小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

3. ウダーナ聖典(自説経)

 

【目次】

 

1. 菩提の章(1.~)

 

1. 1. 第一の菩提の経(1.)

1. 2. 第二の菩提の経(2.)

1. 3. 第三の菩提の経(3.)

1. 4. 大仰な者の経(4.)

1. 5. 婆羅門の経(5.)

1. 6. マハー・カッサパの経(6.)

1. 7. アジャカラーパカの経(7.)

1. 8. サンガーマジの経(8.)

1. 9. 結髪者たちの経(9.)

1. 10. バーヒヤの経(10.)

 

2. ムチャリンダの章(11.~)

 

2. 1. ムチャリンダの経(11.)

2. 2. 王の経(12.)

2. 3. 棒の経(13.)

2. 4. 尊敬の経(14.)

2. 5. 在俗信者の経(15.)

2. 6. 妊婦の経(16.)

2. 7. 独り子の経(17.)

2. 8. スッパヴァーサーの経(18.)

2. 9. ヴィサーカーの経(19.)

2. 10. バッディヤの経(20.)

 

3. ナンダの章(21.~)

 

3. 1. 行為の報いから生じるものの経(21.)

3. 2. ナンダの経(22.)

3. 3. ヤソージャの経(23.)

3. 4. サーリプッタの経(24.)

3. 5. マハー・モッガッラーナの経(25.)

3. 6. ピリンダヴァッチャの経(26.)

3. 7. 帝釈〔天〕の感興〔の言葉〕の経(27.)

3. 8. 〔行乞の〕施食の者の経(28.)

3. 9. 技能の経(29.)

3. 10. 世の経(30.)

 

4. メーギヤの章(31.~)

 

4. 1. メーギヤの経(31.)

4. 2. 〔心が〕高揚した者たちの経(32.)

4. 3. 牛飼いの経(33.)

4. 4. 夜叉の打撃の経(34.)

4. 5. 象の経(35.)

4. 6. ピンドーラの経(36.)

4. 7. サーリプッタの経(37.)

4. 8. スンダリーの経(38.)

4. 9. ウパセーナの経(39.)

4. 10. サーリプッタの寂止の経(40.)

 

5. ソーナの章(41.~)

 

5. 1. より愛しいものの経(41.)

5. 2. 短命の者たちの経(42.)

5. 3. 癩病者のスッパブッダの経(43.)

5. 4. 少年たちの経(44.)

5. 5. 斎戒の経(45.)

5. 6. ソーナの経(46.)

5. 7. カンカー・レーヴァタの経(47.)

5. 8. 僧団の分裂の経(48.)

5. 9. 「大騒ぎをしながら」の経(49.)

5. 10. チューラ・パンタカの経(50.)

 

6. 生まれながらの盲者たちの章(51.~)

 

6. 1. 寿命を形成する働きを放棄することの経(51.)

6. 2. 七者の結髪者たちの経(52.)

6. 3. 綿密に注視することの経(53.)

6. 4. 第一の種々なる異教の者たちの経(54.)

6. 5. 第二の種々なる異教の者たちの経(55.)

6. 6. 第三の種々なる異教の者たちの経(56.)

6. 7. スブーティの経(57.)

6. 8. 遊女の経(58.)

6. 9. 「近しく走り寄る」の経(59.)

6. 10. 「生起する」の経(60.)

 

7. 小なるものの章(61.~)

 

7. 1. 第一のラクンダカ・バッディヤの経(61.)

7. 2. 第二のラクンダカ・バッディヤの経(62.)

7. 3. 第一の執着する者たちの経(63.)

7. 4. 第二の執着する者たちの経(64.)

7. 5. 他のラクンダカ・バッディヤの経(65.)

7. 6. 渇愛の消滅の経(66.)

7. 7. 虚構の滅尽の経(67.)

7. 8. カッチャーナの経(68.)

7. 9. 井戸の経(69.)

7. 10. ウテーナの経(70.)

 

8. パータリ村の者たちの章(71.~)

 

8. 1. 第一の涅槃に関係したものの経(71.)

8. 2. 第二の涅槃に関係したものの経(72.)

8. 3. 第三の涅槃に関係したものの経(73.)

8. 4. 第四の涅槃に関係したものの経(74.)

8. 5. チュンダの経(75.)

8. 6. パータリ村の者たちの経(76.)

8. 7. 分かれ道の経(77.)

8. 8. ヴィサーカーの経(78.)

8. 9. 第一のダッバの経(79.)

8. 10. 第二のダッバの経(80.)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

3. ウダーナ聖典(自説経)

 

1. 菩提の章

 

1. 1. 第一の菩提の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定(定・三昧)から出起して、〔その〕夜の初夜のあいだ(宵の内)、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に、順に、善くしっかりと、意を為しました。

 

 「かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)がある。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成る、そのとき(物事が生じては滅する、まさに、その、あるがままのあり方が明らかになるとき)、そこで、彼の、諸々の疑いは、全てが消え去る──すなわち、因を有する法(性質)を〔あるがままに〕覚知することから(物事が因縁によって生起する道理、すなわち、縁起の理法を覚知するからである)」と。〔以上が〕第一となる。

 

1. 2. 第二の菩提の経

 

2. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起して、〔その〕夜の中夜のあいだ(真夜中)、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、逆に、善くしっかりと、意を為しました。

 

 「かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成る、そのとき(物事が生じては滅する、まさに、その、あるがままのあり方が明らかになるとき)、そこで、彼の、諸々の疑いは、全てが消え去る──すなわち、諸々の縁の滅尽を〔あるがままに〕知ったことから(物事が因縁によって止滅する道理、すなわち、縁起の理法を覚知するからである)」と。〔以上が〕第二となる。

 

1. 3. 第三の菩提の経

 

3. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起して、〔その〕夜の後夜のあいだ(明け方)、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、順逆に、善くしっかりと、意を為しました。

 

 「かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成る、そのとき、〔彼は〕悪魔の軍団を砕破しながら〔世に〕止住する──空中を照らす太陽のように」と。〔以上が〕第三となる。

 

1. 4. 大仰な者の経

 

4. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹の根元〕において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起しました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの〔尊大で〕大仰な生まれの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どのようなことから、〔人は〕婆羅門と成るのですか。また、そして、どのようなものが、〔人を〕婆羅門に作り為す諸々の法(性質)なのですか」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「その婆羅門が、悪しき法(性質)を拒み、〔尊大で〕大仰な者ではなく、〔心に〕濁りなく、自己を制した者であるなら、知の終極に至る、梵行(禁欲清浄行)の完成者であり、彼は、法(真理)によって、梵の論(最高の言説)を説くであろう──彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」と。〔以上が〕第四となる。

 

1. 5. 婆羅門の経

 

5. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタが、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナが、かつまた、尊者マハー・カッサパが、かつまた、尊者マハー・カッチャーナが、かつまた、尊者マハー・コッティカが、かつまた、尊者マハー・カッピナが、かつまた、尊者マハー・チュンダが、かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者レーヴァタが、かつまた、尊者ナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 まさに、世尊は、それらの尊者たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、これらの婆羅門たちがやってきます。比丘たちよ、これらの婆羅門たちがやってきます」と。このように説かれたとき、或るひとりの婆羅門の生まれの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔人は〕婆羅門と成るのですか。また、そして、どのようなものが、〔人を〕婆羅門に作り為す諸々の法(性質)なのですか」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼らが、諸々の悪しき法(性質)を拒んで、常に気づきある者たちとして〔世を〕歩むなら、彼らは、まさに、束縛するものが滅尽した覚者たちであり、世における〔真の〕婆羅門たちである」と。〔以上が〕第五となる。

 

1. 6. マハー・カッサパの経

 

6. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッサパが、〔ラージャガハに〕住んでいます。ピッパリ窟において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、他時にあって、その病苦から出起しました(病から回復した)。そこで、まさに、その病苦から出起した尊者マハー・カッサパに、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入るのだ」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、五百ばかりの天神たちが、〔適切ならざる〕思い入れを起こすところと成ります(余計な世話を焼こうとした)──尊者マハー・カッサパが、〔行乞の〕施食を得るために。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、それらの五百ばかりの天神たち〔の適切ならざる施し〕を拒絶して、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました──貧者の路地や困窮者の路地や織物師の路地のあるところに。まさに、世尊は、尊者マハー・カッサパが、ラージャガハにおいて、貧者の路地や困窮者の路地や織物師の路地のあるところを、〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「他者を扶養する〔義務〕なき者、〔一切を〕了知した者、〔自己を〕調御した者、〔法の〕真髄において〔自己を〕確立した者、煩悩()が滅尽した者、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた者──わたしは、彼を『婆羅門』と説く」と。〔以上が〕第六となる。

 

1. 7. アジャカラーパカの経

 

7. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、パーヴァーに住んでおられます。アジャカラーパカ塔廟にあるアジャカラーパカ夜叉の居所において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、アジャカラーパカ夜叉が、世尊に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊から遠く離れていないところで、三回、「アックロー、パックロー(騒がしい悪鬼がいる)」と、騒がしい悪鬼〔の雄叫び〕を為しました。「沙門よ、この魔物は、おまえのためにいるのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「諸々の自らの法(性質)において、彼岸に至る〔真の〕婆羅門と成る、そのとき、そこで、この、かつまた、魔物を〔超克し〕、かつまた、悪鬼を超克する」と。〔以上が〕第七となる。

 

1. 8. サンガーマジの経

 

8. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サンガーマジが、サーヴァッティーに到着するところと成ります──世尊と会見するために。まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、「尊貴なるサンガーマジが、どうやら、サーヴァッティーに到着したらしい」と耳にしました。彼女は、幼児を抱えて、ジェータ林に赴きました。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者サンガーマジは、或るどこかの木の根元において、昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、尊者サンガーマジのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サンガーマジに、こう言いました。「沙門よ、まさに、小さな子供がいるのです。わたしを養ってください」と。このように説かれたとき、尊者サンガーマジは、沈黙の者として有りました。

 

 再度また、まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、尊者サンガーマジに、こう言いました。「沙門よ、まさに、小さな子供がいるのです。わたしを養ってください」と。再度また、まさに、尊者サンガーマジは、沈黙の者として有りました。

 

 三度また、まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、尊者サンガーマジに、こう言いました。「沙門よ、まさに、小さな子供がいるのです。わたしを養ってください」と。三度また、まさに、尊者サンガーマジは、沈黙の者として有りました。

 

 そこで、まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、その幼児を尊者サンガーマジの前に置き去りにして、立ち去りました。「沙門よ、これは、あなたの子供です。彼を養ってください」と。

 

 そこで、まさに、尊者サンガーマジは、その幼児に、まさしく、目をやることもなく、話しかけることもまたありませんでした。そこで、まさに、尊者サンガーマジの以前の伴侶は、遠く離れていないところまで赴いて振り返りつつ、尊者サンガーマジが、その幼児に、まさしく、目をやることもなく、話しかけることもまたないのを見ました。見て、彼女に、この〔思い〕が有りました。「さてまた、この沙門は、子供でさえも、義(必要)とする者にあらず」と。そののち、〔彼女は〕戻ってきて、幼児を抱えて立ち去りました。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、尊者サンガーマジの以前の伴侶の、このような形態の変わり様を見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「来る者を喜び楽しまず、去る者を憂い悲しまず、執着〔の思い〕から解き放たれたサンガーマジ──わたしは、彼を『婆羅門』と説く」と。〔以上が〕第八となる。

 

1. 9. 結髪者たちの経

 

9. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ガヤーに住んでおられます。ガヤーシーサ〔山〕において。また、まさに、その時点にあって、大勢の結髪者たちが、寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカ(月の第八日の前後)のガヤー〔川〕に、「これによって、清浄あれ」と、浮かびもまたし、沈みもまたし、浮いては沈みもまた為し、〔水を〕注ぎもまたし、祭火をもまた捧げます。

 

 まさに、世尊は、彼ら、大勢の結髪者たちが、寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカのガヤー〔川〕に、「これによって、清浄あれ」と、浮かびもまたし、沈みもまたし、浮いては沈みもまた為し、〔水を〕注ぎもまたし、祭火をもまた捧げているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「ここにおいて、多くの人々が沐浴するが、〔人は〕水によって、清らかと成るのではない。彼において、かつまた、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、彼は、清らかな者であり、そして、彼は、婆羅門と〔成る〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

1. 10. バーヒヤの経

 

10. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、樹皮行者のバーヒヤが、スッパーラカの海岸に滞在しています。〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している樹皮行者のバーヒヤに、このような心の思索が浮かびました。「彼らが誰であれ、まさに、あるいは、阿羅漢たちが、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちが、世にいるとして、わたしは、彼らのなかの或るひとりである」と。

 

 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤの、義(利益)を欲し、慈しみ〔の思い〕ある、過去〔世〕の血縁である天神が、〔自らの〕心をとおして、樹皮行者のバーヒヤの心の思索を了知して、樹皮行者のバーヒヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤよ、まさに、あなたは、まさしく、阿羅漢でもなく、あるいは、阿羅漢道に入定した者でもまたありません。その〔道〕によって、あなたが、あるいは、阿羅漢として存することになり、あるいは、阿羅漢道に入定した者として〔存することになる〕、その〔実践の〕道もまた、あなたには存在しません」と。

 

 「そこで、そうしますと、どのような者たちが、天を含む世において、あるいは、阿羅漢たちであり、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちなのですか」と。「バーヒヤよ、北の諸地方に、サーヴァッティーという名の城市が存在します。そこにおいて、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられます。バーヒヤよ、まさに、彼は、世尊は、まさしく、そして、阿羅漢であり、さらに、阿羅漢の資質のための法(教え)を説示します」と。

 

 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、その天神〔の言葉〕に畏怖させられ、まさしく、ただちに、スッパーラカから立ち去りました。一切所において、一夜の滞在で、サーヴァッティーの、ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どこに、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか。わたしどもは存しています──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することを欲する者たちとして」と。「バーヒヤよ、まさに、世尊は、〔行乞の〕食のために、町中に入ったところです」と。

 

 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、急ぎの様子でジェータ林から出て、サーヴァッティーに入って、世尊が、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました──浄信ある方にして浄信するべき方を、〔感官の〕機能が寂静となり意図が寂静となった方を、最上の〔身の〕調御と〔心の〕止寂を獲得した方を、〔自己が〕調御され〔感官の門が〕守られ〔感官の〕機能が制された龍たる方を。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方(善逝:ブッダの尊称)よ、法(教え)を説示してください。それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。このように説かれたとき、世尊は、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤよ、まさに、まだ、〔そのための〕時ではありません。わたしたちは存しています──〔行乞の〕食のために、町中に入った者たちとして」と。

 

 再度また、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、まさに、このことは、知り難いことなのです──あるいは、世尊の諸々の生命の障害の、あるいは、わたしの諸々の生命の障害の、〔その到来の時節は〕(わたしたちの生命は、明日をも知れない存在である)。尊き方よ、世尊は、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。再度また、まさに、世尊は、樹皮行者のバーヒヤに、こう言いました。「バーヒヤよ、まさに、まだ、〔そのための〕時ではありません。わたしたちは存しています──〔行乞の〕食のために、町中に入った者たちとして」と。

 

 三度また、まさに、樹皮行者のバーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、まさに、このことは、知り難いことなのです──あるいは、世尊の諸々の生命の障害の、あるいは、わたしの諸々の生命の障害の、〔その到来の時節は〕。尊き方よ、世尊は、わたしに、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「バーヒヤよ、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。バーヒヤよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤよ、すなわち、まさに、あなたにとって、見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、バーヒヤよ、そのことから、あなたは、それとともに〔存在し〕ないのです。バーヒヤよ、すなわち、あなたが、それとともに〔存在し〕ないことから、バーヒヤよ、そのことから、あなたは、そこにおいて〔存在し〕ないのです。バーヒヤよ、すなわち、あなたが、そこにおいて〔存在し〕ないことから、バーヒヤよ、そのことから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間にあって、〔何も存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極です」と。

 

 そこで、まさに、世尊の、この簡略の法(教え)の説示によって、樹皮行者のバーヒヤの心は、まさしく、ただちに、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、樹皮行者のバーヒヤを、この簡略の教諭によって教え諭して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊が立ち去ったすぐあと、樹皮行者のバーヒヤに、幼い子牛づれの雌牛がぶつかって、〔彼の〕生命を奪いました。

 

 そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、大勢の比丘たちと共に、城市から出て、樹皮行者のバーヒヤが命を終えたのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を収め取りなさい。臥床に載せて運び出して、燃やしてあげなさい。そして、彼のために塔を作りなさい。比丘たちよ、あなたたちと梵行を共にする者が、命を終えたのです」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を、臥床に載せて運び出して、燃やしてあげて、そして、彼のために塔を作って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、樹皮行者のバーヒヤの肉体は焼かれました。そして、彼のために塔が作られました。彼には、どのような〔死後の〕境遇()がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「そこにおいて、そして、水も、地も、火も、風も、依って立つことなく、そこにおいて、星々は光らず、日は現われず、そこにおいて、月は輝かず、そこにおいて、闇は見出されない。

 

 そして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の智慧〕によって、自己みずから知った、そのときは、そこで、形態()から〔解き放たれ〕、かつまた、形態なきもの(無色)から〔解き放たれ〕、楽と苦から解き放たれる」と。〔以上が〕第十となる。

 

 この感興〔の言葉〕もまた、「世尊によって説かれたものである」と、わたしは聞きました。ということで──

 

 菩提の章が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、三つの菩提、大仰な者、婆羅門があり、さらに、カッサパ(マハー・カッサパ)とともに、アジャ(アジャカラーパカ)とサンガーマ(サンガーマジ)と結髪者たちがあり、バーヒヤとともに、かくのごとく、それらの十がある」と。

 

2. ムチャリンダの章

 

2. 1. ムチャリンダの経

 

11. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のムチャリンダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。

 

 また、まさに、その時点にあって、巨大な、時ならざる雨雲が現われました。七日のあいだ雨となり、冷たい風の荒れた日々となります。そこで、まさに、龍王のムチャリンダは、自らの居所から出て、世尊の身体を七重の蜷局(とぐろ)で取り巻いて、頭上高くに、巨大な鎌首をもたげて立ちました。「世尊に、寒さが〔触れることが〕あってはならない。世尊に、暑さが〔触れることが〕あってはならない。世尊に、虻や蚊や風や熱や蛇類が触れることがあってはならない」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起しました。そこで、まさに、龍王のムチャリンダは、雷雲が離れ去り、天が晴れたことを知って、世尊の身体から〔七重の〕蜷局をほどいて、自らの姿を取り去って、少年の姿に化作して、世尊の前に立ちました。合掌の者となり、世尊を礼拝しながら。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔足ることを知り〕満ち足りている者にとって、〔覚者の〕法(教え)を聞いた者にとって、〔あるがままに〕見ている者にとって、遠離〔の境地〕は、安楽である。世において、憎悪〔の思い〕なくあることは(※)、安楽である。命ある生類たちにたいし自制あることは、〔安楽である〕。

 

※ テキストには Abyāpajja とあるが、PTS版により Avyāpajjha と読む。

 

 世において、貪欲〔の思い〕を離れることは、安楽である。諸々の欲望〔の対象〕を超え行くことは、〔安楽である〕。およそ、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)を取り除くことは、これは、まさに、最高の安楽である」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 2. 王の経

 

12. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、いったい、まさに、これらの二者の王のなかの、誰が、あるいは、より大いなる財産ある者であるのか、あるいは、より大いなる財物ある者であるのか、あるいは、より大いなる蔵ある者であるのか、あるいは、より大いなる領土ある者であるのか、あるいは、より大いなる車両ある者であるのか、あるいは、より大いなる軍隊ある者であるのか、あるいは、より大いなる権力ある者であるのか、あるいは、より大いなる威力ある者であるのか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王であるのか、あるいは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王であるのか」と。それで、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐し参集しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『友よ、いったい、まさに、これらの二者の王のなかの、誰が、あるいは、より大いなる財産ある者であるのか、あるいは、より大いなる財物ある者であるのか、あるいは、より大いなる蔵ある者であるのか、あるいは、より大いなる領土ある者であるのか、あるいは、より大いなる車両ある者であるのか、あるいは、より大いなる軍隊ある者であるのか、あるいは、より大いなる権力ある者であるのか、あるいは、より大いなる威力ある者であるのか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王であるのか、あるいは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王であるのか』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたたちが、このような形態の議論を議論することです。比丘たちよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「そして、すなわち、世における欲望の安楽は、さらに、すなわち、この、天の安楽も、これらは、渇愛の滅尽という安楽の、十六分の一にも値しない」と。〔以上が〕第二となる。

 

2. 3. 棒の経

 

13. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の少年たちが、かつまた、サーヴァッティーの、かつまた、ジェータ林の、それぞれの中途において、棒で蛇を打ちます。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、大勢の少年たちが、かつまた、サーヴァッティーの、かつまた、ジェータ林の、それぞれの中途において、棒で蛇を打っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害するなら、自己の安楽を探し求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得ない。

 

 彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害さないなら、自己の安楽を探し求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得る」と。〔以上が〕第三となる。

 

2. 4. 尊敬の経

 

14. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有ります。比丘の僧団もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、世尊への〔人々の〕尊敬に耐えられず、さらに、比丘の僧団への〔人々の尊敬に耐えられず〕、かつまた、村においても、かつまた、林においても、比丘たちを見ては、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今現在、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。比丘の僧団もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。尊き方よ、そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、世尊への〔人々の〕尊敬に耐えられず、さらに、比丘の僧団への〔人々の尊敬に耐えられず〕、かつまた、村においても、かつまた、林においても、比丘たちを見ては、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「村において、林において、楽と苦に触れたとして、まさしく、自己〔の観点〕から〔決めつけるべきでは〕なく、他者〔の観点〕から決めつけるべきではない(すべては因縁によって生起する)。〔生存の〕依り所(依存の対象)を縁として、諸々の接触()は触れる。依り所なき者に、どうして、諸々の接触が触れるというのだろう(彼は、楽苦の思いに振り回されない)」と。〔以上が〕第四となる。

 

2. 5. 在俗信者の経

 

15. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりのイッチャーナンガラ〔村〕の在俗信者が、サーヴァッティーに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、その在俗信者は、サーヴァッティーにおいて、その用事を済ませて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その在俗信者に、世尊は、こう言いました。「在俗信者よ、長きのはてに、まさに、あなたは、この時機を作りました。すなわち、この、ここにやってくるために」と。

 

 「尊き方よ、長いあいだずっと、わたしは、世尊と会見するために近づいて行くことを欲するも、しかしながら、また、わたしは、あれやこれやの義務や用事によって多忙でありまして、このように、わたしは、世尊と会見するために近づいて行くことができなかったのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「安楽なるかな──法(真理)を究めた多聞の者には、まさに、彼には、何であれ、有ることなくある。所有ある者を見よ──打ちのめされている。人は、人にたいし、結縛の形態あるもの(人は、所有の思いに悩まされる)」と。〔以上が〕第五となる。

 

2. 6. 妊婦の経

 

16. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの遍歴遊行者に、妊婦で臨月の、若く幼い夫人が有ります。そこで、まさに、その女性遍歴遊行者(妊婦)は、その遍歴遊行者に、こう言いました。「婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、油を持ってきてくださいな。それは、お産をするわたしのために成るでしょう」と。

 

 このように説かれたとき、その遍歴遊行者は、その女性遍歴遊行者に、こう言いました。「尊き方よ、また、どうして、わたしが、油を持ってくるのだい」と。再度また、まさに、その女性遍歴遊行者は、その遍歴遊行者に、こう言いました。「婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、油を持ってきてくださいな。それは、お産をするわたしのために成るでしょう」と。再度また、まさに、その遍歴遊行者は、その女性遍歴遊行者に、こう言いました。「尊き方よ、また、どうして、わたしが、油を持ってくるのだい」と。三度また、まさに、その女性遍歴遊行者は、その遍歴遊行者に、こう言いました。「婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、油を持ってきてくださいな。それは、お産をするわたしのために成るでしょう」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の貯蔵庫において、あるいは、沙門のために、あるいは、婆羅門のために、あるいは、酥を、あるいは、油を、義(必要)とするだけ飲むことが許されています──運び出すことは〔許され〕ませんが。

 

 そこで、まさに、その遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「さてまた、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の貯蔵庫において、あるいは、沙門のために、あるいは、婆羅門のために、あるいは、酥を、あるいは、油を、義(必要)とするだけ飲むことが許されている──運び出すことは〔許され〕ないが。それなら、さあ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の貯蔵庫に赴いて、油を義(必要)とするだけ飲んで、家に帰って、吐き出して与えるのだ。それは、お産をするこの者のために成るであろう」と。

 

 そこで、まさに、その遍歴遊行者は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の貯蔵庫に赴いて、油を、義(必要)とするだけ飲んで家に帰って、〔飲んだ油を〕上に為すこともできず、また、下に〔為すこともでき〕ません。彼は、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受に襲われ、ころがり回り、のたうち回ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、その遍歴遊行者が、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受に襲われ、ころがり回り、のたうち回っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼らが、無一物であるなら、まさに、安楽の者たちである。まさに、〔真の〕知に至る人たちは、無一物である。所有ある者を見よ──打ちのめされている。人は、人にたいし、結縛の心あるもの」と。〔以上が〕第六となる。

 

2. 7. 独り子の経

 

17. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの在俗信者の愛しく意に適う独り子が、命を終えるところと成ります。

 

 そこで、まさに、大勢の在俗信者たちが、濡れた衣と濡れた髪で、昼のさなかに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの在俗信者たちに、世尊は、こう言いました。「在俗信者たちよ、いったい、まさに、どうして、あなたたちは、濡れた衣と濡れた髪で、ここに近づいて行ったのですか──昼のさなかに」と。

 

 このように説かれたとき、その在俗信者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしの、まさに、愛しく意に適う独り子が、命を終えたのです。それで、わたしたちは、濡れた衣と濡れた髪で、ここに近づいて行ったのです──昼のさなかに」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「愛しい形態や快楽〔の思い〕に拘束された天の身体ある者たちも、そして、多々なる人間たちも、悩苦ある者たちであり、老い朽ちる者たちとして、死魔の王の支配に赴く。

 

 彼らが、まさに、そして、昼に、さらに、夜に、〔気づきを〕怠らず、愛しい形態〔にたいする執着の思い〕を捨棄するなら、彼らは、まさに、悩苦の根(執着の思い)を、超克し難い死魔の餌(欲望の対象)を、掘り崩す」と。〔以上が〕第七となる。

 

2. 8. スッパヴァーサーの経

 

18. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クンディカーに住んでおられます。クンダダーナ林において。また、まさに、その時点にあって、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーが、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受に襲われながら、三つの思考によって耐え忍びます。「正等覚者なのです──まさに、彼は、世尊は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、法(教え)を説示します」「善き実践者なのです──まさに、彼の、世尊の、弟子の僧団は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、〔道の〕実践者としてあります」「極めて安楽なのです──まさに、その涅槃〔の境処〕は。すなわち、このような形態の、この苦痛が等しく見出されないところです」と。

 

 そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、主人に告げました。「旦那さま、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行ってください。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねてください。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説いてください。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受に襲われながら、三つの思考によって耐え忍びます。「正等覚者なのです──まさに、彼は、世尊は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、法(教え)を説示します」「善き実践者なのです──まさに、彼の、世尊の、弟子の僧団は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、〔道の〕実践者としてあります」「極めて安楽なのです──まさに、その涅槃〔の境処〕は。すなわち、このような形態の、この苦痛が等しく見出されないところです」』」と。

 

 「すばらしい」と、まさに、そのコーリヤ〔族〕の子息(夫)は、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーリヤ〔族〕の子息は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受に襲われながら、三つの思考によって耐え忍びます。「正等覚者なのです──まさに、彼は、世尊は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、法(教え)を説示します」「善き実践者なのです──まさに、彼の、世尊の、弟子の僧団は。すなわち、このような形態の、この苦痛を捨棄するために、〔道の〕実践者としてあります」「極めて安楽なのです──まさに、その涅槃〔の境処〕は。すなわち、このような形態の、この苦痛が等しく見出されないところです」』」と。

 

 「コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、安楽の者と成りなさい。無病の者となり、無病の子供を産みなさい」と。また、そして、世尊の言葉と共に、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産みました。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、そのコーリヤ〔族〕の子息は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、自らの家のあるところに、そこへと戻りました。まさに、そのコーリヤ〔族〕の子息は、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーが、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産んだのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、このコーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーが、また、そして、世尊の言葉と共に、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産むのだから」と。〔彼は〕わが意を得た者となり、歓喜した者となり、喜悦と悦意を生じた者と成りました。

 

 そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、主人に告げました。「旦那さま、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行ってください。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説いてください。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、今現在、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産んだのです。彼女は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、食事にお招きいたします。尊き方よ、どうか、世尊は、比丘の僧団と共に、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーの、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕をお受けください』」と。

 

 「すばらしい」と、まさに、そのコーリヤ〔族〕の子息は、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、そのコーリヤ〔族〕の子息は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、今現在、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産んだのです。彼女は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、食事にお招きいたします。尊き方よ、どうか、世尊は、比丘の僧団と共に、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーの、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕をお受けください』」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、或るひとりの在俗信者によって、覚者を筆頭とする比丘の僧団は、明日、食事に招かれた状態でいます(先約があった)。そして、その在俗信者は、尊者マハー・モッガッラーナの奉仕者(外護者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、さあ、あなたは、その在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その在俗信者に、このように説きなさい。『友よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、今現在、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産んだのです。彼女は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、食事に招きます。コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーには、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕を為してもらいましょう。そのあと、あなたが為すことになるでしょう』と。彼は、あなたの奉仕者です」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に答えて、その在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その在俗信者に、こう言いました。「友よ、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七年のあいだ、胎児を宿し、七日のあいだ、難産となるも、彼女は、今現在、安楽の者となり、無病の者となり、無病の子供を産んだのです。彼女は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、食事に招きます。コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーには、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕を為してもらいましょう。そのあと、あなたが為すことになるでしょう」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、尊貴なるマハー・モッガッラーナが、わたしのために、そして、諸々の財物の、かつまた、生命の、さらに、信の、〔これらの〕三つの法(事象)の保証人になられるなら、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーには、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕を為してもらいましょう。そのあと、わたしが為すことになるでしょう」と。「友よ、わたしは、まさに、あなたのために、そして、諸々の財物の、かつまた、生命の、〔これらの〕二つの法(事象)の保証人になります。いっぽう、信については、あなたこそが、保証人なのです」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、尊貴なるマハー・モッガッラーナが、わたしのために、そして、諸々の財物の、かつまた、生命の、〔これらの〕二つの法(事象)の保証人になられるなら、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーには、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕を為してもらいましょう。そのあと、わたしが為すことになるでしょう」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その在俗信者を説得して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、説得されました──その在俗信者は、わたしによって。コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーには、七〔日〕にわたる食事〔の布施〕を為してもらいましょう。そのあと、彼が為すことになるでしょう」と。

 

 そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そして、その幼児に、世尊を敬拝させました──さらに、比丘の僧団の全てをも。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、その幼児に、こう言いました。「幼児よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。何らかの苦痛はありませんか」と。「尊き方よ、サーリプッタよ、どうして、わたしが、息災なのでしょう。どうして、順調なのでしょう。わたしは、七年のあいだ、血の釜(子宮)のなかで過ごしたのです」と。

 

 そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、「わたしの子供が、法(教え)の軍団長(サーリプッタ長老)を相手に話し合っている」と、わが意を得た者となり、歓喜した者となり、喜悦と悦意を生じた者と成りました。そこで、まさに、世尊は、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーが、わが意を得た者となり、歓喜した者となり、喜悦と悦意を生じたのを見出して、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーに、こう言いました。「スッパヴァーサーよ、あなたは、他にもまた、このような形態の〔利発な〕子供を求めますか」と。「世尊よ、わたしは、他にもまた、このような形態の七者の〔利発な〕子供を求めます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「快ならざるものを快なる形態によって、愛しくないものを愛しい形態によって、苦なるものを楽なる形態によって、怠りあるものを超克する」と。〔以上が〕第八となる。

 

2. 9. ヴィサーカーの経

 

19. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂:ヴィサーカー・ミガーラマータルが寄進した堂舎)において。また、まさに、その時点にあって、ヴィサーカー・ミガーラマータルには、何らかの或る義(利益)に関連したことが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にあるのですが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それを、志向するとおりに取り計らってくれません。

 

 そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルは、昼のさなかに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。「ヴィサーカーよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。「尊き方よ、ここに、わたしには、何らかの或る義(利益)に関連したことが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にあるのですが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それを、志向するとおりに取り計らってくれません」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「他者の支配あることは、一切が、苦痛である。主権者たることは、一切が、安楽である。〔他者と〕共通の〔為すべき義務〕に、〔人々は〕打ちのめされる。まさに、諸々の束縛は、超越し難きもの」と。〔以上が〕第九となる。

 

2. 10. バッディヤの経

 

20. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アヌピヤーに住んでおられます。〔郊外の〕アンバ林(マンゴーの果樹園)において。また、まさに、その時点にあって、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、「ああ、安楽だ」「ああ、安楽だ」と、感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 まさに、大勢の比丘たちは、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、「ああ、安楽だ」「ああ、安楽だ」と、感興〔の言葉〕を唱えているのを耳にしました。耳にして、彼らに、この〔思い〕が有りました。「友よ、疑念〔の余地〕なく、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、喜び楽しまない者として梵行(禁欲清浄行)を歩む。すなわち、過去において、在家者として有ったときの王権の安楽があるので、彼は、それを思い浮かべながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのだ」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えました。尊き方よ、疑念〔の余地〕なく、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。すなわち、過去において、在家者として有ったときの王権の安楽があるので、彼は、それを思い浮かべながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、バッディヤ比丘に告げなさい。『友よ、バッディヤよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、こう言いました。「友よ、バッディヤよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、世尊は、こう言いました。

 

 「バッディヤよ、本当に、まさに、あなたは、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

 「バッディヤよ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのですか」と。「尊き方よ、わたしが、過去において、在家者として有ったとき、王権を為していると、宮殿の内にもまた、善く差配された守護が有り、宮殿の外にもまた、善く差配された守護が有り、城市の内にもまた、善く差配された守護が有り、城市の外にもまた、善く差配された守護が有り、地方の内にもまた、善く差配された守護が有り、地方の外にもまた、善く差配された守護が有りました。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、このように守護され、保護されていたのですが、疲れ、恐れ、怯え、疑いある者として、恐れある者として、〔世に〕住んでいました。尊き方よ、また、まさに、わたしは、今現在、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、独りでありながら、恐れず、怯えず、疑いなく、恐れなく、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者となり、穏やかに成った心で〔世に〕住んでいます。尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以を正しく見ながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、幾度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼に、諸々の〔心の〕動乱が、〔心の〕内から存在しないなら、そして、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を超克した者であり、恐怖〔の思い〕が離れ去った、安楽で憂いなき彼を、天〔の神々〕たちは、見ようとして適わない(神を超えた存在である)」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ムチャリンダの章が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ムチャリンダ、王があり、棒とともに、尊敬があり、さらに、在俗信者とともに、妊婦、そして、独り子、スッパヴァーサー、さらに、ヴィサーカー、カーリーゴーダーの〔子の〕バッディヤがあり、〔それらの十がある〕」と。

 

3. ナンダの章

 

3. 1. 行為の報いから生じるものの経

 

21. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、世尊から遠く離れていないところで、結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、過去の行為の報い(業報)から生じる、強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を耐え忍びながら、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、その比丘が、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、過去の行為の報いから生じる、強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を耐え忍びながら、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「一切の行為()を捨棄する比丘にとって、かつて作り為した塵を払い落としている者にとって、我執なく〔心が〕安立した如なる者にとって、人と談論することに義(利益)は存在しない(無駄話はしない)」と。〔以上が〕第一となる。

 

3. 2. ナンダの経

 

22. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊とは兄弟(異母弟)でもあり叔母の子(従兄弟)でもある尊者ナンダが、大勢の比丘たちに、このように告げます。「友よ、わたしは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。梵行を保つことができません。学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう(戒を捨てて還俗します)」と。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダが、大勢の比丘たちに、このように告げます。『友よ、わたしは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。梵行を保つことができません。学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、ナンダ比丘に告げなさい。『友よ、ナンダよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者ナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ナンダに、こう言いました。「友よ、ナンダよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ナンダは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「ナンダよ、本当に、まさに、あなたは、大勢の比丘たちに、このように告げるのですか。『友よ、わたしは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。梵行を保つことができません。学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

 「ナンダよ、また、どうして、あなたは、喜び楽しまない者として梵行を歩むのですか。梵行を保つことができないのですか。学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのでしょうか」と。「尊き方よ、わたしが家から出るとき、釈迦〔族〕のジャナパダ・カルヤーニー(尊者ナンダの許嫁で釈迦族の美人)が、半分に梳いた諸々の髪とともに振り返って、わたしに、こう言いまいた。『旦那さま、まさに、早く帰ってこられますように』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、彼女のことを思い浮かべながら、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。梵行を保つことができません。学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダの腕を掴んで、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天に出現しました。

 

 また、まさに、その時点にあって、五百ばかりの仙女たちが、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕の奉仕に到来するところと成ります。カクタパーダ(鳩の足)〔という名の仙女〕たちです。そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダに告げました。「ナンダよ、まさに、あなたは見ますか──これらの五百の仙女カクタパーダたちを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」と。

 

 「ナンダよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらの者が、あるいは、より形姿麗しい者であり、あるいは、より美しい者であり、あるいは、より澄浄なる者ですか──あるいは、釈迦〔族〕のジャナパダ・カルヤーニーですか、あるいは、これらの五百の仙女カクタパーダたちですか」と。「尊き方よ、それは、たとえば、また、耳鼻を切断され〔手足を〕損傷した雌猿のように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、釈迦〔族〕のジャナパダ・カルヤーニーは、これらの五百の仙女たちと比較して、計測にもまた至らず、小部分にもまた至らず、比較にもまた至りません。そこで、まさに、これらの五百の仙女たちは、まさしく、そして、より形姿麗しい者たちであり、かつまた、より美しい者たちであり、さらに、より澄浄なる者たちです」と。

 

 「ナンダよ、喜び楽しみなさい。ナンダよ、喜び楽しみなさい。わたしは、あなたのために、五百の仙女カクダパーダたちを獲得するための保証人になります」と。「尊き方よ、それで、もし、わたしのために、世尊が、五百の仙女カクダパーダたちを獲得するための保証人になるなら、尊き方よ、わたしは、世尊のもと、梵行を喜び楽しむでしょう(修行に励みます)」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダの腕を掴んで、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、ジェータ林に出現しました。

 

 まさに、比丘たちは、「世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダが、どうやら、仙女たちを因として、梵行を歩むらしい。世尊が、どうやら、彼のために、五百の仙女カクダパーダたちを獲得するための保証人らしい」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、尊者ナンダの道友の比丘たちは、尊者ナンダのことを、かつまた、「雇われ人」という説き方で、かつまた、「商売人」という説き方で、呼び慣わします。「尊者ナンダは、どうやら、雇われ人らしい。尊者ナンダは、どうやら、商売人らしい。仙女たちを因として、梵行を歩む。世尊は、どうやら、彼のために、五百の仙女カクダパーダたちを獲得するための保証人らしい」と。

 

 そこで、まさに、尊者ナンダは、道友の比丘たちの、かつまた、「雇われ人」という説き方で、かつまた、「商売人」という説き方で、苦悩し、自責し、忌避しながら、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者ナンダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なき、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)を、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。世尊にもまた、まさに、知恵()が生起しました。「ナンダは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と。

 

 そこで、まさに、尊者ナンダは、その夜が明けると、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、わたしのために、世尊が、五百の仙女カクダパーダたちを獲得するための保証人となるとして、尊き方よ、わたしは、世尊を、この承諾から解き放ちます(なかったことにしてください)」と。「ナンダよ、わたしによってもまた、まさに、あなたは、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『ナンダは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む』と。天神もまた、わたしに、この義(道理)を告げました。『尊き方よ、世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。ナンダよ、まさしく、すなわち、まさに、あなたの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したとき、そこで、わたしは、この承諾から解き放たれたのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼が、〔貪欲の〕汚泥を超え出たなら、欲望の棘(いばら)を踏み敷いたなら、迷妄の滅尽(無知の消滅)に至り得た者となり、諸々の楽苦にたいし動じない。彼は、比丘である」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 3. ヤソージャの経

 

23. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ヤソージャを筆頭とする五百ばかりの比丘たちが、世尊と会見するために、サーヴァッティーに到着するところと成ります。ここに、まさに、それらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、これらの者たちは、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、ヤソージャを筆頭とする五百ばかりの比丘たちです。世尊と会見するために、サーヴァッティーに到着したのです。それで、これらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、それらの比丘たちに告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、どうして、あなたたちは、漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのですか」と。このように説かれたとき、尊者ヤソージャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これらの五百ばかりの比丘たちは、世尊と会見するために、サーヴァッティーに到着したのです。それで、これらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「比丘たちよ、去りなさい。あなたたちを追い出します。あなたたちは、わたしの現前に住するべきではありません」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、ヴァッジー〔国〕のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。ヴァッジー〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴァッグムダー川のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ヴァッグムダー川の岸辺において、諸々の柴小屋を作って、雨期〔の滞在〕に入りました。

 

 そこで、まさに、雨期〔の滞在〕に入った尊者ヤソージャは、比丘たちに告げました。「友よ、世尊は、〔わたしたちの〕義(利益)を欲し利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて、わたしたちを追い出したのです。友よ、すなわち、わたしたちが〔世に〕住んでいると、世尊が、わが意を得た者として存するように、さあ、わたしたちは、そのように、〔雨期の〕住を営むのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヤソージャに答えました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、その雨期の間に、まさしく、全ての者たちが、三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)を実証しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちの心を探知して、〔彼らに〕意を為して、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、わたしには、この方角が、光明を生じたかのように〔見えます〕。アーナンダよ、わたしには、この方角が、光輝を生じたかのように〔見えます〕。その方角には、ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちが住んでいます。〔そこに、彼らが〕赴くことは、わたしにとって、嫌悪ならざるものとして存しました──〔そこに、わたしが〕意を為すことも。アーナンダよ、あなたは、使者を送るのです──ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちの現前に。『教師が、尊者たちに告げます。教師が、尊者たちと会見することを欲しています』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、さあ、あなたは、ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちに、このように説きなさい。『教師が、尊者たちに告げます。教師が、尊者たちと会見することを欲しています』」と。

 

 「友よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、尊者アーナンダに答えて、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、マハー林の楼閣堂において消没し、ヴァッグムダー川の岸辺において、それらの比丘たちの前に出現しました。そこで、まさに、その比丘は、ヴァッグムダー〔川〕の岸辺の比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちに告げます。教師が、尊者たちと会見することを欲しています」と。

 

 「友よ、わかりました」と。まさに、それらの比丘たちは、その比丘に答えて、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ヴァッグムダー川の岸辺において消没し、マハー林の楼閣堂において、世尊の面前に出現しました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、不動の禅定によって坐った状態でおられます。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、世尊は、今現在、どのような住によって住んでいるのか」と。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、世尊は、今現在、不動の住によって住んでいる」と。まさしく、全ての者たちが、〔世尊と同じ〕不動の禅定によって坐りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、初夜(宵の内)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、初夜を過ぎました。来客の比丘たちは、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、来客の比丘たちとともに〔出会いを〕喜び合ってください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者として有りました。

 

 再度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、中夜(真夜中)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、中夜を過ぎました。来客の比丘たちは、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、来客の比丘たちとともに〔出会いを〕喜び合ってください」と。このように説かれたとき、再度また、まさに、世尊は、沈黙の者として有りました。

 

 三度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、後夜(明け方)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、後夜を過ぎました。来客の比丘たちは、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、来客の比丘たちとともに〔出会いを〕喜び合ってください」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、その禅定から出起して、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、それで、もし、まさに、あなたが、〔禅定のことを〕知っているなら、これほどまでに、あなたに、応答することはないのですが(三度も語りかける必要はなかった)。アーナンダよ、そして、わたしも、さらに、これらの五百の比丘たちも、まさしく、全ての者たちが、不動の禅定によって坐っていました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼が、欲望の棘に勝利したなら、かつまた、罵倒に、かつまた、殴打に、かつまた、結縛に〔勝利したなら〕、彼は、山のように安立した不動の者となり、諸々の楽苦にたいし動じない。彼は、比丘である」と。〔以上が〕第三となる。

 

3. 4. サーリプッタの経

 

24. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐った状態でいます。まさに、世尊は、尊者サーリプッタが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「あたかも、また、山の巌(いわお)が、揺れ動かず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように動じない」と。〔以上が〕第四となる。

 

3. 5. マハー・モッガッラーナの経

 

25. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が内に善く現起され、坐った状態でいます。まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づきが内に善く現起され、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「身体の在り方についての気づきが現起され、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)において統御され、常に〔心が〕定められた比丘は、自己の涅槃を知るであろう」と。〔以上が〕第五となる。

 

3. 6. ピリンダヴァッチャの経

 

26. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ピリンダヴァッチャが、比丘たちのことを、「賎民」という説き方で呼び慣わします。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者ピリンダヴァッチャが、比丘たちのことを、『賎民』という説き方で呼び慣わします」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、ピリンダヴァッチャ比丘に告げなさい。『友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者ピリンダヴァッチャのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ピリンダヴァッチャに、こう言いました。「友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。

 

 「友よ、わかりました」と。まさに、尊者ピリンダヴァッチャは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ピリンダヴァッチャに、世尊は、こう言いました。「ヴァッチャよ、本当に、まさに、あなたは、比丘たちのことを、『賎民』という説き方で呼び慣わすのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ピリンダヴァッチャの過去の居住(前世)に意を為して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、ヴァッチャ比丘を譴責してはいけません。比丘たちよ、ヴァッチャは、怒りを内にして、比丘たちのことを、『賎民』という説き方で呼び慣わすのではありません。比丘たちよ、ヴァッチャ比丘の五百の生が、途切れることなく、婆羅門の家系に生まれ落ちたのです。彼の『賎民』という説き方は、それは、長夜にわたり、呼び慣わされてきたものです。それで、このヴァッチャは、比丘たちのことを、『賎民』という説き方で呼び慣わすのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼のうちに、幻惑〔の策略〕(:ごまかしやあざむきの心)が住みつかず、〔我想の〕思量(:自他を比較し価値づける心)が〔住みつか〕ないなら──彼が、貪欲を離れ、我執なく、願望なく、忿激を除き、自己が寂滅した者であるなら──彼は、婆羅門である、彼は、沙門である、彼は、比丘である」と。〔以上が〕第六となる。

 

3. 7. 帝釈〔天〕の感興〔の言葉〕の経

 

27. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッサパは、ピッパリ窟に住んでいます。七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でいます。何らかの或る禅定に入定して。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、その七日が経過して、その禅定から出起しました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパに、その禅定から出起したとき、この〔思いが〕有りました。「それなら、さあ、わたしは、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入るのだ」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、五百ばかりの天神たちが、〔適切ならざる〕思い入れを起こすところと成ります(余計な世話を焼こうとした)──尊者マハー・カッサパが、〔行乞の〕施食を得るために。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、それらの五百ばかりの天神たち〔の適切ならざる施し〕を拒絶して、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕が、尊者マハー・カッサパに〔行乞の〕施食を施すことを欲する者として有ります。〔彼は〕織物師の姿に化作して、機(はた)を織ります。阿修羅の娘のスジャー(帝釈天の妻)は、梭(機織の道具・シャトル)を〔糸で〕満たします。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、ラージャガハにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者マハー・カッサパが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、家から出て〔尊者を〕出迎えて、手から鉢を収め取って、家に入って櫃(ひつ)から飯を取り出して、鉢を満たして、尊者マハー・カッサパに施しました。その〔行乞の〕施食は、無数の汁と無数の香味と無数の味と香味が有りました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、誰なのだ、この有情は──彼に、このような形態の、この神通の威力があるとは」と。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕である」と。かくのごとく見出して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「コーシヤ(帝釈天)よ、まさに、あなたによって、このことが為されました。ふたたび、また、このような形態〔の布施〕を為してはいけません」と。「尊き方よ、カッサパよ、わたしたちにもまた、功徳〔を積むこと〕による義(利益)があります。わたしたちにもまた、功徳〔を積むこと〕による為すべきことがあります」と。

 

 そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者マハー・カッサパを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、三回、「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」と、感興〔の言葉〕を唱えました。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、三回、「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」「ああ、布施が、最高の布施が、カッサパにおいて、善く確立するところとなった」と、感興〔の言葉〕を唱えているのを耳にしました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔行乞の〕施食の者(托鉢行者)として自己を養い、他者を扶養する〔義務〕なき比丘(自主独立の自己確立者)──寂静にして常に気づきある者──そのような者を、天〔の神々〕たちは羨む」と。〔以上が〕第七となる。

 

3. 8. 〔行乞の〕施食の者の経

 

28. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、カレーリの円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。

 

 「友よ、〔行乞の〕施食の者(托鉢で得られた食だけで生きる者)として、比丘が、〔行乞の〕食のために歩んでいると、〔その〕時〔その〕時に、眼によって、諸々の意に適う形態()を見ることを得ます。〔その〕時〔その〕時に、耳によって、諸々の意に適う音声()を聞くことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、鼻によって、諸々の意に適う臭気()を嗅ぐことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、舌によって、諸々の意に適う味感()を味わうことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、身によって、諸々の意に適う感触(所触)と接触することを得ます。友よ、〔行乞の〕施食の者として、比丘は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、〔行乞の〕食のために歩みます。友よ、さあ、わたしたちもまた、〔行乞の〕施食の者たちとして〔世に〕有るのです。わたしたちもまた、〔その〕時〔その〕時に、眼によって、諸々の意に適う形態を見ることを得るのです。〔その〕時〔その〕時に、耳によって、諸々の意に適う音声を聞くことを得るのです。〔その〕時〔その〕時に、鼻によって、諸々の意に適う臭気を嗅ぐことを得るのです。〔その〕時〔その〕時に、舌によって、諸々の意に適う味感を味わうことを得るのです。〔その〕時〔その〕時に、身によって、諸々の意に適う感触と接触することを得るのです。わたしたちもまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、〔行乞の〕食のために歩むのです」と。それで、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、カレーリの円形堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、カレーリの円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。

 

 『友よ、〔行乞の〕施食の者として、比丘が、〔行乞の〕食のために歩んでいると、〔その〕時〔その〕時に、眼によって、諸々の意に適う形態を見ることを得ます。〔その〕時〔その〕時に、耳によって、諸々の意に適う音声を聞くことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、鼻によって、諸々の意に適う臭気を嗅ぐことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、舌によって、諸々の意に適う味感を味わうことを得ます。〔その〕時〔その〕時に、身によって、諸々の意に適う感触と接触することを得ます。友よ、〔行乞の〕施食の者として、比丘は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、〔行乞の〕食のために歩みます。友よ、さあ、わたしたちもまた、〔行乞の〕施食の者たちとして〔世に〕有るのです。わたしたちもまた、〔その〕時〔その〕時に、眼によって、諸々の意に適う形態を見ることを……略……接触することを得るのです。わたしたちもまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、〔行乞の〕食のために歩むのです』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたたちが、このような形態の議論を議論することです。比丘たちよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔行乞の〕施食の者として自己を養い、他者を扶養する〔義務〕なき比丘──もし、〔彼が、獲得した〕評判と名声に依存する者とならないなら──そのような者を、天〔の神々〕たちは羨む」と。〔以上が〕第八となる。

 

3. 9. 技能の経

 

29. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、食事のあと、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、いったい、まさに、誰が、技能を知っているのですか。誰が、どのような技能を学んでいたのですか。どの技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものなのですか」と。

 

 そこにおいて、一部のたちは、このように言いました。「象の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「馬の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「車の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「弓の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「剣の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「指算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「計算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「目算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「書写の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「詩作の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「処世の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。一部の者たちは、このように言いました。「治世術の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります」と。それで、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、円形堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『友よ、いったい、まさに、誰が、技能を知っているのですか。誰が、どのような技能を学んでいたのですか。どの技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものなのですか』と。

 

 そこにおいて、一部のたちは、このように言いました。『象の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『馬の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『車の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『弓の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『剣の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『指算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『計算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『目算の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『書写の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『詩作の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『処世の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。一部の者たちは、このように言いました。『治世術の技能が、諸々の技能のなかでは、至高のものとなります』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたたちが、このような形態の議論を議論することです。比丘たちよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「技能によって生きる者ではなく、〔心が〕軽やかで、義(道理)を欲する者──〔感官の〕機能を制し、一切所に解脱した者──家なくして行き、我執なく、願望なく、〔我想の〕思量を捨棄して、独り歩む者──彼は、比丘である」と。〔以上が〕第九となる。

 

3. 10. 世の経

 

30. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。

 

 そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起して、覚者の眼によって、世を眺めました。まさに、世尊は、覚者の眼によって、世を(※)眺めながら、無数の熱苦によって熱せられ、さらに、無数の苦悶によって遍く焼かれている、有情たちを見ました──諸々の貪欲()から生じるものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕、諸々の憤怒()から生じる諸々のものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕、諸々の迷妄()から生じる諸々のものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕。

 

※ PTS版により loka を補う。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「この世〔の人々〕は、熱苦が生じ、接触(:感覚の発生)に打ち負かされ、自己〔の観点〕から、〔自己の〕病を説く。まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る。

 

 世〔の人々〕は、他なる状態あるも、生存()に執着し、生存に打ち負かされ、まさしく、生存に愉悦する。それに愉悦するなら、それは、恐怖である。それに恐怖するなら、それは、苦しみである。また、まさに、〔迷いの〕生存を捨棄するために、この梵行は住される(実践される)。

 

 まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、生存(:実体)〔の観点〕によって、生存の解脱を言うなら、『彼らは、全ての者たちが〔常住論者であり〕、〔迷いの〕生存から解脱していない』と、〔わたしは〕説く。また、あるいは、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、非生存(非有:虚無)〔の観点〕によって、生存の出離を言うなら、『彼らは、全ての者たちが〔断滅論者であり〕、〔迷いの〕生存から出離していない』と、〔わたしは〕説く。

 

 まさに、この苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)を縁として発生する。一切の執取の滅尽あることから、苦しみの発生は存在しない。見よ──この世〔の人々〕を。多々に無明によって打ち負かされた生類たちであり、生類であることを喜ぶ者たちであり、〔迷いの生存から〕完全に解き放たれていない者たちである。『まさに、それらが何であれ、生存であるなら、一切所において、一切所にわたり、それらの生存は、全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と──

 

 このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧(慧・般若)によって見ていると、生存にたいする渇愛〔の思い〕は捨棄され、非生存(虚無的生存)に愉悦することもない。

 

 全てにわたり、諸々の渇愛の滅尽あることから、残りなき離貪と止滅があり、涅槃がある。〔何も〕執取せずして涅槃に到達した、その比丘に、さらなる生存は有ることなくある。悪魔は征服され、戦場は征圧された。そのような者は、一切の生存を超え行った」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ナンダの章が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「行為(行為の報いから生じるもの)、ナンダ、そして、ヤソージャ、さらに、サーリプッタ、コーリタ(マハー・モッガッラーナ)、ピリンダ(ピリンダヴァッチャ)、カッサパ(帝釈〔天〕の感興〔の言葉〕)、〔行乞の〕食(〔行乞の〕施食の者)、技能があり、世とともに、それらの十がある」と。

 

4. メーギヤの章

 

4. 1. メーギヤの経

 

31. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャーリカーに住んでおられます。チャーリカ山において。また、まさに、その時点にあって、尊者メーギヤが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入ることを求めます」と。「メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者メーギヤは、キミカーラー川の岸辺において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、澄浄にして快意で喜ばしいアンバ林(マンゴーの果樹園)を見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、澄浄にして快意で喜ばしいアンバ林である。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分なるものがある。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう」と。

 

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。尊き方よ、まさに、わたしは、キミカーラー川の岸辺において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、澄浄にして快意で喜ばしいアンバ林を見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これは、澄浄にして快意で喜ばしいアンバ林である。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分なるものがある。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう』と。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、尊者メーギヤに、こう言いました。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。すなわち、誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまでは、それまで、〔わたしは〕独りきりで存するのですから」と。

 

 再度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔為すべきことを為した〕世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、いっぽう、まさに、〔為すべきことを為していない〕わたしには、より上なる為すべきことが存在します。為したことの〔より上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。再度また、まさに、世尊は、尊者メーギヤに、こう言いました。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。すなわち、誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまでは、それまで、〔わたしは〕独りきりで存するのですから」と。

 

 三度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔為すべきことを為した〕世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、いっぽう、まさに、〔為すべきことを為していない〕わたしには、より上なる為すべきことが存在します。為したことの〔より上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。「メーギヤよ、まさに、『精励する』と説いている者に、何をどう説くというのでしょう。メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、そのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そのアンバ林に深く入って行って、或るどこかの木の根元において、昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために坐りました。そこで、まさに、尊者メーギヤが、そのアンバ林に住んでいると、多くのところとして、三つの悪しき善ならざる思考()が行き交います。それは、すなわち、この──欲望の思考が、憎悪の思考が、悩害の思考が。

 

 そこで、まさに、尊者メーギヤに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕存している。そこで、また、そして、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ。それは、すなわち、この──欲望の思考に、憎悪の思考に、悩害の思考に」と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。以下の平行箇所も同様。

 

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしが、そのアンバ林に住んでいると、多くのところとして、三つの悪しき善ならざる思考が行き交います。それは、すなわち、この──欲望の思考が、憎悪の思考が、悩害の思考が。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕存している。そこで、また、そして、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ。それは、すなわち、この──欲望の思考に、憎悪の思考に、悩害の思考に』」と。

 

 「メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、五つの法(性質)が、円熟のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。

 

 (1)メーギヤよ、ここに、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第一の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 

 (2)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第二の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 

 (3)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第三の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 

 (4)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第四の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 

 (5)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものたる、生成と滅至の智慧を具備した者として。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第五の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、これらの五つの法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 

 メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、戒ある者として〔世に〕有るでしょうし、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住むでしょうし、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶでしょう。

 

 メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、すなわち、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るでしょう。

 

 メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、精進に励む者として〔世に〕住むでしょう──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。

 

 メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、智慧ある者として〔世に〕有るでしょう──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものたる、生成と滅至の智慧を具備した者として。

 

 メーギヤよ、さらに、また、その比丘によって、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なるものとして、四つの法(性質)が修められるべきです。(6)貪欲〔の思い〕の捨棄のために、不浄〔の表象〕(不浄想)が修められるべきであり、(7)憎悪〔の思い〕の捨棄のために、慈愛〔の心〕(:慈悲の瞑想)が修められるべきであり、(8)思考の断絶のために、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が修められるべきであり、(9)『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の根絶ために、無常の表象(無常想)が修められるべきです。メーギヤよ、まさに、無常の表象ある者には、無我の表象(無我想)が確立します。無我の表象ある者は、『〔わたしは〕存在する』という思量の根絶に、涅槃に、まさしく、所見の法(現法:現世)において至り得ます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「諸々の思考〔の働き〕は、微小である。諸々の思考〔の働き〕は、繊細である。意に従い行き、跳ね回っている。意の、これらの思考〔の働き〕を知ることなく、心が迷走している者は、あの〔世〕からあの〔世〕へと走り行く。

 

 しかしながら、意の、これらの思考〔の働き〕を知る、熱情ある、気づきの者は、〔自己の心身を〕統御する。意に従い行き、跳ね回っている、これら〔の思考の働き〕を、覚者は、残りなく捨棄した」と。〔以上が〕第一となる。

 

4. 2. 〔心が〕高揚した者たちの経

 

32. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊から遠く離れていないところに住んでいます。林の小屋において、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちとなり。

 

 まさに、世尊は、それらの大勢の比丘たちが、遠く離れていないところで、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者たちとなり、林の小屋に住んでいるのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「身体が守られていないことで、そして、誤った見解(邪見)に打破されたことで、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に征服されたことで、〔人は〕悪魔の支配に赴く。

 

 それゆえに、〔常に〕心が守られた者となり、正しい思惟(正思惟)を境涯とする者となり、〔世に〕存するがよい。正しい見解(正見)を尊びながら、〔物事の〕生成と衰失を〔あるがままに〕知って、〔心の〕沈滞と眠気を征服する比丘は、一切の悪しき境遇(悪趣)を捨棄するであろう」と。〔以上が〕第二となる。

 

4. 3. 牛飼いの経

 

33. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの牛飼いが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その牛飼いに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。

 

 そこで、まさに、その牛飼いは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、その牛飼いは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、その牛飼いは、その夜が明けると、自らの住居地において、沢山の水気の少ない〔濃厚な〕粥を準備して、さらに、新鮮な酥を〔準備して〕、世尊に、時を告げました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、その牛飼いの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、その牛飼いは、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、水気の少ない〔濃厚な〕粥で〔満足させ〕、さらに、新鮮な酥で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、その牛飼いは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その牛飼いに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、世尊が立ち去ったすぐあと、その牛飼いに、或るひとりの男が〔村の〕境界付近で〔襲い掛かり〕、〔彼の〕生命を奪いました。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、その牛飼いによって、今日、覚者を筆頭とする比丘の僧団は、水気の少ない〔濃厚な〕粥で〔満足させられ〕、さらに、新鮮な酥で満足させられ、自らの手で給仕されたのですが、尊き方よ、その牛飼いが、どうやら、或るひとりの男に、〔村の〕境界付近で〔襲われ〕、生命を奪われたらしいのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「すなわち、敵が敵に、かつまた、あるいは、怨みある者が怨みある者に、為すであろう、その〔悪しきこと〕──それよりも、より悪しきことを、誤って向けられた心は、彼に為すであろう」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 4. 夜叉の打撃の経

 

34. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、カポータカンダラーに住んでいます。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、月明かりの夜、諸々の髪を新しく剃り下ろし、野外において、坐った状態でいます。何らかの或る禅定に入定して。

 

 また、まさに、その時点にあって、二者の夜叉の仲間が、北の方角から南の方角に赴きます──何らかの或る用事があって。まさに、それらの夜叉たちは、尊者サーリプッタが、月明かりの夜、諸々の髪を新しく剃り下ろし、野外において、坐っているのを見ました。見て、一者の夜叉が、第二の夜叉に、こう言いました。「友よ、わたしは、この沙門の頭に、打撃を与えたいと思う」と。このように説かれたとき、その夜叉(第二の夜叉)は、その夜叉(第一の夜叉)に、こう言いました。「友よ、やめなさい。沙門を襲ってはいけない。友よ、その沙門は、秀でた者だ。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である」と。

 

 再度また、まさに、その夜叉(第一の夜叉)は、その夜叉(第二の夜叉)に、こう言いました。「友よ、わたしは、この沙門の頭に、打撃を与えたいと思う」と。再度また、まさに、その夜叉は、その夜叉に、こう言いました。「友よ、やめなさい。沙門を襲ってはいけない。友よ、その沙門は、秀でた者だ。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である」と。三度また、まさに、その夜叉は、その夜叉に、こう言いました。「友よ、わたしは、この沙門の頭に、打撃を与えたいと思う」と。三度また、まさに、その夜叉は、その夜叉に、こう言いました。「友よ、やめなさい。沙門を襲ってはいけない。友よ、その沙門は、秀でた者だ。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である」と。

 

 そこで、まさに、その夜叉(第一の夜叉)は、その夜叉(第二の夜叉)に取り合わずして、尊者サーリプッタ長老の頭に打撃を与えました。さてまた、その打撃によって、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の、あるいは、七ラタナ半の、象を〔地面に〕沈めてしまうであろう──あるいは、大いなる山の頂きを裂いてしまうであろう──それほどまでに、大いなる打撃と成りました。そこで、また、そして、その夜叉は、「焼かれる」「焼かれる」と言って、まさしく、その場で、大地獄に落ちました。

 

 まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、人間を超越した清浄の天眼によって、その夜叉が、尊者サーリプッタ長老の頭に打撃を与えているのを見ました。見て、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、何らかの苦痛はありませんか」と。「友よ、モッガッラーナよ、わたしは、息災です。友よ、モッガッラーナよ、わたしは、順調です。ですが、ただ、わたしの頭に僅かな苦痛があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、めったにないことです。友よ、サーリプッタよ、はじめてのことです。それほどまでに、尊者サーリプッタが、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者であるとは。友よ、サーリプッタよ、ここに、或るひとりの夜叉が、あなたの頭に打撃を与えました。さてまた、その打撃によって、あるいは、七ラタナの、あるいは、七ラタナ半の、象を〔地面に〕沈めてしまうであろう──あるいは、大いなる山の頂きを裂いてしまうであろう──それほどまでに、大いなる打撃と成りました。そこで、また、そして、尊者サーリプッタは、このように言いました。『友よ、モッガッラーナよ、わたしは、息災です。友よ、モッガッラーナよ、わたしは、順調です。ですが、ただ、わたしの頭に僅かな苦痛があります』」と。

 

 「友よ、モッガッラーナよ、めったにないことです。友よ、モッガッラーナよ、はじめてのことです。それほどまでに、尊者マハー・モッガッラーナが、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者であるとは。なぜなら、そこで、まさに、夜叉をもまた見るからです。いっぽう、わたしどもは、今現在、泥鬼さえも見ません」と。

 

 まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、それらの大いなる龍象たる両者の、このような形態の、この議論と談論を耳にしました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼の心が、巌の如くに安立し、動揺せず、諸々の貪るべきもの(欲望の対象)について貪りを離れ、諸々の怒るべきことに怒らないなら──彼の心が、このように修められたなら──彼に、どこから、苦しみが至り行くというのだろう」と。〔以上が〕第四となる。

 

4. 5. 象の経

 

35. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住んでおられます。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住んでおられます。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「わたしは、まさに、今現在、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住む。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住む。それなら、さあ、わたしは、独り、〔人々の〕群れから隠棲し、〔世に〕住むのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。コーサンビーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、自ら、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、奉仕者に告げずして、比丘の僧団を顧みずして、独り、伴侶なき者となり、パーリレイヤカ〔村〕のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、パーリレイヤカ〔村〕のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーリレイヤカ〔村〕に住んでおられます。密林に守られた、幸いなるサーラ〔樹〕の根元において。

 

 まさに、或るどこかの巨象もまた、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住んでいます。まさしく、そして、〔彼は〕先端が断ち切られた諸々の草を喰い、さらに、彼が折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らは〕喰います。そして、〔彼は〕濁った諸々の飲み水を飲み、さらに、彼が水場から上がると、雌象たちは身体を擦り寄せながら赴きます。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、その巨象に、この〔思い〕が有りました。「わたしは、まさに、今現在、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住む。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られた諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らは〕喰う。そして、〔わたしは〕濁った諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちは身体を擦り寄せながら赴く。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住む。それなら、さあ、わたしは、独り、〔象たちの〕群れから隠棲し、〔世に〕住むのだ」と。

 

 そこで、まさに、その巨象は、群れから立ち去って、パーリレイヤカ〔村〕の、密林に守られた、幸いなるサーラ〔樹〕の根元のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、その巨象は、その地に世尊が住んでおられるなら、その地を芝生と為し、さらに、世尊のために、鼻で飲用水と洗浄水を調達します。

 

 そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「わたしは、まさに、過去において、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住んでいた。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住んでいた。その〔わたし〕は、今現在、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱されず、〔世に〕存し、〔世に〕住む。〔生活を〕掻き乱されず、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住む」と。

 

 まさに、その巨象にもまた、このような心の思索が浮かびました。「わたしは、まさに、過去において、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住んでいた。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られた諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らは〕喰った。そして、〔わたしは〕濁った諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちは身体を擦り寄せながら赴いた。〔生活を〕掻き乱され、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住んでいた。その〔わたし〕は、今現在、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱されず、〔世に〕存し、〔世に〕住む。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られていない諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らが〕喰うこともない。そして、〔わたしは〕濁っていない諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちが身体を擦り寄せながら赴くこともない。〔生活を〕掻き乱されず、安楽のうちに、平穏に、〔世に〕住む」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、そして、自己の遠離を見出して、さらに、〔自らの〕心をとおして、その巨象の心の思索を了知して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「轅(ながえ)の牙があり、手〔のような鼻〕がある象の、この心は、象たる者(ブッダ)の心と、〔互いが互いを〕行知する──独りある者が、林を(※)喜び楽しむ、そのとき」と。〔以上が〕第五となる。

 

※ テキストには mano とあるが、PTS版により vane と読む。

 

4. 6. ピンドーラの経

 

36. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて──林にある者(林に住む者)として、〔行乞の〕施食の者(托鉢で得られた食だけで生きる者)として、糞掃衣の者(ぼろ布で作った衣をまとう者)として、三つの衣料の者(三つの衣料だけを所有する者)として、少なき欲求の者として、満ち足りている者として、遠離している者として、〔世俗と〕交わりなき者として、精進に励む者として、頭陀行の者(衣食住における不要物の放棄を自らに課す修行者)として、卓越の心(瞑想)に専念する者として──坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて──林にある者として、〔行乞の〕施食の者として、糞掃衣の者として、三つの衣料の者として、少なき欲求の者として、満ち足りている者として、遠離している者として、〔世俗と〕交わりなき者として、精進に励む者として、頭陀行の者として、卓越の心に専念する者として──坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔他者を〕批判しないこと、害さないこと、そして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)において統御すること、かつまた、食について量を知ること、かつまた、辺境に臥坐すること、さらに、卓越の心(瞑想)に専念すること──これは、覚者たちの教えである」と。〔以上が〕第六となる。

 

4. 7. サーリプッタの経

 

37. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、少なき欲求の者として、満ち足りている者として、遠離している者として、〔世俗と〕交わりなき者として、精進に励む者として、卓越の心(瞑想)に専念する者として、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者サーリプッタが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、少なき欲求の者として、満ち足りている者として、遠離している者として、〔世俗と〕交わりなき者として、精進に励む者として、卓越の心に専念する者として、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「卓越の心(瞑想)ある者、〔常に気づきを〕怠らずにいる者、諸々の寂黙の道に学んでいる牟尼、寂静にして常に気づきある者──そのような者に、諸々の憂いは有ることなくある」と。〔以上が〕第七となる。

 

4. 8. スンダリーの経

 

38. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有ります。比丘の僧団もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。

 

 そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、世尊への〔人々の〕尊敬を耐えられずに、さらに、比丘の僧団への〔人々の尊敬を耐えられずに〕、女性遍歴遊行者のスンダリーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、女性遍歴遊行者のスンダリーに、こう言いました。「姉妹よ、あなたはできますか、親族たちの義(利益)を為すことを」と。「尊貴なる方たちよ、わたしは、何を為すのですか。どうして、わたしができないというのでしょう、〔親族たちの義を〕為すことを。生命であろうが、親族たちの義(利益)のために、わたしの捨て放つところです」と。

 

 「姉妹よ、まさに、それでは、〔足繁く〕幾度となく、ジェータ林に赴きなさい」と。「尊貴なる方たちよ、わかりました」と、まさに、女性遍歴遊行者のスンダリーは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに答えて、〔足繁く〕幾度となく、ジェータ林に赴きました。

 

 すなわち、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、「まさに、女性遍歴遊行者のスンダリーは、多くの人々によって、『〔足繁く〕幾度となく、ジェータ林に赴く』〔と〕確実に見られた」と了知したとき、そこで、彼女の生命を奪って、まさしく、その場に、ジェータ林の堀の穴に捨て置いて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、すなわち、〔まさに〕その、女性遍歴遊行者のスンダリーですが、わたしどもは、彼女を見ません(行方不明になりました)」と。「また、どこにいると、あなたたちは疑うのだ」と。「大王よ、ジェータ林です」と。「まさに、それでは、ジェータ林を探しなさい」と。

 

 そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、ジェータ林を探して、捨置されたまま〔の遺骸〕を堀の穴から引き上げて、臥床に載せて、サーヴァッティーに運び入れて、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、人間たちを嫌がらせました。

 

 「尊貴なる方たちよ、見てください。釈迦族の沙門たちの行為を。これらの釈迦族の沙門たちは、恥知らずの者たちであり、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、梵行なき者たちです。なぜなら、まさに、これらの者たちは、〔自らを〕法(真理)の行ないの者たちであると、正しい行ないの者たちであると、梵行ある者たちであると、真理を説く者たちであると、戒ある者たちであると、善き法(性質)ある者たちであると、明言するからです。これらの者たちに、沙門の資質は存在しません。これらの者たちに、婆羅門の資質は存在しません。これらの者たちの、沙門の資質は消失したのです。これらの者たちの、婆羅門の資質は消失したのです。どうして、これらの者たちに、沙門の資質があるというのでしょう。どうして、これらの者たちに、婆羅門の資質があるというのでしょう。これらの者たちは、沙門の資質から離去した者たちです。これらの者たちは、婆羅門の資質から離去した者たちです。なぜなら、まさに、どうして、人が、人の為すべきことを為して、婦女の生命を奪うというのでしょう」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、サーヴァッティーにおいて、人間たちは、比丘たちを見て、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます。

 

 「これらの釈迦族の沙門たちは、恥知らずの者たちであり、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、梵行なき者たちです。なぜなら、まさに、これらの者たちは、〔自らを〕法(真理)の行ないの者たちであると、正しい行ないの者たちであると、梵行ある者たちであると、真理を説く者たちであると、戒ある者たちであると、善き法(性質)ある者たちであると、明言するからです。これらの者たちに、沙門の資質は存在しません。これらの者たちに、婆羅門の資質は存在しません。これらの者たちの、沙門の資質は消失したのです。これらの者たちの、婆羅門の資質は消失したのです。どうして、これらの者たちに、沙門の資質があるというのでしょう。どうして、これらの者たちに、婆羅門の資質があるというのでしょう。これらの者たちは、沙門の資質から離去した者たちです。これらの者たちは、婆羅門の資質から離去した者たちです。なぜなら、まさに、どうして、人が、人の為すべきことを為して、婦女の生命を奪うというのでしょう」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、今現在、サーヴァッティーにおいて、人間たちは、比丘たちを見て、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます。『これらの釈迦族の沙門たちは、恥知らずの者たちであり、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちであり、虚偽を説く者たちであり、梵行なき者たちです。なぜなら、まさに、これらの者たちは、〔自らを〕法(真理)の行ないの者たちであると、正しい行ないの者たちであると、梵行ある者たちであると、真理を説く者たちであると、戒ある者たちであると、善き法(性質)ある者たちであると、明言するからです。これらの者たちに、沙門の資質は存在しません。これらの者たちに、婆羅門の資質は存在しません。これらの者たちの、沙門の資質は消失したのです。これらの者たちの、婆羅門の資質は消失したのです。どうして、これらの者たちに、沙門の資質があるというのでしょう。どうして、これらの者たちに、婆羅門の資質があるというのでしょう。これらの者たちは、沙門の資質から離去した者たちです。これらの者たちは、婆羅門の資質から離去した者たちです。なぜなら、まさに、どうして、人が、人の為すべきことを為して、婦女の生命を奪うというのでしょう』」と。

 

 「比丘たちよ、その評判は、長く有ることはないでしょう。七日だけは有るでしょうが、七日が経過して消没するでしょう。比丘たちよ、まさに、それでは、それらの人間たちが、比丘たちを見て、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、あなたたちは、この詩偈でもって、彼らを叱責しなさい。

 

 〔すなわち〕『事実ならざることを説く者は、地獄に近づく。あるいは、また、彼が、為して〔そののち〕、さらに、「〔わたしは〕為さない」〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄に近づく〕。両者ともどもに、彼らは、下劣な行為の人間たちとして、死してのち、他所(来世)において、等しき者たちと成る』」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊の現前において、この詩偈を遍く学得して、それらの人間たちが、比丘たちを見て、諸々の不当かつ粗暴な言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、この詩偈でもって、彼らを叱責します。

 

 〔すなわち〕「事実ならざることを説く者は、地獄に近づく。あるいは、また、彼が、為して〔そののち〕、さらに、『〔わたしは〕為さない』〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄に近づく〕。両者ともどもに、彼らは、下劣な行為の人間たちとして、死してのち、他所において、等しき者たちと成る」と。

 

 人間たちに、この〔思い〕が有りました。「これらの者たちは為し手にあらず。これらの釈迦族の沙門たちが為したのではない。これらの釈迦族の沙門たちは〔潔白を〕誓っている」と。まさしく、その評判は、長く有りはしませんでした。七日だけは有りましたが、七日が経過して消没しました。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『比丘たちよ、その評判は、長く有ることはないでしょう。七日だけは有るでしょうが、七日が経過して消没するでしょう』と。尊き方よ、消没したのです。その評判が」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「自制なき人たちは、言葉〔の矢〕で〔人を〕刺す──戦場に赴いた象を、諸々の矢で〔刺す〕ように。発せられた粗暴な言葉を聞いても、比丘は、汚れなき心で耐え忍ぶがよい」と。〔以上が〕第八となる。

 

4. 9. ウパセーナの経

 

39. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、静所に赴き静坐しているヴァンガンタの子の尊者ウパセーナに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。かつまた、わたしの教師は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊である。かつまた、見事に告げ知らされた法(教え)と律において家から家なきへと出家した者として、〔わたしは〕存している。かつまた、わたしと梵行を共にする者たちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである。かつまた、諸戒における円満成就を為す者として、〔わたしは〕存している。かつまた、〔心が〕善く定められた一境の心の者として、〔わたしは〕存している。かつまた、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存している。かつまた、大いなる神通ある者にして大いなる威力ある者として、〔わたしは〕存している。わたしにとって、生命(人生)は、幸いなるものであり、死は、幸いなるものである」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、ヴァンガンタの子の尊者ウパセーナの心の思索を了知して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔彼の〕生命(生き方)が、彼を苦しめないなら、死という終極において、〔彼は〕憂い悲しまない。彼は、まさに、〔涅槃の〕境処を見た慧者であり、憂いの中にあるも憂い悲しまない。

 

 〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕を断ち切った者にとって、心が寂静となった比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しない」と。〔以上が〕第九となる。

 

4. 10. サーリプッタの寂止の経

 

40. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、自己の寂止を綿密に注視しながら、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者サーリプッタが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、自己の寂止を綿密に注視しながら、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「心が寂静となった寂静の者にとって、〔迷いの生存に〕導くもの(煩悩)を断ち切った比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼は、悪魔の結縛から解き放たれた者となる」と。〔以上が〕第十となる。

 

 メーギヤの章が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「メーギヤ、〔心が〕高揚した者たち、牛飼い、夜叉(夜叉の打撃)があり、第五のものとして、象とともに、ピンドーラ、そして、サーリプッタ、第八のものとして、スンダリーが有り、ヴァンガンタの子のウパセーナ、そして、サーリプッタがあり、それらの十がある」と。

 

5. ソーナの章

 

5. 1. より愛しいものの経

 

41. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、マッリカー王妃と共に、優美なる高楼の上に至るところと成ります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、マッリカー王妃に、こう言いました。「マッリカーよ、いったい、まさに、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在するであろうか」と。

 

 「大王よ、まさに、わたしにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しません。大王よ、また、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在しますか」と。「マッリカーよ、まさに、わたしにとってもまた、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しない」と。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、高楼から降りて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、マッリカー王妃と共に、優美なる高楼の上に至り、マッリカー王妃に、こう言いました。『マッリカーよ、いったい、まさに、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在するであろうか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、マッリカー王妃は、わたしに、こう言いました。『大王よ、まさに、わたしにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しません。大王よ、また、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在しますか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、マッリカー王妃に、こう言いました。『マッリカーよ、まさに、わたしにとってもまた、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しない』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「全ての方角を、心して訪ね回って、自己よりもより愛しいものに、どこにであれ、まさしく、到達しなかった。このように、他者たちにとっても、自己は、個々それぞれに愛しいものであり、それゆえに、自己〔の幸せ〕を欲する者は、他者を害さぬがよい」と。〔以上が〕第一となる。

 

5. 2. 短命の者たちの経

 

42. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、なぜなら、世尊の母が、それほどまでに短命の者として〔世に〕有ったからです。世尊が生まれて七日のとき、世尊の母は、命を終え、兜率〔天〕の身体に再生しました」と。

 

 「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、なぜなら、菩薩の母たちは、短命の者たちとして〔世に〕有るからです。菩薩たちが生まれて七日のとき、菩薩の母たちは、命を終え、兜率〔天〕の身体に再生します」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼らが誰であれ、〔生類として世に〕有ったなら、あるいは、また、彼らが、〔生類として世に〕有るであろうなら、全ての者たちが、肉身を捨棄して、去り行くであろう。智者は、〔まさに〕その、全ての者たちの衰退を知って、熱情ある者となり、梵行(禁欲清浄行)を歩むがよい」と。〔以上が〕第二となる。

 

5. 3. 癩病者のスッパブッダの経

 

43. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ラージャガハにおいて、スッパブッダという名の癩病者が、貧しい人間として、哀れな人間として、惨めな人間として、〔世に〕有りました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示しながら、坐った状態でおられます。

 

 まさに、癩病者のスッパブッダは、その大勢の人の衆が、はるか遠くから、集まってくるのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「疑念〔の余地〕なく、まさに、ここにおいて、何らかの、あるいは、固形の食料が、あるいは、軟らかい食料が、分配されている。それなら、さあ、わたしは、その大勢の人の衆のいるところに、そこへと近づいて行くのだ。まさしく、おそらく、まさに、ここにおいて、何らかの、あるいは、固形の食料が、あるいは、軟らかい食料が、得られるであろう」と。

 

 そこで、まさに、癩病者のスッパブッダは、その大勢の人の衆のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、癩病者のスッパブッダは、世尊が、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示しながら、坐っているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、ここにおいて、何らかの、あるいは、固形の食料が、あるいは、軟らかい食料が、分配されているのではない。この者が、沙門ゴータマが、衆のなかで法(教え)を説示している。それなら、さあ、わたしもまた、法(教え)を聞くのだ」と。まさしく、そこにおいて、一方に坐りました。「わたしもまた、法(教え)を聞くのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、一切すべての衆に、心をとおして、心を探知して、意を為しました。「いったい、まさに、誰が、ここに、法(真理)を識知することができるのか」と。まさに、世尊は、癩病者のスッパブッダが、その衆のなかに坐っているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、ここに、法(真理)を識知することができる」と。〔世尊は〕癩病者のスッパブッダを対象として、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、癩病者のスッパブッダのことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、浄信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました(苦・集・滅・道の四聖諦を説示した)。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、癩病者のスッパブッダに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 そこで、まさに、癩病者のスッパブッダは、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、癩病者のスッパブッダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 そこで、まさに、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられた、癩病者のスッパブッダは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、立ち去ったすぐあと、癩病者のスッパブッダに、幼い子牛づれの雌牛がぶつかって、〔彼の〕生命を奪いました。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、〔まさに〕その、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられた、スッパブッダという名の癩病者が、彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇()がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

 「比丘たちよ、癩病者のスッパブッダは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、癩病者のスッパブッダは、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者(覚りの第一階梯である預流果に覚った者)であり、堕所の法(性質)なき者(地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に落ちない者)であり、決定の者(最高で七回までの輪廻を限度とし第八の生存を取らないことが決定した者)であり、正覚を行き着く所とする者(一来・不還・阿羅漢の三道を得るべき者)です」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、癩病者のスッパブッダは、貧しい人間として、哀れな人間として、惨めな人間として、〔世に〕有ったのですか。(どのような因縁があって、癩病者のスッパブッダは、悲惨な境遇に生を受けたのですか)」と。

 

 「比丘たちよ、過去の事(過去世)ですが、癩病者のスッパブッダは、まさしく、このラージャガハにおいて、長者の子として〔世に〕有りました。彼は、庭園の地に出かけつつ、独覚のタガラシキンが、城市に〔行乞の〕食のために入るのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『何なんだ、癩病者の衣料でうろつく、この癩病者は』と。〔彼は〕唾を吐いて、軽侮を為して、立ち去りました。彼は、その行為の報い(業報)によって、幾百年、幾千年、数百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、まさしく、このラージャガハにおいて、貧しい人間として、哀れな人間として、惨めな人間として、〔世に〕有りました。彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、信を受持し、戒を受持し、所聞(聴聞した教法)を受持し、施捨を受持し、智慧を受持しました。彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、信を受持して、戒を受持して、所聞を受持して、施捨を受持して、智慧を受持して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生したのです。彼は、そこにおいて、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「眼ある者は、〔現に〕見出されるところ(いまここ)において、諸々の難所を〔避ける〕ように、〔善に〕勤しむがよい。賢者たる者は、生ある者の世において、諸々の悪を遍く避けるがよい」と。〔以上が〕第三となる。

 

5. 4. 少年たちの経

 

44. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の少年たちが、かつまた、サーヴァッティーの、かつまた、ジェータ林の、それぞれの中途において、魚たちを痛めつけます。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、大勢の少年たちが、かつまた、サーヴァッティーの、かつまた、ジェータ林の、それぞれの中途において、魚たちを痛めつけているのを見ました。見て、それらの少年たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの少年たちに、こう言いました。「少年たちよ、まさに、君たちは、苦しみを恐れるかな。君たち〔自身〕の苦しみは嫌かな」と。「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、僕たちは、苦しみを恐れます。僕たち〔自身〕の苦しみは嫌です」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「それで、もし、〔あなたたちが〕苦しみを恐れるなら、それで、もし、あなたたちにとって、苦しみが愛しからざるもの(嫌なもの)であるなら、もしくは、公然であろうが、内密であろうが、〔あなたたちは〕悪しき行為を為してはならない。

 

 そして、それで、もし、〔あなたたちが〕悪しき行為を〔未来において〕為すであろうなら、あるいは、〔いまここに〕為すなら、たとえ、〔空中に〕跳び上がって逃げようとしても、あなたたちに、苦しみからの解き放ちは存在しない」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 5. 斎戒の経

 

45. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩:地域内の比丘が集まり戒律条項を朗読して自省する僧団行事)のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、初夜(宵の内)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、初夜を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を誦説してください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者として有りました。

 

 再度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、中夜(真夜中)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、中夜を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者として有りました。

 

 三度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、後夜(明け方)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、後夜を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、世尊は、どの人物に関して、このように言ったのか。『アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず』」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、一切すべての比丘の僧団に、心をとおして、心を探知して、意を為しました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物を──劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑でありながら、比丘の僧団の中に坐っている〔その人物〕を──見ました。見て、坐から立ち上がって、その人物のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。このように説かれたとき、その人物は、沈黙の者として有りました。

 

 再度また、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、その人物は、沈黙の者として有りました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物の腕を掴んで、門小屋の外に追い出して、閂を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、その人物は、わたしが追い出しました。衆は、完全なる清浄です。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「モッガッラーナよ、めったにないことです。モッガッラーナよ、はじめてのことです。さてまた、腕を掴むに至るまで、まさに、その愚人が待っているとは」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、今や、わたしは、これから後は、斎戒を為すことも、戒条を誦説することも、ないでしょう。比丘たちよ、今や、あなたたちだけで、これから後は、斎戒を為し、戒条を誦説するのです。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、如来が、完全なる清浄ならざる衆のために、斎戒を為し、戒条を誦説することは。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。これらの、大海について、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。

 

 (1)比丘たちよ、大海は、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはなりません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはならないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げます。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるのは、比丘たちよ、これは、大海について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、それらが何であれ、諸々の大河は──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらは、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至ります(大海という名でのみ呼称される)。比丘たちよ、すなわち、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るのは、比丘たちよ、これは、大海について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。比丘たちよ、すなわち、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、一つの味であり、塩の味です。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるのは、比丘たちよ、これは、大海について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙です。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、比丘たちよ、これは、大海について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)さえもの自己状態(個我的あり方・身体)あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在します。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するのは、比丘たちよ、これは、大海について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律について、八つのめったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。

 

 (1)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にならないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解はありません。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解がないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (2)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学びの境処(戒律)であるなら、その〔学びの境処〕を、わたしの弟子たちは、たとえ、生命を因としても、犯すことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学びの境処であるなら、その〔学びの境処〕を、わたしの弟子たちが、たとえ、生命を因としても、犯すことがないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (3)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのです〕。比丘たちよ、すなわち、また、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのは〕、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (4)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らは、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至ります。比丘たちよ、すなわち、また、四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らが、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至るのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (5)比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。比丘たちよ、すなわち、また、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (6)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、一つの味であり、解脱の味です。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、一つの味であり、解脱の味であるのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (7)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるように──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処:身体と感受と心と法についての気づき)であり、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)であり、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)であり、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)です。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道ですが、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (8)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者(預流果)が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)が、一来たる者(一来果)が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)が、不還たる者(不還果)が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)が、阿羅漢(阿羅漢果)が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)がいます。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者が、一来たる者が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者が、不還たる者が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者が、阿羅漢が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいるのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「覆われたものに、雨が漏れ入る(屋根があるから雨が漏る)。開かれたものに、雨が漏れ入ることはない。それゆえに、覆われたものを開くがよい。このように、その〔開かれたもの〕に、雨が漏れ入ることはない」と。〔以上が〕第五となる。

 

5. 6. ソーナの経

 

46. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。クララガハのパヴァッタ山において。また、まさに、その時点にあって、在俗信者のソーナ・クティカンナが、尊者マハー・カッチャーナの奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。

 

 そこで、まさに、静所に赴き静坐している在俗信者のソーナ・クティカンナに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、尊貴なるマハー・カッチャーナが法(教え)を説示する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ」と。

 

 そこで、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、尊貴なるマハー・カッチャーナが法(教え)を説示する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。尊き方よ、尊貴なるマハー・カッチャーナは、わたしを出家させたまえ」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マハー・カッチャーナは、在俗信者のソーナ・クティカンナに、こう言いました。「ソーナよ、為し難きは、まさに、生あるかぎり、〔日に〕一食、〔常に〕独り臥す、梵行です。さあ、ソーナよ、あなたは、まさしく、そこ(家)において、在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、覚者たちの教えに専念しなさい──相応しい時に〔のみ〕、〔日に〕一食、〔常に〕独り臥す、梵行に〔専念するのです〕」と。そこで、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナに有った、その出家の衝動ですが、それは安息しました。

 

 再度また、まさに……略……。再度また、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、在俗信者のソーナ・クティカンナに、こう言いました。「ソーナよ、為し難きは、まさに、生あるかぎり、〔日に〕一食、〔常に〕独り臥す、梵行です。さあ、ソーナよ、あなたは、まさしく、そこにおいて、在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、覚者たちの教えに専念しなさい──相応しい時に〔のみ〕、〔日に〕一食、〔常に〕独り臥す、梵行に〔専念するのです〕」と。再度また、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナに有った、その出家の衝動ですが、それは安息しました。

 

 三度また、まさに、静所に赴き静坐している在俗信者のソーナ・クティカンナに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、尊貴なるマハー・カッチャーナが法(教え)を説示する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ」と。三度また、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、在俗信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、尊貴なるマハー・カッチャーナが法(教え)を説示する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。尊き方よ、尊貴なるマハー・カッチャーナは、わたしを出家させたまえ」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、在俗信者のソーナ・クティカンナを出家させました。また、まさに、その時点にあって、アヴァンティ〔国〕の南路は、比丘が少なく有り、そこで、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、三年が経過して、苦難とともに、困難とともに、そこかしこから十人組の比丘の僧団を集めて、尊者ソーナに〔戒を〕成就させました(具足戒を授けた)。

 

 そこで、まさに、雨期を過ごした、静所に赴き静坐している尊者ソーナに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、わたしは、彼を、世尊を、面前に見たことがない。さらに、また、わたしは、聞いているだけである──『彼は、世尊は、そして、このような方であり、さらに、このような方である』と。それで、もし、わたしのことを、師父(尊者マハー・カッチャーナ)がお許しになるなら、わたしは、〔世尊のもとに〕赴くのだ──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために」と。

 

 そこで、まさに、尊者ソーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ソーナは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、わたしは、彼を、世尊を、面前に見たことがない。さらに、また、わたしは、聞いているだけである──「彼は、世尊は、そして、このような方であり、さらに、このような方である」と。それで、もし、わたしのことを、師父がお許しになるなら、わたしは、〔世尊のもとに〕赴くのだ。彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために』」と。

 

 「ソーナよ、善きかな、善きかな。ソーナよ、あなたは、〔世尊のもとに〕赴きなさい──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。ソーナよ、あなたは、彼を、世尊を見るでしょう──浄信ある方にして浄信するべき方を、〔感官の〕機能が寂静となり意図が寂静となった方を、最上の〔身の〕調御と〔心の〕止寂を獲得した方を、〔自己が〕調御され〔感官の門が〕守られ〔感官の〕機能が制された龍たる方を。見て、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、わたしの師父の尊者マハー・カッチャーナは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝し、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ソーナは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーにあるジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ソーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしの師父の尊者マハー・カッチャーナは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝し、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます」と。

 

 「比丘よ、どうでしょう、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、疲れ少なく旅路をたどり、かつまた、〔行乞の〕食(托鉢)で疲れることなくなく存していますか」と。「世尊よ、息災です。世尊よ、順調です。尊き方よ、かつまた、わたしは、疲れ少なく旅路をたどり、かつまた、〔行乞の〕食で疲れることなく存しています」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、この来客の比丘のために、臥坐具を設置しなさい」と。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、世尊が、その〔比丘〕のために、『アーナンダよ、この来客の比丘のために、臥坐具を設置しなさい』と、わたしに命じるなら、世尊は、その比丘と共に、同じ精舎(僧房)に住することを求めている。世尊は、尊者ソーナと共に、同じ精舎に住することを求めている」と。すなわち、世尊が住んでおられる精舎に、〔まさに〕その、〔同じ〕精舎に、〔尊者アーナンダは〕尊者ソーナのために、臥坐具を設置しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、野外において、坐禅〔瞑想〕のために過ごして、〔両の〕足を洗って、精舎に入りました。まさに、尊者ソーナもまた、まさしく、夜の多くを、野外において、坐禅〔瞑想〕のために過ごして、〔両の〕足を洗って、精舎に入りました。そこで、まさに、世尊は、夜の早朝の時分に起きて、尊者ソーナに要請しました。「比丘よ、語るべき法(教え)が、あなたに明白となれ(あなたに法の朗読を求めます)」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ソーナは、世尊に答えて、アッタカ・ヴァッガ(『スッタニパータ』第四章・義品)の十六〔の経〕を、まさしく、〔それらの〕全てを声唱しました。そこで、まさに、世尊は、尊者ソーナの声唱が終了すると、大いに随喜しました。「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、あなたによって、アッタカ・ヴァッガの十六〔の経〕は、善く把握され、善く意が為され、善く保持されました。〔あなたは〕存しています──巧みな智ある言葉を具備した者として──明瞭で、誤解なく、〔正しく〕義(意味)を識知させる〔言葉〕を〔具備した者として〕。比丘よ、〔出家して〕何年の者として、あなたは存していますか」と。「世尊よ、わたしは、〔出家して〕一年の者です」と。「比丘よ、また、どうして、あなたは、このように、長きにわたり、〔出家に時間を〕掛けたのですか」と。「尊き方よ、わたしは、長きにわたり、諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険(患・過患)を見てきました。ですが、また、在家の居住は煩雑で、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「世における危険(無常の現実)を見て、依り所なき〔境地〕を法(真理)と知って、聖者は、悪を喜ばない。清らかな者は、悪を喜ばない」と。〔以上が〕第六となる。

 

5. 7. カンカー・レーヴァタの経

 

47. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者カンカー・レーヴァタが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、自己の、疑い〔の思い〕を超渡する清浄〔の知恵〕を綿密に注視しながら、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者カンカー・レーヴァタが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、自己の、疑い〔の思い〕を超渡する清浄〔の知恵〕を綿密に注視しながら、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、それらが何であれ、疑い〔の思い〕であるなら、自ら知られるべきものであろうが、他者によって知られるべきものであろうが、すなわち、瞑想者たちは、それらの全てを捨棄する──熱情ある者たちとなり、梵行を歩みながら」と。第七となる。

 

5. 8. 僧団の分裂の経

 

48. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、斎戒(布薩)のその日、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。

 

 まさに、デーヴァダッタ(提婆達多・調天:ブッダを裏切りサンガを分裂させた)は、尊者アーナンダが、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。見て、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、今日以後、今や、わたしは、まさしく、世尊より他に、比丘の僧団より他に、斎戒を為すであろう。さらに、諸々の僧団の行為(行事・作法)を〔為すであろう〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、デーヴァダッタは、わたしが、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。見て、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしに、こう言いました。『友よ、アーナンダよ、今日以後、今や、わたしは、まさしく、世尊より他に、比丘の僧団より他に、斎戒を為すであろう。さらに、諸々の僧団の行為を〔為すであろう〕』と。尊き方よ、今日、デーヴァダッタは、僧団を分裂させるでしょう。そして、斎戒を為すでしょう。さらに、諸々の僧団の行為を〔為すでしょう〕」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「善き者に、善きことは、為し易い。悪しき者に、善きことは、為し難い。悪しき者に、悪しきことは、為し易い。聖者たちに、悪しきことは、為し難い」と。〔以上が〕第八となる。

 

5. 9. 「大騒ぎをしながら」の経

 

49. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔婆羅門の〕学生たちが、世尊から遠く離れていないところで、大騒ぎをしながら〔浮かれた〕様子で通り過ぎます。まさに、世尊は、大勢の〔婆羅門の〕学生たちが、遠く離れていないところで、大騒ぎをしながら〔浮かれた〕様子で通り過ぎるのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「錯乱した者たちが、〔たとえ〕賢者の語りあるも、言葉を境涯とする話し手たちであるなら、〔彼らが〕口を開くことを求める、そのかぎりは、それによって〔世の人々が〕導かれたとして、知者は、それを〔認め〕ない」と。〔以上が〕第九となる。

 

5. 10. チューラ・パンタカの経

 

50. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者チューラ・パンタカが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者チューラ・パンタカが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「安立した身体によって、安立した心によって、立っているなら、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、この気づきを〔常に〕確立している比丘は、過去と未来の殊勝〔の地位〕(輪廻からの解脱)を得るであろう。過去と未来の殊勝〔の地位〕を得て、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に赴くであろう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ソーナの章が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「愛しいもの(より愛しいもの)、短命の者たち、癩病者(癩病者のスッパブッダ)、少年たち、斎戒、そして、ソーナ、レーヴァタ(カンカー・レーヴァタ)、分裂(僧団の分裂)、大騒ぎ(大騒ぎをしながら)があり、そして、パンタカ(チューラ・パンタカ)とともに、〔それらの十がある〕」と。

 

6. 生まれながらの盲者たちの章

 

6. 1. 寿命を形成する働きを放棄することの経

 

51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。

 

 「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。

 

 「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたは去りなさい。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、遠く離れていないところの、或るどこかの木の根元において坐りました。

 

 そこで、まさに、悪魔パーピマントが、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、悪魔パーピマントは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘尼たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である在俗信者(優婆塞)たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者(優婆夷)たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である女性在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、あなたは、思い入れ少なき者と成れ(心配はいりません)。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟において、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働き(:生の輪廻を施設し造作する働き)を放棄しました。そして、世尊によって、寿命を形成する働きが放棄されたとき、禍々しく身の毛のよだつ大いなる地震が有り、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「比べられるものを、さらに、比べられないものを、〔何であれ、自己から〕発生するものを、〔迷いの〕生存を形成する働きを、牟尼は放棄した。内に喜び、〔心が〕定められた者は、鎧を〔壊し去る〕ように、自己から発生するものを破壊した」と。〔以上が〕第一となる。

 

6. 2. 七者の結髪者たちの経

 

52. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、門小屋の外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、脇毛や爪や体毛を長くした、かつまた、七者の結髪者たちが、かつまた、七者の離繋者(ジャイナ教徒)たちが、かつまた、七者の無衣者たちが、かつまた、七者の一衣者たちが、かつまた、七者の遍歴遊行者たちが、カーリ(升目の単位・一石)の天秤棒を担いで、世尊から遠く離れていないところを通り過ぎます。

 

 まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、脇毛や爪や体毛を長くした、かつまた、七者の結髪者たちが、かつまた、七者の離繋者たちが、かつまた、七者の無衣者たちが、かつまた、七者の一衣者たちが、かつまた、七者の遍歴遊行者たちが、彼らが、カーリの天秤棒を担いで、世尊から遠く離れていないところを通り過ぎるのを見ました。見て、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、かつまた、七者の結髪者たちの、かつまた、七者の離繋者たちの、かつまた、七者の無衣者たちの、かつまた、七者の一衣者たちの、かつまた、七者の遍歴遊行者たちの、彼らのいるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、名前を告げ聞かせました。「尊き方たちよ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」「尊き方たちよ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」「尊き方たちよ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」と。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、かつまた、七者の結髪者たちが、かつまた、七者の離繋者たちが、かつまた、七者の無衣者たちが、かつまた、七者の一衣者たちが、かつまた、七者の遍歴遊行者たちが、彼らが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、まさに、あるいは、阿羅漢たちが、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちが、世におられるとして、これらの者たちは、彼らのなかの或るひとりなのでしょうか」と。

 

 「大王よ、まさに、このことは、知り難いことなのです──欲望の享受者たる在家者である、あなたによっては──子に煩わされる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者によっては──『あるいは、これらの者たちは、阿羅漢たちであるのか、あるいは、これらの者たちは、阿羅漢道に入定した者たちであるのか』という、〔このことは〕。

 

 大王よ、まさに、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、強靭は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『大王よ、まさに、このことは、知り難いことなのです。欲望の享受者たる在家者である、あなたによっては──子に煩わされる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者によっては──「あるいは、これらの者たちは、阿羅漢たちであるのか、あるいは、これらの者たちは、阿羅漢道に入定した者たちであるのか」という、〔このことは〕。大王よ、まさに、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、強靱は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と。

 

 尊き方よ、これらの者たちは、わたしの家来たちでありまして、盗賊として、密偵として、地方を偵察して巡り行きます。彼らが、最初に偵察し、わたしは、そのあとで訪ねるのです。尊き方よ、今や、彼らは、その塵と垢を流し去って、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとい、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいるでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「一切所において、〔悪しきを因として〕努めるべきにあらず。他者の家来となり、〔世に〕存するべきにあらず(他者に隷従しない)。他者に依存して生きるべきにあらず。法(教え)による請求を行なうべきにあらず(説法の対価を要求しない)」と。〔以上が〕第二となる。

 

6. 3. 綿密に注視することの経

 

53. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、自己の、無数の悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されたのを綿密に注視しながら、かつまた、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に至ったのを〔綿密に注視しながら〕、坐った状態でおられます。

 

 そこで、まさに、世尊は、自己の、無数の悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されたのを知って、かつまた、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に至ったのを〔知って〕、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「過去において、〔それは〕有ったが、そのとき、〔それは〕有ることなくあった。過去おいて、〔それは〕有ることなくあったが、そのとき、〔それは〕有った。そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない」と。〔以上が〕第三となる。

 

6. 4. 第一の種々なる異教の者たちの経

 

54. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認(信受)があり、種々なる嗜好(意欲)があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 (1)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(2)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(3)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(4)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(5)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(6)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(7)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(8)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(9)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(10)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。

 

 彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。「このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない」「このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認があり、種々なる嗜好があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。……略……。彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 「比丘たちよ、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。義(道理)を知らず、義(道理)ならざることを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)ならざることを知りません。彼らは、義(道理)を知らずにいる者たちであり、義(道理)ならざることを知らずにいる者たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)ならざることを知らずにいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』と。

 

 比丘たちよ、過去の事(過去世)ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの王が〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、その王は、或るひとりの家来に告げました。『さて、家来よ、さあ、おまえは、すなわち、サーヴァッティーにいるかぎりの生まれながらの盲者たちであるなら、彼らの全てを、一所に集めよ』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その家来は、その王に答えて、すなわち、サーヴァッティーにいるかぎりの生まれながらの盲者たちであるなら、彼らの全てを、〔一所に〕収容して、その王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その王に、こう言いました。『陛下よ、まさに、彼らが集められました。すなわち、サーヴァッティーにいるかぎりの生まれながらの盲者たちです』と。『まさに、それでは、申し付ける。生まれながらの盲者たちに、象を見せよ(象とはどのようなものか、理解させよ)』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その家来は、その王に答えて、生まれながらの盲者たちに、象を見せました。

 

 一部の生まれながらの盲者たちには、象の頭を見せました(手でさわらせた)。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の耳を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の牙を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の鼻を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の身体を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の足を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の腿を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の尾を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。一部の生まれながらの盲者たちには、象の尾の先端を見せました。『生まれながらの盲者たちよ、このようなものが、象である』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その家来は、生まれながらの盲者たちに象を見せて、その王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その王に、こう言いました。『陛下よ、まさに、それらの生まれながらの盲者たちは、象を見ました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その王は、それらの生まれながらの盲者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの生まれながらの盲者たちに、こう言いました。『生まれながらの盲者たちよ、おまえたちは、象を見たのか』と。『陛下よ、そのとおりです。わたしたちは、象を見ました』と。『生まれながらの盲者たちよ、どのようなものが、象であるのか、説いてみよ』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の頭を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、瓶のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の耳を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、箕(み)のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の牙を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、杭のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の鼻を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、鋤(すき)のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の身体を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、蔵のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の足を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、柱のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の腿を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、臼のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の尾を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、杵のようなものです』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、象の尾の先端を見た、生まれながらの盲者たちは、彼らは、このように言いました。『陛下よ、このようなものが、象です。それは、たとえば、また、箒(ほうき)のようなものです』と。

 

 彼らは、『このようなものが、象であり、このようなものは、象ではない』『このようなものは、象ではなく、このようなものが、象である』と、互いに他を、諸々の拳で殴り合いました。比丘たちよ、そして、いっぽう、それによって、その王は、わが意を得た者と成りました。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。彼らは、義(道理)を知らず、義(道理)ならざることを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)ならざることを知りません。彼らは、義(道理)を知らずにいる者たちであり、義(道理)ならざることを知らずにいる者たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)ならざることを知らずにいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「或る沙門や婆羅門たちは、まさに、これら〔の見解〕に執着する。一部分〔だけ〕を見る人たちは、その〔一部分〕に執持して論争する」と。〔以上が〕第四となる。

 

6. 5. 第二の種々なる異教の者たちの経

 

55. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認(信受)があり、種々なる嗜好(意欲)があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 (1)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(2)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(3)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(4)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(5)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(6)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(7)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(8)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(9)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、常久である。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔常久である〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(10)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、常久ではない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔常久ではない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(11)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(12)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(13)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、自作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔自作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(14)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、他作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔他作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(15)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(16)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。

 

 彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。「このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない」「このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認があり、種々なる嗜好があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。……略……。彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 「比丘たちよ、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。義(道理)を知らず、義(道理)ならざることを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)ならざることを知りません。彼らは、義(道理)を知らずにいる者たちであり、義(道理)ならざることを知らずにいる者たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)ならざることを知らずにいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「或る沙門や婆羅門たちは、まさに、これら〔の見解〕に執着する。〔不死への〕沈潜(涅槃)という、その〔立脚地〕に、まさしく、至り得ずして、まさしく、中途に沈む」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 6. 第三の種々なる異教の者たちの経

 

56. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認(信受)があり、種々なる嗜好(意欲)があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 (1)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(2)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(3)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(4)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(5)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(6)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(7)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(8)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(9)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、常久である。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔常久である〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(10)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、常久ではない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔常久ではない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(11)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(12)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(13)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、自作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔自作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(14)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、他作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔他作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(15)このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。(16)また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、〔自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである〕。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と。

 

 彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。「このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない」「このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、大勢の、種々なる異教の沙門や婆羅門や遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。種々なる見解があり、種々なる受認があり、種々なる嗜好があり、種々なる見解を依所とする依存ある者たちとして。

 

 このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。……略……。彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 「比丘たちよ、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。義(道理)を知らず、義(道理)ならざることを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)ならざることを知りません。彼らは、義(道理)を知らずにいる者たちであり、義(道理)ならざることを知らずにいる者たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)ならざることを知らずにいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいます。『このようなものが、法(真理)であり、このようなものは、法(真理)ではない』『このようなものは、法(真理)ではなく、このようなものが、法(真理)である』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「わたしという作り為し(自我意識)を追い求めている、この人々は、他者という作り為し(他我意識)を伴っている。或る者たちは、このことを証知せず、それを、『矢である』と見なかった。

 

 しかしながら、これを、『矢である』〔と〕前もって見ているなら──彼に、『わたしが為す』という〔思いが〕有ることはなく──彼に、『他者が為す』という〔思いも〕有ることはない。

 

 〔我想の〕思量(:自他を比較し価値づける心)を具した、この人々は、思量の拘束ある〔人々〕であり、思量に結縛された〔人々〕であり、諸々の見解について激昂の議論ある〔人々〕であり、〔生と死の〕輪廻を超克しない」と。〔以上が〕第六となる。

 

6. 7. スブーティの経

 

57. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者スブーティが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、思考なき禅定(無尋定)に入定して、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者スブーティが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、思考なき禅定に入定して、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼の、諸々の思考()が砕破され、内に残りなく善く整えられたなら、その執着〔の思い〕を超え行って、形態の表象(:概念・心象)なく、〔人を縛る〕四つの束縛(四軛:欲望・生存・見解・無明)を超え行った者となり、もはや、〔さらなる生へと〕至り行くことはない」と。〔以上が〕第七となる。

 

6. 8. 遊女の経

 

58. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ラージャガハにおいて、或るひとりの遊女にたいし貪染し、心が結縛された、二組の者たちがいます。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、ラージャガハにおいて、或るひとりの遊女にたいし貪染し、心が結縛された、二組の者たちがいます。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「そして、それが、至り得られたものであれ、さらに、それが、至り得られるべきものであれ、これは、両者ともに塵にまみれている──病んだ者が学んでいるなら。そして、彼らが、〔形だけの〕学びを真髄とする者たちであり、〔特定の〕戒や掟や〔特定の〕生き方や梵行への奉仕を真髄とする者たちであるなら、これは、一つの極である(禁欲主義者)。さらに、彼らが、『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点(罪悪)は存在しない』と、このような論ある者たちであるなら、これは、第二の極である(快楽主義者)。かくのごとく、これらの両極は、諸々の墓地を増大するものであり、諸々の墓地は、〔悪しき〕見解を増大させる。彼らは、これらの両極を証知せずして、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着し、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱する。しかしながら、彼らが、まさに、それら〔の両極〕を証知して、そして、そこに有ることなくあったなら、さらに、それによって思い考えなかったなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しない(輪廻の施設はありえない)」と。

 

 〔以上が〕第八となる。

 

6. 9. 「近しく走り寄る」の経

 

59. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。諸々の油の灯明が燃やされているところで。

 

 また、まさに、その時点にあって、大勢の蛾たちが、それらの油の灯明のなかに落ちては落ちる、不運を惹起し、災厄を惹起し、不運と災厄を惹起します。まさに、世尊は、それらの大勢の蛾たちが、それらの油の灯明のなかに落ちては落ちる、不運を惹起し、災厄を惹起し、不運と災厄を惹起しているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔人々は、執着の対象に向かって〕近しく走り寄るが、真髄には至らず、新たなもの、新たなものへと、〔さらなる〕結縛を増進させる。灯火に落ちる蛾たちのように、或る者たちは、見られたものにおいて、聞かれたものにおいて、まさに、かくのごとく、〔盲信し〕固着している」と。〔以上が〕第九となる。

 

6. 10. 「生起する」の経

 

60. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、さてまた、何はともあれ、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起しないかぎり、それまでは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者たちとして〔世に〕有ります。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起することから、そこで、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。尊き方よ、今や、世尊こそは、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。そして、比丘の僧団も」と。

 

 「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起しないかぎり、それまでは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちとして〔世に〕有ります。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、世に生起することから、そこで、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。今や、如来こそは、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。そして、比丘の僧団も」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「すなわち、光の作り手(太陽)が昇らないかぎり、それまでは、その虫(蛍)は光り輝くが、太陽が昇ったとき、その〔虫〕は、光を失った者と成り、さらに、また、光り輝くこともない。

 

 〔悪しき〕説ある者たちの光り輝きも、まさしく、このようなもの。すなわち、正等覚者たちが世に生起しないかぎり、〔悪しき〕説ある者たちは清まらず、さらに、また、弟子たちも〔清まら〕ず、悪しき見解ある者たちは、苦しみから解き放たれない」と。〔以上が〕第十となる。

 

 生まれながらの盲者たちの章が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「寿命(寿命を形成する働きを放棄すること)と結髪者たち(七者の結髪者たち)と注視すること、三つの異教の者たち(第一の種々なる異教の者たち・第二の種々なる異教の者たち・第三の種々なる異教の者たち)、スブーティ、遊女、第九のものとして、近しく(近しく走り寄る)、そして、『生起する』があり、それらの十がある」と。

 

7. 小なるものの章

 

7. 1. 第一のラクンダカ・バッディヤの経

 

61. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、尊者ラクンダカ・バッディヤに、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。

 

 そこで、まさに、尊者ラクンダカ・バッディヤが、尊者サーリプッタによって、無数の教相によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられていると、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。

 

 まさに、世尊は、尊者ラクンダカ・バッディヤが、尊者サーリプッタによって、無数の教相によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられていると、心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「上に、下に、一切所に解脱した者は、『このわたしは、存在する』と随観する者にあらず。このように解脱した者は、過去に超えられたことなき激流を超え渡った──さらなる生存なきために」と。〔以上が〕第一となる。

 

7. 2. 第二のラクンダカ・バッディヤの経

 

62. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、尊者ラクンダカ・バッディヤに、〔彼のことを、いまだ〕学びある者(有学)と思いながら、より一層しっかりと、無数の教相によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。

 

 まさに、世尊は、尊者サーリプッタが、尊者ラクンダカ・バッディヤに、〔彼のことを、いまだ〕学びある者と思いながら、より一層しっかりと、無数の教相によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔輪廻の〕転起を断ち切った。願望なき〔あり方〕へと離れ去った。干上がった川は流れない。断ち切られた〔輪廻の〕転起は〔もはや〕転起しない。これこそは、苦しみの終極である」と。〔以上が〕第二となる。

 

7. 3. 第一の執着する者たちの経

 

63. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サーヴァッティーにおいて、人間たちは、多くのところとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、限度を超えて、執着し、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執し、諸々の欲望〔の対象〕に夢中になっている類の者(愛欲に溺れた者)たちとして住んでいます。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。〔行乞の〕食のためにサーヴァッティーに歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、サーヴァッティーにおいて、人間たちは、多くのところとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、限度を超えて、執着し、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執し、諸々の欲望〔の対象〕に夢中になっている類の者たちとして住んでいます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「諸々の欲望〔の対象〕にたいし執着している者たちは、欲望〔の対象〕を執着〔の対象〕として執着しているのであり、〔自らを〕束縛するもののうちに罪過を見ずにいる者たちである。〔自らを〕束縛するものを執着〔の対象〕として執着している者たちは、広大にして大いなる激流を、まさに、まちがいなく、超えはしないであろう」と。〔以上が〕第三となる。

 

7. 4. 第二の執着する者たちの経

 

64. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サーヴァッティーにおいて、人間たちは、多くのところとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、執着し、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執し、盲者に作り為され、諸々の欲望〔の対象〕に夢中になっている類の者(愛欲に溺れた者)たちとして住んでいます。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて、それらの人間たちの多くのところが、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、執着し、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執し、盲者に作り為され、諸々の欲望〔の対象〕に夢中になっている類の者たちとして住んでいるのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「欲望の盲者たちは、〔愛欲の〕網に覆われた者たちであり、渇愛の覆いに覆われた者たちであり、怠りの眷属(悪魔)によって結縛された者たちであり、網の入り口にいる魚たちのようなもの。〔彼らは〕老と死に従い行く──乳を飲む子牛が、母〔牛〕を〔求める〕ように」と。〔以上が〕第四となる。

 

7. 5. 他のラクンダカ・バッディヤの経

 

65. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ラクンタカ・バッディヤは、大勢の比丘たちの背後から背後へと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 まさに、世尊は、醜き色艶の、醜き外見の、猫背で、多くのところとして、比丘たちに貶められている様子の、尊者ラクンタカ・バッディヤが、はるか遠くから、大勢の比丘たちの背後から背後へと、〔こちらに〕やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──醜き色艶の、醜き外見の、猫背で、多くのところとして、比丘たちに貶められている様子の、この比丘が、はるか遠くから、大勢の比丘たちの背後から背後へと、〔こちらに〕やってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」と。

 

 「比丘たちよ、この比丘は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。そして、すなわち、その比丘が過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定(等持)は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「各部が無欠で、白い覆いをした、一なる輻(スポーク)の車が転じ来る。見よ──〔渇愛の〕流れを断ち、結縛なく、煩悶なき者が至り来るのを」と。〔以上が〕第五となる。

 

7. 6. 渇愛の消滅の経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者アンニャーシ・コンダンニャが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、渇愛の消滅における解脱を綿密に注視しながら、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者アンニャーシ・コンダンニャが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、渇愛の消滅における解脱を綿密に注視しながら、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼の、〔渇愛の〕根が地に存在せず、〔渇愛の〕葉が存在しないなら、どうして、〔渇愛の〕蔓があるというのだろう。結縛から解き放たれた、その慧者を──彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からもまた、賞賛される者となる」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 7. 虚構の滅尽の経

 

67. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、自己の、虚構の表象と名称(世界認識の道具として虚構された表象・概念)の捨棄を綿密に注視しながら、坐った状態でおられます。

 

 そこで、まさに、世尊は、自己の、虚構の表象と名称の捨棄を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼に、諸々の虚構〔の表象と名称〕が〔存在せず〕、そして、〔それらの〕止住(固定概念)が存在しないなら、綱(束縛)を〔超克した者であり〕、かつまた、閂(障害)を超克した者であり、渇愛なくして〔世を〕歩む、その牟尼を、天を含む世〔の人々〕もまた見下さない」と。〔以上が〕第七となる。

 

7. 8. カッチャーナの経

 

68. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッチャーナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づきが内に全面に善く現起され、坐った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、尊者マハー・カッチャーナが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づきが内に全面に善く現起され、坐っているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、常に現起され、一切時に存しているなら、『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、さらに、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう』〔と〕、彼は、そこにおいて、時々刻々に〔世に〕住む者(瞬間瞬間に気づきある者)となり、まさしく、〔正しい〕時に、〔身体にたいする〕執着〔の思い〕を超えるであろう」と。〔以上が〕第八となる。

 

7. 9. 井戸の経

 

69. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥーナという名のマッラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、トゥーナ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥーナ〔村〕に到着したのだ」と耳にしました。〔彼らは〕井戸を、かつまた、草で、かつまた、籾殻で、縁に至るまで満たしました。「奴ら、坊主頭の似非沙門たちが、水を飲むことがあってはならない」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、道から外れて、木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、この井戸から、水を持ってきておくれ」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、その井戸は、トゥーナ〔村〕の婆羅門や家長たちによって、かつまた、草で、かつまた、籾殻で、縁に至るまで満たされました。『奴ら、坊主頭の似非沙門たちが、水を飲むことがあってはならない』」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、この井戸から、水を持ってきておくれ」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、鉢を抱えて、その井戸のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、その井戸は、尊者アーナンダが近づいて行くと、かつまた、草を、かつまた、籾殻を、その全てを、縁から吐き出して、透明で、澄浄で、混濁なくある水で、縁に至るまで満たされました。思うに、〔常に〕流れ出ている〔状態〕となり、止住したのです。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、〔まさに〕この、その井戸は、わたしが近づいて行くと、かつまた、草を、かつまた、籾殻を、その全てを、縁から吐き出して、透明で、澄浄で、混濁なくある水で、縁に至るまで満たされたからだ。思うに、〔常に〕流れ出ている〔状態〕となり、止住したのだ」と。〔尊者アーナンダは〕鉢で水を汲んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、〔まさに〕この、その井戸は、わたしが近づいて行くと、かつまた、草を、かつまた、籾殻を、その全てを、縁から吐き出して、透明で、澄浄で、混濁なくある水で、縁に至るまで満たされたからです。思うに、〔常に〕流れ出ている〔状態〕となり、止住したのです。世尊は、水をお飲みください。善き至達者たる方は、水をお飲みください」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「もし、諸々の水が、一切時に存しているなら、〔いまさら〕井戸で、何を為すというのだろう。渇愛〔の思い〕を根元から断ち切って〔そののち〕、何を遍く探し求めるために〔世を〕歩むというのだろう」と。〔以上が〕第九となる。

 

7. 10. ウテーナの経

 

70. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、ウテーナ王が庭園に赴いたところ、宮殿が、焼け落ちるところと成り、さらに、サーマーヴァティー〔王妃〕を筆頭とする五百の婦女たちが、命を終えるところと成ります。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。コーサンビーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、ウテーナ王が庭園に赴いたところ、宮殿が焼け落ち、さらに、サーマーヴァティー〔王妃〕を筆頭とする五百の婦女たちが命を終えたのです。尊き方よ、それらの女性在俗信者たちには、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

 「比丘たちよ、ここにおいて、女性在俗信者たちは、預流たる者たちが存在し、一来たる者たちが存在し、不還たる者たちが存在します。比丘たちよ、それらの女性在俗信者たちは、全ての者たちが、無果ならざる者たちとして命を終えたのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「迷妄という結縛あるのが、世〔の人々〕であり、〔自らについて〕可能なる形態あるかのように見えてしまう(思いどおりになると錯覚する)。〔生存の〕依り所という結縛あるのが、闇に取り囲まれた愚者であり、〔自らについて〕常久であるかのように思えてしまう。〔しかしながら、あるがままに〕見ている者にとって、〔常久なるものは〕何も存在しない」と。〔以上が〕第十となる。

 

 小なるものの章が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つのバッディヤ(第一のラクンダカ・バッディヤ・第二のラクンダカ・バッディヤ)、そして、二つの執着する者たち、ラクンダカ(他のラクンダカ・バッディヤ)、渇愛の滅尽(渇愛の消滅)、そして、虚構の滅尽、カッチャーナ、そして、井戸、ウテーナがあり、〔それらの十がある〕」と。

 

8. パータリ村の者たちの章

 

8. 1. 第一の涅槃に関係したものの経

 

71. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。ここに、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「比丘たちよ、その〔認識の〕場所()は存在します──そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、この世なく、他の世なく、月と日の両者もありません。比丘たちよ、そこで、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、これ(涅槃)を、まさしく、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、〔転起された〕対象ならざるものと〔説きます〕。これこそは、苦しみの終極です」と。〔以上が〕第一となる。

 

8. 2. 第二の涅槃に関係したものの経

 

72. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。ここに、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「見難きは、まさに、終極なきもの(涅槃)。なぜなら、真理は、見易きものではないからである。〔しかしながら、あるがままに〕知っている者にとって、渇愛〔の思い〕は〔あるがままに〕理解されたのであり、〔あるがままに〕見ている者にとって、〔常久なるものは〕何も存在しない」と。〔以上が〕第二となる。

 

8. 3. 第三の涅槃に関係したものの経

 

73. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。ここに、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「比丘たちよ、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの(有為)』ではないもの(涅槃)は存在します。比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの』ではないものが有ることなくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの』ではないものが存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知されます」と。第三となる。

 

8. 4. 第四の涅槃に関係したものの経

 

74. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。ここに、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「依存している者に、動揺が〔存在し〕、依存していない者に、動揺は存在しません。動揺が存していないとき、静息があります。静息が存しているとき、誘導は有りません。誘導が存していないとき、帰る所と赴く所は有りません。帰る所と赴く所が存していないとき、死滅と再生は有りません。死滅と再生が存していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間にあって、〔何も存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極です」と。〔以上が〕第四となる。

 

8. 5. チュンダの経

 

75. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーヴァーに住んでおられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。

 

 まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、「世尊が、どうやら、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァーに到着し、パーヴァーに住んでおられるらしい。わたしのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、さらに、沢山のスーカラマッダヴァ(やわらかい豚肉)を〔準備して〕、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、鍛冶屋の子のチュンダの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに告げました。「チュンダよ、すなわち、あなたが準備したスーカラマッダヴァですが、それは、わたしに給仕してください。また、すなわち、他の、〔あなたが〕準備した固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕してください」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、すなわち、準備のものとして有ったスーカラマッダヴァですが、それは、世尊に給仕しました。また、すなわち、他の、〔彼が〕準備した固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに告げました。「チュンダよ、すなわち、あなたに残されたスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めてください。チュンダよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、或る者が、それを遍く受益したとして、正しく変化に至るであろう(食べたあと消化吸収できる)、その者を、如来より他に、わたしは見ません」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、すなわち、残りのものとして有ったスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダの食事を食べた世尊に、荒々しい病苦が生起しました。血の下痢とともに、激烈で死に至るほどの諸々の〔苦痛の〕感受が転起します。そこで、まさに、世尊は、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、耐え忍びました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。クシナーラーのあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、わたしは聞いた。『鍛冶屋〔の子〕のチュンダの食事を食べて、慧者は、激烈で死に至るほどの病苦に襲われた』〔と〕。

 

 そして、〔食事を〕食べた教師に、スーカラマッダヴァによる激烈な病が生起した。下痢をしながら、世尊は言った。『わたしは、クシナーラーの城市に赴きます』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──疲弊した者として。〔わたしは〕坐りたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──涸渇した者として。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、五百ほどの荷車が通り過ぎたところです。その〔川の〕水は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れています。尊き方よ、あのクックター川が、遠く離れていないところにあります。水は澄み、水は快く、水は冷たく、水は白く、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしいところです。世尊よ、ここにおいては、かつまた、水も飲めるでしょうし、かつまた、五体も冷たく為せるでしょう」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、さあ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕存しています──涸渇した者として。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、鉢を抱えて、その川のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、その川は、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、尊者アーナンダが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れます。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、その川は、これは、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、わたしが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れるからだ」と。〔尊者アーナンダは〕鉢で水を汲んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。尊き方よ、なぜなら、その川は、これは、〔荷車の〕車輪によって、断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、混濁し、流れているのに、わたしが近づいて行きつつあると、透明で、澄浄で、混濁なく、流れるからです。世尊は、水をお飲みください。善き至達者たる方は、水をお飲みください」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、水を飲みました。そこで、まさに、世尊は、大いなる比丘の僧団と共に、クックター川のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、クックター川に深く入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔川から〕上がって、アンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者チュンダカに告げました。「チュンダカよ、さあ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。チュンダカよ、〔わたしは〕存しています──疲弊した者として。〔わたしは〕横になりたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者チュンダカは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。そこで、まさに、世尊は、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました(右脇を下にして獅子のように臥した)。気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。いっぽう、尊者チュンダカは、まさしく、そこにおいて、世尊の前に坐りました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「覚者は、水は澄み、水は快く、澄浄なるクックター川に赴いて、教師は、極めて疲れた様子で、〔川に〕入った。ここに、世において対する者なき如来は──

 

 そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、教師は、〔川から〕上がった。比丘の衆の中において尊ばれる〔覚者〕は──教師として、ここに、諸々の法(真理)を転起させる世尊は──偉大なる聖賢は、アンバ林に近しく赴いた。チュンダカという名の比丘に、〔世尊は〕告げた。『わたしのために、四重に〔大衣を〕敷いておくれ。〔わたしは〕横になりたい』〔と〕。

 

 自己を修めた〔覚者〕に促され、チュンダ(チュンダカ)は、彼は、まさしく、すみやかに、四重に〔大衣を〕敷いた。教師は、極めて疲れた様子で横になった。チュンダもまた、そこにおいて、〔世尊の〕面前に坐った」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、誰かしらが、後悔〔の思い〕を与えるでしょう。『友よ、チュンダよ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざるものがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。すなわち、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を遍く受益して(※)、如来は、完全なる涅槃に到達したのです』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです。

 

※ テキストには bhuñjitvā とあるが、PTS版により paribhuñjitvā と読む。

 

 『友よ、チュンダよ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を遍く受益して、如来は、完全なる涅槃に到達したのです。友よ、チュンダよ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「二つのものがあります。これらの〔行乞の〕施食は、等しく同等の果があり、等しく同等の報いがあり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極度に、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となります。どのようなものが、二つのものなのですか。如来が、そして、その〔行乞の〕施食を遍く受益して、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚するなら──さらに、その〔行乞の〕施食を遍く受益して、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら──これらの二つの〔行乞の〕施食は、等しく同等の果があり、等しく同等の報いがあり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極度に、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となります」〔と〕。

 

 鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、寿命のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、色艶のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、安楽のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、天上のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、福徳(盛名)のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、権威のために等しく転起する行為が蓄積されました』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「〔常に〕布施している者に、功徳は増大し、〔常に〕自制している者に、怨恨は蓄積されない。そして、智者は、悪しきものを捨棄する。貪欲()と憤怒()と迷妄()の滅尽あることから、彼は、涅槃に到達した者となる」と。〔以上が〕第五となる。

 

8. 6. パータリ村の者たちの経

 

76. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パータリ村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、パータリ村の在俗信者たちは、「世尊が、どうやら、マガダ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パータリ村に到着したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、わたしたちの休息堂を、〔臥坐所として〕お受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、休息堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を休息堂に広げて、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が休息堂に広げられ、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、休息堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、パータリ村の在俗信者たちもまた、〔両の〕足を洗って、休息堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。そこで、まさに、世尊は、パータリ村の在俗信者たちに告げました。

 

 「家長たちよ、五つのものがあります。これらの、劣戒の者の戒の衰滅(破戒)における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長たちよ、ここに、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、放逸を事因とする大いなる財物の衰退に遭遇します。これは、第一の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者に、戒が衰滅したなら、悪しき評価の声が上がります。これは、第二の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れず、愕然と成った者として近づいて行きます。これは、第三の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、等しく迷乱した者として命を終えます。これは、第四の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。これは、第五の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。家長たちよ、まさに、これらの五つの、劣戒の者の戒の衰滅における危険があります。

 

 家長たちよ、五つのものがあります。これらの、戒ある者の戒の成就(守戒)における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長たちよ、ここに、戒ある者は、戒が成就したなら、不放逸を事因とする大いなる財物の範疇に遭遇します。これは、第一の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者に、戒が成就したなら、善き評価の声が上がります。これは、第二の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。これは、第三の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、等しく迷乱なき者として命を終えます。戒ある者には、戒の成就あることから、この第四の福利があります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します。これは、第五の、戒ある者の戒の成就における福利です。家長たちよ、まさに、これらの五つの、戒ある者の戒の成就における福利があります」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、パータリ村の在俗信者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔彼らを〕送り出しました。「家長たちよ、まさに、夜が更けました。今が、そのための時と、あなたたちが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、パータリ村の在俗信者たちは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、パータリ村の在俗信者たちが立ち去ったすぐあと、空屋に入られました。

 

 また、まさに、その時点にあって、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで。また、まさに、その時点にあって、まさしく、百千にもなる、大勢の天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取ります。その地域において、大いなる権能ある天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、大いなる権能ある王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、中等の天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、中等の王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、低劣な天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、低劣な王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。

 

 まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、まさしく、百千にもなる、それらの天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取っているのを見ました。その地域において、大いなる権能ある天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、大いなる権能ある王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、中等の天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、中等の王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、低劣な天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、低劣な王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。そこで、まさに、世尊は、その夜の早朝の時分に、起き上がって、尊者アーナンダに告げました。

 

 「アーナンダよ、いったい、まさに、どのような者たちが、パータリ村において、城市を造作するのですか」と。「尊き方よ、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで」と。「アーナンダよ、それは、たとえば、また、三十三天〔の神々〕たちと共に話し合って〔決めた〕かのように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、パータリ村において、城市を造作します──ヴァッジー〔国〕の〔来襲を〕拒んで。アーナンダよ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、まさしく、百千にもなる、大勢の天神たちが、パータリ村において、諸々の地所を遍く収め取っているのを見ました。その地域において、大いなる権能ある天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、大いなる権能ある王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、中等の天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、中等の王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。その地域において、低劣な天神たちが、諸々の地所を遍く収め取るなら、低劣な王たちや王の大臣たちの諸々の心は、そこにおいて、諸々の住居地を造作しようと傾きます。アーナンダよ、およそ、聖なる場所があるかぎり、およそ、商いの通路があるかぎり、このパータリプッタは、至高の城市として、物資の集散地として、〔世に〕有るでしょう。アーナンダよ、パータリプッタには、まさに、三つの障りが有るでしょう──あるいは、火から、あるいは、水から、あるいは、敵の破壊から」と。

 

 そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、今日、わたしたちの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊の承諾を見出して、自らの居住所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、自らの居住所において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、時を告げました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラの居住所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。

 

 そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラに、世尊は、これらの詩偈をもって随喜しました。

 

 〔すなわち〕「その地域において、賢者たる類の者が住を営むなら、ここにおいて、自制ある梵行者たる戒ある者たちを受益させて──

 

 そこにおいて、それらの天神たちが〔先住者として〕存していたなら、彼らのために、〔その賢者は〕施物を献じるべきである。彼らは、供養された者たちとして、〔彼を〕供養し、思慕された者たちとして、彼を思慕し──

 

 そののち、彼を慈しむ──母が、わが子を〔慈しむ〕ように。天神たちに慈しまれたなら、人は、常に、諸々の幸せを見る」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラを、これらの詩偈をもって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、マガダ〔国〕の大臣のスニダとヴァッサカーラは、背後から背後へと、世尊に付き従う者たちと成ります。「今日、沙門ゴータマが出るであろう、その門であるが、それは、『ゴータマの門』という名と成るであろう。〔沙門ゴータマが〕ガンガー川を渡るであろう、その渡し場であるが、それは、『ゴータマの渡し場』という名と成るであろう」と。

 

 そこで、まさに、世尊が出た、その門ですが、それは、『ゴータマの門』という名と成りました。そこで、まさに、世尊は、ガンガー川のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、ガンガー川は、烏が飲めるほど、縁まで一杯に満ちている状態であり、人間たちは、一部の者たちはまた、舟を遍く探し求め、一部の者たちはまた、筏を遍く探し求め、一部の者たちはまた、浮橋を結び縛り、此岸から彼岸に赴くことを欲します。そこで、まさに、世尊は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ガンガー川の此岸において消没し、彼岸に立ちました──比丘の僧団と共に。

 

 まさに、世尊は、それらの人間たちが、一部の者たちはまた、舟を遍く探し求めながら、一部の者たちはまた、筏を遍く探し求めながら、一部の者たちはまた、浮橋を結び縛りながら、此岸から彼岸に赴くことを欲しているのを見ました。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼ら(思慮ある人たち)は、川を〔超え〕、流れを超える──橋を作って、諸々の沼地を捨て去って。まさに、〔思慮浅き〕人は、浮橋を結び縛る──思慮ある人たちが、〔流れを〕超えたところで」と。〔以上が〕第六となる。

 

8. 7. 分かれ道の経

 

77. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、旅の道を行く者(遊行者)として〔世に〕有ります。随伴の沙門の尊者ナーガサマーラとともに。まさに、尊者ナーガサマーラは、道が途中で分かれ道になっているのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊よ、こちらが道です。〔わたしたちは〕こちら〔の道〕を赴きましょう」と。このように説かれたとき、世尊は、尊者ナーガサマーラに、こう言いました。「ナーガサマーラよ、こちらが道です。〔わたしたちは〕こちら〔の道〕を赴きましょう」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、尊者ナーガサマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊よ、こちらが道です。〔わたしたちは〕こちら〔の道〕を赴きましょう」と。三度また、まさに、世尊は、尊者ナーガサマーラに、こう言いました。「ナーガサマーラよ、こちらが道です。〔わたしたちは〕こちら〔の道〕を赴きましょう」と。そこで、まさに、尊者ナーガサマーラは、世尊の鉢と衣料を、まさしく、その場で、大地のうえに置いて、立ち去りました。「尊き方よ、これが、世尊の鉢と衣料です」と。

 

 そこで、まさに、尊者ナーガサマーラが、その道を赴きつつあると、道の途中で、盗賊たちが出てきて、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、〔尊者ナーガサマーラを〕打ち据え、そして、鉢を壊し、さらに、大衣を引き裂きました。そこで、まさに、尊者ナーガサマーラは、鉢を壊され、大衣を引き裂かれたので、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナーガサマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしが、その道を赴きつつあると、道の途中で、盗賊たちが出てきて、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、〔わたしを〕打ち据え、そして、鉢を壊し、さらに、大衣を引き裂きました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「共に歩み、一つに住し、他の人と交わりあるも、〔真の〕知に至る者は、〔あるがままの〕知ある者は、悪しきものを捨棄する──白鷺の乳飲み子が、低きに至るもの(水)を〔羽から振るい落とす〕ように」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 8. ヴィサーカーの経

 

78. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂:ヴィサーカー・ミガーラマータルが寄進した堂舎)において。また、まさに、その時点にあって、ヴィサーカー・ミガーラマータルの愛しく意に適う孫が、命を終えるところと成ります。そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルは、濡れた衣と濡れた髪で、昼のさなかに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。

 

 「ヴィサーカーよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか、濡れた衣と濡れた髪で、ここに近づいて行ったのですか──昼のさなかに」と。「尊き方よ、わたしの、愛しく意に適う孫が、命を終えたのです。それで、わたしは、濡れた衣と濡れた髪で、ここに近づいて行ったのです──昼のさなかに」と。「ヴィサーカーよ、すなわち、サーヴァッティーにいる、あるかぎりの人間たちの、それだけ〔の数〕の、そして、子たちを、さらに、孫たちを、あなたは求めますか」と。「世尊よ、すなわち、サーヴァッティーにいる、あるかぎりの人間たちの、それだけ〔の数〕の、そして、子たちを、さらに、孫たちを、わたしは求めます」と。

 

 「ヴィサーカーよ、また、どれだけ多くのサーヴァッティーの人間たちが、毎日、命を終えますか」と。「尊き方よ、十者であろうが、サーヴァッティーの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、九者であろうが……。尊き方よ、八者であろうが……。尊き方よ、七者であろうが……。尊き方よ、六者であろうが……。尊き方よ、五者であろうが……。尊き方よ、四者であろうが……。尊き方よ、三者であろうが……。尊き方よ、二者であろうが、サーヴァッティーの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、一者であろうが、サーヴァッティーの人間たちが、毎日、命を終えます。尊き方よ、サーヴァッティーは、命を終える人間たちから離れられません」と。

 

 「ヴィサーカーよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、いつであれ、どこであれ、あるいは、濡れていない衣で、あるいは、濡れていない髪で、〔世に〕有るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(ありえない)。尊き方よ、わたしには、〔もう〕十分です。それだけ多くの、そして、子たちも、さらに、孫たちも」と。

 

 「ヴィサーカーよ、まさに、彼らに、百の愛しい者がいるなら、彼らには、百の苦しみがあります。彼らに、九十の愛しい者がいるなら、彼らには、九十の苦しみがあります。彼らに、八十の愛しい者がいるなら、彼らには、八十の苦しみがあります。彼らに、七十の愛しい者がいるなら、彼らには、七十の苦しみがあります。彼らに、六十の愛しい者がいるなら、彼らには、六十の苦しみがあります。彼らに、五十の愛しい者がいるなら、彼らには、五十の苦しみがあります。彼らに、四十の愛しい者がいるなら、彼らには、四十の苦しみがあります。彼らに、三十の愛しい者がいるなら、彼らには、三十の苦しみがあります。彼らに、二十の愛しい者がいるなら、彼らには、二十の苦しみがあります。彼らに、十の愛しい者がいるなら、彼らには、十の苦しみがあります。彼らに、九つの愛しい者がいるなら、彼らには、九つの苦しみがあります。彼らに、八つの愛しい者がいるなら、彼らには、八つの苦しみがあります。彼らに、七つの愛しい者がいるなら、彼らには、七つの苦しみがあります。彼らに、六つの愛しい者がいるなら、彼らには、六つの苦しみがあります。彼らに、五つの愛しい者がいるなら、彼らには、五つの苦しみがあります。彼らに、四つの愛しい者がいるなら、彼らには、四つの苦しみがあります。彼らに、三つの愛しい者がいるなら、彼らには、三つの苦しみがあります。彼らに、二つの愛しい者がいるなら、彼らには、二つの苦しみがあります。彼らに、一つの愛しい者がいるなら、彼らには、一つの苦しみがあります。彼らに、愛しい者が存在しないなら、彼らには、苦しみが存在しません。『彼らは、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、葛藤なき者たちである』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「それらが何であれ、世における、無数なる形態の、諸々の憂い、あるいは、諸々の嘆き、あるいは、諸々の苦しみ──これらは、愛しいものを縁として発生する。愛しいものが存在していないとき、これらは、〔世に〕有ることがない。

 

 彼らにとって、どこであろうが、世において、愛しいものが存在しないなら、まさに、それゆえに、彼らは、憂いを離れた安楽の者たちである。それゆえに、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる〔境地〕を切望している者は、どこであろうが、世において、愛しいものを作らないように」と。〔以上が〕第八となる。

 

8. 9. 第一のダッバの経

 

79. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、マッラ族の尊者ダッバが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マッラ族の尊者ダッバは、世尊に、こう言いました。「善き至達者たる方よ、今や、わたしにとって、完全なる涅槃に到達する時です」と。「ダッバよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、マッラ族の尊者ダッバは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏を組んで、火の界域に入定して〔そののち〕出起して、完全なる涅槃に到達しました。

 

 そこで、まさに、マッラ族の尊者ダッバが、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏を組んで、火の界域に入定して〔そののち〕出起して、完全なる涅槃に到達したところ、燃やされ焼かれている肉体には、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ませんでした。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、酥が、あるいは、油が、燃やされ焼かれていると、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ないように、まさしく、このように、まさに(※)、マッラ族の尊者ダッバが、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏を組んで、火の界域に入定して〔そののち〕出起して、完全なる涅槃に到達したところ、燃やされ焼かれている肉体には、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕なかった、ということです。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「身体は破壊した。表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)は止滅した。諸々の感受〔作用〕(:認識対象を感受し楽苦の価値づけをする働き)は、一切が清涼と成った(機能を停止した)。諸々の形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)は寂止した。識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は滅至した」と。〔以上が〕第九となる。

 

8. 10. 第二のダッバの経

 

80. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、マッラ族のダッバが、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏を組んで、火の界域に入定して〔そののち〕出起して、完全なる涅槃に到達したところ、燃やされ焼かれている肉体には、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ませんでした。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、酥が、あるいは、油が、燃やされ焼かれていると、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、マッラ族のダッバが、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏を組んで、火の界域に入定して〔そののち〕出起して、完全なる涅槃に到達したところ、燃やされ焼かれている肉体には、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ませんでした」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「まさしく、鉄の棒で打たれた燃え盛る火が、順次に静まったなら、すなわち、〔その〕赴く所が知られないように──

 

 このように、正しく解脱した者たちの──欲望の結縛と激流を超え渡る者たちの──不動の安楽に至り得た者たちの──〔彼らの〕赴く所は、〔他に〕知らしめようにも、〔もはや〕存在しない」と。〔以上が〕第十となる。

 

 パータリ村の者たちの章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つの涅槃(涅槃に関係したもの)が説かれ、チュンダ、パータリ村の者たち、分かれ道、そして、ヴィサーカーがあり、〔二つの〕ダッバと共に、それらの十がある」と。

 

 ウダーナ(感興の言葉)における諸章のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「第一の優れたこの章は、菩提。第二のこの章は、ムチャリンダ。まさに、第三の優れた章は、ナンダなるもの。そして、第四の優れた章は、メーギヤ。

 

 第五の優れた章、ということで、ここに、ソーナ。第六の優れた章、ということで、生まれながらの盲者たち。そして、第七の優れた章、ということで、小なるもの。第八の章は、パータリ村の者たち。

 

 欠くことなく八十の優れた経ある、見事に区分された、この八つの章は、〔世俗の〕垢を離れる眼ある方によって見示された。まさに、たしかに、それを、〔人々は〕『ウダーナ』と、こう言った」〔と〕。

 

 ウダーナ聖典は〔以上で〕終了となる。