長部経典(ディーガ・ニカーヤ)

 

 パーティカの部の聖典(パーティカ篇・上)

 

【目次】

 

1(24). パーティカの経(1.~)

2(25). ウドゥンバリカーの経(49.~)

3(26). 転輪〔王〕の経(80.~)

4(27). 始源の経(111.~)

5(28). 等しく浄信するべきものの経(141.~)

6(29). 浄信あるものの経(164.~)

7(30). 特相の経(198.~)

8(31). シンガーラの経(242.~)

9(32). アーターナーターの〔護経〕の経(275.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 パーティカの部の聖典(パーティカ篇・上)

 

1(24). パーティカの経

 

 スナッカッタの事

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕に住んでおられます。マッラ〔国〕には、アヌピヤという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アヌピヤに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「アヌピヤを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、バッガヴァ姓の遍歴遊行者の林園のあるところに、バッガヴァ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

2. そこで、まさに、世尊は、バッガヴァ姓の遍歴遊行者の林園のあるところに、バッガヴァ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、バッガヴァ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、バッガヴァ姓の遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、バッガヴァ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、過日のことですが、以前、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしに、こう言いました。『バッガヴァよ、今や、わたしによって、世尊は拒絶されました。今や、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住みません』と。尊き方よ、どうでしょう、このことは、まさしく、そのとおりですか。すなわち、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが言ったとおりに」と。「バッガヴァよ、まさに、このことは、まさしく、そのとおりです。すなわち、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが言ったとおりに。

 

3. バッガヴァよ、過日のことですが、以前、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、今や、わたしは、世尊を拒絶します。尊き方よ、今や、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住みません』と。バッガヴァよ、このように説かれたとき、わたしは、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、こう言いました。『スナッカッタよ、さて、いったい、わたしは、あなたに、このように言いましたか。「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『また、あるいは、あなたは、わたしに、このように言いましたか。「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、わたしが、あなたに、「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい」と説くことも、まさしく、なく、まさに、また、あなたが、わたしに、「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう」と説くこともありません。愚人よ、このように存しているとき、〔あなたは〕どのような者として存しているのですか、何を峻拒するのですか。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを』と。

 

4. 『尊き方よ、また、まさに、世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しません』と。『スナッカッタよ、さて、いったい、わたしは、あなたに、このように言いましたか。「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい。わたしは、あなたに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すでしょう」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『また、あるいは、あなたは、わたしに、このように言いましたか。「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう。世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すでしょう」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、わたしが、あなたに、「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい。わたしは、あなたに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すでしょう」と説くことも、まさしく、なく、まさに、また、あなたが、わたしに、「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう。世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すでしょう」と説くこともありません。愚人よ、このように存しているとき、〔あなたは〕どのような者として存しているのですか、何を峻拒するのですか。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されたときも、あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されなかったときも、その義(目的)のために、わたしによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となりますか』と。『尊き方よ、あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されたときも、あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されなかったときも、その義(目的)のために、世尊によって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります』と。『スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されたときも、あるいは、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されなかったときも、その義(目的)のために、わたしによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。スナッカッタよ、そこで、人間の法(性質)を超える、神通の神変が為されたとして、何を為すというのでしょう。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを』と。

 

5. 『尊き方よ、また、まさに、世尊は、わたしに、〔世の〕始源を報知しません』と。『スナッカッタよ、さて、いったい、わたしは、あなたに、このように言いましたか。「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい。わたしは、あなたに、〔世の〕始源を報知するでしょう」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『また、あるいは、あなたは、わたしに、このように言いましたか。「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう。世尊は、わたしに、〔世の〕始源を報知するでしょう」』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、わたしが、あなたに、「スナッカッタよ、来たれ、あなたは、わたしを指定して〔世に〕住みなさい。わたしは、あなたに、〔世の〕始源を報知するでしょう」と説くことも、まさしく、なく、まさに、また、あなたが、わたしに、「尊き方よ、わたしは、世尊を指定して〔世に〕住むでしょう。世尊は、わたしに、〔世の〕始源を報知するでしょう」と説くこともありません。愚人よ、このように存しているとき、〔あなたは〕どのような者として存しているのですか、何を峻拒するのですか。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。あるいは、〔世の〕始源が報知されたときも、あるいは、〔世の〕始源が報知されなかったときも、その義(目的)のために、わたしによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となりますか』と。『尊き方よ、あるいは、〔世の〕始源が報知されたときも、あるいは、〔世の〕始源が報知されなかったときも、その義(目的)のために、世尊によって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります』と。『スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あるいは、〔世の〕始源が報知されたときも、あるいは、〔世の〕始源が報知されなかったときも、その義(目的)のために、わたしによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。スナッカッタよ、そこで、〔世の〕始源が報知されたとして、何を為すというのでしょう。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを。

 

6. スナッカッタよ、まさに、あなたによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、わたしの栄誉が語られました──ヴァッジ村において、「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、無数の教相によって、わたしの栄誉が語られました──ヴァッジ村において。

 

 スナッカッタよ、まさに、あなたによって、無数の教相によって、法(教え)の栄誉が語られました──ヴァッジ村において、「法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである」と。スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、無数の教相によって、法(教え)の栄誉が語られました──ヴァッジ村において。

 

 スナッカッタよ、まさに、あなたによって、無数の教相によって、僧団の栄誉が語られました──ヴァッジ村において、「世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である」と。スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、無数の教相によって、僧団の栄誉が語られました──ヴァッジ村において。

 

 スナッカッタよ、まさに、あなたに、〔わたしは〕告げます。スナッカッタよ、まさに、あなたに、〔わたしは〕知らせます。スナッカッタよ、まさに、あなたに説く者たちが有るでしょう。「リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、沙門ゴータマのもと、梵行を歩むことができなかった。できずにいながら、彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたのだ(戒を捨てて還俗した)」と。スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、あなたに説く者たちが有るでしょう』と。

 

 バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしによって説かれながらも、まさしく、この法(教え)と律から立ち去りました。あたかも、それは、悪所にある者であるかのように、地獄にある者であるかのように。

 

 コーラッカッティヤの事

 

7. バッガヴァよ、これは、或る時のことです。わたしは、トゥールー〔国〕に住んでいます。トゥールー〔国〕には、ウッタラカーという名の町があります。バッガヴァよ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタを随伴の沙門として、ウッタラカーに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、犬の掟ある無衣行者のコーラッカッティヤが、四つん這いになり、地に散乱した食物を、口だけで咀嚼し、口だけで受益します。バッガヴァよ、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、犬の掟ある無衣行者のコーラッカッティヤが、四つん這いになり、地に散乱した食物を、口だけで咀嚼し、口だけで受益しているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、善き形態の、この沙門である。四つん這いになり、地に散乱した食物を、口だけで咀嚼し、口だけで受益する』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、わたしは、〔自らの〕心をとおして、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタの心の思索を了知して、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、こう言いました。『愚人よ、あなたもまた、まさに、釈子たる沙門と明言するのですか』と。『尊き方よ、また、どうして、世尊は、わたしのことを、このように言ったのですか。「愚人よ、あなたもまた、まさに、釈子たる沙門と明言するのですか」』と。『スナッカッタよ、この、犬の掟ある無衣行者のコーラッカッティヤが、四つん這いになり、地に散乱した食物を、口だけで咀嚼し、口だけで受益しているのを見て、まさに、あなたに、この〔思い〕が有ったのではないですか。「ああ、まさに、善き形態の、この沙門である。四つん這いになり、地に散乱した食物を、口だけで咀嚼し、口だけで受益する」』と。『尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、また、どうして、世尊は、阿羅漢の資質を物惜するのですか』と。『愚人よ、まさに、わたしは、阿羅漢の資質を物惜しません。ですが、また、まさしく、あなたに、この、悪しきものとして、悪しき見解が生起したのです。それを捨棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません。スナッカッタよ、また、まさに、すなわち、この、無衣行者のコーラッカッティヤのことを、「ああ、まさに、善き形態の、この沙門である」と、〔あなたは〕思い考えますが、彼は、第七日に、喰い過ぎによって命を終えるでしょう。そして、命を終えたなら、カーラカンチカという名の阿修羅より、全てが劣った阿修羅の身体ある者となり、そこに再生するでしょう。そして、命を終えたなら、彼を、ビーナラ〔草〕の藪がある墓場に、〔人々は〕捨て放つでしょう。スナッカッタよ、そして、望んでいるなら、あなたは、無衣行者のコーラッカッティヤに、近づいて行って尋ねるべきです。「友よ、コーラッカッティヤよ、〔あなたは〕知っていますか──自己の赴く所()を」と。スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、あなたに、無衣行者のコーラッカッティヤが、〔このように〕説き明かすことです。「友よ、スナッカッタよ、〔わたしは〕知っています──自己の赴く所を。カーラカンチカという名の阿修羅より、全てが劣った阿修羅の身体ある者となり、そこに再生した者として、〔わたしは〕存しています」』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、無衣行者のコーラッカッティヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のコーラッカッティヤに、こう言いました。『友よ、コーラッカッティヤよ、まさに、〔あなたは〕存しています。沙門ゴータマによって、〔このように〕説き明かされた者として。「無衣行者のコーラッカッティヤは、第七日に、喰い過ぎによって命を終えるでしょう。そして、命を終えたなら、カーラカンチカという名の阿修羅より、全てが劣った阿修羅の身体ある者となり、そこに再生するでしょう。そして、命を終えたなら、彼を、ビーナラ〔草〕の藪がある墓場に、〔人々は〕捨て放つでしょう」と。友よ、コーラッカッティヤよ、それゆえに、あなたは、かつまた、ほどほどの食事を食べるべきであり、かつまた、ほどほどの飲み物を飲むべきです。すなわち、沙門ゴータマの言葉が、虚偽として存するように』と。

 

8. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、一〔日〕二日と、七つの夜と昼を数えました。すなわち、如来に信を置かずにいる、そのとおりに。バッガヴァよ、そこで、まさに、無衣行者のコーラッカッティヤは、第七日に、喰い過ぎによって命を終えました。そして、命を終え、カーラカンチカという名の阿修羅より、全てが劣った阿修羅の身体ある者となり、そこに再生しました。そして、命を終えた彼を、ビーナラ〔草〕の藪がある墓場に、〔人々は〕捨て放ちました。

 

9. バッガヴァよ、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、『どうやら、無衣行者のコーラッカッティヤが、喰い過ぎによって命を終え、ビーナラ〔草〕の藪がある墓場に捨て放たれたらしい』と耳にしました。バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、ビーナラ〔草〕の藪がある墓場のあるところに、無衣行者のコーラッカッティヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のコーラッカッティヤを、三回、手で打ち叩きました。『友よ、コーラッカッティヤよ、〔あなたは〕知っていますか──自己の赴く所を』と。バッガヴァよ、そこで、まさに、無衣行者のコーラッカッティヤは、手で背を拭いながら、立ち上がりました。『友よ、スナッカッタよ、〔わたしは〕知っています──自己の赴く所を。カーラカンチカという名の阿修羅より、全てが劣った阿修羅の身体ある者となり、そこに再生した者として、〔わたしは〕存しています』と言って、まさしく、その場において、上向きに倒れ落ちました。

 

10. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、わたしは、こう言いました。『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。その報い(異熟)は、まさしく、すなわち、わたしが、無衣行者のコーラッカッティヤに関して、あなたに説き明かしたように、まさしく、そのようにありますか、あるいは、他のようにありますか』と。『尊き方よ、その報いは、まさしく、すなわち、世尊が、無衣行者のコーラッカッティヤに関して、わたしに説き明かしたように、まさしく、そのようにあります──他のようにではなく』と。『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、あるいは、為されたものと成りますか、あるいは、為されていないものと〔成りますか〕』と。『尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、為されたものと成ります──為されていないものではなく』と。『愚人よ、このようにもまた、まさに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しているわたしのことを、あなたは、このように説きます。「尊き方よ、また、まさに、世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しません」と。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを』と。バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしによって説かれながらも、まさしく、この法(教え)と律から立ち去りました。あたかも、それは、悪所にある者であるかのように、地獄にある者であるかのように。

 

 無衣行者のカラーラマッタカの事

 

11. バッガヴァよ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーサーリーに住んでいます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、無衣行者のカラーラマッタカが、ヴェーサーリーに滞在しています。まさしく、そして、至高の利得に至り得た者として、さらに、至高の盛名に至り得た者として──ヴァッジ村において。彼には、完全なるものとして受持された、七つの掟の境処が有ります。『生あるかぎり、無衣行者として〔世に〕存し、衣をまとわない』『生あるかぎり、梵行者として〔世に〕存し、淫事の法(性質)を受用しない』『生あるかぎり、穀物酒と肉だけで〔身を〕保ち行き、飯と粥を食べない』『ヴェーサーリーの東に、ウデーナという名の塔廟があるが、それを超え行かない』『ヴェーサーリーの南に、ゴータマカという名の塔廟があるが、それを超え行かない』『ヴェーサーリーの西に、サッタンバという名の塔廟があるが、それを超え行かない』『ヴェーサーリーの北に、バフプッタという名の塔廟があるが、それを超え行かない』と。彼は、これらの七つの掟の境処の受持を因として、まさしく、そして、至高の利得に至り得たのであり、さらに、至高の盛名に至り得たのです──ヴァッジ村において。

 

12. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、無衣行者のカラーラマッタカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のカラーラマッタカに、問いを尋ねました。問いを尋ねられた無衣行者のカラーラマッタカは、彼に解答できませんでした。解答できずにいながら、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました。バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、善き形態の阿羅漢たる沙門を攻撃してしまった。まさに、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけない』と。

 

13. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、わたしは、こう言いました。『愚人よ、あなたもまた、まさに、釈子たる沙門と明言するのですか』と。『尊き方よ、また、どうして、世尊は、わたしのことを、このように言ったのですか。「愚人よ、あなたもまた、まさに、釈子たる沙門と明言するのですか」』と。『スナッカッタよ、まさに、あなたは、近づいて行って、無衣行者のカラーラマッタカに、問いを尋ねました。問いを尋ねられた無衣行者のカラーラマッタカは、〔まさに〕その、あなたに、解答できませんでした。解答できずにいながら、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました。〔まさに〕その、あなたに、この〔思い〕が有ったのではないですか。「ああ、まさに、善き形態の阿羅漢たる沙門を攻撃してしまった。まさに、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけない」』と。『尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、また、どうして、阿羅漢の資質を物惜するのですか』と。『愚人よ、まさに、わたしは、阿羅漢の資質を物惜しません。ですが、また、まさしく、あなたに、この、悪しきものとして、悪しき見解が生起したのです。それを捨棄しなさい。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません。スナッカッタよ、また、まさに、すなわち、この、無衣行者のカラーラマッタカのことを、「ああ、まさに、善き形態の、この沙門である」と、〔あなたは〕思い考えますが、彼は、まさしく、長からずして、〔衣服を〕まとい、連れ合いと共に渡り歩きながら、飯と粥を食べ、まさしく、全てのヴェーサーリーの塔廟を等しく超え行って、盛名から衰退し、命を終えるでしょう』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、無衣行者のカラーラマッタカは、まさしく、長からずして、〔衣服を〕まとい、連れ合いと共に渡り歩きながら、飯と粥を食べ、まさしく、全てのヴェーサーリーの塔廟を等しく超え行って、盛名から衰退し、命を終えました。

 

14. バッガヴァよ、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、『どうやら、無衣行者のカラーラマッタカが、〔衣服を〕まとい、連れ合いと共に渡り歩きながら、飯と粥を食べ、まさしく、全てのヴェーサーリーの塔廟を等しく超え行って、盛名から衰退し、命を終えたらしい』と耳にしました。バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、わたしは、こう言いました。『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。その報いは、まさしく、すなわち、わたしが、無衣行者のカラーラマッタカに関して、あなたに説き明かしたように、まさしく、そのようにありますか、あるいは、他のようにありますか』と。『尊き方よ、その報いは、まさしく、すなわち、世尊が、無衣行者のカラーラマッタカに関して、わたしに説き明かしたように、まさしく、そのようにあります──他のようにではなく』と。『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、あるいは、為されたものと成りますか、あるいは、為されていないものと〔成りますか〕』と。『尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、為されたものと成ります──為されていないものではなく』と。『愚人よ、このようにもまた、まさに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しているわたしのことを、あなたは、このように説きます。「尊き方よ、また、まさに、世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しません」と。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを』と。バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしによって説かれながらも、まさしく、この法(教え)と律から立ち去りました。あたかも、それは、悪所にある者であるかのように、地獄にある者であるかのように。

 

 無衣行者のパーティカプッタの事

 

15. バッガヴァよ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーサーリーに住んでいます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、無衣行者のパーティカプッタが、ヴェーサーリーに滞在しています。まさしく、そして、至高の利得に至り得た者として、さらに、至高の盛名に至り得た者として──ヴァッジ村において。彼は、ヴェーサーリーの衆において、このような言葉を語ります。『沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。わたしもまた、知恵を説く者である。また、まさに、知恵を説く者は、知恵を説く者とともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示するに値する。沙門ゴータマが、半分の道を来るなら、わたしもまた、半分の道を赴くだろう。〔まさに〕その〔わたしたち〕は、そこにおいて、両者ともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すであろう。もし、沙門ゴータマが、一つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、二つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、二つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、四つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、四つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、八つを為すであろう。かくのごとく、それだけのもの、それだけのものとして、沙門ゴータマが、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう』と。

 

16. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタが、ヴェーサーリーに滞在しています。まさしく、そして、至高の利得に至り得た者として、さらに、至高の盛名に至り得た者として──ヴァッジ村において。彼は、ヴェーサーリーの衆において、このような言葉を語ります。「沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。わたしもまた、知恵を説く者である。また、まさに、知恵を説く者は、知恵を説く者とともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示するに値する。沙門ゴータマが、半分の道を来るなら、わたしもまた、半分の道を赴くだろう。〔まさに〕その〔わたしたち〕は、そこにおいて、両者ともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すであろう。もし、沙門ゴータマが、一つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、二つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、二つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、四つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、四つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、八つを為すであろう。かくのごとく、それだけのもの、それだけのものとして、沙門ゴータマが、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう」』と。

 

 バッガヴァよ、このように説かれたとき、わたしは、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、こう言いました。『スナッカッタよ、まさに、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう』と。

 

17. 『尊き方よ、世尊は、この言葉を守りたまえ。善き至達者たる方は、この言葉を守りたまえ』と。『スナッカッタよ、また、どうして、あなたは、わたしに、このように説くのですか。「尊き方よ、世尊は、この言葉を守りたまえ。善き至達者たる方は、この言葉を守りたまえ」』と。『尊き方よ、そして、「無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」という、この言葉は、世尊によって、一定して教諭されたものとして(※)存するでしょうし、尊き方よ、さらに、無衣行者のパーティカプッタが、種々様々な形態によって、世尊の面前の状態に至り来るなら、世尊のその〔言葉〕は、虚偽として存するでしょう』と。

 

※ テキストには odhāritā とあるが、PTS版により ovāditā と読む。

 

18. 『スナッカッタよ、さて、いったい、如来は、その言葉を語るでしょうか。すなわち、その言葉が、〔相反する〕二つのものに至る、〔そのような言葉を〕』と。『尊き方よ、また、どうでしょう、無衣行者のパーティカプッタは、世尊によって、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。「無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。

 

 それとも、天神たちが、世尊に、この義(意味)を告げたのですか。「尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、世尊の面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」』と。

 

19. 『スナッカッタよ、まさしく、そして、わたしによって、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。「無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。

 

 天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。「尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、世尊の面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。

 

 リッチャヴィ〔族〕たちの軍団長であるアジタという名の者もまた、最近のこと、命を終え、三十三〔天〕の身体に再生したのですが、彼もまた、近づいて行って、わたしに、このように告げました。「尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタは、恥〔の思い〕なき者です。尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタは、虚偽を説く者です。尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタは、わたしのこともまた説き明かしました──ヴァッジ村において。『リッチャヴィ〔族〕たちの軍団長であるアジタは、大いなる地獄に再生したのだ』と。尊き方よ、また、まさに、わたしは、大いなる地獄に再生したのではなく、まさに、三十三〔天〕の身体に再生したのです。尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタは、恥〔の思い〕なき者です。尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタは、虚偽を説く者です。尊き方よ、そして、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、世尊の面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。

 

 スナッカッタよ、かくのごとく、まさに、まさしく、そして、わたしによって、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。「無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。「尊き方よ、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、世尊の面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。

 

 スナッカッタよ、また、それで、まさに、わたしは、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、無衣行者のパーティカプッタの林園のあるところに、そこへと近づいて行くでしょう──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。スナッカッタよ、今や、あなたが、その者に〔告げることを〕求めるなら、その者に告げなさい』と。

 

 神通の神変の話

 

20. バッガヴァよ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、無衣行者のパーティカプッタの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、急ぎの様子で、ヴェーサーリーに入って、証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。『友よ、この方が、世尊が、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、無衣行者のパーティカプッタの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。尊者たちよ、来訪したまえ。尊者たちよ、来訪したまえ。善き形態の沙門たちの、人間の法(性質)を超える、神通の神変が有るでしょう』と。バッガヴァよ、そこで、まさに、証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちに、この〔思い〕が有りました。『君よ、どうやら、善き形態の沙門たちの、人間の法(性質)を超える、神通の神変が有るらしい。君よ、さあ、まさに、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちのいるところに……家長の収蔵家たちのいるところに……種々なる異教の沙門や婆羅門たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、証知されたうえにも証知された種々なる異教の沙門や婆羅門たちに、こう言いました。『友よ、この方が、世尊が、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、無衣行者のパーティカプッタの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。尊者たちよ、来訪したまえ。尊者たちよ、来訪したまえ。善き形態の沙門たちの、人間の法(性質)を超える、神通の神変が有るでしょう』と。バッガヴァよ、そこで、まさに、証知されたうえにも証知された種々なる異教の沙門や婆羅門たちに、この〔思い〕が有りました。『君よ、どうやら、善き形態の沙門たちの、人間の法(性質)を超える、神通の神変が有るらしい。君よ、さあ、まさに、〔わたしたちは〕赴くのだ』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちは、さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、無衣行者のパーティカプッタの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。バッガヴァよ、〔まさに〕その、この衆は、幾百にも、幾千にも、大いなるものと成ります。

 

21. バッガヴァよ、まさに、無衣行者のパーティカプッタは、『どうやら、証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが来訪しているらしい。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、来訪しているらしい。沙門ゴータマもまた、わたしの林園において、昼の休息のために坐っているらしい』と耳にしました。耳にして、彼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちが生起しました。バッガヴァよ、そこで、まさに、無衣行者のパーティカプッタは、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 バッガヴァよ、まさに、その衆は、『どうやら、無衣行者のパーティカプッタが、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行ったらしい』と耳にしました。バッガヴァよ、そこで、まさに、その衆は、或るひとりの男に告げました。

 

 『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、無衣行者のパーティカプッタのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、無衣行者のパーティカプッタに、このように説きたまえ。「友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが来訪しています。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、来訪しています。沙門ゴータマもまた、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。『沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。わたしもまた、知恵を説く者である。また、まさに、知恵を説く者は、知恵を説く者とともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示するに値する。沙門ゴータマが、半分の道を来るなら、わたしもまた、半分の道を赴くだろう。〔まさに〕その〔わたしたち〕は、そこにおいて、両者ともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すであろう。もし、沙門ゴータマが、一つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、二つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、二つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、四つを為すであろう。もし、沙門ゴータマが、四つの人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、わたしは、八つを為すであろう。かくのごとく、それだけのもの、それだけのものとして、沙門ゴータマが、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為すなら、その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう』と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ──まさしく、その〔言葉〕の、まさに、半分の道を。沙門ゴータマは、まさしく、全ての者たちの最初にやってきて、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています」』と。

 

22. バッガヴァよ、『君よ、わかりました』と、まさに、その男は、その衆に答えて、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、無衣行者のパーティカプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが来訪しています。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、来訪しています。沙門ゴータマもまた、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。「沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。わたしもまた、知恵を説く者である。また、まさに、知恵を説く者は、知恵を説く者とともに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示するに値する。……略……その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう」と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ──まさしく、その〔言葉〕の、まさに、半分の道を。沙門ゴータマは、まさしく、全ての者たちの最初にやってきて、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています』と。

 

 バッガヴァよ、このように説かれたとき、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。バッガヴァよ、そこで、まさに、その男は、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、いったい、まさに、あなたに、何があるのですか。はてさて、まさに、あなたの諸々の髪の毛が、椅子に付着したのですか。はてさて、まさに、椅子が、あなたの諸々の髪の毛に付着したのですか。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、説かれながらも、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。

 

23. バッガヴァよ、すなわち、まさに、その男が、『この者は、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子である。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができない』と了知したとき、そこで、その衆に、戻って、このように告げました。『君よ、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子です。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。バッガヴァよ、このように説かれたとき、わたしは、その衆に、こう言いました。『友よ、まさに、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう』と。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

24. バッガヴァよ、そこで、まさに、或るひとりのリッチャヴィ〔族〕の大臣が、坐から立ち上がって、その衆に、こう言いました。『君よ、まさに、それでは、しばらく、まずは、待ちたまえ。すなわち、わたしが赴くまで。まさしく、おそらく、まさに、わたしであるなら、無衣行者のパーティカプッタを、この衆に連れて来ることができるでしょう』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の大臣は、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、無衣行者のパーティカプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。あなたにとって、より勝るのは、来訪すること。証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが来訪しています。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、来訪しています。沙門ゴータマもまた、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。「沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。……略……その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう」と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ──まさしく、その〔言葉〕の、まさに、半分の道を。沙門ゴータマは、まさしく、全ての者たちの最初にやってきて、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、沙門ゴータマによって、衆において、この言葉が語られました。「まさに、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。まさしく、来訪することによって、あなたには勝利を、沙門ゴータマには敗北を、〔わたしたちは〕作り為しましょう』と。

 

 バッガヴァよ、このように説かれたとき、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。バッガヴァよ、そこで、まさに、そのリッチャヴィ〔族〕の大臣は、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、いったい、まさに、あなたに、何があるのですか。はてさて、まさに、あなたの諸々の髪の毛が、椅子に付着したのですか。はてさて、まさに、椅子が、あなたの諸々の髪の毛に付着したのですか。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、説かれながらも、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。

 

25. バッガヴァよ、すなわち、まさに、そのリッチャヴィ〔族〕の大臣が、『この者は、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子である。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができない』と了知したとき、そこで、その衆に、戻って、このように告げました。『君よ、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子です。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。バッガヴァよ、このように説かれたとき、わたしは、その衆に、こう言いました。『友よ、まさに、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう。それで、もし、また、尊者たちに、リッチャヴィ〔族〕の者たちに、このような〔思いが〕存するなら、「わたしたちは、無衣行者のパーティカプッタを、諸々の革紐によって結縛して、ひと組の牛たちによって引っ張るのだ」と、それらの革紐が──あるいは、パーティカプッタが──切断されるでしょう。また、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう』と。

 

26. バッガヴァよ、そこで、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤが、坐から立ち上がって、その衆に、こう言いました。『君よ、まさに、それでは、しばらく、まずは、待ちたまえ。すなわち、わたしが赴くまで。まさしく、おそらく、まさに、わたしであるなら、無衣行者のパーティカプッタを、この衆に連れて来ることができるでしょう』と。

 

 バッガヴァよ、そこで、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、ティンドゥカカーヌ遍歴遊行者の林園のあるところに、無衣行者のパーティカプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。あなたにとって、より勝るのは、来訪すること。証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが来訪しています。さらに、証知されたうえにも証知された、婆羅門の大家たちも、家長の収蔵家たちも、種々なる異教の沙門や婆羅門たちも、来訪しています。沙門ゴータマもまた、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。「沙門ゴータマもまた、知恵を説く者である。……略……その二倍のもの、その二倍のものとして、わたしは為すであろう」と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ──まさしく、その〔言葉〕の、まさに、半分の道を。沙門ゴータマは、まさしく、全ての者たちの最初にやってきて、尊者の林園において、昼の休息のために坐っています。友よ、パーティカプッタよ、また、まさに、沙門ゴータマによって、衆において、この言葉が語られました。「無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう。それで、もし、また、尊者たちに、リッチャヴィ〔族〕の者たちに、このような〔思いが〕存するなら、『わたしたちは、無衣行者のパーティカプッタを、諸々の革紐によって結縛して、ひと組の牛たちによって引っ張るのだ』と、それらの革紐が──あるいは、パーティカプッタが──切断されるでしょう。また、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、『わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ』と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう」と。友よ、パーティカプッタよ、来訪したまえ。まさしく、来訪することによって、あなたには勝利を、沙門ゴータマには敗北を、〔わたしたちは〕作り為すでしょう』と。

 

 バッガヴァよ、このように説かれたとき、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。バッガヴァよ、そこで、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、無衣行者のパーティカプッタに、こう言いました。『友よ、パーティカプッタよ、いったい、まさに、あなたに、何があるのですか。はてさて、まさに、あなたの諸々の髪の毛が、椅子に付着したのですか。はてさて、まさに、椅子が、あなたの諸々の髪の毛に付着したのですか。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、説かれながらも、無衣行者のパーティカプッタは、『友よ、行きます。友よ、行きます』と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません。

 

27. バッガヴァよ、すなわち、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤが、『この者は、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子である。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができない』と了知したとき、そこで、彼に、こう言いました。

 

 『友よ、パーティカプッタよ、過去の事ですが、獣の王たる獅子に、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、或るどこかの密林に依拠して、巣を営むのだ。そこで、巣を営んで、夕刻時に、巣から出立するのだ。巣から出立して、〔身体を〕屈伸するのだ。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回すのだ。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫ぶのだ。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行くのだ。その〔わたし〕は、獣の群れのなかの優れたもの優れたものを打ち殺して、諸々の柔らかい肉を〔食しては〕諸々の柔らかい肉を食して、まさしく、その巣に帰るのだ」と。

 

 友よ、そこで、まさに、その獣の王たる獅子は、或るどこかの密林に依拠して、巣を営みました。そこで、巣を営んで、夕刻時に、巣から出立しました。巣から出立して、〔身体を〕屈伸しました。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回しました。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫びました。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行きました。彼は、獣の群れのなかの優れたもの優れたものを打ち殺して、諸々の柔らかい肉を〔食しては〕諸々の柔らかい肉を食して、まさしく、その巣に帰りました。

 

28. 友よ、パーティカプッタよ、まさしく、その獣の王たる獅子の、まさに、食べ残しによって大いに潤っている、老いた野狐(ジャッカル)がいます。まさしく、そして、倨傲の者であり、さらに、力ある者です。友よ、そこで、まさに、その老いた野狐に、この〔思い〕が有りました。「では、わたしは何なのだ〔と言えば、四つ足の畜生である〕。では、獣の王たる獅子は何なのだ〔と言えば、四つ足の畜生である〕。それなら、さあ、わたしもまた、或るどこかの密林に依拠して、巣を営むのだ。そこで、巣を営んで、夕刻時に、巣から出立するのだ。巣から出立して、〔身体を〕屈伸するのだ。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回すのだ。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫ぶのだ。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行くのだ。その〔わたし〕は、獣の群れのなかの優れたもの優れたものを打ち殺して、諸々の柔らかい肉を〔食しては〕諸々の柔らかい肉を食して、まさしく、その巣に帰るのだ」と。

 

 友よ、そこで、まさに、その老いた野狐は、或るどこかの密林に依拠して、巣を営みました。そこで、巣を営んで、夕刻時に、巣から出立しました。巣から出立して、〔身体を〕屈伸しました。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回しました。遍きにわたり、四方を見回して、「三回、獅子吼を吼え叫ぶのだ」と、まさしく、野狐の叫び声を発し、まさしく、山犬の叫び声を発しました。さてまた、何とも、卑賎な野狐なのでしょう。また、何が、獅子吼なのでしょう。

 

 友よ、パーティカプッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の施し物のもとで生きていながら、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の余り物を食べていながら、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちを攻撃するべきと思い考えます。さてまた、何とも、卑賎なパーティカプッタなのでしょう。さてまた、何が、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちへの攻撃なのでしょう』と。

 

29. バッガヴァよ、すなわち、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、この喩えによって、無衣行者のパーティカプッタを、その坐から動かすことが、まさしく、できなかったことから、そこで、彼に、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『「獅子である」と、自己を等しく見て、野狐は思い考えた。「わたしは、獣の王として存している」〔と〕。まさしく、そのように、彼は、野狐の叫び声を発した。さてまた、何とも、卑賎な野狐なのだろう。また、何が、獅子吼なのだろう』と。

 

 『友よ、パーティカプッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の施し物のもとで生きていながら、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の余り物を食べていながら、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちを攻撃するべきと思い考えます。さてまた、何とも、卑賎なパーティカプッタなのでしょう。さてまた、何が、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちへの攻撃なのでしょう』と。

 

30. バッガヴァよ、すなわち、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、この喩えによってもまた、無衣行者のパーティカプッタを、その坐から動かすことが、まさしく、できなかったことから、そこで、彼に、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『他者に従い歩みながら、食べ残しがあるとき、自己を等しく見て、〔あるがままの〕自己を見ない、それまでは、野狐は、それまでのあいだ、〔自己を〕「虎である」と思い考える。

 

 まさしく、そのように、彼は、野狐の叫び声を発した。さてまた、何とも、卑賎な野狐なのだろう。また、何が、獅子吼なのだろう』と。

 

 『友よ、パーティカプッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の施し物のもとで生きていながら、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の余り物を食べていながら、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちを攻撃するべきと思い考えます。さてまた、何とも、卑賎なパーティカプッタなのでしょう。さてまた、何が、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちへの攻撃なのでしょう』と。

 

31. バッガヴァよ、すなわち、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、この喩えによってもまた、無衣行者のパーティカプッタを、その坐から動かすことが、まさしく、できなかったことから、そこで、彼に、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『蛙たちや穀倉の鼠たちを食べて、さらに、諸々の墓地に投げ放たれた諸々の死骸を〔食べて〕、大いなる林や空無なる林において潤っている者となり、野狐は思い考えた。「わたしは、獣の王として存している」〔と〕。

 

 まさしく、そのように、彼は、野狐の叫び声を発した。さてまた、何とも、卑賎な野狐なのだろう。また、何が、獅子吼なのだろう』と。

 

 『友よ、パーティカプッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の施し物のもとで生きていながら、善き至達者から〔回ってきた〕諸々の余り物を食べていながら、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちを攻撃するべきと思い考えます。さてまた、何とも、卑賎なパーティカプッタなのでしょう。さてまた、何が、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちへの攻撃なのでしょう』と。

 

32. バッガヴァよ、すなわち、まさに、ダールパッティカの内弟子であるジャーリヤは、この喩えによって、無衣行者のパーティカプッタを、その坐から動かすことが、まさしく、できなかったことから、そこで、その衆に、戻って、このように告げました。『君よ、無衣行者のパーティカプッタは、滅亡した様子です。「友よ、行きます。友よ、行きます」と言って、まさしく、その場においてもがきまわり、坐からもまた立ち上がることができません』と。

 

33. バッガヴァよ、このように説かれたとき、わたしは、その衆に、こう言いました。『友よ、まさに、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう。それで、もし、また、尊者たちに、リッチャヴィ〔族〕の者たちに、このような〔思いが〕存するなら、「わたしたちは、無衣行者のパーティカプッタを、諸々の革紐によって結縛して、象たちによって引っ張るのだ」と、それらの革紐が──あるいは、パーティカプッタが──切断されるでしょう。また、無衣行者のパーティカプッタが、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、わたしの面前の状態に至り来ることは有りえません。それで、もし、また、彼に、このような〔思いが〕存するなら、「わたしは、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、沙門ゴータマの面前の状態に至り行くのだ」と、彼の頭もまた、張り裂けてしまうでしょう』と。

 

34. バッガヴァよ、そこで、まさに、わたしは、その衆に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。その衆に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、大いなる結縛からの解脱を為して、八万四千の命ある者たちを大いなる難所から引き上げて、火の界域に入定して、七ターラ(高さの単位・一ターラはターラ樹の高さに該当)に、宙に舞い上がって、他にもまた、七ターラの炎を化作して、火を放って、煙を出して、マハー林の楼閣堂のうえに立ち上がりました。

 

35. バッガヴァよ、そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。バッガヴァよ、一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタに、わたしは、こう言いました。『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。その報いは、まさしく、すなわち、わたしが、無衣行者のパーティカプッタに関して、あなたに説き明かしたように、まさしく、そのようにありますか、あるいは、他のようにありますか』と。『尊き方よ、その報いは、まさしく、すなわち、世尊が、無衣行者のパーティカプッタに関して、わたしに説き明かしたように、まさしく、そのようにあります──他のようにではなく』と。

 

 『スナッカッタよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、あるいは、為されたものと成りますか、あるいは、為されていないものと〔成りますか〕』と。『尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、人間の法(性質)を超える、神通の神変は、為されたものと成ります──為されていないものではなく』と。『愚人よ、このようにもまた、まさに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しているわたしのことを、あなたは、このように説きます。「尊き方よ、また、まさに、世尊は、わたしに、人間の法(性質)を超える、神通の神変を為しません」と。愚人よ、見よ──さてまた、あなたの、この違反が、どれほどまでのものであるかを』と。

 

 バッガヴァよ、このようにもまた、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、わたしによって説かれながらも、まさしく、この法(教え)と律から立ち去りました。あたかも、それは、悪所にある者であるかのように、地獄にある者であるかのように。

 

 〔世の〕始源の報知の話

 

36. バッガヴァよ、さらに、わたしは、〔世の〕始源を覚知します。そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、わたしに、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出され、証知しているとおりに、如来は、不幸を惹起しません。

 

37. バッガヴァよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。イッサラ〔天〕(イーシュヴァラ神・自在神)の所作を、梵〔天〕(ブラフマー神・創造神)の所作を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、イッサラ〔天〕の所作を、梵〔天〕の所作を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。そして、わたしによって、このように尋ねられた彼らは、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、また、あなたたちは、どのように設定されたものとして、イッサラ〔天〕の所作を、梵〔天〕の所作を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。わたしに尋ねられた彼らは、解答できません。解答できずにいながら、まさしく、わたしに問い返します。尋ねられたわたしは、彼らに説き明かします。

 

38. 『友よ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が展転する、まさに、その時と成ります(世界が崩壊する時がくる)。世が展転しているとき、多くのところとして、有情たちは、光音〔天〕に等しく転起する者たちと成ります。彼らは、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

 友よ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が還転する、まさに、その時と成ります(世界が再生する時がくる)。世が還転しているとき、空無なる梵〔天〕の宮殿が出現します。そこで、まさに、或るひとりの有情が、あるいは、寿命の滅尽あることから、あるいは、功徳の滅尽あることから、光音〔天〕の身体から死滅して、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します。彼は、そこにおいて、意によって作られる者として、喜悦を食物とする者として、自ら光輝ある者として、空中を歩む者として、浄美なる境位ある者として、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

 彼が、そこにおいて、独りあると、長夜にわたり居住したことから、喜びなくあることが〔生起し〕、思い悩みが生起します。「ああ、まさに、他の有情たちもまた、この場に到来するべきだ」と。そこで、他の有情たちもまた、あるいは、寿命の滅尽あることから、あるいは、功徳の滅尽あることから、光音〔天〕の身体から死滅して、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します──その有情の同類として。彼らもまた、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

39. 友よ、そこで、すなわち、その、最初に再生した有情ですが、彼に、このような〔思いが〕有ります。「わたしは、梵〔天〕として〔世に〕存している。大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。わたしによって、これらの有情たちは化作されたのだ。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしに、過去において、この〔思い〕が有ったからである。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、この場に到来するべきだ』と。かくのごとく、そして、わたしに、意の誓願があり、そして、これらの有情たちが、この場に到来したのだ」と。

 

 すなわち、また、それらの、後に再生した有情たちですが、彼らにもまた、このような〔思いが〕有ります。「まさに、この尊き梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。この尊き梵〔天〕によって、わたしたちは化作されたのだ。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしたちは、この方を、ここに、最初に再生した者として見たからであり、いっぽう、わたしたちは、後に再生した者たちとして〔世に〕存しているからである」と。

 

40. 友よ、そこで、すなわち、その、最初に再生した有情ですが、彼は、そして、より長き寿命ある者として、かつまた、より色艶ある者として、さらに、大いなる権能の者として、〔世に〕有ります。いっぽう、すなわち、それらの、後に再生した有情たちですが、彼らは、そして、より少なき寿命の者たちとして、かつまた、より悪しき色艶の者たちとして、さらに、より少なき権能の者たちとして、〔世に〕有ります。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場(人間界)に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。「すなわち、まさに、その尊き梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父である。その尊き梵〔天〕によって、わたしたちは化作されたのだ。彼は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、その尊き梵〔天〕によって化作された者たちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ」と。尊者たちよ、まさに、あなたたちは、このように設定されたものとして、イッサラ〔天〕の所作を、梵〔天〕の所作を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します』と。彼らは、このように言いました。『友よ、ゴータマよ、このように、まさに、わたしたちは聞きました。まさしく、すなわち、尊者ゴータマが言ったように』と。バッガヴァよ、さらに、わたしは、〔世の〕始源を覚知します。そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、わたしに、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出され、証知しているとおりに、如来は、不幸を惹起しません。

 

41. バッガヴァよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。キッダーパドーシカ(遊びの汚点ある者)を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、キッダーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。そして、わたしによって、このように尋ねられた彼らは、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、また、あなたたちは、どのように設定されたものとして、キッダーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。わたしに尋ねられた彼らは、解答できません。解答できずにいながら、まさしく、わたしに問い返します。尋ねられたわたしは、彼らに説き明かします。

 

42. 『友よ、キッダーパドーシカ(遊びの汚点ある者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。彼らは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住みます。彼らが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んでいると、気づき()は忘却されます。気づきの忘却あることから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。「すなわち、まさに、それらの尊き天〔の神々〕たちは、キッダーパドーシカたちではなく、彼らは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちではなく〔世に〕住む。彼らが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちではなく〔世に〕住んでいると、気づきは忘却されない。気づきの忘却なきことから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅せず、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、キッダーパドーシカたちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んだ。〔まさに〕その、わたしたちが、末永く笑いと遊びの歓楽の法(性質)に入定した者たちとして〔世に〕住んでいると、気づきは忘却される。気づきの忘却あることから、このように、わたしたちは、その身体から死滅し、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ」と。尊者たちよ、まさに、あなたたちは、このように設定されたものとして、キッダーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します』と。彼らは、このように言いました。『友よ、ゴータマよ、このように、まさに、わたしたちは聞きました。まさしく、すなわち、尊者ゴータマが言ったように』と。バッガヴァよ、さらに、わたしは、〔世の〕始源を覚知します。……略……証知しているとおりに、如来は、不幸を惹起しません。

 

43. バッガヴァよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。マノーパドーシカ(意の汚点ある者)を、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、マノーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。そして、わたしによって、このように尋ねられた彼らは、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、また、あなたたちは、どのように設定されたものとして、マノーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。わたしに尋ねられた彼らは、解答できません。解答できずにいながら、まさしく、わたしに問い返します。尋ねられたわたしは、彼らに説き明かします。

 

44. 『友よ、マノーパドーシカ(意の汚点ある者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。彼らは、末永く互いに他を嫉視します。彼らは、末永く互いに他を嫉視しながら、まさに、互いに他の心を汚します。彼らは、互いに他の心を汚し、身体が疲弊し、心が疲弊し、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。「すなわち、まさに、それらの尊き天〔の神々〕たちは、マノーパドーシカたちではなく、彼らは、末永く互いに他を嫉視しない。彼らは、末永く互いに他を嫉視せずにいながら、互いに他の心を汚さない。彼らは、互いに他の心を汚さず、身体が疲弊せず、心が疲弊せず、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅せず、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう。いっぽう、すなわち、わたしたちは、マノーパドーシカたちとして〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く互いに他を嫉視した者たちとして〔世に〕住んだ。〔まさに〕その、わたしたちは、末永く互いに他を嫉視しながら、まさに、互いに他の心を汚した。〔まさに〕その、わたしたちは、互いに他の心を汚し、身体が疲弊し、心が疲弊し、このように、わたしたちは、その身体から死滅し、常住ならず、常恒ならず、少寿の者たちであり、死滅する法(性質)の者たちとして、この場に到来したのだ」と。尊者たちよ、まさに、あなたたちは、このように設定されたものとして、マノーパドーシカを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します』と。彼らは、このように言いました。『友よ、ゴータマよ、このように、まさに、わたしたちは聞きました。まさしく、すなわち、尊者ゴータマが言ったように』と。バッガヴァよ、さらに、わたしは、〔世の〕始源を覚知します。……略……証知しているとおりに、如来は、不幸を惹起しません。

 

45. バッガヴァよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。偶発生起したものを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、偶発生起したものを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。そして、わたしによって、このように尋ねられた彼らは、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、また、あなたたちは、どのように設定されたものとして、偶発生起したものを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知するのですか』と。わたしに尋ねられた彼らは、解答できません。解答できずにいながら、まさしく、わたしに問い返します。尋ねられたわたしは、彼らに説き明かします。

 

46. 『友よ、アサンニャサッタ(表象なき有情)という名の天〔の神々〕たちが存在します。また、そして、表象の生起あることから、それらの天〔の神々〕たちは、その身体から死滅します。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、或るひとりの有情が、その身体から死滅して、この場に到来することです。〔彼は〕この場に到来し、〔そのように〕存しつつ、家から家なきへと出家します。家から家なきへと出家し、〔そのように〕存しつつ、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、その過去における居住を随念し、それより他を随念しません。

 

 彼は、このように言います。「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、偶発生起したものである。それは、何を因とするのか。なぜなら、わたしは、過去において、〔世に〕有ったことがないからである。その〔わたし〕が、今現在、〔世に〕有ることなくして〔そののち〕、有情たることへと(※)変化し、〔世に〕存するからである」と。尊者たちよ、まさに、あなたたちは、このように設定されたものとして、偶発生起したものを、自らの師匠伝来のものとして、〔世の〕始源と報知します』と。彼らは、このように言いました。『友よ、ゴータマよ、このように、まさに、わたしたちは聞きました。まさしく、すなわち、尊者ゴータマが言ったように』と。バッガヴァよ、さらに、わたしは、〔世の〕始源を覚知します。そして、それを覚知し、さらに、それよりもより上なるものを覚知し、かつまた、それを覚知することに偏執しません。そして、偏執なきことから、わたしに、まさしく、各自のものとして、寂滅〔の境処〕が見出され、証知しているとおりに、如来は、不幸を惹起しません。

 

※ テキストには santatāya とあるが、PTS版により sattattāya と読む。

 

47. バッガヴァよ、このように説く者であり、このように告げ知らせる者である、まさに、わたしを、或る沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『沙門ゴータマは、さらに、比丘たちも、転倒している。沙門ゴータマは、このように言う。「その時点において、浄美の解脱を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、全てのものを、まさしく、『不浄である』と覚知する」』と。バッガヴァよ、また、まさに、わたしは、このように説きません。『その時点において、浄美の解脱を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、全てのものを、まさしく、「不浄である」と覚知する』と。バッガヴァよ、しかしながら、まさに、わたしは、このように説きます。『その時点において、浄美の解脱を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、まさしく、「浄美である」と覚知する』」と。

 

 「尊き方よ、そして、彼らは、転倒しています。すなわち、世尊を、さらに、比丘たちを、転倒した〔観点〕から決め付けます。尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。『世尊は、わたしに、そのとおりに、法(教え)を説示することができる。すなわち、わたしが、浄美の解脱を成就して〔世に〕住むであろうように』」と。

 

48. 「バッガヴァよ、まさに、このことは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては為し難いことなのです──浄美の解脱を成就して〔世に〕住むことは。バッガヴァよ、さあ、あなたは、しかしながら、すなわち、あなたには、わたしにたいし、この浄信があります──まさしく、それを、あなたは、善くしっかりと守りなさい」と。「尊き方よ、それで、もし、そのことが、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、わたしによっては為し難いことであるとして──浄美の解脱を成就して〔世に〕住むことは。尊き方よ、しかしながら、すなわち、わたしには、世尊にたいし、この浄信があります──まさしく、それを、わたしは、善くしっかりと守るでしょう」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たバッガヴァ姓の遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 パーティカの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(25). ウドゥンバリカーの経

 

 ニグローダ遍歴遊行者の事

 

49. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、ニグローダ遍歴遊行者が、ウドゥンバリカーの遍歴遊行者の林園に滞在しています──大いなる遍歴遊行者の衆である、三千ばかりの遍歴遊行者たちと共に。そこで、まさに、サンダーナ家長は、世尊と会見するために、ラージャガハから出立しました──昼のさなかに。そこで、まさに、サンダーナ家長に、この〔思い〕が有りました。「まさに、まだ(※)、世尊と会見するための時ではない。世尊は静坐している。意を修めることができる比丘たちともまた、会見するための時分ではない。意を修めることができる比丘たちは静坐している。それなら、さあ、わたしは、ウドゥンバリカーの遍歴遊行者の林園のあるところに、ニグローダ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、サンダーナ家長は、ウドゥンバリカーの遍歴遊行者の林園のあるところに、ニグローダ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。

 

※ PTS版により tāva を補う。

 

50. また、まさに、その時点にあって、ニグローダ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。

 

51. まさに、ニグローダ遍歴遊行者は、サンダーナ家長が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子であるサンダーナ家長がやってくる。また、まさに、すなわち、ラージャガハに住するかぎりの、沙門ゴータマの弟子である白衣の在家者たちで、この者は、サンダーナ家長は、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、これらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。このように説かれたとき、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

52. そこで、まさに、サンダーナ家長は、ニグローダ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニグローダ遍歴遊行者を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンダーナ家長は、ニグローダ遍歴遊行者に、こう言いました。「諸君よ、まさに、〔わたしたちとは〕他なるものとして、これらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、群集して、集いあつまって、狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとなり、〔世に〕住みます。それは、すなわち、この、王についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。また、まさに、〔あなたたちとは〕他なるものとして、彼は、世尊は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕」と。

 

53. このように説かれたとき、ニグローダ遍歴遊行者は、サンダーナ家長に、こう言いました。「家長よ、どうか、知ってほしいものです。沙門ゴータマは、誰を相手に会話するというのですか、誰を〔相手に〕論議に関与するというのですか、誰を〔相手に〕智慧と聡慧に関与するというのですか。沙門ゴータマの智慧は、空家のなかで打ち砕かれ、衆を行境としない沙門ゴータマは、会話あるに十分ではなく、彼は、諸々の辺境ばかりに慣れ親しみます。それは、たとえば、また、まさに、最辺境を歩む片目の雌牛が、諸々の辺境ばかりに慣れ親しむように、まさしく、このように、まさに、沙門ゴータマの智慧は、空家のなかで打ち砕かれ、衆を行境としない沙門ゴータマは、会話あるに十分ではなく、彼は、諸々の辺境ばかりに慣れ親しみます。家長よ、どうか、沙門ゴータマが、この衆にやってきてほしいものです。まさしく、一つの問いによって、彼を沈めてしまうでしょう。思うに、彼を、空っぽの瓶のように覆い包んでしまうでしょう」と。

 

54. まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、サンダーナ家長の、ニグローダ遍歴遊行者を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、世尊は、ギッジャクータ山から降りて、スマーガダー〔池〕の岸辺にある孔雀の餌場のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、スマーガダー〔池〕の岸辺にある孔雀の餌場の野外において、歩行〔瞑想〕をしました。まさに、ニグローダ遍歴遊行者は、世尊が、スマーガダー〔池〕の岸辺にある孔雀の餌場の野外において、歩行〔瞑想〕をしているのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマが、スマーガダー〔池〕の岸辺にある孔雀の餌場の野外において、歩行〔瞑想〕をする。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう。それで、もし、沙門ゴータマが、この衆にやってくるなら、彼に、この問いを尋ねるのだ。『尊き方よ、何が、まさに、その、世尊の法(教え)なのですか──それによって、世尊が弟子たちを教え導き、それによって、世尊に教え導かれた弟子たちが、安堵に至り得た者たちとなり、初等の梵行を志欲として明言する、〔その法なのですか〕』」と。このように説かれたとき、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

 苦行による〔悪の〕忌避を説く者

 

55. そこで、まさに、世尊は、ニグローダ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、ニグローダ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、ニグロ-ダ遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニグロ-ダ遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。「ニグローダよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。このように説かれたとき、ニグロ-ダ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、世尊が、スマーガダー〔池〕の岸辺にある孔雀の餌場の野外において、歩行〔瞑想〕をしているのを見ました。見て、このように言いました。『それで、もし、沙門ゴータマが、この衆にやってくるなら、彼に、この問いを尋ねるのだ。「尊き方よ、何が、まさに、その、世尊の法(教え)であり、それによって、世尊は、弟子たちを教え導くのですか、それによって、世尊によって教え導かれた弟子たちは、安堵に至り得た者たちとなり、初等の梵行を志欲として明言するのですか」』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

56. 「ニグロ-ダよ、まさに、このことは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては知り難いことなのです──それによって、わたしが弟子たちを教え導き、それによって、わたしに教え導かれた弟子たちが、安堵に至り得た者たちとなり、初等の梵行を志欲として明言する、〔その法を知ることは〕。ニグロ-ダよ、さあ、あなたは、わたしに、自らの師匠伝来のものである卓越の忌避について、問いを尋ねなさい。『尊き方よ、いったい、まさに、苦行による〔悪の〕忌避は、どのように存しているなら、円満成就したものと成り、どのように〔存しているなら〕、円満成就していないものと〔成るのですか〕』」と。このように説かれたとき、それらの遍歴遊行者たちは、狂躁の者たちと〔成り〕、高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門ゴータマの、偉大なる神通たることは。沙門ゴータマの、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、自らの論を据え置き、他者の論によって〔議論を〕申し出るとは」と。

 

57. そこで、まさに、ニグローダ遍歴遊行者は、それらの遍歴遊行者たちを、声少なき者たちと為して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちは、まさに、苦行による〔悪の〕忌避を説く者たちであり、苦行による〔悪の〕忌避を真髄とする者たちであり、苦行による〔悪の〕忌避に〔思いが〕付着した者たちとして〔世に〕住みます。尊き方よ、いったい、まさに、苦行による〔悪の〕忌避は、どのように存しているなら、円満成就したものと成り、どのように〔存しているなら〕、円満成就していないものと〔成るのですか〕」と。

 

 「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、延べ板の臥所をもまた営み、野の臥所をもまた営み、片脇で臥す者ともまた成り、塵や埃を〔身に〕付ける者と〔成り〕、野外にある者ともまた成り、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と〔成り〕、汚物を食べることへの専念〔努力〕に専念する汚物行者ともまた成り、不飲を為すことに専念する不飲行者ともまた成り、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、円満成就したものと成りますか、あるいは、円満成就していないものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、円満成就したものと成ります──円満成就していないものではなく」と。「ニグロ-ダよ、まさに、わたしは、たとえ、このように円満成就しているとして、苦行による〔悪の〕忌避には、無数〔の流儀〕に関した付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)があると説きます」と。

 

 付随する〔心の〕汚れ

 

58. 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、世尊は、このように円満成就しているとして、苦行による〔悪の〕忌避には、無数〔の流儀〕に関した付随する〔心の〕汚れがあると説くのですか」と。「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成るなら〕、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、自己を賞揚し、他者を蔑視するなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、陶酔し、耽溺し、放逸を惹起します。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、陶酔し、耽溺し、放逸を惹起するなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

59. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させ、彼が、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成るなら〕、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させ、彼が、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視するなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、陶酔し、耽溺し、放逸を惹起します。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させ、彼が、その利得と尊敬と名声によって、陶酔し、耽溺し、放逸を惹起するなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

60. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、諸々の食料にたいし選り好みを惹起します。『これは、わたしの受認するところである』『これは、わたしの受認するところにあらず』と。彼は、そして、それが、まさに、彼の受認するところでないなら、〔他の食料に〕期待〔の思い〕を有する者として、それを捨棄します。また、それが、彼の受認するところであるなら、それを、拘束された者として、耽溺する者として、〔錯誤を〕犯した者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します──利得と尊敬と名声への欲念を因として、『王たちや王の大臣たちや士族たちや婆羅門たちや家長たちや異教の者たちが、わたしのことを尊敬するであろう』と。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

61. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、或るひとりの、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、侮蔑する者と成ります。『また、どうして、この者は、潤沢な生計ある者となり、全てのものを等しく食物とするのだろう。それは、すなわち、この、根の種を、幹の種を、節の種を、枝の種を、第五のものとして、まさしく、種の種を、雷電が〔発するかのように〕歯を槌とし、〔自らを〕沙門と論じることで』と。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、或るひとりの、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、家々において、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されているのを見ます。見て、彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この者を、まさに、潤沢な生計ある者を、家々において、〔人々は〕尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。いっぽう、わたしを、苦行者にして粗野な生き方ある者を、家々において、〔人々は〕尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しない』と。かくのごとく、彼は、家々にたいし、嫉妬と物惜〔の思い〕を生起させる者と成ります。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

62. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、四つ辻に坐る者と成ります。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、自己を見示しながら、家々において歩みます。『これもまた、わたしの苦行のうちにある』『これもまた、わたしの苦行のうちにある』と。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、何らかの或る隠蔽されたものに慣れ親しみます。彼は、『これは、あなたの受認するところですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、受忍していないものを『受認するところである』と言い、受忍しているものを『受認するところにあらず』と言います。かくのごとく、彼は、正知の者として虚偽を語る者と成ります。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、法(教え)を説示している者の、まさしく、正しくある教相を、承認するべきものとして承認しません。……略……ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

63. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、忿激する者として、怨恨ある者として、〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、忿激する者として、怨恨ある者として、〔世に〕有るなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。……略……。嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。……。狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。……。強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有ります。……。悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕有ります。……。誤った見解ある者として、極端を収め取る見解(極論)を具備した者として、〔世に〕有ります。……。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、ニグロ-ダよ、これもまた、まさに、苦行者にとって、付随する〔心の〕汚れと成ります。

 

 ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、これらの苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、付随する〔心の〕汚れですか、あるいは、付随する〔心の〕汚れならざるものですか」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、これらの苦行による〔悪の〕忌避は、付随する〔心の〕汚れです──付随する〔心の〕汚れならざるものではなく。尊き方よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の苦行者が、これらの付随する〔心の〕汚れを、まさしく、全てのものを、具備した者として〔世に〕存することです。何らかの或るものであるなら、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

 完全なる清浄の外皮に至り得たものの話

 

64. 「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、苦行を受持し、彼が、その苦行によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成ら〕ないなら、このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、陶酔せず、耽溺せず、放逸を惹起しません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

65. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持します。彼は、その苦行によって、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、陶酔せず、耽溺せず、放逸を惹起しません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

66. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、諸々の食料にたいし選り好みを惹起しません。『これは、わたしの受認するところである』『これは、わたしの受認するところにあらず』と。彼は、そして、それが、まさに、彼の受認するところでないなら、〔他の食料に〕期待〔の思い〕なき者として、それを捨棄します。また、それが、彼の受認するところであるなら、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、苦行を受持しません──利得と尊敬と名声への欲念を因として、『王たちや王の大臣たちや士族たちや婆羅門たちや家長たちや異教の者たちが、わたしのことを尊敬するであろう』と。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

67. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、或るひとりの、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、侮蔑する者と成りません。『また、どうして、この者は、潤沢な生計ある者となり、全てのものを等しく食物とするのだろう。それは、すなわち、この、根の種を、幹の種を、節の種を、枝の種を、第五のものとして、まさしく、種の種を、雷電が〔発するかのように〕歯を槌とし、〔自らを〕沙門と論じることで』と。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、或るひとりの、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、家々において、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されているのを見ます。見て、彼に、このような〔思いが〕有りません。『まさに、この者を、まさに、潤沢な生計ある者を、家々において、〔人々は〕尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。いっぽう、わたしを、苦行者にして粗野な生き方ある者を、家々において、〔人々は〕尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しない』と。かくのごとく、彼は、家々にたいし、嫉妬と物惜〔の思い〕を生起させる者と成りません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

68. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、四つ辻に坐る者と成りません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、自己を見示しながら、家々において歩みません。『これもまた、わたしの苦行のうちにある』『これもまた、わたしの苦行のうちにある』と。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、何らかの或る隠蔽されたものに慣れ親しみません。彼は、『これは、あなたの受認するところですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、受忍していないものを『受認するところにあらず』と言い、受忍しているものを『受認するところである』と言います。かくのごとく、彼は、正知の者として虚偽を語る者と成りません。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、法(教え)を説示している者の、まさしく、正しくある教相を、承認するべきものとして承認します。……略……このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

69. ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、忿激しない者として、怨恨なき者として、〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、忿激しない者として、怨恨なき者として、〔世に〕有るなら、このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、さらに、また、他に、苦行者が、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有ります。……略……。嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有ります。……。狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります。……。強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有ります。……。悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有ります。……。誤った見解ある者ではなく、極端を収め取る見解を具備した者ではなく、〔世に〕有ります。……。自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、すなわち、また、苦行者が、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有るなら、このように、彼は、その境位において、完全なる清浄と成ります。

 

 ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、完全なる清浄と成りますか、あるいは、完全なる清浄ならざるものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、完全なる清浄と成ります──完全なる清浄ならざるものではなく。そして、至高に至り得たものと〔成り〕、さらに、真髄に至り得たものと〔成ります〕」と。「ニグロ-ダよ、まさに、これだけでは、苦行による〔悪の〕忌避が、そして、至高に至り得たものと成ることもなく、さらに、真髄に至り得たものと〔成ることもありません〕。しかしながら、また、まさに、外皮に至り得たものとは成りますが」と。

 

 完全なる清浄の樹皮に至り得たものの話

 

70. 「尊き方よ、また、どのようなことから、苦行による〔悪の〕忌避は、そして、至高に至り得たものと成り、さらに、真髄に至り得たものと〔成るのですか〕。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしを、苦行による〔悪の〕忌避の、まさしく、至高に至り得させたまえ、まさしく、真髄に至り得させたまえ」と。「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、では、どのように、苦行者は、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有るのですか。ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、命あるものを殺さず、命あるものを殺させず、命あるものを殺している者を等しく承認する者ではなく、〔世に〕有ります。与えられていないものを取らず、与えられていないものを取らせず、与えられていないものを取る者を等しく承認する者ではなく、〔世に〕有ります。虚偽を話さず、虚偽を話させず、虚偽を話す者を等しく承認する者ではなく、〔世に〕有ります。〔欲情から〕発成したものを願い求めず、〔欲情から〕発成したものを願い求めさせず、〔欲情から〕発成したものを願い求める者を等しく承認する者ではなく、〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、このように、まさに、苦行者は、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ります。

 

 ニグロ-ダよ、すなわち、まさに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ることから、そして、彼には、苦行者たることによって、このことが有るでしょう。彼は、〔戒を〕堅持し、下劣なところへと逆戻りしません(戒を捨てて還俗することはない)。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

71. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧(慧・般若)を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

 ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、完全なる清浄と成りますか、あるいは、完全なる清浄ならざるものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、完全なる清浄と成ります──完全なる清浄ならざるものではなく。そして、至高に至り得たものと〔成り〕、さらに、真髄に至り得たものと〔成ります〕」と。「ニグロ-ダよ、まさに、これだけでは、苦行による〔悪の〕忌避が、そして、至高に至り得たものと成ることもなく、さらに、真髄に至り得たものと〔成ることもありません〕。しかしながら、また、まさに、樹皮に至り得たものとは成りますが」と。

 

 完全なる清浄の軟材に至り得たものの話

 

72. 「尊き方よ、また、どのようなことから、苦行による〔悪の〕忌避は、そして、至高に至り得たものと成り、さらに、真髄に至り得たものと〔成るのですか〕。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしを、苦行による〔悪の〕忌避の、まさしく、至高に至り得させたまえ、まさしく、真髄に至り得させたまえ」と。「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、では、どのように、苦行者は、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有るのですか。……略……。ニグロ-ダよ、すなわち、まさに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ることから、そして、彼には、苦行者たることによって、このことが有るでしょう。彼は、〔戒を〕堅持し、下劣なところへと逆戻りしません。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕を共具した心で……略……慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、完全なる清浄と成りますか、あるいは、完全なる清浄ならざるものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、完全なる清浄と成ります──完全なる清浄ならざるものではなく。そして、至高に至り得たものと〔成り〕、さらに、真髄に至り得たものと〔成ります〕」と。「ニグロ-ダよ、まさに、これだけでは、苦行による〔悪の〕忌避が、そして、至高に至り得たものと成ることもなく、さらに、真髄に至り得たものと〔成ることもありません〕。しかしながら、また、まさに、軟材に至り得たものとは成りますが」と。

 

 完全なる清浄の至高に至り得たものにして真髄に至り得たものの話

 

73. 「尊き方よ、また、どのようなことから、苦行による〔悪の〕忌避は、そして、至高に至り得たものと成り、さらに、真髄に至り得たものと〔成るのですか〕。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしを、苦行による〔悪の〕忌避の、まさしく、至高に至り得させたまえ、まさしく、真髄に至り得させたまえ」と。「ニグロ-ダよ、ここに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ります。ニグロ-ダよ、では、どのように、苦行者は、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有るのですか。……略……。ニグロ-ダよ、すなわち、まさに、苦行者が、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕有ることから、そして、彼には、苦行者たることによって、このことが有るでしょう。彼は、〔戒を〕堅持し、下劣なところへと逆戻りしません。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕を共具した心で……略……広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。もしくは、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、あるいは、完全なる清浄と成りますか、あるいは、完全なる清浄ならざるものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、苦行による〔悪の〕忌避は、完全なる清浄と成ります──完全なる清浄ならざるものではなく。そして、至高に至り得たものと〔成り〕、さらに、真髄に至り得たものと〔成ります〕」と。

 

74. 「ニグロ-ダよ、これだけで、まさに、苦行による〔悪の〕忌避は、そして、至高に至り得たものと成り、さらに、真髄に至り得たものと〔成ります〕。ニグロ-ダよ、かくのごとく、まさに、すなわち、あなたは、わたしに言いました。『尊き方よ、何が、まさに、その、世尊の法(教え)なのですか──それによって、世尊が弟子たちを教え導き、それによって、世尊に教え導かれた弟子たちが、安堵に至り得た者たちとなり、初等の梵行を志欲として明言する、〔その法なのですか〕』と。ニグロ-ダよ、かくのごとく、まさに、その〔法〕は、境位として〔苦行による悪の忌避よりも〕、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものであり、それによって、わたしは弟子たちを教え導き、それによって、わたしに教え導かれた弟子たちは、安堵に至り得た者たちとなり、初等の梵行を志欲として明言します」と。

 

 このように説かれたとき、それらの遍歴遊行者たちは、狂躁の者たちと〔成り〕、高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。「ここにおいて、わたしたちは滅び去る──師匠を有する者たちとして。わたしたちは覚知しない──この〔苦行による悪の忌避〕よりも、より一層のものを、より上なるものを」と。

 

 ニグロ-ダの困惑

 

75. すなわち、サンダーナ家長が、「何はともあれ、まさに、今や、これらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、世尊の語ったことを聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させる」と了知したとき、そこで、ニグローダ遍歴遊行者に、こう言いました。「尊き方よ、ニグロ-ダよ、かくのごとく、まさに、すなわち、あなたは、わたしに言いました。『家長よ、どうか、知ってほしいものです。沙門ゴータマは、誰を相手に会話するというのですか、誰を〔相手に〕論議に関与するというのですか、誰を〔相手に〕智慧と聡慧に関与するというのですか。沙門ゴータマの智慧は、空家のなかで打ち砕かれ、衆を行境としない沙門ゴータマは、会話あるに十分ではなく、彼は、諸々の辺境ばかりに慣れ親しみます。それは、たとえば、また、まさに、最辺境を歩む片目の雌牛が、諸々の辺境ばかりに慣れ親しむように、まさしく、このように、まさに、沙門ゴータマの智慧は、空家のなかで打ち砕かれ、衆を行境としない沙門ゴータマは、会話あるに十分ではなく、彼は、諸々の辺境ばかりに慣れ親しみます。家長よ、どうか、沙門ゴータマが、この衆にやってきてほしいものです。まさしく、一つの問いによって、彼を沈めてしまうでしょう。思うに、彼を、空っぽの瓶のように覆い包んでしまうでしょう』と。尊き方よ、この方が、まさに、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、ここに到着したのです。さてまた、彼を、衆を行境としない者と為したまえ。最辺境を歩む片目の雌牛と為したまえ。彼を、まさしく、一つの問いによって沈めたまえ。彼を、空っぽの瓶のように覆い包みたまえ」と。このように説かれたとき、ニグローダ遍歴遊行者は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

76. そこで、まさに、世尊は、ニグローダ遍歴遊行者が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、ニグローダ遍歴遊行者に、こう言いました。「ニグロ-ダよ、本当に、まさに、あなたによって、この言葉が語られたのですか」と。「尊き方よ、本当です。わたしによって、この言葉が語られました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように」と。「ニグロ-ダよ、それを、どう思いますか。どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠である、遍歴遊行者たちが語っていることとして。すなわち、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちは、このように、まさに、それらの世尊たちは、群集して、集いあつまって、狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとなり、〔世に〕住みますか。それは、すなわち、この、王についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。それは、たとえば、また、あなたが、今現在あるように──師匠を有する者として。それとも、このように、まさに、それらの世尊たちは、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用しますか──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。それは、たとえば、また、わたしが、今現在あるように」と。

 

 「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠である、遍歴遊行者たちが語っていることとして。すなわち、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちは、このように、まさに、それらの世尊たちは、群集して、集いあつまって、狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとなり、〔世に〕住みません。それは、すなわち、この、王についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。それは、たとえば、また、わたしが、今現在あるように──師匠を有する者として。このように、まさに、それらの世尊たちは、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。それは、たとえば、また、世尊が、今現在あるように」と。

 

 「ニグロ-ダよ、〔まさに〕その、識者として、老練の者として、〔世に〕存している、あなたに、この〔思い〕は有りませんでしたか。『覚者として、彼は、世尊は、覚り(菩提)のために、法(教え)を説示する。〔自己が〕調御された者として、彼は、世尊は、調御のために、法(教え)を説示する。〔心が〕寂静となった者として、彼は、世尊は、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)のために、法(教え)を説示する。〔彼岸に〕超え渡った者として、彼は、世尊は、超渡のために、法(教え)を説示する。完全なる涅槃に到達した者として、彼は、世尊は、完全なる涅槃のために、法(教え)を説示する』」と。

 

 梵行の終了と実証

 

77. このように説かれたとき、ニグローダ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、このように、世尊のことを〔悪しく〕言いました。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「ニグローダよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、このように、わたしのことを〔悪しく〕言いました。ニグローダよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。ニグローダよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します。ニグロ-ダよ、また、まさに、わたしは、このように説きます。

 

 識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七年のあいだに。ニグロ-ダよ、七年は、さておくとしましょう。識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六年のあいだに。……五年のあいだに。……四年のあいだに。……三年のあいだに。……二年のあいだに。……一年のあいだに。ニグロ-ダよ、一年は、さておくとしましょう。識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七月のあいだに。ニグロ-ダよ、七月は、さておくとしましょう。……六月のあいだに。……五月のあいだに。……四月のあいだに。……三月のあいだに。……二月のあいだに。……一月のあいだに。……半月のあいだに。……。ニグロ-ダよ、半月は、さておくとしましょう。識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七日のあいだに。

 

 遍歴遊行者たちの困惑

 

78. ニグロ-ダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『沙門ゴータマは、内弟子を欲することから、わたしたちに、このように言ったのだ』と。ニグロ-ダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。まさしく、すなわち、あなたたちの師匠は、まさしく、それは、あなたたちの師匠として有れ。ニグロ-ダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『沙門ゴータマは、わたしたちを〔師匠の〕誦説から死滅させることを欲し、このように言ったのだ』と。ニグロ-ダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。まさしく、すなわち、あなたたちの誦説は、まさしく、それは、あなたたちの誦説として有れ。ニグロ-ダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『沙門ゴータマは、わたしたちを〔遍歴遊行者の〕生き方から死滅させることを欲し、このように言ったのだ』と。ニグロ-ダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。まさしく、すなわち、あなたたちの生き方は、まさしく、それは、あなたたちの生き方として有れ。ニグロ-ダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『それらの法(性質)が、師匠を有する者たちである、わたしたちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、それらにおいて確立させることを欲し、沙門ゴータマは、このように言ったのだ』と。ニグロ-ダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。それらの法(性質)は、師匠を有する者たちである、あなたたちにとって、まさしく、そして、善ならざるものとして、〔そのとおりに〕有れ、さらに、善ならざると見なされたものとして、〔そのとおりに有れ〕。ニグロ-ダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『それらの法(性質)が、師匠を有する者たちである、わたしたちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、それらから遠離させることを欲し、沙門ゴータマは、このように言ったのだ』と。ニグロ-ダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。それらの法(性質)は、師匠を有する者たちである、あなたたちにとって、まさしく、そして、善なるものとして、〔そのとおりに〕有れ、さらに、善なると見なされたものとして、〔そのとおりに有れ〕。ニグロ-ダよ、かくのごとく、まさに、わたしは、まさしく、内弟子を欲することから、このように説くのではなく、〔師匠の〕誦説から死滅させることを欲し、このように説くのでもまたなく、〔遍歴遊行者の〕生き方から死滅させることを欲し、このように説くのでもまたなく、それらの法(性質)が、師匠を有する者たちである、あなたたちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、それらにおいて確立させることを欲し、このように説くのでもまたなく、それらの法(性質)が、師匠を有する者たちである、あなたたちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、それらから遠離させることを欲し、このように説くのでもまたありません。ニグロ-ダよ、しかしながら、まさに、諸々の善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、〔それらが〕存在し、〔いまだ〕捨棄されていないなら、わたしは、それらの捨棄のために、法(教え)を説示します。実践したそのとおりに、あなたたちには、諸々の汚染の法(性質)が捨棄されるでしょうし、諸々の浄化の法(性質)が激しく増大するでしょうし、〔あなたたちは〕智慧の円満成就を、そして、広大なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう」と。

 

79. このように説かれたとき、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「これらの者たちは、全てもろともに、愚人たちであり、パーピマント(悪魔)に取り付かれた者たちである。なぜなら、そこで、まさに、一者でさえも、このような〔思いが〕有りもしないからだ。『さあ、わたしたちは、了知を義(目的)としてもまた、沙門ゴータマのもと、梵行を歩むのだ。どのような〔損失〕を、〔その〕七日が作り為すというのだろう』」と。そこで、まさに、世尊は、ウドゥンバリカーの遍歴遊行者の林園において、獅子吼を吼え叫んで、宙に舞い上がって、ギッジャクータ山において現起しました。また、サンダーナ家長は、まさしく、ただちに、ラージャガハに入った、ということです。

 

 ウドゥンバリカーの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(26). 転輪〔王〕の経

 

 自己を洲とし帰依所とすること

 

80. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。マートゥラーにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「あなたに、幸せ〔有れ〕」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)の受持を因として、このように、この功徳は増大します。

 

 ダラネーミ転輪王

 

81. 比丘たちよ、過去の事(過去世)ですが、ダラネーミという名の王が、転輪〔王〕として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました。彼には、これらの七つの宝が有りました。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有りました──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住しました。

 

82. 比丘たちよ、そこで、まさに、ダラネーミ王は、数年、数百年、数千年が経過して、或るひとりの家来に告げました。『さて、家来よ、すなわち、あなたは、天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのを見るとき、そこで、わたしに告げなさい』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その家来は、ダラネーミ王に答えました。比丘たちよ、まさに、その家来は、数年、数百年、数千年が経過して、天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのを見ました。見て、ダラネーミ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ダラネーミ王に、こう言いました。『陛下よ、どうか、お知りください。あなたの天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ダラネーミ王は、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、どうやら、わたしの天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したらしい。また、まさに、このことを、わたしは聞いた。「その転輪王の天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行するなら、今や、その王は、長きに生きるべきと成らず」と。また、まさに、諸々の人間の欲望〔の対象〕は、わたしの受益するところである。今や、わたしにとって、諸々の天の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、海を極限とする、この地を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するであろう』と。

 

83. 比丘たちよ、そこで、まさに、ダラネーミ王は、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。比丘たちよ、また、まさに、聖賢たる王が出家した七日後に、天の車輪の宝は消没しました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの家来が、即位灌頂した王たる士族のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、即位灌頂した王たる士族に、こう言いました。『陛下よ、どうか、お知りください。天の車輪の宝が消没したのです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、天の車輪の宝が消没したとき、わが意を得ない者と成りました。そして、わが意を得ずにあることを得知しました。彼は、聖賢たる王(前王である父)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、聖賢たる王に、こう言いました。『陛下よ、どうか、お知りください。天の車輪の宝が消没したのです』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、聖賢たる王は、即位灌頂した王たる士族に、こう言いました。『息子よ、まさに、おまえは、天の車輪の宝が消没したとき、わが意を得ない者と成ってはいけない。そして、わが意を得ずにあることを得知してはいけない。息子よ、なぜなら、おまえにとって、天の車輪の宝は、父祖の遺産ではないからだ。息子よ、さあ、おまえは、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持せよ。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、おまえが、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持していると、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った〔おまえ〕に、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現するであろう』と。

 

 聖なる転輪〔王〕の行持

 

84. 『陛下よ、また、どのようなものが、その聖なる転輪〔王〕の行持なのですか』と。『息子よ、まさに、それでは、おまえは、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を思慕しながら、法(正義)を供養しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟(のぼり)として、法(正義)を優位として、家人にたいし、軍隊の衆にたいし、随従する士族たちにたいし、婆羅門や家長たちにたいし、町や地方の者たちにたいし、沙門や婆羅門たちにたいし、獣や鳥たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配しなさい。息子よ、かつまた、あなたの領土において、法(正義)ならざることを為す者が転起してはならない。息子よ、かつまた、あなたの領土において、それらの者たちが、財なき者たちとして存するなら、そして、彼らに、財を供与するがよい。息子よ、かつまた、あなたの領土において、それらの沙門や婆羅門たちが、驕慢と放逸から離間した者たちであり、忍耐と温和において確立した者たちであり、一つのものとして自己を調御し、一つのものとして自己を平静ならしめ、一つのものとして自己を完全なる涅槃に到達させるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、遍く問い尋ねるべきであり、遍く収め取るべきである。「尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのですか。また、あるいは、何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するのですか」と。彼らの〔言葉を〕聞いて、それが善ならざるものであるなら、それを回避するべきであり、それが善なるものであるなら、それを受持して転起させるべきである。息子よ、これが、まさに、その聖なる転輪〔王〕の行持である』と。

 

 車輪の宝の出現

 

85. 比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、即位灌頂した王たる士族は、聖賢たる王に答えて、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持しました。彼が、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持していると、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った〔彼〕に、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現しました。見て、即位灌頂した王たる士族に、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、このことを、わたしは聞いた。「すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った、即位灌頂した王たる士族に、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現するなら、彼は、転輪王と成る」と。いったい、まさに、わたしは、転輪王として〔世に〕存するのだろうか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、左手で水差しを掴んで、右手で車輪の宝に降り注ぎました。『尊き車輪の宝は転起せよ。尊き車輪の宝は征圧せよ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の方角に転起しました──まさしく、付き従って、転輪王も、四つの支分ある軍団と共に。比丘たちよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住したなら、そこにおいて、転輪王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、転輪王に、このように言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。転輪王は、このように言いました。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は語られるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、転輪王に従い行く者たちと成りました。

 

86. 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、南の方角に転起しました。……略……南の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、西の方角に転起しました──まさしく、付き従って、転輪王も、四つの支分ある軍団と共に。比丘たちよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住したなら、そこにおいて、転輪王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、西の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、転輪王に、このように言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。転輪王は、このように言いました。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は語られるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、西の方角の敵王たちは、彼らは、転輪王に従い行く者たちと成りました。

 

87. 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、西の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、北の方角に転起しました──まさしく、付き従って、転輪王も、四つの支分ある軍団と共に。比丘たちよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住したなら、そこにおいて、転輪王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、転輪王に、このように言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。転輪王は、このように言いました。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は語られるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、転輪王に従い行く者たちと成りました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、海を極限とする地を征圧して、まさしく、その王都に帰還して、転輪王の内宮の門において、裁きの場の玄関において、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ちました──転輪王の内宮を美しく荘厳しながら。

 

 第二の転輪〔王〕等の話

 

88. 比丘たちよ、第二の転輪王もまた、まさに……略……。比丘たちよ、第三の転輪王もまた、まさに……。比丘たちよ、第四の転輪王もまた、まさに……。比丘たちよ、第五の転輪王もまた、まさに……。比丘たちよ、第六の転輪王もまた、まさに……。比丘たちよ、第七の転輪王もまた、まさに、数年、数百年、数千年が経過して、或るひとりの家来に告げました。『さて、家来よ、すなわち、あなたは、天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのを見るとき、そこで、わたしに告げなさい』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その家来は、転輪王に答えました。比丘たちよ、まさに、その家来は、数年、数百年、数千年が経過して、天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのを見ました。見て、転輪王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、転輪王に、こう言いました。『陛下よ、どうか、お知りください。あなたの天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したのです』と。

 

89. 比丘たちよ、そこで、転輪王は、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、どうやら、わたしの天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行したらしい。また、まさに、このことを、わたしは聞いた。「その転輪王の天の車輪の宝が後退し、〔その〕箇所から移行するなら、今や、その王は、長きに生きるべきと成らず」と。また、まさに、諸々の人間の欲望〔の対象〕は、わたしの受益するところである。今や、わたしにとって、諸々の天の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、海を極限とする、この地を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、転輪王は、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。比丘たちよ、また、まさに、聖賢たる王が出家した七日後に、天の車輪の宝は消没しました。

 

90. 比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの家来が、即位灌頂した王たる士族のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、即位灌頂した王たる士族に、こう言いました。『陛下よ、どうか、お知りください。天の車輪の宝が消没したのです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、天の車輪の宝が消没したとき、わが意を得ない者と成りました。そして、わが意を得ずにあることを得知しました。しかしながら、まさに、近づいて行って、聖賢たる王に、聖なる転輪〔王〕の行持を尋ねませんでした。彼は、まさしく、自らの思うところのまま、まさに、地方を統治します。彼が、自らの思うところのまま、地方を統治していると、前のように、もはや、諸々の地方は繁栄しません。すなわち、過去の王たちが、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持している、そのように。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、智略を生計とする者たちである、家臣たちと侍臣たちと計算者たる大臣たちと親兵たちと門番たちは集まって、即位灌頂した王たる士族に、こう言いました。『陛下よ、まさに、あなたが、自らの思うところのまま、まさに、地方を統治していると、前のように、もはや、諸々の地方は繁栄しません。すなわち、過去の王たちが、聖なる転輪〔王〕の行持のもとに行持している、そのように。陛下よ、まさに、あなたの領土において、智略を生計とする者たちである、家臣たちと侍臣たちと計算者たる大臣たちと親兵たちと門番たちが等しく見出されます。まさしく、そして、わたしたちは、さらに、他の者たちも、すなわち、わたしたちは、聖なる転輪〔王〕の行持を保持しています。陛下よ、さあ、あなたは、わたしたちに、聖なる転輪〔王〕の行持を尋ねたまえ。〔まさに〕その、あなたに、わたしたちは、〔問いを〕尋ねられた者たちとして、聖なる転輪〔王〕の行持を説き明かすでしょう』と。

 

 寿命と色艶等の遍き衰退(※)の話

 

※ テキストには parihāyi とあるが、誤記と見て parihāni と読む(PTS版は記載なし)。

 

91. 比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、智略を生計とする者たちである、家臣たちと侍臣たちと計算者たる大臣たちと親兵たちと門番たちを集めて、聖なる転輪〔王〕の行持を尋ねました。彼に、彼らは、〔問いを〕尋ねられた者たちとして、聖なる転輪〔王〕の行持を説き明かしました。まさに、彼らの〔言葉を〕聞いて、まさに、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配しました。しかしながら、まさに、財なき者たちに、財を供与しませんでした。財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき、或るひとりの男が、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。捕捉して、即位灌頂した王たる士族に見せました。『陛下よ、この男は、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、即位灌頂した王たる士族は、その男に、こう言いました。『さて、人士たる者よ、本当に、まさに、あなたは、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのですか』と。『陛下よ、本当です』と。『どのような動機から』と。『陛下よ、なぜなら、生きられないからです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、その男に、財を供与しました。『さて、人士たる者よ、あなたは、この財によって、かつまた、自己を生かし、かつまた、母と父を養い、かつまた、子と妻を養い、かつまた、生業に従事し、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させなさい──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その男は、即位灌頂した王たる士族に答えました。

 

 比丘たちよ、まさに、或るひとりの男もまた、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。捕捉して、即位灌頂した王たる士族に見せました。『陛下よ、この男は、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、即位灌頂した王たる士族は、その男に、こう言いました。『さて、人士たる者よ、本当に、まさに、あなたは、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのですか』と。『陛下よ、本当です』と。『どのような動機から』と。『陛下よ、なぜなら、生きられないからです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、その男に、財を供与しました。『さて、人士たる者よ、あなたは、この財によって、かつまた、自己を生かし、かつまた、母と父を養い、かつまた、子と妻を養い、かつまた、生業に従事し、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させなさい──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、その男は、即位灌頂した王たる士族に答えました。

 

92. 比丘たちよ、まさに、人間たちは、『君よ、どうやら、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る、それらの者たちがいるなら、王は、彼らに、財を供与するらしい』と耳にしました。耳にして、彼らに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしたちもまた、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの男が、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。捕捉して、即位灌頂した王たる士族に見せました。『陛下よ、この男は、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、即位灌頂した王たる士族は、その男に、こう言いました。『さて、人士たる者よ、本当に、まさに、あなたは、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのですか』と。『陛下よ、本当です』と。『どのような動機から』と。『陛下よ、なぜなら、生きられないからです』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族に、この〔思い〕が有りました。『その者、その者が、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るとして、それで、もし、まさに、わたしが、その者、その者に、財を供与するなら、このように、この与えられていないものを取ることが増大するであろう。それなら、さあ、わたしは、この男を、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼の頭を断ち切るのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、家来たちに命じました。『〔おまえたちに〕申し付ける。まさに、それでは、この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼の頭を断ち切りなさい』と。比丘たちよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、それらの家来たちは、即位灌頂した王たる士族に答えて、その男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼の頭を断ち切りました。

 

93. 比丘たちよ、まさに、人間たちは、『君よ、どうやら、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る、それらの者たちがいるなら、王は、彼らを、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼らの頭を断ち切るらしい』と耳にしました。耳にして、彼らに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしたちもまた、諸々の鋭い刃を作らせるのだ。諸々の鋭い刃を作らせて、それらの者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取り、彼らを、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼らの頭を断ち切るのだ』と。彼らは、諸々の鋭い刃を作らせました。諸々の鋭い刃を作らせて、村の殲滅をもまた為すべく攻撃し、町の殲滅をもまた為すべく攻撃し、城市の殲滅をもまた為すべく攻撃し、辻強盗をもまた為すべく攻撃しました。彼らは、それらの者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取り、彼らを、善く制裁するべく制裁し、根絶やしと為し、彼らの頭を断ち切ります。

 

94. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき、与えられていないものを取ることが、広大に至りました。与えられていないものを取ることが、広大に至ったとき、刃が、広大に至りました。刃が、広大に至ったとき、命あるものを殺すことが、広大に至りました。命あるものを殺すことが、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、八万年の寿命ある人間たちの子は、四万年の寿命ある者たちと成りました。

 

 比丘たちよ、四万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、或るひとりの男が、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。捕捉して、即位灌頂した王たる士族に見せました。『陛下よ、この男は、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、即位灌頂した王たる士族は、その男に、こう言いました。『さて、人士たる者よ、本当に、まさに、あなたは、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのですか』と。『陛下よ、まさに、さにあらず』と、正知の者として虚偽を語りました。

 

95. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき、与えられていないものを取ることが、広大に至りました。与えられていないものを取ることが、広大に至ったとき、刃が、広大に至りました。刃が、広大に至ったとき、命あるものを殺すことが、広大に至りました。命あるものを殺すことが、広大に至ったとき、虚偽を説くことが、広大に至りました。虚偽を説くことが、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、四万年の寿命ある人間たちの子は、二万年の寿命ある者たちと成りました。

 

 比丘たちよ、二万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、或るひとりの男が、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました。〔まさに〕その、この者のことを、〔他の〕或るひとりの男が、即位灌頂した王たる士族に告げました。『陛下よ、某名の男は、他者たちのもので、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取りました』と、中傷を為しました。

 

96. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき、与えられていないものを取ることが、広大に至りました。与えられていないものを取ることが、広大に至ったとき、刃が、広大に至りました。刃が、広大に至ったとき、命あるものを殺すことが、広大に至りました。命あるものを殺すことが、広大に至ったとき、虚偽を説くことが、広大に至りました。虚偽を説くことが、広大に至ったとき、中傷の言葉が、広大に至りました。中傷の言葉が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、二万年の寿命ある人間たちの子は、一万年の寿命ある者たちと成りました。

 

 比丘たちよ、一万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、ここに、或る有情たちは、色艶ある者たちと成り、ここに、或る有情たちは、醜き色艶の者たちと〔成ります〕。そこにおいて、すなわち、それらの有情たちで、醜き色艶の者たちは、彼らは、色艶ある有情たちを貪り求めながら、他者たちの妻たちにたいし関係を持ちました。

 

97. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき……略……諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が、広大に至りました。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないが、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、一万年の寿命ある人間たちの子は、五千年の寿命ある者たちと成りました。

 

98. 比丘たちよ、五千年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、二つの法(性質)が、広大に至りました。粗暴な言葉であり、そして、雑駁な虚論です。二つの法(性質)が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、五千年の寿命ある人間たちの子は、一部の者たちはまた、二千五百年の寿命ある者たちと〔成り〕、一部の者たちはまた、二千年の寿命ある者たちと成りました。

 

99. 比丘たちよ、二千五百年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が、広大に至りました。強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、二千五百年の寿命ある人間たちの子は、千年の寿命ある者たちと成りました。

 

100. 比丘たちよ、千年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、誤った見解が、広大に至りました。誤った見解が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、千年の寿命ある人間たちの子は、五百年の寿命ある者たちと成りました。

 

101. 比丘たちよ、五百年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、三つの法(性質)が、広大に至りました。法(正義)ならざるものへの貪り〔の思い〕(異常愛)であり、正常ならざる貪欲(異常欲)であり、誤った法(同性愛)です。三つの法(性質)が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、五百年の寿命ある人間たちの子は、一部の者たちはまた、二百五十年の寿命ある者たちと〔成り〕、一部の者たちはまた、二百年の寿命ある者たちと成りました。

 

 比丘たちよ、二百五十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、これらの法(性質)が、広大に至りました。母を敬わないことであり、父を敬わないことであり、沙門を敬わないことであり、婆羅門を敬わないことであり、家における最尊者を敬ないことです。

 

102. 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、財なき者たちに、財が供与されずにいるとき、貧困が、広大に至りました。貧困が、広大に至ったとき、与えられていないものを取ることが、広大に至りました。与えられていないものを取ることが、広大に至ったとき、刃が、広大に至りました。刃が、広大に至ったとき、命あるものを殺すことが、広大に至りました。命あるものを殺すことが、広大に至ったとき、虚偽を説くことが、広大に至りました。虚偽を説くことが、広大に至ったとき、中傷の言葉が、広大に至りました。中傷の言葉が、広大に至ったとき、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないが、広大に至りました。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないが、広大に至ったとき、二つの法(性質)が、広大に至りました。粗暴な言葉であり、そして、雑駁な虚論です。二つの法(性質)が、広大に至ったとき、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が、広大に至りました。強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が、広大に至ったとき、誤った見解が、広大に至りました。誤った見解が、広大に至ったとき、三つの法(性質)が、広大に至りました。法(正義)ならざるものへの貪り〔の思い〕(異常愛)であり、正常ならざる貪欲(異常欲)であり、誤った法(同性愛)です。三つの法(性質)が、広大に至ったとき、これらの法(性質)が、広大に至りました。母を敬わないことであり、父を敬わないことであり、沙門を敬わないことであり、婆羅門を敬わないことであり、家における最尊者を敬ないことです。これらの法(性質)が、広大に至ったとき、それらの有情たちの、寿命もまた遍く衰退し、色艶もまた遍く衰退しました。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた遍く衰退し、色艶〔の観点〕によってもまた遍く衰退していると、二百五十年の寿命ある人間たちの子は、百年の寿命ある者たちと成りました。

 

 十年の寿命ある者たちの時

 

103. 比丘たちよ、すなわち、これらの百年の寿命ある人間たちの子が、十年の寿命ある者たちと成る、その時が有るでしょう。比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、五歳の少女が、結婚できる者たちと成るでしょう。比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、これらの味が、消没するでしょう。それは、すなわち、この、酥であり、生酥であり、油であり、蜜であり、糖であり、塩です。比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、諸々の食料のなかでは、稗が、至高のものと成るでしょう。比丘たちよ、それは、たとえば、また、今現在、諸々の食料のなかでは、米と肉の飯が、至高のものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、諸々の食料のなかでは、稗が、至高のものと成るでしょう。

 

 比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、十の善なる行為の道が、一切によって一切にわたり、消没するでしょうし、十の善ならざる行為の道が、極度に燃え盛るでしょう。比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、『善なるもの』という〔言葉〕さえも有りはしないでしょう。また、どうして、善なるものを為す者がいるというのでしょう。比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、すなわち、母を敬わない者たちであり、父を敬わない者たちであり、沙門を敬わない者たちであり、婆羅門を敬わない者たちであり、家における最尊者を敬ない者たちである、それらの者たちが、〔世に〕有るなら、彼らは、かつまた、供養されるべき者たちと成るでしょうし、かつまた、賞賛されるべき者たちと〔成るでしょう〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、今現在、母を敬う者たちが、父を敬う者たちが、沙門を敬う者たちが、婆羅門を敬う者たちが、家における最尊者を敬う者たちが、かつまた、供養されるべき者たちであり、かつまた、賞賛されるべき者たちであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、すなわち、母を敬わない者たちであり、父を敬わない者たちであり、沙門を敬わない者たちであり、婆羅門を敬わない者たちであり、家における最尊者を敬ない者たちである、それらの者たちが、〔世に〕有るなら、彼らは、かつまた、供養されるべき者たちと成るでしょうし、かつまた、賞賛されるべき者たちと〔成るでしょう〕。

 

 比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、あるいは、『母である』と、あるいは、『叔母である』と、あるいは、『叔父の妻である』と、あるいは、『師匠の妻である』と、あるいは、『導師たちの妻たちである』と、〔そのような思いさえも〕有りはしないでしょう。すなわち、山羊と羊のように、鶏と豚のように、犬と野狐(ジャッカル)のように、世〔の人々〕は、混合〔の状態〕に赴くでしょう。

 

 比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、それらの有情たちに、互いに他にたいし、強き憤懣〔の思い〕が、強き憎悪〔の思い〕が、強き意の憤怒が、強き殺戮の心が、現起するところと成るでしょう。母にもまた、子にたいし、子にもまた、母にたいし、父にもまた、子にたいし、子にもまた、父にたいし、兄弟にもまた、姉妹にたいし、姉妹にもまた、兄弟にたいし、強き憤懣〔の思い〕が、強き憎悪〔の思い〕が、強き意の憤怒が、強き殺戮の心が、現起するところと成るでしょう。比丘たちよ、それは、たとえば、また、獣を見て、猟師に、強き憤懣〔の思い〕が、強き憎悪〔の思い〕が、強き意の憤怒が、強き殺戮の心が、現起するところと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、それらの有情たちに、互いに他にたいし、強き憤懣〔の思い〕が、強き憎悪〔の思い〕が、強き意の憤怒が、強き殺戮の心が、現起するところと成るでしょう。母にもまた、子にたいし、子にもまた、母にたいし、父にもまた、子にたいし、子にもまた、父にたいし、兄弟にもまた、姉妹にたいし、姉妹にもまた、兄弟にたいし、強き憤懣〔の思い〕が、強き憎悪〔の思い〕が、強き意の憤怒が、強き殺戮の心が、現起するところと成るでしょう。

 

104. 比丘たちよ、十年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、七日のあいだ、刃の合間のカッパ(中劫:壊劫に至らない中間における世界の滅亡)と成るでしょう。彼らは、互いに他にたいし、獣の表象()を獲得するでしょう。彼らの手のうえに、諸々の鋭い刃が出現するでしょう。彼らは、鋭い刃によって、『この者は、獣だ』『この者は、獣だ』と、互いに他の生命を奪うでしょう。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、それらの有情たちの一部に、このような〔思いが〕有るでしょう。『では、わたしたちは、誰をも〔殺しては〕ならず、かつまた、誰であれ、わたしたちを〔殺しては〕ならない。それなら、さあ、わたしたちは、あるいは、草の茂みに、あるいは、林の茂みに、あるいは、木の茂みに、あるいは、川の難所に、あるいは、山の凹凸に、入って、林の根や果を食する者たちとなり、〔身を〕保ち行くのだ』と。彼らは、あるいは、草の茂みに、あるいは、林の茂みに、あるいは、木の茂みに、あるいは、川の難所に、あるいは、山の凹凸に、入って、七日のあいだ、林の根や果を食する者たちとなり、〔身を〕保ち行くでしょう。彼は、その七日が経過して、草の茂みから、林の茂みから、木の茂みから、川の難所から、山の凹凸から、出て、互いに他と抱き合って、一体となり、等しく安堵するでしょう。『ああ、有情たちよ、見たことか、〔あなたは〕生きている』『ああ、有情たちよ、見たことか、〔あなたは〕生きている』と。

 

 寿命と色艶等の増大の話

 

105. 比丘たちよ、そこで、まさに、それらの有情たちに、このような〔思いが〕有るでしょう。『わたしたちは、まさに、善ならざる法(性質)の受持を因として、このような形態の長大なる親族の滅尽に至り得たのだ。それなら、さあ、わたしたちは、善を為すのだ。どのような善を為すべきなのか。それなら、さあ、わたしたちは、命あるものを殺すことから離れるのだ。この善なる法(性質)を受持して行持するのだ』と。彼らは、命あるものを殺すことから離れるでしょう。この善なる法(性質)を受持して行持するでしょう。彼らは、諸々の善なる法(性質)の受持を因として、寿命〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、色艶〔の観点〕によってもまた増大するでしょう。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた増大し、色艶〔の観点〕によってもまた増大していると、十年の寿命ある人間たちの子は、二十年の寿命ある者たちと成るでしょう。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、それらの有情たちに、このような〔思いが〕有るでしょう。『わたしたちは、まさに、諸々の善なる法(性質)の受持を因として、寿命〔の観点〕によってもまた増大し、色艶〔の観点〕によってもまた増大する。それなら、さあ、わたしたちは、より一層しっかりと、善を為すのだ。どのような善を為すべきなのか。それなら、さあ、わたしたちは、与えられていないものを取ることから離れるのだ。……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れるのだ。……。虚偽を説くことから離れるのだ。……。中傷の言葉から離れるのだ。……。粗暴な言葉から離れるのだ。……。雑駁な虚論から離れるのだ。……。強欲〔の思い〕を捨棄するのだ。……。憎悪〔の思い〕を捨棄するのだ。……。誤った見解を捨棄するのだ。……。三つの法(性質)を──法(正義)ならざるものへの貪り〔の思い〕(異常愛)を、正常ならざる貪欲(異常欲)を、誤った法(同性愛)を──捨棄するのだ。……。それなら、さあ、わたしたちは、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、〔世に〕存するのだ。この善なる法(性質)を受持して行持するのだ』と。彼らは、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、〔世に〕有るでしょう。この善なる法(性質)を受持して行持するでしょう。

 

 彼らは、諸々の善なる法(性質)の受持を因として、寿命〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、色艶〔の観点〕によってもまた増大するでしょう。彼らが、寿命〔の観点〕によってもまた増大し、色艶〔の観点〕によってもまた増大していると、二十年の寿命ある人間たちの子は、四十年の寿命ある者たちと成るでしょう。……四十年の寿命ある人間たちの子は、八十年の寿命ある者たちと成るでしょう。……八十年の寿命ある人間たちの子は、百六十年の寿命ある者たちと成るでしょう。……百六十年の寿命ある人間たちの子は、三百二十年の寿命ある者たちと成るでしょう。……三百二十年の寿命ある人間たちの子は、六百四十年の寿命ある者たちと成るでしょう。……六百四十年の寿命ある人間たちの子は、二千年の寿命ある者たちと成るでしょう。……二千年の寿命ある人間たちの子は、四千年の寿命ある者たちと成るでしょう。……四千年の寿命ある人間たちの子は、八千年の寿命ある者たちと成るでしょう。……八千年の寿命ある人間たちの子は、二万年の寿命ある者たちと成るでしょう。二万年の寿命ある人間たちの子は、四万年の寿命ある者たちと成るでしょう。四万年の寿命ある人間たちの子は、八万年の寿命ある者たちと成るでしょう。……。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、五百歳の少女が、結婚できる者たちと成るでしょう。

 

 サンカ王の生起

 

106. 比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、三つの病苦が有るでしょう。欲求(生存欲)であり、飢餓(飢渇感)であり、老化です。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、このジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆するものと成るでしょう──鶏たちが群集する、諸々の村と町と王都あるものとなり。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、このジャンブ洲は、思うに、間隔なく人間たちで充満したものと成るでしょう。それは、たとえば、また、あるいは、ナラ〔葦〕の林のように、サラ〔葦〕の林のように。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、このバーラーナシーは、ケートゥマティーという名の王都と成るでしょう──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、かつまた、多くの人々がいて、かつまた、人間たちで満ち溢れ、かつまた、作物が豊富なところとなり。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、このジャンブ洲において、ケートゥマティー王都を筆頭とする、八万四千の城市が有るでしょう。比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、ケートゥマティー王都において、サンカという名の王が、転輪〔王〕として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕生起するでしょう。彼には、これらの七つの宝が有るでしょう。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有るでしょう──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住するでしょう。

 

 メッテイヤ覚者の生起

 

107. 比丘たちよ、八万年の寿命ある者たちとして、人間たちがあるとき、メッテイヤという名の世尊が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起するでしょう。それは、たとえば、また、わたしが、今現在、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起したように。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせるでしょう。それは、たとえば、また、わたしが、今現在、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせるように。彼は、法(教え)を説示するでしょう──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示するでしょう。それは、たとえば、また、わたしが、今現在、法(教え)を説示するように──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示するように。彼は、幾千の比丘の僧団を維持するでしょう。それは、たとえば、また、わたしが、今現在、幾百の比丘の僧団を維持するように。

 

108. 比丘たちよ、そこで、まさに、サンカという名の王が、すなわち、その、〔かつて〕マハー・パナーダ王が作らせた宮殿があり、その宮殿を興起して居住して、それを布施して配分して、沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちに、布施を施して、阿羅漢にして正等覚者たるメッテイヤ世尊の現前において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するでしょう。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう。

 

109. 比丘たちよ、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘の寿命と色艶等の増大の話

 

110. 比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んでいるなら、寿命〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、色艶〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、安楽〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、財物〔の観点〕によってもまた増大するでしょうし、活力〔の観点〕によってもまた増大するでしょう。

 

 比丘たちよ、では、何が、比丘の寿命における〔増大となるのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定()と精励の形成〔作用〕()を具備した神通の足場(神足)を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。彼は、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。比丘たちよ、これが、まさに、比丘の寿命における〔増大となります〕。

 

 比丘たちよ、では、何が、比丘の色艶における〔増大となるのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。比丘たちよ、これが、まさに、比丘の色艶における〔増大となります〕。

 

 比丘たちよ、では、何が、比丘の安楽における〔増大となるのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。……略……第二の瞑想(第二禅)を……略……第三の瞑想(第三禅)を……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これが、まさに、比丘の安楽における〔増大となります〕。

 

 比丘たちよ、では、何が、比丘の財物における〔増大となるのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これが、まさに、比丘の財物における〔増大となります〕。

 

 比丘たちよ、では、何が、比丘の活力における〔増大となるのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これが、まさに、比丘の活力における〔増大となります〕。

 

 比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、打ち負かし難きものとして、〔これより〕他に、一つ活力でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、悪魔の活力です(それをも凌駕するのが比丘の活力である)。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)の受持を因として、このように、この功徳は増大します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 転輪〔王〕の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(27). 始源の経

 

 ヴァーセッタとバーラドヴァージャ

 

111. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、ヴァーセッタとバーラドヴァージャが、比丘たちのなかで、比丘の状態を望みながら別住しています。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、高楼から降りて、高楼の影のもとで、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。

 

112. まさに、ヴァーセッタは、世尊が、夕刻時に、静坐から出起し、高楼から降りて、高楼の影のもとで、野外において、歩行〔瞑想〕をしているのを見ました。見て、バーラドヴァージャに告げました。「友よ、バーラドヴァージャよ、この方が、世尊が、夕刻時に、静坐から出起し、高楼から降りて、高楼の影のもとで、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。友よ、バーラドヴァージャよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。まさしく、おそらく、まさに、世尊の現前にあって、法(教え)の話を聞くことを得るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、バーラドヴァージャは、ヴァーセッタに答えました。

 

113. そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、歩行〔瞑想〕をしている世尊に従って歩行〔瞑想〕をしました。そこで、まさに、世尊は、ヴァーセッタに告げました。「ヴァーセッタよ、あなたたちは、まさに、生まれながらの婆羅門たちとして〔世に〕存しています──婆羅門の家系から、婆羅門の家から、家から家なきへと出家した者たちとして。ヴァーセッタよ、どうでしょう、婆羅門たちは、あなたたちを罵倒し口撃しませんか」と。「尊き方よ、たしかに、婆羅門たちは、わたしたちを罵倒し口撃します──自己の形態にかなう、遍く満ちた口撃によって、遍く満ちないところなく」と。「ヴァーセッタよ、また、すなわち、どのように、婆羅門たちは、あなたたちを罵倒し口撃するのですか──自己の形態にかなう、遍く満ちた口撃によって、遍く満ちないところなく」と。「尊き方よ、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他の者たちは、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他の者たちは、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである。〔まさに〕その、おまえたちは、最勝の階級を捨棄して、下劣な階級に到達した者たちとして〔世に〕存している──すなわち、この、坊主頭の似非沙門たちに、卑俗の黒き者たちに、梵の足から生まれた者たちに。〔まさに〕その、このことは、善きことならず。〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、おまえたちが、最勝の階級を捨棄して、下劣な階級に到達したのは──すなわち、この、坊主頭の似非沙門たちに、卑俗の黒き者たちに、梵の足から生まれた者たちに』と。尊き方よ、このように、まさに、婆羅門たちは、わたしたちを罵倒し口撃します──自己の形態にかなう、遍く満ちた口撃によって、遍く満ちないところなく」と。

 

114. 「ヴァーセッタよ、たしかに、婆羅門たちは、過去のことを思念することなく、あなたたちに、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他の者たちは、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他の者たちは、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。ヴァーセッタよ、また、まさに、婆羅門たちのなかで、女性婆羅門たちは、月経ある者たちもまた見られ、妊婦たちもまた〔見られ〕、出産している者たちもまた〔見られ〕、授乳している者たちもまた〔見られます〕。そして、それらの婆羅門たちは、まさしく、〔女性婆羅門たちの〕胎から生まれる者たちとして〔世に〕存していながら、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他の者たちは、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他の者たちは、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。彼らは、まさしく、そして、梵〔天〕を誹謗し、かつまた、虚偽を語り、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 四つの階級の清浄

 

115. ヴァーセッタよ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、これらの法(性質)は、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであり、罪過を有するものであり、罪過を有すると見なされたものであり、慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないと見なされたものであり、十全にして聖なるものではなく、十全にして聖なると見なされたものではなく、黒いものであり、黒い報いあるものであり、識者たちに難詰されるものであり、それら〔の法〕が、ここに、一部の士族においてもまた見られます。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、これらの法(性質)は、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであり……略……黒いものであり、黒い報いあるものであり、識者たちに難詰されるものであり、それら〔の法〕が、ここに、一部の隷民においてもまた見られます。

 

 ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないことから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕有ります。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、これらの法(性質)は、善なるものであり、善なると見なされたものであり、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであり、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであり、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであり、白いものであり、白い報いあるものであり、識者たちに賞賛されるものであり、それら〔の法〕が、ここに、一部の士族においてもまた見られます。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として……略……強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕有ります。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、これらの法(性質)は、善なるものであり、善なると見なされたものであり、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであり、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであり、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであり、白いものであり、白い報いあるものであり、識者たちに賞賛されるものであり、それら〔の法〕が、ここに、一部の隷民においてもまた見られます。

 

116. ヴァーセッタよ、まさに、これらの四つの階級において、このように、黒と白の法(性質)が──まさしく、そして、識者たちに難詰されるものも、さらに、識者たちに賞賛されるものも──両者が混在し、転起しているなかで、すなわち、ここにおいて、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他の者たちは、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他の者たちは、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。彼らのその〔言葉〕を、識者たちは承認しません。それは、何を因とするのですか。ヴァーセッタよ、なぜなら、これらの四つの階級があるなかで、その比丘が、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有るなら、彼は、それら〔の四つの階級〕のなかの至高の者と告げ知らされるからです──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

117. ヴァーセッタよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、法(正義)が、この人々において、最勝のものとしてあるとおりに──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

 ヴァーセッタよ、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、『沙門ゴータマは、無上なる者であり(※)、釈迦〔族〕の家から出家した者である』と知ります。ヴァーセッタよ、また、まさに、釈迦〔族〕の者たちは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に付き従う者たちとして〔世に〕有ります。ヴァーセッタよ、まさに、釈迦〔族〕の者たちは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にたいし、倒礼の所作を、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を、為します。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、釈迦〔族〕の者たちが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にたいし、倒礼の所作を、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を、為すとして、〔まさに〕その、倒礼の所作を、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、如来にたいし為します。それは、『善き生まれの者として、沙門ゴータマはあり、悪しき生まれの者として、わたしは存している』『力ある者として、沙門ゴータマはあり、力弱き者として、わたしは存している』『澄浄の者として、沙門ゴータマはあり、醜き色艶の者として、わたしは存している』『大いなる権能の者として、沙門ゴータマはあり、少なき権能の者として、わたしは存している』ということではなく、そこで、まさに、それは、まさしく、法(教え)を尊敬しながら、法(教え)を尊重しながら、法(教え)を思慕しながら、法(教え)を供養しながら、法(教え)を敬恭しながら、このように、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、如来にたいしたいし、倒礼の所作を、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を、為します。ヴァーセッタよ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、法(正義)が、この人々において、最勝のものとしてあるとおりに──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

※ テキストには anantarā とあるが、PTS版により anuttaro と読む。

 

118. ヴァーセッタよ、あなたたちは、まさに、種々なる生まれの者たちとして、種々なる名の者たちとして、種々なる姓の者たちとして、種々なる家の者たちとして、〔世に〕存し、家から家なきへと出家したのです。『あなたたちは、どのような者たちなのですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しているなら、『釈子たる沙門たちとして、〔わたしたちは〕存しています』と明言しなさい。ヴァーセッタよ、また、まさに、すなわち、その者の、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立し、堅固で、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、動かしようがないなら、彼にとって、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『世尊の、子として、正嫡として、口から生まれた者として、法(教え)から生じる者として、法(教え)によって化作された者として、法(教え)の相続者として、〔わたしは〕存している』と。それは、何を因とするのですか。ヴァーセッタよ、なぜなら、『法(真理)の身体』とはまた、『梵の身体』とはまた、『法(真理)と成った者』とはまた、『梵と成った者』とはまた、これは、如来の同義語であるからです。

 

119. ヴァーセッタよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が展転する、まさに、その時と成ります(世界が崩壊する時がくる)。世が展転しているとき、多くのところとして、有情たちは、光音〔天〕に等しく転起する者たちと成ります。彼らは、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

 ヴァーセッタよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、この世が還転する、まさに、その時と成ります(世界が再生する時がくる)。世が還転しているとき、多くのところとして、有情たちは、光音〔天〕の身体から死滅して、この場に帰還します。彼らは、ここに、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。

 

 味ある地の出現

 

120. ヴァーセッタよ、また、まさに、その時点にあって、一水の状態となった暗黒と漆黒の闇が有り(水だけが存在する闇の世界となる)、月と日は覚知されず、諸々の星宿と諸々の星座の形態は覚知されず、夜と昼は覚知されず、ひと月と半月は覚知されず、季節と年月は覚知されず、女と男は覚知されず、有情たちは、まさしく、『有情』という名称に至ります(種差がなく単に有情としてある)。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちに、いつであれ、いつかは、長時が経過して、味ある地が、水のうえに等しく広がりました。それは、たとえば、また、まさに、熱せられた牛乳が冷やされつつあると、上に等しく広がるもの(膜)が有るように、まさしく、このように、〔味ある地が〕出現しました。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有りました。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、上出来の酥のような、あるいは、上出来の生酥のような、このような色艶が有りました。それは、たとえば、また、まさに、純粋な小蜂の蜜のような、このような美味が有りました。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情で、妄動の類の者が、『はてさて、これは、まさしく、何が有るのだろう』と、味ある地を指で味わいました。彼が、味ある地を指で味わっていると、〔快感が〕覆い包み、そして、渇愛が、彼に入り込みました。ヴァーセッタよ、まさに、他の有情たちもまた、その有情に随従する見解を惹起させながら、味ある地を指で味わいました。彼らが、味ある地を指で味わっていると、〔快感が〕覆い包み、そして、渇愛が、彼らに入り込みました。

 

 月や日等の出現

 

121. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、味ある地を〔両の〕手でひと固まりと為し、遍く受益することに従事しました。ヴァーセッタよ、すなわち、まさに、それらの有情たちが、味ある地を〔両の〕手でひと固まりと為し、遍く受益することに従事したことから、そこで、それらの有情たちの、自らの光輝は消没しました。自らの光輝が消没したとき、月と日が出現しました。月と日が出現したとき、諸々の星宿と諸々の星座の形態が出現しました。諸々の星宿と諸々の星座の形態が出現したとき、夜と昼が覚知されました。夜と昼が覚知されているとき、ひと月と半月が覚知されました。ひと月と半月が覚知されているとき、季節と年月が覚知されました。ヴァーセッタよ、このことから、まさに、この世は、ふたたび還転されたものと成ります。

 

122. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、味ある地を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住しました。ヴァーセッタよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、それらの有情たちが、味ある地を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住したなら、そのとおり、そのとおりに、味ある地を遍く受益している、それらの有情たちに、まさしく、そして、荒々しさが身体のなかに入り込み、さらに、色艶に色艶の衰えが覚知されました。ここに、或る有情たちは、色艶ある者たちと成り、ここに、或る有情たちは、醜き色艶の者たちと〔成ります〕。そこにおいて、すなわち、それらの有情たちで、色艶ある者たちは、彼らは、醜き色艶の有情たちを軽んじます。『わたしたちは、これらの者たちよりも、より色艶ある者たちである。わたしたちよりも、これらの者たちは、より醜き色艶の者たちである』と。彼らが、色艶における高慢という縁あることから、思量()と高慢の類の者たちとなると、味ある地は消没しました。味ある地が消没したとき、〔彼らは〕集まりました。集まって、泣き悲しみました。『ああ、味が、ああ、味が』と。それで、今現在もまた、人間たちは、何らかの或る善き味のものを得て、このように言います。『ああ、味が、ああ、味が』と。まさしく、その、過去を始源とする語を隨念するも、まさしく、しかし、その〔語〕の義(意味)を、〔彼らは〕了知しません。

 

 地の餅の出現

 

123. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちに、味ある地が消没したとき、地の餅が出現しました。それは、たとえば、また、まさに、蛇の傘(茸)のように、まさしく、このように出現しました。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有りました。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、上出来の酥のような、あるいは、上出来の生酥のような、このような色艶が有りました。それは、たとえば、また、まさに、純粋な小蜂の蜜のような、このような美味が有りました。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、地の餅を遍く受益することに従事しました。彼らは、それを遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住しました。ヴァーセッタよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、それらの有情たちが、地の餅を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住したなら、そのとおり、そのとおりに、それらの有情たちに、より一層しっかりと、まさしく、そして、荒々しさが身体のなかに入り込み、さらに、色艶に色艶の衰えが覚知されました。ここに、或る有情たちは、色艶ある者たちと成り、ここに、或る有情たちは、醜き色艶の者たちと〔成ります〕。そこにおいて、すなわち、それらの有情たちで、色艶ある者たちは、彼らは、醜き色艶の有情たちを軽んじます。『わたしたちは、これらの者たちよりも、より色艶ある者たちである。わたしたちよりも、これらの者たちは、より醜き色艶の者たちである』と。彼らが、色艶における高慢という縁あることから、思量と高慢の類の者たちとなると、地の餅は消没しました。

 

 甘美なる蔓の出現

 

124. 地の餅が消没したとき、甘美なる蔓が出現しました。それは、たとえば、また、まさに、蔓草のように、まさしく、このように出現しました。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有りました。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、上出来の酥のような、あるいは、上出来の生酥のような、このような色艶が有りました。それは、たとえば、また、まさに、純粋な小蜂の蜜のような、このような美味が有りました。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、甘美なる蔓を遍く受益することに従事しました。彼らは、それを遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住しました。ヴァーセッタよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、それらの有情たちが、甘美なる蔓を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住したなら、そのとおり、そのとおりに、甘美なる蔓を遍く受益している、それらの有情たちに、より一層しっかりと、まさしく、そして、荒々しさが身体のなかに入り込み、さらに、色艶に色艶の衰えが覚知されました。ここに、或る有情たちは、色艶ある者たちと成り、ここに、或る有情たちは、醜き色艶の者たちと〔成ります〕。そこにおいて、すなわち、それらの有情たちで、色艶ある者たちは、彼らは、醜き色艶の有情たちを軽んじます。『わたしたちは、これらの者たちよりも、より色艶ある者たちである。わたしたちよりも、これらの者たちは、より醜き色艶の者たちである』と。彼らが、色艶における高慢という縁あることから、思量と高慢の類の者たちとなると、甘美なる蔓は消没しました。

 

 甘美なる蔓が消没したとき、〔彼らは〕集まりました。集まって、泣き悲しみました。『まさに、わたしたちに有ったが、まさに、わたしたちから失われた──甘美なる蔓が』と。それで、今現在もまた、人間たちは、何であれ、苦痛の法(性質)に触れられたなら、このように言います。『まさに、わたしたちに有ったが、まさに、わたしたちから失われた』と。まさしく、その、過去を始源とする語を隨念するも、まさしく、しかし、その〔語〕の義(意味)を、〔彼らは〕了知しません。

 

 耕さずに成熟する米の出現

 

125. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちに、甘美なる蔓が消没したとき、耕さずに成熟する米が出現しました──籾糠がなく、籾殻がなく、清浄で、善き香りの、米の果が。すなわち、それを、夕に、夕食のために運ぶと、朝に、それは、成熟し再成したものと成り、すなわち、それを、朝に、朝食のために運ぶと、夕に、それは、成熟し再成したものと成り、欠損は覚知されませんでした。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、耕さずに成熟する米を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住しました。

 

 女と男の徴表の出現

 

126. ヴァーセッタよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、それらの有情たちが、耕さずに成熟する米を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住したなら、そのとおり、そのとおりに、それらの有情たちに、より一層しっかりと、まさしく、そして、荒々しさが身体のなかに入り込み、さらに、色艶に色艶の衰えが覚知され、そして、女には、女の徴表が、さらに、男には、男の徴表が、出現しました。そして、女は、男を、さらに、男は、女を、限度を超えて思慮します。彼らが、互いに他を、限度を超えて思慮していると、貪染が生起し、苦悶が身体のなかに入り込みました。彼らは、苦悶という縁あることから、淫事の法(性質)を受用しました。

 

 ヴァーセッタよ、また、まさに、その時点にあって、すなわち、それらの有情たちが、淫事の法(性質)を受用している者たちを見るなら、或る者たちは、砂塵を投げ、或る者たちは、屑物を投げ、或る者たちは、牛糞を投げます。『不浄は消え去れ、不浄は消え去れ』と。『まさに、どうして、まさに、有情が、有情に、このような形態のことを為すというのだろう』と。それで、今現在もまた、人間たちは、諸々の一部の地方において、嫁が運び去られつつあると、或る者たちは、砂塵を投げ、或る者たちは、屑物を投げ、或る者たちは、牛糞を投げます。まさしく、その、過去を始源とする語を隨念するも、まさしく、しかし、その〔語〕の義(意味)を、〔彼らは〕了知しません。

 

 淫事の法の励行

 

127. ヴァーセッタよ、また、まさに、その時点にあって、法(正義)ならざるものと等しく思認され、〔世に〕有るも、それは、今現在、法(正義)と等しく思認されています。ヴァーセッタよ、また、すなわち、有情たちが、淫事の法(性質)を受用するなら、彼らは、ひと月のあいだであろうが、二月のあいだであろうが、あるいは、村に、あるいは、町に、入ることを得ません。ヴァーセッタよ、すなわち、まさに、それらの有情たちが、その法(正義)ならざるものにたいし、限度を超えて落ち行くことを惹起したことから、そこで、諸々の家を作ることに従事しました──まさしく、その法(正義)ならざるものの隠蔽を義(目的)として。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情で、怠け者の類の者に、この〔思い〕が有りました。『はてさて、まさしく、どうして、わたしは打ちのめされるのだろう──夕に、夕食のために、朝に、朝食のために、米を運びながら。それなら、さあ、わたしは、夕食と朝食のために、一度だけ、米を運ぶのだ(朝夕の作業は疲れるので一度で済まそう)』と。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、その有情は、夕食と朝食のために、一度だけ、米を運びました。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情が、その有情のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その有情に、こう言いました。『君よ、有情よ、さあ、〔わたしたちは〕米運びに赴くのだ』と。『君よ、有情よ、十分です。わたしは、夕食と朝食のために、一度だけ、米を運んでいます』と。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、その有情は、その有情に随従する見解を惹起させながら、二日に一度だけ、米を運びました。『ああ、まさに、このように〔為す〕もまた、善きことかな』と。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情が、その有情のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その有情に、こう言いました。『君よ、有情よ、さあ、〔わたしたちは〕米運びに赴くのだ』と。『君よ、有情よ、十分です。わたしは、二日に一度だけ、米を運んでいます』と。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、その有情は、その有情に随従する見解を惹起させながら、四日に一度だけ、米を運びました。『ああ、まさに、このように〔為す〕もまた、善きことかな』と。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情が、その有情のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その有情に、こう言いました。『君よ、有情よ、さあ、〔わたしたちは〕米運びに赴くのだ』と。『君よ、有情よ、十分です。わたしは、四日に一度だけ、米を運んでいます』と。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、その有情は、その有情に随従する見解を惹起させながら、八日に一度だけ、米を運びました。『ああ、まさに、このように〔為す〕もまた、善きことかな』と。

 

 ヴァーセッタよ、すなわち、まさに、それらの有情たちが、蓄積物として米を遍く受益することに従事したことから、そこで、籾糠もまた、米粒を遍く覆い包み、籾殻もまた、米粒を遍く覆い包み、刈り取られたものもまた再成せず、欠損が覚知され、諸々の米は、それぞれが茂みとなり、止住しました。

 

 米の区分

 

128. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは集まりました。集まって、泣き悲しみました。『君よ、まさに、諸々の悪しき法(性質)が、有情たちにおいて出現したのだ。まさに、わたしたちは、過去においては、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した。それで、まさに、わたしたちに、いつであれ、いつかは、長時が経過して、味ある地が、水のうえに等しく広がった。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有った。〔まさに〕その、わたしたちは、味ある地を〔両の〕手でひと固まりと為し、遍く受益することに従事した。〔まさに〕その、わたしたちが、味ある地を〔両の〕手でひと固まりと為し、遍く受益することに従事していると、自らの光輝は消没した。自らの光輝が消没したとき、月と日が出現した。月と日が出現したとき、諸々の星宿と諸々の星座の形態が出現した。諸々の星宿と諸々の星座の形態が出現したとき、夜と昼が覚知された。夜と昼が覚知されているとき、ひと月と半月が覚知された。ひと月と半月が覚知されているとき、季節と年月が覚知された。〔まさに〕その、わたしたちは、味ある地を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した。〔まさに〕その、わたしたちに、まさしく、諸々の悪しき善ならざる法(性質)の出現あることから、味ある地は消没した。味ある地が消没したとき、地の餅が出現した。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有った。〔まさに〕その、わたしたちは、地の餅を遍く受益することに従事した。〔まさに〕その、わたしたちは、それを遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した。〔まさに〕その、わたしたちに、まさしく、諸々の悪しき善ならざる法(性質)の出現あることから、地の餅は消没した。地の餅が消没したとき、甘美なる蔓が出現した。それは、色艶に満ち、香りに満ち、味に満ちたものとして有った。〔まさに〕その、わたしたちは、甘美なる蔓を遍く受益することに従事した。〔まさに〕その、わたしたちは、それを遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した。〔まさに〕その、わたしたちに、まさしく、諸々の悪しき善ならざる法(性質)の出現あることから、甘美なる蔓は消没した。甘美なる蔓が消没したとき、耕さずに成熟する米が出現した──籾糠がなく、籾殻がなく、清浄で、善き香りの、米の果が。すなわち、それを、夕に、夕食のために運ぶと、朝に、それは、成熟し再成したものと成り、すなわち、それを、朝に、朝食のために運ぶと、夕に、それは、成熟し再成したものと成り、欠損は覚知されなかった。〔まさに〕その、わたしたちは、耕さずに成熟する米を遍く受益しながら、それを食物とし、それを食する者たちとして、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住した。〔まさに〕その、わたしたちに、まさしく、諸々の悪しき善ならざる法(性質)の出現あることから、籾糠もまた、米粒を遍く覆い包み、籾殻もまた、米粒を遍く覆い包み、刈り取られたものもまた再成せず、欠損が覚知され、諸々の米は、それぞれが茂みとなり、止住するところとなった。それなら、さあ、わたしたちは、米〔の生育地〕を区分し、畔を据え置くのだ』と。ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、米〔の生育地〕を区分し、畔を据え置きました。

 

129. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、或るひとりの有情で、妄動の類の者が、自らの区分を遍く守りながら、或るひとつの区分で、与えられていないものを取って、遍く受益しました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。補足して、こう言いました。『君よ、有情よ、まさに、〔あなたは〕悪しきことを為す。なぜなら、そこで、まさに、自らの区分を遍く守りながら、或るひとつの区分で、与えられていないものを取って、遍く受益するからだ。君よ、有情よ、まさに、ふたたびまた、このような形態のことを為してはならない』と。ヴァーセッタよ、『君よ、わかりました』と、まさに、その有情は、それらの有情たちに答えました。ヴァーセッタよ、再度また、まさに、その有情は……略……。ヴァーセッタよ、三度また、まさに、その有情は、自らの区分を遍く守りながら、或るひとつの区分で、与えられていないものを取って、遍く受益しました。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉しました。補足して、こう言いました。『君よ、有情よ、まさに、〔あなたは〕悪しきことを為す。なぜなら、そこで、まさに、自らの区分を遍く守りながら、或るひとつの区分で、与えられていないものを取って、遍く受益するからだ。君よ、有情よ、まさに、ふたたびまた、このような形態のことを為してはならない』と。或る者たちは、手で打ち、或る者たちは、石で打ち、或る者たちは、棒で打ちました。ヴァーセッタよ、それ以後、まさに、与えられていないものを取ることが覚知され、難詰が覚知され、虚偽を説くことが覚知され、棒を取ることが覚知されました。

 

 マハー・サンマタ王

 

130. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは集まりました。集まって、泣き悲しみました。『君よ、まさに、諸々の悪しき法(性質)が、有情たちにおいて出現したのだ。なぜなら、そこで、まさに、与えられていないものを取ることが覚知され、難詰が覚知され、虚偽を説くことが覚知され、棒を取ることが覚知されるからだ。それなら、さあ、わたしたちは、一者の有情を選ぶのだ。すなわち、わたしたちのなかで、正しく憤慨されるべき者に憤慨し、正しく難詰されるべき者を難詰し、正しく追放されるべき者を追放するであろう、〔そのような者を〕。いっぽう、わたしたちは、彼に、諸々の米のなかの〔しかるべき〕部分を供与するのだ』と。

 

 ヴァーセッタよ、そこで、まさに、それらの有情たちは、すなわち、彼らのなかで、〔その〕有情が、かつまた、より形姿麗しく、かつまた、より美しく、かつまた、より澄浄で、かつまた、より大いなる権能ある者であるなら、近づいて行って、その有情に、こう言いました。『君よ、有情よ、さあ、正しく憤慨されるべき者に憤慨し、正しく難詰されるべき者を難詰し、正しく追放されるべき者を追放したまえ。いっぽう、わたしたちは、あなたに、諸々の米のなかの〔しかるべき〕部分を供与するでしょう』と。ヴァーセッタよ、『君よ、わかりました』と、まさに、その有情は、それらの有情たちに答えて、正しく憤慨されるべき者に憤慨し、正しく難詰されるべき者を難詰し、正しく追放されるべき者を追放しました。いっぽう、彼らは、彼に、諸々の米のなかの〔しかるべき〕部分を供与しました。

 

131. ヴァーセッタよ、まさに、大勢(マハー)の人々によって選ばれた者(サンマタ)、ということで、まさしく、『大いに敬われる者(マハー・サンマタ)』『大いに敬われる者』という、第一の語が発現したのです。ヴァーセッタよ、まさに、諸々の国土(ケッタ)の君主(アディパティ)、ということで、まさしく、『士族(カッティヤ)』『士族』という、第二の語が発現したのです。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)によって他者たちを喜ばす(ランジェーティ)、ということで、まさしく、『王(ラージャン)』『王』という、第三の語が発現したのです。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、このように、この士族の集団の発現が有りました──過去を始源とする語によって──まさしく、それらの有情たちに──他の者たちに、ではなく──まさしく、相同の者たちに──相同ならざる者たちに、ではなく──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

 婆羅門の集団

 

132. ヴァーセッタよ、そこで、まさに、まさしく、それらの有情たちのなかの一部の者たちに、この〔思い〕が有りました。『君よ、まさに、諸々の悪しき法(性質)が、有情たちにおいて出現したのだ。なぜなら、そこで、まさに、与えられていないものを取ることが覚知され、難詰が覚知され、虚偽を説くことが覚知され、棒を取ることが覚知され、〔人を〕追放することが覚知されるからだ。それなら、さあ、わたしたちは、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を除き取るのだ』と。彼らは、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を除き取りました。ヴァーセッタよ、まさに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を除き取る(ヴァーヘンティ)、ということで、まさしく、『婆羅門(ブラーフマナ)』『婆羅門』という、第一の語が発現したのです。彼らは、林所において、諸々の柴小屋を作って、諸々の柴小屋において瞑想し、炭火を離れ、煙を離れ、杵を倒し、夕に、夕食のために、朝に、朝食のために、村や町や王都に降りて行きます──食糧を探し求めながら。彼らは、食糧を獲得して、まさしく、ふたたび、林所にある諸々の柴小屋において瞑想します。〔まさに〕その、この者のことを、人間たちが見て、このように言いました。『君よ、まさに、これらの有情たちは、林所において、諸々の柴小屋を作って、諸々の柴小屋において瞑想し、炭火を離れ、煙を離れ、杵を倒し、夕に、夕食のために、朝に、朝食のために、村や町や王都に降りて行きます──食糧を探し求めながら。彼らは、食糧を獲得して、まさしく、ふたたび、林所にある諸々の柴小屋において瞑想します』と。ヴァーセッタよ、まさに、瞑想する(ジャーヤンティ)、ということで、まさしく、『瞑想者(ジャーヤカ)』『瞑想者』という、第二の語が発現したのです。ヴァーセッタよ、まさに、まさしく、それらの有情たちのなかの一部の有情たちは、林所にある諸々の柴小屋において、その瞑想をできずにいながら、村の近隣や町の近隣に降りて行って、諸々の書物を作りながら暮らします。〔まさに〕その、この者のことを、人間たちが見て、このように言いました。『君よ、まさに、これらの有情たちは、林所にある諸々の柴小屋において、その瞑想をできずにいながら、村の近隣や町の近隣に降りて行って、諸々の書物を作りながら暮らします。今や、これらの者たちは瞑想しません』と。ヴァーセッタよ、まさに、今や、これらの者たちは瞑想しない(ナ・ジャーヤンティ)、ということで、まさしく、『読誦者(アッジャーヤカ)』『読誦者』という、第三の語が発現したのです。ヴァーセッタよ、また、まさに、その時点にあって、下劣なるものと等しく思認され、〔世に〕有るも、それは、今現在、最勝のものと等しく思認されています。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、このように、この婆羅門の集団の発現が有りました──過去を始源とする語によって──まさしく、それらの有情たちに──他の者たちに、ではなく──まさしく、相同の者たちに──相同ならざる者たちに、ではなく──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

 庶民の集団

 

133. ヴァーセッタよ、まさに、まさしく、それらの有情たちのなかの一部の有情たちは、淫事の法(性質)を受持して、別個の生業に従事しました。ヴァーセッタよ、まさに、淫事の法(性質)を受持して、別個の(ヴィス)生業に従事する、ということで、まさしく、『庶民(ヴェッサ)』『庶民』という語が発現したのです。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、このように、この庶民の集団の発現が有りました──過去を始源とする語によって──まさしく、それらの有情たちに──他の者たちに、ではなく──まさしく、相同の者たちに──相同ならざる者たちに、ではなく──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

 隷民の集団

 

134. ヴァーセッタよ、まさに、まさしく、それらの有情たちのなかの、すなわち、それらの残りの有情たちは、彼らは、残忍な行ないある者たちとして、微小な行ないある者たちとして、〔世に〕有りました。ヴァーセッタよ、まさに、残忍な(ルッダ)行ないある者たちであり、微小な(クッダ)行ないある者たちである、ということで、まさしく、『隷民(スッダ)』『隷民』という語が発現したのです。ヴァーセッタよ、かくのごとく、まさに、このように、この隷民の集団の発現が有りました──過去を始源とする語によって──まさしく、それらの有情たちに──他の者たちに、ではなく──まさしく、相同の者たちに──相同ならざる者たちに、ではなく──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

135. ヴァーセッタよ、すなわち、士族もまた、自らの法(性質)を難詰しながら、『沙門と成るのだ』と、家から家なきへと出家する、まさに、その時と成りました。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた、自らの法(性質)を難詰しながら、『沙門と成るのだ』と、家から家なきへと出家する、〔まさに、その時と成りました〕。ヴァーセッタよ、まさに、これらの四つの集団によって、沙門の集団の発現が有りました──まさしく、それらの有情たちに──他の者たちに、ではなく──まさしく、相同の者たちに──相同ならざる者たちに、ではなく──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

 悪しき行ない等の話

 

136. ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、誤った見解ある者となり、誤った見解による行為の受持ある者となり、誤った見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、沙門もまた、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、誤った見解ある者となり、誤った見解による行為の受持ある者となり、誤った見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、正しい見解ある者となり、正しい見解による行為の受持ある者となり、正しい見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、沙門もまた、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、正しい見解ある者となり、正しい見解による行為の受持ある者となり、正しい見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

137. ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、身体による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、言葉による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、意による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、混合の見解ある者となり、混合の見解による行為の受持ある者となり、混合の見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、安楽と苦痛の得知ある者と成ります。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、沙門もまた、身体による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、言葉による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、意による〔悪しき行ないと善き行ないの〕両者を為す者として、混合の見解ある者となり、混合の見解による行為の受持ある者となり、混合の見解による行為の受持を因として、身体の破壊ののち、死後において、安楽と苦痛の得知ある者と成ります。

 

 覚りの項目の修行

 

138. ヴァーセッタよ、まさに、士族もまた、身体によって統御された者となり、言葉によって統御された者となり、意によって統御された者となり、七つの覚りの項目の法(菩提分法:四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の三十七菩提分法)のために修行に従って、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。ヴァーセッタよ、まさに、婆羅門もまた……略……。ヴァーセッタよ、まさに、庶民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、隷民もまた……。ヴァーセッタよ、まさに、沙門もまた、身体によって統御された者となり、言葉によって統御された者となり、意によって統御された者となり、七つの覚りの項目の法(性質)の修行に従って、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。

 

139. ヴァーセッタよ、まさに、これらの四つの階級のなかで、その比丘が、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有るなら、彼は、それら〔の四つの階級〕のなかの至高の者と告げ知らされます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ヴァーセッタよ、まさに、法(正義)は、この人々において、最勝のものとしてあります──まさしく、そして、所見の法(現世)において、さらに、未来の運命としても。

 

140. ヴァーセッタよ、梵〔天〕のサナンクマーラによってもまた、この詩偈が語られました。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』と。

 

 ヴァーセッタよ、また、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラによって語られた、〔まさに〕その、この詩偈は、善く歌われたものであり、悪しく歌われたものではなく、見事に語られたものであり、拙劣に語られたものではなく、義(道理)を伴ったものであり、義(道理)を伴わないものではなく、わたしによって許認されたものです。ヴァーセッタよ、わたしもまた、このように説きます。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴァーセッタとバーラドヴァージャは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 始源の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(28). 等しく浄信するべきものの経

 

 サーリプッタの獅子吼

 

141. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。『そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は』」と。

 

 142. 「サーリプッタよ、まさに、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれました。『尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は」』と。サーリプッタよ、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような法(教え)ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような智慧ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような住ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』ともまた。『このような法(教え)ある者たちとして……略……。『このような智慧ある者たちとして……。『このような住ある者たちとして……。『このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『このような戒ある者として、世尊はある』ともまた。『このような法(教え)ある者として……略……。『このような智慧ある者たちとして……。『このような住ある者たちとして……。『このような解脱者として、世尊はある』ともまた」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、まさに、そして、ここにおいて、あなたに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。サーリプッタよ、そこで、そうしますと、どうして、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれたのですか。『尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者は」』」と。

 

143. 「尊き方よ、まさに、わたしに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。しかしながら、また、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な塀と楼門があり、一つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこに、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕存するとします。彼は、その城市の、遍きにわたり、巡回する道を巡り行きながら、あるいは、塀の境目を、あるいは、塀の隙間を、もしくは、たとえ、山猫が出るほどのものであろうが、〔それらの全てを〕見ることはありません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、彼らが誰であれ、粗雑なる命あるものたちが、この城市を、あるいは、入るなら、あるいは、出るなら、彼らの全てが、まさしく、この門をとおり、あるいは、入り、あるいは、出る』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分(七覚支)を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚しました。尊き方よ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚するでしょう。尊き方よ、世尊もまた、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚したのです。

 

144. 尊き方よ、ここに、わたしは、法(教え)を聞くために、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、世尊は、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示します。尊き方よ、そのとおり、そのとおりに、わたしに、世尊が、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、わたしは、その法(教え)について、ここに、一部の法(教え)を証知して、諸々の法(教え)にたいし結論に至り、教師にたいし浄信します。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である』と。

 

 善なる法の説示

 

145. 尊き方よ、また、他に、諸々の善なる法(性質)において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。そこで、これらの善なる法(性質)があります。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)であり、四つの正しい精励(四正勤)であり、四つの神通の足場(四神足)であり、五つの機能(五根)であり、五つの力(五力)であり、七つの覚りの支分(七覚支)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。尊き方よ、ここに、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。尊き方よ、諸々の善なる法(性質)において、これは、無上なるものです。それを、世尊は残りなく証知します。それを、残りなく証知している世尊に、より上なる証知するべきものは存在しません。それを証知している、他の、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、すなわち、この、諸々の善なる法(性質)において、世尊よりもより証知ある者として存することになる、〔そのような、より上なる証知するべきものは存在しません〕。

 

 〔認識の〕場所の報知の説示

 

146. 尊き方よ、また、他に、諸々の〔認識の〕場所()の報知において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所があります。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態()であり、まさしく、そして、耳であり、さらに、諸々の音声()であり、まさしく、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気()であり、まさしく、そして、舌であり、さらに、諸々の味感()であり、まさしく、そして、身であり、さらに、諸々の感触(所触)であり、まさしく、そして、意であり、さらに、諸々の法(:意の対象)です。尊き方よ、諸々の〔認識の〕場所の報知において、これは、無上なるものです。尊き方よ、それを、残りなく証知している世尊に、より上なる証知するべきものは存在しません。それを証知している、他の、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、すなわち、この、諸々の〔認識の〕場所の報知について、世尊よりもより証知ある者として存することになる、〔そのような、より上なる証知するべきものは存在しません〕。

 

 入胎の説示

 

147. 尊き方よ、また、他に、諸々の入胎において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの四つの入胎があります。尊き方よ、ここに、一部の者は、正知なき者として、母の子宮に入ります。正知なき者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第一の入胎です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知なき者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第二の入胎です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知の者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第三の入胎です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知の者として、母の子宮において止住します。正知の者として、母の子宮から出ます。これは、第四の入胎です。尊き方よ、諸々の入胎において、これは、無上なるものです。

 

 指摘の種類の説示

 

148. 尊き方よ、また、他に、諸々の指摘の種類において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの四つの指摘の種類があります。尊き方よ、ここに、一部の者は、形相によって指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。これは、第一の指摘の種類です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。これは、第二の指摘の種類です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、しかしながら、また、まさに、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。これは、第三の指摘の種類です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘することもまたなく、しかしながら、また、まさに、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、そのとおりに、この心の直後に、まさに、この思考を思考するであろう』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。これは、第四の指摘の種類です。尊き方よ、諸々の指摘の種類において、これは、無上なるものです。

 

 見による入定の説示

 

149. 尊き方よ、また、他に、諸々の見による入定(等至)において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの四つの見による入定があります。尊き方よ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心による禅定(三昧)を体得し、定められたとおりに心があるとき、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。これは、第一の見による入定です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……髄液と尿が存在する』と。そして、人の表皮と肉と血を超え行って、骨を綿密に注視します。これは、第二の見による入定です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……髄液と尿が存在する』と。そして、人の表皮と肉と血を超え行って、骨を綿密に注視します。さらに、人の識知〔作用〕()の流れを、〔この世と他の世の〕両者〔の観点〕から、分断なく覚知します──かつまた、ここに、〔この〕世において、止住しているものとして、かつまた、他の世においても止住しているものとして。これは、第三の見による入定です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……髄液と尿が存在する』と。そして、人の表皮と肉と血を超え行って、骨を綿密に注視します。さらに、人の識知〔作用〕の流れを、〔この世と他の世の〕両者〔の観点〕から、分断なく覚知します──かつまた、ここに、〔この〕世において、止住なくあるものとして、かつまた、他の世においても止住なくあるものとして。これは、第四の見による入定です。尊き方よ、諸々の見による入定において、これは、無上なるものです。

 

 人の報知の説示

 

150. 尊き方よ、また、他に、諸々の人の報知において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの七者の人がいます。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。尊き方よ、諸々の人の報知において、これは、無上なるものです。

 

 精励の説示

 

151. 尊き方よ、また、他に、諸々の精励において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの七つの正覚の支分があります。気づきという正覚の支分(念覚支)であり、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)であり、精進という正覚の支分(精進覚支)であり、喜悦という正覚の支分(喜覚支)であり、静息という正覚の支分(軽安覚支)であり、禅定という正覚の支分(定覚支)であり、放捨という正覚の支分(捨覚支)です。尊き方よ、諸々の精励において、これは、無上なるものです。

 

 〔実践の〕道の説示

 

152. 尊き方よ、また、他に、諸々の〔実践の〕道において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの四つの〔実践の〕道があります。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。尊き方よ、そこで、すなわち、この、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道ですが、尊き方よ、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、下劣なるものと告げ知らされます──かつまた、苦なることから、かつまた、遅きことから。尊き方よ、そこで、すなわち、この、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、尊き方よ、また、この〔実践の〕道は、苦なることから、下劣なるものと告げ知らされます。尊き方よ、そこで、すなわち、この、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道ですが、尊き方よ、また、この〔実践の〕道は、遅きことから、下劣なるものと告げ知らされます。尊き方よ、そこで、すなわち、この、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、尊き方よ、また、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、精妙なるものと告げ知らされます──かつまた、楽なることから、かつまた、速きことから。尊き方よ、諸々の〔実践の〕道において、これは、無上なるものです。

 

 談義の励行等の説示

 

153. 尊き方よ、また、他に、談義の励行において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、ここに、一部の者は、まさしく、そして、虚偽を説くことを伴った言葉を語ることがなく、かつまた、陰口を〔語ることも〕なく、かつまた、中傷を〔語ることも〕なく、さらに、勝利を期待する者となり激昂から生じる〔言葉〕を〔語ることも〕なく、しかしながら、考量しては考量して、安置された言葉を、〔しかるべき〕時に語ります。尊き方よ、談義の励行において、これは、無上なるものです。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、人の戒の励行において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、ここに、一部の者は、そして、真理(真実)の者として、さらに、信ある者として、〔世に〕存します──かつまた、虚言者ではなく、かつまた、饒舌者ではなく、かつまた、示相者ではなく、かつまた、詐術者ではなく、かつまた、利得によって利得を貪り求める者ではなく、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として、食において量を知る者として、正しく為す者として、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として、休むことなき者として、精進に励む者として、瞑想者として、気づきある者として、善き弁才者として、〔善き〕境遇ある者として、〔道心〕堅固ある者として、思慧ある者として、そして、諸々の欲望〔の対象〕に貪求ある者ではなく、かつまた、気づきの者として、さらに、賢明なる者として、〔世に存します〕。尊き方よ、人の戒の励行において、これは、無上なるものです。

 

 教示の種類の説示

 

154. 尊き方よ、また、他に、諸々の教示の種類において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの四つの教示の種類があります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すこと(如理作意)から、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成るであろう〕』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲()と憤怒()と迷妄()の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成るであろう〕』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と知ります。尊き方よ、諸々の教示の種類において、これは、無上なるものです。

 

 他の人の解脱の知恵の説示

 

155. 尊き方よ、また、他に、他の人の解脱の知恵において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成るであろう〕』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成るであろう〕』と知ります。尊き方よ、世尊は、他の人のことを、各自に、根源のままに意を為すことから、『この人は、すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と知ります。尊き方よ、他の人の解脱の知恵において、これは、無上なるものです。

 

 常久の論の説示

 

156. 尊き方よ、また、他に、諸々の常久の論(常住論)において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの三つの常久の論があります。尊き方よ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、幾多の百生をもまた、幾多の千生をもまた、幾多の百千生をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように言います。『過去の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転した、あるいは、還転した」と。未来の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転するであろう、あるいは、還転するであろう」と。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する』と。これは、第一の常久の論です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、それは、すなわち、この、一つの展転され還転された〔世界の周期〕(世界の崩壊と再生の周期)をもまた、二つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、五つの展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように言います。『過去の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転した、あるいは、還転した」と。未来の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転するであろう、あるいは、還転するであろう」と。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する』と。これは、第二の常久の論です。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、二十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、三十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた、四十の展転され還転された〔世界の周期〕をもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように言います。『過去の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転した、あるいは、還転した」と。未来の時をもまた、わたしは知る──「世〔界〕は、あるいは、展転するであろう、あるいは、還転するであろう」と。かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久であり、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。そして、それらの有情たちは、流転し、輪廻し、死滅し、再生するも、まさしく、しかし、常久に等しく存在する』と。これは、第三の常久の論です。尊き方よ、諸々の常久の論において、これは、無上なるものです。

 

 過去における居住の随念の知恵の説示

 

157. 尊き方よ、また、他に、過去における居住の随念の知恵において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパをもまた、無数の還転されたカッパをもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここに再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。尊き方よ、天〔の神々〕たちが存在します。彼らの寿命は、あるいは、計算によって、あるいは、目算によって、数えることができません。しかしながら、また、その〔自己状態〕その自己状態(個我的あり方・身体)において、過去に定住したことが有るなら──あるいは、すなわち、形態ある者たちにおいて、あるいは、すなわち、形態なき者たちにおいて、あるいは、すなわち、表象ある者たちにおいて、あるいは、すなわち、表象なき者たちにおいて、あるいは、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちにおいて──かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。尊き方よ、過去における居住の随念の知恵において、これは、無上なるものです。

 

 死滅と再生の知恵の説示

 

158. 尊き方よ、また、他に、死滅と再生の知恵において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。尊き方よ、死滅と再生の知恵において、これは、無上なるものです。

 

 〔種々なる〕神通の種類の説示

 

159. 尊き方よ、また、他に、〔種々なる〕神通の種類において、すなわち、世尊が、法(教え)を説示するとおりに、これは、無上なるものです。尊き方よ、これらの二つの神通の種類があります。尊き方よ、煩悩を有し依り所を有する神通が存在し、『聖なるものではない』と説かれます。尊き方よ、煩悩なく依り所なき神通が存在し、『聖なるものである』と説かれます。尊き方よ、では、どのようなものが、煩悩を有し依り所を有する神通であり、『聖なるものではない』と説かれるのですか。尊き方よ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して……略……そのような形態の〔止寂の〕心による禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。尊き方よ、これは、煩悩を有し依り所を有する神通であり、『聖なるものではない』と説かれます。

 

 尊き方よ、また、どのようなものが、煩悩なく依り所なき神通であり、『聖なるものである』と説かれるのですか。尊き方よ、ここに、比丘が、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。尊き方よ、これは、煩悩なく依り所なき神通であり、『聖なるものである』と説かれます。尊き方よ、諸々の神通の種類において、これは、無上なるものです。それを、世尊は残りなく証知します。それを、残りなく証知している世尊に、より上なる証知するべきものは存在しません。それを証知している、他の、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、すなわち、この、諸々の神通の種類において、世尊よりもより証知ある者として存することになる、〔そのような、より上なる証知するべきものは存在しません〕。

 

 他なるものとして教師の徳を見ること

 

160. 尊き方よ、すなわち、それが、信ある良家の子息によって、精進に励む者によって、強靭なる者によって、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、人の忍耐強さによって、至り得られるべきであるなら、それは、世尊によって至り得るところとなりました。尊き方よ、世尊は、そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望の安楽への専念に専念する者ではなく、さらに、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念(苦行)に専念する者でもありません。しかしながら、世尊は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る方であり、苦難なく得る方であり、困難なく得る方です。

 

 詰問にたいする返答の流儀

 

161. 尊き方よ、それで、もし、わたしに、〔或る者が〕このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、過去の時に、他の、あるいは、沙門たちで、あるいは、婆羅門たちで、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者たちが〔世に〕有りましたか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『さにあらず』と説くでしょう。『友よ、サーリプッタよ、また、どうでしょう、未来の時に、他の、あるいは、沙門たちで、あるいは、婆羅門たちで、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者たちが〔世に〕有るでしょうか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『さにあらず』と説くでしょう。『友よ、サーリプッタよ、また、どうでしょう、今現在、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、正覚において、世尊よりもより一層の証知ある者たちが、〔世に〕存在しますか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『さにあらず』と説くでしょう。

 

 尊き方よ、また、それで、もし、わたしに、〔或る者が〕このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、過去の時に、他の、あるいは、沙門たちで、あるいは、婆羅門たちで、正覚について、世尊と等しく同等の者たちが〔世に〕有りましたか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『そのとおりです』と説くでしょう。『友よ、サーリプッタよ、また、どうでしょう、未来の時に、他の、あるいは、沙門たちで、あるいは、婆羅門たちで、正覚について、世尊と等しく同等の者たちが〔世に〕有るでしょうか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『そのとおりです』と説くでしょう。『友よ、サーリプッタよ、また、どうでしょう、今現在、他の、あるいは、沙門たちで、あるいは、婆羅門たちで、正覚について、世尊と等しく同等の者たちが、〔世に〕存在しますか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、『さにあらず』と説くでしょう。

 

 尊き方よ、また、それで、もし、わたしに、〔或る者が〕このように尋ねるとします。『また、どうして、尊者サーリプッタは、一部を承認し、一部を承認しないのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「過去の時に、正覚について、わたしと等しく同等の者たちである、阿羅漢にして正等覚者たちが〔世に〕有りました」と。友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「未来の時に、正覚について、わたしと等しく同等の者たちである、阿羅漢にして正等覚者たちが〔世に〕有るでしょう」と。友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、一つの世の界域において、二者の阿羅漢にして正等覚者が、前なく後なく〔同時に〕生起することです。この状況は見出されません」』と。

 

 尊き方よ、どうでしょう、このように尋ねられ、わたしが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者と成りますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。「サーリプッタよ、たしかに、あなたが、このように尋ねられ、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。

 

 めったにないはじめてのこと

 

162. このように説かれたとき、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来には、少なき欲求たることがあり、満ち足りていることがあり、謹厳たることがあります。なぜなら、そこで、まさに、如来は、このように偉大なる神通ある者であり、このように偉大なる威力ある者であり、そこで、また、しかしながら、自己を明らかと為すことが、まさしく、ないからです。尊き方よ、たとえ、もし、一つ一つの法(性質)を、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、自己のうちに等しく随観するなら、彼らは、まさしく、それだけのことで、幟(のぼり)を持ち運ぶでしょう。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来には、少なき欲求たることがあり、満ち足りていることがあり、謹厳たることがあります。なぜなら、そこで、まさに、如来は、このように偉大なる神通ある者であり、このように偉大なる威力ある者であり、そこで、また、しかしながら、自己を明らかと為すことが、まさしく、ないからです」と。

 

 「ウダーインよ、まさに、あなたは、見なさい。如来には、少なき欲求たることがあり、満ち足りていることがあり、謹厳たることがあります。なぜなら、そこで、まさに、如来は、このように偉大なる神通ある者であり、このように偉大なる威力ある者であり、そこで、また、しかしながら、自己を明らかと為すことが、まさしく、ないからです。ウダーインよ、たとえ、もし、一つ一つの法(性質)を、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、自己のうちに等しく随観するなら、彼らは、まさしく、それだけのことで、幟を持ち運ぶでしょう。ウダーインよ、まさに、あなたは、見なさい。如来には、少なき欲求たることがあり、満ち足りていることがあり、謹厳たることがあります。なぜなら、そこで、まさに、如来は、このように偉大なる神通ある者であり、このように偉大なる威力ある者であり、そこで、また、しかしながら、自己を明らかと為すことが、まさしく、ないからです」と。

 

163. そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、幾度となく、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者(優婆塞)たちと女性在俗信者(優婆夷)たちに語るべきです。サーリプッタよ、まさに、すなわち、また、愚人たちに、如来についての、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、有るとして、それらの者たちもまた(※)、この法(教え)の教相を聞いて、如来についての、あるいは、疑いも、あるいは、疑問も、それは捨棄されるでしょう」と。まさに、かくのごとく、尊者サーリプッタは、世尊の面前で、この等しく浄信するべきものを知らしめました。それゆえに、この説き明かしには、まさしく、「等しく浄信するべきもの」という名辞がある、ということです。

 

※ PTS版により pi を補う。

 

 等しく浄信するべきものの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(29). 浄信あるものの経

 

164. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。ヴェーダンニャという名の釈迦〔族〕の者たちがあり、彼らのアンバ林にある高楼において。

 

 ニガンタ・ナータプッタの命終

 

 また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)が、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちは分裂し、二派を生じ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住みます。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。思うに、まさしく、殺戮が、まさに、ニガンタ・ナータプッタの者たちにおいて転起します。すなわち、また、ニガンタ・ナータプッタの弟子である白衣の在家者たちは、彼らもまた、ニガンタ・ナータプッタの者たちにたいし、厭離している様子であり、離貪している様子であり、反発している様子です。すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。

 

165. そこで、まさに、見習い沙門のチュンダが、パーヴァーにおいて雨期を過ごし、サーマ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、見習い沙門のチュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、チュンダよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに答えました。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、見習い沙門のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この見習い沙門のチュンダが、このように言いました。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては』」と。

 

 正等覚者ならざる者によって知らされた法と律

 

166. 「チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。チュンダよ、ここに、かつまた、教師が、正等覚者ならざる者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、しかしながら、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者ならざる者であり、かつまた、法(教え)は、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、しかしながら、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、しかしながら、弟子は、そこにおいて、このように賞賛されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『さあ、尊者は、すなわち、あなたの教師によって、法(教え)が説示され報知されたとおり、そのとおりに実践したまえ』と。かつまた、或る者が受持させ、かつまた、或る者に受持させ、そして、すなわち、受持させられた者は、そのとおりそのままに実践します。彼らの全てが、多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

 

167. チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者ならざる者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、そして、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざることがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者ならざる者であり、かつまた、法(教え)は、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、そして、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、弟子もまた、そこにおいて、このように難詰されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『たしかに、尊者は、正理の実践者であり、正理を達成するでしょう』と。かつまた、或る者が賞賛し、かつまた、或る者を賞賛し、そして、すなわち、賞賛された者は、より一層しっかりと、精進に励みます。彼らの全てが、多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

 

 正等覚者によって知らされた法と律

 

168. チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざることがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者であり、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、しかしながら、弟子は、そこにおいて、このように難詰されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『さあ、尊者は、すなわち、あなたの教師によって、法(教え)が説示され報知されたとおり、そのとおりに実践したまえ』と。かつまた、或る者が受持させ、かつまた、或る者に受持させ、そして、すなわち、受持させられた者は、そのとおりそのままに実践します。彼らの全てが、多くの功徳を生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

 

169. チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者であり、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、弟子もまた、そこにおいて、このように賞賛されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『たしかに、尊者は、正理の実践者であり、正理を達成するでしょう』と。かつまた、或る者が賞賛し、かつまた、或る者を賞賛し、そして、すなわち、賞賛された者は、より一層しっかりと、精進に励みます。彼らの全てが、多くの功徳を生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

 

 弟子たちにとって悩み苦しむべきものとなる教師の〔消没〕

 

170. チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、彼の弟子たちが、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられていない者たちとして〔世に〕有り、さらに、彼らには、全一にして円満成就の梵行が有りません──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、彼らに、教師の消没が有ります(命を終える)。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきものと成ります。それは、何を因とするのですか。『かつまた、わたしたちの教師は、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられていない者たちとして、〔わたしたちは〕存しており、さらに、わたしたちには、全一にして円満成就の梵行が有ることなくある──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、わたしたちに、教師の消没が有る』と〔思うからです〕。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきものと成ります。

 

 弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものとなる教師の〔消没〕

 

171. チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、彼の弟子たちが、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられた者たちとして〔世に〕有り、さらに、彼らには、全一にして円満成就の梵行が有ります──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、彼らに、教師の消没が有ります。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものと成ります。それは、何を因とするのですか。『かつまた、わたしたちの教師は、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられた者たちとして、〔わたしたちは〕存しており、さらに、わたしたちには、全一にして円満成就の梵行が有る──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、わたしたちに、教師の消没が有る』と〔思うからです〕。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものと成ります。

 

 梵行の円満成就なきもの等の話

 

172. チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有ることなくあるなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

 

 チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、そして、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有ることから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

 

173. チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安(軛安穏)に至り得た者たちとして、〔世に〕有ることなくあるなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

 

 チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、さらに、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有ることから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

 

174. チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有ることなくあるなら……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、至高の利得と至高の盛名に至り得ていないなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

 

 チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有り、そして、至高の利得に至り得たことから、さらに、至高の盛名に至り得たことから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

 

175. チュンダよ、また、まさに、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、世に生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、わたしの弟子たちは、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられ、かつまた、彼らには、全一にして円満成就の梵行があります──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしは、教師である長老として、経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。

 

 チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である長老の比丘たちが存在し、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有ります。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である中堅の比丘たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である新参の比丘たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である長老の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である中堅の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である新参の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。

 

176. チュンダよ、まさに、今現在、世に生起した教師たちとしてある、そのかぎりにおいて、チュンダよ、わたしは、このように至高の利得と至高の盛名に至り得た者として、〔これより〕他に、一者の教師でさえも、等しく随観することがありません。すなわち、わたしのような〔教師〕は。チュンダよ、また、まさに、今現在、世に生起した、あるいは、僧団としてあり、あるいは、僧集としてある、そのかぎりにおいて、チュンダよ、わたしは、このように至高の利得と至高の盛名に至り得たものとして、〔これより〕他に、一者の僧団でさえも、等しく随観することがありません。チュンダよ、すなわち、この、比丘の僧団のようなものは。チュンダよ、まさに、すなわち、それを、『一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『一切の行相を成就し……略……見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 チュンダよ、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、このような言葉を語ります。『見ていながらも見ない』と。では、『見ていながらも見ない』とは、どのようなことなのですか。剃刀が善く研がれたなら、その〔剃刀〕の面を見るも、しかしながら、まさに、その〔剃刀〕の切っ先を見ません。このことが、『見ていながらも見ない』と説かれます。チュンダよ、また、まさに、すなわち、ウダカ・ラーマプッタによって語られたことは、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、剃刀だけに関してのものです。チュンダよ、しかしながら、すなわち、それを、『見ていながらも見ない』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『見ていながらも見ない』と、正しく説きつつ説くべきです。では、『見ていながらも見ない』とは、どのようなことなのですか。『このように、一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ます。『ここにおいて、これを取り去るなら、このように、それは、より完全なる清浄のものとなり、〔世に〕存するであろう』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ません。『ここにおいて、これを取り入れるなら、このように、それは、円満成就のものとなり、〔世に〕存するであろう』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ません。チュンダよ、このことが、『見ていながらも見ない』と説かれます。チュンダよ、まさに、すなわち、それを、『一切の行相を成就し……略……見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 合誦されるべき法

 

177. チュンダよ、それゆえに、ここに、それらの法(教え)が、あなたたちに、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたなら、そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(語形)によって文(語形)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。チュンダよ、では、どのようなものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのですか──そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(語形)によって文(語形)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのです──そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(語形)によって文(語形)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。

 

 説得させるべき手順

 

178. チュンダよ、そして、〔まさに〕その、あなたたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、或るひとりの梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさしく、そして、義(意味)を誤って把握し、さらに、諸々の文(語形)を誤って作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、この義(意味)には、あるいは、これらの文と、あるいは、これらの文と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか。そして、これらの文には、あるいは、この義(意味)と、あるいは、この義(意味)と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、この義(意味)には、まさしく、これらの文が、そして、すなわち、これらこそが(※)、より〔適切に〕導くものです。そして、これらの文には、まさしく、この語(意味)が、そして、すなわち、これこそが(※※)、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──かつまた、その義(意味)の、かつまた、それらの文の、感知のために。

 

※ テキストには yā とあるが、PTS版により yāni と読む。

※※ テキストには yā とあるが、PTS版により yo と読む。

 

179. チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさに、義(意味)を、まさに、誤って把握し、諸々の文(語形)を正しく作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、これらの文には、あるいは、この義(意味)と、あるいは、この義(意味)と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、これらの文には、まさしく、この語(意味)が、そして、すなわち、これこそが(※)、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──まさしく、その義(意味)の感知のために。

 

※ テキストには yā とあるが、PTS版により yo と読む。

 

180. チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさに、義(意味)を、まさに、正しく把握し、諸々の文(語形)を誤って作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、この義(意味)には、あるいは、これらの文と、あるいは、これらの文と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、この義(意味)には、まさしく、これらの文が、そして、すなわち、これらこそが、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──まさしく、それらの文の感知のために。

 

181. チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさしく、そして、義(意味)を正しく把握し、さらに、諸々の文(語形)を正しく作成する』と。彼の語ったことは、『善きかな』と、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。彼の語ったことを、『善きかな』と、大いに喜んで、随喜して、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます──このように義(意味)を具した者を、このように文(語形)を具した者を』と。

 

 日用品が承認された動機

 

182. チュンダよ、わたしは、あなたたちに、所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のためだけに、法(教え)を説示するのではありません。チュンダよ、また、わたしは、未来のものたる諸々の煩悩の防御のためだけに、法(教え)を説示するのではありません。チュンダよ、わたしは、まさしく、そして、所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のために、さらに、未来のものたる諸々の煩悩の防御のために、法(教え)を説示します。チュンダよ、それゆえに、ここに、すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された衣料は、それは、寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された〔行乞の〕施食は、それは、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』〔と〕。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された臥坐所は、それは、寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された病のための日用品たる薬の必需品は、それは、生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。

 

 安楽への専念〔努力〕

 

183. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、どのようなものが、その安楽への専念〔努力〕なのですか。まさに、安楽への専念〔努力〕は、多くのものがあり、無数のものに関した種々なる流儀があります』と。

 

 チュンダよ、四つのものがあります。これらの安楽への専念〔努力〕は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。

 

 チュンダよ、ここに、一部の愚者は、命あるものたちを打ち殺しては打ち殺して、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第一の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、与えられていないものを取っては取って、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第二の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、虚偽を話しては話して、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第三の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。チュンダよ、これは、第四の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。彼らは、あなたたちによって、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者たちとして存するでしょう。彼らは、あなたたちに、正しく説きつつ説くのではなく、彼らは、あなたたちを(※)、正しからざることによって、事実ならざることによって、誹謗するのです。

 

※ PTS版により te vo を補う。

 

184. チュンダよ、四つのものがあります。これらの安楽への専念〔努力〕は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。

 

 チュンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第一の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第二の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第三の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第四の安楽への専念〔努力〕です。

 

 チュンダよ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。彼らは、あなたたちによって、『そのとおりです』と説かれるべき者たちとして存するでしょう。彼らは、あなたたちに、正しく説きつつ説くのであり、彼らは、あなたたちを、正しからざることによって、事実ならざることによって、誹謗するのではありません。

 

 安楽への専念〔努力〕の福利

 

185. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、どれだけの果が〔期待でき〕、どれだけの福利が期待できますか』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、四つの果が〔期待でき〕、四つの福利が期待できます。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。これは、第一の果であり、第一の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。これは、第二の果であり、第二の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。これは、第三の果であり、第三の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。これは、第四の果であり、第四の福利です。友よ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、これらの、四つの果が〔期待でき〕、四つの福利が期待できます』と。

 

 煩悩が滅尽した者にとって不可能となる状況

 

186. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、安立した法(性質)なき者たちとして〔世に〕住む』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、弟子たちに説示され報知された、生あるかぎり違犯できない諸々の法(性質)が存在します。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、インダの杭(城門に立てられた標柱)が、あるいは、鉄の杭が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、弟子たちに説示され報知された、生あるかぎり違犯できない諸々の法(性質)があります。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、九つの状況を行作することが不可能となります。友よ、(1)煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。(2)煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。(3)煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。(4)煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。(5)煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。(6)煩悩が滅尽した比丘は、欲〔の思い〕の非道に赴くことが不可能となります。(7)煩悩が滅尽した比丘は、憤怒の非道に赴くことが不可能となります。(8)煩悩が滅尽した比丘は、迷妄の非道に赴くことが不可能となります。(9)煩悩が滅尽した比丘は、恐怖の非道に赴くことが不可能となります。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの九つの状況を行作することが不可能となります』と。

 

 問いへの説き明かし

 

187. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『まさに、過去の時に関して、沙門ゴータマは、際限なき知見を報知する。しかしながら、まさに、未来の時に関して、際限なき知見を報知しない。〔まさに〕その、このことは、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、このことは、いったい、どうしてなのだ』と。さてまた、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、他のものに関した知見によって他のものに関した知見を報知するべきと思い考えます──あたかも、愚者にして明敏ならざる者であるかのように。チュンダよ、まさに、過去の時に関して、如来には、気づきと隨念の知恵が有ります。彼は、すなわち、望むかぎりの、そのかぎりのものを隨念します。そして、まさに、未来の時に関して、如来には、覚りから生じる知恵が生起します。『これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』と。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それをもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、未来のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。……略……その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それをもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。

 

188. チュンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の過去と未来と現在の法(性質)について、如来は、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、そして、それが、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、その全てが、如来によって現正覚されたのであり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚し、そして、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら、すなわち、この中間において、〔彼が〕語り、談じ、釈示するものは、その全てが、まさしく、そのとおりに成り、他なるものと〔成ら〕ず、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 説き明かされなかった状況

 

189. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何ゆえに、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのです』と。

 

 説き明かされた状況

 

190. チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何が、沙門ゴータマによって説き明かされたのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、「これは、苦しみである」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの集起である」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの止滅である」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、まさに、世尊によって説き明かされました』と。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何ゆえに、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされたのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、法(真理)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、沙門ゴータマによって説き明かされたのです』と。

 

 過去の極を共具した見解の依所

 

191. チュンダよ、すなわち、また、それらの過去の極(前際:過去の種々相)を共具した見解の依所も、それらもまた、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、すなわち、また、それらの未来の極(後際:未来の種々相)を共具した見解の依所も、それらもまた、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、では、どのようなものが、それらの過去の極を共具した見解の依所なのですか。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。……略……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。『楽と苦は、常久である。……。『楽と苦は、常久ではない。……『楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『楽と苦は、自作されたものである。……。『楽と苦は、他作されたものである。……。『楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

 

192. チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象()ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知(施設)についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。

 

193. チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。……略……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。……。『楽と苦は、常久である。……。『楽と苦は、常久ではない。……『楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『楽と苦は、自作されたものである。……。『楽と苦は、他作されたものである。……。『楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの過去の極を共具した見解の依所です。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう(※)。

 

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 未来の極を共具した見解の依所

 

194. チュンダよ、では、どのようなものが、それらの未来の極を共具した見解の依所なのですか。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『形態あるもの()として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『形態なきもの(無色)として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、表象あるものでもなく、表象なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。

 

195. チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、表象あるものでもなく、表象なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの未来の極を共具した見解の依所です。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきではない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう(※)。

 

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196. チュンダよ、そして、これらの過去の極を共具した見解の依所の、さらに、これらの未来の極を共具した見解の依所の、捨棄のために、超越のために、このように、四つの気づきの確立が、わたしによって説示され報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。チュンダよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として……略……。心における心の随観ある者として……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。チュンダよ、そして、これらの過去の極を共具した見解の依所の、さらに、これらの未来の極を共具した見解の依所の、捨棄のために、超越のために、このように、これらの四つの気づきの確立が、わたしによって説示され報知されました」と。

 

197. また、まさに、その時点にあって、尊者ウパヴァーナは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、この法(教え)の教相は、浄信あるものです。尊き方よ、まさに、この法(教え)の教相は、極めて浄信あるものです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「ウパヴァーナよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『浄信あるもの』と、それを保持しなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ウパヴァーナは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 浄信あるものの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(30). 特相の経

 

 三十二の偉大なる人士の特相

 

198. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「あなたに、幸せ〔有れ〕」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

199. 「比丘たちよ、偉大なる人士には、これらの三十二の偉大なる人士の特相があります。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇()だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。

 

200. 比丘たちよ、偉大なる人士には、では、どのようなものが、それらの三十二の偉大なる人士の特相としてあるのですか。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。

 

 (1)比丘たちよ、ここに、偉大なる人士は、善く確立された足ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、偉大なる人士が、善く確立された足ある者として〔世に〕有るのは、比丘たちよ、偉大なる人士には、これもまた、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、偉大なる人士の、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪が有ります。比丘たちよ、すなわち、また、偉大なる人士の、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪が有るのは、比丘たちよ、偉大なる人士には、これもまた、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、偉大なる人士は、長大なる踵(きびす)ある者として〔世に〕有ります。……略……(4)長い指ある者として〔世に〕有ります。……(5)柔和で柔弱な手足ある者として〔世に〕有ります。……(6)網のような手足ある者として〔世に〕有ります。……(7)踝(くるぶし)の高い足ある者として〔世に〕有ります。……(8)羚羊のような脛ある者として〔世に〕有ります。……(9)まさしく、立っていながら、屈むことなく、両の手の平をもって、〔両の〕膝に触れ、擦りまわします。……(10)覆蔵された衣の陰部ある者として〔世に〕有ります。……(11)黄金の色艶があり、黄金に似た皮膚ある者として〔世に〕有ります。……(12)繊細なる肌ある者として〔世に〕有り、肌の繊細なることから、塵と埃が身体に付着しません。……(13)一つずつの毛ある者として〔世に〕有り、諸々の一つずつの毛が諸々の毛穴に生じています。……(14)屹立する毛ある者として〔世に〕有り、諸々の屹立する毛が生じ、塗薬の色のように青く、耳飾の輪のようであり、右回りに生じています。……(15)梵〔天〕のように真っすぐな五体ある者として〔世に〕有ります。……(16)七つの増長ある者として〔世に〕有ります。……(17)獅子のような前半身ある者として〔世に〕有ります。……(18)窪みが詰まった肩ある者として〔世に〕有ります。……(19)ニグローダ〔樹〕のような完円ある者として〔世に〕有り、すなわち、彼の身体〔の長さ〕としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の〔一〕尋(両手を広げた長さ)となり、すなわち、彼の〔一〕尋としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の身体〔の長さ〕となります。……(20)等しく円形の肩ある者として〔世に〕有ります。……(21)至高なるうえにも至高なる味感ある者として〔世に〕有ります。……(22)獅子のような顎ある者として〔世に〕有ります。……(23)四十の歯ある者として〔世に〕有ります。……(24)均等の歯ある者として〔世に〕有ります。……(25)隙間のない歯ある者として〔世に〕有ります。……(26)極めて白い歯ある者として〔世に〕有ります。……(27)広くて長い舌ある者として〔世に〕有ります。……(28)梵の声ある者として、カラヴィーカ〔鳥〕の調べある者として、〔世に〕有ります。……(29)紺碧の眼ある者として〔世に〕有ります。……(30)牛のような睫毛ある者として〔世に〕有ります。……(31)眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫が有ります。比丘たちよ、すなわち、また、偉大なる人士の、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫が有るのは、偉大なる人士には、これもまた、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 (32)比丘たちよ、さらに、また、他に、偉大なる人士は、肉髻の頭ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、偉大なる人士が、肉髻の頭ある者として〔世に〕有るのは、偉大なる人士には、これもまた、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 比丘たちよ、偉大なる人士には、まさに、これらのものが、それらの三十二の偉大なる人士の特相としてあります。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はありません。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、偉大なる人士には、まさに、これらの三十二の偉大なる人士の特相があり、外部の聖賢たちもまた、〔それらを、伝承として〕保持します。しかしながら、まさに、彼らは知りません。『この行為()が為されたことから、この特相を獲得する』と。

 

 (1)善く確立された足あることという特相

 

201. 比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、諸々の善なる法(性質)において、断固たる受持ある者として〔世に〕有りました──身体による善き行ないにおいて、言葉による善き行ないにおいて、意による善き行ないにおいて、布施の分与において、戒の受持において、斎戒の断行において、母を敬うことにおいて、父を敬うことにおいて、沙門を敬うことにおいて、婆羅門を敬うことにおいて、家における最尊者を敬うことにおいて、そして、諸々の何らかの或る様々な卓越の善なる法(性質)において、確立された受持ある者として。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから、増長あることから、広大なることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼は、そこにおいて、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳(盛名)によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。善く確立された足ある者として〔世に〕有り、足を均等に地に置き、均等に引き上げ、〔両の〕足の裏の一切すべてをもって均等に地に触れます。

 

202. その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、荒廃なく、〔争いの〕相なく、〔憎悪の〕棘なく、興隆し、繁栄し、平安で、至福で、汚濁なきものとして、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。義(利益)に反する者によって、対立者によって、誰であれ、人間たる生類によって、脅かされない者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。あるいは、内なる、あるいは、外なる、義(利益)に反する者たちによって、対立者たちによって、あるいは、貪欲()によって、あるいは、憤怒()によって、あるいは、迷妄()によって、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、脅かされない者と成ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

203. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、真理()において、かつまた、法(正義)において、かつまた、調御において、自制において、かつまた、清廉と戒の基底(阿頼耶:依所)と斎戒において、布施において、不害において、非暴力において、喜びある者となり、堅固に受持して、均等に習行した。

 

 彼は、その行為によって、天位に行き着いた。そして、安楽を、さらに、諸々の遊興の喜びを、味わい楽しんだ。そこから死滅して、ここに、ふたたび帰還し、均等なる〔両の〕足によって、大地に触れた。

 

 占相者たちは集いあつまり、説き明かした。『均等に確立された〔足〕ある者に、脅威となるものが有ることはなく、あるいは、在家者としてあるも、また、あるいは、出家者としてあるも、その特相は、その義(意味)を照らすものと成る。

 

 家に居住しているなら、脅かされない者と成り、他を征服する者と〔成り〕、賊たちに撃破されない者と〔成る〕。ここに、誰であれ、人間たる生類によって、脅かされない者と成る──彼の行為の果によって。

 

 そして、それで、もし、そのような者が、出家へと近づくなら、離欲への欲〔の思い〕を喜び楽しむ明眼の者となる。至高の者である彼は、脅威となるものに、けっして赴かない。まさに、この者は、最上の人──彼には、法(真理)たることがある』」と。

 

 (2)〔両の〕足の裏における輪の特相

 

204. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、多くの人々に安楽をもたらす者として〔世に〕有りました──戦慄と恐懼と恐怖を除去する者として、そして、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配する者として、さらに、付属品を有する布施を施しました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから、増長あることから、広大なることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、中間が善く区分された、〔左右一対の〕輪が有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。大いなる取り巻き(付属品)ある者と成ります。彼には、大いなる取り巻きたちが有ります──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。大いなる取り巻きある者と成ります。彼には、大いなる取り巻きたちが有ります──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

205. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつて、過去に、諸々の以前の生において、人間たる生類として、多くの安楽をもたらす者となり、戦慄と恐懼と恐怖を除去する者となり、諸々の保護に、諸々の守護と防護に、邁進する者となり──

 

 彼は、その行為によって、天位に行き着いた。そして、安楽を、さらに、諸々の遊興の喜びを、味わい楽しんだ。そこから死滅して、ここに、ふたたび帰還し、両の足において、〔左右一対の〕輪を見出す──

 

 完全なる外輪があり、そして、千の輻がある〔輪〕を。占相者たちは集いあつまり、説き明かした──百の功徳の特相ある王子を見て。『〔大いなる〕取り巻きある者と成るであろう。賊を撃破する者と〔成るであろう〕。

 

 なぜなら、そのように、完全なる外輪ある、〔左右一対の〕輪があるからである。それで、もし、そのような者が、出家へと近づかないなら、輪を転起させ、地を統治する。ここに、士族たちは、彼に従い行く者たちと成り──

 

 大いなる盛名ある彼を等しく取り囲む。そして、それで、もし、そのような者が、出家へと近づくなら、離欲への欲〔の思い〕を喜び楽しむ明眼の者となる。天〔の神々〕たちと人間たちは、阿修羅と帝釈〔天〕と羅刹たちは──

 

 音楽神と龍たちは、宙を赴く〔鳥〕たちは、四つ足の〔獣〕たちは、天〔の神々〕たちと人間たちによって供養される無上なる者にして大いなる盛名ある者を等しく取り囲む』」と。

 

 (3-5)長大なる踵等の三つの特相

 

206. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから、増長あることから、広大なることから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの三つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、長大なる踵ある者として、かつまた、長い指ある者として、かつまた、梵〔天〕のように真っすぐな五体ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。長寿の者と成り、長きに止住する者と〔成ります〕。長寿を守り、義(利益)に反する者によって、対立者によって、誰であれ、人間たる生類によって、中途において生命を奪うことができない者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。長寿の者と成り、長きに止住する者と〔成ります〕。長寿を守り、義(利益)に反する者たちによって、対立者たちによって、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、中途において生命を奪うことができない者と成ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

207. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「殺害と殺戮の恐怖を自己に見出して、他者を殺害することから離間した者として〔世に〕有った。その善き行ないによって、天上に赴き、善行の果たる報いを受領した。

 

 〔そこから〕死滅して、ここに、ふたたび帰還し、〔そのように〕存しつつ、ここに、三つの特相を獲得する。広く長い踵ある者として〔世に〕有る──梵〔天〕のように極めて真っすぐで浄美にして善く生じた五体ある者として──

 

 善く確立し善く生じた善き腕ある若者として。彼には、柔和で柔弱な諸々の指が有る──長きものとして。三つの優れた至高の人の特相によって、王子のことを、長き〔身の〕保持あるべく、〔占相者たちは〕指摘する。

 

 『もしくは、在家者として〔世に〕有るなら、長きに〔身を〕保持する。もしくは、出家するなら、まさに、それよりもより長きに、そして、〔身を〕保持する──自在なる神通の修行あることから。かくのごとく、長寿が為された者に、それが形相となる』」と。

 

 (6)七つの増長あることという特相

 

208. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、諸々の上質にして味わいある固形の食料や軟らかい食料や味わう食料や舐める食料や飲み物の施者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。七つの増長ある者として〔世に〕有ります。彼には、七つの増長が有ります──両の手において、増長が有り、両の足において、増長が有り、両の肩の頂きにおいて、増長が有り、うなじにおいて、増長が有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。諸々の上質にして味わいある固形の食料や軟らかい食料や味わう食料や舐める食料や飲み物の得者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。諸々の上質にして味わいある固形の食料や軟らかい食料や味わう食料や舐める食料や飲み物の得者と成ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

209. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「固形の食料や軟らかい食料を、さらに、舐める食料や味わう食料を──最上にして至高の味の施者として〔世に〕有った。彼は、その善き行ないの行為によって、〔天の〕ナンダナ〔林〕において、長きにわたり大いに歓喜する。

 

 そして、ここに、七つの増長に到達し、さらに、手足の柔和なることを見出す。特徴と形相の熟知者たちは言った──彼のことを、固形の食料や軟らかい食料の味の得者たることから。

 

 『すなわち、在家者としてあるもまた、その義(意味)を照らすものがあり、そして、出家しながらもまた、それに到達する──固形の食料や軟らかい食料の味の得者として、最上のものに』〔と〕。一切の在家の結縛を断ち切った者のことを、〔彼らは、このように〕言った」と。

 

 (7-8)手足の柔和と網あることという特相

 

210. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)によって、人々を愛護する者として〔世に〕有りました──布施によって、愛ある言葉によって、義(利益)ある行ないによって、〔自他が〕等しくあることによって。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、柔和で柔弱な手足ある者として、かつまた、網のような手足ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。善く愛護された従者ある者と成ります。彼には、善く愛護された者たちが有ります──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。善く愛護された従者ある者と成ります。彼には、善く愛護された者たちが有ります──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

211. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、また、布施を、かつまた、義(利益)ある行ないを、かつまた、愛ある言葉を、さらに、〔自他が〕等しくあることを──多くの人々に、善き愛護を為しては行なって、〔他を〕軽蔑しない徳によって、天上に行く。

 

 〔そこから〕死滅して、ここに、ふたたび帰還し、〔そのように〕存しつつ、そして、手足の柔和なることを、さらに、〔手足の〕網を、極めて光輝にして極めて麗美なる美しきものを、年少の若き王子は獲得する。

 

 〔彼には〕従順で忠実なる従者が有る──この大地に居住する者として、善く愛護された〔忠実なる従者〕が。〔彼は〕愛語の者として、利益と安楽を求め願いながら、大いに好ましくある諸々の徳を習行する。

 

 そして、すなわち、一切の欲望の享受を捨棄するなら、勝者として、人々に、法(教え)の講話を話す。彼の言葉に即応し、大いに浄信した者たちは、聞いて〔そののち〕、法(教え)を法(教え)のままに習行する」と。

 

 (9-10)踝の高い足と屹立する毛あることという特相

 

212. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、義(道理)を伴い法(真理)を伴った言葉の語り手として〔世に〕有り、多くの人々に実示しました──命あるものたちに安楽と利益をもたらす、法(教え)の祭祀者として。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、踝の高い足ある者として、かつまた、屹立する毛ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。欲望の享受者たちのなかの、かつまた、至高の者として、かつまた、最勝の者として、かつまた、筆頭の者として、かつまた、最上の者として、かつまた、最も優れた者として、〔世に〕有ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。一切の有情たちのなかの、かつまた、至高の者として、かつまた、最勝の者として、かつまた、筆頭の者として、かつまた、最上の者として、かつまた、最も優れた者として、〔世に〕有ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

213. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつて、義(道理)と法(真理)を伴った言葉を発しながら、多くの人々に実示した。命あるものたちに利益と安楽をもたらす者として〔世に〕有った。物惜〔の思い〕なき者として、法(教え)の祭祀を執り行なった。

 

 彼は、その善き行ないの行為によって、善き境遇に進み行き、そこにおいて歓喜する。そして、ここに帰還し、最上にして筆頭たることから、二つの特相を見出す。

 

 〔まさに〕その、この者は、上向きに隆起した毛ある者としてあり、〔両の〕足の踝は、善くしっかりと確立されたものとして有った。肉と血が蓄積され、皮膚に覆われ、足の上を荘厳するのとして有った。

 

 そのような種類の者として、もし、家に居住するなら、欲望の享受者たちのなかの至高者たることに進み行く。彼よりもより上なるものは見出されず、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)を征服して〔世に〕振る舞う。

 

 そして、出家しながらもまた、至上の勤勉〔努力〕ある者として、一切の命ある者たちのなかの至高者たることに進み行く。彼よりもより上なるものは見出されず、一切の世を征服して〔世に〕住む」と。

 

 (11)羚羊のような脛の特相

 

214. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、あるいは、技能の、あるいは、明知(学術・呪術)の、あるいは、行ないの、あるいは、行為の、真剣な教授者として〔世に〕有りました。『どのようにすると、これらの者たちは、すみやかに識知でき、すみやかに実践できるのだろう──長きに汚れることなく』と。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。羚羊のような脛ある者として〔世に〕有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。すなわち、それらのものが、王に値するものであり、王の支分であり、王の受益物であり、王に至当なるものであるなら、それらのものを、すみやかに獲得します。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。すなわち、それらのものが、沙門に値するものであり、沙門の支分であり、沙門の受益物であり、沙門に至当なるものであるなら、それらのものを、すみやかに獲得します。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

215. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の技能について、諸々の明知と行ないについて、諸々の行為について、『どのように〔為すなら、彼らは〕軽快に識知できるのか』と求める。それが、誰であろうが害することなく有るなら、〔それを〕すみやかに教授する──長きに汚れることなく。

 

 安楽の生成ある、その善なる行為を為して、善く確立した快意なる〔両の〕脛を得る──円形にして、善く生じ、順次に盛り上がっているものを、屹立する毛があり、繊細なる皮膚に覆われたものを。

 

 その人のことを、〔占相者たちは〕『羚羊のような脛ある者』と言った。ここに、〔占相者たちは〕言った──〔その〕得達によって、すみやかに、〔その〕特相を。『すなわち、諸々の家に随順するものを希求するときは、出家せずにいながら、ここに、すみやかに到達する。

 

 そして、それで、もし、そのような者が、出家へと近づくなら、離欲への欲〔の思い〕を喜び楽しむ明眼の者となる。すなわち、至当なる者に随順するものがあるときは、それを、すみやかに見出す──至上の勤勉〔努力〕ある者として(※)』」と。

 

※ テキストには anomavikkamo とあるが、PTS版により anomanikkamo と読む。

 

 (12)繊細なる肌の特相

 

216. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、近づいて行って、『尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのですか。また、あるいは、何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するのですか』と、遍く問い尋ねる者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。繊細なる肌ある者として〔世に〕有り、肌の繊細なることから、塵と埃が身体に付着しません。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。大いなる智慧ある者と成ります。彼の智慧と〔比べて〕、あるいは、相同の者も、あるいは、最勝の者も、誰であれ、欲望の享受者たちのなかには有りません。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。偉大なる智慧ある者と成り、多々なる智慧ある者と〔成り〕、敏速なる智慧ある者と〔成り〕、疾走する智慧ある者と〔成り〕、鋭敏なる智慧ある者と〔成り〕、洞察の智慧ある者と〔成ります〕。彼の智慧と〔比べて〕、あるいは、相同の者も、あるいは、最勝の者も、誰であれ、一切の有情たちのなかには有りません。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

217. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつて、過去に、諸々の以前の生において、了知することを欲する者として、遍く問い尋ねる者として、〔世に〕有った。聞こうとする者として、出家者に近侍する者として、内なる義(道理)ある者となり、義(道理)ある話をこころして聞いた。

 

 智慧の獲得に至った行為によって、人間たる生類として、繊細なる肌ある者と成った。天変と形相の熟知者たちは説き明かした。『諸々の繊細なる義(道理)を的確に見る。

 

 それで、もし、そのような者が、出家へと近づかないなら、輪を転起させ、地を統治する。諸々の教示された義(道理)について、そして、諸々の遍き把握についても、彼に、より勝る者は、そして、相同の者も、見出されない。

 

 そして、それで、もし、そのような者が、出家へと近づくなら、離欲への欲〔の思い〕を喜び楽しむ明眼の者となる。無上にして殊勝なる智慧を得、覚りに至り得る──優れた広き思慮ある者として』」と。

 

 (13)黄金の色艶の特相

 

218. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しませんでした。そして、諸々の繊細にして柔和なる敷物や着物の、諸々の繊細なる麻布の、諸々の繊細なる木綿の、諸々の繊細なる絹布の、諸々の繊細なる毛布の、布施者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。黄金の色艶があり、黄金に似た皮膚ある者として〔世に〕有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。諸々の繊細にして柔和なる敷物や着物の、諸々の繊細なる麻布の、諸々の繊細なる木綿の、諸々の繊細なる絹布の、諸々の繊細なる毛布の、得者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。諸々の繊細にして柔和なる敷物や着物の、諸々の繊細なる麻布の、諸々の繊細なる木綿の、諸々の繊細なる絹布の、諸々の繊細なる毛布の、得者と成ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

219. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、忿激なき〔生き方〕を〔心に〕確立し、さらに、布施を施した──諸々の繊細で善き肌触りの衣を。より以前の生存において、安立者として、神が大地に雨を降らせるように分け与えた。

 

 それを為して、ここから死滅し、天に再生した──善行の果たる報いを受領して。黄金に似た体躯ある者となり、ここに、〔世を〕征服する──より優れた神たるインダ(帝釈天)のように。

 

 そして、家に居住し、人として、出家ならざる〔生き方〕を求めながら、大いなる地を統治する。〔他を〕打ち負かして、ここに、七つの宝と共にあり、離垢にして、かつまた、清らかな、繊細なる肌を獲得する。

 

 もしくは、家なきあり方へと近づくなら、諸々の衣服や衣や上等の着物の得者と成る。益を有する者として、以前に為された〔行為〕の果を受領する。為された〔行為〕に、消失が有ることはない」と。

 

 (14)覆蔵された衣の陰部の特相

 

220. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、長き不明者たちであり、極めて長き離住者たちである、親族や朋友たちを、知人たちを、友人たちを、導き会わせる者として〔世に〕有りました。母をもまた、子と導き会わせる者として〔世に〕有りました。子をもまた、母と導き会わせる者として〔世に〕有りました。父をもまた、子と導き会わせる者として〔世に〕有りました。子をもまた、父と導き会わせる者として〔世に〕有りました。兄弟をもまた、兄弟と導き会わせる者として〔世に〕有りました。兄弟をもまた、姉妹と導き会わせる者として〔世に〕有りました。姉妹をもまた、兄弟と導き会わせる者として〔世に〕有りました。姉妹をもまた、姉妹と導き会わせる者として〔世に〕有りました。そして、和合の者と為して(※)、大いに随喜する者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)ある者として〔世に〕有ります。

 

※ テキストには samagīkatvā とあるが、PTS版により samaggi katvā と読む。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。沢山の子ある者と成ります。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。沢山の子ある者と成ります。また、まさに、彼には、幾千の子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

221. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつて、過去に、諸々の以前の生において、長き不明者たちであり、極めて長き離住者たちである、親族たちや知人たちや友人たちを導き会わせ、和合の者と為して(※)、随喜する者として〔世に〕有った。

 

※ テキストには samagikatvā とあるが、PTS版により samaggikatvā と読む。

 

 彼は、その行為によって、天位に行き着いた。そして、安楽を、さらに、諸々の遊興の喜びを、味わい楽しんだ。そこから死滅して、ここに、ふたたび帰還し、覆蔵された衣の陰部を見出す。

 

 そのような種類の者として、沢山の子ある者と成る。そして、千を超える実子が有る──朋友ならざる者たちを苦しめる、そして、勇士たちが、さらに、勇者たちが、喜悦を生む愛語の者たちとして、〔彼が〕在家者であるなら。

 

 出家者として振る舞うなら、より多くの子たちが有る──〔彼の〕言葉に従い行く者たちとして。あるいは、在家者であるも、また、あるいは、出家者であるも、その特相は、その義(意味)を照らすものとして、生じる」と。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

 (15-16)完円と屈むことなく膝に触れる特相

 

222. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、大勢の人を愛護することを正しく見ながら、正しく知り、自ら知り、人を知り、人の区別(特質)を知り、『この者は、これに値する』『この者は、これに値する』と、その場その場において、人の区別を為す者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、ニグローダ〔樹〕のような完円ある者として〔世に〕有り、かつまた、まさしく、立っていながら、屈むことなく、両の手の平をもって、〔両の〕膝に触れ、擦りまわします。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある、蔵と貯蔵庫が遍く満ちた者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者と成ります。彼には、これらの財が有ります。それは、すなわち、この、信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕()の財であり、〔良心の〕咎め()の財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧の財です。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

223. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比較して、検討して、思弁して、大勢の人を愛護することを正しく見ながら、『この者は、これに値する』〔と〕、その場その場において、人の区別を為す者として、かつて〔世に〕有った。

 

 また、そして、大地に立ち、屈むことなく、両の手をもって、〔両の〕膝に触れる。大地に育つ〔木〕のような完円ある者として〔世に〕有った──善行の行為の報いの残りによって。

 

 多様なる種類の形相と特相を知る、極めて精緻なる人間たちは説き明かした。『在家者たちに値する、多様なる種類のものを、年少の若き王子は獲得する。

 

 そして、ここに、大地の長には、諸々の欲望の享受あるものとして、在家者に適切なる多くのものが有る。そして、すなわち、一切の欲望の享受を捨棄するなら、無上なるものとして、最上にして至高の財を得る』」と。

 

 (17-19)獅子のような前半身等の三つの特相

 

224. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、多くの人々の、義(利益)を欲し、利益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者として〔世に〕有りました。『どのようにすると、これらの者たちは、信によって増大するのだろう、戒によって増大するのだろう、所聞によって増大するのだろう、施捨によって増大するのだろう、法(正義)によって増大するのだろう、智慧によって増大するのだろう、財産と穀物によって増大するのだろう、田畑と地所によって増大するのだろう、二足のものと四足のものたちによって増大するのだろう、子と妻たちによって増大するのだろう、奴隷と労夫と下僕たちによって増大するのだろう、親族たちによって増大するのだろう、朋友たちによって増大するのだろう、眷属たちによって増大するのだろう』と。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの三つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、獅子のような前半身ある者として、かつまた、窪みが詰まった肩ある者として、かつまた、等しく円形の肩ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。遍き衰退とならない法(性質)ある者と成り、財産と穀物によって、田畑と地所によって、二足のものと四足のものたちによって、子と妻たちによって、奴隷と労夫と下僕たちによって、親族たちによって、朋友たちによって、眷属たちによって、遍く衰退しません。一切の得達によって、遍く衰退しません。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。遍き衰退とならない法(性質)ある者と成り、信によって、戒によって、所聞によって、施捨によって、智慧によって、遍く衰退しません。一切の得達によって、遍く衰退しません。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

225. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信によって、戒によって、所聞によって、覚慧によって、施捨によって、法(正義)によって、多くの善きことによって、財産によって、そして、穀物によって、田畑と地所によって、子たちによって、妻たちによって、さらに、四足のものたちによって──

 

 親族たちによって、そして、朋友たちによって、かつまた、眷属たちによって、活力によって、色艶によって、さらに、同様に、安楽によって、『どのように、他者たちは衰退しないのだろう』と求め、また、そして、義(利益)の実現者として希求する。

 

 彼は、善く確立された獅子のような前半〔身〕ある者として〔世に〕有った──かつまた、等しく円形の肩ある者として、窪みが詰まった肩ある者として。過去において為された善き行ないの行為によって、彼の過去の形相は、それは衰退なくある。

 

 在家者としてあるもまた、穀物によって、財産によって、増大する──子たちによって、妻たちによって、さらに、四つ足のものたちによって。無一物の出家者としては、無上にして衰退なき法(性質)たる覚りに至り得る」と。

 

 (20)至高なるうえにも至高なる味感あることという特相

 

226. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、あるいは、手で、あるいは、石で、あるいは、棒で、あるいは、刃で、有情たちを悩み苦しめない類の者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。至高なるうえにも至高なる味感ある者として〔世に〕有り、彼には、喉に生じたものとして、〔味を〕等しくもたらす諸々の高尚にして至高なる味蕾が有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。病苦少なき者と成り、病悩少なき者と〔成り〕、寒過ぎず暑過ぎず正しく消化する消化器官を具備した者と〔成ります〕。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。病苦少なき者と成り、病悩少なき者と〔成り〕、寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者と〔成ります〕。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

227. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「手や棒で、また、さらに、石で、あるいは、刃で、また、あるいは、死の殴打によっても、さにあらず。結縛によって、あるいは、脅迫によっても、人々を悩み苦しめず、〔有情たちを〕悩み苦しめない者として〔世に〕有った。

 

 まさしく、それによって、彼は、善き境遇へと近づいて歓喜する。安楽の果を作り為して、諸々の安楽を見出す。諸々の味蕾は、正しい滋養によって善く確立され、ここに帰還したなら、至高なるうえにも至高なる味感を得る。

 

 それによって、彼のことを、極めて精緻なる明眼の者たちは言った。『この者は、人として、安楽多き者と成るであろう。あるいは、在家者としてあるも、また、あるいは、出家者としてあるも、その特相は、その義(意味)を照らすものと成る』」と。

 

 (21―22)紺碧の眼と牛のような睫毛の特相

 

228. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、かつまた、拡散なく、かつまた、屈折なく、また、そして、選別して見る者ではなく、真っすぐに、放たれたそのとおりに、真っすぐな意ある者として、愛ある眼によって多くの人々を見守る者として、〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、紺碧の眼ある者として、かつまた、牛のような睫毛ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。愛しき見た目ある者と成り、多くの人々にとって、愛しく意に適う者と〔成ります〕──婆羅門や家長たちにとって、町の者や地方の者たちにとって、計算者たる大臣たちにとって、親兵たちにとって、門番たちにとって、家臣たちにとって、侍臣たちにとって、王たちにとって、領主たちにとって、王子たちにとって。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。愛しき見た目ある者と成り、多くの人々にとって、愛しく意に適う者と〔成ります〕──比丘たちにとって、比丘尼たちにとって、在俗信者たちにとって、女性在俗信者たちにとって、天〔の神々〕たちにとって、人間たちにとって、阿修羅たちにとって、龍たちにとって、音楽神たちにとって。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

229. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、拡散なく、かつまた、屈折なく、また、そして、選別して見る者ではなく、真っすぐに、放たれたそのとおりに、真っすぐな意ある者として、愛ある眼によって多くの人々を見守る者として、〔世に有った〕。

 

 彼は、諸々の善き境遇において、果たる報いを受領し、そこにおいて歓喜する。また、そして、ここに、牛のような睫毛ある者として、紺碧の眼晴の善き見た目ある者として、〔世に〕有る。

 

 そして、専念者たる精緻なる者たちは、また、多くの形相の熟知者たちは、繊細なる眼に巧みな智ある人間たちは、『愛しき見た目ある者』と、彼のことを釈示する。

 

 そして、在家者として〔世に〕存しつつもまた、愛しき見た目ある者として、多くの人々に愛される者と成る。そして、もしくは、在家者として〔世に〕有ることなく、沙門と成るなら、多くの者たちにとって、愛しくあり、憂いを滅ぼす者と〔成る〕」と。

 

 (23)肉髻の頭の特相

 

230. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、諸々の善なる法(性質)において、多くの人々の先行者として〔世に〕有りました──身体による善き行ないにおいて、言葉による善き行ないにおいて、意による善き行ないにおいて、布施の分与において、戒の受持において、斎戒の断行において、母を敬うことにおいて、父を敬うことにおいて、沙門を敬うことにおいて、婆羅門を敬うことにおいて、家における最尊者を敬うことにおいて、そして、諸々の何らかの或る様々な卓越の善なる法(性質)において、多くの人々の筆頭者として。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。肉髻の頭ある者として〔世に〕有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。彼には、随従する大勢の人が有ります──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。彼には、随従する大勢の人が有ります──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

231. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の善き行ないにおいて、先行者として〔世に〕有った──諸々の法(性質)において、法(正義)の行ないを喜び楽しむ者として。多くの人々にとって、随従者として〔世に〕有り、諸々の天上において、功徳の果を感受した。

 

 彼は、善き行ないの果を感受して、ここに、肉髻の頭あることに到達した。特徴と形相の保持者たちは説き明かした。『多くの人々にとって、先行者と成るであろう。

 

 そのとき、ここに、人間たち〔の世〕において、財物ある者たちが、過去におけるように、彼に貢献する。もしくは、地上の長たる士族として〔世に〕有るなら、多くの人々において、提供物を得る。

 

 そこで、もし、また、人間として、彼が出家するなら、諸々の法(性質)において、熟練者と成り、発出者と〔成る〕。彼には、教示の徳を喜び楽しむ随従者として、多くの人々が有る』」と。

 

 (24-25)一つずつの毛あることと白毫の特相

 

232. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有りました──真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、一つずつの毛ある者として〔世に〕有り、かつまた、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫が有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。彼には、大勢の人が近しく発現します──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。彼には、大勢の人が近しく発現します──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

233. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の以前の生において、真理を明言する者として、二様の言葉なき者として、偽りを避けた。彼は、たとえ、誰にであれ、不正を説くことなく、事実によって、如実によって、真実によって、語った。

 

 白く、純白の、柔和な綿毛に似た白毫が、善く生じたものとして、眉間に有った。諸々の毛穴において、二つ〔の毛〕が生じることはなく、一つずつの毛が蓄積された肢体ある者と成った。

 

 特相を知る多くの者たちが集いあつまり、彼のことを説き明かした──天変と形相の熟知者たちとして。『すなわち、かつまた、白毫が、かつまた、諸々の毛が、善く確立されているとおりに、そのような者に、多くの人々が近しく発現する。

 

 在家者として〔世に〕存していながらもまた、人々が近しく発現する──多くの過去に作り為された行為によって。無一物の出家者として、無上なる覚者として、〔世に〕存していながらもまた、人々が近しく発現する』」と。

 

 (26-27)四十〔の歯〕と隙間のない歯の特相

 

234. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、四十の歯ある者として、かつまた、隙間のない歯ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。分裂なき衆ある者と成ります。彼には、諸々の分裂なき衆が有ります──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。分裂なき衆ある者と成ります。彼には、諸々の分裂なき衆が有ります──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

235. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「融和している者たちの分裂を作り為す陰口を──分裂を増大し論争を作り為し、紛争を増大し不為を作り為す〔言葉〕を(※)──融和している者たちの分裂を生む〔中傷の言葉〕を──〔彼は〕話さなかった。

 

※ テキストには ākiccakāri とあるが、PTS版により akiccakāri と読む。

 

 論争なき〔あり方〕を増大し作り為す善き言葉を──分裂している者たちに連鎖を生む〔融和の言葉〕を──〔彼は〕話した。人々の紛争を除き去り、諸々の融和を保有する者となり、愉悦し、そして、歓喜する。

 

 彼は、諸々の善き境遇において、果たる報いを受領し、そこにおいて歓喜する。ここに、隙間なく融和した諸々の歯が有る。彼には、四十〔の歯〕が口に生じ、善く確立されている。

 

 もしくは、地上の長たる士族として〔世に〕有るなら、彼には、分裂なき衆が有る。そして、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れる、沙門として〔世に〕有るなら、彼には、従い行く不動の衆が有る」と。

 

 (28-29)広くて長い舌と梵の声の特相

 

236. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、広くて長い舌(広長舌)ある者として、かつまた、梵の声ある者として、カラヴィーカ〔鳥〕の調べある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。言葉が受容される者と成ります。彼の言葉を、〔人々が〕受容します──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。言葉が受容される者と成ります。彼の言葉を、〔有情たちが〕受容します──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

237. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「罵倒と言争と悩害を作り為し、多くの人々を蹂躙し悩ます、激烈で粗暴な言葉を、彼は話さなかった。甘美で、極めて益を有する、友誼ある〔言葉〕を、〔彼は〕話した。

 

 意に愛しく、心臓に至る、耳に安楽なる諸々の言葉を、彼は発する。言葉による善き行ないの果を受領し、諸々の天上において、功徳の果を感受した。

 

 彼は、善き行ないの果を感受して、ここに、梵の声あることに到達した。彼には、広大で広々とした舌が有り、言葉が受容される者と成る。

 

 在家者としてあるもまた、話しているとおりに成功し、そこで、もし、人間として、彼が出家するなら、人民は、彼の言葉を受容する──多くの者に、多くの善き話を、〔彼が〕話していると」と。

 

 (30)獅子のような顎の特相

 

238. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから……略……。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、この偉大なる人士の特相を獲得します。獅子のような顎ある者として〔世に〕有ります。

 

 その特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として……略……。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。義(利益)に反する者によって、対立者によって、誰であれ、人間たる生類によって、砕破されない者と成ります。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。……。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。あるいは、内なる、あるいは、外なる、義(利益)に反する者たちによって、対立者たちによって、あるいは、貪欲によって、あるいは、憤怒によって、あるいは、迷妄によって、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、砕破されない者と成ります。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

239. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「雑駁な虚論ではなく、迷乱した〔言葉〕ではなく、乱れなき言葉の用途ある者として〔世に〕有った。そして、また、益なき〔言葉〕を除き去り、さらに、また、益ある〔言葉〕を、かつまた、多くの人々の安楽となる〔言葉〕を、話した。

 

 それを為して、ここから死滅し、天位に再生した。善行の果たる報いを受領した。

 

 死滅して、ふたたび、ここに帰還し、〔そのように〕存しつつ、二つ〔の前足〕と二つ〔の後足〕で赴く〔獣〕たちのなかでもより優れた者である〔獅子〕の顎あることを得た。

 

 王として、極めて砕破され難き者と成る。人間のインダ(国王)として、人間の君主として、大いなる威力ある者と〔成る〕。〔三十〕三天の優れた都〔の君主〕に等しき者と成る。より優れた神であるインダ(帝釈天)のような者と〔成る〕。

 

 音楽神や阿修羅や夜叉や羅刹たちによって、神たちによっても、まさに、砕破され易き者と成らない。もしくは、そのような種類の者が、真実なる者と成るなら、ここに、かつまた、諸々の方角に、かつまた、諸々の反対の方角に、かつまた、諸々の中間の方角に、〔砕破されない者と成る〕」と。

 

 (31-32)均等の歯と極めて白い歯の特相

 

240. 「比丘たちよ、すなわち、また、如来は、過去における、以前の生に、以前の生存に、以前の住所に、人間たる生類として存しつつ、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みました。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺や賄賂や騙しや欺きや邪行や切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有りました。彼は、その行為が、為されたことから、蓄積されたことから、増長あることから、広大なることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。彼は、そこにおいて、他の天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳(盛名)によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。彼は、そこから死滅し、この場に帰還し、〔そのように〕存しつつ、これらの二つの偉大なる人士の特相を獲得します。かつまた、均等の歯ある者として、かつまた、極めて白い歯ある者として、〔世に〕有ります。

 

 それらの特相を具備した彼は、それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有ります。彼には、これらの七つの宝が有ります。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有ります──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、荒廃なく、〔争いの〕相なく、〔憎悪の〕棘なく、興隆し、繁栄し、平安で、至福で、汚濁なきものとして、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住します。王として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。清き取り巻きある者と成ります。彼には、清き取り巻きたちが有ります──婆羅門や家長たちが、町の者や地方の者たちが、計算者たる大臣たちが、親兵たちが、門番たちが、家臣たちが、侍臣たちが、王たちが、領主たちが、王子たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。

 

 また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成ります〕。覚者として〔世に〕存しつつ、何を得ますか。清き取り巻きある者と成ります。彼には、清き取り巻きたちが有ります──比丘たちが、比丘尼たちが、在俗信者たちが、女性在俗信者たちが、天〔の神々〕たちが、人間たちが、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが。王として〔世に〕存しつつ、このことを得ます。覚者として〔世に〕存しつつ、このことを得ます」〔と〕。この義(道理)を、世尊は説きました。

 

241. そこにおいて、このことは、〔かくのごとく〕説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、誤った生き方を捨て去った。正しくあるものによって、清くあるものによって、法(正義)にかなうものによって、彼は、生活を生じさせた(生計を営んだ)。そして、また、益なきことを除き去り、さらに、また、益あることを〔行ない〕、かつまた、多くの人々に安楽となることを行なった。

 

 天上において、〔善行の〕人として、諸々の安楽の果を感受し、全ての精緻なる知者によって褒め称えられた〔諸々の善行〕を為して、〔三十〕三天の優れた都〔の君主〕に等しき者となり、遊興の喜びを保有する者となり、喜び楽しんだ。

 

 人間たる生存を得て、そこから死滅して、善行の果たる報いとして、口に生じる〔特相〕を、〔善行の報いの〕残りによって獲得する──均等なる〔歯〕をもまた、清らかで極めて白い〔歯〕をも。

 

 多くの占相者たちは集いあつまり、彼のことを説き明かした──精緻なる者と等しく思認された人間たちとして。『清き人を取り巻きとする衆ある者と成り、二生の均等にして白く清らかで美しく輝く歯ある者と〔成る〕。

 

 王として大いなる地を統治していると、多くの人々が〔彼の〕清き取り巻きと成る。そして、〔取り巻きたちは〕地方を刺し貫くことを強制せずして、さらに、また、益あることを〔行ない〕、かつまた、多くの人々に安楽となることを行なう。

 

 そこで、もし、出家するなら、悪を離れる者と成り、沙門として、〔世俗の〕塵を静めた者となり、〔迷妄の〕覆いが開かれた者となり、懊悩と疲弊を離れ去った者となり、そして、この〔世〕もまた〔見〕、さらに、他の世もまた見る。

 

 彼の教諭を為す者たちは、かつまた、多くの在家者たちも、かつまた、出家者たちも、不浄にして非難される悪しき〔行ない〕を払拭する。まさに、彼は、清き者たちに取り巻かれた者と成る──〔世俗の〕垢と〔心の〕鬱積と〔悪しき〕賽の目と〔心の〕汚れを除去する者たちに』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 特相の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(31). シンガーラの経

 

242. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。また、まさに、その時点にあって、家長の子であるシンガーラが、まさしく、早朝に起きて、ラージャガハから出立して、濡れた衣と濡れた髪で、合掌の者となり、多々なる方角を──東の方角を、南の方角を、西の方角を、北の方角を、下の方角を、上の方角を──礼拝します。

 

243. そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、家長の子であるシンガーラが、まさしく、早朝に起きて、ラージャガハから出立して、濡れた衣と濡れた髪で、合掌の者となり、多々なる方角を──東の方角を、南の方角を、西の方角を、北の方角を、下の方角を、上の方角を──礼拝しているのを見ました。見て、家長の子であるシンガーラに、こう言いました。「家長の子よ、いったい、まさに、どうして、あなたは、まさしく、早朝に起きて、ラージャガハから出立して、濡れた衣と濡れた髪で、合掌の者となり、多々なる方角を──東の方角を、南の方角を、西の方角を、北の方角を、下の方角を、上の方角を──礼拝するのですか」と。「尊き方よ、命を終えつつある父が、わたしに、このように言いました。『息子よ、諸々の方角を礼拝するように』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、父の言葉を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しながら、まさしく、早朝に起きて、ラージャガハから出立して、濡れた衣と濡れた髪で、合掌の者となり、多々なる方角を──東の方角を、南の方角を、西の方角を、北の方角を、下の方角を、上の方角を──礼拝します」と。

 

 六つの方角

 

244. 「家長の子よ、まさに、聖者の律において、このように、六つの方角は礼拝されるべきではありません」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律において、六つの方角は礼拝されるべきですか。尊き方よ、どうか、世尊は、わたしに、すなわち、聖者の律において、六つの方角が礼拝されるべきとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。

 

 「家長の子よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、家長の子であるシンガーラは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「家長の子よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、四つの行為による〔心の〕汚れ(煩悩)が、捨棄されたものと成り、そして、四つの境位あることから、悪しき行為を為さず、さらに、諸々の財物にとっての、六つの損失の門に慣れ親しみません。彼は、このように、十四の悪しきことから離れ去った者と〔成り〕、六つの方角の防備ある者と〔成り〕、〔この世と他の世の〕両者の世を征圧するために実践する者と成ります。彼には、まさしく、そして、この世も、さらに、他の世も、勉励されたものと成ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

 四つの行為による〔心の〕汚れ

 

245. 彼には、どのような四つの行為による〔心の〕汚れが、捨棄されたものと成るのですか。家長の子よ、まさに、命あるものを殺すことは、行為による〔心の〕汚れであり、与えられていないものを取ることは、行為による〔心の〕汚れであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)は、行為による〔心の〕汚れであり、虚偽を説くことは、行為による〔心の〕汚れです。彼には、これらの四つの行為による〔心の〕汚れが、捨棄されたものと成ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「命あるものを殺すことは、与えられていないものを取ることは、そして、虚偽を説くことは、〔悪しき行為と〕説かれる。まさしく、そして、他者の妻のもとに赴くことを、賢者たちは賞賛しない」と。

 

 四つの境位

 

246. 「どのような四つの境位あることから、悪しき行為を為さないのですか。欲〔の思い〕という非道を赴きつつある者は、悪しき行為を為し、憤怒という非道を赴きつつある者は、悪しき行為を為し、迷妄という非道を赴きつつある者は、悪しき行為を為し、恐怖という非道を赴きつつある者は、悪しき行為を為します。家長の子よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、まさしく、欲〔の思い〕という非道を赴かず、憤怒という非道を赴かず、迷妄という非道を赴かず、恐怖という非道を赴かないことから、これらの四つの境位あることから、悪しき行為を為しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くなら、彼の福徳は衰退する──黒分(月が欠ける期間)における月のように。

 

 すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くことがないなら、彼の福徳は円満する──白分(月が満ちる期間)における月のように」と。

 

 六つの損失の門

 

247. 「諸々の財物にとっての、どのような六つの損失の門に慣れ親しまないのですか。家長の子よ、まさに、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位への専念は、諸々の財物にとっての損失の門であり、非時に路地を歩むこと(夜遊び)への専念は、諸々の財物にとっての損失の門であり、祭礼に通いつめることへの専念は、諸々の財物にとっての損失の門であり、賭事による放逸の境位への専念は、諸々の財物にとっての損失の門であり、悪しき朋友への専念は、諸々の財物にとっての損失の門であり、怠けへの専念は、諸々の財物にとっての損失の門です。

 

 穀物酒や果実酒の六つの危険

 

248. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位への専念における危険があります。現に見られる財の衰退であり、紛争の増大であり、諸々の病の依止であり、名誉ならざることの産出であり、隠すべきところの露出であり、まさしく、『智慧を力弱きものと為すもの』という、第六の境処が有ります。家長の子よ、まさに、これらの六つの、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位への専念における危険があります。

 

 非時に路地を歩むことの六つの危険

 

249. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、非時に路地を歩むこと(夜遊び)への専念における危険があります。彼の自己もまた保護されず守護されないものと成ります。彼の子と妻もまた保護されず守護されないものと成ります。彼の所有物もまた保護されず守護されないものと成ります。かつまた、諸々の悪しき境位において疑いある者と成ります。かつまた、彼について事実ならざる言葉が横行します。かつまた、多くの苦痛の法(性質)が待ち受けている者と成ります。家長の子よ、まさに、これらの六つの、非時に路地を歩むことへの専念における危険があります。

 

 祭礼に通いつめることの六つの危険

 

250. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、祭礼に通いつめることへの専念における危険があります。『どこで舞踏があるのか』『どこで歌詠があるのか』『どこで音楽があるのか』『どこで語り物があるのか』『どこで手鈴があるのか』『どこで銅鑼があるのか』という〔懊悩があります〕。家長の子よ、まさに、これらの六つの、祭礼に通いつめることへの専念における危険があります。

 

 賭事による放逸の六つの危険

 

251. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、賭事による放逸への専念における危険があります。勝っているなら、怨念を生み出します。勝者は、富〔の喪失あること〕を憂い悲しみます。現に見られる財の衰退があります。集会に赴いたとして、言葉が通用しません(相手にされない)。朋友や僚友たちに貶められる者と成ります。嫁とりや嫁やりをする者たちに切望されない者と成ります。『この者は、賭博師である。人士たる人として、妻を養うに十分ならず』と。家長の子よ、まさに、これらの六つの、賭事による放逸への専念における危険があります。

 

 悪しき朋友あることの六つの危険

 

252. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、悪しき朋友への専念における危険があります。すなわち、博徒たちが、すなわち、酒飲みたちが、すなわち、大酒飲みたちが、すなわち、欺く者たちが、すなわち、騙す者たちが、すなわち、無理強いする者たちが──それらの者たちが、彼の朋友たちと成り、それらの者たちが、〔彼の〕道友たちと〔成ります〕。家長の子よ、まさに、これらの六つの、悪しき朋友への専念における危険があります。

 

 怠けの六つの危険

 

253. 家長の子よ、まさに、これらの六つの、怠けへの専念における危険があります。『寒過ぎる』と、行為を為しません。『暑過ぎる』と、行為を為しません。『夕方過ぎる』と、行為を為しません。『早朝過ぎる』と、行為を為しません。『極めて空腹の者として、〔わたしは〕存している』と、行為を為しません。『極めて満腹の者として、〔わたしは〕存している』と、行為を為しません。彼が、このように為すべきことにたいし〔怠ける〕理由が多くある者として〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない財物は生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した財物は完全なる滅尽に至ります。家長の子よ、まさに、これらの六つの、怠けへの専念における危険があります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「飲み友達という名の者が有る。『友よ』『友よ』の者が有る。しかしながら、すなわち、諸々の義(事態)が生じたとき、道友として有る、その者が、〔真の〕友と成る。

 

 日の出のあとも臥すこと、他者の妻に慣れ親しむこと、かつまた、怨恨を生み出すこと、かつまた、義(道理)なきこと、かつまた、悪しき朋友たち、かつまた、極めて吝嗇たること──これらの六つの境位は、人を砕破する。

 

 悪しき朋友ある者は、悪しき友人ある者は、悪しき習行と境涯ある者は、人として、この世から、そして、他〔の世〕から、両者から転落する。

 

 博打と女たち、酒、舞踏と歌詠、昼の眠り、非時の出歩き、そして、悪しき朋友たち、さらに、極めて吝嗇たること──これらの六つの境位は、人を砕破する。

 

 諸々の博打で遊ぶ、酒を飲む、他者たちにとって命に等しい女たちのもとに行く、そして、年長者に仕え親しまず、劣った者に仕え親しむ者たち──〔彼らの福徳は〕衰退する──黒分(月が欠ける期間)における月のように。

 

 すなわち、財なく無一物でありながら大酒飲みで、酒場に至り、諸々の酒を飲みながら、水のように借金に沈み、すみやかに、自己に、家なき〔境遇〕を作り為すであろう。

 

 昼の眠りを戒(習慣)とする者に、夜のうちに起きること(早起き)を嫌う者に、常に酔っている酒乱の者に、家に居住することはできない。

 

 『これは、寒過ぎる、暑過ぎる、〔もはや〕夕方過ぎと成った』〔と〕、かくのごとく、若くある者が生業を捨て去ったなら、諸々の義(利益)は、〔虚しく〕過ぎ行く。

 

 すなわち、ここに、そして、寒さを、さらに、暑さを、〔道端の〕草よりもより一層のものと思い考えないなら、諸々の人として為すべきことを為しながら、彼は、安楽から(※)衰退しない」と。

 

※ テキストには sukha とあるが、PTS版により sukhā と読む。

 

 朋友の模造品たち

 

254. 「家長の子よ、これらの四つの朋友ならざる者たちが、朋友の模造品たちと知られるべきです。何であろうが運び去る者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。言葉を最高とする者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。愛慕の口調ある者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。損失ある道友は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。

 

255. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、何であろうが運び去る者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『何であろうが運び去る者として〔世に〕有る。少しのものによって多くのものを求める。恐怖のために為すべきことを為す。義(利益)を動機として慣れ親しむ』〔と〕。

 

 家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、何であろうが運び去る者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。

 

256. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、言葉を最高とする者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。過去のことで懐柔します。未来のことで懐柔します。義(道理)なきことで愛護します。諸々の現在のことで為すべきことに難色を示します。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、言葉を最高とする者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。

 

257. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、愛慕の口調ある者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。彼の悪しきことをもまた追認します。彼の善きことをもまた追認します。彼の栄誉を面前で語ります。彼の栄誉ならざることを背面で語ります。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、愛慕の口調ある者は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。

 

258. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、損失ある道友は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位への専念における道友として〔世に〕有ります。非時に路地を歩むことへの専念における道友として〔世に〕有ります。祭礼に通いつめることへの専念における道友として〔世に〕有ります。賭事による放逸の境位への専念における道友として〔世に〕有ります。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、損失ある道友は、朋友ならざる者であり、朋友の模造品と知られるべきです」と。

 

259. 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「何であろうが運び去る朋友、そして、すなわち、言葉を最高とする朋友、すなわち、愛慕〔の甘言〕を言い、さらに、すなわち、諸々の損失〔の境位〕における道友であるなら──

 

 これらの四者を、朋友ならざる者たちと、かくのごとく識知して、賢者は、遠く離れて遍く避けるべきである──あたかも、恐怖の道であるかのように」と。

 

 善き心ある朋友

 

260. 「家長の子よ、これらの四つの朋友たちが、善き心ある者たちと知られるべきです。資益者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。楽と苦を等しくする者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。義(利益)を告知する者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。慈しみ〔の思い〕ある者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。

 

261. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、資益者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。酔っている者を守ります。酔っている者の所有物を守ります。恐怖している者の帰依所と成ります。諸々の義務や用事が生起したとき、それの二倍の財物を供与します。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、資益者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。

 

262. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、楽と苦を等しくする者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。彼に〔自己の〕秘密を告知します。彼の秘密を完全に秘匿します。諸々の逆境において捨棄しません。彼の義(利益)のために、生命でさえも完全に捨て去ったものとして有ります。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、楽と苦を等しくする者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。

 

263. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、義(利益)を告知する者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。悪しきことから防護します。善きことにおいて固着させます。聞いていないことを告げ聞かせます。天上への道を告知します。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、義(利益)を告知する者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。

 

264. 家長の子よ、まさに、四つの境位によって、慈しみ〔の思い〕ある者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです。彼の不遇によって喜びません。彼の栄達によって喜びます。栄誉ならざることを語っている者を阻止します。栄誉を語っている者を賞賛します。家長の子よ、まさに、これらの四つの境位によって、慈しみ〔の思い〕ある者は、朋友であり、善き心ある者と知られるべきです」と。

 

265. 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、資益者たる朋友、かつまた、すなわち、楽においても苦においても友人であり、かつまた、すなわち、義(利益)を告知する朋友、さらに、すなわち、慈しみ〔の思い〕ある朋友であるなら──

 

 これらの四者を、朋友たちと、また、かくのごとく識知して、賢者は、恭しく奉持するであろう──母が、わが子を〔慈しむ〕ように。戒を成就した賢者は、燃え盛る火のように光り輝く。

 

 蜜蜂が振る舞うように、諸々の財物を集めている者には、蟻塚が積み上げられるように、諸々の財物は蓄積に至る。

 

 このように、諸々の財物を集めて、家にある在家者として、十分なる自己ある者となる。諸々の財物を四種に区分するなら、彼は、まさに、朋友たちを結び束ねる。

 

 一つによって、諸々の財物を受益するべきであり、二つによって、生業に従事するべきであり、そして、第四のものを貯蔵するべきである──諸々の逆境においても〔財物が〕有るべく」と。

 

 六つの方角の防備の部

 

266. 「家長の子よ、では、どのように、聖なる弟子は、六つの方角の防備ある者と成るのですか。家長の子よ、これらの六つの方角が知られるべきです。東の方角は、母と父と知られるべきです。南の方角は、師匠たちと知られるべきです。西の方角は、子と妻たちと知られるべきです。北の方角は、朋友や僚友たちと知られるべきです。下の方角は、奴隷や労夫たちと知られるべきです。上の方角は、沙門や婆羅門たちと知られるべきです。

 

267. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、東の方角である母と父は、子によって奉仕されるべきです。『養われた者として、彼らを養うのだ』『為すべきことを、彼らに為すのだ』『家の伝統を止住させるのだ』『〔家の〕継承物を管理するのだ』『そこで、また、あるいは、命を終えた亡者たちに、施物を供与するのだ』と。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、東の方角である母と父は、子によって奉仕されたなら、五つの境位によって、子を慈しみます。悪しきことから防護します。善きことにおいて固着させます。技能を学ばせます。適切な妻を娶らせます。〔しかるべき〕時点において、〔家の〕継承物を引き渡します。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、東の方角である母と父は、子によって奉仕されたなら、これらの五つの境位によって、子を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この東の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕。

 

268. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、南の方角である師匠たちは、内弟子によって奉仕されるべきです。立礼によって、奉仕によって、従順によって、世話によって、恭しく技能を納受することによって。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、南の方角である師匠たちは、内弟子によって奉仕されたなら、五つの境位によって、内弟子を慈しみます。善く教導された者に教導します。善く把握されたものを把握させます。全ての技能と所聞を等しく告知する者たちと成ります。朋友や僚友たちに引き合わせます。方々において救護を為します。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、南の方角である師匠たちは、内弟子によって奉仕されたなら、これらの五つの境位によって、内弟子を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この南の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕。

 

269. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、西の方角である妻は、夫によって奉仕されるべきです。敬仰することによって、軽蔑しないことによって、不倫しないことによって、〔家庭の〕主権を放棄することによって、外装品を供与することによって。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、西の方角である妻は、夫によって奉仕されたなら、五つの境位によって、夫を慈しみます。かつまた、善く差配された生業ある者と成ります。かつまた、従者を愛護する者と〔成ります〕。かつまた、不倫しない者と〔成ります〕。かつまた、運び込まれたものを守護します。かつまた、全ての為すべきことにおいて怠けない能ある者と〔成ります〕。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、西の方角である妻は、夫によって奉仕されたなら、これらの五つの境位によって、夫を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この西の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕。

 

270. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、北の方角である朋友や僚友たちは、良家の子息によって奉仕されるべきです。布施によって、愛ある言葉によって、義(利益)ある行ないによって、〔自他が〕等しくあることによって、言葉を違えないことによって。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、北の方角である朋友や僚友たちは、良家の子息によって奉仕されたなら、五つの境位によって、良家の子息を慈しみます。酔っている者を守ります。酔っている者の所有物を守ります。恐怖している者の帰依所と成ります。諸々の逆境において捨棄しません。そして、彼の後の子孫を優遇します。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、北の方角である朋友や僚友たちは、良家の子息によって奉仕されたなら、これらの五つの境位によって、良家の子息を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この北の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕。

 

271. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、下の方角である奴隷や労夫たちは、主人によって奉仕されるべきです。〔彼らの〕力のとおりの生業の差配(適材適所)によって、食事と報酬の供与によって、病者への奉仕(看護)によって、諸々の珍味の分与によって、〔しかるべき〕時点における放棄(休息)によって。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、下の方角である奴隷や労夫たちは、主人によって奉仕されたなら、五つの境位によって、主人を慈しみます。かつまた、先に起きる者たちと成ります。かつまた、後に退く者たちと〔成ります〕。かつまた、与えられたものを取る者たちと〔成ります〕。かつまた、善き行ないの行為を為す者たちと〔成ります〕。かつまた、〔主人の〕名誉と栄誉を運び行く者たちと〔成ります〕。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、下の方角である奴隷や労夫たちは、主人によって奉仕されたなら、これらの五つの境位によって、主人を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この下の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕。

 

272. 家長の子よ、まさに、五つの境位によって、上の方角である沙門や婆羅門たちは、良家の子息によって奉仕されるべきです。慈愛〔の思い〕ある身体の行為によって、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為によって、慈愛〔の思い〕ある意の行為によって、門を閉ざさないことによって、財貨の供与によって。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、上の方角である沙門や婆羅門たちは、良家の子息によって奉仕されたなら、六つの境位によって、良家の子息を慈しみます。悪しきことから防護します。善きことにおいて固着させます。善き意によって慈しみます。聞いていないことを告げ聞かせます。聞いたことを遍く清めます(明確にする)。天上への道を告知します。家長の子よ、まさに、これらの五つの境位によって、上の方角である沙門や婆羅門たちは、良家の子息によって奉仕されたなら、これらの六つの境位によって、良家の子息を慈しみます。家長の子よ、このように、彼の、この上の方角は、防備されたものと成り、平安で恐怖なき者と〔成ります〕」と。

 

273. 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「母と父は、東の方角である。師匠たちは、南の方角である。子と妻たちは、西の方角である。そして、朋友や僚友たちは、北〔の方角〕である。

 

 奴隷や労夫たちは、下〔の方角〕である。沙門や婆羅門たちは、上〔の方角〕である。家にある在家者として十分なる自己ある者は、これらの方角を礼拝するべきである。

 

 戒を成就した賢者は、そして、優雅にして弁才ある者は、謙譲の生活者にして強情ならざる者は──そのような者は、盛名を得る。

 

 〔早くに〕起き、怠けず、諸々の逆境においても動じない。〔常に励む〕断絶なき生活者にして思慮ある者は──そのような者は、盛名を得る。

 

 愛護の者にして朋友を作る者は、寛容にして物惜を離れた者は、導き手にして教導者たる指導者は──そのような者は、盛名を得る。

 

 かつまた、布施は、かつまた、愛ある言葉は、かつまた、すなわち、この〔世において〕、義(利益)ある行ないは、かつまた、その場その場において分のままに、諸々の法(事象)にたいし等しくあることは──これらのものは、まさに、世における愛護である。進み行く車の、〔四つの〕楔(車軸に車輪を固定する部品)のようなものである。

 

 そして、これらの〔四つの〕愛護が存在しないなら、母は、子を契機として、敬慕を、あるいは、供養を、得ないであろう──あるいは、父も、子を契機として。

 

 しかしながら、すなわち、これらの〔四つの〕愛護があり、賢者たちは、正しく注視することから、それゆえに、大いなるものに至り得るのであり、そして、彼らは、賞賛されるべき者たちと成る」と。

 

274. このように説かれたとき、家長の子であるシンガーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 シンガーラの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(32). アーターナーターの〔護経〕の経

 

 第一の朗読分

 

275. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、〔天の〕四大王(四天王)が、かつまた、大いなる夜叉の軍団とともに、かつまた、大いなる音楽神の軍団とともに、かつまた、大いなる魔族の軍団とともに、かつまた、大いなる龍の軍団とともに、四方に守護を据え置いて、四方に軍勢を据え置いて、四方に護衛を据え置いて、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータ山を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。それらの夜叉たちもまた、まさに、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

276. 一方に坐った、まさに、ヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、秀でた夜叉たちで、世尊に浄信していない者たちが存在します。尊き方よ、まさに、秀でた夜叉たちで、世尊に浄信している者たちが存在します。尊き方よ、まさに、中等の夜叉たちで、世尊に浄信していない者たちが存在します。尊き方よ、まさに、中等の夜叉たちで、世尊に浄信している者たちが存在します。尊き方よ、まさに、劣った夜叉たちで、世尊に浄信していない者たちが存在します。尊き方よ、まさに、劣った夜叉たちで、世尊に浄信している者たちが存在します。尊き方よ、また、まさに、多くのところとして、夜叉たちは、まさしく、世尊に浄信していない者たちです。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、なぜなら、世尊は、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからです。尊き方よ、また、まさに、多くのところとして、夜叉たちは、命あるものを殺すことから離間していない者たちであり、与えられていないものを取ることから離間していない者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間していない者たちであり、虚偽を説くことから離間していない者たちであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者たちです。彼らにとって、それは、愛しくなく意に適わないものとして有ります。尊き方よ、まさに、世尊の弟子たちが存在し、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。そこにおいて、秀でた夜叉の居住者たちが存在します──すなわち、世尊に、この〔聖なる〕言葉にたいし、浄信していない者たちとして。尊き方よ、世尊は、彼らの浄信のために、アーターナーターの護経を収め取りたまえ──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のために、守護のために、不害のために、平穏の住のために」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、世尊の承諾を見出して、その時に、このアーターナーターの護経を語りました。

 

277. 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、ヴィパッシン〔世尊〕に、眼ある方にして吉祥なる方に、礼拝が存せ。かつまた、シキン〔世尊〕に、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある方に、礼拝が存せ。

 

 かつまた、ヴェッサブー〔世尊〕に、沐浴者にして苦行者たる方に、礼拝が存せ。カクサンダ〔世尊〕に、悪魔の軍団を撃破する方に、礼拝が存せ。

 

 コーナーガマナ〔世尊〕に、婆羅門にして完成者たる方に、礼拝が存せ。かつまた、カッサパ〔世尊〕に、一切所に解脱した方に、礼拝が存せ。

 

 アンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)に、釈迦族の吉祥なる方に、礼拝が存せ。彼は、一切の苦しみを除き去る、この法(教え)を説示した。

 

 さらに、また、すなわち、〔世の無常を〕事実のとおりに観察した、世において涅槃に到達した者(阿羅漢)たちがいる。彼らは、人として、中傷なき者たちであり、さらに、恐れおののきを離れた大いなる者たちである。

 

 〔彼らは〕礼拝する──天〔の神々〕と人間たちに益ある方を、すなわち、ゴータマ〔世尊〕を──明知と行ないの成就者たる方を、恐れおののきを離れた偉大なる方を。

 

278. その〔方角〕から、大いなる日輪の太陽が昇り、そして、すなわち、昇りつつあるなら、夜もまた止滅し、さらに、すなわち、太陽が昇ったとき、『昼』と呼ばれる。

 

 そこにおいては、また、深淵なる湖にして水が流れ行く海がある。このように、その〔方角〕のことを、そこにおいては、『水が流れ行く海がある』〔と、人々は〕知る。

 

 ここから〔見て〕、『それは、東の方角である』〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 音楽神たちの君主たる、『ダタラッタ(持国天)』という名の者である。彼は、音楽神たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、『同一の名ある者たちである』と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 『善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します』〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか』〔と問うなら〕、『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する』〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

279. その〔方角〕にいる、亡者たちは、中傷の者たちと呼ばれ、陰口を言う者たちと〔呼ばれ〕、命あるものを殺す者たちと〔呼ばれ〕、残忍な者たちと〔呼ばれ〕、盗賊たちと〔呼ばれ〕、欺く人々と〔呼ばれる〕。

 

 ここから〔見て〕、『それは、南の方角である』〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 魔族たちの君主たる、『ヴィルーラ(増長天)』という名の者である。彼は、魔族たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、『同一の名ある者たちである』と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 『善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します』〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか』〔と問うなら〕、『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する』〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

280. そして、その〔方角〕において、大いなる日輪の太陽が沈み、かつまた、すなわち、沈みつつあるなら、昼もまた止滅し、さらに、すなわち、太陽が沈んだとき、『夜』と呼ばれる。

 

 そこにおいては、また、深淵なる湖にして水が流れ行く海がある。このように、その〔方角〕のことを、そこにおいては、『水が流れ行く海がある』〔と、人々は〕知る。

 

 ここから〔見て〕、『それは、西の方角である』〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 かつまた、龍たちの君主たる、『ヴィルーパッカ(広目天)』という名の者である。彼は、まさしく、龍たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、『同一の名ある者たちである』と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 『善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します』〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか』〔と問うなら〕、『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する』〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

281. その〔方角〕にある、ウッタラクルという呼び名〔の洲〕は、見た目善き大いなるネール(須弥山)があり、そこにおいて、人間たちは、我執なく執持なき者たちとして生まれる。

 

 彼らは、種を蒔かない。諸々の鋤もまた、使われない。耕さずに成熟する、この米を、人間たちは遍く受益する。

 

 籾糠がなく、籾殻がなく、清浄で、善き香りの、米の果を、鍋のなかで煮て、そののち、食料として受益する。

 

 雌牛を一つの蹄と為して、方々に訪ね行く。家畜を一つの蹄と為して、方々に訪ね行く。

 

 あるいは、女を運び手と為して、方々に訪ね行く。男を運び手と為して、方々に訪ね行く。

 

 少女を運び手と為して、方々に訪ね行く。少年を運び手と為して、方々に訪ね行く。

 

 彼らは、諸々の乗物に乗って、全ての方角を巡り行く──その王の侍者たちとして。

 

 象の乗物が、馬の乗物が、天の乗物が、現起するところとなった──まさしく、そして、諸々の高楼が、諸々の駕篭が、盛名ある大王のために。

 

 そして、彼のために、諸々の城市が、〔現起するところと〕成った──空中において美しく造作されたものとして、アーターナーターが、クシナーターが、パラクシナーターが、ナータスリヤーが、パラクシタナーターが──

 

 北にカシヴァントが、そして、西にジャノーガが、ナヴァナヴティヤが、アンバラ・アンバラヴァティヤが、アーラカマンダーという名の王都が。

 

 敬愛なる方よ、また、まさに、クヴェーラ大王には、ヴィサーナーという名の王都もあり、それゆえに、クヴェーラ大王は、『ヴェッサヴァナ(多聞天・毘沙門天)』と呼ばれる。

 

 〔夜叉たちが〕各自に求めつつ、〔大王に〕明示する──タトーラーが、タッタラーが、タトータラーが、オージャシが、テージャシが、タトージャシが、スーラが、ラージャンが、アリッタが、ネーミが。

 

 そこにおいては、ダラニーという名の湖もまたあり、その〔湖〕から、諸々の雨雲が〔生じて〕雨を降らせ、その〔湖〕から、諸々の雨が広まり行く。そこにおいては、サーラヴァティーという名の集会場もまたある。

 

 そこにおいて、夜叉たちが奉持するなら、そこにおいては、常に果をもつ木々があり、種々なる鳥の群れを擁し、孔雀や白鷺たちの鳴き声がある──郭公たちの麗しい〔鳴き声〕とともに。

 

 ここにおいては、ジーヴァンジヴァカ〔鳥〕たちの声があり、さらに、オッタヴァチッタカ〔鳥〕たちが、クックタカ〔鳥〕たちが、クリーラカ〔鳥〕たちが、林においては、ポッカラサータカ〔鳥〕たちがいる。

 

 ここにおいては、鸚鵡や九官鳥たちの声があり、そして、ダンダマーナヴァカ〔鳥〕たちがいる。全ての時に、常に、そのクヴェーラ池は、美しく輝く。

 

 ここから〔見て〕、『それは、北の方角である』〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 夜叉たちの君主たる、『クヴェーラ』という名の者である。彼は、まさしく、夜叉たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、『同一の名ある者たちである』と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 『善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します』〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか』〔と問うなら〕、『勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する』〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する」と。

 

 「敬愛なる方よ、これが、まさに、そのアーターナーターの護経です──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のための、守護のための、不害のための、平穏の住のための。

 

282. 敬愛なる方よ、すなわち、誰にであれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、このアーターナーターの護経が、善く収め取られたものとして、完結されたものとして、遍く学得されたものとして、有るとします。それで、もし、あるいは、人間ならざる者である、あるいは、夜叉が、あるいは、女の夜叉が、あるいは、夜叉の子が、あるいは、夜叉の娘が、あるいは、夜叉の大臣が、あるいは、夜叉の侍臣が、あるいは、夜叉の侍者が、あるいは、音楽神が、あるいは、女の音楽神が、あるいは、音楽神の子が、あるいは、音楽神の娘が、あるいは、音楽神の大臣が、あるいは、音楽神の侍臣が、あるいは、音楽神の侍者が、あるいは、魔族が、あるいは、女の魔族が、あるいは、魔族の子が、あるいは、魔族の娘が、あるいは、魔族の大臣が、あるいは、魔族の侍臣が、あるいは、魔族の侍者が、あるいは、龍が、あるいは、女の龍が、あるいは、龍の子が、あるいは、龍の娘が、あるいは、龍の大臣が、あるいは、龍の侍臣が、あるいは、龍の侍者が、汚れた心の者となり、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、あるいは、赴いているときは従い赴き、あるいは、坐っているときは近しく坐り、あるいは、立っているときは近しく立ち、あるいは、横たわったときは近しく横たわるとします。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、あるいは、諸々の村において、あるいは、諸々の町において、あるいは、尊敬を、あるいは、尊重を、得ないでしょう。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、アーラカマンダーという名の王都において、あるいは、地所を、あるいは、住居を、得ないでしょう。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、夜叉たちの集まりに赴くことを得ないでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、嫁とりさえも〔為さ〕ず、彼には、嫁やりも為さないでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、取着され遍く満ちた諸々の誹謗によってでさえも誹謗するでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、空の鉢でさえも彼の頭に伏せるでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、七様にさえも彼の頭を裂くでしょう。

 

 敬愛なる方よ、まさに、残忍で獰猛で凶暴な人間ならざる者たちが存在します。彼らは、まさしく、大王たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの人間ならざる者たちは、大王たちにとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、それは、たとえば、また、マガダ〔国〕の王の領土における大盗賊たちのようなものです。彼らは、まさしく、マガダ〔国〕の王の〔言葉を〕取り合わず、マガダ〔国〕の王の家来たちの〔言葉を〕取り合わず、マガダ〔国〕の王の家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの大盗賊たちは、マガダ〔国〕の王にとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、まさしく、このように、まさに、残忍で獰猛で凶暴な人間ならざる者たちが存在します。彼らは、まさしく、大王たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの人間ならざる者たちは、大王たちにとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、まさに、すなわち、誰であれ、人間ならざる者である、あるいは、夜叉が、あるいは、女の夜叉が……略……あるいは、音楽神が、あるいは、女の音楽神が……あるいは、魔族が、あるいは、女の魔族が……あるいは、龍が、あるいは、女の龍が、あるいは、龍の子が、あるいは、龍の娘が、あるいは、龍の大臣が、あるいは、龍の侍臣が、あるいは、龍の侍者が、汚れた心の者となり、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、あるいは、赴いているときは従い赴き、あるいは、坐っているときは近しく坐り、あるいは、立っているときは近しく立ち、あるいは、横たわったときは近しく横たわるなら、これらの、夜叉たちに、大いなる夜叉たちに、軍団長たちに、大いなる軍団長たちに、抗議するべきであり、嘆願するべきであり、強訴するべきです。『この夜叉が捕捉する。この夜叉が侵入する。この夜叉が悩ます。この夜叉が悩み苦しめる。この夜叉が害する。この夜叉が害し傷つける。この夜叉が解き放たない』と。

 

283. どのような者たちが、夜叉たちであり、大いなる夜叉たちであり、軍団長たちであり、大いなる軍団長たちなのですか。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『インダ、ソーマ、そして、ヴァルナ、バーラドヴァージャ、パジャーパティ、チャンダナ、そして、カーマセッタ、キンヌガンドゥ、そして、ニガンドゥ──

 

 パナーダ、そして、オーパマンニャ、そして、天の馭者のマータリ、そして、チッタセーナ音楽神、ナラ王、ジャネーサバ──

 

 サーターギラ、ヘーマヴァタ、プンナカ、カラティヤ、グラ、シヴァカ、そして、ムチャリンダ、ヴェッサーミッタ、ユガンダラ──

 

 ゴーパ―ラ、そして、スッパローダ、ヒリ、そして、ネッティ、マンディヤ、パンチャーラチャンダ、アーラヴァカ、パッジュンナ、スマナ、スムカ、ダディムカ、マニ、マーニヴァラ、ディーガ、さらに、くわえて、セーリーサカである』と。

 

 これらの、夜叉たちに、大いなる夜叉たちに、軍団長たちに、大いなる軍団長たちに、抗議するべきであり、嘆願するべきであり、強訴するべきです。『この夜叉が捕捉する。この夜叉が侵入する。この夜叉が悩ます。この夜叉が悩み苦しめる。この夜叉が害する。この夜叉が害し傷つける。この夜叉が解き放たない』と。

 

 敬愛なる方よ、これが、まさに、そのアーターナーターの護経です──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のための、守護のための、不害のための、平穏の住のための。敬愛なる方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王たちよ、今が、そのための時と、あなたたちが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

284. そこで、まさに、〔天の〕四大王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。まさに、それらの夜叉たちもまた、坐から立ち上がって、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、まさしく、その場において、消没した、ということです。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

 第二の朗読分

 

285. そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、〔天の〕四大王が、かつまた、大いなる夜叉の軍団とともに、かつまた、大いなる音楽神の軍団とともに、かつまた、大いなる魔族の軍団とともに、かつまた、大いなる龍の軍団とともに、四方に守護を据え置いて、四方に軍勢を据え置いて、四方に護衛を据え置いて、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータ山を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。比丘たちよ、それらの夜叉たちもまた、まさに、一部の者たちはまた、わたしを敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

286. 比丘たちよ、一方に坐った、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、まさに、秀でた夜叉たちで、世尊に浄信していない者たちが存在します。……略……。尊き方よ、まさに、劣った夜叉たちで、世尊に浄信している者たちが存在します。尊き方よ、また、まさに、多くのところとして、夜叉たちは、まさしく、世尊に浄信していない者たちです。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、なぜなら、世尊は、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからであり……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕のために、法(教え)を説示するからです。尊き方よ、また、まさに、多くのところとして、夜叉たちは、命あるものを殺すことから離間していない者たちであり……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者たちです。彼らにとって、それは、愛しくなく意に適わないものとして有ります。尊き方よ、まさに、世尊の弟子たちが存在し、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。そこにおいて、秀でた夜叉の居住者たちが存在します──すなわち、世尊に、この〔聖なる〕言葉にたいし、浄信していない者たちとして。尊き方よ、世尊は、彼らの浄信のために、アーターナーターの護経を収め取りたまえ──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のために、守護のために、不害のために、平穏の住のために』と。比丘たちよ、まさに、わたしは、沈黙の状態をもって承諾しました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、わたしの承諾を見出して、その時に、このアーターナーターの護経を語りました。

 

287. 〔そこで、詩偈に言う〕『かつまた、ヴィパッシン〔世尊〕に、眼ある方にして吉祥なる方に、礼拝が存せ。かつまた、シキン〔世尊〕に、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある方に、礼拝が存せ。

 

 かつまた、ヴェッサブー〔世尊〕に、沐浴者にして苦行者たる方に、礼拝が存せ。カクサンダ〔世尊〕に、悪魔の軍団を撃破する方に、礼拝が存せ。

 

 コーナーガマナ〔世尊〕に、婆羅門にして完成者たる方に、礼拝が存せ。かつまた、カッサパ〔世尊〕に、一切所に解脱した方に、礼拝が存せ。

 

 アンギーラサ(放光者)に、釈迦族の吉祥なる方に、礼拝が存せ。彼は、一切の苦しみを除き去る、この法(教え)を説示した。

 

 さらに、また、すなわち、〔世の無常を〕事実のとおりに観察した、世において涅槃に到達した者(阿羅漢)たちがいる。彼らは、人として、中傷なき者たちであり、さらに、恐れおののきを離れた大いなる者たちである。

 

 〔彼らは〕礼拝する──天〔の神々〕と人間たちに益ある方を、すなわち、ゴータマ〔世尊〕を──明知と行ないの成就者たる方を、恐れおののきを離れた偉大なる方を。

 

288. その〔方角〕から、大いなる日輪の太陽が昇り、そして、すなわち、昇りつつあるなら、夜もまた止滅し、さらに、すなわち、太陽が昇ったとき、「昼」と呼ばれる。

 

 そこにおいては、また、深淵なる湖にして水が流れ行く海がある。このように、その〔方角〕のことを、そこにおいては、「水が流れ行く海がある」〔と、人々は〕知る。

 

 ここから〔見て〕、「それは、東の方角である」〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 音楽神たちの君主たる、「ダタラッタ」という名の者である。彼は、音楽神たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、「同一の名ある者たちである」と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 「善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します」〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか」〔と問うなら〕、「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する」〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

289. その〔方角〕にいる、亡者たちは、中傷の者たちと呼ばれ、陰口を言う者たちと〔呼ばれ〕、命あるものを殺す者たちと〔呼ばれ〕、残忍な者たちと〔呼ばれ〕、盗賊たちと〔呼ばれ〕、欺く人々と〔呼ばれる〕。

 

 ここから〔見て〕、「それは、南の方角である」〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 魔族たちの君主たる、「ヴィルーラ」という名の者である。彼は、魔族たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、「同一の名ある者たちである」と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 「善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します」〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか」〔と問うなら〕、「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する」〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

290. そして、その〔方角〕において、大いなる日輪の太陽が沈み、かつまた、すなわち、沈みつつあるなら、昼もまた止滅し、さらに、すなわち、太陽が沈んだとき、「夜」と呼ばれる。

 

 そこにおいては、また、深淵なる湖にして水が流れ行く海がある。このように、その〔方角〕のことを、そこにおいては、「水が流れ行く海がある」〔と、人々は〕知る。

 

 ここから〔見て〕、「それは、西の方角である」〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 龍たちの君主たる、「ヴィルーパッカ」という名の者である。彼は、龍たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、「同一の名ある者たちである」と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 「善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します」〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか」〔と問うなら〕、「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する」〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する。

 

291. その〔方角〕にある、ウッタラクルという呼び名〔の洲〕は、見た目善き大いなるネールがあり、そこにおいて、人間たちは、我執なく執持なき者たちとして生まれる。

 

 彼らは、種を蒔かない。諸々の鋤もまた、使われない。耕さずに成熟する、この米を、人間たちは遍く受益する。

 

 籾糠がなく、籾殻がなく、清浄で、善き香りの、米の果を、鍋のなかで煮て、そののち、食料として受益する。

 

 雌牛を一つの蹄と為して、方々に訪ね行く。家畜を一つの蹄と為して、方々に訪ね行く。

 

 あるいは、女を運び手と為して、方々に訪ね行く。男を運び手と為して、方々に訪ね行く。

 

 少女を運び手と為して、方々に訪ね行く。少年を運び手と為して、方々に訪ね行く。

 

 彼らは、諸々の乗物に乗って、全ての方角を巡り行く──その王の侍者たちとして。

 

 象の乗物が、馬の乗物が、天の乗物が、現起するところとなった──まさしく、そして、諸々の高楼が、諸々の駕篭が、盛名ある大王のために。

 

 そして、彼のために、諸々の城市が、〔現起するところと〕成った──空中において美しく造作されたものとして、アーターナーターが、クシナーターが、パラクシナーターが、ナータスリヤーが、パラクシタナーターが──

 

 北にカシヴァントが、そして、西にジャノーガが、ナヴァナヴティヤが、アンバラ・アンバラヴァティヤが、アーラカマンダーという名の王都が。

 

 敬愛なる方よ、また、まさに、クヴェーラ大王には、ヴィサーナーという名の王都もあり、それゆえに、クヴェーラ大王は、「ヴェッサヴァナ」と呼ばれる。

 

 〔夜叉たちが〕各自に求めつつ、〔大王に〕明示する──タトーラーが、タッタラーが、タトータラーが、オージャシが、テージャシが、タトージャシが、スーラが、ラージャンが、アリッタが、ネーミが。

 

 そこにおいては、ダラニーという名の湖もまたあり、その〔湖〕から、諸々の雨雲が〔生じて〕雨を降らせ、その〔湖〕から、諸々の雨が広まり行く。そこにおいては、サーラヴァティーという名の集会場もまたある。

 

 そこにおいて、夜叉たちが奉持するなら、そこにおいては、常に果をもつ木々があり、種々なる鳥の群れを擁し、孔雀や白鷺たちの鳴き声がある──郭公たちの麗しい〔鳴き声〕とともに。

 

 ここにおいては、ジーヴァンジヴァカ〔鳥〕たちの声があり、さらに、オッタヴァチッタカ〔鳥〕たちが、クックタカ〔鳥〕たちが、クリーラカ〔鳥〕たちが、林においては、ポッカラサータカ〔鳥〕たちがいる。

 

 ここにおいては、鸚鵡や九官鳥たちの声があり、そして、ダンダマーナヴァカ〔鳥〕たちがいる。全ての時に、常に、そのクヴェーラ池は、美しく輝く。

 

 ここから〔見て〕、「それは、北の方角である」〔と〕、かくのごとく、その〔方角〕のことを、人々は告げ知らせる。その方角を守るのが、それが、盛名ある大王にして──

 

 夜叉たちの君主たる、「クヴェーラ」という名の者である。彼は、まさしく、夜叉たちに囲まれ、諸々の舞踏と歌詠によって喜び楽しむ。

 

 彼には、多くの子もまたあり、「同一の名ある者たちである」と、わたしは聞いた。八十者が、十者が、そして、一者が、〔彼らの全てが〕インダの名ある者たちであり、大いなる力ある者たちである。

 

 そして、また、彼らは、覚者を──太陽の眷属たる覚者を──見て、はるか遠くから、恐れおののきを離れた偉大なる方を礼拝する。

 

 「善き生まれの人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士たる方よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。巧みな智によって、〔あなたは〕正しく見ます。人間ならざる者たちもまた、あなたを敬拝します」〔と〕。間断なく、このことを、わたしたちは聞いた。それゆえに、このように、〔わたしたちは〕説く。

 

 「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔あなたたちは〕敬拝するのか」〔と問うなら〕、「勝者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する」〔と答える〕。明知と行ないの成就者たる方を、覚者を、ゴータマ〔世尊〕を、〔わたしたちは〕敬拝する』と。

 

292. 『敬愛なる方よ、これが、まさに、そのアーターナーターの護経です──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のための、守護のための、不害のための、平穏の住のための。敬愛なる方よ、すなわち、誰にであれ、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、このアーターナーターの護経が、善く収め取られたものとして、完結されたものとして、遍く学得されたものとして、有るとします。それで、もし、あるいは、人間ならざる者である、あるいは、夜叉が……略……あるいは、音楽神が……略……あるいは、魔族が……略……あるいは、龍が、あるいは、女の龍が、あるいは、龍の子が、あるいは、龍の娘が、あるいは、龍の大臣が、あるいは、龍の侍臣が、あるいは、龍の侍者が、汚れた心の者となり、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、あるいは、赴いているときは従い赴き、あるいは、坐っているときは近しく坐り、あるいは、立っているときは近しく立ち、あるいは、横たわったときは近しく横たわるとします。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、あるいは、諸々の村において、あるいは、諸々の町において、あるいは、尊敬を、あるいは、尊重を、得ないでしょう。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、アーラカマンダーという名の王都において、あるいは、地所を、あるいは、住居を、得ないでしょう。敬愛なる方よ、その人間ならざる者は、わたしの、夜叉たちの集まりに赴くことを得ないでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、嫁とりさえも〔為さ〕ず、彼には、嫁やりも為さないでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、取着され遍く満ちた諸々の誹謗によってでさえも誹謗するでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、空の鉢でさえも彼の頭に伏せるでしょう。敬愛なる方よ、さてまた、まさに、人間ならざる者たちは、彼には、七様にさえも彼の頭を裂くでしょう。敬愛なる方よ、まさに、残忍で獰猛で凶暴な人間ならざる者たちが存在します。彼らは、まさしく、大王たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの人間ならざる者たちは、大王たちにとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、それは、たとえば、また、マガダ〔国〕の王の領土における大盗賊たちのようなものです。彼らは、まさしく、マガダ〔国〕の王の〔言葉を〕取り合わず、マガダ〔国〕の王の家来たちの〔言葉を〕取り合わず、マガダ〔国〕の王の家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの大盗賊たちは、マガダ〔国〕の王にとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、まさしく、このように、まさに、残忍で獰猛で凶暴な人間ならざる者たちが存在します。彼らは、まさしく、大王たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合わず、大王たちの家来たちの〔言葉を〕取り合いません。敬愛なる方よ、それで、まさに、それらの人間ならざる者たちは、大王たちにとって、まさに、反逆者たちと説かれます。敬愛なる方よ、まさに、すなわち、誰であれ、人間ならざる者である、あるいは、夜叉が、あるいは、女の夜叉が……略……あるいは、音楽神が、あるいは、女の音楽神が……略……あるいは、魔族が、あるいは、女の魔族が……略……あるいは、龍が、あるいは、女の龍が、あるいは、龍の子が、あるいは、龍の娘が、あるいは、龍の大臣が、あるいは、龍の侍臣が、あるいは、龍の侍者が、汚れた心の者となり、あるいは、比丘に、あるいは、比丘尼に、あるいは、在俗信者に、あるいは、女性在俗信者に、あるいは、赴いているときは従い赴き、あるいは、坐っているときは近しく坐り、あるいは、立っているときは近しく立ち、あるいは、横たわったときは近しく横たわるなら、これらの、夜叉たちに、大いなる夜叉たちに、軍団長たちに、大いなる軍団長たちに、抗議するべきであり、嘆願するべきであり、強訴するべきです。「この夜叉が捕捉する。この夜叉が侵入する。この夜叉が悩ます。この夜叉が悩み苦しめる。この夜叉が害する。この夜叉が害し傷つける。この夜叉が解き放たない」と。

 

293. どのような者たちが、夜叉たちであり、大いなる夜叉たちであり、軍団長たちであり、大いなる軍団長たちなのですか。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「インダ、ソーマ、そして、ヴァルナ、バーラドヴァージャ、パジャーパティ、チャンダナ、そして、カーマセッタ、キンヌガンドゥ、そして、ニガンドゥ──

 

 パナーダ、そして、オーパマンニャ、そして、天の馭者のマータリ、そして、チッタセーナ音楽神、ナラ王、ジャネーサバ──

 

 サーターギラ、ヘーマヴァタ、プンナカ、カラティヤ、グラ、シヴァカ、そして、ムチャリンダ、ヴェッサーミッタ、ユガンダラ──

 

 ゴーパ―ラ、そして、スッパローダ、ヒリ、そして、ネッティ、マンディヤ、パンチャーラチャンダ、アーラヴァカ、パッジュンナ、スマナ、スムカ、ダディムカ、マニ、マーニヴァラ、ディーガ、さらに、くわえて、セーリーサカである」と。

 

 これらの、夜叉たちに、大いなる夜叉たちに、軍団長たちに、大いなる軍団長たちに、抗議するべきであり、嘆願するべきであり、強訴するべきです。「この夜叉が捕捉する。この夜叉が侵入する。この夜叉が悩ます。この夜叉が悩み苦しめる。この夜叉が害する。この夜叉が害し傷つける。この夜叉が解き放たない」と。敬愛なる方よ、これが、まさに、そのアーターナーターの護経です──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のための、守護のための、不害のための、平穏の住のための。敬愛なる方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです』と。『大王たちよ、今が、そのための時と、あなたたちが思うのなら〔思いのままに〕』と。

 

294. 比丘たちよ、そこで、まさに、〔天の〕四大王は、坐から立ち上がって、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。比丘たちよ、まさに、それらの夜叉たちもまた、坐から立ち上がって、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、まさしく、その場において、消没しました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、まさしく、その場において、消没しました。

 

295. 比丘たちよ、アーターナーターの護経を把握しなさい。比丘たちよ、アーターナーターの護経を学得しなさい。比丘たちよ、アーターナーターの護経を保持しなさい。比丘たちよ、アーターナーターの護経は、義(利益)を伴ったものです──比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者たちの、女性在俗信者たちの、保護のために、守護のために、不害のために、平穏の住のために」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 アーターナーターの〔護経〕の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。