増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 チャトゥッカ・ニパータ聖典(四集:四なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. バンダ村の章(1.~)

 

1. 随覚されたものの経

2. 落伍した者の経

3. 第一の掘り崩されたものの経

4. 第二の掘り崩されたものの経

5. 流れのままなる者の経

6. 少聞の者の経

7. 荘厳する者の経

8. 離怖の経

9. 渇愛の生起の経

10. 束縛の経

 

2. 歩いている者の章(11.~)

 

1. 歩いている者の経

2. 戒の経

3. 精励の経

4. 統御の経

5. 報知の経

6. 繊細さの経

7. 第一の非道の経

8. 第二の非道の経

9. 第三の非道の経

10. 食の指定者の経

 

3. ウルヴェーラーの章(21.~)

 

1. 第一のウルヴェーラーの経

2. 第二のウルヴェーラーの経

3. 世の経

4. カーラカ〔長者〕の林園の経

5. 梵行の経

6. 虚言の経

7. 満ち足りていることの経

8. 聖なる伝統の経

9. 法の境処の経

10. 遍歴遊行者の経

 

4. 輪の章(31.~)

 

1. 輪の経

2. 愛護の経

3. 獅子の経

4. 至高なる清信の経

5. ヴァッサカーラの経

6. ドーナの経

7. 遍き衰退とならないものの経

8. 退去した者の経

9. ウッジャヤの経

10. ウダーインの経

 

5. ローヒタッサの章(41.~)

 

1. 禅定の修行の経

2. 問いへの説き明かしの経

3. 第一の忿激を重きとする者の経

4. 第二の忿激を重きとする者の経

5. ローヒタッサの経

6. 第二のローヒタッサの経

7. 極めて遠く離れているものの経

8. ヴィサーカの経

9. 転倒の経

10. 付随する〔心の〕汚れの経

 

2. 第二の五十なるもの(51.~)

 

(6)1. 功徳が流れ行くものの章(51.~)

 

1. 第一の功徳が流れ行くものの経

2. 第二の功徳が流れ行くものの経

3. 第一の共住の経

4. 第二の共住の経

5. 第一の等しき生ある者たちの経

6. 第二の等しき生ある者たちの経

7. スッパヴァーサーの経

8. スダッタの経

9. 食料の経

10. 在家者として適正なることの経

 

(7)2. 至得の行為の章(61.~)

 

1. 至得の行為の経

2. 借りなきものの経

3. 梵〔天〕たちの経

4. 地獄の経

5. 形態の経

6. 貪欲を有する者の経

7. 蛇の王の経

8. デーヴァダッタの経

9. 精励の経

10. 法にかなわないものの経

 

(8)3. 雑物なきものの章(71.~)

 

1. 精励の経

2. 正しい見解の経

3. 正なる人士の経

4. 第一の至高の経

5. 第二の至高の経

6. クシナーラーの経

7. 不可思議なるものの経

8. 施物の経

9. 商売の経

10. カンボージャの経

 

(9)4. 〔心の〕動揺なき者の章(81.~)

 

1. 命あるものを殺すことの経

2. 虚偽を説くことの経

3. 栄誉ならざることに値する者の経

4. 忿激を重きとする者の経

5. 闇から闇の経

6. 低きから低くある者の経

7. 子の経

8. 束縛するものの経

9. 正しい見解の経

10. 範疇の経

 

(10)5. 阿修羅の章(91.~)

 

1. 阿修羅の経

2. 第一の禅定の経

3. 第二の禅定の経

4. 第三の禅定の経

5. 火葬の薪の経

6. 貪欲の調伏の経

7. 速き感知の経

8. 自己の利益の経

9. 学びの境処の経

10. ポータリヤの経

 

3. 第三の五十なるもの(101.~)

 

(11)1. 雷雲の章(101.~)

 

1. 第一の雷雲の経

2. 第二の雷雲の経

3. 水瓶の経

4. 湖水の経

5. アンバ〔の果〕の経

6. 第二のアンバ〔の果〕の経

7. 鼠の経

8. 雄牛の経

9. 樹木の経

10. 毒蛇の経

 

(12)2. ケーシの章(111.~)

 

1. ケーシの経

2. 速さの経

3. 鞭の経

4. 象の経

5. 状況の経

6. 不放逸の経

7. 守護の経

8. 畏怖するべきものの経

9. 第一の恐怖の経

10. 第二の恐怖の経

 

(13)3. 恐怖の章(121.~)

 

1. 自己の批判の経

2. 波の恐怖の経

3. 第一の多様性の経

4. 第二の多様性の経

5. 第一の慈愛の経

6. 第二の慈愛の経

7. 第一の如来についてのめったにないことの経

8. 第二の如来についてのめったにないことの経

9. アーナンダについてのめったにないことの経

10. 転輪〔王〕についてのめったにないことの経

 

(14)4. 人の章(131.~)

 

1. 束縛するものの経

2. 弁才の経

3. 鋭気ある知者の経

4. 奮起の果の経

5. 罪過を有する者の経

6. 第一の戒の経

7. 第二の戒の経

8. 撤収した者の経

9. 法の講話者の経

10. 論者の経

 

(15)5. 光の章(141.~)

 

1. 光の経

2. 光り輝きの経

3. 光明の経

4. 光輝の経

5. 灯の経

6. 第一の時の経

8. 悪しき行ないの経

9. 善き行ないの経

10. 真髄の経

 

4. 第四の五十なるもの(151.~)

 

(16)1. 機能の章(151.~)

 

1. 機能の経

2. 信の力の経

3. 智慧の力の経

4. 気づきの力の経

5. 審慮の力の経

6. カッパの経

7. 病の経

8. 遍き衰退の経

9. 比丘尼の経

10. 善き至達者の律の経

 

(17)2. 〔実践の〕道の章(161.~)

 

1. 簡略の経

2. 詳細の経

3. 不浄の経

4. 第一の忍耐の経

5. 第二の忍耐の経

6. 両者の経

7. マハー・モッガッラーナの経

8. サーリプッタの経

9. 形成〔作用〕を有するものの経

10. 双連のものの経

 

(18)3. 思欲あるものの章(171.~)

 

1. 思欲の経

2. 区分の経

3. マハー・コッティカの経

4. アーナンダの経

5. ウパヴァーナの経

6. 祈願の経

7. ラーフラの経

8. 溜池の経

9. 涅槃の経

10. 大いなる指標の経

 

(19)4. 婆羅門の章(181.~)

 

1. 軍人の経

2. 保証人の経

4. 恐怖なき〔境地〕の経

5. 婆羅門の真理の経

6. 〔話の〕進め方の経

7. ヴァッサカーラの経

8. ウパカの経

9. 実証されるべきものの経

10. 斎戒の経

 

(20)5. 大いなるものの章(191.~)

 

1. 耳によって追認されたものの経

2. 状況の経

3. バッディヤの経

4. サームガ〔村〕の者の経

5. ヴァッパの経

6. サールハの経

7. マッリカー王妃の経

8. 自己を苦しめる者の経

9. 渇愛の経

10. 愛情の経

 

5. 第五の五十なるもの(201.~)

 

(21)1. 正なる人士の章(201.~)

 

1. 学びの境処の経

2. 信なき者の経

3. 七つの行為の経

4. 十の行為の経

6. 十の道の経

7. 第一の悪しき法ある者の経

8. 第二の悪しき法ある者の経

9. 第三の悪しき法ある者の経

10. 第四の悪しき法ある者の経

 

(22)2. 衆の章(211.~)

 

1. 衆の経

2. 見解の経

3. 恩を知らないことの経

4. 命あるものを殺す者の経

5. 第一の道の経

6. 第二の道の経

7. 第一の語用の道の経

8. 第二の語用の道の経

9. 恥〔の思い〕なき者の経

10. 劣戒の者の経

 

(23)3. 悪しき行ないの章(221.~)

 

1. 悪しき行ないの経

2. 見解の経

3. 恩を知らないことの経

4. 命あるものを殺す者の経

5. 第一の道の経

6. 第二の道の経

7. 第一の語用の道の経

8. 第二の語用の道の経

9. 恥〔の思い〕なき者の経

10. 智慧浅き者の経

11. 詩人の経

 

(24)4. 行為の章(232.~)

 

1. 簡略の経

2. 詳細の経

3. ソーナ・カーヤナの経

4. 第一の学びの境処の経

5. 第二の学びの境処の経

6. 聖なる道の経

7. 覚りの支分の経

8. 罪過を有するものの経

9. 加害〔の思い〕なきものの経

10. 沙門の経

11. 正なる人士の福利の経

 

(25)5. 罪の恐怖の章(243.~)

 

1. 僧団を分裂させる者の経

2. 罪の恐怖の経

3. 学びの福利の経

4. 臥の経

5. 塔に値する者の経

6. 智慧の増大の経

7. 多く〔の利益〕を作り為すものの経

8. 第一の語用の経

9. 第二の語用の経

10. 第三の語用の経

11. 第四の語用の経

 

(26)6. 証知の章(254.~)

 

1. 証知の経

2. 遍き探し求めの経

3. 愛護の基盤の経

4. マールキャプッタの経

5. 家の経

6. 第一の良馬の経

7. 第二の良馬の経

8. 力の経

9. 林地の経

10. 行為の経

 

(27)7. 行為の道の章(264.~)

 

1. 命あるものを殺す者の経

2. 与えられていないものを取る者の経

3. 誤った行ないある者の経

4. 虚偽を説く者の経

5. 中傷の言葉ある者の経

6. 粗暴な言葉ある者の経

7. 雑駁な虚論ある者の経

8. 強欲〔の思い〕ある者の経

9. 憎悪している心の者の経

10. 誤った見解ある者の経

 

(28)8. 貪欲と省略〔の経典〕(274.~)

 

1. 気づきの確立の経

2. 正しい精励の経

3. 神通の足場の経

 


 

 

 チャトゥッカ・ニパータ聖典(四集:四なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. バンダ村の章

 

1. 随覚されたものの経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。バンダ村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、聖なる戒()の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる禅定(三昧)の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる智慧(慧・般若)の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、聖なる解脱の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、聖なる戒は、随覚され、理解され、聖なる禅定は、随覚され、理解され、聖なる智慧は、随覚され、理解され、聖なる解脱は、随覚され、理解され、生存の喝愛(有愛)は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒、禅定、そして、智慧、さらに、無上なる解脱──これらの法(性質)は、福徳あるゴータマによって随覚された。

 

 かくのごとく、覚者は、証知して〔そののち〕、法(教え)を、比丘たちに告げ知らせた──苦しみの終極を為す教師として、涅槃に到達した眼ある者として」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 落伍した者の経

 

2. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、聖なる戒を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる禅定を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる智慧を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる解脱を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備していない者は、『この法(教え)と律から落伍した者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、聖なる戒を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる禅定を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる智慧を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます。比丘たちよ、聖なる解脱を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、『この法(教え)と律から落伍していない者』と説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「死滅した者たちは落ち行く──落伍者たちとして。そして、貪求ある者たちは〔落ち行く〕──ふたたび帰り来る者たちとして。為すべきことは為された。喜ぶべきことは喜ばれた。安楽は、安楽によって従い行くところとなった」と(※)。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには sukha’’ntntti とあるが、PTS版により sukhan’’ti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。

 

3. 第一の掘り崩されたものの経

 

3. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。随知せずして、深解せずして、清信するべきではない状況において清信を示します。随知せずして、深解せずして、清信するべき状況において清信なきを示します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。随知して、深解して、清信するべきではない状況において清信なきを示します。随知して、深解して、清信するべき状況において清信を示します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する(自ら罪過を選び取る)──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。

 

 この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打(ばくち)において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら(悪意を抱き非難するなら)、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。

 

 百千(十万)の三十六のニラッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、さらに、五つのアッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の掘り崩されたものの経

 

4. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらのものにたいし〕誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、母にたいし誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。比丘たちよ、父にたいし誤って実践している……略……。比丘たちよ、如来にたいし誤って実践している……略……。比丘たちよ、如来の弟子にたいし誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。比丘たちよ、まさに、これらの四つのものにたいし誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらのものにたいし〕正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、母にたいし正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。比丘たちよ、父にたいし正しく実践している……略……。比丘たちよ、如来にたいし正しく実践している……略……。比丘たちよ、如来の弟子にたいし正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。比丘たちよ、まさに、これらの四つのものにたいし正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、母にたいし、さらに、また、父にたいし、あるいは、正等覚者たる如来にたいし、さらに、あるいは、彼の弟子にたいし、誤って実践するなら、そして、彼は、多くの功徳ならざるものを生み出す──そのような人として。

 

 母と父にたいする、その法(正義)ならざる行ないによって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは難詰し、そして、〔彼は〕死してのち、悪所に赴く。

 

 彼が、母にたいし、さらに、また、父にたいし、あるいは、正等覚者たる如来にたいし、さらに、あるいは、彼の弟子にたいし、正しく実践するなら、そして、彼は、多くの功徳を生み出す──このような人として。

 

 母と父にたいする、その法(正義)の行ないによって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 流れのままなる者の経

 

5. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。流れのままに赴く人であり、流れに反して赴く人であり、自己が安立した人であり、〔流れを〕超え渡り、彼岸に至り、陸地に立つ、〔真の〕婆羅門です。比丘たちよ、では、どのようなものが、流れのままに赴く人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、諸々の欲望〔の対象〕を受用し、さらに、悪しき行為を為します。比丘たちよ、この者は、流れのままに赴く人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、流れに反して赴く人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、諸々の欲望〔の対象〕を受用せず、さらに、悪しき行為を為しません。苦痛と共にあるもまた、失意と共にあるもまた、涙顔で泣き叫びながらもまた、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩みます。比丘たちよ、この者は、流れに反して赴く人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、自己が安立した人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、この者は、自己が安立した人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔流れを〕超え渡り、彼岸に至り、陸地に立つ、〔真の〕婆羅門なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸々の煩悩()の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、〔流れを〕超え渡り、彼岸に至り、陸地に立つ、〔真の〕婆羅門と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たちは──貪欲を離れず、この〔世において〕、欲望〔の対象〕を享受する者たちは──彼らは、繰り返し、生と老に近しく赴く者たちであり、渇愛〔の思い〕に囚われた者たちであり、〔欲望の〕流れのままに赴く者たちである。

 

 まさに、それゆえに、慧者は、ここに、気づきが現起された者となり、そして、諸々の欲望〔の対象〕に、さらに、諸々の悪に、慣れ親しむことなく、苦しみと共にあるもまた、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄するべきである。彼のことを、〔賢者たちは〕『〔欲望の〕流れに反して赴く人』と言う。

 

 彼が、まさに、五つの〔心の〕汚れ(煩悩)を捨棄して、円満成就した学びある者(有学)となり、遍き衰退とならない法(性質)ある者となり、心の自在に至り得た者となり、〔感官の〕機能()が定められた者となるなら、彼は、まさに、『自己が安立した人』と呼ばれる。

 

 〔あるがままに〕行知して、彼の、彼此なる諸々の法(性質)が砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しないなら、彼は、まさに、牟尼であり、『梵行の完成者』『世の終極に至る者』『彼岸に至った者』と説かれる」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 少聞の者の経

 

6. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。少聞の者にして所聞を具有していない者であり、少聞の者にして所聞を具有した者であり、多聞の者にして所聞を具有していない者であり、多聞の者にして所聞を具有した者です。比丘たちよ、では、どのように、人は、少聞の者にして所聞を具有していない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、少なきものとして、所聞が──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が──有ります。彼は、その少なき所聞の、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、このように、人は、少聞の者にして所聞を具有していない者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、少聞の者にして所聞を具有した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、少なきものとして、所聞が──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答が──有ります。彼は、その少なき所聞の、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、このように、人は、少聞の者にして所聞を具有した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、多聞の者にして所聞を具有していない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、多きものとして、所聞が──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答が──有ります。彼は、その多き所聞の、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、このように、人は、多聞の者にして所聞を具有していない者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、多聞の者にして所聞を具有した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、多きものとして、所聞が──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答が──有ります。彼は、その多き所聞の、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、このように、人は、多聞の者にして所聞を具有した者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「もし、また、〔彼が〕少聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕定められていないなら、そして、戒〔の観点〕から、さらに、所聞(学識)によって、両者によって、〔人々は〕彼を難詰する。

 

 もし、また、〔彼が〕少聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、戒〔の観点〕から、〔人々は〕彼を賞賛し、彼の所聞は成就する。

 

 もし、また、〔彼が〕多聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕定められていないなら、戒〔の観点〕から、〔人々は〕彼を難詰し、彼の所聞は成就しない。

 

 もし、また、〔彼が〕多聞の者として〔世に〕有り、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、そして、戒〔の観点〕から、さらに、所聞によって、両者によって、〔人々は〕彼を賞賛する。

 

 多聞にして、法(教え)を保ち、智慧を有する、覚者の弟子を──まさしく、ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)たる彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕からもまた、賞賛される者となる」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 荘厳する者の経

 

7. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらのものは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちであり、法(教え)を保つ者たちであり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちであり、僧団を荘厳します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、比丘が、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者であり、法(教え)を保つ者であり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であるなら、僧団を荘厳します。比丘たちよ、比丘尼が、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者であり、法(教え)を保つ者であり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であるなら、僧団を荘厳します。比丘たちよ、在俗信者(優婆塞)が、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者であり、法(教え)を保つ者であり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であるなら、僧団を荘厳します。比丘たちよ、女性在俗信者(優婆夷)が、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者であり、法(教え)を保つ者であり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であるなら、僧団を荘厳します。比丘たちよ、まさに、これらの四つのものは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、多聞の者たちであり、法(教え)を保つ者たちであり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちであり、僧団を荘厳します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、そして、明敏にして、かつまた、〔道に〕熟達する者として〔世に〕有り、さらに、多聞にして、法(教え)を保つ者として〔世に〕有り、法(教え)を法(教え)のままに歩む者として〔世に〕有るなら、そのような者である彼は、僧団を荘厳する者と説かれる。

 

 かつまた、戒を成就した比丘は、かつまた、多聞の比丘尼は、そして、すなわち、信ある在俗信者も、さらに、すなわち、信ある女性在俗信者も──これらの者たちは、まさに、僧団を荘厳する。まさに、これらの者たちは、僧団を荘厳する者たちである」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 離怖の経

 

8. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、如来のものたる離怖〔のあり方〕です。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、『正等覚者と明言しているあなたの、これらの法(教え)は、現正覚されたものにあらず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、『煩悩の滅尽者と明言しているあなたの、これらの煩悩は、完全に滅尽されていない』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、『また、まさに、それらの、あなたによって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、『また、まさに、その義(目的)のために、あなたによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱とならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、如来のものたる離怖〔のあり方〕があります。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、何であれ、これらの論の道が、多々なるものに依拠し、そして、それに依拠した沙門や婆羅門たちがいるとして、論の道の超克者にして熟達者たる如来に至り得て〔そののち〕、それらは有ることなくある。

 

 彼は、〔一切を〕征服して、全一なる者となり、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者として、法(真理)の輪を転起させた。そのような者である彼を、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者を、〔迷いの〕生存の彼岸に至る者を、有情たちは礼拝する」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 渇愛の生起の経

 

9. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの渇愛()の生起です。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、あるいは、衣料を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。比丘たちよ、あるいは、〔行乞の〕施食を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。比丘たちよ、あるいは、臥坐具を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。比丘たちよ、あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの渇愛の生起があります。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 この危険(患・過患)を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 束縛の経

 

10. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの束縛()です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の束縛なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愉悦〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする固執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、欲望の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、生存の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の生存にたいし、すなわち、生存にたいする貪り〔の思い〕が、生存にたいする愉悦〔の思い〕が、生存にたいする愛執〔の思い〕が、生存にたいする耽溺〔の思い〕が、生存にたいする涸渇〔の思い〕が、生存にたいする苦悶〔の思い〕が、生存にたいする固執〔の思い〕が、生存にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、生存の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、見解の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の見解にたいし、すなわち、見解にたいする貪り〔の思い〕が、見解にたいする愉悦〔の思い〕が、見解にたいする愛執〔の思い〕が、見解にたいする耽溺〔の思い〕が、見解にたいする涸渇〔の思い〕が、見解にたいする苦悶〔の思い〕が、見解にたいする固執〔の思い〕が、見解にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、見解の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があり、見解の束縛があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無明の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、六つの接触ある〔認識の〕場所にたいし、すなわち、無明が、無知が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、無明の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があり、見解の束縛があり、無明の束縛があります──諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものによって、さらなる生存あるものによって、懊悩を有するものによって、苦痛の報いあるものによって、未来に生と老と死となるものによって、束縛されたものとして。それゆえに、『束縛からの平安(軛安穏)なきもの』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの束縛があります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの束縛を離れるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の束縛による束縛を離れるものであり、生存の束縛による束縛を離れるものであり、見解の束縛による束縛を離れるものであり、無明の束縛による束縛を離れるものです。比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の束縛による束縛を離れるものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愉悦〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする固執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、欲望の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、生存の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の生存にたいし、すなわち、生存にたいする貪り〔の思い〕が、生存にたいする愉悦〔の思い〕が、生存にたいする愛執〔の思い〕が、生存にたいする耽溺〔の思い〕が、生存にたいする涸渇〔の思い〕が、生存にたいする苦悶〔の思い〕が、生存にたいする固執〔の思い〕が、生存にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、生存の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、見解の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の見解にたいし、すなわち、見解にたいする貪り〔の思い〕が、見解にたいする愉悦〔の思い〕が、見解にたいする愛執〔の思い〕が、見解にたいする耽溺〔の思い〕が、見解にたいする涸渇〔の思い〕が、見解にたいする苦悶〔の思い〕が、見解にたいする固執〔の思い〕が、見解にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、見解の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあり、見解の束縛による束縛を離れるものがあります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無明の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、六つの接触ある〔認識の〕場所にたいし、すなわち、無明が、無知が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、無明の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあり、見解の束縛による束縛を離れるものがあり、無明の束縛による束縛を離れるものがあります──諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染による、さらなる生存あるものによる、懊悩を有するものによる、苦痛の報いあるものによる、未来に生と老と死となるものによる、束縛を離れたものとして。それゆえに、『束縛からの平安あるもの』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの束縛を離れるものがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「欲望の束縛によって束縛された者たち、さらに、同様に、生存の束縛によって〔束縛された者たち〕、見解によって束縛された者たち、無明を偏重する者たち──

 

 〔これらの〕有情たちは、輪廻に赴く──生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。しかしながら、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕を遍知して、かつまた、全てにわたり、生存の束縛を〔遍知して〕──

 

 見解の束縛を完破して、そして、無明を離貪させながら、一切の束縛による束縛から離れた者たち──彼らは、まさに、束縛を超え行く牟尼たちである」と。〔以上が〕第十となる。

 

 バンダ村の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「随覚されたもの、落伍した者、二つの掘り崩されたもの、第五のものとして、流れのままなる者、そして、少聞の者、荘厳する者、離怖、渇愛があり、束縛とともに、それらの十がある」と。

 

2. 歩いている者の章

 

1. 歩いている者の経

 

11. 「比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、彼が、家〔の生活〕に依拠した悪しき思考(世俗の欲望に縛られた思考)を思い考えるなら──

 

 彼は、邪道を実践する者であり、諸々の〔人を〕迷わすものに耽溺する者である。そのような比丘は、最上の正覚を体得することが不可能となる。

 

 しかしながら、彼が、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら、彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが可能となる」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 戒の経

 

12. 「比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして、〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい。比丘たちよ、あなたたちが、戒を成就した者たちとして〔世に〕住んでいると、戒条を成就した者たちとして、戒条による統御によって統御された者たちとして、〔世に〕住んでいると、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学んでいると、より上なる為すべきこととして、何が存在するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘の、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が離れ去ったものと成り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が……〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が……疑惑〔の思い〕()が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘の、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が離れ去ったものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘の、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が離れ去ったものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘の、強欲〔の思い〕と憎悪〔の思い〕が離れ去ったものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比丘よ、〔常に心を〕傾けている者として、歩くように。〔常に心を〕傾けている者として、立つように。〔常に心を〕傾けている者として、坐すように。〔常に心を〕傾けている者として、臥すように。〔常に心を〕傾けている者として、〔この身体を〕曲げるように。〔常に心を〕傾けている者として、この〔身体〕を伸ばすように。

 

 上に、横に、後に、およそ、地上に赴く所があるかぎり、そして、諸々の法(事象)を正しく注視する者となり、〔五つの心身を構成する〕範疇()の生成と衰失を〔正しく注視する者となる〕。

 

 心の止寂(毘鉢舎那・観:観察瞑想)において適正なる者を、常に気づきある者として学んでいる者を、そのような種類の者である比丘を、〔賢者たちは〕『常に自己を精励する者』と言う」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 精励の経

 

13. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの正しい精励です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの正しい精励があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「正しい精励ある者たちは、悪魔の領域を征服した者たちである。彼らは、依存なき者たちであり、生と死の恐怖の彼岸に至る者たちである。彼らは、〔常に〕満ち足りている者たちであり、軍勢を有する悪魔に勝利して、動揺なき者たちとなる。ナムチ(悪魔)の軍隊の全てを超克した者たちは、彼らは、安楽の者たちである」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 統御の経

 

14. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの精励です。どのようなものが、四つのものなのですか。統御による精励であり、捨棄による精励であり、修行による精励であり、守護による精励です。比丘たちよ、では、どのようなものが、統御による精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……。鼻によって、臭気()を嗅いで……。舌によって、味感()を味わって……。身によって、感触(所触)と接触して……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、これは、統御による精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、捨棄による精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔すでに〕生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。〔すでに〕生起した憎悪の思考を……略……。〔すでに〕生起した悩害の思考を……略……。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、これは、捨棄による精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、修行による精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。比丘たちよ、これは、修行による精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、守護による精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔すでに〕生起した幸いなる禅定の形相を──骨となったものの表象を、蛆虫まみれのものの表象を、青黒くなったものの表象を、切断されたものの表象を、膨張したものの表象を──守護します。比丘たちよ、これは、守護による精励と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの精励があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、統御、さらに、捨棄、修行、守護──これらの四つの精励が、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された。それらによって、比丘は、ここに、熱情ある者となり、苦しみの滅尽に至り得るであろう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 報知の経

 

15. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの至高のものの報知です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、自己状態(個我的あり方・身体)ある者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、阿修羅のインダ(権力者)たるラーフです。比丘たちよ、欲望の享受者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、マンダータル王です。比丘たちよ、君主たる者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、悪魔パーピマントです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの至高のものの報知があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「自己状態ある者たちのなかでは、ラーフが、欲望の享受者たちのなかでは、マンダータルが、至高のものとなる。君主たる者たちのなかでは、悪魔が、神通によって、盛名によって、燃え盛っている。

 

 上に、横に、後に、およそ、地上に赴く所があるかぎり、天を含む世〔の人々〕にとって、覚者は、至高の者と呼ばれる」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 繊細さの経

 

16. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの繊細さです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、最高の形態()の繊細さを具備した者として〔世に〕有ります。そして、その形態の繊細さより、他の形態の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません。さらに、その形態の繊細さより、他の形態の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。最高の感受〔作用〕()の繊細さを具備した者として〔世に〕有ります。そして、その感受〔作用〕の繊細さより、他の感受〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません。さらに、その感受〔作用〕の繊細さより、他の感受〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。最高の表象〔作用〕()の繊細さを具備した者として〔世に〕有ります。そして、その表象〔作用〕の繊細さより、他の表象〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません。さらに、その表象〔作用〕の繊細さより、他の表象〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。最高の形成〔作用〕()の繊細さを具備した者として〔世に〕有ります。そして、その形成〔作用〕の繊細さより、他の形成〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません。さらに、その形成〔作用〕の繊細さより、他の形成〔作用〕の繊細さを、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの繊細さがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「形態の繊細性を知って──そして、諸々の感受〔作用〕の発生を〔知って〕──それあることから、表象〔作用〕が集起する、〔その因縁を知って〕、かつまた、そこにおいて、〔表象作用が〕滅却に至る、〔その状況を知って〕──諸々の形成〔作用〕を、『他者である』と知って、『苦しみである』と〔知って〕、かつまた、『自己ではない』と〔知って〕──

 

 彼は、まさに、正しく見る比丘である。寂静の境処(涅槃)を喜ぶ寂静者である。軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の非道の経

 

17. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの非道に赴くことです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴き、憤怒ゆえに非道に赴き、迷妄ゆえに非道に赴き、恐怖ゆえに非道に赴きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの非道に赴くことがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くなら、彼の福徳は衰退する──黒分(月が欠ける期間)における月のように」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の非道の経

 

18. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの非道に赴かないことです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがありません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの非道に赴かないことがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くことがないなら、彼の福徳は円満する──白分(月が満ちる期間)における月のように」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の非道の経

 

19. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの非道に赴くことです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴き、憤怒ゆえに非道に赴き、迷妄ゆえに非道に赴き、恐怖ゆえに非道に赴きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの非道に赴くことがあります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの非道に赴かないことです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがありません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの非道に赴かないことがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くなら、彼の福徳は衰退する──黒分における月のように。

 

 すなわち、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、恐怖ゆえに、迷妄ゆえに、法(正義)を超え行くことがないなら、彼の福徳は円満する──白分における月のように」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 食の指定者の経

 

20. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、食の指定者(割り振り役)は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴き、憤怒ゆえに非道に赴き、迷妄ゆえに非道に赴き、恐怖ゆえに非道に赴きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、食の指定者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、食の指定者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがありません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、食の指定者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たちは、法(正義)への尊重〔の思い〕なく法(正義)にかなわない者たちとして〔世に〕有り、欲〔の思い〕ゆえに、憤怒ゆえに、迷妄ゆえに、そして、恐怖ゆえに、赴く者たちとなる。また、そして、これは、衆における苦味と説かれる。まさに、このように、〔あるがままに〕知っている沙門によって説かれた。

 

 まさに、それゆえに、彼ら、賞賛するべき者たちである、正なる人士たちは、すなわち、悪しきことを為さない、法(正義)に立脚した者たちは、欲〔の思い〕ゆえではなく、憤怒ゆえではなく、迷妄ゆえではなく、そして、恐怖ゆえではなく、赴く者たちとなる。また、そして、これは、衆における醍醐と説かれる。まさに、このように、〔あるがままに〕知っている沙門によって説かれた」と。〔以上が〕第十となる。

 

 歩いている者の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「歩いている者、戒、精励、統御、第五ものとして、報知、繊細さ、三つの非道があり、食の指定者とともに、それらの十がある」と。

 

3. ウルヴェーラーの章

 

1. 第一のウルヴェーラーの経

 

21. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウルヴェーラーに住んでいます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹の根元〕において、最初に現正覚した者として。比丘たちよ、〔まさに〕その、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、尊重〔の思い〕なき者は、敬虔〔の思い〕なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住む。いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきであろうか』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『戒の範疇(戒蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、まさに、わたしは、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより戒を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。

 

 禅定の範疇(定蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、まさに、わたしは、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより禅定を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。

 

 智慧の範疇(慧蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、まさに、わたしは、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより智慧を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。

 

 解脱の範疇が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、まさに、わたしは、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより解脱を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、すなわち、この、わたしによって現正覚された法(真理)であるが、まさしく、その法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことにしよう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、すなわち、また、過去の時に〔世に〕有った、それらの阿羅漢にして正等覚者たちですが、それらの世尊たちもまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みました。尊き方よ、すなわち、また、未来の時に〔世に〕有るであろう、それらの阿羅漢にして正等覚者たちですが、それらの世尊たちもまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むでしょう。尊き方よ、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる世尊もまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みたまえ』と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『そして、すなわち、過去の正覚者たちは、かつまた、すなわち、未来の覚者たちは、さらに、すなわち、多くの者たちの憂いを滅ぼす者である、今現在の正覚者も──

 

 全ての者たちが、正なる法(教え)を重んじる者たちとして、〔過去に〕住み、そして、〔現在に〕住み、そこで、また、〔未来に〕住むであろう。これは、覚者たちの法(真理)たることである。

 

 まさに、それゆえに、自己〔の義〕を欲する者によって、大いなるものを希求している者によって、正なる法(教え)が尊重されるべきである──覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら』と。

 

 比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、自己の円満成就を〔知って〕、すなわち、この、わたしによって現正覚された法(真理)ですが、まさしく、その法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みました。比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、僧団もまた、大いなるものを具備したことから、そこで、わたしには、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のウルヴェーラーの経

 

22. 「比丘たちよ、或る時のことです。ここに、わたしは、ウルヴェーラーに住んでいます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹の根元〕において、最初に現正覚した者として。比丘たちよ、そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、大勢の婆羅門たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの婆羅門たちは、わたしに、こう言いました。『貴君ゴータマよ、このことを、わたしたちは聞きました。「沙門ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ない」と。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、そのとおりです。なぜなら、貴君ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ないからです。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、成就あるにあらず(不当である)』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『これらの尊者たちは、あるいは、長老のことを、あるいは、諸々の〔人を〕長老に作り為す法(性質)のことを、知らない』と。比丘たちよ、もし、また、生まれてから、あるいは、八十〔年〕の、あるいは、九十〔年〕の、あるいは、百年の、年長の者が有り、そして、彼が、〔正しい〕時ならずに説く者であり、事実ならざることを説く者であり、義(意味)ならざることを説く者であり、法(教え)ならざることを説く者であり、律ならざることを説く者であり、〔正しい〕時ならずに、因縁なく、理由なく、制限なく、義(道理)ならざることを伴った言葉を語る者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼は、まさしく、『愚者たる長老』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、もし、また、年少の者として〔世に〕有り、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、しかしながら、彼が、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者であり、〔正しい〕時に、因縁があり、理由を有し、制限があり、義(道理)を伴った言葉を語る者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼は、まさしく、『賢者たる長老』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔人を〕長老に作り為す法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(4)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔人を〕長老に作り為す法(性質)があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、高揚した心で、そして、雑駁なことを多く語り、思惟が定められず、正ならざる法(教え)を喜ぶ、獣愚の者であるなら、悪しき見解ある者であり、礼を欠く者であり、彼は、長老の地位から遠く離れている。

 

 しかしながら、彼が、戒を成就した者であり、有聞の者であり、即応即答〔の智慧〕ある者であり、諸々の法(教え)において自制された慧者であり、智慧によって義(意味)を観察するなら──

 

 一切の法(事象)の彼岸に至る者であり、鬱積なき者であり、即応即答〔の智慧〕ある者であり、生と死を捨棄した者であり、梵行の全一者であり──

 

 彼に、諸々の煩悩が存在しないなら──わたしは、彼を、『長老』と説く。諸々の煩悩の滅尽あることから、比丘として、彼は、『長老』と呼ばれる」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 世の経

 

23. 「比丘たちよ、世は、如来によって現正覚され、如来は、世による束縛を離れた者です。比丘たちよ、世の集起は、如来によって現正覚され、世の集起は、如来の捨棄するところとなりました。比丘たちよ、世の止滅は、如来によって現正覚され、世の止滅は、如来の実証するところとなりました。比丘たちよ、世の止滅に至る〔実践の〕道は、如来によって現正覚され、世の止滅に至る〔実践の〕道は、如来の修行するところとなりました。

 

 比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識()られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、その全てが、如来によって現正覚されたのであり、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚し、そして、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら、すなわち、この中間において、〔彼が〕語り、談じ、釈示するものは、その全てが、まさしく、そのとおりに成り、他なるものと〔成ら〕ず、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、如来は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、それゆえに、『如来』と説かれます」〔と〕。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一切の世を証知して、一切の世において(※)真実のとおりに〔証知して〕、一切の世の束縛を離れ(※※)、一切の世において〔一切に〕近づかない者──

 

※ テキストには sabbaṃ loke とあるが、PTS版により sabbaloke と読む。

※※ テキストには Sabbaṃ lokaṃ visaṃyutto とあるが、PTS版により Sabbalokavisaṃyutto と読む。

 

 彼は、まさに、一切を征服する慧者であり、一切の拘束からの解放者である。〔正覚の〕体得者には、最高の寂静がある。何も恐れない、涅槃〔の境処〕がある。

 

 この、煩悩が滅尽した覚者は、煩悶なき者であり、疑念を断った者である。一切の行為()の滅尽に至り得た者であり、〔生存の〕依り所の消滅(涅槃の境処)において解脱した者である。

 

 この、世尊にして覚者たる彼は、この、無上なる獅子は、天を含む世〔の人々〕のために、梵の輪(不滅の真理)を転起させた。

 

 かくのごとく、天〔の神々〕たちは、そして、人間たちは──彼らは、覚者を帰依所に赴き、集いあつまって、彼を、恐れおののきを離れた偉大なる者を、礼拝する。

 

 『〔心を〕調御する者たちのなかの、最勝の調御者である。〔心を〕寂静ならしむ者たちのなかの、聖賢たる寂静者である。〔心を〕解放させる者たちのなかの、至高の解放者である。〔心を〕超渡させる者たちのなかの、優れた超渡者である』〔と〕。

 

 まさに、かくのごとく、この、恐れおののきを離れた偉大なる者を、〔天の神々と人間たちは〕礼拝する。『天を含む世において、あなたに対する人は存在しない』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. カーラカ〔長者〕の林園の経

 

24. 或る時のことです。世尊は、サーケータに住んでおられます。カーラカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それを、わたしは知ります。

 

 比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それを、わたしは証知しました。それは、如来にとって、〔すでに〕見出されたものとしてあり、それに、如来が近しく止住することはありませんでした。

 

 比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それを、わたしが、『知らない』と説くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するでしょう。

 

 比丘たちよ、それが……略……それを、わたしが、『かつまた、知り、かつまた、知らない』と説くなら、それもまた、まさしく、そのような〔虚偽〕として存するでしょう。

 

 比丘たちよ、それが……略……それを、わたしが、『まさしく、知ることがなく、知らないこともない』と説くなら、それは、わたしにとって、〔悪しき〕賽の目として存するでしょう。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、如来は、見られるべきものを見て、見られたものを思わず、見られていないものを思わず、見られるべきものを思わず、見る者を思わず、聞かれるべきものを聞いて、聞かれたものを思わず、聞かれていないものを思わず、聞かれるべきものを思わず、聞く者を思わず、思われるべきものを思って、思われたものを思わず、思われていないものを思わず、思われるべきものを思わず、思う者を思わず、識られるべきものを見て、識られたものを思わず、識られていないものを思わず、識られるべきものを思わず、識る者を思いません。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、如来は、諸々の見られ聞かれ思われ識られた法(事象)にたいし、まさしく、如なる者、如なる者としてあります。また、そして、『その如なる者より、他の如なる者で、あるいは、より上なる者も、あるいは、より精妙なる者も、存在しない』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「それが何であれ、あるいは、見られたものも、聞かれたものも、あるいは、思われたものも、他者たちにとっては、〔真理として〕固執され、真理と思われたものとなる。それらの〔真理として固執され〕自ら防護されたものについて、如なる者は、他者〔の見解〕を、真理とも、あるいは、また、虚偽とも、決め付けない。

 

 そして、これを、『矢である』〔と〕前もって見て、そこにおいて、人々が固執し執着しているなら、これを、まさしく、そのとおりに、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る。如来たちに、〔真理として〕固執されたものは、〔もはや〕存在しない」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 梵行の経

 

25. 「比丘たちよ、この梵行(禁欲清浄行)は、人をたぶらかすことを義(目的)として住されるのではなく、人に取り入ることを義(目的)として〔住されるのでは〕なく、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)として〔住されるのでは〕なく、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利を義(目的)として〔住されるのでは〕なく、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』と〔住されるのでは〕ありません。比丘たちよ、そこで、まさに、この梵行は、〔心身の〕統御を義(目的)として住され、〔煩悩の〕捨棄を義(目的)として〔住され〕、離貪を義(目的)として〔住され〕、止滅を義(目的)として〔住されます〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔心身の〕統御を義(目的)として、〔煩悩の〕捨棄を義(目的)として、伝え聞きではない〔真の〕梵行を、涅槃への沈潜に至るものを、彼は、世尊は、〔世に〕説示した。この道は、大いなる者たちによって、大いなる聖賢たちによって、追い求められたものであり──

 

 そして、すなわち、覚者によって説示された、そのとおりに、それを実践するなら、教師の教えを〔教えのとおりに〕為す者たちとして、苦しみの終極を為すであろう」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 虚言の経

 

26. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちではありません。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちであり、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起せず〕、成長を〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちではなく、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たち──彼らは、正等覚者によって説示された法(教え)において成長しない。

 

 虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たち──彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法(教え)において成長する」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 満ち足りていることの経

 

27. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それらは、罪過なきものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、諸々の衣料のなかでは糞掃衣が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の食料のなかでは〔施しの〕握り飯が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の臥坐所のなかでは木の根元が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の医薬品のなかでは腐尿(腐った牛の尿)が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、そして、些少のものがあり、さらに、得易きものがあり、かつまた、それらは、罪過なきものです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、些少のものによって、さらに、得易きものによって、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有ることから、これを、彼にとって、『沙門の資質の支分として、随一のもの』と、わたしは説きます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「些少のものによって、さらに、得易きものによって──罪過なきものによって〔常に〕満ち足りている者には、臥坐と衣料と飲食(衣食住)に関して、心の悩苦が有ることもなく、方々にあって打ちのめされることもない。

 

 さらに、すなわち、沙門の資質に随順するものとして、彼に告げ知らされた諸々の法(教え)が、〔それらが〕収め取られ、〔常に〕満ち足りている者には──〔気づきを〕怠らず、〔常に〕学んでいる者には」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 聖なる伝統の経

 

28. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、聖なる伝統です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、衣料を得なくても、思い悩みません。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる衣料によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩みません。さらに、〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、臥坐具を得なくても、思い悩みません。さらに、臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、修行を喜びとする者として、修行を喜ぶ者として、〔世に〕有り、捨棄を喜びとする者として、捨棄を喜ぶ者として、〔世に〕有ります。また、そして、〔まさに〕その、修行を喜びとすることによって、修行を喜ぶことによって、捨棄を喜びとすることによって、捨棄を喜ぶことによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、聖なる伝統があります。

 

 比丘たちよ、また、そして、これらの四つの聖なる伝統を具備した比丘が、もし、また、東の方角に住むなら、まさしく、彼は、不満〔の思い〕を打ち負かし、彼を、不満〔の思い〕が打ち負かすことはなく、もし、また、西の方角に住むなら、まさしく、彼は、不満〔の思い〕を打ち負かし、彼を、不満〔の思い〕が打ち負かすことはなく、もし、また、北の方角に住むなら、まさしく、彼は、不満〔の思い〕を打ち負かし、彼を、不満〔の思い〕が打ち負かすことはなく、もし、また、南の方角に住むなら、まさしく、彼は、不満〔の思い〕を打ち負かし、彼を、不満〔の思い〕が打ち負かすことはありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす慧者であるからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不満〔の思い〕は、慧者を打ち負かさない。不満〔の思い〕は、慧者を打ち負かさない。まさしく、慧者は、不満〔の思い〕を打ち負かす。まさに、慧者は、不満〔の思い〕を打ち負かす者である。

 

 一切の行為を捨棄し除去した者を、誰が妨げるというのだろう。まさしく、ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)たる彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕からもまた、賞賛される者となる」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 法の境処の経

 

29. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。

 

 比丘たちよ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。

 

 比丘たちよ、正しい気づき(正念)は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。

 

 比丘たちよ、正しい禅定(正定)は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「強欲〔の思い〕なき者となり、憎悪しない心で〔世に〕住むがよい。気づきある者となり、一境の心の者として〔世に〕存するがよい──内に〔心が〕善く定められた者となり」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 遍歴遊行者の経

 

30. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園に滞在しています。それは、すなわち、この、アンナバーラ〔遍歴遊行者〕であり、ヴァラダラ〔遍歴遊行者〕であり、そして、サクルダーイン遍歴遊行者であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、それらの遍歴遊行者たちに、こう言いました。

 

 「遍歴遊行者たちよ、四つのものがあります。これらの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。どのようなものが、四つのものなのですか。遍歴遊行者たちよ、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。遍歴遊行者たちよ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は……略……法(真理)の境処です。遍歴遊行者たちよ、正しい気づきは……略……法(真理)の境処です。遍歴遊行者たちよ、正しい禅定は、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処です。遍歴遊行者たちよ、まさに、これらの四つの、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、法(真理)の境処があります。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、この強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を拒絶して、強欲〔の思い〕ある者を、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう』と。彼に、わたしは、そこにおいて、このように説くでしょう。『来なさい、説きなさい、弁じなさい。彼の威力を見ましょう』と。遍歴遊行者たちよ、彼が、まさに、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を拒絶して、強欲〔の思い〕ある者を、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、この憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を拒絶して、憎悪している心の者を、汚れた意と思惟ある者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう』と。彼に、わたしは、そこにおいて、このように説くでしょう。『来なさい、説きなさい、弁じなさい。彼の威力を見ましょう』と。遍歴遊行者たちよ、彼が、まさに、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を拒絶して、憎悪している心の者を、汚れた意と思惟ある者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、この正しい気づきという法(真理)の境処を拒絶して、気づきが忘却された者を、正知なき者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう』と。彼に、わたしは、そこにおいて、このように説くでしょう。『来なさい、説きなさい、弁じなさい。彼の威力を見ましょう』と。遍歴遊行者たちよ、彼が、まさに、正しい気づきという法(真理)の境処を拒絶して、気づきが忘却された者を、正知なき者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、この正しい禅定という法(真理)の境処を拒絶して、〔心が〕定められていない者を、混迷した心の者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう』と。彼に、わたしは、そこにおいて、このように説くでしょう。『来なさい、説きなさい、弁じなさい。彼の威力を見ましょう』と。遍歴遊行者たちよ、彼が、まさに、正しい禅定という法(真理)の境処を拒絶して、〔心が〕定められていない者を、混迷した心の者を、あるいは、〔真の〕沙門と、あるいは、〔真の〕婆羅門と、報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、これらの四つの法(真理)の境処を、難詰し弾劾するべきと思い考えるなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、四つの、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。どのようなものが、四つのものなのですか。『もし、貴君が、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を難詰し弾劾するなら、まさに、そして、すなわち、強欲〔の思い〕ある者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者たちである、〔それらの〕婆羅門たちは、彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』『もし、貴君が、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という法(真理)の境処を難詰し弾劾するなら、まさに、そして、すなわち、憎悪している心の者たちであり、汚れた意と思惟ある者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは、彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』『もし、貴君が、正しい気づきという法(真理)の境処を難詰し弾劾するなら、まさに、そして、すなわち、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは、彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』『もし、貴君が、正しい禅定という法(真理)の境処を難詰し弾劾するなら、そして、すなわち、まさに、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは、彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』〔と〕。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、これらの四つの法(真理)の境処を、難詰し弾劾するべきと思い考えるなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの四つの、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。すなわち、また、ウッカラ〔の住者〕たるヴァッサやバンニャたちが、それらの遍歴遊行者たちが、無因論者たちとして、無作論者たちとして、非存論者たちとして、〔世に〕有ったのですが、彼らでさえも、これらの四つの法(真理)の境処を、難詰するべきではなく弾劾するべきではないと思い考えました。それは、何を因とするのですか。〔自己への〕非難と攻撃と論詰の恐怖あるからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「憎悪〔の思い〕なく、常に気づきあり、内に〔心が〕善く定められ、強欲〔の思い〕の調伏(取り除き)において学んでいる者は、『不放逸の者』と説かれる」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ウルヴェーラーの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つのウルヴェーラー、世、カーラカがあり、第五のものとして、梵行とともに、虚言、満ち足りていること、そして、伝統、法(真理)の境処があり、さらに、遍歴遊行者とともに、〔章となる〕」と。

 

4. 輪の章

 

1. 輪の経

 

31. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの輪です。それらを具備した天〔の神々〕と人間たちには、四つの輪が転起し、それらを具備した天〔の神々〕と人間たちは、まさしく、長からずして、諸々の財物において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます。どのようなものが、四つのものなのですか。適切なる地に住することであり、正なる人士に依拠することであり、自己についての正しい誓願であり、そして、過去(過去世)に作り為した功徳あることです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの輪があります。それらを具備した天〔の神々〕と人間たちには、四つの輪が転起し、それらを具備した天〔の神々〕と人間たちは、まさしく、長からずして、諸々の財物において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「適切なる地に住するなら、聖者を朋友と為す者として〔世に〕存するなら、正しい誓願を成就した者であるなら、人として、過去に功徳を作り為した者であるなら──穀物が、財産が、盛名が、名誉が、そして、安楽が、この者に転じ行く」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 愛護の経

 

32. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの愛護の基盤です。どのようなものが、四つのものなのですか。布施であり、愛ある言葉であり、義(利益)ある行ないであり、〔自他が〕等しくあることです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、布施は、かつまた、愛ある言葉は、かつまた、すなわち、この〔世において〕、義(利益)ある行ないは、かつまた、その場その場において分のままに、諸々の法(事象)にたいし等しくあることは──これらのものは、まさに、世における愛護である。進み行く車の、〔四つの〕楔(車軸に車輪を固定する部品)のようなものである。

 

 そして、これらの〔四つの〕愛護が存在しないなら、母は、子を契機として、敬慕を、あるいは、供養を、得ないであろう──あるいは、父も、子を契機として。

 

 しかしながら、すなわち、これらの〔四つの〕愛護があり、賢者たちは、正しく注視することから、それゆえに、大いなるものに至り得るのであり、そして、彼らは、賞賛されるべき者たちと成る」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 獅子の経

 

33. 「比丘たちよ、獣の王たる獅子は、夕刻時に、巣から出立します。巣から出立して、〔身体を〕屈伸します。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回します。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫びます。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行きます。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、それらの、畜生の在り方をした命あるものたちが、獣の王たる獅子の吼え叫んでいる声を聞くなら、彼らは、多くのところが、恐怖と畏怖と恐慌を惹起します。洞窟に依拠する者たちは、洞窟に入り行きます。水に依拠する者たちは、水に入り行きます。林に依拠する者たちは、林に入り行きます。翼ある者たちは、空に飛び立ちます。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、村や町や王都において諸々の堅固な革紐の結縛によって結縛されている王の象たちも、彼らもまた、それらの結縛を断ち切って破り去って、恐怖の者たちとなり、尿や糞を放ちながら、そこかしこに逃げ去ります。比丘たちよ、まさに、獣の王たる獅子は、畜生の在り方をした命あるものたちにとって、このように大いなる栄光ある者であり、このように大いなる権能ある者であり、このように大いなる威力ある者です。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起するとき、彼は、法(教え)を説示します。『かくのごとく、身体を有すること(有身)がある』『かくのごとく、身体を有することの集起がある』『かくのごとく、身体を有することの止滅がある』『かくのごとく、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道がある』と。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちであり、諸々の高貴なる天宮に長く止住する者たちである、天〔の神々〕たちも、彼らもまた、如来の法(教え)の説示を聞いて、多くのところが、恐怖と畏怖と恐慌を惹起します。『まさに、常住ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常住の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『まさに、常恒ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常恒の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『まさに、常久ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常久の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『ああ、まさに、わたしたちは、常住ならず、常恒ならず、常久ならず、身体を有することに属していたのだ』と。比丘たちよ、まさに、如来は、天を含む世〔の人々〕にとって、このように大いなる栄光ある者であり、このように大いなる権能ある者であり、このように大いなる威力ある者です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、天を含む世〔の人々〕の教師にして対する人なき者である覚者が、法(真理)の輪を証知して転起させたとき──

 

 そして、身体を有することを、かつまた、〔身体を有することの〕止滅を、かつまた、身体を有することの発生を、さらに、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道を、〔それらの法を説示したとき〕──

 

 すなわち、また、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、福徳ある者たちである、天〔の神々〕たちも、〔彼らもまた〕恐怖の者たちとなり、獅子〔の咆哮〕に他の獣たちが〔恐怖した〕ように、恐慌を惹起した。

 

 『ああ、まさに、わたしたちは、常住ならざる者たちであり、身体を有することを超克していないのだ』〔と〕、解脱者にして如なる者である阿羅漢の言葉を聞いて」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 至高なる清信の経

 

34. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの至高なる清信です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、彼らが、覚者にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 比丘たちよ、およそ、諸々の形成された法(教え)としてあるかぎり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、彼らが、聖なる八つの支分ある道にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 比丘たちよ、およそ、諸々の法(教え)としてあるかぎり、あるいは、諸々の形成されたもの(有為)も、あるいは、諸々の形成されたものではないもの(無為)も、離貪〔の法〕は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、驕慢の削除であり、涸渇の調伏(取り除き)であり、基底(阿頼耶:執着)の根絶であり、転起(輪廻)の断絶であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃です。比丘たちよ、彼らが、離貪の法(教え)にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 比丘たちよ、およそ、あるいは、諸々の僧団としてあるかぎり、あるいは、諸々の僧集としてあるかぎり、如来の弟子の僧団は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)です。比丘たちよ、彼らが、僧団にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの至高なる清信があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔信の対象が〕至高なることから、まさに、清信した者たちとなり、至高の法(性質)を〔常に〕識知している者たちには──施与されるべき無上なる者である、至高の覚者にたいし清信した者たちには──

 

 離貪と寂止の安楽である、至高の法(教え)にたいし清信した者たちには──無上なる功徳の田畑である、至高の僧団にたいし清信した者たちには──

 

 至高のものにたいし、〔常に〕布施を施している者たちには──至高の功徳が増え行く──至高のものとして、そして、寿命が、さらに、色艶が、福徳が、名誉が、安楽が、活力が。

 

 至高のものに施す者は、思慮ある者であり、至高の法(性質)において〔心が〕定められた者であり、天の生類として、あるいは、人間として、至高のものに至り得た者となり、歓喜する」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ヴァッサカーラの経

 

35. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、ヴァッサカーラ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、四つのものがあります。まさに、わたしたちは、〔これらの〕法(性質)を具備した者を、大いなる智慧ある者と、大いなる人士たる者と、報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。貴君ゴータマよ、ここに、所聞の類のものであるなら、まさしく、それぞれについての、多聞の者として〔世に〕有ります。また、まさに、語られたことであるなら、まさしく、それぞれについての、義(意味)を知ります。『これが、この語られたものの義(意味)である』『これが、この語られたものの義(意味)である』と。また、まさに、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、気づきある者として、思念する者として、随念する者として、〔世に〕有ります。また、まさに、すなわち、それらが在家の業務であるなら、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、大いなる智慧ある者と、大いなる人士たる者と、報知します。貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしに随喜するべきであるなら、貴君ゴータマは、わたしに随喜したまえ。貴君ゴータマよ、また、それで、もし、わたしを弾劾するべきであるなら、貴君ゴータマは、わたしを弾劾したまえ」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、わたしは、あなたに、まさしく、随喜もしませんし、弾劾もしません。婆羅門よ、四つのものがあります。まさに、わたしは、〔これらの〕法(性質)を具備した者を、大いなる智慧ある者と、大いなる人士たる者と、報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。(1)婆羅門よ、ここに、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、実践する者と成り、彼の、聖なる正理のうちに、多くの人民が確立されました。すなわち、この、善き法(性質)たるものとして、善なる法(性質)たるものとして。(2)彼は、思考することを望む、その思考であるなら、その思考を思考し、思考することを望まない、その思考であるなら、その思考を思考せず、思惟することを望む、その思惟であるなら、その思惟を思惟し、思惟することを望まない、その思惟であるなら、その思惟を思惟しません。かくのごとく、思考の道において、心の自在に至り得た者として〔世に〕有ります。(3)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(4)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。婆羅門よ、まさに、わたしは、あなたに、まさしく、随喜もしませんし、弾劾もしません。婆羅門よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、大いなる智慧ある者と、大いなる人士たる者と、報知します」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。貴君ゴータマよ、そして、わたしどもは、貴君ゴータマを、これらの四つの法(性質)を具備した者と認めます。まさに、貴君ゴータマは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、実践する者であり、あなたの、聖なる正理のうちに、多くの人民が確立されました。すなわち、この、善き法(性質)たるものとして、善なる法(性質)たるものとして。まさに、貴君ゴータマは、思考することを望む、その思考であるなら、その思考を思考し、思考することを望まない、その思考であるなら、その思考を思考せず、思惟することを望む、その思惟であるなら、その思惟を思惟し、思惟することを望まない、その思惟であるなら、その思惟を思惟しません。まさに、貴君ゴータマは、思考の道において、心の自在に至り得た者です。まさに、貴君ゴータマは、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者です。まさに、貴君ゴータマは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、たしかに、あなたにとって、わたしは、攻撃的で批判的な言葉の語り手としてあります。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。婆羅門よ、まさに、わたしは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、実践する者であり、わたしの、聖なる正理のうちに、多くの人民が確立されました。すなわち、この、善き法(性質)たるものとして、善なる法(性質)たるものとして。まさに、わたしは、思考することを望む、その思考であるなら、その思考を思考し、思考することを望まない、その思考であるなら、その思考を思考せず、思惟することを望む、その思惟であるなら、その思惟を思惟し、思惟することを望まない、その思惟であるなら、その思惟を思惟しません。婆羅門よ、まさに、わたしは、思考の道において、心の自在に至り得た者です。婆羅門よ、まさに、わたしは、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者です。婆羅門よ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、一切の有情たちのために、死の罠からの解き放ちを知り、天〔の神々〕や人間たちの利益となる、正理と法(真理)を明示したなら──まさに、彼のことを、かつまた、見て、かつまた、聞いて、多くの人々が清信するなら──

 

 〔彼は〕『道と道ならざるものに巧みな智ある者』『為すべきことを為した煩悩なき者』『覚者にして最後の肉体ある者』『偉大なる人士たる者』と説かれる」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ドーナの経

 

36. 或る時のことです。世尊は、かつまた、ウッカッターの、かつまた、セータブヤーの、それぞれの中途において、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、ドーナ婆羅門もまた、かつまた、ウッカッターの、かつまた、セータブヤーの、それぞれの中途において、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、ドーナ婆羅門は、世尊の〔両の〕足跡に、千の()があり、外輪を有し、(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪を見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、これらの〔両の〕足跡は、人間たる生類に有ることなし」と。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元において坐りました──結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。そこで、まさに、ドーナ婆羅門は、世尊の〔両の〕足跡に従い行きつつ、世尊が、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました──清信ある方にして清信するべき方を、〔感官の〕機能が寂静となり意図が寂静となった方を、最上の〔身の〕調御と〔心の〕止寂を獲得した方を、〔自己が〕調御され〔感官の門が〕守られ〔感官の〕機能が自制された龍たる方を。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。

 

 「まさに、貴君は、天〔の神〕と成るのでしょうか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、天〔の神〕と成らないでしょう」と。「まさに、貴君は、音楽神と成るのでしょうか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、音楽神と成らないでしょう」と。「まさに、貴君は、夜叉と成るのでしょうか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、夜叉と成らないでしょう」と。「まさに、貴君は、人間と成るのでしょうか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、人間と成らないでしょう」と。

 

 「『まさに、貴君は、天〔の神〕と成るのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしは、天〔の神〕と成らないでしょう』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、貴君は、音楽神と成るのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしは、音楽神と成らないでしょう』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、貴君は、夜叉と成るのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしは、夜叉と成らないでしょう』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、貴君は、人間と成るのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしは、人間と成らないでしょう』と、〔あなたは〕説きます。そこで、そうしますと、貴君は、どのようなものと成るのでしょうか」と。

 

 「婆羅門よ、すなわち、諸々の煩悩が〔いまだ〕捨棄されていないなら、まさに、わたしは、天〔の神〕と成るでしょうが、わたしの、それらの煩悩は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。婆羅門よ、すなわち、諸々の煩悩が〔いまだ〕捨棄されていないなら、まさに、わたしは、音楽神と成るでしょうが……夜叉と成るでしょうが……人間と成るでしょうが、わたしの、それらの煩悩は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮が、あるいは、赤蓮が、あるいは、白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、世において生じ、世において等しく増大し、世を征服して、世に汚されることなく〔世に〕住みます。婆羅門よ、わたしを、『覚者』と認めなさい」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「それによって、天への再生が存することになり、あるいは、宙を赴く音楽神となり、それによって、夜叉たる〔境遇〕に至ることになり、さらに、人間たる〔境遇〕に行くことになる、それらの煩悩は、わたしのばあい、滅尽し、砕破され、分断された。

 

 すなわち、麗しき白蓮が水に汚されないように、〔わたしは〕世に汚されない。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存している」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 遍き衰退とならないものの経

 

37. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にあります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒を成就した者として〔世に〕有り、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有り、食において量を知る者として〔世に〕有り、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、食において量を知る者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、食において量を知る者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初更(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中更(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後更(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比丘が、戒において確立した者となり、そして、諸々の〔感官の〕機能において統御された者となり、さらに、食において量を知る者となり、〔眠らずに〕起きていることに専念する。

 

 このような住ある熱情ある者となり、昼に、夜に、休みなく、束縛からの平安に至り得るために善なる法(性質)を修めているなら──

 

 不放逸を喜ぶ比丘は、あるいは、放逸に恐怖を見る〔比丘〕は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 退去した者の経

 

38. 「比丘たちよ、比丘が、各自の真理()を除去した者であり、探し求めることを正しく完全に放棄した者であり、身体の形成〔作用〕(身行)を静息した者であるなら、『退去した者』と説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、各自の真理を除去した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘にとって、すなわち、それらの、多々なる沙門や婆羅門たちにとっての多々なる各自の真理が──それは、すなわち、この、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と──それらの全てが、除かれたものと成り、除去されたものと〔成り〕、捨てられたものと〔成り〕、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、各自の真理を除去した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕の探し求めが捨棄されたものと成り、〔迷いの〕生存の探し求めが捨棄されたものと成り、〔利得のための〕梵行の探し求めが安息しています。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、退去した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、退去した者と成ります。比丘たちよ、比丘が、各自の真理を除去した者であり、探し求めることを正しく完全に放棄した者であり、身体の形成〔作用〕を静息した者であるなら、『退去した者』と説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔利得のための〕梵行の探し求めと共に、欲望〔の対象〕の探し求めがあり、〔迷いの〕生存の探し求めがあり、『かくのごとく、真理である』〔と断定し盲信する〕偏執があり、諸々の〔悪しき〕見解の境位の積み重ねがある。

 

 一切の貪欲が離貪した者にとって、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者にとって、諸々の探し求めは放棄され、諸々の〔悪しき〕見解の境位は完破された。

 

 彼は、まさに、寂静にして気づきある比丘である。〔一切が〕静息した者であり、〔一切に〕敗れることなき者である。〔我想の〕思量()の寂止あることから、覚者は、『退去した者』と説かれる」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ウッジャヤの経

 

39. そこで、まさに、ウッジャヤ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッジャヤ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマもまた、まさに、祭祀を褒め称えますか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、一切の祭祀を褒め称えることもなく、婆羅門よ、また、わたしは、一切の祭祀を褒め称えないこともありません。(1)婆羅門よ、まさに、そのような形態の祭祀において、牛たちが殺され、山羊や羊たちが殺され、鶏や豚たちが殺され、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起するなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦を有する祭祀を褒め称えません。(2)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦を有する祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行かないからです。

 

 (3)婆羅門よ、しかしながら、まさに、そのような形態の祭祀において、まさしく、牛たちが殺されず、山羊や羊たちが殺されず、鶏や豚たちが殺されず、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起しないなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦なき祭祀を褒め称えます。すなわち、この、常なる布施を、先祖のための祭祀として。(4)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦なき祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行くからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕は、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕は──それらの大いなる辛苦ある大いなる祭祀は、大いなる果と成らない。

 

 そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、そこにおいて、様々な種類の者たちが殺されるなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、その祭祀には近しく至らない。

 

 しかしながら、それらの者たちが、祭祀に辛苦なく、常に先祖のための〔祭祀〕を執り行なうなら、そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、ここにおいて、様々な種類の者たちが殺されないなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、そして、その祭祀へと近しく至る。

 

 思慮ある者は、この〔祭祀〕を執り行なうべきである。この祭祀は、大いなる果となる。まさに、この〔祭祀〕を執り行なっている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。そして、祭祀は、広大なるものと成り、さらに、天神たちも清信する」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ウダーインの経

 

40. そこで、まさに、ウダーイン婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊と……略……。一方に坐った、まさに、ウダーイン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマもまた、まさに、祭祀を褒め称えますか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、一切の祭祀を褒め称えることもなく、婆羅門よ、また、わたしは、一切の祭祀を褒め称えないこともありません。(1)婆羅門よ、まさに、そのような形態の祭祀において、牛たちが殺され、山羊や羊たちが殺され、鶏や豚たちが殺され、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起するなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦を有する祭祀を褒め称えません。(2)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦を有する祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行かないからです。

 

 (3)婆羅門よ、しかしながら、まさに、そのような形態の祭祀において、まさしく、牛たちが殺されず、山羊や羊たちが殺されず、鶏や豚たちが殺されず、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起しないなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦なき祭祀を褒め称えます。すなわち、この、常なる布施を、先祖のための祭祀として。(4)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦なき祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行くからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「辛苦なく行作された〔祭祀〕へと、〔正しい〕時に〔執行される〕適確なる祭祀へと──そのような〔祭祀〕へと、自制ある梵行者たちは近しく至る。

 

 〔迷妄の〕覆いが開かれた者たちは、すなわち、世において、家〔の生活〕と〔未来の〕境遇を超克した者たちは、この祭祀を賞賛する──祭祀の熟知者たる覚者たちとして。

 

 祭祀であろうが、もしくは、祖霊祭であろうが、分のままに捧げものを作り為して、清信した心の者は、善き田畑にたいし、梵行者たちにたいし、〔祭祀を〕執り行なう。

 

 すなわち、善く捧げられ、善く供えられ、善く至り得たものとして、施与するべき者たちにたいし、〔捧げものが〕作り為されたなら、そして、祭祀は、広大なるものと成り、さらに、天神たちも清信する。

 

 このように、思慮ある者は、信ある者となり、解き放った心で〔祭祀を〕執り行なって、賢者として、加害〔の思い〕なき安楽の世に再生する」と。〔以上が〕第十となる。

 

 輪の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「輪、愛護、獅子、清信があり、第五のものとして、ヴァッサカーラとともに、ドーナ、遍き衰退とならないもの、退去した者、ウッジャヤがあり、ウダーインとともに、それらの十がある」と。

 

5. ローヒタッサの章

 

1. 禅定の修行の経

 

41. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの禅定の修行です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、〔それが〕修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起する、禅定の修行が存在します。比丘たちよ、〔それが〕修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起する、禅定の修行が存在します。比丘たちよ、〔それが〕修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起する、禅定の修行が存在します。比丘たちよ、〔それが〕修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起する、禅定の修行が存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのような禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのような禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、光明の表象(光明想)に意を為し、昼の表象を〔心に〕確立します。『すなわち、昼のように、そのように、夜がある。すなわち、夜のように、そのように、昼がある』〔と〕。かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修めます。比丘たちよ、この禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのような禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、諸々の感受()が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の表象()が、〔あるがままに〕見出されたものとして……略……諸々の思考()が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。比丘たちよ、この禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのような禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。比丘たちよ、この禅定の修行が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの禅定の修行があります。比丘たちよ、また、そして、このことに関して、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるプンナカの問いにおいて、わたしによって語られました。

 

 〔すなわち〕『世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 問いへの説き明かしの経

 

42. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの問いへの説き明かしです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、一定して説き明かすべき問いが存在します。比丘たちよ、区分して説き明かすべき問いが存在します。比丘たちよ、反問して説き明かすべき問いが存在します。比丘たちよ、捨て置くべき問いが存在します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの問いへの説き明かしがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一つには、一定して言葉を〔説き明かし〕、他には、区分して言葉を〔説き明かし〕、第三としては、反問するべきであり、また、第四としては、捨て置くべきである。

 

 そして、彼が、それら〔の四つの説き明かし〕の、法(教え)のままなることを、その場その場において知るなら、そのような種類の比丘を、四つの問いに巧みな智ある者と、〔人々は〕言う。

 

 〔彼は〕近づき難く打ち負かし難き者であり、深遠にして倒し難き者であり、そこで、義(道理)について、さらに、義(道理)ならざることについて、両者の熟知者として〔世に〕有る。

 

 賢者は、義(道理)ならざることを遍く避け、義(道理)を収め取る。義(道理)の〔あるがままの〕知悉あることから、慧者は、『賢者』と呼ばれる」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の忿激を重きとする者の経

 

43. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。忿激を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者であり、偽装を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者であり、利得を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者であり、尊敬を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる法(教え)を重きとし忿激を重きとしない者であり、正なる法(教え)を重きとし偽装を重きとしない者であり、正なる法(教え)を重きとし利得を重きとしない者であり、正なる法(教え)を重きとし尊敬を重きとしない者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「忿激と偽装を重きとし、利得と尊敬を尊重する比丘たちは、彼らは、正等覚者によって説示された法(教え)において成長しない。

 

 しかしながら、すなわち、正なる法(教え)を重きとする者たちとなり、〔過去において、世に〕住んだなら、そして、〔今もまた、世に〕住むなら、彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法(教え)において成長する」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の忿激を重きとする者の経

 

44. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの正ならざる法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。忿激を重きとし正なる法(教え)を重きとしないことであり、偽装を重きとし正なる法(教え)を重きとしないことであり、利得を重きとし正なる法(教え)を重きとしないことであり、尊敬を重きとし正なる法(教え)を重きとしないことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの正ならざる法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの正なる法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる法(教え)を重きとし忿激を重きとしないことであり、正なる法(教え)を重きとし偽装を重きとしないことであり、正なる法(教え)を重きとし利得を重きとしないことであり、正なる法(教え)を重きとし尊敬を重きとしないことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの正なる法(性質)があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「忿激と偽装を重きとし、利得と尊敬を尊重する比丘は、正なる法(教え)において成長しない──善き田畑における腐った種のように。

 

 しかしながら、すなわち、正なる法(教え)を重きとする者たちとなり、〔過去において、世に〕住んだなら、そして、〔今もまた、世に〕住むなら、彼らは、まさに、法(教え)において成長する──潤いに従い育つ薬草のように」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ローヒタッサの経

 

45. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ローヒタッサ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ローヒタッサ天子は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、さてまた、まさに、そこ(世の終極)においては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しないとして、尊き方よ、いったい、まさに、その、世の終極は、赴くことによって、あるいは、知ることが、あるいは、見ることが、あるいは、至り得ることが、できるのでしょうか」と。「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません』と。

 

 尊き方よ、過去の事(過去世)ですが、わたしは、ローヒタッサという名の聖賢として〔世に〕有りました──ボージャ族の宙を赴く神通者として。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の速さが有りました。それは、たとえば、また、まさに、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練し訓練した弓術の達人が、矢で軽々と難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の歩幅が有りました。それは、たとえば、また、東の海から西の海ほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような形態の速さを具備した者として、かつまた、このような形態の歩幅を〔具備した者として〕、このような形態の求める所が生起しました。『赴くことによって、わたしは、世の終極に至り得るのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年のあいだ赴いて、まさしく、世の終極に至り得ずして、まさしく、中途に、命を終えたのでした。

 

 尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません』」と。

 

 「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。友よ、さらに、まさしく、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません。友よ、そして、また、わたしは、まさしく、この、〔一〕ヴヤーマ(:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)ばかりの、表象を有し意を有する死体(肉体)において、そして、世を、かつまた、世の集起を、かつまた、世の止滅を、さらに、世の止滅に至る〔実践の〕道を、〔人々に〕報知します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「赴くことによって至り得るべきにあらず──世の終極は、いついかなる時も。そして、世の終極に至り得ずして、苦しみからの解き放ちは存在しない。

 

 それゆえに、まさに、世〔の一切〕を知る、思慮深き者は──世の終極に至る、梵行の完成者は──〔心が〕静まった者は、世の終極を知って、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二のローヒタッサの経

 

46. そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、ローヒタッサ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、ローヒタッサ天子は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、さてまた、まさに、そこ(世の終極)においては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しないとして、尊き方よ、いったい、まさに、その、世の終極は、赴くことによって、あるいは、知ることが、あるいは、見ることが、あるいは、至り得ることが、できるのでしょうか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、ローヒタッサ天子に、こう言いました。『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、ローヒタッサ天子は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません」と。

 

 尊き方よ、過去の事(過去世)ですが、わたしは、ローヒタッサという名の聖賢として〔世に〕有りました──ボージャ族の宙を赴く神通者として。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の速さが有りました。それは、たとえば、また、まさに、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練し訓練した弓術の達人が、矢で軽々と難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の歩幅が有りました。それは、たとえば、また、東の海から西の海ほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような形態の速さを具備した者として、かつまた、このような形態の歩幅を〔具備した者として〕、このような形態の求める所が生起しました。「赴くことによって、わたしは、世の終極に至り得るのだ」と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年のあいだ赴いて、まさしく、世の終極に至り得ずして、まさしく、中途に、命を終えたのでした。

 

 尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません」』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、ローヒタッサ天子に、こう言いました。

 

 『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません。友よ、さらに、まさしく、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません。友よ、そして、また、わたしは、まさしく、この、〔一〕ヴヤーマ(:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)ばかりの、表象を有し意を有する死体(肉体)において、そして、世を、かつまた、世の集起を、かつまた、世の止滅を、さらに、世の止滅に至る〔実践の〕道を、〔人々に〕報知します』」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「赴くことによって至り得るべきにあらず──世の終極は、いついかなる時も。そして、世の終極に至り得ずして、苦しみからの解き放ちは存在しない。

 

 それゆえに、まさに、世〔の一切〕を知る、思慮深き者は──世の終極に至る、梵行の完成者は──〔心が〕静まった者は、世の終極を知って、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 極めて遠く離れているものの経

 

47. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、かつまた、天空と、かつまた、地とは、これは、第一の遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものです。比丘たちよ、かつまた、此岸と、かつまた、海の彼方とは、これは、第二の遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものです。比丘たちよ、かつまた、そこから、太陽が昇るところと、かつまた、そこにおいて、沈むところとは、これは、第三の遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものです。比丘たちよ、かつまた、正しくある者たちの法(教え)と、かつまた、正しからざる者たちの法(教え)とは、これは、第四の遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの遠く離れているうえにも極めて遠く離れているものがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、天空は、〔地から〕遠くにあり、かつまた、地は、〔天空から〕遠くにある。海の彼方を、それを、〔人々は〕『遠くにある』〔と〕言う──かつまた、そこから、光の作り手たる太陽が昇るところも、かつまた、そこにおいて、沈むところとも。それよりも、まさに、より遠きものと、〔賢者たちは〕説く──かつまた、正しくある者たちの法(教え)を、かつまた、正しからざる者たちの法(教え)を。

 

 正しくある者たちの集いは、衰失なきものとして有り、すなわち、また、止住するかぎりは、まさしく、そのとおりに有るが、正しからざる者たちの集いは、まさに、すみやかに衰失する。それゆえに、正しくある者たちの法(教え)は、正しからざる者たちから遠く離れている」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ヴィサーカの経

 

48. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタは、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させるのですか。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。「尊き方よ、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタに、こう言いました。「ヴィサーカよ、善きかな、善きかな。ヴィサーカよ、善きかな、まさに、あなたは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「賢者が愚者たちと混ざり合い、語らずにいるなら、〔彼のことを、人々が〕知ることはない。しかしながら、不死の境処を説示し語っているなら、〔彼のことを、人々は〕知る。

 

 〔彼は〕語るであろう、顕示するであろう、差し出すであろう──聖賢たちの旗である法(教え)を。見事に語られた旗あるのが、聖賢たちである。まさに、法(教え)は、聖賢たちの旗である」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 転倒の経

 

49. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、無常において、『常住である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、苦痛において、『安楽である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、無我において、『自己である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、不浄において、『浄美である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものがあります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、無常において、『無常である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、苦痛において、『苦痛である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、無我において、『無我である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、不浄において、『不浄である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常において、常住の表象ある者たち、そして、苦痛において、安楽の表象ある者たち、さらに、無我において、『自己である』と〔表象ある者たち〕、不浄において、浄美の表象ある者たちは、誤った見解に打破された有情たちであり、散乱した心の者たちであり、表象が離れる者たちである。

 

 彼らは、悪魔の束縛に束縛された者たちであり、束縛からの平安なき人たちである。有情たちは、輪廻に赴く──生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。

 

 しかしながら、覚者たちが、光の作り手たちとして、世に生起する、そのとき、彼らは、この法(真理)を明示する──〔すなわち〕苦しみの寂止に至る〔道〕を。

 

 彼らの〔言葉を〕聞いて、智慧を有する者たちは、彼らは、自らの心を獲得して、無常を、無常〔の観点〕から見た。苦痛を、苦痛〔の観点〕から見た。

 

 無我において、『無我である』と〔見た〕。不浄を、不浄〔の観点〕から見た。正しい見解の受持ある者たちは、一切の苦しみを過ぎ行った」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 付随する〔心の〕汚れの経

 

50. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、月と日に付随する汚れです。それらの付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、雲は、月と日に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、霧は、月と日に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、煙と塵は、月と日に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)は、月と日に付随する汚れです。その付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、月と日に付随する汚れがあります。それらの付随する汚れによって近しく汚れた月と日は、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。これらの、沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)です。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。穀物酒を飲み、果実酒を〔飲み〕、穀物酒や果実酒を飲むことから離間しない者たちです。比丘たちよ、これは、第一の沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れです。その付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。淫事の法(性質)を受用し、淫事の法(性質)から離間しない者たちです。比丘たちよ、これは、第二の沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れです。その付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。金や銀を受け取り、金や銀を納受することから離間しない者たちです。比丘たちよ、これは、第三の沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れです。その付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。

 

 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。誤った生き方によって生き、誤った生き方から離間しない者たちです。比丘たちよ、これは、第四の沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れです。その付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、沙門や婆羅門たちに付随する〔心の〕汚れがあります。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かず、遍照しません」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲と憤怒によって遍く汚された、或る沙門や婆羅門たちがいる。愛しい形態を大いに喜ぶ、無明によって覆われた人たちがいる。

 

 〔彼らは〕穀物酒を飲み、果実酒を〔飲む〕。〔彼らは〕淫事を受用する。銀を〔受け取り〕、さらに、金を受け取る、無知なる者たちがいる。誤った生き方によって生きる、或る沙門や婆羅門たちがいる。

 

 太陽の眷属たる覚者によって、これらの付随する〔心の〕汚れが説かれた。それらの付随する〔心の〕汚れによって、或る沙門や婆羅門たちは、照り輝かず、光り輝かない──清浄ならず、塵を有する、獣愚の者たちとなり。

 

 暗黒によって覆われ、渇愛の奴隷となり、〔生存に〕導くもの(渇愛)を有する者たちは、おぞましき墓地を増大させ、さらなる生存に執取する」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ローヒタッサの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「禅定と問い、二つの忿激、他に、二つのローヒタッサ、極めて遠く離れているものとヴィサーカと転倒があり、付随する〔心の〕汚れとともに、それらの十がある」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

(6)1. 功徳が流れ行くものの章

 

1. 第一の功徳が流れ行くものの経

 

51. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらのものは、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、比丘が、その者の衣料を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、比丘が、その者の〔行乞の〕施食を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、比丘が、その者の臥坐具を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、比丘が、その者の病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つのものがあり、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、また、そして、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる(※)、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──

 

※ テキストには ratanavarānamālayaṃ とあるが、PTS版により ratnagaṇānamālayaṃ と読む。

 

 このように、食べ物を施し飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の功徳が流れ行くものの経

 

52. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらのものは、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、この第一のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。比丘たちよ、この第二のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。比丘たちよ、この第三のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、この第四のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つのものがあり、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──

 

 その者に、僧団にたいする清信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の共住の経

 

53. 或る時のことです。世尊は、かつまた、マドゥラーの、かつまた、ヴェーランジャーの、それぞれの中途において、旅の道を行く者として〔世に〕有ります。まさに、また、大勢の、そして、家長たちが、さらに、主婦たちが、かつまた、マドゥラーの、かつまた、ヴェーランジャーの、それぞれの中途において、旅の道を行く者たちとして〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元において坐りました。まさに、そして、家長たちは、さらに、主婦たちは、世尊が、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの、そして、家長たちに、さらに、主婦たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「家長たちよ、四つのものがあります。これらの共住です。どのようなものが、四つのものなのですか。卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住します。卑賎の者が、王妃を相手に共住します。陛下が、卑賎の女を相手に共住します。陛下が、王妃を相手に共住します。

 

 家長たちよ、では、どのように、卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住するのですか。家長たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として、虚偽を説く者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。彼の妻もまた、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住します。

 

 家長たちよ、では、どのように、卑賎の者が、王妃を相手に共住するのですか。家長たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。彼の妻は、まさに、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、卑賎の者が、王妃を相手に共住します。

 

 家長たちよ、では、どのように、陛下が、卑賎の女を相手に共住するのですか。家長たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。彼の妻は、まさに、命あるものを殺す者として……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、陛下が、卑賎の女を相手に共住します。

 

 家長たちよ、では、どのように、陛下が、王妃を相手に共住するのですか。家長たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺すことから離間した者として……略……戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。彼の妻もまた、命あるものを殺すことから離間した者として……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、陛下が、王妃を相手に共住します。家長たちよ、まさに、これらの四つの共住があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、両者が、劣戒の者たちとして、吝嗇の者たちとして、口撃する者たちとして、〔世に〕有るなら、彼らは、卑賎の共住に赴いた妻と夫として〔世に〕有る。

 

 夫が、劣戒の者として、吝嗇の者として、口撃する者として、〔世に〕有り、妻が、戒ある者として、寛容なる者として、物惜〔の思い〕を離れた者として、〔世に〕有るなら、彼女は、たとえ、王妃なるも、卑賎の夫を相手に共住する。

 

 夫が、戒ある者として、寛容なる者として、物惜〔の思い〕を離れた者として、〔世に〕有り、妻が、劣戒の者として、吝嗇の者として、口撃する者として、〔世に〕有るなら、彼女は、たとえ、卑賎なるも、陛下の夫を相手に共住する。

 

 両者が、信ある者たちであり、そして、寛容なる者たちであり、自制ある者たちであり、法(正義)の生ある者たちであるなら、彼らは、互いに他と愛語ある妻と夫として〔世に〕有る。

 

 これらの者たちには、多岐にわたる義(利益)が有り、平穏〔の住〕が生まれ、両者が、等しき戒ある者たちであるなら、〔彼らの〕朋友ならざる者(敵)たちは、失意の者たちと成る。

 

 等しき戒と掟ある者たちとして、両者は、この〔世において〕、法(正義)〔の道〕を歩んで、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の共住の経

 

54. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの共住です。どのようなものが、四つのものなのですか。卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住します。卑賎の者が、王妃を相手に共住します。陛下が、卑賎の女を相手に共住します。陛下が、王妃を相手に共住します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住するのですか。比丘たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。彼の妻もまた、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、卑賎の者が、卑賎の女を相手に共住します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、卑賎の者が、王妃を相手に共住するのですか。比丘たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺す者として……略……誤った見解ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。彼の妻は、まさに、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、卑賎の者が、王妃を相手に共住します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、陛下が、卑賎の女を相手に共住するのですか。比丘たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。彼の妻は、まさに、命あるものを殺す者として……略……誤った見解ある者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、陛下が、卑賎の女を相手に共住します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、陛下が、王妃を相手に共住するのですか。比丘たちよ、ここに、夫が、命あるものを殺すことから離間した者として……略……正しい見解ある者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。彼の妻もまた、命あるものを殺すことから離間した者として……略……正しい見解ある者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住し、沙門や婆羅門たちを罵倒も口撃もしない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、陛下が、王妃を相手に共住します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの共住があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、両者が、劣戒の者たちとして、吝嗇の者たちとして、口撃する者たちとして、〔世に〕有るなら、彼らは、卑賎の共住に赴いた妻と夫として〔世に〕有る。

 

 夫が、劣戒の者として、吝嗇の者として、口撃する者として、〔世に〕有り、妻が、戒ある者として、寛容なる者として、物惜〔の思い〕を離れた者として、〔世に〕有るなら、彼女は、たとえ、王妃なるも、卑賎の夫を相手に共住する。

 

 夫が、戒ある者として、寛容なる者として、物惜〔の思い〕を離れた者として、〔世に〕有り、妻が、劣戒の者として、吝嗇の者として、口撃する者として、〔世に〕有るなら、彼女は、たとえ、卑賎なるも、陛下の夫を相手に共住する。

 

 両者が、信ある者たちであり、そして、寛容なる者たちであり、自制ある者たちであり、法(正義)の生ある者たちであるなら、彼らは、互いに他と愛語ある妻と夫として〔世に〕有る。

 

 これらの者たちには、多岐にわたる義(利益)が有り、平穏〔の住〕が生まれ、両者が、等しき戒ある者たちであるなら、〔彼らの〕朋友ならざる者(敵)たちは、失意の者たちと成る。

 

 等しき戒と掟ある者たちとして、両者は、この〔世において〕、法(正義)〔の道〕を歩んで、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の等しき生ある者たちの経

 

55. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ナクラピタル家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、かつまた、ナクラピタル家長が、かつまた、ナクラマータル主婦が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナクラピタル家長は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、ナクラマータル主婦が、まさしく、若くあるわたしのもとに、若くして迎え入れられたあと、意によってさえも、ナクラマータル主婦に背いたことを、〔わたしは〕証知しません。ましてや、身体については、なおさらです。尊き方よ、わたしたちは、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見ることを〔求め〕、さらに、未来の運命(来世)においても互いに他を見ることを求めます」と。まさに、ナクラマータル主婦もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、わたしが、まさしく、若くあるナクラピタル家長のもとに、若くして迎え入れられたあと、意によってさえも、ナクラピタル家長に背いたことを、〔わたしは〕証知しません。ましてや、身体については、なおさらです。尊き方よ、わたしたちは、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見ることを〔求め〕、さらに、未来の運命(来世)においても互いに他を見ることを求めます」と。

 

 「家長たちよ、もし、妻と夫の両者が、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見ることを〔望み〕、さらに、未来の運命においても互いに他を見ることを望むなら、まさしく、両者ともに、等しき信ある者たちとして、等しき戒ある者たちとして、等しき施捨ある者たちとして、等しき智慧ある者たちとして、〔世に〕存するでしょう。彼らは、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見、さらに、未来の運命(来世)においても互いに他を見ます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「両者が、信ある者たちであり、そして、寛容なる者たちであり、自制ある者たちであり、法(正義)の生ある者たちであるなら、彼らは、互いに他と愛語ある妻と夫として〔世に〕有る。

 

 これらの者たちには、多岐にわたる義(利益)が有り、平穏〔の住〕が生まれ、両者が、等しき戒ある者たちであるなら、〔彼らの〕朋友ならざる者たちは、失意の者たちと成る。

 

 等しき戒と掟ある者たちとして、両者は、この〔世において〕、法(正義)〔の道〕を歩んで、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の等しき生ある者たちの経

 

56. 「比丘たちよ、もし、妻と夫の両者が、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見ることを〔望み〕、さらに、未来の運命(来世)においても互いに他を見ることを望むなら、まさしく、両者ともに、等しき信ある者たちとして、等しき戒ある者たちとして、等しき施捨ある者たちとして、等しき智慧ある者たちとして、〔世に〕存するでしょう。彼らは、まさしく、そして、所見の法(現世)において互いに他を見、さらに、未来の運命においても互いに他を見ます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「両者が、信ある者たちであり、そして、寛容なる者たちであり、自制ある者たちであり、法(正義)の生ある者たちであるなら、彼らは、互いに他と愛語ある妻と夫として〔世に〕有る。

 

 これらの者たちには、多岐にわたる義(利益)が有り、平穏〔の住〕が生まれ、両者が、等しき戒ある者たちであるなら、〔彼らの〕朋友ならざる者たちは、失意の者たちと成る。

 

 等しき戒と掟ある者たちとして、両者は、この〔世において〕、法(正義)〔の道〕を歩んで、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. スッパヴァーサーの経

 

57. 或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、パッジャニカという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーに、世尊は、こう言いました。

 

 「スッパヴァーサーよ、食料を施している聖なる弟子は、納受する者たちに、四つの境位を施します。どのようなものが、四つのものなのですか。〔彼女は〕寿命を施し、色艶を施し、安楽を施し、活力を施します。また、まさに、〔彼女は〕寿命を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を分有する者と成り、色艶を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、色艶を分有する者と成り、安楽を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、安楽を分有する者と成り、活力を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、活力を分有する者と成ります。スッパヴァーサーよ、食料を施している聖なる弟子は、納受する者たちに、これらの四つの境位を施します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼女が、清らかで精妙で味を具した、善く形成された食料を施すなら、その施物は、行ないを具有した、大いなる至達者たちである、真っすぐに赴く者たちに施され、功徳によって功徳と適応しながら、大いなる果となる──世〔の一切〕を知る者(ブッダ)によって褒め称えられた〔施物〕として。

 

 このような祭祀を随念しながら、彼らが、感嘆〔の思い〕を生じ、世を渡り歩くなら、物惜の垢を根ごと取り除いて、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. スダッタの経

 

58. そこで、まさに、アナータピンディカ家長(スダッタ)が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、食料を施している聖なる弟子は、納受する者たちに、四つの境位を施します。どのようなものが、四つのものなのですか。〔彼は〕寿命を施し、色艶を施し、安楽を施し、活力を施します。また、まさに、〔彼は〕寿命を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を分有する者と成り、色艶を施して……略……安楽を施して……略……活力を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、活力を分有する者と成ります。家長よ、食料を施している聖なる弟子は、納受する者たちに、これらの四つの境位を施します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、他者によって施されたものを受益する自制者たちに、食料を、〔正しい〕時に、恭しく施し、四つの境位を供与するなら──そして、寿命を、かつまた、色艶を、安楽を、さらに、活力を──

 

 すなわち、寿命を施す者であり、色艶を施す者であり、安楽を〔施す者であり〕、活力を施す者であるなら、〔その〕人は、再生する、その場その場において、長寿の者と〔成り〕、福徳ある者と成る」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 食料の経

 

59. 「比丘たちよ、食料を施している施者は、納受する者たちに、四つの境位を施します。どのようなものが、四つのものなのですか。〔彼は〕寿命を施し、色艶を施し、安楽を施し、活力を施します。また、まさに、〔彼は〕寿命を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を分有する者と成り、色艶を施して……略……安楽を施して……略……活力を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、活力を分有する者と成ります。比丘たちよ、食料を施している施者は、納受する者たちに、これらの四つの境位を施します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、他者によって施されたものを受益する自制者たちに、食料を、〔正しい〕時に、恭しく施し、四つの境位を供与するなら──そして、寿命を、かつまた、色艶を、安楽を、さらに、活力を──

 

 すなわち、寿命を施す者であり、色艶を施す者であり、安楽を〔施す者であり〕、活力を施す者であるなら、〔その〕人は、再生する、その場その場において、長寿の者と〔成り〕、福徳ある者と成る」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 在家者として適正なることの経

 

60. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、盛名の獲得があり、天上〔への再生〕を等しく転起させる、在家者として適正なる〔実践の〕道を実践する者として〔世に〕有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、比丘の僧団を、衣料によって奉仕する者として〔世に〕有り、比丘の僧団を、〔行乞の〕施食によって奉仕する者として〔世に〕有り、比丘の僧団を、臥坐具によって奉仕する者として〔世に〕有り、比丘の僧団を、病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者として〔世に〕有ります。家長よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、盛名の獲得があり、天上〔への再生〕を等しく転起させる、在家者として適正なる〔実践の〕道を実践する者として〔世に〕有ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「賢者たちは、在家者として適正なる〔実践の〕道を実践する。奉仕者たちとして、正しき至達者たる戒ある者にたいし、衣料によって、〔行乞の〕施食と臥具によって、さらに、病のための日用品によって。

 

 彼らの功徳は、そして、昼に、さらに、夜に、常に増え行く。幸いなる行為を為して、そして、天上の境位に至り行く」と。〔以上が〕第十となる。

 

 功徳が流れ行くものの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの功徳が流れ行くもの、そして、二つの共住、等しき生ある者たち、スッパヴァーサー、そして、スダッタ、食料、在家者として適正なることがあり、〔章となる〕」と。

 

(7)2. 至得の行為の章

 

1. 至得の行為の経

 

61. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、四つのものがあります。これらの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。『諸々の財物が、法(正義)と共に、わたしに生起するのだ』と、これは、第一の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。

 

 『諸々の財物を、法(正義)と共に得て〔そののち〕、親族たちと共に、師父たちと共に、わたしに、盛名がやってくるのだ』と、これは、第二の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。

 

 『諸々の財物を、法(正義)と共に得て〔そののち〕、親族たちと共に、師父たちと共に、盛名を得て〔そののち〕、長きに生き、長寿を守るのだ』と、これは、第三の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。

 

 『諸々の財物を、法(正義)と共に得て〔そののち〕、親族たちと共に、師父たちと共に、盛名を得て〔そののち〕、長きに生きて、長寿を守って〔そののち〕、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生するのだ』と、これは、第四の、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。家長よ、まさに、これらの四つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)があります。

 

 家長よ、まさに、これらの四つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)の獲得のために、四つの法(性質)が等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。信の成就であり、戒の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。

 

 家長よ、では、どのようなものが、信の成就なのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚り(菩提)に信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。家長よ、これは、信の成就と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。家長よ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、施捨の成就なのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。家長よ、これは、施捨の成就と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、智慧の成就なのですか。家長よ、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された心で〔世に〕住んでいる者は、為すべきではないことを為し、為すべきことに違反します。為すべきではないことを為し、為すべきことに違反している者は、そして、福徳(盛名)から、さらに、安楽から、転落します。家長よ、憎悪〔の思い〕に征服された心で〔世に〕住んでいる者は、為すべきではないことを為し、為すべきことに違反します。為すべきではないことを為し、為すべきことに違反している者は、そして、福徳から、さらに、安楽から、転落します。家長よ、〔心の〕沈滞と眠気に征服された心で〔世に〕住んでいる者は、為すべきではないことを為し、為すべきことに違反します。為すべきではないことを為し、為すべきことに違反している者は、そして、福徳から、さらに、安楽から、転落します。家長よ、〔心の〕高揚と悔恨に征服された心で〔世に〕住んでいる者は、為すべきではないことを為し、為すべきことに違反します。為すべきではないことを為し、為すべきことに違反している者は、そして、福徳から、さらに、安楽から、転落します。家長よ、疑惑〔の思い〕に征服された心で〔世に〕住んでいる者は、為すべきではないことを為し、為すべきことに違反します。為すべきではないことを為し、為すべきことに違反している者は、そして、福徳から、さらに、安楽から、転落します。

 

 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕を捨棄します。『憎悪〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである憎悪〔の思い〕を捨棄します。『〔心の〕沈滞と眠気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである〔心の〕沈滞と眠気を捨棄します。『〔心の〕高揚と悔恨は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである〔心の〕高揚と悔恨を捨棄します。『疑惑〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである疑惑〔の思い〕を捨棄します。

 

 家長よ、そして、すなわち、まさに、聖なる弟子には、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕が捨棄されたものと成ることから、『憎悪〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成ることから、『〔心の〕沈滞と眠気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成ることから、『〔心の〕高揚と悔恨は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されたものと成ることから、『疑惑〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ることから、家長よ、この者は、『聖なる弟子として、大いなる智慧ある者であり、多々なる智慧ある者であり、視野ある見者であり、智慧を成就した者である』〔と〕説かれます。家長よ、これは、智慧の成就と説かれます。家長よ、まさに、これらの四つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)の獲得のために、これらの四つの法(性質)が等しく転起します。

 

 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、四つの至得の行為の為し手と成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、自己を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。母と父を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。子と妻と奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。これは、彼にとって、第一の、〔為すべき〕境位に至ったものと成り、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至ったものと〔成り〕、〔為すべき〕場所たることから遍く受益されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって──すなわち、それらの、あるいは、火からの、あるいは、水からの、あるいは、王からの、あるいは、盗賊からの、あるいは、愛しくない者からの、あるいは、相続者からの、諸々の逆境(収奪の危機)が有るとして、そのような形態の諸々の逆境にたいし、防衛のために等しく転起し、安穏なる自己を作り為します。これは、彼にとって、第二の、〔為すべき〕境位に至ったものと成り、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至ったものと〔成り〕、〔為すべき〕場所たることから遍く受益されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、五つの供物の為し手と成ります。親族への供物であり、客への供物であり、過去の亡者への供物であり、王への供物であり、天神への供物です。これは、彼にとって、第三の、〔為すべき〕境位に至ったものと成り、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至ったものと〔成り〕、〔為すべき〕場所たることから遍く受益されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって──すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、驕慢と放逸から離間した者たちであり、忍耐と温和において確立した者たちであり、一つのものとして自己を調御し、一つのものとして自己を平静ならしめ、一つのものとして自己を完全なる涅槃に到達させるなら、そのような形態の沙門や婆羅門たちにたいし施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。これは、彼にとって、第四の、〔為すべき〕境位に至ったものと成り、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至ったものと〔成り〕、〔為すべき〕場所たることから遍く受益されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、これらの四つの至得の行為の為し手と成ります。家長よ、これらの四つの至得の行為より他に、すなわち、誰のものであれ、諸々の財物が、完全なる滅尽に至るなら、家長よ、これらの財物は、〔為すべき〕境位に至らざるものと〔説かれ〕、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至らざるものと〔説かれ〕、〔為すべき〕場所たることなく遍く受益されたものと説かれます。家長よ、これらの四つの至得の行為によって、すなわち、誰のものであれ、諸々の財物が、完全なる滅尽に至るとして、家長よ、これらの財物は、〔為すべき〕境位に至ったものと〔説かれ〕、〔為すべき〕至得〔の行為〕に至ったものと〔説かれ〕、〔為すべき〕場所たることから遍く受益されたものと説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『諸々の財物は享受され、養われるべき者たちは養われた。諸々の逆境あるときも、わたしによって超え渡るところとなった。高所に至らせる施物は施され、そこで、五つの供物は作り為された。自制ある梵行者たちである、戒ある者たちは奉仕された。

 

 家に居住している賢者が、それを義(目的)として財物を求める、〔まさに〕その義(目的)は、わたしによって至り得るところとなり、悩み苦しむことなく作り為された』〔と〕。

 

 このことを随念しながら、人として、死すべき者なるも、聖なる法(教え)において安立したなら──まさしく、この〔世において〕、彼を、〔賢者たちは〕賞賛し──〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 借りなきものの経

 

62. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、四つのものがあります。これらの、欲望の享受者たる在家者によって、〔その〕時〔その〕時に、〔その〕時点〔その〕時点に、〔正しく〕取得して到達するべき安楽です。どのようなものが、四つのものなのですか。〔現に〕存在する安楽であり、財物の安楽であり、借りなき安楽であり、罪過なき安楽です。

 

 家長よ、では、どのようなものが、〔現に〕存在する安楽なのですか。家長よ、ここに、良家の子息に、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物が有ります。彼は、『わたしには、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物が存在する』と、安楽に到達し、悦意に到達します。家長よ、これは、〔現に〕存在する安楽と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、財物の安楽なのですか。家長よ、ここに、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって享受し、さらに、諸々の功徳を作り為します。彼は、『奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって享受し、さらに、諸々の功徳を作り為す』と、安楽に到達し、悦意に到達します。家長よ、これは、財物の安楽と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、借りなき安楽なのですか。家長よ、ここに、良家の子息が、あるいは、僅かな〔借り〕も、あるいは、多くの〔借り〕も、何であれ、誰にも負いません。彼は、『あるいは、僅かな〔借り〕も、あるいは、多くの〔借り〕も、何であれ、誰にも負わない』と、安楽に到達し、悦意に到達します。家長よ、これは、借りなき安楽と説かれます。

 

 家長よ、では、どのようなものが、罪過なき安楽なのですか。家長よ、ここに、良家の子息が、罪過なき身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。彼は、『罪過なき身体の行為を具備した者として、罪過なき言葉の行為を具備した者として、罪過なき意の行為を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、安楽に到達し、悦意に到達します。家長よ、これは、罪過なき安楽と説かれます。家長よ、まさに、これらの四つの、欲望の享受者たる在家者によって、〔その〕時〔その〕時に、〔その〕時点〔その〕時点に、〔正しく〕取得して到達するべき安楽があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「借りなき安楽を知って、そこで、他に、〔現に〕存在する安楽を〔知って〕、人は、財物の安楽を享受しながら、そののち、智慧によって観察する。

 

 〔智慧によって〕観察しながら、思慮深き者は、〔これらの三つの安楽と罪過なき安楽の〕両部〔の安楽〕を(※)知る。『この〔安楽〕は、罪過なき安楽の、十六分の一にも値しない』」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには ubho bhoge とあるが、PTS版により ubho bhāge と読む。

 

3. 梵〔天〕たちの経

 

63. 「比丘たちよ、それらの家は、梵〔天〕たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、往古の師匠たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、往古の天神たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、〔供物を〕捧げるべき者たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。

 

 比丘たちよ、『梵〔天〕たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『往古の師匠たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『往古の天神たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『〔供物を〕捧げるべき者たち』とは、これは、母と父の同義語です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、母と父は、子供たちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、育成者たちであり、養育者たちであり、この世の見示者たちであるからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「母と父は、『梵〔天〕たち』と〔説かれ〕、『往古の師匠たち』と説かれる。そして、子供たちにとって、〔供物を〕捧げるべき者たちであり、子孫にたいし、慈しみ〔の思い〕ある者たちである。

 

 まさに、それゆえに、賢者は、彼らを、礼拝するべきであり、かつまた、尊敬するべきである。食べ物によって、さらに、飲み物によって、衣によって、かつまた、臥具によって、塗油によって、沐浴によって、そして、〔両の〕足を洗い清めることによって。

 

 母と父にたいする、その世話によって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 地獄の経

 

64. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「命あるものを殺すこと、与えられていないものを取ること、そして、虚偽を説く者と説かれること、さらに、また、他者の妻のもとに赴くこと──賢者たちは、〔それらを〕賞賛しない」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 形態の経

 

65. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。形態を基準とし形態に清信ある者であり、評判を基準とし評判に清信ある者であり、粗末(質素な衣や所持品)を基準とし粗末に清信ある者であり、法(真理)を基準とし法(真理)に清信ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、形態によって量った者たち(※)、さらに、すなわち、評判によって従い行く者たち──彼らは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の支配に近しく至った人たちであり、〔あるがままに〕証知しない。

 

※ テキストには rūpe pamāṇiṃsu とあるが、PTS版により rūpena pāmiṃsu と読む。

 

 そして、内に知らず、さらに、外に見ず、遍きにわたり妨げある愚者は、彼は、まさに、評判によって運ばれる。

 

 そして、内に知らず、さらに、外に観察し、外に果を見る者は、彼もまた、評判によって運ばれる。

 

 そして、内に覚知し、さらに、外に観察し、妨害するものを離れて見る者は、彼は、評判によって運ばれない」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 貪欲を有する者の経

 

66. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。貪欲()を有する者であり、憤怒()を有する者であり、迷妄()を有する者であり、思量()を有する者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の貪るべきもの(欲望の対象)にたいし貪染した者たち、愛しい形態に愉悦〔の思い〕ある者たち──迷妄に覆われ結縛された有情たちは、〔自らの〕結縛を増大させる。

 

 貪欲から生じるものを、そして、また、憤怒から生じるものを、さらに、また、迷妄から生じるものを──悩苦を有し苦痛を生成する善ならざる行為を、無知なる者たちは、〔無知なるままに〕作り為す。

 

 無明に覆われた人たちは、盲者と成った眼なき者たちは、諸々の法(性質)のとおり、そのとおりに存しているのに、それについて、『そのとおり』と思わない」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 蛇の王の経

 

67. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サーヴァッティーにおいて、或るひとりの比丘が、蛇に咬まれ命を終えるところと成ります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、サーヴァッティーにおいて、或るひとりの比丘が、蛇に咬まれ命を終えたのです」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、まちがいなく、その比丘は、四つの蛇の王の家系を慈愛の心で充満しませんでした。比丘たちよ、なぜなら、それで、もし、その比丘が、四つの蛇の王の家系を慈愛の心で充満するなら、比丘たちよ、まさに、その比丘が、蛇に咬まれ命を終えることはないからです。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。ヴィルーパッカ〔族〕の蛇の王の家系であり、エーラーパタ〔族〕の蛇の王の家系であり、チャブヤープッタ〔族〕の蛇の王の家系であり、カンハーゴータマカ〔族〕の蛇の王の家系です。比丘たちよ、まさに、まちがいなく、その比丘は、これらの四つの蛇の王の家系を慈愛の心で充満しませんでした。比丘たちよ、なぜなら、それで、もし、その比丘が、これらの四つの蛇の王の家系を慈愛の心で充満するなら、比丘たちよ、まさに、その比丘が、蛇に咬まれ命を終えることはないからです。

 

 比丘たちよ、自己の保護のために、自己の守護のために、自己の救護のために、これらの四つの蛇の王の家系を、慈愛の心で充満することを、〔わたしは〕規定します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「わたしの慈愛〔の心〕は、ヴィルーパッカ〔族〕の者たちとともにある。わたしの慈愛〔の心〕は、エーラーパタ〔族〕の者たちとともにある。わたしの慈愛〔の心〕は、チャブヤープッタ〔族〕の者たちとともにある。そして、〔わたしの〕慈愛〔の心〕は、カンハーゴータマカ〔族〕の者たちとともにある。

 

 わたしの慈愛〔の心〕は、無足の者たちとともにある。わたしの慈愛〔の心〕は、二足の者たちとともにある。わたしの慈愛〔の心〕は、四足の者たちとともにある。わたしの慈愛〔の心〕は、多足の者たちとともにある。

 

 無足の者は、わたしを害してはならない。二足の者は、わたしを害してはならない。四足の者は、わたしを害してはならない。多足の者は、わたしを害してはならない。

 

 一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、さらに、一切の精霊たちは、全部の者たちが、全ての者たちが、諸々の幸せを見よ。誰にであれ、悪しきことが到来してはならない。

 

 無量なるは、覚者である。無量なるは、法(教え)である。無量なるは、僧団である。量あるは、蛇行するものたちであり、蛇や蠍や百足たちであり、蜘蛛や蜥蜴や鼠たちである。

 

 わたしは、〔自己の〕守護を為した。わたしは、〔自己の〕救護を為した。精霊たちは退散せよ。〔まさに〕その、わたしは、世尊に礼拝を〔為し〕、七者の正等覚者たちに礼拝を〔為す〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. デーヴァダッタの経

 

68. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。比丘たちよ、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、芭蕉が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、竹が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、葦が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、雌騾馬が、自己を打ち殺すために妊娠し、滅び行くために妊娠するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔成熟した〕果は、まさに、芭蕉を損なう。〔成熟した〕果は、竹を。〔成熟した〕果は、葦を。〔他者の〕尊敬は、悪しき人を損なう。あたかも、〔妊娠した〕胎が、雌騾馬を〔損なう〕ように」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 精励の経

 

69. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの精励です。どのようなものが、四つのものなのですか。統御の精励であり、捨棄の精励であり、修行の精励であり、守護の精励です。比丘たちよ、では、どのようなものが、統御の精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、統御の精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、捨棄の精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、捨棄の精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、修行の精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、修行の精励と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、守護の精励なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、守護の精励と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの精励があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、統御、さらに、捨棄、修行、守護──これらの四つの精励が、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された。それらによって(※)、比丘は、ここに、熱情ある者となり、苦しみの滅尽に至り得るであろう」と。〔以上が〕第九となる。

 

※ テキストには Yo hi とあるが、PTS版により Yehi と読む。

 

10. 法にかなわないものの経

 

70. 「比丘たちよ、その時点において、王たちが、法(正義)にかなわない者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、王に専従する者たちもまた、法(正義)にかなわない者たちとして〔世に〕有ります。王に専従する者たちが、法(正義)にかなわない者たちであるとき、婆羅門や家長たちもまた、その時点において、法(正義)にかなわない者たちとして〔世に〕有ります。婆羅門や家長たちが、法(正義)にかなわない者たちであるとき、町や地方の者たちもまた、その時点において、法(正義)にかなわない者たちとして〔世に〕有ります。町や地方の者たちが、法(正義)にかなわない者たちであるとき、月と日は、正常ならずに遍く転起します。月と日が、正常ならずに遍く転起しているとき、諸々の星宿と星の光は、正常ならずに遍く転起します。諸々の星宿と星の光が、正常ならずに遍く転起しているとき、諸々の夜と昼は、正常ならずに遍く転起します。諸々の夜と昼が、正常ならずに遍く転起しているとき、諸々の月と半月は、正常ならずに遍く転起します。諸々の月と半月が、正常ならずに遍く転起しているとき、諸々の季節と年月は、正常ならずに遍く転起します。諸々の季節と年月が、正常ならずに遍く転起しているとき、諸々の風は、正常ならず秩序なきものとなり、正常ならずに吹きます。諸々の風が、正常ならず秩序なきものとなり、正常ならずに吹くとき、天神たちは、遍く動乱した者たちと成ります。天神たちが、遍く動乱した者たちと成るとき、天は、正しく流雨を授けません。天が、正しく流雨を授けずにいるとき、諸々の正常ならざる成熟の作物が有ります。比丘たちよ、人間たちは、諸々の正常ならざる成熟の作物を遍く受益しながら、少寿の者たちと成り、かつまた、悪しき色艶の者たちと〔成り〕、さらに、多病の者たちと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、その時点において、王たちが、法(正義)にかなう者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、王に専従する者たちもまた、法(正義)にかなう者たちとして〔世に〕有ります。王に専従する者たちが、法(正義)にかなう者たちであるとき、婆羅門や家長たちもまた、その時点において、法(正義)にかなう者たちとして〔世に〕有ります。婆羅門や家長たちが、法(正義)にかなう者たちであるとき、町や地方の者たちもまた、その時点において、法(正義)にかなう者たちとして〔世に〕有ります。町や地方の者たちが、法(正義)にかなう者たちであるとき、月と日は、正常に遍く転起します。月と日が、正常に遍く転起しているとき、諸々の星宿と星の光は、正常に遍く転起します。諸々の星宿と星の光が、正常に遍く転起しているとき、諸々の夜と昼は、正常に遍く転起します。諸々の夜と昼が、正常に遍く転起しているとき、諸々の月と半月は、正常に遍く転起します。諸々の月と半月が、正常に遍く転起しているとき、諸々の季節と年月は、正常に遍く転起します。諸々の季節と年月が、正常に遍く転起しているとき、諸々の風は、正常で秩序あるものとなり、正常に吹きます。諸々の風が、正常で秩序あるものとなり、正常に吹くとき、天神たちは、遍く動乱しない者たちと成ります。天神たちが、遍く動乱しない者たちと成るとき、天は、正しく流雨を授けます。天が、正しく流雨を授けているとき、諸々の正常なる成熟の作物が有ります。比丘たちよ、人間たちは、諸々の正常なる成熟の作物を遍く受益しながら、そして、長寿の者たちと成り、かつまた、色艶ある者たちと〔成り〕、かつまた、活力ある者たちと〔成り〕、さらに、病苦少なき者たちと〔成ります〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「もし、牛たちが〔川を〕超えつつあるに、雄牛が、曲がり赴くなら、それら〔の雌牛たち〕は、全ての者たちが、〔雄牛に追従して〕曲がり赴く──導く者が、曲がり赴いた者として存しているうちは。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、彼が、最勝者として敬われ、〔世に〕有るとして、もし、彼が、法(正義)ならざる〔道〕を歩むなら、なおのこと、他の人々は、〔法ならざる道を歩むであろう〕。もし、王が、法(正義)ならざる者として〔世に〕有るなら、国土は、〔その〕全てが、苦痛のうちに臥す。

 

 もし、牛たちが〔川を〕超えつつあるに、雄牛が、真っすぐに赴くなら、〔それらの〕雌牛たちは、全ての者たちが、〔雄牛に追従して〕真っすぐに赴く──導く者が、真っすぐに赴く者として存しているうちは。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、彼が、最勝者として敬われ、〔世に〕有るとして、それで、もし、彼が、法(正義)〔の道〕を歩むなら、なおのこと、他の人々は、〔法の道を歩むであろう〕。もし、王が、法(正義)にかなう者として〔世に〕有るなら、国土は、〔その〕全てが、安楽のうちに臥す」と。〔以上が〕第十となる。

 

 至得の行為の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「至得の行為、借りなきもの、梵〔天〕たちを有するものと地獄があり、第五のものとして、形態とともに、貪欲を有する者と蛇の王、デーヴァダッタ、精励があり、さらに、法(正義)にかなわない者とともに、〔章となる〕」と。

 

(8)3. 雑物なきものの章

 

1. 精励の経

 

71. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 正しい見解の経

 

72. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考であり、正しい見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 正なる人士の経

 

73. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正ならざる人士と知られるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、それが他者の栄誉ならざることとして有るなら、正ならざる人士は、たとえ、尋ねられなかったとして、それを明らかと為します。尋ねられたばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らさずして、落とさずして、遍く満ちるものとして、詳細〔の観点〕によって、他者の栄誉ならざることを語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正ならざる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが他者の栄誉として有るなら、正ならざる人士は、たとえ、尋ねられたとして、それを明らかと為しません。尋ねられなかったばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らして、落として、遍く満ちないものとして、詳細ならざる〔観点〕によって、他者の栄誉を語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正ならざる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが自己の栄誉ならざることとして有るなら、正ならざる人士は、たとえ、尋ねられたとして、それを明らかと為しません。尋ねられなかったばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らして、落として、遍く満ちないものとして、詳細ならざる〔観点〕によって、自己の栄誉ならざることを語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正ならざる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが自己の栄誉として有るなら、正ならざる人士は、たとえ、尋ねられなかったとして、それを明らかと為します。尋ねられたばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らさずして、落とさずして、遍く満ちるものとして、詳細〔の観点〕によって、自己の栄誉を語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正ならざる人士として〔世に〕有る』と。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、正ならざる人士と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる人士と知られるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、それが他者の栄誉ならざることとして有るなら、正なる人士は、たとえ、尋ねられたとして、それを明らかと為しません。尋ねられなかったばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らして、落として、遍く満ちないものとして、詳細ならざる〔観点〕によって、他者の栄誉ならざることを語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正なる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが他者の栄誉として有るなら、正なる人士は、たとえ、尋ねられなかったとして、それを明らかと為します。尋ねられたばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らさずして、落とさずして、遍く満ちるものとして、詳細〔の観点〕によって、他者の栄誉を語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正なる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが自己の栄誉ならざることとして有るなら、正なる人士は、たとえ、尋ねられなかったとして、それを明らかと為します。尋ねられたばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らさずして、落とさずして、遍く満ちるものとして、詳細〔の観点〕によって、自己の栄誉ならざることを語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正なる人士として〔世に〕有る』と。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、それが自己の栄誉として有るなら、正なる人士は、たとえ、尋ねられたとして、それを明らかと為しません。尋ねられなかったばあいは、また、何の論があるというのでしょう。また、まさに、問うために連れ出され、尋ねられたなら、減らして、落として、遍く満ちないものとして、詳細ならざる〔観点〕によって、自己の栄誉を語る者として有ります。比丘たちよ、このことが知られるべきです。『この者は、正なる人士として〔世に〕有る』と。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、正なる人士と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、嫁が、迎え入れられた者として有るなら、まさしく、あるいは、その夜のあいだ、あるいは、その昼のあいだ、まさしく、それまでは、彼女には、姑にたいしてもまた、舅にたいしてもまた、夫にたいしてもまた、もしくは、奴隷や労夫や下僕にたいしても、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が現起されたものとして有り、彼女は、他時にあって、共住するに従って、信頼するに従って、姑にもまた、舅にもまた、夫にもまた、『出て行ってください。さてまた、あなたたちが、何を知っているというのでしょう』と、このように言うように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、家なきへと出家した者として〔世に〕有るなら、まさしく、あるいは、その夜のあいだ、あるいは、その昼のあいだ、まさしく、それまでは、彼には、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちにたいしてもまた、もしくは、園丁や見習い沙門たちにたいしても、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が現起されたものとして有り、彼は、他時にあって、共住するに従って、信頼するに従って、師匠にもまた、師父にもまた、『出て行ってください。さてまた、あなたたちが、何を知っているというのでしょう』と、このように言います。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『新参の嫁に等しき心で〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の至高の経

 

74. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの至高のものです。どのようなものが、四つのものなのですか。戒の至高であり、禅定の至高であり、智慧の至高であり、解脱の至高です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの至高のものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の至高の経

 

75. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの至高のものです。どのようなものが、四つのものなのですか。形態の至高であり、感受の至高であり、表象の至高であり、生存の至高です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの至高のものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. クシナーラーの経

 

76. 或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林において。対なるサーラ〔樹〕(沙羅双樹)の間にあって、完全なる涅槃の時のこと。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在するなら、比丘たちよ、尋ねなさい。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『わたしたちの面前に有る者として、教師は有ったが、〔わたしたちは〕世尊を面前にしながら、質問することができなかった』」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。再度また、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在するなら、比丘たちよ、尋ねなさい。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『わたしたちの面前に有る者として、教師は有ったが、〔わたしたちは〕世尊を面前にしながら、質問することができなかった』」と。再度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。三度また、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在するなら、比丘たちよ、尋ねなさい。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。『わたしたちの面前に有る者として、教師は有ったが、〔わたしたちは〕世尊を面前にしながら、質問することができなかった』」と。三度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、たとえ、教師への尊重〔の思い〕によって、〔あなたたちが〕尋ねず、〔そのように〕存しているとして、比丘たちよ、道友としてもまた、道友のために告げるのです」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、このように清信した者として、わたしはあります。『この比丘の僧団においては、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在しない』」と。

 

 「アーナンダよ、清信あることから、まさに、あなたは説きます。アーナンダよ、まさに、ここにおいて、如来には、まさしく、知恵があります。『この比丘の僧団においては、たとえ、一者の比丘にであれ、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、あるいは、覚者について、あるいは、法(教え)について、あるいは、僧団について、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、存在しない』〔と〕。アーナンダよ、これらの五百の比丘たちの、すなわち、最後の比丘であれ、彼は、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 不可思議なるものの経

 

77. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、不可思議にして、思い考えるべきではないものです。それらを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、覚者たちの覚者の境域は、不可思議にして、思い考えるべきではないものです。それを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう。比丘たちよ、瞑想者の瞑想の境域は、不可思議にして、思い考えるべきではないものです。それを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう。比丘たちよ、行為の報いは、不可思議にして、思い考えるべきではないものです。それを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう。比丘たちよ、世についての思弁は、不可思議にして、思い考えるべきではないものです。それを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、不可思議にして、思い考えるべきではないものがあります。それらを思い考えている者は、狂気と悩苦を分有する者として〔世に〕存するでしょう」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 施物の経

 

78. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの施物の清浄です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、施者ゆえに清浄となる、施物が存在します──納受者ゆえに、ではなく。比丘たちよ、納受者ゆえに清浄となる、施物が存在します──施者ゆえに、ではなく。比丘たちよ、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となら〕ない、施物が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となる〕、施物が存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、施物は、施者ゆえに清浄となるのですか──納受者ゆえに、ではなく。比丘たちよ、ここに、施者が、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちが、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、施物は、施者ゆえに清浄となります──納受者ゆえに、ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、施物は、納受者ゆえに清浄となるのですか──施者ゆえに、ではなく。比丘たちよ、ここに、施者が、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちが、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、施物は、納受者ゆえに清浄となります──施者ゆえに、ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、施物は、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となら〕ないのですか。比丘たちよ、ここに、施者が、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちもまた、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、施物は、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となり〕ません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、施物は、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となる〕のですか。比丘たちよ、ここに、施者が、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちもまた、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、施物は、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となります〕。比丘たちよ、まさに、これらの四つの施物の清浄があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 商売の経

 

79. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、断絶に赴くものと成るのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するとおりと成らないのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するとおりと成るのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するものを超えるものと成るのですか」と。

 

 「サーリプッタよ、ここに、一部の者は、近づいて行って、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔供養を〕申し出ます。『尊き方よ、説きたまえ。〔必要とする〕日用品があるなら』と。彼は、その〔日用品〕による〔供養を〕申し出ますが、それを施しません。もし、彼が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、まさしく、その〔商売〕その商売に、彼が専念するとして、彼にとって、その〔商売〕は、断絶に赴くものと成ります。

 

 サーリプッタよ、また、ここに、一部の者は、近づいて行って、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔供養を〕申し出ます。『尊き方よ、説きたまえ。〔必要とする〕日用品があるなら』と。彼は、その〔日用品〕による〔供養を〕申し出ますが、それを、志向するとおりに施しません。もし、彼が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、まさしく、その〔商売〕その商売に、彼が専念するとして、彼にとって、その〔商売〕は、志向するとおりと成りません。

 

 サーリプッタよ、ここに、一部の者は、近づいて行って、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔供養を〕申し出ます。『尊き方よ、説きたまえ。〔必要とする〕日用品があるなら』と。彼は、その〔日用品〕による〔供養を〕申し出ますが、それを、志向するとおりに施します。もし、彼が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、まさしく、その〔商売〕その商売に、彼が専念するとして、彼にとって、その〔商売〕は、志向するとおりと成ります。

 

 サーリプッタよ、ここに、一部の者は、近づいて行って、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔供養を〕申し出ます。『尊き方よ、説きたまえ。〔必要とする〕日用品があるなら』と。彼は、その〔日用品〕による〔供養を〕申し出ますが、それを、志向するものを超えて施します。もし、彼が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、まさしく、その〔商売〕その商売に、彼が専念するとして、彼にとって、その〔商売〕は、志向するものを超えるものと成ります。

 

 サーリプッタよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、断絶に赴くものと成ります。サーリプッタよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するとおりと成りません。サーリプッタよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するとおりと成ります。サーリプッタよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者にとって、まさしく、それなりに専念した商売が、志向するものを超えるものと成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. カンボージャの経

 

80. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、女性は、まさしく、集会場のうちに坐らず、生業に従事せず、カンボージャに赴かないのですか(活動的にならないのですか)」と。「アーナンダよ、忿激する者として、女性はあります。アーナンダよ、嫉妬ある者として、女性はあります。アーナンダよ、物惜ある者として、女性はあります。アーナンダよ、智慧浅き者として、女性はあります。アーナンダよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、女性は、まさしく、集会場のうちに坐らず、生業に従事せず、カンボージャに赴きません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 雑物なきものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「精励、見解と正なる人士と嫁、そして、二つの至高が有り、クシナーラーと不可思議なるもの、そして、施物、商売、カンボージャがあり、〔章となる〕」と。

 

(9)4. 〔心の〕動揺なき者の章

 

1. 命あるものを殺すことの経

 

81. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 虚偽を説くことの経

 

82. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 栄誉ならざることに値する者の経

 

83. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に価する者の栄誉ならざることを語ります。随知せずして、深解せずして、清信するべきではない状況において清信を示します。随知せずして、深解せずして、清信するべき状況において清信なきを示します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に価する者の栄誉を語ります。随知して、深解して、清信するべきではない状況において清信なきを示します。随知して、深解して、清信するべき状況において清信を示します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 忿激を重きとする者の経

 

84. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。忿激を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者として〔世に〕有り、偽装を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者として〔世に〕有り、利得を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者として〔世に〕有り、尊敬を重きとし正なる法(教え)を重きとしない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる法(教え)を重きとし忿激を重きとしない者として〔世に〕有り、正なる法(教え)を重きとし偽装を重きとしない者として〔世に〕有り、正なる法(教え)を重きとし利得を重きとしない者として〔世に〕有り、正なる法(教え)を重きとし尊敬を重きとしない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 闇から闇の経

 

85. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。闇から闇を行き着く所とする者であり、闇から光を行き着く所とする者であり、光から闇を行き着く所とする者であり、光から光を行き着く所とする者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、闇から闇を行き着く所とする者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。そして、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、闇から闇を行き着く所とする者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、闇から光を行き着く所とする者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。そして、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、闇から光を行き着く所とする者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、光から闇を行き着く所とする者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。そして、彼は、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者として。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、光から闇を行き着く所とする者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、光から光を行き着く所とする者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。そして、彼は、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者として。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、光から光を行き着く所とする者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 低きから低くある者の経

 

86. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。低きから低くある者であり、低きから高くある者であり、高きから低くある者であり、高きから高くある者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 子の経

 

87. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。〔心の〕動揺なき沙門であり、白蓮たる沙門であり、赤蓮たる沙門であり、沙門たちにおける繊細なる沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔いまだ〕学びある者(有学)として〔世に〕有るも、〔道の〕実践者として、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、即位灌頂した王たる士族の長子が、〔未来の〕灌頂者としてあり、〔いまだ〕灌頂されざるも、〔心の〕動揺に至り得ない者としてあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、〔いまだ〕学びある者として〔世に〕有り、〔道の〕実践者として、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、白蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。しかしながら、まさに、八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)を身体によって体得して〔世に〕住みません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、白蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、赤蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。そして、八つの解脱を身体によって体得して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、赤蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの〔行乞の〕施食を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの臥坐具を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。また、まさに、すなわち、梵行を共にする者たちと共に住むなら、彼らは、彼のために、まさしく、意に適う身体の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔身体の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適う言葉の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔言葉の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適う意の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔意の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適うものとして、多くの提供物を提供します──少しのものを、意に適わないものとして〔提供します〕。また、まさに、すなわち、それらの感受されるべき〔苦痛〕として、あるいは、胆汁から等しく現起するもの、あるいは、痰から等しく現起するもの、あるいは、風から等しく現起するもの、あるいは、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合のもの、あるいは、季節の変化から生じるもの、あるいは、変事の襲来から生じるもの、あるいは、突然のもの、あるいは、行為の報い(業報)から生じるものがあるも、いっぽう、彼に、それら〔の感受されるべき苦痛〕は、まさしく、多くは生起しません。〔彼は〕病苦少なき者として〔世に〕有ります。卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、まさに、わたしは、まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの〔行乞の〕施食を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの臥坐具を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。また、まさに、すなわち、比丘たちと共に住むなら、彼らは、わたしのために、まさしく、意に適う身体の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔身体の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適う言葉の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔言葉の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適う意の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔意の行為〕によって〔実行します〕。まさしく、意に適うものとして、多くの提供物を提供します──少しのものを、意に適わないものとして〔提供します〕。また、まさに、すなわち、それらの感受されるべき〔苦痛〕として、あるいは、胆汁から等しく現起するもの、あるいは、痰から等しく現起するもの、あるいは、風から等しく現起するもの、あるいは、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合のもの、あるいは、季節の変化から生じるもの、あるいは、変事の襲来から生じるもの、あるいは、突然のもの、あるいは、行為の報いから生じるものがあるも、わたしに、それら〔の感受されるべき苦痛〕は、まさしく、多くは生起しません。わたしは、病苦少なき者として〔世に〕有ります。卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 束縛するものの経

 

88. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。〔心の〕動揺なき沙門であり、白蓮たる沙門であり、赤蓮たる沙門であり、沙門たちにおける繊細なる沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、白蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、白蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、赤蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、人は、赤蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 正しい見解の経

 

89. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。〔心の〕動揺なき沙門であり、白蓮たる沙門であり、赤蓮たる沙門であり、沙門たちにおける繊細なる沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、正しい見解(正見)ある者と成り、正しい思惟(正思惟)ある者と成り、正しい言葉(正語)ある者と成り、正しい行業(正業)ある者と成り、正しい生き方(正命)ある者と成り、正しい努力(正精進)ある者と成り、正しい気づき(正念)ある者と成り、正しい禅定(正定)ある者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、白蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、正しい見解ある者と成り、正しい思惟ある者と成り、正しい言葉ある者と成り、正しい行業ある者と成り、正しい生き方ある者と成り、正しい努力ある者と成り、正しい気づきある者と成り、正しい禅定ある者と成り、正しい知恵ある者と成り、正しい解脱ある者と成ります。しかしながら、まさに、八つの解脱を身体によって体得して〔世に〕住みません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、白蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、赤蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、正しい見解ある者と成り……略……正しい解脱ある者と成ります。そして、八つの解脱を身体によって体得して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、赤蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。……略……。比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 範疇の経

 

90. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。〔心の〕動揺なき沙門であり、白蓮たる沙門であり、赤蓮たる沙門であり、沙門たちにおける繊細なる沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔いまだ〕学びある者として〔世に〕有り、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者として、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔心の〕動揺なき沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、白蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。しかしながら、まさに、八つの解脱を身体によって体得して〔世に〕住みません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、白蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、赤蓮たる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。そして、八つの解脱を身体によって体得して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、赤蓮たる沙門と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、沙門たちにおける繊細なる沙門と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、〔納受を〕乞われることなく〔遍く受益します〕。……略……。比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔心の〕動揺なき者の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、命あるものを殺すこと、虚偽、栄誉ならざることと忿激と闇と低くある者、子、まさしく、そして、束縛するもの、見解があり、範疇とともに、それらの十がある」と。

 

(10)5. 阿修羅の章

 

1. 阿修羅の経

 

91. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。阿修羅を取り巻きとする阿修羅たる者であり、天〔の神〕を取り巻きとする阿修羅たる者であり、阿修羅を取り巻きとする天〔の神〕たる者であり、天〔の神〕を取り巻きとする天〔の神〕たる者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、阿修羅を取り巻きとする阿修羅たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、彼の衆もまた、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、阿修羅を取り巻きとする阿修羅たる者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、天〔の神〕を取り巻きとする阿修羅たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、しかしながら、まさに、彼の衆は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、天〔の神〕を取り巻きとする阿修羅たる者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、阿修羅を取り巻きとする天〔の神〕たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、しかしながら、まさに、彼の衆は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、阿修羅を取り巻きとする天〔の神〕たる者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、天〔の神〕を取り巻きとする天〔の神〕たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、彼の衆もまた、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、天〔の神〕を取り巻きとする天〔の神〕たる者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の禅定の経

 

92. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の得者として〔世に〕有ります──卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕有ります──内なる心の止寂の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者でもなく、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者でもなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の禅定の経

 

93. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、内なる心の止寂の得者として〔世に〕有ります──卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕有ります──内なる心の止寂の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者でもなく、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者でもなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、内なる心の止寂の得者であるなら──卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者ではなく──比丘たちよ、その人によって、内なる心の止寂において、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察における確立のために、〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者であるなら──内なる心の止寂の得者ではなく──比丘たちよ、その人によって、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察において、内なる心の止寂における確立のために、〔心の〕制止が為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者でもなく、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者でもないなら、比丘たちよ、その人によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その人によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有るなら、比丘たちよ、その人によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第三の禅定の経

 

94. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、内なる心の止寂の得者として〔世に〕有ります──卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として〔世に〕有ります──内なる心の止寂の得者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者でもなく、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者でもなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、内なる心の止寂の得者であるなら──卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者ではなく──比丘たちよ、その人によって、すなわち、この人が、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者であるなら、彼は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、どのように、諸々の形成〔作用〕は見られるべきですか。どのように、諸々の形成〔作用〕は触知されるべきですか。どのように、諸々の形成〔作用〕は観察されるべきですか』と。彼は、見られたとおりに、知られたとおりに、彼に説き明かします。『友よ、まさに、このように、諸々の形成〔作用〕は見られるべきです。このように、諸々の形成〔作用〕は触知されるべきです。このように、諸々の形成〔作用〕は観察されるべきです』と。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者であるなら──内なる心の止寂の得者ではなく──比丘たちよ、その人によって、すなわち、この人が、内なる心の止寂の得者であるなら、彼は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、どのように、心は確立させられるべきですか。どのように、心は静止させられるべきですか。どのように、心は専一に作り為されるべきですか。どのように、心は定められるべきですか』と。彼は、見られたとおりに、知られたとおりに、彼に説き明かします。『友よ、まさに、このように、心は確立させられるべきです。このように、心は静止させられるべきです。このように、心は専一に作り為されるべきです。このように、心は定められるべきです』と。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者でもなく、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者でもないなら、比丘たちよ、その人によって、すなわち、この人が、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者であり、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者であるなら、彼は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、どのように、心は確立させられるべきですか。どのように、心は静止させられるべきですか。どのように、心は専一に作り為されるべきですか。どのように、心は定められるべきですか。どのように、諸々の形成〔作用〕は見られるべきですか。どのように、諸々の形成〔作用〕は触知されるべきですか。どのように、諸々の形成〔作用〕は観察されるべきですか』と。彼は、見られたとおりに、知られたとおりに、彼に説き明かします。『友よ、まさに、このように、心は確立させられるべきです。このように、心は静止させられるべきです。このように、心は専一に作り為されるべきです。このように、心は定められるべきです。諸々の形成〔作用〕は見られるべきです。このように、諸々の形成〔作用〕は触知されるべきです。このように、諸々の形成〔作用〕は観察されるべきです』と。彼は、他時にあって、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、まさしく、そして、内なる心の止寂の得者として、さらに、卓越の智慧である法(事象)の〔あるがままの〕観察の得者として、〔世に〕有るなら、比丘たちよ、その人によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止が為されるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 火葬の薪の経

 

95. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者です。他者の利益のために実践する者です──自己の利益のためではなく。自己の利益のために実践する者です──他者の利益のためではなく。まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、火葬の薪が、両〔側〕から燃やされたとして、中間において糞が行き及んだもの(汚物で燃え残ったもの)は、薪たる義(用途)を、まさしく、村においても充満せず、林においても〔充満し〕ないようなものです(村と林の両所で役に立たない)。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます──すなわち、この人が、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者であるなら。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、他者の利益のために実践する者であるなら──自己の利益のためではなく──この者は、これらの二つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、自己の利益のために実践する者であるなら──他者の利益のためではなく──この者は、これらの三つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この人が、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者であるなら、この者は、これらの四つの人たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から酥が、酥から酥精があり、そこにおいて、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この人が、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者であるなら、この者は、これらの四つの人たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 貪欲の調伏の経

 

96. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。自己の利益のために実践する者です──他者の利益のためではなく。他者の利益のために実践する者です──自己の利益のためではなく。まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者です。まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、自己の利益のために実践する者と成るのですか──他者の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、貪欲の調伏のために実践する者と成り、他者に、貪欲の調伏を受持させません。自己みずから、憤怒の調伏のために実践する者と成り、他者に、憤怒の調伏を受持させません。自己みずから、迷妄の調伏のために実践する者と成り、他者に、迷妄の調伏を受持させません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、他者の利益のために実践する者と成るのですか──自己の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、貪欲の調伏のために実践する者と成らず、他者に、貪欲の調伏を受持させます。自己みずから、憤怒の調伏のために実践する者と成らず、他者に、憤怒の調伏を受持させます。自己みずから、迷妄の調伏のために実践する者と成らず、他者に、迷妄の調伏を受持させます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、他者の利益のために実践する者と成ります──自己の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、貪欲の調伏のために実践する者と成らず、他者に、貪欲の調伏を受持させません。自己みずから、憤怒の調伏のために実践する者と成らず、他者に、憤怒の調伏を受持させません。自己みずから、迷妄の調伏のために実践する者と成らず、他者に、迷妄の調伏を受持させません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、貪欲の調伏のために実践する者と成り、他者に、貪欲の調伏を受持させます。自己みずから、憤怒の調伏のために実践する者と成り、他者に、憤怒の調伏を受持させます。自己みずから、迷妄の調伏のために実践する者と成り、他者に、迷妄の調伏を受持させます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 速き感知の経

 

97. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。自己の利益のために実践する者です──他者の利益のためではなく。他者の利益のために実践する者です──自己の利益のためではなく。まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者です。まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、自己の利益のために実践する者と成るのですか──他者の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、さらに、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、他者の利益のために実践する者と成るのですか──自己の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることなく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、そして、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、さらに、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、他者の利益のために実践する者と成ります──自己の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることなく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、そして、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、さらに、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、さらに、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 自己の利益の経

 

98. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。自己の利益のために実践する者です──他者の利益のためではなく。他者の利益のために実践する者です──自己の利益のためではなく。まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者です。まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 学びの境処の経

 

99. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。自己の利益のために実践する者です──他者の利益のためではなく。他者の利益のために実践する者です──自己の利益のためではなく。まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者です。まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、自己の利益のために実践する者と成るのですか──他者の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させません。自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させません。自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させません。自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させません。自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を受持させません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、他者の利益のために実践する者と成るのですか──自己の利益のためではなく。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、命あるものを殺すことから離間していない者として〔世に〕有り、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。自己みずから、与えられていないものを取ることから離間していない者として〔世に〕有り、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させます。自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間していない者として〔世に〕有り、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させます。自己みずから、虚偽を説くことから離間していない者として〔世に〕有り、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させます。自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者として〔世に〕有り、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を受持させます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、他者の利益のために実践する者と成ります──自己の利益のためではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己みずから、命あるものを殺すことから離間していない者として〔世に〕有り、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させません。……略……。自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者として〔世に〕有り、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を受持させません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。……略……。そして、自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を受持させます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ポータリヤの経

 

100. そこで、まさに、ポータリヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ポータリヤ遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。

 

 「ポータリヤよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ポータリヤよ、ここに、一部の人は、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。ポータリヤよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。ポータリヤよ、これらの四つの人たちのなかで、どの人が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できますか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。貴君ゴータマよ、ここに、一部の人は、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。貴君ゴータマよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者ではなく〔世に〕有る、この者が、わたしにとって、これらの四つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、放捨()です」と。

 

 「ポータリヤよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……。ポータリヤよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。ポータリヤよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有る、この者が、これらの四つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。ポータリヤよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、その場その場において、〔正しい〕時を知ることです」と。

 

 「貴君ゴータマよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……。貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。貴君ゴータマよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを──事実として、真実として、〔正しい〕時に──語る者として〔世に〕有る、この者が、わたしにとって、これらの四つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、その場その場において、〔正しい〕時を知ることです。

 

 貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

 阿修羅の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「阿修羅、三つの禅定、第五のものとして、火葬の薪とともに、貪欲、感知、自己の利益、学びがあり、そして、ポータリヤとともに、〔章となる〕」と。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

3. 第三の五十なるもの

 

(11)1. 雷雲の章

 

1. 第一の雷雲の経

 

101. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの雷雲です。どのようなものが、四つのものなのですか。鳴り響くが雨降らないものであり、雨降るが鳴り響かないものであり、まさしく、鳴り響かず、雨降らないものであり、そして、鳴り響き、さらに、雨降るものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの雷雲があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの雷雲の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。鳴り響くが雨降らない者であり、雨降るが鳴り響かない者であり、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者であり、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、鳴り響くが雨降らない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、語るが為さない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、鳴り響くが雨降らない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、鳴り響くが雨降らないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、雨降るが鳴り響かない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、為すが語らない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、雨降るが鳴り響かない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、雨降るが鳴り響かないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、語らず、為さない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、まさしく、鳴り響かず、雨降らないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、語り、さらに、為す者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、そして、鳴り響き、さらに、雨降るものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの雷雲の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の雷雲の経

 

102. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの雷雲です。どのようなものが、四つのものなのですか。鳴り響くが雨降らないものであり、雨降るが鳴り響かないものであり、まさしく、鳴り響かず、雨降らないものであり、そして、鳴り響き、さらに、雨降るものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの雷雲があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの雷雲の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。鳴り響くが雨降らない者であり、雨降るが鳴り響かない者であり、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者であり、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、鳴り響くが雨降らない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──遍く学得します。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、鳴り響くが雨降らない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、鳴り響くが雨降らないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、雨降るが鳴り響かない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得しません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、雨降るが鳴り響かない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、雨降るが鳴り響かないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得しません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、鳴り響かず、雨降らない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、まさしく、鳴り響かず、雨降らないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、鳴り響き、さらに、雨降る者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雷雲が、そして、鳴り響き、さらに、雨降るものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの雷雲の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 水瓶の経

 

103. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの水瓶です。どのようなものが、四つのものなのですか。空っぽで塞がれているものであり、満ちていて開かれているものであり、空っぽで開かれているものであり、満ちていて塞がれているものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの水瓶があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの水瓶の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。空っぽで塞がれている者であり、満ちていて開かれている者であり、空っぽで開かれている者であり、満ちていて塞がれている者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、空っぽで塞がれている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、空っぽで塞がれている者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その水瓶が、空っぽで塞がれているものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、満ちていて開かれている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、満ちていて開かれている者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その水瓶が、満ちていて開かれているものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、空っぽで開かれている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、空っぽで開かれている者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その水瓶が、空っぽで開かれているものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、満ちていて塞がれている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、満ちていて塞がれている者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その水瓶が、満ちていて塞がれているものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの水瓶の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 湖水の経

 

104. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの湖水です。どのようなものが、四つのものなのですか。浅くて深く見えるものであり、深くて浅く見えるものであり、浅くて浅く見えるものであり、深くて深く見えるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの湖水があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの湖水の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。浅くて深く見える者であり、深くて浅く見える者であり、浅くて浅く見える者であり、深くて深く見える者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浅くて深く見える者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浅くて深く見える者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その湖水が、浅くて深く見えるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、深くて浅く見える者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、深くて浅く見える者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その湖水が、深くて浅く見えるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浅くて浅く見える者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浅くて浅く見える者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その湖水が、浅くて浅く見えるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、深くて深く見える者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、深くて深く見える者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その湖水が、深くて深く見えるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの湖水の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. アンバ〔の果〕の経

 

105. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらのアンバ〔の果〕です。どのようなものが、四つのものなのですか。生(なま)にして熟した色艶あるものであり、熟していて生の色艶あるものであり、生にして生の色艶あるものであり、熟していて熟した色艶あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つのアンバ〔の果〕があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのアンバ〔の果〕の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。生にして熟した色艶ある者であり、熟していて生の色艶ある者であり、生にして生の色艶ある者であり、熟していて熟した色艶ある者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、生にして熟した色艶ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、生にして熟した色艶ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのアンバ〔の果〕が、生にして熟した色艶あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、熟していて生の色艶ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、熟していて生の色艶ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのアンバ〔の果〕が、熟していて生の色艶あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、生にして生の色艶ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有りません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、生にして生の色艶ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのアンバ〔の果〕が、生にして生の色艶あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、熟していて熟した色艶ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、〔他者を〕清信させるものが有ります。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、熟していて熟した色艶ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのアンバ〔の果〕が、熟していて熟した色艶あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つのアンバ〔の果〕の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二のアンバ〔の果〕の経

 

106. (「第六のものは、まさしく、明瞭なる義(意味)となる」と、アッタカター(注釈書)において見示された。いっぽう、諸々のパーリ経巻においては、どこにおいてもまた見示されない。)

 

7. 鼠の経

 

107. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの鼠です。どのようなものが、四つのものなのですか。穴を掘るが〔穴に〕住まないものであり、〔穴に〕住むが穴を掘らないものであり、まさしく、穴を掘らず、〔穴に〕住まないものであり、そして、穴を掘り、さらに、〔穴に〕住むものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの鼠があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの鼠の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。穴を掘るが〔穴に〕住まない者であり、〔穴に〕住むが穴を掘らない者であり、まさしく、穴を掘らず、〔穴に〕住まない者であり、そして、穴を掘り、さらに、〔穴に〕住む者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、穴を掘るが〔穴に〕住まない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、穴を掘るが〔穴に〕住まない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その鼠が、穴を掘るが〔穴に〕住まないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔穴に〕住むが穴を掘らない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得しません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔穴に〕住むが穴を掘らない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その鼠が、〔穴に〕住むが穴を掘らないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、穴を掘らず、〔穴に〕住まない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得しません。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、穴を掘らず、〔穴に〕住まない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その鼠が、まさしく、穴を掘らず、〔穴に〕住まないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、穴を掘り、さらに、〔穴に〕住む者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、穴を掘り、さらに、〔穴に〕住む者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その鼠が、そして、穴を掘り、さらに、〔穴に〕住むものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの鼠の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 雄牛の経

 

108. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの雄牛です。どのようなものが、四つのものなのですか。自らの雌牛に狂暴で他者の雌牛に狂暴ではないものであり、他者の雌牛に狂暴で自らの雌牛に狂暴ではないものであり、そして、自らの雌牛に狂暴で、さらに、他者の雌牛にも狂暴であるものであり、まさしく、自らの雌牛に狂暴ではなく、他者の雌牛にも狂暴ではないものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの雄牛があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの雄牛の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。自らの雌牛に狂暴で他者の雌牛に狂暴ではない者であり、他者の雌牛に狂暴で自らの雌牛に狂暴ではない者であり、そして、自らの雌牛に狂暴で、さらに、他者の雌牛にも狂暴である者であり、まさしく、自らの雌牛に狂暴ではなく、他者の雌牛にも狂暴ではない者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、自らの雌牛に狂暴で他者の雌牛に狂暴ではない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自らの衆を怯えさせ他者の衆を〔怯えさせ〕ない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、自らの雌牛に狂暴で他者の雌牛に狂暴ではない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雄牛が、自らの雌牛に狂暴で他者の雌牛に狂暴ではないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、他者の雌牛に狂暴で自らの雌牛に狂暴ではない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、他者の衆を怯えさせ自らの衆を〔怯えさせ〕ない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、他者の雌牛に狂暴で自らの雌牛に狂暴ではない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雄牛が、他者の雌牛に狂暴で自らの雌牛に狂暴ではないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、自らの雌牛に狂暴で、さらに、他者の雌牛にも狂暴である者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自らの衆を怯えさせ、さらに、他者の衆を〔怯えさせる〕者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、自らの雌牛に狂暴で、さらに、他者の雌牛にも狂暴である者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雄牛が、そして、自らの雌牛に狂暴で、さらに、他者の雌牛にも狂暴であるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、自らの雌牛に狂暴ではなく、他者の雌牛にも狂暴ではない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、自らの衆を怯えさせず、さらに、他者の衆を〔怯えさせ〕ない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、自らの雌牛に狂暴ではなく、他者の雌牛にも狂暴ではない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その雄牛が、まさしく、自らの雌牛に狂暴ではなく、他者の雌牛にも狂暴ではないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの雄牛の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 樹木の経

 

109. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの樹木です。どのようなものが、四つのものなのですか。樹皮たるものを取り巻きとする樹皮たるものであり、芯あるものを取り巻きとする樹皮たるものであり、樹皮たるものを取り巻きとする芯あるものであり、芯あるものを取り巻きとする芯あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの樹木があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの樹木の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。樹皮たるものを取り巻きとする樹皮たる者であり、芯あるものを取り巻きとする樹皮たる者であり、樹皮たるものを取り巻きとする芯ある者であり、芯あるものを取り巻きとする芯ある者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、樹皮たるものを取り巻きとする樹皮たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、彼の衆もまた、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、樹皮たるものを取り巻きとする樹皮たる者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹木が、樹皮たるものを取り巻きとする樹皮たるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、芯あるものを取り巻きとする樹皮たる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、しかしながら、まさに、彼の衆は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、芯あるものを取り巻きとする樹皮たる者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹木が、芯あるものを取り巻きとする樹皮たるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、樹皮たるものを取り巻きとする芯ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、しかしながら、まさに、彼の衆は、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、樹皮たるものを取り巻きとする芯ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹木が、樹皮たるものを取り巻きとする芯あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、芯あるものを取り巻きとする芯ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、彼の衆もまた、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、芯あるものを取り巻きとする芯ある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹木が、芯あるものを取り巻きとする芯あるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの樹木の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 毒蛇の経

 

110. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの毒蛇です。どのようなものが、四つのものなのですか。〔速やかに〕至り着く毒があり恐るべき毒がないものであり、恐るべき毒があり〔速やかに〕至り着く毒がないものであり、そして、〔速やかに〕至り着く毒があり、さらに、恐るべき毒があるものであり、まさしく、〔速やかに〕至り着く毒がなく、恐るべき毒がないものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの毒蛇があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの毒蛇の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。〔速やかに〕至り着く毒があり恐るべき毒がない者であり、恐るべき毒があり〔速やかに〕至り着く毒がない者であり、そして、〔速やかに〕至り着く毒があり、さらに、恐るべき毒がある者であり、まさしく、〔速やかに〕至り着く毒がなく、恐るべき毒がない者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔速やかに〕至り着く毒があり恐るべき毒がない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、幾度となく忿激します。しかしながら、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となりません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔速やかに〕至り着く毒があり恐るべき毒がない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その毒蛇が、〔速やかに〕至り着く毒があり恐るべき毒がないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、恐るべき毒があり〔速やかに〕至り着く毒がない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、まさしく、まさに、幾度となく忿激しません。しかしながら、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、恐るべき毒があり〔速やかに〕至り着く毒がない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その毒蛇が、恐るべき毒があり〔速やかに〕至り着く毒がないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、〔速やかに〕至り着く毒があり、さらに、恐るべき毒がある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、幾度となく忿激します。そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、〔速やかに〕至り着く毒があり、さらに、恐るべき毒がある者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その毒蛇が、そして、〔速やかに〕至り着く毒があり、さらに、恐るべき毒があるものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、〔速やかに〕至り着く毒がなく、恐るべき毒がない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、まさしく、まさに、幾度となく忿激しません。そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となりません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、〔速やかに〕至り着く毒がなく、恐るべき毒がない者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その毒蛇が、まさしく、〔速やかに〕至り着く毒がなく、恐るべき毒がないものであるように、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの毒蛇の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第十となる。

 

 雷雲の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの雷雲、水瓶と湖水、二つのアンバ〔の果〕が有り、鼠、雄牛、樹木があり、毒蛇とともに、それらの十がある」と。

 

(12)2. ケーシの章

 

1. ケーシの経

 

111. そこで、まさに、調御されるべき馬の馭者たるケーシが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、調御されるべき馬の馭者たるケーシに、世尊は、こう言いました。「ケーシよ、まさに、あなたは存しています。『調御されるべき馬の馭者たる者』と覚知された者として。ケーシよ、また、どのように、あなたは、調御されるべき馬を教導するのですか」と。「尊き方よ、わたしは、まさに、調御されるべき馬を、優しい〔手段〕によってもまた教導し、粗暴な〔手段〕によってもまた教導し、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によってもまた教導します」と。「ケーシよ、それで、もし、調御されるべき馬が、あなたの、優しい〔手段〕によって教導に近づかず、粗暴な〔手段〕によって教導に近づかず、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によって教導に近づかないなら、何をどう、その〔馬〕に為しますか」と。「尊き方よ、それで、もし、調御されるべき馬が、わたしの、優しい〔手段〕によって教導に近づかず、粗暴な〔手段〕によって教導に近づかず、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によって教導に近づかないなら、尊き方よ、〔わたしは〕その〔馬〕を殺します。それは、何を因とするのですか。わたしの師匠としての家系に、栄誉ならざることが有ってはならないからです」と。

 

 「尊き方よ、また、世尊は、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者です。尊き方よ、また、どのように、世尊は、調御されるべき人を教導するのですか」と。「ケーシよ、わたしは、まさに、調御されるべき人を、優しい〔手段〕によってもまた教導し、粗暴な〔手段〕によってもまた教導し、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によってもまた教導します。ケーシよ、そこで、この、優しい〔手段〕においては、『かくのごとく、身体による善き行為があり、かくのごとく、身体による善き行為の報いがある。かくのごとく、言葉による善き行為があり、かくのごとく、言葉による善き行為の報いがある。かくのごとく、意による善き行為があり、かくのごとく、意による善き行為の報いがある。かくのごとく、天〔の神々〕たちであり、かくのごとく、人間たちである』と。ケーシよ、そこで、この、粗暴な〔手段〕においては、『かくのごとく、身体による悪しき行為があり、かくのごとく、身体による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、言葉による悪しき行為があり、かくのごとく、言葉による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、意による悪しき行為があり、かくのごとく、意による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、地獄であり、かくのごとく、畜生の胎であり、かくのごとく、餓鬼の境域である』と。

 

 ケーシよ、そこで、この、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕においては、『かくのごとく、身体による善き行為があり、かくのごとく、身体による善き行為の報いがある。かくのごとく、身体による悪しき行為があり、かくのごとく、身体による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、言葉による善き行為があり、かくのごとく、言葉による善き行為の報いがある。かくのごとく、言葉による悪しき行為があり、かくのごとく、言葉による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、意による善き行為があり、かくのごとく、意による善き行為の報いがある。かくのごとく、意による悪しき行為があり、かくのごとく、意による悪しき行為の報いがある。かくのごとく、天〔の神々〕たちであり、かくのごとく、人間たちであり、かくのごとく、地獄であり、かくのごとく、畜生の胎であり、かくのごとく、餓鬼の境域である』」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、調御されるべき人が、あなたの、優しい〔手段〕によって教導に近づかず、粗暴な〔手段〕によって教導に近づかず、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によって教導に近づかないなら、何をどう、その〔人〕に為しますか」と。「ケーシよ、それで、もし、調御されるべき人が、わたしの、優しい〔手段〕によって教導に近づかず、粗暴な〔手段〕によって教導に近づかず、優しい〔手段〕と粗暴な〔手段〕によって教導に近づかないなら、ケーシよ、〔わたしは〕その〔人〕を殺します」と。「尊き方よ、まさに、世尊にとって、命あるものを殺すことは、適確ならず。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『ケーシよ、〔わたしは〕その〔人〕を殺します』」と。「ケーシよ、そのとおり。如来にとって、命あるものを殺すことは、適確ならず。そして、また、すなわち、調御されるべき人が、優しい〔手段〕によって教導に近づかず、粗暴な〔手段〕によって教導に近づかず、優しく粗暴な〔手段〕によって教導に近づかないなら、その〔人〕のことを、如来は、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えず、梵行を共にする識者たちもまた、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えません。ケーシよ、まさに、これは、聖者の律における殺戮です。その〔人〕のことを、如来が、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えず、梵行を共にする識者たちもまた、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えないなら」と。

 

 「尊き方よ、まさに、その〔人〕は、たしかに、見事に殺された者として〔世に〕有ります。その〔人〕のことを、如来が、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えず、梵行を共にする識者たちもまた、説くべき者と〔思い考えず〕、教示するべき者と思い考えないなら」と。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 速さの経

 

112. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、四つのものなのですか。正直であり、速さであり、忍耐であり、温和です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。正直であり、速さであり、忍耐であり、温和です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 鞭の経

 

113. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの賢馬たちが、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、鞭の影を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。比丘たちよ、このような形態のものとしてもまた、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の賢馬が、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、まさしく、まさに、鞭の影を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすことはなく、しかしながら、また、まさに、〔鞭の〕衝撃を毛に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。比丘たちよ、このような形態のものとしてもまた、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の賢馬が、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、まさしく、まさに、鞭の影を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすことはなく、〔鞭の〕衝撃を毛に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすこともまたなく、しかしながら、また、まさに、〔鞭の〕衝撃を皮に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。比丘たちよ、このような形態のものとしてもまた、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の賢馬が、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、まさしく、まさに、鞭の影を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすことはなく、〔鞭の〕衝撃を毛に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすこともまたなく、〔鞭の〕衝撃を皮に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすこともまたなく、しかしながら、また、まさに、〔鞭の〕衝撃を骨に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。比丘たちよ、このような形態のものとしてもまた、ここに、一部の賢馬は、良馬たる馬として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の賢馬が、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの四つの賢馬たちが、良馬たる馬として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。これらの賢人たちが、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢人が、善き生まれの人として、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいる、あるいは、命を終えたのだ』と聞きます。彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。畏怖する者となり、根源のままに精励します。自己を精励する者となり、まさしく、そして、身体によって最高の真理を実証し、さらに、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その賢馬が、良馬たる馬として、まさしく、まさに、鞭の影を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この者を、賢人と、善き生まれの人として、説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の賢人は、善き生まれの人として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の賢人が、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢人が、善き生まれの人として、まさしく、まさに、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいる、あるいは、命を終えたのだ』と聞くことはなく、しかしながら、また、まさに、自ら、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいるのを、あるいは、命を終えたのを、見ます。彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。畏怖する者となり、根源のままに精励します。自己を精励する者となり、まさしく、そして、身体によって最高の真理を実証し、さらに、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その賢馬が、良馬たる馬として、〔鞭の〕衝撃を毛に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この者を、賢人と、善き生まれの人として、説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の賢人は、善き生まれの人として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の賢人が、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢人が、善き生まれの人として、まさしく、まさに、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいる、あるいは、命を終えたのだ』と聞くことはなく、自ら、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいるのを、あるいは、命を終えたのを、見ることもまたなく、しかしながら、また、まさに、彼の、あるいは、親族が、あるいは、血縁が、あるいは、苦しんでいる者と成り、あるいは、命を終えた者と〔成ります〕。彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。畏怖する者となり、根源のままに精励します。自己を精励する者となり、まさしく、そして、身体によって最高の真理を実証し、さらに、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その賢馬が、良馬たる馬として、〔鞭の〕衝撃を皮に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この者を、賢人と、善き生まれの人として、説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の賢人は、善き生まれの人として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の賢人が、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の賢人が、善き生まれの人として、まさしく、まさに、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいる、あるいは、命を終えたのだ』と聞くことはなく、自ら、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、苦しんでいるのを、あるいは、命を終えたのを、見ることもまたなく、彼の、あるいは、親族が、あるいは、血縁が、あるいは、苦しんでいる者と成り、あるいは、命を終えた者と〔成ること〕もまたなく、しかしながら、また、まさに、まさしく、自ら、諸々の強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受によって接触された者と成ります。彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こします。畏怖する者となり、根源のままに精励します。自己を精励する者となり、まさしく、そして、身体によって最高の真理を実証し、さらに、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その賢馬が、良馬たる馬として、〔鞭の〕衝撃を骨に受けたとき、畏怖し、畏怖〔の思い〕を起こすように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この者を、賢人と、善き生まれの人として、説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の賢人は、善き生まれの人として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の賢人が、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの四つの賢人たちが、善き生まれの人として、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 象の経

 

114. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、かつまた、聞く者と成り、かつまた、殺す者と〔成り〕、かつまた、忍耐する者と〔成り〕、かつまた、赴く者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、聞く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、すなわち、この、調御されるべき象の馭者が課す任務であるなら──もしくは、過去に為したことのある〔任務〕であろうが、もしくは、過去に為したことのない〔任務〕であろうが──それを、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、〔その言葉を〕聞きます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、聞く者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、殺す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、象をもまた殺し、象に乗る者をもまた殺し、馬をもまた殺し、馬に乗る者をもまた殺し、車をもまた殺し(破壊し)、車兵をもまた殺し、歩兵をもまた殺します。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、殺す者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、忍耐する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、諸々の槍の打撃に、諸々の剣の打撃に、諸々の矢の打撃に、諸々の斧の打撃に、諸々の太鼓や小鼓や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声に、忍耐ある者として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、忍耐する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、赴く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、すなわち、この、調御されるべき象の馭者が命じる方角であるなら──もしくは、過去に赴いたことのある〔方角〕であろうが、もしくは、過去に赴いたことのない〔方角〕であろうが──その〔方角〕に、まさしく、すみやかに、赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、聞く者と成り、かつまた、殺す者と〔成り〕、かつまた、忍耐する者と〔成り〕、かつまた、赴く者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聞く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているときは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聞く者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、殺す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、殺す者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、忍耐する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、忍耐する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、赴く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、この、この長時にわたり、過去に赴いたことのない方角──すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である、その〔方角〕に、まさしく、すみやかに、赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 状況の経

 

115. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの状況です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、為すことが意に適わず、かつまた、それが為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する、〔そのような〕状況が存在します。比丘たちよ、為すことが意に適わず、かつまた、それが為されているなら、義(利益)のために等しく転起する、〔そのような〕状況が存在します。比丘たちよ、為すことが意に適い、かつまた、それが為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する、〔そのような〕状況が存在します。比丘たちよ、為すことが意に適い、かつまた、それが為されているなら、義(利益)のために等しく転起する、〔そのような〕状況が存在します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、為すことが意に適わず、かつまた、それが為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する、この状況ですが、比丘たちよ、この状況を、まさしく、両様〔の理由〕によって、〔人は〕為すべきことと思い考えません。すなわち、また、為すことが意に適わない、この状況であり、この〔理由〕によってもまた、それを、〔人は〕為すべきことと思い考えません。すなわち、また、為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する、この状況であり、この〔理由〕によってもまた、それを、〔人は〕為すべきことと思い考えません。比丘たちよ、この状況を、まさしく、両様〔の理由〕によって、〔人は〕為すべきことと思い考えません。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、為すことが意に適わず、かつまた、それが為されているなら、義(利益)のために等しく転起する、この状況ですが、比丘たちよ、この状況において、そして、〔その人が〕愚者であるかが、さらに、〔その人が〕賢者であるかが、人の強靭において、人の精進において、人の勤勉において、知られるべきです。比丘たちよ、愚者は、かくのごとく深慮しません。『たとえ、何であれ、まさに、為すことが意に適わない、この状況なるも、そこで、それでも、この状況は、為されているなら、義(利益)のために等しく転起する』と。彼は、その状況を為しません。彼にとって、その状況は、為されていないなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、賢者は、まさに、かくのごとく深慮します。『たとえ、何であれ、まさに、為すことが意に適わない、この状況なるも、そこで、それでも、この状況は、為されているなら、義(利益)のために等しく転起する』と。彼は、その状況を為します。彼にとって、その状況は、為されているなら、義(利益)のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、為すことが意に適い、かつまた、それが為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する、この状況ですが、比丘たちよ、この状況においてもまた、そして、〔その人が〕愚者であるかが、さらに、〔その人が〕賢者であるかが、人の強靭において、人の精進において、人の勤勉において、知られるべきです。比丘たちよ、愚者は、かくのごとく深慮しません。『たとえ、何であれ、まさに、為すことが意に適う、この状況なるも、そこで、それでも、この状況は、為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する』と。彼は、その状況を為します。彼にとって、その状況は、為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、賢者は、まさに、かくのごとく深慮します。『たとえ、何であれ、まさに、為すことが意に適う、この状況なるも、そこで、それでも、この状況は、為されているなら、義(利益)ならざるもののために等しく転起する』と。彼は、その状況を為しません。彼にとって、その状況は、為されていないなら、義(利益)のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、為すことが意に適い、かつまた、それが為されているなら、義(利益)のために等しく転起する、この状況ですが、比丘たちよ、この状況を、まさしく、両様〔の理由〕によって、〔人は〕為すべきことと思い考えます。すなわち、また、為すことが意に適う、この状況であり、この〔理由〕によってもまた、それを、〔人は〕為すべきことと思い考えます。すなわち、また、為されているなら、義(利益)のために等しく転起する、この状況であり、この〔理由〕によってもまた、それを、〔人は〕為すべきことと思い考えます。比丘たちよ、この状況を、まさしく、両様〔の理由〕によって、〔人は〕為すべきことと思い考えます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの状況があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 不放逸の経

 

116. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕状況によって、不放逸が為されるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、身体による悪しき行ないを捨棄しなさい。身体による善き行ないを修めなさい。そして、そこにおいて、〔気づきを〕怠ってはいけません。比丘たちよ、言葉による悪しき行ないを捨棄しなさい。言葉による善き行ないを修めなさい。そして、そこにおいて、〔気づきを〕怠ってはいけません。比丘たちよ、意による悪しき行ないを捨棄しなさい。意による善き行ないを修めなさい。そして、そこにおいて、〔気づきを〕怠ってはいけません。比丘たちよ、誤った見解を捨棄しなさい。正しい見解を修めなさい。そして、そこにおいて、〔気づきを〕怠ってはいけません。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、身体による悪しき行ないが捨棄されたものと成り、身体による善き行ないが修められたことから、言葉による悪しき行ないが捨棄されたものと成り、言葉による善き行ないが修められたことから、意による悪しき行ないが捨棄されたものと成り、意による善き行ないが修められたことから、誤った見解が捨棄されたものと成り、正しい見解が修められたことから、彼は、未来の運命である死に恐怖しません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 守護の経

 

117. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕状況において、自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。『わたしの心は、諸々の貪るべき法(事象)において貪ることがあってはならない』と、自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。『わたしの心は、諸々の怒るべき法(事象)において怒ることがあってはならない』と、自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。『わたしの心は、諸々の迷うべき法(事象)において迷うことがあってはならない』と、自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。『わたしの心は、諸々の驕るべき法(事象)において驕ることがあってはならない』と、自己の〔至当なる〕形態によって、不放逸が〔為されるべきであり〕、気づきが〔為されるべきであり〕、心の守護が為されるべきです。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、心が、諸々の貪るべき法(事象)において貪らず、貪欲を離れたことから、心が、諸々の怒るべき法(事象)において怒らず、憤怒を離れたことから、心が、諸々の迷うべき法(事象)において迷わず、迷妄を離れたことから、心が、諸々の驕るべき法(事象)において驕らず、驕慢を離れたことから、彼は、驚愕せず、動転せず、動揺せず、恐慌を惹起せず、また、そして、〔他の〕沙門の言葉を因として〔他の見解に〕赴くこともまたありません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 畏怖するべきものの経

 

118. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況(聖地)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、『ここに、如来が、〔世に〕生まれたのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。比丘たちよ、『ここに、如来が、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚したのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。比丘たちよ、『ここに、如来が、無上なる法(真理)の輪を転起させたのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。比丘たちよ、『ここに、如来が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達したのだ』と、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、信ある良家の子息にとって、見るべきであり、畏怖するべき状況があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の恐怖の経

 

119. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。生の恐怖であり、老の恐怖であり、病の恐怖であり、死の恐怖です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの恐怖があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の恐怖の経

 

120. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。火の恐怖であり、水の恐怖であり、王の恐怖であり、盗賊の恐怖です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの恐怖があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ケーシの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ケーシ、速さ、そして、鞭、象があり、第五のものとして、状況とともに、そして、不放逸、守護、さらに、畏怖するべきもの、二つの恐怖があり、〔章となる〕」と。

 

(13)3. 恐怖の章

 

1. 自己の批判の経

 

121. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。自己の批判の恐怖であり、他者の批判の恐怖であり、棒(刑罰)の恐怖であり、悪趣の恐怖です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの恐怖があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、自己の批判の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、まさしく、もし、わたしが、身体による悪しき行ないを行なうなら、言葉による悪しき行ないを行なうなら、意による悪しき行ないを行なうなら、すなわち、わたしのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判せずにいられる、その〔状況〕が、さてまた、どうしてあるというのだろう』と。彼は、自己の批判の恐怖に恐怖し、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、自己の批判の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、他者の批判の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、まさしく、もし、わたしが、身体による悪しき行ないを行なうなら、言葉による悪しき行ないを行なうなら、意による悪しき行ないを行なうなら、すなわち、わたしのことを、他者たちが、戒〔の観点〕から批判せずにいられる、その〔状況〕が、さてまた、どうしてあるというのだろう』と。彼は、他者の批判の恐怖に恐怖し、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、他者の批判の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、棒(刑罰)の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、王たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行しているのを見ます。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切っているのを。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『そのような形態の、まさに、諸々の悪しき行為を因として、王たちは、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち……略……剣によってもまた頭を断ち切る。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、このような形態の悪しき行為を為すなら、王たちは、わたしをもまた捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行するであろう。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切るであろう』と。彼は、棒の恐怖に恐怖し、他者たちの資産を奪い取ることなく〔世を〕歩みます。身体による悪しき行ないを捨棄して……略……清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、棒の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悪趣の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『まさに、身体による悪しき行ないある者には、悪しき報いが未来の運命としてあり、言葉による悪しき行ないある者には、悪しき報いが未来の運命としてあり、意による悪しき行ないある者には、悪しき報いが未来の運命としてある。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、身体による悪しき行ないを行なうなら、言葉による悪しき行ないを行なうなら、意による悪しき行ないを行なうなら、すなわち、わたしが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生せずにいられる、その〔状況〕が、さてまた、どうしてあるというのだろう』と。彼は、悪趣の恐怖に恐怖し、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、悪趣の恐怖と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの恐怖があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 波の恐怖の経

 

122. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、水に入り行くときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、水に入り行くときに待っているべき恐怖があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。ここに、一部の良家の子息が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、波の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは、教諭し教示します。『このように、あなたは前進するべきです』『このように、あなたは後進するべきです』『このように、あなたは前視するべきです』『このように、あなたは後視するべきです』『このように、あなたは屈曲するべきです』『このように、あなたは伸直するべきです』『このように、あなたは大衣と鉢と衣料を保持するべきです』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、他者たちに、教諭もまたし教示もまたする。いっぽう、これらの、思うに、子ほど〔の年齢〕の者たちが、思うに、孫ほど〔の年齢〕の者たちが、わたしたちのことを、教諭し教示するべきと思い考える』と。彼は、激情し、わが意を得ない者となり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。比丘たちよ、この者は、『比丘として、波の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『波の恐怖』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。比丘たちよ、これは、波の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、鰐の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは、教諭し教示します。『これを、あなたは咀嚼するべきです』『これを、あなたは咀嚼するべきではありません』『これを、あなたは食べるべきです』『これを、あなたは食べるべきではありません』『これを、あなたは味わうべきです』『これを、あなたは味わうべきではありません』『これを、あなたは飲むべきです』『これを、あなたは飲むべきではありません』『適確なるものを、あなたは咀嚼するべきです』『適確ならざるものを、あなたは咀嚼するべきではありません』『適確なるものを、あなたは食べるべきです』『適確ならざるものを、あなたは食べるべきではありません』『適確なるものを、あなたは味わうべきです』『適確ならざるものを、あなたは味わうべきではありません』『適確なるものを、あなたは飲むべきです』『適確ならざるものを、あなたは飲むべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは咀嚼するべきです』『非時に、あなたは咀嚼するべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは食べるべきです』『非時に、あなたは食べるべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは味わうべきです』『非時に、あなたは味わうべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは飲むべきです』『非時に、あなたは飲むべきではありません』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、それを求めるなら、それを咀嚼し、それを求めないなら、それを咀嚼せず、それを求めるなら、それを食べ、それを求めないなら、それを食べず、それを求めるなら、それを味わい、それを求めないなら、それを味わわず、それを求めるなら、それを飲み、それを求めないなら、それを飲まない。適確なるものをもまた咀嚼し、適確ならざるものをもまた咀嚼し、適確なるものをもまた食べ、適確ならざるものをもまた食べ、適確なるものをもまた味わい、適確ならざるものをもまた味わい、適確なるものをもまた飲み、適確ならざるものをもまた飲む。〔正しい〕時にもまた咀嚼し、非時にもまた咀嚼し、〔正しい〕時にもまた食べ、非時にもまた食べ、〔正しい〕時にもまた味わい、非時にもまた味わい、〔正しい〕時にもまた飲み、非時にもまた飲む。すなわち、また、わたしたちに、信ある家長たちが、昼に、非時に、精妙なる、あるいは、固形の食料を、あるいは、軟らかい食料を、施すとして、そこで、また、これらの者たちは、思うに、口に蓋をすることを為すのだ』と。彼は、激情し、わが意を得ない者となり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『比丘として、鰐の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鰐の恐怖』とは、まさに、これは、飽食の同義語です。比丘たちよ、これは、鰐の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、渦の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんだ。また、まさに、わたしの家においては、諸々の財物が等しく見出される。そして、諸々の財物を享受することも、さらに、諸々の功徳を作り為すことも、〔両者ともに〕できる。それなら、さあ、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして、そして、諸々の財物を享受し、さらに、諸々の功徳を作り為すのだ』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『比丘として、渦の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『渦の恐怖』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。比丘たちよ、これは、渦の恐怖と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、鮫の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『比丘として、鮫の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鮫の恐怖』とは、まさに、これは、女性の同義語です。比丘たちよ、これは、鮫の恐怖と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、ここに、一部の良家の子息が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の多様性の経

 

123. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、梵身天〔の神々〕たちには、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)の寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、光音天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、光音天〔の神々〕たちには、二カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、遍浄天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、遍浄天〔の神々〕たちには、四カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、広果天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、広果天〔の神々〕たちには、五百カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の多様性の経

 

124. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態()の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕()の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕()の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕()の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕()の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、浄居天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、この再生は、凡夫たちと共通ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、浄居天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、この再生は、凡夫たちと共通ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の慈愛の経

 

125. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、梵身天〔の神々〕たちには、カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、光音天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、光音天〔の神々〕たちには、二カッパの寿命の量があります。……略……遍浄天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、遍浄天〔の神々〕たちには、四カッパの寿命の量があります。……略……広果天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、広果天〔の神々〕たちには、五百カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において、〔それが〕存するときに。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の慈愛の経

 

126. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、浄居天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、この再生は、凡夫たちと共通ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、浄居天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、この再生は、凡夫たちと共通ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の如来についてのめったにないことの経

 

127. 「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、〔これらの〕四つのめったにないはじめての法(事象)が出現します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第一のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちよ、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、母の子宮から出るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第二のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちよ、すなわち、如来が、無上なる正等覚を現正覚するとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第三のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちよ、すなわち、如来が、無上なる法(真理)の輪を転起させるとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。『ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している』と。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第四のめったにないはじめての法(事象)が出現します。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、これらの四つのめったにないはじめての法(事象)が出現します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の如来についてのめったにないことの経

 

128. 「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、〔これらの〕四つのめったにないはじめての法(事象)が出現します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々が、それが、如来によって〔生存の〕基底なき〔状態〕の法(教え)が説示されているとき、〔その法を〕聞こうとし、耳を傾け、了知ある者となり、心を現起させます。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第一のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔我想の〕思量()を喜びとし、〔我想の〕思量を喜び、〔我想の〕思量に歓喜する、〔世の〕人々が、それが、如来によって〔我想の〕思量の調伏の法(教え)が説示されているとき、〔その法を〕聞こうとし、耳を傾け、了知ある者となり、心を現起させます。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第二のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔心の〕寂止なき〔あり方〕を喜びとし、〔心の〕寂止なき〔あり方〕を喜び、〔心の〕寂止なき〔あり方〕に歓喜する、〔世の〕人々が、それが、如来によって〔心を〕寂止させる法(教え)が説示されているとき、〔その法を〕聞こうとし、耳を傾け、了知ある者となり、心を現起させます。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第三のめったにないはじめての法(事象)が出現します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、卵のなかに有るものとなり、〔迷妄に〕覆い包まれ、無明を具した、〔世の〕人々が、それが、如来によって無明の調伏の法(教え)が説示されているとき、〔その法を〕聞こうとし、耳を傾け、了知ある者となり、心を現起させます。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、この第四のめったにないはじめての法(事象)が出現します。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現あることから、これらの四つのめったにないはじめての法(事象)が出現します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. アーナンダについてのめったにないことの経

 

129. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それで、もし、比丘の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘尼の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘尼の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、在俗信者(優婆塞)の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、女性在俗信者(優婆夷)の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、女性在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 転輪〔王〕についてのめったにないことの経

 

130. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、転輪王についてのめったにないはじめての法(事象)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それで、もし、士族の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、士族の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、転輪王は、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、婆羅門の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、婆羅門の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、転輪王は、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、家長の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、家長の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、転輪王は、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、沙門の衆が、転輪王と会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、転輪王が語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、沙門の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、転輪王は、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、転輪王についてのめったにないはじめての法(事象)があります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それで、もし、比丘の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、比丘の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘尼の衆が……略……。比丘たちよ、それで、もし、在俗信者の衆が……略……。比丘たちよ、それで、もし、女性在俗信者の衆が、アーナンダと会見するために近づいて行くなら、その〔衆〕は、会見することによってもまた、わが意を得た者と成ります。そこで、もし、アーナンダが、法(教え)を語るなら、その〔衆〕は、語られたことによってもまた、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、女性在俗信者の衆は、まさしく、〔いくら聞いても〕満足しない者と成り、そこで、アーナンダは、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、アーナンダについてのめったにないはじめての法(事象)があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 恐怖の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、自己の批判と波、そして、二つの多様〔性〕、さらに、二つの慈愛が有り、そして、二つのめったにないもの、さらに、そのように、他に、二つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

(14)4. 人の章

 

1. 束縛するものの経

 

131. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するもの(欲界に束縛する煩悩)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有り、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有り、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有り、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有り、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有り、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 比丘たちよ、どのような人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないのですか。一来たる者です。比丘たちよ、まさに、この人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていません。

 

 比丘たちよ、どのような人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないのですか。上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者です。比丘たちよ、まさに、この人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されず、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていません。

 

 比丘たちよ、どのような人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄され、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていないのですか。〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者です。比丘たちよ、まさに、この人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄され、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔いまだ〕捨棄されていません。

 

 比丘たちよ、どのような人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄され、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄されたのですか。阿羅漢です。比丘たちよ、まさに、この人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、再生の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄され、生存の獲得となる諸々の束縛するものが〔すでに〕捨棄されました。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 弁才の経

 

132. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。弁才を擁するも、弁才が解き放たれない者であり、弁才が解き放たれるも、弁才を擁さない者であり、そして、弁才を擁し、さらに、弁才が解き放たれる者であり、まさしく、弁才を擁さず、弁才が解き放たれない者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 鋭気ある知者の経

 

133. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。鋭気ある知者であり、熟慮ある知者であり、導かれるべき者であり、句〔の理解〕を最高とする者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 奮起の果の経

 

134. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。奮起の果に依拠して生きるも、行為の果に依拠して生きない者であり、行為の果に依拠して生きるも、奮起の果に依拠して生きない者であり、まさしく、そして、奮起の果に依拠して生き、さらに、行為の果に依拠して生きる者であり、まさしく、奮起の果に依拠して生きず、行為の果に依拠して生きない者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 罪過を有する者の経

 

135. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。罪過を有する者であり、罪過多き者であり、罪過少なき者であり、罪過なき者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、罪過を有する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、罪過を有する身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過を有する言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過を有する意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、罪過を有する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、罪過多き者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、罪過を有する身体の行為を多く──罪過なき〔身体の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有り、罪過を有する言葉の行為を多く──罪過なき〔言葉の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有り、罪過を有する意の行為を多く──罪過なき〔意の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、罪過多き者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、罪過少なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、罪過なき身体の行為を多く──罪過を有する〔身体の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有り、罪過なき言葉の行為を多く──罪過を有する〔言葉の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有り、罪過なき意の行為を多く──罪過を有する〔意の行為〕を少なく──具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、罪過少なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、罪過なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、罪過なき身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、罪過なき者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の戒の経

 

136. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為さない者として、禅定における円満成就を為さない者として、智慧における円満成就を為さない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為さない者として、智慧における円満成就を為さない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧における円満成就を為さない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧における円満成就を為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の戒の経

 

137. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、戒を重きとせず戒を優位としない者として〔世に〕有り、禅定を重きとせず禅定を優位としない者として〔世に〕有り、智慧を重きとせず智慧を優位としない者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、戒を重きとし戒を優位とする者として〔世に〕有り、禅定を重きとせず禅定を優位としない者として〔世に〕有り、智慧を重きとせず智慧を優位としない者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、戒を重きとし戒を優位とする者として〔世に〕有り、禅定を重きとし禅定を優位とする者として〔世に〕有り、智慧を重きとせず智慧を優位としない者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、戒を重きとし戒を優位とする者として〔世に〕有り、禅定を重きとし禅定を優位とする者として〔世に〕有り、智慧を重きとし智慧を優位とする者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 撤収した者の経

 

138. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。身体が撤収し、心が撤収していない者であり、身体が撤収せず、心が撤収した者であり、そして、身体が撤収せず、さらに、心が撤収していない者であり、そして、身体が撤収し、さらに、心が撤収した者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、身体が撤収し、心が撤収していない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。彼は、そこにおいて、欲望の思考をもまた思考し、憎悪の思考をもまた思考し、悩害の思考をもまた思考します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、身体が撤収し、心が撤収していない者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、身体が撤収せず、心が撤収した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用しません。彼は、そこにおいて、離欲の思考をもまた思考し、憎悪なき思考をもまた思考し、悩害なき思考をもまた思考します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、身体が撤収せず、心が撤収した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、身体が撤収せず、さらに、心が撤収していない者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用しません。彼は、そこにおいて、欲望の思考をもまた思考し、憎悪の思考をもまた思考し、悩害の思考をもまた思考します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、身体が撤収せず、さらに、心が撤収していない者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、身体が撤収し、さらに、心が撤収した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。彼は、そこにおいて、離欲の思考をもまた思考し、憎悪なき思考をもまた思考し、悩害なき思考をもまた思考します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、身体が撤収し、さらに、心が撤収した者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 法の講話者の経

 

139. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(教え)の講話者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の法(教え)の講話者は、そして、少なきことを語り、さらに、利益なきことを〔語ります〕。そして、彼の衆は、利益を有することと利益なきことについての巧みな智ある者と成りません。比丘たちよ、このような形態の法(教え)の講話者は、このような形態の衆にとって、まさしく、『法(教え)の講話者』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の法(教え)の講話者は、そして、少なきことを語り、さらに、利益を有することを〔語ります〕。そして、彼の衆は、利益を有することと利益なきことについての巧みな智ある者と成ります。比丘たちよ、このような形態の法(教え)の講話者は、このような形態の衆にとって、まさしく、『法(教え)の講話者』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の法(教え)の講話者は、そして、多きことを語り、さらに、利益なきことを〔語ります〕。そして、彼の衆は、利益を有することと利益なきことについての巧みな智ある者と成りません。比丘たちよ、このような形態の法(教え)の講話者は、このような形態の衆にとって、まさしく、『法(教え)の講話者』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の法(教え)の講話者は、そして、多きことを語り、さらに、利益を有することを〔語ります〕。そして、彼の衆は、利益を有することと利益なきことについての巧みな智ある者と成ります。比丘たちよ、このような形態の法(教え)の講話者は、このような形態の衆にとって、まさしく、『法(教え)の講話者』という名称に至ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(教え)の講話者たちがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 論者の経

 

140. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの論者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、義(意味)〔の観点〕から消尽に至り、文(文型)〔の観点〕から〔消尽に至ら〕ない、論者が存在します。比丘たちよ、文〔の観点〕から消尽に至り、義(意味)〔の観点〕から〔消尽に至ら〕ない、論者が存在します。比丘たちよ、そして、義(意味)〔の観点〕から〔消尽に至り〕、さらに、文〔の観点〕から消尽に至る、論者が存在します。比丘たちよ、まさしく、義(意味)〔の観点〕から〔消尽に至ら〕ず、文〔の観点〕から消尽に至らない、論者が存在します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの論者たちがあります。比丘たちよ、すなわち、四つの融通無礙〔の智慧〕(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)を具備した者が、あるいは、義(意味)〔の観点〕から、あるいは、文〔の観点〕から、消尽に至るであろう、このことは、状況なきことであり、機会なきことです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 人の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「束縛するもの、弁才、鋭気ある知者、奮起、罪過を有するもの、そして、二つの戒、さらに、撤収した者と法(教え)と論者があり、〔章となる〕」と。

 

(15)5. 光の章

 

1. 光の経

 

141. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの光です。どのようなものが、四つのものなのですか。月の光であり、日の光であり、火の光であり、智慧の光です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの光があります。比丘たちよ、これらの四つの光のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の光です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 光り輝きの経

 

142. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの光り輝きです。どのようなものが、四つのものなのですか。月の光り輝きであり、日の光り輝きであり、火の光り輝きであり、智慧の光り輝きです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの光り輝きがあります。比丘たちよ、これらの四つの光り輝きのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の光り輝きです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 光明の経

 

143. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの光明です。どのようなものが、四つのものなのですか。月の光明であり、日の光明であり、火の光明であり、智慧の光明です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの光明があります。比丘たちよ、これらの四つの光明のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の光明です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 光輝の経

 

144. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの光輝です。どのようなものが、四つのものなのですか。月の光輝であり、日の光輝であり、火の光輝であり、智慧の光輝です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの光輝があります。比丘たちよ、これらの四つの光輝のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の光輝です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 灯の経

 

145. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの灯です。どのようなものが、四つのものなのですか。月の灯であり、日の灯であり、火の灯であり、智慧の灯です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの灯があります。比丘たちよ、これらの四つの灯のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の灯です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の時の経

 

146. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの時です。どのようなものが、四つのものなのですか。〔正しい〕時に法(教え)を聞くことであり、〔正しい〕時に法(教え)を論じることであり、〔正しい〕時に触知することであり、〔正しい〕時に観察することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの時があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の時の経

 

147. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの時は、正しく修行され正しく随転されているなら、順次に、諸々の煩悩の滅尽に至り得させます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことであり、〔正しい〕時に法(教え)を論じることであり、〔正しい〕時に触知することであり、〔正しい〕時に観察することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの時があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの時は、正しく修行され正しく随転されているなら、順次に、諸々の煩悩の滅尽に至り得させます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの時は、正しく修行され正しく随転されているなら、順次に、諸々の煩悩の滅尽に至り得させます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悪しき行ないの経

 

148. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの言葉による悪しき行ないです。どのようなものが、四つのものなのですか。虚偽を説くことであり、中傷の言葉であり、粗暴な言葉であり、雑駁な虚論です。比丘たちよ、まさに、これらの言葉による悪しき行ないがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 善き行ないの経

 

149. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの言葉による善き行ないです。どのようなものが、四つのものなのですか。真理(真実)の言葉であり、中傷ならざる言葉であり、優しい言葉であり、明慧ある語りです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの言葉による善き行ないがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 真髄の経

 

150. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの真髄です。どのようなものが、四つのものなのですか。戒の真髄であり、禅定の真髄であり、智慧の真髄であり、解脱の真髄です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの真髄があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 光の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「光、そして、光り輝き、光明、まさしく、そして、光輝、灯、二つの時、さらに、二つの行ないが有り、真髄とともに、それらの十がある」と。

 

 第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

4. 第四の五十なるもの

 

(16)1. 機能の章

 

1. 機能の経

 

151. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、四つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの機能があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 信の力の経

 

152. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 智慧の力の経

 

153. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。智慧の力であり、精進の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 気づきの力の経

 

154. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。気づきの力であり、禅定の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 審慮の力の経

 

155. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。審慮の力であり、修行の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. カッパの経

 

156. 「比丘たちよ、四つのものがあります。カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)には、これらのアサンケイヤ(阿僧祇:不可算不可測の巨大数)があります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、すなわち、カッパが展転するとき(壊劫:世界が拡散し崩壊するとき)、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、計測することは、為し易きことではありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、展転されたカッパが止住するとき(壊住劫・空劫)、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、計測することは、為し易きことではありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、カッパが還転するとき(成劫:世界が収縮し再生するとき)、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、計測することは、為し易きことではありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、還転されたカッパが止住するとき(成住劫・住劫)、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、計測することは、為し易きことではありません。比丘たちよ、カッパには、まさに、これらの四つのアサンケイヤがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 病の経

 

157. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの病です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、身体の属性としての病であり、さらに、心の属性としての病です。比丘たちよ、身体の属性としての病〔の観点〕によるなら、一年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、〔そのような〕有情たちが見られます。二年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、三年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、四年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、五年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、十年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、二十年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、三十年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、四十年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、五十年のあいだでさえも無病〔の状態〕を明言している、百年のあいだでさえも、より一層であろうが、無病〔の状態〕を明言している、〔そのような有情たちが見られます〕。比丘たちよ、心の属性としての病〔の観点〕によるなら、すなわち、寸時でさえも無病〔の状態〕を明言する、それらの有情たちは、世において極めて得難くあります──煩悩の滅尽者たちより他には。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの出家者の病です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)大いなる欲求ある者として、悩苦ある者として、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者として、〔世に〕有ります。(2)彼は、大いなる欲求ある者として、悩苦ある者として、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者として、〔そのように〕存しつつ、〔他者から〕軽蔑されない〔地位〕の獲得のために、利得や尊敬や名声の獲得のために、悪しき欲求を作為します。(3)彼は、〔他者から〕軽蔑されない〔地位〕の獲得のために、利得や尊敬や名声の獲得のために、奮起し、勤労し、努力します。(4)彼は、計測して〔そののち〕、家々へと近づいて行き、計測して〔そののち〕、〔坐に〕坐り、計測して〔そののち〕、法(教え)を語り、計測して〔そののち〕、大小便を保ちます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの出家者の病があります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕大いなる欲求ある者たちとして、悩苦ある者たちとして、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者たちとして、〔世に〕有ることなくあるのだ。〔他者から〕軽蔑されない〔地位〕の獲得のために、利得や尊敬や名声の獲得のために、悪しき欲求を作為しないのだ。〔他者から〕軽蔑されない〔地位〕の獲得のために、利得や尊敬や名声の獲得のために、奮起せず、勤労せず、努力しないのだ。寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者たちとして〔世に〕有るのだ。諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者たちとして〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 遍き衰退の経

 

158. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、四つの法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『〔わたしは〕諸々の善き法(性質)から遍く衰退している』〔と〕。これは、世尊によって、遍き衰退と説かれました。どのようなものが、四つのものなのですか。貪欲の広大なることであり、憤怒の広大なることであり、迷妄の広大なることであり、また、まさに、諸々の深遠なる状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)について、彼の智慧の眼が至り行かないことです。友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、これらの四つの法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『〔わたしは〕諸々の善き法(性質)から遍く衰退している』〔と〕。これは、世尊によって、遍き衰退と説かれました。

 

 友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、四つの法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『〔わたしは〕諸々の善き法(性質)から遍く衰退していない』〔と〕。これは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれました。どのようなものが、四つのものなのですか。貪欲の希薄なることであり、憤怒の希薄なることであり、迷妄の希薄なることであり、また、まさに、諸々の深遠なる状況あることと状況なきことについて、彼の智慧の眼が至り行くことです。友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、これらの四つの法(性質)を、自己のうちに等しく随観するなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『〔わたしは〕諸々の善き法(性質)から遍く衰退していない』〔と〕。これは、世尊によって、遍き衰退なきものと説かれました」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 比丘尼の経

 

159. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘尼が、或るひとりの下僕に告げます。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊貴なるアーナンダのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊貴なるアーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、某名の比丘尼は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼女は、尊貴なるアーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊貴なるアーナンダは、比丘尼たちの在所のあるところに、その比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、その比丘尼に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、某名の比丘尼は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼女は、尊貴なるアーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊貴なるアーナンダは、比丘尼たちの在所のあるところに、その比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、着衣して鉢と衣料を取って、比丘尼たちの在所のあるところに、その比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、その比丘尼は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、〔衣を〕頭まで着込んで、臥床に横たわりました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、その比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者アーナンダは、その比丘尼に、こう言いました。

 

 「姉妹よ、この身体は、食(動力源・エネルギー)に依拠して、食から発生したものです。食は、捨棄されるべきものです。姉妹よ、この身体は、渇愛〔の思い〕に依拠して、渇愛〔の思い〕から発生したものです。渇愛〔の思い〕は、捨棄されるべきものです。姉妹よ、この身体は、〔我想の〕思量(:自我意識」に依拠して、〔我想の〕思量から発生したものです。〔我想の〕思量は、捨棄されるべきものです。姉妹よ、この身体は、淫事から発生したものです。そして、淫事については、世尊によって、橋の殲滅(悪習の打破)が説かれました。

 

 『姉妹よ、この身体は、食に依拠して、食から発生したものです。食は、捨棄されるべきものです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。姉妹よ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。彼は、他時にあって、食に依拠して、食を捨棄します。『姉妹よ、この身体は、食に依拠して、食から発生したものです。食は、捨棄されるべきものです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『姉妹よ、この身体は、渇愛〔の思い〕に依拠して、渇愛〔の思い〕から発生したものです。渇愛〔の思い〕は、捨棄されるべきものです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。姉妹よ、ここに、比丘が、『どうやら、某名の比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『いったい、いつ、まさに、わたしもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだろう』と。彼は、他時にあって、渇愛〔の思い〕に依拠して、渇愛〔の思い〕を捨棄します。『姉妹よ、この身体は、渇愛〔の思い〕に依拠して、渇愛〔の思い〕から発生したものです。渇愛〔の思い〕は、捨棄されるべきものです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『姉妹よ、この身体は、〔我想の〕思量に依拠して、〔我想の〕思量から発生したものです。〔我想の〕思量は、捨棄されるべきものです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。姉妹よ、ここに、比丘が、『どうやら、某名の比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『なぜなら、まさに、その尊者が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ。また、ましてや、わたしにあっては、なおさらのこと』と。彼は、他時にあって、〔我想の〕思量に依拠して、〔我想の〕思量を捨棄します。『姉妹よ、この身体は、〔我想の〕思量に依拠して、〔我想の〕思量から発生したものです。〔我想の〕思量は、捨棄されるべきものです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 姉妹よ、この身体は、淫事から発生したものです。そして、淫事については、世尊によって、橋の殲滅が説かれました」と。

 

 そこで、まさに、その比丘尼は、臥床から出起して、一つの肩に上衣を掛けて、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって平伏して、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、このように為しました。尊き方よ、尊貴なるアーナンダは、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「姉妹よ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、このように為しました。姉妹よ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。姉妹よ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 善き至達者の律の経

 

160. 「比丘たちよ、あるいは、善き至達者(善逝)が、あるいは、善き至達者の律が、世において止住しているなら、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、存するでしょう。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き至達者なのですか。比丘たちよ、ここに、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。比丘たちよ、この者は、善き至達者です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き至達者の律なのですか。彼が、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。比丘たちよ、これは、善き至達者の律です。比丘たちよ、このように、あるいは、善き至達者が、あるいは、善き至達者の律が、世において止住しているなら、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、存するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘たちが、悪しく把握された経典を、諸々の悪しく配置された句と文によって遍く学得します。比丘たちよ、悪しく配置された句と文の義(意味)もまた、悪しき教導あるものと成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるとして、彼らは、経典を、他者に真剣に教授しません。彼らの死後、経典は、根が断ち切られ、帰依なきものと成ります。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、長老の比丘たちが、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します」と。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘たちが、善く把握された経典を、諸々の善く配置された句と文によって遍く学得します。比丘たちよ、善く配置された句と文の義(意味)もまた、善き教導あるものと成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるとして、彼らは、経典を、他者に真剣に教授します。彼らの死後、経典は、根が断ち切られず、帰依を有するものと成ります。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、長老の比丘たちが、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 機能の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の機能、信、智慧、気づき、第五のものとして、審慮、カッパ、貪欲、遍き衰退、比丘尼があり、そして、善き至達者とともに、〔章となる〕」と。

 

(17)2. 〔実践の〕道の章

 

1. 簡略の経

 

161. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 詳細の経

 

162. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者として〔世に〕有り、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者として〔世に〕有り、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者として〔世に〕有り、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知します。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に遅く至り得ます。比丘たちよ、これは、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者として〔世に〕有り、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者として〔世に〕有り、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者として〔世に〕有り、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知します。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に速く至り得ます。比丘たちよ、これは、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者ではなく〔世に〕有り、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者ではなく〔世に〕有り、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者ではなく〔世に〕有り、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがありません。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は……略……智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に遅く至り得ます。比丘たちよ、これは、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者ではなく〔世に〕有り、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者ではなく〔世に〕有り、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者ではなく〔世に〕有り、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがありません。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は……略……智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に速く至り得ます。比丘たちよ、これは、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 不浄の経

 

163. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に、恥〔の思い〕の力に、〔良心の〕咎めの力に、精進の力に、智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に遅く至り得ます。比丘たちよ、これは、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に……略……智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は……略……智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に速く至り得ます。比丘たちよ、これは、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に……略……智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は……略……智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に遅く至り得ます。比丘たちよ、これは、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に……略……智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は……略……智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、諸々の煩悩の滅尽のための直後なる〔報い〕に速く至り得ます。比丘たちよ、これは、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の忍耐の経

 

164. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。忍耐なき〔実践の〕道であり、忍耐ある〔実践の〕道であり、調御ある〔実践の〕道であり、平静ある〔実践の〕道です。比丘たちよ、では、どのようなものが、忍耐なき〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、罵っている者に罵り返し、悩ましている者に悩まし返し、言い争っている者に言い争い返します。比丘たちよ、これは、忍耐なき〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、忍耐ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、罵っている者に罵り返さず、悩ましている者に悩まし返さず、言い争っている者に言い争い返しません。比丘たちよ、これは、忍耐ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、調御ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……。鼻によって、臭気()を嗅いで……。舌によって、味感()を味わって……。身によって、感触(所触)と接触して……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、これは、調御ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、平静ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、平静ならしめ、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……諸々の生起しては生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、平静ならしめ、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、これは、平静ある〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の忍耐の経

 

165. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。忍耐なき〔実践の〕道であり、忍耐ある〔実践の〕道であり、調御ある〔実践の〕道であり、平静ある〔実践の〕道です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、忍耐なき〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐なき者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ばない類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、忍耐なき〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、忍耐ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、忍耐ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、調御ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず……略……。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者たちと〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、これは、調御ある〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、平静ある〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、平静ならしめ、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……諸々の生起しては生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、平静ならしめ、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、これは、平静ある〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 両者の経

 

166. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道ですが、比丘たちよ、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、下劣なるものと告げ知らされます。すなわち、また、この〔実践の〕道は、苦なるものであり、このことによってもまた、この〔実践の〕道は、下劣なるものと告げ知らされます。すなわち、また、この〔実践の〕道は、遅きものであり、このことによってもまた、この〔実践の〕道は、下劣なるものと告げ知らされます。比丘たちよ、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、下劣なるものと告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、比丘たちよ、この〔実践の〕道は、苦なることから、下劣なるものと告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道ですが、比丘たちよ、この〔実践の〕道は、遅きことから、下劣なるものと告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、比丘たちよ、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、精妙なるものと告げ知らされます。すなわち、また、この〔実践の〕道は、楽なるものであり、このことによってもまた、この〔実践の〕道は、精妙なるものと告げ知らされます。すなわち、また、この〔実践の〕道は、速きものであり、このことによってもまた、この〔実践の〕道は、精妙なるものと告げ知らされます。比丘たちよ、この〔実践の〕道は、まさしく、両者によって、精妙なるものと告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. マハー・モッガッラーナの経

 

167. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「友よ、モッガッラーナよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。友よ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります。友よ、これらの四つの〔実践の〕道のなかでは、どの〔実践の〕道に由来して、あなたの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。友よ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります。友よ、これらの四つの〔実践の〕道のなかでは、すなわち、この、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、この〔実践の〕道に由来して、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. サーリプッタの経

 

168. そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。友よ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります。友よ、これらの四つの〔実践の〕道のなかでは、どの〔実践の〕道に由来して、あなたの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか」と。

 

 「友よ、モッガッラーナよ、四つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。友よ、まさに、これらの四つの〔実践の〕道があります。友よ、これらの四つの〔実践の〕道のなかでは、すなわち、この、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道ですが、この〔実践の〕道に由来して、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 形成〔作用〕を有するものの経

 

169. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に、恥〔の思い〕の力に、〔良心の〕咎めの力に、精進の力に、智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。彼は、これらの五つの学びある者の力に──信の力に、恥〔の思い〕の力に、〔良心の〕咎めの力に、精進の力に、智慧の力に──近しく依拠して、〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、身体の破壊ののち、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──旺盛なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の旺盛なることから、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、所見の法(現世)において、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼の、これらの五つの機能は──信の機能は、精進の機能は、気づきの機能は、禅定の機能は、智慧の機能は──柔弱なるものとして出現し、彼は、これらの五つの機能の柔弱なることから、身体の破壊ののち、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、身体の破壊ののち、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 双連のものの経

 

170. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、その全てが、四つの道によります──あるいは、これら〔の四つの道〕のなかのどれか一つによって。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を先行とする〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を修行します。彼が、〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するもの()は捨棄され、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は終息と成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行します。彼が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します。彼が、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘に、法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。友よ、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時と成り、彼に、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、その全てが、四つの道によります──あるいは、これら〔の四つの道〕のなかのどれか一つによって」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔実践の〕道の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「簡略、詳細、不浄、二つの忍耐があり、そして、両者とともに、モッガッラーナ、サーリプッタ、形成〔作用〕を有するものがあり、そして、双連のものとともに、〔章となる〕」と。

 

(18)3. 思欲あるものの章

 

1. 思欲の経

 

171. 「比丘たちよ、あるいは、身体が存しているとき、身体にたいする思欲()を因として、内に、楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、言葉が存しているとき、言葉にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、意が存しているとき、意にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します──まさしく、無明という縁あることから。

 

 比丘たちよ、あるいは、自ら、その身体の形成〔作用〕(身行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、他者たちが、彼に、その身体の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知ある者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知なき者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(無意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 比丘たちよ、あるいは、自ら、その言葉の形成〔作用〕(口行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、他者たちが、彼に、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知ある者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知なき者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 比丘たちよ、あるいは、自ら、その意の形成〔作用〕(意行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、他者たちが、彼に、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知ある者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。比丘たちよ、あるいは、正知なき者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 比丘たちよ、これらの法(性質)においては、無明〔という縁〕が起こっているのですが、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その身体は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その言葉は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その意は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その田畑(環境)は有ることなくあり……略……その地所(基盤)は有ることなくあり……略……その場所(縁)は有ることなくあり……略……それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その事因(契機)は有ることなくあります」と。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの自己状態(個我的あり方・身体)の獲得です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、その自己状態の獲得においては、自己の思欲が至り行き、他者の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。比丘たちよ、その自己状態の獲得においては、他者の思欲が至り行き、自己の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。比丘たちよ、その自己状態の獲得においては、かつまた、自己の思欲が至り行き、かつまた、他者の思欲が〔至り行く〕、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。比丘たちよ、その自己状態の獲得においては、まさしく、自己の思欲が至り行くこともなく、他者の思欲が〔至り行くことも〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの自己状態の獲得があります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。尊き方よ、そこで、すなわち、この、その自己状態の獲得においては、自己の思欲が至り行き、他者の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得ですが、それらの有情たちには、自己の思欲を因として、その身体からの死滅が有ります。尊き方よ、そこで、すなわち、この、その自己状態の獲得においては、他者の思欲が至り行き、自己の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得ですが、それらの有情たちには、他者の思欲を因として、その身体からの死滅が有ります。尊き方よ、そこで、すなわち、この、その自己状態の獲得においては、かつまた、自己の思欲が至り行き、かつまた、他者の思欲が〔至り行く〕、〔そのような〕自己状態の獲得ですが、それらの有情たちには、かつまた、自己の思欲を、かつまた、他者の思欲を、〔両者を〕因として、その身体からの死滅が有ります。尊き方よ、そこで、すなわち、この、その自己状態の獲得においては、まさしく、自己の思欲が至り行くこともなく、他者の思欲が〔至り行くことも〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得ですが、それによって、どのような天〔の神々〕たちが見られるべきですか」と。「サーリプッタよ、それによって、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に近しく赴く天〔の神々〕たちが見られるべきです」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、その身体から死滅し、この場に帰り来る帰還者たちと成るのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、その身体から死滅し、この場に帰り来ない不還たる者たちと成るのですか」と。「サーリプッタよ、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するもの(欲界に束縛する煩悩)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。彼は、まさしく、所見の法(現世)において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、そこから死滅し、この場に帰り来る帰還者と成ります。

 

 サーリプッタよ、また、ここに、一部の人には、諸々の下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。彼は、まさしく、所見の法(現世)において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、そこから死滅し、この場に帰り来ない不還たる者たちと成ります。

 

 サーリプッタよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、その身体から死滅し、この場に帰り来る帰還者たちと成ります。サーリプッタよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、その身体から死滅し、この場に帰り来ない不還たる者たちと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 区分の経

 

172. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、〔戒の〕成就から半月で、わたしによって、義(意味)についての融通無礙〔の智慧〕(義無礙解)が実証されました──個別〔の観点〕から、文型〔の観点〕から。わたしは、それを、無数の教相によって、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼は、わたしに、問いによって〔尋ねるべきです〕。わたしは、説き明かしによって〔答えるでしょう〕。わたしたちの教師は、現前に有るのです。すなわち、わたしたちの諸々の法(教え)に極めて巧みな智ある者として。

 

 友よ、〔戒の〕成就から半月で、わたしによって、法(教え)についての融通無礙〔の智慧〕(法無礙解)が実証されました──個別〔の観点〕から、文型〔の観点〕から。わたしは、それを、無数の教相によって、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼は、わたしに、問いによって〔尋ねるべきです〕。わたしは、説き明かしによって〔答えるでしょう〕。わたしたちの教師は、現前に有るのです。すなわち、わたしたちの諸々の法(教え)に極めて巧みな智ある者として。

 

 友よ、〔戒の〕成就から半月で、わたしによって、言語についての融通無礙〔の智慧〕(辞無礙解)が実証されました──個別〔の観点〕から、文型〔の観点〕から。わたしは、それを、無数の教相によって、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼は、わたしに、問いによって〔尋ねるべきです〕。わたしは、説き明かしによって〔答えるでしょう〕。わたしたちの教師は、現前に有るのです。すなわち、わたしたちの諸々の法(教え)に極めて巧みな智ある者として。

 

 友よ、〔戒の〕成就から半月で、わたしによって、応答についての融通無礙〔の智慧〕(楽説無礙解)が実証されました──個別〔の観点〕から、文型〔の観点〕から。わたしは、それを、無数の教相によって、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼は、わたしに、問いによって〔尋ねるべきです〕。わたしは、説き明かしによって〔答えるでしょう〕。わたしたちの教師は、現前に有るのです。すなわち、わたしたちの諸々の法(教え)に極めて巧みな智ある者として」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. マハー・コッティカの経

 

173. そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

 「『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。友よ、およそ、六つの接触ある〔認識の〕場所に赴く所があるかぎり、それまでは、虚構(戯論:分別妄想)に赴く所があります。友よ、およそ、虚構に赴く所があるかぎり、それまでは、六つの接触ある〔認識の〕場所に赴く所があります。友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、虚構の止滅があり、虚構の寂止があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. アーナンダの経

 

174. そこで、まさに、尊者アーナンダが、尊者マハー・コッティカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・コッティカを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか」と。

 

 「友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と。

 

 「『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

 「『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在するのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは存在しないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、かつまた、存在するのであり、かつまた、存在しないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。『友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、何であれ、他のものは、まさしく、存在することもないのであり、存在しないこともないのでしょうか』と、かくのごとく説いている者は、虚構するべきではないものを虚構します。友よ、およそ、六つの接触ある〔認識の〕場所に赴く所があるかぎり、それまでは、虚構に赴く所があります。友よ、およそ、虚構に赴く所があるかぎり、それまでは、六つの接触ある〔認識の〕場所の赴く所があります。友よ、六つの接触ある〔認識の〕場所の残りなき離貪と止滅あることから、虚構の止滅があり、虚構の寂止があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ウパヴァーナの経

 

175. そこで、まさに、尊者ウパヴァーナが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパヴァーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、明知と行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、明知と行ないより他によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、明知と行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、明知と行ないより他によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、〔苦しみの〕終極を為す者と成るのですか」と。

 

 「友よ、もし、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るなら、まさしく、執取〔の思い〕を有する者が、〔そのように〕存しつつ、〔苦しみの〕終極を為す者と成るでしょう。友よ、もし、行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るなら、まさしく、執取〔の思い〕を有する者が、〔そのように〕存しつつ、〔苦しみの〕終極を為す者と成るでしょう。友よ、もし、明知と行ないによって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るなら、まさしく、執取〔の思い〕を有する者が、〔そのように〕存しつつ、〔苦しみの〕終極を為す者と成るでしょう。友よ、もし、明知と行ないより他によって、〔苦しみの〕終極を為す者と成るなら、凡夫が、〔苦しみの〕終極を為す者と成るでしょう。友よ、なぜなら、凡夫は、明知と行ないより他によって、〔凡夫であるからです〕。友よ、行ないが衰滅した者は、まさに、事実のとおりに知らず見ません。行ないが成就した者は、まさに、事実のとおりに知り見ます。事実のとおりに知り見ている者は、〔苦しみの〕終極を為す者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 祈願の経

 

176. 「比丘たちよ、信ある比丘は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『サーリプッタとモッガッラーナがそのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、サーリプッタとモッガッラーナです。

 

 比丘たちよ、信ある比丘尼は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、ケーマー比丘尼が、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕が、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘尼たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、ケーマー比丘尼であり、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕です。

 

 比丘たちよ、信ある在俗信者(優婆塞)は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、チッタ家長が、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である在俗信者たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、チッタ家長であり、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカです。

 

 比丘たちよ、信ある女性在俗信者(優婆夷)は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、クッジュッタラー女性在俗信者が、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルが、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である女性在俗信者たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、クッジュッタラー女性在俗信者であり、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ラーフラの経

 

177. そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。

 

 「ラーフラよ、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域も、これは、まさしく、地の界域としてあります。それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。

 

 ラーフラよ、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域も、これは、まさしく、水の界域としてあります。それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。

 

 ラーフラよ、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域も、これは、まさしく、火の界域としてあります。それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。

 

 ラーフラよ、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域も、これは、まさしく、風の界域としてあります。それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。

 

 ラーフラよ、すなわち、まさに、比丘が、これらの四つの界域において、まさしく、自己を〔等しく随観せ〕ず、自己に属するものを等しく随観しないことから、ラーフラよ、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 溜池の経

 

178. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体を有すること(有身:身体と自己を同一視する認知のあり方)の止滅に意を為します。彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、身体を有することの止滅は期待できません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、鳥もちを付けた手で枝を掴むなら、彼のその手は、〔枝に〕執着することにもまたなり、〔枝に〕捕捉されることにもまたなり、〔枝に〕結縛されることにもまたなるようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体を有することの止滅に意を為します。彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、身体を有することの止滅は期待できません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体を有することの止滅に意を為します。彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、信念します。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、身体を有することの止滅は期待できます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、清浄となった手で枝を掴むなら、彼のその手は、まさしく、〔枝に〕執着することもなく、〔枝に〕捕捉されることもなく、〔枝に〕結縛されることもないようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体を有することの止滅に意を為します。彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、信念します。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、身体を有することの止滅は期待できます。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、無明の破壊に意を為します。彼が、無明の破壊に意を為していると、無明の破壊にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、無明の破壊は期待できません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年代物の溜池のようなものです。人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが流入口であるなら、それらを塞ぎ、さらに、それらが流出口であるなら、それらを開き、かつまた、天が、正しく流雨を授けないとします。比丘たちよ、まさに、このように、その溜池に、堤防の破壊は期待できません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、無明の破壊に意を為します。彼が、無明の破壊に意を為していると、無明の破壊にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、無明の破壊は期待できません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、無明の破壊に意を為します。彼が、無明の破壊に意を為していると、無明の破壊にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、信念します。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、無明の破壊は期待できます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年代物の溜池のようなものです。人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが流入口であるなら、それらを開き、さらに、それらが流出口であるなら、それらを塞ぎ、かつまた、天が、正しく流雨を授けるとします。比丘たちよ、まさに、このように、その溜池に、堤防の破壊は期待できます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、何らかの或る寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、無明の破壊に意を為します。彼が、無明の破壊に意を為していると、無明の破壊にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、信念します。比丘たちよ、まさに、このように、その比丘に、無明の破壊は期待できます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 涅槃の経

 

179. そこで、まさに、尊者アーナンダが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しないのですか」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、ここに、有情たちが、『これらは、退失を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、止住を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、殊勝を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、洞察を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、アーナンダよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達しません」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するのですか」と。「友よ、アーナンダよ、ここに、有情たちが、『これらは、退失を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、止住を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、殊勝を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、洞察を部分とする表象である』と、事実のとおりに覚知します。友よ、アーナンダよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 大いなる指標の経

 

180. 或る時のことです。世尊は、ボーガ城市に住んでおられます。アーナンダ塔廟において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、これらの四つの大いなる指標(四大教法)を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、どのようなものが、四つの大いなる指標なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、このように説くとします。『友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、この比丘の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、この比丘の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第一の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、長老を有し筆頭者を有する僧団が住んでいます。わたしは、その僧団の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、その僧団の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、長老を有し筆頭者を有する僧団が住んでいます。わたしは、その僧団の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、その僧団の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第二の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、大勢の長老の比丘たちが住んでいます。多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちです。わたしは、それらの長老の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、それらの長老の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、大勢の長老の比丘たちが住んでいます。多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちです。わたしは、それらの長老の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、それらの長老の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第三の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、或る長老の比丘が住んでいます。多聞の者であり、聖教の精通者であり、法(教え)の保持者であり、律の保持者であり、要綱の保持者です。わたしは、その長老の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認されず、律において見示されないなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉ではなく、さらに、その長老の、悪しく把握されたものである』と。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これを捨てるべきです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『何某という名の居住所において、或る長老の比丘が住んでいます。多聞の者であり、聖教の精通者であり、法(教え)の保持者であり、律の保持者であり、要綱の保持者です。わたしは、その長老の、面前で聞き、面前で受けました。「これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである」』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、それらの句と文を善くしっかりと把握して、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきです。もし、経において確認されるべきであり、律において見示されるべきである、それら〔の句と文〕が、まさしく、そして、経において確認され、律において見示されるなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『たしかに、これは、まさしく、そして、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉であり、さらに、その長老の、善く把握されたものである』と。比丘たちよ、この第四の大いなる指標を、〔あなたたちは〕保持するべきです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの大いなる指標があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 思欲あるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「思欲、区分、コッティカ、アーナンダ、第五のものとして、ウパヴァーナ、祈願とラーフラと溜池、涅槃があり、大いなる指標とともに、〔章となる〕」と。

 

(19)4. 婆羅門の章

 

1. 軍人の経

 

181. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した軍人は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、軍人が、そして、状況に巧みな智ある者として、かつまた、遠くから射る者として、かつまた、瞬時に貫く者として、さらに、大いなる身体を切り裂く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した軍人は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、状況に巧みな智ある者として、かつまた、遠くから射る者として、かつまた、瞬時に貫く者として、さらに、大いなる身体を切り裂く者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、状況に巧みな智ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、状況に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、遠くから射る者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕()としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕()としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕()としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、遠くから射る者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、瞬時に貫く者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、瞬時に貫く者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、大いなる身体を切り裂く者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、大いなる無明の範疇()を切り裂きます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、大いなる身体を切り裂く者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 保証人の経

 

182. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)には、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。『老の法(性質)あるものは、老いてはならない』と〔保証する〕、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ。『病の法(性質)あるものは、病んではならない』と〔保証する〕、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ。『死の法(性質)あるものは、死んではならない』と〔保証する〕、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ。『また、まさに、すなわち、それらの、過去において、自己によって為された諸々の悪しき善ならざる行為である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、それら〔の行為〕には、報いが発現してはならない』と〔保証する〕、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)には、誰であれ、保証人は存在しません。あるいは、沙門も、あるいは、婆羅門も、あるいは、天〔の神〕も、あるいは、悪魔も、あるいは、梵〔天〕も、あるいは、世において、誰であれ」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 聞かれたものの経

 

183. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『彼が誰であれ、「このように、わたしによって見られた」と、見られたものを語るなら、それによる汚点は存在しない。彼が誰であれ、「このように、わたしによって聞かれた」と、聞かれたものを語るなら、それによる汚点は存在しない。彼が誰であれ、「このように、わたしによって思われた」と、思われたものを語るなら、それによる汚点は存在しない。彼が誰であれ、「このように、わたしによって識()られた」と、識られたものを語るなら、それによる汚点は存在しない』」と。

 

 「婆羅門よ、『全ての見られたものは、語られるべきである』と、わたしは説きません。婆羅門よ、また、『全ての見られたものは、語られるべきではない』と、わたしは説きません。婆羅門よ、『全ての聞かれたものは、語られるべきである』と、わたしは説きません。婆羅門よ、また、『全ての聞かれたものは、語られるべきではない』と、わたしは説きません。婆羅門よ、『全ての思われたものは、語られるべきである』と、わたしは説きません。婆羅門よ、また、『全ての思われたものは、語られるべきではない』と、わたしは説きません。婆羅門よ、『全ての識られたものは、語られるべきである』と、わたしは説きません。婆羅門よ、また、『全ての識られたものは、語られるべきではない』と、わたしは説きません。

 

 婆羅門よ、まさに、その、見られたものを語っていると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の見られたものは、語られるべきではない』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その、見られたものを語らずにいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の見られたものは、語られるべきである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 婆羅門よ、まさに、その、聞かれたものを語っていると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の聞かれたものは、語られるべきではない』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その、聞かれたものを語らずにいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の聞かれたものは、語られるべきである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 婆羅門よ、まさに、その、思われたものを語っていると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の思われたものは、語られるべきではない』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その、思われたものを語らずにいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の思われたものは、語られるべきである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 婆羅門よ、まさに、その、識られたものを語っていると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、『このような形態の識られたものは、語られるべきではない』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その、識られたものを語らずにいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、『このような形態の識られたものは、語られるべきである』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 恐怖なき〔境地〕の経

 

184. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『すなわち、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しない、〔そのような者は〕存在しない』」と。「婆羅門よ、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起する、〔そのような者は〕存在します。婆羅門よ、また、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しない、〔そのような者も〕存在します。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起するのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『諸々の愛しい欲望〔の対象〕は、まさに、わたしを捨棄するであろう。そして、諸々の愛しい欲望〔の対象〕を、わたしは捨棄するであろう』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。婆羅門よ、この者は、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起します。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れてない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『愛しい身体は、まさに、わたしを捨棄するであろう。そして、愛しい身体を、わたしは捨棄するであろう』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起します。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、善を為さなかった者として、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者として、恐怖からの救護所を作り為さなかった者として、悪を為した者として、残忍なることを為した者として、罪障を作り為した者として、〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしによって、善は為されず、善なる〔功徳〕は作り為されず、恐怖からの救護所は作り為されず、悪は為され、残忍なることは為され、罪障は作り為された。すなわち、まさに、善を為さなかった者たちの、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちの、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちの、悪を為した者たちの、残忍なることを為した者たちの、罪障を作り為した者たちの、〔彼らの〕赴く所があるかぎり、その赴く所に、死してのち、〔わたしは〕赴くのだ』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起します。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正なる法(教え)にたいし、疑いある者として、疑惑ある者として、結論に至らない者として、〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、〔わたしは〕存している──正なる法(教え)にたいし、疑いある者として、疑惑ある者として、結論に至らない者として』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起します。婆羅門よ、まさに、これらの四つのものが、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存しつつ、恐怖し、死への恐慌を惹起します。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しないのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いは〕有りません。『諸々の愛しい欲望〔の対象〕は、まさに、わたしを捨棄するであろう。そして、諸々の愛しい欲望〔の対象〕を、わたしは捨棄するであろう』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫まず、等しき迷妄を惹起しません。婆羅門よ、この者は、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しません。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いは〕有りません。『愛しい身体は、まさに、わたしを捨棄するであろう。そして、愛しい身体を、わたしは捨棄するであろう』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫まず、等しき迷妄を惹起しません。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しません。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、悪を為さなかった者として、残忍なることを為さなかった者として、罪障を作り為さなかった者として、善を為した者として、善なる〔功徳〕を作り為した者として、恐怖からの救護所を作り為した者として、〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしによって、悪は為されず、残忍なることは為されず、罪障は作り為されず、善は為され、善なる〔功徳〕は作り為され、恐怖からの救護所は作り為された。すなわち、まさに、悪を為さなかった者たちの、残忍なることを為さなかった者たちの、罪障を作り為さなかった者たちの、善を為した者たちの、善なる〔功徳〕を作り為した者たちの、恐怖からの救護所を作り為した者たちの、〔彼らの〕赴く所があるかぎり、その赴く所に、死してのち、〔わたしは〕赴くのだ』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫まず、等しき迷妄を惹起しません。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しません。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正なる法(教え)にたいし、疑いなき者として、疑惑なき者として、結論に至った者として、〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者に、何らかの或る荒々しい病悩が接触します。何らかの或る荒々しい病悩によって接触された彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、〔わたしは〕存している──正なる法(教え)にたいし、疑いなき者として、疑惑なき者として、結論に至った者として』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫まず、等しき迷妄を惹起しません。婆羅門よ、この者もまた、まさに、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しません。婆羅門よ、まさに、これらの四つのものが、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存しつつ、恐怖せず、死への恐慌を惹起しません」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 婆羅門の真理の経

 

185. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園に滞在しています。それは、すなわち、この、アンナバーラ〔遍歴遊行者〕であり、ヴァラダラ〔遍歴遊行者〕であり、そして、サクルダーイン遍歴遊行者であり、さらに、他の者たちである、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 また、まさに、その時点にあって、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「かくのごとくもまた、諸々の婆羅門の真理()はある」「かくのごとくもまた、諸々の婆羅門の真理はある」と。そこで、まさに、世尊は、それらの遍歴遊行者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、それらの遍歴遊行者たちに、こう言いました。

 

 「遍歴遊行者たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、わたしたちが着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『かくのごとくもまた、諸々の婆羅門の真理はある』『かくのごとくもまた、諸々の婆羅門の真理はある』」と。

 

 「遍歴遊行者たちよ、四つのものがあります。これらの婆羅門の真理が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。遍歴遊行者たちよ、ここに、婆羅門は、このように言いました。『全ての命あるものは、不可侵たるべし』と。かくのごとく説きながら、婆羅門は、真理を言いました──虚偽ではなく。彼は、それによって、〔自己について〕『沙門である』と思わず、『婆羅門である』と思わず、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、同等の者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と思いません。さらに、また、そこにおいて、まさしく、それが真理であるなら、それを証知して、まさしく、命あるものたちへの、憐憫〔の思い〕のために、慈しみ〔の思い〕のために、実践する者と成ります。

 

 遍歴遊行者たちよ、さらに、また、他に、婆羅門は、このように言いました。『全ての欲望〔の対象〕は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と。かくのごとく説きながら、婆羅門は、真理を言いました──虚偽ではなく。彼は、それによって、〔自己について〕『沙門である』と思わず、『婆羅門である』と思わず、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、同等の者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と思いません。さらに、また、そこにおいて、まさしく、それが真理であるなら、それを証知して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 遍歴遊行者たちよ、さらに、また、他に、婆羅門は、このように言いました。『全ての生存は、無常であり……略……まさしく、諸々の生存の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 遍歴遊行者たちよ、さらに、また、他に、婆羅門は、このように言いました。『わたしにあらず──どこにあっても、誰にとっても、何においても。そして、わたしのものは、どこにあっても、どこにおいても、何ひとつも存在しない』と。かくのごとく説きながら、婆羅門は、真理を言いました──虚偽ではなく。彼は、それによって、〔自己について〕『沙門である』と思わず、『婆羅門である』と思わず、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、同等の者として〔世に〕存している』と思わず、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と思いません。さらに、また、そこにおいて、まさしく、それが真理であるなら、それを証知して、まさしく、無一物の〔実践の〕道の実践者と成ります。遍歴遊行者たちよ、まさに、これらの四つの婆羅門の真理が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 〔話の〕進め方の経

 

186. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、何によって、まさに、世〔の人々〕は導かれ、何によって、世〔の人々〕は引き回され、そして、何が生起したなら、〔その〕支配に赴くのですか」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。比丘よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、いったい、何によって、まさに、世〔の人々〕は導かれ、何によって、世〔の人々〕は引き回され、そして、何が生起したなら、〔その〕支配に赴くのですか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘よ、心によって、まさに、世〔の人々〕は導かれ、心によって、世〔の人々〕は引き回され、心が生起したなら、〔その〕支配に赴きます」と。

 

 「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、『多聞にして法(教え)を保つ者』『多聞にして法(教え)を保つ者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、多聞にして法(教え)を保つ者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。比丘よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、「多聞にして法(教え)を保つ者」「多聞にして法(教え)を保つ者」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、多聞にして法(教え)を保つ者と成るのですか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘よ、まさに、わたしによって、多くの法(教え)が──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が──説示されました。比丘よ、たとえ、もし、四つの句からなる〔一つの〕詩偈の、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有るなら、〔それだけで〕『多聞にして法(教え)を保つ者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、『有聞にして洞察の智慧ある者』『有聞にして洞察の智慧ある者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、有聞にして洞察の智慧ある者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。比丘よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、「有聞にして洞察の智慧ある者」「有聞にして洞察の智慧ある者」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、有聞にして洞察の智慧ある者と成るのですか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘よ、ここに、比丘に、『これは、苦しみである』と、聞かれたものが有り、そして、その〔聞かれたもの〕の義(意味)を、智慧によって理解して〔あるがままに〕見、『これは、苦しみの集起である』と、聞かれたものが有り、そして、その〔聞かれたもの〕の義(意味)を、智慧によって理解して〔あるがままに〕見、『これは、苦しみの止滅である』と、聞かれたものが有り、そして、その〔聞かれたもの〕の義(意味)を、智慧によって理解して〔あるがままに〕見、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、聞かれたものが有り、そして、その〔聞かれたもの〕の義(意味)を、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘よ、このように、まさに、有聞にして洞察の智慧ある者と成ります」と。

 

 「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、『賢者にして大いなる智慧ある者』『賢者にして大いなる智慧ある者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、賢者にして大いなる智慧ある者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、まさに、あなたには、幸いなる〔話の〕進め方があり、幸いなる弁才があり、善き遍問があります。比丘よ、まさに、このように、あなたは尋ねました。『尊き方よ、「賢者にして大いなる智慧ある者」「賢者にして大いなる智慧ある者」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、賢者にして大いなる智慧ある者と成るのですか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘よ、ここに、賢者にして大いなる智慧ある者は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、まさしく、自己の利益と他者の利益と両者の利益と一切の世〔の人々〕の利益を思い考えつつ思い考えます。比丘よ、このように、まさに、賢者にして大いなる智慧ある者と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ヴァッサカーラの経

 

187. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。「婆羅門よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正ならざる人士を知ることです──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。「貴君ゴータマよ、また、正ならざる人士は、正なる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「婆羅門よ、まさに、このこともまた、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正なる人士を知ることです──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、正なる人士は、正なる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「婆羅門よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、正なる人士が、正なる人士を知ることです──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「貴君ゴータマよ、また、正なる人士は、正ならざる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。「婆羅門よ、まさに、この状況もまた見出されます。すなわち、正なる人士が、正ならざる人士を知ることです──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『婆羅門よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正ならざる人士を知ることです──「この尊き者は、正ならざる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、このこともまた、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正なる人士を知ることです──「この尊き者は、正なる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、正なる人士が、正なる人士を知ることです──「この尊き者は、正なる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、この状況もまた見出されます。すなわち、正なる人士が、正ならざる人士を知ることです──「この尊き者は、正ならざる人士である」』と。

 

 貴君ゴータマよ、これは、或る時のことです。トーデイヤ婆羅門の衆において、〔人々は〕他者への論詰〔の言葉〕を転起させます。『エーレイヤ王は、この者は、愚者である。沙門ラーマプッタにたいし、大いに清信した者となり、また、そして、沙門ラーマプッタにたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為す。すなわち、この、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を』と。『エーレイヤ王を守る者たちである、ヤマカ、モッガッラ、ウッガ、ナーヴィンダキン、ガンダッバ、アッギヴェッサは、これらの者たちもまた、愚者たちである。彼らは、沙門ラーマプッタにたいし、大いに清信した者たちとなり、また、そして、沙門ラーマプッタにたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為す。すなわち、この、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を』と。彼らを、まさに、トーデイヤ婆羅門は、この理趣(方法・道理)によって導きます。『諸君よ、それを、どう思いますか。エーレイヤ王は、賢者であり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者たちよりも、より十分なる義(意味)を見る者ですか』と。『君よ、そのとおりです。エーレイヤ王は、賢者であり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者たちよりも、より十分なる義(意味)を見る者です』と。

 

 『君よ、しかしながら、すなわち、まさに、賢者であり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者である、エーレイヤ王よりも、沙門ラーマプッタは、より賢者であり、より十分なる義(意味)を見る者であることから、それゆえに、エーレイヤ王は、沙門ラーマプッタにたいし、大いに清信した者となり、また、そして、沙門ラーマプッタにたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為します。すなわち、この、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を。

 

 諸君よ、それを、どう思いますか。エーレイヤ王を守る者たちである、ヤマカ、モッガッラ、ウッガ、ナーヴィンダキン、ガンダッバ、アッギヴェッサは、賢者たちであり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者たちよりも、より十分なる義(意味)を見る者たちですか』と。『君よ、そのとおりです。エーレイヤ王を守る者たちである、ヤマカ、モッガッラ、ウッガ、ナーヴィンダキン、ガンダッバ、アッギヴェッサは、賢者たちであり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者たちよりも、より十分なる義(意味)を見る者たちです』と。

 

 『君よ、しかしながら、すなわち、まさに、賢者たちであり、為すべきことやしっかり為すべきことについて、言うべきことやしっかり言うべきことについて、より十分なる義(意味)を見る者たちである、エーレイヤ王を守る者たちよりも、沙門ラーマプッタは、より賢者であり、より十分なる義(意味)を見る者であることから、それゆえに、エーレイヤ王を守る者たちは、沙門ラーマプッタにたいし、大いに清信した者たちとなり、また、そして、沙門ラーマプッタにたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為します。すなわち、この、敬拝を、奉仕を、合掌の行為を、和敬の行為を』と。

 

 貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『婆羅門よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正ならざる人士を知ることです──「この尊き者は、正ならざる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、このこともまた、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正なる人士を知ることです──「この尊き者は、正なる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、正なる人士が、正なる人士を知ることです──「この尊き者は、正なる人士である」』と。『婆羅門よ、まさに、この状況もまた見出されます。すなわち、正なる人士が、正ならざる人士を知ることです──「この尊き者は、正ならざる人士である」』と。貴君ゴータマよ、では、さあ、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「婆羅門よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. ウパカの経

 

188. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、ウパカ・マンディカープッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウパカ・マンディカープッタは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『彼が誰であれ、他者への論詰〔の言葉〕を転起させ、他者への論詰〔の言葉〕を転起させている者は、その全てが、〔善なるものを〕生起させず、〔善なるものを〕生起させずにいる者として、難詰されるべき者と成り、批判されるべき者と〔成る〕』」と。「ウパカよ、もし、他者への論詰〔の言葉〕を転起させ、他者への論詰〔の言葉〕を転起させている者は、〔善なるものを〕生起させず、〔善なるものを〕生起させずにいる者として、難詰されるべき者と成り、批判されるべき者と〔成る、というのなら〕、ウパカよ、まさに、あなたは、他者への論詰〔の言葉〕を転起させ、他者への論詰〔の言葉〕を転起させている者であり、〔善なるものを〕生起させず、〔善なるものを〕生起させずにいる者として、難詰されるべき者と成り、批判されるべき者と〔成ります〕(あなたの言葉こそが他者を非難するものであり、あなた自身もまた非難されるべき者となる)」と。「尊き方よ、それは、たとえば、また、まさしく、〔水に〕浮かんでいる者を、大いなる罠で捕縛するようなものです。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、まさしく、〔水に〕浮かんでいる者であり、世尊の大いなる言葉の罠で捕縛されたのです」と。

 

 「ウパカよ、『これは、善ならざることである』と、まさに、わたしによって報知されたなら、そこにおいては、無量なる句があり、無量なる文があり、無量なる如来の法(教え)の説示があります──『かくのごとくもまた、これは、善ならざることである』と。ウパカよ、また、まさに、それが、『これは、善ならざることであり、捨棄されるべきである』と、まさに、わたしによって報知されたなら、そこにおいては、無量なる句があり、無量なる文があり、無量なる如来の法(教え)の説示があります──『かくのごとくもまた、これは、善ならざることであり、捨棄されるべきである』と。

 

 ウパカよ、『これは、善なるものである』と、まさに、わたしによって報知されたなら、そこにおいては、無量なる句があり、無量なる文があり、無量なる如来の法(教え)の説示があります──『かくのごとくもまた、これは、善なるものである』と。ウパカよ、また、まさに、それが、『これは、善なるものであり、修行されるべきである』と、まさに、わたしによって報知されたなら、そこにおいては、無量なる句があり、無量なる文があり、無量なる如来の法(教え)の説示があります──『かくのごとくもまた、これは、善なるものであり、修行されるべきである』」と。

 

 そこで、まさに、ウパカ・マンディカープッタは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に告げました。

 

 このように説かれたとき、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、激情し、わが意を得ない者となり、ウパカ・マンディカープッタに、こう言いました。「この塩作りの小僧が、まさに、それほどまでに、厚顔であるとは、それほどまでに、駄弁であるとは、それほどまでに、尊大であるとは。なぜなら、そこで、まさに、彼を、阿羅漢にして正等覚者たる世尊を、攻撃できると思い考えるとは。ウパカよ、おまえは、離れ去れ、消え失せろ。おまえを見ることがあってはならない」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 実証されるべきものの経

 

189. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの実証されるべき法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、身体によって実証されるべき法(性質)が存在します。比丘たちよ、気づきによって実証されるべき法(性質)が存在します。比丘たちよ、眼によって実証されるべき法(性質)が存在します。比丘たちよ、智慧によって実証されるべき法(性質)が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体によって実証されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)が、身体によって実証されるべきものです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきによって実証されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、過去における居住(過去世)が、気づきによって実証されるべきものです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、眼によって実証されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、有情たちの死滅と再生が、眼によって実証されるべきものです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧によって実証されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、諸々の煩悩の滅尽が、智慧によって実証されるべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの実証されるべき法(性質)があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 斎戒の経

 

190. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩)のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、虚論なきは、この衆です。比丘たちよ、虚論なくある、この衆は、清浄で、真髄において確立しています。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆は、世において会見するにもまた得難くあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆は、〔供物を〕捧げられるべきであり、〔供物を〕贈られるべきであり、〔供物を〕施与されるべきであり、合掌を為されるべきであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆においては、少なく施されたものが多くのものと成り、多く施されたものがより多くのものと〔成ります〕。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆と会見するためには、幾数ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)であろうが、肩袋をかけてであろうが、赴くにもまた十分なるものがあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。

 

 比丘たちよ、この比丘の僧団においては、天に至り得た者たちとして〔世に〕住む、〔そのような〕比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、梵に至り得た者たちとして〔世に〕住む、〔そのような〕比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、不動に至り得た者たちとして〔世に〕住む、〔そのような〕比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、聖なるものに至り得た者たちとして〔世に〕住む、〔そのような〕比丘たちが存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、天に至り得た者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、天に至り得た者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、梵に至り得た者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、梵に至り得た者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、不動に至り得た者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、不動に至り得た者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖なるものに至り得た者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖なるものに至り得た者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 婆羅門の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戦士、保証人と聞かれたもの、恐怖なき〔境地〕があり、第五のものとして、婆羅門の真理とともに、〔話の〕進め方とヴァッサカーラ、ウパカ、そして、実証、斎戒があり、〔章となる〕」と。

 

(20)5. 大いなるものの章

 

1. 耳によって追認されたものの経

 

191. 「比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、四つの福利が期待できます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、諸々の安楽ある法(教え)の句が思い浮かびます。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに(※)、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕(涅槃)に至る者と成ります。比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、この第一の福利が期待できます。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。しかしながら、また、まさに、比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示します。彼に、このような〔思いが〕有ります。『あるいは、これは、すなわち、過去において、わたしが梵行を歩んだ、〔まさに〕その、法(教え)と律なのだ』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、太鼓の音声に巧みな智ある人のようなものです。旅の道を行く彼が、太鼓の音声を聞くとします。彼には、まさに、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、まさしく、まさに、存在しません──『いったい、まさに、太鼓の音声であるのか、いったい、まさに、太鼓の音声ではないのか』と。そこで、まさに、まさしく、『太鼓の音声である』と、結論に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。しかしながら、また、まさに、比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示します。彼に、このような〔思いが〕有ります。『あるいは、これは、すなわち、過去において、わたしが梵行を歩んだ、〔まさに〕その、法(教え)と律なのだ』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、この第二の福利が期待できます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。しかしながら、また、まさに、天子として、天の衆において、法(教え)を説示します。彼に、このような〔思いが〕有ります。『あるいは、これは、すなわち、過去において、わたしが梵行を歩んだ、〔まさに〕その、法(教え)と律なのだ』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、法螺貝の音声に巧みな智ある人のようなものです。旅の道を行く彼が、法螺貝の音声を聞くとします。彼には、まさに、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、まさしく、まさに、存在しません──『いったい、まさに、法螺貝の音声であるのか、いったい、まさに、法螺貝の音声ではないのか』と。そこで、まさに、まさしく、『法螺貝の音声である』と、結論に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、比丘が、まさに、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。しかしながら、また、まさに、天子として、天の衆において、法(教え)を説示します。彼に、このような〔思いが〕有ります。『あるいは、これは、すなわち、過去において、わたしが梵行を歩んだ、〔まさに〕その、法(教え)と律なのだ』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、この第三の福利が期待できます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。天子として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。しかしながら、また、まさに、化生の者が化生の者に思い出させます。『敬愛なる者よ、あなたは思い出します。敬愛なる者よ、あなたは思い出します。そこにおいて、わたしたちは、過去に梵行を歩んだのです』と。彼は、このように言います。『敬愛なる者よ、〔わたしは〕思い出します。敬愛なる者よ、〔わたしは〕思い出します』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔子供の頃に〕砂遊びをした二者の道友のようなものです。彼らは、いつであれ、いつかは、互いに他と遭遇するでしょう。また、他の道友は、道友に、このように説くでしょう。『友よ、このことをもまた、〔あなたは〕思い出します。友よ、このことをもまた、〔あなたは〕思い出します』と。彼は、このように説くでしょう。『友よ、〔わたしは〕思い出します。友よ、〔わたしは〕思い出します』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼にとって、それらの法(教え)は、耳によって追認されたものと成り、言葉によって遍く蓄積されたものと〔成り〕、意によって点検されたものと〔成り〕、〔正しい〕見解によって善く理解されたものと〔成ります〕。彼は、気づきが忘却された者として、命を終えつつ、或るどこかの天の身体に再生します。そこにおいて、彼には、まさに、諸々の安楽ある法(教え)の句が、まさしく、まさに、思い浮かびません。比丘として、神通ある者として、心の支配に至り得た者として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。天子として、天の衆において、法(教え)を説示することもまた、ありません。しかしながら、また、まさに、化生の者として、化生の者に思念させます。『敬愛なる者よ、あなたは思い出します。敬愛なる者よ、あなたは思い出します。そこにおいて、わたしたちは、過去に梵行を歩んだのです』と。彼は、このように言います。『敬愛なる者よ、〔わたしは〕思い出します。敬愛なる者よ、〔わたしは〕思い出します』と。比丘たちよ、気づきの生起は遅くあるも、そこで、まさに、その有情は、まさしく、すみやかに、殊勝〔の境地〕に至る者と成ります。比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、この第四の福利が期待できます。比丘たちよ、諸々の法(教え)が、耳によって追認され、言葉によって遍く蓄積され、意によって点検され、〔正しい〕見解によって善く理解されたなら、これらの四つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 状況の経

 

192. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの状況は、四つの状況によって知られるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。比丘たちよ、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。比丘たちよ、強靭は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。比丘たちよ、智慧は、論談において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕」と。

 

 「『比丘たちよ、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、人は、人と共に共住しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者は、長夜にわたり、諸戒において、破断を為す者であり、切断を為す者であり、斑紋を為す者であり、雑色を為す者であり、常に為す者ではなく、常なる行持ある者ではない。この尊者は、劣戒の者である。この尊者は、戒ある者にあらず』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、人は、人と共に共住しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者は、長夜にわたり、諸戒において、破断を為さない者であり、切断を為さない者であり、斑紋を為さない者であり、雑色を為さない者であり、常に為す者であり、常なる行持ある者である。この尊者は、戒ある者である。この尊者は、劣戒の者にあらず』と。『比丘たちよ、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、人は、人と共に対話しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者は一者なるも、他なるものとして、一者と語用し、他なるものとして、二者と〔語用し〕、他なるものとして、三者と〔語用し〕、他なるものとして、大勢の者たちと〔語用する〕。この尊者は、前の語用から後の語用へと離れ行く。完全なる清浄の語用なき者として、この尊者はある。この尊者は、完全なる清浄の語用ある者にあらず』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、人は、人と共に対話しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者は一者なるも、まさしく、すなわち、一者と語用するとおりに、そのとおり、二者と〔語用し〕、そのとおり、三者と〔語用し〕、そのとおり、大勢の者たちと〔語用する〕。この尊者は、前の語用から後の語用へと離れ行くことがない。完全なる清浄の語用ある者として、この尊者はある。この尊者は、完全なる清浄の語用なき者にあらず』と。『比丘たちよ、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、強靱は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、あるいは、親族の災厄に接触された者(遭遇した者)として存しつつ、あるいは、財物の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、病の災厄に接触された者として存しつつ、かくのごとく深慮しません。『まさに、世の共住は、これが、事実のとおりである。自己状態(個我的あり方・身体)の獲得は、これが、事実のとおりである。事実のとおりの世の共住において、事実のとおりの自己状態の獲得において、八つの世の法(八世間法)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、八つの世の法(性質)に遍く随転する。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛である』と。彼は、あるいは、親族の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、財物の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、病の災厄に接触された者として存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、あるいは、親族の災厄に接触された者(遭遇した者)として存しつつ、あるいは、財物の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、病の災厄に接触された者として存しつつ、かくのごとく深慮します。『まさに、世の共住は、これが、事実のとおりである。自己状態(個我的あり方・身体)の獲得は、これが、事実のとおりである。事実のとおりの世の共住において、事実のとおりの自己状態の獲得において、八つの世の法(性質)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、八つの世の法(性質)に遍く随転する。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛である』と。彼は、あるいは、親族の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、財物の災厄に接触された者として存しつつ、あるいは、病の災厄に接触された者として存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。『比丘たちよ、強靱は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、人は、人と共に談論しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者の、すなわち、〔話の〕進め方のとおりに、そして、すなわち、導引のとおりに、さらに、すなわち、問いの応接のとおりに、智慧浅き者として、この尊者はある。この尊者は、智慧ある者にあらず。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、まさしく、そして、この尊者は、深遠にして、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、義(意味)ある句を述べ伝えないからだ。さらに、すなわち、この尊者が、法(教え)を語るなら、そして、彼には、あるいは、簡略〔の観点〕によって、あるいは、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すための能力がない。智慧浅き者として、この尊者はある。この尊者は、智慧ある者にあらず』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、湖水の岸辺に立ち、浮かんでいる小さな魚を見るようなものです。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この魚の、すなわち、〔身の〕進め方のとおりに、かつまた、すなわち、波しぶきのとおりに、さらに、すなわち、勢いよさのとおりに、小さなものとして、この魚はある。この魚は、大きなものにあらず』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、人は、人と共に談論しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者の、すなわち、〔話の〕進め方のとおりに、そして、すなわち、導引のとおりに、さらに、すなわち、問いの応接のとおりに、智慧浅き者として、この尊者はある。この尊者は、智慧ある者にあらず。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、まさしく、そして、この尊者は、深遠にして、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、義(意味)ある句を述べ伝えないからだ。さらに、すなわち、この尊者が、法(教え)を語るなら、そして、彼には、あるいは、簡略〔の観点〕によって、あるいは、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すための能力がない。智慧浅き者として、この尊者はある。この尊者は、智慧ある者にあらず』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、人は、人と共に談論しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者の、すなわち、〔話の〕進め方のとおりに、そして、すなわち、導引のとおりに、さらに、すなわち、問いの応接のとおりに、智慧ある者として、この尊者はある。この尊者は、智慧浅き者にあらず。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、まさしく、そして、この尊者は、深遠にして、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、義(意味)ある句を述べ伝えるからだ。さらに、すなわち、この尊者が、法(教え)を語るなら、そして、彼には、あるいは、簡略〔の観点〕によって、あるいは、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すための能力がある。智慧ある者として、この尊者はある。この尊者は、智慧浅き者にあらず』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、湖水の岸辺に立ち、浮かんでいる大きな魚を見るようなものです。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この魚の、すなわち、〔身の〕進め方のとおりに、かつまた、すなわち、波しぶきのとおりに、さらに、すなわち、勢いよさのとおりに、大きなものとして、この魚はある。この魚は、小さなものにあらず』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、人は、人と共に談論しつつ、このように知ります。『まさに、この尊者の、すなわち、〔話の〕進め方のとおりに、そして、すなわち、導引のとおりに、さらに、すなわち、問いの応接のとおりに、智慧ある者として、この尊者はある。この尊者は、智慧浅き者にあらず。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、まさしく、そして、この尊者は、深遠にして、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべき、義(意味)ある句を述べ伝えるからだ。さらに、すなわち、この尊者が、法(教え)を語るなら、そして、彼には、あるいは、簡略〔の観点〕によって、あるいは、詳細〔の観点〕によって、義(意味)を、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すための能力がある。智慧ある者として、この尊者はある。この尊者は、智慧浅き者にあらず』と。

 

 『比丘たちよ、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。比丘たちよ、まさに、これらの四つの状況は、これらの四つの状況によって知られるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. バッディヤの経

 

193. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕のバッディヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のバッディヤは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っている。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させるのだ』と。尊き方よ、すなわち、『幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っている。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させるのだ』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。

 

 「バッディヤよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、有能なる形態あること(外見)によってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、バッディヤよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する』と知るとき、バッディヤよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです。

 

 バッディヤよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。「バッディヤよ、また、貪る者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「バッディヤよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒が……略……。人の内に、迷妄が……略……。人の内に、激昂が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。「バッディヤよ、また、激昂する者は、この人士たる人は、激昂〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「バッディヤよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。「尊き方よ、善ならざるものです」〔と〕。「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。「尊き方よ、罪過を有するものです」〔と〕。「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。「尊き方よ、識者たちに難詰されるものです」〔と〕。「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「バッディヤよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『バッディヤよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、バッディヤよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する」と知るとき、バッディヤよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 バッディヤよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、バッディヤよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する』と知るとき、バッディヤよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです(※)。

 

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 バッディヤよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲なき〔あり方〕(無貪)が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。「尊き方よ、利益のためになります」〔と〕。「バッディヤよ、また、貪らない者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服されない者であり、心が完全に奪い去られない者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「バッディヤよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)が生起しつつ生起するなら……略……人の内に、迷妄なき〔あり方〕(無痴)が生起しつつ生起するなら……略……人の内に、激昂なき〔あり方〕が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。「尊き方よ、利益のためになります」〔と〕。「バッディヤよ、また、激昂しない者は、この人士たる人は、激昂〔の思い〕に征服されない者であり、心が完全に奪い去られない者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「バッディヤよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。「尊き方よ、善なるものです」〔と〕。「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。「尊き方よ、罪過なきものです」〔と〕。「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。「尊き方よ、識者たちに賞賛されるものです」〔と〕。「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「バッディヤよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『バッディヤよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、バッディヤよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する」と知るとき、バッディヤよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 バッディヤよ、すなわち、まさに、彼らが、世において、正なる人士たちとして存しているなら、彼らは、弟子を、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、貪欲〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住むのです。貪欲〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住んでいるなら、貪欲〔の思い〕から生じる行為を為さないでしょう──身体によって、言葉によって、意によって。憤怒〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住むのです。憤怒〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住んでいるなら、憤怒〔の思い〕から生じる行為を為さないでしょう──身体によって、言葉によって、意によって。迷妄〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住むのです。迷妄〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住んでいるなら、迷妄〔の思い〕から生じる行為を為さないでしょう──身体によって、言葉によって、意によって。激昂〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住むのです。激昂〔の思い〕を取り除いて〔世に〕住んでいるなら、激昂〔の思い〕から生じる行為を為さないでしょう──身体によって、言葉によって、意によって』」と。

 

 このように説かれたとき、リッチャヴィ〔族〕のバッディヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 「バッディヤよ、さて、いったい、あなたに、わたしは、このように言いましたか。『バッディヤよ、さあ、あなたは、わたしの弟子と成りなさい。わたしは、教師と成りましょう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バッディヤよ、このように説く者であり、このように告げ知らせる者である、まさに、わたしを、或る沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っている。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させるのだ』」と。「尊き方よ、幸いなるものは、誘引の幻術です。尊き方よ、善きものなるは、誘引の幻術です。尊き方よ、わたしの愛しい親族や血縁たちが、この誘引によって転向するなら、わたしの愛しい親族や血縁たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての士族たちが、この誘引によって転向するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、この誘引によって転向するなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「バッディヤよ、このように、このことはあります。バッディヤよ、このように、このことはあります。バッディヤよ、もし、また、全ての士族たちが、この誘引によって転向するなら、善ならざる法(性質)の捨棄あることから、善なる法(性質)の成就あることから、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。バッディヤよ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、この誘引によって転向するなら、善ならざる法(性質)の捨棄あることから、善なる法(性質)の成就あることから、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。バッディヤよ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、この誘引によって転向するなら、善ならざる法(性質)の捨棄あることから、善なる法(性質)の成就あることから、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。バッディヤよ、もし、また、これらの大いなるサーラ〔樹〕たちが、この誘引によって転向するなら、善ならざる法(性質)の捨棄あることから、善なる法(性質)の成就あることから、これらの大いなるサーラ〔樹〕たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。人間たる生類のばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. サームガ〔村〕の者の経

 

194. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーリヤ〔国〕に住んでいます。コーリヤ〔国〕には、サームガという名の町があります。そこで、まさに、大勢のサームガ〔村〕のコーリヤ〔族〕の子息たちが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのサームガ〔村〕のコーリヤ〔族〕の子息たちに、尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「ブヤッガパッジャ(コーリヤの別名)〔族〕の者たちよ、四つのものがあります。これらの完全なる清浄のための精励の支分が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。どのようなものが、四つのものなのですか。戒の完全なる清浄のための精励の支分であり、心の完全なる清浄のための精励の支分であり、見解の完全なる清浄のための精励の支分であり、解脱の完全なる清浄のための精励の支分です。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、では、どのようなものが、戒の完全なる清浄のための精励の支分なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、戒の完全なる清浄と説かれます。『かくのごとく、このような形態の戒の完全なる清浄を、あるいは、〔いまだ〕円満成就なきものを、〔わたしは〕円満成就させるであろうし、あるいは、〔すでに〕円満成就あるものを、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、すなわち、そこにおいて、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)があり、かつまた、努力があり、かつまた、邁進があり、かつまた、勤勇があり、かつまた、反転なき〔精励〕があり、かつまた、気づきがあり、かつまた、正知があるなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、戒の完全なる清浄のための精励の支分と説かれます。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、では、どのようなものが、心の完全なる清浄のための精励の支分なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、心の完全なる清浄と説かれます。『かくのごとく、このような形態の心の完全なる清浄を、あるいは、〔いまだ〕円満成就なきものを、〔わたしは〕円満成就させるであろうし、あるいは、〔すでに〕円満成就あるものを、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、すなわち、そこにおいて、かつまた、欲〔の思い〕があり、かつまた、努力があり、かつまた、邁進があり、かつまた、勤勇があり、かつまた、反転なき〔精励〕があり、かつまた、気づきがあり、かつまた、正知があるなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、心の完全なる清浄のための精励の支分と説かれます。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、では、どのようなものが、見解の完全なる清浄のための精励の支分なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、見解の完全なる清浄と説かれます。『かくのごとく、このような形態の見解の完全なる清浄を、あるいは、〔いまだ〕円満成就なきものを……略……その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、すなわち、そこにおいて、かつまた、欲〔の思い〕があり、かつまた、努力があり、かつまた、邁進があり、かつまた、勤勇があり、かつまた、反転なき〔精励〕があり、かつまた、気づきがあり、かつまた、正知があるなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、見解の完全なる清浄のための精励の支分と説かれます。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、では、どのようなものが、解脱の完全なる清浄のための精励の支分なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子が、そして、この戒の完全なる清浄のための精励の支分を具備し、かつまた、この心の完全なる清浄のための精励の支分を具備し、さらに、この見解の完全なる清浄のための精励の支分を具備し、諸々の貪るべき法(事象)において、心を離貪させ、諸々の解脱させるべき法(事象)において、心を解脱させます。彼は、諸々の貪るべき法(事象)において、心を離貪させて、諸々の解脱させるべき法(事象)において、心を解脱させて、正しい解脱を体得します。ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、解脱の完全なる清浄と説かれます。『かくのごとく、このような形態の解脱の完全なる清浄を、あるいは、〔いまだ〕円満成就なきものを、〔わたしは〕円満成就させるであろうし、あるいは、〔すでに〕円満成就あるものを、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、すなわち、そこにおいて、かつまた、欲〔の思い〕があり、かつまた、努力があり、かつまた、邁進があり、かつまた、勤勇があり、かつまた、反転なき〔精励〕があり、かつまた、気づきがあり、かつまた、正知があるなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、これは、解脱の完全なる清浄のための精励の支分と説かれます。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者たちよ、まさに、これらの四つの完全なる清浄のための精励の支分が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ヴァッパの経

 

195. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の弟子である釈迦〔族〕のヴァッパが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「ヴァッパよ、ここに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔人が〕存するとします。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、その状況を、わたしは見ます。尊き方よ、ここに、過去において作り為された悪しき行為が、〔いまだ〕報いの円熟なきものとして存するなら、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになります」と。また、まさに、まさしく、そして、尊者マハー・モッガッラーナの、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパを相手にする、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「モッガッラーナよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパに、こう言いました。『ヴァッパよ、ここに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔人が〕存するとします。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、その状況を、わたしは見ます。尊き方よ、ここに、過去において作り為された悪しき行為が、〔いまだ〕報いの円熟なきものとして存するなら、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになります』と。尊き方よ、まさに、わたしたちの、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパを相手にする、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断し、そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパに、こう言いました。「ヴァッパよ、それで、もし、あなたが、わたしに、まさしく、そして、承認するべきことを承認し、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するなら、さらに、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたが〕知らずにいるとして、ここにおいて、まさしく、わたしに、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするなら、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「尊き方よ、わたしは、世尊に、まさしく、そして、承認するべきことを承認するでしょうし、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するでしょう。さらに、すなわち、世尊の語ったことの義(意味)を、わたしが知らずにいるとして、ここにおいて、まさしく、世尊に、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするでしょう。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。

 

 「ヴァッパよ、それを、どう思いますか。それらが、身体による勉励(作為的努力)という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、身体による勉励から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。彼は、そして、新しい行為(新業)を為さず、さらに、古い行為(旧業)に接触しては接触して終息を為します。〔その〕衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」〔と〕。

 

 「ヴァッパよ、それを、どう思いますか。それらが、言葉による勉励という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、身体による勉励から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。〔その〕衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ヴァッパよ、それを、どう思いますか。それらが、意による勉励という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、身体による勉励から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。〔その〕衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ヴァッパよ、それを、どう思いますか。それらが、無明という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。〔その〕衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。ヴァッパよ、それを因縁として、〔その〕人に、苦しみが感受されるべき諸々の煩悩が、未来の運命として漏れ入ることになる、その状況を、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ヴァッパよ、このように、まさに、正しく心が解脱した比丘には、六つの常なる住が到達するところと成ります。彼は、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。

 

 ヴァッパよ、それは、たとえば、また、立木を縁として、影が覚知されるようなものです。そこで、人が、鋤(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。彼は、その立木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その立木を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤(すす)と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。ヴァッパよ、まさに、このように存するなら、〔まさに〕その、立木を縁としてある影ですが、それは、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。

 

 ヴァッパよ、まさしく、このように、まさに、このように、正しく心が解脱した比丘には、六つの常なる住が到達するところと成ります。彼は、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します」と。

 

 このように説かれたとき、ニガンタの弟子である釈迦〔族〕のヴァッパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、それは、たとえば、また、人が、収益を義(目的)として、販売馬を育てるも、彼は、まさしく、そして、収益に到達できず、さらに、そのうえ、疲弊と悩苦の分有者として存するようなものです。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、収益を義(目的)として、ニガンタの愚者たちに奉侍したのですが、〔まさに〕その、わたしは、まさしく、そして、収益に到達せず、さらに、そのうえ、疲弊と悩苦の分有者と成ったのです。尊き方よ、さあ、わたしは、今日以後、〔まさに〕その、わたしの、ニガンタの愚者たちにたいする清信ですが、それを、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去ります。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. サールハの経

 

196. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のサールハが、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のアバヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のサールハは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。〔彼らは〕激流の超脱を、両者によって報知します──そして、戒の清浄を因として、さらに、苦行による〔悪の〕忌避を因として。尊き方よ、ここに、世尊は、何を言いますか」と。

 

 「サールハよ、まさに、戒の清浄を、『沙門の資質の支分として、随一のもの』と、わたしは説きます。サールハよ、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、苦行による〔悪の〕忌避を説く者たちとして、苦行による〔悪の〕忌避を真髄とする者たちとして、苦行による〔悪の〕忌避に〔思いが〕付着した者たちとして、〔世に〕住むなら、彼らは、激流の超脱の可能なき者たちです。サールハよ、すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、完全なる清浄の身体の励行なき者たちであり、完全なる清浄の言葉の励行なき者たちであり、完全なる清浄の意の励行なき者たちであり、完全なる清浄の生き方なき者たちであるなら、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、可能なき者たちです。

 

 サールハよ、それは、たとえば、また、川を超えることを欲する人が、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく素性のよい大きなサーラ〔樹〕の若木を見ます。〔まさに〕その、この〔木〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、枝葉を善く清められたものに清めます。枝葉を善く清められたものに清めて、諸々の斧で加工します。諸々の斧で加工して、諸々の鉈(なた)で加工します。諸々の鉈で加工して、鉋(かんな)で削ります。鉋で削って、岩球で磨きます。岩球で磨いて〔丸太と為し、その丸太で〕川を超え渡るとします。

 

 サールハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その人は、川を超えることが可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、そのサーラ〔樹〕の若木は、外に完全無欠の行為が為されたとして、内に清浄ならざるからです(丸太のまま未加工である)。彼には、このことが待っています。サーラ〔樹〕の若木は沈み行くでしょうし、〔その〕人は、不幸と災厄を惹起するでしょう」と。

 

 「サールハよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、苦行による〔悪の〕忌避を説く者たちとして、苦行による〔悪の〕忌避を真髄とする者たちとして、苦行による〔悪の〕忌避に〔思いが〕付着した者たちとして、〔世に〕住むなら、彼らは、激流の超脱の可能なき者たちです。サールハよ、すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、完全なる清浄の身体の励行なき者たちであり、完全なる清浄の言葉の励行なき者たちであり、完全なる清浄の意の励行なき者たちであり、完全なる清浄の生き方なき者たちであるなら、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、可能なき者たちです。

 

 サールハよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの沙門や婆羅門たちが、苦行による〔悪の〕忌避を説く者たちではなく、苦行による〔悪の〕忌避を真髄とする者たちではなく、苦行による〔悪の〕忌避に〔思いが〕付着した者たちではなく、〔世に〕住むなら、彼らは、激流の超脱の可能ある者たちです。サールハよ、すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、完全なる清浄の身体の励行ある者たちであり、完全なる清浄の言葉の励行ある者たちであり、完全なる清浄の意の励行ある者たちであり、完全なる清浄の生き方ある者たちであるなら、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、可能ある者たちです。

 

 サールハよ、それは、たとえば、また、川を超えることを欲する人が、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく素性のよい大きなサーラ〔樹〕の若木を見ます。〔まさに〕その、この〔木〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、枝葉を善く清められたものに清めます。枝葉を善く清められたものに清めて、諸々の斧で加工します。諸々の斧で加工して、諸々の鉈で加工します。諸々の鉈で加工して、鑿(のみ)を掴んで、内に善く清められたものに清めます。内に善く清められたものに清めて、鉋で削ります。鉋で削って、岩球で磨きます。岩球で磨いて、舟を作ります。舟を作って、櫂と舵を結びます。櫂と舵を結んで、川を超え渡るとします。

 

 サールハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その人は、川を超えることが可能ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、そのサーラ〔樹〕の若木は、外に完全無欠の行為が為され、内に善く清浄となり、舟が作られ、櫂と舵が結ばれたからです。彼には、このことが待っています。舟は沈み行かないでしょうし、人は、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう」と。

 

 「サールハよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、苦行による〔悪の〕忌避を説く者たちではなく、苦行による〔悪の〕忌避を真髄とする者たちではなく、苦行による〔悪の〕忌避に〔思いが〕付着した者たちではなく、〔世に〕住むなら、彼らは、激流の超脱の可能ある者たちです。サールハよ、すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、完全なる清浄の身体の励行ある者たちであり、完全なる清浄の言葉の励行ある者たちであり、完全なる清浄の意の励行ある者たちであり、完全なる清浄の生き方ある者たちであるなら、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、可能ある者たちです。サールハよ、それは、たとえば、また、軍人が、たとえ、もし、様々な〔種類の〕矢を多く知るも、そこで、まさに、彼は、三つの状況によって、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、〔彼は〕遠くから射る者としてあり、かつまた、瞬時に貫く者としてあり、さらに、大いなる身体を破り裂く者としてあります。

 

 サールハよ、それは、たとえば、また、軍人が、遠くから射る者であるように、サールハよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、正しい禅定ある者として〔世に〕有ります。サールハよ、正しい禅定ある聖なる弟子は、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。

 

 サールハよ、それは、たとえば、また、軍人が、瞬時に貫く者であるように、サールハよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。サールハよ、正しい見解ある聖なる弟子は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 サールハよ、それは、たとえば、また、軍人が、大いなる身体を破り裂く者であるように、サールハよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、正しい解脱ある者として〔世に〕有ります。サールハよ、正しい解脱ある聖なる弟子は、大いなる無明の範疇を破り裂きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. マッリカー王妃の経

 

197. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、マッリカー王妃が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マッリカー王妃は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有るのですか。

 

 尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有るのですか。

 

 尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有るのですか。

 

 尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有るのですか」と。

 

 「マッリカーよ、ここに、一部の女性は、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。彼女は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者ではなく〔世に〕有ります。また、まさに、嫉妬の意ある者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬し、妬み、嫉妬〔の思い〕を結びます。もし、彼女が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、彼女は、生まれ落ちる、その場その場において、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有ります。

 

 マッリカーよ、また、ここに、一部の女性は、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。彼女は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。また、まさに、嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結びません。もし、彼女が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、彼女は、生まれ落ちる、その場その場において、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有ります。

 

 マッリカーよ、また、ここに、一部の女性は、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。彼女は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者ではなく〔世に〕有ります。また、まさに、嫉妬の意ある者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬し、妬み、嫉妬〔の思い〕を結びます。もし、彼女が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、彼女は、生まれ落ちる、その場その場において、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有ります。

 

 マッリカーよ、また、ここに、一部の女性は、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。彼女は、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。また、まさに、嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結びません。もし、彼女が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、彼女は、生まれ落ちる、その場その場において、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有ります。

 

 マッリカーよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有ります。マッリカーよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、醜き色艶の者として、醜き形態の者として、見た目の極めて悪しき者として、〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有ります。マッリカーよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、貧しき者として、少なき所有の者として、少なき財物の者として、かつまた、少なき権能の者として、〔世に〕有ります。マッリカーよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の女性は、そして、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有り、さらに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、かつまた、大いなる権能ある者として、〔世に〕有ります」と。

 

 このように説かれたとき、マッリカー王妃は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、それなら、まちがいなく、わたしは、他の生に、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、今現在、醜き色艶の者としてあり、醜き形態の者としてあり、見た目の極めて悪しき者としてあります。

 

 尊き方よ、それなら、まちがいなく、わたしは、他の生に、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施す者として〔世に〕有りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、今現在、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者としてあります。

 

 尊き方よ、それなら、まちがいなく、わたしは、他の生に、嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結びませんでした。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、今現在、大いなる権能ある者としてあります。尊き方よ、また、まさに、この王家においては、士族の少女たちもまた存在し、婆羅門の少女たちもまた〔存在し〕、家長の少女たちもまた〔存在し〕、彼女たちに、わたしは、君主たる権力を執行します。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、今日以後、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を、施します。嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結びません。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、女性在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 自己を苦しめる者の経

 

198. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。

 

 彼は、野菜を食物とする者ともまた成り、粟を食物とする者ともまた成り、野生米を食物とする者ともまた成り、革屑を食物とする者ともまた成り、苔を食物とする者ともまた成り、糠を食物とする者ともまた成り、飯汁を食物とする者ともまた成り、胡麻粉を食物とする者ともまた成り、草を食物とする者ともまた成り、牛糞を食物とする者ともまた成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。

 

 彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。比丘たちよ、このように、まさに、人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有るのですか。彼は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

 彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から(※)、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。

 

※ テキストには asaddhammā とあるが、PTS版により methunā と読む。

 

 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生(なま)の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために……略……有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために……略……。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 渇愛の経

 

199. 世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、網であり、流れるものであり、拡散するものであり、執着である、渇愛を、あなたたちに説示しましょう。それによって、この世〔の人々〕は、押さえ付けられ、覆い包まれ、絡(から)んだ紐の類の者たちとなり、縺(もつ)れた〔糸〕玉の類の者たちとなり、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、網であり、流れるものであり、拡散するものであり、執着である、渇愛であり、それによって、この世〔の人々〕は、押さえ付けられ、覆い包まれ、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しないのですか。比丘たちよ、また、まさに、これらの、十八の内なるものに関しての渇愛の行ないがあり、十八の外なるものに関しての渇愛の行ないがあります。

 

 どのようなものが、十八の内なるものに関しての渇愛の行ないなのですか。比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存しているとき、『かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有ります。これらの十八の内なるものに関しての渇愛の行ないがあります。

 

 どのようなものが、十八の外なるものに関しての渇愛の行ないなのですか。比丘たちよ、『これによって、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存しているとき、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有ります。これらの十八の外なるものに関しての渇愛の行ないがあります。

 

 かくのごとく、十八の内なるものに関しての渇愛の行ないがあり、十八の外なるものに関しての渇愛の行ないがあります。比丘たちよ、これらは、三十六の渇愛の行ないと説かれます。かくのごとく、このような形態の、過去の三十六の渇愛の行ないがあり、未来の三十六の渇愛の行ないがあり、現在の三十六の渇愛の行ないがあります。このように、百八の渇愛の行ないが有ります。

 

 比丘たちよ、これは、まさに、その、網であり、流れるものであり、拡散するものであり、執着である、渇愛です。それによって、この世〔の人々〕は、押さえ付けられ、覆い包まれ、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 愛情の経

 

200. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの愛情が生まれます。どのようなものが、四つのものなのですか。愛情から、愛情が生まれます。愛情から、憤怒が生まれます。憤怒から、愛情が生まれます。憤怒から、憤怒が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、愛情から、愛情が生まれるのですか。比丘たちよ、ここに、人(甲)が、人(乙)にとって、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、〔世に〕有ります。彼(甲)のことを、他者たちが、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、取り扱います。彼(乙)に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、この人(甲)は、わたしにとって、好ましい者であり、愛らしい者であり、意に適う者であり、彼のことを、他者たちは、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、取り扱う』と。彼(乙)は、彼らにたいし、愛情を生みます。比丘たちよ、このように、まさに、愛情から、愛情が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、愛情から、憤怒が生まれるのですか。比丘たちよ、ここに、人が、人にとって、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、〔世に〕有ります。彼のことを、他者たちが、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、取り扱います。彼に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、この人は、わたしにとって、好ましい者であり、愛らしい者であり、意に適う者であり、彼のことを、他者たちは、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、取り扱う』と。彼は、彼らにたいし、憤怒を生みます。比丘たちよ、このように、まさに、愛情から、憤怒が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、憤怒から、愛情が生まれるのですか。比丘たちよ、ここに、人が、人にとって、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、〔世に〕有ります。彼のことを、他者たちが、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、取り扱います。彼に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、この人は、わたしにとって、好ましくない者であり、愛らしくない者であり、意に適わない者であり、彼のことを、他者たちは、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、取り扱う』と。彼は、彼らにたいし、愛情を生みます。比丘たちよ、このように、まさに、憤怒から、愛情が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、憤怒から、憤怒が生まれるのですか。比丘たちよ、ここに、人が、人にとって、好ましくない者として、愛らしくない者として、意に適わない者として、〔世に〕有ります。彼のことを、他者たちが、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、取り扱います。彼に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、この人は、わたしにとって、好ましくない者であり、愛らしくない者であり、意に適わない者であり、彼のことを、他者たちは、好ましい者として、愛らしい者として、意に適う者として、取り扱う』と。彼は、彼らにたいし、憤怒を生みます。比丘たちよ、このように、まさに、憤怒から、憤怒が生まれます。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、その時点において有ることなくあります。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、その時点において有ることなく、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、その時点において有ることなくあります。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成り、すなわち、また、愛情から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成り、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の愛情ですが、彼の、その〔愛情〕もまた、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成り、すなわち、また、憤怒から生まれる、彼の憤怒ですが、彼の、その〔憤怒〕もまた、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、まさしく、近接せず、敵視せず、発煙せず、炎上せず、困惑しない』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、近接するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、近接します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、近接しないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、近接しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、敵視するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、罵倒している者に罵倒し返し、悩ませている者に悩まし返し、言い争っている者に言い争い返します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、敵視します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、敵視しないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、罵倒している者に罵倒し返さず、悩ませている者に悩まし返さず、言い争っている者に言い争い返しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、敵視しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、発煙するのですか。比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存しているとき、『かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有り、『他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、発煙します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、発煙しないのですか。比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存していないとき、『かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思いは〕有ることなく、『かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いは〕有ることなく、『このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いは〕有ることなく、『他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いは〕有ることなくあります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、発煙しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、炎上するのですか。比丘たちよ、『これによって、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存しているとき、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕有り、『これによって、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いが〕有り、『これによって、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いが〕有り、『これによって、このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有り、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いが〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、炎上します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、炎上しないのですか。比丘たちよ、『これによって、〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕存していないとき、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、このように、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、存し続けるものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、没し行くものとして、〔わたしは〕存在する』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、ともあれ、まさに、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、ともあれ、まさに、かくのごとく、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、ともあれ、まさに、このように、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、ともあれ、まさに、他なるものとして、〔わたしは〕存在するべきである』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、かくのごとく、〔わたしは〕有るであろう』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、このように、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いは〕有ることなく、『これによって、他なるものとして、〔わたしは〕有るだろう』という〔思いは〕有ることなくあります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、炎上しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、困惑するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)が〔いまだ〕捨棄され〔ず〕、根が断ち切られ〔ず〕、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され〔ず〕、状態なきものに作り為され〔ず〕、未来に生起なき法(性質)と成りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、困惑します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、困惑しないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、困惑しません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「耳によって追認されたもの、状況、バッディヤ、サームガ〔村〕の者、ヴァッパ、そして、サールハ、マッリカー、自己を苦しめる者、渇愛があり、そして、愛情とともに、それらの十がある」と。

 

 第四の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

5. 第五の五十なるもの

 

(21)1. 正なる人士の章

 

1. 学びの境処の経

 

201. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させます。そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させます。そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させます。そして、自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 信なき者の経

 

202. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、信なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、信なき〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、恥〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、少聞の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、少聞を受持させます。そして、自己みずから、怠惰の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、怠惰を受持させます。そして、自己みずから、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、さらに、他者に、気づきの忘却を受持させます。そして、自己みずから、智慧浅き者として〔世に〕有り、さらに、他者に、智慧浅き〔生き方〕を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきある者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、信ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、信の成就を受持させます。そして、自己みずから、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、恥〔の思い〕ある〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、〔良心の〕咎めある〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、多聞の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、多聞を受持させます。そして、自己みずから、精進に励む者として〔世に〕有り、さらに、他者に、精進勉励を受持させます。そして、自己みずから、気づきが現起された者として〔世に〕有り、さらに、他者に、気づきの現起を受持させます。そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、智慧の成就を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 七つの行為の経

 

203. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させます。そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させます。そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させます。そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させます。そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させます。そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 十の行為の経

 

204. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪している心の者として〔世に〕有り、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。……略……。そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させます。そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させます。そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。……略……。そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させます。そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 八つの支分あるものの経

 

205. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として〔世に〕有り、誤った思惟ある者として〔世に〕有り、誤った言葉ある者として〔世に〕有り、誤った行業ある者として〔世に〕有り、誤った生き方ある者として〔世に〕有り、誤った努力ある者として〔世に〕有り、誤った気づきある者として〔世に〕有り、誤った禅定ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。そして、自己みずから、誤った思惟ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った思惟を受持させます。そして、自己みずから、誤った言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った言葉を受持させます。そして、自己みずから、誤った行業ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った行業を受持させます。そして、自己みずから、誤った生き方ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った生き方を受持させます。そして、自己みずから、誤った努力ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った努力を受持させます。そして、自己みずから、誤った気づきある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った気づきを受持させます。そして、自己みずから、誤った禅定ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った禅定を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として〔世に〕有り、正しい思惟ある者として〔世に〕有り、正しい言葉ある者として〔世に〕有り、正しい行業ある者として〔世に〕有り、正しい生き方ある者として〔世に〕有り、正しい努力ある者として〔世に〕有り、正しい気づきある者として〔世に〕有り、正しい禅定ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。そして、自己みずから、正しい思惟ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい思惟を受持させます。そして、自己みずから、正しい言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい言葉を受持させます。そして、自己みずから、正しい行業ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい行業を受持させます。そして、自己みずから、正しい生き方ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい生き方を受持させます。そして、自己みずから、正しい努力ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい努力を受持させます。そして、自己みずから、正しい気づきある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい気づきを受持させます。そして、自己みずから、正しい禅定ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい禅定を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 十の道の経

 

206. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士を、そして、正ならざる人士よりもより正ならざる人士を、かつまた、正なる人士を、さらに、正なる人士よりもより正なる人士を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として〔世に〕有り……略……誤った知恵ある者として〔世に〕有り、誤った解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士よりもより正ならざる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、誤った知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った知恵を受持させます。そして、自己みずから、誤った解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、正ならざる人士よりもより正ならざる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として〔世に〕有り……略……正しい知恵ある者として〔世に〕有り、正しい解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、正なる人士と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる人士よりもより正なる人士なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、正しい知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい知恵を受持させます。そして、自己みずから、正しい解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、正なる人士よりもより正なる人士と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の悪しき法ある者の経

 

207. 「比丘たちよ、では、悪しき者を、そして、悪しき者よりもより悪しき者を、かつまた、善き者を、さらに、善き者よりもより善き者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……誤った見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、悪しき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき者よりもより悪しき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。……略……。そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、悪しき者よりもより悪しき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、善き者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き者よりもより善き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。……略……。そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、善き者よりもより善き者と説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の悪しき法ある者の経

 

208. 「比丘たちよ、では、悪しき者を、そして、悪しき者よりもより悪しき者を、かつまた、善き者を、さらに、善き者よりもより善き者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として〔世に〕有り……略……誤った知恵ある者として〔世に〕有り、誤った解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、悪しき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき者よりもより悪しき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、誤った知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った知恵を受持させます。そして、自己みずから、誤った解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、悪しき者よりもより悪しき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として〔世に〕有り……略……正しい知恵ある者として〔世に〕有り、正しい解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、善き者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き者よりもより善き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、正しい知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい知恵を受持させます。そして、自己みずから、正しい解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、善き者よりもより善き者と説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の悪しき法ある者の経

 

209. 「比丘たちよ、では、悪しき法(性質)ある者を、そして、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者を、かつまた、善き法(性質)ある者を、さらに、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……誤った見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、悪しき法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させます。……略……。そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、善き法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させます。……略……。そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。比丘たちよ、この者は、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第四の悪しき法ある者の経

 

210. 「比丘たちよ、では、悪しき法(性質)ある者を、そして、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者を、かつまた、善き法(性質)ある者を、さらに、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として〔世に〕有り……略……誤った知恵ある者として〔世に〕有り、誤った解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、悪しき法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、誤った知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った知恵を受持させます。そして、自己みずから、誤った解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、悪しき法(性質)ある者よりもより悪しき法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として〔世に〕有り……略……正しい知恵ある者として〔世に〕有り、正しい解脱ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、善き法(性質)ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させます。……略……。そして、自己みずから、正しい知恵ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい知恵を受持させます。そして、自己みずから、正しい解脱ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい解脱を受持させます。比丘たちよ、この者は、善き法(性質)ある者よりもより善き法(性質)ある者と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 正なる人士の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、学びの境処、信なき者、七つの行為、そこで、さらに、十の行為、そして、八つの支分、十の道、二つの悪しき法(性質)ある者、他に、二つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

(22)2. 衆の章

 

1. 衆の経

 

211. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの衆を汚す者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、比丘が、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であるなら、〔その比丘は〕衆を汚す者です。比丘たちよ、比丘尼が、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であるなら、〔その比丘尼は〕衆を汚す者です。比丘たちよ、在俗信者が、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であるなら、〔その在俗信者は〕衆を汚す者です。比丘たちよ、女性在俗信者が、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であるなら、〔その女性在俗信者は〕衆を汚す者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの衆を汚す者たちがあります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの衆を荘厳する者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、比丘が、戒ある者であり、善き法(性質)ある者であるなら、〔その比丘は〕衆を荘厳する者です。比丘たちよ、比丘尼が、戒ある者であり、善き法(性質)ある者であるなら、〔その比丘尼は〕衆を荘厳する者です。比丘たちよ、在俗信者が、戒ある者であり、善き法(性質)ある者であるなら、〔その在俗信者は〕衆を荘厳する者です。比丘たちよ、女性在俗信者が、戒ある者であり、善き法(性質)ある者であるなら、〔その女性在俗信者は〕衆を荘厳する者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの衆を荘厳する者たちがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 見解の経

 

212. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないであり、誤った見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないであり、正しい見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 恩を知らないことの経

 

213. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないであり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないであり、恩を知り恩を感じることです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 命あるものを殺す者の経

 

214. ……略……。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……略……。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の道の経

 

215. ……略……。誤った見解ある者として〔世に〕有り、誤った思惟ある者として〔世に〕有り、誤った言葉ある者として〔世に〕有り、誤った行業ある者として〔世に〕有ります。……略……。正しい見解ある者として〔世に〕有り、正しい思惟ある者として〔世に〕有り、正しい言葉ある者として〔世に〕有り、正しい行業ある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の道の経

 

216. ……略……。誤った生き方ある者として〔世に〕有り、誤った努力ある者として〔世に〕有り、誤った気づきある者として〔世に〕有り、誤った禅定ある者として〔世に〕有ります。……略……。正しい生き方ある者として〔世に〕有り、正しい努力ある者として〔世に〕有り、正しい気づきある者として〔世に〕有り、正しい禅定ある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の語用の道の経

 

217. ……略……。見られていないものについて見られたものと説く者として〔世に〕有り、聞かれていないものについて聞かれたものと説く者として〔世に〕有り、思われていないものについて思われたものと説く者として〔世に〕有り、識られていないものについて識られたものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。見られていないものについて見られていないものと説く者として〔世に〕有り、聞かれていないものについて聞かれていないものと説く者として〔世に〕有り、思われていないものについて思われていないものと説く者として〔世に〕有り、識られていないものについて識られていないものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の語用の道の経

 

218. ……略……。見られたものについて見られていないものと説く者として〔世に〕有り、聞かれたものについて聞かれていないものと説く者として〔世に〕有り、思われたものについて思われていないものと説く者として〔世に〕有り、識られたものについて識られていないものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。見られたものについて見られたものと説く者として〔世に〕有り、聞かれたものについて聞かれたものと説く者として〔世に〕有り、思われたものについて思われたものと説く者として〔世に〕有り、識られたものについて識られたものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 恥〔の思い〕なき者の経

 

219. ……略……。信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。……略……。信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 劣戒の者の経

 

220. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 衆の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「衆、見解、恩を知らないこと、命あるものを殺す者もまたあり、二つの道があり、二つの語用の道が説かれ、恥〔の思い〕なき者があり、そして、智慧浅き者とともに、〔章となる〕」と。

 

(23)3. 悪しき行ないの章

 

1. 悪しき行ないの経

 

221. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの言葉による悪しき行ないです。どのようなものが、四つのものなのですか。虚偽を説くことであり、中傷の言葉であり、粗暴な言葉であり、雑駁な虚論です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの言葉による悪しき行ないがあります。比丘たちよ、四つのものがあります。これらの言葉による善き行ないです。どのようなものが、四つのものなのですか。真理の言葉であり、中傷ならざる言葉であり、優しい言葉であり、明慧ある言葉です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの言葉による善き行ないがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 見解の経

 

222. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕(※)、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないであり、誤った見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

※ テキストには sānuvajjo ca とあるが、PTS版により ca を削除する。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないであり、正しい見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 恩を知らないことの経

 

223. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないであり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの……略……賢者は……。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないであり、恩を知り恩を感じることです。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 命あるものを殺す者の経

 

224. ……略……。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。……略……。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の道の経

 

225. ……略……。誤った見解ある者として〔世に〕有り、誤った思惟ある者として〔世に〕有り、誤った言葉ある者として〔世に〕有り、誤った行業ある者として〔世に〕有ります。……略……。正しい見解ある者として〔世に〕有り、正しい思惟ある者として〔世に〕有り、正しい言葉ある者として〔世に〕有り、正しい行業ある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の道の経

 

226. ……略……。誤った生き方ある者として〔世に〕有り、誤った努力ある者として〔世に〕有り、誤った気づきある者として〔世に〕有り、誤った禅定ある者として〔世に〕有ります。……略……。正しい生き方ある者として〔世に〕有り、正しい努力ある者として〔世に〕有り、正しい気づきある者として〔世に〕有り、正しい禅定ある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の語用の道の経

 

227. ……略……。見られていないものについて見られたものと説く者として〔世に〕有り、聞かれていないものについて聞かれたものと説く者として〔世に〕有り、思われていないものについて思われたものと説く者として〔世に〕有り、識られていないものについて識られたものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。見られていないものについて見られていないものと説く者として〔世に〕有り、聞かれていないものについて聞かれていないものと説く者として〔世に〕有り、思われていないものについて思われていないものと説く者として〔世に〕有り、識られていないものについて識られていないものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の語用の道の経

 

228. ……略……。見られたものについて見られていないものと説く者として〔世に〕有り、聞かれたものについて聞かれていないものと説く者として〔世に〕有り、思われたものについて思われていないものと説く者として〔世に〕有り、識られたものについて識られていないものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。見られたものについて見られたものと説く者として〔世に〕有り、聞かれたものについて聞かれたものと説く者として〔世に〕有り、思われたものについて思われたものと説く者として〔世に〕有り、識られたものについて識られたものと説く者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 恥〔の思い〕なき者の経

 

229. ……略……。信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有ります。……略……。信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有ります。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 智慧浅き者の経

 

230. ……略……。信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。……略……。信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 詩人の経

 

231. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの詩人です。どのようなものが、四つのものなのですか。思弁ある詩人であり、所聞ある詩人であり、義(道理)ある詩人であり、弁才ある詩人です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの詩人があります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 悪しき行ないの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪しき行ない、見解、そして、恩を知らないこと、命あるものを殺す者もまたあり、二つの道があり、二つの語用の道が説かれ、恥〔の思い〕なき者があり、そして、智慧浅き者と詩人とともに、〔章となる〕」と。

 

(24)4. 行為の章

 

1. 簡略の経

 

232. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 詳細の経

 

233. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する世に再生します。加害〔の思い〕を有する世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する感受を、一方的な苦痛を、感受します。それは、たとえば、また、地獄にある有情たちのように。比丘たちよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき世に再生します。加害〔の思い〕なき世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕なき感受を、一方的な安楽を、感受します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。比丘たちよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生します。加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕もまた〔接触し〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触もまた接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕によってもまた〔接触され〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によってもまた接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する〔感受〕をもまた〔感受し〕、加害〔の思い〕なき感受をもまた〔感受し〕、混在した安楽と苦痛を感受します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。比丘たちよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、白の報いある、白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、黒と白の報いある、黒と白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。比丘たちよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ソーナ・カーヤナの経

 

234. そこで、まさに、シカー・モッガッラーナ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、シカー・モッガッラーナ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、過日のことですが、以前、ソーナ・カーヤナ学徒が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしに、こう言いました。『沙門ゴータマは、一切の行為の無作を報知します。また、まさに、一切の行為の無作を報知しつつ、世の断絶を言います。君よ、行為を真理(本質)とし、行為の勉励によって止住するのが、この世です』」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、わたしは、ソーナ・カーヤナ学徒と会見することさえも証知しません。ましてや、このような形態の議論と談論については、なおさらです。婆羅門よ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。婆羅門よ、黒の報いある、黒の行為が存在します。婆羅門よ、白の報いある、白の行為が存在します。婆羅門よ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。婆羅門よ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する世に再生します。加害〔の思い〕を有する世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する感受を、一方的な苦痛を、感受します。それは、たとえば、また、地獄にある有情たちのように。婆羅門よ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき世に再生します。加害〔の思い〕なき世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕なき感受を、一方的な安楽を、感受します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。婆羅門よ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生します。加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕もまた〔接触し〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触もまた接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕によってもまた〔接触され〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によってもまた接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する〔感受〕をもまた〔感受し〕、加害〔の思い〕なき感受をもまた〔感受し〕、混在した安楽と苦痛を感受します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。婆羅門よ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。婆羅門よ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、白の報いある、白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、黒と白の報いある、黒と白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。婆羅門よ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。婆羅門よ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の学びの境処の経

 

235. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら……略……。比丘たちよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の学びの境処の経

 

236. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者によって、母が生命を奪われた者と成り、父が生命を奪われた者と成り、阿羅漢が生命を奪われた者と成り、汚れた心によって如来が出血することと成り、僧団が分裂することと成ります。比丘たちよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、加害〔の思い〕なき心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら……略……。比丘たちよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 聖なる道の経

 

237. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し……略……。比丘たちよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 覚りの支分の経

 

238. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。比丘たちよ、白の報いある、白の行為が存在します。比丘たちよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。比丘たちよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し……略……。比丘たちよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し……略……。比丘たちよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。気づきという正覚の支分(念覚支)であり、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)であり、精進という正覚の支分(精進覚支)であり、喜悦という正覚の支分(喜覚支)であり、静息という正覚の支分(軽安覚支)であり、禅定という正覚の支分(定覚支)であり、放捨という正覚の支分(捨覚支)です。比丘たちよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 罪過を有するものの経

 

239. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。罪過を有する身体の行為であり、罪過を有する言葉の行為であり、罪過を有する意の行為であり、罪過を有する見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。罪過なき身体の行為であり、罪過なき言葉の行為であり、罪過なき意の行為であり、罪過なき見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 加害〔の思い〕なきものの経

 

240. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。加害〔の思い〕を有する身体の行為であり、加害〔の思い〕を有する言葉の行為であり、加害〔の思い〕を有する意の行為であり、加害〔の思い〕を有する見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。加害〔の思い〕なき身体の行為であり、加害〔の思い〕なき言葉の行為であり、加害〔の思い〕なき意の行為であり、加害〔の思い〕なき見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 沙門の経

 

241. 「比丘たちよ、『まさしく、ここに、第一の沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの』と、比丘たちよ、このように、このことを、〔あなたたちは〕正しく獅子吼として吼え叫びなさい。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、第一の沙門なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。比丘たちよ、この者は、第一の沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、第二の沙門なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。比丘たちよ、この者は、第二の沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、第三の沙門なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、この者は、第三の沙門です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、第四の沙門なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、第四の沙門です。

 

 比丘たちよ、『まさしく、ここに、第一の沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの』と、比丘たちよ、このように、このことを、〔あなたたちは〕正しく獅子吼として吼え叫びなさい」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 正なる人士の福利の経

 

242. 「比丘たちよ、正なる人士に依拠して、四つの福利が期待できます。どのようなものが、四つのものなのですか。聖なる戒によって増大し、聖なる禅定によって増大し、聖なる智慧によって増大し、聖なる解脱によって増大します。比丘たちよ、正なる人士に依拠して、これらの四つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 行為の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「簡略と詳細とソーナ・カーヤナと学びの境処、聖なる道、覚りの支分、まさしく、そして、罪過を有するもの、加害〔の思い〕なきもの、そして、沙門、正なる人士の福利があり、〔章となる〕」と。

 

(25)5. 罪の恐怖の章

 

1. 僧団を分裂させる者の経

 

243. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、さて、もう、その問題は止み静まったのですか」と。「尊き方よ、どうして、その問題が止み静まるというのでしょう。尊き方よ、尊者アヌルッダのバーヒヤという名の共住者は、全面あまねく僧団を分裂させるために止住し、そこにあって、尊者アヌルッダは、一つの言葉でさえも、話すべきと思い考えません」と。

 

 「アーナンダよ、また、いつ、アヌルッダは、僧団の中における諸々の問題に従事するのですか。アーナンダよ、まさに、それらが何であれ、諸々の問題が生起するなら、それらの全てを、まさしく、そして、あなたたちは、さらに、サーリプッタとモッガッラーナも、止み静めるのではないのですか。

 

 アーナンダよ、四つのものがあります。これらの義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します。どのようなものが、四つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、悪しき比丘が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者として、不浄にして励行に疑いある者として──生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として──〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、比丘たちが、まさに、わたしのことを、「劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者である──生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑である」と知ることになるとして、〔彼らが〕和合の者たちとして存しているなら、わたしを滅ぼすであろうし、いっぽう、〔相争う〕党派の者たちとして〔存しているなら〕、わたしを滅ぼさないであろう』と。アーナンダよ、この第一の義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、ここに、悪しき比丘が、誤った見解ある者として、極端を収め取る見解(極論)を具備した者として、〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、比丘たちが、まさに、わたしのことを、「誤った見解ある者であり、極端を収め取る見解を具備した者である」と知ることになるとして、〔彼らが〕和合の者たちとして存しているなら、わたしを滅ぼすであろうし、いっぽう、〔相争う〕党派の者たちとして〔存しているなら〕、わたしを滅ぼさないであろう』と。アーナンダよ、この第二の義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、ここに、悪しき比丘が、誤った生き方ある者として〔世に〕有り、誤った生き方によって生計を営みます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、比丘たちが、まさに、わたしのことを、「誤った生き方ある者であり、誤った生き方によって生計を営む」と知ることになるとして、〔彼らが〕和合の者たちとして存しているなら、わたしを滅ぼすであろうし、いっぽう、〔相争う〕党派の者たちとして〔存しているなら〕、わたしを滅ぼさないであろう』と。アーナンダよ、この第三の義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、ここに、悪しき比丘が、利得を欲する者として、尊敬を欲する者として、軽蔑されないことを欲する者として、〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、比丘たちが、まさに、わたしのことを、「利得を欲する者であり、尊敬を欲する者であり、軽蔑されないことを欲する者である」と知ることになるとして、〔彼らが〕和合の者たちとして存しているなら、わたしを滅ぼすであろうし、いっぽう、〔相争う〕党派の者たちとして〔存しているなら〕、わたしを滅ぼさないであろう』と。アーナンダよ、この第四の義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します。アーナンダよ、まさに、これらの四つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、悪しき比丘は、僧団の分裂によって愉悦します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 罪の恐怖の経

 

244. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの罪の恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。陛下は、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切りなさい』と。〔まさに〕その、この者を、王の家来たちは、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切ります。そこで、高いところに立っている、或るどこかの男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、この男は、悪しき行為を為した──難詰されるべき〔行為〕を、頭を断ち切られるべき〔行為〕を。なぜなら、そこで、まさに、王の家来たちが、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るからだ。それなら、わたしは、まさに、彼のこのような形態の悪しき行為を為すべきではない──難詰されるべき〔行為〕を、頭を断ち切られるべき〔行為〕を』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘には、あるいは、比丘尼には、このように、諸々の〔僧団追放に値する〕極罪(波羅夷)の法(性質)にたいし現起された、強き恐怖の表象が有ります。彼には、このことが期待できます。あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪の法(性質)を犯していない者は、〔もはや〕犯さないでしょうし、あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪の法(性質)を犯した者は、法(教え)のとおりに懺悔するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、男が、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、肩に棍棒を乗せて、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くとします。『尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、棍棒〔で罰せられるべき行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します』と。そこで、高いところに立っている、或るどこかの男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、この男は、悪しき行為を為した──難詰されるべき〔行為〕を、棍棒〔で罰せられるべき行為〕を。なぜなら、そこで、まさに、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、肩に棍棒を乗せて、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くからだ。「尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、棍棒〔で罰せられるべき行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します」と。それなら、わたしは、まさに、彼のこのような形態の悪しき行為を為すべきではない──難詰されるべき〔行為〕を、棍棒〔で罰せられるべき行為〕を』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘には、あるいは、比丘尼には、このように、諸々の〔僧団追放には至らない〕僧団残留(僧残)の法(性質)にたいし現起された、強き恐怖の表象が有ります。彼には、このことが期待できます。あるいは、〔僧団追放には至らない〕僧団残留の法(性質)を犯していない者は、〔もはや〕犯さないでしょうし、あるいは、〔僧団追放には至らない〕僧団残留の法(性質)を犯した者は、法(教え)のとおりに懺悔するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、男が、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、肩に灰袋を乗せて、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くとします。『尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、灰袋〔で罰せられるべき行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します』と。そこで、高いところに立っている、或るどこかの男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、この男は、悪しき行為を為した──難詰されるべき〔行為〕を、灰袋〔で罰せられるべき行為〕を。なぜなら、そこで、まさに、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、肩に灰袋を乗せて、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くからだ。「尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、灰袋〔で罰せられるべき行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します」と。それなら、わたしは、まさに、彼のこのような形態の悪しき行為を為すべきではない──難詰されるべき〔行為〕を、灰袋〔で罰せられるべき行為〕を』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘には、あるいは、比丘尼には、このように、諸々の要懺悔償罪(波逸提・単堕)の法(性質)にたいし現起された、強き恐怖の表象が有ります。彼には、このことが期待できます。あるいは、要懺悔償罪の法(性質)を犯していない者は、〔もはや〕犯さないでしょうし、あるいは、要懺悔償罪の法(性質)を犯した者は、法(教え)のとおりに懺悔するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、男が、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くとします。『尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、批判されるべき〔行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します』と。そこで、高いところに立っている、或るどこかの男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、この男は、悪しき行為を為した──難詰されるべき〔行為〕を、批判されるべき〔行為〕を。なぜなら、そこで、まさに、黒の衣をまとって、諸々の髪を振り乱して、大勢の人の集まるところに近づいて行って、このように説くからだ。「尊き方よ、わたしは、悪しき行為を為しました──難詰されるべき〔行為〕を、批判されるべき〔行為〕を。すなわち、わたし〔の贖罪〕によって、尊者たちがわが意を得た者たちと成るなら、〔わたしは〕その〔贖罪の行為〕を為します」と。それなら、わたしは、まさに、彼のこのような形態の悪しき行為を為すべきではない──難詰されるべき〔行為〕を、批判されるべき〔行為〕を』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘には、あるいは、比丘尼には、このように、諸々の要懺悔告白(提舎尼・悔過)の法(性質)にたいし現起された、強き恐怖の表象が有ります。彼には、このことが期待できます。あるいは、要懺悔告白の法(性質)を犯していない者は、〔もはや〕犯さないでしょうし、あるいは、要懺悔告白の法(性質)を犯した者は、法(教え)のとおりに懺悔するでしょう。比丘たちよ、まさに、これらの四つの罪の恐怖があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 学びの福利の経

 

245. 「比丘たちよ、学び(戒律)を福利として、智慧を上位として、解脱を真髄として、気づきを優位として、この梵行は住されます。比丘たちよ、では、どのように、学びを福利とするものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、わたしによって、学びは、弟子たちのために──清信していない者たちの清信のために、清信している者たちのより一層の状態のために──卓越の正行として制定されました。比丘たちよ、わたしによって、学びが、弟子たちのために──清信していない者たちの清信のために、清信している者たちのより一層の状態のために──卓越の正行として制定された、そのとおり、そのとおりに、彼は、そのとおり、そのとおりに、破断を為さない者として、切断を為さない者として、斑紋を為さない者として、雑色を為さない者として、〔世に〕有り、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、わたしによって、学びは、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──初等の梵行たるものとして制定されました。比丘たちよ、わたしによって、学びが、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──初等の梵行たるものとして制定された、そのとおり、そのとおりに、彼は、そのとおり、そのとおりに、破断を為さない者として、切断を為さない者として、斑紋を為さない者として、雑色を為さない者として、〔世に〕有り、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、学びを福利とするものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、智慧を上位とするものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、わたしによって、諸々の法(教え)は、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──説示されました。比丘たちよ、わたしによって、諸々の法(教え)が、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──説示された、そのとおり、そのとおりに、彼に、そのとおり、そのとおりに、それらの法(教え)は、智慧によって正しく注視されたものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、智慧を上位とするものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、解脱を真髄とするものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、わたしによって、諸々の法(教え)は、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──説示されました。比丘たちよ、わたしによって、諸々の法(教え)が、弟子たちのために──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために──説示された、そのとおり、そのとおりに、彼に、そのとおり、そのとおりに、それらの法(教え)は、解脱において体得されたものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、解脱を真髄とするものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、気づきを優位とするものと成るのですか。『かくのごとく、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき卓越の正行たる学びを、〔わたしは〕円満成就させるであろうし、あるいは、〔すでに〕円満成就ある卓越の正行たる学びを、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、気づきが、まさしく、内に、善く現起されたものとして有ります。『かくのごとく、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき初等の梵行たる学びを、〔わたしは〕円満成就させるであろうし、あるいは、〔すでに〕円満成就ある初等の梵行たる学びを、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、気づきが、まさしく、内に、善く現起されたものとして有ります。『かくのごとく、あるいは、〔いまだ〕正しく注視されていない法(教え)を、智慧によって、〔わたしは〕正しく注視するであろうし、あるいは、〔すでに〕正しく注視された法(教え)を、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、気づきが、まさしく、内に、善く現起されたものとして有ります。『かくのごとく、あるいは、〔いまだ〕体得されていない法(教え)を、解脱において、〔わたしは〕体得するであろうし、あるいは、〔すでに〕体得された法(教え)を、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するであろう』と、気づきが、まさしく、内に、善く現起されたものとして有ります。比丘たちよ、このように、まさに、気づきを優位とするものと成ります。『比丘たちよ、学びを福利として、智慧を上位として、解脱を真髄として、気づきを優位として、この梵行は住されます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 臥の経

 

246. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの臥です。どのようなものが、四つのものなのですか。亡者の臥であり、欲望の享受者の臥であり、獅子の臥であり、如来の臥です。比丘たちよ、では、どのようなものが、亡者の臥なのですか。比丘たちよ、多くのところとして、亡者たちは、上向きに臥します。比丘たちよ、これは、亡者の臥と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の享受者の臥なのですか。比丘たちよ、多くのところとして、欲望の享受者たちは、左脇をもって臥します。比丘たちよ、これは、欲望の享受者の臥と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、獅子の臥なのですか。比丘たちよ、獣の王たる獅子は、足に足を重ねて、腿の間に尾を挟みこんで、右脇をもって臥します。彼は、目覚めて〔そののち〕、身体の前方を起こして、身体の後方を見回します。比丘たちよ、それで、もし、獣の王たる獅子が、何であれ、身体の、あるいは、散乱を、あるいは、拡散を、見るなら、比丘たちよ、それによって、獣の王たる獅子は、わが意を得ない者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、獣の王たる獅子が、何であれ、身体の、あるいは、散乱を、あるいは、拡散を、見ないなら、比丘たちよ、それによって、獣の王たる獅子は、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、これは、獅子の臥と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、如来の臥なのですか。比丘たちよ、ここに、如来が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、如来の臥と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの臥があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 塔に値する者の経

 

247. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの塔に値する者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来は、塔に値する者であり、独覚は、塔に値する者であり、如来の弟子は、塔に値する者であり、転輪王は、塔に値する者です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの塔に値する者たちがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 智慧の増大の経

 

248. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)は、智慧の増大のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)は、智慧の増大のために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 多く〔の利益〕を作り為すものの経

 

249. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)は、人間たる生類のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)は、人間たる生類のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の語用の経

 

250. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖ならざる語用です。どのようなものが、四つのものなのですか。見られていないものについて見られたものと説くことであり、聞かれていないものについて聞かれたものと説くことであり、思われていないものについて思われたものと説くことであり、識られていないものについて識られたものと説くことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖ならざる語用があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の語用の経

 

251. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる語用です。どのようなものが、四つのものなのですか。見られていないものについて見られていないものと説くことであり、聞かれていないものについて聞かれていないものと説くことであり、思われていないものについて思われていないものと説くことであり、識られていないものについて識られていないものと説くことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる語用があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の語用の経

 

252. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖ならざる語用です。どのようなものが、四つのものなのですか。見られたものについて見られていないものと説くことであり、聞かれたものについて聞かれていないものと説くことであり、思われたものについて思われていないものと説くことであり、識られたものについて識られていないものと説くことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖ならざる語用があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第四の語用の経

 

253. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる語用です。どのようなものが、四つのものなのですか。見られたものについて見られたものと説くことであり、聞かれたものについて聞かれたものと説くことであり、思われたものについて思われたものと説くことであり、識られたものについて識られたものと説くことです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる語用があります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 罪の恐怖の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「分裂と罪、そして、学び、臥があり、そして、塔に値する者とともに、智慧の増大、多く〔の利益〕を作り為すもの、四つの語用が立てられ、〔章となる〕」と。

 

 第五の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

(26)6. 証知の章

 

1. 証知の経

 

254. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)が存在します。比丘たちよ、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)が存在します。比丘たちよ、証知して修行されるべき諸々の法(性質)が存在します。比丘たちよ、証知して実証されるべき諸々の法(性質)が存在します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)なのですか。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)です。比丘たちよ、これらは、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)です。比丘たちよ、これらは、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して修行されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、これらは、証知して修行されるべき諸々の法(性質)と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して実証されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。比丘たちよ、これらは、証知して実証されるべき諸々の法(性質)と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 遍き探し求めの経

 

255. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖ならざる遍き探し求めです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)を遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)を遍く探し求めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖ならざる遍き探し求めがあります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる遍き探し求めです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、老の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、老の法(性質)における危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、病の法(性質)における危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、死の法(性質)における危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)ある者として〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)における危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる遍き探し求めがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 愛護の基盤の経

 

256. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)です。どのようなものが、四つのものなのですか。布施であり、愛ある言葉であり、義(利益)ある行ないであり、〔自他が〕等しくあることです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの愛護の基盤があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. マールキャプッタの経

 

257. そこで、まさに、尊者マールキャプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「マールキャプッタよ、ここにおいて、〔わたしたちは〕年少の比丘たちに、今や、何を説くというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練のあなたが、如来に、簡略〔の観点〕によって、教諭を乞い求めるとは」と。「尊き方よ、世尊は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの義(意味)を了知するでしょう。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの相続者として存するでしょう」と。

 

 「マールキャプッタよ、四つのものがあります。これらの渇愛の生起です。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、衣料を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、〔行乞の〕施食を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、臥坐具を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。マールキャプッタよ、まさに、これらの四つの渇愛の生起があります。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。マールキャプッタよ、すなわち、まさに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、マールキャプッタよ、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

 

 そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊によって、この教諭によって教え諭され、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者マールキャプッタは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. 家の経

 

258. 「比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の財物において大いなるものに至り得た家が、長きに止住するものと成らないなら、それらの全てが、四つの状況によります──あるいは、これら〔の四つの状況〕のなかのどれか一つによって。どのようなものが、四つのものなのですか。消失したものを探し求めません。老朽したものを修復しません。〔正しく〕量られていない飲み物と食料が有ります。劣戒の者である、あるいは、女を、あるいは、男を、優位〔の地位〕に据え置きます。比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の財物において大いなるものに至り得た家が、長きに止住するものと成らないなら、それらの全てが、これらの四つの状況によります──あるいは、これら〔の四つの状況〕のなかのどれか一つによって。

 

 比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の財物において大いなるものに至り得た家が、長きに止住するものと成るなら、それらの全てが、四つの状況によります──あるいは、これら〔の四つの状況〕のなかのどれか一つによって。どのようなものが、四つのものなのですか。消失したものを探し求めます。老朽したものを修復します。〔正しく〕量られた飲み物と食料が有ります。戒ある者である、あるいは、女を、あるいは、男を、優位〔の地位〕に据え置きます。比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の財物において大いなるものに至り得た家が、長きに止住するものと成るなら、それらの全てが、これらの四つの状況によります──あるいは、これら〔の四つの状況〕のなかのどれか一つによって」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の良馬の経

 

259. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、かつまた、栄誉(色艶)を成就したものとして、かつまた、力を成就したものとして、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、高さと広さ(均整)を成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、力を成就した者として、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、高さと広さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、高さと広さを成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の良馬の経

 

260. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、かつまた、栄誉を成就したものとして、かつまた、力を成就したものとして、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、高さと広さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、力を成就した者として、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、高さと広さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、高さと広さを成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 力の経

 

261. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 林地の経

 

262. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分ではありません。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考であり、〔その比丘が〕智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分なるものがあります。どのようなものが、四つのものなのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考であり、〔その比丘が〕智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 行為の経

 

263. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。罪過を有する身体の行為であり、罪過を有する言葉の行為であり、罪過を有する意の行為であり、罪過を有する見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、四つのものなのですか。罪過なき身体の行為であり、罪過なき言葉の行為であり、罪過なき意の行為であり、罪過なき見解です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 証知の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「証知、遍き探し求め、愛護、マールキャプッタ、家、そして、二つの良馬、力があり、林地と行為とともに、〔章となる〕」と。

 

(27)7. 行為の道の章

 

1. 命あるものを殺す者の経

 

264. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させ、かつまた、命あるものを殺すことを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、命あるものを殺すことの栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 与えられていないものを取る者の経

 

265. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、四つのものなのですか。そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、与えられていないものを取ることの栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 誤った行ないある者の経

 

266. ……そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 虚偽を説く者の経

 

267. ……そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させ、かつまた、虚偽を説くことを等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、虚偽を説くことの栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 中傷の言葉ある者の経

 

268. ……そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させ、かつまた、中傷の言葉を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、中傷の言葉の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 粗暴な言葉ある者の経

 

269. ……そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させ、かつまた、粗暴な言葉を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、粗暴な言葉の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 雑駁な虚論ある者の経

 

270. ……そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論を受持させ、かつまた、雑駁な虚論を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、雑駁な虚論の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 強欲〔の思い〕ある者の経

 

271. ……そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、強欲〔の思い〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 憎悪している心の者の経

 

272. ……そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、憎悪〔の思い〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 誤った見解ある者の経

 

273. ……そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させ、かつまた、誤った見解を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、誤った見解の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……。

 

 そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正しい見解を受持させ、かつまた、正しい見解を等しく承認する者として〔世に〕有り、かつまた、正しい見解の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 行為の道の章が第七となる。

 

(28)8. 貪欲と省略〔の経典〕

 

1. 気づきの確立の経

 

274. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、四つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの四つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 正しい精励の経

 

275. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、四つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの四つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 神通の足場の経

 

276. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、四つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心(専心)の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの四つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4-30. 遍知等の諸経

 

277-303. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……略……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、四つの法(性質)が修められるべきです。……略……。〔以上が〕第三十となる。

 

31-510. 憤怒の証知等の諸経

 

304-783. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの四つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第五百十となる。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 チャトゥッカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。