門ですが、それは、『ゴータマの門』という名と成りました。そこで、まさに、世尊は、ガンガー川のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、ガンガー川は、烏が飲めるほど、縁まで一杯に満ちている状態であり、人間たちは、一部の者たちはまた、舟を遍く探し求め、一部の者たちはまた、筏を遍く探し求め、一部の者たちはまた、浮橋を結び縛り、此岸から彼岸に赴くことを欲します。そこで、まさに、世尊は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ガンガー川の此岸において消没し、彼岸に立ちました──比丘の僧団と共に。まさに、世尊は、それらの人間たちが、一部の者たちはまた、舟を遍く探し求めながら、一部の者たちはまた、筏を遍く探し求めながら、一部の者たちはまた、浮橋を結び縛りながら、此岸から彼岸に赴くことを欲しているのを見ました。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら(思慮ある人たち)は、川を〔超え〕、流れを超える──橋を作って、諸々の湖沼を捨て去って。まさに、〔思慮浅き〕人は、浮橋を結び縛る──思慮ある人たちが、〔流れを〕超えたところで」と。
〔以上が〕第一の朗読分となる。
聖なる真理の話
155. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。コーティ村のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、コーティ村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、コーティ村に住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕聖なる真理(諦)の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、苦しみという聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、苦しみの集起という聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、苦しみの止滅という聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、苦しみという聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの集起という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理は、随覚され、理解され、生存の喝愛は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「四つの聖なる真理の、事実のとおりの見なきことから、長時にわたり、輪廻してきたのだ──まさしく、それら〔の生〕それらの生において。
〔まさに〕その、これら〔の真理〕は、〔事実のとおりに〕見られた。生存に導くものは完破され、苦しみの根元は断絶され、今や、さらなる生存は存在しない」と。
そこで、また、まさに、世尊は、コーティ村に住みながら、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
戻り来る法(性質)なく正覚を行き着く所とする者たち
156. そこで、まさに、世尊は、コーティ村において、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ナーティカ〔村〕のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、また、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ナーティカ〔村〕のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、また、まさに、世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サールハという名の比丘が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、ナンダーという名の比丘尼が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スダッタという名の在俗信者(優婆塞)が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スジャーターという名の女性在俗信者(優婆夷)が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、クックタという名の在俗信者が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、カーリンバという名の在俗信者が……略……。尊き方よ、ニカタという名の在俗信者が……。尊き方よ、カティッサハという名の在俗信者が……。尊き方よ、トゥッタという名の在俗信者が……。尊き方よ、サントゥッタという名の在俗信者が……。尊き方よ、バッダという名の在俗信者が……。尊き方よ、スバッダという名の在俗信者が、ナーティカ〔村〕において命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
157. 「アーナンダよ、サールハ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、ナンダー比丘尼は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、スダッタ在俗信者は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲(貪)と憤怒(瞋)と迷妄(痴)の希薄なることから、一来たる者であり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、スジャーター女性在俗信者は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です。アーナンダよ、クックタ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、カーリンバ在俗信者は……略……。アーナンダよ、ニカタ在俗信者は……。アーナンダよ、カティッサハ在俗信者は……。アーナンダよ、トゥッタ在俗信者は……。アーナンダよ、サントゥッタ在俗信者は……。アーナンダよ、バッダ在俗信者は……。アーナンダよ、スバッダ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、五十者を超える命を終えたナーティカ〔村〕の在俗信者たちが、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。アーナンダよ、九十者の命を終えたナーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、五百を優に超過する命を終えたナーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。
法の鏡という法の教相
158. アーナンダよ、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、人間と成った者が命を終えるのは。まさしく、彼が命を終えたとき、〔あなたたちが〕近づいて行って、如来に、この義(意味)を〔その都度〕質問するなら、アーナンダよ、まさに、これは、如来にとって、悩害となります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、法(真理)の鏡という名の法(教え)の教相を説示しましょう。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。
159. アーナンダよ、では、どのようなものが、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相なのですか。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。
アーナンダよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。
法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。
僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。
聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。
アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。
そこで、また、まさに、世尊は、ナーティカ〔村〕に住みながら、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。
「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
160. そこで、まさに、世尊は、ナーティカ〔村〕において、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ヴェーサーリーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。アンバパーリーの林(遊女のアンバパーリーが所有するアンバ林)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として……略……。心における心の随観ある者として……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正知の者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正知の者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。
アンバパーリー遊女
161. まさに、アンバパーリー遊女は、「どうやら、世尊が、ヴェーサーリーに到着し、ヴェーサーリーに住んでおられるらしい。わたしのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えさせて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ヴェーサーリーから出発し、自らの林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アンバパーリー遊女に、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください』と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるリッチャヴィ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、ヴェーサーリーに到着し、ヴェーサーリーに住んでおられるらしい。アンバパーリーの林において」と耳にしました。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えさせて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ヴェーサーリーから出発しました。そこで、一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、青の者たちとして有ります──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、黄の者たちとして有ります──黄の色艶で、黄の衣で、黄の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、赤の者たちとして有ります──赤の色艶で、赤の衣で、赤の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、白の者たちとして有ります──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、それぞれの年少のリッチャヴィ〔族〕の者たち〔の車〕に、車軸と車軸を〔ぶつけて〕、車輪と車輪を〔ぶつけて〕、軛と軛を〔ぶつけて〕、反転させました。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、アンバパーリー遊女に、こう言いました。「アンバパーリーよ、さて、どういうことだ、それぞれの年少のリッチャヴィ〔族〕の者たち〔の車〕に、車軸と車軸を〔ぶつけて〕、車輪と車輪を〔ぶつけて〕、軛と軛を〔ぶつけて〕、反転させるとは」と。「ご子息様たちよ、また、まさに、そのようにあるも、世尊が、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕に招かれたのです」と。「アンバパーリーよ、では、この食事〔の布施〕を、十万〔金〕で譲れ」と。「ご子息様たちよ、それで、もし、また、わたしに、ヴェーサーリーを、領地を含めて与えるとして、このように、わたしが、その食事〔の布施〕を譲ることはないでしょう」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、指を弾きました。「ああ、まさに、〔わたしたちは〕存している──女子に勝利された者たちとして。ああ、まさに、〔わたしたちは〕存している──女子に勝利された者たちとして」と。
そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、アンバパーリーの林のあるところに、そこへと進み行きました。まさに、世尊は、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに、こう言いました。「比丘たちよ、それらの比丘たちが、三十三天〔の神々〕たちを、過去に見たことがないなら、比丘たちよ、リッチャヴィ〔族〕の衆に注目しなさい、比丘たちよ、リッチャヴィ〔族〕の衆に着目しなさい、比丘たちよ、リッチャヴィ〔族〕の衆に近しく集中しなさい──三十三天〔の神々〕たちと相同のものとして」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者たちとなり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしたちの食事〔の布施〕をお受けください」と。そこで、まさに、世尊は、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、まさに、わたしは、明日、アンバパーリー遊女の食事〔の布施〕を受けています」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、指を弾きました。「ああ、まさに、〔わたしたちは〕存している──女子に勝利された者たちとして。ああ、まさに、〔わたしたちは〕存している──女子に勝利された者たちとして」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
162. そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、その夜が明けると、自らの林園において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、アンバパーリー遊女の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、アンバパーリー遊女は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アンバパーリー遊女は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、この林園を、覚者を筆頭とする比丘の僧団に施します」と。世尊は、林園を納受しました。そこで、まさに、世尊は、アンバパーリー遊女に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、また、まさに、世尊は、ヴェーサーリーに住みながら、アンバパーリーの林において、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
ベールヴァ村における雨期〔の滞在〕入り
163. そこで、まさに、世尊は、アンバパーリーの林において、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ベールヴァ村のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ベールヴァ村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ベールヴァ村に住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、遍きにわたり、ヴェーサーリーにおいて、朋友あるままに、同輩あるままに、知己あるままに、〔彼らを頼って〕雨期を過ごしなさい。いっぽう、わたしは、まさしく、ここに、ベールヴァ村において、雨期〔の滞在〕に入ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、遍きにわたり、ヴェーサーリーにおいて、朋友あるままに、同輩あるままに、知己あるままに、〔彼らを頼って〕雨期〔の滞在〕に入りました。いっぽう、世尊は、まさしく、そこにおいて、ベールヴァ村において、雨期〔の滞在〕に入りました。
164. そこで、まさに、雨期〔の滞在〕に入った世尊に、荒々しい病苦が生起しました。激烈で死に至るほどの諸々の〔苦痛の〕感受が転起します。まさに、世尊は、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、それらを耐え忍びました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、奉仕者たちに〔別れを〕告げずして、比丘の僧団を顧みずして、完全なる涅槃に到達するのは。それなら、さあ、わたしは、この病苦を、精進によって退けて、生命を形成する働き(行)を〔心に〕確立して、〔世に〕住むのだ」と。そこで、まさに、世尊は、その病苦を、精進によって退けて、生命を形成する働きを〔心に〕確立して、〔世に〕住みました。そこで、まさに、世尊の、その病苦は安息しました。そこで、まさに、世尊は、病から出起し、病から出起したすぐあと、精舎から出て、精舎の影のもとに設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、世尊が平穏であるのを見ました。尊き方よ、わたしは、世尊が息災であるのを見ました。尊き方よ、ですが、また、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたかのようであり、わたしに、諸々の方向もまた定まらず、わたしに、諸々の法(教え)もまた明白となりません──世尊の病によって。尊き方よ、ですが、ともあれ、わたしに、まさしく、幾許かの安堵ほどのものは有ります。『まずは、世尊が完全なる涅槃に到達することはない。すなわち、世尊が、比丘の僧団に関して、何らかの或ることを述べ伝えるまでは』」と。
165. 「アーナンダよ、また、比丘の僧団が、わたしにたいし、何を願い求めるというのでしょう。アーナンダよ、わたしによって、法(教え)は、内もなく外もなく作り為して説示されました。アーナンダよ、如来の諸々の法(教え)において、師匠の握り拳(秘密の教え)は存在しません。アーナンダよ、たしかに、その者に、あるいは、『わたしは、比丘の僧団を維持するのだ』と、あるいは、『わたしを指定する者として、比丘の僧団はある』と、このような〔思いが〕存するなら、アーナンダよ、たしかに、彼は、比丘の僧団に関して、まさしく、何らかの或ることを述べ伝えるでしょう。アーナンダよ、まさに、如来に、あるいは、『わたしは、比丘の僧団を維持するのだ』と、あるいは、『わたしを指定する者として、比丘の僧団はある』と、このような〔思いは〕有りません。アーナンダよ、それで、どうして(※)、如来が、比丘の僧団に関して、まさしく、何らかの或るものを述べ伝えるというのでしょう。アーナンダよ、また、まさに、今現在、わたしは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者であり、わたしの年齢は、八十となり転起します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、老朽した荷車が、革紐の寄り合わせによって保ち行くようなものです。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、如来の身体は、思うに、革紐の寄り合わせによって保ち行きます。アーナンダよ、その時点において、如来が、一切の形相に意を為さないことから、一部の諸々の感受の止滅あることから、無相なる〔止寂の〕心による禅定を成就して〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、より平穏なるものと成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。アーナンダよ、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。アーナンダよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、今現在、あるいは、わたしの死後、自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住むなら、アーナンダよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、最高の至高の者たちと成るでしょう──彼らが誰であれ、学びを欲する者たちであるなら」と。
※ テキストには Sakiṃ とあるが、Sa kiṃ と読む。
〔以上が〕第二の朗読分となる。
形相の暗示の話
166. そこで、まさに、そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者アーナンダもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
167. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタカ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたは去りなさい。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、遠く離れていないところの、或るどこかの木の根元において坐りました。
悪魔の乞い求めの話
168. そこで、まさに、悪魔パーピマントは、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、悪魔パーピマントは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。
尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘尼たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。
尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である在俗信者たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。
尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である女性在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。
尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です」と。
このように説かれたとき、世尊は、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、あなたは、思い入れ少なき者と成れ(心配はいりません)。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。
寿命を形成する働きの放棄
169. そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟において、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働きを放棄しました。そして、世尊によって、寿命を形成する働きが放棄されたとき、禍々しく身の毛のよだつ大いなる地震が有り、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「比べられるものを、さらに、比べられないものを、〔何であれ、自己から〕発生するものを、〔迷いの〕生存を形成する働きを、牟尼は放棄した。内に喜び、〔心が〕定められた者は、鎧を〔壊し去る〕ように、自己から発生するものを破壊した」と。
大いなる地震の因
170. そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、これは、大いなる地震である。まさに、これは、禍々しく身の毛のよだちを有する、極めて大いなる地震であり、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂した。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、大いなる地震の出現があるのか」と。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、これは、大いなる地震です。尊き方よ、まさに、これは、禍々しく身の毛のよだちを有する、極めて大いなる地震であり、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、大いなる地震の出現があるのですか」と。
171. 「アーナンダよ、まさに、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、大いなる地震の出現があります。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)アーナンダよ、この大いなる地は、水において確立し、水は、風において確立し、風は、虚空に依って立っています。アーナンダよ、まさに、その時と成り、すなわち、諸々の大いなる風が吹きます。諸々の大いなる風が吹きつつ、水を動かし、動かされた水が、地を動かします。この、第一のものを因として、第一のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(2)アーナンダよ、さらに、また、他に、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔世に〕有ります──あるいは、大いなる神通があり、大いなる威力がある、天〔の神〕が。彼には、微小なる地の表象と無量なる水の表象が、修めるところとして有ります。彼は、この地を、動かし、揺れ動かし、等しく揺れ動かし、等しく動揺させます。この、第二のものを因として、第二のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(3)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入るとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第三のものを因として、第三のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(4)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、母の子宮から出るとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第四のものを因として、第四のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(5)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、無上なる正等覚を現正覚するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第五のものを因として、第五のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(6)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、無上なる法(真理)の輪を転起させるとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第六のものを因として、第六のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(7)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働きを放棄するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第七のものを因として、第七のものを縁として、大いなる地震の出現があります。
(8)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。この、第八のものを因として、第八のものを縁として、大いなる地震の出現があります。アーナンダよ、まさに、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、大いなる地震の出現があります」と。
八つの衆
172. 「アーナンダよ、八つのものがあります。まさに、これらの衆です。どのようなものが、八つのものなのですか。士族の衆であり、婆羅門の衆であり、家長の衆であり、沙門の衆であり、四大王〔天〕の衆であり、三十三〔天〕の衆であり、悪魔の衆であり、梵〔天〕の衆です。(1)アーナンダよ、また、まさに、わたしは証知します(記憶している)──幾百の士族の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしは、まさしく、そして、着坐した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去があります。そこにおいて、すなわち、彼らの色が有るように、そのようなものとして、わたしの色は有り、すなわち、彼らの声が有るように、そのようなものとして、わたしの声は有ります。そして(※)、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。しかしながら、〔教えを〕語っているわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──〔教えを〕語る、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔わたしは〕消没します。しかしながら、消没したわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──消没した、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。(2)アーナンダよ、また、まさに、わたしは証知します──幾百の婆羅門の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。……略……(3)家長の衆を……(4)沙門の衆を……(5)四大王〔天〕の衆を……(6)三十三〔天〕の衆を……(7)悪魔の衆を……(8)梵〔天〕の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしは、まさしく、そして、着坐した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去があります。そこにおいて、すなわち、彼らの色が有るように、そのようなものとして、わたしの色は有り、すなわち、彼らの声が有るように、そのようなものとして、わたしの声は有ります。そして、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。しかしながら、〔教えを〕語っているわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──〔教えを〕語る、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔わたしは〕消没します。しかしながら、消没したわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──消没した、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。アーナンダよ、まさに、これらの八つの衆があります。
※ PTS版により ca を補う。以下の平行箇所も同様。
八つの征服ある〔認識の〕場所
173. アーナンダよ、八つのものがあります。まさに、これらの征服ある〔認識の〕場所(勝処)です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。
(2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。
(3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。
(4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。
(5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。
(6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。
(7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。
(8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。アーナンダよ、まさに、これらの八つの征服ある〔認識の〕場所があります。
八つの解脱
174. アーナンダよ、八つのものがあります。まさに、これらの解脱です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。アーナンダよ、まさに、これらの八つの解脱があります。
175. アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウルヴェーラーに住んでいます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕において、最初に現正覚した者として。アーナンダよ、そこで、まさに、悪魔パーピマントが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。アーナンダよ、一方に立った、まさに、悪魔パーピマントは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です』と。アーナンダよ、このように説かれたとき、悪魔パーピマントに、こう言いました。
『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは。
パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは。
パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である在俗信者たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは。
パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは。
パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。
176. アーナンダよ、まさしく、今や、まさに、今日、チャーパーラ塔廟において、悪魔パーピマントが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。アーナンダよ、一方に立った、まさに、悪魔パーピマントは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。「パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である在俗信者たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者たちが……略……。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは」と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です』と。
177. アーナンダよ、このように説かれたとき、わたしは、悪魔パーピマントに、こう言いました。『パーピマントよ、あなたは、思い入れ少なき者と成れ。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう』と。アーナンダよ、まさしく、今や、まさに、今日、チャーパーラ塔廟において、如来によって、気づきと正知の者によって、寿命を形成する働きは放棄されました」と。
アーナンダの乞い求めの話
178. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。
「アーナンダよ、今や、十分です。如来に乞い求めてはいけません。アーナンダよ、今や、如来に乞い求めるための時ではありません」と。再度また、まさに、尊者アーナンダは……略……。三度また、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。
「アーナンダよ、あなたは、如来の覚り(菩提)に信を置きますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、そこで、そうすると、どうして、あなたは、三度に至るまで、如来を責め苛むのですか」と。「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます』」と。「アーナンダよ、あなたは、信を置きますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。すなわち、あなたは、如来によって、このように、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。如来に乞い求めることをしませんでした。『尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と。アーナンダよ、それで、もし、あなたが、如来に乞い求めるなら、如来は、あなたの言葉を、まさしく、二〔回〕は拒絶するとして、そこで、三度目には承諾するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。
179. アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山において。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしは、あなたに告げました。『アーナンダよ、ラージャガハは喜ばしいところです。アーナンダよ、ギッジャクータ山は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、あなたは、如来によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。如来に乞い求めることをしませんでした。『尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と。アーナンダよ、それで、もし、あなたが、如来に乞い求めるなら、如来は、あなたの言葉を、まさしく、二〔回〕は拒絶するとして、そこで、三度目には承諾するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。
180. アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。ゴータマのニグローダ〔樹〕において。……略……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。盗賊の崖において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。ヴェーバーラ〔山〕の山麓の七葉窟において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。シータ林(寒林:死体置き場)のサッパソンディカ山窟において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。タポーダーの林園(温泉精舎)において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。ジーヴァカのアンバ林において。……まさしく、そこにおいて、ラージャガハに住んでいます。マッダクッチの鹿園において。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしは、あなたに告げました。『アーナンダよ、ラージャガハは喜ばしいところです。ギッジャクータ山は喜ばしいところです。ゴータマのニグローダ〔樹〕は喜ばしいところです。盗賊の崖は喜ばしいところです。ヴェーバーラ〔山〕の山麓の七葉窟は喜ばしいところです。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩は喜ばしいところです。シータ林のサッパソンディカ山窟は喜ばしいところです。タポーダーの林園は喜ばしいところです。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパは喜ばしいところです。ジーヴァカのアンバ林は喜ばしいところです。マッダクッチの鹿園は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら……略……。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、あなたは、如来によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。如来に乞い求めることをしませんでした。『尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と。アーナンダよ、それで、もし、あなたが、如来に乞い求めるなら、如来は、あなたの言葉を、まさしく、二〔回〕は拒絶するとして、そこで、三度目には承諾するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。
181. アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、ここに、ヴェーサーリーに住んでいます。ウデーナ塔廟において。アーナンダよ、そこで、また、まさに、わたしは、あなたに告げました。『アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、あなたは、如来によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。如来に乞い求めることをしませんでした。『尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と。アーナンダよ、それで、もし、あなたが、如来に乞い求めるなら、如来は、あなたの言葉を、まさしく、二〔回〕は拒絶するとして、そこで、三度目には承諾するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。
182. アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、ここに、ヴェーサーリーに住んでいます。ゴータマカ塔廟において。……略……まさしく、ここに、ヴェーサーリーに住んでいます。サッタンバ塔廟において。……まさしく、ここに、ヴェーサーリーに住んでいます。バフプッタ塔廟において。……まさしく、ここに、ヴェーサーリーに住んでいます。サーランダダ塔廟において。……アーナンダよ、まさしく、今や、まさに、わたしは、今日、チャーパーラ塔廟において、あなたに告げました。『アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、それで、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、あなたは、如来によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。如来に乞い求めることをしませんでした。『尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と。アーナンダよ、それで、もし、あなたが、如来に乞い求めるなら、如来は、あなたの言葉を、まさしく、二〔回〕は拒絶するとして、そこで、三度目には承諾するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、まさしく、あなたにとって、このことは悪行となります。まさしく、あなたにとって、このことは違反となります。
183. アーナンダよ、まさに、このことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。アーナンダよ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、このことは、如来によって、捨てられ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたのであり、寿命を形成する働きが放棄され、一定して、言葉が語られました。『長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう』と。そして、それを、如来が、生命を因として、ふたたび収め戻すことになる、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、行きましょう。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。
そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、マハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたは赴きなさい。すなわち、ヴェーサーリーに近しく依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、すなわち、ヴェーサーリーに近しく依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました世尊に、こう言いました。「尊き方よ、比丘の僧団が集まりました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。
184. そこで、まさに、世尊は、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、すなわち、それらの法(教え)が、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたなら、それら〔の法〕は、あなたたちによって、善くしっかりと収め取って〔そののち〕、習修されるべきであり、修められるべきであり、多く為されるべきです。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。比丘たちよ、では、どのようなものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのですか──それら〔の法〕は、あなたたちによって、善くしっかりと収め取って〔そののち〕、習修されるべきであり、修められるべきであり、多く為されるべきです。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)であり、四つの正しい精励(四正勤)であり、四つの神通の足場(四神足)であり、五つの機能(五根)であり、五つの力(五力)であり、七つの覚りの支分(七覚支)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)です。比丘たちよ、まさに、これらのものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのです──それら〔の法〕は、あなたたちによって、善くしっかりと収め取って〔そののち〕、習修されるべきであり、修められるべきであり、多く為されるべきです。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
185. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、今や、あなたたちに告げます。衰失の法(性質)あるのが、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)です。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔道を〕成就させなさい。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「わたしの年齢は極まり、わたしの生命は僅かである。あなたたちを捨棄して、去り行くであろう。わたしによって、自己の帰依所は作り為された。
比丘たちよ、怠ることなく〔常に〕気づきある、善き戒ある者たちと成れ。思惟が善く定められた者たちとなり、自らの心を守れ。
すなわち、この法(教え)と律(規律)において、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むなら、生の輪廻を捨棄して、苦しみの終極を為すであろう」と。
〔以上が〕第三の朗読分となる。
象の振り返り
186. そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、象が振り返るように、ヴェーサーリーを顧みて、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、これは、如来がヴェーサーリーを見る最後のものと成るでしょう。アーナンダよ、行きましょう。バンダ村のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。
そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、バンダ村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、バンダ村に住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、聖なる戒の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる禅定の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる智慧の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる解脱の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、聖なる戒は、随覚され、理解され、聖なる禅定は、随覚され、理解され、聖なる智慧は、随覚され、理解され、聖なる解脱は、随覚され、理解され、生存の喝愛は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「戒、禅定、そして、智慧、さらに、無上なる解脱──これらの法(性質)は、福徳あるゴータマによって随覚された。
かくのごとく、覚者は、証知して〔そののち〕、法(教え)を、比丘たちに告げ知らせた──苦しみの終極を為す教師として、涅槃に到達した眼ある者として」と。
そこで、また、まさに、世尊は、バンダ村に住みながら、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
四つの大いなる指標
187. そこで、まさに、世尊は、バンダ村において、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ハッティ村のあるところに、アンバ村のあるところに、ジャンブ村のあるところに、ボーガ城市のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ボーガ城市のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ボーガ城市に住んでおられます。アーナンダ塔廟において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、これらの四つの大いなる指標(四大教法)を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
188. 「比丘たちよ、ここに、比丘が、このように説くとします。『友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、この比丘の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、この比丘の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第一の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、長老を有し筆頭者を有する僧団が住んでいます。わたしは、その僧団の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、その僧団の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、その僧団の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第二の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、大勢の長老の比丘たちが住んでいます。多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちです。わたしは、それらの長老たちの、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。……略……まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、それらの長老たちの、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。もし、経において確認されるべきであり……略……律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、それらの長老たちの、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第三の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、或る長老の比丘が住んでいます。多聞の者であり、聖教の精通者であり、法(教え)の保持者であり、律の保持者であり、要綱の保持者です。わたしは、その長老の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、その長老の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、その長老の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第四の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの大いなる指標があります」と。
そこで、また、まさに、世尊は、ボーガ城市に住みながら、アーナンダ塔廟において、多くの比丘たちに、まさしく、この、法(教え)の講話を為します。「かくのごとく、戒はあり、かくのごとく、禅定はあり、かくのごとく、智慧はあり、戒が遍く修められたなら、禅定は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、禅定が遍く修められたなら、智慧は、大いなる果と成り、大いなる福利と成り、智慧が遍く修められたなら、心は、まさしく、正しく、諸々の煩悩から解脱します──それは、すなわち、この、欲望の煩悩から、生存の煩悩から、無明の煩悩から」と。
鍛冶屋の子のチュンダの事
189. そこで、まさに、世尊は、ボーガ城市において、喜びのままに住んで〔そののち〕、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。パーヴァーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、パーヴァーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーヴァーに住んでおられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林において。まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、「どうやら、世尊が、パーヴァーに到着し、パーヴァーに住んでおられるらしい。わたしのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、さらに、沢山のスーカラマッダヴァ(やわらかい豚肉)を〔準備して〕、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、鍛冶屋の子のチュンダの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに告げました。「チュンダよ、すなわち、あなたが準備したスーカラマッダヴァですが、それは、わたしに給仕してください。また、すなわち、他の、〔あなたが〕準備した固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕してください」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、すなわち、準備のものとして有ったスーカラマッダヴァですが、それは、世尊に給仕しました。また、すなわち、他の、〔彼が〕準備した固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕しました。そこで、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに告げました。「チュンダよ、すなわち、あなたに残されたスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めてください。チュンダよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、或る者が、それを遍く受益したとして、正しく変化に至るであろう(食べたあと消化吸収できる)、その者を、如来より他に、わたしは見ません」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、すなわち、残りのものとして有ったスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。
190. そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダの食事を食べた世尊に、荒々しい病苦が生起しました。血の下痢とともに、激烈で死に至るほどの諸々の〔苦痛の〕感受が転起します。まさに、世尊は、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、それらを耐え忍びました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。クシナーラーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、わたしは聞いた。『鍛冶屋〔の子〕のチュンダの食事を食べて、慧者は、激烈で死に至るほどの病苦に襲われた』〔と〕。
そして、〔食事を〕食べた教師に、スーカラマッダヴァによる激烈な病が生起した。下痢をしながら、世尊は言った。『わたしは、クシナーラーの城市に赴きます』」と。
飲み物の持ち運び
191. そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──疲弊した者として。〔わたしは〕坐りたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──涸渇した者として。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、五百ほどの荷車が通り過ぎたところです。その〔川の〕水は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れています。尊き方よ、あのカクダー川が、遠く離れていないところにあります。水は澄み、水は快く、水は冷たく、水は白く、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしいところです。世尊よ、ここにおいては、かつまた、水も飲めるでしょうし、かつまた、五体も冷たく為せるでしょう」と。
再度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──涸渇した者として。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。再度また、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、五百ほどの荷車が通り過ぎたところです。その〔川の〕水は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れています。尊き方よ、あのカクダー川が、遠く離れていないところにあります。水は澄み、水は快く、水は冷たく、水は白く、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしいところです。世尊よ、ここにおいては、かつまた、水も飲めるでしょうし、かつまた、五体も冷たく為せるでしょう」と。
三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──涸渇した者として。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、鉢を抱えて、その小川のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、その小川は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、尊者アーナンダが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、その小川は、これは、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、わたしが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れるからだ」と。〔尊者アーナンダは〕鉢で水を汲んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。尊き方よ、今や、その小川は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、わたしが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れました。世尊よ、水をお飲みください。善き至達者たる方よ、水をお飲みください」と。そこで、まさに、世尊は、水を飲みました。
マッラ族のプックサの事
192. また、まさに(※)、その時のこと、アーラーラ・カーラーマの弟子であるマッラ族のプックサが、クシナーラーからパーヴァーへと旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、マッラ族のプックサは、世尊が、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マッラ族のプックサは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、出家者たちは、寂静の住によって〔世に〕住みます。尊き方よ、過去の事ですが、アーラーラ・カーラーマは、旅の道を行く者としてあり、道から外れて、遠く離れていないところにある、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、五百ほどの荷車が、アーラーラ・カーラーマに近づいては近づいて、通り過ぎました。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの人が、その荷車の背後から(※※)やってきながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『尊き方よ、さて、五百ほどの荷車が通り過ぎたのを見ましたか』と。『友よ、まさに、わたしは見ませんでした』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、音を聞きましたか』と。『友よ、まさに、わたしは、音を聞きませんでした』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、眠りについた者として有ったのですか』と。『友よ、まさに、わたしは、眠りについた者として有ったのではありません』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、表象ある者として有ったのですか』と。『友よ、そのとおりです』と。『尊き方よ、〔まさに〕その、あなたは、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、五百ほどの荷車が、近づいては近づいて、通り過ぎたのを、まさしく、見なかったのですか、また、音を聞かなかったのですか。尊き方よ、さてまた、まさに、あなたの大衣は、塵が振りつもっています』と。『友よ、そのとおりです』と。尊き方よ、そこで、まさに、その人に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ああ、まさに、出家者たちは、寂静の住によって〔世に〕住む。なぜなら、そこで、まさに、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、五百ほどの荷車が、近づいては近づいて、通り過ぎたのを、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないからだ』と。〔彼は〕アーラーラ・カーラーマにたいし、盛大なる浄信を宣言して、立ち去りました」と。
※ テキストには rokho とあるが、PTS版により kho と読む。
※※ テキストには piṭṭhito piṭṭhito とあるが、PTS版により piṭṭhito と読む。
193. 「プックサよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、あるいは、より為し難くありますか、あるいは、より征服し難くありますか。あるいは、すなわち、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、五百ほどの荷車が、近づいては近づいて、通り過ぎたのを、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないことですか、あるいは、すなわち、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないことですか」と。「尊き方よ、まさに、何を為すというのでしょう──あるいは、五百の荷車が、あるいは、六百の荷車が、あるいは、七百の荷車が、あるいは、八百の荷車が、あるいは、九百の荷車が、あるいは、千の荷車が、あるいは、百千の荷車が。そこで、まさに、これこそが、まさしく、そして、より為し難くあり、さらに、より征服し難くあります。すなわち、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないことです」と。
「プックサよ、これは、或る時のことです。わたしは、アートゥマーに住んでいます。籾殻堂において。また、まさに、その時点にあって、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、籾殻堂から遠く離れていないところで、二者の耕作者の兄弟が──さらに、四頭の荷牛が──殺されました。プックサよ、そこで、まさに、アートゥマーから、大勢の人の衆が出て、それらの二者の耕作者の兄弟が──さらに、四頭の荷牛が──殺されたところに、そこへと近づいて行きました。プックサよ、また、まさに、その時点にあって、わたしは、籾殻堂から出て、籾殻堂の門のところで、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。プックサよ、そこで、まさに、或るひとりの人が、その大勢の人の衆から、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。プックサよ、一方に立った、まさに、その人に、わたしは、こう言いました。『友よ、いったい、まさに、どうして、この大勢の人の衆が集まっているのですか』と。『尊き方よ、今や、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、籾殻堂から遠く離れていないところで、二者の耕作者の兄弟が──さらに、四頭の荷牛が──殺されたのです。ここにおいて、この大勢の人の衆が集まっているのです。尊き方よ、また、あなたは、どこに有ったのですか』と。『友よ、まさに、わたしは、まさしく、ここに有りました』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、〔あなたは〕見ましたか』と。『友よ、まさに、わたしは見ませんでした』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、音を聞きましたか』と。『友よ、まさに、わたしは、音を聞きませんでした』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、眠りについた者として有ったのですか』と。『友よ、まさに、わたしは、眠りについた者として有ったのではありません』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、表象ある者として有ったのですか』と。『友よ、そのとおりです』と。『尊き方よ、〔まさに〕その、あなたは、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、まさしく、見なかったのですか、また、音を聞かなかったのですか』と。『友よ、そのとおりです』と。
プックサよ、そこで、まさに、その人に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ああ、まさに、出家者たちは、寂静の住によって〔世に〕住む。なぜなら、そこで、まさに、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないからだ』と。〔彼は〕わたしにたいし、盛大なる浄信を宣言して、立ち去りました」と。
このように説かれたとき、マッラ族のプックサは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、すなわち、わたしのアーラーラ・カーラーマにたいする浄信ですが、それを、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去ります。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
194. そこで、まさに、マッラ族のプックサは、或るひとりの下僕に告げました。「〔おまえに〕申し付ける。さあ、おまえは、わたしのために、金色のひと組の艶やかな着物を持ってきなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、マッラ族のプックサに答えて、その金色のひと組の艶やかな着物を持ってきました。そこで、まさに、マッラ族のプックサは、その金色のひと組の艶やかな着物を、世尊に差し出しました。「尊き方よ、この金色のひと組の艶やかな着物があります。世尊は、わたしの、その〔着物〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「プックサよ、まさに、それでは、一つをわたしに、一つをアーナンダに、まとわせなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、マッラ族のプックサは、世尊に答えて、一つを世尊に、一つをアーナンダに、まとわせました。そこで、まさに、世尊は、マッラ族のプックサに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、マッラ族のプックサは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
195. そこで、まさに、尊者アーナンダは、マッラ族のプックサが立ち去ったすぐあと、その金色のひと組の艶やかな着物を、世尊の身体に差し出しました。世尊の身体に差し出された、その〔着物〕は、光彩を失ったかのように見えます。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、それほどまでに、如来の肌の色が、完全なる清浄にして完全なる清白であるとは。尊き方よ、世尊の身体に差し出された、この金色のひと組の艶やかな着物は、光彩を失ったかのように見えます」と。「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、このように、このことはあります。二つの時において、極度に、如来の身体と肌の色は、完全なる清浄にして完全なる清白と成ります。どのようなものが、二つのものなのですか。アーナンダよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚するなら──さらに、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら──アーナンダよ、まさに、これらの二つの時において、極度に、如来の身体と肌の色は、完全なる清浄にして完全なる清白と成ります。アーナンダよ、また、まさに、今日、夜の後夜(明け方)に、クシナーラーにおいて、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林において、対なるサーラ〔樹〕(沙羅双樹)の間に、如来に、完全なる涅槃が有るでしょう。アーナンダよ、行きましょう。カクダー川のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「プックサは、金色のひと組の艶やかな〔着物〕を持ってこさせた。それをまとった教師は、黄金の色艶となり、美しく輝いた」と。
196. そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、カクダー川のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、カクダー川に深く入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔川から〕上がって、アンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者チュンダカ(チュンダ)に告げました。「チュンダカよ、さあ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。チュンダカよ、〔わたしは〕存しています──疲弊した者として。〔わたしは〕横になりたい」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者チュンダカは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。そこで、まさに、世尊は、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました(右脇を下にして獅子のように臥した)。気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。いっぽう、尊者チュンダカは、まさしく、そこにおいて、世尊の前に坐りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「覚者は、水は澄み、水は快く、澄浄なるカクダー川に赴いて、教師は、極めて疲れた様子で、〔川に〕入った。そして、世において対する者なき如来は──
そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、教師は、〔川から〕上がった。比丘の衆の中において尊ばれる〔覚者〕は──説き手として、ここに、諸々の法(真理)を転起させる世尊は──偉大なる聖賢は、アンバ林に近しく赴いた。
チュンダカという名の比丘に、〔世尊は〕告げた。『わたしのために、四重に〔大衣を〕敷いておくれ。〔わたしは〕横になりたい』〔と〕。自己を修めた〔覚者〕に促され、チュンダ(チュンダカ)は、彼は、まさしく、すみやかに、四重に〔大衣を〕敷いた。
教師は、疲れた様子で横になった。チュンダもまた、そこにおいて、〔世尊の〕面前に坐った」と。
197. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、誰かしらが、後悔〔の思い〕を生起させるでしょう。『友よ、チュンダよ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざるものがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。すなわち、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を遍く受益して、如来は、完全なる涅槃に到達したのです』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです。『友よ、チュンダよ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を遍く受益して、如来は、完全なる涅槃に到達したのです。友よ、チュンダよ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「二つのものがあります。これらの〔行乞の〕施食は、等しく同等の果があり、等しく同等の報い(異熟)があり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極度に、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となります。どのようなものが、二つのものなのですか。如来が、そして、その〔行乞の〕施食を遍く受益して、無上なる正等覚を現正覚するなら──さらに、その〔行乞の〕施食を遍く受益して、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において完全なる涅槃に到達するなら──これらの二つの〔行乞の〕施食は、等しく同等の果があり、等しく同等の報いがあり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極度に、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となります」〔と〕。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、寿命のために等しく転起する行為(業)が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、色艶のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、安楽のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、福徳(盛名)のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、天上のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、権威のために等しく転起する行為が蓄積されました』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです」と。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔常に〕布施している者に、功徳は増大し、〔常に〕自制している者に、怨恨は蓄積されない。そして、智者は、悪しきものを捨棄する。貪欲と憤怒と迷妄の滅尽あることから、彼は、涅槃に到達した者となる」と。
〔以上が〕第四の朗読分となる。
対なるサーラ〔樹〕
198. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。ヒランニャヴァティー川の向こう岸のあるところに、クシナーラーの、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、ヒランニャヴァティー川の向こう岸のあるところに、クシナーラーの、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、対なるサーラ〔樹〕の間に、頭を北に、臥床を設けておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──疲弊した者として。〔わたしは〕横になりたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、対なるサーラ〔樹〕の間に、頭を北に、臥床を設けました。そこで、まさに、世尊は、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました。気づきと正知の者として。
また、まさに、その時点にあって、対なるサーラ〔樹〕は、時ならぬ花々によって、全てが開花し咲き誇るところと成ります。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天のマンダーラヴァの花々もまた、空中から落ちてきます。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天の諸々の栴檀の粉末もまた、空中から落ちてきます。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天の諸々の楽器もまた、空中において転起します──如来を供養するために。天の諸々の合唱もまた、空中において転起します──如来を供養するために。
199. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、対なるサーラ〔樹〕は、時ならぬ花々によって、全てが開花し咲き誇っています。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天のマンダーラヴァの花々もまた、空中から落ちてきます。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天の諸々の栴檀の粉末もまた、空中から落ちてきます。それらは、如来の肉体に、散り落ち、振り注ぎ、降り積もります──如来を供養するために。天の諸々の楽器もまた、空中において転起します──如来を供養するために。天の諸々の合唱もまた、空中において転起します──如来を供養するために。アーナンダよ、まさに、このことから、如来が、あるいは、尊敬され、あるいは、尊重され、あるいは、思慕され、あるいは、供養され、あるいは、敬恭される者と成るのではありません。アーナンダよ、すなわち、まさに、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、あるいは、在俗信者が、あるいは、女性在俗信者が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住むなら、彼は、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭するのです──最高の供養によって。アーナンダよ、それゆえに、ここに、『〔わたしたちは〕法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとして、適正に実践する者たちとして、法(教え)のままに行なう者たちとして、〔世に〕住むのだ』と、アーナンダよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。
ウパヴァーナ長老
200. また、まさに、その時点にあって、尊者ウパヴァーナは、世尊の前に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、世尊は、尊者ウパヴァーナを遠ざけました。「比丘よ、離れなさい。わたしの前に立ってはいけません」と。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、尊者ウパヴァーナは、長夜にわたり、世尊の奉仕者(世話係・侍者)であり、側近くある者であり、近くで仕える者である。そこで、また、しかしながら、世尊は、最後の時にあたり、尊者ウパヴァーナを遠ざける。『比丘よ、離れなさい。わたしの前に立ってはいけません』と。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、世尊は、尊者ウパヴァーナを遠ざけるのか。『比丘よ、離れなさい。わたしの前に立ってはいけません』」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、尊者ウパヴァーナは、長夜にわたり、世尊の奉仕者であり、側近くある者であり、近くで仕える者です。そこで、また、しかしながら、世尊は、最後の時にあたり、尊者ウパヴァーナを遠ざけます。『比丘よ、離れなさい。わたしの前に立ってはいけません』と。尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、世尊は、尊者ウパヴァーナを遠ざけるのですか。『比丘よ、離れなさい。わたしの前に立ってはいけません』」と。「アーナンダよ、十の世の界域における天神たちの多くのところが、如来を見るために集まっています。アーナンダよ、すなわち、クシナーラーの、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林の遍きにわたり、十二ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)に至るまで、その地域で、たとえ、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、大いなる権能ある天神たちで充満していないところは存在しません。アーナンダよ、天神たちは譴責します。『さてまた、まさに、〔わたしたちは〕存している──如来を見るために遠くからやってきた者たちとして。いつであれ、いつかは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起するとして、まさしく、今日、夜の後夜に、如来に、完全なる涅槃が有るのだ。しかしながら、この大いなる権能ある比丘が、世尊の前に立ち、邪魔しているので、わたしたちは、最後の時にあたり、如来と会見することを得ない』」と。
201. 「尊き方よ、また、世尊は、天神たちのことを、どのように有るものと、意を為しますか」と。「アーナンダよ、天神たちが存在します。虚空において地の表象ある者たちとなり(空中にいながら地上にあるかのように振る舞う)、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。『世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没する』と。
アーナンダよ、天神たちが存在します。地において地の表象ある者たちとなり、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。『世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没する』と。
いっぽう、すなわち、それらの貪欲を離れた天神たちは、彼らは、気づきと正知の者たちとなり、耐え忍びます。『常住ならざるは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』」と。
四つの畏怖するべき状況
202. 「尊き方よ、過去においては、方々において雨期を過ごした比丘たちが、如来と会見するためにやってきます。わたしたちは、それらの意を修めることができる比丘たちと会見することを得ますし、奉持することも得ます。尊き方よ、いっぽう、世尊の死後にあっては、わたしたちは、それらの意を修めることができる比丘たちと会見することを得ないでしょうし、奉持することも得ないでしょう」と。
「アーナンダよ、四つのものがあります。これらの、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況(聖地)です。どのようなものが、四つのものなのですか。アーナンダよ、『ここに、如来が、〔世に〕生まれたのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。アーナンダよ、『ここに、如来が、無上なる正等覚を現正覚したのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。アーナンダよ、『ここに、如来によって、無上なる法(真理)の輪が転起させられたのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。アーナンダよ、『ここに、如来が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において完全なる涅槃に到達したのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。アーナンダよ、まさに、これらの四つの、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。
アーナンダよ、まさに、信ある比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちがやってくるでしょう。『ここに、如来が、〔世に〕生まれたのだ』ともまた、『ここに、如来が、無上なる正等覚を現正覚したのだ』ともまた、『ここに、如来によって、法(真理)の輪が転起させられたのだ』ともまた、『ここに、如来が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において完全なる涅槃に到達したのだ』ともまた。アーナンダよ、まさに、彼らが誰であれ、塔廟を巡礼するために巡り行きながら、浄信した心の者たちとなり、命を終えるなら、彼らの全てが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう」と。
アーナンダの問いの話
203. 「尊き方よ、どのように、わたしたちは、女性にたいし実践するのですか」と。「アーナンダよ、見ないことです」と。「見ることが存するとき、どのように実践するべきですか」と。「アーナンダよ、話しかけないことです」と。「また、話しかけるとして、どのように実践するべきですか」と。「アーナンダよ、気づき(念)を現起させるべきです」と。
204. 「尊き方よ、どのように、わたしたちは、如来の肉体にたいし実践するのですか」と。「アーナンダよ、あなたたちは、如来の肉体の供養に多忙ならざる者たちとして〔世に〕有りなさい。アーナンダよ、さあ、あなたたちは、真髄たる義(目的)に勤め、専念しなさい。真髄たる義(目的)に〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住みなさい。アーナンダよ、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、存在します。如来にたいし大いに浄信した者たちとして、彼らは、如来の肉体の供養を為すでしょう」と。
205. 「尊き方よ、また、どのように、如来の肉体にたいし実践するべきですか」と。「アーナンダよ、すなわち、まさに、転輪王の肉体にたいし実践するように、このように、如来の肉体にたいし実践するべきです」と。「尊き方よ、また、どのように、〔人々は〕転輪王の肉体にたいし実践するのですか」と。「アーナンダよ、〔人々は〕転輪王の肉体を、無傷の衣で巻き包みます。無傷の衣で巻き包んで、善く打たれた木綿で巻き包みます。善く打たれた木綿で巻き包んで、無傷の衣で巻き包みます。この手段による五百組のもので、転輪王の肉体を巻き包んで、鉄の油桶に入れて、他の鉄の桶で覆い包んで、全ての香料からなる荼毘の薪山を作って、転輪王の肉体を燃やします。大きな四つ辻において、転輪王のための塔を作ります。アーナンダよ、このように、まさに、〔人々は〕転輪王の肉体にたいし実践します。アーナンダよ、すなわち、まさに、転輪王の肉体にたいし実践するように、このように、如来の肉体にたいし実践するべきです。大きな四つ辻において、如来のための塔を作るべきです。そこにおいて、それらの者たちが、あるいは、花環を、あるいは、香料を、あるいは、塗粉を、あるいは、献上するなら、あるいは、敬拝するなら、あるいは、心を浄信させるなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。
塔に値する人
206. アーナンダよ、四つのものがあります。これらの塔に値する者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来は、塔に値する者であり、独覚は、塔に値する者であり、如来の弟子は、塔に値する者であり、転輪王は、塔に値する者です。
アーナンダよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、塔に値する者なのですか。アーナンダよ、『これは、彼のための、阿羅漢にして正等覚者たる世尊のための、塔である』と、多くの人々は、心を浄信させます。彼らは、そこにおいて、心を浄信させて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、この義(利益)たる所以を縁として、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、塔に値する者です。
アーナンダよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、独覚は、塔に値する者なのですか。アーナンダよ、『これは、彼のための、独覚たる世尊のための、塔である』と、多くの人々は、心を浄信させます。彼らは、そこにおいて、心を浄信させて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、この義(利益)たる所以を縁として、独覚は、塔に値する者です。
アーナンダよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、如来の弟子は、塔に値する者なのですか。アーナンダよ、『これは、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、弟子のための塔である』と、多くの人々は、心を浄信させます。彼らは、そこにおいて、心を浄信させて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、この義(利益)たる所以を縁として、如来の弟子は、塔に値する者です。
アーナンダよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、転輪王は、塔に値する者なのですか。アーナンダよ、『これは、彼のための、法(正義)にかなう法(正義)の王のための、塔である』と、多くの人々は、心を浄信させます。彼らは、そこにおいて、心を浄信させて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、この義(利益)たる所以を縁として、転輪王は、塔に値する者です。アーナンダよ、まさに、これらの四つの塔に値する者たちがあります」と。
アーナンダについてのめったにない法
207. そこで、まさに、尊者アーナンダは、精舎に入って、閂にもたれかかって、泣き叫びながら立ちました。「さてまた、まさに、わたしは存している──〔いまだ〕学びある者(有学)として、為すべきことを有する者として。しかしながら、わたしの教師に、完全なる涅槃が有るのだ──すなわち、わたしにとって慈しみ〔の思い〕ある者である、〔わたしの教師に〕」と。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、アーナンダは、どこにいるのですか」と。「尊き方よ、この者は、尊者アーナンダは、精舎に入って、閂にもたれかかって、泣き叫びながら立っています。『さてまた、まさに、わたしは存している──〔いまだ〕学びある者として、為すべきことを有する者として。しかしながら、わたしの教師に、完全なる涅槃が有るのだ──すなわち、わたしにとって慈しみ〔の思い〕ある者である、〔わたしの教師に〕』」と。そこで、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、アーナンダに告げなさい。『友よ、アーナンダよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。アーナンダよ、まさに、このことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。アーナンダよ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、如来の肉体であるもまた、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、長夜にわたり、まさに、あなたによって、如来は奉仕されました──利益と安楽がある、無二にして無量なる、慈愛の身体の行為(身業)によって、利益と安楽がある、無二にして無量なる、慈愛の言葉の行為(口業)によって、利益と安楽がある、無二にして無量なる、慈愛の意の行為(意業)によって。アーナンダよ、功徳を作り為した者として、あなたは存しています。精励に専念しなさい。すみやかに、煩悩なき者と成るでしょう」と。
208. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちですが、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この、最高の奉仕者たちが〔世に〕有りました。それは、たとえば、また、わたしに、アーナンダがいるように。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちですが、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この、最高の奉仕者たちが〔世に〕有るでしょう。それは、たとえば、また、わたしに、アーナンダがいるように。比丘たちよ、アーナンダは、賢者です。比丘たちよ、アーナンダは、思慮ある者です。比丘たちよ、アーナンダは知っています。『如来と会見するために近づいて行くとして、比丘たちには、この時があり、比丘尼たちには、この時があり、在俗信者たちには、この時があり、女性在俗信者たちには、この時があり、王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちには、この時がある』と。
209. 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それで、もし、比丘の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘尼の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘尼の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、それで、もし、在俗信者の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、それで、もし、女性在俗信者の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、女性在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります。
比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、転輪王についてのめったにないはじめての法(事象)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それで、もし、士族の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、士族の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、転輪王は、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、それで、もし、婆羅門の衆が……略……家長の衆が……略……沙門の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、沙門の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、転輪王は、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります。比丘たちよ、それで、もし、比丘の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘尼の衆が……略……在俗信者の衆が……略……女性在俗信者の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、女性在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、まさに、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります」と。
マハー・スダッサナ経の説示
210. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、この、小さな城市において、不毛の城市において、枝葉の城市において、完全なる涅槃に到達してはいけません。尊き方よ、他の諸々の大いなる城市が存在します──それは、すなわち、この、チャンパーが、ラージャガハが、サーヴァッティーが、サーケータが、コーサンビーが、バーラーナシーが。ここにおいて、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。ここにおいて、多くの、士族の大家たちが、婆羅門の大家たちが、家長の大家たちが、如来にたいし大いに浄信した者たちがいます。彼らは、如来の肉体の供養を為すでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。アーナンダよ、まさに、このように言ってはいけません。『小さな城市であり、不毛の城市であり、枝葉の城市である』と。
アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、マハー・スダッサナという名の王が、転輪〔王〕として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、マハー・スダッサナ王には、このクシナーラーが、クサーヴァティーという名の王都として有りました。かつまた、東に、かつまた、西に、長さとして、十二ヨージャナとなり、かつまた、北に、かつまた、南に、幅として、七ヨージャナとなります。アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、人間たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有りました。アーナンダよ、それは、たとえば、また、天〔の神々〕たちのアーラカマンダーという名の王都が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、夜叉たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、人間たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとして有りました。アーナンダよ、クサーヴァティー王都は、まさしく、そして、昼も、さらに、夜も、十〔種〕の音声から遠離することなく有りました──それは、すなわち、この、象の音声から、馬の音声から、車の音声から、太鼓の音声から、小鼓の音声から、琵琶の音声から、歌詠の音声から、法螺貝の音声から、鐃(シンバル)の音声から、手拍子の音声から、『食べなさい、飲みなさい、喰いなさい』という、第十の音声から。
アーナンダよ、赴きなさい。あなたは、クシナーラーに入って、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに告げなさい。『ヴァーセッタたちよ、今日、まさに、夜の後夜に、如来に、完全なる涅槃が有るでしょう。ヴァーセッタたちよ、出で来たれ。ヴァーセッタたちよ、出で来たれ。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。「さてまた、まさに、わたしたちの村落地において、如来に、完全なる涅槃が有ったが、わたしたちは、最後の時に、如来と会見することを得なかった」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、着衣して鉢と衣料を取って、自己を第二の者として、クシナーラーに入りました。
マッラ〔族〕の者たちの敬拝
211. また、まさに、その時点にあって、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちが、公会堂において参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、尊者アーナンダは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちの公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに告げました。「ヴァーセッタたちよ、今日、まさに、夜の後夜に、如来に、完全なる涅槃が有るでしょう。ヴァーセッタたちよ、出で来たれ。ヴァーセッタたちよ、出で来たれ。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『さてまた、まさに、わたしたちの村落地において、如来に、完全なる涅槃が有ったが、わたしたちは、最後の時に、如来と会見することを得なかった』」と。尊者アーナンダの、この言葉を聞いて、かつまた、マッラ〔族〕の者たちは、かつまた、マッラ〔族〕の子息たちは、かつまた、マッラ〔族〕の嫁たちは、かつまた、マッラ〔族〕の夫人たちは、悩苦ある者たちとなり、失意の者たちとなり、心の苦しみに引き渡された者たちとなり、一部の者たちはまた、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。「世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達する。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没する」と。そこで、まさに、かつまた、マッラ〔族〕の者たちは、かつまた、マッラ〔族〕の子息たちは、かつまた、マッラ〔族〕の嫁たちは、かつまた、マッラ〔族〕の夫人たちは、悩苦ある者たちとなり、失意の者たちとなり、心の苦しみに引き渡された者たちとなり、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「それで、もし、まさに、わたしが、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちを、一者一者、世尊に敬拝させるなら、世尊は、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちによって敬拝されることなく有るであろうし、そこで、この夜が明けてしまうことになる。それなら、さあ、わたしは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちを、家族ごと家族ごとに据え置いて、世尊に敬拝させるのだ。『尊き方よ、某名のマッラ〔族〕の者が、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、世尊の〔両の〕足を敬拝します』」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちを、家族ごと家族ごとに据え置いて、世尊に敬拝させました。「尊き方よ、某名のマッラ〔族〕の者が、子と共に、妻と共に、衆と共に、僚友と共に、世尊の〔両の〕足を敬拝します」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、この手段によって、まさしく、夜の初夜(宵の内)のあいだに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちを、世尊に敬拝させました。
スバッダ遍歴遊行者の事
212. また、まさに、その時点にあって、スバッダという名の遍歴遊行者が、クシナーラーに滞在しています。まさに、スバッダ遍歴遊行者は、「どうやら、今日、夜の後夜に、沙門ゴータマに、完全なる涅槃が有るらしい」と耳にしました。そこで、まさに、スバッダ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「また、まさに、このことを、わたしは聞いた。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる遍歴遊行者たちが語っているところとして、『いつであれ、いつかは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起する』と。まさしく、今日、夜の後夜に、沙門ゴータマに、完全なる涅槃が有るのだ。そして、わたしには、生起するところとして、この疑いの法(性質)が存するも、沙門ゴータマにたいしては、このように浄信した者として、わたしはある。『沙門ゴータマは、すなわち、わたしが、この疑いの法(性質)を捨棄するように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。そこで、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「貴君アーナンダよ、このことを、わたしは聞きました。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる遍歴遊行者たちが語っているところとして、『いつであれ、いつかは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起する』と。まさしく、今日、夜の後夜に、沙門ゴータマに、完全なる涅槃が有るでしょう。そして、わたしには、生起するところとして、この疑いの法(性質)が存するも、沙門ゴータマにたいしては、このように浄信した者として、わたしはあります。『沙門ゴータマは、すなわち、わたしが、この疑いの法(性質)を捨棄するように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』と。貴君アーナンダよ、どうか、わたしが、沙門ゴータマと会見することを得られますように」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、スバッダ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スバッダよ、十分です。如来を悩ませてはいけません。世尊は、疲弊しています」と。再度また、まさに、スバッダ遍歴遊行者は……略……。三度また、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「貴君アーナンダよ、このことを、わたしは聞きました。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる遍歴遊行者たちが語っているところとして、『いつであれ、いつかは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起する』と。まさしく、今日、夜の後夜に、沙門ゴータマに、完全なる涅槃が有るでしょう。そして、わたしには、生起するところとして、この疑いの法(性質)が存するも、沙門ゴータマにたいしては、このように浄信した者として、わたしはあります。『沙門ゴータマは、すなわち、わたしが、この疑いの法(性質)を捨棄するように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』と。貴君アーナンダよ、どうか、わたしが、沙門ゴータマと会見することを得られますように」と。三度また、まさに、尊者アーナンダは、スバッダ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スバッダよ、十分です。如来を悩ませてはいけません。世尊は、疲弊しています」と。
213. まさに、世尊は、尊者アーナンダの、スバッダ遍歴遊行者を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、十分です。スバッダを妨げてはいけません。アーナンダよ、スバッダは、如来と会見することを得よ。それが何であれ、スバッダが、わたしに尋ねるなら、その全てを、まさしく、了知を期す者として尋ねるでしょう──悩害を期す者として、ではなく。そして、〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしが、彼に説き明かすなら、それを、まさしく、すみやかに了知するでしょう」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、スバッダ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スバッダよ、赴きなさい。あなたのために、世尊は、機会を作られました」と。そこで、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている、これらの沙門や婆羅門たちは──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパであり、マッカリ・ゴーサーラであり、アジタ・ケーサカンバラであり、パクダ・カッチャーヤナであり、サンジャヤ・ベーラッタプッタであり、ニガンタ・ナータプッタですが──彼らは、全ての者たちが、自らの智慧によって証知したのですか、まさしく、全ての者たちが証知しなかったのですか、それとも、一部の者たちは証知し、一部の者たちは証知しなかったのですか」と。「スバッダよ、十分です。『彼らは、全ての者たちが、自らの智慧によって証知したのですか、まさしく、全ての者たちが証知しなかったのですか、それとも、一部の者たちは証知し、一部の者たちは証知しなかったのですか』という、このことは、ほうっておきなさい。スバッダよ、法(教え)を、あなたに説示しましょう。それを、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
214. 「スバッダよ、まさに、その法(教え)と律において、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)が認知されないなら、そこにおいては、沙門もまた認知されず、そこにおいては、第二の沙門もまた認知されず、そこにおいては、第三の沙門もまた認知されず、そこにおいては、第四の沙門もまた認知されません。スバッダよ、しかしながら、まさに、その法(教え)と律において、聖なる八つの支分ある道が認知されるなら、そこにおいては、沙門もまた認知され、そこにおいては、第二の沙門もまた認知され、そこにおいては、第三の沙門もまた認知され、そこにおいては、第四の沙門もまた認知されます。スバッダよ、まさに、この法(教え)と律において、聖なる八つの支分ある道が認知され、スバッダよ、まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門があります。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるものです。スバッダよ、そして、これらの比丘たちが、正しく〔世に〕住むなら、世は、阿羅漢たちから空ならざるものとして存するでしょう(※)。
※ テキストには assāti とあるが、PTS版により ti を削除する。
〔そこで、詩偈に言う〕『スバッダよ、年齢として二十九となり、すなわち、何が善であるかを探し求める者として、〔わたしは〕出家しました。スバッダよ、すなわち、わたしが出家してから、五十年を正味超えるものとなります。
正理と法(真理)にとって、〔わたしは〕指標の転起者としてあり、この〔教え〕より外に、沙門もまた存在しません』〔と〕。
第二の沙門もまた存在せず、第三の沙門もまた存在せず、第四の沙門もまた存在しません。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるものです。スバッダよ、そして、これらの比丘たちが、正しく〔世に〕住むなら、世は、阿羅漢たちから空ならざるものとして存するでしょう」と。
215. このように説かれたとき、スバッダ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「スバッダよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。
そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、それでは、スバッダを出家させなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、スバッダ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、あなたたちには、諸々の利得があります。友よ、アーナンダよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。すなわち、ここにおいて、教師の面前で、内弟子の灌頂によって、〔あなたたちも〕灌頂されたからです」と。まさに、スバッダ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者スバッダは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者スバッダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。彼は、世尊の最後の直弟子と成った、ということです。
〔以上が〕第五の朗読分となる。
如来の最後の言葉
216. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『〔聖なる〕言葉は、教師を欠くものとなる。わたしたちに、教師は存在しない』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。アーナンダよ、すなわち、わたしによって、あなたたちに報知された、かつまた、法(教え)が、かつまた、律が、それが、わたしの死後、あなたたちの教師となります。アーナンダよ、また、まさに、すなわち、今現在、比丘たちが、互いに他を、『友よ』という説き方で呼び慣わすように、まさに、わたしの死後、このように呼び慣わすべきではありません。アーナンダよ、より長老の比丘は、より新参の比丘を、あるいは、名で、あるいは、姓で、あるいは、『友よ』という説き方で呼び慣わすべきであり、より新参の比丘は、より長老の比丘を、あるいは、『尊き方よ』と、あるいは、『尊者よ』と、呼び慣わすべきです。アーナンダよ、僧団が望んでいるなら、わたしの死後、諸々の小なるうえにも小なる学びの境処(戒律)を廃止しなさい。アーナンダよ、チャンナ比丘には、わたしの死後、梵の罰が与えられるべきです」と。「尊き方よ、また、どのようなものが、梵の罰なのですか」と。「アーナンダよ、チャンナ比丘は、それを望んでいるなら、それを説くでしょうが、彼は、比丘たちによって、まさしく、説かれるべきではなく、教諭されるべきでもなく、教示されるべきでもありません(無視されるべきである)」と。
217. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在するなら、比丘たちよ、尋ねなさい。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『わたしたちの面前に有る者として、教師は有ったが、わたしたちは、世尊を面前にしながら、質問することができなかった』」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在するなら、比丘たちよ、尋ねなさい。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『わたしたちの面前に有る者として、教師は有ったが、わたしたちは、世尊を面前にしながら、質問することができなかった』」と。三度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、教師への尊重〔の思い〕によって、〔あなたたちが〕尋ねず、〔そのように〕存しているとして、比丘たちよ、道友としてもまた、道友のために告げるのです」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、このように浄信した者として、わたしはあります。『この比丘の僧団においては、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在しない』」と。「アーナンダよ、浄信あることから、まさに、あなたは説きます。アーナンダよ、まさに、ここにおいて、如来には、まさしく、知恵があります。『この比丘の僧団においては、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在しない』〔と〕。アーナンダよ、まさに、これらの五百の比丘たちの、すなわち、最後の比丘であれ、彼は、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です」と。
218. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、今や、あなたたちに告げます。衰失の法(性質)あるのが、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)です。〔気づきを〕怠らないことによって、〔道を〕成就させなさい」と。これは、如来の最後の言葉です。
完全なる涅槃に到達した者の話
219. そこで、まさに、世尊は、第一の瞑想(初禅・第一禅)に入定しました。第一の瞑想から出起して、第二の瞑想(第二禅)に入定しました。第二の瞑想から出起して、第三の瞑想(第三禅)に入定しました。第三の瞑想から出起して、第四の瞑想(第四禅)に入定しました。第四の瞑想から出起して、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に入定しました。虚空無辺なる〔認識の〕場所から出起して、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に入定しました。識知無辺なる〔認識の〕場所から出起して、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に入定しました。無所有なる〔認識の〕場所から出起して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に入定しました。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から出起して、表象と感覚の止滅(想受滅)に入定しました。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、世尊は、完全なる涅槃に到達したのです」と。「友よ、アーナンダよ、世尊は、完全なる涅槃に到達したのではありません。表象と感覚の止滅に入定したのです」と。
そこで、まさに、世尊は、表象と感覚の止滅から出起して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定しました。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から出起して、無所有なる〔認識の〕場所に入定しました。無所有なる〔認識の〕場所から出起して、識知無辺なる〔認識の〕場所に入定しました。識知無辺なる〔認識の〕場所から出起して、虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定しました。虚空無辺なる〔認識の〕場所から出起して、第四の瞑想に入定しました。第四の瞑想から出起して、第三の瞑想に入定しました。第三の瞑想から出起して、第二の瞑想に入定しました。第二の瞑想から出起して、第一の瞑想に入定しました。第一の瞑想から出起して、第二の瞑想に入定しました。第二の瞑想から出起して、第三の瞑想に入定しました。第三の瞑想から出起して、第四の瞑想に入定しました。第四の瞑想から出起して、等しく直後に、世尊は、完全なる涅槃に到達しました。
220. 世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、禍々しく身の毛のよだつ大いなる地震が有り、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、梵〔天〕のサハンパティは、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「世における生類たちは、まさしく、全ての者たちが、積身を捨置するであろう。そこにおいて、このような〔世の〕教師たる方が、世において対する人なき方が、如来が、力に至り得た方が、正覚者が、完全なる涅槃に到達したからには」と。
221. 世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕は、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である」と。
222. 世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、尊者アヌルッダは、これらの詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「心が安立した如なる方に、出息と入息は有ることなくあった。〔心の〕動揺なき方は、〔心の〕寂静に励んで、すなわち、牟尼は、命を終えた。
〔彼は〕退去なき心で、〔苦痛の〕感受を耐えた。灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有った」と。
223. 世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、尊者アーナンダは、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した──そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した──〔すなわち〕一切の優れた行相を具した正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき」と。
224. 世尊が完全なる涅槃に到達したとき、そこにおいて、すなわち、それらの貪欲を離れていない比丘たちは、一部の者たちはまた、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。「世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没したのだ」と。いっぽう、すなわち、それらの貪欲を離れた比丘たちは、彼らは、気づきと正知の者たちとなり、耐え忍びます。「常住ならざるは、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)である。それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう」と。
225. そこで、まさに、尊者アヌルッダは、比丘たちに告げました。「友よ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。友よ、まさに、このことは、世尊によって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。友よ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。友よ、天神たちも、〔世尊の完全なる涅槃を〕譴責します」と。「尊き方よ、また、尊者アヌルッダは、天神たちのことを、どのように有るものと、意を為しますか」と。
「友よ、アーナンダよ、天神たちが存在します。虚空において地の表象ある者たちとなり(空中にいながら地上にあるかのように振る舞う)、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。『世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没したのだ』と。友よ、アーナンダよ、天神たちが存在します。地において地の表象ある者たちとなり、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。『世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没したのだ』と。いっぽう、すなわち、それらの貪欲を離れた天神たちは、彼らは、気づきと正知の者たちとなり、耐え忍びます。『常住ならざるは、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)である。それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』」と。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者アーナンダは、その夜の残りのあいだ、法(教え)の議論によって過ごしました。
226. そこで、まさに、尊者アヌルッダは、尊者アーナンダに告げました。「友よ、アーナンダよ、赴きなさい。クシナーラーに入って、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに告げなさい。『ヴァーセッタたちよ、世尊は、完全なる涅槃に到達したのです。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、尊者アヌルッダに答えて、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、自己を第二の者として(独りで)、クシナーラーに入りました。また、まさに、その時点にあって、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちが、公会堂において参集した状態でいます──まさしく、その用事があって。そこで、まさに、尊者アーナンダは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちの公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに告げました。「ヴァーセッタたちよ、世尊は、完全なる涅槃に到達したのです。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。尊者アーナンダの、この言葉を聞いて、かつまた、マッラ〔族〕の者たちは、かつまた、マッラ〔族〕の子息たちは、かつまた、マッラ〔族〕の嫁たちは、かつまた、マッラ〔族〕の夫人たちは、悩苦ある者たちとなり、失意の者たちとなり、心の苦しみに引き渡された者たちとなり、一部の者たちはまた、諸々の髪を振り乱して泣き叫び、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。「世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没したのだ」と。
覚者の肉体の供養
227. そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、下僕たちに命じました。「まさに、それでは、申し付ける。クシナーラーにある、かつまた、香料と花環を、かつまた、全ての打楽器を、集めよ」と。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、かつまた、香料と花環を、かつまた、全ての打楽器を、さらに、五百組の布地を、〔それらを〕携えて、マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕のあるところに、世尊の肉体のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の肉体を、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、諸々の天幕を作りながら、諸々の円形堂を設えながら、一日を過ごしました。
そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、今日、世尊の肉体を燃やすには、極めて非時である。明日、今や、わたしたちは、世尊の肉体を燃やすのだ」と。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、世尊の肉体を、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、諸々の天幕を作りながら、諸々の円形堂を設えながら、第二日もまた過ごし、第三日もまた過ごし、第四日もまた過ごし、第五日もまた過ごし、第六日もまた過ごしました。
そこで、まさに、第七日に、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、この〔思い〕が有りました。「わたしたちは、世尊の肉体を、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、城市の、南から南に、外から外に運んで、城市の南で、世尊の肉体を燃やすのだ」と。
228. また、まさに、その時点にあって、八者のマッラ〔族〕の頭首たちが、頭を洗い清め、諸々の無傷の衣をまとい、「わたしたちは、世尊の肉体を持ち上げるのだ」と〔試みるも〕、持ち上げることができません。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、これらの八者のマッラ〔族〕の頭首たちが、頭を洗い清め、諸々の無傷の衣をまとい、『わたしたちは、世尊の肉体を持ち上げるのだ』と〔試みるも〕、持ち上げることができないのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、まさに、他なるものとして、あなたたちの志向はあり、他なるものとして、天神たちの志向はあります」と。「尊き方よ、また、どのように、天神たちの志向はあるのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、まさに、あなたたちには、〔この〕志向があります。『わたしたちは、世尊の肉体を、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、城市の、南から南に、外から外に運んで、城市の南で、世尊の肉体を燃やすのだ』と。ヴァーセッタたちよ、まさに、天神たちには、〔この〕志向があります。『わたしたちは、世尊の肉体を、天の、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって(※)、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、城市の、北から北に運んで、北の門から城市に入って、城市の中央から中央に運んで、東の門から出て、城市の東から、マッラ〔族〕の者たちのマクタバンダナという名の塔廟に〔赴き〕、ここにおいて、世尊の肉体を燃やすのだ』」と。「尊き方よ、すなわち、天神たちの志向のとおり、そのとおりに成れ」と。
※ PTS版により mālehi を補う。
229. また、まさに、その時点にあって、クシナーラーは、隙間やどぶやごみために至るまで、膝ほどの範囲にまで、マンダーラヴァの花々が広がるところと成ります。そこで、まさに、かつまた、天神たちは、かつまた、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、世尊の肉体を、かつまた、天の、かつまた、人間の、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、城市の、北から北に運んで、北の門から城市に入って、城市の中央から中央に運んで、東の門から出て、城市の東から、マッラ〔族〕の者たちのマクタバンダナという名の塔廟に〔赴き〕、そして、ここにおいて、世尊の肉体を捨置しました。
230. そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、どのように、わたしたちは、如来の肉体にたいし実践するのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、すなわち、まさに、転輪王の肉体にたいし実践するように、このように、如来の肉体にたいし実践するべきです」と。「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのように、〔人々は〕転輪王の肉体にたいし実践するのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、〔人々は〕転輪王の肉体を、無傷の衣で巻き包みます。無傷の衣で巻き包んで、善く打たれた木綿で巻き包みます。善く打たれた木綿で巻き包んで、無傷の衣で巻き包みます。この手段による五百組のもので、転輪王の肉体を巻き包んで、鉄の油桶に入れて、他の鉄の桶で覆い包んで、全ての香料からなる荼毘の薪山を作って、転輪王の肉体を燃やします。大きな四つ辻において、転輪王のための塔を作ります。ヴァーセッタたちよ、このように、まさに、〔人々は〕転輪王の肉体にたいし実践します。ヴァーセッタたちよ、すなわち、まさに、転輪王の肉体にたいし実践するように、このように、如来の肉体にたいし実践するべきです。大きな四つ辻において、如来のための塔を作るべきです。そこにおいて、それらの者たちが、あるいは、花環を、あるいは、香料を、あるいは、塗粉を、あるいは、献上するなら、あるいは、敬拝するなら、あるいは、心を浄信させるなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、下僕たちに命じました。「まさに、それでは、申し付ける。マッラ〔族〕の者たちの善く打たれた木綿を集めよ」と。
そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、世尊の肉体を、無傷の衣で巻き包んで、善く打たれた木綿で巻き包みました。善く打たれた木綿で巻き包んで、無傷の衣で巻き包みました。この手段による五百組のもので、世尊の肉体を巻き包んで、鉄の油桶に入れて、他の鉄の桶で覆い包んで、全ての香料からなる荼毘の薪山を作って、世尊の肉体を荼毘の薪山に載せました。
マハー・カッサパ長老の事
231. また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッサパは、パーヴァーからクシナーラーへと、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、道から外れて、或るどこかの木の根元において坐りました。また、まさに、その時点にあって、或るひとりのアージーヴァカ(活命者・邪命外道)が、クシナーラーから、マンダーラヴァの花を収め取って、パーヴァーへと、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、尊者マハー・カッサパは、そのアージーヴァカが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、そのアージーヴァカに、こう言いました。「友よ、さて、わたしたちの教師のことを知っていますか」と。「友よ、たしかに、知っています。今日は、沙門ゴータマが完全なる涅槃に到達して七日となります。そこから、このマンダーラヴァの花が、わたしによって収め取られたのです」と。そこにおいて、すなわち、それらの貪欲を離れていない比丘たちは、一部の者たちはまた、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫び、急転直下に崩れ落ち、ころがり回り、のたうち回ります。「世尊が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。善き至達者たる方が、あまりにもすみやかに、完全なる涅槃に到達したのだ。世における眼が、あまりにもすみやかに、消没したのだ」と。いっぽう、すなわち、それらの貪欲を離れた比丘たちは、彼らは、気づきと正知の者たちとなり、耐え忍びます。「常住ならざるは、諸々の形成〔作用〕である。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう」と。
232. また、まさに、その時点にあって、スバッダという名の年長出家者(年長となって出家した者)が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、スバッダ年長出家者は、それらの比丘たちに、こう言いました。「友よ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。わたしたちは、その大いなる沙門から善く解き放たれたのです。さてまた、〔わたしたちは〕『あなたたちにとって、このことは、適確である』『あなたたちにとって、このことは、適確ではない』と悩まされ〔世に〕有るも、また、今や、わたしたちは、それを求めるなら、それを為すでしょうし、それを求めないなら、それを為さないでしょう」と。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、比丘たちに告げました。「友よ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。友よ、まさに、このことは、世尊によって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。友よ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません」と。
233. また、まさに、その時点にあって、四者のマッラ〔族〕の頭首たちが、頭を洗い清め、諸々の無傷の衣をまとい、「わたしたちは、世尊の荼毘の薪山に点火するのだ」と〔試みるも〕、点火することができません。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、これらの四者のマッラ〔族〕の頭首たちが、頭を洗い清め、諸々の無傷の衣をまとい、『わたしたちは、世尊の荼毘の薪山に点火するのだ』と〔試みるも〕、点火することができないのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、まさに、他なるものとして、天神たちの志向はあります」と。「尊き方よ、また、どのように、天神たちの志向はあるのですか」と。「ヴァーセッタたちよ、まさに、天神たちには、〔この〕志向があります。『この方が、尊者マハー・カッサパが、パーヴァーからクシナーラーへと、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、旅の道を行く者としてある。すなわち、尊者マハー・カッサパが、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しないあいだは、それまでは、世尊の荼毘の薪山が燃え上がることはないであろう』」と。「尊き方よ、すなわち、天神たちの志向のとおり、そのとおりに成れ」と。
234. そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、クシナーラーのマッラ〔族〕の者たちのマクタバンダナという名の塔廟のあるところに、世尊の荼毘の薪山のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一つの肩に衣料を掛けて、合掌を手向けて、三回、荼毘の薪山に、右回り〔の礼〕を為して、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しました。まさに、それらの五百の比丘たちもまた、一つの肩に衣料を掛けて、合掌を手向けて、三回、荼毘の薪山に、右回り〔の礼〕を為して、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しました。また、そして、尊者マハー・カッサパが、さらに、それらの五百の比丘たちが、敬拝したとき、まさしく、自ら、世尊の荼毘の薪山は燃え上がりました。
235. また、まさに、燃えている世尊の肉体に、すなわち、あるいは、「表皮」ということで、あるいは、「皮」ということで、あるいは、「肉」ということで、あるいは、「腱」ということで、あるいは、「髄液」ということで、有ったものは、それには、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕されず、諸々の遺骨(舎利)だけが残りました。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、酥が、あるいは、油が、燃えていると、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ないように、まさしく、このように、燃えている世尊の肉体に、すなわち、あるいは、「表皮」ということで、あるいは、「皮」ということで、あるいは、「肉」ということで、あるいは、「腱」ということで、あるいは、「髄液」ということで、有ったものは、それには、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕されず、諸々の遺骨だけが残りました。そして、それらの五百組の布地のなかの、二つの布地だけが焼かれませんでした──そして、すなわち、最も内部のものが、さらに、すなわち、〔最も〕外のものが。また、まさに、そして、世尊の肉体が焼かれたとき、空中から水流が出現して、世尊の荼毘の薪山を消しました。サーラ〔樹〕からもまた水が噴出して、世尊の荼毘の薪山を消しました。クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちもまた、全ての香料からなる水によって、世尊の荼毘の薪山を消しました。そこで、まさに、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、世尊の諸々の遺骨を、七日のあいだ、公会堂において、槍の柵を作って、弓の垣を張り巡らせて、諸々の舞踏によって、諸々の歌詠によって、諸々の音楽によって、諸々の花環によって、諸々の香料によって、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しました。
遺骨と遺物の区分
236. まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしもまた、士族である。わたしもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるリッチャビ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるリッチャビ〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、カピラヴァットゥの住者たる釈迦〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、カピラヴァットゥの住者たる釈迦〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、アッラカッパ〔の住者〕たるブリ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、アッラカッパ〔の住者〕たるブリ〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、ラーマ村〔の住者〕たるコーリヤ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、ラーマ村〔の住者〕たるコーリヤ〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、ヴェッタディーパ〔の住者〕たる婆羅門は、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、ヴェッタディーパ〔の住者〕たる婆羅門は、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「たとえ、世尊が、士族であり、たとえ、わたしが、婆羅門として〔世に〕存するも、わたしもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
まさに、パーヴァー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、パーヴァー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。
このように説かれたとき、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちは、それらの集団や衆徒たちに、こう言いました。「世尊は、わたしたちの村落地において、完全なる涅槃に到達したのです。わたしたちは、世尊の諸々の遺骨の分有を許しません」と。
237. このように説かれたとき、ドーナ婆羅門は、それらの集団や衆徒たちに、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「諸君よ、わたしの一言を聞きたまえ。覚者は、わたしたちに忍耐を説く者として〔世に〕有った。まさに、善きことならずは、すなわち、最上の人士たる方の諸々の遺骨の分有において争いが存すること。
諸君よ、まさしく、全ての者たちが、益を有する和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、八つの分有を為すのだ。諸々の塔が、諸方に拡張するものと成れ。多くの人々が、眼ある方に浄信ある者たちと〔成れ〕」と。
238. 「婆羅門よ、まさに、それでは、まさしく、あなたが、世尊の諸々の遺骨を、八種に等しく善く区分されたものに(※)区分したまえ」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ドーナ婆羅門は、それらの集団や衆徒たちに答えて、世尊の諸々の遺骨を、八種に等しく善く区分されたものに区分して、それらの集団や衆徒たちに、こう言いました。「諸君よ、わたしに、この壺を与えたまえ。わたしもまた、壺のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。まさに、彼らは、ドーナ婆羅門に、壺を与えました。
※ テキストには savibhattaṃ とあるが、PTS版により suvibhattaṃ と読む。
まさに、ピッパリヴァナ〔の住者〕たるモーリヤ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、クシナーラーにおいて、完全なる涅槃に到達したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、ピッパリヴァナ〔の住者〕たるモーリヤ〔族〕の者たちは、クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちに、使者を送りました。「世尊もまた、士族であり、わたしたちもまた、士族である。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨の分有に値する。わたしたちもまた、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為すであろう」と。「〔もはや〕世尊の諸々の遺骨の分有は存在せず、世尊の諸々の遺骨は区分されました。ここから、炭を持ち去りたまえ」と。彼らは、そこから、炭を持ち去りました。
遺物の塔の供養
239. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ラージャガハにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。ヴェーサーリー〔の住者〕たるリッチャビ〔族〕の者たちもまた、ヴェーサーリーにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。カピラヴァットゥの住者たる釈迦〔族〕の者たちもまた、カピラヴァットゥにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。アッラカッパ〔の住者〕たるブリ〔族〕の者たちもまた、アッラカッパにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。ラーマ村〔の住者〕たるコーリヤ〔族〕の者たちもまた、ラーマ村において、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。ヴェッタディーパ〔の住者〕たる婆羅門もまた、ヴェッタディーパにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。パーヴァー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者もまた、パーヴァーにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。クシナーラー〔の住者〕たるマッラ〔族〕の者たちもまた、クシナーラーにおいて、世尊の諸々の遺骨のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。ドーナ婆羅門もまた、壺のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。ピッパリヴァナ〔の住者〕たるモーリヤ〔族〕の者たちもまた、諸々の炭のための、そして、塔を、さらに、祭を、作り為しました。かくのごとく、八つの遺骨のための塔があり、第九のものとして、壺のための塔があり、第十のものとして、炭のための塔があります。このように、このことはあり、過去の事となる、ということです。
240. 〔そこで、詩偈に言う〕「眼ある方の遺骨は、八ドーナ(容積の単位・一ドーナは枡桶の量)となり、七ドーナを、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)において、〔人々が〕祭り、そして、一ドーナを、優れた最上の人士たる方のために、ラーマ村において、龍の王が祭る。
まさに、一歯は、三十三〔天の神々〕たちによって供養され、また、一〔歯〕は、ガンダーラ〔国〕の都において祭られる。さらに、カリンガ王の領土において、一〔歯〕を〔祭り〕、また、一〔歯〕を、龍の王が祭る。
まさしく、彼の威光によって、この大地は、諸々の最勝の供物によって、大いなるものとなり、十分に作り為されたものとなる。このように、この眼ある方の遺骨は、善く尊敬され、尊敬されたうえにも尊敬されたものとなる。
天のインダ(インドラ神・帝釈天)と龍のインダ(龍王)と人のインダ(国王)に供養され、まさしく、そのように、最勝の人間のインダたちによって供養されるもの──それを得て、合掌の者たちとなり、〔あなたたちは〕敬拝せよ。『覚者は、まさに、百のカッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)をもってしても、得難くある』と。
四十の等しき歯、諸々の髪、そして、諸々の毛の全てにわたり──天〔の神々〕たちは、〔それらの〕一つ一つを、チャッカ・ヴァーラ(輪囲山・鉄囲山:世界の周辺にあって世界を囲んでいる山)へと相次いで運び去った」と。
大いなる完全なる涅槃の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。