相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 範疇の部(蘊篇・上)

 

【目次】

 

1(22). 範疇に相応するもの(1.~)

 

1. ナクラピタルの章(1.~)

 

1. ナクラピタルの経

2. デーヴァダハの経

3. ハーリッディカーニの経

4. 第二のハーリッディカーニの経

5. 禅定の経

6. 静坐の経

7. 〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことの経

8. 第二の〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことの経

9. 三つの時の無常の経

10. 三つの時の苦痛の経

11. 三つの時の無我の経

 

2. 無常の章(12.~)

 

1. 無常の経

2. 苦痛の経

3. 無我の経

4. 「それが、無常であるなら」の経

5. 「それが、苦痛であるなら」の経

6. 「それが、無我であるなら」の経

7. 因を有するものと無常の経

8. 因を有するものと苦痛の経

9. 因を有するものと無我の経

10. アーナンダの経

 

3. 荷の章(22.~)

 

1. 荷の経

2. 遍知の経

3. 証知の経

4. 欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経

5. 悦楽の経

6. 第二の悦楽の経

7. 第三の悦楽の経

8. 愉悦の経

9. 生起の経

10. 悩苦の根元の経

11. 滅壊の経

 

4. 「あなたたちのものでないなら」の章(33.~)

 

1. 「あなたたちのものでないなら」の経

2. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

3. 或るひとりの比丘の経

4. 第二の或るひとりの比丘の経

5. アーナンダの経

6. 第二のアーナンダの経

7. 法のままなるものの経

8. 第二の法のままなるものの経

9. 第三の法のままなるものの経

10. 第四の法のままなるものの経

 

5. 自己を洲とする者たちの章(43.~)

 

1. 自己を洲とする者たちの経

2. 〔実践の〕道の経

3. 無常の経

4. 第二の無常の経

5. 等しき随観の経

6. 範疇の経

7. ソーナの経

8. 第二のソーナの経

9. 愉悦の滅尽の経

10. 第二の愉悦の滅尽の経

 

6. 接近の章(53.~)

 

1. 接近の経

2. 種の経

3. 感興〔の言葉〕の経

4. 執取の遍き転起の経

5. 七つの状況の経

6. 正等覚者の経

7. 無我の特相の経

8. マハーリの経

9. 「燃えています」の経

10. 言語の道の経

 

7. 阿羅漢の章(63.~)

 

1. 執取している者の経

2. 思い考えている者の経

3. 愉悦している者の経

4. 無常の経

5. 苦痛の経

6. 無我の経

7. 自己に属さないものの経

8. 貪るべきものとして止住しているものの経

9. ラーダの経

10. スラーダの経

 

8. 喰われるべきものの章(73.~)

 

1. 悦楽の経

2. 集起の経

3. 第二の集起の経

4. 阿羅漢たちの経

5. 第二の阿羅漢たちの経

6. 獅子の経

7. 喰われるべきものの経

8. 食乞いの経

9. パーリレイヤの経

10. 満月の経

 

9. 長老の章(83.~)

 

1. アーナンダの経

2. ティッサの経

3. ヤマカの経

4. アヌラーダの経

5. ヴァッカリの経

6. アッサジの経

7. ケーマカの経

8. チャンナの経

9. ラーフラの経

10. 第二のラーフラの経

 

10. 花の章(93.~)

 

1. 川の経

2. 花の経

3. 泡沫の団塊の経

4. 牛糞の団塊の経

5. 爪先の経

6. 単純なるものの経

7. 革紐の結縛の経

8. 第二の革紐の結縛の経

9. 鉈の柄の経

10. 無常の表象の経

 

11. 極の章(103.~)

 

1. 極の経

2. 苦しみの経

3. 身体を有することの経

4. 遍知されるべきものの経

5. 沙門たちの経

6. 第二の沙門たちの経

7. 預流たる者の経

8. 阿羅漢の経

9. 欲〔の思い〕の捨棄の経

10. 第二の欲〔の思い〕の捨棄の経

 

12. 法の講話者の章(113.~)

 

1. 無明の経

2. 明知の経

3. 法の講話者の経

4. 第二の法の講話者の経

5. 結縛の経

6. 遍問の経

7. 第二の遍問の経

8. 束縛されるべきものの経

9. 執取されるべきものの経

10. 戒ある者の経

11. 有聞の者の経

12. カッパの経

13. 第二のカッパの経

 

13. 無明の章(126.~)

 

1. 集起の法の経

2. 第二の集起の法の経

3. 第三の集起の法の経

4. 悦楽の経

5. 第二の悦楽の経

6. 集起の経

7. 第二の集起の経

8. コッティカの経

9. 第二のコッティカの経

10. 第三のコッティカの経

 

14. 熱灰の章(136.~)

 

1. 熱灰の経

2. 無常の経

3. 第二の無常の経

4. 第三の無常の経

5. 苦痛の経

6. 第二の苦痛の経

7. 第三の苦痛の経

8. 無我の経

9. 第二の無我の経

10. 第三の無我の経

11. 厭離多き者の経

12. 無常を随観する者の経

13. 苦痛を随観する者の経

14. 無我を随観する者の経

 

15. 見解の章(150.~)

 

1. 「内に」の経

2. 「これは、わたしのものである」の経

3. 「それは、自己である」の経

4. 「かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく」の経

5. 誤った見解の経

6. 身体を有するという見解の経

7. 自己についての偏った見解の経

8. 固着の経

9. 第二の固着の経

10. アーナンダの経

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 範疇の部(蘊篇・上)

 

1(22). 範疇に相応するもの

 

1. ナクラピタルの章

 

1. ナクラピタルの経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、ナクラピタル家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナクラピタル家長は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、わたしは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者であり、病んだ身体の、幾度となく病ある者として〔世に〕存しています。尊き方よ、また、まさに、わたしは、世尊と、意を修めることができる比丘たちと、常に会見する者でもありません。尊き方よ、世尊は、わたしに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしに教示してください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、この身体は、病めるものとしてあり、卵の状態で〔身を保ち〕、〔薄い表皮に〕覆い包まれています。家長よ、まさに、すなわち、この身体を持ち運びながら、寸時でさえも無病を明言するなら、愚かであるより他の、何だというのでしょう(愚者以外の何ものでもない)。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『病める身体の者として〔世に〕存しているわたしであるが、〔わたしの〕心は、病めることなきものとして〔世に〕有るのだ』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 そこで、まさに、ナクラピタル家長は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナクラピタル家長に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「家長よ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。まさに、今日、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを得たのでは」と。

 

 「尊き方よ、まさに、どうして、〔聞くこと〕なく存するというのでしょう。尊き方よ、今や、わたしは、世尊によって、法(教え)の講話によって、不死によって、灌頂されたのです」と。「家長よ、また、すなわち、どのように、あなたは、世尊によって、法(教え)の講話によって、不死によって、灌頂されたのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしは、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者であり、病んだ身体の、幾度となく病ある者として〔世に〕存しています。尊き方よ、また、まさに、わたしは、世尊と、意を修めることができる比丘たちと、常に会見する者でもありません。尊き方よ、世尊は、わたしに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしに教示してください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、この身体は、病めるものとしてあり、卵の状態で〔身を保ち〕、〔薄い表皮に〕覆い包まれています。家長よ、まさに、すなわち、この身体を持ち運びながら、寸時でさえも無病を明言するなら、愚かであるより他の、何だというのでしょう。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「病める身体の者として〔世に〕存しているわたしであるが、〔わたしの〕心は、病めることなきものとして〔世に〕有るのだ」と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって、法(教え)の講話によって、不死によって、灌頂されたのです」と。

 

 「家長よ、また、まさに、あなたは、さらなる問い返しをするべく、世尊に答えませんでした。『尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、まさしく、そして、病める身体の者として〔世に〕有り、さらに、病める心の者となるのですか。また、そして、どのようなことから、まさに、病める身体の者として、まさに、〔世に〕有るも、しかしながら、病める心の者とならないのですか』」と。「尊き方よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)」と。

 

 「家長よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ナクラピタル家長は、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「家長よ、では、どのように、まさしく、そして、病める身体の者として〔世に〕有り、さらに、病める心の者となるのですか。家長よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。〔彼は〕『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、その形態が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起します。

 

 感受〔作用〕()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。〔彼は〕『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、その感受〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、感受〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。

 

 表象〔作用〕()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。〔彼は〕『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、その表象〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、表象〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。

 

 諸々の形成〔作用〕()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。〔彼は〕『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、それらの形成〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、諸々の形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。

 

 識知〔作用〕()を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。〔彼は〕『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有ります。〔まさに〕その、『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。家長よ、このように、まさに、まさしく、そして、病める身体の者として〔世に〕有り、さらに、病める心の者となります。

 

 家長よ、では、どのように、まさに、病める身体の者として、まさに、〔世に〕有るも、しかしながら、病める心の者とならないのですか。家長よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。〔彼は〕『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有りません。〔まさに〕その、『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、その形態が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、形態である』『形態は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。

 

 感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。〔彼は〕『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有りません。〔まさに〕その、『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、その感受〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、感受〔作用〕である』『感受〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、感受〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。

 

 表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。〔彼は〕『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有りません。〔まさに〕その、『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、その表象〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、表象〔作用〕である』『表象〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、表象〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。

 

 諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。〔彼は〕『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有りません。〔まさに〕その、『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、それらの形成〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、諸々の形成〔作用〕である』『諸々の形成〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、諸々の形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。

 

 識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。〔彼は〕『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住する者として〔世に〕有りません。〔まさに〕その、『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。〔まさに〕その、『わたしは、識知〔作用〕である』『識知〔作用〕は、わたしのものである』と妄執に止住しない者に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。家長よ、このように、まさに、病める身体の者として、まさに、〔世に〕有るも、しかしながら、病める心の者ではありません」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たナクラピタル家長は、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. デーヴァダハの経

 

2. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、デーヴァダハという名の町があります。そこで、まさに、大勢の西の地に赴く比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちは、西の地にある地方に赴くことを、西の地にある地方において居住を営むことを、求めます」と。

 

 「比丘たちよ、また、あなたたちは、サーリプッタに暇乞いをしましたか」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタに暇乞いをしていません」と。「比丘たちよ、サーリプッタに暇乞いをしなさい。比丘たちよ、サーリプッタは、賢者です。サーリプッタは、梵行を共にする比丘たちの資助者です」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、世尊から遠く離れていないところで、或るどこかのエーラガラー〔樹〕の茂みにおいて、坐った状態でいます。そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、わたしたちは、西の地にある地方に赴くことを、西の地にある地方において居住を営むことを、求めます。わたしたちは、教師に暇乞いをしたところです」と。

 

 「友よ、まさに、種々なる異境に赴いた比丘に、問いを尋ねる者たちが存在します──士族の賢者たちもまた、婆羅門の賢者たちもまた、家長の賢者たちもまた、沙門の賢者たちもまた。友よ、なぜなら、賢者たる人間たちは、審査者たちであるからです。『また、尊者たちの教師は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか』と。どうでしょう、まさに、尊者たちに、諸々の法(教え)は、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧(慧・般若)によって善く理解されていますか。どのように説き明かしているなら、尊者たちは、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、まさに、種々なる異境に赴いた比丘に、問いを尋ねる者たちが存在します──士族の賢者たちもまた……略……沙門の賢者たちもまた。友よ、なぜなら、賢者たる人間たちは、審査者たちであるからです。『また、尊者たちの教師は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか』と。友よ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、わたしたちの教師は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)を告げ知らせる者です』と。

 

 友よ、このように説き明かされたときもまた、まさに、さらなる問いを尋ねる者たちが、まさしく、存在するでしょう──士族の賢者たちもまた……略……沙門の賢者たちもまた。友よ、なぜなら、賢者たる人間たちは、審査者たちであるからです。『また、尊者たちの教師は、何にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者ですか』と。友よ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、わたしたちの教師は、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者であり、感受〔作用〕にたいする……表象〔作用〕にたいする……諸々の形成〔作用〕にたいする……識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者です』と。

 

 友よ、このように説き明かされたときもまた、まさに、さらなる問いを尋ねる者たちが、まさしく、存在するでしょう──士族の賢者たちもまた……略……沙門の賢者たちもまた。友よ、なぜなら、賢者たる人間たちは、審査者たちであるからです。『また、尊者たちの教師は、どのような危険を見て、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者であり、感受〔作用〕にたいする……表象〔作用〕にたいする……諸々の形成〔作用〕にたいする……識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者ですか』と。友よ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に、欲〔の思い〕を離れ去っていない者に、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者に、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者に、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者に、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者に、その形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起し、感受〔作用〕にたいし……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に……略……渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者に、それらの形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起し、識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に、欲〔の思い〕を離れ去っていない者に、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者に、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者に、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者に、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者に、その識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。友よ、まさに、わたしたちの教師は、この危険を見て、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者であり、感受〔作用〕にたいする……表象〔作用〕にたいする……諸々の形成〔作用〕にたいする……識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者です』と。

 

 友よ、このように説き明かされたときもまた、まさに、さらなる問いを尋ねる者たちが、まさしく、存在するでしょう──士族の賢者たちもまた……略……沙門の賢者たちもまた。友よ、なぜなら、賢者たる人間たちは、審査者たちであるからです。『また、尊者たちの教師は、どのような福利を見て、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者であり、感受〔作用〕にたいする……表象〔作用〕にたいする……諸々の形成〔作用〕にたいする……識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者ですか』と。友よ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に、欲〔の思い〕を離れ去った者に、愛情〔の思い〕を離れ去った者に、涸渇〔の思い〕を離れ去った者に、苦悶〔の思い〕を離れ去った者に、渇愛〔の思い〕を離れ去った者に、その形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはなく、感受〔作用〕にたいし……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に、欲〔の思い〕を離れ去った者に、愛情〔の思い〕を離れ去った者に、涸渇〔の思い〕を離れ去った者に、苦悶〔の思い〕を離れ去った者に、渇愛〔の思い〕を離れ去った者に、それらの形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはなく、識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に、欲〔の思い〕を離れ去った者に、愛情〔の思い〕を離れ去った者に、涸渇〔の思い〕を離れ去った者に、苦悶〔の思い〕を離れ去った者に、渇愛〔の思い〕を離れ去った者に、その識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。友よ、まさに、わたしたちの教師は、この福利を見て、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者であり、感受〔作用〕にたいする……表象〔作用〕にたいする……諸々の形成〔作用〕にたいする……識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏を告げ知らせる者です』と。

 

 友よ、もし、諸々の善ならざる法(性質)を成就して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、所見の法(現法:現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽の住が有ることになり、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)が待っているなら、世尊は、この、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を褒め称えないでしょう。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の善ならざる法(性質)を成就して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛の住があり、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っていることから、それゆえに、世尊は、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を褒め称えます。

 

 友よ、もし、諸々の善なる法(性質)を成就して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛の住が有ることになり、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っているなら、世尊は、この、諸々の善なる法(性質)の成就を褒め称えないでしょう。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の善なる法(性質)を成就して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽の住があり、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っていることから、それゆえに、世尊は、諸々の善なる法(性質)の成就を褒め称えます」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. ハーリッディカーニの経

 

3. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。クララガラのパパータ山において。そこで、まさに、ハーリッディカーニ家長が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ハーリッディカーニ家長は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「尊き方よ、この〔言葉〕が、『八なるものの章』(スッタニパータ第四章)におけるマーガンディヤの問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 〔すなわち〕『家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。

 

 尊き方よ、いったい、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。

 

 「家長よ、まさに、形態の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、形態の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、感受〔作用〕の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、感受〔作用〕の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、表象〔作用〕の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、表象〔作用〕の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、諸々の形成〔作用〕の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、諸々の形成〔作用〕の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家ありて行く者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、家なくして行く者と成るのですか。家長よ、まさに、形態の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、まさに、感受〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、表象〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、識知〔作用〕の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家なくして行く者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、住所ありて行く者と成るのですか。家長よ、まさに、形態()の形相にたいし住所ありて行く結縛あることから、『住所ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、音声()の形相にたいする……。家長よ、まさに、臭気()の形相にたいする……。家長よ、まさに、味感()の形相にたいする……。家長よ、まさに、感触(所触)の形相にたいする……。家長よ、まさに、法(:意の対象)の形相にたいし住所ありて行く結縛あることから、『住所ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、住所ありて行く者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、住所なくして行く者と成るのですか。家長よ、まさに、如来の、形態の形相にたいし住所ありて行く結縛は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『住所なくして行く者』と説かれます。家長よ、まさに、如来の、音声の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、臭気の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、味感の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、感触の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、法(意の対象)の形相にたいし住所ありて行く結縛は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『住所なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、住所なくして行く者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者は、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住みます。喜びを共にし、憂いを共にし、安楽の者たちのなかで安楽の者となり、苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、それらにたいし、専念〔努力〕を惹起します。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成らないのですか。家長よ、ここに、比丘が、在家者たちと交わりなき者として〔世に〕住みます。喜びを共にせず、憂いを共にせず、安楽の者たちのなかで安楽の者とならず、苦痛の者たちのなかで苦痛の者とならず、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、それらにたいし、専念〔努力〕を惹起しません。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成りません。

 

 家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざからない者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕か遠ざからない者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、偏重している者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。家長よ、このように、まさに、偏重している者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、偏重せずにいる者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有りません。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。家長よ、このように、まさに、偏重せずにいる者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成ります。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った』『わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある』『あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)』『〔あなたは〕存している──糾弾された者として。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成ります。

 

 家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成らないのですか。家長よ、ここに、比丘が、このような形態の言説を為す者と成りません。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成りません。

 

 家長よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『八なるものの章』(スッタニパータ第四章)におけるマーガンディヤの問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 〔すなわち〕『家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。

 

 家長よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二のハーリッディカーニの経

 

4. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、アヴァンティ〔国〕に住んでいます。クララガラのパパータ山において。そこで、まさに、ハーリッディカーニ家長が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに……略……。一方に坐った、まさに、ハーリッディカーニ家長は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「尊き方よ、この〔言葉〕が、帝釈〔天〕の問い(長部・大篇:帝釈〔天〕の問いの経)において、世尊によって説かれました。『すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、渇愛の消滅において解脱した者たちであるなら、彼らは、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちであり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者たちとなります』と。

 

 尊き方よ、いったい、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。

 

 「家長よ、形態の界域にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらの、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。

 

 家長よ、感受〔作用〕の界域にたいし、まさに……。家長よ、表象〔作用〕の界域にたいし、まさに……。家長よ、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし、まさに……。家長よ、識知〔作用〕の界域にたいし、まさに、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらの、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、『心は善く解脱している』と説かれます。

 

 家長よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、帝釈〔天〕の問いにおいて、世尊によって説かれました。『すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、渇愛の消滅において解脱した者たちであるなら、彼らは、究極の結論ある者たちであり、究極の束縛からの平安ある者たちであり、究極の梵行ある者たちであり、究極の結末ある者たちであり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者たちとなります』と。

 

 家長よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 禅定の経

 

5. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、感受〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、表象〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、諸々の形成〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、〔事実のとおりに覚知します〕。

 

 比丘たちよ、では、何が、形態の集起であり、何が、感受〔作用〕の集起であり、何が、表象〔作用〕の集起であり、何が、諸々の形成〔作用〕の集起であり、何が、識知〔作用〕の集起なのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、愉悦し、迎合し、固執して止住します。

 

 では、何に、愉悦し、迎合し、固執して止住するのですか。形態に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、形態に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、形態にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有ります。

 

 感受〔作用〕に、愉悦し……略……。表象〔作用〕に、愉悦し……。諸々の形成〔作用〕に、愉悦し……。識知〔作用〕に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、識知〔作用〕に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、識知〔作用〕にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、これは、形態の集起であり、これは、感受〔作用〕の集起であり、これは、表象〔作用〕の集起であり、これは、諸々の形成〔作用〕の集起であり、これは、識知〔作用〕の集起です。

 

 比丘たちよ、では、何が、形態の滅至であり、何が、感受〔作用〕の……何が、表象〔作用〕の……何が、諸々の形成〔作用〕の……何が、識知〔作用〕の滅至なのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。

 

 では、何に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないのですか。形態に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、形態に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、形態にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 感受〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、感受〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、感受〔作用〕にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 表象〔作用〕に、愉悦せず……略……。諸々の形成〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、諸々の形成〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、諸々の形成〔作用〕にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があり、執取の止滅あることから、生存の止滅があり……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 識知〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、識知〔作用〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、識知〔作用〕にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、これは、形態の滅至であり、これは、感受〔作用〕の滅至であり、これは、表象〔作用〕の滅至であり、これは、諸々の形成〔作用〕の滅至であり、これは、識知〔作用〕の滅至です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 静坐の経

 

6. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、静坐において、〔心の〕制止(瑜伽)を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐する比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、感受〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、表象〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、諸々の形成〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を……略……。(すなわち、第五の経におけるように、そのように詳知されるべきである。)〔以上が〕第六となる。

 

7. 〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことの経

 

7. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことを、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのように、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことと成るのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、形態の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。形態の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩みます。

 

 感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その感受〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、感受〔作用〕の変化と他なる状態あることから、感受〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。感受〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩みます。

 

 表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、それらの形成〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、諸々の形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の形成〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。諸々の形成〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩みます。

 

 識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、識知〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。識知〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩みます。比丘たちよ、このように、まさに、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成るのですか。比丘たちよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、形態の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。形態の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。

 

 感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼に、その感受〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、感受〔作用〕の変化と他なる状態あることから、感受〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。感受〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。

 

 表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼に、それらの形成〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、諸々の形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の形成〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。諸々の形成〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。

 

 識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず……略……。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、識知〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。識知〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。比丘たちよ、このように、まさに、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことの経

 

8. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことを、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのように、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことと成るのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、形態を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。感受〔作用〕を、『これは、わたしのものである。……略……。表象〔作用〕を、『これは、わたしのものである。……。諸々の形成〔作用〕を、『これは、わたしのものである。……。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。比丘たちよ、このように、まさに、〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むことと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成るのですか。比丘たちよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。感受〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。……。表象〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。……。諸々の形成〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。……。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはありません。比丘たちよ、このように、まさに、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 三つの時の無常の経

 

9. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、過去と未来の形態は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の形態について期待なき者と成り、未来の形態に愉悦せず、現在の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の感受〔作用〕は、無常です。……略……。過去と未来の表象〔作用〕は、無常です。……。過去と未来の諸々の形成〔作用〕は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の諸々の形成〔作用〕について期待なき者と成り、未来の諸々の形成〔作用〕に愉悦せず、現在の諸々の形成〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の識知〔作用〕は、無常です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の識知〔作用〕について期待なき者と成り、未来の識知〔作用〕に愉悦せず、現在の識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 三つの時の苦痛の経

 

10. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、過去と未来の形態は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の形態について期待なき者と成り、未来の形態に愉悦せず、現在の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の感受〔作用〕は、苦痛です。……。過去と未来の表象〔作用〕は、苦痛です。……。過去と未来の諸々の形成〔作用〕は、苦痛です。……。過去と未来の識知〔作用〕は、苦痛です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の識知〔作用〕について期待なき者と成り、未来の識知〔作用〕に愉悦せず、現在の識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 三つの時の無我の経

 

11. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、過去と未来の形態は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の形態について期待なき者と成り、未来の形態に愉悦せず、現在の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。過去と未来の感受〔作用〕は、無我です。……。過去と未来の表象〔作用〕は、無我です。……。過去と未来の諸々の形成〔作用〕は、無我です。……。過去と未来の識知〔作用〕は、無我です。現在のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、過去の識知〔作用〕について期待なき者と成り、未来の識知〔作用〕に愉悦せず、現在の識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 ナクラピタルの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ナクラピタル、デーヴァダハ、そして、また、二つのハーリッディカーニ、禅定、静坐、二つの〔何かに〕執取して、〔何かに〕思い悩むこと、〔三つの〕過去と未来と現在があり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

2. 無常の章

 

1. 無常の経

 

12. このように、わたしは聞きました。サーヴァッティーにおいて。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 苦痛の経

 

13. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、苦痛です。感受〔作用〕は、苦痛です。表象〔作用〕は、苦痛です。諸々の形成〔作用〕は、苦痛です。識知〔作用〕は、苦痛です。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 無我の経

 

14. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「それが、無常であるなら」の経

 

15. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。表象〔作用〕は、無常です。……略……。諸々の形成〔作用〕は、無常です。……。識知〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「それが、苦痛であるなら」の経

 

16. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕は、苦痛です。……。表象〔作用〕は、苦痛です。……。諸々の形成〔作用〕は、苦痛です。……。識知〔作用〕は、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 「それが、無我であるなら」の経

 

17. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕は、無我です。……。表象〔作用〕は、無我です。……。諸々の形成〔作用〕は、無我です。……。識知〔作用〕は、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 因を有するものと無常の経

 

18. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。形態の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常であるものから発生した形態が、どうして、常住として有るというのでしょう。感受〔作用〕は、無常です。感受〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常であるものから発生した感受〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。表象〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常であるものから発生した表象〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。諸々の形成〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常であるものから発生した諸々の形成〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。識知〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無常です。比丘たちよ、無常であるものから発生した識知〔作用〕が、どうして、常住として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 因を有するものと苦痛の経

 

19. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、苦痛です。形態の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛であるものから発生した形態が、どうして、安楽として有るというのでしょう。感受〔作用〕は、苦痛です。……。表象〔作用〕は、苦痛です。……。諸々の形成〔作用〕は、苦痛です。……。識知〔作用〕は、苦痛です。識知〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、苦痛です。比丘たちよ、苦痛であるものから発生した識知〔作用〕が、どうして、安楽として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 因を有するものと無我の経

 

20. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無我です。形態の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我であるものから発生した形態が、どうして、自己として有るというのでしょう。感受〔作用〕は、無我です。……。表象〔作用〕は、無我です。……。諸々の形成〔作用〕は、無我です。……。識知〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕の生起のための、その因もまた、その縁もまた、それもまた、無我です。比丘たちよ、無我であるものから発生した識知〔作用〕が、どうして、自己として有るというのでしょう。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. アーナンダの経

 

21. サーヴァッティーの……林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『止滅』『止滅』と説かれます。尊き方よ、まさに、どのような諸々の法(性質)の止滅が、『止滅』と説かれるのですか」と。「アーナンダよ、まさに、形態は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。その〔形態〕の止滅が、『止滅』と説かれます。感受〔作用〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。その〔感受作用〕の止滅が、『止滅』と説かれます。表象〔作用〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。その〔表象作用〕の止滅が、『止滅』と説かれます。諸々の形成〔作用〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。それら〔の形成作用〕の止滅が、『止滅』と説かれます。識知〔作用〕は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。その〔識知作用〕の止滅が、『止滅』と説かれます。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)の止滅が、『止滅』と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 無常の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無常、苦痛、無我、他に、『それが、無常であるなら』〔等〕の三つのものが〔説かれ〕、因によってもまた、三つのものが説かれ、そして、アーナンダとともに、それらの十がある」と。

 

3. 荷の章

 

1. 荷の経

 

22. サーヴァッティーにおいて。そこで、まさに……。「比丘たちよ、では、荷を、そして、荷を運ぶ者を、かつまた、荷を取ることを、さらに、荷を置くことを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、荷なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これは、荷と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、荷を運ぶ者なのですか。『人』と説かれるべきものが存在します。すなわち、この、このような名の者としてあり、このような姓の者としてある、尊者です。比丘たちよ、これは、荷を運ぶ者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、荷を取ることなのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。比丘たちよ、これは、荷を取ることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、荷を置くことなのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、荷を置くことと説かれます。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「荷は、まさに、五つの〔心身を構成する〕範疇であり、そして、荷を運ぶ者は、人である。世において、荷を取ることは、苦痛であり、荷を置くことは、安楽である。

 

 重い荷を置いて、他の荷を取らずして、渇愛を根ごと引き抜いて、無欲の者となり、涅槃に到達した者となる」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 遍知の経

 

23. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、諸々の遍知されるべき法(性質)を、そして、遍知を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の遍知するべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、形態は、遍知されるべき法(性質)であり、感受〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)であり、表象〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)であり、諸々の形成〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)であり、識知〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。比丘たちよ、これらは、諸々の遍知されるべき法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、遍知なのですか。比丘たちよ、すなわち、貪欲()の滅尽であり、憤怒()の滅尽であり、迷妄()の滅尽です。比丘たちよ、これは、遍知と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 証知の経

 

24. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。感受〔作用〕を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。表象〔作用〕を、証知せずにいる者は……。諸々の形成〔作用〕を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。識知〔作用〕を、証知せずにいる者は、遍知せずにいる者は、離貪させずにいる者は、捨棄せずにいる者は、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、形態を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です。感受〔作用〕を、証知している者は……。表象〔作用〕を、証知している者は……。諸々の形成〔作用〕を、証知している者は……。識知〔作用〕を、証知している者は、遍知している者は、離貪させている者は、捨棄している者は、苦しみの滅尽の可能ある者です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経

 

25. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その形態は捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。それが、感受〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その感受〔作用〕は捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。それが、表象〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その表象〔作用〕は捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。それが、諸々の形成〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、それらの形成〔作用〕は捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。それが、識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その識知〔作用〕は捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 悦楽の経

 

26. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、形態の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。感受〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。表象〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。諸々の形成〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。識知〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽である。すなわち、形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険である。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離である。それが、感受〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受〔作用〕の悦楽である。すなわち、感受〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受〔作用〕の危険である。それが、感受〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受〔作用〕の出離である。それが、表象〔作用〕を縁として生起する……略……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の悦楽である。すなわち、諸々の形成〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の形成〔作用〕の危険である。それが、諸々の形成〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の出離である。それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽である。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛あり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険である。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離である』と。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の悦楽の経

 

27. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、形態の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、形態の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの形態の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、形態の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、形態の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの形態の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、形態の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、形態の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの形態の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、感受〔作用〕の……。比丘たちよ、わたしは、表象〔作用〕の……。比丘たちよ、わたしは、諸々の形成〔作用〕の……。比丘たちよ、わたしは、識知〔作用〕の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、識知〔作用〕の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの識知〔作用〕の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、識知〔作用〕の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、識知〔作用〕の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの識知〔作用〕の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、識知〔作用〕の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、識知〔作用〕の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの識知〔作用〕の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の悦楽の経

 

28. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、もし、このことが、形態の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが形態にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、形態にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、形態の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが形態にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、形態にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、形態の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが形態にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、形態にたいし出離します。比丘たちよ、もし、このことが、感受〔作用〕の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……略……。比丘たちよ、もし、このことが、表象〔作用〕の……。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の形成〔作用〕の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の形成〔作用〕にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形成〔作用〕の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の形成〔作用〕にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、諸々の形成〔作用〕の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが諸々の形成〔作用〕にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形成〔作用〕の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、諸々の形成〔作用〕にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、識知〔作用〕の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが識知〔作用〕にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、識知〔作用〕にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、識知〔作用〕の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが識知〔作用〕にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、識知〔作用〕にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、識知〔作用〕の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが識知〔作用〕にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、識知〔作用〕にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 愉悦の経

 

29. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、彼が、形態に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、感受〔作用〕に愉悦するなら……。彼が、表象〔作用〕に愉悦するなら……。彼が、諸々の形成〔作用〕に愉悦するなら……。彼が、識知〔作用〕に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼が、形態に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、感受〔作用〕に愉悦しないなら……。彼が、表象〔作用〕に愉悦しないなら……。彼が、諸々の形成〔作用〕に愉悦しないなら……。彼が、識知〔作用〕に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 生起の経

 

30. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、感受〔作用〕の……略……。それが、表象〔作用〕の……略……。それが、諸々の形成〔作用〕の……略……。それが、識知の〔作用〕の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、まさに、形態の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、感受〔作用〕の……略……。それが、表象〔作用〕の……。それが、諸々の形成〔作用〕の……。それが、識知の〔作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 悩苦の根元の経

 

31. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、悩苦を、そして、悩苦の根元を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、悩苦なのですか。比丘たちよ、形態は、悩苦です。感受〔作用〕は、悩苦です。表象〔作用〕は、悩苦です。諸々の形成〔作用〕は、悩苦です。識知〔作用〕は、悩苦です。比丘たちよ、これは、悩苦と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、悩苦の根元なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、悩苦の根元と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 滅壊の経

 

32. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、滅壊を、そして、滅壊なきものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、何が滅壊であり、何が滅壊なきものなのですか。比丘たちよ、形態は、滅壊です。それが、その〔形態〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、滅壊なきものです。感受〔作用〕は、滅壊です。それが、その〔感受作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、滅壊なきものです。表象〔作用〕は、滅壊です。それが、その〔表象作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、滅壊なきものです。諸々の形成〔作用〕は、滅壊です。それが、それら〔の形成作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、滅壊なきものです。識知〔作用〕は、滅壊です。それが、その〔識知作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、滅壊なきものです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 荷の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「荷、遍知、証知、第四のものとして、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕、そして、三つの悦楽が説かれ、第八のものとして、愉悦、生起、そして、悩苦の根元、第十一のものとして、滅壊があり、〔章となる〕」と。

 

4. 「あなたたちのものでないなら」の章

 

1. 「あなたたちのものでないなら」の経

 

33. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。表象〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。諸々の形成〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも、あるいは、自己に属するものでも、ないからです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。表象〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。諸々の形成〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の「あなたたちのものでないなら」の経

 

34. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。表象〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。諸々の形成〔作用〕は、あなたたちのものではありません。……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 或るひとりの比丘の経

 

35. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが悪習となるなら、それによって、名称に至ります。それが悪習とならないなら、それによって、名称に至ることはありません」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、もし、形態が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。もし、感受〔作用〕が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。もし、表象〔作用〕が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。もし、諸々の形成〔作用〕が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。もし、識知〔作用〕が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。尊き方よ、もし、形態が悪習とならないなら、それによって、名称に至ることはありません。もし、感受〔作用〕が……。もし、表象〔作用〕が……。もし、諸々の形成〔作用〕が……。もし、識知〔作用〕が悪習とならないなら、それによって、名称に至ることはありません。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、もし、形態が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。もし、感受〔作用〕が……。もし、表象〔作用〕が……。もし、諸々の形成〔作用〕が……。もし、識知〔作用〕が悪習となるなら、それによって、名称に至ります。比丘よ、もし、形態が悪習とならないなら、それによって、名称に至ることはありません。もし、感受〔作用〕が……。もし、表象〔作用〕が……。もし、諸々の形成〔作用〕が……。もし、識知〔作用〕が悪習とならないなら、それによって、名称に至ることはありません。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の或るひとりの比丘の経

 

36. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが悪習となるなら、それは考量されます。それが考量されるなら、それによって、名称に至ります。それが悪習とならないなら、それは考量されません。それが考量されないなら、それによって、名称に至ることはありません」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、もし、形態が悪習となるなら、それは考量されます。それが考量されるなら、それによって、名称に至ります。もし、感受〔作用〕が悪習となるなら……。もし、表象〔作用〕が悪習となるなら……。もし、諸々の形成〔作用〕が悪習となるなら……。もし、識知〔作用〕が悪習となるなら、それは考量されます。それが考量されるなら、それによって、名称に至ります。尊き方よ、もし、形態が悪習とならないなら、それは考量されません。それが考量されないなら、それによって、名称に至ることはありません。もし、感受〔作用〕が……。もし、表象〔作用〕が……。もし、諸々の形成〔作用〕が……。もし、識知〔作用〕が悪習とならないなら、それは考量されません。それが考量されないなら、それによって、名称に至ることはありません。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、もし、形態が悪習となるなら、それは考量されます。それが考量されるなら、それによって、名称に至ります。比丘よ、もし、感受〔作用〕が……。比丘よ、もし、表象〔作用〕が……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕が……。比丘よ、もし、識知〔作用〕が悪習となるなら、それは考量されます。それが考量されるなら、それによって、名称に至ります。比丘よ、もし、形態が悪習とならないなら、それは考量されません。それが考量されないなら、それによって、名称に至ることはありません。もし、感受〔作用〕が……。もし、表象〔作用〕が……。もし、諸々の形成〔作用〕が……。もし、識知〔作用〕が悪習とならないなら、それは考量されません。それが考量されないなら、それによって、名称に至ることはありません。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. アーナンダの経

 

37. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、それで、もし、〔比丘たちが〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのですか』と。アーナンダよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔比丘たちが〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、まさに、形態に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。友よ、まさに、これらの法(性質)に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、まさに、形態に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)に、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。かくのごとく、アーナンダよ、このように尋ねられたなら、あなたは、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二のアーナンダの経

 

38. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、それで、もし、あなたに、このように、〔比丘たちが〕尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されたのですか。友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのでしょうか。友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのですか』と。アーナンダよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔比丘たちが〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されたのですか。友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのでしょうか。友よ、アーナンダよ、どのような諸々の法(性質)に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、まさに、その形態が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔形態〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。その感受〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔感受作用〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。その表象〔作用〕が……略……。それらの形成〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、それら〔の形成作用〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。その識知〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔識知作用〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。友よ、まさに、これらの法(性質)に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。

 

 友よ、まさに、その形態が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔形態〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。その感受〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔感受作用〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。その表象〔作用〕が……略……。それらの形成〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、それら〔の形成作用〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。その識知〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔識知作用〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。友よ、まさに、これらの法(性質)に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。

 

 友よ、まさに、その形態が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔形態〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。その感受〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔感受作用〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。その表象〔作用〕が……略……。それらの形成〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、それら〔の形成作用〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。その識知〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔識知作用〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。友よ、まさに、これらの法(性質)に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、まさに、その形態が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔形態〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。その感受〔作用〕が……。その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が……。その識知〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔識知作用〕に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)に、〔過去において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されました。

 

 アーナンダよ、まさに、その形態が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔形態〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。その感受〔作用〕が……。その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が……。その識知〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔識知作用〕に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)に、〔未来において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されるでしょう。

 

 アーナンダよ、まさに、その形態が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔形態〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。その感受〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら……。その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が……。その識知〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔識知作用〕に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)に、〔現在において〕生起が覚知され、衰失が覚知され、止住の他化が覚知されます。かくのごとく、アーナンダよ、このように尋ねられたなら、あなたは、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 法のままなるものの経

 

39. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょうし、感受〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょうし、表象〔作用〕にたいし(※)、厭離多き者として〔世に〕住むでしょうし、諸々の形成〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょうし、識知〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょう。彼が、形態にたいし、厭離多き者として〔世に〕住みながら、感受〔作用〕にたいし……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし……識知〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住みながら、形態を遍知するなら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知するなら、彼は、形態を遍知しながら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知しながら、形態から完全に解き放たれ、感受〔作用〕から完全に解き放たれ、表象〔作用〕から完全に解き放たれ、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれ、識知〔作用〕から完全に解き放たれ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

※ テキストには saññā とあるが、PTS版により saññāya と読む。

 

8. 第二の法のままなるものの経

 

40. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、無常を随観する者として〔世に〕住むでしょうし……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の法のままなるものの経

 

41. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、苦痛を随観する者として〔世に〕住むでしょうし……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第四の法のままなるものの経

 

42. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、無我を随観する者として〔世に〕住むでしょうし、感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕において、無我を随観する者として〔世に〕住むでしょう。彼が、形態において、無我を随観する者として〔世に〕住みながら、感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕において、無我を随観する者として〔世に〕住みながら、形態を遍知するなら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知するなら、彼は、形態を遍知しながら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知しながら、形態から完全に解き放たれ、感受〔作用〕から完全に解き放たれ、表象〔作用〕から完全に解き放たれ、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれ、識知〔作用〕から完全に解き放たれ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 「あなたたちのものでないなら」の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『あなたたちのものでないなら』によって、二つのものが説かれ、比丘によって、他に、二つのものが〔説かれ〕、さらに、アーナンダによって、二つのものが説かれ、法(教え)のままなるものによって、二つの二なるものが〔説かれた〕」と。

 

5. 自己を洲とする者たちの章

 

1. 自己を洲とする者たちの経

 

43. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、自己を洲とし自己を帰依所とし他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とし法(教え)を帰依所とし他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、自己を洲とし自己を帰依所とし他のものを帰依所としない者たちとして、法(教え)を洲とし法(教え)を帰依所とし他のものを帰依所としない者たちとして、〔世に〕住んでいるなら、根源が近しく注視されるべきです。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、何を出生とし、何を起源とするのか』と。

 

 比丘たちよ、では、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その形態が変化し、さらに、他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その感受〔作用〕が変化し、さらに、他なる状態となります。彼に、感受〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その識知〔作用〕が変化し、さらに、他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起します。

 

 比丘たちよ、まさしく、しかし、形態の、無常なることを、変化を、離貪を、止滅を、〔あるがままに〕知って、『まさしく、そして、過去における形態は、さらに、今現在、一切の形態は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽の住ある比丘は、『確実なる涅槃に到達した者』と説かれます。比丘たちよ、まさしく、しかし、感受〔作用〕の、無常なることを、変化を、離貪を、止滅を、〔あるがままに〕知って、『まさしく、そして、過去における感受〔作用〕は、さらに、今現在、一切の感受〔作用〕は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽の住ある比丘は、『確実なる涅槃に到達した者』と説かれます。比丘たちよ、まさしく、しかし、表象〔作用〕の……。比丘たちよ、まさしく、しかし、諸々の形成〔作用〕の、無常なることを、変化を、離貪を、止滅を、〔あるがままに〕知って、『まさしく、そして、過去における諸々の形成〔作用〕は、さらに、今現在、一切の形成〔作用〕は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽の住ある比丘は、『確実なる涅槃に到達した者』と説かれます。比丘たちよ、まさしく、しかし、識知〔作用〕の、無常なることを、変化を、離貪を、止滅を、〔あるがままに〕知って、『まさしく、そして、過去における識知〔作用〕は、さらに、今現在、一切の識知〔作用〕は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、安楽のうちに〔世に〕住みます。安楽の住ある比丘は、『確実なる涅槃に到達した者』と説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 〔実践の〕道の経

 

44. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、身体を有すること(有身)の集起に至る〔実践の〕道を、そして、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの集起に至る〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘たちよ、これは、『身体を有することの集起に至る〔実践の〕道』と説かれます。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これは、『苦しみの集起に至る等しき随観』と説かれます。まさしく、これが、ここにおいて、義(意味)となります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘たちよ、これは、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれます。比丘たちよ、まさに、かくのごとく、これは、『苦しみの止滅に至る等しき随観』と説かれます。まさしく、これが、ここにおいて、義(意味)となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 無常の経

 

45. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、心は、離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。感受〔作用〕は、無常です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、心は、離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。比丘たちよ、もし、形態の界域にたいし、比丘の心が、離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したものと成るなら、感受〔作用〕の界域にたいし……略……表象〔作用〕の界域にたいし……諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕の界域にたいし、比丘の心が、離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したものと成るなら、解脱したことから、〔心は〕安立しています。安立していることから、満ち足りています。満ち足りていることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の無常の経

 

46. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕は、無常です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、諸々の過去の極(前際:過去の種々相)についての偏った見解は有りません。諸々の過去の極についての偏った見解が存していないとき、諸々の未来の極(後際:未来の種々相)についての偏った見解は有りません。諸々の未来の極についての偏った見解が存していないとき、強靭と偏執は有りません。強靭と偏執が存していないとき、形態にたいし……感受〔作用〕にたいし……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし……識知〔作用〕にたいし、心は、離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。解脱したことから、〔心は〕安立しています。安立していることから、満ち足りています。満ち足りていることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 等しき随観の経

 

47. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した自己を等しく随観しつつ等しく随観するなら、彼らの全てが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を等しく随観します──あるいは、これらのなかのどれか一つを。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。

 

 かくのごとく、まさしく、そして、この等しき随観があり、さらに、彼に、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕離れ去らないものと成ります。比丘たちよ、また、まさに、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕離れ去らないとき、五つの〔感官の〕機能()の──眼の機能の、耳の機能の、鼻の機能の、舌の機能の、身の機能の──顕現が有ります。比丘たちよ、意が存在し、諸々の法(意の対象)が存在し、無明の界域が存在します。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、彼には、『〔わたしは〕存在する』という〔思い〕もまた有り、彼には、『これは、わたしとして存在する』という〔思い〕もまた有り、彼には、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、まさしく、そこにおいて、五つの〔感官の〕機能は、まさしく、止住します。そこで、ここにおいて、有聞の聖なる弟子には、無明が捨棄され、明知が生起します。彼には、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、彼には、『〔わたしは〕存在する』という〔思い〕もまた有ることなく、彼には、『これは、わたしとして存在する』という〔思い〕もまた有ることなく、彼には、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕……『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』という〔思い〕……『形態ある者として……『形態なき者として……『表象ある者として……『表象なき者として……彼には、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有りません」と。〔以上が〕第五となる。

 

 

6. 範疇の経

 

48. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)を、そして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕範疇なのですか。比丘たちよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、形態の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、識知〔作用〕の範疇と説かれます。比丘たちよ、これらは、五つの〔心身を構成する〕範疇と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。比丘たちよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の……略……それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、これは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、これは、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、これは、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……煩悩を有し、執取されるべきものは、これは、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……それが、遠方にあるも、現前にあるも、煩悩を有し、執取されるべきものは、これは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます。比丘たちよ、これらは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇と説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ソーナの経

 

49. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、家長の子であるソーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、家長の子であるソーナに、世尊は、こう言いました。

 

 「ソーナよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、形態によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、事実のとおりの見なきことより他の、何だというのでしょう。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、感受〔作用〕によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、事実のとおりの見なきことより他の、何だというのでしょう。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、表象〔作用〕によって……。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、諸々の形成〔作用〕によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、事実のとおりの見なきことより他の、何だというのでしょう。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、識知〔作用〕によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、事実のとおりの見なきことより他の、何だというのでしょう。

 

 ソーナよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、形態によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、事実のとおりの見あることより他の、何だというのでしょう。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、感受〔作用〕によって……。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、表象〔作用〕によって……。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、諸々の形成〔作用〕によって……。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、識知〔作用〕によって、あるいは、『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、あるいは、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、あるいは、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』と等しく随観しないなら、事実のとおりの見あることより他の、何だというのでしょう。

 

 ソーナよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ソーナよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 ソーナよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二のソーナの経

 

50. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、家長の子であるソーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、家長の子であるソーナに、世尊は、こう言いました。

 

 「ソーナよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、形態を覚知せず、形態の集起を覚知せず、形態の止滅を覚知せず、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、感受〔作用〕を覚知せず、感受〔作用〕の集起を覚知せず、感受〔作用〕の止滅を覚知せず、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、表象〔作用〕を覚知せず……略……諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、識知〔作用〕を覚知せず、識知〔作用〕の集起を覚知せず、識知〔作用〕の止滅を覚知せず、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、ソーナよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 ソーナよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、形態を覚知し、形態の集起を覚知し、形態の止滅を覚知し、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、感受〔作用〕を覚知し……略……表象〔作用〕を覚知し……諸々の形成〔作用〕を覚知し……識知〔作用〕を覚知し、識知〔作用〕の集起を覚知し、識知〔作用〕の止滅を覚知し、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、ソーナよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 愉悦の滅尽の経

 

51. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、形態を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解(正見)と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、感受〔作用〕を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、表象〔作用〕を、『無常である』と見ます。……略……。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、諸々の形成〔作用〕を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、比丘が、まさしく、無常である、識知〔作用〕を、『無常である』と見ます。彼にとって、それは、正しい見解と成ります。正しく見ている者は厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の愉悦の滅尽の経

 

52. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態を、根源のままに意を為しなさい。さらに、形態の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、形態を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、形態の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、形態にたいし厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、感受〔作用〕を、根源のままに意を為しなさい。さらに、感受〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、感受〔作用〕を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、感受〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、感受〔作用〕にたいし厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、表象〔作用〕を……略……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕を、根源のままに意を為しなさい。さらに、諸々の形成〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、諸々の形成〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、諸々の形成〔作用〕にたいし厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます。比丘たちよ、識知〔作用〕を、根源のままに意を為しなさい。さらに、識知〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観しなさい。比丘たちよ、識知〔作用〕を、根源のままに意を為している比丘は、さらに、識知〔作用〕の無常なることを、事実のとおりに等しく随観している〔比丘〕は、識知〔作用〕にたいし厭離します。愉悦の滅尽あることから、貪欲の滅尽があります。貪欲の滅尽あることから、愉悦の滅尽があります。愉悦と貪欲の滅尽あることから、『心は解脱し、善く解脱している』と説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 自己を洲とする者たちの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「自己を洲とする者たち、〔実践の〕道、そして、二つの無常なることが有り、等しき随観、範疇、二つのソーナ、さらに、愉悦の滅尽によって、二つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

 根元の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その根元の五十なるもののための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ナクラピタル、そして、無常、荷があり、さらに、『あなたたちのものでないなら』とともに、自己を洲とする者たちとともに、それによって、第一の五十〔の経〕と呼ばれる」と。

 

6. 接近の章

 

1. 接近の経

 

53. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、接近ある者は解脱していず、接近なき者は解脱しています。比丘たちよ、あるいは、形態に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、形態を対象(所縁)として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、あるいは、感受〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、表象〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、諸々の形成〔作用〕に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘たちよ、或る者が、このように説くとします。『わたしは、形態より他に、感受〔作用〕より他に、表象〔作用〕より他に、諸々の形成〔作用〕より他に、識知〔作用〕の、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、あるいは、死滅を、あるいは、再生を、あるいは、増大を、あるいは、成長を、あるいは、広大を、〔人々に〕報知するであろう』と。この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、もし、形態の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。比丘たちよ、もし、感受〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、表象〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。〔まさに〕その、確立していない識知〔作用〕は、成長することなく、行作せずして解脱しています。解脱したことから、〔心は〕安立しています。安立していることから、満ち足りています。満ち足りていることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 種の経

 

54. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの種の類です。どのようなものが、五つのものなのですか。根の種であり、幹の種であり、枝の種であり、節の種であり、第五のものとして、まさしく、種の種です。比丘たちよ、そして、これらの五つの、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、未熟の種の類が存在するも、しかしながら、地は存在せず、かつまた、水は存在しません。比丘たちよ、さて、いったい、これらの五つの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、そして、これらの五つの、破断せず……略……しっかりと保管された、未熟の種の類が存在し、さらに、地が存在し、かつまた、水が存在するとします。比丘たちよ、さて、いったい、これらの五つの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、地の界域のように、このように、識知〔作用〕の止住(識住)ある四つ〔の範疇〕が見られるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水の界域のように、このように、喜悦と貪欲が見られるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、五つの種の類のように、このように、食(動力源・エネルギー)を有する識知〔作用〕が見られるべきです。

 

 比丘たちよ、あるいは(※)、形態に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、形態を対象として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、あるいは、感受〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、表象〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、諸々の形成〔作用〕に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

※ PTS版により vā を補う。

 

 比丘たちよ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、形態より他に、感受〔作用〕より他に、表象〔作用〕より他に、諸々の形成〔作用〕より他に、識知〔作用〕の、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、あるいは、死滅を、あるいは、再生を、あるいは、増大を、あるいは、成長を、あるいは、広大を、〔人々に〕報知するであろう』と。この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、もし(※)、形態の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。比丘たちよ、もし、感受〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、表象〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。〔まさに〕その、確立していない識知〔作用〕は、成長せず、そして、行作せずして、解脱しています。解脱したことから、〔心は〕安立しています。安立していることから、満ち足りています。満ち足りていることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

※ テキストには ceva とあるが、PTS版により ce と読む。

 

3. 感興〔の言葉〕の経

 

55. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は、感興〔の言葉〕を唱えました。「『そして、〔わたしが〕存在しないなら、さらに、わたしのものも存在しないであろう。〔わたしが〕有ることなくあるなら、わたしのものも有ることなくあるであろう』と、このように信念している比丘は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)を断つであろう」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、『そして、〔わたしが〕存在しないなら、さらに、わたしのものも存在しないであろう。〔わたしが〕有ることなくあるなら、わたしのものも有ることなくあるであろう』と、このように信念している比丘は、五つの下なる域に束縛するものを断つのですか」と。

 

 「比丘よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。

 

 彼は、無常である形態を、『無常である形態』と、事実のとおりに覚知しません。無常である感受〔作用〕を、『無常である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である表象〔作用〕を、『無常である表象〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である諸々の形成〔作用〕を、『無常である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である識知〔作用〕を、『無常である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 苦痛である形態を、『苦痛である形態』と、事実のとおりに覚知しません。苦痛である感受〔作用〕を……。苦痛である表象〔作用〕を……。苦痛である諸々の形成〔作用〕を……。苦痛である識知〔作用〕を、『苦痛である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 無我である形態を、『無我である形態』と、事実のとおりに覚知しません。無我である感受〔作用〕を、『無我である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無我である表象〔作用〕を、『無我である表象〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無我である諸々の形成〔作用〕を、『無我である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無我である識知〔作用〕を、『無我である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 形成されたもの(有為)である形態を、『形成されたものである形態』と、事実のとおりに覚知しません。形成されたものである感受〔作用〕を……。形成されたものである表象〔作用〕を……。形成されたものである諸々の形成〔作用〕を……。形成されたものである識知〔作用〕を、『形成されたものである識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。『形態は消滅するであろう』と、事実のとおりに覚知しません。『感受〔作用〕形態は消滅するであろう』……。『表象〔作用〕は消滅するであろう』……。『諸々の形成〔作用〕は消滅するであろう』……。『識知〔作用〕は消滅するであろう』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観しません。

 

 彼は、無常である形態を、『無常である形態』と、事実のとおりに覚知します。無常である感受〔作用〕を……。無常である表象〔作用〕を……。無常である諸々の形成〔作用〕を……。無常である識知〔作用〕を、『無常である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。苦痛である形態を……略……。苦痛である識知〔作用〕を……。無我である形態を……略……。無我である識知〔作用〕を……。形成されたものである形態を……略……。形成されたものである識知〔作用〕を、『形成されたものである識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。『形態は消滅するであろう』と、事実のとおりに覚知します。『感受〔作用〕は……。『表象〔作用〕は……。『諸々の形成〔作用〕は……。『識知〔作用〕は消滅するであろう』と、事実のとおりに覚知します。

 

 彼は、形態の消滅あることから、感受〔作用〕の消滅あることから、表象〔作用〕の消滅あることから、諸々の形成〔作用〕の消滅あることから、識知〔作用〕の消滅あることから、比丘よ、このように、まさに、『そして、〔わたしが〕存在しないなら、さらに、わたしのものも存在しないであろう。〔わたしが〕有ることなくあるなら、わたしのものも有ることなくあるであろう』と、このように信念している比丘は、五つの下なる域に束縛するものを断つでしょう」と。「尊き方よ、このように信念している比丘は、五つの下なる域に束縛するものを断つでしょう」と。

 

 「尊き方よ、また、どのように知っていると、どのように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか」と。「比丘よ、ここに、無聞の凡夫は、恐れるべきではない状況において恐れを惹起します。比丘よ、なぜなら、無聞の凡夫にとって、『そして、〔わたしが〕存在しないなら、さらに、わたしのものも存在しないであろう。〔わたしが〕有ることなくあるなら、わたしのものも有ることなくあるであろう』とは、これは、恐れであるからです。

 

 比丘よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、恐れるべきではない状況において恐れを惹起しません。比丘よ、なぜなら、有聞の聖なる弟子にとって、『そして、〔わたしが〕存在しないなら、さらに、わたしのものも存在しないであろう。〔わたしが〕有ることなくあるなら、わたしのものも有ることなくあるであろう』とは、これは、恐れではないからです。比丘よ、あるいは、形態に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、形態を対象として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘よ、あるいは、感受〔作用〕に接近ある……。比丘よ、あるいは、表象〔作用〕に接近ある……。比丘よ、あるいは、諸々の形成〔作用〕に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘よ、或る者が、まさに、このように説くとします。『わたしは、形態より他に、感受〔作用〕より他に、表象〔作用〕より他に、諸々の形成〔作用〕より他に、識知〔作用〕の、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、あるいは、死滅を、あるいは、再生を、あるいは、増大を、あるいは、成長を、あるいは、広大を、〔人々に〕報知するであろう』と。この状況は見出されません。

 

 比丘よ、もし、形態の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。比丘よ、もし、感受〔作用〕の界域にたいし……。比丘よ、もし、表象〔作用〕の界域にたいし……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。比丘よ、もし、識知〔作用〕の界域にたいし、比丘の貪欲が捨棄されたものと成るなら、貪欲の捨棄あることから、対象は分断され、識知〔作用〕の確立は有りません。〔まさに〕その、確立していない識知〔作用〕は、成長せず、そして、行作なくあり、解脱しています。解脱したことから、〔心は〕安立しています。安立していることから、満ち足りています。満ち足りていることから、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 執取の遍き転起の経

 

56. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、四つの遍き転起を、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、四つの遍き転起を、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含む世において……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。

 

 では、どのように、四つの遍き転起を〔証知したのですか〕。形態を証知し、形態の集起を証知し、形態の止滅を証知し、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を証知し、識知〔作用〕の集起を証知し、識知〔作用〕の止滅を証知し、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、形態なのですか。そして、四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)です。比丘たちよ、これは、形態と説かれます。食(動力源・エネルギー)の集起あることから、形態の集起があります。食の止滅あることから、形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して、このように、形態の集起を証知して、このように、形態の止滅を証知して、このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して……略……このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません(輪廻の施設はありえない)。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、感受〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これは、感受〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、感受〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して、このように、感受〔作用〕の集起を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、感受〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して……略……このように、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、感受〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、表象〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの表象の体系があります。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。比丘たちよ、これは、表象〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、表象〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、表象〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。……略……彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの思欲の体系があります。形態の思欲であり、音声の思欲であり、臭気の思欲であり、味感の思欲であり、感触の思欲であり、法(意の対象)の思欲です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形成〔作用〕を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、諸々の形成〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形成〔作用〕を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕であり、耳の識知〔作用〕であり、鼻の識知〔作用〕であり、舌の識知〔作用〕であり、身の識知〔作用〕であり、意の識知〔作用〕です。比丘たちよ、これは、識知〔作用〕と説かれます。名前と形態の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 七つの状況の経

 

57. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、七つの状況に巧みな智ある比丘は、三種類の近しき注視ある者であり、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、七つの状況に巧みな智あると成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を覚知し、(2)形態の集起を覚知し、(3)形態の止滅を覚知し、(4)形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、(5)形態の悦楽を覚知し、(6)形態の危険を覚知し、(7)形態の出離を覚知します。(1)感受〔作用〕を覚知し……略……。(1)表象〔作用〕を覚知し……。(1)諸々の形成〔作用〕を覚知し……。(1)識知〔作用〕を覚知し、(2)識知〔作用〕の集起を覚知し、(3)識知〔作用〕の止滅を覚知し、(4)識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、(5)識知〔作用〕の悦楽を覚知し、(6)識知〔作用〕の危険を覚知し、(7)識知〔作用〕の出離を覚知します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、形態なのですか。そして、四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態です。比丘たちよ、これは、形態と説かれます。食の集起あることから、形態の集起があります。食の止滅あることから、形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽です。すなわち、形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険です。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して、このように、形態の集起を証知して、このように、形態の止滅を証知して、このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、形態の悦楽を証知して、このように、形態の危険を証知して、このように、形態の出離を証知して、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して、このように、形態の集起を証知して、このように、形態の止滅を証知して、このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、形態の悦楽を証知して、このように、形態の危険を証知して、このように、形態の出離を証知して、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、感受〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり……略……意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これは、感受〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、感受〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 それが、感受〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受〔作用〕の悦楽です。すなわち、感受〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受〔作用〕の危険です。それが、感受〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受〔作用〕の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して、このように、感受〔作用〕の集起を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、感受〔作用〕の悦楽を証知して、このように、感受〔作用〕の危険を証知して、このように、感受〔作用〕の出離を証知して、感受〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して……略……彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、表象〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの表象の体系があります。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。比丘たちよ、これは、表象〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、表象〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、表象〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。……略……彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの思欲の体系があります。形態の思欲であり、音声の思欲であり、臭気の思欲であり、味感の思欲であり、感触の思欲であり、法(意の対象)の思欲です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 それが、諸々の形成〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の悦楽です。すなわち、諸々の形成〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の形成〔作用〕の危険です。それが、諸々の形成〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形成〔作用〕を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の悦楽を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の危険を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の出離を証知して、諸々の形成〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。……略……彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕であり、耳の識知〔作用〕であり、鼻の識知〔作用〕であり、舌の識知〔作用〕であり、身の識知〔作用〕であり、意の識知〔作用〕です。比丘たちよ、これは、識知〔作用〕と説かれます。名前と形態の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽です。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険です。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の悦楽を証知して、このように、識知〔作用〕の危険を証知して、このように、識知〔作用〕の出離を証知して、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

 

 比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の悦楽を証知して、このように、識知〔作用〕の危険を証知して、このように、識知〔作用〕の出離を証知して、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、七つの状況に巧みな智ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、三種類の近しき注視ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、(1)比丘が、界域()〔の観点〕から近しく注視し、(2)〔認識の〕場所()〔の観点〕から近しく注視し、(3)縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)〔の観点〕から近しく注視します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、三種類の近しき注視ある者と成ります。比丘たちよ、七つの状況に巧みな智ある比丘は、三種類の近しき注視ある者であり、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 正等覚者の経

 

58. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者となり、『正等覚者』と説かれます。比丘たちよ、比丘もまた、〔観察の〕智慧による解脱者は、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者となり、『〔観察の〕智慧による解脱者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、感受〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者となり、正等覚者と呼ばれます。『正等覚者』と説かれます。比丘たちよ、比丘もまた、〔観察の〕智慧による解脱者は、感受〔作用〕の、厭離あることから……略……『〔観察の〕智慧による解脱者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、表象〔作用〕の……諸々の形成〔作用〕の……識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者となり、『正等覚者』と説かれます。比丘たちよ、比丘もまた、〔観察の〕智慧による解脱者は、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者となり、『〔観察の〕智慧による解脱者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、〔観察の〕智慧による解脱者たる比丘と阿羅漢にして正等覚者たる如来には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる者であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる者であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する者であり、道を知る者であり、道の知者たる者であり、道の熟知者たる者です。比丘たちよ、そして、弟子たちは、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住みます──〔如来の〕そのあとに〔教えを〕具備した者たちとして。比丘たちよ、〔観察の〕智慧による解脱者たる比丘と阿羅漢にして正等覚者たる如来には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 無我の特相の経

 

59. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、形態は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この形態が、自己として有ったなら、この形態は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、形態にたいし、『わたしの形態は、このように有れ。わたしの形態は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態が、無我であることから、それゆえに、形態は、病苦へと等しく転起し、さらに、形態にたいし、『わたしの形態は、このように有れ。わたしの形態は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 感受〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この感受〔作用〕が、自己として有ったなら、この感受〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、感受〔作用〕にたいし、『わたしの感受〔作用〕は、このように有れ。わたしの感受〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、感受〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、感受〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、感受〔作用〕にたいし、『わたしの感受〔作用〕は、このように有れ。わたしの感受〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 表象〔作用〕は、無我です。……略……。諸々の形成〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この諸々の形成〔作用〕が、自己として有ったなら、この諸々の形成〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、諸々の形成〔作用〕にたいし、『わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有れ。わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形成〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、諸々の形成〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、諸々の形成〔作用〕にたいし、『わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有れ。わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 識知〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この識知〔作用〕が、自己として有ったなら、この識知〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、識知〔作用〕にたいし、『わたしの識知〔作用〕は、このように有れ。わたしの識知〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、識知〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、識知〔作用〕にたいし、『わたしの識知〔作用〕は、このように有れ。わたしの識知〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の感受〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも……略……あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形成〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た五人組の比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。

 

 また、そして、この説き明かしが話されているとき、五人組の比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. マハーリの経

 

60. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)は、このように言います。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる』と。ここに、世尊は、何を言いますか」と。

 

 「マハーリよ、有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在します。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されます。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在します。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となります」と。

 

 「尊き方よ、また、有情たちの汚染のための、どのようなものが因であり、どのようなものが縁であり、どのように、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されるのですか」と。

 

 「マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕形態が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが形態にたいし貪染することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態が安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、形態にたいし貪染します。貪染あることから、束縛されます。束縛あることから、汚染されます。マハーリよ、まさに、有情たちの汚染のための、これが因であり、これが縁であり、このように、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されます。

 

 マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕感受〔作用〕が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが感受〔作用〕にたいし貪染することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、感受〔作用〕が安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、感受〔作用〕にたいし貪染します。貪染あることから、束縛されます。束縛あることから、汚染されます。マハーリよ、まさに、有情たちの汚染のための、これもまた因であり、これも縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されます。

 

 マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕表象〔作用〕が……。マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕諸々の形成〔作用〕が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが諸々の形成〔作用〕にたいし貪染することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形成〔作用〕が安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、諸々の形成〔作用〕にたいし貪染します。貪染あることから、束縛されます。束縛あることから、汚染されます。マハーリよ、まさに、有情たちの汚染のための、これもまた因であり、これも縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されます。

 

 マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕識知〔作用〕が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが識知〔作用〕にたいし貪染することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕が安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、識知〔作用〕にたいし貪染します。貪染あることから、束縛されます。束縛あることから、汚染されます。マハーリよ、まさに、有情たちの汚染のための、これもまた因であり、これも縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染されます」と。

 

 「尊き方よ、また、有情たちの清浄のための、どのようなものが因であり、どのようなものが縁であり、どのように、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となるのですか」と。「マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕形態が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが形態にたいし厭離することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態が苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、形態にたいし厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、清浄となります。マハーリよ、まさに、有情たちの汚染のための、これが因であり、これが縁であり、このように、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となります。

 

 マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕感受〔作用〕が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら……略……。マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕表象〔作用〕が……略……。マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕諸々の形成〔作用〕が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら……略……。マハーリよ、まさに、そして、このことが、〔すなわち〕識知〔作用〕が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが識知〔作用〕にたいし厭離することは、このことはないでしょう。マハーリよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕が苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まないことから、それゆえに、有情たちは、識知〔作用〕にたいし厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、清浄となります。マハーリよ、まさに、有情たちの清浄のための、これが因であり、これが縁であり、このようにもまた、因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 「燃えています」の経

 

61. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、燃えています。感受〔作用〕は、燃えています。表象〔作用〕は、燃えています。諸々の形成〔作用〕は、燃えています。識知〔作用〕は、燃えています。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 言語の道の経

 

62. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、言語の道と名辞の道と通称の道です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、その形態が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔形態〕に、『有った』という名称があり、その〔形態〕に、『有った』という呼称があり、その〔形態〕に、『有った』という通称があります。その〔形態〕に、『存在する』という名称はなく、その〔形態〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その感受〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔感受作用〕に、『有った』という名称があり、その〔感受作用〕に、『有った』という呼称があり、その〔感受作用〕に、『有った』という通称があります。その〔感受作用〕に、『存在する』という名称はなく、その〔感受作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、それら〔の形成作用〕に、『有った』という名称があり、それら〔の形成作用〕に、『有った』という呼称があり、それら〔の形成作用〕に、『有った』という通称があります。それら〔の形成作用〕に、『存在する』という名称はなく、それら〔の形成作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その識知〔作用〕が、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものであるなら、その〔識知作用〕に、『有った』という名称があり、その〔識知作用〕に、『有った』という呼称があり、その〔識知作用〕に、『有った』という通称があります。その〔識知作用〕に、『存在する』という名称はなく、その〔識知作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 比丘たちよ、その形態が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔形態〕に、『有るであろう』という名称があり、その〔形態〕に、『有るであろう』という呼称があり、その〔形態〕に、『有るであろう』という通称があります。その〔形態〕に、『存在する』という名称はなく、その〔形態〕に、『有った』という名称はありません。

 

 その感受〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔感受作用〕に、『有るであろう』という名称があり、その〔感受作用〕に、『有るであろう』という呼称があり、その〔感受作用〕に、『有るであろう』という通称があります。その〔感受作用〕に、『存在する』という名称はなく、その〔感受作用〕に、『有った』という名称はありません。

 

 その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、それら〔の形成作用〕に、『有るであろう』という名称があり、それら〔の形成作用〕に、『有るであろう』という呼称があり、それら〔の形成作用〕に、『有るであろう』という通称があります。それら〔の形成作用〕に、『存在する』という名称はなく、それら〔の形成作用〕に、『有った』という名称はありません。

 

 その識知〔作用〕が、生じていないものであり、出現していないものであるなら、その〔識知作用〕に、『有るであろう』という名称があり、その〔識知作用〕に、『有るであろう』という呼称があり、その〔識知作用〕に、『有るであろう』という通称があります。その〔識知作用〕に、『存在する』という名称はなく、その〔識知作用〕に、『有った』という名称はありません。

 

 比丘たちよ、その形態が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔形態〕に、『存在する』という名称があり、その〔形態〕に、『存在する』という呼称があり、その〔形態〕に、『存在する』という通称があります。その〔形態〕に、『有った』という名称はなく、その〔形態〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その感受〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔感受作用〕に、『存在する』という名称があり、その〔感受作用〕に、『存在する』という呼称があり、その〔感受作用〕に、『存在する』という通称があります。その〔感受作用〕に、『有った』という名称はなく、その〔感受作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その表象〔作用〕が……。それらの形成〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、それら〔の形成作用〕に、『存在する』という名称があり、それら〔の形成作用〕に、『存在する』という呼称があり、それら〔の形成作用〕に、『存在する』という通称があります。それら〔の形成作用〕に、『有った』という名称はなく、それら〔の形成作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 その識知〔作用〕が、生じたものであり、出現したものであるなら、その〔識知作用〕に、『存在する』という名称があり、その〔識知作用〕に、『存在する』という呼称があり、その〔識知作用〕に、『存在する』という通称があります。その〔識知作用〕に、『有った』という名称はなく、その〔識知作用〕に、『有るであろう』という名称はありません。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの三つの、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、言語の道と名辞の道と通称の道があります。比丘たちよ、すなわち、また、ウッカラ〔の住者〕たるヴァッサやバンニャたちが、それらの者たちが、無因論者たちとして、無作論者たちとして、非存論者たちとして、〔世に〕有ったのですが、彼らでさえも、これらの三つの言語の道と名辞の道と通称の道を、難詰するべきではなく弾劾するべきではないと思い考えました。それは、何を因とするのですか。〔自己への〕非難と打撃と攻撃と論詰の恐怖あるからです」と。

 

 接近の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「接近、種、感興〔の言葉〕、執取の遍き転起、そして、七つの状況、正覚者、五者とマハーリ、『燃えています』があり、そして、言語の道とともに、章となる」と。

 

7. 阿羅漢の章

 

1. 執取している者の経

 

63. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。執取していない者は、パーピマント(悪魔)にとって、解放された者としてあります」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔感受作用に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔感受作用に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に執取している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用に〕執取していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 思い考えている者の経

 

64. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、思い考えている者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。思い考えていない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態のことを思い考えている者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態のことを〕思い考えていない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕のことを……。表象〔作用〕のことを……。諸々の形成〔作用〕のことを……。識知〔作用〕のことを思い考えている者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用のことを〕思い考えていない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態のことを思い考えている者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態のことを〕思い考えていない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕のことを……。表象〔作用〕のことを……。諸々の形成〔作用〕のことを……。識知〔作用〕のことを思い考えている者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用のことを〕思い考えていない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 愉悦している者の経

 

65. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、愉悦している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。愉悦していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態に愉悦している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態に〕愉悦していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に愉悦している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用に〕愉悦していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態に愉悦している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔形態に〕愉悦していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に愉悦している者は、悪魔にとって、結縛された者としてあります。〔識知作用に〕愉悦していない者は、パーピマントにとって、解放された者としてあります。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 無常の経

 

66. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態が、無常であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が、無常であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態が、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が、無常であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. 苦痛の経

 

67. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態が苦痛であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が苦痛であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態が苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が苦痛であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第五となる。

 

6. 無我の経

 

68. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態が無我であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が無我であるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態が無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が無我であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 自己に属さないものの経

 

69. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。……略……熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが自己に属さないものであるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態が自己に属さないものであるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が自己に属さないものであるなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態が自己に属さないものであるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が自己に属さないものであるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. 貪るべきものとして止住しているものの経

 

70. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて……略……〔世に〕住むべく」と。「比丘よ、まさに、それが貪るべきものとして止住しているなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。「世尊よ、了知しました。善き至達者たる方よ、了知しました」と。

 

 「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しますか」と。「尊き方よ、まさに、形態が貪るべきものとして止住しているなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が貪るべきものとして止住しているなら、そこで、わたしは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。尊き方よ、まさに、このように、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知します。比丘よ、まさに、形態が貪るべきものとして止住しているなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕が……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が貪るべきものとして止住しているなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘よ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。……略……。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. ラーダの経

 

71. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者ラーダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。「ラーダよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。ラーダよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。……略……。また、そして、尊者ラーダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第九となる。

 

10. スラーダの経

 

72. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者スラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るのですか」と。「スラーダよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。スラーダよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります」と。……略……。また、そして、尊者スラーダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

 阿羅漢の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「執取している者と思い考えている者、そこで、さらに、愉悦している者、無常、苦痛、そして、無我、自己に属さないもの、貪るべきものとして止住しているものがあり、ラーダとスラーダとともに、それらの十がある」と。

 

8. 喰われるべきものの章

 

1. 悦楽の経

 

73. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 集起の経

 

74. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の集起の経

 

75. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子は、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 阿羅漢たちの経

 

76. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた……表象〔作用〕にたいしてもまた……諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた……識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、諸々の有情の居住所に至るまで、有頂〔天〕に至るまで、世において、これらの者たちは至高の者たちであり、これらの者たちは最勝の者たちです。すなわち、この、阿羅漢たちです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「安楽あるは、まさに、阿羅漢たちである。彼らに、渇愛〔の思い〕は見出されない。『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は断絶され、迷妄の網は破砕された。

 

 彼らは、不動〔の境地〕(阿羅漢果)に至り得た者たちであり、彼らの心は、混濁なくある。彼らは、世における汚れなき者たちであり、梵と成った者たちであり、煩悩なき者たちである。

 

 五つの〔心身を構成する〕範疇を遍知して、七つの正なる法(信・恥の思い・良心の咎め・多聞・精進に励むこと・気づきが現起されていること・智慧)を境涯とする者たちであり、賞賛されるべき正なる人士たちであり、覚者の、子たちであり、正嫡たちである。

 

 七つの宝(七覚支)を成就した者たちであり、三つの学び(三学:戒・定・慧)において学んだ者たちである。〔彼らは〕渡り歩く──恐怖と恐ろしさを捨棄した大いなる勇者たちとして。

 

 十の支分(正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい行業・正しい生き方・正しい努力・正しい気づき・正しい禅定・正しい知恵・正しい解脱)を成就した者たちであり、大いなる龍象たる〔心が〕定められた者たちである。これらの者たちは、まさに、世における最勝者たちである。彼らに、渇愛〔の思い〕は見出されない。

 

 〔もはや〕学ぶことなき者の知恵が生起したのだ。これは、最後の積身である。〔まさに〕その、梵行の真髄なるもの──その〔真髄〕において、他を縁としない者たちである。

 

 〔『勝る』『等しい』『劣る』の三つの〕種類にたいし、〔彼らは〕動揺しない。さらなる生存から解脱した者たちであり、調御された境地に至り得た者たちであり、彼らは、世における征圧者たちである。

 

 上に、横に、下に、彼らに、愉悦〔の思い〕は見出されない。彼らは、獅子吼を吼え叫ぶ。覚者たちは、世における無上なる者たちである」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の阿羅漢たちの経

 

77. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、無我です。それが、無我であるなら、それは、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と……略……このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた……表象〔作用〕にたいしてもまた……諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた……識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、諸々の有情の居住所に至るまで、有頂〔天〕に至るまで、世において、これらの者たちは至高の者たちであり、これらの者たちは最勝の者たちです。すなわち、この、阿羅漢たちです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 獅子の経

 

78. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、獣の王たる獅子は、夕刻時に、巣から出立します。巣から出立して、〔身体を〕屈伸します。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回します。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫びます。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行きます。比丘たちよ、まさに、すなわち、誰であれ、畜生の在り方をした命あるものたちが、獣の王たる獅子の吼え叫んでいる声を聞くなら、多くのところが、恐怖と畏怖と恐慌を惹起します。洞窟に依拠する者たちは、洞窟に入り行きます。水に依拠する者たちは、水に入り行きます。林に依拠する者たちは、林に入り行きます。翼ある者たちは、空に飛び立ちます。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、村や町や王都において諸々の堅固な革紐の結縛によって結縛されている王の象たちも、彼らもまた、それらの結縛を断ち切って破り去って、恐怖の者たちとなり、尿や糞を放ちながら、そこかしこに逃げ去ります。比丘たちよ、まさに、獣の王たる獅子は、畜生の在り方をした命あるものたちにとって、このように大いなる栄光ある者であり、このように大いなる権能ある者であり、このように大いなる威力ある者です。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起するとき、彼は、法(教え)を説示します。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。比丘たちよ、すなわち、また、それらの、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちであり、諸々の高貴なる天宮に長く止住する者たちである、天〔の神々〕たちも、彼らもまた、如来の法(教え)の説示を聞いて、多くのところが、恐怖と畏怖と恐慌を惹起します。『まさしく、常住ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常住の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『まさしく、常恒ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常恒の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『まさしく、常久ならざる者たちとして、ああ、まさに、わたしたちは〔世に〕存しているのだ。「常久の者たちとして〔世に〕存している」と思い考えていたのに』『ああ、まさに、わたしたちもまた、常住ならず、常恒ならず、常久ならず、身体を有することに属していたのだ』と。比丘たちよ、まさに、如来は、天を含む世〔の人々〕にとって、このように大いなる栄光ある者であり、このように大いなる権能ある者であり、このように大いなる威力ある者です」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、天を含む世〔の人々〕の教師にして対する人なき者である覚者が、法(真理)の輪を証知して転起させたとき──

 

 そして、身体を有することを、かつまた、〔身体を有することの〕止滅を、かつまた、身体を有することの発生を、さらに、苦しみの寂止に至る聖なる八つの支分ある道を、〔それらの法を説示したとき〕──

 

 すなわち、また、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、福徳ある者たちである、天〔の神々〕たちも、〔彼らもまた〕恐怖の者たちとなり、獅子〔の咆哮〕に他の獣たちが〔恐怖した〕ように、恐慌を惹起した。

 

 『ああ、まさに、わたしたちは、常住ならざる者たちであり、身体を有することを超克していないのだ』〔と〕、解脱者にして如なる者である阿羅漢の言葉を聞いて」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 喰われるべきものの経

 

79. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しつつ随念するなら、彼らの全てが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)を随念します──あるいは、これらのなかのどれか一つを。どのようなものが、五つのものなのですか。『過去の時に、〔わたしは〕このような形態の者として〔世に〕有った』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく随念している者は、まさしく、形態を随念します。『過去の時に、〔わたしは〕このような感受〔作用〕の者として〔世に〕有った』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく随念している者は、まさしく、感受〔作用〕を随念します。『過去の時に、〔わたしは〕このような表象〔作用〕の者として〔世に〕有った』と……。『過去の時に、〔わたしは〕このような諸々の形成〔作用〕の者として〔世に〕有った』と……。『過去の時に、〔わたしは〕このような識知〔作用〕の者として〔世に〕有った』と、比丘たちよ、あるいは、まさに、かくのごとく随念している者は、まさしく、識知〔作用〕を随念します。

 

 比丘たちよ、では、何を、形態と説くべきですか。比丘たちよ、壊れ崩れる(ルッパティ)、ということで、まさに、それゆえに、『形態(ルーパ)』と説かれます。何によって壊れ崩れるのですか。寒さによってもまた壊れ崩れ、暑さによってもまた壊れ崩れ、飢えによってもまた壊れ崩れ、渇きによってもまた壊れ崩れ、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によってもまた壊れ崩れます。比丘たちよ、壊れ崩れる、ということで、まさに、それゆえに、『形態』と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何を、感受〔作用〕と説くべきですか。比丘たちよ、感受する(ヴェーダヤティ)、ということで、まさに、それゆえに、『感受〔作用〕(ヴェーダナー)』と説かれます。では、何を感受するのですか。安楽をもまた感受し、苦痛をもまた感受し、苦でもなく楽でもないものをもまた感受します。比丘たちよ、感受する、ということで、まさに、それゆえに、『感受〔作用〕』と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何を、表象〔作用〕と説くべきですか。比丘たちよ、表象する(サンジャーナーティ)、ということで、まさに、それゆえに、『表象〔作用〕(サンニャー)』と説かれます。では、何を表象するのですか。青をもまた表象し、黄をもまた表象し、赤をもまた表象し、白をもまた表象します。比丘たちよ、表象する、ということで、まさに、それゆえに、『表象〔作用〕』と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何を、諸々の形成〔作用〕と説くべきですか。比丘たちよ、形成されたもの(有為:サンカタ)として行作する(アビサンカロンティ)、ということで、まさに、それゆえに、『諸々の形成〔作用〕(サンカーラー)』と説かれます。では、何を、形成されたものとして行作するのですか。形態を、形態たることによって、形成されたものとして行作します。感受〔作用〕を、感受〔作用〕たることによって、形成されたものとして行作します。表象〔作用〕を、表象〔作用〕たることによって、形成されたものとして行作します。諸々の形成〔作用〕を、形成〔作用〕たることによって、形成されたものとして行作します。識知〔作用〕を、識知〔作用〕たることによって、形成されたものとして行作します。比丘たちよ、形成されたものとして行作する、ということで、まさに、それゆえに、『諸々の形成〔作用〕』と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何を、識知〔作用〕と説くべきですか。比丘たちよ、識知する(ヴィジャーナーティ)、ということで、まさに、それゆえに、『識知〔作用〕(ヴィンニャーナ)』と説かれます。では、何を識知するのですか。酸っぱみをもまた識知し、苦みをもまた識知し、辛みをもまた識知し、甘みをもまた識知し、刺激あるものをもまた識知し、刺激なきものをもまた識知し、塩気あるものをもまた識知し、塩気なきものをもまた識知します。比丘たちよ、識知する、ということで、まさに、それゆえに、『識知〔作用〕』と説かれます。

 

 比丘たちよ、そこで、有聞の聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、形態によって喰われている。過去の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、形態によって喰われた。それは、たとえば、また、今現在、現在の形態によって喰われているように。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、未来の形態に愉悦するなら、未来の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、形態によって喰われるであろう。それは、たとえば、また、今現在、現在の形態によって喰われているように』と。彼は、かくのごとく審慮して、過去の形態について期待なき者と成り、未来の形態に愉悦せず、現在の形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 『わたしは、まさに、今現在、感受〔作用〕によって喰われている。過去の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、感受〔作用〕によって喰われた。それは、たとえば、また、今現在、現在の感受〔作用〕によって喰われているように。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、未来の感受〔作用〕に愉悦するなら、未来の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、感受〔作用〕によって喰われるであろう。それは、たとえば、また、今現在、現在の感受〔作用〕によって喰われているように』と。彼は、かくのごとく審慮して、過去の感受〔作用〕について期待なき者と成り、未来の感受〔作用〕に愉悦せず、現在の感受〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 『わたしは、まさに、今現在、表象〔作用〕によって喰われている。……略……。『わたしは、まさに、今現在、諸々の形成〔作用〕によって喰われている。過去の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、諸々の形成〔作用〕によって喰われた。それは、たとえば、また、今現在、現在の諸々の形成〔作用〕によって喰われているように。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、未来の諸々の形成〔作用〕に愉悦するなら、未来の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、諸々の形成〔作用〕によって喰われるであろう。それは、たとえば、また、今現在、現在の諸々の形成〔作用〕によって喰われているように』と。彼は、かくのごとく審慮して、過去の諸々の形成〔作用〕について期待なき者と成り、未来の諸々の形成〔作用〕に愉悦せず、現在の諸々の形成〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 『わたしは、まさに、今現在、識知〔作用〕によって喰われている。過去の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、識知〔作用〕によって喰われた。それは、たとえば、また、今現在、現在の識知〔作用〕によって喰われているように。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、未来の識知〔作用〕に愉悦するなら、未来の時にもまた、わたしは、まさしく、このように、識知〔作用〕によって喰われるであろう。それは、たとえば、また、今現在、現在の識知〔作用〕によって喰われているように』と。彼は、かくのごとく審慮して、過去の識知〔作用〕について期待なき者と成り、未来の識知〔作用〕に愉悦せず、現在の識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、摘出し、蓄積せず、捨棄し、執取せず、離嫌し、近接せず、離煙し、喫煙しない』〔と〕説かれます。では、何を、摘出し、蓄積しないのですか。形態を、摘出し、蓄積しません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、摘出し、蓄積しません。では、何を、捨棄し、執取しないのですか。形態を、捨棄し、執取しません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、捨棄し、執取しません。では、何を、離嫌し、近接しないのですか。形態を、離嫌し、近接しません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、離嫌し、近接しません。では、何を、離煙し、喫煙しないのですか。形態を、離煙し、喫煙しません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、離煙し、喫煙しません。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 比丘たちよ、この者は、『比丘として、まさしく、蓄積もせず、摘出もせず、摘出して〔世に〕止住し、まさしく、執取もせず、捨棄もせず、捨棄して〔世に〕止住し、まさしく、近接もせず、離嫌もせず、離嫌して〔世に〕止住し、まさしく、喫煙もせず、離煙もせず、離煙して〔世に〕止住している』〔と〕説かれます。では、何を、まさしく、蓄積もせず、摘出もせず、摘出して〔世に〕止住しているのですか。形態を、まさしく、蓄積もせず、摘出もせず、摘出して〔世に〕止住しています。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、まさしく、蓄積もせず、摘出もせず、摘出して〔世に〕止住しています。では、何を、まさしく、執取もせず、捨棄もせず、捨棄して〔世に〕止住しているのですか。形態を、まさしく、執取もせず、捨棄もせず、捨棄して〔世に〕止住しています。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、まさしく、執取もせず、捨棄もせず、捨棄して〔世に〕止住しています。では、何を、まさしく、近接もせず、離嫌もせず、離嫌して〔世に〕止住しているのですか。形態を、まさしく、近接もせず、離嫌もせず、離嫌して〔世に〕止住しています。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、まさしく、近接もせず、離嫌もせず、離嫌して〔世に〕止住しています。では、何を、まさしく、喫煙もせず、離煙もせず、離煙して〔世に〕止住しているのですか。形態を、まさしく、喫煙もせず、離煙もせず、離煙して〔世に〕止住しています。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、まさしく、喫煙もせず、離煙もせず、離煙して〔世に〕止住しています。比丘たちよ、まさに、このように心が解脱した比丘を、インダ(インドラ神)を含み、梵〔天〕を含み、造物主を含む、天〔の神々〕たちは、まさしく、遠く離れて礼拝します。

 

 〔すなわち〕『良馬たる人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたには、依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは、それを〕証知しません』」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 食乞いの経

 

80. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、何らかの或る名目において、比丘の僧団を追い出して、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝の根元において、昼の休息のために坐りました。

 

 そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「わたしによって、まさに、比丘の僧団は追い払われた。ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らがわたしを見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するであろう。それは、たとえば、まさに、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、まさしく、このように、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らがわたしを見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するであろう。それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、まさしく、このように、ここにおいて……略……彼らがわたしを見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するであろう。それなら、さあ、わたしは、まさしく、すなわち、過去において、わたしによって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、比丘の僧団を資助するのだ」と。

 

 そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、世尊によって(※)、比丘の僧団は追い払われました。ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊を見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。それは、たとえば、まさに、幼い子牛が母を見ずにいると、〔その子牛に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、まさしく、このように、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊を見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。それは、たとえば、まさに、諸々の幼い種が水を得ずにいると、〔それらの種に〕他化が存在し、変化が存在するであろうように、まさしく、このように、ここにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、比丘たちが存在し、彼らが世尊を見ずにいると、〔彼らに〕他化が存在し、変化が存在するでしょう。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を大いに喜びたまえ。尊き方よ、世尊は、比丘の僧団を迎え取りたまえ。まさしく、すなわち、過去において、世尊によって、比丘の僧団が資助されたとおりに、まさしく、このように、今現在も、比丘の僧団を資助したまえ」と。

 

※ テキストには Bhagavato とあるが、PTS版により Bhagavatā と読む。

 

 世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊の承諾を見出して、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、ニグローダ〔樹〕の林園のあるところにそこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、そのような形態の神通の行作を行作しました。『すなわち、それらの比丘たちが、一〔日〕か二日おきに、当惑の形態あるままに、わたしのいるところに、そこへと近づいて行くのだ』〔と〕。それらの比丘たちもまた、一〔日〕か二日おきに、当惑の形態あるままに、世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、これは、諸々の生き方のなかの極たるものです。すなわち、この、食乞いです。比丘たちよ、これは、世における呪いです。『〔おまえは〕食乞いとして、鉢を手にする者として、〔世を〕渡り歩く』という、〔この罵倒の言葉は〕。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この〔生き方〕に、それに、良家の子息たちは近づきます──義(利益)たる所以ある者たちとして、義(利益)たる所以を縁として。まさしく、王に強制されたからでもなく、盗賊に強制されたからでもなく、借金に苦悩するからでもなく、恐怖に苦悩するからでもなく、生き方として〔生来の〕性向であるからでもなく、そして、また、まさに、『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔これらに〕沈んだ者たちとして、〔わたしたちは〕存している。苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。

 

 比丘たちよ、そして、この良家の子息は、このように出家者となります。しかしながら、彼は、強欲〔の思い〕ある者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強烈な貪欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、火葬の薪が、両〔側〕から燃やされたとして、中間において糞が行き及んだもの(汚物で燃え残ったもの)は、薪たる義(用途)を、まさしく、村においても充満せず、林においても〔充満し〕ないようなものです(村と林の両所で役に立たない)。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。かつまた、在家の財物から遍く衰退し、かつまた、沙門の資質たる義(目的)を円満成就させません。

 

 比丘たちよ、これらの三つの善ならざる思考()があります──欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。比丘たちよ、では、これらの三つの善ならざる思考は、どこにおいて、完全に残りなく止滅するのですか。あるいは、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者として〔世に〕住んでいると、あるいは、無相の禅定(定・三昧)を修めていると、〔完全に残りなく止滅します〕。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、無相の禅定を修めるに十分なるものがあります。比丘たちよ、無相の禅定が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、これらの二つの見解があります──そして、生存(:実体)の見解であり、さらに、非生存(非有:虚無)の見解です。比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『それに執取しているわたしが、罪過ある者として〔世に〕存することがない、〔まさに〕その、何らかのものが、世において、いったい、まさに、存在するのだろうか』と。彼は、このように覚知します。『それに執取しているわたしが、罪過ある者として〔世に〕存することがない、〔まさに〕その、何らかのものは、世において、いったい、まさに、存在しないのでは。まさに、わたしが、まさしく、形態に執取しつつ執取するなら、まさしく、感受〔作用〕に執取しつつ執取するなら、まさしく、表象〔作用〕に執取しつつ執取するなら、まさしく、諸々の形成〔作用〕に執取しつつ執取するなら、まさしく、識知〔作用〕に執取しつつ執取するなら、〔まさに〕その、わたしには、執取という縁あることから、生存が存在するであろう。生存という縁あることから、生があるであろう。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生するであろう。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が存在するであろう』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……略……。「比丘たちよ、それゆえに、ここに……。比丘たちよ、このように見ながら……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. パーリレイヤの経

 

81. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。コーサンビーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、自ら、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、奉仕者たちに告げずして、比丘の僧団を顧みずして、独り、伴侶なき者となり、遊行〔の旅〕に出ました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊が立ち去ったすぐあと、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、彼は、世尊は、自ら、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、奉仕者たちに告げずして、比丘の僧団を顧みずして、独り、伴侶なき者となり、遊行〔の旅〕に出るところとなりました」と。「友よ、その時点において、世尊が、自ら、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、奉仕者たちに告げずして、比丘の僧団を顧みずして、独り、伴侶なき者となり、遊行〔の旅〕に出るなら、その時点において、世尊は、まさしく、独り、〔世に〕住むことを欲する者として有り、その時点において、世尊は、誰によってであれ、追随されるべき者として有りません」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、パーリレイヤカ〔村〕のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーリレイヤカに住んでおられます。幸いなるサーラ〔樹〕の根元において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞いてから長きになります。友よ、アーナンダよ、わたしたちは、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを求めます」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、それらの比丘たちと共に、パーリレイヤカ〔村〕のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘に、このような心の思索が浮かびました。「いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るのか」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その比丘の心の思索を了知して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしによって、判別してのち、法(教え)は説示されました。判別してのち、四つの気づきの確立(四念処・四念住)は説示されました。判別してのち、四つの正しい精励(四正勤)は説示されました。判別してのち、四つの神通の足場(四神足)は説示されました。判別してのち、五つの機能(五根)は説示されました。判別してのち、五つの力(五力)は説示されました。判別してのち、七つの覚りの支分(七覚支)は説示されました。判別してのち、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は説示されました。比丘たちよ、このように、わたしによって、判別してのち、法(教え)は説示されました。比丘たちよ、このように、まさに、わたしによって、判別してのち、法(教え)が説示されたとき、そこで、また、そして、ここに、一部の比丘に、このような心の思索が浮かびました。『いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るのか』と。

 

 比丘たちよ、では、どのように知っていると、どのように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観します。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その随観は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)です。その渇愛もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その感受もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その接触もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、形態あるものを、自己と等しく随観します。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その随観は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その渇愛もまた……。その感受もまた……。その接触もまた……。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、形態あるものを、自己と等しく随観することもなく、しかしながら、また、まさに、自己のうちに、形態を等しく随観します。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その随観は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その渇愛もまた……。その感受もまた……。その接触もまた……。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、形態あるものを、自己と等しく随観することもなく、自己のうちに、形態を等しく随観することもなく、しかしながら、また、まさに、形態のうちに、自己を等しく随観します。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その随観は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって(※)接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その渇愛もまた……。その感受もまた……。その接触もまた……。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

※ テキストには vedayite とあるが、PTS版により vedayitena と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、形態あるものを、自己と等しく随観することもなく、自己のうちに、形態を等しく随観することもなく、形態のうちに、自己を等しく随観することもなく、しかしながら、また、まさに、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、感受〔作用〕あるものを、自己と等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、自己のうちに、感受〔作用〕を等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、感受〔作用〕のうちに、自己を等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、表象〔作用〕を……。しかしながら、また、まさに、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、識知〔作用〕あるものを、自己と等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、自己のうちに、識知〔作用〕を等しく随観します。……しかしながら、また、まさに、識知〔作用〕のうちに、自己を等しく随観します。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その随観は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その渇愛もまた……。その感受もまた……。その接触もまた……。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観することもなく、表象〔作用〕を……なく、諸々の形成〔作用〕を……なく、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観することもなく、しかしながら、また、まさに、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その常久の見解は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観することもなく、表象〔作用〕を……なく、諸々の形成〔作用〕を……なく、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観することもなく、このような見解ある者として〔世に〕有ることもまたなく、『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と、しかしながら、また、まさに、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その断絶の見解は、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 まさに、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観することが、まさしく、まさに、なく、感受〔作用〕を……なく、表象〔作用〕を……なく、諸々の形成〔作用〕を……なく、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観することもなく、このような見解ある者として〔世に〕有ることもまたなく、『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と、このような見解ある者として〔世に〕有ることもまたなく、『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と、しかしながら、また、まさに、正なる法(教え)にたいし、疑いある者として、疑惑ある者として、結論に至らない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、その、正なる法(教え)にたいし、疑いあることは、疑惑あることは、結論に至らないことは、それは、形成〔作用〕です。また、その形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、渇愛が生起するところとなります。それから生じるのが、その形成〔作用〕です。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その形成〔作用〕もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その渇愛もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その感受もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その接触もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。その無明もまた、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものです。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、知っていると、このように見ていると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 満月の経

 

82. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。大いなる比丘の僧団と共に。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、世尊に、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、世尊が、わたしの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「比丘よ、まさに、それでは、あなたは、自らの坐に坐って、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、自らの坐に坐って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)はあるのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です」と。

 

 「比丘よ、また、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇はあります。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

 「尊き方よ、また、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、何を根元とするのですか」と。「比丘よ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、欲〔の思い〕を根元とします」と。……略……。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして、執取があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのですか(両者は別のものですか)」と。「比丘よ、まさに、まさしく、そのものとして、執取があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのでもなく、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのでもまたありません。しかしながら、また、すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……さらなる問いを尋ねました。

 

 「尊き方よ、また、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の相違性は存在するのでしょうか」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。比丘よ、このように、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の相違性は存在します」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……さらなる問いを尋ねました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔五つの心身を構成する〕範疇に、範疇の名辞があるのですか」と。「比丘よ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、形態の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、識知〔作用〕の範疇と説かれます。比丘よ、まさに、このことから、まさに、〔五つの心身を構成する〕範疇に、範疇の名辞があります」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……尋ねました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、形態の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、感受〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、表象〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、諸々の形成〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、識知〔作用〕の範疇の報知があるのですか」と。「比丘よ、まさに、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)を因として、四つの大いなる元素を縁として、形態の範疇の報知があります。接触()を因として、接触を縁として、感受〔作用〕の範疇の報知があります。接触を因として、接触を縁として、表象〔作用〕の範疇の報知があります。接触を因として、接触を縁として、諸々の形成〔作用〕の範疇の報知があります。名前と形態(名色)を因として、名前と形態を縁として、識知〔作用〕の範疇の報知があります」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……尋ねました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が有るのですか」と。「比丘よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘よ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……尋ねました。

 

 「尊き方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。「比丘よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘よ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は……略……尋ねました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、形態の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか。感受〔作用〕の、何が……。表象〔作用〕の、何が……。諸々の形成〔作用〕の、何が……。識知〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか」と。「比丘よ、それが、まさに、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽です。すなわち、形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険です。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。それが、感受〔作用〕を縁として……。それが、表象〔作用〕を縁として……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……。それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽です。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛あり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険です。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離です」と。「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。「比丘よ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、その比丘に、このような心の思索が浮かびました。「かくのごとく、ああ、まさに、形態は、無我である。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我である。自己ならざるものによって為された諸々の行為()が、どうして、自己に接触するというのだろう」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その比丘の心の思索を了知して、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、無明を具した無知なる愚人が、渇愛を優位とする心で、教師の教えを超え去るべきと思い考えることです。『かくのごとく、ああ、まさに、形態は、無我である。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我である。自己ならざるものによって為された諸々の行為が、どうして、自己に接触するというのだろう』と。比丘たちよ、まさに、わたしの反問によって教導された者たちとして、あなたたちはあります──その場その場に、それら〔の法〕それらの法(教え)において。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの範疇、『まさしく、そのものとして』があり、『〔わたしは〕存するのだ』があり、そして、名辞があり、因とともに、身体を有することによって、二つのものが説かれ、さらに、悦楽と識知〔作用〕あるものとともに、これらの十の種類のものが説かれ、比丘の問いのために有る」と。〔以上が〕第十となる。

 

 喰われるべきものの章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悦楽、二つの集起があり、他に、二つの阿羅漢たちとともに、獅子、喰われるべきもの、食乞いがあり、パーリレイヤとともに、満月があり、〔章となる〕」と。

 

9. 長老の章

 

1. アーナンダの経

 

83. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、尊者プンナ・マンターニプッタは、まさに、新参者たちとして存している、わたしたちにとって、多くの資益ある者として〔世に〕有ります。彼は、わたしたちを、この教諭によって教え諭します。『友よ、アーナンダよ、執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有ります──執取せずして、ではなく。では、何に執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有るのですか──執取せずして、ではなく。形態に執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有ります──執取せずして、ではなく。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有ります──執取せずして、ではなく。

 

 友よ、アーナンダよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を綿密に注視しながら執取して見るようなものです──執取せずして、ではなく。友よ、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、形態に執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有ります──執取せずして、ではなく。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に執取して、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕有ります──執取せずして、ではなく。

 

 友よ、アーナンダよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか』と。『友よ、無常です』〔と〕。『感受〔作用〕は……。『表象〔作用〕は……。『諸々の形成〔作用〕は……。『識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか』と。『友よ、無常です』〔と〕。『友よ、アーナンダよ、それゆえに、ここに……略……。友よ、アーナンダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。友よ、尊者プンナ・マンターニプッタは、まさに、新参者たちとして存している、わたしたちにとって、多くの資益ある者として〔世に〕有ります。彼は、わたしたちを、この教諭によって教え諭します。また、そして、尊者プンナ・マンターニプッタの、この法(教え)の説示を聞いて、法(教え)は、わたしによって知悉されました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ティッサの経

 

84. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊の父方の叔母の子である尊者ティッサは、大勢の比丘たちに、このように告げました。「友よ、さてまた、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたようであり、わたしに、諸々の方向もまた定まらず、わたしに、諸々の法(教え)もまた明白とならず、そして、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が完全に奪い去って止住し、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しまない者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕()が有ります」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の父方の叔母の子である尊者ティッサは、大勢の比丘たちに、このように告げます。『友よ、さてまた、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたようであり、わたしに、諸々の方向もまた定まらず、わたしに、諸々の法(教え)もまた明白とならず、そして、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住し、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しまない者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕が有ります』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、ティッサに告げなさい。(※)『友よ、ティッサよ、教師が、あなたを呼んでいます』(※)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者ティッサのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ティッサに、こう言いました。「友よ、ティッサよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ティッサは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ティッサに、世尊は、こう言いました。「ティッサよ、本当に、まさに、あなたは、大勢の比丘たちに、このように告げるのですか。『友よ、さてまた、わたしの身体は、朦朧としたものが生じたようであり……略……さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕が有ります』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ティッサよ、それを、どう思いますか。形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に、欲〔の思い〕を離れ去っていない者に、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者に、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者に、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者に、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者に、その形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

※ 「友よ」から「あなたを呼んでいます」までを、PTS版により補う。

 

 「ティッサよ、善きかな、善きかな。ティッサよ、まさに、このように、このことは有ります。すなわち、そのように、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に……。感受〔作用〕にたいし……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に……略……それらの形成〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 (※)「ティッサよ、善きかな、善きかな。ティッサよ、まさに、このように、このことは有ります。すなわち、そのように、諸々の形成〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に……。識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に、欲〔の思い〕を離れ去っていない者に、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者に、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者に、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者に、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者に、その識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。(※)

 

※ 上記段落のテキストの欠落を、PTS版により補う。

 

 「ティッサよ、善きかな、善きかな。ティッサよ、まさに、このように、このことは有ります。すなわち、そのように、識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者に……。ティッサよ、それを、どう思いますか。形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に、欲〔の思い〕を離れ去った者に、愛情〔の思い〕を離れ去った者に、涸渇〔の思い〕を離れ去った者に、苦悶〔の思い〕を離れ去った者に、渇愛〔の思い〕を離れ去った者に、その形態の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ティッサよ、善きかな、善きかな。ティッサよ、まさに、このように、このことは有ります。すなわち、そのように、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に……。感受〔作用〕にたいし……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に……。識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に、欲〔の思い〕を離れ去った者に、愛情〔の思い〕を離れ去った者に、涸渇〔の思い〕を離れ去った者に、苦悶〔の思い〕を離れ去った者に、渇愛〔の思い〕を離れ去った者に、その識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ティッサよ、善きかな、善きかな。ティッサよ、まさに、このように、このことは有ります。すなわち、そのように、識知〔作用〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者に……。ティッサよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「ティッサよ、それゆえに、ここに……略……。ティッサよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します(※)。

 

※ テキストには pajānātī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 ティッサよ、それは、たとえば、また、二者の人がいるとします。一者は、道に巧みな智なき人であり、一者は、道に巧みな智ある人です。〔まさに〕その、この道のことを、その道に巧みな智なき人が、この道に巧みな智ある人に尋ねるとします。彼は、このように説くでしょう。『君よ、人士たる者よ、さあ、これが道です。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、二様の道を見るでしょう。そこにおいて、左〔の道〕を放ち置いて、右〔の道〕を収め取りなさい。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、濃い密林を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、大いなる低地の湖沼を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、暗坑の深淵を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、平坦な喜ばしき土地の区画を見るでしょう』と。

 

 ティッサよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。ティッサよ、『道に巧みな智なき人』とは、まさに、これは、凡夫の同義語です。ティッサよ、『道に巧みな智ある人』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。ティッサよ、『二様の道』とは、まさに、これは、疑惑の同義語です。ティッサよ、『左の道』とは、まさに、これは、八つの支分ある誤った道の同義語です。それは、すなわち、この、誤った見解であり……誤った禅定です。ティッサよ、『右の道』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道の同義語です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。ティッサよ、『濃い密林』とは、まさに、これは、無明の同義語です。ティッサよ、『大いなる低地の湖沼』とは、まさに、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。ティッサよ、『暗坑の深淵』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。ティッサよ、『平坦な喜ばしき土地の区画』とは、まさに、これは、涅槃の同義語です。ティッサよ、〔梵行を〕喜び楽しみなさい。ティッサよ、〔梵行を〕喜び楽しみなさい。わたしは、教諭によって〔教諭します〕。わたしは、資助によって〔資助します〕。わたしは、教示によって〔教示します〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ティッサは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. ヤマカの経

 

85. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ヤマカ比丘に、まさに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある」と。

 

 まさに、大勢の比丘たちが、「どうやら、ヤマカ比丘に、まさに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成るらしい。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と耳にしました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヤマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ヤマカを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヤマカに、こう言いました。

 

 「友よ、ヤマカよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「友よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。『煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。

 

 「友よ、ヤマカよ、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。『煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。たとえ、このように、まさに、尊者ヤマカは、それらの比丘たちに言われながらも、まさしく、そのように、その、悪しきものである悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある」と。

 

 すなわち、まさに、それらの比丘たちは、この、悪しきものである悪しき見解から、尊者ヤマカを遠離させることができなかったことから、そこで、まさに、それらの比丘たちは、坐から立ち上がって、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、ヤマカ比丘に、まさに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのです。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。どうか、尊者サーリプッタは、ヤマカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者ヤマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ヤマカを相手に共に挨拶しました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者ヤマカに、こう言いました。

 

 「友よ、ヤマカよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「友よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。『煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。

 

 「友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「友よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「友よ、無常です」〔と〕。「友よ、ヤマカよ、それゆえに、ここに……略……。友よ、ヤマカよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します(※)。

 

※ テキストには pajānātī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。形態を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「表象〔作用〕を……。「諸々の形成〔作用〕を……。「識知〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。形態のうちに、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「形態より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕のうちに……。「感受〔作用〕より他に……略……。「表象〔作用〕のうちに……。「表象〔作用〕より他に……。「諸々の形成〔作用〕のうちに……。「諸々の形成〔作用〕より他に……。「識知〔作用〕のうちに、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。『形態は、感受〔作用〕は、表象〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕は(※)、如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

※ テキストには rūpa… vedana… sañña… sakhāre… viññāa とあるが、PTS版により rūpā vedanā saññā sakhārā viññāa と読む。ただし rūpā については、次経の平行箇所により rūpa と読む。

 

 「友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。『この者は、彼は、形態なき者であり、感受〔作用〕なき者であり、表象〔作用〕なき者であり、諸々の形成〔作用〕なき者であり、識知〔作用〕なき者であり、如来である』と等しく随観しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、ヤマカよ、そして、ここにおいて、あなたに、まさしく、所見の法(現世)において、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、如来が認知されずにあるとき、いったい、あなたの、その説き明かしは、健全なるものがありますか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、煩悩が滅尽した比丘は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、まさに、過去において、知なき者としてあるわたしに、その、悪しきものである悪しき見解が有りました。また、そして、尊者サーリプッタの、この法(教え)の説示を聞いて、まさしく、そして、その、悪しきものである悪しき見解は捨棄され、さらに、法(教え)は、わたしによって知悉されました」と。

 

 「友よ、ヤマカよ、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、ヤマカよ、すなわち、その比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であるなら、彼は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、何に成るのですか』と。友よ、ヤマカよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「友よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、ヤマカよ、すなわち、その比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であるなら、彼は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、何に成るのですか』と。友よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、まさに、形態は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、止滅したものであり、それは、滅至したものです。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが、苦痛であるなら、それは、止滅したものであり、それは、滅至したものです』と。友よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「友よ、ヤマカよ、善きかな、善きかな。友よ、ヤマカよ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。まさしく、この義(意味)の、より一層しっかりした知恵あるために。友よ、ヤマカよ、それは、たとえば、また、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長が、あるいは、家長の子がいるとします。かつまた、彼は、〔万全の〕守護を完備した者です。彼に、或る誰かしらの人が、義(利益)ならざるものを欲し、利益ならざるものを欲し、束縛からの平安ならざるものを欲し、生命を奪うことを欲する者として生起するとします。彼に、このような〔思いが〕存するとします。『この者は、まさに、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長であり、あるいは、家長の子である。かつまた、彼は、〔万全の〕守護を完備した者である。無理やり生命を奪うことは、このことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、取り入って生命を奪うとしよう』と。彼は、近づいて行って、その、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、このように説きます。『尊き方よ、あなたに奉仕します』と。〔まさに〕その、この者を、その、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、奉仕させます。彼は、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、奉仕します。彼にとって、その、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、朋友ともまたなり、彼に信を置き、心友ともまたなり、彼に信を置きます。そして、彼にたいし、信頼を惹起します。友よ、そのとき、まさに、その男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『この、あるいは、家長は、あるいは、家長の子は、まさに、わたしに信頼している』と。そこで、彼が静所に赴いたのを知って、鋭い刃で生命を奪うでしょう。

 

 友よ、ヤマカよ、それを、どう思いますか。まさに、すなわち、その男が、この、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、『尊き方よ、あなたに奉仕します』と、このように言ったとき、そのときもまた、彼は、まさしく、殺戮者です。また、しかしながら、殺戮者として存している者のことを、『わたしにとって、殺戮者である』と了知しませんでした。すなわち、また、彼が、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、奉仕するとき、そのときもまた、彼は、まさしく、殺戮者です。また、しかしながら、殺戮者として存している者のことを、『わたしにとって、殺戮者である』と了知しませんでした。すなわち、また、彼が静所に赴いたのを知って、鋭い刃で生命を奪うとき、そのときもまた、彼は、まさしく、殺戮者です。また、しかしながら、殺戮者として存している者のことを、『わたしにとって、殺戮者である』と了知しませんでした」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。

 

 彼は、無常である形態を、『無常である形態』と、事実のとおりに覚知しません。無常である感受〔作用〕を、『無常である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である表象〔作用〕を、『無常である表象〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である諸々の形成〔作用〕を、『無常である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。無常である識知〔作用〕を、『無常である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 苦痛である形態を、『苦痛である形態』と、事実のとおりに覚知しません。苦痛である感受〔作用〕を……。苦痛である表象〔作用〕を……。苦痛である諸々の形成〔作用〕を……。苦痛である識知〔作用〕を、『苦痛である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 無我である形態を、『無我である形態』と、事実のとおりに覚知しません。無我である感受〔作用〕を……。無我である表象〔作用〕を……。無我である諸々の形成〔作用〕を……。無我である識知〔作用〕を、『無我である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 形成されたものである形態を、『形成されたものである形態』と、事実のとおりに覚知しません。形成されたものである感受〔作用〕を……。形成されたものである表象〔作用〕を……。形成されたものである諸々の形成〔作用〕を……。形成されたものである識知〔作用〕を、『形成されたものである識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 殺戮者である形態を、『殺戮者である形態』と、事実のとおりに覚知しません。殺戮者である感受〔作用〕を、『殺戮者である感受〔作用〕』と……。殺戮者である表象〔作用〕を、『殺戮者である表象〔作用〕』と……。殺戮者である諸々の形成〔作用〕を、『殺戮者である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。殺戮者である識知〔作用〕を、『殺戮者である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 彼は、形態に、接近し、執取し、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立します。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に、接近し、執取し、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立します。彼の、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、接近され、執取され、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。

 

 友よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。

 

 彼は、無常である形態を、『無常である形態』と、事実のとおりに覚知します。無常である感受〔作用〕を……。無常である表象〔作用〕を……。無常である諸々の形成〔作用〕……。無常である識知〔作用〕を、『無常である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。

 

 苦痛である形態を、『苦痛である形態』と、事実のとおりに覚知します。苦痛である感受〔作用〕を……。苦痛である表象〔作用〕を……。苦痛である諸々の形成〔作用〕を……。苦痛である識知〔作用〕を、『苦痛である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。

 

 無我である形態を、『無我である形態』と、事実のとおりに覚知します。無我である感受〔作用〕を……。無我である表象〔作用〕を……。無我である諸々の形成〔作用〕を……。無我である識知〔作用〕を、『無我である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。

 

 形成されたものである形態を、『形成されたものである形態』と、事実のとおりに覚知します。形成されたものである感受〔作用〕を……。形成されたものである表象〔作用〕を……。形成されたものである諸々の形成〔作用〕を……。形成されたものである識知〔作用〕を、『形成されたものである識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。

 

 殺戮者である形態を、『殺戮者である形態』と、事実のとおりに覚知します。殺戮者である感受〔作用〕を、『殺戮者である感受〔作用〕』と……。殺戮者である表象〔作用〕を、『殺戮者である表象〔作用〕』と……。殺戮者である諸々の形成〔作用〕を、『殺戮者である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。殺戮者である識知〔作用〕を、『殺戮者である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。

 

 彼は、形態に、接近せず、執取せず、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立しません。感受〔作用〕に……。表象〔作用〕に……。諸々の形成〔作用〕に……。識知〔作用〕に、接近せず、執取せず、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立しません。彼の、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、接近されず、執取されず、長夜にわたり、利益のために、安楽のために、等しく転起します」と。「友よ、サーリプッタよ、このように、このことは有ります。すなわち、尊者たちには、あなたのような者たちが、梵行を共にする者たちとしてあり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、義(利益)を欲する者たちとして、教諭者たちとして、教示者たちとしてあります。また、そして、尊者サーリプッタの、この法(教え)の説示を聞いて、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. アヌラーダの経

 

86. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、尊者アヌラーダが、世尊から遠く離れていないところで、林の小屋に住んでいます。そこで、まさに、大勢の〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、尊者アヌラーダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌラーダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダに、こう言いました。「友よ、アヌラーダよ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、これらの四つの状況において、報知しつつ報知します」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アヌラーダは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。「友よ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します」と。このように説かれたとき、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダに、こう言いました。「さてまた、この比丘は、彼は、新参者であり、出家したばかりであるか、また、あるいは、愚者にして明敏ならざる長老であるか、〔そのような者として〕有るのだろう」と。そこで、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、尊者アヌラーダを、そして、新参者と説くことによって〔侮蔑して〕、さらに、愚者と説くことによって侮蔑して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者アヌラーダには、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。「それで、もし、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、さらなる問いを尋ねるとして、いったい、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存するのだろう。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗しないのだろう。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かすのだろう。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることがないのだろう」と。

 

 そこで、まさに、尊者アヌラーダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、尊者アヌラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、世尊から遠く離れていないところで、林の小屋に住んでいます。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……わたしに、こう言いました。『友よ、アヌラーダよ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況において、報知しつつ報知します』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。『友よ、すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します』と。尊き方よ、このように説かれたとき、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、わたしに、こう言いました。『さてまた、この比丘は、彼は、新参者であり、出家したばかりであるか、また、あるいは、愚者にして明敏ならざる長老であるか、〔そのような者として〕有るのだろう』と。尊き方よ、そこで、まさに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、わたしを、そして、新参者と説くことによって〔侮蔑して〕、さらに、愚者と説くことによって侮蔑して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしには、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが立ち去ったすぐあと、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、さらなる問いを尋ねるとして、いったい、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存するのだろう。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗しないのだろう。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かすのだろう。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることがないのだろう』」と。

 

 「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「アヌラーダよ、それゆえに、ここに……略……。アヌラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕を……。「表象〔作用〕を……。「諸々の形成〔作用〕を……。「識知〔作用〕を、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。形態のうちに、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「形態より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕のうちに……略……。「感受〔作用〕より他に……略……。「表象〔作用〕のうちに……。「表象〔作用〕より他に……。「諸々の形成〔作用〕のうちに……。「諸々の形成〔作用〕より他に……。「識知〔作用〕のうちに……。「識知〔作用〕より他に、『如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。『形態は、感受〔作用〕は、表象〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕は、如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アヌラーダよ、それを、どう思いますか。『この者は、彼は、形態なき者であり、感受〔作用〕なき者であり、表象〔作用〕なき者であり、諸々の形成〔作用〕なき者であり、識知〔作用〕なき者であり、如来である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アヌラーダよ、そして、ここにおいて、あなたに、まさしく、所見の法(現世)において、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、如来が認知されずにあるとき、いったい、あなたの、その説き明かしは、健全なるものがありますか。『すなわち、彼が、如来であり、最上の人士であり、最高の人士であり、最高の至り得るものに至り得た者であるなら、そのことを、如来は、あるいは、「如来は、死後に有る」と……略……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、これらの四つの状況より他に、報知しつつ報知します』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「アヌラーダよ、善きかな、善きかな。アヌラーダよ、わたしは、そして、過去において、さらに、今現在、まさしく、そして、苦しみを報知し、さらに、苦しみの止滅を〔報知します〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ヴァッカリの経

 

87. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァッカリは、陶工の住居地に住んでいます。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、尊者ヴァッカリは、奉仕者たちに告げました。「友よ、さあ、あなたたちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝したまえ。『尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きたまえ。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ヴァッカリ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッカリに答えました。そこで、まさに、それらの比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。また、さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ヴァッカリ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、尊者ヴァッカリのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者ヴァッカリは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、臥床のなかで〔身体を〕動かしました。そこで、まさに、世尊は、尊者ヴァッカリに、こう言いました。「ヴァッカリよ、十分です。あなたは、臥床のなかで〔身体を〕動かしてはいけません。〔他の者たちによって〕設けられた、これらの坐が存します。そこにおいて、わたしは坐りましょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者ヴァッカリに、こう言いました。「ヴァッカリよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。「ヴァッカリよ、どうでしょう、あなたに、何らかの悔恨〔の思い〕はないですか、何らかの後悔〔の思い〕はないですか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしには、少なからざる悔恨〔の思い〕があり、少なからざる後悔〔の思い〕があります」と。「ヴァッカリよ、また、どうでしょう、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判することはありません」と。「ヴァッカリよ、もし、まさに、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないなら、そこで、あなたには、そして、どのような悔恨〔の思い〕があり、さらに、どのような後悔〔の思い〕があるのですか」と。「尊き方よ、長いあいだずっと、わたしは、世尊と会見するために近づいて行くことを欲するも、しかしながら、わたしの身体のうちには、すなわち、わたしが世尊と会見するために近づいて行くだけの、それだけの力の量が存在しません」と。

 

 「ヴァッカリよ、十分です。この腐敗の身体を見たとして、あなたにとって、何だというのでしょう。ヴァッカリよ、まさに、彼が、法(真理)を見るなら、彼は、わたしを見ます。彼が、わたしを見るなら、彼は、法(真理)を見ます。ヴァッカリよ、なぜなら、法(真理)を見ている者は、わたしを見るからです。わたしを見ている者は、法(真理)を見るからです。

 

 ヴァッカリよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ヴァッカリよ、それゆえに、ここに……略……。ヴァッカリよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ヴァッカリを、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、ギッジャクータ山のあるところに、そこへと立ち去りました。そこで、まさに、尊者ヴァッカリは、世尊が立ち去ったすぐあと、奉仕者たちに告げました。「友よ、さあ、わたしを臥床に載せて、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ。なぜなら、まさに、わたしのような者が、どうして、家の中で命を終えるべきと思い考えるというのでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッカリに答えて、尊者ヴァッカリを臥床に載せて、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、世尊は、そして、その夜のあいだ、さらに、その昼の残りのあいだ、ギッジャクータ山に住みました。そこで、まさに、二者の天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータを照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、一者の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、解脱のために思弁します」と。他の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、彼は、まちがいなく、善く解脱した者となり、解脱するでしょう」と。それらの天神たちは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、あなたたちは、ヴァッカリ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ヴァッカリ比丘に、このように説きなさい。

 

 『友よ、ヴァッカリよ、あなたは、世尊の言葉を聞きなさい。さらに、二者の天神の〔言葉を〕。友よ、この夜に、二者の天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータを照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。友よ、一方に立った、まさに、一者の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、解脱のために思弁します」と。他の天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、彼は、まちがいなく、善く解脱した者となり、解脱するでしょう」と。友よ、ヴァッカリよ、そして、世尊は、あなたに、このように言いました。「ヴァッカリよ、恐れてはいけません。ヴァッカリよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、尊者ヴァッカリのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ヴァッカリに、こう言いました。「友よ、ヴァッカリよ、あなたは、世尊の言葉を聞きなさい。さらに、二者の天神の〔言葉を〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者ヴァッカリは、奉仕者たちに告げました。「友よ、さあ、わたしを臥床から降ろしたまえ。なぜなら、まさに、わたしのような者が、どうして、高い坐に坐って、彼の、世尊の、教えを聞くべきと思い考えるというのでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッカリに答えて、尊者ヴァッカリを臥床から降ろしました。「友よ、この夜に、二者の天神が、夜が更けると……略……一方に立ちました。友よ、一方に立った、まさに、一者の天神は、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、解脱のために思弁します』と。他の天神は、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、まさに、彼は、まちがいなく、善く解脱した者となり、解脱するでしょう』と。友よ、ヴァッカリよ、そして、世尊は、あなたに、このように言いました。『ヴァッカリよ、恐れてはいけません。ヴァッカリよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕』」と。「友よ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝したまえ。『尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きたまえ。『尊き方よ、わたしは、「形態は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません。尊き方よ、わたしは、「感受〔作用〕は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません。尊き方よ、わたしは、「表象〔作用〕は……「諸々の形成〔作用〕は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません。尊き方よ、わたしは、「識知〔作用〕は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者ヴァッカリに答えて、立ち去りました。そこで、まさに、尊者ヴァッカリは、それらの比丘たちが立ち去ったすぐあと、刃を持ちました(自死した)。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ヴァッカリ比丘は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、わたしは、「形態は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません。尊き方よ、わたしは、「感受〔作用〕は……「表象〔作用〕は……「諸々の形成〔作用〕は……「識知〔作用〕は、無常である」という、〔このことを〕疑いません。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」という、〔このことを〕疑惑しません。「それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、わたしに、そこにおいて、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、貪り〔の思い〕も、あるいは、愛情〔の思い〕も、存在しない」という、〔このことを〕疑惑しません』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、行きましょう。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行くのです。そこにおいて、良家の子息であるヴァッカリによって、刃が持たれました」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大勢の比丘たちと共に、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者ヴァッカリが、はるか遠くに、臥床の上で肩をまるめ、臥しているのを見ました。

 

 また、まさに、その時点にあって、煙のような黒いものが、まさしく、東の方角に赴き、西の方角に赴き、北の方角に赴き、南の方角に赴き、上に赴き、下に赴き、〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に赴きます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──この、煙のような黒いものが、まさしく、東の方角に赴き……略……〔四〕維に赴きます」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」と。「比丘たちよ、これは、まさに、悪魔パーピマントです。良家の子息であるヴァッカリの識知〔作用〕を等しく探し求めているのです。『どこにおいて、良家の子息であるヴァッカリの識知〔作用〕は止住しているのか』と。比丘たちよ、しかしながら、識知〔作用〕は止住することなく、良家の子息であるヴァッカリは、完全なる涅槃に到達したのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アッサジの経

 

88. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者アッサジは、カッサパの林園に住んでいます。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、尊者アッサジは、奉仕者たちに告げました。「友よ、さあ、あなたたちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝したまえ。『尊き方よ、アッサジ比丘は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きたまえ。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、アッサジ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アッサジに答えました。そこで、まさに、それらの比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、アッサジ比丘は、病苦の者であり……略……。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、アッサジ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アッサジのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者アッサジは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、臥床のなかで〔身体を〕動かしました。そこで、まさに、世尊は、尊者アッサジに、こう言いました。「アッサジよ、十分です。あなたは、臥床のなかで〔身体を〕動かしてはいけません。〔他の者たちによって〕設けられた、これらの坐が存します。そこにおいて、わたしは坐りましょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アッサジに、こう言いました。「アッサジよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。「アッサジよ、どうでしょう、あなたに、何らかの悔恨〔の思い〕はないですか、何らかの後悔〔の思い〕はないですか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしには、少なからざる悔恨〔の思い〕があり、少なからざる後悔〔の思い〕があります」と。「アッサジよ、また、どうでしょう、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判することはありません」と。「アッサジよ、もし、まさに、あなたのことを、自己が、戒〔の観点〕から批判しないなら、そこで、あなたには、そして、どのような悔恨〔の思い〕があり、さらに、どのような後悔〔の思い〕があるのですか」と。「尊き方よ、過去において、まさに、わたしは、病のうちにあるとき、諸々の身体の形成〔作用〕を静息させては静息させて、〔世に〕住みます。〔まさに〕その、わたしは、禅定を獲得しません。尊き方よ、禅定を獲得せずにいる、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『さてまた、まさに、わたしは、遍く衰退しないだろうか』」と。「アッサジよ、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、禅定を真髄とする者たちであり、禅定を沙門の資質とする者たちであるなら、その禅定を獲得せずにいる、彼らに、このような〔思いが〕有ります。『さてまた、まさに、わたしたちは、遍く衰退しないだろうか』と。

 

 アッサジよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「識知〔作用〕は……略……。「アッサジよ、それゆえに、ここに……略……。アッサジよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します(※)。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し……略……『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。彼が、もし、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知します。もし、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知します。『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。

 

※ テキストには pajānātī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 アッサジよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。アッサジよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ケーマカの経

 

89. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ケーマカは、バダリの林園に住んでいます。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、長老の比丘たちは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者ダーサカに告げました。「友よ、ダーサカよ、さあ、あなたは、ケーマカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、ケーマカ比丘に、このように説きたまえ。『友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。「友よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」』」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちに答えました。そこで、まさに、尊者ダーサカは、尊者ケーマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ケーマカに、こう言いました。「友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。『友よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。……略……進行ではなく』」と。「友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

 そこで、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、ケーマカ比丘は、このように言いました。『友よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。……略……。それらの進行が覚知されます──回復ではなく』」と。「友よ、ダーサカよ、さあ、あなたは、ケーマカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、ケーマカ比丘に、このように説きたまえ。『友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。「友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。尊者ケーマカは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何らかの、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しますか」』」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちに答えました。そこで、まさに、尊者ダーサカは、尊者ケーマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ケーマカに、こう言いました。「友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。『友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。尊者ケーマカは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しますか』」と。「友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、まさに、わたしは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しません」と。

 

 そこで、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、ケーマカ比丘は、このように言いました。『友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、まさに、わたしは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しません』」と。「友よ、ダーサカよ、さあ、あなたは、ケーマカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、ケーマカ比丘に、このように説きたまえ。『友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。「友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。もし、まさに、尊者ケーマカが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しないなら、まさに、それによって、尊者ケーマカは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢です」』」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちに答えました。そこで、まさに、尊者ダーサカは、尊者ケーマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ケーマカに、こう言いました。「友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。『友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。もし、まさに、尊者ケーマカが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しないなら、まさに、それによって、尊者ケーマカは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢です』」と。「友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、まさに、わたしは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しません。しかしながら、〔わたしは〕煩悩の滅尽者たる阿羅漢として存していません。友よ、そして、また、わたしには、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、『〔わたしは〕存在する』と到達するところがあります。しかしながら、『これは、わたしとして存在する』と等しく随観することはありません」と。

 

 そこで、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちのいるところに……略……長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、ケーマカ比丘は、このように言いました。『友よ、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、世尊によって説かれました。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、まさに、わたしは、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、何であれ、あるいは、自己を、あるいは、自己に属するものを、等しく随観しません。しかしながら、〔わたしは〕煩悩の滅尽者たる阿羅漢として存していません。友よ、そして、また、わたしには、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、「〔わたしは〕存在する」と到達するところがあります。しかしながら、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観することはありません』」と。

 

 「友よ、ダーサカよ、さあ、あなたは、ケーマカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、ケーマカ比丘に、このように説きたまえ。『友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。「友よ、ケーマカよ、すなわち、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。形態を、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。形態より他に、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。識知〔作用〕より他に、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。友よ、ケーマカよ、すなわち、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか」』」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ダーサカは、長老の比丘たちに答えました。そこで、まさに、尊者ダーサカは、尊者ケーマカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ケーマカに、こう言いました。「友よ、ケーマカよ、長老たちが、あなたに、このように言いました。『友よ、ケーマカよ、すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか。形態を、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか。形態より他に、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか。識知〔作用〕より他に、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか。友よ、ケーマカよ、すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、「〔わたしは〕存在する」と、〔あなたは〕説くのですか』」と。「友よ、ダーサカよ、十分です。この行ったり来たりが、何だというのでしょう。友よ、杖を持ってきてください。まさしく、わたしが、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きます」と。

 

 そこで、まさに、尊者ケーマカは、杖に頼って、長老の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、長老の比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ケーマカに、長老の比丘たちは、こう言いました。「友よ、ケーマカよ、すなわち、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。形態を、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。形態より他に、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。識知〔作用〕より他に、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか。友よ、ケーマカよ、すなわち、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたが〕説くなら、何を、この、『〔わたしは〕存在する』と、〔あなたは〕説くのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、形態を、『〔わたしは〕存在する』と説かず、形態より他に、『〔わたしは〕存在する』ともまた説きません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『〔わたしは〕存在する』と説かず、識知〔作用〕より他に、『〔わたしは〕存在する』ともまた説きません。友よ、そして、また、わたしには、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、『〔わたしは〕存在する』と到達するところがあります。しかしながら、『これは、わたしとして存在する』と等しく随観することはありません。

 

 友よ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の、あるいは、赤蓮の、あるいは、白蓮の、香りのようなものです。いったい、まさに、或る者が、あるいは、『葉の香りである』と、あるいは、『色の香りである』と、あるいは、『花糸の香りである』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、また、すなわち、どのように、正しく説き明かしつつ説き明かすべきですか」と。「友よ、『花の香りである』と、まさに、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、形態を、『〔わたしは〕存在する』と説かず、形態より他に、『〔わたしは〕存在する』ともまた説きません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『〔わたしは〕存在する』と説かず、識知〔作用〕より他に、『〔わたしは〕存在する』ともまた説きません。友よ、そして、また、わたしには、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、『〔わたしは〕存在する』と到達するところがあります。しかしながら、『これは、わたしとして存在する』と等しく随観することはありません。

 

 友よ、たとえ、何であれ、聖なる弟子に、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が〔すでに〕捨棄されたものと成るも、そこで、まさに、彼には、しかしながら、すなわち、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、微細なる〔状態〕を共具したものとして、『〔わたしは〕存在する』という思量()が、『〔わたしは〕存在する』という欲〔の思い〕が、『〔わたしは〕存在する』という悪習(随眠:潜在煩悩)が、〔いまだ〕完破されていないものとして有ります。彼は、他時にあって、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。彼が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、また、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、微細なる〔状態〕を共具したものとしてある、『〔わたしは〕存在する』という思量は、『〔わたしは〕存在する』という欲〔の思い〕は、『〔わたしは〕存在する』という悪習は、それもまた、根絶に至ります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、所有者たちが、洗濯師に託すとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、洗濯師は、あるいは、塩のなかで、あるいは、灰汁のなかで、あるいは、牛糞のなかで、圧し揉んで、澄んだ水のなかで洗い落とします。たとえ、何であれ、その衣装が、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るも、そこで、まさに、その〔衣装〕には、微細なる〔状態〕を共具したものとして、あるいは、塩の香りが、あるいは、灰汁の香りが、あるいは、牛糞の香りが、〔いまだ〕完破されていないものとして、まさしく、有ります。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、洗濯師は、所有者たちに渡します。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、所有者たちは、香りに満たされた箱のなかに置きます。その〔衣装〕の、すなわち、また、微細なる〔状態〕を共具したものとしてある、あるいは、塩の香りは、あるいは、灰汁の香りは、あるいは、牛糞の香りは、それもまた、根絶に至ります。友よ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子に、五つの下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄されたものと成るも、そこで、まさに、彼には、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、微細なる〔状態〕を共具したものとして、『〔わたしは〕存在する』という思量が、『〔わたしは〕存在する』という欲〔の思い〕が、『〔わたしは〕存在する』という悪習が、〔いまだ〕完破されていないものとして、まさしく、有ります。彼は、他時にあって、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。彼が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、また、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、微細なる〔状態〕を共具したものとしてある、『〔わたしは〕存在する』という思量は、『〔わたしは〕存在する』という欲〔の思い〕は、『〔わたしは〕存在する』という悪習は、それもまた、根絶に至ります」と。

 

 このように説かれたとき、長老の比丘たちは、尊者ケーマカに、こう言いました。「まさに、わたしたちは、尊者ケーマカに、害することを期す者たちとして尋ねたのではありません。しかしながら、また、彼の、世尊の、教えを、尊者ケーマカは、詳細〔の観点〕によって、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すことができました。〔まさに〕その、この〔教え〕は、彼の、世尊の教えは、尊者ケーマカによって、詳細〔の観点〕によって、〔他者に〕告知され、説示され、報知され、確立され、開顕され、区分され、明瞭と為されました」と。

 

 尊者ケーマカは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た長老の比丘たちは、尊者ケーマカの語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十者の長老の比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した──さらに、尊者ケーマカの〔心も〕、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. チャンナの経

 

90. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者チャンナは、夕刻時に、静坐から出起し、鍵を取って、精舎から精舎へと近づいて行って、長老の比丘たちに、こう言いました。「長老たる尊者たちは、わたしに教諭してください。長老たる尊者たちは、わたしに教示してください。長老たる尊者たちは、わたしに、法(教え)の講話を為してください──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように」と。

 

 このように説かれたとき、長老の比丘たちは、尊者チャンナに、こう言いました。「友よ、チャンナよ、まさに、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。形態は、無我です。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕(形成されたもの)は、無常です(諸行無常)。一切の法(事象)は、無我です(諸法無我)」と。

 

 そこで、まさに、尊者チャンナに、この〔思い〕が有りました。「わたしにとってもまた、まさに、このことは、このように有る。『形態は、無常である。感受〔作用〕は、無常である。表象〔作用〕は、無常である。諸々の形成〔作用〕は、無常である。識知〔作用〕は、無常である。形態は、無我である。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我である。一切の形成〔作用〕は、無常である。一切の形成〔作用〕は、無我である』と。そこで、また、そして、一切の形成〔作用〕の止寂にたいし、一切の依り所の放棄にたいし、渇愛の滅尽にたいし、離貪にたいし、止滅にたいし、涅槃にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しない。思い悩みが〔生起し〕、執取が生起し、意図が反転する。『そこで、そうすると、何が、わたしの自己なのか』と。また、まさに、法(真理)を見ている者に、このような〔思いが〕有ることはない。いったい、まさに、誰が、そのように、わたしに、法(教え)を説示してくれるのだろう──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように」と。

 

 そこで、まさに、尊者チャンナに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この方が、尊者アーナンダが、コーサンビーに住んでいる。ゴーシタの林園において。まさしく、そして、教師の栄誉とするところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように。さらに、わたしには、尊者アーナンダにたいし、それだけの信頼が存在する。それなら、さあ、わたしは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、尊者チャンナは、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者チャンナは、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「友よ、アーナンダよ、或る時のことです。ここに、わたしは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。友よ、そこで、まさに、わたしは、夕刻時に、静坐から出起し、鍵を取って、精舎から精舎へと近づいて行って、長老の比丘たちに、こう言いました。『長老たる尊者たちは、わたしに教諭してください。長老たる尊者たちは、わたしに教示してください。長老たる尊者たちは、わたしに、法(教え)の講話を為してください──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように』と。友よ、このように説かれたとき、長老の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、チャンナよ、まさに、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。形態は、無我です。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕は、無常です。一切の法(事象)は、無我です』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『わたしにとってもまた、まさに、このことは、このように有る。「形態は、無常である。感受〔作用〕は、無常である。表象〔作用〕は、無常である。諸々の形成〔作用〕は、無常である。識知〔作用〕は、無常である。形態は、無我である。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我である。一切の形成〔作用〕は、無常である。一切の形成〔作用〕は、無我である」と。そこで、また、そして、一切の形成〔作用〕の止寂にたいし、一切の依り所の放棄にたいし、渇愛の滅尽にたいし、離貪にたいし、止滅にたいし、涅槃にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しない。思い悩みが〔生起し〕、執取が生起し、意図が反転する。「そこで、そうすると、何が、わたしの自己なのか」と。また、まさに、法(真理)を見ている者に、このような〔思いが〕有ることはない。いったい、まさに、誰が、そのように、わたしに、法(教え)を説示してくれるのだろう──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように』と。

 

 友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この方が、尊者アーナンダが、コーサンビーに住んでいる。ゴーシタの林園において。まさしく、そして、教師の栄誉とするところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者アーナンダは、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように。さらに、わたしには、尊者アーナンダにたいし、それだけの信頼が存在する。それなら、さあ、わたしは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊者アーナンダは、わたしに教諭してください。尊者アーナンダは、わたしに教示してください。尊者アーナンダは、わたしに、法(教え)の講話を為してください──すなわち、わたしが、法(真理)を見られるように」と。

 

 「尊者チャンナの、これだけのことでもまた、わたしたちは、わが意を得た者たちとなります。さてまた、まさに、尊者チャンナは、その杭を、明らかと為し、断ち切りました。友よ、チャンナよ、耳を傾けなさい。〔あなたは〕法(真理)を識知することができる者として存しています」と。そこで、まさに、尊者チャンナに、まさしく、それだけのことで、秀逸なる喜悦と歓喜が生起しました。「どうやら、〔わたしは〕法(真理)を識知することができる者として存しているらしい」と。

 

 「友よ、チャンナよ、わたしは、このことを、カッチャーナ・ゴッタ比丘に教諭している世尊の、面前で聞き、かつまた、面前で受けました。『カッチャーナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、二つ〔の極〕に依拠しています──まさしく、そして、存在あること(有)に、さらに、存在なきこと(無)に。カッチャーナよ、世の集起を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在なきことは、それは有りません。カッチャーナよ、世の止滅を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在あることは、それは有りません。カッチャーヤナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、〔渇愛と見解への〕接近と執取と固着による結縛があります。しかしながら、この者が、〔まさに〕その、〔渇愛と見解への〕接近と執取に、心の確立に、固着と悪習に、接近せず、執取せず、「わたしの自己である」と、〔心に〕確立せず、「まさしく、苦しみが、生起しつつ生起する。苦しみが、止滅しつつ止滅する」と〔あるがままに見て〕、疑わず、疑惑せず、〔もはや〕他を縁としないことから、ここにおいて、彼には、まさしく、知恵()が有ります。カッチャーナよ、このことから、まさに、正しい見解と成ります。カッチャーナよ、「一切は、存在する」という〔見解は〕、まさに、これは、一つの極です(常見)。「一切は、存在しない」という〔見解は〕、これは、第二の極です(断見)。カッチャーナよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」』」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、このように、このことは有ります。すなわち、尊者たちには、あなたのような者たちが、梵行を共にする者たちとしてあり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、義(利益)を欲する者たちとして、教諭者たちとして、教示者たちとしてあります。また、そして、尊者アーナンダの、この法(教え)の説示を聞いて、法(教え)は、わたしによって知悉されました」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ラーフラの経

 

91. サーヴァッティーの因絵となります。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。

 

 「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二のラーフラの経

 

92. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るのですか」と。「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 長老の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「アーナンダ、ティッサ、ヤマカ、そして、アヌラーダ、ヴァッカリ、アッサジ、ケーマカ、チャンナ、他に、二つのラーフラがあり、〔章となる〕」と。

 

10. 花の章

 

1. 川の経

 

93. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山から発し、遠くに赴き、激しい流れとなり、〔何であれ〕運び去る川があるとします。その〔川〕の両岸において、もし、また、諸々のカーサ〔草〕が生じ、存在するとして、それらは〔伸び上がらず〕、その〔川〕に垂れ下がるでしょう。もし、また、諸々のクサ〔草〕が生じ、存在するとして、それらは〔伸び上がらず〕、その〔川〕に垂れ下がるでしょう。もし、また、諸々のパッバジャ〔草〕が生じ、存在するとして、それらは〔伸び上がらず〕、その〔川〕に垂れ下がるでしょう。もし、また、諸々のビーラナ〔草〕が生じ、存在するとして、それらは〔伸び上がらず〕、その〔川〕に垂れ下がるでしょう。もし、また、諸々の木が生じ、存在するとして、それらは〔伸び上がらず〕、その〔川〕に垂れ下がるでしょう。その〔川〕の流れに運ばれている人が、もし、また、諸々のカーサ〔草〕を掴むとして、それらは崩壊するでしょうし、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起するでしょう。もし、また、諸々のクサ〔草〕を掴むとして、それらは崩壊するでしょうし、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起するでしょう。もし、また、諸々のパッバジャ〔草〕を掴むとして、それらは崩壊するでしょうし、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起するでしょう。もし、また、諸々のビーラナ〔草〕を掴むとして、それらは崩壊するでしょうし、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起するでしょう。もし、また、諸々の木を掴むとして、それらは崩壊するでしょうし、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼の、その形態は崩壊し、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起します。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼の、その識知〔作用〕は崩壊し、彼は、それを因縁として、不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 花の経

 

94. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、世〔の人々〕と論争しません。世〔の人々〕こそが、わたしと論争します。比丘たちよ、法(真理)を説く者は、誰とであれ、世において論争しません。比丘たちよ、それが、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在しないなら、わたしもまた、それを、『存在しない』と説きます。比丘たちよ、それが、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在するなら、わたしもまた、それを、『存在する』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、何が、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在せず、わたしは、それを、『存在しない』と説くのですか。比丘たちよ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、形態は、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在せず、わたしは、それを、『存在しない』と説きます。……感受〔作用〕は……表象〔作用〕は……諸々の形成〔作用〕は……。常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、識知〔作用〕は、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在せず、わたしは、それを、『存在しない』と説きます。

 

 比丘たちよ、では、何が、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在し、わたしは、それを、『存在する』と説くのですか。比丘たちよ、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、形態は、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在し、わたしは、それを、『存在する』と説きます。……感受〔作用〕は……表象〔作用〕は……諸々の形成〔作用〕は……。無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である、識知〔作用〕は、世における賢者たちにとって、等しく思認されたものとして存在し、わたしは、それを、『存在する』と説きます。

 

 比丘たちよ、世における世の法(性質)が存在します。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、それを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。

 

 比丘たちよ、では、何が、世における世の法(性質)なのですか。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。比丘たちよ、形態は、世における世の法(性質)です。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。

 

 比丘たちよ、彼が、如来によって、このように、告知され、説示され、報知され、確立され、開顕され、区分され、明瞭と為されているとき、知ることがないなら、見ることがないなら、比丘たちよ、わたしは、〔まさに〕その、愚者たる凡夫に、盲者に、眼なき者に、知らずにいる者に、見ずにいる者に、何をどう為すというのでしょう。比丘たちよ、感受〔作用〕は、世における世の法(性質)です。……略……。比丘たちよ、表象〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……。比丘たちよ、識知〔作用〕は、世における世の法(性質)です。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、それを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。

 

 比丘たちよ、彼が、如来によって、このように、告知され、説示され、報知され、確立され、開顕され、区分され、明瞭と為されているとき、知ることがないなら、見ることがないなら、比丘たちよ、わたしは、〔まさに〕その、愚者たる凡夫に、盲者に、眼なき者に、知らずにいる者に、見ずにいる者に、何をどう為すというのでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、青蓮が、あるいは、赤蓮が、あるいは、白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、如来は、世において生じ、世において等しく増大し、世を征服して、世に汚されることなく〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 泡沫の団塊の経

 

95. 或る時のことです。世尊は、アユッジャーに住んでおられます。ガンガー川の岸辺において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、このガンガー川が、大いなる泡沫の団塊をもたらすようなものです。〔まさに〕その、この〔泡沫の団塊〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出するでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、泡沫の団塊において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出します。比丘たちよ、まさに、どうして、形態において、真髄が存在するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分に、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、水において、水泡が、まさしく、そして、生起し、さらに、止滅するようなものです。〔まさに〕その、この〔水泡〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出するでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、水泡において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出します。比丘たちよ、まさに、どうして、感受〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月に当たり、日中の時において、陽炎(かげろう)が揺れ動くようなものです。〔まさに〕その、この〔陽炎〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し……略……。比丘たちよ、まさに、どうして、陽炎において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく、極めて高く生えた、大いなる芭蕉の幹を見ます。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、樹皮を剥がします。彼は、その〔芭蕉〕の、樹皮を剥がしながら、軟材にさえも遭遇しません。どうして、硬材に〔遭遇するというのでしょう〕。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出するでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、芭蕉において、真髄(硬材)が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出します。比丘たちよ、まさに、どうして、諸々の形成〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、幻術師が、あるいは、幻術師の内弟子が、大きな四つ辻において、幻術を見せるようなものです。〔まさに〕その、この〔幻術〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出するでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、幻術において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものとして現出し、まさしく、虚妄なるものとして現出し、まさしく、真髄なきものとして現出します。比丘たちよ、まさに、どうして、識知〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『形態は、泡沫の団塊の如きものである。感受〔作用〕は、泡粒の如きものである。表象〔作用〕は、陽炎の如きものである。諸々の形成〔作用〕は、芭蕉の如きものである。そして、識知〔作用〕は、幻想の如きものである』〔と〕、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された。

 

 そのとおり、そのとおりに、凝視し、根源のままに近しく注視するなら、空虚なるものとして、虚妄なるものとして、〔それは〕有る──すなわち、それを、根源のままに見るなら。

 

 さらに、この身体に関しても、広き智慧ある者(ブッダ)によって説示された。『三つの法(性質)の捨棄あることから、形態〔としての身体〕を、捨て放たれたものと見よ』〔と〕。

 

 すなわち、寿命が、そして、熱と識知〔作用〕が、この身体を捨棄するとき、そのとき、〔身体は〕捨てられ、〔地に〕臥し、〔形態は〕思欲なきものとなり、他の食するところとなる。

 

 このようなものとして相続あるのが、この〔身体〕である。これは、幻想であり、愚者の虚論である。これは、殺戮者と告げ知らされた。ここにおいて、真髄は見出されない。

 

 このように、〔五つの心身を構成する〕範疇を注視するがよい──精進に励む比丘となり、もしくは、昼であろうが、夜であろうが、正知と気づきの者として。

 

 一切の束縛を捨棄するがよい。自己の帰依所を作るがよい。頭が燃えているかのように、〔世を〕歩むがよい──死滅なき境処(涅槃)を望み求めながら」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 牛糞の団塊の経

 

96. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、感受〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕感受〔作用〕は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、表象〔作用〕で……略……〔そのような〕表象〔作用〕は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、諸々の形成〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕諸々の形成〔作用〕は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。「比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、感受〔作用〕で……何であれ、表象〔作用〕で……何であれ、諸々の形成〔作用〕で……何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、僅かな牛糞の団塊を手で掴んで、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──自己状態(個我的あり方・身体)の獲得あるもので、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような自己状態の獲得あるものは〕。比丘よ、たとえ、もし、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕自己状態の獲得あるものが〔世に〕有ったなら、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、たとえ、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕自己状態の獲得あるものが〔世に〕存在しないことから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 比丘よ、過去の事(過去世)ですが、〔わたしは〕即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、クサーヴァティー王都を筆頭とする八万四千の城市が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、ダンマ高楼を筆頭とする、八万四千の高楼が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、マハー・ブユーハ楼閣を筆頭とする、八万四千の楼閣が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があり、象牙で作られ、硬材で作られ、金で作られている、八万四千の寝台が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ウポーサタ象王を筆頭とする、八万四千の象が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴァラーハカ馬王を筆頭とする、八万四千の馬が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、ヴェージャヤンタ車を筆頭とする、八万四千の車が有りました。比丘よ、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしには、宝珠の宝を筆頭とする、八万四千の宝珠が有りました。比丘よ……略……〔まさに〕その、わたしには、スバッダー王妃を筆頭とする、八万四千の婦女が有りました。比丘よ……略……〔まさに〕その、わたしには、従い行く者たちとして、パリナーヤカ・ラタナ(参謀の宝)を筆頭とする、八万四千の士族が有りました。比丘よ……略……〔まさに〕その、わたしには、黄麻のつなぎ紐があり、銅の容器がある、八万四千の乳牛が有りました。比丘よ……略……〔まさに〕その、わたしには、繊細なる麻布の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、繊細なる木綿の、八万四千コーティ(数の単位・千万)の衣装が有りました。比丘よ……略……〔まさに〕その、わたしには、八万四千の〔献上用の〕盛り物が有りました。夕に、朝に、食事の提供があり、〔わたしのもとに〕運ばれました。

 

 比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の城市があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが居住する、ただ一つの城市として有るのが、それが、クサーヴァティー王都なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の高楼があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが居住する、ただ一つの高楼として有るのが、それが、ダンマ高楼なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の楼閣があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが居住する、ただ一つの楼閣として有るのが、それが、マハー・ブユーハ楼閣なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の寝台があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが遍く受益する、ただ一つの寝台として有るのが、それが、あるいは、象牙で作られているものであり、あるいは、硬材で作られているものであり、あるいは、金で作られているものであり、あるいは、銀で作られているものなのですす。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の象があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが乗る、ただ一つの象として有るのが、それが、ウポーサタ象王なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の馬があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが乗る、ただ一つの馬として有るのが、それが、ヴァラーハカ馬王なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の車があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしが乗る、ただ一つの車として有るのが、それが、ヴェージャヤンタ車なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の婦女があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしに奉仕する、ただ一つの婦女として有るのが、それが、あるいは、士族の女であり、あるいは、少女なのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千コーティの衣装があるなか、すなわち、その時点にあって、わたしがまとう、ただ一つのひと組の衣装として有るのが、それが、あるいは、繊細なる麻布のものであり、あるいは、繊細なる絹布のものであり、あるいは、繊細なる毛布のものであり、あるいは、繊細なる木綿のものなのです。比丘よ、また、まさに、それらの八万四千の〔献上用の〕盛り物があるなか、ただ一つの〔献上用の〕盛り物として有るのが、そのなかから、ひと枡の最高の飯を──さらに、その〔飯〕に合っている汁を──〔わたしが〕食べる、その〔盛り物〕なのです。比丘よ、かくのごとく、まさに、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、それらの全てが、過去のものであり、止滅したものであり、変化したものです。比丘よ、このように常住ならざるは、まさに、諸々の形成〔作用〕です。比丘よ、このように常恒ならざるは、まさに、諸々の形成〔作用〕です。比丘よ、このように常久ならざるは、まさに、諸々の形成〔作用〕です。比丘よ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 爪先の経

 

97. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、感受〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕感受〔作用〕は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、表象〔作用〕で……略……何であれ、諸々の形成〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕諸々の形成〔作用〕は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。「比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、感受〔作用〕で……何であれ、表象〔作用〕で……何であれ、諸々の形成〔作用〕で……何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──形態として、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような形態は〕。比丘よ、たとえ、もし、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕形態が〔世に〕有ったなら、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、たとえ、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕形態が〔世に〕存在しないことから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──感受〔作用〕として、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような感受作用は〕。比丘よ、たとえ、もし、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕感受〔作用〕が〔世に〕有ったなら、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、たとえ、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕感受〔作用〕が〔世に〕存在しないことから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──表象〔作用〕として……略……。比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──諸々の形成〔作用〕として、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような諸々の形成作用は〕。比丘よ、たとえ、もし、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕諸々の形成〔作用〕が〔世に〕有ったなら、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、たとえ、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕諸々の形成〔作用〕が〔世に〕存在しないことから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 比丘よ、たとえ、これほどのものであれ、まさに、存在しません──識知〔作用〕として、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような識知作用は〕。比丘よ、たとえ、もし、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕識知〔作用〕が〔世に〕有ったなら、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されることは、このことはありません。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、たとえ、これほどのものであれ、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である、〔そのような〕識知〔作用〕が〔世に〕存在しないことから、それゆえに、梵行の住が、正しく苦しみの滅尽のために覚知されます。

 

 比丘よ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「比丘よ、それゆえに、ここに……略……。比丘よ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 単純なるものの経

 

98. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのですか──何であれ、感受〔作用〕で……略……何であれ、表象〔作用〕で……略……何であれ、諸々の形成〔作用〕で……略……何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。「比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、形態で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕形態は。比丘よ、まさに、存在しません──何であれ、感受〔作用〕で……何であれ、表象〔作用〕で……何であれ、諸々の形成〔作用〕で……何であれ、識知〔作用〕で、すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕識知〔作用〕は」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 革紐の結縛の経

 

99. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、すなわち、大いなる海が、枯れ尽き、干上がり、有ることなくある、その時と成るも、比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、苦しみの終極を為すことを、〔わたしは〕説きません。比丘たちよ、すなわち、山の王たるシネール(須弥山)が、燃焼し、消失し、有ることなくある、その時と成るも、比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、苦しみの終極を為すことを、〔わたしは〕説きません。比丘たちよ、すなわち、大いなる地が、燃焼し、消失し、有ることなくある、その時と成るも、比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、苦しみの終極を為すことを、〔わたしは〕説きません。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、革紐によって結縛された犬が、堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に、連結されたなら、まさしく、その、あるいは、杭〔の周囲〕を、あるいは、柱〔の周囲〕を、遍く随走し、遍く随転するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、聖者たちと会見しない者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼は、まさしく、形態に、遍く随走し、遍く随転し、まさしく、感受〔作用〕に……略……まさしく、表象〔作用〕に……まさしく、諸々の形成〔作用〕に……まさしく、識知〔作用〕に、遍く随走し、遍く随転します。彼は、形態に、遍く随走しながら、遍く随転しながら、感受〔作用〕に……略……表象〔作用〕に……諸々の形成〔作用〕に……識知〔作用〕に、遍く随走しながら、遍く随転しながら、形態から完全に解き放たれず、感受〔作用〕から完全に解き放たれず、表象〔作用〕から完全に解き放たれず、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれず、識知〔作用〕から完全に解き放たれず、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼は、まさしく、形態に、遍く随走せず、遍く随転せず、まさしく、感受〔作用〕に……まさしく、表象〔作用〕に……まさしく、諸々の形成〔作用〕に……まさしく、識知〔作用〕に、遍く随走せず、遍く随転しません。彼は、形態に、遍く随走せずにいながら、遍く随転せずにいながら、感受〔作用〕に……表象〔作用〕に……諸々の形成〔作用〕に……識知〔作用〕に、遍く随走せずにいながら、遍く随転せずにいながら、形態から完全に解き放たれ、感受〔作用〕から完全に解き放たれ、表象〔作用〕から完全に解き放たれ、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれ、識知〔作用〕から完全に解き放たれ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の革紐の結縛の経

 

100. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、革紐によって結縛された犬が、堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に、連結されたようなものです。彼は、もし、また、赴くも、まさしく、その、あるいは、杭に、あるいは、柱に、近しく赴き、もし、また、立つも、まさしく、その、あるいは、杭に、あるいは、柱に、近しく立ち、もし、また、坐るも、まさしく、その、あるいは、杭に、あるいは、柱に、近しく坐り、もし、また、横たわるも、まさしく、その、あるいは、杭に、あるいは、柱に、近しく横たわります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、聖者たちと会見しない者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。彼は、もし、また、赴くも、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇に近しく赴き、もし、また、立つも、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇に近しく立ち、もし、また、坐るも、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇に近しく坐り、もし、また、横たわるも、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇に近しく横たわります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、幾度となく、自らの心が綿密に注視されるべきです。『長夜にわたり、この心は汚染されてきた──貪欲()によって、憤怒()によって、迷妄()によって』と。比丘たちよ、心の汚染あることから、有情たちは汚染され、心の浄化あることから、有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、あなたたちは、『行ない』という名の絵を見たことがありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ました)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、その『行ない』という名の絵もまた、まさしく、心によって、彩られたのです。比丘たちよ、まさに、その『行ない』の絵よりもまた、まさしく、心は、より彩りあざやかなのです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、幾度となく、自らの心が綿密に注視されるべきです。『長夜にわたり、この心は汚染されてきた──貪欲によって、憤怒によって、迷妄によって』と。比丘たちよ、心の汚染あることから、有情たちは汚染され、心の浄化あることから、有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、わたしは、このように彩りあざやかなものとして、〔これより〕他に、一つの部類でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、畜生の在り方をした命あるものたちのようには。比丘たちよ、まさに、それらの畜生の在り方をした命あるものたちよりもまた、まさしく、心は、より彩りあざやかなのです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、幾度となく、自らの心が綿密に注視されるべきです。『長夜にわたり、この心は汚染されてきた──貪欲によって、憤怒によって、迷妄によって』と。比丘たちよ、心の汚染あることから、有情たちは汚染され、心の浄化あることから、有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、染色師が、あるいは、絵師が、あるいは、染料があるとき、あるいは、塗料があるとき、あるいは、鬱金があるとき、あるいは、藍があるとき、あるいは、緋があるとき、あるいは、完全無欠に磨かれた延べ板のうえに、あるいは、壁のうえに、あるいは、布板のうえに、全ての手足と肢体ある、あるいは、女の形姿を、あるいは、男の形姿を、化作するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無聞の凡夫は、まさしく、形態を、発現させつつ発現させます。まさしく、感受〔作用〕を……略……。まさしく、表象〔作用〕を……。まさしく、諸々の形成〔作用〕を……。まさしく、識知〔作用〕を、発現させつつ発現させます。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……略……。「比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 鉈の柄の経

 

101. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩()の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者ではなく、〔あるがままに〕見ていない者ではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 比丘たちよ、比丘が、修行に専念しない者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することは、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。『〔いまだ〕修められていないことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔いまだ〕修められていないのですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)であり、四つの正しい精励(四正勤)であり、四つの神通の足場(四神足)であり、五つの機能(五根)であり、五つの力(五力)であり、七つの覚りの支分(七覚支)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれず、正しく温められず、正しく世話されず、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、また、なぜなら、そのように、鶏によって、〔それらの〕卵が、正しく抱かれず、正しく温められず、正しく世話されていないからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念しない者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起するとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することは、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。『〔いまだ〕修められていないことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔いまだ〕修められていないのですか。四つの気づきの確立であり……略……聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。それは、何を因とするのですか。『〔すでに〕修められたことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔すでに〕修められたのですか。四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、また、なぜなら、そのように、鶏によって、〔それらの〕卵が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話されたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と、そこで、まさに、彼の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。それは、何を因とするのですか。『〔すでに〕修められたことから』と説かれるべきものが存在します。何が、〔すでに〕修められたのですか。四つの気づきの確立であり……略……聖なる八つの支分ある道です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、大工の、あるいは、大工の内弟子の、鉈の柄(え)に、まさしく、〔四つの〕指の跡が見られ、親指の跡が見られ、しかしながら、まさに、彼に、『わたしの鉈の柄に、今日、これだけの滅尽(摩滅)があり、昨日、これだけ〔の滅尽〕があり、過日においては、これだけ〔の滅尽〕がある』と、このような知恵が有ることはなく、そこで、まさに、〔柄が〕滅尽したとき、彼に、まさしく、『滅尽したのだ』と、知恵が有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、たとえ、何であれ、『わたしの諸々の煩悩に、今日、これだけの滅尽があり、昨日、これだけ〔の滅尽〕があり、過日においては、これだけ〔の滅尽〕がある』と、このような知恵が有ることはないとして、そこで、まさに、〔煩悩が〕滅尽したとき、彼に、まさしく、『滅尽したのだ』と、知恵が有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、藤蔓の結縛で結縛された航海用の船が、六月のあいだ(※)、水が消尽して、冬のあいだ、陸に引き上げられたなら、熱風によって打ち負かされた、それらの藤蔓の結縛は、雨期の黒雲が雨をもたらし、いとも簡単に安息し(無力化し)、腐敗のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、修行に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、諸々の束縛するものは、いとも簡単に安息し、腐敗のものと成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

※ テキストには vassamāsāni とあるが、PTS版により chammāsāni と読む。

 

10. 無常の表象の経

 

102. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、形態にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、生存にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、無明の全てを完全に取り払い、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分に、大鋤で耕している耕作者が、諸々の根の広がりの全てを砕破しながら耕すように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、形態にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、生存にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、無明の全てを完全に取り払い、『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、葦の刈り手が、葦を刈って、先端を収め取って、振り落とし、振り払い、振り捨てるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、アンバ〔果〕(マンゴー)の房ある茎が切断されたなら、すなわち、そこにおいて、茎と連結している諸々のアンバ〔果〕は、それらの全てが、その〔茎〕に付属するものとして有るように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に向かい行くものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、根の香りであるなら、黒の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、花の香りであるなら、ヴァッシカ(ジャスミン)が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、彼らが誰であれ、小なる王たちは、彼らの全てが、転輪王に従い行く者たちと成り、転輪王が、彼らのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の星の形態あるものの光は、それらの全てが、月の光の十六分の一にも値せず、月の光が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が……略……『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、まさに、無常の表象が、修められ、多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、形態にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、生存にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、無明の全てを完全に取り払い、『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無常の表象が修められ、どのように多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、形態にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、生存にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、無明の全てを完全に取り払い、『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破するのですか。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、比丘たちよ、このように、まさに、無常の表象が修められ、このように多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、形態にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、生存にたいする貪り〔の思い〕の全てを完全に取り払い、無明の全てを完全に取り払い、『〔わたしは〕存在する』という思量の全てを完破します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 花の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「川、そして、花、そして、泡沫、そして、牛糞、爪先、単純なるもの、そして、二つの革紐、鉈の柄、無常なることがあり、〔章となる〕」と。

 

 中間の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その中間の五十なるもののための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「接近、そして、阿羅漢、喰われるべきもの、長老という呼び名を有するものがあり、花の章とともに、それによって、第二の五十〔の経〕と呼ばれる」と。

 

11. 極の章

 

1. 極の経

 

103. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの極です。どのようなものが、四つのものなのですか。身体を有すること(有身)という極であり、身体を有することの集起という極であり、身体を有することの止滅という極であり、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道という極です。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することという極なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これは、身体を有することという極と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの集起という極なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存(:実体)の渇愛であり、非生存(非有:虚無)の渇愛です。比丘たちよ、これは、身体を有することの集起という極と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの止滅という極なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、身体を有することの止滅という極と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道という極なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。比丘たちよ、これは、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道という極と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの極があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 苦しみの経

 

104. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、苦しみを、そして、苦しみの集起を、かつまた、苦しみの止滅を、さらに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみなのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、これは、苦しみと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり……略……欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、苦しみの集起と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 身体を有することの経

 

105. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、身体を有することを、そして、身体を有することの集起を、かつまた、身体を有することの止滅を、さらに、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することなのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、これは、身体を有することと説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの集起なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり……略……欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、身体を有することの集起と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの止滅なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の……略……。比丘たちよ、これは、身体を有することの止滅と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 遍知されるべきものの経

 

106. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、諸々の遍知されるべき法(性質)を、そして、遍知を、さらに、遍知ある人を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の遍知されるべき法(性質)なのですか。比丘たちよ、形態は、遍知されるべき法(性質)です。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。比丘たちよ、これらは、諸々の遍知されるべき法(性質)と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、遍知なのですか。貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。比丘たちよ、これは、遍知と説かれます。比丘たちよ、では、どのようなものが、遍知ある人なのですか。『阿羅漢』と説かれるべき者が存在します。すなわち、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕。比丘たちよ、これは、遍知ある人と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 沙門たちの経

 

107. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の沙門たちの経

 

108. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 預流たる者の経

 

109. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 阿羅漢の経

 

110. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 欲〔の思い〕の捨棄の経

 

111. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。感受〔作用〕にたいし……略……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし……。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の欲〔の思い〕の捨棄の経

 

112. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。感受〔作用〕にたいし……略……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし……。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 極の章が第十一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「極、そして、苦しみ、身体を有すること、遍知されるべきもの、二つの沙門たち、預流たる者、そして、阿羅漢、そして、二つの欲〔の思い〕の捨棄があり、〔章となる〕」と。

 

12. 法の講話者の章

 

1. 無明の経

 

113. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無明』『無明』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、ここに、無聞の凡夫が、形態を覚知せず、形態の集起を覚知せず、形態の止滅を覚知せず、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知せず……略……。識知〔作用〕を覚知せず、識知〔作用〕の集起を覚知せず、識知〔作用〕の止滅を覚知せず、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。比丘よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 明知の経

 

114. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『明知』『明知』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態を覚知し、形態の集起を覚知し、形態の止滅を覚知し、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知し……略……。識知〔作用〕を覚知し、識知〔作用〕の集起を覚知し、識知〔作用〕の止滅を覚知し、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。比丘よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 法の講話者の経

 

115. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の講話者』『法(教え)の講話者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)の講話者と成るのですか」と。「比丘よ、もし、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、感受〔作用〕の……。比丘よ、もし、表象〔作用〕の……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕の……。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の法の講話者の経

 

116. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の講話者』『法(教え)の講話者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)の講話者と成り、どのようなことから、法(教え)を法(教え)のままに実践する者と成り、どのようなことから、所見の法(現世)において涅槃に至り得た者と成るのですか」と。「比丘よ、もし、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、感受〔作用〕の……。比丘よ、もし、表象〔作用〕の……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕の……。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 結縛の経

 

117. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、形態の結縛によって結縛され、内外共に結縛によって結縛され、岸を見ない者であり、彼岸を見ない者であり、結縛された者として生まれ、結縛された者として死に、結縛された者として、この世から他の世に赴く』〔と〕説かれます。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、感受〔作用〕の結縛によって結縛され、内外共に結縛によって結縛され、岸を見ない者であり、彼岸を見ない者であり、結縛された者として生まれ、結縛された者として死に、結縛された者として、この世から他の世に赴く』〔と〕説かれます。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し……略……。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、識知〔作用〕の結縛によって結縛され、内外共に結縛によって結縛され、岸を見ない者であり、彼岸を見ない者であり、結縛された者として生まれ、結縛された者として死に、結縛された者として、この世から他の世に赴く』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり……略……正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、形態の結縛によって結縛されず、内外共に結縛によって結縛されず、岸を見る者であり、彼岸を見る者である』〔と〕説かれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず……略……。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、識知〔作用〕の結縛によって結縛されず、内外共に結縛によって結縛されず、岸を見る者であり、彼岸を見る者である』〔と〕説かれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 遍問の経

 

118. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。比丘たちよ、このように見ながら……略……。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の遍問の経

 

119. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。……略……。比丘たちよ、このように見ながら……略……。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 束縛されるべきものの経

 

120. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、諸々の束縛されるべき法(性質)を、そして、束縛を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の束縛されるべき法(性質)であり、どのようなものが、束縛なのですか。比丘たちよ、形態は、束縛されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、束縛されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、束縛となります。比丘たちよ、これらは、諸々の束縛されるべき法(性質)と説かれ、これは、束縛と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 執取されるべきものの経

 

121. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、では、諸々の執取されるべき法(性質)を、そして、執取を、説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の執取されるべき法(性質)であり、どのようなものが、執取なのですか。比丘たちよ、形態は、執取されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、執取されるべき法(性質)です。すなわち、そこにおいて、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります。比丘たちよ、これらは、諸々の執取されるべき法(性質)と説かれ、これは、執取と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 戒ある者の経

 

122. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、戒ある比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、戒ある比丘によって、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、コッティカよ、戒ある比丘によって、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、戒ある比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、預流果を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、預流たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、預流たる比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、預流たる比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、一来果を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、一来たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、一来たる者である比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、一来たる比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、不還果を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、不還たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、不還たる比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、不還たる者である比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、阿羅漢の資質を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、阿羅漢たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、阿羅漢たる比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、まさに、阿羅漢には、より上なる為すべきことは存在しません──あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積も。しかしながら、また、これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)として、さらに、気づきと正知として、等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 有聞の者の経

 

123. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。……略……こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、有聞の比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、有聞の比丘によって、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。友よ、コッティカよ、有聞の比丘によって、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、有聞の比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、預流果を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、預流たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、預流たる比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、預流たる比丘が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を、無常〔の観点〕から……略……無我〔の観点〕から、根源のままに意を為しながら、一来果を……略……不還果を……略……阿羅漢の資質を実証することです」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、阿羅漢たる比丘によって、どのような諸々の法(性質)が、根源のままに意が為されるべきですか」と。「友よ、コッティカよ、阿羅漢である比丘によってもまた、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、根源のままに意が為されるべきです。友よ、まさに、阿羅漢には、より上なる為すべきことは存在しません──あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積も。しかしながら、また、これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住として、さらに、気づきと正知として、等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. カッパの経

 

124. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者カッパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者カッパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。

 

 「カッパよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。カッパよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 第二のカッパの経

 

125. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者カッパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者カッパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るのですか」と。

 

 「カッパよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の……略……一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。カッパよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 法(教え)の講話者の章が第十二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無明、明知、二つの講話者、結縛、二つの遍問、束縛、執取、戒、有聞、そして、カッパによって、二つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

13. 無明の章

 

1. 集起の法の経

 

126. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無明』『無明』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、ここに、無聞の凡夫が、集起の法(性質)である形態を、『集起の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知せず、衰失の法(性質)である形態を、『衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知せず、集起と衰失の法(性質)である形態を、『集起と衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である感受〔作用〕を、『集起の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、衰失の法(性質)である感受〔作用〕を、『衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である表象〔作用〕を……略……。集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知せず、集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。比丘よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『明知』『明知』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、集起の法(性質)である形態を、『集起の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知し、衰失の法(性質)である形態を、『衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知し、集起と衰失の法(性質)である形態を、『集起と衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である感受〔作用〕を、『集起の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、衰失の法(性質)である感受〔作用〕を、『衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である表象〔作用〕を……略……。集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知し、集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。比丘よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の集起の法の経

 

127. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、集起の法(性質)である形態を、『集起の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知せず、衰失の法(性質)である形態を……略……『集起と衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である感受〔作用〕を……略……衰失の法(性質)である感受〔作用〕を……略……『集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である表象〔作用〕を……略……。集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を……略……衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を……略……集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。集起の法(性質)である識知〔作用〕を……略……集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の集起の法の経

 

128. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、集起の法(性質)である形態を、『集起の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知し、衰失の法(性質)である形態を……略……『集起と衰失の法(性質)である形態』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である感受〔作用〕を……略……『集起と衰失の法(性質)である感受〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である表象〔作用〕を……略……。集起の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を……衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を……集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である諸々の形成〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。集起の法(性質)である識知〔作用〕を……衰失の法(性質)である識知〔作用〕を……集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕を、『集起と衰失の法(性質)である識知〔作用〕』と、事実のとおりに覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 悦楽の経

 

129. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の悦楽の経

 

130. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。「友よ、サーリプッタよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 集起の経

 

131. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。「友よ、サーリプッタよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の集起の経

 

132. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. コッティカの経

 

133. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に……略……。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二のコッティカの経

 

134. バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。……略……。「友よ、コッティカよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三のコッティカの経

 

135. まさしく、その、〔同じ〕因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、『無明』『無明』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。

 

 「友よ、ここに、無聞の凡夫が、形態を覚知せず、形態の集起を覚知せず、形態の止滅を覚知せず、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。感受〔作用〕を覚知せず……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を覚知せず、識知〔作用〕の集起を覚知せず、識知〔作用〕の止滅を覚知せず、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。友よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、『明知』『明知』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。「友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、形態を覚知し、形態の集起を覚知し、形態の止滅を覚知し、形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知し……略……。識知〔作用〕を覚知し、識知〔作用〕の集起を覚知し、識知〔作用〕の止滅を覚知し、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。友よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 無明の章が第十三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「集起の法(性質)について、三つのものがあり、他に、二つの悦楽があり、そして、集起について、二つのものが説かれ、コッティカについて、他に、三つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

14. 熱灰の章

 

1. 熱灰の経

 

136. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、熱灰です。感受〔作用〕は、熱灰です。表象〔作用〕は、熱灰です。諸々の形成〔作用〕は、熱灰です。識知〔作用〕は、熱灰です。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 無常の経

 

137. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、形態は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無常です。……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の無常の経

 

138. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、形態は、無常です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無常です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第三の無常の経

 

139. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無常なのですか。比丘たちよ、形態は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無常です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無常です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無常であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 苦痛の経

 

140. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の苦痛の経

 

141. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の苦痛の経

 

142. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。比丘たちよ、それが、苦痛であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 無我の経

 

143. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無我なのですか。比丘たちよ、形態は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無我です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の無我の経

 

144. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無我なのですか。比丘たちよ、形態は、無我です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無我です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我です。そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の無我の経

 

145. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、では、何が、無我なのですか。比丘たちよ、形態は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、無我です。……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、無我です。そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。比丘たちよ、それが、無我であるなら、そこで、あなたたちは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 厭離多き者の経

 

146. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、信によって出家した良家の子息には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょうし、感受〔作用〕にたいし……略……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし……識知〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住むでしょう。彼が、形態にたいし、厭離多き者として〔世に〕住みながら、感受〔作用〕にたいし……表象〔作用〕にたいし……諸々の形成〔作用〕にたいし……識知〔作用〕にたいし、厭離多き者として〔世に〕住みながら、形態を遍知するなら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知するなら、彼は、形態を遍知しながら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知しながら、形態から完全に解き放たれ、感受〔作用〕から完全に解き放たれ、表象〔作用〕から完全に解き放たれ、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれ、識知〔作用〕から完全に解き放たれ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 無常を随観する者の経

 

147. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、信によって出家した良家の子息には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、無常を随観する者として〔世に〕住むでしょうし……感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕おいて、無常を随観する者として〔世に〕住むでしょう。……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 苦痛を随観する者の経

 

148. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、信によって出家した良家の子息には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、苦痛を随観する者として〔世に〕住むでしょうし……感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕おいて、苦痛を随観する者として〔世に〕住むでしょう。……略……。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第十三となる。

 

14. 無我を随観する者の経

 

149. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、信によって出家した良家の子息には、これが、法(教え)のままなるものと成ります。すなわち、形態において、無我を随観する者として〔世に〕住むでしょうし、感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕において、無我を随観する者として〔世に〕住むでしょう。彼が、形態において、無我を随観する者として〔世に〕住みながら、感受〔作用〕において……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕において、無我を随観する者として〔世に〕住みながら、形態を遍知するなら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知するなら、彼は、形態を遍知しながら、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を遍知しながら、形態から完全に解き放たれ、感受〔作用〕から完全に解き放たれ、表象〔作用〕から完全に解き放たれ、諸々の形成〔作用〕から完全に解き放たれ、識知〔作用〕から完全に解き放たれ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第十四となる。

 

 熱灰の章が第十四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「熱灰があり、無常によって、三つのものが〔説かれ〕、他に、苦痛によって、三つのものが〔説かれ〕、無我によって、三つのものが説かれ、良家の子息によって、二つの二なるものが〔説かれ、章となる〕」と。

 

15. 見解の章

 

1. 「内に」の経

 

150. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、内に、楽と苦が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、内に、楽と苦が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、内に、楽と苦が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、内に、楽と苦が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、内に、楽と苦が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「これは、わたしのものである」の経

 

151. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して……略……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「それは、自己である」の経

 

152. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と。感受〔作用〕が……略……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……略……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく」の経

 

153. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……略……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 誤った見解の経

 

154. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、誤った見解(邪見)が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、誤った見解が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……誤った見解が生起します。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、誤った見解が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、誤った見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、誤った見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 身体を有するという見解の経

 

155. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、身体を有するという見解(有身見)が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、身体を有するという見解が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、身体を有するという見解が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、身体を有するという見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、身体を有するという見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 自己についての偏った見解の経

 

156. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、自己についての偏った見解(我見)が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、自己についての偏った見解が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、自己についての偏った見解が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、自己についての偏った見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、自己についての偏った見解が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 固着の経

 

157. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、束縛と固着と結縛が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、束縛と固着と結縛が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、束縛と固着と結縛が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、束縛と固着と結縛が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の固着の経

 

158. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、束縛と固着と結縛と固執が生起するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、束縛と固着と結縛と固執が生起します。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、束縛と固着と結縛と固執が生起します。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、束縛と固着と結縛と固執が生起しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。……略……。「比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. アーナンダの経

 

159. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「アーナンダよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 見解の章が第十五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『内に』なるものがあり、『これは、わたしのものである』『それは、自己である』『かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく』があり、誤った〔見解〕と身体を有するという〔見解〕と自己についての誤った〔見解〕、二つの固着があり、アーナンダとともに、〔章となる〕」と。

 

 後分の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 その後分の五十なるもののための章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「極、法(教え)の講話者、無明、熱灰、第五のものとして、見解があり、第三の五十なるものが説かれ、『集まり』と呼ばれる」と。

 

 範疇に相応するものは〔以上で〕完結となる。