中部経典(マッジマ・ニカーヤ)

 

 中間の五十の聖典(中分五十経篇)

 

【目次】

 

1. 家長の章

 

1(51). カンダラカの経(1.~)

2(52). アッタカ城市民の経(17.~)

3(53). 〔いまだ〕学びある者の経(22.~)

4(54). ポータリヤの経(31.~)

5(55). ジーヴァカの経(51.~)

6.(56). ウパーリの経(56.~)

7(57). 犬の掟ある者の経(78.~)

8(58). アバヤ王子の経(83.~)

9(59). 多くの感受されるべきものの経(88.~)

10(60). 誤解なきものの経(92.~)

 

2. 比丘の章

 

1(61). アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経(107.~)

2(62). 大いなるラーフラへの教諭の経(113.~)

3(63). 小なるマールキャの経(122.~)

4(64). 大いなるマールキャの経(129.~)

5(65). バッダーリの経(134.~)

6(66). 鶉の喩えの経(148.~)

7(67). チャートゥマーの経(157.~)

8(68). ナラカパーナの経(166.~)

9(69). ゴーリヤーニの経(173.~)

10(70). キーターギリの経(174.~)

 

3. 遍歴遊行者の章

 

1(71). 三つの明知とヴァッチャの経(185.~)

2(72). 火とヴァッチャの経(187.~)

3(73). 大いなるヴァッチャの経(193.~)

4(74). ディーガナカの経(201.~)

5(75). マーガンディヤの経(207.~)

6(76). サンダカの経(223.~)

7(77). 大いなるサクルダーインの経(237.~)

8(78). サマナムンディカーの経(260.~)

9(79). 小なるサクルダーインの経(269.~)

10(80). ヴェーカナサの経(278.~)

 

4. 王の章

 

1(81). ガティカーラの経(282.~)

2(82). ラッタパーラの経(293.~)

3(83). マガデーヴァの経(308.~)

4(84). マドゥラーの経(317.~)

5(85). ボーディ王子の経(324.~)

6(86). アングリマーラの経(347.~)

7(87). 愛しいものから生じるものの経(353.~)

8(88). 外衣の経(358.~)

9(89). 法の塔廟の経(364.~)

10(90). カンナカッタラの経(375.~)

 

5. 婆羅門の章

 

1(91). ブラフマーユの経(383.~)

2(92). セーラの経(396.~)

3(93). アッサラーヤナの経(401.~)

4(94). ゴータムカの経(412.~)

5(95). チャンキンの経(422.~)

6(96). エースカーリンの経(436.~)

7(97). ダナンジャーニの経(445.~)

8(98). ヴァーセッタの経(454.~)

9(99). スバの経(462.~)

10(100). サンガーラヴァの経(473.~)

 


 

 

 中間の五十の聖典(中分五十経篇)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 家長の章

 

1(51). カンダラカの経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。大いなる比丘の僧団と共に。そこで、まさに、かつまた、調象師の子のペッサが、かつまた、カンダラカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、調象師の子のペッサは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。また、カンダラカ遍歴遊行者は、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カンダラカ遍歴遊行者は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、比丘の僧団が、正しく実践させられているとは。貴君ゴータマよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させました。それは、たとえば、また、今現在、貴君ゴータマによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。貴君ゴータマよ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させるでしょう。それは、たとえば、また、今現在、貴君ゴータマによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように」と。

 

2. 「カンダラカよ、このように、このことはあります。カンダラカよ、このように、このことはあります。カンダラカよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させました。それは、たとえば、また、今現在、わたしによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。カンダラカよ、すなわち、また、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させるでしょう。それは、たとえば、また、今現在、わたしによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。

 

 カンダラカよ、まさに、この比丘の僧団において、阿羅漢たちであり、煩悩()の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存()に束縛するもの()の完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちである、比丘たちが存在します。カンダラカよ、まさに、この比丘の僧団において、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、常なる戒ある者たちであり、常なる行持ある者たちであり、賢明なる者たちであり、賢明なる行持ある者たちである、比丘たちが存在します。彼らは、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みます。どのようなものが、四つのものなのですか。カンダラカよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて」と。

 

3. このように説かれたとき、調象師の子のペッサは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、それほどまでに、世尊によって、これらの四つの気づきの確立が、見事に報知されたのは──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。尊き方よ、まさに、白衣の在家者たちである、わたしたちもまた、〔その〕時〔その〕時に、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みます。尊き方よ、ここに、わたしたちは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、このように、人間の叢林が、このように、人間の苦味が、このように、人間の狡猾が、〔それらが〕転起しているなか、世尊が、これほどまでに、有情たちの利益と利益ならざるものを知るとは。尊き方よ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは(人間はわかりにくい)。尊き方よ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは(家畜はわかりやすい)。尊き方よ、まさに、わたしは、調御されるべき象を行かせることができます。すなわち、チャンパーに往来を為すなら、中途にあるだけで、諸々の狡猾を、諸々の奸計を、諸々の邪曲を、諸々の歪曲を、それらの全てを、〔その象は〕明らかと為すでしょう。尊き方よ、いっぽう、わたしたちにとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、身体によっても、まさしく、他なるものとして歩み行ない、言葉によっても、まさしく、他なるものとして〔歩み行ない〕、彼らの心は、まさしく、他なるものに成ります。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、このように、人間の叢林が、このように、人間の苦味が、このように、人間の狡猾が、〔それらが〕転起しているなか、世尊が、これほどまでに、有情たちの利益と利益ならざるものを知るとは。尊き方よ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは。尊き方よ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは」と。

 

4. 「ペッサよ、このように、このことはあります。ペッサよ、このように、このことはあります。ペッサよ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは。ペッサよ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは。ペッサよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ペッサよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現法:現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。ペッサよ、これらの四つの人たちのなかでは、どの人が、あなたの心を喜ばせますか」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、まさしく、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。

 

5. 「ペッサよ、また、何ゆえに、これらの三つの人は、あなたの心を喜ばせないのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する自己を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、まさしく、熱苦させることもなく、遍く苦しめることもありません。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせます。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「ペッサよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、調象師の子のペッサは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

6. そこで、まさに、世尊は、調象師の子のペッサが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、調象師の子のペッサは、賢者です。比丘たちよ、調象師の子のペッサは、大いなる智慧(慧・般若)ある者です。比丘たちよ、すなわち、わたしが、彼に、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分するまで、それで、もし、調象師の子のペッサが、しばらく坐っているなら、大いなる義(利益)と結び付いた者と成ったでしょう。比丘たちよ、ですが、ともあれ、これだけでもまた、調象師の子のペッサは、大いなる義(利益)と結び付いた者としてあります」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

7. 「比丘たちよ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

8. 比丘たちよ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。比丘たちよ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

9. 比丘たちよ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼の、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。比丘たちよ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

10. 比丘たちよ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

11. 彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇()を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

12. 彼は、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能()が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御(律儀)のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……略……。鼻によって、臭気()を嗅いで……略……。舌によって、味感()を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為()のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

13. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づき()と正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。

 

14. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

15. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

16. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として(※)、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。

 

※ テキストには attantapo とあるが、PTS版により anattantapo と読む。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 カンダラカの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(52). アッタカ城市民の経

 

17. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において。また、まさに、その時点にあって、アッタカ城市民のダサマ家長が、パータリプッタに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、クックタ〔長者〕の林園のあるところに、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、その比丘に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どこに、今現在、尊者アーナンダは住んでいますか。尊き方よ、まさに、わたしどもは、尊者アーナンダと会見することを欲しています」と。「家長よ、彼は、尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において」と。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、パータリプッタにおいて、その用事を済ませて、ヴェーサーリーのあるところに、ベールヴァ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。

 

18. 一方に坐った、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものに至り得ます」と。

 

 「家長よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕なのですか。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。

 

19. 「(1)家長よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに(※)、この第一の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

20. (2)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第二の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (3)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第三の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (4)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第四の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (5)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この慈愛という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……略……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (6)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……(7)歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……(8)放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この放捨という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と(※)覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

※ テキストには nirodhadhamma’ntntti とあるが、PTS版により nirodhadhamma’nti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。

 

 (9)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (10)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この識知無辺なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (11)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この無所有なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。

 

21. このように説かれたとき、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、それは、たとえば、また、人が、まさしく、一つの妙なる財宝を探し求めながら、まさしく、一度に、十一の妙なる財宝に到達するようなものです。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一つの不死の門を探し求めながら、〔学びを〕修めることによって、まさしく、一度に、十一の不死の門を得ました。尊き方よ、それは、たとえば、また、人に、十一の門ある家があるようなものです。彼は、その家が燃えているとき、一つ一つの門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの十一の不死の門の、一つ一つの不死の門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさに、これらの〔教えを〕他にする異教の者たちは、まさに、師匠のために、師匠の財を遍く探し求めます。また、どうして、ましてや、わたしが、尊者アーナンダのために、供養を為さないというのでしょう」と。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、そして、パータリプッタの、さらに、ヴェーサーリーの、比丘の僧団を集めて、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そして、一者一者の比丘に、各自に、ひと組の布地をまとわせ、さらに、尊者アーナンダに、三つの衣料をまとわせ、かつまた、尊者アーナンダのために、五百の精舎を作らせた、ということです。

 

 アッタカ城市民の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(53). 〔いまだ〕学びある者の経

 

22. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂があります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。尊き方よ、それを、世尊は、最初に遍く受益したまえ。世尊によって、最初に遍く受益された、そのあと、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが遍く受益するでしょう。それは、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、新しい公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を公会堂に広げて、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が公会堂に広げられ、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちもまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちのために、〔いまだ〕学びある者(有学)の〔実践の〕道が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします(わたしに代わって説法してほしい)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。

 

23. そこで、まさに、尊者アーナンダは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに告げました。「マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、戒を成就した者として〔世に〕有り、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有り、食において量を知る者として〔世に〕有り、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

 

24. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ります。

 

 マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、食において量を知る者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、食において量を知る者として〔世に〕有ります。

 

 マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初更(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中更(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後更(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。

 

25. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚り(菩提)に信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)恥〔の思い〕()ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉による悪しき行ないを〔恥じ〕、意による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定(等至:専心)を恥じます。(3)〔良心の〕咎め()ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。(4)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(5)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(6)気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。(7)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。

 

26. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

 

27. マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、戒を成就した者として〔世に〕有ることから、このように、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ることから、このように、食において量を知る者として〔世に〕有ることから、このように、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ることから、このように、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ることから、このように、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、〔いまだ〕学びある者たる実践者、腐敗ならざる卵たることを成就した者、孵化の可能ある者、正覚の可能ある者、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者』〔と〕説かれます。マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、これらのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる弟子が、このように、戒を成就した者として〔世に〕有ることから、このように、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ることから、このように、食において量を知る者として〔世に〕有ることから、このように、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ることから、このように、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ることから、このように、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、〔いまだ〕学びある者たる実践者、腐敗ならざる卵たることを成就した者、孵化の可能ある者、正覚の可能ある者、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者』〔と〕説かれます。

 

28. マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼には、この第一の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。

 

 マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼には、この第二の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。

 

 マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼には、この第三の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。

 

29. マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、戒を成就した者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、食において量を知る者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、すなわち、まさに、聖なる弟子が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。

 

 マハー・ナーマよ、この者は、聖なる弟子として、『明知の成就者』ともまた〔説かれ〕、『行ないの成就者』ともまた〔説かれ〕、『明知と行ないの成就者』ともまた説かれます。

 

30. マハー・ナーマよ、この詩偈が、梵〔天〕のサナンクマーラによって語られました。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』と。

 

 マハー・ナーマよ、また、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラによって語られた、〔まさに〕その、この詩偈は、善く歌われたものであり、悪しく歌われたものではなく、善く語られたものであり、悪しく語られたものではなく、義(道理)を伴ったものであり、義(道理)を伴わないものではなく、世尊によって許認されたものです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、善きかな、まさに、あなたは、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちのために、〔いまだ〕学びある者の〔実践の〕道を語りました」と。

 

 尊者アーナンダは、この〔言葉〕を言いました。等しく承認する者として、教師は有りました。わが意を得たピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 〔いまだ〕学びある者の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(54). ポータリヤの経

 

31. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕に住んでおられます。アングッタラーパ〔国〕には、アーパナという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、ポータリヤ家長もまた、内衣と外衣を完備し、傘と〔両の〕履物とともに、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その密林に深く分け入って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ポータリヤ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ポータリヤ家長は、「沙門ゴータマは、わたしのことを、家長という言葉で呼び慣わす」と、激情し、わが意を得ない者となり、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、ポータリヤ家長に、こう言いました。「家長よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ポータリヤ家長は、「沙門ゴータマは、わたしのことを、家長という言葉で呼び慣わす」と、激情し、わが意を得ない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適合ならず。〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、あなたが、わたしのことを、家長という言葉で呼び慣わすのは」と。「家長よ、まさに、あなたには、それらの行相があり、それらの徴表があり、それらの形相があります。すなわち、家長にある、そのとおりに」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、そのようにあるも、わたしによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されました」と。「家長よ、また、すなわち、どのように、あなたによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されたのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、わたしによって、すなわち、〔わたしのものとして〕有った、あるいは、財産も、あるいは、穀物も、あるいは、銀も、あるいは、金も、その全てが、子たちに、遺産として引き渡されました。そこにおいて、わたしは、教諭することなく、批判することなく、食糧と衣服を最高とする者として〔世に〕住みます。貴君ゴータマよ、このように、まさに、わたしによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されました」と。「家長よ、まさに、あなたは、他なるものとして、俗事の断絶を説き、また、そして、他なるものとして、聖者の律における俗事の断絶は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律における俗事の断絶は有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における俗事の断絶が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。

 

32. 世尊は、こう言いました。「家長よ、八つのものがあります。まさに、これらの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです。与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです。真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです。中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです。貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです。非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです。忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです。高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです。家長よ、まさに、これらの、簡略〔の観点〕によって〔すでに〕説かれ、詳細〔の観点〕によって〔いまだ〕区分されていない、八つの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します」と。「尊き方よ、すなわち、これらの、世尊によって、簡略〔の観点〕によって〔すでに〕説かれ、詳細〔の観点〕によって〔いまだ〕区分されていない、八つの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起するなら、尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、これらの八つの法(性質)を、詳細〔の観点〕によって区分してください──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

33. 『命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、命あるものを殺す者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、命あるものを殺す者として存することになるなら、命あるものを殺すという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、命あるものを殺すという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、命あるものを殺すという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するもの()であり、これは、〔修行の〕妨害()である。すなわち、この、命あるものを殺すことは。さらに、それらが、命あるものを殺すという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、命あるものを殺すことから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

34. 『与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、与えられていないものを取る者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、与えられていないものを取る者として存することになるなら、与えられていないものを取るという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、与えられていないものを取るという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、与えられていないものを取るという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、与えられていないものを取ることは。さらに、それらが、与えられていないものを取るという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、与えられていないものを取ることから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

35. 『真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、虚偽を説く者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、虚偽を説く者として存することになるなら、虚偽を説くという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、虚偽を説くという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、虚偽を説くという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、虚偽を説くことは。さらに、それらが、虚偽を説くという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、虚偽を説くことから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

36. 『中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、中傷の言葉ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、中傷の言葉ある者として存することになるなら、中傷の言葉という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、中傷の言葉という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、中傷の言葉という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、中傷の言葉は。さらに、それらが、中傷の言葉という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、中傷の言葉から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

37. 『貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、貪求と貪欲ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、貪求と貪欲ある者として存することになるなら、貪求と貪欲という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、貪求と貪欲という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、貪求と貪欲という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、貪求と貪欲は。さらに、それらが、貪求と貪欲という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、貪求と貪欲から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

38. 『非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、非難と害情ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、非難と害情ある者として存することになるなら、非難と害情という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、非難と害情という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、非難と害情という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、非難と害情は。さらに、それらが、非難と害情という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、非難と害情から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

39. 『忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、忿激と葛藤ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激と葛藤ある者として存することになるなら、忿激と葛藤という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、忿激と葛藤という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、忿激と葛藤という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、忿激と葛藤は。さらに、それらが、忿激と葛藤という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、忿激と葛藤から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

40. 『高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、高慢ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、高慢ある者として存することになるなら、高慢という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、高慢という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、高慢という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、高慢は。さらに、それらが、高慢という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、高慢から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

41. 「家長よ、まさに、これらの、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分された、八つの法(性質)があり、それらは、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します。まさしく、しかし、それだけで、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るのではありません」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。

 

 欲望〔の対象〕の危険の話

 

42. 「家長よ、それは、たとえば、また、飢えと力の衰えに打ち負かされ、屠牛者の屠殺場に現われた犬が存するとします。〔まさに〕その、この〔犬〕に、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖を投げ与えるとします。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その犬は、この、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖を舐めながら、飢えと力の衰えを取り除くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「それは、何を因とするのですか」〔と〕。

 

 「尊き方よ、なぜなら、これは、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖であるからです。また、まさしく、そのかぎりにおいて、その犬は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧(慧・般若)によって見て、すなわち、この放捨()が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。

 

43. 家長よ、それは、たとえば、また、あるいは、鷲が、あるいは、鷺が、あるいは、鷹が、肉片を携えて、飛び立つとします。〔まさに〕その、この〔肉片〕を、〔他の〕鷲たちもまた、〔他の〕鷺たちもまた、〔他の〕鷹たちもまた、群衆しては群集して、引き裂こうとし、奪い取ろうとします。家長よ、それを、どう思いますか。それで。もし、その、あるいは、鷲が、あるいは、鷺が、あるいは、鷹が、その肉片を、まさしく、すみやかに放棄しないなら、その〔鳥〕は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、すなわち、この放捨が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。

 

44. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明を携えて、逆風を赴くとします。家長よ、それを、どう思いますか。それで。もし、その人が、燃え盛る草の松明を、まさしく、すみやかに放棄しないなら、彼の、その燃え盛る草の松明は、あるいは、手を焼き、あるいは、腕を焼き、あるいは、或るどこか〔の肢体の支分〕を〔焼き〕、あるいは、或るどこかの肢体の支分を焼き、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て……略……まさしく、その放捨を修めます。

 

45. 家長よ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があるとして、そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、火坑に引きずり込みます。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、まさしく、かくもあれ、かくもあれと、身体をよじるでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「それは、何を因とするのですか」〔と〕。

 

 「尊き方よ、なぜなら、その人に、〔このように〕知るところがあるからです。『そして、わたしは、この火坑に落ちるであろう。それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て……略……まさしく、その放捨を修めます。

 

46. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、喜ばしき林園の、喜ばしき林野の、喜ばしき土地の、喜ばしき蓮池の、〔そのような〕夢を見るとします。彼は、目覚めたなら、何であろうが見ることはありません。家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。……略……まさしく、その放捨を修めます。

 

47. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、借り物の財物を──あるいは、人に見合う車を、最も優れた宝珠の耳飾を──乞い求めて、彼が、それらの借り物の財物によって、〔人々に〕尊ばれ、〔人々に〕取り囲まれ、市場に行くとします。〔まさに〕その、この者のことを、人々が見て、このように説きます。『ああ、まさに、財物ある人である。このように、まさに、財物ある者たちは、諸々の財物を受益する』と。〔まさに〕その、この者を、所有者たちが、まさしく、そこかしこにおいて見るなら、まさしく、そこかしこにおいて、自らのものを持ち去るでしょう。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人に、〔心の〕他化あるに十分なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「それは、何を因とするのですか」〔と〕。

 

 「尊き方よ、なぜなら、所有者たちが、自らのものを持ち去るからです」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。……略……まさしく、その放捨を修めます。

 

48. 家長よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、濃い密林があるとします。そこで、その〔密林〕には、そして、果を結び、さらに、果を具した、木があり、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しません。そこで、果を義(目的)として果を探し求める人が、果を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、その密林に深く分け入って、そして、果を結び、さらに、果を具した、その木を見ます。彼に、このような〔思いが〕存します。『そして、果を結び、さらに、果を具した、まさに、この木であるが、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しない。また、まさに、わたしは、木に登ることを知っている。それなら、さあ、わたしは、この木に登って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たすのだ』と。彼は、その木に登って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たします。そこで、果を義(目的)として果を探し求める第二の人が、果を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、やってくるとします。彼は、その密林に深く分け入って、そして、果を結び、さらに、果を具した、その木を見ます。彼に、このような〔思いが〕存します。『そして、果を結び、さらに、果を具した、まさに、この木であるが、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しない。また、まさに、わたしは、木に登ることを知らない。それなら、さあ、わたしは、この木を根元から断ち切って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たすのだ』と。彼は、その木を、まさしく、根元から断ち切ります。家長よ、それを、どう思いますか。〔まさに〕この、すなわち、最初に木に登った、その人ですが、それでもし、彼が、まさしく、すみやかに降りないなら、倒れ落ちつつあるその木は、彼の、あるいは、手を打ち砕き、あるいは、足を打ち砕き、あるいは、或るどこか〔の肢体の支分〕を〔打ち砕き〕、あるいは、或るどこかの肢体の支分を打ち砕き、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、すなわち、この放捨が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。

 

49. 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。家長よ、これだけで、まさに、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有ります。

 

50. 家長よ、それを、どう思いますか。すなわち、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るように、家長よ、さて、いったい、あなたは、このような形態の俗事の断絶を、自己のうちに等しく随観しますか」と。「尊き方よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、何の俗事の断絶があるというのでしょう。尊き方よ、わたしは、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶から遠く離れています。尊き方よ、まさに、わたしどもは、過去において、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、『善き生まれの者たち』と思い考え、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、善き生まれの者たちのための食料を受益させ、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、善き生まれの者たちの地位に据え置きました。尊き方よ、いっぽう、わたしどもは、比丘たちが、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、『善き生まれならざる者たち』と思い考え、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、善き生まれならざる者たちのための食料を受益させ、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、善き生まれならざる者たちの地位に据え置きました。尊き方よ、また、今や、わたしどもは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、『善き生まれならざる者たち』と知るでしょうし、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、善き生まれならざる者たちのための食料を受益させるでしょうし、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、善き生まれならざる者たちの地位に据え置くでしょう。尊き方よ、いっぽう、わたしどもは、比丘たちが、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、『善き生まれの者たち』と知るでしょうし、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、善き生まれの者たちのための食料を受益させるでしょうし、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、善き生まれの者たちの地位に据え置くでしょう。尊き方よ、世尊は、まさに、わたしに、沙門たちにたいし沙門への愛情を、沙門たちにたいし沙門への清信を、沙門たちにたいし沙門への尊重を、生じさせました。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。世尊は、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 ポータリヤの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(55). ジーヴァカの経

 

51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ジーヴァカ・コーマーラバッチャのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為()として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と。尊き方よ、すなわち、『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

52. 「ジーヴァカよ、すなわち、『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。そして、彼らは、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、三つの状況によって、『遍き受益なき肉』と説きます。見られたものであり、聞かれたものであり、遍く疑われたものです。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、これらの三つの状況によって、『遍き受益なき肉』と説きます。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、三つの状況によって、『遍き受益ある肉』と説きます。見られていないものであり、聞かれていないものであり、遍く疑われていないものです。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、これらの三つの状況によって、『遍き受益ある肉』と説きます。

 

53. ジーヴァカよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して住みます。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。ジーヴァカよ、まさしく、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、〔まさに〕その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の〔行乞の〕施食で給仕します。彼に、このような〔思いは〕有りません。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼に、また、このような〔思いも〕有りません。『ああ、まさに、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、未来にもまた、このような形態の上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。ジーヴァカよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その時点において、その比丘は、あるいは、自己にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、他者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、両者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ジーヴァカよ、まさに、その時点において、その比丘は、まさしく、罪過なき食を食しているのではないですか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『梵〔天〕は、慈愛の住者である』と。尊き方よ、それで、わたしにとって、このことは、世尊が実証例です。尊き方よ、なぜなら、世尊は、慈愛の住者であるからです」と。「ジーヴァカよ、まさに、すなわち、貪欲()によって、すなわち、憤怒()によって、すなわち、迷妄()によって、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕存することになりますが、如来の、その貪欲は、その憤怒は、その迷妄は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ジーヴァカよ、それで、もし、まさに、このことに関して、あなたが語ったなら、あなたが〔語った〕このことを、〔わたしは〕承認します」と。「尊き方よ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしは語りました」と。

 

54. 「ジーヴァカよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して住むとします。彼は、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。ジーヴァカよ、まさしく、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、〔まさに〕その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の〔行乞の〕施食で給仕します。彼に、このような〔思いは〕有りません。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼に、また、このような〔思いも〕有りません。『ああ、まさに、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、未来にもまた、このような形態の上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。ジーヴァカよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その時点において、その比丘は、あるいは、自己にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、他者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、両者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ジーヴァカよ、まさに、その時点において、その比丘は、まさしく、罪過なき食を食しているのではないですか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『梵〔天〕は、放捨の住者である』と。尊き方よ、それで、わたしにとって、このことは、世尊が実証例です。尊き方よ、なぜなら、世尊は、放捨の住者であるからです」と。「ジーヴァカよ、まさに、すなわち、貪欲によって、すなわち、憤怒によって、すなわち、迷妄によって、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕存することになりますが、如来の、その貪欲は、その憤怒は、その迷妄は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ジーヴァカよ、それで、もし、まさに、このことに関して、あなたが語ったなら、あなたが〔語った〕このことを、〔わたしは〕承認します」と。「尊き方よ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしは語りました」と。

 

55. 「ジーヴァカよ、その者が、まさに、あるいは、如来を〔指定して〕、あるいは、如来の弟子を指定して、命あるものを殺すなら、彼は、五つの状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その家長が、このように言ったなら、『赴け。まさに、何某の命あるものを連行せよ』と、この第一の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その命あるものが首輪によって連行されながら、苦痛と失意を得知するなら、この第二の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、彼が、このように言ったなら、『赴け。まさに、この命あるものを殺せ』と、この第三の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その命あるものが殺されながら、苦痛と失意を得知するなら、この第四の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、彼が、あるいは、如来に、あるいは、如来の弟子に、適確ならざる〔あり方〕によって近づくなら、この第五の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。ジーヴァカよ、その者が、まさに、あるいは、如来を〔指定して〕、あるいは、如来の弟子を指定して、命あるものを殺すなら、彼は、これらの五つの状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。

 

 このように説かれたとき、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、比丘たちは、まさしく、適確なる食を食します。尊き方よ、まさに、比丘たちは、まさしく、罪過なき食を食します。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 ジーヴァカの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6.(56). ウパーリの経

 

56. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、ナーランダーに滞在しています──大いなるニガンタの衆と共に。そこで、まさに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)のディーガ・タパッシンは、ナーランダーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタに、『行為』『行為』と報知する習行はありません。友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタには、『棒(暴力)』『棒』と報知する習行があります」と。

 

 「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、三つの棒を報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の棒であり、言葉の棒であり、意の棒です」と。

 

 「タパッシンよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があるのですか」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があります」と。

 

 「タパッシンよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、どの棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の棒でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の棒でしょうか、あるいは、すなわち、意の棒でしょうか」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、まさに、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、身体の棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、言葉の棒を〔報知せ〕ず、そのように、意の棒を〔報知し〕ません」と。

 

 「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 

 「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 

 「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 かくのごとく、世尊は、ニガンタのディーガ・タパッシンに、この議論の基盤(論事)について、三度に至るまで確認させました。

 

57. このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、こう言いました。「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

 

 「タパッシンよ、まさに、如来に、『棒』『棒』と報知する習行はありません。タパッシンよ、まさに、如来には、『行為』『行為』と報知する習行があります」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

 

 「タパッシンよ、まさに、わたしは、三つの行為を報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の行為であり、言葉の行為であり、意の行為です」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があるのですか」と。

 

 「タパッシンよ、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があります」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、どの行為を、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の行為でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の行為でしょうか、あるいは、すなわち、意の行為でしょうか」と。

 

 「タパッシンよ、まさに、わたしは、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、意の行為を、より罪過を有する大いなるものと報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、身体の行為を〔報知せ〕ず、そのように、言葉の行為を〔報知し〕ません」と。

 

 「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 

 「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 

 「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。

 

 「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 かくのごとく、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、この議論の基盤について、三度に至るまで確認させて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。

 

58. また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリを筆頭とするバーラカ〔村〕の衆たる大いなる在家の衆と共に、坐った状態でいます。まさに、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、さて、いったい、どこから、あなたはお帰りかな──昼のさなかに」と。「尊き方よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。「タパッシンよ、また、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「タパッシンよ、また、すなわち、どのように、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ニガンタ・ナータプッタに告げました。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、善きかな、善きかな。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのだ。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのだろう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものである──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はない」と。

 

59. このように説かれたとき、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな──ディーガ・タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、幸いなるタパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しましょう。それで、もし、沙門ゴータマが、すなわち、幸いなるタパッシンが確認させたように、そのように、わたしを確認させるなら、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、長い毛の羊を、諸々の毛を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒造業者が、大きな酒造用の(むしろ)を深い湖水に入れて、端を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒職人が、(ふるい)の端を掴んで、振り落とし、振り払い、打ち払うように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、振り落とし、振り払い、打ち払うでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、六十歳の象が、深い蓮池に入って行って、麻洗いという名の遊びの類に打ち興じるように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマに打ち興じるでしょう──思うに、麻洗いの遊びの類として。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しましょう」と。「家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。

 

60. このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきましたか」と。

 

 「家長よ、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきました」と。

 

 「尊き方よ、また、まさに、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。

 

 「家長よ、まさに、わたしに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。

 

 「家長よ、また、すなわち、どのように、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのですか」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、すなわち、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ウパーリ家長に告げました。

 

61. このように説かれたとき、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな──タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、世尊に説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。「家長よ、それで、もし、まさに、あなたが、真理()に立脚して思い考えるなら、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。

 

62. 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします──冷水を拒絶する者であり、熱水を受用する者です。彼が、冷水を得ずにいながら、命を終えるとします。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、この者には、どこにおいて、再生があると報知しますか」と。

 

 「尊き方よ、マノーサッタ(意に執着している者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。そこにおいて、彼は再生します」と。

 

 「家長よ、それは、何を因とするのですか」と。

 

 「尊き方よ、なぜなら、この者は、意に結縛された者として、命を終えるからです」と。

 

 「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

 

63. 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ・ナータプッタが、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕存するとします──全ての水によって防護された者として、全ての水によって結合された者として、全ての水によって払拭された者として、全ての水によって充満された者として。彼は、前進しながら、後進しながら、多くの小さな命あるものたちに、殺害を惹起させます(踏み殺してしまう)。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、このことの報い(異熟)を、どのようなものと報知しますか」と。

 

 「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタは、思欲なきものを、罪過を有する大いなるものにあらずと報知します」と。

 

 「家長よ、また、それで、もし、思欲するなら」と。

 

 「尊き方よ、罪過を有する大いなるものと成ります」と。

 

 「家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、思欲を、どこにおいて報知しますか」と。

 

 「尊き方よ、意の棒において」と。

 

 「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

 

64. 「家長よ、それを、どう思いますか。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れていますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れています」と。

 

 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、剣を引き抜いた人がやってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その剣を引き抜いた人は、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことができますか」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、二十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、三十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、四十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、五十者の人なるも、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことはできません。まさに、どうして、一者の卑賎なる人が、美しく輝くというのでしょう」と。

 

 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができますか」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、二十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、三十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、四十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、五十のナーランダーなるも、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができます。まさに、どうして、一つの卑賎なるナーランダーが、美しく輝くというのでしょう」と。

 

 「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

 

65. 「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。わたしは聞いたことがあります。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

 

 「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。どのようなわけで、誰によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

 

 「尊き方よ、このことを、わたしは聞いたことがあります。聖賢たちの意の憤怒によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

 

 「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。

 

66. 「尊き方よ、わたしは、世尊の、まさしく、最初の喩えによって、わが意を得た者となり、満悦した者となるも、しかしながら、また、わたしは、世尊の、これらの種々様々な問いへの応答を聞くことを欲する者となり、このように、わたしは、世尊に反論が為されるべきと思い考えました。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

67. 「家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すこと(吟味・検証)を為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、なぜなら、〔教えを〕他にする異教の者の弟子であるわたしを得て、全面あまねく、ナーランダーに、『ウパーリ家長は、わたしたちの弟子として入門したのだ』と、〔告知の〕幟(のぼり)を行き渡らせるべきであるからです。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、再度また、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

68. 「家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者(施者)として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです』と。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。他の者たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。他の者たちの弟子たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と。そこで、また、しかしながら、世尊は、わたしに、ニガンタたちにたいしてもまた、布施を受持させます。尊き方よ、そして、また、わたしたちは、ここにおいて、〔正しい〕時を知るでしょう。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

69. そこで、まさに、世尊は、ウパーリ家長に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、ウパーリ家長のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、ウパーリ家長に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ウパーリ家長は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「家長よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

70. そこで、まさに、ウパーリ家長は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、自らの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門番に告げました。「友よ、門番よ、今日以後、〔わたしは〕ニガンタたちと女性のニガンタたちには、門を閉ざす。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者(優婆塞)たちと女性在俗信者(優婆夷)たちには、門が閉ざされることはない。それで、もし、誰であれ、ニガンタがやってくるなら、〔まさに〕その、この者に、あなたは、このように説くのだ。『尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えました。

 

71. まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』と耳にしました。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。「尊き方よ、さあ、わたしは赴きます。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、まずは、〔それを〕知るのです」と。「タパッシンよ、あなたは赴きなさい。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、〔それを〕知りなさい」と。

 

72. そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、わたしに、〔行乞の〕食に義(目的)はありません」と説いて、そののち、引き返して、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。まさに、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのは。尊き方よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます』と〔言うも〕。尊き方よ、まさに、あなたの〔弟子である〕ウパーリ家長は、沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引されました」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは(※)。タパッシンよ、では、さあ、わたしは赴く。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、そして、まずは、〔それを〕知るのだ」と。

 

※ テキストには upagaccheyyā’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ウパーリ家長に、このように説きなさい。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、中央の門堂に諸々の坐を設けなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、中央の門堂に諸々の坐を設けて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、中央の門堂に諸々の坐が設けられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

73. そこで、まさに、ウパーリ家長は、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、門番に告げました。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、このように説きなさい。『尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。「尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。『尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら』」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、ウパーリ家長は、すなわち、まさに、過去においては、すなわち、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見るなら、見て、そののち、〔彼を〕出迎えて、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、それを、上衣で掃き清めて、遍く収め取って、坐らせたのですが、それが、今や、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリ家長に、こう言いました。「家長よ、狂者として、あなたは存している。家長よ、愚者として、あなたは存している。『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、それは、たとえば、また、人が、睾丸を奪う者として赴いて、〔両の〕睾丸を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、眼を奪う者として赴いて、〔両の〕眼を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、まさに、あなたは存している──沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引された者として」と。

 

74. 「尊き方よ、幸いなるものは、誘引の幻術です。尊き方よ、善きものなるは、誘引の幻術です。尊き方よ、わたしの愛しい親族や血縁たちが、この誘引によって転向するなら、わたしの愛しい親族や血縁たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての士族たちが、この誘引によって転向するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、この誘引によって転向するなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、この誘引によって転向するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう(※)。尊き方よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。

 

※ テキストには sukhāyāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

75. 尊き方よ、過去の事ですが、或るひとりの、老い朽ち、年長となり、老練の婆羅門に、妊婦で臨月の、若く幼い夫人が有りました。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。このように説かれたとき、その婆羅門は、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、まずは、待ってください。すなわち、出産するまで。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童子を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雄の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童女を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雌の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童女の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、再度また、まさに、その若い〔夫人〕は……略……。尊き方よ、三度また、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、雄の小猿を、店から買って、連れてきて、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、これが、あなたのために、店から買って、連れてきた、雄の小猿です。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、この雄の小猿を携えて、染色師の子の(※)ラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、このように説きなさい。「友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を」』と。

 

※ テキストには rajataputto とあるが、PTS版により rajakaputto と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、その雄の小猿を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この雄の小猿は、まさに、染料への忍耐あるも、まさに、打ち叩くには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、愚者であるニガンタたちの論はあります。まさに、愚者であり賢者ならざる者たちの〔論は〕、まさに、染料への忍耐あるも、専念するには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません。尊き方よ、そこで、まさに、その婆羅門は、他時にあって、新しいひと組の布地を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この新しいひと組の布地を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この新しいひと組の布地は、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、打ち叩くにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、論はあります。賢者であり愚者ならざる者たちの〔論は〕、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、専念するにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります」と。

 

 「家長よ、まさに、王を含む衆が、このように知る。『ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタの弟子である』と。家長よ、あなたのことを、誰の弟子と、〔わたしたちは〕保持するのだ」と。このように説かれたとき、ウパーリ家長は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それでは、聞きたまえ。彼の弟子として、わたしがある、〔そのとおりに〕」と。

 

76. 〔そこで、詩偈に言う〕「慧者にして、迷妄を離れ去り、杭を壊し去り、征圧するべきものを征圧した者の──煩悶なく、心が極めて平静にして、戒が増大し、善き智慧ある者の──〔世俗の〕不正を超え渡り、〔世俗の〕垢を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 懐疑なく、満足し、世の財貨を吐き捨て、歓喜した者の──〔自らを〕沙門と為した人間にして、最後の肉体ある人の──喩えなき者にして、〔世俗の〕塵を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 憂慮なく、智者にして、導き手たる、優れた馭者の──無上なる者にして、光輝の法(教え)ある者の、疑いなき者にして、光り輝く者の──〔我想の〕思量(:自我意識)を断ち切った、勇者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 雄牛たる者にして、無量なる者の、深遠なる者にして、寂黙に至り得た者の──平安を作り為す者にして、知者たる者の、法(正義)に依って立ち、自己が統御された者の──執着を超え行き、解脱者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 龍象たる者にして、辺境に臥す者の、束縛するものが滅尽した、解脱者の──〔他に〕対する明慧ある者にして、清き者の、〔高慢の〕旗を降ろし、貪欲を離れた者の──調御者にして、虚構なき者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 第七の聖賢にして、虚言なき者の、三つの明知ある者にして、梵に至り得た者の──沐浴者にして、詩句に通じる者の、静息者にして、知を見出した者の──都に施す者たる釈迦〔族〕の世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 聖者にして、自己を修めた者の、至り得るものに至り得た者にして、文典の精通者の──気づきある者にして、〔あるがままの〕観察者の、曲がることなき者にして、逸れることなき者の──〔心が〕不動の者にして、〔心の〕自在に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 正しき至達者にして(※)、瞑想者の、障りあるものに従い行くことなく、清浄なる者の──依存なき者にして、利益ある者の、遠離した者にして、至高のものに至り得た者の──超渡した者にして、〔他を〕超渡させる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

※ テキストには Samuggatassa とあるが、PTS版により Sammaggatassa と読む。

 

 寂静者にして、広き智慧ある者の、偉大なる智慧ある者にして、貪欲を離れた者の──如来にして、善き至達者たる者の、対する人なく、同等の者なき者の──離怖の者にして、精緻の者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

 

 渇愛を断つ、覚者の、煙を離れた、汚れなき者の──〔供物を〕捧げられるべき者にして、夜叉たる者の、最上の人にして、無比なる者の──偉大なる者にして、至高の福徳に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している」と。

 

77. 「家長よ、また、いつ、あなたによって、これらの沙門ゴータマへの褒め称えが集められたのだ」と。「尊き方よ、それは、たとえば、また、種々なる花からなる大いなる花の群落があるとして、〔まさに〕その、この〔大いなる花の群落〕を、能ある、あるいは、花飾師が、あるいは、花飾師の内弟子が、様々な彩りある花飾に結び束ねるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼は、世尊は、幾多の褒め称えある者であり、幾百の褒め称えある者です。尊き方よ、まさに、誰が、褒め称えに値する者の褒め称えを為さないというのでしょう」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタが、世尊への〔ウパーリ家長の〕尊敬に耐えられずにいると、まさしく、その場において、熱血が、口から吹き上がった、ということです。

 

 ウパーリの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(57). 犬の掟ある者の経

 

78. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、ハリッダヴァサナという名の町があります。そこで、まさに、かつまた、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナが、かつまた、犬の掟ある無衣行者のセーニヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。また、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、犬のようにかがんで、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、犬の掟ある無衣行者のセーニヤです。為し難きことを為す者であり、地に置かれた食料を食べます。彼の、その犬の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇()がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは……略……。三度また、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、為し難きことを為す者であり、地に置かれた食料を食べます。彼の、その犬の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

79. 「プンナよ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。プンナよ、ここに、一部の者は、円満成就した途切れなき犬の掟を修め、円満成就した途切れなき犬の戒を修め、円満成就した途切れなき犬の心を修め、円満成就した途切れなき犬の営為を修めます。彼は、円満成就した途切れなき犬の掟を修めて、円満成就した途切れなき犬の戒を修めて、円満成就した途切れなき犬の心を修めて、円満成就した途切れなき犬の営為を修めて、身体の破壊ののち、死後において、犬たちの同類として再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような見解が有るなら、『わたしは、あるいは、この掟によって、あるいは、この戒によって、あるいは、この苦行によって、あるいは、この梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。プンナよ、まさに、わたしは、誤った見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。プンナよ、かくのごとく、まさに、犬の掟が成就しているなら、犬たちの同類へと導き、衰滅しているなら、地獄へと〔導きます〕」と。このように説かれたとき、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。

 

 そこで、まさに、世尊は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナに、こう言いました。「プンナよ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。〔そこで、セーニヤが言いました〕「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしの、この犬の掟が、長夜にわたり、完全に受持されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。尊き方よ、この者は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナです。彼の、その牛の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは……略……。三度また、まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナです。彼の、その牛の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

80. 「セーニヤよ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。セーニヤよ、ここに、一部の者は、円満成就した途切れなき牛の掟を修め、円満成就した途切れなき牛の戒を修め、円満成就した途切れなき牛の心を修め、円満成就した途切れなき牛の営為を修めます。彼は、円満成就した途切れなき牛の掟を修めて、円満成就した途切れなき牛の戒を修めて、円満成就した途切れなき牛の心を修めて、円満成就した途切れなき牛の営為を修めて、身体の破壊ののち、死後において、牛たちの同類として再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような見解が有るなら、『わたしは、あるいは、この掟によって、あるいは、この戒によって、あるいは、この苦行によって、あるいは、この梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。セーニヤよ、まさに、わたしは、誤った見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。セーニヤよ、かくのごとく、まさに、牛の掟が成就しているなら、牛たちの同類へと導き、衰滅しているなら、地獄へと〔導きます〕」と。このように説かれたとき、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。

 

 そこで、まさに、世尊は、犬の掟ある無衣行者のセーニヤに、こう言いました。「セーニヤよ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。〔そこで、プンナが言いました〕「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしの、この牛の掟が、長夜にわたり、完全に受持されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。尊き方よ、世尊にたいし、このように清信した者として、わたしはあります。『世尊は、すなわち、まさしく、そして、わたしが、この牛の掟を捨棄できるように、まさしく、さらに、この犬の掟ある無衣行者のセーニヤが、その犬の掟を捨棄できるように、そのように、法(教え)を説示することができる』」と。「プンナよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

81. 「プンナよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。プンナよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。プンナよ、白の報いある、白の行為が存在します。プンナよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。プンナよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 プンナよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する世に再生します。加害〔の思い〕を有する世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する感受を、一方的な苦痛を、感受します。それは、たとえば、また、地獄にある有情たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 プンナよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき世に再生します。加害〔の思い〕なき世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕なき感受を、一方的な安楽を、感受します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 プンナよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生します。加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕もまた〔接触し〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触もまた接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕によってもまた〔接触され〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によってもまた接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する〔感受〕をもまた〔感受し〕、加害〔の思い〕なき感受をもまた〔感受し〕、混在した安楽と苦痛を感受します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 プンナよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。プンナよ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、白の報いある、白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、黒と白の報いある、黒と白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。プンナよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。プンナよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。

 

82. このように説かれたとき、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また……略……。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。また、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また……略……明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「セーニヤよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し(※)、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者セーニヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者セーニヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

 

※ テキストには te cattāro māse parivasanti とあるが、PTS版により te を削除する。

 

 犬の掟ある者の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(58). アバヤ王子の経

 

83. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、アバヤ王子が、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アバヤ王子に、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。「王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータの論を論破しなさい。このように、あなたに、善き評価の声が上がるでしょう。『アバヤ王子によって、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論は論破された』」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、わたしは、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論を論破するのですか」と。「王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマに、このように説きなさい。『尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか』と。それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、『王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあります』と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。『尊き方よ、そこで、そうしますと、凡夫とあなたには、どのような多様性(相違点)があるというのでしょう。なぜなら、凡夫もまた、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあるからです』と。王子よ、また、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、『王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありません』と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。『尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、デーヴァダッタは、あなたによって説き明かされたのですか。「デーヴァダッタは、悪所にある者です。デーヴァダッタは、地獄にある者です。デーヴァダッタは、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者です(一劫のあいだ地獄に住む)。デーヴァダッタは、治癒なき者です」と。また、そして、あなたの、その言葉によって、デーヴァダッタは、激情し、わが意を得ない者と成ったのでは』と。王子よ、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないであろうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう。それは、たとえば、また、まさに、人の喉に引っ掛かった鉄鉤を、彼が、まさしく、吐き出すこともできず、飲み下すこともできないように、王子よ、まさしく、このように、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないであろうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、アバヤ王子は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

 

84. 一方に坐った、まさに、アバヤ王子に、太陽を見上げて、この〔思い〕が有りました。「まさに、今日は、世尊の論を論破する時にあらず。今や、わたしは、明日、自らの住居地において、世尊の論を論破するのだ」と。〔アバヤ王子は〕世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、自己を第四の者として、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アバヤ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。

 

85. 一方に坐った、まさに、アバヤ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか」と。「王子よ、まさに、ここにおいて、一定して〔答えることはでき〕ません」と。「尊き方よ、ここにおいて、ニガンタたちは滅びました」と。「王子よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、ここにおいて、ニガンタたちは滅びました』」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしに、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。『王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータの論を論破しなさい。このように、あなたに、善き評価の声が上がるでしょう。「アバヤ王子によって、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論は論破された」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。『尊き方よ、また、すなわち、どのように、わたしは、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論を論破するのですか』と。『王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマに、このように説きなさい。「尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか」と。王子よ、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、「王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあります」と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。「尊き方よ、そこで、そうしますと、凡夫とあなたには、どのような多様性があるというのでしょう。なぜなら、凡夫もまた、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあるからです」と。王子よ、また、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、「王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありません」と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。「尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、デーヴァダッタは、あなたによって説き明かされたのですか。『デーヴァダッタは、悪所にある者です。デーヴァダッタは、地獄にある者です。デーヴァダッタは、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者です。デーヴァダッタは、治癒なき者です』と。また、そして、あなたの、その言葉によって、デーヴァダッタは、激情し、わが意を得ない者と成ったのでは」と。王子よ、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないであろうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう。それは、たとえば、また、まさに、人の喉に引っ掛かった鉄鉤を、彼が、まさしく、吐き出すこともできず、飲み下すこともできないように、王子よ、まさしく、このように、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないであろうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう』」と。

 

86. また、まさに、その時点にあって、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、アバヤ王子の膝のうえで、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、アバヤ王子に、こう言いました。「王子よ、それを、どう思いますか。それで、もし、この童子が、あるいは、あなたの放逸に起因して、あるいは、乳母の放逸に起因して、あるいは、小枝を、あるいは、小石を、口に運ぶとします。何をどう、それに為すでしょうか」と。「尊き方よ、わたしは、〔それを〕取り出すでしょう。尊き方よ、それで、もし、まさしく、最初に、取り出すことができないなら、左手で頭を遍く収め取って、右手で指を釣り針と為して、たとえ、出血してでも取り出すでしょう。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、わたしには、童子にたいする慈しみ〔の思い〕が存在するからです」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに、如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。しかしながら、まさに、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、そこで、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。しかしながら、まさに(※)、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、そこにおいて、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。王子よ、如来には、有情たちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在するからです」と。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

87. 「尊き方よ、すなわち、これらの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた。問いを準備して、近づいて行って、如来に尋ねます。尊き方よ、いったい、まさに、世尊に、このことは、まさしく、過去において、心に思索されたものとして有るのですか。『それらの者たちが、近づいて行って、わたしに、このように尋ねるとする。わたしは、このように尋ねられたなら、彼らに、このように説き明かすのだ』と。それとも、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となるのですか」と。

 

 「王子よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王子よ、それを、どう思いますか。あなたは、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者ですか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。わたしは、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者です」と。

 

 「王子よ、それを、どう思いますか。それらの者たちが、近づいて行って、あなたに、このように尋ねるとします。『車のこの大小の部品は、まさに、何なのですか』と。いったい、まさに、あなたに、このことは、まさしく、過去において、心に思索されたものとして有るのですか。『それらの者たちが、近づいて行って、わたしに、このように尋ねるとする。わたしは、このように尋ねられたなら、彼らに、このように説き明かすのだ』と。それとも、まさしく、即座に、あなたに(※)、このことが明白となるのですか」と。

 

※ PTS版により taṃ を補う。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、車の乗り手として了解され、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者です。車の諸々の大小の部品は、全てが、わたしによって善く知られています。まさしく、即座に、わたしに、このことが明白となります」と。

 

 「王子よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた。問いを準備して、近づいて行って、如来に尋ねるなら、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となります。それは、何を因とするのですか。王子よ、なぜなら、如来に、その法(真理)の界域()が善く理解されているからです。その法(真理)の界域が善く理解されたことから、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となります」と。

 

 このように説かれたとき、アバヤ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 アバヤ王子の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(59). 多くの感受されるべきものの経

 

88. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁が、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの感受()が、世尊によって説かれたのですか」と。「棟梁よ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。棟梁よ、まさに、これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。このように説かれたとき、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、パンチャカンガ棟梁も、尊者ウダーインを説得することができませんでした。

 

89. まさに、尊者アーナンダは、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、尊者アーナンダに、こう言いました。「アーナンダよ、まさに、パンチャカンガ棟梁は、ウダーイン比丘の、まさしく、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、いっぽう、そして、ウダーイン比丘も、パンチャカンガ棟梁の、まさしく、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、二つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。五つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。六つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。十八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三十六の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。百八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されました。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の善く語られ善く談じられたものを、等しく承認せず、等しく許認せず、等しく随喜しないなら、彼らには、このことが待っています。言争(いいあらそい)を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の善く語られ善く談じられたものを、等しく承認し、等しく許認し、等しく随喜するなら、彼らには、このことが待っています。和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。

 

90. アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性(五妙欲)があります。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感で……略……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。アーナンダよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

 アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある、他の安楽です。

 

91. アーナンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、表象と感覚の止滅を言った。そして、それを、安楽のもとに報知する。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、どのようにあるのだ』と。アーナンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊は、安楽の感受に関してだけ、安楽〔の観点〕において報知するのではありません(安楽の感受に限定して、安楽と説くことはない)。友よ、しかしながら、また、その場その場に、それぞれのものにおいて、安楽が認知されるなら、それぞれのものを、如来は、安楽〔の観点〕において報知します』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 多くの感受されるべきものの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(60). 誤解なきものの経

 

92. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラーという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラー〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

93. 一方に坐った、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、こう言いました。「家長たちよ、また、あなたたちには、誰であれ、意に適う教師が存在しますか。その〔教師〕にたいする、あなたたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師が〕」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちには、誰であれ、意に適う教師は存在しません。その〔教師〕にたいする、わたしたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師は〕」と。「家長たちよ、あなたたちが、意に適う教師を得ずにいるなら、この誤解なき法(性質)を受持して転起させるべきです。家長たちよ、なぜなら、誤解なき法(性質)が完結され受持されたなら、それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るからです。家長たちよ、では、どのようなものが、誤解なき法(性質)なのですか。

 

94. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

95. 「家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに(※)、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう(悪業の報いに苦しめられない)。それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、非存論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

 

96. 家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、存在論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

 

97. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善(功徳)が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

98. 家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも……略……布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無作論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

 

99. 家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、作用論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

 

100. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

101. 家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

 

102. 家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。

 

 家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

 

103. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、形態なきもの(無色)は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、形態なきものは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一定して持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態があり、意によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、まさに、形態を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことが見られる。また、まさに、このことは、全てにわたり、形態なきものにおいては存在しない』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の形態の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

104. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、生存()の止滅は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、生存の止滅は存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一定して持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕がいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、〔わたしが〕完全なる涅槃に到達するであろうことが。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にある。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にある』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の生存の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

105. 家長たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。

 

106. 家長たちよ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。家長たちよ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

 家長たちよ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として……略……〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。家長たちよ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

 家長たちよ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り……略……彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。家長たちよ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

 家長たちよ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。家長たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。家長たちよ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。

 

 このように説かれたとき、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

 

 誤解なきものの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 家長の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、カンダラと城市民と〔いまだ〕学びある者の掟、ポータリヤ、さらに、ジーヴァカ・バッチャ、ウパーリの調御、犬とアバヤ、多くの感受されるべきもの、第十のものとして、誤解なきものがある」〔と〕。

 

2. 比丘の章

 

1(61). アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経

 

107. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ラーフラは、アンバラッティカー〔の園地〕に住んでいます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、アンバラッティカー〔の園地〕のあるところに、尊者ラーフラのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者ラーフラは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました──さらに、〔両の〕足のための水を。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

 

108. そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を水入れのなかに据え置いて、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この僅かな残り水が水入れのなかに据え置かれているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「ラーフラよ、このように僅かなものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くこと(故意の嘘)にたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を捨て放って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、僅かな残り水が捨て放たれたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように捨て放たれたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを倒して、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが倒されたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように倒されたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを起こして、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが空虚で虚妄であるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように空虚で虚妄のものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない(※)、それらの者たちには。ラーフラよ、それは、たとえば、また、轅(車に着ける二本の長い棒)の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守るとします。そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守る。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られていない(命を惜しんでいる)』と。ラーフラよ、すなわち、まさに、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為すことから、そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為す。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られている(命を惜しんでいない)。今や、王の象に、何であれ、為さずにいられることは存在しない(どんなことでもする)』と。ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、誰であれ、彼に、正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しないなら、『彼には、何であれ、為さずにいられる悪はない』と、わたしは説きます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、あなたは、『たとえ、笑い事でも、〔わたしは〕虚偽を語らないのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

※ テキストには lajjāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

109. ラーフラよ、それを、どう思いますか。鏡は、何を義(目的)とするのですか」と。「尊き方よ、注視を義(目的)とします」と。「ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、注視しては注視して、身体による行為が為されるべきであり、注視しては注視して、言葉による行為が為されるべきであり、注視しては注視して、意による行為が為されるべきです。ラーフラよ、あなたが、まさしく、その身体による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報い(異熟)があるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為が為されるべきです。

 

 ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を堅持するべきです。

 

 ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

 

110. ラーフラよ、あなたが、まさしく、その言葉による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為が為されるべきです。

 

 ラーフラよ、あなたが(※)、言葉による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を堅持するべきです。

 

※ PTS版により te を補う。

 

 ラーフラよ、あなたが、言葉による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

 

111. ラーフラよ、あなたが、まさしく、その意による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為が為されるべきです。

 

 ラーフラよ、あなたが、意による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を堅持するべきです。

 

 ラーフラよ、あなたが、意による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

 

112. ラーフラよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めたなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めました。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めるでしょう。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、『注視しては注視して、身体による行為を完全に清めのだ。注視しては注視して、言葉による行為を完全に清めのだ。注視しては注視して、意による行為を完全に清めるのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(62). 大いなるラーフラへの教諭の経

 

113. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者ラーフラもまた、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、振り返って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、それが何であれ、形態()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです」と。「尊き方よ、いったい、まさに、形態だけなのでしょうか。善き至達者たる方よ、いったい、まさに、形態だけなのでしょうか」と。「ラーフラよ、感受〔作用〕()もまた。ラーフラよ、表象〔作用〕()もまた。ラーフラよ、諸々の形成〔作用〕()もまた。ラーフラよ、識知〔作用〕()もまた」と。そこで、まさに、尊者ラーフラは、「いったい、誰が、今日、世尊によって、面前で、教諭によって教え諭されたのに、村に〔行乞の〕食のために入るというのだろう(今や托鉢どころではない)」と、そののち、引き返して、或るどこかの木の根元において坐りました──結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。まさに、尊者サーリプッタは、尊者ラーフラが、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。見て、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)の修行を修めなさい。ラーフラよ、呼吸についての気づきの修行が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。

 

114. そこで、まさに、尊者ラーフラは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。「ラーフラよ、すなわち、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域は、これは、まさしく、地の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。

 

115. ラーフラよ、では、どのようなものが、水の界域なのですか。水の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域は、これは、まさしく、水の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。

 

116. ラーフラよ、では、どのようなものが、火の界域なのですか。火の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域は、これは、まさしく、火の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。

 

117. ラーフラよ、では、どのようなものが、風の界域なのですか。風の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域は、これは、まさしく、風の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。

 

118. ラーフラよ、では、どのようなものが、虚空の界域なのですか。虚空の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる虚空の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、あるいは、耳孔、鼻孔、口腔は──かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものを飲み下すなら、かつまた、そこにおいて食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが止住するなら、かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが下部に出るなら──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、無蓋として、無蓋の在り方をした、隙間として、隙間の在り方をした、諸々の肉と血によって触れないもので、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる虚空の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる虚空の界域は、さらに、すなわち、外なる虚空の界域は、これは、まさしく、虚空の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、虚空の界域にたいし厭離し、虚空の界域から心を離貪させます。

 

119. ラーフラよ、地に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、地に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触(:感覚の発生)は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕地のうえに、浄美なるものをもまた捨て置き、不浄なるものをもまた捨て置き、糞となるに至ったものをもまた捨て置き、尿となるに至ったものをもまた捨て置き、唾液となるに至ったものをもまた捨て置き、膿となるに至ったものをもまた捨て置き、血となるに至ったものをもまた捨て置くとして、しかしながら、地は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、地に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、地に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。

 

 ラーフラよ、水に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、水に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕水のなかで、浄美なるものをもまた洗い清め、不浄なるものをもまた洗い清め、糞となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、尿となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、唾液となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、膿となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、血となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、しかしながら、水は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、水に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、水に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。

 

 ラーフラよ、火に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、火に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、火が、浄美なるものをもまた焼き、不浄なるものをもまた焼き、糞となるに至ったものをもまた焼き、尿となるに至ったものをもまた焼き、唾液となるに至ったものをもまた焼き、膿となるに至ったものをもまた焼き、血となるに至ったものをもまた焼くとして、しかしながら、火は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、火に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、火に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。

 

 ラーフラよ、風に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、風に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、風が、浄美なるものにもまた吹き、不浄なるものにもまた吹き、糞となるに至ったものにもまた吹き、尿となるに至ったものにもまた吹き、唾液となるに至ったものにもまた吹き、膿となるに至ったものにもまた吹き、血となるに至ったものにもまた吹くとして、しかしながら、風は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、風に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、風に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。

 

 ラーフラよ、虚空に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、虚空に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、虚空が、どこにおいてもまた止住することなくあるように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、虚空に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、虚空に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。

 

120. ラーフラよ、慈愛()の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、慈愛の修行を修めていると、すなわち、憎悪〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、慈悲()の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、慈悲の修行を修めていると、すなわち、悩害〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、歓喜()の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、歓喜の修行を修めていると、すなわち、不満〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、放捨()の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、放捨の修行を修めていると、すなわち、敵対〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、不浄の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、不浄の修行を修めていると、すなわち、貪欲〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、無常の表象の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、無常の表象の修行を修めていると、すなわち、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は、それは捨棄されるからです。

 

121. ラーフラよ、呼吸についての気づきの修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたによって、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るからです〕。ラーフラよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。ラーフラよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。

 

 あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。

 

 ラーフラよ、まさに、このように修められ、このように多く為されたなら、呼吸についての気づきは、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。ラーフラよ、このように、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたことから、すなわち、また、それらの最後の出息も、それらもまた、まさしく、見出されたものとして、止滅します──見出されないものとして、ではなく」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(63). 小なるマールキャの経

 

122. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者マールキャプッタに、このような心の思索が浮かびました。「すなわち、これらのものが、悪しき見解として、世尊によって、説き明かされず、据え置かれ、拒絶された。『世〔界〕は、常久である』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、常久ではない』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、終極がある』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、終極がない』という〔見解〕もまた、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』という〔見解〕もまた、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた。それらを、世尊は、わたしに説き明かさない。それらを、世尊が、わたしに説き明かさないのは、それは、わたしにとって好ましくなく、それは、わたしの受認するところにあらず。〔まさに〕その、わたしは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるのだ。それで、もし、世尊が、わたしに説き明かすなら、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、このようにあるなら、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むのだ。もし、世尊が、わたしに説き明かさないなら、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、このようにあるなら、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのだ(戒を捨てて還俗する)」と。

 

123. そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。

 

124. 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『すなわち、これらのものが、悪しき見解として、世尊によって、説き明かされず、据え置かれ、拒絶された。「世〔界〕は、常久である」という〔見解〕もまた、「世〔界〕は、常久ではない」という〔見解〕もまた……略……「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という〔見解〕もまた。それらを、世尊は、わたしに説き明かさない。それらを、世尊が、わたしに説き明かさないのは、それは、わたしにとって好ましくなく、それは、わたしの受認するところにあらず。〔まさに〕その、わたしは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるのだ。それで、もし、世尊が、わたしに説き明かすなら、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、このようにあるなら、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むのだ。もし、世尊が、わたしに説き明かさないなら、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、このようにあるなら、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのだ』と。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、常久である』と知っているなら、『世〔界〕は、常久である』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、常久ではない』と知っているなら、『世〔界〕は、常久ではない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、終極がある』と知っているなら、『世〔界〕は、終極がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、終極がない』と知っているなら、『世〔界〕は、終極がない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と知っているなら、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と知っているなら、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に有る』と知っているなら、『如来は、死後に有る』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に有ることがない』と知っているなら、『如来は、死後に有ることがない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と知っているなら、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と知っているなら、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕」と。

 

125. 「マールキャプッタよ、いったい、どうなのでしょう、わたしは、あなたに、このように言いましたか。『マールキャプッタよ、さあ、あなたは、わたしのもと、梵行を歩みなさい。わたしは、あなたに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、あるいは、「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、あなたは、わたしに、このように言いましたか。『尊き方よ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むでしょう。世尊は、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、あるいは、「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マールキャプッタよ、かくのごとく、まさに、わたしが、あなたに、このように説くことは、まさしく、ありません。『マールキャプッタよ、さあ、あなたは、わたしのもと、梵行を歩みなさい。わたしは、あなたに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』と。まさに、あなたが、わたしに、このように説くこともまた、ありません。『尊き方よ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むでしょう。世尊は、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』と。愚人よ、このように存しているとき、〔あなたは〕何者として存しているのですか、〔あなたは〕何を峻拒するというのですか。

 

126. マールキャプッタよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩まないでしょう。すなわち、世尊が、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かさないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、如来によって説き明かされないもの(無記)として存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。マールキャプッタよ、それは、たとえば、また、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた人が存するとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させます。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、奴隷である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「このような名の者である、このような姓の者である、あるいは、かくのごとく〔云々〕」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔弓〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その弓のことを、「もしくは、あるいは、長弓であるのか、もしくは、あるいは、石弓であるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔弦〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その弦のことを、「もしくは、あるいは、アッカ〔樹〕のものであるのか、もしくは、あるいは、葦のものであるのか、もしくは、あるいは、腱のものであるのか、もしくは、あるいは、麻のものであるのか、もしくは、あるいは、乳葉樹のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「もしくは、あるいは、藪のものであるのか、もしくは、あるいは、植樹のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「その〔鳥〕の諸々の羽が付けられているとして、もしくは、あるいは、鷲のものであるのか、もしくは、あるいは、鷺のものであるのか、もしくは、あるいは、鷹のものであるのか、もしくは、あるいは、孔雀のものであるのか、もしくは、あるいは、シティラハヌ〔鳥〕のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「その〔獣〕の腱が巻かれているとして、もしくは、あるいは、牛のものであるのか、もしくは、あるいは、水牛のものであるのか、もしくは、あるいは、黒獅子のものであるのか、もしくは、あるいは、猿のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢のことを、「もしくは、あるいは、〔普通の〕矢であるのか、もしくは、あるいは、尖り矢であるのか、もしくは、あるいは、鉤矢であるのか、もしくは、あるいは、鉄矢であるのか、もしくは、あるいは、子牛の歯矢であるのか、もしくは、あるいは、夾竹桃の葉矢であるのか」と知らないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、その人によって知られないものとして存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。マールキャプッタよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、まさに、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩まないでしょう。すなわち、世尊が、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かさないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、如来によって説き明かされないものとして存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。

 

127. マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、常久である」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、常久ではない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『世〔界〕は、常久である』という見解が存しているとき、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し、老が存在し、死が存在し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が存在します。わたしは、まさしく、所見の法(現世)における、それらの打破を報知します。マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、終極がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、終極がない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』という見解が存しているとき、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し、老が存在し、死が存在し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が存在します。わたしは、まさしく、所見の法(現世)における、それらの打破を報知します。マールキャプッタよ、『「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』という見解が存しているとき、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。マールキャプッタよ、『「如来は、死後に有る」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「如来は、死後に有ることがない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『如来は、死後に有る』という見解が存しているとき、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。マールキャプッタよ、『「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という見解が存しているとき、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。

 

128. マールキャプッタよ、それゆえに、ここに、そして、わたしによって説き明かされなかったものを、説き明かされなかったものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。さらに、わたしによって説き明かされたものを、説き明かされたものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。マールキャプッタよ、では、何が、わたしによって説き明かされなかったのですか。マールキャプッタよ、『世〔界〕は、常久である』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、常久ではない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、終極がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、終極がない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に有る』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に有ることがない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、わたしによって説き明かされませんでした。マールキャプッタよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって説き明かされなかったのですか。マールキャプッタよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって説き明かされなかったのです。マールキャプッタよ、では、何が、わたしによって説き明かされたのですか。マールキャプッタよ、『これは、苦しみである』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの集起である』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅である』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、わたしによって説き明かされました。マールキャプッタよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって説き明かされたのですか。マールキャプッタよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって説き明かされたのです。マールキャプッタよ、それゆえに、ここに、そして、わたしによって説き明かされなかったものを、説き明かされなかったものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。さらに、わたしによって説き明かされたものを、説き明かされたものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マールキャプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なるマールキャプッタの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(64). 大いなるマールキャの経

 

129. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)を保持していますか(記憶していますか)」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持しています」と。「マールキャプッタよ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持していますか」と。「尊き方よ、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、憎悪〔の思い〕(瞋恚)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持しています」と。

 

 「マールキャプッタよ、まさに、誰のために説示されたものとして、このように、まさに、あなたは、これらの五つの下なる域に束縛するものを保持していますか。マールキャプッタよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、この幼児の喩えの論詰によって論詰することになりませんか。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『身体を有する者である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、身体を有するという見解が生起するというのでしょう。彼の、身体を有するという見解の悪習(随眠:潜在煩悩)は、悪しき習いとなるだけです(顕在化していない)。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の法(性質)である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、諸々の法(性質)について疑惑〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、疑惑〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の戒である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、諸々の戒について戒や掟への偏執が生起するというのでしょう。彼の、戒や掟への偏執の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の欲望〔の対象〕である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、欲望〔の対象〕について欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『有情たちである』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、有情たちについて憎悪〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、憎悪〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、この幼児の喩えの論詰によって論詰することになりませんか」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、五つの下なる域に束縛するものを説示するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

130. 「アーナンダよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、身体を有するという見解に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、身体を有するという見解に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した身体を有するという見解の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その身体を有するという見解は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その疑惑〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。戒や掟への偏執に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、戒や掟への偏執に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した戒や掟への偏執の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その戒や掟への偏執は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その憎悪〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。

 

131. アーナンダよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、身体を有するという見解に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、身体を有するという見解に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した身体を有するという見解の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その身体を有するという見解は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その疑惑〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。戒や掟への偏執に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、戒や掟への偏執に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した戒や掟への偏執の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その戒や掟への偏執は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その憎悪〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。

 

132. アーナンダよ、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来せずして〕、その〔実践の〕道に由来せずして、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の樹皮を切断せずして、軟材を切断せずして、硬材の切断が有ることになる、という、この状況が見出されないように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来せずして〕、その〔実践の〕道に由来せずして、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、しかしながら、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来して〕、その〔実践の〕道に由来して、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の樹皮を切断して、軟材を切断して、硬材の切断が有ることになる、という、この状況が見出されるように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来して〕、その〔実践の〕道に由来して、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、烏が飲めるほど、縁(ふち)まで一杯に水で満ちているとします。そこで、力弱き人がやってくるとします。『わたしは、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るのだ』と。彼は、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ることができないでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらの者たちに、誰によってであれ、身体を有することの止滅のための法(教え)が説示されているとき、心が、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しないなら、それは、たとえば、また、その力弱き人のように、このように、これらの者たちは見られるべきです。アーナンダよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちているとします。そこで、力ある人がやってくるとします。『わたしは、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るのだ』と。彼は、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ることができるでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらの者たちに、誰によってであれ、身体を有することの止滅のための法(教え)が説示されているとき、心が、跳入し、清信し、確立し、解脱するなら、それは、たとえば、また、その力ある人のように、このように、これらの者たちは見られるべきです。

 

133. アーナンダよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔生存の〕依り所(依存の対象)の遠離あることから、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄あることから、全てにわたり、諸々の身体の邪悪な〔行為〕の安息あることから、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための」と。

 

 「尊き方よ、もし、これが、〔聖なる〕道であり、これが、〔実践の〕道であるなら──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための──そこで、そうしますと、どうして、ここに、一部の比丘たちは、〔止寂の〕心による解脱ある者たちとなり、〔観察の〕智慧による解脱ある者たちとなるのですか」と。「アーナンダよ、ここにおいて、まさに、わたしは、彼らの(※)機能()の相違性を説きます」と。

 

※ テキストには panesāhaṃ とあるが、PTS版により tesāhaṃ と読む。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるマールキャプッタの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(65). バッダーリの経

 

134. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益します。比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、一坐の食を受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。このように説かれたとき、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、一坐の食を受益することができません。尊き方よ、なぜなら、わたしが、一坐の食を受益していると、悔恨〔の思い〕が存することになり、後悔〔の思い〕が存することになるからです」と。「バッダーリよ、まさに、それでは、あなたは、そこにおいて、〔食事に〕招かれた者として、まさに、〔あなたが〕存するなら、そこにおいて、一部を受益して〔そののち〕、また、一部を運び出して受益するべきです。バッダーリよ、このようにもまた、まさに、あなたは、一坐の食の者として受益しながら、〔身を〕保ち行くでしょう」と。「尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしは受益することができません。尊き方よ、なぜなら、このようにもまた、わたしが受益していると、悔恨〔の思い〕が存することになり、後悔〔の思い〕が存することになるからです」と。そこで、まさに、尊者バッダーリは、世尊によって学びの境処(戒律)が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。そこで、まさに、尊者バッダーリは、三月のあいだ、その全てのあいだ、世尊に、面前の状態を与えませんでした(会うのを避けた)──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者がある、そのとおりに。

 

135. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。そこで、まさに、尊者バッダーリは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダーリに、それらの比丘たちは、こう言いました。「友よ、バッダーリよ、まさに、世尊のために、この衣料の〔仕立て〕作業が為されます。三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するでしょう。友よ、バッダーリよ、さあ、このことに、〔あなたの〕汚点に、善くしっかりと意を為したまえ。のちに、あなたに、より為し難きことが有ってはいけません(一刻も早く謝罪するべきである)」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者バッダーリは、それらの比丘たちに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしによって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました(状況判断ができなかった)。『世尊は、まさに、サーヴァッティーに住んでおられる。世尊はまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。『まさに、大勢の比丘たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。『まさに、大勢の比丘尼たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼女たちもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。『まさに、大勢の在俗信者(優婆塞)たちが、サーヴァッティーに滞在している。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。『まさに、大勢の女性在俗信者(優婆夷)たちが、サーヴァッティーに滞在している。彼女たちもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました。『まさに、大勢の種々なる異教の沙門や婆羅門たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリ比丘は、沙門ゴータマの弟子であり、長老の或るひとりであるが、まさに、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この、時点〔における状況〕もまた理解されずに有りました」と。

 

 「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしによって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。

 

136. バッダーリよ、それを、どう思いますか。ここに、比丘が、両部の解脱者として存するとします。彼に、わたしが、このように説くとします。『比丘よ、さあ、わたしのために、あなたは、汚泥のなか、橋と成りなさい』と。さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、素通りするでしょうか、あるいは、他に身体をよじるでしょうか、あるいは、『〔でき〕ません』と説くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バッダーリよ、それを、どう思いますか。ここに、比丘が、智慧による解脱者として存するとします。……身体による実証者として……〔正しい〕見解に至り得た者として……信による解脱者として……法(教え)に従い行く者として……信に従い行く者として存するとします。彼に、わたしが、このように説くとします。『比丘よ、さあ、わたしのために、あなたは、汚泥のなか、橋と成りなさい』と。さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、素通りするでしょうか、あるいは、他に身体をよじるでしょうか、あるいは、『〔でき〕ません』と説くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バッダーリよ、それを、どう思いますか。バッダーリよ、さて、いったい、あなたは、その時点において、あるいは、両部の解脱者として、あるいは、智慧による解脱者として、あるいは、身体による実証者として、あるいは、見解に至り得た者として、あるいは、信による解脱者として、あるいは、法(教え)に従い行く者として、あるいは、信に従い行く者として、〔世に〕有りましたか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バッダーリよ、まさに、あなたは、その時点において、空虚となり、虚妄となり、違反者となったのではないですか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。バッダーリよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します。

 

137. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近するのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのように隠棲し、〔世に〕住んでいると、教師もまた批判し、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちもまた批判し、天神たちもまた批判し、自己もまた自己を批判します。彼は、教師によってもまた批判され、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちによってもまた批判され、天神たちによってもまた批判され、自己によってもまた自己を批判され、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しません。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者にある、そのとおりに。

 

138. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近するのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのように隠棲し、〔世に〕住んでいると、教師もまた批判せず、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちもまた批判せず、天神たちもまた批判せず、自己もまた自己を批判しません。彼は、教師によってもまた批判されず、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちによってもまた批判されず、天神たちによってもまた批判されず、自己によってもまた自己を批判されず、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証します。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

139. バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

 バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

 バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し……略……堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し……略……善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに」と。

 

140. このように説かれたとき、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、反復しては反復して懲罰を課すのですか。尊き方よ、また、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、そのように、反復しては反復して懲罰を課すことがないのですか」と。「バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、幾度となく罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言いません。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、幾度となく罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言わない。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することがないように(話を簡単に済ませるべきではない)』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止しないように。

 

141. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、幾度となく罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言います。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、幾度となく罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言う。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することになるように(話を簡単に済ませるべきである)』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止するように。

 

142. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、偶発して罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言いません。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、偶発して罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、「それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します」と言わない。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することがないように』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止しないように。

 

143. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、偶発して罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言います。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、偶発して罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、「それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します」と言う。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することになるように』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止するように。

 

144. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動します。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動する。それで、もし、わたしたちが、この比丘に、反復しては反復して懲罰を課すとして、すなわち、また、彼には、その、信のみがあるのであり、愛情のみがあるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と。バッダーリよ、それは、たとえば、また、人に、一眼〔のみ〕があり、彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、その一眼を守るように、『すなわち、また、彼には、その、一眼〔のみ〕があるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と、バッダーリよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動します。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動する。それで、もし、わたしたちが、この比丘に、反復しては反復して懲罰を課すとして、すなわち、また、彼には、その、信のみがあるのであり、愛情のみがあるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と。バッダーリよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、反復しては反復して懲罰を課します。バッダーリよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、そのように、反復しては反復して懲罰を課すことがありません」と。

 

145. 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、過去においては、まさしく、そして、より少なきものとして、諸々の学びの境処(戒律)が有り、さらに、より多くの比丘たちが、了知(阿羅漢果)において確立したのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、今現在、まさしく、そして、より多きものとして、諸々の学びの境処が有り、さらに、より少なき比丘たちが、了知において確立するのですか」と。「バッダーリよ、このように、このことは有ります。有情たちが衰退しているとき、正なる法(教え)が消没しているとき、まさしく、そして、より多きものとして、諸々の学びの境処が有り、さらに、より少なき比丘たちが、了知において確立します(※)。バッダーリよ、すなわち、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現しないあいだは、それまで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現することから、そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。バッダーリよ、すなわち、僧団が、大いなるものに至り得たものと成らないあいだは、それまで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)は、僧団に出現しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、僧団が、大いなるものに至り得たものと成ることから、そこで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現します。そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。バッダーリよ、すなわち、僧団が、至高の利得に至り得たものと成らないあいだは……略……至高の盛名に至り得たものと成らないあいだは……略……多聞あるものに至り得たものと成らないあいだは……略……経歴あるものに至り得たものと成らないあいだは、それまで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)は、僧団に出現しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、僧団が、経歴あるものに至り得たものと成ることから、そこで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現します。そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。

 

※ テキストには saṇṭhahantīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

146. バッダーリよ、すなわち、わたしが、良馬たる馬の喩えを、法(教え)の教相として、あなたたちに説示した、その時点にあって、まさに、あなたたちは、少なき者たちとして有りました。バッダーリよ、それを記憶していますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バッダーリよ、そこで、〔あなたは〕何を因として信受しますか(どのように自認していますか)」と。

 

 「尊き方よ、まさに、それは、まちがいなく、わたしが、長夜にわたり、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者として有ったからです」と。

 

 「バッダーリよ、まさに、まさしく、これを因とするのでも、これを縁とするのでも、ありません。バッダーリよ、ですが、ともあれ、あなたは、わたしによって、長夜にわたり、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『さてまた、この愚人は、わたしによって、法(教え)が説示されているとき、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くことがない』と。バッダーリよ、ですが、ともあれ、わたしは、善き生まれの馬の喩えを、法(教え)の教相として、あなたに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者バッダーリは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

147. 「バッダーリよ、それは、たとえば、また、能ある馬の調御者が、賢馬にして良馬たる馬を得て、まず最初に、轡(くつわ)について、懲罰を課します。その〔馬〕が、轡について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、手綱について、さらなる懲罰を課します。その〔馬〕が、手綱について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、歩調について、周回について、跳躍について、競争について、疾駆について、王の属性について、王の伝統について、最上の速さについて、最上の速力について、最上の温順について、さらなる懲罰を課します。その〔馬〕が、最上の速さについて、最上の速力について、最上の温順について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、さらなるものとして、そして、栄誉を、さらに、飾輪を、供与します。バッダーリよ、まさに、これらの十の支分を具備した賢馬にして良馬たる馬は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 バッダーリよ、まさしく、このように、まさに、十の支分を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、十のものなのですか。バッダーリよ、ここに、比丘が、(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解を具備した者と成り、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟を具備した者と成り、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉を具備した者と成り、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業を具備した者と成り、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方を具備した者と成り、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力を具備した者と成り、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきを具備した者と成り、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定を具備した者と成り、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵を具備した者と成り、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱を具備した者と成ります。バッダーリよ、まさに、これらの十の支分を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者バッダーリは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 バッダーリの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(66). 鶉の喩えの経

 

148. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕に住んでおられます。アングッタラーパ〔国〕には、アーパナという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、尊者ウダーインもまた、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者ウダーインに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である」と。そこで、まさに、尊者ウダーインは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

 

149. 一方に坐った、まさに、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である』と。尊き方よ、まさに、過去において、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。尊き方よ、すなわち、『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、この日中の非時における食を捨棄しなさい』と、世尊が、比丘たちに告げる、まさに、その時と成りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさしく、〔心の〕他化が有り、まさしく、失意〔の思い〕が有りました。『すなわち、また、わたしたちに、信ある家長たちが、日中の非時において、上質の固形の食料や軟らかい食料を施すとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄をもまた言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄をもまた言ったのだ』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊にたいする、かつまた、愛情を、かつまた、尊敬を、かつまた、恥〔の思い〕を、かつまた、〔良心の〕咎めを、正しく見ながら、このように、その日中の非時における食を捨棄しました。〔まさに〕その、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、〔食を〕受益します。尊き方よ、すなわち、『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、この夜の非時における食を捨棄しなさい』と、世尊が、比丘たちに告げる、まさに、その時と成りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさしく、〔心の〕他化が有り、まさしく、失意〔の思い〕が有りました。『すなわち、また、わたしたちにとって、これらの二つの食事のなかのより上質と見なされるものであるのに、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄をもまた言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄をもまた言ったのだ』と。尊き方よ、過去の事ですが、或るひとりの人が、昼に、汁を得て、このように言いました。『では、さあ、これを取って置くのだ。夕に、まさしく、全ての者たちが、一緒に受益するのだ』と。尊き方よ、それらが何であれ、料理であるなら、それらの全てが夜にあります──昼には少なく。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊にたいする、かつまた、愛情を、かつまた、尊敬を、かつまた、恥〔の思い〕を、かつまた、〔良心の〕咎めを、正しく見ながら、このように、その夜の非時における食を捨棄しました。尊き方よ、過去の事ですが、比丘たちは、漆黒の闇夜のなか、〔行乞の〕食のために歩みながら、どぶ池にもまた入り、水たまりにもまた落ち、棘の柵にもまた登り、眠っている雌牛にもまた登り、〔狂暴な〕若者たちともまた──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちともまた、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちともまた──遭遇し、女性もまた、彼らを、正ならざる法(性質)によって招きます。尊き方よ、過去の事ですが、わたしは、漆黒の闇夜のなか、〔行乞の〕食のために歩みます。尊き方よ、或るひとりの女が、器を洗いながら、雷光の合間に、まさに、わたしを見ました。見て、わたしに恐怖し、悲鳴を上げました。『ああ、恐ろしや。まさに、魔物がわたしを』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その女に、こう言いました。『姉妹よ、わたしは、魔物ではありません。比丘です。〔行乞の〕食のために立っているのです』と。『比丘の父は死んだのです。比丘の母は死んだのです。比丘よ、優れているのは、あなたの腹が、鋭い牛刀で切り裂かれること。まさしく、しかし、優れていないのは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、腹を因に、〔行乞の〕食のために歩むこと』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしが、そのことを思い起こしていると、このような〔思いが〕有ります。『まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である』」と。

 

150. 「ウダーインよ、また、このように、このことはあります。ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、鶉の小鳥が、蔦葛の結縛によって結縛され、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているようなものです。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『その蔦葛の結縛によって結縛された、その鶉の小鳥が、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔鶉の小鳥〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、その蔦葛の結縛によって結縛された、その鶉の小鳥が、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔鶉の小鳥〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『さてまた、この、少量のことが、微量のことが、何だというのだ。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。

 

151. ウダーインよ、また、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と〔成り〕、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、轅(車に着ける二本の長い棒)の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、諸々の堅固な革紐の結縛によって結縛されたとして、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るようなものです。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの堅固な革紐の結縛によって結縛された、その、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔王の象〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの堅固な革紐の結縛によって結縛された、その、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔王の象〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と〔成り〕、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。

 

152. ウダーインよ、それは、たとえば、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる人がいるとします。彼には、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家が存し、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台が〔存し〕、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種が〔存し〕、最高ならざる形態の一者の妻が〔存します〕。彼は、林園に赴き、比丘を見ます──手と足を善く洗い清め、快意なる食を受益し、涼やかな影のもとに坐り、卓越の心(瞑想)に専念する〔比丘〕を。彼に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、安楽なるは、沙門たること。ああ、まさに、無病なるは、沙門たること。すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するなら、それは、まさに、存するべきこと』と。彼は、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができません。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの結縛によって結縛された、その人が、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができないなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの結縛によって結縛された、その人が、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができないなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『さてまた、この、少量のことが、微量のことが、何だというのだ。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。

 

153. ウダーインよ、それは、たとえば、また、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長が、あるいは、家長の子がいるとします。無数の金貨の群れの集積があり、無数の穀物の群れの集積があり、無数の田畑の群れの集積があり、無数の地所の群れの集積があり、無数の夫人の群れの集積があり、無数の奴隷の群れの集積があり、無数の奴婢の群れの集積がある者です。彼は、林園に赴き、比丘を見ます──手と足を善く洗い清め、快意なる食を受益し、涼やかな影のもとに坐り、卓越の心に専念する〔比丘〕を。彼に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、安楽なるは、沙門たること。ああ、まさに、無病なるは、沙門たること。すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するなら、それは、まさに、存するべきこと』と。彼は、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができます。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの結縛によって結縛された、その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができるなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの結縛によって結縛された、その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができるなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と〔成り〕、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。

 

154. ウダーインよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。彼は、それらを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめません。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人を、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。

 

 ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。彼は、それらを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人をもまた、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。

 

 ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。ウダーインよ、気づきの生起は、遅くあるも、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、昼のあいだ熱せられた鉄鍋のうえに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を落とすとします。ウダーインよ、〔それらの〕水滴の、〔その〕落下は遅くあるも、ウダーインよ、そこで、まさに、それは、まさしく、すみやかに、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。ウダーインよ、気づきの生起は、遅くあるも、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人をもまた、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。

 

 ウダーインよ、ここに、一部の人は、『〔生存の〕依り所は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、〔生存の〕依り所なき者として〔世に〕有ります──〔生存の〕依り所の消滅において解脱した者として。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人を、『束縛を離れた者』と説きます──束縛された者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。ウダーインよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

155. ウダーインよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。ウダーインよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。ウダーインよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。糞便の安楽であり、凡夫の安楽であり、聖ならざる安楽であり、習修するべきではなく、修めるべきではなく、多く為すべきではなく、『この安楽には、恐怖するべきものがある』と、〔わたしは〕説きます。

 

156. ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これは、離欲の安楽と説かれます。遠離の安楽であり、寂止の安楽であり、正覚の安楽であり、習修するべきであり、修めるべきであり、多く為すべきであり、『この安楽には、恐怖するべきものはない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これを、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、諸々の〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、喜悦と安楽が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、放捨の安楽が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。まさに、わたしは、これを、動じ動かないもののうちにあると説きます。

 

 ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これを、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、かくのごとく、まさに、わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の捨棄をもまた説きます。ウダーインよ、まさに、あなたは見ますか──すなわち、〔その束縛するものの〕捨棄を、わたしが説かない、〔まさに〕その、束縛するものを、あるいは、微細のものであれ、あるいは、粗大のものであれ」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ウダーインは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 鶉の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(67). チャートゥマーの経

 

157. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャートゥマーに住んでおられます。アーマラキー林において。また、まさに、その時点にあって、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちが、世尊と会見するために、チャートゥマーに到着するところと成ります。そして、それらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、これらの者たちは、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちです。世尊と会見するために、チャートゥマーに到着したのです。それらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、それらの比丘たちに告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、どうして、あなたたちは、漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのですか」と。「尊き方よ、これらの者たちは、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちです。世尊と会見するために、チャートゥマーに到着したのです。それで、これらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「比丘たちよ、去りなさい。あなたたちを追い出します。あなたたちは、わたしの現前に住するべきではありません」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、立ち去りました。

 

158. また、まさに、その時点にあって、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちが、公会堂において、参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊者たちよ、はてさて、また、あなたたちは、どこに赴くのですか」と。「友よ、まさに、世尊によって追い出された、比丘の僧団です」と。「尊者たちよ、まさに、それでは、しばらくお坐りください。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、世尊を清信させることができるでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちに答えました。そこで、まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ。尊き方よ、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ」と。

 

159. そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ。尊き方よ、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ」と。

 

160. まさに、そして、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、さらに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊を清信させることができました──そして、種の喩えによって、さらに、幼い〔子牛〕の喩えによって。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、立ち上がりなさい。鉢と衣料を収め取りなさい。世尊は清信するところとなりました──そして、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちによって、さらに、梵〔天〕のサハンパティによって──そして、種の喩えによって、さらに、幼い〔子牛〕の喩えによって」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えて、坐から立ち上がって、鉢と衣料を取って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、わたしによって、比丘の僧団が追い出されたとき、あなたに、どのような〔思いが〕有りましたか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『世尊によって、比丘の僧団が追い出された。今や、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者として〔世に〕住むであろう。今や、わたしたちもまた、思い入れ少なき者たちとなり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者たちとして〔世に〕住むのだ』」と。「サーリプッタよ、あなたは待ちなさい。サーリプッタよ、あなたは待ちなさい。所見の法(現世)における安楽の住を」と。そこで、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、わたしによって、比丘の僧団が追い出されたとき、あなたに、どのような〔思いが〕有りましたか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『世尊によって、比丘の僧団が追い出された。今や、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者として〔世に〕住むであろう。今や、そして、わたしは、さらに、尊者サーリプッタは、比丘の僧団を維持するのだ』」と。「モッガッラーナよ、善きかな、善きかな。モッガッラーナよ、なぜなら、あるいは、わたしが、あるいは、サーリプッタとモッガッラーナが、比丘の僧団を維持するべきであるからです」と。

 

161. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、水に入り行くときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。比丘たちよ、これらの四つの、水に入り行くときに待っているべき恐怖があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。これらの、ここに、一部の人が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。

 

162. 比丘たちよ、では、どのようなものが、波の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは、教諭し教示します。『このように、あなたは前進するべきです』『このように、あなたは後進するべきです』『このように、あなたは前視するべきです』『このように、あなたは後視するべきです』『このように、あなたは屈曲するべきです』『このように、あなたは伸直するべきです』『このように、あなたは大衣と鉢と衣料を保持するべきです』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、他者たちに、教諭し教示する。いっぽう、これらの、思うに、子ほど〔の年齢〕の者たちが、思うに、孫ほど〔の年齢〕の者たちが、わたしたちのことを、教諭し教示するべきと思い考える』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。比丘たちよ、この者は、『波の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『波の恐怖』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。

 

163. 比丘たちよ、では、どのようなものが、鰐の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは、教諭し教示します。『これを、あなたは咀嚼するべきです』『これを、あなたは咀嚼するべきではありません』『これを、あなたは食べるべきです』『これを、あなたは食べるべきではありません』『これを、あなたは味わうべきです』『これを、あなたは味わうべきではありません』『これを、あなたは飲むべきです』『これを、あなたは飲むべきではありません』『適確なるものを、あなたは咀嚼するべきです』『適確ならざるものを、あなたは咀嚼するべきではありません』『適確なるものを、あなたは食べるべきです』『適確ならざるものを、あなたは食べるべきではありません』『適確なるものを、あなたは味わうべきです』『適確ならざるものを、あなたは味わうべきではありません』『適確なるものを、あなたは飲むべきです』『適確ならざるものを、あなたは飲むべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは咀嚼するべきです』『非時に、あなたは咀嚼するべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは食べるべきです』『非時に、あなたは食べるべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは味わうべきです』『非時に、あなたは味わうべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは飲むべきです』『非時に、あなたは飲むべきではありません』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、それを求めるなら、それを咀嚼し、それを求めないなら、それを咀嚼せず、それを求めるなら、それを食べ、それを求めないなら、それを食べず、それを求めるなら、それを味わい、それを求めないなら、それを味わわず、それを求めるなら、それを飲み、それを求めないなら、それを飲まない。適確なるものをもまた咀嚼し、適確ならざるものをもまた咀嚼し、適確なるものをもまた食べ、適確ならざるものをもまた食べ、適確なるものをもまた味わい、適確ならざるものをもまた味わい、適確なるものをもまた飲み、適確ならざるものをもまた飲む。〔正しい〕時にもまた咀嚼し、非時にもまた咀嚼し、〔正しい〕時にもまた食べ、非時にもまた食べ、〔正しい〕時にもまた味わい、非時にもまた味わい、〔正しい〕時にもまた飲み、非時にもまた飲む。すなわち、また、わたしたちに、信ある家長たちが、昼に、非時に、精妙なる固形の食料や軟らかい食料を施すとして、そこで、また、これらの者たちは、思うに、口に蓋をすることを為すのだ』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『鰐の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鰐の恐怖』とは、まさに、これは、飽食の同義語です。

 

164. 比丘たちよ、では、どのようなものが、渦の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんだ。また、まさに、わたしの家においては、諸々の財物が等しく見出される。そして、諸々の財物を享受することも、さらに、諸々の功徳を作り為すことも、〔両者ともに〕できる』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『渦の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『渦の恐怖』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。

 

165. 比丘たちよ、では、どのようなものが、鮫の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『鮫の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鮫の恐怖』とは、まさに、これは、女性の同義語です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、ここに、一部の人が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖があります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 チャートゥマーの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(68). ナラカパーナの経

 

166. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。ナラカパーナのパラーサ林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちが、世尊を指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕有ります──かつまた、尊者アヌルッダであり、かつまた、尊者バッディヤであり、かつまた、尊者キミラであり、かつまた、尊者バグであり、かつまた、尊者コンダンニャであり、かつまた、尊者レーヴァタであり、かつまた、尊者アーナンダであり、さらに、他の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちです。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。再度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。再度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。三度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。三度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

167. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、それらの良家の子息たちに尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、尊者アヌルッダに告げました。「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、梵行を喜び楽しむ者たちです」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、梵行を喜び楽しむことです。アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちとして、すなわち、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益できるのに、アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちでありながら、〔まさに〕その、幸いなる若さの初年期を具備した者たちでありながら、家から家なきへと出家したのです。アヌルッダよ、また、まさに、そして、〔まさに〕その、あなたたちは、まさしく、王に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、盗賊に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、借金に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、恐怖に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、生き方として〔生来の〕性向であるから、家から家なきへと出家したのでもなく、そして、また、まさに、『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔これらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と、アヌルッダよ、まさに、あなたたちは、このように、信によって家から家なきへと出家したのではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「アヌルッダよ、また、そして、このように出家した良家の子息が為すべきこととして、何が、存するべきですか。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住します。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕。

 

 アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住しません。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕。

 

168. アヌルッダよ、あなたたちに、わたしにたいし、どうでしょう、かくのごとく〔思いが〕有りますか。『すなわち、諸々の煩悩()である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いは〕有りません。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』と。尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔すでに〕捨棄されている。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。

 

 アヌルッダよ、それを、どう思いますか。どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、如来は、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かすのですか(授記するのか)。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アヌルッダよ、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。

 

169. アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「了知において確立した」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲()と憤怒()と迷妄()の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

 

170. アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「了知において確立した」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

 

171. アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

172. アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

 

 アヌルッダよ、かくのごとく、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アヌルッダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ナラカパーナの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(69). ゴーリヤーニの経

 

173. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ゴーリヤーニという名の比丘が、林にある者で軟弱な励行者が、訪問者として僧団の中に有ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ゴーリヤーニ比丘に関して、比丘たちに告げました。

 

 「友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として有るべきであり、敬虔〔の思い〕を有する者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者として有り、敬虔〔の思い〕なき者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者として有り、敬虔〔の思い〕なき者として〔有るなら〕』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として有るべきであり、敬虔〔の思い〕を有する者として〔有るべきです〕。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、坐について巧みな智ある者として有るべきです。『かくのごとく、そして、長老の比丘たちに分け入って坐らず、さらに、新参の比丘たちを坐から排除しないのだ』と。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、坐について巧みな智ある者ではなく有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、坐について巧みな智ある者ではなく有るなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、坐について巧みな智ある者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、卓越の励行となる法(性質)がまた知られるべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、卓越の励行となる法(性質)をもまた知らないなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、卓越の励行となる法(性質)をもまた知らないなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、卓越の励行となる法(性質)がまた知られるべきです。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、早朝に村に入るべきではなく、昼過ぎに戻るべきではありません。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、早朝に村に入り、昼過ぎに戻るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、早朝に村に入り、昼過ぎに戻るなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、早朝に村に入るべきではなく、昼過ぎに戻るべきではありません。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、食前と食後に、家々に歩を運ぶべきではありません。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、食前と食後に、家々に歩を運ぶなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『この尊者が、林にある者として、独りある者として、林における独住によって住んでいると、この非時の歩みが、まちがいなく、多く為されたのだ。〔まさに〕その、この者が、僧団に赴いたなら、また、〔それが〕慣行となる』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、食前と食後に、家々に歩を運ぶべきではありません。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、〔心が〕高揚しない者として有るべきであり、軽薄ならざる者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、〔心が〕高揚した者として有り、軽薄なる者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『この尊者が、林にある者として、独りある者として、林における独住によって住んでいると、この〔心の〕高揚と軽薄が、まちがいなく、多く為されたのだ。〔まさに〕その、この者が、僧団に赴いたなら、また、〔それが〕慣行となる』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、〔心が〕高揚しない者として有るべきであり、軽薄ならざる者として〔有るべきです〕。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、寡黙の者として有るべきであり、言葉が乱れ飛ばない者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、駄弁の者として有り、言葉が乱れ飛ぶ者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、駄弁の者であり、言葉が乱れ飛ぶ者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、寡黙の者として有るべきであり、言葉が乱れ飛ばない者として〔有るべきです〕。

 

 友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、素直な者として有るべきであり、善き朋友ある者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、頑固な者として有り、悪しき朋友ある者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、頑固な者であり、悪しき朋友ある者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、素直な者として有るべきであり、善き朋友ある者として〔有るべきです〕。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、食において量を知る者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、食において量を知らない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、食において量を知らない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、食において量を知る者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、精進に励む者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、怠惰の者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、怠惰の者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、精進に励む者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、気づきが現起された者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、気づきが忘却された者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、気づきが忘却された者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、気づきが現起された者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、〔心が〕定められた者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、〔心が〕定められていない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、〔心が〕定められていない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、〔心が〕定められた者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、智慧ある者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、智慧浅き者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、智慧浅き者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、智慧ある者として有るべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律(対律・勝律)において、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、高次の法理において、高次の律において、専念〔努力〕が為されるべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)において、そこにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。

 

 友よ、林にある比丘であるなら、人間の法(性質)を超えるものにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。〔すなわち〕『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、人間の法(性質)を超えるものにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、林にある比丘だけによって、これらの法(性質)が、受持して〔そののち〕、行持させられるべきですか、それとも、村の外れに住ある者によってもまた〔行持させられるべきですか〕」と。「友よ、モッガッラーナよ、まさに、林にある比丘によってもまた、これらの法(性質)が、受持して〔そののち〕、行持させられるべきであり、ましてや、村の外れに住ある者によっては〔言うまでもありません〕」と。

 

 ゴーリヤーニの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(70). キーターギリの経

 

174. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、カーシ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、わたしは、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します(非時の食をとらない)。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、カーシ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、キーターギリという名のカーシ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、キーターギリに住んでいます。カーシ〔国〕の町において。

 

175. また、まさに、その時点にあって、アッサジとプナッバスカという名の比丘が、キーターギリにおいて、居住者たちとして〔世に〕有ります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、それらの比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう」と。

 

 すなわち、まさに、それらの比丘たちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、わたしたちは、世尊に、この義(意味)を告げます」と。

 

176. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、アッサジとプナッバスカ比丘に告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、大勢の比丘たちが、近づいて行って、あなたたちに、こう言ったのですか。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、まさに、あなたたちは、それらの比丘たちに、このように言ったのですか。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

177. 「比丘たちよ、いったい、どうなのでしょう、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのですか。『それが何であれ、あるいは、安楽〔の感受〕を、あるいは、苦痛〔の感受〕を、あるいは、苦でもなく楽でもない〔感受〕を、この人士たる人が得知するなら、彼には、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのではないですか。『すなわち、ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦痛の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

178. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。

 

179. 比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。

 

180. 比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。

 

181. 比丘たちよ、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きません。比丘たちよ、また、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きません。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼らには、不放逸によって為されたことがあり、彼らは、放逸となることができないからです。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、これらの尊者たちは、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、これらの比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

182. 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、七つのものなのですか。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、両部の解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みます──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『両部の解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、智慧による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『智慧による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、身体による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、すなわち、それらの解脱が、寂静にして、諸々の形態を超越して形態なくあるなら、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『身体による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、〔正しい〕見解に至り得た者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼に、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、しっかりと見られたものと成り、しっかりと探査されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、この人は、『〔正しい〕見解に至り得た者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、信による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『信による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、法(教え)に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が──それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。比丘たちよ、この人は、『法(教え)に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、信に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が──それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。比丘たちよ、この人は、『信に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。

 

183. 比丘たちよ、わたしは、まさしく、最初から、了知の達成を説くのではありません。比丘たちよ、そして、また、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成ります。比丘たちよ、では、どのように、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成るのですか。比丘たちよ、ここに、信が生じた者が、〔師のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。比丘たちよ、まさに、信も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、近づいて行くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、奉侍することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、耳を傾けることも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を聞くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を保持することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、義(意味)を近しく注視することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)の納得と受認も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、欲〔の思い〕も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、邁進も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、比較も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、精励も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、邪行の実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、誤った実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、これらの愚人たちは、この法(教え)と律から、まさしく、どれだけ遠くにあり、立ち去ったことか。

 

184. 比丘たちよ、四つの句の説き明かしが存在します。それが誦説されたなら、識者たる人は、まさしく、長からずして、智慧によって、義(意味)を了知するでしょう。〔それを、わたしは〕誦説しましょう。比丘たちよ、あなたたちは、わたしの、その〔誦説〕を了知するでしょうか」と。「尊き方よ、さてまた、わたしたちが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、法(教え)の了知者たちとしてあるというのでしょう」と。「比丘たちよ、すなわち、また、その教師が、財貨を重きとする者であり、財貨の相続者であり、諸々の財貨と交わり合っている者として〔世に〕住むも、彼にもまた、『そして、わたしたちに、このように存するなら、そこで、それを、〔わたしたちは〕為すのだ。そして、わたしたちに、このように存さないなら、それを、〔わたしたちは〕為さないのだ』という、このことが、このような形態の売買のようなものが、近しく至ることはありません。比丘たちよ、すなわち、如来が全てにわたり、諸々の財貨から離れ合っている者として〔世に〕住むからには、また、どうして、〔如来に、そのようなことがあるというのでしょう〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『世尊は、教師であり、わたしは、弟子として存している。世尊は、知るが、わたしは、知らない』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、教師の教えは、成長するべきものと成り、滋養あるものと〔成ります〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 キーターギリの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 比丘の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「象とラーフラと常久なる世〔界〕、そして、マールキャプッタ、バッダーリという名のもの、小さな鳥、さらに、サハンパティの乞い、ナラカと林にある者とキーターギリという名のものがあり、〔章となる〕」〔と〕。

 

3. 遍歴遊行者の章

 

1(71). 三つの明知とヴァッチャの経

 

185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、エーカプンダリーカの遍歴遊行者の林園に滞在しています。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ヴェーサーリーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、エーカプンダリーカの遍歴遊行者たちの林園のあるところに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、エーカプンダリーカの遍歴遊行者たちの林園のあるところに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「ヴァッチャよ、すなわち、『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します」と。

 

186. 「尊き方よ、また、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは、三つの明知ある者である』と、まさに、説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは、三つの明知ある者である』と、まさに、説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。

 

 このように説かれたとき、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、存在しますか。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、存在しません。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、存在しますか。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず。そこで、まさに、まさしく、より一層のものとなります。すなわち、在家者たちで、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、存在しますか。誰であれ、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)で、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、存在しません。誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、存在しますか。誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。「ヴァッチャよ、これより〔過去〕、まさに、その九十一カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)で、すなわち、誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者を、一者より他に、わたしは隨念しません。彼もまた、行為の論ある者として、作用の論ある者として、〔世に〕存しました」と。「貴君ゴータマよ、このように存しているとき、この、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)は、もしくは、天上に近しく赴くことさえも、空無なのですか」と。「ヴァッチャよ、このように、この、異教の〔認識の〕場所は、もしくは、天上に近しく赴くことさえも、空無なのです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 三つの明知とヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(72). 火とヴァッチャの経

 

187. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

188. 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「のものとして生命があり、そのものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「のものとして生命があり、そのものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。

 

 また、貴君ゴータマは、どのような危険(患・過患)を正しく見ながら、このように、これらの悪しき見解に、全てにわたり、近しく赴かないのですか」と。

 

189. 「ヴァッチャよ、『世〔界〕は、常久である』とは、まさに、これは、見解の成立(悪しき見解)であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、常久ではない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、終極がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、終極がない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に有る』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に有ることがない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、まさに、これは、見解の成立であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、この危険を正しく見ながら、このように、これらの悪しき見解に、全てにわたり、近しく赴かないのです」と。

 

 「また、貴君ゴータマには、何であれ、見解の成立(悪しき見解)は存在しますか」と。「ヴァッチャよ、『見解の成立』とは、まさに、これは、如来にとっては、取り去られたものなのです。ヴァッチャよ、まさに、このことが、如来によって、〔あるがままに〕見られました。『かくのごとく、形態()がある』『かくのごとく、形態の集起がある』『かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()がある』『かくのごとく、感受〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()がある』『かくのごとく、表象〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕()がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕の滅至がある』と。それゆえに、『如来は、一切の思いなされたものの、一切の掻き乱されたものの、一切のわたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる思量の悪習(慢随眠)の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、〔何も〕執取せずして解脱したのだ』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

190. 「貴君ゴータマよ、また、このように、心が解脱した比丘は、どこに再生するのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、〔彼は〕再生しないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、かつまた、再生し、かつまた、再生しないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、まさしく、再生することもなく、再生しないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません」〔と〕。

 

 「『貴君ゴータマよ、また、このように、心が解脱した比丘は、どこに再生するのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、〔彼は〕再生しないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、かつまた、再生し、かつまた、再生しないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、まさしく、再生することもなく、再生しないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。貴君ゴータマよ、わたしは、ここにおいて、無知を惹起し、ここにおいて、等しき迷妄を惹起しました。すなわち、また、貴君ゴータマとの過去の議論と談論によって有った、わたしの、この清信ほどのものも、それもまた、今現在、わたしに、消没するところとなりました」と。「ヴァッチャよ、まさに、あなたにとって、無知たるに十分なるものがあり、迷妄たるに十分なるものがあります。ヴァッチャよ、なぜなら、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものであるからです。それは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては知り難いことなのです。

 

191. ヴァッチャよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。ヴァッチャよ、それを、どう思いますか。それで、もし、あなたの前で、火が燃えているなら、あなたは知るでしょうか。『わたしの前で、この火が燃えている』」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしの前で、火が燃えているなら、わたしは知るでしょう。『わたしの前で、この火が燃えている』」と。

 

 「ヴァッチャよ、また、それで、もし、あなたに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が燃えています。この火は、何を縁として燃えているのですか』と。ヴァッチャよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が燃えています。この火は、何を縁として燃えているのですか』と。貴君ゴータマよ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『すなわち、わたしの前で、この火が燃えています。この火は、草や薪という燃料を縁として燃えています』」と。

 

 「ヴァッチャよ、それで、もし、あなたの前で、その火が消えるなら、あなたは知るでしょうか。『わたしの前で、この火が消えたのだ』」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしの前で、火が消えるなら、わたしは知るでしょう。『わたしの前で、この火が消えたのだ』」と。

 

 「ヴァッチャよ、また、それで、もし、あなたに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が消えたのです。その火は、ここから、どのような方角に赴いたのですか──あるいは、東ですか、あるいは、南ですか、あるいは、西ですか、あるいは、東ですか』と。ヴァッチャよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「貴君ゴータマよ、〔どの方角にも〕近づきません。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、その火は、草や薪という燃料を縁として燃えていたのであり、そして、その〔燃料〕の消尽あることから、かつまた、他〔の燃料〕の供給なきことから、食(燃料)なきものとなり、まさしく、『消えたもの』という名称に至ります」と。

 

192. 「ヴァッチャよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、形態()によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、形態による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません。

 

 すなわち、感受〔作用〕()によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その感受〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、感受〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません。

 

 すなわち、表象〔作用〕()によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その表象〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、表象〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません。

 

 すなわち、諸々の形成〔作用〕()によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、それらの形成〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、諸々の形成〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません。

 

 すなわち、識知〔作用〕()によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、識知〔作用〕による計測から解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という、〔このことに、彼は〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という、〔このことに、彼は〕近づきません」と。

 

 このように説かれたとき、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなるサーラ樹があり、その〔樹〕の無常なることから、諸々の枝葉が崩壊し、諸々の樹皮と外皮が崩壊し、諸々の軟材が崩壊し、それは、他時にあって、諸々の枝葉が離れ去り、諸々の樹皮と外皮が離れ去り、諸々の軟材が離れ去り、清浄なるものとなり、硬材(芯)において確立したものとなり、存するように、まさしく、このように、貴君ゴータマの〔聖なる〕言葉は、諸々の枝葉が離れ去り、諸々の樹皮と外皮が離れ去り、諸々の軟材が離れ去り、清浄なるものとなり、硬材(真髄)において確立したものとなります。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 火とヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(73). 大いなるヴァッチャの経

 

193. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「長夜にわたり、わたしは、貴君ゴータマと議論を共にする者です。どうか、わたしに、貴君ゴータマは、簡略〔の観点〕によって、善なるものと善ならざるものを説示してください」と。「ヴァッチャよ、まさに、あなたに、わたしは、簡略〔の観点〕によってもまた、善なるものと善ならざるものを説示できますし、ヴァッチャよ、まさに、あなたに、わたしは、詳細〔の観点〕によってもまた、善なるものと善ならざるものを説示できます。ヴァッチャよ、ですが、ともあれ、あなたに、わたしは、簡略〔の観点〕によって、善なるものと善ならざるものを説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

194. 「ヴァッチャよ、貪欲()は、まさに、善ならざるものであり、貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものです。ヴァッチャよ、憤怒()は、まさに、善ならざるものであり、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものです。ヴァッチャよ、迷妄()は、まさに、善ならざるものであり、迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものです。ヴァッチャよ、かくのごとく、まさに、これらの、三つの善ならざる法(性質)があり、三つの善なる法(性質)があります。

 

 ヴァッチャよ、命あるものを殺すことは、まさに、善ならざるものであり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、与えられていないものを取ることは、まさに、善ならざるものであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、まさに、善ならざるものであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、虚偽を説くことは、まさに、善ならざるものであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、中傷の言葉は、まさに、善ならざるものであり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、粗暴な言葉は、まさに、善ならざるものであり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、雑駁な虚論は、まさに、善ならざるものであり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、強欲〔の思い〕は、まさに、善ならざるものであり、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、憎悪〔の思い〕は、まさに、善ならざるものであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、誤った見解は、まさに、善ならざるものであり、正しい見解は、善なるものです。ヴァッチャよ、かくのごとく、まさに、これらの、十の善ならざる法(性質)があり、十の善なる法(性質)があります。

 

 ヴァッチャよ、すなわち、まさに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、その比丘は、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有ります」と。

 

195. 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる比丘たちで、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の比丘尼であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる比丘尼たちで、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であるも梵行者として、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる在俗信者たちで、白衣の在家者であるも梵行者たちとして、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者として、教諭に即応する者として、すなわち、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる在俗信者たちで、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者たちとして、教諭に即応する者たちとして、すなわち、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の女性在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であるも梵行者として、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる女性在俗信者たちで、白衣の在家者であるも梵行者たちとして、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の女性在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者として、教諭に即応する者として、すなわち、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる女性在俗信者たちで、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者たちとして、教諭に即応する者たちとして、すなわち、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。

 

196. 「貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、比丘たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、さらに、比丘たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

 貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、さらに、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、比丘尼たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、さらに、比丘尼たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

 貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

 貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

 貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

 貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり欲望の享受者である女性在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である女性在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。

 

197. 貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、海に触れて止住するようなものです。まさしく、このように、貴君ゴータマのこの衆は、在家者と出家者を含め、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものであり、涅槃に触れて止住します。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「ヴァッチャよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

 また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者ヴァッチャ・ゴッタは、〔戒を〕成就して半月となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、〔いまだ〕学びある者の知恵によって、〔いまだ〕学びある者の明知によって、至り得られるべきものとしてあるかぎり、それは、わたしによって獲得されました。さらに、世尊は、わたしに、より上なる法(性質)を説示したまえ」と。「ヴァッチャよ、まさに、それでは、あなたは、より上なる二つの法(性質)を修めなさい──そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を。ヴァッチャよ、まさに、あなたによって、これらのより上なる二つの法(性質)が修められたなら──そして、〔心の〕止寂が、さらに、〔あるがままの〕観察が──無数なる界域の理解のために等しく転起するでしょう。

 

198. ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。

 

 ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。

 

 ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。

 

 ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。

 

 ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。

 

 ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において」と。

 

199. そこで、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

200. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊と会見するために赴きます。まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「はてさて、尊者たちよ、また、どこに、あなたたちは、赴くのですか」と。「友よ、まさに、わたしたちは、世尊と会見するために赴きます」と。「尊者たちよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。さらに、このように説いてください。『尊き方よ、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。「世尊は、わたしによって世話されました。善き至達者たる方は、わたしによって世話されました」』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッチャ・ゴッタに答えました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『世尊は、わたしによって世話されました。善き至達者たる方は、わたしによって世話されました』」と。「比丘たちよ、まさしく、過去において、わたしによって、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、三つの明知ある者である。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である』と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。『尊き方よ、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、三つの明知ある者です。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(74). ディーガナカの経

 

201. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)のスーカラカターにおいて。そこで、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『一切は、わたしの受認するところにあらず』」と。「アッギヴェッサナ(ディーガナカ)よ、すなわち、また、まさに、あなたのこの見解も、『一切は、わたしの受認するところにあらず』という、この見解もまた、あなたの受認するところとなりません」と。「貴君ゴータマよ、もし、この見解が、わたしの受認するところであるなら、それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、このことから、まさに、それらの者たちは、世において、より多くあり、まさに、多数の者たちとなります──すなわち、『それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう』と、このように言った、〔それらの者たちが、見解に執取する者たちであるなら〕。彼らは、まさしく、そして、その見解を捨棄せず、さらに、他の見解に執取します。アッギヴェッサナよ、このことから、まさに、それらの者たちは、世において、より少なくあり、まさに、少数の者たちとなります──すなわち、『それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう』と、このように言った、〔それらの者たちが、見解に執取しない者たちであるなら〕。彼らは、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一切は、わたしの受認するところである』と。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一切は、わたしの受認するところにあらず』と。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところである』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らのこの見解は、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にあります。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らのこの見解は、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にあります」と。

 

202. このように説かれたとき、ディーガナカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、わたしの見解の成立を賞揚します。貴君ゴータマは、わたしの見解の成立を等しく賞揚します」と。「アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、まさに、すなわち、彼らの受認するところである、この見解は、それは、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にあり、まさに、すなわち、彼らの受認するところではない、この見解は、それは、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にあります。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところである』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一切は、わたしの受認するところである」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。

 

203. アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一切は、わたしの受認するところにあらず」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところである」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。

 

204. アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところである」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であり、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。

 

205. アッギヴェッサナよ、また、まさに、この身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)があり、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観されるべきです。その身体において、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観していると、すなわち、身体における、身体への欲〔の思い〕であり、身体への愛執〔の思い〕である、身体への付従性は、それは捨棄されます。

 

 アッギヴェッサナよ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。アッギヴェッサナよ、その時点において、安楽の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、苦痛の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、安楽の感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、その時点において、苦痛の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、苦痛の感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、その時点において、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦痛の感受を感受することもなく、その時点においては、苦でもなく楽でもない感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、安楽の感受もまた、まさに、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、苦痛の感受もまた、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、苦でもなく楽でもない感受もまた、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、安楽の感受にたいしてもまた厭離し、苦痛の感受にたいしてもまた厭離し、苦でもなく楽でもない感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。アッギヴェッサナよ、このように(※)、まさに、心が解脱した比丘は、誰とであれ、同調せず、誰とであれ、論争せず、かつまた、それが、世において説かれるところであるとして、偏執することなく、それによって語用します」と。

 

※ テキストには Eṃ とあるが、PTS版により Evaṃ と読む。

 

206. また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「まさに、世尊は、証知して〔そののち〕、わたしたちに、それら〔の法〕それらの法(性質)の捨棄を言った。まさに、善き至達者たる方は、証知して〔そののち〕、わたしたちに、それら〔の法〕それらの法(性質)の放棄を言った」と。まさに、かくのごとく、このことを、尊者サーリプッタが深慮していると、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。また、ディーガナカ遍歴遊行者に、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように(※)、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

※ テキストには evameva kho とあるが、PTS版により kho を削除する。

 

 ディーガナカの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(75). マーガンディヤの経

 

207. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があり、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂の草の敷物において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カンマーサダンマに〔行乞の〕食のために入りました。カンマーサダンマにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者は、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂において、草の敷物が設けられているのを見ました。見て、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、こう言いました。「いったい、誰のために、貴君バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂において、この草の敷物が設けられたのですか。思うに、沙門の臥具として適切なるもののようです」と。「貴君マーガンディヤよ、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが存在します。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼のために、貴君ゴータマのために、この臥具は設けられました」と。「貴君バーラドヴァージャよ、まさに、見苦しいものを、〔わたしどもは〕見たものです。貴君バーラドヴァージャよ、まさに、見苦しいものを、〔わたしどもは〕見たものです。すなわち、わたしどもは、彼の、貴君ゴータマの、極罪者の、臥具を見たのです」と。「マーガンディヤよ、この言葉を慎むのです。マーガンディヤよ、この言葉を慎むのです。なぜなら、彼の、貴君ゴータマの、聖なる正理と善なる法(教え)において、多くの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた、大いに清信し、教導されたのですから」と。「貴君バーラドヴァージャよ、もし、また、わたしどもが、彼を、貴君ゴータマを、面前に見るなら、たとえ、面前であれ、彼に説くでしょう。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「それで、もし、それが、貴君マーガンディヤにとって、重からざるものであるなら、それを、沙門ゴータマに告げましょう」と。「貴君バーラドヴァージャは、思い入れ少なき者となり、まさしく、説かれたとおりに、それを説くべきです」と。

 

208. まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の、マーガンディヤ遍歴遊行者を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊は、設けられた草の敷物に坐りました。そこで、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、世尊は、こう言いました。「バーラドヴァージャよ、さてまた、あなたに、マーガンディヤ遍歴遊行者を相手にする、まさしく、この草の敷物に関して、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、世尊に、こう言いました。「また、まさに、まさしく、このことを、貴君ゴータマに告げることを欲する者たちとして、わたしどもはあります。そこで、また、しかしながら、貴君ゴータマは、まさしく、告げ知らされていないことを、〔わたしどもに〕告げ知らせます」と。まさに、そして、世尊の、バーラドヴァージャ姓の婆羅門を相手にする、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。そこで、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。

 

209. 「マーガンディヤよ、まさに、眼は、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「マーガンディヤよ、まさに、耳は、音声を喜びとし……略……。「マーガンディヤよ、まさに、鼻は、臭気を喜びとし……。「マーガンディヤよ、まさに、舌は、味感を喜びとし、味感を喜び、味感に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「マーガンディヤよ、まさに、身は、感触を喜びとし、感触を喜び……略……。「マーガンディヤよ、まさに、意は、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。

 

210. 「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって楽しんだ過去ある者として、〔世に〕存するとします。彼が、他時にあって、まさしく、諸々の形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、形態の渇愛を捨棄して、形態の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住むとします。マーガンディヤよ、また、この者に言うべきこととして、あなたに、何か存しますか」と。「貴君ゴータマよ、何もありません」〔と〕。「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって楽しんだ過去ある者として、〔世に〕存するとします。彼が、他時にあって、まさしく、諸々の感触の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、感触の渇愛を捨棄して、感触の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住むとします。マーガンディヤよ、また、この者に言うべきこととして、あなたに、何か存しますか」と。「貴君ゴータマよ、何もありません」〔と〕。

 

211. 「マーガンディヤよ、また、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。マーガンディヤよ、〔まさに〕その、わたしには、三つの高楼が有りました。一つは雨期用のものであり、一つは冬用のものであり、一つは夏用のものです。マーガンディヤよ、それで、まさに、わたしは、雨期用の高楼において、雨期の四月のあいだ、女たちだけの諸々の楽器によって楽しみながら、高楼の下に降りません。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。

 

212. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむとします──眼によって識知されるべき諸々の形態で……略……諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。彼が、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生するとします。彼は、そこにおいて、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。彼は、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。

 

 マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その天子は、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、この、あるいは、家長を、あるいは、家長の子を、あるいは、人間の五つの欲望の属性を、羨むでしょうか、あるいは、人間の諸々の欲望〔の対象〕によって、逆戻りするでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、人間の諸々の欲望〔の対象〕より、天の諸々の欲望〔の対象〕は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあるからです」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。

 

213. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、諸々の癩病から完全に解き放たれ、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存します。彼は、他の癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、身体を遍く熱しているのを見ます。

 

 マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あるいは、火坑におけるこの癩病の人を、あるいは、薬を受用することを、羨むでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、病が存しているとき、薬によって為すべきことが有るも、病が存していないとき、薬によって為すべきことは有ることなくあるからです」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。

 

214. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、諸々の癩病から完全に解き放たれ、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存します。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、火坑に引きずり込むとします。

 

 マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、まさしく、かくもあれ、かくもあれと、身体をよじるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、この火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるからです」と。「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、今だけ、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるのですか、それとも、過去においてもまた、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるのですか」と。「貴君ゴータマよ、まさしく、そして、今も、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、過去においてもまた、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があります。貴君ゴータマよ、しかしながら、この癩病の人は、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、〔感官の〕機能が損壊し、まさしく、苦痛の接触がある、火にたいし、『安楽である』と、転倒した表象を獲得しました」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、過去の時にもまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、未来の時にもまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、今現在もまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があります。マーガンディヤよ、そして、これらの有情たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、〔感官の〕機能が損壊し、まさしく、苦痛の接触がある、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、『安楽である』と、転倒した表象を獲得しました。

 

215. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。マーガンディヤよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、この癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているなら、そのとおり、そのとおりに、彼のそれらの傷口は、まさしく、そして、より不浄のものと成り、かつまた、より悪臭のものと〔成り〕、さらに、より腐敗のものと〔成り〕、まさしく、かつまた、何らかの、快楽ほどのものが有り、悦楽ほどのものが〔有ります〕──すなわち、この、傷口を掻くことを因として。マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、有情たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされながら、そして、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用します。マーガンディヤよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされながら、さらに、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用するなら、そのとおり、そのとおりに、まさしく、そして、それぞれの有情たちの欲望の渇愛は増大し、さらに、欲望の苦悶によって遍く焼かれ、まさしく、かつまた、快楽ほどのものが有り、悦楽ほどのものが〔有ります〕──すなわち、この、五つの欲望の属性を縁として。

 

 マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、欲望の渇愛を捨棄せずして、欲望の苦悶を除去せずして、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として、あるいは、〔世に〕住んだ、あるいは、〔世に〕住む、あるいは、〔世に〕住むであろう』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マーガンディヤよ、善きかな。マーガンディヤよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、欲望の渇愛を捨棄せずして、欲望の苦悶を除去せずして、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として、あるいは、〔世に〕住んだ、あるいは、〔世に〕住む、あるいは、〔世に〕住むであろう』〔と〕。マーガンディヤよ、そこで、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者たちとして、あるいは、〔世に〕住んだなら、あるいは、〔世に〕住むなら、あるいは、〔世に〕住むであろうなら、彼らの全てが、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者たちとして、あるいは、〔世に〕住んだのであり、あるいは、〔世に〕住み、あるいは、〔世に〕住むでしょう」と。そこで、まさに、世尊は、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である。そして、平安と不死に至る諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔道〕が〔最高である〕」と。

 

216. このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。貴君ゴータマよ、わたしもまた、まさに、このことを聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の遍歴遊行者たちが語っているところとして、『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。貴君ゴータマよ、それとこのことは合致します」と。「マーガンディヤよ、また、すなわち、あなたは、このことを聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の遍歴遊行者たちが語っているところとして、『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。どのようなものが、その無病なのですか。どのようなものが、その涅槃なのですか」と。このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、まさしく、自らの、まさに、五体を、手で順次に擦ります。「貴君ゴータマよ、これが、その無病です。これが、その涅槃です。貴君ゴータマよ、なぜなら、わたしは、今現在、無病の者であり、安楽の者であり、何であれ、わたしに、病苦はないからです」と。

 

217. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼は、眼ある者が語っているのを耳にします。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。彼は、白のものを遍く探し求めるために歩みます。〔まさに〕その、この者に、或るひとりの人が、油と垢が付いた粗末な樹皮で騙します。『さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ』と。彼は、それを受け取ります。受け取って、被着します。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちます。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。

 

 マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その生まれながらの盲者である人は、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、この油と垢が付いた粗末な樹皮を受け取るのですか。受け取って、被着するのですか。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放つのですか。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。それとも、眼ある者への信によって、ですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、その生まれながらの盲者である人は、〔あるがままに〕知っていない者として、〔あるがままに〕見ていない者として、この油と垢が付いた粗末な樹皮を受け取ります。受け取って、被着します。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちます。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。眼ある者への信によって」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちであり、無病を知っていない者たちであり、涅槃を見ていない者たちです。そこで、また、そして、この詩偈を語ります。『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。マーガンディヤよ、往古の阿羅漢にして正等覚者たちによって、この詩偈は語られました。

 

 〔すなわち〕『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である。そして、平安と不死に至る諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔道〕が〔最高である〕』と。

 

218. マーガンディヤよ、それは、今現在、順次に〔失墜し〕、凡夫の詩偈としてあります。マーガンディヤよ、また、まさに、この身体は、病と成り、腫物と成り、矢と成り、悩苦と成り、病苦と成るものです。〔まさに〕その、あなたは、病と成り、腫物と成り、矢と成り、悩苦と成り、病苦と成るものである、この身体を、『貴君ゴータマよ、これが、その無病です。これが、その涅槃です』と説きます。マーガンディヤよ、まさに、あなたには、聖なる眼が、それが存在しないのです。その聖なる眼によって、あなたが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになる、〔その聖なる眼が〕」と。「貴君ゴータマに、このように清信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。

 

219. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、〔両の〕眼〔の機能〕を生起させず、〔両の〕眼〔の機能〕を清めません。マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。まさに、その医師は、まさしく、そのかぎりにおいて疲弊と悩苦の分有者として存するのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、もし、わたしが、あなたに、法(教え)を説示するなら、『これが、その無病です。これが、その涅槃です』と、〔まさに〕その、あなたは、無病を知らないでしょうし、涅槃を見ないでしょう。それは、わたしにとって、疲弊として存するでしょうし、それは、わたしにとって、悩害として存するでしょう」と。「貴君ゴータマに、このように清信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。

 

220. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼は、眼ある者が語っているのを耳にします。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。彼は、白のものを遍く探し求めるために歩みます。〔まさに〕その、この者に、或るひとりの人が、油と垢が付いた粗末な樹皮で騙します。『さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ』と。彼は、それを受け取ります。受け取って、被着します。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します──下剤を、吐剤を、塗薬を、塗油を、鼻の治療を。彼は、その薬を頼りにして、〔両の〕眼〔の機能〕を生起させ、〔両の〕眼〔の機能〕を清めます。彼の眼の生起と共に、すなわち、この油と垢が付いた粗末な樹皮にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは捨棄されます。そして、その人を、彼のことを、『朋友ならざる者』ともまた決め付け、『義(利益)に反する者』ともまた決め付け、さらに、また、生命を奪うべき者とも思い考えます。『ああ、まさに、わたしは、長夜にわたり、この人によって、油と垢が付いた粗末な樹皮によって、欺かれ、騙され、惑わされたのだ。「さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ」』と。マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、もし、わたしが、あなたに、法(教え)を説示するなら、『これが、その無病です。これが、その涅槃です』と、〔まさに〕その、あなたは、無病を知るでしょうし、涅槃を見るでしょう。〔まさに〕その、あなたの、眼の生起と共に、すなわち、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは捨棄されます。さらに、また、あなたに、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、わたしは、長夜にわたり、この心によって、欺かれ、騙され、惑わされたのだ。まさに、わたしは、まさしく、形態を執取しながら執取し、まさしく、感受〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、表象〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、諸々の形成〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、識知〔作用〕を執取しながら執取した。〔まさに〕その、わたしの、執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る』」と。「貴君ゴータマに、このように清信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、盲者ならざる者となり、この坐から立ち上がることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。

 

221. 「マーガンディヤよ、まさに、それでは、あなたは、正なる人士たちに親近するべきです。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、正なる人士たちに親近することから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、正なる法(教え)を聞くでしょう。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、正なる法(教え)を聞くことから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、法(教え)を法(教え)のままに実践するでしょう。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、法(教え)を法(教え)のままに実践することから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。『これらは、諸々の病であり、諸々の腫物であり、諸々の矢である。ここに、諸々の病は、諸々の腫物は、諸々の矢は、完全に残りなく止滅する。〔まさに〕その、わたしの、執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。

 

222. このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「マーガンディヤよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者マーガンディヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者マーガンディヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

 

 マーガンディヤの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(76). サンダカの経

 

223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、サンダカ遍歴遊行者が、ピラッカ窟に滞在しています──大いなる遍歴遊行者の衆である、五百ばかりの遍歴遊行者と共に。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「友よ、行きましょう。デーヴァカタソッバのあるところに、そこへと近づいて行くのです──窟を見るために」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、大勢の比丘たちと共に、デーヴァカタソッバのあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、サンダカ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サンダカ遍歴遊行者は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子である沙門アーナンダがやってくる。また、まさに、すなわち、コーサンビーに滞在するかぎりの、沙門ゴータマの弟子たちで、この者は、沙門アーナンダは、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

224. そこで、まさに、尊者アーナンダは、サンダカ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、貴君アーナンダは、来たれ。貴君アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。長きのはてに、まさに、貴君アーナンダは、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。貴君アーナンダは、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者アーナンダは、設けられた坐に坐りました。まさに、サンダカ遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンダカ遍歴遊行者に、尊者アーナンダは、こう言いました。「サンダカよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「貴君アーナンダよ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。この議論は、貴君アーナンダにとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。どうか、まさに、まさしく、貴君アーナンダに、自らの師匠伝来のものについて、法(教え)の講話が明白となれ(わたしたちに師匠伝来の法を説いてください)」と。「サンダカよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、貴君アーナンダに答えました。貴君アーナンダは、こう言いました。「サンダカよ、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、四つの梵行ならざる住と告げ知らされ、さらに、四つの安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。「貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの梵行ならざる住と告げ知らされたのですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。

 

225. 「サンダカよ、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報い(異熟)は存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される(唱えられる)。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら(生命の死後存続を認めるなら)、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。

 

 サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくあるであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

226. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目をもまた断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも、為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。

 

 サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「為している両者に、悪は作り為されない」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

227. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と。

 

 サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、因なく縁なき者たちとして、清浄となるであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

228. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作する者ではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず(他に影響を及ぼさない)。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作する者ではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。そこにおいては、あるいは、殺す者も、あるいは、殺させる者も、あるいは、聞く者も、あるいは、聞かせる者も、あるいは、識知する者も、あるいは、識知させる者も、存在しない。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、誰の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為に五百のものがあり、そして、五つの行為(眼・耳・鼻・舌・身)があり、さらに、三つの行為(身業・口業・意業)があり、そして、諸々の行為(身業と口業)があり、さらに、諸々の半分の行為(意業)があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパ(中劫)があり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七つの深淵があり、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万の大いなるカッパがあり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう」という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう』と。

 

 サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作する者ではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作する者ではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。そこにおいては、あるいは、殺す者も、あるいは、殺させる者も、あるいは、聞く者も、あるいは、聞かせる者も、あるいは、識知する者も、あるいは、識知させる者も、存在しない。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、誰の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為に五百のものがあり、そして、五つの行為があり、さらに、三つの行為があり、そして、諸々の行為があり、さらに、諸々の半分の行為があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパがあり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七つの深淵があり、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万の大いなるカッパがあり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう』という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう」と。また、それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

 サンダカよ、まさに、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。

 

 「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさしく、四つの梵行ならざる住として存しているものが、『梵行ならざる住』と、これほどまでに、〔正しく〕告げ知らされたのは──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません(※)。貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの安堵なき梵行と告げ知らされたのですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。

 

※ テキストには nārādheyya ñāyaṃ dhammaṃ kusalanti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

229. 「サンダカよ、ここに、一部の教師は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、空家にもまた入ります。〔行乞の〕食をもまた得ます。犬がまた咬みます。狂暴な象にもまた遭遇します。狂暴な馬にもまた遭遇します。狂暴な牛にもまた遭遇します。女であろうが、男であろうが、名をもまた〔尋ね〕、姓をもまた尋ねます。村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ね〕、道をもまた尋ねます。彼は、『何なのだ、これは』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『わたしにとって、空家は、入るべきものとして有った。それによって、〔わたしは〕入った』『わたしにとって、〔行乞の〕食は、得られるべきものとして有った。それによって、〔わたしは〕得た』『犬によって、咬まれるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕存している──咬まれた者として』『狂暴な象と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『狂暴な馬と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『狂暴な牛と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『女であろうが、男であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた』『村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた』と〔答えます〕。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言する。……略……「村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた」と〔答える〕』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

230. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、聴聞者として、聴聞を真理とする者として、〔世に〕有ります。彼は、聴聞によって、伝聞と相伝によって、典籍の成就(保持)によって、法(教え)を説示します。サンダカよ、また、まさに、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である、教師には、善く聞かれたものもまた有り、悪しく聞かれたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成ります。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である。彼は、聴聞によって、伝聞と相伝によって、典籍の成就によって、法(教え)を説示する。また、まさに、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である、教師には、善く聞かれたものもまた有り、悪しく聞かれたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成る』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

231. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたもの(思考を重ねたもの)を、考察に随行するもの(思考に適合するもの)を、自らの応答として、法(教え)を説示します。サンダカよ、また、まさに、考慮者であり、考察者である、教師には、善く考慮されたものもまた有り、悪しく考慮されたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成ります。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、考慮者であり、考察者である。彼は、考慮によって撃打されたものを、考察に随行するものを、自らの応答として、法(教え)を説示する。また、まさに、考慮者であり、考察者である、教師には、善く考慮されたものもまた有り、悪しく考慮されたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成る』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

232. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、愚か者として、迷愚の者として、〔世に〕有ります。彼は、愚かであることから、迷愚であることから、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他なるものに」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、愚か者であり、迷愚の者である。彼は、愚かであることから、迷愚であることから、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起する。「『このように』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『そのように』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『他なるものに』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『ない』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『ないのでもない』ともまた、わたしに〔思いは〕ない」と』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。

 

 サンダカよ、まさに、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。

 

 「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさしく、四つの安堵なき梵行が、『安堵なき梵行』と、これほどまでに、〔正しく〕告げ知らされたのは──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できません。貴君アーナンダよ、また、彼は、教師として、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます」と。

 

233. 「サンダカよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。……略(10-13参照)……。彼(覚者の弟子)は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みますサンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、かつまた、住している者は、正理と善なる法(真理)を達成できます」と。

 

234. 「貴君アーナンダよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益できますか」と。「サンダカよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、五つの状況を行作することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。サンダカよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの五つの状況を行作することが不可能となります」と。

 

235. 「貴君アーナンダよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されているのですか。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』」と。「サンダカよ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。サンダカよ、それは、たとえば、また、人の、〔両の〕手足が切断されているとします。彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して知りますか。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』と。それとも、注視しながら知りますか。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』」と。「貴君アーナンダよ、まさに、その人は、常に連続して知りません。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』と。また、まさに、しかしながら、また、それを、注視しながら知ります。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』」と。「サンダカよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されているのではありません。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』と。また、まさに、しかしながら、また、それを、注視しながら知ります。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』」と。

 

236. 「貴君アーナンダよ、また、どれだけ多くの者たちが、この法(教え)と律における先達たちとしていますか」と。「サンダカよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、この法(教え)と律における先達たちは」と。「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。そして、まさに、自らの法(教え)の賞揚と成らず、他者の法(教え)の蔑視と〔成ら〕ず、かつまた、〔認識の〕場所()についての法(教え)の説示が〔覚知され〕、さらに、それほどまでに多くの先達たちが覚知されるとは。いっぽう、これらのアージーヴァカ(活命者・邪命外道)たちは、子が死んだ〔母〕の子たちであり、まさしく、そして、自己を賞揚し、さらに、他者たちを蔑視し、かつまた、三者だけを、先達として報知します。それは、すなわち、この、ナンダ・ヴァッチャを、キサ・サンキッチャを、マッカリ・ゴーサーラを」と。そこで、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、自らの衆に告げました。「諸君よ、歩みたまえ。沙門ゴータマのもとには、梵行の住がある。今や、利得や尊敬や名声を完全に捨て去るべくも、わたしたちによっては為し易きことならず」と。まさに、かくのごとく、このことはあり、サンダカ遍歴遊行者は、自らの衆を、世尊のもとでの梵行に送り出した、ということです。

 

 サンダカの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(77). 大いなるサクルダーインの経

 

237. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園に滞在しています。それは、すなわち、この、アンナバーラ〔遍歴遊行者〕であり、ヴァラダラ〔遍歴遊行者〕であり、そして、サクルダーイン遍歴遊行者であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマがやってくる。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。

 

238. 「ウダーイン(サクルダーイン)よ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。尊き方よ、この議論は、世尊にとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。尊き方よ、過日のことですが、以前、種々なる異教の沙門や婆羅門たちが、公会堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の利得がある。ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の善く得られた利得がある。そこで、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、これらの沙門や婆羅門たちが、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このプーラナ・カッサパもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかでは、いったい、まさに、誰が、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、誰を、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むのか』と。

 

239. そこで、一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このプーラナ・カッサパは、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのプーラナ・カッサパの弟子が、「諸君よ、プーラナ・カッサパに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、プーラナ・カッサパの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、プーラナ・カッサパは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、プーラナ・カッサパは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。

 

 一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのニガンタ・ナータプッタの弟子が、「諸君よ、ニガンタ・ナータプッタに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、ニガンタ・ナータプッタの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、ニガンタ・ナータプッタは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。

 

240. 一部の者たちは、このように言いました。『まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。そして、まさに、彼は、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む。過去の事だが、沙門ゴータマは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりの沙門ゴータマの弟子が、咳払いをした。まさしく、ただちに、或るひとりの梵行を共にする者が、「尊者よ、声少なき者と成れ。尊者よ、声を上げてはならない。教師が、世尊が、わたしたちに、法(教え)を説示する」と、膝で打った。その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と、待ち構える者と成る。それは、たとえば、また、まさに、人が、大きな四つ辻において、純粋なる小蜂の蜜を搾るなら、まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、待ち構える者として存するように、まさしく、このように、その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と、待ち構える者と成る。すなわち、また、沙門ゴータマの弟子たちが、梵行を共にする者たちと言い合いをして、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするとして(戒を捨てて還俗する)、彼らもまた、まさしく、そして、教師の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、かつまた、法(教え)の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、さらに、僧団の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、「まさしく、わたしたちは、不運の者たちとして〔世に〕存している。わたしたちは、功徳少なき者たちである。〔まさに〕その、わたしたちは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家して、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むことができなかった」と、まさしく、自己を難ずる者たちとして〔世に〕有る──他者を難ずる者たちではなく。彼らは、あるいは、園丁と成り、あるいは、在俗信者と成り、五つの学びの境処(五戒)を受持して行持する。かくのごとく、沙門ゴータマは、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む』」と。

 

241. 「ウダーインよ、また、あなたは、わたしにおいて、どれだけの諸々の法(性質)を等しく随観しますか。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。尊き方よ、まさに、世尊は、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第一の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第二の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第三の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第四の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第五の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、これらの五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。

 

242. 「ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、存在します。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、この鉢で(ふち)まで一杯のものをもまた食べ、より一層のものをもまた食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

 ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちが、粗末な衣料の保持者たちが、存在します。彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けます。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、諸々の家長の衣料を、諸々の堅固なものを、諸々の刃による粗末なものを、諸々の瓜の毛のようなものを、〔身に〕付けます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちは、粗末な衣料の保持者たちは、彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

 ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちが、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちが、残飯食を掟として喜ぶ者たちが、存在します。彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、招待においてはまた、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味あるものを食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちは、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちは、残飯食を掟として喜ぶ者たちは、彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

 ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちが、野外にある者たちが、存在します。彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、諸々の楼閣においてもまた住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちは、野外にある者たちは、彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

 ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、林にある者たちが、辺地の臥坐所にある者たちが、存在し、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住みます。彼らは、半月ごとに、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の誦説のために訪問し、僧団の中にあります。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、林にある者たちは、辺地の臥坐所にある者たちは、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住み、彼らは、半月ごとに、戒条の誦説のために訪問し、僧団の中にありますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

 ウダーインよ、かくのごとく、まさに、わたしを、弟子たちが、これらの五つの法(性質)によって、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。

 

243. ウダーインよ、しかしながら、まさに、他の、五つの法(性質)が存在します。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。ウダーインよ、ここに、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第一の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

244. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する。証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する。因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変(変容)を有するものとして、法(教え)を説示する。神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する。証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する。因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変を有するものとして、法(教え)を説示する。神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第二の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

245. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その未来の論の道を見ずにあるであろう──あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう──という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛します。ウダーインよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、わたしの弟子たちは、このように知っているなら、このように見ているなら、中途中途で議論に割り込むでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、また、まさに、わたしは、弟子たちにたいし、教示を願い求めません。何はともあれ、弟子たちが、まさしく、わたしに、教示を願い求めます。

 

 ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その未来の論の道を見ずにあるであろう──あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう──という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第三の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

246. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしの弟子たちは、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理(苦諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)を……苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、すなわち、また、わたしの弟子たちが、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理を……苦しみの止滅という聖なる真理を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、これは、まさに、第四の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

247. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの気づきの確立(四念処四念住)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの正しい精励(四正勤)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの神通の足場(四神足)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの機能(五根)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を修めます。……気づきの機能を修めます。……禅定の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の機能を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの力(五力)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の力を修めます。……略……精進の力を修めます。……気づきの力を修めます。……禅定の力を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の力を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、七つの覚りの支分(七覚支)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、正しい見解を修めます。正しい思惟を修めます。正しい言葉を修めます。正しい行業を修めます。正しい生き方を修めます。正しい努力を修めます。正しい気づきを修めます。正しい禅定を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

248. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの解脱(八解脱)を修めます。(1)形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

249. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を修めます。ウダーインよ、(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

250. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、十の遍満の〔認識の〕場所(十遍処)を修めます。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

251. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの瞑想(四禅)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

252. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』〔と〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に(※)、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

※ テキストには tatridaṃ とあるが、PTS版により tatr’assa と読む。

 

253. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

254. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、陶工が、あるいは、陶工の内弟子が、善く事前作業が為された粘土において、まさしく、それぞれの容器類を望むなら、まさしく、それぞれ〔の容器類〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、象牙の細工師が、あるいは、象牙の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された象牙において、まさしく、それぞれの象牙品を望むなら、まさしく、それぞれ〔の象牙品〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された金において、まさしく、それぞれの金具を望むなら、まさしく、それぞれ〔の金具〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

255. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。ウダーインよ、それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

256. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、あるいは、染みを有するものを、『染みを有するものである』と知り、あるいは、染みなきものを、『染みなきものである』と知るように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

257. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に(※)赴いた。そこで、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

※ テキストには aññaṃ gāmaṃ とあるが、PTS版により amuṃ gāmaṃ と読む。

 

258. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。

 

259. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、澄んでいて清らかで混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、澄んでいて清らかで混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。ウダーインよ、これは、まさに、第五の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。

 

 ウダーインよ、まさに、これらの五つの法(性質)があります。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たサクルダーイン遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるサクルダーインの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(78). サマナムンディカーの経

 

260. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者が、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園に滞在しています──大いなる遍歴遊行者の衆である、五百ばかりの遍歴遊行者と共に。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、世尊と会見するために、サーヴァッティーから出立しました──昼のさなかに。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁に、この〔思い〕が有りました。「まさに、まだ、世尊と会見するための時ではない。世尊は静坐している。意を修めることができる比丘たちともまた、会見するための時分ではない。意を修めることができる比丘たちは静坐している。それなら、さあ、わたしは、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園のあるところに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園のあるところに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 また、まさに、その時点にあって、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。

 

 まさに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、パンチャカンガ棟梁が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子であるパンチャカンガ棟梁がやってくる。また、まさに、すなわち、サーヴァッティーに住するかぎりの、沙門ゴータマの弟子である白衣の在家者たちで、この者は、パンチャカンガ棟梁は、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

261. そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁に、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、こう言いました。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」と。

 

 そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

262. このように説かれたとき、世尊は、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、このように存しているとき、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と成るでしょう──すなわち、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の言葉のとおりであるなら。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『身体である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、身体による悪しき行為を為すというのでしょう──震えおののくほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『言葉である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき言葉を語るというのでしょう──泣き叫ぶほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『思惟である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき思惟を思惟するというのでしょう──むずかるほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『生き方である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき生き方を生きるというのでしょう──母の乳〔を取ること〕より他に。棟梁よ、このように存しているとき、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と成るでしょう──すなわち、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の言葉のとおりであるなら。

 

263. 棟梁よ、四つのものがあります。まさに、わたしは、〔これらの〕法(性質)を具備した人士たる人を、まさしく、そして、善を成就した者でもなく、最高の善ある者でもなく、最上の至り得るべきものに至り得た者でもない、太刀打ちできない沙門と報知します。そして、また、この愚鈍で上向きに臥す年少の童子に卓越して〔世に〕止住します。どのようなものが、四つのものなのですか。棟梁よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。棟梁よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、まさしく、善を成就した者でもなく、最高の善ある者でもなく、最上の至り得るべきものに至り得た者でもない、太刀打ちできない沙門と報知します。そして、また、この愚鈍で上向きに臥す年少の童子に卓越して〔世に〕止住します。

 

 棟梁よ、まさに、わたしは、十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。これらの善ならざる戒があります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善ならざる戒はあります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。ここに、諸々の善ならざる戒は、残りなく止滅します。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。このように実践する者は、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成ります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。

 

 これらの善なる戒があります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善なる戒はあります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。ここに、諸々の善なる戒は、残りなく止滅します。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。このように実践する者は、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成ります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。

 

 これらの善ならざる思惟があります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善ならざる思惟はあります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。ここに、諸々の善ならざる思惟は、残りなく止滅します。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。このように実践する者は、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成ります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。

 

 これらの善なる思惟があります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善なる思惟はあります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。ここに、諸々の善なる思惟は、残りなく止滅します。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。このように実践する者は、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成ります。棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきことである』と説きます。

 

264. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善ならざる戒なのですか。善ならざる身体の行為であり、善ならざる言葉の行為であり、悪しき生き方です。棟梁よ、これらは、諸々の善ならざる戒と説かれます。

 

 棟梁よ、では、これらの善ならざる戒は、何から現起したものなのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『心から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、心なのですか。まさに、心もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。その心が、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有するものであるなら、これから現起したものとして、諸々の善なる戒はあります。

 

 棟梁よ、では、これらの善ならざる戒は、どこに、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方による生き方を営みます。ここにおいて、これらの善ならざる戒は、残りなく止滅します。

 

 棟梁よ、では(※)、どのように実践する者は、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者は、まさに、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成ります。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

265. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善なる戒なのですか。善なる身体の行為であり、善なる言葉の行為です。棟梁よ、戒における完全なる清浄の生き方もまた、まさに、わたしは、〔善なる戒と〕説きます。棟梁よ、これらは、諸々の善なる戒と説かれます。

 

 棟梁よ、では、これらの善なる戒は、何から現起したものなのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『心から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、心なのですか。まさに、心もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。その心が、貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れたものであるなら、これから現起したものとして、諸々の善なる戒はあります。

 

 棟梁よ、では、これらの善なる戒は、どこに、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有ります。そして、戒〔のみ〕によって作られる者ではなく、さらに、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、それを、事実のとおりに覚知します。そこにおいて、彼の、それらの善なる戒は、残りなく止滅します(阿羅漢果に到達し、戒めとしての戒は不要となる)。

 

 棟梁よ、では、どのように実践する者は、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者は、まさに、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成ります。

 

266. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善ならざる思惟なのですか。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。棟梁よ、これらは、諸々の善ならざる思惟と説かれます。

 

 棟梁よ、では、これらの善ならざる思惟は、何から現起したものなのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『表象から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、表象なのですか。まさに、表象もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。これから現起したものとして、諸々の善なる思惟はあります。

 

 棟梁よ、では、これらの善ならざる思惟は、どこに、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、これらの善ならざる思惟は、残りなく止滅します。

 

 棟梁よ、では、どのように実践する者は、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者は、まさに、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成ります。

 

267. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善なる思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。棟梁よ、これらは、諸々の善なる思惟と説かれます。

 

 棟梁よ、では、これらの善なる思惟は、何から現起したものなのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『表象から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、表象なのですか。まさに、表象もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。離欲の表象であり、憎悪なき表象であり、悩害なき表象です。これから現起したものとして、諸々の善なる思惟はあります。

 

 棟梁よ、では、これらの善なる思惟は、どこに、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、これらの善なる思惟は、残りなく止滅します。

 

 棟梁よ、では、どのように実践する者は、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者は、まさに、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成ります。

 

268. 棟梁よ、では、わたしは、どのような十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知するのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解を具備した者と成り、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟を具備した者と成り、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉を具備した者と成り、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業を具備した者と成り、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方を具備した者と成り、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力を具備した者と成り、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきを具備した者と成り、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定を具備した者と成り、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵を具備した者と成り、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱を具備した者と成ります。棟梁よ、まさに、わたしは、これらの十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たパンチャカンガ棟梁は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 サマナムンディカーの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(79). 小なるサクルダーインの経

 

269. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者が、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園に滞在しています。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマがやってくる。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

270. そこで、まさに、世尊は、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。「ウダーイン(サクルダーイン)よ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。尊き方よ、この議論は、世尊にとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。尊き方よ、すなわち、わたしが、この衆に近づいて行かない状態でいるとき、そこで、この衆は、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論を議論し、坐った状態でいます。尊き方よ、しかしながら、まさに、わたしが、この衆に近づいて行った状態でいるとき、そこで、この衆は、まさしく、わたしの顔を見上げて、坐った状態でいます。『すなわち、沙門ウダーインが、わたしたちに、法(教え)を語るのだ。それを、〔わたしたちは〕聞くのだ』と。尊き方よ、また、すなわち、世尊が、この衆に近づいて行った状態でいるとき、そこで、まさしく、そして、わたしは、さらに、この衆も、世尊の顔を見上げながら、坐った状態でいます。『すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るのだ。それを、〔わたしたちは〕聞くのだ』」と。

 

271. 「ウダーインよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて、明白となれ──すなわち、わたしに弁じるであろうとおりに(まずはあなたが議題を提示しなさい)」と(※)。「尊き方よ、過日のことですが、以前、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言しながら、『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と、その者は、わたしによって、過去の極(前際:過去の種々相)に関して、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、まさしく、世尊に関して、気づき()が生起しました。『ああ、まちがいなく、世尊である。ああ、まちがいなく、善き至達者たる方である。すなわち、これらの法(性質)に極めて巧みな智ある者は』」と。「ウダーインよ、また、誰なのですか、その者は。一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言しながら、『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と、彼は、あなたによって、過去の極に関して、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました」と。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)です」と。

 

※ テキストには paṭibhāseyyā’’si とあるが、PTS版により paṭibhāseyyā’’ti と読む。

 

 「ウダーインよ、その者が、まさに、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、あるいは、彼が、わたしに、過去の極に関して、問いを尋ねるべきであり、あるいは、わたしが、彼に、過去の極に関して、問いを尋ねるべきです。あるいは、彼が、過去の極に関して、問いへの説き明かしによって、わたしの心を喜ばすでしょうし、あるいは、わたしが、過去の極に関して、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばすでしょう。

 

 ウダーインよ、その者が、まさに、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら、下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、あるいは、彼が、わたしに、未来の極(後際:未来の種々相)に関して、問いを尋ねるべきであり、あるいは、わたしが、彼に、未来の極に関して、問いを尋ねるべきです。あるいは、彼が、未来の極に関して、問いへの説き明かしによって、わたしの心を喜ばすでしょうし、あるいは、わたしが、未来の極に関して、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばすでしょう。

 

 ウダーインよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、法(教え)を、あなたに説示しましょう。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する』」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、すなわち、わたしのこの自己状態によって経験されたものとしてあるかぎりの、それでさえをも、行相を有するものとして、素性を有するものとして、隨念することができません。また、どうして、わたしが、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するというのでしょう──それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するというのでしょう──それは、すなわち、また、世尊のように。尊き方よ、まさに、わたしは、今現在、泥鬼さえも見ません。また、どうして、わたしが、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るというのでしょう──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知できるというのでしょう──それは、すなわち、また、世尊のように。尊き方よ、また、すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『ウダーインよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、法(教え)を、あなたに説示しましょう。「これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する」』と。また、そして、それは、わたしに、より一層はげしく定まりません。尊き方よ、まさしく、おそらく、まさに、わたしは、自らの師匠伝来のものについては、問いへの説き明かしによって、世尊の心を喜ばせるでしょう」と。

 

272. 「ウダーインよ、また、どのようなものとして、あなたに、自らの師匠伝来のものについて、〔思いが〕有るのですか」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』」と。

 

 「ウダーインよ、また、すなわち、あなたに、この、このような〔思いが〕有るなら、『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と、どのようなものが、その最高の色艶なのですか」と。「尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。

 

 「また、どのようなものが、その最高の色艶なのですか──その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない、〔そのような色艶とは〕」と。「尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。

 

 「ウダーインよ、まさに、あなたのこの〔言葉〕は、さらに長きものとなり、充満するでしょう(切りがない)。『尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と、〔あなたは〕説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません(具体的な説明がない)。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、このように説くとします。『わたしは、その者が、この地方における地方の美女であるなら、彼女を求め、彼女を欲する』と。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、隷民である」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、このような名の者である、このような姓の者である」』と。……略……。「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である。あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」』と。……。「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その者のことを、知らず、見ないとして、あなたは、その者を、求め、欲するのか』と。かくのごとく尋ねられ、『そのとおり』と説くとします。

 

 ウダーインよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就しないですか」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就します」と。

 

 「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。

 

 「尊き方よ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、このように、色艶あるものとして、無病のものとして、自己は〔世に〕有ります──死後においても」と。

 

273. 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにいる虫の蛍ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある油の灯火ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある大いなる火の塊ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天においてある明けの明星ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分にある月ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。あるいは、すなわち、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分に、日があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分にある日ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「ウダーインよ、まさに、これよりもより多い、まさに、それらの多くの天〔の神々〕たちがいます。すなわち、これらの月と日の輝きを受領せず、〔自ら輝く天の神々たちです〕。彼らを、わたしは覚知します。そこで、また、そして、わたしは、『その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません』と説きません。ウダーインよ、そこで、また、しかしながら、あなたは、すなわち、この色艶が、虫の蛍より、そして、より劣り、さらに、より劣等であるのに、『それは、最高の色艶です』と説き、かつまた、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。「世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました」と。

 

 「ウダーインよ、また、どうして、あなたは説くのですか。『世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました』」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしどもは、世尊によって、自らの師匠伝来のものについて、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者たちとなったのです」と。

 

274. 「ウダーインよ、また、どうなのでしょう、一方的な安楽ある世は存在しますか。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在しますか」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『一方的な安楽ある世は存在する。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在する』」と。

 

 「ウダーインよ、また、どのようなものが、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道なのですか」と。「尊き方よ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。また、あるいは、或る何かの苦行の属性を受持して行持します。尊き方よ、これは、まさに、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道です」と。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、或る何かの苦行の属性を受持して行持するなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。

 

 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、混在した安楽と苦痛ある〔実践の〕道を頼りにして、一方的な安楽ある世の実証と成るのですか」と。「世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました」と。

 

 「ウダーインよ、また、どうして、あなたは説くのですか。『世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました』」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『一方的な安楽ある世は存在する。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在する』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしどもは、世尊によって、自らの師匠伝来のものについて、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者たちとなったのです」と。

 

275. 「尊き方よ、また、どうなのでしょう、一方的な安楽ある世は存在しますか。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在しますか」と。「ウダーインよ、まさに、一方的な安楽ある世は存在します。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道なのですか」と。「ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これは、まさに、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道です」と。

 

 「尊き方よ、まさに、それは、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道ではありません。尊き方よ、なぜなら、彼には、これだけで、一方的な安楽ある世が実証されたものと成るからです」と。「ウダーインよ、まさに、彼には、これだけで、一方的な安楽ある世が実証されたものと成りません。それは、一方的な安楽ある世の実証のための、『行相あるもの』というだけの、〔実践の〕道なのです」と。

 

 このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、狂躁の者たちと〔成り〕、高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。「ここにおいて、わたしたちは、師匠と共に滅び去る。ここにおいて、わたしたちは、師匠と共に滅び去る。わたしたちは、これよりもより一層により上なるものを覚知しない」と。

 

 そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、それらの遍歴遊行者たちを、声少なき者たちと為して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、どのようなことから、彼には、一方的な安楽ある世が実証されたものと成るのですか」と。「ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。すなわち、それらの天神たちが、一方的な安楽ある世に再生した者たちであるなら、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定します。ウダーインよ、まさに、このことから、彼には、一方的な安楽ある世が実証されたものと成ります」と。

 

276. 「尊き方よ、まちがいなく、この一方的な安楽ある世の実証を因として、比丘たちは、世尊のもと、梵行を歩みます」と。「ウダーインよ、まさに、一方的な安楽ある世の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩むのではありません。ウダーインよ、まさに、まさしく、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)が存在します。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、それらの法(性質)なのですか。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、世尊のもと、梵行を歩むとして」と。「ウダーインよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。……略……。彼(覚者の弟子)は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。

 

 ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と……略……『これは、苦しみの止滅である』と……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と……『これは、諸々の煩悩の止滅である』と……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。ウダーインよ、まさに、これらの、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)が存在します。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます」と。

 

277. このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。

 

 このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、サクルダーイン遍歴遊行者に、こう言いました。「ウダーインよ、貴君は、沙門ゴータマのもと、梵行を歩んではいけません。ウダーインよ、貴君は、師匠と成って〔そののち〕、内弟子の住を住してはいけません。それは、たとえば、また、水瓶と成って〔そののち〕、水桶として存するようなものです。このように、これと同様に、貴君ウダーインにとって成るでしょう。ウダーインよ、貴君は、沙門ゴータマのもと、梵行を歩んではいけません。ウダーインよ、貴君は、師匠と成って〔そののち〕、内弟子の住を住してはいけません」と。まさに、かくのごとく、このことはあり、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、世尊のもとでの梵行について、サクルダーイン遍歴遊行者に障りを為した、ということです。

 

 小なるサクルダーインの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(80). ヴェーカナサの経

 

278. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ヴェーカナサ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊の面前で、感興〔の言葉〕を唱えました。「これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である」と。

 

 「カッチャーナ(ヴェーカナサ)よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と。カッチャーナよ、どのようなものが、その最高の色艶なのですか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。

 

 「カッチャーナよ、また、どのようなものが、その最高の色艶なのですか──その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない、〔そのような色艶とは〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。

 

 「カッチャーナよ、まさに、あなたのこの〔言葉〕は、さらに長きものとなり、充満するでしょう(切りがない)。『貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と、〔あなたは〕説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません(具体的な説明がない)。カッチャーナよ、それは、たとえば、また、人が、このように説くとします。『わたしは、その者が、この地方における地方の美女であるなら、彼女を求め、彼女を欲する』と。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、隷民である」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、このような名の者である、このような姓の者である」』と。……略……。「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である。あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」』と。……。「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その者のことを、知らず、見ないとして、あなたは、その者を、求め、欲するのか』と。かくのごとく尋ねられ、『そのとおり』と説くとします。

 

 カッチャーナよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就しないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就します」と。「カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、このように、色艶あるものとして、無病のものとして、自己は〔世に〕有ります──死後においても」と。

 

279. 「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにいる虫の蛍ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある油の灯火ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある大いなる火の塊ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。

 

 「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天においてある明けの明星ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分にある月ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。あるいは、すなわち、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分に、日があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分にある日ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります」と。「カッチャーナよ、まさに、これよりもより多い、まさに、それらの多くの天〔の神々〕たちがいます。すなわち、これらの月と日の輝きを受領せず、〔自ら輝く天の神々たちです〕。彼らを、わたしは覚知します。そこで、また、そして、わたしは、『その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません』と説きません。カッチャーナよ、そこで、また、しかしながら、あなたは、すなわち、この色艶が、虫の蛍より、そして、より劣り、さらに、より劣等であるのに、『それは、最高の色艶です』と説き、かつまた、その色艶のことを、〔何も〕報知しません。

 

280. カッチャーナよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。カッチャーナよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。カッチャーナよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。かくのごとく、諸々欲望〔の対象〕から欲望の安楽があり、欲望の安楽より、至高の欲望の安楽(涅槃)が、そこにおいて、至高のものと告げ知らされます」と。

 

 このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『かくのごとく、諸々欲望〔の対象〕から欲望の安楽があり、欲望の安楽より、至高の欲望の安楽(涅槃)が、そこにおいて、至高のものと告げ知らされます』」と。「カッチャーナよ、まさに、このことは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては知り難いことなのです──あるいは、諸々の欲望〔の対象〕も、あるいは、欲望の安楽も、あるいは、至高の欲望の安楽も。カッチャーナよ、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らは、まさに、このことを知るでしょう──あるいは、諸々の欲望〔の対象〕も、あるいは、欲望の安楽も、あるいは、至高の欲望の安楽も」と。

 

281. このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、激情し、わが意を得ない者となり、まさしく、世尊を責めながら、まさしく、世尊を誹りながら、まさしく、世尊に、「沙門ゴータマは、悪しき者と成るであろう」と説きながら、世尊に、こう言いました。「いっぽう、まさしく、このように、ここに、一部の沙門や婆羅門たちは、過去の極(前際:過去の種々相)のことを知らずにいながら、未来の極(後際:未来の種々相)のことを知らずにいながら、そこで、また、しかしながら、『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知する』と明言する。彼らが語った、このことは、まさしく、笑い話として成就し、まさしく、名ばかりのものとして成就し、まさしく、空虚なこととして成就し、まさしく、虚妄なこととして成就する」と。「カッチャーナよ、すなわち、まさに、それらの沙門や婆羅門たちが、過去の極のことを知らずにいながら、未来の極のことを知らずにいながら、そこで、また、しかしながら、『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知する』と明言するなら、彼らには、まさしく、その、法(真理)を共にする糾弾が有ります。カッチャーナよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。このように、まさに、正しく、結縛からの解脱が有ります。すなわち、この、無明という結縛から。カッチャーナよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、諸々の糸の結縛で──〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で──結縛された者として存するとします。彼の、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、それらの結縛は解き放たれ、彼は、『解脱者として、〔わたしは〕存している』と、まさに、知るでしょうし、かつまた、結縛するものはありません。カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。このように、まさに、正しく、結縛からの解脱が有ります。すなわち、この、無明という結縛から」と。

 

 このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 ヴェーカナサの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 遍歴遊行者の章は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「プンダリーと火と議論を共にする者という名のものがあり、ディーガナカ、さらに、バーラドヴァージャ姓の者、サンダカとウダーインとムンディカーの子、瓶、そのように、カッチャーナがあり、優れた章となる」〔と〕。

 

4. 王の章

 

1(81). ガティカーラの経

 

282. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのだろう。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはない」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのですか。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはありません」と。「アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、この地域において、ヴェーガリンガという名の集落が有りました──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔集落〕が。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、ヴェーガリンガの集落に近しく依拠して〔世に〕住みました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の林園が有りました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は坐った者となり、比丘の僧団に教諭します」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、四重に大衣を設けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それでは、世尊は、ここにおいて坐りたまえ。この土地の地域は、二者の阿羅漢にして正等覚者によって遍く受益するところと成るでしょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。

 

 「アーナンダよ、過去の事ですが、この地域において、ヴェーガリンガという名の集落が有りました──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔集落〕が。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、ヴェーガリンガ集落に近しく依拠して〔世に〕住みました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の林園が有りました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は坐った者となり、比丘の僧団に教諭します。

 

283. アーナンダよ、まさに、ヴェーガリンガの集落において、ガティカーラという名の陶工が、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、奉仕者として、至高の奉仕者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、まさに、ガティカーラ陶工には、ジョーティパーラという名の学徒が、道友として、愛しい同友として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、このように説かれたとき、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、三度また、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、それでは、洗具と洗粉を携えて、沐浴するために川に赴きましょう』と。アーナンダよ、『友よ、わかりました』と、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に答えました。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、洗具と洗粉を携えて、沐浴するために川に赴きました。

 

284. アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、このように説かれたとき、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、三度また、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒の帯を捉えて、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒は、帯を引き戻して、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒の沐浴した頭の諸々の髪を捉えて、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、そこで、まさに、このガティカーラ陶工が、些末な生まれの者として〔世に〕存していながら、わたしたちの沐浴した頭の諸々の髪を捉えるべきと思い考えるとは。まさに、これは、思うに、どうやら、低劣なものが有るのではないらしい』と。〔彼は〕ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、まさに、また、それほどまでのものなのですか』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、また、それほどまでのものなのです。また、なぜなら、そのように、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思い考えられたからです』と。『友よ、ガティカーラよ、まさに、それでは、解き放ちたまえ。〔では〕赴きましょう』と。

 

285. アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。いっぽう、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしにとって、この者は、ジョーティパーラ学徒は、道友であり、愛しい同友です。世尊は、この者に、法(教え)を説示してください』と。アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、かつまた、ガティカーラ陶工に、かつまた、ジョーティパーラ学徒に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、坐から立ち上がって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

286. アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、いったい、あなたは、この法(教え)を聞きながら、そこで、また、そして、家から家なきへと出家しないのですか』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、〔あなたは〕わたしのことを知っているのではないですか。〔わたしは〕盲目の老いた母と父を養っています』と。『友よ、ガティカーラよ、まさに、それでは、わたしが、家から家なきへと出家しましょう』と。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしにとって、この者は、ジョーティパーラ学徒は、道友であり、愛しい同友です。世尊は、この者を出家させたまえ』と。アーナンダよ、まさに、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

287. アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、〔戒を〕成就したばかりのジョーティパーラ学徒が、〔戒の〕成就から半月となるとき、ヴェーガリンガにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシー(波羅奈)のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのあるところに、そこへと至り着きました。アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。アーナンダよ、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、『どうやら、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、バーラーナシーに到着し、バーラーナシーに住んでおられるらしい。イシパタナの鹿園において』と耳にしました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、バーラーナシーから出発しました──大いなる王の威力をもって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、カーシ〔国〕のキキン王に、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください』と。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、特製の黄米の、雑物を取り去った幾多の汁と幾多の香味を〔準備して〕、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。

 

288. アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カーシ〔国〕のキキン王の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けください。このような形態の、僧団への奉仕が有るでしょう』と。『大王よ、十分です。わたしによって、雨期の居住は、〔すでに〕承諾されました(先約がある)』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けください。このような形態の、僧団への奉仕が有るでしょう』と。『大王よ、十分です。わたしによって、雨期の居住は、〔すでに〕承諾されました』と。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、『阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けくださらない』と、まさしく、〔心の〕他化が有り、失意が有りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『いったい、まさに、存在しますか──誰であれ、他に、わたしよりもより奉仕者たる者は』と。

 

 『大王よ、ヴェーガリンガという名の集落が存在します。そこにおいて、ガティカーラという名の陶工がいます。彼は、わたしの、奉仕者であり、至高の奉仕者です。大王よ、また、まさに、あなたには、「阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けくださらない」と、まさしく、〔心の〕他化が存在し、失意が存在します。〔まさに〕その、この〔思い〕は、ガティカーラ陶工に、かつまた、存在せず、かつまた、有ることもないでしょう。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、覚者を帰依所に赴いた者であり、法(教え)を帰依所に赴いた者であり、僧団を帰依所に赴いた者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、命あるものを殺すことから離間した者であり、与えられていないものを取ることから離間した者であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者であり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者であり、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者であり、僧団にたいする確固たる清信を具備した者であり、聖者たちに愛される諸戒を具備した者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、苦しみについて疑いなき者であり、苦しみの集起について疑いなき者であり、苦しみの止滅について疑いなき者であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道について疑いなき者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、一食の者であり、梵行者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、宝珠や黄金を捨て置いた者であり、金や銀を離れ去った者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、杵(農具)を置いた者であり、自らの手で、地を掘りません。すなわち、あるいは、破損した堤防〔の土〕が有り、あるいは、鼠の掘り起こし〔の土〕が〔有るなら〕、それを、天秤棒で運んで、器を作って、このように言います。「ここにおいて、すなわち、求めるなら、あるいは、諸々の米のおこぼれを〔置いて〕、あるいは、諸々の豆のおこぼれを〔置いて〕、あるいは、諸々の大豆のおこぼれを置いて、すなわち、求めるところの、その〔器〕を持ち帰ってください」と。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、盲目の老いた母と父を養います。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。

 

289. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。大王よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ガティカーラ陶工の母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工の母と父に、こう言いました。「はてさて、いったい、まさに、バッガヴァ(ガティカーラ陶工)は、どうしたのですか、〔どこかに〕赴いたのですか」と。「尊き方よ、まさに、あなたの奉仕者は、出かけたところです。瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益してください」と。大王よ、そこで、まさに、わたしは、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「息子よ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽は衰退しませんでした(※)。

 

※ テキストには vijahati とあるが、PTS版により vijahi と読む。以下の平行箇所も同様。

 

290. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、そこにおいて、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。大王よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ガティカーラ陶工の母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工の母と父に、こう言いました。「はてさて、いったい、まさに、バッガヴァは、どうしたのですか、〔どこかに〕赴いたのですか」と。「尊き方よ、まさに、あなたの奉仕者は、出かけたところです。鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益してください」と。大王よ、そこで、まさに、わたしは、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「息子よ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽は衰退しませんでした。

 

291. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、そこにおいて、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。また、まさに、その時点にあって、小屋に〔雨が〕漏れ入ります。大王よ、そこで、まさに、わたしは、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、赴きなさい。ガティカーラ陶工の住居地において、草を見つけてきなさい」と。大王よ、このように説かれたとき、それらの比丘たちは、わたしに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、ガティカーラ陶工の住居地において、草は存在しません。しかしながら、まさに、彼の住居において、草の覆いが存在します」と。「比丘たちよ、赴きなさい。ガティカーラ陶工の住居の葺き草を剥ぎ取りなさい」と。大王よ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、ガティカーラ陶工の住居の葺き草を剥ぎ取りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工の母と父は、それらの比丘たちに、こう言いました。「誰が、住居の葺き草を剥ぎ取るのですか」と。「姉妹よ、比丘たちです。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の小屋に〔雨が〕漏れ入ります」と。「尊き方たちよ、お持ち帰りください。幸顔なる方たちよ、お持ち帰りください」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、住居の葺き草を剥ぎ取ったのですか」と。「息子よ、比丘たちです。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の小屋に〔雨が〕漏れ入ります」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽は衰退しませんでした。大王よ、そこで、まさに、住居は、全てにわたり、三月のあいだ、虚空の覆いが止住したのですが、天は、〔雨を〕激しく降らせませんでした。大王よ、そして、このような形態の者として、ガティカーラ陶工はあります」と。「尊き方よ、ガティカーラ陶工には、諸々の利得があります。尊き方よ、まさに、ガティカーラ陶工には、善く得られたものがあります。彼のことを、世尊が、このように大いに信頼したのですから」』と。

 

292. アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、ガティカーラ陶工に、特製の黄米の五百ばかりの米の積み荷を送りました──そして、それに合っている汁を。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの王の家来たちは、近づいて行って、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『尊き方よ、まさに、カーシ〔国〕のキキン王によって、これらの特製の黄米の五百ばかりの米の積み荷が送られました──そして、それに合っている汁が。尊き方よ、それらを納受したまえ』と。『王は、まさに、多くの義務があり、多くの用事があります。わたしには、十分です。まさしく、王のために有れ』と。アーナンダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、ジョーティパーラ学徒として〔世に〕有ったのだ』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、ジョーティパーラ学徒として〔世に〕有ったのです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ガティカーラの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(82). ラッタパーラの経

 

293. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカという名のクル〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、クル〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカ〔町〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。

 

294. また、まさに、その時点にあって、まさしく、そのトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子である、ラッタパーラという名の良家の子息が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ」と。そこで、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。尊き方よ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように。尊き方よ、世尊は、わたしを出家させたまえ」と。「ラッタパーラよ、また、あなたは、母と父によって許された者として存していますか──家から家なきへと出家するために」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、母と父によって許された者として存していません──家から家なきへと出家するために」と。「ラッタパーラよ、まさに、如来たちは、母と父によって許されていない子を出家させません」と。「尊き方よ、それなら、わたしは、そのとおりに為しましょう。すなわち、わたしのことを、母と父が許すことになるように──家から家なきへと出家するために」と。

 

295. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。わたしのことをお許しください──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは……略……。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。わたしのことをお許しください──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。

 

296. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、「わたしのことを、母と父は許さない──家から家なきへと出家するために」と、まさしく、そこにおいて、何もない地面のうえに横たわりました。「まさしく、ここに、わたしに、死が有るであろう──あるいは、出家が」と。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、一食もまた食べず、二食もまた食べず、三食もまた食べず、四食もまた食べず、五食もまた食べず、六食もまた食べず、七食もまた食べませんでした。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。息子よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、わたしたちは許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。……略……。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。息子よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、わたしたちは許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。

 

297. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、母と父の独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。友よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、母と父は許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。……略……。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、母と父の独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。友よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、母と父は許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。

 

298. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラの母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラの母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、この者は、良家の子息であるラッタパーラは、まさしく、そこにおいて、何もない地面のうえに横たわっています。『まさしく、ここに、わたしに、死が有るであろう──あるいは、出家が』と。それで、もし、あなたたちが、良家の子息であるラッタパーラを許さないなら──家から家なきへと出家するために──まさしく、そこにおいて、死がやってくるでしょう。また、それで、もし、あなたたちが、良家の子息であるラッタパーラを許すなら──家から家なきへと出家するために──たとえ、出家したとして、彼を見るでしょう。それで、もし、良家の子息であるラッタパーラが喜び楽しまないなら──家から家なきへと出家するために──彼の赴く所として、他に、何が有るというのでしょう。まさしく、ここに、戻り来るでしょう。良家の子息であるラッタパーラを許したまえ──家から家なきへと出家するために」と。「親愛なる者たちよ、良家の子息であるラッタパーラを許します──家から家なきへと出家するために。また、そして、出家したなら、〔彼によって〕母と父が訓戒されるべきです」と。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。母と父によって許された者として、〔あなたは〕存しています──家から家なきへと出家するために。また、そして、出家したなら、〔あなたによって〕母と父が訓戒されるべきです」と。

 

299. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、立ち上がって、活力をつけて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、母と父によって許されました──家から家なきへと出家するために。世尊は、わたしを出家させたまえ」と。良家の子息であるラッタパーラは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。そこで、まさに、世尊は、〔戒を〕成就したばかりの尊者ラッタパーラが、〔戒の〕成就から半月となるとき、トゥッラコッティカにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者ラッタパーラは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

 そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、母と父を訓戒することを求めます。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら」と。そこで、まさに、世尊は、尊者ラッタパーラに、心をとおして、心を探知して、意を為しました。世尊は、「まさに、良家の子息であるラッタパーラは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りすることは有りえない(戒を捨てて還俗することはない)」と、そのとおりに了知しました。そこで、まさに、世尊は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「ラッタパーラよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、トゥッラコッティカのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、トゥッラコッティカに住んでいます。コーラブヤ王のミガチーラ〔園〕において。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、トゥッラコッティカに〔行乞の〕食のために入りました。トゥッラコッティカにおいて、歩々淡々と〔行乞の〕食のために歩みながら、自らの父の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラの父は、中央の門堂において、〔髪を〕梳かせています。まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、こう言いました。「これらの坊主頭の似非沙門たちによって、わたしたちの愛しく意に適う独り子が出家させられたのだ」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、自らの父の住居地において、まさしく、布施を得ることもなく、拒絶を〔得ることも〕ありませんでした。何はともあれ、まさしく、罵倒を得ましたが。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラの親族の奴婢が、昨夜の粥を捨て放つことを欲する者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、その親族の奴婢に、こう言いました。「姉妹よ、それで、もし、それが、捨て放つべき法(事象)であるなら、ここに、わたしの鉢のなかに降り注ぎたまえ」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの親族の奴婢は、その昨夜の粥を、尊者ラッタパーラの鉢のなかに降り注ぎながら、そして、〔両の〕手の、かつまた、〔両の〕足の、さらに、声の、形相を収め取りました。

 

300. そこで、まさに、尊者ラッタパーラの親族の奴婢は、尊者ラッタパーラの母のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラの母に、こう言いました。「尊貴なる方よ、どうか、お知りください。ご子息のラッタパーラ様が、到着されたのです」と。「さて、それで、もし、〔あなたが〕真理(真実)を話しているなら、あなたを、奴婢ならざる者と為しましょう」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの母は、尊者ラッタパーラの父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラの父に、こう言いました。「家長よ、どうか、お知りください。どうやら、良家の子息であるラッタパーラが、到着したらしいのです」と。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラは、その昨夜の粥を、或るどこかの壁の根元に依拠して遍く受益しています。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、〔おまえが〕昨夜の粥を遍く受益することになる、〔このようなことが〕存するとは。息子よ、ラッタパーラよ、まさに、〔おまえは〕自らの家に赴くべきではないのか」と。「家長よ、家から家なきへと出家した者たちである、まさに、わたしたちに、どうして、家があるというのでしょう。家長よ、わたしたちは、家なき者たちです。家長よ、まさに、〔わたしは〕あなたの家に赴きました。そこにおいて、まさしく、布施を得ることもなく、拒絶を〔得ることも〕ありませんでした。何はともあれ、まさしく、罵倒を得ましたが」と。「息子よ、ラッタパーラよ、さあ、〔わたしたちは〕家に赴くのだ」と。「家長よ、十分です。わたしよって、今日、食事についての為すべきことは〔すでに〕為されました」と。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、それでは、明日、食事〔の布施〕を受けなさい」と。まさに、尊者ラッタパーラは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラの承諾を見出して、自らの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、大いなる金貨と黄金の集塊を作らせて、諸々の敷物で覆って、尊者ラッタパーラの以前の伴侶たちに告げました。「嫁たちよ、さあ、おまえたちが、すなわち、過去において、〔その〕外装品によって、〔装いを〕十分に作り為したなら、良家の子息であるラッタパーラにとって愛しく意に適う者たちと成る、〔まさに〕その、外装品によって、〔装いを〕十分に作り為すのだ」と。

 

301. そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、尊者ラッタパーラに、時を告げました。「息子よ、ラッタパーラよ、時だ。食事ができた」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、自らの父の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、その金貨と黄金の集塊を開示させて、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、これは、おまえの祖母の財だ。父祖のものとは他のものだ。祖父のものとは他のものだ。息子よ、ラッタパーラよ、かつまた、諸々の財物を享受することも、かつまた、諸々の功徳を作り為すことも、できるのだ。息子よ、ラッタパーラよ、さあ、おまえは、下劣なところへと逆戻りして、かつまた、諸々の財物を享受し、かつまた、諸々の功徳を作り為すのだ」と。「家長よ、それで、もし、あなたが、わたしの言葉を為すであろうなら、この金貨と黄金の集塊を、荷車に載せて、運び出して、ガンガー川の流れの中に沈めてください。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、すなわち、あなたに、それを因縁として、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起するであろうからです」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの以前の伴侶たちが、各自に、〔尊者ラッタパーラの両の〕足を掴んで、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「旦那様、どのような者たちなのですか──あなたが、彼女たちを因として、梵行を歩む、まさに、それらの仙女たちは」と。「姉妹たちよ、まさに、わたしたちは、仙女たちを因として、梵行を歩みません」と。「『姉妹たちよ』という言い方によって、旦那様は、ラッタパーラは、わたしたちを呼び慣わす」と、彼女たちは、まさしく、そこにおいて、気絶し、倒れ落ちました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、父に、こう言いました。「家長よ、それで、もし、食料が施されるべきであるなら、施したまえ。わたしたちを悩ましてはいけません」と。「息子よ、ラッタパーラよ、出来上がった食事を食べなさい」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。

 

302. そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、食事を終え、鉢から手を離すと、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語りました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。

 

 見よ──彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を──そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。

 

 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。

 

 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。

 

 彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。

 

 猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。『餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の捕捉者が泣き叫んでいるところを』」と。

 

 そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語って、コーラブヤ王のミガチーラ〔園〕のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。

 

303. そこで、まさに、コーラブヤ王は、ミガヴァ(園の番人)に告げました。「友よ、ミガヴァよ、ミガチーラ〔園〕の庭園を清めよ。美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ミガヴァは、コーラブヤ王に答えて、ミガチーラ〔園〕を清めながら、尊者ラッタパーラが、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っているのを見ました。見て、コーラブヤ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーラブヤ王に、こう言いました。「陛下よ、まさに、あなたのために、ミガチーラ〔園〕は清められました。ですが、ここにおいて、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子である、ラッタパーラという名の良家の子息が存します。あなたは、彼のことを、幾度となく賛じ称えながら〔世に〕有りました。彼は、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っています」と。「友よ、ミガヴァよ、まさに、それでは、今や、今日はもう、庭園の地のことは十分だ。今や、わたしたちは、まさしく、彼に、貴君ラッタパーラに奉侍するのだ」と。そこで、まさに、コーラブヤ王は、「すなわち、そこにおいて、固形の食料や軟らかい食料が準備されたなら、それを、全て、送り出すのだ」と説いて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、トゥッラコッティカ〔町〕から出発しました──大いなる王の威力をもって、尊者ラッタパーラと会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者ラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、コーラブヤ王は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「ラッタパーラよ、貴君は、ここに、象の敷物に坐りたまえ」と。「大王よ、十分です。あなたが坐ってください。わたしは、自らの坐に坐っています」と。コーラブヤ王は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、コーラブヤ王は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。

 

304. 「貴君ラッタパーラよ、四つのものがあります。これらの衰亡です。それらの衰亡を具備したなら、ここに、一部の者たちは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。どのようなものが、四つのものなのですか。老の衰亡であり、病の衰亡であり、財物の衰亡であり、親族の衰亡です。貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、老の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者として〔世に〕存している。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その老の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、老の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、今現在、年少の者であり、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者です。貴君ラッタパーラに、その老の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。

 

 貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、病の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存している。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その病の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、病の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、今現在、病苦少なき者であり、病悩少なき者であり、寒過ぎず暑過ぎず正しく消化する消化器官を具備した者です。貴君ラッタパーラに、その病の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。

 

 貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、財物の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有ります。彼の、それらの財物が、順次に、完全なる滅尽に至ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、過去において、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしの、それらの財物は、順次に、完全なる滅尽に至ったのだ。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その財物の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、財物の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子です。貴君ラッタパーラに、その財物の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。

 

 貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、親族の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者には、多くの、朋友や僚友たちが〔有り〕、親族や血縁たちが有ります。彼の、それらの親族たちが、順次に、完全なる滅尽に至ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしには、まさに、過去において、多くの、朋友や僚友たちが〔有り〕、親族や血縁たちが有った。〔まさに〕その、わたしの、それらの親族たちは、順次に(※)、完全なる滅尽に至ったのだ。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その親族の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、親族の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラには、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕において、多くの、朋友や僚友たちがいますし、親族や血縁たちがいます。貴君ラッタパーラに、その親族の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。

 

※ テキストには te anupubbena とあるが、PTS版により te ñātakā anupubbena と読む。

 

 貴君ラッタパーラよ、まさに、これらの四つの衰亡があります。それらの衰亡を具備したなら、ここに、一部の者たちは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラに、それらは存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか」と。

 

305. 「大王よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、四つの法(教え)の誦説が誦説され、存在します。わたしは、それらを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。どのようなものが、四つのものなのですか。大王よ、『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた(※)、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して赴くべきである』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これらの四つの法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それらを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。

 

※ PTS版により ca を補う。以下の平行箇所も同様。

 

306. 「『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたは、齢二十年の時はまた、齢二十五年の時はまた、象についてもまた通じた者であり、馬についてもまた通じた者であり、車についてもまた通じた者であり、弓についてもまた通じた者であり、剣についてもまた通じた者であり、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者として〔世に〕有りましたか(※)」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしは、齢二十年の時はまた、齢二十五年の時はまた、象についてもまた通じた者であり、馬についてもまた通じた者であり、車についてもまた通じた者であり、弓についてもまた通じた者であり、剣についてもまた通じた者であり、についてもまた通じた者であり、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者として〔世に〕有りました。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、思うに、神通ある者であるかのように、自己の力と等しく同等の者を等しく随観しません」と。「大王よ、それを、どう思いますか。まさしく、このように、あなたは、今現在、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者ですか」と。「貴君ラッタパーラよ、まさに、このことは、さにあらず。今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、八十歳の者となり、わたしには、衰失が転起します。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、『ここに、足を為すのだ』と、まさしく、他のところに、足を為します」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれます。

 

※ PTS版により Ahosi を補う。

 

 貴君ラッタパーラよ、まさに、この王の家においては、象の兵団もまた、馬の兵団もまた、車の兵団もまた、歩兵の兵団もまた、等しく見出されます。わたしたちに、諸々の逆境あるときに、防衛のために転起するでしょう。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、何であれ、慢性の病苦は存在しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしに、慢性の病苦は存在します。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、わたしを取り囲んで立った状態でいます。『今や、コーラブヤ王は、命を終えるであろう。今や、コーラブヤ王は、命を終えるであろう』」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたは得ますか──それらの、朋友や僚友たち〔の承諾〕を、親族や血縁たち〔の承諾〕を。『わたしの尊き、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、到来したまえ。存している、まさしく、全ての者たちが、この〔苦痛の〕感受を分与するのだ。すなわち、わたしが、より軽い〔苦痛の〕感受を感受するべく』と〔言うも〕。それとも、まさしく、あなたが、その〔苦痛の〕感受を感受しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしは得ません──それらの、朋友や僚友たち〔の承諾〕を、親族や血縁たち〔の承諾〕を。『わたしの尊き、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、到来したまえ。存している、まさしく、全ての者たちが、この〔苦痛の〕感受を分与するのだ。すなわち、わたしが、より軽い〔苦痛の〕感受を感受するべく』と〔言うも〕。そこで、まさに、まさしく、わたしが、その〔苦痛の〕感受を感受します」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、救いなく、主権なきものです。

 

 貴君ラッタパーラよ、まさに、この王の家においては、多大なる金貨と黄金が、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に在るものも、等しく見出されます。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたが、今現在、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむように、あなたは、他所(来世)においてもまた、〔それらを〕得るでしょうか。『まさしく、このように、わたしは、まさしく、これらの五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむのだ』と〔言うも〕。それとも、他者たちが、この財物を収め、いっぽう、あなたは、行為()のとおりに赴くことになりますか」と。「貴君ラッタパーラよ、すなわち、わたしが、今現在、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむように、わたしは、他所(来世)においてもまた、〔それらを〕得ることはありません。『まさしく、このように、わたしは、まさしく、これらの五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむのだ』と〔言うも〕。そこで、まさに、他者たちが、この財物を収め、いっぽう、わたしは、行為のとおりに赴くことになります」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものです。

 

 『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。〔あなたは〕繁栄するクル〔国〕に居住していますか」と。「貴君ラッタパーラよ、そのとおりです。〔わたしは〕繁栄するクル〔国〕に居住しています」と。「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、東の方角から、人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、東の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──大いなる地方を、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔地方〕を。そこにおいては、多くの、象の兵団があり、馬の兵団があり、車の兵団があり、歩兵の兵団があり、そこにおいては、多くの財産と穀物があり、そこにおいては、多くの金貨と黄金が、まさしく、そして、〔加工が〕為されていないものもあり、さらに、〔加工が〕為されたものもあり、そこにおいては、多くの婦女と妻たちがいます。そして、まさしく、〔現有する〕そのかぎりの軍隊のみで征圧することができます。大王よ、征服したまえ』と。それを、どのようなものと為しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしたちは、それをもまた征圧して、居住するでしょう」と。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、西の方角から……北の方角から……南の方角から、人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、南の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──大いなる地方を、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔地方〕を。そこにおいては、多くの、象の兵団があり、馬の兵団があり、車の兵団があり、歩兵の兵団があり、そこにおいては、多くの財産と穀物があり、そこにおいては、多くの金貨と黄金が、まさしく、そして、〔加工が〕為されていないものもあり、さらに、〔加工が〕為されたものもあり、そこにおいては、多くの婦女と妻たちがいます。そして、まさしく、〔現有する〕そのかぎりの軍隊のみで征圧することができます。大王よ、征服したまえ』と。それを、どのようなものと為しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしたちは、それをもまた征圧して、居住するでしょう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷です」と。

 

 尊者ラッタパーラは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

307. 〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕見る──世において、財を有する人間たちを。迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。

 

 王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、海を限りとして有する大地を占拠しつつも、海の此岸では不満の様子で、海の彼岸でさえも切望するであろう。

 

 そして、王も、さらに、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死に近づく。まさしく、不足の者たちと成って、肉身を捨棄する。世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。

 

 親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。そして、『ああ、まさに、不死にあらず』と言う。〔葬送の〕衣に包まれた彼を搬出して、荼毘の薪山を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。

 

 彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる──諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。ここに、親族たちと朋友たちは、そこで、あるいは、道友たちも、死に行く者の救いには成らない。

 

 相続者たちは、彼の財を運び去る。いっぽう、〔死んだ〕有情は、〔自己の為した〕行為のとおりに赴く。死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない──そして、子たちも、かつまた、妻たちも、さらに、財産と国土も。

 

 財によって、長寿を得ることはない。さらに、また、富によって、老を打破することもない。慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである。常久ならず、変化の法(性質)である』〔と〕。

 

 富者たちは、さらに、貧者たちも、接触するべきもの(死)に接触する。そして、愚者も、さらに、慧者も、まさしく、そのようにあり、〔接触するべきものに〕接触したなら、そして、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、打ち殺され、〔地に〕臥すが、しかしながら、慧者は、接触するべきものに接触したとして、動揺しない。

 

 まさに、それゆえに、智慧こそは、財よりも、より勝っている──それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する。まさに、完成なきことから、諸々の種々なる生存において、迷いの者たちは、諸々の悪しき行為(悪業)を為す。

 

 〔迷いの者は〕他〔の世〕から他〔の世〕へと、輪廻を惹起して、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。それ(輪廻的あり方)を盲信している、智慧少なき者は、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。

 

 あたかも、入り口で捕捉された盗賊が、悪しき法(性質)の者として、自らの行為によって打ちのめされるように、このように、人々は、死してのち、他の世において、自らの行為によって打ちのめされる──悪しき法(性質)の者として。

 

 まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性のうちに見て、王よ、それゆえに、出家者として、わたしは存している。

 

 諸々の木の果が落ちるように、人間たちは、かつまた、青年たちも、かつまた、年長の者たちも、肉体の破壊ある者たちである。このことをもまた見て、王よ、出家者として、〔わたしは〕存している。雑物なしの、沙門の資質こそは、より勝っている」と。

 

 ラッタパーラの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(83). マガデーヴァの経

 

308. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ミティラーに住んでおられます。マガデーヴァのアンバ林において。そこで、まさに、世尊は、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのだろう。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはない」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのですか。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはありません」と。「アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、まさしく、このミティラーにおいて、マガデーヴァという名の、法(正義)にかなう法(正義)の王が、法(正義)に依って立つ大王が、〔世に〕有りました。婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ないます。そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、マガデーヴァ王の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、マガデーヴァ王に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、マガデーヴァ王の合わせた掌のうえに据え置きました。

 

309. アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく(※)慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。

 

※ テキストには abyābajjhena とあるが、PTS版により abyāpajjhena と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住(慈悲喜捨の四無量心)を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。

 

310. アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに(※)告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王の子に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、マガデーヴァ王の子の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、マガデーヴァ王の子に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王の子に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、マガデーヴァ王の子の合わせた掌のうえに据え置きました。

 

※ テキストには atha kho とあるが、PTS版により atha me と読む。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王の子は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。

 

311. アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王の子孫たちは、彼の相伝として、八万四千の王たちが、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼らは、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼らは、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。彼らのなかの、ニミ王が、最後の者として〔世に〕有りました──法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に。

 

312. アーナンダよ、過去の事ですが、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に』と。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、まさに、あなたたちは、ニミ王と会見することを求めますか』と。『敬愛なる方よ、わたしたちは、ニミ王と会見することを求めます』と。アーナンダよ、また、まさに、その時点にあって、ニミ王は、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至り、坐った状態でいます。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、ニミ王の面前に出現しました。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、あなたには、諸々の利得があります。大王よ、あなたには、善く得られたものがあります。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、スダンマーの集会場において、賛じ称える様子で着坐しています。「ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に」と。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、あなたと会見することを欲しています。大王よ、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、千の良馬を設えた車を派遣しましょう。大王よ、天の乗物に、動揺することなく乗られますように』と。アーナンダよ、まさに、ニミ王は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

313. アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王の承諾を見出して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ニミ王の面前において消没し、三十三天に出現しました。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、さあ、あなたは、千の良馬を設えた車を設えて、近づいて行って、ニミ王に、このように説きなさい。「大王よ、これは、あなたのために、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって派遣された千の良馬を設えた車です。大王よ、天の乗物に、動揺することなく乗られますように」』と。アーナンダよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、近づいて行って、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、これは、あなたのために、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって派遣された千の良馬を設えた車です。大王よ、天の乗物に、動揺することなくお乗りください。大王よ、そして、また、どちら〔の道〕によって、あなたを導きましょうか──あるいは、すなわち、悪しき行為ある者たちが、諸々の悪しき行為の報いを得知する、〔その道によって〕──あるいは、すなわち、善き行為ある者たちが、諸々の善き行為の報いを得知する、〔その道によって〕』と。『マータリよ、まさしく、両者によって、わたしを導きたまえ』と。アーナンダよ、まさに、戦車の馭者のマータリは〔両者の道によって〕、ニミ王をスダンマーの集会場に導き入れました。アーナンダよ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、善く来てくれました。大王よ、あなたと会見することを欲し、三十三天〔の神々〕たちは、スダンマーの集会場において、賛じ称える様子で着坐しています。「ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に」と。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、あなたと会見することを欲しています。大王よ、天〔の神々〕たちのなかで、天の威力によって喜び楽しみたまえ』と。『敬愛なる方よ、十分です。まさしく、その場において、わたしを、ミティラーに連れ戻してください。そのとおりに、わたしは、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に』と。

 

314. アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、さあ、あなたは、千の良馬を設えた車を設えて、まさしく、その場において、ニミ王を、ミティラーに連れ戻しなさい』と。アーナンダよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、まさしく、その場において、ニミ王を、ミティラーに連れ戻しました。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に(※)。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、ニミ王に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、ニミ王の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、ニミ王に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、ニミ王に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、ニミ王の合わせた掌のうえに据え置きました。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔おまえは、わたしに〕従い転起させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。

 

※ テキストには pakkhassāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

315. アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、また、まさに、ニミ王は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。アーナンダよ、また、まさに、ニミ王には、カラーラジャナカという名の子が有りました。彼は、家から家なきへと出家しませんでした。彼は、その善き行持を断絶しました。彼は、彼らにとって、最後の人と成りました。

 

316. アーナンダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、マガデーヴァ王として〔世に〕有ったのだ。彼によって、その善き行持が設置されたとして』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、マガデーヴァ王として〔世に〕有ったのです。わたしが、その善き行持を設置しました。わたしによって、その善き行持が設置され、後の人々が、〔それを、わたしに〕従い転起させました。アーナンダよ、また、まさに、その善き行持は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、梵の世への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起します。アーナンダよ、また、まさに、今現在、わたしによって設置された、この善き行持は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。アーナンダよ、では、今現在、わたしによって設置された、どのような善き行持が、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。アーナンダよ、まさに、今現在、わたしによって設置された、この善き行持は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。アーナンダよ、わたしは、それを、あなたたちに、このように説きます。『すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔あなたたちは、わたしに〕従い転起させるのだ。あなたたちは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない』〔と〕。アーナンダよ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成ります。アーナンダよ、わたしは、それを、あなたたちに、このように説きます。『すなわち、わたしによって設置された、この善き行持を、〔あなたたちは、わたしに〕従い転起させるのだ。あなたたちは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 マガデーヴァの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(84). マドゥラーの経

 

317. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、マドゥラーに住んでいます。グンダー林において。まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、「君よ、まさに、沙門カッチャーナが、マドゥラーに住んでいる。グンダー林において。また、まさに、彼に、貴君カッチャーナに、このように、善き評価の声が上がっている。『賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者である。まさしく、そして、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』〔と〕。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、マドゥラーから出発しました──大いなる王の威力をもって、尊者マハー・カッチャーナと会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。ここに、貴君カッチャーナは、何を告げ知らせる者ですか」と。「大王よ、まさに、これは、世における、ただの騒音です。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』という、〔このことは〕。大王よ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。

 

318. 大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、士族として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、士族として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、婆羅門として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、婆羅門として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、庶民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、庶民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、隷民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、隷民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性(相違点)を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。

 

319. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は、虚偽を説く者は、中傷の言葉ある者は、粗暴な言葉ある者は、雑駁な虚論ある者は、強欲〔の思い〕ある者は、憎悪している心の者は、誤った見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。

 

 「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として……略……誤った見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、隷民もまた、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。

 

 「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。

 

320. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者は、虚偽を説くことから離間した者は、中傷の言葉から離間した者は、粗暴な言葉から離間した者は、雑駁な虚論から離間した者は、強欲〔の思い〕なき者は、憎悪していない心の者は、正しい見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。

 

 「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として……略……正しい見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、隷民もまた、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。

 

 「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。

 

321. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、あるいは、〔家の〕境目を断ち切り(家屋に侵入する)、あるいは、強奪物を運び去り(略奪し強奪する)、あるいは、泥棒を為し、あるいは、〔往来者から強奪するために〕路傍に立ち、あるいは、他者の妻のもとに赴くとして(不倫をする)、もし、人たちが、彼を捕捉して、あなたに見せるなら、『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、殺害し、あるいは、〔財を〕収奪し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為すでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『士族』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『盗賊』という名称に至るからです」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……ここに、庶民が……略……ここに、隷民が、あるいは、〔家の〕境目を断ち切り、あるいは、強奪物を運び去り、あるいは、泥棒を為し、あるいは、〔往来者から強奪するために〕路傍に立ち、あるいは、他者の妻のもとに赴くとして、もし、人たちが、彼を捕捉して、あなたに見せるなら、『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、殺害し、あるいは、〔財を〕収奪し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為すでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『隷民』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『盗賊』という名称に至るからです」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。

 

322. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家し、命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、夜〔の食事〕を止めた者として、一食の者として、梵行者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存するなら、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『士族』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『沙門』という名称に至るからです」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……ここに、庶民が……略……ここに、隷民が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家し、命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、夜〔の食事〕を止めた者として、一食の者として、梵行者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存するなら、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『隷民』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『沙門』という名称に至るからです」と。

 

 「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』という、〔このことが〕」〔と〕。

 

323. このように説かれたとき、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君カッチャーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君カッチャーナを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。「大王よ、まさに、わたしを帰依所に赴いてはいけません。あなたは、まさしく、彼を、世尊を帰依所に赴きたまえ。わたしが、彼を帰依所に赴いた者としてある、〔そのとおりに〕」と。「貴君カッチャーナよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか」と。「大王よ、まさに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、〔すでにもう〕完全なる涅槃に到達したのです」と。「貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、十ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)において耳にするなら、わたしどもは、十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、二十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、二十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、三十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、三十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、四十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、四十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、五十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、五十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、百ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、百ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、しかしながら、すなわち、彼が、世尊が完全なる涅槃に到達したことから、わたしどもは、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 マドゥラーの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(85). ボーディ王子の経

 

324. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、ボーディ王子に、コーカナダという名の造営されたばかりの高楼が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。そこで、まさに、ボーディ王子は、サンジカープッタ学徒に告げました。「友よ、サンジカープッタよ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、ボーディ王子は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、まさに、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンジカープッタ学徒は、世尊に、こう言いました。「まさに、ボーディ王子は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『まさに、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、サンジカープッタ学徒は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、ボーディ王子のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ボーディ王子に、こう言いました。「貴君の言葉でもって、彼に、貴君ゴータマに言いました。『まさに、ボーディ王子は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。「まさに、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください」』と。また、そして、沙門ゴータマによって、〔それは〕承諾されました」と。

 

325. そこで、まさに、ボーディ王子は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、そして、コーカナダ高楼を、すなわち、諸々の階段の最後の段に至るまで、諸々の白い布で敷き詰めさせて、サンジカープッタ学徒に告げました。「友よ、サンジカープッタよ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、世尊に、時を告げなさい。『尊き方よ、時間です。食事ができました』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、時を告げました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ボーディ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、ボーディ王子は、世尊を待ちながら、門小屋の外に立った状態でいます。まさに、ボーディ王子は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、出迎えて、世尊を敬拝して、〔世尊を〕前にして、コーカナダ高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、世尊は、階段の最後の段に依拠して立ちました(歩みを止めた)。そこで、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、諸々の布にお登りください。善き至達者たる方は、諸々の布にお登りください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、諸々の布にお登りください。善き至達者たる方は、諸々の布にお登りください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

326. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダを顧みました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ボーディ王子に、こう言いました。「王子よ、諸々の布をたたんでください。世尊は、布や毛布を踏みしめません。如来は、後の人々を慈しみます」と。そこで、まさに、ボーディ王子は、諸々の布をたたませて、コーカナダ高楼の上において、諸々の坐を設けさせました。そこで、まさに、世尊は、コーカナダ高楼に登って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ボーディ王子は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ボーディ王子は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしに、まさに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきである』」と。

 

327. 「王子よ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしにもまた、このような〔思いが〕有りました。『まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきである』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように出家者として〔世に〕存しながら、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。王子よ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。王子よ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。

 

 王子よ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が……略……気づきが……禅定が……智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。王子よ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。王子よ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

328. 王子よ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。王子よ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。王子よ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が……略……気づきが……禅定が……智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。王子よ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

329. 王子よ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、清らかな密林を、さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、清らかな密林である。さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。王子よ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。

 

 王子よ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。

 

330. 王子よ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。王子よ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。

 

331. 王子よ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。王子よ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえのうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。

 

332. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。王子よ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

333. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体中の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の(ふいご)が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 王子よ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。

 

334. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。王子よ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生(なま)の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。王子よ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。王子よ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。

 

335. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五人組の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。王子よ、すなわち、まさに、わたしが、粗大なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五人組の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。

 

336. 王子よ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。王子よ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。王子よ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。王子よ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

337. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう』と。王子よ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。

 

 〔すなわち〕『苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。

 

 〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない』と。

 

 王子よ、まさに、かくのごとく、わたしが深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きません(説法を躊躇する)。

 

338. 王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに──〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ』と。王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。王子よ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

 〔すなわち〕『過去において、マガダ〔国〕に、清浄ならざる法(教え)が出現しました──〔世俗の〕垢を有する者たちによって思弁されたものとして。〔あなたこそは〕開示したまえ──〔まさに〕この、不死の門を。〔世の人々は〕聞け──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚された〔清浄なる〕法(教え)を。

 

 たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。

 

 勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう』と。

 

339. 王子よ、そこで、まさに、わたしは、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。王子よ、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。王子よ、そこで、まさに、わたしは、梵〔天〕のサハンパティに、詩偈をもって答えました。

 

 〔すなわち〕『彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった』と。

 

340. 王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、『まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、世尊が機会を作った者として』と、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、アーラーラ・カーラーマは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。王子よ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、アーラーラ・カーラーマである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、ウダカ・ラーマプッタに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。王子よ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、ウダカ・ラーマプッタである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。

 

341. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『五人組の比丘たちは、まさに、わたしのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、彼らは、精励のために自己を精励するわたしに奉仕してくれた。それなら、さあ、わたしは、五人組の比丘たちに、最初に、法(教え)を説示するべきである』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どこに、今現在、五人組の比丘たちは住んでいるのか』と。王子よ、まさに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、五人組の比丘たちが、バーラーナシーのイシパタナの鹿園において住んでいるのを見ました。王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウルヴェーラーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。

 

 王子よ、まさに、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)のウパカは、かつまた、ガヤーの、かつまた、菩提〔樹〕の、それぞれの中途において、旅の道を行くわたしを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『友よ、まさに、あなたの、諸々の〔感官の〕機能は清らかであり、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。友よ、誰を、〔師と〕指定して、あなたは、出家者として〔世に〕存しているのですか。あるいは、誰が、あなたの教師なのですか。あるいは、誰の法(教え)を、あなたは喜ぶのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、アージーヴァカのウパカに、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔世尊が、詩偈に言う〕『わたしは、一切を征服する者として、一切を知る者として、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。

 

 わたしに、師匠は存在しない。わたしに、同等の者は見出されない。天を含む世において、わたしに、対する人は存在しない。

 

 まさに、わたしは、世における阿羅漢である。わたしは、無上なる教師である。独り、正等覚者として、〔わたしは〕存している。〔心が〕清涼と成った者として、涅槃に到達した者として、〔わたしは〕存している。

 

 法(真理)の輪を転起させるために、カーシ〔国〕の都に、〔わたしは〕赴く。暗愚と成った世において、不死の雷鼓を打つであろう』と。

 

 『友よ、すなわち、まさに、あなたが明言するとおりなら、〔あなたは〕無辺の勝者たるに値します』と。

 

 〔世尊が、詩偈に言う〕『わたしのような者たちは、まさに、勝者たちとして〔世に〕有る──彼ら、煩悩の滅尽に至り得た者たちは。わたしは、諸々の悪しき法(性質)に勝利した。ウパカよ、それゆえに、わたしは、勝者である』と。

 

 王子よ、このように説かれたとき、アージーヴァカのウパカは、『友よ、〔そのように〕成るかもしれません』と言って、頭を振って、悪しき道を収め取って、立ち去りました。

 

342. 王子よ、そこで、まさに、わたしは、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのイシパタナの鹿園のあるところに、五人組の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。王子よ、まさに、五人組の比丘たちは、わたしが、遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。『友よ、この者が、まさに、沙門ゴータマが、やってきます。贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者です。彼は、まさしく、敬拝されるべきではなく、立礼されるべきではなく、彼の鉢と衣料は納受されるべきではありません。しかしながら、また、まさに、坐は据え置かれるべきです。それで、もし、彼が望むなら、坐るでしょう』と。王子よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、わたしが、五人組の比丘たちに近づいて行ったなら、そのとおり、そのとおりに、五人組の比丘たちは、自らの取り決めを守ることができませんでした。一部の者たちはまた、わたしを出迎えて、鉢と衣料を収め取り、一部の者たちはまた、坐を設け、一部の者たちはまた、足用の水を調達しました。しかしながら、また、まさに、わたしを、そして、名前で、さらに、『友よ』という言い方で、呼び慣わします。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来を、そして、名前で、さらに、「友よ」という言い方で、呼び慣わしてはいけません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、再度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、再度また、まさに、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、三度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、まさに、あなたたちは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、わたしに、このような形態の、この光り輝きがあることを』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。

 

 王子よ、まさに、わたしは、五人組の比丘たちを説得することができました。王子よ、まさに、また、二者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、三者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、三者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。王子よ、まさに、また、三者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、二者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、二者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。

 

343. 王子よ、そこで、まさに、五人組の比丘たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました」と。このように説かれたとき、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さによって、比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになるのでしょうか」と。「王子よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王子よ、それを、どう思いますか。あなたは、象に乗り鉤を把持する技術に巧みな智ある者ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです。わたしは、象に乗り鉤を把持する技術に巧みな智ある者です」と。「王子よ、それを、どう思いますか。ここに、人がやってくるとします。『ボーディ王子は、象に乗り鉤を把持する技術を知っている。わたしは、彼の現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学ぶのだ』と。そして、彼が、信なき者として〔世に〕存しているなら、すなわち、信ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、病苦多き者として〔世に〕存しているなら、すなわち、病苦少なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存しているなら、すなわち、狡猾なき者が〔至り得るべきであり〕、幻惑なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、怠惰の者として〔世に〕存しているなら、すなわち、精進に励む者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、智慧浅き者として〔世に〕存しているなら、すなわち、智慧ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あなたの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょうか」と。「尊き方よ、たとえ、一つ一つの支分であれ、〔それを〕具備しているなら、その人は、わたしの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べないでしょう。五つの支分を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

344. 「王子よ、それを、どう思いますか。ここに、人がやってくるとします。『ボーディ王子は、象に乗り鉤を把持する技術を知っている。わたしは、彼の現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学ぶのだ』と。そして、彼が、信ある者として〔世に〕存しているなら、すなわち、信ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、病苦少なき者として〔世に〕存しているなら、すなわち、病苦少なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕存しているなら、すなわち、狡猾なき者が〔至り得るべきであり〕、幻惑なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、精進に励む者として〔世に〕存しているなら、すなわち、精進に励む者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、智慧ある者として〔世に〕存しているなら、すなわち、智慧ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あなたの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょうか」と。「尊き方よ、たとえ、一つ一つの支分であれ、〔それを〕具備しているなら、その人は、わたしの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょう。五つの支分を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの精励の支分です。どのようなものが、五つのものなのですか。王子よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。王子よ、まさに、これらの五つの精励の支分があります。

 

345. 王子よ、これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七年のあいだに。王子よ、七年は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六年のあいだに。……五年のあいだに。……四年のあいだに。……三年のあいだに。……二年のあいだに。……一年のあいだに。王子よ、一年は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七月のあいだに。王子よ、七月は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六月のあいだに。……五月のあいだに。……四月のあいだに。……三月のあいだに。……二月のあいだに。……一月のあいだに。……半月のあいだに。……。王子よ、半月は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七つの夜と昼のあいだに。王子よ、七つの夜と昼は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六つの夜と昼のあいだに。……五つの夜と昼のあいだに。……四つの夜と昼のあいだに。……三つの夜と昼のあいだに。……二つの夜と昼のあいだに。……一つの夜と昼のあいだに。王子よ、一つの夜と昼は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ、夕に教示され、朝に殊勝〔の境地〕に到達するでしょうし、朝に教示され、夕に殊勝〔の境地〕に到達するでしょう」と。このように説かれたとき、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「ああ、覚者なるかな。ああ、法(教え)なるかな。ああ、法(教え)の見事に告げ知らされたことかな。なぜなら、そこで、まさに、夕に教示され、朝に殊勝〔の境地〕に到達するであろうとは、朝に教示され、夕に殊勝〔の境地〕に到達するであろうとは」と。

 

346. このように説かれたとき、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に、こう言いました。「また、まさしく、このように、そして、この貴君ボーディは、『ああ、覚者なるかな。ああ、法(教え)なるかな。ああ、法(教え)の見事に告げ知らされたことかな』と説くも、そこで、また、しかしながら、彼を、貴君ゴータマを帰依所に赴きません──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を」と。「友よ、サンジカープッタよ、まさに、このように言ってはいけません。友よ、サンジカープッタよ、まさに、このように言ってはいけません。友よ、サンジカープッタよ、わたしは、このことを、母上の、面前で聞き、面前で受けました。友よ、サンジカープッタよ、これは、或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、妊婦であるわたしの母上が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしの母上は、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、すなわち、この、わたしのお腹に在している、あるいは、王子は、あるいは、王女は、その〔子〕は、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、その〔子〕を、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として』と。友よ、サンジカープッタよ、これは、或る時のことです。世尊は、まさしく、ここに、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、乳母が、わたしを脇にかかえて運んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、乳母は、わたしを〔差し出して〕、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、このボーディ王子は、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、彼を、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として』と。友よ、サンジカープッタよ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、彼を、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 ボーディ王子の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(86). アングリマーラの経

 

347. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土において、アングリマーラという名の盗賊が〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾(死者の指でできた首輪)を〔身に〕付けます。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、盗賊のアングリマーラのいるところに、そこへと、街道を行きます。まさに、牛飼いたちは、牧畜者たちは、耕作者たちは、道行く者たちは、世尊が、盗賊のアングリマーラのいるところに、そこへと、街道を行くのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この道を行ってはいけません。沙門よ、この道において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。沙門よ、まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くのですが、彼らもまた、盗賊のアングリマーラの手中に赴きます」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の状態で赴きました。再度また、まさに、牛飼いたちは……略……。三度またまさに、牛飼いたちは、牧畜者たちは、耕作者たちは、道行く者たちは、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この道を行ってはいけません。沙門よ、この道において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。沙門よ、まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くのですが、彼らもまた、盗賊のアングリマーラの手中に赴きます」と。

 

348. そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態で赴きました。まさに、盗賊のアングリマーラは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くが、彼らもまた、わたしの手中に赴く。そこで、また、しかしながら、沙門は、独り、伴侶なき者となり、思うに、無理やりやってくる。それなら、さあ、わたしは、この沙門の生命を奪うのだ」と。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラは、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、すなわち、盗賊のアングリマーラが、普通に赴いている世尊を、全力で赴きながらも得達することができない、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、わたしは、過去においては、走っている象をもまた追いかけて捕捉し、走っている馬をもまた追いかけて捕捉し、走っている車をもまた追いかけて捕捉し、走っている鹿をもまた追いかけて捕捉する。そこで、また、しかしながら、わたしは、この、普通に赴いている沙門を、全力で赴きながらも得達することができないとは」と。まさしく、〔そこにおいて、盗賊のアングリマーラは〕立つ者となり、世尊に、こう言いました。「沙門よ、止まれ、止まりなさい」と。「アングリマーラよ、わたしは立っています。では、あなたが、止まりなさい」と。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの釈子たる沙門たちは、真理を説く者たちであり、真理を明言する者たちである。そこで、また、この沙門は、まさしく、赴きながら言った。『アングリマーラよ、わたしは立っています。では、あなたが、止まりなさい』と。それなら、さあ、わたしは、この沙門に尋ねるのだ」と。

 

349. そこで、まさに、盗賊のアングリマーラは、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

 〔盗賊のアングリマーラが、詩偈に言う〕「沙門よ、〔あなたは〕赴きつつあるのに、〔自らについて〕『〔わたしは〕立つ者として存している』〔と〕説きます。かつまた、わたしのことを、立つ者であるのに、『〔あなたは〕立たざる者である』と説きます。沙門よ、この義(意味)を、あなたに尋ねます。どうして、あなたは、立つ者として〔存し〕、わたしは、立たざる者として存しているのですか」と。

 

 〔世尊が、詩偈に言う〕「アングリマーラよ、わたしは、一切時に、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔自ら依って〕立つ者(自己確立者)として〔存しています〕。しかしながら、あなたは、命あるものたちにたいし、自制なき者として存しています。それゆえに、わたしは立つ者として〔存し〕、あなたは立たざる者として存しているのです」と。

 

 〔盗賊のアングリマーラが、詩偈に言う〕「長きにわたり、まさに、わたしの敬する偉大なる聖賢が、真理を説く者が、大いなる林に至り得た。〔まさに〕その、わたしは、悪を捨棄して歩むのだ──法(真理)と結び付いた、あなたの詩偈を聞いて〔そののちは〕」〔と〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、かくのごとく〔語り〕、盗賊は、剣を、さらに、武器を、暗坑と深淵の奈落に投棄した。盗賊は、善き至達者の〔両の〕足を敬拝し、まさしく、その場で、出家することを、彼に乞い求めた。

 

 そして、覚者は、まさに、慈悲の者たる偉大なる聖賢は、すなわち、天を含む世の教師は、そのとき、彼に、『比丘よ、来たれ』と言い、まさしく、これが、彼にとって、比丘たる状態(比丘の資質を有すること)と成った」と。

 

350. そこで、まさに、世尊は、尊者アングリマーラを随伴の沙門として、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の内宮の門に大勢の人の衆が集まって、高い声をあげ大きな音をたて、〔世に〕有ります。「陛下よ、あなたの領土において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。陛下は、彼を制止してください」と。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、五百の馬とともに、サーヴァッティーから出立しました──昼のさなかに。林園のあるところに、そこへと入りました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、いったい、どうなのでしょう、あなたに、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が激情したのですか──あるいは、ヴェーサーリーのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、あるいは、他の敵王たちが」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が激情したのではありません──あるいは、ヴェーサーリーのリッチャヴィ〔族〕の者たちでもまたなく、あるいは、他の敵王たちでもまたなく。尊き方よ、わたしの領土において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。尊き方よ、わたしは、彼を制止するのです」と。「大王よ、また、それで、もし、あなたが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したアングリマーラを見るなら──命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、一食の者であり、梵行者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である、〔アングリマーラを見るなら〕──どのようなことを、彼に為しますか」と。「尊き方よ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。尊き方よ、また、どうして、彼に、劣戒の者に、悪しき法(性質)ある者に、このような形態の戒の自制が有るというのでしょう」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者アングリマーラは、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、右腕を差し出して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、この者は、アングリマーラです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、まさしく、恐怖が有り、驚愕が有り、身の毛のよだちが有りました。そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じたのを見出して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、恐れてはいけません。大王よ、あなたに、これより、恐怖は存在しません」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に有った、すなわち、あるいは、恐怖も、あるいは、驚愕も、あるいは、身の毛のよだちも、それは安息しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アングリマーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アングリマーラに、こう言いました。「尊き方よ、尊貴なる方は、まさに、アングリマーラですか」と。「大王よ、そのとおりです」と。「尊貴なる方の父は、どのような姓の者ですか。尊貴なる方の母は、どのような姓の者ですか」と。「大王よ、まさに、父は、ガッガであり、母は、マンターニーです」と。「尊き方よ、尊貴なる方は、マンターニーの子であるガッガは、喜び楽しみたまえ。わたしは、尊貴なる方のために、マンターニーの子であるガッガのために、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品に思い入れを為しましょう」と。

 

351. また、まさに、その時点にあって、尊者アングリマーラは、林にある者として、〔行乞の〕施食の者として、糞掃衣の者として、三つの衣料の者として、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、十分です。わたしに、衣料は遍く満ちています」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊が、これほどまでに、調御されていない者たちを調御する方であるのは、寂静となっていない者たちを寂静とする方であるのは、完全なる涅槃に到達していない者たちを完全なる涅槃に到達させる方であるのは。尊き方よ、なぜなら、わたしたちは、その者を、棒によってもまた、刃によってもまた、調御することができなかったのに、世尊によって、彼が、まさしく、棒によらずして、刃によらずして、調御されたからです。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者アングリマーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者アングリマーラは、サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの婦女が、難産となり、お産に苦しむのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている。ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている」と。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アングリマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、わたしは、サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの婦女が、難産となり、お産に苦しむのを見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている。ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている』」と。

 

 「アングリマーラよ、まさに、それでは、あなたは、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、このように説きなさい。『姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理(真実)によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕』」と。

 

 「尊き方よ、まさに、それは、まちがいなく、わたしにとって、正知の者として虚偽を説くこと(故意の噓)と成るでしょう。尊き方よ、なぜなら、わたしによって、思弁して〔そののち〕、多くの命あるものの生命が奪われたからです」と。「アングリマーラよ、まさに、それでは、あなたは、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、このように説きなさい。『姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アングリマーラは、世尊に答えて、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、こう言いました。「姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕」と。そこで、まさに、その婦女に、安穏が有りました。胎児に、安穏が〔有りました〕。

 

 そこで、まさに、尊者アングリマーラは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者アングリマーラは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

352. そこで、まさに、尊者アングリマーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、他の者によってもまた、土塊が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下し、他の者によってもまた、棒が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下し、他の者によってもまた、小石が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下します。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、破断し血が滴り出る頭で、破断した鉢とともに、引き裂かれた大衣とともに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者アングリマーラが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アングリマーラに、こう言いました。「婆羅門よ、あなたは、耐えなさい。婆羅門よ、あなたは、耐えなさい。婆羅門よ、まさに、あなたが、その行為の報いによって、幾年、幾百年、幾千年のあいだ、地獄において煮られることになる、その行為の報いを、婆羅門よ、あなたは、まさしく、所見の法(現世)において得知します」と。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、静所に赴き静坐している者となり、解脱の安楽を得知し、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、まさしく、過去において、〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

 彼の為した悪しき行為が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

 彼が、まさに、青年でありながら、比丘として、覚者の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

 まさに、わたしの敵たちは、法(真理)の言説を聞け。まさに、わたしの敵たちは、覚者の教えに専念せよ。まさに、わたしの敵たちは、それらの人間たちと(※)親しくせよ──すなわち、まさしく、法(真理)を〔あなたたちに〕取らせてくれる、正しくある者たちと。

 

※ テキストには manujā とあるが、PTS版により manuje と読む。

 

 まさに、わたしの敵たちは、忍耐を説く者たちの──〔誰をも〕遮らないことで賞賛ある者たちの──〔彼らの〕法(教え)を、〔正しい〕時に聞け。そして、それを順守せよ。

 

 

 まさに、たしかに、彼(ブッダ)は、わたしを害さず、また、あるいは、それが誰であれ(※)、他の者を〔害さず〕、最高の寂静に至り得て、動くものと動かないものたち(一切の生類)を守るであろう。

 

※ テキストには kiñci naṃ とあるが、PTS版により kañci naṃ と読む。

 

 まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。

 

 或る者たちは、棒によって、諸々の鉤によって、さらに、諸々の鞭によって、〔他者を〕調御する。棒によらず、刃によらず、如なる方によって調御された者として、わたしは〔世に〕存している。

 

 かつて、〔他を〕害する者として〔世に〕存しつつも、わたしの名は、『アヒンサカ(不害の者)』という。今日、わたしは、真の名ある者として〔世に〕存している。それが誰であれ(※)、その者を、〔わたしは〕害さない。

 

※ テキストには kiñci naṃ とあるが、PTS版により kañci naṃ と読む。

 

 かつて、わたしは、盗賊として〔世に〕存していた。『アングリマーラ(指で作られた輪をかける者)』として〔世に〕聞こえた者だった。大激流に運ばれつつも、〔わたしは〕覚者という帰依所に至り着いた。

 

 かつて、血の手をもつ者として〔世に〕存していた。『アングリマーラ』として〔世に〕聞こえた者だった。見よ──帰依所に赴く〔わたし〕を。〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。

 

 悪しき境遇に至る、そのような〔悪しき〕行為を多く為して、行為の報いに触れた〔わたし〕が、〔今は〕借りなき者となり、〔施しの〕食を受ける。

 

 怠ること(放逸)に専念するのが、愚者たちであり、思慮浅き人たちである。しかしながら、思慮ある者は、怠らないこと(不放逸)に〔専念する〕──最勝の財を守るように。

 

 怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、広大なる安楽に至り得るからである。

 

 善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの──それに、〔わたしは〕近しく赴いた。

 

 善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された」と。

 

 アングリマーラの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(87). 愛しいものから生じるものの経

 

353. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの家長の、愛しく意に適う独り子が、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。彼は、火葬場に赴いて、泣き叫びます。「独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ」と。そこで、まさに、その家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、まさに、あなたには、自らの心に立脚している者の諸々の〔感官の〕機能はなく、あなたには、諸々の〔感官の〕機能の他化(異常)が存在します」と。「尊き方よ、まさに、どうして、わたしに、諸々の〔感官の〕機能の他化が有ることなくあるというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしの、愛しく意に適う独り子が、命を終えたのです。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。〔まさに〕その、わたしは、火葬場に赴いて、泣き叫びます。『独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ』」と。「家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。「尊き方よ、まさに、誰にとって、まさに、このように、このことが有るというのでしょう。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』という、〔このことが〕。尊き方よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、まさに、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。そこで、まさに、その家長は、世尊の語ったことを大いに喜ばずして、弾劾して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

354. また、まさに、その時点にあって、大勢の賭博師たちが、世尊から遠く離れていないところで、諸々の賭博で遊んでいます。そこで、まさに、その家長は、それらの賭博師たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの賭博師たちに、こう言いました。「諸君よ、ここに、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、沙門ゴータマを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしに、沙門ゴータマは、こう言いました。『家長よ、まさに、あなたには、自らの心に立脚している者の諸々の〔感官の〕機能はなく、あなたには、諸々の〔感官の〕機能の他化が存在します』と。諸君よ、このように説かれたとき、わたしは、沙門ゴータマに、こう言いました。『尊き方よ、まさに、どうして、わたしに、諸々の〔感官の〕機能の他化が有ることなくあるというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしの、愛しく意に適う独り子が、命を終えたのです。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。〔まさに〕その、わたしは、火葬場に赴いて、泣き叫びます。「独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ」』と。『家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。『尊き方よ、まさに、誰にとって、まさに、このように、このことが有るというのでしょう。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」という、〔このことが〕。尊き方よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、まさに、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。諸君よ、そこで、まさに、わたしは、沙門ゴータマの語ったことを大いに喜ばずして、弾劾して、坐から立ち上がって、立ち去りました」と。「家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。そこで、まさに、その家長は、「わたしの〔言葉は〕、賭博師たちと合致する」と、立ち去りました。そこで、まさに、この話題は、順次に、王の内宮へと入り行きました。

 

355. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、マッリカー王妃に告げました。「マッリカーよ、この〔言葉〕が、あなたの〔敬愛する〕沙門ゴータマによって語られた。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』」と。「大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります」と。「また、まさしく、このように、このマッリカーは、沙門ゴータマが、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、大いに随喜する。『大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります』と。それは、たとえば、また、まさに、師匠が、内弟子に、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、内弟子が、大いに随喜するように、『師匠よ、このように、このことはあります。師匠よ、このように、このことはあります』と、マッリカーよ、まさしく、このように、まさに、おまえは、沙門ゴータマが、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、大いに随喜する。『大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります』と。マッリカーよ、もう、行け、さあ、下がりなさい」と。そこで、まさに、マッリカー王妃は、ナーリジャンガ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、マッリカー王妃は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、いったい、まさに、この言葉は、世尊によって語られたのですか。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」』と。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおりに、それを、善くしっかりと収め取って、わたしに告げるのです。なぜなら、如来たちは、真実を離れることを話さないからです」と。「尊女よ、わかりました」と、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、マッリカー王妃に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、マッリカー王妃は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『尊き方よ、いったい、まさに、この言葉は、世尊によって語られたのですか。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」』」と。

 

356. 「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、まさに、『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』という、〔このことは〕。婆羅門よ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに。婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女の母が、命を終えました。彼女は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。

 

 婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……夫が、命を終えました。彼女は、その〔夫〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの夫を見ましたか。さてまた、わたしの夫を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。

 

 婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の母が、命を終えました。彼は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。

 

 婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……妻が、命を終えました。彼は、その〔妻〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの妻を見ましたか。さてまた、わたしの妻を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。

 

 婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女が、親族の家に赴きました。彼女の、それらの親族たちは、〔彼女から〕夫を引き離して、〔彼女を〕他の者に与えることを欲しています。しかしながら、彼女は、それを求めません。そこで、まさに、その女は、夫に、こう言いました。『旦那様、これらの親族たちは、〔わたしから〕あなたを引き離して、わたしを他の者に与えることを欲しています。しかしながら、わたしは、それを求めません』と。そこで、まさに、その男は、その女を二様に断ち切って、自己を切り裂きました。『両者ともに、死してのち、〔一緒に〕成るのだ』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに」と。

 

357. そこで、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、マッリカー王妃のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、マッリカー王妃に告げました。そこで、まさに、マッリカー王妃は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴァジリー王女は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴァジリー王女は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴァジリー王女の変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴァジリー王女の変化と他化の状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。

 

 大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴァ―サバ―女性士族は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴァ―サバ―女性士族は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴァ―サバ―女性士族の変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴァ―サバ―女性士族の変化と他化の状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。

 

 大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴィタトゥーバ軍団長は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴィタトゥーバ軍団長は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴィタトゥーバ軍団長の変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴィタトゥーバ軍団長の変化と他化の状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。

 

 大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、わたしは、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、おまえは、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、わたしの変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、おまえの変化と他化の状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。

 

 大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕は、愛しいものですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕は、愛しいものである。マッリカーよ、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の威力によって、〔わたしたちは〕カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持する」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の変化と他化の状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の変化と他化の状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』」と。

 

 「マッリカーよ、めったにないことだ。マッリカーよ、はじめてのことだ。さてまた、それほどまでに、彼が、世尊が、智慧によって理解して、思うに、〔真理を〕見るとは。マッリカーよ、さあ、清めの水をもってきなさい」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。

 

 愛しいものから生じるものの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(88). 外衣の経

 

358. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、エーカプンダリーカ象に乗って、サーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、シリヴァッダ大臣に告げました。「友よ、シリヴァッダよ、まさに、この方は、尊者アーナンダである」と。「大王よ、そのとおりです。この方は、尊者アーナンダです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、それで、もし、まさに、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、寸時のあいだ、お待ちください──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その家来は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、それで、もし、まさに、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、寸時のあいだ、お待ちください──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、およそ、象の〔行ける〕地があるかぎり、象によって赴いて、象から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、アチラヴァティー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

359. そこで、まさに、尊者アーナンダは、アチラヴァティー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、或るどこかの木の根元において、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、およそ、象の〔行ける〕地があるかぎり、象によって赴いて、象から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、尊者アーナンダは、ここに、象の敷物に坐りたまえ」と。「大王よ、十分です。あなたが坐ってください。わたしは、自らの坐に坐っています」と。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、それが、沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、身体の励行であるなら、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を励行できますか」と。「大王よ、それが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、身体の励行であるなら、まさに、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を励行できません」と。

 

 「尊き方よ、また、どうなのでしょう、それが、沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、言葉の励行であるなら、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を……略……意の励行を励行できますか」と。「大王よ、それが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、意の励行であるなら、まさに、彼は、世尊は、そのような形態の意の励行を励行できません」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、なぜなら、そのことを、わたしどもは、問いによって円満成就させることができなかったのですが、尊き方よ、そのことが、尊者アーナンダによって、問いへの説き明かしによって、円満成就されたからです。尊き方よ、すなわち、それらの愚者にして明敏ならざる者たちは、随知せずして、深解せずして、他者たちの、あるいは、栄誉を〔語り〕、あるいは、栄誉ならざることを語ります。わたしどもは、それを、真髄として信認することはありません。尊き方よ、いっぽう、すなわち、それらの賢者にして明敏なる者たちは、随知して、深解して、他者たちの、あるいは、栄誉を〔語り〕、あるいは、栄誉ならざることを語ります。わたしどもは、それを、真髄として信認します。

 

360. 尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、身体の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善ならざるものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、善ならざるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過を有するものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過を有するものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕を有するものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕を有するものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、苦痛の報い(異熟)あるものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、苦痛の報いあるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する、身体の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、身体の励行です」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、言葉の励行なのですか」と。……略……意の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善ならざるものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、善ならざるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過を有するものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過を有するものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕を有するものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕を有するものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、苦痛の報いあるものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、苦痛の報いあるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する、意の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、意の励行です」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、彼は、世尊は、まさしく、全ての善ならざる法(性質)の捨棄を褒め称えるのですか」と。「大王よ、まさに、如来は、全ての善ならざる法(性質)の捨棄ある者であり、善なる法(性質)を具備した者です」と。

 

361. 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、身体の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善なるものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、善なるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過なきものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過なきものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕なきものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕なきものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、安楽の報いあるものである、身体の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、安楽の報いあるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する、身体の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、身体の励行です」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、言葉の励行なのですか」と。……略……意の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善なるものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、善なるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過なきものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過なきものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕なきものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕なきものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、安楽の報いあるものである、意の励行です」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、安楽の報いあるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する、意の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、意の励行です」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どうなのでしょう、彼は、世尊は、まさしく、全ての善なる法(性質)の成就を褒め称えるのですか」と。「大王よ、まさに、如来は、全ての善ならざる法(性質)の捨棄ある者であり、善なる法(性質)を具備した者です」と。

 

362. 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、尊者アーナンダによって、これほどまでに、見事に語られたのは。尊き方よ、そして、わたしどもは、尊者アーナンダの、この見事に語られた〔言葉〕によって、わが意を得た者たちとなり、満悦した者たちとなります。尊き方よ、そして、尊者アーナンダの、見事に語られた〔言葉〕によって、このように、わが意を得た者たちとして、満悦した者たちとして、わたしどもはあります。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、象の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、象の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、馬の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、馬の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、優れた村の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、優れた村の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、しかしながら、また、わたしどもはまた、このことを知っています。『尊者アーナンダに、これは適していない』と。尊き方よ、まさに、わたしには、マガダ〔国〕のアジャータサットゥ王によって衣用の筒に入れ置いて送り届けられた、長さとしては十六〔肘〕に等しく、幅としては八〔肘〕に等しい、この外衣があります。尊き方よ、尊者アーナンダは、それを納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「大王よ、十分です。わたしに、三つの衣料は遍く満ちています」と。

 

 「尊き方よ、このアチラヴァティー川は、まさしく、そして、尊者アーナンダによって、さらに、わたしどもによって、見るところです。すなわち、山の上において、激しく雨降らせる大いなる雨雲が有るとき、そこで、このアチラヴァティー川は、両岸に溢れ出ながら赴きます。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、尊者アーナンダは、この外衣によって、自己の三つの衣料を作ることになり、また、すなわち、尊者アーナンダの以前の三つの衣料ですが、それは、梵行を共にする者たちに分け与えられることになるでしょう。このように、この施物は、思うに、わたしどもに溢れ出ながら赴くでしょう。尊き方よ、尊者アーナンダは、外衣を納受したまえ」と。まさに、尊者アーナンダは、外衣を納受しました。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、坐から立ち上がって、尊者アーナンダを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

363. そこで、まさに、尊者アーナンダは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。そして、その外衣を、世尊に委ねました。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の利得があります。比丘たちよ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、アーナンダを、会見するために得るとは、奉侍するために得るとは」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 外衣の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(89). 法の塔廟の経

 

364. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、メーダールパという名の町があります。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、ナガラカに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ディーガ・カーラーヤナに告げました。「友よ、カーラーヤナよ、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。庭園のある地に、美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ディーガ・カーラーヤナは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に知らせました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ナガラカから出発しました──大いなる王の威力をもって、林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、林園において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、清信にして、清信されるべき、諸々の木の根元を見ました。見て、まさしく、世尊を対象として、気づきが生起しました。「そこにおいて、まさに、わたしたちが、彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に奉侍する、まさに、それらの、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、清信にして、清信されるべき、諸々の木の根元として、これらのものはある」と。

 

365. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ディーガ・カーラーヤナに告げました。「友よ、カーラーヤナよ、そこにおいて、まさに、わたしたちが、彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に奉侍する、まさに、それらの、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、清信にして、清信されるべき、諸々の木の根元として、これらのものはある。友よ、カーラーヤナよ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられるのだ」と。「大王よ、釈迦〔族〕の者たちには、メーダールパという名の町が存在します。そこにおいて、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられます」と。「友よ、カーラーヤナよ、また、ナガラカから、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町は、どれだけ遠くに有るのだ」と。「大王よ、遠くはありません。三ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)です。日中のうちには赴くことができます」と。「友よ、カーラーヤナよ、まさに、それでは、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。わたしたちは赴くのだ──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ディーガ・カーラーヤナは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に知らせました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ナガラカから、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町のあるところに、そこへと進み行きました。まさしく、その日中のうちに、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町に至り得ました。林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。

 

366. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか。まさに、わたしどもは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することを欲しています」と。「大王よ、この、戸が閉まっている精舎です。そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩いてください。世尊は、あなたのために、戸を開くでしょう」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、その、戸が閉まっている精舎のあるところに、そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。世尊は、戸を開きました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、精舎に入って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です。尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」と。

 

367. 「大王よ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、この肉体にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示すのですか」と。「尊き方よ、存在します──まさに、わたしには、世尊について、法(真理)による類推が有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。尊き方よ、ここに、わたしは、或る沙門や婆羅門たちが、制限付きの梵行を、十年のあいだもまた、二十年のあいだもまた、三十年のあいだもまた、四十年のあいだもまた、歩んでいるのを見ます。彼らは、他時にあって、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとい、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみます。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが、生あるかぎり、生命の終わりまで、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩んでいるのを見ます。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような円満成就した完全なる清浄の梵行を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

368. 尊き方よ、さらに、また、他に、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいるのを見ます。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような和合の衆を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

369. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、林園から林園へと、庭園から庭園へと、こちらを歩いては、あちらを歩みます。〔まさに〕その、わたしは、そこにおいて、或る沙門や婆羅門たちを見ます──痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちを。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようです。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『たしかに、これらの尊者たちは、あるいは、喜び楽しまない者たちとして梵行を歩み、あるいは、彼らには、何らかの悪しき行為で、為された〔そののち〕隠蔽されたものが存在する。なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちであるからだ。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようである』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、いったい、まさに、どうして、あなたたちは、痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちなのですか。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようです』と。彼らは、このように言いました。『大王よ、わたしたちには、眷属の病(家系の病)があるのです』と。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが、欣喜のうえにも欣喜し、勇躍のうえにも勇躍し、喜び楽しむ様子で、諸々の〔感官の〕機能が豊かで、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住んでいるのを見ます。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『たしかに、これらの尊者たちは、彼の、世尊の教えにおいて、前から後へと〔順次に〕、巨大なるものを〔知り〕、特殊なるものを知る。なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、欣喜のうえにも欣喜し、勇躍のうえにも勇躍し、喜び楽しむ様子で、諸々の〔感官の〕機能が豊かで、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住むからだ』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

370. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、即位灌頂した王たる士族であり、あるいは、殺害されるべき者を殺害することができ、あるいは、収奪されるべき者を収奪することが〔でき〕、あるいは、追放されるべき者を追放することが〔できます〕。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしが、裁きの場に坐ったなら、〔人々は〕中途中途で議論に割り込みます。〔まさに〕その、わたしは、『諸君よ、わたしが、裁きの場に坐ったなら、〔あなたたちは〕中途中途で議論に割り込んではならない。諸君よ、わたしの議論の終了を待ちたまえ』と〔言っても、承諾を〕得ません。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、〔人々は〕中途中途で議論に割り込みます。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちを見ます。その時点において、世尊が、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、世尊の弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ありません。尊き方よ、過去の事ですが、世尊は、幾百の衆に、法(教え)を説示します。そこで、或るひとりの世尊の弟子が、咳払いをしました。〔まさに〕その、この者を、或るひとりの梵行を共にする者が、『尊者よ、声少なき者と成れ。尊者よ、声を上げてはならない。教師が、世尊が、わたしたちに、法(教え)を説示する』と、膝で打ちました。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ああ、まさに、棒によらずして、刃によらずして、まさに、このような善く教導された衆と成るとは』と。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような善く教導された衆を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

371. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の士族の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、世尊のいるところに近づいて行きます。彼らに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、世尊に、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、世尊の弟子たちとして成就します(帰依する)。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

372. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の婆羅門の賢者たちで……略……家長の賢者たちで……略……沙門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、世尊のいるところに近づいて行きます。彼らに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、世尊に、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、世尊に、家から家なきへと出家するための機会を乞い求めます。彼らを、世尊は出家させます。彼らは、そこにおいて、出家者たちとして〔世に〕存しつつ、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼らは、このように言いました。『ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕滅び去っていた。ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕消え去っていた。なぜなら、わたしたちは、過去において、まさしく、沙門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「沙門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、婆羅門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「婆羅門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、阿羅漢ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「阿羅漢たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。今や、まさに、〔わたしたちは〕沙門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕婆羅門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕阿羅漢たちとして〔世に〕存している』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

373. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちとともにあります。わたしと食事をともにする者たちであり、わたしの乗物をともにする者たちであり、彼らにとって、わたしは、生計の付与者であり、盛名の将来者です。そこで、また、しかしながら、すなわち、世尊にたいするように、そのように、わたしにたいし、倒礼の所作を為すことはありません。尊き方よ、過去の事ですが、〔わたしが〕軍団を進撃させ、〔そのように〕存しつつ、かつまた、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちもともにあり、〔わたしは、彼らのことを〕考察しながら、或るどこかの狭苦しい居住所において住に入りました。尊き方よ、そこで、まさに、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちは、まさしく、夜の多くを、法(教え)についての議論のために過ごして、すなわち、世尊が有ったところに、そこへと頭を為して、わたしには足を為して、横になりました。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちは、わたしと食事をともにする者たちであり、わたしと乗物をともにする者たちであり、彼らにとって、わたしは、生計の付与者であり、盛名の将来者である。そこで、また、しかしながら、すなわち、世尊にたいするように、そのように、わたしにたいし、倒礼の所作を為すことがない。たしかに、これらの尊者たちは、彼の、世尊の教えにおいて、前から後へと〔順次に〕、巨大なるものを〔知り〕、特殊なるものを知る』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。

 

374. 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊もまた、士族であり、わたしもまた、士族であり、世尊もまた、コーサラ〔族〕であり、わたしもまた、コーサラ〔族〕であり、世尊もまた、八十歳であり、わたしもまた、八十歳です。尊き方よ、すなわち、また、世尊もまた、士族であり、わたしもまた、士族であり、世尊もまた、コーサラ〔族〕であり、わたしもまた、コーサラ〔族〕です。世尊もまた、八十歳であり、わたしもまた、八十歳である、まさしく、このことによって、このように、わたしは、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示すことに値します。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この者は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、諸々の法(教え)の塔廟を語って、坐から立ち上がって、立ち去ったのです。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を把握しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を学得しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を保持しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 法(教え)の塔廟の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(90). カンナカッタラの経

 

375. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルンニャーに住んでおられます。カンナカッタラの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、ウルンニャーに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、今日、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くでしょう』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その家来は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『尊き方よ、今日、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くでしょう』」と。まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、「今日、どうやら、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、食事が運ばれるとき、近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、まさに、それでは、わたしたちの言葉でもってもまた、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねてください。『尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』」と。

 

376. そこで、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます」と。「大王よ、また、どうして、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、他の使者を得なかったのですか」と。「尊き方よ、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、『今日、どうやら、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くらしい』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、食事が運ばれるとき、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『大王よ、まさに、それでは、わたしたちの言葉でもってもまた、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねてください。「尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます」』」と。「大王よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、彼女たちは、安楽の者たちと成れ」と。

 

377. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「大王よ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、彼らは、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します」と。

 

378. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴィタトゥーバ軍団長に告げました。「軍団長よ、いったい、まさに、誰が、この話題を、王の内宮において発したのだ」と。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門です」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、わたしの言葉でもって、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に告げなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、あなたを呼んでいます』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、あなたを呼んでいます」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、何らかの他のことに関して、世尊によって語られたことが存在し、そして、それを、他なるものとしてもまた、人々が信認するのでしょうか。尊き方よ、また、すなわち、どのように、世尊は、語られた言葉を証知しますか」と。「大王よ、このように、まさに、わたしは、語られた言葉を証知します(記憶している)。『すなわち、まさしく、一度に、一切を知ることになり、一切を見ることになる、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されません』」と。「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。『すなわち、まさしく、一度に、一切を知ることになり、一切を見ることになる、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されません』と。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。尊き方よ、いったい、まさに、これらの四つの階級には、差異が存するのでしょうか、多様性(相違点)が存するのでしょうか」と。「大王よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。大王よ、まさに、これらの四つの階級のなかの、二つの階級が至高のものと告げ知らされます。そして、士族たちであり、さらに、婆羅門たちです。すなわち、この、敬拝と奉仕と合掌の行為と和敬の行為としては」と。「尊き方よ、わたしは、世尊に、所見の法(現世)のものを尋ねるのではありません。尊き方よ、わたしは、世尊に、未来のものを尋ねます。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。尊き方よ、いったい、まさに、これらの四つの階級には、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。

 

379. 「大王よ、五つのものがあります。これらの精励の支分です。どのようなものが、五つのものなのですか。大王よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。大王よ、まさに、これらの五つの精励の支分があります。大王よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、また、ここにおいて、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。「尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、尊き方よ、また、ここにおいて、彼らには、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。「大王よ、まさに、ここにおいて、彼らには、精励の相違性があることを、わたしは説きます。大王よ、それは、たとえば、また、二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──存するとします。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御された者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御された者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです(できます)」〔と〕。「いっぽう、すなわち、それらの二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか。それは、たとえば、また、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象のように、あるいは、調御されるべき馬のように、あるいは、調御されるべき牛のように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(できません)」〔と〕。「大王よ、まさしく、このように、まさに、それが、信ある者によって、病苦少なき者によって、狡猾なき者によって、幻惑なき者によって、精進に励む者によって、智慧ある者によって、至り得られるべきものであるなら、それに、まさに、信なき者が、病苦多き者が、狡猾ある者が、幻惑ある者が、怠惰の者が、智慧浅き者が、至り得るであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

380. 「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、さらに、正しい精励ある者たちとして〔世に〕存するなら、尊き方よ、また、ここにおいて、彼らには、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。「大王よ、まさに、ここにおいて、彼らには、何であれ、多様性を、わたしは説きません。すなわち、この、解脱と解脱には。大王よ、それは、たとえば、また、人が、乾燥したサーカ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したサーラ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したアンバ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したウドゥンバラ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。大王よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、それらの種々なる木片から起こっている火には、何であれ、相違性が存するのでしょうか。あるいは、炎と炎には、あるいは、色と色には、あるいは、光と光には」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「大王よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その熱が、精進によって生み出され、精励によって起こされたものであるなら、そこにおいて、何であれ、多様性を、わたしは説きません。すなわち、この、解脱と解脱には」と。「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、また、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか」と。「大王よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、また、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか』」と。「尊き方よ、それらの天〔の神々〕たちは、あるいは、すなわち、この場に帰り来る者たちなのですか、あるいは、すなわち、この場に帰り来ない者たちなのですか」と。「大王よ、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、この場に帰り来る者たちです。すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、この場に帰り来ない者たちです」と。

 

381. このように説かれたとき、ヴィタトゥーバ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであり、この場に帰り来る者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであり、この場に帰り来ない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちを、その地から、あるいは、死滅させるのでしょうか、あるいは、追放するのでしょうか」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、ヴィタトゥーバ軍団長は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の子である。わたしは、世尊の子である。すなわち、子が子と話し合う、まさに、この時である」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ヴィタトゥーバ軍団長に語りかけました。「軍団長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。軍団長よ、それを、どう思いますか。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土としてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為すなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土としてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為すなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できます」と。

 

 「軍団長よ、それを、どう思いますか。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土ならざるところとしてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為さないなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土ならざるところとしてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為さないなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できません」と。

 

 「軍団長よ、それを、どう思いますか。あなたは、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがありますか」と。「君よ、そのとおりです。わたしは、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがあります。ここに、また、尊きコーサラ〔国〕のパセーナディ王から、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがあります」と。「軍団長よ、それを、どう思いますか。コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、三十三天〔の神々〕を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、三十三天〔の神々〕を見ることさえもできません。また、どうして、三十三天〔の神々〕を、その地から、あるいは、死滅させるというのでしょう、あるいは、追放するというのでしょう」と。「軍団長よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであり、この場に帰り来る者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであり、この場に帰り来ない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちを見ることさえもできません。また、どうして、その地から、あるいは、死滅させるというのでしょう、あるいは、追放するというのでしょう」と。

 

382. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この比丘は、どのような名の者ですか」と。「大王よ、アーナンダ(歓嘆)という名の者です」と。「ああ、まさに、歓嘆(アーナンダ)なるかな。ああ、まさに、歓嘆の形態ある者なるかな。尊き方よ、尊者アーナンダは、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、尊者アーナンダは、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、また、どうなのでしょう、梵〔天〕は存在しますか」と。「大王よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、また、どうなのでしょう、梵〔天〕は存在しますか』」と。「尊き方よ、その梵〔天〕は、あるいは、すなわち、この場に帰り来る者なのですか、あるいは、すなわち、この場に帰り来ない者なのですか」と。「大王よ、すなわち、その梵〔天〕が、加害〔の思い〕を有する者であるなら、その梵〔天〕は、この場に帰り来る者です。すなわち、その梵〔天〕が、加害〔の思い〕なき者であるなら、その梵〔天〕は、この場に帰り来ない者です」と。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門が、到来したところです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、まさに、誰が、この話題を、王の内宮において発したのですか」と。「大王よ、ヴィタトゥーバ軍団長です」と。ヴィタトゥーバ軍団長は、このように言いました。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門です」と。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、乗物のための時です」と。

 

 そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしどもは、一切知者たることを、世尊に尋ねました。世尊は、一切知者たることを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、四つの階級の清浄を、世尊に尋ねました。世尊は、四つの階級の清浄を説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、上天〔の神々〕たちのことを、世尊に尋ねました。世尊は、上天〔の神々〕たちのことを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、上梵〔天〕のことを、世尊に尋ねました。世尊は、上梵〔天〕のことを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。そして、まさしく、そのこと、そのことを、わたしどもが、世尊に尋ねたなら、まさしく、そのこと、そのことを、世尊は説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去った、ということです。

 

 カンナカッタラの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 王の章は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ガティカーラ、ラッタパーラ、マガデーヴァ、マドゥラーなるもの、ボーディ、そして、アングリマーラ、愛しいものから生じるもの、外衣、そして、法の塔廟の経、第十のものとして、カンナカッタラがある」〔と〕。

 

5. 婆羅門の章

 

1(91). ブラフマーユの経

 

383. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。また、まさに、その時点にあって、ブラフマーユ婆羅門が、ミティラーに滞在しています。老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。まさに、ブラフマーユ婆羅門は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩む。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

384. また、まさに、その時点にあって、ブラフマーユ婆羅門には、ウッタラという名の学徒が、内弟子として有りました。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、ウッタラ学徒に告げました。「親愛なる者よ、ウッタラよ、この者が、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩む。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは』と。親愛なる者よ、ウッタラよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマのことを知りなさい。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』〔と〕。わたしたちは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに見出すのだ」と。「君よ、また、どのように、わたしは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに知るのですか。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』」と。「親愛なる者よ、ウッタラよ、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇()だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕。親愛なる者よ、ウッタラよ、また、まさに、わたしは、諸々の呪文の与え手であり、おまえは、諸々の呪文の受け手である」と。

 

385. 「君よ、わかりました」と、まさに、ウッタラ学徒は、ブラフマーユ婆羅門に答えて、坐から立ち上がって、ブラフマーユ婆羅門を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、ヴィデーハ〔国〕において、世尊のおられるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッタラ学徒は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。まさに、ウッタラ学徒は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)について、さらに、広くて長い舌(広長舌)について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、ウッタラ学徒は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、ウッタラ学徒が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、ウッタラ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備している。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに付き従うのだ。彼の振る舞いの道を見るのだ」と。そこで、まさに、ウッタラ学徒は、七月のあいだ、世尊に付き従いました──影が離れないように。

 

386. そこで、まさに、ウッタラ学徒は、七月が経過して、ヴィデーハ〔国〕において、ミティラーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーのあるところに、ブラフマーユ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ブラフマーユ婆羅門を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッタラ学徒に、ブラフマーユ婆羅門は、こう言いました。「親愛なる者よ、ウッタラよ、どうであろう、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか──他なるものでなはなく。また、どうであろう、彼は、貴君ゴータマは、そのような者であるのか──他のような者でなはなく」と。「君よ、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっていますが、まさしく、存している、そのとおりです──他なるものでなはなく。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、そのような者です──他のような者でなはなく。そして、彼は、貴君ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。

 

 (1)また、まさに、貴君ゴータマは、善く確立された足ある方です。これもまた、彼の、貴君ゴータマの、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 (2)また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の()があり、外輪を有し、(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪があります。……。

 

 (3)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、長大なる(きびす)ある方です。……。

 

 (4)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、長い指ある方です。……。

 

 (5)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、柔和で柔弱な手足ある方です。……。

 

 (6)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、網のような手足ある方です。……。

 

 (7)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、踝(くるぶし)の高い足ある方です。……。

 

 (8)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、羚羊のような脛ある方です。……。

 

 (9)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、立っていながら屈むことなく、両の手のひらをもって、〔両の〕膝に触れ、擦りまわします。……。

 

 (10)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、覆蔵された衣の陰部ある方です。……。

 

 (11)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、黄金の色艶があり、黄金に似た皮膚ある方です。……。

 

 (12)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、繊細なる肌ある方であり、肌の繊細なることから、塵と埃が身体に付着しません。……。

 

 (13)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、一つずつの毛ある方であり、諸々の一つずつの毛が諸々の毛穴に生じています。……。

 

 (14)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、屹立する毛ある方であり、諸々の屹立する毛が生じ、塗薬の色のように青く、耳飾の輪のようであり、右回りに生じています。……。

 

 (15)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、梵〔天〕のように真っすぐな五体ある方です。……。

 

 (16)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、七つの増長ある方です。……。

 

 (17)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、獅子のような前半身ある方です。……。

 

 (18)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、窪みが詰まった肩ある方です。……。

 

 (19)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、ニグローダ〔樹〕のような完円ある方であり、すなわち、彼の身体〔の長さ〕としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の〔一〕尋(両手を広げた長さ)となり、すなわち、彼の〔一〕尋としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の身体〔の長さ〕となります。……。

 

 (20)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、等しく円形の肩ある方です。……。

 

 (21)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、至高なるうえにも至高なる味感ある方です。……。

 

 (22)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、獅子のような顎(あご)ある方です。……。

 

 (23)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、四十の歯ある方です。……。

 

 (24)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、均等の歯ある方です。……。

 

 (25)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、隙間のない歯ある方です。……。

 

 (26)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、極めて白い歯ある方です。……。

 

 (27)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、広くて長い舌ある方です。……。

 

 (28)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、梵の声ある方であり、カラヴィーカ〔鳥〕の調べある方です。……。

 

 (29)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、紺碧の眼ある方です。……。

 

 (30)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、牛のような睫毛ある方です。……。

 

 (31)また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫があります。……。

 

 (32)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、肉髻の頭ある方です。これもまた、彼の、貴君ゴータマの、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。

 

 君よ、彼は、貴君ゴータマは、まさに、これらの三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。

 

387. また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、赴きつつあるなら、まさしく、右足によって、最初に進み出ます。彼は、遠過ぎないところに足を引き揚げ、近過ぎないところに足を置きます。彼は、急速過ぎずに赴き、緩慢過ぎずに赴き、かつまた、脛と脛を相打ちながら赴かず、かつまた、踝と踝を相打ちながら赴きません。彼は、赴きつつあるなら、腿を上に向けず、腿を下に向けず、腿を内に向けず、腿を外に向けません。また、まさに、彼が、貴君ゴータマが、赴きつつあると、下半身だけが動き、そして、身体の力で赴きません。また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、眺め見ているなら、まさしく、全身をもって眺め見ます。彼は、上を眺め見ず、下を眺め見ず、かつまた、見回しながら赴かず、かつまた、〔一〕ユガ(:長さの単位・一ユガは約二メートル)ばかりを見ます。そして、そののち、彼には、より上なるものとして、覆いなき知見が有ります。彼は、家の中に入りつつあるなら、身体を上に向けず、身体を下に向けず、身体を内に向けず、身体を外に向けません。彼は、遠過ぎず近過ぎないところにおいて、坐へと遍く転起し、かつまた、手で支えて坐に坐らず、かつまた、坐に身体を投げ入れません。彼は、家の中に坐り、〔そのように〕存しているなら、手による無作法を起こさず、足による無作法を起こさず、かつまた(※)、脛に脛をのせて坐らず、かつまた、踝に踝をのせて坐らず、そして、手で顎を受けて坐りません。彼は、家の中に坐り、〔そのように〕存しているなら、驚愕せず、動転せず、動揺せず、恐慌しません。彼は、驚愕なき者であり、動転なき者であり、動揺なき者であり、恐慌なき者であり、身の毛のよだちを離れ去った者です。そして、彼は、貴君ゴータマは、遠離〔の境地〕を転起し、家の中に坐った状態でいます。彼は、鉢の水を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、鉢の水を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。彼は、鉢をきゅるきゅると〔音を〕為して洗い清めず、鉢を遍く転起させて洗い清めず、鉢を地に置いて〔両の〕手を洗い清めず、〔両の〕手が洗い清められたときは、鉢が洗い清められたものと成り、鉢が洗い清められたときは、〔両の〕手が洗い清められたものと成ります。彼は、鉢の水を遠過ぎず近過ぎないところに捨て放ちます──しかしながら、撒き散らすことなく。彼は、飯を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、飯を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。また、まさに、彼は(※※)、貴君ゴータマは、香味を、〔しかるべき〕香味の量をもって食し、そして、握り飯を、香味とともに摂りません。また、まさに、彼は(※※※)、貴君ゴータマは、握り飯を、二〔回〕三回と、口のなかで等しく遍く転起させて飲み下します。そして、彼には、何であれ、諸々の飯粒が、混合されずに身体に入ることはなく、さらに、彼には、何であれ、諸々の飯粒が、口のなかに残されずに有るなら、そこで、他の握り飯を摂取します。また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、味の得知者として、食を食します──しかしながら、味の貪欲の得知者としてではなく。

 

※ PTS版により ca を補う。

※※ PTS版により so を補う。

※※※ PTS版により so を補う。

 

 また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、八つの支分を具備した食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。彼は、食事を終え、鉢の水を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、鉢の水を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。彼は、鉢をきゅるきゅると〔音を〕為して洗い清めず、鉢を遍く転起させて洗い清めず、鉢を地に置いて〔両の〕手を洗い清めず、〔両の〕手が洗い清められたときは、鉢が洗い清められたものと成り、鉢が洗い清められたときは、〔両の〕手が洗い清められたものと成ります。彼は、鉢の水を遠過ぎず近過ぎないところに捨て放ちます──しかしながら、撒き散らすことなく。彼は、食事を終え(※)、鉢を地に置きます──遠過ぎず近過ぎないところに。かつまた、鉢に義(目的)なき者として有るのでもなく、かつまた、鉢にたいし限度を超える守護者として〔有るのでも〕なく。彼は、食事を終え、寸時のあいだ、沈黙して坐ります。しかしながら、随喜の時を過ぎ行きません。彼は、食事を終え、随喜します。その食事を非難せず、他の食事を希求しません。何はともあれ、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼は、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去ります。彼は、急速過ぎずに赴き、緩慢過ぎずに赴きます。しかしながら、解き放たれることを欲する者として赴きません。そして、彼の、貴君ゴータマの、身体において、衣料は、高過ぎずに有り、かつまた、低過ぎずに〔有り〕、さらに、身体に付着せずに有り、かつまた、身体から離去せずに〔有ります〕。そして、彼の、貴君ゴータマの、衣料を、風が身体から運び去ることはなく、そして、彼の、貴君ゴータマの、身体に、塵と埃が付着することはありません。彼は、林園に赴き、設けられた坐に坐ります。坐って、〔両の〕足を洗います。しかしながら、彼は、貴君ゴータマは、足を装うことへの専念に専念する者として〔世に〕住みません。彼は、〔両の〕足を洗って、坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思い考えず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思い考えず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思い考えません。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、自己の利益と他者の利益と両者の利益と一切の世〔の人々〕の利益を思い考えながら、坐った状態でいます。彼は、林園に赴き、衆のなかで法(教え)を説示します。その衆を賞揚せず、その衆を指弾せず、何はともあれ、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。

 

※ テキストには So bhuttāvī na とあるが、PTS版により na を削除する。

 

 また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、口からは、八つの支分を具備した話し声が放たれます。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。また、まさに、彼が、貴君ゴータマが、すなわち、衆に、声によって識知させるとおりに、彼の話し声は、衆の外に放たれることがありません(衆の外に漏れ出ない)。彼らは、彼によって、貴君ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、坐から立ち上がって、立ち去ります──〔彼を〕捨棄できずにあることから、まさしく、〔彼を〕眺め見ながら。君よ、まさに、わたしたちは、彼が、貴君ゴータマが、赴きつつあるのを見ました。立っているのを見ました。家の中に入りつつあるのを見ました。家の中に坐り、沈黙の状態でいるのを見ました。家の中で食べつつあるのを見ました。食事を終え、沈黙の状態でいるのを見ました。食事を終え、随喜しつつあるのを見ました。林園に赴きつつあるのを見ました。林園に赴き、坐り、沈黙の状態でいるのを見ました。林園に赴き、衆のなかで法(教え)を説示しつつあるのを見ました。かつまた、このような方でもあり、かつまた、このような方でもあり、彼は、貴君ゴータマは、そして、それよりも、より一層の方です」と。

 

388. このように説かれたとき、ブラフマーユ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。

 

 彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。

 

 彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。

 

 「まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に(※)集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう」と。

 

※ PTS版により saddhiṃ を補う。

 

389. そこで、まさに、世尊は、ヴィデーハ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ミティラーに住んでおられます。マガデーヴァのアンバ林において。まさに、ミティラーの婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーに到着し、ミティラーに住んでいる。マガデーヴァのアンバ林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ミティラーの婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

390. まさに、ブラフマーユ婆羅門は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ミティラーに到着し、ミティラーに住んでいる。マガデーヴァのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、大勢の弟子たちと共に、マガデーヴァのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、アンバ林の遠く離れていないところで、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、前もって知らせず、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのは」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、或るひとりの学生に告げました。「学生よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、沙門ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、貴君ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。君よ、すなわち、ミティラーに住するかぎりの、婆羅門や家長たちで、ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の財物によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の呪文によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、まさしく、そして、寿命によって、さらに、盛名によって。彼は、貴君ゴータマと会見することを欲しています』」と。

 

 「君よ、わかりました」と、まさに、その学生は、ブラフマーユ婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その学生は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、貴君ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。君よ、すなわち、ミティラーに住するかぎりの、婆羅門や家長たちで、ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の財物によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の呪文によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、まさしく、そして、寿命によって、さらに、盛名によって。彼は、貴君ゴータマと会見することを欲しています』」と。「学徒よ、今が、そのための時と、ブラフマーユ婆羅門が思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、その学生は、ブラフマーユ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ブラフマーユ婆羅門に、こう言いました。「まさに、貴君は(※)、沙門ゴータマによって、機会が作られました。今が、そのための時と、貴君がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。

 

※ テキストには khomhi bhavatā とあるが、PTS版により kho bhavaṃ と読む。

 

391. そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、その衆は、ブラフマーユ婆羅門が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、脇に控えて、〔ブラフマーユ婆羅門のために〕空間を作りました。すなわち、知名ある者のために〔為し〕、盛名ある者のために〔為す〕、そのとおりに。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、その衆に、こう言いました。「君よ、十分です。あなたたちは、自らの坐に坐りなさい。ここに、わたしは、沙門ゴータマの現前において坐りましょう」と。

 

 そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、わたしが聞くところの、三十二の偉大なる人士の特相であるが、それらのなかの二つを、〔わたしは〕見ない。ゴータマよ、貴君の身体において。

 

 最上の人たる方よ、どうであろう、貴君には、覆蔵された衣の陰部があるのだろうか。どうであろう、女と同等の呼び名を有するものとして、舌は、見示なくあるのだろうか。

 

 どうであろう、広くて長い〔舌〕ある者として、〔あなたは〕存しているのだろうか。すなわち、それを、〔わたしたちが〕知るように、この広くて長い〔舌〕を出したまえ。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除きたまえ。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、機会が作られた者たちとして、〔わたしたちは〕尋ねる──それが何であれ、望み求めるものを」と。

 

392. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、ブラフマーユ婆羅門は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、ブラフマーユ婆羅門が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、諸々の詩偈をもって答えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、あなたが聞くところの、三十二の偉大なる人士の特相であるが、それらの全てが、わたしの身体においてある。婆羅門よ、あなたに、諸々の疑いが有ってはならない。

 

 証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、わたしによって、捨棄されるべきものは捨棄された。婆羅門よ、それゆえにそれゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存している。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、機会が作られた者たちとして、〔あなたは〕尋ねなさい──それが何であれ、望み求めるものを」と。

 

393. そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、〔わたしは〕存している──沙門ゴータマによって、機会が作られた者として。いったい、まさに、何を、わたしは、沙門ゴータマに尋ねるべきなのか──あるいは、所見の法(現世)の義(利益)を〔尋ねるべきなのか〕、あるいは、未来の〔義〕を〔尋ねるべきなのか〕」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしは、諸々の所見の法(現世)の義(利益)に巧みな智ある者である。他者たちもまた、わたしに、所見の法(現世)の義(利益)を尋ねる。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに、まさしく、未来の義(利益)を尋ねるのだ」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「どのように、まさに、婆羅門と成るのですか。どのように、〔真の〕知に至る者と成るのですか。君よ、どのように、三つの明知ある者と成るのですか。どのようなわけで、聞経者と説かれるのですか。

 

 君よ、どのように、阿羅漢と成るのですか。どのように、全一者と成るのですか。君よ、そして、どのように、牟尼と成るのですか。どのようなわけで、覚者と呼ばれるのですか」と。

 

394. そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、諸々の詩偈をもって答えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼である。

 

 全てにわたり、諸々の貪欲から解き放たれ、清浄となった心を知る、生と死を捨棄した者、梵行についての全一者、一切の諸法(事象)の彼岸に至る者──そのような者は、覚者と呼ばれる」と。

 

 このように説かれたとき、ブラフマーユ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「貴君ゴータマよ、わたしは、ブラフマーユ婆羅門です。貴君ゴータマよ、わたしは、ブラフマーユ婆羅門です」と。そこで、まさに、その衆は、稀有にして未曾有の心が生じた者たちと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、そこで、まさに、この者が、知名ある者であり、盛名ある者である、ブラフマーユ婆羅門が、このような形態の最高の倒礼の所作を為すからだ」と。そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、十分です。立ち上がりなさい。あなたは、自らの坐に坐りなさい。すなわち、あなたの心が、わたしにたいし清信したからには」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、自らの坐に坐りました。

 

395. そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、ブラフマーユ婆羅門のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、ブラフマーユ婆羅門に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。そして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ブラフマーユ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、ヴィデーハ〔国〕において、遊行〔の旅〕に出ました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門者は、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ブラフマーユ婆羅門が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、ブラフマーユ婆羅門は、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、ブラフマーユ婆羅門は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ブラフマーユの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(92). セーラの経

 

396. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナという名のアングッタラーパ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ケーニヤ結髪者は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。このように説かれたとき、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに清信しています」と。再度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに清信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。再度また、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに清信しています」と。三度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに清信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、自らの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、朋友や僚友たちに、親族や血縁たちに、呼びかけました。「諸君よ、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、わたしの〔言葉を〕聞いてください。沙門ゴータマが、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕に招かれたのです。それで、わたしのために、身体による支援(労働奉仕)を為してほしいのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ケーニヤ結髪者の、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、ケーニヤ結髪者に答えて、一部の者たちはまた、諸々の竈を掘り、一部の者たちはまた、諸々の薪を切り裂き、一部の者たちはまた、諸々の器を洗い清め、一部の者たちはまた、水瓶を据え付け、一部の者たちはまた、諸々の坐を設置します。また、ケーニヤ結髪者は、まさしく、自ら、円形堂を設えます。

 

397. また、まさに、その時点にあって、セーラ婆羅門が、アーパナに滞在しています。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じ、かつまた、三百の学生たちに諸々の呪文(聖典)を教えます。また、まさに、その時点にあって、ケーニヤ結髪者は、セーラ婆羅門にたいし大いに清信している者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちに取り囲まれ、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、セーラ婆羅門は、ケーニヤ結髪者の庵所において、一部の者たちがまた、諸々の竈を掘っているのを、一部の者たちがまた、諸々の薪を切り裂いているのを、一部の者たちがまた、諸々の器を洗い清めているのを、一部の者たちがまた、水瓶を据え付けているのを、一部の者たちがまた、諸々の坐を設置しているのを、また、ケーニヤ結髪者が、まさしく、自ら、円形堂を設えているのを、見ました。見て、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君ケーニヤに、あるいは、嫁とりが有るのですか、あるいは、嫁やりが有るのですか、あるいは、大祭祀が現起したのですか、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのですか」と。「貴君セーラよ、わたしに、あるいは、嫁とりが有るのではなく、あるいは、嫁やりが有るのでもまたなく、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのでもまたありません。ですが、また、まさに、わたしに、大祭祀が現起したのです。君よ、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが存在します。アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのです。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼が、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事に招かれたのです」と。

 

 「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。

 

 「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」〔と〕。

 

 「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。

 

 「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」と。

 

398. そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、評判でさえも、世において得難きものである。すなわち、この、『〔彼は〕覚者である』という〔評判は〕。また、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕」〔と〕。

 

 「貴君ケーニヤよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでいますか」と。このように説かれたとき、ケーニヤ結髪者は、右腕を差し出して、セーラ婆羅門に、こう言いました。「貴君セーラよ、この青い林の列があるところです」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、それらの学生たちに告げました。「諸君よ、音声少なく、歩に歩を置きつつ(静かな歩調で)、やってきなさい。まさに、彼らは、世尊たちは、近づき難き者たちであり、獅子のように〔常に〕独り歩む者たちです。君よ、そして、わたしが、沙門ゴータマを相手に話し合う、そのときは、諸君よ、中途中途で、わたしの議論に割り込んではいけません。諸君は、わたしの議論の終了を待ちなさい」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。

 

 まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、セーラ婆羅門は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、セーラ婆羅門が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就したものとして具備している──円満成就していないものとして、ではなく。しかしながら、まさに、彼のことを、あるいは、覚者であるのか、あるいは、〔覚者では〕ないのか、〔わたしは〕知らない。また、まさに、このことを、わたしは聞いた。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして、『すなわち、それらの者たちが、阿羅漢たちとして、正等覚者たちとして、〔世に〕有るなら、彼らは、自らについての褒め称え〔の言葉〕が話されているとき、自己を明らかと為す』と。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマを、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。

 

399. そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。

 

 〔セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「円満成就した身体の、極めて好ましき者であり、善き出生の、典雅なる見た目ある者であり、世尊よ、〔あなたは〕黄金の色艶ある者として〔世に〕存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として〔世に〕存しています。

 

 まさに、善き出生の人に有る、それらの特徴ですが、それらの偉大なる人士の特相の全てが、あなたの身体において〔見られます〕。

 

 眼が清らかで、美男子で、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者であり、〔あなたは〕沙門の僧団の中央において、太陽のように光り輝きます。

 

 美しき見た目ある比丘にして、黄金に似た皮膚ある者です。このように、最上の色艶をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。

 

 〔あなたは〕車上の雄牛たる転輪王として〔世に〕有るのがふさわしい──四辺を征圧する、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)のイッサラ(イーシュヴァラ神・自在神)として。

 

 士族たちは、財物ある王たちは、あなたに従い行く者たちと成れ。ゴータマよ、王のなかの王として、人間のインダ(インドラ神・帝釈天)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。

 

 かくのごとく、〔世尊は言った〕「セーラよ、わたしは、王として〔世に〕存しています。無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させます──〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」〔と〕。

 

 〔セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕明言します。ゴータマよ、〔あなたは、自らについて〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させる』と語ります。

 

 いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕貴君の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転起させた、その法(真理)の輪を、誰が随転させるのですか」〔と〕。

 

 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラよ、わたしが転起させた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタが随転させます。

 

 証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、わたしによって、捨棄されるべきものは捨棄されました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しています。

 

 わたしにたいし、疑いを取り除きなさい。婆羅門よ、信念しなさい。正覚者たちと一度ならず会見することは、得難きこととして〔世に〕有ります。

 

 彼らが一度ならず世に出現することは、まさに、得難きこととして〔世に有ります〕。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしは、正覚者として、〔毒〕矢の治癒者として、無上なる者として、〔世に存しています〕。

 

 梵と成った者(最高の人格者)として、〔他に〕比類なき者として、悪魔の軍団を撃破する者として、一切の朋友ならざる者を自在に為して、何も恐れず、歓喜します」〔と〕。

 

 〔自らの弟子たちにたいし、セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「諸君よ、このことを、眼ある方(ブッダ)が語る、そのとおりに、こころして聞け──〔毒〕矢の治癒者が、偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。

 

 梵と成った方を、〔他に〕比類なき方を、悪魔の軍団を撃破する方を、見て〔そののち〕、誰が、清信しないというのだろう。黒き生まれの者でさえも、〔清信するであろう〕。

 

 すなわち、求める者は、わたしに従え。あるいは、すなわち、求めない者は、去れ。ここに、わたしは、優れた智慧ある方の現前において、出家するであろう」〔と〕。

 

 〔弟子たちが、詩偈に言う〕「もし、この正等覚者の教えが、貴君(セーラ婆羅門)にとって好ましくあるなら、わたしたちもまた、優れた智慧ある方の現前において、出家するでありましょう」〔と〕。

 

 〔世尊にたいし、セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「これらの三百の婆羅門たちは、合掌を為し、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前において、〔わたしたちは〕梵行を歩むでありましょう」〔と〕。

 

 かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、現に見られ時を要さない〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学んでいる者の出家は、無駄ならざるものとなります」と。

 

 まさに、セーラ婆羅門は、衆と共に、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

400. そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、その夜が明けると、自らの庵所において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、これらの詩偈によって随喜しました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「祭祀は、祭火への供え物を頂点とします。韻文の頂点は、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)です。人間たちの頂点は、王です。諸々の川の頂点は、海洋です。

 

 星々の頂点は、月です。諸々の輝くものの頂点は、太陽です。功徳を望みながら祭祀をする者たちにとって、頂点となるのは、まさに、僧団です」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、これらの詩偈によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者セーラは、衆と共に、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者セーラは、衆と共に、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。そこで、まさに、尊者セーラは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼ある方よ、すなわち、〔わたしたちが〕あなたを帰依所としてやってきて、このかた、〔今日で〕第八〔日〕となります。世尊よ、〔わたしたちは〕存しています──あなたの教えにおいて、七夜をもって調御された者たちとして。

 

 あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。

 

 あなたの、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は超え行かれました。あなたの、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子のようにあり、執取〔の思い〕なき方です。〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した方です。

 

 これらの三百の比丘たちは、合掌を為し、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。龍たちよ、教師を敬拝せよ」と。

 

 セーラの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(93). アッサラーヤナの経

 

401. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、サーヴァッティーに滞在しています──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、それらの婆羅門たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。いったい、まさに、誰が、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することができるのか」と。また、まさに、その時点にあって、アッサラーヤナという名の学徒が、サーヴァッティーに滞在しています。年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。そこで、まさに、それらの婆羅門たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者が、アッサラーヤナ学徒が、サーヴァッティーに滞在している。年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして……略……欠くことなく通じる者である。まさに、彼が、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することができる」と。

 

 そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために」と。

 

 このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。また、そして、法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません」と。再度また、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために。また、まさに、貴君アッサラーヤナによって、遍歴遊行は〔すでに〕歩むところ」と。再度また、まさに、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。また、そして、法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません」と。三度また、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために。また、まさに、貴君アッサラーヤナによって、遍歴遊行は〔すでに〕歩むところ。貴君アッサラーヤナは、戦いに敗北せずに敗北してはならない」と。

 

 このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「諸君よ、まさに、たしかに、わたしは、『君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません』と〔言っても、承諾を〕得ません。ですが、ともあれ、わたしは、貴君たちの言葉によって赴きましょう」と。

 

402. そこで、まさに、アッサラーヤナ学徒は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッサラーヤナ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。「アッサラーヤナよ、また、まさに、婆羅門たちのなかの女性婆羅門たちは、月経ある者たちもまた見られ、妊婦たちもまた〔見られ〕、出産している者たちもまた〔見られ〕、授乳している者たちもまた〔見られます〕。そして、それらの婆羅門たちは、まさしく、胎から生まれる者たちとして(※)〔世に〕存していながら、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

※ テキストには brāhmaṇiyonijāva とあるが、PTS版により brāhmaṇā yonijāva と読む。

 

403. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。あなたは聞きましたか。『ヨーナとカンボージャにおいては、さらには、他の諸々の最辺境の地方においては、二つの階級だけがあります。まさしく、そして、貴族であり、さらに、奴隷です。〔人々は〕貴族と成っては、奴隷と成ります。〔人々は〕奴隷と成っては、貴族と成ります』」と。「君よ、このように、そのことを、わたしは聞きました。『ヨーナとカンボージャにおいては、さらには、他の諸々の最辺境の地方においては、二つの階級だけがあります。まさしく、そして、貴族であり、さらに、奴隷です。〔人々は〕貴族と成っては、奴隷と成ります。〔人々は〕奴隷と成っては、貴族と成ります』」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵(確証)があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

404. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、士族だけが、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのでしょうか──婆羅門ではなく。いったい、まさに、庶民だけが……略……。いったい、まさに、奴隷だけが、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのでしょうか──婆羅門ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、命あるものを殺す者たちであるなら、与えられていないものを取る者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであるなら、虚偽を説く者たちであるなら、中傷の言葉ある者たちであるなら、粗暴な言葉ある者たちであるなら、雑駁な虚論ある者たちであるなら、強欲〔の思い〕ある者たちであるなら、憎悪している心の者たちであるなら、誤った見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

405. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、命あるものを殺すことから離間した者であるなら、与えられていないものを取ることから離間した者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者であるなら、虚偽を説くことから離間した者であるなら、中傷の言葉から離間した者であるなら、粗暴な言葉から離間した者であるなら、雑駁な虚論から離間した者であるなら、強欲〔の思い〕なき者であるなら、憎悪していない心の者であるなら、正しい見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのでしょうか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺すことから離間した者であるなら、与えられていないものを取ることから離間した者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者であるなら、虚偽を説くことから離間した者であるなら、中傷の言葉から離間した者であるなら、粗暴な言葉から離間した者であるなら、雑駁な虚論から離間した者であるなら、強欲〔の思い〕なき者であるなら、憎悪していない心の者であるなら、正しい見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、命あるものを殺すことから離間した者たちであるなら、与えられていないものを取ることから離間した者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであるなら、虚偽を説くことから離間した者たちであるなら、中傷の言葉から離間した者たちであるなら、粗暴な言葉から離間した者たちであるなら、雑駁な虚論から離間した者たちであるなら、強欲〔の思い〕なき者たちであるなら、憎悪していない心の者たちであるなら、正しい見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

406. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)慈愛の心を修めることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

407. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

408. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、即位灌頂した王たる士族が、種々なる出生の者たちのなかの百者の人を集めるとします。『諸君よ、さあ、それらの者たちが、そこにおいて、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちであるなら、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ。諸君よ、さあ、いっぽう、それらの者たちが、そこにおいて、チャンダーラ(賎民)の家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサ(非人)の家から生起した者たちであるなら、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ』と。

 

 アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、すなわち、このように、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、いったい、まさに、それだけが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができるのでしょうか。いっぽう、すなわち、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、それは、まさしく、そして、炎がなく、かつまた、色艶がなく、さらに、光り輝くものではない、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができないのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、また、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう。すなわち、また、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。

 

409. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、士族の少年が、婆羅門の少女を相手に、共住を営み、彼らの共住に付従するものとして、子が生まれるとします。すなわち、その、士族の少年と婆羅門の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた同等の者として、父ともまた同等の者として、〔世に〕存するでしょうか、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、士族の少年と婆羅門の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた同等の者として、父ともまた同等の者として、〔世に〕存するでしょうし、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきです」と。

 

 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門の少年が、士族の少女を相手に、共住を営み、彼らの共住に付従するものとして、子が生まれるとします。すなわち、その、婆羅門の少年と士族の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた同等の者として、父ともまた同等の者として、〔世に〕存するでしょうか、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、婆羅門の少年と士族の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた同等の者として、父ともまた同等の者として、〔世に〕存するでしょうし、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきです」と。

 

 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、雌馬を、驢馬と交配させ、彼らの交配に付従するものとして、子馬が生まれるとします。すなわち、その、雌馬と驢馬から生起した子馬ですが、彼は、母ともまた同等の者として、父ともまた同等の者として、〔世に〕存するでしょうか、『馬』ともまた説かれるべきであり、『驢馬』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、奇形として、彼は、騾馬と成ります。貴君ゴータマよ、まさに、彼の、この多様性(相違点)を、〔わたし〕見ます。また、しかしながら、そこに、何であれ、これらの者たちの多様性を、〔わたし〕見ません」と。

 

 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、同腹の兄弟である二者の学生が存するとします。一者は、近しく導かれた読誦者であり、一者は、近しく導かれていない読誦者ならざる者です。ここにおいて、誰を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、近しく導かれた読誦者ですが、ここにおいて、彼を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょう──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において。貴君ゴータマよ、まさに、どうして、近しく導かれていない読誦者ならざる者にたいし施されたものが、大いなる果と成るというのでしょう」と。

 

 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、同腹の兄弟である二者の学生が存するとします。一者は、近しく導かれた読誦者であり、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であり、一者は、近しく導かれていない読誦者ならざる者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者です。ここにおいて、誰を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、近しく導かれていない読誦者ならざる者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者ですが、ここにおいて、彼を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょう──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において。貴君ゴータマよ、まさに、どうして、劣戒の者にたいし、悪しき法(性質)ある者にたいし、施されたものが、大いなる果と成るというのでしょう」と。

 

 「アッサラーヤナよ、過去において、まさに、あなたは、出生に赴きました。出生に赴いて、諸々の呪文に赴きました。諸々の呪文に赴いて、諸々の苦行(持戒)に赴きました。諸々の苦行に赴いて、四つの階級の清浄を信認したのです。すなわち、わたしが報知する、〔その四つの階級の清浄を〕」と。このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

410. そこで、まさに、世尊は、アッサラーヤナ学徒が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「アッサラーヤナよ、過去の事ですが、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。『婆羅門だけが、最勝の階級である。……略……梵の相続者たちである』と。アッサラーヤナよ、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、『どうやら、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「婆羅門だけが、最勝の階級である。……略……梵の相続者たちである」』と耳にしました。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、髪と髭を整えて、諸々の茜色の衣服を着て、裏打ちされた履物を履いて、黄金製の杖を収め取って、七者の婆羅門の聖賢たちの寓居に出現しました。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、七者の婆羅門の聖賢たちの寓居のなかを歩行しながら、このように言いました。『はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこかに〕赴いたのだろうか。はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこかに〕赴いたのだろうか』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちに、この〔思い〕が有りました。『いったい、誰なのだ、この、牧童の形態をしているかのような者は──七者の婆羅門の聖賢たちの寓居のなかを歩行しながら、このように言ったのは。「はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこかに〕赴いたのだろうか。はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこかに〕赴いたのだろうか」と。さあ、〔わたしたちは〕彼を呪うのだ』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちは、アシタ・デーヴァラ聖賢を呪いました。『賎民よ、灰と成れ。賎民よ、灰と成れ』と。アッサラーヤナよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちが、アシタ・デーヴァラ聖賢を呪ったなら、そのとおり、そのとおりに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より清らかな者と〔成ります〕。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしたちの、苦行は、無駄であり、梵行は、無果である。なぜなら、わたしたちが、過去において、その者を呪うなら、「賎民よ、灰と成れ。賎民よ、灰と成れ」と、一部の者は、まさしく、灰と成るも、いっぽう、この者を、わたしたちが、そのとおり、そのとおりに、呪うなら、そのとおり、そのとおりに、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より清らかな者と〔成るからだ〕』と。『貴君たちの、苦行は、無駄ではなく、梵行は、無果ではありません。さあ、貴君たちは、すなわち、わたしにたいする意の憤怒ですが、それを捨棄しなさい』と。『すなわち、貴君にたいする意の憤怒ですが、それを捨棄します。いったい、誰なのですか、〔ここに〕有る、貴君は』と。『はてさて、貴君たちは、「アシタ・デーヴァラ聖賢」〔という名を〕聞いたことがありますか』と。『君よ、そのとおりです(聞きました)』〔と〕。『君よ、それは、まさに、〔ここに〕有る、わたしです』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちは、アシタ・デーヴァラ聖賢を敬拝するために近づいて行きました。

 

411. アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、七者の婆羅門の聖賢たちに、こう言いました。『君よ、このことを、わたしは聞きました。「どうやら、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」』と。『君よ、そのとおりです』〔と〕。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの母が、婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない(不倫はしていない)、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの母の母が、第七の祖母の代に至るまで、婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの父が、女性婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、女性婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない(不倫はしていない)、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。「すなわち、生みの父の父が、第七の祖父の代に至るまで、女性婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、女性婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、〔母の〕胎に、入胎が有る、〔そのとおりに〕』と。『君よ、わたしたちは知っています。すなわち、〔母の〕胎に、入胎が有る、〔そのとおりに〕。ここに、かつまた、母と父が集合するところと成り、かつまた、母が懐妊可能の者として有り、かつまた、音楽神(乾達婆:ガンダルヴァ)が現起するところと成り、このように、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります』と。

 

 『また、貴君たちは知っていますか。それでは、その音楽神が、あるいは、士族であるのか、あるいは、婆羅門であるのか、あるいは、庶民であるのか、あるいは、隷民であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、わたしたちは知りません。たしかに、その音楽神が、あるいは、士族であるのか、あるいは、婆羅門であるのか、あるいは、庶民であるのか、あるいは、隷民であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、このように存しているとき、〔あなたたちは〕知っていますか。〔ここに〕有る、あなたたちが、誰であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、このように存しているとき、〔わたしたちは〕知りません。〔ここに〕有る、わたしたちが、誰であるのか、〔という、このことを〕』と。アッサラーヤナよ、なぜなら、まさに、それらの七者の婆羅門の聖賢たちが、アシタ・デーヴァラ聖賢によって、自らの出生の論について、尋問され、審問され、査問されながら、解答できないのです。また、どうして、あなたが、今現在、わたしによって、自らの出生の論について、尋問され、審問され、査問されながら、解答できるというのでしょう。彼らにとって、師匠を有する者であるあなたは、柄杓持ちのプンナにもなりません(それ以下である)」と。

 

 このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 アッサラーヤナの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(94). ゴータムカの経

 

412. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者ウデーナは、バーラーナシーに住んでいます。ケーミヤのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ゴータムカ婆羅門が、バーラーナシーに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーミヤのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ウデーナは、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウデーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、歩行〔瞑想〕をしている尊者ウデーナに従って歩行しながら、このように言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに」と。

 

 このように説かれたとき、尊者ウデーナは、歩行場から降りて、精舎に入って、設けられた坐に坐りました。まさに、ゴータムカ婆羅門もまた、歩行場から降りて、精舎に入って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ゴータムカ婆羅門に、尊者ウデーナは、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。「また、まさに、わたしどもは、貴君ウデーナの、まさしく、この〔言葉〕を待っている者として坐りましょう。まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、前もって招かれていないのに、坐に坐るべきと思い考えましょうか」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに」と。「婆羅門よ、また、まさに、それで、もし、あなたが、わたしに、承認するべきことを承認し、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するなら、また、そして、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたが〕知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、わたしに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするなら、このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「まさに、わたしは、貴君ウデーナに、まさしく、そして、承認するべきことを承認するでしょうし、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するでしょう。また、そして、すなわち、貴君ウデーナの語ったことの義(意味)を、わたしが知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、貴君ウデーナに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするでしょう。このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。

 

413. 「婆羅門よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、これらの四つの人たちのなかでは、どの人が、あなたの心を喜ばせますか」と。

 

 「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、まさしく、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。

 

 「婆羅門よ、また、何ゆえに、これらの三つの人は、あなたの心を喜ばせないのですか」と。「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する自己を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、まさしく、熱苦させることもなく、遍く苦しめることもありません。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。

 

414. 「婆羅門よ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあります。婆羅門よ、〔まさに〕その、この人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、あなたは、どちらの人を、どちらの衆において、多くあると等しく随観しますか。そして、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。さらに、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあります」と。

 

 「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、わたしは、この人を、すなわち、この衆が、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあるなら、この衆において、多くあると等しく随観するでしょう」と。

 

 「婆羅門よ、また、まさに、まさしく、今や、あなたによって語られました。わたしたちは、このように了知します。『さて、沙門よ、「出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない」〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに』」と。「貴君ウデーナよ、たしかに、この言葉は、〔あなたの〕資助を有するものとして、わたしによって語られました。〔しかしながら、今は〕『出家は、法(正義)にかなうものとして存在する』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、貴君ウデーナは、このように認めてください。さらに、すなわち、貴君ウデーナによって、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、これらの四つの人ですが、どうか、貴君ウデーナは、わたしに、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに答えました。尊者ウデーナは、こう言いました。

 

415. 「婆羅門よ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。婆羅門よ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

416. 婆羅門よ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。婆羅門よ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

417. 婆羅門よ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼の、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。婆羅門よ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

 

418. 婆羅門よ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。

 

 梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。

 

 虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

419. 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。

 

420. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 婆羅門よ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。

 

421. このように説かれたとき、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ウデーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ウデーナを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。「婆羅門よ、まさに、わたしを帰依所に赴いてはいけません。あなたは、まさしく、彼を、世尊を帰依所に赴きたまえ。わたしが、彼を帰依所に赴いた者としてある、〔そのとおりに〕」と。「貴君ウデーナよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでおられますか」と。「婆羅門よ、まさに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、〔すでにもう〕完全なる涅槃に到達したのです」と。

 

 「貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、十ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)において耳にするなら、わたしどもは、十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、二十ヨージャナにおいて……三十ヨージャナにおいて……四十ヨージャナにおいて……五十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、五十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、百ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、百ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。

 

 貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、彼が、貴君ゴータマが完全なる涅槃に到達したことから、わたしどもは、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、彼を、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。貴君ウデーナよ、そして、わたしに、毎日、常なる手当を施す、アンガ〔国〕の王が存在します。その〔手当〕から、わたしは、貴君ウデーナに、一つの常なる手当を施します」と。「婆羅門よ、また、アンガ〔国〕の王は、あなたに、毎日、常なる手当として、どのようなものを施すのですか」と。「貴君ウデーナよ、五百カハーパナ(貨幣の単位)です」と。「婆羅門よ、まさに、わたしたちにとって、金や銀を納受することは、適確ならず」と。「それで、もし、貴君ウデーナにとって、それが適確でないなら、貴君ウデーナのために、精舎を作らせましょう」と。「婆羅門よ、それで、もし、まさに、わたしのために、あなたが、精舎を作らせることを欲するなら、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせたまえ」と。「わたしは、貴君ウデーナの、このことによってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、貴君ウデーナは、わたしに、僧団における布施について勧めます。貴君ウデーナよ、〔まさに〕この、わたしは、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせましょう」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせました。それは、今現在、「ゴータムキー」と説かれる、ということです。

 

 ゴータムカの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(95). チャンキンの経

 

422. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門が、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいる。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

423. そこで、まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴きます。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門は、高楼の上にあり、昼の休憩に入っています。まさに、チャンキン婆羅門は、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちが、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって、天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、侍従に告げました。「君よ、侍従よ、いったい、まさに、どうして、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴くのですか。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに」と。「君よ、チャンキンよ、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが存在します。コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これらの者たちは、彼と、貴君ゴータマと、会見するために赴きます」と。「君よ、侍従よ、まさに、それでは、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、このように説きなさい。『君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。「まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう」』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その侍従は答えて、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、こう言いました。「君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。『まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう』」と。

 

424. また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、オーパーサーダ〔村〕に滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、それらの婆羅門たちは、「どうやら、チャンキン婆羅門が、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、チャンキン婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、チャンキン婆羅門に、こう言いました。「本当に、まさに、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのですか」と。「君よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ』」と。「貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行ってはいけません。貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。すなわち、また、貴君チャンキンが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、増大した戒を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠であり、三百の学生たちに、諸々の呪文を享受します。……略……。まさに、貴君チャンキンは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、婆羅門のポッカラサーティにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。すなわち、また、貴君チャンキンが、オーパーサーダ〔村〕に居住しているなら、有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に、この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。

 

425. このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、それでは、わたしの〔言葉を〕もまた聞きたまえ。すなわち、わたしたちこそが、彼と、沙門ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしく、まさしく、しかし、彼が、貴君ゴータマが、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくないとおりに。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に立脚するものも、多大なる金貨と黄金を捨棄して、出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が滅尽した者であり、軽薄さが離れ去った者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、行為論者であり、業作論者であり、梵の資質ある人々による悪しき尊奉なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、混物なしの士族の家系である、高貴な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、大いなる財産があり、大いなる財物がある、富裕な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに等しく尋ねるために、国土を超えて、地方を超えて、〔人々が〕やってきます。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、幾千の天神たちが懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、婆羅門のポッカラサーティが、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。すなわち、まさに、それらの、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、わたしたちの村落地にやってくるなら、彼らは、わたしたちにとって、客として有ります。また、まさに、客たちは、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。沙門ゴータマは、わたしたちにとって、客です。また、まさに、客は、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、わたしは、これだけのものを、彼の、貴君ゴータマの、諸々の栄誉として遍く学得します。しかしながら、まさに、彼は、貴君ゴータマは、これだけの栄誉ある者ではありません。まさに、彼は、貴君ゴータマは、無量の栄誉ある者です。たとえ、一つ一つの支分であれ、それを具備しているなら、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。「君よ、まさに、それでは、わたしたちは、まさしく、全ての者たちが、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのです」と。

 

426. そこで、まさに、チャンキン婆羅門は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、それぞれの年長の婆羅門たちを相手に、それぞれの何らかの記憶されるべき話を交わして、坐った状態でいます。また、まさに、その時点にあって、カーパティカという名の学徒が、衆において、坐った状態でいます──年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。彼は、それぞれの年長の婆羅門たちが、世尊を相手に話し合っていると、中途中途で議論に割り込みます。そこで、まさに、世尊は、カーパティカ学徒を指弾します。「尊者バーラドヴァージャ(カーパティカ学徒)は、それぞれの年長の婆羅門たちが話し合っているなら、中途中途で議論に割り込んではいけません。尊者バーラドヴァージャは、議論の終了を待ちなさい」と。このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、カーパティカ学徒を指弾してはいけません。かつまた、カーパティカ学徒は、良家の子息です。かつまた、カーパティカ学徒は、多聞の者です。かつまた、カーパティカ学徒は、賢者です。かつまた、カーパティカ学徒は、善き言葉遣いの者です。そして、カーパティカ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対することができます」と。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、たしかに、カーパティカ学徒には、三つのヴェーダの〔聖典の〕言葉について、議論が有るであろう。まさに、そのように、彼を、婆羅門たちは等しく尊んでいる」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、わたしに、沙門ゴータマが、眼を近しく集中するであろうとき、そこで、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、カーパティカ学徒の心の思索を了知して、カーパティカ学徒のいるところに、そこへと眼を近しく集中しました。

 

427. そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしに、沙門ゴータマは集中する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、婆羅門たちの、伝聞と相伝による、典籍の成就による、過去の呪文の句があり、そして、そこにおいて、婆羅門たちは、一定して結論に至ります。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような師匠は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、このように言いましたか。『わたしたちは、これを知る。わたしたちは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、『わたしたちは、これを知る。わたしたちは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言いませんでした。

 

428. バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、次から次へと集結した盲者の列が、前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ないように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、思うに、盲者の列の如きものとして、婆羅門たちの語ったことは成就します。前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ません。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、婆羅門たちには、根元なきものとして、信が成就するのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、信だけから奉侍するのではありません。聴聞からもまた、ここにおいて、婆羅門たちは奉侍します」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、過去において、まさに、あなたは、信に赴きました。今や、聴聞を説きます。バーラドヴァージャよ、五つのものがあります。まさに、これらの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。信であり、嗜好であり、聴聞であり、行相による思索であり、見解の納得による受認です。バーラドヴァージャよ、まさに、これらの五つの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)があります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く信じられたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く信じられたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く嗜好されたものが有るとして……略……まさしく、善く聴聞されたものが有るとして……略……まさしく、善く思索されたものが有るとして……略……まさしく、善く納得されたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く納得されたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、真理の守護者である識者たる人によって、ここにおいて、一定して結論に至るに十分なるものはありません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

 

429. 「貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の守護と成り、どのようなことから、真理を守護するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、もし、また、信が、人に有るとして、『このように、わたしに信がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、もし、また、嗜好が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、聴聞が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、行相による思索が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、見解の納得による受認が、人に有るとして、『このように、わたしに見解の納得による受認がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の随覚と成りません」と。

 

430. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の随覚と成り、どのようなことから、真理を随覚するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者に、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、三つの諸々の法(性質)について正しく調査します──諸々の貪るべき法(事象)について、諸々の怒るべき法(事象)について、諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が存在するのか──そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、貪らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、貪る者によって説示し易きものにあらず』と。

 

431. すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の貪るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します──諸々の怒るべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が存在するのか──そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、怒らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、怒る者によって説示し易きものにあらず』と。

 

432. すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の怒るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します──諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在するのか──そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在するのか。そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、迷わない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、迷う者によって説示し易きものにあらず』と。

 

 すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の迷うべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そこで、彼にたいする信を確たるものとします。信が生じた者は、〔彼のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の獲得と成りません」と。

 

433. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の獲得と成り、どのようなことから、真理を獲得するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、それらの(※)法(教え)を、習修し、修め、多く為すことは、真理の獲得と成ります。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を報知します」と。

 

※ テキストには Tesaṃye とあるが、PTS版により Tesaṃ yeva と読む。

 

434. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、精励することがないなら、真理を獲得することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、精励することから、それゆえに、真理を獲得します。それゆえに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、比較(考量)は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、比較することがないなら、精励することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、比較することから、それゆえに、精励します。それゆえに、比較は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、邁進することがないなら、比較することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、邁進することから、それゆえに、比較します。それゆえに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、欲〔の思い〕(意欲)は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、欲〔の思い〕が生じることがないなら、邁進することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、欲〔の思い〕が生じることから、それゆえに、邁進します。それゆえに、欲〔の思い〕は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、これらの法(性質)が、納得があり受認されないなら、欲〔の思い〕が生じることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることから、それゆえに、欲〔の思い〕が生じます。それゆえに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、義(意味)を近しく注視することがないなら、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、義(意味)を近しく注視することから、それゆえに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されます。それゆえに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を保持することがないなら、義(意味)を近しく注視することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を保持することから、それゆえに、義(意味)を近しく注視します。それゆえに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を聞くことが生じることがないなら、法(教え)を保持することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を聞くことが生じることから、それゆえに、法(教え)を保持します。それゆえに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、耳を傾けることがないなら、法(教え)を聞くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、耳を傾けることから、それゆえに、法(教え)を聞きます。それゆえに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、奉侍することがないなら、耳を傾けることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、奉侍することから、それゆえに、耳を傾けます。それゆえに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、近づいて行くことがないなら、奉侍することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、近づいて行くことから、それゆえに、奉侍します。それゆえに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、信が生じることがないなら、近づいて行くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、信が生じることから、それゆえに、近づいて行きます。それゆえに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

 

435. 「わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の守護を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の随覚を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。そして、まさしく、それぞれのものを、わたしたちが、貴君ゴータマに尋ねたなら、まさしく、それぞれのものを、貴君ゴータマは説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、過去において、このように知ります。『さてまた、坊主頭の似非沙門たちが何だというのだ。卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちである。さてまた、法(真理)の了知者たちが何だというのだ』と。貴君ゴータマは、まさに、わたしに、沙門たちにたいする沙門への愛情を、沙門たちにたいする沙門への清信を、沙門たちにたいする沙門への尊重を、〔それらを〕生じさせました。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 チャンキンの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(96). エースカーリンの経

 

436. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、エースカーリン婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、四つの世話を報知します。婆羅門のための世話を報知し、士族のための世話を報知し、庶民のための世話を報知し、隷民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この婆羅門のための世話を報知します。『あるいは、婆羅門は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、士族は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、庶民は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、隷民は、婆羅門を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この婆羅門のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この士族のための世話を報知します。『あるいは、士族は、士族を世話するべきであり、あるいは、庶民は、士族を世話するべきであり、あるいは、隷民は、士族を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この士族のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この庶民のための世話を報知します。『あるいは、庶民は、庶民を世話するべきであり、あるいは、隷民は、庶民を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この庶民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この隷民のための世話を報知します。『隷民だけが、隷民を世話するべきである。また、どうして、他の者が、隷民を世話するというのだろう』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この隷民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、これらの四つの世話を報知します。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。

 

437. 「婆羅門よ、また、どうなのでしょう、婆羅門たちの、この〔言葉〕を、一切の世〔の人々〕は承認しますか。『これらの四つの世話を報知したまえ(制定せよ)』〔という、この言葉を〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、人が、貧しく、所有なく、富裕ならざる者としてあり、彼が欲しないのに、〔人々が〕『さて、人士たる者よ、あなたは、この肉を喰うべきであり、かつまた、代価を支払うべきである』と、肉片を押し付けるようなものです。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、婆羅門たちは、それらの沙門や婆羅門たちの受諾なくして、そこで、また、しかしながら、これらの四つの世話を報知します。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者ではない』と説きません。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きます。婆羅門よ、もし、また、士族に、〔人々が〕このように尋ねるなら、『あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、ここにおいて、誰を世話するべきですか』と。婆羅門よ、まさに、士族もまた、正しく説き明かしつつ、このように説き明かすでしょう。『まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を世話するべきではありません。しかしながら、まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を世話するべきです』と。婆羅門よ、もし、また、婆羅門に……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民に……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民に、〔人々が〕このように尋ねるなら、『あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、ここにおいて、誰を世話するべきですか』と。婆羅門よ、まさに、隷民もまた、正しく説き明かしつつ、このように説き明かすでしょう。『まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を世話するべきではありません。しかしながら、まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を世話するべきです』と。婆羅門よ、わたしは、高貴なる家系あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、高貴なる家系あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、秀逸なる階級あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、秀逸なる階級あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、秀逸なる財物あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、秀逸なる財物あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。

 

438. 婆羅門よ、なぜなら、高貴なる家系ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪している心の者として〔世に〕有り、誤った見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、高貴なる家系あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、なぜなら、高貴なる家系ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、高貴なる家系あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。

 

439. 婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる階級ある者もまた……略……。婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる財物ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……誤った見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、秀逸なる財物あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる財物ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、秀逸なる財物あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者ではない』と説きません。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、信が増大し、戒が増大し、所聞が増大し、施捨が増大し、智慧が増大するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きます。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、信が増大せず、戒が増大せず、所聞が増大せず、施捨が増大せず、智慧が増大しないなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きません」と。

 

440. このように説かれたとき、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、四つの財産を報知します。婆羅門の財産を報知し、士族の財産を報知し、庶民の財産を報知し、隷民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この婆羅門の財産を、行乞の行と報知します。また、そして、婆羅門が、財産である行乞の行を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この婆羅門の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この士族の財産を、弓と矢束と報知します。また、そして、士族が、財産である弓と矢束を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この士族の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この庶民の財産を、耕作と牧畜と報知します。また、そして、庶民が、財産である耕作と牧畜を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この庶民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この隷民の財産を、鎌と天秤棒と報知します。また、そして、隷民が、財産である鎌と天秤棒を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この隷民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、これらの四つの財産を報知します。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。

 

441. 「婆羅門よ、また、どうなのでしょう、婆羅門たちの、この〔言葉〕を、一切の世〔の人々〕は承認しますか。『これらの四つの財産を報知したまえ(制定せよ)』〔という、この言葉を〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、人が、貧しく、所有なく、富裕ならざる者としてあり、彼が欲しないのに、〔人々が〕『さて、人士たる者よ、あなたは、この肉を喰うべきであり、かつまた、代価を支払うべきである』と、肉片を押し付けるようなものです。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、婆羅門たちは、それらの沙門や婆羅門たちの受諾なくして、そこで、また、しかしながら、これらの四つの財産を報知します。婆羅門よ、まさに、わたしは、人の財産を、聖なるものにして世〔俗〕を超える法(教え)と報知します。また、まさに、彼が、過去からの母と父の家系の伝統を隨念していると、まさしく、それぞれにおいて、自己状態(個我的あり方・身体)の発現が有るなら、まさしく、それぞれによって名称に至ります。もし、士族の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『士族』という名称に至ります。もし、婆羅門の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『婆羅門』という名称に至ります。もし、庶民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『庶民』という名称に至ります。もし、隷民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『隷民』という名称に至ります。婆羅門よ、それは、たとえば、また、まさしく、それぞれの縁を縁として、火が燃えるなら、まさしく、それぞれによって名称に至るようなものです。もし、薪を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『薪の火』という名称に至ります。もし、木片を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『木片の火』という名称に至ります。もし、草を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『草の火』という名称に至ります。もし、牛糞を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『牛糞の火』という名称に至ります。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、人の財産を、聖なるものにして世〔俗〕を超える法(教え)と報知します。また、まさに、彼が、過去からの母と父の家系の伝統を隨念していると、まさしく、それぞれにおいて、自己状態の発現が有るなら、まさしく、それぞれによって名称に至ります。

 

 もし、士族の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『士族』という名称に至ります。もし、婆羅門の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『婆羅門』という名称に至ります。もし、庶民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『庶民』という名称に至ります。もし、隷民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『隷民』という名称に至ります。

 

 婆羅門よ、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

 婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

 婆羅門よ、もし、また、庶民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

 婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

442. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)慈愛の心を修めることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます」と。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

443. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます」と。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

 婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。

 

444. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。ここに、即位灌頂した王たる士族が、種々なる出生の者たちのなかの百者の人を集めるとします。『諸君よ、さあ、それらの者たちが、そこにおいて、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちであるなら、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ。諸君よ、さあ、いっぽう、それらの者たちが、そこにおいて、チャンダーラ(賎民)の家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサ(非人)の家から生起した者たちであるなら、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ』と。

 

 婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、すなわち、このように、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、いったい、まさに、それだけが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができるのでしょうか。いっぽう、すなわち、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、それは、まさしく、そして、炎がなく、かつまた、色艶がなく、さらに、光り輝くものではない、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができないのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、また、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう。すなわち、また、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう」と。

 

 「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 エースカーリンの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(97). ダナンジャーニの経

 

445. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、ダッキナーギリにおいて、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、ラージャガハにおいて雨期を過ごし、ダッキナーギリのあるところに、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「友よ、どうでしょう、世尊は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、世尊は、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、また、どうでしょう、比丘の僧団は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、比丘の僧団もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、〔ラージャガハの〕タンドゥラパーリ門において、ここ(ラージャガハ)において、ダナンジャーニという名の婆羅門が存在します。友よ、どうでしょう、ダナンジャーニ婆羅門は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、ダナンジャーニ婆羅門もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、また、どうでしょう、ダナンジャーニ婆羅門は、怠りなくありますか」と。「友よ、また、どうして、ダナンジャーニ婆羅門が、怠りなくあるというのでしょう。友よ、ダナンジャーニ婆羅門は、王に依拠して、婆羅門や家長たちを強奪し、婆羅門や家長たちに依拠して、王を強奪します。すなわち、また、彼の、信ある家から迎え入れた信ある妻ですが、彼女もまた命を終え、彼には、他の、信なき家から迎え入れた信なき妻がいます」と。「友よ、まさに、聞き難いことを、〔わたしたちは〕聞きました。友よ、まさに、聞き難いことを、〔わたしたちは〕聞きました。すなわち、わたしたちは、ダナンジャーニ婆羅門が怠りあるのを聞きました。そして、まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、ダナンジャーニ婆羅門と共に集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう」と。

 

446. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ダッキナーギリにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ラージャガハのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ラージャガハのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、ダナンジャーニ婆羅門は、城市の外にある牛小屋において、牛たちを搾乳させています。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、ダナンジャーニ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「貴君サーリプッタよ、これから、牛乳をお飲みなされよ。それまでに、食事の時と成るでしょう」と。「婆羅門よ、十分です。わたしよって、今日、食事についての為すべきことは〔すでに〕為されました。わたしには、何某の木の根元において、昼の休息が有るでしょう。そこにおいて、〔あなたが〕やってこられるなら」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタに答えました。そこで、まさに、朝食を食べたダナンジャーニ婆羅門は、食事のあと、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ダナンジャーニ婆羅門に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「ダナンジャーニよ、どうでしょう、怠りなくありますか」と。「貴君サーリプッタよ、また、どうして、わたしたちが、怠りなくあるというのでしょう。すなわち、わたしたちには、養うべき母と父があり、養うべき子と妻があり、養うべき奴隷と労夫たちがあり、朋友や僚友たちのために為すべきこととして朋友や僚友のための用事があり、親族や血縁たちのために為すべきこととして親族や血縁のための用事があり、客たちのために為すべきこととして客のための用事があり、過去の亡者(祖先)たちのために為すべきこととして過去の亡者のための用事があり、天神たちのために為すべきこととして天神のための用事があり、王のために為すべきこととして王のための用事があり、喜悦させ増進させるべきものとしてこの身体もまたあるのです」と。

 

447. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、母と父は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、子と妻は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、奴隷と労夫と下僕たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、朋友や僚友たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、朋友や僚友たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、朋友や僚友たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、親族や血縁たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、客たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、過去の亡者たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、天神たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、王は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、他者たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。

 

448. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、母と父を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、母と父を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、母と父を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、子と妻を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、子と妻を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、子と妻を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、奴隷と労夫と下僕を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、朋友や幕僚たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、親族や血縁たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、客たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、客たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、客たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、過去の亡者たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、天神たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、天神たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、天神たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、王を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、王を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、王を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。

 

 ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、身体を喜悦させ増進させることも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです」と。

 

449. そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、他時にあって、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。そして、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、ダナンジャーニ婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。そして、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

450. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、着衣して鉢と衣料を取って、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門に、こう言いました。「ダナンジャーニよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体中の風)が、頭を撹乱します(※)。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、身体において、旺盛なる燃焼があります。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

※ テキストには ca ūhananti とあるが、PTS版により ca を削除する。

 

451. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、地獄ですか、あるいは、畜生の胎ですか」と。「貴君サーリプッタよ、地獄より、畜生の胎は、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、畜生の胎ですか、あるいは、餓鬼の境域ですか」と。「貴君サーリプッタよ、畜生の胎より、餓鬼の境域は、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、餓鬼の境域ですか、あるいは、人間たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、餓鬼の境域より、人間たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、人間たちですか、あるいは、四大王天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、人間たちより、四大王天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、四大王天〔の神々〕たちですか、あるいは、三十三天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、四大王天〔の神々〕たちより、三十三天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、三十三天〔の神々〕たちですか、あるいは、耶摩天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、三十三天〔の神々〕たちより、耶摩天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、耶摩天〔の神々〕たちですか、あるいは、兜率天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、耶摩天〔の神々〕たちより、兜率天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、兜率天〔の神々〕たちですか、あるいは、化楽天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、兜率天〔の神々〕たちより、化楽天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、化楽天〔の神々〕たちですか、あるいは、他化自在天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、化楽天〔の神々〕たちより、他化自在天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、他化自在天〔の神々〕たちですか、あるいは、梵の世ですか」と。「『梵の世』と、貴君サーリプッタは言いました。『梵の世』と、貴君サーリプッタは言いました」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの婆羅門たちは、梵の世を信念した者たちである。それなら、さあ、わたしは、ダナンジャーニ婆羅門に、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示するのだ」と。「ダナンジャーニよ、あなたに、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。「ダナンジャーニよ、では、どのようなものが、梵〔天〕たちとの共住のための道なのですか。ダナンジャーニよ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。ダナンジャーニよ、これは、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です。

 

452. ダナンジャーニよ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕()を共具した心で……放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。ダナンジャーニよ、これは、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタが立ち去ったすぐあと、命を終えました。そして、梵の世に再生しました。

 

453. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この者は、サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。「サーリプッタよ、また、どうして、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『まさに、これらの婆羅門たちは、梵の世を信念した者たちである。それなら、さあ、わたしは、ダナンジャーニ婆羅門に、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示するのだ』」と。「サーリプッタよ、ダナンジャーニ婆羅門は、そして、命を終えたのであり、さらに、梵の世に再生したのです」と。

 

 ダナンジャーニの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(98). ヴァーセッタの経

 

454. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちが、イッチャーナンガラ〔村〕に滞在しています。それは、すなわち、この、チャンキン婆羅門であり、タールッカ婆羅門であり、ポッカラサーティ婆羅門であり、ジャーヌッソーニ婆羅門であり、トーデイヤ婆羅門であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちです。そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちが、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつあると、この合間の議論が起こりました。「君よ、どのように、〔人は〕婆羅門と成るのですか」と。バーラドヴァージャ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないことから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。ヴァーセッタ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、そして、戒ある者として、さらに、掟を成就した者として、〔世に〕有ることから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、ヴァーセッタ学徒も、バーラドヴァージャ学徒を説得することができませんでした。そこで、まさに、ヴァーセッタ学徒は、バーラドヴァージャ学徒に告げました。「貴君バーラドヴァージャよ、まさに、この方が、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。貴君バーラドヴァージャよ、行きましょう。沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、沙門ゴータマに、この義(意味)を尋ねるのです。すなわち、沙門ゴータマが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒に答えました。

 

455. そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァーセッタ学徒は、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔ヴァーセッタ学徒が尋ねた〕「わたしたちは、両者ともに、〔他者も〕承認し〔自らも〕明言する、三つのヴェーダ〔の知〕ある者たちとして存しています(ヴエーダ聖典の精通者である)。わたしは、ポッカラサーティの、この者(バーラドヴァージャ)は、タールッカの、学徒です。

 

 すなわち、三つのヴェーダについて告げられたなら、そこにあって、〔わたしたちは〕全一の者たちとして存しています。〔わたしたちは〕詩句に通じ文典に精通する者たちとして存しています。〔聖典の〕詠唱については師匠と同等の者たちとして。ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしたちに、出生の論について論争が存在します。

 

 『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕、バーラドヴァージャは、かくのごとく語ります。しかしながら、わたしは、『行為()によって、〔婆羅門と成る〕』〔と〕説きます。眼ある方よ、このように知ってください。

 

 〔まさに〕その、わたしたちは、両者ともに、互いに他を説得することができません。『正覚者』として〔世に〕聞こえた貴君に尋ねるために、〔わたしたちは〕やってきました。

 

 すなわち、滅〔の期間〕を過ぎた月(満月)に向かって、人々が合掌の者たちとなり、敬拝しながら礼拝するように、このように(※)、世において、〔人々は〕ゴータマを〔礼拝します〕。

 

※ PTS版ならびにVRI版『スッタニパータ』により evaṃ を補う。

 

 世に生起した眼たる方に、ゴータマに、わたしたちは尋ねます。出生によって、婆羅門と成るのですか、それとも、行為によって、〔婆羅門と〕成るのですか。知らずにいるわたしたちに説いてください──すなわち、〔わたしたちが〕婆羅門のことを知りうるように」と。

 

456. かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ヴァーセッタよ、〔まさに〕その、あなたたちに、わたしは説き明かしましょう──順次に、真実のとおりに、命あるものたちの出生の区分を。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります(それらは相異なるものとして存している)。

 

 草や木々のことをもまた、知りなさい──そして、また、〔それらは、自ら〕明言しないとして。それらには、出生によって作られる徴表(種による差異)があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 それから、蛆虫たちのことを、さらに、蟋蟀(こおろぎ)たちのことを、蟻たちに至るまで、〔それらのことをもまた、知りなさい〕。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 四足のものたちのことをもまた、知りなさい──そして、小さいものたちのことを、大きいものたちのことを。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 足が腹で、胸で赴き、長い背をもつ〔蛇〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 それから、水にあり、水を餌場とする、魚たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 それから、翼があり、翼を乗物として、宙を赴く〔鳥〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。

 

 すなわち、これらの出生において、出生によって作られる徴表が個々にあるように、このように個々にある、出生によって作られる徴表は、人間たちにおいては存在しません。

 

 諸々の髪になく、頭になく、〔両の〕耳になく、〔両の〕眼になく、口になく、鼻になく、〔両の〕唇になく、あるいは、〔両の〕眉に〔なく〕──

 

 首になく、〔両の〕肩になく、腹になく、背になく、尻になく、胸になく、陰部になく、淫事(性行為のあり方)になく──

 

 〔両の〕手になく、〔両の〕足になく、〔両手の〕指になく、あるいは、〔両手の〕爪に〔なく〕、〔両足の〕脛になく、〔両足の〕膝になく、色になく、あるいは、声に〔なく〕、出生によって作られる徴表は、まさしく、〔人間たちにおいては〕ありません。すなわち、他の諸々の出生におけるようには。

 

457. そして、〔他の〕諸々の肉体において、各自それぞれに〔見出される〕、この〔徴表〕は、人間たちにおいては見出されません。そして、〔各自それぞれの〕区別は、人間たちにおいては、呼称によって呼ばれます。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、牧畜に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、耕作者であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、多々なる技能によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、技術者であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、売り買いに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、商人であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、他者に仕えることで生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、下僕であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、与えられていないものに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、盗賊であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、弓術に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──軍人であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、司祭職によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、祭祀者であり、婆羅門ではありません。

 

 まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、村を〔領し〕、さらに、国土を領するなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、王であり、婆羅門ではありません。

 

 そして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、『婆羅門』と説きません。それで、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、『ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)』という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

458. 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二の邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 忿激せず、掟ある者を、〔渇愛の〕増長なく、戒ある者を、〔自己が〕調御され、最後の肉体ある者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 深遠なる智慧ある者にして思慮ある者を、道と道ならざるものを熟知する者を、最上の義(目的)を獲得した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 在家の者たちと交わらず、さらに、同様に、家なき者たちと〔交わらず〕、家なくして行く、少なき欲求の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 動くものたちにたいし、さらに、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼の、そして、貪欲()が、かつまた、憤怒()が、〔我想の〕思量()が、さらに、〔虚栄の〕偽装()が、芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように打ち倒されたなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

459. 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それによって、誰であれ、傷つけないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 そして、彼が、あるいは、長いものも、あるいは、短いものも、微細なるものと粗大なるものも、浄美なるものと浄美ならざるものも、世において、与えられていないものを、〔何ひとつ〕取らないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 この世において、さらに、他〔の世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、願求なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼に、諸々の〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)が見出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、生存の愉悦が完全に滅尽した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、この障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく懐疑なき者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を打破して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 人間の束縛を捨棄して、天の束縛を超え行ったなら、一切の束縛による束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 そして、歓楽と不満〔の両者〕を捨棄して、〔心が〕清涼と成った者を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切の世を征服する勇者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、有情たちの死滅を、さらに、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 天〔の神々〕たちが、音楽神や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 かつまた、過去に、かつまた、未来に、かつまた、〔その〕中間(現在)において、彼のものが、何も存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 〔勇猛果敢な〕雄牛たる最も優れた勇者を、〔一切の〕征圧者たる偉大なる聖賢を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

 彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。

 

460. まさに、世において、この呼称があり、名前や氏姓は、〔そのようなものとして〕想い描かれた〔だけの〕ものです。慣習(世俗:社会通念)から生まれ来たものであり、その場、その場に、〔そのように名づけられ〕想い描かれた〔だけの〕ものです。

 

 無知なる者たちには、長夜にわたり悪しき習いとなった、悪しき見解があります。無知なる者たちは、わたしたちに説きます──『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕。

 

 出生によって、婆羅門と成るのではありません。出生によって、婆羅門ならざる者と成るのではありません。行為によって、婆羅門と成ります。行為によって、婆羅門ならざる者と成ります。

 

 行為によって、耕作者と成ります。行為によって、技術者と成ります。行為によって、商人と成ります。行為によって、下僕と成ります。

 

 行為によって、また、盗賊と成ります。行為によって、また、軍人と〔成ります〕。行為によって、祭祀者と成ります。行為によって、また、王と成ります。

 

 このように、このことはあり、事実のとおりに、賢者たちは、行為を見ます──縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見る者たちとして、行為の報い(業報)を熟知する者たちとして。

 

 行為によって、世は転起します。行為によって、人々は転起します。進み行く車の楔(車軸に車輪を固定する部品)のように、行為という結縛あるのが有情たちです。

 

 苦行によって、梵行によって、自制によって、さらに、調御によって──これによって、婆羅門と成ります。これは、最上の婆羅門〔の境地〕です。

 

 三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を成就した者が、〔心が〕寂静となった者が、さらなる生存が滅尽した者が──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──識者たちにとっては、梵〔天〕であり、帝釈〔天〕なのです」と。

 

461. このように説かれたとき、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

 

 ヴァーセッタの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(99). スバの経

 

462. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、トーデイヤの子であるスバ学徒が、サーヴァッティーに滞在しています──或るどこかの家長の住居地において、何らかの或る用事があって。そこで、まさに、その家長の住居地において滞在する、トーデイヤの子であるスバ学徒は、その家長に、こう言いました。「家長よ、このことを、わたしは聞きました。『サーヴァッティーは、阿羅漢たちによって遠離されず』と。いったい、まさに、今日、どのような、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔わたしたちは〕奉侍できるでしょうか」と。「尊き方よ、この方が、世尊が、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。尊き方よ、彼に、世尊に、〔あなたは〕奉侍されたまえ」と。そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、その家長に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『在家者は、正理と善なる法(真理)の達成者と成る。出家者は、正理と善なる法(真理)の達成者と成らない』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。

 

463. 「学徒よ、まさに、わたしは、ここにおいて、区分して説く者であり、わたしは、ここにおいて、一定して説く者ではありません。学徒よ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、誤った実践を褒め称えません。学徒よ、なぜなら、誤った実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、誤った実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成らないからです。学徒よ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、正しい実践を褒め称えます。学徒よ、なぜなら、正しい実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、正しい実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成るからです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『この、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、大いなる果と成る。この、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家における行為の拠点は、少なき果と成る』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。

 

 「学徒よ、まさに、わたしは、ここにおいてもまた、区分して説く者であり、わたしは、ここにおいて、一定して説く者ではありません。学徒よ、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点が存在し、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点が存在し、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、行為の拠点が存在し、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、行為の拠点が存在し、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るのですか。学徒よ、耕作は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るのですか。学徒よ、まさしく、耕作は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るのですか。学徒よ、商売は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るのですか。学徒よ、まさしく、商売は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。

 

464. 学徒よ、それは、たとえば、また、耕作が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、まさしく、耕作が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、商売が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、まさしく、商売が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります」と。

 

 「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、五つの法(性質)を報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、どうか、それらの五つの法(性質)を、この衆において語りたまえ」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしにとって、負担ではありません。そこにおいて存し、坐っているのが、あるいは、貴君であり、あるいは、貴君の形態ある〔そのような者〕であるなら」と。「学徒よ、まさに、それでは、語りたまえ」と。「貴君ゴータマよ、真理を、まさに、婆羅門たちは、第一の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、苦行を、まさに、婆羅門たちは、第二の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、梵行を、まさに、婆羅門たちは、第三の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、学識を、まさに、婆羅門たちは、第四の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、施捨を、まさに、婆羅門たちは、第五の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、これらの五つの法(性質)を報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。

 

465. 「学徒よ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「学徒よ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「学徒よ、また、どうでしょう、すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、このように言いますか。『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「学徒よ、かくのごとく、まさに、誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、このように言いません。『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と。

 

 学徒よ、それは、たとえば、また、次から次へと集結した盲者の列が、前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ないように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、思うに、盲者の列の如きものとして、婆羅門たちの語ったことは成就します。前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ません」と。

 

466. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊によって、盲者の列の喩えによって、説かれながら、激情し、わが意を得ない者となり、まさしく、世尊を責めながら、まさしく、世尊を誹りながら、まさしく、世尊に、「沙門ゴータマは、悪しき者と成るであろう」と説きながら、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、このように言います。『いっぽう、まさしく、このように、ここに、一部の沙門や婆羅門たちは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を明言する。彼らが語った、このことは、まさしく、笑い話として成就し、まさしく、名ばかりのものとして成就し、まさしく、空虚なこととして成就し、まさしく、虚妄なこととして成就する。なぜなら、どうして、まさに、人間たる生類が、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知るというのだろう、あるいは、見るというのだろう、あるいは、実証するというのだろう、かくのごとく、この状況は見出されないからである』」と。

 

 「学徒よ、また、どうでしょう、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、まさしく、全ての沙門や婆羅門たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、自らのプンニカー奴婢の心さえも、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しません。また、どうして、まさしく、全ての沙門や婆羅門たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するというのでしょう」と。

 

 「学徒よ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼が、このように説くとします。『諸々の黒白の形態は存在しない。諸々の黒白の形態を見る者は存在しない。諸々の青の形態は存在しない。諸々の青の形態を見る者は存在しない。諸々の黄の形態は存在しない。諸々の黄の形態を見る者は存在しない。諸々の赤の形態は存在しない。諸々の赤の形態を見る者は存在しない。諸々の深紅の形態は存在しない。諸々の深紅の形態を見る者は存在しない。平坦と平坦ならざるものは存在しない。平坦と平坦ならざるものを見る者は存在しない。諸々の星の形態は存在しない。諸々の星の形態を見る者は存在しない。月と日は存在しない。月と日を見る者は存在しない。わたしは、これを知らない。わたしは、これを見ない。それゆえに、それは存在しない』と。学徒よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説くでしょうか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。諸々の黒白の形態は存在します。諸々の黒白の形態を見る者は存在します。諸々の青の形態は存在します。諸々の青の形態を見る者は存在します。諸々の黄の形態は存在します。諸々の黄の形態を見る者は存在します。諸々の赤の形態は存在します。諸々の赤の形態を見る者は存在します。諸々の深紅の形態は存在します。諸々の深紅の形態を見る者は存在します。平坦と平坦ならざるものは存在します。平坦と平坦ならざるものを見る者は存在します。諸々の星の形態は存在します。諸々の星の形態を見る者は存在します。月と日は存在します。月と日を見る者は存在します。『わたしは、これを知らない。わたしは、これを見ない。それゆえに、それは存在しない』と〔説くなら〕、貴君ゴータマよ、まさに、彼は、正しく説きつつ説かないでしょう」と。

 

 「学徒よ、まさしく、このように、まさに、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、盲者であり、眼なき者です。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。

 

467. 学徒よ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの、コーサラ〔国〕の婆羅門の大家たちがいます。それは、すなわち、この、チャンキン婆羅門であり、タールッカ婆羅門であり、ポッカラサーティ婆羅門であり、ジャーヌッソーニ婆羅門であり、そして、あなたの父であるトーデイヤ婆羅門です。あるいは、すなわち、彼らが、〔共通の〕慣習(一般常識)によって言葉を語るなら、あるいは、すなわち、〔共通の〕慣習によらずして〔言葉を語るなら〕、彼らのなかの、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、〔共通の〕慣習によって、です」〔と〕。

 

 「あるいは、すなわち、彼らが、考量して言葉を語るなら、あるいは、すなわち、考量せずして〔言葉を語るなら〕、彼らのなかの、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、考量して、です」〔と〕。

 

 「あるいは、すなわち、彼らが、審慮して言葉を語るなら、あるいは、すなわち、審慮せずして〔言葉を語るなら〕、彼らのなかの、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、審慮して、です」〔と〕。

 

 「あるいは、すなわち、彼らが、義(利益)を伴った言葉を語るなら、あるいは、すなわち、義(利益)を伴わない〔言葉を語るなら〕、彼らのなかの、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、義(利益)を伴ったもの、です」〔と〕。

 

 「学徒よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャによって、〔共通の〕慣習によって言葉が語られましたか、〔共通の〕慣習によらずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、〔共通の〕慣習によらずして、です」〔と〕。

 

 「考量して言葉が語られましたか、考量せずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、考量せずして、です」〔と〕。

 

 「審慮して言葉が語られましたか、審慮せずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、審慮せずして、です」〔と〕。

 

 「義(利益)を伴った言葉が語られましたか、義(利益)を伴わない〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、義(利益)を伴わないもの、です」〔と〕。

 

 学徒よ、五つのものがあります。まさに、これらの〔修行の〕妨害(五蓋)です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕()です。学徒よ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害があります。学徒よ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害によって、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、覆われ、妨害され、覆い被され、覆い包まれています。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。

 

468. 学徒よ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。学徒よ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。学徒よ、まさに、これらの五つの欲望の属性によって、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。

 

 学徒よ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、草や薪という燃料を縁として、火を燃やすなら、あるいは、すなわち、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やすなら、いったい、まさに、どちらが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やす、その状況があるなら、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょう」と。「学徒よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やすことです──神通ある者より他には。学徒よ、それは、たとえば、また、草や薪という燃料を縁として、火が燃えるように、学徒よ、その喩えのように、わたしは、この喜悦を説きます──すなわち、五つの欲望の属性を縁としてある、この喜悦です。学徒よ、それは、たとえば、また、草や薪という燃料を放棄し、火が燃えるように、学徒よ、その喩えのように、わたしは、この喜悦を説きます──すなわち、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、この喜悦です。

 

 学徒よ、では、どのようなものが、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦なのですか。学徒よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。学徒よ、これもまた、まさに、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦です。まさに、学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。学徒よ、これもまた、まさに、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦です。

 

469. 学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──婆羅門たちは、どのようなものを、ここにおいて、より大いなる果となる法(性質)と報知するのですか──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──婆羅門たちは、施捨を、ここにおいて、より大いなる果となる法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。

 

 「学徒よ、それを、どう思いますか(※)。ここに、或るひとりの婆羅門に、設営中の大いなる祭祀が存するとします。そこで、二者の婆羅門がやってくるとします。『某名の婆羅門の大いなる祭祀を受領するのだ』と。そこで、一者の婆羅門に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきである。他の婆羅門は、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきではない』と。学徒よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ることです。その婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ないことです。『他の婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得る。わたしは、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、わが意を得ない者と〔成ります〕。学徒よ、また、婆羅門たちは、この者(祭祀者)の報いを、どのようなものと報知しますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように布施を施しません。『これによって、他者は、激情した者と成れ、わが意を得ない者と〔成れ〕』と。そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、まさしく、慈しみ〔の思い〕に属するものとして、布施を施します」と。「学徒よ、このように存しているとき、まさに、婆羅門たちには、この第六の功徳を作り為すための基盤が有ります。すなわち、この、慈しみ〔の思い〕に属するものが」と。「貴君ゴータマよ、このように存しているとき、まさに、婆羅門たちには、この第六の功徳を作り為すための基盤が有ります。すなわち、この、慈しみ〔の思い〕に属するものが」と。

 

※ テキストには ki maññasiとあるが、PTS版により kiṃ maññasi と読む。

 

 「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──あなたは、これらの五つの法(性質)を、どこにおいて、多くあると等しく随観しますか。あるいは、在家者たちにおいてですか、あるいは、出家者たちにおいてですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これらの五つの法(性質)を、出家者たちにおいて、多くあると等しく随観し、在家者たちにおいて、少なくあると〔等しく随観します〕。貴君ゴータマよ、なぜなら、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、在家者は、常に連続して真理を説く者と成らないからです。貴君ゴータマよ、また、まさに、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家者は、常に連続して真理を説く者と成るからです。貴君ゴータマよ、なぜなら、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、在家者は、常に連続して苦行者と成らないからです。……梵行者と成らないからです。……読誦多き者と成らないからです。……施捨多き者と成らないからです。貴君ゴータマよ、また、まさに、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家者は、常に連続して苦行者と成るからです。……梵行者と成るからです。……読誦多き者と成るからです。……施捨多き者と成るからです。貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これらの五つの法(性質)を、出家者たちにおいて、多くあると等しく随観し、在家者たちにおいて、少なくあると〔等しく随観します〕」と。

 

 「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これらを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)心があり、それを修めるための〔必需品と〕。学徒よ、ここに、比丘が、真理を説く者として〔世に〕有ります。彼は、『真理を説く者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。すなわち、その、善なるものを伴った歓喜があるなら、わたしは、これを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と〕。学徒よ、ここに、比丘が、苦行者として〔世に〕有ります。……梵行者として〔世に〕有ります。……読誦多き者として〔世に〕有ります。……施捨多き者として〔世に〕有ります。彼は、『真理を説く者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。すなわち、その、善なるものを伴った歓喜があるなら、わたしは、これを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と〕」と。

 

※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

470. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を知る』」と。

 

 「学徒よ、それを、どう思いますか。ここから近くに、ナラカーラ村はありますか。ここから遠くではなく、ナラカーラ村はありますか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、そのとおりです。ここから近くに、ナラカーラ村はあります。ここから遠くではなく、ナラカーラ村はあります」と。

 

 「学徒よ、それを、どう思いますか。ここに、ナラカーラ村において生まれ育った人が存するとします。〔まさに〕その、この者に、〔彼が〕ナラカーラ村から出たなら、まさしく、ただちに、〔人々が〕ナラカーラ村への道を尋ねるとします。学徒よ、いったい、まさに、その人に──ナラカーラ村への道を尋ねられた、ナラカーラ村において生まれ育った者に──あるいは、遅滞することがありますか、あるいは、困惑することがありますか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「それは、何を因とするのですか」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、なぜなら、この人は、ナラカーラ村において生まれ育った者であり、彼には、まさしく、全てのナラカーラ村への道が、善く知られているからです」と。「学徒よ、さてまた、まさに、その人に──ナラカーラ村への道を尋ねられた、ナラカーラ村において生まれ育った者に──あるいは、遅滞することが、あるいは、困惑することが、存するとして、まさしく、しかし、あるいは、梵の世を、あるいは、梵の世に至る〔実践の〕道を、尋ねられた如来には、あるいは、遅滞することも、あるいは、困惑することも、ありません。学徒よ、そして、梵〔天〕を、かつまた、梵の世を、さらに、梵の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。かつまた、実践したそのとおりに、梵の世に再生した者として、そして、それを、〔わたしは〕覚知します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示する』と。どうか、わたしに、貴君ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示したまえ」と。

 

 「学徒よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

471. 「学徒よ、では、どのようなものが、梵〔天〕たちとの共住のための道なのですか。学徒よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、学徒よ、まさしく、このように、まさに……略……。学徒よ、このように、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。学徒よ、これもまた、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です。学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、学徒よ、まさしく、このように、まさに……略……。学徒よ、このように、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。学徒よ、これもまた、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です」と。

 

472. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「学徒よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、トーデイヤの子であるスバ学徒が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、トーデイヤの子であるスバ学徒に、こう言いました。「さて、いったい、どこから、貴君バーラドヴァージャ(スバ学徒)はお帰りかな──昼のさなかに」と。「君よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。「貴君バーラドヴァージャは、それを、どう思いますか──沙門ゴータマの智慧と聡慧を。賢者と思いますか」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るというのでしょう。沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るであろう、その者は、まちがいなく、彼もまた、まさしく、そのような者として〔世に〕存しているのです」と。「まさに、貴君バーラドヴァージャは、盛大なる賞賛をもって、沙門ゴータマを賞賛します」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマを賞賛するというのでしょう。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、賞賛される者によって賞賛される者であり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者です。君よ、そして、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──沙門ゴータマは、これらを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と〕」と。

 

 このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、純白の騾馬車から降りて、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、感興〔の言葉〕を唱えました。「コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の利得がある。コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の善く得られた利得がある。すなわち、〔彼の〕領土において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられるとは」と。

 

 スバの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(100). サンガーラヴァの経

 

473. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。また、まさに、その時点にあって、ダナンジャーニーという名の女性婆羅門が、チャンチャリカッパに滞在しています。かつまた、覚者にたいし、かつまた、法(教え)にたいし、かつまた、僧団にたいし、大いに清信した者です。そこで、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は躓いて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、サンガーラヴァという名の学徒が、チャンチャリカッパに滞在しています。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。まさに、サンガーラヴァ学徒は、ダナンジャーニー女性婆羅門が、このような言葉を語っているのを耳にしました。耳にして、ダナンジャーニー女性婆羅門に、こう言いました。「この者は、ダナンジャーニー女性婆羅門は、まさしく、堕落している。この者は、ダナンジャーニー女性婆羅門は、まさしく、破滅している。三つのヴェーダある婆羅門たちが見出されるのに、そこで、また、そして、彼の、坊主頭の似非沙門の、栄誉を語るとは」と。「親愛なる者よ、幸顔なる者よ、また、まさに、あなたは、彼の、世尊の、戒と智慧を知らないのですか。親愛なる者よ、幸顔なる者よ、それで、もし、あなたが、彼の、世尊の、戒と智慧を知るなら、親愛なる者よ、幸顔なる者よ、あなたは、彼を、世尊を、罵倒するべき者と、口撃するべき者と、思い考えないでしょう」と。「尊女よ、まさに、それでは、すなわち、沙門ゴータマが、チャンチャリカッパに到着するところと成るとき、そこで、わたしに告げるように」と。「幸顔なる者よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、サンガーラヴァ学徒に答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、チャンチャリカッパのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、チャンチャリカッパに住んでおられます。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において。まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、「どうやら、世尊が、チャンチャリカッパに到着し、チャンチャリカッパに住んでおられるらしい。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、サンガーラヴァ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サンガーラヴァ学徒に、こう言いました。「親愛なる者よ、幸顔なる者よ、この方が、彼が、世尊が、チャンチャリカッパに到着し、チャンチャリカッパに住んでおられます。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において。親愛なる者よ、幸顔なる者よ、今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と

 

474. 「尊女よ、わかりました」と、まさに、サンガーラヴァ学徒は、ダナンジャーニー女性婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、或る沙門や婆羅門たちが存在し、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。貴君ゴータマよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、貴君ゴータマは、どのような者として、彼らのなかにありますか」と。「バーラドヴァージャ(サンガーラヴァ学徒)よ、まさに、わたしは、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言している者たちにもまた、相違があることを説きます。バーラドヴァージャよ、聴聞者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、聴聞によって、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。それは、たとえば、また、三つのヴェーダある婆羅門たちのように。バーラドヴァージャよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在し、単に、信のみによって、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。それは、たとえば、また、考慮者たちや考察者たちのように。バーラドヴァージャよ、或る沙門や婆羅門たちが存在し、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。バーラドヴァージャよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、彼らのなかに、わたしは存在します。バーラドヴァージャよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知と完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、彼らのなかに、わたしが存在する、そのとおりに。

 

475. バーラドヴァージャよ、ここに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように出家者として〔世に〕存しながら、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。

 

 バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。……略……気づきが……禅定が……。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

476. バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。……略……気づきが……禅定が……。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

477. バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、清らかな密林を、さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、清らかな密林である。さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。

 

 バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。

 

478. バーラドヴァージャよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。

 

479. バーラドヴァージャよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえのうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。

 

480. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

481. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体中の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の鞴が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。

 

 バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生(なま)の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。バーラドヴァージャよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。バーラドヴァージャよ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。

 

482. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。

 

483. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五人組の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。バーラドヴァージャよ、すなわち、まさに、わたしが、粗大なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五人組の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。

 

 バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

484. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると」と。

 

485. このように説かれたとき、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマには、停滞なき掟として、精励が有りました。貴君ゴータマには、正なる人士の掟として、精励が有りました──すなわち、阿羅漢にして正等覚者にある、そのとおりに。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか」と。「バーラドヴァージャよ、このことは、わたしによって、即座に見出すところとなります。すなわち、この、上天〔の神々〕たちは」と。「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『バーラドヴァージャよ、このことは、わたしによって、即座に見出すところとなります。すなわち、この、上天〔の神々〕たちは』と説きます。貴君ゴータマよ、まさに、このように存しているなら、虚妄で虚偽なるものと成らないですか(答えになっていない)」と。「バーラドヴァージャよ、『天〔の神々〕たちは存在しますか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、その者が、『天〔の神々〕たちは存在します』と説くも、その者が、『わたしによって、即座に見出すところとなります』と説くも、そこで、まさに、ここにおいて、識者たる人によって、一定して、結論に至るべきです。すなわち、この、天〔の神々〕たちは存在する、〔という、結論に〕」と。「また、どうして、わたしに、貴君ゴータマは、まさしく、最初に、説き明かさなかったのですか」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、このことは、世において、声高に等しく思認されていることです。すなわち、この、天〔の神々〕たちは存在する、〔という、このことは〕(誰もが口にする言葉である)」と。

 

486. このように説かれたとき、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 サンガーラヴァの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 婆羅門の章は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ブラフマーユ、セーラとアッサラーヤナ、そして、ゴータムカ婆羅門、チャンキン、エース、ダナンジャーニ、ヴァーセッタ、スバとサンガーラヴァがあり、〔章となる〕」と。

 

 これが、〔五つの〕章のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「家長、比丘、遍歴遊行者という名の章があり、王の章、婆羅門、ということで、中なる聖教において、五つ〔の章〕がある」〔と〕。

 

 中間の五十なるものは〔以上で〕完結となる。