相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 大いなるものの部(大篇)

 

【目次】

 

1(45). 道に相応するもの(1.~)

 

1. 無明の章(1.~)

 

1. 無明の経

2. 半分の経

3. サーリプッタの経

4. ジャーヌッソーニ婆羅門の経

5. 「何を義として」の経

6. 第一の或るひとりの比丘の経

7. 第二の或るひとりの比丘の経

8. 区分の経

9. 穂先の経

 

2. 住の章(11.~)

 

1. 第一の住の経

2. 第二の住の経

3. 〔いまだ〕学びある者の経

4. 第一の生起の経

5. 第二の生起の経

6. 第一の完全なる清浄の経

7. 第二の完全なる清浄の経

8. 第一のクックタ〔長者〕の林園の経

9. 第二のクックタ〔長者〕の林園の経

10. 第三のクックタ〔長者〕の林園の経

 

3. 誤った〔道〕たることの章(21.~)

 

1. 誤った〔道〕たることの経

2. 善ならざる法の経

3. 第一の〔実践の〕道の経

4. 第二の〔実践の〕道の経

5. 第一の正ならざる人士の経

6. 第二の正ならざる人士の経

7. 瓶の経

8. 禅定の経

9. 感受の経

10. ウッティヤの経

 

4. 実践の章(31.~)

 

1. 第一の実践の経

2. 第二の実践の経

3. 亡失されたものの経

4. 彼岸に至るものの経

5. 第一の沙門の資質の経

6. 第二の沙門の資質の経

7. 第一の婆羅門の資質の経

8. 第二の婆羅門の資質の経

9. 第一の梵行の経

10. 第二の梵行の経

 

5. 〔教えを〕他にする異教の者たちと省略〔の経典〕の章(41.~)

 

1. 貪欲の離貪の経

2-7. 束縛の捨棄等の経の六なるもの

8. 〔何も〕執取せずして完全なる涅槃の経

 

6. 太陽と省略〔の経典〕の章(49.~)

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

7. 一つの法と省略〔の経典〕の章(63.~)

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

8. 第二の一つの法と省略〔の経典〕の章(77.~)

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

1. 善き朋友の経

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

7. 根源のままに意を為すことの経

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(91.~)

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

2-5. 第二の東に向かい行くもの等の経の四なるもの

6. 第六の東に向かい行くものの経

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

2. 第二のガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(103.~)

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

5. 不放逸と省略〔の経典〕の章(139.~)

 

1. 如来の経

2. 足跡の経

3-7. 屋頂等の経の五なるもの

8-10. 月等の経の三なるもの

 

6. 力によって為されるべきことの章(149.~)

 

1. 力の経

2. 種子の経

3. 龍の経

4. 木の経

5. 瓶の経

6. 穂先の経

7. 虚空の経

8. 第一の雨雲の経

9. 第二の雨雲の経

10. 船の経

11. 来客の経

12. 川の経

 

7. 探し求めの章(161.~)

 

1. 探し求めの経

2. 様相の経

3. 煩悩の経

4. 生存の経

5. 苦性の経

6. 鬱積の経

7. 垢の経

8. 煩悶の経

9. 感受の経

10. 渇愛(タンハー)の経

11. 渇愛(タシナー)の経

 

8. 激流の章(172.~)

 

1. 激流の経

2. 束縛の経

3. 執取の経

4. 拘束の経

5. 悪習の経

6. 欲望の属性の経

7. 〔修行の〕妨害の経

8. 執取の範疇の経

9. 下なる域の経

10. 上なる域の経

 

2(46). 覚りの支分に相応するもの(182.~)

 

1. 山の章(182.~)

 

1. ヒマヴァントの経

2. 身体の経

3. 戒の経

4. 衣の経

5. 比丘の経

6. クンダリヤの経

7. 屋頂の経

8. ウパヴァーナの経

9. 第一の〔いまだ〕生起していないものの経

10. 第二の〔いまだ〕生起していないものの経

 

2. 病者の章(192.~)

 

1. 命あるものたちの経

2. 第一の太陽の喩えの経

3. 第二の太陽の喩えの経

4. 第一の病者の経

5. 第二の病者の経

6. 第三の病者の経

7. 彼岸に至るものの経

8. 亡失されたものの経

9. 聖なるものの経

10. 厭離の経

 

3. ウダーインの章(202.~)

 

1. 「覚りのために」の経

2. 覚りの支分の説示の経

3. 止住するべきものの経

4. 根源のままならずに意を為すことの経

5. 遍き衰退とならないものの経

6. 渇愛の滅尽の経

7. 渇愛の止滅の経

8. 厭離を部分とするものの経

9. 一つの法の経

10. ウダーインの経

 

4. 〔修行の〕妨害の章(212.~)

 

1. 第一の善なるものの経

2. 第二の善なるものの経

3. 付随する〔心の〕汚れの経

4. 付随する〔心の〕汚れならざるものの経

5. 根源のままならずに意を為すことの経

6. 根源のままに意を為すことの経

7. 増大の経

8. 〔修行の〕妨げと〔修行の〕妨害の経

9. 木の経

10. 〔修行の〕妨害の経

 

5. 転輪の章(222.~)

 

1. 様相の経

2. 転輪の経

3. 悪魔の経

4. 智慧浅き者の経

5. 智慧ある者の経

6. 貧者の経

7. 貧者ならざる者の経

8. 太陽の経

9. 内なる支分の経

10. 外なる支分の経

 

6. 論議の章(232.~)

 

1. 食の経

2. 教相の経

3. 火の経

4. 慈愛〔の思い〕を共具したものの経

5. サンガーラヴァの経

6. アバヤの経

 

7. 呼吸の章(238.~)

 

1. 骨となったものの大いなる果の経

2. 蛆虫まみれのものの経

3. 青黒くなったものの経

4. 切断されたものの経

5. 膨張したものの経

6. 慈愛〔の心〕の経

7. 慈悲〔の心〕の経

8. 歓喜〔の心〕の経

9. 放捨〔の心〕の経

10. 呼吸の経

 

8. 止滅の章(248.~)

 

1. 不浄の経

2. 死の経

3. 食についての嫌悪の経

4. 歓楽なきものの経

5. 無常の経

6. 苦痛の経

7. 無我の経

8. 捨棄の経

9. 離貪の経

10. 止滅の経

 

9. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(258.~)

 

1-12. ガンガー川等の経

 

10. 不放逸の章(270.~)

 

1-10. 如来等の経

 

11. 力によって為されるべきことの章(280.~)

 

1-12. 力等の経

 

12. 探し求めの章(292.~)

 

1-10. 探し求め等の経

 

13. 激流の章(302.~)

 

1-9. 激流等の経

10. 上なる域の経

 

14. さらなるガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(312.~)

15. さらなる不放逸の章(324.~)

16. さらなる力によって為されるべきことの章(334.~)

17. さらなる探し求めの章(346.~)

18. さらなる激流の章(357.~)

 

3(47). 気づきの確立に相応するもの(367.~)

 

1. アンバパーリーの章(367.~)

 

1. アンバパーリーの経

2. 気づきの経

3. 比丘の経

4. サーラーの経

5. 善ならざるものの集まりの経

6. 鷹の経

7. 猿の経

8. 料理人の経

9. 病者の経

10. 比丘尼の在所の経

 

2. ナーランダーの章(377.~)

 

1. 偉大なる人士の経

2. ナーランダーの経

3. チュンダの経

4. ウッカチェーラーの経

5. バーヒヤの経

6. ウッティヤの経

7. 聖なるものの経

8. 梵〔天〕の経

9. セーダカの経

10. 国土の美女の経

 

3. 戒と止住の章(387.~)

 

1. 戒の経

2. 長き止住の経

3. 遍き衰退の経

4. 単純なるものの経

5. 或るひとりの婆羅門の経

6. 部分の経

7. 完全の経

8. 世の経

9. シリヴァッダの経

10. マーナディンナの経

 

4. 聞かれたことなきものの章(397.~)

 

1. 聞かれたことなきものの経

2. 離貪の経

3. 亡失されたものの経

4. 修められたものの経

5. 気づきの経

6. 了知の経

7. 欲〔の思い〕の経

8. 遍知の経

9. 修行の経

10. 区分の経

 

5. 不死の章(407.~)

 

1. 不死の経

2. 集起の経

3. 道の経

4. 気づきの経

5. 善なるものの集まりの経

6. 戒条による統御の経

7. 悪しき行ないの経

8. 朋友の経

9. 感受の経

10. 煩悩の経

 

6. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(417.~)

 

1-12. ガンガー川等の経の十二なるもの

 

7. 不放逸の章(429.~)

 

1-10. 如来等の経の十なるもの

 

8. 力によって為されるべきことの章(439.~)

 

1-12. 力等の経の十二なるもの

 

9. 探し求めの章(451.~)

 

1-10. 探し求め等の経の十なるもの

 

10. 激流の章(461.~)

 

1-10. 上なる域等の経の十なるもの

 

4(48). 機能に相応するもの(471.~)

 

1. 単純なるものの章(471.~)

 

1. 単純なるものの経

2. 第一の預流たる者の経

3. 第二の預流たる者の経

4. 第一の阿羅漢の経

5. 第二の阿羅漢の経

6. 第一の沙門や婆羅門たちの経

7. 第二の沙門や婆羅門たちの経

8. 見られるべきものの経

9. 第一の区分の経

10. 第二の区分の経

 

2. より柔弱なるものの章(481.~)

 

1. 獲得の経

2. 第一の簡略の経

3. 第二の簡略の経

4. 第三の簡略の経

5. 第一の詳細の経

6. 第二の詳細の経

7. 第三の詳細の経

8. 実践する者の経

9. 成就者の経

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

3. 六つの機能の章(491.~)

 

1. さらなる生存の経

2. 生命の機能の経

3. 了知の機能の経

4. 一つの種ある者の経

5. 単純なるものの経

6. 預流たる者の経

7. 阿羅漢の経

8. 正覚者の経

9. 第一の沙門や婆羅門たちの経

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

4. 安楽の機能の章(501.~)

 

1. 単純なるものの経

2. 預流たる者の経

3. 阿羅漢の経

4. 第一の沙門や婆羅門たちの経

5. 第二の沙門や婆羅門たちの経

6. 第一の区分の経

7. 第二の区分の経

8. 第三の区分の経

9. 薪の喩えの経

10. 次第次第のものの経

 

5. 老の章(511.~)

 

1. 老の法の経

2. ウンナーバ婆羅門の経

3. サーケータの経

4. プッバコッタカの経

5. 第一の東の林園の経

6. 第二の東の林園の経

7. 第三の東の林園の経

8. 第四の東の林園の経

9. ピンドーラ・バーラドヴァージャの経

10. アーパナの経

 

6. スーカラカターの章(521.~)

 

1. サーラーの経

2. マッラの経

3. 〔いまだ〕学びある者の経

4. 足跡の経

5. 芯の経

6. 確立した者の経

7. 梵〔天〕のサハンパティの経

8. スーカラカターの経

9. 第一の生起の経

10. 第二の生起の経

 

7. 覚りの項目の章(531.~)

 

1. 束縛の経

2. 悪習の経

3. 遍知の経

4. 諸々の煩悩の滅尽の経

5. 第一の果の経

6. 第二の果の経

7. 第一の木の経

8. 第二の木の経

9. 第三の木の経

10. 第四の木の経

 

8. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(541.~)

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

12. 激流の章(587.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

13. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(597.~)

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

17. 激流の章(641.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

5(49). 正しい精励に相応するもの(651.~)

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(651.~)

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

2. 不放逸の章(663.~)

3. 力によって為されるべきことの章(673.~)

 

1-12. 力によって為されるべきこと等の経の十二なるもの

 

4. 探し求めの章(685.~)

 

1-10. 探し求め等の経の十なるもの

 

12. 激流の章(695.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

6(50). 力に相応するもの(705.~)

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(705.~)

 

1-12. 力の経等の十二なるもの

 

2. 不放逸の章(717.~)

5. 激流の章(749.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

6. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(759.~)

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

9. 探し求めの章(793.~)

 

1-12. 探し求め等の経の十なるもの

 

10. 激流の章(803.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

7(51). 神通の足場に相応するもの(813.~)

 

1. チャーパーラの章(813.~)

 

1. 此岸の経

2. 亡失されたものの経

3. 聖なるものの経

4. 厭離の経

5. 神通の部分の経

6. 完全なるものの経

7. 比丘たちの経

8. 覚者の経

9. 知恵の経

10. 塔廟の経

 

2. 高楼の動転の章(823.~)

 

1. 過去の経

2. 大いなる果の経

3. 欲〔の思い〕の禅定の経

4. モッガッラーナの経

5. ウンナーバ婆羅門の経

6. 第一の沙門や婆羅門たちの経

7. 第二の沙門や婆羅門たちの経

8. 比丘の経

9. 神通等の説示の経

10. 区分の経

 

3. 鉄の玉の章(833.~)

 

1. 道の経

2. 鉄の玉の経

3. 比丘の経

4. 単純なるものの経

5. 第一の果の経

6. 第二の果の経

7. 第一のアーナンダの経

8. 第二のアーナンダの経

9. 第一の比丘たちの経

10. 第二の比丘たちの経

11. モッガッラーナの経

12. 如来の経

 

4. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(845.~)

 

1-12. ガンガー川等の経の十二なるもの

 

8. 激流の章(889.~)

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

8(52). アヌルッダに相応するもの(899.~)

 

1. 静所に赴いた者の章(899.~)

 

1. 第一の静所に赴いた者の経

2. 第二の静所に赴いた者の経

3. スタヌ〔池〕の経

4. 第一のカンダキンの経

5. 第二のカンダキンの経

6. 第三のカンダキンの経

7. 渇愛の滅尽の経

8. サララ堂の経

9. アンバパーリーの林の経

10. 激しい病の者の経

 

2. 第二の章(909.~)

 

1. 千のカッパの経

2. 神通の種類の経

3. 天耳の経

4. 心の探知の経

5. 状況の経

6. 行為の受持の経

7. 一切所に至るものの経

8. 種々なる界域の経

9. 種々なる信念の経

10. 機能の上下なることの経

11. 瞑想等の経

12. 過去における居住の経

13. 天眼の経

14. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

9(53). 瞑想に相応するもの(923.~)

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(923.~)

 

1-12. 瞑想等の経の十二なるもの

 

5. 激流の章(967.~)

 

1-10. 激流等の経

 

10(54). 呼吸に相応するもの(977.~)

 

1. 一つの法の章(977.~)

 

1. 一つの法の経

2. 覚りの支分の経

3. 単純なるものの経

4. 第一の果の経

5. 第二の果の経

6. アリッタの経

7. マハー・カッピナの経

8. 灯明の喩えの経

9. ヴェーサーリーの経

10. キミラの経

 

2. 第二の章(987.~)

 

1. イッチャーナンガラの経

2. 疑うべきものの経

3. 第一のアーナンダの経

4. 第二のアーナンダの経

5. 第一の比丘たちの経

6. 第二の比丘たちの経

7. 束縛の捨棄の経

8. 悪習の根絶の経

9. 時間の遍知の経

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

11(55). 預流に相応するもの(997.~)

 

1. ヴェールドヴァーラの章(997.~)

 

1. 転輪王の経

2. 梵行への沈潜の経

3. ディーガーヴ在俗信者の経

4. 第一のサーリプッタの経

5. 第二のサーリプッタの経

6. 棟梁たちの経

7. ヴェールドヴァーラの者たちの経

8. 第一の煉瓦作りの居住所の経

9. 第二の煉瓦作りの居住所の経

10. 第三の煉瓦作りの居住所の経

 

2. 王の林園の章(1007.~)

 

1. 千の比丘尼の僧団の経

2. 婆羅門たちの経

3. アーナンダ長老の経

4. 悪趣の恐怖の経

5. 悪趣と堕所の恐怖の経

6. 第一の朋友や僚友たちの経

7. 第二の朋友や僚友たちの経

8. 第一の天の遊行の経

9. 第二の天の遊行の経

10. 第三の天の遊行の経

 

3. サラナーニの章(1017.~)

 

1. 第一のマハー・ナーマの経

2. 第二のマハー・ナーマの経

3. 釈迦〔族〕のゴーダーの経

4. 第一の釈迦〔族〕のサラナーニの経

5. 第二の釈迦〔族〕のサラナーニの経

6. 第一のアナータピンディカの経

7. 第二のアナータピンディカの経

8. 第一の恐怖と怨念が寂止したものの経

9. 第二の恐怖と怨念が寂止したものの経

10. リッチャヴィ〔族〕のナンダカの経

 

4. 功徳が流れ行くものの章(1027.~)

 

1. 第一の功徳が流れ行くものの経

2. 第二の功徳が流れ行くものの経

3. 第三の功徳が流れ行くものの経

4. 第一の天の境処の経

5. 第二の天の境処の経

6. 天の同僚の経

7. マハー・ナーマの経

8. 雨の経

9. カーリゴーダーの経

10. 釈迦〔族〕のナンディヤの経

 

5. 詩偈を有する功徳が流れ行くものの章(1037.~)

 

1. 第一の流れ行くものの経

2. 第二の流れ行くものの経

3. 第三の流れ行くものの経

4. 第一の大いなる財産の経

5. 第二の大いなる財産の経

6. 単純なるものの経

7. ナンディヤの経

8. バッディヤの経

9. マハー・ナーマの経

10. 支分の経

 

6. 智慧を有する者の章(1047.~)

 

1. 詩偈を有するものの経

2. 雨期を過ごした者の経

3. ダンマディンナの経

4. 病者の経

5. 預流果の経

6. 一来果の経

7. 不還果の経

8. 阿羅漢果の経

9. 智慧の獲得の経

10. 智慧の増大の経

11. 智慧の広大の経

 

7. 大いなる智慧の章(1058.~)

 

1. 大いなる智慧の経

2. 多々なる智慧の経

3. 広大なる智慧の経

4. 深遠なる智慧の経

5. 不放逸の智慧の経

6. 広き智慧の経

7. 智慧の多大の経

8. 即座なる智慧の経

9. 軽快なる智慧の経

10. 敏速なる智慧の経

11. 疾走する智慧の経

12. 鋭敏なる智慧の経

13. 洞察の智慧の経

 

12(56). 真理に相応するもの(1071.~)

 

1. 禅定の章(1071.~)

 

1. 禅定の経

2. 静坐の経

3. 第一の良家の子息たちの経

4. 第二の良家の子息たちの経

5. 第一の沙門や婆羅門たちの経

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

7. 思考の経

8. 思弁の経

9. 口論となる議論の経

10. 畜生の議論の経

 

2. 法の輪の転起の章(1081.~)

 

1. 法の輪の転起の経

2. 如来たちの経

3. 範疇の経

4. 内なる〔認識の〕場所の経

5. 第一の保持の経

6. 第二の保持の経

7. 無明の経

8. 明知の経

9. 顕示の経

10. 真実の経

 

3. コーティ村の章(1091.~)

 

1. 第一のコーティ村の経

2. 第二のコーティ村の経

3. 正等覚者の経

4. 阿羅漢の経

5. 諸々の煩悩の滅尽の経

6. 朋友の経

7. 真実の経

8. 世の経

9. 遍知されるべきものの経

10. ガバンパティの経

 

4. シーサパー林の章(1101.~)

 

1. シーサパー林の経

2. カディラの葉の経

3. 棒の経

4. 衣の経

5. 百の槍の経

6. 命あるものの経

7. 第一の太陽の経

8. 第二の太陽の経

9. インダの杭の経

10. 論を義とする者たちの経

 

5. 深淵の章(1111.~)

 

1. 世についての思弁の経

2. 深淵の経

3. 大いなる苦悶の経

4. 楼閣の経

5. 毛の経

6. 暗黒の経

7. 第一の穴がある軛の経

8. 第二の穴がある軛の経

9. 第一の山の王たるシネールの経

10. 第二の山の王たるシネールの経

 

6. 知悉の章(1121.~)

 

1. 爪先の経

2. 蓮池の経

3. 第一の合流の経

4. 第二の合流の経

5. 第一の大いなる地の経

6. 第二の大いなる地の経

7. 第一の大いなる海の経

8. 第二の大いなる海の経

9. 第一の山の喩えの経

10. 第二の山の喩えの経

 

7. 第一の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章(1131.~)

 

1. 「他に」の経

2. 辺境の経

3. 智慧の経

4. 穀物酒の経

5. 水の経

6. 母を敬う者たちの経

7. 父を敬う者たちの経

8. 沙門の資質ある者たちの経

9. 婆羅門の資質ある者たちの経

10. 敬う者たちの経

 

8. 第二の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章(1141.~)

 

1. 命あるものを殺すことの経

2. 与えられていないものを取ることの経

3. 諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの経

4. 虚偽を説くことの経

5. 中傷の経

6. 粗暴な言葉の経

7. 雑駁な虚論の経

8. 種子類の経

9. 非時に食事することの経

10. 香料や塗料の経

 

9. 第三の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章(1151.~)

 

1. 舞踏と歌詠の経

2. 高い臥具の経

3. 金や銀の経

4. 生の穀物の経

5. 生の肉の経

6. 少女の経

7. 奴婢や奴隷の経

8. 山羊や羊の経

9. 鶏や豚の経

10. 象や牛や馬の経

 

10. 第四の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章(1161.~)

 

1. 田畑や地所の経

2. 売買の経

3. 使者の経

4. 秤の詐欺の経

5. 賄賂の経

6-11. 切断等の経

 

11. 五つの境遇と省略〔の経典〕の章(1172.~)

 

1. 人間〔の世〕からの死滅と地獄の経

2. 人間〔の世〕からの死滅と畜生の経

3. 人間〔の世〕からの死滅と餓鬼の境域の経

4-5-6. 人間〔の世〕からの死滅と天〔の神々〕たちと地獄等の経

7-9. 天〔の世〕からの死滅と地獄等の経

10-12. 天〔の世〕から人間たちと地獄等の経

13-15. 地獄から人間たちと地獄等の経

16-18. 地獄から天〔の神々〕たちと地獄等の経

19-21. 畜生から人間たちと地獄等の経

22-24. 畜生から天〔の神々〕たちと地獄等の経

25-27. 餓鬼から人間たちと地獄等の経

28-29. 餓鬼から天〔の神々〕たちと地獄等の経

30. 餓鬼から天〔の神々〕たちと餓鬼の境域の経

 


 

 

 大いなるものの部(大篇)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1(45). 道に相応するもの

 

1. 無明の章

 

1. 無明の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、無明を先行として、諸々の善ならざる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)があり、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)があります。比丘たちよ、無明を具した無知なる者には、誤った見解が発生します。誤った見解ある者には、誤った思惟が発生します。誤った思惟ある者には、誤った言葉が発生します。誤った言葉ある者には、誤った行業が発生します。誤った行業ある者には、誤った生き方が発生します。誤った生き方ある者には、誤った努力が発生します。誤った努力ある者には、誤った気づき()が発生します。誤った気づきある者には、誤った禅定(三昧)が発生します。誤った禅定ある者には、誤った知恵()が発生します。誤った知恵ある者には、誤った解脱が発生します。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、明知を先行として、諸々の善なる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎め(慚愧)があります。比丘たちよ、明知を具した知ある者には、正しい見解(正見)が発生します。正しい見解ある者には、正しい思惟(正思惟)が発生します。正しい思惟ある者には、正しい言葉(正語)が発生します。正しい言葉ある者には、正しい行業(正業)が発生します。正しい行業ある者には、正しい生き方(正命)が発生します。正しい生き方ある者には、正しい努力(正精進)が発生します。正しい努力ある者には、正しい気づき(正念)が発生します。正しい気づきある者には、正しい禅定(正定)が発生します。正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。正しい知恵ある者には、正しい解脱が発生します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 半分の経

 

2. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、ナガラカという名の町があります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これは、梵行(禁欲清浄行)として、半分のものとなります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてあります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです。アーナンダよ、比丘が、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者であるなら、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。

 

 アーナンダよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。遠離に依拠し……略……正しい思惟を修めます。……略……正しい言葉を修めます。……略……正しい行業を修めます。……略……正しい生き方を修めます。……略……正しい努力を修めます。……略……正しい気づきを修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。『すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである』と。アーナンダよ、まさに、善き朋友である、わたしに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、病の法(性質)ある有情たちは、病から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。アーナンダよ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。『すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. サーリプッタの経

 

3. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてあります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてあります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです。サーリプッタよ、善き朋友ある比丘には、善き道友ある〔比丘〕には、善き友人ある〔比丘〕には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。サーリプッタよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。

 

 サーリプッタよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。サーリプッタよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 サーリプッタよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。『すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである』と。サーリプッタよ、まさに、善き朋友である、わたしに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、病の法(性質)ある有情たちは、病から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。サーリプッタよ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。『すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ジャーヌッソーニ婆羅門の経

 

4. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者アーナンダは、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発しつつあるのを見ました。まさに、白馬たちが結び付けられるところと成り、諸々の白の帆、白の車体、白の付属品、諸々の白の手綱、白の鞭杖、白の傘蓋、白の頭巾、諸々の白の衣装、諸々の白の履物があり、まさに、白の毛扇で扇がれます。〔まさに〕その、この者のことを、人々が見て、このように言います。「ああ、まさに、梵の乗物なるかな。ああ、まさに、梵の乗物の形態なるかな」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、わたしは、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発しつつあるのを見ました。まさに、白馬たちが結び付けられるところと成り、諸々の白の帆、白の車体、白の付属品、諸々の白の手綱、白の鞭杖、白の傘蓋、白の頭巾、諸々の白の衣装、諸々の白の履物があり、まさに、白の毛扇で扇がれます。〔まさに〕その、この者のことを、人々が見て、このように言います。『ああ、まさに、梵の乗物なるかな。ああ、まさに、梵の乗物の形態なるかな』と。尊き方よ、いったい、まさに、この法(教え)と律において、梵の乗物を報知することができますか」と。

 

 「アーナンダよ、できます」と、世尊は言いました。「アーナンダよ、『梵の乗物』というのもまた、『法(教え)の乗物』というのもまた、『戦場の征圧者たる無上なる者』というのもまた、すなわち、これは、まさしく、この聖なる八つの支分ある道の同義語です(※)。

 

※ テキストには itipī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 アーナンダよ、正しい見解が、修められ、多く為されたなら、貪欲()の調伏を結末とするものと成り、憤怒()の調伏を結末とするものと成り、迷妄()の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい思惟が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい言葉が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の……略……迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい行業が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の……略……迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい生き方が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の……略……迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい努力が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の……略……迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい気づきが、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の……略……迷妄の調伏を結末とするものと成ります。アーナンダよ、正しい禅定が、修められ、多く為されたなら、貪欲の調伏を結末とするものと成り、憤怒の調伏を結末とするものと成り、迷妄の調伏を結末とするものと成ります。

 

 アーナンダよ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。『梵の乗物』というのもまた、『法(教え)の乗物』というのもまた、『戦場の征圧者たる無上なる者』というのもまた、すなわち、これは、まさしく、この聖なる八つの支分ある道の同義語です」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その〔車〕には、そして、信が、さらに、智慧(慧・般若)が──〔これらの二つの〕法(性質)が、常に先頭に結び付けられている。恥〔の思い〕が(ながえ)であり、意が結び紐であり、気づき()が守護者たる馭者である。

 

 車体は、戒が必需品であり、瞑想()が車軸であり、精進が車輪である。放捨()と禅定(三昧)が荷であり、無求が、(ほろ)である。

 

 憎悪なきが、悩害なきが、遠離が、その〔車〕の武器である。忍受が皮の甲冑であり、束縛からの平安(軛安穏)のために転起する。

 

 これは、自己のうちに発生した、無上なる梵の乗物である。慧者たちは、世から出脱する──何はともあれ、それぞれが勝利しながら」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「何を義として」の経

 

5. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、わたしたちに、このように尋ねます。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられ、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かします。『友よ、まさに、苦しみの遍知を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。尊き方よ、どうでしょう、このように尋ねられ、わたしたちが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちと成りますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「比丘たちよ、たしかに、あなたたちが、このように尋ねられ、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。比丘たちよ(※)、まさに、苦しみの遍知を義(目的)として、わたしのもと、梵行は住されます。比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この苦しみの遍知のための』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この苦しみの遍知のための』と。

 

※ PTS版により bhikkhave を補う。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この苦しみの遍知のための(※)。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この苦しみの遍知のための。ということで、比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

※ テキストには pariññāyāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

6. 第一の或るひとりの比丘の経

 

6. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『梵行』『梵行』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行であり、どのようなものが、梵行の結末なのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、梵行です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、梵行の結末です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の或るひとりの比丘の経

 

7. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『貪欲の調伏』『憤怒の調伏』『迷妄の調伏』と説かれます。尊き方よ、『貪欲の調伏』『憤怒の調伏』『迷妄の調伏』〔とは〕、いったい、まさに、これは、何の同義語なのですか」と。「比丘よ、『貪欲の調伏』『憤怒の調伏』『迷妄の調伏』とは、まさに、これは、涅槃の界域の同義語です。それによって、諸々の煩悩()の滅尽と説かれます」と。

 

 このように説かれたとき、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『不死』『不死』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、不死であり、どのようなものが、不死に至る〔実践の〕道なのですか」と。「比丘よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、不死と説かれます。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、不死に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 区分の経

 

8. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、聖なる八つの支分ある道を、あなたたちに説示し、区分しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これは、正しい見解と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考です。比丘たちよ、これは、正しい思惟と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい言葉と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、梵行ならざることから離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい行業と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。比丘たちよ、これは、正しい生き方と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、正しい努力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、正しい気づきと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、正しい禅定と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 穂先の経

 

9. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、稲の穂先が、あるいは、麦の穂先が、あるいは、手で、あるいは、足で、〔目標ならざるところに〕誤って向けられたなら、到達先である、あるいは、〔他の〕手を、あるいは、〔他の〕足を、破壊し、あるいは、出血させるであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、穂先が誤って向けられたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、誤って向けられた見解で、誤って向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、見解が誤って向けられたからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、稲の穂先が、あるいは、麦の穂先が、あるいは、手で、あるいは、足で、〔目標に〕正しく向けられたなら、到達先である、あるいは、〔他の〕手を、あるいは、〔他の〕足を、破壊し、あるいは、出血させるであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、穂先が正しく向けられたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、見解が正しく向けられたからです。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するのですか。ということで、比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ナンディヤの経

 

10. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ナンディヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、涅槃に至るものと成り、涅槃を行き着く所とするものと〔成り〕、涅槃を結末とするものと〔成るのですか〕」と。

 

 「ナンディヤよ、八つのものがあります。まさに、これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、涅槃に至るものと成り、涅槃を行き着く所とするものと〔成り〕、涅槃を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。ナンディヤよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、涅槃に至るものと成り、涅槃を行き着く所とするものと〔成り〕、涅槃を結末とするものと〔成ります〕」と。このように説かれたとき、ナンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

 無明の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、無明、そして、半分、そして、サーリプッタ、婆羅門、さらに、『何を義として』があり、二つの比丘、区分、穂先とナンディヤがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 住の章

 

1. 第一の住の経

 

11. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは求めます──半月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。

 

 そこで、まさに、世尊は、その半月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、その住によって、〔まさに〕その、わたしが、最初に現正覚した者として〔世に〕住む、〔まさに〕その〔住〕の部分によって、〔わたしは〕住みました。その〔わたし〕は、このように覚知します。『誤った見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。……略……。誤った禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考()という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象()という縁あることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、かつまた、思考が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、さらに、表象が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔すでに〕寂止したものとして有り、かつまた、思考が〔すでに〕寂止したものとして有り、さらに、表象が〔すでに〕寂止したものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、努力が存在し、その境位が至り得るところとなったときもまた、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の住の経

 

12. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは求めます──三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。

 

 そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、その住によって、〔まさに〕その、わたしが、最初に現正覚した者として〔世に〕住む、〔まさに〕その〔住〕の部分によって、〔わたしは〕住みました。その〔わたし〕は、このように覚知します。『誤った見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った見解の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。……略……。誤った禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った禅定の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい禅定という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい禅定の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、かつまた、思考が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、さらに、表象が〔いまだ〕寂止していないものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が〔すでに〕寂止したものとして有り、かつまた、思考が〔すでに〕寂止したものとして有り、さらに、表象が〔すでに〕寂止したものとして有り、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある。〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、努力が存在し、その境位が至り得るところとなったときもまた、それを縁とすることからもまた、感受されたものがある』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔いまだ〕学びある者の経

 

13. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『〔いまだ〕学びある者(有学)』『〔いまだ〕学びある者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔いまだ〕学びある者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、ここに、比丘が、〔いまだ〕学びある正しい見解を具備した者として〔世に〕有ります。……略……。〔いまだ〕学びある正しい禅定を具備した者として〔世に〕有ります。比丘よ、まさに、このことから、『〔いまだ〕学びある者』と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の生起の経

 

14. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の生起の経

 

15. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者(善逝)の律より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の完全なる清浄の経

 

16. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の完全なる清浄の経

 

17. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一のクックタ〔長者〕の林園の経

 

18. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者バッダは、パータリプッタに住んでいます。クックタ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者バッダは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、『梵行ならざるもの』『梵行ならざるもの』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行ならざるものなのですか」と。「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、「梵行ならざるもの」「梵行ならざるもの」と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行ならざるものなのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさに、まさしく、この、八つの支分ある誤った道は、梵行ならざるものです。それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二のクックタ〔長者〕の林園の経

 

19. パータリプッタの因縁となります。「友よ、アーナンダよ、『梵行』『梵行』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行であり、どのようなものが、梵行の結末なのですか」と。「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、「梵行」「梵行」と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行であり、どのようなものが、梵行の結末なのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、梵行です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、梵行の結末です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三のクックタ〔長者〕の林園の経

 

20. パータリプッタの因縁となります。「友よ、アーナンダよ、『梵行』『梵行』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行であり、どのようなものが、梵行者であり、どのようなものが、梵行の結末なのですか」と。「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、「梵行」「梵行」と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、梵行であり、どのようなものが、梵行者であり、どのようなものが、梵行の結末なのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、梵行です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、すなわち、まさに、この聖なる八つの支分ある道を具備した者は、これは、梵行者と説かれます。友よ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽であり、これは、梵行の結末です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 三つの経典が同一の因縁となる。住の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つの住、さらに、〔いまだ〕学びある者、他に、二つの生起があり、完全なる清浄によって、二つのものが説かれ、クックタ〔長者〕の林園によって、三つのものが〔説かれ、章となる〕」と。

 

3. 誤った〔道〕たることの章

 

1. 誤った〔道〕たることの経

 

21. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、誤った〔道〕たることを、そして、正しい〔道〕たることを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った〔道〕たることなのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です。比丘たちよ、これは、誤った〔道〕たることと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい〔道〕たることなのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、正しい〔道〕たることと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 善ならざる法の経

 

22. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、諸々の善ならざる法(性質)を、そして、諸々の善なる法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の善ならざる法(性質)なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です。比丘たちよ、これらは、諸々の善なる法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の善なる法(性質)なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これらは、諸々の善なる法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の〔実践の〕道の経

 

23. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、誤った〔実践の〕道を、そして、正しい〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です。比丘たちよ、これは、誤った〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、正しい〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の〔実践の〕道の経

 

24. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、誤った〔実践の〕道を褒め称えません。比丘たちよ、誤った実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、誤った実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成りません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です。比丘たちよ、これは、誤った〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、誤った〔実践の〕道を褒め称えません。比丘たちよ、誤った実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、誤った実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成りません。

 

 比丘たちよ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、正しい〔実践の〕道を褒め称えます。比丘たちよ、正しい実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、正しい実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、正しい〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、正しい〔実践の〕道を褒め称えます。比丘たちよ、正しい実践者である、あるいは、在家者は、あるいは、出家者は、正しい実践を事因とし因とする者であり、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の正ならざる人士の経

 

25. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として、誤った思惟ある者として、誤った言葉ある者として、誤った行業ある者として、誤った生き方ある者として、誤った努力ある者として、誤った気づきある者として、誤った禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として、正しい思惟ある者として、正しい言葉ある者として、正しい行業ある者として、正しい生き方ある者として、正しい努力ある者として、正しい気づきある者として、正しい禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の正ならざる人士の経

 

26. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、あなたたちに説示しましょう。比丘たちよ、では、正なる人士を、そして、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として……略……誤った禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として……略……誤った禅定ある者として、誤った知恵ある者として、誤った解脱ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として……略……正しい禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として……略……正しい禅定ある者として、正しい知恵ある者として、正しい解脱ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 瓶の経

 

27. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、瓶が、保持するものがないなら、転がり易く成り、保持するものを有するなら、転がり難く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心は、保持するものがないなら、転がり易く成り、保持するものを有するなら、転がり難く成ります。比丘たちよ、では、何が、心にとっての、保持するものなのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。これは、心にとっての、保持するものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、瓶が、保持するものがないなら、転がり易く成り、保持するものを有するなら、転がり難く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心は、保持するものがないなら、転がり易く成り、保持するものを有するなら、転がり難く成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 禅定の経

 

28. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、機縁を有するものであり、必需品を有するものである、聖なる正しい禅定を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、機縁を有するものであり、必需品を有するものである、聖なる正しい禅定なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解があり……略……正しい気づきがあり、比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの七つの支分を必需品として有する、心の一境性であるなら、比丘たちよ、これは、聖なる正しい禅定と説かれます──『機縁を有するもの』ともまた〔説かれ〕、『必需品を有するもの』ともまた〔説かれます〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 感受の経

 

29. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受()です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受の遍知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受の遍知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ウッティヤの経

 

30. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者ウッティヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者ウッティヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が、世尊によって説かれた。いったい、まさに、どのようなものが、五つの欲望の属性であり、世尊によって説かれたのか』」と。「ウッティヤよ、善きかな、善きかな。ウッティヤよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性が、わたしによって説かれました。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態()で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声()で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気()で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感()で……略……身によって識知されるべき諸々の感触(所触)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。ウッティヤよ、まさに、これらの五つの欲望の属性が、わたしによって説かれました。ウッティヤよ、まさに、これらの五つの欲望の属性の捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。ウッティヤよ、まさに、これらの五つの欲望の属性の捨棄のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 誤った〔道〕たることの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「誤った〔道〕たること、善ならざる法(性質)、そして、二つの〔実践の〕道もまたあり、正ならざる人士によって、二つのものがあり、瓶、禅定、感受があり、ウッティヤとともに、〔章となる〕」と。

 

4. 実践の章

 

1. 第一の実践の経

 

31. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、誤った実践を、そして、正しい実践を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った実践なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、誤った見解であり……略……誤った禅定です。比丘たちよ、これは、誤った実践と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい実践なのですか。比丘たちよ、それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、正しい実践と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の実践の経

 

32. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、誤った実践者を、そして、正しい実践者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った実践者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として……略……誤った禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、誤った実践者と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい実践者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として……略……正しい禅定ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、正しい実践者と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 亡失されたものの経

 

33. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、誰であれ、彼らに、聖なる八つの支分ある道が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる八つの支分ある道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、聖なる八つの支分ある道が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる八つの支分ある道は勉励されたのです。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、この聖なる八つの支分ある道が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる八つの支分ある道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、この聖なる八つの支分ある道が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる八つの支分ある道は勉励されたのです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 彼岸に至るものの経

 

34. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている(迷いの世界を輪廻している)。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩()が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の沙門の資質の経

 

35. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、沙門の資質を、そして、諸々の沙門の資質の果を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、沙門の資質なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、沙門の資質と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の沙門の資質の果なのですか。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。比丘たちよ、これらは、諸々の沙門の資質の果と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の沙門の資質の経

 

36. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、沙門の資質を、そして、沙門の資質の義(目的)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、沙門の資質なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、沙門の資質と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、沙門の資質の義(目的)なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、沙門の資質の義(目的)と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の婆羅門の資質の経

 

37. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、婆羅門の資質を、そして、諸々の婆羅門の資質の果を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、婆羅門の資質なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、婆羅門の資質と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の婆羅門の資質の果なのですか。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。比丘たちよ、これらは、諸々の婆羅門の資質の果と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の婆羅門の資質の経

 

38. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、婆羅門の資質を、そして、婆羅門の資質の義(目的)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、婆羅門の資質なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、婆羅門の資質と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、婆羅門の資質の義(目的)なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、婆羅門の資質の義(目的)と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の梵行の経

 

39. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、梵行を、そして、諸々の梵行の果を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、梵行なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、梵行と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の梵行の果なのですか。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。比丘たちよ、これらは、諸々の梵行の果と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の梵行の経

 

40. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、梵行を、そして、梵行の義(目的)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、梵行なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、梵行と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、梵行の義(目的)なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、梵行の義(目的)と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 実践の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「実践、そして、実践者、そして、亡失されたもの、彼岸に至るものがあり、さらに、沙門の資質によって、二つのものが説かれ、他に、二つの婆羅門の資質があり、梵行によって、二つのものが説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。

 

5. 〔教えを〕他にする異教の者たちと省略〔の経典〕の章

 

1. 貪欲の離貪の経

 

41. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、貪欲の離貪を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。比丘たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──貪欲の離貪のための』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──貪欲の離貪のための』と。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──貪欲の離貪のための。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。貪欲の離貪のための。ということで、比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-7. 束縛の捨棄等の経の六なるもの

 

42-47. 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、束縛()の捨棄を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。『友よ、まさに、悪習(随眠:潜在煩悩)の根絶を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。『友よ、まさに、時間の遍知を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。『友よ、まさに、諸々の煩悩の滅尽を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。『友よ、まさに、明知と解脱の果の実証を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。『友よ、まさに、〔あるがままの〕知見を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔何も〕執取せずして完全なる涅槃の経

 

48. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます』と。比丘たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のための』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のための』と。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のための。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のための。ということで、比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

 〔教えを〕他にする異教の者たちと省略〔の経典〕の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「離貪と束縛、悪習、時間、諸々の煩悩の滅尽、明知と解脱、そして、知、第八のものとして、『〔何も〕執取せずして』があり、〔章となる〕」と。

 

6. 太陽と省略〔の経典〕の章

 

1. 善き朋友の経

 

49. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、聖なる八つの支分ある道の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

50-54. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、聖なる八つの支分ある道の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、戒の成就です。比丘たちよ、戒を成就した比丘には、このことが期待できます。……。すなわち、この、欲〔の思い〕(意欲)の成就です。……。すなわち、この、自己の成就です。……。すなわち、この、見解の成就です。……。すなわち、この、不放逸の成就です。……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

55. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、聖なる八つの支分ある道の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、根源のままに意を為すこと(如理作意)の成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

1. 善き朋友の経

 

56. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、聖なる八つの支分ある道の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

57-61. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、聖なる八つの支分ある道の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、戒の成就です。比丘たちよ、戒を成就した比丘には、このことが期待できます。……略……。すなわち、この、欲〔の思い〕の成就です。……略……。すなわち、この、自己の成就です。……略……。すなわち、この、見解の成就です。……略……。すなわち、この、不放逸の成就です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

62. ……。すなわち、この、根源のままに意を為すことの成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

 太陽と省略〔の経典〕の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善き朋友、そして、戒、そして、欲〔の思い〕、自己の成就、そして、見解、そして、不放逸、第七のものとして、『根源のままに』が有り、〔章となる〕」と。

 

7. 一つの法と省略〔の経典〕の章

 

1. 善き朋友の経

 

63. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの資益あるものとなります──聖なる八つの支分ある道の生起のために。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

64-68. 「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの資益あるものとなります──聖なる八つの支分ある道の生起のために。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。すなわち、この、戒の成就です。……略……。すなわち、この、欲〔の思い〕の成就です。……略……。すなわち、この、自己の成就です。……略……。すなわち、この、見解の成就です。……略……。すなわち、この、不放逸の成就です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

69. ……。すなわち、この、根源のままに意を為すことの成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

1. 善き朋友の経

 

70. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの資益あるものとなります──聖なる八つの支分ある道の生起のために。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

71-75. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの資益あるものとなります──聖なる八つの支分ある道の生起のために。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。すなわち、この、戒の成就です。……略……。すなわち、この、欲〔の思い〕の成就です。……略……。すなわち、この、自己の成就です。……略……。すなわち、この、見解の成就です。……略……。すなわち、この、不放逸の成就です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

76. ……。すなわち、この、根源のままに意を為すことの成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

 一つの法(性質)と省略〔の経典〕の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善き朋友、そして、戒、そして、欲〔の思い〕、自己の成就、そして、見解、そして、不放逸、第七のものとして、『根源のままに』が有り、〔章となる〕」と。

 

8. 第二の一つの法と省略〔の経典〕の章

 

1. 善き朋友の経

 

77. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない聖なる八つの支分ある道が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した聖なる八つの支分ある道が修行の円満成就に赴くものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

78-82. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない聖なる八つの支分ある道が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した聖なる八つの支分ある道が修行の円満成就に赴くものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、戒の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、欲〔の思い〕の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、自己の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、見解の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸の成就です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

83. ……。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことの成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

1. 善き朋友の経

 

84. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない聖なる八つの支分ある道が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した聖なる八つの支分ある道が修行の円満成就に赴くものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 戒の成就等の経の五なるもの

 

85-89. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない聖なる八つの支分ある道が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した聖なる八つの支分ある道が修行の円満成就に赴くものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、戒の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、欲〔の思い〕の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、自己の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、見解の成就です。……略……。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸の成就です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 根源のままに意を為すことの経

 

90. ……。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことの成就です。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第七となる。

 

 第二の一つの法(性質)と省略〔の経典〕の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善き朋友、そして、戒、そして、欲〔の思い〕、自己の成就、そして、見解、そして、不放逸、第七のものとして、『根源のままに』が有り、〔章となる〕」と。

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

 

91. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-5. 第二の東に向かい行くもの等の経の四なるもの

 

92-95. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第六の東に向かい行くものの経

 

96. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

 

97. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

98-102. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 東に向かい行くもの〔と海に向かい行くもの〕を言葉の道とする、ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕があり、遠離に依拠したものとして、十二なるものがあり、第一なるものとなる。

 

2. 第二のガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

 

103. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

104. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第二となる。

 

105. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第三となる。

 

106. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第四となる。

 

107. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第五となる。

 

108. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第六となる。

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

 

109. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

110. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第二となる。

 

111. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第三となる。

 

112. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第四となる。

 

113. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第五となる。

 

114. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

 (〔東に向かい行くものと〕海に向かい行くもの、ということで、貪欲の調伏による十二なるものがあり、第二なるものとなる。)

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

 

115. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

116. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第二となる。

 

117. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第三となる。

 

118. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第四となる。

 

119. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第五となる。

 

120. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。〔以上が〕第六となる。

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

 

121. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

122-126. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

 (不死への沈潜による十二なるものがあり、第三なるものとなる。)

 

1. 第一の東に向かい行くものの経

 

127. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の東に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

128-132. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

1. 第一の海に向かい行くものの経

 

133. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-6. 第二の海に向かい行くもの等の経の五なるもの

 

134-138. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ヤムナー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、アチラヴァティー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、サラブー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マヒー川が、海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──海に向かい行くものであり、海に傾倒するものであり、海に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

 (ガンガー〔川〕と省略あるものとなる。)

 

 第二のガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 涅槃に傾斜するものとして、十二なるものがあり、第四なるものとなり、〔教えを他にする異教の者たちと省略の経典の章から〕第六のものとなり、〔全てで〕九なるものとなる。

 

5. 不放逸と省略〔の経典〕の章

 

1. 如来の経

 

139. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 足跡の経

 

140. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3-7. 屋頂等の経の五なるもの

 

141. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に向かい行くものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第三となる。

 

142. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、根の香りであるなら、黒の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第四となる。

 

143. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第五となる。

 

144. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、花の香りであるなら、ヴァッシカ(ジャスミン)が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第六となる。

 

145. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、彼らが誰であれ、小なる王たちは、彼らの全てが、転輪王に従い行く者たちと成り、転輪王が、彼らのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8-10. 月等の経の三なるもの

 

146. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の星の形態あるものの光は、それらの全てが、月の光の十六分の一にも値せず、月の光が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第八となる。

 

147. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。〔以上が〕第九となる。

 

148. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、織物の衣のなかでは、カーシ産の衣が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 (すなわち、また、如来〔の経〕が、それがまた、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

 不放逸と省略〔の経典〕の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根、そして、芯、ヴァッシカ、王、そして、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

6. 力によって為されるべきことの章

 

1. 力の経

 

149. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。

 

 (他はガンガー〔川〕と省略〔の経典〕についての解説から、円満成就した経典となり、かくのごとく、詳細の道となる。)

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 種子の経

 

150. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ(※)、種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには kecime とあるが、PTS版により keci と読む。

 

3. 龍の経

 

151. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に依拠して、龍たちが、身体を増大させ、活力を把持させ、彼らが、そこにおいて、身体を増大させて、活力を把持させて、諸々の小池に降下し、諸々の小池に降下して、諸々の大池に降下し、諸々の大池に降下して、諸々の小川に降下し、諸々の小川に降下して、諸々の大河に降下し、諸々の大河に降下して、大海に降下し、彼らが、そこにおいて、身体によって、大いなるものを〔惹起し〕、広大なるものを惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得ます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得ます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 木の経

 

152. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、木が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるとします。その〔木〕が、根において切断されたなら、どちらに倒れ落ちるでしょうか」と。「尊き方よ、向かい行くところであり、傾倒するところであり、傾斜するところです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 瓶の経

 

153. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、瓶が伏せられたなら、まさしく、水を吐き捨て、飲み戻さないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を吐き捨て、飲み戻しません。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を吐き捨て、飲み戻すことがないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を吐き捨て、飲み戻すことがありません」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 穂先の経

 

154. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、稲の穂先が、あるいは、麦の穂先が、あるいは、手で、あるいは、足で、〔目標に〕正しく向けられたなら、到達先である、あるいは、〔他の〕手を、あるいは、〔他の〕足を、破壊し、あるいは、出血させるであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、穂先が正しく向けられたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさに、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、見解が正しく向けられたからです。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正しく向けられた見解で、正しく向けられた道の修行で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 虚空の経

 

155. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、虚空において、様々な種類の風が吹くようなものです。諸々の東の風もまた吹き、諸々の西の風もまた吹き、諸々の北の風もまた吹き、諸々の南の風もまた吹き、諸々の風もまた吹き、諸々の塵を有する風もまた吹き、諸々の塵なき風もまた吹き、諸々の冷たい風もまた吹き、諸々の熱い風もまた吹き、諸々の微小なる風もまた吹き、諸々の旺盛なる風もまた吹きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、四つの気づきの確立(四念処・四念住)もまた修行の円満成就に赴き、四つの正しい精励(四正勤)もまた修行の円満成就に赴き、四つの神通の足場(四神足)もまた修行の円満成就に赴き、五つの機能(五根)もまた修行の円満成就に赴き、五つの力(五力)もまた修行の円満成就に赴き、七つの覚りの支分(七覚支)もまた修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、では、どのように、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、四つの気づきの確立もまた修行の円満成就に赴き、四つの正しい精励もまた修行の円満成就に赴き、四つの神通の足場もまた修行の円満成就に赴き、五つの機能もまた修行の円満成就に赴き、五つの力もまた修行の円満成就に赴き、七つの覚りの支分もまた修行の円満成就に赴くのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、四つの気づきの確立もまた修行の円満成就に赴き、四つの正しい精励もまた修行の円満成就に赴き、四つの神通の足場もまた修行の円満成就に赴き、五つの機能もまた修行の円満成就に赴き、五つの力もまた修行の円満成就に赴き、七つの覚りの支分もまた修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の雨雲の経

 

156. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月に、巻き上げられた塵と埃を、まさしく、ただちに、時ならざる大いなる雨雲が、即座に消没させ、寂止させるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を即座に消没させ寂止させます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を即座に消没させ寂止させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を即座に消没させ寂止させます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の雨雲の経

 

157. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、生起した雨雲を、まさしく、ただちに、大いなる風が、まさしく、中途において、消没させ寂止させるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、中途において、消没させ寂止させます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、中途において、消没させ寂止させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、中途において、消没させ寂止させます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 船の経

 

158. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、藤蔓の結縛で結縛された航海用の船が、六月のあいだ、水が消尽して、冬のあいだ、陸に引き上げられたなら、熱風によって打ち負かされた、それらの結縛は、雨期の黒雲が雨をもたらし、いとも簡単に安息し(無力化し)、腐敗のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、諸々の束縛するもの()は、いとも簡単に安息し、腐敗のものと成ります。比丘たちよ、では、どのように、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、諸々の束縛するものは、いとも簡単に安息し、腐敗のものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めていると、聖なる八つの支分ある道を多く為していると、諸々の束縛するものは、いとも簡単に安息し、腐敗のものと成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 来客の経

 

159. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、来客のための家屋のようなものです。そこにおいて、〔来客たちが〕東の方角からもまた、やってきて住を営み、西の方角からもまた、やってきて住を営み、北の方角からもまた、やってきて住を営み、南の方角からもまた、やってきて住を営みます。士族たちもまた、やってきて住を営み、婆羅門たちもまた、やってきて住を営み、庶民たちもまた、やってきて住を営み、隷民たちもまた、やってきて住を営みます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、それらの法(性質)が証知して遍知されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して遍知し、それらの法(性質)が証知して捨棄されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して捨棄し、それらの法(性質)が証知して実証されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して実証し、それらの法(性質)が証知して修行されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して修行します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これらは、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)です。比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)です。比丘たちよ、これらは、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)です。比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して実証されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。比丘たちよ、これらは、証知して実証されるべき諸々の法(性質)です。比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して修行されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、これらは、証知して修行されるべき諸々の法(性質)です。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、それらの法(性質)が証知して遍知されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して遍知し……略……それらの法(性質)が証知して修行されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して修行するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、それらの法(性質)が証知して遍知されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して遍知し、それらの法(性質)が証知して捨棄されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して捨棄し、それらの法(性質)が証知して実証されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して実証し、それらの法(性質)が証知して修行されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して修行します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 川の経

 

160. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるようなものです。そこで、大勢の人の衆が、(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。『わたしたちは、このガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すのだ〕、西に傾倒するものと〔為すのだ〕、西に傾斜するものと為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その大勢の人の衆は、ガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すでしょうか〕、西に傾倒するものと〔為すでしょうか〕、西に傾斜するものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、ガンガー川は、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、それは、西に向かい行くものと〔為すに〕、西に傾倒するものと〔為すに〕、西に傾斜するものと為すに、為し易くはないからです。また、まさしく、そのかぎりにおいて、その大勢の人の衆は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為している、比丘に、あるいは、王たちが、あるいは、王の大臣たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族たちが、あるいは、血縁たちが、諸々の財物を運び込んで申し出るとします。『さて、人士たる者よ、さあ、どうして、おまえのこれらの黄褐色〔の衣〕はよれよれなのだ。どうして、〔おまえは〕剃髪し、皿を〔携えて〕渡り歩くのだ。さあ、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ』と。比丘たちよ、まさに、その比丘が、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、学び(戒律)を拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、すなわち、その心は、長夜にわたり、遠離に向かい行くものであり、遠離に傾倒するものであり、遠離に傾斜するものであり、その〔心〕が、まさに、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されないからです。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します」と。(すなわち、また、力によって為されるべきこと〔の経〕が、それがまた、〔ここに〕詳知されるべきである。)〔以上が〕第十二となる。

 

 力によって為されるべきことの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

7. 探し求めの章

 

1. 探し求めの経

 

161. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい見解を修めます。……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの遍知のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。(すなわち、また、証知が、それがまた、遍知のために、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの完全なる滅尽のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。(すなわち、また、証知が、それがまた、完全なる滅尽のために、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの捨棄のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。(すなわち、また、証知が、それがまた、捨棄のために、〔ここに〕詳知されるべきである。)〔以上が〕第一となる。

 

2. 様相の経

 

162. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの様相です。どのようなものが、三つのものなのですか。『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という〔価値判断の〕様相であり、『わたしは、同等の者として〔世に〕存している』という〔価値判断の〕様相であり、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という〔価値判断の〕様相です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの様相があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの様相の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの三つの様相の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。(すなわち、探し求め〔の経〕のように、このように詳知されるべきである。)〔以上が〕第二となる。

 

3. 煩悩の経

 

163. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの煩悩()です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩があります。比丘たちよ、これらの三つの煩悩の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 生存の経

 

164. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの生存()です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の生存であり、形態の生存であり、形態なき生存です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの生存があります。比丘たちよ、これらの三つの生存の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 苦性の経

 

165. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの苦性です。どのようなものが、三つのものなのですか。苦痛の苦性であり、形成の苦性であり、変化の苦性です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの苦性があります。比丘たちよ、これらの三つの苦性の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 鬱積の経

 

166. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの鬱積です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲の鬱積であり、憤怒の鬱積であり、迷妄の鬱積です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの鬱積があります。比丘たちよ、これらの三つの鬱積の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 垢の経

 

167. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの垢です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲の垢であり、憤怒の垢であり、迷妄の垢です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの垢があります。比丘たちよ、これらの三つの垢の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 煩悶の経

 

168. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの煩悶です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲の煩悶であり、憤怒の煩悶であり、迷妄の煩悶です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悶があります。比丘たちよ、これらの三つの煩悶の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 感受の経

 

169. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受()です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります。比丘たちよ、これらの三つの感受の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 渇愛(タンハー)の経

 

170. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの渇愛()です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの渇愛があります。比丘たちよ、これらの三つの渇愛の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの渇愛の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 渇愛(タシナー)の経

 

171. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの渇愛です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの渇愛があります。比丘たちよ、これらの三つの渇愛の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする……略……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの渇愛の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 探し求めの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、苦性、鬱積、垢、そして、煩悶、感受、そして、渇愛(タシナー)とともに、二つの渇愛があり、〔章となる〕」と。

 

8. 激流の章

 

1. 激流の経

 

172. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの激流(暴流)です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの激流があります。比丘たちよ、これらの四つの激流の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。(すなわち、探し求め〔の経〕のように、このように、全てが詳知されるべきである。)〔以上が〕第一となる。

 

2. 束縛の経

 

173. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの束縛()です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの束縛があります。比丘たちよ、これらの四つの束縛の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 執取の経

 

174. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの執取()です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望への執取であり、見解への執取であり、戒や掟への執取であり、自己の論への執取です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの執取があります。比丘たちよ、これらの四つの執取の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 拘束の経

 

175. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの拘束()です。どのようなものが、四つのものなのですか。強欲〔の思い〕は、身体の拘束であり、憎悪〔の思い〕は、身体の拘束であり、戒や掟への偏執〔の思い〕は、身体の拘束であり、『これは真理である』という固着〔の思い〕は、身体の拘束です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの拘束があります。比丘たちよ、これらの四つの拘束の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 悪習の経

 

176. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの悪習(随眠:潜在煩悩)です。どのようなものが、七つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、敵対〔の思い〕の悪習であり、見解の悪習であり、疑惑〔の思い〕の悪習であり、思量()の悪習であり、生存にたいする貪り〔の思い〕(有貪)の悪習であり、無明の悪習です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの悪習があります。比丘たちよ、これらの七つの悪習の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 欲望の属性の経

 

177. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感で……略……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、これらの五つの欲望の属性の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 〔修行の〕妨害の経

 

178. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔修行の〕妨害()です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害であり、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害があります。比丘たちよ、これらの五つの〔修行の〕妨害の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 執取の範疇の経

 

179. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔心身を構成する〕執取の範疇(取蘊)です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があります。比丘たちよ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 下なる域の経

 

180. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)です。どのようなものが、五つのものなのですか。身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)であり、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)であり、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)であり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの下なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、これらの五つの下なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために……略……この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 上なる域の経

 

181. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するもの(五上分結:人を色界と無色界に束縛する五つの煩悩)です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕(色貪)であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕(無色貪)であり、〔我想の〕思量()であり、〔心の〕高揚(掉挙)であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、聖なる八つの支分ある道が修められるべきです。どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい見解を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、正しい禅定を修めます。……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、この聖なる八つの支分ある道が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 激流の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無明の章が第一となり、第二のものとして、住が説かれ、誤った〔道〕たることが第三の章となり、まさしく、実践者によって、第四のものとなる。

 

 異教の者が第五の章となり、そして、太陽によって、第六のものとなり、多く為されたものについて、第七の章となり、そして、第八のものとして、生起がある。

 

 十二〔の経〕の章が第九のものとなり、そして、不放逸によって、第十のものとなり、力の章で十一となり、探し求めの聖典で十二となり、激流の章が有り、十三となる」と。

 

 道に相応するものが第一となる。

 

2(46). 覚りの支分に相応するもの

 

1. 山の章

 

1. ヒマヴァントの経

 

182. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に依拠して、龍たちが、身体を増大させ、活力を把持させ、彼らが、そこにおいて、身体を増大させて、活力を把持させて、諸々の小池に降下し、諸々の小池に降下して、諸々の大池に降下し、諸々の大池に降下して、諸々の小川に降下し、諸々の小川に降下して、諸々の大河に降下し、諸々の大河に降下して、大海に降下し、彼らが、そこにおいて、身体によって、大いなるものを〔惹起し〕、広大なるものを惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分(七覚支)を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得ます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……略……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……略……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……略……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……略……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、諸々の法(教え)において、大いなるものに〔至り得〕、広大なるものに至り得ます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 身体の経

 

183. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この身体が、食(動力源・エネルギー)によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)は、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しません。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、浄美の形相(浄相)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)を多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕()の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、敵対の形相(有対相:対峙対立する形相)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、不満、倦怠、欠伸(あくび)、食後の睡魔が〔存在し〕、さらに、心の畏縮が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、心の寂止なき〔あり方〕が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕()の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、この身体が、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害は、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、この身体が、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、七つの覚りの支分は、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しません。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、気づきという正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すこと(如理作意)を多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)が〔存在し〕、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)が〔存在し〕、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)が〔存在し〕、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、勉励の界域が〔存在し〕、促進の界域が〔存在し〕、勤勉の界域が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、喜悦という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、身体の静息が〔存在し〕、心の静息が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の形相が〔存在し〕、混乱なき形相が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、放捨という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、この身体が、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの七つの覚りの支分は、食によって止住するものであり、食を縁として止住し、食なきものは止住しません」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 戒の経

 

184. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、戒を成就した者たちであり、禅定を成就した者たちであり、知恵を成就した者たちであり、解脱を成就した者たちであり、解脱の知見を成就した者たちであるなら、比丘たちよ、それらの比丘たちと会見することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに聴聞することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに近づいて行くこともまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに奉侍することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちを随念することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに従い出家することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、〔人は〕そのような形態の比丘たちの法(教え)を聞いて、両者の隠棲によって隠棲した者となり、〔世に〕住みます──かつまた、身体の隠棲によって、かつまた、心の隠棲によって。彼は、そのように、隠棲した者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を随念し随思します。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、隠棲した者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を随念し随思するなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。精進に励む者に、喜悦は、財貨なきもの(非俗のもの)として生起します。

 

 比丘たちよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が、財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。

 

 比丘たちよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。

 

 比丘たちよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。彼は、そのように、定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、七つの正覚の支分が修められ、このように多く為されたとき、七つの果として、七つの福利が期待できます。どのようなものが、七つの果であり、七つの福利なのですか。(1)まさしく、所見の法(現法:現世)において、前もって、了知に達します。(2)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達しないなら、そこで、死の時において、了知に達します。(3)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達しないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。(4)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達せず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成らないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。(5)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達せず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成らず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成らないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(6)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達せず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成らず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成らず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成らないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(7)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達せず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成らず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成らず、もし、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成らず、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成らないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、七つの正覚の支分が修められ、このように多く為されたとき、これらの、七つの果として、七つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 衣の経

 

185. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、七つのものがあります。これらの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり、法(真理)の判別という正覚の支分であり、精進という正覚の支分であり、喜悦という正覚の支分であり、静息という正覚の支分であり、禅定という正覚の支分であり、放捨という正覚の支分です。友よ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります。友よ、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住みます。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。

 

 友よ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するようなものです。彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住みます。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 比丘の経

 

186. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『諸々の覚りの支分』『諸々の覚りの支分』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『諸々の覚りの支分』と説かれるのですか」と。「比丘よ、『〔それらは〕覚りのために等しく転起する』ということで、まさに、それゆえに、『諸々の覚りの支分』と説かれます。ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、これらの七つの覚りの支分を修めていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘よ、『〔それらは〕覚りのために等しく転起する』ということで、まさに、それゆえに、『諸々の覚りの支分』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. クンダリヤの経

 

187. 或る時のことです。世尊は、サーケータに住んでおられます。アンジャナ林の鹿園において。そこで、まさに、クンダリヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、クンダリヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしは、林園に依拠する者として、衆を行境とする者として、〔世に〕存しています。貴君ゴータマよ、朝食を食べた、〔まさに〕その、わたしには、食事のあと、この習行が有り、林園から林園へと、庭園から庭園へと、こちらを歩いては、あちらを歩みます。その〔わたし〕は、そこにおいて、或る沙門や婆羅門たちを見ます──まさしく、そして、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利を、さらに、〔他者への〕論詰という福利を、〔これらを〕話題に議論している者たちを。いっぽう、貴君ゴータマは、何を福利として〔世に〕住むのですか」と。「クンダリヤよ、まさに、如来は、明知と解脱の果を福利として〔世に〕住みます」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか」と。「クンダリヤよ、まさに、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。「貴君ゴータマよ、また、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか」と。「クンダリヤよ、まさに、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます」と。「貴君ゴータマよ、また、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか」と。「クンダリヤよ、まさに、三つの善き行ないが、修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます」と。「貴君ゴータマよ、また、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたなら、三つの善き行ないを円満成就させるのですか」と。「クンダリヤよ、まさに、〔感官の〕機能()における統御が、修められ、多く為されたなら、三つの善き行ないを円満成就させます」と。

 

 「クンダリヤよ、では、どのように、〔感官の〕機能における統御が修められ、どのように多く為されたなら、三つの善き行ないを円満成就させるのですか(※)。クンダリヤよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲〔の思い〕を生じさせません。彼の、そして、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ります〕。まさしく、また、まさに、眼によって、形態を見て、意に適わないものであるも、愕然と成らず、心は止住せず、意図は卑屈にならず、憎悪の心なくあります。彼の、そして、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ります〕。

 

※ テキストには paripūretīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 クンダリヤよ、さらに、また、他に、比丘が、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……略……舌によって、味感を味わって……略……身によって、感触と接触して……略……意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲〔の思い〕を生じさせません。彼の、そして、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ります〕。まさしく、また、まさに、意によって、法(意の対象)を識知して、意に適わないものであるも、愕然と成らず、心は止住せず、意図は卑屈にならず、憎悪の心なくあります。彼の、そして、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ります〕。

 

 クンダリヤよ、すなわち、まさに、比丘の、眼によって、形態を見て、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態にたいし、そして、身体が安立したものと成り、心が安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ることから〕、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……略……舌によって、味感を味わって……略……身によって、感触と接触して……略……意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない法(意の対象)にたいし、そして、身体が安立したものと成り、心が安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成ることから〕、クンダリヤよ、このように、まさに、〔感官の〕機能における統御が修められ、このように多く為されたなら、三つの善き行ないを円満成就させます。

 

 クンダリヤよ、では、どのように、三つの善き行ないが修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。クンダリヤよ、ここに、比丘が、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修めます。言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修めます。意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修めます。クンダリヤよ、このように、まさに、三つの善き行ないが修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。

 

 クンダリヤよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。クンダリヤよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。クンダリヤよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。

 

 クンダリヤよ、では、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。クンダリヤよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。

 

 このように説かれたとき、クンダリヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 屋頂の経

 

188. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に向かい行くものであり、屋頂に傾倒するものであり、屋頂に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ウパヴァーナの経

 

189. 或る時のことです。かつまた、尊者ウパヴァーナは、かつまた、尊者サーリプッタは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者ウパヴァーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウパヴァーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者ウパヴァーナに、こう言いました。

 

 「友よ、ウパヴァーナよ、いったい、まさに、比丘は、知ることになりますか。『各自それぞれに、根源のままに意を為すことから、このように、わたしによって、七つの覚りの支分は善く正しく勉励され、平穏の住のために等しく転起する』」と。「友よ、サーリプッタよ、まさに、比丘は、知ることになります。『各自それぞれに、根源のままに意を為すことから、このように、わたしによって、七つの覚りの支分は善く正しく勉励され、平穏の住のために等しく転起する』と。

 

 友よ、まさに、比丘は、気づきという正覚の支分を勉励しながら、『そして、わたしの心は善く解脱し、かつまた、わたしの〔心の〕沈滞と眠気は善く完破され、かつまた、わたしの〔心の〕高揚と悔恨は善く調伏され、さらに、わたしの精進は勉励され、義(意味)あるものと為して、意を為す──かつまた、畏縮したものではなく』と覚知します。……略……。放捨という正覚の支分を勉励しながら、『そして、わたしの心は善く解脱し、かつまた、わたしの〔心の〕沈滞と眠気は善く完破され、かつまた、わたしの〔心の〕高揚と悔恨は善く調伏され、さらに、わたしの精進は勉励され、義(意味)あるものと為して、意を為す──かつまた、畏縮したものではなく』と覚知します。友よ、サーリプッタよ、このように、まさに、比丘は、知ることになります。『各自それぞれに、根源のままに意を為すことから、このように、わたしによって、七つの覚りの支分は善く正しく勉励され、平穏の住のために等しく転起する』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の〔いまだ〕生起していないものの経

 

190. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の〔いまだ〕生起していないものの経

 

191. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 山の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ヒマヴァント、身体、戒、衣、そして、比丘、クンダリ、そして、屋頂、そして、ウパヴァーナ、他に、二つの〔いまだ〕生起していないものがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 病者の章

 

1. 命あるものたちの経

 

192. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、彼らが誰であれ、命あるものたちが四つの振る舞いの道を──時には赴くことを、時には立つことを、時には坐ることを、時には臥すことを──営むなら、彼らの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの四つの振る舞いの道を営為するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の太陽の喩えの経

 

193. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、七つの覚りの支分の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の太陽の喩えの経

 

194. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、七つの覚りの支分の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の病者の経

 

195. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッサパは、ピッパリ窟に住んでいます。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。

 

 「カッサパよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「カッサパよ、七つのものがあります。これらの、わたしによって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。カッサパよ、まさに、わたしによって正しく告げ知らされた気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。……略……。カッサパよ、まさに、わたしによって正しく告げ知らされた放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。カッサパよ、まさに、これらの七つの、わたしによって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。「世尊よ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です。善き至達者たる方よ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・カッサパは、世尊の語ったことを大いに喜びました。そして、尊者マハー・カッサパは、その病苦から出起しました。さらに、尊者マハー・カッサパの、その病苦は、そのように、捨棄されたものと成った、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の病者の経

 

196. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山(霊鷲山)に住んでいます。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「モッガッラーナよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「モッガッラーナよ、七つのものがあります。これらの、わたしによって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。モッガッラーナよ、まさに、わたしによって正しく告げ知らされた気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。……略……。モッガッラーナよ、まさに、わたしによって正しく告げ知らされた放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。モッガッラーナよ、まさに、これらの七つの、わたしによって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。「世尊よ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です。善き至達者たる方よ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・モッガッラーナは、世尊の語ったことを大いに喜びました。そして、尊者マハー・モッガッラーナは、その病苦から出起しました。さらに、尊者マハー・モッガッラーナの、その病苦は、そのように、捨棄されたものと成った、ということです。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第三の病者の経

 

197. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、世尊は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・チュンダに、世尊は告げました。「チュンダよ、あなたに、諸々の覚りの支分が明白となれ(それを語りなさい)」と。

 

 「尊き方よ、七つのものがあります。これらの、世尊によって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。尊き方よ、まさに、世尊によって正しく告げ知らされた気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。……略……。尊き方よ、まさに、世尊によって正しく告げ知らされた放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。尊き方よ、まさに、これらの七つの、世尊によって正しく告げ知らされた覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。「チュンダよ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です。チュンダよ、たしかに、〔これらの七つの〕覚りの支分です」と。

 

 尊者チュンダは、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔尊者チュンダの言葉を〕正しくお認めに成りました(尊者チュンダに随喜した)。そして、世尊は、その病苦から出起しました。さらに、世尊の、その病苦は、そのように、捨棄されたものと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 彼岸に至るものの経

 

198. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている(迷いの世界を輪廻している)。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

 そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるであろう。

 

 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩()が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 亡失されたものの経

 

199. 「比丘たちよ、誰であれ、彼らに、七つの覚りの支分が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、七つの覚りの支分が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの七つの覚りの支分が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの七つの覚りの支分が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 聖なるものの経

 

200. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 厭離の経

 

201. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 病者の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「命あるものたち、二つの太陽の喩え、他に、三つの病者、彼岸に至るもの、そして、亡失されたもの、聖なるものがあり、さらに、厭離とともに、〔章となる〕」と。

 

3. ウダーインの章

 

1. 「覚りのために」の経

 

202. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『諸々の覚りの支分』『諸々の覚りの支分』と説かれます。尊き方よ、尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『諸々の覚りの支分』と説かれるのですか」と。「比丘よ、『〔それらは〕覚りのために等しく転起する』ということで、まさに、それゆえに、『諸々の覚りの支分』と説かれます。ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘よ、『〔それらは〕覚りのために等しく転起する』ということで、まさに、それゆえに、『諸々の覚りの支分』と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 覚りの支分の説示の経

 

203. 「比丘たちよ、七つの覚りの支分を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの覚りの支分なのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 止住するべきものの経

 

204. 「比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。比丘たちよ、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。比丘たちよ、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。比丘たちよ、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕()が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、気づきという正覚の支分が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分が修行の円満成就に赴きます。……略……。比丘たちよ、放捨という正覚の支分が止住するべき諸々の法(性質)に意を為すことを多く為すことから、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分が修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 根源のままならずに意を為すことの経

 

205. 「比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分が止滅します。……略……。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分が止滅します。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されます。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が捨棄されます。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されます。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されます。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が捨棄されます。

 

 まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分が修行の円満成就に赴きます。……略……。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分が修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 遍き衰退とならないものの経

 

206. 「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 渇愛の滅尽の経

 

207. 「比丘たちよ、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、渇愛の滅尽のために等しく転起するなら、その〔聖なる〕道を、その〔実践の〕道を、修めるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、そして、どのようなものが、〔実践の〕道であり、渇愛の滅尽のために等しく転起するのですか。すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、渇愛の滅尽のために等しく転起するのですか」と。

 

 「ウダーインよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、気づきという正覚の支分を修めます。彼が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、気づきという正覚の支分を修めていると、渇愛()が捨棄されます。渇愛の捨棄あることから、行為()が捨棄されます。行為の捨棄あることから、苦しみが捨棄されます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、放捨という正覚の支分を修めていると、渇愛が捨棄されます。渇愛の捨棄あることから、行為が捨棄されます。行為の捨棄あることから、苦しみが捨棄されます。ウダーインよ、かくのごとく、まさに、渇愛の捨棄あることから、行為の滅尽があり、行為の捨棄あることから、苦しみの滅尽があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 渇愛の止滅の経

 

208. 「比丘たちよ、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、渇愛の止滅のために等しく転起するなら、その〔聖なる〕道を、その〔実践の〕道を、修めるべきです。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、そして、どのようなものが、〔実践の〕道であり、渇愛の止滅のために等しく転起するのですか。すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、では、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、渇愛の止滅のために等しく転起するのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、渇愛の止滅のために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 厭離を部分とするものの経

 

209. 「比丘たちよ、厭離を部分とする道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、厭離を部分とする道なのですか。すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、厭離のために等しく転起するのですか」と。

 

 「ウダーインよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、気づきという正覚の支分を修めます。彼は、気づきという正覚の支分を修めた心で、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、貪欲()の範疇にたいし厭離し破砕し、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、憤怒()の範疇にたいし厭離し破砕し、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、迷妄の範疇()にたいし厭離し破砕します。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、広大で莫大で無量にして憎悪〔の思い〕なき、放捨という正覚の支分を修めます。彼は、放捨という正覚の支分を修めた心で、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、貪欲の範疇にたいし厭離し破砕し、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、憤怒の範疇にたいし厭離し破砕し、過去に厭離されたことなく、過去に破砕されたことなき、迷妄の範疇にたいし厭離し破砕します。ウダーインよ、このように、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、厭離のために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 一つの法の経

 

210. 「比丘たちよ、わたしは、それが、このように修められ、多く為されたなら、諸々の束縛されるべき法(性質)の捨棄のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、では、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、諸々の束縛されるべき法(性質)の捨棄のために等しく転起するのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、諸々の束縛されるべき法(性質)の捨棄のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の束縛されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、眼は、束縛されるべき法(性質)です。ここにおいて、これらの、〔人を〕束縛し結縛する、諸々の固執〔の思い〕が生起します。……略……。舌は、束縛されるべき法(性質)です。ここにおいて、これらの、〔人を〕束縛し結縛する、諸々の固執〔の思い〕が生起します。……略……。意は、束縛されるべき法(性質)です。ここにおいて、これらの、〔人を〕束縛し結縛する、諸々の固執〔の思い〕が生起します。比丘たちよ、これらは、諸々の束縛されるべき法(性質)と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ウダーインの経

 

211. 或る時のことです。世尊は、スンバ〔国〕に住んでおられます。スンバ〔国〕には、セータカという名の町があります。そこで、まさに、尊者ウダーインが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、それほどまでに、わたしによって、世尊にたいし、そして、愛情が、さらに、尊重が、そして、恥〔の思い〕()が、さらに、〔良心の〕咎め()が、多く為されたのは。尊き方よ、なぜなら、わたしは、過去において、在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、法(教え)〔の観点〕によって多く為すことはなく、僧団〔の観点〕によって多く為すことはなく、〔まさに〕その、わたしが、まさに、世尊にたいし、そして、愛情を、さらに、尊重を、そして、恥〔の思い〕を、さらに、〔良心の〕咎めを、正しく見ながら、家から家なきへと出家したのです。〔まさに〕その、わたしに、世尊は、法(教え)を説示します。『かくのごとく、形態があり、形態の集起があり、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕の集起があり、識知〔作用〕の滅至がある』と。

 

 尊き方よ、それで、まさに、わたしは、空家に赴き、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)の興起と倒壊を遍く転起させながら、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。尊き方よ、そして、法(教え)は、わたしによって知悉され、さらに、道は、わたしによって獲得されました。すなわち、わたしによって修められ、多く為されたものは、そのとおり、そのとおりに、〔世に〕住んでいる者を、そのとおりそのままに導くでしょう。すなわち、わたしが、『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知するであろうとおりに。

 

 尊き方よ、気づきという正覚の支分は、わたしによって獲得されました。すなわち、わたしによって修められ、多く為されたものは、そのとおり、そのとおりに、〔世に〕住んでいる者を、そのとおりそのままに導くでしょう。すなわち、わたしが、『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知するであろうとおりに。……略……。尊き方よ、放捨という正覚の支分は、わたしによって獲得されました。すなわち、わたしによって修められ、多く為されたものは、そのとおり、そのとおりに、〔世に〕住んでいる者を、そのとおりそのままに導くでしょう。すなわち、わたしが、『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知するであろうとおりに。尊き方よ、まさに、この道は、わたしによって獲得されました。すなわち、わたしによって修められ、多く為されたものは、そのとおり、そのとおりに、〔世に〕住んでいる者を、そのとおりそのままに導くでしょう。すなわち、わたしが、『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知するであろうとおりに」と。

 

 「ウダーインよ、善きかな、善きかな。ウダーインよ、まさに、この道は、あなたによって獲得されました。すなわち、あなたによって修められ、多く為されたものは、そのとおり、そのとおりに、〔世に〕住んでいる者を、そのとおりそのままに導くでしょう。すなわち、あなたが、『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知するであろうとおりに」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ウダーインの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『覚りのために』があり、説示、止住、そして、『根源のままならずに』があり、遍き衰退とならないもの、滅尽、止滅、厭離、一つの法(性質)があり、ウダーインとともに、〔章となる〕」と。

 

4. 〔修行の〕妨害の章

 

1. 第一の善なるものの経

 

212. 「比丘たちよ、それらが何であれ、善なるものを部分とし、善なるものを項目とする、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらの法(性質)のなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、不放逸の比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不放逸の者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不放逸の者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の善なるものの経

 

213. 「比丘たちよ、それらが何であれ、善なるものを部分とし、善なるものを項目とする、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、根源のままに意を為すことを根元とするものであり、根源のままに意を為すことに集結するものであり、根源のままに意を為すことは、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 付随する〔心の〕汚れの経

 

214. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、金に付随する汚れです。それらの付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません(作業を施す状態とならない)。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、鉄は、金に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません。比丘たちよ、銅は、金に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた金は……略……。比丘たちよ、錫は、金に付随する汚れです。……略……。比丘たちよ、鉛は、金に付随する汚れです。……略……。比丘たちよ、銀は、金に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、金に付随する汚れがあります。それらの付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)です。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた心は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れです。その付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた心は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。……略……。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、心に付随する〔心の〕汚れがあります。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた心は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 付随する〔心の〕汚れならざるものの経

 

215. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。……略……。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 根源のままならずに意を為すことの経

 

216. 「比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 根源のままに意を為すことの経

 

217. 「比丘たちよ、しかしながら、まさに、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分が修行の円満成就に赴きます。……略……。まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分が生起し、さらに、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分が修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 増大の経

 

218. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、増大のために、遍き衰退なきために、等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、増大のために、遍き衰退なきために、増大と等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔修行の〕妨げと〔修行の〕妨害の経

 

219. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、憎悪〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕沈滞と眠気は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕高揚と悔恨は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為すものがあります。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。……略……。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、義(意味)あるものと為して、意を為して、全ての心を集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くなら、その時点において、この者に、五つの〔修行の〕妨害は有ることなくあり、その時点において、七つの覚りの支分は修行の円満成就に赴きます。

 

 その時点において、どのような五つの〔修行の〕妨害が有ることなくあるのですか。その時点において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が有ることなくあり、その時点において、憎悪〔の思い〕が有ることなくあり、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気が有ることなくあり、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨が有ることなくあり、その時点において、疑惑〔の思い〕が有ることなくあります。その時点において、この者に、五つの〔修行の〕妨害は有ることなくあります。

 

 その時点において、どのような七つの覚りの支分が修行の円満成就に赴くのですか。その時点において、気づきという正覚の支分が修行の円満成就に赴き……略……その時点において、放捨という正覚の支分が修行の円満成就に赴きます。その時点において、これらの七つの覚りの支分は修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、義(意味)あるものと為して、意を為して、全ての心を集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くなら、その時点において、この者に、五つの〔修行の〕妨害は有ることなくあり、その時点において、これらの七つの覚りの支分は修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 木の経

 

220. 「比丘たちよ、微細な種子で大いなる身体となり、〔他の〕木々を征圧する、〔それらの〕大木が存在します。それら〔の大木〕によって、〔他の〕木々は制圧され、折れ曲がり、引き裂かれ、倒壊し、〔地に〕臥します。比丘たちよ、では、どのようなものが、微細な種子で大いなる身体となり、〔他の〕木々を征圧する、それらの大木なのですか。それら〔の大木〕によって、〔他の〕木々は制圧され、折れ曲がり、引き裂かれ、倒壊し、〔地に〕臥します。アッサッタ〔樹〕であり、ニグローダ〔樹〕であり、ピラッカ〔樹〕であり、ウドゥンバラ〔樹〕であり、カッチャカ〔樹〕であり、カピッタナ〔樹〕です。比丘たちよ、まさに、これらの、微細な種子で大いなる身体となり、〔他の〕木々を征圧する、それらの大木があります。それら〔の大木〕によって、〔他の〕木々は制圧され、折れ曲がり、引き裂かれ、倒壊し、〔地に〕臥します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、そのようなものである諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家から家なきへと出家した者として〔世に〕有り、彼は、そのようなものである諸々の欲望〔の対象〕によって、あるいは、それよりもより好ましい諸々の悪しきものによって、折れ曲がり、引き裂かれ、倒壊し、〔地に〕臥します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、憎悪〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕沈滞と眠気は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕高揚と悔恨は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものがあります。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心を征服するものならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心を征服するものならざる、気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。……略……。比丘たちよ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心を征服するものならざる、放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心を征服するものならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 〔修行の〕妨害の経

 

221. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、〔修行の〕妨害です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕です。比丘たちよ、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、憎悪〔の思い〕です。比丘たちよ、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、〔心の〕沈滞と眠気です。比丘たちよ、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、〔心の〕高揚と悔恨です。比丘たちよ、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、疑惑〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるもののために等しく転起するものである、〔修行の〕妨害があります。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、眼を作り為すものであり、知を作り為すものであり、智慧と覚慧あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃のために等しく転起するものである、覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、眼を作り為すものであり、知を作り為すものであり、智慧と覚慧あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃のために等しく転起するものである、気づきという正覚の支分です。……略……。比丘たちよ、眼を作り為すものであり、知を作り為すものであり、智慧と覚慧あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃のために等しく転起するものである、放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、眼を作り為すものであり、知を作り為すものであり、智慧と覚慧あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃のために等しく転起するものである、覚りの支分があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの善なるもの、そして、〔心の〕汚れ、そして、二つの『根源のままに』があり、そして、増大、〔修行の〕妨げと〔修行の〕妨害、木、さらに、〔修行の〕妨害があり、それらの十がある」と。

 

5. 転輪の章

 

1. 様相の経

 

222. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔優等劣の〕三つの〔価値判断の〕様相を捨棄したなら、彼らの全てが、七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、〔捨棄したのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔優等劣の〕三つの〔価値判断の〕様相を捨棄するであろうなら、彼らの全てが、七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、〔捨棄するでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔優等劣の〕三つの〔価値判断の〕様相を捨棄するなら、彼らの全てが、七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、〔捨棄します〕。どのようなものが、七つの覚りの支分なのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔優等劣の〕三つの〔価値判断の〕様相を捨棄したなら……略……捨棄するであろうなら……略……捨棄するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、〔捨棄します〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 転輪の経

 

223. 「比丘たちよ、転輪王の出現あることから、七つの宝の出現が〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。車輪の宝の出現が〔世に〕有り、象の宝の出現が〔世に〕有り、馬の宝の出現が〔世に〕有り、宝珠の宝の出現が〔世に〕有り、婦女の宝の出現が〔世に〕有り、家長の宝の出現が〔世に〕有り、参謀の宝の出現が〔世に〕有ります。比丘たちよ、転輪王の出現あることから、これらの七つの宝の出現が〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、七つの覚りの支分の出現が〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分の宝の出現が〔世に〕有り……略……放捨という正覚の支分の宝の出現が〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、これらの七つの覚りの支分の出現が〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 悪魔の経

 

224. 「比丘たちよ、悪魔の軍団を撃破する道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、悪魔の軍団を撃破する道なのですか。すなわち、この、七つの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、まさに、これは、悪魔の軍団を撃破する道です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 智慧浅き者の経

 

225. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『智慧浅き者たる蒙者』『智慧浅き者たる蒙者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『智慧浅き者たる蒙者』と説かれるのですか」と。「比丘よ、まさに、七つの覚りの支分を修めず、多く為さなかったことから、『智慧浅き者たる蒙者』と説かれます。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘よ、まさに、これらの七つの覚りの支分を修めず、多く為さなかったことから、『智慧浅き者たる蒙者』と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 智慧ある者の経

 

226. 「尊き方よ、『智慧ある者にして蒙者ならざる者』『智慧ある者にして蒙者ならざる者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『智慧ある者にして蒙者ならざる者』と説かれるのですか」と。「比丘よ、まさに、七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、『智慧ある者にして蒙者ならざる者』と説かれます。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘よ、まさに、これらの七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、『智慧ある者にして蒙者ならざる者』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 貧者の経

 

227. 「尊き方よ、『貧者』『貧者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『貧者』と説かれるのですか」と。「比丘よ、まさに、七つの覚りの支分を修めず、多く為さなかったことから、『貧者』と説かれます。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘よ、まさに、これらの七つの覚りの支分を修めず、多く為さなかったことから、『貧者』と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 貧者ならざる者の経

 

228. 「尊き方よ、『貧者ならざる者』『貧者ならざる者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『貧者ならざる者』と説かれるのですか」と。「比丘よ、まさに、七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、『貧者ならざる者』と説かれます。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘よ、まさに、これらの七つの覚りの支分を修め、多く為したことから、『貧者ならざる者』と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 太陽の経

 

229. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘にとって、七つの覚りの支分の生起には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 内なる支分の経

 

230. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、七つの覚りの支分の生起のためになるものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままに意を為すことを成就した比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、根源のままに意を為すことを成就した者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 外なる支分の経

 

231. 「比丘たちよ、外なるものを『支分』と為して、七つの覚りの支分の生起のためになるものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘には、このことが期待できます。〔彼は〕七つの覚りの支分を修めるでしょうし、七つの覚りの支分を多く為すでしょう。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 転輪の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「様相、転輪、悪魔、智慧浅き者があり、そして、智慧ある者とともに、貧者、そして、貧者ならざる者があり、太陽と〔二つの〕支分によって、それらの十がある」と。

 

6. 論議の章

 

1. 食の経

 

232. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、五つの〔修行の〕妨害の、そして、七つの覚りの支分の、そして、食を、さらに、食なきものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、浄美の形相が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、敵対の形相が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、不満、倦怠、欠伸(あくび)、食後の睡魔が〔存在し〕、さらに、心の畏縮が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、心の寂止なき〔あり方〕が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、気づきという正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)が〔存在し〕、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)が〔存在し〕、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)が〔存在し〕、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、勉励の界域が〔存在し〕、促進の界域が〔存在し〕、勤勉の界域が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、喜悦という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、身体の静息が〔存在し〕、心の静息が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、〔心の〕止寂の形相が〔存在し〕、混乱なき形相が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食となるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、放捨という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食となります──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、不浄の形相が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、勉励の界域が〔存在し〕、促進の界域が〔存在し〕、勤勉の界域が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、心の寂止が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。比丘たちよ、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)が〔存在し〕、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)が〔存在し〕、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)が〔存在し〕、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)が存在します。そこにおいて、根源のままに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の、より一層の状態のために、広大のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、気づきという正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)が〔存在し〕、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)が〔存在し〕、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)が〔存在し〕、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、勉励の界域が〔存在し〕、促進の界域が〔存在し〕、勤勉の界域が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、喜悦という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、身体の静息が〔存在し〕、心の静息が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、〔心の〕止寂の形相が〔存在し〕、混乱なき形相が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就のために。

 

 比丘たちよ、では、何が、食なきものとなるのですか──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために。比丘たちよ、放捨という正覚の支分が止住するべき諸々の法(事象)が存在します。そこにおいて、根源のままならずに意を為すことを多く為す〔あり方〕が、これが、食なきものとなります──あるいは、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起のために、あるいは、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就のために」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 教相の経

 

233. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 「友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄しなさい。七つの覚りの支分を、事実のとおりに修行しなさい』と。友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄しなさい。七つの覚りの支分を、事実のとおりに修行しなさい』と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちに、このような〔思いが〕有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしたちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 『友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄しなさい。七つの覚りの支分を、事実のとおりに修行しなさい」と。友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「友よ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄しなさい。七つの覚りの支分を、事実のとおりに修行しなさい」と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。

 

 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、教相が存在しますか──その教相に由来して、五つの〔修行の〕妨害が十と成り、七つの覚りの支分が十四と成ります』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、五つの〔修行の〕妨害が十と成ります。比丘たちよ、すなわち、また、内なる欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害であり、すなわち、また、外なる欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害です。『欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害』とは、まさに、かくのごとく、この誦説(概説)に至ります。〔まさに〕その、この〔妨害〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、すなわち、また、内なる憎悪〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害であり、すなわち、また、外なる憎悪〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害です。『憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔妨害〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、すなわち、また、〔心の〕沈滞は、それもまた、〔修行の〕妨害であり、すなわち、また、眠気は、それもまた、〔修行の〕妨害です。『〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔妨害〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、すなわち、また、〔心の〕高揚は、それもまた、〔修行の〕妨害であり、すなわち、また、悔恨は、それもまた、〔修行の〕妨害です。『〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔妨害〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、すなわち、また、内なる諸々の法(事象)における疑惑〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害であり、すなわち、また、外なる諸々の法(事象)における疑惑〔の思い〕は、それもまた、〔修行の〕妨害です。『疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔妨害〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、五つの〔修行の〕妨害が十と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、七つの覚りの支分が十四と成ります。比丘たちよ、すなわち、また、内なる諸々の法(事象)における気づきであるなら、それもまた、気づきという正覚の支分であり、すなわち、また、外なる諸々の法(事象)における気づきであるなら、それもまた、気づきという正覚の支分です。『気づきという正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説(概説)に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、内なる諸々の法(事象)について、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、それもまた、法(真理)の判別という正覚の支分であり、すなわち、また、外なる諸々の法(事象)について、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、それもまた、法(真理)の判別という正覚の支分です。『法(真理)の判別という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、身体の属性としての精進であるなら、それもまた、精進という正覚の支分であり、すなわち、また、心の属性としての精進であるなら、それもまた、精進という正覚の支分です。『精進という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)〔微細なる〕想念を有する(有伺)喜悦であるなら、それもまた、喜悦という正覚の支分であり、すなわち、また、〔粗雑なる〕思考なく(無尋)〔微細なる〕想念なき(無伺)喜悦であるなら、それもまた、喜悦という正覚の支分です。『喜悦という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、身体の静息であるなら、それもまた、静息という正覚の支分であり、すなわち、また、心の静息であるなら、それもまた、静息という正覚の支分です。『静息という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有する禅定であるなら、それもまた、禅定という正覚の支分であり、すなわち、また、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なき禅定であるなら、それもまた、禅定という正覚の支分です。『禅定という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、内なる諸々の法(事象)における放捨であるなら、それもまた、放捨という正覚の支分であり、すなわち、また、外なる諸々の法(事象)における放捨であるなら、それもまた、放捨という正覚の支分です。『放捨という正覚の支分』とは、まさに、かくのごとく、この誦説に至ります。〔まさに〕その、この〔支分〕は、この教相によってもまた、二つのものと成ります。比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、七つの正覚の支分が十四と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 火の経

 

234. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。(〔以下は〕教相の経と等しきものとなる。)

 

 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、どのような覚りの支分の修行のための時ではなく、どのような覚りの支分の修行のための時なのですか。また、友よ、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、どのような覚りの支分の修行のための時ではなく、どのような覚りの支分の修行のための時なのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。

 

 比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

 比丘たちよ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです(畏縮したままとなる)。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、小さな火を燃やすことが可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時であり、精進という正覚の支分の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、小さな火を燃やすことが可能ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時であり、精進という正覚の支分の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです。

 

 比丘たちよ、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです(高揚したままとなる)。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存し、彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです。比丘たちよ、そして、まさに、わたしは、気づきを、全てに義(利益)あるものと説きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 慈愛〔の思い〕を共具したものの経

 

235. 或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、ハリッダヴァサナという名の町があります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ハリッダヴァサナに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「ハリッダヴァサナを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 「友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい。慈悲〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈悲〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい。歓喜〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく歓喜〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい』と。

 

 友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。……略……。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い)を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい』と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、ハリッダヴァサナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ハリッダヴァサナに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちに、このような〔思いが〕有りました。『ハリッダヴァサナを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしたちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 『友よ、沙門ゴータマは、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。……略……。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い)を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい」と。

 

 友よ、わたしたちもまた、まさに、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。「友よ、さあ、あなたたちは、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。……略……。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい」と。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。

 

 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。友よ、また、慈悲という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。友よ、また、歓喜という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。友よ、また、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

 比丘たちよ、では、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、慈愛〔の思い〕を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、慈愛〔の思い〕を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として(※)〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住み〕、また、まさに、あるいは、浄美の解脱を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、わたしは、慈愛という〔止寂の〕心による解脱を、浄美を最高とするものと説きます──ここに智慧あるも、より上なる解脱を理解していない比丘のために。

 

※ テキストには upekkhako ca tattha とあるが、PTS版により ca を削除する。

 

 比丘たちよ、では、慈悲という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、慈悲〔の思い〕を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、慈悲〔の思い〕を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住み〕、また、あるいは、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、わたしは、慈悲という〔止寂の〕心による解脱を、虚空無辺なる〔認識の〕場所を最高とするものと説きます──ここに智慧あるも、より上なる解脱を理解していない比丘のために。

 

 比丘たちよ、では、歓喜という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、歓喜〔の思い〕を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、歓喜〔の思い〕を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住み〕、また、あるいは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、わたしは、歓喜という〔止寂の〕心による解脱を、識知無辺なる〔認識の〕場所を最高とするものと説きます──ここに智慧あるも、より上なる解脱を理解していない比丘のために。

 

 比丘たちよ、では、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、どのように修められ、何を赴く所とするものと成り、何を最高とするものと〔成り〕、何を果とするものと〔成り〕、何を結末とするものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨〔の思い〕を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨〔の思い〕を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住み〕、また、あるいは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、わたしは、放捨という〔止寂の〕心による解脱を、無所有なる〔認識の〕場所を最高とするものと説きます──ここに智慧あるも、より上なる解脱を理解していない比丘のために」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. サンガーラヴァの経

 

236. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白とならないのですか。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となるのですか。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の[u1] 思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、染料が、あるいは、鬱金が、あるいは、青色〔の染料〕が、あるいは、緋色〔の染料〕が、混ざっている水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知らないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、火によって熱せられ、沸騰し泡立った水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知らないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、苔や藻に覆い包まれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知らないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、風に揺られ、揺れ動き、混沌となり、波立った水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知らないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、混濁し、掻き乱され、泥まみれと成り、暗黒のなかに置かれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知らないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知らず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、しかしながら、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、染料が、あるいは、鬱金が、あるいは、青色〔の染料〕が、あるいは、緋色〔の染料〕が、混ざっていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知るであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら……略……。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、火によって熱せられず、沸騰せず泡立っていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知るであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、苔や藻に覆い包まれていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知るであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、風に揺られず、揺れ動かず、混沌とならず、波立っていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知るであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた……長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、澄んでいて清らかで混濁なく、光明のなかに置かれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を注視しているなら、事実のとおりに知るであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに知り見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、また、これを因として、これを縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、七つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。婆羅門よ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、気づきという正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。……略……。婆羅門よ、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、放捨という正覚の支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。婆羅門よ、まさに、これらの七つの、〔修行の〕妨げとならず、〔修行の〕妨害とならず、心に付随する〔心の〕汚れならざる、覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱の果の実証のために等しく転起します」と。このように説かれたとき、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アバヤの経

 

237. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、アバヤ王子が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アバヤ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)は、このように言いました。『無知と無見のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なきものとして、無知と無見は有る。知と見のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なきものとして、知と見は有る』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。「王子よ、無知と無見のための、因は存在し、縁は存在します。因を有し縁を有するものとして、無知と無見は有ります。王子よ、知と見のための、因は存在し、縁は存在します。因を有し縁を有するものとして、知と見は有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、無知と無見のための、どのようなものが因であり、どのようなものが縁であり、どのように、因を有し縁を有するものとして、無知と無見は有るのですか」と。「王子よ、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに知らず見ないなら、王子よ、無知と無見のための、まさに、また、これが因であり、これが縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有するものとして、無知と無見は有ります。

 

 王子よ、さらに、また、他に、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で……略……〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で……〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で……疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに知らず見ないなら、王子よ、無知と無見のための、まさに、また、これが因であり、これが縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有するものとして、無知と無見は有ります」と。

 

 「尊き方よ、この法(教え)の教相は、どのような名のものですか」と。「王子よ、これらは、諸々の〔修行の〕妨害という名のものです」と。「世尊よ、たしかに、諸々の〔修行の〕妨害です。善き至達者たる方よ、たしかに、諸々の〔修行の〕妨害です。尊き方よ、たとえ、一つ一つの〔修行の〕妨害であれ、まさに、〔それに〕征服されたなら、事実のとおりに知らず見ないでしょう。五つの〔修行の〕妨害に〔征服されたなら〕、また、何の論があるというのでしょう。

 

 尊き方よ、また、知と見のための、どのようなものが因であり、どのようなものが縁であり、どのように、因を有し縁を有するものとして、知と見は有るのですか」と。「王子よ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。彼は、気づきという正覚の支分を修めた心で、事実のとおりに知り見ます。王子よ、知と見のための、まさに、また、これが因であり、これが縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有するものとして、知と見は有ります。

 

 王子よ、さらに、また、他に、比丘が……略……遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。彼は、放捨という正覚の支分を修めた心で、事実のとおりに知り見ます。王子よ、知と見のための、まさに、また、これが因であり、これが縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有するものとして、知と見は有ります」と。

 

 「尊き方よ、この法(教え)の教相は、どのような名のものですか」と。「王子よ、これらは、諸々の覚りの支分という名のものです」と。「世尊よ、たしかに、諸々の覚りの支分です。善き至達者たる方よ、たしかに、諸々の覚りの支分です。尊き方よ、たとえ、一つ一つの覚りの支分であれ、まさに、〔それを〕具備しているなら、事実のとおりに知り見るでしょう。七つの覚りの支分を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう。尊き方よ、すなわち、また、ギッジャクータ山に登り行くわたしの、身体の疲弊と心の疲弊は、それもまた、わたしによって安息され、そして、法(教え)は、わたしによって知悉されました」と。〔以上が〕第六となる。

 

 論議の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「食、教相、火、慈愛〔の思い〕があり、そして、サンガーラヴァとともに、アバヤがあり、ギッジャクータ山において問いを尋ねられ、〔章となる〕」と。

 

7. 呼吸の章

 

1. 骨となったものの大いなる果の経

 

238. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。

 

 どちらか一つの果の経

 

 「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、では、どのように、まさに、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できるのですか。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。

 

 大いなる義の経

 

 「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、まさに、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。

 

 束縛からの平安の経

 

 「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる束縛からの平安(軛安穏)のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、まさに、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる束縛からの平安のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる束縛からの平安のために等しく転起します」と。

 

 畏怖〔の思い〕の経

 

 「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、まさに、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します」と。

 

 平穏の住の経

 

 「比丘たちよ、骨となったものの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる平穏の住のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、まさに、骨となったものの表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる平穏の住のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、骨となったものの表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、骨となったものの表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる平穏の住のために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 蛆虫まみれのものの経

 

239. 「比丘たちよ、蛆虫まみれのものの表象が、修められ……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 青黒くなったものの経

 

240. 「比丘たちよ、青黒くなったものの表象が……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 切断されたものの経

 

241. 「比丘たちよ、切断されたものの表象が……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 膨張したものの経

 

242. 「比丘たちよ、膨張したものの表象が……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 慈愛〔の心〕の経

 

243. 「比丘たちよ、慈愛〔の心〕が、修められ……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 慈悲〔の心〕の経

 

244. 「比丘たちよ、慈悲〔の心〕が、修められ……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 歓喜〔の心〕の経

 

245. 「比丘たちよ、歓喜〔の心〕が、修められ……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 放捨〔の心〕の経

 

246. 「比丘たちよ、放捨〔の心〕が、修められ……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 呼吸の経

 

247. 「比丘たちよ、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が、修められ……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 呼吸の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「骨となったものと蛆虫まみれのもの、青黒くなったもの、切断されたものがあり、第五のものとして、膨張したものとともに、慈愛〔の心〕、慈悲〔の心〕、歓喜〔の心〕、放捨〔の心〕があり、呼吸とともに、それらの十がある」と。

 

8. 止滅の章

 

1. 不浄の経

 

248. 「比丘たちよ、不浄の表象が……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 死の経

 

249. 「比丘たちよ、死の表象が……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 食についての嫌悪の経

 

250. 「比丘たちよ、食についての嫌悪の表象が……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 歓楽なきものの経

 

251. 「比丘たちよ、一切の世についての歓楽なき表象が……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 無常の経

 

252. 「比丘たちよ、無常の表象が……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 苦痛の経

 

253. 「比丘たちよ、苦痛の表象が……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 無我の経

 

254. 「比丘たちよ、無我の表象が……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 捨棄の経

 

255. 「比丘たちよ、捨棄の表象が……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 離貪の経

 

256. 「比丘たちよ、離貪の表象が……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 止滅の経

 

257. 「比丘たちよ、止滅の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、止滅の表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、止滅の表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。

 

 「比丘たちよ、止滅の表象が、修められ、多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、では、どのように、まさに、止滅の表象が修められ、どのように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できるのですか。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、止滅の表象が修められ、このように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。

 

 「比丘たちよ、止滅の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します。大いなる束縛からの平安のために等しく転起します。大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します。大いなる平穏の住のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、まさに、止滅の表象が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、止滅の表象を共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、止滅の表象が修められ、このように多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します。大いなる束縛からの平安のために等しく転起します。大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します。大いなる平穏の住のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 止滅の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不浄と死と食についての嫌悪と歓楽なきものとともに、無常と苦痛と無我と捨棄があり、離貪と止滅とともに、それらの十がある」と。

 

9. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. ガンガー川等の経

 

258-269. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。(すなわち、探し求め〔の経〕まで、〔このように〕聖典が詳知されるべきである。)

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

10. 不放逸の章

 

1-10. 如来等の経

 

270-279.(※) 「比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも……」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

※ テキストには 270. とあるが、270-279. と補足する。

 

 不放逸の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根があり、芯とともに、ヴァッシカ、王、そして、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

 (覚りの支分に相応するもののなかの不放逸の章として、覚りの支分を所以に詳知されるべきである。)

 

11. 力によって為されるべきことの章

 

1-12. 力等の経

 

280-291.(※) 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら……略……。

 

※ テキストには 280. とあるが、280-291. と補足する。

 

 力によって為されるべきことの章が第十一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

 (覚りの支分に相応するもののなかの力によって為されるべきことの章として、覚りの支分を所以に詳知されるべきである。)

 

12. 探し求めの章

 

1-10. 探し求め等の経

 

292-301.(※) 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。……」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

※ テキストには 292. とあるが、292-301. と補足する。

 

 探し求めの章が第十二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛があり、そして、渇愛(タシナー)とともに、〔章となる〕」と。

 

 (覚りの支分に相応するものの探し求めと省略〔の経典〕が、遠離に依拠したもの〔の観点〕から詳知されるべきである。)

 

13. 激流の章

 

1-9.(※) 激流等の経

 

※ テキストには 1-8. とあるが、1-9. と訂正する。

 

302-310.(※) 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの激流です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。……」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

※ テキストには 302. とあるが、302-310. と補足する。

 

10. 上なる域の経

 

311. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、七つの覚りの支分が修められるべきです。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、放捨という正覚の支分を修めます。……。不死への沈潜となり、不死を行き着く所とし、不死を結末とする……。涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの七つの覚りの支分が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 激流の章が第十三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

14. さらなるガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

312-323. さらなるガンガー川等の経

 

 第十四の章となる。

 

 摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 (覚りの支分に相応するもののなかのガンガー〔川〕と省略〔の経典〕として、貪欲を所以に詳知されるべきである。)

 

15. さらなる不放逸の章

 

324-333. 如来等の経

 

 第十五となる。

 

 摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根があり、芯とともに、ヴァッシカ、王、そして、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

 (不放逸の章として、貪欲を所以に詳知されるべきである。)

 

16. さらなる力によって為されるべきことの章

 

334-345. さらなる力等の経

 

 第十六となる。

 

 摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

 (覚りの支分に相応するもののなかの力によって為されるべきことの章として、貪欲を所以に詳知されるべきである)

 

17. さらなる探し求めの章

 

346-356. さらなる探し求め等の経

 

 さらなる探し求めの章が第十七となる。

 

 摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛があり、そして、渇愛(タシナー)とともに、〔章となる〕」と。

 

18. さらなる激流の章

 

357-366. さらなる激流等の経

 

 覚りの支分に相応するもののさらなる激流の章が第十八となる。

 

 摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 (貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とするものの章として詳知されるべきである。)(すなわち、また、道に相応するものが詳知されるべきであり、それがまた、覚りの支分に相応するものとして、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

 覚りの支分に相応するものが第二となる。

 

3(47). 気づきの確立に相応するもの

 

1. アンバパーリーの章

 

1. アンバパーリーの経

 

367. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。アンバパーリーの林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 気づきの経

 

368. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。アンバパーリーの林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正知の者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正知の者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 比丘の経

 

369. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「まさしく、このように、また、ここに、一部の愚人たちは、まさしく、そして、わたしに要請します。そして、法(教え)が語られたとき、まさしく、わたしに追随するべきと思い考えます」と。「尊き方よ、世尊は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの義(意味)を知るでしょう。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの相続者として存するでしょう」と。「比丘よ、それでは、ここに、あなたは、諸々の善なる法(性質)における、まさしく、最初のものを清めなさい。では、何が、諸々の善なる法(性質)の最初のものなのですか。かつまた、極めて清浄なる戒であり、かつまた、真っすぐな見解です。比丘よ、すなわち、まさに、あなたに、かつまた、極めて清浄なる戒が有り、かつまた、真っすぐな見解が〔有ることから〕、比丘よ、そののち、あなたは、戒に依拠して、戒において確立して、四つの気づきの確立を、三種類〔の観点〕によって修めるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘よ、ここに、あなたは、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。あるいは、内に、諸々の感受における……略……あるいは、外に、諸々の感受における……略……あるいは、内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。あるいは、内に、心における……略……あるいは、外に、心における……略……あるいは、内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。あるいは、内に、諸々の法(性質)における……略……あるいは、外に、諸々の法(性質)における……略……あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、戒に依拠して、戒において確立して、これらの四つの気づきの確立を、三種類〔の観点〕によって修めることから、比丘よ、そののち、あなたには、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました(※)。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

※ テキストには viharati とあるが、PTS版により vihāsi と読む。

 

4. サーラーの経

 

370. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。サーラーという婆羅門の村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。……略……こう言いました。

 

 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、それらの比丘たちは、四つの気づきの確立の修行のために、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。『友よ、さあ、あなたたちは、身体における身体の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、身体を事実のとおりに知るために。諸々の感受における感受の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の感受を事実のとおりに知るために。心における心の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、心を事実のとおりに知るために。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の法(性質)を事実のとおりに知るために』〔と〕。比丘たちよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らもまた、身体における身体の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、身体の遍知のために。諸々の感受における感受の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の感受の遍知のために。心における心の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、心の遍知のために。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の法(性質)の遍知のために。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らもまた、身体における身体の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、身体による束縛を離れた者たちとして。諸々の感受における感受の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の感受による束縛を離れた者たちとして。心における心の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、心による束縛を離れた者たちとして。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、〔心が〕専一と成った者たちとなり、清らかな心の者たちとなり、〔心が〕定められた者たちとなり、一境の心の者たちとなり、諸々の法(性質)による束縛を離れた者たちとして。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、それらの比丘たちは、これらの四つの気づきの確立の修行のために、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 善ならざるものの集まりの経

 

371. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、『善ならざるものの集まりである』と説いている者は、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善ならざるものの集まりであるからです。すなわち、この、五つの〔修行の〕妨害です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害であり、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害です。比丘たちよ、『善ならざるものの集まりである』と説いている者は、これらの五つの〔修行の〕妨害のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善ならざるものの集まりであるからです。すなわち、この、五つの〔修行の〕妨害です。

 

 比丘たちよ、『善なるものの集まりである』と説いている者は、四つの気づきの確立のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善なるものの集まりであるからです。すなわち、この、四つの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、『善なるものの集まりである』と説いている者は、これらの四つの気づきの確立のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善なるものの集まりであるからです。すなわち、この、四つの気づきの確立です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 鷹の経

 

372. 「比丘たちよ、過去の事ですが、鷹が、鶉の雄鳥を一気に襲撃し、掴み取りました。比丘たちよ、そこで、まさに、鶉の雄鳥は、鷹によって運ばれながら、このように嘆き悲しみました。『まさしく、わたしたちは、不運の者たちとして存している。わたしたちは、功徳少なき者たちである──すなわち、〔自己の〕境涯(餌場)ならざる他者の境域を歩んだ、わたしたちは。それで、もし、今日、わたしたちが、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んだなら、この鷹が、わたしに〔満足し〕十分と成ることはなかったのだ──すなわち、この、戦いに〔勝利し十分と成ることは〕』と。『鶉よ、また、何が、おまえにとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのだ』と。『すなわち、この、(すき)で耕され〔耕作を〕為す土塊の地だ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、鷹は、自らの力あるまま〔過信して〕油断し、自らの力あるまま〔鶉の雄鳥に〕反発しながら、鶉の雄鳥を解き放ちました。『鶉よ、まさに、おまえは赴け。たとえ、そこに赴いても、わたしから解き放たれないであろう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、鶉の雄鳥は、鋤で耕され〔耕作を〕為す土塊の地に赴いて、大いなる土塊に登って、鷲に説きつつ立ちました。『鷲よ、まさに、今や、わたしのもとに来たれ。鷲よ、まさに、今や、わたしのもとに来たれ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その鷲は、自らの力あるまま〔過信して〕油断し、自らの力あるまま〔鶉の雄鳥に〕反発しながら、両の翼を広げて、鶉の雄鳥を一気に襲撃したのです。比丘たちよ、すなわち、まさに、鶉の雄鳥が、『まさに、わたしのもとに、この鷹が、多大なる〔勢い〕をもって到来したのだ』と了知したとき、そこで、まさしく、その土塊の隙間に入り込みました。比丘たちよ、そこで、まさに、鷹は、まさしく、そこにおいて、胸を打ちました。比丘たちよ、まさに、このように、そのことは有ります──すなわち、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩むなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んではいけません。比丘たちよ、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象(所縁)を得るでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域なのですか。すなわち、この、五つの欲望の属性(五妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態()で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声()で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気()で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感()で……略……身によって識知されるべき諸々の感触(所触)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、これは、比丘にとって、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域です。

 

 比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのですか。すなわち、この、四つの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 猿の経

 

373. 「比丘たちよ、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)には、行くに難く平坦ならざる地域が存在し、そこにおいては、まさしく、猿たちのなかに歩む者はなく、人間たちのなかにも〔歩む者は〕ありません。比丘たちよ、山の王たるヒマヴァントには、行くに難く平坦ならざる地域が存在し、そこにおいては、まさに、猿たちのなかには、まさに、歩む者があるも、人間たちのなかに〔歩む者は〕ありません。比丘たちよ、山の王たるヒマヴァントには、平坦な土地の部分で喜ばしきところが存在し、そこにおいては、まさしく、そして、猿たちのなかに歩む者があり、さらに、人間たちのなかにも〔歩む者が〕あります。比丘たちよ、そこで、猟師たちは、諸々の猿の道において鳥餅を仕掛けます──猿たちの捕縛のために。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、それらの猿たちが、愚かならざる類の者たちであり、妄動なき類の者たちであるなら、彼らは、その鳥餅を見て、遠く離れ、遍く避けます。また、すなわち、その猿が、愚かなる類の者として、妄動ある類の者として、〔世に〕有るなら、彼は、その鳥餅に近づいて行って、手で掴みます。彼は、そこにおいて、捕縛されます。『手を解き放つのだ』と、第二の手で掴みます。彼は、そこにおいて、捕縛されます。『両の手を解き放つのだ』と、足で掴みます。彼は、そこにおいて、捕縛されます。『両の手を解き放つのだ──さらに、足を』と、第二の足で掴みます。彼は、そこにおいて、捕縛されます。『両の手を解き放つのだ──さらに、〔両の〕足を』と、口で掴みます。彼は、そこにおいて、捕縛されます。比丘たちよ、まさに、このように、その猿は、五つのものを仕掛けられ、うめきながら〔地に〕臥します──不幸を惹起し、災厄を惹起し、猟師の欲するままに為される者となり。比丘たちよ、〔まさに〕その、この〔猿〕を、猟師は、突き刺して、まさしく、その薪で作った炭火のなかに放り込んで、欲するところに立ち去ります。比丘たちよ、このように、彼はあり、そのことは有ります──すなわち、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩むなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んではいけません。比丘たちよ、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域なのですか。すなわち、この、五つの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感で……略……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、これは、比丘にとって、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域です。

 

 比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのですか。すなわち、この、四つの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 料理人の経

 

374. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき料理人が、あるいは、王に、あるいは、王の大臣たちに、種々なる趣きある汁によって──酸っぱさを主眼とするものによってもまた、苦さを主眼とするものによってもまた、辛さを主眼とするものによってもまた、甘さを主眼とするものによってもまた、刺激のあるものによってもまた、刺激のないものによってもまた、塩気のあるものによってもまた、塩気のないものによってもまた──奉仕する者として存するとします。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき料理人は、自らの主人の形相を収め取りません(主人の嗜好を把握しない)。『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、この汁物が好ましきものとなり、あるいは、この〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、この〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、この〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、酸っぱさを主眼とする汁物が好ましきものとなり、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、苦さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、辛さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、甘さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のない……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のない汁物が好ましきものとなり、あるいは、塩気のない〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、塩気のない〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、塩気のない〔汁物〕の栄誉を語る』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき料理人は、まさしく、そして、衣服の得者と成らず、報酬の得者と〔成ら〕ず、諸々の〔物品の〕提供の得者と〔成り〕ません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき料理人は、自らの主人の形相を収め取らないからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められず、諸々の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)は捨棄されず、彼は、その形相を収め取りません。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められず、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄されず、彼は、その形相を収め取りません。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき比丘は、まさしく、そして、所見の法(現世)における諸々の安楽の住(現法楽住)の得者と成らず、気づきと正知の得者と〔成り〕ません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、愚者にして明敏ならず、巧みな智なき比丘は、自らの心の形相を収め取らないからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人が、あるいは、王に、あるいは、王の大臣たちに、種々なる趣きある汁によって──酸っぱさを主眼とするものによってもまた、苦さを主眼とするものによってもまた、辛さを主眼とするものによってもまた、甘さを主眼とするものによってもまた、刺激のあるものによってもまた、刺激のないものによってもまた、塩気のあるものによってもまた、塩気のないものによってもまた──奉仕する者として存するとします。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、自らの主人の形相を収め取ります(主人の嗜好を把握する)。『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、この汁物が好ましきものとなり、あるいは、この〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、この〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、この〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、酸っぱさを主眼とする汁物が好ましきものとなり、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、酸っぱさを主眼とする〔汁物〕の栄誉を語る』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、苦さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、辛さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、甘さを主眼とする……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、刺激のない……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のある……』『今日、わたしの主人にとっては、あるいは、塩気のない汁物が好ましきものとなり、あるいは、塩気のない〔汁物〕に〔手を〕運び、あるいは、塩気のない〔汁物〕の多くを掴み取り、あるいは、塩気のない〔汁物〕の栄誉を語る』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、まさしく、そして、衣服の得者と成り、報酬の得者と〔成り〕、諸々の〔物品の〕提供の得者と〔成ります〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある料理人は、自らの主人の形相を収め取るからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められ、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄され、彼は、その形相を収め取ります。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)において法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は定められ、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄され、彼は、その形相を収め取ります。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、まさしく、そして、所見の法(現世)における諸々の安楽の住の得者と成り、気づきと正知の得者と〔成ります〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その、賢者にして明敏で、巧みな智ある比丘は、自らの心の形相を収め取るからです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 病者の経

 

375. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。ベールヴァ村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、遍きにわたり、ヴェーサーリーにおいて、朋友あるままに、同輩あるままに、知己あるままに、〔彼らを頼って〕雨期を過ごしなさい。わたしは、まさしく、ここに、ベールヴァ村において、雨期を過ごします」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、遍きにわたり、ヴェーサーリーにおいて、朋友あるままに、同輩あるままに、知己あるままに、〔彼らを頼って〕雨期〔の滞在〕に入りました。また、世尊は、まさしく、そこにおいて、ベールヴァ村において、雨期〔の滞在〕に入りました。

 

 そこで、まさに、雨期〔の滞在〕に入った世尊に、荒々しい病苦が生起しました。激烈で死に至るほどの諸々の〔苦痛の〕感受が転起します。そこで、まさに、世尊は、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、耐え忍びました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、奉仕者たちに〔別れを〕告げずして、比丘の僧団を顧みずして、完全なる涅槃に到達するのは。それなら、さあ、わたしは、この病苦を、精進によって退けて、生命を形成する働き()を〔心に〕確立して、〔世に〕住むのだ」と。そこで、まさに、世尊は、その病苦を、精進によって退けて、生命を形成する働きを〔心に〕確立して、〔世に〕住みました。(そこで、まさに、世尊の、その病苦は安息しました。)

 

 そこで、まさに、世尊は、病から出起し、病から出起したすぐあと、精舎から出て、精舎の影のもとに設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、世尊が平穏であるのを見ました。尊き方よ、世尊が息災であるのを見ました。尊き方よ、世尊が順調であるのを見ました。尊き方よ、ですが、また、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたかのようであり、わたしに、諸々の方向もまた定まらず、わたしに、諸々の法(教え)もまた明白となりません──世尊の病によって。尊き方よ、ですが、ともあれ、わたしに、まさしく、幾許かの安堵ほどのものは有ります。『まずは、世尊が完全なる涅槃に到達することはない。すなわち、世尊が、比丘の僧団に関して、何らかの或ることを述べ伝えるまでは』」と。

 

 「アーナンダよ、また、今や、比丘の僧団が、わたしにたいし、何を願い求めるというのでしょう。アーナンダよ、わたしによって、法(教え)は、内もなく外もなく作り為して説示されました。アーナンダよ、如来の諸々の法(教え)において、師匠の握り拳(秘密の教え)は存在しません。アーナンダよ、たしかに、その者に、あるいは、『わたしは、比丘の僧団を維持するのだ』と、あるいは、『わたしを指定する者として、比丘の僧団はある』と、このような〔思いが〕存するなら、アーナンダよ、たしかに、彼は、比丘の僧団に関して、まさしく、何らかの或ることを述べ伝えるでしょう。アーナンダよ、まさに、如来に、あるいは、『わたしは、比丘の僧団を維持するのだ』と、あるいは、『わたしを指定する者として、比丘の僧団はある』と、このような〔思いは〕有りません。アーナンダよ、それで、どうして、如来が、比丘の僧団に関して、まさしく、何らかの或るものを述べ伝えるというのでしょう。アーナンダよ、また、まさに、今現在、わたしは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者であり、わたしの年齢は、八十となり転起します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、老朽した荷車が、革紐の寄り合わせによって保ち行くようなものです。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、如来の身体は、思うに、革紐の寄り合わせによって保ち行きます。

 

 アーナンダよ、その時点において、如来が、一切の形相に意を為さないことから、一部の諸々の感受の止滅あることから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、より平穏なるものと成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。

 

 アーナンダよ、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。アーナンダよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、今現在、あるいは、わたしの死後、自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住むなら、アーナンダよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、最高の至高の者たちと成るでしょう──彼らが誰であれ、学びを欲する者たちであるなら」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 比丘尼の在所の経

 

376. そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、或るどこかの比丘尼の在所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、大勢の比丘尼たちが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、ここに、大勢の比丘尼たちが、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕住みながら、前から後へと、巨大なるものを〔表象し〕、特殊なるものを表象します」と。「姉妹たちよ、このように、このことはあります。姉妹たちよ、このように、このことはあります。姉妹たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕住むなら、彼には、このことが待っています。〔彼は〕前から後へと、巨大なるものを〔表象し〕、特殊なるものを表象するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘尼たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、或るどこかの比丘尼の在所の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の比丘尼たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーナンダよ、ここに、大勢の比丘尼たちが、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕住みながら、前から後へと、巨大なるものを〔表象し〕、特殊なるものを表象します』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの比丘尼たちに、こう言いました。『姉妹たちよ、このように、このことはあります。姉妹たちよ、このように、このことはあります。姉妹たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕住むなら、彼には、このことが待っています。〔彼は〕前から後へと、巨大なるものを〔表象し〕、特殊なるものを表象するでしょう』」と。

 

 「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕住むなら、彼には、このことが待っています。〔彼は〕前から後へと、巨大なるものを〔表象し〕、特殊なるものを表象するでしょう。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、あるいは、身体を対象(所縁)として、身体において苦悶が生起し、あるいは、心の畏縮があり、あるいは、外に、心が散乱します。アーナンダよ、その比丘によって、何らかの或る清信されるべき形相にたいし、心が向けられるべきです。彼が、何らかの或る清信されるべき形相にたいし、心を向けていると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。彼は、かくのごとく深慮します。『その義(目的)のために、まさに、わたしが心を向けた、その義(目的)は、わたしによって完遂された。さあ、今や、〔形相を〕取り去るのだ』と。彼は、まさしく、そして、〔形相を〕取り去り、かつまた、思考せず、さらに、想念しません。『思考なき者として、想念なき者として、〔わたしは〕存している。内に気づきある者として、安楽に〔わたしは〕存している』と、〔彼は〕覚知します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、あるいは、法(性質)を対象として、身体において苦悶が生起し、あるいは、心の畏縮があり、あるいは、外に、心が散乱します。アーナンダよ、その比丘によって、何らかの或る清信されるべき形相にたいし、心が向けられるべきです。彼が、何らかの或る清信されるべき形相にたいし、心を向けていると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。彼は、かくのごとく深慮します。『その義(目的)のために、まさに、わたしが心を向けた、その義(目的)は、わたしによって完遂された。さあ、今や、〔形相を〕取り去るのだ』と。彼は、まさしく、そして、〔形相を〕取り去り、かつまた、思考せず、さらに、想念しません。〔彼は〕『思考なき者として、想念なき者として、〔わたしは〕存している。内に気づきある者として、安楽に〔わたしは〕存している』と覚知します。アーナンダよ、このように、まさに、〔心を〕向けて、修行が有ります。

 

 アーナンダよ、では、どのように、〔心を〕向けずして、修行が有るのですか。アーナンダよ、比丘が、心を、外に向けずして、『わたしの心は、外に向けられていない』と覚知します。そこで、『後と前に、〔心は〕散乱せず、解脱し、向けられていない』と覚知します。そこで、また、そして、『〔わたしは〕身体における身体の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、安楽に存している』と覚知します。アーナンダよ、比丘が、心を、外に向けずして、『わたしの心は、外に向けられていない』と覚知します。そこで、『後と前に、〔心は〕散乱せず、解脱し、向けられていない』と覚知します。そこで、また、そして、『〔わたしは〕諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、安楽に存している』と覚知します。アーナンダよ、比丘が、心を、外に向けずして、『わたしの心は、外に向けられていない』と覚知します。そこで、『後と前に、〔心は〕散乱せず、解脱し、向けられていない』と覚知します。そこで、また、そして、『〔わたしは〕心における心の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、安楽に存している』と覚知します。アーナンダよ、比丘が、心を、外に向けずして、『わたしの心は、外に向けられていない』と覚知します。そこで、『後と前に、〔心は〕散乱せず、解脱し、向けられていない』と覚知します。そこで、また、そして、『〔わたしは〕諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、安楽に存している』と覚知します。アーナンダよ、比丘が、心を、外に向けずして、『わたしの心は、外に向けられていない』と覚知します。そこで、『後と前に、〔心は〕散乱せず、解脱し、向けられていない』と覚知します。アーナンダよ、このように、まさに、〔心を〕向けずして、修行が有ります。

 

 アーナンダよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、〔心を〕向けての修行が説示され、〔心を〕向けずしての修行が〔説示されました〕。アーナンダよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。アーナンダよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。アーナンダよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

 アンバパーリーの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「アンバパーリー、気づきの者、比丘、サーラー、そして、善ならざるものの集まり、鷹、猿、料理人、病者、比丘尼の在所があり、〔章となる〕」と。

 

2. ナーランダーの章

 

1. 偉大なる人士の経

 

377. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『偉大なる人士』『偉大なる人士』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、偉大なる人士と成るのですか」と。「サーリプッタよ、まさに、わたしは、解脱した心の者であることから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きます。解脱した心の者でないことから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きません。

 

 サーリプッタよ、では、どのように、解脱した心の者と成るのですか。サーリプッタよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。サーリプッタよ、このように、まさに、解脱した心の者と成ります。サーリプッタよ、まさに、わたしは、解脱した心の者であることから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きます。解脱した心の者でないことから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ナーランダーの経

 

378. 或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊にたいし、このように清信した者として、わたしはあります。『そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊より、より一層の証知ある者は』」と。「サーリプッタよ、まさに、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれました。『尊き方よ、世尊にたいし、このように清信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊より、より一層の証知ある者は」』と。

 

 サーリプッタよ、いったい、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。あるいは、『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』と。あるいは、『このような法(教え)ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』と。あるいは、『このような智慧ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』と。あるいは、『このような住ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』と。あるいは、『このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』と」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、すなわち、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。あるいは、『このような戒ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』と。あるいは、『このような法(教え)ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』と。あるいは、『このような智慧ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』と。あるいは、『このような住ある者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』と。あるいは、『このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有るであろう』と」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。あるいは、『このような戒ある者として、世尊はある』と。あるいは、『このような法(教え)ある者として、世尊はある』と。あるいは、『このような智慧ある者として、世尊はある』と。あるいは、『このような住ある者として、世尊はある』と。あるいは、『このような解脱者として、世尊はある』と」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、そして、ここにおいて、あなたに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。サーリプッタよ、そこで、そうしますと、どうして、あなたによって、この、秀逸にして威厳ある言葉が語られ、一定して把握され、獅子吼が吼え叫ばれたのですか。『尊き方よ、世尊にたいし、このように清信した者として、わたしはあります。「そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、この、正覚において、世尊より、より一層の証知ある者は」』」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしに、過去と未来と現在の阿羅漢にして正等覚者たちについて、〔他者の〕心を探知する知恵は存在しません。しかしながら、また、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な塀と楼門があり、一つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこに、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕存するとします。彼は、その城市の、遍きにわたり、巡回する道を巡り行きながら、あるいは、塀の境目を、あるいは、塀の隙間を、もしくは、たとえ、山猫が出るほどのものであろうと、〔それらの全てを〕見ることはありません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、彼らが誰であれ、粗大なる命あるものたちが、この城市を、あるいは、入るなら、あるいは、出るなら、彼らの全てが、まさしく、この門をとおり、あるいは、入り、あるいは、出る』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしには、法(真理)による類推が見出され〔存在します〕。尊き方よ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚しました。尊き方よ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たる世尊たちは、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚するでしょう。尊き方よ、世尊もまた、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、無上なる正等覚を現正覚したのです」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、幾度となく、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちに語るべきです。サーリプッタよ、まさに、すなわち、また、愚人たちに、如来についての、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、有るとして、それらの者たちもまた、この法(教え)の教相を聞いて、〔まさに〕その、如来についての、あるいは、疑いも、あるいは、疑問も、それは捨棄されるでしょう」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. チュンダの経

 

379. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、マガダ〔国〕に住んでいます。ナーラカ村において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そして、見習い沙門のチュンダが、尊者サーリプッタの奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、まさしく、その病苦によって、完全なる涅槃に到達しました。そこで、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者サーリプッタの鉢と衣料を取って、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタが、完全なる涅槃に到達したのです。これが、彼の鉢と衣料です」と。

 

 「友よ、チュンダよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、チュンダよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに答えました。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、見習い沙門のチュンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者が、見習い沙門のチュンダが、このように言いました。『尊き方よ、尊者サーリプッタが、完全なる涅槃に到達したのです。これが、彼の鉢と衣料です』と。尊き方よ、そして、また、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたかのようであり、わたしに、諸々の方向もまた定まらず、わたしに、諸々の法(教え)もまた明白となりません。『尊者サーリプッタが、完全なる涅槃に到達したのです』と聞いて」と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 「アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、あなたから、サーリプッタは、あるいは、戒の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのですか、あるいは、禅定の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのですか、あるいは、智慧の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのですか、あるいは、解脱の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのですか、あるいは、解脱の知見の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのですか」と。「尊き方よ、そして、まさに、わたしから、尊者サーリプッタは、あるいは、戒の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのでも、あるいは、禅定の範疇を……略……あるいは、智慧の範疇を……略……あるいは、解脱の範疇を……略……あるいは、解脱の知見の範疇を取って、完全なる涅槃に到達したのでも、ありません。尊き方よ、しかしながら、また、わたしにとって、尊者サーリプッタは、教諭者として、超渡者として、教授者として、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、法(教え)の説示のために倦むことなき者として、梵行を共にする者たちの資助者として、〔世に〕有りました。わたしたちは、尊者サーリプッタの、〔まさに〕その、法(教え)の滋養を、法(教え)の受益を、法(教え)の資助を、随念します」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、そのことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。アーナンダよ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、すなわち、より大いなる幹も、それも崩壊するように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、硬材あるものとなり、安立している大いなる比丘の僧団の、〔大いなる者である〕サーリプッタは、完全なる涅槃に到達したのです。アーナンダよ、それが、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。

 

 アーナンダよ、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。アーナンダよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、今現在、あるいは、わたしの死後、自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住むなら、アーナンダよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、最高の至高の者たちと成るでしょう──彼らが誰であれ、学びを欲する者たちであるなら」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ウッカチェーラーの経

 

380. 或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。ウッカチェーラーのガンガー川に岸辺において、大いなる比丘の僧団と共に、サーリプッタとモッガッラーナが完全なる涅槃に到達したすぐあとに。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。

 

 そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さてまた、わたしのこの衆は、サーリプッタとモッガッラーナが完全なる涅槃に到達したとき、空であるように思えます。比丘たちよ、わたしの衆は、空ならざるものとして有るも、その方角において、サーリプッタとモッガッラーナが〔世に〕住む、〔まさに〕その方角にたいし、期待なく有ります。比丘たちよ、まさに、すなわち、それらの者たちが、過去の時に、阿羅漢にして正等覚者たちとして〔世に〕有ったなら、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高の弟子のひと組が有りました。それは、たとえば、また、わたしにとっての、サーリプッタとモッガッラーナのように。比丘たちよ、すなわち、また、それらの者たちが、未来の時に、阿羅漢にして正等覚者たちとして〔世に〕有るなら、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高の弟子のひと組が有るでしょう。それは、たとえば、また、わたしにとっての、サーリプッタとモッガッラーナのように。比丘たちよ、〔最高の〕弟子たちには、稀有なることがあります。比丘たちよ、〔最高の〕弟子たちには、未曾有のことがあります。そして、教師にとっては、まさに、教えの為し手たちと成るでしょうし、教諭に即応する者たちと〔成るでしょうし〕、さらに、四つの衆にとっては、愛しく意に適う者たちと成るでしょうし、かつまた、重く尊ばれる者たちと〔成るでしょう〕。比丘たちよ、如来には、稀有なることがあります。比丘たちよ、如来には、未曾有のことがあります。たとえ、このような形態の弟子のひと組が、まさに、完全なる涅槃に到達したときも、如来には、あるいは、憂いが、あるいは、嘆きが、存在しません。比丘たちよ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、すなわち、より大いなる幹も、それも崩壊するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、硬材あるものとなり、安立している大いなる比丘の僧団の、〔大いなる者たちである〕サーリプッタとモッガッラーナは、完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、それが、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、〔あなたたちは〕自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、自己を洲とする者として、自己を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、法(教え)を洲とする者として、法(教え)を帰依所とする者として、他のものを帰依所としない者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、今現在、あるいは、わたしの死後、自己を洲とする者たちとして、自己を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とする者たちとして、法(教え)を帰依所とする者たちとして、他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、最高の至高の者たちと成るでしょう──彼らが誰であれ、学びを欲する者たちであるなら」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. バーヒヤの経

 

381. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者バーヒヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バーヒヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「バーヒヤよ、それゆえに、ここに、あなたは、諸々の善なる法(性質)における、まさしく、最初のものを清めなさい。では、何が、諸々の善なる法(性質)の最初のものなのですか。かつまた、極めて清浄なる戒であり、かつまた、真っすぐな見解です。バーヒヤよ、すなわち、まさに、あなたに、かつまた、極めて清浄なる戒が有り、かつまた、真っすぐな見解が〔有ることから〕、バーヒヤよ、そののち、あなたは、戒に依拠して、戒において確立して、四つの気づきの確立を修めるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。バーヒヤよ、ここに、あなたは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。バーヒヤよ、すなわち、まさに、あなたが、戒に依拠して、戒において確立して、これらの四つの気づきの確立を、このように修めることから、バーヒヤよ、そののち、あなたには、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 そこで、まさに、尊者バーヒヤは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者バーヒヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーヒヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第五となる。

 

6. ウッティヤの経

 

382. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者ウッティヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者ウッティヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「ウッティヤよ、それゆえに、ここに、あなたは、諸々の善なる法(性質)における、まさしく、最初のものを清めなさい。では、何が、諸々の善なる法(性質)の最初のものなのですか。かつまた、極めて清浄なる戒であり、かつまた、真っすぐな見解です。ウッティヤよ、すなわち、まさに、あなたに、かつまた、極めて清浄なる戒が有り、かつまた、真っすぐな見解が〔有ることから〕、ウッティヤよ、そののち、あなたは、戒に依拠して、戒において確立して、四つの気づきの確立を修めるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。ウッティヤよ、ここに、あなたは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。ウッティヤよ、すなわち、まさに、あなたが、戒に依拠して、戒において確立して、これらの四つの気づきの確立を、このように修めることから、ウッティヤよ、そののち、あなたは、死魔の領域の彼岸に赴くでしょう」と。

 

 そこで、まさに、尊者ウッティヤは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者ウッティヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者ウッティヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 聖なるものの経

 

383. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 梵〔天〕の経

 

384. 或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「これは、一路の道である──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立である。

 

 どのようなものが、四つのものであるのか。比丘は、あるいは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むべきである──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘は、あるいは、諸々の感受における……略……。比丘は、あるいは、心における……略……。比丘は、あるいは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むべきである──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。これは、一路の道である──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立である」と。

 

 そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。尊き方よ、比丘は、あるいは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むべきです──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、比丘は、あるいは、諸々の感受における……略……。尊き方よ、比丘は、あるいは、心における……略……。尊き方よ、比丘は、あるいは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むべきです──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です」と。

 

 梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生の滅尽と終極を見る〔覚者〕は、〔人々に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、〔人々は〕過去において〔激流を〕超えたのであり、〔未来においても〕超えるであろうし、そして、すなわち、〔今現在も〕激流を超えるのだ」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. セーダカの経

 

385. 或る時のことです。世尊は、スンバ〔国〕に住んでおられます。スンバ〔国〕には、セーダカという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、過去の事ですが、チャンダーラ(賎民)の竹の軽業師が、チャンダーラの軽業用の竹を掲げて、内弟子のメーダカターリカーに告げました。『友よ、メーダカターリカーよ、さあ、おまえは、チャンダーラの軽業用の竹を登って、わたしの肩の上に立て』と。比丘たちよ、『師匠よ、わかりました』と、まさに、内弟子のメーダカターリカーは、チャンダーラの竹の軽業師に答えて、チャンダーラの軽業用の竹を登って、師匠の肩の上に立ちました。比丘たちよ、そこで、まさに、チャンダーラの竹の軽業師は、内弟子のメーダカターリカーに、こう言いました。『友よ、メーダカターリカーよ、おまえは、わたしを守れ。わたしは、おまえを守るであろう。このように、わたしたちは、互いに他を保護し、互いに他を守護し、まさしく、そして、諸々の技能を見せるであろうし、かつまた、利得を得であろうし、さらに、チャンダーラの軽業用の竹から〔無事〕安穏に降りるであろう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、内弟子のメーダカターリカーは、チャンダーラの竹の軽業師に、こう言いました。『師匠よ、また、まさに、このことは、このように成らないでしょう。師匠よ、あなたは、自己を守ってください。わたしは、自己を守るでしょう。このように、わたしたちは、自己を保護し、自己を守護し、まさしく、そして、諸々の技能を見せるでしょうし、かつまた、利得を得でしょうし、さらに、チャンダーラの軽業用の竹から〔無事〕安穏に降りるでしょう』と。それは、そこにおいて、正理となります」と、世尊は、こう言いました。「すなわち、内弟子のメーダカターリカーが、師匠に言ったように。比丘たちよ、『自己を守るであろう』と、気づきの確立が慣れ親しまれるべきであり、『他者を守るであろう』と、気づきの確立が慣れ親しまれるべきです。比丘たちよ、自己を守っている者は、他者を守り、他者を守っている者は、自己を守ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、自己を守っている者は、他者を守るのですか。習修によって、修行によって、多くの行為によって、比丘たちよ、このように、まさに、自己を守っている者は、他者を守り、他者を守っている者は、自己を守ります。比丘たちよ、では、どのように、他者を守っている者は、自己を守るのですか。忍耐によって、不害によって、慈愛の心あることによって、思いやりあることによって、比丘たちよ、このように、まさに、他者を守っている者は、自己を守ります。比丘たちよ、『自己を守るであろう』と、気づきの確立が慣れ親しまれるべきであり、『他者を守るであろう』と、気づきの確立が慣れ親しまれるべきです。比丘たちよ、自己を守っている者は、他者を守り、他者を守っている者は、自己を守ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 国土の美女の経

 

386. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、スンバ〔国〕に住んでおられます。スンバ〔国〕には、セーダカという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、『国土の美女である』『国土の美女である』と、比丘たちよ、まさに、大勢の人の衆が集まるとします。また、まさに、その国土の美女が、舞踏における最高の創作者として、歌詠における最高の創作者として、存するとします。比丘たちよ、『国土の美女が踊り歌う』と、まさに、より一層はげしく、大勢の人の衆が集まるとします。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、おまえによって、この、縁(ふち)まで一杯の油の鉢が、かつまた、大いなる祭礼の間をとおり、かつまた、国土の美女の間をとおり、遍く守られるべきである。そして、剣を引き抜いた男が、背後から背後へと、おまえに付き従うであろう。まさしく、そこにおいて、その〔油〕を、たとえ、少しでも捨て放つなら、まさしく、その場において、おまえの頭を落とすであろう』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この油の鉢を、意を為さずして、外に、放逸のままに運び出せるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『縁まで一杯の油の鉢』とは、まさに、これは、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)の同義語です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『身体の在り方についての気づきは、わたしたちによって、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ナーランダーの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「偉大なる人士、ナーランダー、チュンダ、そして、チェーラー、バーヒヤ、ウッティヤ、聖なるもの、梵〔天〕、セーダカがあり、そして、国土とともに、〔章となる〕」と。

 

3. 戒と止住の章

 

1. 戒の経

 

387. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者バッダは、パータリプッタに住んでいます。クックタ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者バッダは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、すなわち、これらの善なる戒が、世尊によって説かれました。これらの善なる戒は、何を義(目的)として、世尊によって説かれたのですか」と。

 

 「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、すなわち、これらの善なる戒が、世尊によって説かれました。これらの善なる戒は、何を義(目的)として、世尊によって説かれたのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、バッダよ、すなわち、これらの善なる戒が、世尊によって説かれました。これらの善なる戒は、四つの気づきの確立の修行のために、まさしく、そのかぎりにおいて、世尊によって説かれました。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、バッダよ、すなわち、これらの善なる戒が、世尊によって説かれました。これらの善なる戒は、これらの四つの気づきの確立の修行のために、まさしく、そのかぎりにおいて、世尊によって説かれました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 長き止住の経

 

388. まさしく、その、〔同じ〕因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者バッダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか。友よ、アーナンダよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか」と。

 

 「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか。友よ、アーナンダよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません。友よ、しかしながら、まさに、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません。友よ、しかしながら、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 遍き衰退の経

 

389. 或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者バッダは、パータリプッタに住んでいます。クックタ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者バッダは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、正なる法(教え)の遍き衰退が有るのですか。友よ、アーナンダよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、正なる法(教え)の遍き衰退なき〔あり方〕が有るのですか」と。

 

 「友よ、バッダよ、善きかな、善きかな。友よ、バッダよ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。友よ、バッダよ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、正なる法(教え)の遍き衰退が有るのですか。友よ、アーナンダよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、正なる法(教え)の遍き衰退なき〔あり方〕が有るのですか』」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、正なる法(教え)の遍き衰退が有ります。友よ、しかしながら、まさに、四つの気づきの確立が修められ、多く為されたことから、正なる法(教え)の遍き衰退なき〔あり方〕が有ります。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、正なる法(教え)の遍き衰退が有ります。友よ、しかしながら、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、正なる法(教え)の遍き衰退なき〔あり方〕が有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 単純なるものの経

 

390. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 或るひとりの婆羅門の経

 

391. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか。また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。婆羅門よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められず、多く為されなかったことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります」と。

 

 このように説かれたとき、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 部分の経

 

392. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、かつまた、尊者アヌルッダは、サーケータに住んでいます。カンダキーの林において。そこで、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、『〔いまだ〕学びある者(有学)』『〔いまだ〕学びある者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔いまだ〕学びある者と成るのですか」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立が部分的に修められたことから、〔いまだ〕学びある者と成ります。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が部分的に修められたことから、〔いまだ〕学びある者と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 完全の経

 

393. まさしく、その、〔同じ〕因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、『〔もはや〕学ぶことなき者(無学)』『〔もはや〕学ぶことなき者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔もはや〕学ぶことなき者と成るのですか」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立が完全に修められたことから、〔もはや〕学ぶことなき者と成ります。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が完全に修められたことから、〔もはや〕学ぶことなき者と成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 世の経

 

394. まさしく、その、〔同じ〕因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。「友よ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、千の世を証知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. シリヴァッダの経

 

395. 或る時のことです。尊者アーナンダは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、シリヴァッダ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、シリヴァッダ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊者アーナンダのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、シリヴァッダ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、シリヴァッダ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、シリヴァッダ家長に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、シリヴァッダ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、シリヴァッダ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、着衣して鉢と衣料を取って、シリヴァッダ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者アーナンダは、シリヴァッダ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのだ──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのだ──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、これらの四つの気づきの確立が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、さらに、すなわち、これらの五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が、世尊によって説示されました。尊き方よ、それらのなかで捨棄されていないものを、何であれ、自己のうちに等しく随観しません」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。家長よ、あなたによって、不還果が説き明かされました」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. マーナディンナの経

 

396. まさしく、その、〔同じ〕因縁となります。また、まさに、その時点にあって、マーナディンナ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、マーナディンナ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは……略……。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。尊き方よ、しかしながら、わたしは、このような形態の苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、さらに、すなわち、これらの五つの下なる域に束縛するものが、世尊によって説示されました。尊き方よ、それらのなかで捨棄されていないものを、何であれ、自己のうちに等しく随観しません」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。家長よ、あなたによって、不還果が説き明かされました」と。〔以上が〕第十となる。

 

 戒と止住の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒、止住、遍き衰退、単純なるもの、婆羅門と部分、完全、世、シリヴァッダがあり、マーナディンナとともに、それらの十がある」と。

 

4. 聞かれたことなきものの章

 

1. 聞かれたことなきものの経

 

397. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、『これは、身体における身体の随観である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この身体における身体の随観が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、諸々の感受における感受の随観である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この諸々の感受における感受の随観が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、心における心の随観である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この心における心の随観が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この諸々の法(性質)における法(性質)の随観が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 離貪の経

 

398. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 亡失されたものの経

 

399. 「比丘たちよ、誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 修められたものの経

 

400. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 気づきの経

 

401. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、正知の者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、諸々の感受が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。諸々の思考が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。諸々の表象が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、正知の者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきと正知の者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 了知の経

 

402. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立があります。比丘たちよ、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 欲〔の思い〕の経

 

403. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、それが、身体にたいする欲〔の思い〕であるなら、それは捨棄されます。欲〔の思い〕の捨棄あることから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住んでいると、それが、諸々の感受にたいする欲〔の思い〕であるなら、それは捨棄されます。欲〔の思い〕の捨棄あることから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、心における心の随観ある者として〔世に〕住んでいると、それが、心にたいする欲〔の思い〕であるなら、それは捨棄されます。欲〔の思い〕の捨棄あることから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、それが、諸々の法(性質)にたいする欲〔の思い〕であるなら、それは捨棄されます。欲〔の思い〕の捨棄あることから、不死は、実証されたものと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 遍知の経

 

404. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、身体は、遍知されたものと成ります。身体が、遍知されたことから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住んでいると、諸々の感受は、遍知されたものと成ります。諸々の感受が、遍知されたことから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、心における心の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は、遍知されたものと成ります。心が、遍知されたことから、不死は、実証されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、諸々の法(性質)は、遍知されたものと成ります。諸々の法(性質)が、遍知されたことから、不死は、実証されたものと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 修行の経

 

405. 「比丘たちよ、四つの気づきの確立のための修行を説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、どのようなものが、四つの気づきの確立のための修行なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、まさに、四つの気づきの確立のための修行です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 区分の経

 

406. 「比丘たちよ、では、気づきの確立を、そして、気づきの確立の修行を、さらに、気づきの確立の修行に至る〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの確立なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、気づきの確立と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの確立の修行なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み……略……。心における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み……略……。諸々の法(性質)における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、諸々の法(性質)における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、諸々の法(性質)における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、気づきの確立の修行と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの確立の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、気づきの確立の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 聞かれたことなきものの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「聞かれたことなきもの、離貪、亡失されたもの、修行、気づき、了知、欲〔の思い〕があり、遍知とともに、修行があり、そして、区分とともに、〔章となる〕」と。

 

5. 不死の章

 

1. 不死の経

 

407. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みなさい。あなたたちに、不死が消え去ってはいけません。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みなさい。あなたたちに、不死が消え去ってはいけません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 集起の経

 

408. 「比丘たちよ、四つの気づきの確立の、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、何が、身体の集起なのですか。食(動力源・エネルギー)の集起あることから、身体の集起があります。食の止滅あることから、身体の滅至があります。接触(:感覚の発生)の集起あることから、諸々の感受(:楽苦の知覚)の集起があります。接触の止滅あることから、諸々の感受の滅至があります。名前と形態(名色)の集起あることから、心の集起があります。名前と形態の止滅あることから、心の滅至があります。意を為すこと(作意)の集起あることから、諸々の法(性質)の集起があります。意を為すことの止滅あることから、諸々の法(性質)の滅至があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 道の経

 

409. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウルヴェーラーに住んでいます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹の根元〕において、最初に現正覚した者として。比丘たちよ、〔まさに〕その、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『これは、一路の道である──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立である。

 

 どのようなものが、四つのものであるのか。比丘は、あるいは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むべきである──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘は、あるいは、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むべきである……略……。比丘は、あるいは、心における心の随観ある者として〔世に〕住むべきである……略……。比丘は、あるいは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むべきである──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。これは、一路の道である──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立である』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。尊き方よ、比丘は、あるいは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むべきです──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、比丘は、あるいは、諸々の感受における……略……。尊き方よ、比丘は、あるいは、心における……略……。尊き方よ、比丘は、あるいは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むべきです──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です』と。

 

 比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

 〔すなわち〕『生の滅尽と終極を見る〔覚者〕は、〔人々に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、〔人々は〕過去において〔激流を〕超えたのであり、〔未来においても〕超えるであろうし、そして、すなわち、〔今現在も〕激流を超えるのだ』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 気づきの経

 

410. 「比丘たちよ、比丘は、気づきの者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、気づきの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、気づきの者と成ります。比丘たちよ、比丘は、気づきの者として〔世に〕住むべきです。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 善なるものの集まりの経

 

411. 「比丘たちよ、『善なるものの集まりである』と説いている者は、四つの気づきの確立のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善なるものの集まりであるからです。すなわち、この、四つの気づきの確立です。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、『善なるものの集まりである』と説いている者は、これらの四つの気づきの確立のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善なるものの集まりであるからです。すなわち、この、四つの気づきの確立です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 戒条による統御の経

 

412. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、それでは、ここに、あなたは、諸々の善なる法(性質)における、まさしく、最初のものを清めなさい。では、何が、諸々の善なる法(性質)の最初のものなのですか。比丘よ、ここに、あなたは、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい。比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶ(※)ことから、比丘よ、そののち、あなたは、戒に依拠して、戒において確立して、四つの気づきの確立を修めるべきです。

 

※ テキストには sikkhissu とあるが、PTS版により sikkhissasi と読む。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘よ、ここに、あなたは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、戒に依拠して、戒において確立して、これらの四つの気づきの確立を、このように修めることから、比丘よ、そののち、あなたには、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました(※)。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

※ テキストには viharati とあるが、平行箇所(369.)により vihāsi と読む(PTS版は、この箇所を省略)。

 

7. 悪しき行ないの経

 

413. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、それでは、ここに、あなたは、諸々の善なる法(性質)における、まさしく、最初のものを清めなさい。では、何が、諸々の善なる法(性質)の最初のものなのですか。比丘よ、ここに、あなたは、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修めるのです。比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修めることから、比丘よ、そののち、あなたは、戒に依拠して、戒において確立して、四つの気づきの確立を修めるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘よ、ここに、あなたは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、戒に依拠して、戒において確立して、これらの四つの気づきの確立を、このように修めることから、比丘よ、そののち、あなたには、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. 朋友の経

 

414. 「比丘たちよ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、四つの気づきの確立の修行において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、これらの四つの気づきの確立の修行において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 感受の経

 

415. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受()です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受の遍知のために、四つの気づきの確立が修められるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受の遍知のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 煩悩の経

 

416. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの煩悩()です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩の捨棄のために、四つの気づきの確立が修められるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩の捨棄のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 不死の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不死、集起、道、気づき、そして、善なるものの集まり、戒条、悪しき行ない、朋友と感受があり、そして、煩悩とともに、〔章となる〕」と。

 

6. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. ガンガー川等の経の十二なるもの

 

417-428. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、四つの気づきの確立を修めながら、四つの気づきの確立を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの気づきの確立を修めながら、四つの気づきの確立を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの気づきの確立を修めながら、四つの気づきの確立を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

7. 不放逸の章

 

1-10. 如来等の経の十なるもの

 

429-438. 「比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも……略……」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

 不放逸の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根、そして、芯、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

8. 力によって為されるべきことの章

 

1-12. 力等の経の十二なるもの

 

439-450. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら……略……」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

 力によって為されるべきことの章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

9. 探し求めの章

 

1-10. 探し求め等の経の十なるもの

 

451-460. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。

 

 探し求めの章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛があり、そして、渇愛(タシナー)とともに、〔章となる〕」と。

 

10. 激流の章

 

1-10. 上なる域等の経の十なるもの

 

461-470. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、四つの気づきの確立が修められるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。

 

 (すなわち、道に相応するもののように、そのように、気づきの確立に相応するものが詳知されるべきである。)

 

 激流の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 気づきの確立に相応するものが第三となる。

 

4(48). 機能に相応するもの

 

1. 単純なるものの章

 

1. 単純なるものの経

 

471. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能()です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能(信根)であり、精進の機能(精進根)であり、気づきの機能(念根)であり、禅定の機能(定根)であり、智慧の機能(慧根)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能(五根)があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の預流たる者の経

 

472. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの機能の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の預流たる者の経

 

473. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の阿羅漢の経

 

474. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの機能の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の阿羅漢の経

 

475. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の沙門や婆羅門たちの経

 

476. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を(※)、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

※ PTS版により samudayañca atthaṅgamañca を補う。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

477. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、信の機能を覚知せず、信の機能の集起を覚知せず、信の機能の止滅を覚知せず、信の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、精進の機能を覚知せず……略……気づきの機能を覚知せず……略……禅定の機能を覚知せず……略……智慧の機能を覚知せず、智慧の機能の集起を覚知せず、智慧の機能の止滅を覚知せず、智慧の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、信の機能を覚知し、信の機能の集起を覚知し、信の機能の止滅を覚知し、信の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、精進の機能を覚知し……略……気づきの機能を覚知し……略……禅定の機能を覚知し……略……智慧の機能を覚知し、智慧の機能の集起を覚知し、智慧の機能の止滅を覚知し、智慧の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 見られるべきものの経

 

478. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、では、どこにおいて、信の機能は見られるべきですか。四つの預流の支分(正なる人士に慣れ親しむこと・正なる法を聞くこと・根源のままに意を為すこと・法を法のままに実践すること)において、ここにおいて、信の力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、精進の機能は見られるべきですか。四つの正しい精励(四正勤)において、ここにおいて、精進の機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、気づきの機能は見られるべきですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)において、ここにおいて、気づきの機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、禅定の機能は見られるべきですか。四つの瞑想(四禅)において、ここにおいて、禅定の機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、智慧の機能は見られるべきですか。四つの聖なる真理(四聖諦)において、ここにおいて、智慧の機能は見られるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の区分の経

 

479. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、では、どのようなものが、信の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚り(菩提)に信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、これは、精進の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、これは、気づきの機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、禅定の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、放棄を対象(所縁)と為して、禅定を得、心の一境性を得ます。比丘たちよ、これは、禅定の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の機能と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の区分の経

 

480. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、では、どのようなものが、信の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、精進の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。彼は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、気づきの機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、禅定の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、放棄を対象と為して、禅定を得、心の一境性を得ます。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、禅定の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、これは、智慧の機能と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 単純なるものの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、単純なるもの、二つの流れ、他に、二つの阿羅漢、沙門や婆羅門たち、見られるべきもの、他に、二つの区分があり、〔章となる〕」と。

 

2. より柔弱なるものの章

 

1. 獲得の経

 

481. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、では、どのようなものが、信の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、四つの正しい精励(四正勤)に励んで、精進を獲得するなら、比丘たちよ、これは、精進の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、四つの気づきの確立(四念処・四念住)に励んで、気づきを獲得するなら、比丘たちよ、これは、気づきの機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、禅定の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、放棄を対象と為して、禅定を得、心の一境性を得ます。比丘たちよ、これは、禅定の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の機能なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の機能と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の簡略の経

 

482. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、不還たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の簡略の経

 

483. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、不還たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、機能の相違性あることから、果の相違性が有り、果の相違性あることから、人の相違性が〔有ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第三の簡略の経

 

484. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、不還たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、円満成就を為す者は円満成就を達成し、部分を為す者は部分を達成します。比丘たちよ、まさしく、かくのごとく、徒労なきものを、『五つの機能』と、わたしは説きます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の詳細の経

 

485. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の詳細の経

 

486. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、機能の相違性あることから、果の相違性が有り、果の相違性あることから、人の相違性が〔有ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の詳細の経

 

487. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、円満成就を為す者は円満成就を達成し、部分を為す者は部分を達成します。比丘たちよ、わたしは、まさしく、かくのごとく、徒労なきものを、『五つの機能』と説きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 実践する者の経

 

488. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、阿羅漢果の実証のために実践する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、不還たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、不還果の実証のために実践する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来果の実証のために実践する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、預流果の実証のために実践する者と成ります。比丘たちよ、彼に、まさに、これらの五つの機能が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、存在しないなら、わたしは、彼のことを、『外の者にして凡夫の側に立つ者』と説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 成就者の経

 

489. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『機能の成就者』『機能の成就者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、機能の成就者と成るのですか」と。「比丘よ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、精進の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、気づきの機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、禅定の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の機能を修めます。比丘よ、このことから、まさに、比丘は、機能の成就者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

490. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能が、修められ、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 より柔弱なるものの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「獲得、三つの簡略、他に、三つの詳細、そして、実践する者、成就者、第十のものとして、諸々の煩悩の滅尽があり、〔章となる〕」と。

 

3. 六つの機能の章

 

1. さらなる生存の経

 

491. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 生命の機能の経

 

492. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、三つのものなのですか。女の機能(女根)であり、男の機能(男根)であり、生命の機能(命根)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの機能があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 了知の機能の経

 

493. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、三つのものなのですか。『了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう』という機能であり、了知の機能であり、了知者の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの機能があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 一つの種ある者の経

 

494. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能の完全と円満成就あることから、阿羅漢と成ります。それよりもより柔弱なることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。それよりもより柔弱なることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一来たる者と成ります。それよりもより柔弱なることから、一つの種ある者と成ります。それよりもより柔弱なることから、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者と成ります。それよりもより柔弱なることから、最高で七回〔の再生〕ある者と成ります。それよりもより柔弱なることから、法(教え)に従い行く者と成ります。それよりもより柔弱なることから、信に従い行く者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 単純なるものの経

 

495. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の機能(眼根)であり、耳の機能(耳根)であり、鼻の機能(鼻根)であり、舌の機能(舌根)であり、身の機能(身根)であり、意の機能(意根)です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの機能があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 預流たる者の経

 

496. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の機能であり……略……意の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 阿羅漢の経

 

497. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能であり、意の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 正覚者の経

 

498. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能であり、意の機能です。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の沙門や婆羅門たちの経

 

499. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能であり、意の機能です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの六つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

500. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、眼の機能を覚知せず、眼の機能の集起を覚知せず、眼の機能の止滅を覚知せず、眼の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、耳の機能を覚知せず……略……鼻の機能を覚知せず……略……舌の機能を覚知せず……略……身の機能を覚知せず……略……意の機能を覚知せず、意の機能の集起を覚知せず、意の機能の止滅を覚知せず、意の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、眼の機能を覚知し、眼の機能の集起を覚知し、眼の機能の止滅を覚知し、眼の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、耳の機能を覚知し……略……鼻の機能を覚知し……略……舌の機能を覚知し……略……身の機能を覚知し……略……意の機能を覚知し、意の機能の集起を覚知し、意の機能の止滅を覚知し、意の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 六つの機能の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「さらなる生存、生命と了知、そして、一つの種ある者、単純なるもの、流れ、阿羅漢と正覚者、そして、二つの沙門や婆羅門たちがあり、〔章となる〕」と。

 

4. 安楽の機能の章

 

1. 単純なるものの経

 

501. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能(楽根)であり、苦痛の機能(苦根)であり、悦意の機能(喜根)であり、失意の機能(憂根)であり、放捨の機能(捨根)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 預流たる者の経

 

502. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり……略……放捨の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 阿羅漢の経

 

503. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の沙門や婆羅門たちの経

 

504. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

505. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、安楽の機能を覚知せず、安楽の機能の集起を覚知せず、安楽の機能の止滅を覚知せず、安楽の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、苦痛の機能を覚知せず……略……悦意の機能を覚知せず……略……失意の機能を覚知せず……略……放捨の機能を覚知せず、放捨の機能の集起を覚知せず、放捨の機能の止滅を覚知せず、放捨の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、安楽の機能を覚知し、安楽の機能の集起を覚知し、安楽の機能の止滅を覚知し、安楽の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、苦痛の機能を覚知し……略……悦意の機能を覚知し……略……失意の機能を覚知し……略……放捨の機能を覚知し、放捨の機能の集起を覚知し、放捨の機能の止滅を覚知し、放捨の機能の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の区分の経

 

506. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての安楽であり、身体の属性としての快楽であり、身体の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、安楽の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛であり、身体の属性としての不快であり、身体の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、苦痛の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悦意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての安楽であり、心の属性としての快楽であり、意の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、悦意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛であり、心の属性としての不快であり、意の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、失意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、放捨の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたものです。比丘たちよ、これは、放捨の機能と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の区分の経

 

507. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての安楽であり、身体の属性としての快楽であり、身体の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、安楽の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛であり、身体の属性としての不快であり、身体の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、苦痛の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悦意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての安楽であり、心の属性としての快楽であり、意の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、悦意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛であり、心の属性としての不快であり、意の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、失意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、放捨の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたものです。比丘たちよ、これは、放捨の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、すなわち、安楽の機能は、さらに、すなわち、悦意の機能は、それは、安楽の感受(楽受)と見られるべきです。比丘たちよ、そこで、そして、すなわち、苦痛の機能は、さらに、すなわち、失意の機能は、それは、苦痛の感受(苦受)と見られるべきです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、放捨の機能は、それは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)と見られるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第三の区分の経

 

508. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、安楽の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての安楽であり、身体の属性としての快楽であり、身体の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、安楽の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛であり、身体の属性としての不快であり、身体の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、苦痛の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悦意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての安楽であり、心の属性としての快楽であり、意の接触から生じる安楽と快楽として感受されたものです。比丘たちよ、これは、悦意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛であり、心の属性としての不快であり、意の接触から生じる苦痛と不快として感受されたものです。比丘たちよ、これは、失意の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、放捨の機能なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたものです。比丘たちよ、これは、放捨の機能と説かれます。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、すなわち、安楽の機能は、さらに、すなわち、悦意の機能は、それは、安楽の感受と見られるべきです。比丘たちよ、そこで、そして、すなわち、苦痛の機能は、さらに、すなわち、失意の機能は、それは、苦痛の感受と見られるべきです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、放捨の機能は、それは、苦でもなく楽でもない感受と見られるべきです。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、これらの五つの機能は、教相〔の観点〕によって、五つのものと成っては、三つのものと成り、三つのものと成っては、五つのものと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 薪の喩えの経

 

509. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の機能が生起します。彼は、まさしく、安楽ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕安楽ある者として存している』と覚知します。まさしく、その安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の機能が生起します。彼は、まさしく、苦痛ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕苦痛ある者として存している』と覚知します。まさしく、その苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、悦意として感受されるべき接触を縁として、悦意の機能が生起します。彼は、まさしく、悦意ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕悦意ある者として存している』と覚知します。まさしく、その悦意として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、悦意として感受されるべき接触を縁として生起した、悦意の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、失意として感受されるべき接触を縁として、失意の機能が生起します。彼は、まさしく、失意ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕失意ある者として存している』と覚知します。まさしく、その失意として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、失意として感受されるべき接触を縁として生起した、失意の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、放捨として感受されるべき接触を縁として、放捨の機能が生起します。彼は、まさしく、放捨ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕放捨ある者として存している』と覚知します。まさしく、その放捨として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、放捨として感受されるべき接触を縁として生起した、放捨の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、二つの薪の摩擦と接合あることから、熱が生まれ、火が発現するようなものです。まさしく、それらの薪の別離と分散あることから、すなわち、それに応じるものである熱は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の機能が生起します。彼は、まさしく、安楽ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕安楽ある者として存している』と覚知します。まさしく、その安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

 比丘たちよ、苦痛として感受されるべき接触を縁として……略……。比丘たちよ、悦意として感受されるべき接触を縁として……略……。比丘たちよ、失意として感受されるべき接触を縁として……略……。比丘たちよ、放捨として感受されるべき接触を縁として、放捨の機能が生起します。彼は、まさしく、放捨ある者として、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕放捨ある者として存している』と覚知します。まさしく、その放捨として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、放捨として感受されるべき接触を縁として生起した、放捨の機能は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 次第次第のものの経

 

510. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽の機能であり、苦痛の機能であり、悦意の機能であり、失意の機能であり、放捨の機能です。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、苦痛の機能が生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに生起した、この苦痛の機能は、そして、それは、まさに、形相を有するものであり、因縁を有するものであり、形成〔作用〕を有するものであり、縁を有するものである。そして、それが、形相なきものとして、因縁なきものとして、形成〔作用〕なきものとして、縁なきものとして、生起するであろう、という、この状況は見出されない』〔と〕。彼は、そして、苦痛の機能を覚知し、かつまた、苦痛の機能の集起を覚知し、さらに、苦痛の機能の止滅を覚知し、そして、そこにおいて、生起した苦痛の機能が、完全に残りなく止滅するなら、そして、それを覚知します。では、どこにおいて、生起した苦痛の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した苦痛の機能は、完全に残りなく止滅します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、苦痛の機能の止滅を了知したのであり、その義(目的)のために、心を近しく集中する』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、失意の機能が生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに生起した、この失意の機能は、そして、それは、まさに、形相を有するものであり、因縁を有するものであり、形成〔作用〕を有するものであり、縁を有するものである。そして、それが、形相なきものとして、因縁なきものとして、形成〔作用〕なきものとして、縁なきものとして、生起するであろう、という、この状況は見出されない』〔と〕。彼は、そして、失意の機能を覚知し、かつまた、失意の機能の集起を覚知し、さらに、失意の機能の止滅を覚知し、そして、そこにおいて、生起した失意の機能が、完全に残りなく止滅するなら、そして、それを覚知します。では、どこにおいて、生起した失意の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した失意の機能は、完全に残りなく止滅します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、失意の機能の止滅を了知したのであり、その義(目的)のために、心を近しく集中する』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、安楽の機能が生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに生起した、この安楽の機能は、そして、それは、まさに、形相を有するものであり、因縁を有するものであり、形成〔作用〕を有するものであり、縁を有するものである。そして、それが、形相なきものとして、因縁なきものとして、形成〔作用〕なきものとして、縁なきものとして、生起するであろう、という、この状況は見出されない』〔と〕。彼は、そして、安楽の機能を覚知し、かつまた、安楽の機能の集起を覚知し、さらに、安楽の機能の止滅を覚知し、そして、そこにおいて、生起した安楽の機能が、完全に残りなく止滅するなら、そして、それを覚知します。では、どこにおいて、生起した安楽の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した安楽の機能は、完全に残りなく止滅します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、安楽の機能の止滅を了知したのであり、その義(目的)のために、心を近しく集中する』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、悦意の機能が生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに生起した、この悦意の機能は、そして、それは、まさに、形相を有するものであり、因縁を有するものであり、形成〔作用〕を有するものであり、縁を有するものである。そして、それが、形相なきものとして、因縁なきものとして、形成〔作用〕なきものとして、縁なきものとして、生起するであろう、という、この状況は見出されない』〔と〕。彼は、そして、悦意の機能を覚知し、かつまた、悦意の機能の集起を覚知し、さらに、悦意の機能の止滅を覚知し、そして、そこにおいて、生起した悦意の機能が、完全に残りなく止滅するなら、そして、それを覚知します。では、どこにおいて、生起した悦意の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した悦意の機能は、完全に残りなく止滅します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悦意の機能の止滅を了知したのであり、その義(目的)のために、心を近しく集中する』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、放捨の機能が生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに生起した、この放捨の機能は、そして、それは、まさに、形相を有するものであり、因縁を有するものであり、形成〔作用〕を有するものであり、縁を有するものである。そして、それが、形相なきものとして、因縁なきものとして、形成〔作用〕なきものとして、縁なきものとして、生起するであろう、という、この状況は見出されない』〔と〕。彼は、そして、放捨の機能を覚知し、かつまた、放捨の機能の集起を覚知し、さらに、放捨の機能の止滅を覚知し、そして、そこにおいて、生起した放捨の機能が、完全に残りなく止滅するなら、そして、それを覚知します。では、どこにおいて、生起した放捨の機能は、完全に残りなく止滅するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、ここにおいて、生起した放捨の機能は、完全に残りなく止滅します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、放捨の機能の止滅を了知したのであり、その義(目的)のために、心を近しく集中する』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 安楽の機能の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、単純なるもの、流れ、阿羅漢、二つの沙門や婆羅門たちがあり、区分によって、三つのものが説かれ、薪、次第次第のものがあり、〔章となる〕」と。

 

5. 老の章

 

1. 老の法の経

 

511. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、西日のなか、坐った状態でおられます──背を暖めながら。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、世尊の五体を、手で擦りながら、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさしく、そして(※)、今や、世尊の肌の色は、もはや、完全なる清浄でも完全なる清白でもなく、かつまた、五体は、全てが緩慢となり、皺を生じ、かつまた、身体は、前に傾斜し、さらに、諸々の〔感官の〕機能には──眼の機能には、耳の機能には、鼻の機能には、舌の機能には、身の機能には──他化が見られます」と。

 

※ テキストには cevaṃ とあるが、PTS版により ceva と読む。

 

 「アーナンダよ、まさに、このように、このことは有ります。若さのうちには老の法(性質)があり、無病のうちには病の法(性質)があり、生命のうちには死の法(性質)があります。まさしく、そして、肌の色は、もはや、完全なる清浄でも完全なる清白でもなく有り、かつまた、五体は、全てが緩慢と成り、皺を生じ、かつまた、身体は、前に傾斜し、さらに、諸々の〔感官の〕機能には──眼の機能には、耳の機能には、鼻の機能には、舌の機能には、身の機能には──他化が見られます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「卑しき老よ、醜き色艶を作り為す老よ、おまえは、厭わしきものとして存せ。意が喜びとする幻影は、もはや、老によって打ち砕かれた。

 

 たとえ、彼が、百年のあいだ、生きるとして、彼もまた、死魔を行き着く所とする。何であれ、避けることなく、まさしく、全てを、〔老は〕打ち砕く」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ウンナーバ婆羅門の経

 

512. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ウンナーバ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウンナーバ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、五つのものがあります。これらの機能は、種々なる境域があり、種々なる境涯があり、互いに他の境域と境涯を経験しません。どのようなものが、五つのものなのですか。眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、これらの五つの機能が、種々なる境域があり、種々なる境涯があり、互いに他の境域と境涯を経験せずにいるとして、何が、〔それらの〕帰依所となり、そして、何が、それらの境域と境涯を経験するのですか」と。

 

 「婆羅門よ、五つのものがあります。これらの機能は、種々なる境域があり、種々なる境涯があり、互いに他の境域と境涯を経験しません。どのようなものが、五つのものなのですか。眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。婆羅門よ、まさに、これらの五つの機能が、種々なる境域があり、種々なる境涯があり、互いに他の境域と境涯を経験せずにいるとして、意が、〔それらの〕帰依所となり、まさしく、意が、それらの境域と境涯を経験します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、何が、意の帰依所となるのですか」と。「婆羅門よ、まさに、気づきが、意の帰依所となります」と。「貴君ゴータマよ、また、何が、気づきの帰依所となるのですか」と。「婆羅門よ、まさに、解脱が、気づきの帰依所となります」と。「貴君ゴータマよ、また、何が、解脱の帰依所となるのですか」と。「婆羅門よ、まさに、涅槃が、解脱の帰依所となります」と。「貴君ゴータマよ、また、何が、涅槃の帰依所となるのですか」と。「婆羅門よ、〔あなたは〕問い〔の限度〕を超え行きました。〔あなたは〕問いの最極を収め取ることができませんでした。婆羅門よ、なぜなら、梵行は、涅槃への沈潜であり、涅槃を行き着く所として、涅槃を結末として、住されるからです」と。

 

 そこで、まさに、ウンナーバ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、ウンナーバ婆羅門が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、楼閣に、あるいは、楼閣堂に、東の窓から、太陽が昇りつつあるとき、光が、窓から入って〔そののち〕、どこに存し、止住しているでしょうか」と。「尊き方よ、西の壁において」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ウンナーバ婆羅門の、如来にたいする信は、固着し、根元から生じ、確立し、堅固で、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、動かしようがありません。比丘たちよ、もし、ウンナーバ婆羅門が、この時点において、命を終えるなら、その束縛するものによって束縛されたウンナーバ婆羅門が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その(※)、束縛するものは存在しません」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ PTS版により taṃ を補う。

 

3. サーケータの経

 

513. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーケータに住んでおられます。アンジャナ林の鹿園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、教相が存在しますか──その教相に由来して、それらが五つの機能であるなら、それらは五つの力と成り、それらが五つの力であるなら、それらは五つの機能と成ります」と。

 

 「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、教相が存在します──その教相に由来して、それらが五つの機能であるなら、それらは五つの力と成り、それらが五つの力であるなら、それらは五つの機能と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、それらが五つの機能であるなら、それらは五つの力と成り、それらが五つの力であるなら、それらは五つの機能と成ります。比丘たちよ、それが信の機能であるなら、それは信の力であり、それが信の力であるなら、それは信の機能であり、それが精進の機能であるなら、それは精進の力であり、それが精進の力であるなら、それは精進の機能であり、それが気づきの機能であるなら、それは気づきの力であり、それが気づきの力であるなら、それは気づきの機能であり、それが禅定の機能であるなら、それは禅定の力であり、それが禅定の力であるなら、それは禅定の機能であり、それが智慧の機能であるなら、それは智慧の力であり、それが智慧の力であるなら、それは智慧の機能です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるとして、その〔川〕の中央に洲があるようなものです。比丘たちよ、教相が存在します──その教相に由来して、まさしく、『その川の一つの流れ』という名称に至ります。比丘たちよ、また、教相が存在します──その教相に由来して、まさしく、『その川の二つの流れ』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、まさしく、『その川の一つの流れ』という名称に至ります。比丘たちよ、そして、すなわち、その洲の、東の際(きわ)にある水であり、さらに、すなわち、西の際にある水です。比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、まさしく、『その川の一つの流れ』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、まさしく、『その川の二つの流れ』という名称に至ります。比丘たちよ、そして、すなわち、その洲の、北の際(きわ)にある水であり、さらに、すなわち、南の際にある水です。比丘たちよ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、まさしく、『その川の二つの流れ』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが信の機能であるなら、それは信の力であり、それが信の力であるなら、それは信の機能であり、それが精進の機能であるなら、それは精進の力であり、それが精進の力であるなら、それは精進の機能であり、それが気づきの機能であるなら、それは気づきの力であり、それが気づきの力であるなら、それは気づきの機能であり、それが禅定の機能であるなら、それは禅定の力であり、それが禅定の力であるなら、それは禅定の機能であり、それが智慧の機能であるなら、それは智慧の力であり、それが智慧の力であるなら、それは智慧の機能です。比丘たちよ、五つの機能が、修められ、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. プッバコッタカの経

 

514. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。プッバコッタカにおいて。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、あなたは、信を置きますか──信の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成り〕……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴くのではありません──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、まさに、それらの者たちにとって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、そして、わたしにとって、まさに、このことは、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されています。わたしは、そこにおいて、疑いなき者としてあり、疑惑なき者としてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、それらの者たちにとって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう──信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。サーリプッタよ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の東の林園の経

 

515. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、どれだけの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かすのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。

 

 「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、一つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。どのようなものが、一つのものなのですか。智慧の機能です。比丘たちよ、智慧ある者である、聖なる弟子には、それに付従するものとして、信が確立し、それに付従するものとして、精進が確立し、それに付従するものとして、気づきが確立し、それに付従するものとして、禅定が確立します。比丘たちよ、まさに、この一つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の東の林園の経

 

516. まさしく、その〔同じ〕因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、どれだけの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かすのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、二つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、聖なる智慧であり、さらに、聖なる解脱です。比丘たちよ、まさに、すなわち、聖なる智慧が存するなら、それは、智慧の機能として存するでしょう。まさに、すなわち、聖なる解脱が存するなら、それは、禅定の機能として存するでしょう。比丘たちよ、まさに、これらの二つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の東の林園の経

 

517. まさしく、その〔同じ〕因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、どれだけの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かすのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、四つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。どのようなものが、四つのものなのですか。精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第四の東の林園の経

 

518. まさしく、その〔同じ〕因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、どれだけの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かすのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、五つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能が、修められ、多く為されたことから、煩悩が滅尽した比丘は、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ピンドーラ・バーラドヴァージャの経

 

519. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされるところと成ります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。尊き方よ、いったい、まさに、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、三つの機能が、修められ、多く為されたことから、ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。どのようなものが、三つのものなのですか。気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの機能が、修められ、多く為されたことから、ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。比丘たちよ、では、これらの三つの機能は、何を終極とするのですか。滅尽を終極とします。何の滅尽を終極とするのですか。生と老と死です。比丘たちよ、『生と老と死の滅尽がある』と、まさに、正しく見ながら、ピンドーラ・バーラドヴァージャによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. アーパナの経

 

520. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕に住んでおられます。アンガ〔国〕には、アーパナという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、すなわち、その聖なる弟子が、如来にたいし、一向に赴いた者であり、大いに清信した者であるなら、彼は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、あるいは、疑うことも、あるいは、疑惑することも、ないのでは」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、その聖なる弟子が、如来にたいし、一向に赴いた者であり、大いに清信した者であるなら、彼は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、あるいは、疑うことも、あるいは、疑惑することも、ありません。尊き方よ、まさに、信ある者である、聖なる弟子には、このことが(※)期待できます。すなわち、〔彼は〕精進に励む者として〔世に〕住むでしょう──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。尊き方よ、まさに、すなわち、精進が存するなら、それは、精進の機能として存するでしょう。

 

※ テキストには evaṃ とあるが、PTS版により etaṃ と読む。

 

 尊き方よ、まさに、信ある者であり、精進に励む者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕気づきある者として〔世に〕有るでしょう──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。尊き方よ、まさに、すなわち、気づきが存するなら、それは、気づきの機能として存するでしょう。

 

 尊き方よ、まさに、信ある者であり、精進に励む者であり、気づきが現起された者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕放棄を対象と為して、禅定を得るでしょうし、心の一境性を得るでしょう。尊き方よ、まさに、すなわち、禅定が存するなら、それは、禅定の機能として存するでしょう。

 

 尊き方よ、まさに、信ある者であり、精進に励む者であり、気づきが現起された者であり、心か定められた者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕このように覚知するでしょう──『まさに、輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてある。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されない。まさしく、しかし、無明の、闇の体系の、残りなき離貪と止滅がある。これは、寂静なる境処である。これは、精妙なる境処である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』〔と〕。尊き方よ、まさに、すなわち、智慧が存するなら、それは、智慧の機能として存するでしょう。

 

 尊き方よ、信ある者である、その聖なる弟子は、このように精励しては精励して、このように思念しては思念して、このように〔心を〕定めては定めて、このように覚知しては覚知して、このように確信します──『これらのものは、まさに、すなわち、過去において、わたしの諸々の所聞として有った、それらの法(性質)である。それによって、わたしは、今現在、そして、身体によって体得して〔世に〕住み、さらに、智慧によって理解して見る』と。尊き方よ、まさに、すなわち、信が存するなら、それは、信の機能として存するでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、すなわち、その聖なる弟子が、如来にたいし、一向に赴いた者であり、大いに清信した者であるなら、彼は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、あるいは、疑うことも、あるいは、疑惑することも、ありません。サーリプッタよ、まさに、信ある者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕精進に励む者として〔世に〕住むでしょう──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。サーリプッタよ、まさに、すなわち、精進が存するなら、それは、精進の機能として存するでしょう。

 

 サーリプッタよ、まさに、信ある者であり、精進に励む者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕気づきある者として〔世に〕有るでしょう──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。サーリプッタよ、まさに、すなわち、気づきが存するなら、それは、気づきの機能として存するでしょう。

 

 サーリプッタよ、まさに、信ある者であり、精進に励む者であり、気づきが現起された者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕放棄を対象と為して、禅定を得るでしょうし、心の一境性を得るでしょう。サーリプッタよ、まさに、すなわち、禅定が存するなら、それは、禅定の機能として存するでしょう。

 

 サーリプッタよ、まさに、信ある者であり、精進に励む者であり、気づきが現起された者であり、心か定められた者である、聖なる弟子には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕このように覚知するでしょう──『まさに、輪廻は、始源が思い考えられないものとしてある。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されない。まさしく、しかし、無明の、闇の体系の、残りなき離貪と止滅がある。これは、寂静なる境処である。これは、精妙なる境処である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』〔と〕。サーリプッタよ、まさに、すなわち、智慧が存するなら、それは、智慧の機能として存するでしょう。

 

 サーリプッタよ、信ある者である、その聖なる弟子は、このように精励しては精励して、このように思念しては思念して、このように〔心を〕定めては定めて、このように覚知しては覚知して、このように確信します──『これらのものは、まさに、すなわち、過去において、わたしの諸々の所聞として有った、それらの法(性質)である。それによって、わたしは、今現在、そして、身体によって体得して〔世に〕住み、さらに、智慧によって理解して見る』と。サーリプッタよ、まさに、すなわち、信が存するなら、それは、信の機能として存するでしょう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 老の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「老、ウンナーバ婆羅門、サーケータ、プッバコッタカ、そして、四つの東の林園、ピンドーラがあり、さらに、アーパナとともに、〔章となる〕」と。

 

6. スーカラカターの章

 

1. サーラーの経

 

521. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。サーラーという婆羅門の村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの者たちが誰であれ、畜生の在り方をした命あるものたちであるなら、獣の王たる獅子が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように──すなわち、この、強さによって、速さによって、勇ましさによって──比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目(菩提分)の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。精進の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。気づきの機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。禅定の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの者たちが誰であれ、畜生の在り方をした命あるものたちであるなら、獣の王たる獅子が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように──すなわち、この、強さによって、速さによって、勇ましさによって──比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. マッラの経

 

522. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕に住んでおられます。マッラ〔国〕には、ウルヴェーラカッパという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、聖なる弟子に、聖なる知恵が生起するところと成らないかぎり、それまでは、四つの機能の確立が有ることも、まさしく、なく、それまでは、四つの機能の確定が有ることも、まさしく、ありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、聖なる弟子に、聖なる知恵が生起するところと成ることから、そこで、四つの機能の確立が有り、そこで、四つの機能の確定が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、さてまた、何はともあれ、屋頂ある家の、屋頂が直立するところと成らないかぎり、それまでは、諸々の垂木の確立が有ることも、まさしく、なく、それまでは、諸々の垂木の確定が有ることも、まさしく、ないようなものです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、屋頂ある家の、屋頂が直立するところと成ることから、そこで、諸々の垂木の確立が有り、そこで、諸々の垂木の確定が有ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、さてまた、何はともあれ、聖なる弟子に、聖なる知恵が生起するところと成らないかぎり、それまでは、四つの機能の確立が有ることも、まさしく、なく、それまでは、四つの機能の確定が有ることも、まさしく、ありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、聖なる弟子に、聖なる知恵が生起するところと成ることから、そこで、四つの機能の……略……確定が有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、四つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能です。比丘たちよ、智慧ある者である、聖なる弟子には、それに付従するものとして、信が確立し、それに付従するものとして、精進が確立し、それに付従するものとして、気づきが確立し、それに付従するものとして、禅定が確立します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔いまだ〕学びある者の経

 

523. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、教相が存在しますか──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者(有学)として、〔わたしは〕存している』と覚知するでしょうし、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、〔もはや〕学ぶことなき境地に立ち、『〔もはや〕学ぶことなき者(無学)として、〔わたしは〕存している』と覚知するでしょう」と。

 

 「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、教相が存在します──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者として、〔わたしは〕存している』と覚知するでしょうし、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、〔もはや〕学ぶことなき境地に立ち、『〔もはや〕学ぶことなき者として、〔わたしは〕存している』と覚知するでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。比丘たちよ、ここに、〔いまだ〕学びある比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、これもまた、まさに、教相となります──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、存在するのだろうか──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、世尊のように、このように、事実として、如実として、真実として、法(教え)を説示する、その者は』と。彼は、このように覚知します。『まさに、存在しない──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、世尊のように、このように、事実として、如実として、真実として、法(教え)を説示する、その者は』と。比丘たちよ、これもまた、まさに、教相となります──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、五つの機能を──信の機能を、精進の機能を、気づきの機能を、禅定の機能を、智慧の機能を──覚知します。その境遇とするものを、その最高とするものを、その結果となるものを、その結末となるものを、まさしく、まさに、身体によって体得して〔世に〕住むことが、まさに、なく、しかしながら、智慧によって理解して見ます。比丘たちよ、これもまた、まさに、教相となります──その教相に由来して、〔いまだ〕学びある比丘は、〔いまだ〕学びある境地に立ち、『〔いまだ〕学びある者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、〔もはや〕学ぶことなき境地に立ち、『〔もはや〕学ぶことなき者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。比丘たちよ、ここに、〔もはや〕学ぶことなき比丘が、五つの機能を──信の機能を、精進の機能を、気づきの機能を、禅定の機能を、智慧の機能を──覚知します。その境遇とするものを、その最高とするものを、その結果となるものを、その結末となるものを、そして、身体によって体得して〔世に〕住み、さらに、智慧によって理解して見ます。比丘たちよ、これもまた、まさに、教相となります──その教相に由来して、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、〔もはや〕学ぶことなき境地に立ち、『〔もはや〕学ぶことなき者として、〔わたしは〕存している』と覚知します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔もはや〕学ぶことなき比丘が、六つの機能を──眼の機能を、耳の機能を、鼻の機能を、舌の機能を、身の機能を、意の機能を──覚知します。『まさに、これらの六つの機能は、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するであろう。そして、他の六つの機能は、どこにあっても、どこにおいても、〔もはや〕生起しないであろう』と覚知します。比丘たちよ、これもまた、まさに、教相となります──その教相に由来して、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、〔もはや〕学ぶことなき境地に立ち、『〔もはや〕学ぶことなき者として、〔わたしは〕存している』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 足跡の経

 

524. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の足跡(境処)であり、覚りのために等しく転起するなら、智慧の機能という足跡は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の足跡であり、覚りのために等しく転起するのですか。比丘たちよ、信の機能という足跡は、それは、覚りのために等しく転起します。精進の機能という足跡は、それは、覚りのために等しく転起します。気づきの機能という足跡は、それは、覚りのために等しく転起します。禅定の機能という足跡は、それは、覚りのために等しく転起します。智慧の機能という足跡は、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の足跡であり、覚りのために等しく転起するなら、智慧の機能という足跡は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 芯の経

 

525. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。精進の機能は……略……。気づきの機能は……略……。禅定の機能は……略……。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 確立した者の経

 

526. 「比丘たちよ、一つの法(性質)において確立した比丘の、五つの機能は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。不放逸です。比丘たちよ、では、どのようなものが、不放逸なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の煩悩にたいし、さらに、諸々の煩悩を有する法(性質)にたいし、心を守ります。彼が、そして、諸々の煩悩にたいし、さらに、諸々の煩悩を有する法(性質)にたいし、心を守っていると、信の機能もまた修行の円満成就に赴き、精進の機能もまた修行の円満成就に赴き、気づきの機能もまた修行の円満成就に赴き、禅定の機能もまた修行の円満成就に赴き、智慧の機能もまた修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、一つの法(性質)において確立した比丘の、五つの機能は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 梵〔天〕のサハンパティの経

 

527. 或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「五つの機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る〕。どのようなものが、五つのものであるのか。信の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る〕。精進の機能が……略……。気づきの機能が……略……。禅定の機能が……略……。智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る〕。これらの五つの機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る〕」と。

 

 そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。五つの機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。精進の機能が……略……。気づきの機能が……略……。禅定の機能が……略……。智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。これらの五つの機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。

 

 尊き方よ、過去の事ですが、カッサパ正等覚者のもと、〔わたしは〕梵行を歩みました。そこで、また、わたしのことを、〔人々は〕このように知ります。『サハカ比丘』『サハカ比丘』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、これらの五つの機能が、修められ、多く為されたことから、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を離貪させて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、梵の世に、再生したのです。そこで、また、わたしのことを、〔人々は〕このように知ります。『サハンパティ梵〔天〕』『サハンパティ梵〔天〕』と。世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。わたしは、このことを知ります。わたしは、このことを見ます。すなわち、これらの五つの機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. スーカラカターの経

 

528. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山のスーカラカターにおいて。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、いったい、まさに、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起するのですか」と。「尊き方よ、まさに、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起します」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、束縛からの平安という無上なるものを正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起します」と。

 

 「サーリプッタよ、では、どのようなものが、束縛からの平安という無上なるものなのですか。それを正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起します」と。「尊き方よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を修めます。……略……気づきの機能を修めます。……略……禅定の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の機能を修めます。尊き方よ、これは、まさに、束縛からの平安という無上なるものです。それを正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起します」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、これは、束縛からの平安という無上なるものです。それを正しく見ながら、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起します」と。

 

 「サーリプッタよ、では、どのようなものが、最高の倒礼の所作なのですか。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起させます」と。「尊き方よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者として、敬虔〔の思い〕を有する者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者として、敬虔〔の思い〕を有する者として、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者として、敬虔〔の思い〕を有する者として、〔世に〕住み、学び(戒律)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者として、敬虔〔の思い〕を有する者として、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕を有する者として、敬虔〔の思い〕を有する者として、〔世に〕住みます。尊き方よ、これは、まさに、最高の倒礼の所作です。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起させます」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、これは、最高の倒礼の所作です。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の教えにたいし、最高の倒礼の所作を転起しながら転起させます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の生起の経

 

529. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の生起の経

 

530. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の〔いまだ〕生起していないものとして生起します──善き至達者の律より他に、〔そのようなことは〕ありません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 スーカラカターの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「サーラー、マッラ、そして、〔いまだ〕学びある者、足跡、芯、確立した者、梵〔天〕とスーカラカター、他に、二つの生起があり、〔章となる〕」と。

 

7. 覚りの項目の章

 

1. 束縛の経

 

531. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 悪習の経

 

532. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、悪習の根絶のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、悪習の根絶のために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 遍知の経

 

533. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、時間の遍知のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、時間の遍知のために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

534. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために、悪習の根絶のために、時間の遍知のために、煩悩の滅尽のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために、悪習の根絶のために、時間の遍知のために、煩悩の滅尽のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の果の経

 

535. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたことから、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の果の経

 

536. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり……略……智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたことから、七つの果として、七つの福利が期待できます。どのようなものが、七つの果であり、七つの福利なのですか。(1)まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達します。(2)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達しないなら、そこで、死の時において、了知に達します。(3)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達しないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。(4)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。(5)形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(6)形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(7)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、五つの機能が修められ、このように多く為されたことから、これらの、七つの果として、七つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の木の経

 

537. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)の木々であるなら、ジャンブ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。精進の機能は……略……。気づきの機能は……略……。禅定の機能は……略……。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、ジャンブ洲の木々であるなら、ジャンブ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の木の経

 

538. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、三十三天の木々であるなら、パーリチャッタカ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。精進の機能は……略……。気づきの機能は……略……。禅定の機能は……略……。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、三十三天の木々であるなら、パーリチャッタカ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の木の経

 

539. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、阿修羅たちの木々であるなら、チッタパータリ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。……略……。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、阿修羅たちの木々であるなら、チッタパータリ〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第四の木の経

 

540. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、金翅鳥たちの木々であるなら、クータシンバリー〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の覚りの項目の法(性質)なのですか。比丘たちよ、信の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。……略……。智慧の機能は、覚りの項目の法(性質)であり、それは、覚りのために等しく転起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、金翅鳥たちの木々であるなら、クータシンバリー〔樹〕が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の覚りの項目の法(性質)であるなら、智慧の機能は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます──すなわち、この、覚りのために」と。〔以上が〕第十となる。

 

 覚りの項目の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「束縛、悪習、遍知、諸々の煩悩の滅尽、二つの果、四つの木があり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

8. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

541-552. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を……気づきの機能を……禅定の機能を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の機能を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

不放逸の章が〔第九の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根があり、芯とともに、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

力によって為されるべきことの章が〔第十の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

探し求めの章が〔第十一の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

12. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

587-596. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、五つの機能が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の機能を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の機能を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの五つの機能が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。(すなわち、道に相応するもののように、そのように詳知されるべきである。)

 

 激流の章が第十二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

13. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

597-608. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、信の機能を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、智慧の機能を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第十三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

不放逸の章と力によって為されるべきことの章と探し求めの章が〔第十四と第十五と第十六の章として〕詳知されるべきである。

 

17. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

641-650. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、五つの機能が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、信の機能を修めます。……略……精進の機能を……気づきの機能を……禅定の機能を修めます。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、智慧の機能を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの五つの機能が修められるべきです」と。

 

 激流の章が第十七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 機能に相応するものが第四となる。

 

5(49). 正しい精励に相応するもの

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

651-662. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの正しい精励です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの正しい精励(四正勤)があります」と。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、四つの正しい精励を修めながら、四つの正しい精励を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの正しい精励を修めながら、四つの正しい精励を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの正しい精励を修めながら、四つの正しい精励を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。(正しい精励に相応するもののなかのガンガー〔川〕と省略〔の経典〕として、正しい精励を所以に詳知されるべきである。)

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

2. 不放逸の章

 

 (不放逸の章として、正しい精励を所以に詳知されるべきである。)

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根があり、芯とともに、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

3. 力によって為されるべきことの章

 

1-12. 力によって為されるべきこと等の経の十二なるもの

 

673-684. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、四つの正しい精励を修め、四つの正しい精励を多く為します。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、四つの正しい精励を修め、四つの正しい精励を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、四つの正しい精励を修め、四つの正しい精励を多く為します」と。(このように、力によって為されるべきことの章として、正しい精励を所以に詳知されるべきである。)〔以上が〕第十二となる。

 

 力によって為されるべきことの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

4. 探し求めの章

 

1-10. 探し求め等の経の十なるもの

 

685-694. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、四つの正しい精励が修められるべきです。どのようなものが、四つの正しい精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めの証知のために、これらの四つの正しい精励が修められるべきです」と。(詳知されるべきである。)〔以上が〕第十となる。

 

 探し求めの章が第四となる

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

12. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

695-704. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、四つの正しい精励が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの四つの正しい精励が修められるべきです」と。(詳知されるべきである。)〔以上が〕第十となる。

 

 激流の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 正しい精励に相応するものが第五となる。

 

6(50). 力に相応するもの

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 力の経等の十二なるもの

 

705-716. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力(五力)があります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の力を修めます。……略……精進の力を……略……気づきの力を……禅定の力を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の力を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

2. 不放逸の章

 

不放逸の章が〔第二の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根があり、芯とともに、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

力によって為されるべきことの章が〔第三の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

探し求めの章が〔第四の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

5. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

749-758. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、五つの力が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の力を修めます。……略……精進の力を……略……気づきの力を……略……禅定の力を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、智慧の力を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの五つの力が修められるべきです」と。(このように詳知されるべきである。)〔以上が〕第十となる。

 

 激流の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

6. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 東等の経の十二なるもの

 

759-770. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、信の力を修めます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、五つの力を修めながら、五つの機能を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。(詳知されるべきである。)〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

不放逸の章と力によって為されるべきことの章が〔第七と第八の章として〕詳知されるべきである。

 

9. 探し求めの章

 

1-12. 探し求め等の経の十なるもの

 

793-802.(※) このように、探し求めの聖典が詳知されるべきである──貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とするものとして。

 

※ テキストには 792-802. とあるが、793-802. と訂正する。

 

 探し求めの章が第九となる

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

10. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

803-812. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、五つの力が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、信の力を修めます。……略……。貪欲の調伏を結末とし、憤怒の調伏を結末とし、迷妄の調伏を結末とする、智慧の力を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの五つの力が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 激流の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 力に相応するものが第六となる。

 

7(51). 神通の足場に相応するもの

 

1. チャーパーラの章

 

1. 此岸の経

 

813. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修め、精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場(四神足)が、修められ、多く為されたなら、此岸から彼岸に至るために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 亡失されたものの経

 

814. 「比丘たちよ、誰であれ、彼らに、四つの神通の足場が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、四つの神通の足場が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの四つの神通の足場が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのです。比丘たちよ、誰であれ、彼らに、これらの四つの神通の足場が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 聖なるものの経

 

815. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 厭離の経

 

816. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 神通の部分の経

 

817. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させたなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させたのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させるであろうなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させるでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させるなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させます〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させたなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させたのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させるでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、神通の部分を完遂させるなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させます〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 完全なるものの経

 

818. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させたなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させたのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させるであろうなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させるでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させるなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させます〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させたなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させたのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させるでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なるものとして、神通を完遂させるなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔完遂させます〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 比丘たちの経

 

819. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住んだなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住んだのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろうなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住むでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住みます〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住んだなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住んだのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住むでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、比丘たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔そのように住みます〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 覚者の経

 

820. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの神通の足場です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、如来は、『阿羅漢にして正等覚者』と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 知恵の経

 

821. 「比丘たちよ、『これは、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、『これは、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、その、この考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が修められるべきである』と、わたしに……略……。比丘たちよ、『……略……修められた』と、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 塔廟の経

 

822. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊者アーナンダもまた、まさに、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。

 

 再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、あなたは去りなさい。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、遠く離れていないところの、或るどこかの木の根元において坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。

 

 尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕存在します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。

 

 尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘尼たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕存在します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である在俗信者(優婆塞)たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者(優婆夷)たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。

 

 尊き方よ、また、まさに、今現在、世尊の弟子である在俗信者たちは……略……女性在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕存在します。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。

 

 尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、〔まさに〕その、この世尊の梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、あなたは、思い入れ少なき者と成れ(心配はいりません)。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟において、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働き()を放棄しました。そして、世尊によって、寿命を形成する働きが放棄されたとき、禍々しく身の毛のよだつ大いなる地震が有り、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比べられるものを、さらに、比べられないものを、〔何であれ、自己から〕発生するものを、〔迷いの〕生存を形成する働きを、牟尼は放棄した。内に喜び、〔心が〕定められた者は、鎧を〔壊し去る〕ように、自己から発生するものを破壊した」と。〔以上が〕第十となる。

 

 チャーパーラの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「此岸もまたあり、そして、亡失されたもの、聖なるもの、さらに、厭離もまたあり、部分、完全なるもの、比丘たち、覚者、そして、知恵、塔廟があり、〔章となる〕」と。

 

2. 高楼の動転の章

 

1. 過去の経

 

823. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、神通の足場の修行のためになるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める。

 

 精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの精進は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める。

 

 心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの心は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める。

 

 考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現する。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成る。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行く──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわす。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させる。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞く──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも、かくのごとく。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知する。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知する。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知する。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知する。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知する。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知する。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知する。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知する。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知する。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知する。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知する。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知する。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知する。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知する。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知する。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知する。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。

 

 このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 大いなる果の経

 

824. 「比丘たちよ、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。……略……。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 欲〔の思い〕の禅定の経

 

825. 「比丘たちよ、もし、比丘が、欲〔の思い〕に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これは、『欲〔の思い〕の禅定』〔と〕説かれます。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。これらは、『諸々の精励の形成〔作用〕』〔と〕説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、そして、この欲〔の思い〕は、かつまた、この欲〔の思い〕の禅定は、さらに、これらの精励の形成〔作用〕は、比丘たちよ、これは、『欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、精進に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これは、『精進の禅定』〔と〕説かれます。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。これらは、『諸々の精励の形成〔作用〕』〔と〕説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、そして、この精進は、かつまた、この精進の禅定は、さらに、これらの精励の形成〔作用〕は、比丘たちよ、これは、『精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、心に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これは、『心の禅定』〔と〕説かれます。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、心に励み、心を励起し、精励します。これらは、『諸々の精励の形成〔作用〕』〔と〕説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、そして、この心は、かつまた、この心の禅定は、さらに、これらの精励の形成〔作用〕は、比丘たちよ、これは、『心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、考察に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、これは、『考察の禅定』〔と〕説かれます。彼は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。これらは、『諸々の精励の形成〔作用〕』〔と〕説かれます。比丘たちよ、かくのごとく、そして、この考察は、かつまた、この考察の禅定は、さらに、これらの精励の形成〔作用〕は、比丘たちよ、これは、『考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. モッガッラーナの経

 

826. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、ミガーラマータルの高楼の下に住んでいます。〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり(※)、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちとなり。

 

※ テキストには bhantacittā とあるが、PTS版により vibbhantacittā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、まさに、これらの梵行を共にする者たちが、ミガーラマータルの高楼の下に住んでいます。〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者たちとなり。モッガッラーナよ、赴きなさい。それらの比丘たちを畏怖させなさい」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に答えて、すなわち、足の親指で、ミガーラマータルの高楼を、等しく動転させ、等しく激動させ、等しく動揺させた、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、畏怖する者たちとなり、身の毛のよだちを生じ、一方に立ちました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。かつまた、無風であるのに、かつまた、まさに、このミガーラマータルの高楼は、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるのに、そこで、また、そして、等しく動転させられ、等しく激動させられ、等しく動揺させられたのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、どうして、あなたたちは、畏怖する者たちとなり、身の毛のよだちを生じ、一方に立っているのですか」と。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。かつまた、無風であるのに、かつまた、まさに、このミガーラマータルの高楼は、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるのに、そこで、また、そして、等しく動転させられ、等しく激動させられ、等しく動揺させられたのです」と。「比丘たちよ、まさしく、あなたたちを、まさに、畏怖させることを欲するモッガッラーナ比丘によって、足の親指で、ミガーラマータルの高楼は、等しく動転させられ、等しく激動させられ、等しく動揺させられたのです。比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。比丘たちよ、まさに、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、モッガッラーナ比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。……。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです。比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。……略……。比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ウンナーバ婆羅門の経

 

827. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、ウンナーバ婆羅門が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウンナーバ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「貴君アーナンダよ、いったい、まさに、何を義(目的)として、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか」と。「婆羅門よ、まさに、欲〔の思い〕の捨棄を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。

 

 「貴君アーナンダよ、また、まさに、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この欲〔の思い〕の捨棄のための」と。「婆羅門よ、まさに、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この欲〔の思い〕の捨棄のための」と。

 

 「貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この欲〔の思い〕の捨棄のための」と。「婆羅門よ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。婆羅門よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この欲〔の思い〕の捨棄のための」と。

 

 「貴君アーナンダよ、このように存しているとき、終極(結論)を有するものと成りますか──終極を有さないものではなく。まさしく、欲〔の思い〕によって、欲〔の思い〕を捨棄するであろう、という、この状況は見出されません」と(※)。「婆羅門よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。婆羅門よ、それを、どう思いますか。過去において、あなたに、欲〔の思い〕が有りましたか。『林園に赴くのだ』と。〔まさに〕その、あなたが、林園に赴いたなら、すなわち、それに応じる欲〔の思い〕は、それは、安息したのでは」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「過去において、あなたに、精進が有りましたか。『林園に赴くのだ』と。〔まさに〕その、あなたが、林園に赴いたなら、すなわち、それに応じる精進は、それは、安息したのでは」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「過去において、あなたに、心が有りましたか。『林園に赴くのだ』と。〔まさに〕その、あなたが、林園に赴いたなら、すなわち、それに応じる心は、それは、安息したのでは」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「過去において、あなたに、考察が有りましたか。『林園に赴くのだ』と。〔まさに〕その、あなたが、林園に赴いたなら、すなわち、それに応じる考察は、それは、安息したのでは」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。

 

※ テキストには vijjati とあるが、PTS版により vijjatī’ti と読む。

 

 「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、すなわち、過去において、彼に有った、阿羅漢の資質に至り得るための欲〔の思い〕は、阿羅漢の資質に至り得たとき、すなわち、それに応じる欲〔の思い〕は、それは、安息したのです。すなわち、過去において、彼に有った、阿羅漢の資質に至り得るための精進は、阿羅漢の資質に至り得たとき、すなわち、それに応じる精進は、それは、安息したのです。すなわち、過去において、彼に有った、阿羅漢の資質に至り得るための心は、阿羅漢の資質に至り得たとき、すなわち、それに応じる心は、それは、安息したのです。すなわち、過去において、彼に有った、阿羅漢の資質に至り得るための考察は、阿羅漢の資質に至り得たとき、すなわち、それに応じる心は、それは、安息したのです。婆羅門よ、それを、どう思いますか。婆羅門よ、かくのごとく、このように存しているとき、あるいは、終極(結論)を有するものと成りますか、あるいは、終極を有さないものと〔成りますか〕(※)」と。

 

※ テキストには no asantakaṃ vā とあるが、PTS版により no を削除する。

 

 「貴君アーナンダよ、たしかに、このように存しているとき、終極を有するものと成ります──終極を有さないものではなく。貴君アーナンダよ、すばらしいことです。貴君アーナンダよ、すばらしいことです。貴君アーナンダよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君アーナンダによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君アーナンダよ、〔まさに〕この、わたしは、彼を、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君アーナンダは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の沙門や婆羅門たちの経

 

828. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと成り、大いなる威力ある者たちと〔成ったなら〕、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成ったのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと成り、大いなる威力ある者たちと〔成るであろうなら〕、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成るでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと〔成り〕、大いなる威力ある者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと成り、大いなる威力ある者たちと〔成ったなら〕、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成ったのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと成り、大いなる威力ある者たちと〔成るであろうなら〕、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成るでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、大いなる神通ある者たちと〔成り〕、大いなる威力ある者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

829. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現したなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りました。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りました。明現状態と〔成りました〕。超没状態と〔成りました〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きました──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しました──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きました──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きました──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしました。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させました──彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験したのです〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろうなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成るでしょう。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成るでしょう。明現状態と〔成るでしょう〕。超没状態と〔成るでしょう〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くでしょう──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すでしょう──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くでしょう──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くでしょう──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすでしょう。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるでしょう──彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験するでしょう〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます──彼らの全てが、四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験します〕(※)。

 

※ テキストには bahulīkatattāti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現したなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りました。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させました──彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験したのです〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろうなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成るでしょう。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるでしょう──彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験するでしょう〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するなら──〔彼らは〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます──彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を修め、多く為したことから、〔経験します〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 比丘の経

 

830. 「比丘たちよ、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 神通等の説示の経

 

831. 「比丘たちよ、神通を、そして、神通の足場を、かつまた、神通の足場の修行を、さらに、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、これは、神通と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場なのですか。比丘たちよ、すなわち、〔聖なる〕道として、すなわち、〔実践の〕道として、それが、神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために等しく転起するなら、比丘たちよ、これは、神通の足場と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 区分の経

 

832. 「比丘たちよ、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて畏縮した欲〔の思い〕なのですか。比丘たちよ、その欲〔の思い〕が、怠惰を共具したものであり、怠惰と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて畏縮した欲〔の思い〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて励起した欲〔の思い〕なのですか。比丘たちよ、その欲〔の思い〕が、高揚を共具したものであり、高揚と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて励起した欲〔の思い〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、内に退縮した欲〔の思い〕なのですか。比丘たちよ、その欲〔の思い〕が、〔心の〕沈滞と眠気を共具したものであり、〔心の〕沈滞と眠気と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、内に退縮した欲〔の思い〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、外に散乱した欲〔の思い〕なのですか。比丘たちよ、その欲〔の思い〕が、外に、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を対象として、散乱し拡散したものであるなら、比丘たちよ、これは、外に散乱した欲〔の思い〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、後と前の表象ある者として〔世に〕住むのですか。『前にあるように、そのように、後にあり、後にあるように、そのように、前にある』〔と〕。比丘たちよ、ここに、比丘の、後と前の表象が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『前にあるように、そのように、後にあり、後にあるように、そのように、前にある』〔と〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔世に〕住むのですか。『下にあるように、そのように、上にあり、上にあるように、そのように、下にある』〔と〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔世に〕住みます。『下にあるように、そのように、上にあり、上にあるように、そのように、下にある』〔と〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔世に〕住むのですか。『昼にあるように、そのように、夜にあり、夜にあるように、そのように、昼にある』〔と〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、昼に、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めるなら、彼は、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、夜に、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。また、あるいは、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、夜に、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めるなら、彼は、それらの行相によって、それらの徴表によって、それらの形相によって、昼に、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔世に〕住みます。『昼にあるように、そのように、夜にあり、夜にあるように、そのように、昼にある』〔と〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、光明の表象(光明想)が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて畏縮した精進なのですか。比丘たちよ、その精進が、怠惰を共具したものであり、怠惰と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて畏縮した精進と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて励起した精進なのですか。比丘たちよ、その精進が、高揚を共具したものであり、高揚と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて励起した精進と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、内に退縮した精進なのですか。比丘たちよ、その精進が、〔心の〕沈滞と眠気を共具したものであり、〔心の〕沈滞と眠気と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、内に退縮した精進と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、外に散乱した精進なのですか。比丘たちよ、その精進が、外に、五つの欲望の属性を対象として、散乱し拡散したものであるなら、比丘たちよ、これは、外に散乱した精進と説かれます。……略……。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、光明の表象が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて畏縮した心なのですか。比丘たちよ、その心が、怠惰を共具したものであり、怠惰と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて畏縮した心と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて励起した心なのですか。比丘たちよ、その心が、高揚を共具したものであり、高揚と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて励起した心と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、内に退縮した心なのですか。比丘たちよ、その心が、〔心の〕沈滞と眠気を共具したものであり、〔心の〕沈滞と眠気と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、内に退縮した心と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、外に散乱した心なのですか。比丘たちよ、その心が、外に、五つの欲望の属性を対象として、散乱し拡散したものであるなら、比丘たちよ、これは、外に散乱した心と説かれます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて畏縮した考察なのですか。比丘たちよ、その考察が、怠惰を共具したものであり、怠惰と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて畏縮した考察と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、極めて励起した考察なのですか。比丘たちよ、その考察が、高揚を共具したものであり、高揚と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、極めて励起した考察と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、内に退縮した考察なのですか。比丘たちよ、その考察が、〔心の〕沈滞と眠気を共具したものであり、〔心の〕沈滞と眠気と結び付いたものであるなら、比丘たちよ、これは、内に退縮した考察と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、外に散乱した考察なのですか。比丘たちよ、その考察が、外に、五つの欲望の属性を対象として、散乱し拡散したものであるなら、比丘たちよ、これは、外に散乱した考察と説かれます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 高楼の動転の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「過去、大いなる果、欲〔の思い〕、そして、モッガッラーナ、ウンナーバ、二つの沙門や婆羅門たち、比丘、説示があり、そして、区分とともに、〔章となる〕」と。

 

3. 鉄の玉の章

 

1. 道の経

 

833. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道であるのか──神通の足場の修行のための』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修める。かくのごとく、「わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう」〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住む。「すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕」〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修める』〔と〕。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。……略……。比丘たちよ、このように、まさに、四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたとき、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第一となる。

 

 (六つの神知もまた、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

2. 鉄の玉の経

 

834. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、世尊は、神通によって、意によって作られる身体で、梵の世に近づいて行く者として証知するのですか」と。「アーナンダよ、まさに、わたしは、神通によって、意によって作られる身体で、梵の世に近づいて行く者として証知します」と。「尊き方よ、また、世尊は、この四つの大いなる元素からなる身体で、神通によって、梵の世に近づいて行く者として証知するのですか」と。「アーナンダよ、まさに、わたしは、この四つの大いなる元素からなる身体で、神通によって、梵の世に近づいて行く者として証知します」と。

 

 「尊き方よ、そして、すなわち、まさに、世尊が、神通によって、意によって作られる身体で、梵の世に近づいて行くことができるのは、尊き方よ、さらに、すなわち、まさに、世尊が、この四つの大いなる元素からなる身体で、神通によって、梵の世に近づいて行く者として証知するのは、尊き方よ、それは、このことは、世尊の、まさしく、そして、稀有なることであり、さらに、未曾有のことです」と。「アーナンダよ、如来たちは、まさしく、そして、稀有なる者たちであり、さらに、稀有なる法(性質)を具備した者たちです。アーナンダよ、如来たちは、まさしく、そして、未曾有の者たちであり、さらに、未曾有の法(性質)を具備した者たちです。

 

 アーナンダよ、その時点において、如来が、身体をもまた心に収容し、心をもまた身体に収容し、そして、安楽の表象を、さらに、軽快の表象を、身体に没入させて〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、まさしく、そして、より軽快なるものと成り、かつまた、より柔和なるものと〔成り〕、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、より光り輝くものと〔成ります〕。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄の玉が、まさしく、そして、より軽快なるものと成り、かつまた、より柔和なるものと〔成り〕、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、より光り輝くものと〔成るように〕、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、如来が、身体をもまた心に収容し、心をもまた身体に収容し、そして、安楽の表象を、さらに、軽快の表象を、身体に没入させて〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、まさしく、そして、より軽快なるものと成り、かつまた、より柔和なるものと〔成り〕、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、より光り輝くものと〔成ります〕。

 

 アーナンダよ、その時点において、如来が、身体をもまた心に収容し、心をもまた身体に収容し、そして、安楽の表象を、さらに、軽快の表象を、身体に没入させて〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、まさしく、難少なく、地から宙に舞い上がり、彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、軽い、あるいは、木綿が、あるいは、生綿が、風に取られ、まさしく、難少なく、地から宙に舞い上がるように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、如来が、身体をもまた心に収容し、心をもまた身体に収容し、そして、安楽の表象を、さらに、軽快の表象を、身体に没入させて〔世に〕住むなら、アーナンダよ、その時点において、如来の身体は、まさしく、難少なく、地から宙に舞い上がり、彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 比丘の経

 

835. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 単純なるものの経

 

836. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の果の経

 

837. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから(※)、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第五となる。

 

※ テキストには bahulīkatattā bhikkhunā とあるが、PTS版により bhikkhunā を削除する。

 

6. 第二の果の経

 

838. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの神通の足場です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、七つの果として、七つの福利が期待できます。

 

 どのようなものが、七つの果であり、七つの福利なのですか。(1)まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達します。(2)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達しないなら、そこで、死の時において、了知に達します。(3)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達しないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。(4)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。(5)形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(6)形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。(7)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が修められ、このように多く為されたことから、これらの、七つの果として、七つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一のアーナンダの経

 

839. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、神通であり、どのようなものが、神通の足場であり、どのようなものが、神通の足場の修行であり、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。アーナンダよ、これは、神通と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場なのですか。アーナンダよ、すなわち、〔聖なる〕道として、すなわち、〔実践の〕道として、神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために等しく転起するなら、アーナンダよ、これは、神通の足場と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。アーナンダよ、これは、神通の足場の修行と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。アーナンダよ、これは、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二のアーナンダの経

 

840. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、いったい、まさに、どのようなものが、神通であり、どのようなものが、神通の足場であり、どのようなものが、神通の足場の修行であり、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり……略……。

 

 「アーナンダよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。アーナンダよ、これは、神通と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場なのですか。アーナンダよ、すなわち、〔聖なる〕道として、すなわち、〔実践の〕道として、神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために等しく転起するなら、アーナンダよ、これは、神通の足場と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。アーナンダよ、これは、神通の足場の修行と説かれます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。アーナンダよ、これは、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の比丘たちの経

 

841. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、神通であり、どのようなものが、神通の足場であり、どのようなものが、神通の足場の修行であり、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか」と。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、これは、神通と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場なのですか。比丘たちよ、すなわち、〔聖なる〕道として、すなわち、〔実践の〕道として、神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために等しく転起するなら、比丘たちよ、これは、神通の足場と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の比丘たちの経

 

842. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、まさに、どのようなものが、神通であり、どのようなものが、神通の足場であり、どのようなものが、神通の足場の修行であり、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、神通なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、これは、神通と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場なのですか。比丘たちよ、すなわち、〔聖なる〕道として、すなわち、〔実践の〕道として、神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために等しく転起するなら、比丘たちよ、これは、神通の足場と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、神通の足場の修行に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. モッガッラーナの経

 

843. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、モッガッラーナ比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです。

 

 比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。……略……。比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、モッガッラーナ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 如来の経

 

844. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、如来は、このような偉大なる神通ある者であり、偉大なる威力ある者なのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、如来は、このような偉大なる神通ある者であり、偉大なる威力ある者なのです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、如来が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの欲〔の思い〕は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。かくのごとく、『わたしの考察は、そして、極めて畏縮したものと成らないであろうし、さらに、極めて励起したものと成らないであろうし、そして、内に退縮したものと成らないであろうし、さらに、外に散乱したものと成らないであろう』〔と〕。そして、後と前の表象ある者として〔世に〕住みます。『すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕』〔と〕。かくのごとく、開かれた心で、覆い包まれていない〔心〕で、光を有する心を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、如来は、このような偉大なる神通ある者であり、偉大なる威力ある者なのです。

 

 比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、如来は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。……略……。比丘たちよ、また、そして、これらの四つの神通の足場が、修められ、多く為されたことから、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 (六つの神知もまた、〔ここに〕詳知されるべきである。)

 

 鉄の玉の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「道、鉄の玉、比丘、そして、また、単純なるもの、二つの果、さらに、二つのアーナンダ、二つの比丘たち、モッガッラーナ、如来があり、〔章となる〕」と。

 

4. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. ガンガー川等の経の十二なるもの

 

845-856. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、四つの神通の足場を修めながら、四つの神通の足場を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの神通の足場を修めながら、四つの神通の足場を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの神通の足場を修めながら、四つの神通の足場を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

不放逸の章が〔第五の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根、そして、芯、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

力によって為されるべきことの章が〔第六の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

探し求めの章が〔第七の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

8. 激流の章

 

1-10. 激流等の経の十なるもの

 

889-898. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、四つの神通の足場が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの四つの神通の足場が修められるべきです」と。

 

 (すなわち、道に相応するもののように、そのように詳知されるべきである。)

 

 激流の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 神通の足場に相応するものが第七となる。

 

8(52). アヌルッダに相応するもの

 

1. 静所に赴いた者の章

 

1. 第一の静所に赴いた者の経

 

899. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者アヌルッダに、このような心の思索が浮かびました。「誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのだ。誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、尊者アヌルッダの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、尊者アヌルッダの面前に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、比丘が、内に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。

 

 内に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。

 

 内に、心における……略……。外に、心における……略……。内と外に、心における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、心における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、心における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり……略……強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。

 

 内に、諸々の法(性質)における……略……。外に、諸々の法(性質)における……略……。内と外に、諸々の法(性質)における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の法(性質)における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の法(性質)における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。友よ、このようなことから、まさに、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の静所に赴いた者の経

 

900. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者アヌルッダに、このような心の思索が浮かびました。「誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのだ。誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、尊者アヌルッダの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、尊者アヌルッダの面前に出現しました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、比丘が、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 内に、心における……略……。外に、心における……略……。内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり……略……強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 内に、諸々の法(性質)における……略……。外に、諸々の法(性質)における……略……。内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、このようなことから、まさに、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. スタヌ〔池〕の経

 

901. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。スタヌ〔池〕の岸辺において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。

 

 「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、下劣なる法(性質)を下劣なるものとして〔あるがままに〕証知し、中等なる法(性質)を中等なるものとして〔あるがままに〕証知し、精妙なる法(性質)を精妙なるものとして〔あるがままに〕証知しました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一のカンダキンの経

 

902. 或る時のことです。かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、サーケータに住んでいます。カンダキン林において。そこで、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、〔いまだ〕学びある比丘は、どのような諸々の法(性質)を成就して〔世に〕住むべきですか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、〔いまだ〕学びある比丘は、四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、サーリプッタよ、〔いまだ〕学びある比丘は、これらの四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二のカンダキンの経

 

903. サーケータの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、どのような諸々の法(性質)を成就して〔世に〕住むべきですか」と。「友よ、サーリプッタよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、サーリプッタよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、これらの四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第三のカンダキンの経

 

904. サーケータの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、千の世を証知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 渇愛の滅尽の経

 

905. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに答えました。尊者アヌルッダは、こう言いました。

 

 「友よ、四つのものがあります。これらの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、渇愛の滅尽のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、渇愛の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. サララ堂の経

 

906. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。サララ堂において。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、比丘たちに告げました。……略……こう言いました。「友よ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるようなものです。そこで、大勢の人の衆が、鋤(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。『わたしたちは、このガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すのだ〕、西に傾倒するものと〔為すのだ〕、西に傾斜するものと為すのだ』と。友よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その大勢の人の衆は、ガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すでしょうか〕、西に傾倒するものと〔為すでしょうか〕、西に傾斜するものと為すでしょうか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「友よ、ガンガー川は、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、それは、西に向かい行くものと〔為すに〕、西に傾倒するものと〔為すに〕、西に傾斜するものと為すに、為し易くはないからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その大勢の人の衆は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。

 

 「友よ、まさしく、このように、まさに、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為している、比丘に、あるいは、王たちが、あるいは、王の大臣たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族たちが、あるいは、血縁たちが、諸々の財物を運び込んで申し出るとします。『さて、人士たる者よ、さあ、どうして、おまえのこれらの黄褐色〔の衣〕はよれよれなのだ。どうして、〔おまえは〕剃髪し、皿を〔携えて〕渡り歩くのだ。さあ、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ』と。

 

 友よ、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為している、まさに、その比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。友よ、なぜなら、すなわち、その心は、長夜にわたり、遠離に向かい行くものであり、遠離に傾倒するものであり、遠離に傾斜するものであり、その〔心〕が、まさに、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されないからです。友よ、では、どのように、比丘は、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為すのですか(※)。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、このように、まさに、比丘は、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為します」と。〔以上が〕第八となる。

 

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9. アンバパーリーの林の経

 

907. 或る時のことです。かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者サーリプッタは、ヴェーサーリーに住んでいます。アンバパーリーの林において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し……略……。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。

 

 「友よ、アヌルッダよ、まさに、あなたには、清らかとなった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者アヌルッダは、今現在、どのような住によって、多くを住むのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、今現在、多くを住みます。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、多くを住みます」と。

 

 「友よ、まさに、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、まさに、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、威厳ある言葉を語っている尊者アヌルッダの、まさしく、面前で、〔それを〕聞いたのです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 激しい病の者の経

 

908. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。アンダ林において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダに、こう言いました。

 

 「どのような住によって、尊者アヌルッダが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しないのですか」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、わたしが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しません。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、わたしが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 静所に赴いた者の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「静所に赴いた者によって、二つのものが説かれ、スタヌ〔池〕、三つのカンダキン、渇愛の滅尽とサララ堂、そして、アンバパーリー、病の者があり、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. 千のカッパの経

 

909. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダと共に……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。

 

 「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、千のカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)を随念します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 神通の種類の経

 

910. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 天耳の経

 

911. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 心の探知の経

 

912. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 状況の経

 

913. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 行為の受持の経

 

914. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報い(異熟)を、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 一切所に至るものの経

 

915. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 種々なる界域の経

 

916. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 種々なる信念の経

 

917. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 機能の上下なることの経

 

918. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 瞑想等の経

 

919. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 過去における居住の経

 

920. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 天眼の経

 

921. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

14. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

922. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十四となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる神知、神通、天〔耳〕、心の探知、状況、行為、一切所と界域と信念、機能、瞑想、三つの明知があり、〔章となる〕」と。

 

 アヌルッダに相応するものが第八となる。

 

9(53). 瞑想に相応するもの

 

1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章

 

1-12. 瞑想等の経の十二なるもの

 

923-934. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想()です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの瞑想(四禅)があります」と。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。

 

不放逸の章が〔第二の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根、そして、芯、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。

 

力によって為されるべきことの章が〔第三の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。

 

探し求めの章が〔第四の章として〕詳知されるべきである。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦性、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。

 

5. 激流の章

 

1-10. 激流等の経

 

967-976. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、四つの瞑想が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの四つの瞑想が修められるべきです」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。〔以上が〕第十となる。(すなわち、道に相応するもののように、そのように詳知されるべきである。)

 

 激流の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。

 

 瞑想に相応するものが第九となる。

 

10(54). 呼吸に相応するもの

 

1. 一つの法の章

 

1. 一つの法の経

 

977. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに……略……こう言いました。「比丘たちよ、一つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)です。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づき()を現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 覚りの支分の経

 

978. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 単純なるものの経

 

979. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の果の経

 

980. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の果の経

 

981. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、七つの果として、七つの福利が期待できます。どのようなものが、七つの果であり、七つの福利なのですか。(1)まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達します。(2)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達しないなら、そこで、死の時において、了知に達します。(3)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達しないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。(4)……略……再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。(5)……略……形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。(6)……略……形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。(7)……略……上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、これらの、七つの果として、七つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アリッタの経

 

982. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は……略……こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちは、まさに、呼吸についての気づきを修めなさい」と。このように説かれたとき、尊者アリッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、まさに、呼吸についての気づきを修めます」と。「アリッタよ、また、すなわち、どのように、あなたは、呼吸についての気づきを修めるのですか」と。「尊き方よ、わたしにとって、諸々の過去の欲望〔の対象〕にたいし、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は捨棄され、わたしにとって、諸々の未来の欲望〔の対象〕にたいし、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は離れ去り、そして、わたしにとって、内と外に、諸々の法(性質)にたいし、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)は善く取り除かれています。その〔わたし〕は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、呼吸についての気づきを修めます」と。

 

 「アリッタよ、『これは、呼吸についての気づきとして存在する。これが、〔呼吸についての気づきとして〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。アリッタよ、しかしながら、また、すなわち、呼吸についての気づきが、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アリッタは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「アリッタよ、では、どのように、呼吸についての気づきは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成るのですか。アリッタよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アリッタよ、このように、まさに、呼吸についての気づきは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. マハー・カッピナの経

 

983. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッピナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐った状態でいます。まさに、世尊は、尊者マハー・カッピナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。この比丘の身体の、あるいは、揺れ動きを、あるいは、震えおののきを」と。「尊き方よ、すなわち、また、その尊者が、あるいは、僧団の中で坐っているのを、あるいは、独りで静所に坐っているのを、わたしたちが見るとき、そのときもまた、その尊者の身体の、あるいは、揺れ動きを、あるいは、震えおののきを、わたしたちは見ません」と。

 

 「比丘たちよ、その禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるなら、比丘たちよ、その比丘は、その禅定を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者です。比丘たちよ、では、どのような禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるのですか。

 

 比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあります。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたとき、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、そして、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたとき、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 灯明の喩えの経

 

984. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしもまた、この住によって、多くを住みます。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって、多くを住んでいると、まさしく、身体も疲弊せず、〔両の〕眼も〔疲弊せ〕ず、そして、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『まさしく、わたしの、身体も疲弊するべきではなく、〔両の〕眼も〔疲弊するべきでは〕なく、そして、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『すなわち、わたしに、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟があるなら、それらは捨棄されるのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたとき、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。

 

 彼が、もし、安楽の感受を(※)感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。

 

※ テキストには Sukhaṃ ce vedanaṃ とあるが、PTS版により So sukhaṃ ce vedanaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ヴェーサーリーの経

 

985. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしは求めます──半月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、「世尊は、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語る」と、無数の行相と区別ある不浄の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます。彼らは、この身体〔の観点〕によって、苦悩し、自責し、忌避しながら、刃を持つ者(殺害者)を遍く探し求めます。或る日には、十者であろうが、比丘たちは刃を持ち、或る日には、二十者であろうが……略……或る日には、三十者であろうが、比丘たちは刃を持ちます(自死する)。

 

 そこで、まさに、世尊は、その半月が経過して、静坐から出起し、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、いったい、まさに、どうして、虚弱者と成ったかのように、比丘の僧団はあるのですか」と。「尊き方よ、また、なぜなら、そのように、〔彼らは〕『世尊は、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語る』と、無数の行相と区別ある不浄の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住むからです。彼らは、この身体〔の観点〕によって、苦悩し、自責し、忌避しながら、刃を持つ者を遍く探し求めます。或る日には、十者であろうが、比丘たちは刃を持ち、或る日には、二十者であろうが……略……或る日には、三十者であろうが、比丘たちは刃を持ちます。尊き方よ、どうか、世尊は、他の教相を告げ知らせたまえ。すなわち、この比丘の僧団が、了知において確立するように」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、それでは、すなわち、ヴェーサーリーに近しく依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、すなわち、ヴェーサーリーに依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、集まりました──比丘の僧団が。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、この、呼吸についての気づきという禅定もまた、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起する諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月に、巻き上げられた塵と埃を、まさしく、ただちに、時ならざる大いなる雨雲が、即座に消没させ、寂止させるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起する諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起する諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させるのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起する諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. キミラの経

 

986. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。

 

 このように説かれたとき、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。三度また、まさに、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、呼吸についての気づきという禅定を語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知するなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、大きな四つ辻において、大いなる砂の塊があるとします。もし、また、東の方角から(※)、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕き、もし、また、西の方角から……略……もし、また、北の方角から……略……もし、また、南の方角から、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕きます。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みながらもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕き、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みながらもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕きます」と。〔以上が〕第十となる。

 

※ テキストには disāyaṃ とあるが、PTS版により disāya と読む。

 

 一つの法(性質)の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、一つの法(性質)、覚りの支分、そして、単純なるもの、二つの果、アリッタ、カッピナ、灯明、ヴェーサーリーがあり、そして、キミラとともに、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. イッチャーナンガラの経

 

987. 或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしは求めます──三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。

 

 そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それで、もし、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、沙門ゴータマは、どのような住によって、雨期の居住の多くを住むのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、世尊は、呼吸についての気づきという禅定によって、雨期の居住の多くを住みます』と。比丘たちよ、ここに、わたしは、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と覚知し……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と覚知し、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と覚知します。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)のために、さらに、気づきと正知のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 疑うべきものの経

 

988. 或る時のことです。尊者ローマサカンビヤは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、尊者ローマサカンビヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ローマサカンビヤを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、尊者ローマサカンビヤに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして如来の住があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、まさしく、他なるものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして如来の住があるのですか(両者は別のものですか)」と。

 

 「友よ、マハー・ナーマよ、まさに、まさしく、そのものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして如来の住があるのではありません。友よ、マハー・ナーマよ、まさに、他なるものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして如来の住があります。友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害を……略……疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。

 

 友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、これらの五つの〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。

 

 友よ、マハー・ナーマよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され……略……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害は……略……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害は……略……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。

 

 友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、これらの五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります。

 

 友よ、マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。友よ、マハー・ナーマよ、そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、わたしは求めます──三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として』と。友よ、マハー・ナーマよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、それで、もし、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。「友よ、沙門ゴータマは、どのような住によって、雨期の居住の多くを住むのですか」と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。「友よ、まさに、世尊は、呼吸についての気づきという禅定によって、雨期の居住の多くを住みます」と。比丘たちよ、ここに、わたしは、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知し、長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知します。……略……。「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と覚知し、「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と覚知します。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです。

 

 比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住のために、さらに、気づきと正知のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです』と。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一のアーナンダの経

 

989. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「アーナンダよ、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます。

 

 アーナンダよ、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く……略……『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕安楽の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。

 

 アーナンダよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。アーナンダよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 精進に励む者に、喜悦は財貨なきもの(非俗のもの)として生起します。アーナンダよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。アーナンダよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。アーナンダよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 アーナンダよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。(すなわち、最初の気づきの確立のように、このように詳知されるべきである。)

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。アーナンダよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。

 

 アーナンダよ、どのように、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。アーナンダよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二のアーナンダの経

 

990. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「アーナンダよ、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。アーナンダよ、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。「アーナンダよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き……略……。アーナンダよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の比丘たちの経

 

991. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「比丘たちよ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。

 

 「尊き方よ、また、まさに、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「比丘たちよ、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。

 

 「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き……略……。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の比丘たちの経

 

992. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。

 

 「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら……略……『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として……略……『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として……略……『〔わたしは〕安楽の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。比丘たちよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 精進に励む者に、喜悦は財貨なきものとして生起します。比丘たちよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。比丘たちよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。比丘たちよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。……略……。

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 束縛の捨棄の経

 

993. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悪習の根絶の経

 

994. 「……悪習の根絶のために等しく転起します。……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 時間の遍知の経

 

995. 「……時間の遍知のために等しく転起します。……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

996. 「……諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起するのですか。……悪習の根絶のために等しく転起するのですか。……時間の遍知のために等しく転起するのですか。……諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します。……略……。悪習の根絶のために等しく転起します。……略……。時間の遍知のために等しく転起します。……略……。諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「イッチャーナンガラ、疑うべきもの、他に、二つのアーナンダ、〔二つの〕比丘たち、束縛、悪習、時間、諸々の煩悩の滅尽があり、〔章となる〕」と。

 

 呼吸に相応するものが第十となる。

 

11(55). 預流に相応するもの

 

1. ヴェールドヴァーラの章

 

1. 転輪王の経

 

997. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は……略……こう言いました。「比丘たちよ、たとえ、何であれ、転輪王が、四つの洲の権力者にして君主たる王権を為して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、彼が、そこにおいて、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、かつまた、天の五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむも、彼が、四つの法(性質)を具備していないなら、そこで、まさに、彼は、まさしく、地獄から完全に解き放たれず、畜生の胎から完全に解き放たれず、餓鬼の境域から完全に解き放たれず、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれていないのです。比丘たちよ、たとえ、何であれ、聖なる弟子が、〔施しの〕握り飯によって〔身を〕保ち行き、かつまた、諸々のぼろ布を〔身に〕付けるも、彼が、四つの法(性質)を具備しているなら、そこで、まさに、彼は、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれているのです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、そして、すなわち、四つの洲(四大陸)の獲得があり、さらに(※)、すなわち、四つの法(性質)の獲得があるとして、四つの洲の獲得は、四つの法(性質)の獲得の、十六分の一にも値しません」と。〔以上が〕第一となる。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

2. 梵行への沈潜の経

 

998. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らに、そして、信があり、さらに、戒があり、清信があり、法(教え)の見があるなら、彼らは、まさに、〔正しい〕時に信受する──梵行への沈潜という安楽を」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ディーガーヴ在俗信者の経

 

999. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、ディーガーヴ在俗信者は、父であるジョーティカ家長に告げました。「家長よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝したまえ。『尊き方よ、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きたまえ。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「息子よ、わかった」と、まさに、ジョーティカ家長は、ディーガーヴ在俗信者に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジョーティカ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、ディーガーヴ在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者に、こう言いました。「ディーガーヴよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。「ディーガーヴよ、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有るのだ。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有るのだ──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を』〔と〕。ディーガーヴよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる清信を具備した者です。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者です──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を」と。「ディーガーヴよ、それでは、ここに、あなたは、これらの四つの預流の支分において確立して〔そののち〕、より上なる六つの明知を部分とする法(性質)を修めるべきです。ディーガーヴよ、ここに、あなたは、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として、無常についての苦痛の表象ある者として、苦痛についての無我の表象ある者として、捨棄の表象ある者として、離貪の表象ある者として、止滅の表象ある者として、〔世に〕住みなさい。かくのごとく、ディーガーヴよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、これらの六つの明知を部分とする法(性質)が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として、無常についての苦痛の表象ある者として、苦痛についての無我の表象ある者として、捨棄の表象ある者として、離貪の表象ある者として、止滅の表象ある者として、〔世に〕住みます。尊き方よ、しかしながら、また、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさしく、まさに、このジョーティカ家長が、わたしの死後、悩苦を惹起してはならない』」と。「息子よ、ディーガーヴよ、あなたは、このように意を為してはならない。息子よ、ディーガーヴよ、さあ、あなたは、まさしく、すなわち、世尊があなたに言った、まさしく、そのことに、あなたは、善くしっかりと、意を為しなさい」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者を、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ディーガーヴ在俗信者は、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、彼が、世尊によって、簡略の教諭によって教え諭された、ディーガーヴという名の在俗信者が──彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、ディーガーヴ在俗信者は、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、ディーガーヴ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一のサーリプッタの経

 

1000. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者アーナンダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し……略……。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されたのですか。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「友よ、まさに、四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』〔と〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二のサーリプッタの経

 

1001. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、まさに、『預流の支分』『預流の支分』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、預流の支分なのですか」と。「尊き方よ、まさに、正なる人士に慣れ親しむことは、預流の支分であり、正なる法(教え)を聞くことは、預流の支分であり、根源のままに意を為すことは、預流の支分であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、預流の支分です」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、正なる人士に慣れ親しむことは、預流の支分であり、正なる法(教え)を聞くことは、預流の支分であり、根源のままに意を為すことは、預流の支分であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、預流の支分です。

 

 サーリプッタよ、まさに、『流れ』『流れ』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、流れなのですか」と。「尊き方よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、流れです。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、流れです。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 サーリプッタよ、まさに、『預流たる者』『預流たる者』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、預流たる者なのですか」と。「尊き方よ、まさに、すなわち、この聖なる八つの支分ある道を具備した者は、この者は、預流たる者と説かれます。〔まさに〕その、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、すなわち、この聖なる八つの支分ある道を具備した者は、この者は、預流たる者と説かれます。〔まさに〕その、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 棟梁たちの経

 

1002. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。また、まさに、その時点にあって、イシダッタとプラーナの棟梁たちが、サードゥカに滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、道に下僕を立たせました。「さて、下僕よ、すなわち、おまえが、阿羅漢にして正等覚者たる世尊がやってくるのを見るとき、そこで、わたしたちに告げるのだ」と。まさに、その下僕は、二日か三日のあいだ、〔道に〕立ち、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、イシダッタとプラーナの棟梁たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、イシダッタとプラーナの棟梁たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方がやってきます。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『サーヴァッティーから、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『サーヴァッティーから、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、マガダ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、マガダ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マガダ〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マガダ〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。

 

 尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、サーヴァッティーに遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、サーヴァッティーに遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』」と。

 

 「棟梁たちよ、それゆえに、ここに、在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道なのです。出家は、〔塵の積もらない〕野外にあります。棟梁たちよ、また、そして、あなたたちにとって、不放逸たるに十分なるものがあります」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちには、この煩わしきものより他の煩わしきものが存在します。まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものです」と。「棟梁たちよ、また、どのようなものが、あなたたちにとって、この煩わしきものより他の煩わしきものであり、まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものなのですか」と。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしたちは、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、庭園のある地に出かけることを欲する者と成るとき、すなわち、それらが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の王室の象たちであるなら、それらを整えて、すなわち、彼女たちが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の愛しく意に適う夫人たちであるなら、彼女たちを、或る者は前に、或る者は後に、坐らせます。尊き方よ、また、まさに、それらの婦人たちには、このような形態の香りが有ります。それは、たとえば、また、まさに、香り箱が開かれている、まさしく、そのあいだのように、すなわち、香りによって飾り立てられた王女たちの、その〔香り〕は。尊き方よ、また、まさに、それらの婦人たちには、このような形態の身体の感触が有ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、木綿のように、あるいは、生綿のように、すなわち、安楽のうちに生長した王女たちの、その〔身体の感触〕は。尊き方よ、また、まさに、その時点において、象もまた守られるべきものとして有り、それらの婦人たちもまた守られるべき者たちとして有り、自己もまた守られるべきものとして有ります。尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、それらの婦人たちにたいし、悪しき心を生起する者たちとなり証知することはありません(色目を使わない)。尊き方よ、これは、まさに、わたしたちにとって、この煩わしきものより他の煩わしきものであり、まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものです」と。

 

 「棟梁たちよ、それゆえに、ここに、在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道なのです。出家は、〔塵の積もらない〕野外にあります。棟梁たちよ、また、そして、あなたたちにとって、不放逸たるに十分なるものがあります。棟梁たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。棟梁たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。物惜の垢が離れ去った心で家に住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。棟梁たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 棟梁たちよ、あなたたちは、まさに、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。また、まさに、それが何であれ、家に施すべき法(施物)があるなら、その全てが、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました。棟梁たちよ、それを、どう思いますか。それらの、コーサラ〔国〕にいる人間たちで、すなわち、あなたたちと等しく同等の者たちとして、どれだけの種類の者たちがいますか。すなわち、この、布施の分与について」と。「尊き方よ、わたしたちには、諸々の利得があります。尊き方よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちのために、世尊は、このように覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ヴェールドヴァーラの者たちの経

 

1003. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェールドヴァーラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェールドヴァーラ〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と(※)。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 そこで、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしたちは、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちです。『子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用し、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するべきである』〔と〕。このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちである、〔まさに〕その、わたしたちのために、貴君ゴータマは、すなわち、わたしたちが、子たちで溢れる臥所に居住し……略……善き境遇に、天上の世に、再生できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。

 

 「家長たちよ、自己に関係した法(教え)の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「家長たちよ、では、どのようなものが、自己に関係した法(教え)の教相なのですか。家長たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者として〔世に〕存している。或る者が、まさに、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者であるわたしの生命を奪うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者である他者の生命を奪うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう(他者にそのようなことはできない)』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしのものである、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者のものである、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしの妻たちにたいし、関係を持つなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者の妻たちにたいし、関係を持つなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしの義(利益)を、虚偽を説くことによって破壊するなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者の義(利益)を、虚偽を説くことによって破壊するなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと朋友たちを、中傷の言葉によって分裂させるなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と朋友たちを、中傷の言葉によって分裂させるなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。……略……。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと、粗暴な言葉によって話し合うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と、粗暴な言葉によって話し合うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が……略……。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと、雑駁な語りによって、雑駁な虚論によって、話し合うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と、雑駁な語りによって、雑駁な虚論によって、話し合うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。

 

 彼は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。家長たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの七つの正なる法(性質)を、これらの四つの望むべき状況を、具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。

 

 このように説かれたとき、ヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の煉瓦作りの居住所の経

 

1004. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、サールハという名の比丘が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇()がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、ナンダーという名の比丘尼が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スダッタという名の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スジャーターという名の女性在俗信者が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

 「アーナンダよ、命を終えたサールハ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、命を終えたナンダー比丘尼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、命を終えたスダッタ在俗信者は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者であり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、命を終えたスジャーター女性在俗信者は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です。

 

 アーナンダよ、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、人間と成った者が命を終えるのは。もし、それぞれの者が命を終えたとき、〔あなたたちが〕近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、アーナンダよ、これは、如来にとって、悩害としてもまた存するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、法(真理)の鏡という名の法(教え)の教相を説示しましょう。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、法(真理)の鏡という法(教え)の教相なのですか。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。

 

 アーナンダよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第八となる。

 

 (三つの経典もまた同一の因縁となる。)

 

9. 第二の煉瓦作りの居住所の経

 

1005. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、アソーカという名の比丘が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、アソーカーという名の比丘尼が、命を終えたのです。……略……。尊き方よ、アソーカという名の在俗信者が、命を終えたのです。……略……。尊き方よ、アソーカーという名の女性在俗信者が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。

 

 「アーナンダよ、命を終えたアソーカ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。……略……。(前の説き明かしによって同一の因縁となる。)

 

 アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の煉瓦作りの居住所の経

 

1006. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、カッカタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、カリバという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、ニカタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、カティッサハという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、トゥッタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、サントゥッタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、バッダという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、スバッダという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。

 

 アーナンダよ、命を終えたカッカタ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、カリバ在俗信者は……略……。アーナンダよ、ニカタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、カティッサハ在俗信者は……略……。アーナンダよ、トゥッタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、サントゥッタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、バッダ在俗信者は……略……。アーナンダよ、スバッダ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。(全ての者たちが同一の境遇ある者たちと為されるべきである。)

 

 アーナンダよ、五十者を超える命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。アーナンダよ、九十者を優に超える命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、五百と六者余りの命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。

 

 アーナンダよ、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、人間と成った者が命を終えるのは。もし、それぞれの者が命を終えたとき、〔あなたたちが〕近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、アーナンダよ、これは、如来にとって、悩害としてもまた存するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、法(真理)の鏡という名の法(教え)の教相を説示しましょう。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。

 

 アーナンダよ、では、どのようなものが、法(真理)の鏡という法(教え)の教相なのですか。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。

 

 アーナンダよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ヴェールドヴァーラの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「王、沈潜とディーガーヴ、他に、二つのサーリプッタ、棟梁たち、ヴェールドヴァーラの者たち、煉瓦作りの居住所において、三つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 王の林園の章

 

1. 千の比丘尼の僧団の経

 

1007. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。王の林園において。そこで、まさに、千の比丘尼の僧団が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「比丘尼たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘尼たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘尼たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 婆羅門たちの経

 

1008. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、婆羅門たちは、上昇に至るものという名の〔実践の〕道を報知します。彼らは、弟子たちに、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、まさしく、早朝に起きて、東に向かって行きなさい。〔まさに〕その、あなたは、溝を回避してはいけません。淵を〔回避しては〕いけません。木株を〔回避しては〕いけません。棘ある箇所を〔回避しては〕いけません。どぶ池を〔回避しては〕いけません。水たまりを〔回避しては〕いけません。そこにおいて、倒れ落ちるなら、まさしく、そこにおいて、死を待つのです。さて、人士たる者よ、このように、あなたは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、このことは──婆羅門たちの、この愚かな道行きは、この迷乱した道行きは──厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、わたしは、聖者の律において、上昇に至る〔実践の〕道を報知します。それは、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、上昇に至る〔実践の〕道であり、それは、一方的に、厭離のために……略……涅槃のために、等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、これは、まさに、その、上昇に至る〔実践の〕道であり、一方的に、厭離のために……略……涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. アーナンダ長老の経

 

1009. 或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、まさに、どれだけの諸々の法(性質)の捨棄あることから、どれだけの諸々の法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されたのですか。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「友よ、まさに、四つの法(性質)の捨棄あることから、四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、まさに、そのような形態の覚者にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の覚者にたいする清信なき〔あり方〕が、〔彼には〕有りません。友よ、さらに、まさに、そのような形態の覚者にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の覚者にたいする確固たる清信が、〔彼には〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 友よ、そして、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕が、〔彼には〕有りません。友よ、さらに、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする確固たる清信が、〔彼には〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。

 

 友よ、そして、まさに、そのような形態の僧団にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の僧団にたいする清信なき〔あり方〕が、〔彼には〕有りません。友よ、さらに、まさに、そのような形態の僧団にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の僧団にたいする確固たる清信が、〔彼には〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。

 

 友よ、そして、まさに、そのような形態の劣戒の資質を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の劣戒の資質が、〔彼には〕有りません。友よ、さらに、まさに、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒が、〔彼には〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)の捨棄あることから、これらの四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 悪趣の恐怖の経

 

1010. 「比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣の恐怖を超越した者と成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣の恐怖を超越した者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 悪趣と堕所の恐怖の経

 

1011. 「比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣と堕所の恐怖を超越した者と成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣と堕所の恐怖を超越した者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の朋友や僚友たちの経

 

1012. 「比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。覚者にたいする確固たる清信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕において。比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、これらの四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の朋友や僚友たちの経

 

1013. 「比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。覚者にたいする確固たる清信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 比丘たちよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょうが、まさしく、しかし、覚者にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこで、この他化は──彼が、まさに、覚者にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕において。比丘たちよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょうが、まさしく、しかし、聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこで、この他化は──彼が、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、これらの四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の天の遊行の経

 

1014. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の衆の天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の天の遊行の経

 

1015. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の衆の天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです」と。

 

 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の天の遊行の経

 

1016. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の衆の天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります」と。

 

 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる清信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる清信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 王の林園の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「千と婆羅門とアーナンダ、他に、二つの悪趣、二つの朋友や僚友たちが説かれ、さらに、三つの天の遊行があり、〔章となる〕」と。

 

3. サラナーニの章

 

1. 第一のマハー・ナーマの経

 

1017. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このカピラヴァットゥは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れ、群集で溢れています。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、あるいは、世尊に奉侍して、あるいは、意を修めることができる比丘たちに〔奉侍して〕、夕刻時に、カピラヴァットゥに入りつつあると、迷走する象ともまた遭遇し、迷走する馬ともまた遭遇し、迷走する車ともまた遭遇し、迷走する荷車ともまた遭遇し、迷走する人ともまた遭遇します。尊き方よ、その時点において、〔まさに〕その、わたしの、世尊を対象とする気づきは、まさしく、忘却され、法(教え)を対象とする気づきは忘却され、僧団を対象とする気づきは忘却されます。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『もし、わたしが、この時点において、命を終えるなら、わたしには、どのような〔死後の〕境遇があるのだろう、どのような未来の運命があるのだろう』」と。

 

 「マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕。マハー・ナーマよ、すなわち、誰にであれ、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり、戒が遍く修められた心があり、所聞が遍く修められた心があり、施捨が遍く修められた心があり、智慧が遍く修められた心があるなら、まさに、すなわち、彼の、まさに、この身体が、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるも、それを、まさしく、ここに、あるいは、烏たちが喰い、あるいは、鷲たちが喰い、あるいは、鷹たちが喰い、あるいは、犬たちが喰い、あるいは、野狐(ジャッカル)たちが喰い、あるいは、様々な種類の命あるものの類が喰うも、しかしながら、すなわち、まさに、彼の心が、長夜にわたり、信が遍く修められ……略……智慧が遍く修められたなら、それは、上に赴くものと成り、殊勝〔の境地〕に至るものと〔成ります〕。

 

 マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、酥の瓶を、あるいは、油の瓶を、深い湖水のなかに入って、破壊するとします。そこで、すなわち、あるいは、砂礫が、あるいは、小石が、〔瓶の中に〕存在するなら、それは、下に赴くものとして存するでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、そこで、あるいは、酥が、あるいは、油が、〔瓶の中に〕存在するなら、それは、上に赴くものとして存するでしょう──殊勝〔の境地〕に至るものとして。マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にであれ、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり……略……智慧が遍く修められた心があるなら、まさに、すなわち、彼の、まさに、この身体が、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるも、それを、まさしく、ここに、あるいは、烏たちが喰い、あるいは、鷲たちが喰い、あるいは、鷹たちが喰い、あるいは、犬たちが喰い、あるいは、野狐たちが喰い、あるいは、様々な種類の命あるものの類が喰うも、しかしながら、すなわち、まさに、彼の心が、長夜にわたり、信が遍く修められ……略……智慧が遍く修められたなら、それは、上に赴くものと成り、殊勝〔の境地〕に至るものと〔成ります〕。マハー・ナーマよ、また、まさに、あなたには、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり……略……智慧が遍く修められた心があります。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のマハー・ナーマの経

 

1018. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このカピラヴァットゥは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れ、群集で溢れています。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、あるいは、世尊に奉侍して、あるいは、意を修めることができる比丘たちに〔奉侍して〕、夕刻時に、カピラヴァットゥに入りつつあると、迷走する象ともまた遭遇し、迷走する馬ともまた遭遇し、迷走する車ともまた遭遇し、迷走する荷車ともまた遭遇し、迷走する人ともまた遭遇します。尊き方よ、その時点において、〔まさに〕その、わたしの、世尊を対象とする気づきは、まさしく、忘却され、法(教え)を対象とする気づきは忘却され、僧団を対象とする気づきは忘却されます。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『もし、わたしが、この時点において、命を終えるなら、わたしには、どのような〔死後の〕境遇があるのだろう、どのような未来の運命があるのだろう』」と。

 

 「マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕。マハー・ナーマよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。

 

 マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、木が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるとします。その〔木〕が、根において切断されたなら、どちらに倒れ落ちるでしょうか」と。「尊き方よ、向かい行くところであり、傾倒するところであり、傾斜するところです」と。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 釈迦〔族〕のゴーダーの経

 

1019. カピラヴァットゥの因縁となります。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、釈迦〔族〕のゴーダーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。「ゴーダーよ、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕」と。

 

 「マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、これらの三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。

 

 マハー・ナーマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕」と。「ゴーダーよ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ゴーダーよ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕」と。

 

 「マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。まさしく、世尊は、このことを知るでしょう──これらの法(性質)を、あるいは、具備した者であるか、あるいは、具備していない者であるかを」と。「ゴーダーよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、かつまた、釈迦〔族〕のゴーダーは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、釈迦〔族〕のゴーダーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。『ゴーダーよ、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕』と。尊き方よ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のゴーダーは、わたしに、こう言いました。

 

 『マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。「世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である」と。マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、これらの三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。マハー・ナーマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。『ゴーダーよ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ゴーダーよ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のゴーダーは、わたしに、こう言いました。『マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。まさしく、世尊は、このことを知るでしょう──これらの法(性質)を、あるいは、具備した者であるか、あるいは、具備していない者であるかを』と。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように清信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団と比丘尼の僧団が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように清信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団と比丘尼の僧団が〔存し〕、かつまた、在俗信者たちが〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように清信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、比丘の僧団と比丘尼の僧団と在俗信者たちが〔存し〕、かつまた、女性在俗信者たちが〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように清信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、比丘の僧団と比丘尼の僧団と在俗信者たちと女性在俗信者たちが〔存し〕、かつまた、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように清信した者と認めてください」と。「ゴーダーよ、このように説く者であるなら、あなたは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、何を説きますか」と。「尊き方よ、このように説く者であるなら、わたしは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマのことを、健全なることより他に、善巧なることより他に、何であれ、説くことはありません」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の釈迦〔族〕のサラナーニの経

 

1020. カピラヴァットゥの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終えた者と成ります。彼は、世尊によって授記されました。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びの挫折を惹起し、酒を飲んでいたのに」と。

 

 そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼は、世尊によって授記されました。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びの挫折を惹起し、酒を飲んでいたのに』」と。

 

 「マハー・ナーマよ、すなわち、その者が、長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者であるなら、彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。マハー・ナーマよ、まさに、すなわち、その者のことを、『長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者である』と、正しく説きつつ説くなら、釈迦〔族〕のサラナーニのことを、『長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者である』と、正しく説きつつ説くべきです。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者です。彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。

 

 マハー・ナーマよ、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、そして、解脱を具備した者です。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、しかしながら、解脱を具備した者ではありません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……〔世に〕有りません。僧団にたいする……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……〔世に〕有りません。僧団にたいする……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。マハー・ナーマよ、もし、また、これらの大家たちが、善く語られたものと悪しく語られたものを了知するなら、そして、わたしは、これらの大家たちを授記するでしょう。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。また、ましてや、釈迦〔族〕のサラナーニにおいては、なおさらのこと。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、死の時において、学びを受持しました」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の釈迦〔族〕のサラナーニの経

 

1021. カピラヴァットゥの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終えた者と成ります。彼は、世尊によって授記されました。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びにおける円満成就を為さない者として〔世に〕有ったのに」と。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼は、世尊によって授記されました。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びにおける円満成就を為さない者として〔世に〕有ったのに』」と。

 

 「マハー・ナーマよ、すなわち、その者が、長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者であるなら、彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。マハー・ナーマよ、まさに、すなわち、その者のことを、『長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者である』と、正しく説きつつ説くなら、釈迦〔族〕のサラナーニのことを、『長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者である』と、正しく説きつつ説くべきです。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、長夜にわたり、在俗信者として、覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者です。彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。

 

 マハー・ナーマよ、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、そして、解脱を具備した者です。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、しかしながら、解脱を具備した者ではありません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……〔世に〕有りません。僧団にたいし……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。

 

 マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに清信した者として、〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……〔世に〕有りません。僧団にたいし……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。

 

 マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、悪しき地にして、木株が引き抜かれていない、悪しき田畑があるとします。そして、破断し、腐敗し、熱風に打破され、しっかりと保管されていない、諸々の未熟ならざる種が存し、さらに、天が正しく流雨を授けないなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、ここに、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、〔世に〕有ります。わたしは、これを、悪しき田畑〔の喩え〕において説きます。そして、その法(教え)のもと、弟子が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正の実践者として、法(教え)に従い行く者として、〔世に〕住みます。わたしは、これを、悪しき種〔の喩え〕において説きます。

 

 そして、マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、善き地にして、木株が善く引き抜かれた、善き田畑があるとします。そして、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種が存し、さらに、天が正しく流雨を授けるなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、ここに、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕として、寂止のために等しく転起するものとして、正等覚者によって知らされたものとして、〔世に〕有ります。わたしは、これを、善き田畑〔の喩え〕において説きます。そして、その法(教え)のもと、弟子が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正の実践者として、法(教え)に従い行く者として、〔世に〕住みます。わたしは、これを、善き種〔の喩え〕において説きます。また、ましてや、釈迦〔族〕のサラナーニにおいては、なおさらのこと。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、死の時において、学びにおける円満成就を為す者として〔世に〕有りました」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一のアナータピンディカの経

 

1022. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、アナータピンディカ家長に答えて、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者アーナンダを随伴の沙門として、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「家長よ、まさに、そのような形態の覚者にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の覚者にたいする清信なき〔あり方〕は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、覚者にたいする確固たる清信が存在します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、覚者にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、法(教え)にたいする確固たる清信が存在します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、法(教え)にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の僧団にたいする清信なき〔あり方〕を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の僧団にたいする清信なき〔あり方〕は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、僧団にたいする確固たる清信が存在します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、僧団にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の劣戒の資質を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の劣戒の資質は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、聖者たちに愛される諸戒が存在します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が。また、そして、あなたが、〔まさに〕それらの、聖者たちに愛される諸戒を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った見解を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った見解は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい見解が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい見解を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った思惟を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った思惟は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい思惟が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい思惟を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った言葉を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った言葉は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい言葉が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい言葉を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った行業を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った行業は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい行業が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい行業を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った生き方を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った生き方は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい生き方が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい生き方を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った努力を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った努力は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい努力が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい努力を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った気づきを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った気づきは、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい気づきが存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい気づきを、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った禅定を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った禅定は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい禅定が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい禅定を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った知恵を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った知恵は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい知恵が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい知恵を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。

 

 家長よ、まさに、そのような形態の誤った解脱を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った解脱は、あなたに存在しません。家長よ、そして、まさに、あなたに、正しい解脱が存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい解脱を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、アナータピンディカ家長の諸々の〔苦痛の〕感受は、即座に安息しました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、かつまた、尊者サーリプッタを、かつまた、尊者アーナンダを、まさしく、自らの〔献上用の〕盛り物によって給仕しました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、尊者サーリプッタが食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、尊者サーリプッタは、これらの詩偈によって随喜しました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──

 

 その者に、僧団にたいする清信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長に、これらの詩偈によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。「尊き方よ、アナータピンディカ家長が、尊者サーリプッタによって、そして、この〔教諭〕によって、さらに、この教諭によって、教え諭されたのです」と。「アーナンダよ、サーリプッタは、賢者です。アーナンダよ、サーリプッタは、大いなる智慧ある者です。なぜなら、そこで、まさに、四つの預流の支分を、十の行相とともに区分するからです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二のアナータピンディカの経

 

1023. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊者アーナンダのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、アナータピンディカ家長に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 「家長よ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した無聞の凡夫には、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、無聞の凡夫が、覚者にたいする清信なき〔あり方〕を具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、覚者にたいする清信なき〔あり方〕を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。

 

 家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕を具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、法(教え)にたいする清信なき〔あり方〕を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。

 

 家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、僧団にたいする清信なき〔あり方〕を具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、僧団にたいする清信なき〔あり方〕を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。

 

 家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、劣戒の資質を具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、劣戒の資質を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。家長よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した無聞の凡夫には、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。

 

 家長よ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した有聞の聖なる弟子には、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、覚者にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。

 

 家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、法(教え)にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。

 

 家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、僧団にたいする確固たる清信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。

 

 家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。また、そして、彼が、〔まさに〕それらの、聖者たちに愛される諸戒を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。家長よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した有聞の聖なる弟子には、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、わたしは恐れません。どうして、わたしが恐れるというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……法(教え)にたいする……略……僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。尊き方よ、さらに、すなわち、これらの、在家者の適正なる学びの境処(戒律)が、世尊によって説示されました。それらの何であれ、破断を、自己のうちに等しく随観しません」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。家長よ、あなたによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の恐怖と怨念が寂止したものの経

 

1024. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、すなわち、まさに、そして、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。(2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……。(3)家長よ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……略……。(4)家長よ、すなわち、虚偽を説く者は……略……。(5)家長よ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位あることから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)法(教え)にたいする……略……。(3)僧団にたいする……略……。(4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、彼の、どのような聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。家長よ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の恐怖と怨念が寂止したものの経

 

1025. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. リッチャヴィ〔族〕のナンダカの経

 

1026. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカに、世尊は、こう言いました。

 

 「ナンダカよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ナンダカよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ナンダカよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 ナンダカよ、また、そして、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、天の寿命ともまた、人間〔の寿命〕ともまた、結び付いた者と成り、天の色艶ともまた、人間〔の色艶〕ともまた、結び付いた者と成り、天の安楽ともまた、人間〔の安楽〕ともまた、結び付いた者と成り、天の福徳(盛名)ともまた、人間〔の福徳〕ともまた、結び付いた者と成り、天の権威ともまた、人間〔の権威〕ともまた、結び付いた者と成ります。ナンダカよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、説くのではありません。ナンダカよ、しかしながら、また、まさに、まさしく、それが、わたしによって、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの下僕が、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカに、こう言いました。「尊き方よ、沐浴の時間です」と。「〔おまえに〕申し付ける。今や、外なる沐浴は、これは十分である。内なる沐浴が有るのだ、これで十分である。すなわち、この、世尊にたいする清信である」と。〔以上が〕第十となる。

 

 サラナーニの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「マハー・ナーマによって、二つのものが説かれ、そして、ゴーダー、二つのサラナ、二つのアナータピンディカがあり、さらに、怨念と恐怖によって、二つのものが〔説かれ〕、第十のものとして、リッチャヴィ〔族〕が説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。

 

4. 功徳が流れ行くものの章

 

1. 第一の功徳が流れ行くものの経

 

1027. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。これは、第二の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。これは、第三の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の功徳が流れ行くものの経

 

1028. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の功徳が流れ行くものの経

 

1029. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の天の境処の経

 

1030. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、天〔の神々〕たちの天の境処があります──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の天の境処の経

 

1031. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、何が、天〔の神々〕たちの天の境処であるのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、今現在、天〔の神々〕たちのことを、加害なき〔あり方〕を最高とする者たちと聞く。また、まさに、そして、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはない。たしかに、わたしは、天の境処の法(性質)を具備した者として〔世に〕住む』と。これは、第一の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、何が、天〔の神々〕たちの天の境処であるのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、今現在、天〔の神々〕たちのことを、加害なき〔あり方〕を最高とする者たちと聞く。また、まさに、そして、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはない。たしかに、わたしは、天の境処の法(性質)を具備した者として〔世に〕住む』と。これは、第四の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、天〔の神々〕たちの天の境処があります──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 天の同僚の経

 

1032. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者を、わが意を得た天〔の神々〕は、同僚として話しかけます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。すなわち、それらの天神たちが、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちとして、ここから死滅し、そこに再生した者たちであるなら、それら〔の天神〕たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしたちは、そのような形態の覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちとして、そこから死滅し、ここに再生したのだ。聖なる弟子もまた、そのような形態の覚者にたいする確固たる清信を具備した者として、天〔の神々〕たちの現前に行くであろう』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。すなわち、それらの天神たちが、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちとして、ここから死滅し、そこに再生した者たちであるなら、それら〔の天神〕たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしたちは、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちとして、そこから死滅し、ここに再生したのだ。聖なる弟子もまた、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した者として、天〔の神々〕たちの現前に行くであろう』と。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者を、わが意を得た天〔の神々〕は、同僚として話しかけます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. マハー・ナーマの経

 

1033. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、在俗信者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、覚者を帰依所に赴いた者として〔世に〕有り、法(教え)を帰依所に赴いた者として〔世に〕有り、僧団を帰依所に赴いた者として〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者として〔世に〕有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、在俗信者が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、戒を成就した者として〔世に〕有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、信を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、信を成就した者として〔世に〕有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、施捨を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、施捨を成就した者として〔世に〕有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、智慧を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、智慧を成就した者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 雨の経

 

1034. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子の、そして、すなわち、覚者にたいする確固たる清信も、かつまた、すなわち、法(教え)にたいする確固たる清信も、かつまた、すなわち、僧団にたいする確固たる清信も、さらに、すなわち、聖者たちに愛される諸戒も、これらの法(性質)は、流れ行きながら、彼岸に至って、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. カーリゴーダーの経

 

1035. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーに、世尊は、こう言いました。

 

 「ゴーダーよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる女性の弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる女性の弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。ゴーダーよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる女性の弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。また、まさに、それが何であれ、家に施すべき法(施物)があるなら、その全てが、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました」と。「ゴーダーよ、あなたには、諸々の利得があります。ゴーダーよ、あなたには、善く得られたものがあります。ゴーダーよ、あなたによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 釈迦〔族〕のナンディヤの経

 

1036. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、その聖なる弟子に、四つの預流の支分が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、存在しないなら、尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、その聖なる弟子は、放逸の住者となるのですか」と。

 

 「ナンディヤよ、まさに、その聖なる弟子に、四つの預流の支分が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、存在しないなら、わたしは、彼のことを、『外の者にして凡夫の側に立つ者』と説きます。ナンディヤよ、さらに、また、聖なる弟子が、まさしく、そして、放逸の住者と成り、さらに、不放逸の住者と〔成る〕、そのとおりに、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「ナンディヤよ、では、どのように、聖なる弟子は、放逸の住者と成るのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、その覚者にたいする確固たる清信で満足し、より以上に努力しません──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛のうちに〔世に〕住みます。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。

 

 ナンディヤよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、それらの聖者たちに愛される諸戒で満足し、より以上に努力しません──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛のうちに〔世に〕住みます。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。ナンディヤよ、このように、まさに、聖なる弟子は、放逸の住者と成ります。

 

 ナンディヤよ、では、どのように、聖なる弟子は、不放逸の住者と成るのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、その覚者にたいする確固たる清信で満足せず、より以上に努力します──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように不放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。

 

 ナンディヤよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、それらの聖者たちに愛される諸戒で満足せず、より以上に努力します──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。ナンディヤよ、このように、まさに、聖なる弟子は、不放逸の住者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 功徳が流れ行くものの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「三つの流れ行くものが説かれ、そして、二つの天の境処、同僚、マハー・ナーマ、雨、そして、カーリ〔ゴーダー〕、ナンディヤがあり、〔章となる〕」と。

 

5. 詩偈を有する功徳が流れ行くものの章

 

1. 第一の流れ行くものの経

 

1037. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──

 

 このように、食べ物や飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の(※)施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第一となる。

 

※ テキストには Seyyāni paccattharaṇassa とあるが、PTS版により Seyyānisajjattharaṇassa と読む。

 

2. 第二の流れ行くものの経

 

1038. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこにおいて、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──

 

 このように、食べ物や飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の(※)施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには Seyyāni paccattharaṇassa とあるが、PTS版により Seyyānisajjattharaṇassa と読む。

 

3. 第三の流れ行くものの経

 

1039. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、功徳を欲する者が、善なるものにおいて確立し、不死〔の境処〕に至り得るために、道を修めるなら、彼は、法(教え)の真髄に到達し、滅尽を喜ぶ者となり、死魔の王の到来あるも動揺しない」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の大いなる財産の経

 

1040. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある』と説かれます。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある』と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の大いなる財産の経

 

1041. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、大いなる盛名がある』と説かれます。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、大いなる盛名がある』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 単純なるものの経

 

1042. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ナンディヤの経

 

1043. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤに、世尊は、こう言いました。「ナンディヤよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ナンディヤよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. バッディヤの経

 

1044. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のバッディヤに、世尊は、こう言いました。「バッディヤよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。バッディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。バッディヤよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. マハー・ナーマの経

 

1045. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、世尊は、こう言いました。「マハー・ナーマよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。マハー・ナーマよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 支分の経

 

1046. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの預流の支分です。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの預流の支分があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 詩偈を有する功徳が流れ行くものの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「三つの流れ行くものが説かれ、さらに、大いなる財産によって、二つのものが〔説かれ〕、単純なるもの、ナンディヤ、バッディヤがあり、マハー・ナーマと支分とともに、それらの十がある」と。

 

6. 智慧を有する者の章

 

1. 詩偈を有するものの経

 

1047. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──

 

 その者に、僧団にたいする清信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 雨期を過ごした者の経

 

1048. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、サーヴァッティーにおいて雨期を過ごし、カピラヴァットゥに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、「どうやら、或るひとりの比丘が、サーヴァッティーにおいて雨期を過ごし、カピラヴァットゥに到着したらしい」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、その比丘に、こう言いました。「尊き方よ、どうでしょう、世尊は、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、世尊は、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、どうでしょう、サーリプッタとモッガッラーナは、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、サーリプッタとモッガッラーナもまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、どうでしょう、比丘の僧団は、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、比丘の僧団もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、あなたに、何であれ、この雨期の間に、世尊の、面前で聞き、面前で受けたものが存在しますか」と。「友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』と。

 

 友よ、他にもまた、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』と。

 

 友よ、他にもまた、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ダンマディンナの経

 

1049. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、ダンマディンナ在俗信者が、五百の在俗信者たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、まさに、ダンマディンナ在俗信者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、わたしたちに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしたちに教示してください。すなわち、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「ダンマディンナよ(※)、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらを、〔その〕時〔その〕時に成就して〔世に〕住むのだ』と。ダンマディンナよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。「尊き方よ、まさに、このことは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している、まさに、わたしたちによっては、為し易きことではありません──すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらを、〔その〕時〔その〕時に成就して〔世に〕住むことは。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちのために、まさに、五つの学びの境処(戒律)において止住している〔わたしたち〕のために、より上なる法(教え)を説示してください」と。

 

※ テキストには dhammadinnaṃ とあるが、PTS版により dhammadinna と読む。

 

 「ダンマディンナよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有るのだ。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略………。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有るのだ──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を』と。ダンマディンナよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしたちにおいて等しく見出され、さらに、わたしたちは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしたちは、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を」と。「ダンマディンナよ、あなたたちには、諸々の利得があります。ダンマディンナよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。あなたたちによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 病者の経

 

1050. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」』」と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けていません。『智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、〔このように〕教諭されるべきである』」と。

 

 「マハー・ナーマよ、智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、四つの安堵させられるべき法(性質)によって安堵させられるべきです。『尊者よ、安堵したまえ。尊者には、覚者にたいする確固たる清信が存在します。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。尊者よ、安堵したまえ。尊者には、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒が存在します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が』と。

 

 マハー・ナーマよ、智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、これらの四つの安堵させられるべき法(性質)によって安堵させて〔そののち〕、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、母と父にたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、母と父にたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、まさに、死ある者であり、死の法(性質)ある者です。それで、もし、また、尊者が、母と父にたいする期待〔の思い〕を作り為すとして、まさしく、死ぬことになり、もし、また、尊者が、母と父にたいする期待〔の思い〕を作り為さないとして、まさしく、死ぬことになるのです。尊者よ、すなわち、あなたの、母と父にたいする期待〔の思い〕ですが、どうか、それを捨棄してください』と。

 

 もし、彼が、『すなわち、わたしの、母と父にたいする期待〔の思い〕ですが、それは捨棄されました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、まさに、死ある者であり、死の法(性質)ある者です。それで、もし、また、尊者が、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕を作り為すとして、まさしく、死ぬことになり、もし、また、尊者が、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕を作り為さないとして、まさしく、死ぬことになるのです。尊者よ、すなわち、あなたの、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕ですが、どうか、それを捨棄してください』と。

 

 もし、彼が、『すなわち、わたしの、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕ですが、それは捨棄されました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『また、尊者には、人間のものである五つの欲望の属性(五妙欲)にたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、人間のものである五つの欲望の属性にたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕より、天の諸々の欲望〔の対象〕は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。尊者よ、どうか、人間の諸々の欲望〔の対象〕から、心を出起させて、四大王天〔の神々〕たちにたいし、心を信念させたまえ』と。

 

 もし、彼が、『人間の諸々の欲望〔の対象〕から、わたしの心は出起し、四大王天〔の神々〕たちにたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、四大王天〔の神々〕たちより、三十三天〔の神々〕たちは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。尊者よ、どうか、四大王天〔の神々〕から、心を出起させて、三十三天〔の神々〕たちにたいし、心を信念させたまえ』と。

 

 もし、彼が、『四大王天〔の神々〕たちから、わたしの心は出起し、三十三天〔の神々〕たちにたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、三十三天〔の神々〕たちより、耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕は……略……。友よ、まさに、他化自在天〔の神々〕たちより、梵の世は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。尊者よ、どうか、他化自在天〔の神々〕から、心を出起させて、梵の世にたいし、心を信念させたまえ』と。もし、彼が、『他化自在天〔の神々〕たちから、わたしの心は出起し、梵の世にたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、梵の世もまた、常住ならず、常恒ならず、身体を有すること(有身)に属しています。尊者よ、どうか、梵の世から、心を出起させて、身体を有することの止滅にたいし、心を近しく集中したまえ』と。

 

 もし、彼が、『梵の世から、わたしの心は出起し、身体を有することの止滅にたいし、心を近しく集中するのだ』と、このように説くなら、マハー・ナーマよ、このように、まさに、心が解脱した在俗信者には、煩悩から心が解脱した比丘と、何であれ、多様性(相違点)を、〔わたしは〕説きません──すなわち、この、解脱〔の観点〕から、解脱として」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 預流果の経

 

1051. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 一来果の経

 

1052. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一来果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 不還果の経

 

1053. 「……略……不還果の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 阿羅漢果の経

 

1054. 「……略……阿羅漢果の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 智慧の獲得の経

 

1055. 「……略……智慧の獲得の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 智慧の増大の経

 

1056. 「……略……智慧の増大のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 智慧の広大の経

 

1057. 「……略……智慧の広大のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 智慧を有する者の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「詩偈を有するもの、雨期を過ごした者、そして、ダンマディンナ、病者、四つの果、獲得、増大があり、さらに、広大たることとともに、〔章となる〕」と。

 

7. 大いなる智慧の章

 

1. 大いなる智慧の経

 

1058. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる智慧たることのために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる智慧たることのために(※)等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

※ テキストには mahāpaññatā とあるが、PTS版により mahāpaññattāya と読む。以下の平行箇所も同様。

 

2. 多々なる智慧の経

 

1059. 「……多々なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 広大なる智慧の経

 

1060. 「……広大なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 深遠なる智慧の経

 

1061. 「……深遠なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 不放逸の智慧の経

 

1062. 「……不放逸の智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 広き智慧の経

 

1063. 「……広き智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 智慧の多大の経

 

1064. 「……智慧の多大なるために(※)等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

※ テキストには Paññābāhullā とあるが、PTS版により Paññābāhullāya と読む。

 

8. 即座なる智慧の経

 

1065. 「……即座なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 軽快なる智慧の経

 

1066. 「……軽快なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 敏速なる智慧の経

 

1067. 「……敏速なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 疾走する智慧の経

 

1068. 「……疾走する智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 鋭敏なる智慧の経

 

1069. 「……鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 洞察の智慧の経

 

1070. 「……洞察の智慧たることのために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、洞察の智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 大いなる智慧の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなるもの、多々なるもの、広大なるもの、深遠なるもの、不放逸のもの、広きもの、多大なるもの、即座なるもの、軽快なるもの、敏速なるもの、疾走するもの、鋭敏なるものがあり、そして、洞察あるものとともに、〔章となる〕」と。

 

 預流に相応するものが第十一となる。

 

12(56). 真理に相応するもの

 

1. 禅定の章

 

1. 禅定の経

 

1071. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、禅定(三昧)を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 静坐の経

 

1072. 「比丘たちよ、静坐において、〔心の〕制止を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐する比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の良家の子息たちの経

 

1073. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理(四聖諦)を事実のとおりに知悉するために〔出家したのです〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家するでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家します〕。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家したなら……略……出家するであろうなら……略……出家するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家します〕。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の良家の子息たちの経

 

1074. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉したのです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉なら……略……知悉するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の沙門や婆羅門たちの経

 

1075. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚したのです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚したなら……略……現正覚するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

1076. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚を明示したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示したのです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚を明示するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚を明示するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚を明示したなら……略……現正覚するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 思考の経

 

1077. 「比丘たちよ、諸々の悪しき善ならざる思考を思考してはいけません。それは、すなわち、この、欲望の思考を、憎悪の思考を、悩害の思考を。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思考は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが思考しているなら、『これは、苦しみである』と思考するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思考するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思考は、義(利益)を伴ったものであり、これらは、初等の梵行たるものであり、これらは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 思弁の経

 

1078. 「比丘たちよ、悪しき善ならざる思弁を(※)思弁してはいけません。あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。

 

※ テキストには cittaṃ とあるが(PTS版も同様)、以下の記述により cintaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが思弁しているなら、『これは、苦しみである』と思弁するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と思弁するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思弁するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 口論となる議論の経

 

1079. 「比丘たちよ、口論となる議論を議論してはいけません。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った』『あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)』『〔あなたは〕存している──糾弾された者として。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが議論しているなら、『これは、苦しみである』と議論するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と議論するべきです。……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 畜生の議論の経

 

1080. 「比丘たちよ、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論してはいけません。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが議論しているなら、『これは、苦しみである』と議論するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と議論するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 禅定の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「禅定、静坐、他に、二つの良家の子息たち、〔二つの〕沙門や婆羅門たち、思考、思弁、口論となるもの、議論があり、〔章となる〕」と。

 

2. 法の輪の転起の章

 

1. 法の輪の転起の経

 

1081. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げました。「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽への専念であり(快楽主義)、さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義)。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、その中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみという聖なる真理です。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。病もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの集起という聖なる真理です。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅という聖なる真理です。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見(如実知見)が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た五人組の比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。

 

 また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 また、そして、世尊によって、法(真理)の輪が転起させられたとき、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。四大王天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……略……梵身天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。

 

 まさに、かくのごとく、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔歓呼の〕声音が上がりました。かつまた、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺しました。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現しました──天〔の神々〕たちの天の威力を超え行って、ということです。

 

 そこで、まさに、世尊は、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 如来たちの経

 

1082. 「比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 範疇の経

 

1083. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)』と説かれるべきものが存在します。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 内なる〔認識の〕場所の経

 

1084. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。『六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の保持の経

 

1085. 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。「尊き方よ、苦しみを、まさに、わたしは、世尊によって説示された第一の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの集起を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第二の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの止滅を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第三の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第四の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された(※)四つの聖なる真理を保持しています。比丘よ、苦しみを、まさに、わたしによって説示された第一の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの集起を、まさに、わたしによって説示された第二の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの止滅を、まさに、わたしによって説示された第三の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を(※※)、まさに、わたしによって説示された第四の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、このように、まさに、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持しなさい」と。

 

※ テキストには desitānīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

※※ テキストには dukkhanirodhagāminī paṭipadā とあるが、PTS版により dukkhanirodhagāminipaṭipadaṃ と読む。

 

 「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の保持の経

 

1086. 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。「尊き方よ、苦しみを、まさに、わたしは、世尊によって説示された第一の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみは、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第一の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみを、第一の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第一の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。尊き方よ、苦しみの集起を、まさに、わたしは、世尊によって説示された……略……。尊き方よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第四の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第四の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、第四の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第四の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された(※)四つの聖なる真理を保持しています。比丘よ、苦しみを、まさに、わたしによって説示された第一の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみは、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第一の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみを、第一の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第一の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。比丘よ、苦しみの集起を、まさに……略……。比丘よ、苦しみの止滅を、まさに……略……。比丘よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を(※※)、まさに、わたしによって説示された第四の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第四の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、第四の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第四の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。比丘よ、このように、まさに、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持しなさい」と。

 

※ テキストには desitānīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

※※ テキストには dukkhanirodhagāminī paṭipadā とあるが、PTS版により dukkhanirodhagāminipaṭipadaṃ と読む。

 

 「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 無明の経

 

1087. 一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無明』『無明』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知は、苦しみの集起についての無知は、苦しみの止滅についての無知は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、比丘よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。

 

 「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 明知の経

 

1088. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『明知』『明知』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵は、苦しみの集起についての知恵は、苦しみの止滅についての知恵は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵は、比丘よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。

 

 「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 顕示の経

 

1089. 「比丘たちよ、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、わたしによって報知されました。そこにおいては、無量の語があり、無量の文があり、無量の顕示があります。『かくのごとくもまた、これは、苦しみという聖なる真理である』と。比丘たちよ、『これは、苦しみの集起という……略……。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅という……略……。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、わたしによって報知されました。そこにおいては、無量の語があり、無量の文があり、無量の顕示があります。『かくのごとくもまた、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 真実の経

 

1090. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、『これは、苦しみである』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの集起である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの止滅である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものがあります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 法(真理)の輪の転起の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「法(真理)の輪、如来たち、範疇があり、そして、〔認識の〕場所とともに、さらに、二つの保持、無明、明知、顕示、真実があり、〔章となる〕」と。

 

3. コーティ村の章

 

1. 第一のコーティ村の経

 

1091. 或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。コーティ村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、苦しみという聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。苦しみの集起という聖なる真理の……略……。苦しみの止滅という聖なる真理の……略……。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、苦しみという聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの集起という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理は、随覚され、理解され、生存の喝愛は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つの聖なる真理の、事実のとおりの見なきことから、長時にわたり、輪廻してきたのだ──まさしく、それら〔の生〕それらの生において。

 

 〔まさに〕その、これら〔の真理〕は、〔事実のとおりに〕見られた。生存に導くものは完破され、苦しみの根元は断絶され、今や、さらなる生存は存在しない」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のコーティ村の経

 

1092. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、これらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕──

 

 そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら、彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。

 

 しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕──

 

 そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を覚知するなら、心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである(※)。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには Sabbā とあるが、PTS版により Bhabbā と読む。

 

3. 正等覚者の経

 

1093. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚したことから、如来は、『阿羅漢にして正等覚者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 阿羅漢の経

 

1094. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚したのです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚したなら……略……現正覚するであろうなら……略……現正覚するなら、彼らの全てが、これらの四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

1095. 「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者に、〔あるがままに〕見ていない者に、ではなく。比丘たちよ、では、何を、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。『これは、苦しみである』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの集起である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの止滅である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 朋友の経

 

1096. 「比丘たちよ、まさに、誰であれ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、誰であれ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、これらの四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 真実の経

 

1097. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理は、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものであり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 世の経

 

1098. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は聖者であり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 遍知されるべきものの経

 

1099. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理には、遍知されるべき聖なる真理が存在し、捨棄されるべき聖なる真理が存在し、実証されるべき聖なる真理が存在し、修行されるべき聖なる真理が存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、遍知されるべき聖なる真理なのですか。比丘たちよ、苦しみは、遍知されるべき聖なる真理であり、苦しみの集起は、捨棄されるべき聖なる真理であり、苦しみの止滅は、実証されるべき聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、修行されるべき聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ガバンパティの経

 

1100. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、チェータ〔国〕に住んでいます。サハンチャニカにおいて。また、まさに、その時点にあって、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集している大勢の長老の比丘たちに、この合間の議論が起こりました。『友よ、いったい、まさに、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ますか』と。

 

 このように説かれたとき、長老の比丘である尊者ガバンパティは、比丘たちに、こう言いました。「友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの集起を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見ます』」と。〔以上が〕第十となる。

 

 コーティ村の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つのヴァッジー、正等覚者、阿羅漢、諸々の煩悩の滅尽、朋友、そして、真実、そして、世、遍知されるべきもの、ガバンパティがあり、〔章となる〕」と。

 

4. シーサパー林の章

 

1. シーサパー林の経

 

1101. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。シーサパー林において。そこで、まさに、世尊は、僅かなシーサパー〔樹〕の葉を手で収め取って、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、わたしが手で収め取った僅かなシーサパー〔樹〕の葉ですか、すなわち、この、上のシーサパー林にあるものですか」と。「尊き方よ、世尊が手で収め取った僅かなシーサパー〔樹〕の葉は、少しばかりのものです。そこで、まさに、まさしく、これらのものは、より多くあります。すなわち、この、上のシーサパー林にあるものです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさしく、このことは、より多くあります。すなわち、証知して〔そののち〕、あなたたちに、わたしによって告げ知らされなかったことです。比丘たちよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって告げ知らされなかったのですか。比丘たちよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって告げ知らされなかったのです。

 

 比丘たちよ、では、何が、わたしによって告げ知らされたのですか。比丘たちよ、『これは、苦しみである』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの集起である』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの止滅である』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、わたしによって告げ知らされました。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって告げ知らされたのですか。比丘たちよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、このことは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって告げ知らされたのです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. カディラの葉の経

 

1102. 「比丘たちよ、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、あるいは、諸々のカディラの葉の、あるいは、諸々のサララの葉の、あるいは、諸々のアーマラカの葉の、器を作って、あるいは、水を、あるいは、ターラ〔樹〕の葉を、運ぶのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、あるいは、諸々の蓮の葉の、あるいは、諸々のパラーサの葉の、あるいは、諸々のマールヴァーの葉の、器を作って、あるいは、水を、あるいは、ターラ〔樹〕の葉を、運ぶのだ』と、この状況は見出されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 棒の経

 

1103. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、宙空高く投げられた棒が、一度はまた、根元から落ち、一度はまた、先端から落ちるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明の妨害ある有情たちは、渇愛の束縛ある〔有情たちは〕、流転し輪廻しながら、一度はまた、この世から他の世に赴き、一度はまた、他の世からこの世に赴きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 衣の経

 

1104. 「比丘たちよ、あるいは、衣が、あるいは、頭が、燃えているとき、何が、為すべきこととして存するでしょう」と。「尊き方よ、あるいは、衣が、あるいは、頭が、燃えているとき、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、燃えている、あるいは、衣を、あるいは、頭を、〔それすらも〕放捨して、意を為さずして、〔いまだ〕知悉されていない四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 百の槍の経

 

1105. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、百年の寿命ある者であり、百年の生命ある者であり、〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたを、早刻時に、〔人々は〕百の槍で打ち、日中時に、百の槍で打ち、夕刻時に、百の槍で打つであろう。さて、人士たる者よ、〔まさに〕その、あなたは、毎日、毎日、三つの〔百の槍〕で〔打たれ〕、三つの百の槍で打たれながら、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年が経過して、〔いまだ〕知悉されていない四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するであろう』と。

 

 比丘たちよ、義(利益)たる所以ある良家の子息であるなら、〔このことは〕近しく赴くに十分なるものがあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあるからです。諸々の槍の打撃の、諸々の剣の打撃の、諸々の矢の打撃の、諸々の斧の打撃の、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、そして、このように、このことは存するでしょう。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、苦痛と共に、失意と共に、四つの聖なる真理の知悉を説きません。比丘たちよ、そして、また、わたしは、まさしく、安楽と共に、まさしく、悦意と共に、四つの聖なる真理の知悉を説きます。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 命あるものの経

 

1106. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、すなわち、このジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)にある草と木と枝と葉を、それを断ち切って、一所に集めるとします。一所に集めて、串を作るとします。串を作って、すなわち、大海における大いなる命あるものたちであるなら、それらを大いなる串に刺し、すなわち、大海における中なる命あるものたちであるなら、それらを中なる串に刺し、すなわち、大海における微細なる命あるものたちであるなら、それらを微細なる串に刺すとします。比丘たちよ、しかしながら、大海における粗大なる命あるものたちは、完全に消尽することなく存するでしょう。

 

 そこで、このジャンブ洲にある草と木と枝と葉は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。比丘たちよ、これよりも、大海における微細なる命あるものたちは、より多くあり、それらを串に刺すことは、為し易きことではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、自己状態(個我的あり方・身体)の微細なることからです。比丘たちよ、このように、大いなるものとして、まさに、悪所はあります。このように、大いなるものである、まさに、悪所から、完全に解き放たれ、〔正しい〕見解を成就した人は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の太陽の経

 

1107. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、正しい見解です。比丘たちよ、その比丘には、このことが期待できます。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知するでしょうし……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するでしょう。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の太陽の経

 

1108. 「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、世において、月と太陽が生起しないかぎり、それまでは、まさしく、大いなる光明と大いなる光輝の出現は有ることなく、そのときは、暗闇が有り、漆黒の闇が〔有り〕、それまでは、まさしく、夜と昼は覚知されず、月と半月は覚知されず、季節と年月は覚知されません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、月と太陽が生起することから、そこで、大いなる光明と大いなる光輝の出現が有り、そのときは、まさしく、暗闇は(※)有ることなく、漆黒の闇も〔有ること〕なく、そこで、夜と昼が覚知され、月と半月が覚知され、季節と年月が覚知されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、さてまた、何はともあれ、世において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が生起しないかぎり、それまでは、まさしく、大いなる光明と大いなる光輝の出現は有ることなく、そのときは、暗闇が有り、漆黒の闇が〔有り〕、それまでは、まさしく、四つの聖なる真理の告知と説示と報知と確立と開顕と区分と明瞭にする行為は有りません。

 

※ テキストには andhakāratamaṃ とあるが、PTS版により andhatamaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が生起することから、そこで、大いなる光明と大いなる光輝の出現が有り、そのときは、まさしく、暗闇は有ることなく、漆黒の闇も〔有ること〕なく、そこで、まさに、四つの聖なる真理の告知と説示と報知と確立と開顕と区分と明瞭にする行為が有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. インダの杭の経

 

1109. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げます。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、軽い、あるいは、木綿が、あるいは、生綿が、風に取られ、平坦な土地の部分に置かれたようなものです。〔まさに〕その、この〔綿〕を、東の風が西に吹き寄せるでしょうし、西の風が東に吹き寄せるでしょうし、北の風が南に吹き寄せるでしょうし、南の風が北に吹き寄せるでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、生綿が軽いからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げます。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げることはありません。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鉄の杭が、あるいは、インダの杭(城門に立てられた標柱)が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるようなものです。東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、インダの杭の基部が深く、善く埋められているからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げることはありません。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕善く見られたからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 論を義とする者たちの経

 

1110. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、東の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、十六クック(長さの単位・一クックは約五十センチ)の石柱があるとします。その〔石柱〕の、まさに、八クックは基部の支分として下にあり、八クックは基部の上にあります。東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、石柱の基部が深く、善く埋められているからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、東の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕善く見られたからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 シーサパーの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「シーサパー、カディラ、棒、衣があり、そして、百の槍とともに、命あるもの、二種の太陽の喩え、そして、インダの杭、論者たちがあり、〔章となる〕」と。

 

5. 深淵の章

 

1. 世についての思弁の経

 

1111. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、過去の事ですが、或るひとりの人が、ラージャガハから出て、『世についての思弁を思弁するのだ』と、スマーガダー蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、スマーガダー蓮池の岸辺において、世についての思弁を思弁しながら、比丘たちよ、まさに、その人は、スマーガダー蓮池の岸辺において、四つの支分ある軍団が、蓮の根茎に入りつつあるのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『狂者として、まさに、わたしは存している。乱心者として、まさに、わたしは存している。すなわち、世に存在しないものを、それを、わたしは見たのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、城市に入って、大勢の人の衆に告げました。『狂者として、まさに、わたしは存している。乱心者として、まさに、わたしは存している。すなわち、世に存在しないものを、それを、わたしは見たのだ』と。『さて、人士たる者よ、また、あなたは、どのように、狂者であり、どのように、乱心者なのだ。さらに、何が、世に存在しないものであり、それを、あなたは見たのだ』と。『尊き方よ、ここに、わたしは、ラージャガハから出て、「世についての思弁を思弁するのだ」と、スマーガダー蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、スマーガダー蓮池の岸辺において、世についての思弁を思弁しながら、尊き方よ、まさに、わたしは、スマーガダー蓮池の岸辺において、四つの支分ある軍団が、蓮の根茎に入りつつあるのを見ました。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、狂者であり、このように、乱心者なのです。さらに、これが、世に存在しないものであり、それを、わたしは見たのです』と。『さて、人士たる者よ、あなたは、たしかに、狂者であり、たしかに、乱心者である。さらに、これは、世に存在しないものであり、それを、あなたは見たのだ』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その人は、まさしく、事実として、それを見たのです──事実ならざることではなく。比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、まさに、敗北した阿修羅たちは、恐怖し、蓮の根茎をとおって、阿修羅の都に入ったのです──まさしく、天〔の神々〕たちを迷わせながら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、世についての思弁を思弁してはいけません。あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思弁は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、まさに、あなたたちが思弁しているなら、『これは、苦しみである』と思弁するべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思弁するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これらは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 深淵の経

 

1112. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、行きましょう。パティバーナの峰のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大勢の比丘たちと共に、パティバーナの峰のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、或るひとりの比丘が、パティバーナの峰にある大いなる深淵を見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、これは、大いなる深淵です。尊き方よ、極めて恐怖させる深淵です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみます。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作します。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、生の深淵にもまた落ち行き、老の深淵にもまた落ち行き、死の深淵にもまた落ち行き、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行きます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみません。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作しません。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、生の深淵にもまた落ち行かず、老の深淵にもまた落ち行かず、死の深淵にもまた落ち行かず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行きません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 大いなる苦悶の経

 

1113. 「比丘たちよ、大いなる苦悶という名の地獄が存在します。そこにおいては、それが何であれ、眼によって、形態を見るなら、まさしく、好ましくない形態のものとして見ます──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして見ます──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして見ます──意に適う形態のものではなく。それが何であれ、耳によって、音声を聞くなら……略……。それが何であれ、鼻によって、臭気を嗅ぐなら……略……。それが何であれ、舌によって、味感を味わうなら……略……。それが何であれ、身によって、感触と接触するなら……略……。それが何であれ、意によって、法(意の対象)を識知するなら、まさしく、好ましくない形態のものとして識知します──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして識知します──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして識知します──意に適う形態のものではなく」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それは、大いなる苦悶です。尊き方よ、まさに、それは、極めて大いなる苦悶です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ……略……喜び楽しむ者たちとして……略……行作し……略……行作して、生の苦悶によってもまた遍く焼かれ、老の苦悶によってもまた遍く焼かれ、死の苦悶によってもまた遍く焼かれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦悶によってもまた遍く焼かれます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず……略……喜び楽しまない者たちとして……略……行作せず……略……行作せずして、生の苦悶によってもまた遍く焼かれず、老の苦悶によってもまた遍く焼かれず、死の苦悶によってもまた遍く焼かれず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦悶によってもまた遍く焼かれません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 楼閣の経

 

1114. 「比丘たちよ、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、楼閣の、下に家屋を作らずして、上に家屋を乗せるのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、楼閣の、下に家屋を作って、上に家屋を乗せるのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 毛の経

 

1115. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者アーナンダは、大勢のリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、公会堂において、弓術を為しながら、はるか遠くから、微細な鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通しているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、手練の者たちである。まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、極めて手練の者たちである。なぜなら、そこで、まさに、はるか遠くから、微細な鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すからだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、わたしは、大勢のリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、公会堂において、弓術を為しながら、はるか遠くから、微細な鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通しているのを見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、手練の者たちである。まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、極めて手練の者たちである。なぜなら、そこで、まさに、はるか遠くから、微細な鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すからだ』」と。

 

 「アーナンダよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、あるいは、より為し難くあり、あるいは、より征服し難くありますか。すなわち、はるか遠くから、微細な鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すことですか、あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことですか」と。「尊き方よ、これこそが、まさしく、そして、より為し難くあり、さらに、より征服し難くあります。あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことです」と。「アーナンダよ、そこで、まさに、〔賢者たちは〕より貫き難きものを貫きます。すなわち、〔彼らは〕『これは、苦しみである』と、事実のとおりに理解し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに理解します」と。

 

 アーナンダよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 暗黒の経

 

1116. 「比丘たちよ、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒が〔存在し〕、漆黒の闇が存在します。そこにおいては、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光によっても、〔見ることを〕経験しません」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それは、大いなる暗黒です。尊き方よ、まさに、それは、極めて大いなる暗黒です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなものが、この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘よ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ……略……喜び楽しむ者たちとして……略……行作し……略……行作して、生の暗黒にもまた落ち行き、老の暗黒にもまた落ち行き、死の暗黒にもまた落ち行き、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の暗黒にもまた落ち行きます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず……略……喜び楽しまない者たちとして……略……行作せず……略……行作せずして、生の暗黒にもまた落ち行かず、老の暗黒にもまた落ち行かず、死の暗黒にもまた落ち行かず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の暗黒にもまた落ち行きません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の穴がある軛の経

 

1117. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海において、一つの穴がある軛(くびき)を投げ入れるとします。そこで、また、盲目の亀が存するとします。その〔亀〕は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、盲目の亀は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるでしょうか」と。「尊き方よ、すなわち、たしかに、いつであれ、いつかは、長時が経過して〔そののち、首を導き入れるでしょう〕」と。

 

 「比丘たちよ、よりすみやかに、まさに、その盲目の亀が、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるとして、比丘たちよ、まさしく、しかし、一度、愚者が堕所に赴いたなら、人間たる〔境遇を得ること〕を、わたしは、〔そのように〕説きません。

 

 それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいては、法(正義)の行ないが〔存在せず〕、正しい行ないが〔存在せず〕、善なるものを作り為すことが〔存在せず〕、功徳を作り為すことが存在しないからです。比丘たちよ、ここにおいては、互いに他を喰うことが〔転起し〕、力の弱い者を喰うことが転起するからです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の穴がある軛の経

 

1118. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この大いなる地が、一つの水として存するとします。そこで、人が、一つの穴がある軛を投げ入れるとします。〔まさに〕その、この〔軛〕を、東の風が西に吹き寄せるでしょうし、西の風が東に吹き寄せるでしょうし、北の風が南に吹き寄せるでしょうし、南の風が北に吹き寄せるでしょう。そこで、盲目の亀が存するとします。その〔亀〕は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、盲目の亀は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるでしょうか」と。「尊き方よ、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、盲目の亀が、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるのは」と。

 

 「比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、人間たる〔境遇〕を得るのは。比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起するのは。比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯するのは(※)。比丘たちよ、それでありながら、この、人間たる〔境遇〕が得られたのであり、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起したのであり、そして、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯します。

 

※ テキストには dibbati とあるが、PTS版により dippati と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の山の王たるシネールの経

 

1119. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるシネール(須弥山)に、七つの緑豆ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるシネールですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるシネールと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あること(預流たる者に残存する苦しみ)は、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇(苦蘊)と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の山の王たるシネールの経

 

1120. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この、山の王たるシネールが、七つの緑豆ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールですか、あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの残された石粒ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 深淵の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「思弁、深淵、苦悶、楼、そして、毛と暗黒があり、さらに、穴によって、二つのものが説かれ、他に、二つのシネールがあり、〔章となる〕」と。

 

6. 知悉の章

 

1. 爪先の経

 

1121. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 蓮池の経

 

1122. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、広さとしては、五十ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)となり、幅としては、五十ヨージャナとなり、高さ(深さ)としては、五十ヨージャナとなる、烏が飲めるほど、縁(ふち)まで一杯に水で満ちている蓮池があるとします。そこから、人が、草の先端で水を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、草の先端で取り出された水ですか、あるいは、すなわち、蓮池の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、蓮池の水です。草の先端で取り出された水は、少しばかりのものです。草の先端で取り出された水は、蓮池の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の合流の経

 

1123. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこから、人が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、合流の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、合流の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の合流の経

 

1124. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、その水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の大いなる地の経

 

1125. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地に、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子ですか、あるいは、すなわち、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の大いなる地の経

 

1126. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地が、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地ですか、あるいは、すなわち、あるいは、七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の大いなる海の経

 

1127. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海から、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、大いなる海の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、大いなる海の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の大いなる海の経

 

1128. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海の水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、大いなる海の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の山の喩えの経

 

1129. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に、七つの芥子粒ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の山の喩えの経

 

1130. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァントが、七つの芥子粒ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントですか、あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの残された石粒ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 知悉の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「爪先、蓮池、他に、二つの合流、二つの地、二つの海、そして、これらの二つの山の喩えがあり、〔章となる〕」と。

 

7. 第一の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章

 

1. 「他に」の経

 

1131. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少しばかりのものであり、そこで、まさに、すなわち、人間たちより他に生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 辺境の経

 

1132. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の中央の地方において生まれ落ちる、それらの有情たちは少しばかりのものであり、そこで、まさに、すなわち、諸々の最辺境の地方において、識知なき蛮族たちにおいて、生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 智慧の経

 

1133. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる智慧の眼を具備した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、無明を具した等しく迷乱した者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 穀物酒の経

 

1134. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 水の経

 

1135. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、陸に生まれる者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、水に生まれる者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 母を敬う者たちの経

 

1136. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、母を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、母を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 父を敬う者たちの経

 

1137. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、父を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、父を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 沙門の資質ある者たちの経

 

1138. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、沙門の資質ある者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、沙門の資質なき者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 婆羅門の資質ある者たちの経

 

1139. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、婆羅門の資質ある者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、婆羅門の資質なき者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 敬う者たちの経

 

1140. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、家における最尊者を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、家における最尊者を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……」と。〔以上が〕第十となる。

 

 第一の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『他に』があり、辺境、智慧、穀物酒と水、さらに、また、母を敬う者たちと父を敬う者たち、沙門の資質、婆羅門と敬う者たちがあり、〔章となる〕」と。

 

8. 第二の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章

 

1. 命あるものを殺すことの経

 

1141. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 与えられていないものを取ることの経

 

1142. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、与えられていないものを取ることから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、与えられていないものを取ることから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの経

 

1143. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 虚偽を説くことの経

 

1144. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、虚偽を説くことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、虚偽を説くことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 中傷の経

 

1145. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、中傷の言葉から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、中傷の言葉から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 粗暴な言葉の経

 

1146. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、粗暴な言葉から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、粗暴な言葉から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 雑駁な虚論の経

 

1147. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、雑駁な虚論から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、雑駁な虚論から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 種子類の経

 

1148. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、種子類や草木類を損壊することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、種子類や草木類を損壊することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 非時に食事することの経

 

1149. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、非時に食事することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、非時に食事することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 香料や塗料の経

 

1150. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 第二の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「命あるもの、与えられていないもの、『諸々の欲望〔の対象〕にたいする』があり、そして、虚偽を説くこと、中傷、粗暴、雑駁な虚論、そして、種子、非時、香料があり、〔章となる〕」と。

 

9. 第三の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章

 

1. 舞踏と歌詠の経

 

1151. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 高い臥具の経

 

1152. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 金や銀の経

 

1153. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、金や銀を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、金や銀を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 生の穀物の経

 

1154. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、生の穀物を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、生の穀物を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 生の肉の経

 

1155. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、生の肉を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、生の肉を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 少女の経

 

1156. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、婦女や少女を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、婦女や少女を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 奴婢や奴隷の経

 

1157. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、奴婢や奴隷を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、奴婢や奴隷を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 山羊や羊の経

 

1158. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、山羊や羊を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、山羊や羊を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 鶏や豚の経

 

1159. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、鶏や豚を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、鶏や豚を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 象や牛や馬の経

 

1160. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、象や牛や馬や騾馬を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 第三の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「舞踏、臥具、銀、穀物、肉、少女、奴婢、まさしく、そして、山羊や羊、鶏や豚と象があり、〔章となる〕」と。

 

10. 第四の生(なま)の穀物と省略〔の経典〕の章

 

1. 田畑や地所の経

 

1161. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、田畑や地所を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、田畑や地所を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 売買の経

 

1162. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、売買から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、売買から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 使者の経

 

1163. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、使者や使節として赴くことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、使者や使節として赴くことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 秤の詐欺の経

 

1164. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 賄賂の経

 

1165. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、賄賂や騙しや欺きや邪行から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6-11. 切断等の経

 

1166-1171. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 第四の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「田畑、売〔買〕、そして、使者、秤の詐欺、賄賂、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制があり、〔章となる〕」と。

 

11. 五つの境遇と省略〔の経典〕の章

 

1. 人間〔の世〕からの死滅と地獄の経

 

1172. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 人間〔の世〕からの死滅と畜生の経

 

1173. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、畜生の胎において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 人間〔の世〕からの死滅と餓鬼の境域の経

 

1174. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4-5-6. 人間〔の世〕からの死滅と天〔の神々〕たちと地獄等の経

 

1175-1177. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7-9. 天〔の世〕からの死滅と地獄等の経

 

1178-1180. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10-12. 天〔の世〕から人間たちと地獄等の経

 

1181-1183. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十二となる。

 

13-15. 地獄から人間たちと地獄等の経

 

1184-1186. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十五となる。

 

16-18. 地獄から天〔の神々〕たちと地獄等の経

 

1187-1189. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十八となる。

 

19-21. 畜生から人間たちと地獄等の経

 

1190-1192. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十一となる。

 

22-24. 畜生から天〔の神々〕たちと地獄等の経

 

1193-1195. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十四となる。

 

25-27. 餓鬼から人間たちと地獄等の経

 

1196-1198. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十七となる。

 

28-29. 餓鬼から天〔の神々〕たちと地獄等の経

 

1199-1200. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、畜生の胎において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十九となる。

 

30. 餓鬼から天〔の神々〕たちと餓鬼の境域の経

 

1201. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第三十となる。

 

 五つの境遇と省略〔の経典〕の章が第十一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「六つのものとして、また、『人間〔の世〕から死滅し』があり、『天〔の世〕から死滅し』があり、『地獄から』があり、畜生と餓鬼の境域があり、三十の量ある境遇の章となる」と。

 

 真理に相応するものが第十二となる。

 

 大いなるものの部(大篇)が第五となる。

 

 その〔部〕のための摂頌となる

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「道と覚りの支分があり、気づきとともに、機能、正しい精励、力と神通の足場とアヌルッダ、瞑想と呼吸に相応するもの、預流、そして、真理があり、かくのごとく、『大いなるものの部』と説かれる」と。

 

 大いなるものの部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。