増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)
ドゥカ・ニパータ聖典(二集:二なるものの集まり)
【目次】
1. 第一の五十なるもの(1.~)
1. 行罰刑の章(1.~)
1. 罪過の経
2. 精励の経
3. 悩み苦しめられるべきものの経
4. 悩み苦しめられるべきではないものの経
5. 近しく知られたものの経
6. 束縛するものの経
7. 黒の経
8. 白の経
9. 性行の経
10. 雨期の到来の経
2. 問題の章(11.~)
3. 愚者の章(22.~)
4. 正義の心の章(33.~)
5. 衆の章(43.~)
2. 第二の五十なるもの(53.~)
(6)1. 人の章(53.~)
(7)2. 安楽の章(65.~)
(8)3. 形相を有するものの章(78.~)
(9)4. 法の章(88.~)
(10)5. 愚者の章(99.~)
3. 第三の五十なるもの(119.~)
(11)1. 捨棄し難き願望の章(119.~)
(12)2. 祈願の章(131.~)
(13)3. 布施の章(142.~)
(14)4. 歓待の章(152.~)
(15)5. 入定の章(164.~)
1. 忿激と省略〔の経典〕(181.~)
2. 善ならざるものと省略〔の経典〕(191.~)
3. 律と省略〔の経典〕(201.~)
4. 貪欲と省略〔の経典〕(231.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
ドゥカ・ニパータ聖典(二集:二なるものの集まり)
1. 第一の五十なるもの
1. 行罰刑の章
1. 罪過の経
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪過です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、所見の法(現法:現世)としての罪過であり、さらに、未来のものとしての罪過です。比丘たちよ、では、どのようなものが、所見の法(現世)としての罪過なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、王たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行しているのを見ます。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。
彼に、このような〔思いが〕有ります。『そのような形態の、まさに、諸々の悪しき行為を因として、王たちは、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、このような形態の悪しき行為を為すなら、王たちは、わたしをもまた捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行するであろう。諸々の鞭でもまた打ち……略……剣によってもまた頭を断ち切るであろう』と。彼は、所見の法(現世)としての罪過に恐怖し、他者たちの資産を奪い取ることなく〔世を〕歩みます。比丘たちよ、これは、所見の法(現世)としての罪過と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、未来のものとしての罪過なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、身体による悪しき行ないある者には、悪しき苦痛の報いが未来の運命としてあり、言葉による悪しき行ないある者には、悪しき苦痛の報いが未来の運命としてあり、意による悪しき行ないある者には、悪しき苦痛の報いが未来の運命としてある。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、身体による悪しき行ないを行なうなら、言葉による悪しき行ないを行なうなら、意による悪しき行ないを行なうなら、すなわち、わたしが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生せずにいられる、その〔状況〕が、さてまた、どうしてあるというのだろう』と。彼は、未来のものとしての罪過に恐怖し、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、未来のものとしての罪過と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの罪過があります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『所見の法(現世)としての罪過に、〔わたしたちは〕恐怖するのだ。未来のものとしての罪過に、〔わたしたちは〕恐怖するのだ。罪過に恐怖する者たちとして、罪過の恐怖に見ある者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、罪過に恐怖する者には、罪過の恐怖に見ある者には、このことが期待できます。すなわち、〔彼は〕一切の罪過から完全に解き放たれるでしょう」と。〔以上が〕第一となる。
2. 精励の経
2. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、世において征服し難い精励です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、家に居住している在家者たちの、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の供与を義(目的)とする精励であり、さらに、すなわち、家から家なきへと出家した者たちの、一切の依り所の放棄を義(目的)とする精励です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、世において征服し難い精励があります。
比丘たちよ、これらの二つの精励のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、一切の依り所の放棄を義(目的)とする精励です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『一切の依り所の放棄を義(目的)とする精励を、〔わたしたちは〕精励するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 悩み苦しめられるべきものの経
3. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの悩み苦しめられるべき法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者に、身体による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、身体による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、言葉による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、言葉による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、意による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、意による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有ります。彼は、『わたしによって、身体による悪しき行ないが為された』と悩み苦しみ、『わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった』と悩み苦しみ、『わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された』と悩み苦しみ、『わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった』と悩み苦しみ、『わたしによって、意による悪しき行ないが為された』と悩み苦しみ、『わたしによって、意による善き行ないが為されなかった』と悩み苦しみます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの悩み苦しめられるべき法(性質)があります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 悩み苦しめられるべきではないものの経
4. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの悩み苦しめられるべきではない法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者に、身体による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、身体による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、言葉による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、言葉による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、意による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、意による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有ります。彼は、『わたしによって、身体による善き行ないが為された』と悩み苦しまず、『わたしによって、身体による悪しき行ないが為されなかった』と悩み苦しまず、『わたしによって、言葉による善き行ないが為された』と悩み苦しまず、『わたしによって、言葉による悪しき行ないが為されなかった』と悩み苦しまず、『わたしによって、意による善き行ないが為された』と悩み苦しまず、『わたしによって、意による悪しき行ないが為されなかった』と悩み苦しみません。比丘たちよ、まさに、これらの二つの悩み苦しめられるべきではない法(性質)があります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 近しく知られたものの経
5. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を、〔わたしは〕近しく知りました。そして、すなわち、諸々の善なる法(性質)において〔精進に〕満足なきことであり、さらに、すなわち、精励において反転なきことです。比丘たちよ、反転なく、まさに、わたしは精励します。『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしには、不放逸によって到達した正覚があり、不放逸によって到達した束縛からの平安という無上なるものがあります。比丘たちよ、もし、また、反転なく、あなたたちが精励するなら、『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに、乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と、比丘たちよ、あなたたちもまた、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『反転なく、〔わたしたちは〕精励するのだ。かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに、乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 束縛するものの経
6. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、諸々の束縛する法(性質)において悦楽を随観することであり、さらに、すなわち、諸々の束縛する法(性質)において厭離を随観することです。比丘たちよ、諸々の束縛する法(性質)において悦楽の随観ある者として〔世に〕住んでいる者は、貪欲(貪)を捨棄せず、憤怒(瞋)を捨棄せず、迷妄(痴)を捨棄しません。貪欲を捨棄せずして、憤怒を捨棄せずして、迷妄を捨棄せずして、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、諸々の束縛する法(性質)において厭離の随観ある者として〔世に〕住んでいる者は、貪欲を捨棄し、憤怒を捨棄し、迷妄を捨棄します。貪欲を捨棄して、憤怒を捨棄して、迷妄を捨棄して、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。〔以上が〕第六となる。
7. 黒の経
7. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの黒の法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの黒の法(性質)があります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 白の経
8. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの白の法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕(慚)であり、さらに、〔良心の〕咎め(愧)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの白の法(性質)があります」と。〔以上が〕第八となる。
9. 性行の経
9. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの白の法(性質)が、世〔の人々〕を警護します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの白の法(性質)が、世〔の人々〕を警護しないなら、ここに、あるいは、『母である』と、あるいは、『叔母である』と、あるいは、『叔父の妻である』と、あるいは、『師匠の妻である』と、あるいは、『導師たちの妻たちである』と、覚知されないでしょう。すなわち、山羊と羊のように、鶏と豚のように、犬と野狐(ジャッカル)のように、世〔の人々〕が、混合〔の状態〕に赴いたなら。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの二つの白の法(性質)が、世〔の人々〕を警護することから、それゆえに、あるいは、『母である』と、あるいは、『叔母である』と、あるいは、『叔父の妻である』と、あるいは、『師匠の妻である』と、あるいは、『導師たちの妻たちである』と、覚知されるのです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 雨期の到来の経
10. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの雨期の到来です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、より前なるものであり、さらに、より後なるものです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの雨期の到来があります」と。〔以上が〕第十となる。
行罰刑の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「罪過、精励、二つの悩み苦しめられるべきものがあり、第五のものとして、近しく知られたものとともに、そして、束縛するもの、さらに、黒、白、性行があり、雨期の到来とともに、章となる」と。
2. 問題の章
11. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、審慮の力であり、さらに、修行の力です。比丘たちよ、では、どのようなものが、審慮の力なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『まさに、身体による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、言葉による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、意による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく審慮して、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、審慮の力と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、修行の力なのですか。比丘たちよ、そこで、〔いまだ〕学びある者(有学)たちにとって、これは、力としてあります。すなわち、この、修行の力です。比丘たちよ、なぜなら、彼は、学びある者の力に由来して、貪欲を捨棄し、憤怒を捨棄し、迷妄を捨棄するからです。貪欲を捨棄して、憤怒を捨棄して、迷妄を捨棄して、それが善ならざるものであるなら、それを為さず、それが悪しきものであるなら、それに慣れ親しみません。比丘たちよ、これは、修行の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの力があります」と。
12. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、審慮の力であり、さらに、修行の力です。比丘たちよ、では、どのようなものが、審慮の力なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『まさに、身体による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、言葉による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、意による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく審慮して、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、審慮の力と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、修行の力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。比丘たちよ、これは、修行の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの力があります」と。
13. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、審慮の力であり、さらに、修行の力です。比丘たちよ、では、どのようなものが、審慮の力なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、かくのごとく深慮します。『まさに、身体による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、言葉による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてあり、意による悪しき行ないある者には、悪しき報いが、まさしく、そして、所見の法(現世)においてあり、さらに、未来の運命としてある』と。彼は、かくのごとく審慮して、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、審慮の力と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、修行の力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、修行の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの力があります」と。
14. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの如来の法(教え)の説示です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、簡略〔の観点〕によるものであり、さらに、詳細〔の観点〕によるものです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの如来の法(教え)の説示があります」と。
15. 「比丘たちよ、すなわち、〔何らかの或る〕問題において、そして、〔問題を〕惹起した比丘が、さらに、〔問題を〕叱責する比丘が、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視しないなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起するであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住まないであろう、という、〔このことが〕。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、〔何らかの或る〕問題において、そして、〔問題を〕惹起した比丘が、さらに、〔問題を〕叱責する比丘が、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視するなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起しないであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住むであろう、という、〔このことが〕。
比丘たちよ、では、どのように、〔問題を〕惹起した比丘は、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視するのですか。比丘たちよ、ここに、〔問題を〕惹起した比丘が、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起したのだ。その比丘は、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見た。もし、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しないなら、その比丘は、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見ないであろう。しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起したことから、それゆえに、その比丘は、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見た。そして、また、その比丘は、わたしが、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見て、わが意を得ない者と成った。わが意を得ない者として存しつつ、わが意を得ない言葉を、その比丘は、わたしに言った。わが意を得ない言葉を、その比丘によって言われた者として存しつつ、わたしは、わが意を得ない者と成った。わが意を得ない者として存しつつ、他者たちに〔問題として〕告げた。かくのごとく、まさしく、わたしは、そこにおいて、過誤を犯した──〔課徴された〕物品において、納税者が〔過誤を犯す〕ように』と。比丘たちよ、このように、まさに、〔問題を〕惹起した比丘は、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視します。
比丘たちよ、では、どのように、〔問題を〕叱責する比丘は、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視するのですか。比丘たちよ、ここに、〔問題を〕叱責する比丘が、かくのごとく深慮します。『まさに、この比丘は、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起したのだ。わたしは、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見た。もし、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しないなら、わたしは、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見ないであろう。しかしながら、すなわち、まさに、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起したことから、それゆえに、わたしは、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見た。また、そして、わたしは、この比丘が、身体によって、何らかの或る点で善ならざることを惹起しているのを見て、わが意を得ない者と成った。わが意を得ない者として存しつつ、わが意を得ない言葉を、わたしは、この比丘に言った。わが意を得ない言葉を、わたしによって言われた者として存しつつ、この比丘は、わが意を得ない者と成った。わが意を得ない者として存しつつ、他者たちに〔問題として〕告げた。かくのごとく、まさしく、わたしは、そこにおいて、過誤を犯した──〔課徴された〕物品において、納税者が〔過誤を犯す〕ように』と。比丘たちよ、このように、まさに、〔問題を〕叱責する比丘は、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視します。
比丘たちよ、すなわち、〔何らかの或る〕問題において、そして、〔問題を〕惹起した比丘が、さらに、〔問題を〕叱責する比丘が、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視しないなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起するであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住まないであろう、という、〔このことが〕。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、〔何らかの或る〕問題において、そして、〔問題を〕惹起した比丘が、さらに、〔問題を〕叱責する比丘が、善くしっかりと、まさしく、自己みずから、自己を綿密に注視するなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起しないであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕」と。
16. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
17. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、そして、為されたことから、さらに、為されていないことから、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。「貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。「婆羅門よ、そして、為されたことから、さらに、為されていないことから、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。「まさに、わたしは、貴君ゴータマの、この、簡略〔の観点〕によって語られたものの詳細〔の観点〕による義(意味)を、〔いまだ〕区分されていないものの詳細〔の観点〕による義(意味)を、了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、貴君ゴータマの、この、簡略〔の観点〕によって語られたものの詳細〔の観点〕による義(意味)を、〔いまだ〕区分されていないものの詳細〔の観点〕による義(意味)を、わたしが了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「婆羅門よ、ここに、一部の者に、身体による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、身体による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、言葉による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、言葉による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、意による悪しき行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、意による善き行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有ります。婆羅門よ、このように、まさに、そして、為されたことから、さらに、為されていないことから、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。婆羅門よ、また、ここに、一部の者に、身体による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、身体による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、言葉による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、言葉による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有り、意による善き行ないが〔すでに〕為されたものとして有り、意による悪しき行ないが〔いまだ〕為されていないものとして有ります。婆羅門よ、このように、まさに、そして、為されたことから、さらに、為されていないことから、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
18. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、わたしは、一定して、身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、為されるべきではないものと説きます」と。「尊き方よ、世尊によって、一定して、すなわち、この、身体による悪しき行ないが、言葉による悪しき行ないが、意による悪しき行ないが、為されるべきではないものと告げ知らされました。その為されるべきではないものが為されているなら、どのような危険が待っていますか」と。「アーナンダよ、わたしによって、一定して、すなわち、この、身体による悪しき行ないが、言葉による悪しき行ないが、意による悪しき行ないが、為されるべきではないものと告げ知らされました。その為されるべきではないものが為されているなら、この危険が待っています。自己もまた、自己を批判します。〔悪しき行ないを〕随知して、識者たちが難詰します。悪しき評価の声が上がります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。アーナンダよ、わたしによって、一定して、すなわち、この、身体による悪しき行ないが、言葉による悪しき行ないが、意による悪しき行ないが、為されるべきではないものと告げ知らされました。その為されるべきではないものが為されているなら、この危険が待っています」と。
「アーナンダよ、わたしは、一定して、身体による善き行ないを、言葉による善き行ないを、意による善き行ないを、為されるべきものと説きます」と。「尊き方よ、世尊によって、一定して、すなわち、この、身体による善き行ないが、言葉による善き行ないが、意による善き行ないが、為されるべきものと告げ知らされました。その為されるべきものが為されているなら、どのような福利が期待できますか」と。「アーナンダよ、わたしによって、一定して、すなわち、この、身体による善き行ないが、言葉による善き行ないが、意による善き行ないが、為されるべきものと告げ知らされました。その為されるべきものが為されているなら、この福利が期待できます。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、わたしによって、一定して、すなわち、この、身体による善き行ないが、言葉による善き行ないが、意による善き行ないが、為されるべきものと告げ知らされました。その為されるべきものが為されているなら、この福利が期待できます」と。
19. 「比丘たちよ、善ならざるものを捨棄しなさい。比丘たちよ、善ならざるものを捨棄することはできます。比丘たちよ、もし、この善ならざるものを捨棄することができないなら、わたしは、このように説かないでしょう。『比丘たちよ、善ならざるものを捨棄しなさい』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、善ならざるものを捨棄することができることから、それゆえに、わたしは、このように説きます。『比丘たちよ、善ならざるものを捨棄しなさい』と。比丘たちよ、まさに、そして、この善ならざるものが捨棄されたとして、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起するなら、わたしは、このように説かないでしょう。『比丘たちよ、善ならざるものを捨棄しなさい』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、善ならざるものが捨棄されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起することから、それゆえに、わたしは、このように説きます。『比丘たちよ、善ならざるものを捨棄しなさい』」と。
「比丘たちよ、善なるものを修めなさい。比丘たちよ、善なるものを修めることはできます。比丘たちよ、もし、この善なるものを修めることができないなら、わたしは、このように説かないでしょう。『比丘たちよ、善なるものを修めなさい』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、善なるものを修めることができることから、それゆえに、わたしは、このように説きます。『比丘たちよ、善なるものを修めなさい』と。比丘たちよ、まさに、そして、この善なるものが修められたとして、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起するなら、わたしは、このように説かないでしょう。『比丘たちよ、善なるものを修めなさい』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、善なるものが修められたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起することから、それゆえに、わたしは、このように説きます。『比丘たちよ、善なるものを修めなさい』」と。
20. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、悪しく示し置かれた句と文であり、さらに、悪しく導かれた義(意味)です。比丘たちよ、悪しく示し置かれた句と文であるなら、義(意味)もまた、悪しく導かれるものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します」と。
21. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、善く示し置かれた句と文であり、さらに、善く導かれた義(意味)です。比丘たちよ、善く示し置かれた句と文であるなら、義(意味)もまた、善く導かれるものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。
問題の章が第二となる。
3. 愚者の章
22. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、過誤を過誤として見ません。さらに、すなわち、〔他者が〕説示している過誤を、法(教え)のとおりに納受しません(他者の懺悔を受け入れない)。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、過誤を過誤として見ます。さらに、すなわち、〔他者が〕説示している過誤を、法(教え)のとおりに納受します(他者の懺悔を受け入れる)。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
23. 「比丘たちよ、二つのものがあります。如来を誹謗する、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。あるいは、怒りを内にする怒りある者であり、あるいは、悪しく把握されたものによる信ある者です。比丘たちよ、如来を誹謗する、まさに、これらの二つのものがあります」と。
24. 「比丘たちよ、二つのものがあります。如来を誹謗する、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。さらに、すなわち、如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。比丘たちよ、如来を誹謗する、まさに、これらの二つのものがあります」と。「比丘たちよ、二つのものがあります。如来を誹謗しない、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示します。さらに、すなわち、如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示します。比丘たちよ、如来を誹謗しない、まさに、これらの二つのものがあります」と。
25. 「比丘たちよ、二つのものがあります。如来を誹謗する、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、〔いまだ〕導かれるべき義(意味)ある経典(未了義経)を『〔すでに〕導かれた義(意味)ある経典(了義経)である』と提示します。さらに、すなわち、〔すでに〕導かれた義(意味)ある経典を『〔いまだ〕導かれるべき義(意味)ある経典である』と提示します。比丘たちよ、如来を誹謗する、まさに、これらの二つのものがあります」と。
26. 「比丘たちよ、二つのものがあります。如来を誹謗しない、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、〔いまだ〕導かれるべき義(意味)ある経典を『〔いまだ〕導かれるべき義(意味)ある経典である』と提示します。さらに、すなわち、〔すでに〕導かれた義(意味)ある経典を『〔すでに〕導かれた義(意味)ある経典である』と提示します。比丘たちよ、如来を誹謗しない、まさに、これらの二つのものがあります」と。
27. 「比丘たちよ、隠蔽された生業ある者には、二つの境遇(趣)のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です」と。「比丘たちよ、隠蔽されていない生業ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、天〔の境遇〕であり、あるいは、人間〔の境遇〕です」と。
28. 「比丘たちよ、誤った見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です」と。
29. 「比丘たちよ、正しい見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇が待っています。あるいは、天〔の境遇〕であり、あるいは、人間〔の境遇〕です」と。
30. 「比丘たちよ、劣戒の者には、二つの納受があります。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。比丘たちよ、戒ある者には、二つの納受があります。あるいは、天〔の境遇〕であり、あるいは、人間〔の境遇〕です」と。
31. 「比丘たちよ、二つのものがあります。わたしは、〔これらの〕義(利益)たる所以を正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、自己の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を正しく見ながら、さらに、後の人々を慈しみながら。比丘たちよ、わたしは、これらの二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します」と。
32. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの明知を部分とする法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、〔心の〕止寂が修められたなら、どのような義(利益)を受領するのですか。心が修められます。心が修められたなら、どのような義(利益)を受領するのですか。すなわち、貪欲が、それが捨棄されます。比丘たちよ、〔あるがままの〕観察が修められたなら、どのような義(利益)を受領するのですか。智慧(慧・般若)が修められます。智慧が修められたなら、どのような義(利益)を受領するのですか。すなわち、無明が、それが捨棄されます。比丘たちよ、あるいは、貪欲によって近しく汚れた心は解脱せず、あるいは、無明によって近しく汚れた智慧は修められません(※)。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、貪欲の離貪あることから、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)があり、無明の離貪あることから、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)があります」と。
※ テキストには paññā bhāvīyati とあるが、PTS版により paññā na bhāvīyati と読む。
愚者の章が第三となる。
4. 正義の心の章
33. 「比丘たちよ、では、正ならざる人士の境地を、そして、正なる人士の境地を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士の境地なのですか。比丘たちよ、正ならざる人士は、恩を知らず恩を感じない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、このことが、正しからざる者たちによって近しく知られました。すなわち、この、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、この全部が、正ならざる人士の境地です。すなわち、この、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、恩を知り恩を感じる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、このことが、正しくある者たちによって近しく知られました。すなわち、この、恩を知り恩を感じることです。比丘たちよ、この全部が、正なる人士の境地です。すなわち、この、恩を知り恩を感じることです」と。
34. 「比丘たちよ、わたしは、二つのものには、安易な報恩なきことを説きます。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、母であり、さらに、父です。比丘たちよ、そして、その者が、百年の寿命ある者となり、百年の生命ある者となり、彼らへの塗身と按摩と沐浴と摩擦によって、一定して、母を守り抜くとして、一定して、父を守り抜くとして、かつまた、彼らが、まさしく、そこにおいて、尿や糞を放つとして、比丘たちよ、まさしく、しかし、母と父への、あるいは、奉公と成らず、あるいは、報恩と〔成りません〕。比丘たちよ、さらに、この、多大なる七つの宝ある(※)、大いなる地の、権ある君主たる王権に、母と父を据え置くとして、比丘たちよ、まさしく、しかし、母と父への、あるいは、奉公と成らず、あるいは、報恩と〔成りません〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、母と父は、子供たちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、育成者たちであり、養育者たちであり、この世の見示者たちであるからです。比丘たちよ、そして、その者が、まさに、信なき者たちである母と父に、信の成就を、受持させ、固着させ、確立させるなら、劣戒の者たちである〔母と父〕に、戒の成就を、受持させ、固着させ、確立させるなら、物惜〔の思い〕ある者たちである〔母と父〕に、施捨の成就を、受持させ、固着させ、確立させるなら、智慧浅き者たちである〔母と父〕に、智慧の成就を、受持させ、固着させ、確立させるなら、比丘たちよ、このことから、まさに、母と父への、そして、奉公と成り、さらに、報恩と〔成ります〕」と。
※ テキストには rattaratanāya とあるが、PTS版により sattaratanāya と読む。
35. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか」と。「婆羅門よ、わたしは、そして、為すことを説く者であり、さらに、為さないことを説く者です」と。「また、すなわち、どのように、貴君ゴータマは、そして、為すことを説く者であり、さらに、為さないことを説く者なのですか」と。
「婆羅門よ、まさに、わたしは、身体による悪しき行ないの、言葉による悪しき行ないの、意による悪しき行ないの、為さないことを説きます。無数〔の流儀〕に関した悪しき善ならざる法(性質)の為さないことを説きます。婆羅門よ、そして、まさに、わたしは、身体による善き行ないの、言葉による善き行ないの、意による善き行ないの、為すことを説きます。無数〔の流儀〕に関した善なる法(性質)の為すことを説きます。婆羅門よ、このように、わたしは、そして、為すことを説く者であり、さらに、為さないことを説く者です」と。
「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
36. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの、世において施与されるべき者たちがいますか。そして、どこにおいて、布施は施されるべきですか」と。「家長よ、まさに、二つの、世において施与されるべき者たちがいます。そして、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、さらに、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)です。家長よ、まさに、これらの二つの、世において施与されるべき者たちがいます。そして、ここにおいて、布施は施されるべきです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者(善逝:ブッダの尊称)は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「この世において、〔いまだ〕学びある者が、そして、〔もはや〕学ぶことなき者がいる。祭祀をしている者たちにとって、〔供物を〕捧げるべき者たちとして、〔両者は〕有る。彼らは、身体も、言葉も、あるいは、心も、真っすぐと成った者たちである。祭祀をしている者たちにとって、それが田畑となる。ここにおいて、施されたものは、大いなる果となる」と。
37. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。「友よ、では、内に束縛するものある人(欲界の生存に束縛されている人)を、そして、外に束縛するものある〔人〕(色界と無色界の生存に束縛されている人)を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。
「友よ、では、どのようなものが、内に束縛するものある人なのですか。友よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、或るどこかの天の身体に再生します。彼は、その〔天〕から死滅し、この場に帰り来る帰還者と成ります。友よ、この者は、『内に束縛するものある人であり、この場に帰り来る帰還者と成る』〔と〕説かれます。
友よ、では、どのようなものが、外に束縛するものある人なのですか。友よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、或る一つの寂静なる〔止寂の〕心による解脱を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、或るどこかの天の身体に再生します。彼は、その〔天〕から死滅し、この場に帰り来ない不還たる者と成ります。友よ、この者は、『外に束縛するものある人であり、この場に帰り来ない不還たる者と成る』〔と〕説かれます。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。彼は、まさしく、諸々の生存の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。彼は、渇愛の滅尽のために実践する者と成ります。彼は、貪欲の滅尽のために実践する者と成ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、或るどこかの天の身体に再生します。彼は、その〔天〕から死滅し、この場に帰り来ない不還たる者と成ります。友よ、この者は、『外に束縛するものある人であり、この場に帰り来ない不還たる者と成る』〔と〕説かれます」と。
そこで、まさに、大勢の正義の心ある天神たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この方は、尊者サーリプッタは、東の林園のミガーラマータルの高楼において、比丘たちに、そして、内に束縛するものある人を、さらに、外に束縛するものある〔人〕を、説示します。尊き方よ、欣喜した者たちとして衆はあります。尊き方よ、どうか、世尊は、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、世尊は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、東の林園のミガーラマータルの高楼において、尊者サーリプッタの面前に出現しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者サーリプッタもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。
「サーリプッタよ、ここに、大勢の正義の心ある天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。サーリプッタよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、この方は、尊者サーリプッタは、東の林園のミガーラマータルの高楼において、比丘たちに、そして、内に束縛するものある人を、さらに、外に束縛するものある〔人〕を、説示します。尊き方よ、欣喜した者たちとして衆はあります。尊き方よ、どうか、世尊は、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』と。サーリプッタよ、また、まさに、それらの天神たちは、十者にもまた成って、二十者にもまた成って、三十者にもまた成って、四十者にもまた成って、五十者にもまた成って、六十者にもまた成って、錐の先の突き刺す突端ほどのところにさえも立ち、かつまた、互いに他を悩ませません。サーリプッタよ、また、まさに、あなたに(※)、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『そこ(天界)において、まちがいなく、それらの天神たちの心は、そのように修められたのだ。それによって、それらの天神たちは、十者にもまた成って、二十者にもまた成って、三十者にもまた成って、四十者にもまた成って、五十者にもまた成って、六十者にもまた成って、錐の先の突き刺す突端ほどのところにさえも立ち、かつまた、互いに他を悩ませないのだ』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、まさしく、ここ(人間界)に、まさに、それらの天神たちの心は、そのように修められたのです。それによって、それらの天神たちは、十者にもまた成って……略……かつまた、互いに他を悩ませないのです。サーリプッタよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『寂静の機能ある者たちとして、寂静の意図ある者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。サーリプッタよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。サーリプッタよ、なぜなら、あなたたちが、寂静の機能ある者たちであり、寂静の意図ある者たちであるなら、まさしく、寂静なる身体の行為が、寂静なる言葉の行為が、寂静なる意の行為が、〔あなたたちに〕有るからです。『梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、寂静なる〔行為〕を、提供物として、〔わたしたちは〕提供するのだ』と。サーリプッタよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。サーリプッタよ、すなわち、この法(教え)の教相を聞かなかった、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさに、滅び去りました」と。
※ PTS版により te を補う。
38. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、ヴァラナーに住んでいます。バッダサーリ〔池〕の岸辺において。そこで、まさに、アーラーマダンダ婆羅門が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アーラーマダンダ婆羅門は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争するのですか」と。「婆羅門よ、欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を因として、まさに、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争します」と。
「貴君カッチャーナよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、沙門たちもまた、沙門たちと論争するのですか」と。「婆羅門よ、見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を因として、まさに、沙門たちもまた、沙門たちと論争します」と。
「貴君カッチャーナよ、また、世において、誰であれ、すなわち、まさしく、そして、この欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者が、さらに、この見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者が、存在しますか」と。「婆羅門よ、世において、すなわち、まさしく、そして、この欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者は、さらに、この見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者は、存在します」と。
「貴君カッチャーナよ、また、世において、すなわち、まさしく、そして、この欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者は、さらに、この見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している者は、それは、誰なのですか」と。「婆羅門よ、東の諸地方に、サーヴァッティーという名の城市が存在します。そこにおいて、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられます。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、まさしく、そして、この欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している方であり、さらに、この見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している方です」と。
このように説かれたとき、アーラーマダンダ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。
「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。まさに、すなわち、彼は、世尊は、まさしく、そして、この欲望〔の対象〕にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している方であり、さらに、この見解にたいする貪欲と固着と結縛と貪求と妄執と固執を超越している方です」と。
「貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君カッチャーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君カッチャーナよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
39. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、マドゥラーに住んでいます。グンダー林において。そこで、まさに、カンダラーヤナ婆羅門が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナと共に……略……。一方に坐った、まさに、カンダラーヤナ婆羅門は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門カッチャーナは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、奉仕することも、あるいは、坐に招くことも、ない』と。貴君カッチャーナよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、そのとおりです。まさに、貴君カッチャーナは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、奉仕することも、あるいは、坐に招くことも、ありません。貴君カッチャーナよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、成就にあらず(不当である)」と。
「婆羅門よ、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって告げ知らされたものとして、そして、年長の境地が、さらに、年少の境地が、存在します。婆羅門よ、もし、また、生まれてから、あるいは、八十〔年〕の、あるいは、九十〔年〕の、あるいは、百年の、年長の者が有り、そして、彼が、諸々の欲望を享受し、欲望のままに居住し、欲望の苦悶によって遍く焼かれ、諸々の欲望の思考によって喰い尽くされ、欲望の遍き探し求めに思い入れある者であるなら、そこで、まさに、彼は、愚者であり、まさしく、『長老』という名称に至りません(名に値しない)。婆羅門よ、もし、また、年少の者として〔世に〕有り、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、しかしながら、彼が、諸々の欲望を享受せず、欲望のままに居住せず、欲望の苦悶によって遍く焼かれず、諸々の欲望の思考によって喰い尽くされず、欲望の遍き探し求めに思い入れある者でないなら、そこで、まさに、彼は、賢者であり、まさしく、『長老』という名称に至ります(名に値する)」と。
このように説かれたとき、カンダラーヤナ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、百者の年少の比丘たちの〔両の〕足もとに、頭をもって敬拝します。「貴君たちは、年長の境地に立っている年長の者たちです。わたしたちは、年少の境地に立っている年少の者たちです」と。
「貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。……略……。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
40. 「比丘たちよ、その時点において、盗賊たちが、力ある者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、王たちは、力弱き者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、その時点において、王には、あるいは、〔外から城市に〕入るにも、あるいは、〔城市から外に〕出るにも、あるいは、最辺境の地方において統治するにも、平穏は有りません。その時点において、婆羅門や家長たちにもまた、あるいは、〔外から城市に〕入るにも、あるいは、〔城市から外に〕出るにも、あるいは、諸々の外部の生業を視察するにも、平穏は有りません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、悪しき比丘たちが、力ある者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、博愛なる比丘たちは、力弱き者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、その時点において、博愛なる比丘たちは、沈黙の状態となり、まさしく、沈黙の状態で、僧団の中において引き籠り、あるいは、最辺境の地方において暮らします。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。
比丘たちよ、その時点において、王たちが、力ある者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、盗賊たちは、力弱き者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、その時点において、王には、あるいは、〔外から城市に〕入るにも、あるいは、〔城市から外に〕出るにも、あるいは、最辺境の地方において統治するにも、平穏が有ります。その時点において、婆羅門や家長たちにもまた、あるいは、〔外から城市に〕入るにも、あるいは、〔城市から外に〕出るにも、あるいは、諸々の外部の生業を視察するにも、平穏が有ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、博愛なる比丘たちが、力ある者たちとして〔世に〕有るなら、その時点において、悪しき比丘たちは、力弱き者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、その時点において、悪しき比丘たちは、沈黙の状態となり、まさしく、沈黙の状態で、僧団の中において引き籠り、あるいは、また、すなわち、それによって、立ち去ります。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、成ります」と。
41. 「比丘たちよ、わたしは、二者の、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、誤った実践を褒め称えません。比丘たちよ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、誤った実践者であるなら、誤った実践を事因とし因として、正理と善なる法(真理)の達成者と成りません。
比丘たちよ、わたしは、二者の、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、正しい実践を褒め称えます。比丘たちよ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、正しい実践者であるなら、正しい実践を事因とし因として、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります」と。
42. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、諸々の悪しく把握された経典の文型と外形によって、そして、義(意味)を〔排斥し〕、さらに、法(教え)を排斥するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます。
比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、諸々の善く把握された経典の文型と外形によって、そして、義(意味)に〔随順し〕、さらに、法(教え)に随順するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。
正義の心の章が第四となる。
5. 衆の章
43. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、浅薄なる衆であり、さらに、深遠なる衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、浅薄なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとして、正知なき者たちとして、〔心が〕定められていない者たちとして、混迷した心の者たちとして、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちとして、〔世に〕有るなら、比丘たちよ、これは、浅薄なる衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、深遠なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、〔心が〕高揚せず、傲慢とならず、軽薄ならず、駄弁ならず、言葉が乱れ飛ばず、気づきが現起された者たちとして、正知の者たちとして、〔心が〕定められた者たちとして、一境の心の者たちとして、〔感官の〕機能が統御された者たちとして、〔世に〕有るなら、比丘たちよ、これは、深遠なる衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、深遠なる衆です」と。
44. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、党派の衆であり、さらに、和合の衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、党派の衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これは、党派の衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、和合の衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これは、和合の衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、和合の衆です」と。
45. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、至高ならざる衆であり、さらに、至高なる衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、至高ならざる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、長老の比丘たちが、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励まないなら、後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、至高ならざる衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、至高なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、長老の比丘たちが、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励むなら、後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、これは、至高なる衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、至高なる衆です」と。
46. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、聖ならざる衆であり、さらに、聖なる衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、これは、聖ならざる衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し(※)、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これは、聖なる衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、聖なる衆です」と。
※ テキストには pajānantntti とあるが、PTS版により pajānanti と読む。
47. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、苦味なる衆であり、さらに、醍醐なる衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦味なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、欲〔の思い〕を赴く所として赴き、憤怒を赴く所として赴き、迷妄を赴く所として赴き、恐怖を赴く所として赴くなら、比丘たちよ、これは、苦味なる衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、醍醐なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、欲〔の思い〕を赴く所として赴かず、憤怒を赴く所として赴かず、迷妄を赴く所として赴かず、恐怖を赴く所として赴かないなら、比丘たちよ、これは、醍醐なる衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、醍醐なる衆です」と。
48. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。駄弁によって教導され反問によって教導されない衆であり、反問によって教導され駄弁によって教導されない衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、駄弁によって教導され反問によって教導されない衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとせず、耳を傾けず、了知のための心を現起させず、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えません。また、すなわち、それらの経典が、詩人たちによって作られた(※)詩文にして、様々な文字や様々な文型ある、外部の弟子たちによって語られたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとし、耳を傾け、了知のための心を現起させ、そして(※※)、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えます。そして、彼らは、その法(教え)を遍く学得して、『これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、互いに他と、まさしく、そして、反問せず、さらに、検討しません。彼らは、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕せず、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為さず、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去しません。比丘たちよ、これは、駄弁によって教導され反問によって教導されない衆と説かれます。
※ テキストには kavitā とあるが、PTS版により kavikatā と読む。以下の平行箇所も同様。
※※ PTS版により ca を補う。
比丘たちよ、では、どのようなものが、反問によって教導され駄弁によって教導されない衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、すなわち、それらの経典が、詩人たちによって作られた詩文にして、様々な文字や様々な文型ある、外部の弟子たちによって語られたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとせず、耳を傾けず、了知のための心を現起させず、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えません。また、すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとし、耳を傾け、了知のための心を現起させ、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えます。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、『これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、互いに他と反問し検討します。彼らは、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、これは、反問によって教導され駄弁によって教導されない衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、反問によって教導され駄弁によって教導されない衆です」と。
49. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。財貨を重きとし正なる法(教え)を重きとしない衆であり、正なる法(教え)を重きとし財貨を重きとしない衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を重きとし正なる法(教え)を重きとしない衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、白衣の在家者たちの面前で、互いに他の栄誉を語ります。『何某の比丘は、両部の解脱者である』『何某〔の比丘〕は、智慧による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、身体による実証者である』『何某〔の比丘〕は、〔正しい〕見解に至り得た者である』『何某〔の比丘〕は、信による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、法(教え)に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、信に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である』『何某〔の比丘〕は、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者である』と。彼らは、それによって、利得を得ます。彼らは、その利得を得て、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益します。比丘たちよ、これは、財貨を重きとし正なる法(教え)を重きとしない衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正なる法(教え)を重きとし財貨を重きとしない衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、白衣の在家者たちの面前で、互いに他の栄誉を語りません。『何某の比丘は、両部の解脱者である』『何某〔の比丘〕は、智慧による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、身体による実証者である』『何某〔の比丘〕は、〔正しい〕見解に至り得た者である』『何某〔の比丘〕は、信による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、法(教え)に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、信に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である』『何某〔の比丘〕は、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者である』と。彼らは、それによって、利得を得ます。彼らは、その利得を得て、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益します。比丘たちよ、これは、正なる法(教え)を重きとし財貨を重きとしない衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、正なる法(教え)を重きとし財貨を重きとしない衆です」と。
50. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、正義ならざる衆であり、さらに、正義の衆です。比丘たちよ、では、どのようなものが、正義ならざる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、諸々の法(正義)ならざる行為が転起し、諸々の法(正義)の行為が転起せず、諸々の律ならざる行為が転起し、諸々の律の行為が転起せず、諸々の法(正義)ならざる行為が点灯し、諸々の法(正義)の行為が点灯せず、諸々の律ならざる行為が点灯し、諸々の律の行為が点灯しないなら、比丘たちよ、これは、正義ならざる衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正義の衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、諸々の法(正義)の行為が転起し、諸々の法(正義)ならざる行為が転起せず、諸々の律の行為が転起し、諸々の律ならざる行為が転起せず、諸々の法(正義)の行為が点灯し、諸々の法(正義)ならざる行為が点灯せず、諸々の律の行為が点灯し、諸々の律ならざる行為が点灯しないなら、比丘たちよ、これは、正義の衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、正義の衆です」と。
51. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、法(正義)にかなわない衆であり、さらに、法(正義)にかなう衆です。……略……。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(正義)にかなう衆です」と。
52. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、法(正義)ならざることを説く衆であり、さらに、法(正義)を説く衆です。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、問題として、あるいは、法(正義)にかなうことを、あるいは、法(正義)にかなわないことを、取り上げます。彼らは、それを、問題として取り上げて、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近しく赴かず、そして、〔互いに他を〕納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近しく赴きません。彼らは、説得の力なき者たちとして、納得の力なき者たちとして、放棄の明慧なき者たちとして、まさしく、その問題に、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。比丘たちよ、これは、法(正義)ならざることを説く衆と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、法(正義)を説く衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが、問題として、あるいは、法(正義)にかなうことを、あるいは、法(正義)にかなわないことを、取り上げます。彼らは、それを、問題として取り上げて、まさしく、そして、互いに他を説得し、さらに、〔自らも〕説得へと近しく赴き、そして、〔互いに他を〕納得させ、さらに、〔自らも〕説得へと近しく赴きます。彼らは、説得の力ある者たちとして、納得の力ある者たちとして、放棄の明慧ある者たちとして、まさしく、その問題に、強き偏執あることから、固着して語用することはありません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。比丘たちよ、これは、法(正義)を説く衆と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの衆があります。比丘たちよ、これらの二つの衆のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(正義)を説く衆です」と。
衆の章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「浅薄、党派、至高なるもの、聖なるもの、そして、第五のものとして、苦味、まさしく、そして、駄弁と財貨、正義ならざるものがあり、そして、法(正義)ならざるものと法(正義)にかなわないものとともに、〔章となる〕」と。
第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。
2. 第二の五十なるもの
(6)1. 人の章
53. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの人たちが、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、さらに、転輪王です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの人たちが、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します」と。
54. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの人たちが、稀有なる人間たちとして、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、さらに、転輪王です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの人たちが、稀有なる人間たちとして、世に生起しつつ生起します」と。
55. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの人たちの命終が、多くの人々の悩み苦しみと成ります。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、さらに、転輪王です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの人たちの命終が、多くの人々の悩み苦しみと成ります」と。
56. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの塔〔の建立〕に値する者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、さらに、転輪王です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの塔〔の建立〕に値する者たちがあります」と。
57. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの覚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来であり、さらに、独覚です。比丘たちよ、まさに、これらの二つ覚者たちがあります」と。
58. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらのものは、雷の炸裂に恐慌しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、煩悩が滅尽した比丘であり、さらに、善き生まれの象です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものが、雷の炸裂に恐慌しません」と。
59. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらのものは、雷の炸裂に恐慌しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、煩悩が滅尽した比丘であり、さらに、善き生まれの馬です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものが、雷の炸裂に恐慌しません」と。
60. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらのものは、雷の炸裂に恐慌しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、煩悩が滅尽した比丘であり、さらに、獣の王たる獅子です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものが、雷の炸裂に恐慌しません」と。
61. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの義(利益)たる所以を正しく見ながら、妖精たちは人間の言葉を語りません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、『虚偽を話してはいけない』〔と〕、さらに、『他者を事実ならざることによって誹謗してはいけない』と。比丘たちよ、まさに、これらの二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、妖精たちは人間の言葉を語りません」と。
62. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)に満足せず、後戻りしない女性は命を終えます。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、淫事への入定(性行為)であり、さらに、出産です。比丘たちよ、まさに、これらの法(性質)に満足せず、後戻りしない女性は命を終えます」と。
63. 「比丘たちよ、では、正しからざる共住を、そして、正しい共住を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、では、どのように、正しからざる共住と成るのですか。そして、どのように、正しからざる者たちは共住するのですか。比丘たちよ、ここに、長老の比丘に、このような〔思いが〕有ります。『長老〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろうし、中堅〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろうし、新参〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろう。長老〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろうし、中堅〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろうし、新参〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろう。もし、また、長老〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕ある者ではなく、わたしに説くことになり、「さにあらず」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩ますであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔しないであろう。もし、また、中堅〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら……略……。もし、また、新参〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕ある者ではなく、わたしに説くことになり、「さにあらず」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩ますであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔しないであろう』〔と〕。中堅の比丘にもまた、このような〔思いが〕有ります。……略……。新参の比丘にもまた、このような〔思いが〕有ります。『長老〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろうし、中堅〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろうし、新参〔の比丘〕もまた、わたしに説かないであろう。長老〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろうし、中堅〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろうし、新参〔の比丘〕にもまた、わたしは説かないであろう。もし、また、長老〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕ある者ではなく、わたしに説くことになり、「さにあらず」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩ますであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔しないであろう。もし、また、中堅〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら……略……。もし、また、新参〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕ある者ではなく、わたしに説くことになり、「さにあらず」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩ますであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、このように、まさに、正しからざる共住と成り、さらに、このように、正しからざる者たちは共住します。
比丘たちよ、では、どのように、正しい共住と成るのですか。そして、どのように、正しくある者たちは共住するのですか。比丘たちよ、ここに、長老の比丘に、このような〔思いが〕有ります。『長老〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろうし、中堅〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろうし、新参〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろう。長老〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろうし、中堅〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろうし、新参〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろう。もし、また、長老〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕なき者ではなく、わたしに説くことになり、「善きかな」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩まさないであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔するであろう。もし、また、中堅〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら……略……。もし、また、新参〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕なき者ではなく、わたしに説くことになり、「善きかな」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩まさないであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔するであろう』〔と〕。中堅の比丘にもまた、このような〔思いが〕有ります。……略……。新参の比丘にもまた、このような〔思いが〕有ります。『長老〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろうし、中堅〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろうし、新参〔の比丘〕もまた、わたしに説くであろう。長老〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろうし、中堅〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろうし、新参〔の比丘〕にもまた、わたしは説くであろう。もし、また、長老〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕なき者ではなく、わたしに説くことになり、「善きかな」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩まさないであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔するであろう。もし、また、中堅〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら……略……。もし、また、新参〔の比丘〕が、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに説くなら、利益と慈しみ〔の思い〕なき者ではなく、わたしに説くことになり、「善きかな」と、〔わたしは〕彼に説くであろうし、〔彼を〕悩まさないであろう。〔自己の罪を〕見ながらもまた、〔わたしは〕彼に懺悔するであろう』〔と〕。比丘たちよ、このように、まさに、正しい共住と成り、さらに、このように、正しくある者たちは共住します」と。
64. 「比丘たちよ、すなわち、〔何らかの或る〕問題において、両者〔の党派〕に、言葉の応酬があり、見解による加虐があり、心に、憤懣〔の思い〕があり、不興〔の思い〕があり、不満〔の思い〕があるとして、内に寂止していない〔心〕が有るなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起するであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住まないであろう、〔という、このことが〕。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、〔何らかの或る〕問題において、両者〔の党派〕に、言葉の応酬があり、見解による加虐があり、心に、憤懣〔の思い〕があり、不興〔の思い〕があり、不満〔の思い〕があるとして、内に善く寂止した〔心〕が有るなら、比丘たちよ、その問題において、このことが待っています。長々しきことのために、荒々しきことのために、猛々しきことのために、等しく転起しないであろうし、さらに、〔それらの〕比丘たちは、安穏のうちに〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕」と。
人の章が第一となる。
(7)2. 安楽の章
65. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、在家者の安楽であり、さらに、出家者の安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、出家者の安楽です」と。
66. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、欲望の安楽であり、さらに、離欲の安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、離欲の安楽です」と。
67. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、依り所ある安楽であり、さらに、依り所なき安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、依り所なき安楽です」と。
68. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、煩悩を有する安楽であり、さらに、煩悩なき安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、煩悩なき安楽です」と。
69. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨を有する安楽であり、さらに、財貨なき安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、財貨なき安楽です」と。
70. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、聖なる安楽であり、さらに、聖ならざる安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、聖なる安楽です」と。
71. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、身体の属性としての安楽であり、さらに、心の属性としての安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、心の属性としての安楽です」と。
72. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、喜悦を有する安楽であり、さらに、喜悦なくある安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、喜悦なくある安楽です」と。
73. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、快楽の安楽であり、さらに、放捨の安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、放捨の安楽です」と。
74. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、禅定の安楽であり、さらに、禅定なき安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、禅定の安楽です」と。
75. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、喜悦を有するものを対象(所縁)とする安楽であり、さらに、喜悦なくあるものを対象とする安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、喜悦なくあるものを対象とする安楽です」と。
76. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、快楽を対象とする安楽であり、さらに、放捨を対象とする安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、放捨を対象とする安楽です」と。
77. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、形態(色)を対象とする安楽であり、さらに、形態なきもの(無色)を対象とする安楽です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの安楽があります。比丘たちよ、これらの二つの安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、形態なきものを対象とする安楽です」と。
安楽の章が第二となる。
(8)3. 形相を有するものの章
78. 「比丘たちよ、形相を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──形相なきものから、ではなく。まさしく、その形相の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
79. 「比丘たちよ、因縁を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──因縁なきものから、ではなく。まさしく、その因縁の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
80. 「比丘たちよ、因を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──因なきものから、ではなく。まさしく、その因の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
81. 「比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕(行)を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──諸々の形成〔作用〕なきものから、ではなく。まさしく、それらの形成〔作用〕の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
82. 「比丘たちよ、縁を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──縁なきものから、ではなく。まさしく、その縁の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
83. 「比丘たちよ、形態(色)を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──形態なきものから、ではなく。まさしく、その形態の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
84. 「比丘たちよ、感受〔作用〕(受)を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──感受〔作用〕なきものから、ではなく。まさしく、その感受〔作用〕の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
85. 「比丘たちよ、表象〔作用〕(想)を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──表象〔作用〕なきものから、ではなく。まさしく、その表象〔作用〕の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
86. 「比丘たちよ、識知〔作用〕(識)を有するものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──識知〔作用〕なきものから、ではなく。まさしく、その識知〔作用〕の、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
87. 「比丘たちよ、形成されたもの(有為)を対象とするものから、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が生起します──形成されたものではないもの(無為)を対象とするものから、ではなく。まさしく、その形成されたものを対象とするものの、捨棄あることから、このように、それらの悪しき善ならざる法(性質)は有ることなくあります」と。
形相を有するものの章が第三となる。
(9)4. 法の章
88. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)であり、さらに、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
89. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕励起であり、さらに、〔心の〕散乱なき〔状態〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
90. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、名前(名)であり、さらに、形態(色)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
91. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
92. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、生存の見解(有見)であり、さらに、非生存の見解(非有見)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
93. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
94. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕(慚)であり、さらに、〔良心の〕咎め(愧)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
95. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、頑固であることであり、さらに、悪しき朋友あることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
96. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、素直であることであり、さらに、善き朋友あることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
97. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、界域(界)に巧みな智あることであり、さらに、意を為すこと(作意)に巧みな智あることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
98. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、罪に巧みな智あることであり、さらに、罪からの出起に巧みな智あることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
法(性質)の章が第四となる。
(10)5. 愚者の章
99. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、具すに至らざる荷を運ぶ者であり、さらに、すなわち、具すに至った荷を運ばない者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。
100. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、具すに至らざる荷を運ばない者であり、さらに、すなわち、具すに至った荷を運ぶ者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
101. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、適確ならざるものについて適確なるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、適確なるものについて適確ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。
102. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、適確ならざるものについて適確ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、適確なるものについて適確なるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
103. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、罪ならざるものについて罪の表象ある者であり、さらに、すなわち、罪について罪ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。
104. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、罪ならざるものについて罪ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、罪について罪の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
105. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、法(教え)ならざるものについて法(教え)の表象ある者であり、さらに、すなわち、法(教え)について法(教え)ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。
106. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、法(教え)ならざるものについて法(教え)ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、法(教え)について法(教え)の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
107. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、律ならざるものについて律の表象ある者であり、さらに、すなわち、律について律ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがあります」と。
108. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、律ならざるものについて律ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、律について律の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがあります」と。
109. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩(漏)は増大します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、悔恨するべきではないことを悔恨する者であり、さらに、すなわち、悔恨するべきことを悔恨しない者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大します」と。
110. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、悔恨するべきではないことを悔恨しない者であり、さらに、すなわち、悔恨するべきことを悔恨する者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大しません」と。
111. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、適確ならざるものについて適確なるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、適確なるものについて適確ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大します」と。
112. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、適確ならざるものについて適確ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、適確なるものについて適確なるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大しません」と。
113. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、罪ならざるものについて罪の表象ある者であり、さらに、すなわち、罪について罪ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大します」と。
114. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、罪ならざるものについて罪ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、罪について罪の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大しません」と。
115. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、法(教え)ならざるものについて法(教え)の表象ある者であり、さらに、すなわち、法(教え)について法(教え)ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大します」と。
116. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、法(教え)ならざるものについて法(教え)ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、法(教え)について法(教え)の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大しません」と。
117. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、律ならざるものについて律の表象ある者であり、さらに、すなわち、律について律ならざるものの表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大します」と。
118. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものの〕諸々の煩悩は増大しません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、律ならざるものについて律ならざるものの表象ある者であり、さらに、すなわち、律について律の表象ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものの諸々の煩悩は増大しません」と。
愚者の章が第五となる。
第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。
3. 第三の五十なるもの
(11)1. 捨棄し難き願望の章
119. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの捨棄し難き願望です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、利得の願望であり、さらに、生命の願望です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの捨棄し難き願望があります」と。
120. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、世において得難き人たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、先に為す者であり、さらに、すなわち、恩を知り恩を感じる者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、世において得難き人たちがあります」と。
121. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、世において得難き人たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、満足している者であり、さらに、満足させる者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、世において得難き人たちがあります」と。
122. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの満足し難き人たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、得られたもの得られたものを捨て置く者であり、さらに、すなわち、得られたもの得られたものを捨て放つ者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの満足し難き人たちがあります」と。
123. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの満足し易き人たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、得られたもの得られたものを捨て置かない者であり、さらに、すなわち、得られたもの得られたものを捨て放たない者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの満足し易き人たちがあります」と。
124. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、貪欲の生起のための縁です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、浄美の形相であり、さらに、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、貪欲の生起のための縁があります」と。
125. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、憤怒の生起のための縁です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、敵対の形相であり、さらに、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、憤怒の生起のための縁があります」と。
126. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、誤った見解の生起のための縁です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、他者からの情報であり、さらに、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、誤った見解の生起のための縁があります」と。
127. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの、正しい見解の生起のための縁です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、他者からの情報であり、さらに、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、正しい見解の生起のための縁があります」と。
128. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、軽い罪であり、さらに、重い罪です。比丘たちよ、まさに、これらの二つ罪があります」と。
129. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、粗悪なる罪であり、さらに、粗悪ならざる罪です。比丘たちよ、まさに、これらの二つ罪があります」と。
130. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、残余を有する罪であり、さらに、残余なき罪です。比丘たちよ、まさに、これらの二つ罪があります」と。
捨棄し難き願望の章が第一となる。
(12)2. 祈願の章
131. 「比丘たちよ、信ある比丘は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『サーリプッタとモッガッラーナが、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、サーリプッタとモッガッラーナです」と。
132. 「比丘たちよ、信ある比丘尼は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、ケーマー比丘尼が、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕が、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘尼たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、ケーマー比丘尼であり、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕です」と。
133. 「比丘たちよ、信ある在俗信者(優婆塞)は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、チッタ家長が、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である在俗信者たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、チッタ家長であり、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカです」と。
134. 「比丘たちよ、信ある女性在俗信者(優婆夷)は、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『そして、クッジュッタラー女性在俗信者が、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルが、そのようにあるように、〔わたしも〕そのような者として〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である女性在俗信者たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、クッジュッタラー女性在俗信者であり、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルです」と。
135. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。
「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。
136. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、浄信するべきではない状況において浄信を示します。随知せずして、深解せずして、浄信するべき状況において浄信なきことを示します。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。
「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。随知して、深解して、浄信するべきではない状況において浄信なきことを示します。随知して、深解して、浄信するべき状況において浄信を示します。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。
137. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものにたいし〕誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、母であり、さらに、父です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものにたいし誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。
「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものにたいし〕正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、母であり、さらに、父です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものにたいし正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。
138. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものにたいし〕誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、如来であり、さらに、如来の弟子です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものにたいし誤って実践している、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。
「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらのものにたいし〕正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、如来であり、さらに、如来の弟子です。比丘たちよ、まさに、これらの二つのものにたいし正しく実践している、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。
139. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、自らの心を浄化することであり、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
140. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激〔の思い〕であり、さらに、怨恨〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
141. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、さらに、怨恨〔の思い〕の調伏です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
祈願の章が第二となる。
(13)3. 布施の章
142. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの布施です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の布施であり、さらに、法(教え)の布施です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの布施があります。比丘たちよ、これらの二つの布施のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の布施です」と。
143. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの供物です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の供物であり、さらに、法(教え)の供物です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの供物があります。比丘たちよ、これらの二つの供物のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の供物です」と。
144. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの施捨です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の施捨であり、さらに、法(教え)の施捨です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの施捨があります。比丘たちよ、これらの二つの施捨のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の施捨です」と。
145. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの遍捨です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の遍捨であり、さらに、法(教え)の遍捨です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの遍捨があります。比丘たちよ、これらの二つの遍捨のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の遍捨です」と。
146. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの受益です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の受益であり、さらに、法(教え)の受益です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの受益があります。比丘たちよ、これらの二つの受益のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の受益です」と。
147. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの共益です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の共益であり、さらに、法(教え)の共益です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの共益があります。比丘たちよ、これらの二つの共益のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の共益です」と。
148. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの分与です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の分与であり、さらに、法(教え)の分与です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの分与があります。比丘たちよ、これらの二つの分与のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の分与です」と。
149. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愛護です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の愛護であり、さらに、法(教え)の愛護です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愛護があります。比丘たちよ、これらの二つの愛護のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の愛護です」と。
150. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの資助です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の資助であり、さらに、法(教え)の資助です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの資助があります。比丘たちよ、これらの二つの資助のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の資助です」と。
151. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの慈しみです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の慈しみであり、さらに、法(教え)の慈しみです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの慈しみがあります。比丘たちよ、これらの二つの慈しみのなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の慈しみです」と。
布施の章が第三となる。
(14)4. 歓待の章
152. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの歓待です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の歓待であり、さらに、法(教え)の歓待です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの歓待があります。比丘たちよ、これらの二つの歓待のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の歓待です」と。
153. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの友愛です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の友愛であり、さらに、法(教え)の友愛です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの友愛があります。比丘たちよ、これらの二つの友愛のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の友愛です」と。
154. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の探し求めであり、さらに、法(教え)の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの探し求めがあります。比丘たちよ、これらの二つの探し求めのなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の探し求めです」と。
155. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの遍き探し求めです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の遍き探し求めであり、さらに、法(教え)の遍き探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの遍き探し求めがあります。比丘たちよ、これらの二つの遍き探し求めのなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の遍き探し求めです」と。
156. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの遍き探求です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の遍き探求であり、さらに、法(教え)の遍き探求です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの遍き探求があります。比丘たちよ、これらの二つの遍き探求のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の遍き探求です」と。
157. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの供養です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の供養であり、さらに、法(教え)の供養です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの供養があります。比丘たちよ、これらの二つの供養のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の供養です」と。
158. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの贈物です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の贈物であり、さらに、法(教え)の贈物です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの贈物があります。比丘たちよ、これらの二つの贈物のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の贈物です」と。
159. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの成功です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の成功であり、さらに、法(教え)の成功です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの成功があります。比丘たちよ、これらの二つの成功のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の成功です」と。
160. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの増大です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の増大であり、さらに、法(教え)の増大です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの増大があります。比丘たちよ、これらの二つの増大のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の増大です」と。
161. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの宝物です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の宝物であり、さらに、法(教え)の宝物です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの宝物があります。比丘たちよ、これらの二つの宝物のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の宝物です」と。
162. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの蓄積です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の蓄積であり、さらに、法(教え)の蓄積です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの蓄積があります。比丘たちよ、これらの二つの蓄積のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の蓄積です」と。
163. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの広大です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、財貨の広大であり、さらに、法(教え)の広大です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの広大があります。比丘たちよ、これらの二つの広大のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の広大です」と。
歓待の章が第四となる。
(15)5. 入定の章
164. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、入定に巧みな智あることであり、さらに、入定からの出起に巧みな智あることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
165. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、正直であり、さらに、温厚です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
166. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忍耐であり、さらに、温和です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
167. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、友誼であり、さらに、友愛です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
168. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、不害であり、さらに、清廉です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
169. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、さらに、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
170. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、さらに、食において量を知ることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
171. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、審慮の力であり、さらに、修行の力です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
172. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、気づき(念)の力であり、さらに、禅定(定・三昧)の力です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
173. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
174. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、戒の衰滅であり、さらに、見解の衰滅です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
175. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、戒の成就であり、さらに、見解の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
176. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、戒の清浄であり、さらに、見解の清浄です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
177. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、見解の清浄であり、さらに、見解のとおりの精励です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
178. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、諸々の善なる法(性質)において〔精進に〕満足なきことであり、さらに、精励において反転なきことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
179. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、気づきの忘却であり、さらに、正知なきことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
180. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、気づきであり、さらに、正知です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
入定の章が第五となる。
第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。
1. 忿激と省略〔の経典〕
181. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激(忿)であり、さらに、怨恨(恨)です。……略……。そして、偽装(覆)であり、さらに、加虐(悩)です。……。そして、嫉妬(嫉)であり、さらに、物惜(慳)です。……。そして、幻惑(誑)であり、さらに、狡猾(諂)です。……。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
182. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)があります」と。
183. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激であり、さらに、怨恨です。……略……。そして、偽装であり、さらに、加虐です。……。そして、嫉妬であり、さらに、物惜です。……。そして、幻惑であり、さらに、狡猾です。……。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、苦痛のうちに〔世に〕住みます」と。
184. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、安楽のうちに〔世に〕住みます」と。
185. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激であり、さらに、怨恨です。……略……。そして、偽装であり、さらに、加虐です。……。そして、嫉妬であり、さらに、物惜です。……。そして、幻惑であり、さらに、狡猾です。……。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します」と。
186. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。
187. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激であり、さらに、怨恨です。……略……。そして、偽装であり、さらに、加虐です。……。そして、嫉妬であり、さらに、物惜です。……。そして、幻惑であり、さらに、狡猾です。……。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります」と。
188. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。
189. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激であり、さらに、怨恨です。……略……。そして、偽装であり、さらに、加虐です。……。そして、嫉妬であり、さらに、物惜です。……。そして、幻惑であり、さらに、狡猾です。……。そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。
190. 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した者は、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
忿激と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。
2. 善ならざるものと省略〔の経典〕
191-200. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの善ならざる法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの善なる法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪過を有する法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの罪過なき法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの苦痛の生成ある法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽の生成ある法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの苦痛の報いある法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの安楽の報いある法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの加害〔の思い〕を有する法(性質)です。……。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの加害〔の思い〕なき法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、忿激なき〔生き方〕であり、さらに、怨恨なき〔生き方〕です。……。そして、偽装なき〔生き方〕であり、さらに、加虐なき〔生き方〕です。……。そして、嫉妬なき〔生き方〕であり、さらに、物惜なき〔生き方〕です。……。そして、幻惑なき〔生き方〕であり、さらに、狡猾なき〔生き方〕です。……。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの加害〔の思い〕なき法(性質)があります」と。
善ならざるものと省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。
3. 律と省略〔の経典〕
201. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちに、学びの境処(戒律)が制定されました。どのようなものが、二つのものなのですか。僧団の善良なることのために、僧団の平穏なることのために。……。極めて〔心を〕惑わす人たちの制御のために、博愛なる比丘たちの平穏の住のために。……。所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のために、未来のものたる諸々の煩悩の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の怨念の統御のために、未来のものたる諸々の怨念の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の罪過の統御のために、未来のものたる諸々の罪過の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の恐怖の統御のために、未来のものたる諸々の恐怖の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の善ならざる法(性質)の統御のために、未来のものたる諸々の善ならざる法(性質)の防御のために。……。在家者たちへの慈しみ〔の思い〕のために、悪しき欲求ある比丘たちの徒党の断絶のために。……。浄信していない者たちの浄信のために、浄信している者たちのより一層の状態のために。……。正なる法(教え)の止住のために、律の資助のために。比丘たちよ、まさに、これらの二つの義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちに、学びの境処が制定されました」と。
202-230. 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちに、戒条(波羅提木叉:戒律条項)が制定されました。……略……戒条の誦説が制定されました。……戒条の捨置(一時停止)が制定されました。……〔雨期の滞在の〕充足が制定されました。……〔雨期の滞在の〕充足の捨置が制定されました。……責め咎められるべき行為が制定されました。……依所(監察)ある行為が制定されました。……追放されるべき行為が制定されました。……謝罪するべき行為が制定されました。……告発されるべき行為が制定されました。……別住の付与が制定されました。……根元に引き戻すことが制定されました。……贖罪の付与が制定されました。……復帰が制定されました。……復権が制定されました。……出離が制定されました。……〔戒の〕成就(具足・受戒)が制定されました。……表白の行為が制定されました。……審議二回の表白の行為(白二羯磨)が制定されました。……審議四回の表白の行為(白四羯磨)が制定されました。……制定されていないものについて制定されました。……制定されたものについて追加制定されました。……面前の調伏(現前毘尼:関係者全員による裁定)が制定されました。……記憶による調伏(憶念毘尼:違犯者の潔白宣言による裁定)が制定されました。……迷乱なき調伏(不痴毘尼:違犯者が心神喪失の場合の裁定)が制定されました。……明言されたものによる執行(自言治:違犯者の自白による裁定)が制定されました。……多数決(多人語:関係者以外を含む多数者による裁定)が制定されました。……彼の悪行の告発(覓罪相:言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)が制定されました。……草の覆い(如草覆地:弁論と和解による裁定)が制定されました。どのようなものが、二つのものなのですか。僧団の善良なることのために、僧団の平穏なることのために。……。極めて〔心を〕惑わす人たちの制御のために、博愛なる比丘たちの平穏の住のために。……。所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のために、未来のものたる諸々の煩悩の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の怨念の統御のために、未来のものたる諸々の怨念の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の罪過の統御のために、未来のものたる諸々の罪過の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の恐怖の統御のために、未来のものたる諸々の恐怖の防御のために。……。所見の法(現世)たる諸々の善ならざる法(性質)の統御のために、未来のものたる諸々の善ならざる法(性質)の防御のために。……。在家者たちへの慈しみ〔の思い〕のために、悪しき欲求ある比丘たちの徒党の断絶のために。……。浄信していない者たちの浄信のために、浄信している者たちのより一層の状態のために。……。正なる法(教え)の止住のために、律の資助のために。比丘たちよ、まさに、これらの二つの義(利益)たる所以を縁として、如来によって、弟子たちに、草の覆いが制定されました」と。
律と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。
4. 貪欲と省略〔の経典〕
231. 「比丘たちよ、貪欲(貪)の証知のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです」と。
「比丘たちよ、貪欲の遍知のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の遍知のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の完全なる滅尽のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の完全なる滅尽のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の捨棄のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の捨棄のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の滅尽のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の滅尽のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の衰失のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の衰失のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の離貪のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の離貪のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の止滅のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の止滅のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の施捨のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の施捨のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、貪欲の放棄のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、貪欲の放棄のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです」と。
232-246. 「比丘たちよ、憤怒(瞋)の……略……迷妄の(痴)……忿激(忿)の……怨恨(恨)の……偽装(覆)の……加虐(悩)の……嫉妬(嫉)の……物惜(慳)の……幻惑(誑)の……狡猾(諂)の……強情(傲)の……激昂(怒)の……思量(慢)の……高慢(過慢)の……驕慢(驕)の……放逸の証知のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の証知のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の遍知のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の遍知のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の完全なる滅尽のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の完全なる滅尽のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の捨棄のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の捨棄のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の滅尽のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の滅尽のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の衰失のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の衰失のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の離貪のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の離貪のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の止滅のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の止滅のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の施捨のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の施捨のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです。比丘たちよ、放逸の放棄のために、二つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。比丘たちよ、放逸の放棄のために、これらの二つの法(性質)が修められるべきです」と。
(世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。)
貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。
ドゥカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。