増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 アッタカ・ニパータ聖典(八集:八なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 慈愛の章(1.~)

 

1. 慈愛の経

2. 智慧の経

3. 第一の愛しくない者の経

4. 第二の愛しくない者の経

5. 第一の世の法の経

6. 第二の世の法の経

7. デーヴァダッタの衰滅の経

8. ウッタラと衰滅の経

9. ナンダの経

10. 籾滓の経

 

2. 大いなるものの章(11.~)

 

1. ヴェーランジャの経

2. シーハの経

3. 良馬たる馬の経

4. 野馬たる馬の経

5. 垢の経

6. 使者の経

7. 第一の結縛するものの経

8. 第二の結縛するものの経

9. パハーラーダの経

10. 斎戒の経

 

3. 家長の章(21.~)

 

1. 第一のウッガの経

2. 第二のウッガの経

3. 第一のハッタカの経

4. 第二のハッタカの経

5. マハー・ナーマの経

6. ジーヴァカの経

7. 第一の力の経

8. 第二の力の経

9. 〔為すべき〕瞬間ならざるものの経

10. アヌルッダの大いなる思考の経

 

4. 布施の章(31.~)

 

1. 第一の布施の経

2. 第二の布施の経

3. 布施の基盤の経

4. 田畑の経

5. 布施による再生の経

6. 功徳行の基盤の経

7. 正なる人士の布施の経

8. 正なる人士の経

9. 流れ行くものの経

10. 悪しき行ないの報いの経

 

5. 斎戒の章(41.~)

 

1. 簡略の斎戒の経

2. 詳細の斎戒の経

3. ヴィサーカーの経

4. ヴァーセッタの経

5. ボッジャーの経

6. アヌルッダの経

7. 第二のヴィサーカーの経

8. ナクラマータルの経

9. 第一のこの世のものの経

10. 第二のこの世のものの経

 

2. 第二の五十なるもの(51.~)

 

(6)1. ゴータミーの章(51.~)

 

1. ゴータミーの経

2. 教諭の経

3. 簡略の経

4. ディーガジャーヌの経

5. ウッジャヤの経

6. 恐怖の経

7. 第一の〔供物を〕捧げられるべき者の経

8. 第二の〔供物を〕捧げられるべき者の経

9. 第一の人の経

10. 第二の人の経

 

(7)2. 地震の章(61.~)

 

1. 欲求の経

2. 十分なるものの経

3. 簡略の経

4. ガヤーシーサの経

5. 征服ある〔認識の〕場所の経

6. 解脱の経

7. 聖ならざる語用の経

8. 聖なる語用の経

9. 衆の経

10. 地震の経

 

(8)3. 対なるものの章(71.~)

 

1. 第一の信の経

2. 第二の信の経

3. 第一の死についての気づきの経

4. 第二の死についての気づきの経

5. 第一の成就の経

6. 第二の成就の経

7. 欲求の経

8. 十分なるものの経

9. 遍き衰退の経

10. 怠惰と勉励の基盤の経

 

(9)4. 気づきの章(81.~)

 

1. 気づきと正知の経

2. プンニヤの経

3. 根元とするものの経

4. 盗賊の経

5. 沙門の経

6. 盛名の経

7. 鉢を伏せることの経

8. 清信なきを宣言するべき者の経

9. 謝罪するべきものの経

10. 正しく行持することの経

 

(10)5. 同等の章(91.~)

(11). 貪欲と省略〔の経典〕(117.~)

 


 

 

 アッタカ・ニパータ聖典(八集:八なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 慈愛の章

 

1. 慈愛の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、慈愛()という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、八つの福利が期待できます。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)安楽に眠ります。(2)安楽に目覚めます。(3)悪夢を見ません。(4)人間たちにとって愛しい者と成ります。(5)人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちにとって愛しい者と成ります。(6)天神たちが〔彼を〕守ります。(7)彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行くことはありません。(8)より上なるもの(智慧による解脱)に理解なくあるも、梵の世に近しく赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの八つの福利が期待できます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、彼が、気づきの者として、無量なる慈愛〔の心〕を修めるなら、〔生存の〕依り所(依存の対象)の滅尽を〔常に〕見ている〔彼〕の、諸々の束縛するもの()は、些細なものと成る。

 

 もし、汚れなき心の者(怒りや憎しみなどの悪意なき者)が、たとえ、一者であれ、命あるものを慈愛するなら、それによって、〔彼は〕智者と成る。そして、一切の命あるものたちを意によって慈しみながら、聖者として、多大なる功徳を作り為す。

 

 すなわち、王たる聖賢たちは、有情たちが群れつどう地を征圧して、〔種々なる〕祭祀をしながら、〔各地を〕遊歴した──馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕を、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕を。

 

 彼らは、慈愛の心が善く修められた者〔の報い〕の十六分の一さえも受領しない──月の光と一切の星の群れのように、すなわち、十六分の一にも値しない。

 

 彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させず、〔他者に〕勝たず、〔他者をして他者に〕勝たせないなら、一切の生類にとって、慈愛〔の心〕を部有する者であり、彼には、何をもってしても、怨み〔の思い〕はない」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 智慧の経

 

2. 「比丘たちよ、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有ります。比丘たちよ、これが、第一の因として、第一の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (2)その〔比丘〕が、その教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住みながら、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有り、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、これが、第二の因として、第二の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (3)その〔比丘〕が、その法(教え)を、聞いて〔そののち〕、両者の隠棲によって成就させます──かつまた、身体の隠棲によって、かつまた、心の隠棲によって。比丘たちよ、これが、第三の因として、第三の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (4)戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。比丘たちよ、これが、第四の因として、第四の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (5)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、これが、第五の因として、第五の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (6)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、これが、第六の因として、第六の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (7)また、まさに、僧団に赴き、種々なる議論なき者として、畜生の議論(無用論・無駄話)なき者として、〔世に〕有り、あるいは、自ら、法(教え)を語り、あるいは、他者に、〔説示を〕要請し、あるいは、聖なる沈黙の状態を軽んじません。比丘たちよ、これが、第七の因として、第七の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (8)また、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます──『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。比丘たちよ、これが、第八の因として、第八の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

 

 (1)〔まさに〕その、この〔比丘〕を、梵行を共にする者たちは、このように敬愛します。『まさに、この尊者は、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有る。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (2)『また、まさに、この尊者は、その教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住みながら、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有り、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、「尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか」と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去する。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (3)『また、まさに、この尊者は、その法(教え)を、聞いて〔そののち〕、両者の隠棲によって成就させる──かつまた、身体の隠棲によって、かつまた、心の隠棲によって。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (4)『また、まさに、この尊者は、戒ある者であり、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶ。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (5)『また、まさに、この尊者は、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者である──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (6)『また、まさに、この尊者は、精進に励む者として〔世に〕住む──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (7)『また、まさに、この尊者は、僧団に赴き、種々なる議論なき者として、畜生の議論なき者として、〔世に〕有り、あるいは、自ら、法(教え)を語り、あるいは、他者に、〔説示を〕要請し、あるいは、聖なる沈黙の状態を軽んじない。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 (8)『また、まさに、この尊者は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住む──『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。たしかに、この尊者は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。この法(性質)もまた、愛慕〔の思い〕あるために、尊重〔の思い〕あるために、敬愛のために、沙門の資質のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の愛しくない者の経

 

3. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、愛しくない者を賞賛する者として、かつまた、愛しい者を非難する者として、かつまた、利得を欲する者として、かつまた、尊敬を欲する者として、かつまた、恥〔の思い〕なき者として、かつまた、〔良心の〕咎めなき者として、かつまた、悪しき欲求ある者として、かつまた、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、愛しくない者を賞賛する者ではなく、かつまた、愛しい者を非難する者ではなく、かつまた、利得を欲する者ではなく、かつまた、尊敬を欲する者ではなく、かつまた、恥〔の思い〕ある者として、かつまた、〔良心の〕咎めある者として、かつまた、少なき欲求の者として、かつまた、正しい見解ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の愛しくない者の経

 

4. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者として、かつまた、尊敬を欲する者として、かつまた、軽蔑されないことを欲する者として、かつまた、時を知らない者として、かつまた、量を知らない者として、かつまた、清らかならざる者として、かつまた、多く話す者として、かつまた、梵行を共にする者たちを罵倒し口撃する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者として、かつまた、意に適わない者として、かつまた、重くない者として、かつまた、尊ばれない者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、利得を欲する者ではなく、かつまた、尊敬を欲する者ではなく、かつまた、軽蔑されないことを欲する者ではなく、かつまた、時を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、清らかな者として、かつまた、多く話す者ではなく、かつまた、梵行を共にする者たちを罵倒し口撃しない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の世の法の経

 

5. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの世の法(性質)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、〔これらの〕八つの世の法(八世間法)に遍く随転します。どのようなものが、八つのものなのですか。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの世の法(性質)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、これらの八つの世の法(性質)に遍く随転します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、利得と利得なきも、かつまた、盛名と盛名なきも、かつまた、非難と賞賛も、かつまた、安楽と苦痛も──人間たちにおける、これらの法(事象)は、常住ではなく、常久ではなく、変化の法(性質)である。

 

 そして、気づきある思慮深き者は、これらのものを〔あるがままに〕知って、諸々の変化の法(性質)として注視する。好ましいものの〔有する〕諸々の法(性質)も、〔彼の〕心を掻き乱すことはなく、好ましくないからと、憤懣〔の思い〕に至らない。

 

 彼の、諸々の共感〔の思い〕は、そこで、あるいは、諸々の反感〔の思い〕も、〔それらは〕砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しない。そして、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処を知って、正しく覚知する──〔迷いの〕生存の彼岸に至る者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の世の法の経

 

6. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの世の法(性質)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、〔これらの〕八つの世の法(性質)に遍く随転します。どのようなものが、八つのものなのですか。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの世の法(性質)が、世〔の人々〕に遍く随転し、そして、世〔の人々〕は、これらの八つの世の法(性質)に遍く随転します。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫に、利得もまた生起し、利得なきもまた〔生起し〕、盛名もまた〔生起し〕、盛名なきもまた〔生起し〕、非難もまた〔生起し〕、賞賛もまた〔生起し〕、安楽もまた〔生起し〕、苦痛もまた〔生起します〕。比丘たちよ、有聞の聖なる弟子にもまた、利得もまた生起し、利得なきもまた〔生起し〕、盛名もまた〔生起し〕、盛名なきもまた〔生起し〕、非難もまた〔生起し〕、賞賛もまた〔生起し〕、安楽もまた〔生起し〕、苦痛もまた〔生起します〕。比丘たちよ、そこで、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性(相違点)があるのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、無聞の凡夫に、利得が生起します。彼は、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたしに、この利得が生起したとして、しかしながら、まさに、それは、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、事実のとおりに覚知しません。利得なきが生起します。……略……。盛名が生起します。……。盛名なきが生起します。……。非難が生起します。……。賞賛が生起します。……。安楽が生起します。……。苦痛が生起します。彼は、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたしに、この苦痛が生起したとして、しかしながら、まさに、それは、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、事実のとおりに覚知しません。

 

 彼の、利得もまた、心を完全に奪い去って止住し、利得なきもまた、心を完全に奪い去って止住し、盛名もまた、心を完全に奪い去って止住し、盛名なきもまた、心を完全に奪い去って止住し、非難もまた、心を完全に奪い去って止住し、賞賛もまた、心を完全に奪い去って止住し、安楽もまた、心を完全に奪い去って止住し、苦痛もまた、心を完全に奪い去って止住します。彼は、生起した利得に共感し、〔生起した〕利得なきに反感し、生起した盛名に共感し、〔生起した〕盛名なきに反感し、生起した賞賛に共感し、〔生起した〕非難に反感し、生起した安楽に共感し、〔生起した〕苦痛に反感します。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕に入定した者(愛憎の思いに固着した者)であり、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、そして、まさに、有聞の聖なる弟子に、利得が生起します。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしに、この利得が生起したとして、しかしながら、まさに、それは、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、事実のとおりに覚知します。利得なきが生起します。……略……。盛名が生起します。……。盛名なきが生起します。……。非難が生起します。……。賞賛が生起します。……。安楽が生起します。……。苦痛が生起します。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしに、この苦痛が生起したとして、しかしながら、まさに、それは、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 彼の、利得もまた、心を完全に奪い去って止住せず、利得なきもまた、心を完全に奪い去って止住せず、盛名もまた、心を完全に奪い去って止住せず、盛名なきもまた、心を完全に奪い去って止住せず、非難もまた、心を完全に奪い去って止住せず、賞賛もまた、心を完全に奪い去って止住せず、安楽もまた、心を完全に奪い去って止住せず、苦痛もまた、心を完全に奪い去って止住しません。彼は、生起した利得に共感せず、〔生起した〕利得なきに反感せず、生起した盛名に共感せず、〔生起した〕盛名なきに反感せず、生起した賞賛に共感せず、〔生起した〕非難に反感せず、生起した安楽に共感せず、〔生起した〕苦痛に反感しません。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕を捨棄する者であり、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かつまた、利得と利得なきも、かつまた、盛名と盛名なきも、かつまた、非難と賞賛も、かつまた、安楽と苦痛も──人間たちにおける、これらの法(事象)は、常住ではなく、常久ではなく、変化の法(性質)である。

 

 そして、気づきある思慮深き者は、これらのものを〔あるがままに〕知って、諸々の変化の法(性質)として注視する。好ましいものの〔有する〕諸々の法(性質)も、〔彼の〕心を掻き乱すことはなく、好ましくないからと、憤懣〔の思い〕に至らない。

 

 彼の、諸々の共感〔の思い〕は、そこで、あるいは、諸々の反感〔の思い〕も、〔それらは〕砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しない。そして、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処を知って、正しく覚知する──〔迷いの〕生存の彼岸に至る者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. デーヴァダッタの衰滅の経

 

7. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに(※)、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、八つの正ならざる法(性質)に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者であり(一劫のあいだ地獄に住む)、治癒なき者です。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、まさに、利得に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。比丘たちよ、利得なきに……略……。比丘たちよ、盛名に……。比丘たちよ、盛名なきに……。比丘たちよ、尊敬に……。比丘たちよ、尊敬なきに……。比丘たちよ、悪しき欲求あることに……。比丘たちよ、悪しき朋友あることに征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。

 

 比丘たちよ、善きかな、比丘が、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのは。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのは。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのですか。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼が、生起した利得を征服せずして〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩()が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、生起した利得を征服して〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、まさに、すなわち、彼が、生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服せずして〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、生起した悪しき朋友あることを征服して〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住みます。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのだ。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ウッタラと衰滅の経

 

8. 或る時のことです。尊者ウッタラは、マヒサヴァットゥに住んでいます。サンケイヤカ山のヴァタジャーリカーにおいて。そこで、まさに、尊者ウッタラは、比丘たちに告げました。「友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、ヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)が、北の方角から南の方角に赴きます──何らかの或る用事があって。まさに、ヴェッサヴァナ大王は、尊者ウッタラの〔声を〕聞きました──マヒサヴァットゥの、サンケイヤカ山のヴァタジャーリカーにおいて、比丘たちに、「友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは」と、このように、法(教え)を説示している〔彼〕の〔声を〕。

 

 そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、マヒサヴァットゥの、サンケイヤカ山のヴァタジャーリカーにおいて消没し、三十三天に出現しました。そこで、まさに、ヴェッサヴァナ大王は、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「敬愛なる方よ、どうか、お知りください。この者は、尊者ウッタラは、マヒサヴァットゥの、サンケイヤカ山のヴァタジャーリカーにおいて、比丘たちに、『友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を……略……自己の得達を……他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは』と、このように、法(教え)を説示します」と。

 

 そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、マヒサヴァットゥの、サンケイヤカ山のヴァタジャーリカーにおいて、尊者ウッタラの面前に出現しました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者ウッタラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウッタラを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者ウッタラに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、本当に、まさに、尊者ウッタラは、比丘たちに、『友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。友よ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を……略……自己の得達を……他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは』と、このように、法(教え)を説示したのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、そのとおりです」と。「尊き方よ、また、どうなのでしょう、これは、尊者ウッタラの、自らの弁才なのですか、それとも、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉なのですか」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します(※)。

 

※ テキストには ājāna’’nti とあるが、PTS版により ājānanti と読む。

 

 天〔の神々〕たちのインダよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなる山積みの穀物があり、そこから、大勢の人の衆が、穀物を運び出すとします──諸々の天秤によってもまた、諸々の(かご)によってもまた、諸々の腰〔の袋〕によってもまた、諸々の合掌〔の手〕によってもまた。天〔の神々〕たちのインダよ、さてまた、まさに、或る者が、近づいて行って、その大勢の人の衆に、このように尋ねるとします。『どこから、この穀物を運び出すのですか』と。天〔の神々〕たちのインダよ、いったい、まさに、どのように説き明かしながら、その大勢の人の衆は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきですか」と。「尊き方よ、『この大いなる山積みの穀物から、〔わたしたちは〕運び出します』と、まさに、その大勢の人の衆は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです」と。「天〔の神々〕たちのインダよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、見事に語られたものであるなら、その全てが、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉です。そこから引き出しては引き出して、そして、わたしたちは話し、さらに、他者たちも〔話します〕」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、尊者ウッタラによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『それが何であれ、見事に語られたものであるなら、その全てが、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、言葉です。そこから引き出しては引き出して、そして、わたしたちは話し、さらに、他者たちも〔話します〕』と。尊き方よ、ウッタラよ、これは、或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。

 

 『比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の衰滅を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、自己の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、他者の得達を注視する者として〔世に〕有るのは。比丘たちよ、八つの正ならざる法(性質)に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、まさに、利得に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。比丘たちよ、利得なきに……略……。比丘たちよ、盛名に……。比丘たちよ、盛名なきに……。比丘たちよ、尊敬に……。比丘たちよ、尊敬なきに……。比丘たちよ、悪しき欲求あることに……。比丘たちよ、悪しき朋友あることに征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。

 

 比丘たちよ、善きかな、比丘が、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのは。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのは。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのですか。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼が、生起した利得を征服せずして〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、生起した利得を征服して〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、まさに、すなわち、彼が、生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服せずして〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、生起した悪しき朋友あることを征服して〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住みます。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。「生起した利得を征服しては征服して〔世に〕住むのだ。生起した利得なきを……略……。生起した盛名を……。生起した盛名なきを……。生起した尊敬を……。生起した尊敬なきを……。生起した悪しき欲求あることを……。生起した悪しき朋友あることを征服しては征服して〔世に〕住むのだ」と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです』と。

 

 尊き方よ、ウッタラよ、これまでのところ、人間たちにおいて、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちの四つの衆がありますが、この法(教え)の教相は、どこにおいてであれ、〔いまだ〕現起されていません(知れ渡っていない)。尊き方よ、尊者ウッタラは、この法(教え)の教相を把握したまえ。尊き方よ、尊者ウッタラは、この法(教え)の教相を遍く学得したまえ。尊き方よ、尊者ウッタラは、この法(教え)の教相を保持したまえ。尊き方よ、この法(教え)の教相は、義(道理)を伴ったものであり、初等の梵行たるものです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ナンダの経

 

9. 「(1)比丘たちよ、ナンダのことを、『良家の子息である』と、正しく説きつつ説くべきです。(2)比丘たちよ、ナンダのことを、『力ある者である』と、正しく説きつつ説くべきです。(3)比丘たちよ、ナンダのことを、『清信ある者である』と、正しく説きつつ説くべきです。(4)比丘たちよ、ナンダのことを、『強き貪欲(意欲)ある者である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、〔これらの契機より〕他に、どうして、ナンダが、(5)諸々の〔感官の〕機能()において門が守られている者であり、(6)食において量を知る者であり、(7)〔眠らずに〕起きていることに専念している者であり、(8)気づきと正知を具備した者であるというのでしょう。それら〔の契機〕によって、ナンダは、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むことができるのです。比丘たちよ、そこで、ナンダの、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることについて、このことが有ります。比丘たちよ、それで、もし、ナンダに、東の方角が眺められるべきものとして有るなら、ナンダは、心をもって、全てに集中して、東の方角を眺めます。『このように、わたしが、東の方角を眺めていると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、もし、ナンダに、西の方角が眺められるべきものとして有るなら……略……北の方角が眺められるべきものとして有るなら……南の方角が眺められるべきものとして有るなら、ナンダは、心をもって、全てに集中して、南の方角を眺めます。『このように、わたしが、南の方角を眺めていると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。比丘たちよ、まさに、ナンダの、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることについて、このことが有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、ナンダの、食において量を知ることについて、このことが有ります。比丘たちよ、ここに、ナンダは、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。比丘たちよ、まさに、ナンダの、食において量を知ることについて、このことが有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、ナンダの、〔眠らずに〕起きていることへの専念〔努力〕について、このことが有ります。比丘たちよ、ここに、ナンダは、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初更(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中更(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後更(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。比丘たちよ、まさに、ナンダの、〔眠らずに〕起きていることへの専念〔努力〕について、このことが有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、ナンダの、気づきと正知について、このことが有ります。比丘たちよ、ここに、ナンダに、諸々の感受は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至します。諸々の表象は……略……。諸々の思考は……略……滅至します。比丘たちよ、まさに、ナンダの、気づきと正知について、このことが有ります。

 

 比丘たちよ、〔これらの契機より〕他に、どうして、ナンダが、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者であり、食において量を知る者であり、〔眠らずに〕起きていることに専念している者であり、気づきと正知を具備した者であるというのでしょう。それら〔の契機〕によって、ナンダは、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むことができるのです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 籾滓の経

 

10. 或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。また、まさに、その時点にあって、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この人物を取り払いなさい。比丘たちよ、この人物を取り払いなさい。比丘たちよ、この人物は引き離すべきです。他者の子を清めることが、それが、あなたたちにとって、何だというのでしょう。比丘たちよ、ここに、一部の人物には、すなわち、比丘たちが、彼の罪を見ないあいだは、(1)前進するにも、(2)後進するにも、(3)前視するにも、(4)後視するにも、(5)屈曲するにも、(6)伸直するも、(7)大衣を〔保持し〕、(8)鉢と衣料を保持するにも、それは、たとえば、また、他の善き比丘たちのように、まさしく、そのようなものとして、〔彼の行為は〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、比丘たちが、彼の罪を見ることから、〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この者は、まさしく、沙門を汚す者であり、沙門の籾殻であり、沙門の籾滓である』と。〔まさに〕その、この者のことを、かくのごとく、〔人々は〕知って、外に消失させます。それは、何を因とするのですか。『他の善き比丘たちを汚してならない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、麦畑が実ったとき、麦を汚すものが生じ、麦の籾殻が〔生じ〕、麦の籾滓が〔生じ〕(※)、その〔麦を汚すもの〕には、すなわち、その〔麦を汚すもの〕の穂が発現しないあいだは、それは、たとえば、また、他の諸々の善き麦のように、まさしく、そのようなものとして、根が有り、それは、たとえば、また、他の諸々の善き麦のように、まさしく、そのようなものとして、茎が有り、それは、たとえば、また、他の諸々の善き麦のように、まさしく、そのようなものとして、葉が有るようなものです。しかしながら、すなわち、まさに、その〔麦を汚すもの〕の穂が発現することから、〔まさに〕その、この〔麦を汚すもの〕のことを、〔人々は〕このように知ります。『これは、まさしく、麦を汚すものであり、麦の籾殻であり、麦の籾滓である』と。〔まさに〕その、この〔麦を汚すもの〕のことを、かくのごとく、〔人々は〕知って、外に消失させます。それは、何を因とするのですか。『他の諸々の善き麦を汚してならない』と〔思うからです〕。

 

※ テキストには yavakāraṇḍavoti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人物には、すなわち、比丘たちが、彼の罪を見ないあいだは、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、それは、たとえば、また、他の善き比丘たちのように、まさしく、そのようなものとして、〔彼の行為は〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、比丘たちが、彼の罪を見ることから、〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この者は、まさしく、沙門を汚す者であり、沙門の籾殻であり、沙門の籾滓である』と。〔まさに〕その、この者のことを、かくのごとく、〔人々は〕知って、外に消失させます。それは、何を因とするのですか。『他の善き比丘たちを汚してならない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる山積みの穀物が吹き分けられていると、そこにおいて、すなわち、それらの穀物が、固く、芯があるなら、それらは、一方に集塊と成り、また、すなわち、それらの穀物が、力弱く、籾殻であるなら、それらを、風が一方に運び去るようなものです。〔まさに〕その、この〔籾殻〕を、主人たちは、箒を掴んで、より一層しっかりと掃き清めます。それは、何を因とするのですか。『他の諸々の善き穀物を汚してならない』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人物には、すなわち、比丘たちが、彼の罪を見ないあいだは、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、それは、たとえば、また、他の善き比丘たちのように、まさしく、そのようなものとして、〔彼の行為は〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、比丘たちが、彼の罪を見ることから、〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この者は、まさしく、沙門を汚す者であり、沙門の籾殻であり、沙門の籾滓である』と。〔まさに〕その、この者のことを、かくのごとく、〔人々は〕知って、外に消失させます。それは、何を因とするのですか。『他の善き比丘たちを汚してならない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、井戸用の管を義(目的)として、鋭い斧を携えて、林に入るとします。彼は、まさしく、その〔木〕その木を、斧の刃で打ち叩き、そこにおいて、すなわち、それらの木が、固く、芯があるなら、それらは、斧の刃で打ち叩かれると鈍い音で反響し、また、すなわち、それらの木が、内が腐り、漏れ出て、屑が生じたなら、それらは、斧の刃で打ち叩かれると軽い音で反響します。〔まさに〕その、この〔木〕を、根において切断し、根において切断して、先端において切断し、先端において切断して、内を善く清められたものに清め、内を善く清められたものに清めて、井戸用の管を(しつら)えます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人物には、すなわち、比丘たちが、彼の罪を見ないあいだは、前進するにも、後進するにも、前視するにも、後視するにも、屈曲するにも、伸直するも、大衣を〔保持し〕鉢と衣料を保持するにも、それは、たとえば、また、他の善き比丘たちのように、まさしく、そのようなものとして、〔彼の行為は〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、比丘たちが、彼の罪を見ることから、〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように知ります。『この者は、まさしく、沙門を汚す者であり、沙門の籾殻であり、沙門の籾滓である』と。〔まさに〕その、この者のことを、かくのごとく、〔人々は〕知って、外に消失させます。それは、何を因とするのですか。『他の善き比丘たちを汚してならない』と〔思うからです〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「共住によって、この者を識知せよ。かくのごとく、『悪しき欲求ある者であり、忿激する者であり、偽装ある者であり、強情ある者であり、さらに、加虐ある者であり、嫉妬ある者であり、物惜ある者であり、狡猾ある者である』〔と〕。

 

 人のいるところでは、寂静の言葉ある沙門のように語り、静所にあっては、悪しき見解の者として、礼を欠く者として、〔悪しき〕所業を為す。

 

 そして、変節の者であり、虚偽を説く者である、彼のことを真実のとおりに知って、全ての者たちは、和合の者たちと成って、彼を厭い離れよ。

 

 殻を取り払え。屑を取り去れ。そののち、沙門ならざるも〔自らを〕沙門と思量する、籾殻たちを除き取れ。

 

 悪しき欲求ある者たちを、悪しき習行と境涯ある者たちを、〔彼らを〕取り払って、気づきある清浄の者たちとなり、清浄の者たちと共住を営むのだ。そののち、〔あなたたちは〕賢明なる和合の者たちとして、苦しみの終極を為すであろう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 慈愛の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「慈愛、そして、智慧、二つの愛しくない者、二つの世、二つの衰滅、そして、デーヴァダッタ、ウッタラ、ナンダがあり、さらに、籾滓とともに、〔章となる〕」と。

 

2. 大いなるものの章

 

1. ヴェーランジャの経

 

11. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーランジャーに住んでおられます。ナレール〔夜叉〕のプチマンダ〔樹〕の根元において。そこで、まさに、ヴェーランジャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーランジャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ない』と。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、そのとおりです。なぜなら、貴君ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ないからです。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、成就あるにあらず(不当である)」と。「婆羅門よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、わたしは、その者を見ません。すなわち、わたしが、あるいは、敬拝するべきであり、あるいは、立礼するべきであり、あるいは、坐に招くべきである、〔その者を〕。婆羅門よ、まさに、その者を、如来が、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐に招くなら、彼の頭であろうが、張り裂けるでしょう」と。

 

 (1)「味気なきは、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『味気なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、すなわち、それらが、諸々の形態の味であり、諸々の音声の味であり、諸々の臭気の味であり、諸々の味感の味であり、諸々の感触の味であるなら、如来の、それら〔の味〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『味気なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (2)「享受なきは、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『享受なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、すなわち、それらが、諸々の形態の享受であり、諸々の音声の享受であり、諸々の臭気の享受であり、諸々の味感の享受であり、諸々の感触の享受であるなら、如来の、それら〔の享受〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『享受なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (3)「無作論者は、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『無作論者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、わたしは、身体による悪しき行ないの、言葉による悪しき行ないの、意による悪しき行ないの、無作を説きます。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の無作を説きます。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『無作論者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (4)「断絶論者は、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『断絶論者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、わたしは、貪欲()の、憤怒()の、迷妄()の、断絶を説きます。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の断絶を説きます。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『断絶論者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (5)「忌避者は、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『忌避者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、わたしは、身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、忌避します。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を忌避します。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『忌避者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (6)「調伏者は、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『調伏者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、わたしは、貪欲の、憤怒の、迷妄の、調伏(取り除き)のための法(教え)を説示します。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の調伏のための法(教え)を説示します。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『調伏者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (7)「苦行者は、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『苦行者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、わたしは、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、悩み苦しめられるべきものと説きます。婆羅門よ、まさに、その者の、悩み苦しめられるべきものである諸々の悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼を、『苦行者である』と、わたしは説きます。婆羅門よ、まさに、如来の、悩み苦しめられるべきものである諸々の悪しき善ならざる法(性質)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『苦行者は、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした」と。

 

 (8)「〔再生の〕胎なきは、貴君ゴータマなり」と。「婆羅門よ、まさに、これが、教相として存在します。その教相によって、わたしのことを、『〔再生の〕胎なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。婆羅門よ、まさに、その者の、未来の入胎が、さらなる生存の発現が、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼を、『〔再生の〕胎なき者である』と、わたしは説きます。婆羅門よ、まさに、如来の、未来の入胎は、さらなる生存の発現は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。婆羅門よ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『〔再生の〕胎なきは、沙門ゴータマなり』と、正しく説きつつ説くべきです。しかしながら、まさに、あなたは、それに関して説きませんでした。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、すなわち、いったい、まさに、それらのひよこたちのなかで、まず最初に、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのは、どうでしょう、かくのごとく説かれるべき者として存するのは、それは、あるいは、長子ですか、あるいは、末子ですか」と。「貴君ゴータマよ、かくのごとく説かれるべき者として存するのは、長子です。貴君ゴータマよ、なぜなら、〔最初に孵化する〕その者は、それら〔のひよこたち〕のなかで、長子と成るからです」と。

 

 「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、卵のなかに有るものとなり、〔迷妄に〕覆い包まれ、無明を具した、〔世の〕人々のなかで、無明の卵の殻を破って、まさしく、独り、世において、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚したのです。婆羅門よ、まさに、わたしは、世〔の人々〕にとって、長子であり、最勝の者です。婆羅門よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成り、気づきは現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心は定められ、一境のものと〔成りました〕。

 

 婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。婆羅門よ、まさに、わたしには、この第一の発現が有りました──卵の殻から〔外に出た〕ひよこのように。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。婆羅門よ、まさに、わたしには、この第二の発現が有りました──卵の殻から〔外に出た〕ひよこのように。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。

 

 婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。婆羅門よ、まさに、わたしには、この第三の発現が有りました──卵の殻から〔外に出た〕ひよこのように」と。

 

 このように説かれたとき、ヴェーランジャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、長子です。貴君ゴータマは、最勝の者です。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. シーハの経

 

12. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語ります。

 

 また、まさに、その時点にあって、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の弟子であるシーハ軍団長が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、シーハ軍団長に、この〔思い〕が有りました。「疑念〔の余地〕なく、まさに、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊として〔世に〕有る。なぜなら、そのとおりに、これらの、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の栄誉を語り、僧団の栄誉を語るからだ。それなら、さあ、わたしは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、シーハ軍団長は、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くことを求めます」と。

 

 「シーハよ、また、どうして、業作論者であるあなたが、無作論者である沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ。シーハよ、まさに、沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する」と。そこで、まさに、すなわち、シーハ軍団長に有った、世尊と会見するための訪問の行作(意志)ですが、それは安息しました。

 

 再度また、まさに、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の……略……法(教え)の……略……僧団の栄誉を語ります。再度また、まさに、シーハ軍団長に、この〔思い〕が有りました。「疑念〔の余地〕なく、まさに、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊として〔世に〕有る。なぜなら、そのとおりに、これらの、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の……略……僧団の栄誉を語るからだ。それなら、さあ、わたしは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、シーハ軍団長は、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くことを求めます」と。

 

 「シーハよ、また、どうして、業作論者であるあなたが、無作論者である沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ。シーハよ、まさに、沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する」と。そこで、まさに、すなわち、シーハ軍団長に有った、世尊と会見するための訪問の行作ですが、それは安息しました。

 

 三度また、まさに、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の……略……法(教え)の……略……僧団の栄誉を語ります。三度また、まさに、シーハ軍団長に、この〔思い〕が有りました。「疑念〔の余地〕なく、まさに、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊として〔世に〕有る。なぜなら、そのとおりに、これらの、公会堂において着坐し参集している大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知されたリッチャヴィ〔族〕の者たちが、無数の教相によって、覚者の栄誉を語り、法(教え)の……略……僧団の栄誉を語るからだ。まさに、ニガンタたちが、わたしのために、何を為すというのだろう──あるいは、〔わたしが、彼らのことを〕顧みようが、あるいは、顧みなかろうが。それなら、さあ、わたしは、ニガンタたちを顧みずして、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、シーハ軍団長は、五百ばかりの車とともに、世尊と会見するために、ヴェーサーリーから出発しました──昼のさなかに。すなわち、乗物の〔赴ける〕地まで、乗物で赴いて、乗物から降りて、まさしく、歩行の者となり、赴きました。そこで、まさに、シーハ軍団長は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、シーハ軍団長は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、無作論者であり、無作の法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。

 

 (1)「シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (2)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、業作論者であり、業作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (3)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、断絶論者であり、断絶のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (4)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、忌避者であり、忌避のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (5)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、調伏者であり、調伏のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (6)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、苦行者であり、苦行のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (7)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、〔再生の〕胎なき者であり、〔再生の〕胎なきための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 (8)シーハよ、教相が存在します。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、安堵させる者であり、安堵のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、身体による悪しき行ないの、言葉による悪しき行ないの、意による悪しき行ないの、無作を説きます。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の無作を説きます。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、無作論者であり、無作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、業作論者であり、業作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、身体による善き行ないの、言葉による善き行ないの、意による善き行ないの、業作を説きます。無数〔の流儀〕に関した諸々の善なる法(性質)の業作を説きます。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、業作論者であり、業作のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、断絶論者であり、断絶のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、貪欲の、憤怒の、迷妄の、断絶を説きます。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の断絶を説きます。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、断絶論者であり、断絶のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、忌避者であり、忌避のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、忌避します。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を忌避します。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、忌避者であり、忌避のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、調伏者であり、調伏のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、貪欲の、憤怒の、迷妄の、調伏(取り除き)のための法(教え)を説示します。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)の調伏のための法(教え)を説示します。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、調伏者であり、調伏のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、苦行者であり、苦行のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、わたしは、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、悩み苦しめられるべきものと説きます。シーハよ、まさに、その者の、悩み苦しめられるべきものである諸々の悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼を、『苦行者である』と、わたしは説きます。シーハよ、まさに、如来の、悩み苦しめられるべきものである諸々の悪しき善ならざる法(性質)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、苦行者であり、苦行のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、〔再生の〕胎なき者であり、〔再生の〕胎なきための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、その者の、未来の入胎が、さらなる生存の発現が、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼を、『〔再生の〕胎なき者である』と、わたしは説きます。シーハよ、まさに、如来の、未来の入胎は、さらなる生存の発現は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、〔再生の〕胎なき者であり、〔再生の〕胎なきための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 シーハよ、では、どのようなものが教相であり、その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、安堵させる者であり、安堵のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきですか。シーハよ、まさに、わたしは、安堵させる者であり、最高の安堵によって、安堵のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導します。シーハよ、まさに、これが教相です。その教相によって、わたしのことを、『沙門ゴータマは、安堵させる者であり、安堵のための法(教え)を説示し、かつまた、それによって、弟子たちを教導する』と、正しく説きつつ説くべきです」と。

 

 このように説かれたとき、シーハ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 「シーハよ、まさに、随知して〔そののち〕為すこと(吟味・検証)を為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『シーハよ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、なぜなら、〔教えを〕他にする異教の者の弟子であるわたしを得て、全面あまねく、ヴェーサーリーに、『シーハ軍団長は、わたしたちの弟子として入門したのだ』と、〔告知の〕幟を行き渡らせるべきであるからです。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『シーハよ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、再度また、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 「シーハよ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者(施者)として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『シーハよ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです』と。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と。そこで、また、しかしながら、世尊は、わたしに、ニガンタたちにたいしてもまた、布施を受持させます。尊き方よ、そして、また、わたしたちは、ここにおいて、〔正しい〕時を知るでしょう。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、シーハ軍団長に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、シーハ軍団長のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、シーハ軍団長に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 そこで、まさに、シーハ軍団長は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、シーハ軍団長は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、シーハ軍団長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、おまえは赴きなさい、新鮮な肉を見つけてくるのだ」と。そこで、まさに、シーハ軍団長は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、シーハ軍団長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。また、まさに、その時点にあって、大勢のニガンタたちが、ヴェーサーリーにおいて、道から道へ、十字路から十字路へと、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びます。「今日、シーハ軍団長によって、太った家畜を屠殺して、沙門ゴータマのために食事が作られた。沙門ゴータマは、〔このことを〕知りながら、〔沙門ゴータマを〕指定して作られた、その肉を遍く受益する──〔沙門ゴータマを〕縁とする行為として」と。

 

 そこで、まさに、或るひとりの下僕が、シーハ軍団長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、耳元で告げました。「尊き方よ、どうか、知りたまえ。これらの大勢のニガンタたちが、ヴェーサーリーにおいて、道から道へ、十字路から十字路へと、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びます。『今日、シーハ軍団長によって、太った家畜を屠殺して、沙門ゴータマのために食事が作られた。沙門ゴータマは、〔このことを〕知りながら、〔沙門ゴータマを〕指定して作られた、その肉を遍く受益する──〔沙門ゴータマを〕縁とする行為として』」と。「よろしい、十分である。まさに、長夜にわたり、それらの尊者たちは、覚者の栄誉ならざることを欲する者たちであり、法(教え)の栄誉ならざることを欲する者たちであり、僧団の栄誉ならざることを欲する者たちであり、また、そして、これらの尊者たちは、彼を、世尊を、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗することを恥じない。では、わたしたちは、たとえ、生命を因としても、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことはないであろう」と。

 

 そこで、まさに、シーハ軍団長は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、シーハ軍団長は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、シーハ軍団長に、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 良馬たる馬の経

 

13. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者であり、すなわち、〔その〕方角においては、他の賢馬たちもまた、良馬たる馬として生まれる、〔まさに〕その方角において生まれた者として〔世に〕有ります。(2)また、まさに、その食料を、彼に与えるなら、あるいは、水気のあるものであれ、あるいは、乾いたものであれ、それを、まさしく、恭しく、遍く受益します──浪費することなく。(3)あるいは、大便のあるところに、あるいは、小便のあるところに、あるいは、坐ることを、あるいは、横たわることを、忌避する者として〔世に〕有ります。(4)温和な者として、安楽の共住者として、〔世に〕有ります──そして、他の馬たちを怯えさせる者ではなく。(5)また、まさに、諸々の狡猾のものであり、諸々の奸計のものであり、諸々の歪曲のものであり、諸々の邪曲のものである、それら〔の欠点〕が、彼にあるなら、それらのものを、事実のとおりに、馭者に明らかと為す者として〔世に〕有ります。馭者は、彼のそれら〔の欠点〕を消去するために努力します。(6)また、まさに、運び手として〔世に〕有ります。『他の馬たちは、あるいは、運ぼうが、あるいは、やめようが、好きにしろ。わたしは、ここにおいて、運ぶのだ』と、心を生起させます。(7)また、まさに、赴きつつあるなら、まさしく、真っすぐの道を赴きます。(8)強靭なる者として〔世に〕有ります──すなわち、生と死の消尽あるまで、強靭を示す者として。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)また、まさに、その食料を、彼に施すなら、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、それを、まさしく、恭しく、遍く受益します──打ちのめされることなく。(3)身体による悪しき行ないを、言葉による悪しき行ないを、意による悪しき行ないを、忌避する者として〔世に〕有ります。無数〔の流儀〕に関した諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を忌避する者として〔世に〕有ります。(4)温和な者として、安楽の共住者として、〔世に〕有ります──他の比丘たちを怯えさせる者ではなく。(5)また、まさに、諸々の狡猾のものであり、諸々の奸計のものであり、諸々の歪曲のものであり、諸々の邪曲のものである、それら〔の欠点〕が、彼にあるなら、それらのものを、事実のとおりに、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、明らかと為す者として〔世に〕有ります。あるいは、教師は、あるいは、識者たちは、あるいは、梵行を共にする者たちは、彼のそれら〔の欠点〕を消去するために努力します。(6)また、まさに、学ぶ者として〔世に〕有ります。『他の比丘たちは、あるいは、学ぼうが、あるいは、やめようが、好きにしろ。わたしは、ここにおいて、学ぶのだ』と、心を生起させます。(7)また、まさに、赴きつつあるなら、まさしく、真っすぐの道を赴きます。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。(8)精進に励む者として〔世に〕住みます。『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 野馬たる馬の経

 

14. 「比丘たちよ、では、八つの野馬たる馬を、そして、八つの馬の汚点を、かつまた、八つの野馬たる人を、さらに、八つの人の汚点を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、八つの野馬たる馬であり、かつまた、八つの馬の汚点なのですか。(1)比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、後に退き、背後へと車を転じ行かせます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第一の馬の汚点です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、後に飛び跳ね、車軸を損壊し、三つの棒を破壊します。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第二の馬の汚点です。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、車の轅(ながえ)に腿を跳ね上げて、まさしく、車の轅を打ち砕きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第三の馬の汚点です。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、悪しき道を収め取り、異なる道へと車を進めます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第四の馬の汚点です。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、前身をもたげ、〔両の〕前足を突き上げます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第五の馬の汚点です。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、馭者を気にせずして、鞭杖を気にせずして、諸々の歯で口輪を砕破して、欲するところに立ち去ります。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第六の馬の汚点です。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、まさしく、前進もせず、後進もせず、まさしく、そこにおいて、立っている杭のように止住する者と成ります。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第七の馬の汚点です。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の野馬たる馬は、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、そして、〔両の〕前足を抱え込んで、さらに、〔両の〕後足を抱え込んで、まさしく、そこにおいて、四つの足を〔抱え込んで〕、坐り込みます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第八の馬の汚点です。比丘たちよ、まさに、これらの、八つの野馬たる馬があり、かつまた、八つの馬の汚点があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、八つの野馬たる人であり、かつまた、八つの人の汚点なのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、『思い浮かびません』と、失念によって弁明します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、後に退き、背後へと車を転じ行かせるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第一の人の汚点です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、まさしく、叱責者に逆襲します。『愚者にして明敏ならざるあなたの話したことが、いったい、まさに、何だというのでしょう。あなたもまた、まさに、話すべきことと思い考えるとは』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、後に飛び跳ね、車軸を損壊し、三つの棒を破壊するように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第二の人の汚点です。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、まさしく、叱責者に反駁します。『まさに、あなたは、某名の罪を犯した者として〔世に〕存している。まずは、あなたが、最初に懺悔しなさい』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、車の轅に腿を跳ね上げて、まさしく、車の轅を打ち砕くように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第三の人の汚点です。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、他から他へと〔返事を〕そらし、外に話を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、悪しき道を収め取り、異なる道へと車を進めるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第四の人の汚点です。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、僧団の中において、腕を振り回すことを為します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、前身をもたげ、〔両の〕前足を突き上げるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第五の人の汚点です。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、僧団を気にせずして、叱責者を気にせずして、まさしく、罪を有する者として、欲するところに立ち去ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、馭者を気にせずして、鞭杖を気にせずして、諸々の歯で口輪を砕破して、欲するところに立ち去るように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第六の人の汚点です。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、『〔罪を〕犯した者として、わたしは存している』〔と言うことも〕、いっぽう、『〔罪を〕犯した者として、わたしは存していない』と〔言うことも〕、まさしく、なく、彼は、沈黙の状態によって、僧団を悩ませます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、まさしく、前進もせず、後進もせず、まさしく、そこにおいて、立っている杭のように止住する者と成るように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第七の人の汚点です。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、比丘を、罪あることから叱責します。その比丘は、比丘たちによって、罪あることから叱責されながら、このように言います。『尊者たちよ、いったい、まさに、どうして、あなたたちは、極めて激しく、わたしにたいし多忙なのですか。すなわち、今や、わたしが、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするまでに』と。彼は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして、このように言います。『尊者たちよ、今や、まさに、あなたたちは、わが意を得た者たちと成ります』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その野馬たる馬が、『行け』と言われ、駆り立てられ、〔そのように〕存しつつ、馭者によって叱責されたなら、そして、〔両の〕前足を抱え込んで、かつまた、〔両の〕後足を抱え込んで、まさしく、そこにおいて、四つの足を〔抱え込んで〕、坐り込むように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、このような形態の者としてもまた〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第八の人の汚点です。比丘たちよ、まさに、これらの、八つの野馬たる人があり、かつまた、八つの人の汚点があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 垢の経

 

15. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの垢です。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、不誦という垢あるのが、諸々の呪文です。比丘たちよ、不精という垢あるのが、諸々の家屋です。比丘たちよ、色艶には、怠惰という垢があります。比丘たちよ、〔心身を〕守っている者には、放逸という垢があります。比丘たちよ、婦女には、悪しき行ない(不品行)という垢があります。比丘たちよ、〔施物を〕施している者には、物惜という垢があります。比丘たちよ、諸々の悪しき法(性質)という垢があります──この世において、さらに、他〔の世〕において。比丘たちよ、その垢よりも、さらにひどい垢として、無明という最高の垢があります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの垢があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不誦という垢あるのが、諸々の呪文である。不精という垢あるのが、諸々の家屋である。色艶には、怠惰という垢がある。〔心身を〕守っている者には、放逸という垢がある。

 

 婦女には、悪しき行ないという垢がある。〔施物を〕施している者には、物惜という垢がある。まさに、諸々の悪しき法(性質)という垢がある──この世において、さらに、他〔の世〕において。その垢よりも、さらにひどい垢がある。無明という、最高の垢がある」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 使者の経

 

16. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、使者として赴くに値します。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、〔正しく〕聞く者として、かつまた、〔正しく〕告げ聞かせる者として、かつまた、〔正しく〕把握する者として、かつまた、〔正しく〕保持する者として、かつまた、〔正しく〕識知する者として、かつまた、〔正しく〕識知させる者として、かつまた、益を有するものと益を有さないものに巧みな智ある者として、かつまた、争いを為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、使者として赴くに値します。比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したサーリプッタは、使者として赴くに値します。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、サーリプッタは、かつまた、〔正しく〕聞く者として、かつまた、〔正しく〕告げ聞かせる者として、かつまた、〔正しく〕把握する者として、かつまた、〔正しく〕保持する者として、かつまた、〔正しく〕識知する者として、かつまた、〔正しく〕識知させる者として、かつまた、益を有するものと益を有さないものに巧みな智ある者として、かつまた、争いを為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備したサーリプッタは、使者として赴くに値します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、激論する衆に至り得ても、まさに、動揺せず、かつまた、言葉を退失させず、さらに、教えを隠蔽しない。

 

 そして、糊塗せずに話し、さらに、〔何を〕尋ねられても激情しない。そのような比丘は、彼は、まさに、使者として赴くに値する」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の結縛するものの経

 

17. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕行相によって、女は、男を結縛します。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、泣き悲しむことによって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、笑うことによって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、話すことによって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、所作によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、贈物によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、臭気によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、味感によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、接触によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの行相によって、女は、男を結縛します。比丘たちよ、それらの有情たちは、極めて結縛された者たちとなります──すなわち、接触によって結縛された、〔それらの有情たちは〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の結縛するものの経

 

18. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕行相によって、男は、女を結縛します。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、泣き悲しむことによって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、笑うことによって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、話すことによって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、所作によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、贈物によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、臭気によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、味感によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、接触によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの行相によって、男は、女を結縛します。比丘たちよ、それらの有情たちは、極めて結縛された者たちとなります──すなわち、接触によって結縛された、〔それらの有情たちは〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. パハーラーダの経

 

19. 或る時のことです。世尊は、ヴェーランジャーに住んでおられます。ナレール〔夜叉〕のプチマンダ〔樹〕の根元において。そこで、まさに、阿修羅のインダ(権力者)たるパハーラーダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、阿修羅のインダたるパハーラーダに、世尊は、こう言いました。

 

 「パハーラーダよ、また、では、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみますか」と。「尊き方よ、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます」と。「パハーラーダよ、また、どれだけの、大海について、めったにないはじめての法(性質)がありますか。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます」と。「尊き方よ、八つの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)尊き方よ、大海は、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはなりません。尊き方よ、すなわち、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはならないのは、尊き方よ、これは、大海について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (2)尊き方よ、さらに、また、他に、大海は、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがありません。尊き方よ、すなわち、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないのは、尊き方よ、これは、大海について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (3)尊き方よ、さらに、また、他に、大海は、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げます。尊き方よ、すなわち、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるのは、尊き方よ、これは、大海について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (4)尊き方よ、さらに、また、他に、それらが何であれ、諸々の大河は──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらは、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至ります(大海という名でのみ呼称される)。尊き方よ、すなわち、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るのは、尊き方よ、これは、大海について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (5)尊き方よ、さらに、また、他に、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。尊き方よ、すなわち、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、尊き方よ、これは、大海について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (6)尊き方よ、さらに、また、他に、大海は、一つの味であり、塩の味です。尊き方よ、すなわち、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるのは、尊き方よ、これは、大海について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (7)尊き方よ、さらに、また、他に、大海は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙です。尊き方よ、すなわち、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、尊き方よ、これは、大海について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

 (8)尊き方よ、さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の旅程距離)さえもの自己状態(個我的あり方・身体)あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在します。尊き方よ、すなわち、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するのは、尊き方よ、これは、大海について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。尊き方よ、まさに、これらの八つの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます」と。

 

 「尊き方よ、また、では、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみますか」と。「パハーラーダよ、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。「尊き方よ、また、どれだけの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)がありますか。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。「パハーラーダよ、八つの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律ついて喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にならないように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解はありません。パハーラーダよ、すなわち、また、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解がないのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (2)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処(戒律)であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちは、たとえ、生命を因としても、犯すことがありません。パハーラーダよ、すなわち、また、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちが、たとえ、生命を因としても、犯すことがないのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (3)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し(沙門を名乗り)、梵行者ではないのに梵行者と明言し(梵行者と公言し)、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのです〕。パハーラーダよ、すなわち、また、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのは〕、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (4)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らは、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至ります。パハーラーダよ、すなわち、また、これらの四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らが、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至るのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (5)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。パハーラーダよ、すなわち、また、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (6)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、一つの味であり、解脱の味です。パハーラーダよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、一つの味であり、解脱の味であるのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (7)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるように──それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処:身体と感受と心と法についての気づき)であり、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)であり、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)であり、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)です。パハーラーダよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道ですが、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 

 (8)パハーラーダよ、それは、たとえば、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するように、パハーラーダよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者(預流果)が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)が、一来たる者(一来果)が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)が、不還たる者(不還果)が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)が、阿羅漢(阿羅漢果)が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)がいます。パハーラーダよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者が、一来たる者が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者が、不還たる者が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者が、阿羅漢が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいるのは、パハーラーダよ、これは、この法(教え)と律について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。パハーラーダよ、まさに、これらの八つの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 斎戒の経

 

20. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩)のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、初更を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、初更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、中更を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、中更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、後更を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、後更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、世尊は、どの人物に関して、このように言ったのか。『アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず』」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、一切すべての比丘の僧団に、心をとおして、心を探知して、意を為しました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物を──劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑でありながら、比丘の僧団の中に坐っている〔その人物〕を──見ました。見て、坐から立ち上がって、その人物のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。

 

 このように説かれたとき、その人物は、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、その人物は、沈黙の者と成りました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物の腕を掴んで、門小屋の外に追い出して、閂を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、その人物は、わたしが追い出しました。衆は、完全なる清浄です。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「モッガッラーナよ、めったにないことです。モッガッラーナよ、はじめてのことです。さてまた、腕を掴むに至るまで、まさに、その愚人が待っているとは」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、今や、あなたたちだけで、斎戒を為し、戒条を誦説するのです。比丘たちよ、今や、わたしは、今日以後、斎戒を為すことも、戒条を誦説することも、ないでしょう。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、如来が、完全なる清浄ならざる衆のために戒条を誦説することは。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。これらの、大海について、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、大海は、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはなりません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはならないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。……略……(すなわち、以前におけるように、そのように詳知されるべきである)。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在します(※)。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するのは、比丘たちよ、まさに、これは、大海について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 

※ テキストには Vasanti とあるが、PTS版により santi と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律について、八つのめったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にならないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解はありません。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解がないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。……略……。(8)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミラピンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが──百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者が、一来たる者が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者が、不還たる者が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者が、阿羅漢が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいます。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが──預流たる者が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者が……略……阿羅漢が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいるのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ヴェーランジャ、シーハ、良馬があり、野馬とともに、そして、諸々の垢、使者、さらに、二つの結縛するもの、パハーラーダ、斎戒があり、〔章となる〕」と。

 

3. 家長の章

 

1. 第一のウッガの経

 

21. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長を認めなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長が、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長に、その比丘は、こう言いました。

 

 「家長よ、まさに、あなたは、八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました。家長よ、あなたに、どのような八つのめったにないはじめての法(性質)があるのですか。すなわち、あなたは、〔それらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのです」と。「尊き方よ、まさに、わたしは知りません。『どのような八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのか』と。尊き方よ、しかしながら、また、すなわち、わたしに、〔これらの〕八つのめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。それを聞いてください。善くしっかりと、意を為してください。〔では〕語ります」と。「家長よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長に答えました。ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、こう言いました。「(1)尊き方よ、すなわち、わたしが、世尊を、はるか遠くから、最初に見たとき、尊き方よ、まさしく、見ると共に、世尊のために、わたしの心は清信しました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第一のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (2)尊き方よ、それで、まさに、わたしは、清信した心の者となり、世尊に奉侍しました。〔まさに〕その、わたしに、世尊は、〔適切な〕順序にもとづく講話を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、わたしのことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、まさに、わたしに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、まさしく、そこにおいて、そして、覚者を、かつまた、法(教え)を、さらに、僧団を、帰依所に赴き、そして、梵行(禁欲清浄行)を第五とする学びの境処(戒律)を受持しました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第二のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (3)尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、四者の年若い夫人たちが有りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、それらの夫人たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの夫人たちに、こう言いました。『姉妹たちよ、まさに、わたしによって、梵行を第五とする学びの境処が受持するところとなった。すなわち、求めるなら、その者は、まさしく、ここに〔居住し〕、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ。あるいは、自らの親族の家々に赴け。また、あるいは、〔おまえたちに〕志向する男が有るなら、誰に、おまえたちを与えるとよいのだ』と。尊き方よ、このように説かれたとき、第一夫人は、彼女は、わたしに、こう言いました。『旦那様、わたしを、某名の男に与えてください』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その男を呼び寄せて、左手で夫人を掴んで、右手で水差しを掴んで、その男に献じました。尊き方よ、また、まさに、わたしは、年若い妻を完全に捨て去りながらも、心の他化を証知しません(平静を保ち不動だった)。尊き方よ、まさに、わたしに、この第三のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (4)尊き方よ、また、まさに、わたしの家には、諸々の財物が等しく見出されます。そして、まさに、それらは、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第四のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (5)尊き方よ、また、まさに、その比丘に、〔わたしが〕奉侍するなら、まさしく、恭しく、奉侍します──恭しくなく、ではなく。尊き方よ、まさに、わたしに、この第五のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (6)尊き方よ、もし、その尊者が、わたしに、法(教え)を説示するなら、まさしく、恭しく、聞きます──恭しくなく、ではなく。もし、その尊者が、わたしに、法(教え)を説示しないなら、わたしは、彼に、法(教え)を説示します。尊き方よ、まさに、わたしに、この第六のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (7)尊き方よ、また、まさに、稀有ならざることとして、わたしのもとに、天神たちが近づいて行って、『家長よ、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされました』と告げます。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの天神たちに、このように説きます。『天神たちよ、まさに、あなたたちが、このように、あるいは、説こうが、あるいは、説かなかろうが、そこで、まさに、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたのです』と。尊き方よ、また、まさに、わたしは、それを因縁とする心の傲慢を証知しません──あるいは、『わたしのもとに、天神たちが近づいて行く』〔と〕、あるいは、『わたしは、天神たちを相手に談じ合う』と。尊き方よ、まさに、わたしに、この第七のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (8)尊き方よ、すなわち、これらの五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が、世尊によって説示されました。わたしは、それらのなかで捨棄されていないものを、何であれ、わたしのうちに等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしに、この第八のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。尊き方よ、まさに、わたしに、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。しかしながら、まさに、わたしは知りません。さてまた、わたしは、どのような八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのでしょう」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長の住居地において、〔行乞の〕施食を収め取って、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、すなわち、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。比丘よ、まさしく、まさに、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、わたしによって説き明かされました。比丘よ、また、そして、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長を認めなさい」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のウッガの経

 

22. 或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。ハッティ村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長を認めなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長が、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長に、その比丘は、こう言いました。「家長よ、まさに、あなたは、八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました。家長よ、あなたに、どのような八つのめったにないはじめての法(性質)があるのですか。すなわち、あなたは、〔それらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは知りません。『どのような八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのか』と。尊き方よ、しかしながら、また、すなわち、わたしに、〔これらの〕八つのめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。それを聞いてください。善くしっかりと、意を為してください。〔では〕語ります」と。「家長よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長に答えました。ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長は、こう言いました。「(1)尊き方よ、すなわち、象の林において、遊び楽しんでいるわたしが、世尊を、はるか遠くから、最初に見たとき、尊き方よ、まさしく、見ると共に、世尊のために、わたしの心は清信し、さらに、酒の酔いは捨棄されました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第一のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (2)尊き方よ、それで、まさに、わたしは、清信した心の者となり、世尊に奉侍しました。〔まさに〕その、わたしに、世尊は、〔適切な〕順序にもとづく講話を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、わたしのことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、まさに、わたしに、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。『それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、まさしく、そこにおいて、そして、覚者を、かつまた、法(教え)を、さらに、僧団を、帰依所に赴き、そして、梵行を第五とする学びの境処を受持しました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第二のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (3)尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、四者の年若い夫人たちが有りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、それらの夫人たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの夫人たちに、こう言いました。『姉妹たちよ、まさに、わたしによって、梵行を第五とする学びの境処が受持するところとなった。すなわち、求めるなら、その者は、まさしく、ここに〔居住し〕、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ。あるいは、自らの親族の家々に赴け。また、あるいは、〔おまえたちに〕志向する男が有るなら、誰に、おまえたちを与えるとよいのだ』と。尊き方よ、このように説かれたとき、第一夫人は、彼女は、わたしに、こう言いました。『旦那様、わたしを、某名の男に与えてください』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、その男を呼び寄せて、左手で夫人を掴んで、右手で水差しを掴んで、その男に献じました。尊き方よ、また、まさに、わたしは、年若い妻を完全に捨て去りながらも、心の他化を証知しません。尊き方よ、まさに、わたしに、この第三のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (4)尊き方よ、また、まさに、わたしの家には、諸々の財物が等しく見出されます。そして、まさに、それらは、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました。尊き方よ、まさに、わたしに、この第四のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (5)尊き方よ、また、まさに、その比丘に、〔わたしが〕奉侍するなら、まさしく、恭しく、奉侍します──恭しくなく、ではなく。尊き方よ、もし、その尊者が、わたしに、法(教え)を説示するなら、まさしく、恭しく、聞きます──恭しくなく、ではなく。もし、その尊者が、わたしに、法(教え)を説示しないなら、わたしは、彼に、法(教え)を説示します。尊き方よ、まさに、わたしに、この第五のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (6)尊き方よ、また、まさに、稀有ならざることとして、僧団が招かれたとき、天神たちが近づいて行って、『家長よ、何某の比丘は、両部の解脱者である』『何某〔の比丘〕は、智慧による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、身体による実証者である』『何某〔の比丘〕は、〔正しい〕見解に至り得た者である』『何某〔の比丘〕は、信による解脱者である』『何某〔の比丘〕は、法(教え)に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、信に従い行く者である』『何某〔の比丘〕は、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である』『何某〔の比丘〕は、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者である』と告げます。尊き方よ、また、まさに、僧団に給仕しているわたしは、このように生起させている心を証知しません──あるいは、『この者には、僅かなものを施すのだ』〔と〕、あるいは、『この者には、多くのものを施すのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、まさしく、平等の心の者として施します。尊き方よ、まさに、わたしに、この第六のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (7)尊き方よ、また、まさに、稀有ならざることとして、わたしのもとに、天神たちが近づいて行って、『家長よ、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされました』と告げます。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの天神たちに、このように説きます。『天神たちよ、まさに、あなたたちが、このように、あるいは、説こうが、あるいは、説かなかろうが、そこで、まさに、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたのです』と。尊き方よ、また、まさに、わたしは、それを因縁とする心の傲慢を証知しません──あるいは、『わたしのもとに、天神たちが近づいて行く』〔と〕、あるいは、『わたしは、天神たちを相手に談じ合う』と。尊き方よ、まさに、わたしに、この第七のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。

 

 (8)尊き方よ、また、まさに、それで、もし、わたしが、世尊より以前に、命を終えるなら、また、まさに、稀有ならざることとして、このことはあります。すなわち、世尊が、わたしのことを、『その〔束縛するもの〕によって束縛されたハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その、束縛するものは存在しません』と、このように説くことです。尊き方よ、まさに、わたしに、この第八のめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。尊き方よ、まさに、わたしに、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)が等しく見出されます。しかしながら、まさに、わたしは知りません。さてまた、わたしは、どのような八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされたのでしょう」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長の住居地において、〔行乞の〕施食を収め取って、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、すなわち、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長は、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。比丘よ、まさしく、まさに、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長は、わたしによって説き明かされました。比丘よ、また、そして、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、ハッティ村〔の住者〕たるウッガ家長を認めなさい」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一のハッタカの経

 

23. 或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。アッガーラヴァ塔廟において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、七つのものがあります。〔これらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカを認めなさい。どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、信ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、戒ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、恥〔の思い〕ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、〔良心の〕咎めある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、多聞の者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、施捨ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、智慧ある者です。比丘たちよ、まさに、これらの七つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカを認めなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、或るひとりの比丘が、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカに、その比丘は、こう言いました。

 

 「友よ、まさに、あなたは、七つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました。どのようなものが、七つのものなのですか。『比丘たちよ、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、信ある者であり……略……戒ある者であり……恥〔の思い〕ある者であり……〔良心の〕咎めある者であり……多聞の者であり……施捨ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、智慧ある者です』と。友よ、まさに、あなたは、これらの七つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました」と。「尊き方よ、どうでしょう、ここにおいて(その場において)、誰であれ、白衣の在家者が有りましたか」と。「友よ、まさに、ここにおいて、誰であれ、白衣の在家者は有りませんでした」と。「尊き方よ、善きかな、すなわち、ここにおいて、誰であれ、白衣の在家者が有ることなくあったのは」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカの住居地において、〔行乞の〕施食を収め取って、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカに、わたしは、こう言いました。『友よ、まさに、あなたは、七つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました。「どのようなものが、七つのものなのですか。比丘たちよ、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、信ある者であり……略……戒ある者であり……恥〔の思い〕ある者であり……〔良心の〕咎めある者であり……多聞の者であり……施捨ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、智慧ある者です」と。友よ、まさに、あなたは、これらの七つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、世尊によって説き明かされました』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、どうでしょう、ここにおいて、誰であれ、白衣の在家者が有りましたか』と。『友よ、まさに、ここにおいて、誰であれ、白衣の在家者は有りませんでした』と。『尊き方よ、善きかな、すなわち、ここにおいて、誰であれ、白衣の在家者が有ることなくあったのは』」と。

 

 「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、良家の子息である彼は、少なき欲求の者です。まさしく、自己のうちに存している、諸々の善なる法(性質)が他者たちに知られることを求めません。比丘よ、まさに、それによって、あなたは、この第八のめったにないはじめての法(性質)をもまた具備した者として、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカを認めなさい。すなわち、この、少なき欲求たることによって」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二のハッタカの経

 

24. 或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。アッガーラヴァ塔廟において。そこで、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、五百ばかりの在俗信者たちに取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカに、世尊は、こう言いました。「ハッタカよ、まさに、あなたには、この大いなる衆があります。ハッタカよ、また、どのように、あなたは、この大いなる衆を愛護するのですか」と。「尊き方よ、すなわち、これらの四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)が、世尊によって説示されました。それらによって、わたしは、この大いなる衆を愛護します。尊き方よ、わたしは、その者のことを、『この者は、布施によって愛護されるべきである』と知るなら、その者を、布施によって愛護し、その者のことを、『この者は、愛ある言葉によって愛護されるべきである』と知るなら、その者を、愛ある言葉によって愛護し、その者のことを、『この者は、義(利益)ある行ないによって愛護されるべきである』と知るなら、その者を、義(利益)ある行ないによって愛護し、その者のことを、『この者は、〔自他が〕等しくあることによって愛護されるべきである』と知るなら、その者を、〔自他が〕等しくあることによって愛護します。尊き方よ、また、まさに、わたしの家には、諸々の財物が等しく見出されます。貧者の〔言葉を〕、まさに、そのように、聞くべきと、〔人々は〕思い考えません」と。「ハッタカよ、善きかな、善きかな。ハッタカよ、まさに、あなたには、この大いなる衆を愛護するための根源となるものがあります。ハッタカよ、まさに、たとえ、彼らが誰であれ、過去の時に、大いなる衆を愛護するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの愛護の基盤によって、大いなる衆を愛護しました。ハッタカよ、まさに、たとえ、彼らが誰であれ、未来の時に、大いなる衆を愛護するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの愛護の基盤によって、大いなる衆を愛護するでしょう。ハッタカよ、まさに、たとえ、彼らが誰であれ、今現在、大いなる衆を愛護するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの愛護の基盤によって、大いなる衆を愛護します」と。

 

 そこで、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕めったにないはじめての法(性質)を具備した者として、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカを認めなさい。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、信ある者であり……略……戒ある者であり……恥〔の思い〕ある者であり……〔良心の〕咎めある者であり……多聞の者であり……施捨ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、智慧ある者であり、比丘たちよ、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、少なき欲求の者です。比丘たちよ、まさに、これらの八つのめったにないはじめての法(性質)を具備した者として、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカを認めなさい」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. マハー・ナーマの経

 

25. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、在俗信者(優婆塞)と成るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、覚者を帰依所に赴いた者と成り、法(教え)を帰依所に赴いた者と成り、僧団を帰依所に赴いた者と成ることから、このことから、在俗信者と成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、戒ある者と成るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、在俗信者が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ることから、このことから、在俗信者は、戒ある者と成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、自己の利益のために実践する者と成るのですか──他者の利益のためではなく」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、在俗信者が、(1)まさしく、自己みずから、信を成就した者として〔世に〕有り、他者に、信の成就を受持させません。(2)まさしく、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、他者に、戒の成就を受持させません。(3)まさしく、自己みずから、施捨を成就した者として〔世に〕有り、他者に、施捨の成就を受持させません。(4)まさしく、自己みずから、比丘たちと会見することを欲する者として〔世に〕有り、他者に、比丘たちと会見することを受持させません。(5)まさしく、自己みずから、正なる法(教え)を聞くことを欲する者として〔世に〕有り、他者に、正なる法(教え)を聞くことを受持させません。(6)まさしく、自己みずから、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、他者に、法(教え)を保持することを受持させません。(7)まさしく、自己みずから、諸々の保持された(※)法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、他者に、義(意味)を近しく注視することを受持させません。(8)まさしく、自己みずから、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、他者に、法(教え)を法(教え)のままに実践することを受持させません。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく」と。

 

※ テキストには sutānaṃ とあるが、PTS版により dhātānaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、在俗信者が、(1)そして、自己みずから、信を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、信の成就を受持させます。(2)そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、戒の成就を受持させます。(3)そして、自己みずから、施捨を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、施捨の成就を受持させます。(4)そして、自己みずから、比丘たちと会見することを欲する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、比丘たちと会見することを受持させます。(5)そして、自己みずから、正なる法(教え)を聞くことを欲する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正なる法(教え)を聞くことを受持させます。(6)そして、自己みずから、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、法(教え)を保持することを受持させます。(7)そして、自己みずから、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、義(意味)を近しく注視することを受持させます。(8)そして、自己みずから、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、法(教え)を法(教え)のままに実践することを受持させます。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ジーヴァカの経

 

26. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ジーヴァカのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジーヴァカ・コーマーラバッチャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、在俗信者と成るのですか」と。「ジーヴァカよ、すなわち、まさに、覚者を帰依所に赴いた者と成り、法(教え)を帰依所に赴いた者と成り、僧団を帰依所に赴いた者と成ることから、このことから、在俗信者と成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、戒ある者と成るのですか」と。「ジーヴァカよ、すなわち、まさに、在俗信者が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ることから、このことから、在俗信者は、戒ある者と成ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、自己の利益のために実践する者と成るのですか──他者の利益のためではなく」と。「ジーヴァカよ、すなわち、まさに、在俗信者が、(1)まさしく、自己みずから、信を成就した者として〔世に〕有り、他者に、信の成就を受持させません。……略……(8)まさしく、自己みずから、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、他者に、法(教え)を法(教え)のままに実践することを受持させません。ジーヴァカよ、このことから、まさに、在俗信者は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成るのですか」と。「ジーヴァカよ、すなわち、まさに、在俗信者が、(1)そして、自己みずから、信を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、信の成就を受持させます。(2)そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、戒の成就を受持させます。(3)そして、自己みずから、施捨を成就した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、施捨の成就を受持させます。(4)そして、自己みずから、比丘たちと会見することを欲する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、比丘たちと会見することを受持させます。(5)そして、自己みずから、正なる法(教え)を聞くことを欲する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、正なる法(教え)を聞くことを受持させます。(6)そして、自己みずから、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、法(教え)を保持することを受持させます。(7)そして、自己みずから、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、義(意味)を近しく注視することを受持させます。(8)そして、自己みずから、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、法(教え)を法(教え)のままに実践することを受持させます。ジーヴァカよ、このことから、まさに、在俗信者は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の力の経

 

27. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、泣き悲しむ力あるのが、幼児たちです。忿激の力あるのが、女性たちです。武器の力あるのが、盗賊たちです。権力の力あるのが、王たちです。譴責の力あるのが、愚者たちです。納得の力あるのが、賢者たちです。審慮の力あるのが、多聞の者たちです。忍耐の力あるのが、沙門や婆羅門たちです。比丘たちよ、まさに、これらの八つの力があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の力の経

 

28. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、いったい、まさに、どれだけの力が、煩悩が滅尽した比丘にあるのですか。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』」と。「尊き方よ、八つの力が、煩悩が滅尽した比丘にあります。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 どのようなものが、八つのものなのですか。(1)尊き方よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕(諸行)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘とって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (2)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕(女性)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (3)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成ります〕。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、心が、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成るなら〕、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (4)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立(四念処四念住)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 (5)尊き方よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの神通の足場(四神足)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(6)五つの機能(五根)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(7)七つの覚りの支分(七覚支)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。……略……(8)聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。尊き方よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、尊き方よ、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

 

 尊き方よ、まさに、これらの八つの力が、煩悩が滅尽した比丘にあります。それらの力を具備した、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔為すべき〕瞬間ならざるものの経

 

29. 「比丘たちよ、『為すべき瞬間あるのが、世である』『為すべき瞬間あるのが、世である』と、無聞の凡夫は語ります。しかしながら、まさに、彼は、あるいは、〔為すべき〕瞬間を、あるいは、〔為すべき〕瞬間ならざるものを、知りません。比丘たちよ、八つのものがあります。これらの、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、かつまた、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、地獄に生起した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第一の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、かつまた、如来が……略……天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、畜生の胎に生起した者として〔世に〕有ります。……略……。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に……略……。しかしながら、この人は、餓鬼の境域に生起した者として〔世に〕有ります。……略……。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に……略……。しかしながら、この人は、或るどこかの長寿の天の身体に再生した者として〔世に〕有ります。……略……。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に……略……。しかしながら、この人は、諸々の最辺境の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。かつまた、彼は、識知なき蛮族たちのなかに有ります。そこにおいては、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちの赴く所は存在しません。……略……第五の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。……略……。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力なき者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第七の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、かつまた、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起することなく、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されません。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。さらに、彼は、智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第八の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものがありあり、〔為すべき〕時点ならざるものがあります。

 

 比丘たちよ、まさしく、一つのものがあります。梵行の住のための、そして、〔為すべき〕瞬間であり、さらに、〔為すべき〕時点です。どのようなものが、一つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、かつまた、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。さらに、彼は、智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この、まさしく、一つの、梵行の住のための、そして、〔為すべき〕瞬間があり、さらに、〔為すべき〕時点があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「人間である利得を得ても、正なる法(教え)が見事に知らされたとき、それらの者たちが、〔為すべき〕瞬間に遭遇しないなら、彼らは、〔その〕瞬間を〔虚しく〕過ごす。

 

 まさに、多くの〔為すべき〕瞬間ならざるものが説かれた──道の障りとなるものとして。いつであれ、いつかは、世において、如来たちは生起するも──

 

 面前の者と成ることは、このことは、すなわち、世において極めて得難きものとして、それはある。そして、人間であることの獲得があり、さらに、正なる法(教え)の説示があるなら、そこにおいて、自己〔の利益〕を欲する者には、人として、努め励むに十分なるものがある。

 

 どうして、正なる法(教え)を識知できるというのだろう。〔この〕瞬間が、まさに、過ぎ行くことがあってはならない。なぜなら、〔この〕瞬間を〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。

 

 もし、ここに、正なる法(教え)の決定性を、それを失うなら、義(利益)を〔虚しく〕過ごした商人のように、長夜にわたり、悩み苦しむことになる。

 

 無明に覆われた者は、人として、正なる法(教え)に違反する者であり、長きにわたり、生と死の輪廻を経験する。

 

 しかしながら、人間たる〔境遇〕を得て、正なる法(教え)が善く説き知らされたとき、それらの者たちが、教師の言葉を為したなら──あるいは、〔いまここに〕為し、〔未来に〕為すであろうなら──

 

 世における〔為すべき〕瞬間を理解したのだ──無上なる梵行である、如来によって知らされた道を実践した、彼らは。

 

 眼ある者によって、太陽の眷属(ブッダ)によって、それらの統御が説示されたなら、それらにおいて、〔自己が〕守られた、常に気づきある者となり、〔世に〕住むがよい──〔煩悩が〕漏れ出ることなく。

 

 悪魔の領域に従い行くものを、一切の悪習を断ち切って、彼らは、まさに、世において、彼岸に至った者たちとなる──すなわち、煩悩の滅尽に至り得た者(阿羅漢)たちとして」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. アヌルッダの大いなる思考の経

 

30. 或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、尊者アヌルッダは、チェーティ〔国〕に住んでいます。東の竹林において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者アヌルッダに、このような心の思索が浮かびました。「(1)少なき欲求の者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず。(2)満ち足りている者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず。(3)遠離している者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず。(4)精進に励む者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、怠惰の者のためならず。(5)気づきが現起された者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず。(6)〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず。(7)智慧ある者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、尊者アヌルッダの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、バッガ〔国〕のススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において消没し、チェーティ〔国〕の東の竹林において、尊者アヌルッダの面前に出現しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。尊者アヌルッダもまた、まさに、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、善きかな、まさに、あなたは、『(1)少なき欲求の者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず。(2)満ち足りている者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず。(3)遠離している者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず。(4)精進に励む者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、怠惰の者のためならず。(5)気づきが現起された者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず。(6)〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず。(7)智慧ある者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず』と、すなわち、その、大いなる人の思考を思考しました。アヌルッダよ、まさに、それでは、あなたは、『(8)虚構なきものを喜びとし、虚構なきものを喜ぶ者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、虚構を喜びとし、虚構を喜ぶ者のためならず』と、この第八の大いなる人の思考をもまた思考しなさい。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、アヌルッダよ、そののちは、あなたが望むであろう、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むでしょう。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、アヌルッダよ、そののちは、あなたが望むであろう、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むでしょう。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、アヌルッダよ、そののちは、あなたが望むであろう、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むでしょう。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、アヌルッダよ、そののちは、あなたが望むであろう、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むでしょう。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、そして、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、これらの四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、アヌルッダよ、そののちは、あなたにとって、それは、たとえば、また、まさに、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱のように、まさしく、このように、糞掃衣の衣料は思えるでしょう──〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕住んでいるあなたの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、そして、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、アヌルッダよ、そののちは、あなたにとって、それは、たとえば、また、まさに、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味のように、まさしく、このように、〔施しの〕握り飯の食料は思えるでしょう──〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕住んでいるあなたの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、そして、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、アヌルッダよ、そののちは、あなたにとって、それは、たとえば、また、まさに、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、屋頂ある家のように、まさしく、このように、木の根元の臥坐所は思えるでしょう──〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕住んでいるあなたの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、そして、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、アヌルッダよ、そののちは、あなたにとって、それは、たとえば、また、まさに、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕がある、寝台のように、まさしく、このように、草の敷物の臥坐具は思えるでしょう──〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕住んでいるあなたの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。

 

 アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたが、そして、これらの八つの大いなる人の思考を思考することから、さらに、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ることから、アヌルッダよ、そののちは、あなたにとって、それは、たとえば、また、まさに、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、種々なる医薬品のように、それは、すなわち、この、酥、生酥、油、蜜、糖のように、まさしく、このように、腐尿の医薬品は思えるでしょう──〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕住んでいるあなたの、喜びのために、思い悩みなきために、平穏の住のために、涅槃に入るために。アヌルッダよ、まさに、それによって、あなたは、次の雨期の居住もまた、まさしく、ここに、チェーティ〔国〕の東の竹林において住むべきです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アヌルッダは、世尊に答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アヌルッダを、この教諭によって教え諭して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、チェーティ〔国〕の東の竹林において消没し、バッガ〔国〕のススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園に出現しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、八つの大いなる人の思考を説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。(1)比丘たちよ、少なき欲求の者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず。(2)比丘たちよ、満ち足りている者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず。(3)比丘たちよ、遠離している者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず。(4)比丘たちよ、精進に励む者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、怠惰の者のためならず。(5)比丘たちよ、気づきが現起された者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず。(6)比丘たちよ、〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず。(7)比丘たちよ、智慧ある者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず。(8)比丘たちよ、虚構なきものを喜びとし、虚構なきものを喜ぶ者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、虚構を喜びとし、虚構を喜ぶ者のためならず。

 

 『比丘たちよ、少なき欲求の者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、少なき欲求の者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「少なき欲求の者である」と知るべきである』と欲求せず、満ち足りている者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「満ち足りている者である」と知るべきである』と欲求せず、遠離している者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「遠離している者である」と知るべきである』と欲求せず、精進に励む者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「精進に励む者である」と知るべきである』と欲求せず、気づきが現起された者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「気づきが現起された者である」と知るべきである』と欲求せず、〔心が〕定められた者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「〔心が〕定められた者である」と知るべきである』と欲求せず、智慧ある者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「智慧ある者である」と知るべきである』と欲求せず、虚構なきものを喜びとする者として存しつつ、『〔人々は〕わたしのことを、「虚構なきものを喜びとする者である」と知るべきである』と欲求しません。『比丘たちよ、少なき欲求の者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、満ち足りている者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。『比丘たちよ、満ち足りている者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、遠離している者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離している者として〔世に〕住んでいると、近づいて行く者たちとして、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちが有るも、そこで、〔その〕比丘は、遠離に向かい行く心で、遠離に傾倒する〔心〕で、遠離に傾斜する〔心〕で、離欲を喜び楽しむ〔心〕で、何はともあれ、まさしく、〔彼らを〕追い立てることに関係した話を為す者と成ります。『比丘たちよ、遠離している者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、精進に励む者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、怠惰の者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。『比丘たちよ、精進に励む者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、怠惰の者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、気づきが現起された者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。『比丘たちよ、気づきが現起された者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。『比丘たちよ、〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、智慧ある者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。『比丘たちよ、智慧ある者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、虚構なきものを喜びとし、虚構なきものを喜ぶ者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、虚構を喜びとし、虚構を喜ぶ者のためならず』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の心が、虚構の止滅にたいし、跳入し、清信し、確立し、解脱します。『比丘たちよ、虚構なきものを喜びとし、虚構なきものを喜ぶ者のために、この法(教え)はあります。この法(教え)は、虚構を喜びとし、虚構を喜ぶ者のためならず』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 そこで、まさに、尊者アヌルッダは、次の雨期の居住もまた、まさしく、そこにおいて、チェーティ〔国〕の東の竹林において住みました。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者アヌルッダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、阿羅漢の資質に至り得た、その時において、これらの詩偈を語りました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「わたしの思惟を了知して、〔世の〕教師たる方は、世における無上なる方は、意によって作られる身体をもって、神通によって、〔わたしのもとへと〕近づいて行った。

 

 すなわち、わたしに、〔その〕思惟が有った、それよりも、より上なるものを、〔覚者は〕説示した。虚構なきものを喜ぶ者として、覚者は、虚構なき〔境地〕を説示した。

 

 わたしは、彼の法(教え)を了知して、〔彼の〕教えを喜ぶ者として〔世に〕住んだ。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された」と。〔以上が〕第十となる。

 

 家長の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つのウッガ、さらに、二つのハッタカがあり、マハー・ナーマとともに、ジーヴァカ、二つの力、〔為すべき〕瞬間ならざるものが説かれ、アヌルッダとともに、それらの十がある」と。

 

4. 布施の章

 

1. 第一の布施の経

 

31. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの布施です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)〔相手が〕近寄って〔そののち〕、布施を施します。(2)恐怖ゆえに、布施を施します。(3)『わたしに施した』と、布施を施します。(4)『わたしに施すであろう』と、布施を施します。(5)『善きかな、布施は』と、布施を施します。(6)『わたしは調理する。これらの者たちは調理しない。調理している者として、調理していない者たちに布施を施さないことはできない』と、布施を施します。(7)『わたしが、この布施を施していると、善き評価の声が上がる』と、布施を施します。(8)心にとっての外装品であり必需品であることを義(目的)として、布施を施します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの布施があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の布施の経

 

32. 〔そこで、詩偈に言う〕「信、恥〔の思い〕、そして、善なるもの、布施──これらの法(性質)は、正なる人士によって追い求められた。まさに、この道を、天のものと、〔人々は〕説く。まさに、この〔道〕によって、天の世に赴く」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 布施の基盤の経

 

33. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの布施の基盤です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)欲〔の思い〕ゆえに、布施を施します。(2)憤怒ゆえに、布施を施します。(3)迷妄ゆえに、布施を施します。(4)恐怖ゆえに、布施を施します。(5)『母と父によって、過去に施され、過去に為された。過去からの家の伝統を退失させることはできない』と、布施を施します。(6)『わたしは、この布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と、布施を施します。(7)『わたしが、この布施を施していると、心は清信する。わが意を得ることとなり、悦意が生まれる』と、布施を施します。(8)心にとっての外装品であり必需品であることを義(目的)として、布施を施します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの布施の基盤があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 田畑の経

 

34. 「比丘たちよ、八つの支分を具備した田畑において、種が蒔かれたなら、大いなる果と成らず、大いなる美味と〔成ら〕ず、増殖の臥床と〔成り〕ません。どのように、八つの支分を具備した〔田畑〕において、なのですか。比丘たちよ、ここに、田畑が、かつまた、高所と低所が有り、かつまた、石粒が有り、かつまた、塩気が有り、かつまた、深い地盤なく有り、入水口が完備されずに有り、出水口が完備されずに有り、水路が完備されずに有り、境が完備されずに有ります。比丘たちよ、このように、八つの支分を具備した田畑において、種が蒔かれたなら、大いなる果と成らず、大いなる美味と〔成ら〕ず、増殖の臥床と〔成り〕ません。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、八つの支分を具備した沙門や婆羅門たちにおいて、布施が施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。どのように、八つの支分を具備した〔沙門や婆羅門たち〕において、なのですか。比丘たちよ、ここに、沙門や婆羅門たちが、誤った見解ある者たちとして、誤った思惟ある者たちとして、誤った言葉ある者たちとして、誤った行業ある者たちとして、誤った生き方ある者たちとして、誤った努力ある者たちとして、誤った気づきある者たちとして、誤った禅定ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、八つの支分を具備した沙門や婆羅門たちにおいて、布施が施されたなら、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。

 

 比丘たちよ、八つの支分を具備した田畑において、種が蒔かれたなら、大いなる果と成り、大いなる美味と〔成り〕、増殖の臥床と〔成ります〕。どのように、八つの支分を具備した〔田畑〕において、なのですか。比丘たちよ、ここに、田畑が、かつまた、高所と低所なく有り、かつまた、石粒なく有り、かつまた、塩気なく有り、かつまた、深い地盤が有り、入水口が完備されたものとして有り、出水口が完備されたものとして有り、水路が完備されたものとして有り、境が完備されたものとして有ります。比丘たちよ、このように、八つの支分を具備した田畑において、種が蒔かれたなら、大いなる果と成り、大いなる美味と〔成り〕、増殖の臥床と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、八つの支分を具備した沙門や婆羅門たちにおいて、布施が施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。どのように、八つの支分を具備した〔沙門や婆羅門たち〕において、なのですか。比丘たちよ、ここに、沙門や婆羅門たちが、正しい見解ある者たちとして、正しい思惟ある者たちとして、正しい言葉ある者たちとして、正しい行業ある者たちとして、正しい生き方ある者たちとして、正しい努力ある者たちとして、正しい気づきある者たちとして、正しい禅定ある者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、八つの支分を具備した沙門や婆羅門たちにおいて、布施が施されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕」と

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、また、〔支分を〕成就した田畑において、成就ある種が蒔かれ、天が〔降雨を〕成就させているとき、穀物の成就が有り──

 

 疾患なき〔状態〕の成就が有り、成長の成就が有り、広大の成就が有り、まさに、果の成就が有るように──

 

 このように、諸戒を成就した者たちにおいて、成就ある食料が施されたなら、諸々の成就へと導き行く。なぜなら、彼の、その〔布施〕は、〔正しく〕為され成就したからである。

 

 それゆえに、諸々の成就を望む者は、ここに、人として、〔布施の田畑を〕成就した者となり、〔世に〕存せ。智慧を成就した者たちに慣れ親しむなら、このように、諸々の成就は実現する。

 

 明知と行ないを成就した者たちに〔慣れ親しむなら〕、心の成就を得て、行為の成就を為し、さらに、義(目的)の成就を得る。

 

 世〔の一切〕を事実のとおりに知って、見解の成就に至り得て、道の成就に至り着いて、意図を成就した者となり、〔阿羅漢の道を〕行く。

 

 一切の垢を振り落として、涅槃の成就に至り得て、一切の苦しみから解き放たれる。それは、一切の成就と成る」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 布施による再生の経

 

35. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの布施による再生です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます(未来の成就を願って施す)。彼は、あるいは、士族の大家たちが、あるいは、婆羅門の大家たちが、あるいは、家長の大家たちが、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。身体の破壊ののち、死後において、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、同類として再生します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。比丘たちよ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。

 

 (2)比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞(知識)が有ります。『四大王天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。比丘たちよ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。

 

 (3)比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『三十三天〔の神々〕たちは……略……。(4)『耶摩天〔の神々〕たちは……略……。(5)『兜率天〔の神々〕たちは……略……。(6)『化楽天〔の神々〕たちは……略……。(7)『他化自在天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。比丘たちよ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。

 

 (8)比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『梵身天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。身体の破壊ののち、死後において、梵身天〔の神々〕たちの同類として再生します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、貪欲を離れた者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──貪欲を有する者の〔再生〕ではなく。比丘たちよ、戒ある者の心の誓願は、貪欲を離れたことから実現します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの布施による再生があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 功徳行の基盤の経

 

36. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの功徳行の基盤です。どのようなものが、三つのものなのですか。布施によって作られる功徳行の基盤であり、戒によって作られる功徳行の基盤であり、修行によって作られる功徳行の基盤です。(1)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、僅かに作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、僅かに作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、薄幸の人間として再生します。

 

 (2)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、適量に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、適量に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、幸運の人間として再生します。

 

 (3)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、〔天の〕四大王(四天王)は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、四大王天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳(盛名)によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。

 

 (4)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、三十三天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。

 

 (5)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、スヤーマ天子は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、耶摩天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。

 

 (6)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、サントゥシタ天子は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、兜率天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。

 

 (7)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、スニンミタ天子は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、化楽天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって……略……諸々の天の感触によって。

 

 (8)比丘たちよ、ここに、一部の者には、布施によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、戒によって作られる功徳行の基盤が、旺盛に作り為されたものとして有り、修行によって作られる功徳行の基盤に至り行きません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、そこで、ヴァサヴァッティン天子は、布施によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、戒によって作られる功徳行の基盤を超過に作り為して、他化自在天〔の神々〕たちを、十の境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳によって、天の権威によって、諸々の天の形態によって、諸々の天の音声によって、諸々の天の臭気によって、諸々の天の味感によって、諸々の天の感触によって。比丘たちよ、まさに、これらの三つの功徳行の基盤があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 正なる人士の布施の経

 

37. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの正なる人士の布施です。どのようなものが、八つのものなのですか。清らかなものを施します。精妙なるものを施します。〔正しい〕時に施します。適確なるものを施します。弁別して施します。幾度となく施します。施しながら、心を清信させます。施して〔そののち〕、わが意を得た者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの正なる人士の布施があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「清らかなものを、精妙なるものを、〔正しい〕時に、適確なる飲み物と食料を、幾度となく、布施として施す──善き田畑たる梵行者たちにたいし。

 

 多くの財貨を施捨して、まさしく、後悔ある者として存さない。このように施された諸々の布施を、〔あるがままの〕観察者たちは褒め称える。

 

 このように、思慮ある者は、信ある者となり、解き放った心で〔祭祀を〕執り行なって、賢者として、加害〔の思い〕なき安楽の世に再生する」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 正なる人士の経

 

38. 「比丘たちよ、正なる人士が家に生まれるなら、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります──(1)母と父の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(2)子と妻の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(3)奴隷と労夫と下僕の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(4)朋友や僚友たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(5)過去の亡者たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(6)王の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(7)天神たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、(8)沙門や婆羅門たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる雨雲が、一切の作物を実らせつつ、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士が家に生まれるなら、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります──母と父の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、子と妻の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、奴隷と労夫と下僕の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、朋友や僚友たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、朋友や僚友たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、過去の亡者たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、王の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、天神たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、沙門や婆羅門たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「智慧を有する者は、家に居住しながら、まさに、多くの者たちの義(利益)のためになる。まずは、母と父を、夜に、昼に、休みなく──

 

 法(正義)を共にするものによって供養する──過去に為されたことを随念しながら。家なき出家者たちを、敬恭されるべき梵行者たちを──

 

 確たる信ある者となり、供養する──〔彼らの〕諸々の法(教え)を知って、そして、博愛なる者となる。王にとって利益ある者となり、天〔の神々〕たちにとって利益ある者となり、親族たちにとって、友人たちにとって、利益ある者となる。

 

 一切の者にとって、彼は、利益ある者と成る──正なる法(教え)において、善く確立した者として。物惜の垢を取り除いて、彼は、至福の世に親近するであろう」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 流れ行くものの経

 

39. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらのものは、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者を帰依所に赴いた者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)を帰依所に赴いた者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二のものが、功徳が流れ行くものとなり……略……等しく転起します。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団を帰依所に赴いた者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、大いなる布施とされ、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、布施です。どのようなものが、五つのものなのですか。(4)比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、命あるものを殺すことから離間した聖なる弟子は、無量なる有情たちに、恐怖なき〔平安〕を施し、怨念なき〔平安〕を施し、加害なき〔平安〕を施します。無量なる有情たちに、恐怖なき〔平安〕を施して、怨念なき〔平安〕を施して、加害なき〔平安〕を施して、無量なる、恐怖なき〔平安〕の、怨念なき〔平安〕の、加害なき〔平安〕の、分有者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の、大いなる布施とされ、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、布施があります。比丘たちよ、この第四のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(6)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(7)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。……略……。(8)穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した聖なる弟子は、無量なる有情たちに、恐怖なき〔平安〕を施し、怨念なき〔平安〕を施し、加害なき〔平安〕を施します。無量なる有情たちに、恐怖なき〔平安〕を施して、怨念なき〔平安〕を施して、加害なき〔平安〕を施して、無量なる、恐怖なき〔平安〕の、怨念なき〔平安〕の、加害なき〔平安〕の、分有者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第五の、大いなる布施とされ、至高のものとされ、経歴があり、伝統があり、過去からのものであり、汚れなきものにして、過去に汚されたことなく、〔今現在も〕汚されず、〔未来もまた〕汚されることなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されたことなき、布施があります。比丘たちよ、この第八のものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの八つのものがあり、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 悪しき行ないの報いの経

 

40. 「(1)比丘たちよ、命あるものを殺すことが、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、命あるものを殺すことの報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、短命のために等しく転起するものと成ります。

 

 (2)比丘たちよ、与えられていないものを取ることが、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、与えられていないものを取ることの報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、財物の災厄のために等しく転起するものと成ります。

 

 (3)比丘たちよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないが、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、敵の怨恨のために等しく転起するものと成ります。

 

 (4)比丘たちよ、虚偽を説くことが、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、虚偽を説くことの報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、事実ならざる誹謗のために等しく転起するものと成ります。

 

 (5)比丘たちよ、中傷の言葉が、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、中傷の言葉の報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、朋友たちとの分裂のために等しく転起するものと成ります。

 

 (6)比丘たちよ、粗暴な言葉が、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、粗暴な言葉の報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、意に適わない音声のために等しく転起するものと成ります。

 

 (7)比丘たちよ、雑駁な虚論が、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、雑駁な虚論の報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、取るべきならざる言葉のために等しく転起するものと成ります。

 

 (8)比丘たちよ、穀物酒や果実酒を飲むことが、習修され、修められ、多く為されたなら、地獄のために等しく転起するものとなり、畜生の胎のために等しく転起するものとなり、餓鬼の境域のために等しく転起するものとなります。すなわち、穀物酒や果実酒を飲むことの報いは、全てが軽やかに、人間たる生類の、狂気のために等しく転起するものと成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 布施の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの布施、そして、基盤、田畑、布施による再生、〔功徳〕行、二つの正なる人士、流れ行くもの、そして、報いがあり、〔章となる〕」と。

 

5. 斎戒の章

 

1. 簡略の斎戒の経

 

41. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、八つの支分を具備した斎戒(布薩)は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように入ったなら、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。(1)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第一の支分を具備したものと成ります。

 

 (2)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして、与えられたものを取る者たちとして、与えられたものを待つ者たちとして、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第二の支分を具備したものと成ります。

 

 (3)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、梵行ならざることを捨棄して、梵行者たちとして、遠く離れて歩む者たちとして、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第三の支分を具備したものと成ります。

 

 (4)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者たちとして、真理を説く者たちとして、真理に従う者たちとして、実直の者たちとして、頼りになる者たちとして、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって、言葉を違えない者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第四の支分を具備したものと成ります。

 

 (5)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第五の支分を具備したものと成ります。

 

 (6)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、一食の者たちとして、夜〔の食事〕を止めた者たちとして、非時に食事することから離れた者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第六の支分を具備したものと成ります。

 

 (7)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位を捨棄して、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位を捨棄して、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第七の支分を具備したものと成ります。

 

 (8)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第八の支分を具備したものと成ります。比丘たちよ、このように入った、まさに、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 詳細の斎戒の経

 

42. 「比丘たちよ、八つの支分を具備した斎戒は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように入ったなら、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。(1)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第一の支分を具備したものと成ります。……略……。

 

 (8)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第八の支分を具備したものと成ります。比丘たちよ、このように入った、まさに、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。

 

 どれだけの大いなる果と成り、どれだけの大いなる福利と〔成り〕、どれだけの大いなる光輝と〔成り〕、どれだけの大いなる充満と〔成るのですか〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、多大なる七つの宝ある(※)、これらの十六の大いなる地方の──それは、すなわち、この、アンガ〔国〕、マガダ〔国〕、カーシ〔国〕、コーサラ〔国〕、ヴァッジー〔国〕、マッラ〔国〕、チェーティ〔国〕、ヴァンガ〔国〕、クル〔国〕、パンチャーラ〔国〕、マッチャ〔国〕、スーラセーナ〔国〕、アッサカ〔国〕、アヴァンティ〔国〕、ガンダーラ〔国〕、カンボージャ〔国〕の──権力者にして君主たる王権を為すも、これは、八つの支分を具備した斎戒の、十六分の一にも値しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです。

 

※ テキストには rattaratanāya とあるが、PTS版により sattaratanāya と読む。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の五十年ですが、これは、四大王天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の五百年で、四大王天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の百年ですが、これは、三十三天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の千年で、三十三天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の二百年ですが、これは、耶摩天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の二千年で、耶摩天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の四百年ですが、これは、兜率天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の四千年で、兜率天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の八百年ですが、これは、化楽天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の八千年で、化楽天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、人間の千六百年ですが、これは、他化自在天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の一万六千年で、他化自在天〔の神々〕たちの寿命の量となります。比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生することです。比丘たちよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。そして、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫事〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜には非時の食料を食べないように。

 

 〔第七に〕花飾を〔身に〕付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕じかに大地のうえに広げた臥床で臥すように。苦しみの終極に至る覚者によって明示された、まさに、この〔法〕を、〔賢者たちは〕『八つの支分ある斎戒』と言う。

 

 そして、月は、さらに、日は、両者ともに、善き見た目にして、およそ、〔大地を〕照らしながら〔宙空を〕巡り行くかぎり、また、彼らは、闇を除去する者たちとして、空中を赴き、方々に遍照しながら、天空において光り輝く。

 

 すなわち、この間に見出される財──真珠、宝珠、さらに、美しい瑠璃、金塊、さらに、あるいは、また、黄金、すなわち、『砂金』と説かれる金──

 

 それらは、八つの支分ある斎戒の、十六分の一にすら適わない──月の光も、そして、一切の星の群れも。まさに、それゆえに、そして、女も、さらに、男も、戒ある者は、八つの支分を具した、この斎戒に入って、安楽を生成する諸々の功徳を作り為して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ヴィサーカーの経

 

43. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。「ヴィサーカーよ、八つの支分を具備した斎戒は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。ヴィサーカーよ、では、どのように入ったなら、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成るのですか〕。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。(1)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第一の支分を具備したものと成ります。……略……。

 

 (8)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第八の支分を具備したものと成ります。ヴィサーカーよ、このように入った、まさに、聖者の斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。

 

 どれだけの大いなる果と成り、どれだけの大いなる福利と〔成り〕、どれだけの大いなる光輝と〔成り〕、どれだけの大いなる充満と〔成るのですか〕。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、或る者が、多大なる七つの宝ある、これらの十六の大いなる地方の──それは、すなわち、この、アンガ〔国〕、マガダ〔国〕、カーシ〔国〕、コーサラ〔国〕、ヴァッジー〔国〕、マッラ〔国〕、チェーティ〔国〕、ヴァンガ〔国〕、クル〔国〕、パンチャーラ〔国〕、マッチャ〔国〕、スーラセーナ〔国〕、アッサカ〔国〕、アヴァンティ〔国〕、ガンダーラ〔国〕、カンボージャ〔国〕の──権力者にして君主たる王権を為すも、これは、八つの支分を具備した斎戒の、十六分の一にも値しません。それは、何を因とするのですか。ヴィサーカーよ、人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の五十年ですが、これは、四大王天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の五百年で、四大王天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の百年ですが、これは、三十三天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の千年で、三十三天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の二百年ですが……略……四百年ですが……略……八百年ですが……略……千六百年ですが、これは、他化自在天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の一万六千年で、他化自在天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。そして、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫事〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜には非時の食料を食べないように。

 

 〔第七に〕花飾を〔身に〕付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕じかに大地のうえに広げた臥床で臥すように。苦しみの終極に至る覚者によって明示された、まさに、この〔法〕を、〔賢者たちは〕『八つの支分ある斎戒』と言う。

 

 すなわち、両者ともに善き見た目の、そして、月が、さらに、日が、〔大地を〕照らしながら〔宙空を〕巡り行くかぎり、また、彼らは、闇を除去する者たちとして、空中を赴き、方々に遍照しながら、天空において光り輝く。

 

 すなわち、この間に見出される財──真珠、宝珠、さらに、美しい瑠璃、金塊、さらに、あるいは、また、黄金、すなわち、『砂金』と説かれる金──

 

 それらは、八つの支分ある斎戒の、十六分の一にすら適わない──月の光も、そして、一切の星の群れも。まさに、それゆえに、そして、女も、さらに、男も、戒ある者は、八つの支分を具した、この斎戒に入って、安楽を生成する諸々の功徳を作り為して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヴァーセッタの経

 

44. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、ヴァーセッタ在俗信者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァーセッタ在俗信者に、世尊は、こう言いました。「ヴァーセッタよ、八つの支分を具備した斎戒は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。……略……〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。

 

 このように説かれたとき、ヴァーセッタ在俗信者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしの愛しい親族や血縁たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、わたしの愛しい親族や血縁たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての士族たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての婆羅門たちが……略……庶民たちが……奴隷たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「ヴァーセッタよ、このように、このことはあります。ヴァーセッタよ、このように、このことはあります。もし、また、全ての士族たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ヴァーセッタよ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ヴァーセッタよ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ヴァーセッタよ、もし、また、これらの大いなるサーラ〔樹〕たちが、八つの支分を具備した斎戒に入るなら、これらの大いなるサーラ〔樹〕たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。人間たる生類のばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ボッジャーの経

 

45. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ボッジャー女性在俗信者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ボッジャー女性在俗信者に、世尊は、こう言いました。

 

 「ボッジャーよ、八つの支分を具備した斎戒は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。ボッジャーよ、では、どのように入ったなら、八つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成るのですか〕。ボッジャーよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。(1)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第一の支分を具備したものと成ります。……略……。

 

 (8)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と、この第八の支分を具備したものと成ります。ボッジャーよ、このように入った、まさに、聖者の斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。

 

 どれだけの大いなる果と成り、どれだけの大いなる福利と〔成り〕、どれだけの大いなる光輝と〔成り〕、どれだけの大いなる充満と〔成るのですか〕。ボッジャーよ、それは、たとえば、また、或る者が、多大なる七つの宝ある、これらの十六の大いなる地方の──それは、すなわち、この、アンガ〔国〕、マガダ〔国〕、カーシ〔国〕、コーサラ〔国〕、ヴァッジー〔国〕、マッラ〔国〕、チェーティ〔国〕、ヴァンガ〔国〕、クル〔国〕、パンチャーラ〔国〕、マッチャ〔国〕、スーラセーナ〔国〕、アッサカ〔国〕、アヴァンティ〔国〕、ガンダーラ〔国〕、カンボージャ〔国〕の──権力者にして君主たる王権を為すも、これは、八つの支分を具備した斎戒の、十六分の一にも値しません。それは、何を因とするのですか。ボッジャーよ、人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです。

 

 ボッジャーよ、すなわち、人間の五十年ですが、これは、四大王天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の五百年で、四大王天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ボッジャーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ボッジャーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ボッジャーよ、すなわち、人間の百年ですが……略……。ボッジャーよ、すなわち(※)、人間の二百年ですが……略……人間の四百年ですが……略……人間の八百年ですが……略……千六百年ですが、これは、他化自在天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の一万六千年で、他化自在天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ボッジャーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ボッジャーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』」と。

 

※ テキストには tāni とあるが、PTS版により yāni と読む。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。そして、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫事〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜には非時の食料を食べないように。

 

 〔第七に〕花飾を〔身に〕付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕じかに大地のうえに広げた臥床で臥すように。苦しみの終極に至る覚者によって明示された、まさに、この〔法〕を、〔賢者たちは〕『八つの支分ある斎戒』と言う。

 

 すなわち、両者ともに善き見た目の、そして、月が、さらに、日が、〔大地を〕照らしながら〔宙空を〕巡り行くかぎり、また、彼らは、闇を除去する者たちとして、空中を赴き、方々に遍照しながら、天空において光り輝く。

 

 すなわち、この間に見出される財──真珠、宝珠、さらに、美しい瑠璃、金塊、さらに、あるいは、また、黄金、すなわち、『砂金』と説かれる金──

 

 それらは、八つの支分ある斎戒の、十六分の一にすら適わない──月の光も、そして、一切の星の群れも。まさに、それゆえに、そして、女も、さらに、男も、戒ある者は、八つの支分を具した、この斎戒に入って、安楽を生成する諸々の功徳を作り為して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アヌルッダの経

 

46. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者アヌルッダは、昼の休息(昼住:熱暑の回避)に赴き、静坐した状態でいます。そこで、まさに、大勢の意に適う身体ある天神たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、まさに、意に適う身体ある天神たちであり、三つの境位において、権力を執行し、自在に転起させます。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、何らかの或る色艶を望むなら、そのような色艶を、即座に獲得します。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、何らかの或る音声を望むなら、そのような音声を、即座に獲得します。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、何らかの或る安楽を望むなら、そのような安楽を、即座に獲得します。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、まさに、意に適う身体ある天神たちであり、これらの三つの境位において、権力を執行し、自在に転起させます」と。

 

 そこで、まさに、尊者アヌルッダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、これらの天神たちは、まさしく、全ての者たちが、青の者たちとして存するがよい──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして」と。そこで、まさに、それらの天神たちは、尊者アヌルッダの心を了知して、まさしく、全ての者たちが、青の者たちと成りました──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして。

 

 そこで、まさに、尊者アヌルッダに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、これらの天神たちは、まさしく、全ての者たちが、黄の者たちとして存するがよい……略……まさしく、全ての者たちが、赤の者たちとして存するがよい……まさしく、全ての者たちが、白の者たちとして存するがよい──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして」と。そこで、まさに、それらの天神たちは、尊者アヌルッダの心を了知して、まさしく、全ての者たちが、白の者たちと成りました──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして。

 

 そこで、まさに、それらの天神たちは、そして、一者は歌い、かつまた、一者は舞い、さらに、一者は手拍子を取りました。それは、たとえば、また、まさに、五つの支分ある楽器が、善く教え導かれ、善く打ち叩かれ、巧みな奏者たちによって善く演じられたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、愛するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有るように、まさしく、このように、それらの外装ある天神たちの、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、愛するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有ります。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、諸々の〔感官の〕機能を制しました。

 

 そこで、まさに、それらの天神たちは、「まさに、尊貴なるアヌルッダは、〔音曲を〕愛用しない」と、まさしく、その場において、消没しました。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、昼の休息に赴き、静坐した状態でいます。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の意に適う身体ある天神たちが、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。尊き方よ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、まさに、意に適う身体ある天神たちであり、三つの境位において、権力を執行し、自在に転起させます。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、何らかの或る音声を望むなら、そのような音声を、即座に獲得します。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、何らかの或る安楽を望むなら、そのような安楽を、即座に獲得します。尊き方よ、アヌルッダよ、わたしたちは、まさに、意に適う身体ある天神たちであり、これらの三つの境位において、権力を執行し、自在に転起させます』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、これらの天神たちは、まさしく、全ての者たちが、青の者たちとして存するがよい──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして』と。尊き方よ、そこで、まさに、それらの天神たちは、わたしの心を了知して、まさしく、全ての者たちが、青の者たちと成りました──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、これらの天神たちは、まさしく、全ての者たちが、黄の者たちとして存するがよい……略……まさしく、全ての者たちが、赤の者たちとして存するがよい……まさしく、全ての者たちが、白の者たちとして存するがよい──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして』と。尊き方よ、そこで、まさに、それらの天神たちは、わたしの心を了知して、まさしく、全ての者たちが、白の者たちと成りました──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、それらの天神たちは、そして、一者は歌い、かつまた、一者は舞い、さらに、一者は手拍子を取りました。それは、たとえば、また、まさに、五つの支分ある楽器が、善く教え導かれ、善く打ち叩かれ、巧みな奏者たちによって善く演じられたなら、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、愛するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有るように、まさしく、このように、それらの外装ある天神たちの、〔その〕音声は、かつまた、貪るべきものであり、かつまた、欲するべきものであり、かつまた、愛するべきものであり、かつまた、酔うべきものであり、かつまた、麗美なるものとして有ります。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、諸々の〔感官の〕機能を制しました。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、それらの天神たちは、『まさに、尊貴なるアヌルッダは、〔音曲を〕愛用しない』と、まさしく、その場において、消没しました。尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。

 

 「アヌルッダよ、八つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)アヌルッダよ、ここに、女性が、〔彼女の〕母と父が〔娘の〕義(利益)を欲し利益を求める者たちであり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、慈しみ〔の思い〕を抱いて、その夫に、〔娘を〕与えるなら、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕有ります。

 

 (2)すなわち、それらの者たちが、夫にとって、あるいは、『母』ということで、『父』ということで、『沙門や婆羅門たち』ということで、重き者たちとして有るなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、やってきたなら、坐と水をもって歓迎します。

 

 (3)すなわち、それらのものが、夫にとって、あるいは、『羊毛』ということで、『木綿』ということで、内々の生業であるなら、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。

 

 (4)すなわち、その者が、夫にとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、内々の家人であるなら、彼らの、そして、為したことを『為したことである』と〔あるがままに〕知り、かつまた、為さなかったことを『為さなかったことである』と〔あるがままに〕知り、さらに、病者たちであるなら、活力の有無を〔あるがままに〕知り、その〔家人〕に、固形の食料を、さらに、軟らかい食料を、各々の分に応じて分け与えます。

 

 (5)すなわち、夫が、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を(※)、あるいは、金を、持ってくるなら、それを、守護し保護することで成就させ、そして、そこにおいて、質悪き者ではなく、盗み取る者ではなく、酒乱の者ではなく、散財する者ではなく、〔世に〕有ります。

 

※ PTS版により rajataṃ vā を補う。

 

 (6)また、まさに、女性在俗信者(優婆夷)として〔世に〕有ります──覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者として。

 

 (7)また、まさに、戒ある者として〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として。

 

 (8)また、まさに、施捨ある者として〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。

 

 アヌルッダよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、常に、熱情ある者として、邁進する者として、その〔妻〕を、一切時において養うなら、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕を与えてくれる男を、夫として、〔妻は〕軽んじない。

 

 さらに、また、安穏の者としてあり、夫を、嫉妬の言によって悩まさない。そして、賢者としてあり、夫にとって重き者たちである、全ての者たちを歓迎する。

 

 〔早くに〕起き、怠けず、従者たちを愛護し、夫にとって意に適うことを行ない、集積されたものを守護する。

 

 彼女が、女として、このように行持し、夫の欲と支配に従い行く者であるなら、すなわち、マナーパ(意に適うもの)という名の、それらの天〔の神々〕たちのいるところに、彼女は再生する」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二のヴィサーカーの経

 

47. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルは……略……。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。

 

 「ヴィサーカーよ、八つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)ヴィサーカーよ、ここに、女性が、〔彼女の〕母と父が〔娘の〕義(利益)を欲し利益を求める者たちであり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、慈しみ〔の思い〕を抱いて、その夫に、〔娘を〕与えるなら、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕有ります。……略……。

 

 (8)また、まさに、施捨ある者として〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。

 

 ヴィサーカーよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、常に、熱情ある者として、邁進する者として、その〔妻〕を、一切時において養うなら、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕を与えてくれる男を、夫として、〔妻は〕軽んじない。

 

 さらに、また、安穏の者としてあり、夫を、嫉妬の言によって悩まさない。そして、賢者としてあり、夫にとって重き者たちである、全ての者たちを歓迎する。

 

 〔早くに〕起き、怠けず、従者たちを愛護し、夫にとって意に適うことを行ない、集積されたものを守護する。

 

 彼女が、女として、このように行持し、夫の欲と支配に従い行く者であるなら、すなわち、マナーパ(意に適うもの)という名の、それらの天〔の神々〕たちのいるところに、彼女は再生する」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ナクラマータルの経

 

48. 或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、ナクラマータル主婦が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこへと近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、ナクラマータル主婦に、世尊は、こう言いました。

 

 「ナクラマータルよ、八つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)ナクラマータルよ、ここに、女性が、〔彼女の〕母と父が〔娘の〕義(利益)を欲し利益を求める者たちであり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、慈しみ〔の思い〕を抱いて、その夫に、〔娘を〕与えるなら、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕有ります。

 

 (2)すなわち、それらの者たちが、夫にとって、あるいは、『母』ということで、『父』ということで、『沙門や婆羅門たち』ということで、重き者たちとして有るなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、そして、やってきたなら、坐と水をもって歓迎します。

 

 (3)すなわち、それらのものが、夫にとって、あるいは、『羊毛』ということで、『木綿』ということで、内々の生業であるなら、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。

 

 (4)すなわち、その者が、夫にとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、内々の家人であるなら、彼らの、そして、為したことを『為したことである』と〔あるがままに〕知り、かつまた、為さなかったことを『為さなかったことである』と〔あるがままに〕知り、さらに、病者たちであるなら、活力の有無を〔あるがままに〕知り、その〔家人〕に、固形の食料を、さらに、軟らかい食料を、各々の分に応じて分け与えます。

 

 (5)すなわち、夫が、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、持ってくるなら、それを、守護し保護することで成就させ、そして、そこにおいて、質悪き者ではなく、盗み取る者ではなく、酒乱の者ではなく、散財する者ではなく、〔世に〕有ります。

 

 (6)また、まさに、女性在俗信者として〔世に〕有ります──覚者を帰依所に赴き、法(教え)を帰依所に赴き、僧団を帰依所に赴いた者として。

 

 (7)また、まさに、戒ある者として〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として。

 

 (8)また、まさに、施捨ある者として〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。

 

 ナクラマータルよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、常に、熱情ある者として、邁進する者として、その〔妻〕を、一切時において養うなら、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕を与えてくれる男を、夫として、〔妻は〕軽んじない。

 

 さらに、また、安穏の者としてあり、夫を、嫉妬の言によって悩まさない。そして、賢者としてあり、夫にとって重き者たちである、全ての者たちを歓迎する。

 

 〔早くに〕起き、怠けず、従者たちを愛護し、夫にとって意に適うことを行ない、集積されたものを守護する。

 

 彼女が、女として、このように行持し、夫の欲と支配に従い行く者であるなら、すなわち、マナーパ(意に適うもの)という名の、それらの天〔の神々〕たちのいるところに、彼女は再生する」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一のこの世のものの経

 

49. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。

 

 「ヴィサーカーよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、この世における勝利のために実践する者と成り、この世は、そのために勉励されたものと成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、善く差配された生業ある者と成り、従者を愛護する者と〔成り〕、夫の意に適うことを行ない、運び込まれたものを守護します。

 

 (1)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、善く差配された生業ある者と成るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、すなわち、それらが、夫にとって、あるいは、『羊毛』ということで、『木綿』ということで、内々の生業であるなら、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、善く差配された生業ある者と成ります。

 

 (2)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、従者を愛護する者と成るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、すなわち、その者が、夫にとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、内々の家人であるなら、彼らの、そして、為したことを『為したことである』と〔あるがままに〕知り、かつまた、為さなかったことを『為さなかったことである』と〔あるがままに〕知り、さらに、病者たちであるなら、活力の有無を〔あるがままに〕知り、その〔家人〕に、固形の食料を、さらに、軟らかい食料を、各々の分に応じて分け与えます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、従者を愛護する者と成ります。

 

 (3)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、夫の意に適うことを行なうのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、それが、夫の意に適わないと見なされたものであるなら、たとえ、生命を因としても、それを行作しません。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、夫の意に適うことを行ないます。

 

 (4)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、運び込まれたものを守護するのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、すなわち、夫が、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、持ってくるなら、それを、守護し保護することで成就させ、そして、そこにおいて、質悪き者ではなく、盗み取る者ではなく、酒乱の者ではなく、散財する者ではなく、〔世に〕有ります。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、運び込まれたものを守護します。ヴィサーカーよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した女性は、この世における勝利のために実践する者と成り、この世は、そのために勉励されたものと成ります。

 

 ヴィサーカーよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、他の世における勝利のために実践する者と成り、他の世は、勉励されたものと成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、信を成就した者として〔世に〕有り、戒を成就した者として〔世に〕有り、施捨を成就した者として〔世に〕有り、智慧を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (5)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、信を成就した者として〔世に〕有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、信を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (6)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (7)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、施捨を成就した者として〔世に〕有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、施捨を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (8)ヴィサーカーよ、では、どのように、女性は、智慧を成就した者として〔世に〕有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、女性が、智慧ある者として〔世に〕有ります……略……。ヴィサーカーよ、このように、まさに、女性は、智慧を成就した者として〔世に〕有ります。ヴィサーカーよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した女性は、他の世における勝利のために実践する者と成り、他の世は、勉励されたものと成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善く差配された生業ある者となり、従者を愛護する者となり、夫の意に適うことを行ない、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、その女に見出されるなら、彼女のことをもまた、戒ある者と、法(正義)に依って立つ者と、真理を説く者と、〔人々は〕言う。

 

 十六の行相を成就し、八つの支分を善く具現し、そのような戒ある者である女性在俗信者は、マナーパ〔という名〕の天の世に再生する」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二のこの世のものの経

 

50. 「比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、この世における勝利のために実践する者と成り、この世は、そのために勉励されたものと成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、善く差配された生業ある者と成り、従者を愛護する者と〔成り〕、夫の意に適うことを行ない、運び込まれたものを守護します。

 

(1)比丘たちよ、では、どのように、女性は、善く差配された生業ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、すなわち、それらが、夫にとって、あるいは、『羊毛』ということで、『木綿』ということで、内々の生業であるなら……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、善く差配された生業ある者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、女性は、従者を愛護する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、すなわち、その者が、夫にとって、あるいは、『奴隷』ということで、『召使』ということで、『労夫』ということで、内々の家人であるなら……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、従者を愛護する者と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、女性は、夫の意に適うことを行なうのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、それが、夫の意に適わないと見なされたものであるなら、たとえ、生命を因としても、それを行作しません。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、夫の意に適うことを行ないます。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、女性は、運び込まれたものを守護するのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、すなわち、夫が、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、持ってくるなら……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、運び込まれたものを守護します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した女性は、この世における勝利のために実践する者と成り、この世は、そのために勉励されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、他の世における勝利のために実践する者と成り、他の世は、勉励されたものと成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、信を成就した者として〔世に〕有り、戒を成就した者として〔世に〕有り、施捨を成就した者として〔世に〕有り、智慧を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、女性は、信を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、信ある者として〔世に〕有り……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、信を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、女性は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、女性は、施捨を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、施捨を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、女性は、智慧を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、女性が、智慧ある者として〔世に〕有ります……略……。比丘たちよ、このように、まさに、女性は、智慧を成就した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した女性は、他の世における勝利のために実践する者と成り、他の世は、勉励されたものと成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善く差配された生業ある者となり、従者を愛護する者となり、夫の意に適うことを行ない、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、その女に見出されるなら、彼女のことをもまた、戒ある者と、法(正義)に依って立つ者と、真理を説く者と、〔人々は〕言う。

 

 十六の行相を成就し、八つの支分を善く具現し、そのような戒ある者である女性在俗信者は、マナーパ〔という名〕の天の世に再生する」と。〔以上が〕第十となる。

 

 斎戒の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「簡略、詳細、ヴィサーカー、ヴァーセッタがあり、第五のものとして、ボッジャーとともに、アヌルッダ、ふたたび、ヴィサーカーがあり、ナクラ〔マータル〕、二つのこの世のものがあり、〔章となる〕」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

(6)1. ゴータミーの章

 

1. ゴータミーの経

 

51. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミー(ブッダの義母)が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得るように」と。「ゴータミーよ、十分です(必要ない)。女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することは、あなたにとって好ましからず」と。

 

 再度また、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得るように」と。「ゴータミーよ、十分です。女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することは、あなたにとって好ましからず」と。三度また、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得られますように」と。「ゴータミーよ、十分です。女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することは、あなたにとって好ましからず」と。

 

 そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、「世尊は、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを承認しない」と、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、カピラヴァットゥにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、剃髪して、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、大勢の釈迦〔族〕の女たちと共に、ヴェーサーリーのあるところに、そこへと進み行きました。順次に、ヴェーサーリーのマハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、膨らんだ〔両の〕足で、塵まみれの五体で、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、門小屋の外に立ちました。

 

 まさに、尊者アーナンダは、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、膨らんだ〔両の〕足で、塵まみれの五体で、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、門小屋の外に立っているのを見ました。見て、マハー・パジャーパティー・ゴータミーに、こう言いました。「ゴータミーよ、いったい、どうして、あなたは、膨らんだ〔両の〕足で、塵まみれの五体で、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、門小屋の外に立っているのですか」と。「尊き方よ、アーナンダよ、また、なぜなら、そのように、世尊は、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを承認しないからです」と。「ゴータミーよ、まさに、それでは、あなたは、しばらくのあいだ、すなわち、わたしが、世尊に、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを乞い求めるあいだ、それまで、まさしく、ここに、有りたまえ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者が、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、膨らんだ〔両の〕足で、塵まみれの五体で、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、門小屋の外に立っています。『世尊は、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを承認しない』と。尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得られますように」と。「アーナンダよ、十分です。女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することは、あなたにとって好ましからず」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得られますように」と。「アーナンダよ、十分です。女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することは、あなたにとって好ましからず」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊は、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを承認しない。それなら、さあ、わたしは、他の様態によってもまた、世尊に、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを乞い求めるのだ」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢果を、実証することは可能なのですか」と。「アーナンダよ、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して、預流果をもまた、一来果をもまた、不還果をもまた、阿羅漢果をもまた、実証することは可能です」と。「尊き方よ、それで、もし、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して、預流果をもまた……略……阿羅漢果をもまた、実証することが可能であるなら、尊き方よ、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊のために多く〔の利益〕を作り為す者であり、叔母として、育成者として、養育者として、授乳者として、〔世尊の〕生母が命を終えたとき、世尊に、乳を飲ませました。尊き方よ、どうか、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得られますように」と。

 

 「アーナンダよ、それで、もし、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、八つの重き法(性質)を受け容れるなら、彼女に、まさしく、その、〔出家の〕成就が有れ。

 

 (1)〔戒を〕成就して百年の比丘尼であるも、その日に〔戒を〕成就した比丘に、敬拝と奉仕と合掌の行為と和敬の行為が為されるべきです。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (2)比丘尼は、比丘なき居住所において、雨期〔の滞在〕に入るべきではありません。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (3)半月ごとに、比丘尼は、比丘の僧団から、二つの法(性質)を願い求めるべきです。そして、斎戒の問い尋ねであり、さらに、教諭のために近づいて行くことです。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (4)雨期〔の滞在〕を過ごした比丘尼は、両の僧団にたいし、三つの状況によって申し出るべきです──あるいは、見られたものによって、あるいは、聞かれたものによって、あるいは、疑いあるものによって。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (5)重き法(性質)を犯した比丘尼は、両の僧団にたいし、半月の贖罪を行なうべきです。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (6)二年のあいだ、六つの法(性質)における学びを学んだ学女は、両の僧団にたいし、〔戒の〕成就を遍く探し求めるべきです。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (7)どのような様態によってであれ、比丘尼は、比丘を罵倒し口撃するべきではありません。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 (8)今日以後、比丘尼たちの、比丘たちにたいする言葉の道は覆い被され、比丘たちの、比丘尼たちにたいする言葉の道は覆い被されずにあります。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。

 

 アーナンダよ、それで、もし、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、これらの八つの重き法(性質)を受け容れるなら、彼女に、まさしく、その、〔出家の〕成就が有れ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊の現前において、これらの八つの重き法(性質)を収め取って、マハー・パジャーパティー・ゴータミーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、マハー・パジャーパティー・ゴータミーに、こう言いました。

 

 「ゴータミーよ、それで、もし、まさに、あなたが、八つの重き法(性質)を受け容れるなら、あなたに、まさしく、その、〔出家の〕成就が有るでしょう。

 

 (1)〔戒を〕成就して百年の比丘尼であるも、その日に〔戒を〕成就した比丘に、敬拝と奉仕と合掌の行為と和敬の行為が為されるべきです。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。……略……。

 

 (8)今日以後、比丘尼たちの、比丘たちにたいする言葉の道は覆い被され、比丘たちの、比丘尼たちにたいする言葉の道は覆い被されずにあります。この法(性質)もまた、尊敬して、尊重して、思慕して、供養して、生あるかぎり、違犯するべきではありません。ゴータミーよ、それで、もし、まさに、あなたが、これらの八つの重き法(性質)を受け容れるなら、あなたに、まさしく、その、〔出家の〕成就が有るでしょう」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン)の花飾を、あるいは、アディムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置くように、尊き方よ、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの八つの重き法(性質)を受け容れます──生あるかぎり、違犯すべからざるものとして」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、マハー・パジャーパティー・ゴータミーによって、八つの重き法(性質)は受け容れられました──生あるかぎり、違犯すべからざるものとして」と。

 

 「アーナンダよ、それで、もし、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得なかったなら、アーナンダよ、梵行は、長きに止住するものと成ったのであり、正なる法(教え)は、まさしく、千年のあいだ、止住するでしょう。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、女性が、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家したことから、アーナンダよ、今や、梵行は、長きに止住するものと成らないでしょうし、アーナンダよ、今や、正なる法(教え)は、五百年のあいだだけ、止住するでしょう。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、何であれ、それらの家が、女が多く、男が少ないなら、それら〔の家〕は、押し込み強盗の盗賊たちによって砕破され易く成るように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、女性が、すなわち、法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得るなら、アーナンダよ、その梵行は、長きに止住するものと成らないでしょう。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、実った稲田において、稲穂が白くなり、まさに、病害に見舞われるなら、このように、その稲田は、長きに止住するものと成らないように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、女性が、なすなわち、法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得るなら、アーナンダよ、その梵行は、長きに止住するものと成らないでしょう。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、実った甘蔗畑において、赤(かび)が発生し、まさに、病害に見舞われるなら、このように、その甘蔗畑は、長きに止住するものと成らないように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、女性が、すなわち、法(教え)と律において、家から家なきへと出家することを得るなら、アーナンダよ、その梵行は、長きに止住するものと成らないでしょう。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる溜池のために、水が氾濫しない、まさしく、それまでのあいだに、まさしく、前もって、堤防を築くように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、まさしく、前もって、比丘尼たちのために、八つの重き法(性質)は制定されました──生あるかぎり、違犯すべからざるものとして」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 教諭の経

 

52. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した比丘が、比丘尼の教諭者として選出されるべきですか」と。

 

 「アーナンダよ、八つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、比丘尼の教諭者として選出されるべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)また、まさに、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ります。(4)善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、〔世に〕有ります──上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として。(5)比丘尼の僧団に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、〔そのような〕能力ある者として〔世に〕有ります。(6)多くのところとして、比丘尼たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。(7)また、まさに、この、世尊を指定して出家した諸々の黄褐色の衣をまとう〔女性〕のための重き法(性質)を、過去に犯したことなき者として〔世に〕有ります。(8)あるいは、〔出家してから〕二十年の者として、あるいは、〔出家してから〕二十年を超える者として、〔世に〕有ります。アーナンダよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、比丘尼の教諭者として選出されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 簡略の経

 

53. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「ゴータミーよ、まさに、あなたが、それらの法(性質)を、『これらの法(教え)は、(1)貪欲を有するもののために等しく転起する──離貪のためではなく。(2)束縛のために等しく転起する──束縛を離れるもののためではなく。(3)〔煩悩の〕集積のために等しく転起する──〔煩悩の〕滅減のためではなく。(4)大いなる欲求あることのために等しく転起する──少なき欲求たることのためではなく。(5)満ち足りていないことのために等しく転起する──満ち足りていることのためではなく。(6)社交のために等しく転起する──遠離のためではなく。(7)怠惰のために等しく転起する──精進勉励のためではなく。(8)扶養し難くある(他者の迷惑になる)ことのために等しく転起する──扶養し易くある(他者の迷惑にならない)ことのためではなく』と知るなら、ゴータミーよ、一定して保持するべきです──『これは、法(教え)ではない。これは、律ではない。これは、教師の教えではない』と。

 

 ゴータミーよ、しかしながら、まさに、あなたが、それらの法(性質)を、『これらの法(教え)は、(1)離貪のために等しく転起する──貪欲を有するもののためではなく。(2)束縛を離れるもののために等しく転起する──束縛のためではなく。(3)〔煩悩の〕滅減のために等しく転起する──〔煩悩の〕集積のためではなく。(4)少なき欲求たることのために等しく転起する──大いなる欲求あることのためではなく。(5)満ち足りていることのために等しく転起する──満ち足りていないことのためではなく。(6)遠離のために等しく転起する──社交のためではなく。(7)精進勉励のために等しく転起する──怠惰のためではなく。(8)扶養し易くあることのために等しく転起する──扶養し難くあることのためではなく』と知るなら、ゴータミーよ、一定して保持するべきです──『これは、法(教え)である。これは、律である。これは、教師の教えである』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ディーガジャーヌの経

 

54. 或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、カッカラパッタという名の町があります。そこで、まさに、コーリヤ〔族〕の子息のディーガジャーヌが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーリヤ〔族〕の子息のディーガジャーヌは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、欲望の享受者たる在家者たちである、わたしたちは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用します。尊き方よ、どうか、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちのために、すなわち、〔それらの〕法(教え)が、わたしたちにとって、所見の法(現世)の利益のために、所見の法(現世)の安楽のために、未来の利益のために、未来の安楽のために、存するべく、そのように、法(教え)を説示してください」と。

 

 「ブヤッガパッジャ(コーリヤの別名)〔族〕の者よ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、良家の子息にとって、所見の法(現世)の利益のために等しく転起し、所見の法(現世)の安楽のために〔等しく転起します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。奮起の成就であり、守護の成就であり、善き朋友あることであり、平等の生計あることです。(1)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、奮起の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、或る事業によって──もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営み、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、奮起の成就と説かれます。

 

 (2)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、守護の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息に、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物が有り、それらを、守護によって、保護によって、『どのようなわけであれ、わたしのこれらの財物を、まさしく、王たちが運び去るべきではなく、盗賊たちが運び去るべきではなく、火が焼くべきではなく、水が運ぶべきではなく、愛しからざる相続者たちが運び去るべきではない』と成就させます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、守護の成就と説かれます。

 

 (3)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、善き朋友あることなのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、すなわち、あるいは、村において、あるいは、町において、滞在し、そこにおいて、すなわち、それらの、あるいは、家長たちが、あるいは、家長の子たちが、あるいは、年少にして戒が増大した者たちであり、あるいは、年長にして戒が増大した者たちであり、信が成就した者たちであり、戒が成就した者たちであり、施捨が成就した者たちであり、智慧が成就した者たちであるなら、彼らと共に、止住し、談論し、論議に入定し、そのような形態の信が成就した者たちの信の成就に随学し、そのような形態の戒が成就した者たちの戒の成就に随学し、そのような形態の施捨が成就した者たちの施捨の成就に随学し、そのような形態の智慧が成就した者たちの智慧の成就に随学します。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、善き朋友あることと説かれます。

 

 (4)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、平等の生計あることなのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、それは、たとえば、また、あるいは、秤商が、あるいは、秤商の内弟子が、秤を掴んで、『あるいは、これだけの下向があり、あるいは、これだけの上昇がある』と知るように、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさしく、このように、まさに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、それで、もし、この良家の子息が、少なき収益の者として〔世に〕存しつつ、盛大なる生計を営むなら、彼には、『無花果を喰う者のように、この良家の子息は、諸々の財物を喰い尽くす』と説く者たちが有ります。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、また、それで、もし、この良家の子息が、大いなる収益の者として〔世に〕存しつつ、困難なる生計を営むなら、彼には、『長男なき死のように、この良家の子息は死ぬであろう』と説く者たちが有ります。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、しかしながら、すなわち、まさに、この良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営むことから、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、平等の生計あることと説かれます。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、このように生起した諸々の財物には、四つの損失の門が有ります──女に溺れることであり、酒に溺れることであり、博打に溺れることであり、悪しき朋友と悪しき道友と悪しき友人あることです。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、それは、たとえば、また、大いなる溜池に、まさしく、そして、四つの入水口があり、さらに、四つの出水口があり、人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが入水口であるなら、それらを閉め、さらに、それらが出水口であるなら、それらを開き、そして、天が正しく流雨を授けないなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさに、このように、その大いなる溜池には、増大ではなく、まさしく、遍き衰退が待っているように、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさしく、このように、まさに(※)、このように生起した諸々の財物には、四つの損失の門が有ります──女に溺れることであり、酒に溺れることであり、博打に溺れることであり、悪しき朋友と悪しき道友と悪しき友人あることです。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、このように生起した諸々の財物には、四つの収益の門が有ります──女に溺れないことであり、酒に溺れないことであり、博打に溺れないことであり、善き朋友と善き道友と善き友人あることです。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、それは、たとえば、また、大いなる溜池に、まさしく、そして、四つの入水口があり、さらに、四つの出水口があり、人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが入水口であるなら、それらを開き、さらに、それらが出水口であるなら、それらを閉め、そして、天が正しく流雨を授けるなら、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさに、このように、その大いなる溜池には、遍き衰退ではなく、まさしく、増大が待っているように、ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさしく、このように、まさに、このように生起した諸々の財物には、四つの収益の門が有ります──女に溺れないことであり、酒に溺れないことであり、博打に溺れないことであり、善き朋友と善き道友と善き友人あることです。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさに、これらの四つの法(性質)が、良家の子息にとって、所見の法(現世)の利益のために等しく転起し、所見の法(現世)の安楽のために〔等しく転起します〕。

 

 ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、良家の子息の、未来の利益のために等しく転起し、未来の安楽のために〔等しく転起します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。信の成就であり、戒の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。(5)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、信の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、信の成就と説かれます。

 

 (6)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 (7)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、施捨の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、施捨の成就と説かれます。

 

 (8)ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、では、どのようなものが、智慧の成就なのですか。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、ここに、良家の子息が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、これは、智慧の成就と説かれます。ブヤッガパッジャ〔族〕の者よ、まさに、これらの四つの法(性質)が、良家の子息の、未来の利益のために等しく転起し、未来の安楽のために〔等しく転起します〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の行為の領域において、奮起し、怠らず、配慮があり、平等に生計を営み、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、信ある家主のために、真の名ある者(ブッダ)によって告げ知らされた──〔現世と未来の〕両所において安楽をもたらすものとして。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、このように、このことはあり、在家者たちの施捨と功徳は増大する」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ウッジャヤの経

 

55. そこで、まさに、ウッジャヤ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッジャヤ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしたちは、外遊に赴くことを欲する者たちです。貴君ゴータマは、〔まさに〕その、どうか、わたしたちに、すなわち、〔それらの〕法(教え)が、わたしたちにとって、所見の法(現世)の利益のために、所見の法(現世)の安楽のために、未来の利益のために、未来の安楽のために、存するべく、そのように、法(教え)を説示してください」と。

 

 「婆羅門よ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、良家の子息にとって、所見の法(現世)の利益のために等しく転起し、所見の法(現世)の安楽のために〔等しく転起します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。奮起の成就であり、守護の成就であり、善き朋友あることであり、平等の生計あることです。(1)婆羅門よ、では、どのようなものが、奮起の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、或る事業によって──もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営み、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、これは、奮起の成就と説かれます。

 

 (2)婆羅門よ、では、どのようなものが、守護の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息に、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物が有り、それらを、守護によって、保護によって、『どのようなわけであれ、わたしのこれらの財物を、まさしく、王たちが運び去るべきではなく、盗賊たちが運び去るべきではなく、火が焼くべきではなく、水が運ぶべきではなく、愛しからざる相続者たちが運び去るべきではない』と成就させます。婆羅門よ、これは、守護の成就と説かれます。

 

 (3)婆羅門よ、では、どのようなものが、善き朋友あることなのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、すなわち、あるいは、村において、あるいは、町において、滞在し、そこにおいて、すなわち、それらの、あるいは、家長たちが、あるいは、家長の子たちが、あるいは、年少にして戒が増大した者たちであり、あるいは、年長にして戒が増大した者たちであり、信が成就した者たちであり、戒が成就した者たちであり、施捨が成就した者たちであり、智慧が成就した者たちであるなら、彼らと共に、止住し、談論し、論議に入定し、そのような形態の信が成就した者たちの信の成就に随学し、そのような形態の戒が成就した者たちの戒の成就に随学し、そのような形態の施捨が成就した者たちの施捨の成就に随学し、そのような形態の智慧が成就した者たちの智慧の成就に随学します。婆羅門よ、これは、善き朋友あることと説かれます。

 

 (4)婆羅門よ、では、どのようなものが、平等の生計あることなのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、秤商が、あるいは、秤商の内弟子が、秤を掴んで、『あるいは、これだけの下向があり、あるいは、これだけの上昇がある』と知るように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。婆羅門よ、それで、もし、この良家の子息が、少なき収益の者として〔世に〕存しつつ、盛大なる生計を営むなら、彼には、『無花果を喰う者のように、この良家の子息は、諸々の財物を喰い尽くす』と説く者たちが有ります。婆羅門よ、それで、もし、この良家の子息が、大いなる収益の者として〔世に〕存しつつ、困難なる生計を営むなら、彼には、『長男なき死のように、この良家の子息は死ぬであろう』と説く者たちが有ります。婆羅門よ、しかしながら、すなわち、まさに、この良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営むことから、婆羅門よ、これは、平等の生計あることと説かれます。

 

 婆羅門よ、このように生起した諸々の財物には、四つの損失の門が有ります──女に溺れることであり、酒に溺れることであり、博打に溺れることであり、悪しき朋友と悪しき道友と悪しき友人あることです。婆羅門よ、それは、たとえば、また、大いなる溜池に、まさしく、そして、四つの入水口があり、さらに、四つの出水口があり、人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが入水口であるなら、それらを閉め、さらに、それらが出水口であるなら、それらを開き、そして、天が正しく流雨を授けないなら、婆羅門よ、まさに、このように、その大いなる溜池には、増大ではなく、まさしく、遍き衰退が待っているように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、このように生起した諸々の財物には、四つの損失の門が有ります──女に溺れることであり、酒に溺れることであり、博打に溺れることであり、悪しき朋友と悪しき道友と悪しき友人あることです。

 

 婆羅門よ、このように生起した諸々の財物には、四つの収益の門が有ります──女に溺れないことであり、酒に溺れないことであり、博打に溺れないことであり、善き朋友と善き道友と善き友人あることです。婆羅門よ、それは、たとえば、また、大いなる溜池に、まさしく、そして、四つの入水口があり、さらに、四つの出水口があり、人が、その〔溜池〕の、まさしく、そして、それらが入水口であるなら、それらを開き、さらに、それらが出水口であるなら、それらを閉め、そして、天が正しく流雨を授けるなら、婆羅門よ、まさに、このように、その大いなる溜池には、遍き衰退ではなく、まさしく、増大が待っているように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、このように生起した諸々の財物には、四つの収益の門が有ります──女に溺れないことであり、酒に溺れないことであり、博打に溺れないことであり、善き朋友と善き道友と善き友人あることです。婆羅門よ、まさに、これらの四つの法(性質)が、良家の子息にとって、所見の法(現世)の利益のために等しく転起し、所見の法(現世)の安楽のために〔等しく転起します〕。

 

 婆羅門よ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、良家の子息の、未来の利益のために等しく転起し、未来の安楽のために〔等しく転起します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。信の成就であり、戒の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。(5)婆羅門よ、では、どのようなものが、信の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。婆羅門よ、これは、信の成就と説かれます。

 

 (6)婆羅門よ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。婆羅門よ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 (7)婆羅門よ、では、どのようなものが、施捨の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。婆羅門よ、これは、施捨の成就と説かれます。

 

 (8)婆羅門よ、では、どのようなものが、智慧の成就なのですか。婆羅門よ、ここに、良家の子息が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。婆羅門よ、これは、智慧の成就と説かれます。婆羅門よ、まさに、これらの四つの法(性質)が、良家の子息の、未来の利益のために等しく転起し、未来の安楽のために〔等しく転起します〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の行為の領域において、奮起し、怠らず、配慮があり、平等に生計を営み、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、信ある家主のために、真の名ある者(ブッダ)によって告げ知らされた──〔現世と未来の〕両所において安楽をもたらすものとして。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、このように、このことはあり、在家者たちの施捨と功徳は増大する」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 恐怖の経

 

56. 「比丘たちよ、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『苦痛』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『病』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『腫物』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『矢』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『執着』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『汚泥』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、では、何ゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての恐怖からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての恐怖からもまた完全に解き放たれないことから、それゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、では、何ゆえに、『苦痛』とは……略……『病』とは……『腫物』とは……『矢』とは……『執着』とは……『汚泥』とは、『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての胎からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての胎からもまた完全に解き放たれないことから、それゆえに、『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐怖、そして、苦痛、そして、病、腫物、そして、矢、そして、執着、汚泥、さらに、同様に、胎──そこにおいて、〔迷える〕凡夫が執着している、これらのものは、諸々の欲望〔の対象〕と呼ばれる。

 

 快なる形態によって〔心を奪われ、これらのうちに〕沈んだ者は、ふたたび、〔母の〕胎に赴く。しかしながら、すなわち、比丘が熱情ある者であり、正知が遠ざからないことから──

 

 彼は、この障害たる難所を超え行って、そのような種類の者は、生と老に近しく至り〔恐怖に〕震えおののいている人々を、〔あるがままに〕注視する」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

57. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。(4)正しい見解ある者として、正しい見を具備した者として、〔世に〕有ります。(5)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(6)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。(7)人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。(8)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

58. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(4)林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔世に〕有ります。(5)不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者と成り、生起した不満〔の思い〕を征服しては征服して〔世に〕住みます。(6)恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と成り、生起した恐怖と恐ろしさを征服しては征服して〔世に〕住みます。(7)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(8)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の人の経

 

59. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、預流たる者であり、預流果の実証のために実践する者であり、一来たる者であり、一来果の実証のために実践する者であり、不還たる者であり、不還果の実証のために実践する者であり、阿羅漢であり、阿羅漢果の実証のために実践する者です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、〔道の〕実践者たる四者(四向:預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)がいて、さらに、果における安立者たる四者(四果:預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)がいる。この僧団は、〔心が〕真っすぐと成り、智慧と戒によって〔心が〕定められている。

 

 祭祀をしている人間たちにとって、功徳を期す命あるものたちにとって、依り所ある功徳を作り為している者たちにとって、僧団において、施されたものは、大いなる果となる」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の人の経

 

60. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちよ、預流たる者であり、預流果の実証のために実践する者であり……略……阿羅漢であり、阿羅漢果の実証のために実践する者です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、〔道の〕実践者たる四者がいて、さらに、果における安立者たる四者がいる。この僧団は、高みにのぼったものとしてある──有情たちにとって、〔これらの〕八つの人たちは。

 

 祭祀をしている人間たちにとって、功徳を期す命あるものたちにとって、依り所ある功徳を作り為している者たちにとって、ここにおいて、施されたものは、大いなる果となる」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ゴータミーの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ゴータミー、教諭、簡略、そして、ディーガジャーヌ、ウッジャヤ、恐怖、そして、二つの〔供物を〕捧げられるべき者、さらに、二つの八つの人たちがあり、〔章となる〕」と。

 

(7)2. 地震の章

 

1. 欲求の経

 

61. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者とならないなら、そして、憂い悲しみある者となり、かつまた、嘆き悲しみある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (2)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕り、怠り、放逸を惹起します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者となるなら、そして、驕りある者となり、かつまた、怠りある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (3)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者とならないなら、そして、憂い悲しみある者となり、かつまた、嘆き悲しみある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (4)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕り、怠り、放逸を惹起します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者となるなら、そして、驕りある者となり、かつまた、怠りある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (5)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者とならないとして、そして、憂い悲しみある者とならず、かつまた、嘆き悲しみある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (6)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕らず、怠らず、放逸を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者となるとして、そして、驕りある者とならず、かつまた、怠りある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (7)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者とならないとして、そして、憂い悲しみある者とならず、かつまた、嘆き悲しみある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (8)比丘たちよ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕らず、怠らず、放逸を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者となるとして、そして、驕りある者とならず、かつまた、怠りある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 十分なるものの経

 

62. 「(1)比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(1─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(1─3)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(1─4)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、(1─5)かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(1─6)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。

 

 (2)比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(2─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(2─2)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(2─3)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、(2─4)かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(2─5)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。

 

 (3)比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(3─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(3─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(3─3)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(3─4)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (4)比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(4─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(4─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(4─3)しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(4─4)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として……略……〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。

 

 (5)比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(5─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(5─2)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(5─3)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (6)比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(6─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(6─2)しかしながら、善き言葉の者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(6─3)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。

 

 (7)比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、(7─1)しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(7─2)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (8)比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(8─1)しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(8─2)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 簡略の経

 

63. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「まさしく、このように、また、ここに、一部の愚人たちは、まさしく、わたしに要請します。そして、法(教え)が語られたとき、まさしく、わたしに追随するべきと思い考えます」と。「尊き方よ、世尊は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの義(意味)を了知するでしょう。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、世尊の語ったことの相続者として存するでしょう」と。「比丘よ、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『内に、わたしの心は安立し、善く確立されたものと成るであろう。そして、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)は、心を完全に奪い去って止住しないであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、内に、あなたの心が安立し、善く確立されたものと成り、そして、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が、心を完全に奪い去って止住しないことから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。(1)『わたしの、慈愛という〔止寂の〕心による解脱は、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。(2)『わたしの、慈悲という〔止寂の〕心による解脱は……。(3)『わたしの、歓喜という〔止寂の〕心による解脱は……。(4)『わたしの、放捨という〔止寂の〕心による解脱は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るであろう』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。(5)『身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むであろう──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、このように、あなたは学ぶべきです。(6)『諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むであろう──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。……。(7)『心における心の随観ある者として〔世に〕住むであろう──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。……。(8)『諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むであろう──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、この禅定を、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有するものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみのものとしてもまた修めるべきであり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なきものとしてもまた修めるべきであり、喜悦を有するものとしてもまた修めるべきであり、喜悦なくあるものとしてもまた修めるべきであり、快楽を共具したものとしてもまた修めるべきであり、放捨を共具したものとしてもまた修めるべきです。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたの、この禅定が、このように、修められ、多く為されたものと成ることから、比丘よ、そののち、あなたは、まさしく、そのところ、そのところに赴くなら、まさしく、平穏に赴きますし(※)、その場その場において立つなら、まさしく、平穏に立つでしょうし、その場その場において坐るなら、まさしく、平穏に坐るでしょうし、その場その場において臥所を営むなら、まさしく、平穏に臥所を営むでしょう」と。

 

※ テキストには yena yeneva gagghasi phāsuṃyeva gagghasi とあるが、PTS版により yena yeneva gacchasi phāsuṃyeva gacchasi と読む。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊によって、この教諭によって教え諭され、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. ガヤーシーサの経

 

64. 或る時のことです。世尊は、ガヤーに住んでおられます。ガヤーシーサ〔の大岩〕において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。……略……。「(1)比丘たちよ、正覚より、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしは、まさしく、光を、まさに、表象するも、しかしながら、諸々の形態を見ることがありません。

 

 (2)比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態を見るなら、このように、わたしの、この知見は、より清浄なるものとして存するであろう』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態を見るも、しかしながら、まさに、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定することがありません。

 

 (3)比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、さらに、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定するなら、このように、わたしの、この知見は、より清浄なるものとして存するであろう』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、さらに、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定するも、しかしながら、まさに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、あるいは、何某からの、あるいは、何某からの、天の衆である』と知ることがありません。

 

 (4)比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、かつまた、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定し、さらに、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちは、あるいは、何某からの、あるいは、何某からの、天の衆である」と知るなら、このように、わたしの、この知見は、より清浄なるものとして存するであろう』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、かつまた、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定し、さらに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、あるいは、何某からの、あるいは、何某からの、天の衆である』と知るも、しかしながら、まさに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、ここから死滅し、そこにおいて再生したのだ』と知ることがありません。……略……(5)さらに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、ここから死滅し、そこにおいて再生したのだ』と知るも、しかしながら、まさに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような食の者たちとなり、このような楽と苦の得知ある者たちとなる』と知ることがありません。……略……(6)さらに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような食の者たちとなり、このような楽と苦の得知ある者たちとなる』と知るも、しかしながら、まさに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような長寿の者たちとなり、このような長きに止住する者たちとなる』と知ることがありません。……略……(7)さらに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような長寿の者たちとなり、このような長きに止住する者たちとなる』と知るも、しかしながら、まさに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちと共に、わたしが、あるいは、もしくは、過去に共住したのか、あるいは、もしくは、過去に共住しなかったのか』と知ることがありません。

 

 (8)比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、かつまた、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定し、かつまた、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちは、あるいは、何某からの、あるいは、何某からの、天の衆である」と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちは、この行為の報いによって、ここから死滅し、そこにおいて再生したのだ」と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような食の者たちとなり、このような楽と苦の得知ある者たちとなる」と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような長寿の者たちとなり、このような長きに止住する者たちとなる」と知り、さらに、それらの天神たちのことを、「これらの天神たちと共に、わたしが、あるいは、もしくは、過去に共住したのか、あるいは、もしくは、過去に共住しなかったのか」と知るなら、このように、わたしの、この知見は、より清浄なるものとして存するであろう』と。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、まさしく、そして、まさしく、そして、光を表象し、かつまた、諸々の形態を見、かつまた、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定し、かつまた、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、あるいは、何某からの、あるいは、何某からの、天の衆である』と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、ここから死滅し、そこにおいて再生したのだ』と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような食の者たちとなり、このような楽と苦の得知ある者たちとなる』と知り、かつまた、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちは、この行為の報いによって、このような長寿の者たちとなり、このような長きに止住する者たちとなる』と知り、さらに、それらの天神たちのことを、『これらの天神たちと共に、わたしが、あるいは、もしくは、過去に共住したのか、あるいは、もしくは、過去に共住しなかったのか』と知ります。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、このように、わたしに、八つの局面ある卓越の天の知見が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、八つの局面ある卓越の天の知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 征服ある〔認識の〕場所の経

 

65. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの征服ある〔認識の〕場所(勝処)です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。

 

 (8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの征服ある〔認識の〕場所があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 解脱の経

 

66. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの解脱です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。

 

 (2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。

 

 (3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。

 

 (4)全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。

 

 (5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。

 

 (6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。

 

 (7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。

 

 (8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの解脱があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 聖ならざる語用の経

 

67. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの聖ならざる語用ある者たちです。どのようなものが、八つのものなのですか。見られていないものについて見られたものと説く者であり、聞かれていないものについて聞かれたものと説く者であり、思われていないものについて思われたものと説く者であり、識()られていないものについて識られたものと説く者であり、見られたものについて見られていないものと説く者であり、聞かれたものについて聞かれていないものと説く者であり、思われたものについて思われていないものと説く者であり、識られたものについて識られていないものと説く者です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの聖ならざる語用ある者たちがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 聖なる語用の経

 

68. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの聖なる語用ある者たちです。どのようなものが、八つのものなのですか。見られていないものについて見られていないものと説く者であり、聞かれていないものについて聞かれていないものと説く者であり、思われていないものについて思われていないものと説く者であり、識られていないものについて識られていないものと説く者であり、見られたものについて見られたものと説く者であり、聞かれたものについて聞かれたものと説く者であり、思われたものについて思われたものと説く者であり、識られたものについて識られたものと説く者です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの聖なる語用ある者たちがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 衆の経

 

69. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、八つのものなのですか。士族の衆であり、婆羅門の衆であり、家長の衆であり、沙門の衆であり、四大王〔天〕の衆であり、三十三〔天〕の衆であり、悪魔の衆であり、梵〔天〕の衆です。(1)比丘たちよ、また、まさに、わたしは証知します(記憶している)──幾百の士族の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしは、まさしく、そして、着坐した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去があります。そこにおいて、すなわち、彼らの色が有るように、そのようなものとして、わたしの色は有り、すなわち、彼らの声が有るように、そのようなものとして、わたしの声は有ります。そして、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。しかしながら、〔教えを〕語っているわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──〔教えを〕語る、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔わたしは〕消没します。しかしながら、消没したわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──消没した、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。

 

 (2)比丘たちよ、また、まさに、わたしは証知します──幾百の婆羅門の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。……略……(3)家長の衆を……(4)沙門の衆を……(5)四大王〔天〕の衆を……(6)三十三〔天〕の衆を……(7)悪魔の衆を……(8)梵〔天〕の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしは、まさしく、そして、着坐した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去があります。そこにおいて、すなわち、彼らの色が有るように、そのようなものとして、わたしの色は有り、すなわち、彼らの声が有るように、そのようなものとして、わたしの声は有ります。そして、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。しかしながら、〔教えを〕語っているわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──〔教えを〕語る、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、〔わたしは〕消没します。しかしながら、消没したわたしのことを、〔彼らは〕知りません。『いったい、まさに、誰なのだ──消没した、この者は、あるいは、天〔の神〕なのか、あるいは、人間なのか』と。比丘たちよ、まさに、これらの八つの衆があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 地震の経

 

70. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。

 

 そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタカ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。

 

 再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、ヴェーサーリーは喜ばしいところです。ウデーナ塔廟は喜ばしいところです。ゴータマカ塔廟は喜ばしいところです。サッタンバ塔廟は喜ばしいところです。バフプッタカ塔廟は喜ばしいところです。サーランダダ塔廟は喜ばしいところです。チャーパーラ塔廟は喜ばしいところです。アーナンダよ、誰であれ、彼の、四つの神通の足場が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、彼は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます。アーナンダよ、まさに、如来の、四つの神通の足場は、修められ……略……。アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、あるいは、命数のあいだ、あるいは、命数と残余のあいだ、〔世に〕止住できます」と。たとえ、このように、まさに、尊者アーナンダは、世尊によって、大まかな示相が為されながらも、大まかな暗示が為されながらも、〔それを〕理解することができませんでした。世尊に乞い求めることをしませんでした。「尊き方よ、世尊は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。善き至達者たる方は、命数のあいだ、〔世に〕止住してください。多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために」と。あたかも、それは、悪魔によって、心が完全に包囲されていたかのように。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、あなたは去りなさい。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊から遠く離れていないところの、或るどこかの木の根元において坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、(※)世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、悪魔パーピマントは、(※)世尊に、こう言いました。

 

※ 「世尊のおられるところに、」から「悪魔パーピマントは、」までの欠落を、PTS版により補う。

 

 「尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、まさに、今現在、世尊の弟子である比丘たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。

 

 尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの弟子である比丘尼たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である在俗信者たちが……略……。すなわち、わたしの弟子である女性在俗信者たちが、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示し、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、まさに、今現在、世尊の弟子である女性在俗信者たちは、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た、多聞の者たちとなり、法(教え)を保つ者たちとなり、法(教え)を法(教え)のままに実践する者たちとなり、適正に実践する者たちとなり、法(教え)のままに行なう者たちとなり、自らの師匠伝来のものを〔正しく〕収め取って、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示します。

 

 尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です。尊き方よ、また、まさに、この言葉は、世尊によって語られました。『パーピマントよ、それまで、わたしは、完全なる涅槃に到達することはないでしょう。すなわち、わたしの、この梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成り、〔世に〕有ることにならないかぎりは』と。尊き方よ、今現在、世尊の梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。

 

 尊き方よ、今や、世尊は、完全なる涅槃に到達してください。善き至達者たる方は、完全なる涅槃に到達してください。尊き方よ、今や、世尊にとって、完全なる涅槃に到達する時です」と。「パーピマントよ、あなたは、思い入れ少なき者と成れ(心配はいりません)。長からずして、如来には、完全なる涅槃が有るでしょう。これから、三月が経過して、如来は、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、チャーパーラ塔廟において、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働き()を放棄しました。そして、世尊によって、寿命を形成する働きが放棄されたとき、禍々しく身の毛のよだつ大いなる地震が有り、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「比べられるものを、さらに、比べられないものを、〔何であれ、自己から〕発生するものを、〔迷いの〕生存を形成する働きを、牟尼は放棄した。内に喜び、〔心が〕定められた者は、鎧を〔壊し去る〕ように、自己から発生するものを破壊した」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、大いなる地震である。まさに、これは、禍々しく身の毛のよだちを有する、極めて大いなる地震であり、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂した。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、大いなる地震の出現があるのか」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、これは、大いなる地震です。尊き方よ、まさに、これは、禍々しく身の毛のよだちを有する、極めて大いなる地震であり、さらに、諸々の天の雷鼓が炸裂しました。尊き方よ、いったい、まさに、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、大いなる地震の出現があるのですか」と。

 

 「アーナンダよ、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、大いなる地震の出現があります。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)アーナンダよ、この大いなる地は、水において確立し、水は、風において確立し、風は、虚空に依っています。アーナンダよ、その時と成り、すなわち、諸々の大いなる風が吹きます。諸々の大いなる風が吹きつつ、水を動かし、動かされた水が、地を動かします。アーナンダよ、この、第一のものを因として、第一のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (2)アーナンダよ、さらに、また、他に、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門がいます──あるいは、大いなる神通があり、大いなる威力がある、天神が。彼には、微小なる地の表象と無量なる水の表象が、修めるところとして有ります。彼は、この地を、動かし、揺れ動かし、等しく揺れ動かし、等しく動揺させます。アーナンダよ、この、第二のものを因として、第二のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (3)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入るとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第三のものを因として、第三のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (4)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、菩薩が、気づきと正知の者として、母の子宮から出るとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第四のものを因として、第四のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (5)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、無上なる正等覚を現正覚するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第五のものを因として、第五のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (6)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、無上なる法(真理)の輪を転起させるとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第六のものを因として、第六のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (7)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、気づきと正知の者となり、寿命を形成する働きを放棄するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第七のものを因として、第七のものを縁として、大いなる地震の出現があります。

 

 (8)アーナンダよ、さらに、また、他に、すなわち、如来が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するとき、そのとき、この地は、動き、揺れ動き、等しく揺れ動き、等しく動揺します。アーナンダよ、この、第八のものを因として、第八のものを縁として、大いなる地震の出現があります。アーナンダよ、まさに、これらの、八つのものを因として、八つのものを縁として、大いなる地震の出現があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 地震の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「欲求、そして、十分なるもの、簡略、ガヤーがあり、征服と共に、解脱、そして、二つの語用、衆があり、地震とともに、〔章となる〕」と。

 

(8)3. 対なるものの章

 

1. 第一の信の経

 

71. 「(1)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、多聞の者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、多聞の者として、〔世に〕存するべきである』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、多聞の者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、多聞の者として、〔世に〕有ります──しかしながら、法(教え)の講話者ではありません。……略……(4)さらに、法(教え)の講話者として、〔世に〕有ります──しかしながら、衆を行境とする者ではありません。……略……(5)さらに、衆を行境とする者として、〔世に〕有ります──しかしながら、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示しません。……略……(6)さらに、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示します──しかしながら、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有りません。……略……(7)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります──しかしながら、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕存するべきであり、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示するべきであり、かつまた、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕存するべきであり、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むべきである』と。

 

 (8)比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕有り、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示し、かつまた、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、そして、遍きにわたり清信ある者として、さらに、一切の行相の円満成就ある者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の信の経

 

72. 「(1)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、多聞の者ではありません。……略……(3)さらに、多聞の者として、〔世に〕有ります──しかしながら、法(教え)の講話者ではありません。……略……(4)さらに、法(教え)の講話者として、〔世に〕有ります──しかしながら、衆を行境とする者ではありません。……略……(5)さらに、衆を行境とする者として、〔世に〕有ります──しかしながら、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示しません。……略……(6)さらに、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示します。しかしながら、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です。……略……(7)それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みます──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です──しかしながら、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕存するべきであり、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示するべきであり、かつまた、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住むべきであり──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱である──さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むべきである』と。

 

 (8)比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、多聞の者として、かつまた、法(教え)の講話者として、かつまた、衆を行境とする者として、〔世に〕有り、かつまた、〔道の〕熟達者として、衆に、法(教え)を説示し、かつまた、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住み──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です──さらに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備した比丘は、そして、遍きにわたり清信ある者として、さらに、一切の行相の円満成就ある者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の死についての気づきの経

 

73. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、死についての気づき(死念)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、あなたたちは、死についての気づきを修めなさい」と。

 

 このように説かれたとき、(1)或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、夜と昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (2)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (3)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、半分の昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (4)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一つの〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (5)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕半分の〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (6)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕四〔口〕五口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (7)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (8)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、あるいは、〔わたしが〕出息して入息し、あるいは、〔わたしが〕入息して出息する、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、それらの比丘たちに、こう言いました。「(1)比丘たちよ、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、夜と昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(2)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(3)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、半分の昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(4)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一つの〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(5)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕半分の〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(6)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕四〔口〕五口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠る者たちとして〔世に〕住み、遅鈍なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます。

 

 (7)比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。(8)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、あるいは、〔わたしが〕出息して入息し、あるいは、〔わたしが〕入息して出息する、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住み、鋭敏なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住み、鋭敏なる死についての気づきを修めるのだ──諸々の煩悩の滅尽のために』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の死についての気づきの経

 

74. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。……略……。「比丘たちよ、死についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、死についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、昼が過ぎ、夜が来たとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしには、多くの死の縁がある。(1)あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。(2)あるいは、〔わたし自身が〕躓(つまず)いて落ちるであろうし、(3)あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、(4)あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、(5)あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、(6)あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風(体調不良を引き起こす体中の風)が動乱するであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。(7)あるいは、人間たちがわたしに襲い掛かるであろうし、(8)あるいは、人間ならざる者たちがわたしに襲い掛かるであろうし、それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在するのだろうか──すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在する。すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在しない。すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、夜が過ぎ、昼が来たとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしには、多くの死の縁がある。(1)あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。(2)あるいは、〔わたし自身が〕躓いて落ちるであろうし、(3)あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、(4)あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、(5)あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、(6)あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風が動乱するであろうし、(7)あるいは、人間たちがわたしに襲い掛かるであろうし、(8)あるいは、人間ならざる者たちがわたしに襲い掛かるであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在するのだろうか──すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在する。すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在しない。すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。比丘たちよ、このように、まさに、死についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の成就の経

 

75. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、八つのものなのですか。奮起の成就であり、守護の成就であり、善き朋友あることであり、平等の生計あることであり、信の成就であり、戒の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの成就があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の行為の領域において、奮起し、怠らず、配慮があり、平等に生計を営み、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、信ある家主のために、真の名ある者(ブッダ)によって告げ知らされた──〔現世と未来の〕両所において安楽をもたらすものとして。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、このように、このことはあり、在家者たちの施捨と功徳は増大する」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の成就の経

 

76. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、八つのものなのですか。奮起の成就であり、守護の成就であり、善き朋友あることであり、平等の生計あることであり、信の成就であり、戒の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。(1)比丘たちよ、では、どのようなものが、奮起の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、或る事業によって──もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営み、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、奮起の成就と説かれます。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのようなものが、守護の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息に、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物が有り、それらを、守護によって、保護によって、『どのようなわけであれ、わたしのこれらの財物を、まさしく、王たちが運び去るべきではなく、盗賊たちが運び去るべきではなく、火が焼くべきではなく、水が運ぶべきではなく、愛しからざる相続者たちが運び去るべきではない』と成就させます。比丘たちよ、これは、守護の成就と説かれます。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのようなものが、善き朋友あることなのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、すなわち、あるいは、村において、あるいは、町において、滞在し、そこにおいて、すなわち、それらの、あるいは、家長たちが、あるいは、家長の子たちが、あるいは、年少にして戒が増大した者たちであり、あるいは、年長にして戒が増大した者たちであり、信が成就した者たちであり、戒が成就した者たちであり、施捨が成就した者たちであり、智慧が成就した者たちであるなら、彼らと共に、止住し、談論し、論議に入定し、そのような形態の信が成就した者たちの信の成就に随学し、そのような形態の戒が成就した者たちの戒の成就に随学し、そのような形態の施捨が成就した者たちの施捨の成就に随学し、そのような形態の智慧が成就した者たちの智慧の成就に随学します。比丘たちよ、これは、善き朋友あることと説かれます。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのようなものが、平等の生計あることなのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、秤商が、あるいは、秤商の内弟子が、秤を掴んで、『あるいは、これだけの下向があり、あるいは、これだけの上昇がある』と知るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営みます。比丘たちよ、それで、もし、この良家の子息が、少なき収益の者として〔世に〕存しつつ、盛大なる生計を営むなら、彼には、『無花果を喰う者のように、この良家の子息は、諸々の財物を喰い尽くす』と説く者たちが有ります。比丘たちよ、それで、もし、この良家の子息が、大いなる収益の者として〔世に〕存しつつ、困難なる生計を営むなら、彼には、『長男なき死のように、この良家の子息は死ぬであろう』と説く者たちが有ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この良家の子息が、そして、諸々の財物の収益を知って、さらに、諸々の財物の欠損を知って、『このように、わたしの収益は、欠損を完全に取り払って止住するであろうし、かつまた、わたしの欠損は、収益を完全に取り払って止住しないであろう』と、贅沢過ぎず、下劣過ぎず、平等の生計を営むことから、比丘たちよ、これは、平等の生計あることと説かれます。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのようなものが、信の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の成就と説かれます。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのようなものが、施捨の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。比丘たちよ、これは、施捨の成就と説かれます。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の成就と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの成就があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の行為の領域において、奮起し、怠らず、配慮があり、平等に生計を営み、運び込まれたものを守護する。

 

 信ある者となり、戒を成就した者となり、寛容で物惜〔の思い〕を離れた者となり、未来の安穏となる道を常に清める。

 

 そして、かくのごとく、これらの八つの法(性質)が、信ある家主のために、真の名ある者(ブッダ)によって告げ知らされた──〔現世と未来の〕両所において安楽をもたらすものとして。

 

 所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、このように、このことはあり、在家者たちの施捨と功徳は増大する」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 欲求の経

 

77. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、八つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)友よ、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者とならないなら、そして、憂い悲しみある者となり、かつまた、嘆き悲しみある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (2)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕り、怠り、放逸を惹起します。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者となるなら、そして、驕りある者となり、かつまた、怠りある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (3)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者とならないなら、そして、憂い悲しみある者となり、かつまた、嘆き悲しみある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (4)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕り、怠り、放逸を惹起します。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者となるなら、そして、驕りある者となり、かつまた、怠りある者となり、さらに、正なる法(教え)から死滅した者となる』〔と〕説かれます。

 

 (5)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者とならないとして、そして、憂い悲しみある者とならず、かつまた、嘆き悲しみある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (6)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起し、勤労し、努力します。彼が、利得のために、奮起し、勤労し、努力していると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕らず、怠らず、放逸を惹起しません。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起し、勤労し、努力し、かつまた、利得ある者となるとして、そして、驕りある者とならず、かつまた、怠りある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (7)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起しません。彼は、その利得なきによって、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者とならないとして、そして、憂い悲しみある者とならず、かつまた、嘆き悲しみある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。

 

 (8)友よ、また、ここに、比丘が、遠離の者として、依止なき生活者として、〔世に〕住んでいると、利得のために、欲求が生起します。彼は、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力しません。彼が、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せずにいると、利得が生起します。彼は、その利得によって、驕らず、怠らず、放逸を惹起しません。友よ、この者は、『比丘として、欲求ある者であり、利得のために〔世に〕住み、利得のために、奮起せず、勤労せず、努力せず、かつまた、利得ある者となるとして、そして、驕りある者とならず、かつまた、怠りある者とならず、さらに、正なる法(教え)から死滅しない者となる』〔と〕説かれます。友よ、まさに、これらの八つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 十分なるものの経

 

78. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「(1)友よ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。友よ、ここに、比丘が、(1─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(1─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(1─3)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(1─4)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、(1─5)かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(1─6)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。

 

 (2)友よ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。友よ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(2─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(2─2)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(2─3)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、(2─4)かつまた、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(2─5)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがあります。

 

 (3)友よ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、(3─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(3─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(3─3)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(3─4)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (4)友よ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、(4─1)かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有り、(4─2)かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(4─3)しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(4─4)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として……略……〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。

 

 (5)友よ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(5─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、(5─2)かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(5─3)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。友よ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (6)友よ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、(6─1)しかしながら、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有り、しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(6─2)しかしながら、善き言葉の者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(6─3)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。

 

 (7)友よ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、(7─1)しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有り、(7─2)かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有り、しかしながら、善き言葉の者として……略……義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ることなく、かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有りません。友よ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、自己にとって十分なるものがあり、他者たちにとって十分なるものがありません。

 

 (8)友よ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません。友よ、ここに、比丘が、そして、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者として〔世に〕有ることが、まさしく、まさに、なく、かつまた、諸々の所聞の法(教え)を保持する類の者として〔世に〕有ることなく、かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する者として〔世に〕有ることなく、かつまた、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることなく、(8─1)しかしながら、善き言葉の者として、善き言葉遣いの者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有り、(8─2)かつまた、梵行を共にする者たちにとって、〔教えを〕見示する者として、受持させる者として、激励する者として、感動させる者として、〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、他者たちにとって十分なるものがあり、自己とって十分なるものがありません」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 遍き衰退の経

 

79. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことであり、交流を喜びとすることであり、虚構を喜びとすることです。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、食において量を知ることであり、交流なきを喜びとすることであり、虚構なきものを喜びとすることです。比丘たちよ、まさに、これらの八つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 怠惰と勉励の基盤の経

 

80. 「比丘たちよ、八つのものがあります。これらの怠惰の基盤です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、第一の怠惰の基盤です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、第二の怠惰の基盤です。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、第三の怠惰の基盤です。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、第四の怠惰の基盤です。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は疲弊するところとなり、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。比丘たちよ、これは、第五の怠惰の基盤です。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は重く、行為に適するものならず。思うに、濡れた豆のようなもの。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。比丘たちよ、これは、第六の怠惰の基盤です。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したものとして存在する。適確なるは横になること。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。比丘たちよ、これは、第七の怠惰の基盤です。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。〔まさに〕その、わたしの、身体は力弱く、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、これは、第八の怠惰の基盤です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの怠惰の基盤があります。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。これらの勉励の基盤です。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが(※)作業を為しているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、これは、第一の勉励の基盤です。

 

※ テキストには kho mayā とあるが、PTS版により kho pana me と読む。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしは作業を為しつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、これは、第二の勉励の基盤です。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、まさしく、前もって(※)、精進に励むのだ……略……。比丘たちよ、これは、第三の勉励の基盤です。

 

※ PTS版により paṭikacceva を補う。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしは道を赴きつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。比丘たちよ、これは、第四の勉励の基盤です。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は軽く、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。比丘たちよ、これは、第五の勉励の基盤です。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は力があり、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。比丘たちよ、これは、第六の勉励の基盤です。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したのだ。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕増大するであろうことは。さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ……略……。比丘たちよ、これは、第七の勉励の基盤です。

 

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕回復するであろうことは。さあ、わたしは、さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、これは、第八の勉励の基盤です。比丘たちよ、まさに、これらの八つの勉励の基盤があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 対なるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの信、二つの死についての気づき、さらに、他に、二つの成就、欲求、十分なるもの、遍き衰退があり、怠惰と勉励の基盤とともに、〔章となる〕」と。

 

(9)4. 気づきの章

 

1. 気づきと正知の経

 

81. 「比丘たちよ、(1)気づきと正知が存していないとき、気づきと正知が衰滅した者にとって、(2)恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めは、機縁を欠くものと成ります。恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存していないとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが衰滅した者にとって、(3)〔感官の〕機能における統御は、機縁を欠くものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、(4)戒は、機縁を欠くものと成ります。戒が存していないとき、戒が衰滅した者にとって、(5)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(6)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(7)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(8)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……略……軟材もまた……略……硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、気づきと正知が存していないとき、気づきと正知が衰滅した者にとって、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めは、機縁を欠くものと成ります。恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存していないとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが衰滅した者にとって、〔感官の〕機能における統御は、機縁を欠くものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、戒は、機縁を欠くものと成ります。戒が存していないとき、戒が衰滅した者にとって、正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)気づきと正知が存しているとき、気づきと正知が成就した者にとって、(2)恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めは、機縁が成就したものと成ります。恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存しているとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが成就した者にとって、(3)〔感官の〕機能における統御は、機縁が成就したものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存しているとき、〔感官の〕機能における統御が成就した者にとって、(4)戒は、機縁が成就したものと成ります。戒が存しているとき、戒が成就した者にとって、(5)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(6)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(7)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(8)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた……略……軟材もまた……略……硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、気づきと正知が存しているとき、気づきと正知が成就した者にとって、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めは、機縁が成就したものと成ります。恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが存しているとき、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが成就した者にとって、〔感官の〕機能における統御は、機縁が成就したものと成ります。〔感官の〕機能における統御が存しているとき、〔感官の〕機能における統御が成就した者にとって、戒は、機縁が成就したものと成ります。戒が存しているとき、戒が成就した者にとって、正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. プンニヤの経

 

82. そこで、まさに、尊者プンニヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者プンニヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にはまた、如来に、法(教え)の説示が明白となり、或る時にはまた、明白とならないのですか」と。「(1)プンニヤよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、近づいて行く者ではありません。それまでのあいだ(※)、如来に、法(教え)の説示が明白となることは、まさしく、ありません。プンニヤよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、近づいて行く者として、〔世に〕有ることから、このように、如来に、法(教え)の説示が明白となります。(2)プンニヤよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、近づいて行く者として、〔世に〕有ります──しかしながら、奉侍する者ではありません。……略……(3)さらに、奉侍する者として、〔世に〕有ります──しかしながら、遍問する者ではありません。……略……(4)さらに、遍問する者として、〔世に〕有ります──しかしながら、耳を傾ける者として、法(教え)聞きません。……略……(5)さらに、耳を傾ける者として、法(教え)聞きます──しかしながら、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しません。……略……(6)さらに、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します──しかしながら、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しません。……略……(7)さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します──しかしながら、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有りません。それまでのあいだ、如来に、法(教え)の説示が明白となることは、まさしく、ありません。

 

※ PTS版により tāva を補う。

 

 (8)プンニヤよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、近づいて行く者として、かつまた、奉侍する者として、かつまた、遍問する者として、〔世に〕有り、かつまた、耳を傾ける者として、法(教え)聞き、かつまた、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、かつまた、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、さらに、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として〔世に〕有ることから、このように、如来に、法(教え)の説示が明白となります。プンニヤよ、まさに、これらの八つの法(性質)を具備したなら、絶対的に明白なるものとして、如来に、法(教え)の説示が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 根元とするものの経

 

83. 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、(1)一切の法(事象)は、何を根元とし、(2)一切の法(事象)は、何を発生とし、(3)一切の法(事象)は、何を集起とし、(4)一切の法(事象)は、何に集結し、(5)一切の法(事象)は、何を筆頭とし、(6)一切の法(事象)は、何を優位とし、(7)一切の法(事象)は、何をより上とし、(8)一切の法(事象)は、何を真髄とするのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、一切の法(事象)は、何を根元とし、一切の法(事象)は、何を発生とし、一切の法(事象)は、何を集起とし、一切の法(事象)は、何に集結し、一切の法(事象)は、何を筆頭とし、一切の法(事象)は、何を優位とし、一切の法(事象)は、何をより上とし、一切の法(事象)は、何を真髄とするのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、一切の法(事象)は、欲〔の思い〕を根元とし、一切の法(事象)は、意を為すことを発生とし、一切の法(事象)は、接触を集起とし、一切の法(事象)は、感受に集結し、一切の法(事象)は、禅定を筆頭とし、一切の法(事象)は、気づきを優位とし、一切の法(事象)は、智慧をより上とし、一切の法(事象)は、解脱を真髄とします』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 盗賊の経

 

84. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した大盗賊は、すみやかに進退きわまり、長きに止住する者と成りません。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)打たない者を打ちます。(2)残りなく取ります。(3)女を殺します。(4)少女を汚します。(5)出家者から強奪します。(6)王の蔵から強奪します。(7)近所において行為を為します。(8)さらに、貯蔵に巧みな智ある者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した大盗賊は、すみやかに進退きわまり、長きに止住する者と成りません。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した大盗賊は、すみやかに進退きわまることなく、長きに止住する者と成ります。どのようなものが、八つのものなのですか。(1)打たない者を打ちません。(2)残りなく取りません。(3)女を殺しません。(4)少女を汚しません。(5)出家者から強奪しません。(6)王の蔵から強奪しません。(7)近所において行為を為しません。(8)さらに、貯蔵に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した大盗賊は、すみやかに進退きわまることなく、長きに止住する者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 沙門の経

 

85. 「(1)比丘たちよ、『沙門』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(2)比丘たちよ、『婆羅門』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(3)比丘たちよ、『〔真の〕知に至る者』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(4)比丘たちよ、『医師』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(5)比丘たちよ、『無垢の者』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(6)比丘たちよ、『離垢の者』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(7)比丘たちよ、『知恵ある者』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。(8)比丘たちよ、『解脱者』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「それが、沙門によって、〔梵行の〕完成者たる婆羅門によって、至り得られるべきものであるなら──それが、〔真の〕知に至る者によって、医師によって、至り得られるべきものであるなら──〔それは〕無上なるものである。

 

 それが、無垢の者によって、清き者たる離垢の者によって、至り得られるべきものであるなら──それが、そして、知恵ある者によって、解脱者によって、至り得られるべきものであるなら──〔それは〕無上なるものである。

 

 〔まさに〕その、わたしは、戦場を征圧した者であり、解脱者として、〔人々を〕結縛から解き放つ。〔わたしは〕最高に調御された象たる者として〔世に〕存している──〔もはや〕学ぶことなき者であり、完全なる涅槃に到達した者である」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 盛名の経

 

86. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に到着し、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいるらしい。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり……略……覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、その夜が明けると、沢山の固形の食料を携えて、イッチャーナンガラ〔村〕の密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門小屋の門口に立ちました──〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてながら。また、まさに、その時点にあって、尊者ナーギタが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、尊者ナーギタに告げました。「ナーギタよ、また、それらの者たちは、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちです。沢山の固形の食料を携えて、門小屋の門口に立っています──まさしく、世尊を、さらに、比丘の僧団を、〔納受者に〕指定して」と。「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです」と。

 

 「尊き方よ、今や、世尊は、〔施食を〕お受けください。善き至達者たる方は、〔施食を〕お受けください。尊き方よ、今や、世尊にとって、〔施食を〕お受けする時です。今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行く者たちと成るでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、諸々の水が向かい行くとおりに転じ行くように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行く者たちと成るでしょう。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、まさに、そのように、世尊には、戒と智慧があるからです」と。

 

 「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです。

 

 ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者たちとして、苦難なく得る者たちとして、困難なく得る者たちとして、天神たちもまた、一部の者たちは存在できません。ナーギタよ、あなたたちもまた、まさに、群集して、集いあつまって、社交の住に専念し、〔世に〕住んでいるなら、このような〔思い〕が有ります。『すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあるが、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者たちとして、苦難なく得る者たちとして、困難なく得る者たちとして、これらの尊者たちは、まさに、まちがいなく、存在できない。また、なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、群集して、集いあつまって、社交の住に専念し、〔世に〕住むからである』と。

 

 (1)ナーギタよ、ここに、わたしは、比丘たちを見ます──互いに他を指で突きながら、高笑し遊楽している〔比丘たち〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思い〕が有ります。『すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあるが、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者たちとして、苦難なく得る者たちとして、困難なく得る者たちとして、これらの尊者たちは、まさに、まちがいなく、存在できない。また、なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、互いに他を指で突きながら、高笑し遊楽するからである』と。

 

 (2)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、比丘たちを見ます──〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住んでいる〔比丘たち〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思い〕が有ります。『すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあるが、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者たちとして、苦難なく得る者たちとして、困難なく得る者たちとして、これらの尊者たちは、まさに、まちがいなく、存在できない。また、なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住むからである』と。

 

 (3)ナーギタよ、ここに、わたしは、村の外れを住まいとする比丘を見ます──〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者に、あるいは、園丁が奉仕するであろうし、あるいは、見習い沙門が、彼を、その禅定から死滅させるであろう』と。ナーギタよ、その比丘の、村の外れを住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得ない者と成ります。

 

 (4)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、居眠りしながら、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、この眠気と疲弊を取り除いて、まさしく、林の表象に、〔それだけに〕意を為すであろう──〔それを〕一なるものとして』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (5)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、あるいは、〔いまだ〕定められていない心を定めるであろうし、あるいは、〔すでに〕定められた心を守護するであろう』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (6)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心を解脱させるであろうし、あるいは、〔すでに〕解脱した心を守護するであろう』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (7)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、村の外れを住まいとする比丘を見ます──諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者を。彼は、その利得と尊敬と名声を欲しながら、静坐を遠ざけ、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけます。村や町や王都に降りて行って住を営みます。ナーギタよ、その比丘が、村の外れを住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得ない者と成ります。

 

 (8)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者を。彼は、その利得と尊敬と名声を避けて、静坐を遠ざけず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけません。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 ナーギタよ、その時点において、わたしが、旅の道を行く者としてあり、あるいは、前に、あるいは、後に、誰をも見ないなら、ナーギタよ、その時点において、わたしには、平穏が有ります──もしくは、〔それが〕大小便の行為のためであれ」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 鉢を伏せることの経

 

87. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した在俗信者には、望んでいるなら、僧団は、鉢を伏せるべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちの利得なきために画策します。比丘たちの義(利益)なきために画策します。比丘たちの滞在なきために画策します。比丘たちを罵倒し口撃します。比丘たちを比丘たちから分裂させます。覚者の栄誉ならざることを語ります。法(教え)の栄誉ならざることを語ります。僧団の栄誉ならざることを語ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した在俗信者には、望んでいるなら、僧団は、鉢を伏せるべきです。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した在俗信者には、望んでいるなら、僧団は、鉢を起こすべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。比丘たちの利得なきために画策しません。比丘たちの義(利益)なきために画策しません。比丘たちの滞在なきために画策しません。比丘たちを罵倒も口撃もしません。比丘たちを比丘たちから分裂させません。覚者の栄誉を語ります。法(教え)の栄誉を語ります。僧団の栄誉を語ります。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した在俗信者には、望んでいるなら、僧団は、鉢を起こすべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 清信なきを宣言するべき者の経

 

88. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した比丘には、望んでいるなら、在俗信者たちは、清信なきを宣言するべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。在家者たちの利得なきために画策します。在家者たちの義(利益)なきために画策します。在家者たちを罵倒し口撃します。在家者たちを在家者たちから分裂させます。覚者の栄誉ならざることを語ります。法(教え)の栄誉ならざることを語ります。僧団の栄誉ならざることを語ります。さらに、托鉢所ならざるところにおいて、彼を見ます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した比丘には、望んでいるなら、在俗信者たちは、清信なきを宣言するべきです。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した比丘には、望んでいるなら、在俗信者たちは、清信を宣言するべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。在家者たちの利得なきために画策しません。在家者たちの義(利益)なきために画策しません。在家者たちを罵倒も口撃もしません。在家者たちを在家者たちから分裂させません。覚者の栄誉を語ります。法(教え)の栄誉を語ります。僧団の栄誉を語ります。さらに、托鉢所において、彼を見ます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した比丘には、望んでいるなら、在俗信者たちは、清信を宣言するべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 謝罪するべきものの経

 

89. 「比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した比丘には、望んでいるなら、僧団は、謝罪するべき行為(罪の償い)を課すべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。在家者たちの利得なきために画策します。在家者たちの義(利益)なきために画策します。在家者たちを罵倒し口撃します。在家者たちを在家者たちから分裂させます。覚者の栄誉ならざることを語ります。法(教え)の栄誉ならざることを語ります。僧団の栄誉ならざることを語ります。さらに、法(正義)にかなう在家者との約束を実行しません。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した比丘には、望んでいるなら、僧団は、謝罪するべき行為を課すべきです。

 

 比丘たちよ、八つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した比丘には、望んでいるなら、僧団は、謝罪するべき行為を免じるべきです。どのようなものが、八つのものなのですか。在家者たちの利得なきために画策しません。在家者たちの義(利益)なきために画策しません。在家者たちを罵倒も口撃もしません。在家者たちを在家者たちから分裂させません。覚者の栄誉を語ります。法(教え)の栄誉を語ります。僧団の栄誉を語ります。さらに、法(正義)にかなう在家者との約束を実行します。比丘たちよ、まさに、これらの八つの支分を具備した比丘には、望んでいるなら、僧団は、謝罪するべき行為を免じるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 正しく行持することの経

 

90. 「比丘たちよ、彼の悪行の告発の行為が為された比丘は、八つの法(性質)において、正しく行持させられるべきです。〔彼によって戒が〕成就させられるべきではありません。〔彼によって〕依所が与えられるべきではありません。〔彼によって〕沙弥が任じられるべきではありません。比丘尼の教諭者として選出を受けるべきではありません。たとえ、選出されたとして、比丘尼たちに教諭するべきではありません。何であれ、僧団における選出を受けるべきではありません。何であれ、〔彼を〕独自の地位に据え置くべきではありません。そして、〔彼を〕その根元〔の状態〕とともに出起させるべきではありません(現状のまま復帰させるべきではない)。比丘たちよ、彼の悪行の告発の行為が為された比丘は、これらの八つの法(性質)において、正しく行持させられるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 気づきの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「気づき、プンニヤ、根元とともに、盗賊があり、第五のものとして、沙門とともに、盛名、鉢があり、清信なきとともに、さらに、謝罪するべきもの、行持することがあり、〔章となる〕」と。

 

(10)5. 同等の章

 

91-116. そこで、まさに、ボッジャー女性在俗信者、シリマー、パドゥマー、スタナー、マヌジャー、ウッタラー、ムッター、ケーマー、ルチー、チュンディー、ビンビー、スマナー、マッリカー、ティッサー、ティッサマータル、ソーナー、ソーナマータル、カーナー、カーナマータル、ウッタラー、ナンダマータル、ヴィサーカー・ミガーラマータル、クッジュッタラー女性在俗信者、サーマーヴァティー女性在俗信者、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサー、スッピヤー女性在俗信者、ナクラマータル主婦。

 

 同等の章が第五となる。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

(11). 貪欲と省略〔の経典〕

 

117. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、八つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが八つのものなのですか。正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの八つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

118. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、八つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが八つのものなのですか。(1)内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。(2)内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。(3)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。(4)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。(5)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。……略……。(6)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と……略……(7)赤にして、赤の色艶と……略……(8)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの八つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

119. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、八つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが八つのものなのですか。(1)形態ある者として、諸々の形態を見ます。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの八つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

120-146. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……略……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの八つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

147-626. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの八つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 アッタカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。