増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 ダサカ・ニパータ聖典(十集:十なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 福利の章(1.~)

 

1. 「何を義として」の経

2. 思欲によって為すべきことの経

3. 第一の機縁の経

4. 第二の機縁の経

5. 第三の機縁の経

6. 禅定の経

7. サーリプッタの経

8. 瞑想の経

9. 寂静なる解脱の経

10. 明知の経

 

2. 庇護者の章(11.~)

 

1. 臥坐所の経

2. 五つの支分の経

3. 束縛するものの経

4. 心の鬱積の経

5. 不放逸の経

6. 〔供物を〕捧げられるべき者の経

7. 第一の庇護者の経

8. 第二の庇護者の経

9. 第一の聖者の居住の経

10. 第二の聖者の居住の経

 

3. 大いなるものの章(21.~)

 

1. 獅子吼の経

2. 教説の経

3. 身体の経

4. マハー・チュンダの経

5. 遍満の経

6. カーリーの経

7. 第一の大いなる問いの経

8. 第二の大いなる問いの経

9. 第一のコーサラ〔国〕の経

10. 第二のコーサラ〔国〕の経

 

4. ウパーリの章(31.~)

 

1. ウパーリの経

2. 戒条の捨置の経

3. 裁決者の経

4. 〔戒の〕成就の経

5. 依所の経

6. 沙弥の経

7. 僧団の分裂の経

8. 僧団の和合の経

9. 第一のアーナンダの経

10. 第二のアーナンダの経

 

5. 罵倒の章(41.~)

 

1. 論争の経

2. 第一の論争の根元の経

3. 第二の論争の根元の経

4. クシナーラーの経

5. 王の内宮に入ることの経

6. 釈迦〔族〕の者たちの経

7. マハーリの経

8. 「出家者によって、幾度となく」の経

9. 肉体に依って立つ法の経

10. 言争の経

 

2. 第二の五十なるもの(51.~)

 

(6)1. 自らの心の章(51.~)

 

1. 自らの心の経

2. サーリプッタの経

3. 止住の経

4. 止寂の経

5. 遍き衰退の経

6. 第一の表象の経

7. 第二の表象の経

8. 根元の経

9. 出家の経

10. ギリマーナンダの経

 

(7)2. 対なるものの章(61.~)

 

1. 無明の経

2. 渇愛の経

3. 結論に至った者の経

4. 確固たる清信ある者の経

5. 第一の安楽の経

6. 第二の安楽の経

7. 第一のナラカパーナの経

8. 第二のナラカパーナの経

9. 第一の議論の基盤の経

10. 第二の議論の基盤の経

 

(8)3. 望みの章(71.~)

 

1. 望みの経

2. 棘の経

3. 好ましい法の経

4. 増大の経

5. ミガサーラーの経

6. 三つの法の経

7. 烏の経

8. ニガンタの経

9. 憤懣の基盤の経

10. 憤懣の調伏の経

 

(9)4. 長老の章(81.~)

 

1. ヴァーハナの経

2. アーナンダの経

3. プンニヤの経

4. 説き明かしの経

5. 誇る者の経

6. 増上慢の経

7. 「愛慕〔の思い〕ではなく」の経

8. 罵倒者の経

9. コーカーリカの経

10. 煩悩の滅尽者の力の経

 

(10)5. ウパーリの章(91.~)

 

1. 欲望の享受者の経

2. 恐怖の経

3. 「どのような見解ある者として」の経

4. ヴァッジヤマーヒタの経

5. ウッティヤの経

6. コーカヌダの経

7. 〔供物を〕捧げられるべき者の経

8. 長老の経

9. ウパーリの経

10. 不可能の経

 

3. 第三の五十なるもの(101.~)

 

(11)1. 沙門の表象の章(101.~)

 

1. 沙門の表象の経

2. 覚りの支分の経

3. 誤った〔道〕たることの経

4. 種の経

5. 明知の経

6. 衰尽の経

7. 洗い清めの経

8. 医師の経

9. 吐剤の経

10. 放出されるべきものの経

11. 第一の〔もはや〕学ぶことなきものの経

12. 第二の〔もはや〕学ぶことなきものの経

 

(12)2. 降下行の章(113.~)

 

1. 第一の法ならざるものの経

2. 第二の法ならざるものの経

3. 第三の法ならざる者の経

4. アジタの経

5. サンガーラヴァの経

6. 此岸の経

7. 第一の降下行の経

8. 第二の降下行の経

9. 先行の経

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

(13)3. 完全なる清浄の章(123.~)

 

1. 第一の経

2. 第二の経

3. 第三の経

4. 第四の経

5. 第五の経

6. 第六の経

7. 第七の経

8. 第八の経

9. 第九の経

10. 第十の経

11. 第十一の経

 

(14)4. 善きものの章(134.~)

 

1. 善きものの経

2. 聖なる法の経

3. 善ならざるものの経

4. 義の経

5. 法の経

6. 煩悩を有するものの経

7. 罪過を有するものの経

8. 悩み苦しめられるべきものの経

9. 〔煩悩の〕集積に至るものの経

10. 苦痛を生成するものの経

11. 苦痛の報いあるものの経

 

(15)5. 聖なるものの章(145.~)

 

1. 聖なる道の経

2. 黒い道の経

3. 正なる法の経

4. 正なる人士の法の経

5. 生起させられるべき法の経

6. 習修されるべきものの経

7. 修められるべきものの経

8. 多く為されるべきものの経

9. 随念されるべきものの経

10. 実証されるべきものの経

 

4. 第四の五十なるもの(155.~)

 

(16)1. 人の章(155.~)

 

1. 「慣れ親しむべきです」の経

2-12. 「親近するべきです」等の諸経

 

(17)2. ジャーヌッソーニの章(167.~)

 

1. 婆羅門の降下行の経

2. 聖なる降下行の経

3. サンガーラヴァの経

4. 此岸の経

5. 第一の法ならざるものの経

6. 第二の法ならざるものの経

7. 第三の法ならざるものの経

8. 行為の因縁の経

9. 遊離の経

10. チュンダの経

11. ジャーヌッソーニの経

 

(18)3. 善きものの章(178.~)

 

1. 善きものの経

2. 聖なる法の経

3. 善なる法の経

4. 義の経

5. 法の経

6. 煩悩を有するものの経

7. 罪過の経

8. 悩み苦しめられるべきものの経

9. 〔煩悩の〕集積に至るものの経

10. 苦痛を生成するものの経

11. 〔苦痛の〕報いあるものの経

 

(19)4. 聖なるものの章(189.~)

 

1. 聖なる道の経

2. 黒い道の経

3. 正なる法の経

4. 正なる人士の法の経

5. 生起させられるべき法の経

6. 習修されるべきものの経

7. 修められるべきものの経

8. 多く為されるべきものの経

9. 随念されるべきものの経

10. 実証されるべきものの経

 

(20)5. 他の人の章(199.~)

 

1. 第一の地獄と天上の経

2. 第二の地獄と天上の経

3. 女性の経

4. 女性在俗信者の経

5. 恐れおののきを離れた者の経

6. 蛇行するものの経

7. 第一の思欲あるものの経

8. 第二の思欲あるものの経

9. 〔行為を〕為すことから生じる身体の経

10. 法ならざる性行の経

 

(21)1. 〔行為を〕為すことから生じる身体の章(211.~)

 

1. 第一の地獄と天上の経

2. 第二の地獄と天上の経

3. 女性の経

4. 女性在俗信者の経

5. 恐れおののきを離れた者の経

6. 蛇行するものの経

7. 第一の思欲あるものの経

8. 第二の思欲あるものの経

9. 〔行為を〕為すことから生じる身体の経

10. 法ならざる性行の経

 

(22)2. 同等の章(221.~)

23. 貪欲と省略〔の経典〕(237.~)

 


 

 

 ダサカ・ニパータ聖典(十集:十なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 福利の章

 

1. 「何を義として」の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 (1・2)「尊き方よ、諸々の善なる戒は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします」と。

 

 (3)「尊き方よ、また、後悔なくあることは、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします」と。

 

 (4)「尊き方よ、また、歓喜は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします」と。

 

 (5)「尊き方よ、また、喜悦は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします」と。

 

 (6)「尊き方よ、また、静息は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします」と。

 

 (7)「尊き方よ、また、安楽は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします」と。

 

 (8)「尊き方よ、また、禅定は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします」と。

 

 (9)「尊き方よ、また、事実のとおりの知見は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、事実のとおりの知見は、厭離と離貪を義(目的)とし、厭離と離貪を福利とします」と。

 

 (10)「尊き方よ、また、厭離と離貪は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、厭離と離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。

 

 アーナンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします。後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします。歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします。喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします。静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします。安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします。禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします。事実のとおりの知見は、厭離と離貪を義(目的)とし、厭離と離貪を福利とします。厭離と離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の善なる戒は、順次に、至高なるものへと至り行きます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 思欲によって為すべきことの経

 

2. 「(1・2)比丘たちよ、戒ある者には、戒が成就した者には、思欲によって為すべきことはありません──『後悔なくあることが、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、戒ある者に、戒が成就した者に、後悔なくあることが生起するのは、これは、法(真理)たることです。(3)比丘たちよ、後悔なき者には、思欲によって為すべきことはありません──『歓喜が、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、後悔なき者に、歓喜が生起するのは(※)、これは、法(真理)たることです。(4)比丘たちよ、歓喜した者には、思欲によって為すべきことはありません──『喜悦が、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、歓喜した者に、喜悦が生起するのは、これは、法(真理)たることです。(5)比丘たちよ、喜悦の意ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『わたしの身体は静息せよ』と。比丘たちよ、すなわち、喜悦の意ある者の身体が静息するのは、これは、法(真理)たることです。(6)比丘たちよ、静息の身体ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『安楽を感受するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、静息の身体ある者が安楽を感受するのは、これは、法(真理)たることです。(7)比丘たちよ、安楽ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『わたしの心は定められよ』と。比丘たちよ、すなわち、安楽ある者の心が定められるのは、これは、法(真理)たることです。(8)比丘たちよ、〔心が〕定められた者には、思欲によって為すべきことはありません──『事実のとおりに知り見るのだ』と。比丘たちよ、すなわち、〔心が〕定められた者が事実のとおりに知り見るのは、これは、法(真理)たることです。(9)比丘たちよ、事実のとおりに知り見ている者には、思欲によって為すべきことはありません──『厭離し離貪するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、事実のとおりに知り見ている者が厭離し離貪するのは、これは、法(真理)たることです。(10)比丘たちよ、厭離し離貪した者には、思欲によって為すべきことはありません──『解脱の知見を実証するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、厭離し離貪した者が解脱の知見を実証するのは、これは、法(真理)たることです。

 

※ テキストには jāyati とあるが、PTS版により uppajjati と読む。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、厭離と離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。事実のとおりの知見は、厭離と離貪を義(目的)とし、厭離と離貪を福利とします。禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします。安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします。静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします。喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします。歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします。後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします。諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、諸々の法(性質)は諸々の法(性質)に流れ行き、諸々の法(性質)は諸々の法(性質)を遍く満たします──此岸から彼岸に至るために」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の機縁の経

 

3. 「比丘たちよ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって、(3)歓喜は、機縁を欠くものと成ります。歓喜が存していないとき、歓喜が衰滅した者にとって、(4)喜悦は、機縁を欠くものと成ります。喜悦が存していないとき、喜悦が衰滅した者にとって、(5)静息は、機縁を欠くものと成ります。静息が存していないとき、静息が衰滅した者にとって、(6)安楽は、機縁を欠くものと成ります。安楽が存していないとき、安楽が衰滅した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(9)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(10)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって、(3)歓喜は、機縁が成就したものと成ります。歓喜が存しているとき、歓喜が成就した者にとって、(4)喜悦は、機縁が成就したものと成ります。喜悦が存しているとき、喜悦が成就した者にとって、(5)静息は、機縁が成就したものと成ります。静息が存しているとき、静息が成就した者にとって、(6)安楽は、機縁が成就したものと成ります。安楽が存しているとき、安楽が成就した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(9)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(10)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の機縁の経

 

4. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……(10)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。友よ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……(10)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。友よ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第三の機縁の経

 

5. そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに告げました。「友よ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって、(3)歓喜は、機縁を欠くものと成ります。歓喜が存していないとき、歓喜が衰滅した者にとって、(4)喜悦は、機縁を欠くものと成ります。喜悦が存していないとき、喜悦が衰滅した者にとって、(5)静息は、機縁を欠くものと成ります。静息が存していないとき、静息が衰滅した者にとって、(6)安楽は、機縁を欠くものと成ります。安楽が存していないとき、安楽が衰滅した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(9)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(10)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。友よ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって、(3)歓喜は、機縁が成就したものと成ります。歓喜が存しているとき、歓喜が成就した者にとって、(4)喜悦は、機縁が成就したものと成ります。喜悦が存しているとき、喜悦が成就した者にとって、(5)静息は、機縁が成就したものと成ります。静息が存しているとき、静息が成就した者にとって、(6)安楽は、機縁が成就したものと成ります。安楽が存しているとき、安楽が成就した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(9)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(10)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。友よ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 禅定の経

 

6. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(3)火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(4)風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。「アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「アーナンダよ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. サーリプッタの経

 

7. そこで、まさに、尊者アーナンダが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(3)火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(4)風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。「友よ、アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、ここに、サーヴァッティーに住んでいます。アンダ林において。そこにおいて、わたしは、そのような形態の禅定に入定しました。すなわち、まさしく、〔わたしが〕地について地の表象ある者として〔世に〕有ることなく、水について水の表象ある者として〔世に〕有ることなく、火について火の表象ある者として〔世に〕有ることなく、風について風の表象ある者として〔世に〕有ることなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕有ることなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕有ることなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕有ることなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕有ることなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕有ることなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕有ることなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕有った、〔そのような形態の禅定に〕」と。

 

 「また、尊者サーリプッタは、その時点において、どのような表象ある者として〔世に〕有ったのですか」と。「友よ、まさに、わたしに、『生存の止滅は涅槃である』『生存の止滅は涅槃である』と、まさしく、他なるものとして、表象が生起し、まさしく、他なるものとして、表象が止滅します。友よ、それは、たとえば、また、燃えている木片の火に、まさしく、他なるものとして、炎が生起し、まさしく、他なるものとして、炎が止滅するように、友よ、まさしく、このように、まさに、『生存の止滅は涅槃である』『生存の止滅は涅槃である』と、まさしく、他なるものとして、表象が生起し、まさしく、他なるものとして、表象が止滅します。友よ、また、しかしながら、わたしは、その時点において、『生存の止滅は涅槃である』『生存の止滅は涅槃である』と、表象ある者として〔世に〕有りました」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 瞑想の経

 

8. 「(1)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、多聞の者ではありません。……略……(3)さらに、多聞の者として、〔世に〕有ります──しかしながら、法(教え)の講話者ではありません。……(4)さらに、法(教え)の講話者として、〔世に〕有ります──しかしながら、衆を行境とする者ではありません。……(5)さらに、衆を行境とする者として、〔世に〕有ります──しかしながら、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示しません。……(6)さらに、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示します──しかしながら、律の保持者ではありません。……(7)さらに、律の保持者として、〔世に〕有ります──しかしながら、林にある者にして、辺地の臥坐所にある者ではありません。……(8)さらに、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有りません。……(9)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります──しかしながら、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕存するべきであり、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示するべきであり、かつまた、律の保持者として、かつまた、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、かつまた、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕存するべきであり、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むべきである』と。

 

 (10)比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕有り、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示し、かつまた、律の保持者として、かつまた、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、かつまた、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘は、そして、遍きにわたり清信ある者として、さらに、一切の行相の円満成就ある者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 寂静なる解脱の経

 

9. 「(1)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。……略……(2)さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、多聞の者ではありません。……(3)さらに、多聞の者として、〔世に〕有ります──しかしながら、法(教え)の講話者ではありません。……(4)さらに、法(教え)の講話者として、〔世に〕有ります──しかしながら、衆を行境とする者ではありません。……(5)さらに、衆を行境とする者として、〔世に〕有ります──しかしながら、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示しません。……(6)さらに、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示します──しかしながら、律の保持者ではありません。……(7)さらに、律の保持者として、〔世に〕有ります──しかしながら、林にある者にして、辺地の臥坐所にある者ではありません。……(8)さらに、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です。……(9)それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みます──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です──しかしながら、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕存するべきであり、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示するべきであり、かつまた、律の保持者として、かつまた、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、かつまた、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住むべきであり──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱である──さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むべきである』と。

 

 (10)比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕有り、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示し、かつまた、律の保持者として、かつまた、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、かつまた、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住み──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です──さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘は、そして、遍きにわたり清信ある者として、さらに、一切の行相の円満成就ある者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 明知の経

 

10. 「(1)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、多聞の者ではありません。……略……(3)さらに、多聞の者として、〔世に〕有ります──しかしながら、法(教え)の講話者ではありません。……(4)さらに、法(教え)の講話者として、〔世に〕有ります──しかしながら、衆を行境とする者ではありません。……(5)さらに、衆を行境とする者として、〔世に〕有ります──しかしながら、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示しません。……(6)さらに、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示します──しかしながら、律の保持者ではありません。……(7)さらに、律の保持者として、〔世に〕有ります──しかしながら、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しません。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しません。……(8)さらに、無数〔の流儀〕に関した……過去における居住を随念します──しかしながら、人間を超越した清浄の天眼によって……略……。〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しません。……(9)さらに、人間を超越した清浄の天眼によって……略……。〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します──しかしながら、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕存するべきであり、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示するべきであり、かつまた、律の保持者として〔存するべきであり〕、かつまた、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するべきであり、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するべきであり、かつまた、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するべきであり、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むべきである』と。

 

 (10)比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕有り、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示し、かつまた、律の保持者として、かつまた、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、かつまた、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知し、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘は、そして、遍きにわたり清信ある者として、さらに、一切の行相の円満成就ある者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 福利の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『何を義として』があり、そして、思欲、そして、三つの機縁、禅定、そして、サーリプッタ、瞑想があり、寂静ともに、明知ともに、〔章となる〕」と。

 

2. 庇護者の章

 

1. 臥坐所の経

 

11. 「比丘たちよ、五つの支分を具備した比丘は、五つの支分を具備した臥坐所に慣れ親しみ親近しながら、まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの支分を具備したものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧(慧・般若)を具備した者として。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を具備したものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、臥坐所は、五つの支分を具備したものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、臥坐所が、(6)〔村から〕遠過ぎず近過ぎずに有り、〔村への〕往来〔の便〕が満たされ、(7)昼は出入り少なく、夜は音声少なく騒音少なく、(8)諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触が少なく、(9)また、まさに、その臥坐所に住んでいる者に、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品が、まさしく、難少なくして生起し、(10)また、まさに、その臥坐所においては、長老の比丘たちが住み、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであり、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、〔質問者が〕遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔質問者〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、臥坐所は、五つの支分を具備したものと成ります。比丘たちよ、五つの支分を具備した比丘は、五つの支分を具備した臥坐所に慣れ親しみ親近しながら、まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 五つの支分の経

 

12. 「比丘たちよ、比丘は、五つの支分を捨棄した者として、五つの支分を具備した者として、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、(1)欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が捨棄されたものと成り、(2)憎悪〔の思い〕()が捨棄されたものと成り、(3)〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が捨棄されたものと成り、(4)〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が捨棄されたものと成り、(5)疑惑〔の思い〕()が捨棄されたものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(6)〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)を具備した者として〔世に〕有り、(7)〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備した者として〔世に〕有り、(8)〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備した者として〔世に〕有り、(9)〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備した者として〔世に〕有り、(10)〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として、五つの支分を具備した者として、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます」と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比丘に、かつまた、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、憎悪〔の思い〕が、かつまた、〔心の〕沈滞と眠気が、〔心の〕高揚〔と悔恨〕が、かつまた、疑惑〔の思い〕が、まさしく、全てにわたり見出されず──

 

 そして、〔もはや〕学ぶことなき戒と〔もはや〕学ぶことなき禅定を〔成就し〕、かつまた、解脱を成就し、さらに、知恵()を〔成就した〕、そのような種類の者は──

 

 彼は、まさに、五つの支分を成就した者であり、五つの支分を避けながら、この法(教え)と律において、『全一者』と説かれる」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 束縛するものの経

 

13. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの束縛するもの()です。どのようなものが、十のものなのですか。五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)であり、五つの上なる域に束縛するもの(五上分結:人を色界と無色界に束縛する五つの煩悩)です。どのようなものが、五つの下なる域に束縛するものなのですか。(1)身体を有するという見解(有身見)であり、(2)疑惑〔の思い〕()であり、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)であり、(4)欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、(5)憎悪〔の思い〕(瞋恚)です。これらの五つの下なる域に束縛するものがあります。

 

 どのようなものが、五つの上なる域に束縛するものなのですか。(6)形態にたいする貪り〔の思い〕(色貪)であり、(7)形態なきものにたいする貪り〔の思い〕(無色貪)であり、(8)〔我想の〕思量()であり、(9)〔心の〕高揚(掉挙)であり、(10)無明です。これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの十の束縛するものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 心の鬱積の経

 

14. 「比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第一の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い……略……(3)僧団にたいし、疑い……略……(4)学びにたいし、疑い……略……(5)梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 彼には、どのような五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有るのですか。(6)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(8)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(9)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。……略……(10)或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶が断絶されていないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、黒分(月が欠ける期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶が断絶されていないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑わず……略……(3)僧団にたいし、疑わず……略……(4)学びにたいし、疑わず……略……(5)梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 彼には、どのような五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有るのですか。(6)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(8)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(9)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みません。……略……(10)或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みません。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩まないなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、白分(月が満ちる期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 不放逸の経

 

15. 「(1)比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。

 

 (2)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。

 

 (3)比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に向かい行くものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。

 

 (4)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、根の香りであるなら、黒の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (5)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (6)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、花の香りであるなら、ヴァッシカ(ジャスミン)が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (7)比丘たちよ、それは、たとえば、また、彼らが誰であれ、小なる王たちは、彼らの全てが、転輪王に従い行く者たちと成り、転輪王が、彼らのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (8)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の星の形態あるものの光は、それらの全てが、月の光の十六分の一にも値せず、月の光が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (9)比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 (10)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらの全てが、海に至り、海に向かい行き、海に傾倒し、海に傾斜し、大海が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

16. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)たちです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、(2)独覚であり、(3)両部の解脱者であり、(4)智慧による解脱者であり、(5)身体による実証者であり、(6)〔正しい〕見解に至り得た者であり、(7)信による解脱者であり、(8)信に従い行く者であり、(9)法(教え)に従い行く者であり、(10)〔新たな〕種姓と成る者です。比丘たちよ、まさに、これらの十の人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)たちです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の庇護者の経

 

17. 「比丘たちよ、庇護者を有する者たちとして〔世に〕住みなさい──庇護者なき者たちではなく。比丘たちよ、庇護者なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、十のものがあります。これらの庇護者を作り為す法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有るなら……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの……略……為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住むなら──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、気づきある者として〔世に〕有るなら──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有るなら──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 比丘たちよ、庇護者を有する者たちとして〔世に〕住みなさい──庇護者なき者たちではなく。比丘たちよ、庇護者なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの十の庇護者を作り為す法(性質)があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の庇護者の経

 

18. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、庇護者を有する者たちとして〔世に〕住みなさい──庇護者なき者たちではなく。比丘たちよ、庇護者なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、十のものがあります。これらの庇護者を作り為す法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。『まさに、この比丘は、戒ある者であり、戒条による統御によって統御された者として、〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶ』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。『まさに、この比丘は、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者である──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。『まさに、この比丘は、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。『まさに、この比丘は、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。『まさに、この比丘は、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。『まさに、この比丘は、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律において、秀逸なる歓喜ある者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。『まさに、この比丘は、精進に励む者として〔世に〕住む──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。『まさに、この比丘は、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。『まさに、この比丘は、気づきある者である──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。『まさに、この比丘は、智慧ある者である──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者である』と、彼のことを、説かれるべき者と、教示されるべき者と、長老の比丘たちもまた思い考え……中堅の比丘たちもまた……説かれるべき者と、教示されるべき者と、新参の比丘たちもまた思い考えます。長老〔の比丘〕たちによって慈しまれ、中堅〔の比丘〕たちによって慈しまれ、新参〔の比丘〕たちによって慈しまれた、その〔比丘〕には、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

 

 比丘たちよ、庇護者を有する者たちとして〔世に〕住みなさい──庇護者なき者たちではなく。比丘たちよ、庇護者なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの十の庇護者を作り為す法(性質)があります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の聖者の居住の経

 

19. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの聖者の居住です。すなわち、聖者たちが、あるいは、〔かつて〕居住し、あるいは、〔今現在も〕居住し、あるいは、〔これからも〕居住するであろう、〔これらの居住です〕。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)五つの支分を捨棄した者として、(2)六つの支分を具備した者として、(3)一つの守護ある者として、(4)四つの依託ある者として、(5)各自の真理を除去した者として、(6)探し求めることを正しく完全に放棄した者として、(7)混濁なき思惟ある者として、(8)身体の形成〔作用〕を静息した者として、(9)善く解脱した心の者として、(10)善く解脱した智慧の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の聖者の居住があります。すなわち、聖者たちが、あるいは、〔かつて〕居住し、あるいは、〔今現在も〕居住し、あるいは、〔これからも〕居住するであろう、〔これらの居住です〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の聖者の居住の経

 

20. 或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。……略……。

 

 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの聖者の居住です。すなわち、聖者たちが、あるいは、〔かつて〕居住し、あるいは、〔今現在も〕居住し、あるいは、〔これからも〕居住するであろう、〔これらの居住です〕。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)五つの支分を捨棄した者として、(2)六つの支分を具備した者として、(3)一つの守護ある者として、(4)四つの依託ある者として、(5)各自の真理を除去した者として、(6)探し求めることを正しく完全に放棄した者として、(7)混濁なき思惟ある者として、(8)身体の形成〔作用〕を静息した者として、(9)善く解脱した心の者として、(10)善く解脱した智慧の者として、〔世に〕有ります。

 

 (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、気づきの守護ある思欲を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有ります。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有ります。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘にとって、すなわち、それらの、多々なる沙門や婆羅門たちにとっての多々なる各自の真理が──それは、すなわち、この、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と──それらの全てが、除かれたものと成り、除去されたものと〔成り〕、捨てられたものと〔成り〕、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有ります。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕の探し求めが捨棄されたものと成り、〔迷いの〕生存の探し求めが捨棄されたものと成り、〔利得のための〕梵行の探し求めが安息しています。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有ります。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘にとって、欲望の思惟が捨棄されたものと成り、憎悪の思惟が捨棄されたものと成り、悩害の思惟が捨棄されたものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有ります。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有ります。

 

 (9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、貪欲()から解脱した心が有り、憤怒()から解脱した心が有り、迷妄()から解脱した心が有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有ります。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『わたしの、貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、憤怒は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、迷妄は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、聖者たちが、諸々の聖者の居住を居住したなら、彼らの全てが、まさしく、これらの十の聖者の居住を居住しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、聖者たちが、諸々の聖者の居住を居住するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの十の聖者の居住を居住するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、聖者たちが、諸々の聖者の居住を居住するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの十の聖者の居住を居住します。比丘たちよ、まさに、これらの十の聖者の居住があります。すなわち、聖者たちが、あるいは、〔かつて〕居住し、あるいは、〔今現在も〕居住し、あるいは、〔これからも〕居住するであろう、〔これらの居住です〕」と。〔以上が〕第十となる。

 

 庇護者の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、臥坐所、五つの支分、束縛するものがあり、そして、鬱積とともに、不放逸、〔供物を〕捧げられるべき者、二つの庇護者、二つの聖者の居住があり、〔章となる〕」と。

 

3. 大いなるものの章

 

1. 獅子吼の経

 

21. 「比丘たちよ、獣の王たる獅子は、夕刻時に、巣から出立します。巣から出立して、〔身体を〕屈伸します。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回します。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫びます。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行きます。それは、何を因とするのですか。『平坦ならざるところを赴く小さな命あるものにたいし、わたしが殺害を犯すことがあってはならない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、『獅子』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘たちよ、すなわち、まさに、如来が、衆に、法(教え)を説示するなら、これは、彼にとって、獅子吼として有ります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。これらの、如来にとって、如来の力となるものです。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、如来は、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為()の受持の報い(異熟)を、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、他の有情たちと他の人たちの機能()の上下あることを、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十の、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 教説の経

 

22. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、すなわち、それらの法(性質)が、それら〔の教説ある者たち〕、それらの教説ある者たちの、証知(神知・神通)による実証のために等しく転起するなら、アーナンダよ、わたしは、そこにおいて、〔道の〕熟達者として明言します。そのとおり、そのとおりに、実践する者が、あるいは、存在しているものを、『存在する』と知ることになり、あるいは、存在していないものを、『存在しない』と知ることになり、あるいは、下劣なるものを、『下劣なるものである』と知ることになり、あるいは、精妙なるものを、『精妙なるものである』と知ることになり、あるいは、有上なるものを、『有上なるものである』と知ることになり、あるいは、無上なるものを、『無上なるものである』と知ることになる、そのとおり、そのとおりに、それら〔の教説ある者たち〕、それらの教説ある者たちに、法(教え)を説示するために。また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、それが、あるいは、知るべきものであり、あるいは、見るべきものであり、あるいは、実証するべきものであるなら、そのとおり、そのとおりに、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、これは、諸々の知恵()のなかの無上なるものです。すなわち、この、その場、その場において、事実のとおりに知ることです。アーナンダよ、そして、『この知恵より、他の知恵で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない』と、わたしは説きます。

 

 アーナンダよ、十のものがあります。これらの、如来にとって、如来の力となるものです。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、十のものなのですか。(1)アーナンダよ、ここに、如来は、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、アーナンダよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (2)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (3)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (4)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (5)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (6)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (7)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (8)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (9)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。アーナンダよ、すなわち、また……略……アーナンダよ、これもまた……略……。

 

 (10)アーナンダよ、さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。アーナンダよ、すなわち、またなら、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を……略……実証して、成就して、〔世に〕住むなら、アーナンダよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 アーナンダよ、まさに、これらの十の、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 身体の経

 

23. 「比丘たちよ、身体によって捨棄されるべき諸々の法(性質)が存在します──言葉によって、ではなく。比丘たちよ、言葉によって捨棄されるべき諸々の法(性質)が存在します──身体によって、ではなく。比丘たちよ、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべき諸々の法(性質)が存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、身体によって捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか──言葉によって、ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、何らかの点で善ならざる〔行為〕を、身体によって犯した者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、随知して〔そののち〕、梵行を共にする識者たちは、このように言いました。『尊者は、まさに、何らかの点で善ならざる〔行為〕を、身体によって犯したのです。どうか、まさに、尊者は、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修めたまえ』と。彼は、随知して〔そののち〕、梵行を共にする識者たちによって説かれながら、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修めます。比丘たちよ、これらは、身体によって捨棄されるべき諸々の法(性質)と説かれます──言葉によって、ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、言葉によって捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか──身体によって、ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、何らかの点で善ならざる〔行為〕を、言葉によって犯した者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、随知して〔そののち〕、梵行を共にする識者たちは、このように言いました。『尊者は、まさに、何らかの点で善ならざる〔行為〕を、言葉によって犯したのです。どうか、まさに、尊者は、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修めたまえ』と。彼は、随知して〔そののち〕、梵行を共にする識者たちによって説かれながら、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修めます。比丘たちよ、これらは、言葉によって捨棄されるべき諸々の法(性質)と説かれます──身体によって、ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか。(1)比丘たちよ、貪欲は、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべきものです。(2)比丘たちよ、憤怒は……略……(3)迷妄は……(4)忿激は……(5)怨恨は……(6)偽装は……(7)加虐は……。(8)比丘たちよ、物惜は、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべきものです。

 

 (9)比丘たちよ、悪しきものたる嫉妬は、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべきものです。比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しきものたる嫉妬なのですか。比丘たちよ、ここに、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、富み栄えます。そこで、或るひとりの、あるいは、奴隷に、あるいは、近住者に、このような〔思い〕が有ります。『ああ、まさに、この、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、富み栄えるべきにあらず』と。また、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。そこで、或るひとりの、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、このような〔思い〕が有ります。『ああ、まさに、この尊者が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存するべきにあらず』と。比丘たちよ、これは、悪しきものたる嫉妬と説かれます。

 

 (10)比丘たちよ、悪しきものたる欲求は、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべきものです。比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しきものたる欲求なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、信なき者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「信ある者」と知るべきである』と欲求し、劣戒の者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「戒ある者」と知るべきである』と欲求し、少聞の者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「多聞の者」と知るべきである』と欲求し、社交を喜びとする者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「遠離の者」と知るべきである』と欲求し、怠惰の者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「精進に励む者」と知るべきである』と欲求し、気づきが忘却された者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「気づきが現起された者」と知るべきである』と欲求し、〔心が〕定められていない者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「〔心が〕定められた者」と知るべきである』と欲求し、智慧浅き者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「智慧ある者」と知るべきである』と欲求し、煩悩の滅尽なき者として〔世に〕存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを「煩悩の滅尽者」と知るべきである』と欲求します。比丘たちよ、これは、悪しきものたる欲求と説かれます。比丘たちよ、これらは、まさしく、身体によって捨棄されるべきでもなく、言葉によって〔捨棄されるべき〕でもなく、智慧によって見て、捨棄されるべき諸々の法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、その比丘を、貪欲が征服して〔思いのままに〕振る舞うなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して〔思いのままに〕振る舞うなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して〔思いのままに〕振る舞うからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して〔思いのままに〕振る舞うからである』と。

 

 比丘たちよ、もし、その比丘を、貪欲が征服して〔思いのままに〕振る舞うことがないなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して〔思いのままに〕振る舞うことがないなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して〔思いのままに〕振る舞うことがないからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して〔思いのままに〕振る舞うことがないからである』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. マハー・チュンダの経

 

24. 或る時のことです。尊者マハー・チュンダは、チェーティ〔国〕に住んでいます。サハジャーティ〔村〕において。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・チュンダに答えました。尊者マハー・チュンダは、こう言いました。

 

 「友よ、比丘が、知恵の論を説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住するなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住するなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住するからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住するからである』と。

 

 友よ、比丘が、修行の論を説いているとします。『身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住するなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住するなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住するからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住するからである』と。

 

 友よ、比丘が、そして、知恵の論を、さらに、修行の論を、説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る。身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住するなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住するなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住するからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住するからである』と。

 

 友よ、それは、たとえば、また、人が、まさしく、貧者として〔世に〕存しつつ、富者の論を説くようなものであり、まさしく、財産なき者として〔世に〕存しつつ、財産ある者の論を説くようなものであり、まさしく、財物なき者として〔世に〕存しつつ、財物ある者の論を説くようなものです。彼は、まさしく、何であれ、財産によって為すべきことが生起したとき、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、取り出すことができません。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この尊者は、まさしく、貧者として〔世に〕存しつつ、富者の論を説き、まさしく、財産なき者として〔世に〕存しつつ、財産ある者の論を説き、まさしく、財物なき者として〔世に〕存しつつ、財物ある者の論を説く。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、この尊者は、まさしく、何であれ、財産によって為すべきことが生起したとき、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、取り出すことができないからである』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、比丘が、そして、知恵の論を、さらに、修行の論を、説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る。身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住するなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住するなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住するからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知しない。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住するからである』と。

 

 友よ、比丘が、知恵の論を説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住することがないなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住することがないなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住することがないからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住することがないからである』と。

 

 友よ、比丘が、修行の論を説いているとします。『身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住することがないなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住することがないなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住することがないからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住することがないからである』と。

 

 友よ、比丘が、そして、知恵の論を、さらに、修行の論を、説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る。身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住することがないなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住することがないなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住することがないからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住することがないからである』と。

 

 友よ、それは、たとえば、また、人が、まさしく、富者として〔世に〕存しつつ、富者の論を説くようなものであり、まさしく、財産ある者として〔世に〕存しつつ、財産ある者の論を説くようなものであり、まさしく、財物ある者として〔世に〕存しつつ、財物ある者の論を説くようなものです。彼は、まさしく、何であれ、財産によって為すべきことが生起したとき、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、取り出すことができます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この尊者は、まさしく、富者として〔世に〕存しつつ、富者の論を説き、まさしく、財産ある者として〔世に〕存しつつ、財産ある者の論を説き、まさしく、財物ある者として〔世に〕存しつつ、財物ある者の論を説く。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、この尊者は、まさしく、何であれ、財産によって為すべきことが生起したとき、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、取り出すことができるからである』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、比丘が、そして、知恵の論を、さらに、修行の論を、説いているとします。『〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕知る。〔わたしは〕この法(事象)を〔あるがままに〕見る。身体を修めた者として、戒を修めた者として、心を修めた者として、智慧を修めた者として、〔わたしは〕存している』と。友よ、もし、その比丘を、貪欲が征服して止住することがないなら、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が征服して止住することがないなら、彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『すなわち、覚知している者に、貪欲が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、貪欲が征服して止住することがないからである。すなわち、覚知している者に、憤怒が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……悪しきものたる嫉妬が……悪しきものたる欲求が有ることなくあるように、そのように、この尊者は覚知する。なぜなら、そのように、この尊者を、悪しきものたる欲求が征服して止住することがないからである』」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 遍満の経

 

25. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの遍満の〔認識の〕場所(遍処)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。比丘たちよ、まさに、これらの十の遍満の〔認識の〕場所があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. カーリーの経

 

26. 或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。クララガラのパヴァッタ山において。そこで、まさに、クララガラ〔の住者〕たるカーリー女性在俗信者が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、クララガラ〔の住者〕たるカーリー女性在俗信者は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「尊き方よ、この〔言葉〕が、諸々の少女の問い(相応部・有偈篇・悪魔相応:悪魔の娘たちの経)において、世尊によって説かれました。

 

 〔すなわち〕『義(目的)の獲得を〔成就し〕、心臓(心)の寂静を〔成就し〕、愛しく快なる形態の軍団に勝利して、独り、わたしは瞑想しながら、〔真の〕安楽を随覚した。それゆえに、〔わたしは〕人と、友誼を為さない。誰とであれ、わたしに、友誼は成就しない』と。

 

 尊き方よ、いったい(※)、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。

 

※ PTS版により nu を補う。

 

 「(1)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、地の遍満への入定を最高とし、『義(目的)である』と発現させました。姉妹よ、まさに、地の遍満への入定を最高とするものたる、そのかぎりにおいて、世尊は、それを証知しました。世尊は、それを証知して、悦楽を見、危険を見、出離を見、道と道ならざるものの知見を見ました。それの、悦楽を見ることを因として、危険を見ることを因として、出離を見ることを因として、道と道ならざるものの知見を因として、義(目的)の獲得が、心臓の寂静が、見出されたものと成ります。

 

 (2)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、水の遍満への入定を最高とし……略……。(3)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、火の遍満への入定を最高とし……。(4)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、風の遍満への入定を最高とし……。(5)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、青の遍満への入定を最高とし……。(6)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、黄の遍満への入定を最高とし……。(7)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、赤の遍満への入定を最高とし……。(8)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、白の遍満への入定を最高とし……。(9)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、虚空の遍満への入定を最高とし……。(10)姉妹よ、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、識知〔作用〕の遍満への入定を最高とし、『義(目的)である』と発現させました。姉妹よ、まさに、識知〔作用〕の遍満への入定を最高とするものたる、そのかぎりにおいて、世尊は、それを証知しました。世尊は、それを証知して、悦楽を見、危険を見、出離を見、道と道ならざるものの知見を見ました。それの、悦楽を見ることを因として、危険を見ることを因として、出離を見ることを因として、道と道ならざるものの知見を因として、義(目的)の獲得が、心臓の寂静が、見出されたものと成ります。姉妹よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、諸々の少女の問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 〔すなわち〕『義(目的)の獲得を〔成就し〕、心臓の寂静を〔成就し〕、愛しく快なる形態の軍団に勝利して、独り、わたしは瞑想しながら、〔真の〕安楽を随覚した。それゆえに、〔わたしは〕人と、友誼を為さない。誰とであれ、わたしに、友誼は成就しない』と。

 

 姉妹よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の大いなる問いの経

 

27. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 「友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、一切の法(事象)を証知しなさい。一切の法(事象)を証知して〔世に〕住みなさい』と。友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、さあ、あなたたちは、一切の法(事象)を証知しなさい。一切の法(事象)を証知して〔世に〕住みなさい』と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしたちに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 『友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、一切の法(事象)を証知しなさい。一切の法(事象)を証知して〔世に〕住みなさい」と。友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「友よ、さあ、あなたたちは、一切の法(事象)を証知しなさい。一切の法(事象)を証知して〔世に〕住みなさい」と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。

 

 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、一つの問いがあり、一つの誦説(概説)があり、一つの説き明かしがありますか。二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがありますか。三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがありますか。四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがありますか。五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがありますか。六つの問いがあり、六つの誦説があり、六つの説き明かしがありますか。七つの問いがあり、七つの誦説があり、七つの説き明かしがありますか。八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがありますか。九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがありますか。十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがありますか』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

 (1)『一つの問いがあり、一つの誦説(概説)があり、一つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、『一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである』と、まさに、この、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (2)『二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、二つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、二つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、そして、名前()であり、さらに、形態()であり、まさに、これらの二つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (3)『三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、三つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、三つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、三つの感受(三受)であり、まさに、これらの三つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (4)『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、四つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、四つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、四つの食(四食)であり、まさに、これらの四つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (5)『五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、五つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、五つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)であり、まさに、これらの五つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (6)『六つの問いがあり、六つの誦説があり、六つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、六つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)であり、まさに、これらの六つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『六つの問いがあり、六つの誦説があり、六つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (7)『七つの問いがあり、七つの誦説があり、七つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、七つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、七つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、七つの識知〔作用〕の止住(七識住)であり、まさに、これらの七つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『七つの問いがあり、七つの誦説があり、七つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (8)『八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、八つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、八つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、八つの世の法(八世間法)であり、まさに、これらの八つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (9)『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、九つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、九つの有情の居住所(九有情居)であり、まさに、これらの九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (10)『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、十の法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、十の法(性質)なのですか。比丘たちよ、十の善ならざる行為の道(十不善業道)であり、まさに、これらの十の法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の大いなる問いの経

 

28. 或る時のことです。世尊は、カジャンガラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、大勢のカジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちが、カジャンガリカー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、カジャンガリカー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、カジャンガリカー比丘尼に、こう言いました。

 

 「尊貴なる方よ、この〔言葉〕が、諸々の大いなる問いについて、世尊によって説かれました。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります。二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります。三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります。四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります。五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります。六つの問いがあり、六つの誦説があり、六つの説き明かしがあります。七つの問いがあり、七つの誦説があり、七つの説き明かしがあります。八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります。九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります。十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と。尊貴なる方よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。

 

 「友よ、また、まさに、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはなく、意を修めることができる比丘たちの、面前で聞き、面前で受けたこともまたありません。しかしながら、また、すなわち、ここにおいて、わたしの思うところとして、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、カジャンガリカー比丘尼に答えました。カジャンガリカー比丘尼は、こう言いました。

 

 「(1)『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。友よ、『一切の有情たちは、食に立脚する者たちである』と、まさに、この、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (2)『二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、二つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、二つの法(性質)なのですか。友よ、そして、名前であり、さらに、形態であり……略……。(3)どのようなものが、三つの法(性質)なのですか。友よ、三つの感受であり、まさに、これらの三つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (4)『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、四つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、四つの法(性質)なのですか。友よ、四つの気づきの確立(四念処四念住)であり、まさに、これらの四つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (5)『五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、五つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、五つの法(性質)なのですか。友よ、五つの機能(五根)であり……略……。(6)どのようなものが、六つの法(性質)なのですか。友よ、六つの出離するべき界域(六出離界)であり……略……。(7)どのようなものが、七つの法(性質)なのですか。友よ、七つの覚りの支分(七覚支)であり……略……。(8)どのようなものが、八つの法(性質)なのですか。友よ、八つの聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)であり、まさに、これらの八つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極六を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (9)『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、九つの法(性質)なのですか。友よ、九つの有情の居住所であり、まさに、これらの九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (10)『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、十の法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、十の法(性質)なのですか。友よ、十の善なる行為の道(十善業道)であり、まさに、これらの十の法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 友よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、諸々の大いなる問いについて、世尊によって説かれました。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります。……略……。十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、まさに、カジャンガリカー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、カジャンガリカー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、すなわち、カジャンガリカー比丘尼を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「家長たちよ、善きかな、善きかな。家長たちよ、カジャンガリカー比丘尼は、賢者です。家長たちよ、カジャンガリカー比丘尼は、大いなる智慧ある者です。家長たちよ、もし、また、あなたたちが、近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、そして、わたしもまた、これを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、カジャンガリカー比丘尼によって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、その〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一のコーサラ〔国〕の経

 

29. 「(1)比丘たちよ、すなわち、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕があるかぎり、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土があるかぎり、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、至高の者と告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (2)比丘たちよ、すなわち、月と日が、〔天空を〕行き渡り、方々に遍照しながら光り輝くかぎり、そのかぎりが、千種の世となります。その千種の世において、千の月があり、千の日があり、千の山の王たるシネール(須弥山)があり、千のジャンブ・ディーパ(南贍部洲・閻浮提)があり、千のアパラ・ゴーヤーナ(西牛貨洲)があり、千のウッタラ・クル(北倶廬洲)があり、千のプッバ・ヴィデーハ(東勝身洲)があり、四つの千の大海があり、四つの千の大王があり、千の四大王〔天〕があり、千の三十三〔天〕があり、千の耶摩〔天〕があり、千の兜率〔天〕があり、千の化楽〔天〕があり、千の他化自在〔天〕があり、千の梵の世があります。比丘たちよ、すなわち、千の世の界域があるかぎり、そこにおいて、大いなる梵〔天〕は、至高の者と告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、大いなる梵〔天〕にもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (3)比丘たちよ、すなわち、この世が展転する、その時と成ります。比丘たちよ、世が展転しているとき、多くのところとして、有情たちは、光音〔天〕に等しく転起する者たちと成ります。彼らは、そこにおいて、意によって作られる者たちとして、喜悦を食物とする者たちとして、自ら光輝ある者たちとして、空中を歩む者たちとして、浄美なる境位ある者たちとして、〔世に〕有り、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住します。比丘たちよ、世が展転しているとき、光音天〔の神々〕たちは、至高の者たちと告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、光音天〔の神々〕たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (4)比丘たちよ、十のものがあります。これらの遍満の〔認識の〕場所(遍処)です。どのようなものが、十のものなのですか。(4─1)或る者は、地の遍満を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(4─2)或る者は、水の遍満を……略……表象します。(4─3)或る者は、火の遍満を……表象します。(4─4)或る者は、風の遍満を……表象します。(4─5)或る者は、青の遍満を……表象します。(4─6)或る者は、黄の遍満を……表象します。(4─7)或る者は、赤の遍満を……表象します。(4─8)或る者は、白の遍満を……表象します。(4─9)或る者は、虚空の遍満を……表象します。(4─10)或る者は、識知〔作用〕の遍満を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。比丘たちよ、まさに、これらの十の遍満の〔認識の〕場所があります。

 

 比丘たちよ、これらの十の遍満の〔認識の〕場所のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、識知〔作用〕の遍満を、或る者が、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象するなら。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (5)比丘たちよ、八つのものがあります。これらの征服ある〔認識の〕場所(勝処)です。どのようなものが、八つのものなのですか。(5─1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5─8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの征服ある〔認識の〕場所があります。

 

 比丘たちよ、これらの八つの征服ある〔認識の〕場所のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、内に形態の表象なき者として、或る者が、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見、〔彼が〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (6)比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。(6─1)苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、(6─2)苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、(6─3)楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、(6─4)楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります。

 

 比丘たちよ、これらの四つの〔実践の〕道のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。比丘たちよ、まさに、このような〔実践の〕道ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような〔実践の〕道ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (7)比丘たちよ、四つのものがあります。これらの表象です。どのようなものが、四つのものなのですか。(7─1)或る者は、微小なるものを表象します。(7─2)或る者は、莫大なるものを表象します。(7─3)或る者は、無量なるものを表象します。(7─4)或る者は、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を表象します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの表象があります。

 

 比丘たちよ、これらの四つの表象のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、『何であれ、存在しない』と、或る者が、無所有なる〔認識の〕場所を表象するなら。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような表象ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (8)比丘たちよ、諸々の外部の悪しき見解のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』という〔見解です〕。比丘たちよ、このような見解ある者には、このことが期待できます──かつまた、すなわち、この、生存にたいし嫌悪なきことも、そして、それも、彼には有ることなくあるであろうし、かつまた、すなわち、この、生存にたいし嫌悪あることも、そして、それも、彼には有ることなくあるであろう、という、〔このことが〕。比丘たちよ、まさに、このような見解ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような見解ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (9)比丘たちよ、最高の義(勝義)の清浄を〔人々に〕報知する、或る沙門や婆羅門たちが存在します。比丘たちよ、最高の義(道理)の清浄を〔人々に〕報知する者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して、〔彼が、世に〕住むなら。彼らは、それを証知して、それの実証のために、法(教え)を説示します。比丘たちよ、まさに、このような論ある有情たちもまた存在します。比丘たちよ、まさに、このような論ある有情たちにもまた、まさしく、他化が存在し、変化が存在します。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、それにたいしてもまた厭離します。その至高のものにたいし厭離している者は、離貪します。ましてや、下劣なるものについては〔言うまでもありません〕。

 

 (10)比丘たちよ、最高の所見の法(現世)における涅槃を〔人々に〕報知する、或る沙門や婆羅門たちが存在します。比丘たちよ、最高の所見の法(現世)における涅槃を〔人々に〕報知する者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして〔到達する〕解脱です。比丘たちよ、まさに、このように説き、このように告げ知らせる、わたしを、或る沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『沙門ゴータマは、諸々の欲望の遍知を報知せず、諸々の形態の遍知を報知せず、諸々の感受の遍知を報知しない』と。比丘たちよ、わたしは、そして、諸々の欲望の遍知を報知し、かつまた、諸々の形態の遍知を報知し、さらに、諸々の感受の遍知を報知し、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、〔何も〕執取せずして、完全なる涅槃を報知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二のコーサラ〔国〕の経

 

30. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、戦いから戻り、戦場を征圧し、志向するものを得た者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、いったい、まさに、どこに、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか。尊き方たちよ、まさに、わたしどもは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することを欲しています」と。「大王よ、この、戸が閉まっている精舎です。そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩いてください。世尊は、あなたのために、戸を開くでしょう」と。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、その、戸が閉まっている精舎のあるところに、そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。世尊は、戸を開きました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、精舎に入って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です。尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」と。

 

 「大王よ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、この肉体にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示すのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、恩を知る者たることを、恩を感じる者たることを、正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (1)尊き方よ、なぜなら、世尊は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、実践する者であり、多くの人々を聖なる正理において確立させる者であるからです──すなわち、この、善き法(性質)たることのために、善なる法(性質)たることのために。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、実践する者であり、多くの人々を聖なる正理において確立させる者であり──すなわち、この、善き法(性質)たることのために、善なる法(性質)たることのために──尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (2)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者であるからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者であり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (3)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、長夜にわたり、林にある者であり、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、長夜にわたり、林にある者であり、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するのであり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (4)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者であるからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者であり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (5)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑であるからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑であり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (6)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であるからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (7)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であるからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (8)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからです。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのであり、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのであり、尊き方よ、すなわち、また、世尊は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのであり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (9)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るからです。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するからです。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るからです。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのであり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 (10)尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むからです。尊き方よ、すなわち、また、世尊は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を……略……実証して、成就して、〔世に〕住むのであり、尊き方よ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以をもまた正しく見ながら、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示します。

 

 尊き方よ、では、さあ、今や、わたしどもは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去った、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「獅子、教説があり、身体とともに、チュンダとともに、さらに、遍満とともに、そして、カーリー、二つの大いなる問いがあり、他に、二つのコーサラ〔国〕とともに、〔章となる〕」と。

 

4. ウパーリの章

 

1. ウパーリの経

 

31. そこで、まさに、尊者ウパーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちのために、学びの境処(戒律)が制定され、戒条(波羅提木叉:戒律条項)が指定されたのですか」と。

 

 「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちのために、学びの境処が制定され、戒条が指定されました。どのようなものが、十のものなのですか。(1)僧団の善良なることのために、(2)僧団の平穏なることのために、(3)極めて〔心を〕惑わす人たちの制御のために、(4)博愛なる比丘たちの平穏の住のために、(5)所見の法(現世)のものたる諸々の煩悩の統御のために、(6)未来のものたる諸々の煩悩の防御のために、(7)清信していない者たちの清信のために、(8)清信している者たちのより一層の状態のために、(9)正なる法(教え)の止住のために、(10)律の資助のために。ウパーリよ、まさに、これらの十の義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちのために、学びの境処が制定され、戒条が指定されました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 戒条の捨置の経

 

32. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの戒条の捨置(一時停止)があるのですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕戒条の捨置です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)〔僧団追放に値する〕極罪(波羅夷)の者が、その衆において、坐った状態でいます。(2)〔僧団追放に値する〕極罪についての議論が、〔いまだ〕決着なく有ります。(3)〔戒を〕成就していない者が、その衆において、坐った状態でいます。(4)〔戒を〕成就していないことについての議論が、〔いまだ〕決着なく有ります。(5)学びを拒絶した者が、その衆において、坐った状態でいます。(6)学びを拒絶したことについての議論が、〔いまだ〕決着なく有ります。(7)性機能不全者が、その衆において、坐った状態でいます。(8)性機能不全者についての議論が、〔いまだ〕決着なく有ります。(9)比丘尼を汚す者が、その衆において、坐った状態でいます。(10)比丘尼を汚す者についての議論が、〔いまだ〕決着なく有ります。ウパーリよ、これらの十の戒条の捨置があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 裁決者の経

 

33. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した比丘が、裁決者として選出されるべきですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した比丘が、裁決者として選出されるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)また、まさに、彼の、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(4)また、まさに、律において、安立した者として、動かしようのない者として、〔世に〕有ります。(5)義(利益)ある者と義(利益)に反する者の両者を説得し覚知させ納得させ見察させ清信させる能力ある者として〔世に〕有ります。(6)問題の生起と寂止に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。(7)問題を知ります。(8)問題の集起を知ります。(9)問題の止滅を知ります。(10)問題の止滅に至る〔実践の〕道を知ります。ウパーリよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘が、裁決者として選出されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 〔戒の〕成就の経

 

34. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した比丘によって、〔戒が〕成就させられるべきですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、〔戒が〕成就させられるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)また、まさに、彼の、戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(4)病者に、あるいは、奉仕し、あるいは、〔誰かに〕奉仕させる、能力ある者として〔世に〕有ります。(5)〔梵行に〕喜び楽しみなきことを、あるいは、遠く退け、あるいは、〔誰かに〕遠く退けさせる、能力ある者として〔世に〕有ります。(6)生起した悔恨を、法(教え)〔の観点〕から除き去る能力ある者として〔世に〕有ります。(7)生起した悪しき見解を、法(教え)〔の観点〕から遠離させる能力ある者として〔世に〕有ります。(8)卓越の戒を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。(9)卓越の心(瞑想)を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。(10)卓越の智慧を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。ウパーリよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘によって、〔戒が〕成就させられるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 依所の経

 

35. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した比丘によって、依所が与えられるべきですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、依所が与えられるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)また、まさに、彼の、戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(4)病者に、あるいは、奉仕し、あるいは、〔誰かに〕奉仕させる、能力ある者として〔世に〕有ります。(5)〔梵行に〕喜び楽しみなきことを、あるいは、遠く退け、あるいは、〔誰かに〕遠く退けさせる、能力ある者として〔世に〕有ります。(6)生起した悔恨を、法(教え)〔の観点〕から除き去る能力ある者として〔世に〕有ります。(7)生起した悪しき見解を、法(教え)〔の観点〕から遠離させる能力ある者として〔世に〕有ります。(8)卓越の戒を……略……。(9)卓越の心を……略……。(10)卓越の智慧を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。ウパーリよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘によって、依所が与えられるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 沙弥の経

 

36. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した比丘によって、沙弥が任じられるべきですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、沙弥が任じられるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)また、まさに、彼の、戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(4)病者に、あるいは、奉仕し、あるいは、〔誰かに〕奉仕させる、能力ある者として〔世に〕有ります。(5)〔梵行に〕喜び楽しみなきことを、あるいは、遠く退け、あるいは、〔誰かに〕遠く退けさせる、能力ある者として〔世に〕有ります。(6)生起した悔恨を、法(教え)〔の観点〕から除き去る能力ある者として〔世に〕有ります。(7)生起した悪しき見解を、法(教え)〔の観点〕から遠離させる能力ある者として〔世に〕有ります。(8)卓越の戒を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。(9)卓越の心を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。(10)卓越の智慧を受持させる能力ある者として〔世に〕有ります。ウパーリよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘によって、沙弥が任じられるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 僧団の分裂の経

 

37. 「尊き方よ、『僧団の分裂』『僧団の分裂』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、僧団が分裂することと成るのですか」と。「ウパーリよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)である』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)ならざるものである』と提示します。(3)律ならざるものを『律である』と提示します。(4)律を『律ならざるものである』と提示します。(5)如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。(6)如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。(7)如来によって習行されていないものを『如来によって習行されたものである』と提示します。(8)如来によって習行されたものを『如来によって習行されていないものである』と提示します。(9)如来によって報知されていないものを『如来によって報知されたものである』と提示します。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。彼らは、これらの十の基盤によって、退去し、離住し、独自に諸々の行為を為し、独自に戒条を誦説します。ウパーリよ、このことから、まさに、僧団が分裂することと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 僧団の和合の経

 

38. 「尊き方よ、『僧団の和合』『僧団の和合』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、僧団が和合のものと成るのですか」と。「ウパーリよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)ならざるものである』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)である』と提示します。(3)律ならざるものを『律ならざるものである』と提示します。(4)律を『律である』と提示します。(5)如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。(6)如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。(7)如来によって習行されていないものを『如来によって習行されていないものである』と提示します。(8)如来によって習行されたものを『如来によって習行されたものである』と提示します。(9)如来によって報知されていないものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されたものである』と提示します。彼らは、これらの十の基盤によって、退去せず、離住せず、独自に諸々の行為を為さず、独自に戒条を誦説しません。ウパーリよ、このことから、まさに、僧団が和合のものと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一のアーナンダの経

 

39. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『僧団の分裂』『僧団の分裂』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、僧団が分裂することと成るのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)である』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)ならざるものである』と提示します。(3)律ならざるものを『律である』と提示します。(4・5・6・7・8・9)……略……。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。彼らは、これらの十の基盤によって、退去し、離住し、独自に諸々の行為を為し、独自に戒条を誦説します。アーナンダよ、このことから、まさに、僧団が分裂することと成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、和合の僧団を分裂させて、彼は、何を生み出すのですか」と。「アーナンダよ、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ止住する罪障を生み出します」と。「尊き方よ、また、何が、カッパのあいだ止住する罪障なのですか」と。「アーナンダよ、カッパのあいだ、地獄において煮られます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「僧団を分裂させる者は、悪所にある者となり、地獄にある者となり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者となる(一劫のあいだ地獄に住む)。党派を喜びとする者は、法(正義)ならざるものに依って立つ者である。〔彼は〕束縛からの平安〔という無上なるもの〕から転落し、和合の僧団を分裂させて、カッパのあいだ、地獄において煮られる」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二のアーナンダの経

 

40. 「尊き方よ、『僧団の和合』『僧団の和合』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、僧団が和合のものと成るのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)ならざるものである』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)である』と提示します。(3)律ならざるものを『律ならざるものである』と提示します。(4)律を『律である』と提示します。(5)如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。(6)如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。(7)如来によって習行されていないものを『如来によって習行されていないものである』と提示します。(8)如来によって習行されたものを『如来によって習行されたものである』と提示します。(9)如来によって報知されていないものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されたものである』と提示します。彼らは、これらの十の基盤によって、退去せず、離住せず、独自に諸々の行為を為さず、独自に戒条を誦説しません。アーナンダよ、このことから、まさに、僧団が和合のものと成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、分裂した僧団を和合のものと為して、彼は、何を生み出すのですか」と。「アーナンダよ、梵の功徳を生み出します」と。「尊き方よ、また、何が、梵の功徳なのですか」と。「アーナンダよ、カッパのあいだ、天上において歓喜します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「安楽なるは、僧団の和合であり、さらに、和合者たちへの資助である。〔僧団の〕和合を喜ぶ者は、法(正義)に依って立つ者である。〔彼は〕束縛からの平安〔という無上なるもの〕から転落せず、僧団を和合のもの為して、カッパのあいだ、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ウパーリの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ウパーリ、捨置、裁決者、〔戒の〕成就と依所、そして、沙弥、二つの分裂があり、他に、二つのアーナンダとともに、〔章となる〕」と。

 

5. 罵倒の章

 

1. 論争の経

 

41. そこで、まさに、尊者ウパーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、僧団において、諸々の言争(いいあらそい)や紛争や口論や論争が生起し、そして、比丘たちは、平穏のうちに〔世に〕住まないのですか」と。「ウパーリよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)である』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)ならざるものである』と提示します。(3)律ならざるものを『律である』と提示します。(4)律を『律ならざるものである』と提示します。(5)如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。(6)如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。(7)如来によって習行されていないものを『如来によって習行されたものである』と提示します。(8)如来によって習行されたものを『如来によって習行されていないものである』と提示します。(9)如来によって報知されていないものを『如来によって報知されたものである』と提示します。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。ウパーリよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、僧団において、諸々の言争や紛争や口論や論争が生起し、そして、比丘たちは、平穏のうちに〔世に〕住みません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の論争の根元の経

 

42. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの論争の根元があるのですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕論争の根元です。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘たちが、(1)法(教え)ならざるものを『法(教え)である』と提示します。(2)法(教え)を『法(教え)ならざるものである』と提示します。(3)律ならざるものを『律である』と提示します。(4)律を『律ならざるものである』と提示します。(5)如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。(6)如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。(7)如来によって習行されていないものを『如来によって習行されたものである』と提示します。(8)如来によって習行されたものを『如来によって習行されていないものである』と提示します。(9)如来によって報知されていないものを『如来によって報知されたものである』と提示します。(10)如来によって報知されたものを『如来によって報知されていないものである』と提示します。ウパーリよ、まさに、これらの十の論争の根元があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の論争の根元の経

 

43. 「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの論争の根元があるのですか」と。「ウパーリよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕論争の根元です。どのようなものが、十のものなのですか。ウパーリよ、ここに、比丘たちが、(1)罪ならざるものを『罪である』と提示します。(2)罪を『罪ならざるものである』と提示します。(3)軽い罪を『重い罪である』と提示します。(4)重い罪を『軽い罪である』と提示します。(5)粗悪なる罪を『粗悪ならざる罪である』と提示します。(6)粗悪ならざる罪を『粗悪なる罪である』と提示します。(7)残余を有する罪を『残余なき罪である』と提示します。(8)残余なき罪を『残余を有する罪である』と提示します。(9)懺悔を有する罪を『懺悔なき罪である』と提示します。(10)懺悔なき罪を『懺悔を有する罪である』と提示します。ウパーリよ、まさに、これらの十の論争の根元があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. クシナーラーの経

 

44. 或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。バリハラナの密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。

 

 「比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、五つの法(性質)を注視して、内に、五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。どのような五つの法(性質)が、内に注視されるべきですか。(1)比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕完全なる清浄の身体の励行ある者として〔世に〕存しているのか。〔わたしは〕瑕疵なく過失なき完全なる清浄の身体の励行を具備した者として〔世に〕存しているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、完全なる清浄の身体の励行ある者として、瑕疵なく過失なき完全なる清浄の身体の励行を具備した者として、〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、身体についてのものを学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕完全なる清浄の言葉の励行ある者として〔世に〕存しているのか。〔わたしは〕瑕疵なく過失なき完全なる清浄の言葉の励行を具備した者として〔世に〕存しているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、瑕疵なく過失なき完全なる清浄の言葉の励行を具備した者として、〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、言葉についてのものを学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、わたしに、梵行を共にする者たちにたいし憤懣〔の思い〕なき慈愛の心が現起されているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし憤懣〔の思い〕なき慈愛の心が現起されたものとして〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、梵行を共にする者たちにたいし慈愛の心を現起させたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕存しているのか──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、わたしには、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ることがないなら──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、聖教を遍く学得したまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『また、まさに、わたしの、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有るのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘の、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ることがないなら、『尊者よ、また、この〔言葉〕は、世尊によって、どこにおいて説かれたのですか』と、かくのごとく尋ねられ、解答しないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、律を学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。これらの五つの法(性質)が、内に注視されるべきです。

 

 どのような五つの法(性質)が、内に現起されるべきですか。『(6)〔正しい〕時に、〔わたしは〕説くのだ──〔正しい〕時ならずに、ではなく』『(7)事実によって、〔わたしは〕説くのだ──事実ならざることによって、ではなく』『(8)優しい〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく』『(9)義(道理)を伴った〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく』『(10)慈愛の心ある者として、〔わたしは〕説くのだ──憤怒を内にする者として、ではなく』と、これらの五つの法(性質)が、内に現起されるべきです。比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、これらの五つの法(性質)を注視して、内に、これらの五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 王の内宮に入ることの経

 

45. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの、王の内宮に入ることにおける危険です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、王が、王妃と共に、坐った状態でいます。そこに、比丘が入り、あるいは、王妃が比丘を見て、笑みを浮かべ、あるいは、比丘が王妃を見て、笑みを浮かべます。そこにおいて、王に、このような〔思いが〕有ります。『たしかに、これらの者たちには、あるいは、〔何かが〕為され、あるいは、〔何かを〕為すであろう』と。比丘たちよ、これは、第一の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、王は、多くの義務があり、多くの用事があり、或るひとりの婦女のもとに赴いても、〔そのことを〕思い出しません。彼女は、彼によって妊娠します。そこにおいて、王に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、出家者より他に、他の誰であれ、ここに入ることはない。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第二の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、王の内宮における宝物が消失します。そこにおいて、王に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、出家者より他に、他の誰であれ、ここに入ることはない。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第三の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、王の内宮における内部の密事が外に露見します。そこにおいて、王に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、出家者より他に、他の誰であれ、ここに入ることはない。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第四の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、王の内宮において、あるいは、父が子〔の死〕を望み、あるいは、子が父〔の死〕を望みます。そこにおいて、王に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、出家者より他に、他の誰であれ、ここに入ることはない。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第五の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、王が、低き地位にある者を、高き地位に据え置きます。すなわち、それが意に適わない、それらの者たちに、このような〔思いが〕有ります。『王は、まさに、出家者と交わりがある。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第六の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、王が、高き地位にある者を、低き地位に据え置きます。すなわち、それが意に適わない、それらの者たちに、このような〔思いが〕有ります。『王は、まさに、出家者と交わりがある。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第七の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、王が、軍団を〔正しい〕時ならずに送り出します。すなわち、それが意に適わない、それらの者たちに、このような〔思いが〕有ります。『王は、まさに、出家者と交わりがある。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第八の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、王が、軍団を〔正しい〕時に送り出して、道の中途から引き返させます。すなわち、それが意に適わない、それらの者たちに、このような〔思いが〕有ります。『王は、まさに、出家者と交わりがある。さてまた、まさに、出家者に〔悪しき〕行為が存するのでは』と。比丘たちよ、これは、第九の、王の内宮に入ることにおける危険です。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、王の内宮は、象の騒乱があり、馬の騒乱があり、車の騒乱があり、すなわち、出家者に適切ではない、諸々の貪るべき形態や音声や臭気や味感や感触があります。比丘たちよ、これは、第十の、王の内宮に入ることにおける危険です。比丘たちよ、まさに、これらの十の、王の内宮に入ることにおける危険があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 釈迦〔族〕の者たちの経

 

46. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の在俗信者たちが、斎戒(布薩)のその日、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕の在俗信者たちに、世尊は、こう言いました。「釈迦〔族〕の者たちよ、さて、いったい、あなたたちは、八つの支分を具備した斎戒に入りますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、八つの支分を具備した斎戒に、或る時にはまた入り、或る時にはまた入りません」と。「釈迦〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、このように、憂いの恐怖ある生命において、死の恐怖ある生命において、八つの支分を具備した斎戒に、或る時にはまた入り、或る時にはまた入らないなら、釈迦〔族〕の者たちよ、〔まさに〕その、あなたたちには、諸々の利得ならざることがあり、〔まさに〕その、〔あなたたち〕には、悪しく得られたものがあります。

 

 釈迦〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。ここに、人が、何らかの或る事業によって、善ならざることを惹起せずして、昼のあいだ、半カハーパナ(貨幣の単位)を稼ぐとします。『奮起を成就した能ある人』という言葉たるに十分なるものがありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「釈迦〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。ここに、人が、何らかの或る事業によって、善ならざることを惹起せずして、昼のあいだ、カハーパナを稼ぐとします。『奮起を成就した能ある人』という言葉たるに十分なるものがありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「釈迦〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。ここに、人が、何らかの或る事業によって、善ならざることを惹起せずして、昼のあいだ、二カハーパナを稼ぐとします。……三カハーパナを稼ぐとします。……四カハーパナを稼ぐとします。……五カハーパナを稼ぐとします。……六カハーパナを稼ぐとします。……七カハーパナを稼ぐとします。……八カハーパナを稼ぐとします。……九カハーパナを稼ぐとします。……十カハーパナを稼ぐとします。……二十カハーパナを稼ぐとします。……三十カハーパナを稼ぐとします。……四十カハーパナを稼ぐとします。……五十カハーパナを稼ぐとします。……百カハーパナを稼ぐとします。『奮起を成就した能ある人』という言葉たるに十分なるものがありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「釈迦〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。さてまた、いったい、その人は、昼のあいだ、昼のあいだ、百カハーパナを〔稼ぎ〕、千カハーパナを稼ぎながら、得られたもの得られたものを留置しながら、百年の寿命ある者となり、百年の生命ある者となり、大いなる財物の塊に到達するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「釈迦〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。さてまた、いったい、その人は、財物を因として、財物を因縁として、財物を事因として、あるいは、一つの夜のあいだ、あるいは、一つの昼のあいだ、あるいは、半分の夜のあいだ、あるいは、半分の昼のあいだ、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、諸々の欲望〔の対象〕は、無常であり、虚妄であり、虚偽であり、虚偽の法(性質)であるからです」と。

 

 「釈迦〔族〕の者たちよ、また、ここに、まさに、わたしの弟子として、十年のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、たかだか、十年のあいだです。

 

 ここに、わたしの弟子として、九年のあいだ……八年のあいだ……七年のあいだ……六年のあいだ……五年のあいだ……四年のあいだ……三年のあいだ……二年のあいだ……一年のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、たかだか、一年のあいだです。

 

 ここに、わたしの弟子として、十月のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、たかだか、十月のあいだです。

 

 ここに、わたしの弟子として、九月のあいだ……八月のあいだ……七月のあいだ……六月のあいだ……五月のあいだ……四月のあいだ……三月のあいだ……二月のあいだ……一月のあいだ……半月のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、たかだか、半月のあいだです。

 

 ここに、わたしの弟子として、十昼夜のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、たかだか、十昼夜のあいだです。

 

 ここに、わたしの弟子として、九昼夜のあいだ……八昼夜のあいだ……七昼夜のあいだ……六昼夜のあいだ……五昼夜のあいだ……四昼夜のあいだ……三昼夜のあいだ……二昼夜のあいだ……一昼夜のあいだ、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、すなわち、わたしによって教示された、そのとおりに実践しているなら、百年のあいだであろうが、百の百年のあいだであろうが、百の千年のあいだであろうが、一方的な安楽の得知ある者として〔世に〕住むでしょう。そして、彼は、まさに、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、あるいは、雑物なき預流たる者として、〔世に〕存するでしょう。釈迦〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、このように、憂いの恐怖ある生命において、死の恐怖ある生命において、八つの支分を具備した斎戒に、或る時にはまた入り、或る時にはまた入らないなら、〔まさに〕その、あなたたちには、諸々の利得ならざることがあり、〔まさに〕その、〔あなたたち〕には、悪しく得られたものがあります」と。「尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、今日以後、八つの支分を具備した斎戒に入ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. マハーリの経

 

47. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があるのですか」と。「(1)マハーリよ、まさに、貪欲()を因として、貪欲を縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります。(2)マハーリよ、まさに、憤怒()を因として、憤怒を縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります。(3)マハーリよ、まさに、迷妄()を因として、迷妄を縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります。(4)マハーリよ、まさに、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)を因として、根源のままならずに意を為すことを縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります。(5)マハーリよ、まさに、誤って向けられた心を因として、誤って向けられた心を縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります。マハーリよ、まさに、これを因として、これを縁として、悪しき行為の所作があり、悪しき行為の転起があります」と。

 

 「尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があるのですか」と。「(6)マハーリよ、まさに、貪欲なき〔あり方〕(無貪)を因として、貪欲なき〔あり方〕を縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。(7)マハーリよ、まさに、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)を因として、憤怒なき〔あり方〕を縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。(8)マハーリよ、まさに、迷妄なき〔あり方〕(無痴)を因として、迷妄なき〔あり方〕を縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。(9)マハーリよ、まさに、根源のままに意を為すこと(如理作意)を因として、根源のままに意を為すことを縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。(10)マハーリよ、まさに、正しく向けられた心を因として、正しく向けられた心を縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。マハーリよ、まさに、これを因として、これを縁として、善き行為の所作があり、善き行為の転起があります。マハーリよ、そして、これらの十の法(性質)が、世において等しく見出されないなら、ここに、あるいは、『法(正義)の行ないならざるゆえに不正の行ないである』と、あるいは、『法(正義)の行ないなるゆえに正義の行ないである』と、覚知されないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの十の法(性質)が、世において等しく見出されることから、それゆえに、あるいは、『法(正義)の行ないならざるゆえに不正の行ないである』と、あるいは、『法(正義)の行ないなるゆえに正義の行ないである』と、覚知されます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「出家者によって、幾度となく」の経

 

48. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの、出家者によって、幾度となく注視されるべき法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)『〔わたしは〕階級の外に到達した者として〔世に〕存している』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(2)『わたしの生計は、他者に縛られている(在家者たちに依拠している)』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(3)『わたしの為すべき営為は、〔在家者たちとは〕他のものである』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(4)『さてまた、どうであろう、まさに、わたしの自己が、戒〔の観点〕から批判しないだろうか』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(5)『さてまた、どうであろう、まさに、わたしのことを、随知して〔そののち〕、梵行を共にする識者たちが、戒〔の観点〕から批判しないだろうか』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(6)『わたしにとって、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となる』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(7)『〔わたしは〕行為()を自らのものとする者として、行為を相続する者として、行為を根源とする者として、行為を眷属とする者として、行為を帰依所とする者として、〔世に〕存している──その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔わたしが〕為すなら、その〔行為〕の相続者と成るのだ』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(8)『どのような状態にわたしはあり、諸々の昼夜は過ぎ行くのか』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(9)『さてまた、どうであろう、まさに、わたしは、空家を喜び楽しんでいるであろうか』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。(10)『さてまた、どうであろう、まさに、わたしに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、到達するところとなり、存在するであろうか。その〔知見〕によって、わたしは、最後の時に、梵行を共にする者たちに尋ねられたとして、愕然と成ることなくあるのだ』と、出家者によって、幾度となく注視されるべきです。比丘たちよ、これらの十の、出家者によって、幾度となく注視されるべき法(性質)があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 肉体に依って立つ法の経

 

49. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの肉体に依って立つ法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)寒さであり、(2)暑さであり、(3)飢えであり、(4)渇きであり、(5)大便であり、(6)小便であり、(7)身体の統御であり、(8)言葉の統御であり、(9)生計の統御であり、(10)さらなる生存あるものにして〔迷いの〕生存を形成する働きです。比丘たちよ、まさに、これらの十の肉体に依って立つ法(性質)があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 言争の経

 

50. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、言争(いいあらそい)を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐し参集しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます」と。「比丘たちよ、また、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むことです。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有るなら……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住むなら──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり──これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有るなら、これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、気づきある者として〔世に〕有るなら──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として──これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有るなら──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として──これもまた、記憶されるべき法(性質)となります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの十の記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 罵倒の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「論争、そして、二つの根元、クシナーラーと入ること、釈迦〔族〕の者たち、マハーリ、『幾度となく』があり、そして、肉体に依って立つもの、言争があり、〔章となる〕」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

(6)1. 自らの心の章

 

1. 自らの心の経

 

51. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります──『(1)さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいるのか』『(2)さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいるのか』『(3)さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいるのか』『(4)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいるのか』『(5)さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいるのか』『(6)さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいるのか』『(7)さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいるのか』『(8)さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいるのか』『(9)さてまた、まさに、〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいるのか』『(10)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいるのか』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. サーリプッタの経

 

52. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、友よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 友よ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります──『(1)さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいるのか』『(2)さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいるのか』『(3)さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいるのか』『(4)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいるのか』『(5)さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいるのか』『(6)さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいるのか』『(7)さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいるのか』『(8)さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいるのか』『(9)さてまた、まさに、〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいるのか』『(10)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいるのか』と。

 

 友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、友よ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、友よ、まさしく、このように、まさに、その人によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいる』……略……『〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、友よ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 止住の経

 

53. 「比丘たちよ、わたしは、また、諸々の善なる法(性質)における止住を褒め称えません──ましてや、遍き衰退を〔褒め称えることはありません〕。比丘たちよ、しかしながら、まさに、わたしは、諸々の善なる法(性質)における増大を褒め称えます──止住ではなく、衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、諸々の善なる法(性質)における衰退が有るのですか──止住ではなく、増大ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、それだけの信と戒と所聞と施者と智慧と弁才がある者として〔世に〕有り、彼の、それらの法(性質)が、まさしく、止住もせず、増大もしません。比丘たちよ、このことを、諸々の善なる法(性質)における衰退と説きます──止住ではなく、増大ではなく。比丘たちよ、このように、まさに、諸々の善なる法(性質)における衰退が有ります──止住ではなく、増大ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、諸々の善なる法(性質)における止住が有るのですか──衰退ではなく、増大ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、それだけの信と戒と所聞と施者と智慧と弁才がある者として〔世に〕有り、彼の、それらの法(性質)が、まさしく、衰退もせず、増大もしません。比丘たちよ、このことを、諸々の善なる法(性質)における止住と説きます──衰退ではなく、増大ではなく。比丘たちよ、このように、まさに、諸々の善なる法(性質)における止住が有ります──衰退ではなく、増大ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、諸々の善なる法(性質)における増大が有るのですか──止住ではなく、衰退ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、それだけの信と戒と所聞と施者と智慧と弁才がある者として〔世に〕有り、彼の、それらの法(性質)が、まさしく、止住もせず、衰退もしません。比丘たちよ、このことを、諸々の善なる法(性質)における増大と説きます──止住ではなく、衰退ではなく。比丘たちよ、このように、まさに、諸々の善なる法(性質)における増大が有ります──止住ではなく、衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります──『(1)さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいるのか』『(2)さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいるのか』『(3)さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいるのか』『(4)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいるのか』『(5)さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいるのか』『(6)さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいるのか』『(7)さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいるのか』『(8)さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいるのか』『(9)さてまた、まさに、〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいるのか』『(10)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいるのか』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その人によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 止寂の経

 

54. 「比丘たちよ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります──『さてまた、まさに、〔わたしは〕内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の得者として〔世に〕存しているのか』『さてまた、まさに、〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存していないのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の得者として〔世に〕存しているのか』『さてまた、まさに、〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存していないのでは』と。

 

 (1)比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存している』『〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存していない』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、内なる心の止寂において、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察における確立のために、〔心の〕制止が為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として〔世に〕有り、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に有ります〕。

 

 (2)比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存している』『〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存していない』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察において、内なる心の止寂における確立のために、〔心の〕制止が為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕有り、さらに、内なる心の止寂の得者として〔世に有ります〕。

 

 (3)比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存していない』『〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存していない』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その人によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として〔世に〕有り、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に有ります〕。

 

 (4)比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存している』『〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、わたしは、また、衣料を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。比丘たちよ、わたしは、また、〔行乞の〕施食を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。比丘たちよ、わたしは、また、臥坐具を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。比丘たちよ、わたしは、また、病のための日用品たる薬の必需品を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。比丘たちよ、わたしは、また、地方や地域を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。比丘たちよ、わたしは、また、人を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた。

 

 (5)『比丘たちよ、わたしは、また、衣料を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その衣料のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その衣料のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、衣料を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (6)『比丘たちよ、わたしは、また、〔行乞の〕施食を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その〔行乞の〕施食のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この〔行乞の〕施食に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その〔行乞の〕施食のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この〔行乞の〕施食に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、〔行乞の〕施食を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (7)『比丘たちよ、わたしは、また、臥坐具を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その臥坐具のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この臥坐具に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の臥坐具は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その臥坐具のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この臥坐具に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の臥坐具は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、臥坐具を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (8)『比丘たちよ、わたしは、また、病のための日用品たる薬の必需品を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その病のための日用品たる薬の必需品のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この病のための日用品たる薬の必需品に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の病のための日用品たる薬の必需品は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その病のための日用品たる薬の必需品のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この病のための日用品たる薬の必需品に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の病のための日用品たる薬の必需品は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、病のための日用品たる薬の必需品を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (9)『比丘たちよ、わたしは、また、地方や地域を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その地方や地域のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この地方や地域に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の地方や地域は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その地方や地域のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この地方や地域に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の地方や地域は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、地方や地域を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (10)『比丘たちよ、わたしは、また、人を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の人は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の人は、慣れ親しむべきです。『比丘たちよ、わたしは、また、人を、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきではないともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 遍き衰退の経

 

55. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、『遍き衰退となる法(性質)ある人』『遍き衰退となる法(性質)ある人』と説かれます。友よ、『遍き衰退とならない法(性質)ある人』『遍き衰退とならない法(性質)ある人』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、遍き衰退となる法(性質)ある人と説かれたのですか──世尊によって。また、そして、どのようなことから、遍き衰退とならない法(性質)ある人と説かれたのですか──世尊によって」と。「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、遍き衰退となる法(性質)ある人と説かれたのですか──世尊によって。友よ、ここに、比丘が、まさしく、そして、〔いまだ〕聞かれていない法(教え)を聞かず、さらに、彼の、〔すでに〕聞かれた諸々の法(教え)が忘却に赴きます。さらに、すなわち、彼の、過去において、心に体得した過去の(※)諸々の法(教え)が、そして、それらが慣行とならず、まさしく、さらに、〔いまだ〕識知されていないものを、〔彼は〕識知しません。友よ、このことから、まさに、遍き衰退となる法(性質)ある人と説かれました──世尊によって。

 

※ テキストには asamphuṭṭhapubbā とあるが、PTS版により samphuṭṭhapubbā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 友よ、また、そして、どのようなことから、遍き衰退とならない法(性質)ある人と説かれたのですか──世尊によって。友よ、ここに、比丘が、まさしく、そして、〔いまだ〕聞かれていない法(教え)を聞き、さらに、彼の、〔すでに〕聞かれた諸々の法(教え)が忘却に赴きません。さらに、すなわち、彼の、過去において、心に体得した過去の諸々の法(教え)が、そして、それらが慣行となり、まさしく、さらに、〔いまだ〕識知されていないものを、〔彼は〕識知します。友よ、このことから、まさに、遍き衰退とならない法(性質)ある人と説かれました──世尊によって。

 

 友よ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、友よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 友よ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。友よ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります──『(1)さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(2)さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(3)さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(4)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(5)さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(6)さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(7)さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいるのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(8)さてまた、まさに、〔わたしは〕内に法(真理)の歓喜の得者として〔世に〕存しているのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(9)さてまた、まさに、〔わたしは〕内なる心の止寂の得者として〔世に〕存しているのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』『(10)さてまた、まさに、〔わたしは〕卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕存しているのか』『さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。

 

 友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観しないなら、友よ、その比丘によって、まさしく、全ての、これらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、友よ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、全ての、これらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、一部の善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観し、一部の善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観しないなら、友よ、その比丘によって──それらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、それらの善なる法(性質)における確立のために──それらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観しないなら、それらの善なる法(性質)の獲得のために──旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、友よ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって──それらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、それらの善なる法(性質)における確立のために──それらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観しないなら、それらの善なる法(性質)の獲得のために──旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの善なる法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘によって、まさしく、全ての、これらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の表象の経

 

56. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの表象()が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、十のものなのですか。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象であり、(10)止滅の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの十の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の表象の経

 

57. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、十のものなのですか。(1)無常の表象であり、(2)無我の表象であり、(3)死の表象であり、(4)食についての嫌悪の表象であり、(5)一切の世についての歓楽なき表象であり、(6)骨となったものの表象であり、(7)蛆虫まみれのものの表象であり、(8)青黒くなったものの表象であり、(9)切断されたものの表象であり、(10)膨張したものの表象です。比丘たちよ、まさに、これらの十の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 根元の経

 

58. 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、(1)一切の法(事象)は、何を根元とし、(2)一切の法(事象)は、何を発生とし、(3)一切の法(事象)は、何を集起とし、(4)一切の法(事象)は、何に集結し、(5)一切の法(事象)は、何を筆頭とし、(6)一切の法(事象)は、何を優位とし、(7)一切の法(事象)は、何をより上とし、(8)一切の法(事象)は、何を真髄とし、(9)一切の法(事象)は、何を沈潜とし、(10)一切の法(事象)は、何を結末とするのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、一切の法(事象)は、何を根元とし、一切の法(事象)は、何を発生とし、一切の法(事象)は、何を集起とし、一切の法(事象)は、何に集結し、一切の法(事象)は、何を筆頭とし、一切の法(事象)は、何を優位とし、一切の法(事象)は、何をより上とし、一切の法(事象)は、何を真髄とし、一切の法(事象)は、何を沈潜とし、一切の法(事象)は、何を結末とするのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、一切の法(事象)は、欲〔の思い〕を根元とし、一切の法(事象)は、意を為すことを発生とし、一切の法(事象)は、接触を集起とし、一切の法(事象)は、感受に集結し、一切の法(事象)は、禅定を筆頭とし、一切の法(事象)は、気づきを優位とし、一切の法(事象)は、智慧をより上とし、一切の法(事象)は、解脱を真髄とし、一切の法(事象)は、不死を沈潜とし、一切の法(事象)は、涅槃を結末とします』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 出家の経

 

59. 「比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『そして、わたしたちには、出家〔の目的〕のとおりに遍く蓄積された心が有るであろうし、さらに、諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)は、心を完全に奪い去って止住しないであろう。(1)かつまた、わたしたちには、無常の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(2)かつまた、わたしたちには、無我の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(3)かつまた、わたしたちには、不浄の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(4)かつまた、わたしたちには、危険の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(5)かつまた、わたしたちには、世の、そして、正義を、さらに、不正を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(6)かつまた、わたしたちには、世の、そして、実体()を、さらに、虚無(非有)を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(7)かつまた、わたしたちには、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(8)かつまた、わたしたちには、捨棄の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(9)かつまた、わたしたちには、離貪の表象が遍く蓄積された心が有るであろう。(10)かつまた、わたしたちには、止滅の表象が遍く蓄積された心が有るであろう』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、そして、比丘には、出家〔の目的〕のとおりに遍く蓄積された心が有り、さらに、諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)が、心を完全に奪い去って止住しないことから──かつまた、無常の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、無我の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、不浄の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、危険の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、世の、そして、正義を、さらに、不正を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、世の、そして、実体を、さらに、虚無を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、〔あるがままに〕知って、その表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、捨棄の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、離貪の表象が遍く蓄積された心が有り、かつまた、止滅の表象が遍く蓄積された心が有ることから──彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ギリマーナンダの経

 

60. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ギリマーナンダは、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、尊者ギリマーナンダは、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。尊き方よ、どうか、世尊は、尊者ギリマーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「アーナンダよ、それで、もし、まさに、あなたが、ギリマーナンダ比丘に、十の表象を語るなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、十の表象を聞いて〔そののち〕、ギリマーナンダ比丘の、その病苦が、即座に安息することです。

 

 どのようなものが、十のものなのですか。(1)無常の表象であり、(2)無我の表象であり、(3)不浄の表象であり、(4)危険の表象であり、(5)捨棄の表象であり、(6)離貪の表象であり、(7)止滅の表象であり、(8)一切の世についての歓楽なき表象であり、(9)一切の形成〔作用〕についての無求の表象であり、(10)呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)です。

 

 (1)アーナンダよ、では、どのようなものが、無常の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『形態()は、無常である。感受〔作用〕()は、無常である。表象〔作用〕()は、無常である。諸々の形成〔作用〕()は、無常である。識知〔作用〕()は、無常である』と。かくのごとく、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)について、無常の表象ある者として〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、無常の表象と説かれます。

 

 (2)アーナンダよ、では、どのようなものが、無我の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『眼は、無我である。諸々の形態()は、無我である。耳は、無我である。諸々の音声()は、無我である。鼻は、無我である。諸々の臭気()は、無我である。舌は、無我である。諸々の味感()は、無我である。身は(※)、無我である。諸々の感触(所触)は、無我である。意は、無我である。諸々の法(:意の対象)は、無我である』と。かくのごとく、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所()について、無我の表象ある者として〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、無我の表象と説かれます。

 

※ テキストには kāyā とあるが、PTS版により kāyo と読む。

 

 (3)アーナンダよ、では、どのようなものが、不浄の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。かくのごとく、この身体について、不浄の表象ある者として〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、不浄の表象と説かれます。

 

 (4)アーナンダよ、では、どのようなものが、危険の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『まさに、この身体は、多くの苦痛があり、多くの危険がある。かくのごとく、この身体において、様々な種類の病苦が生起する。それは、すなわち、この、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋(かさぶた)、出血、胆汁、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便である』と。かくのごとく、この身体について、危険の表象ある者として〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、危険の表象と説かれます。

 

 (5)アーナンダよ、では、どのようなものが、捨棄の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔すでに〕生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。〔すでに〕生起した憎悪の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。〔すでに〕生起した悩害の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。アーナンダよ、これは、捨棄の表象と説かれます。

 

 (6)アーナンダよ、では、どのようなものが、離貪の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、これは、離貪の表象と説かれます。

 

 (7)アーナンダよ、では、どのようなものが、止滅の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、これは、止滅の表象と説かれます。

 

 (8)アーナンダよ、では、どのようなものが、一切の世についての歓楽なき表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、それらが、世における執取〔の思い〕であり、心の確立であり、固着と悪習であるなら、それらを捨棄しながら、〔それらに〕執取せずにいながら、〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、一切の世についての歓楽なき表象と説かれます。

 

 (9)アーナンダよ、では、どのようなものが、一切の形成〔作用〕についての無求の表象なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、一切の形成〔作用〕について、苦悩し、自責し、忌避します。アーナンダよ、これは、一切の形成〔作用〕についての無求の表象と説かれます。

 

 (10)アーナンダよ、では、どのようなものが、呼吸についての気づきなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、これは、呼吸についての気づきと説かれます。

 

 アーナンダよ、それで、もし、まさに、あなたが、ギリマーナンダ比丘に、これらの十の表象を語るなら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、これらの十の表象を聞いて〔そののち〕、ギリマーナンダ比丘の、その病苦が、即座に安息することです」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊の現前において、これらの十の表象を収め取って、尊者ギリマーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ギリマーナンダに、これらの十の表象を語りました。そこで、まさに、十の表象を聞いて〔そののち〕、尊者ギリマーナンダの、その病苦は、即座に安息しました。そして、尊者ギリマーナンダは、その病苦から出起しました。また、そして、尊者ギリマーナンダの、その病苦は、そのように、捨棄されたものと成った、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

 自らの心の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、自らの心、サーリプッタ、さらに、止住があり、そして、止寂とともに、さらに、遍き衰退、二つの表象、根元、出家者、ギリ〔マーナンダ〕があり、〔章となる〕」と。

 

(7)2. 対なるものの章

 

1. 無明の経

 

61. 「比丘たちよ、無明には、『無明は、これより前には有ることなく、そこで、後に発生した』という、前端は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、このように、このことは説かれ、そこで、また、そして、『これを縁とすることから、無明はある』と覚知されます。

 

 比丘たちよ、わたしは、また、無明を、食(動力源・エネルギー)を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、無明の食なのですか。『五つの〔修行の〕妨害(五蓋)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、五つの〔修行の〕妨害を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、五つの〔修行の〕妨害の食なのですか。『三つの悪しき行ない』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、三つの悪しき行ないを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、三つの悪しき行ないの食なのですか。『〔感官の〕機能における統御なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、〔感官の〕機能における統御なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、〔感官の〕機能における統御なきことの食なのですか。『気づきなく正知なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、気づきなく正知なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、気づきなく正知なきことの食なのですか。『根源のままならずに意を為すこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、根源のままならずに意を為すことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、根源のままならずに意を為すことの食なのですか。『信なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、信なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、信なきことの食なのですか。『正なる法(教え)を聞かないこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる法(教え)を聞かないことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、正なる法(教え)を聞かないことの食なのですか。『正なる人士に慣れ親しまないこと』と説かれるべきものが存在します。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、正なる人士に慣れ親しまないことの円満成就は、正なる法(教え)を聞かないことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞かないことの円満成就は、信なきことを円満成就させます。信なきことの円満成就は、根源のままならずに意を為すことを円満成就させます。根源のままならずに意を為すことの円満成就は、気づきなく正知なきことを円満成就させます。気づきなく正知なきことの円満成就は、〔感官の〕機能における統御なきことを円満成就させます。〔感官の〕機能における統御なきことの円満成就は、三つの悪しき行ないを円満成就させます。三つの悪しき行ないの円満成就は、五つの〔修行の〕妨害を円満成就させます。五つの〔修行の〕妨害の円満成就は、無明を円満成就させます。このように、この無明の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海たる海洋を遍く満たします。このように、この大海たる海洋の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士に慣れ親しまないことの円満成就は、正なる法(教え)を聞かないことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞かないことの円満成就は、信なきことを円満成就させます。信なきことの円満成就は、根源のままならずに意を為すことを円満成就させます。根源のままならずに意を為すことの円満成就は、気づきなく正知なきことを円満成就させます。気づきなく正知なきことの円満成就は、〔感官の〕機能における統御なきことを円満成就させます。〔感官の〕機能における統御なきことの円満成就は、三つの悪しき行ないを円満成就させます。三つの悪しき行ないの円満成就は、五つの〔修行の〕妨害を円満成就させます。五つの〔修行の〕妨害の円満成就は、無明を円満成就させます。このように、この無明の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 (1)比丘たちよ、わたしは、また、明知と解脱を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、明知と解脱の食なのですか。(2)『七つの覚りの支分(七覚支)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、七つの覚りの支分を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、七つの覚りの支分の食なのですか。(3)『四つの気づきの確立(四念処四念住)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、四つの気づきの確立を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、四つの気づきの確立の食なのですか。(4)『三つの善き行ない』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、三つの善き行ないを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、三つの善き行ないの食なのですか。(5)『〔感官の〕機能における統御』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、〔感官の〕機能における統御を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、〔感官の〕機能における統御の食なのですか。(6)『気づきと正知』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、気づきと正知を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、気づきと正知の食なのですか。(7)『根源のままに意を為すこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、根源のままに意を為すことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、根源のままに意を為すことの食なのですか。(8)『信』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、信を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、信の食なのですか。(9)『正なる法(教え)を聞くこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる法(教え)を聞くことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、正なる法(教え)を聞くことの食なのですか。(10)『正なる人士に慣れ親しむこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる人士に慣れ親しむことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、正なる人士に慣れ親しむことの円満成就は、正なる法(教え)を聞くことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞くことの円満成就は、信を円満成就させます。信の円満成就は、根源のままに意を為すことを円満成就させます。根源のままに意を為すことの円満成就は、気づきと正知を円満成就させます。気づきと正知の円満成就は、〔感官の〕機能における統御を円満成就させます。〔感官の〕機能における統御の円満成就は、三つの善き行ないを円満成就させます。三つの善き行ないの円満成就は、四つの気づきの確立を円満成就させます。四つの気づきの確立の円満成就は、七つの覚りの支分を円満成就させます。七つの覚りの支分の円満成就は、明知と解脱を円満成就させます。このように、この明知と解脱の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海たる海洋を遍く満たします。このように、この大海たる海洋の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士に慣れ親しむことの円満成就は、正なる法(教え)を聞くことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞くことの円満成就は、信を円満成就させます。信の円満成就は、根源のままに意を為すことを円満成就させます。根源のままに意を為すことの円満成就は、気づきと正知を円満成就させます。気づきと正知の円満成就は、〔感官の〕機能における統御を円満成就させます。〔感官の〕機能における統御の円満成就は、三つの善き行ないを円満成就させます。三つの善き行ないの円満成就は、四つの気づきの確立を円満成就させます。四つの気づきの確立の円満成就は、七つの覚りの支分を円満成就させます。七つの覚りの支分の円満成就は、明知と解脱を円満成就させます。このように、この明知と解脱の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 渇愛の経(※)

 

※ テキストには Ḍtaṇhāsuttaṃ とあるが Taṇhāsuttaṃ と訂正する。

 

62. 「比丘たちよ、生存の渇愛(有愛)には、『生存の渇愛は、これより前には有ることなく、そこで、後に発生した』という、前端は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、このように、このことは説かれ、そこで、また、そして、『これを縁とすることから、生存の渇愛はある』と覚知されます。

 

 比丘たちよ、わたしは、また、生存の渇愛を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、生存の渇愛の食なのですか。『五つの〔修行の〕妨害』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、五つの〔修行の〕妨害を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、五つの〔修行の〕妨害の食なのですか。『三つの悪しき行ない』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、三つの悪しき行ないを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、三つの悪しき行ないの食なのですか。『〔感官の〕機能における統御なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、〔感官の〕機能における統御なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、〔感官の〕機能における統御なきことの食なのですか。『気づきなく正知なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、気づきなく正知なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、気づきなく正知なきことの食なのですか。『根源のままならずに意を為すこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、根源のままならずに意を為すことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、根源のままならずに意を為すことの食なのですか。『信なきこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、信なきことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、信なきことの食なのですか。『正なる法(教え)を聞かないこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる法(教え)を聞かないことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、正なる法(教え)を聞かないことの食なのですか。『正なる人士に慣れ親しまないこと』と説かれるべきものが存在します。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、正なる人士に慣れ親しまないことの円満成就は、正なる法(教え)を聞かないことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞かないことの円満成就は、信なきことを円満成就させます。信なきことの円満成就は、根源のままならずに意を為すことを円満成就させます。根源のままならずに意を為すことの円満成就は、気づきなく正知なきことを円満成就させます。気づきなく正知なきことの円満成就は、〔感官の〕機能における統御なきことを円満成就させます。〔感官の〕機能における統御なきことの円満成就は、三つの悪しき行ないを円満成就させます。三つの悪しき行ないの円満成就は、五つの〔修行の〕妨害を円満成就させます。五つの〔修行の〕妨害の円満成就は、生存の渇愛を円満成就させます。このように、この生存の渇愛の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海たる海洋を遍く満たします。このように、この大海たる海洋の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士に慣れ親しまないことの円満成就は、正なる法(教え)を聞かないことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞かないことの円満成就は、信なきことを円満成就させます。信なきことの円満成就は、根源のままならずに意を為すことを円満成就させます。根源のままならずに意を為すことの円満成就は、気づきなく正知なきことを円満成就させます。気づきなく正知なきことの円満成就は、〔感官の〕機能における統御なきことを円満成就させます。〔感官の〕機能における統御なきことの円満成就は、三つの悪しき行ないを円満成就させます。三つの悪しき行ないの円満成就は、五つの〔修行の〕妨害を円満成就させます。五つの〔修行の〕妨害の円満成就は、生存の渇愛を円満成就させます。このように、この生存の渇愛の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 (1)比丘たちよ、わたしは、また、明知と解脱を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、明知と解脱の食なのですか。(2)『七つの覚りの支分』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、七つの覚りの支分を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、七つの覚りの支分の食なのですか。(3)『四つの気づきの確立』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、四つの気づきの確立を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、四つの気づきの確立の食なのですか。(4)『三つの善き行ない』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、三つの善き行ないを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、三つの善き行ないの食なのですか。(5)『〔感官の〕機能における統御』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、〔感官の〕機能における統御を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、〔感官の〕機能における統御の食なのですか。(6)『気づきと正知』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、気づきと正知を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、気づきと正知の食なのですか。(7)『根源のままに意を為すこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、根源のままに意を為すことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、根源のままに意を為すことの食なのですか。(8)『信』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、信を、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、信の食なのですか。(9)『正なる法(教え)を聞くこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる法(教え)を聞くことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。では、何が、正なる法(教え)を聞くことの食なのですか。(10)『正なる人士に慣れ親しむこと』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、わたしは、また、正なる人士に慣れ親しむことを、食を有するものと説きます──食なきものではなく。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、正なる人士に慣れ親しむことの円満成就は、正なる法(教え)を聞くことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞くことの円満成就は、信を円満成就させます。信の円満成就は、根源のままに意を為すことを円満成就させます。根源のままに意を為すことの円満成就は、気づきと正知を円満成就させます。気づきと正知の円満成就は、〔感官の〕機能における統御を円満成就させます。〔感官の〕機能における統御の円満成就は、三つの善き行ないを円満成就させます。三つの善き行ないの円満成就は、四つの気づきの確立を円満成就させます。四つの気づきの確立の円満成就は、七つの覚りの支分を円満成就させます。七つの覚りの支分の円満成就は、明知と解脱を円満成就させます。このように、この明知と解脱の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海たる海洋を遍く満たします。このように、この大海たる海洋の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士に慣れ親しむことの円満成就は、正なる法(教え)を聞くことを円満成就させます。正なる法(教え)を聞くことの円満成就は、信を円満成就させます。信の円満成就は、根源のままに意を為すことを円満成就させます。根源のままに意を為すことの円満成就は、気づきと正知を円満成就させます。気づきと正知の円満成就は、〔感官の〕機能における統御を円満成就させます。〔感官の〕機能における統御の円満成就は、三つの善き行ないを円満成就させます。三つの善き行ないの円満成就は、四つの気づきの確立を円満成就させます。四つの気づきの確立の円満成就は、七つの覚りの支分を円満成就させます。七つの覚りの支分の円満成就は、明知と解脱を円満成就させます。このように、この明知と解脱の食は有ります。さらに、このように、円満成就あるものとなります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 結論に至った者の経

 

63. 「比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしについて結論に至った者であるなら、彼らの全てが、〔正しい〕見解を成就した者たちとなります。それらの〔正しい〕見解を成就した者たちのなかの、五つのものには、ここに、結論があり(この世において完全なる涅槃に到達する)、五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります(他の世において完全なる涅槃に到達する)。どのような五つのものには、ここに、結論があるのですか。(1)最高で七回〔の再生〕ある者であり、(2)〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者であり、(3)一つの種ある者であり、(4)一来たる者であり、(5)さらに、すなわち、まさしく、まさしく、所見の法(現世)における阿羅漢です。これらの五つのものには、ここに、結論があります。どのような五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があるのですか。(6)〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者であり、(7)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者であり、(8)形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者であり、(9)形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者であり、(10)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者です。これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります。比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしについて結論に至った者であるなら、彼らの全てが、〔正しい〕見解を成就した者たちとなります。それらの〔正しい〕見解を成就した者たちのなかの、これらの五つのものには、ここに、結論があり、これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 確固たる清信ある者の経

 

64. 「比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしにたいし確固たる清信ある者であるなら、彼らの全てが、預流たる者たちとなります。それらの預流たる者たちのなかの、五つのものには、ここに、結論があり、五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります。どのような五つのものには、ここに、結論があるのですか。(1)最高で七回〔の再生〕ある者であり、(2)〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者であり、(3)一つの種ある者であり、(4)一来たる者であり、(5)さらに、すなわち、まさしく、まさしく、所見の法(現世)における阿羅漢です。これらの五つのものには、ここに、結論があります。どのような五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があるのですか。(6)〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者であり、(7)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者であり、(8)形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者であり、(9)形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者であり、(10)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者です。これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります。比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしにたいし確固たる清信ある者であるなら、彼らの全てが、預流たる者たちとなります。それらの預流たる者たちのなかの、これらの五つのものには、ここに、結論があり、これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の安楽の経

 

65. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、マガダ〔国〕に住んでいます。ナーラカ村において。そこで、まさに、サーマンダカーニ遍歴遊行者が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サーマンダカーニ遍歴遊行者は、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何が安楽であり、何が苦痛なのですか」と。「友よ、まさに、〔生存の〕発現は苦痛であり、〔生存の〕発現なくあることは安楽です。友よ、〔生存の〕発現が存しているとき、この苦痛が待っています──(1)寒さがあり、(2)暑さがあり、(3)飢えがあり、(4)渇きがあり、(5)大便があり、(6)小便があり、(7)火の接触があり、(8)棒の接触があり、(9)刃の接触があり、(10)親族たちもまた、朋友たちもまた、群集して、集いあつまって、悩ませます。友よ、〔生存の〕発現が存しているとき、この苦痛が待っています。友よ、〔生存の〕発現なくあることが存しているとき、この安楽が待っています──(1)寒さがなく、(2)暑さがなく、(3)飢えがなく、(4)渇きがなく、(5)大便がなく、(6)小便がなく、(7)火の接触がなく、(8)棒の接触がなく、(9)刃の接触がなく、(10)親族たちもまた、朋友たちもまた、群集して、集いあつまって、悩ませません。友よ、〔生存の〕発現なくあることが存しているとき、この安楽が待っています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の安楽の経

 

66. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、マガダ〔国〕に住んでいます。ナーラカ村において。そこで、まさに、サーマンダカーニ遍歴遊行者が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サーマンダカーニ遍歴遊行者は、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、この法(教え)と律において、何が安楽であり、何が苦痛なのですか」と。「友よ、まさに、この法(教え)と律において、喜びなくあることは苦痛であり、喜びは安楽です。友よ、喜びなくあることが存しているとき、この苦痛が待っています──(1)赴きつつあるもまた、安楽と快楽に到達せず、(2)立ちつつあるもまた……(3)坐りつつあるもまた……(4)臥しつつあるもまた……(5)村に赴いてもまた……(6)林に赴いてもまた……(7)木の根元に赴いてもまた……(8)空家に赴いてもまた……(9)野外に赴いてもまた……(10)比丘たちの中に赴いてもまた、安楽と快楽に到達しません。友よ、喜びなくあることが存しているとき、この苦痛が待っています。

 

 友よ、喜びが存しているとき、この安楽が待っています──(1)赴きつつあるもまた、安楽と快楽に到達し、(2)立ちつつあるもまた……(3)坐りつつあるもまた……(4)臥しつつあるもまた……(5)村に赴いてもまた……(6)林に赴いてもまた……(7)木の根元に赴いてもまた……(8)空家に赴いてもまた……(9)野外に赴いてもまた……(10)比丘たちの中に赴いてもまた、安楽と快楽に到達します。友よ、喜びが存しているとき、この安楽が待っています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一のナラカパーナの経

 

67. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ナラカパーナという名のコーサラ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ナラカパーナに住んでおられます。パラーサ林において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、尊者サーリプッタに告げました。

 

 「サーリプッタよ、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った、まさに、比丘の僧団です。サーリプッタよ、あなたに、比丘たちへの法(教え)の講話が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします(わたしに代わって説法してほしい)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。友よ、それは、たとえば、また、黒分(月が欠ける期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 (1)友よ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(2)友よ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(3)友よ、『〔良心の〕咎めなき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(4)友よ、『怠惰の人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(5)友よ、『智慧浅き人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(6)友よ、『忿激する人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(7)友よ、『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(8)友よ、『悪しき欲求ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(9)友よ、『悪しき朋友ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。(10)友よ、『誤った見解ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。

 

 友よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。友よ、それは、たとえば、また、白分(月が満ちる期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 (1)友よ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(2)友よ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(3)友よ、『〔良心の〕咎めある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(4)友よ、『精進に励む人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(5)友よ、『智慧ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(6)友よ、『忿激しない人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(7)友よ、『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(8)友よ、『少なき欲求の人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(9)友よ、『善き朋友ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。(10)友よ、『正しい見解ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、黒分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも……略……増大ではなく。

 

 サーリプッタよ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。サーリプッタよ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』……『〔良心の〕咎めなき人士たる人』……『怠惰の人士たる人』……『智慧浅き人士たる人』……『忿激する人士たる人』……『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』……『悪しき欲求ある人士たる人』……『悪しき朋友ある人士たる人』……。サーリプッタよ、『誤った見解ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。

 

 サーリプッタよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、白分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 サーリプッタよ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。サーリプッタよ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』……『〔良心の〕咎めある人士たる人』……『精進に励む人士たる人』……『智慧ある人士たる人』……『忿激しない人士たる人』……『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』……『少なき欲求の人士たる人』……『善き朋友ある人士たる人』……。サーリプッタよ、『正しい見解ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二のナラカパーナの経

 

68. 或る時のことです。世尊は、ナラカパーナに住んでおられます。パラーサ林において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、尊者サーリプッタに告げました。

 

 「サーリプッタよ、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った、まさに、比丘の僧団です。サーリプッタよ、あなたに、比丘たちへの法(教え)の講話が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、彼が誰であれ、(1)諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……(2)恥〔の思い〕が存在しないなら……(3)〔良心の〕咎めが存在しないなら……(4)精進が存在しないなら……(5)智慧が存在しないなら……(6)傾聴が存在しないなら……(7)法(教え)を保持することが存在しないなら……(8)義(意味)を近しく注視することが存在しないなら……(9)法(教え)を法(教え)のままに実践することが存在しないなら、(10)諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。友よ、それは、たとえば、また、黒分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……智慧が存在しないなら……傾聴が存在しないなら……法(教え)を保持することが存在しないなら……義(意味)を近しく注視することが存在しないなら……法(教え)を法(教え)のままに実践することが存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 友よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、(1)諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……(2)恥〔の思い〕が存在するなら……(3)〔良心の〕咎めが存在するなら……(4)精進が存在するなら……(5)智慧が存在するなら……(6)傾聴が存在するなら……(7)法(教え)を保持することが存在するなら……(8)義(意味)を近しく注視することが存在するなら……(9)法(教え)を法(教え)のままに実践することが存在するなら、(10)諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。友よ、それは、たとえば、また、白分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……智慧が存在しないなら……傾聴が存在しないなら……法(教え)を保持することが存在しないなら……義(意味)を近しく注視することが存在しないなら……法(教え)を法(教え)のままに実践することが存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、黒分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 サーリプッタよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……智慧が存在するなら……傾聴が存在するなら……法(教え)を保持することが存在するなら……義(意味)を近しく注視することが存在するなら……法(教え)を法(教え)のままに実践することが存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、白分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……諸々の善なる法(性質)において、不放逸が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の議論の基盤の経

 

69. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)に専念する者たちとして〔世に〕住んでいます。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときもの、ということです。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐し参集しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとして〔世に〕住んでいます。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです」と。「比丘たちよ、また、まさに、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとして〔世に〕住むことです。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです(※)。

 

※ テキストには iti vāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。これらの議論の基盤です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)少なき欲求たること(少欲)についての議論であり、(2)満ち足りていること(知足)についての議論であり、(3)遠離についての議論であり、(4)〔世俗と〕交わりなきことについての議論であり、(5)精進勉励についての議論であり、(6)戒についての議論であり、(7)禅定についての議論であり、(8)智慧についての議論であり、(9)解脱についての議論であり、(10)解脱の知見についての議論です。比丘たちよ、まさに、これらの十の議論の基盤があります。

 

 比丘たちよ、もし、あなたたちが、これらの十の議論の基盤に関連しては関連して議論を議論するなら、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光の威光をもまた、〔自らの〕威光によって完全に奪い去るでしょう。〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の議論の基盤の経

 

70. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集し、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論に専念する者たちとして〔世に〕住んでいます。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときもの、ということです。

 

 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの賞賛されるべき状況です。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)そして、自己みずから、少なき欲求の者として〔世に〕有り、さらに、少なき欲求たることについての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『少なき欲求の比丘であり、さらに、少なき欲求たることについての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (2)そして、自己みずから、満ち足りている者として〔世に〕有り、さらに、満ち足りていることについての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『満ち足りている比丘であり、さらに、満ち足りていることについての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (3)そして、自己みずから、遠離している者として〔世に〕有り、さらに、遠離についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『遠離している比丘であり、さらに、遠離についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (4)そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者として〔世に〕有り、さらに、〔世俗と〕交わりなきことについての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『〔世俗と〕交わりなき比丘であり、さらに、〔世俗と〕交わりなきことについての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (5)そして、自己みずから、精進に励む者として〔世に〕有り、さらに、精進勉励についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『精進に励む比丘であり、さらに、精進勉励についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (6)そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、戒の成就についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『戒を成就した比丘であり、さらに、戒の成就についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (7)そして、自己みずから、禅定を成就した者として〔世に〕有り、さらに、禅定の成就についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『禅定を成就した比丘であり、さらに、禅定の成就ついての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (8)そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、智慧の成就についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『智慧を成就した比丘であり、さらに、智慧の成就についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (9)そして、自己みずから、解脱を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の成就についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『解脱を成就した比丘であり、さらに、解脱の成就についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。

 

 (10)そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の知見の成就についての議論を比丘たちに為す者として〔世に〕有ります。『解脱の知見を成就した比丘であり、さらに、解脱の知見の成就についての議論を比丘たちに為す者である』とは、これは、賞賛されるべき状況です。比丘たちよ、まさに、これらの十の賞賛されるべき状況があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 対なるものの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無明、渇愛、そして、結論、確固たる〔清信ある者〕、そして、二つの安楽、さらに、ナラカパーナにおいて、二つのものが説かれ、他に、二つの議論の基盤があり、〔章となる〕」と。

 

(8)3. 望みの章

 

1. 望みの経

 

71. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい。

 

 (1)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (2)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (3)比丘たちよ、もし、比丘が、『それらの者たちの諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (4)比丘たちよ、もし、比丘が、『すなわち、わたしの親族たちや血縁たちが命を終えた亡者たちとなり、清信した心の者たちとして、〔わたしのことを〕随念するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (5)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (6)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (7)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕はわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (8)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕恐怖と恐ろしさを打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、恐怖と恐ろしさはわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した恐怖と恐ろしさを征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (9)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 (10)比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 『比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 棘の経

 

72. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に──かつまた、尊者チャーラとともに、かつまた、尊者ウパチャーラとともに、かつまた、尊者クックタとともに、かつまた、尊者カリンバとともに、かつまた、尊者ニカタとともに、かつまた、尊者カティッサハとともに、さらに、他の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に。

 

 また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、諸々の立派なうえにも立派な乗物で、後から前から、高い声をあげ大きな音をたて、マハー林に深く分け入ります──世尊と会見するために。そこで、まさに、それらの尊者たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、諸々の立派なうえにも立派な乗物で、後から前から、高い声をあげ大きな音をたて、マハー林に深く分け入る──世尊と会見するために。また、まさに、諸々の瞑想は音声を棘とすると説かれた──世尊によって。それなら、さあ、わたしたちは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ。そこにおいて、わたしたちは、音声少なく、出入り少なく、平穏のうちに〔世に〕住むべきである」と。そこで、まさに、それらの尊者たちは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、それらの尊者たちは、音声少なく、出入り少なく、平穏のうちに〔世に〕住みます。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、どこに、チャーラはいるのですか、どこに、ウパチャーラはいるのですか、どこに、クックタはいるのですか、どこに、カリンバはいるのですか、どこに、ニカタはいるのですか、どこに、カティッサハはいるのですか。比丘たちよ、いったい、まさに、どこに、それらの長老の弟子たちは赴いたのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、それらの尊者たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらの大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、諸々の立派なうえにも立派な乗物で、後から前から、高い声をあげ大きな音をたて、マハー林に深く分け入る──世尊と会見するために。また、まさに、諸々の瞑想は音声を棘とすると説かれた──世尊によって。それなら、さあ、わたしたちは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ。そこにおいて、わたしたちは、音声少なく、出入り少なく、平穏のうちに〔世に〕住むべきである』と。そこで、まさに、それらの尊者たちは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこにおいて、それらの尊者たちは、音声少なく、出入り少なく、平穏のうちに〔世に〕住みます」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。大いなる弟子たちは、それらを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かしました。比丘たちよ、まさに、諸々の瞑想は音声を棘とすると説かれました──わたしによって。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。これらの棘です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)遠離を喜びとする者にとって、社交を喜びとすることは棘です。(2)浄美ならざる形相(不浄相)への専念〔努力〕に専念する者にとって、浄美の形相への専念は棘です。(3)諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者にとって、演芸の見物は棘です。(4)梵行にとって、女性の近くを歩むことは棘です。(5)第一の瞑想にとって、音声は棘です。(6)第二の瞑想にとって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念は棘です。(7)第三の瞑想にとって、喜悦は棘です。(8)第四の瞑想にとって、出息と入息は棘です。(9)表象と感覚の止滅への入定にとって、そして、表象は、さらに、感受は、棘です。(10)貪欲は棘であり、憤怒は棘であり、迷妄は棘です。

 

 比丘たちよ、棘なき者たちとして〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、棘を抜いた者たちとして〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、棘なく棘を抜いた者たちとして〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、阿羅漢たちは、棘なき者たちです。比丘たちよ、阿羅漢たちは、棘を抜いた者たちです。比丘たちよ、阿羅漢たちは、棘なく棘を抜いた者たちです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 好ましい法の経

 

73. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)諸々の財物は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(2)色艶は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(3)無病は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(4)戒は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(5)梵行は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(6)朋友たちは、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(7)多聞は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(8)智慧は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(9)諸々の法(教え)は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。(10)諸々の天上は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)には、十の障害となる法(性質)があります。(1)諸々の財物にとって、怠けることと奮起しないことは障害です。(2)色艶にとって、装わないことと飾り立てないことは障害です。(3)無病にとって、正当なることを為さないことは障害です。(4)諸戒にとって、悪しき朋友あることは障害です。(5)梵行にとって、諸々の〔感官の〕機能を統御しないことは障害です。(6)朋友たちにとって、不正を説くことは障害です。(7)多聞にとって、読誦(読経)を為さないことは障害です。(8)智慧にとって、聞こうとしないことと遍問しないことは障害です。(9)諸々の法(教え)にとって、専念しないことと注視しないことは障害です。(10)諸々の天上にとって、誤って実践することは障害です。比丘たちよ、まさに、これらの十の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)には、これらの十の障害となる法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)には、十の食(動力源・エネルギー)となる法(性質)があります。(1)諸々の財物にとって、奮起することと怠けないことは食です。(2)色艶にとって、装うことと飾り立てることは食です。(3)無病にとって、正当なることを為すことは食です。(4)諸戒にとって、善き朋友あることは食です。(5)梵行にとって、諸々の〔感官の〕機能を統御することは食です。(6)朋友たちにとって、不正を説かないことは食です。(7)多聞にとって、読誦を為すことは食です。(8)智慧にとって、聞こうとすることと遍問することは食です。(9)諸々の法(教え)にとって、専念することと注視することは食です。(10)諸々の天上にとって、正しく実践することは食です。比丘たちよ、まさに、これらの十の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)には、これらの十の食となる法(性質)があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 増大の経

 

74. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕増大によって増大しながら、聖なる弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕。どのようなものが、十のものなのですか。(1)諸々の田畑と地所によって増大します。(2)財産と穀物によって増大します。(3)子と妻たちによって増大します。(4)奴隷と労夫と下僕たちによって増大します。(5)四足の者(家畜)たちによって増大します。(6)信によって増大します。(7)戒によって増大します。(8)所聞によって増大します。(9)施捨によって増大します。(10)智慧によって増大します。比丘たちよ、まさに、これらの十の増大によって増大しながら、聖なる弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者が、ここに、財産によって〔増大し〕、かつまた、穀物によって増大するなら──子たちによって〔増大し〕、妻たちによって〔増大し〕、さらに、四足の者たちによって〔増大するなら〕──

 

 彼は、財物ある者と成り、盛名ある者と〔成り〕、親族たちによって、朋友たちによって、さらに、また、王たちによって、供養される者と〔成る〕。

 

 その者が、ここに、信によって〔増大し〕、かつまた、戒によって増大するなら──智慧によって〔増大し〕、施捨によって、さらに、所聞によって、両者ともに〔増大するなら〕──そのような者である、彼は、正なる人士たる明眼の者であり、まさしく、所見の法(現世)において、両者ともに増大する」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ミガサーラーの経

 

75. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ミガサーラー女性在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ミガサーラー女性在俗信者が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所()を等しくする同等の者たちと成るからです。尊き方よ、わたしの父のプラーナは、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として、〔世に〕有りました(※)。彼は、命を終え、世尊によって授記されました。『一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです』と。尊き方よ、わたしの叔父のイシダッタは、梵行者ならざる者として、妻を有し満ち足りている者として、〔世に〕有りました。彼もまた、命を終え、世尊によって授記されました。『一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです』と。

 

※ テキストには hoti とあるが、PTS版により ahosi と読む。

 

 尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るからです」と。「婦人よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ミガサーラー女性在俗信者の住居地において、〔行乞の〕施食を収め取って、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ミガサーラー女性在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、わたしに、こう言いました。

 

 『尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るからです。尊き方よ、わたしの父のプラーナは、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として、〔世に〕有りました。彼は、命を終え、世尊によって授記されました。「一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです」と。尊き方よ、わたしの叔父のイシダッタは、梵行者ならざる者として、妻を有し満ち足りている者として、〔世に〕有りました。彼もまた、命を終え、世尊によって授記されました。「一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです」と。

 

 尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るのです』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、ミガサーラー女性在俗信者に、こう言いました。『婦人よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです』」と。

 

 「アーナンダよ、さてまた、どうして、愚かで、明敏ならず、鈍き者であり、鈍き表象の者である、ミガサーラー女性在俗信者が、さてまた、どうして、人士たる人の上下についての知恵ある者(如来)たちと、〔等しくあるというのでしょう〕。

 

 アーナンダよ、十のものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、十のものなのですか。(1)アーナンダよ、ここに、一部の人は、劣戒の者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その劣戒の資質が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (2)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、劣戒の者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その劣戒の資質が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。『この者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)があり、他の者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)がある。何ゆえに、彼らのなかの、或る者は下劣なる者となり、或る者は精妙なる者となるのか』と。アーナンダよ、まさに、彼ら(思量者たち)にとって、その〔思量〕は、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この人が、劣戒の者として〔世に〕有り、そして、そこにおいて、彼の、その劣戒の資質が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知し、彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得るなら、アーナンダよ、この人は、あの前者の人よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、法(真理)の流れが、この人を引き抜くからですが、その機微を、如来よりの他の、誰が知るというのでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔それらの〕人たちについての思量者と成ってはいけません。〔それらの〕人たちについての思量を収め取ってはいけません。アーナンダよ、なぜなら、〔それらの〕人たちについての思量を収め取っていると、〔思量者自身が〕傷つくからです。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (3)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、戒ある者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その戒が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (4)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、戒ある者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その戒が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。……略……。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (5)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、強き貪欲ある者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その貪欲が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (6)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、強き貪欲ある者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その貪欲が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。……略……。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (7)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、忿激する者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その忿激が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (8)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、忿激する者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その忿激が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。……略……。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (9)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、〔心が〕高揚した者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その〔心の〕高揚が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (10)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、〔心が〕高揚した者として〔世に〕有ります。そして、そこにおいて、彼の、その〔心の〕高揚が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。『この者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)があり、他の者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)がある。何ゆえに、彼らのなかの、或る者は下劣なる者となり、或る者は精妙なる者となるのか』と。アーナンダよ、まさに、彼ら(思量者たち)にとって、その〔思量〕は、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この人が、〔心が〕高揚した者として〔世に〕有り、そして、そこにおいて、彼の、その〔心の〕高揚が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知し、彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得るなら、アーナンダよ、この人は、あの前者の人よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、法(真理)の流れが、この人を引き抜くからですが、その機微を、如来よりの他の、誰が知るというのでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔それらの〕人たちについての思量者と成ってはいけません。〔それらの〕人たちについての思量を収め取ってはいけません。アーナンダよ、なぜなら、〔それらの〕人たちについての思量を収め取っていると、〔思量者自身が〕傷つくからです。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 アーナンダよ、さてまた、どうして、愚かで、明敏ならず、鈍き者であり、鈍き表象の者である、ミガサーラー女性在俗信者が、さてまた、どうして、人士たる人の上下についての知恵ある者たちと、〔等しくあるというのでしょう〕。アーナンダよ、まさに、これらの十の人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 アーナンダよ、そのような形態の戒を具備した者として、プラーナは〔世に〕有ったのですが、イシダッタが、そのような形態の戒を具備した者として〔世に〕有ったなら、ここに、プラーナは、イシダッタの赴く所さえも了知しなかったでしょう。アーナンダよ、そのような形態の智慧を具備した者として、イシダッタは〔世に〕有ったのですが、プラーナが、そのような形態の智慧を具備した者として〔世に〕有ったなら、ここに、イシダッタは、プラーナの赴く所さえも了知しなかったでしょう。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、これらの人たちは、両者ともに、一つの支分が劣っているのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 三つの法の経

 

76. 「(1)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、世において等しく見出されないなら、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起することはなく、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯することはないでしょう。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、生であり、かつまた、老であり、さらに、死です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)が、世において等しく見出されないなら、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起することはなく、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯することはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの三つの法(性質)が、世において等しく見出されることから、それゆえに、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯します。

 

 (2)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、生を捨棄することも、老を捨棄することも、死を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲を捨棄せずして、憤怒を捨棄せずして、迷妄を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、生を捨棄することも、老を捨棄することも、死を捨棄することも、不可能となります。

 

 (3)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、貪欲を捨棄することも、憤怒を捨棄することも、迷妄を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。身体を有するという見解(有身見)を捨棄せずして、疑惑〔の思い〕()を捨棄せずして、戒や掟への偏執(戒禁取)を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、貪欲を捨棄することも、憤怒を捨棄することも、迷妄を捨棄することも、不可能となります。

 

 (4)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、身体を有するという見解を捨棄することも、疑惑〔の思い〕を捨棄することも、戒や掟への偏執を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。根源のままならずに意を為すことを捨棄せずして、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄せずして、心の畏縮を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、身体を有するという見解を捨棄することも、疑惑〔の思い〕を捨棄することも、戒や掟への偏執を捨棄することも、不可能となります。

 

 (5)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、根源のままならずに意を為すことを捨棄することも、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することも、心の畏縮を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。気づきの忘却を捨棄せずして、正知なきことを捨棄せずして、心の散乱を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、根源のままならずに意を為すことを捨棄することも、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することも、心の畏縮を捨棄することも、不可能となります。

 

 (6)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、気づきの忘却を捨棄することも、正知なきことを捨棄することも、心の散乱を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄せずして、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄せずして、咎め立ての心を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、気づきの忘却を捨棄することも、正知なきことを捨棄することも、心の散乱を捨棄することも、不可能となります。

 

 (7)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することも、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することも、咎め立ての心を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。〔心の〕高揚を捨棄せずして、統御なき〔生き方〕を捨棄せずして、劣戒の資質を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することも、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することも、咎め立ての心を捨棄することも、不可能となります。

 

 (8)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、〔心の〕高揚を捨棄することも、統御なき〔生き方〕を捨棄することも、劣戒の資質を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。信なき〔生き方〕を捨棄せずして、寛容ならざることを捨棄せずして、怠惰を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、〔心の〕高揚を捨棄することも、統御なき〔生き方〕を捨棄することも、劣戒の資質を捨棄することも、不可能となります。

 

 (9)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、信なき〔生き方〕を捨棄することも、寛容ならざることを捨棄することも、怠惰を捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。慇懃ならざることを捨棄せずして、頑固であることを捨棄せずして、悪しき朋友あることを捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、信なき〔生き方〕を捨棄することも、寛容ならざることを捨棄することも、怠惰を捨棄することも、不可能となります。

 

 (10)比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、慇懃ならざることを捨棄することも、頑固であることを捨棄することも、悪しき朋友あることを捨棄することも、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。恥〔の思い〕なき〔生き方〕を捨棄せずして、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕を捨棄せずして、放逸を捨棄せずして──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄せずして、慇懃ならざることを捨棄することも、頑固であることを捨棄することも、悪しき朋友あることを捨棄することも、不可能となります。

 

 比丘たちよ、この者は、恥〔の思い〕なき者であり、〔良心の〕咎めなき者であり、放逸の者として〔世に〕有ります。彼は、放逸の者として〔世に〕存しつつ、慇懃ならざることを捨棄することも、頑固であることを捨棄することも、悪しき朋友あることを捨棄することも、不可能となります。彼は、悪しき朋友ある者として〔世に〕存しつつ、信なき〔生き方〕を捨棄することも、寛容ならざることを捨棄することも、怠惰を捨棄することも、不可能となります。彼は、怠惰の者として〔世に〕存しつつ、〔心の〕高揚を捨棄することも、統御なき〔生き方〕を捨棄することも、劣戒の資質を捨棄することも、不可能となります。彼は、劣戒の者として〔世に〕存しつつ、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することも、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することも、咎め立ての心を捨棄することも、不可能となります。彼は、咎め立ての心ある者として〔世に〕存しつつ、気づきの忘却を捨棄することも、正知なきことを捨棄することも、心の散乱を捨棄することも、不可能となります。彼は、散乱した心の者として〔世に〕存しつつ、根源のままならずに意を為すことを捨棄することも、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することも、心の畏縮を捨棄することも、不可能となります。彼は、畏縮した心の者として〔世に〕存しつつ、身体を有するという見解を捨棄することも、疑惑〔の思い〕を捨棄することも、戒や掟への偏執を捨棄することも、不可能となります。彼は、疑惑ある者として〔世に〕存しつつ、貪欲を捨棄することも、憤怒を捨棄することも、迷妄を捨棄することも、不可能となります。彼は、貪欲を捨棄せずして、憤怒を捨棄せずして、迷妄を捨棄せずして、生を捨棄することも、老を捨棄することも、死を捨棄することも、不可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、生を捨棄することが、老を捨棄することが、死を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲を捨棄して、憤怒を捨棄して、迷妄を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、生を捨棄することが、老を捨棄することが、死を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、貪欲を捨棄することが、憤怒を捨棄することが、迷妄を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。身体を有するという見解を捨棄して、疑惑〔の思い〕を捨棄して、戒や掟への偏執を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、貪欲を捨棄することが、憤怒を捨棄することが、迷妄を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、身体を有するという見解を捨棄することが、疑惑〔の思い〕を捨棄することが、戒や掟への偏執を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。根源のままならずに意を為すことを捨棄して、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄して、心の畏縮を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、身体を有するという見解を捨棄することが、疑惑〔の思い〕を捨棄することが、戒や掟への偏執を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、根源のままならずに意を為すことを捨棄することが、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することが、心の畏縮を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。気づきの忘却を捨棄して、正知なきことを捨棄して、心の散乱を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、根源のままならずに意を為すことを捨棄することが、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することが、心の畏縮を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、気づきの忘却を捨棄することが、正知なきことを捨棄することが、心の散乱を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄して、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄して、咎め立ての心を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、気づきの忘却を捨棄することが、正知なきことを捨棄することが、心の散乱を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することが、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することが、咎め立ての心を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。〔心の〕高揚を捨棄して、統御なき〔生き方〕を捨棄して、劣戒の資質を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することが、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することが、咎め立ての心を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、〔心の〕高揚を捨棄することが、統御なき〔生き方〕を捨棄することが、劣戒の資質を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。信なき〔生き方〕を捨棄して、寛容ならざることを捨棄して、怠惰を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、〔心の〕高揚を捨棄することが、統御なき〔生き方〕を捨棄することが、劣戒の資質を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、信なき〔生き方〕を捨棄することが、寛容ならざることを捨棄することが、怠惰を捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。慇懃ならざることを捨棄して、頑固であることを捨棄して、悪しき朋友あることを捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、信なき〔生き方〕を捨棄することが、寛容ならざることを捨棄することが、怠惰を捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、慇懃ならざることを捨棄することが、頑固であることを捨棄することが、悪しき朋友あることを捨棄することが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。恥〔の思い〕なき〔生き方〕を捨棄して、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕を捨棄して、放逸を捨棄して──比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を捨棄して、慇懃ならざることを捨棄することが、頑固であることを捨棄することが、悪しき朋友あることを捨棄することが、可能となります。

 

 比丘たちよ、この者は、恥〔の思い〕ある者であり、〔良心の〕咎めある者であり、不放逸の者として〔世に〕有ります。彼は、不放逸の者として〔世に〕存しつつ、慇懃ならざることを捨棄することが、頑固であることを捨棄することが、悪しき朋友あることを捨棄することが、可能となります。彼は、善き朋友ある者として〔世に〕存しつつ、信なき〔生き方〕を捨棄することが、寛容ならざることを捨棄することが、怠惰を捨棄することが、可能となります。彼は、精進に励む者として〔世に〕存しつつ、〔心の〕高揚を捨棄することが、統御なき〔生き方〕を捨棄することが、劣戒の資質を捨棄することが、可能となります。彼は、戒ある者として〔世に〕存しつつ、聖者たちと会見することを欲さないことを捨棄することが、聖者たちの法(教え)を聞くことを欲さないことを捨棄することが、咎め立ての心を捨棄することが、可能となります。彼は、咎め立ての心なき者として〔世に〕存しつつ、気づきの忘却を捨棄することが、正知なきことを捨棄することが、心の散乱を捨棄することが、可能となります。彼は、散乱していない心の者として〔世に〕存しつつ、根源のままならずに意を為すことを捨棄することが、悪しき道に慣れ親しむことを捨棄することが、心の畏縮を捨棄することが、可能となります。彼は、畏縮していない心の者として〔世に〕存しつつ、身体を有するという見解を捨棄することが、疑惑〔の思い〕を捨棄することが、戒や掟への偏執を捨棄することが、可能となります。彼は、疑惑なき者として〔世に〕存しつつ、貪欲を捨棄することが、憤怒を捨棄することが、迷妄を捨棄することが、可能となります。彼は、貪欲を捨棄して、憤怒を捨棄して、迷妄を捨棄して、生を捨棄することが、老を捨棄することが、死を捨棄することが、可能となります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 烏の経

 

77. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕正ならざる法(性質)を具備した者として、烏はあります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)かつまた、厚顔であり、(2)かつまた、尊大であり、(3)かつまた、欲深であり、(4)かつまた、大飯食いであり、(5)かつまた、残忍であり、(6)かつまた、無慈悲であり、(7)かつまた、力弱くあり、(8)かつまた、卑俗であり、(9)かつまた、気づきの忘却者であり、(10)かつまた、収蔵家です。比丘たちよ、まさに、これらの十の正ならざる法(性質)を具備した者として、烏はあります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十のものがあります。〔これらの〕正ならざる法(性質)を具備した者として、悪しき比丘はあります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)かつまた、厚顔であり、(2)かつまた、尊大であり、(3)かつまた、欲深であり、(4)かつまた、大飯食いであり、(5)かつまた、残忍であり、(6)かつまた、無慈悲であり、(7)かつまた、力弱くあり、(8)かつまた、卑俗であり、(9)かつまた、気づきの忘却者であり、(10)かつまた、収蔵家です。比丘たちよ、まさに、これらの十の正ならざる法(性質)を具備した者として、悪しき比丘はあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ニガンタの経

 

78. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕正ならざる法(性質)を具備した者たちとして、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちはあります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、信なき者たちとして、ニガンタたちはあります。(2)比丘たちよ、劣戒の者たちとして、ニガンタたちはあります。(3)比丘たちよ、恥〔の思い〕なき者たちとして、ニガンタたちはあります。(4)比丘たちよ、〔良心の〕咎めなき者たちとして、ニガンタたちはあります。(5)比丘たちよ、正ならざる人士を知己とする者たちとして、ニガンタたちはあります。(6)比丘たちよ、自己を賞揚し他者を蔑視する者たちとして、ニガンタたちはあります。(7)比丘たちよ、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者たちとして、ニガンタたちはあります。(8)比丘たちよ、虚言者たちとして、ニガンタたちはあります。(9)比丘たちよ、悪しき欲求ある者たちとして、ニガンタたちはあります。(10)比丘たちよ、悪しき朋友ある者たちとして、ニガンタたちはあります。比丘たちよ、まさに、これらの十の正ならざる法(性質)を具備した者たちとして、ニガンタたちはあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 憤懣の基盤の経

 

79. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの憤懣の基盤です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった』と……略……(5)義(利益)ならざることを行なう』と……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった』と……略……(8)義(利益)を行なう』と……略……(9)義(利益)を行なうであろう』と、憤懣を結びます。(10)さらに、状況(道理)なきことがあるとき激情します。比丘たちよ、まさに、これらの十の憤懣の基盤があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 憤懣の調伏の経

 

80. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの憤懣の調伏(取り除き)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう(他者の行為はどうにもならない)』と、憤懣を取り除きます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった。……略……(5)義(利益)ならざることを行なう。……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった。……略……(8)義(利益)を行なう。……略……(9)義(利益)を行なうであろう。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(10)さらに、状況なきことについて激情しません。比丘たちよ、まさに、これらの十の憤懣の調伏があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 望みの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「望み、棘、好ましいもの、そして、増大があり、ミガサーラーとともに、さらに、三つの法(性質)、そして、烏、ニガンタ、さらに、二つの憤懣があり、〔章となる〕」と。

 

(9)4. 長老の章

 

1. ヴァーハナの経

 

81. 或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。そこで、まさに、尊者ヴァーハナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ヴァーハナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)から、如来は、出離した者として、束縛を離れた者として、解脱した者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むのですか」と。

 

 「ヴァーハナよ、十のものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)から、如来は、出離した者として、束縛を離れた者として、解脱した者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。どのようなものが、十のものなのですか。(1)ヴァーハナよ、まさに、形態から、如来は、出離した者として、束縛を離れた者として、解脱した者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。(2)ヴァーハナよ、まさに、感受〔作用〕から……略……。(3)ヴァーハナよ、まさに、表象〔作用〕から……。(4)ヴァーハナよ、まさに、諸々の形成〔作用〕から……。(5)ヴァーハナよ、まさに、識知〔作用〕から……。(6)ヴァーハナよ、まさに、生から……。(7)ヴァーハナよ、まさに、老から……。(8)ヴァーハナよ、まさに、死から……。(9)ヴァーハナよ、まさに、諸々の苦しみから……。(10)ヴァーハナよ、まさに、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)から、如来は、出離した者として、束縛を離れた者として、解脱した者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。ヴァーハナよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮が、あるいは、赤蓮が、あるいは、白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、ヴァーハナよ、まさしく、このように、まさに、これらの十の法(性質)から、如来は、出離した者として、束縛を離れた者として、解脱した者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. アーナンダの経

 

82. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「(1)アーナンダよ、まさに、その比丘が、信なき者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (2)アーナンダよ、まさに、その比丘が、劣戒の者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (3)アーナンダよ、まさに、その比丘が、少聞の者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (4)アーナンダよ、まさに、その比丘が、頑固な者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (5)アーナンダよ、まさに、その比丘が、悪しき朋友ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (6)アーナンダよ、まさに、その比丘が、怠惰の者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (7)アーナンダよ、まさに、その比丘が、気づきが忘却された者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (8)アーナンダよ、まさに、その比丘が、満ち足りていない者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (9)アーナンダよ、まさに、その比丘が、悪しき欲求ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (10)アーナンダよ、まさに、その比丘が、誤った見解ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を具備した者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 (1)アーナンダよ、まさに、その比丘が、信ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (2)アーナンダよ、まさに、その比丘が、戒ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (3)アーナンダよ、まさに、その比丘が、多聞の者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (4)アーナンダよ、まさに、その比丘が、素直な者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (5)アーナンダよ、まさに、その比丘が、善き朋友ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (6)アーナンダよ、まさに、その比丘が、精進に励む者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (7)アーナンダよ、まさに、その比丘が、気づきが現起された者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (8)アーナンダよ、まさに、その比丘が、満ち足りている者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (9)アーナンダよ、まさに、その比丘が、少なき欲求の者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 (10)アーナンダよ、まさに、その比丘が、正しい見解ある者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 アーナンダよ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を具備した者として〔世に〕存しつつ、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. プンニヤの経

 

83. そこで、まさに、尊者プンニヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者プンニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にはまた、如来に、法(教え)の説示が明白となり、或る時にはまた、明白とならないのですか」と。

 

 「(1)プンニヤよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、近づいて行く者ではありません。それまでのあいだ、如来に、法(教え)の説示が明白となることは、まさしく、ありません。プンニヤよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、近づいて行く者として、〔世に〕有ることから、このように、如来に、法(教え)の説示が明白となります。

 

 (2)プンニヤよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、近づいて行く者として、〔世に〕有ります──しかしながら、奉侍する者ではありません。……略……。(3)さらに、奉侍する者として、〔世に〕有ります──しかしながら、遍問する者ではありません。……略……(4)さらに、遍問する者として、〔世に〕有ります──しかしながら、耳を傾ける者として、法(教え)聞きません。……略……(5)さらに、耳を傾ける者として、法(教え)聞きます──しかしながら、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しません。……略……(6)さらに、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します──しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しません。……略……(7)さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します──しかしながら、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有りません。……略……(8)さらに、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ります──しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有りません。……略……(9)さらに、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ります──しかしながら、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。それまでのあいだ、如来に、法(教え)の説示が明白となることは、まさしく、ありません。

 

 (10)プンニヤよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、近づいて行く者として、かつまた、奉侍する者として、かつまた、遍問する者として、〔世に〕有り、かつまた、耳を傾ける者として、法(教え)聞き、かつまた、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、さらに、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ることから、このように、如来に、法(教え)の説示が明白となります。プンニヤよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備したなら、絶対的に明白なるものとして、如来に、法(教え)の説示が有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 説き明かしの経

 

84. そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、ここに、比丘が、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来が、あるいは、如来の弟子が、尋問し、審問し、査問します。その〔比丘〕は、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来によって、あるいは、如来の弟子によって、尋問され、審問され、査問されながら、虚脱を惹起し、狼狽を惹起し、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起します。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、意を為します。『いったい、まさに、どうして、この尊者は、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かすのか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『(1)まさに、この尊者は、忿激する者であり、忿激に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、忿激が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(2)また、まさに、この尊者は、怨恨ある者であり、怨恨に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、怨恨が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(3)また、まさに、この尊者は、偽装ある者であり、偽装に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、偽装が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(4)また、まさに、この尊者は、加虐ある者であり、加虐に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、加虐が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(5)また、まさに、この尊者は、嫉妬ある者であり、嫉妬に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、嫉妬が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(6)また、まさに、この尊者は、物惜ある者であり、物惜に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、物惜が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(7)また、まさに、この尊者は、狡猾ある者であり、狡猾に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、狡猾が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(8)また、まさに、この尊者は、幻惑ある者であり、幻惑に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、幻惑が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(9)また、まさに、この尊者は、悪しき欲求ある者であり、欲求に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、欲求が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(10)また、まさに、この尊者は、より上なる為すべきことが存しているのに、ほんの些細な殊勝〔の境地〕の到達によって、中途において完成〔の思い〕を惹起したのだ。また、まさに、中途において完成〔の思い〕に至ることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄せずして、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄して、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 誇る者の経

 

85. 或る時のことです。尊者マハー・チュンダは、チェーティ〔国〕に住んでいます。サハジャーティ〔村〕において。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・チュンダに答えました。尊者マハー・チュンダは、こう言いました。

 

 「友よ、ここに、比丘が、諸々の到達について、誇る者として、誇示する者として、〔世に〕有ります。『わたしは、第一の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第二の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第三の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第四の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、識知無辺なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、無所有なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。表象と感覚の止滅に入定もまたし出起もまたする』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来が、あるいは、如来の弟子が、尋問し、審問し、査問します。その〔比丘〕は、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来によって、あるいは、如来の弟子によって、尋問され、審問され、査問されながら、虚脱を惹起し、狼狽を惹起し、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起します。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、意を為します。『いったい、まさに、どうして、この尊者は、諸々の到達について、誇る者として、誇示する者として、〔世に〕有るのか。「わたしは、第一の瞑想に入定もまたし出起もまたする。……略……。表象と感覚の止滅に入定もまたし出起もまたする」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『(1)まさに、この尊者は、長夜にわたり、諸戒において、破断を為す者であり、切断を為す者であり、斑紋を為す者であり、雑色を為す者であり、常に為す者ではなく、常なる行持ある者ではない。まさに、この尊者は、劣戒の者である。また、まさに、劣戒の資質は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(2)また、まさに、この尊者は、信なき者である。また、まさに、信なき〔生き方〕は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(3)また、まさに、この尊者は、少聞の者であり、習行なき者である。まさに、また、まさに、少聞は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(4)また、まさに、この尊者は、頑固な者である。また、まさに、頑固であることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(5)また、まさに、この尊者は、悪しき欲求ある者である。また、まさに、悪しき欲求あることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(6)また、まさに、この尊者は、怠惰の者である。また、まさに、怠惰は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(7)また、まさに、この尊者は、気づきが忘却された者である。また、まさに、気づきの忘却は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(8)また、まさに、この尊者は、虚言者である。また、まさに、虚言は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(9)また、まさに、この尊者は、扶養し難き者(他者に迷惑をかける者)である。また、まさに、扶養し難きことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(10)また、まさに、この尊者は、智慧浅き者である。また、まさに、智慧浅きことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 友よ、それは、たとえば、また、道友が、道友に、このように説くとします。『友よ、あなたに、財のことで、財によって為すべきことが存する、そのときは、わたしに、財を乞い求めるべきです。あなたに、財を与えましょう』と。その道友は、何らかの或る、財によって為すべきことが生起したとき、道友に、このように説きます。『友よ、わたしに、財のことで義(目的)があります。わたしに、財を与えたまえ』と。彼は、このように説きます。『友よ、まさに、それでは、ここを掘りたまえ』と。彼は、そこを掘りつつ、〔財に〕到達しません。彼は、このように説きます。『友よ、〔あなたは〕わたしに、偽りを言った。友よ、〔あなたは〕わたしに、虚妄を言った。「ここを掘りたまえ」』と。彼は、このように説きます。『友よ、わたしは、あなたに、偽りを言ったことも、虚妄を言ったことも、ありません。友よ、まさに、それでは、ここを掘りたまえ』と。彼は、そこを掘りつつもまた、〔財に〕到達しません。彼は、このように説きます。『友よ、〔あなたは〕わたしに、偽りを言った。友よ、〔あなたは〕わたしに、虚妄を言った。「ここを掘りたまえ」』と。彼は、このように説きます。『友よ、わたしは、あなたに、偽りを言ったことも、虚妄を言ったことも、ありません。しかしながら、また、まさしく、わたしは、心の転倒によって、狂気に至り得ました』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、比丘が、諸々の到達について、誇る者として、誇示する者として、〔世に〕有ります。『わたしは、第一の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第二の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第三の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、第四の瞑想に入定もまたし出起もまたする。わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、識知無辺なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、無所有なる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定もまたし出起もまたする。表象と感覚の止滅に入定もまたし出起もまたする』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来が、あるいは、如来の弟子が、尋問し、審問し、査問します。その〔比丘〕は、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来によって、あるいは、如来の弟子によって、尋問され、審問され、査問されながら、虚脱を惹起し、狼狽を惹起し、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起します。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、意を為します。『いったい、まさに、どうして、この尊者は、諸々の到達について、誇る者として、誇示する者として、〔世に〕有るのか。「わたしは、第一の瞑想に入定もまたし出起もまたする。……略……。表象と感覚の止滅に入定もまたし出起もまたする」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『(1)まさに、この尊者は、長夜にわたり、諸戒において、破断を為す者であり、切断を為す者であり、斑紋を為す者であり、雑色を為す者であり、常に為す者ではなく、常なる行持ある者ではない。まさに、この尊者は、劣戒の者である。また、まさに、劣戒の資質は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(2)また、まさに、この尊者は、信なき者である。また、まさに、信なき〔生き方〕は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(3)また、まさに、この尊者は、少聞の者であり、習行なき者である。まさに、また、まさに、少聞は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(4)また、まさに、この尊者は、頑固な者である。また、まさに、頑固であることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(5)また、まさに、この尊者は、悪しき欲求ある者である。また、まさに、悪しき欲求あることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(6)また、まさに、この尊者は、怠惰の者である。また、まさに、怠惰は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(7)また、まさに、この尊者は、気づきが忘却された者である。また、まさに、気づきの忘却は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(8)また、まさに、この尊者は、虚言者である。また、まさに、虚言は、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(9)また、まさに、この尊者は、扶養し難き者である。また、まさに、扶養し難きことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(10)また、まさに、この尊者は、智慧浅き者である。また、まさに、智慧浅きことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄せずして、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄して、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 増上慢の経

 

86. 或る時のことです。尊者マハー・カッサパは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッサパに答えました。尊者マハー・カッサパは、こう言いました。

 

 「友よ、ここに、比丘が、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来が、あるいは、如来の弟子が、尋問し、審問し、査問します。その〔比丘〕は、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来によって、あるいは、如来の弟子によって、尋問され、審問され、査問されながら、虚脱を惹起し、狼狽を惹起し、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起します。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、意を為します。『いったい、まさに、どうして、この尊者は、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かすのか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『まさに、この尊者は、増上慢の者となり、増上慢の真理ある者となり、至り得ていないものについて至り得たものの表象ある者となり、為されていないものについて為されたものの表象ある者となり、到達していないものについて到達したものの表象ある者となり、増上慢によって、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かす。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、意を為します。『いったい、何に依拠して、まさに、この尊者は、増上慢の者となり、増上慢の真理ある者となり、至り得ていないものについて至り得たものの表象ある者となり、為されていないものについて為されたものの表象ある者となり、到達していないものについて到達したものの表象ある者となり、増上慢によって、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かすのか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『また、まさに、この尊者は、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者である──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。それゆえに、この尊者は、増上慢の者となり、増上慢の真理ある者となり、至り得ていないものについて至り得たものの表象ある者となり、為されていないものについて為されたものの表象ある者となり、到達していないものについて到達したものの表象ある者となり、増上慢によって、〔自己みずから、自己の〕了知を説き明かす。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。

 

 〔まさに〕その、この者のことを、瞑想者であり、入定に巧みな智ある者であり、他者の心に巧みな智ある者であり、他者の心の様態に巧みな智ある者である、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、覚知します。

 

 『(1)また、まさに、この尊者は、強欲〔の思い〕ある者であり、強欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、強欲〔の思い〕が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(2)また、まさに、この尊者は、憎悪〔の思い〕ある者であり、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、憎悪〔の思い〕が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(3)また、まさに、この尊者は、〔心の〕沈滞と眠気ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、〔心の〕沈滞と眠気が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(4)また、まさに、この尊者は、〔心が〕高揚した者であり、〔心の〕高揚に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、〔心の〕高揚が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(5)また、まさに、この尊者は、疑惑〔の思い〕ある者であり、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で多くを住む。また、まさに、疑惑〔の思い〕が遍く取り囲むことは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(6)また、まさに、この尊者は、作業を喜びとし、作業を喜び、作業の喜びに専念する者である。また、まさに、作業を喜びとすることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(7)また、まさに、この尊者は、談義を喜びとし、談義を喜び、談義の喜びに専念する者である。また、まさに、談義を喜びとすることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(8)また、まさに、この尊者は、睡眠を喜びとし、睡眠を喜び、睡眠の喜びに専念する者である。また、まさに、睡眠を喜びとすることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(9)また、まさに、この尊者は、社交を喜びとし、社交を喜び、社交の喜びに専念する者である。また、まさに、社交を喜びとすることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 『(10)また、まさに、この尊者は、より上なる為すべきことが存しているのに、ほんの些細な殊勝〔の境地〕の到達によって、中途において完成〔の思い〕を惹起したのだ。また、まさに、中途において完成〔の思い〕に至ることは、これは、如来によって知らされた法(教え)と律における遍き衰退である』〔と〕。

 

 友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄せずして、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、まさに、その比丘が、これらの十の法(性質)を捨棄して、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「愛慕〔の思い〕ではなく」の経

 

87. そこで、まさに、世尊は、命を終えた比丘に関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、問題ある者として、問題の止寂の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、問題ある者として、問題の止寂の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びを欲する者ではなく、学びの受持の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、学びを欲する者ではなく、学びの受持の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、悪しき欲求ある者として、欲求の調伏(取り除き)の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、悪しき欲求ある者として、欲求の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、偽装の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、偽装ある者として、偽装の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾ある者として、狡猾の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、狡猾ある者として、狡猾の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、幻惑ある者として、幻惑の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、幻惑ある者として、幻惑の調伏の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の法(教え)を傾聴する類の者ではなく、法(事象)の感知の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、諸々の法(教え)を傾聴する類の者ではなく、法(事象)の感知の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、静坐する者ではなく、静坐の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、静坐する者ではなく、静坐の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにとって友愛ある者ではなく、友愛ある者の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、梵行を共にする者たちにとって友愛ある者ではなく、友愛ある者の栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるためではなく、尊重〔の思い〕あるためではなく、敬愛のためではなく、沙門の資質のためではなく、一なる状態のためではなく、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、このような形態の比丘に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしのことを、梵行を共にする者たちは、尊敬するべきであり、尊重するべきであり、思慕するべきであり、供養するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、梵行を共にする識者たちは、彼の、それらの悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されていないのを等しく随観するからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、野馬たる馬に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしのことを、人間たちは、良馬の地位に位置づけるべきであり、かつまた、良馬の食料を食べさせるべきであり、さらに、良馬の身繕いを提供するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、人間たちは、まさしく、そして、良馬の地位に位置づけず、かつまた、良馬の食料を食べさせず、さらに、良馬の身繕いを提供しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、識者たる人間たちは、その〔野馬たる馬〕の、それらの狡猾と奸計と歪曲と邪曲が捨棄されていないのを等しく随観するからです。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の比丘に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしのことを、梵行を共にする者たちは、尊敬するべきであり、尊重するべきであり、思慕するべきであり、供養するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、梵行を共にする識者たちは、彼の、それらの悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されていないのを等しく随観するからです。

 

 (1)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、問題ある者ではなく、問題の止寂の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、問題ある者ではなく、問題の止寂の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びを欲する者として、学びの受持の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、学びの受持の栄誉を説く者として、学びを欲する者としてく〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、少なき欲求の者として、欲求の調伏(取り除き)の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、少なき欲求の者として、欲求の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、忿激しない者として、忿激の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、忿激しない者として、忿激の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、偽装なき者として、偽装の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、偽装なき者として、偽装の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾なき者として、狡猾の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、狡猾なき者として、狡猾の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、幻惑なき者として、幻惑の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、幻惑なき者として、幻惑の調伏の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の法(教え)を傾聴する類の者として、法(事象)の感知の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、諸々の法(教え)を傾聴する類の者として、法(事象)の感知の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (9)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、静坐する者として、静坐の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、静坐する者として、静坐の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた……略……一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (10)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにとって友愛ある者として、友愛ある者の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、また、比丘が、梵行を共にする者たちにとって友愛ある者として、友愛ある者の栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、このような形態の比丘に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしのことを、梵行を共にする者たちは、尊敬するべきであり、尊重するべきであり、思慕するべきであり、供養するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、梵行を共にする識者たちは、彼の、それらの悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されているのを等しく随観するからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、賢馬にして良馬たる馬に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしのことを、人間たちは、良馬の地位に位置づけるべきであり、かつまた、良馬の食料を食べさせるべきであり、さらに、良馬の身繕いを提供するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、人間たちは、そして、良馬の地位に位置づけ、かつまた、良馬の食料を食べさせ、さらに、良馬の身繕いを提供します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、識者たる人間たちは、その〔賢馬にして良馬たる馬〕の、それらの狡猾と奸計と歪曲と邪曲が捨棄されているのを等しく随観するからです。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の比丘に、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしのことを、梵行を共にする者たちは、尊敬するべきであり、尊重するべきであり、思慕するべきであり、供養するべきである』と、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、梵行を共にする識者たちは、彼の、それらの悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されているのを等しく随観するからです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 罵倒者の経

 

88. 「比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況あることであり、機会あることです。すなわち、その〔比丘〕が、十の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇することです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)〔いまだ〕到達していないものに到達しません。(2)〔すでに〕到達したものから遍く衰退します。(3)諸々の正なる法(教え)は、彼を浄化しません。(4)あるいは、諸々の正なる法(教え)において、増上慢の者と成ります。(5)あるいは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。(6)あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起します。(7)あるいは、激しい病悩に接触します。(8)あるいは、狂気に、心の散乱に、至り得ます。(9)等しく迷乱した者として命を終えます。(10)身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況あることであり、機会あることです。すなわち、その〔比丘〕が、これらの十の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇することです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. コーカーリカの経

 

89. そこで、まさに、コーカーリカ比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サーリプッタとモッガッラーナは、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。

 

 再度また、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サーリプッタとモッガッラーナは、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。

 

 三度また、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、たとえ、何であれ、わたしにとって、世尊が、信を置ける頼りになる方であるとして、そこで、まさに、サーリプッタとモッガッラーナは、まさしく、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。三度また、世尊は、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。

 

 そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そして、コーカーリカ比丘が立ち去ったすぐあと、〔彼の〕全身は、芥子粒ほどの諸々の吹出物で充満したものと成りました。芥子粒ほどのものと成って〔そののち〕、緑豆ほどのものと成りました。緑豆ほどのものと成って〔そののち〕、大豆ほどのものと成りました。大豆ほどのものと成って〔そののち〕、棗の核ほどのものと成りました。棗の核ほどのものと成って〔そののち〕、棗ほどのものと成りました。棗ほどのものと成って〔そののち〕、アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成りました。アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成りました。未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、ビッラ〔の果実〕(パパイヤ)ほどのものと成りました。ビッラ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、破れました。そして、膿が、さらに、血が、流れ出ました。彼は、まさに、諸々の芭蕉の葉のうえに、毒を飲み込んだ魚のように臥します。

 

 そこで、まさに、独りある梵〔天〕のトゥルーは、コーカーリカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、宙空に立って、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。「友よ、誰なのですか、〔ここに〕存する、あなたは」と。「わたしは、独りある梵〔天〕のトゥルーです」と。「友よ、まさに、あなたは、世尊によって授記された、不還たる者ではないですか。そこで、それなのに、どうして、ここにやってきたのですか。見たまえ──そして、どれほどまでに、この〔到来〕が、あなた〔の不還たる境遇〕に反するものであるかを」と。

 

 そこで、まさに、独りある梵〔天〕のトゥルーは、コーカーリカ比丘に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、人が生まれたなら、口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ──悪語(悪口)を話しながら。

 

 彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する(自ら罪過を選び取る)──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。

 

 この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら(悪意を抱き非難するなら)、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。

 

 百千(十万)の三十六のニラッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、さらに、五つのアッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕」と。

 

 そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、まさしく、その病苦によって、命を終えました。そして、命を終えたコーカーリカ比丘は、パドゥマ地獄(紅蓮地獄)に再生します──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて。

 

 そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーカーリカ比丘が、命を終えたのです。尊き方よ、そして、命を終えたコーカーリカ比丘が、パドゥマ地獄に再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、コーカーリカ比丘が、命を終えたのです。尊き方よ、そして、命を終えたコーカーリカ比丘が、パドゥマ地獄に再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて』と。比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしに右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、パドゥマ地獄における寿命の量となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、パドゥマ地獄における寿命の量は。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリ(重さの単位・一石)の胡麻の積み荷があるとします。その〔胡麻の積み荷〕から、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、一つ一つの胡麻を取り出すとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリの胡麻の積み荷は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、一つのアッブダ地獄〔の寿命〕は、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのニラッブダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のニラッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアババ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアババ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアタタ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアタタ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアハハ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアハハ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのクムダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のクムダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのソーガンディカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のソーガンディカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのウッパラカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のウッパラカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのプンダリーカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のプンダリーカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのパドゥマ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、また、まさに、パドゥマ地獄に、コーカーリカ比丘は再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、人が生まれたなら、口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ──悪語を話しながら。

 

 彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。

 

 この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。

 

 百千(十万)の三十六のニラッブダ〔年〕のあいだ、さらに、五つのアッブダ〔年〕のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 煩悩の滅尽者の力の経

 

90. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、いったい、まさに、どれだけの力が、煩悩が滅尽した比丘にあるのですか。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』」と。

 

 「尊き方よ、十のものがあります。煩悩が滅尽した比丘にとって、力となるものです。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。どのようなものが、十のものなのですか。(1)尊き方よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘とって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (2)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕(女性)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (3)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成ります〕。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、心が、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成るなら〕、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (4)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立(四念処四念住)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (5)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの正しい精励(四正勤)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(6)四つの神通の足場(四神足)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(7)五つの機能(五根)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(8)五つの力(五力)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものとして有ります。……(9)七つの覚りの支分(七覚支)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものとして有ります。……(10)聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 尊き方よ、まさに、これらの十の、煩悩が滅尽した比丘にとって、力となるものがあります。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』」と。〔以上が〕第十となる。

 

 長老の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ヴァーハナ、アーナンダ、プンニヤ、説き明かし、誇る者、〔増上〕慢ある者、『愛慕〔の思い〕ではなく』と罵倒とコーカーリがあり、そして、煩悩の滅尽者の力とともに、〔章となる〕」と。

 

(10)5. ウパーリの章

 

1. 欲望の享受者の経

 

91. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、十のものがあります。これらの欲望の享受者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、十のものなのですか。(1)家長よ、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (2)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (3)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。

 

 (4)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (5)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (6)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。

 

 (7)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (8)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為しません。

 

 (9)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。

 

 (10)家長よ、また、ここに、一部の者は、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めます。法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為します。そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 (1)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第三の状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって非難されるべきです。

 

 (2)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって非難されるべきであり、一つの状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって非難されるべきであり、この一つの状況によって賞賛されるべきです。

 

 (3)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為すなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって非難されるべきであり、二つの状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって非難されるべきであり、これらの二つの状況によって賞賛されるべきです。

 

 (4)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって賞賛されるべきであり、三つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第三の状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの三つの状況によって非難されるべきです。

 

 (5)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって賞賛されるべきであり、二つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの二つの状況によって非難されるべきです。

 

 (6)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによってもまた、無理強いしないことによってもまた、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為すなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)ならざる〔手段〕によって、無理強いすることによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって非難されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。

 

 (7)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させず喜悦させず、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、一つの状況によって賞賛されるべきであり、二つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この一つの状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させず喜悦させない』と、この第一の状況によって非難されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この第二の状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、この一つの状況によって賞賛されるべきであり、これらの二つの状況によって非難されるべきです。

 

 (8)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さないなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、二つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与えず、諸々の功徳を作り為さない』と、この一つの状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの二つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。

 

 (9)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益するなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、三つの状況によって賞賛されるべきであり、一つの状況によって非難されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。『そして、それらの財物を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益する』と、この一つの状況によって非難されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの三つの状況によって賞賛されるべきであり、この一つの状況によって非難されるべきです。

 

 (10)家長よ、そこで、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益するなら、家長よ、この者は、欲望の享受者として、四つの状況によって賞賛されるべきです。『法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求める』と、この第一の状況によって賞賛されるべきです。『自己を安楽させ喜悦させる』と、この第二の状況によって賞賛されるべきです。『〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為す』と、この第三の状況によって賞賛されるべきです。『そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する』と、この第四の状況によって賞賛されるべきです。家長よ、この者は、欲望の享受者として、これらの四つの状況によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、まさに、これらの十の欲望の享受者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。家長よ、まさに、これらの十の欲望の享受者たちがあるなか、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益するなら、この者は、これらの十の欲望の享受者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。家長よ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から酥が、酥から酥精があり、そこにおいて、酥精が、至高のものと告げ知らされるように──

 

 家長よ、まさしく、このように、まさに、これらの十の欲望の享受者たちがあるなか、すなわち、この者が、欲望の享受者として、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって、無理強いしないことによって、諸々の財物を遍く探し求めて、自己を安楽させ喜悦させ、〔諸々の財物を〕分け与え、諸々の功徳を作り為し、そして、それらの財物を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益するなら、この者は、これらの十の欲望の享受者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 恐怖の経

 

92. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……(4)虚偽を説く者は……(5)穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(6)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(7)法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。(8)僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。(9)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、どのようなものが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。(10)家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)がある。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。そして、これが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「どのような見解ある者として」の経

 

93. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、世尊と会見するために、サーヴァッティーから出立しました──昼のさなかに。そこで、まさに、アナータピンディカ家長に、この〔思い〕が有りました。「まさに、まだ、世尊と会見するための時ではない。世尊は静坐している。意を修めることができる比丘たちともまた、会見するための時ではない。意を修めることができる比丘たちは静坐している。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、群集して、集いあつまって、狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論しながら、坐った状態でいます。まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、アナータピンディカ家長が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子であるアナータピンディカ家長が、林園にやってくる。また、まさに、すなわち、サーヴァッティーに住するかぎりの、沙門ゴータマの弟子である白衣の在家者たちで、この者は、アナータピンディカ家長は、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。

 

 そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。「家長よ、説きたまえ。沙門ゴータマは、どのような見解ある者なのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊の全ての見解を知りません」と。

 

 「家長よ、かくのごとく、おっしゃるように、あなたが、沙門ゴータマの全ての見解を知らないなら、家長よ、説きたまえ。比丘たちは、どのような見解ある者たちなのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、比丘たちの全ての見解もまた知りません」と。

 

 「家長よ、かくのごとく、おっしゃるように、あなたが、沙門ゴータマの全ての見解を知らず、比丘たちの全ての見解もまた知らないなら、家長よ、説きたまえ。あなたは、どのような見解ある者として〔世に〕存しているのですか」と。「尊き方よ、わたしたちが、どのような見解ある者たちであるか、説き明かすのは、このことは、まさに、わたしたちに為し難きことではありません。さあ、まずは、尊者たちが、自らのものであるとおりに、諸々の見解として具しているものを説き明かしてください。たとえ、そのあとでも、わたしたちが、どのような見解ある者たちであるか、説き明かすのは、このことは、まさに、わたしたちに為し難きことと成らないでしょう」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者が、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「(1)『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります」と。

 

 或るひとりの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者もまた、まさに、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「(2)『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります」と。

 

 或るひとりの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者もまた、まさに、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「(3)『世〔界〕は、終極がある。……略……。「(4)『世〔界〕は、終極がない。……。「(5)『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「(6)『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「(7)『如来は、死後に有る。……。「(8)『如来は、死後に有ることがない。……。「(9)『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』……。「(10)『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります」と。

 

 このように説かれたとき、アナータピンディカ家長は、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、この尊者は、このように言いました。『(1)「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります』と。この尊者のこの見解は、あるいは、自己の根源のままならずに意を為すことを因として生起したものであり、あるいは、他者からの情報を縁として〔生起したものです〕。また、まさに、その、この見解は、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものです。また、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、まさしく、それに、この尊者は執着したのであり、まさしく、それに、この尊者は到達したのです。

 

 尊き方よ、すなわち、また、この尊者は、このように言いました。『(2)「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります』と。この尊者のこの見解もまた、あるいは、自己の根源のままならずに意を為すことを因として生起したものであり、あるいは、他者からの情報を縁として〔生起したものです〕。また、まさに、その、この見解は、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものです。また、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、まさしく、それに、この尊者は執着したのであり、まさしく、それに、この尊者は到達したのです。

 

 尊き方よ、すなわち、また、この尊者は、このように言いました。『(3)「世〔界〕は、終極がある。……略……。『(4)「世〔界〕は、終極がない。……。『(5)「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……。『(6)「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……。『(7)「如来は、死後に有る。……。『(8)「如来は、死後に有ることがない。……。『(9)「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』……。『(10)「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、家長よ、わたしはあります』と。この尊者のこの見解もまた、あるいは、自己の根源のままならずに意を為すことを因として生起したものであり、あるいは、他者からの情報を縁として〔生起したものです〕。また、まさに、その、この見解は、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものです。また、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、まさしく、それに、この尊者は執着したのであり、まさしく、それに、この尊者は到達したのです。

 

 このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、まさに、わたしたちの、まさしく、全ての者たちによって、自らのものであるとおりに、諸々の見解として具しているものが説き明かされました。家長よ、説きたまえ。あなたは、どのような見解ある者として〔世に〕存しているのですか」と。「尊き方よ、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』という、このような見解ある者として、尊き方よ、わたしはあります」と。

 

 「家長よ、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、家長よ、まさしく、それに、あなたは執着したのであり、家長よ、まさしく、それに、あなたは到達したのです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、それが何であれ、成ったものであり、作り為されたものであり、思い考えられたものであり、縁によって生起したものであるなら、それは、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。そして、それの、より上なる出離を、事実のとおりに、〔わたしは〕覚知します」と。

 

 このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長は、すなわち、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。「家長よ、善きかな、善きかな。家長よ、このように、まさに、それらの愚人たちは、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御されるべきです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、アナータピンディカ家長に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、アナータピンディカ家長が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、この法(教え)と律において、〔戒を〕成就して百年の者なるも、彼もまた、まさしく、このように、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御するべきです。すなわち、アナータピンディカ家長によって、それへと制御されたように」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヴァッジヤマーヒタの経

 

94. 或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、世尊と会見するために、チャンパーから出立しました──昼のさなかに。そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長に、この〔思い〕が有りました。「まさに、まだ、世尊と会見するための時ではない。世尊は静坐している。意を修めることができる比丘たちともまた、会見するための時ではない。意を修めることができる比丘たちは静坐している。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、群集して、集いあつまって、狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論を議論しながら、坐った状態でいます。

 

 まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、ヴァッジヤマーヒタ家長が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子であるヴァッジヤマーヒタ家長が、林園にやってくる。また、まさに、すなわち、チャンパーに住するかぎりの、沙門ゴータマの弟子である白衣の在家者たちで、この者は、ヴァッジヤマーヒタ家長は、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。

 

 そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長に、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。「家長よ、本当に、まさに、沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判するのですか」と。「尊き方よ、まさに、世尊は、全ての苦行を難詰せず、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判することもまたありません。尊き方よ、まさに、世尊は、難詰されるべき者を難詰し、賞賛されるべき者を賞賛します。尊き方よ、また、まさに、世尊が、難詰されるべき者を難詰しているなら、賞賛されるべき者を賞賛しているなら、区分して説く者として、世尊はあります。彼は、世尊は、ここにおいて、一方的に説く者ではありません」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの遍歴遊行者が、ヴァッジヤマーヒタ家長に、こう言いました。「家長よ、あなたは待ちたまえ。あなたが、すなわち、沙門ゴータマの、栄誉を語るとして、〔一方的に説く者ではない〕沙門ゴータマは、導き手として、〔何も〕報知できない者となるのでは」と。「尊き方よ、ここにおいてもまた、わたしは、法(真理)を共にするものによって、尊者たちに説きましょう。尊き方よ、『これは、善なるものである』と、世尊によって報知されました。尊き方よ、『これは、善ならざるものである』と、世尊によって報知されました。かくのごとく、世尊が、善なるものと善ならざるものを報知しているなら、区分して説く者として、世尊はあります。彼は、世尊は、導き手として、〔何も〕報知できない者ではありません」と。

 

 このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、すなわち、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「家長よ、善きかな、善きかな。家長よ、このように、まさに、それらの愚人たちは、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御されるべきです。(1)家長よ、わたしは、『全ての苦行は苦行されるべきである』と説きません。(2)家長よ、また、そして、わたしは、『全ての苦行は苦行されるべきではない』と説きません。(3)家長よ、わたしは、『全ての受持は受持されるべきである』と説きません。(4)家長よ、また、わたしは、『全ての受持は受持されるべきではない』と説きません。(5)家長よ、わたしは、『全ての精励は精励されるべきである』と説きません。(6)家長よ、また、わたしは、『全ての精励は精励されるべきではない』と説きません。(7)家長よ、わたしは、全ての放棄を『放棄されるべきである』と説きません。(8)家長よ、また、そして、『全ての放棄は放棄されるべきではない』と説きません。(9)家長よ、わたしは、『全ての解脱は解脱されるべきである』と説きません。(10)家長よ、また、わたしは、『全ての解脱は解脱されるべきではない』と説きません。

 

 (1・2)家長よ、まさに、その苦行を苦行していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の苦行は苦行されるべきではない』と説きます。家長よ、そして、彼が、まさに、その苦行を苦行していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の苦行は苦行されるべきである』と説きます。

 

 (3・4)家長よ、まさに、その受持を受持していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の受持は受持されるべきではない』と説きます。家長よ、そして、彼が、まさに、その受持を受持していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の受持は受持されるべきである』と説きます。

 

 (5・6)家長よ、まさに、その精励を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の精励は精励されるべきではない』と説きます。家長よ、そして、彼が、まさに、その精励を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の精励は精励されるべきである』と説きます。

 

 (7・8)家長よ、まさに、その放棄を放棄していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の放棄は放棄されるべきではない』と説きます。家長よ、そして、彼が、まさに、その放棄を放棄していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の放棄は放棄されるべきである』と説きます。

 

 (9・10)家長よ、まさに、その解脱を解脱していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の解脱は解脱されるべきではない』と説きます。家長よ、そして、彼が、まさに、その解脱を解脱していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の解脱は解脱されるべきである』と説きます」と。

 

 そこで、まさに、ヴァッジヤマーヒタ家長は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、ヴァッジヤマーヒタ家長が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、この法(教え)と律において、長夜にわたり塵少なき者なるも、彼もまた、まさしく、このように、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御するべきです。すなわち、ヴァッジヤマーヒタ家長によって、それへと制御されたように」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ウッティヤの経

 

95. そこで、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。(1)「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 (2)「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久ではないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 (3)「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極があるのですか。……略……(4)世〔界〕は、終極がないのですか。……(5)そのものとして生命があり、そのものとして肉体があるのですか。……(6)他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体があるのですか。……(7)如来は、死後に有るのですか。……(8)如来は、死後に有ることがないのですか。……(9)如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。……(10)如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 (1)「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 (2)『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久ではないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 (3)『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極があるのですか。……略……(4)世〔界〕は、終極がないのですか。……(5)そのものとして生命があり、そのものとして肉体があるのですか。……(6)他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体があるのですか。……(7)如来は、死後に有るのですか。……(8)如来は、死後に有ることがないのですか。……(9)如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。……(10)如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。そこで、そうしますと、何が、貴君ゴータマによって説き明かされたのですか」と。

 

 「ウッティヤよ、まさに、わたしは、証知して〔そののち〕、弟子たちに、法(教え)を説示します──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために」と。

 

 「また、すなわち、このことがあり、貴君ゴータマが、証知して〔そののち〕、弟子たちに、法(教え)を説示するなら──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために──それによって、世〔の人々〕は、あるいは、全てが導かれるか、あるいは、半分が〔導かれるか〕、あるいは、三分の一が〔導かれるかです〕」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、このように、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者が、悪しきものである悪しき見解を獲得してはならない。『沙門ゴータマは、まさに、わたしによって尋ねられた、全てが高尚なる問いを放置し、回答しない。まちがいなく、〔何も〕できないのだ』と。それは、ウッティヤ遍歴遊行者にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するであろう」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ウッティヤ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、ウッティヤよ、それでは、あなたのために、譬えを作り為しましょう。譬えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。友よ、ウッティヤよ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な塀と楼門があり、一つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこに、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕存するとします。彼は、その城市の、遍きにわたり、巡回する道を巡り行きします。巡回する道を巡り行きながら、あるいは、塀の境目を、あるいは、塀の隙間を、もしくは、たとえ、山猫が出るほどのものであろうと、〔それらの全てを〕見ることはありません。かつまた、まさに、彼に、このような知恵は有りません。『これだけの命あるものたちが、この城市を、あるいは、入り、あるいは、出る』と。そこで、まさに、ここにおいて、彼に、このような〔知恵が〕有ります。『まさに、彼らが誰であれ、粗大なる命あるものたちが、この城市を、あるいは、入るなら、あるいは、出るなら、彼らの全てが、この門をとおり、あるいは、入り、あるいは、出る』と。

 

 友よ、ウッティヤよ、まさしく、このように、まさに、如来には、このような思い入れは有りません。『それによって、世〔の人々〕は、あるいは、全てが導かれるか、あるいは、半分が〔導かれるか〕、あるいは、三分の一が〔導かれるかです〕』と。そこで、まさに、ここにおいて、如来には、このような〔知恵が〕有ります。『まさに、彼らが誰であれ、〔この〕世から、あるいは、導かれたとして、あるいは、導かれるとして、あるいは、導かれることになるとして、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、四つの気づきの確立(四念処四念住)において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分(七覚支)を事実のとおりに修めて、このように、これらの者たちは、〔この〕世から、あるいは、導かれたのであり、あるいは、導かれるのであり、あるいは、導かれることになる』と。友よ、ウッティヤよ、まさしく、すなわち、まさに、あなたは、世尊に、問いを尋ねましたが、まさしく、その、この問いを、他の教相によって、世尊に尋ねたのです。それゆえに、世尊は、あなたに、それを説き明かさなかったのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. コーカヌダの経

 

96. 或る時のことです。尊者アーナンダは、ラージャガハに住んでいます。タポーダーの林園(温泉精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一つの衣料の者となり、五体を乾かしながら、〔そこに〕立ちました。まさに、コーカヌダ遍歴遊行者もまた、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。

 

 まさに、コーカヌダ遍歴遊行者は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、ここにおいておられるのは、どなたかな」と。「友よ、わたしは比丘です」と。

 

 「友よ、どのような比丘たちの」と。「友よ、釈子たる沙門たちの」と。

 

 「わたしたちは、尊者に、何らかの或る点でお尋ねしたい。それで、もし、尊者が、〔わたしたちの〕問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「友よ、尋ねたまえ。聞いて〔そののち、お答えできるかを〕知るでしょう」と。

 

 (1)「君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 (2)「君よ、また、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 (3)「君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、終極がある。……略……(4)『世〔界〕は、終極がない。……(5)『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……(6)『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……(7)『如来は、死後に有る。……(8)『如来は、死後に有ることがない。……(9)『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……(10)貴君は、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「まさに、それでは、貴君は知らず見ないのでは」と。「友よ、まさに、わたしは知らず見ないのではありません。友よ、わたしは知り見ます」と。

 

 (1)「『君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 (2)『君よ、また、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 (3)『君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、終極がある。……略……(4)「世〔界〕は、終極がない。……(5)「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……(6)「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……(7)「如来は、死後に有る。……(8)「如来は、死後に有ることがない。……(9)「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……(10)貴君は、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 『まさに、それでは、貴君は知らず見ないのでは』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは知らず見ないのではありません。友よ、わたしは知り見ます』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

 「(1)友よ、『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。(2)友よ、『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。(3)友よ、『世〔界〕は、終極がある。……略……。(4)友よ、『世〔界〕は、終極がない。……。(5)友よ、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……。(6)友よ、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……。(7)友よ、『如来は、死後に有る。……。(8)友よ、『如来は、死後に有ることがない。……。(9)友よ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。(10)友よ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。

 

 友よ、およそ、見解としてあるかぎりは──およそ、見解の境位として、見解の確立として、見解の妄執として、見解の現起として、見解の根絶として、あるかぎりは──それを、わたしは知り、それを、わたしは見ます。それを、わたしは知りながら、それを、わたしは見ながら、どうして、わたしが、『〔わたしは〕知らず見ない』と説くというのでしょう。友よ、わたしは知り見ます」と。

 

 「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『アーナンダ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『アーナンダ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「まさに、ああ、まさに、大いなる行ないある方を相手に話し合っているとは知りませんでした。『尊者アーナンダである』と。まさに、それで、もし、わたしどもが、『この者は、尊者アーナンダである』と知るなら、これほどまでにもまた、わたしどもが弁じることは、まさに、ないでしょう(※)。さてまた、尊者アーナンダは、わたしを許したまえ」と。〔以上が〕第六となる。

 

※ テキストには no nappaṭibhāyeyya とあるが、PTS版により no na ppaṭibhāseyya と読む。

 

7. 〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

97. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。

 

 (2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。

 

 (3)善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。

 

 (4)正しい見解ある者として、正しい見を具備した者として、〔世に〕有ります。

 

 (5)無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 (6)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

 

 (7)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 (8)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 (9)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 (10)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 長老の経

 

98. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、平穏のうちに〔世に〕住みます。どのようなものが、十のものなのですか。(1)〔その〕長老が、経歴ある者として、長き出家者として、〔世に〕有ります。(2)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(3)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(4)また、まさに、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(5)問題の生起と寂止に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。(6)法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。(7)いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。(8)前進し後進するときは清信ある者として、坐禅〔瞑想〕のために家屋の内にあるときは善く統御された者として、〔世に〕有ります。(9)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(10)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した長老の比丘は、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、平穏のうちに〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ウパーリの経

 

99. そこで、まさに、尊者ウパーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することを求めます」と。

 

 「ウパーリよ、まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所です。為し難きは、喜び難きは、遠離です。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去るのです。ウパーリよ、或る者が、まさに、『わたしは、禅定を得ずにいるが、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するのだ』と、このように説くなら、彼には、あるいは、沈み込むことになり、あるいは、浮き漂うことになる、という、このことが待っています。

 

 ウパーリよ、それは、たとえば、また、大いなる湖水があるとします。そこで、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の、あるいは、七ラタナ半の、巨象がやってくるとします。彼に、このような〔思いが〕存するとします。『それなら、さあ、わたしは、この湖水に入って行って、耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたし、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたするのだ。耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔湖から〕上がって、欲するところに立ち去るのだ』と。彼は、その湖水に入って行って、耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたするでしょうし、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたするでしょう。耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔湖から〕上がって、欲するところに立ち去るでしょう。それは、何を因とするのですか。ウパーリよ、大いなる自己状態(個我的あり方・身体)ある者は、深みにおいて堅地を見出すからです。

 

 そこで、あるいは、兎が、あるいは、山猫が、やってくるとします。彼に、このような〔思いが〕存するとします。『では、わたしは何なのだ〔と言えば、四つ足の畜生である〕。では、巨象は何なのだ〔と言えば、四つ足の畜生である〕。それなら、さあ、わたしは、この湖水に入って行って、耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたし、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたするのだ。耳の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、背の洗浄の遊興に打ち興じもまたして、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔湖から〕上がって、欲するところに立ち去るのだ』と。彼は、その湖水に、審慮せずして、無理やり飛び込むでしょう。彼には、あるいは、沈み込むことになり、あるいは、浮き漂うことになる、という、このことが待っています。それは、何を因とするのですか。ウパーリよ、微小なる自己状態(個我的あり方・身体)ある者は、深みにおいて堅地を見出さないからです。ウパーリよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、禅定を得ずにいるが、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するのだ』と、このように説くなら、彼には、あるいは、沈み込むことになり、あるいは、浮き漂うことになる、という、このことが待っています。

 

 ウパーリよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子(嬰児)が、自らの糞尿で遊び戯れるようなものです。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この遊びは、全一にして円満成就の愚かなるものではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、それで、まさに、その童子は、他時にあって、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、それらが何であれ、童子用の遊具として有るなら──それは、すなわち、この、鉤遊びであり、楔遊びであり、逆立ち遊びであり、風車遊びであり、葉の秤遊びであり、車遊びであり、弓遊びですが──それらで遊びます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この遊びは、以前の遊びより、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、それで、まさに、その童子が、他時にあって、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この遊びは、諸々の以前の遊びより、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、また、まさに、ここに、まさに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。

 

 その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。

 

 彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

 彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。

 

 梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。

 

 虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。

 

 彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

 (1)彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (2)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (3)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (4)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (5)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (6)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (7)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (8)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。しかしながら、まさに、まだ、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住むことはありません。

 

 (9)ウパーリよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。(10)そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。ウパーリよ、それを、どう思いますか。まさに、この住は、諸々の以前の住よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ウパーリよ、まさに、わたしの弟子たちは、この法(性質)をもまた、自己のうちに正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。そして、自らの義(目的)に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。ウパーリよ、さあ、あなたは、僧団のうちにあり、〔世に〕住みなさい。あなたが、僧団のうちにあり、〔世に〕住んでいると、平穏〔の住〕が有るでしょう」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 不可能の経

 

100. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、十のものなのですか。貪欲()であり、憤怒()であり、迷妄()であり、忿激(忿)であり、怨恨()であり、偽装()であり、加虐()であり、嫉妬()であり、物惜()であり、思量()です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、十のものなのですか。貪欲であり、憤怒であり、迷妄であり、忿激であり、怨恨であり、偽装であり、加虐であり、嫉妬であり、物惜であり、思量です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ウパーリの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「欲望の享受者、恐怖、見解、ヴァッジヤマーヒタとウッティヤ、コーカヌダ、〔供物を〕捧げられるべき者、長老、ウパーリ、不可能があり、〔章となる〕」と。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

3. 第三の五十なるもの

 

(11)1. 沙門の表象の章

 

1. 沙門の表象の経

 

101. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの沙門の表象が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させます。どのようなものが、三つのものなのですか。『(1)〔わたしは〕階級の外に到達した者として〔世に〕存している』『(2)わたしの生計は、他者に縛られている(在家者たちに依拠している)』『(3)わたしの為すべき営為は、〔在家者たちとは〕他のものである』と、比丘たちよ、まさに、これらの三つの沙門の表象が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させます。

 

 どのようなものが、七つのものなのですか。(4)諸戒において、常に為す者として、常なる行持ある者として、〔世に〕有ります。(5)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。(6)憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。(7)高慢〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。(8)学びを欲する者として〔世に〕有ります。(9)諸々の生の必需品について、彼には、『これ(生命の維持)を義(目的)として〔受用する〕』という〔思いが〕有ります。(10)そして、精進に励む者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの沙門の表象が、修められ、多く為されたなら、まさに、これらの七つの法(性質)を円満成就させます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 覚りの支分の経

 

102. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、三つの明知を円満成就させます。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)気づきという正覚の支分(念覚支)であり、(2)法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)であり、(3)精進という正覚の支分(精進覚支)であり、(4)喜悦という正覚の支分(喜覚支)であり、(5)静息という正覚の支分(軽安覚支)であり、(6)禅定という正覚の支分(定覚支)であり、(7)放捨という正覚の支分(捨覚支)です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、三つの明知を円満成就させます。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(8)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。(9)人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。(10)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、まさに、これらの三つの明知を円満成就させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 誤った〔道〕たることの経

 

103. 「比丘たちよ、誤った〔道〕たることに由来して、失敗が有ります──達成ではなく。比丘たちよ、では、どのように、誤った〔道〕たることに由来して、失敗が有るのですか──達成ではなく。比丘たちよ、(1)誤った見解ある者には、誤った思惟が発生します。(2)誤った思惟ある者には、誤った言葉が発生します。(3)誤った言葉ある者には、誤った行業が発生します。(4)誤った行業ある者には、誤った生き方が発生します。(5)誤った生き方ある者には、誤った努力が発生します。(6)誤った努力ある者には、誤った気づきが発生します。(7)誤った気づきある者には、誤った禅定が発生します。(8)誤った禅定ある者には、誤った知恵が発生します。(9)誤った知恵ある者には、(10)誤った解脱が発生します。比丘たちよ、このように、まさに、誤った〔道〕たることに由来して、失敗が有ります──達成ではなく。

 

 比丘たちよ、正しい〔道〕たることに由来して、達成が有ります──失敗ではなく。比丘たちよ、では、どのように、正しい〔道〕たることに由来して、達成が有るのですか──失敗ではなく。比丘たちよ、(1)正しい見解(正見)ある者には、正しい思惟(正思惟)が発生します。(2)正しい思惟ある者には、正しい言葉(正語)が発生します。(3)正しい言葉ある者には、正しい行業(正業)が発生します。(4)正しい行業ある者には、正しい生き方(正命)が発生します。(5)正しい生き方ある者には、正しい努力(正精進)が発生します。(6)正しい努力ある者には、正しい気づき(正念)が発生します。(7)正しい気づきある者には、正しい禅定(正定)が発生します。(8)正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。(9)正しい知恵ある者には、(10)正しい解脱が発生します。比丘たちよ、このように、まさに、正しい〔道〕たることに由来して、達成が有ります──失敗ではなく」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 種の経

 

104. 「比丘たちよ、(1)誤った見解ある人士たる人には、(2)誤った思惟ある〔人士たる人〕には、(3)誤った言葉ある〔人士たる人〕には、(4)誤った行業ある〔人士たる人〕には、(5)誤った生き方ある〔人士たる人〕には、(6)誤った努力ある〔人士たる人〕には、(7)誤った気づきある〔人士たる人〕には、(8)誤った禅定ある〔人士たる人〕には、(9)誤った知恵ある〔人士たる人〕には、(10)誤った解脱ある〔人士たる人〕には、まさしく、そして、すなわち(※)、身体の行為(身業)が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為(口業)が……略……さらに、すなわち、意の行為(意業)が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)が──それらの全ての法(性質)が、好ましくないもののために、愛らしくないもののために、意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が悪しきものであるからです。

 

※ テキストには yañca とあるが、PTS版により yañceva と読む。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、ニンバ(ニーム・インドセンダン)の種が、あるいは、糸瓜の種が、あるいは、苦瓜の種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、すなわち、地の味を摂取し、さらに、すなわち、水の味を摂取するなら、その全てが、苦きことのために、辛きことのために、快ならざることのために、等しく転起するようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、種が悪しきものであるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、誤った見解ある人士たる人には……略……誤った解脱ある〔人士たる人〕には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましくないもののために、愛らしくないもののために、意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が悪しきものであるからです」と。

 

 比丘たちよ、(1)正しい見解ある人士たる人には、(2)正しい思惟ある〔人士たる人〕には、(3)正しい言葉ある〔人士たる人〕には、(4)正しい行業ある〔人士たる人〕には、(5)正しい生き方ある〔人士たる人〕には、(6)正しい努力ある〔人士たる人〕には、(7)正しい気づきある〔人士たる人〕には、(8)正しい禅定ある〔人士たる人〕には、(9)正しい知恵ある〔人士たる人〕には、(10)正しい解脱ある〔人士たる人〕には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましいもののために、愛らしいもののために、意に適うもののために、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が善きものであるからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、甘蔗の種が、あるいは、米の種が、あるいは、葡萄の種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、すなわち、地の味を摂取し、さらに、すなわち、水の味を摂取するなら、その全てが、甘きことのために、快なることのために、無雑ざることのために、等しく転起するようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、種が善きものであるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、正しい見解ある人士たる人には……略……正しい解脱ある〔人士たる人〕には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましいもののために、愛らしいもののために、意に適うもののために、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が善きものであるからです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 明知の経

 

105. 「比丘たちよ、無明を先行として、諸々の善ならざる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)があり、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)があります。比丘たちよ、無明を具した無知なる者には、誤った見解が発生します。(1)誤った見解ある者には、誤った思惟が発生します。(2)誤った思惟ある者には、誤った言葉が発生します。(3)誤った言葉ある者には、誤った行業が発生します。(4)誤った行業ある者には、誤った生き方が発生します。(5)誤った生き方ある者には、誤った努力が発生します。(6)誤った努力ある者には、誤った気づきが発生します。(7)誤った気づきある者には、誤った禅定が発生します。(8)誤った禅定ある者には、誤った知恵が発生します。(9)誤った知恵ある者には、(10)誤った解脱が発生します。

 

 比丘たちよ、明知を先行として、諸々の善なる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎め(慚愧)があります。比丘たちよ、明知を具した知ある者には、正しい見解が発生します。(1)正しい見解ある者には、正しい思惟が発生します。(2)正しい思惟ある者には、正しい言葉が発生します。(3)正しい言葉ある者には、正しい行業が発生します。(4)正しい行業ある者には、正しい生き方が発生します。(5)正しい生き方ある者には、正しい努力が発生します。(6)正しい努力ある者には、正しい気づきが発生します。(7)正しい気づきある者には、正しい禅定が発生します。(8)正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。(9)正しい知恵ある者には、(10)正しい解脱が発生します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 衰尽の経

 

106. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの衰尽の基盤です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (2)比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った思惟という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい思惟という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (3)比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい言葉という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (4)比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った行業という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい行業という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (5)比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った生き方という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい生き方という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (6)比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った努力という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい努力という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (7)比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った気づきという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい気づきという縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (8)比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った禅定という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい禅定という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (9)比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った知恵という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい知恵という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (10)比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさに、これらの十の衰尽の基盤があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 洗い清めの経

 

107. 「比丘たちよ、諸々の南の地方においては、まさに、洗い清め〔の風習〕が存在します。そこにおいては、食べ物もまた〔有り〕、飲み物もまた〔有り〕、固形の食料もまた〔有り〕、軟らかい食料もまた〔有り〕、舐める食料もまた〔有り〕、飲む食料もまた〔有り〕、舞踏もまた〔有り〕、歌詠もまた〔有り〕、音楽もまた有ります。比丘たちよ、この洗い清め〔の風習〕が存在します。〔わたしは〕『これは存在しない』とは説きません。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この洗い清め〔の風習〕は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、まさに、わたしは、聖なる洗い清めを説示しましょう。その洗い清めは、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起し、その洗い清めに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、その聖なる洗い清めであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起し、その洗い清めに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれるのですか。

 

 (1)比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (2)比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……略……。(3)比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(4)比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(5)比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(6)比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(7)比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(8)比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……。(9)比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。……略……。

 

 (10)比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕洗い清められたものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、これは、まさに、その、聖なる洗い清めであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起し、その洗い清めに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 医師の経

 

108. 「比丘たちよ、医師たちは、下剤を与えます──諸々の胆汁から等しく現起する病苦の防御のためにもまた、諸々の痰から等しく現起する病苦の防御のためにもまた、諸々の風から等しく現起する病苦の防御のためにもまた。比丘たちよ、この下剤が存在します。〔わたしは〕『これは存在しない』とは説きません。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この下剤は、成就もまたし、衰滅もまたします。

 

 比丘たちよ、では、まさに、わたしは、聖なる下剤を説示しましょう。その下剤は、まさしく、成就し、衰滅せず、その下剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、その聖なる下剤であり、まさしく、成就し、衰滅せず、その下剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれるのですか。

 

 (1)比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕排出されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕排出されたものとして有ります。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (2)比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……略……。(3)比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(4)比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(5)比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(6)比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(7)比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(8)比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……。(9)比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕排出されたものとして有ります。……略……。

 

 (10)比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕排出されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕排出されたものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、これは、まさに、その、聖なる下剤であり、まさしく、成就し、衰滅せず、その下剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 吐剤の経

 

109. 「比丘たちよ、医師たちは、吐剤を与えます──諸々の胆汁から等しく現起する病苦の防御のためにもまた、諸々の痰から等しく現起する病苦の防御のためにもまた、諸々の風から等しく現起する病苦の防御のためにもまた。比丘たちよ、この吐剤が存在します。〔わたしは〕『これは存在しない』とは説きません。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この吐剤は、成就もまたし、衰滅もまたします。

 

 比丘たちよ、では、まさに、わたしは、聖なる吐剤を説示しましょう。その吐剤は、まさしく、成就し、衰滅せず、その吐剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、その聖なる吐剤であり、まさしく、成就し、衰滅せず、その吐剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれるのですか。

 

 (1)比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (2)比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……略……。(3)比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(4)比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(5)比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(6)比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(7)比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(8)比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……。(9)比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。……略……。

 

 (10)比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕吐瀉されたものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、これは、まさに、その、聖なる吐剤であり、まさしく、成就し、衰滅せず、その吐剤に由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 放出されるべきものの経

 

110. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの放出されるべき法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕放出されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、それらの無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕放出されたものとして有ります。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

 (2)比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……略……。(3)比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(4)比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(5)比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(6)比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(7)比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(8)比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……。(9)比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕放出されたものとして有ります。……略……。

 

 (10)比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕放出されたものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、それらの無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕放出されたものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさに、これらの十の放出されるべき法(性質)があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第一の〔もはや〕学ぶことなきものの経

 

111. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『〔もはや〕学ぶことなき者(無学)』『〔もはや〕学ぶことなき者』と説かれます。尊き方よ、いったい、どのようなことから、比丘は、〔もはや〕学ぶことなき者と成るのですか」と。「比丘よ、ここに、比丘が、(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解を具備した者と成り、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟を具備した者と成り、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉を具備した者と成り、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業を具備した者と成り、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方を具備した者と成り、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力を具備した者と成り、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきを具備した者と成り、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定を具備した者と成り、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵を具備した者と成り、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱を具備した者と成ります。比丘よ、このように、まさに、比丘は、〔もはや〕学ぶことなき者と成ります」と。〔以上が〕第十一となる。

もの

12. 第二の〔もはや〕学ぶことなきものの経

 

112. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの〔もはや〕学ぶことなき法(性質)です。どのようなものが、十のものなのですか。(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解であり、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟であり、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉であり、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業であり、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方であり、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力であり、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきであり、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定であり、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵であり、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の〔もはや〕学ぶことなき法(性質)があります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 沙門の表象の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「表象、覚りの支分、誤った〔道〕たること、種があり、明知とともに、衰尽、洗い清め、医師、吐剤、放出、二つの〔もはや〕学ぶことなきものがあり、〔章となる〕」と。

 

(12)2. 降下行の章

 

1. 第一の法ならざるものの経

 

113. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、さらに、義(利益)ならざるものが〔知られるべきであり〕、そして、法(正義)が知られるべきであり、さらに、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、さらに、義(利益)ならざるものを〔知って〕、そして、法(正義)を知って、さらに、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、そして、法(正義)ならざるものであり、さらに、義(利益)ならざるものなのですか。(1)誤った見解であり、(2)誤った思惟であり、(3)誤った言葉であり、(4)誤った行業であり、(5)誤った生き方であり、(6)誤った努力であり、(7)誤った気づきであり、(8)誤った禅定であり、(9)誤った知恵であり、(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、かつまた、法(正義)ならざるものと〔説かれ〕、かつまた、義(利益)ならざるものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、そして、法(正義)であり、さらに、義(利益)なのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、かつまた、法(正義)と〔説かれ〕、かつまた、義(利益)と説かれます。

 

 『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、さらに、義(利益)ならざるものが〔知られるべきであり〕、そして、法(正義)が知られるべきであり、さらに、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、さらに、義(利益)ならざるものを〔知って〕、そして、法(正義)を知って、さらに、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の法ならざるものの経

 

114. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです。

 

 比丘たちよ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。

 

 (1)比丘たちよ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (2)比丘たちよ、誤った思惟は、法(正義)ならざるものであり、正しい思惟は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った思惟という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい思惟という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (3)比丘たちよ、誤った言葉は、法(正義)ならざるものであり、正しい言葉は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい言葉という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (4)比丘たちよ、誤った行業は、法(正義)ならざるものであり、正しい行業は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った行業という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい行業という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (5)比丘たちよ、誤った生き方は、法(正義)ならざるものであり、正しい生き方は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った生き方という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい生き方という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (6)比丘たちよ、誤った努力は、法(正義)ならざるものであり、正しい努力は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った努力という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい努力という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (7)比丘たちよ、誤った気づきは、法(正義)ならざるものであり、正しい気づきは、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った気づきという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい気づきという縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (8)比丘たちよ、誤った禅定は、法(正義)ならざるものであり、正しい禅定は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った禅定という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい禅定という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (9)比丘たちよ、誤った知恵は、法(正義)ならざるものであり、正しい知恵は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った知恵という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい知恵という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (10)比丘たちよ、誤った解脱は、法(正義)ならざるものであり、正しい解脱は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の法ならざる者の経

 

115. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者アーナンダが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、かつまた、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、かつまた、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者アーナンダが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。尊者アーナンダは、区分したまえ」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、わたしたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者アーナンダは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。そこで、尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。

 

 友よ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。

 

 (1)友よ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (2)友よ、誤った思惟は、法(正義)ならざるものであり、正しい思惟は、法(正義)です。……。(3)友よ、誤った言葉は、法(正義)ならざるものであり、正しい言葉は、法(正義)です。……。(4)友よ、誤った行業は、法(正義)ならざるものであり、正しい行業は、法(正義)です。……。(5)友よ、誤った生き方は、法(正義)ならざるものであり、正しい生き方は、法(正義)です。……。(6)友よ、誤った努力は、法(正義)ならざるものであり、正しい努力は、法(正義)です。……。(7)友よ、誤った気づきは、法(正義)ならざるものであり、正しい気づきは、法(正義)です。……。(8)友よ、誤った禅定は、法(正義)ならざるものであり、正しい禅定は、法(正義)です。……。(9)友よ、誤った知恵は、法(正義)ならざるものであり、正しい知恵は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った知恵という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい知恵という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (10)友よ、誤った解脱は、法(正義)ならざるものであり、正しい解脱は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、あなたたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、かつまた、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、かつまた、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、かつまた、法(正義)ならざるものが知られるべきであり……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者アーナンダは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者アーナンダが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、この義(意味)を尋ねました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者アーナンダによって、これらの行相によって、これらの句によって、これらの文によって、見事に区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、アーナンダは、賢者です。比丘たちよ、アーナンダは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、そして、わたしもまた、これを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、アーナンダによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、その〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. アジタの経

 

116. そこで、まさに、アジタ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アジタ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、わたしたちには、パンディタという名の梵行を共にする者がいます。彼によって、五百ばかりの心の境位が思い考えられました。それらによって、まさしく、論詰されたなら、〔教えを〕他にする異教の者たちは知ります。『論詰された者たちとして、〔わたしたちは〕存している』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、賢者の基盤を保持していますか」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、一部の者は、法(正義)にかなわない論によって、法(正義)にかなわない論を糾弾し抑圧します。そして、それによって、法(正義)にかなわない衆を喜ばせます。それによって、その法(正義)にかなわない衆は、高い声をあげ大きな音をたて、〔世に〕有ります。『ああ、まさに、賢者である。ああ、まさに、賢者である』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、法(正義)にかなわない論によって、法(正義)にかなう論を糾弾し抑圧します。そして、それによって、法(正義)にかなわない衆を喜ばせます。それによって、その法(正義)にかなわない衆は、高い声をあげ大きな音をたて、〔世に〕有ります。『ああ、まさに、賢者である。ああ、まさに、賢者である』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、法(正義)にかなわない論によって、そして、法(正義)にかなう論を、さらに、法(正義)にかなわない論を、糾弾し抑圧します。そして、それによって、法(正義)にかなわない衆を喜ばせます。それによって、その法(正義)にかなわない衆は、高い声をあげ大きな音をたて、〔世に〕有ります。『ああ、まさに、賢者である。ああ、まさに、賢者である』と。

 

 比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです。

 

 比丘たちよ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。(1)比丘たちよ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (2)比丘たちよ、誤った思惟は、法(正義)ならざるものであり、正しい思惟は、法(正義)です。……。(3)比丘たちよ、誤った言葉は、法(正義)ならざるものであり、正しい言葉は、法(正義)です。……。(4)比丘たちよ、誤った行業は、法(正義)ならざるものであり、正しい行業は、法(正義)です。……。(5)比丘たちよ、誤った生き方は、法(正義)ならざるものであり、正しい生き方は、法(正義)です。……。(6)比丘たちよ、誤った努力は、法(正義)ならざるものであり、正しい努力は、法(正義)です。……。(7)比丘たちよ、誤った気づきは、法(正義)ならざるものであり、正しい気づきは、法(正義)です。……。(8)比丘たちよ、誤った禅定は、法(正義)ならざるものであり、正しい禅定は、法(正義)です。……。(9)比丘たちよ、誤った知恵は、法(正義)ならざるものであり、正しい知恵は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った知恵という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい知恵という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (10)比丘たちよ、誤った解脱は、法(正義)ならざるものであり、正しい解脱は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. サンガーラヴァの経

 

117. そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何が、此岸であり、何が、彼岸なのですか」と。「婆羅門よ、まさに、(1)誤った見解は、此岸であり、正しい見解は、彼岸です。(2)誤った思惟は、此岸であり、正しい思惟は、彼岸です。(3)誤った言葉は、此岸であり、正しい言葉は、彼岸です。(4)誤った行業は、此岸であり、正しい行業は、彼岸です。(5)誤った生き方は、此岸であり、正しい生き方は、彼岸です。(6)誤った努力は、此岸であり、正しい努力は、彼岸です。(7)誤った気づきは、此岸であり、正しい気づきは、彼岸です。(8)誤った禅定は、此岸であり、正しい禅定は、彼岸です。(9)誤った知恵は、此岸であり、正しい知恵は、彼岸です。(10)誤った解脱は、此岸であり、正しい解脱は、彼岸です(※)。婆羅門よ、まさに、これは、此岸であり、これは、彼岸です」と。

 

※ テキストには tīranti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている(迷いの世界を輪廻している)。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩()が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 此岸の経

 

118. 「比丘たちよ、では、此岸を、そして、彼岸を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、此岸であり、では、どのようなものが、彼岸なのですか。(1)誤った見解は、此岸であり、正しい見解は、彼岸です。……略……。(10)誤った解脱は、此岸であり、正しい解脱は、彼岸です。比丘たちよ、まさに、これは、此岸であり、これは、彼岸です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れから、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の降下行の経

 

119. また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、世尊から遠く離れていないところで、一方に立った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、ジャーヌッソーニ婆羅門が、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、一方に立っているのを見ました。見て、ジャーヌッソーニ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、どうして、あなたは、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、一方に立っているのですか。いったい、何が、今日、婆羅門の家にあるのですか」と。「貴君ゴータマよ、降下行が、今日、婆羅門の家にあります」と。

 

 「婆羅門よ、また、すなわち、どのように、婆羅門たちの降下行は有るのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、婆羅門たちは、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れた牛糞で地を塗り清めて、諸々の緑あざやかな草を広げて、そして、〔土地の〕境からの中途に、さらに、祭火堂からの中途に、臥所を営みます。彼らは、その夜のあいだ、三回、起き上がって、合掌の者たちとなり、祭火を礼拝します。『〔わたしたちは〕尊き方のもとに降下します。〔わたしたちは〕尊き方のもとに降下します』と。さらに、多くの酥と油と生酥で祭火を満足させます。そして、その夜が明けると、上質の固形の食料や軟らかい食料で婆羅門たちを満足させます。貴君ゴータマよ、このように、婆羅門たちの降下行は有ります」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちの降下行は有り、また、そして、他なるものとして、聖者の律における降下行は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「貴君ゴータマよ、また、すなわち、どのように、聖者の律における降下行は有るのですか。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における降下行が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)婆羅門よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『誤った見解には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った見解を捨棄し、誤った見解から降下します。

 

 (2)……。『誤った思惟には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った思惟を捨棄し、誤った思惟から降下します。

 

 (3)……。『誤った言葉には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った言葉を捨棄し、誤った言葉から降下します。

 

 (4)……。『誤った行業には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った行業を捨棄し、誤った行業から降下します。

 

 (5)……。『誤った生き方には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った生き方を捨棄し、誤った生き方から降下します。

 

 (6)……。『誤った努力には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った努力を捨棄し、誤った努力から降下します。

 

 (7)……。『誤った気づきには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った気づきを捨棄し、誤った気づきから降下します。

 

 (8)……。『誤った禅定には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った禅定を捨棄し、誤った禅定から降下します。

 

 (9)……。『誤った知恵には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った知恵を捨棄し、誤った知恵から降下します。

 

 (10)……。『誤った解脱には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った解脱を捨棄し、誤った解脱から降下します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、他なるものとして、婆羅門たちの降下行は有り、また、そして、他なるものとして、聖者の律における降下行は有ります。貴君ゴータマよ、そして、婆羅門たちの降下行は、この、聖者の律における降下行の、十六分の一にも値しません。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の降下行の経

 

120. 「比丘たちよ、聖なる降下行を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。(1)比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる降下行なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『誤った見解には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った見解を捨棄し、誤った見解から降下します。(2)……。『誤った思惟には、まさに……略……。(3)『誤った言葉には、まさに……。(4)『誤った行業には、まさに……。(5)『誤った生き方には、まさに……。(6)『誤った努力には、まさに……。(7)『誤った気づきには、まさに……。(8)『誤った禅定には、まさに……。(9)『誤った知恵には、まさに……。(10)『誤った解脱には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った解脱を捨棄し、誤った解脱から降下します。比丘たちよ、これは、聖なる降下行と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 先行の経

 

121. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の善なる法(性質)には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、正しい見解です。比丘たちよ、(1)正しい見解ある者には、正しい思惟が発生します。(2)正しい思惟ある者には、正しい言葉が発生します。(3)正しい言葉ある者には、正しい行業が発生します。(4)正しい行業ある者には、正しい生き方が発生します。(5)正しい生き方ある者には、正しい努力が発生します。(6)正しい努力ある者には、正しい気づきが発生します。(7)正しい気づきある者には、正しい禅定が発生します。(8)正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。(9)正しい知恵ある者には、(10)正しい解脱が発生します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

122. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 降下行の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「三つの法(正義)ならざるもの、アジタ、そして、サンガーラヴァ、此〔岸〕、まさしく、そして、二つの降下行、先行、諸々の煩悩の滅尽があり、〔章となる〕」と。

 

(13)3. 完全なる清浄の章

 

1. 第一の経

 

123. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの完全なる清浄にして完全なる清白の法(性質)です。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の完全なる清浄にして完全なる清白の法(性質)があります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の経

 

124. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの、諸々の〔いまだ〕生起していないものが生起する、法(性質)です。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の、諸々の〔いまだ〕生起していないものが生起する、法(性質)があります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の経

 

125. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの大いなる果となり大いなる福利となる法(性質)です。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の大いなる果となり大いなる福利となる法(性質)があります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第四の経

 

126. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成る、法(性質)です。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成る、法(性質)があります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第五の経

 

127. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第六の経

 

128. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものが生起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものが生起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第七の経

 

129. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第八の経

 

130. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成ります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成ります。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第九の経

 

131. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。〔これらは〕善き至達者の律より他にはありません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第十の経

 

132. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの誤った〔道〕たることです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)誤った見解であり、(2)誤った思惟であり、(3)誤った言葉であり、(4)誤った行業であり、(5)誤った生き方であり、(6)誤った努力であり、(7)誤った気づきであり、(8)誤った禅定であり、(9)誤った知恵であり、(10)誤った解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の誤った〔道〕たることがあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第十一の経

 

133. 「比丘たちよ、十のものがあります。これらの正しい〔道〕たることです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの十の正しい〔道〕たることがあります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 完全なる清浄の章が第三となる。

 

(14)4. 善きものの章

 

1. 善きものの経

 

134. 「比丘たちよ、では、善きものを、そして、善からざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、善からざるものなのですか。(1)誤った見解であり、(2)誤った思惟であり、(3)誤った言葉であり、(4)誤った行業であり、(5)誤った生き方であり、(6)誤った努力であり、(7)誤った気づきであり、(8)誤った禅定であり、(9)誤った知恵であり、(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、善からざるものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、善きものなのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、善きものと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 聖なる法の経

 

135. 「比丘たちよ、では、聖なる法(教え)を、そして、聖ならざる法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる法(教え)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、聖ならざる法(教え)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる法(教え)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、聖なる法(教え)と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 善ならざるものの経

 

136. 「比丘たちよ、では、善ならざるものを、そして、善なるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、善ならざるものなのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、善ならざるものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、善なるものなのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、善なるものと説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 義の経

 

137. 「比丘たちよ、では、義(利益)を、そして、義(利益)ならざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、義(利益)ならざるものなのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、義(利益)ならざるものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、義(利益)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、義(利益)と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 法の経

 

138. 「比丘たちよ、では、法(正義)を、そして、法(正義)ならざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、法(正義)ならざるものなのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、法(正義)ならざるものと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、法(正義)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、法(正義)と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 煩悩を有するものの経

 

139. 「比丘たちよ、では、煩悩を有する法(性質)を、そして、煩悩なき〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有する法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、煩悩を有する法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩なき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、煩悩なき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 罪過を有するものの経

 

140. 「比丘たちよ、では、罪過を有する法(性質)を、そして、罪過なき〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、罪過を有する法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、罪過を有する法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、罪過なき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、罪過なき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悩み苦しめられるべきものの経

 

141. 「比丘たちよ、では、悩み苦しめられるべき法(性質)を、そして、悩み苦しめられるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、悩み苦しめられるべき法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、悩み苦しめられるべき法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、悩み苦しめられるべきではない法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、悩み苦しめられるべきではない法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔煩悩の〕集積に至るものの経

 

142. 「比丘たちよ、では、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)を、そして、〔煩悩の〕滅減に至る〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔煩悩の〕滅減に至る法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、〔煩悩の〕滅減に至る法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 苦痛を生成するものの経

 

143. 「比丘たちよ、では、苦痛を生成する法(性質)を、そして、安楽を生成する〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛を生成する法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、苦痛を生成する法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽を生成する法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、安楽を生成する法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 苦痛の報いあるものの経

 

144. 「比丘たちよ、では、苦痛の報いある法(性質)を、そして、安楽の報いある〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛の報いある法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、苦痛の報いある法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽の報いある法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、安楽の報いある法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 善きものの章が第四となる。

 

(15)5. 聖なるものの章

 

1. 聖なる道の経

 

145. 「比丘たちよ、では、聖なる道たる法(性質)を、そして、聖ならざる道たる〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる道なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、聖ならざる道と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる道なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、聖なる道と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 黒い道の経

 

146. 「比丘たちよ、では、黒い道たる法(性質)を、そして、白い道たる〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、黒い道なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、黒い道と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、白い道なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、白い道と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 正なる法の経

 

147. 「比丘たちよ、では、正なる法(教え)を、そして、正ならざる法(教え)を、あなたたちに説示しましょう(※)。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる法(教え)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、正ならざる法(教え)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる法(教え)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、正なる法(教え)と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

※ テキストには Saddhammañca vo, bhikkhave, dhammaṃ desessāmi とあるが、PTS版により dhammaṃ を削除する。

 

4. 正なる人士の法の経

 

148. 「比丘たちよ、では、正なる人士の法(性質)を、そして、正ならざる人士の法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士の法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、正ならざる人士の法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士の法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、正なる人士の法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 生起させられるべき法の経

 

149. 「比丘たちよ、では、生起させられるべき法(性質)を、そして、生起させられるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、生起させられるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、生起させられるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、生起させられるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、生起させられるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 習修されるべきものの経

 

150. 「比丘たちよ、では、習修されるべき法(性質)を、そして、習修されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、習修されるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、習修されるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、習修されるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、習修されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 修められるべきものの経

 

151. 「比丘たちよ、では、修められるべき法(性質)を、そして、修められるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、修められるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、修められるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、修められるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、修められるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 多く為されるべきものの経

 

152. 「比丘たちよ、では、多く為されるべき法(性質)を、そして、多く為されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、多く為されるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、多く為されるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、多く為されるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、多く為されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 随念されるべきものの経

 

153. 「比丘たちよ、では、随念されるべき法(性質)を、そして、随念されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、随念されるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、随念されるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、随念されるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、随念されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 実証されるべきものの経

 

154. 「比丘たちよ、では、実証されるべき法(性質)を、そして、実証されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、実証されるべきではない法(性質)なのですか。(1)誤った見解であり……略……(10)誤った解脱です。比丘たちよ、これは、実証されるべきではない法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、実証されるべき法(性質)なのですか。(1)正しい見解であり……略……(10)正しい解脱です。比丘たちよ、これは、実証されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 聖なるものの章が第五となる。

 

 第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

4. 第四の五十なるもの

 

(16)1. 人の章

 

1. 「慣れ親しむべきです」の経

 

155. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)誤った見解ある者として〔世に〕有り、(2)誤った思惟ある者として〔世に〕有り、(3)誤った言葉ある者として〔世に〕有り、(4)誤った行業ある者として〔世に〕有り、(5)誤った生き方ある者として〔世に〕有り、(6)誤った努力ある者として〔世に〕有り、(7)誤った気づきある者として〔世に〕有り、(8)誤った禅定ある者として〔世に〕有り、(9)誤った知恵ある者として〔世に〕有り、(10)誤った解脱者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきではありません。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解ある者として〔世に〕有り、(2)正しい思惟ある者として〔世に〕有り、(3)正しい言葉ある者として〔世に〕有り、(4)正しい行業ある者として〔世に〕有り、(5)正しい生き方ある者として〔世に〕有り、(6)正しい努力ある者として〔世に〕有り、(7)正しい気づきある者として〔世に〕有り、(8)正しい禅定ある者として〔世に〕有り、(9)正しい知恵ある者として〔世に〕有り、(10)正しい解脱者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきです」と。

 

2-12. 「親近するべきです」等の諸経

 

156-166. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、親近するべきではありません。……略……親近するべきです。……略……奉侍するべきではありません。……奉侍するべきです。……略……供養されるべき者として〔世に〕有りません。……供養されるべき者として〔世に〕有ります。……略……賞賛されるべき者として〔世に〕有りません。……賞賛されるべき者として〔世に〕有ります。……略……尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有ります。……略……敬虔〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……敬虔〔の思い〕を有する者として〔世に〕有ります。……略……達成者として〔世に〕有りません。……達成者として〔世に〕有ります。……略……清浄となりません。……清浄となります。……略……〔我想の〕思量を征服しません。……〔我想の〕思量を征服します。……略……智慧によって増大しません。……智慧によって増大します。……略……。

 

 ……多くの功徳ならざるものを生み出します。……多くの功徳を生み出します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解ある者として〔世に〕有り、(2)正しい思惟ある者として〔世に〕有り、(3)正しい言葉ある者として〔世に〕有り、(4)正しい行業ある者として〔世に〕有り、(5)正しい生き方ある者として〔世に〕有り、(6)正しい努力ある者として〔世に〕有り、(7)正しい気づきある者として〔世に〕有り、(8)正しい禅定ある者として〔世に〕有り、(9)正しい知恵ある者として〔世に〕有り、(10)正しい解脱者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、多くの功徳を生み出します」と。

 

 人の章が第一となる。

 

(17)2. ジャーヌッソーニの章

 

1. 婆羅門の降下行の経

 

167. また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、世尊から遠く離れていないところで、一方に立った状態でいます。

 

 まさに、世尊は、ジャーヌッソーニ婆羅門が、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、一方に立っているのを見ました。見て、ジャーヌッソーニ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、どうして、あなたは、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れたひと握りの草を掴んで、一方に立っているのですか。いったい、何が、今日、婆羅門の家にあるのですか」と。「貴君ゴータマよ、降下行が、今日、婆羅門の家にあります」と。

 

 「婆羅門よ、また、すなわち、どのように、婆羅門たちの降下行は有るのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、婆羅門たちは、斎戒のその日、頭を洗い、新しいひと組の麻衣を着衣し、濡れた牛糞で地を塗り清めて、諸々の緑あざやかな草を広げて、そして、〔土地の〕境からの中途に、さらに、祭火堂からの中途に、臥所を営みます。彼らは、その夜のあいだ、三回、起き上がって、合掌の者たちとなり、祭火を礼拝します。『〔わたしたちは〕尊き方のもとに降下します。〔わたしたちは〕尊き方のもとに降下します』と。さらに、多くの酥と油と生酥で祭火を満足させます。そして、その夜が明けると、上質の固形の食料や軟らかい食料で婆羅門たちを満足させます。貴君ゴータマよ、このように、婆羅門たちの降下行は有ります」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちの降下行は有り、また、そして、他なるものとして、聖者の律における降下行は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「貴君ゴータマよ、また、すなわち、どのように、聖者の律における降下行は有るのですか。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における降下行が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)婆羅門よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『命あるものを殺すことには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、命あるものを殺すことを捨棄し、命あるものを殺すことから降下します。

 

 (2)……。『与えられていないものを取ることには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、与えられていないものを取ることを捨棄し、与えられていないものを取ることから降下します。

 

 (3)……。『諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄し、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから降下します。

 

 (4)……。『虚偽を説くことには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、虚偽を説くことを捨棄し、虚偽を説くことから降下します。

 

 (5)……。『中傷の言葉には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、中傷の言葉を捨棄し、中傷の言葉から降下します。

 

 (6)……。『粗暴な言葉には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、粗暴な言葉を捨棄し、粗暴な言葉から降下します。

 

 (7)……。『雑駁な虚論には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、雑駁な虚論を捨棄し、雑駁な虚論から降下します。

 

 (8)……。『強欲〔の思い〕には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、強欲〔の思い〕を捨棄し、強欲〔の思い〕から降下します。

 

 (9)……。『憎悪〔の思い〕には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、憎悪〔の思い〕を捨棄し、憎悪〔の思い〕から降下します。

 

 (10)……。『誤った見解には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った見解を捨棄し、誤った見解から降下します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちの降下行は有り、また、そして、他なるものとして、聖者の律における降下行は有ります。貴君ゴータマよ、婆羅門たちの降下行は、この、聖者の律における降下行の、十六分の一にも値しません。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 聖なる降下行の経

 

168. 「比丘たちよ、聖なる降下行を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる降下行なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『命あるものを殺すことには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、命あるものを殺すことを捨棄し、命あるものを殺すことから降下します。

 

 (2)……。『与えられていないものを取ることには、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、与えられていないものを取ることを捨棄し、与えられていないものを取ることから降下します。

 

 (3)……。『諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないには、まさに、悪しき報いが……略……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから降下します。

 

 (4)……。『虚偽を説くことには、まさに、悪しき報いが……略……。虚偽を説くことから降下します。

 

 (5)……。『中傷の言葉には、まさに、悪しき報いが……略……。中傷の言葉から降下します。

 

 (6)……。『粗暴な言葉には、まさに、悪しき報いが……略……。粗暴な言葉から降下します。

 

 (7)……。『雑駁な虚論には、まさに、悪しき報いが……略……。雑駁な虚論から降下します。

 

 (8)……。『強欲〔の思い〕には、まさに、悪しき報いが……略……。強欲〔の思い〕から降下します。

 

 (9)……。『憎悪〔の思い〕には、まさに、悪しき報いが……略……。憎悪〔の思い〕から降下します。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる降下行なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『誤った見解には、まさに、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく深慮して、誤った見解を捨棄し、誤った見解から降下します。比丘たちよ、これは、聖なる降下行と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. サンガーラヴァの経

 

169. そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何が、此岸であり、何が、彼岸なのですか」と。「婆羅門よ、(1)命あるものを殺すことは、此岸であり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、彼岸です。(2)与えられていないものを取ることは、此岸であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、彼岸です。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、此岸であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、彼岸です。(4)虚偽を説くことは、此岸であり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、彼岸です。(5)中傷の言葉は、此岸であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、彼岸です。(6)粗暴な言葉は、此岸であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、彼岸です。(7)雑駁な虚論は、此岸であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、彼岸です。(8)強欲〔の思い〕は、此岸であり、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、彼岸です。(9)憎悪〔の思い〕は、此岸であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、彼岸です。(10)誤った見解は、此岸であり、正しい見解は、彼岸です。婆羅門よ、まさに、これは、此岸であり、これは、彼岸です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れから、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 此岸の経

 

170. 「比丘たちよ、では、此岸を、そして、彼岸を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、此岸であり、そして、どのようなものが、彼岸なのですか。(1)命あるものを殺すことは、此岸であり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、彼岸です。……略……。(10)誤った見解は、此岸であり、正しい見解は、彼岸です。比丘たちよ、まさに、これは、此岸であり、これは、彼岸です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れから、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の法ならざるものの経

 

171. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、さらに、義(利益)ならざるものが〔知られるべきであり〕、そして、法(正義)が知られるべきであり、さらに、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、さらに、義(利益)ならざるものを〔知って〕、そして、法(正義)を知って、さらに、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、そして、法(正義)ならざるものであり、さらに、義(利益)ならざるものなのですか。(1)命あるものを殺すことであり、(2)与えられていないものを取ることであり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、(4)虚偽を説くことであり、(5)中傷の言葉であり、(6)粗暴な言葉であり、(7)雑駁な虚論であり、(8)強欲〔の思い〕であり、(9)憎悪〔の思い〕であり、(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、そして、法(正義)ならざるものと〔説かれ〕、さらに、義(利益)ならざるものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、そして、法(正義)であり、さらに、義(利益)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、(2)与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕であり、(4)虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、(5)中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、(6)粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、(7)雑駁な虚論から離れている〔生き方〕であり、(8)強欲〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(9)憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、そして、法(正義)と〔説かれ〕、さらに、義(利益)と説かれます。

 

 『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、さらに、義(利益)ならざるものが〔知られるべきであり〕、そして、法(正義)が知られるべきであり、さらに、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、さらに、義(利益)ならざるものを〔知って〕、そして、法(正義)を知って、さらに、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の法ならざるものの経

 

172. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。

 

 「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、わたしたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。

 

 友よ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。(1)友よ、命あるものを殺すことは、法(正義)ならざるものであり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、命あるものを殺すという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (2)友よ、与えられていないものを取ることは、法(正義)ならざるものであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、与えられていないものを取るという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (3)友よ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、法(正義)ならざるものであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (4)友よ、虚偽を説くことは、法(正義)ならざるものであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、虚偽を説くという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (5)友よ、中傷の言葉は、法(正義)ならざるものであり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、中傷の言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (6)友よ、粗暴な言葉は、法(正義)ならざるものであり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、粗暴な言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (7)友よ、雑駁な虚論は、法(正義)ならざるものであり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、雑駁な虚論という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (8)友よ、強欲〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、強欲〔の思い〕から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、強欲〔の思い〕という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、強欲〔の思い〕から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (9)友よ、憎悪〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、憎悪〔の思い〕から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、憎悪〔の思い〕という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、憎悪〔の思い〕から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (10)友よ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすであろうとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、見事に区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、そして、わたしもまた、これを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、その〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の法ならざるものの経

 

173. 「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです。

 

 比丘たちよ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。

 

 (1)比丘たちよ、命あるものを殺すことは、法(正義)ならざるものであり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。そして、すなわち、命あるものを殺すという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。さらに、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 (2)比丘たちよ、与えられていないものを取ることは、法(正義)ならざるものであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(3)比丘たちよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、法(正義)ならざるものであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(4)比丘たちよ、虚偽を説くことは、法(正義)ならざるものであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(5)比丘たちよ、中傷の言葉は、法(正義)ならざるものであり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(6)比丘たちよ、粗暴な言葉は、法(正義)ならざるものであり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(7)比丘たちよ、雑駁な虚論は、法(正義)ならざるものであり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。……。(8)比丘たちよ、強欲〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、法(正義)です。……。(9)比丘たちよ、憎悪〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、法(正義)です。……。

 

 (10)比丘たちよ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。

 

 『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 行為の因縁の経

 

174. 「(1)比丘たちよ、わたしは、命あるものを殺すことをもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (2)比丘たちよ、わたしは、与えられていないものを取ることをもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (3)比丘たちよ、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないをもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (4)比丘たちよ、わたしは、虚偽を説くことをもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (5)比丘たちよ、わたしは、中傷の言葉をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (6)比丘たちよ、わたしは、粗暴な言葉をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (7)比丘たちよ、わたしは、雑駁な虚論をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (8)比丘たちよ、わたしは、強欲〔の思い〕をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (9)比丘たちよ、わたしは、憎悪〔の思い〕をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。

 

 (10)比丘たちよ、わたしは、誤った見解をもまた、三種類のものとして説きます。貪欲を因とするものとしてもまた、憤怒を因とするものとしてもまた、迷妄を因とするものとしてもまた。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、貪欲は、行為()の因縁と発生となり、憤怒は、行為の因縁と発生となり、迷妄は、行為の因縁と発生となります。貪欲の滅尽あることから、行為の因縁の消滅があり、憤怒の滅尽あることから、行為の因縁の消滅があり、迷妄の滅尽あることから、行為の因縁の消滅があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 遊離の経

 

175. 「比丘たちよ、この法(性質)は、遊離を有するものであり、この法(性質)は、遊離なきものではありません。比丘たちよ、では、どのように、この法(性質)は、遊離を有するものであり、この法(性質)は、遊離なきものではないのですか。(1)比丘たちよ、命あるものを殺すことある者にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(2)比丘たちよ、与えられていないものを取ることある者にとって、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(3)比丘たちよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者にとって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(4)比丘たちよ、虚偽を説くことある者にとって、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(5)比丘たちよ、中傷の言葉ある者にとって、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(6)比丘たちよ、粗暴な言葉ある者にとって、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(7)比丘たちよ、雑駁な虚論ある者にとって、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、遊離と成ります。(8)比丘たちよ、強欲〔の思い〕ある者にとって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、遊離と成ります。(9)比丘たちよ、憎悪している心の者にとって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、遊離と成ります。(10)比丘たちよ、誤った見解ある者にとって、正しい見解は、遊離と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、この法(性質)は、遊離を有するものであり、この法(性質)は、遊離なきものではありません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. チュンダの経

 

176. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、パーヴァーに住んでおられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、こう言いました。「チュンダよ、まさに、あなたは、どのような者の諸々の清廉を喜びますか」と。「尊き方よ、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知します。わたしは、彼らの諸々の清廉を喜びます」と。

 

 「チュンダよ、また、すなわち、どのように、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知するのですか」と。「尊き方よ、ここに、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、彼らは、弟子に、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるのだ。もし、地を撫でられないなら、諸々の水気のある牛糞を撫でるのだ。もし、諸々の水気のある牛糞を撫でられないなら、諸々の緑あざやかな草を撫でるのだ。もし、諸々の緑あざやかな草を撫でられないなら、祭火に奉仕するのだ。もし、祭火に奉仕できないなら、合掌の者となり、太陽に礼拝するのだ。もし、合掌の者となり、太陽に礼拝できないなら、夕方までに三回、水に入り行くのだ』と。尊き方よ、このように、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知します。わたしは、彼らの清廉を喜びます」と。

 

 「チュンダよ、まさに、他なるものとして、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知し、また、そして、他なるものとして、聖者の律における清廉は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律における清廉は有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における清廉が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。

 

 「チュンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「チュンダよ、まさに、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有り、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有り、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 (2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。

 

 (10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有ります。

 

 チュンダよ、まさに、これらの十の善ならざる行為の道があります。チュンダよ、まさに、これらの十の善ならざる行為の道を具備した者は、たとえ、もし、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、地を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、祭火に奉仕するとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、祭火に奉仕しないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝するとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝しないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、夕方までに三回、水に入り行くとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、水に入り行かないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、これらの十の善ならざる行為の道は、まさしく、清らかならざるものとして〔世に〕有るからです──かつまた、清らかならざるものを作り為すものとして。

 

 チュンダよ、また、これらの十の善ならざる行為の道ある者たちには、〔それらの〕具備を因として、地獄が覚知され、畜生の胎が覚知され、餓鬼の境域が覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇(悪趣)も。

 

 チュンダよ、まさに、三種類のものとして、身体による清廉が有り、四種類のものとして、言葉による清廉が有り、三種類のものとして、意による清廉が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による清廉が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。

 

 (5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による清廉が有ります。

 

 チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、意による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。

 

 (10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による清廉が有ります。

 

 チュンダよ、まさに、これらの十の善なる行為の道があります。チュンダよ、まさに、これらの十の善なる行為の道を具備した者は、たとえ、もし、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、地を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、祭火に奉仕するとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、祭火に奉仕しないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝するとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝しないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

 

 たとえ、もし、夕方までに三回、水に入り行くとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、水に入り行かないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、これらの十の善なる行為の道は、まさしく、清らかなものとして〔世に〕有るからです──かつまた、清らかなものを作り為すものとして。

 

 チュンダよ、また、これらの十の善なる行為の道ある者たちには、〔それらの〕具備を因として、天〔の境遇〕が覚知され、人間〔の境遇〕が覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇(善趣)も」と。

 

 このように説かれたとき、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. ジャーヌッソーニの経

 

177. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、わたしたちは、まさに、婆羅門たちとして、まさに、諸々の布施を施し、諸々の〔死者への〕供え物を作り為します。『この布施は、亡者である親族や血縁たちのために役立て。この布施を、亡者である親族や血縁たちは遍く受益せよ』と。貴君ゴータマよ、どうでしょう、その布施は、亡者である親族や血縁たちのために役立ちますか。どうでしょう、それらの亡者である親族や血縁たちは、その布施を遍く受益しますか」と。「婆羅門よ、まさに、〔相応する〕状況あるものにおいては役立ち、〔相応する〕状況なきものにおいては〔役立ち〕ません」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、〔相応する〕状況あるものであり、〔相応する〕状況なきものなのですか」と。「婆羅門よ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、(9)憎悪している心の者として〔世に〕有り、(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、地獄に再生します。すなわち、地獄にある有情たちには、〔相応する〕食があり、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住します。婆羅門よ、これもまた、まさに、〔相応する〕状況なきものとしてあり、そこにおいて、その布施は、止住している者のために役立ちません。

 

 婆羅門よ、また、ここに、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生します。すなわち、畜生の胎にある有情たちには、〔相応する〕食があり、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住します。婆羅門よ、これもまた、まさに、〔相応する〕状況なきものとしてあり、そこにおいて、その布施は、止住している者のために役立ちません。

 

 婆羅門よ、また、ここに、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、(9)憎悪していない心の者として〔世に〕有り、(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、人間たちの同類として再生します。すなわち、人間たちには、〔相応する〕食があり、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住します。婆羅門よ、これもまた、まさに、〔相応する〕状況なきものとしてあり、そこにおいて、その布施は、止住している者のために役立ちません。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、天〔の神々〕たちの同類として再生します。すなわち、天〔の神々〕たちには、〔相応する〕食があり、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住します。婆羅門よ、これもまた、まさに、〔相応する〕状況なきものとしてあり、そこにおいて、その布施は、止住している者のために役立ちません(※)。

 

※ テキストには upakappati とあるが、PTS版により na upakappati と読む。

 

 婆羅門よ、また、ここに、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生します。すなわち、餓鬼の境域にある有情たちには、〔相応する〕食があり、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住し、また、あるいは、すなわち、彼のために、ここ(現世)から、あるいは、朋友や僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが、〔供え物を〕供与するなら、そこにおいて、彼は、それによって〔身を〕保ち行き、そこにおいて、彼は、それによって止住します。婆羅門よ、これは、まさに、〔相応する〕状況あるものとして、そこにおいて、その布施は、止住している者のために役立ちます」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、それで、もし、その亡者である親族や血縁が、その〔相応する〕状況に再生していない者として有るなら、誰が、その布施を遍く受益するのですか」と。「婆羅門よ、彼の、他のまた亡者である親族や血縁たちが、その〔相応する〕状況に再生した者たちとして有り、彼らが、その布施を遍く受益します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、それで、もし、まさしく、そして、その亡者である親族や血縁が、その〔相応する〕状況に再生していない者として有り、彼の、他のまた亡者である親族や血縁たちが、その〔相応する〕状況に再生していない者たちとして有るなら、誰が、その布施を遍く受益するのですか」と。「婆羅門よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その〔相応する〕状況が、この長時にわたり、離れたものとして存することです──すなわち、この、亡者である親族や血縁たちから。婆羅門よ、さらに、また、施者もまた、無果ならず」と。

 

 「貴君ゴータマは、〔相応する〕状況なきものについてもまた、〔布施の果を〕遍く想定して説きますか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、〔相応する〕状況なきものについてもまた、〔布施の果を〕遍く想定して説きます。婆羅門よ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、(9)憎悪している心の者として〔世に〕有り、(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、象たちの同類として再生します。彼は、そこにおいて、食べ物の、飲み物の、花飾と種々なる外装品の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、ここに、命あるものを殺す者であり、与えられていないものを取る者であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であり、虚偽を説く者であり、中傷の言葉ある者であり、粗暴な言葉ある者であり、雑駁な虚論ある者であり、強欲〔の思い〕ある者であり、憎悪している心の者であり、誤った見解ある者であることで、それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、象たちの同類として再生します。さらに、すなわち、まさに、彼が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ることで、それによって、彼は、そこにおいて、食べ物の、飲み物の、花飾と種々なる外装品の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、馬たちの同類として再生します。……略……牛たちの同類として再生します。……略……犬たちの同類として再生します。彼は、そこにおいて、食べ物の、飲み物の、花飾と種々なる外装品の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、ここに、命あるものを殺す者であり……略……誤った見解ある者であることで、それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、犬たちの同類として再生します。さらに、すなわち、まさに、彼が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ることで、それによって、彼は、そこにおいて、食べ物の、飲み物の、花飾と種々なる外装品の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、人間たちの同類として再生します。彼は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、人間たちの同類として再生します。彼は、そこにおいて、人間のものとしてある、五つの欲望の属性(五妙欲)の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に有ることで〕、それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、人間たちの同類として再生します。さらに、すなわち、まさに、彼が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ることで、それによって、彼は、そこにおいて、人間のものとしてある、五つの欲望の属性の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、そこにおいて、天のものとしてある、五つの欲望の属性の、得者として〔世に〕有ります。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に有ることで〕、それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、天〔の神々〕たちの同類として再生します。さらに、すなわち、まさに、彼が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ることで、それによって、彼は、そこにおいて、天のものとしてある、五つの欲望の属性の、得者として〔世に〕有ります。婆羅門よ、さらに、また、施者もまた、無果ならず」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。貴君ゴータマよ、さてまた、すなわち、これだけで、諸々の布施を施すに十分なるものがあります、諸々の〔死者への〕供え物を作り為すに十分なるものがあります。なぜなら、そこで、まさに、施者もまた、無果ならざるからです」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、なぜなら、施者もまた、無果ならざるからです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 ジャーヌッソーニの章が第二となる。

 

(18)3. 善きものの章

 

1. 善きものの経

 

178. 「比丘たちよ、では、善きものを、そして、善からざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、善からざるものなのですか。(1)命あるものを殺すことであり、(2)与えられていないものを取ることであり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、(4)虚偽を説くことであり、(5)中傷の言葉であり、(6)粗暴な言葉であり、(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕であり、(9)憎悪〔の思い〕であり、(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、善からざるものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善きものなのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、(2)与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕であり、(4)虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、(5)中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、(6)粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、(7)雑駁な虚論から離れている〔生き方〕であり、(8)強欲〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(9)憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、善きものと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 聖なる法の経

 

179. 「比丘たちよ、では、聖なる法(教え)を、そして、聖ならざる法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる法(教え)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、聖ならざる法(教え)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる法(教え)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、聖なる法(教え)と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 善なる法の経

 

180. 「比丘たちよ、では、善なる法(性質)を、そして、善ならざる法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、善ならざる法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、善ならざる法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善なる法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、善なる法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 義の経

 

181. 「比丘たちよ、では、義(利益)を、そして、義(利益)ならざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、義(利益)ならざるものなのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、義(利益)ならざるものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、義(利益)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、義(利益)と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 法の経

 

182. 「比丘たちよ、では、法(正義)を、そして、法(正義)ならざるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、法(正義)ならざるものなのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、法(正義)ならざるものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、法(正義)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、法(正義)と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 煩悩を有するものの経

 

183. 「比丘たちよ、では、煩悩を有する法(性質)を、そして、煩悩なき〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有する法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、煩悩を有する法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩なき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、煩悩なき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 罪過の経

 

184. 「比丘たちよ、では、罪過を有する法(性質)を、そして、罪過なき〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、罪過を有する法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、罪過を有する法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、罪過なき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、罪過なき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悩み苦しめられるべきものの経

 

185. 「比丘たちよ、では、悩み苦しめられるべき法(性質)を、そして、悩み苦しめられるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、悩み苦しめられるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、悩み苦しめられるべき法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悩み苦しめられるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、悩み苦しめられるべきではない法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔煩悩の〕集積に至るものの経

 

186. 「比丘たちよ、では、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)を、そして、〔煩悩の〕滅減に至る〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、〔煩悩の〕集積に至る法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔煩悩の〕滅減に至る法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、〔煩悩の〕滅減に至る法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 苦痛を生成するものの経

 

187. 「比丘たちよ、では、苦痛を生成する法(性質)を、そして、安楽を生成する〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛を生成する法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、苦痛を生成する法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽を生成する法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、安楽を生成する法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 〔苦痛の〕報いあるものの経

 

188. 「比丘たちよ、では、苦痛の報いある法(性質)を、そして、安楽の報いある〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛の報いある法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、苦痛の報いある法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽の報いある法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、安楽の報いある法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 善きものの章が第三となる。

 

(19)4. 聖なるものの章

 

1. 聖なる道の経

 

189. 「比丘たちよ、では、聖なる道を、そして、聖ならざる道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる道なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、聖ならざる道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる道なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、聖なる道と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 黒い道の経

 

190. 「比丘たちよ、では、黒い道を、そして、白い道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、黒い道なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、黒い道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白い道なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、白い道と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 正なる法の経

 

191. 「比丘たちよ、では、正なる法(教え)を、そして、正ならざる法(教え)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる法(教え)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、正ならざる法(教え)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる法(教え)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、正なる法(教え)と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 正なる人士の法の経

 

192. 「比丘たちよ、では、正なる人士の法(性質)を、そして、正ならざる人士の法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士の法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、正ならざる人士の法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士の法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、正なる人士の法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 生起させられるべき法の経

 

193. 「比丘たちよ、では、生起させられるべき法(性質)を、そして、生起させられるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、生起させられるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、生起させられるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生起させられるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、生起させられるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 習修されるべきものの経

 

194. 「比丘たちよ、では、習修されるべき法(性質)を、そして、習修されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、習修されるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、習修されるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、習修されるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、習修されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 修められるべきものの経

 

195. 「比丘たちよ、では、修められるべき法(性質)を、そして、修められるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、修められるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、修められるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、修められるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、修められるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 多く為されるべきものの経

 

196. 「比丘たちよ、では、多く為されるべき法(性質)を、そして、多く為されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、多く為されるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、多く為されるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、多く為されるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、多く為されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 随念されるべきものの経

 

197. 「比丘たちよ、では、随念されるべき法(性質)を、そして、随念されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、随念されるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、随念されるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、随念されるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、随念されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 実証されるべきものの経

 

198. 「比丘たちよ、では、実証されるべき法(性質)を、そして、実証されるべきではない〔法〕を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、実証されるべきではない法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことであり……略……(10)誤った見解です。比丘たちよ、これは、実証されるべきではない法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、実証されるべき法(性質)なのですか。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり……略……(10)正しい見解です。比丘たちよ、これは、実証されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 聖なるものの章が第四となる。

 

(20)5. 他の人の章

 

1. 「慣れ親しむべきではありません」等の諸経

 

199. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、(9)憎悪している心の者として〔世に〕有り、(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきではありません。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、(9)憎悪していない心の者として〔世に〕有り、(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、慣れ親しむべきです」と。

 

200-209. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、親近するべきではありません。……略……親近するべきです。……略……奉侍するべきではありません。……奉侍するべきです。……略……供養されるべき者として〔世に〕有りません。……供養されるべき者として〔世に〕有ります。……略……賞賛されるべき者として〔世に〕有りません。……賞賛されるべき者として〔世に〕有ります。……略……尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有ります。……略……敬虔〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……敬虔〔の思い〕を有する者として〔世に〕有ります。……略……達成者として〔世に〕有りません。……達成者として〔世に〕有ります。……略……清浄となりません。……清浄となります。……略……〔我想の〕思量を征服しません。……〔我想の〕思量を征服します。……略……智慧によって増大しません。……智慧によって増大します。……略……。

 

210. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した人は、多くの功徳ならざるものを生み出します。……多くの功徳を生み出します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、(9)憎悪していない心の者として〔世に〕有り、(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した人は、多くの功徳を生み出します」と。

 

 他の人の章が第五となる。

 

 第四の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

(21)1. 〔行為を〕為すことから生じる身体の章

 

1. 第一の地獄と天上の経

 

211. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 (2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。

 

 (4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。

 

 (10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。

 

 (4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。

 

 (5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。

 

 (10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の地獄と天上の経

 

212. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 (2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 女性の経

 

213. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 (2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 女性在俗信者の経

 

214. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。……略……。(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 恐れおののきを離れた者の経

 

215. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性在俗信者は、恐れおののきを離れていない者として家に居住します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。……(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。……。(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……。(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。……。(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。……。(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。……。(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……。(9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。……。(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。……。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性在俗信者は、恐れおののきを離れていない者として家に居住します。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性在俗信者は、恐れおののきを離れた者として家に居住します。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。……。(2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。……。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。……。(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……。(9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。……。(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。……。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した女性在俗信者は、恐れおののきを離れた者として家に居住します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 蛇行するものの経

 

216. 「比丘たちよ、蛇行するものの教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、蛇行するものの教相であり、法(教え)の教相なのですか。比丘たちよ、有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちであり、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔彼らが〕その行為を為すなら、その行為を相続する者たちと成ります。

 

 (1)比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。彼は、身体によって蛇行し、言葉によって蛇行し、意によって蛇行します。彼には、歪曲した身体の行為が有り、歪曲した言葉の行為が〔有り〕、歪曲した意の行為が〔有り〕、歪曲した〔死後の〕境遇が〔有り〕、歪曲した再生が〔有ります〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしは、歪曲した〔死後の〕境遇ある者には、歪曲した再生ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、すなわち、一方的な苦痛ある諸々の地獄か、あるいは、すなわち、蛇行する類の畜生の胎か、です。比丘たちよ、では、どのようなものが、その、蛇行する類の畜生の胎なのですか。蛇であり、蝎であり、百足であり、鼬であり、山猫であり、鼠であり、梟であり、また、あるいは、それらが何であれ、人間たちを見て蛇行する、他のまた畜生の胎の有情たちです。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、生類としてあることから、生類には再生が有り、それを為すなら、それによって再生し、この者が再生したなら、諸々の接触が接触します(悪業の果を受ける)。比丘たちよ、このように、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。

 

 (2)比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。彼には、歪曲した身体の行為が有り、歪曲した言葉の行為が〔有り〕、歪曲した意の行為が〔有り〕、歪曲した〔死後の〕境遇が〔有り〕、歪曲した再生が〔有ります〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしは、歪曲した〔死後の〕境遇ある者には、歪曲した再生ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、すなわち、一方的な苦痛ある諸々の地獄か、あるいは、すなわち、蛇行する類の畜生の胎か、です。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔まさに〕その、蛇行する類の畜生の胎なのですか。蛇であり、蝎であり、百足であり、鼬であり、山猫であり、鼠であり、梟であり、また、あるいは、それらが何であれ、人間たちを見て蛇行する、他のまた畜生の胎の有情たちです。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、生類としてあることから、生類には再生が有り、それを為すなら、それによって再生し、この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。比丘たちよ、このように、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。比丘たちよ、有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちであり、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔彼らが〕その行為を為すなら、その行為を相続する者たちと成ります。

 

 (1)比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。彼は、身体によって蛇行せず、言葉によって蛇行せず、意によって蛇行しません。彼には、真っすぐな身体の行為が有り、真っすぐな言葉の行為が〔有り〕、真っすぐな意の行為が〔有り〕、真っすぐな〔死後の〕境遇が〔有り〕、真っすぐな再生が〔有ります〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしは、真っすぐな〔死後の〕境遇ある者には、真っすぐな再生ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、すなわち、一方的な安楽ある諸々の天上か、また、あるいは、すなわち、それらの高貴の家か、です──あるいは、士族の大家の家であり、あるいは、婆羅門の大家の家であり、あるいは、家長の大家の家です──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、生類としてあることから、生類には再生が有り、それを為すなら、それによって再生し、この者が再生したなら、諸々の接触が接触します(善業の果を受ける)。比丘たちよ、このように、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。

 

 (2)比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。……略……。(9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。……略……。(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。彼は、身体によって蛇行せず、言葉によって蛇行せず、意によって蛇行しません。彼には、真っすぐな身体の行為が有り、真っすぐな言葉の行為が〔有り〕、真っすぐな意の行為が〔有り〕、真っすぐな〔死後の〕境遇が〔有り〕、真っすぐな再生が〔有ります〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしは、真っすぐな〔死後の〕境遇ある者には、真っすぐな再生ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、すなわち、一方的な安楽ある諸々の天上か、また、あるいは、すなわち、それらの高貴の家か、です──あるいは、士族の大家の家であり、あるいは、婆羅門の大家の家であり、あるいは、家長の大家の家です──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、生類としてあることから、生類には再生が有り、それを為すなら、それによって再生し、この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。比丘たちよ、このように、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちであり、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔彼らが〕その行為を為すなら、その行為を相続する者たちと成ります。比丘たちよ、これは、まさに、その、蛇行するものの教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の思欲あるものの経

 

217. 「比丘たちよ、思欲あるもの(思・故思:明確な意志)として為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、そこで、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成り、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成り、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 (2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり……略……もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。

 

 (10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、あるいは、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、投げ上げられた純正品のさいころが、まさしく、そのところ、そのところに止住するなら、まさしく、しっかりと止住したものとして止住するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あるいは、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、あるいは、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、あるいは、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します(※)。

 

※ テキストには upapajjantīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 比丘たちよ、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、そこで、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成り、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成り、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。

 

 (3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり……略……もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。

 

 (5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 (7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。

 

 (9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。

 

 (10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、あるいは、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、投げ上げられた純正品のさいころが、まさしく、そのところ、そのところに止住するなら、まさしく、しっかりと止住したものとして止住するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あるいは、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、あるいは、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、あるいは、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の思欲あるものの経

 

218. 「比丘たちよ、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、そこで、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成り、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成り、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものが、苦痛を生成し苦痛の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、あるいは、三種類の身体の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、四種類の言葉の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、三種類の意の行業の等しき汚点と衰滅ある、善ならざる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 比丘たちよ、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、そこで、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成り、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成り、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成るのですか。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものが、安楽を生成し安楽の報いあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、あるいは、三種類の身体の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、四種類の言葉の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として……略……。比丘たちよ、あるいは、三種類の意の行業の得達ある、善なる思欲あるものを因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔行為を〕為すことから生じる身体の経

 

219. 「比丘たちよ、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、終息の状態があると、わたしは説きません。そして、それを、まさに、まさしく、所見の法(現世)において〔得知し〕、あるいは、再生において〔得知し〕、あるいは、他の時機において〔得知します〕。比丘たちよ、かくのごとく、このように、思欲あるものとして為され蓄積された諸々の行為には、〔報いを〕得知せずして、苦しみの終極を為すことがあると、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように覚知します。『過去において、まさに、わたしの、この心は、微小にして修められていないものとして有った。いっぽう、今現在、わたしの、この心は、無量にして善く修められた。また、まさに、それが何であれ、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しない』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。幼少以後、もし、その、童子である、この者が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら、さて、いったい、まさに、〔彼は〕悪しき行為を為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「また、まさに、悪しき行為を為さずにいる者に、さて、いったい、まさに、苦しみは接触するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、悪しき行為を為さずにいる者に、どうして、苦しみが接触するというのでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、また、まさに、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、あるいは、女によって、あるいは、男によって、修められるべきです。比丘たちよ、あるいは、女のものも、あるいは、男のものも、この身体は、〔これを〕取って〔他世に〕赴くことができません。比丘たちよ、心を内なるものとするのが、この死すべき者(人間)です。彼は、このように覚知します。『それが何であれ、過去において、この〔行為を〕為すことから生じる身体によって為された、まさに、わたしの、この悪しき行為は、その全てが、ここ(現世)に感受されるべきである。それは、〔他世に〕従い行くものと成らないであろう』と。比丘たちよ、このように修められたなら、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、不還たることのために等しく転起します。ここに、智慧ある比丘が、より上なる解脱を理解せずにいるとして。

 

 慈悲〔の思い〕()を共具した心で……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように覚知します。『過去において、まさに、わたしの、この心は、微小にして修められていないものとして有った。いっぽう、今現在、わたしの、この心は、無量にして善く修められた。また、まさに、それが何であれ、量あるものとして為された行為は、それは、そこに居住しないであろうし、それは、そこに安住しないであろう』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。幼少以後、もし、その、童子である、この者が、放捨という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら、さて、いったい、まさに、〔彼は〕悪しき行為を為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「また、まさに、悪しき行為を為さずにいる者に、さて、いったい、まさに、苦しみは接触するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、悪しき行為を為さずにいる者に、どうして、苦しみが接触するというのでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、また、まさに、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、あるいは、女によって、あるいは、男によって、修められるべきです。比丘たちよ、あるいは、女のものも、あるいは、男のものも、この身体は、〔これを〕取って〔他世に〕赴くことができません。比丘たちよ、心を内なるものとするのが、この死すべき者(人間)です。彼は、このように覚知します。『それが何であれ、過去において、この〔行為を〕為すことから生じる身体によって為された、まさに、わたしの、この悪しき行為は、その全てが、ここ(現世)に感受されるべきである。それは、〔他世に〕従い行くものと成らないであろう』と。比丘たちよ、このように修められたなら、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、不還たることのために等しく転起します。ここに、智慧ある比丘が、より上なる解脱を理解せずにいるとして」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 法ならざる性行の経

 

220. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。

 

「貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 「まさに、わたしは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、わたしが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「婆羅門よ、まさに、三種類の身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、四種類の言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、三種類の意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、三種類の身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、三種類の身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、四種類の言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、四種類の言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、三種類の意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、三種類の意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。婆羅門よ、このように、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 婆羅門よ、まさに、三種類の身体による法(教え)の性行と正義の性行が有り、四種類の言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有り、三種類の意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、三種類の身体による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、三種類の身体による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、四種類の言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、四種類の言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 婆羅門よ、では、どのように、三種類の意による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。……略……。婆羅門よ、このように、まさに、三種類の意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。婆羅門よ、このように、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔行為を〕為すことから生じる身体の章が第一となる。

 

(22)2. 同等の章

 

221. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、(9)憎悪している心の者として〔世に〕有り、(10)誤った見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、十のものなのですか。(1)命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、(2)与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、(4)虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、(5)中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、(6)粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、(7)雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、(9)憎悪していない心の者として〔世に〕有り、(10)正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

222. 「比丘たちよ、二十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させます。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させます。(4)そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させます。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させます。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させます。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論を受持させます。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させます。(9)そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させます。(10)そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの二十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、二十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させます。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させます。(4)そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させます。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させます。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させます。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させます。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させます。(9)そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させます。(10)そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの二十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

223. 「比丘たちよ、三十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させ、かつまた、命あるものを殺すことを等しく承認する者として〔世に〕有ります。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることを等しく承認する者として〔世に〕有ります。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを等しく承認する者として〔世に〕有ります。(4)そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させ、かつまた、虚偽を説くことを等しく承認する者として〔世に〕有ります。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させ、かつまた、中傷の言葉を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させ、かつまた、粗暴な言葉を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、雑駁な虚論を受持させ、かつまた、雑駁な虚論を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(9)そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(10)そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させ、かつまた、誤った見解を等しく承認する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(4)そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(9)そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。(10)そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、正しい見解を受持させ、かつまた、正しい見解を等しく承認する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

224. 「比丘たちよ、四十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させ、かつまた、命あるものを殺すことを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、命あるものを殺すことの栄誉を語ります。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、与えられていないものを取ることの栄誉を語ります。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの栄誉を語ります。(4)そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させ、かつまた、虚偽を説くことを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、虚偽を説くことの栄誉を語ります。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させ、かつまた、中傷の言葉を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、中傷の言葉の栄誉を語ります。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させ、かつまた、粗暴な言葉を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、粗暴な言葉の栄誉を語ります。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、雑駁な虚論を受持させ、かつまた、雑駁な虚論を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、雑駁な虚論の栄誉を語ります。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、強欲〔の思い〕の栄誉を語ります。(9)そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、憎悪〔の思い〕の栄誉を語ります。(10)そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させ、かつまた、誤った見解を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、誤った見解の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの四十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四十のものなのですか。(1)そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(2)そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(3)そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(4)そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(5)そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(6)そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(7)そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。(8)そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕の栄誉を語ります。(9)そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の栄誉を語ります。(10)そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、正しい見解を受持させ、かつまた、正しい見解を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、正しい見解の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの四十の法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

225-228. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜きます。……略……掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜きます。……略……。比丘たちよ、二十のものがあります。……略……。比丘たちよ、三十のものがあります。……略……。比丘たちよ、四十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜きます。……略……。

 

229-232. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。……略……ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……。比丘たちよ、二十のものがあります。……略……。比丘たちよ、三十のものがあります。……略……。比丘たちよ、四十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。……略……ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。……略……。

 

233-236. 「比丘たちよ、十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者として知られるべきです。……略……賢者として知られるべきです。……略……。比丘たちよ、二十のものがあります。……略……。比丘たちよ、三十のものがあります。……略……。比丘たちよ、四十のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者として知られるべきです。……略……賢者として知られるべきです。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの四十の法(性質)を具備した者は、賢者として知られるべきです」と。

 

 同等の章が第二となる。

 

23. 貪欲と省略〔の経典〕

 

237. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、十の法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象であり、(10)止滅の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

238. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、十の法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)無常の表象であり、(2)無我の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)骨となったものの表象であり、(6)蛆虫まみれのものの表象であり、(7)青黒くなったものの表象であり、(8)膿み爛れたものの表象であり、(9)切断されたものの表象であり、(10)膨張するものの表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

239. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、十の法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、十のものなのですか。(1)正しい見解であり、(2)正しい思惟であり、(3)正しい言葉であり、(4)正しい行業であり、(5)正しい生き方であり、(6)正しい努力であり、(7)正しい気づきであり、(8)正しい禅定であり、(9)正しい知恵であり、(10)正しい解脱です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

240-266. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

267-746. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 ダサカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。