増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 サッタカ・ニパータ聖典(七集:七なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 財の章(1.~)

 

1. 第一の愛しいものの経

2. 第二の愛しいものの経

3. 簡略〔の観点〕による力の経

4. 詳細〔の観点〕による力の経

5. 簡略〔の観点〕による財の経

6. 詳細〔の観点〕による財の経

7. ウッガの経

8. 束縛するものの経

9. 捨棄の経

10. 物惜の経

 

2. 悪習の章(11.~)

 

1. 第一の悪習の経

2. 第二の悪習の経

3. 家の経

4. 人の経

5. 水の喩えある者の経

6. 無常の随観の経

7. 苦痛の随観の経

8. 無我の随観の経

9. 涅槃の経

10. 非十者の基盤の経

 

3. ヴァッジー〔国〕の七なるものの章(21.~)

 

1. サーランダダの経

2. ヴァッサカーラの経

3. 第一の七なるものの経

5. 第三の七なるものの経

6. 覚りの支分の経

7. 表象の経

8. 第一の遍き衰退の経

9. 第二の遍き衰退の経

10. 衰滅の経

11. 滅亡の経

 

4. 天神の章(32.~)

 

1. 不放逸にたいする尊重〔の思い〕の経

2. 恥〔の思い〕にたいする尊重〔の思い〕の経

3. 第一の素直であることの経

4. 第二の素直であることの経

5. 第一の朋友の経

6. 第二の朋友の経

7. 第一の融通無礙〔の智慧〕の経

8. 第二の融通無礙〔の智慧〕の経

9. 第一の自在の経

10. 第二の自在の経

11. 第一の非十者の経

12. 第二の非十者の経

 

5. 大いなる祭祀の章(44.~)

 

1. 七つの識知〔作用〕の止住の経

2. 禅定の必需品の経

3. 第一の火の経

4. 第二の火の経

5. 第一の表象の経

6. 第二の表象の経

7. 淫事の経

8. 束縛するものの経

9. 大いなる果となる布施の経

10. ナンダマータルの経

 

6. 説き明かされないものの章(54.~)

 

1. 説き明かされないものの経

2. 人の境遇の経

3. ティッサ婆羅門の経

4. シーハ軍団長の経

5. 守護されようもないものの経

6. キミラの経

7. 七つの法の経

8. 「居眠りをしながら」の経

9. 慈愛の経

10. 妻の経

11. 忿激する者の経

 

7. 大いなるものの章(65.~)

 

1. 恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの経

2. 七つの太陽の経

3. 城市の喩えの経

4. 法を知る者の経

5. パーリッチャッタカの経

6. 「尊敬して」の経

7. 修行の経

8. 火の塊の喩えの経

9. スネッタの経

10. アラカの経

 

8. 律の章(75.~)

 

1. 第一の律の保持者の経

2. 第二の律の保持者の経

3. 第三の律の保持者の経

4. 第四の律の保持者の経

5. 第一の律の保持者の荘厳の経

6. 第二の律の保持者の荘厳の経

7. 第三の律の保持者の荘厳の経

8. 第四の律の保持者の荘厳の経

9. 教師の教えの経

10. 問題の止寂の経

 

9. 沙門の章(85.~)

 

1. 比丘の経

2. 沙門の経

3. 婆羅門の経

4. 聞経者の経

5. 沐浴者の経

6. 〔真の〕知に至る者の経

7. 聖者の経

8. 阿羅漢の経

9. 正ならざる法の経

10. 正なる法の経

 

10. 〔供物を〕捧げられるべき者の章(95.~)

11. 貪欲と省略〔の経典〕(623.~)

 


 

 

 サッタカ・ニパータ聖典(七集:七なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 財の章

 

1. 第一の愛しいものの経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者として〔世に〕有り、かつまた、尊敬を欲する者として〔世に〕有り、かつまた、軽蔑されないことを欲する者として〔世に〕有り、かつまた、恥〔の思い〕なき者として、かつまた、〔良心の〕咎めなき者として、かつまた、悪しき欲求ある者として、かつまた、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重からざる者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、尊敬を欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、軽蔑されないことを欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、恥〔の思い〕ある者として、かつまた、〔良心の〕咎めある者として、かつまた、少なき欲求の者として、かつまた、正しい見解ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の愛しいものの経

 

2. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者として〔世に〕有り、かつまた、尊敬を欲する者として〔世に〕有り、かつまた、軽蔑されないことを欲する者として〔世に〕有り、かつまた、恥〔の思い〕なき者として、かつまた、〔良心の〕咎めなき者として、かつまた、嫉妬あるとして、かつまた、物惜ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重からざる者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、尊敬を欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、軽蔑されないことを欲する者ではなく〔世に〕有り、かつまた、恥〔の思い〕ある者として、かつまた、〔良心の〕咎めある者として、かつまた、嫉妬なき者として、かつまた、物惜なき者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 簡略〔の観点〕による力の経

 

3. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、七つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの力があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信の力があり、そして、精進があり、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの力があり、さらに、気づきの力があり、禅定があり、まさに、第七の力として、智慧がある。これらによって、力ある者となり、比丘は、賢者として、安楽のうちに生きる。

 

 根源のままに法(教え)を弁別するなら、〔彼は〕智慧によって義(意味)を観察する。灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有る」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 詳細〔の観点〕による力の経

 

4. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、七つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、信の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、これは、精進の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、恥〔の思い〕の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉による悪しき行ないを〔恥じ〕、意による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を恥じます。比丘たちよ、これは、恥〔の思い〕の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔良心の〕咎めの力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。比丘たちよ、これは、〔良心の〕咎めの力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、これは、気づきの力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、禅定の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、禅定の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの力があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信の力があり、そして、精進があり、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの力があり、さらに、気づきの力があり、禅定があり、まさに、第七の力として、智慧がある。これらによって、力ある者となり、比丘は、賢者として、安楽のうちに生きる。

 

 根源のままに法(教え)を弁別するなら、〔彼は〕智慧によって義(意味)を観察する。灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有る」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 簡略〔の観点〕による財の経

 

5. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの財です。どのようなものが、七つのものなのですか。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕の財であり、〔良心の〕咎めの財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧の財です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの財があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信の財があり、戒の財があり、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの財があり、そして、所聞の財があり、さらに、施捨があり、まさに、第七の財として、智慧がある。

 

 彼に、これらの財が存在するなら──女であれ、あるいは、男であれ──彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 詳細〔の観点〕による財の経

 

6. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの財です。どのようなものが、七つのものなのですか。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕の財であり、〔良心の〕咎めの財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧の財です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、信の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の財と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の財と説かれます。

 

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、恥〔の思い〕の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉による悪しき行ないを〔恥じ〕、意による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を恥じます。比丘たちよ、これは、恥〔の思い〕の財と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔良心の〕咎めの財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。比丘たちよ、これは、〔良心の〕咎めの財と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、所聞の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、これは、所聞の財と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、施捨の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。比丘たちよ、これは、施捨の財と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の財なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の財と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの財があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信の財があり、戒の財があり、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの財があり、そして、所聞の財があり、さらに、施捨があり、まさに、第七の財として、智慧がある。

 

 彼に、これらの財が存在するなら──女であれ、あるいは、男であれ──彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ウッガの経

 

7. そこで、まさに、王の大臣ウッガが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、王の大臣ウッガは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、このミガーラ・ローハネイヤが、それほどまでに富裕であり、それほどまでに大いなる財産があり、それほどまでに大いなる財物があるのは」と。「ウッガよ、また、ミガーラ・ローハネイヤは、どれほどまでに富裕であり、どれほどまでに大いなる財産があり、どれほどまでに大いなる財物があるのですか」と。「尊き方よ、彼には、百千の百金があります。銀のばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。「ウッガよ、『まさに、これは、財として存在する。これが、〔財として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。ウッガよ、しかしながら、それは、まさに、この財は、火と、水と、王たちと、盗賊たちと、愛しくない者たちと、相続者たちと、相通じるものです。ウッガよ、七つのものがあります。まさに、これらの財は、火と、水と、王たちと、盗賊たちと、愛しくない者たちと、相続者たちと、相通じないものです。どのようなものが、七つのものなのですか。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕の財であり、〔良心の〕咎めの財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧の財です。ウッガよ、まさに、これらの七つの財は、火と、水と、王たちと、盗賊たちと、愛しくない者たちと、相続者たちと、相通じないものです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「信の財があり、戒の財があり、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの財があり、そして、所聞の財があり、さらに、施捨があり、まさに、第七の財として、智慧がある。

 

 彼に、これらの財が存在するなら──女であれ、あるいは、男であれ──彼は、天と人間の世において、まさに、大いなる財ある者であり、不可伐の者である。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕清信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 束縛するものの経

 

8. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの束縛するもの()です。どのようなものが、七つのものなのですか。随貪という束縛するものであり、敵対という束縛するものであり、見解という束縛するものであり、疑惑という束縛するものであり、思量という束縛するものであり、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものであり、無明という束縛するものです。比丘たちよ、まさに、これらの七つの束縛するものがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 捨棄の経

 

9. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕束縛するものの捨棄と断絶のために、梵行は住されます。どのようなものが、七つのものなのですか。随貪という束縛するものの捨棄と断絶のために、梵行は住されます。敵対という束縛するものの……略……。見解という束縛するものの……。疑惑という束縛するものの……。思量という束縛するものの……。生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものの……。無明という束縛するものの捨棄と断絶のために、梵行は住されます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの束縛するものの捨棄と断絶のために、梵行は住されます。比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、比丘の、随貪という束縛するものが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、敵対という束縛するものが……略……見解という束縛するものが……疑惑という束縛するものが……思量という束縛するものが……生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものが……無明という束縛するものが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 物惜の経

 

10. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの束縛するものです。どのようなものが、七つのものなのですか。随貪という束縛するものであり、敵対という束縛するものであり、見解という束縛するものであり、疑惑という束縛するものであり、思量という束縛するものであり、嫉妬という束縛するものであり、物惜という束縛するものです。比丘たちよ、まさに、これらの七つの束縛するものがあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 財の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの愛しいもの、力、財、まさしく、そして、簡略〔の観点〕、詳細〔の観点〕、ウッガ、まさしく、そして、束縛するもの、捨棄があり、さらに、物惜とともに、〔章となる〕」と。

 

2. 悪習の章

 

1. 第一の悪習の経

 

11. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの悪習(随眠:潜在煩悩)です。どのようなものが、七つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、敵対〔の思い〕の悪習であり、見解の悪習であり、疑惑〔の思い〕の悪習であり、思量の悪習であり、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、無明の悪習です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの悪習があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の悪習の経

 

12. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕悪習の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。どのようなものが、七つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。敵対〔の思い〕の悪習の……略……。見解の悪習の……。疑惑〔の思い〕の悪習の……。思量の悪習の……。生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の……。無明の悪習の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの悪習の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、比丘の、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、敵対〔の思い〕の悪習が……略……見解の悪習が……疑惑〔の思い〕の悪習が……思量の悪習が……生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習が……無明の悪習が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、悪習を還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 家の経

 

13. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものはなく、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、近しく坐るに十分なるものはありません。どのようなものが、七つのものなのですか。〔その家の者たちは〕意に適う〔やり方〕で立礼しません。意に適う〔やり方〕で敬拝しません。意に適う〔やり方〕で坐を与えません。彼に、存しているものを完全に秘密にします。多くのものあるもまた、僅かなものを施します。精妙なるものあるもまた、粗末なものを施します。恭しくなく施します──恭しく、ではなく。比丘たちよ、まさに、これらの七つの支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものはなく、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、近しく坐るに十分なるものはありません。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものがあり、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、近しく坐るに十分なるものがあります。どのようなものが、七つのものなのですか。〔その家の者たちは〕意に適う〔やり方〕で立礼します。意に適う〔やり方〕で敬拝します。意に適う〔やり方〕で坐を与えます。彼に、存しているものを完全に秘密にしません。多くのものあるもまた、多くのものを施します。精妙なるものあるもまた、精妙なるものを施します。恭しく施します──恭しくなく、ではなく。比丘たちよ、まさに、これらの七つの支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものがあり、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、近しく坐るに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 人の経

 

14. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、七つのものなのですか。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 水の喩えある者の経

 

15. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの水の喩えある人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、一度、潜ったなら、まさしく、〔そのまま〕潜った者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、〔ふたたび〕潜ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、〔そのまま〕止住している者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、観察し、顧慮します。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、超え渡ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、浅瀬に至り得た者と成ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、浮かんで、超え渡った者と成り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立ちます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、一度、潜ったなら、まさしく、〔そのまま〕潜った者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸々の絶対的に黒にして善ならざる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、一度、潜ったなら、まさしく、〔そのまま〕潜った者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、〔ふたたび〕潜るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼の、その信は、まさしく、止住せず、増大せず、まさしく、衰退します。彼の、その恥〔の思い〕は……略……。彼の、その〔良心の〕咎めは……。彼の、その精進は……。彼の、その智慧は、まさしく、止住せず、増大せず、まさしく、衰退します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、〔ふたたび〕潜ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、〔そのまま〕止住している者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼の、その信は、まさしく、衰退せず、増大せず、止住しているものと成ります。彼の、その恥〔の思い〕は……略……。彼の、その〔良心の〕咎めは……。彼の、その精進は……。彼の、その智慧は、まさしく、衰退せず、増大せず、止住しているものと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、〔そのまま〕止住している者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、観察し、顧慮するのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、観察し、顧慮します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、超え渡るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、超え渡ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、浅瀬に至り得た者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、浅瀬に至り得た者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、浮かんで、超え渡った者と成り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『善きかな、諸々の善なる法(性質)において信あることは』『善きかな……略……恥〔の思い〕あることは』『善きかな……〔良心の〕咎めあることは』『善きかな……精進あることは』『善きかな、諸々の善なる法(性質)において智慧あることは』と〔思いながら〕浮かびます。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、人は、浮かんで、超え渡った者と成り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立ちます。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの七つの水の喩えある人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 無常の随観の経

 

16. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この第一の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼には、前後なく〔同時に〕、かつまた、煩悩の消尽が有り、かつまた、生命の消尽が〔有ります〕。比丘たちよ、この第二の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と〔成ります〕。比丘たちよ、この第七の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 苦痛の随観の経

 

17. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、一切の形成〔作用〕において、苦痛の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 無我の随観の経

 

18. ……一切の法(事象)において、無我の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 涅槃の経

 

19. ……涅槃において、安楽の随観ある者として〔世に〕住みます──安楽の表象ある者として、安楽の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この第一の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、涅槃において、安楽の随観ある者として〔世に〕住みます──安楽の表象ある者として、安楽の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼には、前後なく〔同時に〕、かつまた、煩悩の消尽が有り、かつまた、生命の消尽が〔有ります〕。比丘たちよ、この第二の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、涅槃において、安楽の随観ある者として〔世に〕住みます──安楽の表象ある者として、安楽の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と〔成ります〕。比丘たちよ、この第七の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 非十者の基盤の経

 

20. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの非十者(煩悩の滅尽者)の基盤です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、学びの受持にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、学びの受持にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。法(事象)の感知にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、法(事象)の感知にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。欲求の調伏(取り除き)にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、欲求の調伏にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。静坐にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、静坐にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。精進勉励にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、精進勉励にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。気づきと賢明さにたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、気づきと賢明さにたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。〔正しい〕見解による理解にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、〔正しい〕見解による理解にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。比丘たちよ、まさに、これらの七つの非十者の基盤があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 悪習の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの悪習、家、人、水の喩えある者、無常、苦痛、そして、無我、涅槃、そして、非十者の基盤があり、〔章となる〕」と。

 

3. ヴァッジー〔国〕の七なるものの章

 

1. サーランダダの経

 

21. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。サーランダダ塔廟において。そこで、まさに、大勢のリッチャヴィ〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、世尊は、こう言いました。「リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちとして〔世に〕有るあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為すあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持するあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考えるあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させないあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それらを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それらに、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させないあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有るあいだは、『どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか』と、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、ヴァッジー〔国〕の者たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、ヴァッジー〔国〕の者たちが現見されるあいだは、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ヴァッサカーラの経

 

22. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲し、〔世に〕有ります。彼は、このように言いました。「まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ」と。

 

 そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲しています。彼は、このように言いました。「まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ」』と。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおりに、それを、善くしっかりと収め取って、わたしに告げるがよい。なぜなら、如来たちは、真実を離れることを話さないからだ」と。

 

 「君よ、わかりました」と、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。貴君ゴータマよ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、ヴァッジー〔国〕を攻めることを欲しています。彼は、このように言いました。『まさに、わたしは、これらの、このように大いなる栄光ある者たちであり、このように大いなる威力ある者たちである、ヴァッジー〔国〕の者たちを断絶するのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちを無きものとするのだ。ヴァッジー〔国〕の者たちに、不幸と災厄を惹起させるのだ』」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちである』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちである』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちとして〔世に〕有るあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為す』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為す』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々のヴァッジー〔国〕の為すべきことを為すあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持する』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持する』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、過去に制定されたとおりの諸々のヴァッジー〔国〕の法(性質)を受持して行持するあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考える』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考える』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の老練の者たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考えるあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させない』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させない』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらの者たちが、良家の婦女たちであり、良家の少女たちであるなら、彼女たちを、〔親元から〕引き離して、無理やり〔自家に〕居住させないあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それらを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それらに、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させない』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちは、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それらを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それらに、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させない』」と。「アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、ヴァッジー〔国〕の者たちが、すなわち、それらのものが、ヴァッジー〔国〕の者たちにとって、ヴァッジー〔国〕の塔廟であるなら、まさしく、そして、内にあるものも、さらに、外にあるものも、それらを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、それらに、過去に施され、過去に為された、法(正義)にかなう供物を遍く衰退させないあいだは、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 アーナンダよ、どうでしょう、かくのごとく、あなたは聞きましたか。『ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有る。「どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか」』」と。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有る。「どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか」』」と。「アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちに、阿羅漢たちにたいする法(正義)にかなう守護と防護と保護が、善く差配されたものとして有るあいだは、『どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない阿羅漢たちが領土に到来し、かつまた、〔すでに〕到来している阿羅漢たちが領土において平穏のうちに〔世に〕住むであろうか』と、アーナンダよ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーサーリーに住んでいます。サーランダダ塔廟において。婆羅門よ、そこで、わたしは、ヴァッジー〔族〕の者たちに、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)を説示しました。婆羅門よ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、ヴァッジー〔国〕の者たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、ヴァッジー〔国〕の者たちが現見されるあいだは、婆羅門よ、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 「貴君ゴータマよ、たとえ、一つ一つの遍き衰退とならない法(性質)であれ、〔それを〕具備しているなら、ヴァッジー〔国〕の者たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。七つの遍き衰退とならない法(性質)を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう。貴君ゴータマよ、そして、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、ヴァッジー〔国〕の者たちに為すべきことはありません──すなわち、この、戦いのための、懐柔より他には、内部分裂より他には。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「婆羅門よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の七なるものの経

 

23. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、〔合議のために〕幾度となく集まる者たちであり、〔合議のために〕多く集まる者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、和合の者たちとして集まり、和合の者たちとして立ち上がり、和合の者たちとして諸々の僧団の為すべきことを為すあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、制定されていないものを制定せず、制定されたものを断絶せず、制定されたとおりの諸々の学びの境処(戒律)において、〔それらを〕受持して行持するあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、すなわち、それらの長老の比丘たちが、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たる者たちであり、僧団の遍き導き手たちであるなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、彼らの〔言葉を〕聞くべきと思い考えるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、生起した渇愛の、さらなる生存あるものの、支配に赴かないあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、諸々の林にある臥坐所について期待〔の思い〕を有する者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、まさしく、各自それぞれに、気づきを現起させるあいだは、『どうであろう、かくのごとく、かつまた、〔いまだ〕到来していない梵行を共にする博愛なる者たちが到来し、かつまた、〔すでに〕到来している梵行を共にする博愛なる者たちが平穏のうちに〔世に〕住むであろうか』と、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の七なるものの経

 

24. 「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、作業を喜びとする者たちではなく、作業を喜ぶ者たちではなく、作業を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、談義を喜びとする者たちではなく、談義を喜ぶ者たちではなく、談義を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは……略……睡眠を喜びとする者たちではなく、睡眠を喜ぶ者たちではなく、睡眠を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは……社交を喜びとする者たちではなく、社交を喜ぶ者たちではなく、社交を喜びとすることに専念する者たちではなく、〔世に〕有るあいだは……悪しき欲求ある者たちではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちではなく、〔世に〕有るあいだは……悪しき朋友ある者たちではなく、悪しき道友ある者たちではなく、悪しき友人ある者たちではなく、〔世に〕有るあいだは……ほんの些細な殊勝〔の境地〕の到達によって、中途において完成〔の思い〕を惹起しないあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第三の七なるものの経

 

25. 「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、信ある者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、恥〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るあいだは……略……〔良心の〕咎めある者たちとして〔世に〕有るあいだは……多聞の者たちとして〔世に〕有るあいだは……精進に励む者たちとして〔世に〕有るあいだは……気づきある者たちとして〔世に〕有るあいだは……智慧ある者たちとして〔世に〕有るあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 覚りの支分の経

 

26. 「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めるあいだは……略……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めるあいだは……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めるあいだは……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めるあいだは……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めるあいだは……放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 表象の経

 

27. 「比丘たちよ、七つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、無常の表象を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、比丘たちが、無我の表象を修めるあいだは……略……不浄の表象を修めるあいだは……危険の表象を修めるあいだは……捨棄の表象を修めるあいだは……離貪の表象を修めるあいだは……止滅の表象を修めるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)が、比丘たちにおいて止住し、そして、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)において、比丘たちが現見されるあいだは、比丘たちよ、比丘たちには、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の遍き衰退の経

 

28. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことであり、また、まさに、僧団においては、諸々の僧団の為すべきことが存在し、そこで、〔いまだ〕学びある比丘が、かくのごとく深慮し、『また、まさに、僧団においては、荷を運ぶ者(重責ある者)たちとして、長老たちが、経歴ある者たちが、長き出家者たちが、存在する。彼らは、その〔為すべきこと〕によって覚知されるのだ』と、自己みずから、それら〔の為すべきこと〕にたいし、専念〔努力〕を惹起します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、食において量を知ることであり、また、まさに、僧団においては、諸々の僧団の為すべきことが存在し、そこで、〔いまだ〕学びある比丘が、かくのごとく深慮し、『また、まさに、僧団においては、荷を運ぶ者たちとして、長老たちが、経歴ある者たちが、長き出家者たちが、存在する。彼らは、その〔為すべきこと〕によって覚知されるのだ』と、自己みずから、それら〔の為すべきこと〕にたいし、専念〔努力〕を惹起しません。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の遍き衰退の経

 

29. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、在俗信者の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘と会見することを減らします。正なる法(教え)を聞くことを怠ります。卓越の戒を学びません。清信多からざる者として〔世に〕有ります。比丘たちにたいし、まさしく、そして、長老の者たちにたいし、かつまた、新参の者たちにたいし、さらに、中堅の者たちにたいし、咎め立ての心ある者として、欠点を探し求める者として、法(教え)を聞きます。この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めます。さらに、そこにおいて、先んじて為すことを為します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が、在俗信者の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、在俗信者の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘と会見することを減らしません。正なる法(教え)を聞くことを怠りません。卓越の戒を学びます。清信多き者として〔世に〕有ります。比丘たちにたいし、まさしく、そして、長老の者たちにたいし、かつまた、新参の者たちにたいし、さらに、中堅の者たちにたいし、咎め立ての心なき者として、欠点を探し求める者ではなく、法(教え)を聞きます。この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めません。さらに、ここに(僧団において)、先んじて為すことを為します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が、在俗信者の遍き衰退なきために等しく転起します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、在俗信者が、自己を修めた者たちと会見することを減らし、そして、諸々の聖なる法(教え)を聞くことを〔減らし〕、卓越の戒を学ばない。

 

 そして、比丘たちにたいする清信なき〔思い〕が、より一層、より一層、増大し、さらに、咎め立ての心ある者として、正なる法(教え)を聞くことを求める。

 

 そして、この〔僧団〕より外に、他の施与されるべき者を探し求め、さらに、すなわち、在俗信者として、まさしく、そこにおいて、先んじて為すことを為す。

 

 〔覚者によって〕善く説示された、まさに、これらの七つの遍き衰退となる法(性質)に、在俗信者が慣れ親しんでいるなら、正なる法(教え)から遍く衰退する。

 

 すなわち、在俗信者が、自己を修めた者たちと会見することを減らさず、そして、諸々の聖なる法(教え)を聞くことを〔減らさず〕、さらに、卓越の戒を学ぶ。

 

 そして、比丘たちにたいする清信が、より一層、より一層、増大し、さらに、咎め立ての心なき者として、正なる法(教え)を聞くことを求める。

 

 この〔僧団〕より外に、他の施与されるべき者を探し求めず、さらに、すなわち、在俗信者として、まさしく、ここに(僧団において)、先んじて為すことを為す。

 

 〔覚者によって〕善く説示された、まさに、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)に、在俗信者が慣れ親しんでいるなら、正なる法(教え)から遍く衰退しない」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 衰滅の経

 

30. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、在俗信者にとって衰滅となるものです。……略……。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、在俗信者にとって成就となるものです。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

11. 滅亡の経

 

31. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、在俗信者にとって滅亡となるものです。……略……。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、在俗信者にとって発生となるものです。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘と会見することを減らしません。正なる法(教え)を聞くことを怠りません。卓越の戒を学びます。清信多き者として〔世に〕有ります。比丘たちにたいし、まさしく、そして、長老の者たちにたいし、かつまた、新参の者たちにたいし、さらに、中堅の者たちにたいし、咎め立ての心なき者として、欠点を探し求める者ではなく、法(教え)を聞きます。この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めません。さらに、ここに(僧団において)、先んじて為すことを為します。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、在俗信者にとって発生となるものがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、在俗信者が、自己を修めた者たちと会見することを減らし、そして、諸々の聖なる法(教え)を聞くことを〔減らし〕、卓越の戒を学ばない。

 

 そして、比丘たちにたいする清信なき〔思い〕が、より一層、より一層、増大し、さらに、咎め立ての心ある者として、正なる法(教え)を聞くことを求める。

 

 そして、この〔僧団〕より外に、他の施与されるべき者を探し求め、さらに、すなわち、在俗信者として、まさしく、そこにおいて、先んじて為すことを為す。

 

 〔覚者によって〕善く説示された、まさに、これらの七つの遍き衰退となる法(性質)に、在俗信者が慣れ親しんでいるなら、正なる法(教え)から遍く衰退する。

 

 すなわち、在俗信者が、自己を修めた者たちと会見することを減らさず、そして、諸々の聖なる法(教え)を聞くことを〔減らさず〕、さらに、卓越の戒を学ぶ。

 

 そして、比丘たちにたいする清信が、より一層、より一層、増大し、さらに、咎め立ての心なき者として、正なる法(教え)を聞くことを求める。

 

 この〔僧団〕より外に、他の施与されるべき者を探し求めず、さらに、すなわち、在俗信者として、まさしく、ここに(僧団において)、先んじて為すことを為す。

 

 〔覚者によって〕善く説示された、まさに、これらの七つの遍き衰退とならない法(性質)に、在俗信者が慣れ親しんでいるなら、正なる法(教え)から遍く衰退しない」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 ヴァッジー〔国〕の七なるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、サーランダダとヴァッサカーラ、比丘のものたる三つの七なるもの、覚り〔の支分〕と表象、さらに、二つの衰退、そして、衰滅、滅亡があり、〔章となる〕」と。

 

4. 天神の章

 

1. 不放逸にたいする尊重〔の思い〕の経

 

32. そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることであり、不放逸にたいし尊重〔の思い〕あることであり、友愛にたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの七つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天神の言葉を〕正しくお認めに成りました(天神に随喜した)。そこで、まさに、その天神は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることであり、不放逸にたいし尊重〔の思い〕あることであり、友愛にたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの七つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師を重きとし、法(教え)を重きとし、そして、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──禅定を重きとし、熱情ある〔比丘〕、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──

 

 不放逸を重きとし、友愛にたいし尊重〔の思い〕ある比丘は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 恥〔の思い〕にたいする尊重〔の思い〕の経

 

33. 「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることであり、恥〔の思い〕にたいし尊重〔の思い〕あることであり、〔良心の〕咎めにたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの七つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師を重きとし、法(教え)を重きとし、そして、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──禅定を重きとし、熱情ある〔比丘〕、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──

 

 恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを成就した、敬虔〔の思い〕を有し尊重〔の思い〕を有する〔比丘〕は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の素直であることの経

 

34. 「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が……略……わたしに、こう言いました。『尊き方よ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることであり、素直であることであり、善き朋友あることです。尊き方よ、まさに、これらの七つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師を重きとし、法(教え)を重きとし、そして、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──禅定を重きとし、熱情ある〔比丘〕、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──

 

 善き朋友があり素直で、敬虔〔の思い〕を有し尊重〔の思い〕を有する〔比丘〕は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の素直であることの経

 

35. 「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり……略……。『尊き方よ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、七つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることであり、素直であることであり、善き朋友あることです。尊き方よ、まさに、これらの七つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。尊き方よ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちでないなら、そして、彼らに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。そして、自己みずから、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……略……。そして、自己みずから、僧団にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、学びにたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、学びにたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、禅定にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、素直である者として、さらに、素直であることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、善き朋友ある者として、さらに、善き朋友あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちでないなら、そして、彼らに、善き朋友あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちでないなら、そして、彼らに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。そして、自己みずから、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……略……。そして、自己みずから、僧団にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、学びにたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、学びにたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、禅定にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、禅定にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、素直である者として、さらに、素直であることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、善き朋友ある者として、さらに、善き朋友あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちでないなら、そして、彼らに、善き朋友あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の朋友の経

 

36. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、朋友として慣れ親しむべきです。どのようなものが、七つのものなのですか。施し難きものを施します。為し難きことを為します。忍耐し難きことを忍耐します。その者に〔自己の〕秘密を打ち明けます。その者の秘密を完全に秘密にします。諸々の逆境において捨棄しません。零落によって軽んじません。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した者は、朋友として慣れ親しむべきです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「朋友として、施し難きものを施し、さらに、また、為し難きことを為し、そこで、また、その者の諸々の悪言を忍耐し、さらに、諸々の忍耐し難きことを〔忍耐し〕──

 

 そして、その者に〔自己の〕秘密を告知し、その者の秘密を完全に秘匿し、諸々の逆境において捨棄せず、零落によって軽んじない。

 

 すなわち、ここに、人において、これらの状況が等しく見出されるなら、彼は、朋友として慣れ親しむべきである──朋友を欲する者によって、そのような種類の者は」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の朋友の経

 

37. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきであり、奉侍するべきです──たとえ、しりぞけられながらもまた。どのようなものが、七つのものなのですか。かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有り、かつまた、説者として、かつまた、言葉の受認者として、かつまた、深遠なる議論の為し手として、〔世に〕有り、そして、状況なきことに〔他者を〕駆り立てません。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきであり、奉侍するべきです──たとえ、しりぞけられながらもまた」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「愛しい者であり、重き者であり、尊ばれる者であり、かつまた、説者であり、言葉の受認者であり、かつまた、深遠なる議論の為し手であり、そして、状況なきことに〔他者を〕駆り立てることがない。

 

 すなわち、人において、ここに、これらの状況が等しく見出されるなら、彼は、朋友として慣れ親しむべきである──朋友を欲する者によって、義(利益)を欲する者に慈しみ〔の思い〕ある者として、たとえ、冷たくされながらも、そのような種類の者は」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の融通無礙〔の智慧〕の経

 

38. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、四つの融通無礙〔の智慧〕(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)『これは、わたしの心の畏縮である』と、事実のとおりに覚知します。(2)あるいは、内に、汚染した心を、『内に、わたしの心は汚染している』と、事実のとおりに覚知します。(3)あるいは、外に、散乱した心を、『外に、わたしの心は散乱している』と、事実のとおりに覚知します。(4)彼に、諸々の感受が、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。(5)諸々の表象が、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。(6)諸々の思考が、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。(7)また、まさに、彼に、諸々の正当なる〔法〕と不当なる法(性質)において、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる〔法〕において、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する〔法〕において、形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、四つの融通無礙〔の智慧〕を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の融通無礙〔の智慧〕の経

 

39. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したサーリプッタは、四つの融通無礙〔の智慧〕を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、サーリプッタが、(1)『これは、わたしの心の畏縮である』と、事実のとおりに覚知します。(2)あるいは、内に、汚染した心を、『内に、わたしの心は汚染している』と、事実のとおりに覚知します。(3)あるいは、外に、散乱した心を、『外に、わたしの心は散乱している』と、事実のとおりに覚知します。(4)彼に、諸々の感受が、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。(5)諸々の表象が、見出されたものとして……略……。(6)諸々の思考が、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。(7)また、まさに、彼に、諸々の正当なる〔法〕と不当なる法(性質)において、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる〔法〕において、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する〔法〕において、形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備したサーリプッタは、四つの融通無礙〔の智慧〕を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の自在の経

 

40. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、心を自在に転起させます。そして、〔その〕比丘は、心の自在(支配)によって転起しません。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の入定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の止住に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の出起に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、心を自在に転起させます。そして、〔その〕比丘は、心の自在によって転起しません」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の自在の経

 

41. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したサーリプッタは、心を自在に転起させます。そして、サーリプッタは、心の自在によって転起しません。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、サーリプッタが、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の入定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の止住に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の出起に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備したサーリプッタは、心を自在に転起させます。そして、サーリプッタは、心の自在によって転起しません」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第一の非十者の経

 

42. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。「友よ、まさに、彼が誰であれ、二十年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行(禁欲清浄行)を歩むなら、『非十者(煩悩の滅尽者)たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。『友よ、まさに、彼が誰であれ、二十年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、「非十者たる比丘」という言葉たるに十分なるものがあります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』と。尊き方よ、いったい、まさに、この法(教え)と律において、非十者たる比丘は、単に年を数えることのみによって報知することができますか」と。

 

 「サーリプッタよ、まさに、この法(教え)と律において、非十者たる比丘は、単に年を数えることのみによって報知することはできません。サーリプッタよ、七つのものがあります。まさに、これらの非十者の基盤が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました。

 

 どのようなものが、七つのものなのですか。サーリプッタよ、ここに、比丘が、学びの受持にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、学びの受持にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。法(事象)の感知にたいし強き欲〔の思い〕(意欲)ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、法(事象)の感知にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。欲求の調伏(取り除き)にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、欲求の調伏にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。静坐にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、静坐にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。精進勉励にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、精進勉励にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。気づきと賢明さにたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、気づきと賢明さにたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。〔正しい〕見解による理解にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、〔正しい〕見解による理解にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。サーリプッタよ、まさに、これらの七つの非十者の基盤が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました。サーリプッタよ、まさに、これらの七つの非十者の基盤を具備した比丘が、もし、また、十二年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、二十四年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、三十六年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、四十八年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 第二の非十者の経

 

43. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、このような〔思いが〕有りました。「コーサンビーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。「友よ、まさに、彼が誰であれ、二十年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、コーサンビーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『コーサンビーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。……略……。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。

 

 尊き方よ、また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。『友よ、まさに、彼が誰であれ、二十年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、「非十者たる比丘」という言葉たるに十分なるものがあります』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』と。尊き方よ、いったい、まさに、この法(教え)と律において、非十者たる比丘は、単に年を数えることのみによって報知することができますか」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、この法(教え)と律において、非十者たる比丘は、単に年を数えることのみによって報知することはできません。アーナンダよ、七つのものがあります。まさに、これらの非十者の基盤が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました。

 

 どのようなものが、七つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきある者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。アーナンダよ、まさに、これらの七つの非十者の基盤が、わたしによって、自ら、証知して、実証して、知らされました。アーナンダよ、まさに、これらの七つの非十者の基盤を具備した比丘が、もし、また、十二年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、二十四年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、三十六年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。もし、また、四十八年のあいだ、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、『非十者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 天神の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不放逸、まさしく、そして、恥〔の思い〕、二つの素直、二つの朋友、二つの融通無礙〔の智慧〕、二つの自在があり、二つの非十者の基盤とともに、〔章となる〕」と。

 

5. 大いなる祭祀の章

 

1. 七つの識知〔作用〕の止住の経

 

44. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの識知〔作用〕の止住(識住)です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵身天〔の神々〕たちのように。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。

 

 比丘たちよ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの識知〔作用〕の止住があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 禅定の必需品の経

 

45. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの禅定の必需品です。どのようなものが、七つのものなのですか。正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの七つの支分を必需品とする、心の一境性であるなら、比丘たちよ、これは、聖なる正しい禅定と説かれます──『機縁を有するもの』ともまた〔説かれ〕、『必需品を有するもの』ともまた〔説かれます〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の火の経

 

46. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの火です。どのようなものが、七つのものなのですか。貪欲の火であり、憤怒の火であり、迷妄の火であり、捧げられるべき火であり、家長の火であり、施与されるべき火であり、薪の火です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの火があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の火の経

 

47. (※)或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。(※)また、まさに、その時点にあって、ウッガタサリーラ婆羅門に、準備中の大いなる祭祀が有ります。祭祀を義(目的)として、五百の雄牛が〔祭祀の〕柱に連行され、〔世に〕有ります。祭祀を義(目的)として、五百の雄の子牛が〔祭祀の〕柱に連行され、〔世に〕有ります。祭祀を義(目的)として、五百の雌の子牛が〔祭祀の〕柱に連行され、〔世に〕有ります。祭祀を義(目的)として、五百の山羊が〔祭祀の〕柱に連行され、〔世に〕有ります。祭祀を義(目的)として、五百の羊が〔祭祀の〕柱に連行され、〔世に〕有ります。そこで、まさに、ウッガタサリーラ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッガタサリーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

※ 「或る時のことです。」から「林園において。」までを、PTS版により補う。

 

 「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『祭火の点灯は、祭柱の掲揚は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕』」と。「婆羅門よ、わたしもまた、まさに、このことを聞きました。『祭火の点灯は、祭柱の掲揚は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕』」と。再度また、まさに、ウッガタサリーラ婆羅門は……略……。三度また、まさに、ウッガタサリーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『祭火の点灯は、祭柱の掲揚は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕』」と。「婆羅門よ、わたしもまた、まさに、このことを聞きました。『祭火の点灯は、祭柱の掲揚は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕』」と。「貴君ゴータマよ、それでは、このことは、まさしく、そして、貴君ゴータマにとっても、さらに、わたしたちにとっても、合致します──すなわち、この、全てによって、全てが」〔と〕。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、ウッガタサリーラ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、如来たちは、このように尋ねられるべきではありません。『貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。「祭火の点灯は、祭柱の掲揚は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕」』と。婆羅門よ、まさに、如来たちは、このように尋ねられるべきです。『尊き方よ、まさに、わたしは、祭火の点灯を欲する者であり、祭柱の掲揚を欲する者です。尊き方よ、世尊は、わたしに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしに教示してください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう』」と。

 

 そこで、まさに、ウッガタサリーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、祭火の点灯を欲する者であり、祭柱の掲揚を欲する者です。尊き方よ、世尊は、わたしに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしに教示してください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、三つの刃を掲げます──善ならざるものとして、苦痛を生成するものとして、苦痛の報いあるものとして。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の刃であり、言葉の刃であり、意の刃です。婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、このように、心を生起させます。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』と。彼は、『〔わたしは〕功徳を作り為す』と、功徳ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善なるものを作り為す』と、善ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善き境遇への道を遍く探し求める』と、悪しき境遇への道を遍く探し求めます。婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、この第一の意の刃を掲げます──善ならざるものとして、苦痛を生成するものとして、苦痛の報いあるものとして。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、このように、言葉を語ります。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』と。彼は、『〔わたしは〕功徳を作り為す』と、功徳ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善なるものを作り為す』と、善ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善き境遇への道を遍く探し求める』と、悪しき境遇への道を遍く探し求めます。婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、この第二の言葉の刃を掲げます──善ならざるものとして、苦痛を生成するものとして、苦痛の報いあるものとして。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、自ら、最初に着手します。『祭祀を義(目的)として、雄牛たちを殺すのだ』〔と〕(※)。自ら、最初に着手します。『祭祀を義(目的)として、雄の子牛たちを殺すのだ』〔と〕。自ら、最初に着手します。『祭祀を義(目的)として、雌の子牛たちを殺すのだ』〔と〕。自ら、最初に着手します。『祭祀を義(目的)として、山羊たちを殺すのだ』〔と〕。自ら、最初に着手します。『祭祀を義(目的)として、羊たちを殺すのだ』と(※※)。彼は、『〔わたしは〕功徳を作り為す』と、功徳ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善なるものを作り為す』と、善ならざるものを作り為します。『〔わたしは〕善き境遇への道を遍く探し求める』と、悪しき境遇への道を遍く探し求めます。婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、この第三の身体の刃を掲げます──善ならざるものとして、苦痛を生成するものとして、苦痛の報いあるものとして。婆羅門よ、〔人は〕祭火を点灯し、祭柱を掲揚しながら、祭祀の、まさしく、以前において、これらの三つの刃を掲げます──善ならざるものとして、苦痛を生成するものとして、苦痛の報いあるものとして。

 

※ テキストには usabhā hantuṃ yaññatthāya とあるが、PTS版により usabhā haññantu yaññatthāya と読む。以下の平行箇所も同様。

※※ テキストには urabbhā hantuṃ yaññatthāya とあるが、PTS版により urabbhā haññantu yaññatthāyā’ti と読む。

 

 婆羅門よ、三つのものがあります。これらの火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲の火であり、憤怒の火であり、迷妄の火です。

 

 (1)婆羅門よ、では、何ゆえに、この貪欲の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきですか。婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。それゆえに、この貪欲の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきです。

 

 (2)婆羅門よ、では、何ゆえに、この憤怒の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきですか。婆羅門よ、怒る者は、まさに、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。それゆえに、この憤怒の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきです。

 

 (3)婆羅門よ、では、何ゆえに、この迷妄の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきですか。婆羅門よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。それゆえに、この迷妄の火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきです。婆羅門よ、まさに、これらの三つの火は、捨棄するべきであり、遍く避けるべきであり、慣れ親しむべきではありません。

 

 婆羅門よ、三つのものがあります。これらの火は、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、安楽に守り抜かれるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。捧げられるべき火であり、家長の火であり、施与されるべき火です。

 

 (4)婆羅門よ、では、どのようなものが、捧げられるべき火なのですか。婆羅門よ、ここに、或る者に、あるいは、『母』ということで、あるいは、『父』ということで、それらの者たちが有るなら、婆羅門よ、これは、捧げられるべき火と説かれます。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、この〔捧げられるべき火〕から、この者は、到来し発生したのであり、それゆえに、この捧げられるべき火は、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、安楽に守り抜かれるべきです。

 

 (5)婆羅門よ、では、どのようなものが、家長の火なのですか。婆羅門よ、ここに、或る者に、あるいは、『子』ということで、あるいは、『妻』ということで、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、婆羅門よ、これは、家長の火と説かれます。それゆえに、この家長の火は、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、安楽に守り抜かれるべきです。

 

 (6)婆羅門よ、では、どのようなものが、施与されるべき火なのですか。婆羅門よ、ここに、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、他者との論争から離間した者たちであり、忍耐と温和において確立した者たちであり、一者の自己(自心)を調御し、一者の自己を合致させ、一者の自己を完全なる涅槃に到達させるなら、婆羅門よ、これは、施与されるべき火と説かれます。それゆえに、この施与されるべき火は、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、安楽に守り抜かれるべきです。婆羅門よ、まさに、これらの三つの火は、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、安楽に守り抜かれるべきです。

 

 (7)婆羅門よ、また、まさに、この薪の火は、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕燃やされるべきであり、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕配慮されるべきであり、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕消されるべきであり、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て置かれるべきです」と。

 

 このように説かれたとき、ウッガタサリーラ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として、かくのごとく。貴君ゴータマよ、〔まさに〕この、わたしは、五百の雄牛を解き放ち、生命を与えます。五百の雄の子牛を解き放ち、生命を与えます。五百の雌の子牛を解き放ち、生命を与えます。五百の山羊を解き放ち、生命を与えます。五百の羊を解き放ち、生命を与えます。まさしく、そして、〔彼らは〕諸々の緑草を喰い、かつまた、諸々の冷水を飲み、さらに、冷風は、彼らに吹き渡れ」と(※)。〔以上が〕第四となる。

 

※ テキストには upavāyata’’nti とあるが、PTS版により upavāyatū’ti と読む。

 

5. 第一の表象の経

 

48. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。

 

 どのようなものが、七つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象であり、無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の表象の経

 

49. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、七つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象であり、無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。

 

 『比丘たちよ、不浄の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、不浄の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、淫事の法(性質)への入定(性行為)にたいし、心は、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓(薄片)が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、多くのあいだ、不浄の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、淫事の法(性質)への入定にたいし、心は、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、不浄の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、淫事の法(性質)への入定にたいし、心が収斂し、嫌悪ならざることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『不浄の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、不浄の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、淫事の法(性質)への入定から、心が、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『不浄の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、不浄の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、死の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、死の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、生命への欲念にたいし、心は、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、多くのあいだ、死の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、生命への欲念にたいし、心は、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、死の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、生命への欲念にたいし、心が収斂し、嫌悪ならざることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『死の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、死の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、生命への欲念から、心が、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『死の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、死の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、食についての嫌悪の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、食についての嫌悪の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、味への渇愛にたいし、心は、退去し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、多くのあいだ、食についての嫌悪の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、味への渇愛にたいし、心は、退去し、収縮し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、食についての嫌悪の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、味への渇愛にたいし、心が収斂し、嫌悪ならざることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『食についての嫌悪の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、食についての嫌悪の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、味への渇愛にたいし、心が、退去し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『食についての嫌悪の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、食についての嫌悪の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、一切の世についての歓楽なき表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、一切の世についての歓楽なき表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、諸々の世の彩りあざやかなものにたいし、心は、退去し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。比丘たちよ、それは、たとえば、また……略……退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、多くのあいだ、一切の世についての歓楽なき表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、諸々の世の彩りあざやかなものにたいし、心は、退去し、収縮し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、一切の世についての歓楽なき表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、諸々の世の彩りあざやかなものにたいし、心が収斂し、嫌悪ならざることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『一切の世についての歓楽なき表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、一切の世についての歓楽なき表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、諸々の世の彩りあざやかなものにたいし、心が、退去し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『一切の世についての歓楽なき表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、一切の世についての歓楽なき表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、無常の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、利得や尊敬や名声にたいし、心は、退去し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、多くのあいだ、無常の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、利得や尊敬や名声にたいし、心は、退去し、収縮し……略……あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立します。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、無常の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、利得や尊敬や名声にたいし、心が収斂し、嫌悪ならざることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『無常の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、無常の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、利得や尊敬や名声にたいし、心が、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されず、あるいは、放捨〔の思い〕が〔確立し〕、あるいは、嫌悪なることが確立するなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『無常の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、無常についての苦痛の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、無常についての苦痛の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、怠けにたいし、怠惰にたいし、奔放にたいし、放逸にたいし、専念なきにたいし、注視なきにたいし、強き恐怖の表象が現起されたものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、無常についての苦痛の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、怠けにたいし、怠惰にたいし、奔放にたいし、放逸にたいし、専念なきにたいし、注視なきにたいし、強き恐怖の表象が現起されたものと成らないなら、比丘たちよ、それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『無常についての苦痛の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、無常についての苦痛の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、怠けにたいし、怠惰にたいし、奔放にたいし、放逸にたいし、専念なきにたいし、注視なきにたいし、強き恐怖の表象が現起されたものと成るなら、比丘たちよ、それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『無常についての苦痛の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、無常についての苦痛の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、苦痛についての無我の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、比丘が、多くのあいだ、苦痛についての無我の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、かつまた、この、識知〔作用〕()を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)の思量()が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、苦痛についての無我の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しと〔我想の〕思量が離れ去り、意図が、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ることがないなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『苦痛についての無我の表象は、わたしの修めるところにあらず。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕は存在しない。修行の力は、わたしの至り得るところにあらず』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、多くのあいだ、苦痛についての無我の表象が遍く蓄積された心で〔世に〕住んでいると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しと〔我想の〕思量が離れ去り、意図が、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るなら、比丘たちよ、比丘によって、このことが知られるべきです。『苦痛についての無我の表象は、わたしの修めるところとなった。わたしには、前にも後にも、殊勝〔の境地〕が存在する。修行の力は、わたしの至り得るところとなった』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。『比丘たちよ、苦痛についての無我の表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの七つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 淫事の経

 

50. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマもまた、まさに、〔自らについて〕梵行者(禁欲清浄行の実践者)と明言しますか」と。「婆羅門よ、まさに、すなわち、その〔梵行者〕のことを、『破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩む』と、正しく説きつつ説くなら、婆羅門よ、まさしく、わたしのことを、その〔梵行者〕として、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、わたしは、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩みます」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、梵行にとって、何が、破断にもまたなり、切断にもまたなり、斑紋にもまたなり、雑色にもまたなるのですか」と。

 

 「(1)婆羅門よ、ここに、一部の、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔自らについて〕正しく梵行者と明言しながら、まさに、女性を相手に〔男女〕一対の両者による入定(性行為)に入定することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、女性の〔彼への〕塗身と按摩と沐浴と摩擦を愛用します。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験します。婆羅門よ、これもまた、まさに、梵行にとって、破断にもまたなり、切断にもまたなり、斑紋にもまたなり、雑色にもまたなります。婆羅門よ、この者は、『完全なる清浄ならざる梵行を歩む』〔と〕説かれます。淫事の束縛に束縛された者は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 (2)婆羅門よ、さらに、また、他に、ここに、一部の、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔自らについて〕正しく梵行者と明言しながら、まさに、女性を相手に〔男女〕一対の両者による入定に入定することが、まさしく、まさに、なく、女性の〔彼への〕塗身と按摩と沐浴と摩擦を愛用することもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性を相手に高笑し遊楽し〔女性を〕遊楽させます。……略……(3)女性を相手に高笑し遊楽し〔女性を〕遊楽させることもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性の眼を〔自らの〕眼をもって凝視し眺め見ます。……略……(4)女性の眼を〔自らの〕眼をもって凝視し眺め見ることもまたなく、しかしながら、また、まさに、女性の、あるいは、笑っている、あるいは、話している、あるいは、歌っている、あるいは、泣いている、〔その〕声を、あるいは、壁を超えて、あるいは、塀を超えて、聞きます。……略……(5)女性の、あるいは、笑っている、あるいは、話している、あるいは、歌っている、あるいは、泣いている、〔その〕声を、あるいは、壁を超えて、あるいは、塀を超えて、聞くこともまたなく、しかしながら、また、まさに、彼に、それらの、過去において女性を相手に笑い談じ戯れたことがあり、それらのことを随念します。……略……(6)彼に、それらの、過去において女性を相手に笑い談じ戯れたことがあり、それらのことを随念することもまたなく、しかしながら、また、まさに、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。……略……(7)あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ることもまたなく、しかしながら、また、まさに、或るどこかの天の衆〔と成ること〕を志向して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験します。婆羅門よ、これもまた、まさに、梵行にとって、破断にもまたなり、切断にもまたなり、斑紋にもまたなり、雑色にもまたなります。婆羅門よ、この者は、『完全なる清浄ならざる梵行を歩む』〔と〕説かれます。淫事の束縛に束縛された者は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 婆羅門よ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの七つの淫事の束縛のなかの何らかの或る一つの淫事の束縛が捨棄されずにあるのを、自己のうちに等しく随観したあいだは、婆羅門よ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 婆羅門よ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの七つの淫事の束縛のなかの何らかの或る一つの淫事の束縛が捨棄されずにあるのを、自己のうちに等しく随観しなかったことから、婆羅門よ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

 このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 束縛するものの経

 

51. 「比丘たちよ、束縛するものと束縛を離れるものを、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、束縛するものであり、束縛を離れるものであり、法(教え)の教相なのですか。

 

 比丘たちよ、女が、内に、女の機能(女根)に意を為します──女の所作に、女の営為に、女の様相に、女の欲に、女の声に、女の外装に。彼女は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみます。彼女は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみ、外に、男の機能に意を為します──男の所作に、男の営為に、男の様相に、男の欲に、男の声に、男の外装に。彼女は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみます。彼女は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみ、外に、束縛するものを望みます。そして、それが、束縛するものという縁あることから、彼女に生起する、安楽であり、悦意であるなら、そして、それを望みます。比丘たちよ、女たることに喜び楽しむ有情たちは、男たちにおいて、束縛するものに至ったのです。比丘たちよ、このように、まさに、女は、女たることを超克しません。

 

 比丘たちよ、男が、内に、男の機能(男根)に意を為します──男の所作に、男の営為に、男の様相に、男の欲に、男の声に、男の外装に。彼は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみます。彼は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみ、外に、女の機能に意を為します──女の所作に、女の営為に、女の様相に、女の欲に、女の声に、女の外装に。彼は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみます。彼は、そこにおいて染まり、そこに喜び楽しみ、外に、束縛するものを望みます。そして、それが、束縛するものという縁あることから、彼に生起する、安楽であり、悦意であるなら、そして、それを望みます。比丘たちよ、男たることに喜び楽しむ有情たちは、女たちにおいて、束縛するものに至ったのです。比丘たちよ、このように、まさに、男は、男たることを超克しません。比丘たちよ、このように、まさに、束縛するものが有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、女が、内に、女の機能に意を為しません──女の所作に、女の営為に、女の様相に、女の欲に、女の声に、女の外装に。彼女は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しみません。彼女は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しまず、外に、男の機能に意を為しません──男の所作に、男の営為に、男の様相に、男の欲に、男の声に、男の外装に。彼女は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しみません。彼女は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しまず、外に、束縛するものを望みません。そして、それが、束縛するものという縁あることから、彼女に生起する、安楽であり、悦意であるなら、そして、それを望みません。比丘たちよ、女たることに喜び楽しまない有情たちは、男たちにおいて、束縛を離れるものに至ったのです。比丘たちよ、このように、まさに、女は、女たることを超克します。

 

 比丘たちよ、男が、内に、男の機能に意を為しません──男の所作に、男の営為に、男の様相に、男の欲に、男の声に、男の外装に。彼は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しみません。彼は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しまず、外に、女の機能に意を為しません──女の所作に、女の営為に、女の様相に、女の欲に、女の声に、女の外装に。彼は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しみません。彼は、そこにおいて染まらず、そこに喜び楽しまず、外に、束縛するものを望みません。そして、それが、束縛するものという縁あることから、彼に生起する、安楽であり、悦意であるなら、そして、それを望みません。比丘たちよ、男たることに喜び楽しまない有情たちは、女たちにおいて、束縛を離れるものに至ったのです。比丘たちよ、このように、まさに、男は、男たることを超克します。比丘たちよ、このように、まさに、束縛を離れるものと成ります。比丘たちよ、これは、まさに、束縛するものであり、束縛を離れるものであり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 大いなる果となる布施の経

 

52. 或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。そこで、まさに、大勢のチャンパー〔の住者〕たる在俗信者たちが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チャンパー〔の住者〕たる在俗信者たちは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞いてから長きになります。尊き方よ、どうか、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことが得られますように」と。「友よ、まさに、それでは、斎戒のその日、〔あなたたちは〕やってくるのです。まさしく、おそらく、まさに、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことが得られるでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、チャンパー〔の住者〕たる在俗信者たちは、尊者サーリプッタに答えて、坐から立ち上がって、尊者サーリプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、チャンパー〔の住者〕たる在俗信者たちは、斎戒のその日、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に立ちました。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、それらのチャンパー〔の住者〕たる在俗信者たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない、まさしく、そのような布施は存在しますか。尊き方よ、また、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕、まさしく、そのような布施は存在しますか」と。「サーリプッタよ、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない、まさしく、そのような布施は存在します。サーリプッタよ、また、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成る〕、まさしく、そのような布施は存在します」と。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、そのような布施は、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ないのですか。尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、そのような布施は、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。

 

 「(1)サーリプッタよ、ここに、一部の者は、期待〔の思い〕を有する者として、布施を施し、心が結縛された者として、布施を施し、蓄積に期待〔の思い〕ある者として、布施を施し、『死してのち、この〔布施の果〕を遍く受益するのだ』と、布施を施します。彼は、その布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。サーリプッタよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者は、このような形態の布施を施すでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、そこで、すなわち、この者が、期待〔の思い〕を有する者として、布施を施し、心が結縛された者として、布施を施し、蓄積に期待〔の思い〕ある者として、布施を施し、『死してのち、この〔布施の果〕を遍く受益するのだ』と、布施を施すなら、彼は、その布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、その行為〔の報い〕を、その神通(栄光)を、その福徳(盛名)を、その権威を、使い尽くして〔そののち〕、この場に帰り来る帰還者と成ります。

 

 (2)サーリプッタよ、また、ここに、一部の者は、まさに、期待〔の思い〕を有する者として、まさしく、まさに、布施を施さず、心が結縛された者として、布施を施さず、蓄積に期待〔の思い〕ある者として、布施を施さず、『死してのち、この〔布施の果〕を遍く受益するのだ』と、布施を施さず、しかしながら、また、まさに、『善きかな、布施は』と、布施を施します。……略……(3)『善きかな、布施は』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、『父祖たちによって、過去に施され、過去に為された、過去の家の伝統を、退失させることはできない』と、布施を施します。……略……(4)『父祖たちによって、過去に施され、過去に為された、過去の家の伝統を、退失させることはできない』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、『わたしは調理する。これらの者たちは調理しない。調理している者として、調理していない者たちに布施を施さないことはできない』と、布施を施します。……略……(5)『わたしは調理する。これらの者たちは調理しない。調理している者として、調理していない者たちに布施を施さないことはできない』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、『すなわち、それらの往古の聖賢たちに──それは、すなわち、この、アッタカに、ヴァーマカに、ヴァーマデーヴァに、ヴェッサーミッタに、ヤマダッギに、アンギーラサに、バーラドヴァージャに、ヴァーセッタに、カッサパに、バグに──それらの大いなる祭祀が有ったように、このように、わたしに、この布施の分与が有るのだ』と、布施を施します。……略……(6)『すなわち、それらの往古の聖賢たちに──それは、すなわち、この、アッタカに、ヴァーマカに、ヴァーマデーヴァに、ヴェッサーミッタに、ヤマダッギに、アンギーラサに、バーラドヴァージャに、ヴァーセッタに、カッサパに、バグに──それらの大いなる祭祀が有ったように、このように、わたしに、この布施の分与が有るのだ』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、『この布施を、わたしが施していると、心は清信する。わが意を得ることとなり、悦意が生まれる』と、布施を施します。……略……(7)『この布施を、わたしが施していると、心は清信する。わが意を得ることとなり、悦意が生まれる』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、心にとっての外装品として、心にとっての必需品として、布施を施します。彼は、その布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。サーリプッタよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者は、このような形態の布施を施すでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サーリプッタよ、そこで、すなわち、この者が、期待〔の思い〕を有する者として、まさしく、まさに、布施を施さず、心が結縛された者として、布施を施さず、蓄積に期待〔の思い〕ある者として、布施を施さず、『死してのち、この〔布施の果〕を遍く受益するのだ』と、布施を施さず、『善きかな、布施は』と、布施を施すこともまたなく、『父祖たちによって、過去に施され、過去に為された、過去の家の伝統を、退失させることはできない』と、布施を施すこともまたなく、『わたしは調理する。これらの者たちは調理しない。調理している者として、調理していない者たちに布施を施さないことはできない』と、布施を施すこともまたなく、『すなわち、それらの往古の聖賢たちに──それは、すなわち、この、アッタカに、ヴァーマカに、ヴァーマデーヴァに、ヴェッサーミッタに、ヤマダッギに、アンギーラサに、バーラドヴァージャに、ヴァーセッタに、カッサパに、バグに──それらの大いなる祭祀が有ったように、このように、わたしに、この布施の分与が有るのだ』と、布施を施すこともまたなく、『この布施を、わたしが施していると、心は清信する。わが意を得ることとなり、悦意が生まれる』と、布施を施すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、心にとっての外装品として、心にとっての必需品として、布施を施すなら、彼は、その布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生します。彼は、その行為〔の報い〕を、その神通を、その盛名を、その権威を、使い尽くして〔そののち〕、この場に帰り来ない不還者と成ります。サーリプッタよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、そのような布施は、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成り〕ません。サーリプッタよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、そのような布施は、ここに、一部の者に施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ナンダマータルの経

 

53. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ダッキナーギリにおいて、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。また、まさに、その時点にあって、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータル女性在俗信者が、夜の早朝の時分に起きて、「彼岸に至るもの」(スッタニパータ第五章)を音読します。

 

 また、まさに、その時点にあって、ヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)が、北の方角から南の方角に赴きます──何らかの或る用事があって。まさに、ヴェッサヴァナ大王は、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータル女性在俗信者の──夜の早朝の時分に起きて、「彼岸に至るもの」を音読している〔彼女〕の──〔その声を〕聞きました。聞いて、話の終了を待ちながら、〔その場に〕立ちました。

 

 そこで、まさに、ナンダマータル女性在俗信者は、「彼岸に至るもの」を音読して、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、ナンダマータル女性在俗信者の話の終了を知って、大いに随喜しました。「姉妹よ、善きかな。姉妹よ、善きかな」と。「また、誰なのですか、この幸顔なる方は」と。「姉妹よ、わたしは、あなたの兄弟である、ヴェッサヴァナ大王です」と。「幸顔なる方よ、善きかな。まさに、それでは、すなわち、わたしが話した、この法(教え)の教相が、これが、あなたへの贈物と成れ」と。「姉妹よ、善きかな。まさしく、さらに、これも、わたしへの贈物と成れ。まさしく、明日、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団が、朝食を為さずに、ヴェールカンダ〔村〕にやってきます。そして、その比丘の僧団に給仕して、わたしのためにと、施物を献じるのです。まさしく、さらに、これも、わたしへの贈物と成るでしょう」と。

 

 そこで、まさに、ナンダマータル女性在俗信者は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備しました。そこで、まさに、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団が、朝食を為さずに、ヴェールカンダ〔村〕のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、ナンダマータル女性在俗信者は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、林園に赴いて、比丘の僧団に、時を告げなさい。『尊き方たちよ、時です。貴婦ナンダマータルの住居地において、食事ができました』」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、ナンダマータル女性在俗信者に答えて、林園に赴いて、比丘の僧団に、時を告げました。「尊き方たちよ、時です。貴婦ナンダマータルの住居地において、食事ができました」と。そこで、まさに、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ナンダマータル女性在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ナンダマータル女性在俗信者は、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。

 

 そこで、まさに、ナンダマータル女性在俗信者は、尊者サーリプッタが食事を終え、鉢から手を離すと、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナンダマータル女性在俗信者に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「ナンダマータルよ、また、誰が、あなたに、比丘の僧団の到来を告げたのですか」と。

 

 (1)「尊き方よ、ここに、わたしは、夜の早朝の時分に起きて、『彼岸に至るもの』を音読して、沈黙の者と成りました。尊き方よ、そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王が、わたしの話の終了を知って、大いに随喜しました。『姉妹よ、善きかな。姉妹よ、善きかな』と。『また、誰なのですか、この幸顔なる方は』と。『姉妹よ、わたしは、あなたの兄弟である、ヴェッサヴァナ大王です』と。『幸顔なる方よ、善きかな。まさに、それでは、すなわち、わたしが話した、この法(教え)の教相が、これが、あなたへの贈物と成れ』と。『姉妹よ、善きかな。まさしく、さらに、これも、わたしへの贈物と成れ。まさしく、明日、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団が、朝食を為さずに、ヴェールカンダ〔村〕にやってきます。そして、その比丘の僧団に給仕して、わたしのためにと、施物を献じるのです。まさしく、さらに、これも、わたしへの贈物と成るでしょう』と。尊き方よ、すなわち、この、布施において、そして、功徳があり、さらに、功徳の大地があるなら、それは、ヴェッサヴァナ大王にとって、安楽のために成れ」と。

 

 「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、天子のヴェッサヴァナ大王と、面前で会話するとは」と。

 

 (2)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、ここに、わたしには、ナンダという名の愛らしく意に適う独り子があり、彼を、王の者たちが、何らかの或る名目のもとに、無理やり連れ去って、生命を奪いました。尊き方よ、また、まさに、その少年が、あるいは、捕らえられたときも、あるいは、捕らえられつつあるときも、あるいは、打たれたときも、あるいは、打たれつつあるときも、あるいは、殺されたときも、あるいは、殺されつつあるときも、わたしは、心の他化を証知しません(平静を保ち不動だった)」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、心の生起をもまた完全に清めるとは」と。

 

 (3)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、ここに、わたしには、命を終え或るどこかの夜叉の胎に再生した夫があり、その〔夫〕が、わたしのもとに、まさしく、彼の以前の自己状態(個我的あり方・身体)で出現しました。尊き方よ、また、まさに、わたしは、それを因縁として、心の他化を証知しません」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、心の生起をもまた完全に清めるとは」と。

 

 (4)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、すなわち、少女のわたしが、まさしく、少年の夫のもとに嫁いだあと、夫に、意によってであろうが、背いたことを証知しません(記憶しない)。また、どうして、身体によって〔背いたことがあるというのでしょう〕」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、心の生起をもまた完全に清めるとは」と。

 

 (5)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、すなわち、女性在俗信者のわたしが懺悔したとき、何であれ、学びの境処(戒律)に、思弁して〔そののち〕違犯したこと(意図的な破戒)を証知しません」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、心の生起をもまた完全に清めるとは」と。

 

 (6)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、ここに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです」と。

 

 (7)「尊き方よ、まさに、わたしにとって、これだけが、めったにないはじめての法(性質)ではありません。わたしには、他にもまた、めったにないはじめての法(性質)が存在します。尊き方よ、すなわち、これらの五つの下なる域に束縛するものが、世尊によって説示されました。それらのなかで捨棄されていないものを、何であれ、わたしのうちに等しく随観しません」と。「ナンダマータルよ、めったにないことです。ナンダマータルよ、はじめてのことです」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ナンダマータル女性在俗信者に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなる祭祀の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、止住、必需品、二つの火、さらに、他に、二つの表象、淫事、束縛するもの、布施があり、ナンダマータルとともに、それらの十がある」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

6. 説き明かされないものの章

 

1. 説き明かされないものの経

 

54. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、有聞の聖なる弟子には、諸々の説き明かされないもの(無記)について、疑惑〔の思い〕が生起しないのですか」と。

 

 「比丘よ、見解の止滅あることから、まさに、有聞の聖なる弟子には、諸々の〔いまだ〕説き明かされていないものについて、疑惑〔の思い〕が生起しません。(1)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、悪しき見解(悪見)です。比丘よ、『如来は、死後に有ることがない』とは、まさに、これは、悪しき見解です。比丘よ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、まさに、これは、悪しき見解です。比丘よ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、まさに、これは、悪しき見解です。比丘よ、無聞の凡夫は、見解を覚知せず、見解の集起を覚知せず、見解の止滅を覚知せず、見解の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。彼の、その見解は増大し、彼は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、見解を覚知し、見解の集起を覚知し、見解の止滅を覚知し、見解の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。彼の、その見解は止滅し、彼は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、『如来は、死後に有る』ともまた説き明かさず、『如来は、死後に有ることがない』ともまた説き明かさず、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた説き明かさず、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた説き明かしません。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、諸々の説き明かされないものについて、説き明かす法(性質)なき者として〔世に〕有ります。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、諸々の説き明かされないものについて、驚愕せず、動転せず、動揺せず、恐慌を惹起しません。

 

 (2)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、渇愛を具したものです。……略……。(3)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、表象を具したものです。……略……。(4)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、思認されたものです。……略……。(5)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、虚構されたものです。……略……。(6)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、執取を具したものです。……略……。(7)比丘よ、『如来は、死後に有る』とは、まさに、これは、後悔〔の思い〕です。比丘よ、『如来は、死後に有ることがない』とは、まさに、これは、後悔〔の思い〕です。比丘よ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、まさに、これは、後悔〔の思い〕です。比丘よ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、まさに、これは、後悔〔の思い〕です。比丘よ、無聞の凡夫は、後悔〔の思い〕を覚知せず、後悔〔の思い〕の集起を覚知せず、後悔〔の思い〕の止滅を覚知せず、後悔〔の思い〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。彼の、その後悔〔の思い〕は増大し、彼は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、後悔〔の思い〕を覚知し、後悔〔の思い〕の集起を覚知し、後悔〔の思い〕の止滅を覚知し、後悔〔の思い〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。彼の、その後悔〔の思い〕は止滅し、彼は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、『如来は、死後に有る』ともまた説き明かさず……略……『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた説き明かしません。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、諸々の説き明かされないものについて、説き明かす法(性質)なき者として〔世に〕有ります。比丘よ、このように、〔あるがままに〕知りながら、このように、〔あるがままに〕見ながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、諸々の説き明かされないものについて、驚愕せず、動転せず、動揺せず、恐慌を惹起しません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 人の境遇の経

 

55. 「比丘たちよ、では、七つの人の境遇()を、そして、〔何も〕執取せずして〔到達する〕完全なる涅槃を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、では、どのようなものが、七つの人の境遇なのですか。

 

 (1)比丘たちよ、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、放捨〔の思い〕()を獲得します。彼は、生存()に貪欲せず、〔その〕発生に貪欲せず、『より上なる寂静の境処が存在する』〔と〕、正しい智慧によって見ます。しかしながら、まさに、彼の、その境処は、全てもろともに、全てが実証するところと成らず、彼の、思量の悪習(慢随眠)は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠)は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、無明の悪習(無明随眠)は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成りません。彼は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、生存に貪欲せず、〔その〕発生に貪欲せず、『より上なる寂静の境処が存在する』〔と〕、正しい智慧によって見ます。しかしながら、まさに、彼の、その境処は、全てもろともに、全てが実証するところと成らず、彼の、思量の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、無明の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成りません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、生存に貪欲せず、〔その〕発生に貪欲せず、『より上なる寂静の境処が存在する』〔と〕、正しい智慧によって見ます。しかしながら、まさに、彼の、その境処は、全てもろともに、全てが実証するところと成らず、彼の、思量の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、無明の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成りません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して、床を打たずして消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (4)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して、床を打って消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (5)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して、僅かな、あるいは、草の堆積のうえに、あるいは、薪の堆積のうえに、落ち行き、それが、そこにおいて、火をもまた生じさせ、煙をもまた生じさせ、火をもまた生じさせて、煙をもまた生じさせて、まさしく、その、僅かな、あるいは、草の堆積を、あるいは、薪の堆積を、消尽して、食(動力源・エネルギー)がなくなり、消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (6)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して、広い、あるいは、草の堆積のうえに、あるいは、薪の堆積のうえに、落ち行き、それが、そこにおいて、火をもまた生じさせ、煙をもまた生じさせ、火をもまた生じさせて、煙をもまた生じさせて、まさしく、その、広い、あるいは、草の堆積を、あるいは、薪の堆積を、消尽して、食がなくなり、消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

 (7)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、生存に貪欲せず、〔その〕発生に貪欲せず、『より上なる寂静の境処が存在する』〔と〕、正しい智慧によって見ます。しかしながら、まさに、彼の、その境処は、全てもろともに、全てが実証するところと成らず、彼の、思量の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成らず、無明の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成りません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋が打たれているとき、破片が発現して生起して、大いなる、あるいは、草の堆積のうえに、あるいは、薪の堆積のうえに、落ち行き、それが、そこにおいて、火をもまた生じさせ、煙をもまた生じさせ、火をもまた生じさせて、煙をもまた生じさせて、まさしく、その、大いなる、あるいは、草の堆積を、あるいは、薪の堆積を、消尽して、藪をもまた焼き、林をもまた焼き、藪をもまた焼いて、林をもまた焼いて、あるいは、緑地の外れに、あるいは、道路の外れに、あるいは、岩地の外れに、あるいは、水辺に、あるいは、喜ばしき土地の区画に、〔それらに〕至り着いて、食がなくなり、消え行くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし……略……。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人の境遇があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔何も〕執取せずして〔到達する〕完全なる涅槃なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、生存に貪欲せず、〔その〕発生に貪欲せず、『より上なる寂静の境処が存在する』〔と〕、正しい智慧によって見ます。そして、まさに、彼の、その境処は、全てもろともに、全てが実証するところと成り、彼の、思量の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成り、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成り、無明の悪習は、全てもろともに、全てが捨棄するところと成ります。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、〔何も〕執取せずして〔到達する〕完全なる涅槃と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人の境遇があり、さらに、〔何も〕執取せずして〔到達する〕完全なる涅槃があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ティッサ婆羅門の経

 

56. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、二者の天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータを照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、一者の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これらの比丘尼たちは、解脱者たちです」と。他の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これらの比丘尼たちは、〔生存の〕依り所という残りものがない善き解脱者たちです」と。それらの天神たちは、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天神たちの言葉を〕正しくお認めに成りました(天神たちに随喜した)。そこで、まさに、それらの天神たちは、「教師は、〔わたしたちのことを〕正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、二者の天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータを照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、一者の天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、これらの比丘尼たちは、解脱者たちです』と。他の天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、これらの比丘尼たちは、〔生存の〕依り所という残りものがない善き解脱者たちです』と。比丘たちよ、それらの天神たちは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナが、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「まさに、どの天神たちに、このような知恵が有るのだろう。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者(有余依)について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者(無余依)について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。また、まさに、その時点にあって、ティッサという名の比丘が、最近のこと、命を終え、或るどこかの梵の世に再生するところと成ります。そこで、また、彼のことを、〔神々たちは〕このように知ります。「ティッサ梵〔天〕は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ギッジャクータ山において消没し、その梵の世に出現しました。まさに、ティッサ梵〔天〕は、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善く来てくれました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、設けられた坐に坐りました。ティッサ梵〔天〕もまた、まさに、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ティッサ梵〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「ティッサよ、まさに、どの天神たちに、このような知恵が有りますか。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、梵身天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。

 

 「ティッサよ、まさに、まさしく、全ての梵身天〔の神々〕たちに、このような知恵が有りますか。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、全ての梵身天〔の神々〕たちに、このような知恵は有りません。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。

 

 敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、すなわち、まさに、それらの梵身天〔の神々〕たちが、梵の寿命に満足している者たちであり、梵の色艶に〔満足している者たちであり〕、梵の安楽に〔満足している者たちであり〕、梵の福徳(盛名)に〔満足している者たちであり〕、梵の権威に満足している者たちであり、彼らが、より上なる出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼らに、このような知恵は有りません。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの梵身天〔の神々〕たちが、梵の寿命に満足しない者たちであり、梵の色艶に〔満足しない者たちであり〕、梵の安楽に〔満足しない者たちであり〕、梵の福徳に〔満足しない者たちであり〕、梵の権威に満足しない者たちであり、そして、彼らが、より上なる出離を、事実のとおりに覚知するなら、彼らに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。

 

 (1)敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ここに、比丘が、両部の解脱者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、それらの天〔の神々〕たちが、このように知ります。『まさに、この尊者は、両部の解脱者である。すなわち、彼の身体が止住するあいだは、それまで、天〔の神々〕と人間たちは、彼を見るが、身体の破壊ののち、天〔の神々〕と人間たちは、彼を見ない』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このようにもまた、まさに、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。

 

 (2)敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、また、ここに、比丘が、智慧による解脱者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、それらの天〔の神々〕たちが、このように知ります。『まさに、この尊者は、智慧による解脱者である。すなわち、彼の身体が止住するあいだは、それまで、天〔の神々〕と人間たちは、彼を見るが、身体の破壊ののち、天〔の神々〕と人間たちは、彼を見ない』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このようにもまた、まさに、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。

 

 (3)敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、また、ここに、比丘が、身体による実証者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、それらの天〔の神々〕たちが、このように知ります。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このようにもまた、まさに、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と。

 

 (4)敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、また、ここに、比丘が、〔正しい〕見解に至り得た者として〔世に〕有ります。……略……(5)信による解脱者として〔世に〕有ります。……略……(6)法(教え)に従い行く者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、この者のことを、それらの天〔の神々〕たちが、このように知ります。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このようにもまた、まさに、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、ティッサ梵〔天〕の語ったことを大いに喜んで、随喜して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、ギッジャクータ山に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、すなわち、ティッサ梵〔天〕を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「モッガッラーナよ、まさに、また、ティッサ梵〔天〕は、あなたに、第七の無相なる住の人を説示しません」と(※)。「尊き方よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、第七の無相なる住の人を説示するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「モッガッラーナよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 「(7)モッガッラーナよ、ここに、比丘が、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者のことを、それらの天〔の神々〕たちが、このように知ります。『まさに、この尊者は、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住む。まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と。モッガッラーナよ、このように、まさに、それらの天〔の神々〕たちに、知恵が有ります。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者について、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と。あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者について、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. シーハ軍団長の経

 

57. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、シーハ軍団長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、シーハ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、現に見られる布施の果を報知することができますか」と。

 

 「シーハよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。シーハよ、それを、どう思いますか。ここに、二者の人がいます。一者は、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者です。一者は、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者です。シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰を、阿羅漢たちは、最初に慈しみつつ慈しむでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼を、阿羅漢たちが、最初に慈しみつつ慈しむというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼を、阿羅漢たちは、最初に慈しみつつ慈しむでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰に、阿羅漢たちは、最初に近づいて行きつつ近づいて行くでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼に、阿羅漢たちが、最初に近づいて行きつつ近づいて行くというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼に、阿羅漢たちは、最初に近づいて行きつつ近づいて行くでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰の〔施物を〕、阿羅漢たちは、最初に納受しつつ納受するでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼の〔施物を〕、阿羅漢たちが、最初に納受しつつ納受するというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼の〔施物を〕、阿羅漢たちは、最初に納受しつつ納受するでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰に、阿羅漢たちは、最初に、法(教え)を説示しつつ説示するでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼に、阿羅漢たちが、最初に、法(教え)を説示しつつ説示するというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼に、阿羅漢たちは、最初に、法(教え)を説示しつつ説示するでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰に、善き評価の声が上がるでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼に、善き評価の声が上がるというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼に、善き評価の声が上がるでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰が、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行くでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼が、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行くというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼が、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行くでしょう」〔と〕。

 

 「シーハよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、誰が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょうか。あるいは、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですか。あるいは、すなわち、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですか」と。「尊き方よ、すなわち、信なき者であり、物惜の者であり、吝嗇の者であり、罵倒者である、その人ですが、どうして、彼が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するというのでしょう。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、信ある者であり、施主であり、供与を喜ぶ者である、その人ですが、まさしく、彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。

 

 尊き方よ、すなわち、これらのものが、世尊によって、現に見られる布施の果として告げ知らされました。わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴くのではありません。わたしもまた、これらのものを知ります。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしを、阿羅漢たちは、最初に慈しみつつ慈しみます。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしに、阿羅漢たちは、最初に近づいて行きつつ近づいて行きます。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしの〔施物を〕、阿羅漢たちは、最初に納受しつつ納受します。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしに、阿羅漢たちは、最初に、法(教え)を説示しつつ説示します。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしに、善き評価の声が上がっています。『シーハ軍団長は、施者であり、為し手であり、僧団の奉仕者である』と。尊き方よ、わたしは、施者であり、施主であり、わたしが、まさしく、その〔衆〕その衆に──もしくは、士族の衆であれ……略……もしくは、沙門の衆であれ──近づいて行くなら、恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。尊き方よ、すなわち、これらのものが、世尊によって、現に見られる布施の果として告げ知らされました。わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴くのではありません。わたしもまた、これらのものを知ります。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、世尊は、このように言いました。『シーハよ、施者は、施主は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します』と。わたしは、このことを知りません。また、そして、ここにおいて、わたしは、世尊への信によって赴きます」と。「シーハよ、このように、このことはあります。シーハよ、このように、このことはあります。シーハよ、施者は、施主は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 守護されようもないものの経

 

58. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらのものは、如来にとって守護されようもありません。さらに、三つのものによって、〔如来は〕批判されようもありません。どのような四つのものが、如来にとって守護されようもないのですか。比丘たちよ、完全なる清浄の身体の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、身体による悪しき行ないは、如来には存在しません。比丘たちよ、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、言葉による悪しき行ないは、如来には存在しません。比丘たちよ、完全なる清浄の意の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、意による悪しき行ないは、如来には存在しません。比丘たちよ、完全なる清浄の生き方ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔生き方〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、誤った生き方は、如来には存在しません。これらの四つのものは、如来にとって守護されようもありません。

 

 どのような三つのものによって、〔如来は〕批判されようもないのですか。比丘たちよ、見事に告げ知らされた法(教え)ある者として、如来はあります。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、『かくのごとくもまた、あなたは、見事に告げ知らされた法(教え)ある者ではない』と、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、わたしの弟子たちには、善く報知されたものとして、涅槃に至る〔実践の〕道があります。すなわち、実践者たちとして、わたしの弟子たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような実践の道があります〕。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、『かくのごとくもまた、あなたの弟子たちには、善く報知されたものとして、涅槃に至る〔実践の〕道がない。すなわち、実践者たちとして、あなたの弟子たちが、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような実践の道がない〕』と、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、幾百の、わたしの弟子の衆は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、『かくのごとくもまた、あなたの、幾百の弟子の衆は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住まない』と、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、この形相を等しく随観しません。比丘たちよ、この形相を等しく随観せずにいながら、わたしは、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。これらの三つのものによって、〔如来は〕批判されようもありません。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの四つのものは、如来にとって守護されようもありません。さらに、三つのものによって、〔如来は〕批判されようもありません」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. キミラの経

 

59. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ニチュラ林において。そこで、まさに、尊者キミラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者キミラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか」と。

 

 「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません」と。

 

 「尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか」と。「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 七つの法の経

 

60. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、静坐する者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきある者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「居眠りをしながら」の経

 

61. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナが、マガダ〔国〕のカッラヴァーラプッタ村において、居眠りをしながら、坐った状態でいます。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、尊者マハー・モッガッラーナが、マガダ〔国〕のカッラヴァーラプッタ村において、居眠りをしながら、坐った状態でいるのを見ました。見て、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、バッガ〔国〕のススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において消没し、マガダ〔国〕のカッラヴァーラプッタ村において、尊者マハー・モッガッラーナの面前に出現しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「(1)モッガッラーナよ、まさに、あなたは、居眠りをしています。モッガッラーナよ、まさに、あなたは、居眠りをしています」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「モッガッラーナよ、それゆえに、ここに、すなわち、〔何らかの〕表象ある者として〔世に〕住んでいる、あなたに、その眠気が起こるなら、その表象に意を為してはいけません。その表象を多く為してはいけません。モッガッラーナよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (2)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検するべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (3)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (4)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、両の耳朶(じだ)を引っ張り、手で五体を叩くべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (5)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、坐から立ち上がって、水で〔両の〕眼を叩いて、方々を見回し、諸々の星宿と星の光を見上げるべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (6)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、光明の表象(光明想)に意を為すべきであり、昼の表象を〔心に〕確立するべきです。『すなわち、昼のように、そのように、夜がある。すなわち、夜のように、そのように、昼がある』〔と〕。かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修めるべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 (7)もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、前後に表象ある者となり、内に赴いた諸々の機能によって、外に赴かない意図によって、歩行〔瞑想〕を確立するべきです。また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されることです。

 

 もし、このように〔世に〕住んでいる、あなたの、その眠気が捨棄されないなら、モッガッラーナよ、そののち、あなたは、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営むべきです──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。モッガッラーナよ、そして、目覚めたあなたは、まさしく、すみやかに起き上がるべきです。『横臥の楽しみに〔専念する者〕ではなく、休憩の楽しみに〔専念する者〕ではなく、睡眠の楽しみに専念する者ではなく、〔世に〕住むのだ』と。モッガッラーナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 モッガッラーナよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔高慢の〕鼻を高く掲げて、家々に近づいて行かないのだ』と。モッガッラーナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。モッガッラーナよ、それで、もし、比丘が、〔高慢の〕鼻を高く掲げて、家々に近づいて行くなら、モッガッラーナよ、まさに、家々において、諸々の義務や用事が存在し、それらによって、人間たちが、やってきた比丘に意を為さないなら、そこで、比丘に、このような〔思いが〕有ります。『今や、いったい、まさに、誰が、この家において、わたしを引き裂いたのだ。今や、これらの人間たちは、わたしにたいし離貪したかの様子だ』と、かくのごとく、彼には、利得なきによる愕然の状態があります。愕然と成った者には、〔心の〕高揚があります。〔心が〕高揚した者には、統御なき〔生き方〕があります。統御されていない者の心は、禅定から遠く離れています。

 

 モッガッラーナよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『口論となる言説を発しないのだ』と。モッガッラーナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。モッガッラーナよ、口論となる言説が存しているとき、言説の過剰(多弁)が待っています。言説の過剰が存しているとき、〔心の〕高揚があります。〔心が〕高揚した者には、統御なき〔生き方〕があります。統御されていない者の心は、禅定から遠く離れています。モッガッラーナよ、わたしは、〔事物との〕交わりを、まさしく、全てもろともに褒め称えることはありません。モッガッラーナよ、また、わたしは、〔事物との〕交わりを、まさしく、全てもろともに褒め称えないこともありません。まさに、わたしは、在家者と共にある出家者たちとの交わりを褒め称えません。しかしながら、すなわち、まさに、それらの臥坐所が、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切であるなら、そのような形態の臥坐所との交わりを褒め称えます」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕」と。

 

 「モッガッラーナよ、ここに、比丘に、『一切の法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、所聞が有ります。モッガッラーナよ、もし、比丘に、このように、『一切の法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。モッガッラーナよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅〔の境地〕における解脱者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 慈愛の経

 

62. 「比丘たちよ、諸々の功徳を恐れてはいけません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の功徳ですが、これは、安楽の同義語です。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、長夜にわたり作り為された諸々の功徳の、好ましく愛らしく意に適う報い(異熟)を、〔自ら〕経験したものとして証知します(記憶している)。〔わたしは〕七年のあいだ、慈愛の心を修めました。〔わたしは〕七年のあいだ、慈愛の心を修めて、七つの展転され還転されたカッパ(壊劫と成劫)のあいだ、この世に、ふたたび帰り来ませんでした(世界が崩壊と生成を七回繰り返すあいだ、この世に再生しなかった)。比丘たちよ、まさに、世が展転しているときは、光音〔天〕に近しく赴く者として有り(光音天に再生する)、世が還転しているときは、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します(梵天界に再生する)。

 

 比丘たちよ、そこにあって、まさに、〔わたしは〕梵〔天〕(ブラフマー神・創造神)として〔世に〕有ります。大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者です。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、三十六回、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕として〔世に〕有りました。幾百回、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしには、これらの七つの宝が有りました。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。比丘たちよ、また、まさに、わたしには、千を超える子たちが有りました──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。その〔わたし〕は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「見よ、安楽を探し求める者の諸々の善なる〔行為〕の功徳の報いを。比丘たちよ、七年のあいだ、慈愛の心を修めて、七つの展転され還転されたカッパ(壊劫と成劫)のあいだ、この世に、ふたたび帰り来なかった。

 

 世が展転しているとき、〔わたしは〕光音〔天〕に近しく赴く者として〔世に〕有る。世が還転しているとき、〔わたしは〕空無なる梵〔天〕に近しく赴く者として〔世に〕有った。

 

 七回、大いなる梵〔天〕として、自在に転起する者として、そのとき、〔世に〕有った。三十六回、天〔の神々〕たちのインダ(帝釈天)として、天の王権を為した。

 

 転輪王として、ジャンブ林(インド大陸)の(※)権力者として、〔世に〕有った。即位灌頂した士族として、人間たちの君主として、〔世に〕有った。

 

※ テキストには jambumaṇḍassa とあるが、PTS版により jambusaṇḍassa と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 この地を、棒によらず、刃によらず、〔法によって〕征圧して、無理やりではなく、正しい行為によって、それを統治した。

 

 この地の圏域において、法(正義)によって、王権を為して、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、〔そのような〕家において、わたしは生まれた。

 

 一切の欲望〔の対象〕を成就した〔家〕において、さらに、七つの宝を〔成就した家において〕。覚者たちは、世における愛護者たちであり、彼らによって、このことは善く説示された。

 

 このことを因として、大いなるわたしの、地の主たることは衰滅しない。沢山の富と資益物ある王として、輝きある者として、〔世に〕有る。

 

 栄光ある者として、盛名ある者として、ジャンブ林の権力者として、〔世に〕有る。聞いて〔そののち〕、誰が、清信しないというのだろう──たとえ、黒の出生の者たちであれ。

 

 まさに、それゆえに、自己〔の幸せ〕を欲する者によって、大いなるものを希求している者によって、正なる法(教え)が尊重されるべきである──覚者たちの教えを思念しながら」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 妻の経

 

63. (※)或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。(※)そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長の住居地において、高い声をあげ大きな音をたてる、人間たちが世に有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

※ 「或る時のことです。」から「林園において。」までを、PTS版により補う。

 

 「家長よ、いったい、どうして、あなたの住居地において、漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてる、人間たちがいるのですか」と。「尊き方よ、この者は、家の嫁であるスジャーターは、富める家から嫁いだ者です。彼女は、まさしく、姑に取り合わず、舅に取り合わず、夫に取り合わず、世尊をもまた、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、家の嫁であるスジャーターに告げました。「スジャーターよ、来たれ」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、家の嫁であるスジャーターは、世尊に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、家の嫁であるスジャーターに、世尊は、こう言いました。

 

 「スジャーターよ、七つのものがあります。まさに、これらの、男の妻たちです。どのようなものが、七つのものなのですか。殺戮者に等しき者であり、盗賊に等しき者であり、主人に等しき者であり、母に等しき者であり、姉妹に等しき者であり、友に等しき者であり、奴婢に等しき者です。スジャーターよ、まさに、これらの七つの、男の妻たちがあります。あなたは、彼女たちのなかのどの者ですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、わたしが、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「スジャーターよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、家の嫁であるスジャーターは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「汚れた心の者にして、利益と慈しみ〔の思い〕なき者であり、他の〔男〕たちにたいし〔欲の思いに〕染まり、夫を軽んじる。財によって買われた者なるも、彼の殺戮に思い入れある者となる。すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、殺戮者でもある妻』と呼ばれる。

 

 その財を、女の夫が、技能に、かつまた、商売に、耕作に、〔それらに〕従事しながら、見出すなら、たとえ、少なくても、それを奪うことを求める。すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、盗賊でもある妻』と呼ばれる。

 

 作業を欲さず、怠け者で、大飯食い、かつまた、粗暴で、狂暴で、悪言を説き、奉仕する者たちを圧倒して行持する。すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、主人でもある妻』と呼ばれる。

 

 彼女が、一切時に、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として有り、母が子を〔守る〕ように、夫を守護し、そののち、運び込まれた彼の財を守るなら、すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、母でもある妻』と呼ばれる。

 

 あたかも、また、目上の者たちと末の妹〔の関係〕のように、自らの夫にたいし尊重〔の思い〕を有する者として有り、意に恥〔の思い〕ある者であり、扶養者の支配に従い行く者であるなら、すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、姉妹でもある妻』と呼ばれる。

 

 さらに、彼女が、ここに、夫を見て、友が、長きのはてにやってきた友を〔迎える〕ように歓喜し、良種の者であり、戒ある者であり、夫に掟ある者であるなら、すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、友でもある妻』と呼ばれる。

 

 忿激せず寂静で、殴打の棒で脅されても、汚れなき心で夫を忍受し、忿激しない、扶養者の支配に従い行く者であるなら、すなわち、このような形態の者が、男の妻であるなら、そして、彼女は、『かつまた、奴婢でもある妻』と呼ばれる。

 

 そして、すなわち、ここに、妻が、『殺戮者』と説かれるなら、そして、『盗賊』〔と呼かれ〕、さらに、その者が、『主人』と呼ばれるなら、〔このような者たちは〕劣戒の形態ある者たちであり、粗暴で慇懃ならざる者たちであり、彼女たちは、身体の破壊ののち、地獄に行く。

 

 しかしながら、すなわち、ここに、『母』〔と説かれ〕、『姉妹』〔と説かれ〕、そして、『友』と〔説かれ〕、さらに、その者が、『かつまた、奴婢でもある妻』と呼ばれるなら、〔このような者たちは〕戒において自己が安立した者たちであり、長夜に自己が統御された者たちであり、彼女たちは、身体の破壊ののち、善趣に行く」と。

 

 「スジャーターよ、まさに、これらの七つの、男の妻たちがあります。あなたは、彼女たちのなかのどの者ですか」と。「尊き方よ、今日以後、世尊は、わたしを、主人の奴婢に等しき妻とお認めください」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 忿激する者の経

 

64. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、悪しき色艶の者として存するべきである』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵の色艶あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、何であれ、彼が、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとう者と成るも、そこで、まさに、彼は、忿激〔の思い〕に征服された者としてあり、まさしく、悪しき色艶の者と成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、苦痛のうちに臥すべきである』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵が安楽のうちに臥ことを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、何であれ、彼が、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ(※)、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端に赤い枕がある、寝台に臥すも、そこで、まさに、彼は、忿激〔の思い〕に征服された者としてあり、まさしく、苦痛のうちに臥します。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

※ テキストには gonakatthato paṭalikatthato とあるが、PTS版により gonakatthato paṭikatthato paṭalikatthato と読む。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、多岐にわたる義(利益)ある者として存するべきにあらず』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵に多岐にわたる義(利益)あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、義(利益)ならざるものを収め取っても、『わたしによって、義(利益)が収め取られた』と思い、たとえ、義(利益)を収め取っても、『わたしによって、義(利益)ならざるものが収め取られた』と思います。彼の、これらの法(性質)は、互いに他と正反対に収め取られ、忿激〔の思い〕に征服された者にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、財物ある者として存するべきにあらず』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵の財物あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、彼に、すなわち、それらの財物が有り、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであれ、忿激〔の思い〕に征服された者の、それら〔の財物〕をもまた、王たちは、王の蔵に運び入れます。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、盛名ある者として存するべきにあらず』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵の盛名あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、彼に、すなわち、その盛名が有り、不放逸によって到達したものであれ、忿激〔の思い〕に征服された者は、その〔盛名〕からもまた転落します。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、朋友ある者として存するべきにあらず』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵の朋友あることを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、たとえ、彼に、すなわち、それらの、朋友や僚友たちが〔有り〕、親族や血縁たちが有るも、忿激〔の思い〕に征服された者を、それらの者たちもまた、遠く離れて遍く避けます。比丘たちよ、この第六の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、敵は、敵に、このように求めます。『ああ、まさに、この者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するべきである』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、敵は、敵が善趣に赴くことを喜ばないからです。比丘たちよ、忿激する者としてある、この人士たる人は、忿激〔の思い〕に征服された者であり、忿激〔の思い〕に打ち負かされた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による……略……忿激〔の思い〕に征服された者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、この第七の法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が、敵の欲するものとして、敵の〔利益を〕作り為すものとして、忿激する者に──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──やってきます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「忿激する者は、悪しき色艶の者と成る。そこで、また、彼は、苦痛のうちに臥す。そこで、義(利益)を収め取っても、義(利益)ならざるものに至り着く。

 

 そののち、忿激する者は、身体によって、言葉によって、殺戮を為して、忿激〔の思い〕に征服された人は、財の衰退に遭遇する。

 

 忿激の驕慢に驕慢した者は、盛名なきに遭遇する。親族と朋友たちは、さらに、知人たちは、忿激する者を遍く避ける。

 

 義(道理)ならざるものを生むのが、忿激〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、忿激〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 忿激した者は、義(道理)を知らない。忿激した者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、忿激〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 為し難いようで為し易く、忿激〔の思い〕が、彼を破滅させるなら、のちに、彼は、忿激〔の思い〕が離れ去ったとき、火に焼かれたように悩み苦しむ。

 

 煙ある火が煙を〔出す〕ように、茫然自失〔の姿〕を見示する──すなわち、忿激〔の思い〕が広がることから、それによって、人間たちが憤激するなら。

 

 彼に、恥〔の思い〕がなく、〔良心の〕咎めがなく、言葉が尊重〔の思い〕なく有るなら、忿激〔の思い〕に征服された者に、〔依り所となる〕洲は、何ひとつ有りはしない。

 

 諸々の悩み苦しめられるべき行為を、すなわち、諸々の法(教え)から遠く離れてある、それら〔の行為〕を、〔あなたたちに〕告げるであろう。それを聞きなさい──真実のとおりに。

 

 まさに、忿激した者は、父を殺す。忿激した者は、自らの母を殺す。まさに、忿激した者は、婆羅門を殺す。忿激した者は、凡夫を殺す。

 

 すなわち、母によって、人は養われ、この世を注視する。命を与える者として存している、その〔母〕をもまた、忿激した凡夫は殺す。

 

 まさに、自己の如き者たちとして、それらの有情たちはある。なぜなら、最高に愛しいものとして、自己はあるからである。種々なる形態にたいし耽溺し忿激した者は、多々に自己を殺す。

 

 剣で自己を殺す。耽溺する者たちは、毒を喰らう。縄で縛って死ぬ。山からもまた峡谷に〔飛び降りる〕。

 

 生類を殺し、さらに、自己を死なせる、諸々の行為を為しながら、〔耽溺する者たちは〕覚らない──『忿激〔の思い〕が生じた者は、滅びの者である』〔と〕。

 

 かくのごとく、これは、忿激の形態をもって胸に臥す、死魔の罠である。それを、調御によって、智慧と精進によって、〔正しい〕見解によって、断絶するべきである。

 

 すなわち、この善ならざるものを、賢者が断絶するように、まさしく、そのように、法(教え)において学ぶべきである。わたしたちに、茫然自失〔の思い〕が有ってはならない。

 

 忿激〔の思い〕を離れ、〔所作に〕苦労なき者たち──貪欲〔の思い〕を離れ、思い入れなき者たち──〔自己が〕調御された者たちは、忿激〔の思い〕を捨棄して、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達する」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 説き明かされないものの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「説き明かされないもの、人の境遇、ティッサ、シーハ、守護されようもないもの、キミラ、七つのものと居眠り、慈愛、妻、忿激があり、〔それらの〕十一がある」と。

 

7. 大いなるものの章

 

1. 恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めの経

 

65. 「比丘たちよ、(1)恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存していないとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが衰滅した者にとって、(2)〔感官の〕機能における統御は、機縁を欠くものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、(3)戒は、機縁を欠くものと成ります。戒が存していないとき、戒が衰滅した者にとって、(4)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(5)事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(6)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(7)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた円満成就に赴かず、軟材もまた円満成就に赴かず、硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存していないとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが衰滅した者にとって、〔感官の〕機能における統御は、機縁を欠くものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、戒は、機縁を欠くものと成ります。戒が存していないとき、戒が衰滅した者にとって、正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存しているとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが成就した者にとって、(2)〔感官の〕機能における統御は、機縁が成就したものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存しているとき、〔感官の〕機能における統御が成就した者にとって、(3)戒は、機縁が成就したものと成ります。戒が存しているとき、戒が成就した者にとって、(4)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(5)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(6)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(7)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存しているとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが成就した者にとって、〔感官の〕機能における統御は、機縁が成就したものと成ります。……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 七つの太陽の経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。アンバパーリーの林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常住ならざるものです(無常)。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、山の王たるシネール(須弥山)は、広さとしては、八万四千ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)となり、幅としては、八万四千ヨージャナとなり、大海に潜入すること、八万四千ヨージャナとなり、大海から屹立すること、八万四千ヨージャナとなります。(1)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、天が雨を降らせない、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、天が雨を降らせないでいるとき、すなわち、何であれ、これらの、諸々の種子類や草木類は、諸々の薬草や草や林の巨樹は、それらは、枯れ尽き、干上がり、〔もはや〕有りません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (2)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第二の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第二の太陽の出現あることから、すなわち、何であれ、諸々の小川は、諸々の小池は、それらは、枯れ尽き、干上がり、〔もはや〕有りません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (3)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第三の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第三の太陽の出現あることから、すなわち、何であれ、諸々の大河は──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらは、枯れ尽き、干上がり、〔もはや〕有りません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (4)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第四の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第四の太陽の出現あることから、すなわち、これらの〔五つの〕大河がそこから転起する、それらの大池は──それは、すなわち、この、アノータッタ〔池〕であり、シーハパパーター〔池〕であり、ラタカーラー〔池〕であり、カンナムンダー〔池〕であり、クナーラー〔池〕であり、チャッダンター〔池〕であり、マンダーキニー〔池〕ですが──それらは、枯れ尽き、干上がり、〔もはや〕有りません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (5)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第五の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第五の太陽の出現あることから、大海において、諸々の水は、百ヨージャナほどが沈下し、大海において、諸々の水は、二百ヨージャナほどが沈下し、三百ヨージャナほどが、四百ヨージャナほどが、五百ヨージャナほどが、六百ヨージャナほどが、大海において、諸々の水は、七百ヨージャナほどが沈下し、大海において、水は、七ターラ(高さの単位・一ターラはターラ樹の高さに該当)ほどが止住し、六ターラほどが、五ターラほどが、四ターラほどが、三ターラほどが、二ターラほどが、大海において、水は、ただのターラほどが止住し、大海において、水は、七ポーリサ(高さの単位・一ポーリサは人の身長に該当)ほどが止住し、六ポーリサほどが、五ポーリサほどが、四ポーリサほどが、三ポーリサほどが、二ポーリサほどが、ポーリサほどが、半ポーリサほどが、ただの腰ほどが、ただの膝ほどが、大海において、水は、ただの踝ほどが止住します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分に、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、諸々の水が諸々の牛の足跡のなかに止住し、そこかしこにおいて、〔そのように〕有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、大海において、諸々の水は、ただの踝ほどが止住し、そこかしこにおいて、〔そのように〕有ります。比丘たちよ、第五の太陽の出現あることから、大海において、水は、ただの指先ほども有りません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (6)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第六の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第六の太陽の出現あることから、そして、この大いなる地は、さらに、山の王たるシネールは、発煙し、湯気をあげ、湯煙をあげます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、陶工の窯が点火されたなら、最初に、発煙し、湯気をあげ、湯煙をあげるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、第六の太陽の出現あることから、そして、この大いなる地は、さらに、山の王たるシネールは、発煙し、湯気をあげ、湯煙をあげます。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。……略……解脱するに十分です。

 

 (7)比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、第七の太陽が出現する、まさに、その時が有ります。比丘たちよ、第七の太陽の出現あることから、そして、この大いなる地は、さらに、山の王たるシネールは、燃え盛り、光り輝き、一つの光と成ります。比丘たちよ、そして、この大いなる地が、さらに、山の王たるシネールが、燃やされ焼かれていると、風によって飛び散った炎が、梵の世に至るまでもまた赴きます。比丘たちよ、山の王たるシネールが、燃やされ焼かれ消滅しつつあると、大いなる火の塊によって征服され、諸々の峰は、百ヨージャナほどが崩壊し、二百ヨージャナほどが、三百ヨージャナほどが、四百ヨージャナほどが、諸々の峰は、五百ヨージャナほどが崩壊します。比丘たちよ、そして、この大いなる地が、さらに、山の王たるシネールが、燃やされ焼かれていると、まさしく、灰も覚知されず、(すす)も〔覚知され〕ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、酥が、あるいは、油が、燃やされ焼かれていると、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、そして、この大いなる地が、さらに、山の王たるシネールが、燃やされ焼かれていると、まさしく、灰も覚知されず、煤も〔覚知され〕ません。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、そこで、誰が、明慧ある者となり、誰が、信を置ける者となるというのでしょう──『そして、この大いなる地は、さらに、山の王たるシネールも、燃やされるであろうし、焼かれるであろうし、有ることなくあるであろう』と、所見の境処としてある者たちより他に(実見してはじめて言えることである)。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、スネッタという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。比丘たちよ、また、まさに、スネッタ教師には、幾百の弟子たちが有りました。比丘たちよ、スネッタ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、スネッタ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、全てもろともに、全ての教えを了知した、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に、再生しました。すなわち、全てもろともに、全ての教えを了知しなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、一部の者たちはまた、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、士族の大家たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、婆羅門の大家たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、家長の大家たちの同類として再生しました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、スネッタ教師に、この〔思い〕が有りました。『まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、未来の運命として、弟子たちと等しく同等の境遇ある者として〔世に〕存するのは。それなら、さあ、わたしは、より上なる慈愛〔の思い〕を修めるのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、スネッタ教師は、七年のあいだ、慈愛〔の思い〕の心を修めました。七年のあいだ、慈愛〔の思い〕の心を修めて、七つの展転され還転されたカッパ(壊劫と成劫)のあいだ、この世に、ふたたび帰り来ませんでした。比丘たちよ、まさに、世が展転しているときは、光音〔天〕に近しく赴く者として有り、世が還転しているときは、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します。比丘たちよ、そこにあって、まさに、〔スネッタ教師は〕梵〔天〕として〔世に〕有ります。大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者です。比丘たちよ、また、まさに、三十六回、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕として〔世に〕有りました。幾百回、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有りました──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住しました。比丘たちよ、まさに、彼は、まさに、スネッタ教師は、このように、長寿の者として存しつつ、このように、長きに止住する者として〔存しつつ〕、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれていない者として〔世に〕有りました。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 それは、何を因とするのですか。四つの法(性質)の、随覚なく、理解なきことからです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、聖なる戒の、随覚なく、理解なきことからであり、聖なる禅定の、随覚なく、理解なきことからであり、聖なる智慧の、随覚なく、理解なきことからであり、聖なる解脱の、随覚なく、理解なきことからです。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、聖なる戒は、随覚され、理解され、聖なる禅定は、随覚され、理解され、聖なる智慧は、随覚され、理解され、聖なる解脱は、随覚され、理解され、生存の喝愛は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒、禅定、そして、智慧、さらに、無上なる解脱──これらの法(性質)は、福徳あるゴータマ(ブッダ)によって随覚された。

 

 かくのごとく、覚者は、証知して〔そののち〕、法(教え)を、比丘たちに告げ知らせた──苦しみの終極を為す教師として、涅槃に到達した眼ある者として」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 城市の喩えの経

 

67. 「比丘たちよ、すなわち、まさに、王の最辺境の城市が、七つの城市の必需品によって善く備えあるものと成り、さらに、四つの食(動力源・エネルギー)を、欲するままに得るものと成り、苦難なく得るものと〔成り〕、困難なく得るものと〔成ることから〕、比丘たちよ、これは、『義(利益)に反する者たちであり、対立者たちである、外の者たちによって、為しようがない王の最辺境の城市』〔と〕説かれます。

 

 どのような七つの城市の必需品によって善く備えあるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の最辺境の城市において、石柱が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなく有ります。この第一の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、堀が、まさしく、そして、深く有り、さらに、幅広く〔有ります〕。この第二の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、巡回する道が、まさしく、そして、高く有り、さらに、幅広く〔有ります〕。この第三の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、多くの武器が蓄積され、まさしく、そして、矢が有り、さらに、投器が〔有ります〕。この第四の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、多くの軍隊が──それは、すなわち、この、象兵たち、馬兵たち、車兵たち、弓の使い手たち、旗手たち、司令官たち、食糧補給者たち、高貴の王子たち、突撃兵たち、巨象たち、勇士たち、皮革の戦士たち、奴隷兵たちが──滞在します。この第五の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕有ります。この第六の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、城壁が、まさしく、そして、高く有り、かつまた、幅広く〔有り〕、さらに、被膜と塗装が完備しています。この第七の城市の必需品によって、王の最辺境の城市は、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成ります。これらの七つの城市の必需品によって善く備えあるものと成ります。

 

 どのような四つの食を、欲するままに得るものと成り、苦難なく得るものと〔成り〕、困難なく得るものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、王の最辺境の城市において、多くの草と薪と水が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、多くの米と麦が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、多くの胡麻や緑豆や豆などの穀類が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、王の最辺境の城市において、多くの医薬品が──それは、すなわち、この、酥、生酥、油、蜜、糖、塩が──蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの食を、欲するままに得るものと成り、苦難なく得るものと〔成り〕、困難なく得るものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、王の最辺境の城市が、これらの七つの城市の必需品によって善く備えあるものと成り、さらに、これらの四つの食を、欲するままに得るものと成り、苦難なく得るものと〔成り〕、困難なく得るものと〔成ることから〕、比丘たちよ、これは、『義(利益)に反する者たちであり、対立者たちである、外の者たちによって、為しようがない王の最辺境の城市』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる弟子が、七つの正なる法(性質)を具備した者と成り、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成ることから〕、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、悪魔の〔欲するままに〕為すべき者とならず、パーピマント(悪魔)の〔欲するままに〕為すべき者とならない』〔と〕説かれます。どのような七つの正なる法(性質)を具備した者と成るのですか。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、石柱が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなく有り、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は……略……覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、信の石柱ある聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第一の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、堀が、まさしく、そして、深く有り、さらに、幅広く〔有り〕、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉による悪しき行ないを〔恥じ〕、意による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を恥じます。比丘たちよ、恥〔の思い〕の堀ある(※)聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第二の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

※ テキストには Hirīparikkho kho とあるが、PTS版により kho を削除する。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、巡回する道が、まさしく、そして、高く有り、さらに、幅広く〔有り〕、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。比丘たちよ、〔良心の〕咎めの巡回する道ある聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第三の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの武器が蓄積され、まさしく、そして、矢が有り、さらに、投器が〔有り〕、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、所聞の武器ある聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第四の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの軍隊が──それは、すなわち、この、象兵たち、馬兵たち、車兵たち、弓の使い手たち、旗手たち、司令官たち、食糧補給者たち、高貴の王子たち、突撃兵たち、巨象たち、勇士たち、皮革の戦士たち、奴隷兵たちが──滞在し、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、精進の軍隊ある聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第五の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕有り、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、気づきの門番ある聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第六の正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、城壁が、まさしく、そして、高く有り、かつまた、幅広く〔有り〕、さらに、被膜と塗装が完備し、内の者たちの保護のために、外の者たちの防御のために、善く備えあるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、智慧の被膜と塗装が完備した聖なる弟子は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。この第七の正なる法(性質)を具備した者と成ります。これらの七つの正なる法(性質)を具備した者と成ります。

 

 どのような、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの草と薪と水が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます──自己の、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの米と麦が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます──自己の、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの胡麻や緑豆や豆などの穀類が蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます──自己の、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、王の最辺境の城市において、多くの医薬品が──それは、すなわち、この、酥、生酥、油、蜜、糖、塩が──蓄積され、内の者たちの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、外の者たちの防御のために、有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます──自己の、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。これらの、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの七つの正なる法(性質)を具備した者と成り、さらに、これらの、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成ることから〕、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、悪魔の〔欲するままに〕為すべき者とならず、パーピマント(悪魔)の〔欲するままに〕為すべき者とならない』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 法を知る者の経

 

68. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、法(教え)を知る者と成り、かつまた、義(意味)を知る者と〔成り〕、かつまた、自己を知る者と〔成り〕、かつまた、量を知る者と〔成り〕、かつまた、時を知る者と〔成り〕、かつまた、衆を知る者と〔成り〕、かつまた、人の上下を知る者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、法(教え)を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、法(教え)を──経、頌歌……略……未曾有法、問答を──知らないなら、ここに、『法(教え)を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌……略……未曾有法、問答を──知ることから、それゆえに、『法(教え)を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となります。

 

 では、どのように、義(意味)を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、その〔語られたこと〕その語られたことの義(意味)を、『これは、この語られたことの義(意味)である』『これは、この語られたことの義(意味)である』と知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、まさしく、その〔語られたこと〕その語られたことの義(意味)を、『これは、この語られたことの義(意味)である』『これは、この語られたことの義(意味)である』と知らないなら、ここに、『義(意味)を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、まさしく、その〔語られたこと〕その語られたことの義(意味)を、『これは、この語られたことの義(意味)である』『これは、この語られたことの義(意味)である』と知ることから、それゆえに、『義(意味)を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となり、義(意味)を知る者となります。

 

 では、どのように、自己を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、自己を、『信としては、戒としては、所聞としては、施捨としては、智慧としては、弁才としては、これだけの者として〔世に〕存している』と知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、自己を、『信としては、戒としては、所聞としては、施捨としては、智慧としては、弁才としては、これだけの者として〔世に〕存している』と知らないなら、ここに、『自己を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、自己を、『信としては、戒としては、所聞としては、施捨としては、智慧としては、弁才としては、これだけの者として〔世に〕存している』と知ることから、それゆえに、『自己を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となり、義(意味)を知る者となり、自己を知る者となります。

 

 では、どのように、量を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の納受のための量を知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の納受のための量を知らないなら、ここに、『量を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の納受のための量を知ることから、それゆえに、『量を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となり、義(意味)を知る者となり、自己を知る者となり、量を知る者となります。

 

 では、どのように、時を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、時を、『これは、誦説のための時である』『これは、遍問のための時である』『これは、専念のための時である』『これは、静坐のための時である』と知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、時を、『これは、誦説のための時である』『これは、遍問のための時である』『これは、専念のための時である』『これは、静坐のための時である』と知らないなら、ここに、『時を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、時を、『これは、誦説のための時である』『これは、遍問のための時である』『これは、専念のための時である』『これは、静坐のための時である』と知ることから、それゆえに、『時を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となり、義(意味)を知る者となり、自己を知る者となり、量を知る者となり、時を知る者となります。

 

 では、どのように、衆を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、衆を、『これは、士族の衆である』『これは、婆羅門の衆である』『これは、家長の衆である』『これは、沙門の衆である』『そこにおいては、このように近づいて行くべきであり、このように立つべきであり、このように為すべきであり、このように坐るべきであり、このように語るべきであり、このように沈黙の状態となるべきである』と知ります。比丘たちよ、もし、比丘が、衆を、『これは、士族の衆である』『これは、婆羅門の衆である』『これは、家長の衆である』『これは、沙門の衆である』『そこにおいては、このように近づいて行くべきであり、このように立つべきであり、このように為すべきであり、このように坐るべきであり、このように語るべきであり、このように沈黙の状態となるべきである』と知らないなら、ここに、『衆を知る者』と説かれません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、比丘が、衆を、『これは、士族の衆である』『これは、婆羅門の衆である』『これは、家長の衆である』『これは、沙門の衆である』『そこにおいては、このように近づいて行くべきであり、このように立つべきであり、このように為すべきであり、このように坐るべきであり、このように語るべきであり、このように沈黙の状態となるべきである』と知ることから、それゆえに、『衆を知る者』と説かれます。かくのごとく、法(教え)を知る者となり、義(意味)を知る者となり、自己を知る者となり、量を知る者となり、時を知る者となり、衆を知る者となります。

 

 では、どのように、人の上下を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、二つ〔の観点〕によって、〔二者の〕人が見出されたものと成ります。『二者の人があり、一者は、聖者たちと会見することを欲する者であり、一者は、聖者たちと会見することを欲する者ではない。すなわち、この人は、聖者たちと会見することを欲する者ではなく、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、聖者たちと会見することを欲する者であり、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、聖者たちと会見することを欲する者たちであり、一者は、正なる法(教え)を聞くことを欲する者であり、一者は、正なる法(教え)を聞くことを欲する者ではない。すなわち、この人は、正なる法(教え)を聞くことを欲する者ではなく、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、正なる法(教え)を聞くことを欲する者であり、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、正なる法(教え)を聞くことを欲する者たちであり、一者は、耳を傾ける者として、法(教え)を聞き、一者は、耳を傾けない者として、法(教え)を聞く。すなわち、この人は、耳を傾けない者として、法(教え)を聞き、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、耳を傾ける者として、法(教え)を聞き、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、耳を傾ける者たちとして、法(教え)を聞き、一者は、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、一者は、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しない。すなわち、この人は、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持せず、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、一者は、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、一者は、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しない。すなわち、この人は、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視せず、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、一者は、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であり、一者は、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではない。すなわち、この人は、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者であり、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。

 

 『二者の人があり、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちであり、一者は、自己の利益のために実践する者であり、他者の利益のために〔実践する者では〕なく、一者は、そして、自己の利益のために実践する者であり、さらに、他者の利益のために〔実践する者である〕。すなわち、この人は、自己の利益のために実践する者であり、他者の利益のために〔実践する者では〕なく、このように、彼は、その支分によって非難されるべき者となる。すなわち、この人は、そして、自己の利益のために実践する者であり、さらに、他者の利益のために〔実践する者であり〕、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべき者となる』〔と〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘に、二つ〔の観点〕によって、〔二者の〕人が見出されたものと成ります。比丘たちよ、このように、比丘は、人の上下を知る者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. パーリッチャッタカの経

 

69. 「比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が枯葉と成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、枯葉である。まさしく、長からずして、今や、落葉と成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が落葉と成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、落葉である。まさしく、長からずして、今や、芽を生じたものと成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が芽を生じたものと成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、芽を生じたところである。まさしく、長からずして、今や、若芽を生じたものと成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が若芽を生じたものと成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、若芽を生じたところである。まさしく、長からずして、今や、花芽を生じたものと成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が花芽を生じたものと成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、花芽を生じたところである。まさしく、長からずして、今や、蕾を生じたものと成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が蕾を生じたものと成るなら、比丘たちよ、その時点において、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『パーリッチャッタカの黒檀は、今や、蕾を生じたところである。まさしく、長からずして、今や、満開に咲き誇るものと成るであろう』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、三十三天のパーリッチャッタカの黒檀が満開に咲き誇るものと成るなら、比丘たちよ、わが意を得た三十三天〔の神々〕たちは、パーリッチャッタカの黒檀の根元において、天の四月のあいだ、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、満開に咲き誇るパーリッチャッタカの黒檀の、遍きにわたり五十ヨージャナが光で充満するところと成り、風に従い百ヨージャナに香りが赴きます。これは、パーリッチャッタカの黒檀の威力です。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、聖なる弟子が、家から家なきへと出家することを思い考えるなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、枯葉と成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家した者と成るなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、落葉と成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、芽を生じたものと成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、若芽を生じたものと成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、花芽を生じたものと成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、蕾を生じたものと成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子は、満開に咲き誇るものと成ります──三十三天のパーリッチャッタカの黒檀のように。

 

 比丘たちよ、その時点において、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げます。『この某名の尊者は、某名の尊者に信ある住者であり、何某の、あるいは、村から、あるいは、町から、家から家なきへと出家し、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む』と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは……略……三十三天〔の神々〕たちは……耶摩天〔の神々〕たちは……兜率天〔の神々〕たちは……化楽天〔の神々〕たちは……他化自在天〔の神々〕たちは……梵身天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げます。『この某名の尊者は、某名の尊者に信ある住者であり、何某の、あるいは、村から、あるいは、町から、家から家なきへと出家し、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む』と。まさに、かくのごとく、その瞬間に、その寸時に、すなわち、梵の世にまで、声が上がります。これは、煩悩が滅尽した比丘の威力です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 「尊敬して」の経

 

70. そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者サーリプッタに、このような心の思索が浮かびました。「いったい、まさに、誰を、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきであろうか」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「教師(ブッダ)を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきである。法(教え)を、まさに、比丘は……略……。僧団を、まさに、比丘は……。学びを、まさに、比丘は……。禅定を、まさに、比丘は……。不放逸を、まさに、比丘は……。友愛を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきである」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしの、これらの法(性質)は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、これらの法(性質)を、赴いて、世尊に告げるのだ。このように、わたしの、これらの法(性質)は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕。それは、たとえば、また、まさに、人が、完全なる清浄にして完全なる清白の金塊に到達するなら、彼に、このような〔思いが〕存するように、『まさに、わたしの、この金塊は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、この金塊を、赴いて、鍛冶屋たちに見せるのだ。このように、わたしの、この金塊は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕』と、まさしく、このように、わたしの、これらの法(性質)は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、これらの法(性質)を、赴いて、世尊に告げるのだ。このように、わたしの、これらの法(性質)は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『いったい、まさに、誰を、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきであろうか』と。尊き方よ、そこで、まさに、その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『教師を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきである。法(教え)を、まさに、比丘は……略……。僧団を、まさに、比丘は……。学びを、まさに、比丘は……。禅定を、まさに、比丘は……。不放逸を、まさに、比丘は……。友愛を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきである』と。尊き方よ、そこで、まさに、その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの、これらの法(性質)は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、これらの法(性質)を、赴いて、世尊に告げるのだ。このように、わたしの、これらの法(性質)は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕。それは、たとえば、また、まさに、人が、完全なる清浄にして完全なる清白の金塊に到達するなら、彼に、このような〔思いが〕存するように、「まさに、わたしの、この金塊は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、この金塊を、赴いて、鍛冶屋たちに見せるのだ。このように、わたしの、この金塊は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕」と、まさしく、このように、わたしの、これらの法(性質)は、完全なる清浄にして完全なる清白のものである。それなら、さあ、わたしは、これらの法(性質)を、赴いて、世尊に告げるのだ。このように、わたしの、これらの法(性質)は、まさしく、そして、完全なる清浄のものと成るであろうし、さらに、より究められた完全なる清浄のものと〔成るであろう〕』」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、教師を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきです。サーリプッタよ、法(教え)を、まさに、比丘は……略……。サーリプッタよ、僧団を、まさに、比丘は……。サーリプッタよ、学びを、まさに、比丘は……。サーリプッタよ、禅定を、まさに、比丘は……。サーリプッタよ、不放逸を、まさに、比丘は……。サーリプッタよ、友愛を、まさに、比丘は、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みつつ、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるべきです」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、僧団にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、学びにたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、禅定にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なく、不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、不放逸にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なく、不放逸にたいし尊重〔の思い〕なく、友愛にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。……略……。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有し、友愛にたいし尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されます。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。……略……。

 

 尊き方よ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有し、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されます。尊き方よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕を有し、僧団にたいし尊重〔の思い〕を有し、学びにたいし尊重〔の思い〕を有し、禅定にたいし尊重〔の思い〕を有し、不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です(※)。

 

※ テキストには sagāravo’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。以下の平行箇所も同様。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。……略……。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、不放逸にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なく、不放逸にたいし尊重〔の思い〕なく、友愛にたいし尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕なく、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なく、僧団にたいし尊重〔の思い〕なく、学びにたいし尊重〔の思い〕なく、禅定にたいし尊重〔の思い〕なく、不放逸にたいし尊重〔の思い〕なき者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕なき者です。

 

 サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。……略……。

 

 サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有し、友愛にたいし尊重〔の思い〕なき者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されません。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。

 

 サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されます。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、法(教え)にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。……略……。

 

 サーリプッタよ、まさに、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有し、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者として〔世に〕有るであろう、という、この状況は見出されます。サーリプッタよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし尊重〔の思い〕を有し……略……不放逸にたいし尊重〔の思い〕を有する者であるなら、彼は、友愛にたいしてもまた尊重〔の思い〕を有する者です。

 

 サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 修行の経

 

71. 「比丘たちよ、比丘が、修行に専念しない者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することは、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。『〔いまだ〕修められていないことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔いまだ〕修められていないのですか。四つの気づきの確立(四念処四念住)であり、四つの正しい精励(四正勤)であり、四つの神通の足場(四神足)であり、五つの機能(五根)であり、五つの力(五力)であり、七つの覚りの支分(七覚支)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれず、正しく温められず、正しく世話されず、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、鶏によって、〔それらの〕卵が、正しく抱かれず、正しく温められず、正しく世話されていないからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念しない者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することは、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。『〔いまだ〕修められていないことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔いまだ〕修められていないのですか。四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。それは、何を因とするのですか。『〔すでに〕修められたことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔すでに〕修められたのですか。四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、鶏によって、〔それらの〕卵が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話されたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。それは、何を因とするのですか。『〔すでに〕修められたことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔すでに〕修められたのですか。四つの気づきの確立であり……略……聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、大工の、あるいは、大工の内弟子の、鉈の柄()に、まさしく、〔四つの〕指の跡が見られ、親指の跡が見られ、しかしながら、まさに、彼に、『わたしの鉈の柄に、今日、これだけの滅尽(摩滅)があり、昨日、これだけ〔の滅尽〕があり、過日においては、これだけ〔の滅尽〕がある』と、このような知恵が有ることはなく、そこで、まさに、〔柄が〕滅尽したとき、彼に、まさしく、『滅尽したのだ』と、知恵が有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、『わたしの諸々の煩悩に、今日、これだけの滅尽があり、昨日、これだけ〔の滅尽〕があり、過日においては、これだけ〔の滅尽〕がある』と、このような知恵が有ることはないとして、そこで、まさに、〔煩悩が〕滅尽したとき、彼に、まさしく、『滅尽したのだ』と、知恵が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、藤蔓の結縛で結縛された航海用の船が、六月のあいだ、水が消尽して、冬のあいだ、陸に引き上げられたなら、熱風によって打ち負かされた、それらの結縛は、雨期の黒雲が雨をもたらし、いとも簡単に安息し(無力化し)、腐敗のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、諸々の束縛するものは、いとも簡単に安息し、腐敗のものと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 火の塊の喩えの経

 

72. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。まさに、旅の道を行く世尊は、或るどこかの地域において、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を見ました。見て、道から外れて、或るどこかの木の根元に設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」と。

 

 「(1)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の少女を、あるいは、婆羅門の少女を、あるいは、家長の少女を、柔らかく若い手足ある〔少女〕を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の少女を、あるいは、婆羅門の少女を、あるいは、家長の少女を、柔らかく若い手足ある〔少女〕を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわることです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわることです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒にして悪しき法(性質)ある者にとって、不浄にして励行に疑いある者にとって、生業を隠蔽している者にとって、沙門ではないのに沙門と明言する者にとって、梵行者ではないのに梵行者と明言する者にとって、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている者にとって、生まれながらの屑にとって、すなわち、この、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大いなる火の塊を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒にして悪しき法(性質)ある者が、不浄にして励行に疑いある者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の少女を、あるいは、婆羅門の少女を、あるいは、家長の少女を、柔らかく若い手足ある〔少女〕を抱きかかえて、あるいは、近しく坐り、あるいは、近しく横たわるなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (2)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で、両の脛を巻いて引きずり、その〔縄〕が、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住するのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、敬拝を受けるのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、敬拝を受けることです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で……略……骨髄を損なって止住することです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で、両の脛を巻いて……略……骨髄を損なって止住するなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、敬拝を受けるなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (3)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、油で洗い清められた鋭い刃で、胸を打つのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、合掌の行為を受けるのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、合掌の行為を受けることです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、油で洗い清められた鋭い刃で、胸を打つことです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、油で洗い清められた鋭い刃で、胸を打つなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、合掌の行為を受けるなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (4)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の板で、身体を巻き包むのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき衣料を遍く受益するのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき衣料を遍く受益することです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の板で、身体を巻き包むことです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の板で、身体を巻き包むなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき衣料を遍く受益するなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (5)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の杭で、口を開いて、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の玉を、口に置き、それが、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、舌をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出るのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき〔行乞の〕施食を遍く受益するのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき〔行乞の〕施食を遍く受益することです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の杭で、口を開いて、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の玉を、口に置き、それが、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、舌をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出ることです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の杭で、口を開いて、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の玉を、口に置き、それが、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、舌をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出るなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき〔行乞の〕施食を遍く受益するなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (6)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、熱せられた、あるいは、鉄の臥床に、あるいは、鉄の椅子に、あるいは、坐らせ、あるいは、横たわらせるのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき臥床と椅子を遍く受益するのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき臥床と椅子を遍く受益することです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、熱せられた、あるいは、鉄の臥床に、あるいは、鉄の椅子に、あるいは、坐らせ、あるいは、横たわらせることです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、熱せられた、あるいは、鉄の臥床に、あるいは、鉄の椅子に、あるいは、坐らせ、あるいは、横たわらせるなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき臥床と椅子を遍く受益するなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 (7)比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、優れていますか。すなわち、力ある人が、足を上に、頭を下に、〔彼を〕掴んで、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の釜に置き、彼が、そこにおいて、泡立ち、煮られながら、一度また上に赴き、一度また下に赴き、一度また横に赴くのと──あるいは、すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき精舎を遍く受益するのと──では」と。「尊き方よ、これこそが、優れています。すなわち、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき精舎を遍く受益することです。尊き方よ、まさに、これは、苦しみです。すなわち、力ある人が、足を上に、頭を下に、〔彼を〕掴んで、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の釜に置き、彼が、そこにおいて、泡立ち、煮られながら、一度また上に赴き、一度また下に赴き、一度また横に赴くことです」と。

 

 「比丘たちよ、あなたたちに告げましょう。比丘たちよ、あなたたちに知らせましょう。彼にとって、これこそが、優れている、そのとおりに。劣戒の者にとって……略……生まれながらの屑にとって、すなわち、力ある人が、足を上に、頭を下に、〔彼を〕掴んで、熱せられ、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、銅の釜に置き、彼が、そこにおいて、泡立ち、煮られながら、一度また上に赴き、一度また下に赴き、一度また横に赴くなら、〔彼にとって、これこそが、優れています〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうが〕、まさしく、しかし、それを縁として、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その、劣戒の者が……略……生まれながらの屑が、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、信によって施されるべき精舎を遍く受益するなら、比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成り、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『そして、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、大いなる果と成るであろうし、大いなる福利と〔成るであろうし〕、まさしく、さらに、わたしたちの、この出家も、徒労なきものと成るであろうし、果を有するものと〔成るであろうし〕、生成を有するものと〔成るであろう〕』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、あるいは、自己の義(利益)を、正しく見ながら、不放逸によって成就させるに、まさしく、十分なるものがあります。比丘たちよ、あるいは、他者の義(利益)を、正しく見ながら、不放逸によって成就させるに、まさしく、十分なるものがあります。比丘たちよ、あるいは、両者の義(利益)を、正しく見ながら、不放逸によって成就させるに、まさしく、十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの口から、熱い血が噴き出しました。六十ばかりの比丘たちは、「世尊よ、極めて為し難きかな。世尊よ、極めて為し難きかな」と、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしました。六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. スネッタの経

 

73. 「(1)比丘たちよ、過去の事ですが、スネッタという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。比丘たちよ、また、まさに、スネッタ教師には、幾百の弟子たちが有りました。スネッタ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、スネッタ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、スネッタ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させた、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しました。

 

 (2)比丘たちよ、過去の事ですが、ムーガパッカという名の教師が〔世に〕有りました……略……(3)アラネーミという名の教師が〔世に〕有りました(4)クッダーラカ……略……という名の教師が〔世に〕有りました……略……(5)ハッティパーラという名の教師が〔世に〕有りました……略……(6)ジョーティパーラという名の教師が〔世に〕有りました……略……(7)アラカという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。比丘たちよ、また、まさに、アラカ教師には、幾百の弟子たちが有りました。アラカ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、アラカ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、アラカ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させた、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しました。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。すなわち、これらの七者の教師たちを──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者たちを、幾百の取り巻きと弟子の僧団ある者たちを──汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、彼は、多くの功徳ならざるものを生み出しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの七者の教師たちを──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者たちを、幾百の取り巻きと弟子の僧団ある者たちを──汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、彼は、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した人を、汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、この者は、それよりも、より多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、梵行を共にする者たちにたいする、この〔罵倒と口撃〕のように、〔自己を〕掘り崩すものとして、これより外に、このような形態のものを、わたしは説きません。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちの心は、梵行を共にする者たちにたいし、汚れたものと成らないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. アラカの経

 

74. 「比丘たちよ、過去の事ですが、アラカという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。比丘たちよ、また、まさに、アラカ教師には、幾百の弟子たちが有りました。アラカ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。アラカ教師は、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『婆羅門よ、人間たちの生命は、少なく、僅かにして、軽きものであり、苦しみ多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって(※)覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

※ テキストには mantāyaṃ とあるが、PTS版により mantāya と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 (1)婆羅門よ、それは、たとえば、また、太陽が昇り行くとき、草の先端にある露の滴が、まさしく、すみやかに消え行き、長きに止住するものと成らないように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、露の滴の如く、僅かにして、軽きものであり、苦しみ多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (2)婆羅門よ、それは、たとえば、また、土砂降りとなり、天が雨を降らせているとき、水の泡粒が、まさしく、すみやかに消え行き、長きに止住するものと成らないように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、水の泡粒の如く、僅かにして、軽きものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (3)婆羅門よ、それは、たとえば、また、水のうえに棒で〔画いた〕線が、まさしく、すみやかに消え行き、長きに止住するものと成らないように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、水のうえに棒で〔画いた〕線の如く……略……。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (4)婆羅門よ、それは、たとえば、また、山から発する川が、遠くに赴き、激しい流れとなり、〔何であれ〕運んでは運び、すなわち、その〔川〕が反転する、その〔時〕が、あるいは、瞬時も、あるいは、少時も、あるいは、寸時も、存在せず、そこで、まさに、その〔川〕が、まさしく、赴き、まさしく、転じ行き、まさしく、流れ行くように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、山から発する川の如く……略……。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (5)婆羅門よ、それは、たとえば、また、力ある人が、舌の先端において、唾液の塊を集めて、まさしく、難なく吐くように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、唾液の塊の如く……略……。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (6)婆羅門よ、それは、たとえば、また、昼のあいだ熱せられた鉄鍋に入れられた肉片が、まさしく、すみやかに消え行き、長きに止住するものと成らないように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、肉片の如く……略……。生まれた者に、死なきことは存在しない。

 

 (7)婆羅門よ、それは、たとえば、また、屠殺される雌牛が、屠殺場に連行されつつ、まさしく、その〔足〕その足を引き上げるたびに、まさしく、屠殺の現前に有り、まさしく、死の現前に〔有る〕ように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、人間たちの生命は、屠殺される牛の如く、僅かにして、軽きものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、六万年の寿命の量が有りました。五百歳の少女が離婚できる者(再婚可能な者)として有りました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、六つの病苦だけが有りました。寒さであり、暑さであり、飢えであり、渇きであり、大便であり、小便です。比丘たちよ、まさに、彼は、まさに、アラカ教師は、人間たちが、このように長寿の者たちとしてあるとき、このように長き止住者たちとしてあるとき、このように病苦少なき者たちとしてあるとき、弟子たちに、このように、法(教え)を説示します。『婆羅門よ、人間たちの生命は、少なく、僅かにして、軽きものであり、苦しみ多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない』と。

 

 比丘たちよ、その〔法〕を、今現在、正しく説きつつ説くべきです。『人間たちの生命は、少なく、僅かにして、軽きものであり、苦しみ多きものであり、葛藤多きものである。明慧によって覚るべきであり、善を為すべきであり、梵行を歩むべきである。生まれた者に、死なきことは存在しない』と。比丘たちよ、今現在、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、少しのあいだ、より多く〔生きるかです〕。比丘たちよ、また、まさに、百年のあいだ生きている者は、まさしく、三百の季節のあいだ生きます。冬の百の季節であり、夏の百の季節であり、雨期の百の季節です。比丘たちよ、また、まさに、三百の季節のあいだ生きている者は、まさしく、千二百の月のあいだ生きます。冬の四百の月であり、夏の四百の月であり、雨期の四百の月です。比丘たちよ、また、まさに、千二百の月のあいだ生きている者は、まさしく、二千四百の半月のあいだ生きます。冬の八百の半月であり、夏の八百の半月であり、雨期の八百の半月です。比丘たちよ、また、まさに、二千四百の半月のあいだ生きている者は、まさしく、三万六千の夜のあいだ生きます。冬の一万二千の夜であり、夏の一万二千の夜であり、雨期の一万二千の夜です。比丘たちよ、また、まさに、三万六千の夜のあいだ生きている者は、まさしく、七万二千の食事を食べます。冬の二万四千の食事であり、夏の二万四千の食事であり、雨期の二万四千の食事です──母の乳〔の時〕を含み、食事抜き〔の時〕を含めて。

 

 そこで、これらの食事抜き〔の時〕があるなら、猿の惰眠ある者としてもまた食事を食べず、苦しんでいる者としてもまた食事を食べず、病んでいる者としてもまた食事を食べず、斎戒の者としてもまた食事を食べず、利得なきによってもまた食事を食べません。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、百歳の人間の寿命もまた数えられ、寿命の量もまた数えられ、季節もまた数えられ、一年もまた数えられ、月もまた数えられ、半月もまた数えられ、夜もまた数えられ、昼もまた数えられ、食事もまた数えられ、食事抜き〔の時〕もまた数えられました。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恥〔の思い〕、太陽、喩え、法(教え)を知る者、パーリチャッタカ、『尊敬して』があり、修行、火があり、そして、スネッタとアラカともに、〔章となる〕」と。

 

8. 律の章

 

1. 第一の律の保持者の経

 

75. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学び、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の律の保持者の経

 

76. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)また、まさに、彼の、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有り、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の律の保持者の経

 

77. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)また、まさに、律において、安立した者として、動かしようのない者として、〔世に〕有り、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第四の律の保持者の経

 

78. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、(6)人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知し、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、律の保持者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の律の保持者の荘厳の経

 

79. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学び、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の律の保持者の荘厳の経

 

80. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)また、まさに、彼の、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有り、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を……略……困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の律の保持者の荘厳の経

 

81. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)また、まさに、律において、安立した者として、動かしようのない者として、〔世に〕有り、(6)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を……略……困難なく得る者として、〔世に〕有り、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第四の律の保持者の荘厳の経

 

82. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)罪を知り、(2)罪ならざるものを知り、(3)軽き罪を知り、(4)重き罪を知り、(5)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念し、(6)人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知し、(7)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)を具備した比丘は、美しく輝きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 教師の教えの経

 

83. そこで、まさに、尊者ウパーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパーリは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「ウパーリよ、まさに、あなたが、それらの法(性質)を、『これらの法(性質)は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起しない』と知るなら、ウパーリよ、一定して、『これは、法(教え)ではない。これは、律ではない。これは、教師の教えではない』と保持するべきです。ウパーリよ、しかしながら、まさに、あなたが、それらの法(性質)を、『これらの法(性質)は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する』と知るなら、ウパーリよ、一定して、『これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである』と保持するべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 問題の止寂の経

 

84. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの、諸々の生起しては生起した問題が止寂し止み静まるための、問題の止寂の法(性質)です。どのようなものが、七つのものなのですか。面前の調伏(現前毘尼:関係者全員による裁定)が施されるべきであり、記憶による調伏(憶念毘尼:違犯者の潔白宣言による裁定)が施されるべきであり、迷乱なき調伏(不痴毘尼:違犯者が心神喪失の場合の裁定)が施されるべきであり、明言されたものによる執行(自言治:違犯者の自白による裁定)が施されるべきであり、多数決(多人語:関係者以外を含む多数者による裁定)が施されるべきであり、彼の悪行の告発(覓罪相:言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)が施されるべきであり、草の覆い(如草覆地:弁論と和解による裁定)が施されるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの七つの、諸々の生起しては生起した問題が止寂し止み静まるための、問題の止寂の法(性質)があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 律の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つの律の保持者、まさしく、そして、四つの荘厳、教えがあり、問題の止寂とともに、第八〔の章〕において、〔それらの〕十がある」と。

 

9. 沙門の章

 

1. 比丘の経

 

85. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)が破壊された(ビンナ)ことから、比丘(ビック)と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。身体を有するという見解(有身見)が破壊されたものと成り、疑惑〔の思い〕()が破壊されたものと成り、戒や掟への偏執(戒禁取)が破壊されたものと成り、貪欲()が破壊されたものと成り、憤怒()が破壊されたものと成り、迷妄()が破壊されたものと成り、思量()が破壊されたものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が破壊されたことから、比丘と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 沙門の経

 

86. 「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕法(性質)が静まった(サミタ)ことから、沙門(サマナ)と成ります。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 婆羅門の経

 

87. ……略……拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門(ブラーフマナ)と成ります。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 聞経者の経

 

88. ……略……流れ去った(ニッスタ)ことから、聞経者(ソッティヤ)と成ります。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 沐浴者の経

 

89. ……略……洗い流された(ナハータ)ことから、沐浴者(ナハータカ)と成ります。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 〔真の〕知に至る者の経

 

90. ……略……〔あるがままに〕知られた(ヴィディタ)ことから、〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)と成ります。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 聖者の経

 

91. ……略……遠く離れている(アーラカ)ことから、聖者(アリヤ)と成ります。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 阿羅漢の経

 

92. ……略……遠く離れている(アーラカ)ことから、阿羅漢(アラハント)と成ります。どのようなものが、七つのものなのですか。身体を有するという見解が遠く離れているものと成り、疑惑〔の思い〕が遠く離れているものと成り、戒や掟への偏執が遠く離れているものと成り、貪欲が遠く離れているものと成り、憤怒が遠く離れているものと成り、迷妄が遠く離れているものと成り、思量が遠く離れているものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの法(性質)が遠く離れていることから、阿羅漢と成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 正ならざる法の経

 

93. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの正ならざる法(性質)です。どのようなものが、七つのものなのですか。信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの正ならざる法(性質)があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 正なる法の経

 

94. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの正なる法(性質)です。どのようなものが、七つのものなのですか。信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきある者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの七つの正なる法(性質)があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 沙門の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比丘、沙門、婆羅門、まさしく、そして、聞経者、沐浴者、〔真の〕知に至る者、聖者、阿羅漢、そして、正ならざる法(性質)、正なる法(性質)があり、〔章となる〕」と。

 

10. 〔供物を〕捧げられるべき者の章

 

95. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、眼において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この第一の人は、まさに、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、眼において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼には、前後なく〔同時に〕、かつまた、煩悩の消尽が有り、かつまた、生命の消尽が〔有ります〕。比丘たちよ、この第二の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、一部の人は、眼において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます──無常の表象ある者として、無常の得知ある者として、常に連続して途切れなく、心によって信念しながら、智慧によって深解しながら。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と〔成ります〕。比丘たちよ、この第七の人は、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。

 

96-622. 「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、眼において、苦痛の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、無我の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、滅尽の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、衰失の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、離貪の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、止滅の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。眼において、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。

 

 耳において……略……。鼻において……。舌において……。身において……。意において……略……。

 

 諸々の形態()において……略……。諸々の音声()において……。諸々の臭気()において……。諸々の味感()において……。諸々の感触(所触)において……。諸々の法(:意の対象)において……略……。

 

 眼の識知〔作用〕()において……略……。耳の識知〔作用〕において……。鼻の識知〔作用〕において……。舌の識知〔作用〕において……。身の識知〔作用〕において……。意の識知〔作用〕において……略……。

 

 眼の接触()において……略……。耳の接触において……。鼻の接触において……。舌の接触において……。身の接触において……。意の接触において……略……。

 

 眼の接触から生じる感受()において……略……。耳の接触から生じる感受において……。鼻の接触から生じる感受において……。舌の接触から生じる感受において……。身の接触から生じる感受において……。意の接触から生じる感受において……略……。

 

 形態の表象()において……略……。音声の表象において……。臭気の表象において……。味感の表象において……。感触の表象において……。法(意の対象)の表象において……略……。

 

 形態の思欲()において……略……。音声の思欲において……。臭気の思欲において……。味感の思欲において……。感触の思欲において……。法(意の対象)の思欲において……略……。

 

 形態の渇愛()において……略……。音声の渇愛において……。臭気の渇愛において……。味感の渇愛において……。感触の渇愛において……。法(意の対象)の渇愛において……略……。

 

 形態の思考()において……略……。音声の思考において……。臭気の思考において……。味感の思考において……。感触の思考において……。法(意の対象)の思考において……略……。

 

 形態の想念()において……略……。音声の想念において……。臭気の想念において……。味感の想念において……。感触の想念において……。法(意の対象)の想念において……略……。

 

 五つの範疇()において……略……。形態の範疇において……。感受〔作用〕の範疇において……。表象〔作用〕の範疇において……。諸々の形成〔作用〕の範疇において……。識知〔作用〕の範疇において、無常の随観ある者として〔世に〕住みます……略……苦痛の随観ある者として〔世に〕住みます……無我の随観ある者として〔世に〕住みます……滅尽の随観ある者として〔世に〕住みます……衰失の随観ある者として〔世に〕住みます……離貪の随観ある者として〔世に〕住みます……止滅の随観ある者として〔世に〕住みます……放棄の随観ある者として〔世に〕住みます……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ここにおいて、六つの門と対象(眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法)において、そして、〔六つの門の〕識知〔作用〕(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)において、〔六つの門の〕接触において、さらに、〔六つの門の〕感受において、〔六つの〕門のために、別個に八つの経が有り──

 

 〔六つの対象の〕表象と思欲と渇愛と思考において、さらに、〔六つの対象の〕想念において、〔六つの〕境涯(対象)のために、別個に八つ〔の経〕が有り、さらに、五つの範疇において、各自において〔八つの経が有る〕。

 

 ここにおいて、十六の根元において、無常と苦痛と無我〔の随観〕があり、さらに、滅尽と衰失と離貪〔の随観〕があり、止滅と放棄〔の随観〕がある。

 

 順番に、八つの随観を別個に結び付けて、全てが連結されたなら、そして、五百〔の経〕が有り、さらに、二十八の経が〔有る〕──〔供物を〕捧げられるべき者の章において」〔と〕。

 

 〔供物を〕捧げられるべき者の章が第十となる。

 

11. 貪欲と省略〔の経典〕

 

623. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、七つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの七つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

624. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、七つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、七つのものなのですか。無常の表象であり、無我の表象であり、不浄の表象であり、危険の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの七つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

625. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、七つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、七つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象であり、無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの七つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

626-652. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……略……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの七つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

653-1132. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの七つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 サッタカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。