相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 因縁の部(因縁篇)

 

【目次】

 

1(12). 因縁に相応するもの(1.~)

 

1. 覚者の章(1.~)

 

1. 縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の経

2. 区分の経

3. 〔実践の〕道の経

4. ヴィパッシンの経

5. シキンの経

6. ヴェッサブーの経

7. カクサンダの経

8. コーナーガマナの経

9. カッサパの経

10. ゴータマの経

 

2. 食の章(11.~)

 

1. 食の経

2. モーリヤ・パッグナの経

3. 沙門や婆羅門たちの経

4. 第二の沙門や婆羅門たちの経

5. カッチャーナ・ゴッタの経

6. 法の講話者の経

7. 無衣行者のカッサパの経

8. ティンバルカの経

9. 愚者と賢者の経

10. 縁の経

 

3. 十の力の章(21.~)

 

1. 十の力の経

2. 第二の十の力の経

3. 機縁の経

4. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

5. ブーミジャの経

6. ウパヴァーナの経

7. 縁の経

8. 比丘の経

9. 沙門や婆羅門たちの経

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

4. カラーラ・カッティヤの章(31.~)

 

1. 成ったものの経

2. カラーラの経

3. 知恵の基盤の経

4. 第二の知恵の基盤の経

5. 無明という縁の経

6. 第二の無明という縁の経

7. 「あなたたちのものではありません」の経

8. 思欲の経

9. 第二の思欲の経

10. 第三の思欲の経

 

5. 家長の章(41.~)

 

1. 五つの怨念と恐怖の経

2. 第二の五つの怨念と恐怖の経

3. 苦しみの経

4. 世の経

5. ニャーティカの経

6. 或るひとりの婆羅門の経

7. ジャーヌッソーニの経

8. 順世派の経

9. 聖なる弟子の経

10. 第二の聖なる弟子の経

 

6. 苦しみの章(51.~)

 

1. 遍き考察の経

2. 執取の経

3. 束縛の経

4. 第二の束縛の経

5. 大木の経

6. 第二の大木の経

7. 若木の経

8. 名前と形態の経

9. 識知〔作用〕の経

10. 因縁の経

 

7. 大いなるものの章(61.~)

 

1. 無聞の者の経

2. 第二の無聞の者の経

3. 子の肉の喩えの経

4. 「貪欲が存在する」の経

5. 城市の経

6. 触知の経

7. 葦の束の経

8. コーサンビーの経

9. 「上り行く」の経

10. スシマの経

 

8. 沙門や婆羅門たちの章(71.~)

 

1. 老と死の経

2-11. 生の経等の十なるもの

 

9. 中略〔の経典〕

 

1. 教師の経

2-11. 第二の教師の経等の十なるもの

2-12. 学びの経等の省略あるものの十なるもの

 

2(13). 知悉に相応するもの(74.~)

 

1. 爪先の経

2. 蓮池の経

3. 合流の水の経

4. 第二の合流の水の経

5. 地の経

6. 第二の地の経

7. 海の経

8. 第二の海の経

9. 山の経

10. 第二の山の経

11. 第三の山の経

 

3(14). 界域に相応するもの(85.~)

 

1. 種々なることの章(85.~)

 

1. 界域の種々なることの経

2. 接触の種々なることの経

3. 「接触の種々なることではなく」の経

4. 感受の種々なることの経

5. 第二の感受の種々なることの経

6. 外なる界域の種々なることの経

7. 表象の種々なることの経

8. 「遍き探し求めの種々なることではなく」の経

9. 外なる接触の種々なることの経

10. 第二の外なる接触の種々なることの経

 

2. 第二の章(95.~)

 

1. 七つの界域の経

2. 因縁を有するものの経

3. 煉瓦作りの居住所の経

4. 下劣なる信念ある者の経

5. 歩行〔瞑想〕の経

6. 詩偈を有するものの経

7. 信なき者の合流の経

8. 信なき者を根元とするものの経

9. 恥〔の思い〕なき者を根元とするものの経

10. 〔良心の〕咎めなき者を根元とするものの経

11. 少聞の者を根元とするものの経

12. 怠惰の者を根元とするものの経

 

3. 行為の道の章(107.~)

 

1. 〔心が〕定められていない者の経

2. 劣戒の者の経

3. 五つの学びの境処の経

4. 七つの行為の道の経

5. 十の行為の道の経

6. 八つの支分あるものの経

7. 十の支分あるものの経

 

4. 第四の章(114.~)

 

1. 四つの界域の経

2. 「正覚より過去において」の経

3. 「歩みました」の経

4. 「もし、このことがないなら」の経

5. 一方的な苦痛の経

6. 愉悦の経

7. 生起の経

8. 沙門や婆羅門たちの経

9. 第二の沙門や婆羅門たちの経

10. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

4(15). 始源が思い考えられないものに相応するもの(124.~)

 

1. 第一の章(124.~)

 

1. 草と木の経

2. 地の経

3. 涙の経

4. 乳の経

5. 山の経

6. 芥子粒の経

7. 弟子たちの経

8. ガンガーの経

9. 棒の経

10. 人の経

 

2. 第二の章(134.~)

 

1. 悪しき境遇の者の経

2. 安楽の者の経

3. 三十ばかりの者たちの経

4. 母の経

5. 父の経

6. 兄弟の経

7. 姉妹の経

8. 息子の経

9. 娘の経

10. ヴェープッラ山の経

 

5(16). カッサパに相応するもの(144.~)

 

1. 満ち足りている者の経

2. 〔良心の〕咎めなき者の経

3. 月の如き者たちの経

4. 家に近しく赴く者の経

5. 老いた者の経

6. 教諭の経

7. 第二の教諭の経

8. 第三の教諭の経

9. 瞑想と神知の経

10. 在所の経

11. 衣料の経

12. 「死後に」の経

13. 正なる法の模造品の経

 

6(17). 利得と尊敬に相応するもの(157.~)

 

1. 第一の章(157.~)

 

1. 辛酸の経

2. 釣針の経

3. 亀の経

4. 長い毛の経

5. 糞虫の経

6. 雷の経

7. 塗り毒の経

8. 野狐の経

9. ヴェーランバの経

10. 詩偈を有するものの経

 

2. 第二の章(167.~)

 

1. 金の鉢の経

2. 銀の鉢の経

3-10. スヴァンナ金貨の経等の八なるもの

 

3. 第三の章(170.~)

 

1. 女性の経

2. 美女の経

3. 独り子の経

4. 独り娘の経

5. 沙門や婆羅門たちの経

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

7. 第三の沙門や婆羅門たちの経

8. 表皮の経

9. 縄の経

10. 比丘の経

 

4. 第四の章(180.~)

 

1. 「分裂させました」の経

2. 善なるものの根元の経

3. 善なる法の経

4. 白の法の経

5. 「立ち去ったすぐあとに」の経

6. 五百の車の経

7. 母の経

8-13. 父の経等の六なるもの

 

7(18). ラーフラに相応するもの(188.~)

 

1. 第一の章(188.~)

 

1. 眼の経

2. 形態の経

3. 識知〔作用〕の経

4. 接触の経

5. 感受の経

6. 表象の経

7. 思欲の経

8. 渇愛の経

9. 界域の経

10. 範疇の経

 

2. 第二の章(198.~)

 

1. 眼の経

2-10. 形態等の経の九なるもの

11. 悪習の経

12. 離れ去ったものの経

 

8(19). ラッカナに相応するもの(202.~)

 

1. 第一の章(202.~)

 

1. 骨の経

2. 〔肉〕片の経

3. 〔肉〕塊の経

4. 皮のない者の経

5. 剣の毛の経

6. 刃の経

7. 矢の経

8. 針の毛の経

9. 第二の針の毛の経

10. 瓶の睾丸の経

 

2. 第二の章(212.~)

 

1. 「頭に至るまで」の経

2. 糞を喰う者の経

3. 皮のない女の経

4. 青白い者の経

5. 焼きただれた者の経

6. 頭のないの経

7. 悪しき比丘の経

8. 悪しき比丘尼の経

9. 悪しき学女の経

10. 悪しき沙弥の経

11. 悪しき沙弥尼の経

 

9(20). 喩えに相応するもの(223.~)

 

1. 屋頂の経

2. 爪先の経

3. 家の経

4. 鍋の経

5. 刃の経

6. 弓の使い手の経

7. 楔の経

8. 丸太の経

9. 象の経

10. 山猫の経

11. 野狐の経

12. 第二の野狐の経

 

10(21). 比丘に相応するもの(235.~)

 

1. コーリタ(マハー・モッガッラーナ)の経

2. ウパティッサ(サーリプッタ)の経

3. 瓶の経

4. 新参の者の経

5. スジャータの経

6. ラクンダカ・バッディヤの経

7. ヴィサーカの経

8. ナンダの経

9. ティッサの経

10. テーラという名の者の経

11. マハー・カッピナの経

12. 道友の経

 


 

 

 因縁の部(因縁篇)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1(12). 因縁に相応するもの

 

1. 覚者の章

 

1. 縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。比丘たちよ、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛()があります。渇愛という縁あることから、執取()があります。執取という縁あることから、生存()があります。生存という縁あることから、生()があります。生という縁あることから、老と死(老死)が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有ります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます。

 

 まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 区分の経

 

2. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、あなたたちに説示し、区分しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。比丘たちよ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。比丘たちよ、これは、生存と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。比丘たちよ、これらの四つの執取があります。欲望〔の対象〕への執取であり、見解への執取であり、戒と掟への執取であり、自己の論への執取です。比丘たちよ、これは、執取と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。比丘たちよ、これらの六つの渇愛の体系があります。形態()の渇愛であり、音声()の渇愛であり、臭気()の渇愛であり、味感()の渇愛であり、感触(所触)の渇愛であり、法(:意の対象)の渇愛です。比丘たちよ、これは、渇愛と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。比丘たちよ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これは、感受と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。比丘たちよ、これらの六つの接触の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。比丘たちよ、これは、接触と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。比丘たちよ、これは、六つの〔認識の〕場所と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。感受()、表象()、思欲()、接触()、意を為すこと(作意)は、これは、名前と説かれます。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)は、これは、形態と説かれます。かくのごとく、そして、この名前は、さらに、この形態は、比丘たちよ、これは、名前と形態と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。比丘たちよ、これは、識知〔作用〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、無明なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、比丘たちよ、これは、無明と説かれます。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔実践の〕道の経

 

3. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、では、誤った〔実践の〕道を、そして、正しい〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、これは、誤った〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい〔実践の〕道なのですか。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、正しい〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヴィパッシンの経

 

4. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すこと(如理作意)から、智慧(慧・般若)による知悉(現観)が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。どのような縁あることから、生があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存が存しているとき、生が有る。生存という縁あることから、生がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生存が有るのか。どのような縁あることから、生存があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取が存しているとき、生存が有る。執取という縁あることから、生存がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、執取が有るのか。どのような縁あることから、執取があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛が存しているとき、執取が有る。渇愛という縁あることから、執取がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、渇愛が有るのか。どのような縁あることから、渇愛があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受が存しているとき、渇愛が有る。感受という縁あることから、渇愛がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、感受が有るのか。どのような縁あることから、感受があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触が存しているとき、感受が有る。接触という縁あることから、感受がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、接触が有るのか。どのような縁あることから、接触があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。どのような縁あることから、六つの〔認識の〕場所があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、名前と形態が有るのか。どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、諸々の形成〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵()が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が有ることはないのか。何の止滅あることから、生の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存が存していないとき、生が有ることはない。生存の止滅あることから、生の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生存が有ることはないのか。何の止滅あることから、生存の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取が存していないとき、生存が有ることはない。執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、執取が有ることはないのか。何の止滅あることから、執取の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛が存していないとき、執取が有ることはない。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。何の止滅あることから、渇愛の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受が存していないとき、渇愛が有ることはない。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何の止滅あることから、感受の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触が存していないとき、感受が有ることはない。接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何の止滅あることから、接触の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所が存していないとき、接触が有ることはない。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何の止滅あることから、名前と形態の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第四となる。

 

 (七者の覚者のばあいもまた、このように詳知されるべきである。)

 

5. シキンの経

 

5. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に……略……。

 

6. ヴェッサブーの経

 

6. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊に……略……。

 

7. カクサンダの経

 

7. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊に……略……。

 

8. コーナーガマナの経

 

8. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊に……略……。

 

9. カッサパの経

 

9. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に……略……。

 

10. ゴータマの経

 

10. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この、苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。……略……生存が……執取が……渇愛が……感受が……接触が……六つの〔認識の〕場所が……名前と形態が……識知〔作用〕が……諸々の形成〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、諸々の形成〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が……略……生存が……執取が……渇愛が……感受が……接触が……六つの〔認識の〕場所が……名前と形態が……識知〔作用〕が……諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第十となる。

 

 覚者の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「説示、そして、区分と〔実践の〕道、ヴィパッシン、そして、シキン、ヴェッサブー、カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパ、そして、偉大なる釈迦〔族〕の牟尼たるゴータマがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 食の章

 

1. 食の経

 

11. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……こう言いました。「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。比丘たちよ、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、まさに、これらの四つの食があります。

 

 比丘たちよ、これらの四つの食は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。これらの四つの食は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. モーリヤ・パッグナの経

 

12. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食であり、第二に、接触〔としての食〕であり、第三に、意の思欲〔としての食〕であり、第四に、識知〔としての食〕です。比丘たちよ、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、まさに、これらの四つの食があります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者モーリヤ・パッグナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、識知としての食を食するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕食する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕食する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、識知としての食を食するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、何のために、識知としての食があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『識知としての食は、未来に、さらなる生存の発現あるための縁となり、その生類が存しているとき、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、接触するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕接触する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕接触する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、接触するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、接触があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。接触という縁あることから、感受があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、感受するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕感受する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕感受する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、感受するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、感受があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、渇愛するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕渇愛する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕渇愛する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、渇愛するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、渇愛があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、執取するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕執取する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕執取する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、執取するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、執取があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります』」と。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 パッグナよ、まさしく、しかし、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)の残りなき離貪と止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 沙門や婆羅門たちの経

 

13. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

14. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの法(性質)を覚知せず、これらの法(性質)の集起を覚知せず、これらの法(性質)の止滅を覚知せず、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、どのような法(性質)を覚知せず、どのような法(性質)の集起を覚知せず、どのような法(性質)の止滅を覚知せず、どのような法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないのですか。

 

 老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知せず、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。これらの法(性質)を覚知せず、これらの法(性質)の集起を覚知せず、これらの法(性質)の止滅を覚知せず、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの法(性質)を覚知し、これらの法(性質)の集起を覚知し、これらの法(性質)の止滅を覚知し、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、どのような法(性質)を覚知し、どのような法(性質)の集起を覚知し、どのような法(性質)の止滅を覚知し、どのような法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するのですか。

 

 老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。これらの法(性質)を覚知し、これらの法(性質)の集起を覚知し、これらの法(性質)の止滅を覚知し、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. カッチャーナ・ゴッタの経

 

15. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者カッチャーナ・ゴッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者カッチャーナ・ゴッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『正しい見解(正見)』『正しい見解』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、正しい見解と成るのですか」と。

 

 「カッチャーナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、二つ〔の極〕に依拠しています──まさしく、そして、存在あること(有)に、さらに、存在なきこと(無)に。カッチャーナよ、世の集起を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在なきことは、それは有りません。カッチャーナよ、世の止滅を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在あることは、それは有りません。カッチャーヤナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、〔渇愛と見解への〕接近と執取と固着による結縛があります。しかしながら、この者が、〔まさに〕その、〔渇愛と見解への〕接近と執取に、心の確立に、固着と悪習に、接近せず、執取せず、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立せず、『まさしく、苦しみが、生起しつつ生起する。苦しみが、止滅しつつ止滅する』と〔あるがままに見て〕、疑わず、疑惑せず、〔もはや〕他を縁としないことから、ここにおいて、彼には、まさしく、知恵()が有ります。カッチャーナよ、このことから、まさに、正しい見解と成ります。

 

 カッチャーナよ、『一切は、存在する』という〔見解は〕、まさに、これは、一つの極です(常見)。『一切は、存在しない』という〔見解は〕、これは、第二の極です(断見)。カッチャーナよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 法の講話者の経

 

16. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の講話者』『法(教え)の講話者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)の講話者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、もし、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、老と死の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。

 

 比丘よ、もし、生の……略……。比丘よ、もし、生存の……。比丘よ、もし、執取の……。比丘よ、もし、渇愛の……。比丘よ、もし、感受の……。比丘よ、もし、接触の……。比丘よ、もし、六つの〔認識の〕場所の……。比丘よ、もし、名前と形態の……。比丘よ、もし、識知〔作用〕の……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕の……。比丘よ、もし、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、無明の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 無衣行者のカッサパの経

 

17. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、無衣行者のカッサパは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「わたしどもは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしどもの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。

 

 「カッサパよ、まさに、まだ、問いのための時ではありません。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。再度また、まさに、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「わたしどもは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしどもの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「カッサパよ、まさに、まだ、問いのための時ではありません。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。三度また、まさに、無衣行者のカッサパは……略……。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。このように説かれたとき、世尊に、無衣行者のカッサパは、こう言いました。「また、まさに、わたしどもは、貴君ゴータマに、まさしく、多くを尋ねることを欲する者たちにあらず」と。「カッサパよ、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、苦しみは存在しないのですか」と。「カッサパよ、まさに、苦しみは存在しないのではありません。カッサパよ、まさに、苦しみは存在します」と。「まさに、それでは、貴君ゴータマは、苦しみを知らず見ないのですか」と。「カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知らず見ないのではありません。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知ります。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを見ます」と。

 

 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、苦しみは存在しないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、苦しみは存在しないのではありません。カッサパよ、まさに、苦しみは存在します』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、それでは、貴君ゴータマは、苦しみを知らず見ないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知らず見ないのではありません。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知ります。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを見ます』と、〔あなたは〕説きます。尊き方よ、では、世尊は、わたしに、苦しみのことを告知したまえ。尊き方よ、では、世尊は、わたしに、苦しみのことを説示したまえ」と。

 

 「カッサパよ、『その者として為し、その者として得知する』と、まさに、最初から〔確定して〕存しているところで、『自作されたものとして、苦しみはある』と、かくのごとく説いている者は、この常久〔の見解〕に陥ります。カッサパよ、『他の者として為し、他の者として得知する』と、まさに、感受が〔最初から隔絶され〕制圧されているところで、『他作されたものとして、苦しみはある』と、かくのごとく説いている者は、この断絶〔の見解〕に陥ります。カッサパよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように……略……『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。

 

 「カッサパよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した者を出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望み、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した者を出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した〔わたし〕を出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。

 

 まさに、無衣行者のカッサパは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、そして、〔戒を〕成就したばかりの尊者カッサパは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者カッサパは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. ティンバルカの経

 

18. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに、ティンバルカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ティンバルカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、楽と苦は存在しないのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在しないのではありません。ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在します」と。「まさに、それでは、貴君ゴータマは、楽と苦を知らず見ないのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知らず見ないのではありません。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知ります。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を見ます」と。

 

 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、楽と苦は存在しないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在しないのではありません。ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在します』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、それでは、貴君ゴータマは、楽と苦を知らず見ないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知らず見ないのではありません。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知ります。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を見ます』と、〔あなたは〕説きます。では、貴君ゴータマは、わたしに、楽と苦のことを告知したまえ。では、貴君ゴータマは、わたしに、楽と苦のことを説示したまえ」と。

 

 「ティンバルカよ、『そのものとして感受があり、その者が感受する』と、まさに、最初から〔確定して〕存しているところで、『自作されたものとして、楽と苦はある』と、このようにもまた、わたしは説きません。ティンバルカよ、『他なるものとして感受があり、他の者が感受する』と、まさに、感受が〔最初から隔絶され〕制圧されているところで、『他作されたものとして、楽と苦はある』と、このようにもまた、わたしは説きません。ティンバルカよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、ティンバルカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 愚者と賢者の経

 

19. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、〔過去において〕無明の妨害があり渇愛と結び付いた愚者には、このように、生まれ来たものとして、この身体があります。かくのごとく、まさしく、そして、この身体があり、さらに、外に、名前と形態があります。ここにおいて、この二つのものがあり、二つのものを縁として、接触があり、まさしく、六つの〔接触の〕場所があります。それらに接触された、〔その〕愚者は、楽と苦を得知します──あるいは、これらのなかのどれか一つに〔接触されたなら〕。

 

 比丘たちよ、〔過去において〕無明の妨害があり渇愛と結び付いた賢者には、このように、生まれ来たものとして、この身体があります。かくのごとく、まさしく、そして、この身体があり、さらに、外に、名前と形態があります。ここにおいて、この二つのものがあり、二つのものを縁として、接触があり、まさしく、六つ〔の接触〕ある〔認識の〕場所があります。それらに接触された、〔その〕賢者は、楽と苦を得知します──あるいは、これらのなかのどれか一つに〔接触されたなら〕。

 

 比丘たちよ、そこで、愚者と賢者には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、そして、すなわち、〔過去において〕無明の妨害があり、さらに、すなわち、渇愛と結び付いた、〔その〕愚者には、生まれ来たものとして、この身体があり、〔その〕愚者の、まさしく、そして、その無明は〔いまだ〕捨棄されていないものとしてあり、さらに、その渇愛も〔いまだ〕完全に滅尽していないものとしてあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、愚者は、梵行を歩まなかったからです──正しく苦しみの滅尽のために。それゆえに、愚者は、身体の破壊ののち、身体を具す者と成ります。彼は、身体を具す者として〔世に〕存しつつ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、そして、すなわち、〔過去において〕無明の妨害があり、さらに、すなわち、渇愛と結び付いた、〔その〕賢者には、生まれ来たものとして、この身体があり、〔その〕賢者の、まさしく、そして、その無明は〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、さらに、その渇愛も〔すでに〕完全に滅尽したものとしてあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、賢者は、梵行を歩んだからです──正しく苦しみの滅尽のために。それゆえに、賢者は、身体の破壊ののち、身体を具す者と成りません。彼は、身体を具すことなき者として〔世に〕存しつつ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、愚者と賢者には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、梵行の住が」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 縁の経

 

20. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、では、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、そして、縁によって生起した諸々の法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域()は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があり、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)があります。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります』〔と〕。

 

 比丘たちよ、生存という縁あることから、生があります。……略……。比丘たちよ、執取という縁あることから、生存があります。……。比丘たちよ、渇愛という縁あることから、執取があります。……。比丘たちよ、感受という縁あることから、渇愛があります。……。比丘たちよ、接触という縁あることから、感受があります。……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。……。比丘たちよ、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……。比丘たちよ、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……。比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があり、これを縁とすることがあります。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』〔と〕。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、そこにあっては、真実たることがあり、真実を離れざることがあり、他ならざることがあり、これを縁とすることがあります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって生起した諸々の法(性質)なのですか。比丘たちよ、老と死は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生存は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、執取は……略……。比丘たちよ、渇愛は……。比丘たちよ、感受は……。比丘たちよ、接触は……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所は……。比丘たちよ、名前と形態は……。比丘たちよ、識知〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……。比丘たちよ、無明は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、これらは、『縁によって生起した諸々の法(性質)』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、そして、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、さらに、これらの、縁によって生起した諸々の法(性質)が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ることから、彼が、まさに、あるいは、『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』と、過去の極(前際:過去の種々相)に走り行くことになり──あるいは、『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』と、未来の極(後際:未来の種々相)に走り行くことになり──あるいは、『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴くのだろうか』と、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ることになる──この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、聖なる弟子には、そして、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、さらに、これらの、縁によって生起した諸々の法(性質)が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るからです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 食の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「食、まさしく、そして、パッグナ、さらに、二つの沙門や婆羅門たち、カッチャーナ・ゴッタ、法(教え)の講話者、無衣行者があり、そして、ティンバルカとともに、まさしく、そして、愚者と賢者のあと、さらに、第十のものとして、縁とともに、〔章となる〕」と。

 

3. 十の力の章

 

1. 十の力の経

 

21. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、十の力を具備した如来は、そして、四つの離怖を具備した者として、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の十の力の経

 

22. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、十の力を具備した如来は、そして、四つの離怖を具備した者として、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。

 

 比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちとして精進に励むに、まさしく、十分なるものがあります。『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と。

 

 比丘たちよ、怠惰の者は、苦痛のうちに〔世に〕住み、諸々の悪しき善ならざる法(性質)に犯され、そして、大いなる自らの義(目的)を遍く衰退させます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、精進に励む者は、安楽のうちに〔世に〕住み、諸々の悪しき善ならざる法(性質)から遠離し、そして、大いなる自らの義(目的)を円満成就させます。比丘たちよ、下劣なるものによって至高のものに至り得ることは有りません。しかしながら、まさに、至高のものによって至高のものに至り得ることは有ります。比丘たちよ、この梵行は醍醐の甘露であり、教師は面前の状態にあります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、精進に励みなさい──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために。『このように、まさに、わたしたちの、この出家は、徒労なきものと成り、果を有するものと〔成り〕、生成を有するものと〔成るのだ〕。さらに、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、自己の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、他者の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、両者の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 機縁の経

 

23. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩()の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者にではなく、〔あるがままに〕見ていない者にではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、彼に、〔諸々の煩悩の〕滅尽あるとき、〔まさに〕その、滅尽についての知恵があるなら、それをもまた、機縁を有するものと、〔わたしは〕説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、滅尽についての知恵の機縁なのですか。『解脱』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、解脱もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、解脱の機縁なのですか。『離貪』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、離貪もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、離貪の機縁なのですか。『厭離』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、厭離もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、厭離の機縁なのですか。『事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、事実のとおりの知見もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、事実のとおりの知見の機縁なのですか。『禅定(三昧)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、禅定もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、禅定の機縁なのですか。『安楽』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、安楽もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、安楽の機縁なのですか。『静息』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、静息もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、静息の機縁なのですか。『喜悦』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、喜悦もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、喜悦の機縁なのですか。『歓喜』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、歓喜もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、歓喜の機縁なのですか。『信』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、信をもまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、信の機縁なのですか。『苦しみ』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、苦しみもまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、苦しみの機縁なのですか。『生』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、生もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、生の機縁なのですか。『生存』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、生存もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、生存の機縁なのですか。『執取』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、執取もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、執取の機縁なのですか。『渇愛』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、渇愛もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、渇愛の機縁なのですか。『感受』と説かれるべきものが存在します。……略……。『接触』と説かれるべきものが存在します。……。『六つの〔認識の〕場所』と説かれるべきものが存在します。……。『名前と形態』と説かれるべきものが存在します。……。『諸々の形成〔作用〕』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、諸々の形成〔作用〕の機縁なのですか。『無明』と説かれるべきものが存在します。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明を機縁とする、諸々の形成〔作用〕があり、諸々の形成〔作用〕を機縁とする、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕を機縁とする、名前と形態があり、名前と形態を機縁とする、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所を機縁とする、接触があり、接触を機縁とする、感受があり、感受を機縁とする、渇愛があり、渇愛を機縁とする、執取があり、執取を機縁とする、生存があり、生存を機縁とする、生があり、生を機縁とする、苦しみがあり、苦しみを機縁とする、信があり、信を機縁とする、歓喜があり、歓喜を機縁とする、喜悦があり、喜悦を機縁とする、静息があり、静息を機縁とする、安楽があり、安楽を機縁とする、禅定があり、禅定を機縁とする、事実のとおりの知見があり、事実のとおりの知見を機縁とする、厭離があり、厭離を機縁とする、離貪があり、離貪を機縁とする、解脱があり、解脱を機縁とする、滅尽についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明を機縁とする、諸々の形成〔作用〕があり、諸々の形成〔作用〕を機縁とする、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕を機縁とする、名前と形態があり、名前と形態を機縁とする、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所を機縁とする、接触があり、接触を機縁とする、感受があり、感受を機縁とする、渇愛があり、渇愛を機縁とする、執取があり、執取を機縁とする、生存があり、生存を機縁とする、生があり、生を機縁とする、苦しみがあり、苦しみを機縁とする、信があり、信を機縁とする、歓喜があり、歓喜を機縁とする、喜悦があり、喜悦を機縁とする、静息があり、静息を機縁とする、安楽があり、安楽を機縁とする、禅定があり、禅定を機縁とする、事実のとおりの知見があり、事実のとおりの知見を機縁とする、厭離があり、厭離を機縁とする、離貪があり、離貪を機縁とする、解脱があり、解脱を機縁とする、滅尽についての知恵があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

 

24. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為()の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、ここに、沙門ゴータマは、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、沙門ゴータマの説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、沙門ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「友よ、まさに、苦しみは、世尊によって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存しています。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

 まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタの、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サーリプッタの、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。アーナンダよ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、ここに、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。アーナンダよ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 『友よ、ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。ここに、まさに、尊者ゴータマは、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、尊者ゴータマの説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、尊者ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか』と。

 

 アーナンダよ、このように説かれたとき、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。『友よ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません』」と。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、一つの句によって、一切の義(意味)が説かれたものと成るからです。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのでしょうか。詳細〔の観点〕によって説かれているなら、まさしく、そして、深遠なるものとして存在することになり、さらに、深遠なる暗示あるものとして〔存在することになる〕、まさしく、この義(意味)が」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて、〔答えが〕明白となれ」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、老と死は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、老と死は、まさに、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生は、まさに、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生存は、まさに、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、執取は……略……。『友よ、アーナンダよ、また、渇愛は……略……。『友よ、アーナンダよ、また、感受は……略……。尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、接触は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、接触は、まさに、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします』と。『友よ、まさしく、しかし、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の残りなき離貪と止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ブーミジャの経

 

25. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ブーミジャは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ブーミジャは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、ここに、まさに、世尊は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「友よ、まさに、楽と苦は、世尊によって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存しています。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

 まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。アーナンダよ、まさに、楽と苦は、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、まさに、あるいは、身体が存しているとき、身体にたいする思欲()を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、言葉が存しているとき、言葉にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、意が存しているとき、意にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します──そして、無明という縁あることから。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その身体の形成〔作用〕(身行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その身体の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(無意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その言葉の形成〔作用〕(口行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その意の形成〔作用〕(意行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、これらの法(性質)においては、無明〔という縁〕が起こっているのですが、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その身体は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その言葉は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その意は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その田畑(環境)は有ることなくあり……略……その地所(基盤)は有ることなくあり……略……その場所(縁)は有ることなくあり……略……それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その事因(契機)は有ることなくあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ウパヴァーナの経

 

26. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ウパヴァーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、ここに、まさに、世尊は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「ウパヴァーナよ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 ウパヴァーナよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 ウパヴァーナよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 縁の経

 

27. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、縁を覚知し、このように、縁の集起を覚知し、このように、縁の止滅を覚知し、このように、縁の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 比丘の経

 

28. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、ここに、比丘が、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。生を覚知し……略……。生存を覚知し……。執取を覚知し……。渇愛を覚知し……。感受を覚知し……。接触を覚知し……。六つの〔認識の〕場所を覚知し……。名前と形態を覚知し……。識知〔作用〕を覚知し……。諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、このように、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、このように、生を覚知し……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕の集起を……諸々の形成〔作用〕の止滅を……このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、比丘たちよ、この者は、比丘として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 沙門や婆羅門たちの経

 

29. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を遍知せず、老と死の集起を遍知せず、老と死の止滅を遍知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を遍知しないなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を遍知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を遍知し、老と死の集起を遍知し、老と死の止滅を遍知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を遍知するなら、生を遍知し……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を遍知し、諸々の形成〔作用〕の集起を遍知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を遍知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を遍知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

30. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、彼らが、まさに、老と死を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されません。生を覚知せず……略……。生存を……。執取を……。渇愛を……。感受を……。接触を……。六つの〔認識の〕場所を……。名前と形態を……。識知〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、彼らが、まさに、諸々の形成〔作用〕を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、彼らが、まさに、老と死を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されます。生を覚知し……略……。生存を……。執取を……。渇愛を……。感受を……。接触を……。六つの〔認識の〕場所を……。名前と形態を……。識知〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、彼らが、まさに、諸々の形成〔作用〕を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 十の力の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの十の力、そして、機縁、〔教えを〕他にする異教の者たちとブーミジャ、ウパヴァーナ、縁、比丘、そして、二つの沙門や婆羅門たちがあり、〔章となる〕」と。

 

4. カラーラ・カッティヤの章

 

1. 成ったものの経

 

31. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方(ブッダ)よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、いったい、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。……略……。再度また、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「サーリプッタよ、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、いったい、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。三度また、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。

 

 「サーリプッタよ、『これは、成ったものである』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。尊き方よ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある者と成ります(有学となる)。

 

 尊き方よ、では、どのように、法(真理)を究めた者と成るのですか。尊き方よ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。尊き方よ、このように、まさに、法(真理)を究めた者と成ります(阿羅漢となる)。尊き方よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。サーリプッタよ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある者と成ります。

 

 サーリプッタよ、では、どのように、法(真理)を究めた者と成るのですか。サーリプッタよ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。サーリプッタよ、このように、まさに、法(真理)を究めた者と成ります。サーリプッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. カラーラの経

 

32. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、モーリヤ・パッグナ比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたのです(戒を捨てて還俗した)」と。「まさに、まちがいなく、その尊者は、この法(教え)と律において、安堵を得ませんでした」と。「まさに、それでは、尊者サーリプッタは、この法(教え)と律において、安堵に至り得たのですか」と。

 

 「友よ、まさに、わたしは疑いません」と。「友よ、また、未来のことは」と。

 

 「友よ、まさに、わたしは疑惑しません」と。

 

 そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、サーリプッタに告げなさい。『友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、本当に、まさに、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、まさに、これらの句によって、これらの文によって、〔その〕義(意味)が説かれたのではありません」と。「サーリプッタよ、すなわち、たとえ、どのような教相によってであれ、良家の子息が、了知を説き明かすなら、そこで、まさに、説き明かされたものは、説き明かされたものとして見られるべきです」と。「尊き方よ、わたしもまた、まちがいなく、このように説きます。『尊き方よ、まさに、これらの句によって、これらの文によって、〔その〕義(意味)が説かれたのではありません』」と。

 

 「サーリプッタよ、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その因縁あることから、生があるとします。その因縁の滅尽あることから、滅尽したものについて、「〔わたしは〕滅尽者として存している」と知るところとなります。「〔わたしは〕滅尽者として存している」と知って、「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生は、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生存は、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、執取は……略……。サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたに、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しなかったのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたに、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しなかったのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、三つのものがあります。まさに、これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。友よ、まさに、これら三つの感受は、無常です。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」と知るところとなり、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しませんでした』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、これもまた、まさしく、この義(意味)の、簡略〔の観点〕による説き明かしのための教相となります。『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある』と。

 

 サーリプッタよ、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように、解脱あることから、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように、解脱あることから、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、まさに、わたしは、内に、解脱あることから、一切の執取の滅尽あることから、すなわち、気づきある者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が流れ出ない、そのとおりに、気づきある者として〔世に〕住み、そして、自己を見下しません』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、これもまた、まさしく、この義(意味)の、簡略〔の観点〕による説き明かしのための教相となります。すなわち、諸々の煩悩が、『それらは、わたしによって捨棄された』と、沙門によって説かれましたが、わたしは、それらについて疑わず、疑惑しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、過去において、世尊は、〔問いの意図について〕得知していないわたしに、第一の問いを尋ね、〔まさに〕その、わたしには、遅滞が有りました(返答せず沈黙していた)。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊が、わたしの第一の問い〔の答え〕に随喜したことから、友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『もし、また、昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、二つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、三つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、三つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、四つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、四つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、五つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、五つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、六つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、六つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう』」と。

 

 そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタによって、獅子吼が吼え叫ばれました。『友よ、過去において、世尊は、〔問いの意図について〕得知していないわたしに、第一の問いを尋ね、〔まさに〕その、わたしには、遅滞が有りました。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊が、わたしの第一の問い〔の答え〕に随喜したことから、友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「もし、また、昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜のあいだ、世尊が、わたしに……略……。もし、また、夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……。三つの……四つの……五つの……六つの……。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう」』」と。

 

 「比丘よ、まさに、サーリプッタの、その法(真理)の界域は、善く理解されました。その法(真理)の界域が、善く理解されたことから、もし、また、昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、夜のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……略……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、二つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、三つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、三つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、四つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、四つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、五つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、五つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、六つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、六つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすでしょう」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 知恵の基盤の経

 

33. サーヴァッティーに……略……。「比丘たちよ、四十四の知恵の基盤を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、どのようなものが、四十四の知恵の基盤なのですか。老と死についての知恵であり、老と死の集起についについての知恵であり、老と死の止滅についての知恵であり、老と死の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、生についての知恵であり、生の集起についについての知恵であり、生の止滅についての知恵であり、生の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、生存についての知恵であり、生存の集起についについての知恵であり、生存の止滅についての知恵であり、生存の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、執取についての知恵であり、執取の集起についについての知恵であり、執取の止滅についての知恵であり、執取の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、渇愛についての知恵であり、渇愛の集起についについての知恵であり、渇愛の止滅についての知恵であり、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、感受についての知恵であり、感受の集起についについての知恵であり、感受の止滅についての知恵であり、感受の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、接触についての知恵であり……略……六つの〔認識の〕場所についての知恵であり……名前と形態についての知恵であり……識知〔作用〕についての知恵であり……諸々の形成〔作用〕についての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の集起についについての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の止滅についての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これらは、四十四の知恵の基盤と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。

 

 生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、老と死を覚知することから、このように、老と死の集起を覚知することから、このように、老と死の止滅を覚知することから、このように、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼には、この、法(性質)についての知恵があります。彼は、この法(性質)によって──〔あるがままに〕見られ〔あるがままに〕知られた〔法〕によって、時を要さずに至り得られ深解された〔法〕によって──過去と未来についての理趣(方法・道理)を(※)導きます。

 

※ テキストには atītānāgatena yaṃ とあるが、注釈書により atītānāgate nayaṃ と区切って読む。以下の平行箇所も同様。

 

 まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を証知したなら、老と死の集起を証知したなら、老と死の止滅を証知したなら、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知したなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知しました──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。

 

 まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を証知するであろうなら、老と死の集起を証知するであろうなら、老と死の止滅を証知するであろうなら、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知するでしょう──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。かくのごとく、彼には、この、類推についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの二つの知恵が、完全なる清浄にして完全なる清白と成ることから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。

 

 無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の形成〔作用〕を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼には、この、法(性質)についての知恵があります。彼は、この法(性質)によって──〔あるがままに〕見られ〔あるがままに〕知られた〔法〕によって、時を要さずに至り得られ深解された〔法〕によって──過去と未来についての理趣を導きます。

 

 まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の形成〔作用〕を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の集起を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知したなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知しました──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。

 

 まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の形成〔作用〕を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の集起を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知するでしょう──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。彼には、この、類推についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの二つの知恵が、完全なる清浄にして完全なる清白と成ることから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の知恵の基盤の経

 

34. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、七十七の知恵の基盤を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、どのようなものが、七十七の知恵の基盤なのですか。『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、過去の時にもまた、『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、未来の時にもまた、『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、すなわち、また、彼に、〔まさに〕その、法(性質)の止住についての知恵があるなら、『それもまた、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である』と、知恵があり──

 

 『生存という縁あることから、生がある』と、知恵があり……略……『執取という縁あることから、生存がある』と、知恵があり……『渇愛という縁あることから、執取がある』と、知恵があり……『感受という縁あることから、渇愛がある』と、知恵があり……『接触という縁あることから、感受がある』と、知恵があり……『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と、知恵があり……『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』と、知恵があり……『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と、知恵があり……『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と、知恵があり……『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、過去の時にもまた、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、未来の時にもまた、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、すなわち、また、彼に、〔まさに〕その、法(性質)の止住についての知恵があるなら、『それもまた、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である』と、知恵があります。比丘たちよ、これらは、七十七の知恵の基盤と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 無明という縁の経

 

35. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘よ、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘よ、『他なるものとして、生があり、また、そして、他なる者に、この生がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生存という縁あることから、生がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、生存があり、また、そして、どのような者に、この生存があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、生存があり、また、そして、どのような者に、この生存があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘よ、『他なるものとして、生存があり、また、そして、他なる者に、この生存がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『執取という縁あることから、生存がある』」と。……略……。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。……。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。……。『接触という縁あることから、感受がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。……。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』」と。……。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘よ、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼にある、それらのものは、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生があり、また、そして、他なる者に、この生がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼にある、それらのものは、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生存があり……略……あるいは、『どのようなものとして、執取があり……あるいは、『どのようなものとして、渇愛があり……あるいは、『どのようなものとして、感受があり……あるいは、『どのようなものとして、接触があり……あるいは、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……あるいは、『どのようなものとして、名前と形態があり……あるいは、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……略……。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼にある、それらのものは、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の無明という縁の経

 

36. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘たちよ、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘たちよ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、『どのようなものとして、生があり……略……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、執取があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、渇愛があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、感受があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、接触があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、名前と形態があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説き、比丘たちよ、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘たちよ、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼にある、それらのものは、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼にある、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生があり……略……あるいは、『どのようなものとして、生存があり……あるいは、『どのようなものとして、執取があり……あるいは、『どのようなものとして、渇愛があり……あるいは、『どのようなものとして、感受があり……あるいは、『どのようなものとして、接触があり……あるいは、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……あるいは、『どのようなものとして、名前と形態があり……あるいは、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……あるいは、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、この諸々の形成〔作用〕がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼にある、それらのものは、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「あなたたちのものではありません」の経

 

37. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この身体は、あなたたちのものではありません。他者たちのものでもまたありません。比丘たちよ、これは、古い行為()であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 思欲の経

 

38. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住(識住)のための対象(所縁)と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、未来に、さらなる生存の発現が有ります。未来に、さらなる生存の発現が存しているとき、未来に、生があり、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、未来に、さらなる生存の発現が有ります。未来に、さらなる生存の発現が存しているとき、未来に、生があり、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、未来に、さらなる生存の発現は有りません。未来に、さらなる生存の発現が存していないとき、未来に、生〔の止滅〕があり、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の思欲の経

 

39. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があり、接触という縁あることから、感受があります。……略……渇愛があります。……執取があります。……生存があります。……生があります。……老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、名前と形態の顕現は有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の思欲の経

 

40. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、誘導が有ります。誘導が存しているとき、帰る所と赴く所が有ります。帰る所と赴く所が存しているとき、死滅と再生が有ります。死滅と再生が存しているとき、未来に、生があり、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、誘導が有ります。誘導が存しているとき、帰る所と赴く所が有ります。帰る所と赴く所が存しているとき、死滅と再生が有ります。死滅と再生が存しているとき、未来に、生があり、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、誘導は有りません。誘導が存していないとき、帰る所と赴く所は有りません。帰る所と赴く所が存していないとき、死滅と再生は有りません。死滅と再生が存していないとき、未来に、生〔の止滅〕があり、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 カラーラ・カッティヤの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『これは、成ったものである』があり、そして、カラーラ、そして、二つの知恵の基盤、そして、二つの無明という縁、『あなたたちのものではありません』があり、三つの思欲があり、〔章となる〕」と。

 

5. 家長の章

 

1. 五つの怨念と恐怖の経

 

41. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は、与えられていないものを取ることを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。与えられていないものを取ることから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。与えられていないものを取ることから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (3)家長よ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (4)家長よ、すなわち、虚偽を説く者は、虚偽を説くことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。虚偽を説くことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。虚偽を説くことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (5)家長よ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 (2)法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。

 

 (3)僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。

 

 (4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、どのようなものが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。家長よ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの生起あることから、これが生起する。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。これが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の五つの怨念と恐怖の経

 

42. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)比丘たちよ、すなわち、命あるものを殺す者は……略……。(2)比丘たちよ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……。(3)比丘たちよ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……。(4)比丘たちよ、すなわち、虚偽を説く者は……。(5)比丘たちよ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は……略……。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする……略……。(2)法(教え)にたいする……。(3)僧団にたいする……。(4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、どのようなものが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。……略……。これが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 苦しみの経

 

43. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕(眼識)が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの集起です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕(耳識)が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕(鼻識)が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕(舌識)が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕(身識)が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕(意識)が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの滅至です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの滅至です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 世の経

 

44. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、世の集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、世の滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ニャーティカの経

 

45. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、静所に赴き静坐し、この法(教え)の教相を語りました。

 

 「かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、世尊の〔言葉に〕聞き入り、立った状態でいます。まさに、世尊は、その比丘が、〔言葉に〕聞き入り、立っているのを見ました。見て、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、まさに、あなたは、この法(教え)の教相を聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」と。「比丘よ、まさに、あなたは、この法(教え)の教相を把握しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を遍く学得しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を保持しなさい。比丘よ、この法(教え)の教相は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 或るひとりの婆羅門の経

 

46. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、その者として為し、その者として得知するのですか」と。「婆羅門よ、『その者として為し、その者として得知する』とは、まさに、これは、一つの極です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、他の者として為し、他の者として得知するのですか」と。「婆羅門よ、『他の者として為し、他の者として得知する』とは、まさに、これは、第二の極です。婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ジャーヌッソーニの経

 

47. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、一切は存在するのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在する』とは、まさに、これは、一つの極です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は存在しないのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在しない』とは、まさに、これは、第二の極です。婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、ジャーヌッソーニは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 順世派の経

 

48. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、順世派(順世外道:唯物論者)の婆羅門が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、順世派の婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、一切は存在するのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在する』とは、まさに、これは、最初の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は存在しないのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在しない』とは、まさに、これは、第二の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は一なるものですか」と。「婆羅門よ、『一切は一なるものである』とは、まさに、これは、第三の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は多々なるものですか」と。「婆羅門よ、『一切は多々なるものである』とは、まさに、これは、第四の世理です。

 

 婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、順世派の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 聖なる弟子の経

 

49. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存しているとき、何が有るのか。何の生起あることから、何が生起するのか。何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、名前と形態が有るのか。何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。何が存しているとき、接触が有るのか。何が存しているとき、感受が有るのか。何が存しているとき、渇愛が有るのか。何が存しているとき、執取が有るのか。何が存しているとき、生存が有るのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存しているとき、老と死が有るのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。接触が存しているとき、感受が有る。感受が存しているとき、渇愛が有る。渇愛が存しているとき、執取が有る。執取が存しているとき、生存が有る。生存が存しているとき、生が有る。生が存しているとき、老と死が有る』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は集起する』と。

 

 「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存していないとき、何が有ることはないのか。何の止滅あることから、何が止滅するのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。何が存していないとき、執取が有ることはないのか。何が存していないとき、生存が有るのか。何が存していないとき、生が有ることはないのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。名前と形態が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはない。六つの〔認識の〕場所が存していないとき、接触が有ることはない。接触が存していないとき、感受が有ることはない。感受が存していないとき、渇愛が有ることはない。渇愛が存していないとき、執取が有ることはない。執取が存していないとき、生存が有ることはない。生存が存していないとき、生が有ることはない。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は止滅する』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕……略……『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の聖なる弟子の経

 

50. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存しているとき、何が有るのか。何の生起あることから、何が生起するのか。何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、名前と形態が有るのか。何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。何が存しているとき、接触が有るのか。何が存しているとき、感受が有るのか。何が存しているとき、渇愛が有るのか。何が存しているとき、執取が有るのか。何が存しているとき、生存が有るのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存しているとき、老と死が有るのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。接触が存しているとき、感受が有る。感受が存しているとき、渇愛が有る。渇愛が存しているとき、執取が有る。執取が存しているとき、生存が有る。生存が存しているとき、生が有る。生が存しているとき、老と死が有る』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は集起する』と。

 

 「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存していないとき、何が有ることはないのか。何の止滅あることから、何が止滅するのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。……略……執取が……生存が……生が……何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。……略……。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は止滅する』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 家長の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの五つの怨念と恐怖が説かれ、苦しみ、そして、世、ニャーティカ、或るひとりの者、そして、ジャーヌッソーニがあり、第八のものとして、順世派とともに、二つの聖なる弟子が説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。

 

6. 苦しみの章

 

1. 遍き考察の経

 

51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、遍く考察しつつ遍く考察するべきですか──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、遍く考察しつつ遍く考察します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死が〔発生するなら〕、この苦しみは、いったい、まさに、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、老と死が有るのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死が〔発生するなら〕、この苦しみは、まさに、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とする。生が存しているとき、老と死が有る。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、そして、それが、老と死の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、老と死の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、遍く考察しつつ遍く考察します。『また、この生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存していないとき、生が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『生は、まさに、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とする。生存が存しているとき、生が有る。生存が存していないとき、生が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、そして、それが、生の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、生の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、遍く考察しつつ遍く考察します。『また、この生存は、いったい、まさに、何を因縁とし……略……。『また、この執取は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この渇愛は、いったい、まさに、何を因縁とし……感受は……接触は……。『また、この六つの〔認識の〕場所は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この名前と形態は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この識知〔作用〕は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、これらの形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『諸々の形成〔作用〕は、まさに、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とする。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。生存が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、そして、それが、諸々の形成〔作用〕の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、諸々の形成〔作用〕の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、すなわち、無明を具した人士たる人が、もし、功徳ある形成〔作用〕(善果を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、功徳に近しく赴くものと成り、もし、功徳なき形成〔作用〕(悪果を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、功徳に近しく赴かないものと成り、もし、不動の形成〔作用〕(無色界の禅定を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、不動に近しく赴くものと成ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、無明が捨棄されたものと成り、明知が生起したものと〔成ることから〕、彼は、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、まさしく、功徳ある行作を行作することもなく、功徳なき行作を行作することもなく、不動の行作を行作することもありません。行作せずにいながら、行思せずにいながら、世において、何であれ執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。

 

 彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、陶工の窯から、熱のある瓶を取り出して、平坦な土地の部分に置くとします。そこで、すなわち、この熱は、それは、まさしく、そこにおいて、止み静まり、諸々の鉢が残るでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、功徳ある行作を行作するでしょうか、あるいは、功徳なき行作を行作するでしょうか、あるいは、不動の行作を行作するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、諸々の形成〔作用〕が存していないとき、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、さて、いったい、まさに、識知〔作用〕は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、識知〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕の止滅あることから、さて、いったい、まさに、名前と形態は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、名前と形態が存していないとき、名前と形態の止滅あることから、さて、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、六つの〔認識の〕場所が存していないとき、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、さて、いったい、まさに、接触は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、接触が存していないとき、接触の止滅あることから、さて、いったい、まさに、感受は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、感受が存していないとき、感受の止滅あることから、さて、いったい、まさに、渇愛は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、渇愛が存していないとき、渇愛の止滅あることから、さて、いったい、まさに、執取は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、執取が存していないとき、執取の止滅あることから、さて、いったい、まさに、生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、生存が存していないとき、生存の止滅あることから、さて、いったい、まさに、生は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、生が存していないとき、生の止滅あることから、さて、いったい、まさに、老と死は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、このように、このことはあります。比丘たちよ、このことは、他なるものにあらず。比丘たちよ、わたしのその〔言葉〕に信を置きなさい。信念しなさい。ここにおいて、疑いなき者たちと成りなさい。疑惑なき者たちと〔成りなさい〕。まさしく、これは、苦しみの終極です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 執取の経

 

52. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、十の薪の荷車の、あるいは、二十の薪の荷車の、あるいは、三十の薪の荷車の、あるいは、四十の薪の荷車の、大いなる火の塊が燃え上がっているとします。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、まさしく、そして、諸々の乾いた草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾いた牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾いた薪を投げ入れるなら、比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる火の塊は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、十の薪の荷車の、あるいは、二十の薪の荷車の、あるいは、三十の薪の荷車の、あるいは、四十の薪の荷車の、大いなる火の塊が燃え上がっているとします。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、まさしく、そして、諸々の乾いた草を投げ入れず、かつまた、諸々の乾いた牛糞を投げ入れず、さらに、諸々の乾いた薪を投げ入れないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる火の塊は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食(燃料)なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 束縛の経

 

53. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注ぎ、灯芯を設置するなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注がず、灯芯を設置しないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の束縛の経

 

54. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注ぎ、灯芯を設置するなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注がず、灯芯を設置しないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 大木の経

 

55. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その木を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤(すす)と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の大木の経

 

56. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。……略……あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 若木の経

 

57. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、若木があるとして、人が、その〔若木〕のために、〔その〕時〔その〕時に、諸々の根を掃き清め、〔その〕時〔その〕時に、肥を与え、〔その〕時〔その〕時に、水を与えるとします。比丘たちよ、まさに、このように、その若木は、それを食として、それを燃料として、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起るでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、若木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その若木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 名前と形態の経

 

58. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有ります。……略……。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 識知〔作用〕の経

 

59. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有ります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が……略……。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有ります。……略……。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有りません。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有りません。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 因縁の経

 

60. 或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、それほどまでに、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)が、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものであるとは。そこで、また、そして、わたしには、明瞭のうえにも明瞭であるように思えます」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです。アーナンダよ、この法(性質)の随覚なく理解なきことから、このように、この〔世の〕人々は、絡(から)んだ紐の類の者たちとなり、縺(もつ)れた〔糸〕玉の類の者たちとなり(※)、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません。

 

※ テキストには kulagaṇṭhikajātā とあるが、PTS版により gulāguṇṭhikajātā と読む。

 

 アーナンダよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。アーナンダよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 アーナンダよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その木を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 苦しみの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「遍き考察と燃料、そして、二つの束縛するもの、さらに、大木によって、二つのものが説かれ、そして、第七のものとして、若木とともに、さらに、名前と形態、識知〔作用〕があり、そして、因縁とともに、それらの十がある」と。

 

7. 大いなるものの章

 

1. 無聞の者の経

 

61. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる身体にたいし、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体の、集積もまた〔見え〕、滅減もまた〔見え〕、取着もまた〔見え〕、捨置もまた見えるからです。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、これは、無聞の凡夫にとって、長夜にわたり、固執されたものであり、我執されたものであり、偏執されたものであるからです。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体に、〔これを〕優れたものとして、『自己である』と、近しく赴くことがあります──まさしく、しかし、心に、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体は、一年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、より一層のあいだでさえも止住しているものとして見えるからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜には、さらに、昼には、まさしく、他なるものとして生起し、他なるものとして止滅します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、猿が、林のなかや森のなかを歩みつつ、枝を掴み、それを解き放っては、他のものを掴み、それを解き放っては、他のものを掴むように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜には、さらに、昼には、まさしく、他なるものとして生起し、他なるものとして止滅します。

 

 比丘たちよ、そこで、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の無聞の者の経

 

62. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体にたいし、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体の、集積もまた〔見え〕、滅減もまた〔見え〕、取着もまた〔見え〕、捨置もまた見えるからです。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、これは、無聞の凡夫にとって、長夜にわたり、固執されたものであり、我執されたものであり、偏執されたものであるからです。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体に、〔これを〕優れたものとして、『自己である』と、近しく赴くことがあります──まさしく、しかし、心に、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体は、一年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、より一層のあいだでさえも止住しているものとして見えるからです。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜には、さらに、昼には、まさしく、他なるものとして生起し、他なるものとして止滅します。

 

 比丘たちよ、そこで、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する』と。比丘たちよ、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受(楽受)が生起します。まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受(苦受)が生起します。まさしく、その、苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)が生起します。まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、二つの薪の摩擦と接合あることから、熱が生まれ、火が発現するようなものです。まさしく、それらの二つの薪の別離と分散あることから、すなわち、それに応じるものである熱は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止します。……略……。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止します。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、接触にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 子の肉の喩えの経

 

63. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、物質としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、妻と夫の二者が、僅かな糧食を携えて、砂漠の道を行くとします。彼らには、愛しく意に適う独り子が存するとします。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの砂漠を赴く妻と夫の二者の、その僅かな糧食の量が、それが、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至ります。かつまた、彼らには、〔いまだ〕超え渡っていない残りの砂漠が存在します。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの妻と夫の二者に、このような〔思いが〕存します。『まさに、わたしたちの、その僅かな糧食の量は、それは、完全に滅尽し、完全に消尽したのだ。かつまた、この、〔いまだ〕超え渡っていない残りの砂漠が存在する。それなら、さあ、わたしたちは、この愛しく意に適う独り子を打ち殺して、そして、干し肉と〔為して〕、さらに、胡椒漬けの肉と為して、〔それらの〕子の肉を喰いながら、このように、その残りの砂漠を超え出るのだ。まさしく、三者の全てが滅び去ってはならない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの妻と夫の二者は、その愛しく意に適う独り子を打ち殺して、そして、干し肉と〔為して〕、さらに、胡椒漬けの肉と為して、〔それらの〕子の肉を喰いながら、このように、その残りの砂漠を超え出ます。彼らは、まさしく、そして、〔それらの〕子の肉を喰い、さらに、胸を打ち叩きます。『独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、彼らは、あるいは、戯れのために、食を食したのですか、あるいは、驕りのために、食を食したのですか、あるいは、装うことのために、食を食したのですか、あるいは、飾ることのために、食を食したのですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、彼らは、砂漠を超え出ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、食を食したのではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『物質としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、物質としての食が遍知されたとき、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)からなる貪欲は、遍知されたものと成ります。五つの欲望の属性からなる貪欲が遍知されたとき、その束縛するものによって束縛された聖なる弟子が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その、束縛するものは存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、接触としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、皮なしの雌牛が、もし、壁に依拠して止住しているなら、すなわち、壁に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、木に依拠して止住しているなら、すなわち、木に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、水に依拠して止住しているなら、すなわち、水に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、空に依拠して止住しているなら、すなわち、空に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょう。比丘たちよ、まさに、その皮なしの雌牛が、まさしく、そのもの、そのものに依拠して止住しているなら、すなわち、それに依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『接触としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、接触としての食が遍知されたとき、三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)は、遍知されたものと成ります。三つの感受が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、意の思欲としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があるとして、そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、その火坑に引きずり込みます。比丘たちよ、そこで、まさに、その人の、思欲は、遠く離れたものとして存するでしょうし、切望は、遠く離れたものとして〔存するでしょうし〕、切願は、遠く離れたものとして〔存するでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その人に、このような〔思いが〕有るからです。『そして、わたしは、この火坑に落ちるであろう。それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『意の思欲としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、意の思欲としての食が遍知されたとき、三つの渇愛(三愛:欲望の渇愛・生存の渇愛・非生存の渇愛)は、遍知されたものと成ります。三つの渇愛が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、識知としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、早刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、早刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、日中時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、日中時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、日中時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、夕刻時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、夕刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、夕刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、昼のあいだに、三百の槍で打たれつつ、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、一つの槍でさえも、打たれつつあるなら、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょう。三百の槍で打たれつつあるなら、また、何の論があるというのでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『識知としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、識知としての食が遍知されたとき、名前と形態は、遍知されたものと成ります。名前と形態が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「貪欲が存在する」の経

 

64. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食であり、第二に、接触〔としての食〕であり、第三に、意の思欲〔としての食〕であり、第四に、識知〔としての食〕です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食があります。

 

 比丘たちよ、もし、物質としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、染色師が、あるいは、絵師が、あるいは、染料が存しているとき、あるいは、塗料が〔存しているとき〕、あるいは、鬱金が〔存しているとき〕、あるいは、藍が〔存しているとき〕、あるいは、緋が〔存しているとき〕、あるいは、完全無欠に磨かれた延べ板のうえに、あるいは、壁のうえに、あるいは、布板のうえに、全ての手足と肢体ある、あるいは、女の形姿を、あるいは、男の形姿を、化作するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、物質としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、物質としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、楼閣に、あるいは、楼閣堂に、あるいは、北の、あるいは、南の、あるいは、東の、窓から、太陽が昇りつつあるとき、光が、窓から入って〔そののち〕、どこに存し、止住しているでしょうか」と。「尊き方よ、西の壁において」と。「比丘たちよ、もし、西の壁が存在しないなら、どこに存し、止住しているでしょうか」と。「尊き方よ、地において」と。「比丘たちよ、もし、地が存在しないなら、どこに存し、止住しているでしょうか」と。「尊き方よ、水において」と。「比丘たちよ、もし、水が存在しないなら、どこに存し、止住しているでしょうか」と。「尊き方よ、止住していません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、物質としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら……略……。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 城市の経

 

65. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を(※)惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この、苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この、苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

※ テキストには kicchā とあるが、PTS版により kicchaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。……略……生存が有るのか。……執取が有るのか。……渇愛が有るのか。……感受が有るのか。……接触が有るのか。……六つの〔認識の〕場所が有るのか。……名前と形態が有るのか。どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存しているとき、識知〔作用〕が有る。名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この識知〔作用〕は、名前と形態から反転し、他に赴かない。このことから、あるいは、生まれることになり、あるいは、老いることになり、あるいは、死ぬことになり、あるいは、死滅することになり、あるいは、再生することになる。すなわち、この、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る』と。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が有ることがないのか。……略……生存が有ることがないのか。……執取が有ることがないのか。……渇愛が有ることがないのか。……感受が有ることがないのか。……接触が有ることがないのか。……六つの〔認識の〕場所が有ることがないのか。……名前と形態が有ることはないのか。何の止滅あることから、名前と形態の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしによって、この、覚りのための道が到達するところとなった。すなわち、この、名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、林のなかや森のなかを歩みつつ、過去の道を、往古の人間たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見るとします。その〔道〕に、彼は従い行きます。その〔道〕に従い行きつつ、過去の城市を、往古の人間たちが居住した過去の王都を──林園が完備され、林野が完備され、蓮池が完備され、土塁がある、喜ばしき〔城市〕を──見ます。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、告げます。『尊き方よ、どうか、お知りください。わたしは、林のなかや森のなかを歩みつつ、過去の道を、往古の人間たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見ました。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、過去の城市を、往古の人間たちが居住した過去の王都を──林園が完備され、林野が完備され、蓮池が完備され、土塁がある、喜ばしき〔城市〕を──見ました。尊き方よ、その城市を造作したまえ(復興したまえ)』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その、あるいは、王は、あるいは、王の大臣は、その城市を造作します。その城市は、他時にあって、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる、増大と広大に至り得た〔城市〕として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去の道を、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見ました。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、その、過去の道であり、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。比丘たちよ、これは、まさに、その、過去の道であり、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕です。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、老と死を証知し、老と死の集起を証知し、老と死の止滅を証知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、生を証知し……略……生存を証知し……執取を証知し……渇愛を証知し……感受を証知し……接触を証知し……六つの〔認識の〕場所を証知し……名前と形態を証知し……識知〔作用〕を証知し……。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、諸々の形成〔作用〕を証知し、諸々の形成〔作用〕の集起を証知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。それを、証知して〔そののち〕、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちに告げ知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、この梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 触知の経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、内なる触知を触知しますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、内なる触知を触知します」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、内なる触知を触知しますか」と。そこで、まさに、その比丘は説き明かしました。すなわち、その比丘が説き明かしたところ、その比丘は、世尊の心を喜ばせませんでした。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、内なる触知を語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、内なる触知を触知しつつ触知します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死が〔発生するなら〕、この苦しみは、まさに、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、老と死が有るのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死が〔発生するなら〕、この苦しみは、まさに、〔生存の〕依り所を因縁とし、〔生存の〕依り所を集起とし、〔生存の〕依り所を出生とし、〔生存の〕依り所を起源とする。〔生存の〕依り所が存しているとき、老と死が有る。〔生存の〕依り所が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、そして、それが、老と死の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者であり、老と死の滅尽のために〔実践する者である〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、内なる触知を触知しつつ触知します。『また、この〔生存の〕依り所は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、〔生存の〕依り所が有るのか。何が存していないとき、〔生存の〕依り所が有ることはないのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『〔生存の〕依り所は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とする。渇愛が存しているとき、〔生存の〕依り所が有る。渇愛が存していないとき、〔生存の〕依り所が有ることはない』と。彼は、そして、〔生存の〕依り所を覚知し、かつまた、〔生存の〕依り所の集起を覚知し、かつまた、〔生存の〕依り所の止滅を覚知し、そして、それが、依り所の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者であり、〔生存の〕依り所の滅尽のために〔実践する者である〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、内なる触知を触知しつつ触知します。『また、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『それが、まさに、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるのか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。耳は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……略……。鼻は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。舌は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。身は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する』〔と〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見たなら、安楽〔の観点〕から見たなら、自己〔の観点〕から見たなら、無病〔の観点〕から見たなら、平安〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させました。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させたなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させました。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させたなら、彼らは、苦しみを増大させました。彼らが、苦しみを増大させたなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれませんでした。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれなかった』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るであろうなら、安楽〔の観点〕から見るであろうなら、自己〔の観点〕から見るであろうなら、無病〔の観点〕から見るであろうなら、平安〔の観点〕から見るであろうなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させるでしょう。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるであろうなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させるでしょう。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるであろうなら、彼らは、苦しみを増大させるでしょう。彼らが、苦しみを増大させるであろうなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれないでしょう。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれないであろう』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るなら、安楽〔の観点〕から見るなら、自己〔の観点〕から見るなら、無病〔の観点〕から見るなら、平安〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させます。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させます。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるなら、彼らは、苦しみを増大させます。彼らが、苦しみを増大させるなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、おまえに、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、おまえを喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、その飲むに適した銅杯を、即座に、審慮せずして飲み、放棄しません。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態あるものであり……略……未来の時に……略……今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るなら、安楽〔の観点〕から見るなら、自己〔の観点〕から見るなら、無病〔の観点〕から見るなら、平安〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させます。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させます。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるなら、彼らは、苦しみを増大させます。彼らが、苦しみを増大させるなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見たなら、苦痛〔の観点〕から見たなら、無我〔の観点〕から見たなら、病〔の観点〕から見たなら、恐怖〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄しました。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄したなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄しました。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄したなら、彼らは、苦しみを捨棄しました。彼らが、苦しみを捨棄したなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれました。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれた』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るであろうなら、苦痛〔の観点〕から見るであろうなら、無我〔の観点〕から見るであろうなら、病〔の観点〕から見るであろうなら、恐怖〔の観点〕から見るであろうなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄するでしょう。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するであろうなら……略……。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれるであろう』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るなら、苦痛〔の観点〕から見るなら、無我〔の観点〕から見るなら、病〔の観点〕から見るなら、恐怖〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄します。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄します。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄するなら、彼らは、苦しみを捨棄します。彼らが、苦しみを捨棄するなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、おまえに、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適した銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、おまえを喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人に、このような〔思いが〕存します。『まさに、わたしの、この酒への渇きは、あるいは、飲用水によって取り除くことが、あるいは、乳酪や醍醐によって取り除くことが、あるいは、塩気ある食事によって取り除くことが、あるいは、塩粥によって取り除くことが、できる。まさしく、かくのごとく、わたしが、その〔毒〕を飲まないなら、それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するであろう』と。彼は、その飲むに適した銅杯を、審慮して〔そののち〕飲まず、放棄します。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇しないでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇しないでしょう〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見たなら、苦痛〔の観点〕から見たなら、無我〔の観点〕から見たなら、病〔の観点〕から見たなら、恐怖〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄しました。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄したなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄しました。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄したなら、彼らは、苦しみを捨棄しました。彼らが、苦しみを捨棄したなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれました。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれた』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に……略……今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るなら、苦痛〔の観点〕から見るなら、無我〔の観点〕から見るなら、病〔の観点〕から見るなら、恐怖〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄します。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄します。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄するなら、彼らは、苦しみを捨棄します。彼らが、苦しみを捨棄するなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 葦の束の経

 

67. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、老と死はあるのですか、他作されたものとして、老と死はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、老と死はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、老と死はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、老と死があることはなく、他作されたものとして、老と死があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、老と死があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、老と死があることもまたありません。しかしながら、また、生という縁あることから、老と死があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、生はあるのですか、他作されたものとして、生はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、生はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、生はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、生があることはなく、他作されたものとして、生があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、生があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、生があることもまたありません。しかしながら、また、生存という縁あることから、生があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、生存はあるのですか……略……自作されたものとして、執取はあるのですか……自作されたものとして、渇愛はあるのですか……自作されたものとして、感受はあるのですか……自作されたものとして、接触はあるのですか……自作されたものとして、六つの〔認識の〕場所はあるのですか……自作されたものとして、名前と形態はあるのですか、他作されたものとして、名前と形態はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、名前と形態があることはなく、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態があることもまたありません。しかしながら、また、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、他作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕があることもまたありません。しかしながら、また、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります」と。

 

 「まさしく、今や、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように知ります。『友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、名前と形態があることはなく、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態があることもまたありません。しかしながら、また、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります』と。

 

 また、そして、まさしく、今や、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように知ります。『友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕があることもまたありません。しかしながら、また、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります』と。

 

 友よ、サーリプッタよ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。「友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します(※)。友よ、それは、たとえば、また、二つの葦の束が、互いに他に依拠して立つようなものです。友よ、まさしく、このように、まさに、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。友よ、もし、それらの葦の束の一つを引き抜くなら、一つは倒れ落ちるでしょう。もし、他のものを引き抜くなら、他のものは倒れ落ちるでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。「友よ、サーリプッタよ、めったにないことです。友よ、サーリプッタよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、尊者サーリプッタによって、これほどまでに、見事に語られたのは。また、そして、わたしたちは、この、尊者サーリプッタの語ったことを、これらの三十六の基盤によって随喜します。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、生の……生存の……執取の……渇愛の……感受の……接触の……六つの〔認識の〕場所の……名前と形態の……識知〔作用〕の……諸々の形成〔作用〕の……無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

※ テキストには jānanti とあるが、PTS版により ājānanti と読む。

 

8. コーサンビーの経

 

68. 或る時のことです。かつまた、尊者ムシラは、かつまた、尊者パヴィッタは、かつまた、尊者ナーラダは、かつまた、尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者パヴィッタは、尊者ムシラに、こう言いました。「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞(伝聞)より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『執取という縁あることから、生存がある』」と。……。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。……。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。……。『接触という縁あることから、感受がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。……。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』」と。……。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』」と。……。『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』」と。……。『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』」と。……。『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』」と。……。『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』」と。……。『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』」と。……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。

 

 「まさに、それでは、尊者ムシラは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。このように説かれたとき、尊者ムシラは、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、尊者ナーラダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、どうか、わたしが、この問いを得られますように。わたしに、この問いを尋ねたまえ。わたしが、あなたに、この問いを説き明かしましょう」と。「尊者ナーラダは、この問いを得ます。わたしは、尊者ナーラダに、この問いを尋ねます。では、尊者ナーラダは、わたしに、この問いを説き明かしたまえ」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。

 

 「まさに、それでは、尊者ナーラダは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。「友よ、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません。友よ、それは、たとえば、また、砂漠の道に井戸があるとします。そこにあっては、縄も、水瓶も、まさしく、存在しません。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その井戸を眺め見ます。まさに、彼には、『水がある』と、まさに、知恵が存在します。しかしながら、身体によって接触して住むことはないでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、このように説く者であるなら、あなたは、尊者ナーラダのことを、何と説きますか」と。「友よ、アーナンダよ、このように説く者であるなら、わたしは、尊者ナーラダのことを、健全なることより他に、善巧なることより他に、何であれ、説くことはありません」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 「上り行く」の経

 

69. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、上り行きつつある大海〔の水〕は、諸々の大河〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の大河〔の水〕は、諸々の小川〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の小川〔の水〕は、諸々の大池〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の大池〔の水〕は、諸々の小池〔の水〕を上り行かせます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、上り行きつつある無明は、諸々の形成〔作用〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕を上り行かせます。上り行きつつある識知〔作用〕は、名前と形態を上り行かせます。上り行きつつある名前と形態は、六つの〔認識の〕場所を上り行かせます。上り行きつつある六つの〔認識の〕場所は、接触を上り行かせます。上り行きつつある接触は、感受を上り行かせます。上り行きつつある感受は、渇愛を上り行かせます。上り行きつつある渇愛は、執取を上り行かせます。上り行きつつある執取は、生存を上り行かせます。上り行きつつある生存は、生を上り行かせます。上り行きつつある生は、老と死を上り行かせます。

 

 比丘たちよ、下り行きつつある大海〔の水〕は、諸々の大河〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の大河〔の水〕は、諸々の小川〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の小川〔の水〕は、諸々の大池〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の大池〔の水〕は、諸々の小池〔の水〕を下り行かせます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、下り行きつつある無明は、諸々の形成〔作用〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕を下り行かせます。下り行きつつある識知〔作用〕は、名前と形態を下り行かせます。下り行きつつある名前と形態は、六つの〔認識の〕場所を下り行かせます。下り行きつつある六つの〔認識の〕場所は、接触を下り行かせます。下り行きつつある接触は、感受を下り行かせます。下り行きつつある感受は、渇愛を下り行かせます。下り行きつつある渇愛は、執取を下り行かせます。下り行きつつある執取は、生存を下り行かせます。下り行きつつある生存は、生を下り行かせます。下り行きつつある生は、老と死を下り行かせます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. スシマの経

 

70. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有ります。比丘の相談もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、その時点にあって、スシマ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、ラージャガハに滞在しています。そこで、まさに、スシマ遍歴遊行者の衆は、スシマ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スシマよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのもとで梵行を歩みたまえ。あなたは、法(教え)を遍く学得して、わたしたちに教授するのです。わたしたちは、その法(教え)を遍く学得して、在家者たちに語りましょう。このように、わたしたちもまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちとして〔世に〕有るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、スシマ遍歴遊行者は、自らの衆に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スシマ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、スシマ遍歴遊行者を携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、スシマ遍歴遊行者は、このように言いました。『友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、スシマを出家させなさい」と。まさに、スシマ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

 また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされるところと成ります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。まさに、尊者スシマは、「どうやら、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたらしい。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と耳にしました。そこで、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちに、こう言いました。「本当に、まさに、尊者たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「友よ、そのとおりです」と。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知しますか。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知しますか。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知しますか。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知しますか。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知しますか。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知しますか。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知しますか。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知しますか。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した過去における居住(過去世)を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。友よ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。「友よ、スシマよ、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。

 

 「まさに、わたしは、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊者たちは、どうか、わたしに、すなわち、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「友よ、スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。

 

 そこで、まさに、尊者スシマは、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、すなわち、それらの比丘たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。「スシマよ、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。世尊は、どうか、わたしに、すなわち、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります。

 

 スシマよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「表象〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の形成〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の感受〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形成〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 スシマよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 スシマよ、『生という縁あることから、老と死がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存という縁あることから、生がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取という縁あることから、生存がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『渇愛という縁あることから、執取がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『感受という縁あることから、渇愛がある』と……『接触という縁あることから、感受がある』と……『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と……『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』と……『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と……『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と……『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存の止滅あることから、生の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と……『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と……『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と……『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と……『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と……『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と……『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と……『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と……『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。……略……。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。スシマよ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。

 

 そこで、まさに、尊者スシマは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「スシマよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。スシマよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切りなさい』と。〔まさに〕その、この者を、王の家来たちは、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るでしょう。スシマよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、すなわち、まさに、その人が、それを因縁として、苦痛と失意を得知するとして、すなわち、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者の出家であるなら、この〔出家〕は、それよりも、そして、より苦痛なる報い(異熟)あるものとなり、かつまた、より辛辣なる報いあるものとなり、さらに、また、堕所〔への再生〕のために等しく転起します。スシマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。スシマよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、そして、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの無聞の者が説かれ、そして、他に、子の肉とともに、さらに、『貪欲が存在する』があり、城市、触知、葦の束、コーサンビー、そして、『上り行く』があり、さらに、第十のものとして、スシマとともに、〔章となる〕」と。

 

8. 沙門や婆羅門たちの章

 

1. 老と死の経

 

71. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し……略……老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。(〔以上が〕一つの経典となる。)〔以上が〕第一となる。

 

2-11. 生の経等の十なるもの

 

72. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……(2)生を覚知せず……略……。

 

 (3)生存を覚知せず……略……。

 

 (4)執取を覚知せず……略……。

 

 (5)渇愛を覚知せず……略……。

 

 (6)感受を覚知せず……略……。

 

 (7)接触を覚知せず……略……。

 

 (8)六つの〔認識の〕場所を覚知せず……略……。

 

 (9)名前と形態を覚知せず……略……。

 

 (10)識知〔作用〕を覚知せず……略……。

 

 (11)諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……諸々の形成〔作用〕を覚知し……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 沙門や婆羅門たちの章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つの真理の区分あるものとして、十一の縁が説かれ、沙門や婆羅門たちの章が、因縁〔に相応するもの〕における第八のものとして有る」と。

 

 章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生存、食、十の力、カラーラ、第五のものとして、家長、苦しみの章、大いなるものの章、第八のものとして、沙門や婆羅門たちがある」と。

 

9. 中略〔の経典〕

 

1. 教師の経

 

73. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。(1-1)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の集起を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の集起について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の止滅を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の止滅について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の止滅に至る〔実践の〕道について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです」と。(〔以上が〕一つの経典となる。)〔以上が〕第一となる。

 

 (〔以下の〕全てのものの省略が、このように詳知されるべきである。)

 

2-11. 第二の教師の経等の十なるもの

 

 (1-2)「比丘たちよ、生を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-3)「比丘たちよ、生存を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-4)「比丘たちよ、執取を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-5)「比丘たちよ、渇愛を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-6)「比丘たちよ、感受を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-7)「比丘たちよ、接触を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-8)「比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-9)「比丘たちよ、名前と形態を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-10)「比丘たちよ、識知〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-11)「比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の集起を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の集起について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の止滅を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の止滅について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 (全てのものに、四つの真理あるものが為されるべきである。)

 

2-12. 学びの経等の省略あるものの十なるもの

 

 (2)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死について、事実のとおりに知恵あるために、学びが為されるべきです。……略……。

 

 (省略。四つの真理あるものが為されるべきである。)

 

 (3)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきです。……略……。

 

 (4)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……欲〔の思い〕(意欲)が為されるべきです。……略……。

 

 (5)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……勤勇が為されるべきです。……略……。

 

 (6)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……反転なき〔精励〕が為されるべきです。……略……。

 

 (7)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……熱勤が為されるべきです。……略……。

 

 (8)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……精進が為されるべきです。……略……。

 

 (9)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……堅忍が為されるべきです。……略……。

 

 (10)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……気づき()が為されるべきです。……略……。

 

 (11)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……正知が為されるべきです。……略……。

 

 (12)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……不放逸が為されるべきです。……略……。

 

 中略〔の経典〕が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師、そして、学び、そして、〔心の〕制止、欲〔の思い〕、第五のものとして、勤勇、反転なき〔精励〕、熱勤、精進、堅忍が説かれ、そして、気づき、さらに、正知があり、不放逸とともに、〔それらの〕十二がある」と。

 

 中略の経典は〔以上で〕終了となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「他に、それらの十二があり、〔それぞれに十一の経を配して〕百三十二の経と成る。四つの真理〔の観点〕によって、それらは説かれた。すなわち、中略〔の経典〕において」と。

 

 諸々の中略〔の経典〕についての摂頌は〔以上で〕完結となる。

 

 因縁に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

2(13). 知悉に相応するもの

 

1. 爪先の経

 

74. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉(現観)ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あること(預流たる者に残存する苦しみ)は、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇(苦蘊)と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 蓮池の経

 

75. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、広さとしては、五十ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)となり、幅としては、五十ヨージャナとなり、高さとしては、五十ヨージャナとなる、烏が飲めるほど、縁(ふち)まで一杯に水で満ちている蓮池があるとします。そこから、人が、草の先端で水を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、草の先端で取り出された水ですか、あるいは、すなわち、蓮池の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、蓮池の水です。草の先端で取り出された水は、少しばかりのものです。草の先端で取り出された水は、蓮池の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 合流の水の経

 

76. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこから、人が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、合流の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、合流の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の合流の水の経

 

77. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、その水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 地の経

 

78. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地に、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子ですか、あるいは、すなわち、大いなる地ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の地の経

 

79. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる地が、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地ですか、あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 海の経

 

80. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海から、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、大いなる海の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、大いなる海の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の海の経

 

81. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる海が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 山の経

 

82. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に、七つの芥子粒ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるヒマヴァントと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の山の経

 

83. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァントが、七つの芥子粒ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントですか、あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの残された石粒ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第三の山の経

 

84. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるシネール(須弥山)に、七つの緑豆ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるシネールですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるシネールと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 知悉に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「爪先、蓮池、そして、二つの合流の水、二つの地、二つの海、そして、三つの山の喩えがあり、〔章となる〕」と。

 

3(14). 界域に相応するもの

 

1. 種々なることの章

 

1. 界域の種々なることの経

 

85. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域()の種々なることを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域(眼界)であり、形態の界域(色界)であり、眼の識知〔作用〕の界域(眼識界)であり、耳の界域(耳界)であり、音声の界域(声界)であり、耳の識知〔作用〕の界域(耳識界)であり、鼻の界域(鼻界)であり、臭気の界域(香界)であり、鼻の識知〔作用〕の界域(鼻識界)であり、舌の界域(舌界)であり、味感の界域(味界)であり、舌の識知〔作用〕の界域(舌識界)であり、身の界域(身界)であり、感触(所触)の界域(触界)であり、身の識知〔作用〕の界域(身識界)であり、意の界域(意界)であり、法(意の対象)の界域(法界)であり、意の識知〔作用〕の界域(意識界)です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 接触の種々なることの経

 

86. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触()の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり、耳の界域であり、鼻の界域であり、舌の界域であり、身の界域であり、意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのですか。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触(眼触)が生起します。耳の界域を縁として、耳の接触(耳触)が生起します。鼻の界域を縁として、鼻の接触(鼻触)が生起します。舌の界域を縁として、舌の接触(舌触)が生起します。身の界域を縁として、身の接触(身触)が生起します。意の界域を縁として、意の接触(意触)が生起します。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「接触の種々なることではなく」の経

 

87. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのですか──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起します──眼の接触を縁として、眼の界域が生起するのではなく。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起します──意の接触を縁として、意の界域が生起するのではなく。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 感受の種々なることの経

 

88. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受()の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのですか。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起し、眼の接触を縁として、眼の接触から生じる感受が生起します。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起し、意の接触を縁として、意の接触から生じる感受が生起します。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の感受の種々なることの経

 

89. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのですか──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起し、眼の接触を縁として、眼の接触から生じる感受が生起します──眼の接触から生じる感受を縁として、眼の接触が生起するのではなく──眼の接触を縁として、眼の界域が生起するのではなく。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起し、意の接触を縁として、意の接触から生じる感受が生起します──意の接触から生じる感受を縁として、意の接触が生起するのではなく──意の接触を縁として、意の界域が生起するのではなく。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 外なる界域の種々なることの経

 

90. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり、音声の界域であり、臭気の界域であり、味感の界域であり、感触の界域であり、法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 表象の種々なることの経

 

91. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象()の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのですか。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し、形態の表象を縁として、形態の思惟が生起し、形態の思惟を縁として、形態の欲〔の思い〕が生起し、形態の欲〔の思い〕を縁として、形態の苦悶が生起し、形態の苦悶を縁として、形態の遍き探し求めが生起します。……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の思惟が生起し、法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起し、法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の苦悶が生起し、法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起します。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「遍き探し求めの種々なることではなく」の経

 

92. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起するのですか──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として……略……法(意の対象)の遍き探し求めが生起します──法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の苦悶が生起するのではなく──法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起するのではなく──法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の思惟が生起するのではなく──法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の表象が生起するのではなく──法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の界域が生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起します──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 外なる接触の種々なることの経

 

93. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起し、感受の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……利得の種々なることが生起するのですか。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し、形態の表象を縁として、形態の思惟が生起し、形態の思惟を縁として、形態の接触が生起し、形態の接触を縁として、形態の接触から生じる感受が生起し、形態の接触から生じる感受を縁として、形態の欲〔の思い〕が生起し、形態の欲〔の思い〕を縁として、形態の苦悶が生起し、形態の苦悶を縁として、形態の遍き探し求めが生起し、形態の遍き探し求めを縁として、形態の利得が生起します。……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の思惟が生起し、法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の接触が生起し、法(意の対象)の接触を縁として、法(意の対象)の接触から生じる感受が生起し、法(意の対象)の接触から生じる感受を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起し、法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の苦悶が生起し、法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起し、法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の利得が生起します。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の外なる接触の種々なることの経

 

94. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の……略……欲〔の思い〕の……感受の……接触の……思惟の……表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し……略……接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の……遍き探し求めの……利得の種々なることが生起するのですか──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく……略……欲〔の思い〕の……感受の……接触の……思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として……略……法(意の対象)の遍き探し求めが生起し、法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の利得が生起します──法(意の対象)の利得を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起するのではなく──法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の苦悶が生起するのではなく──法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起するのではなく──法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の接触から生じる感受が生起するのではなく──法(意の対象)の接触から生じる感受を縁として、法(意の対象)の接触が生起するのではなく──法(意の対象)の接触を縁として、法(意の対象)の思惟が生起するのではなく──法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の表象が生起するのではなく──法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の界域が生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の……略……思惟の……接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の……遍き探し求めの……利得の種々なることが生起します──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのではなく──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第十となる。

 

 種々なることの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「界域、そして、接触、さらに、この、『ではなく』があり、他に、二つの感受があり、これが、内なる五なるものとなり、界域、そして、表象、さらに、この、『ではなく』があり、他に、二つの接触があり、これが、外なる五なるものとなる」と。

 

2. 第二の章

 

1. 七つの界域の経

 

95. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、七つのものなのですか。光明の界域であり、浄美の界域であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)の界域であり、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)の界域であり、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)の界域であり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)の界域であり、表象と感覚の止滅(想受滅)の界域です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの界域があります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象と感覚の止滅の界域は、尊き方よ、いったい、まさに、これらの界域は、何を縁として覚知されるのですか」と。

 

 「比丘よ、すなわち、この、光明の界域は、この界域は、暗黒を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、浄美の界域は、この界域は、浄美ならざるものを縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、形態を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、虚空無辺なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、識知無辺なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、無所有なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、表象と感覚の止滅の界域は、この界域は、止滅を縁として覚知されます」と。

 

 「尊き方よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象と感覚の止滅の界域は、尊き方よ、いったい、まさに、これらの界域は、どのような入定として至り得られるべきですか」と。

 

 「比丘よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、これらの界域は、表象による入定として至り得られるべきです。比丘よ、すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、形成〔作用〕の残余による入定として至り得られるべきです。比丘よ、すなわち、この、表象と感覚の止滅の界域は、この界域は、止滅による入定として至り得られるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 因縁を有するものの経

 

96. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、欲望の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。憎悪の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。悩害の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、欲望の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。憎悪の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。悩害の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。比丘たちよ、欲望の界域を縁として、欲望の表象が生起し、欲望の表象を縁として、欲望の思惟が生起し、欲望の思惟を縁として、欲望の欲〔の思い〕が生起し、欲望の欲〔の思い〕を縁として、欲望の苦悶が生起し、欲望の苦悶を縁として、欲望の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、欲望の遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、憎悪の界域を縁として、憎悪の表象が生起し、憎悪の表象を縁として、憎悪の思惟が……略……憎悪の欲〔の思い〕が……憎悪の苦悶が……憎悪の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、憎悪の遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、悩害の界域を縁として、悩害の表象が生起し、悩害の表象を縁として、悩害の思惟が……略……悩害の欲〔の思い〕が……悩害の苦悶が……悩害の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、悩害の遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明(たいまつ)を、乾燥した草原に置くとして、まさしく、すみやかに、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、もし、消し止めないなら、比丘たちよ、まさに、このように、それらの、草や木片に依拠する命あるものたちは、彼らは、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が──〔心に〕生起した、不正に至った表象を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせないなら、彼は、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っています。

 

 比丘たちよ、離欲の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。憎悪なき思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。悩害なき思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、離欲の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。憎悪なき思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。悩害なき思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。比丘たちよ、離欲の界域を縁として、離欲の表象が生起し、離欲の表象を縁として、離欲の思惟が生起し、離欲の思惟を縁として、離欲の欲〔の思い〕が生起し、離欲の欲〔の思い〕を縁として、離欲の苦悶が生起し、離欲の苦悶を縁として、離欲の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、離欲の遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、憎悪なき界域を縁として、憎悪なき表象が生起し、憎悪なき表象を縁として、憎悪なき思惟が……略……憎悪なき欲〔の思い〕が……憎悪なき苦悶が……憎悪なき遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、憎悪なき遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、悩害なき界域を縁として、悩害なき表象が生起し、悩害なき表象を縁として、悩害なき思惟が……略……悩害なき欲〔の思い〕が……悩害なき苦悶が……悩害なき遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、悩害なき遍き探し求め〔の対象〕を遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明を、乾燥した草原に置くとして、〔まさに〕その、この〔火〕を、まさしく、すみやかに、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、消し止めるなら、比丘たちよ、まさに、このように、それらの、草や木片に依拠する命あるものたちは、彼らは、不幸と災厄を惹起しないでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が──〔心に〕生起した、不正に至った表象を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせるなら、彼は、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)が待っています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 煉瓦作りの居住所の経

 

97. 或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに、告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、界域を縁として、表象が生起し、見解が生起し、思考が生起します。このように説かれたとき、尊者カッチャーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、この、正等覚者ならざる者たちについて、『正等覚者たちである』という見解は、尊き方よ、いったい、まさに、この見解は、何を縁として覚知されるのですか」と。

 

 「カッチャーナよ、大いなるは、まさに、この界域です──すなわち、この、無明の界域です。カッチャーナよ、下劣なる界域を縁として、下劣なる表象が生起し、下劣なる見解が〔生起し〕、下劣なる思考が〔生起し〕、下劣なる思欲が〔生起し〕、下劣なる切望が〔生起し〕、下劣なる切願が〔生起し〕、下劣なる人が〔生起し〕、下劣なる言葉が〔生起し〕、下劣なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、下劣なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 カッチャーナよ、中等なる界域を縁として、中等なる表象が生起し、中等なる見解が〔生起し〕、中等なる思考が〔生起し〕、中等なる思欲が〔生起し〕、中等なる切望が〔生起し〕、中等なる切願が〔生起し〕、中等なる人が〔生起し〕、中等なる言葉が〔生起し〕、中等なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、中等なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 カッチャーナよ、精妙なる界域を縁として、精妙なる表象が生起し、精妙なる見解が〔生起し〕、精妙なる思考が〔生起し〕、精妙なる思欲が〔生起し〕、精妙なる切望が〔生起し〕、精妙なる切願が〔生起し〕、精妙なる人が〔生起し〕、精妙なる言葉が〔生起し〕、精妙なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、精妙なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 下劣なる信念ある者の経

 

98. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 歩行〔瞑想〕の経

 

99. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者マハー・モッガッラーナもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者マハー・カッサパもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者アヌルッダもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者プンナ・マンターニプッタもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者ウパーリもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者アーナンダもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、デーヴァダッタもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。サーリプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、大いなる智慧ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。モッガッラーナが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、大いなる神通ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。カッサパが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、払拭を説く者(頭陀行者)たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。アヌルッダが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしていているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、天眼ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。プンナ・マンターニプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしていているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、法(教え)の講話者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。ウパーリが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、律の保持者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。アーナンダが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、多聞の者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。デーヴァダッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、悪しき欲求ある者たちです。

 

 比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 詩偈を有するものの経

 

100. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞が糞と合流し合体するように、尿が尿と合流し合体するように、唾液が唾液と合流し合体するように、膿が膿と合流し合体するように、血が血と合流し合体するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。過去の時にもまた……略……。未来の時にもまた、まさに……略……。今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、乳が乳と合流し合体するように、油が油と合流し合体するように、酥が酥と合流し合体するように、蜜が蜜と合流し合体するように、糖が糖と合流し合体するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに……未来の時にもまた、まさに……今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔他者との〕交わりから、〔欲の〕林の下生えが生じ、〔他者との〕交わりなきによって、〔それは〕断たれる。小さな木片に登っても、すなわち、大海においては沈み行くように──

 

 このように、怠惰の者を頼りにして、善き生ある者もまた沈み行く。それゆえに、彼を遍く避けるがよい──精進に劣る怠惰の者を。

 

 〔世俗から〕遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むがよい」と。〔以上が〕第六となる。(※)

 

※ PTS版により Chaṭṭhaṃ を補う。

 

7. 信なき者の合流の経

 

101. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕()なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎め()なき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体しました。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体しました。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体しました。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体しました。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体しました。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体しました。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体するでしょう。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体するでしょう。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体するでしょう。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体するでしょう。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体するでしょう。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体するでしょう。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに……略……未来の時にもまた、まさに……略……今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。……略……。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 信なき者を根元とするものの経

 

102. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。……略……。比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。……略……。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。(1)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……(第一番目のように詳知されるべきである)。(2)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(3)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(4)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(5)〔以上が〕第八となる。

 

9. 恥〔の思い〕なき者を根元とするものの経

 

103. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(2)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(3)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(4)〔以上が〕第九となる。

 

10. 〔良心の〕咎めなき者を根元とするものの経

 

104. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(2)

 

 「……。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(3)〔以上が〕第十となる。

 

11. 少聞の者を根元とするものの経

 

105. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(2)〔以上が〕第十一となる。

 

12. 怠惰の者を根元とするものの経

 

106. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。〔以上が〕第十二となる。

 

〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これらの七つのものとして、そして、因縁を有するもの、さらに、煉瓦作りの居住所とともに、下劣なる信念、歩行〔瞑想〕、詩偈を有するもの、第七のものとして、信なき者があり──

 

 信なき者を根元とする五つのもの、恥〔の思い〕なき者を根元とする四つのもの、〔良心の〕咎めなき者を根元とする三つのもの、そして、少聞の者によって、二つのものが〔説かれ〕──

 

 怠惰の者が、一なるものとして説かれ、三つの五なるものとして、〔合わせて十五の〕経典があり、〔全て合わせて〕二十二の経が説かれ、第二の章と呼ばれる」と。

 

3. 行為の道の章

 

1. 〔心が〕定められていない者の経

 

107. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。〔心が〕定められていない者たちは、〔心が〕定められていない者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。〔心が〕定められた者たちは、〔心が〕定められた者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 劣戒の者の経

 

108. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。劣戒の者たちは、劣戒の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。戒ある者たちは、戒ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 五つの学びの境処の経

 

109. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは、与えられていないものを取る者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちと共に合流し合体します。虚偽を説く者たちは、虚偽を説く者たちと共に合流し合体します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは、命あるものを殺すことから離間した者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取ることから離間した者たちは、与えられていないものを取ることから離間した者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちと共に合流し合体します。虚偽を説くことから離間した者たちは、虚偽を説くことから離間した者たちと共に合流し合体します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 七つの行為の道の経

 

110. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは、与えられていないものを取る者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちと共に合流し合体します。虚偽を説く者たちは、虚偽を説く者たちと共に合流し合体します。中傷の言葉ある者たちは、中傷の言葉ある者たちと共に合流し合体します。粗暴な言葉ある者たちは、粗暴な言葉ある者たちと共に合流し合体します。雑駁な虚論ある者たちは、雑駁な虚論ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは……略……。与えられていないものを取ることから離間した者たちは……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは……。虚偽を説くことから離間した者たちは……。中傷の言葉から離間した者たちは、中傷の言葉から離間した者たちと共に合流し合体します。粗暴な言葉から離間した者たちは、粗暴な言葉から離間した者たちと共に合流し合体します。雑駁な虚論から離間した者たちは、雑駁な虚論から離間した者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 十の行為の道の経

 

111. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは……略……。欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちは……。虚偽を説く者たちは……。中傷の言葉ある者たちは……。粗暴な言葉ある者たちは……。雑駁な虚論ある者たちは、雑駁な虚論ある者たちと共に合流し合体します。強欲〔の思い〕ある者たちは、強欲〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。憎悪している心の者たちは、憎悪している心の者たちと共に合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは……略……。与えられていないものを取ることから離間した者たちは……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは……。虚偽を説くことから離間した者たちは……。中傷の言葉から……。粗暴な言葉から……。雑駁な虚論から離間した者たちは、雑駁な虚論から離間した者たちと共に合流し合体します。強欲〔の思い〕なき者たちは、強欲〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。憎悪していない心の者たちは、憎悪していない心の者たちと共に合流し合体します。正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 八つの支分あるものの経

 

112. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。誤った思惟ある者たちは……略……。誤った言葉ある者たちは……。誤った行業ある者たちは……。誤った生き方ある者たちは……。誤った努力ある者たちは……。誤った気づきある者たちは……。誤った禅定ある者たちは、誤った禅定ある者たちと共に合流し合体します。正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します。正しい思惟ある者たちは……略……。正しい言葉ある者たちは……。正しい行業ある者たちは……。正しい生き方ある者たちは……。正しい努力ある者たちは……。正しい気づきある者たちは……。正しい禅定ある者たちは、正しい禅定ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 十の支分あるものの経

 

113. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。誤った思惟ある者たちは……略……。誤った言葉ある者たちは……。誤った行業ある者たちは……。誤った生き方ある者たちは……。誤った努力ある者たちは……。誤った気づきある者たちは……。誤った禅定ある者たちは、誤った禅定ある者たちと共に合流し合体します。誤った知恵ある者たちは、誤った知恵ある者たちと共に合流し合体します。誤った解脱ある者たちは、誤った解脱ある者たちと共に合流し合体します。

 

 正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します。正しい思惟ある者たちは……略……。正しい言葉ある者たちは……。正しい行業ある者たちは……。正しい生き方ある者たちは……。正しい努力ある者たちは……。正しい気づきある者たちは……。正しい禅定ある者たちは……。正しい知恵ある者たちは、正しい知恵ある者たちと共に合流し合体します。正しい解脱ある者たちは、正しい解脱ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第七となる。

 

 七つの経典のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔心が〕定められていない者、劣戒の者、そして、五つの学びの境処、七つの行為の道が説かれ、そして、十の行為の道とともに、第六のものとして、八つの支分あるものが説かれ、さらに、第七のものとして、十の支分あるものとともに、〔章となる〕」と。

 

 行為の道の章が第三となる。

 

4. 第四の章

 

1. 四つの界域の経

 

114. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの界域があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「正覚より過去において」の経

 

115. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、地の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。水の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。火の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。風の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、地の界域を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、地の界域の悦楽である。すなわち、地の界域が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、地の界域の危険である。それが、地の界域において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、地の界域の出離である。それが、水の界域を縁として……略……。それが、火の界域を縁として……略……。それが、風の界域を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、風の界域の悦楽である。すなわち、風の界域が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、風の界域の危険である。それが、風の界域において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、風の界域の出離である』〔と〕。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「歩みました」の経

 

116. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、地の界域の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、地の界域の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、地の界域の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

 比丘たちよ、わたしは、水の界域の……略……。比丘たちよ、わたしは、火の界域の……。比丘たちよ、わたしは、風の界域の悦楽を遍く探し求めるために〔道を〕歩みました。それが、風の界域の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、風の界域の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、風の界域の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、風の界域の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、風の界域の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「もし、このことがないなら」の経

 

117. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、もし、このことが、水の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……略……。比丘たちよ、もし、このことが、火の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……略……。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、これらの有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 一方的な苦痛の経

 

118. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、もし、このことが、地の界域が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが地の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域において悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし貪染します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、水の界域が……略……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、火の界域が……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、風の界域が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが風の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域において悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし貪染します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、地の界域が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが地の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域において苦痛が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし厭離します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、水の界域が……略……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、火の界域が……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、風の界域が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが風の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域において苦痛が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし厭離します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 愉悦の経

 

119. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、彼が、地の界域に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、水の界域に愉悦するなら……略……。彼が、火の界域に愉悦するなら……。彼が、風の界域に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼が、地の界域に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、水の界域に愉悦しないなら……略……。彼が、火の界域に愉悦しないなら……。彼が、風の界域に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 生起の経

 

120. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それが、地の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、水の界域の……略……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。

 

 比丘たちよ、しかしながら、それが、まさに、地の界域の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、水の界域の……略……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 沙門や婆羅門たちの経

 

121. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

122. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

123. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、地の界域を覚知せず、地の界域の集起を覚知せず、地の界域の止滅を覚知せず、地の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……水の界域を覚知せず……火の界域を覚知せず……風の界域を覚知せず、風の界域の集起を覚知せず、風の界域の止滅を覚知せず、風の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、地の界域を覚知し、地の界域の集起を覚知し、地の界域の止滅を覚知し、地の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら……略……水の界域を覚知し……火の界域を覚知し……風の界域を覚知し、風の界域の集起を覚知し、風の界域の止滅を覚知し、風の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第四の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つのもの、『過去において』があり、『歩みました』があり、そして、『もし、このことがないなら』があり、さらに、苦痛とともに、そして、愉悦、生起、三つの沙門や婆羅門たちがあり、〔章となる〕」と。

 

 界域に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

4(15). 始源が思い考えられないものに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 草と木の経

 

124. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、すなわち、この、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)にある草と木と枝と葉を、それを断ち切って、一所に集めて、それぞれが四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の小片と為して、『これは、わたしの母である』『これは、わたしの、その母の母である』と置き据えるとします。比丘たちよ、その人の母の母たちは、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、この、ジャンブ洲にある草と木と枝と葉は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 地の経

 

125. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、この大いなる地を、それぞれが棗〔の実〕の核ほどの土団子と為して、『これは、わたしの父である』『これは、わたしの、その父の父である』と置き据えるとします。比丘たちよ、その人の父の父たちは、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、この大いなる地は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 涙の経

 

126. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、母の死を経験しました。〔まさに〕その、あなたたちが(※)、母の死を経験していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、父の死を経験しました。……略……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、兄弟の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、姉妹の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、息子の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、娘の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、親族の災厄を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、財物の災厄を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、病の災厄を経験しました。〔まさに〕その、あなたたちが、病の災厄を経験していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

※ テキストには vā とあるが、以下に続く平行箇所により vo と読む(PTS版は、この箇所を省略)。

 

4. 乳の経

 

127. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 山の経

 

128. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)〔の量〕となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、カッパは。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、大いなる巌(いわお)の山があり、広さとしては、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)となり、幅としては、〔一〕ヨージャナとなり、高さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、断絶なく、空洞なく、一なる厚きものとしてあるとします。〔まさに〕その、この〔山〕を、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、カーシ産の衣で、一回、一回、擦(さす)るとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、大いなる巌の山は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、カッパは、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、このように、長いのです──カッパは。比丘よ、まさに、このように、長い、諸々のカッパがあるなか、一つのカッパが輪廻されたのではありません。一つの百カッパが輪廻されたのではありません。一つの千カッパが輪廻されたのではありません。一つの百千のカッパが輪廻されたのではありません。それは、何を因とするのですか。比丘よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘よ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 芥子粒の経

 

129. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、カッパ〔の量〕となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、カッパは。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と……略……あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、鉄の城市があり、広さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、幅としては、〔一〕ヨージャナとなり、高さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、諸々の芥子粒を団子に固めたものが満ちているとします。そこから、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、一つ一つの芥子粒を取り出すとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、大いなる芥子粒の集積物は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、カッパは、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、このように、長いのです──カッパは。比丘よ、まさに、このように、長い、諸々のカッパがあるなか、一つのカッパが輪廻されたのではありません。一つの百カッパが輪廻されたのではありません。一つの千カッパが輪廻されたのではありません。一つの百千のカッパが輪廻されたのではありません。それは、何を因とするのですか。比丘よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 弟子たちの経

 

130. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけ多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなったのですか」と。「比丘たちよ、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘たちよ、できます」と、世尊は言いました。「比丘たちよ、ここに、百年の寿命ある者たちであり、百年の生命ある者たちである、四者の弟子たちが存するとします。彼らが、毎日、毎日、百千のカッパを〔随念し〕、百千のカッパを随念するとします。比丘たちよ、彼らによって、まさしく、〔いまだ〕随念されていない、諸々のカッパが存するでしょう。そこで、まさに、それらの、百年の寿命ある者たちであり、百年の生命ある者たちである、四者の弟子たちは、百年が経過して、命を終えるでしょう。比丘たちよ、このように、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ガンガーの経

 

131. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どれだけ多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなったのですか」と。「婆羅門よ、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、喩えを為すことはできますか」と。「婆羅門よ、できます」と、世尊は言いました。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、このガンガー川が、そして、そこから発出し、さらに、そこにおいて、大いなる海に注ぎ入る、この中途にある、その砂は、それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の砂となる』と、〔計測できません〕。婆羅門よ、それよりも、まさに、より多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。婆羅門よ、このように、長夜にわたり、まさに、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。婆羅門よ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 このように説かれたとき、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 棒の経

 

132. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、宙空高く投げられた棒が、一度はまた、根元から落ち、一度はまた、中間から落ち、一度はまた、先端から落ちるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明の妨害ある有情たちは、渇愛の束縛ある〔有情たちは〕、流転し輪廻しながら、一度はまた、この世から他の世に赴き、一度はまた、他の世からこの世に赴きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 人の経

 

133. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、一者の人が、カッパのあいだ、流転し輪廻しているとして、〔その〕骨の鎖は、〔その〕骨の塊は、〔その〕骨の集積物は、たとえば、この、ヴェープッラ山のように、このように、大いなるものとして存するでしょう。それで、もし、〔その骨を〕集める者が存するとして、しかしながら、運び込まれた〔骨〕が消えて無くなることはないでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一なるカッパのあいだ〔輪廻する〕一者の人の骨の積量は、『山に等しき集積物として存するであろう』と、偉大なる聖賢によって説かれた。

 

 また、まさに、このことが告げ知らされた。それは、『大いなるヴェープッラ山〔に等しきもの〕となり、マガダ〔国〕のギリッバジャ(王舎城の別名)にあるギッジャクータ〔山〕を超えるものとなる』〔と〕。

 

 しかしながら、すなわち、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を──苦しみを、苦しみの生起を、そして、苦しみの超越を、さらに、苦しみの寂止に至る、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を──正しい智慧(慧・般若)によって見ることから──

 

 その人は、最高でも七回、〔生と死の輪廻を〕流転して〔そののち〕、苦しみの終極を為す者と成る──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽あることから」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、草と木、地、涙、そして、乳、山、芥子粒、弟子たち、ガンガー、そして、棒があり、さらに、人とともに、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. 悪しき境遇の者の経

 

134. 世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、すなわち、悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した者を、〔あなたたちが〕見るなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『この長時にわたり、わたしたちもまた、このような形態〔の境遇〕を経験したのだ』と。それは、何を因とするのですか。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 安楽の者の経

 

135. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、すなわち、安楽の者にして極めて福楽なる者を、〔あなたたちが〕見るなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『この長時にわたり、わたしたちもまた、このような形態〔の境遇〕を経験したのだ』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 三十ばかりの者たちの経

 

136. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちが、全てが林にある者たちであり、全てが〔行乞の〕施食の者たちであり、全てが糞掃衣の者たちであり、全てが三つの衣料の者たちであるも、全てが束縛を有する者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちは、全てが林にある者たちであり、全てが〔行乞の〕施食の者たちであり、全てが糞掃衣の者たちであり、全てが三つの衣料の者たちであるも、全てが束縛を有する者たちである。それなら、さあ、わたしは、すなわち、まさしく、この坐において、彼らの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するように、そのように、これらの者たちに、法(教え)を説示するのだ」と。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、牛として〔世に〕存しながら、牛たる生類として、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、水牛として〔世に〕存しながら、水牛たる生類として、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です……略……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、雄牛として〔世に〕存しながら、雄牛たる生類として……略……山羊として〔世に〕存しながら、山羊たる生類として……鹿として〔世に〕存しながら、鹿たる生類として……鶏として〔世に〕存しながら、鶏たる生類として……豚として〔世に〕存しながら、豚たる生類として……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『村を襲う盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『障害ある盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『他者の妻と交わる盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 母の経

 

137. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に母と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 父の経

 

138. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に父と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 兄弟の経

 

139. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に兄弟と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 姉妹の経

 

140. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に姉妹と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 息子の経

 

141. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に息子と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 娘の経

 

142. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に娘と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ヴェープッラ山の経

 

143. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『パーチーナヴァンサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『ティヴァラ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、ティヴァラなる人間たちには、四万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、ティヴァラなる人間たちは、パーチーナヴァンサ山に、四日で登り、四日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ヴィドゥラとサンジーヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『ヴァンカカ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『ローヒタッサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、ローヒタッサなる人間たちには、三万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、ローヒタッサなる人間たちは、ヴァンカカ山に、三日で登り、三日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、ビッヨーサとウッタラという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『スパッサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『スッピヤ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、スッピヤなる人間たちには、二万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、スッピヤなる人間たちは、スパッサ山に、二日で登り、二日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、ティッサとバーラドヴァージャという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。……略……解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、まさに、今現在、このヴェープッラ山には、まさしく、『ヴェープッラ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、今現在、これらの人間たちには、まさしく、『マーガダカ(マガダの者)』という呼称が生起しました。比丘たちよ、マーガダカなる人間たちの寿命の量は、少なく、僅かにして、軽きものであり、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。比丘たちよ、マーガダカなる人間たちは、ヴェープッラ山に、寸時で登り、寸時で降ります。比丘たちよ、また、まさに、今現在、わたしは、世に生起した阿羅漢にして正等覚者です。比丘たちよ、また、まさに、わたしには、サーリプッタとモッガッラーナという名の、組なる弟子があります──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、すなわち、まさしく、そして、この山の、この呼称が消没し、かつまた、これらの人間たちが命を終え、さらに、わたしが完全なる涅槃に到達することになる、その時が有るでしょう。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ティヴァラたちには、『パーチーナヴァンサ〔山〕』〔という呼称〕があり、ローヒタッサたちには、『ヴァンカカ〔山〕』〔という呼称〕があり、スッピヤたちには、『スパッサ〔山〕』という〔呼称〕があり、そして、マーガダカたちには、『ヴェープッラ〔山〕』〔という呼称〕がある。

 

 無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪しき境遇の者、まさしく、そして、安楽の者、三十〔ばかりの者たち〕、母があり、そして、父とともに、兄弟、姉妹、さらに、息子、娘、ヴェープッラ山があり、〔章となる〕」と。

 

 始源が思い考えられないものに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

5(16). カッサパに相応するもの

 

1. 満ち足りている者の経

 

144. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、衣料を得なくても、思い悩みません。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩みません。さらに、〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、臥坐具を得なくても、思い悩みません。さらに、臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩みません。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『いかなる衣料によっても満ち足りている者たちとして、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有るのだ。さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こさないのだ。そして、衣料を得なくても、思い悩まないのだ。さらに、衣料を得ても、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するのだ。(このように、全てが為されるべきである。)

 

 いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者たちとして……略……。いかなる臥坐所によっても満ち足りている者たちとして……略……。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者たちとして、そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有るのだ。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こさないのだ。そして、病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩まないのだ。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと同等の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 〔良心の〕咎めなき者の経

 

145. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者サーリプッタは、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、まさに、この〔言葉〕が説かれます。『熱情なき者は、〔良心の〕咎めなき者は、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達の可能なき者である。しかしながら、まさに、熱情ある者は、〔良心の〕咎めある者は、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者である』と。

 

 友よ、いったい、まさに、どのようなことから、熱情なき者と成り、〔良心の〕咎めなき者と〔成り〕、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能なき者なのですか。また、そして、どのようなことから、熱情ある者と成り、〔良心の〕咎めある者と〔成り〕、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者なのですか」と。「友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為しません。友よ、このように、まさに、熱情なき者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔良心の〕咎めなき者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めません。友よ、このように、まさに、〔良心の〕咎めなき者と成ります。友よ、このように、まさに、熱情なき者は、〔良心の〕咎めなき者は、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能なき者です。

 

 友よ、では、どのように、熱情ある者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為し、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為し、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が……略……熱勤を為します。友よ、このように、まさに、熱情ある者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔良心の〕咎めある者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めます。友よ、このように、まさに、〔良心の〕咎めある者と成ります。友よ、このように、まさに、熱情ある者は、〔良心の〕咎めある者は、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 月の如き者たちの経

 

146. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、〔あなたたちは〕月の如き者たちとして、家々に近づいて行きなさい──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者たちとして、家々においては尊大ならざる者たちとして。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、身体を退去して、心を退去して、あるいは、古井戸を検分するように、あるいは、山の凹凸を〔検分するように〕、あるいは、川の難所を〔検分するように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔あなたたちは〕月の如き者たちとして、家々に近づいて行きなさい──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者たちとして、家々においては尊大ならざる者たちとして。

 

 比丘たちよ、カッサパは、月の如き者として、家々に近づいて行きます──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者として、家々においては尊大ならざる者として。比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘が、家々に近づいて行くに値するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、虚空において、手を動かしました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この手が、虚空において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘が家々に近づいて行っていると、〔彼の〕心は、家々において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されません。『利得を欲する者たちは、〔利得を〕得よ。功徳を欲する者たちは、諸々の功徳を作り為せ』と。すなわち、自らの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成るように〕、このように、他者たちの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成ります〕。比丘たちよ、このような形態の比丘は、まさに、家々に近づいて行くに値します。

 

 比丘たちよ、カッサパが家々に近づいて行っていると、〔彼の〕心は、家々において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されません。『利得を欲する者たちは、〔利得を〕得よ。功徳を欲する者たちは、諸々の功徳を作り為せ』と。すなわち、自らの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成るように〕、このように、他者たちの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘には、完全なる清浄ならざる法(教え)の説示が有り、どのような形態の比丘には、完全なる清浄の法(教え)の説示が有るのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、清信するべきである。さらに、清信した者たちとして、わたしに、清信の行相を作り為すべきである』と、比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘には、完全なる清浄ならざる法(教え)の説示が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、了知するべきである。また、さらに、了知して、そのとおりそのままに実践するべきである』と、かくのごとく、法(教え)の善き法(教え)たることを縁として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、慈悲〔の思い〕を縁として、憐憫〔の思い〕を縁として、慈しみ〔の思い〕を抱いて、他者たちに、法(教え)を説示するなら、比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘には、完全なる清浄の法(教え)の説示が有ります。

 

 比丘たちよ、カッサパは、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、了知するべきである。また、さらに、了知して、そのとおりそのままに実践するべきである』と、かくのごとく、法(教え)の善き法(教え)たることを縁として、他者たちに、法(教え)を説示し、慈悲〔の思い〕を縁として、憐憫〔の思い〕を縁として、慈しみ〔の思い〕を抱いて、他者たちに、法(教え)を説示します。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと同等の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 家に近しく赴く者の経

 

147. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘が、家に近しく赴く者と成るに値するのですか。どのような形態の比丘が、家に近しく赴く者と成るに値しないのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は……略……。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、このような心の者として、家々に近づいて行くなら、『わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行っている、その比丘に、〔人々が〕施さないなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。多くのものではなく、僅かなものを施すなら……略……。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら……略……。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘は、家に近しく赴く者と成るに値しません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、このような心の者として、家々に近づいて行くなら、『それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。他者の家々において、「わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に(※)施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない」〔と思い考えたところで〕』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行っている、その比丘に、〔人々が〕施さないなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。多くのものではなく、僅かなものを施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘は、家に近しく赴く者と成るに値します。

 

※ テキストには dīghaññeva とあるが、PTS版により sīghaññeva と読む。

 

 比丘たちよ、カッサパは、このような心の者として、家々に近づいて行きます。『それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。他者の家々において、「わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない」〔と思い考えたところで〕』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行っている、そのカッサパに、〔人々が〕施さないなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。多くのものではなく、僅かなものを施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと同等の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 老いた者の経

 

148. このように、わたしは聞きました。……略……。ラージャガハのヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、今や、あなたは、老いた者として〔世に〕存しています。そして、あなたにとって、これらの捨てられた麻布の糞掃衣は重い。カッサパよ、それゆえに、ここに、あなたは、まさしく、そして、諸々の家長の衣料を保持し、かつまた、諸々の招待〔食〕を受益し、さらに、わたしの現前において住みなさい」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、糞掃衣の者であり、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、三つの衣料の者であり、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、少なき欲求の者であり、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、満ち足りている者であり、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、遠離している者であり、さらに、遠離の栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です」と。

 

 「カッサパよ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者なのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です。そして、自己の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を正しく見ながら、さらに、後の人々を慈しみながら。まさしく、おそらく、まさに、後の人々は、随従する見解を惹起するでしょう。『すなわち、まさに、覚者に随覚した弟子たちとして〔世に〕有った、それらの者たちは、彼らは、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者たちとして、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちとして……略……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、糞掃衣の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、三つの衣料の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、少なき欲求の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、満ち足りている者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、遠離している者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、精進に励む者たちとして、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのだ』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、これらの二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です」と。

 

 「カッサパよ、善きかな、善きかな。カッサパよ、まさに、あなたは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者です。カッサパよ、それゆえに、ここに、あなたは、まさしく、そして、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持し、かつまた、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、林において住みなさい」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 教諭の経

 

149. ラージャガハのヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです。尊き方よ、ここに、わたしは、そして、アーナンダの共住者であるバンダという名の比丘が、さらに、アヌルッダの共住者であるアビジカという名の比丘が、互いに他を、所聞によって説き伏せているのを見ました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。

 

 そこで、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、そして、アーナンダの共住者であるバンダ比丘に、さらに、アヌルッダの共住者であるアビジカ比丘に、〔彼らに〕告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、互いに他を、所聞によって説き伏せるのですか。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、あなたたちは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、互いに他を、所聞によって説き伏せなさい。「比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか」』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、もし、まさに、あなたたちが、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しないのなら、愚人たちよ、そこで、それでは、どうして、あなたたちは、何を知りながら、何を見ながら、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者たちとして〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せるのですか。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちは、過誤を犯しました──あたかも、愚者たちであるかのように、あたかも、迷乱した者たちであるかのように、あたかも、智者ならざる者たちであるかのように。すなわち、わたしたちは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者として〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』と。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「比丘たちよ、たしかに、あなたたちは、過誤を犯しました──あたかも、愚者たちであるかのように、あたかも、迷乱した者たちであるかのように、あたかも、智者ならざる者たちであるかのように。すなわち、あなたたちは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者として〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたたちが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたたちの、その〔懺悔〕を受け容れます。比丘たちよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の教諭の経

 

150. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです。尊き方よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、黒分(月が欠ける期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 尊き方よ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『〔良心の〕咎めなき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『怠惰の人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『智慧浅き人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『忿激する人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『教諭者たる比丘たちが存在しない』とは、これは、遍き衰退です。

 

 尊き方よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、白分(月が満ちる期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 尊き方よ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『〔良心の〕咎めある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『精進に励む人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『智慧ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『忿激しない人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『教諭者たる比丘たちが存在する』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。

 

 「カッサパよ、善きかな、善きかな。カッサパよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、黒分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても……略……高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。カッサパよ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。カッサパよ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』……略……『〔良心の〕咎めなき人士たる人』……『怠惰の人士たる人』……『智慧浅き人士たる人』……『忿激する人士たる人』……。カッサパよ、『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。カッサパよ、『教諭者たる比丘たちが存在しない』とは、これは、遍き衰退です。

 

 カッサパよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、白分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 カッサパよ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。カッサパよ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』……略……『〔良心の〕咎めある人士たる人』……『精進に励む人士たる人』……『智慧ある人士たる人』……『忿激しない人士たる人』……。カッサパよ、『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。カッサパよ、『教諭者たる比丘たちが存在する』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第三の教諭の経

 

151. ラージャガハのカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです」と。「カッサパよ、また、まさに、そのようにあるも、過去において、長老の比丘たちは、まさしく、そして、林にある者たちとして、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちとして、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、糞掃衣の者たちとして、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、三つの衣料の者たちとして、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、少なき欲求の者たちとして、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、満ち足りている者たちとして、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、遠離している者たちとして、さらに、遠離の栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちとして、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、精進に励む者たちとして、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのです。

 

 そこで、すなわち、比丘が、まさしく、そして、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者として、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、糞掃衣の者として、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、三つの衣料の者として、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、少なき欲求の者として、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、満ち足りている者として、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、遠離している者として、さらに、遠離の栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者として、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者として、まさしく、そして、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招きます。『比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、学びを欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ』と。

 

 カッサパよ、そこで、新参の比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、その比丘が、まさしく、そして、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者として……略……まさしく、そして、糞掃衣の者として……まさしく、そして、三つの衣料の者として……まさしく、そして、少なき欲求の者として……まさしく、そして、満ち足りている者として……まさしく、そして、遠離している者として……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者として……まさしく、そして、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招く。「比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、学びを欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ」』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 カッサパよ、いっぽう、今現在、長老の比丘たちは、まさしく、そして、林にある者たちではなく、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちではなく、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、糞掃衣の者たちではなく、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、三つの衣料の者たちではなく、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、少なき欲求の者たちではなく、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、満ち足りている者たちではなく、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、遠離している者たちではなく、さらに、遠離の栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちではなく、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、精進に励む者たちではなく、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちではありません。

 

 そこで、すなわち、比丘が、〔人々に〕知られた者であり、盛名ある者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招きます。『比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、梵行を共にする者を欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ』と。

 

 カッサパよ、そこで、新参の比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、その比丘が、〔人々に〕知られた者であり、盛名ある者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招く。「比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、梵行を共にする者を欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ」』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。カッサパよ、まさに、すなわち、そのことを、『梵行者たちは、梵行者の災禍によって悩まされ、梵行者たちは、梵行者の切望によって切望する者たちとなる』と、正しく説きつつ説くなら、カッサパよ、今現在、そのことを、『梵行者たちは、梵行者の災禍によって悩まされ、梵行者たちは、梵行者の切望によって切望する者たちとなる』と、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 瞑想と神知の経

 

152. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天耳の界域によって……略……遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 在所の経

 

153. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッサパは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、アーナンダよ、赴きなさい。あなたは、多くの義務があります。あなたは、多くの用事があります」と。再度また、尊者アーナンダは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、アーナンダよ、赴きなさい。あなたは、多くの義務があります。あなたは、多くの用事があります」と。三度また、尊者アーナンダは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者アーナンダを随伴の沙門として、或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、大勢の比丘尼たちが、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、尊者マハー・カッサパは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、それらの比丘尼たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、トゥッラティッサー比丘尼は、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。「また、どうして、尊貴なるマハー・カッサパは、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダの面前で、法(教え)を語るべきと思い考えるのでしょう。それは、たとえば、また、まさに、針商人が、針職人の現前において、針を売るべきと思い考えるかのように、まさしく、このように、尊貴なるマハー・カッサパは、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダの面前で、法(教え)を語るべきと思い考えます」と。

 

 まさに、尊者マハー・カッサパは、トゥッラティッサー比丘尼が語っている、この言葉を耳にしました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、わたしが、針商人なのでしょうか、あなたが、針職人なのでしょうか、それとも、わたしが、針職人なのでしょうか、あなたが、針商人なのでしょうか」と。「尊き方よ、カッサパよ、お許しください。女性は愚者なのです」と。「友よ、アーナンダよ、あなたは待ちなさい。僧団が、あなたのことを、より以上、近しく注視することがあってはいけません(過度の注目があってはならない)。

 

 友よ、アーナンダよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられましたか。『比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、アーナンダもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、まさに、わたしは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられました。『比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます』と。……略……。(九つの順次の住の入定の〔詳細が〕、さらに、五つの神知の詳細が、このように知られるべきである。)

 

 友よ、アーナンダよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられましたか。『比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、アーナンダもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、まさに、わたしは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられました。『比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。

 

 友よ、或る者が、わたしの六つの神知を、覆い隠すべきと思い考えるなら、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の象を、あるいは、七ラタナ半の〔象を〕、ターラ〔樹〕の葉で覆い隠すべきと思い考えるでしょう」と。

 

 また、そして、トゥッラティッサー比丘尼は、梵行から死滅した、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

11. 衣料の経

 

154. 或る時のことです。尊者マハー・カッサパは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、ダッキナーギリにおいて、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダの、三十ばかりの共住者の比丘たちが、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者(還俗者)たちと成ります──多くのところとして、年若く有る者たちです。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ダッキナーギリにおいて、喜びのままに、遊行〔の旅〕を歩んで、ラージャガハのヴェール林のカランダカ・ニヴァーパのあるところに、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、尊者マハー・カッサパは、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どれだけの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されたのですか」と。

 

 「尊き方よ、カッサパよ、まさに、三つの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されました──極めて〔心を〕惑わす人たちの制御のためと博愛なる比丘たちの平穏の住のために、悪しき欲求ある者たちが徒党を組んで僧団を分裂させることがあってはならないように、さらに、家々への憐憫〔の思い〕のために。尊き方よ、カッサパよ、まさに、これらの三つの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されました」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、そこで、それでは、どうして、あなたは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちである、これらの新参の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩むのですか。思うに、〔あなたは〕作物を殲滅する〔道〕を歩むのです。思うに、〔あなたは〕家々を害障する〔道〕を歩むのです。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの衆は破損します。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの新人たちは崩壊します。まさしく、この年若き者は、量を了知しませんでした」と。

 

 「尊き方よ、カッサパよ、たとえ、わたしの頭に諸々の白髪が生えたとして、そこで、また、しかしながら、今日もまた、わたしたちは、尊者マハー・カッサパの少年向けのお説教から解き放たれません」と。「友よ、アーナンダよ、また、なぜなら、そのように、あなたは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちである、これらの新参の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩むからです。思うに、〔あなたは〕作物を殲滅する〔道〕を歩むからです。思うに、〔あなたは〕家々を害障する〔道〕を歩むからです。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの衆は破損します。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの新人たちは崩壊します。まさしく、この年若き者は、量を了知しませんでした」と。

 

 まさに、トゥッラナンダー比丘尼は、「どうやら、尊貴なるマハー・カッサパによって、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダが、少年向けのお説教で指弾されたらしい」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、トゥッラナンダー比丘尼は、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。「また、どうして、尊貴なるマハー・カッサパは、〔教えを〕他にする異教の過去ある者として〔世に〕存しつつ、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダを、少年向けのお説教で指弾するべきと思い考えるのでしょう」と。まさに、尊者マハー・カッサパは、トゥッラナンダー比丘尼が語っている、この言葉を耳にしました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、たしかに、トゥッラナンダー比丘尼によって、無理やり、審慮なき言葉が語られました。友よ、すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家したのちは、阿羅漢にして正等覚者たる世尊より、彼より、他に、他の者を、教師として指定することを(※)、〔わたしは〕証知しません(記憶しない)。友よ、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、諸々の布地の断片からなる大衣を作らせて、すなわち、世における阿羅漢たちである、彼らを〔師父に〕指定して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。

 

※ テキストには uddisitā とあるが、PTS版により uddisituṃ と読む。

 

 〔まさに〕その〔わたし〕は、このように出家者として〔世に〕存しながら、旅の道を行く者として、かつまた、ラージャガハの、かつまた、ナーランダーの、それぞれの中途にあるバフプッタ塔廟において、坐っている世尊を見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『そして、まさに、わたしが、教師を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである。かつまた、まさに、わたしが、善き至達者を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである。さらに、まさに、わたしが、正等覚者を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである』と。友よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その場において、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています。尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています』と。友よ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『カッサパよ、すなわち、まさに、このように、一切の心を具備した弟子を、まさしく、知らずにいながら、「〔わたしは〕知る」と説くなら、まさしく、見ずにいながら、「〔わたしは〕見る」と説くなら、彼の頭もまた打ち砕かれるでしょう。カッサパよ、また、まさに、わたしは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と説き、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と説きます。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「強きものとして、わたしに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎め(慚愧)が現起するところと成るのだ──長老の者たちにたいし、新参の者たちにたいし、中堅の者たちにたいし」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「それが何であれ、善なるものを伴った法(教え)を聞くなら、その全てを、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くのだ」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「そして、わたしの身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)は、快楽(安楽)を共具したものとしてあり、衰退しないのだ」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです』と。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしを、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。友よ、まさに、わたしは、まさしく、七日のあいだ、相克を有する者として、国人による〔行乞の〕食を受けました。第八〔日〕に、了知が生起しました。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊は、道から入り込んで、或るどこかの木の根元に近づいて行きました。友よ、そこで、まさに、わたしは、諸々の布地の断片からなる大衣を四重に設けて、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、ここに坐ってください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう』と。友よ、まさに、世尊は、設けられた坐に坐りました。友よ、坐って、世尊は、まさに、わたしに、こう言いました。『カッサパよ、まさに、あなたの、この、諸々の布地の断片からなる大衣は柔らかい』と。『尊き方よ、世尊は、わたしの、諸々の布地の断片からなる大衣を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』と。『カッサパよ、いっぽう、あなたは、わたしの、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持することになります』と。『尊き方よ、わたしは、世尊の、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持します』と。友よ、それで、まさに、わたしは、諸々の布地の断片からなる大衣を、世尊に委ねました。いっぽう、わたしは、世尊の、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を収めました。

 

 友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣が納受された者である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、わたしのこととして、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣が納受された者である』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 友よ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて……略……。(九つの順次の住の入定の〔詳細が〕、さらに、五つの神知の詳細が、このように知られるべきである。)

 

 友よ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。友よ、或る者が、わたしの六つの神知を、覆い隠すべきと思い考えるなら、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の象を、あるいは、七ラタナ半の〔象を〕、ターラ〔樹〕の葉で覆い隠すべきと思い考えるでしょう」と。

 

 また、そして、トゥッラナンダー比丘尼は、梵行から死滅した、ということです。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 「死後に」の経

 

155. 或る時のことです。かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者サーリプッタは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このようにもまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「友よ、まさに、このようにもまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「友よ、では、何ゆえに、このことは、世尊によって説き明かされたことがないのですか」と。「友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、世尊によって説き明かされたことがないのです」と。

 

 「友よ、そこで、そうしますと、何が、世尊によって説き明かされたのですか」と。「友よ、『これは、苦しみである』と、まさに、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの集起である』と、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅である』と、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、世尊によって説き明かされました」と。「友よ、では、何ゆえに、このことは、世尊によって説き明かされたのですか」と。「友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、このことは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、世尊によって説き明かされたのです」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 正なる法の模造品の経

 

156. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、過去において、まさしく、そして、諸々の学びの境処(戒律)は、〔今よりも〕より少なく有ったのですか、さらに、比丘たちは、〔今よりも〕より多く、了知(阿羅漢の資質)において確立したのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、今現在、まさしく、そして、諸々の学びの境処は、〔過去よりも〕より多くあるのですか、さらに、比丘たちは、〔過去よりも〕より少なく、了知において確立するのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように、このことは(※)有ります。有情たちが退失しつつあるとき、正なる法(教え)が消没しつつあるとき、まさしく、そして、諸々の学びの境処は、〔過去よりも〕より多く有り、さらに、比丘たちは、〔過去よりも〕より少なく、了知において確立します。カッサパよ、すなわち、世において、正なる法(教え)の模造品が生起しない、それまでは、正なる法(教え)の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、正なる法(教え)の模造品が生起することから、そこで、正なる法(教え)の消没が有ります。

 

※ テキストには Evañcetaṃ とあるが、PTS版により Evañhetaṃ と読む。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、すなわち、世において、金の模造品が生起しない、それまでは、世において、金の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、金の模造品が生起することから、そこで、金の消没が有るように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、世において、正なる法(教え)の模造品が生起しない、それまでは、正なる法(教え)の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、正なる法(教え)の模造品が生起することから、そこで、正なる法(教え)の消没が有ります。

 

 カッサパよ、まさに、地の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、水の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、火の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、風の界域が正なる法(教え)を消没させることはありません。そこで、まさに、すなわち、この正なる法(教え)を消没させる、それらの愚人たちが、まさしく、ここに、生起します。カッサパよ、それは、たとえば、また、船が、まさしく、最初から、沈むものとしてあるように、カッサパよ、まさに、このように、正なる法(教え)の消没が有るのではありません。

 

 カッサパよ、五つのものがあります。まさに、これらの堕落するべき法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。カッサパよ、ここに、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住みます。カッサパよ、まさに、これらの五つの堕落するべき法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 カッサパよ、五つのものがあります。まさに、これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。カッサパよ、ここに、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住みます。カッサパよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 カッサパに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、満ち足りている者、〔良心の〕咎めなき者、月の如き者たち、家に近しく赴く者、老いた者、そして、三つの教諭、瞑想と神知、在所、衣料、『死後に』があり、正なる法(教え)の模造品があり、〔それらの十三がある〕」と。

 

6(17). 利得と尊敬に相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 辛酸の経

 

157. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはない』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 釣針の経

 

158. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、漁師が、餌を付けた釣り針を深い湖水に投げ入れ、〔まさに〕その、この〔釣針〕を、或るどこかの餌を眼にする魚が飲み込むようなものです。比丘たちよ、まさに、このように、その魚は、漁師の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、漁師の欲するままに為される者となります。

 

 比丘たちよ、『漁師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『釣針』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、生起した利得と尊敬と名声を、味わい、欲するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはない』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 亀の経

 

159. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、過去の事ですが、或るどこかの湖水において、大いなる亀の家系が、長き居住あるものとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの亀が、或るひとりの亀に、こう言いました。『親愛なる亀よ、まさに、あなたは、この地域に赴いてはいけません』と。比丘たちよ、まさに、その亀は、その地域に赴きました。〔まさに〕その、この〔亀〕を、猟師が、〔糸の付いた〕(もり)で貫きました。比丘たちよ、そこで、まさに、〔銛で貫かれた〕その亀は、〔忠告した〕その亀のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行きました。比丘たちよ、まさに、〔忠告した〕その亀は、〔銛で貫かれた〕その亀が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、〔銛で貫かれた〕その亀に、こう言いました。『親愛なる亀よ、どうでしょう、あなたは、その地域に赴きませんでしたか』と。『親愛なる亀よ、まさに、わたしは、その地域に赴きました』と。『親愛なる亀よ、また、どうなのでしょう、支障なき者として、損壊なき者として、〔あなたは〕存していますか』と。『親愛なる亀よ、まさに、支障なき者として、損壊なき者として、〔わたしは〕存しています。しかしながら、わたしに、この糸が存在します──背後から背後へと付き従うものとして』と。『親愛なる亀よ、〔あなたは〕存しています──たしかに、支障ある者として、たしかに、損壊ある者として。親愛なる亀よ、なぜなら、この糸によって、あなたの、そして、父たちも、さらに、祖父たちも、不幸を惹起し、災厄を惹起したからです。親愛なる亀よ、今や、あなたは、去りたまえ。今や、あなたは、わたしたちの〔朋友〕にあらず』と。

 

 比丘たちよ、『猟師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『〔糸の付いた〕銛』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、『糸』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、生起した利得と尊敬と名声を、味わい、欲するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、貪求ある者であり、〔糸の付いた〕銛によって、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 長い毛の経

 

160. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、長い毛の雌羊が、棘ある茂みに入るようなものです。その〔雌羊〕は、そこかしこにおいて絡め取られ、そこかしこにおいて捕捉され、そこかしこにおいて結縛され、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼は、そこかしこにおいて絡め取られ、そこかしこにおいて捕捉され、そこかしこにおいて結縛され、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 糞虫の経

 

161. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞を食べ糞が充満し糞に満ち溢れた糞虫がいるとします。かつまた、その〔糞虫〕の前には、大いなる糞の堆積があるとします。その〔糞虫〕は、それによって、他の糞虫たちを軽んじます。『まさに、わたしは、糞を食べ糞が充満し糞に満ち溢れた者である。かつまた、わたしの前には、この大いなる糞の堆積がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。そして、彼は、そこにおいて、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ食べた者と成り、かつまた、翌日〔の食事〕に招かれ、さらに、彼の、〔行乞の〕施食は満ちています。彼は、林園に赴いて、比丘の衆徒の中で誇示します。『そして、〔わたしは〕義(目的)とするだけ食べた者として〔世に〕存し、かつまた、翌日〔の食事〕に招かれた者として〔世に〕存し、さらに、わたしの、この〔行乞の〕施食は満ちている。そして、〔わたしは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、功徳少なき者たちであり、権能少なき者たちであり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちにあらず』と。彼は、その利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、他の博愛なる比丘たちを軽んじます。比丘たちよ、まさに、その愚人にとって、それは、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 雷の経

 

162. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、雷電が、誰に到来せよというのでしょう。〔いまだ〕学びある者に、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者に、利得と尊敬と名声が至り得よというのでしょう。

 

 比丘たちよ、『雷電』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 塗り毒の経

 

163. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、塗り毒を具した毒まみれの矢で、誰を貫けというのでしょう。〔いまだ〕学びある者に、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者に、利得と尊敬と名声が至り得よというのでしょう。

 

 比丘たちよ、『矢』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 野狐の経

 

164. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐(ジャッカル)の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この老いた野狐は、ウッカンダカ(疥癬)という名の病の類に罹り、まさしく、洞窟に赴くも喜ばず、木の根元に赴くも喜ばず、野外に赴くも喜ばず、赴くところ〔赴く〕ところで、立つところ〔立つ〕ところで、坐るところ〔坐る〕ところで、横になるところ〔横になる〕ところで、そこかしこにおいて、不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、まさしく、空家に赴くも喜ばず、木の根元に赴くも喜ばず、野外に赴くも喜ばず、赴くところ〔赴く〕ところで、立つところ〔立つ〕ところで、坐るところ〔坐る〕ところで、横になるところ〔横になる〕ところで、そこかしこにおいて、不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ヴェーランバの経

 

165. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、虚空の上に、ヴェーランバという名の諸々の風が吹きます。そこにおいて、すなわち、鳥が赴くなら、〔まさに〕その、この〔鳥〕を、諸々のヴェーランバの風が投げ放ちます。諸々のヴェーランバの風に投げ放たれた、その〔鳥〕の、まさしく、〔両の〕足は他へと赴き、〔両の〕翼は他へと赴き、頭は他へと赴き、身体は他へと赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づき()によって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能()によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。彼の、衣料を、他者たちが運び去り、鉢を、他者たちが運び去り、坐具を、他者たちが運び去り、針箱を、他者たちが運び去ります──諸々のヴェーランバの風に投げ放たれた鳥の〔肢体〕のように。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 詩偈を有するものの経

 

166. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人を見ます──〔他者からの〕尊敬に征服され、心が完全に奪い去られ、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生した者を。比丘たちよ、また、ここに、わたしは、一部の人を見ます──〔他者からの〕尊敬なきことに征服され、心が完全に奪い去られ、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生した者を。比丘たちよ、また、ここに、わたしは、一部の人を見ます──かつまた、〔他者からの〕尊敬に、かつまた、〔他者からの〕尊敬なきことに、その両者に征服され、心が完全に奪い去られ、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生した者を。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらに、同様に、〔他者から〕尊敬なくあるとして、〔彼の〕禅定(定・三昧)が動揺せず、不放逸の住者としてあるなら(※)──

 

※ テキストには appamāṇavihārino とあるが、PTS版により appamādavihārino と読む。

 

 〔まさに〕その、常久なる瞑想者を、繊細にして〔正しい〕見解ある観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕『正なる人士』と言う」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「辛酸、釣針、亀、そして、長い毛、糞虫、雷、塗り毒、野狐があり、ヴェーランバとともに、詩偈を有するものがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. 金の鉢の経

 

167. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、銀粉に満ちた金の鉢を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 銀の鉢の経

 

168. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、金粉に満ちた銀の鉢を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3-10. スヴァンナ金貨の経等の八なるもの

 

169. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、スヴァンナ金貨を因としても……略……たとえ、百のスヴァンナ金貨を因としても……たとえ、シンギー金貨を因としても……たとえ、百のシンギー金貨を因としても……たとえ、地に遍く満ちる黄金を因としても……たとえ、何らかの或る財貨を因としても……たとえ、生命を因としても……たとえ、地方の美女を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの鉢、さらに、二つのスヴァンナがあり、他に、二つのシンギーとともに、地、何らかの或る〔財貨〕と生命があり、地方の美女とともに、〔それらの〕十がある」と。

 

3. 第三の章

 

1. 女性の経

 

170. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、或る女性が、或る者の、彼の心を完全に奪い去って止住しないとして、利得と尊敬と名声は、彼の心を完全に奪い去って止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 美女の経

 

171. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、或る地方の美女が、或る者の、彼の心を完全に奪い去って止住しないとして、利得と尊敬と名声は、彼の心を完全に奪い去って止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 独り子の経

 

172. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、信ある女性在俗信者は、愛しく意に適う独り子のことを、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『息子よ、そして、チッタ家長が、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である在俗信者たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、そして、チッタ家長であり、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカです。『息子よ、それで、もし、まさに、あなたが、家から家なきへと出家するなら、息子よ、サーリプッタとモッガッラーナが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、サーリプッタとモッガッラーナです。『息子よ、しかしながら、まさに、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、あなたに、利得と尊敬と名声が至り得ることがあってはいけません』と。比丘たちよ、もし、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、その比丘に、利得と尊敬と名声が至り得るなら、それは、彼にとって、障りと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 独り娘の経

 

173. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、信ある女性在俗信者は、愛しく意に適う独り娘のことを、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『可愛い娘よ、そして、クッジュッタラー女性在俗信者が、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である女性在俗信者たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、そして、クッジュッタラー女性在俗信者であり、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルです。『可愛い娘よ、それで、もし、まさに、あなたが、家から家なきへと出家するなら、可愛い娘よ、そして、ケーマー比丘尼が、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕が、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘尼たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、ケーマー比丘尼であり、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕です。『可愛い娘よ、しかしながら、まさに、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、あなたに、利得と尊敬と名声が至り得ることがあってはいけません』と。比丘たちよ、もし、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、その比丘尼に、利得と尊敬と名声が至り得るなら、それは、彼女にとって、障りと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 沙門や婆羅門たちの経

 

174. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

175. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

176. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声を事実のとおりに覚知せず、利得と尊敬と名声の集起を覚知せず、利得と尊敬と名声の止滅を覚知せず、利得と尊敬と名声の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 表皮の経

 

177. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 縄の経

 

178. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で、脛を巻いて引きずり、その〔縄〕が、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 比丘の経

 

179. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、たとえ、その比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であるとして、彼にとってもまた、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きます」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、煩悩が滅尽した比丘の、何にとって、利得と尊敬と名声は、障りとなるのですか」と。「アーナンダよ、まさに、すなわち、彼の、その不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)ですが、それにとって、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、彼が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、諸々の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に到達するのですが、彼の、それら〔の安楽の住〕にとって、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きます。アーナンダよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはない』と。アーナンダよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第三の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、女性、美女、そして、子、そして、独り娘、三つの沙門や婆羅門たち、表皮、そして、縄があり、比丘とともに、〔章となる〕」と。

 

4. 第四の章

 

1. 「分裂させました」の経

 

180. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、僧団を分裂させました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 善なるものの根元の経

 

181. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの善なるものの根元は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 善なる法の経

 

182. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの善なる法(性質)は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 白の法の経

 

183. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの白の法(性質)は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「立ち去ったすぐあとに」の経

 

184. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、芭蕉が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、竹が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、葦が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、雌騾馬が、自己を打ち殺すために妊娠し、滅び行くために妊娠するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔成熟した〕果は、まさに、芭蕉を損なう。〔成熟した〕果は、竹を〔損ない〕、〔成熟した〕果は、葦を〔損なう〕。あたかも、〔妊娠した〕胎が、雌騾馬を〔損なう〕ように、〔他者の〕尊敬は、悪しき人を損なう」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 五百の車の経

 

185. 世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴きます。さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせます。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴きます。さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせます」と。「比丘たちよ、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声を羨んではいけません。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴くとして、さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせるとして、比丘たちよ、デーヴァダッタには、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、狂暴な山犬の鼻に胆汁を振りかけるなら、比丘たちよ、まさに、このように、その山犬は、より一層はげしく、より狂暴に、存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、さてまた、何はともあれ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴くとして、さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせるとして、比丘たちよ、デーヴァダッタには、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 母の経

 

186. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、母を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはない』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8-13. 父の経等の六なるもの

 

187. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、父を因としても……略……たとえ、兄弟を因としても……たとえ、姉妹を因としても……たとえ、子を因としても……たとえ、娘を因としても……たとえ、妻を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られ、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはない』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 〔以上が〕第四の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『分裂させました』があり、根元、二つの法(性質)、『立ち去った〔すぐあとに〕』があり、車、母、父、そして、兄弟、姉妹、子、娘、妻があり、〔章となる〕」と。

 

 利得と尊敬に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

7(18). ラーフラに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 眼の経

 

188. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいしてもまた厭離します。……。鼻にたいしてもまた厭離します。……。舌にたいしてもまた厭離します。……。身にたいしてもまた厭離します。……。意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 形態の経

 

189. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の音声は……。「諸々の臭気は……。「諸々の味感は……。「諸々の感触は……。「諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、諸々の形態にたいしてもまた厭離します。……。諸々の音声にたいしてもまた厭離します。……。諸々の臭気にたいしてもまた厭離します。……。諸々の味感にたいしてもまた厭離します。……。諸々の感触にたいしてもまた厭離します。……。諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 識知〔作用〕の経

 

190. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の識知〔作用〕は……略……。「鼻の識知〔作用〕は……。「舌の識知〔作用〕は……。「身の識知〔作用〕は……。「意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。鼻の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。舌の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。身の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 接触の経

 

191. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触は……略……。「鼻の接触は……。「舌の接触は……。「身の接触は……。「意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の接触にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の接触にたいしてもまた厭離します。……。鼻の接触にたいしてもまた厭離します。……。舌の接触にたいしてもまた厭離します。……。身の接触にたいしてもまた厭離します。……。意の接触にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 感受の経

 

192. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触から生じる感受は……略……。「鼻の接触から生じる感受は……。「舌の接触から生じる感受は……。「身の接触から生じる感受は……。「意の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の接触から生じる感受にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の……。鼻の……。舌の……。身の……。意の接触から生じる感受にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 表象の経

 

193. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の表象は……略……。「臭気の表象は……。「味感の表象は……。「感触の表象は……。「法(意の対象)の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の表象にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の表象にたいしてもまた厭離します。……。臭気の表象にたいしてもまた厭離します。……。味感の表象にたいしてもまた厭離します。……。感触の表象にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の表象にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 思欲の経

 

194. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の思欲は……略……。「臭気の思欲は……略……。「味感の思欲は……。「感触の思欲は……。「法(意の対象)の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の思欲にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の思欲にたいしてもまた厭離します。……。臭気の思欲にたいしてもまた厭離します。……。味感の思欲にたいしてもまた厭離します。……。感触の思欲にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の思欲にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 渇愛の経

 

195. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の渇愛は……略……。「臭気の渇愛は……。「味感の渇愛は……。「感触の渇愛は……。「法(意の対象)の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の渇愛にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。臭気の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。味感の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。感触の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の渇愛にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 界域の経

 

196. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。地の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「水の界域は……略……。「火の界域は……。「風の界域は……。「虚空の界域は……。「識知〔作用〕の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、地の界域にたいしてもまた厭離します。……略……。水の界域にたいしてもまた厭離します。……。火の界域にたいしてもまた厭離します。……。風の界域にたいしてもまた厭離します。……。虚空の界域にたいしてもまた厭離します。……。識知〔作用〕の界域にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 範疇の経

 

197. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離します。……略……。感受〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。表象〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、接触があり、そして、感受とともに、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十がある」と。

 

2. 第二の章

 

1. 眼の経

 

198. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「耳は……略……。「鼻は……。「舌は……。「身は……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいしてもまた厭離します。……。鼻にたいしてもまた厭離します。……。舌にたいしてもまた厭離します。……。身にたいしてもまた厭離します。……。意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。(この省略によって、十の経典が作り為されるべきである。)〔以上が〕第一となる。

 

2-10. 形態等の経の九なるもの

 

199. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の音声は……。「諸々の臭気は……。「諸々の味感は……。「諸々の感触は……。「諸々の法(意の対象)は……。

 

 ……。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の識知〔作用〕は……。「鼻の識知〔作用〕は……。「舌の識知〔作用〕は……。「身の識知〔作用〕は……。「意の識知〔作用〕は……。

 

 ……。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触は……。「鼻の接触は……。「舌の接触は……。「身の接触は……。「意の接触は……。

 

 ……。眼の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触から生じる感受は……。「鼻の接触から生じる感受は……。「舌の接触から生じる感受は……。「身の接触から生じる感受は……。「意の接触から生じる感受は……。

 

 ……。形態の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の表象は……。「臭気の表象は……。「味感の表象は……。「感触の表象は……。「法(意の対象)の表象は……。

 

 ……。形態の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の思欲は……。「臭気の思欲は……。「味感の思欲は……。「感触の思欲は……。「法(意の対象)の思欲は……。

 

 ……。形態の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の渇愛は……。「臭気の渇愛は……。「味感の渇愛は……。「感触の渇愛は……。「法(意の対象)の渇愛は……。

 

 ……。地の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「水の界域は……。「火の界域は……。「風の界域は……。「虚空の界域は……。「識知〔作用〕の界域は……。

 

 ……。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 悪習の経

 

200. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 離れ去ったものの経

 

201. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るのですか」と。「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。

 

 それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、接触、そして、感受、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十があり、悪習、まさしく、そして、離れ去ったものがあり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 ラーフラに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

8(19). ラッカナに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 骨の経

 

202. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者ラッカナは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山に住んでいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者ラッカナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッカナに、こう言いました。「友よ、ラッカナよ、行きましょう。ラージャガハに〔行乞の〕食のために入るのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山から降りつつ、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「友よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、笑みの表明があるのですか」と。「友よ、ラッカナよ、まさに、この問いのための時ではありません。世尊の現前において、わたしに、この問いを尋ねたまえ」と。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者ラッカナは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「ここに、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山から降りつつ、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。友よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、笑みの表明があるのですか」と。

 

 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、骨の列が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔骨の列〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、諸々の肋骨の隙間から、啄み、引き裂き、引き離します。その〔骨の列〕は、まさに、苦悩の声を上げます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態のものとしてもまた、まさに、有情が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、夜叉が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得が〔世に〕有るとは』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、弟子たちは、眼と成った者たちとして〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、弟子たちは、知と成った者たちとして〔世に〕住みます。なぜなら、そこで、まさに、弟子は、このような形態のものを、あるいは、知るであろうし、あるいは、見るであろうし、あるいは、実証を為すであろうからです。比丘たちよ、まさしく、過去において、その有情は、わたしによって見られた者として〔世に〕有りました。しかしながら、また、わたしは、〔その有情のことを〕説き明かしませんでした。もし、わたしが、このことを説き明かすとして、しかしながら、他者たちは、わたしに信を置かないでしょう。彼らが、わたしに信を置かないなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠牛者として〔世に〕有りました。彼は、その行為の報い(業報)によって、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、このような形態の自己状態の獲得を得知します」と。(〔以下の〕全ての経典に、まさしく、これが省略となる。)〔以上が〕第一となる。

 

2. 〔肉〕片の経

 

203. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、肉片が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔肉片〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔肉片〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠牛者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔肉〕塊の経

 

204. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、肉塊が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔肉塊〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔肉塊〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、捕鳥者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 皮のない者の経

 

205. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、皮のない男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔皮のない男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔皮のない男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠羊者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 剣の毛の経

 

206. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、剣の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔剣の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔剣の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠豚者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 刃の経

 

207. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、刃の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔刃の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔刃の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、捕鹿者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 矢の経

 

208. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、矢の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔矢の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔矢の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、懲罰者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 針の毛の経

 

209. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、針の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔針の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔針の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、馭者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の針の毛の経

 

210. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、針の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。その〔針の毛ある男〕の、それらの針の毛は、頭に突き入って、顔から出て行き、顔に突き入って、胸から出て行き、胸に突き入って、腹から出て行き、腹に突き入って、〔両の〕腿から出て行き、〔両の〕腿に突き入って、〔両の〕脛から出て行き、〔両の〕脛に突き入って、〔両の〕足から出て行きます。その〔針の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、密告者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 瓶の睾丸の経

 

211. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、瓶の睾丸ある男が宙空を赴いているのを見ました。その〔瓶の睾丸ある男〕は、赴きつつあるもまた、まさしく、それらの睾丸を、肩に乗せて赴き、坐りつつあるもまた、まさしく、それらの睾丸のうえに、坐ります。〔まさに〕その、この〔瓶の睾丸ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔瓶の睾丸ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、村の詐欺師として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「骨と〔肉〕片の両者は、屠牛者たちとして、〔肉〕塊は、捕鳥者として、皮のない者は、屠羊者として、剣〔の毛ある者〕は、屠豚者として、刃〔の毛ある者〕は、捕鹿者として、矢〔の毛ある者〕は、懲罰者として、針〔の毛ある者〕は、馭者として、そして、すなわち、〔針の毛で〕縫われる、まさに、その〔針の毛ある者〕は、密告者として、睾丸を運ぶ者は、村の詐欺師として、〔世に〕有った」と。

 

2. 第二の章

 

1. 「頭に至るまで」の経

 

212. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。ラージャガハのヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、糞坑のなかに頭に至るまで潜っている男を見ました。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、他者の妻と交わる者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 糞を喰う者の経

 

213. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、糞坑のなかに潜っている男が両の手で糞を喰っているのを見ました。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、〔心が〕汚れた婆羅門として〔世に〕有りました。彼は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、比丘の僧団を食事に招いて、諸々の桶を糞で満たして、こう言いました。『さあ、諸君よ、義(目的)とするだけ、まさしく、そして、食べたまえ、さらに、運び去りたまえ』と。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 皮のない女の経

 

214. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、皮のない女が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔皮のない女〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔皮のない女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、まさしく、このラージャガハにおいて、姦通者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 青白い者の経

 

215. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、悪臭がする青白い女が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔青白い女〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔青白い女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、まさしく、このラージャガハにおいて、占相者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 焼きただれた者の経

 

216. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、炒られ焼きただれ〔炭火を〕振りまかれた女が宙空を赴いているのを見ました。その〔焼きただれた女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、カリンガ王の第一王妃として〔世に〕有りました。彼女は、嫉妬〔の思い〕に支配され、敵〔の女〕に炭火を振りまきました。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 頭のないの経

 

217. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、頭のない不具者が宙空を赴いているのを見ました。彼の胸には、まさしく、そして、〔両の〕眼が有り、さらに、口が〔有ります〕。〔まさに〕その、この〔頭のない不具者〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔頭のない不具者〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、ハーリカという名の刑罰執行者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 悪しき比丘の経

 

218. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、比丘が宙空を赴いているのを見ました。彼の、大衣もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、鉢もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、腰帯もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、身体もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成っています。その〔比丘〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この比丘は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、悪しき比丘として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悪しき比丘尼の経

 

219. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、比丘尼が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき比丘尼として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 悪しき学女の経

 

220. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、学女が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき学女として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 悪しき沙弥の経

 

221. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、沙弥が宙空を赴いているのを見ました。彼の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき沙弥として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

11. 悪しき沙弥尼の経

 

222. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、沙弥尼が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、鉢もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、腰帯もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、身体もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成っています。その〔沙弥尼〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この沙弥尼は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、悪しき沙弥尼として〔世に〕有りました。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態のものとしてもまた、まさに、有情が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、夜叉が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得が〔世に〕有るとは』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、弟子たちは、眼と成った者たちとして〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、弟子たちは、知と成った者たちとして〔世に〕住みます。なぜなら、そこで、まさに、弟子は、このような形態のものを、あるいは、知るであろうし、あるいは、見るであろうし、あるいは、実証を為すであろうからです。比丘たちよ、まさしく、過去において、その沙弥尼は、わたしによって見られた者として〔世に〕有りました。しかしながら、また、わたしは、〔その沙弥尼のことを〕説き明かしませんでした。もし、わたしが、このことを説き明かすとして、しかしながら、他者たちは、わたしに信を置かないでしょう。彼らが、わたしに信を置かないなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。比丘たちよ、この沙弥尼は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、悪しき沙弥尼として〔世に〕有りました。彼女は、その行為の報いによって、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、このような形態の自己状態の獲得を得知します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、〔糞〕坑のなかに潜っている者は、彼は、他者の妻と交わる者として、糞を喰う者は、〔心が〕汚れた婆羅門として、〔世に〕有った。

 

 皮のない女は、姦通者として〔世に〕有った。青白い女は、占相女として〔世に〕有った。

 

 焼きただれた者は、敵〔の女〕に炭火を振りまいた。頭を断たれた者は、刑罰執行者として〔世に〕有った。

 

 〔悪しき〕比丘と〔悪しき〕比丘尼と〔悪しき〕学女と〔悪しき〕沙弥は、さらに、〔悪しき〕沙弥尼は──

 

 〔彼らは〕カッサパ〔世尊〕の律において出家を〔得るも〕、まさしく、そのとき、悪しき行為を作り為した」と。

 

 ラッカナに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

9(20). 喩えに相応するもの

 

1. 屋頂の経

 

223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂の根絶あることから、それらの全てが根絶に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、無明を根元とするものであり、無明に集結するものであり、無明の根絶あることから、それらの全てが根絶に至ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 爪先の経

 

224. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間たちより他に生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 家の経

 

225. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、何であれ、それらの家が、女が多く、男が少ないなら、それら〔の家〕は、押し込み強盗の盗賊たちによって砕破され易く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められず、多く為されていないなら、彼は、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちによって砕破され易く成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、何であれ、それらの家が、女が少なく、男が多いなら、それら〔の家〕は、押し込み強盗の盗賊たちによって砕破され難く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為されたなら、彼は、人間ならざる者たちによって砕破され難く成ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 鍋の経

 

226. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、早刻時に、百の鍋を、布施として施し、すなわち、日中時に、百の鍋を、布施として施し、すなわち、夕刻時に、百の鍋を、布施として施すとして、あるいは、すなわち、早刻時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、あるいは、すなわち、日中時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、あるいは、すなわち、夕刻時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、これは、それよりもより大いなる果となります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 刃の経

 

227. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、鋭い切っ先の刃があるとして、そこで、人がやってくるとします。『わたしは、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その人は、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させることが、可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させることは、為し易くはないからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、もし、人間ならざる者が、彼の心を、投げ放つべきと思い考えるとして、そこで、まさに、まさしく、その人間ならざる者は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 弓の使い手の経

 

228. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちが存し、四方に立っているとして、そこで、人がやってくるとします。『わたしは、これらの四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちの四方から放たれた矢を、〔それらが〕地に着かないあいだに掴み取って持参するのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔彼には〕『速くある人として、最高の速さを具備した者』という言葉たるに十分なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、もし、一者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人の放たれた矢を、〔それが〕地に着かないあいだに掴み取って持参するなら、〔それだけで〕『速くある人として、最高の速さを具備した者』という言葉たるに十分なるものがあります。四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちのばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、そして、そのとおりに、その人の速さがあるなら、さらに、そのとおりに、月と日の速さは、それよりもより急速なるものとしてあります。比丘たちよ、そして、そのとおりに、その人の速さがあり、かつまた、そのとおりに、月と日の速さがあるなら、さらに、そのとおりに、それらの天神たちは月と日の前を走り、それらの天神たちの速さはあります。それよりもより急速なるものとして、諸々の寿命を形成する働き()は滅尽します。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 楔の経

 

229. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、過去の事ですが、ダサーラハ〔族〕の者たちに、アーナカという名の小鼓が有りました。ダサーラハ〔族〕の者たちは、アーナカが結束されたとき、それに、他の楔を設置しました。比丘たちよ、すなわち、アーナカ小鼓の古い皮と板が消没した、まさに、その時と成り、楔の群結だけが残りました。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、未来の時に、比丘たちは成るでしょう。すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとしないでしょうし、耳を傾けないでしょうし、了知のための心を現起させないでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えないでしょう。

 

 また、すなわち、それらの経典が、詩人たちによって作られた詩文にして、様々な文字や様々な文型ある、外部の弟子たちによって語られたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとするでしょうし、耳を傾けるでしょうし、了知のための心を現起させるでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えるでしょう。比丘たちよ、このように、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものである、これらの経典の消没が有るでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとするのだ、耳を傾けるのだ、了知のための心を現起させるのだ、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えるのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 丸太の経

 

230. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、今現在、リッチャヴィ〔族〕の者たちは、丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、鍛錬のうちに〔世に〕住みます。ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、彼らへの侵入〔の機会〕を得ず、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、未来の時には、リッチャヴィ〔族〕の者たちは、繊細なる者たちと〔成り〕、柔和で柔弱なる手足ある者たちと成るでしょう。彼らは、諸々の柔和なる臥所のなかで、諸々の綿の枕のうえで、日の出に至るまで、臥を営むでしょう。ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、彼らへの侵入〔の機会〕を得るでしょうし、〔侵入の〕対象を得るでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在、比丘たちは、丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住みます。悪魔パーピマントは、彼らへの侵入〔の機会〕を得ず、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、未来の時には、比丘たちは、繊細なる者たちと〔成り〕、柔和で柔弱なる手足ある者たちと成るでしょう。彼らは、諸々の柔和なる臥所のなかで、諸々の綿の枕のうえで、日の出に至るまで、臥を営むでしょう。悪魔パーピマントは、彼らへの侵入〔の機会〕を得るでしょうし、〔侵入の〕対象を得るでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 象の経

 

231. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの新参の比丘が、限度を超えて家々に近づいて行きます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。「尊者は、限度を超えて家々に近づいて行ってはいけません」と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、このように言いました。「まさに、これらの長老の比丘たちが、まさに、家々に近づいて行くべきと思い考えるのです。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの新参の比丘が、限度を超えて家々に近づいて行きます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。『尊者は、限度を超えて家々に近づいて行ってはいけません』と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、このように言いました。『まさに、これらの長老の比丘たちが、まさに、家々に近づいて行くべきと思い考えるのです。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』」と。

 

 「比丘たちよ、過去の事ですが、林所に大いなる湖沼があり、その〔湖沼〕に、象たちが近しく依拠して住んでいます。彼らは、その湖沼に入って行って、鼻で蓮の根茎を引き抜いて、善く洗い落としたものに洗い落として、泥のないものを噛んで飲み下します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成り、かつまた、活力のために〔成り〕、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、ありません。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、それらの大いなる象たちに従い学びながら、幼い象の子獣たちが、その湖沼に入って行って、鼻で蓮の根茎を引き抜いて、善く洗い落としたものに洗い落とさずして、泥を有するものを噛まずして飲み下します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成らず、かつまた、活力のために〔成ら〕ず、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、長老の比丘たちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼らは、そこにおいて、法(教え)を語ります。彼らに、在家者たちは、清信の行相を作り為します。彼らは、その利得を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成り、かつまた、活力のために〔成り〕、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、ありません。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、それらの長老の比丘たちに従い学びながら、新参の比丘たちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼らは、そこにおいて、法(教え)を語ります。彼らに、在家者たちは、清信の行相を作り為します。彼らは、その利得を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成らず、かつまた、活力のために〔成ら〕ず、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、その利得を、〔わたしたちは〕受益するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 山猫の経

 

232. サーヴァッティーに住んでおられます。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、限度を超えて家々にたいし関係を持ちます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。「尊者は、限度を超えて家々にたいし関係を持ってはいけません」と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、〔家々から〕離れません。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの比丘が、限度を超えて家々にたいし関係を持ちます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。『尊者は、限度を超えて家々にたいし関係を持ってはいけません』と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、〔家々から〕離れません」と。

 

 「比丘たちよ、過去の事ですが、隙間やどぶやごみためで、柔らかな鼠を狙いながら、止住している山猫が有りました。『すなわち、この柔らかな鼠が、餌場へと出て行くとき、まさしく、そこにおいて、その〔鼠〕を捕らえて喰うのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その柔らかな鼠は、餌場へと出て行きました。〔まさに〕その、この〔鼠〕を、山猫は捕らえて、無理やり、噛まずして飲み下しました。その柔らかな鼠は、その〔山猫〕の、腸をもまた喰い、腸間膜をもまた喰いました。その〔山猫〕は、それを因縁として、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇しました〕。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。比丘たちよ、まさに、これは、聖者の律における死です──すなわち、〔彼が〕学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのは。比丘たちよ、まさに、これは、死ぬほどの苦しみです──すなわち、この、〔彼が〕何らかの或る汚染された罪を惹起するのは。そのような形態の罪からの出起が覚知されるとしても。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入るのだ──まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起されている気づきによって、諸々の統御されている〔感官の〕機能によって』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 野狐の経

 

233. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この老いた野狐は、ウッカンダカ(疥癬)という名の病の類に罹っています。彼は、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに赴き、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに立ち、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに坐り、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに横になるも、彼にはまた、冷たい風が吹き渡ります。比丘たちよ、すなわち、ここに、一部の〔自らを〕釈子(仏弟子)と明言する〔悪しき比丘〕が、たとえ、このような形態の自己状態の獲得を得知できるなら、まさに、善きこととして存するでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 第二の野狐の経

 

234. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、その老いた野狐においては、それが何であれ、恩を知り恩を感じることが存在するでしょうが、まさしく、しかし、ここに、一部の〔自らを〕釈子と明言する〔悪しき比丘〕においては、それが何であれ、恩を知り恩を感じることは存在するべくもありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕恩を知り恩を感じる者たちとして〔世に〕有るのだ。そして、まさに、わたしたちにたいし為されたことは、たとえ、僅かでも消失しないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 喩えに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「屋頂、爪先、家、鍋、刃、弓の使い手、楔、丸太、象、山猫、二つの野狐があり、〔それらの十二がある〕」と。

 

10(21). 比丘に相応するもの

 

1. コーリタ(マハー・モッガッラーナ)の経

 

235. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。

 

 尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「友よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『「聖なる沈黙の状態」「聖なる沈黙の状態」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、聖なる沈黙の状態なのだろうか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、「聖なる沈黙の状態」と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊が、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、聖なる沈黙の状態に放逸であってはいけません。聖なる沈黙の状態において、心を確立させなさい。聖なる沈黙の状態において、心を専一なる状態に作り為しなさい。聖なる沈黙の状態において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ウパティッサ(サーリプッタ)の経

 

236. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『それに、変化と他化の状態あることから、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する、〔まさに〕その、何らかのものが、世において、いったい、まさに、存在するのだろうか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それに、変化と他化の状態あることから、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する、〔まさに〕その、何らかのものは、世において、まさに、存在しない』と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、教師(ブッダ)に、変化と他化の状態あることからもまた、まさに、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は生起しないのですか」と。「友よ、教師に、変化と他化の状態あることからもまた、まさに、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は生起しないでしょう。また、しかしながら、わたしに、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、〔世の〕教師たる方が消没したのだ──偉大なる権能ある方が、偉大なる神通ある方が、偉大なる威力ある方が。まさに、それで、もし、世尊が、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住するなら、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、それは存するであろう』」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は、長夜にわたり、善く完破され、それゆえに、教師に、変化と他化の状態あることからもまた、尊者サーリプッタに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはない、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 瓶の経

 

237. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて、同じ精舎(僧房)のなかに。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「友よ、モッガッラーナよ、まさに、あなたには、清らかとなった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。まちがいなく、尊者マハー・モッガッラーナは、今日、寂静の住によって〔世に〕住みました」と。「友よ、まさに、わたしは、今日、粗大なる住によって〔世に〕住みました。しかしながら、また、わたしに、法(教え)の議論が有りました」と。「また、誰を相手に、尊者マハー・モッガッラーナに、法(教え)の議論が有ったのですか」と。「友よ、世尊を相手に、まさに、わたしに、法(教え)の議論が有りました」と。「友よ、まさに、世尊は、今現在、遠くにあり、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。いったい、まさに、どうなのでしょう、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊のもとに、神通によって近づいて行ったのですか、それとも、世尊が、尊者マハー・モッガッラーナのもとに、神通によって近づいて行ったのですか」と。「友よ、まさに、わたしが、世尊のもとに、神通によって近づいて行ったのではなく、世尊が、わたしのもとに、神通によって近づいて行ったのでもまたありません。しかしながら、また、わたしの天眼は、すなわち、世尊に至るまで、このかぎりにおいて、清浄となりました──さらに、天耳の界域も。世尊の天眼もまた、すなわち、わたしに至るまで、このかぎりにおいて、清浄となりました──さらに、天耳の界域も」と。「また、すなわち、どのように、尊者マハー・モッガッラーナに、世尊を相手に、法(教え)の議論が有ったのですか」と。

 

 「友よ、ここに、わたしは、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、「精進に励む者」「精進に励む者」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、精進に励む者と成るのですか』と。友よ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『モッガッラーナよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と。モッガッラーナよ、このように、まさに、精進に励む者と成ります』と。友よ、このように、まさに、わたしに、世尊を相手に、法(教え)の議論が有りました」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)にとって、小さな石粒が、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあるように、まさしく、このように、まさに、わたしたちは、尊者マハー・モッガッラーナにとって、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあります。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、大いなる権能ある者であり、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者であり、望んでいるなら、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、大いなる塩の瓶にとって、小さな塩粒が、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあるように、まさしく、このように、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタにとって、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあります。まさに、尊者サーリプッタは、世尊によって、無数の教相をもって、賛嘆され、褒め称えられ、賞賛されました。

 

 〔すなわち〕『サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するであろう』」と。

 

 まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者は、互いに他の善く語られ善く談じられたものを等しく随喜した、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 新参の者の経

 

238. サーヴァッティーに住んでおられます。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの新参の比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの新参の比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、その比丘に告げなさい。『友よ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、世尊に答えて、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘よ、本当に、まさに、あなたは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠るのですか──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに」と。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、自らの為すべきことを為します」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その比丘の心の思索を了知して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、この比丘を譴責してはいけません。比丘たちよ、まさに、この比丘は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であり、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これは、緩慢に励んで、にあらず──これは、僅かな強さによって、にあらず──到達するべき涅槃は、全ての苦しみの解き放ちは。

 

 そして、この年少の比丘は、この最上の人士たる者は、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. スジャータの経

 

239. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者スジャータが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者スジャータが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさしく、両者によって、この良家の子息は、美しく輝きます。そして、すなわち、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、この比丘は、美しく輝く──真っすぐに成った心によって。別離した者であり、束縛を離れた者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ラクンダカ・バッディヤの経

 

240. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラクンダカ・バッディヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者ラクンダカ・バッディヤが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。醜き色艶の、醜き外見の、猫背で、比丘たちに貶められている様子の、この比丘がやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この比丘は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。そして、すなわち、その比丘が過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定(等持)は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「白鳥たちも、白鷺たちも、さらに、孔雀たちも、象たちも、斑ある鹿たちも、全ての者たちが、獅子に恐怖する──身体における対比は、〔ここに〕存在せず。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、たとえ、もし、年少の者なるも、智慧ある者であるなら、まさに、彼は、そこにおいて、偉大なる者と成る。〔美しい〕肉体ある愚者は、まさしく、さにあらず」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ヴィサーカの経

 

241. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させるのですか。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。「尊き方よ、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタに、こう言いました。「ヴィサーカよ、善きかな、善きかな。ヴィサーカよ、善きかな、まさに、あなたは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し……略……義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「賢者が愚者たちと混ざり合い、語らずにいるなら、〔彼のことを、人々が〕知ることはない。しかしながら、不死の境処を説示し語っているなら、〔彼のことを、人々は〕知る。

 

 〔彼は〕語るであろう、顕示するであろう、差し出すであろう──聖賢たちの旗である法(教え)を。見事に語られた旗あるのが、聖賢たちである。まさに、法(教え)は、聖賢たちの旗である」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ナンダの経

 

242. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊の母方の叔母の子である尊者ナンダが、表裏に打ち叩かれた諸々の衣料を着込んで、〔両の〕眼に〔黒の〕塗料をつけて、輝く鉢を取って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナンダに、世尊は、こう言いました。「ナンダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、表裏に打ち叩かれた諸々の衣料を着込むことであり、そして、〔両の〕眼に〔黒の〕塗料をつけることであり、さらに、輝く鉢を保持することです。ナンダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることです。すなわち、あなたが、かつまた、林にある者として、かつまた、〔行乞の〕施食の者として、かつまた、糞掃衣の者として、〔世に〕存することであり、そして、諸々の欲望〔の対象〕に期待なき者となり、〔世に〕住むことです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「わたしは、いつ、ナンダを見るのだろう──林にある糞掃衣の〔ナンダ〕を、知られない落穂によって〔身を〕保ち行く〔ナンダ〕を、諸々の欲望〔の対象〕に期待なき〔ナンダ〕を」と。

 

 そこで、まさに、尊者ナンダは、他時にあって、かつまた、林にある者として、かつまた、〔行乞の〕施食の者として、かつまた、糞掃衣の者として、そして、諸々の欲望〔の対象〕に期待なきとなり、〔世に〕住んだ、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. ティッサの経

 

243. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊の父方の叔母の子である尊者ティッサが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました──苦痛の者となり、失意の者となり、諸々の涙をこぼしながら。そこで、まさに、世尊は、尊者ティッサに、こう言いました。「ティッサよ、いったい、まさに、どうして、あなたは、一方に坐っているのですか──苦痛の者となり、失意の者となり、諸々の涙をこぼしながら」と。「尊き方よ、また、なぜなら、そのように、比丘たちが、わたしに、遍きにわたり、嘲笑の言葉でもって皮肉を為したからです」と。「ティッサよ、また、まさに、そのように、あなたは、説者としてあるも、しかしながら、言葉に忍耐ある者ではありません。ティッサよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、説者としてあるも、しかしながら、言葉に忍耐ある者ではないことです。ティッサよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることです。すなわち、あなたが、かつまた、説者として、かつまた、言葉に忍耐ある者として、〔世に〕存することです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「いったい、どうして、〔あなたは〕忿激するのか。忿激してはならない。ティッサよ、忿激なくあるのは、あなたにとって優れている。ティッサよ、なぜなら、梵行は、忿激と思量と偽装の調伏を義(目的)として住されるからである」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. テーラという名の者の経

 

244. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、テーラという名の或るひとりの比丘が、まさしく、そして、独住者として、さらに、独住の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。彼は、独り、村に、〔行乞の〕食のために入り、独り、戻り、独り、静所に坐り、独り、歩行〔瞑想〕に従事します。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、テーラという名の或るひとりの比丘が、独住者としてあります──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、テーラ比丘に告げなさい。『友よ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者テーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、テーラ比丘に、こう言いました。「友よ、テーラよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者テーラは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者テーラに、世尊は、こう言いました。「テーラよ、本当に、まさに、あなたは、独住者としてあるのですか──さらに、独住の栄誉を説く者として。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「テーラよ、また、すなわち、どのように、あなたは、独住者としてあるのですか──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、独り、村に、〔行乞の〕食のために入り、独り、戻り、独り、静所に坐り、独り、歩行〔瞑想〕に従事します。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、独住者としてあります──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。

 

 「テーラよ、『これは、独住として存在する。これが、〔独住として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。テーラよ、そして、また、すなわち、独住が、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに……略……。「テーラよ、では、どのように、独住は、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成るのですか。テーラよ、ここに、それが過去のものであるなら、それは捨棄され、それが未来のものであるなら、それは放棄され、そして、諸々の現在の自己状態の獲得にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が善く取り除かれているなら、テーラよ、このように、まさに、独住は、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一切を征服し、一切を知る、思慮深き者を、一切の法(事象)に汚されない者を、一切を捨棄し、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者を──わたしは、その人を『独住者』と説く」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. マハー・カッピナの経

 

245. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者マハー・カッピナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者マハー・カッピナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。色白く、痩身で、高い鼻の、この比丘がやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この比丘は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。そして、すなわち、その比丘が過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる。

 

 日は、昼に輝き、月は、夜に明らむ。士族は、武装者として輝き、婆羅門は、瞑想者として輝く。そこで、覚者は、昼夜全てに、威光によって輝く」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 道友の経

 

246. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者マハー・カッピナの共住者である、二者の道友の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。カッピナの共住者である、これらの道友の比丘たちがやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、彼らは、大いなる神通ある者たちであり、大いなる威力ある者たちであり、そして、すなわち、それらの比丘たちが過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、これらの道友の比丘たちは、長夜にわたり、共に赴く者たちとしてあり、彼らの正なる法(教え)は合致する──覚者によって知らされた法(教え)において。

 

 カッピナに善く教導された者たちであり、聖者によって知らされた法(教え)において、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 比丘に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「コーリタ、そして、ウパティッサ、さらに、また、瓶と呼ばれ、新参の者、スジャータ、そして、バッディ(ラクンダカ・バッディヤ)、ヴィサーカ、ナンダ、そして、ティッサ、そして、テーラという名の者、カッピナがあり、さらに、道友とともに、〔それらの〕十二がある」と。

 

 因縁の部(因縁篇)が第二となる。

 

 その〔部〕のための摂頌となる

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「因縁と知悉と界域があり、始源が思い考えられないものとともに、カッサパ、尊敬とラーフラとラッカナがあり、喩えと比丘とともに、部となる」と。

 

 それによって、第二と呼ばれる、ということです。

 

 因縁の部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。