中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
中間の五十の聖典(中分五十経篇・上)
【目次】
1. 家長の章
1(51). カンダラカの経(1.~)
2(52). アッタカ城市民の経(17.~)
3(53). 〔いまだ〕学びある者の経(22.~)
4(54). ポータリヤの経(31.~)
5(55). ジーヴァカの経(51.~)
6.(56). ウパーリの経(56.~)
7(57). 犬の掟ある者の経(78.~)
8(58). アバヤ王子の経(83.~)
9(59). 多くの感受されるべきものの経(88.~)
10(60). 誤解なきものの経(92.~)
2. 比丘の章
1(61). アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経(107.~)
2(62). 大いなるラーフラへの教諭の経(113.~)
3(63). 小なるマールキャの経(122.~)
4(64). 大いなるマールキャの経(129.~)
5(65). バッダーリの経(134.~)
6(66). 鶉の喩えの経(148.~)
7(67). チャートゥマーの経(157.~)
8(68). ナラカパーナの経(166.~)
9(69). ゴーリヤーニの経(173.~)
10(70). キーターギリの経(174.~)
3. 遍歴遊行者の章
1(71). 三つの明知とヴァッチャの経(185.~)
2(72). 火とヴァッチャの経(187.~)
3(73). 大いなるヴァッチャの経(193.~)
4(74). ディーガナカの経(201.~)
5(75). マーガンディヤの経(207.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
中間の五十の聖典(中分五十経篇・上)
1. 家長の章
1(51). カンダラカの経
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。大いなる比丘の僧団と共に。そこで、まさに、かつまた、調象師の子のペッサが、かつまた、カンダラカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、調象師の子のペッサは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。また、カンダラカ遍歴遊行者は、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カンダラカ遍歴遊行者は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、比丘の僧団が、正しく実践させられているとは。貴君ゴータマよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させました。それは、たとえば、また、今現在、貴君ゴータマによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。貴君ゴータマよ、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させるでしょう。それは、たとえば、また、今現在、貴君ゴータマによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように」と。
2. 「カンダラカよ、このように、このことはあります。カンダラカよ、このように、このことはあります。カンダラカよ、すなわち、また、それらの、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させました。それは、たとえば、また、今現在、わたしによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。カンダラカよ、すなわち、また、すなわち、また、それらの、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちにもまた、まさしく、この最高のものとして、比丘の僧団を、正しく実践させるでしょう。それは、たとえば、また、今現在、わたしによって、比丘の僧団が、正しく実践させられているように。
カンダラカよ、まさに、この比丘の僧団において、阿羅漢たちであり、煩悩(漏)の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存(有)に束縛するもの(結)の完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちである、比丘たちが存在します。カンダラカよ、まさに、この比丘の僧団において、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、常なる戒ある者たちであり、常なる行持ある者たちであり、賢明なる者たちであり、賢明なる行持ある者たちである、比丘たちが存在します。彼らは、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みます。どのようなものが、四つのものなのですか。カンダラカよ、ここに、比丘が、身体(身)における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受(受)における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて」と。
3. このように説かれたとき、調象師の子のペッサは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、それほどまでに、世尊によって、これらの四つの気づきの確立が、見事に報知されたのは──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。尊き方よ、まさに、白衣の在家者たちである、わたしたちもまた、〔その〕時〔その〕時に、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者たちとして〔世に〕住みます。尊き方よ、ここに、わたしたちは、身体における身体の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、気づきある者たちとなり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、気づきある者たちとなり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、気づきある者たちとなり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者たちとして〔世に〕住みます──熱情ある者たちとなり、正知の者たちとなり、気づきある者たちとなり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、このように、人間の叢林が、このように、人間の苦味が、このように、人間の狡猾が、〔それらが〕転起しているなか、世尊が、これほどまでに、有情たちの利益と利益ならざるものを知るとは。尊き方よ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは(人間はわかりにくい)。尊き方よ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは(家畜はわかりやすい)。尊き方よ、まさに、わたしは、調御されるべき象を行かせることができます。すなわち、チャンパーに往来を為すなら、中途にあるだけで、諸々の狡猾を、諸々の奸計を、諸々の邪曲を、諸々の歪曲を、それらの全てを、〔その象は〕明らかと為すでしょう。尊き方よ、いっぽう、わたしたちにとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、身体によっても、まさしく、他なるものとして歩み行ない、言葉によっても、まさしく、他なるものとして〔歩み行ない〕、彼らの心は、まさしく、他なるものに成ります。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、このように、人間の叢林が、このように、人間の苦味が、このように、人間の狡猾が、〔それらが〕転起しているなか、世尊が、これほどまでに、有情たちの利益と利益ならざるものを知るとは。尊き方よ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは。尊き方よ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは」と。
4. 「ペッサよ、このように、このことはあります。ペッサよ、このように、このことはあります。ペッサよ、まさに、これは、叢林です──すなわち、この、人間たちは。ペッサよ、まさに、これは、明瞭なるものです──すなわち、この、家畜たちは。ペッサよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ペッサよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。ペッサよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現法:現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。ペッサよ、これらの四つの人たちのなかでは、どの人が、あなたの心を喜ばせますか」と。
「尊き方よ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、まさしく、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。
5. 「ペッサよ、また、何ゆえに、これらの三つの人は、あなたの心を喜ばせないのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する自己を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、まさしく、熱苦させることもなく、遍く苦しめることもありません。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせます。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「ペッサよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、調象師の子のペッサは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
6. そこで、まさに、世尊は、調象師の子のペッサが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、調象師の子のペッサは、賢者です。比丘たちよ、調象師の子のペッサは、大いなる智慧(慧・般若)ある者です。比丘たちよ、すなわち、わたしが、彼に、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分するまで、それで、もし、調象師の子のペッサが、しばらく坐っているなら、大いなる義(利益)と結び付いた者と成ったでしょう。比丘たちよ、ですが、ともあれ、これだけでもまた、調象師の子のペッサは、大いなる義(利益)と結び付いた者としてあります」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
7. 「比丘たちよ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
8. 比丘たちよ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。比丘たちよ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
9. 比丘たちよ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼の、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。比丘たちよ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
10. 比丘たちよ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。
11. 彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。
彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇(蘊)を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。
12. 彼は、眼によって、形態(色)を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能(根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御(律儀)のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声(声)を聞いて……略……。鼻によって、臭気(香)を嗅いで……略……。舌によって、味感(味)を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(法:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。
彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為(業)のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。
13. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、さらに、この聖なる気づき(念)と正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。
彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。
14. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。
15. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。
16. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵(智)が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として(※)、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。
※ テキストには attantapo とあるが、PTS版により anattantapo と読む。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
カンダラカの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(52). アッタカ城市民の経
17. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において。また、まさに、その時点にあって、アッタカ城市民のダサマ家長が、パータリプッタに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、クックタ〔長者〕の林園のあるところに、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、その比丘に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どこに、今現在、尊者アーナンダは住んでいますか。尊き方よ、まさに、わたしどもは、尊者アーナンダと会見することを欲しています」と。「家長よ、彼は、尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において」と。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、パータリプッタにおいて、その用事を済ませて、ヴェーサーリーのあるところに、ベールヴァ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。
18. 一方に坐った、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものに至り得ます」と。
「家長よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕なのですか。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。
19. 「(1)家長よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに(※)、この第一の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
※ PTS版により kho を補う。
20. (2)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第二の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(3)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第三の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(4)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第四の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(5)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この慈愛という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……略……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(6)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕(慈)を共具した心で……略……(7)歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……(8)放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この放捨という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と(※)覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
※ テキストには nirodhadhamma’ntntti とあるが、PTS版により nirodhadhamma’nti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。
(9)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(10)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この識知無辺なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し……束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。
(11)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この無所有なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、〔正しく〕告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。
21. このように説かれたとき、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、それは、たとえば、また、人が、まさしく、一つの妙なる財宝を探し求めながら、まさしく、一度に、十一の妙なる財宝に到達するようなものです。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一つの不死の門を探し求めながら、〔学びを〕修めることによって、まさしく、一度に、十一の不死の門を得ました。尊き方よ、それは、たとえば、また、人に、十一の門ある家があるようなものです。彼は、その家が燃えているとき、一つ一つの門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの十一の不死の門の、一つ一つの不死の門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさに、これらの〔教えを〕他にする異教の者たちは、まさに、師匠のために、師匠の財を遍く探し求めます。また、どうして、ましてや、わたしが、尊者アーナンダのために、供養を為さないというのでしょう」と。そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、そして、パータリプッタの、さらに、ヴェーサーリーの、比丘の僧団を集めて、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そして、一者一者の比丘に、各自に、ひと組の布地をまとわせ、さらに、尊者アーナンダに、三つの衣料をまとわせ、かつまた、尊者アーナンダのために、五百の精舎を作らせた、ということです。
アッタカ城市民の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(53). 〔いまだ〕学びある者の経
22. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、造営されたばかりの新しい公会堂があります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。尊き方よ、それを、世尊は、最初に遍く受益したまえ。世尊によって、最初に遍く受益された、そのあと、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちが遍く受益するでしょう。それは、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、新しい公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を公会堂に広げて、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が公会堂に広げられ、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちもまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちのために、〔いまだ〕学びある者(有学)の〔実践の〕道が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします(わたしに代わって説法してほしい)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。
23. そこで、まさに、尊者アーナンダは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに告げました。「マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、戒を成就した者として〔世に〕有り、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有り、食において量を知る者として〔世に〕有り、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。
24. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。
マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ります。
マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、食において量を知る者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、食において量を知る者として〔世に〕有ります。
マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初夜(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中夜(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後夜(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。
25. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚り(菩提)に信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)恥〔の思い〕(慙)ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉による悪しき行ないを〔恥じ〕、意による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定(等至:専心)を恥じます。(3)〔良心の〕咎め(愧)ある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。(4)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(5)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(6)気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、思念し随念する者として。(7)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。
26. マハー・ナーマよ、では、どのように、聖なる弟子は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、聖なる弟子は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。
27. マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、戒を成就した者として〔世に〕有ることから、このように、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ることから、このように、食において量を知る者として〔世に〕有ることから、このように、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ることから、このように、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ることから、このように、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、〔いまだ〕学びある者たる実践者、腐敗ならざる卵たることを成就した者、孵化の可能ある者、正覚の可能ある者、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者』〔と〕説かれます。マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、これらのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる弟子が、このように、戒を成就した者として〔世に〕有ることから、このように、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ることから、このように、食において量を知る者として〔世に〕有ることから、このように、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ることから、このように、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ることから、このように、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、〔いまだ〕学びある者たる実践者、腐敗ならざる卵たることを成就した者、孵化の可能ある者、正覚の可能ある者、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者』〔と〕説かれます。
28. マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼には、この第一の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。
マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼には、この第二の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。
マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼には、この第三の孵化が有ります──卵の殻から〔孵化する〕ひよこのように。
29. マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、戒を成就した者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、食において量を知る者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、七つの正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るなら、これもまた、彼の行ないのうちに有ります。
マハー・ナーマよ、さらに、すなわち、まさに、聖なる弟子が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。マハー・ナーマよ、すなわち、また、聖なる弟子が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、これもまた、彼の明知のうちに有ります。
マハー・ナーマよ、この者は、聖なる弟子として、『明知の成就者』ともまた〔説かれ〕、『行ないの成就者』ともまた〔説かれ〕、『明知と行ないの成就者』ともまた説かれます。
30. マハー・ナーマよ、この詩偈が、梵〔天〕のサナンクマーラによって語られました。
〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』と。
マハー・ナーマよ、また、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラによって語られた、〔まさに〕その、この詩偈は、善く歌われたものであり、悪しく歌われたものではなく、見事に語られたものであり、拙劣に語られたものではなく、義(道理)を伴ったものであり、義(道理)を伴わないものではなく、世尊によって許認されたものです」と。
そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、善きかな、まさに、あなたは、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちのために、〔いまだ〕学びある者の〔実践の〕道を語りました」と。
尊者アーナンダは、この〔言葉〕を言いました。等しく承認する者として、教師は有りました。わが意を得たピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んだ、ということです。
〔いまだ〕学びある者の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(54). ポータリヤの経
31. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕に住んでおられます。アングッタラーパ〔国〕には、アーパナという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、ポータリヤ家長もまた、内衣と外衣を完備し、傘と〔両の〕履物とともに、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その密林に深く分け入って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ポータリヤ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ポータリヤ家長は、「沙門ゴータマは、わたしを、『家長』という説き方で呼び慣わす」と、激情し、わが意を得ない者となり、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、ポータリヤ家長に、こう言いました。「家長よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ポータリヤ家長は、「沙門ゴータマは、わたしを、『家長』という説き方で呼び慣わす」と、激情し、わが意を得ない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、適合ならず。〔まさに〕その、このことは、適切ならず。すなわち、あなたが、わたしを、『家長』という説き方で呼び慣わすのは」と。「家長よ、まさに、あなたには、それらの行相があり、それらの徴表があり、それらの形相があります。すなわち、家長にある、そのとおりに」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、そのようにあるも、わたしによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されました」と。「家長よ、また、すなわち、どのように、あなたによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されたのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、わたしによって、すなわち、〔わたしのものとして〕有った、あるいは、財産も、あるいは、穀物も、あるいは、銀も、あるいは、金も、その全てが、子たちに、遺産として引き渡されました。そこにおいて、わたしは、教諭することなく、批判することなく、食糧と衣服を最高とする者として〔世に〕住みます。貴君ゴータマよ、このように、まさに、わたしによって、全ての生業が拒絶され、全ての俗事が断絶されました」と。「家長よ、まさに、あなたは、他なるものとして、俗事の断絶を説き、また、そして、他なるものとして、聖者の律における俗事の断絶は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律における俗事の断絶は有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における俗事の断絶が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。
32. 世尊は、こう言いました。「家長よ、八つのものがあります。まさに、これらの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです。与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです。真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです。中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです。貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです。非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです。忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです。高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです。家長よ、まさに、これらの、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、八つの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します」と。「尊き方よ、すなわち、これらの、世尊によって、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、八つの法(性質)が、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起するなら、尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、これらの八つの法(性質)を、詳細〔の観点〕によって区分してください──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
33. 「『命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、命あるものを殺す者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、命あるものを殺す者として存することになるなら、命あるものを殺すという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、命あるものを殺すという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、命あるものを殺すという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するもの(結)であり、これは、〔修行の〕妨害(蓋)である。すなわち、この、命あるものを殺すことは。さらに、それらが、命あるものを殺すという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、命あるものを殺すことから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『命あるものを殺さないことに依拠して、命あるものを殺すことが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
34. 『与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、与えられていないものを取る者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、与えられていないものを取る者として存することになるなら、与えられていないものを取るという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、与えられていないものを取るという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、与えられていないものを取るという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、与えられていないものを取ることは。さらに、それらが、与えられていないものを取るという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、与えられていないものを取ることから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『与えられたものを取ることに依拠して、与えられていないものを取ることが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
35. 『真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、虚偽を説く者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、虚偽を説く者として存することになるなら、虚偽を説くという縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、虚偽を説くという縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、虚偽を説くという縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、虚偽を説くことは。さらに、それらが、虚偽を説くという縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、虚偽を説くことから離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『真理の言葉に依拠して、虚偽を説くことが捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
36. 『中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、中傷の言葉ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、中傷の言葉ある者として存することになるなら、中傷の言葉という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、中傷の言葉という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、中傷の言葉という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、中傷の言葉は。さらに、それらが、中傷の言葉という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、中傷の言葉から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『中傷ならざる言葉に依拠して、中傷の言葉が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
37. 『貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、貪求と貪欲ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、貪求と貪欲ある者として存することになるなら、貪求と貪欲という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、貪求と貪欲という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、貪求と貪欲という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、貪求と貪欲は。さらに、それらが、貪求と貪欲という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、貪求と貪欲から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『貪求と貪欲なき〔あり方〕に依拠して、貪求と貪欲が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
38. 『非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、非難と害情ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、非難と害情ある者として存することになるなら、非難と害情という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、非難と害情という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、非難と害情という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、非難と害情は。さらに、それらが、非難と害情という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、非難と害情から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『非難と害情なき〔あり方〕に依拠して、非難と害情が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
39. 『忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、忿激と葛藤ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激と葛藤ある者として存することになるなら、忿激と葛藤という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、忿激と葛藤という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、忿激と葛藤という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、忿激と葛藤は。さらに、それらが、忿激と葛藤という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、忿激と葛藤から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『忿激と葛藤なき〔あり方〕に依拠して、忿激と葛藤が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
40. 『高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『それらの束縛するものを因として、まさに、わたしが、高慢ある者として存することになるなら、それらの束縛するものの捨棄と断絶のために実践する者として、わたしはあるのだ。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、高慢ある者として存することになるなら、高慢という縁あることから、自己もまた、わたしを批判するであろうし、高慢という縁あることから、識者たちもまた、随知して〔そののち〕、わたしを難詰するであろうし、高慢という縁あることから、身体の破壊ののち、死後において、悪趣が待っているのだ。また、まさに、まさしく、これは、束縛するものであり、これは、〔修行の〕妨害である。すなわち、この、高慢は。さらに、それらが、高慢という縁あることから生起するであろう、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、高慢から離間した者には、このようにある彼には、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくある』〔と〕。『高慢なき〔あり方〕に依拠して、高慢が捨棄されるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
41. 家長よ、まさに、これらの、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分された、八つの法(性質)があり、それらは、聖者の律における俗事の断絶のために等しく転起します。まさしく、しかし、それだけで、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るのではありません」と。
「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ポータリヤ家長は、世尊に答えました。
欲望〔の対象〕の危険の話
42. 「家長よ、それは、たとえば、また、飢えと力の衰えに打ち負かされ、屠牛者の屠殺場に現われた犬が存するとします。〔まさに〕その、この〔犬〕に、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖を投げ与えるとします。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その犬は、この、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖を舐めながら、飢えと力の衰えを取り除くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「それは、何を因とするのですか」〔と〕。
「尊き方よ、なぜなら、これは、善く削がれたうえにも削がれた、肉のない血まみれの骨の鎖であるからです。また、まさしく、そのかぎりにおいて、その犬は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧(慧・般若)によって見て、すなわち、この放捨(捨)が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。
43. 家長よ、それは、たとえば、また、あるいは、鷲が、あるいは、鷺が、あるいは、鷹が、肉片を携えて、飛び立つとします。〔まさに〕その、この〔肉片〕を、〔他の〕鷲たちもまた、〔他の〕鷺たちもまた、〔他の〕鷹たちもまた、群衆しては群集して、引き裂こうとし、奪い取ろうとします。家長よ、それを、どう思いますか。それで、もし、その、あるいは、鷲が、あるいは、鷺が、あるいは、鷹が、その肉片を、まさしく、すみやかに放棄しないなら、その〔鳥〕は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、すなわち、この放捨が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。
44. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明を携えて、逆風を赴くとします。家長よ、それを、どう思いますか。それで、もし、その人が、燃え盛る草の松明を、まさしく、すみやかに放棄しないなら、彼の、その燃え盛る草の松明は、あるいは、手を焼き、あるいは、腕を焼き、あるいは、或るどこか〔の肢体の支分〕を〔焼き〕、あるいは、或るどこかの肢体の支分を焼き、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て……略……まさしく、その放捨を修めます。
45. 家長よ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があるとして、そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、火坑に引きずり込みます。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、まさしく、かくもあれ、かくもあれと、身体をよじるでしょうか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「それは、何を因とするのですか」〔と〕。
「尊き方よ、なぜなら、その人に、〔このように〕知るところがあるからです。『そして、わたしは、この火坑に落ちるであろう。それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て……略……まさしく、その放捨を修めます。
46. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、喜ばしき林園の、喜ばしき林野の、喜ばしき土地の、喜ばしき蓮池の、〔そのような〕夢を見るとします。彼は、目覚めたなら、何であろうが見ることはありません。家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。……略……まさしく、その放捨を修めます。
47. 家長よ、それは、たとえば、また、人が、借り物の財物を──あるいは、人に見合う車を、最も優れた宝珠の耳飾を──乞い求めて、彼が、それらの借り物の財物によって、〔人々に〕尊ばれ、〔人々に〕取り囲まれ、市場に行くとします。〔まさに〕その、この者のことを、人々が見て、このように説きます。『ああ、まさに、財物ある人である。このように、まさに、財物ある者たちは、諸々の財物を受益する』と。〔まさに〕その、この者を、所有者たちが、まさしく、そこかしこにおいて見るなら、まさしく、そこかしこにおいて、自らのものを持ち去るでしょう。家長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人に、〔心の〕他化あるに十分なるものがありますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「それは、何を因とするのですか」〔と〕。
「尊き方よ、なぜなら、所有者たちが、自らのものを持ち去るからです」と。「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。……略……まさしく、その放捨を修めます。
48. 家長よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、濃い密林があるとします。そこで、その〔密林〕には、そして、果を結び、さらに、果を具した、木があり、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しません。そこで、果を義(目的)として果を探し求める人が、果を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、その密林に深く分け入って、そして、果を結び、さらに、果を具した、その木を見ます。彼に、このような〔思いが〕存します。『そして、果を結び、さらに、果を具した、まさに、この木であるが、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しない。また、まさに、わたしは、木に登ることを知っている。それなら、さあ、わたしは、この木に登って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たすのだ』と。彼は、その木に登って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たします。そこで、果を義(目的)として果を探し求める第二の人が、果を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、やってくるとします。彼は、その密林に深く分け入って、そして、果を結び、さらに、果を具した、その木を見ます。彼に、このような〔思いが〕存します。『そして、果を結び、さらに、果を具した、まさに、この木であるが、しかしながら、諸々の果は、何であれ、地に落ちたものは存在しない。また、まさに、わたしは、木に登ることを知らない。それなら、さあ、わたしは、この木を根元から断ち切って、そして、義(目的)とするだけ喰い、さらに、腰〔の袋〕を満たすのだ』と。彼は、その木を、まさしく、根元から断ち切ります。家長よ、それを、どう思いますか。〔まさに〕この、すなわち、最初に木に登った、その人ですが、それで、もし、彼が、まさしく、すみやかに降りないなら、倒れ落ちつつあるその木は、彼の、あるいは、手を打ち砕き、あるいは、足を打ち砕き、あるいは、或るどこか〔の肢体の支分〕を〔打ち砕き〕、あるいは、或るどこかの肢体の支分を打ち砕き、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうか、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょうか〕」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「家長よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた』と。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、すなわち、この放捨が、種々なるものに依拠した種々なるものであるなら、それを回避して、すなわち、この放捨が、一なるものに依拠した一なるものであり、そこにおいて、全てにわたり、諸々の世の財貨への執取〔の思い〕が完全に残りなく止滅するなら、まさしく、その放捨を修めます。
49. 家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。
家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。
家長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、まさしく、この、放捨による気づきの完全なる清浄という無上なるものに由来して、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。家長よ、これだけで、まさに、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有ります。
50. 家長よ、それを、どう思いますか。すなわち、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶が有るように、家長よ、さて、いったい、あなたは、このような形態の俗事の断絶を、自己のうちに等しく随観しますか」と。「尊き方よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、何の俗事の断絶があるというのでしょう。尊き方よ、わたしは、聖者の律において、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、俗事の断絶から遠く離れています。尊き方よ、まさに、わたしどもは、過去において、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、『善き生まれの者たち』と思い考え、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、善き生まれの者たちのための食料を食べさせ、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているのに、善き生まれの者たちの地位に据え置きました。尊き方よ、いっぽう、わたしどもは、比丘たちが、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、『善き生まれならざる者たち』と思い考え、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、善き生まれならざる者たちのための食料を食べさせ、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているのに、善き生まれならざる者たちの地位に据え置きました。尊き方よ、また、今や、わたしどもは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、『善き生まれならざる者たち』と知るでしょうし、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、善き生まれならざる者たちのための食料を食べさせるでしょうし、まさしく、善き生まれならざる者たちとして存しているなら、善き生まれならざる者たちの地位に据え置くでしょう。尊き方よ、いっぽう、わたしどもは、比丘たちが、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、『善き生まれの者たち』と知るでしょうし、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、善き生まれの者たちのための食料を食べさせるでしょうし、まさしく、善き生まれの者たちとして存しているなら、善き生まれの者たちの地位に据え置くでしょう。尊き方よ、世尊は、まさに、わたしに、沙門たちにたいし沙門への愛情を、沙門たちにたいし沙門への浄信を、沙門たちにたいし沙門への尊重を、生じさせました。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る』と、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
ポータリヤの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(55). ジーヴァカの経
51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ジーヴァカ・コーマーラバッチャのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為(業)として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と。尊き方よ、すなわち、『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。
52. 「ジーヴァカよ、すなわち、『〔人々は〕沙門ゴータマを指定して、命あるものを殺す。沙門ゴータマは、それを知っていながら、〔自らを〕縁とする行為として〔自らに〕指定が為された肉を遍く受益する』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。そして、彼らは、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、三つの状況によって、『遍き受益なき肉』と説きます。見られたものであり、聞かれたものであり、遍く疑われたものです。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、これらの三つの状況によって、『遍き受益なき肉』と説きます。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、三つの状況によって、『遍き受益ある肉』と説きます。見られていないものであり、聞かれていないものであり、遍く疑われていないものです。ジーヴァカよ、わたしは、まさに、これらの三つの状況によって、『遍き受益ある肉』と説きます。
53. ジーヴァカよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して住みます。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。ジーヴァカよ、まさしく、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、〔まさに〕その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の〔行乞の〕施食で給仕します。彼に、このような〔思いは〕有りません。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼に、また、このような〔思いも〕有りません。『ああ、まさに、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、未来にもまた、このような形態の上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。ジーヴァカよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その時点において、その比丘は、あるいは、自己にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、他者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、両者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ジーヴァカよ、まさに、その時点において、その比丘は、まさしく、罪過なき食を食しているのではないですか」と。
「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『梵〔天〕は、慈愛の住者である』と。尊き方よ、それで、わたしにとって、このことは、世尊が実証例です。尊き方よ、なぜなら、世尊は、慈愛の住者であるからです」と。「ジーヴァカよ、まさに、すなわち、貪欲(貪)によって、すなわち、憤怒(瞋)によって、すなわち、迷妄(痴)によって、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕存することになりますが、如来の、その貪欲は、その憤怒は、その迷妄は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ジーヴァカよ、それで、もし、まさに、このことに関して、あなたが語ったなら、あなたが〔語った〕このことを、〔わたしは〕承認します」と。「尊き方よ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしは語りました」と。
54. 「ジーヴァカよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して住むとします。彼は、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。ジーヴァカよ、まさしく、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、〔まさに〕その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の〔行乞の〕施食で給仕します。彼に、このような〔思いは〕有りません。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼に、また、このような〔思いも〕有りません。『ああ、まさに、まさに、わたしを、この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、未来にもまた、このような形態の上質の〔行乞の〕施食で給仕するべきである』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。ジーヴァカよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その時点において、その比丘は、あるいは、自己にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、他者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか、あるいは、両者にたいする加害〔の思い〕のために、思弁しますか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ジーヴァカよ、まさに、その時点において、その比丘は、まさしく、罪過なき食を食しているのではないですか」と。
「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『梵〔天〕は、放捨の住者である』と。尊き方よ、それで、わたしにとって、このことは、世尊が実証例です。尊き方よ、なぜなら、世尊は、放捨の住者であるからです」と。「ジーヴァカよ、まさに、すなわち、貪欲によって、すなわち、憤怒によって、すなわち、迷妄によって、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕存することになりますが、如来の、その貪欲は、その憤怒は、その迷妄は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ジーヴァカよ、それで、もし、まさに、このことに関して、あなたが語ったなら、あなたが〔語った〕このことを、〔わたしは〕承認します」と。「尊き方よ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしは語りました」と。
55. 「ジーヴァカよ、その者が、まさに、あるいは、如来を〔指定して〕、あるいは、如来の弟子を指定して、命あるものを殺すなら、彼は、五つの状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その家長が、このように言ったなら、『赴け。まさに、何某の命あるものを連行せよ』と、この第一の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その命あるものが首輪によって連行されながら、苦痛と失意を得知するなら、この第二の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、彼が、このように言ったなら、『赴け。まさに、この命あるものを殺せ』と、この第三の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、その命あるものが殺されながら、苦痛と失意を得知するなら、この第四の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、また、彼が、あるいは、如来に、あるいは、如来の弟子に、適確ならざる〔あり方〕によって近づくなら、この第五の状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します。ジーヴァカよ、その者が、まさに、あるいは、如来を〔指定して〕、あるいは、如来の弟子を指定して、命あるものを殺すなら、彼は、これらの五つの状況によって、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。
このように説かれたとき、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、比丘たちは、まさしく、適確なる食を食します。尊き方よ、まさに、比丘たちは、まさしく、罪過なき食を食します。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
ジーヴァカの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6.(56). ウパーリの経
56. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、ナーランダーに滞在しています──大いなるニガンタの衆と共に。そこで、まさに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)のディーガ・タパッシンは、ナーランダーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。
「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタに、『行為』『行為』と報知する習行はありません。友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタには、『棒(暴力)』『棒』と報知する習行があります」と。
「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。
「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、三つの棒を報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の棒であり、言葉の棒であり、意の棒です」と。
「タパッシンよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があるのですか」と。
「友よ、ゴータマよ、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があります」と。
「タパッシンよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、どの棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の棒でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の棒でしょうか、あるいは、すなわち、意の棒でしょうか」と。
「友よ、ゴータマよ、まさに、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、身体の棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、言葉の棒を〔報知せ〕ず、そのように、意の棒を〔報知し〕ません」と。
「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。
かくのごとく、世尊は、ニガンタのディーガ・タパッシンに、この議論の基盤(論事)について、三度に至るまで確認させました。
57. このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、こう言いました。「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。
「タパッシンよ、まさに、如来に、『棒』『棒』と報知する習行はありません。タパッシンよ、まさに、如来には、『行為』『行為』と報知する習行があります」と。
「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。
「タパッシンよ、まさに、わたしは、三つの行為を報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の行為であり、言葉の行為であり、意の行為です」と。
「友よ、ゴータマよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があるのですか」と。
「タパッシンよ、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があります」と。
「友よ、ゴータマよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、どの行為を、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の行為でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の行為でしょうか、あるいは、すなわち、意の行為でしょうか」と。
「タパッシンよ、まさに、わたしは、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、意の行為を、より罪過を有する大いなるものと報知します──悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、身体の行為を〔報知せ〕ず、そのように、言葉の行為を〔報知し〕ません」と。
「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕。
「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。
かくのごとく、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、この議論の基盤について、三度に至るまで確認させて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。
58. また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリを筆頭とするバーラカ〔村〕の衆たる大いなる在家の衆と共に、坐った状態でいます。まさに、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、さて、いったい、どこから、あなたはお帰りかな──昼のさなかに」と。「尊き方よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。「タパッシンよ、また、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「タパッシンよ、また、すなわち、どのように、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ニガンタ・ナータプッタに告げました。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、善きかな、善きかな。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのだ。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗雑なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのだろう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものである──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はない」と。
59. このように説かれたとき、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな──ディーガ・タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、幸いなるタパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗雑なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータマの論を論破しましょう。それで、もし、沙門ゴータマが、すなわち、幸いなるタパッシンが確認させたように、そのように、わたしを確認させるなら、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、長い毛の羊を、諸々の毛を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒造業者が、大きな酒造用の筵(むしろ)を深い湖水に入れて、端を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒職人が、篩(ふるい)の端を掴んで、振り落とし、振り払い、打ち払うように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、振り落とし、振り払い、打ち払うでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、六十歳の象が、深い蓮池に入って行って、麻洗いという名の遊びの類に打ち興じるように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマに打ち興じるでしょう──思うに、麻洗いの遊びの類として。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータマの論を論破しましょう」と。「家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータマの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータマの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。
60. このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータマが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータマの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータマの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータマが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータマの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータマの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきましたか」と。
「家長よ、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきました」と。
「尊き方よ、また、まさに、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。
「家長よ、まさに、わたしに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。
「尊き方よ、また、すなわち、どのように、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのですか」と。
そこで、まさに、世尊は、すなわち、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ウパーリ家長に告げました。
61. このように説かれたとき、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな──タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、世尊に説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗雑なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。「家長よ、それで、もし、まさに、あなたが、真理(諦)に立脚して思い考えるなら、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。
62. 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします──冷水を拒絶する者であり、熱水を受用する者です。彼が、冷水を得ずにいながら、命を終えるとします。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、この者には、どこにおいて、再生があると報知しますか」と。
「尊き方よ、マノーサッタ(意に執着している者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。そこにおいて、彼は再生します」と。
「家長よ、それは、何を因とするのですか」と。
「尊き方よ、なぜなら、この者は、意に結縛された者として、命を終えるからです」と。
「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。
63. 「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ・ナータプッタが、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕存するとします──全ての水によって防護された者として、全ての水によって結合された者として、全ての水によって払拭された者として、全ての水によって充満された者として。彼は、前進しながら、後進しながら、多くの小さな命あるものたちに、殺害を惹起させます(踏み殺してしまう)。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、このことの報い(異熟)を、どのようなものと報知しますか」と。
「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタは、思欲なきものを、罪過を有する大いなるものにあらずと報知します」と。
「家長よ、また、それで、もし、思欲するなら」と。
「尊き方よ、罪過を有する大いなるものと成ります」と。
「家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、思欲を、どこにおいて報知しますか」と。
「尊き方よ、意の棒において」と。
「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。
64. 「家長よ、それを、どう思いますか。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れていますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れています」と。
「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、剣を引き抜いた人がやってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その剣を引き抜いた人は、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことができますか」と。
「尊き方よ、たとえ、十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、二十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、三十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、四十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、五十者の人なるも、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことはできません。まさに、どうして、一者の卑賎なる人が、美しく輝くというのでしょう」と。
「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができますか」と。
「尊き方よ、たとえ、十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、二十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、三十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、四十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、五十のナーランダーなるも、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができます。まさに、どうして、一つの卑賎なるナーランダーが、美しく輝くというのでしょう」と。
「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。
「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです──悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。
65. 「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。
「尊き方よ、そのとおりです。わたしは聞いたことがあります。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。
「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。どのようなわけで、誰によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。
「尊き方よ、このことを、わたしは聞いたことがあります。聖賢たちの意の憤怒によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。
「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。
66. 「尊き方よ、わたしは、世尊の、まさしく、最初の喩えによって、わが意を得た者となり、満悦した者となるも、しかしながら、また、わたしは、世尊の、これらの種々様々な問いへの応答を聞くことを欲する者となり、このように、わたしは、世尊に反論が為されるべきと思い考えました。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
67. 「家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すこと(吟味・検証)を為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、なぜなら、〔教えを〕他にする異教の者の弟子であるわたしを得て、全面あまねく、ナーランダーに、『ウパーリ家長は、わたしたちの弟子として入門したのだ』と、〔告知の〕幟(のぼり)を行き渡らせるべきであるからです。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、再度また、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
68. 「家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者(施者)として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです』と。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。他の者たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。他の者たちの弟子たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と。そこで、また、しかしながら、世尊は、わたしに、ニガンタたちにたいしてもまた、布施を受持させます。尊き方よ、そして、また、わたしたちは、ここにおいて、〔正しい〕時を知るでしょう。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
69. そこで、まさに、世尊は、ウパーリ家長に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、ウパーリ家長のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、浄信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、ウパーリ家長に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ウパーリ家長は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「家長よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。
70. そこで、まさに、ウパーリ家長は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、自らの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門番に告げました。「友よ、門番よ、今日以後、〔わたしは〕ニガンタたちと女性のニガンタたちには、門を閉ざす。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者(優婆塞)たちと女性在俗信者(優婆夷)たちには、門が閉ざされることはない。それで、もし、誰であれ、ニガンタがやってくるなら、〔まさに〕その、この者に、あなたは、このように説くのだ。『尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えました。
71. まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』と耳にしました。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータマが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。「尊き方よ、さあ、わたしは赴きます。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、まずは、〔それを〕知るのです」と。「タパッシンよ、あなたは赴きなさい。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、〔それを〕知りなさい」と。
72. そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、わたしに、〔行乞の〕食に義(目的)はありません」と説いて、そののち、引き返して、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。まさに、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのは。尊き方よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの論を論破するのは、まさに、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます』と〔言うも〕。尊き方よ、まさに、あなたの〔弟子である〕ウパーリ家長は、沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引されました」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータマが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは(※)。タパッシンよ、では、さあ、わたしは赴く。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、そして、まずは、〔それを〕知るのだ」と。
※ テキストには upagaccheyyā’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ウパーリ家長に、このように説きなさい。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、中央の門堂に諸々の坐を設けなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、中央の門堂に諸々の坐を設けて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、中央の門堂に諸々の坐が設けられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。
73. そこで、まさに、ウパーリ家長は、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、門番に告げました。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、このように説きなさい。『尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。「尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。『尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら』」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、ウパーリ家長は、すなわち、まさに、過去においては、すなわち、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見るなら、見て、そののち、〔彼を〕出迎えて、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、それを、上衣で掃き清めて、遍く収め取って、坐らせたのですが、それが、今や、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリ家長に、こう言いました。「家長よ、狂者として、あなたは存している。家長よ、愚者として、あなたは存している。『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータマの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、それは、たとえば、また、人が、睾丸を奪う者として赴いて、〔両の〕睾丸を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、眼を奪う者として赴いて、〔両の〕眼を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータマの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、まさに、あなたは存している──沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引された者として」と。
74. 「尊き方よ、幸いなるものは、誘引の幻術です。尊き方よ、善きものなるは、誘引の幻術です。尊き方よ、わたしの愛しい親族や血縁たちが、この誘引によって転向するなら、わたしの愛しい親族や血縁たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての士族たちが、この誘引によって転向するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、この誘引によって転向するなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、この誘引によって転向するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう(※)。尊き方よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。
※ テキストには sukhāyāti とあるが、PTS版により ti を削除する。
75. 尊き方よ、過去の事ですが、或るひとりの、老い朽ち、年長となり、老練の婆羅門に、妊婦で臨月の、若く幼い夫人が有りました。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。このように説かれたとき、その婆羅門は、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、まずは、待ってください。すなわち、出産するまで。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童子を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雄の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童女を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雌の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童女の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、再度また、まさに、その若い〔夫人〕は……略……。尊き方よ、三度また、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、雄の小猿を、店から買って、連れてきて、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、これが、あなたのために、店から買って、連れてきた、雄の小猿です。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、この雄の小猿を携えて、染色師の子の(※)ラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、このように説きなさい。「友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を」』と。
※ テキストには rajataputto とあるが、PTS版により rajakaputto と読む。
尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、その雄の小猿を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この雄の小猿は、まさに、染料への忍耐あるも、まさに、打ち叩くには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、愚者であるニガンタたちの論はあります。まさに、愚者であり賢者ならざる者たちの〔論は〕、まさに、染料への忍耐あるも、専念するには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません。尊き方よ、そこで、まさに、その婆羅門は、他時にあって、新しいひと組の布地を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この新しいひと組の布地を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この新しいひと組の布地は、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、打ち叩くにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、論はあります。賢者であり愚者ならざる者たちの〔論は〕、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、専念するにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります」と。
「家長よ、まさに、王を含む衆が、このように知る。『ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタの弟子である』と。家長よ、あなたのことを、誰の弟子と、〔わたしたちは〕保持するのだ」と。このように説かれたとき、ウパーリ家長は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それでは、聞きたまえ。彼の弟子として、わたしがある、〔そのとおりに〕」と。
76. 〔そこで、詩偈に言う〕「慧者にして、迷妄を離れ去り、杭を壊し去り、征圧するべきものを征圧した者の──煩悶なく、心が極めて平静にして、戒が増大し、善き智慧ある者の──〔世俗の〕不正を超え渡り、〔世俗の〕垢を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
懐疑なく、満足し、世の財貨を吐き捨て、歓喜した者の──〔自らを〕沙門と為した人間にして、最後の肉体ある人の──喩えなき者にして、〔世俗の〕塵を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
憂慮なく、智者にして、導き手たる、優れた馭者の──無上なる者にして、光輝の法(教え)ある者の、疑いなき者にして、光り輝く者の──〔我想の〕思量(慢:自我意識)を断ち切った、勇者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
雄牛たる者にして、無量なる者の、深遠なる者にして、寂黙に至り得た者の──平安を作り為す者にして、知者たる者の、法(正義)に依って立ち、自己が統御された者の──執着を超え行き、解脱者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
龍象たる者にして、辺境に臥す者の、束縛するものが滅尽した、解脱者の──〔他に〕対する明慧ある者にして、清き者の、〔高慢の〕旗を降ろし、貪欲を離れた者の──調御者にして、虚構なき者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
第七の聖賢にして、虚言なき者の、三つの明知ある者にして、梵に至り得た者の──沐浴者にして、詩句に通じる者の、静息者にして、知を見出した者の──都に施す者たる釈迦〔族〕の世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
聖者にして、自己を修めた者の、至り得るものに至り得た者にして、文典の精通者の──気づきある者にして、〔あるがままの〕観察者の、曲がることなき者にして、逸れることなき者の──〔心が〕不動の者にして、〔心の〕自在に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
正しき至達者にして(※)、瞑想者の、障りあるものに従い行くことなく、清浄なる者の──依存なき者にして、利益ある者の、遠離した者にして、至高のものに至り得た者の──超渡した者にして、〔他を〕超渡させる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
※ テキストには Samuggatassa とあるが、PTS版により Sammaggatassa と読む。
寂静者にして、広き智慧ある者の、偉大なる智慧ある者にして、貪欲を離れた者の──如来にして、善き至達者たる者の、対する人なく、同等の者なき者の──離怖の者にして、精緻の者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。
渇愛を断つ、覚者の、煙を離れた、汚れなき者の──〔供物を〕捧げられるべき者にして、夜叉たる者の、最上の人にして、無比なる者の──偉大なる者にして、至高の福徳に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している」と。
77. 「家長よ、また、いつ、あなたによって、これらの沙門ゴータマへの褒め称えが集められたのだ」と。「尊き方よ、それは、たとえば、また、種々なる花からなる大いなる花の群落があるとして、〔まさに〕その、この〔大いなる花の群落〕を、能ある、あるいは、花飾師が、あるいは、花飾師の内弟子が、様々な彩りある花飾に結び束ねるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼は、世尊は、幾多の褒め称えある者であり、幾百の褒め称えある者です。尊き方よ、まさに、誰が、褒め称えに値する者の褒め称えを為さないというのでしょう」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタが、世尊への〔ウパーリ家長の〕尊敬に耐えられずにいると、まさしく、その場において、熱血が、口から吹き上がった、ということです。
ウパーリの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(57). 犬の掟ある者の経
78. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、ハリッダヴァサナという名の町があります。そこで、まさに、かつまた、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナが、かつまた、犬の掟ある無衣行者のセーニヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。また、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、犬のようにかがんで、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、犬の掟ある無衣行者のセーニヤです。為し難きことを為す者であり、地に置かれた食料を食べます。彼の、その犬の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは……略……。三度また、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、為し難きことを為す者であり、地に置かれた食料を食べます。彼の、その犬の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
79. 「プンナよ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。プンナよ、ここに、一部の者は、円満成就した途切れなき犬の掟を修め、円満成就した途切れなき犬の戒を修め、円満成就した途切れなき犬の心を修め、円満成就した途切れなき犬の営為を修めます。彼は、円満成就した途切れなき犬の掟を修めて、円満成就した途切れなき犬の戒を修めて、円満成就した途切れなき犬の心を修めて、円満成就した途切れなき犬の営為を修めて、身体の破壊ののち、死後において、犬たちの同類として再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような見解が有るなら、『わたしは、あるいは、この掟によって、あるいは、この戒によって、あるいは、この苦行によって、あるいは、この梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。プンナよ、まさに、わたしは、誤った見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。プンナよ、かくのごとく、まさに、犬の掟が成就しているなら、犬たちの同類へと導き、衰滅しているなら、地獄へと〔導きます〕」と。このように説かれたとき、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。
そこで、まさに、世尊は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナに、こう言いました。「プンナよ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『プンナよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。〔そこで、セーニヤが言いました〕「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしの、この犬の掟が、長夜にわたり、完全に受持されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。尊き方よ、この者は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナです。彼の、その牛の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません」と。再度また、まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは……略……。三度また、まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナです。彼の、その牛の掟は、長夜にわたり、完全に受持されています。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
80. 「セーニヤよ、たしかに、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ません。『セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』と〔言うも〕。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。セーニヤよ、ここに、一部の者は、円満成就した途切れなき牛の掟を修め、円満成就した途切れなき牛の戒を修め、円満成就した途切れなき牛の心を修め、円満成就した途切れなき牛の営為を修めます。彼は、円満成就した途切れなき牛の掟を修めて、円満成就した途切れなき牛の戒を修めて、円満成就した途切れなき牛の心を修めて、円満成就した途切れなき牛の営為を修めて、身体の破壊ののち、死後において、牛たちの同類として再生します。また、まさに、それで、もし、彼に、このような見解が有るなら、『わたしは、あるいは、この掟によって、あるいは、この戒によって、あるいは、この苦行によって、あるいは、この梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、それは、彼にとって、誤った見解と成ります。セーニヤよ、まさに、わたしは、誤った見解ある者には、二つの境遇のなかのどちらか一つの境遇があると説きます。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。セーニヤよ、かくのごとく、まさに、牛の掟が成就しているなら、牛たちの同類へと導き、衰滅しているなら、地獄へと〔導きます〕」と。このように説かれたとき、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。
そこで、まさに、世尊は、犬の掟ある無衣行者のセーニヤに、こう言いました。「セーニヤよ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『セーニヤよ、十分です。このことは、ほうっておきなさい。わたしに、このことを尋ねてはいけません』〔と言うも〕」と。〔そこで、プンナが言いました〕「尊き方よ、わたしは、このことを泣き叫ぶのではありません。すなわち、世尊が、わたしに、このように言った、〔そのことを〕。尊き方よ、ですが、また、わたしの、この牛の掟が、長夜にわたり、完全に受持されてきたことを〔泣き叫ぶのです〕。尊き方よ、世尊にたいし、このように浄信した者として、わたしはあります。『世尊は、すなわち、まさしく、そして、わたしが、この牛の掟を捨棄できるように、まさしく、さらに、この犬の掟ある無衣行者のセーニヤが、その犬の掟を捨棄できるように、そのように、法(教え)を説示することができる』」と。「プンナよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
81. 「プンナよ、四つのものがあります。これらの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました。どのようなものが、四つのものなのですか。プンナよ、黒の報いある、黒の行為が存在します。プンナよ、白の報いある、白の行為が存在します。プンナよ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。プンナよ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。
プンナよ、では、どのようなものが、黒の報いある、黒の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する世に再生します。加害〔の思い〕を有する世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する感受を、一方的な苦痛を、感受します。それは、たとえば、また、地獄にある有情たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、黒の報いある、黒の行為と説かれます。
プンナよ、では、どのようなものが、白の報いある、白の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき世に再生します。加害〔の思い〕なき世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕なき感受を、一方的な安楽を、感受します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、白の報いある、白の行為と説かれます。
プンナよ、では、どのようなものが、黒と白の報いある、黒と白の行為なのですか。プンナよ、ここに、一部の者は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生します。加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕もまた〔接触し〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触もまた接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕によってもまた〔接触され〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によってもまた接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する〔感受〕をもまた〔感受し〕、加害〔の思い〕なき感受をもまた〔感受し〕、混在した安楽と苦痛を感受します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。プンナよ、かくのごとく、まさに、生類から生類への再生が有ります。それを為すなら、それによって再生します。この者が再生したなら、諸々の接触が接触します。プンナよ、このようにもまた、『行為を相続する者たちとして、有情たちはある』と、わたしは説きます。プンナよ、これは、黒と白の報いある、黒と白の行為と説かれます。
プンナよ、では、どのようなものが、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為であり、行為の滅尽のために等しく転起するのですか。プンナよ、そこで、すなわち、この、黒の報いある、黒の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、白の報いある、白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。すなわち、この、黒と白の報いある、黒と白の行為があるなら、その〔行為〕を捨棄するための、〔まさに〕その、思欲です。プンナよ、これは、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為と説かれ、行為の滅尽のために等しく転起します。プンナよ、まさに、これらの四つの行為が、自ら、証知して、実証して、わたしによって知らされました」と。
82. このように説かれたとき、牛の掟あるコーリヤ〔族〕の子息のプンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また……略……。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。また、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また……略……明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「セーニヤよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。
「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し(※)、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、犬の掟ある無衣行者のセーニヤは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者セーニヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者セーニヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
※ テキストには te cattāro māse parivasanti とあるが、PTS版により te を削除する。
犬の掟ある者の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(58). アバヤ王子の経
83. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、アバヤ王子が、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アバヤ王子に、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。「王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマの論を論破しなさい。このように、あなたに、善き評価の声が上がるでしょう。『アバヤ王子によって、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論は論破された』」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、わたしは、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論を論破するのですか」と。「王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマに、このように説きなさい。『尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか』と。それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、『王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあります』と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。『尊き方よ、そこで、そうしますと、凡夫とあなたには、どのような多様性(相違点)があるというのでしょう。なぜなら、凡夫もまた、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあるからです』と。王子よ、また、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、『王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありません』と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。『尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、デーヴァダッタは、あなたによって説き明かされたのですか。「デーヴァダッタは、悪所にある者です。デーヴァダッタは、地獄にある者です。デーヴァダッタは、カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者です(一劫のあいだ地獄に住む)。デーヴァダッタは、治癒なき者です」と。また、そして、あなたの、その言葉によって、デーヴァダッタは、激情し、わが意を得ない者と成ったのでは』と。王子よ、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないでしょうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう。それは、たとえば、また、まさに、人の喉に引っ掛かった鉄鉤を、彼が、まさしく、吐き出すこともできず、飲み下すこともできないように、王子よ、まさしく、このように、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないでしょうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、アバヤ王子は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
84. 一方に坐った、まさに、アバヤ王子に、太陽を見上げて、この〔思い〕が有りました。「まさに、今日は、世尊の論を論破する時にあらず。今や、わたしは、明日、自らの住居地において、世尊の論を論破するのだ」と。〔アバヤ王子は〕世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、自己を第四の者として、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アバヤ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、アバヤ王子は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。
85. 一方に坐った、まさに、アバヤ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか」と。「王子よ、まさに、ここにおいて、一定して〔答えることはでき〕ません」と。「尊き方よ、ここにおいて、ニガンタたちは滅びました」と。「王子よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、ここにおいて、ニガンタたちは滅びました』」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしに、ニガンタ・ナータプッタは、こう言いました。『王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマの論を論破しなさい。このように、あなたに、善き評価の声が上がるでしょう。「アバヤ王子によって、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論は論破された」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。『尊き方よ、また、すなわち、どのように、わたしは、このように偉大なる神通があり、このように偉大なる威力がある、沙門ゴータマの論を論破するのですか』と。『王子よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマに、このように説きなさい。「尊き方よ、いったい、まさに、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありますか」と。王子よ、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、「王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあります」と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。「尊き方よ、そこで、そうしますと、凡夫とあなたには、どのような多様性があるというのでしょう。なぜなら、凡夫もまた、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがあるからです」と。王子よ、また、それで、もし、このように尋ねられた沙門ゴータマが、あなたに、このように説き明かすなら、「王子よ、如来は、すなわち、その言葉が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、その言葉を語ることがありません」と、まさしく、ただちに、あなたは、このように説くべきです。「尊き方よ、そこで、そうしますと、どうして、デーヴァダッタは、あなたによって説き明かされたのですか。『デーヴァダッタは、悪所にある者です。デーヴァダッタは、地獄にある者です。デーヴァダッタは、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者です。デーヴァダッタは、治癒なき者です』と。また、そして、あなたの、その言葉によって、デーヴァダッタは、激情し、わが意を得ない者と成ったのでは」と。王子よ、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないでしょうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう。それは、たとえば、また、まさに、人の喉に引っ掛かった鉄鉤を、彼が、まさしく、吐き出すこともできず、飲み下すこともできないように、王子よ、まさしく、このように、まさに、あなたによって、この両刀論法の問いを尋ねられた沙門ゴータマは、まさしく、吐き出すこともできないでしょうし、まさしく、飲み下すこともできないでしょう』」と。
86. また、まさに、その時点にあって、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、アバヤ王子の膝のうえで、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、アバヤ王子に、こう言いました。「王子よ、それを、どう思いますか。それで、もし、この童子が、あるいは、あなたの放逸に起因して、あるいは、乳母の放逸に起因して、あるいは、小枝を、あるいは、小石を、口に運ぶとします。何をどう、それに為すでしょうか」と。「尊き方よ、わたしは、〔それを〕取り出すでしょう。尊き方よ、それで、もし、まさしく、最初に、取り出すことができないなら、左手で頭を遍く収め取って、右手で指を釣り針と為して、たとえ、出血してでも取り出すでしょう。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、わたしには、童子にたいする慈しみ〔の思い〕が存在するからです」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに、如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。しかしながら、まさに、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しくなく意に適わないものであるとして、そこで、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。如来が、その言葉を、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉を語ることがありません。たとえ、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知るも〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、如来は、その言葉をもまた語ることがありません。しかしながら、まさに(※)、如来が、その言葉を、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そして、その〔言葉〕が、他者たちにとって、愛しく意に適うものであるとして、そこにおいて、如来は、その言葉を説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。王子よ、如来には、有情たちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在するからです」と。
※ PTS版により kho を補う。
87. 「尊き方よ、すなわち、これらの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた。問いを準備して、近づいて行って、如来に尋ねます。尊き方よ、いったい、まさに、世尊に、このことは、まさしく、過去において、心に思索されたものとして有るのですか。『それらの者たちが、近づいて行って、わたしに、このように尋ねるとする。わたしは、このように尋ねられたなら、彼らに、このように説き明かすのだ』と。それとも、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となるのですか」と。
「王子よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王子よ、それを、どう思いますか。あなたは、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者ですか」と。
「尊き方よ、そのとおりです。わたしは、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者です」と。
「王子よ、それを、どう思いますか。それらの者たちが、近づいて行って、あなたに、このように尋ねるとします。『車のこの大小の部品は、まさに、何なのですか』と。いったい、まさに、あなたに、このことは、まさしく、過去において、心に思索されたものとして有るのですか。『それらの者たちが、近づいて行って、わたしに、このように尋ねるとする。わたしは、このように尋ねられたなら、彼らに、このように説き明かすのだ』と。それとも、まさしく、即座に、あなたに(※)、このことが明白となるのですか」と。
※ PTS版により taṃ を補う。
「尊き方よ、まさに、わたしは、車の乗り手として了解され、車の諸々の大小の部品に巧みな智ある者です。車の諸々の大小の部品は、全てが、わたしによって善く知られています。まさしく、即座に、わたしに、このことが明白となります」と。
「王子よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた。問いを準備して、近づいて行って、如来に尋ねるなら、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となります。それは、何を因とするのですか。王子よ、なぜなら、如来に、その法(真理)の界域(界)が善く理解されているからです。その法(真理)の界域が善く理解されたことから、まさしく、即座に、如来に、このことが明白となります」と。
このように説かれたとき、アバヤ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
アバヤ王子の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(59). 多くの感受されるべきものの経
88. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁が、尊者ウダーインのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウダーインを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの感受(受)が、世尊によって説かれたのですか」と。「棟梁よ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。棟梁よ、まさに、これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。このように説かれたとき、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。再度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、まさに、二つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。三つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。これらの三つの感受が、世尊によって説かれました」と。三度また、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者ウダーインに、こう言いました。「尊き方よ、ウダーインよ、まさに、三つの感受が、世尊によって説かれたのではありません。二つの感受が、世尊によって説かれました。安楽の感受であり、苦痛の感受です。尊き方よ、すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受は、これは、寂静にして精妙なる安楽のうちにあると、世尊によって説かれました」と。まさに、尊者ウダーインは、パンチャカンガ棟梁を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、パンチャカンガ棟梁も、尊者ウダーインを説得することができませんでした。
89. まさに、尊者アーナンダは、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者ウダーインの、パンチャカンガ棟梁を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、尊者アーナンダに、こう言いました。「アーナンダよ、まさに、パンチャカンガ棟梁は、ウダーイン比丘の、まさしく、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、いっぽう、そして、ウダーイン比丘も、パンチャカンガ棟梁の、まさしく、正しくある教相に随喜しませんでした。アーナンダよ、二つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。五つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。六つの感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。十八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。三十六の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。百八の感受もまた、わたしによって説かれました──教相〔の観点〕によって。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されました。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく承認せず、等しく許認せず、等しく随喜しないなら、彼らには、このことが待っています。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。アーナンダよ、このように、まさに、わたしによって、法(教え)が、教相〔の観点〕によって説示されたとき、彼らが、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを、等しく承認し、等しく許認し、等しく随喜するなら、彼らには、このことが待っています。和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むであろう、〔という、このことが〕。
90. アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性(五妙欲)があります。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感で……略……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。アーナンダよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者が、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら……略……。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
アーナンダよ、或る者たちが、まさに、『これを最高として、有情たちは、安楽と悦意を得知する』と、このように説くなら、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽が存在するからです。アーナンダよ、では、どのようなものが、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽なのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、これは、まさに、この安楽より、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙である、他の安楽です。
91. アーナンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、表象と感覚の止滅を言った。そして、それを、安楽〔の観点〕において報知する。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、この〔言葉〕は、いったい、どのようにあるのだ』と。アーナンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊は、安楽の感受に関してだけ、安楽〔の観点〕において報知するのではありません(安楽の感受に限定して、安楽と説くことはない)。友よ、しかしながら、また、その場その場に、それぞれのものにおいて、安楽が認知されるなら、それぞれのものを、如来は、安楽〔の観点〕において報知します』」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
多くの感受されるべきものの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(60). 誤解なきものの経
92. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラーという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラー〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。
93. 一方に坐った、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、こう言いました。「家長たちよ、また、あなたたちには、誰であれ、意に適う教師が存在しますか。その〔教師〕にたいする、あなたたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師が〕」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちには、誰であれ、意に適う教師は存在しません。その〔教師〕にたいする、わたしたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師は〕」と。「家長たちよ、あなたたちが、意に適う教師を得ずにいるなら、この誤解なき法(性質)を受持して転起させるべきです。家長たちよ、なぜなら、誤解なき法(性質)が完結され受持されたなら、それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るからです。家長たちよ、では、どのようなものが、誤解なき法(性質)なのですか。
94. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
95. 「家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに(※)、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、善き戒の資質が捨棄されたものと成り、劣戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。
※ PTS版により kho を補う。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう(悪業の報いに苦しめられない)。それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、非存論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一方的に充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。
96. 家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、劣戒の資質が捨棄されたものと成り、善き戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、存在論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。
97. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善(功徳)が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
98. 家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも……略……布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、善き戒の資質が捨棄されたものと成り、劣戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無作論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一方的に充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。
99. 家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら──為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、劣戒の資質が捨棄されたものと成り、善き戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、作用論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。
100. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
101. 家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、善き戒の資質が捨棄されたものと成り、劣戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します──誤った見解という縁あることから。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一方的に充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。
102. 家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去において、彼の、劣戒の資質が捨棄されたものと成り、善き戒の資質が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します──正しい見解という縁あることから。
家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。
103. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、形態なきもの(無色)は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、形態なきものは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一方的に持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態があり、意によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、まさに、形態を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことが見られる。また、まさに、このことは、全てにわたり、形態なきものにおいては存在しない』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の形態の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。
104. 家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、生存(有)の止滅は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、生存の止滅は存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一方的に持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕がいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、〔わたしが〕完全なる涅槃に到達するであろうことが。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にある。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にある』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の生存の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。
105. 家長たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。
106. 家長たちよ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。家長たちよ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
家長たちよ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として……略……〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。家長たちよ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
家長たちよ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り……略……彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。家長たちよ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
家長たちよ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。家長たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。家長たちよ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。
このように説かれたとき、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。
誤解なきものの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
家長の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、カンダラと城市民と〔いまだ〕学びある者の掟、ポータリヤ、さらに、ジーヴァカ・バッチャ、ウパーリの調御、犬とアバヤ、多くの感受されるべきもの、第十のものとして、誤解なきものがある」〔と〕。
2. 比丘の章
1(61). アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経
107. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ラーフラは、アンバラッティカー〔の園地〕に住んでいます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、アンバラッティカー〔の園地〕のあるところに、尊者ラーフラのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者ラーフラは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました──さらに、〔両の〕足のための水を。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
108. そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を水入れのなかに据え置いて、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この僅かな残り水が水入れのなかに据え置かれているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「ラーフラよ、このように僅かなものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くこと(故意の嘘)にたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を捨て放って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、僅かな残り水が捨て放たれたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように捨て放たれたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを倒して、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが倒されたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように倒されたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを起こして、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが空虚で虚妄であるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように空虚で虚妄のものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります──正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない(※)、それらの者たちには。ラーフラよ、それは、たとえば、また、轅(ながえ)の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守るとします。そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守る。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られていない(命を惜しんでいる)』と。ラーフラよ、すなわち、まさに、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為すことから、そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為す。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られている(命を惜しんでいない)。今や、王の象に、何であれ、為さずにいられることは存在しない(どんなことでもする)』と。ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、誰であれ、彼に、正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しないなら、『彼には、何であれ、為さずにいられる悪はない』と、わたしは説きます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、あなたは、『たとえ、笑い事でも、〔わたしは〕虚偽を語らないのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
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109. ラーフラよ、それを、どう思いますか。鏡は、何を義(目的)とするのですか」と。「尊き方よ、綿密に注視することを義(目的)とします」と。「ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、綿密に注視しては綿密に注視して、身体による行為が為されるべきであり、綿密に注視しては綿密に注視して、言葉による行為が為されるべきであり、綿密に注視しては綿密に注視して、意による行為が為されるべきです。ラーフラよ、あなたが、まさしく、その身体による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その身体による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報い(異熟)あるものであるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為が為されるべきです。
ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を堅持するべきです。
ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。
110. ラーフラよ、あなたが、まさしく、その言葉による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為が為されるべきです。
ラーフラよ、あなたが(※)、言葉による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を堅持するべきです。
※ PTS版により te を補う。
ラーフラよ、あなたが、言葉による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。
111. ラーフラよ、あなたが、まさしく、その意による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その意による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この意による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為が為されるべきです。
ラーフラよ、あなたが、意による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を堅持するべきです。
ラーフラよ、あなたが、意による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものであるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛の生成あるものであり、苦痛の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、綿密に注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽の生成あるものであり、安楽の報いあるものである』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。
112. ラーフラよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めたなら、彼らの全てが、まさしく、このように、綿密に注視しては綿密に注視して、身体による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、言葉による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、意による行為を完全に清めました。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように、綿密に注視しては綿密に注視して、身体による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、言葉による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、意による行為を完全に清めるでしょう。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるなら、彼らの全てが、まさしく、このように、綿密に注視しては綿密に注視して、身体による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、言葉による行為を完全に清め、綿密に注視しては綿密に注視して、意による行為を完全に清めます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、『綿密に注視しては綿密に注視して、身体による行為を完全に清めのだ。綿密に注視しては綿密に注視して、言葉による行為を完全に清めのだ。綿密に注視しては綿密に注視して、意による行為を完全に清めるのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(62). 大いなるラーフラへの教諭の経
113. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者ラーフラもまた、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、振り返って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、それが何であれ、形態(色)としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです」と。「尊き方よ、いったい、まさに、形態だけなのでしょうか。善き至達者たる方よ、いったい、まさに、形態だけなのでしょうか」と。「ラーフラよ、感受〔作用〕(受)もまた。ラーフラよ、表象〔作用〕(想)もまた。ラーフラよ、諸々の形成〔作用〕(行)もまた。ラーフラよ、識知〔作用〕(識)もまた」と。そこで、まさに、尊者ラーフラは、「いったい、誰が、今日、世尊によって、面前で、教諭によって教え諭されたのに、村に〔行乞の〕食のために入るというのだろう(今や托鉢どころではない)」と、そののち、引き返して、或るどこかの木の根元において坐りました──結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。まさに、尊者サーリプッタは、尊者ラーフラが、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。見て、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)の修行を修めなさい。ラーフラよ、呼吸についての気づきの修行が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。
114. そこで、まさに、尊者ラーフラは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。「ラーフラよ、すなわち、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域は、これは、まさしく、地の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。
115. ラーフラよ、では、どのようなものが、水の界域なのですか。水の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域は、これは、まさしく、水の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。
116. ラーフラよ、では、どのようなものが、火の界域なのですか。火の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域は、これは、まさしく、火の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。
117. ラーフラよ、では、どのようなものが、風の界域なのですか。風の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域は、これは、まさしく、風の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。
118. ラーフラよ、では、どのようなものが、虚空の界域なのですか。虚空の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。ラーフラよ、では、どのようなものが、内なる虚空の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、あるいは、耳孔、鼻孔、口腔は──かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものを飲み下すなら、かつまた、そこにおいて食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが止住するなら、かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが下部に出るなら──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、無蓋として、無蓋の在り方をした、隙間として、隙間の在り方をした、諸々の肉と血によって触れないもので、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──ラーフラよ、これは、『内なる虚空の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる虚空の界域は、さらに、すなわち、外なる虚空の界域は、これは、まさしく、虚空の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、虚空の界域にたいし厭離し、虚空の界域から心を離貪させます。
119. ラーフラよ、地に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、地に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触(触:感覚の発生)は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕地のうえに、浄美なるものをもまた捨て置き、不浄なるものをもまた捨て置き、糞となるに至ったものをもまた捨て置き、尿となるに至ったものをもまた捨て置き、唾液となるに至ったものをもまた捨て置き、膿となるに至ったものをもまた捨て置き、血となるに至ったものをもまた捨て置くとして、しかしながら、地は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、地に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、地に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。
ラーフラよ、水に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、水に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕水のなかで、浄美なるものをもまた洗い清め、不浄なるものをもまた洗い清め、糞となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、尿となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、唾液となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、膿となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、血となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、しかしながら、水は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、水に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、水に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。
ラーフラよ、火に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、火に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、火が、浄美なるものをもまた焼き、不浄なるものをもまた焼き、糞となるに至ったものをもまた焼き、尿となるに至ったものをもまた焼き、唾液となるに至ったものをもまた焼き、膿となるに至ったものをもまた焼き、血となるに至ったものをもまた焼くとして、しかしながら、火は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、火に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、火に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。
ラーフラよ、風に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、風に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、風が、浄美なるものにもまた吹き、不浄なるものにもまた吹き、糞となるに至ったものにもまた吹き、尿となるに至ったものにもまた吹き、唾液となるに至ったものにもまた吹き、膿となるに至ったものにもまた吹き、血となるに至ったものにもまた吹くとして、しかしながら、風は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、風に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、風に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。
ラーフラよ、虚空に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、虚空に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。ラーフラよ、それは、たとえば、また、虚空が、どこにおいてもまた止住することなくあるように、ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、虚空に等しき修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、虚空に等しき修行を修めていると、生起した諸々の意に適う〔接触〕と意に適わない接触は、心を完全に奪い去って止住しないからです。
120. ラーフラよ、慈愛(慈)の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、慈愛の修行を修めていると、すなわち、憎悪〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、慈悲(悲)の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、慈悲の修行を修めていると、すなわち、悩害〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、歓喜(喜)の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、歓喜の修行を修めていると、すなわち、不満〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、放捨(捨)の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、放捨の修行を修めていると、すなわち、敵対〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、不浄の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、不浄の修行を修めていると、すなわち、貪欲〔の思い〕は、それは捨棄されるからです。ラーフラよ、無常の表象の修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたが、無常の表象の修行を修めていると、すなわち、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は、それは捨棄されるからです。
121. ラーフラよ、呼吸についての気づきの修行を修めなさい。ラーフラよ、なぜなら、あなたによって、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るからです〕。ラーフラよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。ラーフラよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。
あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。
『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。
『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。
『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。
ラーフラよ、まさに、このように修められ、このように多く為されたなら、呼吸についての気づきは、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。ラーフラよ、このように、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたことから、すなわち、また、それらの最後の出息も、それらもまた、まさしく、見出されたものとして、止滅します──見出されないものとして、ではなく」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(63). 小なるマールキャの経
122. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者マールキャプッタに、このような心の思索が浮かびました。「すなわち、これらのものが、悪しき見解として、世尊によって、説き明かされず、据え置かれ、拒絶された。『世〔界〕は、常久である』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、常久ではない』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、終極がある』という〔見解〕もまた、『世〔界〕は、終極がない』という〔見解〕もまた、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』という〔見解〕もまた、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に有る』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という〔見解〕もまた、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という〔見解〕もまた。それらを、世尊は、わたしに説き明かさない。それらを、世尊が、わたしに説き明かさないのは、それは、わたしにとって好ましくなく、それは、わたしの受認するところにあらず。〔まさに〕その、わたしは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるのだ。それで、もし、世尊が、わたしに説き明かすなら、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、このようにあるなら、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むのだ。もし、世尊が、わたしに説き明かさないなら、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、このようにあるなら、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのだ(戒を捨てて還俗する)」と。
123. そこで、まさに、尊者マールキャプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。
124. 「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『すなわち、これらのものが、悪しき見解として、世尊によって、説き明かされず、据え置かれ、拒絶された。「世〔界〕は、常久である」という〔見解〕もまた、「世〔界〕は、常久ではない」という〔見解〕もまた……略……「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という〔見解〕もまた。それらを、世尊は、わたしに説き明かさない。それらを、世尊が、わたしに説き明かさないのは、それは、わたしにとって好ましくなく、それは、わたしの受認するところにあらず。〔まさに〕その、わたしは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるのだ。それで、もし、世尊が、わたしに説き明かすなら、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、このようにあるなら、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むのだ。もし、世尊が、わたしに説き明かさないなら、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、このようにあるなら、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのだ』と。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、常久である』と知っているなら、『世〔界〕は、常久である』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、常久ではない』と知っているなら、『世〔界〕は、常久ではない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、終極がある』と知っているなら、『世〔界〕は、終極がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『世〔界〕は、終極がない』と知っているなら、『世〔界〕は、終極がない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と知っているなら、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と知っているなら、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に有る』と知っているなら、『如来は、死後に有る』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に有ることがない』と知っているなら、『如来は、死後に有ることがない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と知っているなら、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。それで、もし、世尊が、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と知っているなら、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、世尊は、わたしに説き明かしてください。もし、世尊が、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、知らないなら、また、まさに、知らずにいる者には、見ずにいる者には、まさしく、これが、真っすぐなことと成ります。すなわち、この、『〔わたしは〕知らない』『〔わたしは〕見ない』という〔言葉が〕」と。
125. 「マールキャプッタよ、いったい、どうなのでしょう、わたしは、あなたに、このように言いましたか。『マールキャプッタよ、さあ、あなたは、わたしのもと、梵行を歩みなさい。わたしは、あなたに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある」と、あるいは、「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、あなたは、わたしに、このように言いましたか。『尊き方よ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むでしょう。世尊は、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある」と、あるいは、「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マールキャプッタよ、かくのごとく、まさに、わたしが、あなたに、このように説くことは、まさしく、ありません。『マールキャプッタよ、さあ、あなたは、わたしのもと、梵行を歩みなさい。わたしは、あなたに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』と。まさに、あなたが、わたしに、このように説くこともまた、ありません。『尊き方よ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩むでしょう。世尊は、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かすでしょう』と。愚人よ、このように存しているとき、〔あなたは〕何者として存しているのですか、〔あなたは〕何を峻拒するというのですか。
126. マールキャプッタよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩まないでしょう。すなわち、世尊が、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かさないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、如来によって説き明かされないもの(無記)として存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。マールキャプッタよ、それは、たとえば、また、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた人が存するとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させます。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、奴隷である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「このような名の者である、このような姓の者である、あるいは、かくのごとく〔云々〕」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔人〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その人のことを、「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔弓〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その弓のことを、「もしくは、あるいは、長弓であるのか、もしくは、あるいは、石弓であるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔弦〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その弦のことを、「もしくは、あるいは、アッカ〔樹〕のものであるのか、もしくは、あるいは、葦のものであるのか、もしくは、あるいは、腱のものであるのか、もしくは、あるいは、麻のものであるのか、もしくは、あるいは、乳葉樹のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「もしくは、あるいは、藪のものであるのか、もしくは、あるいは、植樹のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「その〔鳥〕の諸々の羽が付けられているとして、もしくは、あるいは、鷲のものであるのか、もしくは、あるいは、鷺のものであるのか、もしくは、あるいは、鷹のものであるのか、もしくは、あるいは、孔雀のものであるのか、もしくは、あるいは、シティラハヌ〔鳥〕のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢柄〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢柄のことを、「その〔獣〕の腱が巻かれているとして、もしくは、あるいは、牛のものであるのか、もしくは、あるいは、水牛のものであるのか、もしくは、あるいは、黒獅子のものであるのか、もしくは、あるいは、猿のものであるのか」と知らないあいだは』と。彼が、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、この矢を引き抜かないでしょう。すなわち、その〔矢〕に貫かれた者として存する〔わたしが〕、その矢のことを、「もしくは、あるいは、〔普通の〕矢であるのか、もしくは、あるいは、尖り矢であるのか、もしくは、あるいは、鉤矢であるのか、もしくは、あるいは、鉄矢であるのか、もしくは、あるいは、子牛の歯矢であるのか、もしくは、あるいは、夾竹桃の葉矢であるのか」と知らないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、その人によって知られないものとして存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。マールキャプッタよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、まさに、このように説くとします。『それまでのあいだ、わたしは、世尊のもと、梵行を歩まないでしょう。すなわち、世尊が、わたしに、あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、説き明かさないあいだは』と。マールキャプッタよ、それは、まさしく、如来によって説き明かされないものとして存するでしょう。そこで、その人は、〔虚しく〕命を終えるでしょう。
127. マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、常久である」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、常久ではない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『世〔界〕は、常久である』という見解が存しているとき、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し、老が存在し、死が存在し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が存在します。わたしは、まさしく、所見の法(現世)における、それらの打破を報知します。マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、終極がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「世〔界〕は、終極がない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』という見解が存しているとき、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し、老が存在し、死が存在し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が存在します。わたしは、まさしく、所見の法(現世)における、それらの打破を報知します。マールキャプッタよ、『「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という見解が存しているとき、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。マールキャプッタよ、『「如来は、死後に有る」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「如来は、死後に有ることがない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『如来は、死後に有る』という見解が存しているとき、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。マールキャプッタよ、『「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなことはなく、マールキャプッタよ、『「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という見解が存しているとき、梵行の住が有るであろう』という、このようなこともまたなく、マールキャプッタよ、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』という見解が存しているとき、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』という見解が存しているとき、まさしく、生が存在し……略……打破を報知します。
128. マールキャプッタよ、それゆえに、ここに、そして、わたしによって説き明かされなかったものを、説き明かされなかったものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。さらに、わたしによって説き明かされたものを、説き明かされたものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。マールキャプッタよ、では、何が、わたしによって説き明かされなかったのですか。マールキャプッタよ、『世〔界〕は、常久である』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、常久ではない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、終極がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『世〔界〕は、終極がない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に有る』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に有ることがない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、わたしによって説き明かされませんでした。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、わたしによって説き明かされませんでした。マールキャプッタよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって説き明かされなかったのですか。マールキャプッタよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって説き明かされなかったのです。マールキャプッタよ、では、何が、わたしによって説き明かされたのですか。マールキャプッタよ、『これは、苦しみである』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの集起である』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅である』と、わたしによって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、わたしによって説き明かされました。マールキャプッタよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって説き明かされたのですか。マールキャプッタよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって説き明かされたのです。マールキャプッタよ、それゆえに、ここに、そして、わたしによって説き明かされなかったものを、説き明かされなかったものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい。さらに、わたしによって説き明かされたものを、説き明かされたものとして、〔あなたたちは〕保持しなさい」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マールキャプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なるマールキャプッタの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(64). 大いなるマールキャの経
129. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)を保持していますか(記憶していますか)」と。
このように説かれたとき、尊者マールキャプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持しています」と。「マールキャプッタよ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持していますか」と。「尊き方よ、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、疑惑〔の思い〕(疑:仏法僧にたいする疑惑)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、憎悪〔の思い〕(瞋恚)を、まさに、わたしは、世尊によって説示された下なる域に束縛するものとして保持しています。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された五つの下なる域に束縛するものを保持しています」と。
「マールキャプッタよ、まさに、誰のために説示されたものとして、このように、まさに、あなたは、これらの五つの下なる域に束縛するものを保持していますか。マールキャプッタよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、この幼児の喩えの論詰によって論詰することになりませんか。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『身体を有する者である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、身体を有するという見解が生起するというのでしょう。彼の、身体を有するという見解の悪習(随眠:潜在煩悩)は、悪しき習いとなるだけです(顕在化していない)。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の法(性質)である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、諸々の法(性質)について疑惑〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、疑惑〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の戒である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、諸々の戒について戒や掟への偏執が生起するというのでしょう。彼の、戒や掟への偏執の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『諸々の欲望〔の対象〕である』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、欲望〔の対象〕について欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『有情たちである』という〔思い〕さえも有りません。また、どうして、彼に、有情たちについて憎悪〔の思い〕が生起するというのでしょう。彼の、憎悪〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなるだけです。マールキャプッタよ、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、この幼児の喩えの論詰によって論詰することになりませんか」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、五つの下なる域に束縛するものを説示するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
130. 「アーナンダよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、身体を有するという見解に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、身体を有するという見解に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した身体を有するという見解の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その身体を有するという見解は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その疑惑〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。戒や掟への偏執に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、戒や掟への偏執に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した戒や掟への偏執の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その戒や掟への偏執は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼の、その憎悪〔の思い〕は、強靭に至り、取り除かれず、下なる域に束縛するものとなります。
131. アーナンダよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、身体を有するという見解に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、身体を有するという見解に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した身体を有するという見解の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その身体を有するという見解は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その疑惑〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。戒や掟への偏執に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、戒や掟への偏執に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した戒や掟への偏執の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その戒や掟への偏執は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼の、その憎悪〔の思い〕は、悪習を有するものであるも、捨棄されます。
132. アーナンダよ、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来せずして〕、その〔実践の〕道に由来せずして、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、樹皮を切断せずして、軟材を切断せずして、硬材の切断が有ることになる、という、この状況が見出されないように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来せずして〕、その〔実践の〕道に由来せずして、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されません。
アーナンダよ、しかしながら、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来して〕、その〔実践の〕道に由来して、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、樹皮を切断して、軟材を切断して、硬材の切断が有ることになる、という、この状況が見出されるように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、その〔聖なる〕道が、その〔実践の〕道が、五つの下なる域に束縛するものの捨棄のためのものであるなら、その〔聖なる〕道に〔由来して〕、その〔実践の〕道に由来して、五つの下なる域に束縛するものを、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、捨棄することになる、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちているとします。そこで、力弱き人がやってくるとします。『わたしは、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るのだ』と。彼は、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ることができないでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらの者たちに、誰によってであれ、身体を有することの止滅のための法(教え)が説示されているとき、心が、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないなら、それは、たとえば、また、その力弱き人のように、このように、これらの者たちは見られるべきです。アーナンダよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちているとします。そこで、力ある人がやってくるとします。『わたしは、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るのだ』と。彼は、このガンガー川の流れを腕で横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ることができるでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、それらの者たちに、誰によってであれ、身体を有することの止滅のための法(教え)が説示されているとき、心が、跳入し、浄信し、確立し、解脱するなら、それは、たとえば、また、その力ある人のように、このように、これらの者たちは見られるべきです。
133. アーナンダよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。アーナンダよ、ここに、比丘が、〔生存の〕依り所(依存の対象)の遠離あることから、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄あることから、全てにわたり、諸々の身体の邪悪な〔行為〕の安息あることから、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。アーナンダよ、まさに、また、これも、〔聖なる〕道であり、これも、〔実践の〕道です──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための」と。
「尊き方よ、もし、これが、〔聖なる〕道であり、これが、〔実践の〕道であるなら──五つの下なる域に束縛するものの捨棄のための──そこで、そうしますと、どうして、ここに、一部の比丘たちは、〔止寂の〕心による解脱ある者たちとなり、〔観察の〕智慧による解脱ある者たちとなるのですか」と。「アーナンダよ、ここにおいて、まさに、わたしは、彼らの(※)機能(根)の相違性を説きます」と。
※ テキストには panesāhaṃ とあるが、PTS版により tesāhaṃ と読む。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるマールキャプッタの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(65). バッダーリの経
134. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益します。比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、一坐の食を受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。このように説かれたとき、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、一坐の食を受益することができません。尊き方よ、なぜなら、わたしが、一坐の食を受益していると、悔恨〔の思い〕が存することになり、後悔〔の思い〕が存することになるからです」と。「バッダーリよ、まさに、それでは、あなたは、そこにおいて、〔食事に〕招かれ、〔そのような者として〕存するなら、そこにおいて、一部を受益して〔そののち〕、また、一部を運び出して受益するのです。バッダーリよ、このようにもまた、まさに、あなたは、一坐の食の者として受益しながら、〔身を〕保ち行くでしょう」と。「尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしは受益することができません。尊き方よ、なぜなら、このようにもまた、わたしが受益していると、悔恨〔の思い〕が存することになり、後悔〔の思い〕が存することになるからです」と。そこで、まさに、尊者バッダーリは、世尊によって学びの境処(戒律)が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。そこで、まさに、尊者バッダーリは、三月のあいだ、その全てのあいだ、世尊に、面前の状態を与えませんでした(会うのを避けた)──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者がある、そのとおりに。
135. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。そこで、まさに、尊者バッダーリは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダーリに、それらの比丘たちは、こう言いました。「友よ、バッダーリよ、まさに、世尊のために、この衣料の〔仕立て〕作業が為されます。三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するでしょう。友よ、バッダーリよ、さあ、このことに、〔あなたの〕汚点に、善くしっかりと意を為したまえ。のちに、あなたに、より為し難きことが有ってはいけません(一刻も早く謝罪するべきである)」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者バッダーリは、それらの比丘たちに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。
「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしによって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『世尊は、まさに、サーヴァッティーに住んでおられる。世尊はまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『まさに、大勢の比丘たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『まさに、大勢の比丘尼たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼女たちもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『まさに、大勢の在俗信者(優婆塞)たちが、サーヴァッティーに滞在している。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『まさに、大勢の女性在俗信者(優婆夷)たちが、サーヴァッティーに滞在している。彼女たちもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリという名の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。バッダーリよ、まさに、あなたによって、〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました。『まさに、大勢の種々なる異教の沙門や婆羅門たちが、サーヴァッティーにおいて、雨期〔の滞在〕に入っている。彼らもまた、わたしのことを知るであろう。「バッダーリ比丘は、沙門ゴータマの弟子であり、長老の或るひとりであるが、まさに、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者である」』と。バッダーリよ、まさに、あなたによって、この〔状況の〕行知もまた、理解されることなく有りました」と。
「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしによって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。
136. バッダーリよ、それを、どう思いますか。ここに、比丘が、両部の解脱者として存するとします。彼に、わたしが、このように説くとします。『比丘よ、さあ、わたしのために、あなたは、汚泥のなか、橋と成りなさい』と。さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、素通りするでしょうか、あるいは、他に身体をよじるでしょうか、あるいは、『〔でき〕ません』と説くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「バッダーリよ、それを、どう思いますか。ここに、比丘が、智慧による解脱者として存するとします。……身体による実証者として……〔正しい〕見解に至り得た者として……信による解脱者として……法(教え)に従い行く者として……信に従い行く者として存するとします。彼に、わたしが、このように説くとします。『比丘よ、さあ、わたしのために、あなたは、汚泥のなか、橋と成りなさい』と。さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、素通りするでしょうか、あるいは、他に身体をよじるでしょうか、あるいは、『〔でき〕ません』と説くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「バッダーリよ、それを、どう思いますか。バッダーリよ、さて、いったい、あなたは、その時点において、あるいは、両部の解脱者として、あるいは、智慧による解脱者として、あるいは、身体による実証者として、あるいは、見解に至り得た者として、あるいは、信による解脱者として、あるいは、法(教え)に従い行く者として、あるいは、信に従い行く者として、〔世に〕有りましたか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「バッダーリよ、まさに、あなたは、その時点において、空虚となり、虚妄となり、違反者となったのではないですか」と。
「尊き方よ、そのとおりです。尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊によって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「バッダーリよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしによって学びの境処が報知され、比丘の僧団が学びを受持しているとき、〔それが〕できないことを宣言しました。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。バッダーリよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します。
137. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近するのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのように隠棲し、〔世に〕住んでいると、教師もまた批判し、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちもまた批判し、天神たちもまた批判し、自己もまた自己を批判します。彼は、教師によってもまた批判され、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちによってもまた批判され、天神たちによってもまた批判され、自己によってもまた自己を批判され、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証しません。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者にある、そのとおりに。
138. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近するのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう』と。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのように隠棲し、〔世に〕住んでいると、教師もまた批判せず、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちもまた批判せず、天神たちもまた批判せず、自己もまた自己を批判しません。彼は、教師によってもまた批判されず、〔彼のことを〕随知して、梵行を共にする識者たちによってもまた批判されず、天神たちによってもまた批判されず、自己によってもまた自己を批判されず、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証します。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
139. バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
バッダーリよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し……略……堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し……略……善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。それは、何を因とするのですか。バッダーリよ、なぜなら、このように、それは有るからです──すなわち、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為す者にある、そのとおりに」と。
140. このように説かれたとき、尊者バッダーリは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、反復しては反復して懲罰を課すのですか。尊き方よ、また、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、そのように、反復しては反復して懲罰を課すことがないのですか」と。「バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、幾度となく罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言いません。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、幾度となく罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言わない。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することがないように(話を簡単に済ませるべきではない)』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止しないように。
141. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、幾度となく罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言います。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、幾度となく罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言う。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することになるように(話を簡単に済ませるべきである)』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止するように。
142. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、偶発して罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言いません。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、偶発して罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為し、正しく行持せず、従順に従わず、滅罪のために行持せず、「それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します」と言わない。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することがないように』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止しないように。
143. バッダーリよ、また、ここに、一部の比丘は、偶発して罪を犯す者として、多くの罪ある者として、〔世に〕有ります。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、『それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します』と言います。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、偶発して罪を犯す者であり、多くの罪ある者である。彼は、比丘たちに説かれながら、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さず、正しく行持し、従順に従い、滅罪のために行持し、「それによって、僧団がわが意を得た者と成るなら、それを為します」と言う。どうか、まさに、尊者たちは、この比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視したまえ──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止することになるように』と。バッダーリよ、まさに、このように、比丘たちは、その比丘の〔罪を〕、そのとおり、そのとおりに、近しく注視します──すなわち、彼のこの問題が、まさしく、すみやかに寂止するように。
144. バッダーリよ、ここに、一部の比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動します。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動する。それで、もし、わたしたちが、この比丘に、反復しては反復して懲罰を課すとして、すなわち、また、彼には、その、信のみがあるのであり、愛情のみがあるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と。バッダーリよ、それは、たとえば、また、人に、一眼〔のみ〕があり、彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、その一眼を守るように、『すなわち、また、彼には、その、一眼〔のみ〕があるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と、バッダーリよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動します。バッダーリよ、そこで、比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『友よ、まさに、この比丘は、信のみによって、愛情のみによって、行動する。それで、もし、わたしたちが、この比丘に、反復しては反復して懲罰を課すとして、すなわち、また、彼には、その、信のみがあるのであり、愛情のみがあるのであり、たとえ、それからでも、遍く衰退することがあってはならない』と。バッダーリよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、反復しては反復して懲罰を課します。バッダーリよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の比丘に、そのように、反復しては反復して懲罰を課すことがありません」と。
145. 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、過去においては、まさしく、そして、より少なきものとして、諸々の学びの境処(戒律)が有り、さらに、より多くの比丘たちが、了知(阿羅漢果)において確立したのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、今現在、まさしく、そして、より多きものとして、諸々の学びの境処が有り、さらに、より少なき比丘たちが、了知において確立するのですか」と。「バッダーリよ、このように、このことは有ります。有情たちが衰退しているとき、正なる法(教え)が消没しているとき、まさしく、そして、より多きものとして、諸々の学びの境処が有り、さらに、より少なき比丘たちが、了知において確立します(※)。バッダーリよ、すなわち、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現しないあいだは、それまで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現することから、そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。バッダーリよ、すなわち、僧団が、大いなるものに至り得たものと成らないあいだは、それまで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)は、僧団に出現しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、僧団が、大いなるものに至り得たものと成ることから、そこで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現します。そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。バッダーリよ、すなわち、僧団が、至高の利得に至り得たものと成らないあいだは……略……至高の盛名に至り得たものと成らないあいだは……略……多聞あるものに至り得たものと成らないあいだは……略……経歴あるものに至り得たものと成らないあいだは、それまで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)は、僧団に出現しません。バッダーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、僧団が、経歴あるものに至り得たものと成ることから、そこで、ここに、一部の、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)が、僧団に出現します。そこで、教師は、弟子たちに、学びの境処を報知します──まさしく、それらの、煩悩が止住するべき諸々の法(性質)の防御のために。
※ テキストには saṇṭhahantīti とあるが、PTS版により ti を削除する。
146. バッダーリよ、すなわち、わたしが、若い良馬の喩えを、法(教え)の教相として、あなたたちに説示した、その時点にあって、まさに、あなたたちは、少なき者たちとして有りました。バッダーリよ、それを記憶していますか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「バッダーリよ、そこで、〔あなたは〕何を因として信受しますか(どのように自認していますか)」と。
「尊き方よ、まさに、それは、まちがいなく、わたしが、長夜にわたり、教師の教えにおいて、学びの円満成就を為さない者として有ったからです」と。
「バッダーリよ、まさに、まさしく、これを因とするのでも、これを縁とするのでも、ありません。バッダーリよ、ですが、ともあれ、あなたは、わたしによって、長夜にわたり、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『さてまた、この愚人は、わたしによって、法(教え)が説示されているとき、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くことがない』と。バッダーリよ、ですが、ともあれ、わたしは、若い良馬の喩えを、法(教え)の教相として、あなたに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者バッダーリは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
147. 「バッダーリよ、それは、たとえば、また、能ある馬の調御者が、賢馬にして良馬たる馬を得て、まず最初に、轡(くつわ)について、懲罰を課します。その〔馬〕が、轡について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、手綱について、さらなる懲罰を課します。その〔馬〕が、手綱について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、歩調について、周回について、跳躍について、競争について、疾駆について、王の属性について、王の伝統について、最上の速さについて、最上の速力について、最上の温順について、さらなる懲罰を課します。その〔馬〕が、最上の速さについて、最上の速力について、最上の温順について、懲罰を課されていると、あれやこれやの粉飾や術策や紛糾が、まさしく、有ります──すなわち、過去において為されたことがない、その懲罰を課されている、そのとおりに。その〔馬〕は、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になります。バッダーリよ、すなわち、まさに、賢馬にして良馬たる馬が、幾度となく懲罰あることから、順次に懲罰あることから、その状況について冷静になり、〔そのように〕有ることから、まさしく、ただちに、馬の調御者は、さらなるものとして、そして、栄誉を、さらに、飾輪を、供与します。バッダーリよ、まさに、これらの十の支分を具備した賢馬にして良馬たる馬は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。
バッダーリよ、まさしく、このように、まさに、十の支分を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、十のものなのですか。バッダーリよ、ここに、比丘が、(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解を具備した者と成り、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟を具備した者と成り、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉を具備した者と成り、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業を具備した者と成り、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方を具備した者と成り、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力を具備した者と成り、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきを具備した者と成り、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定を具備した者と成り、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵を具備した者と成り、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱を具備した者と成ります。バッダーリよ、まさに、これらの十の支分を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者バッダーリは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
バッダーリの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(66). 鶉の喩えの経
148. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕に住んでおられます。アングッタラーパ〔国〕には、アーパナという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、尊者ウダーインもまた、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーパナに〔行乞の〕食のために入りました。アーパナにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者ウダーインに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である」と。そこで、まさに、尊者ウダーインは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
149. 一方に坐った、まさに、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である』と。尊き方よ、まさに、過去において、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。尊き方よ、すなわち、『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、この日中の非時における食を捨棄しなさい』と、世尊が、比丘たちに告げる、まさに、その時と成りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさしく、〔心の〕他化が有り、まさしく、失意〔の思い〕が有りました。『すなわち、また、わたしたちに、信ある家長たちが、日中の非時において、上質の固形の食料や軟らかい食料を施すとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄をもまた言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄をもまた言ったのだ』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊にたいする、かつまた、愛情を、かつまた、尊敬を、かつまた、恥〔の思い〕を、かつまた、〔良心の〕咎めを、正しく見ながら、このように、その日中の非時における食を捨棄しました。〔まさに〕その、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、〔食を〕受益します。尊き方よ、すなわち、『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、この夜の非時における食を捨棄しなさい』と、世尊が、比丘たちに告げる、まさに、その時と成りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさしく、〔心の〕他化が有り、まさしく、失意〔の思い〕が有りました。『すなわち、また、わたしたちにとって、これらの二つの食事のなかのより上質と見なされるものであるのに、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄をもまた言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄をもまた言ったのだ』と。尊き方よ、過去の事ですが、或るひとりの人が、昼に、汁を得て、このように言いました。『では、さあ、これを取って置くのだ。夕に、まさしく、全ての者たちが、一緒に受益するのだ』と。尊き方よ、それらが何であれ、料理であるなら、それらの全てが夜にあります──昼には少なく。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、世尊にたいする、かつまた、愛情を、かつまた、尊敬を、かつまた、恥〔の思い〕を、かつまた、〔良心の〕咎めを、正しく見ながら、このように、その夜の非時における食を捨棄しました。尊き方よ、過去の事ですが、比丘たちは、漆黒の闇夜のなか、〔行乞の〕食のために歩みながら、どぶ池にもまた入り、水たまりにもまた落ち、棘の柵にもまた登り、眠っている雌牛にもまた登り、〔狂暴な〕若者たちともまた──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちともまた、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちともまた──遭遇し、女性もまた、彼らを、正ならざる法(性質)によって招きます。尊き方よ、過去の事ですが、わたしは、漆黒の闇夜のなか、〔行乞の〕食のために歩みます。尊き方よ、或るひとりの女が、器を洗いながら、雷光の合間に、まさに、わたしを見ました。見て、わたしに恐怖し、悲鳴を上げました。『ああ、恐ろしや。まさに、魔物がわたしを』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その女に、こう言いました。『姉妹よ、わたしは、魔物ではありません。比丘です。〔行乞の〕食のために立っているのです』と。『比丘の父は死んだのです。比丘の母は死んだのです。比丘よ、優れているのは、あなたの腹が、鋭い牛刀で切り裂かれること。まさしく、しかし、優れていないのは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、腹を因に、〔行乞の〕食のために歩むこと』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしが、そのことを思い起こしていると、このような〔思いが〕有ります。『まさに、世尊は、わたしたちから、多くの苦痛の法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの安楽の法(性質)をもたらす方である。まさに、世尊は、わたしたちから、多くの善ならざる法(性質)を奪い去る方である。まさに、世尊は、わたしたちに、多くの善なる法(性質)をもたらす方である』」と。
150. 「ウダーインよ、また、このように、このことはあります。ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、鶉(うずら)の小鳥が、蔦葛の結縛によって結縛され、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているようなものです。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『その蔦葛の結縛によって結縛された、その鶉の小鳥が、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔鶉の小鳥〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、その蔦葛の結縛によって結縛された、その鶉の小鳥が、まさしく、そこにおいて、あるいは、屠殺を、あるいは、結縛を、あるいは、死を、待っているなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔鶉の小鳥〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『さてまた、この、少量のことが、微量のことが、何だというのだ。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。
151. ウダーインよ、また、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と成り、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、轅(ながえ)の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、諸々の堅固な革紐の結縛によって結縛されたとして、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るようなものです。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの堅固な革紐の結縛によって結縛された、その、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔王の象〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの堅固な革紐の結縛によって結縛された、その、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、まさしく、僅かに、身体をよじって、それらの結縛を、等しく切断して、等しく砕破して、欲するところに立ち去るなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔王の象〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と成り、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。
152. ウダーインよ、それは、たとえば、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる人がいるとします。彼には、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家が存し、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台が〔存し〕、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種が〔存し〕、最高ならざる形態の一者の妻が〔存します〕。彼は、林園に赴き、比丘を見ます──手と足を善く洗い清め、快意なる食を受益し、涼やかな影のもとに坐り、卓越の心(瞑想)に専念する〔比丘〕を。彼に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、安楽なるは、沙門たること。ああ、まさに、無病なるは、沙門たること。すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するなら、それは、まさに、存するべきこと』と。彼は、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができません。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの結縛によって結縛された、その人が、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができないなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの結縛によって結縛された、その人が、最高ならざる形態の、破損し倒壊した、烏が出入りする一つの家を捨棄して、最高ならざる形態の、破損し倒壊した一つの寝台を捨棄して、最高ならざる形態の、一つの瓶のなかの穀物と蒔く種を捨棄して、最高ならざる形態の一者の妻を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができないなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『さてまた、この、少量のことが、微量のことが、何だというのだ。まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄せず、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させます。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らにとって、その〔結縛〕は、力ある結縛と成り、堅固な結縛と〔成り〕、強固な結縛と〔成り〕、腐敗なき結縛と〔成り〕、粗大な丸太と〔成ります〕。
153. ウダーインよ、それは、たとえば、また、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長が、あるいは、家長の子がいるとします。無数の金貨の群れの集積があり、無数の穀物の群れの集積があり、無数の田畑の群れの集積があり、無数の地所の群れの集積があり、無数の夫人の群れの集積があり、無数の奴隷の群れの集積があり、無数の奴婢の群れの集積がある者です。彼は、林園に赴き、比丘を見ます──手と足を善く洗い清め、快意なる食を受益し、涼やかな影のもとに坐り、卓越の心に専念する〔比丘〕を。彼に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、安楽なるは、沙門たること。ああ、まさに、無病なるは、沙門たること。すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するなら、それは、まさに、存するべきこと』と。彼は、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができます。ウダーインよ、いったい、まさに、或る者が、『それらの結縛によって結縛された、その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができるなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力ある結縛であり、堅固な結縛であり、強固な結縛であり、腐敗なき結縛であり、粗大な丸太である』と、このように説くなら、ウダーインよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、それらの結縛によって結縛された、その、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、無数の金貨の群れを捨棄して、無数の穀物の群れを捨棄して、無数の田畑の群れを捨棄して、無数の地所の群れを捨棄して、無数の夫人の群れを捨棄して、無数の奴隷の群れを捨棄して、無数の奴婢の群れの集積を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することができるなら、まさに、その〔結縛〕は、その〔人〕にとって、力なき結縛であり、力弱き結縛であり、腐敗の結縛であり、芯なき結縛です」と。「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、『これを捨棄しなさい』と、わたしによって説かれながら、彼らは、このように言いました。『また、この、少量のものに、微量のものに、何があるというのだろう。捨棄するべきものとして、世尊は、わたしたちに、その〔食料〕の捨棄を言ったのだ、善き至達者たる方は、わたしたちに、その〔食料〕の放棄を言ったのだ』と。彼らは、まさしく、そして、それを捨棄し、さらに、わたしにたいし、不興〔の思い〕を現起させません。ウダーインよ、そして、それらの比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、彼らは、それを捨棄して、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住みます。ウダーインよ、彼らにとって、その〔結縛〕は、力なき結縛と成り、力弱き結縛と〔成り〕、腐敗の結縛と〔成り〕、芯なき結縛と〔成ります〕。
154. ウダーインよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。彼は、それらを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめません。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人を、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。
ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。彼は、それらを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人をもまた、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。
ウダーインよ、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。ウダーインよ、気づきの生起は、遅くあるも、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、昼のあいだ熱せられた鉄鍋のうえに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を落とすとします。ウダーインよ、〔それらの〕水滴の、〔その〕落下は遅くあるも、ウダーインよ、そこで、まさに、それは、まさしく、すみやかに、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者として〔世に〕有ります。〔生存の〕依り所の捨棄のために、〔生存の〕依り所の放棄のために、実践する者である、〔まさに〕その、この者に、いつであれ、いつかは、気づきの忘却あることから、〔生存の〕依り所に結び付いた諸々の思念と思惟が行き交います。ウダーインよ、気づきの生起は、遅くあるも、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人をもまた、『束縛された者』と説きます──束縛を離れた者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。
ウダーインよ、ここに、一部の人は、『〔生存の〕依り所は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、〔生存の〕依り所なき者として〔世に〕有ります──〔生存の〕依り所の消滅において解脱した者として。ウダーインよ、まさに、わたしは、この人を、『束縛を離れた者』と説きます──束縛された者、ではなく。それは、何を因とするのですか。ウダーインよ、なぜなら、この人において、機能の相違性が、わたしによって見出されたからです。ウダーインよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。
155. ウダーインよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。ウダーインよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。ウダーインよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。糞便の安楽であり、凡夫の安楽であり、聖ならざる安楽であり、習修するべきではなく、修めるべきではなく、多く為すべきではなく、『この安楽には、恐怖するべきものがある』と、〔わたしは〕説きます。
156. ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これは、離欲の安楽と説かれます。遠離の安楽であり、寂止の安楽であり、正覚の安楽であり、習修するべきであり、修めるべきであり、多く為すべきであり、『この安楽には、恐怖するべきものはない』と、〔わたしは〕説きます。
ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これを、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、諸々の〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、喜悦と安楽が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、動じ動くもののうちにあると説きます。では、何が、そこにおいて、動じ動くもののうちにあるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、放捨の安楽が、〔いまだ〕止滅されずに有るなら、これは、そこにおいて、動じ動くもののうちにあります。ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。まさに、わたしは、これを、動じ動かないもののうちにあると説きます。
ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、まさに、わたしは、これを、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、まさに、わたしは、これをもまた、『十分ならず』と説き、『捨棄せよ』と説き、『超越せよ』と説きます。では、何が、それにとっての超越となるのですか。ウダーインよ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これが、それにとっての超越となります。ウダーインよ、かくのごとく、まさに、わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の捨棄をもまた説きます。ウダーインよ、すなわち、〔その束縛するものの〕捨棄を、わたしが説かない、〔まさに〕その、束縛するものを、あるいは、微細なるものであれ、あるいは、粗大なるものであれ、まさに、あなたは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ウダーインは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
鶉の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(67). チャートゥマーの経
157. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャートゥマーに住んでおられます。アーマラキー林において。また、まさに、その時点にあって、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちが、世尊と会見するために、チャートゥマーに到着するところと成ります。そして、それらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、これらの者たちは、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちです。世尊と会見するために、チャートゥマーに到着したのです。それらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、それらの比丘たちに告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、どうして、あなたたちは、漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのですか」と。「尊き方よ、これらの者たちは、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする五百ばかりの比丘たちです。世尊と会見するために、チャートゥマーに到着したのです。それで、これらの来客の比丘たちは、在住の比丘たちを相手に共に挨拶しながら、諸々の臥坐具を設置しながら、諸々の鉢と衣料を処理しながら、〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてます」と。「比丘たちよ、去りなさい。あなたたちを追い出します。あなたたちは、わたしの現前に住するべきではありません」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、立ち去りました。
158. また、まさに、その時点にあって、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちが、公会堂において、参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊者たちよ、はてさて、また、あなたたちは、どこに赴くのですか」と。「友よ、まさに、世尊によって追い出された、比丘の僧団です」と。「尊者たちよ、まさに、それでは、しばらくお坐りください。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、世尊を浄信させることができるでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちに答えました。そこで、まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ。尊き方よ、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ」と。
159. そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ。尊き方よ、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊との会見を得ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。尊き方よ、それは、たとえば、また、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、世尊は、比丘の僧団を資助したまえ」と。
160. まさに、そして、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちは、さらに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊を浄信させることができました──そして、種の喩えによって、さらに、幼い〔子牛〕の喩えによって。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、立ち上がりなさい。鉢と衣料を収め取りなさい。世尊は浄信するところとなりました──そして、チャートゥマー〔の住者〕たる釈迦〔族〕の者たちによって、さらに、梵〔天〕のサハンパティによって──そして、種の喩えによって、さらに、幼い〔子牛〕の喩えによって」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えて、坐から立ち上がって、鉢と衣料を取って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、わたしによって、比丘の僧団が追い出されたとき、あなたに、どのような〔思いが〕有りましたか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『世尊によって、比丘の僧団が追い出された。今や、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者として〔世に〕住むであろう。今や、わたしたちもまた、思い入れ少なき者たちとなり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者たちとして〔世に〕住むのだ』」と。「サーリプッタよ、あなたは待ちなさい。サーリプッタよ、あなたは待ちなさい。所見の法(現世)における安楽の住を」と。そこで、まさに、世尊は、尊者マハー・モッガッラーナに告げました。「モッガッラーナよ、わたしによって、比丘の僧団が追い出されたとき、あなたに、どのような〔思いが〕有りましたか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『世尊によって、比丘の僧団が追い出された。今や、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者として〔世に〕住むであろう。今や、そして、わたしは、さらに、尊者サーリプッタは、比丘の僧団を維持するのだ』」と。「モッガッラーナよ、善きかな、善きかな。モッガッラーナよ、なぜなら、あるいは、わたしが、あるいは、サーリプッタとモッガッラーナが、比丘の僧団を維持するべきであるからです」と。
161. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、水に入り行くときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。比丘たちよ、これらの四つの、水に入り行くときに待っているべき恐怖があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つのものがあります。これらの、ここに、一部の人が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖です。どのようなものが、四つのものなのですか。波の恐怖であり、鰐の恐怖であり、渦の恐怖であり、鮫の恐怖です。
162. 比丘たちよ、では、どのようなものが、波の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは教諭し教示します。『このように、あなたは前進するべきです』『このように、あなたは後進するべきです』『このように、あなたは前視するべきです』『このように、あなたは後視するべきです』『このように、あなたは屈曲するべきです』『このように、あなたは伸直するべきです』『このように、あなたは大衣と鉢と衣料を保持するべきです』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、他者たちに教諭し教示する。いっぽう、これらの、思うに、子ほど〔の年齢〕の者たちが、思うに、孫ほど〔の年齢〕の者たちが、わたしたちのことを教諭し教示するべきと思い考える』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。比丘たちよ、この者は、『波の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『波の恐怖』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。
163. 比丘たちよ、では、どのようなものが、鰐の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。そのように出家者として存している、〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは教諭し教示します。『これを、あなたは咀嚼するべきです』『これを、あなたは咀嚼するべきではありません』『これを、あなたは食べるべきです』『これを、あなたは食べるべきではありません』『これを、あなたは味わうべきです』『これを、あなたは味わうべきではありません』『これを、あなたは飲むべきです』『これを、あなたは飲むべきではありません』『適確なるものを、あなたは咀嚼するべきです』『適確ならざるものを、あなたは咀嚼するべきではありません』『適確なるものを、あなたは食べるべきです』『適確ならざるものを、あなたは食べるべきではありません』『適確なるものを、あなたは味わうべきです』『適確ならざるものを、あなたは味わうべきではありません』『適確なるものを、あなたは飲むべきです』『適確ならざるものを、あなたは飲むべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは咀嚼するべきです』『非時に、あなたは咀嚼するべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは食べるべきです』『非時に、あなたは食べるべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは味わうべきです』『非時に、あなたは味わうべきではありません』『〔正しい〕時に、あなたは飲むべきです』『非時に、あなたは飲むべきではありません』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、それを求めるなら、それを咀嚼し、それを求めないなら、それを咀嚼せず、それを求めるなら、それを食べ、それを求めないなら、それを食べず、それを求めるなら、それを味わい、それを求めないなら、それを味わわず、それを求めるなら、それを飲み、それを求めないなら、それを飲まない。適確なるものをもまた咀嚼し、適確ならざるものをもまた咀嚼し、適確なるものをもまた食べ、適確ならざるものをもまた食べ、適確なるものをもまた味わい、適確ならざるものをもまた味わい、適確なるものをもまた飲み、適確ならざるものをもまた飲む。〔正しい〕時にもまた咀嚼し、非時にもまた咀嚼し、〔正しい〕時にもまた食べ、非時にもまた食べ、〔正しい〕時にもまた味わい、非時にもまた味わい、〔正しい〕時にもまた飲み、非時にもまた飲む。すなわち、また、わたしたちに、信ある家長たちが、昼に、非時に、精妙なる固形の食料や軟らかい食料を施すとして、そこで、また、これらの者たちは、思うに、口に蓋をすることを為すのだ』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『鰐の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鰐の恐怖』とは、まさに、これは、飽食の同義語です。
164. 比丘たちよ、では、どのようなものが、渦の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしたちは、まさに、過去において、在家者たちとして有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんだ。また、まさに、わたしの家においては、諸々の財物が等しく見出される。そして、諸々の財物を享受することも、さらに、諸々の功徳を作り為すことも、〔両者ともに〕できる』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『渦の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『渦の恐怖』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。
165. 比丘たちよ、では、どのようなものが、鮫の恐怖なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。比丘たちよ、この者は、『鮫の恐怖に恐怖した者であり、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者である』〔と〕説かれます。比丘たちよ、『鮫の恐怖』とは、まさに、これは、女性の同義語です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、ここに、一部の人が、この法(教え)と律において、家から家なきへと出家したときに待っているべき恐怖があります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
チャートゥマーの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(68). ナラカパーナの経
166. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。ナラカパーナのパラーサ林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちが、世尊を指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕有ります──かつまた、尊者アヌルッダであり、かつまた、尊者バッディヤであり、かつまた、尊者キミラであり、かつまた、尊者バグであり、かつまた、尊者コンダンニャであり、かつまた、尊者レーヴァタであり、かつまた、尊者アーナンダであり、さらに、他の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちです。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。再度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。再度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。三度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。三度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。
167. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、それらの良家の子息たちに尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、尊者アヌルッダに告げました。「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、梵行を喜び楽しむ者たちです」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、梵行を喜び楽しむことです。アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちとして、すなわち、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益できるのに、アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちでありながら、〔まさに〕その、幸いなる若さの初年期を具備した者たちでありながら、家から家なきへと出家したのです。アヌルッダよ、また、まさに、そして、〔まさに〕その、あなたたちは、まさしく、王に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、盗賊に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、借金に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、恐怖に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、生き方として〔生来の〕性向であるから、家から家なきへと出家したのでもなく、そして、また、まさに、『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔これらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と、アヌルッダよ、まさに、あなたたちは、このように、信によって家から家なきへと出家したのではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「アヌルッダよ、また、そして、このように出家した良家の子息が為すべきこととして、何が、存するべきですか。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住します。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕。
アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住しません。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に──〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕。
168. アヌルッダよ、あなたたちに、わたしにたいし、どうでしょう、かくのごとく〔思いが〕有りますか。『すなわち、諸々の煩悩(漏)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いは〕有りません。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』と。尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔すでに〕捨棄されている。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。
アヌルッダよ、それを、どう思いますか。どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、如来は、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かすのですか(授記するのか)。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アヌルッダよ、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。
169. アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「了知(阿羅漢果)において確立した」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲(貪)と憤怒(瞋)と迷妄(痴)の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。
170. アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「了知において確立した」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。
171. アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。
172. アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。
アヌルッダよ、かくのごとく、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アヌルッダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
ナラカパーナの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(69). ゴーリヤーニの経
173. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ゴーリヤーニという名の比丘が、林にある者で軟弱な励行者が、訪問者として僧団の中に有ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ゴーリヤーニ比丘に関して、比丘たちに告げました。
「友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として有るべきであり、敬虔〔の思い〕を有する者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者として有り、敬虔〔の思い〕なき者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者として有り、敬虔〔の思い〕なき者として〔有るなら〕』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として有るべきであり、敬虔〔の思い〕を有する者として〔有るべきです〕。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、坐について巧みな智ある者として有るべきです。『かくのごとく、そして、長老の比丘たちに分け入って坐らず、さらに、新参の比丘たちを坐から排除しないのだ』と。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、坐について巧みな智ある者ではなく有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、坐について巧みな智ある者ではなく有るなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、坐について巧みな智ある者として有るべきです。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、卓越の励行となる法(性質)がまた知られるべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、卓越の励行となる法(性質)をもまた知らないなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、卓越の励行となる法(性質)をもまた知らないなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、卓越の励行となる法(性質)がまた知られるべきです。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、早朝に村に入るべきではなく、昼過ぎに戻るべきではありません。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、早朝に村に入り、昼過ぎに戻るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者が、早朝に村に入り、昼過ぎに戻るなら』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、早朝に村に入るべきではなく、昼過ぎに戻るべきではありません。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、食前と食後に、家々に歩を運ぶべきではありません。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、食前と食後に、家々に歩を運ぶなら、彼に説く者たちが有ります。『この尊者が、林にある者として、独りある者として、林における独住によって住んでいると、この非時の歩みが、まちがいなく、多く為されたのだ。〔まさに〕その、この者が、僧団に赴いたなら、また、〔それが〕慣行となる』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、食前と食後に、家々に歩を運ぶべきではありません。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、〔心が〕高揚しない者として有るべきであり、軽薄ならざる者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、〔心が〕高揚した者として有り、軽薄なる者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。『この尊者が、林にある者として、独りある者として、林における独住によって住んでいると、この〔心の〕高揚と軽薄が、まちがいなく、多く為されたのだ。〔まさに〕その、この者が、僧団に赴いたなら、また、〔それが〕慣行となる』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、〔心が〕高揚しない者として有るべきであり、軽薄ならざる者として〔有るべきです〕。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、寡黙の者として有るべきであり、言葉が乱れ飛ばない者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、駄弁の者として有り、言葉が乱れ飛ぶ者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、駄弁の者であり、言葉が乱れ飛ぶ者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、寡黙の者として有るべきであり、言葉が乱れ飛ばない者として〔有るべきです〕。
友よ、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、素直な者として有るべきであり、善き朋友ある者として〔有るべきです〕。友よ、それで、もし、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいながら、頑固な者として有り、悪しき朋友ある者として〔有るなら〕、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、頑固な者であり、悪しき朋友ある者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘が、僧団に赴き、僧団に住んでいるなら、素直な者として有るべきであり、善き朋友ある者として〔有るべきです〕。
友よ、林にある比丘であるなら、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、食において量を知る者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、食において量を知らない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、食において量を知らない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、食において量を知る者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、精進に励む者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、怠惰の者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、怠惰の者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、精進に励む者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、気づきが現起された者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、気づきが忘却された者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、気づきが忘却された者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、気づきが現起された者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、〔心が〕定められた者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、〔心が〕定められていない者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、〔心が〕定められていない者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、〔心が〕定められた者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、智慧ある者として有るべきです。友よ、それで、もし、林にある比丘が、智慧浅き者として有るなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、智慧浅き者である』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、智慧ある者として有るべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律理(対律・勝律)において、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、高次の法理において、高次の律理において、専念〔努力〕が為されるべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)において、そこにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱において、そこにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。
友よ、林にある比丘であるなら、人間の法(性質)を超えるものにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです。友よ、林にある比丘に、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねる者たちが存在します。友よ、それで、もし、林にある比丘が、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねられ、解答できないなら、彼に説く者たちが有ります。『また、この尊者が、林にある者であり、独りある者であるとして、〔彼の〕林における独住が、何だというのだ。すなわち、この尊者は、人間の法(性質)を超えるものにおいて、問いを尋ねられ、解答できない』と、彼に説く者たちが有ります。それゆえに、林にある比丘であるなら、人間の法(性質)を超えるものにおいて、専念〔努力〕が為されるべきです」と。
このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、林にある比丘だけによって、これらの法(性質)が、受持して〔そののち〕、行持させられるべきですか、それとも、村の外れに住ある者によってもまた〔行持させられるべきですか〕」と。「友よ、モッガッラーナよ、まさに、林にある比丘によってもまた、これらの法(性質)が、受持して〔そののち〕、行持させられるべきであり、ましてや、村の外れに住ある者によっては〔言うまでもありません〕」と。
ゴーリヤーニの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(70). キーターギリの経
174. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、カーシ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、わたしは、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します(非時の食をとらない)。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、カーシ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、キーターギリという名のカーシ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、キーターギリに住んでいます。カーシ〔国〕の町において。
175. また、まさに、その時点にあって、アッサジとプナッバスカという名の比丘が、キーターギリにおいて、居住者たちとして〔世に〕有ります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、それらの比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう(現に結果が出ているのに未来に結果が出るものを追う必要はない)。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう」と。
すなわち、まさに、それらの比丘たちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、わたしたちは、世尊に、この義(意味)を告げます」と。
176. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、アッサジとプナッバスカ比丘に告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、大勢の比丘たちが、近づいて行って、あなたたちに、こう言ったのですか。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します──そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、まさに、あなたたちは、それらの比丘たちに、このように言ったのですか。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
177. 「比丘たちよ、いったい、どうなのでしょう、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのですか。『それが何であれ、あるいは、安楽〔の感受〕を、あるいは、苦痛〔の感受〕を、あるいは、苦でもなく楽でもない〔感受〕を、この人士たる人が得知するなら、彼には、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのではないですか。『すなわち、ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
178. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
179. 比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
180. 比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
181. 比丘たちよ、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きません。比丘たちよ、また、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きません。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼らには、不放逸によって為されたことがあり、彼らは、放逸となることができないからです。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、これらの尊者たちは、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、これらの比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
182. 比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、七つのものなのですか。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。
比丘たちよ、では、どのような人が、両部の解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みます──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『両部の解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。
比丘たちよ、では、どのような人が、智慧による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『智慧による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。
比丘たちよ、では、どのような人が、身体による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、すなわち、それらの解脱が、寂静にして、諸々の形態を超越して形態なくあるなら、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『身体による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、〔正しい〕見解に至り得た者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼に、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、しっかりと見られたものと成り、しっかりと探査されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、この人は、『〔正しい〕見解に至り得た者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、信による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『信による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、法(教え)に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が──それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。比丘たちよ、この人は、『法(教え)に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、信に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が──それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。比丘たちよ、この人は、『信に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
183. 比丘たちよ、わたしは、まさしく、最初から、了知の達成を説くのではありません。比丘たちよ、そして、また、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成ります。比丘たちよ、では、どのように、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成るのですか。比丘たちよ、ここに、信が生じた者が、〔師のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。比丘たちよ、まさに、信も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、近づいて行くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、奉侍することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、耳を傾けることも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を聞くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を保持することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、義(意味)を近しく注視することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)の納得と受認も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、欲〔の思い〕も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、邁進も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、比較も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、精励も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、邪行の実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、誤った実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、これらの愚人たちは、この法(教え)と律から、まさしく、どれだけ遠くにあり、立ち去ったことか。
184. 比丘たちよ、四つの句の説き明かしが存在します。それが誦説されたなら、識者たる人は、まさしく、長からずして、智慧によって、義(意味)を了知するでしょう。〔それを、わたしは〕誦説しましょう。比丘たちよ、あなたたちは、わたしの、その〔誦説〕を了知するでしょうか」と。「尊き方よ、さてまた、わたしたちが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、法(教え)の了知者たちとしてあるというのでしょう」と。「比丘たちよ、すなわち、また、その教師が、財貨を重きとする者であり、財貨の相続者であり、諸々の財貨と交わり合っている者として〔世に〕住むも、彼にもまた、『そして、わたしたちに、このように存するなら、そこで、それを、〔わたしたちは〕為すのだ。そして、わたしたちに、このように存さないなら、それを、〔わたしたちは〕為さないのだ』という、このことが、このような形態の売買のようなものが、近しく至ることはありません。比丘たちよ、すなわち、如来が全てにわたり、諸々の財貨から離れ合っている者として〔世に〕住むからには、また、どうして、〔如来に、そのようなことがあるというのでしょう〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『世尊は、教師であり、わたしは、弟子として存している。世尊は、知るが、わたしは、知らない』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、教師の教えは、成長するべきものと成り、滋養あるものと〔成ります〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
キーターギリの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
比丘の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「象とラーフラと常久なる世〔界〕、そして、マールキャプッタ、バッダーリという名のもの、小さな鳥、さらに、サハンパティの乞い、ナラカと林にある者とキーターギリという名のものがあり、〔章となる〕」〔と〕。
3. 遍歴遊行者の章
1(71). 三つの明知とヴァッチャの経
185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、エーカプンダリーカの遍歴遊行者の林園に滞在しています。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ヴェーサーリーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、エーカプンダリーカの遍歴遊行者たちの林園のあるところに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、エーカプンダリーカの遍歴遊行者たちの林園のあるところに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「ヴァッチャよ、すなわち、『沙門ゴータマは、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します」と。
186. 「尊き方よ、また、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。
「ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは、三つの明知ある者である』と、まさに、説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。
ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは、三つの明知ある者である』と、まさに、説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。
このように説かれたとき、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、存在しますか。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、存在しません。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。
「貴君ゴータマよ、また、存在しますか。誰であれ、在家者で、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず。そこで、まさに、まさしく、より一層のものとなります。すなわち、在家者たちで、在家の束縛を捨棄せずして、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、存在しますか。誰であれ、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)で、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。「ヴァッチャよ、まさに、存在しません。誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、苦しみの終極を為す者は」と。
「貴君ゴータマよ、また、存在しますか。誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者は」と。「ヴァッチャよ、これより〔過去〕、まさに、その九十一カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)で、すなわち、誰であれ、アージーヴァカで、身体の破壊ののち、天上に近しく赴く者を、一者より他に、わたしは隨念しません。彼もまた、行為の論ある者として、作用の論ある者として、〔世に〕存しました」と。「貴君ゴータマよ、このように存しているとき、この、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)は、もしくは、天上に近しく赴くことさえも、空無なのですか」と。「ヴァッチャよ、このように、この、異教の〔認識の〕場所は、もしくは、天上に近しく赴くことさえも、空無なのです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
三つの明知とヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(72). 火とヴァッチャの経
187. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか」と。「ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
188. 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう。「世〔界〕は、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者として、貴君ゴータマはありますか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
また、貴君ゴータマは、どのような危険(患・過患)を正しく見ながら、このように、これらの悪しき見解に、全てにわたり、近しく赴かないのですか」と。
189. 「ヴァッチャよ、『世〔界〕は、常久である』とは、まさに、これは、見解の成立(悪しき見解)であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、常久ではない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、終極がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『世〔界〕は、終極がない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に有る』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に有ることがない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』とは、まさに……略……。ヴァッチャよ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』とは、まさに、これは、見解の成立であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。ヴァッチャよ、まさに、わたしは、この危険を正しく見ながら、このように、これらの悪しき見解に、全てにわたり、近しく赴かないのです」と。
「また、貴君ゴータマには、何であれ、見解の成立(悪しき見解)は存在しますか」と。「ヴァッチャよ、『見解の成立』とは、まさに、これは、如来にとっては、取り去られたものなのです。ヴァッチャよ、まさに、このことが、如来によって、〔あるがままに〕見られました。『かくのごとく、形態(色)がある』『かくのごとく、形態の集起がある』『かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)がある』『かくのごとく、感受〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)がある』『かくのごとく、表象〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕(識)がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕の集起がある』『かくのごとく、識知の〔作用〕の滅至がある』と。それゆえに、『如来は、一切の思いなされたものの、一切の掻き乱されたものの、一切のわたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる思量の悪習(慢随眠)の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、〔何も〕執取せずして解脱したのだ』と、〔わたしは〕説きます」と。
190. 「貴君ゴータマよ、また、このように、心が解脱した比丘は、どこに再生するのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『再生する』という〔あり方に、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、〔彼は〕再生しないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『再生しない』という〔あり方に、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、かつまた、再生し、かつまた、再生しないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に、彼は〕近づきません」〔と〕。「貴君ゴータマよ、まさに、それでは、まさしく、再生することもなく、再生しないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に、彼は〕近づきません」〔と〕。
「『貴君ゴータマよ、また、このように、心が解脱した比丘は、どこに再生するのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『再生する』という〔あり方に、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、〔彼は〕再生しないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『再生しない』という〔あり方に、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、かつまた、再生し、かつまた、再生しないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、まさに、それでは、まさしく、再生することもなく、再生しないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に、彼は〕近づきません』と、〔あなたは〕説きます。貴君ゴータマよ、わたしは、ここにおいて、無知を惹起し、ここにおいて、等しき迷妄を惹起しました。すなわち、また、貴君ゴータマとの過去の議論と談論によって有った、わたしの、この浄信ほどのものも、それもまた、今現在、わたしに、消没するところとなりました」と。「ヴァッチャよ、まさに、あなたにとって、無知たるに十分なるものがあり、等しき迷妄たるに十分なるものがあります。ヴァッチャよ、なぜなら、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものであるからです。それは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては知り難いことなのです。
191. ヴァッチャよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。ヴァッチャよ、それを、どう思いますか。それで、もし、あなたの前で、火が燃えているなら、あなたは知るでしょうか。『わたしの前で、この火が燃えている』」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしの前で、火が燃えているなら、わたしは知るでしょう。『わたしの前で、この火が燃えている』」と。
「ヴァッチャよ、また、それで、もし、あなたに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が燃えています。この火は、何を縁として燃えているのですか』と。ヴァッチャよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が燃えています。この火は、何を縁として燃えているのですか』と。貴君ゴータマよ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『すなわち、わたしの前で、この火が燃えています。この火は、草や薪という燃料を縁として燃えています』」と。
「ヴァッチャよ、それで、もし、あなたの前で、その火が消えるなら、あなたは知るでしょうか。『わたしの前で、この火が消えたのだ』」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、わたしの前で、火が消えるなら、わたしは知るでしょう。『わたしの前で、この火が消えたのだ』」と。
「ヴァッチャよ、また、それで、もし、あなたに、このように尋ねるとします。『すなわち、あなたの前で、この火が消えたのです。その火は、ここから、どのような方角に赴いたのですか──あるいは、東ですか、あるいは、南ですか、あるいは、西ですか、あるいは、東ですか』と。ヴァッチャよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「貴君ゴータマよ、〔どの方角にも〕近づきません。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、その火は、草や薪という燃料を縁として燃えていたのであり、そして、その〔燃料〕の消尽あることから、かつまた、他〔の燃料〕の供給なきことから、食(動力源・エネルギー)なきものとなり、まさしく、『消えたもの』という名称に至ります」と。
192. 「ヴァッチャよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、形態(色)によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、形態の消滅において解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という〔あり方に〕近づかず、『再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に〕近づきません。
すなわち、感受〔作用〕(受)によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その感受〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、感受〔作用〕の消滅において解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という〔あり方に〕近づかず、『再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に〕近づきません。
すなわち、表象〔作用〕(想)によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その表象〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、表象〔作用〕の消滅において解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という〔あり方に〕近づかず、『再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に〕近づきません。
すなわち、諸々の形成〔作用〕(行)によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、それらの形成〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、諸々の形成〔作用〕の消滅において解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という〔あり方に〕近づかず、『再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に〕近づきません。
すなわち、識知〔作用〕(識)によって、如来のことを、報知しつつ報知するとして、如来の、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。ヴァッチャよ、まさに、如来は、識知〔作用〕の消滅において解脱した者であり、深遠で、量りようがなく、深解し難くあり、それは、たとえば、また、大海のようにあり、『再生する』という〔あり方に〕近づかず、『再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『かつまた、再生し、かつまた、再生しない』という〔あり方に〕近づかず、『まさしく、再生することもなく、再生しないこともない』という〔あり方に〕近づきません」と。
このように説かれたとき、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなるサーラ樹があり、その〔樹〕の無常なることから、諸々の枝葉が崩壊し、諸々の樹皮と外皮が崩壊し、諸々の軟材が崩壊し、それは、他時にあって、諸々の枝葉が離れ去り、諸々の樹皮と外皮が離れ去り、諸々の軟材が離れ去り、清浄なるものとなり、硬材(芯)において確立したものとなり、存するように、まさしく、このように、貴君ゴータマの〔聖なる〕言葉は、諸々の枝葉が離れ去り、諸々の樹皮と外皮が離れ去り、諸々の軟材が離れ去り、清浄なるものとなり、硬材(真髄)において確立したものとなります。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
火とヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(73). 大いなるヴァッチャの経
193. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「長夜にわたり、わたしは、貴君ゴータマと議論を共にする者です。どうか、わたしに、貴君ゴータマは、簡略〔の観点〕によって、善なるものと善ならざるものを説示してください」と。「ヴァッチャよ、まさに、あなたに、わたしは、簡略〔の観点〕によってもまた、善なるものと善ならざるものを説示できますし、ヴァッチャよ、まさに、あなたに、わたしは、詳細〔の観点〕によってもまた、善なるものと善ならざるものを説示できます。ヴァッチャよ、ですが、ともあれ、あなたに、わたしは、簡略〔の観点〕によって、善なるものと善ならざるものを説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
194. 「ヴァッチャよ、貪欲(貪)は、まさに、善ならざるものであり、貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものです。ヴァッチャよ、憤怒(瞋)は、まさに、善ならざるものであり、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものです。ヴァッチャよ、迷妄(痴)は、まさに、善ならざるものであり、迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものです。ヴァッチャよ、かくのごとく、まさに、これらの、三つの善ならざる法(性質)があり、三つの善なる法(性質)があります。
ヴァッチャよ、命あるものを殺すことは、まさに、善ならざるものであり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、与えられていないものを取ることは、まさに、善ならざるものであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、まさに、善ならざるものであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、虚偽を説くことは、まさに、善ならざるものであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、中傷の言葉は、まさに、善ならざるものであり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、粗暴な言葉は、まさに、善ならざるものであり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、雑駁な虚論は、まさに、善ならざるものであり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、強欲〔の思い〕は、まさに、善ならざるものであり、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、憎悪〔の思い〕は、まさに、善ならざるものであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。ヴァッチャよ、誤った見解は、まさに、善ならざるものであり、正しい見解は、善なるものです。ヴァッチャよ、かくのごとく、まさに、これらの、十の善ならざる法(性質)があり、十の善なる法(性質)があります。
ヴァッチャよ、すなわち、まさに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、その比丘は、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有ります」と。
195. 「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる比丘たちで、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子たちは〕」と。
「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の比丘尼であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる比丘尼たちで、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、〔そのような弟子たちは〕」と。
「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であるも梵行者として、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる在俗信者たちで、白衣の在家者であるも梵行者たちとして、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。
「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者として、教諭に即応する者として、すなわち、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる在俗信者たちで、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者たちとして、教諭に即応する者たちとして、すなわち、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。
「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の女性在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であるも梵行者として、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる女性在俗信者たちで、白衣の在家者であるも梵行者たちとして、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。
「貴君ゴータマは、さておくとしましょう。比丘たちは、さておくとしましょう。比丘尼たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちは、さておくとしましょう。白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちは、さておくとしましょう。また、たとえ、一者の女性在俗信者であれ、存在しますか──貴君ゴータマの、あなたの弟子で、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者として、教諭に即応する者として、すなわち、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となる、〔そのような弟子は〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、わたしの弟子たる女性在俗信者たちで、白衣の在家者であり欲望の享受者であるも、教えを為す者たちとして、教諭に即応する者たちとして、すなわち、疑惑を超え渡った者たちとなり、懐疑を離れ去った者たちとなり、離怖に至り得た者たちとなり、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとなる、〔そのような弟子たちは〕」と。
196. 「貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、比丘たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、さらに、比丘たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、さらに、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、比丘尼たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、さらに、比丘尼たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
貴君ゴータマよ、まさに、それで、もし、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者として〔世に〕有り、かつまた、比丘たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有り、さらに、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちとして〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、白衣の在家者であり欲望の享受者である女性在俗信者たちが達成する者たちではなく〔世に〕有ったなら、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成っていたでしょう。貴君ゴータマよ、しかしながら、すなわち、まさに、この法(教え)を、まさしく、そして、貴君ゴータマが達成する者であり、かつまた、比丘たちが達成する者たちであり、かつまた、比丘尼たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり欲望の享受者である在俗信者たちが達成する者たちであり、かつまた、白衣の在家者であり梵行者である女性在俗信者たちが達成する者たちであり、さらに、白衣の在家者であり欲望の享受者である女性在俗信者たちが達成する者たちであることから、このように、この梵行は、その支分によって、円満成就あるものとしてあります。
197. 貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、海に触れて止住するようなものです。まさしく、このように、貴君ゴータマのこの衆は、在家者と出家者を含め、涅槃に向かい行くものであり、涅槃に傾倒するものであり、涅槃に傾斜するものであり、涅槃に触れて止住します。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「ヴァッチャよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。
また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者ヴァッチャ・ゴッタは、〔戒を〕成就して半月となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、〔いまだ〕学びある者の知恵によって、〔いまだ〕学びある者の明知によって、至り得られるべきものとしてあるかぎり、それは、わたしによって獲得されました。さらに、世尊は、わたしに、より上なる法(性質)を説示したまえ」と。「ヴァッチャよ、まさに、それでは、あなたは、より上なる二つの法(性質)を修めなさい──そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を。ヴァッチャよ、まさに、あなたによって、これらのより上なる二つの法(性質)が修められたなら──そして、〔心の〕止寂が、さらに、〔あるがままの〕観察が──無数なる界域の理解のために等しく転起するでしょう。
198. ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。
ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。
ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。
ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。
ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において。
ヴァッチャよ、〔まさに〕その、あなたが、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得るでしょう──気づき〔の場所〕気づきの場所において」と。
199. そこで、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。
200. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊と会見するために赴きます。まさに、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「はてさて、尊者たちよ、また、どこに、あなたたちは、赴くのですか」と。「友よ、まさに、わたしたちは、世尊と会見するために赴きます」と。「尊者たちよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。さらに、このように説いてください。『尊き方よ、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。「世尊は、わたしによって世話されました。善き至達者たる方は、わたしによって世話されました」』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッチャ・ゴッタに答えました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者ヴァッチャ・ゴッタは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『世尊は、わたしによって世話されました。善き至達者たる方は、わたしによって世話されました』」と。「比丘たちよ、まさしく、過去において、わたしによって、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、三つの明知ある者である。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である』と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。『尊き方よ、ヴァッチャ・ゴッタ比丘は、三つの明知ある者です。大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です』」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるヴァッチャの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(74). ディーガナカの経
201. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)のスーカラカターにおいて。そこで、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『一切は、わたしの受認するところにあらず』」と。「アッギヴェッサナ(ディーガナカ)よ、すなわち、また、まさに、あなたのこの見解も、『一切は、わたしの受認するところにあらず』という、この見解もまた、あなたの受認するところとなりません」と。「貴君ゴータマよ、もし、この見解が、わたしの受認するところであるなら、それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、このことから、まさに、それらの者たちは、世において、より多くあり、まさに、多数の者たちとなります──すなわち、『それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう』と、このように言った、〔それらの者たちが、見解に執取する者たちであるなら〕。彼らは、まさしく、そして、その見解を捨棄せず、さらに、他の見解に執取します。アッギヴェッサナよ、このことから、まさに、それらの者たちは、世において、より少なくあり、まさに、少数の者たちとなります──すなわち、『それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう。それもまた、まさしく、そのようなものとして存するでしょう』と、このように言った、〔それらの者たちが、見解に執取しない者たちであるなら〕。彼らは、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一切は、わたしの受認するところである』と。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一切は、わたしの受認するところにあらず』と。アッギヴェッサナよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところである』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らのこの見解は、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にあります。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らのこの見解は、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にあります」と。
202. このように説かれたとき、ディーガナカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、わたしの見解の成立を賞揚します。貴君ゴータマは、わたしの見解の成立を等しく賞揚します」と。「アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、まさに、すなわち、彼らの受認するところである、この見解は、それは、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にあり、まさに、すなわち、彼らの受認するところではない、この見解は、それは、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にあります。アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところである』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一切は、わたしの受認するところである」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。
203. アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一切は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一切は、わたしの受認するところにあらず」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところである」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。
204. アッギヴェッサナよ、そこで、すなわち、『一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、そこにおいて、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、わたしの、「一部は、わたしの受認するところであり、一部は、わたしの受認するところにあらず」という、この見解であるが、もし、わたしが、この見解に、強き偏執あることから、固着して語用するなら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、わたしには、二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。そして、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところである」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、さらに、すなわち、この者が、「一切は、わたしの受認するところにあらず」と、このような論ある者であり、このような見解ある者である、あるいは、沙門であるなら、あるいは、婆羅門であるなら、これらの二者〔の相手〕と、口論が存するであろう。かくのごとく、口論が存しているとき、論争があり、論争が存しているとき、悩苦があり、悩苦が存しているとき、悩害がある』〔と〕。かくのごとく、彼は、かつまた、口論を、かつまた、論争を、かつまた、悩苦を、かつまた、悩害を、自己のうちに正しく見ながら、まさしく、そして、その見解を捨棄し、さらに、他の見解に執取しません。このように、これらの見解の捨棄が有ります。このように、これらの見解の放棄が有ります。
205. アッギヴェッサナよ、また、まさに、この身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)があり、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観されるべきです。その身体において、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観していると、すなわち、身体における、身体への欲〔の思い〕であり、身体への愛執〔の思い〕である、身体への付従性は、それは捨棄されます。
アッギヴェッサナよ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。アッギヴェッサナよ、その時点において、安楽の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、苦痛の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、安楽の感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、その時点において、苦痛の感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦でもなく楽でもない感受を感受することもなく、その時点においては、苦痛の感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、その時点において、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、その時点においては、まさしく、安楽の感受を感受することもなく、苦痛の感受を感受することもなく、その時点においては、苦でもなく楽でもない感受だけを感受します。アッギヴェッサナよ、安楽の感受もまた、まさに、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、苦痛の感受もまた、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、苦でもなく楽でもない感受もまた、まさに、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。アッギヴェッサナよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、安楽の感受にたいしてもまた厭離し、苦痛の感受にたいしてもまた厭離し、苦でもなく楽でもない感受にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。アッギヴェッサナよ、このように(※)、まさに、心が解脱した比丘は、誰とであれ、同調せず、誰とであれ、論争せず、かつまた、それが、世において説かれるところであるとして、偏執することなく、それによって語用します」と。
※ テキストには Eṃ とあるが、PTS版により Evaṃ と読む。
206. また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「まさに、世尊は、証知して〔そののち〕、わたしたちに、それら〔の法〕それらの法(性質)の捨棄を言った。まさに、善き至達者たる方は、証知して〔そののち〕、わたしたちに、それら〔の法〕それらの法(性質)の放棄を言った」と。まさに、かくのごとく、このことを、尊者サーリプッタが深慮していると、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。また、ディーガナカ遍歴遊行者に、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ディーガナカ遍歴遊行者は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように(※)、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
※ テキストには evameva kho とあるが、PTS版により kho を削除する。
ディーガナカの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(75). マーガンディヤの経
207. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があり、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂の草の敷物において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カンマーサダンマに〔行乞の〕食のために入りました。カンマーサダンマにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、或るどこかの密林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。その密林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者は、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂において、草の敷物が設けられているのを見ました。見て、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、こう言いました。「いったい、誰のために、貴君バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂において、この草の敷物が設けられたのですか。思うに、沙門の臥具として適切なるもののようです」と。「貴君マーガンディヤよ、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが存在します。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼のために、貴君ゴータマのために、この臥具は設けられました」と。「貴君バーラドヴァージャよ、まさに、見苦しいものを、〔わたしどもは〕見たものです。貴君バーラドヴァージャよ、まさに、見苦しいものを、〔わたしどもは〕見たものです。すなわち、わたしどもは、彼の、貴君ゴータマの、極罪者の、臥具を見たのです」と。「マーガンディヤよ、この言葉を慎むのです。マーガンディヤよ、この言葉を慎むのです。なぜなら、彼の、貴君ゴータマの、聖なる正理と善なる法(教え)において、多くの、士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた、大いに浄信し、教導されたのですから」と。「貴君バーラドヴァージャよ、もし、また、わたしどもが、彼を、貴君ゴータマを、面前に見るなら、たとえ、面前であれ、彼に説くでしょう。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「それで、もし、それが、貴君マーガンディヤにとって、重からざるものであるなら、それを、沙門ゴータマに告げましょう」と。「貴君バーラドヴァージャは、思い入れ少なき者となり、まさしく、説かれたとおりに、それを説くべきです」と。
208. まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の、マーガンディヤ遍歴遊行者を相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊は、設けられた草の敷物に坐りました。そこで、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、世尊は、こう言いました。「バーラドヴァージャよ、さてまた、あなたに、マーガンディヤ遍歴遊行者を相手にする、まさしく、この草の敷物に関して、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、世尊に、こう言いました。「また、まさに、まさしく、このことを、貴君ゴータマに告げることを欲する者たちとして、わたしどもはあります。そこで、また、しかしながら、貴君ゴータマは、まさしく、告げ知らされていないことを、〔わたしどもに〕告げ知らせます」と。まさに、そして、世尊の、バーラドヴァージャ姓の婆羅門を相手にする、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。そこで、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、バーラドヴァージャ姓の婆羅門の祭火堂のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。
209. 「マーガンディヤよ、まさに、眼は、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「マーガンディヤよ、まさに、耳は、音声を喜びとし……略……。「マーガンディヤよ、まさに、鼻は、臭気を喜びとし……。「マーガンディヤよ、まさに、舌は、味感を喜びとし、味感を喜び、味感に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。「マーガンディヤよ、まさに、身は、感触を喜びとし、感触を喜び……略……。「マーガンディヤよ、まさに、意は、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜するも、如来のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示します。マーガンディヤよ、さてまた、このことに関して、この言葉が、あなたによって語られたのですか。『沙門ゴータマは、極罪者である』」と。「貴君ゴータマよ、また、まさに、まさしく、このことに関して、わたしによって語られました。『沙門ゴータマは、極罪者である』と。それは、何を因とするのですか。なぜなら、このように、わたしどもの経において吟味するからです」と。
210. 「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって楽しんだ過去ある者として〔世に〕存するとします。彼が、他時にあって、まさしく、諸々の形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、形態の渇愛を捨棄して、形態の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住むとします。マーガンディヤよ、また、この者に言うべきこととして、あなたに、何か存しますか」と。「貴君ゴータマよ、何もありません」〔と〕。「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって楽しんだ過去ある者として〔世に〕存するとします。彼が、他時にあって、まさしく、諸々の感触の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、感触の渇愛を捨棄して、感触の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住むとします。マーガンディヤよ、また、この者に言うべきこととして、あなたに、何か存しますか」と。「貴君ゴータマよ、何もありません」〔と〕。
211. 「マーガンディヤよ、また、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。マーガンディヤよ、〔まさに〕その、わたしには、三つの高楼が有りました。一つは雨期用のものであり、一つは冬用のものであり、一つは夏用のものです。マーガンディヤよ、それで、まさに、わたしは、雨期用の高楼において、雨期の四月のあいだ、女たちだけの諸々の楽器によって楽しみながら、高楼の下に降りません。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。
212. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむとします──眼によって識知されるべき諸々の形態で……略……諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。彼が、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生するとします。彼は、そこにおいて、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。彼は、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。
マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その天子は、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、天の五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、この、あるいは、家長を、あるいは、家長の子を、あるいは、人間の五つの欲望の属性を、羨むでしょうか、あるいは、人間の諸々の欲望〔の対象〕によって、逆戻りするでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、人間の諸々の欲望〔の対象〕より、天の諸々の欲望〔の対象〕は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙であるからです」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。
213. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、諸々の癩病から完全に解き放たれ、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存します。彼は、他の癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、身体を遍く熱しているのを見ます。
マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あるいは、火坑におけるこの癩病の人を、あるいは、薬を受用することを、羨むでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、病が存しているとき、薬によって為すべきことが有るも、病が存していないとき、薬によって為すべきことは有ることなくあるからです」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみました──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。その〔わたし〕は、他時にあって、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として〔世に〕住みます。その〔わたし〕は、他の有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用しているのを見ます。その〔わたし〕は、彼らを羨まず、そこにおいて喜び楽しみません。それは、何を因とするのですか。マーガンディヤよ、すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、諸々の善ならざる法(性質)より他に、この喜びがあり、天の安楽にもまた正しく到達して止住し、その喜びによって喜び楽しんでいる〔わたし〕は、劣ったものを羨まず、そこにおいて喜び楽しまないからです。
214. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、諸々の癩病から完全に解き放たれ、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存します。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、火坑に引きずり込むとします。
マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、まさしく、かくもあれ、かくもあれと、身体をよじるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、この火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるからです」と。「マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、今だけ、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるのですか、それとも、過去においてもまた、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があるのですか」と。「貴君ゴータマよ、まさしく、そして、今も、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、過去においてもまた、その火は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があります。貴君ゴータマよ、しかしながら、この癩病の人は、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、〔感官の〕機能が損壊し、まさしく、苦痛の接触がある、火にたいし、『安楽である』と、転倒した表象を獲得しました」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、過去の時にもまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、未来の時にもまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があり、今現在もまた、諸々の欲望〔の欲望〕は、まさしく、そして、苦痛の接触があり、かつまた、大いなる熱苦があり、さらに、大いなる苦悶があります。マーガンディヤよ、そして、これらの有情たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされ、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、〔感官の〕機能が損壊し、まさしく、苦痛の接触がある、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、『安楽である』と、転倒した表象を獲得しました。
215. マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているとします。マーガンディヤよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、この癩病の人が、傷だらけの五体で、爛熟した五体で、蛆虫たちに喰われながら、諸々の爪で諸々の傷口を掻きむしりながら、火坑において、〔かゆみをまぎらわせるために〕身体を遍く熱しているなら、そのとおり、そのとおりに、彼のそれらの傷口は、まさしく、そして、より不浄のものと成り、かつまた、より悪臭のものと〔成り〕、さらに、より腐敗のものと〔成り〕、まさしく、かつまた、何らかの、快楽ほどのものが有り、悦楽ほどのものが〔有ります〕──すなわち、この、傷口を掻くことを因として。マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、有情たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされながら、そして、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用します。マーガンディヤよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、有情たちが、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れず、諸々の欲望の渇愛によって喰い尽くされながら、さらに、欲望の苦悶によって遍く焼かれながら、諸々の欲望〔の対象〕を受用するなら、そのとおり、そのとおりに、まさしく、そして、それぞれの有情たちの欲望の渇愛は増大し、さらに、欲望の苦悶によって遍く焼かれ、まさしく、かつまた、快楽ほどのものが有り、悦楽ほどのものが〔有ります〕──すなわち、この、五つの欲望の属性を縁として。
マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、欲望の渇愛を捨棄せずして、欲望の苦悶を除去せずして、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として、あるいは、〔世に〕住んだ、あるいは、〔世に〕住む、あるいは、〔世に〕住むであろう』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マーガンディヤよ、善きかな。マーガンディヤよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、欲望の渇愛を捨棄せずして、欲望の苦悶を除去せずして、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者として、あるいは、〔世に〕住んだ、あるいは、〔世に〕住む、あるいは、〔世に〕住むであろう』〔と〕。マーガンディヤよ、そこで、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者たちとして、あるいは、〔世に〕住んだなら、あるいは、〔世に〕住むなら、あるいは、〔世に〕住むであろうなら、彼らの全てが、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、欲望の渇愛を捨棄して、欲望の苦悶を除去して、涸渇〔の思い〕を離れ去り、内に寂止した心の者たちとして、あるいは、〔世に〕住んだのであり、あるいは、〔世に〕住み、あるいは、〔世に〕住むでしょう」と。そこで、まさに、世尊は、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である。そして、平安と不死に至る諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔道〕が〔最高である〕」と。
216. このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。貴君ゴータマよ、わたしもまた、まさに、このことを聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の遍歴遊行者たちが語っているところとして、『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。貴君ゴータマよ、それとこのことは合致します」と。「マーガンディヤよ、また、すなわち、あなたは、このことを聞きました。師匠のなかの大師匠たる往古の遍歴遊行者たちが語っているところとして、『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。どのようなものが、その無病なのですか。どのようなものが、その涅槃なのですか」と。このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、まさしく、自らの、まさに、五体を、手で順次に擦ります。「貴君ゴータマよ、これが、その無病です。これが、その涅槃です。貴君ゴータマよ、なぜなら、わたしは、今現在、無病の者であり、安楽の者であり、何であれ、わたしに、病苦はないからです」と。
217. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼は、眼ある者が語っているのを耳にします。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。彼は、白のものを遍く探し求めるために歩みます。〔まさに〕その、この者に、或るひとりの人が、油と垢が付いた粗末な樹皮で騙します。『さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ』と。彼は、それを受け取ります。受け取って、被着します。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちます。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。
マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その生まれながらの盲者である人は、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、この油と垢が付いた粗末な樹皮を受け取るのですか。受け取って、被着するのですか。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放つのですか。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。それとも、眼ある者への信によって、ですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、その生まれながらの盲者である人は、〔あるがままに〕知っていない者として、〔あるがままに〕見ていない者として、この油と垢が付いた粗末な樹皮を受け取ります。受け取って、被着します。被着して、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちます。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。眼ある者への信によって」と。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちであり、無病を知っていない者たちであり、涅槃を見ていない者たちです。そこで、また、そして、この詩偈を語ります。『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である』と。マーガンディヤよ、往古の阿羅漢にして正等覚者たちによって、この詩偈は語られました。
〔すなわち〕『無病は、最高の利得である。涅槃は、最高の安楽である。そして、平安と不死に至る諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔道〕が〔最高である〕』と。
218. マーガンディヤよ、それは、今現在、順次に〔失墜し〕、凡夫の詩偈としてあります。マーガンディヤよ、また、まさに、この身体は、病と成り、腫物と成り、矢と成り、悩苦と成り、病苦と成るものです。〔まさに〕その、あなたは、病と成り、腫物と成り、矢と成り、悩苦と成り、病苦と成るものである、この身体を、『貴君ゴータマよ、これが、その無病です。これが、その涅槃です』と説きます。マーガンディヤよ、まさに、あなたには、聖なる眼が、それが存在しないのです。その聖なる眼によって、あなたが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになる、〔その聖なる眼が〕」と。「貴君ゴータマに、このように浄信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。
219. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します。彼は、その薬を頼りにして、〔両の〕眼〔の機能〕を生起させず、〔両の〕眼〔の機能〕を清めません。マーガンディヤよ、それを、どう思いますか。まさに、その医師は、まさしく、そのかぎりにおいて疲弊と悩苦の分有者として存するのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、もし、わたしが、あなたに、法(教え)を説示するなら、『これが、その無病です。これが、その涅槃です』と、〔まさに〕その、あなたは、無病を知らないでしょうし、涅槃を見ないでしょう。それは、わたしにとって、疲弊として存するでしょうし、それは、わたしにとって、悩害として存するでしょう」と。「貴君ゴータマに、このように浄信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、無病を知ることになり、涅槃を見ることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。
220. 「マーガンディヤよ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。彼は、諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼は、眼ある者が語っているのを耳にします。『ああ、まさに、麗しき形態の無垢にして清らかな本物の白の衣装だ』と。彼は、白のものを遍く探し求めるために歩みます。〔まさに〕その、この者に、或るひとりの人が、油と垢が付いた粗末な樹皮で騙します。『さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ』と。彼は、それを受け取ります。受け取って、被着します。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、外科の医師を奉仕させます。彼のために、その外科の医師は、薬を作り為します──下剤を、吐剤を、塗薬を、塗油を、鼻の治療を。彼は、その薬を頼りにして、〔両の〕眼〔の機能〕を生起させ、〔両の〕眼〔の機能〕を清めます。彼の眼の生起と共に、すなわち、この油と垢が付いた粗末な樹皮にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは捨棄されます。そして、その人を、彼のことを、『朋友ならざる者』ともまた決め付け、『義(利益)に反する者』ともまた決め付け、さらに、また、生命を奪うべき者とも思い考えます。『ああ、まさに、わたしは、長夜にわたり、この人によって、油と垢が付いた粗末な樹皮によって、欺かれ、騙され、惑わされたのだ。「さて、人士たる者よ、これが、あなたの、麗しき形態の無垢にして清らかな白の衣装だ」』と。マーガンディヤよ、まさしく、このように、まさに、もし、わたしが、あなたに、法(教え)を説示するなら、『これが、その無病です。これが、その涅槃です』と、〔まさに〕その、あなたは、無病を知るでしょうし、涅槃を見るでしょう。〔まさに〕その、あなたの、眼の生起と共に、すなわち、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは捨棄されます。さらに、また、あなたに、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、わたしは、長夜にわたり、この心によって、欺かれ、騙され、惑わされたのだ。まさに、わたしは、まさしく、形態を執取しながら執取し、まさしく、感受〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、表象〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、諸々の形成〔作用〕を執取しながら執取し、まさしく、識知〔作用〕を執取しながら執取した。〔まさに〕その、わたしの、執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る』」と。「貴君ゴータマに、このように浄信した者として、わたしはあります。『貴君ゴータは、すなわち、わたしが、盲者ならざる者となり、この坐から立ち上がることになるように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる』」と。
221. 「マーガンディヤよ、まさに、それでは、あなたは、正なる人士たちに親近するべきです。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、正なる人士たちに親近することから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、正なる法(教え)を聞くでしょう。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、正なる法(教え)を聞くことから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、法(教え)を法(教え)のままに実践するでしょう。マーガンディヤよ、すなわち、まさに、あなたが、法(教え)を法(教え)のままに実践することから、マーガンディヤよ、そののち、あなたは、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。『これらは、諸々の病であり、諸々の腫物であり、諸々の矢である。ここに、諸々の病は、諸々の腫物は、諸々の矢は、完全に残りなく止滅する。〔まさに〕その、わたしの、執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。
222. このように説かれたとき、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。「マーガンディヤよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、マーガンディヤ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者マーガンディヤは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者マーガンディヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
マーガンディヤの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。