中部経典(マッジマ・ニカーヤ)

 

 根元の五十の聖典(根本五十経篇)

 

【目次】

 

1. 根元の教相の章

 

1. 根元の教相の経(1.~)

2. 一切の煩悩の経(14.~)

3. 法の相続者の経(29.~)

4. 恐怖と恐ろしさの経(34.~)

5. 穢れなき者の経(57.~)

6. 「望むなら」の経(64.~)

7. 衣装の経(70.~)

8. 謹厳の経(81.~)

9. 正しい見解の経(89.~)

10. 大いなる気づきの確立の経(105.~)

 

2. 獅子吼の章

 

1(11). 小なる獅子吼の経(139.~)

2(12). 大いなる獅子吼の経(146.~)

3(13). 大いなる苦しみの範疇の経(163.~)

4(14). 小なる苦しみの範疇の経(175.~)

5(15). 推知の経(181.~)

6(16). 心の鬱積の経(185.~)

7(17). 林野の辺境の経(190.~)

8(18). 蜜団子の経(199.~)

9(19). 二種の思考の経(206.~)

10(20). 思考の様相の経(216.~)

 

3. 喩えの章

 

1(21). 鋸の喩えの経(222.~)

2(22). 蛇の喩えの経(234.~)

3(23). 蟻塚の経(249.~)

4(24). 乗り継ぎ車の経(252.~)

5(25). 撒餌の経(261.~)

6(26). 罠の集まりの経(272.~)

7(27). 小なる象の足跡の喩えの経(288.~)

8(28). 大いなる象の足跡の喩えの経(300.~)

9(29). 大いなる硬材の喩えの経(307.~)

10(30). 小なる硬材の喩えの経(312.~)

 

4. 大いなる対なるものの章

 

1(31). 小なるゴーシンガの経(325.~)

2(32). 大いなるゴーシンガの経(332.~)

3(33). 大いなる牛飼いの経(346.~)

4(34). 小なる牛飼いの経(350.~)

5(35). 小なるサッチャカの経(353.~)

6(36). 大いなるサッチャカの経(364.~)

7(37). 小なる渇愛の消滅の経(390.~)

8(38). 大いなる渇愛の消滅の経(396.~)

9(39). 大いなるアッサプラの経(415.~)

10(40). 小なるアッサプラの経(435.~)

 

5. 小なる対なるものの章

 

1(41). サーラー〔村〕の者たちの経(439.~)

2(42). ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経(444.~)

3(43). 大いなる問答の経(449.~)

4(44). 小なる問答の経(460.~)

5(45). 小なる法の受持の経(468.~)

6(46). 大いなる法の受持の経(473.~)

7(47). 審査者の経(487.~)

8(48). コーサンビーの者たちの経(491.~)

9(49). 梵〔天〕の招待の経(501.~)

10(50). 責め咎められるべき悪魔の経(506.~)

 


 

 

 根元の五十の聖典(根本五十経篇)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 根元の教相の章

 

1. 根元の教相の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウッカッターに住んでおられます。スバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、一切の諸法(事象)の根元の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

2. 「比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、地を地として表象します。地を地として表象して、地を思い、地について思い、地として思い、地を『わたしのものである』と思い、地に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を水として表象します。水を水として表象して、水を思い、水について思い、水として思い、水を『わたしのものである』と思い、水に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 火を火として表象します。火を火として表象して、火を思い、火について思い、火として思い、火を『わたしのものである』と思い、火に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 風を風として表象します。風を風として表象して、風を思い、風について思い、風として思い、風を『わたしのものである』と思い、風に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

3. 生類たちを生類として表象します。生類たちを生類として表象して、生類たちを思い、生類たちについて思い、生類として思い、生類たちを『わたしのものである』と思い、生類たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 天〔の神々〕たちを天〔の神々〕として表象します。天〔の神々〕たちを天〔の神々〕として表象して、天〔の神々〕たちを思い、天〔の神々〕たちについて思い、天〔の神々〕として思い、天〔の神々〕たちを『わたしのものである』と思い、天〔の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 造物主を造物主として表象します。造物主を、造物主として表象して、造物主を思い、造物主について思い、造物主として思い、造物主を『わたしのものである』と思い、造物主に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 梵〔天〕を梵〔天〕として表象します。梵〔天〕を梵〔天〕として表象して、梵〔天〕を思い、梵〔天〕について思い、梵〔天〕として思い、梵〔天〕を『わたしのものである』と思い、梵〔天〕に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 光音〔天の神々〕たちを光音〔天の神〕として表象します。光音〔天の神々〕たちを光音〔天の神〕として表象して、光音〔天の神々〕たちを思い、光音〔天の神々〕たちについて思い、光音〔天の神〕として思い、光音〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思い、光音〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 遍浄〔天の神々〕たちを遍浄〔天の神〕として表象します。遍浄〔天の神々〕たちを遍浄〔天の神〕として表象して、遍浄〔天の神々〕たちを思い、遍浄〔天の神々〕たちについて思い、遍浄〔天の神〕として思い、遍浄〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思い、遍浄〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 広果〔天の神々〕たちを広果〔天の神〕として表象します。広果〔天の神々〕たちを広果〔天の神〕として表象して、広果〔天の神々〕たちを思い、広果〔天の神々〕たちについて思い、広果〔天の神〕として思い、広果〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思い、広果〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 アビブー〔神〕(無色の四蘊を征服した表象なき生存)をアビブー〔神〕として表象します。アビブー〔神〕を、アビブー〔神〕として表象して、アビブー〔神〕を思い、アビブー〔神〕について思い、アビブー〔神〕として思い、アビブー〔神〕を『わたしのものである』と思い、アビブー〔神〕に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

4. 虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を虚空無辺なる〔認識の〕場所として表象します。虚空無辺なる〔認識の〕場所を虚空無辺なる〔認識の〕場所として表象して、虚空無辺なる〔認識の〕場所を思い、虚空無辺なる〔認識の〕場所について思い、虚空無辺なる〔認識の〕場所として思い、虚空無辺なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思い、虚空無辺なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を識知無辺なる〔認識の〕場所として表象します。識知無辺なる〔認識の〕場所を識知無辺なる〔認識の〕場所として表象して、識知無辺なる〔認識の〕場所を思い、識知無辺なる〔認識の〕場所について思い、識知無辺なる〔認識の〕場所として思い、識知無辺なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思い、識知無辺なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を無所有なる〔認識の〕場所として表象します。無所有なる〔認識の〕場所を無所有なる〔認識の〕場所として表象して、無所有なる〔認識の〕場所を思い、無所有なる〔認識の〕場所について思い、無所有なる〔認識の〕場所として思い、無所有なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思い、無所有なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として表象します。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として表象して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を思い、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について思い、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として思い、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思い、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

5. 見られたものを見られたものとして表象します。見られたものを見られたものとして表象して、見られたものを思い、見られたものについて思い、見られたものとして思い、見られたものを『わたしのものである』と思い、見られたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 聞かれたものを聞かれたものとして表象します。聞かれたものを聞かれたものとして表象して、聞かれたものを思い、聞かれたものについて思い、聞かれたものとして思い、聞かれたものを『わたしのものである』と思い、聞かれたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 思われたものを思われたものとして表象します。思われたものを思われたものとして表象して、思われたものを思い、思われたものについて思い、思われたものとして思い、思われたものを『わたしのものである』と思い、思われたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 識()られたものを識られたものとして表象します。識られたものを識られたものとして表象して、識られたものを思い、識られたものについて思い、識られたものとして思い、識られたものを『わたしのものである』と思い、識られたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

6. 一なることを一なることとして表象します。一なることを一なることとして表象して、一なることを思い、一なることについて思い、一なることとして思い、一なることを『わたしのものである』と思い、一なることに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 種々なることを種々なることとして表象します。種々なることを種々なることとして表象して、種々なることを思い、種々なることについて思い、種々なることとして思い、種々なることを『わたしのものである』と思い、種々なることに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 一切を一切として表象します。一切を一切として表象して、一切を思い、一切について思い、一切として思い、一切を『わたしのものである』と思い、一切に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 涅槃を涅槃として表象します。涅槃を涅槃として表象して、涅槃を思い、涅槃について思い、涅槃として思い、涅槃を『わたしのものである』と思い、涅槃に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 凡夫を所以にする第一の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

7. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思うことがあってはならず、地について思うことがあってはならず、地として思うことがあってはならず、地を『わたしのものである』と思うことがあってはならず、地に愉悦してはいけません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されるべきであるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音〔天の神々〕たちを……。遍浄〔天の神々〕たちを……。広果〔天の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思うことがあってはならず、涅槃について思うことがあってはならず、涅槃として思うことがあってはならず、涅槃を『わたしのものである』と思うことがあってはならず、涅槃に愉悦してはいけません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されるべきであるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 〔いまだ〕学びある者を所以にする第二の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

8. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩()の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存()に束縛するもの()の完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音〔天の神々〕たちを……。遍浄〔天の神々〕たちを……。広果〔天の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする第三の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

9. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。貪欲()の滅尽あることからであり、貪欲を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。貪欲の滅尽あることからであり、貪欲を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする第四の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

10. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。憤怒()の滅尽あることからであり、憤怒を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。憤怒の滅尽あることからであり、憤怒を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする第五の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

11. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。迷妄()の滅尽あることからであり、迷妄を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。迷妄の滅尽あることからであり、迷妄を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする第六の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

12. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『如来には、終極が遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『如来には、終極が遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 如来を所以にする第七の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

13. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思わず、地について思わず、地として思わず、地を『わたしのものである』と思わず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『愉悦は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、『生存から生がある』『生類には老と死がある』と〔知るからです〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『如来は。全てにわたり、諸々の渇愛の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、無上なる正等覚を現正覚したのだ』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思わず、涅槃について思わず、涅槃として思わず、涅槃を『わたしのものである』と思わず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『愉悦は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、『生存から生がある』『生類には老と死がある』と〔知るからです〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『如来は。全てにわたり、諸々の渇愛の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、無上なる正等覚を現正覚したのだ』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 如来を所以にする第八の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。それらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜ばなかった、ということです。

 

 根元の教相の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2. 一切の煩悩の経

 

14. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、一切の煩悩の統御(律儀)の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

15. 「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者にではなく、〔あるがままに〕見ていない者にではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、かつまた、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説くのですか。そして、根源のままに意を為すこと(如理作意)であり、さらに、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩は生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩は捨棄されます。

 

16. 比丘たちよ、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在します。

 

 見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

17. 比丘たちよ、では、どのようなものが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せず、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しません。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せずにいながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知せずにいながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為し、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為すことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為さないことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。

 

18. 彼は、このように、根源のままならずに意を為します。『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』と。あるいは、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ります。『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』と。

 

19. 彼が、このように、根源のままならずに意を為していると、六つの見解のなかのどれか一つの見解が生起します。あるいは、『わたしの自己は存在する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します(真理であると誤認する)。あるいは、『わたしの自己は存在しない』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己ならざるものを表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己ならざるものによって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。そこで、また、あるいは、彼に、このような見解が有ります。『すなわち、わたしのこの自己は、説くものであり、感受されるべきものであり、その場、その場に、諸々の善悪の行為()の報い(異熟)を得知する。また、まさに、その、わたしのこの自己は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。比丘たちよ、これは、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛と説かれます。比丘たちよ、見解の束縛に束縛された無聞の凡夫は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

20. 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知し、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知します。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知しながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為さず、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

 

 彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為さないことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為すことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が捨棄されます。

 

21. 彼は、『これは、苦しみである』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの集起である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、根源のままに意を為します。彼が、このように、根源のままに意を為していると、三つの束縛するもの(三結)が捨棄されます──身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)が、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)が。比丘たちよ、これらは、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

22. 比丘たちよ、では、どのようなものが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、眼の機能(眼根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、眼の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、眼の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。根源のままに審慮して〔そののち〕、耳の機能(耳根)における統御によって……略……鼻の機能(鼻根)における統御によって……略……舌の機能(舌根)における統御によって……略……身の機能(身根)における統御によって……略……意の機能(意根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、意の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、意の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

23. 比丘たちよ、では、どのようなものが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、〔行乞の〕施食を受用します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行(禁欲清浄行)の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を受用します──生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、〔そのように〕受用していないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が受用していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

24. 比丘たちよ、では、どのようなものが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、耐え忍んでいないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が耐え忍んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

25. 比丘たちよ、では、どのようなものが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、狂暴な象を遍く避け、狂暴な馬を遍く避け、狂暴な牛を遍く避け、狂暴な犬を──蛇を、木株を、棘の地を、暗坑を、深淵を、どぶ池を、水たまりを──遍く避けます。そのような形態の坐所ならざるところに坐っている者を、そのような形態の托鉢所ならざるところを歩んでいる者を、そのような形態の悪しき朋友たちに親しんでいる者を、梵行を共にする識者たちが、諸々の悪しき境位に位置づけるなら、彼は、そして、その坐所ならざるところを、かつまた、その托鉢所ならざるところを、さらに、それらの悪しき朋友たちを、根源のままに審慮して〔そののち〕、遍く避けます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、遍く避けていないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が遍く避けていると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

26. 比丘たちよ、では、どのようなものが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、除去しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が除去していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

27. 比丘たちよ、では、どのようなものが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、修行しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が修行していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

28. 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘にとって、それらが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、見〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、統御〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、受用〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、除去〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、修行〔の観点〕から捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、一切の煩悩が統御によって統御され、〔世に〕住む。渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量()の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 一切の煩悩の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3. 法の相続者の経

 

29. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、そして、あなたたちが、わたしの財貨の相続者たちと成るなら──法(教え)の相続者たちではなく──それによって、あなたたちもまた、〔他者から〕指摘されるべき者たちと(※)成るでしょう。『教師の弟子たちは、財貨の相続者たちとして〔世に〕住む──法(教え)の相続者たちではなく』と。それによって、わたしもまた、〔他者から〕指摘されるべき者と成るでしょう。『教師の弟子たちは、財貨の相続者たちとして〔世に〕住む──法(教え)の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、しかしながら、あなたたちが、わたしの法(教え)の相続者たちと成るなら──財貨の相続者たちではなく──それによって、あなたたちもまた、〔他者から〕指摘されるべき者たちと成らないでしょう。『教師の弟子たちは、法(教え)の相続者たちとして〔世に〕住む──財貨の相続者たちではなく』と。それによって、わたしもまた、〔他者から〕指摘されるべき者と成らないでしょう。『教師の弟子たちは、法(教え)の相続者たちとして〔世に〕住む──財貨の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』と。

 

※ テキストには ādiyā とあるが、PTS版により ādissā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

30. 比丘たちよ、ここに、わたしが、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者として存するとします。そして、わたしの〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存するとします。そこで、二者の比丘が、飢えと力の衰えに打ち負かされ、やってくるとします。彼らに、わたしは、このように説くとします。『比丘たちよ、まさに、わたしは、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者として存しています。そして、わたしの、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存しています。それで、もし、望むなら、〔それを〕食べなさい。もし、あなたたちが食べないなら、今や、わたしは、あるいは、緑が少ないところに捨てるでしょうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるでしょう』と。そこで、一者の比丘に、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、世尊は、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者である。そして、世尊の、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存在する。それで、もし、わたしたちが食べないなら、今や、世尊は、あるいは、緑が少ないところに捨てるであろうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるであろう。また、まさに、世尊によって、このことが説かれた。「比丘たちよ、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません」と。また、まさに、これは、財貨のなかの或る一つである。すなわち、この、〔行乞の〕施食は。それなら、さあ、わたしは、この〔行乞の〕施食を食べずして、まさしく、この飢えと力の衰えとともに、このように、この夜と昼を過ごすのだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を食べずして、まさしく、この飢えと力の衰えとともに、このように、その夜と昼を過ごすとします。そこで、第二の比丘に、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、世尊は、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者である。そして、世尊の、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存在する。それで、もし、わたしたちが食べないなら、今や、世尊は、あるいは、緑が少ないところに捨てるであろうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるであろう。それなら、さあ、わたしは、この〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、この夜と昼を過ごすのだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、その夜と昼を過ごすとします。比丘たちよ、たとえ、何であれ、その比丘が、その〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、その夜と昼を過ごすとして、そこで、まさに、わたしにとって、まさしく、この最初の比丘は、かつまた、より供養されるべき者であり、かつまた、より賞賛されるべき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、それは、その比丘にとって、長夜にわたり、少なき欲求たること(少欲)のために、満ち足りていること(知足)のために、謹厳のために、扶養し易きことのために、精進勉励のために、等しく転起するであろうからです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者(善逝)は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

31. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しないのですか。また、そして、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学するのですか」と。「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しないのですか。友よ、ここに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しません。かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しません。さらに、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有ります。友よ、そこで、長老の比丘たちは、三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しない』と、この第一の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しない』と、この第二の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとしてある』と、この第三の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。友よ、長老の比丘たちは、これらの三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。友よ、そこで、中堅の比丘たちは……略……新参の比丘たちは、三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しない』と、この第一の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しない』と、この第二の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちとして(※)、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとしてある』と、この第三の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。友よ、新参の比丘たちは、これらの三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。友よ、このことから、まさに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しません。

 

※ テキストには Bāhulikā ca honti とあるが、PTS版により honti を削除する。

 

32. 友よ、また、そして、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学するのですか。友よ、ここに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学します。かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄します。さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有ります。友よ、そこで、長老の比丘たちは、三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学する』と、この第一の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄する』と、この第二の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとしてある』と、この第三の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、長老の比丘たちは、これらの三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、そこで、中堅の比丘たちは……略……新参の比丘たちは、三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学する』と、この第一の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄する』と、この第二の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとしてある』と、この第三の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、新参の比丘たちは、これらの三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、このことから、まさに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学します。

 

33. 友よ、そこで、そして、貪欲は悪しきものであり、さらに、憤怒は悪しきものです。そして、貪欲の捨棄のために、さらに、憤怒の捨棄のために、中なる〔実践の〕道(中道)が存在し、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。友よ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。友よ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 友よ、そこで、そして、忿激(忿)は悪しきものであり、さらに、怨恨()は悪しきものです。……略……そして、偽装()は悪しきものであり、さらに、加虐()は悪しきものです。……そして、嫉妬()は悪しきものであり、さらに、物惜()は悪しきものです。……そして、幻惑()は悪しきものであり、さらに、狡猾()は悪しきものです。……そして、強情は悪しきものであり、さらに、激昂は悪しきものです。……そして、思量()は悪しきものであり、さらに、高慢(過慢)は悪しきものです。……そして、驕慢()は悪しきものであり、さらに、放逸は悪しきものです。そして、驕慢の捨棄のために、さらに、放逸の捨棄のために、中なる〔実践の〕道が存在し、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。友よ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 法の相続者の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4. 恐怖と恐ろしさの経

 

34. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、これらの者たちは、貴君ゴータマを指定して、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、貴君ゴータマは、彼らにとって先行者であり、貴君ゴータマは、彼らのために多く〔の利益〕を作り為す者であり、貴君ゴータマは、彼らの督励者であり、また、そして、その人々は、貴君ゴータマに随従する見解を惹起します」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、すなわち、それらの者たちは、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、わたしは、彼らにとって先行者であり、わたしは、彼らのために多く〔の利益〕を作り為す者であり、わたしは、彼らの督励者であり、また、そして、その人々は、わたしに随従する見解を惹起します」と。「貴君ゴータマよ、まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所です。為し難きは、喜び難きは、遠離です。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去るのです」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所です。為し難きは、喜び難きは、遠離です。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去るのです」と。

 

35. 「婆羅門よ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしにもまた、この〔思い〕が有りました。『まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所である。為し難きは、喜び難きは、遠離である。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去る』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄ならざる身体の行業ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、完全なる清浄ならざる身体の行業という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、完全なる清浄ならざる身体の行業ある者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、完全なる清浄の身体の行業ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、完全なる清浄の身体の行業ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この完全なる清浄の身体の行業あることを(※)、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

※ テキストには parisuddhakāyakammataṃ とあるが、PTS版により parisuddhakāyakammantataṃ と読む。

 

36. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄ならざる言葉の行業ある者たちとして……略……完全なる清浄ならざる意の行業ある者たちとして……略……完全なる清浄ならざる生き方ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、完全なる清浄ならざる生き方という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、完全なる清浄ならざる生き方ある者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、完全なる清浄の生き方ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、完全なる清浄の生き方ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この完全なる清浄の生き方あることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

37. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、強欲〔の思い〕ある者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、強欲〔の思い〕と諸々の欲望〔の対象〕にたいする強き貪染という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、強欲〔の思い〕ある者ではなく、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、強欲〔の思い〕なき者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、強欲〔の思い〕なき者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この強欲〔の思い〕なきことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

38. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、憎悪している心の者たちとして、汚れた意と思惟ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、憎悪している心と汚れた意と思惟という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、憎悪している心の者ではなく、汚れた意と思惟ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、慈愛の心ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、慈愛の心ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この慈愛の心あることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

39. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に遍く取り囲まれた者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれる汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

40. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心が〕高揚している者たちとして、寂止していない心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、高揚し寂止していない心という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心が〕高揚している者ではなく、寂止していない心の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、寂止した心の者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、寂止した心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この、寂止した心の者たることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

41. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、疑いある者たちとして、疑惑ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、疑いと疑惑ある汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、疑いある者ではなく、疑惑ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、疑惑〔の思い〕を超えた者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、疑惑〔の思い〕を超えた者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この疑惑〔の思い〕を超えたことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

42. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、自己を賞揚し他者を蔑視する者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、自己を賞揚し他者を蔑視する汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、自己を賞揚し他者を蔑視する者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この自己を賞揚せず他者を蔑視しないことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

43. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、驚愕ある者たちとして、恐れる類の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、驚愕と恐れる類の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、驚愕ある者ではなく、恐れる類の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、身の毛のよだちが離れ去った者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、身の毛のよだちが離れ去った者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この身の毛のよだちが離れ去ったことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

44. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声を欲している者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、利得と尊敬と名声を欲する汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、利得と尊敬と名声を欲している者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、少なき欲求の者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、少なき欲求の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この少なき欲求たることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

45. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、怠惰で精進に劣る者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、怠惰で精進に劣る汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、怠惰で精進に劣る者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、精進に励む者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、精進に励む者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この精進に励むことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

46. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、気づき()を忘却している者たちとして、正知なき者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、気づきが忘却され正知なき汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、気づきが忘却された者ではなく、正知なき者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、気づきが現起された者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、気づきが現起された者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この気づきが現起されていることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

47. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心が〕定められていない者たちとして、散乱した心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、定められず散乱した心の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心が〕定められていない者ではなく、散乱した心の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、禅定(定・三昧)を成就した者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、禅定を成就した者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この禅定の成就を、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

48. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、智慧浅き者たる蒙者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、智慧浅き者たる蒙者の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、智慧浅き者たる蒙者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、智慧(慧・般若)を成就した者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、智慧を成就した者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この智慧の成就を、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

 十六の教相は〔以上で〕終了となる。

 

49. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、すなわち、それらの、証知され特定された夜である、十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に、そのような形態の夜においては、すなわち、それらの、霊園があり、霊林があり、霊木があり、禍々しく身の毛のよだちを有する、そのような形態の臥坐所に住むのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、恐怖と恐ろしさを見るであろう』と。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、すなわち、それらの、証知され特定された夜である、十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に、そのような形態の夜においては、すなわち、それらの、霊園があり、霊林があり、霊木があり、禍々しく身の毛のよだちを有する、そのような形態の臥坐所に住みます。婆羅門よ、そして、そこにおいて、わたしが住んでいると、あるいは、鹿がやってきたり、あるいは、孔雀が小枝を落とし、あるいは、風が落ち葉を揺らします。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『これが、まちがいなく、その恐怖と恐ろしさとしてやってくるのだ』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうして、わたしが、何はともあれ、恐怖を待つ者となり、〔虚しく〕住むというのだろう。それなら、さあ、わたしは、事実のとおりにあるわたしのもとに、その恐怖と恐ろしさが、事実のとおりにやってくるままに、まさしく、事実のとおりにある者として、その恐怖と恐ろしさを、事実のとおりに取り除くのだ』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが歩行していると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、歩行している〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、立たず、坐らず、横になりません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが立っていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、立っている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、歩行せず、坐らず、横になりません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが坐っていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、坐っている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、横にならず、立たず、歩行しません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが横になっていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、横になっている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、坐らず、立たず、歩行しません。

 

50. 婆羅門よ、また、まさに、或る沙門や婆羅門たちが存在します。まさしく、夜を、〔そのように〕存しているのに、『昼である』と表象し、まさしく、昼を、〔そのように〕存しているのに、『夜である』と表象します。わたしは、これを、それらの沙門や婆羅門たちの迷妄の住におけるものと説きます。婆羅門よ、また、まさに、わたしは、まさしく、夜を、〔そのように〕存しているなら、『夜である』と表象し、まさしく、昼を、〔そのように〕存しているなら、『昼である』と表象します。婆羅門よ、すなわち、まさに、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くなら、婆羅門よ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

51. 婆羅門よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成りました。気づきは現起され、忘却なきものと〔成りました〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成りました〕。心は定められ、一境のものと〔成りました〕。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。

 

52. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

53. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

54. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

55. 婆羅門よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『今もまた、まちがいなく、沙門ゴータマは、貪欲を離れていない者であり、憤怒を離れていない者であり、迷妄を離れていない者であり、それゆえに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する』と。婆羅門よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。婆羅門よ、まさに、わたしは、二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。そして、自己の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を正しく見ながら、さらに、後の人々を慈しみながら」と。

 

56. 「貴君ゴータマによって──すなわち、そのように、阿羅漢にして正等覚者によって──慈しまれた形態あるは、まさに、この、後の人々です。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 恐怖と恐ろしさの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5. 穢れなき者の経

 

57. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知します。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知します。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます」と。

 

58. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか。友よ、サーリプッタよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか」と。

 

59. 「友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、完全なる清浄にして完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、完全なる清浄にして完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、モッガッラーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます。友よ、モッガッラーナよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます」と。

 

60. 「友よ、『穢れ』『穢れ』と説かれます。友よ、いったい、まさに、これは、何の同義語なのですか。すなわち、この、『穢れ』〔とは〕」と。「友よ、まさに、これは、諸々の悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕罪を犯した者として存している。しかしながら、わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知るべきにあらず』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、『罪を犯した者である』と知ることです。『わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知る』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。わたしのことを、比丘たちは、内密に叱責するべきである──僧団の中において、ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、僧団の中において叱責することです──内密に、ではなく。『わたしのことを、比丘たちは、僧団の中において叱責する──内密に、ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。対する人を有する者(同等の者)が、わたしを叱責するべきである──対する人なき者ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、対する人なき者が、その比丘を叱責することです──対する人を有する者ではなく。『対する人なき者が、わたしを叱責する──対する人を有する者ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、教師は、まさしく、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、教師が、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示することです。教師が、その比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示する。教師は、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、比丘たちは、まさしく、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきである。比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、比丘たちが、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ることです。比丘たちが、その比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ること、ではなく。『比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入る。比丘たちは、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入らない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきである。他の比丘は、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ることです。その比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得る。わたしは、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきである。他の比丘は、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜することです。その比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜すること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜する。わたしは、食堂において、食事を終えた者として随喜しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘尼たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……在俗信者(優婆塞)たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘尼たちは……略……在俗信者たちは……略……女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる衣料の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる〔行乞の〕施食の得者として存するべきである。……略……諸々の精妙なる臥坐具の……略……諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、まさに、これは、これらの悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。

 

61. 友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適わない〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪〔の思い〕が確立し、さらに、忌避〔の思い〕が確立し、飢えている者たちにもまた、食欲は存さないでしょう──満腹している者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。

 

62. 友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味を置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適う〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪ならざる〔思い〕が確立し、さらに、忌避ならざる〔思い〕が確立し、満腹している者たちにもまた、食欲が存するでしょう──飢えている者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです」と。

 

63. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「友よ、モッガッラーナよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語ってください)」と。「友よ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ギリッバジャ(王舎城の別名)において。友よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、車工の子のサミーティが、車の外輪を加工します、〔まさに〕その、この者のもとに、以前に車工の子であるアージーヴァカ(活命者・邪命外道)のパンドゥプッタが現われるところと成ります。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、このような心の思索が浮かびました。『ああ、まさに、この者は、車工の子のサミーティは、この外輪の、かつまた、この湾曲を、かつまた、この歪曲を、かつまた、この汚点を、加工するべきである。このように、この外輪は、湾曲を離去し、歪曲を離去し、汚点を離去し、清浄なるものとなり、芯において確立したものとなり、存するべきである』と。友よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、心の思索が有るなら、そのとおり、そのとおりに、車工の子のサミーティは、その外輪の、かつまた、その湾曲を、かつまた、その歪曲を、かつまた、その汚点を、加工します。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタは、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちました。『思うに、心臓から心臓を了知して加工するのだ(わたしの心を読んで作業する)』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、尊者サーリプッタは、彼らのために、この法(教え)の教相によって、思うに、心臓から心臓を了知して加工するのです。

 

 いっぽう、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです──まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』と。友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン)の花飾を、あるいは、アティムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置くように、友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです──まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』」と。まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者は、互いに他の善く語られたものを等しく随喜した、ということです。

 

 穢れなき者の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6. 「望むなら」の経

 

64. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい。

 

65. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想(禅・静慮)を放却しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者(瞑想修行に励む者)として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『それらの者たちの諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『すなわち、〔わたしの〕親族たちや血縁たちが命を終えた亡者たちとなり、清信した心の者たちとして、わたしのことを随念するなら、彼らのために、その〔功徳〕は、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

66. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、不満〔の思い〕はわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した不満〔の思い〕を征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕恐怖と恐ろしさを打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、恐怖と恐ろしさはわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した恐怖と恐ろしさを征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住むべきだ──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)である』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

67. 比丘たちよ、もし、比丘が、『三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者として〔世に〕存するべきだ──堕所の法(性質)なき者として、決定の者として、正覚を行き着く所とする者として』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者として〔世に〕存するべきであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者として〔世に〕存するべきだ──そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者として、その世から戻り来る法(性質)なき者として』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

68. 比丘たちよ、もし、比丘が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

69. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 『比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 「望むなら」の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7. 衣装の経

 

70. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、悪しく染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄ならざる色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄ならざることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されているとき、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、完全なる清浄にして完全なる清白の衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、善く染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄の色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄なることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されていないとき、善き境遇が待っています。

 

71. 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)なのですか。強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れです。怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れです。偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れです。加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れです。嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れです。物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れです。幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れです。狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れです。強情は、心の、付随する〔心の〕汚れです。激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れです。思量は、心の、付随する〔心の〕汚れです。高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れです。

 

72. 比丘たちよ、それで、まさに、その比丘は、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕を捨棄し、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕を捨棄し、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激を捨棄し、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨を捨棄し、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装を捨棄し、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐を捨棄し、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬を捨棄し、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜を捨棄し、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑を捨棄し、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾を捨棄し、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情を捨棄し、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂を捨棄し、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量を捨棄し、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢を捨棄し、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢を捨棄し、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸を捨棄します。

 

73. 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激が捨棄されたものと成り、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨が捨棄されたものと成り、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装が捨棄されたものと成り、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐が捨棄されたものと成り、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬が捨棄されたものと成り、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜が捨棄されたものと成り、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑が捨棄されたものと成り、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾が捨棄されたものと成り、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情が捨棄されたものと成り、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂が捨棄されたものと成り、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量が捨棄されたものと成り、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢が捨棄されたものと成り、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢が捨棄されたものと成り、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸が捨棄されたものと成ることから──

 

74. 彼は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。

 

75. また、まさに、すなわち、限界まで、彼の、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものと成り、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。彼は、『覚者にたいする確固たる清信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『法(教え)にたいする……略……。『僧団にたいする確固たる清信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『また、まさに、すなわち、限界まで、わたしの、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものとなり、吐き捨てられたものとなり、解き放たれたものとなり、捨棄されたものとなり、放棄されたものとなる』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

 

76. 比丘たちよ、それで、まさに、その比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装が、澄んだ水に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、また、金が、あるいは、溶炉口に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。

 

77. 彼は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

78. 彼は、『これが存在する』『下劣なるものが存在する』『精妙なるものが存在する』『この表象を具したものには、より上なる出離が存在する』と覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、内なる沐浴によって沐浴した者である』〔と〕説かれます」と。

 

79. また、まさに、その時点にあって、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「さてまた、貴君ゴータマは、バーフカー川に赴きますか──沐浴するべく」と。「婆羅門よ、バーフカー川に、何があるというのでしょう。バーフカー川が、何を為すというのでしょう」と。「貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、浄域として敬われています。貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、功徳として敬われています。また、バーフカー川において、多くの人々は、〔過去に〕為した悪しき行為(悪業)を流し去ります」と。そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「バーフカー〔川〕に、そして、アディカッカー〔川〕に、ガヤー〔川〕に、また、スンダリカー〔川〕に、サラッサティー〔川〕に、そして、パヤーガー〔川〕に、さらに、バーフマティー川に、愚者が、たとえ、常に飛び込むも、黒き行為は清まらない。

 

 スンダリカー〔川〕が、何を為すというのだろう──パヤーガー〔川〕が、何を──バーフカー川が、何を。怨みある者を、罪障を作った者を、悪しき行為あるその人を、まさに、清めない。

 

 まさに、清浄の者には、常に春がある。清浄の者には、常に斎戒(布薩)がある。清浄の者にして清らかな行為ある者には、常に掟が成就する。婆羅門よ、まさしく、ここに、沐浴せよ。一切の生類たちにたいし、平安なることを為せ。

 

 それで、もし、〔あなたが〕虚偽を話さないなら、それで、もし、命あるものを害さないなら、それで、もし、与えられていないものを取らないなら、〔あなたが〕信ある者であり、物惜なき者であるなら、ガヤー〔川〕に赴いて、何を為すというのだろう。あなたにとって、ガヤー〔川〕が飲み水であるもまた」と。

 

80. このように説かれたとき、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

 

 衣装の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8. 謹厳の経

 

81. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・チュンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、自己の論に関係したものが、あるいは、世の論に関係したものが。尊き方よ、いったい、まさに、〔教えにおける〕初等のものだけに、比丘が意を為していると、このように、これらの見解の捨棄が有り、このように、これらの見解の放棄が有りますか」と。

 

82. 「チュンダよ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、自己の論に関係したものが、あるいは、世の論に関係したものが。チュンダよ、これらの見解が、そして、そこにおいて生起し、かつまた、そこにおいて悪習となり、さらに、そこにおいて慣行となるも、それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって(※)見ていると、このように、これらの見解の捨棄が有り、このように、これらの見解の放棄が有ります。

 

※ テキストには sammappaññā とあるが、PTS版により sammappaññāya と読む。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

83. チュンダよ、また、まさに、ここに、あなたたちによって、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、害する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、害さない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、命あるものを殺すことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、与えられていないものを取る者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、梵行なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、梵行ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、虚偽を説く者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、虚偽を説くことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、中傷の言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、中傷の言葉から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、粗暴な言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、粗暴な言葉から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、雑駁な虚論ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、雑駁な虚論から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、強欲〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、強欲〔の思い〕なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、憎悪している心の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、憎悪していない心の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った見解ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい見解ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った思惟ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい思惟ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい言葉ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った行業ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい行業ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った生き方ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい生き方ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った努力ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい努力ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った気づきある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい気づきある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った禅定ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい禅定ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った知恵ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい知恵ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った解脱ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい解脱ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。

 

 『他者たちが、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、〔心が〕高揚した者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔心が〕高揚しない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、疑惑〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、疑惑〔の思い〕を超えた者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、忿激する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、忿激しない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、怨恨ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、怨恨なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、偽装ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、偽装なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、加虐ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、加虐なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、嫉妬ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、嫉妬なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、物惜ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、物惜なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、狡猾ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、狡猾なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、幻惑ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、幻惑なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、強情ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、強情なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、高慢ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、高慢なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、頑固な者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、素直な者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、悪しき朋友ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、善き朋友ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、放逸の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、不放逸の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、信なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、信ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、恥〔の思い〕()なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、恥〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、〔良心の〕咎め()なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔良心の〕咎めある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、少聞の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、多聞の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、怠惰な者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、精進に励む者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、気づきが忘却された者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、気づきが現起された者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、智慧浅き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、智慧を成就した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。

 

84. チュンダよ、諸々の善なる法(性質)においては、心の生起もまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、まさに、わたしは説きます。身体と言葉によって順守されるべきものにおいては、また、何の論があるというのでしょう。チュンダよ、それゆえに、ここに、『他者たちが、害する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、害さない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。『他者たちが、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、命あるものを殺すことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。……。『他者たちが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。

 

85. チュンダよ、それは、たとえば、また、平坦ならざる道が存するなら、その〔道〕の回避のために、他の平坦な道があるようなものです。チュンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、平坦ならざる渡し場が存するなら、その〔道〕の回避のために、他の平坦な渡し場があるようなものです。チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、回避のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。与えられていないものを取る者としてある人士たる人にとって、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。梵行なき者としてある人士たる人にとって、梵行なきことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。虚偽を説く者としてある人士たる人にとって、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。中傷の言葉ある者としてある人士たる人にとって、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。粗暴な言葉ある者としてある人士たる人にとって、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。雑駁な虚論ある者としてある人士たる人にとって、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。強欲〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、回避のために成ります。憎悪している心の者としてある人士たる人にとって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、回避のために成ります。誤った見解ある者としてある人士たる人にとって、正しい見解は、回避のために成ります。誤った思惟ある者としてある人士たる人にとって、正しい思惟は、回避のために成ります。誤った言葉ある者としてある人士たる人にとって、正しい言葉は、回避のために成ります。誤った行業ある者としてある人士たる人にとって、正しい行業は、回避のために成ります。誤った生き方ある者としてある人士たる人にとって、正しい生き方は、回避のために成ります。誤った努力ある者としてある人士たる人にとって、正しい努力は、回避のために成ります。誤った気づきある者としてある人士たる人にとって、正しい気づきは、回避のために成ります。誤った禅定ある者としてある人士たる人にとって、正しい禅定は、回避のために成ります。誤った知恵ある者としてある人士たる人にとって、正しい知恵は、回避のために成ります。誤った解脱ある者としてある人士たる人にとって、正しい解脱は、回避のために成ります。

 

 〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者としてある人士たる人にとって、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことは、回避のために成ります。〔心が〕高揚した者としてある人士たる人にとって、〔心が〕高揚しないことは、回避のために成ります。疑惑〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、疑惑〔の思い〕を超えたことは、回避のために成ります。忿激する者としてある人士たる人にとって、忿激なきことは、回避のために成ります。怨恨ある者としてある人士たる人にとって、怨恨なきことは、回避のために成ります。偽装ある者としてある人士たる人にとって、偽装なきことは、回避のために成ります。加虐ある者としてある人士たる人にとって、加虐なきことは、回避のために成ります。嫉妬ある者としてある人士たる人にとって、嫉妬なきことは、回避のために成ります。物惜ある者としてある人士たる人にとって、物惜なきことは、回避のために成ります。狡猾ある者としてある人士たる人にとって、狡猾なきことは、回避のために成ります。幻惑ある者としてある人士たる人にとって、幻惑なきことは、回避のために成ります。強情ある者としてある人士たる人にとって、強情なきことは、回避のために成ります。高慢ある者としてある人士たる人にとって、高慢なきことは、回避のために成ります。頑固な者としてある人士たる人にとって、素直なことは、回避のために成ります。悪しき朋友ある者としてある人士たる人にとって、善き朋友あることは、回避のために成ります。放逸の者としてある人士たる人にとって、不放逸は、回避のために成ります。信なき者としてある人士たる人にとって、信は、回避のために成ります。恥〔の思い〕なき者としてある人士たる人にとって、恥〔の思い〕は、回避のために成ります。〔良心の〕咎めなき者としてある人士たる人にとって、〔良心の〕咎めは、回避のために成ります。少聞の者としてある人士たる人にとって、多聞は、回避のために成ります。怠惰な者としてある人士たる人にとって、精進勉励は、回避のために成ります。気づきが忘却された者としてある人士たる人にとって、気づきが現起されていることは、回避のために成ります。智慧浅き者としてある人士たる人にとって、智慧の成就は、回避のために成ります。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、回避のために成ります。

 

86. チュンダよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、下なる域に至るべきものであり、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、上なる域に至るべきものであるように、チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、上なる域のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、上なる域のために成ります。……略……。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、上なる域のために成ります。

 

87. チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されません。チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまっていない者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されます。チュンダよ、まさに、自己みずから調御されず教導されず完全なる涅槃に到達していない者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されません。チュンダよ、まさに、自己みずから調御され教導され完全なる涅槃に到達した者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されます。チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、完全なる涅槃のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。与えられていないものを取る者としてある人士たる人にとって、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。梵行なき者としてある人士たる人にとって、梵行なきことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。虚偽を説く者としてある人士たる人にとって、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。中傷の言葉ある者としてある人士たる人にとって、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。粗暴な言葉ある者としてある人士たる人にとって、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。雑駁な虚論ある者としてある人士たる人にとって、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。強欲〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。憎悪している心の者としてある人士たる人にとって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。誤った見解ある者としてある人士たる人にとって、正しい見解は、完全なる涅槃のために成ります。誤った思惟ある者としてある人士たる人にとって、正しい思惟は、完全なる涅槃のために成ります。誤った言葉ある者としてある人士たる人にとって、正しい言葉は、完全なる涅槃のために成ります。誤った行業ある者としてある人士たる人にとって、正しい行業は、完全なる涅槃のために成ります。誤った生き方ある者としてある人士たる人にとって、正しい生き方は、完全なる涅槃のために成ります。誤った努力ある者としてある人士たる人にとって、正しい努力は、完全なる涅槃のために成ります。誤った気づきある者としてある人士たる人にとって、正しい気づきは、完全なる涅槃のために成ります。誤った禅定ある者としてある人士たる人にとって、正しい禅定は、完全なる涅槃のために成ります。誤った知恵ある者としてある人士たる人にとって、正しい知恵は、完全なる涅槃のために成ります。誤った解脱ある者としてある人士たる人にとって、正しい解脱は、完全なる涅槃のために成ります。

 

 〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者としてある人士たる人にとって、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことは、完全なる涅槃のために成ります。〔心が〕高揚した者としてある人士たる人にとって、〔心が〕高揚しないことは、完全なる涅槃のために成ります。疑惑〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、疑惑〔の思い〕を超えたことは、完全なる涅槃のために成ります。忿激する者としてある人士たる人にとって、忿激なきことは、完全なる涅槃のために成ります。怨恨ある者としてある人士たる人にとって、怨恨なきことは、完全なる涅槃のために成ります。偽装ある者としてある人士たる人にとって、偽装なきことは、完全なる涅槃のために成ります。加虐ある者としてある人士たる人にとって、加虐なきことは、完全なる涅槃のために成ります。嫉妬ある者としてある人士たる人にとって、嫉妬なきことは、完全なる涅槃のために成ります。物惜ある者としてある人士たる人にとって、物惜なきことは、完全なる涅槃のために成ります。狡猾ある者としてある人士たる人にとって、狡猾なきことは、完全なる涅槃のために成ります。幻惑ある者としてある人士たる人にとって、幻惑なきことは、完全なる涅槃のために成ります。強情ある者としてある人士たる人にとって、強情なきことは、完全なる涅槃のために成ります。高慢ある者としてある人士たる人にとって、高慢なきことは、完全なる涅槃のために成ります。頑固な者としてある人士たる人にとって、素直なことは、完全なる涅槃のために成ります。悪しき朋友ある者としてある人士たる人にとって、善き朋友あることは、完全なる涅槃のために成ります。放逸の者としてある人士たる人にとって、不放逸は、完全なる涅槃のために成ります。信なき者としてある人士たる人にとって、信は、完全なる涅槃のために成ります。恥〔の思い〕なき者としてある人士たる人にとって、恥〔の思い〕は、完全なる涅槃のために成ります。〔良心の〕咎めなき者としてある人士たる人にとって、〔良心の〕咎めは、完全なる涅槃のために成ります。少聞の者としてある人士たる人にとって、多聞は、完全なる涅槃のために成ります。怠惰な者としてある人士たる人にとって、精進勉励は、完全なる涅槃のために成ります。気づきが忘却された者としてある人士たる人にとって、気づきが現起されていることは、完全なる涅槃のために成ります。智慧浅き者としてある人士たる人にとって、智慧の成就は、完全なる涅槃のために成ります。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、完全なる涅槃のために成ります。

 

88. チュンダよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、謹厳の教相が説示され、心の生起の教相が説示され、回避の教相が説示され、上なる域の教相が説示され、完全なる涅槃の教相が説示されました。チュンダよ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。チュンダよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。チュンダよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、まさに、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・チュンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四十の句が説かれ、五つの連鎖が説示された──謹厳という名の経典が、海洋の如く深遠なるものとして」と。

 

 謹厳の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9. 正しい見解の経

 

89. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、『正しい見解(正見)』『正しい見解』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成るのですか〕」と。

 

 「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、善ならざるものを覚知し、さらに、善ならざるものの根元を覚知することから、そして、善なるものを覚知し、さらに、善なるものの根元を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、善ならざるものであり、どのようなものが、善ならざるものの根元であり、どのようなものが、善なるものであり、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことは、善ならざるものです。与えられていないものを取ることは、善ならざるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)は、善ならざるものです。虚偽を説くことは、善ならざるものです。中傷の言葉は、善ならざるものです。粗暴な言葉は、善ならざるものです。雑駁な虚論は、善ならざるものです。強欲〔の思い〕は、善ならざるものです。憎悪〔の思い〕は、善ならざるものです。誤った見解は、善ならざるものです。友よ、これは、善ならざるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善ならざるものの根元なのですか。貪欲()は、善ならざるものの根元です。憤怒()は、善ならざるものの根元です。迷妄()は、善ならざるものの根元です。友よ、これは、善ならざるものの根元と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、善なるものなのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、善なるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、善なるものです。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、善なるものです。強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。正しい見解は、善なるものです。友よ、これは、善なるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものの根元です。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものの根元です。迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものの根元です。友よ、これは、善なるものの根元と説かれます。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、善ならざるものを覚知し、このように、善ならざるものの根元を覚知することから、このように、善なるものを覚知し、このように、善なるものの根元を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠:貪りの潜在煩悩)を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習(瞋随眠:怒りの潜在煩悩)を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習(見慢随眠:自我意識の潜在煩悩)を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

90. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、食(動力源・エネルギー)を覚知し、かつまた、食の集起を覚知し、かつまた、食の止滅を覚知し、さらに、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、食であり、どのようなものが、食の集起であり、どのようなものが、食の止滅であり、どのようなものが、食の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。渇愛()の集起あることから、食の集起があります。渇愛の止滅あることから、食の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、食の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、食を覚知し、このように、食の集起を覚知し、このように、食の止滅を覚知し、このように、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

91. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、苦しみを覚知し、かつまた、苦しみの集起を覚知し、かつまた、苦しみの止滅を覚知し、さらに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、苦しみであり、どのようなものが、苦しみの集起であり、どのようなものが、苦しみの止滅であり、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。友よ、これは、苦しみと説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、これは、苦しみの集起と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。友よ、これは、苦しみの止滅と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道と説かれます。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、苦しみを覚知し、このように、苦しみの集起を覚知し、このように、苦しみの止滅を覚知し、このように、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

92. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、さらに、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、老と死であり、どのようなものが、老と死の集起であり、どのようなものが、老と死の止滅であり、どのようなものが、老と死の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟は、友よ、これは、老と説かれます。友よ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の破壊、死体の捨置、生命の機能(命根)の断絶は、友よ、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、友よ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、老と死を覚知し、このように、老と死の集起を覚知し、このように、老と死の止滅を覚知し、このように、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

93. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、さらに、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生であり、どのようなものが、生の集起であり、どのようなものが、生の止滅であり、どのようなものが、生の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得は、友よ、これは、生と説かれます。生存()の集起あることから、生の集起があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生を覚知し、このように、生の集起を覚知し、このように、生の止滅を覚知し、このように、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

94. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生存を覚知し、かつまた、生存の集起を覚知し、かつまた、生存の止滅を覚知し、さらに、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生存であり、どのようなものが、生存の集起であり、どのようなものが、生存の止滅であり、どのようなものが、生存の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。執取()の集起あることから、生存の集起があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生存の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生存を覚知し、このように、生存の集起を覚知し、このように、生存の止滅を覚知し、このように、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

95. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、執取を覚知し、かつまた、執取の集起を覚知し、かつまた、執取の止滅を覚知し、さらに、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、執取であり、どのようなものが、執取の集起であり、どのようなものが、執取の止滅であり、どのようなものが、執取の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの四つの執取があります。欲望〔の対象〕への執取であり、見解への執取であり、戒と掟への執取であり、自己の論への執取です。渇愛(」の集起あることから、執取の集起があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、執取の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、執取を覚知し、このように、執取の集起を覚知し、このように、執取の止滅を覚知し、このように、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

96. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、渇愛を覚知し、かつまた、渇愛の集起を覚知し、かつまた、渇愛の止滅を覚知し、さらに、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、渇愛であり、どのようなものが、渇愛の集起であり、どのようなものが、渇愛の止滅であり、どのようなものが、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの渇愛の体系があります。形態()の渇愛であり、音声()の渇愛であり、臭気()の渇愛であり、味感()の渇愛であり、感触(所触)の渇愛であり、法(:意の対象)の渇愛です。感受(:楽苦の知覚)の集起あることから、渇愛の集起があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、渇愛を覚知し、このように、渇愛の集起を覚知し、このように、渇愛の止滅を覚知し、このように、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

97. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、感受を覚知し、かつまた、感受の集起を覚知し、かつまた、感受の止滅を覚知し、さらに、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。接触(:感覚の発生)の集起あることから、感受の集起があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、感受を覚知し、このように、感受の集起を覚知し、このように、感受の止滅を覚知し、このように、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

98. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、接触を覚知し、かつまた、接触の集起を覚知し、かつまた、接触の止滅を覚知し、さらに、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、接触であり、どのようなものが、接触の集起であり、どのようなものが、接触の止滅であり、どのようなものが、接触の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの接触の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)の集起あることから、接触の集起があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、接触の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、接触を覚知し、このように、接触の集起を覚知し、このように、接触の止滅を覚知し、このように、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

99. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、六つの〔認識の〕場所を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、さらに、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の集起であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの〔認識の〕場所があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。名前と形態(名色:心と身体)の集起あることから、六つの〔認識の〕場所の集起があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、六つの〔認識の〕場所を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

100. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、名前と形態を覚知し、かつまた、名前と形態の集起を覚知し、かつまた、名前と形態の止滅を覚知し、さらに、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、名前と形態であり、どのようなものが、名前と形態の集起であり、どのようなものが、名前と形態の止滅であり、どのようなものが、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。感受()、表象()、思欲()、接触()、意を為すこと(作意)は、友よ、これは、名前と説かれます。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)は、友よ、これは、形態と説かれます。かくのごとく、そして、この名前は、さらに、この形態は、友よ、これは、名前と形態と説かれます。識知〔作用〕(:認識作用)の集起あることから、名前と形態の集起があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、名前と形態を覚知し、このように、名前と形態の集起を覚知し、このように、名前と形態の止滅を覚知し、このように、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

101. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、識知〔作用〕を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、識知〔作用〕であり、どのようなものが、識知〔作用〕の集起であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、識知〔作用〕を覚知し、このように、識知〔作用〕の集起を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

102. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の集起であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の形成〔作用〕を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

103. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、無明を覚知し、かつまた、無明の集起を覚知し、かつまた、無明の止滅を覚知し、さらに、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、無明であり、どのようなものが、無明の集起であり、どのようなものが、無明の止滅であり、どのようなものが、無明の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、友よ、これは、無明と説かれます。煩悩の集起あることから、無明の集起があります。煩悩の止滅あることから、無明の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、無明の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、無明を覚知し、このように、無明の集起を覚知し、このように、無明の止滅を覚知し、このように、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

104. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、煩悩()を覚知し、かつまた、煩悩の集起を覚知し、かつまた、煩悩の止滅を覚知し、さらに、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、煩悩であり、どのようなものが、煩悩の集起であり、どのようなものが、煩悩の止滅であり、どのようなものが、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。無明の集起あることから、煩悩の集起があります。無明の止滅あることから、煩悩の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、煩悩を覚知し、このように、煩悩の集起を覚知し、このように、煩悩の止滅を覚知し、このように、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 正しい見解の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10. 大いなる気づきの確立の経

 

105. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 概略

 

106. 「比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 概略は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の呼吸の部

 

107. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、轆轤(ろくろ)師が、あるいは、轆轤師の内弟子が、あるいは、長く引きつつ、『〔わたしは〕長く引く』と覚知し、あるいは、短く引きつつ、『〔わたしは〕短く引く』と覚知するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知()あるためのみに、気づき()あるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 呼吸の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の振る舞いの道の部

 

108. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 振る舞いの道の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の正知の部

 

109. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 正知の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の嫌悪のものに意を為すことの部

 

110. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします──それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する』と。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 嫌悪のものに意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の界域に意を為すことの部

 

111. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域()〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 界域に意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の九つの墓所の部

 

112. (1)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、死んで一日の、あるいは、死んで二日の、あるいは、死んで三日の、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……(4)骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……(5)骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……(6)連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……(8)山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……(9)腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 九つの墓所の部は〔以上で〕終了となる。

 

 十四の身体の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 感受の随観

 

113. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、安楽の感受(楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦痛の感受(苦受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する安楽(世俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき安楽(非俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の感受において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の感受が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 感受の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 心の随観

 

114. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、心において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『心が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 心の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔修行の〕妨害の部

 

115. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が存在しているのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が存在しているのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した憎悪〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕沈滞と眠気の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕高揚と悔恨の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、疑惑〔の思い〕()が存在しているのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した疑惑〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 妨害の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔心身を構成する〕範疇の部

 

116. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 〔心身を構成する〕範疇の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔認識の〕場所の部

 

117. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、内と外の六つの〔認識の〕場所(六処)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、眼を覚知し、さらに、諸々の形態()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するもの()が生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、耳を覚知し、さらに、諸々の音声()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、鼻を覚知し、さらに、諸々の臭気()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、舌を覚知し、さらに、諸々の味感()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、身を覚知し、さらに、諸々の感触(所触)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、意を覚知し、さらに、諸々の法(:意の対象)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 〔認識の〕場所の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の覚りの支分の部

 

118. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、七つの覚りの支分(七覚支)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、気づきという正覚の支分(念覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、気づきという正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、精進という正覚の支分(精進覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、精進という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、喜悦という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、静息という正覚の支分(軽安覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、静息という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、禅定という正覚の支分(定覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、禅定という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、放捨という正覚の支分(捨覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、放捨という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 覚りの支分の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の真理の部

 

119. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、四つの聖なる真理(四聖諦)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

 苦しみという真理についての釈示

 

120. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理(苦諦)なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。

 

121. 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。

 

122. 比丘たちよ、では、どのようなものが、老なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、比丘たちよ、これは、老と説かれます。

 

123. 比丘たちよ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶は、比丘たちよ、これは、死と説かれます。

 

124. 比丘たちよ、では、どのようなものが、憂いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂いは、比丘たちよ、これは、憂いと説かれます。

 

125. 比丘たちよ、では、どのようなものが、嘆きなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあることは、比丘たちよ、これは、嘆きと説かれます。

 

126. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛、身体の属性としての不快、身体の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、苦痛と説かれます。

 

127. 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛、心の属性としての不快、意の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、失意と説かれます。

 

128. 比丘たちよ、では、どのようなものが、葛藤なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤することは、比丘たちよ、これは、葛藤と説かれます。

 

129. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触や法(意の対象)として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する者たちとして有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合、遭遇、配備、混合の状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみと説かれます。

 

130. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちとして──あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、兄弟が、あるいは、姉妹が、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが──有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合なきこと、遭遇なきこと、配備なきこと、混合なき状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみと説かれます。

 

131. 比丘たちよ、では、どのようなものが、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみなのですか。比丘たちよ、生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、老の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、老の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、老が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、病の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、病の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、病が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、死の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、死が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。

 

132. 比丘たちよ、では、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これらのものは、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみと説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

 集起という真理についての釈示

 

133. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の識知〔作用〕()は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の接触()は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の接触から生じる感受()は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の表象()は、世において……略……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の思欲()は、世において……略……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の渇愛()は、世において……略……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の思考()は、世において……略……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の想念()は、世において……略……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 止滅という真理についての釈示

 

134. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の識知〔作用〕は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の接触は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の接触から生じる感受は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の表象は、世において……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の思欲は、世において……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の渇愛は、世において……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の思考は、世において……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の想念は、世において……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

 道という真理についての釈示

 

135. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これは、正しい見解と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。比丘たちよ、これは、正しい思惟と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい言葉と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい行業と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。比丘たちよ、これは、正しい生き方と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、正しい努力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、正しい気づきと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、正しい禅定と説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。

 

136. かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 真理の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観は〔以上で〕終了となる。

 

137. 比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七年のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。

 

 比丘たちよ、七年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六年のあいだ修めるなら……略……五年のあいだ……四年のあいだ……三年のあいだ……二年のあいだ……一年のあいだ……。比丘たちよ、一年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七月のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、七月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六月のあいだ修めるなら……略……五月のあいだ……四月のあいだ……三月のあいだ……二月のあいだ……一月のあいだ……半月のあいだ……。比丘たちよ、半月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七日のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです(※)。

 

※ テキストには anāgāmitā’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

138. 『比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる気づきの確立の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 根元の教相の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「根元と善き統御と法(教え)の相続者、恐ろしさと穢れなき者と『望むなら』と衣装、謹厳と正しい見解と気づきの確立があり、同等のものなく、善く完結された、優れた章となる」〔と〕。

 

2. 獅子吼の章

 

1(11). 小なる獅子吼の経

 

139. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、『まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの』と、比丘たちよ、このように、このことを、〔あなたたちは〕正しく獅子吼として吼え叫びなさい。

 

140. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『また、尊者たちには、どのような安堵があり、どのような活力があり、それによって、尊者たるあなたたちは、このように説くのですか。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」』と。比丘たちよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさに、わたしたちに告げ知らされた、四つの法(性質)が存在します。それらを、わたしたちは、自己のうちに正しく見ながら、このように説きます。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」と。では、どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、まさに、わたしたちには、教師にたいする清信が存在し、法(教え)にたいする清信が存在し、諸戒における円満成就を為す者たることが存在します。また、まさに、法(教え)を共にする者たちは、愛しく意に適う者たちです──まさしく、そして、在家者たちも、さらに、出家者たちも。友よ、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさに、わたしたちに告げ知らされた、四つの法(性質)があります。それらを、わたしたちは、自己のうちに正しく見ながら、このように説きます。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」』と。

 

141. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、まさに、わたしたちにもまた。教師にたいする清信が存在します──その者が、わたしたちの教師であるなら。わたしたちにもまた。法(教え)にたいする清信が存在します──それが、わたしたちの法(教え)であるなら。わたしたちもまた、諸戒における円満成就を為す者たちです──それらが、わたしたちの諸戒であるなら。わたしたちにとってもまた、法(教え)を共にする者たちは、愛しく意に適う者たちです──まさしく、そして、在家者たちも、さらに、出家者たちも。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性(相違点)があるのですか──すなわち、この、まさしく、そして、あなたたちに、さらに、わたしたちに』と。

 

 比丘たちよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、まさに、どうでしょう、目的は一つですか、それとも、目的は多々にありますか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、目的は一つです。目的は多々にありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、貪欲を有する者のためにあるのですか、それとも、貪欲を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、貪欲を離れた者のためにあります。その目的は、貪欲を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、憤怒を有する者のためにあるのですか、それとも、憤怒を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、憤怒を離れた者のためにあります。その目的は、憤怒を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、迷妄を有する者のためにあるのですか、それとも、迷妄を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、迷妄を離れた者のためにあります。その目的は、迷妄を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、渇愛を有する者のためにあるのですか、それとも、渇愛を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、渇愛を離れた者のためにあります。その目的は、渇愛を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、執取を有する者のためにあるのですか、それとも、執取を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、執取を離れた者のためにあります。その目的は、執取を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、知ある者のためにあるのですか、それとも、知なき者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、知ある者のためにあります。その目的は、知なき者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、共感し反感する者のためにあるのですか、それとも、共感せず反感しない者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、共感せず反感しない者のためにあります。その目的は、共感し反感する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者のためにあるのですか、それとも、虚構なきものを喜びとし虚構なきものを喜ぶ者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、虚構なきものを喜びとし虚構なきものを喜ぶ者のためにあります。その目的は、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者のためにあるのではありません』と。

 

142. 比丘たちよ、これらの二つの見解があります。そして、生存の見解(有見)であり、さらに、非生存の見解(非有見)です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、生存の見解に〔思いが〕付着し、生存の見解に近しく赴き、生存の見解に固着した者たちであるなら、彼らは、非生存の見解に反感ある者たちです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、非生存の見解に〔思いが〕付着し、非生存の見解に近しく赴き、非生存の見解に固着した者たちであるなら、彼らは、生存の見解に反感ある者たちです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの二つの見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、貪欲を有する者たちであり、彼らは、憤怒を有する者たちであり、彼らは、迷妄を有する者たちであり、彼らは、渇愛を有する者たちであり、彼らは、執取を有する者たちであり、彼らは、知なき者たちであり、彼らは、共感し反感する者たちであり、彼らは、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者たちであり、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの二つの見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、貪欲を離れた者たちであり、彼らは、憤怒を離れた者たちであり、彼らは、迷妄を離れた者たちであり、彼らは、渇愛を離れた者たちであり、彼らは、執取を離れた者たちであり、彼らは、知ある者たちであり、彼らは、共感せず反感しない者たちであり、彼らは、虚構を喜びとせず虚構を喜ばない者たちであり、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

143. 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの執取です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望への執取であり、見解への執取であり、戒や掟への執取であり、自己の論への執取です。比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知するも、見解への執取の遍知を報知せず、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、これらの三つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知するも、見解への執取の遍知を報知せず、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知するも、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、これらの二つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知するも、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知するも、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、この一つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知するも、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、まさに、このような形態の法(教え)と律においては、すなわち、教師にたいする清信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、法(教え)にたいする清信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、諸戒における円満成就を為す者たることは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、法(教え)を共にする者たちにおける愛しく意に適うことは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

 

144. 比丘たちよ、しかしながら、まさに、一切の執取の遍知を説く者と明言している、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、一切の執取の遍知を、正しく報知します。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知し、自己の論への執取の遍知を報知します。比丘たちよ、まさに、このような形態の法(教え)と律においては、すなわち、教師にたいする清信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、法(教え)にたいする清信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、諸戒における円満成就を為す者たることは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、法(教え)を共にする者たちにおける愛しく意に適うことは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

 

145. 比丘たちよ、では、これらの四つの執取は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。これらの四つの執取は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘の、無明が捨棄されたものと成り、明知が生起したものと〔成ることから〕、彼は、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、まさしく、欲望への執取に執取せず、見解への執取に執取せず、戒や掟への執取に執取せず、自己の論への執取に執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる獅子吼の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(12). 大いなる獅子吼の経

 

146. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでいます。城外の都の西の密林において。また、まさに、その時点にあって、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあとの者として〔世に〕有ります。彼は、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語ります。「沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者サーリプッタは、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語っているのを耳にしました。「沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあと、彼は、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語ります。『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる』」と。

 

147. 「サーリプッタよ、まさに、この者は、愚人のスナッカッタは、忿激する者です。また、そして、忿激ゆえに、彼のこの言葉は語られました。サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタは、『栄誉ならざることを、〔わたしは〕語るのだ』と〔思いつつ〕、まさしく、如来の栄誉を語ります。サーリプッタよ、なぜなら、これは、如来の栄誉であるからです。すなわち、このように、〔彼は〕説きます。『しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現する。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成る。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行く──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわす。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させる』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞く──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知する。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知する。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知する。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知する。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知する。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知する。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知する。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知する。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知する。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知する。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知する。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知する。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知する。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知する。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知する。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知する。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する』と。

 

148. サーリプッタよ、また、まさに、十のものがあります。これらの、如来にとって、如来の力となるものです。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、十のものなのですか。

 

 (1)サーリプッタよ、ここに、如来は、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (2)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報い(異熟)を、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (3)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (4)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、無数なる界域()と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (5)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (6)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、他の有情たちと他の人たちの機能()の上下あることを、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (7)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (8)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (9)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (10)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 サーリプッタよ、まさに、これらの十の、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

149. サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

150. サーリプッタよ、四つのものがあります。これらの、如来のものたる離怖〔のあり方〕です。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。どのようなものが、四つのものなのですか。

 

 (1)『正等覚者と明言しているあなたの、これらの法(教え)は、現正覚されたものにあらず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)『煩悩の滅尽者と明言しているあなたの、これらの煩悩は、完全に滅尽されていない』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (3)『また、まさに、それらの、あなたによって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (4)『また、まさに、その義(目的)のために、あなたによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱とならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 サーリプッタよ、まさに、これらの四つの、如来のものたる離怖〔のあり方〕があります。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

151. サーリプッタよ、八つのものがあります。まさに、これらの衆です。どのようなものが、八つのものなのですか。士族の衆であり、婆羅門の衆であり、家長の衆であり、沙門の衆であり、四大王〔天〕の衆であり、三十三〔天〕の衆であり、悪魔の衆であり、梵〔天〕の衆です。サーリプッタよ、まさに、これらの八つの衆があります。サーリプッタよ、まさに、これらの四つの離怖を具備した如来は、これらの八つの衆に近づいて行き、入り行きます。(1)サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します(記憶している)──幾百の士族の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしと、まさしく、そして、共に坐った過去のことを、かつまた、共に談じた過去のことを、さらに、共に関わった過去の諸々の論議を、〔それらを証知します〕。そこで、まさに、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、恐れおののきが、現われるであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──幾百の婆羅門の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。……略……(3)家長の衆を……(4)沙門の衆を……(5)四大王〔天〕の衆を……(6)三十三〔天〕の衆を……(7)悪魔の衆を……(8)梵〔天〕の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしと、まさしく、そして、共に坐った過去のことを、かつまた、共に談じた過去のことを、さらに、共に関わった過去の諸々の論議を、〔それらを証知します〕。そこで、まさに、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、恐れおののきが、現われるであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

152. サーリプッタよ、四つのものがあります。まさに、これらの根源です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生としての根源であり、胎生としての根源であり、湿生としての根源であり、化生としての根源です。(1)サーリプッタよ、では、どのようなものが、卵生としての根源なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、卵殻を破って生まれるなら、サーリプッタよ、これは、卵生としての根源と説かれます。(2)サーリプッタよ、では、どのようなものが、胎生としての根源なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、胞衣(えな)を破って生まれるなら、サーリプッタよ、これは、胎生としての根源と説かれます。(3)サーリプッタよ、では、どのようなものが、湿生としての根源なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、あるいは、腐敗した魚において生まれるなら、あるいは、腐敗した骸(むくろ)において、あるいは、腐敗した粥において、あるいは、どぶ池において、あるいは、水たまりにおいて、生まれるなら、サーリプッタよ、これは、湿生としての根源と説かれます。(4)サーリプッタよ、では、どのようなものが、化生としての根源なのですか。天〔の神々〕たちであり、地獄にある者たちであり、そして、一部の人間たちであり、さらに、一部の堕所にある者たちです。サーリプッタよ、これは、化生としての根源と説かれます。サーリプッタよ、まさに、これらの四つの根源があります。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

153. サーリプッタよ、五つのものがあります。まさに、これらの境遇()です。どのようなものが、五つのものなのですか。地獄であり、畜生の胎であり、餓鬼の境域であり、人間たちであり、天〔の神々〕たちです。(1)サーリプッタよ、そして、地獄を、かつまた、地獄に至る道を、かつまた、地獄に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(2)サーリプッタよ、そして、畜生の胎を、かつまた、畜生の胎に至る道を、かつまた、畜生の胎に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(3)サーリプッタよ、そして、餓鬼の境域を、かつまた、餓鬼の境域に至る道を、かつまた、餓鬼の境域に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(4)サーリプッタよ、そして、人間たちを、かつまた、人間の世に至る道を、かつまた、人間の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(5)サーリプッタよ、そして、天〔の神々〕たちを、かつまた、天の世に至る道を、かつまた、天の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。サーリプッタよ、そして、涅槃を、かつまた、涅槃に至る道を、かつまた、涅槃に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。

 

154. (1)サーリプッタよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その火坑を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この火坑に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その火坑に落ち、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。

 

 (2)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生し、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、糞に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、糞坑があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その糞坑を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この糞坑に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その糞坑に落ち、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生し、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。

 

 (3)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生し、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、平坦ならざる土地の部分に生じた、葉群が希薄で影がまばらな木があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その木を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この木に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その木の影のもとに、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生し、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。

 

 (4)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生し、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に生じた、葉群が厚く影が濃い木があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その木を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この木に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その木の影のもとに、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生し、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。

 

 (5)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、高楼があり、そこで、その〔高楼〕には、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、楼閣があり、そこで、その〔楼閣〕には、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕がある、寝台があります。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その高楼を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この高楼に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その高楼において、その楼閣において、その寝台において、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。

 

 サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みながら、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、透明で、美しい岸辺がある、蓮池があり、さらに、その〔蓮池〕の遠く離れていないところに、濃い密林があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その蓮池を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この蓮池に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その蓮池に入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、一切の懊悩と疲弊と苦悶を安息させて、〔蓮池から〕上がって、その密林において、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みながら、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさに、これらの五つの境遇があります。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

155. サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──四つの支分を具備した梵行を、〔実践し〕歩む者として。苦行者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の苦行者として〔世に〕有ります。粗行者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の粗行者として〔世に〕有ります。忌避者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の忌避者として〔世に〕有ります。遠離者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の遠離者として〔世に〕有ります。(1)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの苦行者たることについて、このことが有ります。〔わたしは〕無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。その〔わたし〕は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。その〔わたし〕は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。

 

 その〔わたし〕は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。

 

 その〔わたし〕は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。サーリプッタよ、まさに、わたしの苦行者たることについて、このことが有ります。

 

156. (2)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの粗行について、このことが有ります。年代物の塵と埃が身体に蓄積され、皮苔を生じたものと成ります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、ティンドゥカ〔樹〕の木株が年代物となり蓄積され、皮苔を生じたものと成るように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、年代物の塵と埃が身体に蓄積され、皮苔を生じたものと成ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いは〕有りません。『ああ、まさに、わたしは、この塵と埃を手で擦り取るのだ。また、あるいは、他者たちが、わたしの、この塵と埃を手で擦り取るのだ』と。サーリプッタよ、このような〔思い〕さえも、わたしには有りません。サーリプッタよ、まさに、わたしの粗行について、このことが有ります。

 

 (3)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの忌避について、このことが有ります。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、気づきある者として前進し、まさしく、気づきある者として後進します。すなわち、水滴のなかに至るまでもまた、わたしに、憐憫〔の思い〕が、現起するところと成ります。『わたしが、難所に赴いた小さな命あるものにたいし、殺害を惹起することがあってはならない』と。サーリプッタよ、まさに、わたしの忌避について、このことが有ります。

 

 (4)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの遠離について、このことが有ります。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、或るどこかの林所に深く分け入って、〔世に〕住みます。すなわち、あるいは、牛飼いを、あるいは、牧畜者を、あるいは、草運びを、あるいは、薪運びを、あるいは、木こりを、見るとき、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回ります。それは、何を因とするのですか。『わたしを、彼らが見ることがあってはならず、かつまた、わたしが、彼らを見ることがあってはならない』と〔思うからです〕。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、人間たちを見て、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回るように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、すなわち、あるいは、牛飼いを、あるいは、牧畜者を、あるいは、草運びを、あるいは、薪運びを、あるいは、木こりを、見るとき、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回ります。それは、何を因とするのですか。『わたしを、彼らが見ることがあってはならず、かつまた、わたしが、彼らを見ることがあってはならない』と〔思うからです〕。サーリプッタよ、まさに、わたしの遠離について、このことが有ります。

 

 サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、すなわち、牛小屋から、それらの、雌牛たちが出て行き、牛飼いたちが離れ去ったなら、そこにおいて、四つん這いになり、近づいて行って、すなわち、それらが、幼く乳を飲む子牛たちの牛糞であるなら、それら〔の牛糞〕を、まさに、〔わたしは〕食します。サーリプッタよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、自らの糞尿が、完全に消尽することなく有るあいだは、まさしく、自らの糞尿を、まさに、〔わたしは〕食します。サーリプッタよ、まさに、わたしの大いなる汚物食について、このことが有ります。

 

157. サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、或るどこかの禍々しき密林に深く分け入って住みます。サーリプッタよ、そこで、まさに、禍々しき密林の禍々しさについて、このことが有ります。すなわち、誰であれ、貪欲を離れていない者が、その密林に入るなら、多くのところとして、諸々の身の毛がよだちます。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、すなわち、それらの、降雪時の寒い冬の間の八つの夜であるなら、そのような形態の夜においては、夜を野外に住み、昼を密林に〔住みます〕。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月においては、昼を野外に住み、夜を密林に〔住みます〕。サーリプッタよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この詩偈〕が。

 

 〔すなわち〕『彼は熱せられ、まさしく、そして、彼は凍りつき(※)、独り、禍々しき林のなか、裸で、かつまた、火にあたることもなく、探求し追求する者として、牟尼はある』と。

 

※ テキストには sosinno とあるが、PTS版により so sīno と読む。

 

 サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、墓場において、諸々の骸骨を敷いて、臥を営みます。サーリプッタよ、さてまた、まさに、わたしのもとに、牧童たちが近づいて行って、唾をもまた吐き、小便をもまたし、砂をもまた振りまき、〔両の〕耳孔にもまた木片を差し入れます。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知しません──彼らにたいし、悪しき心を、〔憤慨し〕生起させる者として。サーリプッタよ、まさに、わたしの放捨()の住について、このことが有ります。

 

158. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『食によって、清浄がある』と。彼らは、このように言いました。『〔わたしたちは〕諸々の棗によって〔身を〕保ち行くのだ』と。彼らは、棗をもまた喰い、棗の粉をもまた喰い、棗の汁をもまた飲みます。無数〔の流儀〕に関した棗の品種を遍く受益します。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──まさしく、一つの棗を、食として食する者として。サーリプッタよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、大いなるものとして、棗は有ったのだ』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、そのときもまた、まさしく、これを最高とするものとして、棗は有りました。それは、たとえば、また、今現在のように。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、まさしく、一つの棗を、食として食していると、身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生(なま)の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。サーリプッタよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、その場において、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。

 

159. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『食によって、清浄がある』と。彼らは、このように言いました。『〔わたしたちは〕諸々の豆によって、〔身を〕保ち行くのだ』……略……『〔わたしたちは〕諸々の胡麻によって、〔身を〕保ち行くのだ』……略……『〔わたしたちは〕諸々の米によって、〔身を〕保ち行くのだ』と。彼らは、米をもまた喰い、米の粉をもまた喰い、米の汁をもまた飲みます。無数〔の流儀〕に関した米の品種を遍く受益します。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──まさしく、一つの米を、食として食する者として。サーリプッタよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、大いなるものとして、米は有ったのだ』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、そのときもまた、まさしく、これを最高とするものとして、米は有りました。それは、たとえば、また、今現在のように。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、まさしく、一つの米を、食として食していると、身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。サーリプッタよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、その場において、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。

 

 サーリプッタよ、まさに、わたしは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その為し難きことを為すことによっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。それは、何を因とするのですか。まさしく、この聖なる智慧の、到達なくあるからです。すなわち、この聖なる智慧は、〔それに〕到達したなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。

 

160. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『輪廻によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に輪廻したことのない、その輪廻は、得るに易き形態のものではありません(浄居天以外はすべて輪廻してきた)。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に輪廻するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう(浄居天において涅槃に到達するであろう)。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『再生によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に再生したことのない、その再生は、得るに易き形態のものではありません。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に再生するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『居住によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に居住したことのない、その居住は、得るに易き形態のものではありません。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に居住するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『祭祀によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、この長時にわたり、わたしが過去に祭祀したことのない、その祭祀は、得るに易き形態のものではありません。そして、それは〔為されました〕──まさに、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している〔わたし〕によって、あるいは、婆羅門の大家として〔世に存しているわたしによって〕。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『祭火の世話によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、この長時にわたり、わたしが過去に世話したことのない、その祭火は、得るに易き形態のものではありません。そして、それは〔為されました〕──まさに、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している〔わたし〕によって、あるいは、婆羅門の大家として〔世に存しているわたしによって〕。

 

161. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『すなわち、この尊き人が、年少の者として〔世に〕有り、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるかぎり、まさしく、そのかぎりは、最高の智慧と聡慧を具備した者として〔世に〕有る。しかしながら、すなわち、まさに、この尊き人が、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、〔世に〕有ることから、そこで、彼から、智慧と聡慧が遍く衰退する』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは、今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、八十の者として、わたしの年齢は転起します。サーリプッタよ、ここに、わたしの、四つの弟子〔の衆〕が、百年の寿命ある者たちとして、百年の生命ある者たちとして、〔世に〕存するとします──最高の、かつまた、気づきを、かつまた、境遇を、かつまた、〔道心〕堅固を、さらに、最高の智慧と聡慧を、具備した者たちとして。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人が、矢で軽々と難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すように、このように、旺盛なる気づきある者たちとして、このように、旺盛なる〔善き〕境遇ある者たちとして、このように、旺盛なる〔道心〕堅固ある者たちとして、このように、最高の智慧と聡慧を具備した者たちとして。彼らが、わたしに、四つの気づきの確立に関連しては関連して、問いを尋ねるなら、そして、わたしは、尋ねられては尋ねられた者として、彼らに説き明かすでしょうし、さらに、説き明かされたものを、わたしによって説き明かされたものとして、〔彼らは〕保持するでしょうし、かつまた、わたしに、二度とふたたび質問しないでしょう。食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、サーリプッタよ、如来の法(教え)の説示は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょうし、如来の法(教え)の句と文は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょうし、如来の問いの応答は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、わたしの、それらの四つの弟子〔の衆〕は、百年の寿命ある者たちとして、百年の生命ある者たちとして、百年が経過して、命を終えるでしょう。サーリプッタよ、もし、また、〔あなたたちが〕わたしを臥床に持ち運ぶとして、如来に、智慧と聡慧の他化は、まさしく、存在しません。サーリプッタよ、まさに、すなわち、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。

 

162. また、まさに、その時点にあって、尊者ナーガサマーラは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者ナーガサマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、なぜなら、さてまた、この法(教え)の教相を聞いて、わたしの諸々の身の毛がよだったからです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「ナーガサマーラよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『諸々の身の毛のよだちの教相』と、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ナーガサマーラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる獅子吼の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(13). 大いなる苦しみの範疇の経

 

163. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。「友よ、沙門ゴータマは、諸々の欲望の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の欲望の遍知を報知します。諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の形態の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の感受の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の感受の遍知を報知します。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。

 

164. そこで、まさに、それらの比丘たちは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、このような〔思いが〕有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしたちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。『友よ、沙門ゴータマは、諸々の欲望の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の欲望の遍知を報知します。諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の形態の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の感受の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の感受の遍知を報知します。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。

 

165. 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、何が、諸々の欲望の悦楽であり、何が、〔諸々の欲望の〕危険であり、何が、〔諸々の欲望の〕出離なのですか。何が、諸々の形態の悦楽であり、何が、〔諸々の形態の〕危険であり、何が、〔諸々の形態の〕出離なのですか。何が、諸々の感受の悦楽であり、何が、〔諸々の感受の〕危険であり、何が、〔諸々の感受の〕出離なのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

166. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の悦楽なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の欲望の悦楽です。

 

167. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって──もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇(苦蘊)であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

168. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

169. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

170. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の出離なのですか。比丘たちよ、それが、まさに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、欲望の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の欲望の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の欲望を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の欲望を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の欲望の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の欲望を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ(※)、実践したそのとおりに、諸々の欲望を遍知することになる、という、この状況は見出されます。

 

※ テキストには samādapessantntti とあるが、PTS版により samādapessanti と読む。

 

171. 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の悦楽なのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、士族の少女で、あるいは、婆羅門の少女で、あるいは、家長の少女で、あるいは、十五歳の者が、あるいは、十六歳の者がいるとします──高過ぎず、低過ぎず、痩せ過ぎず、太り過ぎず、黒過ぎず、白過ぎず、〔そのような者です〕。比丘たちよ、その時点において、彼女は、浄美にして、色艶の輝きある、最高の者としてありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、それが、まさに、浄美と色艶の輝きを縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形態の悦楽です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の危険なのですか。比丘たちよ、ここに、他時にあって、まさしく、その婦人を見るとします。生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去り、歯が破断し、白髪の者となり、抜け毛の者となり、禿頭の者となり、皺の者となり、斑点だらけの五体の者となるのを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥しているのを──他者たちによって出起させられ、他者たちによって横臥させられているのを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

172. 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──あるいは、死んで一日となり、あるいは、死んで二日となり、あるいは、死んで三日となり、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……連結が離れ去り、〔四〕方と〔四〕維に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の出離なのですか。比丘たちよ、それが、諸々の形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形態の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の形態を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の形態を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形態の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の形態を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の形態を遍知することになる、という、この状況は見出されます。

 

173. 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の悦楽なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、その時点において、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、その時点において、まさしく、加害〔の思い〕なき感受を感受します。比丘たちよ、わたしは、加害〔の思い〕なき〔あり方〕を最高のものとして、諸々の感受の悦楽と説きます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。比丘たちよ、その時点において、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むなら……略……。比丘たちよ、その時点において、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、その時点において、まさしく、加害〔の思い〕なき感受を感受します。比丘たちよ、わたしは、加害〔の思い〕なき〔あり方〕を最高のものとして、諸々の感受の悦楽と説きます。

 

174. 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の危険なのですか。比丘たちよ、すなわち、諸々の感受が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の感受の危険です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の出離なのですか。比丘たちよ、それが、諸々の感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の感受の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の感受を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の感受を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の感受の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の感受を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の感受を遍知することになる、という、この状況は見出されます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる苦しみの範疇の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(14). 小なる苦しみの範疇の経

 

175. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、長夜にわたり、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しています。『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)である。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と。尊き方よ、そして、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しているのですが、『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れである。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、そこで、また、しかしながら、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住します。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『いったい、まさに、わたしに、どのような法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのだろう。それによって、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのだ』」と。

 

176. 「マハー・ナーマよ、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのです。それによって、あなたに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのです。マハー・ナーマよ、なぜなら、そして、あなたに、その法(性質)が、内に〔すでに〕捨棄されたものと成っていたなら、あなたは、家に居住しないでしょうし、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しないでしょう。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあることから、それゆえに、あなたは、家に居住し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益するのです。

 

177. 『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、マハー・ナーマよ、かくのごとく、もし、また、聖なる弟子に、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達しないなら〕、そこで、まさに、彼は、まさしく、それまでのあいだ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成りません。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、聖なる弟子に、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達することから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達することから〕、そこで、まさに、彼は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成ります。

 

 マハー・ナーマよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしにもまた、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、その〔わたし〕は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達せず、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達せず〕、そこで、まさに、わたしは、まさしく、それまでのあいだ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しませんでした。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、その〔わたし〕が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達したことから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達したことから〕、そこで、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しました。

 

178. マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の悦楽なのですか。マハー・ナーマよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。マハー・ナーマよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。マハー・ナーマよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の欲望の悦楽です。

 

 マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって──もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

179. マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、大勢のニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちが、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において、坐を拒絶する常立行者たちとして〔世に〕有り、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。マハー・ナーマよ、そこで、まさに、わたしは、夕刻時に、静坐から出起し、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、それらのニガンタたちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、いったい、どうして、あなたたちは、坐を拒絶する常立行者たちとなり、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するのですか』と。マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、それらのニガンタたちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」と。彼は、このように言います。「ニガンタたちよ、まさに、あなたたちには、過去において作り為された悪しき行為(悪業)が存在する。それを、この辛辣なる難行によって衰尽せしめよ。また、すなわち、ここにおいて、今現在、身体によって統御されたことから、言葉によって統御されたことから、意によって統御されたことから、それは、未来に悪しき行為を作り為さないこととなる。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に無顕現があり、未来に無顕現あることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています』と。

 

180. マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、わたしは、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちは、「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」と知らず、「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」と知らず、「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」と知らず、「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」と知らず、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知りません。友よ、ニガンタたちよ、このように存しているとき、すなわち、世において、残忍で、血の手をもち、残酷な生業ある者たちが、人間たちのなかに生まれ落ちたとして、それらの者たちが、ニガンタたちのもとで出家するのでは』と。『友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です』と。

 

 『たしかに、尊者たちによって、ニガンタたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、まさしく、わたしは、そこにおいて〔このように〕問い返されるべき者としてあります。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。『友よ、ゴータマよ、たしかに、わたしたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、このことは、さておくとしましょう。今やまた、わたしたちは、尊者ゴータマに尋ねます。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、まさに、それでは、まさしく、あなたたちに、そこにおいて問い返します。すなわち、あなたたちのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、六つの夜と昼のあいだ……略……五つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……二つの夜と昼のあいだ……一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、二つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……五つの夜と昼のあいだ……六つの夜と昼のあいだ……七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。このように存しているとき、誰が、より安楽の住ある者ですか。あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、わたしですか』と。『このように存しているとき、まさしく、尊者ゴータマは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王よりも、より安楽の住ある者です』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる苦しみの範疇の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(15). 推知の経

 

181. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・モッガッラーナは、バッガ〔国〕に住んでいます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、もし、また、比丘が、『尊者たちは、わたしに説いてください。尊者たちによって説かれるべき者として、〔わたしは〕存しています』と申し出るとして、しかしながら、彼が、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、説くべき者と思い考えず、かつまた、教示するべき者と思い考えず、さらに、その人にたいし、信頼を惹起するべき者と思い考えません。

 

 友よ、では、どのようなものが、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)なのですか。友よ、ここに、比丘が、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する(※)言葉を放つ者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

※ テキストには kodhasāmantā とあるが、PTS版により kodhasāmantaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

182. 友よ、もし、また、比丘が、『尊者たちは、わたしに説いてください。尊者たちによって説かれるべき者として、〔わたしは〕存しています』と申し出るとして、かつまた、彼が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、説くべき者と思い考え、かつまた、教示するべき者と思い考え、さらに、その人にたいし、信頼を惹起するべき者と思い考えます。

 

 友よ、では、どのようなものが、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)なのですか。友よ、ここに、比丘が、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自己を高尚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できます。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できるなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

183. 友よ、そこで、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように推知するべきです。『すなわち、まさに、この人が、悪しき欲求ある者であり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、自己を賞揚し他者を蔑視する者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕に征服された者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく〔世に〕有るのだ、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放たないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者に逆襲しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者を指弾しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者に反駁しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、〔自己の〕行状について弁解できるのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、偽装ある者であり、加虐ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕偽装ある者ではなく、加虐ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、嫉妬ある者であり、物惜ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕嫉妬ある者ではなく、物惜ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、狡猾ある者であり、幻惑ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕狡猾ある者ではなく、幻惑ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、強情ある者であり、高慢ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕強情ある者ではなく、高慢ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

184. 友よ、そこで、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へと〔返事を〕そらさず、外に話を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できないのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できる』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、全ての、これらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成るようなものです──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。友よ、まさしく、このように、まさに、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、全ての、これらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として」と。

 

 尊者マハー・モッガッラーナは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 推知の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(16). 心の鬱積の経

 

185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼の、この第一の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

186. 彼には、どのような五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第二の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第三の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住むなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

187. 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

188. 彼には、どのような五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(4)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住まないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みません。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩まないなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

189. 彼は、欲〔の思い〕(意欲)の禅定()と精励の形成〔作用〕()を具備した神通の足場(神足)を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。まさしく、勤勇を、第五のものとして〔修めます〕。比丘たちよ、それで、まさに、彼が、このように、勤勇とともに十五の支分を具備した比丘であるなら、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達の可能ある者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、これらのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このように、勤勇とともに十五の支分を具備した比丘は、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 心の鬱積の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(17). 林野の辺境の経

 

190. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、林野の辺境の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

191. 「比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その林野の辺境から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

192. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その林野の辺境から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

193. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る』と。比丘たちよ、その比丘は、その林野の辺境に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

194. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、その林野の辺境に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

195. 比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの村に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの町に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの城市に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの地方に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るひとりの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その人から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

196. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その人から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

197. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る』と。比丘たちよ、その比丘は、その人に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

198. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、その人に住するべきであり、立ち去るべきではありません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 林野の辺境の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(18). 蜜団子の経

 

199. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニもまた、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、杖に頼って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニは、世尊に、こう言いました。「沙門は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか」と。「友よ、すなわち、説く者としてあるとして、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住することがないように、また、そして、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象()が悪しき習いとなることがないように、友よ、まさに、わたしは、このように説く者であり、このように告げ知らせる者です」と。

 

 このように説かれたとき、釈迦〔族〕のダンダパーニは、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去りました。

 

200. そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、ニグローダ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝の根元において、昼の休息のために坐りました。比丘たちよ、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニもまた、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝のあるところに、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、杖に頼って、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニは、わたしに、こう言いました。『沙門は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか』と。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、釈迦〔族〕のダンダパーニに、こう言いました。『友よ、すなわち、説く者としてあるとして、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住することがないように、また、そして、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象が悪しき習いとなることがないように、友よ、まさに、わたしは、このように説く者であり、このように告げ知らせる者です』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のダンダパーニは、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去りました」と。

 

201. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、世尊は、何を説く者であり、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住しないのですか。尊き方よ、また、そして、どのように、世尊に、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象が悪しき習いとならないのですか」と。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の敵対〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の見解の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の疑惑〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の思量の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の無明の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことの終極です。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

202. そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。

 

203. 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。

 

204. 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

 友よ、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触(:感覚の発生)です。接触という縁あることから、感受(::楽苦の知覚)があります。それを感受するなら、それを表象します。それを表象するなら、それを思考します。それを思考するなら、それを虚構します。それを虚構するなら、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となります──過去と未来と現在の眼によって識知されるべき諸々の形態において。友よ、かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。それを感受するなら、それを表象します。それを表象するなら、それを思考します。それを思考するなら、それを虚構します。それを虚構するなら、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となります──過去と未来と現在の意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)において。

 

 友よ、彼は、まさに、眼が存しているとき、形態が存しているとき、眼の識知〔作用〕が存しているとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。接触という概念が存しているとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。感受という概念が存しているとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。表象という概念が存しているとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。思考という概念が存しているとき、虚構の表象と名称が慣行となるという概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。友よ、彼は、まさに、耳が存しているとき、音声が存しているとき……略……鼻が存しているとき、臭気が存しているとき……略……舌が存しているとき、味感が存しているとき……略……身が存しているとき、感触が存しているとき……略……意が存しているとき、法(意の対象)が存しているとき、意の識知〔作用〕が存しているとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。接触という概念が存しているとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。感受という概念が存しているとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。表象という概念が存しているとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。思考という概念が存しているとき、虚構の表象と名称が慣行となるという概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 友よ、彼は、まさに、眼が存していないとき、形態が存していないとき、眼の識知〔作用〕が存していないとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。接触という概念が存していないとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。感受という概念が存していないとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。表象という概念が存していないとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。思考という概念が存していないとき、虚構の表象と名称が慣行となるという概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、彼は、まさに、耳が存していないとき、音声が存していないとき……略……鼻が存していないとき、臭気が存していないとき……略……舌が存していないとき、味感が存していないとき……略……身が存していないとき、感触が存していないとき……略……意が存していないとき、法(意の対象)が存していないとき、意の識知〔作用〕が存していないとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。接触という概念が存していないとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。感受という概念が存していないとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。表象という概念が存していないとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。思考という概念が存していないとき、虚構の表象と名称が慣行となるという概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。尊者たちよ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

205. そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の敵対〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の見解の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の疑惑〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の思量の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の無明の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことの終極です。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。「比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、それは、たとえば、また、飢えと力の衰えに打ち負かされた人が、蜜団子に到達するなら、彼は、〔それを〕味わう、そのたびごとに、雑物なしの善き味を、まさしく、得るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、心の才覚に恵まれた比丘は、この法(教え)の教相の義(意味)を、智慧によって近しく注視する、そのたびごとに、わが意を得ることを、まさしく、得るでしょうし、心の清信を、まさしく、得るでしょう。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『蜜団子の教相』と、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蜜団子の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(19). 二種の思考の経

 

206. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、二種に為しては二種に為して、思考のうちに住むのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、これが、そして、すなわち、欲望の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪の思考であるなら、さらに、すなわち、悩害の思考であるなら、これを、一つの部分と為し、これが、そして、すなわち、この離欲の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪なき思考であるなら、さらに、すなわち、悩害なき思考であるなら、これを、第二の部分と為しました。

 

207. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、欲望の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この欲望の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した欲望の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。

 

208. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪の思考が生起します。……略……悩害の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した悩害の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。

 

 比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、欲望の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、離欲の思考を捨棄したなら、欲望の思考を多く為したなら、彼の、その心は、欲望の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪の思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害なき思考を捨棄したなら、悩害の思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害の思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の農繁期に、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼は、それらの牛たちを、そこかしこにおいて、棒によって打ち、逆に打ち、押さえ付け、防ぎ守ります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その牛飼いは、それ(牛の放置)を因縁として、あるいは、殴打を、あるいは、結縛を、あるいは、収奪を、あるいは、難詰を、見るからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ました。

 

209. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、離欲の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この離欲の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。

 

210. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪なき思考が生起します。……略……悩害なき思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害なき思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、離欲の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、欲望の思考を捨棄したなら、離欲の思考を多く為したなら、彼の、その心は、離欲の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪なき思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害なき思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害の思考を捨棄したなら、悩害なき思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害なき思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、全ての作物が村の外れに運び込まれたとき、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼には、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、野外に赴き、まさしく、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの牛たちがいる』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの法(性質)がある』と。

 

211. 比丘たちよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成りました。気づきは現起され、忘却なきものと〔成りました〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成りました〕。心は定められ、一境のものと〔成りました〕。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。

 

212. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

213. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し……略……かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

214. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

215. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、林地の森のなかに大いなる低き湖沼があり、〔まさに〕その、この〔湖沼〕に、大いなる鹿の群れが近しく依拠して住んでいるとします。その〔大いなる鹿の群れ〕の、義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を閉ざし、悪しき道を開き、〔囮の〕雄獣を設置し、〔囮の〕雌獣を据え置きます。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、その大いなる鹿の群れの、義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を開き、悪しき道を閉ざし、〔囮の〕雄獣を取り去り、〔囮の〕雌獣を放逐します。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『大いなる低き湖沼』とは、まさに、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『大いなる鹿の群れ』とは、まさに、これは、有情たちの同義語です。比丘たちよ、『義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する人』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『悪しき道』とは、まさに、これは、八つの支分ある誤った道の同義語です。それは、すなわち、この、誤った見解であり、誤った思惟であり、誤った言葉であり、誤った行業であり、誤った生き方であり、誤った努力であり、誤った気づきであり、誤った禅定です。比丘たちよ、『〔囮の〕雄獣』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。比丘たちよ、『〔囮の〕雌獣』とは、まさに、これは、無明の同義語です。比丘たちよ、『義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する人』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘たちよ、『平安で、安穏で、喜悦に至るべき道』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道の同義語です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、平安で、安穏で、喜悦に至るべき道は開かれ、悪しき道は閉ざされ、〔囮の〕雄獣は取り去られ、〔囮の〕雌獣は放逐されました。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 二種の思考の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(20). 思考の様相の経

 

216. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、卓越の心(瞑想)に専念する比丘によって、五つの形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意が為されるべきです。彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、石工が、あるいは、石工の内弟子が、微細な楔で、粗大な楔を、打ち砕き、引き抜き、取り出すように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意が為されるべきです。彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

217. (2)比丘たちよ、もし、その比丘が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の危険が近しく注視されるべきです。『かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、善ならざるものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、財貨を有するもの(世俗のもの)である。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、苦痛の報い(異熟)あるものである』と。彼が、それらの思考の危険を近しく注視していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、首に掛けられたなら、苦悩し、自責し、忌避するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の危険が近しく注視されるべきです。『かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、善ならざるものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、財貨を有するものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、苦痛の報いあるものである』と。彼が、それらの思考の危険を近しく注視していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

218. (3)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考への気づきなく意を為さないことが惹起されるべきです。彼が、それらの思考への気づきなく意を為さないことを惹起していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、眼の視野にやってきた諸々の形態の見なきことを欲する者として存するなら、彼は、あるいは、〔眼を〕閉じるであろうし、あるいは、他を顧みるであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら……それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

219. (4)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考への気づきなく意を為さないことを惹起しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の、思考を形成する働き()の様相に意が為されるべきです。彼が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、急いで赴くとします。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、急いで赴くのだ。それなら、さあ、わたしは、ゆっくりと赴くのだ』と。彼は、ゆっくりと赴きます。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、ゆっくりと赴くのだ。それなら、さあ、わたしは、立つのだ』と。彼は、立ちます。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、立っているのだ。それなら、さあ、わたしは、坐るのだ』と。彼は、坐ります。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、坐っているのだ。それなら、さあ、わたしは、横になるのだ』と。彼は、横になります。比丘たちよ、まさに、このように、その人は、振る舞いの道の粗大なるもの粗大なるものを回避して、振る舞いの道の微細なるもの微細なるものを営為します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考への気づきなく意を為さないことを惹起しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら……それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

220. (5)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心が、制御されるべきであり、圧迫されるべきであり、撃滅されるべきです。彼が、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御していると、圧迫していると、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を、あるいは、喉を、あるいは、肩を、掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心が、制御されるべきであり、圧迫されるべきであり、撃滅されるべきです。彼が、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

221. (1)比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起することから、彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(2)それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(3)それらの思考への気づきなく意を為さないことを惹起しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(4)それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(5)歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御していると、圧迫していると、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、諸々の思考の様態の道における自在者であり、その思考を望むなら、その思考を思考するであろう。その思考を望まないなら、その思考を思考しないであろう。渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 思考の様相の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 獅子吼の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「小なる獅子吼と優れた身の毛のよだち、大いなると小なる苦しみの範疇と推知の経、鬱積と辺境と蜜団子と二種の思考と五つの形相の講話があり、さらなる章となる」〔と〕。

 

3. 喩えの章

 

1(21). 鋸の喩えの経

 

222. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者モーリヤ・パッグナが、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいます(過度な交友を持っていた)。尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。それで、もし、誰であれ、比丘が、尊者モーリヤ・パッグナの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、尊者モーリヤ・パッグナは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、尊者モーリヤ・パッグナの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいます。尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。それで、もし、誰であれ、比丘が、尊者モーリヤ・パッグナの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、尊者モーリヤ・パッグナは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、尊者モーリヤ・パッグナの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます」と。

 

223. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、モーリヤ・パッグナに告げなさい。『友よ、パッグナよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者モーリヤ・パッグナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者モーリヤ・パッグナに、こう言いました。「友よ、パッグナよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者モーリヤ・パッグナは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、モーリヤ・パッグナに、世尊は、こう言いました。

 

 「パッグナよ、本当に、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいるのですか。パッグナよ、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいるのですか。それで、もし、誰であれ、比丘が、あなたの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、あなたは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、あなたの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。パッグナよ、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいるのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「パッグナよ、まさに、あなたは、信によって家から家なきへと出家した、良家の子息ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

224. 「パッグナよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいるなら。パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕(意欲)が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたの面前で、それらの比丘尼たちに、手で打撃を与えるなら、石で打撃を与えるなら、棒で打撃を与えるなら、刃で打撃を与えるなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたの面前で、栄誉ならざることを語るなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたに、手で打撃を与えるなら、石で打撃を与えるなら、棒で打撃を与えるなら、刃で打撃を与えるなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

225. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、或る時のことです。比丘たちが、わたしの心を喜ばせました。比丘たちよ、ここに、わたしは、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益します。比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、一坐の食を受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。比丘たちよ、わたしに、それらの比丘たちにたいし、為すべき教示は有りませんでした。比丘たちよ、わたしには、それらの比丘たちにたいし、為すべきこととして気づきの生起だけが有りました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、それらの比丘たちにたいし、為すべき教示は有りませんでした。比丘たちよ、わたしには、それらの比丘たちにたいし、為すべきこととして気づきの生起だけが有りました。比丘たちよ、それゆえに、ここに、あなたたちもまた、善ならざるものを捨棄しなさい。諸々の善なる法(性質)において専念を為しなさい。まさに、このように、あなたたちもまた、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなるサーラ〔樹〕の林があるとします。そして、その〔林〕は、諸々のエーランダ〔の蔓〕に等しく覆われ、存しているとします。その〔林〕の、義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する、誰かしら或る人が現われるとします。彼は、すなわち、それらが、屈曲し滋養を奪い去るサーラ〔樹〕の枝であるなら、それらを断ち切って、外に運び出し、林の内を善く清められたものに清めます。また、すなわち、それらが、真っすぐで善き生まれのサーラ〔樹〕の枝であるなら、それらを正しく守り抜きます。比丘たちよ、まさに、このように、このサーラ〔樹〕の林は、他時にあって、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あなたたちもまた、善ならざるものを捨棄しなさい。諸々の善なる法(性質)において専念を為しなさい。まさに、このように、あなたたちもまた、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

226. 比丘たちよ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、ヴェーデーヒカーという名の主婦が〔世に〕有りました。比丘たちよ、ヴェーデーヒカー主婦には、このように、善き評価の声が上がっています。『ヴェーデーヒカー主婦は、温和なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静なる者である』と。比丘たちよ、また、まさに、ヴェーデーヒカー主婦には、カーリーという名の奴婢が〔世に〕有りました──能ある者であり、怠けない者であり、善く差配された生業ある者として。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方には、このように、善き評価の声が上がっている。「ヴェーデーヒカー主婦は、温和なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静なる者である」と。いったい、まさに、どうなのだろう。わたしの尊貴なる方は、いったい、まさに、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さないのだろうか、それとも、存していないのだろうか、それとも、まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さないのだろうか──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、尊貴なる方を審査するのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、渋面を為しました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、より一層しっかりと、尊貴なる方を審査するのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、まさしく、さらに遅く昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、さらに遅く昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、さらに遅く昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、より一層しっかりと、尊貴なる方を審査するのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、まさしく、さらに遅く昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、さらに遅く昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、さらに遅く昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、閂の楔を掴んで、頭に打撃を与え、頭を破り裂きました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、破断し血が滴り出る頭で、近所の者たちに、不平を言いました。『尊貴なる方よ、見てください、温和なる方の行為を。尊貴なる方よ、見てください、謙譲なる方の行為を。尊貴なる方よ、見てください、寂静なる方の行為を。なぜなら、どうして、まさに、一者の奴婢が昼に起きた、ということで、激情し、わが意を得ない者となり、閂の楔を掴んで、頭に打撃を与え、頭を破り裂くというのでしょう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦には、他時にあって、このように、悪しき評価の声が上がりました。『ヴェーデーヒカー主婦は、狂暴なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲ならざる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静ならざる者である』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、すなわち、諸々の意に適わない言葉の道が触れないかぎり、まさしく、それまでのあいだは、温和なるうえにも温和なる者として〔世に〕有り、謙譲なるうえにも謙譲なる者として〔世に〕有り、寂静なるうえにも寂静なる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、比丘に、諸々の意に適わない言葉の道が触れることから、そこで〔はじめて〕、比丘は、『温和なる者』と知られるべきであり、『謙譲なる者』と知られるべきであり、『寂静なる者』と知られるべきです。比丘たちよ、その〔比丘〕が、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を因として、素直な者と成り、素直であることを惹起するなら、わたしは、その比丘を、『素直な者』と説きません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、その衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を得ずにいるなら、素直な者と成らず、素直であることを惹起しないからです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、その比丘が、まさしく、法(教え)を尊敬しながら、法(教え)を尊重しながら、法(教え)を思慕しながら、法(教え)を供養しながら、法(教え)を敬恭しながら、素直な者と成るなら、素直であることを惹起するなら、わたしは、その比丘を、『素直な者』と説きます。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『まさしく、〔わたしたちは〕法(教え)を尊敬しながら、法(教え)を尊重しながら、法(教え)を思慕しながら、法(教え)を供養しながら、法(教え)を敬恭しながら、素直な者たちと成るのだ、素直であることを惹起するのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

227. 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──(1)あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──(2)あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──(3)あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──(4)あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──(5)あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象(所縁)として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

228. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この大いなる地を、地ならざるものと為すのだ』と。彼は、そこかしこを掘り崩し、そこかしこに撒き散らし、そこかしこに唾を吐き、そこかしこに小便をします。『〔おまえは〕地ならざるものと成る。〔おまえは〕地ならざるものと成る』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この大いなる地を、地ならざるものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この大いなる地は、深遠で、量りようがないからです。それは、地ならざるものと為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく地に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

229. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、塗料を、あるいは、鬱金(うこん)を、あるいは、青〔の染料〕を、あるいは、深紅〔の染料〕を、携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この虚空において、形態を加工し、形態の出現あるものと為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この虚空において、形態を加工し、形態の出現あるものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この虚空は、形態なく、外見なくあるからです。そこにおいて、形態を加工し、形態の出現あるものと為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって……略……。『まさしく、そして……。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく虚空に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

230. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明を携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、ガンガー川は、深遠で、量りようがないからです。それは、燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって……略……。『まさしく、そして……。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なくガンガー川に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

231. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、(なめ)されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮があるとします。そこで、人が、あるいは、小枝を、あるいは、小石を、携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮を、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮を、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮であるからです。それは、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく猫皮に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

232. 比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸(のこぎり)で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、その〔比丘〕が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

233. 比丘たちよ、そして、この鋸の喩えの教諭に、あなたたちが、幾度となく、意を為すなら、比丘たちよ、すなわち、あなたたちが甘受できない、〔まさに〕その、言葉の道を、あるいは、微細なものであれ、あるいは、粗大なものであれ、まさに、あなたたちは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、この鋸の喩えの教諭に、幾度となく、意を為しなさい。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 鋸の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(22). 蛇の喩えの経

 

234. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。まさに、大勢の比丘たちは、「どうやら、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と耳にしました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「友よ、アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちはまた、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問します。「友よ、アリッタよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、アリッタよ、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました」と。このようにもまた、まさに、それらの比丘たちによって、尋問され、審問され、査問されながら、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、まさしく、その、悪しきものとしてある、悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。

 

235. すなわち、まさに、それらの比丘たちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのです。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、『どうやら、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。『友よ、アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問しました。『友よ、アリッタよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、アリッタよ、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました』と。尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしたちによって、尋問され、審問され、査問されながら、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、まさしく、その、悪しきものとしてある、悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、わたしたちは、この義(事態)を、世尊に告げます」と。

 

236. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に告げなさい。『友よ、アリッタよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「友よ、アリッタよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、世尊は、こう言いました。「アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と。

 

 「尊き方よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。「愚人よ、まさに、誰のものとして、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。愚人よ、まさに、わたしによって、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれたのではないですか。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、肉片の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、草の松明の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、火坑の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、夢の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、借り物の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、木の果の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。愚人よ、そこで、また、しかしながら、あなたは、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。愚人よ、まさに、それは、あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、この者は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、この法(教え)と律において、熱を為した者としてもまたありますか」よ。「尊き方よ、まさに、どうして、存するというのでしょう。尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。このように説かれたとき、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、世尊は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「愚人よ、まさに、あなたは、〔まさに〕この、自らの悪しきものとしてある、悪しき見解によって、〔そのとおりに〕覚知されるでしょう。ここに、わたしは、比丘たちに質問しましょう」と。

 

237. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、あなたたちもまた、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しますか。すなわち、この者が、鷹匠の過去あるアリッタ比丘が、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出すように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、無数の教相によって、わたしたちに、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました」と。「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知します。比丘たちよ、まさに、無数の教相によって、まさに、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──わたしによって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。そこで、また、しかしながら、この者は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。まさに、それは、彼にとって、愚人にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。比丘たちよ、彼が、まさに、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、欲望の表象より他に、諸々の欲望の思考より他に、諸々の欲望〔の対象〕を受用するであろう、という、この状況は見出されません。

 

238. 比丘たちよ、ここに、一部の愚人たちは、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視されず、納得がなく受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、悪しく把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が悪しく把握されたからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、蛇を義(目的)として蛇を探し求める人が、蛇を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、大いなる蛇を見ます。〔まさに〕その、この〔蛇〕を、あるいは、蜷局において、あるいは、尾において、掴みます。その蛇は、反転して、彼の、あるいは、手に、あるいは、腕に、あるいは、どれか一つの手足や肢体に、咬みつくでしょう。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、蛇が悪しく掴まれたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視されず、納得がなく受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、悪しく把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が悪しく把握されたからです。

 

239. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視します。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視され、納得があり受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、ではなく、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、ではなく、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領します。彼らにとって、それらの法(教え)は、善く把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が善く把握されたからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、蛇を義(目的)として蛇を探し求める人が、蛇を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、大いなる蛇を見ます。〔まさに〕その、この〔蛇〕を、山羊足の棒によって、善く制御されたものに制御します。山羊足の棒によって、善く制御されたものに制御して、頭において、善く掴まれたものとして掴みます。比丘たちよ、たとえ、何であれ、その蛇が、その人の、あるいは、手を、あるいは、腕を、あるいは、どれか一つの手足や肢体を、諸々の蜷局で包むとして、そこで、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、蛇が善く掴まれたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視します。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視され、納得があり受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、ではなく、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、ではなく、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領します。彼らにとって、それらの法(教え)は、善く把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が善く把握されたからです。比丘たちよ、これゆえに、ここに、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたたちが〕了知するなら、そのように、それを保持するべきです。また、そして、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたたちが〕了知しないなら、あなたたちは、そこにおいて、わたしに質問するべきです──また、あるいは、すなわち、明敏なる比丘たちが存するなら、〔彼らに質問するべきです〕。

 

240. 比丘たちよ、超脱を義(目的)として、筏の喩えの法(教え)を、あなたたちに説示しましょう──掴み取ることを義(目的)として、ではなく。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、大いなる水域を見るとします──危惧を有し恐怖を有する此岸を、平安にして恐怖なき彼岸を。しかしながら、彼に、渡し舟は存在しません──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。彼に、このような〔思いが〕存します。『これは、まさに、大いなる水域である。危惧を有し恐怖を有する此岸であり、平安にして恐怖なき彼岸である。しかしながら、わたしに、渡し舟は存在しない──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。それなら、さあ、わたしは、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡るのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ります。超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。それなら、さあ、わたしは、この筏を、あるいは、頭に載せて、あるいは、肩に掲げて、欲するところに立ち去るのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、このように為すなら、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、では、どのように為すなら、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょうか。比丘たちよ、ここに、超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。それなら、さあ、わたしは、この筏を、あるいは、陸に引き揚げて、あるいは、水に沈めて、欲するところに立ち去るのだ』と。比丘たちよ、このように為すなら、まさに、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、超脱を義(目的)として、筏の喩えの法(教え)が、わたしによって説示されました──掴み取ることを義(目的)として、ではなく。比丘たちよ、あなたたちに説示された筏の喩えの法(教え)を了知しているなら、あなたたちによって、諸々の法(教え)もまた捨棄されるべきです。ましてや、諸々の法(教え)ならざるものは〔言うまでもありません〕。

 

241. 比丘たちよ、六つのものがあります。これらの見解の拠点です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。感受〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。表象〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。諸々の形成〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。識知〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。(2)すなわち、また、それが、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識()られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それをもまた、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。(3)すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点を、それをもまた、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、(4)形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。感受〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。表象〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。諸々の形成〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。(5)すなわち、また、それが、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それをもまた、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。(6)すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点を、それをもまた、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。このように等しく随観している者は、彼は、〔何も〕存していないとき、思い悩むことがありません」と。

 

241. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか──外に〔何も〕存していないとき、思い悩むことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに有ったが、それは、まさに、わたしに存在しない』『まさに、わたしに存するべきであるが、それを、まさに、わたしは得ない』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘よ、このように、まさに、外に〔何も〕存していないとき、思い悩むことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、存在しますか──外に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有りません。『まさに、わたしに有ったが、それは、まさに、わたしに存在しない』『まさに、わたしに存するべきであるが、それを、まさに、わたしは得ない』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘よ、このように、まさに、外に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか──内に〔何も〕存していないとき、思い悩むことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。彼は、一切の見解の拠点と確立と妄執と固着と悪習の根絶のために、一切の形成〔作用〕の止寂のために、一切の依り所の放棄のために、渇愛の滅尽のために、離貪のために、止滅のために、涅槃のために、法(教え)を説示している、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、〔言葉を〕聞きます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、〔わたしは〕断絶するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕消失するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕有ることなくあるのだ』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘よ、このように、まさに、内に〔何も〕存していないとき、思い悩むことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、存在しますか──内に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有りません。『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。彼は、一切の見解の拠点と確立と妄執と固着と悪習の根絶のために、一切の形成〔作用〕の止寂のために、一切の依り所の放棄のために、渇愛の滅尽のために、離貪のために、止滅のために、涅槃のために、法(教え)を説示している、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、〔言葉を〕聞きます。彼に、このような〔思いは〕有りません。『ああ、まさに、〔わたしは〕断絶するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕消失するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕有ることなくあるのだ』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘よ、このように、まさに、内に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことが有ります。

 

243. 比丘たちよ、〔あなたたちは〕執持できますか──その執持〔の対象〕(所有物)を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です。

 

 比丘たちよ、〔あなたたちは〕執取できますか──その自己の論への執取に。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その自己の論への執取を。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その自己の論への執取を。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です。

 

 比丘たちよ、〔あなたたちは〕依拠できますか──その見解の依所に。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その見解の依所を。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その見解の依所を。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です。

 

244. 比丘たちよ、あるいは、自己が存しているとき、『わたしの自己に属するものである』という〔思いが〕存しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、あるいは、自己に属するものが存しているとき、『わたしの自己である』という〔思いが〕存しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、かつまた、自己が、かつまた、自己に属するものが、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、認知されずにあるとき、すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点は、比丘たちよ、まさに、これは、全部が全部、愚者の法(教え)ではないですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、どうして、存さないというのでしょう。尊き方よ、まさに、全部が全部、愚者の法(教え)です」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

245. 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいし厭離し、感受〔作用〕にたいし厭離し、表象〔作用〕にたいし厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいし厭離し、識知〔作用〕にたいし厭離します。厭離しながら(※)、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、かくのごとくもまた、閂を外した者であり、かくのごとくもまた、堀を埋めた者であり、かくのごとくもまた、柱を引き抜いた者であり、かくのごとくもまた、閂なき者であり、かくのごとくもまた、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者である』〔と〕説かれます。

 

※ テキストには nibbidā とあるが、PTS版により nibbidaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂を外した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、無明が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂を外した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、堀を埋めた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、さらなる生存ある生の輪廻が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、堀を埋めた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、柱を引き抜いた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、柱を引き抜いた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成ります。

 

246. 比丘たちよ、このように、まさに、心が解脱した比丘を、インダ(帝釈天)を含み梵〔天〕を含み造物主を含む天〔の神々〕たちが探し求めながらも、『これが、如来の依拠するところの識知〔作用〕である』と、到達することはありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさしく、所見の法(現世)において、わたしは、如来を、『随知されることなき者』と説きます。比丘たちよ、このように説く者であり、このように告げ知らせる者である、まさに、わたしを、或る沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『虚無論者の沙門ゴータマは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存(非有)を報知する』と。比丘たちよ、そして、すなわち、わたしがあるとおりではなく、さらに、すなわち、わたしが説くとおりではなく、そのように、わたしを、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『虚無論者の沙門ゴータマは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知する』と。比丘たちよ、そして、わたしは、過去において、さらに、今現在も、まさしく、そして、苦しみを報知し、さらに、苦しみの止滅を〔報知します〕。比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるとして、比丘たちよ、そこで、如来に、憤懣〔の思い〕は有りません──不興もなく、心の不満もなく。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、比丘たちよ、そこで、如来に、歓嘆〔の思い〕は有りません──悦意もなく、心の浮揚もなく。比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、比丘たちよ、そこで、如来に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、このことは、過去において遍知されたことであり、そこにおいて、わたしに、このような形態の諸々の所作が為されるのだ』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるとして、そこで、あなたたちは、憤懣〔の思い〕を〔作り為すべきでは〕なく、不興を〔作り為すべきでは〕なく、心の不満を作り為すべきではありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、そこで、あなたたちは、歓嘆〔の思い〕を〔作り為すべきでは〕なく、悦意を〔作り為すべきでは〕なく、心の浮揚を作り為すべきではありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、そこで、あなたたちに、このような〔思いが〕存するべきです。『すなわち、まさに、このことは、過去において遍知されたことであり、そこにおいて、わたしに、このような形態の諸々の所作が為されるのだ』と。

 

247. 比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、感受〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、表象〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それを、どう思いますか。すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも〔なく〕、あるいは、自己に属するものでもないからです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、感受〔作用〕は……略……。比丘たちよ、表象〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……略……。比丘たちよ、識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

248. 比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません(輪廻の施設はありえない)。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が捨棄されたなら、彼らの全てが、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)が捨棄されたなら、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、彼らの全てが、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、三つの束縛するものが捨棄されたなら、彼らの全てが、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)に従い行く者たちであり、信に従い行く者たちであるなら、彼らの全てが、正覚を行き着く所とする者たちです。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、それらの者たちに、わたしにたいする、信のみがあり、愛情のみがあるとして、彼らの全てが、天上を行き着く所とする者たちとなります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蛇の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(23). 蟻塚の経

 

249. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者クマーラ・カッサパは、アンダ林に住んでいます。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンダ林を照らして、尊者クマーラ・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、尊者クマーラ・カッサパに、こう言いました。

 

 「比丘よ、比丘よ、この蟻塚は、夜に発煙し、昼に炎上します。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、閂を見ました。『幸いなる者よ、閂があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、閂を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、膨張した〔蛙〕を見ました。『幸いなる者よ、膨張した〔蛙〕がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、膨張した〔蛙〕を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、二様の道を見ました。『幸いなる者よ、二様の道があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、二様の道を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、器を見ました。『幸いなる者よ、器があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、器を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、亀を見ました。『幸いなる者よ、亀がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、亀を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、屠殺場を見ました。『幸いなる者よ、屠殺場があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、屠殺場を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、肉片を見ました。『幸いなる者よ、肉片があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、肉片を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、龍を見ました。『幸いなる者よ、龍がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『龍は、ほうっておけ。龍を、打ってはならない。龍に、礼拝を為せ』と。

 

 比丘よ、まさに、あなたは、近づいて行って、世尊に、これらの問いを尋ねるべきです。そして、すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。比丘よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。

 

250. そこで、まさに、尊者クマーラ・カッサパは、その夜が明けると、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者クマーラ・カッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンダ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。尊き方よ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、比丘よ、この蟻塚は、夜に発煙し、昼に炎上します。婆羅門は、このように言いました。「思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ」と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら……略……また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません』と。尊き方よ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。尊き方よ、いったい、まさに、何が、蟻塚であり、何が、夜に発煙することであり、何が、昼に炎上することであり、何が、婆羅門であり、何が、思慮ある者であり、何が、刃であり、何が、掘り崩すことであり、何が、閂であり、膨張した〔蛙〕であり、何が、二様の道であり、何が、器であり、何が、亀であり、何が、屠殺場であり、何が、肉片であり、何が、龍なのですか」と。

 

251. 「比丘よ、『蟻塚』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、この身体の同義語です。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、昼に、生業に励んで、夜に、刻々に思考し、刻々に想念するなら、これは、夜に発煙することです。比丘よ、すなわち、まさに、夜に、刻々に思考し、刻々に想念し、昼に、身体によって、言葉によって、意によって、生業に従事するなら、これは、昼に炎上することです。

 

 比丘よ、『婆羅門』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘よ、『思慮ある者』とは、まさに、これは、〔いまだ〕学びある者(有学)たる比丘の同義語です。

 

 比丘よ、『刃』とは、まさに、これは、聖なる智慧の同義語です。比丘よ、『掘り崩すこと』とは、まさに、これは、精進勉励の同義語です。

 

 比丘よ、『閂』とは、まさに、これは、無明の同義語です。『閂を引き揚げよ』〔とは〕、無明を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『膨張した〔蛙〕』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。『膨張した〔蛙〕を引き揚げよ』〔とは〕、忿激と葛藤を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『二様の道』とは、まさに、これは、疑惑の同義語です。『二様の道を引き揚げよ』〔とは〕、疑惑を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『器』とは、まさに、これは、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)の同義語です。それは、すなわち、この、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害の、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害の、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害の、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害の、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害の、〔同義語です〕。『器を引き揚げよ』〔とは〕、五つの〔修行の〕妨害を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『亀』とは、まさに、これは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)の同義語です。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)の、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)の、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)の、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)の、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)の、〔同義語です〕。『亀を引き揚げよ』〔とは〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『屠殺場』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲)の同義語です。眼によって識知されるべき諸々の形態()で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものの、耳によって識知されるべき諸々の音声()で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気()で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感()で……略……身によって識知されるべき諸々の感触(所触)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものの、〔同義語です〕。『屠殺場を引き揚げよ』〔とは〕、五つの欲望の属性を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『肉片』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。『肉片を引き揚げよ』〔とは〕、愉悦と貪欲を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『龍』とは、まさに、これは、煩悩が滅尽した比丘の同義語です。『龍は、ほうっておけ。龍を、打ってはならない。龍に、礼拝を為せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者クマーラ・カッサパは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蟻塚の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(24). 乗り継ぎ車の経

 

252. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、大勢の出生地にある比丘たちが、出生地において雨期を過ごし、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、出生地において、梵行を共にする出生地にある比丘たちにとって、このように敬愛されているのですか。『かつまた、自己みずから、少なき欲求の者であり、かつまた、少なき欲求たること(少欲)についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、満ち足りている者であり、かつまた、満ち足りていること(知足)についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、遠離の者であり、かつまた、遠離についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者であり、かつまた、〔世俗と〕交わりなきことについての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、精進に励む者であり、かつまた、精進勉励についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、戒を成就した者であり、かつまた、戒の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、禅定を成就した者であり、かつまた、禅定の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、智慧を成就した者であり、かつまた、智慧の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、解脱を成就した者であり、かつまた、解脱の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、解脱の知見を成就した者であり、かつまた、解脱の知見の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。梵行を共にする者たちにとって、教諭者であり、教授者であり、〔教えを〕見示する者であり、受持させる者であり、激励する者であり、感動させる者である』」と。「尊き方よ、プンナという名の尊者マンターニプッタは、出生地において、梵行を共にする出生地にある比丘たちにとって、このように敬愛されています。『かつまた、自己みずから、少なき欲求の者であり、かつまた、少なき欲求たることについての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、満ち足りている者であり……略……。梵行を共にする者たちにとって、教諭者であり、教授者であり、〔教えを〕見示する者であり、受持させる者であり、激励する者であり、感動させる者である』」と。

 

253. また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「尊者プンナ・マンターニプッタには、諸々の利得がある。尊者プンナ・マンターニプッタには、諸々の善く得られた利得がある。すなわち、梵行を共にする識者たちが、教師の面前で、〔彼の徳に〕触れては触れて、〔彼の〕栄誉を語る。そして、それに、教師は大いに随喜する。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちもまた、いつであれ、いつかは、尊者プンナ・マンターニプッタと共に集いあつまることになるであろう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるであろう」と。

 

254. そこで、まさに、世尊は、ラージャガハにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、「どうやら、世尊が、サーヴァッティーに到着し、サーヴァッティーに住んでおられるらしい。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において」と耳にしました。

 

255. そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。

 

256. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたは、すなわち、プンナという名のマンターニプッタ比丘を、幾度となく賛じ称えながら、〔世に〕有りました。彼が、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、アンダ林のあるところに、そこへと立ち去ったのです──昼の休息のために」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、急ぎの様子で、坐具を取って、背後から背後へと、尊者プンナ・マンターニプッタに付き従いました──〔彼の〕頭を眺め見ながら。そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、尊者サーリプッタもまた、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者プンナ・マンターニプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者プンナ・マンターニプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者プンナ・マンターニプッタに、こう言いました。

 

257. 「友よ、わたしたちによって、世尊のもと、梵行が住されます」と。

 

 「友よ、そのとおりです」と。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、心(瞑想)の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、疑いの超渡の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄を義(目的)として……略……疑いの超渡の清浄を義(目的)として……略……道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)として……略……〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)として……略……。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、それでは、何を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、疑いの超渡の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、道と道ならざるものの知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、〔実践の〕道の知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と……略……疑いの超渡の清浄は……道と道ならざるものの知見の清浄は……〔実践の〕道の知見の清浄は……。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃があるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

258. 「友よ、もし、世尊が、戒の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、心の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、見解の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、疑いの超渡の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、道と道ならざるものの知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、〔実践の〕道の知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃が有ったなら、凡夫が完全なる涅槃に到達するでしょう。友よ、なぜなら、凡夫は、これらの法(性質)より他にあるからです。友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。

 

259. 友よ、それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、サーヴァッティーに滞在していると、サーケータにおいて、何らかの或る緊急の用事が生起するとします。彼のために、かつまた、サーヴァッティーの中途にあって、かつまた、サーケータの中途にあって、〔家臣たちは〕七つの乗り継ぎ車を調達します。友よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、サーヴァッティーの内宮の門から出立して、第一の乗り継ぎ車に乗ります。第一の乗り継ぎ車から、第二の乗り継ぎ車に至り得ます。第一の乗り継ぎ車を捨て、第二の乗り継ぎ車に乗ります。第二の乗り継ぎ車から、第三の乗り継ぎ車に至り得ます。第二の乗り継ぎ車を捨て、第三の乗り継ぎ車に乗ります。第三の乗り継ぎ車から、第四の乗り継ぎ車に至り得ます。第三の乗り継ぎ車を捨て、第四の乗り継ぎ車に乗ります。第四の乗り継ぎ車から、第五の乗り継ぎ車に至り得ます。第四の乗り継ぎ車を捨て、第五の乗り継ぎ車に乗ります。第五の乗り継ぎ車から、第六の乗り継ぎ車に至り得ます。第五の乗り継ぎ車を捨て、第六の乗り継ぎ車に乗ります。第六の乗り継ぎ車から、第七の乗り継ぎ車に至り得ます。第六の乗り継ぎ車を捨て、第七の乗り継ぎ車に乗ります。第七の乗り継ぎ車から、サーケータの内宮の門に到着します。まさしく、ただちに、内宮の門に至り、〔そのように〕存している〔王〕に、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、このように尋ねます。『大王よ、あなたは、この乗り継ぎ車によって、サーヴァッティーからサーケータ内宮の門に到着したのですか』と。友よ、いったい、まさに、どのように説き明かしながら、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきですか」と。

 

 「友よ、このように説き明かしながら、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです。『ここに、わたしが、サーヴァッティーに滞在していると、サーケータにおいて、何らかの或る緊急の用事が生起した。〔まさに〕その、わたしのために、かつまた、サーヴァッティーの中途にあって、かつまた、サーケータの中途にあって、〔家臣たちは〕七つの乗り継ぎ車を調達した。そこで、まさに、わたしは、サーヴァッティーの内宮の門から出立して、第一の乗り継ぎ車に乗った。第一の乗り継ぎ車から、第二の乗り継ぎ車に至り得た。第一の乗り継ぎ車を捨て、第二の乗り継ぎ車に乗った。第二の乗り継ぎ車から、第三の乗り継ぎ車に至り得た。第二の乗り継ぎ車を捨て、第三の乗り継ぎ車に乗った。第三の乗り継ぎ車から、第四の乗り継ぎ車に至り得た。第三の乗り継ぎ車を捨て、第四の乗り継ぎ車に乗った。第四の乗り継ぎ車から、第五の乗り継ぎ車に至り得た。第四の乗り継ぎ車を捨て、第五の乗り継ぎ車に乗った。第五の乗り継ぎ車から、第六の乗り継ぎ車に至り得た。第五の乗り継ぎ車を捨て、第六の乗り継ぎ車に乗った。第六の乗り継ぎ車から、第七の乗り継ぎ車に至り得た。第六の乗り継ぎ車を捨て、第七の乗り継ぎ車に乗った。第七の乗り継ぎ車から、サーケータの内宮の門に到着したのだ』と。友よ、このように説き明かしながら、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです」と。

 

 「友よ、まさしく、このように、まさに、戒の清浄は、心の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、心の清浄は、見解の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、見解の清浄は、疑いの超渡の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、疑いの超渡の清浄は、道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、道と道ならざるものの知見の清浄は、〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、〔実践の〕道の知見の清浄は、知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものです。友よ、まさに、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。

 

260. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者プンナ・マンターニプッタに、こう言いました。「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『プンナ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『マンターニプッタ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、尊者プンナ・マンターニプッタによって、諸々の深遠なるうえにも深遠なる問いが、〔それらに〕触れては触れて、説き明かされました。梵行を共にする者たちには、諸々の利得があります。梵行を共にする者たちには、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、尊者プンナ・マンターニプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら。たとえ、もし、下帯によって、梵行を共にする者たちが、尊者プンナ・マンターニプッタを、頭で持ち運びながら、会見するために得るとして、奉侍するために得るとして、彼らにもまた、諸々の利得があります。彼らにもまた、善く得られたものがあります。わたしたちにもまた、諸々の利得があります。わたしたちにもまた、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちが、尊者プンナ・マンターニプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら」と。

 

 このように説かれたとき、尊者プンナ・マンターニプッタは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『ウパティッサ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『サーリプッタ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「ああ、まさに、教師に適する弟子を相手に話し合っていながら、まさに、知らなかったとは。『尊者サーリプッタである』と。まさに、それで、もし、わたしたちが、『尊者サーリプッタである』と知るなら、これほどまでにもまた、〔長きものとして〕弁じることは、まさに、ないでしょう。友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、尊者サーリプッタによって、諸々の深遠なるうえにも深遠なる問いが、〔それらに〕触れては触れて、尋ねられました。梵行を共にする者たちには、諸々の利得があります。梵行を共にする者たちには、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、尊者サーリプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら。たとえ、もし、下帯によって、梵行を共にする者たちが、尊者サーリプッタを、頭で持ち運びながら、会見するために得るとして、奉侍するために得るとして、彼らにもまた、諸々の利得があります。彼らにもまた、善く得られたものがあります。わたしたちにもまた、諸々の利得があります。わたしたちにもまた、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちが、尊者サーリプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら」と。

 

 まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者もまた、互いに他の善く語られたものを等しく随喜した、ということです。

 

 乗り継ぎ車の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(25). 撒餌の経

 

261. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、猟師は、獣類たちに、撒餌を、〔このように〕撒きません。『獣類たちは、わたしが撒いたこの撒餌を遍く受益しながら、長寿の者たちとなり、色艶ある者たちとなり、長きにわたり、長時のあいだ、〔身を〕保ち行け』と。比丘たちよ、しかしながら、まさに、猟師は、獣類たちに、撒餌を、このように撒きます。『獣類たちは、わたしが撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べるであろう。深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起するであろう。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起するであろう。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成るであろう──この撒餌において』と。

 

262. 比丘たちよ、そこで、第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りました──猟師のこの撒餌において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

263. 比丘たちよ、そこで、第二の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成った──猟師のこの撒餌において。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間しました。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住みました。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退しました。活力と精進が、遍く衰退したとき、まさしく、その、猟師が撒いた撒餌に戻りました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りました──猟師のこの撒餌において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

264. 比丘たちよ、そこで、第三の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住んだ。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成る。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退した。活力と精進が、遍く衰退したとき、まさしく、その、猟師が撒いた撒餌に戻った。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者と成った──猟師のこの撒餌において。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処(すみか)を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において』と。彼らは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──猟師のこの撒餌において。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらの第三の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第三の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く受益し、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第三の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを』と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲みました。比丘たちよ、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第三の獣類たちの巣を見ました。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第三の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

265. 比丘たちよ、そこで、第四の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第三の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において」と。彼らは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営んだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しなかった。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しなかった。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らなかった──猟師のこの撒餌において。

 

 そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有った。「まさに、これらの第三の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第三の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く受益し、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第三の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを」と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲んだ。まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第三の獣類たちの巣を見た。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。まさに、このように、それらの第三の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、すなわち、そして、猟師の、さらに、猟師の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において』と。彼らは、すなわち、そして、猟師の、さらに、猟師の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──猟師のこの撒餌において。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらの第四の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第四の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く受益し、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第四の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを』と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲みました。比丘たちよ、まさしく、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第四の獣類たちの巣を見ませんでした。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしたちが、第四の獣類たちを刺激するなら、刺激された彼らは、他の者たちを刺激するであろう。刺激された彼らは、他の者たちを刺激するであろう。このように、獣類たちは、撒いたこの撒餌を、全てにわたり、完全に解き放つであろう。それなら、さあ、わたしたちは、第四の獣類たちを捨て放つのだ』と。比丘たちよ、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第四の獣類たちを捨て放ちました。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第四の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれました。

 

266. 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『撒餌』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の同義語です。比丘たちよ、『猟師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『猟師の衆』とは、まさに、これは、悪魔の衆の同義語です。比丘たちよ、『獣類たち』とは、まさに、これは、沙門や婆羅門たちの同義語です。

 

267. 比丘たちよ、そこで、第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りました──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第一の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第一の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

268. 比丘たちよ、そこで、第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成った──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。(※)彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間しました。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住みました。彼らは、そこにおいて、野菜を食物とする者たちともまた成り、粟を食物とする者たちともまた成り、野生米を食物とする者たちともまた成り、革屑を食物とする者たちともまた成り、苔を食物とする者たちともまた成り、糠を食物とする者たちともまた成り、飯汁を食物とする者たちともまた成り、胡麻粉を食物とする者たちともまた成り、草を食物とする者たちともまた成り、牛糞を食物とする者たちともまた成り、林の根や果を食する者たちとして、落ちた果を受益する者たちとして、〔身を〕保ち行きました。

 

※ テキストの Te sabbaso nivāpabhojanā lokāmisā paṭiviramiṃsu, bhayabhogā paṭiviratā araññāyatanāni ajjhogāhetvā vihareyyāmāti. を、PTS版により削除する。

 

 〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退しました。活力と精進が遍く衰退したとき、〔止寂の〕心による解脱は、遍く衰退しました。〔止寂の〕心による解脱が遍く衰退したとき、まさしく、その、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、それらの世の財貨に、戻りました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りました──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第二の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第二の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

269. 比丘たちよ、そこで、第三の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住んだ。彼らは、そこにおいて、野菜を食物とする者たちともまた成り……略……落ちた果を受益する者たちとして、〔身を〕保ち行った。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成る。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退した。活力と精進が遍く衰退したとき、〔止寂の〕心による解脱は、遍く衰退した。〔止寂の〕心による解脱が遍く衰退したとき、まさしく、その、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、それらの世の財貨に、戻った。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成った──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処(すみか)を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において』と。

 

 彼らは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。しかしながら、また、まさに、このような見解ある者たちと成りました。『世〔界〕は、常久である』ともまた、『世〔界〕は、常久ではない』ともまた、『世〔界〕は、終極がある』ともまた、『世〔界〕は、終極がない』ともまた、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』ともまた、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』ともまた、『如来は、死後に有る』ともまた、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第三の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第三の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第三の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

270. 比丘たちよ、そこで、第四の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第三の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の受益から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において」と。

 

 彼らは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営んだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べた。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しなかった。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しなかった。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らなかった──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。しかしながら、また、まさに、このような見解ある者たちと成った。「世〔界〕は、常久である」ともまた……略……「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」ともまた。まさに、このように、それらの第三の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、すなわち、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において』と。

 

 彼らは、すなわち、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第四の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれました。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第四の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第四の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

271. 比丘たちよ、では、どのように、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所があるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 撒餌の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(26). 罠の集まりの経

 

272. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞いてから長きになります。友よ、アーナンダよ、どうか、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを得られますように」と。「まさに、それでは、尊者たちは、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きなさい。まさしく、おそらく、まさに、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを得るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の林園のミガーラマータルの高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行くのです──五体を洗い流すために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。

 

273. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行きました──五体を洗い流すために。東の門小屋において、五体を洗い流して、〔水場から〕上がって、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、遠く離れていないところに、この、ランマカ婆羅門の庵所があります。尊き方よ、ランマカ婆羅門の庵所は、喜ばしきところです。尊き方よ、ランマカ婆羅門の庵所は、清らかなるところです。尊き方よ、どうか、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、ランマカ婆羅門の庵所において、法(教え)の議論のために着坐した状態でいます。そこで、まさに、世尊は、議論の終了を待ちながら、門小屋の外に立ちました。そこで、まさに、世尊は、議論の終了を知って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。まさに、それらの比丘たちは、世尊のために、扉を開きました。そこで、まさに、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所に入って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、まさしく、世尊を対象として、まさに、わたしたちの中断した合間の議論はあり、そこで、世尊が到着したのです」と。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、法(教え)の議論のために着坐することです。比丘たちよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です。

 

274. 比丘たちよ、これらの二つの遍き探し求めがあります──そして、聖なる遍き探し求めであり、さらに、聖ならざる遍き探し求めです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる遍き探し求めなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、生の法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、生の法(性質)です。奴婢と奴隷は、生の法(性質)です。山羊と羊は、生の法(性質)です。鶏と豚は、生の法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、生の法(性質)です。金と銀は、生の法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所(依存の対象)は、生の法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、老の法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、老の法(性質)です。奴婢と奴隷は、老の法(性質)です。山羊と羊は、老の法(性質)です。鶏と豚は、老の法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、老の法(性質)です。金と銀は、老の法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、老の法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、病の法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、病の法(性質)です。奴婢と奴隷は、病の法(性質)です。山羊と羊は、病の法(性質)です。鶏と豚は、病の法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、病の法(性質)です。金と銀は、病の法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、病の法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、死の法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、死の法(性質)です。奴婢と奴隷は、死の法(性質)です。山羊と羊は、死の法(性質)です。鶏と豚は、死の法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、死の法(性質)です。金と銀は、死の法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、死の法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、憂いの法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、憂いの法(性質)です。奴婢と奴隷は、憂いの法(性質)です。山羊と羊は、憂いの法(性質)です。鶏と豚は、憂いの法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、憂いの法(性質)です。金と銀は、憂いの法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、憂いの法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)を遍く探し求めます。

 

 比丘たちよ、では、何を、汚染の法(性質)と、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、汚染の法(性質)です。奴婢と奴隷は、汚染の法(性質)です。山羊と羊は、汚染の法(性質)です。鶏と豚は、汚染の法(性質)です。象と牛と馬と騾馬は、汚染の法(性質)です。金と銀は、汚染の法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、汚染の法(性質)です。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)を遍く探し求めます。比丘たちよ、これは、聖ならざる遍き探し求めです。

 

275. 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる遍き探し求めなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、生の法(性質)における危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、老の法(性質)における危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、病の法(性質)における危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、死の法(性質)における危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)における危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)における危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。比丘たちよ、これは、聖なる遍き探し求めです。

 

276. 比丘たちよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしもまた、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)を遍く探し求めます。〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いった、まさに、どうして、わたしは、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)を遍く探し求めるのだろう。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……略……病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)を遍く探し求めるのだろう。それなら、さあ、わたしは、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、生の法(性質)における危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、老の法(性質)における危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、病の法(性質)における危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、死の法(性質)における危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)における危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)における危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ』と。

 

277. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように出家者として〔世に〕存しながら、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。

 

 『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。

 

 『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。

 

 『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。

 

 『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

278. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、ラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、ラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。

 

 『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。

 

 『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。

 

 『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。

 

 『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

279. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、清らかな密林を、さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、清らかな密林である。さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。

 

280. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、生の法(性質)における危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、生ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、老の法(性質)における危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、老ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、病の法(性質)における危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、病ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、死の法(性質)における危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、死ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)における危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、憂いならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)における危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、汚染ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

281. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって(※)、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう』と。比丘たちよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。

 

※ テキストには Ālayarāmā kho panāyaṃ pajā とあるが、PTS版により Ālayarāmāya kho pana pajāya と読む。

 

 〔すなわち〕『苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。

 

 〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない』と。

 

282. 比丘たちよ、まさに、かくのごとく、わたしが深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きません(説法を躊躇する)。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに──〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

 〔すなわち〕『過去において、マガダ〔国〕に、清浄ならざる法(教え)が出現しました──〔世俗の〕垢を有する者たちによって思弁されたものとして。〔あなたこそは〕開示したまえ──〔まさに〕この、不死の門を。〔世の人々は〕聞け──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚された〔清浄なる〕法(教え)を。

 

 たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。

 

 勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう』と。

 

283. 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。比丘たちよ、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から(※)伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、梵〔天〕のサハンパティに、詩偈をもって答えました。

 

※ テキストには udakaṃ とあるが、PTS版により udakā と読む。

 

 〔すなわち〕『彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、『まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、世尊が機会を作った者として』と、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

284. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、アーラーラ・カーラーマは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのだ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、アーラーラ・カーラーマである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、ウダカ・ラーマプッタに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのだ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、ウダカ・ラーマプッタである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『五人組の比丘たちは、まさに、わたしのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、彼らは、精励のために自己を精励するわたしに奉仕してくれた。それなら、さあ、わたしは、五人組の比丘たちに、最初に、法(教え)を説示するべきである』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どこに、今現在、五人組の比丘たちは住んでいるのか』と。比丘たちよ、まさに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、五人組の比丘たちが、バーラーナシー(波羅奈)のイシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において住んでいるのを見ました。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウルヴェーラーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。

 

285. 比丘たちよ、まさに、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)のウパカは、かつまた、ガヤーの、かつまた、菩提〔樹〕の、それぞれの中途において、旅の道を行くわたしを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『友よ、まさに、あなたの、諸々の〔感官の〕機能は清らかであり、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。友よ、誰を、〔師と〕指定して、あなたは、出家者として〔世に〕存しているのですか。あるいは、誰が、あなたの教師なのですか。あるいは、誰の法(教え)を、あなたは喜ぶのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、アージーヴァカのウパカに、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔すなわち〕『わたしは、一切を征服する者として、一切を知る者として、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。

 

 わたしに、師匠は存在しない。わたしに、同等の者は見出されない。天を含む世において、わたしに、対する人は存在しない。

 

 まさに、わたしは、世における阿羅漢である。わたしは、無上なる教師である。独り、正等覚者として、〔わたしは〕存している。〔心が〕清涼と成った者として、涅槃に到達した者として、〔わたしは〕存している。

 

 法(真理)の輪を転起させるために、カーシ〔国〕の都に、〔わたしは〕赴く。暗愚と成った世において、不死の雷鼓を打つであろう』と。

 

 『友よ、すなわち、まさに、あなたが明言するとおりなら、〔あなたは〕阿羅漢として、無辺の勝者として、〔世に〕存しています』と。

 

 〔すなわち〕『わたしのような者たちは、まさに、勝者たちとして〔世に〕有る──彼ら、煩悩の滅尽に至り得た者たちは。わたしは、諸々の悪しき法(性質)に勝利した。ウパカよ、それゆえに、わたしは、勝者である』と。

 

 このように説かれたとき、アージーヴァカのウパカは、『友よ、〔そのように〕成るかもしれません』と言って、頭を振って、悪しき道を収め取って、立ち去りました。

 

286. 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのイシパタナの鹿園のあるところに、五人組の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。比丘たちよ、まさに、五人組の比丘たちは、わたしが、遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。『友よ、この者が、まさに、沙門ゴータマが、やってきます。贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者です。彼は、まさしく、敬拝されるべきではなく、立礼されるべきではなく、彼の鉢と衣料は納受されるべきではありません。しかしながら、また、まさに、坐は据え置かれるべきです。それで、もし、望むなら、坐るでしょう』と。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、わたしが近づいて行ったなら、そのとおり、そのとおりに、五人組の比丘たちは、自らの取り決めを守ることができませんでした。一部の者たちはまた、わたしを出迎えて、鉢と衣料を収め取り、一部の者たちはまた、坐を設け、一部の者たちはまた、足用の水を調達しました。しかしながら、また、まさに、わたしを、そして、名前で、さらに、『友よ』という言い方で、呼び慣わします。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来を、そして、名前で、さらに、「友よ」という言い方で、呼び慣わしてはいけません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、再度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。比丘たちよ、再度また、まさに、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく……略……成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、三度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、まさに、あなたたちは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、わたしに、このような形態の、この光り輝きがあることを』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしは、五人組の比丘たちを説得することができました。比丘たちよ、まさに、また、二者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、三者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、三者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。比丘たちよ、まさに、また、三者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、二者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、二者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。比丘たちよ、そこで、まさに、五人組の比丘たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、自己みずから、生の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、生の法(性質)における危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、生ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、老の法(性質)における危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、老ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……略……。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……。自己みずから、憂いの法(性質)ある者として〔世に〕存しながら……。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)における危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、汚染ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕に、到達しました。また、そして、彼らに、知見が生起しました。『わたしたちには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』と。

 

287. 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者たちとなる』〔と〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、〔餌に〕結縛され、罠の集まりに臥すようなものです。その〔鹿〕は、このように知らされるべき者として存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、猟師の欲するままに為される者となる。また、そして、猟師がやってくるとき、欲するところに立ち去ることはないであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者たちとなる』〔と〕。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者たちとならない』〔と〕。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、〔餌に〕結縛されず、罠の集まりに臥すようなものです。その〔鹿〕は、このように知らされるべき者として存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、猟師の欲するままに為される者たちとならない。また、そして、猟師がやってくるとき、欲するところに立ち去るであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者たちとならない』〔と〕。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、林や森を歩みながら、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営むようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、猟師の視野ならざるところに至ったからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営む』〔と〕説かれます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、パーピマントの視野ならざるところに至ったからです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 罠の集まりの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(27). 小なる象の足跡の喩えの経

 

288. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、ピローティカ遍歴遊行者が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ピローティカ遍歴遊行者に、こう言いました。

 

 「さて、いったい、どこから、貴君ヴァッチャーヤナ(ピローティカ遍歴遊行者)はお帰りかな──昼のさなかに」と。

 

 「君よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。

 

 「貴君ヴァッチャーヤナは、それを、どう思いますか──沙門ゴータマの智慧と聡慧を。賢者と思いますか」と。

 

 「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るというのでしょう。沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るであろう、その者は、まちがいなく、彼もまた、まさしく、そのような者として〔世に〕存しているのです」と。

 

 「まさに、貴君ヴァッチャーヤナは、盛大なる賞賛をもって、沙門ゴータマを賞賛します」と。

 

 「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマを賞賛するというのでしょう。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、賞賛される者によって賞賛される者であり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者です」と。

 

 「また、貴君ヴァッチャーヤナは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、沙門ゴータマにたいし、このように大いに清信したのですか」と。

 

 「君よ、それは、たとえば、また、巧みな智ある象の猟師が、象の林に入るとします。彼は、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても。彼は、結論に至るでしょう。『ああ、まさに、大いなる象である』と。君よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、すなわち、沙門ゴータマにおいて、四つの足跡を見たことから、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

289. どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、わたしは、一部の士族の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、沙門ゴータマのいるところに近づいて行きます。彼らに、沙門ゴータマは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、沙門ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、沙門ゴータマに、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、沙門ゴータマの弟子たちとして成就します(帰依する)。君よ、すなわち、わたしが、沙門ゴータマにおいて、この第一の足跡を見たとき、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 君よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の婆羅門の賢者たちで……略……家長の賢者たちで……略……沙門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、沙門ゴータマのいるところに近づいて行きます。彼らに、沙門ゴータマは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、沙門ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、沙門ゴータマに、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、沙門ゴータマに、家から家なきへと出家するための機会を乞い求めます。彼らを、沙門ゴータマは出家させます。彼らは、そこにおいて、出家者たちとして〔世に〕存しつつ、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼らは、このように言いました。『ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕滅び去っていた。ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕消え去っていた。なぜなら、わたしたちは、過去において、まさしく、沙門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「沙門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、婆羅門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「婆羅門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、阿羅漢ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「阿羅漢たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。今や、まさに、〔わたしたちは〕沙門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕婆羅門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕阿羅漢たちとして〔世に〕存している』と。君よ、すなわち、わたしが、沙門ゴータマにおいて、この第四の足跡を見たとき、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 君よ、すなわち、まさに、わたしは、沙門ゴータマにおいて、これらの四つの足跡を見たことから、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』」と。

 

290. このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、純白の騾馬車から降りて、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちもまた、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に集いあつまることになるであろう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるであろう」と。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、すなわち、ピローティカ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、ジャーヌッソーニ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、これだけでは、象の足跡の喩えは、詳細〔の観点〕による円満成就あるものとは成りません。婆羅門よ、ですが、また、すなわち、象の足跡の喩えが、詳細〔の観点〕によって円満成就あるものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

291. 「婆羅門よ、それは、たとえば、また、象の猟師が、象の林に入るとします。彼は、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、ヴァーマニカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。

 

 彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、上に、カーラーリカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。

 

 彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを、さらに、上に、〔両の〕牙によって引き裂くところを。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、上に、カーネールカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。

 

 彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを、さらに、上に、〔両の〕牙によって引き裂くところを、かつまた、上に、枝の滅壊を。そして、その象を見ます──あるいは、木の根元に赴いたところを、あるいは、野外に赴いたところを、あるいは、赴いているところを、あるいは、立っているところを、あるいは、坐っているところを、あるいは、横になっているところを。彼は、結論に至ります。『まさしく、この者は、彼は、大いなる象である』と。

 

 婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

292. 彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。

 

 梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。

 

 虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

293. 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

294. 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

295. 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

296. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

297. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた……略……説かれます。……。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた……略……説かれます。……。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

298. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

299. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。

 

 彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。婆羅門よ、このかぎりにおいて、まさに、聖なる弟子は、結論に至った者と成ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。婆羅門よ、このかぎりにおいて、まさに、象の足跡の喩えは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成ります」と。

 

 このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 小なる象の足跡の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(28). 大いなる象の足跡の喩えの経

 

300. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。「友よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、友よ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、四つの聖なる真理(四聖諦)において結集に赴きます。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。

 

301. 友よ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤もまた、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。友よ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。

 

 友よ、では、どのようなものが、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。そして、四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)です。

 

 友よ、では、どのようなものが、四つの大いなる元素なのですか。地の界域(地界)であり、水の界域(水界)であり、火の界域(火界)であり、風の界域(風界)です。

 

302. 友よ、では、どのようなものが、地の界域なのですか。地の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる地の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域は、これは、まさしく、地の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。

 

 友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる水の界域が動乱すると、その時点において、外なる地の界域は、消没するところと成ります。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる地の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。

 

 友よ、もし、その比丘を、他者たちが、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、耳の接触から生じる苦痛の感受(苦受)が生起するところとなった。しかしながら、それは、まさに、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。接触を縁として〔生起したのだ〕』〔と〕。彼は、『接触は、無常である』と見ます。『感受〔作用〕は、無常である』と見ます。『表象〔作用〕は、無常である』と見ます。『諸々の形成〔作用〕は、無常である』と見ます。『識知〔作用〕は、無常である』と見ます。彼の心は、まさしく、界域を対象(所縁)として、跳入し、清信し、確立し、信念します。

 

 友よ、もし、その比丘に、他者たちが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない〔身体の行為〕によって、〔多くのことを〕実行するなら──手の接触によってもまた、石の接触によってもまた、棒の接触によってもまた、刃の接触によってもまた──彼は、このように覚知します。『そのように成ったものとして、まさに、この身体はある。そのように成ったものとしてある身体において、諸々の手の接触もまた至り行き、諸々の石の接触もまた至り行き、諸々の棒の接触もまた至り行き、諸々の刃の接触もまた至り行く。また、まさに、このことが、世尊によって、鋸の喩えの論において説かれた。「比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、彼が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません」と。また、まさに、わたしの、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成るのだ〕。今や、欲するままに、この身体において、諸々の手の接触もまた至り行け、諸々の石の接触もまた至り行け、諸々の棒の接触もまた至り行け、諸々の刃の接触もまた至り行け。なぜなら、〔まさに〕この、覚者たちの教えが為されるからだ』と。

 

 友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕()が確立しないなら、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、それは、たとえば、また、嫁が、姑を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起するように、友よ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。

 

303. 友よ、では、どのようなものが、水の界域なのですか。水の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域は、これは、まさしく、水の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。

 

 友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる水の界域が動乱すると、それは、村をもまた運び去り、町をもまた運び去り、城市をもまた運び去り、地方をもまた運び去り、地方の地域をもまた運び去ります。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、諸々の水は、百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、二百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、三百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、四百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、五百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、六百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、七百ヨージャナほどが沈下します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、七ターラ(高さの単位・一ターラはターラ樹の高さに該当)ほどが止住し、水は、六ターラほどが止住し、水は、五ターラほどが止住し、水は、四ターラほどが止住し、水は、三ターラほどが止住し、水は、二ターラほどが止住し、水は、ただのターラほどが止住します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、七ポーリサ(高さの単位・一ポーリサは人の身長に該当)ほどが止住し、六ポーリサほどが止住し、水は、五ポーリサほどが止住し、水は、四ポーリサほどが止住し、水は、三ポーリサほどが止住し、水は、二ポーリサほどが止住し、水は、ポーリサほどが、半ポーリサほどが止住し、水は、ただの腰ほどが止住し、水は、ただの膝ほどが止住し、水は、ただの踝ほどが止住します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、ただの指先を濡らすほども有りません。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる水の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。……略……。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。

 

304. 友よ、では、どのようなものが、火の界域なのですか。火の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域は、これは、まさしく、火の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。

 

 友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる火の界域が動乱すると、それは、村をもまた焼き、町をもまた焼き、城市をもまた焼き、地方をもまた焼き、地方の地域をもまた焼きます。また、あるいは、それは、あるいは、緑地の外れに、あるいは、道路の外れに、あるいは、岩地の外れに、あるいは、水辺に、あるいは、喜ばしき土地の区画に、〔それらに〕至り着いて、食(動力源・エネルギー)がなくなり、消え行きます。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、あるいは、鶏の羽によってもまた、あるいは、腱の削り滓によってもまた、〔人々は〕火を探し求めます。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる火の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。……略……。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。

 

305. 友よ、では、どのようなものが、風の界域なのですか。風の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域は、これは、まさしく、風の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。

 

 友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる風の界域が動乱すると、それは、村をもまた運び去り、町をもまた運び去り、城市をもまた運び去り、地方をもまた運び去り、地方の地域をもまた運び去ります。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月においては、ターラ〔樹〕の扇によってもまた、火起こしの団扇によってもまた、風を遍く探し求め、〔人々は〕諸々の流水をもまた〔求めず〕、諸々の草も求めません。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる風の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。

 

 友よ、もし、その比丘を、他者たちが、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、耳の接触から生じる苦痛の感受が生起するところとなった。しかしながら、それは、まさに、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。接触を縁として〔生起したのだ〕』〔と〕。彼は、『接触は、無常である』と見ます。『感受〔作用〕は、無常である』と見ます。『表象〔作用〕は、無常である』と見ます。『諸々の形成〔作用〕は、無常である』と見ます。『識知〔作用〕は、無常である』と見ます。彼の心は、まさしく、界域を対象として、跳入し、清信し、確立し、信念します。

 

 友よ、もし、その比丘に、他者たちが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない〔身体の行為〕によって、〔多くのことを〕実行するなら──手の接触によってもまた、石の接触によってもまた、棒の接触によってもまた、刃の接触によってもまた──彼は、このように覚知します。『そのように成ったものとして、まさに、この身体はある。そのように成ったものとしてある身体において、諸々の手の接触もまた至り行き、諸々の石の接触もまた至り行き、諸々の棒の接触もまた至り行き、諸々の刃の接触もまた至り行く。また、まさに、このことが、世尊によって、鋸の喩えの論において説かれた。「比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、彼が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません」と。また、まさに、わたしの、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成るのだ〕。今や、欲するままに、この身体において、諸々の手の接触もまた至り行け、諸々の石の接触もまた至り行け、諸々の棒の接触もまた至り行け、諸々の刃の接触もまた至り行け。なぜなら、〔まさに〕この、覚者たちの教えが為されるからだ』と。

 

 友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、それは、たとえば、また、嫁が、姑を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起するように、友よ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。

 

306. 友よ、それは、たとえば、また、かつまた、木片を縁として、かつまた、蔓を縁として、かつまた、草を縁として、かつまた、粘土を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『家』という名称に至るように、友よ、まさしく、このように、まさに、かつまた、骨を縁として、かつまた、腱を縁として、かつまた、肉を縁として、かつまた、皮を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『形態』という名称に至ります。友よ、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってこないなら、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってくるとして、しかしながら、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってくることから、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることから、このように、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現が有ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕形態は、それは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります(包摂される)。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕感受〔作用〕は、それは、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕表象〔作用〕は、それは、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔それらの〕形成〔作用〕は、それらは、形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕識知〔作用〕は、それは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。

 

 彼は、このように覚知します。『まさに、このように、どうやら、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の包摂と集合と会合が有るらしい。また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「彼が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見るなら、彼は、法(真理)を見ます。彼が、法(真理)を見るなら、彼は、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見ます」と。また、まさに、縁によって生起したもの(縁已生)として、これらのものはある。すなわち、この、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)であり、悪習(随眠:潜在煩悩)であり、固執〔の思い〕であるなら、それは、苦しみの集起(苦集)である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、それは、苦しみの止滅(苦滅)である』と。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。

 

 友よ、まさしく、もし、内なる耳が、完全に破壊なく有るとして……略……鼻が、完全に破壊なく有るとして……舌が、完全に破壊なく有るとして……身が、完全に破壊なく有るとして……意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってこないなら、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、まさしく、もし、内なる意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってくるとして、しかしながら、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、もし、内なる意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってくることから、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることから、このように、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現が有ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕形態は、それは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕感受〔作用〕は、それは、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕表象〔作用〕は、それは、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔それらの〕形成〔作用〕は、それらは、形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように、成ったものに〔等しく現起する〕、〔その〕識知〔作用〕は、それは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。彼は、このように覚知します。『まさに、このように、どうやら、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の包摂と集合と会合が有るらしい。また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「彼が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見るなら、彼は、法(真理)を見ます。彼が、法(真理)を見るなら、彼は、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見ます」と。また、まさに、縁によって生起したものとして、これらのものはある。すなわち、この、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕であり、〔生存の〕基底であり、悪習であり、固執〔の思い〕であるなら、それは、苦しみの集起である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、それは、苦しみの止滅である』と。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる象の足跡の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(29). 大いなる硬材の喩えの経

 

307. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の枝葉を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。

 

308. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。彼は、その戒の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。彼は、その戒の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の外皮を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。

 

309. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。彼は、その禅定の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。彼は、その禅定の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の樹皮を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。

 

310. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。彼は、その知見によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。彼は、その知見によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の軟材を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。

 

311. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、時限なき解脱を達成します。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、その時限なき解脱から遍く衰退することです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と知りながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知し、軟材を了知し、樹皮を了知し、外皮を了知し、枝葉を了知した。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、「硬材である」と知りながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するであろう』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、時限なき解脱を達成します。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、その時限なき解脱から遍く衰退することです。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、この梵行は、利得と尊敬と名声を福利とするものではなく、戒の成就を福利とするものではなく、禅定の成就を福利とするものではなく、知見を福利とするものではありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)なるものがあり、比丘たちよ、この梵行は、これを義(目的)とし、これを硬材(真髄)とし、これを結末とします」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる硬材の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(30). 小なる硬材の喩えの経

 

312. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、これらの沙門や婆羅門たちは──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパであり、マッカリ・ゴーサーラであり、アジタ・ケーサカンバラであり、パクダ・カッチャーヤナであり、サンチャヤ・ベーラッタプッタであり、ニガンタ・ナータプッタですが──彼らは、全ての者たちが、自らの智慧によって証知したのですか、まさしく、全ての者たちが証知しなかったのですか、それとも、一部の者たちは証知し、一部の者たちは証知しなかったのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)を、あなたに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

313. 「婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

314. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

315. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

316. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。

 

317. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と知りながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知し、軟材を了知し、樹皮を了知し、外皮を了知し、枝葉を了知した。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、「硬材である」と知りながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するであろう』と。

 

318. 婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

319. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

320. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

321. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。そして、すなわち、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

322. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。

 

323. 婆羅門よ、では、どのようなものが、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)なのですか。婆羅門よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。婆羅門よ、まさに、これらの、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)があります。

 

324. 婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 婆羅門よ、かくのごとく、まさに、この梵行は、利得と尊敬と名声を福利とするものではなく、戒の成就を福利とするものではなく、禅定の成就を福利とするものではなく、知見を福利とするものではありません。婆羅門よ、しかしながら、すなわち、まさに、この、不動なる〔止寂の〕心による解脱なるものがあり、比丘たちよ、この梵行は、これを義(目的)とし、これを硬材(真髄)とし、これを結末とします」と。

 

 このように説かれたとき、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマよ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 小なる硬材の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 喩えの章は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「モーリヤ・パッグナ、そして、アリッタという名のもの、アンダ林におけるもの、〔法の〕議論者たるプンナ、撒餌、〔罠の〕集まり、カネール〔カー〕、大いなる象という名のもの、硬材の喩え、また、ピンガラコッチャがあり、〔章となる〕」〔と〕。

 

4. 大いなる対なるものの章

 

1(31). 小なるゴーシンガの経

 

325. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園に住んでいます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、園の番人は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この園に入ってはいけません。ここにおいて、三者の良家の子息たちが存在し、自己の欲する形態となり、住んでいます。彼らに、平穏ならざることを為してはいけません」と。

 

 まさに、尊者アヌルッダは、園の番人が、世尊を相手に話し合っているのを耳にしました。耳にして、園の番人に、こう言いました。「友よ、園の番人よ、世尊を妨げてはいけません。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤの、かつまた、尊者キミラの、〔両者の〕いるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、かつまた、尊者ナンディヤに、かつまた、尊者キミラに、こう言いました。「尊者たちは、出で来たれ。尊者たちは、出で来たれ。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、世尊を出迎えて、世尊のために、一者は、鉢と衣料を収め取り、一者は、坐を設け、一者は、足用の水を調達しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、〔両の〕足を洗いました。まさに、それらの尊者たちもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダに、世尊は、こう言いました。

 

326. 「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、〔行乞の〕食(托鉢)で疲弊していませんか」と。「世尊よ、息災です。世尊よ、順調です。尊き方よ、そして、わたしたちは、〔行乞の〕食で疲弊していません」と。「アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕()ある身体の行為(身業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為(口業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為(意業)が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。

 

 まさに、尊者ナンディヤもまた……略……。まさに、尊者キミラもまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしにもまた、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。

 

 「尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。

 

327. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちのなかで、その者が、最初に、〔行乞の〕食のための村から戻るなら、彼は、諸々の坐を設け、飲用水と洗浄水を調達し、残食鉢を調達します。その者が、最後に、〔行乞の〕食のための村から戻るとして、それで、もし、食事の残りが有り、それで、もし、望むなら、〔それを〕食べ、もし、望まないなら、あるいは、緑が少ないところに捨て、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めます。彼は、諸々の坐を片付け、飲用水と洗浄水を片付け、残食鉢を片付け、食堂を掃除します。その者が、あるいは、飲用水の瓶が、あるいは、洗浄水の瓶が、あるいは、便所の水瓶が、空っぽで、空であるのを見るなら、彼は、〔水を〕調達します。それで、もし、彼に、支障が有るなら、手を動かすことで、第二の者に告げて、手の合図によって、〔わたしたちは、水を〕調達します。尊き方よ、まさしく、しかし、わたしたちは、それを縁として、言葉を発することはありません。尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、五日ごとに、全夜のあいだ、法(教え)の議論のために着坐します。尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。

 

328. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、このように、あなたたちが、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、まさに、わたしたちが、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさに、この〔第一の瞑想〕が、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第二の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第三の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第四の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔虚空無辺なる認識の場所〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。

 

329. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、わたしたちの諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります(※)。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔表象と感覚の止滅〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります。尊き方よ、そして、わたしたちは、この平穏の住より、他の平穏の住を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。この平穏の住より、あるいは、より上なるものであり、あるいは、より精妙なるものである、平穏の住は存在しません」と。

 

※ PTS版により honti を補う。

 

330. そこで、まさに、世尊は、かつまた、尊者アヌルッダに、かつまた、尊者ナンディヤに、かつまた、尊者キミラに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、世尊に付き従って、そののち、引き返して、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、わたしたちは、尊者アヌルッダに、このように告げましたか。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定(等持)の得者として、わたしたちはある』と。すなわち、世尊の面前で、わたしたちの諸々の煩悩の滅尽に至るまで、尊者アヌルッダは明示します」と。「尊者たちは、まさに、わたしに、このように告げませんでした。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、わたしたちはある』と。ですが、また、わたしによって、〔自らの〕心をとおして、尊者たちの心を探知して、〔このように〕知られました。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、これらの尊者たちはある』と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、これらの尊者たちはある』と。それで、このことが、説き明かされたのです──世尊によって、問いが尋ねられたときに」と。

 

331. そこで、まさに、ディーガ・パラジャナ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ディーガ・パラジャナ夜叉は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得があります。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得があります。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいます〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。ディーガ・パラジャナ夜叉の声を聞いて、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「ああ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得がある。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得がある。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいる〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは……略……三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……梵身天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「ああ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得がある。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得がある。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいる〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。まさに、かくのごとく、それらの尊者たちは、その瞬間、その途端、その寸時に、すなわち、諸々の梵の世にまで、〔このように〕知られるところと成りました。

 

 「ディーガよ、このように、このことはあります。ディーガよ、このように、このことはあります。ディーガよ、その家から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その家が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その家にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その家の一族から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その家の一族が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その家の一族にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その村から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その村が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その村にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その町から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その町が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その町にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その城市から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その城市が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その城市にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その地方から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その地方が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、その地方にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、全ての士族たちが、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、全ての婆羅門たちが……略……。ディーガよ、もし、また、全ての庶民たちが……略……。ディーガよ、もし、また、全ての隷民たちが、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、全ての隷民たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、これらの三者の良家の子息たちを、清信した心で隨念するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、見よ。およそ、これらの三者の良家の子息たちが、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践者たちとしてあるかぎりを」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たディーガ・パラジャナ夜叉は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なるゴーシンガの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(32). 大いなるゴーシンガの経

 

332. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園に住んでおられます。大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に──かつまた、尊者サーリプッタとともに、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナとともに、かつまた、尊者マハー・カッサパとともに、かつまた、尊者アヌルッダとともに、かつまた、尊者レーヴァタとともに、かつまた、尊者アーナンダとともに、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、行きましょう。法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。そこで、まさに、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者アヌルッダは、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者アーナンダは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナが、かつまた、尊者マハー・カッサパが、かつまた、尊者アヌルッダが、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、尊者レーヴァタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者レーヴァタに、こう言いました。「友よ、レーヴァタよ、まさに、これらの正なる人士たちが、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きつつあります。友よ、レーヴァタよ、行きましょう。法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者レーヴァタは、尊者アーナンダに答えました。そこで、まさに、かつまた、尊者レーヴァタは、かつまた、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。

 

333. まさに、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者レーヴァタが、かつまた、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、尊者アーナンダは、来たれ。世尊の奉仕者(世話係・侍者)であり、世尊の側近くある者である、尊者アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。友よ、アーナンダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アーナンダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。彼は、四つの衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に、法(教え)を説示します──諸々の遍き円成の句と文の継続をもって、悪習(随眠:潜在煩悩)の根絶のために。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

334. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者レーヴァタに、こう言いました。「友よ、レーヴァタよ、まさに、尊者アーナンダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者レーヴァタに尋ねます。友よ、レーヴァタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、レーヴァタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、〔世に〕有ります──内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者として。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

335. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、まさに、尊者レーヴァタによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者アヌルッダに尋ねます。友よ、アヌルッダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アヌルッダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、優美なる高楼の上に至り、千の円形の外輪を眺め見るように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

336. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、まさに、尊者アヌルッダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・カッサパに尋ねます。友よ、カッサパよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、カッサパよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者として、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、糞掃衣の者として、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、三つの衣料の者として、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、少なき欲求の者として、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、満ち足りている者として、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、遠離している者として、さらに、遠離の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者として、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、戒を成就した者として、さらに、戒の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、禅定を成就した者として、さらに、禅定の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、智慧を成就した者として、さらに、智慧の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、解脱を成就した者として、さらに、解脱の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

337. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「友よ、モッガッラーナよ、まさに、尊者マハー・カッサパによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・モッガッラーナに尋ねます。友よ、モッガッラーナよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、モッガッラーナよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、二者の比丘が、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)についての議論を議論します。彼らは、互いが他に、問いを尋ねます。互いが他に、問いを尋ねられ、回答し、かつまた、放置しません。そして、彼らの法(教え)の議論は、転起あるものと成ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

338. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者サーリプッタに尋ねます。友よ、サーリプッタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、サーリプッタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、モッガッラーナよ、ここに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するようなものです。彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るでしょう。友よ、モッガッラーナよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

339. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、それらの尊者たちに、こう言いました。「友よ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。友よ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの尊者たちは、尊者サーリプッタに答えました。そこで、まさに、それらの尊者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、かつまた、尊者レーヴァタが、かつまた、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。『まさに、尊者アーナンダは、来たれ。世尊の奉仕者であり、世尊の側近くある者である、尊者アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。友よ、アーナンダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アーナンダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者アーナンダは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……悪習の根絶のために。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、アーナンダは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、アーナンダは、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者です──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。彼は、四つの衆に、法(教え)を説示します──諸々の遍き円成の句と文の継続をもって、悪習の根絶のために」と。

 

340. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者レーヴァタに、こう言いました。『友よ、レーヴァタよ、まさに、尊者アーナンダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者レーヴァタに尋ねます。友よ、レーヴァタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、レーヴァタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者レーヴァタは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、〔世に〕有ります──内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、レーヴァタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、レーヴァタは、静坐を喜びとする者であり、静坐を喜ぶ者です──内なる心の止寂に専念する者であり、瞑想を放却しない者であり、〔あるがままの〕観察を具備した者であり、諸々の空家の利用者です」と。

 

341. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者アヌルッダに、こう言いました。『友よ、アヌルッダよ、まさに、尊者レーヴァタによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。……略……。友よ、アヌルッダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者アヌルッダは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、眼ある人が……略……。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、アヌルッダは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、アヌルッダは、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます」と。

 

342. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。『友よ、カッサパよ、まさに、尊者アヌルッダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・カッサパに尋ねます。……略……。友よ、カッサパよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者マハー・カッサパは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者として……略……そして、自己みずから、糞掃衣の者として……略……そして、自己みずから、三つの衣料の者として……略……そして、自己みずから、少なき欲求の者として……略……そして、自己みずから、満ち足りている者として……略……そして、自己みずから、遠離している者として……略……そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者として……略……そして、自己みずから、精進に励む者として……略……そして、自己みずから、戒を成就した者として……略……そして、自己みずから、禅定を成就した者として……略……そして、自己みずから、智慧を成就した者として……略……そして、自己みずから、解脱を成就した者として……略……そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、カッサパは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、カッサパは、そして、自己みずから、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者であり、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、糞掃衣の者であり、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、三つの衣料の者であり、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、少なき欲求の者であり、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、満ち足りている者であり、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、遠離している者であり、さらに、遠離の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者であり、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、戒を成就した者であり、さらに、戒の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、禅定を成就した者であり、さらに、禅定の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、智慧を成就した者であり、さらに、智慧の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、解脱を成就した者であり、さらに、解脱の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者であり、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者です」と。

 

343. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。『友よ、モッガッラーナよ、まさに、尊者マハー・カッサパによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・モッガッラーナに尋ねます。……略……。友よ、モッガッラーナよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、二者の比丘が、高次の法理についての議論を議論します。彼らは、互いが他に、問いを尋ねます。互いが他に、問いを尋ねられ、回答し、かつまた、放置しません。そして、彼らの法(教え)の議論は、転起あるものと成ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、モッガッラーナは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、モッガッラーナは、法(教え)の議論者です」と。

 

344. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、尊者サーリプッタに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者サーリプッタに尋ねます。友よ、サーリプッタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、サーリプッタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、わたしに、こう言いました。『友よ、モッガッラーナよ、ここに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するとして、彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るであろうし、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着るであろうし、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るであろうように、友よ、モッガッラーナよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「モッガッラーナよ、善きかな、善きかな。まさしく、サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。モッガッラーナよ、まさに、サーリプッタは、心を自在に転起させ、かつまた、サーリプッタは、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます」と。

 

345. このように説かれたとき、尊者サーリプッは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。「サーリプッタよ、あなたたちの全ての〔言葉が〕、見事に語られました──教相〔の観点〕によって。さらに、また、わたしの〔言葉を〕もまた聞きなさい。そのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう。サーリプッタよ、ここに、比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。『それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは』と。サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの尊者たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるゴーシンガの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(33). 大いなる牛飼いの経

 

346. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません(尊重しない)。比丘たちよ、まさに、これらの十一の支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。

 

347. (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『それが何であれ、形態(:物質)であるなら、一切の形態は、四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成りません。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為による特相ある者として愚者はあり、行為による特相ある者として賢者はある』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成りません。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめず、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成りません。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守護せず、眼の機能における統御を惹起しません。耳によって、音声()を聞いて……略……。鼻によって、臭気()を嗅いで……略……。舌によって、味感()を味わって……略……。身によって、感触(所触)と接触して……略……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践せず、意の機能を守護せず、意の機能における統御を惹起しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成りません。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成りません。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ねず、遍く質問せず、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕せず、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為さず、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知りません。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得ず、法(教え)の信受を得ず、法(真理)を伴った歓喜を得ません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知りません。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知りません。

 

 (9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立(四念処四念住)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成りません。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りなく搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りなく搾乳する者と成ります。

 

 (11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させず、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させず、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。

 

348. 比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります(尊重する)。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。

 

349. (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態(物質)であるなら、その全てを、『四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為による特相ある者として愚者はあり、行為による特相ある者として賢者はある』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成ります。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成ります。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成ります。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知ります。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知ります。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知ります。

 

 (9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成ります。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りを有して搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りを有して搾乳する者と成ります。

 

 (11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させ、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させ、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる牛飼いの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(34). 小なる牛飼いの経

 

350. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。ウッカチェーラーのガンガー川の岸辺において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、過去の事ですが、マガダ〔国〕の牛飼いで、智慧浅き類の者が、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視せずして、彼岸を正しく注視せずして、まさしく、渡し場ならざるところから、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡しました。比丘たちよ、そこで、まさに、牛たちは、ガンガー川の中、流れにおいて円を為して、まさしく、そこにおいて、不幸と災厄を惹起しました。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、そのマガダ〔国〕の牛飼いは、智慧浅き類の者であり、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視せずして、彼岸を正しく注視せずして、まさしく、渡し場ならざるところから、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡したからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、この世に巧みな智なき者たちであり、他の世に巧みな智なき者たちであり、悪魔の領域に巧みな智なき者たちであり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智なき者たちであり、死魔の領域に巧みな智なき者たちであり、死魔の領域ならざるところに巧みな智なき者たちであるとして──彼らの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。

 

351. 比丘たちよ、過去の事ですが、マガダ〔国〕の牛飼いで、智慧を有する類の者が、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視して、彼岸を正しく注視して、まさしく、渡し場から、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡しました。その〔牛飼い〕は、すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、最初に、〔彼らを〕超え渡しました。彼らは、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、力ある牛たちと調御されるべき牛たちを、超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、雄の子牛たちと雌の子牛たちを、超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、痩せて力のない子牛たちを超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。比丘たちよ、過去の事ですが、まさしく、生まれたばかりの幼い子牛が、母牛の鳴き声に先導されながら、彼もまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、そのマガダ〔国〕の牛飼いは、智慧を有する類の者であり、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視して、彼岸を正しく注視して、まさしく、渡し場から、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡したからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、この世に巧みな智ある者たちであり、他の世に巧みな智ある者たちであり、悪魔の領域に巧みな智ある者たちであり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智ある者たちであり、死魔の領域に巧みな智ある者たちであり、死魔の領域ならざるところに巧みな智ある者たちであるとして──彼らの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

352. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、彼らは、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らは、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったのです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、力ある牛たちと調御されるべき牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、雄の子牛たちと雌の子牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろうなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、痩せて力のない子牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちであるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その、生まれたばかりの幼い子牛が、母牛の鳴き声に先導されながら、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)に従い行く者たちであり、信に従い行く者たちであるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしは、この世に巧みな智ある者であり、他の世に巧みな智ある者であり、悪魔の領域に巧みな智ある者であり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智ある者であり、死魔の領域に巧みな智ある者であり、死魔の領域ならざるところに巧みな智ある者であり、比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔あるがままに〕知っている者によって、この世と他の世は、見事に明示された──そして、すなわち、悪魔が達し得るところも、さらに、すなわち、死魔が至り得ないところも。

 

 一切の世を証知して、正覚者によって、〔あるがままに〕覚知している者によって、不死の門は開かれた──涅槃〔の境処〕に至り得るために、平安なるものとして。

 

 パーピマント(悪魔)の流れは、切断され、砕破され、分断された。比丘たちよ、歓喜多き者たちと成れ。平安に至り得た者たちとして〔世に〕存せ」と。

 

 小なる牛飼いの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(35). 小なるサッチャカの経

 

353. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の子息のサッチャカが、ヴェーサーリーに滞在しています──談義と論争の者であり、賢き論ある者であり、多くの人々に善き者と等しく思認された者です。彼は、ヴェーサーリーの衆において、このような言葉を語ります。「わたしは、彼を見ない──僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠にして、また、阿羅漢にして正等覚者と明言している、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、わたしと、論と論を交わし、等しく動転せず、等しく激動せず、等しく動揺せず、彼の〔両の〕腋から、汗を放たない、〔そのような者を〕。もし、また、わたしが、思欲なき柱と、論と論を交わすとして、その〔柱〕もまた、わたしと、論と論を交わし、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺するであろう。また、人間たる生類のばあいは、何の論があるというのだろう」と。

 

 そこで、まさに、尊者アッサジは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、ヴェーサーリーにおいて、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、尊者アッサジが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アッサジのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アッサジを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、尊者アッサジに、こう言いました。「貴君アッサジよ、また、どのように、沙門ゴータマは、弟子たちを教導するのですか。また、そして、どのように、沙門ゴータマの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起するのですか」と。「アッギヴェッサナ(サッチャカ)よ、このように、まさに、世尊は、弟子たちを教導します。また、そして、このように、世尊の教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します。『比丘たちよ、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。比丘たちよ、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕は、無常です(諸行無常)。一切の法(事象)は、無我です(諸法無我)』と。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、世尊は、弟子たちを教導します。また、そして、このように、世尊の教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します」と。「貴君アッサジよ、まさに、悪しき所聞を、わたしたちは聞きました。すなわち、わたしたちは、沙門ゴータマのことを、このような論ある者と聞いたのです。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、その悪しき見解から〔彼を〕遠離させることになるでしょう」と

 

354. また、まさに、その時点にあって、五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、公会堂において、参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、沙門ゴータマを相手に、議論と談論が有るでしょう。それで、もし、沙門ゴータマが、そして、すなわち、〔世に〕知られたうえにも知られた弟子である、アッサジという名の比丘が、わたしに主張したように、そのように、わたしに主張するなら、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、長い毛の羊を、諸々の毛を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒造業者が、大きな酒造用の(むしろ)を深い湖水に入れて、端を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒職人が、(ふるい)の端を掴んで、振り落とし、振り払い、打ち払うように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、振り落とし、振り払い、打ち払うでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、六十歳の象が、深い蓮池に入って行って、麻洗いという名の遊びの類に打ち興じるように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマに打ち興じるでしょう──思うに、麻洗いの遊びの類として。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、沙門ゴータマを相手に、議論と談論が有るでしょう」と。そこで、一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、このように言いました。「どうして、沙門ゴータマが、ニガンタの子息のサッチャカの論を論破するというのだろう。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、沙門ゴータマの論を論破するであろう」と。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、このように言いました。「どうして、彼が、ニガンタの子息のサッチャカが、〔世に〕有るというのだろう──すなわち、世尊の論を論破する、〔そのような者として〕。そこで、まさに、世尊が、ニガンタの子息のサッチャカの論を論破するであろう」と。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちに取り囲まれ、マハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

355. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「君よ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、貴君ゴータマは住んでいますか。まさに、わたしたちは、彼と、貴君ゴータマと会見することを欲しています」と。「アッギヴェッサナよ、彼は、世尊は、マハー林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っています」と。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、大いなるリッチャヴィ〔族〕の衆と共に、マハー林に深く分け入って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちもまた、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

 

356. 一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「わたしは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「アッギヴェッサナよ、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。「また、どのように、貴君ゴータマは、弟子たちを教導するのですか。また、そして、どのように、貴君ゴータマの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起するのですか」と。「アッギヴェッサナよ、このように、まさに、わたしは、弟子たちを教導します。また、そして、このように、わたしの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します。『比丘たちよ、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。比丘たちよ、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕は、無常です。一切の法(事象)は、無我です』と。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、わたしは、弟子たちを教導します。また、そして、このように、わたしの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「アッギヴェッサナよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、すなわち、何であれ、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように──貴君ゴータマよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、すなわち、何であれ、これらの力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように──貴君ゴータマよ、まさしく、このように、まさに、形態を自己とする、この人士たる人は、形態において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、感受〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、感受〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、表象〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、表象〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、諸々の形成〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、諸々の形成〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、識知〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、識知〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出します」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、まさに、あなたは、このように説くのではないですか。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』と。そして、この大いなる人民も」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、まさに、大いなる人民が、あなたに、何を為すというのでしょう。アッギヴェッサナよ、さあ、あなたは、まさしく、自らのものとして、論を表明しなさい」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』」と。

 

357. 「アッギヴェッサナよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。即位灌頂した王たる士族にとって、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように」と。「貴君ゴータマよ、即位灌頂した王たる士族にとって、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起するでしょう──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように。貴君ゴータマよ、まさに、これらの集団や衆徒にとってもまた、それは、すなわち、この、ヴァッジー〔族〕の者たちにとっても、マッラ〔族〕の者たちにとっても、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起します──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。また、即位灌頂した王たる士族にとって、何だというのでしょう。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように。貴君ゴータマよ、転起するでしょうし、かつまた、転起するに値します」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。再度また、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、今や、説き明かしなさい。今や、あなたが沈黙の状態でいるための時にあらず。アッギヴェッサナよ、彼が誰であれ、如来によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭は、まさしく、この場において、七様に裂けます」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、金剛を手にする夜叉が、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の金剛杵を携えて、ニガンタの子息のサッチャカの宙空高く止住した状態でいます。「それで、もし、このニガンタの子息のサッチャカが、世尊によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭を、まさしく、この場において、七様に裂くのだ」と。また、まさに、その金剛を手にする夜叉を、まさしく、そして、世尊は見ます──さらに、ニガンタの子息のサッチャカも。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、まさしく、世尊を避難所として探し求める者となり、まさしく、世尊を救護所として探し求める者となり、まさしく、世尊を帰依所として探し求める者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、わたしに尋ねてください。〔わたしは〕説き明かします」と。

 

358. 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず(転起しません)」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『感受〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その感受〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの感受〔作用〕は成れ』『このように、わたしの感受〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『表象〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その表象〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの表象〔作用〕は成れ』『このように、わたしの表象〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その諸々の形成〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの諸々の形成〔作用〕は成れ』『このように、わたしの諸々の形成〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『識知〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その識知〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの識知〔作用〕は成れ』『このように、わたしの識知〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「貴君ゴータマよ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「貴君ゴータマよ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……略……。諸々の形成〔作用〕は……略……。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「貴君ゴータマよ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「貴君ゴータマよ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その者が、苦しみに執着し、苦しみに近しく赴き、苦しみに固執し、苦しみを、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するなら、さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、正しく苦しみを遍知するでしょうか、あるいは、苦しみを完全に滅尽させて〔世に〕住むでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、どうして、存するというのでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。このように存しているとき、まさに、あなたは、苦しみに執着し、苦しみに近しく赴き、苦しみに固執し、苦しみを、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しているのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、どうして、存さないというのでしょう。貴君ゴータマよ、このように、このことはあります」と。

 

359. 「アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく、極めて高く生えた、大いなる芭蕉の幹を見ます。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、樹皮を剥がします。彼は、そこにおいて、樹皮を剥がしながら、軟材にさえも遭遇しません。どうして、硬材に〔遭遇するというのでしょう〕。アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、わたしによって、自らの論について、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者となったのです。アッギヴェッサナよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。『わたしは、彼を見ない──僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠にして、また、阿羅漢にして正等覚者と明言している、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、わたしと、論と論を交わし、等しく動転せず、等しく激動せず、等しく動揺せず、彼の〔両の〕腋から、汗を放たない、〔そのような者を〕。もし、また、わたしが、思欲なき柱と、論と論を交わすとして、その〔柱〕もまた、わたしと、論と論を交わし、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺するであろう。また、人間たる生類のばあいは、何の論があるというのだろう』と。アッギヴェッサナよ、また、まさに、あなたの額から、幾個もの汗の滴が放たれ、上衣を通り抜けて地面に溜まっています。アッギヴェッサナよ、また、まさに、今現在、わたしの身体において、汗は存在しません」と。かくのごとく、世尊は、その衆にたいし、黄金の色艶ある身体を開示しました。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

360. そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のドゥンムカは、ニガンタの子息のサッチャカが、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「ドゥンムカよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。「尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、蓮池があり、そこに、蟹が存するとします。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の、あるいは、童子たちが、あるいは、童女たちが、その、あるいは、村から、あるいは、町から、出て、その蓮池のあるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その蓮池に入って行って、その蟹を、水から引き上げて、陸に据え置くとします。尊き方よ、まさに、その蟹が、まさしく、その〔はさみ〕そのはさみを、向けるなら、それらの、あるいは、童子たちは、あるいは、童女たちは、まさしく、その〔はさみ〕その〔はさみ〕を、あるいは、木片で、あるいは、小石で、等しく切断し、等しく破壊し、等しく打ち砕くでしょう。尊き方よ、まさに、このように、全てのはさみが、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれたことで、その蟹は、その蓮池に、それは、たとえば、また、過去におけるように、ふたたび入り行くことができません。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、ニガンタの子息のサッチャカにある、諸々の粉飾や術策や紛糾は、それらもまた、全てが、世尊によって、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれたのです。尊き方よ、そして、今や、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊のもとに、ふたたび近づいて行くことができません──すなわち、この、論を志向する者として」と。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、リッチャヴィ〔族〕の子息のドゥンムカに、こう言いました。「ドゥンムカよ、あなたは、お待ちなさい。ドゥンムカよ、あなたは、お待ちなさい。わたしたちは、あなたを相手に話し合っていません。ここに、わたしたちは、貴君ゴータマを相手に話し合っています。

 

361. 貴君ゴータマよ、まさしく、そして、わたしたちの、さらに、他の者たちの、多々なる沙門や婆羅門たちのこの言葉は、ほうっておいてください。思うに、駄弁を弄したのです。では、いったい、まさに、どのようなことから、貴君ゴータマの弟子は、教えを為す者と成り、教諭に即応する者と〔成り〕、疑惑を超え渡った者として、懐疑を離れ去った者として、離怖に至り得た者として、教師の教えにおいて他を縁としない者として、〔世に〕住むのですか」と。「アッギヴェッサナよ、ここに、わたしの弟子が、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。アッギヴェッサナよ、このことから、わたしの弟子は、教えを為す者と成り、教諭に即応する者と〔成り〕、疑惑を超え渡った者として、懐疑を離れ去った者として、離怖に至り得た者として、教師の教えにおいて他を縁としない者として、〔世に〕住みます」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、比丘は、阿羅漢と成り、煩悩の滅尽者と〔成り〕、〔梵行の〕完成者と〔成り〕、為すべきことを為した者と〔成り〕、〔生の〕重荷を置いた者と〔成り〕、自らの義(目的)に至り得た者と〔成り〕、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者と〔成り〕、正しい了知による解脱者と〔成るのですか〕」と。「アッギヴェッサナよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。アッギヴェッサナよ、このことから、比丘は、阿羅漢と成り、煩悩の滅尽者と〔成り〕、〔梵行の〕完成者と〔成り〕、為すべきことを為した者と〔成り〕、〔生の〕重荷を置いた者と〔成り〕、自らの義(目的)に至り得た者と〔成り〕、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者と〔成り〕、正しい了知による解脱者と〔成ります〕。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、三つの無上なるものを具備した者と成ります──無上なる見を、無上なる〔実践の〕道を、無上なる解脱を。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、まさしく、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。『彼は、世尊は、覚者であり、覚り(菩提)のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、調御された者であり、調御のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、寂静者であり、〔心の〕止寂のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、超渡者であり、超渡のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、完全なる涅槃に到達した者であり、完全なる涅槃のために、法(教え)を説示する』」と。

 

362. このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさしく、わたしたちは、厚顔なる者たちです。わたしたちは、尊大なる者たちです。すなわち、わたしたちは、貴君ゴータマを、論によって論を襲うべきと思い考えたのです。貴君ゴータマよ、まさに、狂った象を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさに、燃え盛る火の塊を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさに、恐るべき毒ある毒蛇を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさしく、わたしたちは、厚顔なる者たちです。わたしたちは、尊大なる者たちです。すなわち、わたしたちは、貴君ゴータマを、論によって論を襲うべきと思い考えたのです。貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

363. そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊の承諾を見出して、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに告げました。「諸君よ、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。沙門ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしによって招かれた。それで、すなわち、それに適切と思い考えるなら、わたしのもとに運び込むがよい」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、その夜が明けると、ニガンタの子息のサッチャカのもとに、五百ばかりの〔献上用の〕盛り物を、提供する食事として運び込みました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは(※)、自らの林園において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ニガンタの子息のサッチャカの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、かつまた、布施における功徳は、かつまた、功徳の大地は、それは、施者たちにとって、安楽のために成れ」と。「アッギヴェッサナよ、施与されるべき者として、まさに、あなたのような、貪欲を離れず、憤怒を離れず、迷妄を離れていない者に由来して、それがあるなら、それは、施者たちのために成るでしょう。施与されるべき者として、まさに、わたしのような、貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れた者に由来して、それがあるなら、それは、あなたのために成るでしょう」と。

 

※ PTS版により saccako を補う。

 

 小なるサッチャカの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(36). 大いなるサッチャカの経

 

364. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、早刻時に、きちんと着衣した状態でいます──鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入ることを欲し。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。尊者アーナンダは、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者が、ニガンタの子息のサッチャカが、やってきます──談義と論争の者であり、賢き論ある者であり、多くの人々に善き者と等しく思認された者です。尊き方よ、彼は、まさに、覚者の栄誉ならざることを欲する者であり、法(教え)の栄誉ならざることを欲する者であり、僧団の栄誉ならざることを欲する者です。尊き方よ、どうか、世尊は、寸時のあいだ、お坐りください──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。

 

365. 「貴君ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在し、身体の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます──心の修行ではなく。貴君ゴータマよ、なぜなら、彼らは、肉体的な苦痛の感受に接触するからです。貴君ゴータマよ、過去の事として、肉体的な苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存していると、腿の麻痺もまた、まさに、有るでしょうし、心臓もまた、まさに、張り裂けるでしょうし、熱血もまた、口から吹き上がるでしょうし、狂気にもまた至り得るでしょうし、心の散乱に〔至り得るでしょう〕。貴君ゴータマよ、彼の、まさに、この心は、身体に付従するものと成り、身体を所以に転起します。それは、何を因とするのですか。心が修められていないからです。貴君ゴータマよ、いっぽう、或る沙門や婆羅門たちが存在し、心の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます──身体の修行ではなく。貴君ゴータマよ、なぜなら、彼らは、心の属性としての苦痛の感受に接触するからです。貴君ゴータマよ、過去の事として、心の属性としての苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存していると、腿の麻痺もまた、まさに、有るでしょうし、心臓もまた、まさに、張り裂けるでしょうし、熱血もまた、口から吹き上がるでしょうし、狂気にもまた至り得るでしょうし、心の散乱に〔至り得るでしょう〕。貴君ゴータマよ、彼の、まさに、この身体は、心に付従するものと成り、心を所以に転起します。それは、何を因とするのですか。身体が修められていないからです。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『たしかに、貴君ゴータマの弟子たちは、心の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む──身体の修行ではなく』」と。

 

366. 「アッギヴェッサナよ、また、あなたは、身体の修行を、どのようなものと聞きましたか」と。「貴君ゴータマよ、それは、すなわち、この、ナンダ・ヴァッチャであり、キサ・サンキッチャであり、マッカリ・ゴーサーラです。貴君ゴータマよ、まさに、これらの者たちは、無衣の者たちであり、放埒の習行ある者たちであり、〔食後に〕手を舐める者たちであり、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者たちであり、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者たちであり、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼らは、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼らは、あるいは、〔施者を〕一軒とする者たちと成り、〔施物を〕一口とする者たちと〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者とたち成り、〔施物を〕二口の者たちと〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者たちと成り、〔施物を〕七口の者たちと〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、また、どうなのでしょう、彼らは、まさしく、それだけのもので、〔身を〕保ち行きますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、或る時にあってはまた、諸々の盛大にして盛大なる固形の食料を咀嚼し、諸々の盛大にして盛大なる食料を受益し、諸々の盛大にして盛大なる美味を味わい、諸々の盛大にして盛大なる飲み物を飲みます。彼らは、この身体を、まさに、力をつけ、まさに、成長させ、まさに、肥大させます」と。

 

 「アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、彼らは、最初に捨棄し、最後に蓄積するのであり、このように、この身体には、集積と滅減が有ります。アッギヴェッサナよ、また、あなたは、心の修行を、どのようなものと聞きましたか」と。まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊によって、心の修行について尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、解答できません。

 

367. そこで、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、すなわち、また、まさに、あなたが語った、この、最初の身体の修行ですが、それは、また、聖者の律における法(正義)にかなう身体の修行ではありません。アッギヴェッサナよ、身体の修行でさえも、まさに、あなたは了知しません。また、どうして、心の修行を、あなたが知るというのでしょう。アッギヴェッサナよ、ですが、ともあれ、すなわち、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成る、そのとおりに〕──そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成る、そのとおりに〕──それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

368. 「アッギヴェッサナよ、では、どのように、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成るのですか〕。アッギヴェッサナよ、ここに、無聞の凡夫に、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、そして、安楽の貪染者と成り、さらに、安楽の貪染者たることを惹起します。彼の、その安楽の感受は止滅します。安楽の感受の止滅あることから、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。アッギヴェッサナよ、彼の、まさに、この、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住し、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住します。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、このように、両側から、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住し、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住します。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成ります〕。

 

369. アッギヴェッサナよ、では、どのように、そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成るのですか〕。アッギヴェッサナよ、ここに、有聞の聖なる弟子に、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、かつまた、安楽の貪染者と成らず、かつまた、安楽の貪染者たることを惹起しません。彼の、その安楽の感受は止滅します。安楽の感受の止滅あることから、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。アッギヴェッサナよ、彼の、まさに、この、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていることから、心を完全に奪い去って止住せず、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていることから、心を完全に奪い去って止住しません。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、このように、両側から、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていることから、心を完全に奪い去って止住せず、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていることから、心を完全に奪い去って止住しません。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成ります〕」と。

 

370. 「このように、貴君ゴータマに清信した、わたしです。まさに、貴君ゴータマは、そして、身体が修められている者として、さらに、心が修められている者として、〔世に〕有ります」と。「アッギヴェッサナよ、まさに、たしかに、あなたによって、この、攻撃的で批判的な言葉が語られました。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのち、それで、まさに、わたしに、あるいは、生起した安楽の感受が、心を完全に奪い去って止住することになり、あるいは、生起した苦痛の感受が、心を完全に奪い去って止住することになる、という、この状況は見出されません」と。

 

 「まさに、まちがいなく、貴君ゴータマに、そのような形態の安楽の感受は生起しません──生起したなら、心を完全に奪い去って止住するであろう、そのような形態の安楽の感受は。まさに、まちがいなく、貴君ゴータマに、そのような形態の苦痛の感受は生起しません──生起したなら、心を完全に奪い去って止住するであろう、そのような形態の苦痛の感受は」と。

 

371. 「アッギヴェッサナよ、まさに、どうして、存するというのでしょう。アッギヴェッサナよ、ここに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように出家者として〔世に〕存しながら、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。

 

 アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所を説き知らせました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。アッギヴェッサナよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

372. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を説き知らせました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、ラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、ラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。

 

 アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。アッギヴェッサナよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に(※)据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。

 

※ テキストには ācariyaṭṭhāne ca maṃ とあるが、「罠の集まりの経」等の平行箇所により ca を削除する(PTS版は、この箇所を省略)。

 

373. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、清らかな密林を、さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、清らかな密林である。さらに、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。

 

374. アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。

 

375. アッギヴェッサナよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。

 

376. アッギヴェッサナよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえのうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。

 

377. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

378. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体中の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の(ふいご)が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

 アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

 アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

 アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

 アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。

 

379. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。

 

380. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ豌豆の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ豌豆の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生(なま)の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。

 

 アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。

 

381. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。

 

382. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五者の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしが、粗大なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五者の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。

 

383. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、粗大なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

384. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

385. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

386. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩()である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。

 

387. アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしは証知します──無数の衆において、法(教え)を説示する者としてある、〔そのときのことを〕。さてまた、まさに、わたしのことを、一者一者が、このように思い考えます。『まさしく、わたしを対象として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する』と。アッギヴェッサナよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。識知させることを義(目的)とする、まさしく、そのかぎりにおいて、如来は、他者たちに、法(教え)を説示します。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その講話の結末において──その〔禅定〕によって、まさに、〔わたしが〕常劫に住む──過去の、まさしく、その禅定の形相にたいし、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます」と。

 

 「貴君ゴータマの、この〔言葉〕は、信用するべきものです。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。また、まさに、貴君ゴータマは証知しますか──昼に眠りについた者としてある、〔そのときのことを〕」と。「アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしは証知します──〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月において、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、四重に大衣を設けて、右脇をもって、気づきと正知の者として、眠りに入った者としてある、〔そのときのことを〕」と。「貴君ゴータマよ、これを、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、迷妄の住のうちにあると説きます」と。「アッギヴェッサナよ、まさに、このことから、あるいは、等しく迷乱した者と成ることも、あるいは、等しく迷乱していない者と〔成ることも〕、ありません。アッギヴェッサナよ、ですが、ともあれ、すなわち、そして、等しく迷乱した者と成るとおりに、さらに、等しく迷乱していない者と〔成るとおりに〕、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

388. 「アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、〔いまだ〕捨棄されていないなら、わたしは、彼を、『等しく迷乱した者』と説きます。アッギヴェッサナよ、まさに、諸々の煩悩の捨棄なきことから、等しく迷乱した者と成ります。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、〔すでに〕捨棄されたなら、わたしは、彼を、『等しく迷乱していない者』と説きます。アッギヴェッサナよ、まさに、諸々の煩悩の捨棄あることから、等しく迷乱していない者と成ります。

 

 アッギヴェッサナよ、まさに、如来にとって、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、如来にとって、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります」と。

 

389. このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、これほどまでに、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶が遍く清白となり、さらに、顔の色艶が清らかとなるとは。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、わたしは証知します──プーラナ・カッサパと、論と論を交わした者としてある、〔そのときのことを〕。彼はまた、わたしと、論と論を交わしたなら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。いっぽう、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶は遍く清白となり、さらに、顔の色艶は清らかとなります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、わたしは証知します──マッカリ・ゴーサーラと……略……アジタ・ケーサカンバラと……パクダ・カッチャーナと……サンジャヤ・ベーラッタプッタと……ニガンタ・ナータプッタと……略……プーラナ・カッサパと、論と論を交わした者としてある、〔そのときのことを〕。彼はまた、わたしと、論と論を交わしたなら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。いっぽう、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶は遍く清白となり、さらに、顔の色艶は清らかとなります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「アッギヴェッサナよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。

 

 大いなるサッチャカの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(37). 小なる渇愛の消滅の経

 

390. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕」と。

 

 「天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、『一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、『一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。

 

 そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

391. また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナが、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どうなのだろう、その夜叉は、世尊の語ったことを知悉して、随喜したのか、それとも、〔そうでは〕ないのか。それなら、さあ、わたしは、その夜叉のことを知るのだ。あるいは、すなわち、その夜叉が、世尊の語ったことを知悉して、随喜したのか、あるいは、すなわち、〔そうでは〕ないのか、〔という、このことを〕」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、東の林園のミガーラマータルの高楼において消没し、三十三天において出現しました。また、まさに、その時点にあって、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、エーカプンダリーカの庭園において、天の五百の楽器を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの天の五百の楽器を退けて、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善く来てくれました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、設けられた坐に坐りました。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「コーシヤ(帝釈天)よ、また、まさに、すなわち、どのように、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を語ったのですか。どうか、わたしたちもまた、この講話の聴聞の分有者として存したいものです」と。

 

392. 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、わたしたちは、まさに、多くの義務があり、多くの用事があります。まさしく、また、自らの用事とともに、さらに、また、まさしく、三十三天〔の神々〕たちのための用事とともに。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、しかしながら、また、まさしく、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたものとして、〔それは〕有ります──すなわち、まさしく、すみやかに消没することなく。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、それで、まさに、わたしは、その戦場を征圧して、戦場の征圧者として、その〔戦場〕から戻ってきて、ヴェージャヤンタという名の高楼(最勝講堂)を造作しました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、ヴェージャヤンタの高楼には、一百の尖塔があります。一つ一つの尖塔において、それぞれに七百の楼閣があります。一つ一つの楼閣において、それぞれに七百の仙女がいます。一者一者の仙女には、それぞれに七百の侍女がいます。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、あなたは、ヴェージャヤンタの高楼の喜ばしきものを見ることをお求めですか」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

393. そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王は、尊者マハー・モッガッラーナを前にして、ヴェージャヤンタの高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入りながら、互いに自らの内室に入りました。それは、たとえば、また、まさに、嫁が、舅を見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入るように、まさしく、このように、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナを見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入りながら、互いに自らの内室に入りました。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王は、尊者マハー・モッガッラーナを、ヴェージャヤンタの高楼において、こちらを歩かせては、あちらを歩ませます。〔帝釈天が言う〕「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ヴェージャヤンタの高楼の、この喜ばしきものをもまた見てください。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ヴェージャヤンタの高楼の、この喜ばしきものをもまた見てください」と。〔ヴェッサヴァナ大王が言う〕「尊者コーシヤの、この〔高楼〕は、美しく輝きます。すなわち、過去に作り為した功徳ある者の、それのように。人間たちもまた、何らかの或る喜ばしきものを見て、このように言います。『ああ、まさに、美しく輝く──すなわち、三十三天〔の神々〕たちの、〔それのように〕』と。尊者コーシヤの、この〔高楼〕は、それは、美しく輝きます。すなわち、過去に作り為した功徳ある者の、それのように」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「極めて甚だしく、まさに、この夜叉は、放逸となり、〔世に〕住む。それなら、さあ、わたしは、この夜叉を畏怖させるのだ」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、すなわち、ヴェージャヤンタの高楼を、足の親指で、等しく動転させ、等しく激動させ、等しく動揺させた、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王は、かつまた、三十三天〔の神々〕たちは、稀有にして未曾有の心が生じた者たちと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門の、大いなる神通たることは、大いなる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、天の居所を、足の親指で、等しく動転させ、等しく激動させ、等しく動揺させるからだ」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じたのを見出して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「コーシヤよ、また、まさに、すなわち、どのように、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を語ったのですか。どうか、わたしたちもまた、この講話の聴聞の分有者として存したいものです」と。

 

394. 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ここに、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、一方に立った、まさに、わたしは、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕』と。

 

 敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このように、まさに、わたしに、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を語りました」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の語ったことを大いに喜んで、随喜して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、東の林園のミガーラマータルの高楼において出現しました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナが立ち去ったすぐあと、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「敬愛なる方よ、いったい、あの方は、あなたの教師である、〔まさに〕その、世尊なのですか」と。「敬愛なる者よ、まさに、わたしの教師である、〔まさに〕その、世尊にあらず。あの者は、わたしと梵行を共にする者である、尊者マハー・モッガッラーナである」と。「敬愛なる方よ、あなたには、諸々の利得があります。尊き方よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたと梵行を共にする方は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。ああ、まちがいなく、あなたの教師は、彼は、世尊です」と。

 

395. そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は証知しますか──〔世に〕知られたうえにも知られた大いなる権能ある夜叉に、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を語る者として〔世に〕有った、〔そのときのことを〕」と。「モッガッラーナよ、わたしは証知します──ここに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。モッガッラーナよ、一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕』と。

 

 モッガッラーナよ、このように説かれたとき、わたしは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕』と。モッガッラーナよ、このように、まさに、わたしは証知します──天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を語る者としてある、〔そのときのことを〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・モッガッラーナは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる渇愛の消滅の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(38). 大いなる渇愛の消滅の経

 

396. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕()は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。まさに、大勢の比丘たちは、「どうやら、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と耳にしました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「友よ、サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。そこで、まさに、それらの比丘たちはまた、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問します。「友よ、サーティよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、サーティよ、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したもの(縁已生)と説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません」と。このようにもまた、まさに、それらの比丘たちによって、尋問され、審問され、査問されながら、漁師の息子のサーティ比丘は、まさしく、その、悪しきものとしてある、悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。

 

397. すなわち、まさに、それらの比丘たちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのです。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、『どうやら、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。『友よ、サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、漁師の息子のサーティ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問しました。『友よ、サーティよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、サーティよ、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません』と。尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしたちによって、尋問され、審問され、査問されながら、漁師の息子のサーティ比丘は、まさしく、その、悪しきものとしてある、悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、〔まさに〕この、悪しきものとしてある、悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、わたしたちは、この義(事態)を、世尊に告げます」と。

 

398. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、漁師の息子のサーティ比丘に告げなさい。『友よ、サーティよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「友よ、サーティよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、漁師の息子のサーティ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、漁師の息子のサーティ比丘に、世尊は、こう言いました。「サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と。「尊き方よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。「サーティよ、どのようなものが、その識知〔作用〕なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、説くものであり、感受するべきものであり、そこかしこに、諸々の善悪の行為の報い(業報)を得知します」と。「愚人よ、いったい、まさに、誰のものとして、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。愚人よ、まさに、わたしによって、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれたのではないですか。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません。愚人よ、そこで、また、しかしながら、あなたは、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。愚人よ、まさに、それは、あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。

 

399. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、この者は、漁師の息子のサーティ比丘は、この法(教え)と律において、熱を為した者としてもまたありますか」よ。「尊き方よ、まさに、どうして、存するというのでしょう。尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。このように説かれたとき、漁師の息子のサーティ比丘は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、世尊は、漁師の息子のサーティ比丘が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「愚人よ、まさに、あなたは、〔まさに〕この、自らの悪しきものとしてある、悪しき見解によって、〔そのとおりに〕覚知されるでしょう。ここに、わたしは、比丘たちに質問しましょう」と。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、あなたたちもまた、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しますか。すなわち、この者が、漁師の息子のサーティ比丘が、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出すように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、無数の教相によって、わたしたちに、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません」と。「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、あなたたちは、まさに、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知します。比丘たちよ、まさに、無数の教相によって、あなたたちに、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──わたしによって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません。そこで、また、しかしながら、この者は、漁師の息子のサーティ比丘は、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。まさに、それは、彼にとって、愚人にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。

 

400. 比丘たちよ、まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、まさしく、『識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『眼の識知〔作用〕(眼識)』という名称に至ります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『耳の識知〔作用〕(耳識)』という名称に至ります。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『鼻の識知〔作用〕(鼻識)』という名称に至ります。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『舌の識知〔作用〕(舌識)』という名称に至ります。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『身の識知〔作用〕(身識)』という名称に至ります。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『意の識知〔作用〕(意識)』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、名称に至るようなものです。かつまた、薪を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『薪の火』という名称に至ります。かつまた、木片を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『木片の火』という名称に至ります。かつまた、草を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『草の火』という名称に至ります。かつまた、牛糞を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『牛糞の火』という名称に至ります。かつまた、籾殻を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『籾殻の火』という名称に至ります。かつまた、塵芥を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『塵芥の火』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、まさしく、『識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『眼の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『耳の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『鼻の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『舌の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『身の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『意の識知〔作用〕』という名称に至ります。

 

401. 比丘たちよ、『これは、成ったものである』と見ますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『それは、食(動力源・エネルギー)によって発生あるものである』と見ますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と見ますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『これは、成ったものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に(※)、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

※ テキストには passatāe とあるが、PTS版により passato と読む。下段落の平行箇所も同様。

 

 「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、もし、あなたたちが、このように完全なる清浄のものであり、このように完全なる清白のものである、この見解に、執着し、愛玩し、懇望し、わがものと〔錯視〕するなら、比丘たちよ、さて、いったい、あなたたちは、わたしによって説示された筏の喩えの法(教え)を、超脱を義(目的)として了知しているでしょうか──掴み取ることを義(目的)として、ではなく」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、もし、あなたたちが、このように完全なる清浄のものであり、このように完全なる清白のものである、この見解に、執着せず、愛玩せず、懇望せず、わがものと〔錯視〕しないなら、比丘たちよ、さて、いったい、あなたたちは、わたしによって説示された筏の喩えの法(教え)を、超脱を義(目的)として了知しているでしょうか──掴み取ることを義(目的)として、ではなく」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

402. 「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。

 

 比丘たちよ、では、これらの四つの食(四食)は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 これらの四つの食は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。

 

 比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。

 

 諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛()があります。渇愛という縁あることから、執取()があります。執取という縁あることから、生存()があります。生存という縁あることから、生()があります。生という縁あることから、老と死(老死)が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)が有ります。

 

403. 『生という縁あることから、老と死がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生という縁あることから、老と死はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生という縁あることから、老と死があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「『生存という縁あることから、生がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生存という縁あることから、生はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生存という縁あることから、生があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生存という縁あることから、生がある』」と。「『執取という縁あることから、生存がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、執取という縁あることから、生存はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、執取という縁あることから、生存があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『執取という縁あることから、生存がある』」と。「『渇愛という縁あることから、執取がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、渇愛という縁あることから、執取はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、渇愛という縁あることから、執取があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。「『感受という縁あることから、渇愛がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、感受という縁あることから、渇愛はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、感受という縁あることから、渇愛があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。「『接触という縁あることから、感受がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、接触という縁あることから、感受はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、接触という縁あることから、感受があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『接触という縁あることから、感受がある』」と。「『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。「『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』」と。「『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。「『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。「『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。

 

404. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちもまた、このように説くべきであり、わたしもまた、このように説くべきです。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する』〔と〕。

 

 まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

405. 『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生の止滅あることから、老と死の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生の止滅あることから、老と死の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「『生存の止滅あることから、生の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生存の止滅あることから、生の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生存の止滅あることから、生の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。「『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、執取の止滅あることから、生存の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、執取の止滅あることから、生存の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』」と。「『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、渇愛の止滅あることから、執取の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』」と。「『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、感受の止滅あることから、渇愛の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』」と。「『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、接触の止滅あることから、感受の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、接触の止滅あることから、感受の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』」と。「『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』」と。「『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』」と。「『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』」と。「『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』」と。「『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。

 

406. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちもまた、このように説くべきであり、わたしもまた、このように説くべきです。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』〔と〕。

 

407. 比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしたちは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしたちは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしたちは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしたちは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』〔と〕、過去の極(前際:過去の種々相)に走り行くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしたちは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしたちは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』〔と〕、未来の極(後際:未来の種々相)に走り行くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』〔と〕、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕存するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、『わたしたちの教師は、導師である。そして、教師への尊重〔の思い〕によって、わたしたちは、このように説く』〔と〕、このように説くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、『沙門は、このように言った。そして、沙門である、まさに、わたしたちは、このように説く』〔と〕、このように説くでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、他の教師を、〔師と〕定めるでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、すなわち、それらの祭典や祝事が、まさに、多々なる沙門や婆羅門たちにあるとして、それらを、『真髄である』と妄信するでしょうか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさに、まさしく、それが、あなたたちに、自ら知られ、自ら見られ、自ら見出されたなら、まさしく、それを、あなたたちは説くべきではないですか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、あなたたちは、まさに、わたしの、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである、この法(教え)によって導かれました。『比丘たちよ、この法(教え)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです』と(※)、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

408. 比丘たちよ、また、まさに、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります。ここに、そして、母と父が集合するところと成るも、しかしながら、母が懐妊可能の者ではなく有り、かつまた、音楽神(乾達婆:ガンダルヴァ)が現起するところと成らず、まさしく、そのあいだは、〔母の〕胎に、入胎は有りません。ここに、そして、母と父が集合するところと成り、さらに、母が懐妊可能の者として有るも、しかしながら、音楽神が現起するところと成らず、まさしく、そのあいだは、〔母の〕胎に、入胎は有りません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、かつまた、母と父が集合するところと成り、かつまた、母が懐妊可能の者として有り、かつまた、音楽神が現起するところと成り、このように、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります。比丘たちよ、〔まさに〕その、この胎児を、母は、あるいは、九〔月〕のあいだ、あるいは、十月のあいだ、子宮によって維持します──大いなる憂慮とともに、重き荷として。比丘たちよ、〔まさに〕その、この〔胎児〕を、母は、あるいは、九〔月〕が〔経過して〕、あるいは、十月が経過して、出産します──大いなる憂慮とともに、重き荷として。〔まさに〕その、この〔胎児〕を、〔世に〕生まれ、〔世に〕存している〔その子〕を、自らの血で養育します。比丘たちよ、なぜなら、この血は、聖者の律においては、すなわち、この、母乳であるからです。比丘たちよ、それで、まさに、その童子は、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、すなわち、それらの童子用の遊具であるなら──それは、すなわち、この、鉤遊びであり、楔遊びであり、逆立ち遊びであり、風車遊びであり、葉の秤遊びであり、車遊びであり、弓遊びですが──それらで遊びます。比丘たちよ、それで、まさに、その童子は、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。

 

409. 彼は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態にたいし貪染し、愛しくない形態の形態にたいし憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕に入定した者(愛憎の思いに固着した者)であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)にたいし貪染し、愛しくない形態の法(意の対象)にたいし憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕に入定した者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

410. 比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

411. 彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。

 

 梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。

 

 虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

412. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

413. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

414. 比丘たちよ、彼は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態にたいし貪染せず、愛しくない形態の形態にたいし憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕を捨棄する者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)にたいし貪染せず、愛しくない形態の法(意の対象)にたいし憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕を捨棄する者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があり、執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、あなたたちは、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって〔説かれた〕、この、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱を保持しなさい。いっぽう、漁師の息子のサーティ比丘を、大いなる渇愛の結束と渇愛の群結によって(もつ)れ絡(から)まっている者として」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる渇愛の消滅の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(39). 大いなるアッサプラの経

 

415. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕に住んでおられます。アンガ〔国〕には、アッサプラという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、あなたたちのことを、『沙門たち』『沙門たち』と、人々は呼称します。また、そして、あなたたちは、『あなたたちは、どのような者たちなのですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『沙門たちとして、〔わたしたちは〕存している』と明言します。比丘たちよ、〔まさに〕その、あなたたちが、このような呼称ある者たちとして〔世に〕存し、このような明言ある者たちとして〔世に〕存しているなら、『それらの法(性質)が、かつまた、沙門の為すことであり、かつまた、婆羅門の為すことであるなら、〔わたしたちは〕それらの法(性質)を受持して行持するのだ。このように〔為すなら〕、まさに、わたしたちの、そして、この呼称は、真理と成るであろうし、さらに、〔この〕明言も、事実と〔成るであろう〕。そして、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成るであろうし、大いなる福利と〔成るであろうし〕、まさしく、さらに、わたしたちの、この出家も、徒労なきものと成るであろうし、果を有するものと〔成るであろうし〕、生成を有するものと〔成るであろう〕』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

416. 比丘たちよ、では、どのような諸々の法(性質)が、かつまた、沙門の為すことであり、かつまた、婆羅門の為すことなのですか。『〔わたしたちは〕恥〔の思い〕と〔良心の〕咎め(慚愧)を具備した者たちと成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

417. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの身体の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の身体の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの身体の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

418. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの言葉の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の言葉の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

419. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの意の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の意の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

420. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの生き方は、完全なる清浄と成り、明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の生き方たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

421. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕有るのだ──眼によって、形態を見て、形相を収め取る者ではなく、付随する特徴を収め取る者ではなく。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起するのだ。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と〔成ら〕ず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ないのだ。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起するのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

422. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『食において量を知る者たちとして〔世に〕有るのだ。審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食するのだ──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしたちは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしたちに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

423. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして〔世に〕有るのだ。昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ。夜の初更(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ。夜の中更(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営むのだ(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後更(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

424. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『気づきと正知を具備した者たちとして〔世に〕有るのだ──前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者たちとして、前視したとき、後視したとき、正知を為す者たちとして、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者たちとして、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者たちとして、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者たちとして、大小便の行為のとき、正知を為す者たちとして、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者たちとして』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして、気づきと正知を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。

 

425. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

426. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、負債を負って、諸々の生業に従事し、彼の、それらの生業が等しく成功するとします。彼は、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為すでしょうし、さらに、彼には、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在するでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、負債を負って、諸々の生業に従事したが、〔まさに〕その、わたしの、それらの生業は等しく成功した。〔まさに〕その、わたしは、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為したのであり、さらに、わたしには、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします。そして、食事は、彼を喜ばせず、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在しません。彼は、他時にあって、その病苦から解き放たれます。そして、食事は、彼を喜ばせ、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在します。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有った。そして、食事は、わたしを喜ばせず、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在しなかった。その〔わたし〕は、今現在、その病苦から解き放たれ、〔世に〕存している。そして、食事は、わたしを喜ばせ、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、獄舎に結縛され、〔世に〕存するとします。彼は、他時にあって、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、獄舎に結縛され、〔世に〕有った。その〔わたし〕は、今現在、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれ、〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、奴隷として〔世に〕存するとします──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。彼は、他時にあって、その奴隷の身分から解き放たれます──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、奴隷として〔世に〕有った──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。その〔わたし〕は、今現在、その奴隷の身分から解き放たれ、〔世に〕存している──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、財産を有し財物を有する者が、荒野の旅の道を行くとします。彼は、他時にあって、その荒野を、〔無事〕安穏に、恐怖なく、超え出ます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、財産を有し財物を有する者として、荒野の旅の道を行った。その〔わたし〕は、今現在、その荒野を、〔無事〕安穏に、恐怖なく、超え出た者として〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あたかも、負債のように、あたかも、病のように、あたかも、獄舎のように、あたかも、奴隷の身分のように、あたかも、荒野の旅の道のように、これらの五つの〔修行の〕妨害(五蓋)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、無負債のように、あたかも、無病のように、あたかも、結縛からの解放のように、あたかも、自由のように、あたかも、平安の極地のように、まさしく、このように、比丘は、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観します。

 

427. 比丘たちよ、彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

428. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水が湧き出ている湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

 

429. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。

 

430. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。

 

431. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

432. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。

 

433. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、澄んでいて清らかで混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、澄んでいて清らかで混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

434. 比丘たちよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた〔説かれ〕、『沐浴者』ともまた〔説かれ〕、『〔真の〕知に至る者』ともまた〔説かれ〕、『聞経者』ともまた〔説かれ〕、『聖者』ともまた〔説かれ〕、『阿羅漢』ともまた、説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、静まったもの(サミタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、沙門(サマナ)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、婆羅門と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、拒否されたもの(バーヒタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、婆羅門(ブラーフマナ)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沐浴者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、洗浄されたもの(ナータ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、沐浴者(ナータカ)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔真の〕知に至る者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、見出されたもの(ヴィディタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聞経者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、流れ去ったもの(ニッスタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聞経者(ソッティヤ)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、遠く離れたもの(アーラカ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖者(アリヤ)と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、阿羅漢と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、遠く離れたもの(アーラカ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、阿羅漢(アラハント)と成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなるアッサプラの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(40). 小なるアッサプラの経

 

435. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕に住んでおられます。アンガ〔国〕には、アッサプラという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちのことを、『沙門たち』『沙門たち』と、人々は呼称します。また、そして、あなたたちは、『あなたたちは、どのような者たちなのですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『沙門たちとして、〔わたしたちは〕存している』と明言します。比丘たちよ、〔まさに〕その、あなたたちが、このような呼称ある者たちとして〔世に〕存し、このような明言ある者たちとして〔世に〕存しているなら、『それが、沙門の適正なる〔実践の〕道であるなら、それを、〔わたしたちは〕実践するのだ。このように〔為すなら〕、まさに、わたしたちの、そして、この呼称は、真理と成るであろうし、さらに、〔この〕明言も、事実と〔成るであろう〕。そして、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成るであろうし、大いなる福利と〔成るであろうし〕、まさしく、さらに、わたしたちの、この出家も、徒労なきものと成るであろうし、果を有するものと〔成るであろうし〕、生成を有するものと〔成るであろう〕』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

436. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者と成らないのですか。比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の──強欲〔の思い〕ある者である〔彼〕の、強欲〔の思い〕が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、憎悪している心の者である〔彼〕の、憎悪〔の思い〕が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、忿激する者である〔彼〕の、忿激〔の思い〕(忿)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、怨恨ある者である〔彼〕の、怨恨〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、偽装ある者である〔彼〕の、偽装〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、加虐ある者である〔彼〕の、加虐〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、嫉妬ある者である〔彼〕の、嫉妬〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、物惜ある者である〔彼〕の、物惜〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、狡猾ある者である〔彼〕の、狡猾〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、幻惑ある者である〔彼〕の、幻惑〔の思い〕()が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、悪しき欲求ある者である〔彼〕の、悪しき欲求が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、誤った見解ある者である〔彼〕の、誤った見解が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。比丘たちよ、まさに、わたしは、これらの、沙門の垢が、沙門の汚点が、沙門の苦味が、悪所の境位たるものが、悪趣として感受されるべきものが、〔いまだ〕捨棄されていないことから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者ではない』と説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マタジャという名の、両側に切っ先があり、水で研がれた、武器の類があり、それが、彼の大衣のなかに被着され、巻き包まれているようなものです。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この比丘の出家を説きます。

 

437. 比丘たちよ、わたしは、大衣の者が大衣を保持するのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、無衣の者が無衣であるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、塵垢の者が塵垢であるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、水行者が水行あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、木の根元にある者が木の根元にあるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、野外にある者が野外にあるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、常立行者が常立行あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、日をおいて食事する者が日をおいて食事するのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、呪文の読誦者が呪文の読誦あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、結髪の者が結髪を保持するのみで、沙門たることを説きません。

 

 比丘たちよ、もし、大衣の者が大衣を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄されるなら、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄されるなら、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄されるなら、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄されるなら、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄されるなら、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄されるなら、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄されるなら、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄されるなら、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄されるなら、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄されるなら、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄されるなら、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるなら、まさしく、ただちに、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、まさしく、〔世に〕生まれた、その〔子〕を、大衣の者と為すでしょうし、まさしく、大衣の者たることを受持させるでしょう。『幸顔なる者よ、さあ、あなたは、大衣の者と成りなさい。あなたが、大衣の者として〔世に〕存していると、大衣を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄され、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄され、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄され、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄され、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄され、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄され、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄され、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄され、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄され、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄され、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄され、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるでしょう』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしは、ここに、一部の大衣の者が、強欲〔の思い〕ある者であり、憎悪している心の者であり、忿激する者であり、怨恨ある者であり、偽装ある者であり、加虐ある者であり、嫉妬ある者であり、物惜ある者であり、狡猾ある者であり、幻惑ある者であり、悪しき欲求ある者であり、誤った見解ある者であるのを見ることから、それゆえに、大衣の者が大衣を保持するのみで、沙門たることを説きません。

 

 比丘たちよ、もし、無衣の者が……略……。比丘たちよ、もし、塵垢の者が……略……。比丘たちよ、もし、水行者が……略……。比丘たちよ、もし、木の根元にある者が……略……。比丘たちよ、もし、野外にある者が……略……。比丘たちよ、もし、常立行者が……略……。比丘たちよ、もし、日をおいて食事する者が……略……。比丘たちよ、もし、呪文の読誦者が……略……。比丘たちよ、もし、結髪の者が結髪を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄されるなら、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄されるなら、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄されるなら、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄されるなら、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄されるなら、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄されるなら、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄されるなら、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄されるなら、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄されるなら、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄されるなら、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄されるなら、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるなら、まさしく、ただちに、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、まさしく、〔世に〕生まれた、その〔子〕を、結髪の者と為すでしょうし、まさしく、結髪の者たることを受持させるでしょう。『幸顔なる者よ、さあ、あなたは、結髪の者と成りなさい。あなたが、結髪の者として〔世に〕存していると、結髪を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄され、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄され、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄され、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄され、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄され、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄され、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄され、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄され、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄され、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄され、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄され、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるでしょう』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしは、ここに、一部の結髪の者が、強欲〔の思い〕ある者であり、憎悪している心の者であり、忿激する者であり、怨恨ある者であり、偽装ある者であり、加虐ある者であり、嫉妬ある者であり、物惜ある者であり、狡猾ある者であり、幻惑ある者であり、悪しき欲求ある者であり、誤った見解ある者であるのを見ることから、それゆえに、結髪の者が結髪を保持するのみで、沙門たることを説きません。

 

438. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者と成るのですか。比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の──強欲〔の思い〕ある者である〔彼〕の、強欲〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、憎悪している心の者である〔彼〕の、憎悪〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、忿激する者である〔彼〕の、忿激〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、怨恨ある者である〔彼〕の、怨恨〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、偽装ある者である〔彼〕の、偽装〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、加虐ある者である〔彼〕の、加虐〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、嫉妬ある者である〔彼〕の、嫉妬〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、物惜ある者である〔彼〕の、物惜〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、狡猾ある者である〔彼〕の、狡猾〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、幻惑ある者である〔彼〕の、幻惑〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、悪しき欲求ある者である〔彼〕の、悪しき欲求が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、誤った見解ある者である〔彼〕の、誤った見解が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、わたしは、これらの、沙門の垢が、沙門の汚点が、沙門の苦味が、悪所の境位たるものが、悪趣として感受されるべきものが、〔すでに〕捨棄されたことから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と説きます。彼は、これらの悪しき善ならざる法(性質)の一切から清浄となった自己を等しく随観します。彼が、これらの悪しき善ならざる法(性質)の一切から清浄となった自己を等しく随観していると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

 

 彼は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、透明で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしい、蓮池があるとします。東の方角から、もし、また、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるなら、彼は、その蓮池に由来して、水の涸渇を取り除き、炎暑の苦悶を取り除くでしょう。西の方角から、もし、また、人が……略……。北の方角から、もし、また、人が……略……。南の方角から、もし、また、人が……略……。すなわち、どの方角からであれ、もし、また、その〔蓮池〕に、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるなら、彼は、その蓮池に由来して、水の涸渇を取り除き、炎暑の苦悶を取り除くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、士族の家系から、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、このように、慈愛〔の思い〕と慈悲〔の思い〕と歓喜〔の思い〕と放捨〔の思い〕を修めて、内に、〔心の〕寂止を得ます。内に、〔心の〕寂止あることから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門の家系から、もし、また……略……。庶民の家系から、もし、また……略……。隷民の家系から、もし、また……略……。すなわち、どの家系からであれ、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、このように、慈愛〔の思い〕と慈悲〔の思い〕と歓喜〔の思い〕と放捨〔の思い〕を修めて、内に、〔心の〕寂止を得ます。内に、〔心の〕寂止あることから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と、〔わたしは〕説きます。

 

 士族の家系から、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。諸々の煩悩の滅尽あることから、〔彼は〕沙門と成ります。婆羅門の家系から、もし、また……略……。庶民の家系から、もし、また……略……。隷民の家系から、もし、また……略……。すなわち、どの家系からであれ、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。諸々の煩悩の滅尽あることから、〔彼は〕沙門と成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なるアッサプラの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「煉瓦作りとサーラ〔樹〕の林、守り抜くこと、智慧ある者のためのもの、さらに、サッチャカの制止、顔の色艶が清らかとなることもまたあり、インダがあり、漁師とアッサプラと結髪とともに、〔章となる〕」〔と〕。

 

5. 小なる対なるものの章

 

1(41). サーラー〔村〕の者たちの経

 

439. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラーという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラー〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』〔と〕。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。

 

 「家長たちよ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。家長たちよ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 「まさに、わたしたちは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしたちに、すなわち、わたしたちが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「家長たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

440. 「家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、屠殺されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。

 

 また、まさに、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、このように、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

441. 家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

 

 与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。

 

 諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。

 

 中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

 

 粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

 

 雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。

 

 また、まさに、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、このように、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

442. 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、婆羅門の大家たちの……略……家長の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、家長の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの……略……耶摩天〔の神々〕たちの……兜率天〔の神々〕たちの……化楽天〔の神々〕たちの……他化自在天〔の神々〕たちの……梵身天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、微小光天〔の神々〕たちの……略……無量光天〔の神々〕たちの……光音天〔の神々〕たちの……微小浄天〔の神々〕たちの……無量浄天〔の神々〕たちの……遍浄天〔の神々〕たちの……広果天〔の神々〕たちの……無煩天〔の神々〕たちの……無熱天〔の神々〕たちの……善見天〔の神々〕たちの……善現天〔の神々〕たちの……色究竟天〔の神々〕たちの……虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです」と。

 

443. このように説かれたとき、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

 

 サーラー〔村〕の者たちの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(42). ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経

 

444. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちが、ヴェーサーリーに滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、サーヴァッティーに住んでいる。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。

 

 「家長たちよ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。家長たちよ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 「まさに、わたしたちは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしたちに、すなわち、わたしたちが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「家長たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

445. 「家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが……他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり……そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き……正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として……党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。また、まさに、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で……そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として……結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ……あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。また、まさに、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。

 

 家長たちよ、このように、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

446. 家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり……〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して……そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き……正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。中傷の言葉を捨棄して……和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して……そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して……〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。また、まさに、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』……自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。

 

 家長たちよ、このように、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

447. 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、婆羅門の大家たちの……家長の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、家長の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの……耶摩天〔の神々〕たちの……兜率天〔の神々〕たちの……化楽天〔の神々〕たちの……他化自在天〔の神々〕たちの……梵身天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、微小光天〔の神々〕たちの……略……無量光天〔の神々〕たちの……光音天〔の神々〕たちの……微小浄天〔の神々〕たちの……無量浄天〔の神々〕たちの……遍浄天〔の神々〕たちの……広果天〔の神々〕たちの……無煩天〔の神々〕たちの……無熱天〔の神々〕たちの……善見天〔の神々〕たちの……善現天〔の神々〕たちの……色究竟天〔の神々〕たちの……虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。

 

 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです」と。

 

448. このように説かれたとき、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

 

 ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(43). 大いなる問答の経

 

449. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、『智慧浅き者』『智慧浅き者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、智慧浅き者と説かれるのですか」と。

 

 「友よ、『〔彼は〕覚知しない』『〔彼は〕覚知しない』ということで、まさに、それゆえに、智慧浅き者と説かれます。

 

 では、何を、〔彼は〕覚知しないのですか。『これは、苦しみである』と覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と覚知しません。友よ、『〔彼は〕覚知しない』『〔彼は〕覚知しない』ということで、まさに、それゆえに、智慧浅き者と説かれます」と。

 

 「友よ、善きかな」と、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。

 

 「友よ、『智慧ある者』『智慧ある者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、智慧ある者と説かれるのですか」と。

 

 「友よ、『〔彼は〕覚知する』『〔彼は〕覚知する』ということで、まさに、それゆえに、智慧ある者と説かれます。

 

 では、何を、〔彼は〕覚知するのですか。『これは、苦しみである』と覚知し、『これは、苦しみの集起である』と覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と覚知します。友よ、『〔彼は〕覚知する』『〔彼は〕覚知する』ということで、まさに、それゆえに、智慧ある者と説かれます」と。

 

 「友よ、『識知〔作用〕()』『識知〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、識知〔作用〕と説かれるのですか」と。

 

 「友よ、『〔彼は〕識知する』『〔彼は〕識知する』ということで、まさに、それゆえに、識知〔作用〕と説かれます。

 

 では、何を、〔彼は〕識知するのですか。『安楽である』ともまた識知し、『苦痛である』ともまた識知し、『苦でもなく楽でもないものである』ともまた識知します。友よ、『〔彼は〕識知する』『〔彼は〕識知する』ということで、まさに、それゆえに、識知〔作用〕と説かれます」と。

 

 「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っているのですか、それとも、離れ合っているのですか。また、そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性(相違点)を報知することができますか」と。「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っています──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません。友よ、なぜなら、それを覚知するなら、それを識知し、それを識知するなら、それを覚知し、それゆえに、これらの法(性質)は、交わり合っているからです──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません」と。

 

 「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)が、交わり合っているとして──離れ合っているのではなく──どのような多様性があるのですか」と。「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)が、交わり合っているとして──離れ合っているのではなく──智慧は、修められるべきであり、識知〔作用〕は、遍知されるべきであり、それら〔の法〕には、この多様性があります」と。

 

450. 「友よ、『感受〔作用〕()』『感受〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、感受〔作用〕と説かれるのですか」と。

 

 「友よ、『〔彼は〕感受する』『〔彼は〕感受する』ということで、まさに、それゆえに、感受〔作用〕と説かれます。

 

 では、何を、〔彼は〕感受するのですか。安楽をもまた感受し、苦痛をもまた感受し、苦でもなく楽でもないものをもまた感受します。友よ、『〔彼は〕感受する』『〔彼は〕感受する』ということで、まさに、それゆえに、感受〔作用〕と説かれます」と。

 

「友よ、『表象〔作用〕()』『表象〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、表象〔作用〕と説かれるのですか」と。

 

 「友よ、『〔彼は〕表象する』『〔彼は〕表象する』ということで、まさに、それゆえに、表象〔作用〕と説かれます。

 

 では、何を、〔彼は〕表象するのですか。青のものをもまた表象し、黄のものをもまた表象し、赤のものをもまた表象し、白のものをもまた表象します。友よ、『〔彼は〕表象する』『〔彼は〕表象する』ということで、まさに、それゆえに、表象〔作用〕と説かれます」と。

 

 「友よ、そして、すなわち、感受〔作用〕は、かつまた、すなわち、表象〔作用〕は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っているのですか、それとも、離れ合っているのですか。また、そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性(相違点)を報知することができますか」と。「友よ、そして、すなわち、感受〔作用〕は、かつまた、すなわち、表象〔作用〕は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っています──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません。友よ、なぜなら、それを感受するなら、それを表象し、それを表象するなら、それを識知し、それゆえに、これらの法(性質)は、交わり合っているからです──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません」と。

 

451. 「友よ、まさに、五つの〔感官の〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)から脱却し、完全なる清浄となった、意の識知〔作用〕(意識)によって、何が導かれるべきですか」と。

 

 「友よ、五つの〔感官の〕機能から脱却し、完全なる清浄となった、意の識知〔作用〕によって、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所が導かれるべきであり、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所が導かれるべきであり、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所が導かれるべきです」と。

 

 「友よ、また、導かれるべき法(性質)を、何よって、〔彼は〕覚知するのですか」と。

 

 「友よ、まさに、導かれるべき法(性質)を、智慧の眼よって、〔彼は〕覚知します」と。

 

 「友よ、また、智慧は、何を義(目的)とするのですか」と。

 

 「友よ、まさに、智慧は、証知を義(目的)とし、遍知を義(目的)とし、捨棄を義(目的)とします」と。

 

452. 「友よ、また、どれだけの、正しい見解(正見)の生起のための縁があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、二つの、正しい見解の生起のための縁があります。そして、他者からの情報であり、さらに、根源のままに意を為すこと(如理作意)です。友よ、まさに、これらの二つの、正しい見解の生起のための縁があります」と。

 

 「友よ、また、どれだけの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成るのですか〕」と。

 

 「友よ、まさに、五つの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成ります〕。友よ、ここに、正しい見解は、かつまた、戒によって資助されたものとして有り、かつまた、所聞によって資助されたものとして有り、かつまた、論議によって資助されたものとして有り、かつまた、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)によって資助されたものとして有り、かつまた、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)によって資助されたものとして有ります。友よ、まさに、これらの五つの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成ります〕」と。

 

453. 「友よ、また、どれだけの生存()があるのですか。

 

 「友よ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です」と。

 

 「友よ、また、どのように、未来に、さらなる生存の発現が有るのですか」と。

 

 「友よ、まさに、無明という妨害するもの()があり、渇愛という束縛するもの()がある、有情たちに、そこかしこに愉悦あることから、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります」と。

 

 「友よ、また、どのように、未来に、さらなる生存の発現が有ることなくあるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、渇愛の止滅あることから、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ることなくあります」と。

 

454. 「友よ、また、どのようなものが、第一の瞑想(初禅第一禅)なのですか」と。

 

 「友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、第一の瞑想と説かれます」と。

 

 「友よ、また、第一の瞑想は、どれだけの支分があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、第一の瞑想は、五つの支分があります。友よ、ここに、第一の瞑想に入定した比丘には、かつまた、思考()が転起し、かつまた、想念()が〔転起し〕、かつまた、喜悦()が〔転起し〕、かつまた、安楽()が〔転起し〕、かつまた、心の一境性が〔転起します〕。友よ、まさに、第一の瞑想は、このように、五つの支分があります」と。

 

 「友よ、また、第一の瞑想は、どれだけの支分が捨棄され、どれだけの支分が具備されたのですか」と。

 

 「友よ、まさに、第一の瞑想は、五つの支分が捨棄され、五つの支分が具備されました。友よ、ここに、第一の瞑想に入定した比丘には、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕()が捨棄されたものと成り、かつまた、思考が転起し、かつまた、想念が〔転起し〕、かつまた、喜悦が〔転起し〕、かつまた、安楽が〔転起し〕、かつまた、心の一境性が〔転起します〕。友よ、まさに、第一の瞑想は、このように、五つの支分が捨棄され、五つの支分が具備されました」と。

 

455. 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能は、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験しません。それは、すなわち、この、眼の機能(眼根)であり、耳の機能(耳根)であり、鼻の機能(鼻根)であり、舌の機能(舌根)であり、身の機能(身根)です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能が、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験せずにいるとして、何が、〔それらの〕帰依所となり、そして、何が、それらの境涯と境域を経験するのですか」と。

 

 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能は、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験しません。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能が、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験せずにいるとして、意が、〔それらの〕帰依所となり、そして、意が、それらの境涯と境域を経験します」と。

 

456. 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能があります。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能は、何を縁として止住するのですか」と。

 

 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能があります。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能は、寿命を縁として止住します」と。

 

 「友よ、また、寿命は、何を縁として止住するのですか」と。

 

 「寿命は、熱を縁として止住します」と。

 

 「友よ、また、熱は、何を縁として止住するのですか」と。

 

 「熱は、寿命を縁として止住します」と。

 

 「まさしく、今や、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように了知します。『寿命は、熱を縁として止住します』と。また、まさしく、今や、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように了知します。『熱は、寿命を縁として止住します』と。

 

 友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。友よ、それは、たとえば、また、油の灯明が燃えているなら、炎を縁として、光が覚知され、光を縁として、炎が覚知されるように、友よ、まさしく、このように、まさに、寿命は、熱を縁として止住し、熱は、寿命を縁として止住します」と。

 

457. 「友よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして諸々の寿命を形成する働き()があり、そのものとして諸々の感受されるべき法(性質)があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、他なるものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、他なるものとして諸々の感受されるべき法(性質)があるのですか(両者は別のものですか)」と。「友よ、まさに、まさしく、そのものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、そのものとして諸々の感受されるべき法(性質)があるのではありません。友よ、なぜなら、そして、そのものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、そのものとして諸々の感受されるべき法(性質)があり、〔そのように〕有ったなら、この表象と感覚の止滅(想受滅)に入定した比丘に、出起が覚知されないからです。友よ、しかしながら、まさに、すなわち、他なるものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、他なるものとして諸々の感受されるべき法(性質)があることから、それゆえに、表象と感覚の止滅に入定した比丘に、出起が覚知されます」と。

 

 「友よ、すなわち、いったい、まさに、どれだけの法(性質)が、この身体を捨棄するとき、そこで、この身体は、廃棄され投下されたものとなり、あたかも、思欲なき木片のように、〔地に〕臥すのですか」と。

 

 「友よ、すなわち、まさに、三つの法(性質)が、寿命が、熱が、そして、識知〔作用〕が、この身体を捨棄するとき、そこで、この身体は、廃棄され投下されたものとなり、あたかも、思欲なき木片のように、〔地に〕臥します」と。

 

 「友よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、これらの者たちには、どのような多様性があるのですか」と。

 

 「友よ、すなわち、この、命を終えた死者ですが、彼の、諸々の身体の形成〔作用〕(身行)は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕(口行)は止滅し安息したものとなり、諸々の心の形成〔作用〕(心行)は止滅し安息したものとなり、寿命は完全に滅尽したものとなり、熱は寂止したものとなり、諸々の〔感官の〕機能は完全に破壊したものとなります。友よ、さらに、すなわち、まさに、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、彼もまた、諸々の身体の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、諸々の心の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなるも、寿命は完全に滅尽したものとならず、熱は寂止したものとならず、諸々の〔感官の〕機能は清らかなものとなります。友よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、それらの者たちには、この多様性があります」と。

 

458. 「友よ、また、どれだけの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づき()の完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、これらの四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります」と。

 

 「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、さらに、無相なる界域に意を為すことです。友よ、まさに、これらの二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります」と。

 

 「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、三つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、かつまた、無相なる界域に意を為すことであり、さらに、過去における行作(事前の決意)です。友よ、まさに、これらの三つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があります」と。

 

 「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があります。そして、一切の形相に意を為すことであり、さらに、無相なる界域に意を為さないことです。友よ、まさに、これらの二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があります」と。

 

459. 「友よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無所有なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、空性なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音(呼称)なのですか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々なのですか」と。

 

 「友よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無所有なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、空性なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱は──友よ、まさに、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音(呼称)となります──友よ、さらに、まさに、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります。

 

 友よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。

 

 友よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。友よ、これは、無量なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、無所有なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。

 

 友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、無所有なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、空性なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。

 

 友よ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって』と。友よ、これは、空性なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、無相なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。

 

 友よ、ここに、比丘が、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定(三昧)を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、無相なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。友よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。

 

 友よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります。

 

 友よ、まさに、貪欲()は、量を作り為すものです。憤怒()は、量を作り為すものです。迷妄()は、量を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の量を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無量なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、まさに、貪欲は、所有(障害)です。憤怒は、所有です。迷妄は、所有です。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の所有〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無所有なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、まさに、貪欲は、相を作り為すものです。憤怒は、相を作り為すものです。迷妄は、相を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の相を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無相なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる問答の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(44). 小なる問答の経

 

460. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者が、ダンマディンナー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼に、こう言いました。「尊貴なる方よ、『身体を有すること(有身)』『身体を有すること』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有すること』と説かれたのですか──世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)が、『身体を有すること』と説かれました──世尊によって。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、『身体を有すること』と説かれました──世尊によって」と。

 

 「尊貴なる方よ、善きかな」と、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、ダンマディンナー比丘尼に、さらなる問いを尋ねました。「尊貴なる方よ、『身体を有することの集起』『身体を有することの集起』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの集起』と説かれたのですか──世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛()です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの集起』と説かれました──世尊によって」と。

 

 「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅』『身体を有することの止滅』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅』と説かれたのですか──世尊によって」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)なき〔状態〕です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの止滅』と説かれました──世尊によって」と。

 

 「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれたのですか──世尊によって」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれました──世尊によって。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です」と。

 

 「尊貴なる方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして執取()があり、そのものとして五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのですか(両者は別のものですか)」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、そのものとして執取があり、そのものとして五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのではなく、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのでもまたありません。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、それが、そこにおいて、執取となります」と。

 

461. 「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が有るのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕()を……略……。表象〔作用〕()を……。諸々の形成〔作用〕()を……。識知〔作用〕()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。

 

462. 「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です」と。「尊貴なる方よ、また、聖なる八つの支分ある道は、形成されたもの(有為)ですか、それとも、形成されたものではないもの(無為)ですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道は、形成されたものです」と。

 

 「尊貴なる方よ、いったい、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇(戒・定・慧の三学)が包摂されるのですか、それとも、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道が包摂されるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇が包摂されるのではありません。友よ、ヴィサーカよ、しかしながら、まさに、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道は包摂されます。友よ、ヴィサーカよ、そして、すなわち、正しい言葉は、かつまた、すなわち、正しい行業は、さらに、すなわち、正しい生き方は、これらの法(性質)は、戒の範疇(戒蘊)に包摂されます。そして、すなわち、正しい努力は、かつまた、すなわち、正しい気づきは、さらに、すなわち、正しい禅定は、これらの法(性質)は、禅定の範疇(定蘊)に包摂されます。そして、すなわち、正しい見解は、さらに、すなわち、正しい思惟は、これらの法(性質)は、智慧の範疇(慧蘊)に包摂されます」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、禅定(三昧)なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の形相なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の必需品なのですか。どのようなものが、禅定の修行なのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、心の一境性は、これは、禅定です。四つの気づきの確立(四念処・四念住)は、禅定の形相です。四つの正しい精励(四正勤)は、禅定の必需品です。すなわち、まさしく、それらの法(性質)を、習修し、修め、多く為すことは、これは、禅定の修行です」と。

 

463. 「尊貴なる方よ、また、どれだけの形成〔作用〕()があるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、身体の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、言葉の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、心の形成〔作用〕なのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の形成〔作用〕です」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、何ゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕なのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、出息と入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)は、身体と連結しています。それゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。家長よ、まさに、過去において、思考して、想念して、未来に、言葉を発します。それゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象は、さらに、感受は、心の属性であり、これらの法(性質)は、心と連結しています。それゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕です」と。

 

464. 「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅への入定が有るのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に止滅するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、最初に、言葉の形成〔作用〕が止滅し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔止滅し〕、そののち、心の形成〔作用〕が〔止滅します〕」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅の入定からの出起が有るのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に生起するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、最初に、心の形成〔作用〕が生起し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔生起し〕、そののち、言葉の形成〔作用〕が〔生起します〕」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、どれだけの接触()が接触するのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、三つの接触が接触します。空性の接触であり、無相の接触であり、無願の接触です」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、何に向かい行くものと成り、何に傾倒するものと〔成り〕、何に傾斜するものと〔成るのですか〕」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成ります〕」と。

 

465. 「尊貴なる方よ、また、どれだけの感受()があるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、安楽の感受なのですか。どのようなものが、苦痛の感受なのですか。どのようなものが、苦でもなく楽でもない感受なのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、安楽と快楽が感受されたなら、これは、安楽の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、苦痛と不快が感受されたなら、これは、苦痛の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたなら、これは、苦でもなく楽でもない感受です」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、安楽の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦痛の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦でもなく楽でもない感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受は、止住を安楽とし、変化を苦痛とします。苦痛の感受は、止住を苦痛とし、変化を安楽とします。苦でもなく楽でもない感受は、知を安楽とし、無知を苦痛とします」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、どのような悪習(随眠:潜在煩悩)が悪しき習いとなるのですか。苦痛の感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか。苦でもなく楽でもない感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのではありません」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦痛の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦でもなく楽でもない感受において、何が捨棄されるべきですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきです」と。

 

 「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきありません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、貪欲を捨棄します。そこにおいて、貪り〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かくのごとく深慮します。『その〔認識の〕場所()を、今現在、聖者たちが成就して〔世に〕住むとして、いったい、いつ、まさに、わたしは、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだろう』と。かくのごとく、諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させていると、羨望という縁あることから、失意〔の思い〕が生起します。それによって、敵対〔の思い〕を捨棄します。そこにおいて、敵対〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、無明を捨棄します。そこにおいて、無明の悪習は悪しき習いとなりません」と。

 

466. 「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が、相似のもの(対となるもの)となるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、苦痛の感受が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、苦痛の感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦痛の感受において、安楽の感受が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、苦でもなく楽でもない感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦でもなく楽でもない感受において、無明が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、無明において、何が、相似のものとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、無明において、明知が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、明知において、何が、相似のものとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、明知において、解脱が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、解脱において、何が、相似のものとなるのですか」と。

 

 「友よ、ヴィサーカよ、まさに、解脱において、涅槃が、相似のものとなります」と。

 

 「尊貴なる方よ、また、涅槃において、何が、相似のものとなるのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、〔あなたは〕問い〔の限度〕を超え行きました。〔あなたは〕問いの最極を収め取ることができませんでした。友よ、ヴィサーカよ、なぜなら、梵行は、涅槃への沈潜であり、涅槃を行き着く所とするからであり、涅槃を結末とするからです。友よ、ヴィサーカよ、そして、望んでいるなら、あなたは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるべきです。そして、すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

467. そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、すなわち、ダンマディンナー比丘尼を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、ヴィサーカ在俗信者に、こう言いました。「ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、賢者です。ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、大いなる智慧ある者です。ヴィサーカよ、もし、また、あなたが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、ダンマディンナー比丘尼によって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴィサーカ在俗信者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる問答の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(45). 小なる法の受持の経

 

468. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(教え)の受持です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。

 

469. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、まさに、髪を結った女性遍歴遊行者たちと楽しみます。彼らは、このように言います。『いったい、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知するのだろう。安楽なるは、この女性遍歴遊行者の、若く柔らかで毛のある腕に触れること』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起して、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。彼らは、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼らは、このように言います。『まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知する。なぜなら、〔まさに〕この、わたしたちは、欲望〔の対象〕を因として、欲望〔の対象〕を因縁として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するからだ』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月において、蔓草の果皮が裂けるとします。比丘たちよ、そこで、まさに、その蔓草の種が、或るどこかのサーラ〔樹〕の根元に落下するとします。比丘たちよ、そこで、まさに、すなわち、そのサーラ〔樹〕に住している天神がいるとします。その〔天神〕は、恐怖し、畏怖し、恐慌を惹起します。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神の、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちが、林の天神たちが、木の天神たちが、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちが、群集して、集いあつまって、このように安堵させます。『貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その蔓草の種を、まさしく、孔雀が飲み込むこともなく、鹿が喰うこともなく、山火事が焼くこともなく、木こりたちが引き抜くこともなく、白蟻たちが処分することもありません。また、そして、〔発芽する〕種として存し、その〔種〕は、雨期の雨雲によって雨を得たなら、まさしく、正しく成長します。その蔓草の蔦葛は、若く柔らかで毛のある、垂れ下がるものとして存し、それは、そのサーラ〔樹〕に慣れ親しみます。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、それらの尊き、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、蔓草の種のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、群集して、集いあつまって、このように安堵させたのだろう。「貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう」と。安楽なるは、この蔓草の蔦葛の、若く柔らかで毛のある、垂れ下がるものに触れること』と。その〔蔓草の蔦葛〕は、そのサーラ〔樹〕に行き渡ります。そのサーラ〔樹〕に行き渡って、上に枝を張ります。上に枝を張って、気根を生やします。気根を生やして、それらが、そのサーラ〔樹〕の、大いなるうえにも大いなる幹であるなら、それらを破砕します。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神に、このような〔思いが〕存します。『まさに、それらの尊き、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、蔓草の種のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、群集して、集いあつまって、このように安堵させたのだ。「貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう」と。そして、すなわち、わたしは、蔓草の種を因として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するのだ』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、髪を結った女性遍歴遊行者たちと楽しみます。彼らは、このように言います。『いったい、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知するのだろう。安楽なるは、この女性遍歴遊行者の、若く柔らかで毛のある腕に触れること』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起して、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。彼らは、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼らは、このように言います。『まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知する。なぜなら、〔まさに〕この、わたしたちは、欲望〔の対象〕を因として、欲望〔の対象〕を因縁として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するからだ』と。比丘たちよ、これは、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

470. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

471. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者として〔世に〕有り、彼は、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者として〔世に〕有り、彼は、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者として〔世に〕有り、彼は、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知します。彼は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、涙顔で泣き叫びながら、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

472. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがありません。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(教え)の受持があります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる法(教え)の受持の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(46). 大いなる法の受持の経

 

473. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、多くのところとして、有情たちは、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちです。『ああ、まさに、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大するのだ』と。比丘たちよ、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちである、それらの有情たちに、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。比丘たちよ、そこで、あなたたちは、何を因として信受しますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

474. 「比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、慣れ親しむべき法(性質)を知らず、慣れ親しむべきではない法(性質)を知らず、親近するべき法(性質)を知らず、親近するべきではない法(性質)を知りません。彼は、慣れ親しむべき法(性質)を知らず、慣れ親しむべきではない法(性質)を知らず、親近するべき法(性質)を知らず、親近するべきではない法(性質)を知らずにいながら、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しみ、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しまず、親近するべきではない法(性質)に親近し、親近するべき法(性質)に親近しません。彼が、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しみ、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しまず、親近するべきではない法(性質)に親近し、親近するべき法(性質)に親近しまずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、慣れ親しむべき法(性質)を知り、慣れ親しむべきではない法(性質)を知り、親近するべき法(性質)を知り、親近するべきではない法(性質)を知ります。彼は、慣れ親しむべき法(性質)を知り、慣れ親しむべきではない法(性質)を知り、親近するべき法(性質)を知り、親近するべきではない法(性質)を知りながら、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しまず、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しみ、親近するべきではない法(性質)に親近せず、親近するべき法(性質)に親近します。彼が、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しまず、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しみ、親近するべきではない法(性質)に親近せず、親近するべき法(性質)に親近しんでいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。

 

475. 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(教え)の受持です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。

 

476. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。

 

477. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。

 

478. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取るという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、憎悪している心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。そして、誤った見解という縁あることから、苦痛と失意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

479. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、安楽と共にまた、悦意と共にまた、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取るという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、憎悪している心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。そして、誤った見解という縁あることから、安楽と悦意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

480. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、憎悪していない心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。そして、正しい見解という縁あることから、苦痛と失意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

481. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、安楽と共にまた、悦意と共にまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、憎悪していない心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。そして、正しい見解という縁あることから、安楽と悦意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。

 

482. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、毒が混ざっている苦瓜があるとします。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、この、毒が混ざっている苦瓜がある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせないであろうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、それを、審慮せずして飲み、放棄しません。彼が、それを、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせないでしょうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持です。

 

483. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、それを、審慮せずして飲み、放棄しません。彼が、それを、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせるでしょうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持です。

 

484. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、種々なる薬が混ざっている腐尿(腐った牛の尿)があるとします。そこで、黄疸の人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、この、種々なる薬が混ざっている腐尿がある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせないであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、安楽の者と成るであろう』と。彼は、それを、審慮して〔そののち〕飲み、放棄しません。彼が、それを、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせないでしょうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、安楽の者として存するでしょう。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持です。

 

485. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、かつまた、乳酪が、かつまた、蜜が、かつまた、酥が、かつまた、糖が、〔それらが〕一緒になって混ざっているものがあるとします。そこで、赤痢の人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、この、かつまた、乳酪が、かつまた、蜜が、かつまた、酥が、かつまた、糖が、〔それらが〕一緒になって混ざっているものがある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせるであろうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、安楽の者と成るであろう』と。彼は、それを、審慮して〔そののち〕飲み、放棄しません。彼が、それを、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせるでしょうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、安楽の者として存するでしょう。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持です。

 

486. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持は、それは、他の多々なる沙門や婆羅門たちの異論を打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる法(教え)の受持の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(47). 審査者の経

 

487. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、比丘が、〔自らの〕心をとおして、他者の心の思索を知ることなくあるなら、審査者としてあり、如来について、正しい調査が為されるべきです。『あるいは、正等覚者であるのか、あるいは、〔正等覚者では〕ないのか』と、識知するために」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

488. 「比丘たちよ、比丘が、〔自らの〕心をとおして、他者の心の思索を知ることなくあるなら、審査者としてあり、二つの法(性質)について、如来が正しく調査されるべきです。眼と耳によって識知されるべき諸々の法(性質)について、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。

 

 すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。

 

 すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と。

 

 すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者であるのか、それとも、暫しのあいだ入定した者であるのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者である。この尊者は、暫しのあいだ入定した者ではない』と。

 

 すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者である。この尊者は、暫しのあいだ入定した者ではない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されるのか』と。比丘たちよ、すなわち、知名度が上がり盛名に至り得た者と成らないあいだ、それまでは、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、比丘に等しく見出されることはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、知名度が上がり盛名に至り得た者と成ることから、そこで、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されます。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されることはない』と。

 

 すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されることはない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しまないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しまない』と。比丘たちよ、もし、その比丘に、他者たちが、このように問うとします。『また、尊者には、どのような諸々の行相があり、どのような諸々の類推があり、それによって、尊者は、このように説くのですか。「この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しみません」』と。比丘たちよ、比丘は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『また、まさに、そのように、この尊者が、あるいは、僧団において住んでいるとして、あるいは、独り、〔世に〕住んでいるとして、そして、すなわち、そこにおいて、善き境遇の者たちがあり、さらに、すなわち、そこにおいて、悪しき境遇の者たちがあり、かつまた、それらの者たちが、そこにおいて、衆に教示し、そして、すなわち、ここに、一部の者たちが、諸々の財貨のうちに現見され、さらに、すなわち、ここに、一部の者たちが、財貨によって汚されずにあるも、この尊者は、彼のことを、それによって見下さないからです。また、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「わたしは、恐怖なき〔境地〕によって止息した者として〔世に〕存しています。わたしは、恐怖によって止息した者ではなく〔世に〕存しています。貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しみません」』と。

 

489. 比丘たちよ、そこで、まさしく、如来が、より以上に質問されるべきです。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。

 

 『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。

 

 『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と。

 

 比丘たちよ、まさに、教師が、このように説く者であるなら、弟子として、法(教え)を聞くために、〔彼に〕近づいて行くに値します。彼に、教師は、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、比丘に、教師が、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)について、ここに、一部の法(教え)を証知して、諸々の法(教え)にたいし結論に至り、教師にたいし清信します。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である』と。比丘たちよ、もし、その比丘に、他者たちが、このように問うとします。『また、尊者には、どのような諸々の行相があり、どのような諸々の類推があり、それによって、尊者は、このように説くのですか。「世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である」』と。比丘たちよ、比丘は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『友よ、ここに、わたしは、法(教え)を聞くために、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。〔まさに〕その、わたしに、教師は、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、わたしに、教師が、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、わたしは、その法(教え)について、ここに、一部の法(教え)を証知して、諸々の法(教え)にたいし結論に至り、教師にたいし清信しました。「世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である」』と。

 

490. 比丘たちよ、すなわち、誰のものであれ、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立したものと成るなら、比丘たちよ、これは、行相があり、見を根元とし、堅固で、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、動かしようがない信と説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、如来について、法(真理)の正しい調査が有ります。また、そして、このように、如来は、法(真理)たることによって善く正しく調査された者として〔世に〕有ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 審査者の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(48). コーサンビーの者たちの経

 

491. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争(いいあらそい)を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。彼らは、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。彼らは、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、それらの比丘たちに告げなさい。『教師が、あなたたちを、尊者たちを、呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、あなたたちを、尊者たちを、呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるのですか。その〔あなたたち〕は、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づかないのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。その時点において、あなたたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるなら、さて、いったい、その時点において、あなたたちに、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有りますか。……略……慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有りますか。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有りますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その時点において、あなたたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるなら、その時点において、あなたたちに、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ることは、まさしく、ありません。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が……略……慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ることもありません。愚人たちよ、そこで、それなのに、どうして、あなたたちは、何を知りつつ、何を見つつ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むのですか。その〔あなたたち〕は、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません。愚人たちよ、まさに、それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。

 

492. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)のなかでは、これを至高のものとし、これが〔他の五つの記憶されるべき法を〕包摂するものとなり、これが〔他の五つの記憶されるべき法を〕集合するものとなります。すなわち、この、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる、すなわち、この見解です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家にとって、すなわち、この、屋頂が、これが至高のものとなり、これが〔家屋を〕包摂するものとなり、〔家屋を〕集合するものとなるように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの六つの記憶されるべき法(性質)のなかでは、これを至高のものとし、これが〔他の五つの記憶されるべき法を〕包摂するものとなり、これが〔他の五つの記憶されるべき法を〕集合するものとなります。すなわち、この、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる、すなわち、この見解です。

 

493. 比丘たちよ、では、どのように、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、わたしには、内に〔いまだ〕捨棄されていない、〔まさに〕その、妄執が存在するのだろうか──わたしが、その妄執に遍く取り囲まれた心の者となり、事実のとおりに覚知できず見られなくなる、〔その妄執が〕』と。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、この世についての思弁の追求者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、他の世についての思弁の追求者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしには、内に〔いまだ〕捨棄されていない、〔まさに〕その、妄執は存在しない──わたしが、その妄執に遍く取り囲まれた心の者となり、事実のとおりに覚知できず見られなくなる、〔その妄執は〕。わたしの意図は、諸々の真理()を覚るために善く志向されている』と。彼には、この第一の知恵()が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

494. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、わたしは、この見解を、習修し、修め、多く為しながら、各自に〔心の〕止寂を得ているのか、各自に寂滅〔の境処〕を得ているのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、この見解を、習修し、修め、多く為しながら、各自に〔心の〕止寂を得ている、各自に寂滅〔の境処〕を得ている』と。彼には、この第二の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

495. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の見解を具備した者として、わたしはあるが、いったい、まさに、存在するのだろうか──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、そのような形態の見解を具備した者は』と。彼は、このように覚知します。『そのような形態の見解を具備した者として、わたしはあるが、まさに、存在しない──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、そのような形態の見解を具備した者は』と。彼には、この第三の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

496. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。たとえ、何であれ、そのような形態の罪からの出起が覚知される、そのような形態の罪を惹起するなら、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示し、開顕し、明瞭と為します。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御を惹起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、あるいは、手で、あるいは、足で、炭に行き着いて、まさしく、すみやかに、引っ込めるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。たとえ、何であれ、そのような形態の罪からの出起が覚知される、そのような形態の罪を惹起するなら、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示し、開顕し、明瞭と為します。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御を惹起します。彼は、このように覚知します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者である』と。彼には、この第四の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

497. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。それが何であれ、すなわち、梵行を共にする者たちのための、それらの高下諸々の業務があるなら、そこにおいて、思い入れを惹起した者と成るも、そこで、まさに、彼には、卓越の戒への、卓越の心(瞑想)への、卓越の智慧への、強い期待〔の思い〕が有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、幼い子牛をもつ雌牛が、かつまた、草を引き抜き、かつまた、子牛を気遣うように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。それが何であれ、すなわち、梵行を共にする者たちのための、それらの高下諸々の業務があるなら、そこにおいて、思い入れを惹起した者と成るも、そこで、まさに、彼には、卓越の戒への、卓越の心(瞑想)への、卓越の智慧への、強い期待〔の思い〕が有ります。彼は、このように覚知します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者である』と。彼には、この第五の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

498. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、力たることがあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。彼は、このように覚知します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者である』と。彼には、この第六の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

499. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、力たることがあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。彼は、このように覚知します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者である』と。彼には、この第七の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。

 

500. 比丘たちよ、このように、まさに、七つの支分を具備した聖なる弟子に、法(真理)たることが善く正しく調査されたなら、預流果の実証のために成ります。比丘たちよ、このように、まさに、七つの支分を具備した聖なる弟子は、預流果を具備した者と成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 コーサンビーの者たちの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(49). 梵〔天〕の招待の経

 

501. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウッカッターに住んでいます。スバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、梵〔天〕のバカに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。『これは、常住である。これは、常恒である。これは、常久である。これは、全一である。これは、死滅なき法(性質)である。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、〔自らの〕心をとおして、梵〔天〕のバカの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ウッカッターのスバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において消没し、その梵の世に出現しました。比丘たちよ、まさに、梵〔天〕のバカは、わたしが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。敬愛なる方よ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、まさに、これは、常住です。これは、常恒です。これは、常久です。これは、全一です。これは、死滅なき法(性質)です。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しません。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しません』と。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、梵〔天〕のバカに、こう言いました。『ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、常住ならざるものとして存しているものを、「常住」と説き、まさしく、常恒ならざるものとして存しているものを、「常恒」と説き、まさしく、常久ならざるものとして存しているものを、「常久」と説き、まさしく、全一ならざるものとして存しているものを、「全一」と説き、まさしく、死滅ある法(性質)として存しているものを、「死滅なき法(性質)」と説くからです。さらに、また、そこにおいては、かつまた、生まれ、かつまた、老い、かつまた、死に、かつまた、死滅し、かつまた、再生するのに、しかしながら、それを、「まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない」と、そのように説くからです。また、さらに、他に、より上なる出離が存在しているのに、「他に、より上なる出離は存在しない」と説くからです』と。

 

502. 比丘たちよ、そこで、まさに、悪魔パーピマントが、或るひとりの梵〔天〕の会衆に憑依して、わたしに、こう言いました。『比丘よ、比丘よ、この者に近づいてはいけません。この者に近づいてはいけません。比丘よ、なぜなら、この梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父であるからです。比丘よ、まさに、すなわち、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──地を非難する者たちとして、地を忌避する者たちとして、水を非難する者たちとして、水を忌避する者たちとして、火を非難する者たちとして、火を忌避する者たちとして、風を非難する者たちとして、風を忌避する者たちとして、生類たちを非難する者たちとして、生類たちを忌避する者たちとして、天〔の神〕たちを非難する者たちとして、天〔の神〕たちを忌避する者たちとして、造物主を非難する者たちとして、造物主を忌避する者たちとして、梵〔天〕を非難する者たちとして、梵〔天〕を忌避する者たちとして。彼らは、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、下劣な身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、また、すなわち、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──地を賞賛する者たちとして、地を愉悦する者たちとして、水を賞賛する者たちとして、水を愉悦する者たちとして、火を賞賛する者たちとして、火を愉悦する者たちとして、風を賞賛する者たちとして、風を愉悦する者たちとして、生類を賞賛する者たちとして、生類を愉悦する者たちとして、天〔の神〕を賞賛する者たちとして、天〔の神〕を愉悦する者たちとして、造物主を賞賛する者たちとして、造物主を愉悦する者たちとして、梵〔天〕を賞賛する者たちとして、梵〔天〕を愉悦する者たちとして。彼らは、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、精妙なる身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「敬愛なる方よ、さあ、あなたは、まさしく、それを、梵〔天〕が、あなたに言ったなら、まさしく、それを、あなたは為しなさい。あなたは、梵〔天〕の言葉を超え行ってはいけません。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、梵〔天〕の言葉を超え行くなら、それは、たとえば、また、まさに、人が、やってきつつある吉祥を棒で退けるように、比丘よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、奈落の深淵に落ちつつある人が、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、地を失うように、比丘よ、このように、この成就が、あなたに有るでしょう。敬愛なる方よ、さあ、あなたは、まさしく、それを、梵〔天〕が、あなたに言ったなら、まさしく、それを、あなたは為しなさい。あなたは、梵〔天〕の言葉を超え行ってはいけません。比丘よ、まさに、あなたは、参集している梵の衆を見ないのですか」』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしを、悪魔パーピマントは、梵の衆のもとに連れて行きました。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、悪魔パーピマントに、こう言いました。『パーピマントよ、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは思い考えてはいけません。「わたしのことを、〔彼は〕知らない」と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、まさしく、そして、すなわち、梵〔天〕も、かつまた、すなわち、梵〔天〕の衆も、さらに、すなわち、梵〔天〕の会衆たちも、まさしく、全ての者たちが、あなたの手に落ちた者たちであり、まさしく、全ての者たちが、あなたの支配に赴いた者たちです。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。「この者もまた、わたしの手に落ちた者として存するであろう。この者もまた、わたしの支配に赴いた者として存するであろう」と。パーピマントよ、また、まさに、わたしは、まさしく、あなたの手に落ちた者でもなく、まさしく、あなたの支配に赴いた者でもありません』と。

 

503. 比丘たちよ、このように説かれたとき、梵〔天〕のバカは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、わたしは、まさしく、常住なるものとして存しているものを、「常住」と説きます。まさしく、常恒なるものとして存しているものを、「常恒」と説きます。まさしく、常久なるものとして存しているものを、「常久」と説きます。まさしく、全一なるものとして存しているものを、「全一」と説きます。まさしく、死滅なき法(性質)として存しているものを、「死滅なき法(性質)」と説きます。また、そして、そこにおいて、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しないなら、まさしく、それを、「まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない」と、わたしは説きます。また、さらに、他に、より上なる出離が存していないなら、「他に、より上なる出離は存在しない」と説きます。比丘よ、まさに、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました。すなわち、あなたの全寿命としてあるかぎりの、そのかぎりのものが、まさしく、彼らの苦行の行為として有りました。彼らは、まさに、このように知ります。また、そして、他に、より上なる出離が存しているなら、「他に、より上なる出離は存在する」と。あるいは、他に、より上なる出離が存していないなら、「他に、より上なる出離は存在しない」と。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「まさしく、そして、他に、より上なる出離を、〔あなたは〕見ないでしょうし、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、地に固執するなら、わたしの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、拒まれるべき者と〔成るでしょう〕。それで、もし、水に……火に……風に……生類たちに……天〔の神〕たちに……造物主に……梵〔天〕に固執するなら、わたしの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、拒まれるべき者と〔成るでしょう〕」』と。

 

 『梵〔天〕よ、わたしもまた、まさに、このように知ります。「それで、もし、地に固執するなら、あなたの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、拒まれるべき者と〔成るでしょう〕。それで、もし、水に……火に……風に……生類たちに……天〔の神〕たちに……造物主に……梵〔天〕に固執するなら、あなたの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、拒まれるべき者と〔成るでしょう〕」と。梵〔天〕よ、さらに、また、わたしは、あなたの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知します。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」』と。

 

 『敬愛なる方よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知するのですか。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」』と。

 

 『〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、月と日が、〔天空を〕行き渡り、方々に遍照しながら光り輝くかぎり、そのかぎりが、千種の世となる。ここにおいて、あなたの支配は転起する。

 

 そして、〔あなたは〕知る──彼此〔のあり方〕を、そこで、貪欲と離貪あるものを、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、有情たちの帰る所と赴く所を」と。

 

 梵〔天〕よ、このように、まさに、わたしは、あなたの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知します。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」と。

 

504. 梵〔天〕よ、まさに、他の身体が存在します。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、まさに、光音という名〔の天〕の身体が存在します。あなたは、そこから死滅し、ここに再生したのです。〔まさに〕その、あなたの、長過ぎる居住によって、その記憶は忘却され、それによって、あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、証知〔の観点〕によって、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、遍浄という名〔の天〕の身体が存在し、広果という名〔の天〕の身体が〔存在し〕、アビブー〔神〕という名の〔天の〕身体が〔存在します〕。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、証知〔の観点〕によって、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、地を、地〔の観点〕から証知して、およそ、地の地たることによって経験されないものがあるかぎり、それを証知して、地を誤認せず、地〔の観点〕によって誤認せず、地〔の観点〕から誤認せず、地を「わたしのものである」と誤認せず、地に迎合しませんでした。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、水を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、火を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、風を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、生類たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、天〔の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、造物主を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、梵〔天〕を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、光音〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、遍浄〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、広果〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、アビブー〔神〕を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、一切を、一切〔の観点〕から証知して、およそ、一切の一切たることによって経験されないものがあるかぎり、それを証知して、一切を誤認せず、一切〔の観点〕によって誤認せず、一切〔の観点〕から誤認せず、一切を「わたしのものである」と誤認せず、一切に迎合しませんでした。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです』と。

 

 『敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、一切の一切たることによって経験されないものがあるとして、それを証知して〔そののち〕、まさしく、まさに、あなたにとって、まさしく、〔それが〕空虚なるものと成ってはいけません。まさしく、〔それが〕虚妄なるものと成ってはいけません』と。

 

 『〔そこで、半偈に言う〕「識知〔作用〕(:認識作用)が外見なく終極なくある〔涅槃〕が、一切のものからの渡し場となる」と。

 

 それ(涅槃)は、地の地たることによって経験されないものであり、水の水たることによって経験されないものであり、火の火たることによって経験されないものであり、風の風たることによって経験されないものであり、生類たちの生類たることによって経験されないものであり、天〔の神々〕たちの天〔の神〕たることによって経験されないものであり、造物主の造物主たることによって経験されないものであり、梵〔天〕の梵〔天〕たることによって経験されないものであり、光音〔天の神々〕たちの光音〔天の神〕たることによって経験されないものであり、遍浄〔天の神々〕たちの遍浄〔天の神〕たることによって経験されないものであり、広果〔天の神々〕たちの広果〔天の神〕たることによって経験されないものであり、アビブー〔神〕のアビブー〔神〕たることによって経験されないものであり、一切の一切たることによって経験されないものです』〔と〕。

 

 『敬愛なる方よ、さあ、それでは、見たまえ。あなたの〔前から〕消没しましょう』と。『梵〔天〕よ、さあ、それでは、あなたは、わたしの〔前から〕消没しなさい。それで、もし、できるなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のバカは、『沙門ゴータマの〔前から〕消没するのだ。沙門ゴータマの〔前から〕消没するのだ』と、まさに、わたしの〔前から〕消没することが、まさしく、できません。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、梵〔天〕のバカに、こう言いました。『梵〔天〕よ、さあ、それでは、あなたの〔前から〕消没しましょう』と。『敬愛なる方よ、さあ、それでは、あなたは、わたしの〔前から〕消没しなさい。それで、もし、できるなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そのような形態の神通の行作を行作しました。『これだけの、かつまた、梵〔天〕が、かつまた、梵〔天〕の衆が、かつまた、梵〔天〕の会衆たちが、そして、わたしの音声を聞くも、しかしながら、わたしを見ない』と。消没した〔わたし〕は、この詩偈を語りました。

 

 〔すなわち〕『わたしは、まさしく、生存()のうちに恐怖を見て、さらに、生存から離れること(非有)を求める者たちの生存を〔見て〕、何であれ、生存に迎合せず、そして、愉悦〔の思い〕に執取しなかった』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、かつまた、梵〔天〕は、かつまた、梵〔天〕の衆は、かつまた、梵〔天〕の会衆たちは、稀有にして未曾有なる心の者たちと成りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門ゴータマの、偉大なる神通たることは。沙門ゴータマの、偉大なる威力たることは。そして、まさに、これより過去において、あるいは、見たことも、あるいは、聞いたことも、ない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、このように偉大なる神通ある者は、このように偉大なる威力ある者は。すなわち、この、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマのように。ああ、まさに、生存を喜びとし、生存を喜び、生存に歓喜する、〔世の〕人々があるなか、生存を、根ごと取り去った』と。

 

505. 比丘たちよ、そこで、まさに、悪魔パーピマントは、或るひとりの梵〔天〕の会衆に憑依して、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、このように覚知するなら、それで、もし、あなたが、このように随覚した者であるなら、弟子たちを導いてはいけません。出家者たちを〔導いては〕いけません。弟子たちに、法(教え)を説示してはいけません。出家者たちに、〔法を説示しては〕いけません。弟子たちにたいし、貪求を為してはいけません。出家者たちにたいし、〔貪求を為しては〕いけません。比丘よ、まさに、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──阿羅漢にして正等覚者と明言している者たちとして。彼らは、弟子たちを導きました。出家者たちを〔導きました〕。弟子たちに、法(教え)を説示しました。出家者たちに、〔法を説示しました〕。弟子たちにたいし、貪求を為しました。出家者たちにたいし、〔貪求を為しました〕。彼らは、弟子たちを導いて、出家者たちを〔導いて〕、弟子たちに、法(教え)を説示して、出家者たちに、〔法を説示して〕、弟子たちにたいし、貪求を為して、出家者たちにたいし、〔貪求を為して〕、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、下劣な身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、また(※)、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──阿羅漢にして正等覚者と明言している者たちとして。彼らは、弟子たちを導きませんでした。出家者たちを〔導き〕ませんでした。弟子たちに、法(教え)を説示しませんでした。出家者たちに、〔法を説示し〕ませんでした。弟子たちにたいし、貪求を為しませんでした。出家者たちにたいし、〔貪求を為し〕ませんでした。彼らは、弟子たちを導かずして、出家者たちを〔導か〕ずして、弟子たちに、法(教え)を説示せずして、出家者たちに、〔法を説示せ〕ずして、弟子たちにたいし、貪求を為さずして、出家者たちにたいし、〔貪求を為さ〕ずして、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、精妙なる身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「敬愛なる方よ、さあ、あなたは、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者として〔世に〕住みたまえ。敬愛なる方よ、まさに、善なるは、告知なくあること。他者に教諭してはいけません」』と。

 

※ テキストには ye pana とあるが、PTS版により ye を削除する。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、悪魔パーピマントに、こう言いました。『パーピマントよ、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは思い考えてはいけません。「わたしのことを、〔彼は〕知らない」と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、あなたは、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに、このように説くのではありません。パーピマントよ、あなたは、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに、このように説きます。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。「それらの者たちに、沙門ゴータマが、法(教え)を説示するなら、それらの者たちは、わたしの境域を超え行くであろう」と。パーピマントよ、また、彼らは、まさしく、正等覚者ならざる者たちであり、〔そのように〕存しつつ、「正等覚者たちとして、〔わたしたちは〕存している」と明言しました。パーピマントよ、また、まさに、わたしは、まさしく、正等覚者であり、〔そのように〕存しつつ、「正等覚者として、〔わたしは〕存している」と明言します。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちに、法(教え)を説示しながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちに、法(教え)を説示せずにいながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちを導きながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちを導かずにいながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。それは、何を因とするのですか。パーピマントよ、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。パーピマントよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、パーピマントよ、まさしく、このように、まさに、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります』」と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。かつまた、悪魔の話しかけによらず、しかしながら、梵〔天〕の招待によることから、それゆえに、この説き明かしには、まさしく、「梵〔天〕の招待」という名辞がある、ということです。

 

 梵〔天〕の招待の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(50). 責め咎められるべき悪魔の経

 

506. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・モッガッラーナは、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナは、野外において、歩行瞑想をします。また、まさに、その時点にあって、悪魔パーピマントは、尊者マハー・モッガッラーナの、腹に至り腹部に入り込んだ状態でいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どうして、わたしの腹は、重々しいのだ。思うに、豆が詰め込まれたかのように」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、歩行場から降りて、精舎に入って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、各自に根源のままに意を為しました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントが、腹に至り腹部に入り込んでいるのを見ました。見て、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知らずにいながら、見ずにいながら、このように言った。『パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません』と。すなわち、また、彼のその教師も、彼もまた、わたしのことを、まさしく、すみやかに知ることはない。また、どうして、わたしのことを、この沙門が知るというのだろう」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、このようにもまた、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは、思い考えてはいけません。『わたしのことを、〔彼は〕知らない』と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知らずにいながら、見ずにいながら、このように言った。「パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。すなわち、また、彼のその教師も、彼もまた、わたしのことを、まさしく、すみやかに知ることはない。また、どうして、わたしのことを、この沙門が知るというのだろう』」と。

 

 そこで、まさに、悪魔パーピマントに、まさに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知りながら(※)、見ながら、このように言った。『パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません』」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、尊者マハー・モッガッラーナの口から飛び出して、喉のうえに立ちました。

 

※ テキストには jāname とあるが、PTS版により jānameva と読む。

 

507. まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントが、喉のうえに立っているのを見ました。見て、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、ここにおいてもまた、まさに、あなたのことを、わたしは見ます。あなたは思い考えてはいけません。『わたしのことを、〔彼は〕見ない』と。パーピマントよ、〔まさに〕その、あなたは、喉のうえに立っています。パーピマントよ、過去の事(過去世)ですが、〔わたしは〕ドゥーシンという名の悪魔として〔世に〕有りました。〔まさに〕その、わたしには、カーリーという名の姉妹がいます。あなたは、彼女の子です。〔まさに〕その、あなたは、わたしの甥として〔世に〕有りました。パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。パーピマントよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ヴィドゥラとサンジーヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。パーピマントよ、また、まさに、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊の弟子たちとしてあるかぎり、そして、彼らのうちに、誰であれ、尊者ヴィドゥラと等しく同等の者は有りません。すなわち、この、法(教え)の説示において。パーピマントよ、まさに、このように、これを転機にして、尊者ヴィドゥラには、まさしく、『ヴィドゥラ(無比)』という呼称が生起しました。

 

 パーピマントよ、また、尊者サンジーヴァは、林に赴くもまた、木の根元に赴くもまた、空家に赴くもまた、まさしく、難少なく、表象と感覚の止滅(想受滅)に入定します。パーピマントよ、過去の事ですが、尊者サンジーヴァは、或るどこかの木の根元において、表象と感覚の止滅に入定し、坐った状態でいます。パーピマントよ、まさに、牛飼いたちは、牧畜者たちは、耕作者たちは、道行く者たちは、尊者サンジーヴァが、或るどこかの木の根元において、表象と感覚の止滅に入定し、坐っているのを見ました。見て、彼らに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この沙門は、まさしく、坐った者でありながら、命を終えたのだ。さあ、彼を焼くのだ』と。パーピマントよ、そこで、まさに、それらの、牛飼いたちは、牧畜者たちは、耕作者たちは、道行く者たちは、そして、草を、かつまた、薪を、さらに、牛糞を、〔それらを〕寄せ集めて、尊者サンジーヴァの身体に積み上げて、火を点けて立ち去りました。パーピマントよ、そこで、まさに、尊者サンジーヴァは、その夜が明けると、その入定から出起して、諸々の衣料を打ち払って、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、村に〔行乞の〕食のために入りました。パーピマントよ、まさに、それらの、牛飼いたちは、牧畜者たちは、耕作者たちは、道行く者たちは、尊者サンジーヴァが、〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。見て、彼らに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この沙門は、まさしく、坐った者でありながら、命を終えたのだ。〔まさに〕その、この者が、蘇生したのだ(パティサンジーヴィタ)』と。パーピマントよ、まさに、このように、これを転機にして、尊者サンジーヴァには、まさしく、『サンジーヴァ』という呼称が生起しました。

 

508. パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの比丘たちの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、まさしく、知らない。それなら、さあ、わたしは、婆羅門や家長たちに憑依するのだ。さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、それらの婆羅門や家長たちに憑依しました。『さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。

 

 パーピマントよ、そこで、まさに、それらの婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依され、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます。『さてまた、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、梟が、木の枝で、鼠を狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、野狐が、川の岸で、魚たちを狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、山猫が、隙間やどぶやごみためで、鼠を狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、流水で〔道を〕断ち切られた驢馬が、隙間やどぶやごみためで、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する』と。

 

 パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、すなわち、人間たちが命を終えるなら、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

509. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依されました。「さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに」と。比丘たちよ、さあ、あなたたちは、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい』と。

 

 パーピマントよ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊によって、このように教諭され、このように教示されつつ、林に赴いた者たちもまた、木の根元に赴いた者たちもまた、空家に赴いた者たちもまた、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。

 

510. パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔に、この〔思い〕が有りました。『このようにもまた、まさに、わたしは、為しつつあるも、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの比丘たちの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、まさしく、知らない。それなら、さあ、わたしは、婆羅門や家長たちに憑依するのだ。さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、それらの婆羅門や家長たちに憑依しました。『さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、それらの婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依され、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。

 

 パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、すなわち、人間たちが命を終えるなら、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

511. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依されました。「さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに」と。比丘たちよ、さあ、あなたたちは、身体についての不浄の随観ある者たちとして、食についての嫌悪の表象ある者たちとして、一切の世についての歓楽なき表象ある者たちとして、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者たちとして、〔世に〕住みなさい』と。

 

 パーピマントよ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊によって、このように教諭され、このように教示されつつ、林に赴いた者たちもまた、木の根元に赴いた者たちもまた、空家に赴いた者たちもまた、身体についての不浄の随観ある者たちとして、食についての嫌悪の表象ある者たちとして、一切の世についての歓楽なき表象ある者たちとして、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者たちとして、〔世に〕住みました。

 

512. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者ヴィドゥラを随伴の沙門として、村に〔行乞の〕食のために入りました。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、或るひとりの童子に憑依して、小石を掴んで、尊者ヴィドゥラの頭に、打撃を与えました。頭は破れ裂けました。パーピマントよ、そこで、まさに、尊者ヴィドゥラは、破断し血が滴り出る頭で、背後から背後へと、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊に付き従いました。パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、象が観照するように観照しました。『この者は、ドゥーシン悪魔は、量を了知しなかった』と。パーピマントよ、また、そして、観照すると共に、ドゥーシン悪魔は、そして、その地から死滅し、さらに、大いなる地獄に再生しました。

 

 パーピマントよ、また、まさに、その大いなる地獄には、三つの命名が有ります。『六つの接触ある〔認識の〕場所あるもの』ともまた、『杭が打たれたもの』ともまた、『各自それぞれに感受されるべきもの』ともまた。パーピマントよ、そこで、まさに、わたしに、地獄の番人たちは、近づいて行って、こう言いました。『おまえさんよ、すなわち、まさに、おまえの心臓において、杭と杭が出会うとき、そこで、おまえは、それを知るであろう。「千年のあいだ、わたしは、地獄において煮られている」』と。パーピマントよ、それで、まさに、わたしは、幾年、幾百年、幾千年のあいだ、その地獄において煮られました。まさしく、その大いなる地獄の、増長〔地獄〕においては、一万年のあいだ、出起という名の感受を感受しながら煮られました。パーピマントよ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の、それは、すなわち、また、人間のような身体が有り、このような形態の、それは、すなわち、また、魚のような頭が有ります。

 

513. 〔そこで、詩偈に言う〕『〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥーシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、どのようなものとして存していたのか。

 

 百の鉄杭は、〔それらの〕全てが、各自それぞれに〔苦痛の〕感受あるものとして存していた。〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥーシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、このようなものとして存していた。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ止住する諸々の宮殿が、海の中に立つ──瑠璃色の好ましき〔諸々の宮殿〕が、火炎の光輝ある〔諸々の宮殿〕が。そこにおいて、種々なる色艶ある仙女たちが多々に舞う。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 彼は、まさに、覚者に促され、比丘の僧団が見ているところで、ミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)を、足の親指で動かした。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼(最勝講堂)を、足の親指で動かした。神通の力に支えられ、そして、天神たちを畏怖させた。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 すなわち、彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼において、帝釈〔天〕に遍く尋ねる。「さて、ヴァーサヴァ(帝釈天)よ、〔あなたは〕渇愛の滅尽という諸々の解脱〔の境地〕を知りますか」〔と〕。彼に、帝釈〔天〕は説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 彼は、スダンマー〔の集会場〕(善法講堂)の集会のただなかで、梵〔天〕に遍く尋ねる。「友よ、〔まさに〕その、かつて有った、あなたの見解ですが、〔その〕見解は、今日もまた、あなたに〔有りますか〕(あなたの見解は以前のままですか)。梵の世(梵天界)における光り輝きが離転しつつあるのを、〔あなたは〕見ますか(あなたの光輝が徐々に消滅するのを認めますか)」〔と〕。

 

 梵〔天〕は、彼に説き明かした──順次に、真実のとおりに。「敬愛なる方よ、〔まさに〕その、かつて有った、わたしの見解ですが、その見解は、わたしに〔有り〕ません。

 

 梵の世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔わたしは〕見ます。〔まさに〕その、わたしが、今日、どうして、〔かつてのように〕『わたしは、常住にして常久なる者として〔世に〕存している』〔と〕説くというのでしょう」〔と〕。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 彼は、解脱〔の神知〕によって、大いなるネール(須弥山)の峰に触れた──プッバヴィデーハ(東勝身:須弥山の東方に位置する大陸)の者たちの林に、さらに、すなわち、人として、地に臥す者たちであるなら、〔彼らの全てに〕。

 

 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦を受けるのだ。

 

 火は、まさに、思わない──「わたしは、愚者を焼く」と。そして、愚者は、その燃える火を襲って、彼は焼かれるのだ。

 

 悪魔よ、まさしく、このように、おまえは、如来である彼を襲って、火に触れる愚者のように、自ら、自己を焼くであろう。

 

 悪魔は、如来である彼を襲って、善ならざる〔報い〕を生んだ。パーピマントよ、「わたしに、悪〔の報い〕は実らない」〔と〕、いったい、何を、思いなすのだ。

 

 死神よ、長夜にわたり、〔悪を〕為していると、〔その〕悪は蓄積される。悪魔よ、覚者から厭い離れよ。比丘たちにたいし、〔悪しき〕願望を為してはならない』」〔と〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、比丘は、ベーサカラー林において、悪魔を一喝した。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、その場において(※)、消没した」と。

 

※ テキストには natattheva とあるが、PTS版により tattheva と読む。

 

 責め咎められるべき悪魔の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 小なる対なるものの章は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、サーラー〔村〕の者たちとヴェーランジャ〔村〕の者たちと二つの満足、さらに、小なると大いなる法(教え)の受持、そして、審査者とコーサンビーの者たちと婆羅門、さらに、第十のものとして、そして、ドゥーシン悪魔があり、章となる」〔と〕。

 

 サーラー〔村〕の者たちの章は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

 これが、〔五つの〕章のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、根元の教相、さらに、最上の獅子吼、まさしく、そして、鋸、ゴーシンガ、さらに、サーラー〔村〕の者たちがあり、これらの五つがある」〔と〕。

 

 根元の五十なるものは〔以上で〕完結となる。