小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

15. パティサンビダーマッガ聖典(無礙解道)

 

【目次】

 

 凡例

 

 1. 大いなるものの章[2]

 

  要綱[2]

  1. 1. 知恵についての言説[77]

   1. 1. 1. 所聞から作られる知恵についての釈示[77]

   1. 1. 2. 戒から作られる知恵についての釈示[285]

   1. 1. 3. 禅定の修行から作られる知恵についての釈示[324]

   1. 1. 4. 法(性質)の止住の知恵についての釈示[337]

   1. 1. 5. 触知の知恵についての釈示[347]

   1. 1. 6. 生成と衰失の知恵についての釈示[355]

   1. 1. 7. 滅壊の随観の知恵についての釈示[366]

   1. 1. 8. 危険の智慧についての釈示[377]

   1. 1. 9. 諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵についての釈示[394]

   1. 1. 10. 〔新たな〕種姓と成る知恵についての釈示[418]

   1. 1. 11. 道の知恵についての釈示[433]

   1. 1. 12. 果の知恵についての釈示[449]

   1. 1. 13. 解脱の知恵についての釈示[461]

   1. 1. 14. 注視の知恵についての釈示[466]

   1. 1. 15. 〔認識の〕基盤の種々なることの知恵についての釈示[476]

   1. 1. 16. 〔認識の〕境涯の種々なることの知恵についての釈示[484]

   1. 1. 17. 性行の種々なることの知恵についての釈示[491]

   1. 1. 18. 境地の種々なることの知恵についての釈示[505]

   1. 1. 19. 法(性質)の種々なることの知恵についての釈示[511]

   1. 1. 20-24. 知恵の五なるものについての釈示[522]

   1. 1. 25-28. 融通無礙の知恵についての釈示[524]

   1. 1. 29-31. 三つの知恵についての釈示[541]

   1. 1. 32. 直後なる禅定の知恵についての釈示[551]

   1. 1. 33. 相克なき住の知恵についての釈示[558]

   1. 1. 34. 止滅の入定の知恵についての釈示[565]

   1. 1. 35. 完全なる涅槃の知恵についての釈示[576]

   1. 1. 36. 等首者の義(意味)の知恵についての釈示[579]

   1. 1. 37. 謹厳の義(意味)の知恵についての釈示[585]

   1. 1. 38. 精進勉励の知恵についての釈示[590]

   1. 1. 39. 義(意味)の見示の知恵についての釈示[594]

   1. 1. 40. 見の清浄の知恵についての釈示[598]

   1. 1. 41. 受認の知恵についての釈示[604]

   1. 1. 42. 深解の知恵についての釈示[606]

   1. 1. 43. 部分の住の知恵についての釈示[608]

   1. 1. 44-49. 六つの還転の知恵についての釈示[611]

   1. 1. 50. 〔種々なる〕神通の種類の知恵についての釈示[620]

   1. 1. 51. 耳の界域の清浄の知恵についての釈示[623]

   1. 1. 52. 〔他者の〕心を探知する知恵についての釈示[625]

   1. 1. 53. 過去における居住の随念の知恵についての釈示[627]

   1. 1. 54. 天眼の知恵についての釈示[630]

   1. 1. 55. 諸々の煩悩の滅尽の知恵についての釈示[632]

   1. 1. 56-63. 真理の知恵の二つの四なるものについての釈示[640]

   1. 1. 64-67. 清浄なるものとしての融通無礙の知恵についての釈示[644]

   1. 1. 68. 機能の上下なることの知恵についての釈示[649]

   1. 1. 69. 志欲と悪習の知恵についての釈示[670]

   1. 1. 70. 対なる神変の知恵についての釈示[678]

   1. 1. 71. 大いなる慈悲の知恵についての釈示[681]

   1. 1. 72-73. 一切知者たる知恵についての釈示[692]

  1. 2. 見解についての言説[710]

   1. 2. 1. 悦楽の見解についての釈示[739]

   1. 2. 2. 自己についての偏った見解についての釈示[752]

   1. 2. 3. 誤った見解についての釈示[775]

   1. 2. 4. 身体を有するという見解についての釈示[777]

   1. 2. 5. 身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解についての釈示[780]

   1. 2. 6. 身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解についての釈示[783]

   1. 2. 7. 〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解についての釈示[786]

   1. 2. 8. 過去の極についての偏った見解についての釈示[809]

   1. 2. 9. 未来の極についての偏った見解についての釈示[811]

   1. 2. 10. 束縛するものとしての見解についての釈示[813]

   1. 2. 11. 「わたしである」という思量の結縛としての見解についての釈示[815]

   1. 2. 12. 「わたしのものである」という思量の結縛としての見解についての釈示[818]

   1. 2. 13. 自己の論と結び付いた見解についての釈示[821]

   1. 2. 14. 世〔界〕の論と結び付いた見解についての釈示[824]

   1. 2. 15-16. 生存と非生存の見解についての釈示[827]

  1. 3. 呼吸についての気づきについての言説[853]

   1. 3. 1. 数の部[853]

   1. 3. 2. 十六の知恵についての釈示[856]

   1. 3. 3. 付随する〔心の〕汚れについての釈示[869]

    1. 3. 3. 1. 第一の六なるもの[869]

    1. 3. 3. 2. 第二の六なるもの[873]

    1. 3. 3. 3. 第三の六なるもの[878]

   1. 3. 4. 浄化するものについての釈示[887]

   1. 3. 5. 気づきある為し手の知恵についての釈示[916]

    1. 3. 5. 1. 第一の四なるものについての釈示[919]

    1. 3. 5. 2. 第二の四なるものについての釈示[956]

    1. 3. 5. 3. 第三の四なるものについての釈示[969]

    1. 3. 5. 4. 第四の四なるものについての釈示[979]

   1. 3. 6. 知恵の集まりの六なるものについての釈示[998]

  1. 4. 機能についての言説[1005]

   1. 4. 1. 第一の経典についての釈示[1005]

   1. 4. 2. 第二の経典についての釈示[1013]

    1. 4. 2. 1. 悦楽についての釈示[1023]

    1. 4. 2. 2. 危険についての釈示[1029]

    1. 4. 2. 3. 出離についての釈示[1035]

   1. 4. 3. 第三の経典についての釈示[1050]

    1. 4. 3. 1. 細別の数についての釈示[1053]

    1. 4. 3. 2. 性行の部[1058]

    1. 4. 3. 3. 行と住についての釈示[1065]

   1. 4. 4. 第四の経典についての釈示[1073]

    1. 4. 4. 1. 優位の義(意味)についての釈示[1074]

    1. 4. 4. 2. 最初の清めるものの義(意味)についての釈示[1077]

    1. 4. 4. 3. 旺盛なるものの義(意味)についての釈示[1078]

    1. 4. 4. 4. 確立することの義(意味)についての釈示[1083]

    1. 4. 4. 5. 完全に取り払うことの義(意味)についての釈示[1084]

    1. 4. 4. 6. 確立させる者の義(意味)についての釈示[1085]

   1. 4. 5. 機能の配備[1087]

  1. 5. 解脱についての言説[1116]

   1. 5. 1. 誦説(経典)[1116]

   1. 5. 2. 釈示[1118]

  1. 6. 〔死後の〕境遇についての言説[1258]

  1. 7. 行為についての言説[1273]

  1. 8. 転倒についての言説[1286]

  1. 9. 道についての言説[1295]

  1. 10. 醍醐の甘露についての言説[1307]

 

 2. 双連のものの章[1329]

 

  2. 1. 双連のものについての言説[1329]

   2. 1. 1. 経典についての釈示[1336]

   2. 1. 2. 法(教え)にたいする〔心の〕高揚の部についての釈示[1365]

  2. 2. 真理についての言説[1376]

   2. 2. 1. 第一の経典についての釈示[1377]

   2. 2. 2. 第二の経典となる聖典[1398]

   2. 2. 3. 第二の経典についての釈示[1400]

  2. 3. 覚支についての言説[1416]

   2. 3. 1. 根元と根元とするもの等の十なるもの[1423]

   2. 3. 2. 経典についての釈示[1457]

  2. 4. 慈愛についての言説[1470]

   2. 4. 1. 機能の部[1475]

   2. 4. 2. 力の部[1483]

   2. 4. 3. 覚りの支分の部[1489]

   2. 4. 4. 道の支分の部[1497]

  2. 5. 離貪についての言説[1523]

  2. 6. 融通無礙についての言説[1543]

   2. 6. 1. 法(真理)の輪を転起させることの部[1543]

   2. 6. 2. 気づきの確立の部[1578]

   2. 6. 3. 神通の足場の部[1590]

   2. 6. 4. 七者の菩薩の部[1602]

   2. 6. 5. 証知等の部[1606]

   2. 6. 6. 範疇等の部[1609]

   2. 6. 7. 真理の部[1612]

   2. 6. 8. 融通無礙の部[1615]

   2. 6. 9. 六つの覚者の法(性質)の部[1618]

  2. 7. 法(真理)の輪についての言説[1623]

   2. 7. 1. 真理の部[1623]

   2. 7. 2. 気づきの確立の部[1637]

   2. 7. 3. 神通の足場の部[1643]

  2. 8. 世〔俗〕を超えるものについての言説[1655]

  2. 9. 力についての言説[1658]

  2. 10. 空についての言説[1699]

   2. 10. 1. 要綱[1702]

   2. 10. 2. 釈示[1703]

 

 3. 智慧の章[1735]

 

  3. 1. 大いなる智慧についての言説[1735]

   3. 1. 1. 十六の智慧についての釈示[1749]

   3. 1. 2. 人の殊勝についての釈示[1775]

  3. 2. 神通についての言説[1786]

   3. 2. 1. 十の神通についての釈示[1792]

  3. 3. 〔法の〕知悉についての言説[1815]

  3. 4. 遠離についての言説[1834]

   3. 4. 1. 道の支分についての釈示[1838]

   3. 4. 2. 機能についての釈示[1850]

  3. 5. 性行についての言説[1854]

  3. 6. 神変についての言説[1860]

  3. 7. 等首者についての言説[1875]

  3. 8. 気づきの確立についての言説[1882]

  3. 9. 〔あるがままの〕観察についての言説[1897]

  3. 10. 要綱についての言説[1924]

 


 

 

15. パティサンビダーマッガ聖典(無礙解道)

 

凡例

 

 和訳中の〔 〕と( )と[ ]と【 】は、訳者による付加。

 〔 〕は、本文の補足。( )は、前の語の説明。【 】は、PTS版のページ数。[ ]は、タイ版の通し番号。[ ]内の通し番号に合わせて改行したため、底本と異なる改行箇所が一部ある。底本に欠く「1. 1. 1.」等の見出し番号は、タイ版のものを付加。

 なお、( )については、訳者による付加以外に、底本記載のものもあり、適宜判別されたい。( )内の、「※」は、注記の指示(注記本文は改行後に提示)を、「・」は、前後の並列関係を、「:」は、前の語の追加説明を、それぞれ意味する。( )内の太字は、該当するパーリ語の漢訳語、阿含経典に限らず仏典全般から一般的なものを記載。なお、( )内の数字は、底本記載のものもあれば、訳者の判断で補足したものもある。数字については、便宜上の観点から、( )内に限らず適宜に補足を加えた。

 省略箇所(……略……)については、訳者の判断で省略せず、該当文章を再掲した箇所もあれば、底本より広範囲に省略した箇所もある。くわえて、訳者の判断で、省略箇所(……略……)を付加した箇所もある。

 注記(※)については、底本の誤記をPTS版によって訂正するのみならず、訳者の判断でPTS版を採用した箇所もある。いずれも万全なものではなく、存在するはずの遺漏について、御叱正を乞う次第である。

 

 [1]【vol.1-1】阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 大いなるものの章(大品)

 

 要綱(論母)

 

1.

 

 [2]傾聴することにおける智慧(慧・般若)が、所聞から作られるものについての知恵()となる。

 

2.

 

 [3]聞いて〔そののち〕、統御(律儀)における智慧が、戒から作られるものについての知恵となる。

 

3.

 

 [4]統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける智慧が、禅定(定・三昧)の修行から作られるものについての知恵となる。

 

4.

 

 [5]縁の遍き収取(理解・把握)における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

5.

 

 [6]過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。

 

6.

 

 [7]現在の諸法(性質)の、変化の随観における智慧が、生成と衰失の随観についての知恵となる。

 

7.

 

 [8]対象(所縁)を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における智慧が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)についての知恵となる。

 

8.

 

 [9]恐怖の現起における智慧が、危険(患・過患)についての知恵となる。

 

9.

 

 [10]解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨(行捨)についての知恵となる。

 

10.

 

 [11]外からの出起と還転における智慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵(凡夫を脱却し有学と成る知恵)となる。

 

11.

 

 [12]〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる。

 

12.

 

 [13]専念〔努力〕の安息としての智慧が、果についての知恵となる。

 

13.

 

 [14]〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる。

 

14.

 

 [15]そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける智慧が、注視についての知恵となる。

 

15.

 

 [16]内なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となる。

 

16.

 

 [17]外なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となる。

 

17.

 

 [18]性行〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、性行の種々なることについての知恵となる。

 

18.

 

 [19]四つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、境地の種々なることについての知恵となる。

 

19.

 

 [20]九つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となる。

 

20.

 

 [21]証知としての智慧が、所知の義(意味)についての知恵となる。

 

21.

 

 [22]遍知としての智慧が、推量の義(意味)についての知恵となる。

 

22.

 

 [23]捨棄における智慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となる。

 

23.

 

 [24]修行としての智慧が、一味の義(意味)についての知恵となる。

 

24.

 

 [25]実証としての智慧が、体得の義(意味)についての知恵となる。

 

25.

 

 [26]義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙(無礙解)についての知恵となる。

 

26.

 

 [27]【2】法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる。

 

27.

 

 [28]言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる。

 

28.

 

 [29]応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 

29.

 

 [30]住の種々なることにおける智慧が、住の義(意味)についての知恵となる。

 

30.

 

 [31]入定(等至)の種々なることにおける智慧が、入定の義(意味)についての知恵となる。

 

31.

 

 [32]住の入定の種々なることにおける智慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となる。

 

32.

 

 [33]〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄たることから、煩悩()の断絶における智慧が、直後なる禅定(無間定)についての知恵となる。

 

33.

 

 [34]〔あるがままの〕見を優位とし、かつまた、寂静なる住の到達(証得)ある、精妙なるものを信念したこととしての智慧が、相克なき住についての知恵となる。

 

34.

 

 [35]二つの力を具備したものたることから、さらに、三つの形成〔作用〕()の安息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの禅定の性行によって、自在なる状態たることとしての智慧が、止滅の入定(滅尽定)についての知恵となる。

 

35.

 

 [36]正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことにおける智慧が、完全なる涅槃についての知恵となる。

 

36.

 

 [37]一切の法(事象)の、正しい断絶における、さらに、止滅における、現起なきこととしての智慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終える者)の義(意味)についての知恵となる。

 

37.

 

 [38]多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける(※)智慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となる。

 

※ テキストには Puthunānattatejapariyādāne とあるが、PTS版により Puthunānattekattatejapariyādāne と読む。

 

38.

 

 [39]退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。

 

39.

 

 [40]種々なる法(教え)を明示することとしての智慧が、義(意味)の見示についての知恵となる。

 

40.

 

 [41]一切の法(事象)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解(通達)における智慧が、見の清浄の知恵となる。

 

41.

 

 [42]見出されたものたることから、智慧が、受認(信受)の知恵となる。

 

42.

 

 [43]体得されたものたることから、智慧が、深解についての知恵となる。

 

43.

 

 [44]配備における智慧が、部分の住についての知恵となる。

 

44.

 

 [45]優位のものたることから、智慧が、表象()の還転についての知恵となる。

 

45.

 

 [46]種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる。

 

46.

 

 [47]〔心の〕確立(加持)における智慧が、心の還転についての知恵となる。

 

47.

 

 [48]空性における智慧が、知恵の還転についての知恵となる。

 

48.

 

 [49]放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。

 

49.

 

 [50]真実の義(意味)における智慧が、真理()の還転についての知恵となる。

 

50.

 

 [51]身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての智慧〕が──かつまた、安楽の表象を、かつまた、軽快の表象を、〔心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における智慧が──〔種々なる〕神通の種類についての知恵(神足通)となる。

 

51.

 

 [52]思考()の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声()の形相の、深解における智慧が、耳の界域(耳界)の清浄の知恵(天耳通)となる。

 

52.

 

 [53]三つの心の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能()の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識知〔作用〕()の性行としての、深解における智慧が、〔他者の〕心を探知する知恵(他心通)となる。

 

53.

 

 [54]縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為()の充満を所以に、深解における智慧が、過去における居住(過去世)の随念の知恵(宿命通)となる。

 

54.

 

 [55]光輝を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態()の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における智慧が、天眼の知恵(天眼通)となる。

 

55.

 

 [56]六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての智慧が、諸々の煩悩の、滅尽についての知恵(漏尽通)となる。

 

56.

 

 [57]遍知の義(意味)における智慧が、苦痛についての知恵となる。

 

57.

 

 [58]捨棄の義(意味)における智慧が、集起についての知恵となる。

 

58.

 

 [59]【3】実証の義(意味)における智慧が、止滅についての知恵となる。

 

59.

 

 [60]修行の義(意味)における智慧が、道についての知恵となる。

 

60.

 

 [61]苦痛についての知恵がある。

 

61.

 

 [62]苦痛の集起についての知恵がある。

 

62.

 

 [63]苦痛の止滅についての知恵がある。

 

63.

 

 [64]苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵がある。

 

64.

 

 [65]義(意味)の融通無礙についての知恵がある。

 

65.

 

 [66]法(教え)の融通無礙についての知恵がある。

 

66.

 

 [67]言語の融通無礙についての知恵がある。

 

67.

 

 [68]応答の融通無礙についての知恵がある。

 

68.

 

 [69]機能の上下なることについての知恵がある。

 

69.

 

 [70]有情たちの志欲と悪習についての知恵がある。

 

70.

 

 [71]対なる神変についての知恵がある。

 

71.

 

 [72]大いなる慈悲の入定についての知恵がある。

 

72.

 

 [73]一切知者たる知恵がある。

 

73.

 

 [74]妨げなき知恵がある。

 

 [75]これらの七十三の知恵がある。これらの七十三の知恵のなかの、六十七の知恵は、弟子たちと共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。

 

 [76]要綱は〔以上で〕終了となる。

 

1. 1. 知恵についての言説

 

1. 1. 1. 所聞から作られる知恵についての釈示

 

1.

 

 [77]【4】どのように、傾聴することにおける智慧(慧・般若)が、所聞から作られるものについての知恵()となるのか。

 

 [78](1)「これらの法(性質)が、証知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [79](2)「これらの法(性質)が、遍知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [80](3)「これらの法(性質)が、捨棄されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [81](4)「これらの法(性質)が、修行されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [82](5)「これらの法(性質)が、実証されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [83](6)「これらの法(性質)は、退失を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [84](7)「これらの法(性質)は、止住を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [85](8)「これらの法(性質)は、殊勝を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [86](9)「これらの法(性質)は、洞察を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [87](10)「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [88](11)「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [89](12)「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [90](13)「これは、苦痛という聖なる真理である(苦諦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [91](14)「これは、苦痛の集起という聖なる真理である(集諦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [92](15)「これは、苦痛の止滅という聖なる真理である(滅諦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [93](16)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である(道諦)」【5】と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

2.

 

 [94](1)どのように、「これらの法(性質)が、証知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [95]一つの法(性質)が、証知されるべきである。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。

 

 [96]二つの法(性質)が、証知されるべきである。二つの界域(二界:有為界・無為界)である。

 

 [97]三つの法(性質)が、証知されるべきである。三つの界域(三界:欲界・色界・無色界)である。

 

 [98]四つの法(性質)が、証知されるべきである。四つの聖なる真理(四聖諦)である。

 

 [99]五つの法(性質)が、証知されるべきである。五つの解脱のための〔認識の〕場所(五解脱処:聞法・説法・読誦・考察・禅定)である。

 

 [100]六つの法(性質)が、証知されるべきである。六つの無上なるもの(見ることの無上・聞くことの無上・得ることの無上・学ぶことの無上・奉仕することの無上・随念することの無上)である。

 

 [101]七つの法(性質)が、証知されるべきである。七つの非十者(煩悩の滅尽者)の基盤(学の受持・法の観察・欲求の調伏・静坐・精進勉励・気づきと正知・見の理解)である。

 

 [102]八つの法(性質)が、証知されるべきである。八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処:内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を微小なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を無量なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を微小なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を無量なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を青なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を黄なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を赤なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる・内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を白なるものと見て、「それらを征服して、わたしは知り見る」という表象ある者となる)である。

 

 [103]九つの法(性質)が、証知されるべきである。九つの順次の住(第一禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)である。

 

 [104]十の法(性質)が、証知されるべきである。十の衰尽の基盤(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定・正智・正解脱の十による邪見と邪解脱の衰尽)である。

 

3.

 

 [105]比丘たちよ、一切が、証知されるべきである。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、証知されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、証知されるべきである。諸々の形態()が、証知されるべきである。眼の識知〔作用〕(眼識)が、証知されるべきである。眼の接触(眼触)が、証知されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないもの(不苦不楽)も、それもまた、証知されるべきである。耳が、証知されるべきである。諸々の音声()が、証知されるべきである。……略……。鼻が、証知されるべきである。諸々の臭気()が、証知されるべきである。……。舌が、証知されるべきである。諸々の味感()が、証知されるべきである。……。身が、証知されるべきである。……。諸々の感触(所触)が、証知されるべきである。……。意が、証知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、証知されるべきである。意の識知〔作用〕(意識)が、証知されるべきである。意の接触(意触)が、証知されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、証知されるべきである。

 

 [106]形態(:物質的身体・肉体)が、証知されるべきである。感受〔作用〕()が、証知されるべきである。表象〔作用〕()が、証知されるべきである。諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)が、証知されるべきである。識知〔作用〕()が、証知されるべきである。

 

 [107]眼が、証知されるべきである。耳が、証知されるべきである。鼻が、証知されるべきである。舌が、証知されるべきである。身が、証知されるべきである。意が、証知されるべきである。諸々の形態が、証知されるべきである。諸々の音声が、証知されるべきである。諸々の臭気が、証知されるべきである。諸々の味感が、証知されるべきである。諸々の感触が、証知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、証知されるべきである。眼の識知〔作用〕()が、証知されるべきである。耳の識知〔作用〕が、証知されるべきである。鼻の識知〔作用〕が、証知されるべきである。舌の識知〔作用〕が、証知されるべきである。身の識知〔作用〕が、証知されるべきである。意の識知〔作用〕が、証知されるべきである。眼の接触()が、証知されるべきである。【6】耳の接触が、証知されるべきである。鼻の接触が、証知されるべきである。舌の接触が、証知されるべきである。身の接触が、証知されるべきである。意の接触が、証知されるべきである。眼の接触から生じる感受()が、証知されるべきである。耳の接触から生じる感受が、証知されるべきである。鼻の接触から生じる感受が、証知されるべきである。舌の接触から生じる感受が、証知されるべきである。身の接触から生じる感受が、証知されるべきである。意の接触から生じる感受が、証知されるべきである。形態の表象()が、証知されるべきである。音声の表象が、証知されるべきである。臭気の表象が、証知されるべきである。味感の表象が、証知されるべきである。感触の表象が、証知されるべきである。法(意の対象)の表象が、証知されるべきである。形態の思欲()が、証知されるべきである。音声の思欲が、証知されるべきである。臭気の思欲が、証知されるべきである。味感の思欲が、証知されるべきである。感触の思欲が、証知されるべきである。法(意の対象)の思欲が、証知されるべきである。形態の渇愛()が、証知されるべきである。音声の渇愛が、証知されるべきである。臭気の渇愛が、証知されるべきである。味感の渇愛が、証知されるべきである。感触の渇愛が、証知されるべきである。法(意の対象)の渇愛が、証知されるべきである。形態の思考()が、証知されるべきである。音声の思考が、証知されるべきである。臭気の思考が、証知されるべきである。味感の思考が、証知されるべきである。感触の思考が、証知されるべきである。法(意の対象)の思考が、証知されるべきである。形態の想念()が、証知されるべきである。音声の想念が、証知されるべきである。臭気の想念が、証知されるべきである。味感の想念が、証知されるべきである。感触の想念が、証知されるべきである。法(意の対象)の想念が、証知されるべきである。

 

4.

 

 [108]地の界域()が、証知されるべきである。水の界域が、証知されるべきである。火の界域が、証知されるべきである。風の界域が、証知されるべきである。虚空の界域が、証知されるべきである。識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。

 

 [109]地の遍満()が、証知されるべきである。水の遍満が、証知されるべきである。火の遍満が、証知されるべきである。風の遍満が、証知されるべきである。青の遍満が、証知されるべきである。黄の遍満が、証知されるべきである。赤の遍満が、証知されるべきである。白の遍満が、証知されるべきである。虚空の遍満が、証知されるべきである。識知〔作用〕の遍満が、証知されるべきである。

 

 [110]諸々の髪が、証知されるべきである。諸々の毛が、証知されるべきである。諸々の爪が、証知されるべきである。諸々の歯が、証知されるべきである。皮膚が、証知されるべきである。肉が、証知されるべきである。諸々の腱が、証知されるべきである。諸々の骨が、証知されるべきである。諸々の骨髄が、証知されるべきである。腎臓が、証知されるべきである。心臓が、証知されるべきである。肝臓が、証知されるべきである。肋膜が、証知されるべきである。脾臓が、証知されるべきである。肺臓が、証知されるべきである。【7】腸が、証知されるべきである。腸間膜が、証知されるべきである。胃物が、証知されるべきである。糞が、証知されるべきである。胆汁が、証知されるべきである。痰が、証知されるべきである。膿が、証知されるべきである。血が、証知されるべきである。汗が、証知されるべきである。脂肪が、証知されるべきである。涙が、証知されるべきである。膏が、証知されるべきである。唾液が、証知されるべきである。鼻水が、証知されるべきである。髄液が、証知されるべきである。尿が、証知されるべきである。脳味噌が、証知されるべきである。

 

 [111]眼の〔認識の〕場所(眼処)が、証知されるべきである。形態の〔認識の〕場所(色処)が、証知されるべきである。耳の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。音声の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。鼻の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。臭気の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。舌の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。味感の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。身の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。感触の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。意の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。法(意の対象)の〔認識の〕場所が、証知されるべきである。

 

 [112]眼の界域(眼界)が、証知されるべきである。形態の界域(色界)が、証知されるべきである。眼の識知〔作用〕の界域(眼識界)が、証知されるべきである。耳の界域が、証知されるべきである。音声の界域が、証知されるべきである。耳の識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。鼻の界域が、証知されるべきである。臭気の界域が、証知されるべきである。鼻の識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。舌の界域が、証知されるべきである。味感の界域が、証知されるべきである。舌の識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。身の界域が、証知されるべきである。感触の界域が、証知されるべきである。身の識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。意の界域が、証知されるべきである。法(意の対象)の界域が、証知されるべきである。意の識知〔作用〕の界域が、証知されるべきである。

 

 [113]眼の機能(眼根)が、証知されるべきである。耳の機能(耳根)が、証知されるべきである。鼻の機能(鼻根)が、証知されるべきである。舌の機能(舌根)が、証知されるべきである。身の機能(身根)が、証知されるべきである。意の機能(意根)が、証知されるべきである。生命の機能(命根)が、証知されるべきである。女の機能(女根)が、証知されるべきである。男の機能(男根)が、証知されるべきである。安楽の機能(楽根)が、証知されるべきである。苦痛の機能(苦根)が、証知されるべきである。悦意の機能(喜根)が、証知されるべきである。失意の機能(憂根)が、証知されるべきである。放捨の機能(捨根)が、証知されるべきである。信の機能(信根)が、証知されるべきである。精進の機能(精進根)が、証知されるべきである。気づきの機能(念根)が、証知されるべきである。禅定の機能(定根)が、証知されるべきである。智慧の機能(慧根)が、証知されるべきである。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能が、証知されるべきである。了知の機能が、証知されるべきである。了知者の機能が、証知されるべきである。

 

5.

 

 [114]欲望の界域(欲界)が、証知されるべきである。形態の界域(色界)が、証知されるべきである。形態なき界域(無色界)が、証知されるべきである。欲望の生存(欲有)が、証知されるべきである。形態の生存(色有)が、【8】証知されるべきである。形態なき生存(無色有)が、証知されるべきである。表象の生存(想有)が、証知されるべきである。表象なき生存(無想有)が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)が、証知されるべきである。一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)が、証知されるべきである。四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)が、証知されるべきである。五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)が、証知されるべきである。

 

6.

 

 [115]第一の瞑想(初禅・第一禅)が、証知されるべきである。第二の瞑想(第二禅)が、証知されるべきである。第三の瞑想(第三禅)が、証知されるべきである。第四の瞑想(第四禅)が、証知されるべきである。慈愛()という〔止寂の〕心による解脱が、証知されるべきである。慈悲()という〔止寂の〕心による解脱が、証知されるべきである。歓喜()という〔止寂の〕心による解脱が、証知されるべきである。放捨()という〔止寂の〕心による解脱が、証知されるべきである。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定が、証知されるべきである。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定が、証知されるべきである。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定が、証知されるべきである。

 

 [116]無明(無明)が、証知されるべきである。諸々の形成〔作用〕()が、証知されるべきである。識知〔作用〕()が、証知されるべきである。名前と形態(名色)が、証知されるべきである。六つの〔認識の〕場所(六処)が、証知されるべきである。接触()が、証知されるべきである。感受()が、証知されるべきである。渇愛()が、証知されるべきである。執取()が、証知されるべきである。生存()が、証知されるべきである。生()が、証知されるべきである。老と死(老死)が、証知されるべきである。

 

7.

 

 [117]苦痛()が、証知されるべきである。苦痛の集起()が、証知されるべきである。苦痛の止滅()が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道()が、証知されるべきである。形態()が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。感受〔作用〕()が、証知されるべきである。……略……。表象〔作用〕()が、証知されるべきである。……略……。諸々の形成〔作用〕()が、証知されるべきである。……略……。識知〔作用〕()が、証知されるべきである。……略……。眼が、証知されるべきである。……略([107-116]参照)……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。

 

 [118]苦痛の、遍知の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。形態の、遍知の義(意味)が、証知されるべきである。形態の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の……。眼の……略([107-116]参照)……。老と死の、【9】遍知の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の集起の、捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [119]苦痛の、遍知の理解(通達)の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の、遍知の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の……。眼の……略([107-116]参照)……。老と死の、遍知の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の集起の、捨棄の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅の、実証の理解の義(意味)が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道の、修行の理解の義(意味)が、証知されるべきである。

 

8.

 

 [120]苦痛が、証知されるべきである。苦痛の集起が、証知されるべきである。苦痛の止滅が、証知されるべきである。苦痛の、集起と止滅が、証知されるべきである。苦痛の、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕(欲貪)の止滅が、証知されるべきである。苦痛の、悦楽(味・楽味)が、証知されるべきである。苦痛の、危険(患・過患)が、証知されるべきである。苦痛の、出離(出要)が、証知されるべきである。形態が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の、集起と止滅が、証知されるべきである。形態の、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の止滅が、証知されるべきである。形態の、悦楽が、証知されるべきである。形態の、危険が、証知されるべきである。形態の、出離が、証知されるべきである。感受〔作用〕が、証知されるべきである。……略……。表象〔作用〕が、証知されるべきである。……。諸々の形成〔作用〕が、証知されるべきである。……。識知〔作用〕が、証知されるべきである。……。眼が、証知されるべきである。……略([107-116]参照)……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の、集起と止滅が、証知されるべきである。老と死の、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の止滅が、証知されるべきである。老と死の、悦楽が、証知されるべきである。老と死の、危険が、証知されるべきである。老と死の、出離が、証知されるべきである。

 

 [121]苦痛が、証知されるべきである。苦痛の集起が、証知されるべきである。【10】苦痛の止滅が、証知されるべきである。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。苦痛の、悦楽が、証知されるべきである。苦痛の、危険が、証知されるべきである。苦痛の、出離が、証知されるべきである。形態が、証知されるべきである。形態の集起が、証知されるべきである。形態の止滅が、証知されるべきである。形態の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。形態の、悦楽が、証知されるべきである。形態の、危険が、証知されるべきである。形態の、出離が、証知されるべきである。感受〔作用〕が、証知されるべきである。……略……。表象〔作用〕が、証知されるべきである。……。諸々の形成〔作用〕が、証知されるべきである。……。識知〔作用〕が、証知されるべきである。……。眼が、証知されるべきである。……略([107-116]参照)……。老と死が、証知されるべきである。老と死の集起が、証知されるべきである。老と死の止滅が、証知されるべきである。老と死の止滅に至る〔実践の〕道が、証知されるべきである。老と死の、悦楽が、証知されるべきである。老と死の、危険が、証知されるべきである。老と死の、出離が、証知されるべきである。

 

9.

 

 [122]無常の随観が、証知されるべきである。苦痛の随観が、証知されるべきである。無我の随観が、証知されるべきである。厭離の随観が、証知されるべきである。離貪の随観が、証知されるべきである。止滅の随観が、証知されるべきである。放棄の随観が、証知されるべきである。形態において、無常の随観が、証知されるべきである。形態において、苦痛の随観が、証知されるべきである。形態において、無我の随観が、証知されるべきである。形態において、厭離の随観が、証知されるべきである。形態において、離貪の随観が、証知されるべきである。形態において、止滅の随観が、証知されるべきである。形態において、放棄の随観が、証知されるべきである。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、証知されるべきである。老と死において、苦痛の随観が、証知されるべきである。老と死において、無我の随観が、証知されるべきである。老と死において、厭離の随観が、証知されるべきである。老と死において、離貪の随観が、証知されるべきである。老と死において、止滅の随観が、証知されるべきである。老と死において、放棄の随観が、証知されるべきである。

 

10.

 

 [123]生起が、証知されるべきである。転起されたもの(所与的世界)が、証知されるべきである。形相(:概念把握)が、証知されるべきである。専業(業を作ること)が、証知されるべきである。結生が、証知されるべきである。境遇(:死後に赴く所)が、証知されるべきである。発現が、証知されるべきである。再生が、証知されるべきである。生が、証知されるべきである。老が、証知されるべきである。病が、【11】証知されるべきである。死が、証知されるべきである。憂い()が、証知されるべきである。嘆き()が、証知されるべきである。葛藤()が、証知されるべきである。

 

 [124]生起なきものが、証知されるべきである。転起なきものが、証知されるべきである。形相なきもの(無相)が、証知されるべきである。専業なきものが、証知されるべきである。結生なきものが、証知されるべきである。境遇なきものが、証知されるべきである。発現なきものが、証知されるべきである。再生なきものが、証知されるべきである。生なきものが、証知されるべきである。老なきものが、証知されるべきである。病なきものが、証知されるべきである。死なきものが、証知されるべきである。憂いなきものが、証知されるべきである。嘆きなきものが、証知されるべきである。葛藤なきものが、証知されるべきである。

 

 [125]生起が、証知されるべきである。生起なきものが、証知されるべきである。転起されたものが、証知されるべきである。転起なきものが、証知されるべきである。形相が、証知されるべきである。形相なきものが、証知されるべきである。専業が、証知されるべきである。専業なきものが、証知されるべきである。結生が、証知されるべきである。結生なきものが、証知されるべきである。境遇が、証知されるべきである。境遇なきものが、証知されるべきである。発現が、証知されるべきである。発現なきものが、証知されるべきである。再生が、証知されるべきである。再生なきものが、証知されるべきである。生が、証知されるべきである。生なきものが、証知されるべきである。老が、証知されるべきである。老なきものが、証知されるべきである。病が、証知されるべきである。病なきものが、証知されるべきである。死が、証知されるべきである。死なきものが、証知されるべきである。憂いが、証知されるべきである。憂いなきものが、証知されるべきである。嘆きが、証知されるべきである。嘆きなきものが、証知されるべきである。葛藤が、証知されるべきである。葛藤なきものが、証知されるべきである。

 

 [126]「生起は、苦痛である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、苦痛である」と、証知されるべきである。「形相は、苦痛である」と、証知されるべきである。「専業は、苦痛である」と、証知されるべきである。「結生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「境遇は、苦痛である」と、証知されるべきである。「発現は、苦痛である」と、証知されるべきである。「再生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「生は、苦痛である」と、証知されるべきである。「老は、苦痛である」と、証知されるべきである。「病は、苦痛である」と、証知されるべきである。「死は、苦痛である」と、証知されるべきである。「憂いは、苦痛である」と、証知されるべきである。「嘆きは、苦痛である」と、証知されるべきである。「葛藤は、苦痛である」と、証知されるべきである。

 

 [127]「生起なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「転起なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「形相なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「専業なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「結生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「境遇なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「発現なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「再生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。【12】「老なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「病なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「死なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「憂いなきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「嘆きなきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「葛藤なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。

 

 [128]「生起は、苦痛である。生起なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、苦痛である。転起なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「形相は、苦痛である。形相なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「専業は、苦痛である。専業なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「結生は、苦痛である。結生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「境遇は、苦痛である。境遇なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「発現は、苦痛である。発現なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「再生は、苦痛である。再生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「生は、苦痛である。生なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「老は、苦痛である。老なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「病は、苦痛である。病なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「死は、苦痛である。死なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「憂いは、苦痛である。憂いなきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「嘆きは、苦痛である。嘆きなきものは、安楽である」と、証知されるべきである。「葛藤は、苦痛である。葛藤なきものは、安楽である」と、証知されるべきである。

 

 [129]「生起は、恐怖である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、恐怖である」と、証知されるべきである。「形相は、恐怖である」と、証知されるべきである。「専業は、恐怖である」と、証知されるべきである。「結生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「境遇は、恐怖である」と、証知されるべきである。「発現は、恐怖である」と、証知されるべきである。「再生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「生は、恐怖である」と、証知されるべきである。「老は、恐怖である」と、証知されるべきである。「病は、恐怖である」と、証知されるべきである。「死は、恐怖である」と、証知されるべきである。「憂いは、恐怖である」と、証知されるべきである。「嘆きは、恐怖である」と、証知されるべきである。「葛藤は、恐怖である」と、証知されるべきである。

 

 [130]「生起なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「転起なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「形相なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「専業なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「結生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「境遇なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「発現なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「再生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。【13】「老なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「病なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「死なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「憂いなきものは、平安である」と、証知されるべきである。「嘆きなきものは、平安である」と、証知されるべきである。「葛藤なきものは、平安である」と、証知されるべきである。

 

 [131]「生起は、恐怖である。生起なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、恐怖である。転起なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「形相は、恐怖である。形相なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「専業は、恐怖である。専業なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「結生は、恐怖である。結生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「境遇は、恐怖である。境遇なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「発現は、恐怖である。発現なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「再生は、恐怖である。再生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「生は、恐怖である。生なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「老は、恐怖である。老なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「病は、恐怖である。病なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「死は、恐怖である。死なきものは、平安である」と、証知されるべきである。「憂いは、恐怖である。憂いなきものは、平安である」と、証知されるべきである。「嘆きは、恐怖である。嘆きなきものは、平安である」と、証知されるべきである。「葛藤は、恐怖である。葛藤なきものは、平安である」と、証知されるべきである。

 

 [132]「生起は、財貨を有するもの(世俗のもの)である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「形相は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「専業は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「結生は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「境遇は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「発現は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「再生は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「生は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「老は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「病は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「死は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「憂いは、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「嘆きは、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。「葛藤は、財貨を有するものである」と、証知されるべきである。

 

 [133]「生起なきものは、財貨なきもの(非俗のもの)である」と、証知されるべきである。「転起なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「形相なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「専業なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「結生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「境遇なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「発現なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「再生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「老なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「病なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「死なきものは、【14】財貨なきものである」と、証知されるべきである。「憂いなきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「嘆きなきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「葛藤なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。

 

 [134]「生起は、財貨を有するものである。生起なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「転起されたものは、財貨を有するものである。転起なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「形相は、財貨を有するものである。形相なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「専業は、財貨を有するものである。専業なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「結生は、財貨を有するものである。結生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「境遇は、財貨を有するものである。境遇なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「発現は、財貨を有するものである。発現なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「再生は、財貨を有するものである。再生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「生は、財貨を有するものである。生なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「老は、財貨を有するものである。老なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「病は、財貨を有するものである。病なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「死は、財貨を有するものである。死なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「憂いは、財貨を有するものである。憂いなきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「嘆きは、財貨を有するものである。嘆きなきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。「葛藤は、財貨を有するものである。葛藤なきものは、財貨なきものである」と、証知されるべきである。

 

 [135]「生起は、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「形相は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「専業は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「結生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「境遇は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「発現は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「再生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「生は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「老は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「病は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「死は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「憂いは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「嘆きは、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、証知されるべきである。

 

 [136]「生起なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「転起なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「形相なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「専業なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「結生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「境遇なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「発現なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「再生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「老なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「病なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「死なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。【15】「憂いなきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「嘆きなきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「葛藤なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。

 

 [137]「生起は、諸々の形成〔作用〕である。生起なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である。転起なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「形相は、諸々の形成〔作用〕である。形相なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「専業は、諸々の形成〔作用〕である。専業なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「結生は、諸々の形成〔作用〕である。結生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「境遇は、諸々の形成〔作用〕である。境遇なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「発現は、諸々の形成〔作用〕である。発現なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「再生は、諸々の形成〔作用〕である。再生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「生は、諸々の形成〔作用〕である。生なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「老は、諸々の形成〔作用〕である。老なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「病は、諸々の形成〔作用〕である。病なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「死は、諸々の形成〔作用〕である。死なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「憂いは、諸々の形成〔作用〕である。憂いなきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「嘆きは、諸々の形成〔作用〕である。嘆きなきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である。葛藤なきものは、涅槃である」と、証知されるべきである。

 

 [138]〔以上が〕第一の朗読分となる。

 

11.

 

 [139]遍き収取(理解・把握)の義(意味)が、証知されるべきである。付属の義(意味)が、証知されるべきである。円満成就の義(意味)が、証知されるべきである。一境の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。励起の義(意味)が、証知されるべきである。拡散なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。混濁なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。動揺なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。一なることの現起を所以に、心の、止住の義(意味)が、証知されるべきである。対象(所縁:認識対象)の義(意味)が、証知されるべきである。境涯(認識範囲)の義(意味)が、証知されるべきである。捨棄の義(意味)が、証知されるべきである。遍捨の義(意味)が、証知されるべきである。出起の義(意味)が、証知されるべきである。還転の義(意味)が、証知されるべきである。寂静の義(意味)が、証知されるべきである。精妙の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の義(意味)が、証知されるべきである。煩悩なきもの(無漏)の義(意味)が、証知されるべきである。超渡の義(意味)が、証知されるべきである。無相の義(意味)が、証知されるべきである。無願の義(意味)が、証知されるべきである。空性の義(意味)が、証知されるべきである。一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)が、証知されるべきである。【16】〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)が、証知されるべきである。双連〔の法〕の義(意味)が、証知されるべきである。出脱の義(意味)が、証知されるべきである。因の義(意味)が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。優位の義(意味)が、証知されるべきである。

 

12.

 

 [140]〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の、随観の義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察(止観)の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)が、証知されるべきである。双連〔の法〕(止と観)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [141]学び(戒律)の、受持の義(意味)が、証知されるべきである。対象(認識対象)の、境涯(認識範囲)の義(意味)が、証知されるべきである。畏縮した心の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。高揚した心の、制御の義(意味)が、証知されるべきである。〔畏縮した心と高揚した心の〕両者の清浄の、客観(客観的認識)の義(意味)が、証知されるべきである。殊勝〔の境地〕への到達(証得)の義(意味)が、証知されるべきである。より上なる理解(通達)の義(意味)が、証知されるべきである。真理の知悉(現観)の義(意味)が、証知されるべきである。止滅において確立させるものの義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [142]信の機能(信根)の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。精進の機能(精進根)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。気づきの機能(念根)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。禅定の機能(定根)の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。智慧の機能(慧根)の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [143]信の力(信力)の、不信にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。精進の力(精進力)の、怠惰にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。気づきの力(念力)の、放逸にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。禅定の力(定力)の、〔心の〕高揚(掉挙)にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。智慧の力(慧力)の、無明にたいする、不動の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [144]気づきという正覚の支分(念覚支)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)の、精査の義(意味)が、証知されるべきである。精進という正覚の支分(精進覚支)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。喜悦という正覚の支分(喜覚支)の、充満の義(意味)が、証知されるべきである。静息という正覚の支分(軽安覚支)の、寂止の義(意味)が、証知されるべきである。禅定という正覚の支分(定覚支)の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。放捨(:客観的認識)という正覚の支分(捨覚支)の、審慮(客観的観察)の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [145]正しい見解(正見)の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。正しい思惟(正思惟)の、〔正しく心を〕固定することの義(意味)が、証知されるべきである。正しい言葉(正語)の、遍き収取(理解・把握)の義(意味)が、証知されるべきである。正しい行業(正業)の、等しく現起するものの義(意味)が、証知されるべきである。正しい生き方(正命)の、浄化するものの義(意味)が、証知されるべきである。【17】正しい努力(正精進)の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。正しい気づき(正念)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。正しい禅定(正定)の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。

 

13.

 

 [146]〔五つの〕機能(五根)の、優位の義(意味)が、証知されるべきである。〔五つの〕力(五力)の、不動の義(意味)が、証知されるべきである。〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。〔聖なる八つの支分ある〕道(八正道八聖道)の、因の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕正しい精励(四正勤)の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕神通の足場(四神足)の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕真理(四諦)の、真実の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの〕専念〔努力〕(四加行)の、安息の義(意味)が、証知されるべきである。〔四つの沙門の〕果(四沙門果)の、実証の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [147]思考()の、〔心を〕固定することの義(意味)が、証知されるべきである。想念()の、細かい想念の義(意味)が、証知されるべきである。喜悦()の、充満の義(意味)が、証知されるべきである。安楽()の、潤沢の義(意味)が、証知されるべきである。心の、一境の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [148]傾注することの義(意味)が、証知されるべきである。識知することの義(意味)が、証知されるべきである。覚知することの義(意味)が、証知されるべきである。表象することの義(意味)が、証知されるべきである。〔心の〕専一の義(意味)が、証知されるべきである。証知の、所知の義(意味)が、証知されるべきである。遍知の、推量の義(意味)が、証知されるべきである。捨棄の、遍捨の義(意味)が、証知されるべきである。修行の、一味の義(意味)が、証知されるべきである。実証の、体得の義(意味)が、証知されるべきである。〔五つの心身を構成する〕範疇(五蘊)の、範疇()の義(意味)が、証知されるべきである。〔十八の〕界域(十八界)の、界域()の義(意味)が、証知されるべきである。〔十二の認識の〕場所(十二処)の、〔認識の〕場所()の義(意味)が、証知されるべきである。諸々の形成されたもの(現象世界)の、形成されたもの(有為)の義(意味)が、証知されるべきである。形成されたものではないもの(涅槃)の、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)が、証知されるべきである。

 

14.

 

 [149]心の義(意味)が、証知されるべきである。心の直後なることの義(意味)が、証知されるべきである。心の、出起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、還転の義(意味)が、証知されるべきである。心の、因の義(意味)が、証知されるべきである。心の、縁の義(意味)が、証知されるべきである。心の、基盤の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境地の義(意味)が、証知されるべきである。心の、対象の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境涯の義(意味)が、証知されるべきである。心の、性行の義(意味)が、証知されるべきである。心の、境遇の義(意味)が、証知されるべきである。心の、導引の義(意味)が、証知されるべきである。心の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。心の、出離の義(意味)が、証知されるべきである。

 

15.

 

 [150]一なることにおける、傾注することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、識知することの義(意味)が、【18】証知されるべきである。一なることにおける、覚知することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、表象することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、〔心の〕専一の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、連結の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、跳入することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、清信することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、確立することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、解脱することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、「これは、寂静である」と見ることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、乗物(手段)として作り為されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、地所(基盤)として作り為されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、奮起されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、遍く蓄積されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く正しく勉励されたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、遍き収取の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、付属の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、円満成就の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、配備の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、確立の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、習修の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、修行の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、多くの行為(多作・多修)の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く引き起こされたものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、善く解脱したものの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚ることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、醒覚することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚らせることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、醒覚させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚させることの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、覚り(菩提)の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随覚の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、醒覚の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、正覚の項目の義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、照らすことの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、輝照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、随照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、明照することの義(意味)が、証知されるべきである。一なることにおける、等照することの義(意味)が、証知されるべきである。

 

16.

 

 [151]輝かすことの義(意味)が、証知されるべきである。遍照することの義(意味)が、証知されるべきである。諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を熱苦させることの義(意味)が、証知されるべきである。垢なきの義(意味)が、証知されるべきである。離垢の義(意味)が、証知されるべきである。無垢の義(意味)が、証知されるべきである。平等(平静)の義(意味)が、証知されるべきである。行知の義(意味)が、証知されるべきである。遠離の義(意味)が、証知されるべきである。遠離の性行の義(意味)が、証知されるべきである。離貪の義(意味)が、証知されるべきである。離貪の性行の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の義(意味)が、証知されるべきである。【19】止滅の性行の義(意味)が、証知されるべきである。放棄の義(意味)が、証知されるべきである。放棄の性行の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の義(意味)が、証知されるべきである。解脱の性行の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [152]欲〔の思い〕(意欲)の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。欲〔の思い〕の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [153]精進の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。精進の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [154]心(専心)の義(意味)が、証知されるべきである。心の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。心の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。心の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。心の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。心の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。心の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。心の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。心の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [155]考察の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、根元の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、足場の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、精励の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、実現の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、信念の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、励起の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、現起の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、証知されるべきである。考察の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。

 

17.

 

 [156]苦痛の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、逼悩の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、形成されたもの(有為)の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、熱苦の義(意味)が、証知されるべきである。苦痛の、変化の義(意味)が、証知されるべきである。集起の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、専業(業を作ること)の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、因縁の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、束縛の義(意味)が、証知されるべきである。集起の、障害の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の義(意味)が、証知されるべきである。【20】止滅の、出離の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、遠離の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)が、証知されるべきである。止滅の、不死の義(意味)が、証知されるべきである。道の義(意味)が、証知されるべきである。道の、出脱の義(意味)が、証知されるべきである。道の、因の義(意味)が、証知されるべきである。道の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、証知されるべきである。道の、優位の義(意味)が、証知されるべきである。

 

 [157]真実の義(意味)が、証知されるべきである。無我の義(意味)が、証知されるべきである。真理の義(意味)が、証知されるべきである。理解の義(意味)が、証知されるべきである。証知することの義(意味)が、証知されるべきである。遍知することの義(意味)が、証知されるべきである。法(性質)の義(意味)が、証知されるべきである。界域の義(意味)が、証知されるべきである。所知の義(意味)が、証知されるべきである。実証の義(意味)が、証知されるべきである。体得の義(意味)が、証知されるべきである。知悉(現観)の義(意味)が、証知されるべきである。

 

18.

 

 [158]離欲(出離)が、証知されるべきである。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、証知されるべきである。光明の表象(鋭敏で明確な対象認知)が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕が、証知されるべきである。法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、証知されるべきである。知恵()が、証知されるべきである。歓喜が、証知されるべきである。

 

 [159]第一の瞑想(初禅・第一禅)が、証知されるべきである。第二の瞑想(第二禅)が、証知されるべきである。第三の瞑想(第三禅)が、証知されるべきである。第四の瞑想(第四禅)が、証知されるべきである。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定が、証知されるべきである。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定が、証知されるべきである。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定が、証知されるべきである。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定が、証知されるべきである。

 

 [160]無常の随観が、証知されるべきである。苦痛の随観が、証知されるべきである。無我の随観が、証知されるべきである。厭離の随観が、証知されるべきである。離貪の随観が、証知されるべきである。止滅の随観が、証知されるべきである。放棄の随観が、証知されるべきである。滅尽の随観が、証知されるべきである。衰失の随観が、証知されるべきである。変化の随観が、証知されるべきである。無相の随観が、証知されるべきである。無願の随観が、証知されるべきである。空性の随観が、証知されるべきである。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)が、証知されるべきである。危険の随観が、証知されるべきである。審慮(客観的観察)の随観が、証知されるべきである。還転の随観が、証知されるべきである。

 

19.

 

 [161]預流道が、証知されるべきである。預流果への入定が、証知されるべきである。一来道が、証知されるべきである。一来果への入定が、証知されるべきである。不還道が、証知されるべきである。【21】不還果への入定が、証知されるべきである。阿羅漢道が、証知されるべきである。阿羅漢果への入定が、証知されるべきである。

 

 [162]信念の義(意味)によって、信の機能が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、精進の機能が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、気づきの機能が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、証知されるべきである。

 

 [163]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力が、証知されるべきである。怠惰にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力が、証知されるべきである。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力が、証知されるべきである。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、禅定の力が、証知されるべきである。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分が、証知されるべきである。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分が、証知されるべきである。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分が、証知されるべきである。寂止の義(意味)によって、静息という正覚の支分が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定という正覚の支分が、証知されるべきである。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分が、証知されるべきである。

 

 [164]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、証知されるべきである。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、証知されるべきである。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、証知されるべきである。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、証知されるべきである。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、証知されるべきである。励起の義(意味)によって、正しい努力が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、証知されるべきである。

 

 [165]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、証知されるべきである。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、証知されるべきである。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、証知されるべきである。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道が、証知されるべきである。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、証知されるべきである。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、証知されるべきである。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、証知されるべきである。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、証知されるべきである。

 

 [166]〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、証知されるべきである。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、証知されるべきである。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、証知されるべきである。

 

 [167]統御の義(意味)によって、戒の清浄が、証知されるべきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、証知されるべきである。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、【22】証知されるべきである。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)が、証知されるべきである。理解の義(意味)によって、明知が、証知されるべきである。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)が、証知されるべきである。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、証知されるべきである。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵が、証知されるべきである。

 

20.

 

 [168]欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、証知されるべきである。意を為すこと(作意)が、等しく現起するものの義(意味)によって、証知されるべきである。接触()が、配備の義(意味)によって、証知されるべきである。感受()が、集結の義(意味)によって、証知されるべきである。禅定(定・三昧)が、筆頭の義(意味)によって、証知されるべきである。気づき()が、優位の義(意味)によって、証知されるべきである。智慧(慧・般若)が、それをより上とすることの義(意味)によって、証知されるべきである。解脱(ヴィムッティ)が、真髄の義(意味)によって、証知されるべきである。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、証知されるべきである。

 

 [169]それぞれの諸法(性質)が、証知されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、所知のものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)が、証知されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

 [170]〔以上が〕第二の朗読分となる。

 

21.

 

 [171](2)どのように、「これらの法(性質)が、遍知されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [172]一つの法(性質)が、遍知されるべきである。煩悩を有するもの(有漏)としてあり、〔凡夫によって〕執取されるべき接触()である。

 

 [173]二つの法(性質)が、遍知されるべきである。そして、名前(:精神的事象)であり、さらに、形態(:物質的形態)である。

 

 [174]三つの法(性質)が、遍知されるべきである。三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。

 

 [175]四つの法(性質)が、遍知されるべきである。四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)である。

 

 [176]五つの法(性質)が、遍知されるべきである。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)である。

 

 [177]六つの法(性質)が、遍知されるべきである。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)である。

 

 [178]七つの法(性質)が、遍知されるべきである。七つの識知〔作用〕の止住(七識住:種々なる身体と種々なる表象ある有情・種々なる身体と一なる表象ある有情・一なる身体と種々なる表象ある有情・一なる身体と一なる表象ある有情・空無辺処に属する有情・識無辺処に属する有情・無所有処に属する有情)である。

 

 [179]八つの法(性質)が、遍知されるべきである。八つの世の法(八世間法:利得・利得なき・盛名・盛名なき・安楽・苦痛・非難・賞賛)である。

 

 [180]九つの法(性質)が、遍知されるべきである。九つの有情の居住所(九有情居:種々なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所・一なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・一なる身体と一なる表象ある有情の居住所・表象なく得知なき有情の居住所・空無辺処に属する有情の居住所・識無辺処に属する有情の居住所・無所有処に属する有情の居住所・非想非非想処に属する有情の居住所)である。

 

 [181]十の法(性質)が、遍知されるべきである。十の〔認識の〕場所(十処:眼処・色処・耳処・音処・鼻処・香処・舌処・味処・身処・所触処)である。

 

 [182]比丘たちよ、一切が、遍知されるべきである。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、遍知されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、遍知されるべきである。諸々の形態が、遍知されるべきである。眼の識知〔作用〕が、遍知されるべきである。眼の接触が、遍知されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、【23】それもまた、遍知されるべきである。耳が、遍知されるべきである。諸々の音声が、遍知されるべきである。……略……。鼻が、遍知されるべきである。諸々の臭気が、遍知されるべきである。……。舌が、遍知されるべきである。諸々の味感が、遍知されるべきである。……。身が、遍知されるべきである。諸々の感触が、遍知されるべきである。……。意が、遍知されるべきである。諸々の法(意の対象)が、遍知されるべきである。意の識知〔作用〕が、遍知されるべきである。意の接触が、遍知されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、遍知されるべきである。形態が、遍知されるべきである。感受〔作用〕が、遍知されるべきである。表象〔作用〕が、遍知されるべきである。諸々の形成〔作用〕が、遍知されるべきである。識知〔作用〕が、遍知されるべきである。眼が、遍知されるべきである。……略([107-116]参照)……。老と死が、遍知されるべきである。……略([117-168]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、遍知されるべきである。それぞれの諸法(性質)の獲得を義(目的)として努力しているなら、それぞれの諸法(性質)は、獲得されたものと成る。このように、それらの法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

22.

 

 [183]離欲の獲得を義(目的)として努力しているなら、離欲は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の獲得を義(目的)として努力しているなら、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。光明の表象の獲得を義(目的)として努力しているなら、光明の表象は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。〔心の〕散乱なき〔状態〕の獲得を義(目的)として努力しているなら、〔心の〕散乱なき〔状態〕は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの獲得を義(目的)として努力しているなら、法(性質)〔の差異〕を定め置くことは、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。知恵の獲得を義(目的)として努力しているなら、知恵は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。歓喜の獲得を義(目的)として努力しているなら、歓喜は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

 [184]【24】第一の瞑想の獲得を義(目的)として努力しているなら、第一の瞑想は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。第二の瞑想の……略……。第三の瞑想の……。第四の瞑想の獲得を義(目的)として努力しているなら、第四の瞑想は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として努力しているなら、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として努力しているなら、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として努力しているなら、無所有なる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として努力しているなら、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

 [185]無常の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、無常の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。苦痛の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、苦痛の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。無我の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、無我の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。厭離の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、厭離の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。離貪の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、離貪の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。止滅の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、止滅の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。放棄の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、【25】放棄の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。滅尽の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、滅尽の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。衰失の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、衰失の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。変化の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、変化の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。無相の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、無相の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。無願の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、無願の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。空性の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、空性の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

 [186]卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察の獲得を義(目的)として努力しているなら、卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。事実のとおりの知見の獲得を義(目的)として努力しているなら、事実のとおりの知見は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。危険の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、危険の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。審慮の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、審慮の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。還転の随観の獲得を義(目的)として努力しているなら、還転の随観は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

 [187]預流道の獲得を義(目的)として努力しているなら、預流道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。【26】一来道の獲得を義(目的)として努力しているなら、一来道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。不還道の獲得を義(目的)として努力しているなら、不還道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。阿羅漢道の獲得を義(目的)として努力しているなら、阿羅漢道は、獲得されたものと成る。このように、その法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。

 

 [188]それぞれの諸法(性質)の獲得を義(目的)として努力しているなら、それぞれの諸法(性質)は、獲得されたものと成る。このように、それらの法(性質)は、まさしく、そして、遍知されたものと成り、さらに、推量されたものと〔成る〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)が、遍知されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

 [189]〔以上が〕遍知されるべきものについての釈示となる。

 

23.

 

 [190](3)どのように、「これらの法(性質)が、捨棄されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [191]一つの法(性質)が、捨棄されるべきである。「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)である。

 

 [192]二つの法(性質)が、捨棄されるべきである。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)である。

 

 [193]三つの法(性質)が、捨棄されるべきである。三つの渇愛(三愛:欲望の渇愛・生存の渇愛・非生存の渇愛)である。

 

 [194]四つの法(性質)が、捨棄されるべきである。四つの激流(四暴流:欲望・生存・見解・無明)である。

 

 [195]五つの法(性質)が、捨棄されるべきである。五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)である。

 

 [196]六つの法(性質)が、捨棄されるべきである。六つの渇愛の体系(六愛身:形態への渇愛・音声への渇愛・臭気への渇愛・味感への渇愛・感触への渇愛・法への渇愛)である。

 

 [197]七つの法(性質)が、捨棄されるべきである。七つの悪習(七随眠:欲貪・敵対・見解・疑惑・思量・生存欲・無明)である。

 

 [198]八つの法(性質)が、捨棄されるべきである。八つの誤った〔道〕たること(八邪性:誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った行業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った禅定)である。

 

 [199]九つの法(性質)が、捨棄されるべきである。九つの渇愛を根元とするもの(九愛根:渇愛を縁として生起する遍き探し求め・遍き探し求めを縁として生起する利得・利得を縁として生起する判別・判別を縁として生起する欲の思いと貪りの思い・欲の思いと貪りの思いを縁として生起する固執・固執を縁として生起する執持・執持を縁として生起する物惜・物惜を縁として生起する守護・守護のために生起する棒を取ること等の不善の諸法)である。

 

 [200]十の法(性質)が、捨棄されるべきである。十の誤った〔道〕たること(十邪性:誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った行業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った禅定・誤った知恵・誤った解脱)である。

 

24.

 

 [201]二つの捨棄がある。(1)断絶の捨棄、(2)安息の捨棄である。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の捨棄がある。さらに、果の瞬間において、安息の捨棄がある。

 

 [202]三つの捨棄がある。(1)諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、離欲である。(2)諸々の形態()にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、形態なきもの(無色)である。(3)また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの(有為)、縁によって生起したもの(縁已生)であるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となる。(1)離欲を獲得した者にとって、諸々の欲望〔の対象〕は、まさしく、そして、諸々の捨棄されたものと成り、さらに、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。(2)形態なきものを獲得した者にとって、諸々の形態は、まさしく、そして、諸々の捨棄されたものと成り、さらに、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。(3)止滅〔の入定〕を獲得した者にとって、諸々の形成されたものは、まさしく、そして、諸々の捨棄されたものと成り、さらに、諸々の遍捨されたものと〔成る〕。

 

 [203]四つの捨棄がある。(1)苦痛という真理(苦諦)を、遍知の理解として、理解している者は捨棄する。(2)集起という真理(集諦)を、【27】捨棄の理解として、理解している者は捨棄する。(3)止滅という真理(滅諦)を、実証の理解として、理解している者は捨棄する。(4)道という真理(道諦)を、修行の理解として、理解している者は捨棄する。

 

 [204]五つの捨棄がある。(1)鎮静の捨棄、(2)特性の捨棄、(3)断絶の捨棄、(4)安息の捨棄、(5)出離の捨棄である。(1)そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の捨棄がある。(2)そして、洞察〔の智慧〕を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の捨棄がある。(3)そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の捨棄がある。(4)そして、果の瞬間において、安息の捨棄がある。(5)そして、止滅の涅槃としての、出離の捨棄がある。

 

 [205]比丘たちよ、一切が、捨棄されるべきである。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、捨棄されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、捨棄されるべきである。諸々の形態が、捨棄されるべきである。眼の識知〔作用〕が、捨棄されるべきである。眼の接触が、捨棄されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきである。耳が、捨棄されるべきである。諸々の音声が、捨棄されるべきである。……略……。鼻が、捨棄されるべきである。諸々の臭気が、捨棄されるべきである。……。舌が、捨棄されるべきである。諸々の味感が、捨棄されるべきである。……。身が、捨棄されるべきである。諸々の感触が、捨棄されるべきである。……。意が、捨棄されるべきである。諸々の法(意の対象)が、捨棄されるべきである。意の識知〔作用〕が、捨棄されるべきである。意の接触が、捨棄されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、捨棄されるべきである。形態を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。識知〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を……略([117-168]参照)……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は捨棄する。それぞれの諸法(性質)が、諸々の捨棄されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、諸々の遍捨されたものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)が、捨棄されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

 [206]〔以上が〕第三の朗読分となる。

 

25.

 

 [207]【28】(4)どのように、「これらの法(性質)が、修行されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [208]一つの法(性質)が、修行されるべきである。快楽(安楽)を共具したものとしてある、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)である。

 

 [209]二つの法(性質)が、修行されるべきである。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)である。

 

 [210]三つの法(性質)が、修行されるべきである。三つの禅定(三定:有尋有伺・無尋唯伺・無尋無伺)である。

 

 [211]四つの法(性質)が、修行されるべきである。四つの気づきの確立(四念住:身念住・受念住・心念住・法念住)である。

 

 [212]五つの法(性質)が、修行されるべきである。五つの支分ある〔瞑想〕における禅定(五支定:喜悦の充満・安楽の充満・心の充満・光明の充満・注視の形相)である。

 

 [213]六つの法(性質)が、修行されるべきである。六つの随念の拠点(六随念処:仏随念・法随念・僧随念・戒随念・施随念・天随念)である。

 

 [214]七つの法(性質)が、修行されるべきである。七つの覚りの支分(七覚支:念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支)である。

 

 [215]八つの法(性質)が、修行されるべきである。聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)である。

 

 [216]九つの法(性質)が、修行されるべきである。九つの完全なる清浄の精励の支分(九清浄精勤支:戒の清浄・心の清浄・見解の清浄・疑惑の超渡の清浄・道と道ならざるものの知見の清浄・実践の道の知見の清浄・知見の清浄・智慧の清浄・解脱の清浄)である。

 

 [217]十の法(性質)が、修行されるべきである。十の遍満の〔認識の〕場所(十遍処:地遍・水遍・火遍・風遍・青遍・黄遍・赤遍・白遍・空遍・識遍)である。

 

26.

 

 [218]二つの修行がある。(1)そして、世〔俗〕の修行であり、(2)さらに、世〔俗〕を超える修行である。

 

 [219]三つの修行がある。(1)形態の行境(色界)の善なる諸法(性質)のための修行、(2)形態なき行境(無色界)の善なる諸法(性質)のための修行、(3)属するところなき善なる諸法(性質)のための修行である。(1)形態の行境の善なる諸法(性質)のための修行として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在する。(2)形態なき行境の善なる諸法(性質)のための修行として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在する。(3)属するところなき善なる諸法(性質)のための修行は、精妙なるものとなる。

 

27.

 

 [220]四つの修行がある。(1)苦痛という真理を、遍知の理解として、理解している者は修行する。(2)集起という真理を、捨棄の理解として、理解している者は修行する。(3)止滅という真理を、実証の理解として、理解している者は修行する。(4)道という真理を、修行の理解として、理解している者は修行する。これらの四つの修行がある。

 

 [221]他にも、また、四つの修行がある。(1)探求の修行、(2)獲得の修行、(3)一味の修行、(4)習修の修行である。

 

 [222](1)どのようなものが、探求の修行であるのか。禅定に入定している全ての者たちにとって、そこにおいて生じた諸法(性質)は、一味のものと成る(作用・働きを同じくする)、ということで、これが、探求の修行である。

 

 [223](2)どのようなものが、獲得の修行であるのか。禅定に入定している全ての者たちにとって、そこにおいて生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない(他を遮らずに併存する)、ということで、これが、獲得の修行である。

 

 [224](3)どのようなものが、一味の修行であるのか。信念の義(意味)によって、信の機能を修行していると、信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、【29】修行となる。励起の義(意味)によって、精進の機能を修行していると、精進の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。現起の義(意味)によって、気づきの機能を修行していると、気づきの機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能を修行していると、禅定の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能を修行していると、智慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 

 [225]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を修行していると、信の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。怠惰にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力を修行していると、精進の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力を修行していると、気づきの力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、禅定の力を修行していると、禅定の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力を修行していると、智慧の力を所以に、〔他の〕四つの力は、一味のものと成る、ということで、〔他の四つの〕力の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 

 [226]現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を修行していると、気づきという正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分を修行していると、法(真理)の判別という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分を修行していると、精進という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分を修行していると、喜悦という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。寂止の義(意味)によって、静息という正覚の支分を修行していると、静息という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定という正覚の支分を修行していると、禅定という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、【30】〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分を修行していると、放捨という正覚の支分を所以に、〔他の〕六つの覚りの支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の六つの〕覚りの支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 

 [227]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を修行していると、正しい見解を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟を修行していると、正しい思惟を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉を修行していると、正しい言葉を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業を修行していると、正しい行業を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方を修行していると、正しい生き方を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。励起の義(意味)によって、正しい努力を修行していると、正しい努力を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。現起の義(意味)によって、正しい気づきを修行していると、正しい気づきを所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定を修行していると、正しい禅定を所以に、〔他の〕七つの道の支分は、一味のものと成る、ということで、〔他の七つの〕道の支分の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 

 [228](4)どのようなものが、習修の修行であるのか。ここに、比丘が、早刻時に習修し、日中時にもまた習修し、夕刻時にもまた習修し、食前にもまた習修し、食後にもまた習修し、初更(宵の内)にもまた習修し、中更(真夜中)にもまた習修し、後更(明け方)にもまた習修し、夜にもまた習修し、昼にもまた習修し、昼夜にもまた習修し、黒〔分〕(月が欠ける期間)にもまた習修し、白〔分〕(月が満ちる期間)にもまた習修し、雨期にもまた習修し、冬にもまた習修し、夏にもまた習修し、初年期(青年期)にもまた習修し、中年期(壮年期)にもまた習修し、後年期(老年期)にもまた習修する。これが、習修の修行である。これらの四つの修行がある。

 

28.

 

 [229]他にも、また、四つの修行がある。(1)そこにおいて生じた諸法(性質)の、【31】〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。(2)〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。(3)それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。(4)習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [230](1)どのように、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)を捨棄していると、離欲を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。憎悪〔の思い〕()を捨棄していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄していると、光明の表象を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔心の〕高揚(掉挙)を捨棄していると、〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。疑惑〔の思い〕()を捨棄していると、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。無明を捨棄していると、知恵を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。不満〔の思い〕を捨棄していると、歓喜を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔五つの修行の〕妨害(五蓋)を捨棄していると、第一の瞑想(初禅第一禅)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念(尋伺)を捨棄していると、第二の瞑想(第二禅)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。喜悦()を捨棄していると、第三の瞑想(第三禅)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。安楽と苦痛(楽苦)を捨棄していると、第四の瞑想(第四禅)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。

 

 [231]形態の表象(色想)を、敵対の表象(有対想)を、種々なる表象(異想)を、捨棄していると、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を【32】超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を捨棄していると、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を捨棄していると、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。無所有なる〔認識の〕場所の表象を捨棄していると、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。

 

 [232]常住の表象を捨棄していると、無常の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。安楽の表象を捨棄していると、苦痛の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。自己の表象を捨棄していると、無我の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。愉悦を捨棄していると、厭離の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。貪欲を捨棄していると、離貪の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。集起を捨棄していると、止滅の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。執取を捨棄していると、放棄の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。重厚の表象を捨棄していると、滅尽の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。専業(業を作ること)を捨棄していると、衰失の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。常恒の表象を捨棄していると、変化の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。形相(概念把握)を捨棄していると、無相の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた【33】諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。切願を捨棄していると、無願の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。固着(固定観念)を捨棄していると、空性の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。真髄への執取の固着を捨棄していると、卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。迷妄の固着を捨棄していると、事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。執着の固着を捨棄していると、危険の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。審慮なき〔状態〕を捨棄していると、審慮の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。束縛の固着を捨棄していると、還転の随観を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。

 

 [233]〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を捨棄していると、預流道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。粗大なる諸々の〔心の〕汚れを捨棄していると、一来道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れを捨棄していると、不還道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、生じた諸法(性質)は、互いに他を超克することがない、ということで、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。このように、そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。

 

 [234](2)どのように、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、五つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。憎悪〔の思い〕を捨棄していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、五つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。……略([230-233]参照)……。【34】〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、五つの機能は、一味のものと成る、ということで、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。このように、〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。

 

 [235](3)どのように、それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、精進をもたらす、ということで、それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。憎悪〔の思い〕を捨棄していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、精進をもたらす、ということで、それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。……略([230-233]参照)……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、精進をもたらす、ということで、それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。このように、それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。

 

 [236](4)どのように、習修の義(意味)によって、修行となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる。……略([230-233]参照)……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を習修する、ということで、習修の義(意味)によって、修行となる。このように、習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [237]これらの四つの修行がある。形態を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。識知〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は修行する。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を……略([117-168]参照)……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は修行する。それぞれの諸法(性質)が、諸々の修行されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、一味のもの(作用・働きを同じくするもの)と成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)が、修行されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

 [238]〔以上が〕第四の朗読分となる。

 

29.

 

 [239](5)どのように、「これらの法(性質)が、実証されるべきである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [240]一つの法(性質)が、実証されるべきである。不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)である。

 

 [241]二つの法(性質)が、実証されるべきである。そして、明知であり、さらに、解脱である。

 

 [242]三つの法(性質)が、実証されるべきである。三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)である。

 

 [243]四つの法(性質)が、実証されるべきである。四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)である。

 

 [244]五つの法(性質)が、実証されるべきである。五つの法(性質)の範疇(五法蘊:戒・定・慧・解脱・解脱知見)である。

 

 [245]六つの法(性質)が、実証されるべきである。【35】六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)である。

 

 [246]七つの法(性質)が、実証されるべきである。七つの煩悩の滅尽者の力(七漏尽力:諸行無常を正しい智慧によって事実のとおりに見る力・諸々の欲望の対象を正しい智慧によって事実のとおりに見る力・煩悩の諸法を終結した力・四念住を修行した力・五根を修行した力・七覚支を修行した力・八正道を修行した力)である。

 

 [247]八つの法(性質)が、実証されるべきである。八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)である。

 

 [248]九つの法(性質)が、実証されるべきである。九つの順次の止滅(九次第滅:第一禅の入定者による欲望の対象の表象の止滅・第二禅の入定者による思考と想念の止滅・第三禅の入定者による喜悦の止滅・第四禅の入定者による出息と入息の止滅・空無辺処の入定者による形態の表象の止滅・識無辺処の入定者による空無辺処の止滅・無所有処の入定者による識無辺処の止滅・非想非非想処の入定者による無所有処の止滅・想受滅の入定者による表象と感覚の止滅)である。

 

 [249]十の法(性質)が、実証されるべきである。十の学ぶことなき者の法(十無学法:無学者の正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定・正智・正解脱)である。

 

 [250]比丘たちよ、一切が、実証されるべきである。比丘たちよ、では、どのようなものとして、一切が、実証されるべきであるのか。比丘たちよ、眼が、実証されるべきである。諸々の形態が、実証されるべきである。眼の識知〔作用〕が、実証されるべきである。眼の接触が、実証されるべきである。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、実証されるべきである。耳が、実証されるべきである。諸々の音声が、実証されるべきである。……略……。鼻が、実証されるべきである。諸々の臭気が、実証されるべきである。……。舌が、実証されるべきである。諸々の味感が、実証されるべきである。……。身が、実証されるべきである。諸々の感触が、実証されるべきである。……。意が、実証されるべきである。諸々の法(意の対象)が、実証されるべきである。意の識知〔作用〕が、実証されるべきである。意の接触が、実証されるべきである。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、実証されるべきである。形態を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。感受〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。表象〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。諸々の形成〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。識知〔作用〕を、〔あるがままに〕見ている者は実証する。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を……略([117-168]参照)……。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって、〔あるがままに〕見ている者は実証する。それぞれの諸法(性質)が、諸々の実証されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、体得されたものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)が、実証されるべきである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

30.

 

 [251](6・7・8・9)どのように、「これらの法(性質)は、退失を部分とするものである」「これらの法(性質)は、止住を部分とするものである」「これらの法(性質)は、殊勝を部分とするものである」「これらの法(性質)は、洞察を部分とするものである」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [252]第一の瞑想(初禅・第一禅)の得者に、欲望を共具したものとして、諸々の表象()に意を為すこと(作意)が慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づき()が確立する──止住を部分とする法(性質)である。思考なきもの(無尋)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──【36】洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [253]第二の瞑想(第二禅)の得者に、思考()を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。放捨()と安楽()を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [254]第三の瞑想(第三禅)の得者に、喜悦と安楽(喜楽)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。苦でもなく楽でもないもの(不苦不楽)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [255]第四の瞑想(第四禅)の得者に、放捨と安楽を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [256]虚空無辺なる〔認識の〕場所の得者に、形態()を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [257]識知無辺なる〔認識の〕場所の得者に、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする法(性質)である。

 

 [258]無所有なる〔認識の〕場所の得者に、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──退失を部分とする法(性質)である。その法(性質)のままなることとして、気づきが確立する──止住を部分とする法(性質)である。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──殊勝を部分とする法(性質)である。厭離を共具したものとして、離貪を伴ったものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となる──洞察を部分とする【37】法(性質)である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これらの法(性質)は、退失を部分とするものである』『これらの法(性質)は、止住を部分とするものである』『これらの法(性質)は、殊勝を部分とするものである』『これらの法(性質)は、洞察を部分とするものである』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

31.

 

 [259](10・11・12)どのように、「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。「形態は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……。「眼は……略([107-116]参照)……。「老と死は、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『一切の形成〔作用〕は、無常である』『一切の形成〔作用〕は、苦痛である』『一切の法(事象)は、無我である』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。

 

32.

 

 [260](13・14・15・16)どのように、「これは、苦痛という聖なる真理である(苦諦)」「これは、苦痛の集起という聖なる真理である(集諦)」「これは、苦痛の止滅という聖なる真理である(滅諦)」「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である(道諦)」と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となるのか。

 

33.

 

 [261]そこにおいて、どのようなものが、苦痛という聖なる真理であるのか。(1)生もまた、苦痛である。(2)老もまた、苦痛である。(3)死もまた、苦痛である。(4・5・6・7・8)諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦痛である。(9)諸々の愛しからざるものとの結合(怨憎会)は、苦痛である。(10)諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦痛である。(11)すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦痛である。(12)簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦痛である。

 

 [262](1)そこにおいて、どのようなものが、生であるのか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得である。これが、生と説かれる。

 

 [263](2)そこにおいて、どのようなものが、老であるのか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟である。これが、老と説かれる。

 

 [264]【38】(3)そこにおいて、どのようなものが、死であるのか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能(命根)の断絶である。これが、死と説かれる。

 

 [265](4)そこにおいて、どのようなものが、憂いであるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢である。これが、憂いと説かれる。

 

 [266](5)そこにおいて、どのようなものが、嘆きであるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあることである。これが、嘆きと説かれる。

 

 [267](6)そこにおいて、どのようなものが、苦痛であるのか。すなわち、身体の属性としての不快、身体の属性としての苦痛、身体の接触から生じる不快や苦痛として感受されたもの、身体の接触から生じる不快や苦痛の感受である。これが、苦痛と説かれる。

 

 [268](7)そこにおいて、どのようなものが、失意であるのか。すなわち、心の属性としての不快、心の属性としての苦痛、心の接触から生じる不快や苦痛として感受されたもの、心の接触から生じる不快や苦痛の感受である。これが、失意と説かれる。

 

 [269](8)そこにおいて、どのようなものが、葛藤であるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤すること、苦労あること、葛藤あることである。これが、葛藤と説かれる。

 

 [270](9)そこにおいて、どのようなものが、諸々の愛しからざるものとの結合の苦痛であるのか。ここに、【39】彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する者たちとして有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合、遭遇、配備、混合の状態である。これが、諸々の愛しからざるものとの結合と説かれる。

 

 [271](10)そこにおいて、どのようなものが、諸々の愛しいものとの別離の苦痛であるのか。ここに、彼にとって、それらのものが、好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちとして──あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、兄弟が、あるいは、姉妹が、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが──有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合なきこと、遭遇なきこと、配備なきこと、混合なき状態である。これが、諸々の愛しいものとの別離と説かれる。

 

 [272](11)そこにおいて、どのように、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛であるのか。生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起する。「ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず」と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではない。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛である。老の法(性質)ある有情たちに……略……。病の法(性質)ある有情たちに……。死の法(性質)ある有情たちに……。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起する。「ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず」と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではない。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦痛である。

 

 [273](12)そこにおいて、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦痛であるのか。それは、すなわち、この、形態の執取の範疇(色取蘊)、感受〔作用〕の執取の範疇(受取蘊)、表象〔作用〕の執取の範疇(想取蘊)、諸々の形成〔作用〕の執取の範疇(行取蘊)、識知〔作用〕の執取の範疇(識取蘊)である。これらのものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦痛と説かれる。これが、苦痛という聖なる真理と説かれる。

 

34.

 

 [274]そこにおいて、どのようなものが、苦痛の集起という聖なる真理であるのか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛である。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛:欲望の対象への渇愛)であり、生存の渇愛(有愛:常住・実体への渇愛)であり、非生存の渇愛(非有愛:断滅・虚無への渇愛)である。【40】また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。では、どのようなものが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるのか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。諸々の形態は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。諸々の音声が、世において、愛しい形態であり、快なる形態であり……略……。諸々の法(意の対象)は、世において……。眼の識知〔作用〕は、世において……略……。意の識知〔作用〕は、世において……。眼の接触は、世において……略……。意の接触は、世において……。眼の接触から生じる感受は、世において……略……。意の接触から生じる感受は、世において……。形態の表象は、世において……略……。法(意の対象)の表象は、世において……。形態の思欲は、世において……略……。法(意の対象)の思欲は、世において……。形態の渇愛は、世において……略……。法(意の対象)の渇愛は、世において……。形態の思考は、世において……略……。法(意の対象)の思考は、世において……。形態の想念は、世において……略……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。これが、苦痛の集起という聖なる真理と説かれる。

 

35.

 

 [275]そこにおいて、どのようなものが、苦痛の止滅という聖なる真理であるのか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕である。また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する。では、どのようなものが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるのか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する。……略([274]参照)……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ここにおいて、この渇愛は、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅する。これが、苦痛の止滅という聖なる真理と説かれる。

 

36.

 

 [276]そこにおいて、どのようなものが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理であるのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)である。それは、すなわち、この、(1)正しい見解(正見)であり、(2)正しい思惟(正思惟)であり、(3)正しい言葉(正語)であり、【41】(4)正しい行業(正業)であり、(5)正しい生き方(正命)であり、(6)正しい努力(正精進)であり、(7)正しい気づき(正念)であり、(8)正しい禅定(正定)である。(1)そこにおいて、どのようなものが、正しい見解であるのか。苦痛についての知恵であり、苦痛の集起についての知恵であり、苦痛の止滅についての知恵であり、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵である。これが、正しい見解と説かれる。

 

 [277](2)そこにおいて、どのようなものが、正しい思惟であるのか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟である。これが、正しい思惟と説かれる。

 

 [278](3)そこにおいて、どのようなものが、正しい言葉であるのか。虚偽を説くことからの離断であり、中傷の言葉からの離断であり、粗暴な言葉からの離断であり、雑駁な虚論からの離断である。これが、正しい言葉と説かれる。

 

 [279](4)そこにおいて、どのようなものが、正しい行業であるのか。命あるものを殺すことからの離断であり、与えられていないものを取ることからの離断であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)からの離断である。これが、正しい行業と説かれる。

 

 [280](5)そこにおいて、どのようなものが、正しい生き方であるのか。ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営む。これが、正しい生き方と説かれる。

 

 [281](6)そこにおいて、どのようなものが、正しい努力であるのか。ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。これが、正しい努力と説かれる。

 

 [282](7)そこにおいて、どのようなものが、正しい気づきであるのか。ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住む──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。これが、正しい気づきと説かれる。

 

 [283](8)そこにおいて、どのようなものが、正しい禅定であるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、【42】禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住む。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これが、正しい禅定と説かれる。これが、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「『これは、苦痛という聖なる真理である』『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』『これは、苦痛の止滅という聖なる真理である』『これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、傾聴することがあり、それを覚知することとしての智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる」と。このように、傾聴することにおける智慧が、所聞から作られるものについての知恵となる。

 

 [284]所聞から作られる知恵についての釈示が、第一となる。

 

1. 1. 2. 戒から作られる知恵についての釈示

 

37.

 

 [285]どのように、聞いて〔そののち〕、統御(律儀)における智慧が、戒から作られるものについての知恵となるのか。五つの戒がある。(1)制限ある完全なる清浄としての戒、(2)制限なき完全なる清浄としての戒、(3)円満成就した完全なる清浄としての戒、(4)〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒、(5)安息にして完全なる清浄としての戒である。ということで──

 

 [286](1)そこにおいて、どのようなものが、制限ある完全なる清浄としての戒であるのか。〔いまだ戒を〕成就していない〔出家者たち〕で、制限ある学びの境処(限定された有制限の戒)ある者たちの〔戒である〕。これが、制限ある完全なる清浄としての戒である。

 

 [287](2)どのようなものが、制限なき完全なる清浄としての戒であるのか。〔すでに戒を〕成就した〔出家者たち〕で、制限なき学びの境処(限定されない無制限の戒)ある者たちの〔戒である〕。これが、制限なき完全なる清浄としての戒である。

 

 [288](3)どのようなものが、円満成就した完全なる清浄としての戒であるのか。善なる諸法(性質)と結び付いた善き凡夫たちで、学びある者たち〔の学び〕を制限とする〔学び〕(有学者の三学を制限とする学び)において円満成就を為す者たちとなり、かつまた、身体について、かつまた、生命について、期待なき者たちとなり、生命を遍捨した者たちの〔戒である〕。これが、円満成就した完全なる清浄としての戒である。

 

 [289](4)どのようなものが、〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒であるのか。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)の〔戒である〕。これが、〔もはや〕偏執されない完全なる清浄としての戒である。

 

 [290]【43】(5)どのようなものが、安息にして完全なる清浄としての戒であるのか。如来の弟子たる煩悩の滅尽者たちや独覚(縁覚・辟支仏)たちや阿羅漢にして正等覚者たる如来たちの〔戒である〕。これが、安息にして完全なる清浄としての戒である。

 

38.

 

 [291](1)制限ある戒が存在する。(2)制限なき戒が存在する。

 

 [292](1)そこにおいて、どのようなものが、〔まさに〕その、制限ある戒であるのか。(1―1)利得を制限とする戒が存在する。(1―2)盛名を制限とする戒が存在する。(1―3)親族を制限とする戒が存在する。(1―4)肢体を制限とする戒が存在する。(1―5)生命を制限とする戒が存在する。

 

 [293](1―1)どのようなものが、〔まさに〕その、利得を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、利得を制限とする戒である。

 

 [294](1―2)どのようなものが、〔まさに〕その、盛名を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、盛名を因として、盛名を縁とすることから、盛名を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、盛名を制限とする戒である。

 

 [295](1―3)どのようなものが、〔まさに〕その、親族を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、親族を因として、親族を縁とすることから、親族を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、親族を制限とする戒である。

 

 [296](1―4)どのようなものが、〔まさに〕その、肢体を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、肢体を因として、肢体を縁とすることから、肢体を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、肢体を制限とする戒である。

 

 [297](1―5)どのようなものが、〔まさに〕その、生命を制限とする戒であるのか。ここに、一部の者が、生命を因として、生命を縁とすることから、生命を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯する。これが、〔まさに〕その、生命を制限とする戒である。このような形態の諸戒は、破断あるものであり、切断あるものであり、斑紋あるものであり、雑色あるものであり、〔渇愛から〕自由なるものではなく、識者によって賞賛されたものではなく、〔執着の思いで〕偏執されたものであり、禅定を転起させるものではなく、後悔なくあることの基盤となるものではなく、歓喜の基盤となるものではなく、喜悦の基盤となるものではなく、静息の基盤となるものではなく、安楽の基盤となるものではなく、禅定の基盤となるものではなく、事実のとおりの知見の基盤となるものではなく、一方的に、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起する。これが、〔まさに〕その、制限ある戒である。

 

 [298](2)どのようなものが、〔まさに〕その、制限なき戒であるのか。【44】(2―1)利得を制限としない戒が存在する。(2―2)盛名を制限としない戒が存在する。(2―3)親族を制限としない戒が存在する。(2―4)肢体を制限としない戒が存在する。(2―5)生命を制限としない戒が存在する。

 

 [299](2―1)どのようなものが、〔まさに〕その、利得を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、利得を制限としない戒である。

 

 [300](2―2)どのようなものが、〔まさに〕その、盛名を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、盛名を因として、盛名を縁とすることから、盛名を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、盛名を制限としない戒である。

 

 [301](2―3)どのようなものが、〔まさに〕その、親族を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、親族を因として、親族を縁とすることから、親族を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、親族を制限としない戒である。

 

 [302](2―4)どのようなものが、〔まさに〕その、肢体を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、肢体を因として、肢体を縁とすることから、肢体を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、肢体を制限としない戒である。

 

 [303](2―5)どのようなものが、〔まさに〕その、生命を制限としない戒であるのか。ここに、一部の者が、生命を因として、生命を縁とすることから、生命を契機とすることから、受持したとおりの学びの境処(戒律)に違犯するために、心でさえも、生起させることがない。彼は、何を違犯するというのだろう。これが、〔まさに〕その、生命を制限としない戒である。このような形態の諸戒は、破断なきものであり、切断なきものであり、斑紋なきものであり、雑色なきものであり、〔渇愛から〕自由なるものであり、識者によって賞賛されたものであり、〔執着の思いで〕偏執されたものではなく、禅定を転起させるものであり、後悔なくあることの基盤となるものであり、歓喜の基盤となるものであり、喜悦の基盤となるものであり、静息の基盤となるものであり、安楽の基盤となるものであり、禅定の基盤となるものであり、事実のとおりの知見の基盤となるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する。これが、〔まさに〕その、制限なき戒である。

 

39.

 

 [304]何が、戒であるのか。どれだけの、戒があるのか。何から等しく現起するものが、戒であるのか。どれだけの、法(性質)を配備する戒があるのか。

 

 [305]「何が、戒であるのか」とは、思欲(:心の思い・意志)が、戒であり、心の属性(心所:心に現起する作用・感情)が、戒であり、〔心身の〕統御(律儀)が、戒であり、〔身体と言葉について〕違犯なきことが、戒である。

 

 [306]「どれだけの、戒があるのか」とは、三つの戒がある。(1)善なる戒(善戒)、(2)善ならざる戒(不善戒)、(3)〔善悪が〕説き明かされない戒(無記戒)である。

 

 [307]「何から等しく現起するものが、戒であるのか」とは、(1)善なる心から等しく現起するものが、【45】善なる戒であり、(2)善ならざる心から等しく現起するものが、善ならざる戒であり、(3)〔善悪が〕説き明かされない心から等しく現起するものが、〔善悪が〕説き明かされない戒である。

 

 [308]「どれだけの、法(性質)を配備する戒があるのか」とは、(1)〔心身の〕統御を配備する戒、(2)〔身体と言葉について〕違犯なきことを配備する戒、(3)そのような状態において生じた思欲を配備する戒がある。

 

40.

 

 [309]命あるものを殺すことの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。与えられていないものを取ることの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。虚偽を説くことの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。中傷の言葉の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。粗暴な言葉の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。雑駁な虚論の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。強欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。憎悪〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。誤った見解の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。

 

41.

 

 [310]離欲による、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕による、憎悪〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。光明の表象による、〔心の〕沈滞と眠気の……。〔心の〕散乱なき〔状態〕による、〔心の〕高揚の……。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによる、疑惑〔の思い〕の……。知恵による、無明の……。歓喜による、不満〔の思い〕の……。

 

 [311]第一の瞑想による、〔五つの修行の〕妨害の……。第二の瞑想による、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の……。第三の瞑想による、喜悦の……。第四の瞑想による、安楽と苦痛の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定による、形態の表象の、敵対の表象の、種々なる表象の……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定による、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定による、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定による、無所有なる〔認識の〕場所の表象の……。

 

 [312]無常の随観による、常住の表象の……。苦痛の随観による、安楽の表象の……。無我の随観による、自己の表象の……。厭離の随観による、愉悦の……。離貪の随観による、貪欲の……。止滅の随観による、集起の……。放棄の随観による、執取の……。滅尽の随観による、重厚の表象の……。衰失の随観による、専業(業を作ること)の……。変化の随観による、常恒の表象の……。無相の随観による、形相(概念把握)の……。無願の随観による、切願の……。空性の随観による、固着(固定観念)の……。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察による、真髄への執取の固着の……。事実のとおりの知見による、迷妄の固着の……。危険の随観による、執着の固着の……。審慮の随観による、審慮なき〔状態〕の……。【46】還転の随観による、束縛の固着の……。

 

 [313]預流道による、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の……。一来道による、粗大なる諸々の〔心の〕汚れの……。不還道による、微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れの……。阿羅漢道による、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒である。違犯なきことの義(意味)によって、戒である。

 

 [314]五つの戒がある。命あるものを殺すことの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲としての戒、(4)〔心身の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。このような形態の諸戒は、心の、後悔なくあることために等しく転起し、歓喜のために等しく転起し、喜悦のために等しく転起し、静息のために等しく転起し、悦意のために等しく転起し、習修のために等しく転起し、修行のために等しく転起し、多くの行為(多作・多修)のために等しく転起し、十分に作り為すことのために等しく転起し、必需のもののために等しく転起し、付属のもののために等しく転起し、円満成就のもののために等しく転起し、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する。

 

 [315]このような形態の諸戒の、(1)統御の完全なる清浄が、卓越の戒(増上戒)である。統御の完全なる清浄によって止住した心は、散乱に至らない。(2)〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄が、卓越の心(増上心)である。統御の完全なる清浄を、正しく見る。〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄を、正しく見る。(3)〔あるがままの〕見の完全なる清浄が、卓越の智慧(増上慧)である。(1)それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の戒の学びである。(2)それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の心の学びである。(3)それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の智慧の学びである。

 

 [316]これらの三つの学び(三学:戒・定・慧)を、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、智慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 

 [317]五つの戒がある。与えられていないものを取ることの……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの……。虚偽を説くことの……。中傷の言葉の……。粗暴な言葉の……。雑駁な虚論の……。強欲〔の思い〕の……。憎悪〔の思い〕の……。誤った見解の……修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 

 [318]離欲による、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の……。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕による、憎悪〔の思い〕の……。光明の表象による、〔心の〕沈滞と眠気の……。〔心の〕散乱なき〔状態〕による、【47】〔心の〕高揚の……。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによる、疑惑〔の思い〕の……。知恵による、無明の……。歓喜による、不満〔の思い〕の……修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 

 [319]第一の瞑想による、〔五つの修行の〕妨害の……。第二の瞑想による、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の……。第三の瞑想による、喜悦の……。第四の瞑想による、安楽と苦痛の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定による、形態の表象の、敵対の表象の、種々なる表象の……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定による、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定による、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定による、無所有なる〔認識の〕場所の表象の……修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 

 [320]無常の随観による、常住の表象の……。苦痛の随観による、安楽の表象の……。無我の随観による、自己の表象の……。厭離の随観による、愉悦の……。離貪の随観による、貪欲の……。止滅の随観による、集起の……。放棄の随観による、執取の……。滅尽の随観による、重厚の表象の……。衰失の随観による、専業(業を作ること)の……。変化の随観による、常恒の表象の……。無相の随観による、形相の……。無願の随観による、切願の……。空性の随観による、固着の……。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察による、真髄への執取の固着の……。事実のとおりの知見による、迷妄の固着の……。危険の随観による、執着の固着の……。審慮の随観による、審慮なき〔状態〕の……。還転の随観による、束縛の固着の……修行されるべきものを修行している者として学ぶ。

 

 [321]預流道による、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの……。一来道による、粗大なる諸々の〔心の〕汚れの……。不還道による、微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れの……。阿羅漢道による、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、(1)捨棄としての戒、(2)離断としての戒、(3)思欲としての戒、(4)〔心身の〕統御としての戒、(5)〔身体と言葉について〕違犯なきこととしての戒である。このような形態の諸戒は、心の、後悔なくあることために等しく転起し、歓喜のために等しく転起し、喜悦のために等しく転起し、静息のために等しく転起し、悦意のために等しく転起し、習修のために等しく転起し、修行のために等しく転起し、多くの行為のために等しく転起し、十分に作り為すことのために等しく転起し、必需のもののために等しく転起し、付属のもののために等しく転起し、円満成就のもののために等しく転起し、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起する。

 

42.

 

 [322]このような形態の諸戒の、(1)統御の完全なる清浄が、卓越の戒である。統御の完全なる清浄によって止住した心は、散乱に至らない。(2)〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄が、卓越の心である。統御の完全なる清浄を、正しく見る。〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄を、正しく見る。(3)〔あるがままの〕見の完全なる清浄が、卓越の智慧である。(1)それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、【48】これは、卓越の戒の学びである。(2)それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の心の学びである。(3)それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、智慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学ぶ。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「聞いて〔そののち〕、統御における智慧が、戒から作られるものについての知恵となる」〔と〕。

 

 [323]戒から作られる知恵についての釈示が、第二となる。

 

1. 1. 3. 禅定の修行から作られる知恵についての釈示

 

43.

 

 [324]どのように、統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける智慧が、禅定(定・三昧)の修行から作られるものについての知恵となるのか。

 

 [325]一つの禅定がある。(1)心の一境性である。

 

 [326]二つの禅定がある。(1)世〔俗〕の禅定(世間定)、(2)世〔俗〕を超える禅定(出世間定)である。

 

 [327]三つの禅定がある。(1)〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)、(2)〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみの禅定(無尋唯伺定)、(3)〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なき禅定(無尋無伺定)である。

 

 [328]四つの禅定がある。(1)退失を部分とする禅定、(2)止住を部分とする禅定、(3)殊勝を部分とする禅定、(4)洞察を部分とする禅定である。

 

 [329]五つの禅定がある。(1)喜悦の充満性、(2)安楽の充満性、(3)心の充満性、(4)光明の充満性、(5)注視の形相である。

 

 [330]六つの禅定がある。(1)覚者(:ブッダ)の随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(2)法(:ダンマ)の随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(3)僧団(:サンガ)の随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(4)戒の随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(5)施捨の随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(6)天神たちの随念を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定である。

 

 [331]七つの禅定がある。(1)禅定に巧みな智あること、(2)禅定の、入定(等至)に巧みな智あること、(3)禅定の、止住に巧みな智あること、(4)禅定の、出起(出定)に巧みな智あること、【49】(5)禅定の、健全性に巧みな智あること、(6)禅定の、境涯(作用範囲)に巧みな智あること、(7)禅定の、導引に巧みな智あることである。

 

 [332]八つの禅定がある。(1)地の遍満を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(2)水の遍満を所以にする……略……(3)火の遍満を所以にする……(4)風の遍満を所以にする……(5)青の遍満を所以にする……(6)黄の遍満を所以にする……(7)赤の遍満を所以にする……(8)白の遍満を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定である。

 

 [333]九つの禅定がある。(1・2・3)形態の行境(色界)の禅定として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在し、(4・5・6)形態なき行境(無色界)の禅定として、下劣なるものが存在し、中等なるものが存在し、精妙なるものが存在し、(7)空性の禅定、(8)無相の禅定、(9)無願の禅定である。

 

 [334]十の禅定がある。(1)膨張した〔死体〕の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定、(2)青黒くなった〔死体〕の表象を所以にする……(3)膿み爛れた〔死体〕の表象を所以にする……(4)切断された〔死体〕の表象を所以にする……(5)喰い残された〔死体〕の表象を所以にする……(6)散乱した〔死体〕の表象を所以にする……(7)打ち殺され散乱した〔死体〕の表象を所以にする……(8)血まみれの〔死体〕の表象を所以にする……(9)蛆虫まみれの〔死体〕の表象を所以にする……(10)骨となった〔死体〕の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定である。これらの五十五の禅定がある。

 

44.

 

 [335]さらに、また、禅定には、二十五の禅定の義(意味)がある。(1)遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、禅定がある。(2)付属の義(意味)によって、禅定がある。(3)円満成就の義(意味)によって、禅定がある。(4)一境の義(意味)によって、禅定がある。(5)〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定がある。(6)〔心の〕拡散なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定がある。(7)〔心の〕混濁なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定がある。(8)〔心の〕動揺なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定がある。(9)解脱の義(意味)によって、禅定がある。(10)一なることの現起を所以に心が止住したことから、禅定がある。(11)〔心の〕平等(平静)を探し求める、ということで、禅定がある。(12)〔心の〕平等(平静)ならざるものを探し求めない、ということで、禅定がある。(13)〔心の〕平等を探し求めたことから、禅定がある。(14)〔心の〕平等ならざるものを探し求めなかったことから、禅定がある。(15)〔心の〕平等を取る、ということで、禅定がある。(16)〔心の〕平等ならざるものを取らない、ということで、禅定がある。(17)〔心の〕平等を取ったことから、禅定がある。(18)〔心の〕平等ならざるものを取らなかったことから、禅定がある。(19)〔心の〕平等を実践する、ということで、禅定がある。(20)〔心の〕平等ならざるものを実践しない、ということで、禅定がある。(21)〔心の〕平等を実践したことから、禅定がある。(22)〔心の〕平等ならざるものを実践しなかったことから、禅定がある。(23)〔心の〕平等を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、禅定がある。(24)〔心の〕平等ならざるものを焼尽させる(ジャーペーティ)、ということで、禅定がある。(25)〔心の〕平等を瞑想したことから、禅定がある。(26)〔心の〕平等ならざるものを焼尽させたことから、禅定がある。(27)そして、平等であり、かつまた、利益であり、さらに、安楽である、ということで、禅定がある。禅定には、これらの二十五の禅定の義(意味)がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「統御して〔そののち〕、〔心を〕定めることにおける智慧が、禅定の修行から作られるものについての知恵となる」〔と〕。

 

 [336]禅定の修行から作られる知恵についての釈示が、第三となる。

 

1. 1. 4. 法(性質)の止住の知恵についての釈示

 

45.

 

 [337]【50】どのように、縁の遍き収取(理解・把握)における智慧が、法(性質)の止住の知恵となるのか。無明(無明:無知)は、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)にとって、(1)そして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)そして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)そして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)そして、専業(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)そして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)そして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)そして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)そして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)そして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、諸々の形成〔作用〕にとって、(1)そして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)そして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)そして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)そして、専業(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)そして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)そして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)そして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)そして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)そして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [338]諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕(:認識作用)にとって……略……。識知〔作用〕は、名前と形態(名色:心と身体)にとって……。名前と形態は、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)にとって……。六つの〔認識の〕場所は、接触(:感覚の発生)にとって……。接触は、感受(:楽苦の知覚)にとって……。感受は、渇愛()にとって……。渇愛は、執取()にとって……。執取は、生存()にとって……。生存は、生()にとって……。生は、老と死(老死)にとって、(1)そして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)そして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)そして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)そして、専業(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)そして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)そして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)そして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)そして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)そして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、老と死にとって、(1)そして、生起〔という法〕の止住あるものであり、(2)そして、転起されたもの〔という法〕の止住あるものであり、(3)そして、形相〔という法〕の止住あるものであり、(4)そして、専業(業を作ること)〔という法〕の止住あるものであり、(5)そして、束縛〔という法〕の止住あるものであり、(6)そして、障害〔という法〕の止住あるものであり、(7)そして、集起〔という法〕の止住あるものであり、(8)そして、因〔という法〕の止住あるものであり、(9)そして、縁〔という法〕の止住あるものである。これらの九つの行相によって、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

46.

 

 [339]無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の【51】時においてもまた、無明は、因であり、諸々の形成〔作用〕は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [340]諸々の形成〔作用〕は、因であり、識知〔作用〕は、因によって生起したものであり……略……。識知〔作用〕は、因であり、名前と形態は、因によって生起したものであり……。名前と形態は、因であり、六つの〔認識の〕場所は、因によって生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、因であり、接触は、因によって生起したものであり……。接触は、因であり、感受は、因によって生起したものであり……。感受は、因であり、渇愛は、因によって生起したものであり……。渇愛は、因であり、執取は、因によって生起したものであり……。執取は、因であり、生存は、因によって生起したものであり……。生存は、因であり、生は、因によって生起したものであり……。生は、因であり、老と死は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、因であり、老と死は、因によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、因によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [341]無明は、縁(パティッチャ)であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [342]諸々の形成〔作用〕は、縁(パティッチャ)であり、識知〔作用〕は、縁によって生起したものであり……略……。識知〔作用〕は、縁であり、名前と形態は、縁によって生起したものであり……。名前と形態は、縁であり、六つの〔認識の〕場所は、縁によって生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、縁であり、接触は、縁によって生起したものであり……。接触は、縁であり、感受は、縁によって生起したものであり……。感受は、縁であり、渇愛は、縁によって生起したものであり……。渇愛は、縁であり、執取は、縁によって生起したものであり……。執取は、縁であり、生存は、縁によって生起したものであり……。生存は、縁であり、生は、縁によって生起したものであり……。生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [343]無明は、縁(パッチャヤ)であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における【52】智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、無明は、縁であり、諸々の形成〔作用〕は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

 [344]諸々の形成〔作用〕は、縁(パッチャヤ)であり、識知〔作用〕は、縁によって生起したものであり……略……。識知〔作用〕は、縁であり、名前と形態は、縁によって生起したものであり……。名前と形態は、縁であり、六つの〔認識の〕場所は、縁によって生起したものであり……。六つの〔認識の〕場所は、縁であり、接触は、縁によって生起したものであり……。接触は、縁であり、感受は、縁によって生起したものであり……。感受は、縁であり、渇愛は、縁によって生起したものであり……。渇愛は、縁であり、執取は、縁によって生起したものであり……。執取は、縁であり、生存は、縁によって生起したものであり……。生存は、縁であり、生は、縁によって生起したものであり……。生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、生は、縁であり、老と死は、縁によって生起したものであり、これらの〔二つの〕法(性質)は、両者ともどもに、縁によって生起したものである、ということで、縁の遍き収取における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる。

 

47.

 

 [345](1)過去(過去世)の行為の生存(業有)において、(1―1)迷妄としてある無明、(1―2)専業としてある諸々の形成〔作用〕、(1―3)欲念としてある渇愛、(1―4)近接としてある執取、(1―5)思欲としてある生存は──過去(過去世)の行為の生存における、これらの五つの法(性質)は──ここ(現世)に、結生にとって、縁となる。(2)ここ(現世)に、(2―1)結生としてある識知〔作用〕、(2―2)入胎としてある名前と形態、(2―3)〔機能の〕清らかさ(正常な感官機能)としてある〔認識の〕場所、(2―4)接触されたものとしてある接触、(2―5)感受されたものとしてある感受は──ここ(現世)に、再生の生存(生有)における、これらの五つの法(性質)は──先(過去世)に作り為された行為にとって、縁から〔発生する果となる〕。(3)諸々の〔認識の〕場所の完熟したものたることから、ここ(現世)に、(3―1)迷妄としてある無明、(3―2)専業としてある諸々の形成〔作用〕、(3―3)欲念としてある渇愛、(3―4)近接としてある執取、(3―5)思欲としてある生存は──ここ(現世)に、行為の生存における、これらの五つの法(性質)は──未来(未来世)に、結生にとって、縁となる。(4)未来(未来世)に、(4―1)結生としてある識知〔作用〕、(4―2)入胎としてある名前と形態、(4―3)〔機能の〕清らかさ(正常な感官機能)としてある〔認識の〕場所、(4―4)接触されたものとしてある接触、(4―5)感受されたものとしてある感受は──未来(未来世)に、再生の生存における、これらの五つの法(性質)は──ここ(現世)で作り為された行為にとって、縁から〔発生する果となる〕。かくのごとく、これらの、四つの簡略を、三つの時(過去世・現世・未来世)を、三つの連鎖を、二十の行相によって、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を、知り、見、了知し、理解する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「縁の遍き収取(理解・把握)における智慧が、法(性質)の止住の知恵となる」〔と〕。

 

 [346]法(性質)の止住の知恵についての釈示が、第四となる。

 

1. 1. 5. 触知の知恵についての釈示

 

48.

 

 [347]【53】どのように、過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となるのか。

 

 [348]それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 

 [349]それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 

 [350]眼を……略([107-116]参照)……。老と死を、過去と未来と現在のものも、無常〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、苦痛〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となり、無我〔の観点〕から定め置くなら、一つの触知となる。

 

 [351]「形態は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……略……。「諸々の形成作用〔作用〕は……略……。「識知〔作用〕は……略……。「眼は……略([107-116]参照)……。「老と死は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。

 

 [352]「形態は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成作用〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……。「眼は……略([107-116]参照)……。「老と死は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。

 

 [353]【54】「生という縁あることから、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、「生という縁あることから、老と死がある。生が存していないとき、老と死は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。「生存という縁あることから、生がある。生存が存していないとき……略……。「執取という縁あることから、生存がある。執取が存していないとき……略……。「渇愛という縁あることから、執取がある。渇愛が存していないとき……略……。「感受という縁あることから、渇愛がある。感受が存していないとき……略……。「接触という縁あることから、感受がある。接触が存していないとき……略……。「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。六つの〔認識の〕場所が存していないとき……略……。「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。名前と形態が存していないとき……略……。「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。識知〔作用〕が存していないとき……略……。「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕が存していないとき……略……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。過去の時においてもまた……。未来の時においてもまた、「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存することがない」と、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「過去と未来と現在の諸法(性質)の、簡略して〔そののち〕、〔差異を〕定め置くことにおける智慧が、触知についての知恵となる」〔と〕。

 

 [354]触知の知恵についての釈示が、第五となる。

 

1. 1. 6. 生成と衰失の知恵についての釈示

 

49.

 

 [355]どのように、現在の諸法(性質)の、変化の随観における智慧が、生成と衰失の随観についての知恵となるのか。生じた形態が、現在の〔法〕であり、その〔生じた形態〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰失であり、〔その〕随観が、知恵となる。生じた感受〔作用〕が……略……。生じた表象〔作用〕が……。生じた諸々の形成〔作用〕が……。生じた識知〔作用〕が……。生じた眼が……略……。生じた生存が、現在の〔法〕であり、その〔生じた生存〕の、発現の特相が、生成であり、変化の特相が、衰失であり、〔その〕随観が、知恵となる。

 

50.

 

 [356]五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。五つの〔心身を構成する〕範疇の、生成を見ている者は、二十五の特相を見る。衰失を見ている者は、二十五の特相を【55】見る。生成と衰失を見ている者は、五十の特相を見る。

 

 [357]形態の範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。感受〔作用〕の範疇の……略……。表象〔作用〕の範疇の……略……。諸々の形成〔作用〕の範疇の……略……。識知〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。生成と衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。形態の範疇の、生成を見ている者は、五つの特相を見る。衰失を見ている者は、五つの特相を見る。生成と衰失を見ている者は、十の特相を見る。感受〔作用〕の範疇の……略……。表象〔作用〕の範疇の……。諸々の形成〔作用〕の範疇の……。識知〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、五つの特相を見る。衰失を見ている者は、五つの特相を見る。生成と衰失を見ている者は、十の特相を見る。

 

 [358]形態の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(1)「無明の集起あることから、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(2)「渇愛の集起あることから、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(3)「行為()の集起あることから、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(4)「食(動力源・エネルギー)の集起あることから、形態の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、形態の範疇の、生成を見る。(5)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、生成を見る。形態の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 

 [359]衰失を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(6)「無明の止滅あることから、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を見る。(7)「渇愛の止滅あることから、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を見る。(8)「行為()の止滅あることから、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を見る。(9)「食(動力源・エネルギー)の止滅あることから、形態の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、形態の範疇の、衰失を【56】見る。(10)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、形態の範疇の、衰失を見る。形態の範疇の、衰失を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰失を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 

 [360]感受〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(11)「無明の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(12)「渇愛の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(13)「行為の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(14)「接触の集起あることから、感受〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。(15)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、感受〔作用〕の範疇の、生成を見る。感受〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 

 [361]衰失を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(16)「無明の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(17)「渇愛の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(18)「行為の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(19)「接触の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(20)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、感受〔作用〕の範疇の、衰失を見る。感受〔作用〕の範疇の、衰失を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰失を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 

 [362]表象〔作用〕の範疇の……略……。諸々の形成〔作用〕の範疇の……略……。識知〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(41)「無明の集起あることから、識知〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、生成を見る。(42)「渇愛の集起あることから、識知〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、生成を見る。(43)「行為の集起あることから、識知〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、生成を見る。(44)「名前と形態の集起あることから、識知〔作用〕の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、【57】生成を見る。(45)〔彼は〕発現の特相を見ている者としてもまた、識知〔作用〕の範疇の、生成を見る。識知〔作用〕の範疇の、生成を見ている者は、これらの五つの特相を見る。

 

 [363]衰失を見ている者は、どのような五つの特相を見るのか。(46)「無明の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(47)「渇愛の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(48)「行為の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(49)「名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、識知〔作用〕の範疇の、衰失を見る。(50)〔彼は〕変化の特相を見ている者としてもまた、識知〔作用〕の範疇の、衰失を見る。識知〔作用〕の範疇の、衰失を見ている者は、これらの五つの特相を見る。生成と衰失を見ている者は、これらの十の特相を見る。

 

 [364]五つの〔心身を構成する〕範疇の、生成を見ている者は、これらの二十五の特相を見る。衰失を見ている者は、これらの二十五の特相を見る。生成と衰失を見ている者は、これらの五十の特相を見る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知することの義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「現在の諸法(性質)の、変化の随観における智慧が、生成と衰失の随観についての知恵となる」〔と〕。形態の範疇は、食の集起であり、感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕の三つの範疇は、接触の集起であり、識知〔作用〕の範疇は、名前と形態の集起である。

 

 [365]生成と衰失の知恵についての釈示が、第六となる。

 

1. 1. 7. 滅壊の随観の知恵についての釈示

 

51.

 

 [366]どのように、対象(所縁)を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における智慧が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)についての知恵となるのか。形態を対象とすることから、心は、生起して〔そののち〕破壊する。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。

 

 [367]「随観する」とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から【58】随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。

 

52.

 

 [368]無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。

 

 [369]感受〔作用〕を対象とすることから……略……。表象〔作用〕を対象とすることから……。諸々の形成〔作用〕を対象とすることから……。識知〔作用〕を対象とすることから……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を対象とすることから、心は、生起して〔そののち〕破壊する。その対象を審慮して〔そののち〕、その心の、滅壊を随観する。「随観する」とは、どのように、随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。

 

 [370]無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。

 

 [371]〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、〔随観の〕基盤(事態)の転移が、さらに、智慧による還転が、まさしく、そして、傾注の力が、審慮の〔あるがままの〕観察である。

 

 [372]〔現見の〕対象に付従することで、〔過去と未来の〕両者を一つに定め置くことが、止滅について信念あることが、衰失の特相の〔あるがままの〕観察である。

 

 [373]そして、対象を審慮して〔そののち〕、さらに、滅壊を随観する。そして、空〔の観点〕からの〔気づきの〕現起が、卓越の智慧たる〔あるがままの〕観察である。

 

 [374]三つの随観(無常の随観・苦痛の随観・無我の随観)に巧みな智ある者は、かつまた、四つの〔あるがままの〕観察(厭離の随観・離貪の随観・止滅の随観・放棄の随観)に〔巧みな智ある者は〕、三つの〔気づきの〕現起(滅尽の随観・衰失の随観・空性の随観)に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。

 

 [375]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「対象を審慮して〔そののち〕、滅壊の随観における智慧が、〔あるがままの〕観察についての知恵となる」〔と〕。

 

 [376]滅壊の随観の知恵についての釈示が、第七となる。

 

1. 1. 8. 危険の智慧についての釈示

 

53.

 

 [377]【59】どのように、恐怖の現起における智慧が、危険(患・過患)についての知恵となるのか。「生起(再生)は、恐怖である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。「転起されたもの(所与的世界)は、恐怖である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。「形相(概念把握)は、恐怖である」と……略……。「専業(業を作ること)は、恐怖である」と……略……。「結生(転生すること)は、恐怖である」と……。「境遇(死後に赴く所)は、恐怖である」と……。「発現は、恐怖である」と……。「再生は、恐怖である」と……。「生(出生)は、恐怖である」と……。「老は、恐怖である」と……。「病は、恐怖である」と……。「死は、恐怖である」と……。「憂いは、恐怖である」と……。「嘆きは、恐怖である」と……。「葛藤は、恐怖である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 

 [378]「生起なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [379]「生起は、恐怖である。生起なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、恐怖である。転起なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤は、恐怖である。葛藤なきものは、平安である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [380]「生起は、苦痛である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。……略……。「葛藤は、苦痛である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 

 [381]「生起なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [382]「生起は、苦痛である。生起なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である。転起なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤は、苦痛である。葛藤なきものは、安楽である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [383]「生起は、財貨を有するもの(世俗のもの)である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、財貨を有するものである」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。……略……。「葛藤は、財貨を有するものである」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 

 [384]「生起なきものは、財貨なきもの(非俗のもの)である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起なきものは、財貨なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤なきものは、財貨なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [385]「生起は、財貨を有するものである。生起なきものは、財貨なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、財貨を有するものである。転起なきものは、財貨なきものである」と、【60】寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤は、財貨を有するものである。葛藤なきものは、財貨なきものである」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [386]「生起は、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる。

 

 [387]「生起なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [388]「生起は、諸々の形成〔作用〕である。生起なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である。転起なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である。葛藤なきものは、涅槃である」と、寂静の境処についての知恵となる。

 

 [389]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、生起を、さらに、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、『苦痛である』と見る。これは、危険についての知恵である。

 

 [390]しかしながら、生起なきものを、転起なきものを、形相なきものを、専業なきものを、結生なきものを、『安楽である』と〔見る〕。これは、寂静の境処についての知恵である。

 

 [391]この危険についての知恵は、五つの境位において生まれ、五つの境位ある寂静の境処を、十の知恵ある〔寂静の境処〕を、覚知する。〔危険と寂静の境処の〕二つの知恵に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。

 

 [392]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「恐怖の現起における智慧が、危険についての知恵となる」〔と〕。

 

 [393]危険の知恵についての釈示が、第八となる。

 

1. 1. 9. 諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵についての釈示

 

54.

 

 [394]どのように、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨(行捨)についての知恵となるのか。生起(再生)を解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。転起されたもの(所与的世界)を解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。形相(概念把握)を解き放つことを欲し……略……。専業(業を作ること)を解き放つことを欲し……。結生(転生すること)を解き放つことを欲し……。境遇(死後に赴く所)を解き放つことを欲し……。発現を解き放つことを欲し……。再生を解き放つことを欲し……。生(出生)を解き放つことを欲し……。老を解き放つことを欲し……。病を解き放つことを欲し……。死を解き放つことを欲し……。憂いを解き放つことを欲し……。嘆きを解き放つことを欲し……。葛藤を解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 

 [395]「生起は、苦痛である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、苦痛である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、【61】確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。……略……。「葛藤は、苦痛である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 

 [396]「生起は、恐怖である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、恐怖である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。……略……。「葛藤は、恐怖である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 

 [397]「生起は、財貨を有するものである」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、財貨を有するものである」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。……略……。「葛藤は、財貨を有するものである」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 

 [398]「生起は、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。「転起されたものは、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。……略……。「葛藤は、諸々の形成〔作用〕である」と、解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。

 

 [399]生起は、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。そして、それらが、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、さらに、それが、放捨としてあるなら、これらは、両者ともどもに、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。転起されたものは、諸々の形成〔作用〕であり……略……。形相は、諸々の形成〔作用〕であり……。専業は、諸々の形成〔作用〕であり……。結生は、諸々の形成〔作用〕であり……。境遇は、諸々の形成〔作用〕であり……。発現は、諸々の形成〔作用〕であり……。再生は、諸々の形成〔作用〕であり……。生は、諸々の形成〔作用〕であり……。老は、諸々の形成〔作用〕であり……。病は、諸々の形成〔作用〕であり……。死は、諸々の形成〔作用〕であり……。憂いは、諸々の形成〔作用〕であり……。嘆きは、諸々の形成〔作用〕であり……。葛藤は、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。そして、それらが、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、さらに、それが、放捨としてあるなら、これらは、両者ともどもに、諸々の形成〔作用〕であり、それらの諸々の形成〔作用〕を放捨する、ということで、諸々の形成〔作用〕の放捨となる。

 

55.

 

 [400]どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。八つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。凡夫には、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。学びある者(有学)には、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。貪欲を離れた者(阿羅漢)には、どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。【62】(1)凡夫には、二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。(2)学びある者には、三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。(3)貪欲を離れた者には、三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。

 

 [401](1)凡夫には、どのような二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(1―1)あるいは、愉悦し、(1―2)あるいは、〔あるがままに〕観察する。凡夫には、これらの二つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。(2)学びある者には、どのような三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(2―1)あるいは、愉悦し、(2―2)あるいは、〔あるがままに〕観察し、(2―3)あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定する。学びある者には、これらの三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。(3)貪欲を離れた者には、どのような三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有るのか。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、(3―1)あるいは、〔あるがままに〕観察し、(3―2)あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定し、(3―3)それを放捨して〔そののち〕、あるいは、空性の住によって、あるいは、無相の住によって、あるいは、無願の住によって〔世に〕住む。貪欲を離れた者には、これらの三つの行相によって、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引が有る。

 

56.

 

 [402]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、一なることと成るのか。凡夫には、諸々の形成〔作用〕の放捨を愉悦していると、心は汚れ、修行にとっての障害と成り、理解にとっての障りと成り、未来に、結生にとっての縁と成る。学びある者にもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を愉悦していると、心は汚れ、修行にとっての障害と成り、より上なる理解にとっての障りと成り、未来に、結生にとっての縁と成る。このように、愉悦の義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、一なることと成る。

 

 [403]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、一なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。学びある者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、【63】無常〔の観点〕からもまた、苦痛〔の観点〕からもまた、無我〔の観点〕からもまた、〔あるがままに〕観察する。このように、随観の義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、一なることと成る。

 

 [404]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫には、諸々の形成〔作用〕の放捨は、善なるものと成る。学びある者にもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨は、善なるものと成る。貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨は、〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)と成る。このように、善なるものと〔善悪が〕説き明かされないものの義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成る。

 

 [405]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫には、諸々の形成〔作用〕の放捨は、或る時には、善く見出されたものと成り、或る時には、善く見出されたものと成らない。学びある者にもまた、諸々の形成〔作用〕の放捨は、或る時には、善く見出されたものと成り、或る時には、善く見出されたものと成らない。貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨は、徹底して、善く見出されたものと成る。このように、そして、〔すでに〕見出されたものの義(意味)によって、さらに、〔いまだ〕見出されていないものの義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成る。

 

 [406]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔いまだ〕満足していないことから、〔あるがままに〕観察する。学びある者もまた、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔いまだ〕満足していないことから、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔すでに〕満足したことから、〔あるがままに〕観察する。このように、そして、〔すでに〕満足したものの義(意味)によって、さらに、〔いまだ〕満足していないものの義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成る。

 

 [407]どのように、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成るのか。凡夫は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)を捨棄するために、預流道の獲得を義(目的)として、〔あるがままに〕観察する。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、三つの束縛するものが〔すでに〕捨棄されたことから、より上なる〔道〕の獲得を義(目的)として、〔あるがままに〕観察する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が〔すでに〕捨棄されたことから、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を義(目的)として、〔あるがままに〕観察する。このように、そして、〔すでに〕捨棄されたものの義(意味)によって、さらに、〔いまだ〕捨棄されていないものの義(意味)によって、そして、凡夫には、さらに、学びある者には、かつまた、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成る。

 

 [408]【64】どのように、そして、学びある者には、さらに、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成るのか。学びある者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、あるいは、愉悦し、あるいは、〔あるがままに〕観察し、あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定する。貪欲を離れた者は、諸々の形成〔作用〕の放捨を、あるいは、〔あるがままに〕観察し、あるいは、審慮して〔そののち〕、果の入定に入定し、それを放捨して〔そののち〕、あるいは、空性の住によって、あるいは、無相の住によって、あるいは、無願の住によって〔世に〕住む。このように、住の入定の義(意味)によって、そして、学びある者には、さらに、貪欲を離れた者には、諸々の形成〔作用〕の放捨への心の導引は、種々なることと成る。

 

57.

 

 [409]どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を所以に生起するのか。どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を所以に生起するのか。八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂を所以に生起する。十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 

 [410]どのような八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂を所以に生起するのか。(1)第一の瞑想の獲得を義(目的)として、〔五つの修行の〕妨害を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(2)第二の瞑想の獲得を義(目的)として、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(3)第三の瞑想の獲得を義(目的)として、喜悦を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(4)第四の瞑想の獲得を義(目的)として、安楽と苦痛を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、形態の表象を、敵対の表象を、種々なる表象を、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、無所有なる〔認識の〕場所の表象を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。これらの八つの諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔心の〕止寂を所以に生起する。

 

 [411]どのような十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。【65】(1)預流道の獲得を義(目的)として、生起(再生)を、転起されたもの(所与的世界)を、形相(概念把握)を、専業(業を作ること)を、結生(転生すること)を、境遇(死後に赴く所)を、発現を、再生を、生(出生)を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(2)預流果への入定を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(3)一来道の獲得を義(目的)として……略……。(4)一来果への入定を義(目的)として……。(5)不還道の獲得を義(目的)として……略……。(6)不還果への入定を義(目的)として……。(7)阿羅漢道の獲得を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。(8)阿羅漢果への入定を義(目的)として……略……。(9)空性の住への入定を義(目的)として……略……。(10)無相の住への入定を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる。これらの十の諸々の形成〔作用〕の放捨が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 

58.

 

 [412]どれだけの諸々の形成〔作用〕の放捨が、善なるものであるのか。どれだけ〔の諸々の形成作用の放捨〕が、善ならざるものであるのか。どれだけ〔の諸々の形成作用の放捨〕が、〔善悪が〕説き明かされないものであるのか。十五の諸々の形成〔作用〕の放捨が、善なるものである。三つ〔の諸々の形成作用の放捨〕(阿羅漢果への入定を目的とするもの・空性の住への入定を目的とするもの・無相の住への入定を目的とするもの)が、〔善悪が〕説き明かされないものである。善ならざる諸々の形成〔作用〕の放捨は、存在しない。

 

 [413]〔そこで、詩偈に言う〕「審慮して〔そののち〕、確立する智慧は、八つのものが、心にとっての境涯(作用範囲)となる。凡夫には、二つ〔の境涯〕が有り、学びある者には、三つの境涯が〔有り〕、そして、貪欲を離れた者には、三つ〔の境涯〕が〔有り〕、それらによって、心は還転する。

 

 [414]八つのものが、禅定にとっての縁となり、十のものが、知恵にとっての境涯となる。〔合わせて〕十八の諸々の形成〔作用〕の放捨があり、〔それらは〕三つの解脱(空性の解脱・無相の解脱・無願の解脱)にとっての縁となる。

 

 [415]これらの十八の行相ある智慧が、彼に遍く蓄積されたなら、〔十八の〕諸々の形成〔作用〕の放捨について巧みな智ある者となり、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。

 

 [416]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「解き放つことを欲し、審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、諸々の形成〔作用〕の放捨についての知恵となる」〔と〕。

 

 [417]諸々の形成〔作用〕の放捨の知恵についての釈示が、第九となる。

 

1. 1. 10. 〔新たな〕種姓と成る知恵についての釈示

 

59.

 

 [418]【66】どのように、外からの出起と還転における智慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵(凡夫を脱却し有学と成る知恵)となるのか。生起を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。専業を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きを征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の諸々の形成〔作用〕の形相を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

 [419]生起を征服して、生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものを征服して、転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相を征服して、形相なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。外の諸々の形成〔作用〕の形相を征服して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

 [420]生起から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。専業から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きから出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の諸々の形成〔作用〕の形相から出起する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

 [421]生起から出起して、生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから出起して、転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。形相から出起して、形相なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。専業から出起して、【67】専業なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。結生から出起して、結生なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。境遇から出起して、境遇なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。発現から出起して、発現なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。再生から出起して、再生なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生から出起して、生なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。老から出起して、老なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。病から出起して、病なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。死から出起して、死なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。憂いから出起して、憂いなきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。嘆きから出起して、嘆きなきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。葛藤から出起して、葛藤なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。外の諸々の形成〔作用〕の形相から出起して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

 [422]生起から還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。外の諸々の形成〔作用〕の形相から還転する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

 [423]生起から還転して、生起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。転起されたものから還転して、転起なきものに跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。……略……。外の諸々の形成〔作用〕の形相から還転して、止滅の涅槃に跳入する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。

 

60.

 

 [424]どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔心の〕止寂を所以に生起するのか。どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔心の〕止寂を所以に生起する。十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 

 [425]どのような八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔心の〕止寂を所以に生起するのか。(1)第一の瞑想の獲得を義(目的)として、〔五つの修行の〕妨害を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(2)第二の瞑想の獲得を義(目的)として、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(3)第三の瞑想の獲得を義(目的)として、喜悦を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(4)第四の瞑想の獲得を義(目的)として、安楽と苦痛を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、形態の表象を、敵対の表象を、種々なる表象を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を【68】征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、無所有なる〔認識の〕場所の表象を征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。これらの八つの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の諸法(性質)が、〔心の〕止寂を所以に生起する。

 

 [426]どのような十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起するのか。(1)預流道の獲得を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、外の諸々の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(2)預流果への入定を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(3)一来道の獲得を義(目的)として……略……。(4)一来果への入定を義(目的)として……。(5)不還道の獲得を義(目的)として……。(6)不還果への入定を義(目的)として……。(7)阿羅漢道の獲得を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、境遇を、発現を、再生を、生を、老を、病を、死を、憂いを、嘆きを、葛藤を、外の諸々の形成〔作用〕の形相を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。(8)阿羅漢果への入定を義(目的)として……。(9)空性の住への入定を義(目的)として……。(10)無相の住への入定を義(目的)として、生起を、転起されたものを、形相を、専業を、結生を、征服する、ということで、〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕となる。これらの十の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、〔あるがままの〕観察を所以に生起する。

 

 [427]どれだけの〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、善なるものであるのか。どれだけ〔の新たな種姓と成る知恵の法〕が、善ならざるものであるのか。どれだけ〔の新たな種姓と成る知恵の法〕が、〔善悪が〕説き明かされないものであるのか。十五の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)が、善なるものである。三つ〔の新たな種姓と成る知恵の法〕(阿羅漢果への入定を義とするもの・空性の住への入定を義とするもの・無相の住への入定を義とするもの)が、〔善悪が〕説き明かされないものである。善ならざる〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)は、存在しない。

 

 [428]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、財貨を有するものと財貨なきものがあり、かつまた、切願されたものと切願されざるものがあり、かつまた、束縛されたものと束縛を離れたものがあり、さらに、出起したものと出起されざるものがある。

 

 [429]八つのものが、禅定にとっての縁となり、十のものが、知恵にとっての境涯となる。〔あわせて〕十八の〔新たな〕種姓と成る〔知恵〕の法(性質)があり、〔それらは〕三つの解脱(空性の解脱・無相の解脱・無願の解脱)にとっての縁となる。

 

 [430]これらの十八の行相ある智慧が、彼に遍く蓄積されたなら、還転と出起について巧みな智ある者となり、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。

 

 [431]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「外からの出起と還転における智慧が、〔新たな〕種姓と成る知恵となる」〔と〕。

 

 [432]〔新たな〕種姓と成る知恵についての釈示が、第十となる。

 

1. 1. 11. 道の知恵についての釈示

 

61.

 

 [433]【69】どのように、〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [434]遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [435]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [436]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [437]励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [438]現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [439]〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [440]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が【70】……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するもの()から〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習(随眠:潜在煩悩)から〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [441]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [442]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、思量()から〔出起し〕、高揚(掉挙)から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

62.

 

 [443]〔そこで、詩偈に言う〕「〔すでに〕生じたものによって、〔いまだ〕生じていないものを焼尽させる(ジャーペーティ)。それによって、『瞑想(ジャーナ)』と呼ばれる。瞑想の解脱について巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない。

 

 [444]すなわち、〔心を〕定めて〔そののち〕、もし、〔あるがままに〕観察するとおりに、そのとおり、〔あるがままに〕観察しながら、もし、〔心を〕定めるなら、そして、そのときは、〔あるがままの〕観察と〔心の〕止寂〔の両者〕が〔同時に〕有ったのであり、〔両者は〕等分のものとして〔転起し〕、双連のものとして転起する。

 

 [445]『諸々の形成〔作用〕は、苦痛である。涅槃は、安楽である』と見ることが、〔内と外の〕両者から出起したものとしての智慧が、不死の境処を体得させる。

 

 [446]解脱の性行を知り、種々なることと一なることについての熟知者は、〔見と修行の〕二つの知恵に巧みな智あることから、種々なる見解にたいし、〔心が〕動かない」と。

 

 [447]それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

 [448]道の知恵についての釈示が、第十一となる。

 

1. 1. 12. 果の知恵についての釈示

 

63.

 

 [449]【71】どのように、専念〔努力〕の安息としての智慧が、果についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい見解が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [450]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい思惟が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [451]遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい言葉が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [452]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい行業が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [453]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい生き方が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [454]励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい努力が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [455]現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい気づきが生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [456]〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、【72】正しい禅定が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [457]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するもの()から〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習(随眠:潜在煩悩)から〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい禅定が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [458]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい禅定が生起する。これが、道にとっての、果となる。

 

 [459]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、思量()から〔出起し〕、高揚(掉挙)から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。その専念〔努力〕が安息したことから、正しい禅定が生起する。これが、道にとっての、果となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「専念〔努力〕の安息としての智慧が、果についての知恵となる」〔と〕。

 

 [460]果の知恵についての釈示が、第十二となる。

 

1. 1. 13. 解脱の知恵についての釈示

 

64.

 

 [461]どのように、〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となるのか。預流道によって、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)、見解の悪習(見随眠)、疑惑〔の思い〕の悪習(疑随眠)が──自己の心の、〔これらの五つの〕付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が──正しく断絶されたものと成る。これらの五つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は、解脱したものと成り、善く解脱したものと〔成る〕。【73】その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 

 [462]一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するもの、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習が──自己の心の、〔これらの四つの〕付随する〔心の〕汚れが──正しく断絶されたものと成る。これらの四つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は、解脱したものと成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 

 [463]不還道によって、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するもの、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習が──自己の心の、〔これらの四つの〕付随する〔心の〕汚れが──正しく断絶されたものと成る。これらの四つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は、解脱したものと成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 

 [464]阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明、思量の悪習、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習、無明の悪習が──自己の心の、〔これらの八つの〕付随する〔心の〕汚れが──正しく断絶されたものと成る。これらの八つの付随する〔心の〕汚れから、〔それらと〕共にある諸々の妄執から、心は、解脱したものと成り、善く解脱したものと〔成る〕。その解脱は、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔再生の〕道を断った者の随観における智慧が、解脱の知恵となる」〔と〕。

 

 [465]解脱の知恵についての釈示が、第十三となる。

 

1. 1. 14. 注視の知恵についての釈示

 

65.

 

 [466]どのように、そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける智慧が、注視についての知恵となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解(正見)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟(正思惟)が、そのとき生まれ来たものとなる。遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、正しい言葉(正語)が、そのとき生まれ来たものとなる。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業(正業)が、そのとき生まれ来たものとなる。【74】浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方(正命)が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、正しい努力(正精進)が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、正しい気づき(正念)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定(正定)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [467]現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分(念覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分(精進覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。寂止の義(意味)によって、静息という正覚の支分(軽安覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定という正覚の支分(定覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分(捨覚支)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [468]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力(信力)が、そのとき生まれ来たものとなる。怠惰にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力(精進力)が、そのとき生まれ来たものとなる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力(念力)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、禅定の力(定力)が、そのとき生まれ来たものとなる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力(慧力)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [469]信念の義(意味)によって、信の機能(信根)が、そのとき生まれ来たものとなる。励起の義(意味)によって、精進の機能(精進根)が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、気づきの機能(念根)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能(定根)が、そのとき生まれ来たものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能(慧根)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [470]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、そのとき生まれ来たものとなる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、そのとき生まれ来たものとなる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、そのとき生まれ来たものとなる。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道が、そのとき生まれ来たものとなる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、そのとき生まれ来たものとなる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、そのとき生まれ来たものとなる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、そのとき生まれ来たものとなる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、そのとき生まれ来たものとなる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、そのとき生まれ来たものとなる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、そのとき生まれ来たものとなる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、そのとき生まれ来たものとなる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、そのとき生まれ来たものとなる。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)が、そのとき生まれ来たものとなる。理解の義(意味)によって、明知が、そのとき生まれ来たものとなる。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)が、そのとき生まれ来たものとなる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [471]【75】欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。接触が、配備の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。感受が、集結の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。気づきが、優位の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。解脱(ヴィムッティ)が、真髄の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [472]預流果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、そのとき生まれ来たものとなる。……略……。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。接触が、配備の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。感受が、集結の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。気づきが、優位の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。解脱が、真髄の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [473]一来道の瞬間において……略……。一来果の瞬間において……略……。不還道の瞬間において……略……。不還果の瞬間において……略……。阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる。……略……。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。

 

 [474]阿羅漢果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、そのとき生まれ来たものとなる。……略……。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵が、そのとき生まれ来たものとなる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、そのとき【76】生まれ来たものとなる。……略……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、そのとき生まれ来たものとなる。〔入定から〕出起して〔そののち〕、〔あるがままに〕注視する。これらの法(性質)が、そのとき生まれ来たものとなる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「そのとき生まれ来た諸法(性質)を見ることにおける智慧が、注視についての知恵となる」〔と〕。

 

 [475]注視の知恵についての釈示が、第十四となる。

 

1. 1. 15. 〔認識の〕基盤の種々なることの知恵についての釈示

 

66.

 

 [476]どのように、内なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、内なる諸法(性質)〔の差異〕を定め置くのか。眼を、内なるものと定め置く。耳を、内なるものと定め置く。鼻を、内なるものと定め置く。舌を、内なるものと定め置く。身を、内なるものと定め置く。意を、内なるものと定め置く。

 

 [477]どのように、眼を、内なるものと定め置くのか。「眼は、無明から発生したものである」と定め置く。「眼は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「眼は、行為()から発生したものである」と定め置く。「眼は、食(動力源・エネルギー)から発生したものである」と定め置く。「眼は、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「眼は、生起したものである」と定め置く。「眼は、生まれ来たものである」と定め置く。「眼は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。眼を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「眼は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「眼は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。眼を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、愉悦せず、離貪し、【77】貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、愉悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅させている者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、眼を、内なるものと定め置く。

 

 [478]どのように、耳を、内なるものと定め置くのか。「耳は、無明から発生したものである」と定め置く。……略……。このように、耳を、内なるものと定め置く。

 

 [479]どのように、鼻を、内なるものと定め置くのか。「鼻は、無明から発生したものである」と定め置く。……略……。このように、鼻を、内なるものと定め置く。

 

 [480]どのように、舌を、内なるものと定め置くのか。「舌は、無明から発生したものである」と定め置く。「舌は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「舌は、行為から発生したものである」と定め置く。「舌は、食から発生したものである」と定め置く。「舌は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「舌は、生起したものである」と定め置く。「舌は、生まれ来たものである」と定め置く。「舌は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。舌を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「舌は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「舌は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。舌を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。……略……。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、舌を、内なるものと定め置く。

 

 [481]どのように、身を、内なるものと定め置くのか。「身は、無明から発生したものである」と定め置く。「身は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「身は、行為から発生したものである」と定め置く。「身は、食から発生したものである」と定め置く。「身は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「身は、生起したものである」と定め置く。「身は、生まれ来たものである」と定め置く。「身は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。身を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「身は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「身は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。身を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。……略……。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、身を、内なるものと定め置く。

 

 [482]どのように、意を、内なるものと定め置くのか。「意は、無明から発生したものである」と定め置く。「意は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「意は、行為から発生したものである」と定め置く。「意は、食から発生したものである」と定め置く。「意は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「意は、生まれ来たものである」と定め置く。「意は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。意を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「意は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「意は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。意を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、愉悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、愉悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅させている者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、意を、内なるものと定め置く。このように、内なる諸法(性質)〔の差異〕を定め置く。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「内なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕基盤(認識作用)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 

 [483]〔認識の〕基盤の種々なることの知恵についての釈示が、第十五となる。

 

1. 1. 16. 〔認識の〕境涯の種々なることの知恵についての釈示

 

67.

 

 [484]どのように、外なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、外なる諸法(性質)〔の差異〕を定め置くのか。諸々の形態を、外なるものと定め置く。諸々の音声を、外なるものと定め置く。諸々の臭気を、外なるものと定め置く。諸々の味感を、外なるものと定め置く。諸々の感触を、外なるものと定め置く。諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置く。

 

 [485]どのように、諸々の形態を、外なるものと定め置くのか。「諸々の形態は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、行為()から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、食(動力源・エネルギー)から発生したものである」と定め置く。「諸々の形態は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の形態は、生起したものである」と定め置く。「諸々の形態は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の形態は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の形態を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の形態は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と【78】定め置く。「諸々の形態は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の形態を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、愉悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、愉悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅させている者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、諸々の形態を、外なるものと定め置く。

 

 [486]どのように、諸々の音声を、外なるものと定め置くのか。「諸々の音声は、無明から発生したものである」と定め置く。……略……。「諸々の音声は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の音声は、生起したものである」と定め置く。「諸々の音声は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の音声は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の音声を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の音声は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「諸々の音声は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の音声を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず……略……。このように、諸々の音声を、外なるものと定め置く。

 

 [487]どのように、諸々の臭気を、外なるものと定め置くのか。「諸々の臭気は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の臭気は、渇愛から発生したものである」と定め置く。……略……。このように、諸々の臭気を、外なるものと定め置く。どのように、諸々の味感を、外なるものと定め置くのか。「諸々の味感は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の味感は、渇愛から発生したものである」と定め置く。……略……。このように、諸々の味感を、外なるものと定め置く。

 

 [488]どのように、諸々の感触を、外なるものと定め置くのか。「諸々の感触は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、行為から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、食から発生したものである」と定め置く。「諸々の感触は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の感触は、生起したものである」と定め置く。「諸々の感触は、生まれ来たものである」と定め置く。……略……。このように、諸々の感触を、外なるものと定め置く。

 

 [489]どのように、諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置くのか。「諸々の法(意の対象)は、無明から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、渇愛から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、行為から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、食から発生したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、四つの大いなる元素に執取して〔形成されたもの〕である」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、生起したものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、生まれ来たものである」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、有ることなくして発生したものであり、有りて〔そののち〕有ることなきとなる」と定め置く。諸々の法(意の対象)を、終極あるもの〔の観点〕から定め置く。「諸々の法(意の対象)は、常恒ならざるものであり、常久ならざるものであり、変化の法(性質)である」と定め置く。「諸々の法(意の対象)は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と定め置く。諸々の法(意の対象)を、無常〔の観点〕から定め置き、常住〔の観点〕から〔定め置か〕ず、苦痛〔の観点〕から定め置き、安楽〔の観点〕から〔定め置か〕ず、無我〔の観点〕から定め置き、自己〔の観点〕から〔定め置か〕ず、厭離し、愉悦せず、離貪し、貪欲せず、止滅させ、集起させず、放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から定め置いている者は、常住の表象を捨棄する。苦痛〔の観点〕から定め置いている者は、安楽の表象を捨棄する。無我〔の観点〕から定め置いている者は、自己の表象を捨棄する。厭離している者は、愉悦を捨棄する。離貪している者は、貪欲を捨棄する。止滅させている者は、集起を捨棄する。放棄している者は、執取を捨棄する。このように、諸々の法(意の対象)を、外なるものと定め置く。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「外なるもの〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、〔認識の〕境涯(認識範囲)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 

 [490]〔認識の〕境涯の種々なることの知恵についての釈示が、第十六となる。

 

1. 1. 17. 性行の種々なることの知恵についての釈示

 

68.

 

 [491]【79】どのように、性行〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、性行の種々なることについての知恵となるのか。「性行」とは、三つの性行がある。(1)識知〔作用〕の性行、(2)無知の性行、(3)知恵の性行である。

 

 [492](1)どのようなものが、識知〔作用〕の性行であるのか。見るという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の形態における、識知〔作用〕の性行である。見るという義(目的)あるものが、眼の識知〔作用〕(眼識)が、諸々の形態における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕見られたことから、〔心を〕固定することから、報い(異熟)としての意の界域(意界)が、諸々の形態における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域(意識界)が、諸々の形態における、識知〔作用〕の性行である。

 

 [493]聞くという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の音声における、識知〔作用〕の性行である。聞くという義(目的)あるものが、耳の識知〔作用〕(耳識)が、諸々の音声における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕聞かれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の音声における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、諸々の音声における、識知〔作用〕の性行である。

 

 [494]嗅ぐという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の臭気における、識知〔作用〕の性行である。嗅ぐという義(目的)あるものが、鼻の識知〔作用〕(鼻識)が、諸々の臭気における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕嗅がれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の臭気における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、諸々の臭気における、識知〔作用〕の性行である。

 

 [495]味わうという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の味感における、識知〔作用〕の性行である。味わうという義(目的)あるものが、舌の識知〔作用〕(舌識)が、諸々の味感における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕味わわれたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の味感における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、諸々の味感における、識知〔作用〕の性行である。

 

 [496]接触するという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の感触における、識知〔作用〕の性行である。接触するという義(目的)あるものが、身の識知〔作用〕(身識)が、諸々の感触における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕接触されたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の感触における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、諸々の感触における、識知〔作用〕の性行である。

 

 [497]識知するという義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、諸々の法(意の対象)における、識知〔作用〕の性行である。識知するという義(目的)あるものが、意の識知〔作用〕(意識)が、諸々の法(意の対象)における、識知〔作用〕の性行である。〔対象が〕識知されたことから、〔心を〕固定することから、報いとしての意の界域が、諸々の法(意の対象)における、識知〔作用〕の性行である。〔心が〕固定されたことから、報いとしての意の識知〔作用〕の界域が、諸々の法(意の対象)における、識知〔作用〕の性行である。

 

69.

 

 [498]【80】「識知〔作用〕の性行」とは、どのような義(意味)によって、識知〔作用〕の性行となるのか。貪欲なきもの(無貪)〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。憤怒なきもの(無瞋)〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。迷妄なきもの(無痴)〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。思量なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。見解なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。高揚なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。疑惑なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。悪習なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。貪欲と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。憤怒と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。迷妄と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。思量と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。見解と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。高揚と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。疑惑と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。悪習と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の善なる行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の善ならざる行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の罪過を有する行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の罪過なき行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の黒の行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の白の行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の安楽の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の安楽の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。諸々の苦痛の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。識知されたものにおいて行なう、ということで、識知〔作用〕の性行となる。識知〔作用〕には、このような形態の性行が有る、ということで、識知〔作用〕の性行となる。〔心の〕汚れ(煩悩)なきものの義(意味)によって、この心は、〔生来の〕性向として完全なる清浄のものである、ということで、識知〔作用〕の性行となる。これが、識知〔作用〕の性行である。

 

 [499](2)どのようなものが、無知の性行であるのか。諸々の意に適う形態における、貪欲の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、貪欲の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。諸々の意に適わない形態における、憤怒の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、憤怒の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。その両者によって、正しく注視することなき事態における、迷妄の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、迷妄の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結縛としての思量の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、思量の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。偏執されたものとしての見解の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、見解の、【81】疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔心の〕散乱に至ったものとしての高揚の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、高揚の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結論なきに至ったものとしての疑惑の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、疑惑の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。強靭に至ったものとしての悪習の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、悪習の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。

 

 [500]諸々の意に適う音声における……略……。諸々の意に適う臭気における……略……。諸々の意に適う味感における……略……。諸々の意に適う感触における……略……。諸々の意に適う法(意の対象)における、貪欲の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、貪欲の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。諸々の意に適わない法(意の対象)における、憤怒の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、憤怒の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。その両者によって、正しく注視することなき事態における、迷妄の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、迷妄の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結縛としての思量の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、思量の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。偏執されたものとしての見解の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、見解の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。〔心の〕散乱に至ったものとしての高揚の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、高揚の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。結論なきに至ったものとしての疑惑の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、疑惑の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。強靭に至ったものとしての悪習の、疾走〔作用〕という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、悪習の、疾走〔作用〕が、無知の性行である。

 

70.

 

 [501]「無知の性行」とは、どのような義(意味)によって、無知の性行となるのか。貪欲を有するもの(有貪)〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。憤怒を有するもの(有瞋)〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。迷妄を有するもの(有痴)〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。思量を有するもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。見解を有するもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。高揚を有するもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。疑惑を有するもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。悪習を有するもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。貪欲と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。憤怒と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。迷妄と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。思量と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。見解と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。【82】高揚と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。疑惑と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。悪習と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の善なる行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の善ならざる行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の罪過を有する行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の罪過なき行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の黒の行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の白の行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の安楽の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の安楽の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。諸々の苦痛の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から行なう、ということで、無知の性行となる。〔いまだ〕知られていないものにおいて行なう、ということで、無知の性行となる。無知には、このような形態の性行が有る、ということで、無知の性行となる。これが、無知の性行である。

 

71.

 

 [502](3)どのようなものが、知恵の性行であるのか。無常の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、無常の随観が、知恵の性行である。苦痛の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、苦痛の随観が、知恵の性行である。無我の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、無我の随観が、知恵の性行である。厭離の随観という義(目的)のための……略……。離貪の随観という義(目的)のための……。止滅の随観という義(目的)のための……。放棄の随観という義(目的)のための……。滅尽の随観という義(目的)のための……。衰失の随観という義(目的)のための……。変化の随観という義(目的)のための……。無相の随観という義(目的)のための……。無願の随観という義(目的)のための……。空性の随観という義(目的)のための……。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察という義(目的)のための……。事実のとおりの知見という義(目的)のための……。危険の随観という義(目的)のための……。審慮の随観という義(目的)のための、〔心を対象に〕傾注する作用にして〔善悪が〕説き明かされないものが、識知〔作用〕の性行であり、審慮の随観が、知恵の性行である。還転の随観が、知恵の性行である。預流道が、知恵の性行である。預流果への入定が、知恵の性行である。一来道が、知恵の性行である。一来果への入定が、知恵の性行である。不還道が、知恵の性行である。不還果への入定が、知恵の性行である。阿羅漢道が、知恵の性行である。阿羅漢果への入定が、知恵の性行である。

 

 [503]「知恵の性行」とは、どのような義(意味)によって、知恵の性行となるのか。貪欲なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。憤怒なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。……略……。【83】悪習なきもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。貪欲と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。憤怒と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。迷妄と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。思量と結び付かないもの〔の観点〕から……略……。見解と結び付かないもの〔の観点〕から……。高揚と結び付かないもの〔の観点〕から……。疑惑と結び付かないもの〔の観点〕から……。悪習と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の善なる行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の善ならざる行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の罪過を有する行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の罪過なき行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の黒の行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の白の行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の安楽の生成ある行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の苦痛の生成ある行為と結び付かないもの〔の観点〕から……。諸々の安楽の報いある行為と結び付いたもの〔の観点〕から……。諸々の苦痛の報いある行為と結び付かないもの〔の観点〕から行なう、ということで、知恵の性行となる。〔すでに〕知られたもの(所知のもの)において行なう、ということで、知恵の性行となる。知恵には、このような形態の性行が有る、ということで、知恵の性行となる。これが、知恵の性行である。他なるものとして、識知〔作用〕の性行があり、他なるものとして、無知の性行があり、他なるものとして、知恵の性行がある(三者は別個のものである)、ということで、それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「性行〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、性行の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 

 [504]性行の種々なることの知恵についての釈示が、第十七となる。

 

1. 1. 18. 境地の種々なることの知恵についての釈示

 

72.

 

 [505]どのように、四つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、境地の種々なることについての知恵となるのか。四つの境地がある。(1)欲望の行境(欲界)の境地、(2)形態の行境(色界)の境地、(3)形態なき行境(無色界)の境地、(4)属するところなき境地である。(1)どのようなものが、欲望の行境の境地であるのか。下は、無間地獄(阿鼻地獄)を極限と為して、上は、他化自在天〔の神々〕たちを内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて、諸々の行境となり、ここにおいて、諸々の属するところとなる、〔五つの心身を構成する〕範疇()と〔十二の認識の〕場所()と〔十八の認識の〕界域()、形態()、感受〔作用〕()、表象〔作用〕()、諸々の形成〔作用〕()、識知〔作用〕()である。これが、欲望の行境の境地である。

 

 [506](2)どのようなものが、形態の行境の境地であるのか。【84】下は、梵の世を極限と為して、上は、色究竟天(有頂天:色界最上天)〔の神々〕たちを内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて、諸々の行境となり、ここにおいて、諸々の属するところとなる、あるいは、〔そこに〕入定した者の、あるいは、〔そこに〕再生した者の、あるいは、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)ある者の、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)である。これが、形態の行境の境地である。

 

 [507](3)どのようなものが、形態なき行境の境地であるのか。下は、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちを極限と為して、上は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちを内と為して、すなわち、この中間において、ここにおいて、諸々の行境となり、ここにおいて、諸々の属するところとなる、あるいは、〔そこに〕入定した者の、あるいは、〔そこに〕再生した者の、あるいは、所見の法(現世)における安楽の住ある者の、心と心の属性としての諸法である。これが、形態なき行境の境地である。

 

 [508](4)どのようなものが、属するところなき境地であるのか。属するところなきものとしてある、そして、〔四つの聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)であり、そして、〔四つの聖者の〕道の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)であり、かつまた、形成されたものではない界域(無為界;涅槃)である。これが、属するところなき境地である。これらの四つの境地がある。

 

 [509]他にも、また、四つの境地がある。四つの気づきの確立(四念住・四念処)、四つの正しい精励(四正勤)、四つの神通の足場(四神足)、四つの瞑想(四禅)、四つの無量(四無量:慈・悲・喜・捨の四無量心)、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色定:空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処への入定)、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)、四つの〔実践の〕道(苦なる実践の道にして遅き証知・苦なる実践の道にして速き証知・楽なる実践の道にして遅き証知・楽なる実践の道にして速き証知)、四つの対象(四所縁:微小にして微小の所縁あるもの・微小にして無量の所縁あるもの・無量にして微小の所縁あるもの・無量にして無量の所縁あるもの)、四つの聖なる伝統(いかなる衣料でも満ち足りていること・いかなる行乞の食でも満ち足りていること・いかなる臥坐所でも満ち足りていること・捨棄を喜び修行を喜ぶこと)、四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)、四つの輪(適切なる地に住すること、正なる人士に近しく依拠すること、自己についての正しい誓願、そして、過去に作り為した功徳あること)、四つの法(真理)の境処(無貪・無瞋・正念・正定)である。これらの四つの境地がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「四つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、境地の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 

 [510]境地の種々なることの知恵についての釈示が、第十八となる。

 

1. 1. 19. 法(性質)の種々なることの知恵についての釈示

 

73.

 

 [511]どのように、九つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となるのか。どのように、諸法(性質)〔の差異〕を定め置くのか。(1)欲望の行境(欲界)の諸法(性質)を、(1―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(1―2)善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、(1―3)〔善悪が〕説き明かされないもの(無記)〔の観点〕から定め置く。(2)形態の行境(色界)の諸法(性質)を、(2―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(2―2)〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。(3)形態なき行境(無色界)の諸法(性質)を、(3―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(3―2)〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。(4)属するところなき諸法(性質)を、(4―1)善なるもの〔の観点〕から定め置き、(4―2)〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。

 

 [512]【85】(1)どのように、欲望の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置くのか。(1―1)十の善なる行為の道(命あるものを殺すことからの離断・与えられていないものを取ることからの離断・諸々の欲望の対象にたいする誤った行ないからの離断・虚偽を説くことからの離断・中傷の言葉からの離断・粗暴な言葉からの離断・雑駁な虚論からの離断・強欲ならざること・憎悪の心なきこと・正しい見解)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(1―2)十の善ならざる行為の道(命あるものを殺すこと・与えられていないものを取ること・諸々の欲望の対象にたいする誤った行ない・虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論・強欲・憎悪の心・誤った見解)を、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、(1―3)そして、形態を、かつまた、報い(異熟)を、さらに、〔善悪を伴わない純粋〕作用(唯作)を、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。このように、欲望の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、善ならざるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。

 

 [513](2)どのように、形態の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置くのか。(2―1)ここ(現世)に依って立つ者の、四つの瞑想(四禅)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(2―2)そこ(色界)に再生した者の、四つの瞑想(報いの転起としての四つの瞑想)を、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。このように、形態の行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。

 

 [514](3)どのように、形態なき行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置くのか。(3―1)ここ(現世)に依って立つ者の、四つの形態なき行境への入定(四無色界禅定)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(3―2)そこ(無色界)に再生した者の、四つの形態なき行境への入定(報いの転起としての四つの形態なき行境への入定)を、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。このように、形態なき行境の諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。

 

 [515](4)どのように、属するところなき諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置くのか。(4―1)四つの聖者の道を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、(4―2)そして、四つの沙門の果を、さらに、涅槃を、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。このように、属するところなき諸法(性質)を、善なるもの〔の観点〕から定め置き、〔善悪が〕説き明かされないもの〔の観点〕から定め置く。このように、諸法(性質)〔の差異〕を定め置く。

 

 [516]九つの歓喜を根元とする法(性質)がある。無常〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。歓喜した者には、(2)喜悦が生じる。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息する。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者には、(5)心が定められる。心が定められたとき、(6)事実のとおりに知り見る。事実のとおりに知り見ている者は、(7)厭離する。厭離している者は、(8)離貪する。離貪あることから、(9)解脱する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。無我〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……(9)解脱する。

 

 [517]形態を、無常〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を、無常〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。老と死を、【86】無我〔の観点〕から意を為していると、(1)歓喜が生じる。歓喜した者には、(2)喜悦が生じる。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息する。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者には、(5)心が定められる。心が定められたとき、(6)事実のとおりに知り見る。事実のとおりに知り見ている者は、(7)厭離する。厭離している者は、(8)離貪する。離貪あることから、(9)解脱する。これらの九つの歓喜を根元とする法(性質)がある。

 

74.

 

 [518]九つの根源のままに意を為すこと(如理作意)を根元とする法(性質)がある。無常〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。歓喜した者には、(2)喜悦が生じる。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息する。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者には、(5)心が定められる。心が定められたなら、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。歓喜した者には、(2)喜悦が生じる。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息する。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者には、(5)心が定められる。心が定められたなら、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。無我〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。

 

 [519]形態を、無常〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。形態を、無我〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を、無常〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。……略……。老と死を、無我〔の観点〕から根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じる。歓喜した者には、(2)喜悦が生じる。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息する。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受する。安楽ある者には、(5)心が定められる。心が定められたなら、(6)「これは、苦痛である」と、事実のとおりに覚知し、(7)「これは、苦痛の集起である」と、事実のとおりに覚知し、(8)「これは、苦痛の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、(9)「これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である」【87】と、事実のとおりに覚知する。これらの九つの根源のままに意を為すことを根元とする法(性質)がある。

 

 [520]九つの種々なることがある。(1)界域の種々なることを縁として、(2)接触の種々なることが生起する。接触の種々なることを縁として、(3)感受の種々なることが生起する。感受の種々なることを縁として、(4)表象の種々なることが生起する。表象の種々なることを縁として、(5)思惟(妄想)の種々なることが生起する。思惟の種々なることを縁として、(6)欲〔の思い〕の種々なることが生起する。欲〔の思い〕の種々なることを縁として、(7)苦悶の種々なることが生起する。苦悶の種々なることを縁として、(8)遍き探し求めの種々なることが生起する。遍き探し求めの種々なることを縁として、(9)利得の種々なることが生起する。これらの九つの種々なることがある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「九つの法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、法(性質)の種々なることについての知恵となる」〔と〕。

 

 [521]法(性質)の種々なることの知恵についての釈示が、第十九となる。

 

1. 1. 20-24. 知恵の五なるものについての釈示

 

75.

 

 [522]どのように、(1)証知としての智慧が、所知の義(意味)についての知恵となり、(2)遍知としての智慧が、推量の義(意味)についての知恵となり、(3)捨棄における智慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となり、(4)修行としての智慧が、一味の義(意味)についての知恵となり、(5)実証としての智慧が、体得の義(意味)についての知恵となるのか。(1)それぞれの諸法(性質)が、証知されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、所知のものと成る。(2)それぞれの諸法(性質)が、遍知されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、推量されたものと成る。(3)それぞれの諸法(性質)が、捨棄されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、遍捨されたものと成る。(4)それぞれの諸法(性質)が、修行されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、一味のものと成る。(5)それぞれの諸法(性質)が、実証されたものと成るなら、それぞれの諸法(性質)は、体得されたものと成る。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「証知としての智慧が、所知の義(意味)についての知恵となる」「遍知としての智慧が、推量の義(意味)についての知恵となる」「捨棄における智慧が、遍捨の義(意味)についての知恵となる」「修行としての智慧が、一味の義(意味)についての知恵となる」「実証としての智慧が、体得の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 

 [523]知恵の五なるものについての釈示が、第二十四となる。

 

1. 1. 25-28. 融通無礙の知恵についての釈示

 

76.

 

 [524]【88】どのように、(1)義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙(無礙解)についての知恵となり、(2)法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、(3)言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、(4)応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となるのか。(2)信の機能(信根)は、法(教え)である。精進の機能(精進根)は、法(教え)である。気づきの機能(念根)は、法(教え)である。禅定の機能(定根)は、法(教え)である。智慧の機能(慧根)は、法(教え)である。他なるものとして、信の機能の法(教え)があり、他なるものとして、精進の機能の法(教え)があり、他なるものとして、気づきの機能の法(教え)があり、他なるものとして、禅定の機能の法(教え)があり、他なるものとして、智慧の機能の法(教え)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる法(教え)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(教え)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [525](1)信念の義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。現起の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)は、義(意味)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、信念の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔あるがままの〕見の義(意味)の義(意味)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [526](3)五つ法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔五つの〕法(教え)の言語があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)の言語がある(両者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [527](4)五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔五つの〕法(教え)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十の〕言語についての諸々の知恵がある(三者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

77.

 

 [528](2)信の力(信力)は、法(教え)である。精進の力(精進力)は、法(教え)である。気づきの力(念力)は、法(教え)である。禅定の力(定力)は、法(教え)である。智慧の力(慧力)は、法(教え)である。他なるものとして、信の力の法(教え)があり、他なるものとして、精進の力の法(教え)があり、他なるものとして、気づきの力の法(教え)があり、他なるものとして、禅定の力の法(教え)があり、他なるものとして、智慧の力の法(教え)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる法(教え)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの【89】種々なる法(教え)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [529](1)不信にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。怠惰にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。放逸にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。無明にたいする、不動の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、不信にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、怠惰にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、放逸にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、無明にたいする、不動の義(意味)の義(意味)がある(五者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [530](3)五つ法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔五つの〕法(教え)の言語があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)の言語がある(両者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [531](4)五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔五つの〕法(教え)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔五つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十の〕言語についての諸々の知恵がある(三者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [532](2)気づきという正覚の支分(念覚支)は、法(教え)である。法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)は、法(教え)である。精進という正覚の支分(精進覚支)は、法(教え)である。喜悦という正覚の支分(喜覚支)は、法(教え)である。静息という正覚の支分(軽安覚支)は、法(教え)である。禅定という正覚の支分(定覚支)は、法(教え)である。放捨という正覚の支分(捨覚支)は、法(教え)である。他なるものとして、気づきという正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、法(真理)の判別という正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、精進という正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、喜悦という正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、静息という正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、禅定という正覚の支分の法(教え)があり、他なるものとして、放捨という正覚の支分の法(教え)がある(七者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる法(教え)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(教え)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [533]【90】(1)現起の義(意味)は、義(意味)である。精査の義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。充満の義(意味)は、義(意味)である。寂止の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)は、義(意味)である。審慮の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、精査の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、充満の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、寂止の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、審慮の義(意味)の義(意味)がある(七者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [534](3)七つ法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。七つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔七つの〕法(教え)の言語があり、他なるものとして、〔七つの〕義(意味)の言語がある(両者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [535](4)七つの法(教え)についての諸々の知恵がある。七つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十四の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔七つの〕法(教え)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔七つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十四の〕言語についての諸々の知恵がある(三者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [536](2)正しい見解(正見)は、法(教え)である。正しい思惟(正思惟)は、法(教え)である。正しい言葉(正語)は、法(教え)である。正しい行業(正業)は、法(教え)である。正しい生き方(正命)は、法(教え)である。正しい努力(正精進)は、法(教え)である。正しい気づき(正念)は、法(教え)である。正しい禅定(正定)は、法(教え)である。他なるものとして、正しい見解の法(教え)があり、他なるものとして、正しい思惟の法(教え)があり、他なるものとして、正しい言葉の法(教え)があり、他なるものとして、正しい行業の法(教え)があり、他なるものとして、正しい生き方の法(教え)があり、他なるものとして、正しい努力の法(教え)があり、他なるものとして、正しい気づきの法(教え)があり、他なるものとして、正しい禅定の法(教え)がある(八者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる法(教え)が、知られたもの(所知のもの)となるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる法(教え)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [537](1)〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。〔正しく心を〕固定することの義(意味)は、義(意味)である。遍き収取(理解・把握)の義(意味)は、義(意味)である。等しく現起するものの義(意味)は、義(意味)である。浄化するものの義(意味)は、義(意味)である。励起の義(意味)は、義(意味)である。現起の義(意味)は、義(意味)である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)は、義(意味)である。他なるものとして、〔あるがままの〕見の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔正しく心を〕固定することの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、遍き収取の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、等しく現起するものの義(意味)があり、他なるものとして、浄化するものの義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、励起の義(意味)の義(意味)があり、【91】他なるものとして、現起の義(意味)の義(意味)があり、他なるものとして、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)の義(意味)がある(八者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる義(意味)が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる義(意味)は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [538](3)八つ法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。八つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。他なるものとして、〔八つの〕法(教え)の言語があり、他なるものとして、〔八つの〕義(意味)の言語がある(両者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる言語が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる言語は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [539](4)八つの法(教え)についての諸々の知恵がある。八つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十六の言語についての諸々の知恵がある。他なるものとして、〔八つの〕法(教え)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔八つの〕義(意味)についての諸々の知恵があり、他なるものとして、〔十六の〕言語についての諸々の知恵がある(三者は別個のものである)。その知恵によって、これらの種々なる知恵が、知られたものとなるなら、まさしく、その知恵によって、これらの種々なる知恵は、確知されたものとなる、ということで、それによって説かれる。「応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となる」「法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となる」「言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となる」「応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる」〔と〕。

 

 [540]融通無礙の知恵についての釈示が、第二十八となる。

 

1. 1. 29-31. 三つの知恵についての釈示

 

78.

 

 [541]どのように、住の種々なることにおける智慧が、住の義(意味)についての知恵となり、入定(等至)の種々なることにおける智慧が、入定の義(意味)についての知恵となり、住の入定の種々なることにおける智慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となるのか。形相(概念把握)を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無相の住である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無願の住である。固着(固定観念)を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。空性の住である。

 

 [542]形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、【92】転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 

 [543]形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。

 

79.

 

 [544]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無相の住である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無願の住である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。空性の住である。

 

 [545]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 

 [546]形態の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。形態の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。形態の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては【93】接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。

 

 [547]感受〔作用〕の形相を……略……。表象〔作用〕の形相を……。諸々の形成〔作用〕の形相を……。識知〔作用〕の形相を……。眼の形相を……略([107-116]参照)……。老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無相の住である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。無願の住である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。空性の住である。

 

 [548]老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の入定である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の入定である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の入定である。

 

 [549]老と死の形相を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無相について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無相に〔心を〕傾注して、入定する。無相の住の入定である。老と死の切願を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、無願について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、無願に〔心を〕傾注して、入定する。無願の住の入定である。老と死の固着を、恐怖〔の観点〕から正しく見ている者は、空性について信念したことから、接触しては接触して、衰失を見る。転起されたものを放捨して、止滅の涅槃へと、空性に〔心を〕傾注して、入定する。空性の住の入定である。【94】他なるものとして、無相の住があり、他なるものとして、無願の住があり、他なるものとして、空性の住がある。他なるものとして、無相の入定があり、他なるものとして、無願の入定があり、他なるものとして、空性の入定がある。他なるものとして、無相の住の入定があり、他なるものとして、無願の住の入定があり、他なるものとして、空性の住の入定がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「住の種々なることにおける智慧が、住の義(意味)についての知恵となる」「入定の種々なることにおける智慧が、入定の義(意味)についての知恵となる」「住の入定の種々なることにおける智慧が、住の入定の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 

 [550]三つの知恵についての釈示が、第三十一となる。

 

1. 1. 32. 直後なる禅定の知恵についての釈示

 

80.

 

 [551]どのように、〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄たることから、煩悩()の断絶における智慧が、直後なる禅定(無間定)についての知恵となるのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。その禅定を所以に、知恵が生起する。その知恵によって、諸々の煩悩が滅尽する。かくのごとく、最初に、〔心の〕止寂()があり、最後に、知恵がある。その知恵によって、諸々の煩悩の、滅尽が有る。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における智慧が、直後なる禅定についての知恵となる」〔と〕。

 

 [552]「諸々の煩悩()」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。

 

 [553]どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。

 

 [554]【95】憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以にする……略……。光明の表象を所以にする……。〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以にする……。法(性質)〔の差異〕を定め置くことを所以にする……。知恵を所以にする……。歓喜を所以にする……。第一の瞑想を所以にする……。第二の瞑想を所以にする……。第三の瞑想を所以にする……。第四の瞑想を所以にする……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。無所有なる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を所以にする……。地の遍満を所以にする……。水の遍満を所以にする……。火の遍満を所以にする……。風の遍満を所以にする……。青の遍満を所以にする……。黄の遍満を所以にする……。赤の遍満を所以にする……。白の遍満を所以にする……。虚空の遍満を所以にする……。識知〔作用〕の遍満を所以にする……。覚者の随念を所以にする……。法(教え)の随念を所以にする……。僧団の随念を所以にする……。戒の随念を所以にする……。施捨の随念を所以にする……。天神たちの随念を所以にする……。呼吸についての気づきを所以にする……。死についての気づきを所以にする……。身体の在り方についての気づきを所以にする……。寂止の随念を所以にする……。膨張した〔死体〕の表象を所以にする……。青黒くなった〔死体〕の表象を所以にする……。膿み爛れた〔死体〕の表象を所以にする……。切断された〔死体〕の表象を所以にする……。喰い残された〔死体〕の表象を所以にする……。散乱した〔死体〕の表象を所以にする……。打ち殺され散乱した〔死体〕の表象を所以にする……。血まみれの〔死体〕の表象を所以にする……。蛆虫まみれの〔死体〕の表象を所以にする……。骨となった〔死体〕の表象を所以にする……。

 

81.

 

 [555]長き出息を所以にする……略……。長き入息を所以にする……。短き出息を所以にする……。短き入息を所以にする……。一切の身体の得知ある、出息を所以にする……。一切の身体の得知ある、入息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする……。喜悦の得知ある、出息を所以にする……。喜悦の得知ある、入息を所以にする……。安楽の得知ある、出息を所以にする……。安楽の得知ある、入息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある、出息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある、入息を所以にする……。心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……。心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする……。心の得知ある、出息を所以にする……。心の得知ある、入息を所以にする……。心を大いに歓喜させつつ、出息を所以にする……。心を大いに歓喜させつつ、入息を所以にする……。心を定めつつ……略……。心を解脱させつつ……。無常の随観ある……。苦痛の随観ある……。無我の随観ある……。厭離の随観ある……。離貪の随観ある……。止滅の随観ある……。放棄の随観ある、出息を所以にする……。放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。その禅定を所以に、知恵が生起する。その知恵によって、諸々の煩悩が滅尽する。かくのごとく、最初に、〔心の〕止寂があり、最後に、知恵がある。その【96】知恵によって、諸々の煩悩の、滅尽が有る。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における智慧が、直後なる禅定についての知恵となる」〔と〕。

 

 [556]「諸々の煩悩」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔心の〕散乱なき〔状態〕の完全なる清浄たることから、煩悩の断絶における智慧が、直後なる禅定についての知恵となる」〔と〕。

 

 [557]直後なる禅定の知恵についての釈示が、第三十二となる。

 

1. 1. 33. 相克なき住の知恵についての釈示

 

82.

 

 [558]どのように、〔あるがままの〕見を優位とし、かつまた、寂静なる住の到達(証得)ある、精妙なるものを信念したこととしての智慧が、相克なき住についての知恵となるのか。

 

 [559]「〔あるがままの〕見を優位とし」とは、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、形態において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、形態において、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、感受〔作用〕において……略……表象〔作用〕において……諸々の形成〔作用〕において……識知〔作用〕において……眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、老と死において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕見の優位であり、老と死において、無我の随観が、〔あるがままの〕見の優位である。

 

 [560]【97】「かつまた、寂静なる住の到達ある」とは、空性の住が、寂静なる住の到達であり、無相の住が、寂静なる住の到達であり、無願の住が、寂静なる住の到達である。

 

 [561]「精妙なるものを信念したこと」とは、空性について信念したことが、精妙なるものを信念したことであり、無相について信念したことが、精妙なるものを信念したことであり、無願について信念したことが、精妙なるものを信念したことである。

 

 [562]「相克なき住」とは、第一の瞑想が、相克なき住であり、第二の瞑想が、相克なき住であり、第三の瞑想が、相克なき住であり、第四の瞑想が、相克なき住であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が、相克なき住であり……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、相克なき住である。

 

 [563]「相克なき住」とは、どのような義(意味)によって、相克なき住となるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を運び去る、ということで、相克なき住となる。第二の瞑想によって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念を運び去る、ということで、相克なき住となる。第三の瞑想によって、喜悦を運び去る、ということで、相克なき住となる。第四の瞑想によって、安楽と苦痛を運び去る、ということで、相克なき住となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象を、敵対の表象を、種々なる表象を、運び去る、ということで、相克なき住となる。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象を運び去る、ということで、相克なき住となる。これが、相克なき住である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔あるがままの〕見を優位とし、かつまた、寂静なる住の到達ある、精妙なるものを信念したこととしての智慧が、相克なき住についての知恵となる」〔と〕。

 

 [564]相克なき住の知恵についての釈示が、第三十三となる。

 

1. 1. 34. 止滅の入定の知恵についての釈示

 

83.

 

 [565]どのように、二つの力を具備したものたることから、さらに、三つの形成〔作用〕()の安息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの禅定の性行によって、自在なる状態たることとしての智慧が、止滅の入定(滅尽定)についての知恵となるのか。

 

 [566]「二つの力」とは、二つの力がある。(1)〔心の〕止寂()の力であり、(2)〔あるがままの〕観察()の力である。(1)どのようなものが、〔心の〕止寂の力であるのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。光明の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、【98】〔心の〕止寂の力である。〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。……略([554-555]参照)……。放棄の随観ある出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。放棄の随観ある入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。

 

 [567]「〔心の〕止寂の力」とは、どのような義(意味)によって、〔心の〕止寂の力となるのか。第一の瞑想によって、〔修行の〕妨害にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第二の瞑想によって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第三の瞑想によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第四の瞑想によって、安楽と苦痛にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象にたいし、敵対の表象にたいし、種々なる表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって識知無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。そして、〔心の〕高揚にたいし、かつまた、高揚を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。これが、〔心の〕止寂の力である。

 

 [568](2)どのようなものが、〔あるがままの〕観察の力であるのか。無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。無我の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。厭離の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。離貪の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。止滅の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。……略……。形態において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。……略……。老と死において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。

 

 [569]「〔あるがままの〕観察の力」とは、どのような義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の力となるのか。無常の随観によって、常住の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。苦痛の随観によって、安楽の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無我の随観によって、自己の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。厭離の随観によって、愉悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。離貪の随観によって、貪欲にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。止滅の随観によって、【99】集起にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。放棄の随観によって、執取にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。そして、無明にたいし、かつまた、無明を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。これが、〔あるがままの〕観察の力である。

 

 [570]「さらに、三つの形成〔作用〕の安息あることから」とは、どのような三つの形成〔作用〕の安息あることから、であるのか。(1)第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念が、〔それらの〕言葉の形成〔作用〕が安息したものと成り、(2)第四の瞑想に入定した者には、出息と入息が、〔それらの〕身体の形成〔作用〕が安息したものと成り、(3)表象と感覚の止滅(想受滅)に入定した者には、そして、表象〔作用〕が、さらに、感受〔作用〕が、〔それらの〕心の形成〔作用〕が安息したものと成る。これらの三つの形成〔作用〕の安息あることから、である。

 

84.

 

 [571]「十六の知恵の性行によって」とは、どのような十六の知恵の性行によって、であるのか。(1)無常の随観が、知恵の性行である。(2)苦痛の随観が、知恵の性行である。(3)無我の随観が、知恵の性行である。(4)厭離の随観が、知恵の性行である。(5)離貪の随観が、知恵の性行である。(6)止滅の随観が、知恵の性行である。(7)放棄の随観が、知恵の性行である。(8)還転の随観の随観が、知恵の性行である。(9)預流道が、知恵の性行である。(10)預流果への入定が、知恵の性行である。(11)一来道が、知恵の性行である。(12)一来果への入定が、知恵の性行である。(13)不還道が、知恵の性行である。(14)不還果への入定が、知恵の性行である。(15)阿羅漢道が、知恵の性行である。(16)阿羅漢果への入定が、知恵の性行である。これらの十六の知恵の性行によって、である。

 

85.

 

 [572]「九つの禅定の性行によって」とは、どのような九つの禅定の性行によって、であるのか。(1)第一の瞑想が、禅定の性行である。(2)第二の瞑想が、禅定の性行である。(3)第三の瞑想が、禅定の性行である。(4)第四の瞑想が、禅定の性行である。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が……略……。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所への入定が……。(7)無所有なる〔認識の〕場所への入定が……。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、禅定の性行である。(9)第一の瞑想の獲得を義(目的)とする〔瞑想の境地に近接して行く禅定〕の、そして、〔粗雑なる〕思考であり、かつまた、〔微細なる〕想念であり、そして、喜悦であり、かつまた、安楽であり、さらに、心の一境性であり……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)とする〔瞑想の境地に近接して行く禅定〕の、そして、〔粗雑なる〕思考であり、かつまた、〔微細なる〕想念であり、そして、喜悦であり、かつまた、安楽であり、さらに、心の一境性である。これらの九つの禅定の性行によって、である。

 

 [573]「自在」とは、五つの自在がある。(1)傾注することの自在、(2)入定することの自在、【100】(3)確立することの自在、(4)出起することの自在、(5)注視することの自在である。第一の瞑想に、(1)求めるところで求めるときに求めるかぎり傾注し、傾注することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、傾注することの自在となる。第一の瞑想に、(2)求めるところで求めるときに求めるかぎり入定し、入定することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、入定することの自在となる。第一の瞑想に、(3)求めるところで求めるときに求めるかぎり確立し、確立することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、確立することの自在となる。第一の瞑想に、(4)求めるところで求めるときに求めるかぎり出起し、出起することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、出起することの自在となる。第一の瞑想に、(5)求めるところで求めるときに求めるかぎり注視し、注視することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、注視することの自在となる。

 

 [574]第二の瞑想に……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、(1)求めるところで求めるときに求めるかぎり傾注し、傾注することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、傾注することの自在となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定に、(2)求めるところで求めるときに求めるかぎり入定し……略……(3)確立し……(4)出起し……(5)注視し、注視することにおいて、遅滞が存在しない、ということで、注視することの自在となる。これらの五つの自在がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「二つの力を具備したものたることから、さらに、三つの形成〔作用〕の安息あることから、十六の知恵の性行によって、九つの禅定の性行によって、自在なる状態たることとしての智慧が、止滅の入定についての知恵となる」〔と〕。

 

 [575]止滅の入定の知恵についての釈示が、第三十四となる。

 

1. 1. 35. 完全なる涅槃の知恵についての釈示

 

86.

 

 [576]どのように、正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことにおける智慧が、完全なる涅槃についての知恵となるのか。ここに、正知の者が、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)にとっての転起されたものを完全に取り払い、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕(瞋恚)にとっての転起されたものを完全に取り払い、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)にとっての転起されたものを完全に取り払い、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚(掉挙)にとっての転起されたものを完全に取り払い、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕()にとっての……略……知恵によって、無明にとっての……歓喜によって、不満〔の思い〕にとっての……第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にとっての転起されたものを完全に取り払い……略……阿羅漢道によって、【101】〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての転起されたものを完全に取り払う。

 

 [577]そこで、また、あるいは、正知の者が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達しつつあるなら、まさしく、そして、この、眼によって転起されたものを完全に取り払い、さらに、他の、眼によって転起されたものは生起せず、そして、この、耳によって転起されたものを……略……鼻によって転起されたものを……舌によって転起されたものを……身によって転起されたものを……意によって転起されたものを完全に取り払い、さらに、他の、意によって転起されたものは生起しない。〔まさに〕この、正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことにおける智慧が、完全なる涅槃についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことにおける智慧が、完全なる涅槃についての知恵となる」〔と〕。

 

 [578]完全なる涅槃の知恵についての釈示が、第三十五となる。

 

1. 1. 36. 等首者の義(意味)の知恵についての釈示

 

87.

 

 [579]どのように、一切の法(事象)の、正しい断絶における、さらに、止滅における、現起なきこととしての智慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終える者)の義(意味)についての知恵となるのか。「一切の法(事象)」とは、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)、十二の〔認識の〕場所(十二処)、十八の界域(十八界)、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き明かされない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。「正しい断絶」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を正しく断絶し、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を正しく断絶し、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を正しく断絶し、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を正しく断絶し、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を正しく断絶し、知恵によって、無明を正しく断絶し、歓喜によって、不満〔の思い〕を正しく断絶し、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を正しく断絶し……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを正しく断絶する。

 

 [580]「止滅」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を止滅させ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を止滅させ、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を止滅させ、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を止滅させ、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を止滅させ、知恵によって、無明を止滅させ、歓喜によって、不満〔の思い〕を止滅させ、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を止滅させ……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを止滅させる。

 

 [581]「現起なきこと」とは、離欲を獲得した者には、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は現起せず、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を獲得した者には、【102】憎悪〔の思い〕は現起せず、光明の表象を獲得した者には、〔心の〕沈滞と眠気は現起せず、〔心の〕散乱なき〔状態〕を獲得した者には、〔心の〕高揚は現起せず、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを獲得した者には、疑惑〔の思い〕は現起せず、知恵を獲得した者には、無明は現起せず、歓喜を獲得した者には、不満〔の思い〕は現起せず、第一の瞑想を獲得した者には、〔五つの修行の〕妨害は現起せず……略……阿羅漢道を獲得した者には、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れは現起しない。

 

 [582]「等(平等・平静)」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、等であり、憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、等であり、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象が、等であり、〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なき〔状態〕が、等であり、疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、等であり、無明が捨棄されたことから、知恵が、等であり、不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜が、等であり、〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想が、等であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、等である。

 

 [583]「首(筆頭・頭目)」とは、十三の首がある。(1)そして、障害の首としての渇愛であり、(2)そして、結縛の首としての思量であり、(3)そして、偏執の首としての見解であり、(4)そして、〔心の〕散乱の首としての〔心の〕高揚であり、(5)そして、〔心の〕汚染(雑染)の首としての無明であり、(6)そして、信念の首としての信であり、(7)そして、励起の首としての精進であり、(8)そして、現起の首としての気づきであり、(9)そして、〔心の〕散乱なき〔状態〕の首としての禅定であり、(10)そして、〔あるがままの〕見の首としての智慧であり、(11)そして、転起されたものの首としての生命の機能であり、(12)そして、境涯の首としての解脱であり、(13)そして、形成〔作用〕の首としての止滅である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「一切の法(事象)の、正しい断絶における、さらに、止滅における、現起なきこととしての智慧が、等首者の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 

 [584]等首者の義(意味)の知恵についての釈示が、第三十六となる。

 

1. 1. 37. 謹厳の義(意味)の知恵についての釈示

 

88.

 

 [585]どのように、多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける智慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となるのか。「多々なるもの」とは、貪欲()が、多々なるものであり、憤怒()が、多々なるものであり、迷妄()が、多々なるものであり、忿激(忿)が……略……怨恨()が……偽装()が……加虐()が……嫉妬()が……物惜()が……幻惑()が……狡猾()が……強情()が……激昂()が……思量()が……高慢(過慢)が……驕慢()が……放逸が……一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が……一切の悪しき行ないが……一切の行作(現行)が……一切の生存に至る行為が、多々なるものである(※)。

 

※ PTS版により puthu を補う。

 

 [586]【103】「種々なることと一なること」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり、憎悪〔の思い〕が、種々なることであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、一なることであり、〔心の〕沈滞と眠気が、種々なることであり、光明の表象が、一なることであり、〔心の〕高揚が、種々なることであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕が、一なることであり、疑惑〔の思い〕が、種々なることであり、法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、一なることであり、無明が、種々なることであり、知恵が、一なることであり、不満〔の思い〕が、種々なることであり、歓喜が、一なることであり、〔五つの修行の〕妨害が、種々なることであり、第一の瞑想が、一なることであり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることである。

 

 [587]「威あるもの」とは、五つの威あるものがある。(1)行ないの威あるもの、(2)徳の威あるもの、(3)智慧の威あるもの、(4)功徳の威あるもの、(5)法(真理)の威あるものである。(1)行ないの威あるものによって威あるものとなったことから、劣戒にして威あるものを完全に取り払う。(2)徳の威あるものによって威あるものとなったことから、徳なく威あるものを完全に取り払う。(3)智慧の威あるものによって威あるものとなったことから、智慧浅く威あるものを完全に取り払う。(4)功徳の威あるものによって威あるものとなったことから、功徳なく威あるものを完全に取り払う。(5)法(真理)の威あるものによって威あるものとなったことから、法(真理)なく威あるものを完全に取り払う。

 

 [588]「謹厳」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、離欲が、謹厳であり、憎悪〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、謹厳であり、〔心の〕沈滞と眠気が、謹厳ならざるものであり、光明の表象が、謹厳であり、〔心の〕高揚が、謹厳ならざるものであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕が、謹厳であり、疑惑〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、謹厳であり、無明が、謹厳ならざるものであり、知恵が、謹厳であり、不満〔の思い〕が、謹厳ならざるものであり、歓喜が、謹厳であり、〔五つの修行の〕妨害が、謹厳ならざるものであり、第一の瞑想が、謹厳であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、謹厳ならざるものであり、阿羅漢道が、謹厳である。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「多々なるものと種々なることと一なることと威あるものを完全に取り払うことにおける(※)智慧が、謹厳の義(意味)についての知恵となる」〔と〕。

 

※ テキストには Puthunānattatejapariyādāne とあるが、PTS版により Puthunānattekattatejapariyādāne と読む。

 

 [589]謹厳の義(意味)の知恵についての釈示が、第三十七となる。

 

1. 1. 38. 精進勉励の知恵についての釈示

 

89.

 

 [590]どのように、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となるのか。諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における【104】智慧が、精進勉励についての知恵となる。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。

 

 [591]〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起なきために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔いまだ〕生起していない離欲の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した離欲の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。……略……。

 

 [592]〔いまだ〕生起していない〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの生起なきために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔いまだ〕生起していない阿羅漢道の生起のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。〔すでに〕生起した阿羅漢道の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「退去なきことと精励あることとしての励起の義(意味)における智慧が、精進勉励についての知恵となる」〔と〕。

 

 [593]精進勉励の知恵についての釈示が、第三十八となる。

 

1. 1. 39. 義(意味)の見示の知恵についての釈示

 

90.

 

 [594]どのように、種々なる法(教え)を明示することとしての智慧が、義(意味)の見示についての知恵となるのか。「種々なる法(教え)」とは、五つの〔心身を構成する〕範疇、十二の〔認識の〕場所、十八の界域、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き明かされない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。

 

 [595]「明示すること」とは、形態を、無常〔の観点〕から明示し、形態を、苦痛〔の観点〕から明示し、形態を、無我〔の観点〕から明示し、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……眼を【105】……略([107-116]参照)……老と死を、無常〔の観点〕から明示し、老と死を、苦痛〔の観点〕から明示し、老と死を、無我〔の観点〕から明示する。

 

 [596]「義(意味)の見示」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲の義(意味)を見示し、憎悪〔の思い〕を捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の義(意味)を見示し、〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象の義(意味)を見示し、〔心の〕高揚を捨棄している者は、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を見示し、疑惑〔の思い〕を捨棄している者は、法(性質)〔の差異〕を定め置くことの義(意味)を見示し、無明を捨棄している者は、知恵の義(意味)を見示し、不満〔の思い〕を捨棄している者は、歓喜の義(意味)を見示し、〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者は、第一の瞑想の義(意味)を見示し……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道の義(意味)を見示する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「種々なる法(教え)を明示することとしての智慧が、義(意味)の見示についての知恵となる」〔と〕。

 

 [597]義(意味)の見示の知恵についての釈示が、第三十九となる。

 

1. 1. 40. 見の清浄の知恵についての釈示

 

91.

 

 [598]どのように、一切の法(事象)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解(通達)における智慧が、見の清浄の知恵となるのか。「一切の法(事象)」とは、五つの〔心身を構成する〕範疇……略……属するところなき諸法(性質)である。

 

 [599]「一なる包摂たること」とは、十二の行相によって、一切の法(事象)が、一なる包摂あるものとなる。(1)真実の義(意味)によって、(2)無我の義(意味)によって、(3)真理()の義(意味)によって、(4)理解(通達)の義(意味)によって、(5)証知することの義(意味)によって、(6)遍知することの義(意味)によって、(7)法(真理)の義(意味)によって、(8)界域の義(意味)によって、(9)所知の義(意味)によって、(10)実証の義(意味)によって、(11)体得の義(意味)によって、(12)知悉(現観)の義(意味)によって、これらの十二の行相によって、一切の法(事象)が、一なる包摂あるものとなる。

 

 [600]「種々なることと一なること」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることである。

 

 [601]「理解」とは、苦痛という真理(苦諦)を、遍知の理解として、理解し、集起という真理(集諦)を、捨棄の理解として、理解し、止滅という真理(滅諦)を、実証の理解として、理解し、道という真理(道諦)を、修行の理解として、理解する。

 

 [602]「見の清浄」とは、預流道の瞬間において、見が清浄となり、預流果の瞬間において、清浄なる見がある。一来道の瞬間において、見が清浄となり、一来果の瞬間において、清浄なる見がある。不還道の瞬間において、見が清浄となり、不還果の【106】瞬間において、清浄なる見がある。阿羅漢道の瞬間において、見が清浄となり、阿羅漢果の瞬間において、清浄なる見がある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「一切の法(事象)の、一なる包摂たることと種々なることと一なることの理解における智慧が、見の清浄の知恵となる」〔と〕。

 

 [603]見の清浄の知恵についての釈示が、第四十となる。

 

1. 1. 41. 受認の知恵についての釈示

 

92.

 

 [604]どのように、見出されたものたることから、智慧が、受認(信受)の知恵となるのか。形態が、無常〔の観点〕から見出されたものとなる。形態が、苦痛〔の観点〕から見出されたものとなる。形態が、無我〔の観点〕から見出されたものとなる。そのものそのものが見出されたものとなるなら、そのものそのものを受認する(信受する)、ということで、見出されたものたることから、智慧が、受認の知恵となる。感受〔作用〕が……略……。表象〔作用〕が……。諸々の形成〔作用〕が……。識知〔作用〕が……。眼が……略([107-116]参照)……。老と死が、無常〔の観点〕から見出されたものとなる。老と死が、苦痛〔の観点〕から見出されたものとなる。老と死が、無我〔の観点〕から見出されたものとなる。そのものそのものが見出されたものとなるなら、そのものそのものを受認する、ということで、見出されたものたることから、智慧が、受認の知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「見出されたものたることから、智慧が、受認の知恵となる」〔と〕。

 

 [605]受認の知恵についての釈示が、第四十一となる。

 

1. 1. 42. 深解の知恵についての釈示

 

93.

 

 [606]どのように、体得されたものたることから、智慧が、深解についての知恵となるのか。形態を、無常〔の観点〕から体得する。形態を、苦痛〔の観点〕から体得する。形態を、無我〔の観点〕から体得する。そのものそのものを体得するなら、そのものそのものを深解する、ということで、体得されたものたることから、智慧が、深解についての知恵となる。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を、無常〔の観点〕から体得する。老と死を、苦痛〔の観点〕から体得する。老と死を、無我〔の観点〕から体得する。そのものそのものを体得するなら、そのものそのものを深解する、ということで、体得されたものたることから、智慧が、深解についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「体得されたものたることから、智慧が、深解についての知恵となる」〔と〕。

 

 [607]深解の知恵についての釈示が、第四十二となる。

 

1. 1. 43. 部分の住の知恵についての釈示

 

94.

 

 [608]【107】どのように、配備における智慧が、部分の住についての知恵となるのか。誤った見解(邪見)という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った見解の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解(正見)という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい見解の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った思惟(邪思惟)という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った思惟の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい思惟(正思惟)という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい思惟の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。……略……。誤った解脱という縁あることからもまた、感受されたものがある。誤った解脱の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい解脱という縁あることからもまた、感受されたものがある。正しい解脱の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕という縁あることからもまた、感受されたものがある。欲〔の思い〕の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考という縁あることからもまた、感受されたものがある。思考の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象という縁あることからもまた、感受されたものがある。表象の寂止という縁あることからもまた、感受されたものがある。

 

 [609]そして、欲〔の思い〕が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、そして、思考が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、そして、表象が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、その縁からもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が、〔すでに〕寂止したものとして有り、そして、思考が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、そして、表象が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、その縁からもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が、〔すでに〕寂止したものとして有り、そして、思考が、〔すでに〕寂止したものとして有り、そして、表象が、〔いまだ〕寂止していないものとして有り、その縁からもまた、感受されたものがある。そして、欲〔の思い〕が、〔すでに〕寂止したものとして有り、そして、思考が、〔すでに〕寂止したものとして有り、そして、表象が、〔すでに〕寂止したものとして有り、その縁からもまた、感受されたものがある。〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、精勤が(※)存在する。その境位もまた、〔それが〕至り得られたとき、その縁からもまた、感受されたものがある。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「配備における智慧が、部分の住についての知恵となる」〔と〕。

 

※ テキストには āsavaṃ とあるが、PTS版により āyavaṃ と読む。

 

 [610]部分の住の知恵についての釈示が、第四十三となる。

 

1. 1. 44-49. 六つの還転の知恵についての釈示

 

95.

 

 [611](1)どのように、優位のものたることから、智慧が、表象()の還転についての知恵となるのか。離欲が優位のものたることから、智慧が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が優位のものたることから、智慧が、憎悪〔の思い〕から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。光明の表象が優位のものたることから、【108】智慧が、〔心の〕沈滞と眠気から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕が優位のものたることから、智慧が、〔心の〕高揚から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことが優位のものたることから、智慧が、疑惑〔の思い〕から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。知恵が優位のものたることから、智慧が、無明から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。歓喜が優位のものたることから、智慧が、不満〔の思い〕から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。第一の瞑想が優位のものたることから、智慧が、〔五つの修行の〕妨害から、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。……略……。阿羅漢道が優位のものたることから、智慧が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから、〔その〕表象から、還転する、ということで、優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「優位のものたることから、智慧が、表象の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

96.

 

 [612](2)どのように、種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なることであり、離欲が、一なることであり、離欲という一なることを思弁していると、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から、心が還転する、ということで、種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる。憎悪〔の思い〕が、種々なることであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、一なることであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という一なることを思弁していると、憎悪〔の思い〕から、心が還転する、ということで、種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる。〔心の〕沈滞と眠気が、種々なることであり、光明の表象が、一なることであり、光明の表象という一なることを思弁していると、〔心の〕沈滞と眠気から、心が還転する、ということで、種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なることであり、阿羅漢道が、一なることであり、阿羅漢道という一なることを思弁していると、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから、心が還転する、ということで、種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「種々なることにおける智慧が、思の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

97.

 

 [613](3)どのように、〔心の〕確立(加持)における智慧が、心の還転についての知恵となるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立における智慧が、心の還転についての知恵となる。憎悪〔の思い〕を【109】捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立における智慧が、心の還転についての知恵となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立における智慧が、心の還転についての知恵となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立における智慧が、心の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「〔心の〕確立における智慧が、心の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

98.

 

 [614](4)どのように、空性における智慧が、知恵の還転についての知恵となるのか。「眼は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても」と、事実のとおりに知り見ていると、眼の固着から、知恵が還転する、ということで、空性における智慧が、知恵の還転についての知恵となる。「耳は、空である……略……。「鼻は、空である……。「舌は、空である……。「身は、空である……。「意は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても」と、事実のとおりに知り見ていると、意の固着から、知恵が還転する、ということで、空性における智慧が、知恵の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「空性における智慧が、知恵の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

99.

 

 [615](5)どのように、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を放棄する、ということで、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を放棄する、ということで、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを放棄する、ということで、放棄における智慧が、【110】解脱の還転についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「放棄における智慧が、解脱の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

100.

 

 [616](6)どのように、真実の義(意味)における智慧が、真理()の還転についての知恵となるのか。苦痛の、逼悩の義(意味)を、形成されたもの(有為)の義(意味)を、熱苦の義(意味)を、変化の義(意味)を、遍知している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における智慧が、真理の還転についての知恵となる。集起の、専業(業を作ること)の義(意味)を、因縁の義(意味)を、束縛の義(意味)を、障害の義を、捨棄している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における智慧が、真理の還転についての知恵となる。止滅の、出離の義(意味)を、遠離の義(意味)を、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)を、不死の義(意味)を、実証している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における智慧が、真理の還転についての知恵となる。道の、出脱の義(意味)を、因の義(意味)を、〔あるがままの〕見の義(意味)を、優位の義(意味)を、修行している者は還転する、ということで、真実の義(意味)における智慧が、真理の還転についての知恵となる。

 

 [617](1)表象の還転、(2)思の還転、(3)心の還転、(4)知恵の還転、(5)解脱の還転、(6)真理の還転がある。表象している者が還転する、ということで、表象の還転となる。思弁している者が還転する、ということで、思の還転となる。識知している者が還転する、ということで、心の還転となる。知恵を作り為している者が還転する、ということで、知恵の還転となる。放棄している者が還転する、ということで、解脱の還転となる。真実の義(意味)において還転する、ということで、真理の還転となる。

 

 [618]そこにおいて、表象の還転があるなら、そこにおいて、思の還転がある。そこにおいて、思の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転があるなら、そこにおいて、心の還転がある。そこにおいて、心の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転があるなら、そこにおいて、知恵の還転がある。そこにおいて、知恵の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転があるなら、そこにおいて、解脱の還転がある。そこにおいて、解脱の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転があるなら、そこにおいて、真理の還転がある。そこにおいて、真理の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転がある。それは、所知の義(意味)によって、【111】知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「真実の義(意味)における智慧が、真理の還転についての知恵となる」〔と〕。

 

 [619]六つの還転の知恵についての釈示が、第四十九となる。

 

1. 1. 50. 〔種々なる〕神通の種類の知恵についての釈示

 

101.

 

 [620]どのように、身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての智慧〕が──かつまた、安楽の表象を、かつまた、軽快の表象を、〔心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における智慧が──〔種々なる〕神通の種類についての知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場(神足)を修行し、(2)精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(3)心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(4)考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、身体をもまた、心のうちに配備し、心をもまた、身体のうちに配備し、身体を所以に、心を変化させ、心を所以に、身体を変化させ、身体を所以に、心を確立し、心を所以に、身体を確立し、身体を所以に、心を変化させて、心を所以に、身体を変化させて、身体を所以に、心を確立して、心を所以に、身体を確立して、身体において、そして、安楽の表象に〔入って〕、さらに、軽快の表象に入って、〔世に〕住む。彼は、そのように修行された完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、〔種々なる〕神通の種類の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現する。

 

102.

 

 [621]一なる者としてもまた有って、多種なる者と成る。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行く──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわす。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「身体をもまた、心をもまた、一つに定め置くこと〔としての智慧〕が──かつまた、安楽の表象を、かつまた、軽快の表象を、〔心に〕確立することを所以に、実現の義(意味)における智慧が──〔種々なる〕神通の種類についての知恵となる」〔と〕。

 

 [622]〔種々なる〕神通の種類の知恵についての釈示が、第五十となる。

 

1. 1. 51. 耳の界域の清浄の知恵についての釈示

 

103.

 

 [623]【112】どのように、思考()の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声()の形相の、深解における智慧が、耳の界域(耳界)の清浄の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)の禅定と……略……(2)精進の禅定と……(3)心(専心)の禅定と……(4)考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、遠方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、現前にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、粗大なるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、微細なるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、軟柔なるものや軟柔ならざるものもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、東方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、西方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、北方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、南方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、東維(東南)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、西維(西北)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、北維(東北)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、南維(西南)にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、下方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為し、上方にあるもまた、諸々の音声の、音声の形相に意を為す。彼は、そのように修行された完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、天耳の界域の清浄の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞く──それらが、遠方にあるも、さらに、諸々の現前にあるも。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「思考の充満を所以に、種々なることと一なることある諸々の音声の形相の、深解における智慧が、耳の界域の清浄の知恵となる」〔と〕。

 

 [624]耳の界域の清浄の知恵についての釈示が、第五十一となる。

 

1. 1. 52. 〔他者の〕心を探知する知恵についての釈示

 

104.

 

 [625]【113】どのように、三つの心の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能()の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識知〔作用〕()の性行としての、深解における智慧が、〔他者の〕心を探知する知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)精進の禅定と……略……(3)心(専心)の禅定と……略……(4)考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行して、遍く調御して、柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、このように、覚知する。「この形態は、悦意の機能(喜根)から等しく現起するものである」「この〔形態〕は、失意の機能(憂根)から等しく現起するものである」「この〔形態〕は、放捨の機能(捨根)から等しく現起するものである」と。彼は、そのように修行された完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知する。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知する。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知する。あるいは、憤怒を有する心を……略……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「三つの心(悦意を共具した心・失意を共具した心・放捨を共具した心)の充満あることから、諸々の〔感官の〕機能の清らかさを所以に、種々なることと一なることある識知〔作用〕の性行としての、深解における智慧が、〔他者の〕心を探知する知恵となる」〔と〕。

 

 [626]〔他者の〕心を探知する知恵についての釈示が、第五十二となる。

 

1. 1. 53. 過去における居住の随念の知恵についての釈示

 

105.

 

 [627]どのように、縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為()の充満を所以に、【114】深解における智慧が、過去における居住(過去世)の随念の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)による禅定と……略([623]参照)……柔和と為して、行為に適するものと〔為して〕、このように、覚知する。「これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この、無明(無明)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕()がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触()がある。接触という縁あることから、感受()がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の集起が有る」〔と〕。

 

 [628]彼は、そのように修行された完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、〔ふたたび〕某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「縁によって転起された諸法(性質)の、種々なることと一なることある行為の充満を所以に、深解における智慧が、過去における居住の随念の知恵となる」〔と〕。

 

 [629]過去における居住の随念の知恵についての釈示が、第五十三となる。

 

1. 1. 54. 天眼の知恵についての釈示

 

106.

 

 [630]どのように、光輝を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態()の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における智慧が、天眼の知恵となるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)精進の禅定と……略……(3)心(専心)の禅定と……略……(4)考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行し、遍く調御し、柔和と為し、行為に適するものと〔為す〕。彼は、これらの四つの神通の足場において、心を、遍く修行して、遍く調御して、柔和と【115】為して、行為に適するものと〔為して〕、光明の表象(鋭敏で明確な対象認知)に意を為し、昼の表象に〔心を〕確立する。「すなわち、昼のように、そのように、夜がある。すなわち、夜のように、そのように、昼がある」〔と〕、かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修行する。彼は、そのように修行された完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせる。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「光輝を所以に、種々なることと一なることある諸々の形態の形相の、〔あるがままの〕見の義(意味)における智慧が、天眼の知恵となる」〔と〕。

 

 [631]天眼の知恵についての釈示が、第五十四となる。

 

1. 1. 55. 諸々の煩悩の滅尽の知恵についての釈示

 

107.

 

 [632]どのように、六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての智慧が、諸々の煩悩の、滅尽についての知恵となるのか。どのような三つの機能の、であるのか。(1)「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(2)了知の機能の、(3)了知者の機能の、である。

 

 [633]「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、どれだけの境位に至るのか。了知の機能は、どれだけの境位に至るのか。了知者の機能は、どれだけの境位に至るのか。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、一つの境位に至る。(1)預流道である。了知の機能は、六つの境位に至る。【116】(2)預流果、(3)一来道、(4)一来果、(5)不還道、(6)不還果、(7)阿羅漢道である。了知者の機能は、一つ境位に至る。(8)阿羅漢果である。

 

 [634](1)預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(1―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(1―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(1―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(1―4)禅定の機能は、〔心の〕散乱なき〔状態〕が付属のものと成り、(1―5)智慧の機能は、〔あるがままの〕見が付属のものと成り、(1―6)意の機能は、識知することが付属のものと成り、(1―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(1―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位が付属のものと成る。預流道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態(善悪無記の物質)を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。

 

 [635](2)預流果の瞬間において、了知の機能の、(2―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(2―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(2―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(2―4)禅定の機能は、〔心の〕散乱なき〔状態〕が付属のものと成り、(2―5)智慧の機能は、〔あるがままの〕見が付属のものと成り、(2―6)意の機能は、識知することが付属のものと成り、(2―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(2―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位が付属のものと成る。預流果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き明かされないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流果の瞬間において、了知の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知の機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。

 

 [636]【117】(3)一来道の瞬間において……略……。(4)一来果の瞬間において……略……。(5)不還道の瞬間において……略……。(6)不還果の瞬間において……略……。(7)阿羅漢道の瞬間において、了知の機能の、(7―1)信の機能は、信念が付属のものと成り……略……(7―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位が付属のものと成る。阿羅漢道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢道の瞬間において、了知の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知の機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。

 

 [637](8)阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、(8―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(8―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(8―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(8―4)禅定の機能は、〔心の〕散乱なき〔状態〕が付属のものと成り、(8―5)智慧の機能は、〔あるがままの〕見が付属のものと成り、(8―6)意の機能は、識知することが付属のものと成り、(8―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(8―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位が付属のものと成る。阿羅漢果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き明かされないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知者の機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。かくのごとく、これらは、八つ八つのものとして、六十四〔の行相〕と成る。

 

 [638]「諸々の煩悩()」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき【118】欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての智慧が、諸々の煩悩の、滅尽についての知恵となる」〔と〕。

 

 [639]諸々の煩悩の滅尽の知恵についての釈示が、第五十五となる。

 

1. 1. 56-63. 真理の知恵の二つの四なるものについての釈示

 

108.

 

 [640]どのように、遍知の義(意味)における智慧が、苦痛についての知恵となり、捨棄の義(意味)における智慧が、集起についての知恵となり、実証の義(意味)における智慧が、止滅についての知恵となり、修行の義(意味)における智慧が、道についての知恵となるのか。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、遍知の義(意味)となる。集起の、専業の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、捨棄の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものではないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、実証の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位の義(意味)が、修行の義(意味)となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「遍知の義(意味)における智慧が、苦痛についての知恵となる」「捨棄の義(意味)における智慧が、集起についての知恵となる」「実証の義(意味)における智慧が、止滅についての知恵となる」「修行の義(意味)における智慧が、道についての知恵となる」〔と〕。

 

109.

 

 [641]どのように、苦痛についての知恵があり、苦痛の集起についての知恵があり、苦痛の止滅についての知恵があり、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵があるのか。【119】道を保有する者の知恵は、これは、苦痛においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の集起においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の止滅においてもまた、知恵となり、これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道においてもまた、知恵となる。

 

 [642]そこにおいて、どのようなものが、苦痛についての知恵であるのか。苦痛を対象として生起する、〔まさに〕その、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。これが、苦痛についての知恵と説かれる。苦痛の集起を対象として……略……。苦痛の止滅を対象として……略……。苦痛の止滅に至る〔実践の〕道を対象として生起する、〔まさに〕その、智慧、覚知……略……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵と説かれる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「苦痛についての知恵がある」「苦痛の集起についての知恵がある」「苦痛の止滅についての知恵がある」「苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵がある」〔と〕。

 

 [643]真理の知恵の二つの四なるものについての釈示が、第六十三となる。

 

1. 1. 64-67. 清浄なるものとしての融通無礙の知恵についての釈示

 

110.

 

 [644]どのように、義(意味)の融通無礙についての知恵があり、法(教え)の融通無礙についての知恵があり、言語の融通無礙についての知恵があり、応答の融通無礙についての知恵があるのか。諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり、諸々の法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり、諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり、諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる。義(意味)の種々なることにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)の種々なることにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語の種々なることにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答の種々なることにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語〔の差異〕を定め置くことにおける【120】智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答〔の差異〕を定め置くことにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 

 [645]義(意味)を省察することにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を省察することにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を省察することにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を省察することにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を近察することにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を近察することにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を近察することにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を近察することにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 

 [646]義(意味)の細別における智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)の細別における智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語の細別における智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答の細別における智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を増加することにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を増加することにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を増加することにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を増加することにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。

 

 [647]義(意味)を照らすことにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を照らすことにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を照らすことにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を照らすことにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を遍照することにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を遍照することにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を遍照することにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を遍照することにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。義(意味)を明示することにおける智慧が、義(意味)の融通無礙についての知恵となり、法(教え)を明示することにおける智慧が、法(教え)の融通無礙についての知恵となり、言語を明示することにおける智慧が、言語の融通無礙についての知恵となり、応答を明示することにおける智慧が、応答の融通無礙についての知恵となる。それは、所知の義(意味)によって、知恵となり、覚知の義(意味)によって、智慧となる。それによって説かれる。「義(意味)の融通無礙についての知恵がある」「法(教え)の融通無礙についての知恵がある」「言語の融通無礙についての知恵がある」「応答の融通無礙についての知恵がある」〔と〕。

 

 [648]清浄なるものとしての融通無礙の知恵についての釈示が、第六十七となる。

 

1. 1. 68. 機能の上下なることの知恵についての釈示

 

111.

 

 [649]【121】どのようなものが、如来の、機能の上下なることについての知恵であるのか。ここに、如来が、有情たちを見る──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見る者たちを、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見ない者たちを。

 

 [650]「少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして」とは、信ある人が、少なき塵の者となり、信なき人が、大いなる塵の者となる。精進に励む人が、少なき塵の者となり、怠惰の人が、大いなる塵の者となる。気づきが現起された人が、少なき塵の者となり、気づきが忘却された人が、大いなる塵の者となる。〔心が〕定められた人が、少なき塵の者となり、〔心が〕定められていない人が、大いなる塵の者となる。智慧ある人が、少なき塵の者となり、智慧浅き人が、大いなる塵の者となる。

 

 [651]「鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして」とは、信ある人が、鋭敏なる機能の者となり、信なき人が、柔弱なる機能の者となる。精進に励む人が、鋭敏なる機能の者となり、怠惰の人が、柔弱なる機能の者となる。気づきが現起された人が、鋭敏なる機能の者となり、気づきが忘却された人が、柔弱なる機能の者となる。〔心が〕定められた人が、鋭敏なる機能の者となり、〔心が〕定められていない人が、柔弱なる機能の者となる。智慧ある人が、鋭敏なる機能の者となり、智慧浅き人が、柔弱なる機能の者となる。

 

 [652]「善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして」とは、信ある人が、善き行相の者となり、信なき人が、悪しき行相の者となる。精進に励む人が、善き行相の者となり、怠惰の人が、悪しき行相の者となる。気づきが現起された人が、善き行相の者となり、気づきが忘却された人が、悪しき行相の者となる。〔心が〕定められた人が、善き行相の者となり、〔心が〕定められていない人が、悪しき行相の者となる。智慧ある人が、善き行相の者となり、智慧浅き人が、悪しき行相の者となる。

 

 [653]「識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして」とは、信ある人が、識知させるに易き者となり、信なき人が、識知させるに難き者となる。精進に励む人が、識知させるに易き者となり、怠惰の人が、識知させるに難き者となる。気づきが現起された人が、識知させるに易き者となり、気づきが忘却された人が、識知させるに難き者となる。〔心が〕定められた人が、【122】識知させるに易き者となり、〔心が〕定められていない人が、識知させるに難き者となる。智慧ある人が、識知させるに易き者となり、智慧浅き人が、識知させるに難き者となる。

 

 [654]「一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見る者たちを、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見ない者たちを」とは、信ある人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、信なき人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。精進に励む人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、怠惰の人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。気づきが現起された人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、気づきが忘却された人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。〔心が〕定められた人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、〔心が〕定められていない人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。智慧ある人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、智慧浅き人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。

 

112.

 

 [655]「世」とは、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、衰滅の生存の世、衰滅の発生の世、得達の生存の世、得達の発生の世である。

 

 [656]一つの世がある。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。

 

 [657]二つの世がある。そして、名前()であり、さらに、形態()である。

 

 [658]三つの世がある。三つの感受(三受)である。

 

 [659]四つの世がある。四つの食(四食)である。

 

 [660]五つの世がある。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)である。

 

 [661]六つの世がある。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。

 

 [662]七つの世がある。七つの識知〔作用〕の止住(七識住)である。

 

 [663]八つの世がある。八つの世の法(八世間法)である。

 

 [664]九つの世がある。九つの有情の居住所(九有情居)である。

 

 [665]十の世がある。十の〔認識の〕場所(十処)である。

 

 [666]十二の世がある。十二の〔認識の〕場所(十二処)である。

 

 [667]十八の世がある。十八の界域(十八界)である。

 

 [668]「罪過」とは、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)が、諸々の罪過となり、一切の悪しき行ないが、諸々の罪過となり、一切の行作(現行)が、諸々の罪過となり、一切の生存に至る行為が、諸々の罪過となる。かくのごとく、そして、この世について、さらに、この罪過について、強烈なる恐怖の表象が、現起されたものと成る──それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように。これらの五十の行相によって、これらの智慧の機能を、知り、見、了知し、理解する。これが、如来の、機能の上下なることについての知恵である。

 

 [669]機能の上下なることの知恵についての釈示が、第六十八となる。

 

1. 1. 69. 志欲と悪習の知恵についての釈示

 

113.

 

 [670]【123】どのようなものが、如来の、有情たちの志欲と悪習についての知恵であるのか。ここに、如来が、有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知り、無能なると有能なる有情たちを覚知する。どのようなものが、有情たちの志欲であるのか。あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と、「世〔界〕は、終極がある」と、あるいは、「世〔界〕は、終極がない」と、あるいは、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、あるいは、「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、あるいは、「如来は、死後に有る」と、あるいは、「如来は、死後に有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、かくのごとく、あるいは、生存の見解(有見:実体論)に依拠した者たちとして、有情たちは〔世に〕有り、あるいは、非生存の見解(非有見:虚無論)に依拠した者たちとして、〔有情たちは世に有る〕。

 

 [671]また、あるいは、これらの両極に近しく赴かずして、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)について、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕が、獲得されたものと成り、あるいは、事実のとおりの知恵が、〔獲得されたものと成る〕。まさしく、欲望〔の対象〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、欲望〔の対象〕に尊重ある者であり、欲望〔の対象〕に志欲ある者であり、欲望〔の対象〕を信念した者である」と。まさしく、欲望〔の対象〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、離欲に尊重ある者であり、離欲に志欲ある者であり、離欲を信念した者である」と。まさしく、離欲に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、離欲に尊重ある者であり、離欲に志欲ある者であり、離欲を信念した者である」と。まさしく、離欲に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、欲望〔の対象〕に尊重ある者であり、欲望〔の対象〕に志欲ある者であり、欲望〔の対象〕を信念した者である」と。まさしく、憎悪〔の思い〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、憎悪〔の思い〕に尊重ある者であり、憎悪〔の思い〕に志欲ある者であり、憎悪〔の思い〕を信念した者である」と。まさしく、憎悪〔の思い〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に尊重ある者であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に志欲ある者であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者である」と。まさしく、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に尊重ある者であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に志欲ある者であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者である」と。まさしく、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、憎悪〔の思い〕に尊重ある者であり、憎悪〔の思い〕に志欲ある者であり、憎悪〔の思い〕を信念した者である」と。まさしく、〔心の〕沈滞と眠気に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、〔心の〕沈滞と眠気に尊重ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気に志欲ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気を信念した者である」と。まさしく、〔心の〕沈滞と眠気に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、光明の表象に尊重ある者であり、光明の表象に志欲ある者であり、光明の表象を信念した者である」と。まさしく、光明の表象に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、光明の表象に尊重ある者であり、光明の表象に志欲ある者であり、光明の表象を信念した者である」と。まさしく、光明の表象に慣れ親しんでいる〔有情〕を、〔あるがままに〕知る。「この人は、〔心の〕沈滞と眠気に尊重ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気に志欲ある者であり、〔心の〕沈滞と眠気を信念した者である」と。これが、有情たちの志欲である。

 

114.

 

 [672]では、どのようなものが、有情たちの悪習であるのか。七つの悪習がある。(1)欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、(2)敵対〔の思い〕の悪習、(3)思量の悪習、(4)見解の悪習、(5)疑惑〔の思い〕の悪習、(6)生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習、(7)無明の悪習である。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、ここにおいて、有情たちの、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなる。それが、世における、愛しからざる形態であり、【124】快ならざる形態であるなら、ここにおいて、有情たちの、敵対〔の思い〕の悪習は、悪しき習いとなる。かくのごとく、これらの二つの法(性質)においては、無明〔という縁〕が従起しているのであり、それと一なる境位のものとして、そして、思量が、かつまた、見解が、さらに、疑惑が、見られるべきである。これが、有情たちの悪習である。

 

 [673]では、どのようなものが、有情たちの所行であるのか。あるいは、〔限定された〕小なる境地のものとしての、あるいは、〔限定されない〕大いなる境地のものとしての、功徳ある行作(善果を形成する働き)、功徳なき行作(悪果を形成する働き)、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)である。これが、有情たちの所行である。

 

115.

 

 [674]では、どのようなものが、有情たちの信念であるのか。下劣なる信念の有情たちが存在し、精妙なる信念の有情たちが存在する。下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍し、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。過去の時においてもまた、下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍し、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍した。未来の時においてもまた、下劣なる信念の有情たちは、下劣なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍することになり、精妙なる信念の有情たちは、精妙なる信念の有情たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍することになる。これが、有情たちの信念である。

 

 [675]どのような者たちが、無能なる有情たちであるのか。すなわち、それらの有情たちが、妨げとなる行為を具備した者たちであり、妨げとなる〔心の〕汚れを具備した者たちであり、妨げとなる報いを具備した者たちであり、信なき者たちであり、欲〔の思い〕(意欲)なき者たちであり、智慧浅き者たちであり、善なる諸法(性質)における正しい〔道〕たることの決定に入ることに無能なる者たちであるなら、これらの者たちが、それらの無能なる有情たちである。

 

 [676]どのような者たちが、有能なる有情たちであるのか。すなわち、それらの有情たちが、妨げとなる行為を具備した者たちではなく、妨げとなる〔心の〕汚れを具備した者たちではなく、妨げとなる報いを具備した者たちではなく、信ある者たちであり、欲〔の思い〕(意欲)ある者たちであり、智慧ある者たちであり、善なる諸法(性質)における正しい〔道〕たることの決定に入ることに有能なる者たちであるなら、これらの者たちが、それらの有能なる有情たちである。これが、如来の、有情たちの志欲と悪習についての知恵である。

 

 [677]志欲と悪習の知恵についての釈示が、第六十九となる。

 

1. 1. 70. 対なる神変の知恵についての釈示

 

116.

 

 [678]【125】どのようなものが、如来の、対なる神変についての知恵であるのか。ここに、如来が、弟子たちとは共通ならざる、対なる神変を為す。上の身体からは、火の塊が転起し、下の身体からは、水の奔流が転起する。下の身体からは、火の塊が転起し、上の身体からは、水の奔流が転起する。前の身体からは、火の塊が転起し、後の身体からは、水の奔流が転起する。後の身体からは、火の塊が転起し、前の身体からは、水の奔流が転起する。右の眼からは、火の塊が転起し、左の眼からは、水の奔流が転起する。左の眼からは、火の塊が転起し、右の眼からは、水の奔流が転起する。右の耳孔からは、火の塊が転起し、左の耳孔からは、水の奔流が転起する。左の耳孔からは、火の塊が転起し、右の耳孔からは、水の奔流が転起する。右の鼻孔からは、火の塊が転起し、左の鼻孔からは、水の奔流が転起する。左の鼻孔からは、火の塊が転起し、右の鼻孔からは、水の奔流が転起する。右の肩先からは、火の塊が転起し、左の肩先からは、水の奔流が転起する。左の肩先からは、火の塊が転起し、右の肩先からは、水の奔流が転起する。右の手からは、火の塊が転起し、左の手からは、水の奔流が転起する。左の手からは、火の塊が転起し、右の手からは、水の奔流が転起する。右の脇からは、火の塊が転起し、左の脇からは、水の奔流が転起する。左の脇からは、火の塊が転起し、右の脇からは、水の奔流が転起する。右の足からは、火の塊が転起し、左の足からは、水の奔流が転起する。左の足からは、火の塊が転起し、右の足からは、水の奔流が転起する。指と指からは、火の塊が転起し、指の間からは、水の奔流が転起する。指と指からは、火の塊が転起し、指の間からは、水の奔流が転起する。一つ一つの毛から、火の塊が転起し、一つ一つの毛から、水の奔流が転起する。毛穴から毛穴から、【126】火の塊が転起し、毛穴から毛穴から、水の奔流が転起する。

 

 [679]六つの色の──青の、黄の、赤の、白の、緋の、極光の──世尊が歩行すると、化作されたもの(化仏)は、あるいは、立ち、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み(臥し)、世尊が立つと、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、世尊が坐ると、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、臥所を営み、世尊が臥所を営むと、化作されたものは、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐り、化作されたものが歩行すると、世尊は、あるいは、立ち、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、化作されたものが立つと、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営み、化作されたものが坐ると、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、臥所を営み、化作されたものが臥所を営むと、世尊は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐る。これが、如来の、対なる神変についての知恵である。

 

 [680]対なる神変の知恵についての釈示が、第七十となる。

 

1. 1. 71. 大いなる慈悲の知恵についての釈示

 

117.

 

 [681]どのようなものが、如来の、大いなる慈悲の入定についての知恵であるのか。多くの行相によって〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「燃え盛っているのが、世〔の人々〕の共住(社会生活)である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「沸騰しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「奔走しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「邪道を行くのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「〔他に〕導かれるのが、世〔の人々〕であり、常恒ならざるものである」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「救護なきが、世〔の人々〕であり、主権なきものである」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「自らのものなきが、世〔の人々〕であり、一切を捨棄して去り行くべきものである」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「不足あるのが、【127】世〔の人々〕であり、満足なき渇愛の奴隷である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「救護所ならざるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「避難所ならざるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「帰依所ならざるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「帰依所と成ることなきが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [682]「高揚しているのが、世〔の人々〕であり、寂止ならざるものである」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「矢を有するのが、世〔の人々〕の共住(社会生活)であり、多々の矢によって貫かれたものである。彼のために諸々の矢を引き抜く者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「妨げとなる無明の暗黒あるのが、世〔の人々〕の共住であり、卵のなかに有るもの、〔心の〕汚れの檻に入れられたものである。彼のために、光明を見示する者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「無明を具しているのが、世〔の人々〕の共住であり、卵のなかに有るもの、〔迷妄に〕覆い包まれたもの、絡(から)んだ紐の類のもの、縺(もつ)れた〔糸〕玉の類のもの(※)、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕と成ったものであり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「無明の毒の汚点によって汚染されているのが、世〔の人々〕の共住であり、〔心の〕汚れの泥と成ったものである」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「貪欲と憤怒と迷妄の結束によって結び束ねられているのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために諸々の結束を解きほぐす者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

※ テキストには kulagaṇṭhikajāto とあるが、PTS版により gulāguṇṭhikajāto と読む。

 

 [683]「渇愛の群結によって縺れ絡まっているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の網によって覆われているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の流れによって運ばれるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛という束縛するものによって束縛されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の悪習によって添着されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の熱苦によって熱せられるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「渇愛の苦悶によって【128】遍く焼かれるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [684]「見解の群結によって縺れ絡まっているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の網によって覆われているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の流れによって運ばれるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解という束縛するものによって束縛されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の悪習によって添着されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の熱苦によって熱せられるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「見解の苦悶によって遍く焼かれるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [685]「生に従い行くのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「老によって添着されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「病によって征服されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「死によって侵されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「苦痛のうちに確立しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [686]「渇愛によって繋がれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「老の垣によって取り巻かれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「死魔の罠によって取り巻かれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる結縛によって結縛されているのが、世〔の人々〕の共住である──貪欲の結縛によって、憤怒の結縛によって、迷妄の結縛によって、思量の結縛によって、見解の結縛によって、〔心の〕汚れの結縛によって、悪しき行ないの結縛によって。彼のために結縛を解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる煩雑(混乱・混雑)を行くのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために空間を見示する者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる障害によって障害されているのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために障害を断ち切る者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる深淵に落ちているのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために深淵から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる砂漠を行くのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために砂漠を超え渡す者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる輪廻を行くのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために輪廻から解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる難所において等しく遍く転起するのが、世〔の人々〕の共住である。彼のために難所から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる泥沼にはまっているのが、【129】世〔の人々〕の共住である。彼のために泥沼から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [687]「〔苦痛によって〕侵されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「燃え盛っているのが、世〔の人々〕の共住である──貪欲の火によって、憤怒の火によって、迷妄の火によって、生によって、老によって、死によって、諸々の憂いによって、諸々の嘆きによって、諸々の苦痛によって、諸々の失意によって、諸々の葛藤によって。彼のために〔燃え盛っているものを〕寂滅させる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「分断されたものであるのが、世〔の人々〕の共住であり、打ちのめされ、常に救護なきものであり、棒(刑罰・暴力)に至り得たものであり、盗賊である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「罪過の結縛によって結縛されているのが、世〔の人々〕の共住であり、刑場として現起したものである。彼のために結縛を解き放つ者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「孤独であるのが、世〔の人々〕の共住であり、最高の慈悲〔の対象〕たるに至り得たものである。彼のために救護する者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「苦痛によって制圧されているのが、世〔の人々〕の共住であり、長夜にわたり責め苛まれている」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「拘束されているのが、世〔の人々〕の共住であり、常に渇いている」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

 [688]「盲者であるのが、世〔の人々〕の共住であり、眼なきものである」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「眼を失っているのが、世〔の人々〕の共住であり、完全なる導き手なきものである」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「邪道への跳入が、世〔の人々〕の共住であり、曲がりなき〔道〕に反するものである。彼のために聖者の道へと導き入れる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「大いなる激流への跳入が、世〔の人々〕の共住である。彼のために激流から引き上げる者としては、わたしより他に、他の誰であれ、存在しない」と、〔あるがままに〕見ている……略……。

 

118.

 

 [689]「二つの悪しき見解(常見・断見)によって遍く取り囲まれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「三つの悪しき行ない(身・口・意による悪行)によって、邪に実践しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの束縛(四軛:欲望・生存・見解・無明)によって束縛されているのが、世〔の人々〕の共住であり、四つの束縛によって結び付けられている」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの拘束(四繋・四縛:強欲・憎悪の心・戒や掟への偏執・「これは真理である」という固着)によって拘束されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「四つの執取(欲望の対象への執取・見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)によって執取するのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの境遇(地獄・畜生の胎・餓鬼の境域・人間・天)に入っているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)によって染まるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)によって【130】覆われているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの論争の根元(忿激と怨恨・偽装と加虐・嫉妬と物惜・狡猾と幻惑・悪しき欲求と誤った見解・自らの見解への偏執と保持するものの収取と放棄するに難きこと)によって論争するのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの渇愛の体系(色・声・香・味・触・法への渇愛)によって染まるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「六つの悪しき見解(わたしには自己があるという見解・わたしには自己がないという見解・自己によってのみ自己を表象するという見解・自己によってのみ無我を表象するという見解・無我によってのみ自己を表象するという見解・わたしの自己は常住で常久で常恒で変化なき法であり常久にそのまま止住するという見解)によって遍く取り囲まれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「七つの悪習(欲貪・敵対・見解・疑惑・思量・生存欲・無明)によって添着されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。七つの束縛するもの(欲貪・敵対・見解・疑惑・思量・生存欲・無明)によって束縛されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。七つの思量(慢・過慢・慢過慢・卑下慢・増上慢・我慢・邪慢)によって傲慢になっているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの世の法(利得・利得なき・盛名・盛名なき・安楽・苦痛・非難・賞賛)によって等しく遍く転起するのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの誤った〔道〕たること(誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った行業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った禅定)によって決定されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「八つの人の汚点(犯した罪を正当化するための八つの詭弁)によって汚すのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの憤懣の基盤(わたしに義なきを行なった・行なう・行なうであろう・わたしの愛しく意に適う者に義なきを行なった・行なう・行なうであろう・わたしの愛しくなく意に適わない者に義を行なった・行なう・行なうであろう)によって憤懣させられているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの種類の思量(勝る者に勝る・勝る者に等しい・勝る者に劣る・等しい者に勝る・等しい者に等しい・等しい者に劣る・劣る者に勝る・劣る者に等しい・劣る者に劣るという思い)によって傲慢になっているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「九つの渇愛を根元とする法(渇愛を縁として生起する遍き探し求め・遍き探し求めを縁として生起する利得・利得を縁として生起する判別・判別を縁として生起する欲の思いと貪りの思い・欲の思いと貪りの思いを縁として生起する固執・固執を縁として生起する執持・執持を縁として生起する物惜・物惜を縁として生起する守護・守護のために生起する棒を取ること等の不善の諸法)によって染まるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の〔心の〕汚れの基盤(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解・疑惑・心の沈滞・心の高揚・無慚・無愧)によって汚されるのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の憤懣の基盤(九つの憤懣の基盤と切株や棘等にたいして生起する理不尽な憤懣)によって憤懣させられているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の善ならざる行為の道(命あるものを殺すこと・与えられていないものを取ること・諸々の欲望の対象にたいする誤った行ない・虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論・強欲・憎悪の心・誤った見解)を具備しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の束縛するもの(欲貪・敵対・見解・疑惑・思量・生存欲・戒禁取・嫉妬・物惜・無明)によって束縛されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の誤った〔道〕たること(誤った見解・誤った思惟・誤った言葉・誤った行業・誤った生き方・誤った努力・誤った気づき・誤った禅定・誤った知恵・誤った解脱)によって決定されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の基盤(根拠)ある、誤った見解(布施の果は存在しない・祭祀の果は存在しない・捧げ物の果は存在しない・諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない・この世は存在しない・他の世は存在しない・母は存在しない・父は存在しない・化生の有情たちは存在しない・正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない、という見解)を具備しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「十の基盤(根拠)ある、極〔論〕(世界は常久である・世界は常久ではない・世界は終極がある・世界は終極がない・生命と肉体は同じものである・生命と肉体は別のものである・如来は死後に存在する・如来は死後に存在しない・如来は死後に存在しかつまた存在しない・如来は死後に存在するのでもなく存在しないのでもない、という極論)を収め取る見解を具備しているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている……略……。「百八の渇愛の百の虚構(戯論:妄想)によって虚構されているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。「六十二の悪しき見解(長部経典第一『梵網経』参照)によって遍く取り囲まれているのが、世〔の人々〕の共住である」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。

 

 [690]「そして、わたしは、〔すでに〕超え渡った者として〔世に〕存している。しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕超え渡っていない者として〔世に存している〕。そして、わたしは、〔すでに〕解き放たれた者として〔世に〕存している。しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕解き放たれていない者として〔世に存している〕。そして、わたしは、〔すでに〕調御された者として〔世に〕存している。しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕調御されていない者として〔世に存している〕。そして、わたしは、〔すでに〕寂静なる者として〔世に〕存している。【131】しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕寂静ならざる者として〔世に存している〕。そして、わたしは、〔すでに〕安堵している者として〔世に〕存している。しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕安堵していない者として〔世に存している〕。そして、わたしは、〔すでに〕完全なる涅槃に到達した者として〔世に〕存している。しかしながら、世〔の人々〕は、〔いまだ〕完全なる涅槃に到達していない者として〔世に存している〕。まさに、わたしは、〔すでに〕超え渡った者として、〔他者たちを〕超え渡すことが──〔すでに〕解き放たれた者として、〔他者たちを〕解き放つことが──〔すでに〕調御された者として、〔他者たちを〕調御することが──〔すでに〕寂静なる者として、〔他者たちを〕寂静させることが──〔すでに〕安堵している者として、〔他者たちを〕安堵させることが──〔すでに〕完全なる涅槃に到達した者として、そして、他者たちを完全なる涅槃に到達させることが──できる」と、〔あるがままに〕見ている、覚者たる世尊たちには、有情たちにたいし、大いなる慈悲が現われる。これが、如来の、大いなる慈悲の入定についての知恵である。

 

 [691]大いなる慈悲の知恵についての釈示が、第七十一となる。

 

1. 1. 72-73. 一切知者たる知恵についての釈示

 

119.

 

 [692]どのようなものが、如来の、一切知者たる知恵であるのか。一切の形成されたもの(有為)と形成されたものではないもの(無為)を、残りなく知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

120.

 

 [693]過去の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。未来の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。現在の一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [694]まさしく、そして、眼があり、さらに、諸々の形態があり、このように、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。まさしく、そして、耳があり、さらに、諸々の音声があり……略……。まさしく、そして、鼻があり、さらに、諸々の臭気があり……。まさしく、そして、舌があり、さらに、諸々の味感があり……。まさしく、そして、身があり、さらに、諸々の感触があり……。まさしく、そして、意があり、さらに、諸々の法(意の対象)があり、このように、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [695]あるかぎりの、無常の義(意味)を、苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、形態の、無常の義(意味)を、【132】苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、感受〔作用〕の……略……。あるかぎりの、表象〔作用〕の……略……。あるかぎりの、諸々の形成〔作用〕の……略……。あるかぎりの、識知〔作用〕の……略……。あるかぎりの、眼の……略([107-116]参照)……。あるかぎりの、老と死の、無常の義(意味)を、苦痛の義(意味)を、無我の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [696]あるかぎりの、証知の、証知の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、遍知の、遍知の義(意味)を……略……。あるかぎりの、捨棄の、捨棄の義(意味)を……略……。あるかぎりの、修行の、修行の義(意味)を……略……。あるかぎりの、実証の、実証の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [697]あるかぎりの、〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)を……略……。あるかぎりの、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)を……略……。あるかぎりの、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)を……略……。あるかぎりの、形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [698]あるかぎりの、諸々の善なる法(性質)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、諸々の善ならざる法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の〔善悪が〕説き明かされない法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の欲望の行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の形態の行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の形態なき行境の法(性質)を……略……。あるかぎりの、諸々の属するところなき法(性質)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [699]あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)を……略……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)を……略……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [700]あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、法(教え)の融通無礙の、法(教え)の融通無礙の義(意味)を……略……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)を……略……。あるかぎりの、【133】応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [701]あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵を……略……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵を……略……。あるかぎりの、大いなる慈悲への入定についての知恵を──その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [702]あるかぎりの、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕の、天〔の神〕や人間を含む人々の、見られたものを、聞かれたものを、思われたものを、識られたものを、至り得られたものを、遍く探し求められたものを、意によって探索されたものを、その一切を知る、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

121.

 

 [703]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 [704]「一切に眼ある者」とは、どのような義(意味)によって、一切に眼ある者となるのか。十四の覚者の知恵がある。(1)苦痛についての知恵が、覚者の知恵となる。(2)苦痛の集起についての知恵が、覚者の知恵となる。(3)苦痛の止滅についての知恵が、覚者の知恵となる。(4)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵が、覚者の知恵となる。(5)義(意味)の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(6)法(教え)の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(7)言語の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(8)応答の融通無礙についての知恵が、覚者の知恵となる。(9)機能の上下なることについての知恵が、覚者の知恵となる。(10)有情たちの志欲と悪習についての知恵が、覚者の知恵となる。(11)対なる神変についての知恵が、覚者の知恵となる。(12)大いなる慈悲の入定についての知恵が、覚者の知恵となる。(13)一切知者たる知恵が、覚者の知恵となる。(14)妨げなき知恵が、覚者の知恵となる。これらの十四の覚者の知恵がある。これらの十四の覚者のなかの、八つの知恵は、弟子たちと共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。

 

 [705]【134】あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、〔いまだ〕知られていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)は……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)は……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)は……略……。あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、法(教え)の融通無礙の、法(教え)の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)は……。あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない応答の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [706]あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵は……。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵は……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵は……。あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵は、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない大いなる慈悲の入定についての知恵は存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [707]あるかぎりの、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕の、天〔の神〕や人間を含む人々の、見られたものは、聞かれたものは、思われたものは、識られたものは、至り得られたものは、遍く探し求められたものは、意によって探索されたものは、一切が、〔すでに〕知られたものとなり、一切が、〔すでに〕見られたものとなり、一切が、〔すでに〕見出されたものとなり、一切が、〔すでに〕実証されたものとなり、一切が、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない、ということで、一切知者たる知恵となる。そこにおいて、妨げが存在しない、ということで、妨げなき知恵となる。

 

 [708]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 一切知者たる知恵についての釈示が、第七十三となる。

 

 [709]知恵についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 2. 見解についての言説

 

122.

 

 [710]【135】何が、見解であるのか。どれだけの、見解の拠点(直接原因)があるのか。どれだけの、見解の妄執があるのか。どれだけの、見解があるのか。どれだけの、見解の固着(固定観念)があるのか。どのようなものが、見解の拠点の根絶であるのか。ということで──

 

 [711](1)「何が、見解であるのか」とは、固着への偏執が、見解である。

 

 [712](2)「どれだけの、見解の拠点があるのか」とは、八つの見解の拠点がある。

 

 [713](3)「どれだけの、見解の妄執があるのか」とは、十八の見解の妄執がある。

 

 [714](4)「どれだけの、見解があるのか」とは、十六の見解がある。

 

 [715](5)「どれだけの、見解の固着があるのか」とは、三百の見解の固着がある。

 

 [716](6)「どのようなものが、見解の拠点の根絶であるのか」とは、預流道が、見解の拠点の根絶である。

 

123.

 

 [717](1)どのように、固着(固定観念)への偏執が、見解となるのか。形態を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。感受〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……略……。表象〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。諸々の形成〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。眼を、「これは、わたしのものである。……略……。耳を、「これは、わたしのものである。……。鼻を、「これは、わたしのものである。……。舌を、「これは、わたしのものである。……。身を、「これは、わたしのものである。……。意を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。諸々の形態を、「これは、わたしのものである。……。諸々の音声を、「これは、わたしのものである。……。諸々の臭気を、「これは、わたしのものである。……。諸々の味感を、「これは、わたしのものである。……。諸々の感触を、「これは、わたしのものである。……。諸々の法(意の対象)を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。【136】眼の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……略……。耳の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。鼻の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。舌の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。身の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。意の識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。眼の接触を、「これは、わたしのものである。……略……。耳の接触を、「これは、わたしのものである。……。鼻の接触を、「これは、わたしのものである。……。舌の接触を、「これは、わたしのものである。……。身の接触を、「これは、わたしのものである。……。意の接触を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。眼の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。……略……。耳の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。……。鼻の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。……。舌の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。……。身の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。……。意の接触から生じる感受を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [718]形態の表象を、「これは、わたしのものである。……略……。音声の表象を、「これは、わたしのものである。……。臭気の表象を、「これは、わたしのものである。……。味感の表象を、「これは、わたしのものである。……。感触の表象を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の表象を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。形態の思欲を、「これは、わたしのものである。……略……。音声の思欲を、「これは、わたしのものである。……。臭気の思欲を、「これは、わたしのものである。……。味感の思欲を、「これは、わたしのものである。……。感触の思欲を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の思欲を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。形態の渇愛を、「これは、わたしのものである。……略……。音声の渇愛を、「これは、わたしのものである。……。臭気の渇愛を、「これは、わたしのものである。……。味感の渇愛を、「これは、わたしのものである。……。感触の渇愛を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の渇愛を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。形態の思考を、「これは、わたしのものである。……略……。音声の思考を、「これは、わたしのものである。……。臭気の思考を、「これは、わたしのものである。……。味感の思考を、「これは、わたしのものである。……。感触の思考を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の思考を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。形態の想念を、「これは、わたしのものである。……略……。音声の想念を、「これは、わたしのものである。……。臭気の想念を、「これは、わたしのものである。……。味感の想念を、「これは、わたしのものである。……。感触の想念を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の想念を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [719]地の界域を、「これは、わたしのものである。……略……。水の界域を、「これは、わたしのものである。……。火の界域を、「これは、わたしのものである。……。風の界域を、「これは、わたしのものである。……。虚空の界域を、「これは、わたしのものである。……。識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。地の遍満を、「これは、わたしのものである。……略……。水の遍満を……。火の遍満を……。風の遍満を……。青の遍満を……。黄の遍満を……。赤の遍満を……。白の遍満を……。虚空の遍満を……。識知〔作用〕の遍満を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [720]髪を、「これは、わたしのものである。……略……。毛を、「これは、わたしのものである。……。爪を、「これは、わたしのものである。……。【137】歯を、「これは、わたしのものである。……。皮膚を、「これは、わたしのものである。……。肉を、「これは、わたしのものである。……。腱を、「これは、わたしのものである。……。骨を、「これは、わたしのものである。……。骨髄を、「これは、わたしのものである。……。腎臓を、「これは、わたしのものである。……。心臓を、「これは、わたしのものである。……。肝臓を、「これは、わたしのものである。……。肋膜を、「これは、わたしのものである。……。脾臓を、「これは、わたしのものである。……。肺臓を、「これは、わたしのものである。……。腸を、「これは、わたしのものである。……。腸間膜を、「これは、わたしのものである。……。胃物を、「これは、わたしのものである。……。糞を、「これは、わたしのものである。……。胆汁を、「これは、わたしのものである。……。痰を、「これは、わたしのものである。……。膿を、「これは、わたしのものである。……。血を、「これは、わたしのものである。……。汗を、「これは、わたしのものである。……。脂肪を、「これは、わたしのものである。……。涙を、「これは、わたしのものである。……。膏を、「これは、わたしのものである。……。唾液を、「これは、わたしのものである。……。鼻水を、「これは、わたしのものである。……。髄液を、「これは、わたしのものである。……。尿を、「これは、わたしのものである。……。脳味噌を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [721]眼の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……略……。形態の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。耳の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。音声の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。鼻の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。臭気の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。舌の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。味感の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。身の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。感触の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。意の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。

 

 [722]眼の界域を、「これは、わたしのものである。……略……。形態の界域を、「これは、わたしのものである。……。眼の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。……。耳の界域を、「これは、わたしのものである。……。音声の界域を、「これは、わたしのものである。……。耳の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。……。鼻の界域を、「これは、わたしのものである。……。臭気の界域を、「これは、わたしのものである。……。鼻の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。……。舌の界域を、「これは、わたしのものである。……。味感の界域を、「これは、わたしのものである。……。舌の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。……。身の界域を、「これは、わたしのものである。……。感触の界域を、「これは、わたしのものである。……。身の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。……。意の界域を、「これは、わたしのものである。……。法(意の対象)の界域を、「これは、わたしのものである。……。意の識知〔作用〕の界域を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [723]眼の機能を、「これは、わたしのものである。……略……。耳の機能を、「これは、わたしのものである。……。鼻の機能を、「これは、わたしのものである。……。舌の機能を、「これは、わたしのものである。……。身の機能を、「これは、わたしのものである。……。意の機能を、「これは、わたしのものである。……。生命の機能を、「これは、わたしのものである。……。女の機能を、「これは、わたしのものである。……。男の機能を、「これは、わたしのものである。……。安楽の機能を、「これは、わたしのものである。……。苦痛の機能を、「これは、わたしのものである。……。悦意の機能を、「これは、わたしのものである。……。失意の機能を、「これは、わたしのものである。……。放捨の機能を、「これは、わたしのものである。……。信の機能を、「これは、わたしのものである。……。精進の機能を、「これは、わたしのものである。……。気づきの機能を、「これは、わたしのものである。……。禅定の機能を、「これは、わたしのものである。……。智慧の機能を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [724]欲望の界域を、「これは、わたしのものである。……略……。形態の界域を、「これは、わたしのものである。……。形態なき界域を、「これは、わたしのものである。……。欲望の生存を、「これは、わたしのものである。……。形態の生存を、「これは、わたしのものである。……。形態なき生存を、「これは、わたしのものである。……。表象の生存を、「これは、わたしのものである。……。【138】表象なき生存を、「これは、わたしのものである。……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存を、「これは、わたしのものである。……。一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)を、「これは、わたしのものである。……。四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を、「これは、わたしのものである。……。五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を、「これは、わたしのものである。……。第一の瞑想を、「これは、わたしのものである。……。第二の瞑想を、「これは、わたしのものである。……。第三の瞑想を、「これは、わたしのものである。……。第四の瞑想を、「これは、わたしのものである。……。慈愛という〔止寂の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである。……。慈悲という〔止寂の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである。……。歓喜という〔止寂の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである。……。放捨という〔止寂の〕心による解脱を、「これは、わたしのものである。……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである。……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである。……。無所有なる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである。……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。

 

 [725]無明を、「これは、わたしのものである。……略……。諸々の形成〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。識知〔作用〕を、「これは、わたしのものである。……。名前と形態を、「これは、わたしのものである。……。六つの〔認識の〕場所を、「これは、わたしのものである。……。接触を、「これは、わたしのものである。……。感受を、「これは、わたしのものである。……。渇愛を、「これは、わたしのものである。……。執取を、「これは、わたしのものである。……。生存を、「これは、わたしのものである。……。生を、「これは、わたしのものである。……。老と死を、「これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である」と、固着への偏執が、見解となる。このように、固着への偏執が、見解となる。

 

124.

 

 [726](2)どのような八つの見解の拠点(直接原因)があるのか。諸々の範疇もまた、見解の拠点となる。無明もまた、見解の拠点となる。接触もまた、見解の拠点となる。表象もまた、見解の拠点となる。思考もまた、見解の拠点となる。根源のままならずに意を為すこともまた、見解の拠点となる。悪しき朋友もまた、見解の拠点となる。他者からの情報もまた、見解の拠点となる。

 

 [727]諸々の範疇が因となり、諸々の範疇が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、諸々の範疇もまた、見解の拠点となる。

 

 [728]無明が因となり、無明が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、無明もまた、見解の拠点となる。

 

 [729]接触が因となり、接触が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、接触もまた、見解の拠点となる。

 

 [730]表象が因となり、表象が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、表象もまた、見解の拠点となる。

 

 [731]思考が因となり、思考が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、思考もまた、見解の拠点となる。

 

 [732]根源のままならずに意を為すことが因となり、根源のままならずに意を為すことが縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、根源のままならずに意を為すこともまた、見解の拠点となる。

 

 [733]悪しき朋友が因となり、悪しき朋友が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、悪しき朋友もまた、見解の拠点となる。

 

 [734]他者からの情報が因となり、他者からの情報が縁となり、見解の拠点に執取して、等しく現起するものの義(意味)によって、このように、他者からの情報もまた、見解の拠点となる。これらの八の見解の拠点がある。

 

125.

 

 [735](3)どのような十八の見解の妄執があるのか。それが、見解としてあるなら、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、見解の矢、見解の煩雑、見解の障害、見解の結縛、見解の深淵、見解の悪習、見解の熱苦、見解の苦悶、見解の拘束、見解の執取、見解の固着、見解の偏執である。これらの十八の見解の妄執がある。

 

126.

 

 [736]【139】(4)どのような十六の見解があるのか。悦楽の見解、自己についての偏った見解、誤った見解(邪見)、身体を有するという見解(有身見)、身体を有するという〔思い〕を基盤(根拠)とする常久の見解(常見:常住論)、身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解(断見:断絶論)、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解、過去の極(前際:過去の種々相)についての偏った見解、未来の極(後際:未来の種々相)についての偏った見解、束縛するものとしての見解、「わたしである」という思量(我慢)の結縛としての見解、「わたしのものである」という思量(我所慢)の結縛としての見解、自己の論と結び付いた見解、世〔界〕の論と結び付いた見解、生存の見解(有見:実体論)、非生存の見解(非有見:虚無論)、これらの十六の見解がある。

 

127.

 

 [737](5)どのような三百の見解の固着があるのか。悦楽の見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。自己についての偏った見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。偏った見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。身体を有するという見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。過去の極についての偏った見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。未来の極についての偏った見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。束縛するものとしての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。「わたしである」という思量の結縛としての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。自己の論と結び付いた見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。世〔界〕の論と結び付いた見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。生存の見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。非生存の見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。

 

 [738](5―1)悦楽の見解には、三十五の行相によって、固着が有る。(5―2)自己についての偏った見解には、二十の行相によって、固着が有る。(5―3)誤った見解には、十の行相によって、固着が有る。(5―4)身体を有するという見解には、二十の行相によって、固着が有る。(5―5)身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解には、十五の行相によって、固着が有る。(5―6)身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解には、五つの行相によって、固着が有る。(5―7)〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五十の行相によって、固着が有る。(5―8)過去の極についての偏った見解には、十八の行相によって、固着が有る。(5―9)未来の極についての偏った見解には、四十四の行相によって、固着が有る。(5―10)束縛するものとしての見解には、十八の行相によって、固着が有る。(5―11)「わたしである」という思量の結縛としての見解には、十八の行相によって、固着が有る。(5―12)「わたしのものである」という思量の結縛としての見解には、十八の行相によって、固着が有る。(5―13)自己の論と結び付いた見解には、二十の行相によって、固着が有る。【140】(5―14)世〔界〕の論と結び付いた見解には、八の行相によって、固着が有る。(5―15)生存の見解には、一つの行相によって、固着が有る。(5―16)非生存の見解には、一つの行相によって、固着が有る。

 

1. 2. 1. 悦楽の見解についての釈示

 

128.

 

 [739]悦楽の見解には、どのような三十五の行相によって、固着が有るのか。(1)それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、「これは、形態の悦楽である」と、固着への偏執が、見解となる。見解は、悦楽にあらず。悦楽は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、悦楽がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、悦楽としてもあるなら、これが、悦楽の見解と説かれる。

 

 [740]悦楽の見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。その見解の衰滅を具備した人は、見解が衰滅した者である。見解が衰滅した人は、慣れ親しむべき者ではなく、親近するべき者ではなく、奉侍するべき者ではない。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それが、見解にたいする貪欲であるなら、それは、見解にあらず。見解は、貪欲にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、貪欲がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、貪欲としてあるなら、これが、見解の貪欲と説かれる。そして、その見解を、さらに、その貪欲を、〔両者を〕具備した人は、見解の貪欲に染まった者である。見解の貪欲に染まった人に施された布施は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解は、誤った見解であるからである。

 

 [741]誤った見解ある人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇()がある。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎である。誤った見解ある人士たる人の、まさしく、そして、見解のとおりに完結され受持された、その身体の行為(身業)は……略……その言葉の行為(口業)は、さらに、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為(意業)は、かつまた、その思欲は、かつまた、その切望は、かつまた、その切願は、かつまた、それらの諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)は、それらの法(性質)の全てが、好ましくなく愛らしくなく意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それは、たとえば、また、あるいは、ニンバの種が、あるいは、コーサータキーの種が、あるいは、ティッタカーラーブの種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、その地の味を執取するも、さらに、その【141】水の味を執取するも、その全てが、苦く辛く不快なることのために等しく転起するように──それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の種は、悪しきものであるからである──まさしく、このように、誤った見解ある人士たる人の、まさしく、そして、見解のとおりに完結され受持された、その身体の行為は……略……その言葉の行為は、さらに、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為は、かつまた、その思欲は、かつまた、その切望は、かつまた、その切願は、かつまた、それらの諸々の形成〔作用〕は、それらの法(性質)の全てが、好ましくなく愛らしくなく意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解は、誤った見解であるからである。

 

 [742]誤った見解は、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、見解の矢、見解の煩雑、見解の障害、見解の結縛、見解の深淵、見解の悪習、見解の熱苦、見解の苦悶、見解の拘束、見解の執取、見解の固着、見解の偏執である。これらの十八の行相によって、心が妄執された者には、束縛がある。

 

129.

 

 [743]まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるものが存在する。諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではないものが存在する。

 

 [744]どのようなものが、まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるのか。身体を有するという見解(有身見)、戒や掟への偏執(戒禁取)である。これらのものが、まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもある。

 

 [745]どのようなものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではないのか。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、敵対〔の思い〕という束縛するもの、思量〔の思い〕という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜〔の思い〕という束縛するもの、随貪という束縛するもの、無明という束縛するものである。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [746](2)それが、感受〔作用〕を縁として……略……。(3)それが、表象〔作用〕を縁として……略……。(4)それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……略……。(5)それが、識知〔作用〕を縁として……。(6)それが、眼を縁として……。(7)それが、耳を縁として……。(8)それが、鼻を縁として……。(9)それが、舌を縁として……。(10)それが、身を縁として……。(11)それが、意を縁として……。(12)それが、諸々の形態を縁として……。(13)それが、諸々の音声を縁として……。(14)それが、諸々の臭気を縁として……。(15)それが、諸々の味感を縁として……。(16)それが、諸々の感触を縁として……。(17)それが、諸々の法(意の対象)を縁として……。(18)それが、眼の識知〔作用〕を縁として……。(19)それが、耳の識知〔作用〕を縁として……。(20)それが、鼻の識知〔作用〕を縁として……。(21)それが、舌の識知〔作用〕を縁として……。(22)それが、身の識知〔作用〕を縁として……。(23)それが、意の識知〔作用〕を縁として……。(24)それが、眼の接触を縁として……。(25)それが、耳の接触を縁として……。(26)それが、鼻の接触を縁として……。(27)それが、舌の接触を縁として……。(28)それが、身の接触を縁として……。(29)それが、意の接触を縁として……。(30)それが、眼の接触から生じる感受を縁として……。(31)それが、耳の接触から生じる感受を縁として……。(32)それが、鼻の接触から生じる感受を縁として……。(33)それが、舌の接触から生じる感受を縁として……。(34)それが、身の接触から生じる感受を縁として……。(35)それが、意の接触から生じる感受を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、「これは、意の接触から生じる感受の悦楽である」と、固着への偏執が、見解となる。見解は、悦楽にあらず。悦楽は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、悦楽がある(両者は別個のものである)。それが、見解としてもあり、それが、悦楽としてもあるなら、【142】これが、悦楽の見解と説かれる。

 

 [747]悦楽の見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。その見解の衰滅を具備した人は、見解が衰滅した者である。見解が衰滅した人は、慣れ親しむべき者ではなく、親近するべき者ではなく、奉侍するべき者ではない。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それが、見解にたいする貪欲であるなら、それは、見解にあらず。見解は、貪欲にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、貪欲がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、貪欲としてあるなら、これが、見解の貪欲と説かれる。そして、その見解を、さらに、その貪欲を、〔両者を〕具備した人は、見解の貪欲に染まった者である。見解の貪欲に染まった人に施された布施は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ない。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解は、誤った見解であるからである。

 

 [748]誤った見解ある人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎である。誤った見解ある人士たる人の、まさしく、そして、見解のとおりに完結され受持された、その身体の行為は……略……その言葉の行為は、さらに、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為は、かつまた、その思欲は、かつまた、その切望は、かつまた、その切願は、かつまた、それらの諸々の形成〔作用〕は、それらの法(性質)の全てが、好ましくなく愛らしくなく意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであるからである。それは、たとえば、また、あるいは、ニンバの種が、あるいは、コーサータキーの種が、あるいは、ティッタカーラーブの種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、その地の味を執取するも、さらに、その水の味を執取するも、その全てが、苦く辛く不快なることのために等しく転起するように──それは、何を因とするのか。なぜなら、なぜなら、彼の種は、悪しきものであるからである──まさしく、このように、誤った見解ある人士たる人の、まさしく、そして、見解のとおりに完結され受持された、その身体の行為は……略……その言葉の行為は、さらに、見解のとおりに完結され受持された、その意の行為は、かつまた、その思欲は、かつまた、その切望は、かつまた、その切願は、かつまた、それらの諸々の形成〔作用〕は、それらの法(性質)の全てが、好ましくなく愛らしくなく意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する。それは、何を因とするのか。なぜなら、彼の見解は、悪しきものであり、悦楽の見解は、誤った見解であるからである。

 

 [749]誤った見解は、見解の成立、見解の捕捉【143】……略([735]参照)……見解の固着、見解の偏執である。これらの十八の行相によって、心が妄執された者には、束縛がある。

 

 [750]まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるものが存在する。諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではないものが存在する。どのようなものが、まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもあるのか。身体を有するという見解、戒や掟への偏執である。これらのものが、まさしく、そして、諸々の束縛するものであり、かつまた、諸々の見解でもある。どのようなものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではないのか。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、敵対〔の思い〕という束縛するもの、思量〔の思い〕という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜〔の思い〕という束縛するもの、随貪という束縛するもの、無明という束縛するものである。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。悦楽の見解には、これらの三十五の行相によって、固着が有る。

 

 [751]悦楽の見解についての釈示が、第一となる。

 

1. 2. 2. 自己についての偏った見解についての釈示

 

130.

 

 [752]自己についての偏った見解には、どのような二十の行相によって、固着が有るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し(偏見のとおりに見る)、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕(自己と錯視する)、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……略……。(13)諸々の形成〔作用〕を……略……。(17)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(18)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(20)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。

 

131.

 

 [753](1)どのように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか(偏見のとおりに見るのか)。ここに、一部の者が、地の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、地の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、地の遍満である」と、そして、地の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、【144】それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、地の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、地の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、地の遍満である」と、そして、地の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、形態を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740]参照)……自己についての偏った見解は、誤った見解であるからである。誤った見解ある人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある。……略([741-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [754]ここに、一部の者が、水の遍満を……略……火の遍満を……風の遍満を……青の遍満を……黄の遍満を……赤の遍満を……白の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、そして、白の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が……略……そして、白の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、形態を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [755](2)どのように、形態あるものを、自己と等しく随観するのか(自己と錯視するのか)。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は(※)、それは、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第二の、形態を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態あるものを、自己と等しく随観する。

 

※ テキストには ayaṃ attā とあるが、PTS版により me ayaṃ attā と読む。

 

 [756]【145】(3)どのように、自己のうちに、形態を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この形態がある」と、自己のうちに、形態を等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香りを伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔花〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、この香は、それは、この花のうちにある」と、花のうちに、香りを等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この形態がある」と、自己のうちに、形態を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第三の、形態を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、形態を等しく随観する。

 

 [757](4)どのように、形態のうちに、自己を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この形態のうちにある」と、形態のうちに、自己を等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔宝珠〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、この宝珠は、それは、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この形態のうちにある」と、形態のうちに、自己を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第四の、形態を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態のうちに、自己を等しく随観する。

 

132.

 

 [758](5)どのように、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる感受を……略……耳の接触から生じる感受を……鼻の接触から生じる感受を……舌の接触から生じる感受を……身の接触から生じる感受を……意の接触から生じる感受を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、【146】意の接触から生じる感受であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる感受である」と、そして、意の接触から生じる感受を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる感受を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の接触から生じる感受であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる感受である」と、そして、意の接触から生じる感受を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [759](6)どのように、感受〔作用〕あるものを、自己と等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この感受〔作用〕によって、感受〔作用〕あるものとなる」と、感受〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この感受〔作用〕によって、感受〔作用〕あるものとなる」と、感受〔作用〕あるものを、自己と等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第二の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。

 

 [760](7)どのように、自己のうちに、感受〔作用〕を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この感受〔作用〕がある」と、自己のうちに、感受〔作用〕を等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香りを伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔花〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、この香は、それは、この花のうちにある」と、花のうちに、香りを等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この感受〔作用〕がある」と、自己のうちに、感受〔作用〕を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第三の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、感受〔作用〕を等しく随観する。

 

 [761](8)どのように、感受〔作用〕のうちに、自己を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この感受〔作用〕のうちにある」と、感受〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔宝珠〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、この宝珠は、それは、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、表象〔作用〕を……略……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この感受〔作用〕のうちにある」と、感受〔作用〕のうちに、自己を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第四の、感受〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、感受〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。

 

133.

 

 [762](9)どのように、表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる表象を……略……耳の接触から生じる表象を……鼻の接触から生じる表象を……舌の接触から生じる表象を……身の接触から生じる表象を……意の接触から生じる表象を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の接触から生じる表象であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる表象である」と、そして、意の接触から生じる表象を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる表象を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の接触から生じる表象であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる表象である」と、そして、意の接触から生じる表象を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、【147】諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [763](10)どのように、表象〔作用〕あるものを、自己と等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この表象〔作用〕によって、表象〔作用〕あるものとなる」と、表象〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この表象〔作用〕によって、表象〔作用〕あるものとなる」と、表象〔作用〕あるものを、自己と等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第二の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。

 

 [764](11)どのように、自己のうちに、表象〔作用〕を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この表象〔作用〕がある」と、自己のうちに、表象〔作用〕を等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香りを伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔花〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、この香は、それは、この花のうちにある」と、花のうちに、香りを等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この表象〔作用〕がある」と、自己のうちに、表象〔作用〕を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第三の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、表象〔作用〕を等しく随観する。

 

 [765](12)どのように、表象〔作用〕のうちに、自己を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この表象〔作用〕のうちにある」と、表象〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔宝珠〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、この宝珠は、それは、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、諸々の形成〔作用〕を……略……識知〔作用〕を……形態を……感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この表象〔作用〕のうちにある」と、表象〔作用〕のうちに、自己を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第四の、表象〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、表象〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。

 

134.

 

 [766](13)どのように、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の接触から生じる思欲を……略……耳の接触から生じる思欲を……鼻の接触から生じる思欲を……舌の接触から生じる思欲を……身の接触から生じる思欲を……意の接触から生じる思欲を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の接触から生じる思欲であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる思欲である」と、そして、意の接触から生じる思欲を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の接触から生じる思欲を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の接触から生じる思欲であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の接触から生じる思欲である」と、そして、意の接触から生じる思欲を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [767](14)どのように、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、これらの諸々の形成〔作用〕によって、諸々の形成〔作用〕あるものとなる」と、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、これらの諸々の形成〔作用〕によって、諸々の形成〔作用〕あるものとなる」と、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第二の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。

 

 [768]【148】(15)どのように、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、これらの諸々の形成〔作用〕がある」と、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香りを伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔花〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、この香は、それは、この花のうちにある」と、花のうちに、香りを等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、これらの諸々の形成〔作用〕がある」と、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第三の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を等しく随観する。

 

 [769](16)どのように、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、これらの諸々の形成〔作用〕のうちにある」と、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔宝珠〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、この宝珠は、それは、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、識知〔作用〕を……略……形態を……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、これらの諸々の形成〔作用〕のうちにある」と、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第四の、諸々の形成〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。

 

135.

 

 [770](17)どのように、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、眼の識知〔作用〕を……略……耳の識知〔作用〕を……鼻の識知〔作用〕を……舌の識知〔作用〕を……身の識知〔作用〕を……意の識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の識知〔作用〕であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の識知〔作用〕である」と、そして、意の識知〔作用〕を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、意の識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、意の識知〔作用〕であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、意の識知〔作用〕である」と、そして、意の識知〔作用〕を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、識知〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [771](18)どのように、識知〔作用〕あるものを、自己と等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この識知〔作用〕によって、識知〔作用〕あるものとなる」と、識知〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この識知〔作用〕によって、識知〔作用〕あるものとなる」と、識知〔作用〕あるものを、自己と等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第二の、識知〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、識知〔作用〕あるものを、自己と等しく随観する。

 

 [772](19)どのように、自己のうちに、識知〔作用〕を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この識知〔作用〕がある」と、自己のうちに、識知〔作用〕を等しく随観する。それは、たとえば、また、花が、香りを伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔花〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、花である。これは、香である。他なるものとして、花があり、他なるものとして、香がある。また、まさに、この香は、それは、この花のうちにある」と、花のうちに、香りを等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、そして、この自己のうちに、この識知〔作用〕がある」と、自己のうちに、識知〔作用〕を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第三の、識知〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、自己のうちに、識知〔作用〕を等しく随観する。

 

 [773](20)どのように、識知〔作用〕のうちに、自己を等しく随観するのか。ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この識知〔作用〕のうちにある」と、識知〔作用〕のうちに、【149】自己を等しく随観する。それは、たとえば、また、宝珠が、箱のうちに置かれたものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔宝珠〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、宝珠である。これは、箱である。他なるものとして、宝珠があり、他なるものとして、箱がある。また、まさに、この宝珠は、それは、この箱のうちにある」と、箱のうちに、宝珠を等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、形態を……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この識知〔作用〕のうちにある」と、識知〔作用〕のうちに、自己を等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第四の、識知〔作用〕を基盤とする、自己についての偏った見解となる。自己についての偏った見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、識知〔作用〕のうちに、自己を等しく随観する。自己についての偏った見解には、これらの二十の行相によって、固着が有る。

 

 [774]自己についての偏った見解についての釈示が、第二となる。

 

1. 2. 3. 誤った見解についての釈示

 

136.

 

 [775]誤った見解には、どのような十の行相によって、固着が有るのか。(1)「布施された〔施物の果〕は存在しない」という基盤があり、このような論があり、誤った固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、誤った〔論〕を基盤とする、誤った見解となる。〔それは〕誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。(2)「祭祀された〔供物の果〕は存在しない」という基盤があり……略……。(3)「捧げられたもの〔の果〕は存在しない」という基盤があり……。(4)「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない」という基盤があり……。(5)「この世は存在しない」という基盤があり……。(6)「他の世は存在しない」という基盤があり……。(7)「母は存在しない」という基盤があり……。(8)「父は存在しない」という基盤があり……。(9)「化生の有情たちは存在しない」という基盤があり……。(10)「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」という基盤があり、このような論があり、誤った固着への偏執が、見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第十の、誤った〔論〕を基盤とする、誤った見解となる。〔それは〕誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740]参照)……。誤った見解ある人士たる人には、二つの〔死後の〕境遇がある。……略([741-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。誤った見解には、これらの十の行相によって、固着が有る。

 

 [776]誤った見解についての釈示が、第三となる。

 

1. 2. 4. 身体を有するという見解についての釈示

 

137.

 

 [777]身体を有するという見解には、どのような二十の行相によって、固着が有るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(18)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(20)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。

 

 [778](1)どのように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、地の遍満を……略([753-754]参照)……白の遍満を、【150】自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、そして、白の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると……略([754]参照)……まさしく、このように、ここに、一部の者が、白の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観し、固着への偏執が、見解となる。……略([754]参照)……これが、第一の、形態を基盤とする、身体を有するという見解となる。身体を有するという見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。(2)……略([755-773]参照)……。身体を有するという見解には、これらの二十の行相によって、固着が有る。

 

 [779]身体を有するという見解についての釈示が、第四となる。

 

1. 2. 5. 身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解についての釈示

 

138.

 

 [780]身体を有するという〔思い〕を基盤(根拠)とする常久の見解には、どのような十五の行相によって、固着が有るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(2)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(3)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(4)あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕……略……。(7)あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕……。(10)あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕……。(13)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(14)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(15)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。

 

 [781](1)どのように、形態あるものを、自己と等しく随観するのか。ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。彼に、このような〔思いが〕有る。「これは、まさに、わたしの自己である。また、まさに、わたしの、この自己は、それは、この形態によって、形態あるものとなる」と、形態あるものを、自己と等しく随観する。それは、たとえば、また、木が、影を伴ったものとして存しているとして、〔まさに〕その、この〔木〕のことを、人が、このように説くなら、「これは、木である。これは、影である。他なるものとして、木があり、他なるものとして、影がある。また、まさに、この木は、それは、この影によって、影あるものとなる」と、影あるものを、木と等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、感受〔作用〕を……略……これが、第一の、身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解となる。常久の見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態あるものを、自己と等しく随観する。(2)……略……。身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解には、これらの十五の行相によって、固着が有る。

 

 [782]身体を有するという〔思い〕を基盤とする常久の見解についての釈示が、第五となる。

 

1. 2. 6. 身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解についての釈示

 

139.

 

 [783]身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(2)感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(3)表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(4)諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(5)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観する。

 

 [784](1)どのように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。【151】ここに、一部の者が、地の遍満を……略([753-754]参照)……白の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、そして、白の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると……略([754]参照)……これが、第一の、身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解となる。断絶の見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。(2)……略……。身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [785]身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解についての釈示が、第六となる。

 

1. 2. 7. 〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解についての釈示

 

140.

 

 [786]〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五十の行相によって、固着が有るのか。「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。「世〔界〕は、常久ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には……。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には……。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には……。「如来は、死後に有る」と……略……。「如来は、死後に有ることがない」と……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どれだけの行相によって、固着が有るのか。

 

 [787]「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着が有る。……略……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着が有る。

 

 [788]「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(1)「形態は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [789](2)「感受〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久である」と……略……。(3)「表象〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久である」と……略……。(4)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久である」と……略……。(5)「識知〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、【152】第五の、「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [790]「世〔界〕は、常久ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(6)「形態は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久ではない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([788]参照)……これが、第一の、「世〔界〕は、常久ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり、見解の衰滅である。……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [791](7)「感受〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久ではない」と……略……。(8)「表象〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久ではない」と……略……。(9)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久ではない」と……略……。(10)「識知〔作用〕は、まさしく、そして、世〔界〕であり、さらに、常久ではない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([788]参照)……。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。「世〔界〕は、常久ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [792]「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(11)ここに、一部の者が、微小なる空間を、青なるもの〔の観点〕から充満する。彼に、このような〔思いが〕有る。「この世〔界〕は、円周があり、終極がある」と。〔彼は〕終極の表象ある者と成る。「それを充満するなら、それは、まさしく、そして、基盤であり、さらに、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、そして、自己であり、さらに、世〔界〕である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [793](12)ここに、一部の者が、微小なる空間を、黄なるもの〔の観点〕から充満する。……略……(13)赤なるもの〔の観点〕から充満する。……(14)白なるもの〔の観点〕から充満する。……(15)光なるもの〔の観点〕から充満する。彼に、このような〔思いが〕有る。「この世〔界〕は、円周があり、終極がある」と。〔彼は〕終極の表象ある者と成る。「それを充満するなら、それは、まさしく、そして、基盤であり、さらに、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、そして、自己であり、さらに、世〔界〕である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。【153】「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [794]「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(16)ここに、一部の者が、広大なる空間を、青なるもの〔の観点〕から充満する。彼に、このような〔思いが〕有る。「この世〔界〕は、極限がなく、終極がない」と。〔彼は〕終極なき表象ある者と成る。「それを充満するなら、それは、まさしく、そして、基盤であり、さらに、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、そして、自己であり、さらに、世〔界〕である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [795](17)ここに、一部の者が、広大なる空間を、黄なるもの〔の観点〕から充満する。……略……(18)赤なるもの〔の観点〕から充満する。……(19)白なるもの〔の観点〕から充満する。……(20)光なるもの〔の観点〕から充満する。彼に、このような〔思いが〕有る。「この世〔界〕は、極限がなく、終極がない」と。〔彼は〕終極なき表象ある者と成る。「それを充満するなら、それは、まさしく、そして、基盤であり、さらに、世〔界〕である。それによって充満するなら、それは、まさしく、そして、自己であり、さらに、世〔界〕である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [796]「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある(生命と肉体は同じものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(21)「形態は、まさしく、そして、生命であり、さらに、肉体である。それが、生命であるなら、それは、肉体である。それが、肉体であるなら、それは、生命である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [797](22)「感受〔作用〕は、まさしく、そして、生命であり、さらに、肉体である。……略……。(23)「表象〔作用〕は、まさしく、そして、生命であり、さらに、肉体である。……。(24)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、そして、生命であり、さらに、肉体である。……。(25)「識知〔作用〕は、まさしく、そして、生命であり、さらに、肉体である。それが、生命であるなら、それは、肉体である。それが、肉体であるなら、それは、生命である」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [798]「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(26)「形態は、肉体であり、生命ではない。生命は、肉体ではない。他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [799](27)「感受〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……略……。(28)「表象〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……。(29)「諸々の形成〔作用〕は、肉体であり、生命ではない……。(30)「識知〔作用〕は、肉体であり、生命ではない。生命は、肉体ではない。他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。【154】「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [800]「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(31)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有りもまたし、止住もまたし、生起もまたし、発現もまたする」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [801](32)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……略……。(33)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(34)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(35)「識知〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、有りもまたし、止住もまたし、生起もまたし、発現もまたする」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [802]「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(36)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来もまた、身体の破壊ののち、断絶し、消失する。如来は、死後に有ることがない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [803](37)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……略……。(38)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(39)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(40)「識知〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来もまた、身体の破壊ののち、断絶し、消失する。如来は、死後に有ることがない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [804]「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(41)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [805](42)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……略……。(43)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(44)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(45)「識知〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。……略([789]参照)……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。

 

 [806]「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、【155】〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、どのような五つの行相によって、固着が有るのか。(46)「形態は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [807](47)「感受〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……略……。(48)「表象〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(49)「諸々の形成〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。……。(50)「識知〔作用〕は、まさしく、この〔世における〕、死の法(性質)である。如来は、身体の破壊ののち、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、固着への偏執が、見解となる。その見解によって、その極〔論〕が収め取られた、ということで、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第五の、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解となる。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五つの行相によって、固着が有る。〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、これらの五十の行相によって、固着が有る。

 

 [808]〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解についての釈示が、第七となる。

 

1. 2. 8. 過去の極についての偏った見解についての釈示

 

141.

 

 [809]過去の極(前際:過去の種々相)についての偏った見解には、どのような十八の行相によって、固着が有るのか。四つの常久の論があり、四つの一部常久〔の論〕があり、四つの有極無極〔の論〕があり、四つの詭弁〔の論〕があり、二つの偶発生起〔の論〕がある(長部経典第一『梵網経』参照)。過去の極についての偏った見解には、これらの十八の行相によって、固着が有る。

 

 [810]過去の極についての偏った見解についての釈示が、第八となる。

 

1. 2. 9. 未来の極についての偏った見解についての釈示

 

142.

 

 [811]未来の極(後際:未来の種々相)についての偏った見解には、どのような四十四の行相によって、固着が有るのか。十六の表象ある論があり、八つの表象なき論があり、八つの表象あるにもあらず表象なきにもあらざる論があり、七つの断絶の論があり、五つの所見の法(現法:現世)における涅槃の論がある(長部経典第一『梵網経』参照)。未来の極についての偏った見解には、これらの四十四の行相によって、固着が有る。

 

 [812]未来の極についての偏った見解についての釈示が、第九となる。

 

1. 2. 10. 束縛するものとしての見解についての釈示(※)

 

※ テキストには 10-12. Saññojanikādidiṭṭhiniddeso とあるが、タイ版により 10. Saññojanikadiṭṭhiniddeso と読み、続く「11.」と「12.」を省略せずに記載する。

 

143.

 

 [813]束縛するものとしての見解には、どのような十八の行相によって、固着が有るのか。それが、見解としてあるなら、見解の成立、見解の捕捉……略([735]参照)……見解の固着、見解の偏執である。束縛するものとしての見解には、これらの十八の行相によって、固着が有る。

 

 [814]束縛するものとしての誤った見解についての釈示が、第十となる。

 

1. 2. 11. 「わたしである」という思量の結縛としての見解についての釈示

 

144.

 

 [815]「わたしである」という思量の結縛としての見解には、どのような十八の行相によって、固着が有るのか。(1)「眼は、わたしである」と、固着への偏執が、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、【156】これが、第一の、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [816](2)「耳は、わたしである」と……略……(3)「鼻は、わたしである」と……略……(4)「舌は、わたしである」と……略……(5)「身は、わたしである」と……略……(6)「意は、わたしである」と……略……(7)「諸々の形態は、わたしである」と……略……(12)「諸々の法(意の対象)は、わたしである」と……略……(13)「眼の識知〔作用〕は、わたしである」と……略……(18)「意の識知〔作用〕は、わたしである」と、固着への偏執が、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第十八の、「わたしである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。「わたしである」という思量の結縛としての見解には、これらの十八の行相によって、固着が有る。

 

 [817]「わたしである」という思量の結縛としての見解についての釈示が、第十一となる。

 

1. 2. 12. 「わたしのものである」という思量の結縛としての見解についての釈示

 

145.

 

 [818]「わたしのものである」という思量の結縛としての見解には、どのような十八の行相によって、固着が有るのか。(1)「眼は、わたしのものである」と、固着への偏執が、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [819](2)「耳は、わたしのものである」と……略……(3)「鼻は、わたしのものである」と……略……(4)「舌は、わたしのものである」と……略……(5)「身は、わたしのものである」と……略……(6)「意は、わたしのものである」と……略……(7)「諸々の形態は、わたしのものである」と……略……(12)「諸々の法(意の対象)は、わたしのものである」と……略……(13)「眼の識知〔作用〕は、わたしのものである」と……略……(18)「意の識知〔作用〕は、わたしのものである」と、固着への偏執が、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第十八の、「わたしのものである」という思量の結縛としての見解となる。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解には、これらの十八の行相によって、固着が有る。

 

 [820]「わたしのものである」という思量の結縛としての見解についての釈示が、第十二となる。

 

1. 2. 13. 自己の論と結び付いた見解についての釈示

 

146.

 

 [821]自己の論と結び付いた見解には、どのような二十の行相によって、固着が有るのか。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(18)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(20)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。

 

 [822](1)どのように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観するのか。ここに、一部の者が、地の遍満を……略([753-754]参照)……白の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。「それが、白の遍満であるなら、それは、わたしである。それが、わたしであるなら、それは、白の遍満である」と、そして、白の遍満を、さらに、自己を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観する。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、「それが、炎であるなら、それは、色である。それが、色であるなら、それは、炎である」と、そして、炎を、さらに、色を、〔両者を〕不二なるものと等しく随観するように、まさしく、このように、ここに、一部の者が、白の遍満を、自己〔の観点〕から等しく随観する。【157】……略([754]参照)……これが、第一の、形態を基盤とする自己の論と結び付いた見解となる。自己の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。このように、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観する。(2)……略([755-773]参照)……。自己の論と結び付いた見解には、これらの二十の行相によって、固着が有る。

 

 [823]自己の論と結び付いた見解についての釈示が、第十三となる。

 

1. 2. 14. 世〔界〕の論と結び付いた見解についての釈示

 

147.

 

 [824]世〔界〕の論と結び付いた見解には、どのような八の行相によって、固着が有るのか。(1)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である」と、固着への偏執が、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある(両者は別個のものである)。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第一の、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。世〔界〕の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。

 

 [825](2)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない」と……略……。(3)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない」と……略……。(4)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない」と……。(5)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がある」と……。(6)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がない」と……。(7)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない」と……。(8)「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない」と、固着への偏執が、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。見解は、基盤にあらず。基盤は、見解にあらず。他なるものとして、見解があり、他なるものとして、基盤がある。そして、それが、見解としてあり、さらに、それが、基盤としてあるなら、これが、第八の、世〔界〕の論と結び付いた見解となる。世〔界〕の論と結び付いた見解は、誤った見解であり……略([740-745]参照)……。これらのものが、諸々の束縛するものではあるが、しかしながら、諸々の見解ではない。世〔界〕の論と結び付いた見解には、これらの八つの行相によって、固着が有る。

 

 [826]世〔界〕の論と結び付いた見解についての釈示が、第十四となる。

 

1. 2. 15-16. 生存と非生存の見解についての釈示

 

148.

 

 [827]〔有るところのものに〕執着することとしての固着が、生存(:実体)の見解となる。〔有るところのものから〕逸脱することとしての固着が、非生存(非有:虚無)の見解となる。悦楽の見解には、三十五の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか。自己についての偏った見解には、二十の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか。……略……。世〔界〕の論と結び付いた見解には、八の行相によって、固着となるとして、どれだけの生存の見解があり、どれだけの非生存の見解があるのか。

 

 [828]悦楽の見解には、三十五の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう(どちらにもなりうる)。自己についての偏った見解には、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。誤った見解には、十の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。身体を有するという見解には、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。身体を有するという〔思い〕を基盤(根拠)とする常久の見解には、十五の【158】行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。身体を有するという〔思い〕を基盤とする断絶の見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。

 

 [829]「世〔界〕は、常久である」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「世〔界〕は、常久ではない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「世〔界〕は、終極がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう(どちらにもなりうる)。「世〔界〕は、終極がない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「如来は、死後に有る」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。「如来は、死後に有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解には、五つの行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。

 

 [830]過去の極についての偏った見解には、十八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。未来の極についての偏った見解には、四十四の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。束縛するものとしての見解には、十八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。「わたしである」という思量の結縛としての見解には、十八の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、非生存の見解である。「わたしのものである」という思量の結縛としての見解には、十八の行相によって、固着となるとして、それらは、まさしく、全てが、生存の見解である。自己の論と結び付いた見解には、二十の行相によって、固着となるとして、十五の生存の見解があり、五つの非生存の見解がある。世〔界〕の論と結び付いた見解には、八の行相によって、固着となるとして、諸々の生存の見解として存するであろうし、諸々の非生存の見解として存するであろう。

 

 [831]それらの見解は、まさしく、全てが、悦楽の見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、自己についての偏った見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、誤った見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、身体を有するという見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、〔一つの〕極〔論〕を収め取るものとしての見解である。【159】それらの見解は、まさしく、全てが、束縛するものとしての見解である。それらの見解は、まさしく、全てが、自己の論と結び付いた見解である。

 

 [832]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、生存の見解に、さらに、非生存の見解に──この二者に依存する者たちは、〔悪しき〕説ある者たちである。彼らに、止滅についての知恵は、まさに、存在しない──そこにおいて、転倒した表象あるのが、この世〔の人々〕である」と。

 

149.

 

 [833]比丘たちよ、二つの悪しき見解(常見と断見)に遍く取り囲まれた天〔の神々〕と人間たちがいる。或る者たちは、〔有るところのものに〕執着し、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱する。そして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見る。比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着するのか。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、生存(:実体)を喜びとする者たちであり、生存を喜ぶ者たちであり、生存を等しく歓喜する者たちである。彼らに、生存の止滅のために、法(教え)が説示されているとき、〔彼らの〕心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しない。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着する。

 

 [834]比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱するのか。また、まさに、或る者たちは、まさしく、生存によって、苦悩しつつ、自責しつつ、忌避しつつ、非生存(非有:虚無)に愉悦する。「君よ、すなわち、まさに、この自己は、身体の破壊ののち、死後において、断絶し、消失し、死後において、有ることなきことから、この〔非生存〕は、寂静である、この〔非生存〕は、精妙である、この〔非生存〕は、あるがままのものである」と。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱する。

 

 [835]比丘たちよ、では、どのように、そして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見るのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔世に〕有るところのもの(:実体的存在として認識される現象世界)を、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見る。〔世に〕有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て〔そののち〕、〔世に〕有るところのものの厭離と離貪と止滅のために、〔道の〕実践者と成る。比丘たちよ、このように、まさに、そして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見る。

 

 [836]〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、さらに、有るところのものの超越を〔実践し成就して〕、生存にたいする渇愛〔の思い〕の完全なる滅尽あることから、有るところのとおりに信念するなら──

 

 [837]彼は、まさに、有るところのものを遍知した者であり、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者であり、有るところのものの非生存あることから、〔その〕比丘は、さらなる生存には帰り来ない」と。

 

150.

 

 [838]【160】三者の衰滅した見解ある人がいる。三者の成就した見解ある人がいる。どのような三者の衰滅した見解ある人がいるのか。そして、異教の者であり、そして、異教の弟子であり、さらに、すなわち、誤った見解ある者である。これらの三者の衰滅した見解ある人がいる。

 

 [839]どのような三者の成就した見解ある人がいるのか。そして、如来であり、そして、如来の弟子であり、さらに、すなわち、正しい見解ある者である。これらの三者の成就した見解ある人がいる。

 

 [840] 〔そこで、詩偈に言う〕「その人が、忿激する者であるなら、そして、怨恨ある者であるなら、さらに、〔為した〕悪の偽装ある者であるなら、衰滅した見解ある幻術師(偽善者)であり──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。

 

 [841]忿激しない者であり、怨恨なき者であり、清浄の者であり、清浄なることを具した者は、成就した見解ある思慮ある者であり──彼のことを、『聖者である』と知るがよい」と。

 

 [842]三つの衰滅した見解がある。三つの成就した見解がある。どのような三つの衰滅した見解があるのか。「これは、わたしのものである」という衰滅した見解であり、「これは、わたしとして存在する」という衰滅した見解であり、「これは、わたしの自己である」という衰滅した見解である。これらの三つの衰滅した見解がある。

 

 [843]どのような三つの成就した見解があるのか。「これは、わたしのものではない」という成就した見解であり、「これは、わたしとして存在しない」という成就した見解であり、「これは、わたしの自己ではない」という成就した見解である。これらの三つの成就した見解がある。

 

 [844]「これは、わたしのものである」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。「これは、わたしとして存在する」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。「これは、わたしの自己である」とは、何が、見解であるのか、どれだけの、見解があるのか、どのような極が収め取られたものとして、それらの見解があるのか。

 

 [845]「これは、わたしのものである」とは、過去の極についての偏った見解であり、十八の見解があり、過去の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。「これは、わたしとして存在する」とは、未来の極についての偏った見解であり、四十四の見解があり、未来の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。【161】「これは、わたしの自己である」とは、二十のものを基盤とする、自己についての偏った見解があり、二十のものを基盤とする、身体を有するという見解があり、身体を有するという見解を筆頭とする、六十二の悪しき見解があり、過去の極と未来の極が収め取られたものとして、それらの見解がある。

 

151.

 

 [846]比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしについて結論に至った者であるなら、彼らの全てが、〔正しい〕見解を成就した者たちとなる。それらの〔正しい〕見解を成就した者たちのなかの、五つのものには、ここに、結論があり(この世において完全なる涅槃に到達する)、五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある(他の世において完全なる涅槃に到達する)。どのような五つのものには、ここに、結論があるのか。(1)最高で七回〔の再生〕ある者であり、(2)〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者であり、(3)一つの種ある者であり、(4)一来たる者であり、(5)さらに、すなわち、まさしく、まさしく、所見の法(現世)における阿羅漢である。これらの五つのものには、ここに、結論がある(預流者・一来者・阿羅漢の場合)。

 

 [847]どのような五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があるのか。(6)〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者であり、(7)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者であり、(8)形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者であり、(9)形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者であり、(10)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者である。これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある(不還者の場合)。

 

 [848]比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしについて結論に至った者であるなら、彼らの全てが、〔正しい〕見解を成就した者たちとなる。それらの〔正しい〕見解を成就した者たちのなかの、これらの五つのものには、ここに、結論があり、これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある。

 

 [849]比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしにたいし確固たる清信ある者であるなら、彼らの全てが、預流たる者たちとなる。それらの預流たる者たちのなかの、五つのものには、ここに、結論があり、五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある。どのような五つのものには、ここに、結論があるのか。(1)最高で七回〔の再生〕ある者であり、(2)〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者であり、(3)一つの種ある者であり、(4)一来たる者であり、(5)さらに、すなわち、まさしく、まさしく、所見の法(現世)における阿羅漢である。これらの五つのものには、ここに、結論がある。

 

 [850]どのような五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論があるのか。(6)〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者であり、(7)再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者であり、(8)形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者であり、(9)形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者であり、(10)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者である。これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある。

 

 [851]比丘たちよ、それらの者たちが誰であれ、わたしにたいし確固たる清信ある者であるなら、彼らの全てが、預流たる者たちとなる。それらの預流たる者たちのなかの、これらの五つのものには、ここに、結論があり、これらの五つのものには、ここに、〔この世を〕捨棄して〔そののち〕、結論がある。ということで──

 

 生存と非生存の見解についての釈示が、第十六となる。

 

 [852]見解についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 3. 呼吸についての気づきについての言説

 

1. 3. 1. 数の部

 

152.

 

 [853]【162】十六の基盤(根拠)ある、呼吸についての気づきという禅定を修行していると、二百の禅定の知恵が生起する。(1)八つの障害についての知恵であり、そして、八つの資益についての知恵、(2)十八の付随する〔心の〕汚れについての知恵、(3)十三の浄化するものについての知恵、(4)三十二の気づきある為し手の知恵、(5)二十四の禅定を所以にする知恵、(6)七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵、(7)八つの厭離の知恵、(8)八つの厭離に随順するものについての知恵、(9)八つの厭離の安息の知恵、(10)二十一の解脱の安楽についての知恵である。

 

 [854](1)どのようなものが、八つの障害についての知恵であり、そして、八つの資益についての知恵であるのか。(1)欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)は、禅定にとっての障害であり、離欲(出離)は、禅定にとっての資益である。(2)憎悪〔の思い〕()は、禅定にとっての障害であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、禅定にとっての資益である。(3)〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)は、禅定にとっての障害であり、光明の表象(鋭敏で明確な対象認知)は、禅定にとっての資益である。(4)〔心の〕高揚(掉挙)は、禅定にとっての障害であり、〔心の〕散乱なき〔状態〕は、禅定にとっての資益である。(5)疑惑〔の思い〕()は、禅定にとっての障害であり、法(性質)〔の差異〕を定め置くことは、禅定にとっての資益である。(6)無明は、禅定にとっての障害であり、知恵は、禅定にとっての資益である。(7)不満〔の思い〕は、禅定にとっての障害であり、歓喜は、禅定にとっての資益である。(8)諸々の善ならざる法(性質)は、全てもろともに、禅定にとっての障害であり、諸々の善なる法(性質)は、全てもろともに、禅定にとっての資益である。これらのものが、八つの障害についての知恵であり、そして、八つの資益についての知恵である。

 

 [855]数の部が、第一となる。

 

1. 3. 2. 十六の知恵についての釈示

 

153.

 

 [856]これらの十六の行相によって、蓄積された心は、集積された心は、一なることにおいて確立し、諸々の〔修行の〕妨害()から清浄となる。【163】どのようなものが、それらの一なることであるのか。離欲が、一なることである。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、一なることである。光明の表象が、一なることである。〔心の〕散乱なき〔状態〕が、一なることである。法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、一なることである。知恵が、一なることである。歓喜が、一なることである。諸々の善なる法(性質)は、全てもろともに、一なることである。

 

 [857]「諸々の〔修行の〕妨害」とは、どのようなものが、それらの〔修行の〕妨害であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。憎悪〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。〔心の〕沈滞と眠気が、〔修行の〕妨害である。〔心の〕高揚と悔恨が、〔修行の〕妨害である。疑惑〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。無明が、〔修行の〕妨害である。不満〔の思い〕が、〔修行の〕妨害である。諸々の善ならざる法(性質)は、全てもろともに、諸々の〔修行の〕妨害である。

 

 [858]「諸々の〔修行の〕妨害」とは、どのような義(意味)によって、諸々の〔修行の〕妨害となるのか。出脱の妨害の義(意味)によって、諸々の〔修行の〕妨害となる。

 

 [859]どのようなものが、それらの出脱であるのか。

 

 [860]離欲が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その離欲によって、聖者たちは出脱する。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕によって妨害されたことから、離欲を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、出脱の妨害となる。

 

 [861]憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、聖者たちは出脱する。憎悪〔の思い〕が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その憎悪〔の思い〕によって妨害されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、憎悪〔の思い〕が、出脱の妨害となる。

 

 [862]光明の表象が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その光明の表象によって、聖者たちは出脱する。〔心の〕沈滞と眠気が、出脱の妨害である。そして、その〔心の〕沈滞と眠気によって妨害されたことから、光明の表象を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、〔心の〕沈滞と眠気が、出脱の妨害となる。

 

 [863]〔心の〕散乱なき〔状態〕が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、聖者たちは出脱する。〔心の〕高揚が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その〔心の〕高揚によって妨害されたことから、〔心の〕散乱なき〔状態〕を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、〔心の〕高揚が、出脱の妨害となる。

 

 [864]法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、聖者たちにとっての出脱である。そして、その法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、聖者たちは出脱する。疑惑〔の思い〕が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その疑惑〔の思い〕によって妨害されたことから、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、疑惑〔の思い〕が、出脱の妨害となる。

 

 [865]知恵が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その知恵によって、聖者たちは出脱する。無明が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その無明によって妨害されたことから、知恵を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、無明が、出脱の妨害となる。

 

 [866]歓喜が、聖者たちにとっての出脱である。そして、その歓喜によって、聖者たちは出脱する。不満〔の思い〕が、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕その不満〔の思い〕によって妨害されたことから、歓喜を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、不満〔の思い〕が、出脱の妨害となる。

 

 [867]諸々の善なる法(性質)は、全てもろともに、聖者たちにとっての出脱である。そして、それらの善なる法(性質)によって、聖者たちは出脱する。諸々の善ならざる法(性質)は、全てもろともに、出脱の妨害である。そして、〔凡夫たちは〕それらの善ならざる法(性質)によって妨害されたことから、諸々の善なる法(性質)を、聖者たちにとっての出脱と覚知することがない、ということで、諸々の善ならざる法(性質)は、全てもろともに、出脱の妨害となる。

 

 [868]十六の知恵についての釈示が、第二となる。

 

1. 3. 3. 付随する〔心の〕汚れについての釈示

 

1. 3. 3. 1. 第一の六なるもの

 

154.

 

 [869](2)また、そして、これらの〔修行の〕妨害によって、【164】十六の基盤ある、呼吸についての気づきという禅定を修行している清浄なる心の者には、瞬間のものとして配備される、どのような十八の付随する〔心の〕汚れが生起するのか。(1)出息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、内に散乱に至った心が、禅定にとっての障害となる。(2)入息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、外に散乱に至った心が、禅定にとっての障害となる。(3)出息への希求と欲念と渇愛の性行が、禅定にとっての障害となる。(4)入息への希求と欲念と渇愛の性行が、禅定にとっての障害となる。(5)出息によって〔心を〕制圧した者の入息の獲得における混迷が、禅定にとっての障害となる。(6)入息によって〔心を〕制圧した者の出息の獲得における混迷が、禅定にとっての障害となる。

 

 [870]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、出息〔の全部〕に従い行く〔気づき〕、入息〔の全部〕に従い行く気づき、内なる〔心の〕散乱の希求、外なる〔心の〕散乱の切望──

 

 [871]出息によって〔心を〕制圧した者の入息の獲得における混迷、入息によって〔心を〕制圧した者の出息の獲得における混迷──

 

 [872]呼吸についての気づきという禅定には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがある。そして、それらによって散乱している者の心は、解脱することがない。解脱を覚知せずにいる者たちは、彼らは、他を縁とする者たちとして有る」と。

 

1. 3. 3. 2. 第二の六なるもの

 

155.

 

 [873]【165】(7)形相に〔心を〕傾注していると、出息において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。(8)出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。(9)形相に〔心を〕傾注していると、入息において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。(10)入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。(11)出息に〔心を〕傾注していると、入息において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。(12)入息に〔心を〕傾注していると、出息において、心は動揺し、禅定にとっての障害となる。

 

 [874]〔そこで、詩偈に言う〕「形相に〔心を〕傾注していると、出息において、意は散乱する。出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺する。

 

 [875]形相に〔心を〕傾注していると、入息において、意は散乱する。入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心は動揺する。

 

 [876]出息に〔心を〕傾注していると、入息において、意は散乱する。入息に〔心を〕傾注していると、出息において、心は動揺する。

 

 [877]呼吸についての気づきという禅定には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがある。そして、それらによって散乱している者の心は、解脱することがない。解脱を覚知せずにいる者たちは、彼らは、他を縁とする者たちとして有る」と。

 

1. 3. 3. 3. 第三の六なるもの

 

156.

 

 [878](13)過去を追走する心は、〔心の〕散乱〔という縁〕から起こった〔心〕であり、禅定にとっての障害となる。(14)未来を希求する心は、動じ動くものであり、禅定にとっての障害となる。(15)畏縮した心は、〔心の〕怠惰〔という縁〕から起こった〔心〕であり、禅定にとっての障害となる。(16)極めて励起した心は、〔心の〕高揚〔という縁〕から起こった〔心〕であり、禅定にとっての障害となる。(17)〔特定の対象へと〕傾いた心は、貪欲〔の思いという縁〕から起こった〔心〕であり、禅定にとっての障害となる。(18)〔特定の対象から〕逸れた心は、憎悪〔の思いという縁〕から起こった〔心〕であり、禅定にとっての障害となる。

 

 [879]〔そこで、詩偈に言う〕「過去を追走する心、未来を希求する〔心〕、畏縮した〔心〕、極めて励起した〔心〕、〔特定の対象へと〕傾いた〔心〕、〔特定の対象から〕逸れた心は、定められることがない。

 

 [880]呼吸についての気づきという禅定には、これらの六つの付随する〔心の〕汚れがある。それらに付随して汚れた思惟ある者は、卓越の心(瞑想)を覚知することがない」と。

 

157.

 

 [881]出息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、内に散乱に至った心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息の最初と中間と結末〔の全部〕に、気づきをもって従い行きつつあると、外に散乱に至った心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。出息への希求によって、欲念によって、渇愛の性行によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息への希求によって、欲念によって、渇愛の性行によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、【166】さらに、震えおののくものと〔成る〕。出息によって〔心を〕制圧したなら、入息の獲得において混迷したことから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息によって〔心を〕制圧したなら、出息の獲得において混迷したことから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。

 

 [882]形相に〔心を〕傾注していると、出息において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。出息に〔心を〕傾注していると、形相において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。形相に〔心を〕傾注していると、入息において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息に〔心を〕傾注していると、形相において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。出息に〔心を〕傾注していると、入息において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。入息に〔心を〕傾注していると、出息において、心が動揺していることから、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。〔心の〕散乱〔という縁〕から起こった〔心〕である、過去を追走する心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。未来を希求する心によって、動揺している〔心〕によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。〔心の〕怠惰〔という縁〕から起こった〔心〕である、畏縮した心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。〔心の〕高揚〔という縁〕から起こった〔心〕である、極めて励起した心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。貪欲〔の思いという縁〕から起こった〔心〕である、〔特定の対象へと〕傾いた心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。憎悪〔の思いという縁〕から起こった〔心〕である、〔特定の対象から〕逸れた心によって、身体もまた、心もまた、そして、懊悩を有するものと成り、かつまた、動じ動くものと〔成り〕、さらに、震えおののくものと〔成る〕。

 

 [883]〔そこで、詩偈に言う〕「彼の、呼吸についての気づきが、円満成就に修行されていないなら、身体もまた、動じ動くものと成り、心もまた、動じ動くものと成り、身体もまた、震えおののくものと成り、心もまた、震えおののくものと成る。

 

 [884]彼の、呼吸についての気づきが、円満成就に善く修行されたなら、身体もまた、動じ動かないものと成り、心もまた、動じ動かないものと成り、身体もまた、震えおののかないものと成り、心もまた、震えおののかないものと成る」と。

 

 [885]また、そして、これらの〔修行の〕妨害によって、十六の基盤ある、呼吸についての気づきという禅定を修行している清浄なる心の者には、瞬間のものとして配備される、これらの十八の付随する〔心の〕汚れが生起する。

 

 [886]付随する〔心の〕汚れについての釈示が、第三となる。

 

1. 3. 4. 浄化するものについての釈示

 

158.

 

 [887](3)どのような十三の浄化するものについての知恵があるのか。(1)過去を追走する心は、〔心の〕散乱〔という縁〕から起こった〔心〕であり、その〔心〕を避けて、一なる境位に〔心を〕定める。このようにもまた、心は、散乱に至らない。(2)未来を希求する心は、動揺している〔心〕であり、【167】その〔心〕を避けて、まさしく、そこにおいて、〔心を〕信念させる。このようにもまた、心は、散乱に至らない。(3)畏縮した心は、〔心の〕怠惰〔という縁〕から起こった〔心〕であり、その〔心〕を励起して、〔心の〕怠惰を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱に至らない。(4)極めて励起した心は、〔心の〕高揚〔という縁〕から起こった〔心〕であり、その〔心〕を制御して、〔心の〕高揚を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱に至らない。(5)〔特定の対象へと〕傾いた心は、貪欲〔の思いという縁〕から起こった〔心〕であり、その〔心〕を正知する者と成って、貪欲〔の思い〕を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱に至らない。(6)〔特定の対象から〕逸れた心は、憎悪〔の思いという縁〕から起こった〔心〕であり、その〔心〕を正知する者と成って、憎悪〔の思い〕を捨棄する。このようにもまた、心は、散乱に至らない。これらの六つの境位によって、完全なる清浄となった心は、遍く清められた〔心〕と〔成り〕、一なることに至った〔心〕と成る。

 

 [888]どのようなものが、それらの一なることであるのか。(7)布施と放棄の現起という一なること、(8)止寂の形相の現起という一なること、(9)衰失の特相の現起という一なること、(10)止滅の現起という一なることである。施捨を信念した者たちには、布施と放棄の現起という一なることがあり、そして、卓越の心(瞑想)に専念する者たちには、止寂の形相の現起という一なることがあり、そして、〔あるがままの〕観察者たちには、衰失の特相の現起という一なることがあり、そして、聖者たる人たちには、止滅の現起という一なることがある。これらの四つの境位によって、一なることに至った心は、(11)まさしく、そして、〔実践の〕道の清浄に跳入したものと成り、(12)かつまた、放捨〔の心〕が増進されたものと〔成り〕、(13)さらに、知恵によって満悦させられたものと〔成る〕。

 

 [889]第一の瞑想(初禅・第一禅)には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。第一の瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、満悦することが、〔その〕結末である。第一の瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、どれだけの特相があるのか。最初には、三つの特相がある。それが、その〔第一の瞑想〕にとっての障害であるなら、その〔障害〕から、心は清浄となる。清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践する。〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。そして、すなわち、障害から、心は清浄となり、そして、すなわち、清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践し、そして、すなわち、〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。第一の【168】瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、そして、最初の善あるものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。

 

 [890]第一の瞑想には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、どれだけの特相があるのか。中間には、三つの特相がある。清浄となった心は放捨する。止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨する。一なることの現起ある〔心〕は放捨する。そして、すなわち、清浄となった心は放捨し、そして、すなわち、止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨し、そして、すなわち、一なることの現起ある〔心〕は放捨する。第一の瞑想には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、そして、中間における善あるものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。

 

 [891]第一の瞑想には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、どれだけの特相があるのか。結末には、四つの特相がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、満悦することがある。〔五つの〕機能()の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、満悦することがある。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、満悦することがある。習修の義(意味)によって、満悦することがある。第一の瞑想には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、これらの四つの特相がある。それによって説かれる。「第一の瞑想は、まさしく、そして、結末の善あるものと成り、さらに、〔四つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、〔粗雑なる〕思考()を成就したものと成り、かつまた、〔微細なる〕想念()を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦()を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽()を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立(一境性)を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

 [892]第二の瞑想(第二禅)には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。第二の瞑想には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、満悦することが、〔その〕結末である。……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

 [893]【169】第三の瞑想(第三禅)には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

 [894]第四の瞑想(第四禅)には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして(※)、まさしく、そして、放捨()を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

※ テキストには dasalakkhaṇasampannañca とあるが、PTS版により dasalakkhaṇasampannaṃ と読む。

 

 [895]虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定には……略……。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定には……。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定には……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、放捨を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕……略……さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

 [896]無常の随観には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。……略……。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、〔粗雑なる〕思考を成就したものと成り、かつまた、〔微細なる〕想念を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立(一境性)を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。苦痛の随観には……略……。無我の随観には……。厭離の随観には……。離貪の随観には……。止滅の随観には……。放棄の随観には……。滅尽の随観には……。衰失の随観には……。変化の随観には……。無相の随観には……。無願の随観には……。空性の随観には……。卓越の智慧の法(性質)たる〔あるがままの〕観察には……。事実のとおりの知見には……。危険の随観には……。審慮の随観には……。還転の随観には……さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

 [897]預流道には……略……。一来道には……。不還道には……。阿羅漢道には、何が、〔その〕最初であり、何が、〔その〕中間においてあり、何が、〔その〕結末であるのか。阿羅漢道には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であり、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあり、満悦することが、〔その〕結末である。阿羅漢道には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、どれだけの特相があるのか。最初には、三つの特相がある。それが、その〔阿羅漢道〕にとっての障害であるなら、その〔障害〕から、心は清浄となる。清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践する。〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。【170】そして、すなわち、障害から、心は清浄となり、そして、すなわち、清浄となったことから、心は、〔両極を離れた〕中なる止寂の形相を実践し、そして、すなわち、〔止寂の形相が〕実践されたことから、そこにおいて、心は跳入する。阿羅漢道には、〔実践の〕道の清浄が、〔その〕最初であるとして、最初には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、そして、最初の善あるものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。

 

 [898]阿羅漢道には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、どれだけの特相があるのか。中間には、三つの特相がある。清浄となった心は放捨する。止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨する。一なることの現起ある〔心〕は放捨する。そして、すなわち、清浄となった心は放捨し、そして、すなわち、止寂〔の形相〕が実践された〔心〕は放捨し、そして、すなわち、一なることの現起ある〔心〕は放捨する。阿羅漢道には、放捨〔の心〕の増進が、〔その〕中間においてあるとして、中間には、これらの三つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、そして、中間における善あるものと成り、さらに、〔三つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。

 

 [899]阿羅漢道には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、どれだけの特相があるのか。結末には、四つの特相がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、満悦することがある。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、満悦することがある。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、満悦することがある。習修の義(意味)によって、満悦することがある。阿羅漢道には、満悦することが、〔その〕結末であるとして、結末には、これらの四つの特相がある。それによって説かれる。「阿羅漢道は、まさしく、そして、結末の善あるものと成り、さらに、〔四つの〕特相を成就したものと〔成る〕」〔と〕。このように、三つの転起を具した心は、三種類の善あるものとして、十の特相を成就したものとして、まさしく、そして、〔粗雑なる〕思考を成就したものと成り、かつまた、〔微細なる〕想念を成就したものと〔成り〕、かつまた、喜悦を成就したものと〔成り〕、かつまた、安楽を成就したものと〔成り〕、かつまた、心の確立を成就したものと〔成り〕、かつまた、信を成就したものと〔成り〕、かつまた、精進を成就したものと〔成り〕、かつまた、気づきを成就したものと〔成り〕、かつまた、禅定を成就したものと〔成り〕、さらに、智慧を成就したものと〔成る〕。

 

159.

 

 [900]〔そこで、詩偈に言う〕「形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、かつまた、三つの法(性質)を知らずにいる者に、修行は認められない。

 

 [901]【171】形相と出息と入息〔の三者〕は、一つの心の対象とならず、かつまた、三つの法(性質)を知っている者に、修行は認められる」と。

 

 [902]どのように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と成らず、かつまた、これらの三つの法(性質)は、見出されざるものと成らず、そして、心は、散乱に至らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達するのか。それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に置かれた〔製材用の〕木があるとして、〔まさに〕その、この〔木〕を、人が鋸で切るなら、木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔作業への〕専念を遂行し、殊勝〔の結果〕に到達するように(※)、である。すなわち、平坦な土地の部分に置かれた〔製材用の〕木のように、このように、〔気づきと〕連結する形相(出息と入息が接触する、鼻の先端、あるいは、上唇)がある。すなわち、鋸の諸歯のように、このように、諸々の出息と入息がある。すなわち、木に接触したところの鋸の諸歯を所以に、〔その〕人の気づきは現起されたものと成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、鋸の諸歯は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔作業への〕専念を遂行し、殊勝〔の結果〕に到達するように、まさしく、このように、比丘は、あるいは、鼻の先端(鼻孔)において、あるいは、口の形相(上唇)において、気づきを現起させて坐った者と成り、あるいは、戻り、あるいは、赴く、諸々の出息と入息に、意を為さないとして、あるいは、戻り、あるいは、赴く、諸々の出息と入息は、見出されざるものと成らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する(※※)。

 

※ テキストには payogañca sādheti とあるが、PTS版により payogañ ca sādheti, visesa adhigacchati と読む。以下の平行箇所も同様。

※※ テキストには Visesamadhigacchati padhānañca とあるが、PTS版により Visesamadhigacchati と読む。

 

 [903]どのようなものが、精励であるのか。精進に励む者には、身体もまた、心もまた、行為に適するものと成る。これが、精励である。どのようなものが、〔修行への〕専念であるのか。精進に励む者には、諸々の付随する〔心の〕汚れは捨棄され、諸々の思考は寂止する。これが、〔修行への〕専念である。どのようなものが、殊勝〔の境地〕であるのか。精進に励む者には、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成る。これが、殊勝〔の境地〕である。このように、これらの三つの法(性質)は、一つの心の対象と【172】成らず、かつまた、これらの三つの法(性質)は、見出されざるものと成らず、そして、心は、散乱に至らず、かつまた、精励が覚知され、さらに、〔修行への〕専念を遂行し、殊勝〔の境地〕に到達する。

 

160.

 

 [904]〔そこで、詩偈に言う〕「彼の、呼吸についての気づきが、円満成就し、善く修められたなら──覚者によって説示された、そのとおりに、順次に遍く蓄積されたなら──彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす」と。

 

 [905]「呼」とは、出息である。入息ではない。「吸」とは、入息である。出息ではない。出息を所以に、現起としての気づきがある。入息を所以に、現起としての気づきがある。

 

 [906]彼が、出息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。彼が、入息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。「円満成就し」とは、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって円満成就し、付属の義(意味)によって円満成就し、円満成就の義(意味)によって円満成就したものである。「善く修められたなら」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。彼の、これらの四つの修行の義(意味)が、乗物(手段)として作り為されたものと成り、地所(基盤)として作り為されたものと〔成り〕、奮起されたものと〔成り〕、遍く蓄積されたものと〔成り〕、善く正しく勉励されたものと〔成る〕。

 

 [907]「乗物として作り為されたものと〔成り〕」とは、そこかしこにおいて、〔彼が〕望むなら、そこかしこにおいて、〔彼は〕自在に至り得た者と成り、力に至り得た者と〔成り〕、離怖に至り得た者と〔成る〕。彼の、これらの〔四つの〕法(性質)が、〔心を〕傾注することに連結されたものと成り、望みに連結されたものと〔成り〕、意を為すことに連結されたものと〔成り〕、心の生起に連結されたものと〔成る〕。それによって説かれる。「乗物として作り為されたものと〔成り〕」と。「地所として作り為されたものと〔成り〕」とは、その〔基盤〕その基盤において、心が、善く確立されたものと成るなら、その〔基盤〕その基盤において、気づきは、善く現起されたものと成る。また、あるいは、その〔基盤〕その基盤において、気づきが、善く現起されたものと成るなら、その〔基盤〕その基盤において、心は、善く確立されたものと成る。それによって説かれる。「地所として作り為されたものと〔成り〕」と。「奮起されたものと〔成り〕」とは、基盤において、そのものそのものによって、心を導引するなら、そのものそのものによって、気づきは随転する。また、あるいは、そのものそのものによって、気づきが随転するなら、そのものそのものによって、心を導引する。それによって説かれる。「奮起されたものと〔成り〕」と。「遍く蓄積されたものと〔成り〕」とは、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって遍く蓄積されたものとなり、付属の義(意味)によって遍く蓄積されたものとなり、円満成就の義(意味)によって遍く蓄積されたものとなる。気づきによって〔常に〕遍く収め取っている者は、【173】諸々の悪しき善ならざる法(性質)に勝利する。それによって説かれる。「遍く蓄積されたものと〔成り〕」と。「善く正しく勉励されたものと〔成る〕」とは、四つの善く正しく勉励されたものがある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、善く正しく勉励されたものとなる。それと正反対のものである諸々の〔心の〕汚れが善く完破されたことから、善く正しく勉励されたものとなる。

 

161.

 

 [908]「善く正しく」とは、正しきことが存在し、善く正しきことが存在する。どのようなものが、正しきことであるのか。それらが、そこにおいて生じた諸々の罪過なく善なる覚り(菩提)の項目としてあるなら、これが、正しきことである。どのようなものが、善く正しきことであるのか。それが、それら〔の諸法〕それらの法(性質)にとっての、対象、止滅、涅槃であるなら、これが、善く正しきことである。かくのごとく、そして、これが、正しきことであり、さらに、これが、善く正しきことであり、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、智慧によって〔すでに〕体得されたものと〔成る〕。退去なき精進として勉励されたものと成り、忘却なき気づきとして現起されたものと〔成り〕、懊悩を有することなき身体として静息されたものと〔成り〕、一境の心として定められたものと〔成る〕。それによって説かれる。「善く正しく勉励されたものとなる」と。

 

 [909]「順次に遍く蓄積されたなら」とは、長き出息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積され、長き入息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積され、短き出息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積され、短き入息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積され……略([916]参照)……放棄の随観ある、出息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積され、放棄の随観ある、入息を所以に、前のもの前のものが遍く蓄積され、後のもの後のものが〔それに〕従い遍く蓄積されたものと〔成る〕。十六の基盤(根拠)ある、呼吸についての気づきは、全てもろともに、互いに他と、まさしく、そして、遍く蓄積されたものと成り、さらに、〔それに〕従い遍く蓄積されたものと〔成る〕。それによって説かれる。「順次に遍く蓄積されたなら」と。

 

 [910]「そのとおりに」とは、十のそのとおりの義(意味)がある。自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、自己の止寂の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、証知の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、遍知の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、捨棄の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、修行の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、【174】実証の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、真理の知悉(現観)の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、止滅において確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)がある。

 

 [911]「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た。

 

162.

 

 [912]「覚者」とは、どのような義(意味)によって、覚者となるのか。諸々の真理を覚った者、ということで、覚者となる。人々を覚らせる者、ということで、覚者となる。一切知者たることによって、覚者となる。一切見者たることによって、覚者となる。他者に導かれないことによって、覚者となる。〔世俗を〕発出することによって、覚者となる。煩悩の滅尽者と名づけられたことによって、覚者となる。汚れなき者と名づけられたことによって、覚者となる。絶対的に貪欲を離れた者、ということで、覚者となる。絶対的に憤怒を離れた者、ということで、覚者となる。絶対的に迷妄を離れた者、ということで、覚者となる。絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、覚者となる。一路の道に至った者、ということで、覚者となる。独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、覚者となる。覚慧の打破されざることから、覚慧の獲得あることから、覚者となる。「覚者」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)であり、すなわち、これが、「覚者」ということになる。「説示された」とは、自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)があり、覚者によって説示された、そのとおりに、自己の止寂の義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示された、そのとおりに、自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示された、そのとおりに……略([910]参照)……止滅において確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)が、覚者によって説示された、そのとおりに。

 

 [913]「彼」とは、あるいは、在家者と成り、あるいは、出家者と〔成る〕。「世」とは、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、衰滅の生存の世、衰滅の発生の世、得達の生存の世、得達の発生の世である。一つの世がある。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。……略([657-666]参照)……。十八の世がある。十八の界域である。「照らす」とは、自己の調御の義(意味)という、そのとおりの義(意味)を現正覚したことから、彼は、この世を、輝き照らし、光り輝かせ、照らす。自己の止寂の義(意味)という、そのとおりの義(意味)を現正覚したことから、【175】彼は、この世を、輝き照らし、光り輝かせ、照らす。自己を完全なる涅槃に到達させることの義(意味)という、そのとおりの義(意味)を現正覚したことから、彼は、この世を、輝き照らし、光り輝かせ、照らす。……略([910]参照)……。止滅において確立させるものの義(意味)という、そのとおりの義(意味)を現正覚したことから、彼は、この世を、輝き照らし、光り輝かせ、照らす。

 

 [914]「雲から解き放たれた月のように」とは、すなわち、雲からのように、このように、〔心の〕汚れから。すなわち、月のように、このように、聖なる知恵がある。すなわち、月の天子のように、このように、比丘がある。すなわち、月が、雲から解き放たれ、霧から解き放たれ、煙や塵から解き放たれ、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれたなら、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照するように、まさしく、このように、比丘は、一切の〔心の〕汚れから解き放たれたなら、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照する。それによって説かれる。「雲から解き放たれた月のように」と。これらの十三の浄化するものについての知恵がある。

 

 [915]浄化するものについての釈示が、第四となる。

 

 〔以上が第一の〕朗読分となる。

 

1. 3. 5. 気づきある為し手の知恵についての釈示

 

163.

 

 [916](4)どのような三十二の気づきある為し手の知恵があるのか。ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐る──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、気づきある者として入息する。(一)(1)あるいは、長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知し、(2)あるいは、長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知する。(二)(3)あるいは、短く出息しつつ、「〔わたしは〕短く出息する」と覚知し、(4)あるいは、短く入息しつつ、「〔わたしは〕短く入息する」と覚知する。(三)(5)「〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(6)「〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶ。(四)(7)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を静息させつつ、出息するのだ」と学び、(8)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶ。(五)(9)「〔わたしは〕喜悦の得知ある者として……略……。(六)(11)「〔わたしは〕安楽の得知ある者として……。【176】(七)(13)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知ある者として……。(八)(15)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ……。(九)(17)「〔わたしは〕心の得知ある者として……。(十)(19)「〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……。(十一)(21)「〔わたしは〕心を定めつつ……。(十二)(23)「〔わたしは〕心を解脱させつつ……。(十三)(25)「〔わたしは〕無常の随観ある者として……。(十四)(27)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として……。(十五)(29)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として……。(十六)(31)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と学び、(32)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。

 

164.

 

 [917]「ここに」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて。それによって説かれる。「ここに」と。「比丘が」とは、あるいは、善き凡夫として有り、あるいは、学びある比丘として〔有り〕、あるいは、不動の法(真理)ある阿羅漢として〔有る〕。「林」とは、インダの杭(城市の門柱)から外に出て、この一切が、林である。「木の根元」とは、そこにおいて、比丘のために設けられた坐所が──あるいは、坐床が、あるいは、椅子が、あるいは、敷布が、あるいは、座布団が、あるいは、皮革が、あるいは、草の敷物が、あるいは、葉の敷物が、あるいは、藁の敷物が──有るなら、そこにおいて、比丘は、あるいは、歩行し、あるいは、立ち、あるいは、坐り、あるいは、臥所を営む。「空」とは、誰であろうが、あるいは、在家者たちが、あるいは、出家者たちが、うろつかないところと成る。「家」とは、精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。「〔瞑想のために〕坐る──結跏を組んで」とは、〔そこにおいて〕坐った者と成り、結跏を組んで。「身体を真っすぐに立てて」とは、真っすぐの身体と成り、安立した〔身体〕と〔成り〕、しっかりと立てられた〔身体〕と〔成り〕。「全面に気づきを現起させて」とは、「全」とは、遍き収取の義(意味)である。「面」とは、出脱の義(意味)である。「気づき」とは、現起の義(意味)である。それによって説かれる。「全面に気づきを現起させて」と。

 

165.

 

 [918]「まさしく、気づきある者として出息し、気づきある者として入息する」とは、三十二の【177】行相によって、気づきある為し手と成る。(1)長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(2)長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(3)短き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。(4)短き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。……略([916]参照)……。(31)放棄の随観ある、出息を所以にする……。(32)放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、〔彼は〕気づきある為し手と成る。

 

1. 3. 5. 1. 第一の四なるものについての釈示

 

166.

 

 [919](一)どのように、(1)長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知し、(2)長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知するのか。(1)〔彼は〕長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(2)〔彼は〕長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(3)〔彼は〕長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。〔彼が〕長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。(4)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(5)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(6)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、歓喜が生起する。(7)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息する。(8)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、入息する。(9)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。歓喜を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる長き出息と入息を、長期と名づけられた〔長き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、長き出息と入息からもまた、心は還転し、放捨〔の心〕が確立する。これらの九つの行相によって、長き出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立(身念住・身念処)の修行」と。

 

167.

 

 [920]【178】「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。このように、その身体を随観する。

 

 [921]「修行」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。長き出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至し、〔彼の〕諸々の表象は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至し、〔彼の〕諸々の思考は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至する。

 

 [922]どのように、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至するのか。どのように、感受の生起は、見出されたものと成るのか。無明の集起あることから、感受の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、感受の生起は、見出されたものと成る。渇愛の集起あることから、感受の集起がある、ということで……略……。行為の集起あることから、感受の集起がある、ということで……略……。接触の集起あることから、感受の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、感受の生起は、見出されたものと成る。発現の特相を見ている者にもまた、感受の生起は、見出されたものと成る。このように、感受の生起は、見出されたものと成る。

 

 [923]どのように、感受の現起は、見出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見出されたものと成る。このように、感受の現起は、見出されたものと成る。

 

 [924]どのように、感受の滅至は、見出されたものと成るのか。無明の止滅あることから、感受の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、感受の滅至は、見出されたものと成る。渇愛の止滅あることから、感受の止滅がある、【179】ということで……略……。行為の止滅あることから、感受の止滅がある、ということで……略……。接触の止滅あることから、感受の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、感受の滅至は、見出されたものと成る。変化の特相を見ている者にもまた、感受の滅至は、見出されたものと成る。このように、感受の滅至は、見出されたものと成る。このように、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至する。

 

 [925]どのように、〔彼の〕諸々の表象は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至するのか。どのように、表象の生起は、見出されたものと成るのか。無明の集起あることから、表象の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、表象の生起は、見出されたものと成る。渇愛の集起あることから、表象の集起がある、ということで……略……。行為の集起あることから、表象の集起がある、ということで……略……。接触の集起あることから、表象の集起がある、ということで、縁の集起の義(意味)によって、表象の生起は、見出されたものと成る。発現の特相を見ている者にもまた、表象の生起は、見出されたものと成る。このように、表象の生起は、見出されたものと成る。

 

 [926]どのように、表象の現起は、見出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見出されたものと成る。このように、表象の現起は、見出されたものと成る。

 

 [927]どのように、表象の滅至は、見出されたものと成るのか。無明の止滅あることから、表象の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、表象の滅至は、見出されたものと成る。渇愛の止滅あることから、表象の止滅がある、ということで……略……。行為の止滅あることから、表象の止滅がある、ということで……略……。接触の止滅あることから、表象の止滅がある、ということで、縁の止滅の義(意味)によって、表象の滅至は、見出されたものと成る。変化の特相を見ている者にもまた、表象の滅至は、見出されたものと成る。このように、表象の滅至は、見出されたものと成る。このように、〔彼の〕諸々の表象は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至する。

 

 [928]どのように、〔彼の〕諸々の思考は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至するのか。どのように、思考の生起は、見出されたものと成るのか。「無明の集起あることから、思考の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、思考の生起は、見出されたものと成る。「渇愛の集起あることから、思考の集起がある」と……略……。「行為の集起あることから、思考の集起がある」と……略……。「表象の集起あることから、思考の集起がある」と、縁の集起の義(意味)によって、思考の生起は、見出されたものと成る。発現の特相を見ている者にもまた、思考の生起は、見出されたものと成る。このように、思考の生起は、見出されたものと成る。

 

 [929]どのように、思考の現起は、見出されたものと成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽の現起は、見出されたものと成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖の現起は、見出されたものと成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の現起は、見出されたものと成る。このように、思考の現起は、見出されたものと成る。

 

 [930]どのように、思考の滅至は、見出されたものと成るのか。「無明の止滅あることから、思考の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、思考の滅至は、見出されたものと成る。「渇愛の止滅あることから、思考の止滅がある」と……略……。「行為の止滅あることから、思考の止滅がある」と……略……。「表象の止滅あることから、思考の止滅がある」と、縁の止滅の義(意味)によって、思考の滅至は、見出されたものと成る。変化の特相を見ている者にもまた、思考の滅至は、見出されたものと成る。このように、思考の滅至は、見出されたものと成る。このように、【180】〔彼の〕諸々の思考は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至する。

 

168.

 

 [931]長き出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知している者は、〔五つの〕機能(五根)を配備し、そして、境涯(作用範囲)を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解し……略([935-937]参照)……諸法(性質)を配備し、そして、境涯を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解する。

 

 [932]「〔五つの〕機能(五根)を配備し」とは、どのように、〔五つの〕機能を配備するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を配備する。励起の義(意味)によって、精進の機能を配備する。現起の義(意味)によって、気づきの機能を配備する。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能を配備する。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能を配備する。この人は、これらの〔五つの〕機能を、この対象において配備する。それによって説かれる。「〔五つの〕機能を配備し」と。

 

 [933]「そして、境涯を覚知し」とは、それが、彼にとって、対象(所縁)であるなら、それは、彼にとって、境涯である。それが、彼にとって、境涯であるなら、それは、彼にとって、対象である。「覚知し」とは、人が〔覚知する〕。覚知することが、智慧である。

 

 [934]「平等」とは、対象の現起が、平等であり、心の散乱なき〔状態〕が、平等であり、心の確立(加持:心の一境性)が、平等であり、心の浄化が、平等である。「義(利益)」とは、罪過なきものの義(利益)であり、〔心の〕汚れなきものの義(利益)であり、浄化の義(利益)であり、最高の義(勝義:最高の真実)である。「理解する」とは、対象の現起の義(利益)を理解し、心の散乱なき〔状態〕の義(利益)を理解し、心の確立の義(利益)を理解し、心の浄化の義(利益)を理解する。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [935]「〔五つの〕力(五力)を配備し」とは、どのように、〔五つの〕力を配備するのか。不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を配備する。怠惰にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力を配備する。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力を配備する。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、禅定の力を配備する。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力を配備する。この人は、これらの〔五つの〕力を、この対象において配備する。それによって説かれる。「〔五つの〕力を配備し」と。「そして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [936]【181】「〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を配備し」とは、どのように、〔七つの〕覚りの支分を配備するのか。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を配備する。精査の義(意味)によって、法(真理)の判別という正覚の支分を配備する。励起の義(意味)によって、精進という正覚の支分を配備する。充満の義(意味)によって、喜悦という正覚の支分を配備する。寂止の義(意味)によって、静息という正覚の支分を配備する。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定という正覚の支分を配備する。審慮(客観的観察)の義(意味)によって、放捨(:客観的認識)という正覚の支分を配備する。この人は、これらの〔七つの〕覚りの支分を、この対象において配備する。それによって説かれる。「〔七つの〕覚りの支分を配備し」と。「そして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [937]「〔聖なる八つの支分ある〕道(八正道八聖道)を配備し」とは、どのように、〔聖なる八つの支分ある〕道を配備するのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を配備する。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟を配備する。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉を配備する。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業を配備する。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方を配備する。励起の義(意味)によって、正しい努力を配備する。現起の義(意味)によって、正しい気づきを配備する。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定を配備する。この人は、これらの道を、この対象において配備する。それによって説かれる。「〔聖なる八つの支分ある〕道を配備し」と。「そして、境涯を覚知し」とは……略……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [938]「諸法(性質)を配備し」とは、どのように、諸法(性質)を配備するのか。優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能を配備する。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力を配備する。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分を配備する。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道を配備する。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立を配備する。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励を配備する。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場を配備する。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理を配備する。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂を配備する。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察を配備する。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を配備する。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)を配備する。統御の義(意味)によって、戒の清浄を配備する。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄を配備する。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄を配備する。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)を【182】配備する。理解の義(意味)によって、明知を配備する。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)を配備する。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵を配備する。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵を配備する。欲〔の思い〕(意欲)を、根元の義(意味)によって配備する。意を為すことを、等しく現起するものの義(意味)によって配備する。接触を、配備の義(意味)によって配備する。感受を、集結の義(意味)によって配備する。禅定を、筆頭の義(意味)によって配備する。気づきを、優位の義(意味)によって配備する。智慧を、それをより上とすることの義(意味)によって配備する。解脱(ヴィムッティ)を、真髄の義(意味)によって配備する。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって配備する。この人は、これらの法を、この対象において配備する。それによって説かれる。「諸法(性質)を配備し」と。

 

 [939]「そして、境涯を覚知し」とは、それが、彼にとって、対象であるなら、それは、彼にとって、境涯である。それが、彼にとって、境涯であるなら、それは、彼にとって、対象である。「覚知し」とは、人が〔覚知する〕。覚知することが、智慧である。「平等」とは、対象の現起が、平等であり、心の散乱なき〔状態〕が、平等であり、心の確立(加持:心の一境性)が、平等であり、心の浄化が、平等である。「義(利益)」とは、罪過なきものの義(利益)であり、〔心の〕汚れなきものの義(利益)であり、浄化の義(利益)であり、最高の義(勝義:最高の真実)である。「理解する」とは、対象の現起の義(利益)を理解し、心の散乱なき〔状態〕の義(利益)を理解し、心の確立の義(利益)を理解し、心の浄化の義(利益)を理解する。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

169.

 

 [940](二)どのように、(3)短く出息しつつ、「〔わたしは〕短く出息する」と覚知し、(4)短く入息しつつ、「〔わたしは〕短く入息する」と覚知するのか。(1)〔彼は〕短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(2)〔彼は〕短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(3)〔彼は〕短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。〔彼が〕短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。(4)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(5)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(6)欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。欲〔の思い〕を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、歓喜が生起する。(7)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息する。(8)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、入息する。(9)歓喜を所以に、そののち、〔彼は〕より微細なる短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたする。歓喜を所以に、そののち、〔彼が〕より微細なる短き出息と入息を、短期と名づけられた〔短き時〕において、出息もまたし、入息もまたしていると、短き出息と入息からもまた、心は還転し、放捨〔の心〕が確立する。これらの九つの行相によって、短き出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、【183】気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [941]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。短き出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し……略([921-930]参照)……。短き出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

170.

 

 [942](三)どのように、(5)「〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(6)「〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。「身体」とは、二つの身体がある。そして、名前の身体(名身)であり、さらに、形態の身体(色身)である。どのようなものが、名前の身体であるのか。感受、表象、思欲、接触、意を為すこと、そして、名前であり、かつまた、名前の身体であり、さらに、心の形成〔作用〕(心行)と説かれる、それらのものである。これが、名前の身体である。どのようなものが、形態の身体であるのか。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)であり、そして、出息であり、さらに、入息であり、かつまた、形相であり、諸々の連結するものであり、さらに、身体の形成〔作用〕(身行)と説かれる、それらのものである。これが、形態の身体である。

 

 [943]どのように、それらの身体は、確知されたものと成るのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。短き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。短き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの身体は、確知されたものと成る。

 

 [944]〔心を〕傾注していると、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕知っていると(※)、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕見ていると、それらの身体は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕注視していると、それらの身体は、確知されたものと成る。心を確定していると、それらの身体は、確知されたものと成る。信によって信念していると、それらの身体は、確知されたものと成る。精進を励起していると、それらの身体は、確知されたものと成る。気づきを現起させていると、それらの身体は、確知されたものと成る。心を定めていると、それらの身体は、確知されたものと成る。智慧によって覚知していると、それらの身体は、確知されたものと成る。証知されるべきものを証知していると、それらの身体は、確知されたものと成る。遍知されるべきものを遍知していると、それらの身体は、確知されたものと【184】成る。捨棄されるべきものを捨棄していると、それらの身体は、確知されたものと成る。修行されるべきものを修行していると、それらの身体は、確知されたものと成る。実証されるべきものを実証していると、それらの身体は、確知されたものと成る。このように、それらの身体は、確知されたものと成る。一切の身体の得知ある、出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。

 

※ テキストには pajānato とあるが、PTS版により jānato と読む。

 

 [945]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [946]一切の身体の得知ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の心(瞑想)の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学び(三学:戒・定・慧)を、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び、〔あるがままに〕見ている者として学び、〔あるがままに〕注視している者として学び、心を確立している者として学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として学び、気づきを現起させている者として学び、心を定めている者として学び、智慧によって覚知している者として学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として学び、捨棄されるべきものを捨棄している者として学び、修行されるべきものを修行している者として学び、実証されるべきものを実証している者として学ぶ。

 

 [947]一切の身体の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し……略([921-930]参照)……。一切の身体の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

171.

 

 [948](四)どのように、(7)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕(身行)を静息させつつ、出息するのだ」と学び、(8)「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、身体の形成〔作用〕であるのか。長き諸々の出息は、身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。長き諸々の入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。短き諸々の出息は……略……。短き諸々の入息は……略……。一切の身体の得知ある、諸々の出息は……略……。一切の身体の得知ある、諸々の入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)が、身体に連結された、身体の形成〔作用〕である。それらの身体の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。

 

 [949]そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈し、側屈し、全屈し、前屈し、動じ動き、震えおののき、揺れ動き、【185】振動するなら、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶ。そのような形態の諸々の身体の形成〔作用〕によって、すなわち、身体が、後屈せず、側屈せず、全屈せず、前屈せず、動じ動かず、震えおののかず、揺れ動かず、振動しないなら、寂静にして微細なる〔身体の形成作用〕を、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ」と学び、「身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶ。

 

 [950]かくのごとく、まさに、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶとして、このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有ることはなく、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有ることはなく、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有ることはなく、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有ることはなく、そして、その〔入定〕その入定(等至:禅定の境地)に、賢者たちは、入定することもまた、出起することもまた、ないのでは、〔と問うなら〕──

 

 [951]かくのごとく、まさに、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ」と学び、「〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶとして、このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有り、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有り、そして、その〔入定〕その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする、〔と答える〕。どのように、そのようなことになるのか。それは、たとえば、また、銅鑼を打ったとき、最初に、諸々の粗大なる音が転起し、諸々の粗大なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗大なる音が止滅したとして、そこで、のちに、諸々の微細なる音が転起し、諸々の微細なる音の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、【186】善く保ち置かれたことから、たとえ、微細なる音が止滅したとして、そこで、のちに、微細なる音の形相を対象とすることからもまた、心が転起するように、まさしく、このように、最初に、諸々の粗大なる出息と入息が転起し、諸々の粗大なる出息と入息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、粗大なる出息と入息が止滅したとして、そこで、のちに、諸々の微細なる出息と入息が転起し、諸々の微細なる出息と入息の形相が、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたことから、たとえ、微細なる出息と入息が止滅したとして、そこで、のちに、微細なる出息と入息の形相を対象とすることからもまた、心は、散乱に至らない。

 

 [952]このように存しているなら、そして、〔出息と入息の〕風(気息)の認知に、〔その〕増加が有り、かつまた、出息と入息に、〔その〕増加が有り、かつまた、呼吸についての気づきに、〔その〕増加が有り、さらに、呼吸についての気づきという禅定に、〔その〕増加が有り、そして、その〔入定〕その入定に、賢者たちは、入定もまたするし、出起もまたする。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息としての身体があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [953]「随観する」とは、どのように、その身体を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その身体を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の心の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び……略([946]参照)……実証されるべきものを実証している者として学ぶ。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し……略([921-930]参照)……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [954]〔以上の〕八つの随観の知恵があり、さらに、八つの現起ある随念となり、身体における身体の随観についての四つの経典の基盤(根拠)となる。

 

 [955]〔以上が第二の〕朗読分となる。

 

1. 3. 5. 2. 第二の四なるものについての釈示

 

172.

 

 [956](五)どのように、(9)「〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(10)「〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、喜悦であるのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、喜悦と歓喜が生起するが、〔まさに〕その、喜悦、歓喜、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、喜悦と歓喜が生起するが……略……。短き出息を所以にする……略……。短き入息を所以にする……略……。一切の身体の得知ある、出息を所以にする……略……。一切の身体の得知ある、【187】入息を所以にする……略……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……略……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、喜悦と歓喜が生起するが、〔まさに〕その、喜悦、歓喜、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。これが、喜悦である。

 

 [957]どのように、その喜悦は、確知されたものと成るのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。短き出息を所以にする……略……。短き入息を所以にする……。一切の身体の得知ある、出息を所以にする……。一切の身体の得知ある、入息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……。身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その喜悦は、確知されたものと成る。〔心を〕傾注していると、その喜悦は、確知されたものと成る。〔あるがままに〕知っていると……略……。〔あるがままに〕見ていると……。〔あるがままに〕注視していると……。心を確立していると……。信によって信念していると……。精進を励起していると……。気づきを現起させていると……。心を定めていると……。智慧によって覚知していると……。証知されるべきものを証知していると……。遍知されるべきものを遍知していると……。捨棄されるべきものを捨棄していると……。修行されるべきものを修行していると……。実証されるべきものを実証していると、その喜悦は、確知されたものと成る。このように、その喜悦は、確知されたものと成る。

 

 [958]喜悦の得知ある、出息と入息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念住・受念処)の修行」と。

 

 [959]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。喜悦の得知ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。喜悦の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

173.

 

 [960](六)どのように、(11)「〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(12)「〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。【188】「安楽」とは、二つの安楽がある。そして、身体の属性としての安楽であり、さらに、心の属性としての安楽である。どのようなものが、身体の属性としての安楽であるのか。すなわち、身体の属性としての快楽、身体の属性としての安楽、身体の接触から生じる快楽と安楽として感受されたもの、身体の接触から生じる快楽と安楽の感受である。これが、身体の属性としての安楽である。どのようなものが、心の属性としての安楽であるのか。すなわち、心の属性としての快楽、心の属性としての安楽、心の接触から生じる快楽と安楽として感受されたもの、心の接触から生じる快楽と安楽の感受である。これが、心の属性としての安楽である。

 

 [961]どのように、それらの安楽は、確知されたものと成るのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの安楽は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの安楽は、確知されたものと成る。……略([967]参照)……。実証されるべきものを実証していると、それらの安楽は、確知されたものと成る。このように、それらの安楽は、確知されたものと成る。安楽の得知ある、出息と入息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [962]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。安楽の得知ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。安楽の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

174.

 

 [963](七)どのように、(13)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕(心行)の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(14)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、心の形成〔作用〕であるのか。長き出息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。長き入息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。……略([956]参照)……。安楽の得知ある、出息を所以にする……。安楽の得知ある、入息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。これが、心の形成〔作用〕である。

 

 [964]どのように、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成るのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る。……略([957]参照)……。実証されるべきものを実証していると、それらの心の形成〔作用〕は、確知されたものと成る。このように、それらの心の形成〔作用〕は、【189】確知されたものと成る。心の形成〔作用〕の得知ある、出息と入息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [965]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し……略……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の形成〔作用〕の得知ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心の形成〔作用〕の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

175.

 

 [966](八)どのように、(15)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ」と学び、(16)「〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、心の形成〔作用〕であるのか。長き出息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。長き入息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。心の形成〔作用〕の得知ある、出息を所以にする……。心の形成〔作用〕の得知ある、入息を所以にする、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、〔両者ともに〕心の属性であり、これらの法(性質)が、心に連結された、心の形成〔作用〕である。それらの心の形成〔作用〕を、静息させつつ、止滅させつつ、寂止させつつ、〔彼は〕学ぶ。心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息を所以に、感受があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [967]「随観する」とは、どのように、その感受を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その感受を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [968]〔以上の〕八つの随観の知恵があり、さらに、八つの現起ある随念となり、諸々の感受における感受の随観についての四つの経典の基盤(根拠)となる。

 

1. 3. 5. 3. 第三の四なるものについての釈示

 

176.

 

 [969](九)どのように、(17)「〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ」と学び、(18)「〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、その心であるのか。長き出息を所以にする、識知〔作用〕としての心であり、〔まさに〕その、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。長き入息を所以にする……略……。心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息を所以にする……。心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息を所以にする、識知〔作用〕としての心であり、〔まさに〕その、心、意、意図、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、【190】意、意の〔認識の〕場所、意の機能、識知〔作用〕、識知〔作用〕の範疇、それに応じる意の識知〔作用〕の界域である。これが、心である。

 

 [970]どのように、その心は、確知されたものと成るのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その心は、確知されたものと成る。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕気づきは、現起されたものと成る。その気づきによって、その知恵によって、その心は、確知されたものと成る。……略([957]参照)……。実証されるべきものを実証していると、その心は、確知されたものと成る。このように、その心は、確知されたものと成る。心の得知ある、出息と入息を所以に、識知〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立(心念住・心念処)の修行」と。

 

 [971]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心の得知ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心の得知ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

177.

 

 [972](十)どのように、(19)「〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ」と学び、(20)「〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ」と学ぶのか。どのようなものが、心にとっての大いに歓喜することであるのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、心にとっての大いに歓喜することが生起するが、〔まさに〕その、心にとっての、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、心にとっての大いに歓喜することが生起するが、〔まさに〕その、心にとっての、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。……略……。心の得知ある、出息を所以にする……略……。心の得知ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、心にとっての大いに歓喜することが生起するが、〔まさに〕その、心にとっての、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。これが、心にとっての大いに歓喜することである。心を大いに歓喜させつつ、出息と入息を所以に、識知〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [973]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を大いに歓喜させつつ、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心を大いに歓喜させつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

178.

 

 [974](十一)どのように、(21)「〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ」と学び、(22)「〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ」と学ぶのか。【191】どのようなものが、禅定であるのか。長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定であり、すなわち、心の、止住、確立、確定、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂、禅定の機能、禅定の力、正しい禅定である。長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定であり……略……。心を定めつつ、出息を所以にする……略……。心を定めつつ、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定であり、すなわち、心の、止住、確立、確定、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂、禅定の機能、禅定の力、正しい禅定である。これが、禅定である。心を定めつつ、出息と入息を所以に、識知〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [975]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を定めつつ、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心を定めつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

179.

 

 [976](十二)どのように、(23)「〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ」と学び、(24)「〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ」と学ぶのか。「貪欲から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ」と〔彼は〕学び、「貪欲から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ」と〔彼は〕学ぶ。「憤怒から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ」と〔彼は〕学び、「憤怒から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ」と〔彼は〕学ぶ。「迷妄から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ」と〔彼は〕学び……略……。「思量から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「見解から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「疑惑から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「沈滞から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「高揚から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「恥〔の思い〕なき(無慚)から、〔わたしは〕心を解脱させつつ……。「〔良心の〕咎めなき(無愧)から、〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ」と〔彼は〕学び、「〔良心の〕咎めなきから、〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ」と〔彼は〕学ぶ。心を解脱させつつ、出息と入息を所以に、識知〔作用〕としての心があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [977]「随観する」とは、どのように、その心を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、その心を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。心を解脱させつつ、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。心を解脱させつつ、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [978]〔以上の〕八つの随観の知恵があり、さらに、八つの現起ある随念となり、心における心の随観についての四つの経典の基盤(根拠)となる。

 

1. 3. 5. 4. 第四の四なるものについての釈示

 

180.

 

 [979](十三)どのように、(25)「〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ」と学び、(26)「〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。「無常」とは、何が、無常であるのか。五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)が、無常である。どのような義(意味)によって、無常であるのか。生成と衰失の義(意味)によって、無常である。五つの〔心身を構成する〕範疇の、生成を見ている者は、どれだけの特相を見るのか、衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか、生成と衰失を見ている者は、どれだけの特相を見るのか。五つの〔心身を構成する〕【192】範疇の、生成を見ている者は、二十五の特相を見、衰失を見ている者は、二十五の特相を見る。五つの〔心身を構成する〕範疇の、生成と衰失を見ている者は、これらの五十の特相を見る。

 

 [980]「形態において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「形態において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。「感受〔作用〕において……略……。「表象〔作用〕において……。「諸々の形成〔作用〕において……。「識知〔作用〕において……。「眼において……略([107-116]参照)……。「老と死において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「老と死において、〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。無常の随観ある、出息と入息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念住・法念処)の修行」と。

 

 [981]「随観する」とは、どのように、それらの法(性質)を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、それらの法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。無常の随観ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。無常の随観ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [982](十四)どのように、(27)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ」と学び、(28)「〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。形態において、危険(患・過患)を見て、形態の離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「形態において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「形態において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、危険を見て、老と死の離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「老と死において、〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。離貪の随観ある、出息と入息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [983]「随観する」とは、どのように、それらの法(性質)を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、それらの法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。離貪の随観ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。離貪の随観ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [984](十五)どのように、(29)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ」と学び、(30)「〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。形態において、危険を見て、形態の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「形態において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「形態において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、危険を見て、老と死の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。

 

181.

 

 [985]どれだけの行相によって、無明において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、無明は止滅するのか。五つの行相によって、無明において、危険と成る。八つの行相によって、無明は止滅する。

 

 [986]【193】どのような五つの行相によって、無明において、危険と成るのか。無常の義(意味)によって、無明において、危険と成る。苦痛の義(意味)によって、無明において、危険と成る。無我の義(意味)によって、無明において、危険と成る。熱苦の義(意味)によって、無明において、危険と成る。変化の義(意味)によって、無明において、危険と成る。これらの五つの行相によって、無明において、危険と成る。

 

 [987]どのような八つの行相によって、無明は止滅するのか。因縁の止滅によって、無明は止滅する。集起の止滅によって、無明は止滅する。出生(生)の止滅によって、無明は止滅する。起源の止滅によって、無明は止滅する。因の止滅によって、無明は止滅する。縁の止滅によって、無明は止滅する。知恵の生起によって、無明は止滅する。止滅の現起によって、無明は止滅する。これらの八つの行相によって、無明は止滅する。これらの五つの行相によって、無明において、危険を見て、これらの八つの行相によって、無明の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「無明において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「無明において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。

 

 [988]どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、諸々の形成〔作用〕は止滅するのか。……略……。どれだけの行相によって、識知〔作用〕において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、識知〔作用〕は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、名前と形態において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、名前と形態は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、六つの〔認識の〕場所において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、六つの〔認識の〕場所は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、接触において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、接触は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、感受において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、感受は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、渇愛において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、渇愛は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、執取において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、執取は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、生存において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、生存は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、生において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、生は止滅するのか。……。どれだけの行相によって、老と死において、危険と成るのか。どれだけの行相によって、老と死は止滅するのか。五つの行相によって、老と死において、危険と成る。八つの行相によって、老と死は止滅する。

 

 [989]どのような五つの行相によって、老と死において、危険と成るのか。【194】無常の義(意味)によって、老と死において、危険と成る。苦痛の義(意味)によって……略……。無我の義(意味)によって……略……。熱苦の義(意味)によって……略……。変化の義(意味)によって、老と死において、危険と成る。これらの五つの行相によって、老と死において、危険と成る。

 

 [990]どのような八つの行相によって、老と死は止滅するのか。因縁の止滅によって、老と死は止滅する。集起の止滅によって……略……。出生(生)の止滅によって……略……。起源の止滅によって……略……。因の止滅によって……略……。縁の止滅によって……略……。知恵の生起によって……略……。止滅の現起によって、老と死は止滅する。これらの八つの行相によって、老と死は止滅する。これらの五つの行相によって、老と死において、危険を見て、これらの八つの行相によって、老と死の止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成り〕、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「老と死において、〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。止滅の随観ある、出息と入息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [991]「随観する」とは、どのように、それらの法(性質)を随観するのか。……略([920]参照)……。このように、それらの法(性質)を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。止滅の随観ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり……略([946]参照)……。止滅の随観ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると……略([921-930]参照)……覚知している者は、〔五つの〕機能を配備し……略([931-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

182.

 

 [992](十六)どのように、(31)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と学び、(32)「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶのか。「放棄」とは、二つの放棄がある。そして、遍捨の放棄であり、さらに、跳入の放棄である。形態を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。「形態において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「形態において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。老と死の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。「老と死において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と学び、「老と死において、〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と学ぶ。放棄の随観ある、出息と入息を所以に、諸法(性質)があり、現起としての気づきがあり、随観としての知恵がある。諸法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、それらの法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」と。

 

 [993]「随観する」とは、どのように、それらの法を随観するのか。無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略([920]参照)……。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略([920]参照)……放棄している者は、執取を捨棄する。このように、それらの法を随観する。「修行」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。……略([921]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。放棄の随観ある、出息と入息には、統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄があり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄がある。それが、そこにおいて、統御の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の戒の学びである。それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の心の学びである。それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)あるものであるなら、これは、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として学び……([946]参照)……実証されるべきものを実証している者として学ぶ。

 

 [994]放棄の随観ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知していると、〔彼の〕諸々の感受は、見出されたものとして生起し、見出されたものとして現起し、見出されたものとして滅至し(※)……略([921-930]参照)……。放棄の随観ある、出息と入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕を覚知している者は、〔五つの〕機能(五根)を配備し、そして、境涯(作用範囲)を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解し、〔五つの〕力(五力)を配備し……〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を配備し……〔聖なる八つの支分ある〕道を配備し……諸法(性質)を配備し、そして、境涯を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解する。

 

※ テキストには gacchantntti とあるが、PTS版により gacchanti と読む。

 

 [995]「〔五つの〕機能を配備し」とは、どのように、〔五つの〕機能を配備するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を配備する。……略([932-939]参照)……。それによって説かれる。「さらに、平等の義(利益)を理解する」と。

 

 [996]〔以上の〕八つの随観の知恵があり、さらに、八つの現起ある随念となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観についての四つの経典の基盤(根拠)となる。これらの三十二の気づきある為し手の知恵がある。

 

 [997]気づきある為し手の知恵についての釈示が、第五となる。

 

1. 3. 6. 知恵の集まりの六なるものについての釈示

 

183.

 

 [998](5)どのような二十四の禅定を所以にする知恵があるのか。(1)長き出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定である。(2)長き入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定である。……略([916]参照)……。(23)心を解脱させつつ、出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定である。(24)心を解脱させつつ、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定である。これらの二十四の禅定を所以にする知恵がある。

 

 [999](6)どのような七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵があるのか。(1・2・3)長き【195】出息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。(4・5・6)長き入息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。……略([916]参照)……。(67・68・69)心を解脱させつつ、出息を〔対象とする〕……略……。(70・71・72)心を解脱させつつ、入息を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。これらの七十二の〔あるがままの〕観察を所以にする知恵がある。

 

 [1000](7)どのような八つの厭離の知恵があるのか。(1)無常の随観ある者として、出息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。(2)無常の随観ある者として、入息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。……略([916]参照)……。(7)放棄の随観ある者として、出息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。(8)放棄の随観ある者として、入息を事実のとおりに知り見る、ということで、厭離の知恵がある。これらの八つの厭離の知恵がある。

 

 [1001](8)どのような八つの厭離に随順するものについての知恵があるのか。(1)無常の随観ある者として、出息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における智慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。(2)無常の随観ある者として、入息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における智慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。……略([916]参照)……。(7)放棄の随観ある者として、出息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における智慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。(8)放棄の随観ある者として、入息を〔事実のとおりに知り見て〕、恐怖の現起における智慧が、厭離に随順するものについての知恵となる。これらの八つの厭離に随順するものについての知恵がある。

 

 [1002](9)どのような八つの厭離の安息の知恵があるのか。(1)無常の随観ある者として、出息を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、厭離の安息の知恵となる。(2)無常の随観ある者として、入息を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、厭離の安息の知恵となる。……略([916]参照)……。(7)放棄の随観ある者として、出息を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、厭離の安息の知恵となる。(8)放棄の随観ある者として、入息を審慮して〔そののち〕、確立する智慧が、厭離の安息の知恵となる。これらの八つの厭離の安息の知恵がある。

 

 [1003](10)どのような二十一の解脱の安楽についての知恵があるのか。預流道によって、(1)身体を有するという見解が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起し、(2)疑惑〔の思い〕が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起し、(3)戒や掟への偏執が……略……(4)見解の悪習が……(5)疑惑〔の思い〕の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。一来道によって、(6)粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものが……略……(7)〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものが……(8)粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習が……(9)〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習が捨棄され断絶されたことから、【196】解脱の安楽についての知恵が生起する。不還道によって、(10)微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものが……略……(11)〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものが……(12)微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習が……(13)〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。阿羅漢道によって、(14)形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕が……略……(15)形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕が……(16)思量が……略……(17)高揚が……(18)無明が……(19)思量の悪習が……(20)生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習が……(21)無明の悪習が捨棄され断絶されたことから、解脱の安楽についての知恵が生起する。これらの二十一の解脱の安楽についての知恵がある。十六の基盤ある、呼吸についての気づきという禅定を修行していると、これらの二百の禅定の知恵が生起する。

 

 知恵の集まりの六なるものについての釈示が、第六となる。

 

 [1004]呼吸についての気づきについての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 4. 機能についての言説

 

1. 4. 1. 第一の経典についての釈示

 

184.

 

 [1005]【vol.2-1】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでいる。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに語りかけた。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、こう言った。

 

 [1006]「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能()です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能(信根)であり、精進の機能(精進根)であり、気づきの機能(念根)であり、禅定の機能(定根)であり、智慧の機能(慧根)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能があります」〔と〕。

 

185.

 

 [1007]これらの五つの機能は、どれだけの行相によって清浄となるのか。これらの五つの機能は、十五の行相によって清浄となる。(1)信なき人たちを遍く避けていると、(2)信ある人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、(3)諸々の清信するべき経典を注視していると、これらの三つの行相によって、信の機能は清浄となる。(4)怠惰の人たちを遍く避けていると、(5)精進に励む人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、(6)〔四つの〕正しい精励を注視していると、これらの三つの行相によって、精進の機能は清浄となる。(7)気づきが忘却された人たちを遍く避けていると、(8)気づきが現起された人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、(9)〔四つの〕気づきの確立を注視していると、これらの三つの行相によって、気づきの機能は清浄となる。(10)〔心が〕定められていない人たちを遍く避けていると、(11)〔心が〕定められた人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、(12)瞑想と解脱を注視していると、これらの三つの行相によって、禅定の機能は清浄となる。(13)智慧浅き人たちを遍く避けていると、(14)智慧ある人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、(15)深遠なる知恵の性行を注視していると、【2】これらの三つの行相によって、智慧の機能は清浄となる。かくのごとく、これらの五者の人たちを遍く避けていると、〔これらの〕五者の人たちと慣れ親しみ親近し奉侍していると、〔これらの〕五つの経典の範疇を注視していると、これらの十五の行相によって、これらの五つの機能は清浄となる。

 

 [1008]どれだけの行相によって、五つの機能が修行されるのか。どれだけの行相によって、五つの機能の修行と成るのか。十の行相によって、五つの機能が修行される。十の行相によって、五つの機能の修行と成る。(1)不信を捨棄している者は、信の機能を修行する。(2)信の機能を修行している者は、不信を捨棄する。(3)怠惰を捨棄している者は、精進の機能を修行する。(4)精進の機能を修行している者は、怠惰を捨棄する。(5)放逸を捨棄している者は、気づきの機能を修行する。(6)気づきの機能を修行している者は、放逸を捨棄する。(7)〔心の〕高揚を捨棄している者は、禅定の機能を修行する。(8)禅定の機能を修行している者は、〔心の〕高揚を捨棄する。(9)無明を捨棄している者は、智慧の機能を修行する。(10)智慧の機能を修行している者は、無明を捨棄する。これらの十の行相によって、五つの機能が修行される。これらの十の行相によって、五つの機能の修行と成る。

 

 [1009]どれだけの行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕のか。十の行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(1)不信が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、信の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(2)信の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、不信が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。(3)怠惰が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、精進の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(4)精進の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、怠惰が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。(5)放逸が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、気づきの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(6)気づきの機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、放逸が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。(7)〔心の〕高揚が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、禅定の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(8)禅定の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、〔心の〕高揚が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。(9)無明が、捨棄されたことから、善く捨棄されたことから、智慧の機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。(10)智慧の機能が、修行されたことから、善く修行されたことから、無明が、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成る〕。これらの十の行相によって、五つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。

 

186.

 

 [1010]どれだけの行相によって、五つの機能が修行されるのか。どれだけの行相によって、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕のか。【3】四つの行相によって、五つの機能が修行される。四つの行相によって、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。(1)預流道の瞬間において、五つの機能が修行される。預流果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。(2)一来道の瞬間において、五つの機能が修行される。一来果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。(3)不還道の瞬間において、五つの機能が修行される。不還果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。(4)阿羅漢道の瞬間において、五つの機能が修行される。阿羅漢果の瞬間において、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。かくのごとく、四つの道の清浄があり、四つの果の清浄があり、四つの断絶の清浄があり、四つの安息の清浄がある。これらの四つの行相によって、五つの機能が修行される。これらの四つの行相によって、五つの機能が、まさしく、そして、修行されたものと成り、かつまた、善く修行されたものと〔成り〕、かつまた、安息されたものと〔成り〕、さらに、善く安息されたものと〔成る〕。

 

 [1011]どれだけの人に、機能の修行があるのか。どれだけの人が、機能が修行された者たちであるのか。八者の人に、機能の修行がある。三者の人が、機能が修行された者たちである。どのような八者の人に、機能の修行があるのか。(1・2・3・4・5・6・7)そして、七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)に、(8)さらに、善き凡夫に、である。これらの八者の人に、機能の修行がある。どのような三者の人が、機能が修行された者たちであるのか。(1)聴聞によって覚った、如来の弟子たる煩悩の滅尽者として、機能が修行された者、(2)〔他に依らず〕自ら成ったという義(意味)によって、独正覚者として、機能が修行された者、(3)量りようもないという義(意味)によって、阿羅漢にして正等覚たる如来として、機能が修行された者である。これらの三者の人が、機能が修行された者たちである。かくのごとく、これらの八者の人に、機能の修行がある。これらの三者の人が、機能が修行された者たちである。

 

 [1012]経典についての釈示が、第一となる。

 

1. 4. 2. 第二の経典についての釈示

 

187.

 

 [1013]サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、【4】智慧の機能です。

 

 [1014]比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの(※)尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

※ テキストには panete とあるが、PTS版により pana te と読む。

 

 [1015]比丘たちよ、しかしながら、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの機能の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

188.

 

 [1016]どれだけの行相によって、五つの機能の集起と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の集起を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の滅至と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の滅至を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の悦楽と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の悦楽を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の危険と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の危険を覚知するのか。どれだけの行相によって、五つの機能の出離と成るのか。どれだけの行相によって、五つの機能の出離を覚知するのか。

 

 [1017]四十の行相によって、五つの機能の集起と成る。四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知する。四十の行相によって、五つの機能の滅至と成る。四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知する。二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成る。二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知する。二十五の行相によって、五つの機能の危険と成る。二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知する。【5】百八十の行相によって、五つの機能の出離と成る。百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知する。

 

 [1018]どのような四十の行相によって、五つの機能の集起と成るのか。どのような四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知するのか。(1)信念を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、信の機能の集起と成る。(2)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、信の機能の集起と成る。(3)信念を所以に、意を為すことの集起が、信の機能の集起と成る。(4)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の集起と成る。(5)励起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、精進の機能の集起と成る。(6)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、精進の機能の集起と成る。(7)励起を所以に、意を為すことの集起が、精進の機能の集起と成る。(8)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の集起と成る。(9)現起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、気づきの機能の集起と成る。(10)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、気づきの機能の集起と成る。(11)現起を所以に、意を為すことの集起が、気づきの機能の集起と成る。(12)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の集起と成る。(13)〔心の〕散乱なき〔状態〕を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、禅定の機能の集起と成る。(14)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、禅定の機能の集起と成る。(15)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、意を為すことの集起が、禅定の機能の集起と成る。(16)禅定の機能を所以に、一なることの現起が、禅定の機能の集起と成る。(17)〔あるがままの〕見を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、智慧の機能の集起と成る。(18)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、智慧の機能の集起と成る。(19)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの集起が、智慧の機能の集起と成る。(20)智慧の機能を所以に、一なることの現起が、智慧の機能の集起と成る。(21)信念を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、信の機能の集起と成る。(22)励起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、精進の機能の集起と成る。(23)現起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、【6】気づきの機能の集起と成る。(24)〔心の〕散乱なき〔状態〕を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、禅定の機能の集起と成る。(25)〔あるがままの〕見を義(目的)として、〔心を〕傾注することの集起が、智慧の機能の集起と成る。(26)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、信の機能の集起と成る。(27)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、精進の機能の集起と成る。(28)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、気づきの機能の集起と成る。(29)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、禅定の機能の集起と成る。(30)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の集起が、智慧の機能の集起と成る。(31)信念を所以に、意を為すことの集起が、信の機能の集起と成る。(32)励起を所以に、意を為すことの集起が、精進の機能の集起と成る。(33)現起を所以に、意を為すことの集起が、気づきの機能の集起と成る。(34)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、意を為すことの集起が、禅定の機能の集起と成る。(35)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの集起が、智慧の機能の集起と成る。(36)信の機能を所以に、一なることの現起が、信の機能の集起と成る。(37)精進の機能を所以に、一なることの現起が、精進の機能の集起と成る。(38)気づきの機能を所以に、一なることの現起が、気づきの機能の集起と成る。(39)禅定の機能を所以に、一なることの現起が、禅定の機能の集起と成る。(40)智慧の機能を所以に、一なることの現起が、智慧の機能の集起と成る。

 

 [1019]これらの四十の行相によって、五つの機能の集起と成る。これらの四十の行相によって、五つの機能の集起を覚知する。

 

 [1020]どのような四十の行相によって、五つの機能の滅至と成るのか。どのような四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知するのか。(1)信念を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、信の機能の滅至と成る。(2)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、信の機能の滅至と成る。(3)信念を所以に、意を為すことの滅至が、信の機能の滅至と成る。(4)信の機能を所以に、一なることの現起なきことが、信の機能の滅至と成る。(5)励起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、精進の機能の【7】滅至と成る。(6)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、精進の機能の滅至と成る。(7)励起を所以に、意を為すことの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(8)精進の機能を所以に、一なることの現起なきことが、精進の機能の滅至と成る。(9)現起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(10)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(11)現起を所以に、意を為すことの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(12)気づきの機能を所以に、一なることの現起なきことが、気づきの機能の滅至と成る。(13)〔心の〕散乱なき〔状態〕を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(14)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(15)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、意を為すことの滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(16)禅定の機能を所以に、一なることの現起なきことが、禅定の機能の滅至と成る。(17)〔あるがままの〕見を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(18)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(19)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(20)智慧の機能を所以に、一なることの現起なきことが、智慧の機能の滅至と成る。

 

 [1021](21)信念を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、信の機能の滅至と成る。(22)励起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(23)現起を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(24)〔心の〕散乱なき〔状態〕を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(25)〔あるがままの〕見を義(目的)として、〔心を〕傾注することの滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(26)信念を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、信の機能の滅至と成る。(27)励起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、精進の機能の滅至と成る。(28)現起を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(29)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(30)〔あるがままの〕見を所以に、欲〔の思い〕(意欲)の滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(31)信念を所以に、意を為すことの滅至が、信の機能の【8】滅至と成る。(32)励起を所以に、意を為すことの滅至が、精進の機能の滅至と成る。(33)現起を所以に、意を為すことの滅至が、気づきの機能の滅至と成る。(34)〔心の〕散乱なき〔状態〕を所以に、意を為すことの滅至が、禅定の機能の滅至と成る。(35)〔あるがままの〕見を所以に、意を為すことの滅至が、智慧の機能の滅至と成る。(36)信の機能を所以に、一なることの現起なきことが、信の機能の滅至と成る。(37)精進の機能を所以に、一なることの現起なきことが、精進の機能の滅至と成る。(38)気づきの機能を所以に、一なることの現起なきことが、気づきの機能の滅至と成る。(39)禅定の機能を所以に、一なることの現起なきことが、禅定の機能の滅至と成る。(40)智慧の機能を所以に、一なることの現起なきことが、智慧の機能の滅至と成る。

 

 [1022]これらの四十の行相によって、五つの機能の滅至と成る。これらの四十の行相によって、五つの機能の滅至を覚知する。

 

1. 4. 2. 1. 悦楽についての釈示

 

189.

 

 [1023]どのような二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成るのか。どのような二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知するのか。(1)不信の現起なきことが、信の機能の悦楽と成る。(2)不信の苦悶の現起なきことが、信の機能の悦楽と成る。(3)信念の性行による離怖〔の境地〕が、信の機能の悦楽と成る。(4)さらに、寂静なる住の到達が、信の機能の悦楽と成る。(5)すなわち、信の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意である。これが、信の機能の悦楽である。

 

 [1024](6)怠惰の現起なきことが、精進の機能の悦楽と成る。(7)怠惰の苦悶の現起なきことが、精進の機能の悦楽と成る。(8)励起の性行による離怖〔の境地〕が、精進の機能の悦楽と成る。(9)さらに、寂静なる住の到達が、精進の機能の悦楽と成る。(10)すなわち、精進の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意である。これが、精進の機能の悦楽である。

 

 [1025](11)放逸の現起なきことが、気づきの機能の悦楽と成る。(12)放逸の苦悶の現起なきことが、気づきの機能の悦楽と成る。(13)現起の性行による離怖〔の境地〕が、気づきの機能の悦楽と成る。(14)さらに、寂静なる住の到達が、気づきの機能の悦楽と成る。【9】(15)すなわち、気づきの機能を縁として生起する、安楽であり、悦意である。これが、気づきの機能の悦楽である。

 

 [1026](16)〔心の〕高揚の現起なきことが、禅定の機能の悦楽と成る。(17)〔心の〕高揚の苦悶の現起なきことが、禅定の機能の悦楽と成る。(18)〔心の〕散乱なき〔状態〕の性行による離怖〔の境地〕が、禅定の機能の悦楽と成る。(19)さらに、寂静なる住の到達が、禅定の機能の悦楽と成る。(10)すなわち、禅定の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意である。これが、禅定の機能の悦楽である。

 

 [1027](21)無明の現起なきことが、智慧の機能の悦楽と成る。(22)無明の苦悶の現起なきことが、智慧の機能の悦楽と成る。(23)〔あるがままの〕見の性行による離怖〔の境地〕が、智慧の機能の悦楽と成る。(24)さらに、寂静なる住の到達が、智慧の機能の悦楽と成る。(25)すなわち、智慧の機能を縁として生起する、安楽であり、悦意である。これが、智慧の機能の悦楽である。

 

 [1028]これらの二十五の行相によって、五つの機能の悦楽と成る。これらの二十五の行相によって、五つの機能の悦楽を覚知する。

 

1. 4. 2. 2. 危険についての釈示

 

190.

 

 [1029]どのような二十五の行相によって、五つの機能の危険と成るのか。どのような二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知するのか。(1)不信の現起が、信の機能の危険と成る。(2)不信の苦悶の現起が、信の機能の危険と成る。(3)無常の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。(4)苦痛の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。(5)無我の義(意味)によって、信の機能の危険と成る。

 

 [1030](6)怠惰の現起が、精進の機能の危険と成る。(7)怠惰の苦悶の現起が、精進の機能の危険と成る。(8)無常の義(意味)によって、精進の機能の危険と成る。(9)苦痛の義(意味)によって……略……。(10)無我の義(意味)によって、精進の機能の危険と成る。

 

 [1031](11)放逸の現起が、気づきの機能の危険と成る。(12)放逸の苦悶の現起が、気づきの機能の危険と成る。(13)無常の義(意味)によって、気づきの機能の危険と成る。(14)苦痛の義(意味)によって……略……。(15)無我の義(意味)によって、気づきの機能の危険と成る。

 

 [1032](16)〔心の〕高揚の現起が、【10】禅定の機能の危険と成る。(17)〔心の〕高揚の苦悶の現起が、禅定の機能の危険と成る。(18)無常の義(意味)によって、禅定の機能の危険と成る。(19)苦痛の義(意味)によって……略……。(10)無我の義(意味)によって、禅定の機能の危険と成る。

 

 [1033](21)無明の現起が、智慧の機能の危険と成る。(22)無明の苦悶の現起が、智慧の機能の危険と成る。(23)無常の義(意味)によって、智慧の機能の危険と成る。(24)苦痛の義(意味)によって、智慧の機能の危険と成る。(25)無我の義(意味)によって、智慧の機能の危険と成る。

 

 [1034]これらの二十五の行相によって、五つの機能の危険と成る。これらの二十五の行相によって、五つの機能の危険を覚知する。

 

1. 4. 2. 3. 出離についての釈示

 

191.

 

 [1035]どのような百八十の行相によって、五つの機能の出離と成るのか。どのような百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知するのか。

 

 [1036](1)信念の義(意味)によって、信の機能が、不信から出離したものと成り、不信の苦悶から出離したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものと成り〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出離したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる信の機能の獲得あることから、より以前の信の機能から出離したものと成る。

 

 [1037](2)励起の義(意味)によって、精進の機能が、怠惰から出離したものと成り、怠惰の苦悶から出離したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものと成り〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出離したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる精進の機能の獲得あることから、より以前の精進の機能から出離したものと成る。

 

 [1038](3)現起の義(意味)によって、気づきの機能が、放逸から出離したものと成り、放逸の苦悶から出離したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものと成り〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出離したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる気づきの機能の獲得あることから、より以前の気づきの機能から出離したものと成る。

 

 [1039](4)〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、〔心の〕高揚から出離したものと成り、〔心の〕高揚の苦悶から出離したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものと成り〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出離したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる禅定の機能の獲得あることから、より以前の禅定の機能から出離したものと成る。

 

 [1040](5)〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、無明から出離したものと成り、無明の苦悶から出離したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出離したものと成り〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出離したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出離したものと成り、そののち、より精妙なる智慧の機能の獲得あることから、より以前の智慧の機能から出離したものと成る。

 

192.

 

 [1041](6・7・8・9・10)前段部分における五つの機能から、第一の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(11・12・13・14・15)第一の瞑想における五つの機能から、第二の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(16・17・18・19・20)第二の瞑想における五つの機能から、第三の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(21・22・23・24・25)第三の瞑想における五つの機能から、第四の瞑想を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(26・27・28・29・30)第四の瞑想における五つの機能から、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(31・32・33・34・35)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定を所以に、【11】五つの機能が、出離したものと成る。(36・37・38・39・40)識知無辺なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、無所有なる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(41・42・43・44・45)無所有なる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。

 

 [1042](46・47・48・49・50)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定における五つの機能から、無常の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(51・52・53・54・55)無常の随観における五つの機能から、苦痛の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(56・57・58・59・60)苦痛の随観における五つの機能から、無我の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(61・62・63・64・65)無我の随観における五つの機能から、厭離の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(66・67・68・69・70)厭離の随観における五つの機能から、離貪の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(71・72・73・74・75)離貪の随観における五つの機能から、止滅の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(76・77・78・79・80)止滅の随観における五つの機能から、放棄の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(81・82・83・84・85)放棄の随観における五つの機能から、滅尽の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(86・87・88・89・90)滅尽の随観における五つの機能から、衰失の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(91・92・93・94・95)衰失の随観における五つの機能から、変化の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(96・97・98・99・100)変化の随観における五つの機能から、無相の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(101・102・103・104・105)無相の随観における五つの機能から、無願の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(106・107・108・109・110)無願の随観における五つの機能から、空性の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(111・112・113・114・115)空性の随観における五つの機能から、卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(116・117・118・119・120)卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察における五つの機能から、事実のとおりの知見を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(121・122・123・124・125)事実のとおりの知見における五つの機能から、危険の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(126・127・128・129・130)危険の随観における五つの機能から、審慮の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(131・132・133・134・135)審慮の随観における五つの機能から、還転の随観を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。

 

 [1043](136・137・138・139・140)還転の随観における五つの機能から、預流道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(141・142・143・144・145)預流道における五つの機能から、預流果への入定を所以に、【12】五つの機能が、出離したものと成る。(146・147・148・149・150)預流果への入定における五つの機能から、一来道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(151・152・153・154・155)一来道における五つの機能から、一来果への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(156・157・158・159・160)一来果への入定における五つの機能から、不還道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(161・162・163・164・165)不還道における五つの機能から、不還果への入定を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(166・167・168・169・170)不還果への入定における五つの機能から、阿羅漢道を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。(171・172・173・174・175)阿羅漢道への入定における五つの機能から、阿羅漢果を所以に、五つの機能が、出離したものと成る。

 

 [1044]離欲において、五つの機能が、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕から出離したものと成る。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において、五つの機能が、憎悪〔の思い〕から出離したものと成る。光明の表象において、五つの機能が、〔心の〕沈滞と眠気から出離したものと成る。〔心の〕散乱なき〔状態〕において、五つの機能が、〔心の〕高揚から出離したものと成る。法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおいて、五つの機能が、疑惑〔の思い〕から出離したものと成る。知恵において、五つの機能が、無明から出離したものと成る。歓喜において、五つの機能が、不満〔の思い〕から出離したものと成る。

 

193.

 

 [1045]第一の瞑想において、五つの機能が、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から出離したものと成る。第二の瞑想において、五つの機能が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念(尋伺)から出離したものと成る。第三の瞑想において、五つの機能が、喜悦()から出離したものと成る。第四の瞑想において、五つの機能が、安楽と苦痛(楽苦)から出離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、出離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定において、五つの機能が、無所有なる〔認識の〕場所の表象から出離したものと成る。

 

 [1046]無常の随観において、五つの機能が、常住の表象から出離したものと成る。苦痛の随観において、五つの機能が、安楽の表象から出離したものと成る。無我の随観において、五つの機能が、自己の表象から出離したものと成る。厭離の随観において、五つの機能が、愉悦から出離したものと成る。離貪の随観において、五つの機能が、貪欲から出離したものと成る。止滅の随観において、五つの機能が、集起から出離したものと成る。放棄の随観において、五つの機能が、執取から出離したものと【13】成る。滅尽の随観において、五つの機能が、重厚の表象から出離したものと成る。衰失の随観において、五つの機能が、専業(業を作ること)から出離したものと成る。変化の随観において、五つの機能が、常恒の表象から出離したものと成る。無相の随観において、五つの機能が、形相から出離したものと成る。無願の随観において、五つの機能が、切願から出離したものと成る。空性の随観において、五つの機能が、固着から出離したものと成る。卓越の智慧たる法(性質)の〔あるがままの〕観察において、五つの機能が、真髄への執取の固着から出離したものと成る。事実のとおりの知見において、五つの機能が、迷妄の固着から出離したものと成る。危険の随観において、五つの機能が、執着の固着から出離したものと成る。審慮の随観において、五つの機能が、審慮なき〔状態〕から出離したものと成る。還転の随観において、五つの機能が、束縛の固着から出離したものと成る。

 

 [1047]預流道において、五つの機能が、〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。一来道において、五つの機能が、粗大なる諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。不還道において、五つの機能が、微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れから出離したものと成る。阿羅漢道において、五つの機能が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから出離したものと成る。(176・177・178・179・180)まさしく、一切の煩悩の滅尽者たちの、五つの機能が、その場その場に、まさしく、そして、出離したものと成り、かつまた、善く出離したものと〔成り〕、かつまた、安息したものと〔成り〕、さらに、善く安息したものと〔成る〕。

 

 [1048]これらの百八十の行相によって、五つの機能の出離と成る。これらの百八十の行相によって、五つの機能の出離を覚知する。

 

 [1049]経典についての釈示が、第二となる。

 

 〔以上が〕第一の朗読分となる。

 

1. 4. 3. 第三の経典についての釈示

 

194.

 

 [1050]サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、では、どこにおいて、信の機能は見られるべきですか。四つの預流の支分(正なる人士に慣れ親しむこと・正なる法を聞くこと・根源のままに意を為すこと・法を法のままに実践すること)において、ここにおいて、信の力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、精進の機能は見られるべきですか。【14】四つの正しい精励(四正勤)において、ここにおいて、精進の機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、気づきの機能は見られるべきですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)において、ここにおいて、気づきの機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、禅定の機能は見られるべきですか。四つの瞑想(四禅)において、ここにおいて、禅定の機能は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、智慧の機能は見られるべきですか。四つの聖なる真理(四聖諦)において、ここにおいて、智慧の機能は見られるべきです」〔と〕。

 

 [1051]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。

 

 [1052]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 3. 1. 細別の数についての釈示

 

195.

 

 [1053]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)正なる人士に慣れ親しむことという預流の支分において、信念の優位の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)正なる法(教え)を聞くことという預流の支分において……略……。(11・12・13・14・15)根源のままに意を為すこと(如理作意)という【15】預流の支分において……略……。(16・17・18・19・20)法(教え)を法(教え)のままに実践することという預流の支分において、信念の優位の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきである。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

 [1054]四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、正しい精励において、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、正しい精励において……略……。(11・12・13・14・15)諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、正しい精励において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、正しい精励において、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

 [1055]四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)身体における身体の随観という気づきの確立において、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の感受における身体の随観という気づきの確立において……略……。(11・12・13・14・15)心における心の随観という気づきの確立において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を【16】所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

 [1056]四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)第一の瞑想において、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)第二の瞑想において……略……。(11・12・13・14・15)第三の瞑想において……略……。(16・17・18・19・20)第四の瞑想において、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

 [1057]四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)苦痛という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)苦痛の集起という聖なる真理において……略……。(11・12・13・14・15)苦痛の止滅という聖なる真理において……略……。(16・17・18・19・20)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 3. 2. 性行の部

 

196.

 

 [1058]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。

 

 [1059]四つの正しい精励において……略……。四つの気づきの確立において……。四つの瞑想において……。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、どれだけの行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。四つの正しい精励において……略……。四つの気づきの確立において……。【17】四つの瞑想において……。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

 [1060]四つの預流の支分において、信の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)正なる人士に慣れ親しむことという預流の支分において、信念の優位の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)正なる法(教え)を聞くことという預流の支分において……略……。(11・12・13・14・15)根源のままに意を為すことという預流の支分において……略……。(16・17・18・19・20)法(教え)を法(教え)のままに実践することという預流の支分において、信念の優位の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきである。四つの預流の支分において、信の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

 [1061]四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、正しい精励において、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、正しい精励において……略……。(11・12・13・14・15)諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、正しい精励において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、正しい精励において、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきである。【18】四つの正しい精励において、精進の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

 [1062]四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)身体における身体の随観という気づきの確立において、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)諸々の感受における身体の随観という気づきの確立において……略……。(11・12・13・14・15)心における心の随観という気づきの確立において……略……。(16・17・18・19・20)諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきである。四つの気づきの確立において、気づきの機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

 [1063]四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)第一の瞑想において、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)第二の瞑想において……略……。(11・12・13・14・15)第三の瞑想において……略……。(16・17・18・19・20)第四の瞑想において、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきである。四つの瞑想において、禅定の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

 [1064]四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、どのような二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきであるのか。(1・2・3・4・5)苦痛という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、【19】〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきである。(6・7・8・9・10)苦痛の集起という聖なる真理において……略……。(11・12・13・14・15)苦痛の止滅という聖なる真理において……略……。(16・17・18・19・20)苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能の性行が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能の性行が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能の性行が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能の性行が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能の性行が、見られるべきである。四つの聖なる真理において、智慧の機能を所以に、これらの二十の行相によって、五つの機能の性行が、見られるべきである。

 

1. 4. 3. 3. 行と住についての釈示

 

197.

 

 [1065]そして、〔彼の〕行(チャーラ)が、さらに、住が、随覚されたものと成り、理解されたものと〔成り〕、そのように行なっている者を、そのように〔世に〕住んでいる者を、識者たちたる梵行を共にする者たちが、諸々の深遠なる境位において信頼するなら、たしかに、この尊者は、あるいは、〔その境位に、すでに〕至り得たのであり、あるいは、〔いずれ〕至り得るであろう。

 

 [1066]「性行(チャリヤー)」とは、八つの性行がある。振る舞いの道の性行、〔認識の〕場所の性行、気づきの性行、禅定の性行、知恵の性行、道の性行、至り得ることの性行、世の義(利益)の性行である。「振る舞いの道の性行」とは、四つの振る舞いの道(行・住・坐・臥)における〔性行である〕。「〔認識の〕場所の性行」とは、六つの内なると外なる〔認識の〕場所における〔性行である〕。「気づきの性行」とは、四つの気づきの確立における〔性行である〕。「禅定の性行」とは、四つの瞑想における〔性行である〕。「知恵の性行」とは、四つの聖なる真理における〔性行である〕。「道の性行」とは、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における〔性行である〕。「至り得ることの性行」とは、四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)における〔性行である〕。「世の義(利益)の性行」とは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちにおける〔性行であり〕、一部の独覚たちにおける〔性行であり〕、一部の弟子たちにおける〔性行である〕。そして、誓願を成就した者たちには、振る舞いの道の性行があり、そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちには、〔認識の〕場所の性行があり、そして、不放逸の住者たちには、気づきの性行があり、そして、卓越の心(瞑想)に専念する者たちには、禅定の性行があり、そして、覚慧を成就した者たちには、知恵の性行があり、そして、正しく実践した者たちには、道の性行があり、そして、果に到達した者たちには、至り得ることの性行があり、そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちには、一部の独覚たちには、一部の弟子たちには、世の義(利益)の性行がある。これらの八つの性行がある。

 

 [1067]【20】他にも、また、八つの性行がある。信念している者は、信によって行なう。励起している者は、精進によって行なう。現起させている者は、気づきによって行なう。〔心の〕散乱なき〔状態〕を作り為している者は、禅定によって行なう。覚知している者は、智慧によって行なう。識知している者は、識知〔作用〕の性行によって行なう。このように実践した者に、諸々の善なる法(性質)が入来する、ということで、〔認識の〕場所の性行によって行なう。このように実践した者は、殊勝〔の境地〕に到達する、ということで、殊勝〔の境地〕の性行によって行なう。これらの八つの性行がある。

 

 [1068]他にも、また、八つの性行がある。そして、正しい見解には、〔あるがままの〕見の性行がある。正しい思惟には、〔正しく心を〕固定することの性行がある。正しい言葉には、遍き収取(理解・把握)の性行がある。正しい行業には、等しく現起するものの性行がある。正しい生き方には、浄化するものの性行がある。正しい努力には、励起の性行がある。正しい気づきには、現起の性行がある。正しい禅定には、〔心の〕散乱なき〔状態〕の性行がある。これらの八つの性行がある。

 

 [1069]「住」とは、信念している者は、信によって〔世に〕住む。励起している者は、精進によって〔世に〕住む。現起させている者は、気づきによって〔世に〕住む。〔心の〕散乱なき〔状態〕を作り為している者は、禅定によって〔世に〕住む。覚知している者は、智慧によって〔世に〕住む。

 

 [1070]「随覚されたもの」とは、信の機能の、信念の義(意味)が、随覚されたものと成る。精進の機能の、励起の義(意味)が、随覚されたものと成る。気づきの機能の、現起の義(意味)が、随覚されたものと成る。禅定の機能の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、随覚されたものと成る。智慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、随覚されたものと成る。

 

 [1071]「理解されたもの」とは、信の機能の、信念の義(意味)が、理解されたものと成る。精進の機能の、励起の義(意味)が、理解されたものと成る。気づきの機能の、現起の義(意味)が、理解されたものと成る。禅定の機能の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)が、理解されたものと成る。智慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)が、理解されたものと成る。「そのように行なっている者を」とは、このように、信によって行なっている者を。このように、精進によって行なっている者を。このように、気づきによって行なっている者を。このように、禅定によって行なっている者を。このように、智慧によって行なっている者を。「そのように〔世に〕住んでいる者を」とは、このように、信によって〔世に〕住んでいる者を。このように、精進によって〔世に〕住んでいる者を。このように、気づきによって〔世に〕住んでいる者を。このように、禅定によって〔世に〕住んでいる者を。このように、智慧によって〔世に〕住んでいる者を。【21】「識者たち」とは、識者たち、分明ある者たち、思慮ある者たち、賢者たち、覚慧を成就した者たち。「梵行を共にする者たち」とは、行為を一つとし、誦説を一つとし、学びを等しくする者たち。「諸々の深遠なる境位において」とは、諸々の深遠なる境位は、かつまた、諸々の瞑想、かつまた、諸々の解脱、かつまた、諸々の禅定、かつまた、諸々の入定、かつまた、〔四つの聖者の〕道、かつまた、〔四つの沙門の〕果、かつまた、〔六つの〕神知、かつまた、〔四つの〕融通無礙(無礙解)、と説かれる。「信頼するなら」とは、信を置くなら、信念するなら。「たしかに」とは、これは、一定の言葉であり、これは、疑念なき言葉であり、これは、疑いなき言葉であり、これは、二様なき言葉であり、これは、二種なき言葉であり、これは、必然の言葉であり、これは、誤解なき言葉であり、これは、確保する言葉であり、「たしかに」ということになる。「尊者」とは、これは、敬愛の言葉であり、これは、尊重の言葉であり、これは、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有するものの同義語であり、「尊者」ということになる。「あるいは、〔その境位に、すでに〕至り得たのであり」とは、あるいは、〔すでに〕到達したのであり。「あるいは、〔いずれ〕至り得るであろう」とは、あるいは、〔いずれ〕到達するであろう。

 

 [1072]経典についての釈示が、第三となる。

 

1. 4. 4. 第四の経典についての釈示

 

198.

 

 [1073]従前の因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの機能です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの機能がります」〔と〕。これらの五つの機能は、どれだけの行相によって、どのような義(意味)によって、見られるべきであるのか。これらの五つの機能は、六つの行相によって──優位の義(意味)によって、最初の清めるものの義(意味)によって、旺盛なるものの義(意味)によって、確立することの義(意味)によって、完全に取り払うことの義(意味)によって、確立させる者の義(意味)によって──その義(意味)によって、見られるべきである。

 

1. 4. 4. 1. 優位の義(意味)についての釈示

 

199.

 

 [1074]どのように、優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。不信を捨棄していると、信念の優位の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、【22】見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきである。怠惰を捨棄していると、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。放逸を捨棄していると、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。〔心の〕高揚を捨棄していると、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。無明を捨棄していると、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきである。

 

 [1075]欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、信念の優位の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、励起の優位の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、精進の機能を所以に、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、現起の優位の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、気づきの機能を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、〔心の〕散乱なき〔状態〕の優位の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、禅定の機能を所以に、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきである。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄していると、離欲を所以に、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきである。

 

 [1076]憎悪〔の思い〕を捨棄していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に……略……。【23】〔心の〕沈滞と眠気を捨棄していると、光明の表象を所以に……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、信念の優位の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、信の機能を所以に、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきであり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきである。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄していると、阿羅漢道を所以に、〔あるがままの〕見の優位の義(意味)によって、智慧の機能が、見られるべきであり、智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能が、見られるべきであり、励起の義(意味)によって、精進の機能が、見られるべきであり、現起の義(意味)によって、気づきの機能が、見られるべきであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、見られるべきである。このように、優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 4. 2. 最初の清めるものの義(意味)についての釈示

 

200.

 

 [1077]どのように、最初の清めるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信念の義(意味)によって、信の機能があり、不信の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、信の機能にとっての、最初の清めるものとなる。励起の義(意味)によって、精進の機能があり、怠惰の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、精進の機能にとっての、最初の清めるものとなる。現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、放逸の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、気づきの機能にとっての、最初の清めるものとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能があり、〔心の〕高揚の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、禅定の機能にとっての、最初の清めるものとなる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能があり、無明の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、智慧の機能にとっての、最初の清めるものとなる。離欲において、五つの機能があり、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の清めるものとなる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において、五つの機能があり、憎悪〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の清めるものがある。……略……。阿羅漢道において、五つの機能があり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒の清浄があり、五つの機能にとっての、最初の清めるものとなる。このように、最初の清めるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 4. 3. 旺盛なるものの義(意味)についての釈示

 

201.

 

 [1078]どのように、旺盛なるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。欲〔の思い〕を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、【24】信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。歓喜を所以に、喜悦が生起する。喜悦を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。喜悦を所以に、静息が生起する。静息を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。静息を所以に、安楽が生起する。安楽を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。安楽を所以に、光輝が生起する。光輝を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。光輝を所以に、畏怖〔の思い〕が生起する。畏怖〔の思い〕を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。〔心を〕畏怖させて、心は定まる。禅定を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。そのように定められた心は、善くしっかりと励起する。励起を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。そのように励起された心は、善くしっかりと放捨する。放捨を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。放捨を所以に、諸々の種々なることある〔心の〕汚れから、心は解脱する。解脱を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。解脱したことから、それらの法(性質)は、一味のものと成る。一味の義(意味)によって、修行を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。修行されたことから、そののち、より精妙なるもののうちに還転する。還転を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。還転されたことから、そののち、放棄する。放棄を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。放棄されたことから、そののち、止滅する。止滅を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。

 

 [1079]止滅を所以に、二つの放棄がある。そして、遍捨の放棄であり、さらに、跳入の放棄である。そして、諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらに、諸々の範疇を遍捨する、ということで、遍捨の放棄となる。止滅の涅槃の界域にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。止滅を所以に、これらの二つの放棄がある。

 

 [1080]不信の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。不信の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。粗大なる諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕を所以に、信を所以に、信の機能が、旺盛なるものと成る。……略……。精進の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。怠惰の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。怠惰の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。気づきの機能の【25】修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。放逸の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。放逸の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。禅定の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。〔心の〕高揚の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。〔心の〕高揚の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。智慧の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。無明の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。無明の苦悶の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……略……。〔悪しき〕見解と一なる境位の諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。粗大なる諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。微細なる〔状態〕を共具した諸々の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。欲〔の思い〕を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。歓喜を所以に、喜悦が生起する。喜悦を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。喜悦を所以に、静息が生起する。静息を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。静息を所以に、安楽が生起する。安楽を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。安楽を所以に、光輝が生起する。光輝を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。光輝を所以に、畏怖〔の思い〕が生起する。畏怖〔の思い〕を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。〔心を〕畏怖させて、心は定まる。禅定を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。そのように定められた心は、善くしっかりと励起する。励起を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。そのように励起された心は、善くしっかりと放捨する。放捨を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。放捨を所以に、諸々の種々なることある〔心の〕汚れから、心は解脱する。解脱を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。解脱したことから、それらの法(性質)は、一味のものと成る。一味の義(意味)によって、修行を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。修行されたことから、そののち、より精妙なるもののうちに還転する。還転を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。還転されたことから、そののち、放棄する。放棄を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。放棄されたことから、そののち、止滅する。止滅を所以に、智慧を所以に、智慧の機能が、旺盛なるものと成る。

 

 [1081]止滅を所以に、二つの放棄がある。そして、遍捨の放棄であり、さらに、跳入の放棄である。そして、諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらに、諸々の範疇を遍捨する、【26】ということで、遍捨の放棄となる。止滅の涅槃の界域にたいし、心が跳入する、ということで、跳入の放棄となる。止滅を所以に、これらの二つの放棄がある。このように、旺盛なるものの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

 [1082]〔以上が〕第二の朗読分となる。

 

1. 4. 4. 4. 確立することの義(意味)についての釈示

 

202.

 

 [1083]どのように、確立することの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信の機能の修行のために、欲〔の思い〕(意欲)が生起する。欲〔の思い〕を所以に、信を所以に、信の機能が、確立する。欲〔の思い〕を所以に、歓喜が生起する。歓喜を所以に、信を所以に、信の機能が、確立する。……略……。このように、確立することの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 4. 5. 完全に取り払うことの義(意味)についての釈示

 

 [1084]どのように、完全に取り払うことの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信念の義(意味)によって、信の機能が、不信を完全に取り払い、不信の苦悶を完全に取り払う。励起の義(意味)によって、精進の機能が、怠惰を完全に取り払い、怠惰の苦悶を完全に取り払う。現起の義(意味)によって、気づきの機能が、放逸を完全に取り払い、放逸の苦悶を完全に取り払う。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能が、〔心の〕高揚を完全に取り払い、〔心の〕高揚の苦悶を完全に取り払う。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能が、無明を完全に取り払い、無明の苦悶を完全に取り払う。離欲において、五つの機能が、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を完全に取り払う。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において、五つの機能が、憎悪〔の思い〕を完全に取り払う。光明の表象において、五つの機能が、〔心の〕沈滞と眠気を完全に取り払う。〔心の〕散乱なき〔状態〕において、五つの機能が、〔心の〕高揚を完全に取り払う。……略……。阿羅漢道において、五つの機能が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを完全に取り払う。このように、完全に取り払うことの義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

1. 4. 4. 6. 確立させる者の義(意味)についての釈示

 

203.

 

 [1085]どのように、確立させる者の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきであるのか。信ある者は、信の機能を、信念において確立させ、信ある者の信の機能を、信念において確立させる。精進ある者は、精進の機能を、励起において確立させ、精進ある者の精進の機能を、励起において確立させる。気づきある者は、気づきの機能を、現起において確立させ、気づきある者の気づきの機能を、現起において確立させる。〔心が〕定められた者は、禅定の機能を、〔心の〕散乱なき〔状態〕において確立させ、〔心が〕定められた者の禅定の機能を、〔心の〕散乱なき〔状態〕において確立させる。智慧ある者は、智慧の機能を、〔あるがままの〕見において確立させ、智慧ある者の智慧の機能を、〔あるがままの〕見において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者(瞑想修行者)は、五つの機能を、離欲において確立させ、【27】〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、離欲において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、光明の表象において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、光明の表象において確立させる。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、〔心の〕散乱なき〔状態〕において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、〔心の〕散乱なき〔状態〕において確立させる。……略……。〔心の〕制止を行境とする者は、五つの機能を、阿羅漢道において確立させ、〔心の〕制止を行境とする者の五つの機能を、阿羅漢道において確立させる。このように、確立させる者の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、見られるべきである。

 

 [1086]経典についての釈示が、第四となる。

 

1. 4. 5. 機能の配備

 

204.

 

 [1087]凡夫は、禅定を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。学びある者(有学)は、禅定を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。貪欲を離れた者(阿羅漢)は、禅定を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。凡夫は、禅定を修行していると、七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。学びある者は、禅定を修行していると、八つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者は、禅定を修行していると、十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。

 

 [1088]凡夫は、禅定を修行していると、どのような七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り、(2)止寂の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(3)励起の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(4)〔心の〕散乱なき〔状態〕の現起に巧みな智ある者と成り、(5)光輝の現起に巧みな智ある者と成り、(6)満悦することの現起に巧みな智ある者と成り、(7)放捨の現起に巧みな智ある者と成る。凡夫は、禅定を修行していると、これらの七つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。

 

 [1089]学びある者は、禅定を修行していると、どのような八つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り、(2)止寂の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(3)励起の形相の現起に巧みな智ある者と成り、(4)〔心の〕散乱なき〔状態〕の現起に巧みな智ある者と成り、(5)光輝の現起に巧みな智ある者と成り、(6)満悦することの現起に巧みな智ある者と成り、(7)放捨の現起に巧みな智ある者と成り、(8)一なることの現起に巧みな智ある者と成る。学びある者は、禅定を修行していると、これらの八つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。

 

 [1090]貪欲を離れた者は、禅定を修行していると、どのような十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成るのか。【28】〔心を〕傾注したことから、(1)対象の現起に巧みな智ある者と成り……略……(8)一なることの現起に巧みな智ある者と成り、(9)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、(10)解脱の現起に巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者は、禅定を修行していると、これらの十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成る。

 

205.

 

 [1091]凡夫は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。学びある者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。貪欲を離れた者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どれだけの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どれだけの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。

 

 [1092]凡夫は、〔あるがままの〕観察を修行していると、九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、九つの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。学びある者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、十の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、十二の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。

 

 [1093]凡夫は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どのような九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どのような九つの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。(2)苦痛〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、安楽〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。(3)無我〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、自己〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。(4)滅尽〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、重厚〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。(5)衰失〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、専業(業を作ること)の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(6)変化の現起に巧みな智ある者と成り、常恒〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。(7)無相の現起に巧みな智ある者と成り、形相の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(8)無願の現起に巧みな智ある者と成り、切願の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(9)空性の現起に巧みな智ある者と成り、固着の現起なきことに巧みな智ある者と成る。凡夫は、〔あるがままの〕観察を修行していると、これらの九つの行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの九つの行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。

 

206.

 

 [1094]学びある者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どのような十の行相によって、【29】現起に巧みな智ある者と成り、どのような十の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。……略……。(9)空性の現起に巧みな智ある者と成り、固着の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(10)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、無知の現起なきことに巧みな智ある者と成る。学びある者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、これらの十の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの十の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。

 

 [1095]貪欲を離れた者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、どのような十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、どのような十二の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成るのか。(1)無常〔の観点〕から現起に巧みな智ある者と成り、常住〔の観点〕から現起なきことに巧みな智ある者と成る。……略……。(10)知恵の現起に巧みな智ある者と成り、無知の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(11)束縛を離れるものの現起に巧みな智ある者と成り、束縛の現起なきことに巧みな智ある者と成る。(12)止滅の現起に巧みな智ある者と成り、形成〔作用〕の現起なきことに巧みな智ある者と成る。貪欲を離れた者は、〔あるがままの〕観察を修行していると、これらの十二の行相によって、現起に巧みな智ある者と成り、これらの十二の行相によって、現起なきことに巧みな智ある者と成る。

 

 [1096]〔心を〕傾注したことから、対象の現起に巧みな智あることを所以に、〔五つの〕機能を配備し、そして、境涯を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解し……略……諸法(性質)を配備し、そして、境涯を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解する。「〔五つの〕機能を配備し」とは、どのように、〔五つの〕機能を配備するのか。信念の義(意味)によって、信の機能を配備する。……略……。止寂の形相の現起に巧みな智あることを所以に……。励起の現起に巧みな智あることを所以に……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の現起に巧みな智あることを所以に……。光輝の現起に巧みな智あることを所以に……。満悦することの現起に巧みな智あることを所以に……。放捨の現起に巧みな智あることを所以に……。一なることの現起に巧みな智あることを所以に……。知恵の現起に巧みな智あることを所以に……。解脱の現起に巧みな智あることを所以に……。

 

 [1097]無常〔の観点〕から現起に巧みな智あることを所以に……。常住〔の観点〕から現起なきことに巧みな智あることを所以に……。苦痛〔の観点〕から現起に巧みな智あることを所以に……。安楽〔の観点〕から現起なきことに巧みな智あることを所以に……。無我〔の観点〕から現起に巧みな智あることを所以に……。自己〔の観点〕から現起なきことに巧みな智あることを所以に……。滅尽〔の観点〕から現起に巧みな智あることを所以に……。重厚〔の観点〕から現起なきことに巧みな智あることを所以に……。衰失〔の観点〕から現起に巧みな智あることを所以に……。専業(業を作ること)の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。変化の現起に巧みな智あることを所以に……。常恒〔の観点〕から現起なきことに巧みな智あることを所以に……。無相の現起に巧みな智あることを所以に……。形相の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。無願の現起に巧みな智あることを所以に……。切願の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。空性の現起に巧みな智あることを所以に……。固着の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。知恵の現起に巧みな智あることを所以に……。無知の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。束縛を離れるものの現起に巧みな智あることを所以に……。束縛の現起なきことに巧みな智あることを所以に……。止滅の現起に巧みな智あることを所以に……。形成〔作用〕の現起なきことに巧みな智あることを所以に、〔五つの〕機能を配備し、そして、境涯を覚知し、さらに、平等の義(利益)を理解する。

 

207.

 

 [1098] 【30】六十四の行相によって、三つの機能の、自在なる状態たることとしての智慧が、諸々の煩悩の、滅尽についての知恵となる。どのような三つの機能の、であるのか。(1)「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(2)了知の機能の、(3)了知者の機能の、である。

 

 [1099]「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、どれだけの境位に至るのか。了知の機能は、どれだけの境位に至るのか。了知者の機能は、どれだけの境位に至るのか。「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能は、一つの境位に至る。(1)預流道である。了知の機能は、六つの境位に至る。(2)預流果、(3)一来道、(4)一来果、(5)不還道、(6)不還果、(7)阿羅漢道である。了知者の機能は、一つ境位に至る。(8)阿羅漢果である。

 

 [1100](1)預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、(1―1)信の機能は、信念が付属のものと成り、(1―2)精進の機能は、励起が付属のものと成り、(1―3)気づきの機能は、現起が付属のものと成り、(1―4)禅定の機能は、〔心の〕散乱なき〔状態〕が付属のものと成り、(1―5)智慧の機能は、〔あるがままの〕見が付属のものと成り、(1―6)意の機能は、識知することが付属のものと成り、(1―7)悦意の機能は、潤沢が付属のものと成り、(1―8)生命の機能は、転起されたもの(所与的世界)の寂静なることの優位が付属のものと成る。預流道の瞬間において、生じた諸法(性質)は、心から等しく現起する形態(善悪無記の物質)を除いて、まさしく、一切が、善なるものと成り、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、出脱のものと成り、まさしく、一切が、〔煩悩の〕滅減に至るものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。預流道の瞬間において、「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能の、これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り、互いに他と付属のものと成り、依所として付属のものと成り、結び付いたものとして付属のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成る。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔「了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう」という機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。

 

 [1101](2)預流果の瞬間において……略……。(8)阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、(8―1)信の機能は、信念が付属のものと成り……略……(8―8)生命の機能は、転起されたものの寂静なることの優位が付属のものと成る。阿羅漢果の瞬間において、生じた諸法(性質)は、まさしく、一切が、〔善悪が〕説き明かされないものと成り、心から等しく現起する形態を除いて、まさしく、一切が、煩悩なきものと成り、まさしく、一切が、世〔俗〕を超えるものと成り、まさしく、一切が、涅槃を対象とするものと成る。阿羅漢果の瞬間において、了知者の機能の、【31】これらの八つの機能は、共に生じた付属のものと成り……。まさしく、それら〔の八つの機能〕は、その〔了知者の機能〕の、まさしく、そして、諸々の行相と成り、さらに、諸々の付属のものと〔成る〕。かくのごとく、これらは、八つ八つのものとして、六十四〔の機能〕と成る。

 

 [1102]「諸々の煩悩」とは、どのようなものが、それらの煩悩であるのか。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。どこにおいて、これらの煩悩が滅尽するのか。預流道によって、残りなく見解の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき欲望の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき生存の煩悩が滅尽し、悪所に至るべき無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。一来道によって、粗大なる欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。不還道によって、残りなく欲望の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の生存の煩悩が滅尽し、それと一なる境位の無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。阿羅漢道によって、残りなく生存の煩悩が滅尽し、残りなく無明の煩悩が滅尽する。ここにおいて、これらの煩悩が滅尽する。

 

208.

 

 [1103]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 [1104]「一切に眼ある者」とは、どのような義(意味)によって、一切に眼ある者となるのか。十四の覚者の知恵がある。(1)苦痛についての知恵が、覚者の知恵となる。(2)苦痛の集起についての知恵が、覚者の知恵となる。……略([704]参照)……。(13)一切知者たる知恵が、覚者の知恵となる。(14)妨げなき知恵が、覚者の知恵となる。これらの十四の覚者の知恵がある。これらの十四の覚者の知恵のなかの、八つの知恵は、弟子たちと共通なるものとなり、六つの知恵は、弟子たちとは共通ならざるものとなる。

 

 [1105]あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔いまだ〕知られていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、智慧の機能である。智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能がある。あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、【32】智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、智慧の機能である。智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能がある。あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)が……略……。あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)が……。あるかぎりの、道の、道の義(意味)が……。あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、法(教え)の融通無礙の、法(教え)の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)が……。あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵が……。あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵が……。あるかぎりの、対なる神変についての知恵が……。あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵が……。あるかぎりの、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕の、天〔の神〕や人間を含む人々の、見られたものは、聞かれたものは、思われたものは、識られたものは、至り得られたものは、遍く探し求められたものは、意によって探索されたものは、その〔一切〕が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない、ということで、一切に眼ある者となる。それが、一切に眼あるものであるなら、それは、智慧の機能である。智慧の機能を所以に、信念の義(意味)によって、信の機能があり、励起の義(意味)によって、精進の機能があり、現起の義(意味)によって、気づきの機能があり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、禅定の機能がある。

 

 [1106]信を置いている者は、励起し、励起している者は、信を置く。信を置いている者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、信を置く。信を置いている者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、信を置く。信を置いている者は、覚知し、覚知している者は、信を置く。励起している者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、励起する。励起している者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、励起する。励起している者は、覚知し、覚知している者は、励起する。励起している者は、信を置き、信を置いている者は、励起する。〔気づきを〕現起させている者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、覚知し、覚知している者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、信を置き、信を置いている者は、〔気づきを〕現起させる。〔気づきを〕現起させている者は、励起し、励起している者は、〔気づきを〕現起させる。〔心を〕定めている者は、覚知し、覚知している者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、信を置き、信を置いている者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、励起し、励起している者は、〔心を〕定める。〔心を〕定めている者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、〔心を〕定める。覚知している者は、信を置き、信を置いている者は、覚知する。覚知している者は、励起し、励起している者は、覚知する。覚知している者は、〔気づきを〕現起させ、〔気づきを〕現起させている者は、覚知する。覚知している者は、〔心を〕定め、〔心を〕定めている者は、覚知する。

 

 [1107]信を置かれたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、信を置かれたものとなる。信を置かれたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、信を置かれたものとなる。励起されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、励起されたものとなる。励起されたことから、信を置かれたものとなり、【33】信を置かれたことから、励起されたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔気づきを〕現起させられたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなる。〔心を〕定められたことから、覚知されたものとなり、覚知されたことから、〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、〔心を〕定められたものとなる。〔心を〕定められたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、〔心を〕定められたものとなる。覚知されたことから、信を置かれたものとなり、信を置かれたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、励起されたものとなり、励起されたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、〔気づきを〕現起させられたものとなり、〔気づきを〕現起させられたことから、覚知されたものとなる。覚知されたことから、〔心を〕定められたものとなり、〔心を〕定められたことから、覚知されたものとなる。

 

 [1108]それが、覚者の眼であるなら、それは、覚者の知恵である。それが、覚者の知恵であるなら、それは、覚者の眼である。その眼によって、如来は、有情たちを見る──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見る者たちを、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見ない者たちを。

 

 [1109]「少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして」とは、信ある人が、少なき塵の者となり、信なき人が、大いなる塵の者となる。精進に励む人が、少なき塵の者となり、怠惰の人が、大いなる塵の者となる。気づきが現起された人が、少なき塵の者となり、気づきが忘却された人が、大いなる塵の者となる。〔心が〕定められた人が、少なき塵の者となり、〔心が〕定められていない人が、大いなる塵の者となる。智慧ある人が、少なき塵の者となり、智慧浅き人が、大いなる塵の者となる。

 

 [1110]「鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして」とは、信ある人が、鋭敏なる機能の者となり、信なき人が、柔弱なる機能の者となる。……略……。智慧ある人が、鋭敏なる機能の者となり、智慧浅き人が、柔弱なる機能の者となる。「善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして」とは、信ある人が、善き行相の者となり、信なき人が、悪しき行相の者となる。……略……。智慧ある人が、善き行相の者となり、智慧浅き人が、悪しき行相の者となる。「識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして」とは、信ある人が、識知させるに易き者となり、信なき人が、識知させるに難き者となる。……略……。智慧ある人が、識知させるに易き者となり、智慧浅き人が、識知させるに難き者となる。

 

 [1111]「一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見る者たちを、一部のまた、他の世の罪過と恐怖を見ない者たちを」とは、信ある人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、信なき人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。精進に励む人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、怠惰の人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。……略……。智慧ある人が、他の世の罪過と恐怖を見る者となり、智慧浅き人が、他の世の罪過と恐怖を見ない者となる。

 

 [1112]「世」とは、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、衰滅の【34】生存の世、衰滅の発生の世、得達の生存の世、得達の発生の世である。

 

 [1113]一つの世がある。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。二つの世がある。そして、名前()であり、さらに、形態()である。三つの世がある。三つの感受(三受)である。四つの世がある。四つの食(四食)である。五つの世がある。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)である。六つの世がある。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。七つの世がある。七つの識知〔作用〕の止住(七識住)である。八つの世がある。八つの世の法(八世間法)である。九つの世がある。九つの有情の居住所(九有情居)である。十の世がある。十の〔認識の〕場所(十処)である。十二の世がある。十二の〔認識の〕場所(十二処)である。十八の世がある。十八の界域(十八界)である。

 

 [1114]「罪過」とは、一切の〔心の〕汚れが、諸々の罪過となり、一切の悪しき行ないが、諸々の罪過となり、一切の行作(現行)が、諸々の罪過となり、一切の生存に至る行為が、諸々の罪過となる。かくのごとく、そして、この世について、さらに、この罪過について、諸々の強烈なる恐怖の表象が、現起されたものと成る──それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように。これらの五十の行相によって、これらの五つの機能を、知り、見、了知し、理解する。ということで──

 

 機能の配備が、第五となる。

 

 〔以上が〕第三の朗読分となる。

 

 [1115]機能についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 5. 解脱についての言説

 

1. 5. 1. 誦説(経典)

 

209.

 

 [1116]【35】従前の因縁となる。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの解脱です。どのようなものが、三つのものなのですのか。空性の解脱であり、無相の解脱であり、無願の解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの解脱があります」〔と〕。

 

 [1117]さらに、また、六十八の解脱がある。空性の解脱、無相の解脱、無願の解脱があり、内からの出起の解脱、外からの出起の解脱、〔内と外の〕両者からの出起の解脱として、(1・2・3・4)内からの出起の四つの解脱、(5・6・7・8)外からの出起の四つの解脱、(9・10・11・12)〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱、(13・14・15・16)内からの出起に随順する四つの解脱、(17・18・19・20)外からの出起に随順する四つの解脱、(21・22・23・24)〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱、(25・26・27・28)内からの出起の安息としての四つの解脱、(29・30・31・32)外からの出起の安息としての四つの解脱、(33・34・35・36)〔内と外の〕両者からの出起の安息としての四つの解脱であり、(37)形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見る、という解脱、(38)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、という解脱、(39)「浄美である」とだけ信念した者と成る、という解脱、(40)虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(41)識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(42)無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱、(43)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱、(44)表象と感覚の止滅(想受滅)への入定の解脱であり、(45)時限ある解脱、(46)時限なき解脱、(47)暫時の解脱、(48)暫時ならざる解脱、(49)動乱ある解脱、(50)不動の解脱、(51)世〔俗〕の解脱、(52)世〔俗〕を超える解脱、(53)煩悩を有する解脱、(54)煩悩なき解脱、(55)財貨を有する解脱、(56)財貨なき解脱、(57)財貨なき〔解脱〕よりもより財貨なき解脱、(58―1)切願された解脱、(58―2)切願されざる解脱、(59)切願された〔解脱〕の安息としての解脱、(60)束縛された解脱、(61)束縛を離れた解脱、(62)一なることとしての解脱、(63)種々なることとしての解脱、【36】(64)表象の解脱、(65)知恵の解脱、(66)〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱、(67)瞑想の解脱、(68)執取なき心にとっての解脱である。

 

1. 5. 2. 釈示

 

210.

 

 [1118]どのようなものが、空性の解脱であるのか。ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮する。「これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって」と。彼は、そこにおいて、固着を作り為さない、ということで、空性の解脱となる。これが、空性の解脱である。

 

 [1119]どのようなものが、無相の解脱であるのか。ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮する。「これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって」と。彼は、そこにおいて、形相を作り為さない、ということで、無相の解脱となる。これが、無相の解脱である。

 

 [1120]どのようなものが、無願の解脱であるのか。ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮する。「これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって」と。彼は、そこにおいて、切願を作り為さない、ということで、無願の解脱となる。これが、無願の解脱である。

 

 [1121]どのようなものが、内からの出起の解脱であるのか。四つの瞑想である。これが、内からの出起の解脱である。どのようなものが、外からの出起の解脱であるのか。四つの形態なき入定である。これが、外からの出起の解脱である。どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の解脱であるのか。四つの聖者の道である。これが、〔内と外の〕両者からの出起の解脱である。

 

 [1122](1・2・3・4)どのようなものが、内からの出起の四つの解脱であるのか。第一の瞑想が、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から出起する。第二の瞑想が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念(尋伺)から出起する。第三の瞑想が、喜悦()から出起する。第四の瞑想が、安楽と苦痛(楽苦)から出起する。これらのものが、内からの出起の四つの解脱である。

 

 [1123](5・6・7・8)どのようなものが、外からの出起の四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定が、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、出起する。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から出起する。無所有なる〔認識の〕場所への入定が、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から出起する。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定が、無所有なる〔認識の〕場所の表象から出起する。これらのものが、外からの出起の四つの解脱である。

 

 [1124](9・10・11・12)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱であるのか。預流道が、身体を有するという見解と疑惑〔の思い〕と戒や掟への偏執から〔出起し〕、見解の悪習から〔出起し〕、疑惑〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から【37】出起する。一来道が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。不還道が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔出起し〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。阿羅漢道が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔出起し〕、思量から〔出起し〕、高揚から〔出起し〕、無明から〔出起し〕、思量の悪習から〔出起し〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔出起し〕、無明の悪習から出起し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から出起し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から出起する。これらのものが、〔内と外の〕両者からの出起の四つの解脱である。

 

211.

 

 [1125](13・14・15・16)どのようなものが、内からの出起に随順する四つの解脱であるのか。第一の瞑想の獲得を義(目的)として、かつまた、〔粗雑なる〕思考、かつまた、〔微細なる〕想念、かつまた、喜悦、かつまた、安楽、かつまた、心の一境性がある。第二の瞑想の獲得を義(目的)として……略……。第三の瞑想の獲得を義(目的)として……略……。第四の瞑想の獲得を義(目的)として、かつまた、〔粗雑なる〕思考、かつまた、〔微細なる〕想念、かつまた、喜悦、かつまた、安楽、かつまた、心の一境性がある。これらのものが、内からの出起に随順する四つの解脱である。

 

 [1126](17・18・19・20)どのようなものが、外からの出起に随順する四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、かつまた、〔粗雑なる〕思考、かつまた、〔微細なる〕想念、かつまた、喜悦、かつまた、安楽、かつまた、心の一境性がある。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の獲得を義(目的)として、かつまた、〔粗雑なる〕思考、かつまた、〔微細なる〕想念、かつまた、喜悦、かつまた、安楽、かつまた、心の一境性がある。これらのものが、外からの出起に随順する四つの解脱である。

 

 [1127](21・22・23・24)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱であるのか。預流道の獲得を義(目的)として、無常の随観、苦痛の随観、無我の随観がある。一来道の獲得を義(目的)として……略……。不還道の獲得を義(目的)として……略……。阿羅漢道の獲得を義(目的)として、無常の随観、苦痛の随観、無我の随観がある。これらのものが、〔内と外の〕両者からの出起に随順する四つの解脱である。

 

 [1128](25・26・27・28)どのようなものが、内からの出起の安息としての四つの解脱であるのか。第一の瞑想の、あるいは、獲得であり、あるいは、報い(異熟)である。第二の瞑想の……略……。第三の瞑想の……略……。【38】第四の瞑想の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。これらのものが、内からの出起の安息としての四つの解脱である。

 

 [1129](29・30・31・32)どのようなものが、外からの出起の安息としての四つの解脱であるのか。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定の……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。これらのものが、外からの出起の安息としての四つの解脱である。

 

 [1130](33・34・35・36)どのようなものが、〔内と外の〕両者からの出起の安息としての四つの解脱であるのか。預流道の、預流果である。一来道の、一来果である。不還道の、不還果である。阿羅漢道の、阿羅漢果である。これらのものが、〔内と外の〕両者からの出起の安息としての四つの解脱である。

 

212.

 

 [1131](37)どのように、形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見る、ということで、解脱となるのか。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、青の形相に意を為し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、外に、青の形相において、心を近しく集中し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修め、多く為す。彼に、このような〔思いが〕有る。「かつまた、内も、かつまた、外も、両者ともに、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、黄の形相に……略……赤の形相に……略……白の形相に意を為し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、外に、白の形相において、心を近しく集中し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修め、多く為す。彼に、このような〔思いが〕有る。「かつまた、内も、かつまた、外も、両者ともに、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。このように、形態ある者として、諸々の形態を見る、ということで、解脱となる。

 

 [1132](38)どのように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、ということで、解脱となるのか。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、【39】青の形相に意を為さず、青の表象を獲得せず、外に、青の形相において、心を近しく集中し、青の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修め、多く為す。彼に、このような〔思いが〕有る。「内に、形態なく、外に、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。ここに、一部の者が、内に、各自それぞれに、黄の形相に……略……赤の形相に……略……白の形相に意を為さず、白の表象を獲得せず、外に、白の形相において、心を近しく集中し、白の表象を獲得する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為し、善く保ち置かれたものとして保ち置き、善く確保されたものとして確保する。彼は、その形相を、善く収め取られたものとして作り為して、善く保ち置かれたものとして保ち置いて、善く確保されたものとして確保して〔そののち〕、習修し、修め、多く為す。彼に、このような〔思いが〕有る。「内に、形態なく、外に、これは、形態である」と。〔彼は〕形態の表象ある者と成る。このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見る、ということで、解脱となる。

 

 [1133](39)どのように、「浄美である」とだけ信念した者と成る、ということで、解脱となるのか。ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住む〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。慈愛〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。慈悲〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。……略……。放捨〔の思い〕が修行されたことから、〔彼にとって〕有情たちは、嫌悪ならざる者たちと成る。このように、「浄美である」とだけ信念した者と成る、ということで、解脱となる。

 

213.

 

 [1134](40)どのようなものが、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、「虚空は、終極なきものである」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これが、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。

 

 [1135](41)どのようなものが、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、【40】「識知〔作用〕は、終極なきものである」と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これが、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。

 

 [1136](42)どのようなものが、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「何であれ、存在しない」と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これが、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱である。

 

 [1137](43)どのようなものが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住む。これが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の解脱である。

 

 [1138](44)どのようなものが、表象と感覚の止滅(想受滅)への入定の解脱であるのか。ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住む。これが、表象と感覚の止滅への入定の解脱である。

 

 [1139](45)どのようなものが、時限ある解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、時限ある解脱である。

 

 [1140](46)どのようなものが、時限なき解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、時限なき解脱である。

 

 [1141](47)どのようなものが、暫時の解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、暫時の解脱である。

 

 [1142](48)どのようなものが、暫時ならざる解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、暫時ならざる解脱である。

 

 [1143](49)どのようなものが、動乱ある解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、動乱ある解脱である。

 

 [1144](50)どのようなものが、不動の解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、不動の解脱である。

 

 [1145](51)どのようなものが、世〔俗〕の解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、世〔俗〕の解脱である。

 

 [1146](52)どのようなものが、世〔俗〕を超える解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、世〔俗〕を超える解脱である。

 

 [1147](53)どのようなものが、煩悩を有する解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、煩悩を有する解脱である。

 

 [1148](54)どのようなものが、煩悩なき解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、【41】かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、煩悩なき解脱である。

 

 [1149](55)どのようなものが、財貨を有する解脱であるのか。形態(色界)と結び付いた解脱である。これが、財貨を有する解脱である。

 

 [1150](56)どのようなものが、財貨なき解脱であるのか。形態なきもの(無色界)と結び付いた解脱である。これが、財貨なき解脱である。

 

 [1151](57)どのようなものが、財貨なき〔解脱〕よりもより財貨なき解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、財貨なき〔解脱〕よりもより財貨なき解脱である。

 

 [1512](58―1)どのようなものが、切願された解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、切願された解脱である。(58―2)どのようなものが、切願されざる解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、切願されざる解脱である。

 

 [1153](59)どのようなものが、切願された〔解脱〕の安息としての解脱であるのか。第一の瞑想の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。これが、切願された〔解脱〕の安息としての解脱である。

 

 [1154](60)どのようなものが、束縛された解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、束縛された解脱である。

 

 [1155](61)どのようなものが、束縛を離れた解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、束縛を離れた解脱である。

 

 [1156](62)どのようなものが、一なることとしての解脱であるのか。そして、四つの聖者の道であり、かつまた、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これが、一なることとしての解脱である。

 

 [1157](63)どのようなものが、種々なることとしての解脱であるのか。そして、四つの瞑想であり、さらに、四つの形態なき入定である。これが、種々なることとしての解脱である。

 

214.

 

 [1158](64)どのようなものが、表象の解脱であるのか。一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのような表象の解脱が〕存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。

 

 [1159]「存するべきである」とは(※)、では、どのように、存するべきであるのか。無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、【42】表象の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。厭離の随観の知恵は、愉悦の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのような表象の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

※ PTS版により Siyāti を補う。

 

 [1160]形態において、無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。……略……。形態において、空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのような表象の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1161]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の表象から解き放たれる、ということで、表象の解脱となる。このように、一つの表象の解脱が、十の表象の解脱と成り、十の表象の解脱が、一つの表象の解脱と成る、〔そのような表象の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。これが、表象の解脱である。

 

215.

 

 [1162](65)どのようなものが、知恵の解脱であるのか。一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのような知恵の解脱が〕存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。苦痛の随観という事実のとおりの知恵は、安楽の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無我の随観という事実のとおりの知恵は、自己の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。厭離の随観という事実のとおりの知恵は、愉悦の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。離貪の随観という事実のとおりの【43】知恵は、貪欲の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。止滅の随観という事実のとおりの知恵は、集起の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。放棄の随観という事実のとおりの知恵は、執取の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無相の随観という事実のとおりの知恵は、形相の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。無願の随観という事実のとおりの知恵は、切願の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのような知恵の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1163]形態において、無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。……略……。形態において、空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのような知恵の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1164]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観という事実のとおりの知恵は、常住の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。……略……。老と死において、空性の随観という事実のとおりの知恵は、固着の迷妄と無知から解き放たれる、ということで、知恵の解脱となる。このように、一つの知恵の解脱が、十の知恵の解脱と成り、十の知恵の解脱が、一つの知恵の解脱と成る、〔そのような知恵の解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。これが、知恵の解脱である。

 

216.

 

 [1165](66)どのようなものが、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱であるのか。一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成る、〔そのような欲の炎なく清涼に存するべき解脱が〕存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。無常の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、常住の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。苦痛の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、安楽の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。無我の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、自己の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。厭離の随観という【44】無上にして清涼の状態の知恵は、愉悦の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。離貪の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、貪欲の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。止滅の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、集起の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。放棄の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、執取の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。無相の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、形相の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。無願の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、切願の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。空性の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、固着の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。このように、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成る、〔そのような欲の炎なく清涼に存するべき解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1166]形態において、無常の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、常住の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。……略……。形態において、空性の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、固着の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。このように、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成る、〔そのような欲の炎なく清涼に存するべき解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1167]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、常住の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。……略……。老と死において、空性の随観という無上にして清涼の状態の知恵は、固着の熱苦と苦悶と懊悩から解き放たれる、ということで、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱となる。このように、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成り、十の〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱が、一つの〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱と成る、〔そのような欲の炎なく清涼に存するべき解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。これが、〔欲の炎なく〕清涼に存するべき解脱である。

 

217.

 

 [1168](67)どのようなものが、瞑想の解脱であるのか。離欲を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、瞑想(ジャーナ)となる。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を焼尽させる(ジャーペーティ)、ということで、瞑想(ジャーナ)となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽させている者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽する(ジャーヤティ)、ということで、諸法(性質)が。焼尽させる(ジャーペーティ)、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。そして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらに、諸々の焼尽させるものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。【45】憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を瞑想する、ということで、瞑想となる。憎悪〔の思い〕を焼尽させる、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽させている者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽する、ということで、諸法(性質)が。焼尽させる、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。そして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらに、諸々の焼尽させるものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。光明の表象を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕沈滞と眠気を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕高揚を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……。法(性質)〔の差異〕を定め置くことを瞑想する、ということで、瞑想となる。疑惑〔の思い〕を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……。知恵を瞑想する、ということで、瞑想となる。無明を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……。歓喜を瞑想する、ということで、瞑想となる。不満〔の思い〕を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……。第一の瞑想を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔五つの修行の〕妨害を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……略……。阿羅漢道を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを焼尽させる、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽させている者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽する、ということで、諸法(性質)が。焼尽させる、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。そして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらに、諸々の焼尽させるものを知る、ということで、瞑想の解脱となる。これが、瞑想の解脱である。

 

218.

 

 [1169](68)どのようなものが、執取なき心にとっての解脱であるのか。一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのような執取なき心にとっての解脱が〕存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。無常の随観の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。厭離の随観の知恵は、愉悦の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。無願の随観の知恵は、【46】切願の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのような執取なき心にとっての解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1170]形態において、無常の随観の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。……略……。形態において、空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのような執取なき心にとっての解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。

 

 [1171]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の知恵は、常住の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の執取から解き放たれる、ということで、執取なき心にとっての解脱となる。このように、一つの執取なき心にとっての解脱が、十の執取なき心にとっての解脱と成り、十の執取なき心にとっての解脱が、一つの執取なき心にとっての解脱と成る、〔そのような執取なき心にとっての解脱が〕存するべきである──基盤を所以に、教相によって。これが、知恵の解脱である。

 

 [1172]無常の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。苦痛の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。無我の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。厭離の随観の知恵は……略……。離貪の随観の知恵は……。止滅の随観の知恵は……。放棄の随観の知恵は……。無相の随観の知恵は……。無願の随観の知恵は……。空性の随観の知恵は、どれだけの執取から解き放たれるのか。

 

 [1173]無常の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。苦痛の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。無我の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれるのか。厭離の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。離貪の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。止滅の随観の知恵は、四つの執取から解き放たれる。放棄の随観の知恵は、四つの執取から解き放たれる。無相の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。無願の随観の知恵は、一つの執取から解き放たれる。空性の随観の知恵は、三つの執取から解き放たれる。

 

 [1174]無常の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無常の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。苦痛の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。【47】欲望〔の対象〕への執取から、苦痛の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。無我の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無我の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。厭離の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、厭離の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。離貪の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、離貪の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。止滅の随観の知恵は、どのような四つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、止滅の随観の知恵は、これらの四つの執取から解き放たれる。放棄の随観の知恵は、どのような四つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、放棄の随観の知恵は、これらの四つの執取から解き放たれる。無相の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、無相の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。無願の随観の知恵は、どのような一つの執取から解き放たれるのか。欲望〔の対象〕への執取から、無願の随観の知恵は、この一つの執取から解き放たれる。空性の随観の知恵は、どのような三つの執取から解き放たれるのか。見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から、空性の随観の知恵は、これらの三つの執取から解き放たれる。

 

 [1175]そして、すなわち、無常の随観の知恵は、かつまた、すなわち、無我の随観の知恵は、かつまた、すなわち、無相の随観の知恵は、さらに、すなわち、空性の随観の知恵は、これらの四つの知恵は、三つの執取から解き放たれる──見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から。そして、すなわち、苦痛の随観の知恵は、かつまた、すなわち、厭離の随観の知恵は、かつまた、すなわち、離貪の随観の知恵は、さらに、すなわち、無願の随観の知恵は、【48】これらの四つの知恵は、一つの執取から解き放たれる──欲望〔の対象〕への執取から。そして、すなわち、止滅の随観の知恵は、さらに、すなわち、放棄の随観の知恵は、これらの二つの知恵は、四つの執取から解き放たれる──欲望〔の対象〕への執取から、見解への執取から、戒や掟への執取から、自己の論への執取から。これが、執取なき心にとっての解脱である。

 

 [1176]解脱の言説における、〔以上が〕第一の朗読分となる。

 

219.

 

 [1177]また、まさに、三つのものが、〔すなわち、無相と無願と空性という〕これらの解脱の門が、世〔の界域〕からの出脱のために、等しく転起する。一切の形成〔作用〕を、限定と周縁〔の観点〕から等しく随観することによって、そして、無相の界域にたいし、心が跳入するために、〔無相の解脱の門が、等しく転起する〕。一切の形成〔作用〕にたいし、意を鼓舞することによって、そして、無願の界域にたいし、心が跳入するために、〔無願の解脱の門が、等しく転起する〕。一切の法(事象)を、他者〔の観点〕から等しく随観することによって、そして、空性の界域にたいし、心が跳入するために、〔空性の解脱の門が、等しく転起する〕。これらの三つの解脱の門が、世〔の界域〕からの出脱のために、等しく転起する。

 

 [1178]無常〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。無我〔の観点〕から意を為していると、空〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。

 

 [1179]無常〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある心と【49】成る(納得し確信する)。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある心と成る(納得し受容する)。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある心と成る(納得し理解する)。

 

 [1180]無常〔の観点〕から意を為している、信念が多くある者は、どのような機能を獲得するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している、静息が多くある者は、どのような機能を獲得するのか。無我〔の観点〕から意を為している、知が多くある者は、どのような機能を獲得するのか。無常〔の観点〕から意を為している、信念が多くある者は、信の機能を獲得する。苦痛〔の観点〕から意を為している、静息が多くある者は、禅定の機能を獲得する。無我〔の観点〕から意を為している、知が多くある者は、智慧の機能を獲得する。

 

 [1181]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁(倶生縁)と成り、互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(依縁)と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、信の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、禅定の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と【50】成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、智慧の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、機能の修行は存在しない。

 

220.

 

 [1182]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解(通達)の時において、どのような機能が、優位と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような機能が、優位と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、どのような機能が、優位と成り、修行のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような機能が、優位と成り、理解のために、どれだけの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。

 

 [1183]【51】無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、信の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、智慧の機能が、優位と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、禅定の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、智慧の機能が、優位と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、智慧の機能が、優位と成り、修行のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、智慧の機能が、優位と成り、理解のために、〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。

 

221.

 

 [1184]無常〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのような機能が、旺盛なるものと成り、どのような機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成るのか。

 

 [1185]【52】無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。

 

 [1186]〔常に〕信を置いている解脱者である、ということで、信による解脱者となる。〔すでに〕体得したことから、実証した者である、ということで、身体による実証者となる。〔すでに〕見たことから、至り得た者である、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる。〔常に〕信を置きつつ解脱する、ということで、信による解脱者となる。瞑想の体得を最初に体得し、最後に止滅の涅槃を実証する、ということで、身体による実証者となる。「諸々の形成〔作用〕は、苦痛である」「止滅は、安楽である」と、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、智慧によって〔すでに〕体得されたものと〔成る〕、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる。そして、すなわち、信による解脱者である、この人は──かつまた、すなわち、身体による実証者である、〔この人は〕──さらに、すなわち、〔正しい〕見解に至り得た者である、〔この人は〕──これらの三者の人は、信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、〔正しい〕見解に至り得た者たちとしてもまた、存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。このように、これらの三者の人は、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成る〕。

 

 [1187]苦痛〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。無常〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。このように、これらの三者の人は、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成る〕。

 

 [1188]無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。無常〔の観点〕から【53】意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。このように、これらの三者の人は、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1189]そして、すなわち、信による解脱者である、この人は──かつまた、すなわち、身体による実証者である、〔この人は〕──さらに、すなわち、〔正しい〕見解に至り得た者である、〔この人は〕──これらの三者の人は、信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、〔正しい〕見解に至り得た者たちとしてもまた、存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。そして、すなわち、信による解脱者である、この人は──かつまた、すなわち、身体による実証者である、〔この人は〕──さらに、すなわち、〔正しい〕見解に至り得た者である、〔この人は〕──これらの三者の人は……略……存するべきである──基盤を所以に、教相によって。まさしく、他なる者として、信による解脱者があり、他なる者として、身体による実証者があり、他なる者として、〔正しい〕見解に至り得た者がある。

 

 [1190]「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。そして、すなわち、信による解脱者である、この人は──かつまた、すなわち、身体による実証者である、〔この人は〕──さらに、すなわち、〔正しい〕見解に至り得た者である、〔この人は〕──これらの三者の人は、信による解脱者たちとしてもまた、身体による実証者たちとしてもまた、〔正しい〕見解に至り得た者たちとしてもまた、存するべきである──基盤を所以に、教相によって。まさしく、他なる者として、信による解脱者があり、他なる者として、身体による実証者があり、他なる者として、〔正しい〕見解に至り得た者がある。

 

 [1191]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「信に従い行く者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らの全てが、信に従い行く者たちと〔成る〕。

 

 [1192]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「信による解脱者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、【54】善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、預流果を実証した者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、信による解脱者たちと〔成る〕。

 

 [1193]無常〔の観点〕から意を為していると、信の機能が、旺盛なるものと成り、信の機能が、旺盛なることから、一来道を獲得する。……略……一来果が、実証されたものと成る。……略……不還道を獲得する。……略……不還果が、実証されたものと成る。……略……阿羅漢道を獲得する。……略……阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「信による解脱者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。信の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、信の機能を所以に、阿羅漢の資質を実証した者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、信による解脱者たちと〔成る〕。

 

 [1194]苦痛〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「身体による実証者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。禅定の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、禅定の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らの全てが、身体による実証者たちと〔成る〕。

 

 [1195]苦痛〔の観点〕から意を為していると、禅定の機能が、旺盛なるものと成り、禅定の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。……略……一来道を獲得する。……略……一来果が、実証されたものと成る。……略……不還道を獲得する。……略……不還果が、実証されたものと成る。……略……阿羅漢道を獲得する。……略……阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「身体による実証者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。禅定の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、禅定の機能を所以に、阿羅漢の資質を実証した者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、身体による実証者たちと〔成る〕。

 

 [1196]無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、預流道を獲得する。それによって説かれる。「法(教え)に従い行く者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。【55】智慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能の修行と成る。まさに、彼らが誰であれ、智慧の機能を所以に、預流道を獲得するなら、彼らの全てが、法(教え)に従い行く者たちと〔成る〕。

 

 [1197]無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、預流果が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「〔正しい〕見解に至り得た者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り……略……結び付いたものとしての縁と成る。智慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、智慧の機能を所以に、預流果を実証した者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1198]無我〔の観点〕から意を為していると、智慧の機能が、旺盛なるものと成り、智慧の機能が、旺盛なることから、一来道を獲得する。……略……一来果が、実証されたものと成る。……略……不還道を獲得する。……略……不還果が、実証されたものと成る。……略……阿羅漢道を獲得する。……略……阿羅漢の資質が、実証されたものと成る。それによって説かれる。「〔正しい〕見解に至り得た者」〔と〕。〔他の〕四つの機能が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。智慧の機能を所以に、〔他の〕四つの機能が、修行されたものと成り、善く修行されたものと〔成る〕。まさに、彼らが誰であれ、智慧の機能を所以に、阿羅漢の資質を実証した者たちと〔成るなら〕、彼らの全てが、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

222.

 

 [1199]まさに、彼らが誰であれ、離欲を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら、あるいは、修行するであろうなら、あるいは、到達したなら、あるいは、到達するなら、あるいは、到達するであろうなら、あるいは、至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、あるいは、獲得したなら、あるいは、獲得するなら、あるいは、獲得するであろうなら、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、体得したなら、あるいは、体得するなら、あるいは、体得するであろうなら、あるいは、自在に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、〔智慧の〕完全態(波羅蜜・到彼岸)に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、離怖に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、彼らの全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1200]まさに、彼らが誰であれ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を……略……光明の表象を……〔心の〕散乱なき〔状態〕を……法(性質)〔の差異〕を定め置くことを……知恵を……歓喜を……第一の瞑想を……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を……虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を……識知無辺なる〔認識の〕場所への入定を……【56】無所有なる〔認識の〕場所への入定を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を……無常の随観を……苦痛の随観を……無我の随観を……厭離の随観を……離貪の随観を……止滅の随観を……放棄の随観を……滅尽の随観を……衰失の随観を……変化の随観を……無相の随観を……無願の随観を……空性の随観を……卓越の智慧の法(性質)の〔あるがままの〕観察を……事実のとおりの知見を……危険の随観を……審慮の随観を……還転の随観を……預流道を……一来道を……不還道を……阿羅漢道を……。

 

 [1201]まさに、彼らが誰であれ、四つの気づきの確立を……四つの正しい精励を……四つの神通の足場を……五つの機能を……五つの力を……七つの覚りの支分を……聖なる八つの支分ある道を……。まさに、彼らが誰であれ、八つの解脱を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら、あるいは、修行するであろうなら、あるいは、到達したなら、あるいは、到達するなら、あるいは、到達するであろうなら、あるいは、至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、あるいは、獲得したなら、あるいは、獲得するなら、あるいは、獲得するであろうなら、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、体得したなら、あるいは、体得するなら、あるいは、体得するであろうなら、あるいは、自在に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、〔智慧の〕完全態に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、離怖に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、彼らの全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1202]まさに、彼らが誰であれ、四つの融通無礙を、あるいは、至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら……略……彼らの全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1203]まさに、彼らが誰であれ、三つの明知を、あるいは、理解したなら、あるいは、理解するなら、あるいは、理解するであろうなら……略……彼らの全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1204]まさに、彼らが誰であれ、三つの学びを、あるいは、学んだなら、あるいは、学ぶなら、あるいは、学ぶであろうなら、あるいは、実証したなら、あるいは、実証するなら、あるいは、実証するであろうなら、あるいは、体得したなら、あるいは、体得するなら、あるいは、体得するであろうなら、あるいは、自在に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、〔智慧の〕完全態に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、離怖に至り得たなら、あるいは、至り得るなら、あるいは、至り得るであろうなら、彼らの全てが、信の機能を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1205]まさに、彼らが誰であれ、苦痛を遍知するなら、集起を捨棄するなら、止滅を実証するなら、道を修行するなら、彼らの全てが、信の機能を【57】所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1206]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。四つの行相によって、真理の理解と成る。四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。これらの四つの行相によって、真理の理解と成る。これらの四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、信の機能を所以に、信による解脱者と〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者と〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者と〔成る〕。

 

 [1207]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。九つの行相によって、真理の理解と成る。九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。そして、一切の法(事象)の、証知の理解がある。そして、一切の形成〔作用〕の、遍知の理解がある。そして、一切の善ならざるものの、捨棄の理解がある。そして、四つの道の、修行の理解がある。そして、止滅の、実証の理解がある。これらの九つの行相によって、真理の理解と成る。これらの九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、信の機能を所以に、信による解脱者と〔成り〕、禅定の機能を所以に、身体による実証者と〔成り〕、智慧の機能を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者と〔成る〕。

 

 [1208]〔以上が〕第二の朗読分となる。

 

223.

 

 [1209]【58】無常〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのように、諸々の形成〔作用〕が現起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、滅尽〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、恐怖〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。無我〔の観点〕から意を為していると、空〔の観点〕から、諸々の形成〔作用〕が現起する。

 

 [1210]無常〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が多くある心と成るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある心と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある心と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある心と成る。

 

 [1211]無常〔の観点〕から意を為している、信念が多くある者は、どのような解脱を獲得するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している、静息が多くある者は、どのような解脱を獲得するのか。無我〔の観点〕から意を為している、知が多くある者は、どのような解脱を獲得するのか。無常〔の観点〕から意を為している、信念が多くある者は、無相の解脱を獲得する。苦痛〔の観点〕から意を為している、静息が多くある者は、無願の解脱を獲得する。無我〔の観点〕から意を為している、知が多くある者は、空性の解脱を獲得する。

 

224.

 

 [1212]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁(倶生縁)と成り、互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(依縁)と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、【59】依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、誰が、修行するのか。

 

 [1213]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、無相の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、無願の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、空性の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、彼が、正しい実践者であるなら、彼は修行し、誤った実践者には、解脱の修行は存在しない。

 

 [1214]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。【60】無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、どのような解脱が、優位と成り、修行のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時において、どのような解脱が、優位と成り、理解のために、どれだけの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、どのような義(意味)によって、修行となり、どのような義(意味)によって、理解となるのか。

 

225.

 

 [1215]無常〔の観点〕から意を為していると、信念が多くある者には、無相の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、無相の解脱が、優位と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、静息が多くある者には、無願の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、無願の解脱が、優位と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。無我〔の観点〕から意を為していると、知が多くある者には、空性の解脱が、優位と成り、修行のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、理解の時においてもまた、空性の解脱が、優位と成り、理解のために、〔他の〕二つの解脱が、それに付従するものと成り、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成り、一味のものと成り、一味の義(意味)によって、修行となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、理解となる。このように、理解している者としてもまた、修行し、修行している者としてもまた、理解する。

 

226.

 

 [1216]無常〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、信による解脱者と【61】成るのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、身体による実証者と成るのか。無我〔の観点〕から意を為していると、どのような解脱が、旺盛なるものと成り、どのような解脱が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成るのか。

 

 [1217]無常〔の観点〕から意を為していると、無相の解脱が、旺盛なるものと成り、無相の解脱が、旺盛なることから、信による解脱者と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、無願の解脱が、旺盛なるものと成り、無願の解脱が、旺盛なることから、身体による実証者と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の解脱が、旺盛なるものと成り、空性の解脱が、旺盛なることから、〔正しい〕見解に至り得た者と成る。

 

 [1218]〔常に〕信を置いている解脱者である、ということで、信による解脱者となる。〔すでに〕体得したことから、実証した者である、ということで、身体による実証者となる。〔すでに〕見たことから、至り得た者である、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる。〔常に〕信を置きつつ解脱する、ということで、信による解脱者となる。瞑想の体得を最初に体得し、最後に止滅の涅槃を実証する、ということで、身体による実証者となる。「諸々の形成〔作用〕は、苦痛である」「止滅は、安楽である」と、〔すでに〕知られたものと成り、〔すでに〕見られたものと〔成り〕、〔すでに〕見出されたものと〔成り〕、〔すでに〕実証されたものと〔成り〕、智慧によって〔すでに〕体得されたものと〔成る〕、ということで、〔正しい〕見解に至り得た者となる。……略……。まさに、彼らが誰であれ、離欲を、あるいは、修行したなら、あるいは、修行するなら、あるいは、修行するであろうなら……略……彼らの全てが、無相の解脱を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、空性の解脱を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1219]まさに、彼らが誰であれ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を……光明の表象を……〔心の〕散乱なき〔状態〕を……。まさに、彼らが誰であれ、苦痛を遍知するなら、集起を捨棄するなら、止滅を実証するなら、道を修行するなら、彼らの全てが、無相の解脱を所以に、信による解脱者たちと〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者たちと〔成り〕、空性の解脱を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者たちと〔成る〕。

 

 [1220]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。四つの行相によって、真理の理解と成る。四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、【62】実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。これらの四つの行相によって、真理の理解と成る。これらの四つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、無相の解脱を所以に、信による解脱者と〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者と〔成り〕、空性の解脱を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者と〔成る〕。

 

 [1221]どれだけの行相によって、真理の理解と成るのか。どれだけの行相によって、〔四つの〕真理を理解するのか。九つの行相によって、真理の理解と成る。九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解する。苦痛という真理を、遍知の理解として、理解する。集起という真理を、捨棄の理解として、理解する。止滅という真理を、実証の理解として、理解する。道という真理を、修行の理解として、理解する。そして、一切の法(事象)の、証知の理解がある。そして、一切の形成〔作用〕の、遍知の理解がある。そして、一切の善ならざるものの、捨棄の理解がある。そして、四つの道の、修行の理解がある。そして、止滅の、実証の理解がある。これらの九つの行相によって、真理の理解と成る。これらの九つの行相によって、〔四つの〕真理を理解している者は、無相の解脱を所以に、信による解脱者と〔成り〕、無願の解脱を所以に、身体による実証者と〔成り〕、空性の解脱を所以に、〔正しい〕見解に至り得た者と〔成る〕。

 

227.

 

 [1222]無常〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。無我〔の観点〕から意を為している者は、どのような諸法(性質)を、事実のとおりに知り見るのか。どのように、正しく見ることと成るのか。どのように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成るのか。どこにおいて、疑いは捨棄されるのか。

 

 [1223]無常〔の観点〕から意を為している者は、形相(概念把握)を、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無常〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、転起されたもの(所与的世界)を、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、【63】一切の形成〔作用〕が、苦痛〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。無我〔の観点〕から意を為している者は、そして、形相を、さらに、転起されたものを、事実のとおりに知り見る。それによって説かれる。「正しく見ること」〔と〕。このように、それに従うことで、一切の形成〔作用〕が、無我〔の観点〕から善く見られたものと成る。ここにおいて、疑いは捨棄される。

 

 [1224]そして、すなわち、事実のとおりの知恵は、かつまた、すなわち、正しく見ることは、さらに、すなわち、疑いの超渡は、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか(異義かつ異語であるのか)、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか(同義かつ異語であるのか)。そして、すなわち、事実のとおりの知恵は、かつまた、すなわち、正しく見ることは、さらに、すなわち、疑いの超渡は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

 [1225]無常〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何が、恐怖〔の観点〕から生起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相が、恐怖〔の観点〕から生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、そして、形相が、さらに、転起されたものが、恐怖〔の観点〕から生起する。

 

 [1226]そして、すなわち、恐怖の現起における智慧は、かつまた、すなわち、危険についての知恵は、さらに、すなわち、厭離は、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。そして、すなわち、恐怖の現起における智慧は、かつまた、すなわち、危険についての知恵は、さらに、すなわち、厭離は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

 [1227]そして、すなわち、無我の随観は、さらに、すなわち、空性の随観は、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。そして、すなわち、無我の随観は、さらに、すなわち、空性の随観は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

 [1228]無常〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何を審慮して、知恵が生起するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相を審慮して、知恵が生起する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものを審慮して、【64】知恵が生起する。無我〔の観点〕から意を為していると、そして、形相を、さらに、転起されたものを、〔両者を〕審慮して、知恵が生起する。

 

 [1229]そして、すなわち、解き放ちを欲することは、かつまた、すなわち、審慮の随観は、さらに、すなわち、形成〔作用〕の放捨は、これらの〔三つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。そして、すなわち、解き放ちを欲することは、かつまた、すなわち、審慮の随観は、さらに、すなわち、形成〔作用〕の放捨は、これらの〔三つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

 [1230]無常〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。苦痛〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。無我〔の観点〕から意を為していると、何から、心が出起し、どこにおいて、心が跳入するのか。無常〔の観点〕から意を為していると、形相から、心が出起し、無相において、心が跳入する。苦痛〔の観点〕から意を為していると、転起されたものから、心が出起し、転起なきものにおいて、心が跳入する。無我〔の観点〕から意を為していると、そして、形相から、さらに、転起されたものから、〔両者から〕心が出起し、無相において、転起なきものにおいて、止滅の涅槃の界域において、心が跳入する。

 

 [1231]そして、すなわち、外からの出起と還転における智慧は、さらに、すなわち、〔新たな〕種姓と成る諸法(性質)は、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。そして、すなわち、外からの出起と還転における智慧は、さらに、すなわち、〔新たな〕種姓と成る諸法(性質)は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

 [1232]無常〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。無我〔の観点〕から意を為している者は、どのような解脱によって、解脱するのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱によって、解脱する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱によって、解脱する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱によって、解脱する。

 

 [1233]そして、すなわち、〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧は、さらに、すなわち、道についての【65】知恵は、これらの〔二つの〕法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)のものであり、さらに、種々なる文型のものであるのか、それとも、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなるのか。そして、すなわち、〔内と外の〕両者からの出起と還転における智慧は、さらに、すなわち、道についての知恵は、これらの〔二つの〕法(性質)は、一なる義(意味)のものであり、文型だけが、種々なるものとなる(同義かつ異語である)。

 

228.

 

 [1234]どれだけの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。どれだけの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。

 

 [1235]どのような四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。優位の義(意味)によって、確立の義(意味)によって、導引の義(意味)によって、出脱の義(意味)によって、である。どのように、優位の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、無相の解脱が、優位と成る。苦痛〔の観点〕から意を為していると、無願の解脱が、優位と成る。無我〔の観点〕から意を為していると、空性の解脱が、優位と成る。このように、優位の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。

 

 [1236]どのように、確立の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、心を確立する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、心を確立する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、心を確立する。このように、確立の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。

 

 [1237]どのように、導引の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、心を導引する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、心を導引する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、心を導引する。このように、導引の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。

 

 [1238]どのように、出脱の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、無相の解脱を所以に、【66】止滅の涅槃へと出脱する。苦痛〔の観点〕から意を為している者は、無願の解脱を所以に、止滅の涅槃へと出脱する。無我〔の観点〕から意を為している者は、空性の解脱を所以に、止滅の涅槃へと出脱する。このように、出脱の義(意味)によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。これらの四つの行相によって、三つの解脱が、種々なる瞬間において有る。

 

 [1239]どのような七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。配備の義(意味)によって、到達(証得)の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解(通達)の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉(現観)の義(意味)によって、である。どのように、配備の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有るのか。無常〔の観点〕から意を為している者は、形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。それから、解き放たれるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。このように、配備の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。

 

 [1240]苦痛〔の観点〕から意を為している者は、切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。その形相によって、無相であるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。このように、配備の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。

 

 [1241]【67】無我〔の観点〕から意を為している者は、固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。それによって、空であるなら、その形相によって、無相である、ということで、無相の解脱となる。その形相によって、無相であるなら、そこにおいて、切願しない、ということで、無願の解脱となる。そこにおいて、切願しないなら、それによって、空である、ということで、空性の解脱となる。このように、配備の義(意味)によって、到達の義(意味)によって、獲得の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。これらの七つの行相によって、三つの解脱が、一なる瞬間において有る。

 

229.

 

 [1242](1)解脱が存在する。(2)門が存在する。(3)解脱の門が存在する。(4)解脱と正反対のものが存在する。(5)解脱に随順するものが存在する。(6)解脱の還転が存在する。(7)解脱の修行が存在する。(8)解脱の安息が存在する。

 

 [1243](1)どのようなものが、解脱であるのか。(1―1)空性の解脱、(1―2)無相の解脱、(1―3)無願の解脱である。(1―1)どのようなものが、空性の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。厭離の随観の知恵は、愉悦の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。

 

 [1244]形態において、無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。……略……。形態において、空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。……略……。老と死において、空性の随観の知恵は、一切の固着から解き放たれる、ということで、空性の解脱となる。【68】これが、空性の解脱である。

 

 [1245](1―2)どのようなものが、無相の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。厭離の随観の知恵は、愉悦の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。

 

 [1246]形態において、無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。……略……。形態において、無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。形態において、無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。形態において、空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。……略……。老と死において、無相の随観の知恵は、一切の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。老と死において、無願の随観の知恵は、切願の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の形相から解き放たれる、ということで、無相の解脱となる。これが、無相の解脱である。

 

 [1247](1―3)どのようなものが、無願の解脱であるのか。無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。苦痛の随観の知恵は、安楽の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無我の随観の知恵は、自己の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。厭離の随観の知恵は、愉悦の切願から【69】解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。離貪の随観の知恵は、貪欲の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。止滅の随観の知恵は、集起の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。放棄の随観の知恵は、執取の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無相の随観の知恵は、形相の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。

 

 [1248]形態において、無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。……略……。形態において、無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。形態において、空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観の知恵は、常住の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。……略……。老と死において、無願の随観の知恵は、一切の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。老と死において、空性の随観の知恵は、固着の切願から解き放たれる、ということで、無願の解脱となる。これが、無願の解脱である。

 

230.

 

 [1249](2)どのようなものが、門であるのか。それらが、そこにおいて生じた諸々の罪過なく善なる覚り(菩提)の項目としての諸法(性質)であるなら、これが、門である。

 

 [1250](3)どのようなものが、解脱の門であるのか。それが、それらの法(性質)にとっての、対象、止滅、涅槃であるなら、これが、解脱の門である。そして、解脱は、さらに、門は、解脱の門である。これが、解脱の門である。

 

 [1251](4)どのようなものが、解脱と正反対のものであるのか。三つの善ならざるものの根元は、解脱と正反対のものである。三つの悪しき行ないは、解脱と正反対のものである。諸々の善ならざる法(性質)は、全てもろともに、解脱と正反対のものである。これが、解脱と正反対のものである。

 

 [1252]【70】(5)どのようなものが、解脱に随順するものであるのか。三つの善なるものの根元は、解脱に随順するものである。三つの善き行ないは、解脱に随順するものである。諸々の善なる法(性質)は、全てもろともに、解脱に随順するものである。これが、解脱に随順するものである。

 

 [1253](6)どのようなものが、解脱の還転であるのか。表象の還転、思の還転、心の還転、知恵の還転、解脱の還転、真理の還転である。表象している者が還転する、ということで、表象の還転となる。思弁している者が還転する、ということで、思の還転となる。識知している者が還転する、ということで、心の還転となる。知恵を作り為している者が還転する、ということで、知恵の還転となる。放棄している者が還転する、ということで、解脱の還転となる。真実の義(意味)によって還転する、ということで、真理の還転となる。

 

 [1254]そこにおいて、表象の還転があるなら、そこにおいて、思の還転がある。そこにおいて、思の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転があるなら、そこにおいて、心の還転がある。そこにおいて、心の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転があるなら、そこにおいて、知恵の還転がある。そこにおいて、知恵の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転があるなら、そこにおいて、解脱の還転がある。そこにおいて、解脱の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転がある。そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転があるなら、そこにおいて、真理の還転がある。そこにおいて、真理の還転があるなら、そこにおいて、表象の還転と思の還転と心の還転と知恵の還転と解脱の還転がある。これが、解脱の還転である。

 

 [1255](7)どのようなものが、解脱の修行であるのか。第一の瞑想の、習修、修行、多くの行為(多作・多修)である。第二の瞑想の、習修、修行、多くの行為である。第三の瞑想の、習修、修行、多くの行為である。第四の瞑想の、習修、修行、多くの行為である。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の……略……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の……。預流道の、習修、修行、多くの行為である。一来道の、習修、修行、多くの行為である。不還道の、習修、修行、多くの行為である。阿羅漢道の、習修、修行、多くの行為である。【71】これが、解脱の修行である。

 

 [1256](8)どのようなものが、解脱の安息であるのか。第一の瞑想の、あるいは、獲得であり、あるいは、報い(異熟)である。第二の瞑想の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。第三の瞑想の……略……。第四の瞑想の……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の……。無所有なる〔認識の〕場所への入定の……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の、あるいは、獲得であり、あるいは、報いである。預流道の、預流果である。一来道の、一来果である。不還道の、不還果である。阿羅漢道の、阿羅漢果である。これが、解脱の安息である。ということで──

 

 〔以上が〕第三の朗読分となる。

 

 [1257]解脱についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 6. 〔死後の〕境遇についての言説

 

231.

 

 [1258]【72】(1)〔死後の〕境遇()への得達において、知恵と結び付いたとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付いたとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(3)形態の行境(色界)の天〔の神々〕たちには、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(4)形態なき行境(無色界)の天〔の神々〕たちには、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。

 

 [1259](1)〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付いたとき、八つの因に縁あることから、再生と成る。(2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付いたとき、八つの因に縁あることから、再生と成る。(3)形態の行境の天〔の神々〕たちには、八つの因に縁あることから、再生と成る。(4)形態なき行境の天〔の神々〕たちには、八つの因に縁あることから、再生と成る。

 

232.

 

 [1260](1)〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付いたとき、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為(善業)の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の瞬間において、善なる三つの因(無貪善因・無瞋善因・無痴善因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁(倶生縁)と成る。それによって説かれる。「善なるものの根元(善根)という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因(貪不善因・痴不善因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものの根元(不善根)という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き明かされない三つの因(無貪無記因・無瞋無記因・無痴無記因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁あることからもまた、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕という縁あることからもまた、名前と形態がある」〔と〕。

 

 [1261]結生の瞬間において、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)が、共に生じた縁(倶生縁)と成り、【73】互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(依縁)と成り、結び付かないものとしての縁(不相応縁)と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕(寿命・熱・識知作用)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、形態が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの形態なき範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成る。結生の瞬間において、五つの機能(信根・精進根・念根・定根・慧根)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、識知〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの二十八の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付いたとき、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。

 

 [1262](2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付いたとき、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものの根元という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものの根元という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き明かされない三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、【74】共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁あることからもまた、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕という縁あることからもまた、名前と形態がある」〔と〕。

 

 [1263]結生の瞬間において、五つの〔心身を構成する〕範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、形態が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの形態なき範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、五つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、識知〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの二十八の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境(欲界)の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付いたとき、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。

 

 [1264](3)形態の行境の天〔の神々〕たちには、どのような八つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が……略……。形態の行境の天〔の神々〕たちには、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。

 

 [1265](4)形態なき行境の天〔の神々〕たちには、どのような八つの因に【75】縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものの根元という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものの根元という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き明かされない三つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前という縁あることからもまた、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕という縁あることからもまた、名前がある」〔と〕。

 

 [1266]結生の瞬間において、四つの形態なき範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、五つの機能が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、識知〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。形態なき行境の天〔の神々〕たちには、これらの八つの因に縁あることから、再生と成る。

 

233.

 

 [1267](1)〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付かないとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。(2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付かないとき、どれだけの因に縁あることから、再生と成るのか。

 

 [1268](1)〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付かないとき、六つの因に縁あることから、再生と成る。(2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付かないとき、六つの因に縁あることから、再生と【76】成る。

 

 [1269](1)〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付かないとき、どのような六つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為(善業)の、疾走〔作用〕(勢速・速行:一連の認識作用の過程において認識対象を味わう作用・働き)の瞬間において、善なる二つの因(無貪善因・無瞋善因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁(倶生縁)と成る。それによって説かれる。「善なるものの根元(善根)という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある」〔と〕。欲念の瞬間において、善ならざる二つの因(貪不善因・痴不善因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善ならざるものの根元(不善根)という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。結生の瞬間において、〔善悪が〕説き明かされない二つの因(無貪無記因・無瞋無記因)が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「名前と形態という縁あることからもまた、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕という縁あることからもまた、名前と形態がある」〔と〕。

 

 [1270]結生の瞬間において、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)が、共に生じた縁(倶生縁)と成り、互いに他なる縁(互縁)と成り、依所たる縁(互縁)と成り、結び付かないものとしての縁(不相応縁)と成る。結生の瞬間において、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、三つの生命の形成〔作用〕(寿命・熱・識知作用)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、形態が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十四の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。結生の瞬間において、四つの形態なき範疇が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁(相応縁)と成る。結生の瞬間において、四つの機能(信根・精進根・念根・定根)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、二つの因が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、そして、名前が、さらに、識知〔作用〕が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。結生の瞬間において、これらの十二の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付いたものとしての縁と成る。【77】結生の瞬間において、これらの二十六の法(性質)が、共に生じた縁と成り、互いに他なる縁と成り、依所たる縁と成り、結び付かないものとしての縁と成る。〔死後の〕境遇への得達において、知恵と結び付かないとき、これらの六つの因に縁あることから、再生と成る。

 

 [1271](2)士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付かないとき、どのような六つの因に縁あることから、再生と成るのか。善なる行為の、疾走〔作用〕の瞬間において、善なる二つの因が、その瞬間において、生じた思欲にとって、共に生じた縁と成る。それによって説かれる。「善なるものの根元という縁あることからもまた、諸々の形成〔作用〕がある」〔と〕。……略……。士族の大家たちと婆羅門の大家たちと家長の大家たちと欲望の行境の天〔の神々〕たちには、知恵と結び付かないとき、これらの六つの因に縁あることから、再生と成る。ということで──

 

 [1272]〔死後の〕境遇についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 7. 行為についての言説

 

234.

 

 [1273]【78】〔過去に〕行為()が有り、〔過去に〕行為の報い(異熟)が有った。〔過去に〕行為が有り、〔過去に〕行為の報いが有ることなくあった。〔過去に〕行為が有り、〔現在に〕行為の報いが存在する。〔過去に〕行為が有り、〔現在に〕行為の報いが存在しない。〔過去に〕行為が有り、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔過去に〕行為が有り、〔未来に〕行為の報いが有ることなくあるであろう。〔以上が〕過去の行為となる。

 

 [1274]〔現在に〕行為が存在し、〔現在に〕行為の報いが存在する。〔現在に〕行為が存在し、〔現在に〕行為の報いが存在しない。〔現在に〕行為が存在し、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔現在に〕行為が存在し、〔未来に〕行為の報いが有ることなくあるであろう。〔以上が〕現在の行為となる。

 

 [1275]〔未来に〕行為が有るであろうし、〔未来に〕行為の報いが有るであろう。〔未来に〕行為が有るであろうし、〔未来に〕行為の報いが有ることなくあるであろう。〔以上が〕未来の行為となる。

 

235.

 

 [1276]〔過去に〕善なる行為が有り、〔過去に〕善なる行為の報いが有った。〔過去に〕善なる行為が有り、〔過去に〕善なる行為の報いが有ることなくあった。〔過去に〕善なる行為が有り、〔現在に〕善なる行為の報いが存在する。〔過去に〕善なる行為が有り、〔現在に〕善なる行為の報いが存在しない。〔過去に〕善なる行為が有り、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕善なる行為が有り、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1277]〔現在に〕善なる行為が存在し、〔現在に〕善なる行為の報いが存在する。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔現在に〕善なる行為の報いが存在しない。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕善なる行為が存在し、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1278]〔未来に〕善なる行為が有るであろうし、〔未来に〕善なる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕善なる行為が有るであろうし、〔未来に〕善なる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1279]〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔過去に〕善ならざる行為の報いが有った。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔過去に〕善ならざる行為の報いが有ることなくあった。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在する。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在しない。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕善ならざる行為が有り、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1280]〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在する。【79】〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔現在に〕善ならざる行為の報いが存在しない。〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕善ならざる行為が存在し、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1281]〔未来に〕善ならざる行為が有るであろうし、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕善ならざる行為が有るであろうし、〔未来に〕善ならざる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1282]〔過去に〕罪過を有する行為が有り……略……。〔過去に〕罪過なき行為が有り……略……。〔過去に〕黒き行為が有り……略……。〔過去に〕白き行為が有り……略……。〔過去に〕安楽を生成する行為が有り……略……。〔過去に〕苦痛を生成する行為が有り……略……。〔過去に〕安楽の報いとなる行為が有り……略……。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔過去に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有った。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔過去に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることなくあった。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在する。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在しない。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔過去に〕苦痛の報いとなる行為が有り、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1283]〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在する。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔現在に〕苦痛の報いとなる行為の報いが存在しない。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔現在に〕苦痛の報いとなる行為が存在し、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることなくあるであろう。

 

 [1284]〔未来に〕苦痛の報いとなる行為が有るであろうし、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有るであろう。〔未来に〕苦痛の報いとなる行為が有るであろうし、〔未来に〕苦痛の報いとなる行為の報いが有ることなくあるであろう。ということで──

 

 [1285]行為についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 8. 転倒についての言説

 

236.

 

 [1286]【80】従前の因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、無常において、『常住である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、苦痛において、『安楽である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、無我において、『自己である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、不浄において、『浄美である』と、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒となり、心の転倒となり、見解の転倒となるものがあります。

 

 [1287]比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、無常において、『無常である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、苦痛において、『苦痛である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、無我において、『無我である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、不浄において、『不浄である』と、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒となりません。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、表象の転倒とならず、心の転倒とならず、見解の転倒とならないものがあります」と。

 

 [1288]〔そこで、詩偈に言う〕「無常において、常住の表象ある者たち、そして、苦痛において、安楽の表象ある者たち、さらに、無我において、『自己である』と〔表象ある者たち〕、不浄において、浄美の表象ある者たちは、誤った見解に打破された有情たちであり、散乱した心の者たちであり、表象が離れる者たちである。

 

 [1289]【81】彼らは、悪魔の束縛に束縛された者たちであり、束縛からの平安なき人たちであり、〔これらの〕有情たちは、輪廻に赴く──生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。

 

 [1290]しかしながら、覚者たちが、光の作り手たちとして、世に生起する、そのとき、彼らは、この法(真理)を明示する──〔すなわち〕苦しみの寂止に至る〔道〕を。

 

 [1291]彼らの〔言葉を〕聞いて、智慧を有する者たちは、自らの心を獲得して、無常を、無常〔の観点〕から見た。苦痛を、苦痛〔の観点〕から見た。

 

 [1292]無我において、『無我である』と〔見た〕。不浄を、不浄〔の観点〕から見た。正しい見解の受持ある者たちは、一切の苦しみを過ぎ行った」と。

 

 [1293]これらの四つの転倒となるものがあり、〔正しい〕見解を成就した人(預流者)には、〔すでに〕捨棄された〔転倒〕があり、〔いまだ〕捨棄されていない〔転倒〕がある、ということで、或る〔転倒〕は、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、或る〔転倒〕は、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある。無常において、「常住である」という、表象の転倒と心の転倒と見解の転倒は、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。苦痛において、「安楽である」という、表象が生起し、心が生起するが、見解の転倒は、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。無我において、「自己である」という、表象の転倒と心の転倒と見解の転倒は、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。不浄において、「浄美である」と、表象が生起し、心が生起するが、見解の転倒は、〔すでに〕捨棄されたものとしてある。二つの事態(無常・無我)において、六つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、二つの事態(苦痛・不浄)において、二つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、四つの転倒が、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある。四つの事態(無常・苦痛・無我・不浄)において、八つの転倒が、〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、四つの転倒が、〔いまだ〕捨棄されていないものとしてある。ということで──

 

 [1294]転倒についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 9. 道についての言説

 

237.

 

 [1295]【82】「道」とは、どのような義(意味)によって、道となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1296]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1297]遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、【83】真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1298]等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1299]浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり……略……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり……略……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきの捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1300]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1301]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、【84】正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものの〔捨棄のために〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1302]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕の〔捨棄のために〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕の〔捨棄のために〕、思量の〔捨棄のために〕、高揚の〔捨棄のために〕、無明の〔捨棄のために〕、思量の悪習の〔捨棄のために〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の〔捨棄のために〕、無明の悪習の捨棄のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、共に生じた諸法(性質)の保全のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことのために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、理解にとって最初の清めるもののために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の確立のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、心の浄化のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、殊勝〔の境地〕への到達のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、より上なる理解のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、真理の知悉のために、まさしく、そして、道となり、さらに、因となり、止滅において確立させることのために、まさしく、そして、道となり、因となる。

 

 [1303]〔あるがままの〕見という道が、正しい見解である。〔正しく心を〕固定することという道が、正しい思惟である。遍き収取という道が、正しい言葉である。等しく現起するものという道が、正しい行業である。浄化するものという道が、正しい生き方である。励起という道が、正しい努力である。現起という道が、正しい気づきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕という道が、正しい禅定である。現起という道が、気づきという正覚の支分である。精査という道が、法(真理)の判別という正覚の支分である。励起という道が、精進という正覚の支分である。充満という道が、喜悦という正覚の支分である。寂止という道が、静息という正覚の支分である。〔心の〕散乱なき〔状態〕という道が、禅定という正覚の支分である。審慮という道が、放捨という正覚の支分である。

 

 [1304]不信にたいする、不動という道が、信の力である。怠惰にたいする、不動という道が、精進の力である。放逸にたいする、不動という道が、気づきの力である。〔心の〕高揚にたいする、不動という道が、禅定の力である。無明にたいする、不動という道が、智慧の力である。信念という道が、信の機能である。励起という道が、精進の機能である。現起という道が、【85】気づきの機能である。〔心の〕散乱なき〔状態〕という道が、禅定の機能である。〔あるがままの〕見という道が、智慧の機能である。

 

 [1305]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、道となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、道となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、道となる。因の義(意味)によって、〔八つの〕道の支分が、道となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、道となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、道となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、道となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、道となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、道となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、道となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、道となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、道となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、道となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、道となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、道となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)が、道となる。理解の義(意味)によって、明知が、道となる。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)が、道となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、道となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、道となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、道となる。接触が、配備の義(意味)によって、道となる。感受が、集結の義(意味)によって、道となる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、道となる。気づきが、優位の義(意味)によって、道となる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、道となる。解脱(ヴィムッティ)が、真髄の義(意味)によって、道となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、道となる。ということで──

 

 [1306]道についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

1. 10. 醍醐の甘露についての言説

 

238.

 

 [1307]【86】「比丘たちよ、この梵行は醍醐の甘露であり、教師は面前の状態にあります」〔と〕。三種の醍醐がある。教師が面前の者として有るとき、説示の醍醐があり、納受者の醍醐があり、梵行の醍醐がある。

 

 [1308]どのようなものが、説示の醍醐であるのか。四つの聖なる真理を、告げ知らせること、説示すること、報知すること、確立すること、開顕すること、区分すること、明瞭にする行為であり、四つの気づきの確立を……略……四つの正しい精励を……四つの神通の足場を……五つの機能を……五つの力を……七つの覚りの支分を……聖なる八つの支分ある道を、告げ知らせること、説示すること、報知すること、確立すること、開顕すること、区分すること、明瞭にする行為である。これが、説示の醍醐である。

 

 [1309]どのようなものが、納受者の醍醐であるのか。比丘たち、比丘尼たち、在俗信者(優婆塞)たち、女性在俗信者(優婆夷)たち、天〔の神々〕たち、人間たち、また、あるいは、すなわち、他のまた、誰であれ、識知者たちである。これが、納受者の醍醐である。

 

 [1310]どのようなものが、梵行の醍醐であるのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道である。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)である。これが、梵行の醍醐である。

 

239.

 

 [1311]信念の醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。不信の苦味を捨てて、信の機能の、【87】信念の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、精進の機能である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進の機能の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。現起の醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきの機能の、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定の機能である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚の苦味を捨てて、禅定の機能の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔あるがままの〕見の醍醐は、智慧の機能である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、智慧の機能の、〔あるがままの〕見の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

 

 [1312]不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。不信の苦味を捨てて、信の力の、不信にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進の力の、怠惰にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきの力の、放逸にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚の苦味を捨てて、禅定の力の、〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、智慧の力の、無明にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

 

 [1313]現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきという正覚の支分の、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。精査の醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、法(真理)の判別という正覚の支分の、精査の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進という正覚の支分の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。苦悶の苦味を捨てて、喜悦という正覚の支分の、充満の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。寂止の醍醐は、【88】静息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。邪気の苦味を捨てて、静息という正覚の支分の、寂止の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定という正覚の支分である。〔心の〕高揚は、苦味である。〔心の〕高揚の苦味を捨てて、禅定という正覚の支分の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なき〔状態〕は、苦味である。審慮なき〔状態〕の苦味を捨てて、放捨という正覚の支分の、審慮の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

 

 [1314]〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。誤った見解の苦味を捨てて、正しい見解の、〔あるがままの〕見の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。誤った思惟の苦味を捨てて、正しい思惟の、〔正しく心を〕固定することの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。誤った言葉の苦味を捨てて、正しい言葉の、遍き収取の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。誤った行業は、苦味である。誤った行業の苦味を捨てて、正しい行業の、等しく現起するものの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。誤った生き方の苦味を捨てて、正しい生き方の、浄化するものの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。誤った努力の苦味を捨てて、正しい努力の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。現起の醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。誤った気づきの苦味を捨てて、正しい気づきの、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。誤った禅定は、苦味である。誤った禅定の苦味を捨てて、正しい禅定の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

 

240.

 

 [1315]醍醐が存在し、甘露が存在し、苦味が存在する。信念の醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、精進の機能である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、【89】義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。現起の醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定の機能である。〔心の〕高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔あるがままの〕見の醍醐は、智慧の機能である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

 

 [1316]不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

 

 [1317]現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。精査の醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。寂止の醍醐は、静息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定という正覚の支分である。〔心の〕高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なき〔状態〕は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

 

 [1318]〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。それが、そこにおいて、【90】義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。誤った行業は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。現起の醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。誤った禅定は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味)の味であり、法(教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

 

 [1319]〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。励起の醍醐は、正しい努力である。現起の醍醐は、正しい気づきである。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。

 

 [1320]現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。精査の醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。寂止の醍醐は、静息という正覚の支分である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定という正覚の支分である。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。

 

 [1321]不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。

 

 [1322]信念の醍醐は、信の機能である。励起の醍醐は、精進の機能である。現起の醍醐は、気づきの機能である。〔心の〕散乱なき〔状態〕の醍醐は、禅定の機能である。〔あるがままの〕見の醍醐は、智慧の機能である。

 

 [1323]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、醍醐となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、醍醐となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、醍醐となる。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道が、醍醐となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、醍醐となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、醍醐となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、醍醐となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、醍醐となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、醍醐となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、醍醐となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、醍醐となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、醍醐となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、醍醐となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、醍醐となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、醍醐となる。【91】解き放ちの義(意味)によって、解脱が、醍醐となる。理解の義(意味)によって、明知が、醍醐となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、醍醐となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、醍醐となる。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵が、醍醐となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、醍醐となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、醍醐となる。接触が、配備の義(意味)によって、醍醐となる。感受が、集結の義(意味)によって、醍醐となる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、醍醐となる。気づきが、優位の義(意味)によって、醍醐となる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、醍醐となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、醍醐となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、醍醐となる。ということで──

 

 〔以上が〕第四の朗読分となる。

 

 [1324]醍醐についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

 [1325]大いなるものの章が、第一となる。

 

 [1326]そのための摂頌となる。

 

 [1327]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、知恵と見解、呼吸、機能、第五に解脱、〔死後の〕境遇、行為と転倒、道があり、醍醐とともに、それらの十がある」と。

 

 [1328]これは、諸々の部類の保持をもって据え置かれたものであり、同等のものなく、第一のものにして、最も優れたものであり、「優れた章」と〔説かれる〕。

 

2. 双連のものの章(倶存品)

 

2. 1. 双連のものについての言説

 

1.

 

 [1329]【92】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいる。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに語りかけた。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えた。尊者アーナンダは、こう言った。

 

 [1330]「友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、全てにあまねく、四つの道によります──あるいは、これら〔の四つの道〕のなかのどれか一つによって。どのようなものが、四つのものなのですか。

 

 [1331]「友よ、ここに、比丘が、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を先行とする〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を修行します。彼が、〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するもの()は捨棄され、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は終息と成ります。

 

 [1332]友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行します。彼が、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 [1333]友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します。彼が、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、【93】多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 [1334]友よ、さらに、また、他に、比丘に、法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。友よ、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 [1335]友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、全てにあまねく、四つの道によります──あるいは、これら〔の四つの道〕のなかのどれか一つによって」と。

 

2. 1. 1. 経典についての釈示

 

2.

 

 [1336]どのように、〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行するのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。そこにおいて生じた諸法(性質)を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。かくのごとく、最初に、〔心の〕止寂があり、最後に、〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [1337]「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解という道が生み出される。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟という道が生み出される。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉という道が生み出される。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業という道が生み出される。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方という道が生み出される。励起の義(意味)によって、正しい努力という道が生み出される。現起の義(意味)によって、正しい気づきという道が生み出される。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定という道が生み出される。このように、道が生み出される。

 

 [1338]「彼は、その道を、習修し、修め、多く為します」〔とは〕──「習修し」とは、どのように、習修するのか。〔心を〕傾注している者として習修し、〔あるがままに〕知っている者として習修し、〔あるがままに〕見ている者として習修し、〔あるがままに〕注視している者として習修し、【94】心を確立している者として習修し、信によって信念している者として習修し、精進を励起している者として習修し、気づきを現起させている者として習修し、心を定めている者として習修し、智慧によって覚知している者として習修し、証知されるべきものを証知している者として習修し、遍知されるべきものを遍知している者として習修し、捨棄されるべきものを捨棄している者として習修し、修行されるべきものを修行している者として習修し、実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。

 

 [1339]「修め」とは、どのように、修めるのか(修行するのか)。〔心を〕傾注している者として修め、〔あるがままに〕知っている者として修め、〔あるがままに〕見ている者として修め、〔あるがままに〕注視している者として修め、心を確立している者として修め、信によって信念している者として修め、精進を励起している者として修め、気づきを現起させている者として修め、心を定めている者として修め、智慧によって覚知している者として修め、証知されるべきものを証知している者として修め、遍知されるべきものを遍知している者として修め、捨棄されるべきものを捨棄している者として修め、修行されるべきものを修めている者として修め、実証されるべきものを実証している者として修める。このように、修める。

 

 [1340]「多く為します」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕傾注している者として多く為し、〔あるがままに〕知っている者として多く為し、〔あるがままに〕見ている者として多く為し、〔あるがままに〕注視している者として多く為し、心を確立している者として多く為し、信によって信念している者として多く為し、精進を励起している者として多く為し、気づきを現起させている者として多く為し、心を定めている者として多く為し、智慧によって覚知している者として多く為し、証知されるべきものを証知している者として多く為し、遍知されるべきものを遍知している者として多く為し、捨棄されるべきものを捨棄している者として多く為し、修行されるべきものを修行している者として多く為し、実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

 

 [1341]「彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。預流道によって、身体を有するという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への偏執が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、【95】〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

3.

 

 [1342]憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。……略……。光明の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。……略([554-555]参照)……。放棄の随観ある、出息を所以にする……。放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。そこにおいて生じた諸法(性質)を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。かくのごとく、最初に、〔心の〕止寂があり、最後に、〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきこと(他を遮らずに併存すること)の義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味(作用・働きを同じくすること)の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [1343]「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解という道が生み出される。〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟という道が生み出される。……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定という道が生み出される。このように、道が生み出される。

 

 [1344]「彼は、その道を、習修し、修め、多く為します」〔とは〕──「習修し」とは、どのように、習修するのか。〔心を〕傾注している者として習修し……略……。実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。「修め」とは、どのように、修めるのか。〔心を〕傾注している者として修め、〔あるがままに〕知っている者として修め……略……。実証されるべきものを実証している者として修める。このように、修める。「多く為します」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕傾注している者として多く為し、〔あるがままに〕知っている者として多く為し……略……。実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

 

 [1345]「彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。【96】預流道によって、身体を有するという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への偏執が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔心の〕止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行する。

 

4.

 

 [1346]どのように、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行するのか。無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕止寂がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略([1336]参照)……。習修の義(意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略([1337]参照)……。このように、道が生み出される。……略([1338-1341]参照)……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

 [1347]形態を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、形態を〔対象とする〕、苦痛〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、形態を〔対象とする〕、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕止寂がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

 [1348]感受〔作用〕を〔対象とする〕……略……。【97】表象〔作用〕を〔対象とする〕……。諸々の形成〔作用〕を〔対象とする〕……。識知〔作用〕を〔対象とする〕……。眼を〔対象とする〕……略([107-116]参照)……。老と死を〔対象とする〕、無常〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となり、老と死を〔対象とする〕、苦痛〔の観点〕からの……略……老と死を〔対象とする〕、無我〔の観点〕からの随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法(性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、〔あるがままの〕観察があり、最後に、〔心の〕止寂がある。それによって説かれる。「〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔あるがままの〕観察を先行とする〔心の〕止寂を修行する。

 

5.

 

 [1349]どのように、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。十六の行相によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。(1)対象の義(意味)によって、(2)境涯の義(意味)によって、(3)捨棄の義(意味)によって、(4)遍捨の義(意味)によって、(5)出起の義(意味)によって、(6)還転の義(意味)によって、(7)寂静の義(意味)によって、(8)精妙の義(意味)によって、(9)解脱の義(意味)によって、(10)煩悩なきものの義(意味)によって、(11)超渡の義(意味)によって、(12)無相の義(意味)によって、(13)無願の義(意味)によって、(14)空性の義(意味)によって、(15)一味の義(意味)によって、(16)超克なきことの義(意味)によって、(17)双連の義(意味)によって、である。

 

 [1350](1)どのように、対象の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を対象とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を対象とするものと〔成る〕。かくのごとく、対象の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り(作用・働きを同じくする)、双連のものと成り、互いに他を超克することがない(他を遮らずに併存する)。ということで、それによって説かれる。「対象の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、対象の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。

 

 [1351](2)どのように、境涯の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、境涯の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を【98】超克することがない。ということで、それによって説かれる。「境涯の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1352](3)どのように、捨棄の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔捨棄し〕、さらに、諸々の範疇を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔捨棄し〕、さらに、諸々の範疇を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、捨棄の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「捨棄の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1353](4)どのように、遍捨の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらに、諸々の範疇を遍捨していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔遍捨し〕、さらに、諸々の範疇を遍捨していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、遍捨の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「遍捨の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1354](5)どのように、出起の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらに、諸々の範疇から出起していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔出起し〕、さらに、諸々の範疇から出起していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、出起の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「出起の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1355](6)どのように、還転の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔還転し〕、さらに、諸々の範疇から還転していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れから〔還転し〕、さらに、諸々の範疇から還転していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、還転の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「還転の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1356](7)どのように、寂静の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を【99】捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、寂静の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「寂静の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1357](8)どのように、精妙の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、精妙の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「精妙の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1358](9)どのように、解脱の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、欲望の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、無明の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、貪欲の離貪あることから、〔止寂の〕心による解脱があり、無明の離貪あることから、〔観察の〕智慧による解脱がある。かくのごとく、解脱の義(意味)によって(※)、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「解脱の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

※ テキストには paññā vimuttaṭṭhena とあるが、PTS版により paññāvimutti. Iti vimuttaṭṭhena と読む。

 

 [1359](10)どのように、煩悩なきものの義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、欲望の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、無明の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、煩悩なきものの義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「煩悩なきものの義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1360](11)どのように、超渡の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔超渡し〕、さらに、諸々の範疇を超渡していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。そして、無明を共具した諸々の〔心の〕汚れを〔超渡し〕、さらに、諸々の範疇を超渡していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、超渡の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「超渡の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1361](12)どのように、無相の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして【100】修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、一切の形相(概念把握)から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の形相から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、無相の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無相の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1362](13)どのように、無願の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、無願の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無願の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。

 

 [1363](14)どのように、空性の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕としての禅定が、一切の固着(固定観念)から空なるものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、一切の固着から空なるものと成り、止滅を境涯とするものと〔成る〕。かくのごとく、空性の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「空性の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、空性の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。これらの十六の行相によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。このように、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。

 

 [1364]〔以上が〕経典についての釈示となる。

 

2. 1. 2. 法(教え)にたいする〔心の〕高揚の部についての釈示

 

6.

 

 [1365]どのように、法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有るのか。無常〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。【101】〔彼は〕「光輝が、法(真理)である」と、光輝に〔心を〕傾注する。その〔光輝〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

 [1366]無常〔の観点〕から意を為していると、知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

 [1367]苦痛〔の観点〕から意を為していると……略……。無我〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。……略……知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。【102】それによって説かれる。「法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

 

 [1368]形態を、無常〔の観点〕から意を為していると……略……。形態を、苦痛〔の観点〕から意を為していると……。形態を、無我〔の観点〕から意を為していると……。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。眼を……略([107-116]参照)……。老と死を、無常〔の観点〕から意を為していると……略……。老と死を、苦痛〔の観点〕から意を為していると……。老と死を、無我〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。……略……知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕「欲念が、法(真理)である」と、欲念に〔心を〕傾注する。その〔欲念〕から〔生起する、心の〕散乱が、〔心の〕高揚である。その〔心の〕高揚によって執持された意図は、無我〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、法(教え)にたいする〔心の〕高揚によって執持された意図が有る。

 

7.

 

 [1369]〔そこで、詩偈に言う〕「(1)まさしく、そして、光輝にたいし、(2)かつまた、知恵にたいし、(3)さらに、喜悦にたいし、〔心が〕動き、(4)静息にたいし、(5)まさしく、そして、安楽にたいし、それら〔の静息や安楽〕によって、心が動揺する。

 

 [1370](6)そして、信念にたいし、(7)励起にたいし、(8)さらに、現起にたいし、〔心が〕動き、(9)まさしく、そして、傾注する〔作用〕の放捨にたいし、さらに、〔あるがままの観察の〕放捨にたいし、(10)欲念にたいし、〔心が動く〕。

 

 [1371]これらの十の境位があるも、智慧が、彼に遍く蓄積されたなら、法(教え)にたいする〔心の〕高揚に巧みな智ある者と成り、そして、迷妄に至らない。

 

 [1372](1)まさしく、そして、〔心が〕散乱し、さらに、〔心が〕汚れ、心の修行が死滅する。【103】(2)〔心が〕散乱し、〔心が〕汚れず、修行が衰退する。

 

 [1373](3)〔心が〕散乱し、〔心が〕汚れず、修行が遍く衰退しない。(4)そして、〔心が〕散乱せず、心が汚れず、心の修行が死滅しない」〔と〕。

 

 [1374]これらの四つの境位によって、心の、退縮と散乱と執持された〔意図〕を、十の境位において正知する。ということで──

 

 [1375]双連のものについての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 2. 真理についての言説

 

8.

 

 [1376]【104】従前の因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、『これは、苦痛である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦痛の集起である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦痛の止滅である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものがあります」〔と〕。

 

2. 2. 1. 第一の経典についての釈示

 

 [1377]どのように、苦痛が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、苦痛の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)、形成されたもの(有為)の義(意味)、熱苦の義(意味)、変化の義(意味)である。これらの四つのものが、苦痛の、苦痛の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、苦痛が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1378]どのように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、集起の、集起の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。集起の、専業(業を作ること)の義(意味)、因縁の義(意味)、束縛の義(意味)、障害の義(意味)である。これらの四つのものが、集起の、集起の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、集起が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1379]どのように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、止滅の、【105】止滅の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。止滅の、出離(出要)の義(意味)、遠離の義(意味)、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)、不死の義(意味)である。これらの四つのものが、止滅の、止滅の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、止滅が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1380]どのように、道が、真実の義(意味)によって、真理となるのか。四つのものが、道の、道の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。道の、出脱の義(意味)、因の義(意味)、〔あるがままの〕見の義(意味)、優位の義(意味)である。これらの四つのものが、道の、道の義(意味)となり、真実となり、真実を離れざるものとなり、他ならざるものとなる。このように、道が、真実の義(意味)によって、真理となる。

 

9.

 

 [1381]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、である。これらの四つの行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1382]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1383]どのように、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、無我の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、無我の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、無我の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、無我の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、無我の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1384]どのように、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真理の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真理の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真理の義(意味)となる。道の、【106】道の義(意味)が、真理の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、真理の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1385]どのように、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。四つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、理解の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、理解の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、理解の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、理解の義(意味)となる。これらの四つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

10.

 

 [1386]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。それが、無常であるなら、それは、苦痛である。それが、苦痛であるなら、それは、無常である。それが、かつまた、無常でもあり、かつまた、苦痛でもあるなら、それは、無我である。それが、かつまた、無常でもあり、かつまた、苦痛でもあり、かつまた、無我でもあるなら、それは、真実である。それが、かつまた、無常でもあり、かつまた、苦痛でもあり、かつまた、無我でもあり、かつまた、真実でもあるなら、それは、真理である。それが、かつまた、無常でもあり、かつまた、苦痛でもあり、かつまた、無我でもあり、かつまた、真実でもあり、かつまた、真理でもあるなら、それは、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1387]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、証知の義(意味)によって、遍知の義(意味)によって、捨棄の義(意味)によって、修行の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、である。これらの九つの行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1388]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、真実の義(意味)となる。証知の、証知の義(意味)が、真実の義(意味)となる。遍知の、遍知の義(意味)が、真実の義(意味)となる。捨棄の、捨棄の義(意味)が、真実の義(意味)となる。修行の、修行の義(意味)が、真実の義(意味)となる。実証の、実証の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの九つの行相によって、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1389]【107】どのように、無我の義(意味)によって……真理の義(意味)によって……理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。九つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、苦痛の義(意味)が、理解の義(意味)となる。集起の、集起の義(意味)が、理解の義(意味)となる。止滅の、止滅の義(意味)が、理解の義(意味)となる。道の、道の義(意味)が、理解の義(意味)となる。証知の、証知の義(意味)が、理解の義(意味)となる。遍知の、遍知の義(意味)が、理解の義(意味)となる。捨棄の、捨棄の義(意味)が、理解の義(意味)となる。修行の、修行の義(意味)が、理解の義(意味)となる。実証の、実証の義(意味)が、理解の義(意味)となる。これらの九つの行相によって、理解の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

11.

 

 [1390]どれだけの行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十二の行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。真実の義(意味)によって、無我の義(意味)によって、真理の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、証知することの義(意味)によって、遍知することの義(意味)によって、法(真理)の義(意味)によって、真実の義(意味)によって、所知の義(意味)によって、実証の義(意味)によって、体得の義(意味)によって、知悉の義(意味)によって、である。これらの十二の行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1391]どのように、真実の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十六の行相によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、真実の義(意味)となる。集起の、専業の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、真実の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものではないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、真実の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位の義(意味)が、真実の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

 [1392]【108】どのように、無我の義(意味)によって……略……真理の義(意味)によって……理解の義(意味)によって……証知することの義(意味)によって……遍知することの義(意味)によって……法(真理)の義(意味)によって……真実の義(意味)によって……所知の義(意味)によって……実証の義(意味)によって……体得の義(意味)によって……知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなるのか。十六の行相によって、知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。苦痛の、逼悩の義(意味)が、形成されたものの義(意味)が、熱苦の義(意味)が、変化の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。集起の、専業の義(意味)が、因縁の義(意味)が、束縛の義(意味)が、障害の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。止滅の、出離の義(意味)が、遠離の義(意味)が、形成されたものではないものの義(意味)が、不死の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。道の、出脱の義(意味)が、因の義(意味)が、〔あるがままの〕見の義(意味)が、優位の義(意味)が、知悉の義(意味)となる。これらの十六の行相によって、知悉の義(意味)によって、四つの真理が、一つに包摂されたものとなる。それが、一つに包摂されたものであるなら、それは、一なることである。一なることを、一つの知恵によって理解する、ということで、四つの真理が、一なる理解あるものとなる。

 

12.

 

 [1393]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、二つの特相がある。そして、形成されたものの特相であり、さらに、形成されたものではないものの特相である。諸々の真理には、これらの二つの特相がある。

 

 [1394]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、六つの特相がある。諸々の形成されたものとしての真理には、生起が覚知され、衰失が覚知され、諸々の止住しているものの他化が覚知される。形成されたものではないものとしての真理には、生起が覚知されず、衰失が覚知されず、止住しているものの他化が覚知されない。諸々の真理には、これらの六つの特相がある。

 

 [1395]諸々の真理には、どれだけの特相があるのか。諸々の真理には、十二の特相がある。苦痛という真理には、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。集起という真理には、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。道という真理には、生起が覚知され、衰失が覚知され、止住しているものの他化が覚知される。止滅という真理には、生起が覚知されず、衰失が覚知されず、止住しているものの他化が覚知されない。諸々の真理には、これらの十二の特相がある。

 

 [1396]四つの真理には、どれだけの善なるものがあり、どれだけの善ならざるものがあり、どれだけの〔善悪が〕説き明かされないものがあるのか。集起という真理は、善ならざるものである。道という真理は、【109】善なるものである。止滅という真理は、〔善悪が〕説き明かされないものである。苦痛という真理は、善なるものとして存するであろうし、善ならざるものとして存するであろうし、〔善悪が〕説き明かされないものとして存するであろう。

 

 [1397]三つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとして、一つの真理が、三つの真理によって包摂されたものとして、存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。「存するべきである」とは、では、どのように、存するべきであるのか。それが、苦痛という真理として、善ならざるものであり、集起という真理として、善ならざるものであるなら、このように、善ならざるものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。それが、苦痛という真理として、善なるものであり、道という真理として、善なるものであるなら、このように、善なるものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。それが、苦痛という真理として、〔善悪が〕説き明かされないものであり、止滅という真理として、〔善悪が〕説き明かされないものであるなら、このように、〔善悪が〕説き明かされないものの義(意味)によって、二つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとなり、一つの真理が、二つの真理によって包摂されたものとなる。このように、三つの真理が、一つの真理によって包摂されたものとして、一つの真理が、三つの真理によって包摂されたものとして、存するべきである──基盤(事態)を所以に、教相(様態)によって。ということで──

 

2. 2. 2. 第二の経典となる聖典

 

13.

 

 [1398]「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、形態の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。感受〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。表象〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。諸々の形成〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。識知〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽である。すなわち、形態が、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険である。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離である。それが、感受〔作用〕を縁として……略……。それが、表象〔作用〕を縁として……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……。それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽である。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛あり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険である。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離である』〔と〕。

 

 [1399]比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を【110】危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

2. 2. 3. 第二の経典についての釈示

 

14.

 

 [1400]「それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽である」とは、捨棄の理解であり、集起という真理である。「すなわち、形態が、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険である」とは、遍知の理解であり、苦痛という真理である。「それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離である」とは、実証の理解であり、止滅という真理である。それが、これらの三つの境位における、見解、思惟、言葉、生業、生き方、努力、気づき、禅定であるなら、修行の理解であり、道という真理である。

 

 [1401]「それが、感受〔作用〕を縁として……略……。それが、表象〔作用〕を縁として……。それが、諸々の形成〔作用〕を縁として……。それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽である」とは、捨棄の理解であり、集起という真理である。「すなわち、識知〔作用〕が、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険である」とは、遍知の理解であり、苦痛という真理である。「それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離である」とは、実証の理解であり、止滅という真理である。それが、これらの三つの境位における、見解、思惟、言葉、生業、生き方、努力、気づき、禅定であるなら、修行の理解であり、道という真理である。

 

15.

 

 [1402]「真理である」とは、どれだけの行相によって、【111】真理となるのか。探求の義(意味)によって、遍き収取(理解・把握)の義(意味)によって、理解の義(意味)によって、である。どのように、探求の義(意味)によって、真理となるのか。「老と死は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「老と死は、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、さらに、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1403]「生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「生は、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、さらに、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1404]「生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「生存は、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、生存を覚知し、かつまた、生存の集起を覚知し、かつまた、生存の止滅を覚知し、さらに、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1405]「執取は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「執取は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、執取を覚知し、かつまた、執取の集起を覚知し、かつまた、執取の止滅を覚知し、さらに、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1406]「渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、渇愛を覚知し、かつまた、渇愛の集起を覚知し、かつまた、渇愛の止滅を覚知し、さらに、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1407]【112】「感受は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、感受を覚知し、かつまた、感受の集起を覚知し、かつまた、感受の止滅を覚知し、さらに、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1408]「接触は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、接触を覚知し、かつまた、接触の集起を覚知し、かつまた、接触の止滅を覚知し、さらに、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1409]「六つの〔認識の〕場所は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、六つの〔認識の〕場所を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、さらに、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1410]「名前と形態は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、名前と形態を覚知し、かつまた、名前と形態の集起を覚知し、かつまた、名前と形態の止滅を覚知し、さらに、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1411]「識知〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、識知〔作用〕を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

 [1412]【113】「諸々の形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか」と、このように、探求の義(意味)によって、真理となる。「諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とする」と、このように、遍き収取の義(意味)によって、真理となる。そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知する。このように、理解の義(意味)によって、真理となる。

 

16.

 

 [1413]老と死は、苦痛という真理であり、生は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生は、苦痛という真理であり、生存は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生存は、苦痛という真理であり、執取は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。執取は、苦痛という真理であり、渇愛は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。渇愛は、苦痛という真理であり、感受は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。感受は、苦痛という真理であり、接触は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。接触は、苦痛という真理であり、六つの〔認識の〕場所は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。六つの〔認識の〕場所は、苦痛という真理であり、名前と形態は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。名前と形態は、苦痛という真理であり、識知〔作用〕は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。識知〔作用〕は、苦痛という真理であり、諸々の形成〔作用〕は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。諸々の形成〔作用〕は、苦痛という真理であり、無明は、集起という真理であり、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。

 

 [1414]老と死は、苦痛という真理として存するであろうし、集起という真理として存するであろうし、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。生は、苦痛という真理として存するであろうし、集起という真理として存するであろうし……略……。【114】諸々の形成〔作用〕は(※)、苦痛という真理として存するであろうし、集起という真理として存するであろうし、両者ともどもの出離は、止滅という真理であり、止滅の覚知は、道という真理である。ということで──

 

※ テキストには bhavo とあるが、PTS版により saṅkhārā と読む。

 

 〔以上が第一の〕朗読分となる。

 

 [1415]真理についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 3. 覚支についての言説

 

17.

 

 [1416]【115】サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの覚りの支分(覚支)です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分(念覚支)であり、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)であり、精進という正覚の支分(精進覚支)であり、喜悦という正覚の支分(喜覚支)であり、静息という正覚の支分(軽安覚支)であり、禅定という正覚の支分(定覚支)であり、放捨という正覚の支分(捨覚支)です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります」〔と〕。

 

 [1417]「〔七つの〕覚りの支分」とは、どのような義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となるのか。〔それらは〕覚り(菩提)のために等しく転起する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。(1)覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。醒覚する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚する、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1418](2)覚ることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。醒覚することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚することの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1419](3)覚らせる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。醒覚させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚させる、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1420](4)覚らせることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。醒覚させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1421](5)覚りの項目(菩提分)の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。随覚の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。醒覚の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。正覚の項目の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。第五の四なるものとなる。

 

 [1422]覚慧を得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を獲得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を成長させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧を増進させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。覚慧に得達させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。六なるものとなる。

 

2. 3. 1. 根元と根元とするもの等の十なるもの

 

18.

 

 [1423](1)根元の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。【116】根元の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙(無礙解)の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1424](2)因の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。因の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1425](3)縁の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1426](4)清浄の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1427](5)罪過なきものの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1428](6)離欲の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の完熟の義(意味)によって、【117】〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1429](7)解脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1430](8)煩悩なきものの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1431](9)遠離の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1432](10)放棄の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の遍き収取の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の付属の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の円満成就の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の完熟の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙に至り得させることの義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙における自在なる状態の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の融通無礙における自在なる状態に至り得た者たちにとってもまた、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

19.

 

 [1433]根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの義(意味)を【118】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1434]根元の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。縁の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。清浄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。罪過なきものの性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離欲の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1435]根元の遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の完熟の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の完熟の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の融通無礙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙に至り得させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の融通無礙に至り得させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。根元の融通無礙における自在なる状態の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放棄の融通無礙における自在なる状態の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。

 

 [1436]遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一境の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕拡散なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕混濁なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕動揺なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なる現起を所以に、心が安立したことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。対象の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。捨棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍捨の義(意味)を【119】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。還転の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。寂静の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。精妙の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。煩悩なきものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。超渡の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無相の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無願の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。空性の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。双連の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。優位の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1437]〔心の〕止寂の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕観察の、随観の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の、一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1438]学び(戒律)の、受持の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。対象の、境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。畏縮した心の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。高揚した心の、制御の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔畏縮した心と高揚した心の〕両者の清浄の、客観(客観的認識)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。より上なる理解の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真理の知悉の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅において確立させるものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1439]信の機能の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。智慧の機能の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。信の力の、不信にたいする、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。智慧の力の、無明にたいする、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。気づきという正覚の支分の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。放捨という正覚の支分の、審慮(客観的観察)の義(意味)を【120】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。正しい見解の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。正しい禅定の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1440]〔五つの〕機能(五根)の、優位の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔五つの〕力(五力)の、不動の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔聖なる八つの支分ある〕道(八正道八聖道)の、因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕正しい精励(四正勤)の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕神通の足場(四神足)の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕真理(四諦)の、真実の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの〕専念〔努力〕(四加行)の(※)、安息の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔四つの沙門の〕果(四沙門果)の、実証の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

※ テキストには Payogānaṃṃṃṃṃ とあるが、PTS版により payogānaṃ と読む。

 

 [1441]思考()の、〔心を〕固定することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。想念()の、細かい想念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。喜悦()の、充満の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。安楽()の、潤沢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、一境の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1442]傾注することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。識知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。覚知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。表象することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕専一の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。証知の、所知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍知の、推量の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。捨棄の、遍捨の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。修行の、一味の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実証の、体得の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔五つの心身を構成する〕範疇(五蘊)の、範疇()の義(意味)を覚る、ということで、【121】〔七つの〕覚りの支分となる。〔十八の〕界域(十八界)の、界域()の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔十二の認識の〕場所(十二処)の、〔認識の〕場所()の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。諸々の形成されたもの(現象世界)の、形成されたもの(有為)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。形成されたものではないもの(涅槃)の、形成されたものではないもの(無為)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1443]心の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の直後なることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、還転の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、因の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、縁の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、基盤の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境地の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、対象の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境涯の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、境遇の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、導引の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。心の、出離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1444]一なることにおける、傾注することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、識知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、表象することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、〔心の〕専一の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、跳入することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、清信することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、確立することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、解脱することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。【122】一なることにおける、「これは、寂静である」と見ることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、乗物(手段)として作り為されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、地所(基盤)として作り為されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、奮起されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、遍く蓄積されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く正しく勉励されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、遍き収取の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、付属の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、円満成就の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、配備の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、確立の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、習修の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、修行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、多くの行為(多作・多修)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く引き起こされたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、善く解脱したものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚ることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、醒覚することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚らせることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、醒覚させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、覚りの項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随覚の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、醒覚の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、正覚の項目の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、照らすことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、輝照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、随照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、明照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。一なることにおける、等照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1445]輝かすことの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍照することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。【123】諸々の〔心の〕汚れを熱苦させることの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。垢なきの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離垢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無垢の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。平等(平静)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。行知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遠離の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離貪の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。離貪の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。放棄の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱の性行の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1446]欲〔の思い〕(意欲)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、足場の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。欲〔の思い〕の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1447]精進の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。心(専心)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。考察の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、根元の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、足場の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、精励の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、実現の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、信念の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、励起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、現起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。考察の、〔あるがままの〕見の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1448]苦痛の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、逼悩の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、形成されたものの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、熱苦の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。苦痛の、【124】変化の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。集起の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。集起の、専業(業を作ること)の義(意味)を……因縁の義(意味)を……束縛の義(意味)を……障害の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。止滅の、出離の義(意味)を……遠離の義(意味)を……形成されたものではないものの義(意味)を……不死の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。道の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。道の、出脱の義(意味)を……因の義(意味)を……〔あるがままの〕見の義(意味)を……優位の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1449]真実の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。無我の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真理の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。理解の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。証知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍知することの義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。法(性質)の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。界域の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。所知の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実証の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。体得の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。知悉の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1450]離欲を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。光明の表象を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことを覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。歓喜を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。第一の瞑想を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。阿羅漢道を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。阿羅漢果への入定を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1451]信念の義(意味)によって、信の機能を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、智慧の機能の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。現起の義(意味)によって、気づきという正覚の支分を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。審慮の義(意味)によって、放捨という正覚の支分を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

 [1452]〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。出脱の義(意味)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立を【125】覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる(※)。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。理解の義(意味)によって、明知を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵を覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

※ テキストには Anupassanaṭṭhe vipassanaṃ …pe… とあるが、PTS版により Anupassanaṭṭhena vipassanaṃ bujjhantīti – bojjhaṅgā. と読む。

 

 [1453]欲〔の思い〕(意欲)を、根元の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。意を為すこと(作意)を、等しく現起するものの義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。接触を、配備の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。感受を、集結の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。禅定を、筆頭の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。気づきを、優位の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。智慧を、それをより上とすることの義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。解脱(ヴィムッティ)を、真髄の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。不死への沈潜たる涅槃を、結末の義(意味)によって覚る、ということで、〔七つの〕覚りの支分となる。

 

20.

 

 [1454]サーヴァッティーの因縁となる。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに語りかけた。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えた。尊者サーリプッタは、こう言った。

 

 [1455]「友よ、七つのものがあります。これらの覚りの支分です。どのようなものが、七つのものなのですか。気づきという正覚の支分であり、法(真理)の判別という正覚の支分であり……略……放捨という正覚の支分です。友よ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります。友よ、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住むことを望むなら……略……【126】夕刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住みます。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。友よ、もし、『法(真理)の判別という正覚の支分である』……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。

 

 [1456]友よ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するようなものです。彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら……略……夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの七つの覚りの支分のなかの、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、早刻時に住みます。その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、日中時に住むことを望むなら……略……夕刻時に住むことを望むなら、その〔覚りの支分〕その覚りの支分によって、夕刻時に住みます。友よ、もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します。……略……。友よ、もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに〔思いが〕有るなら、『無量である』と、わたしに〔思いが〕有り、『善く正しく勉励された』と、わたしに〔思いが〕有り、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、『止住する』と覚知します。それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、『この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する』と覚知します」〔と〕。

 

2. 3. 2. 経典についての釈示

 

21.

 

 [1457]どのように、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、およそ、炎があるかぎり、それまでのあいだ、およそ、色があり、色があるかぎり、それまでのあいだ、炎があるように、まさしく、このように、およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『気づきという正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1458]【127】どのように、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。量(量ること)に結縛された諸々の〔心の〕汚れは、そして、〔それらの〕全てが、妄執であり、さらに、それらの形成〔作用〕は、さらなる生存あるものとなる。止滅は、無量である──不動の義(意味)によって、形成されたものではないものの義(意味)によって。およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1459]どのように、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。諸々の正しからざる〔心の〕汚れは、そして、〔それらの〕全てが、妄執であり、さらに、それらの形成〔作用〕は、さらなる生存あるものとなる。止滅は、正しい法(性質)である──寂静の義(意味)によって、精妙の義(意味)によって。止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1460]どのように、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、「この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する」と覚知するのか。どれだけの行相によって、気づきという正覚の支分が止住するのか。どれだけの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅するのか。八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住する。八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅する。

 

 [1461]どのような八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住するのか。生起なきものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。生起に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。転起なきものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。形相なきものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。形相に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。止滅に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が止住する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が止住する。これらの八つの行相によって、気づきという正覚の支分が止住する。

 

 [1462]どのような八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅するのか。生起に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。生起なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。転起されたものに〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。転起なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。形相に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。形相なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注したことから、気づきという正覚の支分が死滅する。止滅に〔心を〕傾注しなかったことから、気づきという正覚の支分が死滅する。これらの八つの行相によって、気づきという正覚の支分が死滅する。【128】このように、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、「この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する」と覚知する。……略……。

 

 [1463]どのように、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。それは、たとえば、また、油の灯明が燃えていると、およそ、炎があるかぎり、それまでのあいだ、およそ、色があり、色があるかぎり、それまでのあいだ、炎があるように、まさしく、このように、およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『放捨という正覚の支分である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1464]どのように、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。量(量ること)に結縛された諸々の〔心の〕汚れは、そして、〔それらの〕全てが、妄執であり、さらに、それらの形成〔作用〕は、さらなる生存あるものとなる。止滅は、無量である──不動の義(意味)によって、形成されたものではないものの義(意味)によって。およそ、止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『無量である』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1465]どのように、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分があるのか。諸々の正しからざる〔心の〕汚れは、そして、〔それらの〕全てが、妄執であり、さらに、それらの形成〔作用〕は、さらなる生存あるものとなる。止滅は、正しい法(性質)である──寂静の義(意味)によって、精妙の義(意味)によって。止滅〔の状態〕が現起するかぎり、それまでのあいだ、「もし、『善く正しく勉励された』と、わたしに、〔思いが〕有るなら」と、覚りの支分がある。

 

 [1466]どのように、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、「この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する」と覚知するのか。どれだけの行相によって、放捨という正覚の支分が止住するのか。どれだけの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅するのか。八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住する。八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅する。

 

 [1467]どのような八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住するのか。生起なきものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。生起に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。転起なきものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。転起されたものに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。形相なきものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。形相に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。止滅に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が止住する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が止住する。これらの八つの行相によって、放捨という正覚の支分が止住する。

 

 [1468]どのような八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅するのか。生起に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。生起なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。転起されたものに〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。転起なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、【129】放捨という正覚の支分が死滅する。形相に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。形相なきものに〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。諸々の形成〔作用〕に〔心を〕傾注したことから、放捨という正覚の支分が死滅する。止滅に〔心を〕傾注しなかったことから、放捨という正覚の支分が死滅する。これらの八つの行相によって、放捨という正覚の支分が死滅する。このように、さらに、止住している、その〔覚りの支分〕を、「止住する」と覚知し、それで、もし、また、わたしの〔覚りの支分が〕死滅するなら、「この縁あることから、わたしの〔覚りの支分は〕死滅する」と覚知する。

 

 [1469]覚りの支分についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 4. 慈愛についての言説

 

22.

 

 [1470]【130】サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、慈愛()という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十一の福利が期待できます。どのようなものが、十一のものなのですか。(1)安楽に眠ります。(2)安楽に目覚めます。(3)悪夢を見ません。(4)人間たちにとって愛しい者と成ります。(5)人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちにとって愛しい者と成ります。(6)天神たちが〔彼を〕守ります。(7)彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行くことはありません。(8)すみやかに心が定められます。(9)顔色が清まります。(10)迷乱なき者として命を終えます。(11)より上なるもの(智慧による解脱)に理解なくあるも、梵の世に近しく赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの十一の福利が期待できます」〔と〕。

 

 [1471]限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が存在する。限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が存在する。方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が存在する。どれだけの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。どれだけの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。どれだけの行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。

 

 [1472]どのような五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)一切の命あるものたちは……略……。(3)一切の生類たちは……略……。(4)一切の人たちは……略……。(5)一切の自己状態あるものに属する者たち(個我的あり方をしている存在)は、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、【131】煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」と、これらの五つの行相によって、限界なき充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。

 

 [1473]どのような七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)一切の女たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)一切の男たちは……略……。(3)一切の聖者たちは……略……。(4)一切の聖者ならざる者たちは……略……。(5)一切の天〔の神々〕たちは……略……。(6)一切の人間たちは……略……。(7)一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」と、これらの七つの行相によって、限界ある充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。

 

 [1474]どのような十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕のか。「(1)東の方角にある一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。(2)西の方角にある一切の有情たちは……略……。(3)北の方角にある一切の有情たちは……略……。(4)南の方角にある一切の有情たちは……略……。(5)東維にある一切の有情たちは……略……。(6)西維にある一切の有情たちは……略……。(7)北維にある一切の有情たちは……略……。(8)南維にある一切の有情たちは……略……。(9)下の方角にある一切の有情たちは……略……。(10)上の方角にある一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。東の方角にある一切の命あるものたちは……略……生類たちは……人たちは……自己状態あるものに属する者たち(個我的あり方をしている存在)は……一切の女たちは……一切の男たちは……一切の聖者たちは……一切の聖者ならざる者たちは……一切の天〔の神々〕たちは……一切の人間たちは……一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け。西の方角にある一切の堕所にある者たちは……略……。北の方角にある一切の堕所にある者たちは……。南の方角にある一切の堕所にある者たちは……。東維にある一切の堕所にある者たちは……。西維にある一切の堕所にある者たちは……。北維にある一切の堕所にある者たちは……。南維にある一切の堕所にある者たちは……。下の方角にある一切の堕所にある者たちは……。上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け」と、これらの十の行相によって、方角の充満としての慈愛という〔止寂の〕心による解脱が〔存在する〕。

 

2. 4. 1. 機能の部

 

23.

 

 [1475]一切の有情たちの、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)消尽を、消尽なきによって避けて、(5)悩害を、悩害なきによって避けて、「一切の有情たちは、(6)怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)安楽の自己ある者たちとして有れ。苦痛の自己ある者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となり、その法(性質)を思い考える、ということで、心()となり、【132】一切の憎悪〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。そして、慈愛があり、かつまた、心があり、さらに、解脱がある、ということで、慈愛という〔止寂の〕心による解脱となる。

 

 [1476]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1477]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1478]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきの機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1479]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、心を定め、禅定の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1480]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、智慧によって覚知し、智慧の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1481]これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修行される。これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、多く為される。これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。

 

 [1482]これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り(※)、乗物として作り為されたものと【133】成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、遍く蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

※ テキストには phassanā honti とあるが、PTS版により passanā honti と読む。以下の平行箇所も同様。

 

2. 4. 2. 力の部

 

24.

 

 [1483]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、不信にたいし、〔心が〕動かず、信の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1484]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、怠惰にたいし、〔心が〕動かず、精進の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1485]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、放逸にたいし、〔心が〕動かず、気づきの力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1486]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かず、禅定の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1487]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、無明にたいし、〔心が〕動かず、智慧の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1488]これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修行される。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、多く為される。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと【134】成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、遍く蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

2. 4. 3. 覚りの支分の部

 

25.

 

 [1489]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきという正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1490]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、智慧によって精査し、法(真理)の判別という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1491]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1492]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、苦悶を安息させ、喜悦という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1493]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、邪気を安息させ、静息という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1494]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、心を定め、禅定という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1495]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、知恵によって諸々の〔心の〕汚れを審慮し、放捨という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1496]これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修行される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、多く為される。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、【135】解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、遍く蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

2. 4. 4. 道の支分の部

 

26.

 

 [1497]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく見、正しい見解が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1498]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく〔心を〕固定し、正しい思惟が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1499]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく遍く収取し、正しい言葉が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1500]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく等しく現起させ、正しい行業が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1501]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく浄化させ、正しい生き方が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1502]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく励起し、正しい努力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1503]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく現起させ、正しい気づきが、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1504]「一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく〔心を〕定め、正しい禅定が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1505]これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と【136】成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、修行と成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修行される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、多く為されたものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、多く為される。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、十分に作り為すことと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く十分に作り為されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、必需のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く必需されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、遍く蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

27.

 

 [1506]一切の命あるものたちの……略……。一切の生類たちの……略……。一切の人たちの……略……。一切の自己状態あるものに属する者たち(個我的あり方をしている存在)の……略……。一切の女たちの……略……。一切の男たちの……略……。一切の聖者たちの……略……。一切の聖者ならざる者たちの……略……。一切の天〔の神々〕たちの……略……。一切の人間たちの……略……。一切の堕所にある者たちの、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)消尽を、消尽なきによって避けて、(5)悩害を、悩害なきによって避けて、「一切の堕所にある者たちは、(6)怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)安楽の自己ある者たちとして有れ。苦痛の自己ある者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の堕所にある者たちを慈愛する、ということで、慈愛となり、その法(性質)を思い考える、ということで、心()となり、一切の憎悪〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。そして、慈愛があり、かつまた、心があり、さらに、解脱がある、ということで、慈愛という〔止寂の〕心による解脱となる。

 

 [1507]「一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、【137】完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……略……〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

 [1508]東の方角にある一切の有情たちの……略……。西の方角にある一切の有情たちの……。北の方角にある一切の有情たちの……。南の方角にある一切の有情たちの……。東維にある一切の有情たちの……。西維にある一切の有情たちの……。北維にある一切の有情たちの……。南維にある一切の有情たちの……。下の方角にある一切の有情たちの……。上の方角にある一切の有情たちの、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)消尽を、消尽なきによって避けて、(5)悩害を、悩害なきによって避けて、「上の方角にある一切の有情たちは、(6)怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)安楽の自己ある者たちとして有れ。苦痛の自己ある者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の有情たちを慈愛する、ということで、慈愛となり、その法(性質)を思い考える、ということで、心となり、一切の憎悪〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。そして、慈愛があり、かつまた、心があり、さらに、解脱がある、ということで、慈愛という〔止寂の〕心による解脱となる。

 

 [1509]「上の方角にある一切の有情たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……略……〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

 [1510]東の方角にある一切の命あるものたちの……略……生類たちの……人たちの……自己状態あるものに属する者たちの……一切の女たちの……一切の男たちの……一切の聖者たちの……一切の聖者ならざる者たちの……一切の天〔の神々〕たちの……一切の人間たちの……一切の堕所にある者たちの……。西の方角にある一切の堕所にある者の……。北の方角にある一切の堕所にある者の……。南の方角にある一切の堕所にある者の……。東維にある一切の堕所にある者の……。西維にある一切の堕所にある者の……。北維にある一切の堕所にある者の……。南維にある一切の堕所にある者の……。下の方角にある一切の堕所にある者の……。上の方角にある一切の堕所にある者の、(1)逼悩を、逼悩なきによって避けて、(2)害障を、害障なきによって避けて、(3)熱苦を、熱苦なきによって避けて、(4)消尽を、消尽なきによって避けて、(5)悩害を、悩害なきによって避けて、「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、(6)怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。怨恨〔の思い〕ある者たちとして〔有っては〕ならない。(7)安楽ある者たちとして有れ。苦痛ある者たちとして〔有っては〕ならない。(8)安楽の自己ある者たちとして有れ。苦痛の自己ある者たちとして〔有っては〕ならない」と、これらの八つの行相によって、一切の堕所にある者たちを慈愛する、ということで、慈愛となり、その法(性質)を思い考える、ということで、心となり、一切の憎悪〔の思い〕という妄執から解脱する、ということで、解脱となる。そして、慈愛があり、かつまた、心があり、さらに、解脱がある、ということで、慈愛という〔止寂の〕心による解脱となる。

 

 [1511]「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、信によって信念し、信の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1512]「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、精進を励起し、精進の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1513]……気づきを現起させ、気づきの機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……心を定め、禅定の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……智慧によって覚知し、智慧の機能が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1514]これらの五つの機能が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの機能によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。……略……〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

 [1515]「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、不信にたいし、〔心が〕動かず、信の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……略……怠惰にたいし、〔心が〕動かず、精進の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……放逸にたいし、〔心が〕動かず、気づきの力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かず、禅定の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……無明にたいし、〔心が〕動かず、智慧の力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1516]これらの五つの力が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの五つの力によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。……略……〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

 [1517]【138】「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、気づきを現起させ、気づきという正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1518]……智慧によって精査し、法(真理)の判別という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……精進を励起し、精進という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……苦悶を安息させ、喜悦という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……邪気を安息させ、静息という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……心を定め、禅定という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……知恵によって諸々の〔心の〕汚れを審慮し、放捨という正覚の支分が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1519]これらの七つの覚りの支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの七つの覚りの支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。……略……〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。

 

 [1520]「上の方角にある一切の堕所にある者たちは、怨念〔の思い〕なき者たちとして有れ。平安ある者たちとして有れ。安楽ある者たちとして有れ」と、正しく見、正しい見解が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく〔心を〕固定し、正しい思惟が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく遍く収取し、正しい言葉が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく等しく現起させ、正しい行業が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく浄化させ、正しい生き方が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく励起し、正しい努力が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく現起させ、正しい気づきが、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。……正しく〔心を〕定め、正しい禅定が、完全に修行されたものと成り、慈愛という〔止寂の〕心による解脱と〔成る〕。

 

 [1521]これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修される。……略……。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、付属のものと成る。これらの八つの道の支分によって、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、善く付属されたものと成る。これらの八つの道の支分が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱にとっての、習修と成り、修行と成り、多く為されたものと成り、十分に作り為すことと成り、必需のものと成り、付属のものと成り、【139】円満成就のものと成り、共具したものと成り、共に生じたものと成り、交わり合ったものと成り、結び付いたものと成り、跳入することと成り、清信することと成り、確立することと成り、解脱することと成り、「これは、寂静である」と見ることと成り、乗物として作り為されたものと成り、地所として作り為されたものと成り、奮起されたものと成り、遍く蓄積されたものと成り、善く正しく勉励されたものと成り、善く修行されたものと成り、善く確立されたものと成り、善く引き起こされたものと成り、善く解脱したものと成り、〔慈愛の心を〕発現させ、照らし、輝かす。ということで──

 

 [1522]慈愛についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 5. 離貪についての言説

 

28.

 

 [1523]【140】離貪が、道となる。解脱が、果となる。どのように、離貪が、道となるのか。預流道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から離貪し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から離貪し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯(作用範囲)とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 

 [1524]「離貪」とは、二つの離貪がある。そして、涅槃は、離貪であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、離貪と成る、ということで、〔二つの〕離貪がある。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい見解以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、そして、覚者たちが、さらに、弟子たちが、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴く、ということで、八つの支分あるものが、道となる。多々なる沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道がある、そのかぎりにおいて、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、そして、至高であり、そして、最勝であり、そして、筆頭であり、そして、最上であり、そして、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 

 [1525]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から離貪し……。遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から離貪し……。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業から離貪し……。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から離貪し……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から離貪し……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから離貪し……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定から離貪し、【141】そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から離貪し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 

 [1526]「離貪」とは、二つの離貪がある。そして、涅槃は、離貪であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、離貪と成る、ということで、〔二つの〕離貪がある。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい禅定以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、そして、覚者たちが、さらに、弟子たちが、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴く、ということで、八つの支分あるものが、道となる。多々なる沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道がある、そのかぎりにおいて、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、そして、至高であり、そして、最勝であり、そして、筆頭であり、そして、最上であり、そして、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 

 [1527]一来道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習から離貪し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から離貪し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 

 [1528]「離貪」とは、二つの離貪がある。そして、涅槃は、離貪であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、離貪と成る、ということで、〔二つの〕離貪がある。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい禅定以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、そして、覚者たちが、さらに、弟子たちが、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴く、ということで、八つの支分あるものが、道となる。多々なる沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道がある、そのかぎりにおいて、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、そして、至高であり、そして、最勝であり、そして、筆頭であり、そして、最上であり、そして、最も優れたものである、ということで、諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 

 [1529]不還道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔離貪し〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から離貪し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から離貪し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり【142】……略……諸々の道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 

 [1530]阿羅漢道の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔離貪し〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔離貪し〕、思量から〔離貪し〕、高揚から〔離貪し〕、無明から〔離貪し〕、思量の悪習から〔離貪し〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔離貪し〕、無明の悪習から離貪し、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから〔離貪し〕、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から離貪し、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から離貪する。離貪は、離貪を対象とするものであり、離貪を境涯とするものであり、離貪において生まれ来たものであり、離貪において止住したものであり、離貪において確立したものである。

 

 [1531]「離貪」とは、二つの離貪がある。そして、涅槃は、離貪であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、離貪と成る、ということで、〔二つの〕離貪がある。共に生じた〔他の〕七つの支分(正しい禅定以外の七つの道の支分)が、離貪に至る、ということで、離貪が、道となる。この道によって、そして、覚者たちが、さらに、弟子たちが、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴く、ということで、八つの支分あるものが、道となる。多々なる沙門や婆羅門たちに、他の異論ある者たちに、諸々の道がある、そのかぎりにおいて、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道が、そして、至高であり、そして、最勝であり、そして、筆頭であり、そして、最上であり、そして、最も優れたものである、ということで、諸々の生じた道のなかでは、八つの支分あるものが、最勝となる。

 

 [1532]〔あるがままの〕見としての離貪が、正しい見解となる。〔正しく心を〕固定することとしての離貪が、正しい思惟となる。遍き収取としての離貪が、正しい言葉となる。等しく現起するものとしての離貪が、正しい行業となる。浄化するものとしての離貪が、正しい生き方となる。励起としての離貪が、正しい努力となる。現起としての離貪が、正しい気づきとなる。〔心の〕散乱なき〔状態〕としての離貪が、正しい禅定となる。現起としての離貪が、気づきという正覚の支分となる。精査としての離貪が、法(真理)の判別という正覚の支分となる。励起としての離貪が、精進という正覚の支分となる。充満としての離貪が、喜悦という正覚の支分となる。寂止としての離貪が、静息という正覚の支分となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕としての離貪が、禅定という正覚の支分となる。審慮(客観的観察)としての離貪が、放捨(:客観的認識)という正覚の支分となる。【143】不信にたいする、不動としての離貪が、信の力となる。怠惰にたいする、不動としての離貪が、精進の力となる。放逸にたいする、不動としての離貪が、気づきの力となる。〔心の〕高揚にたいする、不動としての離貪が、禅定の力となる。無明にたいする、不動としての離貪が、智慧の力となる。信念としての離貪が、信の機能となる。励起としての離貪が、精進の機能となる。現起としての離貪が、気づきの機能となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕としての離貪が、禅定の機能となる。〔あるがままの〕見としての離貪が、智慧の機能となる。優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、離貪となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、離貪となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、離貪となる。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道が、離貪となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、離貪となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、離貪となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、離貪となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、離貪となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、離貪となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、離貪となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、離貪となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、離貪となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、離貪となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、離貪となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、離貪となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)が、離貪となる。理解の義(意味)によって、明知が、離貪となる。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)が、離貪となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、離貪となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、離貪となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、離貪となる。接触が、配備の義(意味)によって、離貪となる。感受が、集結の義(意味)によって、離貪となる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、離貪となる。気づきが、優位の義(意味)によって、離貪となる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、離貪となる。解脱(ヴィムッティ)が、真髄の義(意味)によって、離貪となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、離貪となる。

 

 [1533]〔あるがままの〕見という道が、正しい見解となる。〔正しく心を〕固定することという道が、正しい思惟となる。……略([1532]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、道となる。このように、離貪が、道となる。

 

29.

 

 [1534]どのように、解脱が、果となるのか。預流果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が、誤った見解から解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが(※)、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

※ テキストには sabbe ca とあるが、PTS版により sabbe と読む。

 

 [1535]〔正しく心を〕固定することの義(意味)によって、正しい思惟が、誤った思惟から【144】解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

 [1536]遍き収取の義(意味)によって、正しい言葉が、誤った言葉から解脱したものと成り……。等しく現起するものの義(意味)によって、正しい行業が、誤った行業から解脱したものと成り……。浄化するものの義(意味)によって、正しい生き方が、誤った生き方から解脱したものと成り……。励起の義(意味)によって、正しい努力が、誤った努力から解脱したものと成り……。現起の義(意味)によって、正しい気づきが、誤った気づきから解脱したものと成り……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、誤った禅定から解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

 [1537]一来果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、粗大なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、〔粗大なる〕敵対〔の思い〕の悪習から解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

 [1538]不還果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから〔解脱したものと成り〕、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。【145】解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

 [1539]阿羅漢果の瞬間において、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、正しい見解が……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、正しい禅定が、形態(色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔解脱したものと成り〕、形態なきもの(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から〔解脱したものと成り〕、思量から〔解脱したものと成り〕、高揚から〔解脱したものと成り〕、無明から〔解脱したものと成り〕、思量の悪習から〔解脱したものと成り〕、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から〔解脱したものと成り〕、無明の悪習から解脱したものと成り、そして、それに随転する諸々の〔心の〕汚れから解脱したものと成り、かつまた、〔それに随転する〕諸々の範疇から解脱したものと成り、さらに、〔それに随転する〕外なる一切の形相から解脱したものと成る。解脱は、解脱を対象とするものであり、解脱を境涯とするものであり、解脱において生まれ来たものであり、解脱において止住したものであり、解脱において確立したものである。「解脱」とは、二つの解脱がある。そして、涅槃は、解脱であり、さらに、すなわち、涅槃を対象として生じた諸法(性質)は、〔それらの〕全てが、解脱したものと成る、ということで、解脱が、果となる。

 

 [1540]〔あるがままの〕見としての解脱が、正しい見解となる。……略……。〔心の〕散乱なき〔状態〕としての解脱が、正しい禅定となる。現起としての解脱が、気づきという正覚の支分となる。……略……。審慮としての解脱が、放捨という正覚の支分となる。不信にたいする、不動としての解脱が、信の力となる。……略……。無明にたいする、不動としての解脱が、智慧の力となる。信念としての解脱が、信の機能となる。……略……。〔あるがままの〕見としての解脱が、智慧の機能となる。

 

 [1541]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、解脱となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、解脱となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、解脱となる。因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道が、解脱となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、解脱となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、解脱となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、解脱となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、解脱となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、【146】解脱となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、解脱となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、解脱となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、解脱となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、解脱となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、解脱となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、解脱となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱(ヴィモッカ)が、解脱(ヴィムッティ)となる。理解の義(意味)によって、明知が、解脱となる。遍捨の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)が、解脱(ヴィムッティ)となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、解脱となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、解脱となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、解脱となる。接触が、配備の義(意味)によって、解脱となる。感受が、集結の義(意味)によって、解脱となる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、解脱となる。気づきが、優位の義(意味)によって、解脱となる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、解脱となる。解脱(ヴィムッティ)が、真髄の義(意味)によって、解脱(ヴィムッティ)となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、解脱となる。このように、解脱が、果となる。このように、離貪が、道となる。解脱が、果となる。ということで──

 

 [1542]離貪についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 6. 融通無礙についての言説

 

2. 6. 1. 法(真理)の輪を転起させることの部

 

30.

 

 [1543]【147】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでいる。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げた。

 

 [1544]「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、二つのものなのですか。(1)そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽への専念であり(快楽主義)、(2)さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義)。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 [1545]比丘たちよ、では、どのようなものが、その中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 [1546](1)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛という聖なる真理です。生もまた、苦痛です。老もまた、苦痛です。病もまた、苦痛です。死もまた、苦痛です。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦痛です。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦痛です。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦痛です。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦痛です。(2)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の集起という聖なる真理です。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。【148】(3)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の止滅という聖なる真理です。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。(4)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 [1547](1)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 [1548](2)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 [1549](3)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 [1550](4)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 [1551]比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見(如実知見)が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、【149】天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 [1552]比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

 [1553]世尊は、この〔言葉〕を言った。わが意を得た五人組の比丘は、世尊が語ったことを大いに喜んだ、ということである。

 

 [1554]また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 [1555]また、そして、世尊によって、法(真理)の輪が転起させられたとき、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。四大王天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……略……梵身天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。

 

 [1556]まさに、かくのごとく、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔歓呼の〕声音が上がった。かつまた、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺した。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現した──天〔の神々〕たちの天の威力を超え行って、ということである。

 

 [1557]そこで、まさに、世尊は、この感興〔の言葉〕を唱えた。「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った。

 

 [1558](1─1)「『これは、苦痛という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき【150】諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1559]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1560]眼は、法(教え)である。知恵は、法(教え)である。智慧は、法(教え)である。明知は、法(教え)である。光明は、法(教え)である。これらの五つの法(教え)は、法(教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1561]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1562]五つの法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1563]五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」〔と〕。

 

 [1564](1─2)「『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と……略([1558-1563]参照)……。(1─3)「『……遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1565]【151】「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1566]眼は、法(教え)である。知恵は、法(教え)である。智慧は、法(教え)である。明知は、法(教え)である。光明は、法(教え)である。これらの五つの法(教え)は、法(教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1567]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1568]五つの法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1569]五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」〔と〕。

 

 [1570]苦痛という聖なる真理において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1571](2─1)「『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(2─2)「『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と……略……。(2─3)「『……捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し【152】……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。

 

 [1572]苦痛の集起という聖なる真理において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1573](3─1)「『これは、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(3─2)「『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と……略……。(3─3)「『……実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。

 

 [1574]苦痛の止滅という聖なる真理において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1575](4─1)「『これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(4─2)「『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と……略……。(4─3)「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。

 

 [1576]苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1577]四つの聖なる真理において、六十の法(教え)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

 

2. 6. 2. 気づきの確立の部

 

31.

 

 [1578]「(1)比丘たちよ、わたしに、『これは、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

 

 [1579](2)比丘たちよ、わたしに、『これは、諸々の感受における……略……。(3)比丘たちよ、わたしに、『これは、心における……略……。(4)比丘たちよ、わたしに、『これは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。

 

 [1580](1─1)「『これは、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。【153】(1─2)「『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。(1─3)「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1581]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1582]眼は、法(教え)である。知恵は、法(教え)である。智慧は、法(教え)である。明知は、法(教え)である。光明は、法(教え)である。これらの五つの法(教え)は、法(教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1583]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1584]五つの法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1585]五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」〔と〕。

 

 [1586]身体における身体の随観という気づきの確立において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1587](2─1)「『これは、諸々の感受における……略……。(3─1)「『これは、心における……略……。(4─1)「『これは、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(4─2)「『また、まさに、この【154】諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。(4─3)「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。

 

 [1588]諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1589]四つの気づきの確立において、六十の法(教え)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

 

2. 6. 3. 神通の足場の部

 

32.

 

 [1590]「(1)比丘たちよ、わたしに、『これは、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

 

 [1591](2)比丘たちよ、わたしに、『これは、精進の禅定と……略……。(3)比丘たちよ、わたしに、『これは、心(専心)の禅定と……略……。(4)比丘たちよ、わたしに、『これは、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。

 

 [1592](1─1)「『これは、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(1─2)「『また、まさに、この、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。(1─3)「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1593]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1594]【155】眼は、法(教え)である。知恵は、法(教え)である。智慧は、法(教え)である。明知は、法(教え)である。光明は、法(教え)である。これらの五つの法(教え)は、法(教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法(教え)についての知恵が、法(教え)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1595]〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの義(意味)は、義(意味)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義(意味)についての知恵が、義(意味)の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1596]五つの法(教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義(意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」〔と〕。

 

 [1597]五つの法(教え)についての諸々の知恵がある。五つの義(意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」〔と〕。

 

 [1598]欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1599](2─1)「『これは、精進の禅定と……略……。(3─1)「『これは、心(専心)の禅定と……略……。(4─1)「『これは、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。(4─2)「『また、まさに、この、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。(4─3)「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。

 

 [1600]考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場において、十五の法(教え)があり、十五の義(意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

 

 [1601]四つの神通の足場において、六十の法(教え)があり、六十の義(意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

 

2. 6. 4. 七者の菩薩の部

 

33.

 

 [1602]【156】「(1─1)比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン菩薩に、『集起である。集起である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。(1─2)比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。ヴィパッシン菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(教え)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 

 [1603]「(2─1)比丘たちよ、まさに、シキン菩薩に、『集起である。集起である』と……略……。「(3─1)……ヴェッサブー菩薩に……略……。「(4─1)……カクサンダ菩薩に……略……。「(5─1)……コーナーガマナ菩薩に……略……。「(6─1)……カッサパ菩薩に……略……過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。(6─2)比丘たちよ、まさに、カッサパ菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。カッサパ菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(教え)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 

 [1604]「(7─1)比丘たちよ、まさに、ゴータマ菩薩に、『集起である。集起である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。(7─2)比丘たちよ、まさに、ゴータマ菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。ゴータマ菩薩には、〔教えの〕説明において、十の法(教え)があり、十の義(意味)があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

 

 [1605]七者の菩薩には、七つの〔教えの〕説明において、七十の法(教え)があり、七十の義(意味)があり、百四十の言語があり、そして、八十〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

 

2. 6. 5. 証知等の部

 

34.

 

 [1606](1)あるかぎりの、証知の、証知の義(意味)が、(1─1)〔すでに〕知られたものとなり、(1─2)〔すでに〕見られたものとなり、(1─3)〔すでに〕見出されたものとなり、(1─4)〔すでに〕実証されたものとなり、(1─5)智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない証知の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。証知の、証知の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1607](2)あるかぎりの、遍知の、遍知の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、捨棄の、捨棄の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、修行の、修行の義(意味)が……略……。(5)あるかぎりの、実証の、実証の義(意味)が、【157】(5─1)〔すでに〕知られたものとなり、(5─2)〔すでに〕見られたものとなり、(5─3)〔すでに〕見出されたものとなり、(5─4)〔すでに〕実証されたものとなり、(5─5)智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない実証の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。実証の、実証の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1608]証知の、証知の義(意味)において、遍知の、遍知の義(意味)において、捨棄の、捨棄の義(意味)において、修行の、修行の義(意味)において、実証の、実証の義(意味)において、百二十五の法(教え)があり、百二十五の義(意味)があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。

 

2. 6. 6. 範疇等の部

 

35.

 

 [1609](1)あるかぎりの、〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない範疇の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1610](2)あるかぎりの、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)が……略……。(5)あるかぎりの、形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない形成されたものではないものの義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1611]〔五つの〕範疇の、範疇の義(意味)において、〔十八の〕界域の、界域の義(意味)において、〔十二の認識の〕場所の、〔認識の〕場所の義(意味)において、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味)において、形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義(意味)において、百二十五の法(教え)があり、百二十五の義(意味)があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。

 

2. 6. 7. 真理の部

 

36.

 

 [1612](1)あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。苦痛の、苦痛の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1613](2)あるかぎりの、集起の、集起の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、止滅の、止滅の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、道の、道の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない道の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。道の、道の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1614]四つの聖なる真理において、百の法(教え)があり、百の義(意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。

 

2. 6. 8. 融通無礙の部

 

37.

 

 [1615](1)あるかぎりの、義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない義(意味)の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。義(意味)の融通無礙の、義(意味)の融通無礙の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1616](2)あるかぎりの、法(教え)の融通無礙の、法(教え)の融通無礙の義(意味)が……略……。(3)あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義(意味)が……略……。(4)あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない応答の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……【158】光明が生起した。応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義(意味)において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1617]四つの融通無礙において、百の法(教え)があり、百の義(意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。

 

2. 6. 9. 六つの覚者の法(性質)の部

 

38.

 

 [1618](1)あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない機能の上下なることについての知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。機能の上下なることについての知恵において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1619](2)あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵が……略……。(3)あるかぎりの、対なる神変についての知恵が……略……。(4)あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵が……略……。(5)あるかぎりの、一切知者たる知恵が……略……。(6)あるかぎりの、妨げなき知恵が、〔すでに〕知られたものとなり、〔すでに〕見られたものとなり、〔すでに〕見出されたものとなり、〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない妨げなき知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。妨げなき知恵において、二十五の法(教え)があり、二十五の義(意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

 

 [1620]六つの覚者の法(性質)において、百五十の法(教え)があり、百五十の義(意味)があり、三百の言語があり、六百の知恵がある。

 

 [1621]融通無礙という事因において、八百五十の法(教え)があり、八百五十の義(意味)があり、そして、千の言語があり、さらに、七百の言語があり、そして、三千の知恵があり、さらに、四百の知恵がある。ということで──

 

 [1622]融通無礙についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 7. 法(真理)の輪についての言説

 

2. 7. 1. 真理の部

 

39.

 

 [1623]【159】或る時のことである。世尊は、バーラーナシーに住んでいる。……略([1543-1557]参照)……。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った。

 

 [1624](1)「『これは、苦痛という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1625]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1626]眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。知恵は、法(教え)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。智慧は、法(教え)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。明知は、法(教え)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、苦痛を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯(作用範囲)とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。

 

40.

 

 [1627]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において自在に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において自在に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。【160】法(教え)において完全態に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において完全態に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において離怖に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において離怖に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を尊敬している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を尊重している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を思慕している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を供養している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を敬恭している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を旗とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を幟とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を優位とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。また、まさに、その法(真理)の輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1628]信の機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進の機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきの機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。禅定の機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。智慧の機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。信の力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進の力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきの力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。禅定の力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。智慧の力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきという正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(真理)の判別という正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精進という正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。喜悦という正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。静息という正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。禅定という正覚の支分は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。放捨という正覚の支分は、【161】法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい見解は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい思惟は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい言葉は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい行業は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい生き方は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい努力は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい気づきは、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。正しい禅定は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1629]優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。不動の義(意味)によって、〔五つの〕力が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。因の義(意味)によって、〔八つの〕道が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。統御の義(意味)によって、戒の清浄が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。解き放ちの義(意味)によって、解脱が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。理解の義(意味)によって、明知が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。遍捨の義(意味)によって、解脱が、【162】法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵が、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。接触が、配備の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。感受が、集結の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。禅定が、筆頭の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。気づきが、優位の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。解脱が、真髄の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1630]「『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と……略……。『……遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1631]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。……略……。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって。眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。……略……。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、苦痛を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。

 

 [1632]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。……略([1627-1629]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1633](2)「『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。「『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と……略……。『……捨棄された』と、過去に【163】聞かれたことなき諸法(教え)において、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1634]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。……略……。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって。

 

 [1635]眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。……略……。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、集起を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり……略……。(3)……止滅を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり……略……。(4)……道を根拠とするものであり、真理を根拠とするものであり、真理を対象とするものであり、真理を境涯とするものであり、真理によって包摂されたものであり、真理に属するものであり、真理において生まれ来たものであり、真理において止住したものであり、真理において確立したものである。

 

 [1636]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。……略([1627-1629]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

2. 7. 2. 気づきの確立の部

 

41.

 

 [1637]「(1)比丘たちよ、わたしに、『これが、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

 

 [1638](2)比丘たちよ、わたしに、『これが、諸々の感受における……略……。(3)比丘たちよ、わたしに、『これが、心における……略……。(4)比丘たちよ、わたしに、『これが、諸々の法(性質)における法(性質)の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、諸々の法(性質)における法(性質)の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。

 

 [1639](1)「『これが、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。「『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1640]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。……略……。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって。

 

 [1641]眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。……略……。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、身体を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……略……。(2)……諸々の感受を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……。(3)……心を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり……。(4)……諸々の法(性質)を根拠とするものであり、気づきの確立を根拠とするものであり、気づきの確立を対象とするものであり、気づきの確立を境涯(作用範囲)とするものであり、気づきの確立によって包摂されたものであり、気づきの確立に属するものであり、気づきの確立において生まれ来たものであり、気づきの確立において止住したものであり、気づきの確立において確立したものである。

 

 [1642]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、【164】法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。……略([1627-1629]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

2. 7. 3. 神通の足場の部

 

42.

 

 [1643]「(1)比丘たちよ、わたしに、『これが、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

 

 [1644](2)比丘たちよ、わたしに、『これが、精進による禅定と……略……。(3)比丘たちよ、わたしに、『これが、心(専心)による禅定と……略……。(4)比丘たちよ、わたしに、『これが、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕。

 

 [1645](1)「『これが、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。「『また、まさに、この欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1646]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義(意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義(意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義(意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって、である。

 

 [1647]眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。知恵は、法(教え)である。所知の義(意味)は、義(意味)である。智慧は、法(教え)である。覚知することの義(意味)は、義(意味)である。明知は、法(教え)である。理解の義(意味)は、義(意味)である。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、欲〔の思い〕(意欲)を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり、神通の足場を対象とするものであり、神通の足場を境涯(作用範囲)とするものであり、神通の足場によって包摂されたものであり、神通の足場に属するものであり、神通の足場において生まれ来たものであり、神通の足場において止住したものであり、神通の足場において確立したものである。

 

 [1648]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において自在に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において自在に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において完全態に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において完全態に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において離怖に至り得た者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において離怖に至り得させている者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を尊敬している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を尊重している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を思慕している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を供養している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を敬恭している者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を旗とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を幟とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)を優位とする者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。また、まさに、その法(真理)の輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1649]信の機能は、法(教え)である。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。……略([1628-1629]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。

 

 [1650](2)「『これが、精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕……略……。「『また、まさに、この精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕──

 

 [1651]「眼が生起し」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。……略……。「光明が生起しました」とは、どのような義(意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、〔あるがままの〕見の義(意味)によって……略……。「光明が生起しました」とは、光輝の義(意味)によって。

 

 [1652]眼は、法(教え)である。〔あるがままの〕見の義(意味)は、義(意味)である。……略……。光明は、法(教え)である。光輝の義(意味)は、義(意味)である。これらの五つの法(教え)と五つの義(意味)は、精進を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり……略……。(3)……心(専心)を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり……。(4)……考察を根拠とするものであり、神通の足場を根拠とするものであり、神通の足場を対象とするものであり、神通の足場を境涯とするものであり、神通の足場によって包摂されたものであり、神通の足場に属するものであり、神通の足場において生まれ来たものであり、神通の足場において止住したものであり、神通の足場において【165】確立したものである。

 

 [1653]「法(真理)の輪」とは、どのような義(意味)によって、法(真理)の輪となるのか。そして、法(教え)を転起させ、さらに、輪を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。そして、輪を転起させ、さらに、法(教え)を〔転起させる〕、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)の性行によって、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において止住した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。法(教え)において確立した者が、転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。……略([1627-1629]参照)……。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、法(教え)となる。その法(教え)を転起させる、ということで、法(真理)の輪となる。ということで──

 

 [1654]法(真理)の輪についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 8. 世〔俗〕を超えるものについての言説

 

43.

 

 [1655]【166】どのような諸々の法(教え)が、世〔俗〕を超えるものであるのか。四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道、そして、四つの沙門の果であり、さらに、涅槃である。これらの諸々の法(教え)が、世〔俗〕を超えるものである。

 

 [1656]「世〔俗〕を超えるもの」とは、どのような義(意味)によって、世〔俗〕を超えるものとなるのか。〔それらは〕世〔俗〕を超え渡る、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から超え上がる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より超え上がる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより超え上がる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を超越する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を等しく超越する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を等しく超越したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては超過のものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕の極を超える、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出離する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出離したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において止住しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕について止住しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において汚れない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって汚れない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において等しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって等しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において近しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕によって近しく汚されざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より解脱したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより解脱したものである、【167】ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕としては束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕について束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより束縛を離れたものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより清まる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより清浄となる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより出起する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕から還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕より還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕からより還転する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において執着しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において捕捉されない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕において結縛されない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を断絶する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を断絶したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を安息させる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を安息したものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって道ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって境遇ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって境域ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕にとって共通ならざるものである、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を吐き捨てる、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を飲み戻さない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を捨棄する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を執取しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を離嫌する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を離嫌する、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を増長しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を喫煙しない、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。〔それらは〕世〔俗〕を等しく超越して征服して止住する(安立する)、ということで、世〔俗〕を超えるものとなる。

 

 [1657]世〔俗〕を超えるものについての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 9. 力についての言説

 

44.

 

 [1658]【168】サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力があります」〔と〕。

 

 [1659]さらに、また、六十八の力がある。(1)信の力、(2)精進の力、(3)気づきの力、(4)禅定の力、(5)智慧の力、(6)恥〔の思い〕()の力、(7)〔良心の〕咎め()の力、(8)審慮の力、(9)修行の力、(10)罪過なきものの力、(11)包摂の力、(12)受認の力、(13)制定(施設)の力、(14)納得の力、(15)権能の力、(16)〔心の〕確立(加持)の力、(17)〔心の〕止寂(奢摩他・止)の力、(18)〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)の力、(19・20・21・22・23・24・25・26・27・28)十の学びある者(有学)の力、(29・30・31・32・33・34・35・36・37・38)十の学ぶことなき者(無学)の力、(39・40・41・42・43・44・45・46・47・48)十の煩悩の滅尽者の力、(49・50・51・52・53・54・55・56・57・58)十の神通の力、(59・60・61・62・63・64・65・66・67・68)十の如来の力である。

 

 [1660](1)どのようなものが、信の力であるのか。不信にたいし、〔心が〕動かない、ということで、信の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、信の力となる。諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことの義(意味)によって、信の力となる。理解にとって最初の清めるものの義(意味)によって、信の力となる。心の確立の義(意味)によって、信の力となる。心の浄化の義(意味)によって、信の力となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)によって、信の力となる。より上なる理解の義(意味)によって、信の力となる。真理の知悉の義(意味)によって、信の力となる。止滅において確立させるものの義(意味)によって、信の力となる。これが、信の力である。

 

 [1661](2)どのようなものが、精進の力であるのか。怠惰にたいし、〔心が〕動かない、ということで、精進の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、精進の力となる。諸々の〔心の〕汚れを完全に取り払うことの義(意味)によって、精進の力となる。理解にとって最初の清めるものの義(意味)によって、精進の力となる。心の確立の義(意味)によって、精進の力となる。心の浄化の義(意味)によって、精進の力となる。殊勝〔の境地〕への到達の義(意味)によって、精進の力となる。より上なる理解の義(意味)によって、精進の力となる。真理の知悉の義(意味)によって、精進の力となる。止滅において確立させるものの義(意味)によって、精進の力となる。これが、精進の力である。

 

 [1662]【169】(3)どのようなものが、気づきの力であるのか。放逸にたいし、〔心が〕動かない、ということで、気づきの力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、気づきの力となる。……略……。止滅において確立させるものの義(意味)によって、気づきの力となる。これが、気づきの力である。

 

 [1663](4)どのようなものが、禅定の力であるのか。〔心の〕高揚にたいし、〔心が〕動かない、ということで、禅定の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、禅定の力となる。……略……。止滅において確立させるものの義(意味)によって、禅定の力となる。これが、禅定の力である。

 

 [1664](5)どのようなものが、智慧の力であるのか。無明にたいし、〔心が〕動かない、ということで、智慧の力となる。共に生じた諸法(性質)の保全の義(意味)によって、智慧の力となる。……略……。止滅において確立させるものの義(意味)によって、智慧の力となる。これが、智慧の力である。

 

 [1665](6)どのようなものが、恥〔の思い〕の力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。知恵によって、無明を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。歓喜によって、不満〔の思い〕を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。これが、恥〔の思い〕の力である。

 

 [1666](7)どのようなものが、〔良心の〕咎めの力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。知恵によって、無明を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。歓喜によって、不満〔の思い〕を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。これが、〔良心の〕咎めの力である。

 

 [1667](8)どのようなものが、審慮の力であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を審慮する、ということで、審慮の力となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を審慮する、ということで、審慮の力となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。知恵によって、無明を審慮する、ということで、審慮の力となる。【170】歓喜によって、不満〔の思い〕を審慮する、ということで、審慮の力となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を審慮する、ということで、審慮の力となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを審慮する、ということで、審慮の力となる。これが、審慮の力である。

 

 [1668](9)どのようなものが、修行の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を修行する、ということで、修行の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を修行する、ということで、修行の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を修行する、ということで、修行の力となる。〔心の〕高揚を捨棄している者として、〔心の〕散乱なき〔状態〕を修行する、ということで、修行の力となる。疑惑〔の思い〕を捨棄している者として、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを修行する、ということで、修行の力となる。無明を捨棄している者として、知恵を修行する、ということで、修行の力となる。不満〔の思い〕を捨棄している者として、歓喜を修行する、ということで、修行の力となる。〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者として、第一の瞑想を修行する、ということで、修行の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を修行する、ということで、修行の力となる。これが、修行の力である。

 

 [1669](10)どのようなものが、罪過なきものの力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なき〔状態〕において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)〔の差異〕を定め置くことにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。無明が捨棄されたことから、知恵において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道において、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。これが、罪過なきものの力である。

 

 [1670](11)どのようなものが、包摂の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。これが、包摂の力である。

 

 [1671]【171】(12)どのようなものが、受認の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲を受認する(信受する)、ということで、受認の力となる。憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受認する、ということで、受認の力となる。〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象を受認する、ということで、受認の力となる。〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なき〔状態〕を受認する、ということで、受認の力となる。疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを受認する、ということで、受認の力となる。無明が捨棄されたことから、知恵を受認する、ということで、受認の力となる。不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜を受認する、ということで、受認の力となる。〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想を受認する、ということで、受認の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道を受認する、ということで、受認の力となる。これが、受認の力である。

 

 [1672](13)どのようなものが、制定の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を制定する、ということで、制定の力となる。これが、制定の力である。

 

 [1673](14)どのようなものが、納得の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を納得させる、ということで、納得の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を納得させる、ということで、納得の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を納得させる、ということで、納得の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を納得させる、ということで、納得の力となる。これが、納得の力である。

 

 [1674](15)どのようなものが、権能の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。これが、権能の力である。

 

 [1675](16)どのようなものが、〔心の〕確立の力であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者として、離欲を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者として、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者として、光明の表象を所以に、【172】心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者として、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立の力となる。これが、〔心の〕確立の力である。

 

 [1676](17)どのようなものが、〔心の〕止寂の力であるのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。光明の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。……略([554-555]参照)……。放棄の随観ある、出息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき〔状態〕が、〔心の〕止寂の力である。これが、〔心の〕止寂の力である。

 

 [1677]「〔心の〕止寂の力」とは、どのような義(意味)によって、〔心の〕止寂の力となるのか。第一の瞑想によって、〔修行の〕妨害にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第二の瞑想によって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第三の瞑想によって、喜悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。第四の瞑想によって、安楽と苦痛にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象にたいし、敵対の表象にたいし、種々なる表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって識知無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。そして、〔心の〕高揚にたいし、かつまた、高揚を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔心の〕止寂の力となる。これが、〔心の〕止寂の力である。

 

 [1678](18)どのようなものが、〔あるがままの〕観察の力であるのか。無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。……略……。放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。形態において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。……略……。形態において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。老と死において、苦痛の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。……略……。老と死において、放棄の随観が、〔あるがままの〕観察の力である。「〔あるがままの〕観察の力」とは、どのような義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の力となるのか。無常の随観によって、常住の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。苦痛の随観によって、安楽の表象にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。無我の随観によって、自己の表象にたいし、【173】〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。厭離の随観によって、愉悦にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。離貪の随観によって、貪欲にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。止滅の随観によって、集起にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。放棄の随観によって、執取にたいし、〔心が〕動かない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。そして、無明にたいし、かつまた、無明を共具した〔心の〕汚れにたいし、さらに、範疇にたいし、〔心が〕動かず、揺れ動かず、動揺しない、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。これが、〔あるがままの〕観察の力である。

 

 [1679](19・20・21・22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33・34・35・36・37・38)どのようなものが、十の学びある者の力であり、十の学ぶことなき者の力であるのか。正しい見解を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学ぶことなき者の力となる。正しい思惟を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学ぶことなき者の力となる。正しい言葉を……略……。正しい行業を……。正しい生き方を……。正しい努力を……。正しい気づきを……。正しい禅定を……。正しい知恵を……略……。正しい解脱を学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学ぶことなき者の力となる。これらのものが、十の学びある者の力であり、十の学ぶことなき者の力である。

 

 [1680](39・40・41・42・43・44・45・46・47・48)どのようなものが、十の煩悩の滅尽者の力であるのか。(39)ここに、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成る。すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘とって、力と成る。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言する。「わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ」と。

 

 [1681](40)さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕(女性)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成る。すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成る。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言する。「わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ」と。

 

 [1682](41)さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成る〕。すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、心が、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成るなら〕、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、【174】力と成る。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言する。「わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ」と。

 

 [1683](42)さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成る。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言する。「わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ」と。

 

 [1684](43)さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの正しい精励は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。……略……。(44)……四つの神通の足場は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。……。(45)……五つの機能は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。……。(46)……五つの力は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。……。(47)……七つの覚りの支分は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。……略……。(48)……聖なる八つの支分ある道は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成る。すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成る。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言する。「わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ」と。これらのものが、十の煩悩の滅尽者の力である。

 

 [1685](49・50・51・52・53・54・55・56・57・58)どのようなものが、十の神通の力であるのか。確立の神通、変異の神通、意によって作られる神通、知恵の充満の神通、禅定の充満の神通、聖者の神通、行為の報い(業報)から生じる神通、功徳者の神通、明呪(呪文)によって作られる神通、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。これらのものが、十の神通の力である。

 

 [1686](59・60・61・62・63・64・65・66・67・68)どのようなものが、十の如来の力であるのか。(59)ここに、如来は、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させる。

 

 [1687](60)さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の【175】諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させる。

 

 [1688](61)さらに、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させる。

 

 [1689](62)さらに、また、他に、如来は、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1690](63)さらに、また、他に、如来は、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1691](64)さらに、また、他に、如来は、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1692](65)さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染(雑染)と浄化と出起を、事実のとおりに覚知する。すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知するなら、これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1693](66)さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略([628]参照)……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念する。すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1694](67)さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。……略([630]参照)……。【176】すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら……略……これもまた、如来にとって……略……。

 

 [1695](68)さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む。すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、これもまた、如来にとって、如来の力と成る。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させる。これらのものが、十の如来の力である。

 

45.

 

 [1696]どのような義(意味)によって、信の力となるのか。どのような義(意味)によって、精進の力となるのか。どのような義(意味)によって、気づきの力となるのか。どのような義(意味)によって、禅定の力となるのか。どのような義(意味)によって、智慧の力となるのか。どのような義(意味)によって、恥〔の思い〕の力となるのか。どのような義(意味)によって、〔良心の〕咎めの力となるのか。どのような義(意味)によって、審慮の力となるのか。……略……。どのような義(意味)によって、如来の力となるのか。

 

 [1697]不信にたいする、不動の義(意味)によって、信の力となる。怠惰にたいする、不動の義(意味)によって、精進の力となる。放逸にたいする、不動の義(意味)によって、気づきの力となる。〔心の〕高揚にたいする、不動の義(意味)によって、禅定の力となる。無明にたいする、不動の義(意味)によって、智慧の力となる。諸々の悪しき善ならざる法(性質)を恥じる、ということで、恥〔の思い〕の力となる。諸々の悪しき善ならざる法(性質)を咎める、ということで、〔良心の〕咎めの力となる。知恵によって、諸々の〔心の〕汚れを審慮する、ということで、審慮の力となる。そこにおいて生じた諸法(性質)が、一味のもの(作用・働きを同じくするもの)と成る、ということで、修行の力となる。そこにおいて、何であれ、罪過が存在しない、ということで、罪過なきものの力となる。それによって、心を包摂する、ということで、包摂の力となる。それを、そのために受認する、ということで、受認の力となる。それによって、心を制定する、ということで、制定の力となる。それによって、心を納得させる、ということで、納得の力となる。それによって、心を自在に転起させる、ということで、権能の力となる。それによって、心を確立する、ということで、確立の力となる。それによって、心が一境となる、ということで、〔心の〕止寂の力となる。そこにおいて生じた諸法(性質)を随観する、ということで、〔あるがままの〕観察の力となる。そこにおいて、〔彼は〕学ぶ、ということで、学びある者の力となる。そこにおいて、〔すでに〕学んだことから、学ぶことなき者の力となる。それによって、諸々の煩悩が滅尽したのだ、ということで、煩悩の滅尽者の力となる。そのために実現する、ということで、神通の力となる。量りようもないという義(意味)によって、如来の力となる。ということで──

 

 [1698]力についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

2. 10. 空についての言説

 

46.

 

 [1699]【177】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでいる。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のいるところに、そこへと近づいて行った。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐った。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言った。

 

 [1700]「尊き方よ、『空である世』『空である世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『空である世』と説かれるのですか」と。「アーナンダよ、そして、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます。アーナンダよ、では、何が、空なのですか──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、まさに、眼は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の形態は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。

 

 [1701]耳は、空です……略……。諸々の音声は、空です……。鼻は、空です……。諸々の臭気は、空です……。舌は、空です……。諸々の味感は、空です……。身は、空です……。諸々の感触は、空です……。意は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の法(意の対象)は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます」と。

 

2. 10. 1. 要綱

 

47.

 

 [1702](1)空の空、(2)形成〔作用〕の空、(3)変化の空、(4)至高の空、(5)特相の空、(6)鎮静の空、(7)特性の空、(8)断絶の空、(9)安息の空、【178】(10)出離の空、(11)内なる空、(12)外なる空、(13)〔内と外の〕両者なる空、(14)部分を共にするものの空、(15)部分を共にしないものの空、(16)探求の空、(17)遍き収取の空、(18)獲得の空、(19)理解の空、(20)一なることの空、(21)種々なることの空、(22)受認(信受)の空、(23)確立の空、(24)深解の空、(25)正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義:最高の真実)としての空。

 

2. 10. 2. 釈示

 

48.

 

 [1703](1)どのようなものが、空の空であるのか。眼が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。耳が、空である……略……。鼻が、空である……。舌が、空である……。身が、空である……。意が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。これが、空の空である。

 

 [1704](2)どのようなものが、形成〔作用〕の空であるのか。三つの形成〔作用〕がある。功徳ある行作(善果を形成する働き)、功徳なき行作(悪果を形成する働き)、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)である。功徳ある行作が、そして、功徳なき行作〔の観点〕によって、さらに、不動の行作〔の観点〕によって、空である。功徳なき行作が、そして、功徳ある行作〔の観点〕によって、さらに、不動の行作〔の観点〕によって、空である。不動の行作が、そして、功徳ある行作〔の観点〕によって、さらに、功徳なき行作〔の観点〕によって、空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。

 

 [1705]他にもまた、三つの形成〔作用〕がある。身体の形成〔作用〕、言葉の形成〔作用〕、心の形成〔作用〕である。身体の形成〔作用〕は、そして、言葉の形成〔作用の観点〕によって、さらに、心の形成〔作用の観点〕によって、空である。言葉の形成〔作用〕は、そして、身体の形成〔作用の観点〕によって、さらに、心の形成〔作用の観点〕によって、空である。心の形成〔作用〕は、そして、身体の形成〔作用の観点〕によって、さらに、言葉の形成〔作用の観点〕によって、空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。

 

 [1706]他にもまた、三つの形成〔作用〕がある。諸々の過去の形成〔作用〕、諸々の未来の形成〔作用〕、諸々の現在の形成〔作用〕である。諸々の過去の形成〔作用〕は、そして、諸々の未来〔の形成作用の観点〕によって、さらに、諸々の現在の形成〔作用の観点〕によって、空である。諸々の未来の形成〔作用〕は、そして、諸々の過去〔の形成作用の観点〕によって、さらに、諸々の現在の形成〔作用の観点〕によって、空である。諸々の現在の形成〔作用〕は、そして、諸々の過去〔の形成作用の観点〕によって、さらに、諸々の未来の形成〔作用の観点〕によって、空である。これらの三つの形成〔作用〕がある。これが、形成〔作用〕の空である。

 

 [1707](3)どのようなものが、変化の空であるのか。生じた形態は、自ずからの状態(自性:固有の性能)〔の観点〕によって、空である。離れ去った形態は、まさしく、そして、変化したものであり、さらに、空である。生じた感受〔作用〕は、自ずからの状態〔の観点〕によって、空である。離れ去った感受〔作用〕は、まさしく、そして、変化したものであり、さらに、空である。生じた表象〔作用〕は……略……。生じた諸々の形成〔作用〕は……。生じた識知〔作用〕は……。生じた眼は……略([107-116]参照)……。生じた生存は、【179】自ずからの状態〔の観点〕によって、空である。離れ去った生存は、まさしく、そして、変化したものであり、さらに、空である。これが、変化の空である。

 

 [1708](4)どのようなものが、至高の空であるのか。この境処は、至高である。この境処は、最勝である。この境処は、殊勝である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の寂止、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、至高の空である。

 

 [1709](5)どのようなものが、特相の空であるのか。二つの特相がある。そして、愚者の特相であり、さらに、賢者の特相である。愚者の特相は、賢者の特相〔の観点〕によって、空である。賢者の特相は、愚者の特相〔の観点〕によって、空である。三つの特相がある。生起の特相、衰失の特相、止住しているものの他化の特相である。生起の特相は、そして、衰失の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。衰失の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。止住しているものの他化の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、衰失の特相〔の観点〕によって、空である。

 

 [1710]形態の、生起の特相は、そして、衰失の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。形態の、衰失の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。形態の、止住しているものの他化の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、衰失の特相〔の観点〕によって、空である。感受〔作用〕の……略……。表象〔作用〕の……。諸々の形成〔作用〕の……。識知〔作用〕の……。眼の……略([107-116]参照)……。老と死の、生起の特相は、そして、衰失の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。老と死の、衰失の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、止住しているものの他化の特相〔の観点〕によって、空である。老と死の、止住しているものの他化の特相は、そして、生起の特相〔の観点〕によって、さらに、衰失の特相〔の観点〕によって、空である。これが、特相の空である。

 

 [1711](6)どのようなものが、鎮静の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、そして、鎮静されたものとなり、さらに、空となる。これが、鎮静の空である。

 

 [1712]【180】(7)どのようなものが、特性の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、特性の空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕が、特性の空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、特性の空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚が、特性の空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、特性の空となる。知恵によって、無明が、特性の空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、特性の空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、特性の空となる。……略……。還転の随観によって、束縛の固着が、特性の空となる。これが、特性の空である。

 

 [1713](8)どのようなものが、断絶の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、そして、断絶されたものとなり、さらに、空となる。これが、断絶の空である。

 

 [1714](9)どのようなものが、安息の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、そして、安息されたものとなり、さらに、空となる。これが、安息の空である。

 

 [1715](10)どのようなものが、出離の空であるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。知恵によって、無明が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。歓喜によって、不満〔の思い〕が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害が、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。【181】……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、まさしく、そして、出離したものとなり、さらに、空となる。これが、出離の空である。

 

 [1716](11)どのようなものが、内なる空であるのか。内なる眼が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。内なる耳が、空である……略……。内なる鼻が、空である……。内なる舌が、空である……。内なる身が、空である……。内なる意が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。これが、内なる空である。

 

 [1717](12)どのようなものが、外なる空であるのか。外なる諸々の形態が、空である……略……。外なる諸々の法(意の対象)が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。これが、外なる空である。

 

 [1718](13)どのようなものが、〔内と外の〕両者なる空であるのか。そして、すなわち、内なる眼が、さらに、すなわち、外なる諸々の形態が、この両者が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。そして、すなわち、内なる耳が、さらに、すなわち、外なる諸々の音声が……略……。そして、すなわち、内なる鼻が、さらに、すなわち、外なる諸々の臭気が……。そして、すなわち、内なる舌が、さらに、すなわち、外なる諸々の味感が……。そして、すなわち、内なる身が、さらに、すなわち、外なる諸々の感触が……。そして、すなわち、内なる意が、さらに、すなわち、外なる諸々の法(意の対象)が、この両者が、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。これが、〔内と外の〕両者なる空である。

 

 [1719](14)どのようなものが、部分を共にするものの空であるのか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの識知〔作用〕の体系が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの接触の体系が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの感受の体系が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの表象の体系が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。六つの思欲の体系が、まさしく、そして、部分を共にするものであり、さらに、空である。これが、部分を共にするものの空である。

 

 [1720](15)どのようなものが、部分を共にしないものの空であるのか。六つの内なる〔認識の〕場所が、六つの外なる〔認識の〕場所〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。六つの外なる〔認識の〕場所が、六つの識知〔作用〕の体系〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。六つの識知〔作用〕の体系が、六つの接触の体系〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。六つの【182】接触の体系が、六つの感受の体系〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。六つの感受の体系が、六つの表象の体系〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。六つの表象の体系が、六つの思欲の体系〔の観点〕によって、まさしく、そして、部分を共にしないものであり、さらに、空である。これが、部分を共にしないものの空である。

 

 [1721](16)どのようなものが、探求の空であるのか。離欲の探求が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の探求が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の探求が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の探求が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの探求が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の探求が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の探求が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の探求が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の探求が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、探求の空である。

 

 [1722](17)どのようなものが、遍き収取(理解・把握)の空であるのか。離欲の遍き収取が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の遍き収取が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の遍き収取が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の遍き収取が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの遍き収取が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の遍き収取が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の遍き収取が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の遍き収取が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の遍き収取が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、遍き収取の空である。

 

 [1723](18)どのようなものが、獲得の空であるのか。離欲の獲得が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の獲得が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の獲得が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の獲得が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの獲得が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の獲得が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の獲得が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の獲得が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の獲得が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、獲得の空である。

 

 [1724](19)どのようなものが、理解の空であるのか。離欲の理解が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の理解が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の理解が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の理解が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの理解が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の理解が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の理解が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の理解が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の理解が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、理解の空である。

 

 [1725]【183】(20・21)どのようなものが、一なることの空であり、種々なることの空であるのか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、種々なるものであり、離欲が、一なるものである。離欲という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕が、種々なるものであり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、一なるものである。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。〔心の〕沈滞と眠気が、種々なるものであり、光明の表象が、一なるものである。光明の表象という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕高揚が、種々なるものであり、〔心の〕散乱なき〔状態〕が、一なるものである。〔心の〕散乱なき〔状態〕という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。疑惑〔の思い〕が、種々なるものであり、法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、一なるものである。法(性質)〔の差異〕を定め置くことという一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。無明が、種々なるものであり、知恵が、一なるものである。知恵という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、無明〔の観点〕によって、空となる。不満〔の思い〕が、種々なるものであり、歓喜が、一なるものである。歓喜という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。〔五つの修行の〕妨害が、種々なるものであり、第一の瞑想が、一なるものである。第一の瞑想という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが、種々なるものであり、阿羅漢道が、一なるものである。阿羅漢道という一なるものは、〔それを〕思い考えているなら、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、一なることの空であり、種々なることの空である。

 

 [1726](22)どのようなものが、受認(信受)の空であるのか。離欲の受認が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の受認が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の受認が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の受認が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの受認が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の受認が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の受認が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の受認が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の受認が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、受認の空である。

 

 [1727](23)どのようなものが、確立の空であるのか。離欲の確立が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の確立が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の確立が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の確立が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの確立が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の確立が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の確立が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の確立が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の確立が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、確立の空である。

 

 [1728](24)どのようなものが、深解の空であるのか。離欲の深解が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思いの観点〕によって、空となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕の深解が、憎悪〔の思いの観点〕によって、空となる。光明の表象の深解が、〔心の〕沈滞と眠気〔の観点〕によって、空となる。〔心の〕散乱なき〔状態〕の深解が、〔心の〕高揚〔の観点〕によって、空となる。法(性質)〔の差異〕を定め置くことの深解が、疑惑〔の思いの観点〕によって、空となる。知恵の深解が、無明〔の観点〕によって、空となる。歓喜の深解が、不満〔の思いの観点〕によって、空となる。第一の瞑想の深解が、〔五つの修行の〕妨害〔の観点〕によって、空となる。……略……。阿羅漢道の深解が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によって、空となる。これが、深解の空である。

 

 [1729]【184】(25)どのようなものが、正知の者の、転起されたもの(所与的世界)を完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義)としての空であるのか。ここに、正知の者が、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気にとっての転起されたものを完全に取り払い、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚にとっての転起されたものを完全に取り払い、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、知恵によって、無明にとっての転起されたものを完全に取り払い、歓喜によって、不満〔の思い〕にとっての転起されたものを完全に取り払い、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害にとっての転起されたものを完全に取り払い……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての転起されたものを完全に取り払う。そこで、また、あるいは、正知の者が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達しつつあるなら、まさしく、そして、この、眼として転起されたものを完全に取り払い、さらに、他の、眼として転起されたものは生起せず、まさしく、そして、この、耳として転起されたものを……略……鼻として転起されたものを……舌として転起されたものを……身として転起されたものを……意として転起されたものを完全に取り払い、さらに、他の、意として転起されたものは生起しない。これが、正知の者の、転起されたものを完全に取り払うことという、一切の空性にとっての最高の義(勝義)としての空である。ということで──

 

 [1730]空についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

 [1731]双連のものの章が、第二となる。

 

 [1732]そのための摂頌となる。

 

 [1733]〔そこで、詩偈に言う〕「双連のもの、真理と覚りの支分、慈愛、第五に離貪、融通無礙、法(真理)の輪、世〔俗〕を超えるものと力と空があり、〔それらの十がある〕」と。

 

 [1734]この、諸々の部類の保持をもって据え置かれた、同等のものなく、最も優れたものである、第二の〔章〕があり、「優れた章」と〔説かれる〕。

 

3. 智慧の章(慧品)

 

3. 1. 大いなる智慧についての言説

 

1.

 

 [1735]【185】無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。無我の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。……略……。放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。

 

 [1736]無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、洞察の智慧を円満成就させる。無我の随観が、修められ、多く為されたなら、大いなる智慧を円満成就させる。厭離の随観が、修められ、多く為されたなら、鋭敏なる智慧を円満成就させる。離貪の随観が、修められ、多く為されたなら、広大なる智慧を円満成就させる。止滅の随観が、修められ、多く為されたなら、深遠なる智慧を円満成就させる。放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、近隣なき智慧を円満成就させる。これらの七つ智慧が、修められ、多く為されたなら、賢者たることを円満成就させる。これらの八つ智慧が、修められ、多く為されたなら、多々なる智慧を円満成就させる。これらの九つ智慧が、修められ、多く為されたなら、敏速なる智慧を円満成就させる。

 

 [1737]敏速なる智慧が、応答の融通無礙となる。その〔智慧〕のために、義(意味)〔の差異〕を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、法(性質)〔の差異〕を定め置くことから、法(教え)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、言語〔の差異〕を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、応答〔の差異〕を定め置くことから、応答の融通無礙が、【186】到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。その〔智慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。

 

 [1738]形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。……略……。形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。……略……。形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、近隣なき智慧を円満成就させる。これらの七つ智慧が、修められ、多く為されたなら、賢者たることを円満成就させる。これらの八つ智慧が、修められ、多く為されたなら、多々なる智慧を円満成就させる。これらの九つ智慧が、修められ、多く為されたなら、敏速なる智慧を円満成就させる。

 

 [1739]敏速なる智慧が、応答の融通無礙となる。その〔智慧〕のために、義(意味)〔の差異〕を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、法(性質)〔の差異〕を定め置くことから、法(教え)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、言語〔の差異〕を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、応答〔の差異〕を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。その〔智慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。

 

 [1740]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。……略……。老と死において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。……略……。老と死において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、近隣なき智慧を円満成就させる。これらの七つ智慧が、修められ、多く為されたなら、賢者たることを円満成就させる。これらの八つ智慧が、修められ、多く為されたなら、多々なる智慧を円満成就させる。これらの九つ智慧が、修められ、多く為されたなら、敏速なる智慧を円満成就させる。

 

 [1741]敏速なる智慧が、応答の融通無礙となる。その〔智慧〕のために、義(意味)〔の差異〕を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、【187】法(性質)〔の差異〕を定め置くことから、法(教え)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、言語〔の差異〕を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、応答〔の差異〕を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。その〔智慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。

 

2.

 

 [1742]形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、無我の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、無我の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、厭離の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、厭離の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、離貪の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、離貪の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、止滅の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、止滅の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。

 

 [1743]形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、洞察の智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、苦痛の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、無我の随観が、修められ、多く為されたなら、大いなる円満成就する。過去と未来と現在の形態において、無我の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、厭離の随観が、修められ、多く為されたなら、鋭敏なる智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、厭離の随観が、【188】修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、離貪の随観が、修められ、多く為されたなら、広大なる智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、離貪の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、止滅の随観が、修められ、多く為されたなら、深遠なる智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、止滅の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、近隣なき智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の形態において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。これらの七つ智慧が、修められ、多く為されたなら、賢者たることを円満成就させる。これらの八つ智慧が、修められ、多く為されたなら、多々なる智慧を円満成就させる。これらの九つ智慧が、修められ、多く為されたなら、敏速なる智慧を円満成就させる。

 

 [1744]敏速なる智慧が、応答の融通無礙となる。その〔智慧〕のために、義(意味)〔の差異〕を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、法(性質)〔の差異〕を定め置くことから、法(教え)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、言語〔の差異〕を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、応答〔の差異〕を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。その〔智慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。

 

 [1745]感受〔作用〕において……略……。表象〔作用〕において……。諸々の形成〔作用〕において……。識知〔作用〕において……。眼において……略([107-116]参照)……。老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。……略……。老と死において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。過去と未来と現在の老と死において、放棄の随観が、修められ、多く為されたなら、どのような智慧を円満成就させるのか。老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。過去と未来と現在の老と死において、無常の随観が、修められ、多く為されたなら、疾走する智慧を円満成就させる。……略……。その〔智慧〕のために、これらの四つの融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕。

 

3.

 

 [1746]【189】「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すこと(如理作意)であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。

 

 [1747]比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一来果の実証のために等しく転起します。……略……不還果の実証のために等しく転起します。……略……阿羅漢果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、阿羅漢果の実証のために等しく転起します。

 

 [1748]比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、(1)智慧の獲得のために等しく転起します。……略……(2)智慧の増大のために等しく転起します。……(3)智慧の広大のために等しく転起します。……(4)大いなる智慧たることのために等しく転起します。……(5)多々なる智慧たることのために等しく転起します。……(6)広大なる智慧たることのために等しく転起します。……(7)深遠なる智慧たることのために等しく転起します。……(8)近隣なき智慧たることのために等しく転起します。……(9)広き智慧たることのために等しく転起します。……(10)智慧の多大のために等しく転起します。……(11)即座なる智慧たることのために等しく転起します。……(12)軽快なる智慧たることのために等しく転起します。……(13)敏速なる智慧たることのために等しく転起します。……(14)疾走する智慧たることのために等しく転起します。……(15)鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します。……(16)洞察の智慧たることのために等しく転起する。どのようなものが、四つのものであるのか。正なる人士に慣れ親しむこと、正なる法(教え)を聞くこと、根源のままに意を為すこと、法(教え)を法(教え)のままに実践することである。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、智慧の獲得のために等しく転起し、智慧の増大のために等しく転起し……略……洞察の智慧たることのために等しく転起します」〔と〕。

 

3. 1. 1. 十六の智慧についての釈示

 

4.

 

 [1749](1)「智慧の獲得のために等しく転起します」とは、どのようなものが、智慧の獲得であるのか。四つの道の知恵の、四つの果の知恵の、四つの融通無礙の知恵の、六つの神知の知恵の、七十三の知恵の、七十七の知恵の、得ること、獲得、至り得ること、得達、体得すること、実証、成就である。〔それらは〕智慧の獲得のために等しく転起する、ということで、これが、智慧の獲得である。

 

 [1750]【190】(2)「智慧の増大のために等しく転起します」とは、どのようなものが、智慧の増大であるのか。そして、七者の〔いまだ〕学びある者の、さらに、善き凡夫の、智慧が増大し、阿羅漢の智慧が増大する。増大したものの増大あることから、〔それらは〕智慧の増大のために等しく転起する、ということで、これが、智慧の増大である。

 

 [1751](3)「智慧の広大のために等しく転起します」とは、どのようなものが、智慧の広大であるのか。そして、七者の〔いまだ〕学びある者の、さらに、善き凡夫の、智慧が広大に至り、阿羅漢の智慧が広大に至ったものとなる。〔それらは〕智慧の広大のために等しく転起する、ということで、これが、智慧の広大である。

 

 [1752](4)「大いなる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、大いなる智慧であるのか。諸々の大いなる義(意味)を遍く収め取る(完全に理解し把握する)、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる法(教え)を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる言語を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる応答を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる戒の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる禅定の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる智慧の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる解脱の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる解脱の知見の範疇を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる住への入定を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる聖なる真理を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる気づきの確立を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる正しい精励を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる神通の足場を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる機能を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる力を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる覚りの支分を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。大いなる聖者の道を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる沙門の果を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。諸々の大いなる神知を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。大いなる最高の義(勝義)たる【191】涅槃〔の界域〕を遍く収め取る、ということで、大いなる智慧となる。〔それらは〕大いなる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、大いなる智慧である。

 

 [1753](5)「多々なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、多々なる智慧であるのか。諸々の多々にして種々なる範疇()において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる界域()において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる〔認識の〕場所()において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる空性たる認知されざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる義(意味)において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる法(教え)において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる言語において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる応答において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる戒の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる禅定の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる智慧の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる解脱の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる解脱の知見の範疇において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる状況あることと状況なきことにおいて、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる住への入定において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる聖なる真理において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる気づきの確立において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる正しい精励において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる神通の足場において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる機能において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる力において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる覚りの支分において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。多々にして種々なる聖者の道において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる沙門の果において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。諸々の多々にして種々なる神知において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。凡夫と共通なる諸法(性質)を超え行って、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕において、知恵が転起する、ということで、多々なる智慧となる。〔それらは〕多々なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、多々なる智慧である。

 

 [1754](6)「広大なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、広大なる智慧であるのか。【192】諸々の広大なる義(意味)を遍く収め取る(完全に理解し把握する)、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる法(教え)を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる言語を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる応答を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる戒の範疇を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる禅定の範疇を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる智慧の範疇を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる解脱の範疇を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる解脱の知見の範疇を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる状況あることと状況なきことを遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる住への入定を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる聖なる真理を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる気づきの確立を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる正しい精励を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる神通の足場を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる機能を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる力を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる覚りの支分を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。広大なる聖者の道を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる沙門の果を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。諸々の広大なる神知を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。広大なる最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を遍く収め取る、ということで、広大なる智慧となる。〔それらは〕広大なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、広大なる智慧である。

 

 [1755](7)「深遠なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、深遠なる智慧であるのか。諸々の深遠なる範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる界域において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる〔認識の〕場所において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる空性たる認知されざるものにおいて、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる義(意味)において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる法(教え)において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる言語において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる応答において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる戒の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる禅定の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。【193】諸々の深遠なる智慧の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる解脱の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる解脱の知見の範疇において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる状況あることと状況なきことにおいて、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる住への入定において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる聖なる真理において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる気づきの確立において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる正しい精励において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる神通の足場において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる機能において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる力において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる覚りの支分において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。深遠なる聖者の道において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる沙門の果において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。諸々の深遠なる神知において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。深遠なる最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕において、知恵が転起する、ということで、深遠なる智慧となる。〔それらは〕深遠なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、深遠なる智慧である。

 

 [1756](8)「近隣なき智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、近隣なき智慧であるのか。その人には、義(意味)〔の差異〕を定め置くことから、義(意味)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、法(性質)〔の差異〕を定め置くことから、法(教え)の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、言語〔の差異〕を定め置くことから、言語の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成り〕、応答〔の差異〕を定め置くことから、応答の融通無礙が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成るなら〕、彼には、かつまた、義(意味)においても、かつまた、法(教え)においても、かつまた、言語においても、かつまた、応答においても、他の誰であれ、征服することができない。そして、彼は、他者たちによって征服できない、ということで、近隣なき智慧ある者となる。

 

 [1757]善き凡夫の智慧は、第八の者(最下の聖者)の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。善き凡夫と比較して、第八の者は、近隣なき智慧ある者となる。第八の者の智慧は、預流たる者の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、【194】近隣のものではない。第八の者と比較して、預流たる者は、近隣なき智慧ある者となる。預流たる者の智慧は、一来たる者の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。預流たる者と比較して、一来たる者は、近隣なき智慧ある者となる。一来たる者の智慧は、不還たる者の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。一来たる者と比較して、不還たる者は、近隣なき智慧ある者となる。不還たる者の智慧は、阿羅漢の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。不還たる者と比較して、阿羅漢は、近隣なき智慧ある者となる。阿羅漢の智慧は、独正覚者の智慧から、遠方にあり、遥か遠方にあり、極めて遠方にあり、現前になく、近隣のものではない。阿羅漢と比較して、独覚は、近隣なき智慧ある者となる。そして、独覚と〔比較して〕、さらに、天を含む世〔の人々〕と比較して、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、至高の者となり、近隣なき智慧ある者となる。

 

5.

 

 [1758]智慧の細別に巧みな智ある者となり、細別された知恵ある者となり、融通無礙に到達した者となり、四つの離怖に至り得た者となり、十の力を保持する者となり、人の雄牛たる者となり、人の獅子たる者となり、人の龍象たる者となり、人の良馬たる者(善き生まれの者)となり、人の荷牛たる者(忍耐強き者)となり、終極なき知恵ある者となり、終極なき威光ある者となり、終極なき福徳ある者となり、富ある者となり、大いなる財ある者となり、財ある者となり、導く者となり、教導する者となり、指導する者となり、報知する者となり、納得させる者となり、注視させる者となり、清信させる者となる。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる者であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる者であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する者であり、道を知る者であり、道の知者であり、道の熟知者であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、彼の弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。

 

 [1759]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼と成った者であり、〔世の〕知恵と成った者であり、法(真理)と成った者であり、梵と成った者であり、〔法の〕説者たる者であり、〔法の〕伝授者たる者であり、義(利益)を与え導く者であり、不死を与える者であり、法(真理)の主であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、その一切は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現法:現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、【195】あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、その一切が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1760]一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。過去において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてあり、未来において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてあり、現在において、覚者たる世尊の知恵は、打破されざるものとしてある。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。一切の法(事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。

 

 [1761]一切の法(事象)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。覚者は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1762]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、【196】もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち(鳥類)が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の分際(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの智慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。

 

 [1763]すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、さらに、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって、ということで、至高の者となり、近隣なき智慧ある者となる。〔それらは〕近隣なき智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、近隣なき智慧である。

 

6.

 

 [1764](9)「広き智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、広き智慧であるのか。貪欲()を征服する、ということで、広き智慧となる。〔貪欲が〕征服された、ということで、広き智慧となる。憤怒()を征服する、ということで、広き智慧となる。〔憤怒が〕征服された、ということで、広き智慧となる。迷妄()を征服する、ということで、広き智慧となる。〔迷妄が〕征服された、ということで、広き智慧となる。忿激(忿)を……略……。【197】怨恨()を……。偽装()を……。加虐()を……。嫉妬()を……。物惜()を……。幻惑()を……。狡猾()を……。強情()を……。激昂()を……。思量()を……。高慢(過慢)を……。驕慢()を……。放逸を……。一切の〔心の〕汚れを……。一切の悪しき行ないを……。一切の行作(現行)を……略……。一切の生存に至る行為を征服する、ということで、広き智慧となる。〔一切の生存に至る行為が〕征服された、ということで、広き智慧となる。貪欲は、敵である。その敵を撃破する智慧である、ということで、広き智慧となる。憤怒は、敵である。その敵を撃破する智慧である、ということで、広き智慧となる。迷妄は、敵である。その敵を撃破する智慧である、ということで、広き智慧となる。忿激は……略……。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻惑は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の行作は……略……。一切の生存に至る行為は、敵である。その敵を撃破する智慧である、ということで、広き智慧となる。広きは、地と説かれる。その地と等しく、広大にして拡張した智慧を具備したものである、ということで、広き智慧となる。さらに、また、これは、智慧の同義語である。広きは、思慮であり、遍く導くものである、ということで、広き智慧となる。〔それらは〕広き智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、広き智慧である。

 

 [1765](10)「智慧の多大のために等しく転起します」とは、どのようなものが、智慧の多大であるのか。ここに、一部の者が、智慧に尊重ある者と成り、智慧を所行とする者と〔成り〕、智慧に志欲ある者と〔成り〕、智慧を信念した者と〔成り〕、智慧を旗とする者と〔成り〕、智慧を幟とする者と〔成り〕、智慧を優位とする者と〔成り〕、判別が多くある者と〔成り〕、精査が多くある者と〔成り〕、思察が多くある者と〔成り〕、正しい思察が多くある者と〔成り〕、正しい見察を法(性質)とする者と〔成り〕、明確なる住者と〔成り〕、それを所行とする者と〔成り〕、それに尊重ある者と〔成り〕、それが多くある者と〔成り〕、それに向かい行く者と〔成り〕、それに傾倒する者と〔成り〕、それに傾斜する者と〔成り〕、それを信念した者と〔成り〕、それを優位とする者と〔成る〕。たとえば、衆に尊重ある者が、「衆の多大なる者」と説かれ、衣料に尊重ある者が、「衣料の多大なる者」と説かれ、鉢に尊重ある者が、「鉢の多大なる者」と説かれ、臥坐具に尊重ある者が、「臥坐具の多大なる者」と説かれるように、まさしく、このように、ここに、一部の者は、【198】智慧に尊重ある者と成り、智慧を所行とする者と〔成り〕、智慧に志欲ある者と〔成り〕、智慧を信念した者と〔成り〕、智慧を旗とする者と〔成り〕、智慧を幟とする者と〔成り〕、智慧を優位とする者と〔成り〕、判別が多くある者と〔成り〕、精査が多くある者と〔成り〕、思察が多くある者と〔成り〕、正しい思察が多くある者と〔成り〕、正しい見察を法(性質)とする者と〔成り〕、明確なる住者と〔成り〕、それを所行とする者と〔成り〕、それに尊重ある者と〔成り〕、それが多くある者と〔成り〕、それに向かい行く者と〔成り〕、それに傾倒する者と〔成り〕、それに傾斜する者と〔成り〕、それを信念した者と〔成り〕、それを優位とする者と〔成る〕。〔それらは〕智慧の多大のために等しく転起する、ということで、これが、智慧の多大である。

 

 [1766](11)「即座なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、即座なる智慧であるのか。即座に、即座に、諸戒を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、〔感官の〕機能における統御を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、食について量を知ることを円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、戒の範疇を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、禅定の範疇を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、智慧の範疇を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、解脱の範疇を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、解脱の知見の範疇を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の状況あることと状況なきことを理解する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の住への入定を円満成就させる、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の聖なる真理を理解する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の気づきの確立を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の正しい精励を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の神通の足場を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の機能を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の力を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の覚りの支分を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、聖者の道を修行する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の沙門の果を実証する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、諸々の神知を理解する、ということで、即座なる智慧となる。即座に、即座に、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、即座なる智慧となる。〔それらは〕即座なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、即座なる智慧である。

 

 [1767](12)「軽快なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、軽快なる智慧であるのか。軽快に、軽快に、諸戒を円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、〔感官の〕機能における統御を円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、【199】軽快に、食について量を知ることを円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、戒の範疇を……略……禅定の範疇を……智慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の状況あることと状況なきことを理解する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の住への入定を円満成就させる、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の聖なる真理を理解する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の気づきの確立を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の正しい精励を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の神通の足場を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の機能を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の力を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の覚りの支分を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、聖者の道を修行する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の沙門の果を実証する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、諸々の神知を理解する、ということで、軽快なる智慧となる。軽快に、軽快に、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、軽快なる智慧となる。〔それらは〕軽快なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、軽快なる智慧である。

 

 [1768](13)「敏速なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、敏速(ハーサ)なる智慧であるのか。ここに、一部の者が、笑喜(ハーサ)が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、諸戒を円満成就させる、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、〔感官の〕機能における統御を円満成就させる、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、食について量を知ることを円満成就させる、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、〔眠らずに〕起きていることへの専念を円満成就させる、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、戒の範疇を……略……禅定の範疇を……智慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就させる、ということで……諸々の状況あることと状況なきことを理解する、ということで……諸々の住への入定を円満成就させる、ということで……諸々の聖なる真理を理解する、ということで……諸々の気づきの確立を修行する、ということで……諸々の正しい精励を修行する、ということで……諸々の神通の足場を修行する、ということで……諸々の機能を修行する、ということで……諸々の力を修行する、ということで……諸々の覚りの支分を【200】修行する、ということで……聖者の道を修行する、ということで……略……諸々の沙門の果を実証する、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、諸々の神知を理解する、ということで、敏速なる智慧となる。笑喜が多くある者として、感嘆が多くある者として、満足が多くある者として、歓喜が多くある者として、最高の義(勝義)たる涅槃〔の界域〕を実証する、ということで、敏速なる智慧となる。〔それらは〕敏速なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、敏速なる智慧である。

 

7.

 

 [1769](14)「疾走する智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、疾走する智慧であるのか。それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態が、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕が、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。眼は……略([107-116]参照)……。老と死は、過去と未来と現在のものも、無常〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、苦痛〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となり、無我〔の観点〕から、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。

 

 [1770]「形態は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、比較して、推量して、分明して、明確と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……。「眼は……略([107-116]参照)……。「老と死は、過去と未来と現在のものも、滅尽の義(意味)によって、無常であり、恐怖の義(意味)によって、苦痛であり、真髄なきものの義(意味)によって、無我である」と、比較して、推量して、分明して、明確と為して、老と死の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。

 

 [1771]「形態は、過去と未来と現在のものも、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、比較して、推量して、分明して、明確と為して、形態の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は……。「眼は……略([107-116]参照)……。「老と死は、過去と未来と現在のものは、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、比較して、推量して、分明して、明確と為して、老と死の止滅という涅槃〔の界域〕にたいし、すみやかに疾走する、ということで、疾走する智慧となる。〔それらは〕疾走する智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、疾走する智慧である。

 

 [1772](15)「鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します」とは、どのようなものが、鋭敏なる智慧であるのか。【201】すみやかに、諸々の〔心の〕汚れを断つ、ということで、鋭敏なる智慧となる。生起した欲望の思考を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる、ということで、鋭敏なる智慧となる。生起した憎悪の思考を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる、ということで、鋭敏なる智慧となる。生起した悩害の思考を、甘受せず……略……。生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる、ということで、鋭敏なる智慧となる。生起した貪欲を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる、ということで、鋭敏なる智慧となる。生起した憤怒を……略……。生起した迷妄を……。生起した忿激を……。生起した怨恨を……偽装を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻惑を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の行作を……略……一切の生存に至る行為を、甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる、ということで、鋭敏なる智慧となる。一つの坐において、そして、四つの聖者の道が、さらに、四つの沙門の果が、四つの融通無礙が、六つの神知が、到達されたものと成り、実証されたものと〔成り〕、智慧によって体得されたものと〔成る〕、ということで、鋭敏なる智慧となる。〔それらは〕鋭敏なる智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、鋭敏なる智慧である。

 

 [1773](16)「洞察の智慧たることのために等しく転起する」とは、どのようなものが、洞察の智慧であるのか。ここに、一部の者が、一切の形成〔作用〕において、戦慄が多くある者と成り、恐懼が多くある者と〔成り〕、嫌悪が多くある者と〔成り〕、不満が多くある者と〔成り〕、不興が多くある者と〔成る〕。面を外にして(顔を背け)、一切の形成〔作用〕において、喜ぶことがない。過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、貪欲の範疇を、貫き(ニッビッジャティ)、破る(パダーレーティ)、ということで、洞察の智慧(ニッベーディカ・パンニャー)となる。過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、憤怒の範疇を、貫き、破る、ということで、洞察の智慧となる。過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、【202】迷妄の範疇を、貫き、破る、ということで、洞察の智慧となる。過去に貫かれたことがなく、過去に破られたことがない、忿激を……略……怨恨を……偽装を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻惑を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の行作を……略……一切の生存に至る行為を、貫き、破る、ということで、洞察の智慧となる。〔それらは〕洞察の智慧たることのために等しく転起する、ということで、これが、洞察の智慧である。

 

 [1774]これらの十六の智慧がある。これらの十六の智慧を具備した人が、融通無礙に至り得た者となる。

 

3. 1. 2. 人の殊勝についての釈示

 

8.

 

 [1775]二者の人が、融通無礙に至り得た者であるとして、一者は、過去との結合(宿縁)を成就した者であり、一者は、過去との結合を成就した者ではない。彼が、過去との結合を成就した者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される(分明される)。

 

 [1776]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であるとして、一者は、多聞の者であり、一者は、多聞の者ではない。彼が、多聞の者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1777]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であるとして、一者は、説示が多くある者であり、一者は、説示が多くある者ではない。彼が、説示が多くある者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1778]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であるとして、一者は、導師に依拠した者であり、一者は、導師に依拠した者ではない。彼が、導師に依拠した者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1779]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であるとして、一者は、住が多くある者であり、一者は、住が多くある者ではない。彼が、住が多くある者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1780]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住が多くある者であるとして、一者は、注視が多くある者であり、【203】一者は、注視が多くある者ではない。彼が、注視が多くある者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1781]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住が多くある者であり、二者ともどもに、注視が多くある者であるとして、一者は、学びある融通無礙に至り得た者であり、一者は、学ぶことなき融通無礙に至り得た者である。彼が、学ぶことなき融通無礙に至り得た者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1782]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住が多くある者であり、二者ともどもに、注視が多くある者であり、二者ともどもに、学ぶことなき融通無礙に至り得た者であるとして、一者は、弟子の完全態に至り得た者であり、一者は、弟子の完全態に至り得た者ではない。彼が、弟子の完全態に至り得た者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1783]二者の人が、融通無礙に至り得た者であり、二者ともどもに、過去との結合を成就した者であり、二者ともどもに、多聞の者であり、二者ともどもに、説示が多くある者であり、二者ともどもに、導師に依拠した者であり、二者ともどもに、住が多くある者であり、二者ともどもに、注視が多くある者であり、二者ともどもに、学ぶことなき融通無礙に至り得た者であるとして、一者は、弟子の完全態に至り得た者であり、一者は、独正覚者である。彼が、独正覚者であるなら、それによって、彼は、超過の者と成り、卓越の者と成り、殊勝の者と成り、彼の智慧は、細別される。

 

 [1784]そして、独覚と〔比較して〕、さらに、天を含む世〔の人々〕と比較して、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、至高の者となり、融通無礙に至り得た者となり、智慧の細別に巧みな智ある者となり、細別された知恵ある者となり、融通無礙に到達した者となり、四つの離怖に至り得た者となり、十の力を保持する者となり、人の雄牛たる者となり、人の獅子たる者となり……略([1758-1762]参照)……。すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、【204】さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、さらに、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって、ということで、至高の者となり、融通無礙に至り得た者となる。ということで──

 

 [1785]大いなる智慧についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 2. 神通についての言説

 

9.

 

 [1786]【205】何が、神通であるのか。どれだけの、神通があるのか。神通には、どれだけの境地があり、どれだけの足場があり、どれだけの境処があり、どれだけの根元があるのか。「何が、神通であるのか」とは、実現(イッジャナ)の義(意味)によって、神通(イッディ)となる。「どれだけの、神通があるのか」とは、十の神通がある。「神通には、どれだけの境地があり、〔どれだけの足場があり、どれだけの境処があり、どれだけの根元があるのか〕」とは、神通には、四つの境地があり、四つの足場があり、八つの境処があり、十六の根元がある。

 

(※)

 

※ テキストには 10. とあるが、タイ版により削除する。

 

 [1787]どのようなものが、十の神通であるのか。(1)確立の神通、(2)変異の神通、(3)意によって作られる神通、(4)知恵の充満の神通、(5)禅定の充満の神通、(6)聖者の神通、(7)行為の報い(業報)から生じる神通、(8)功徳者の神通、(9)明呪(呪文)によって作られる神通、(10)その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。

 

 [1788]神通には、どのような四つの境地があるのか。(1)遠離から生じる境地たる第一の瞑想、(2)喜悦と安楽の境地たる第二の瞑想、(3)放捨と安楽の境地たる第三の瞑想、(4)苦でもなく楽でもない境地たる第四の瞑想である。神通には、これらの四つの境地がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 

 [1789]神通には、どのような四つの足場があるのか。ここに、比丘が、(1)欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(2)心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(3)精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行し、(4)考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修行する。神通には、これらの四つの足場がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 

 [1790]神通には、どのような八つの境処があるのか。もし、【206】比丘が、欲〔の思い〕(意欲)に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、(1)欲〔の思い〕は、禅定ではなく、(2)禅定は、欲〔の思い〕ではない。他なるものとして、欲〔の思い〕があり、他なるものとして、禅定がある(両者は別個のものである)。もし、比丘が、精進に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、(3)精進は、禅定ではなく、(4)禅定は、精進ではない。他なるものとして、精進があり、他なるものとして、禅定がある。もし、比丘が、心(専心)に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、(5)心は、禅定ではなく、(6)禅定は、心ではない。他なるものとして、心があり、他なるものとして、禅定がある。もし、比丘が、考察に依拠して、禅定を得、心の一境性を得るなら、(7)考察は、禅定ではなく、(8)禅定は、考察ではない。他なるものとして、考察があり、他なるものとして、禅定がある。神通には、これらの八つの境処がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 

 [1791]神通には、どのような十六の根元があるのか。(1)下向することなき心は、怠惰にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(2)上向することなき心は、〔心の〕高揚にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(3)曲がることなき心は、貪欲〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(4)傾くことなき心は、憎悪〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(5)依存なき心は、見解にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(6)結縛なき心は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(7)解脱した心は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(8)束縛を離れた心は、〔心の〕汚れにたいし動揺しない、ということで、不動となる。(9)制約を離れることを為した心は、〔心の〕汚れの制約にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(10)一なることに至った心は、種々なることたる〔心の〕汚れにたいし動揺しない、ということで、不動となる。(11)信によって遍く収め取られた心は、不信にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(12)精進によって遍く収め取られた心は、怠惰にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(13)気づきによって遍く収め取られた心は、放逸にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(14)禅定によって遍く収め取られた心は、〔心の〕高揚にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(15)智慧によって遍く収め取られた心は、無明にたいし動揺しない、ということで、不動となる。(16)光輝に至った心は、無明の暗黒にたいし動揺しない、ということで、不動となる。神通には、これらの十六の根元がある。〔それらは〕神通を得るために〔等しく転起し〕、神通の獲得のために〔等しく転起し〕、神通の変異性のために〔等しく転起し〕、神通の発出性のために〔等しく転起し〕、神通の自在なる状態のために〔等しく転起し〕、神通の離怖のために等しく転起する、と〔知られるべきである〕。

 

3. 2. 1. 十の神通についての釈示

 

10.

 

 [1792]【207】(1)どのようなものが、確立の神通であるのか。〔世尊は説く〕「ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます」と。

 

 [1793]「ここに」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて。それによって説かれる。「ここに」と。「比丘が」とは、あるいは、善き凡夫として有り、あるいは、学びある比丘として〔有り〕、あるいは、不動の法(真理)ある阿羅漢として〔有る〕。「無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します」とは、種々なる流儀の神通の種類を体現する。「一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります」とは、〔生来の〕性向によっては一なる者が、多なるものに〔心を〕傾注し、あるいは、百〔の身体〕に、あるいは、千〔の身体〕に、あるいは、百千〔の身体〕に、〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「〔わたしは〕多なる者と成るのだ」と。〔彼は〕多なるものと成る。たとえば、尊者チューラ・パンタカが、一なる者としてもまた有って、多種なる者と成るように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、一なる者としてもまた有って、多種なる者と成る。「多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります」とは、〔生来の〕性向によっては多なる者が、一なるものに〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「〔わたしは〕一なる者と成るのだ」と。〔彼は〕一なるものと成る。たとえば、尊者チューラ・パンタカが、多種なる者としてもまた有って、一なる者と成るように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、多種なる者としてもまた有って、一なる者と成る。

 

11.

 

 [1794]「明現状態と〔成ります〕」とは、何によってであれ、覆われていないものと成り、隠されていないものと〔成り〕、開かれたものと〔成り〕、明白なるものと〔成る〕。「超没状態と〔成ります〕」とは、何によってであれ、覆われたものと成り、隠されたものと〔成り〕、塞がれたものと〔成り〕、覆い包まれたものと〔成る〕。【208】「壁を超え、垣を超え、山を超え、〔何ら〕着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、虚空の遍満への入定の得者と成り、壁を超え、垣を超え、山を超えることに、〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「虚空と成れ」と。〔それは〕虚空と成る。〔彼は〕壁を超え、垣を超え、山を超え、〔何ら〕着することなく赴く。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、何によってであれ、覆われていないものにおいて、囲まれていないものにおいて、〔何ら〕着することなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、壁を超え、垣を超え、山を超え、〔何ら〕着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。

 

 [1795]「地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、水の遍満への入定の得者と成り、地に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「水と成れ」と。〔地は〕水と成る。彼は、地のなかで出没することを為す。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、水のなかで出没することを為すように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、地のなかで出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように。

 

 [1796]「水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように」とは、〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、水に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「地と成れ」と。〔水は〕地と成る。彼は、水のうえで沈むことなく赴く。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地のうえで沈むことなく赴くように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、水のうえで沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように。

 

 [1797]「虚空においてであろうが、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように」とは、〔生来の〕性向によって、地の遍満への入定の得者と成り、虚空に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「地と成れ」と。〔虚空は〕地と成る。彼は、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたする。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、地において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたするように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、虚空において、空中において、歩行もまたし、立ちもまたし、坐りもまたし、臥所を営みもまたする──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。

 

12.

 

 [1798]「このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします」とは、ここに、彼が、神通者として、【209】心の自在に至り得た者として、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、月と日に〔心を〕傾注する。〔心を〕傾注して〔そののち〕、知恵によって〔心を〕確立する。「手近に有れ」と。〔月と日は〕手近に有る。彼は、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、月と日を、手でもって、撫で、撫でまわし、擦りまわす。たとえば、〔生来の〕性向によっては神通者ならざる人間たちが、まさしく、何であれ、形態の在り方をしたものを、手近において、撫で、撫でまわし、擦りまわすように、まさしく、このように、彼は、神通者として、心の自在に至り得た者として、あるいは、坐った者として、あるいは、横になった者として、月と日を、手でもって、撫で、撫でまわし、擦りまわす。

 

 [1799]「梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます」とは、それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、遠方にあるもまた、現前に〔心を〕確立する。「現前に有れ」と。〔それは〕現前に有る。現前にあるもまた、遠方に〔心を〕確立する。「遠方に有れ」と。〔それは〕遠方に有る。多きものをもまた、少なきものに〔心を〕確立する。「少なきものと成れ」と。〔それは〕少なきものと成る。少なきものをもまた、多きものに〔心を〕確立する。「多きものと成れ」と。〔それは〕多きものと成る。天眼によって、その梵〔天〕の形態を見る。天耳の界域によって、その梵〔天〕の音声を聞く。〔他者の〕心を探知する知恵によって、その梵〔天〕の心を覚知する。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、見られる身体(可見の身体)で梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、身体の自在によって心を変化させ、身体の自在によって心を確立する。身体の自在によって心を変化させて、身体の自在によって心を確立して、そして、安楽の表象に〔入って〕、さらに、軽快の表象に入って、見られる身体で梵の世に赴く。それで、もし、彼が、神通者として、心の自在に至り得た者として、見られない身体(不可見の身体)で梵の世に赴くことを欲する者と成るなら、心の自在によって身体を変化させ、心の自在によって身体を確立する。心の自在によって身体を変化させて、心の自在によって身体を確立して、そして、安楽の表象に〔入って〕、さらに、軽快の表象に入って、見られない身体で梵の世に赴く。彼は、その梵〔天〕の前に、〔自己の〕形態を化作する──意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕歩行するなら、化作された〔形態〕もまた、そこ(梵天界)において、歩行する。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕立つなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、立つ。それで、もし、彼が、神通者として、〔人間の界域で〕坐るなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、坐る。それで、もし、彼が、神通者として、臥所を営むなら、化作された〔形態〕もまた、【210】そこにおいて、臥所を営む。それで、もし、彼が、神通者として、煙を出すなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、煙を出す。それで、もし、彼が、神通者として、火を放つむなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、火を放つ。それで、もし、彼が、神通者として、法(教え)を語るなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、法(教え)を語る。それで、もし、彼が、神通者として、問いを尋ねるなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、問いを尋ねる。それで、もし、彼が、神通者として、問いを尋ねられた者として答えるなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、問いを尋ねられた者として答える。それで、もし、彼が、神通者として、その梵〔天〕と共に立ち、談論し、論議に入定するなら、化作された〔形態〕もまた、そこにおいて、その梵〔天〕と共に立ち、談論し、論議に入定する。まさしく、そのこと、そのことを、彼が、神通者として為すなら、まさしく、そのこと、そのことを、まさに、彼は、化作された〔形態〕として為す。ということで、これが、確立の神通である。

 

13.

 

 [1800](2)どのようなものが、変異の神通であるのか。阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊の、アビブーという名の弟子は、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させた。彼は、見られる身体(可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、見られない身体(不可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、見られる下半分の身体によってもまた、見られない上半分の身体によってもまた、法(教え)を説示し、見られる上半分の身体によってもまた、見られない下半分の身体によってもまた、法(教え)を説示する。彼は、〔生来の〕性向の姿を捨棄して、あるいは、少年の姿を見示し、あるいは、龍の姿を見示し、あるいは、金翅鳥の姿を見示し、あるいは、夜叉の姿を見示し、あるいは、インダ(インドラ神)の姿を見示し、あるいは、天〔の神〕の姿を見示し、あるいは、梵〔天〕の姿を見示し、あるいは、海の姿を見示し、あるいは、山の姿を見示し、あるいは、林の姿を見示し、あるいは、獅子の姿を見示し、あるいは、虎の姿を見示し、あるいは、豹の姿を見示し、象〔兵〕をもまた見示し、馬〔兵〕をもまた見示し、車〔兵〕をもまた見示し、歩〔兵〕をもまた見示し、様々な種類の軍勢をもまた見示する。ということで、これが、変異の神通である。

 

14.

 

 [1801](3)どのようなものが、意によって作られる神通であるのか。ここに、比丘が、この身体から、他の身体を化作する──形態あるものとして、意によって作られるものにして、【211】全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するであろう。「これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された」と。また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するであろう。「これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された」と。また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するであろう。「これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた」と。まさしく、このように、比丘が、この身体から、他の身体を化作する──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。これが、意によって作られる神通である。

 

15.

 

 [1802](4)どのようなものが、知恵の充満の神通であるのか。無常の随観によって、常住の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。苦痛の随観によって、安楽の表象の……。無我の随観によって、自己の表象の……。厭離の随観によって、愉悦の……。離貪の随観によって、貪欲の……。止滅の随観によって、集起の……。放棄の随観によって、執取の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、知恵の充満の神通となる。尊者バークラの、知恵の充満の神通である。尊者サンキッチャの、知恵の充満の神通である。尊者ブータパーラの、知恵の充満の神通である。これが、知恵の充満の神通である。

 

16.

 

 [1803](5)どのようなものが、禅定の充満の神通であるのか。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、禅定の充満の神通となる。第二の瞑想によって、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、禅定の充満の神通となる。第三の瞑想によって、喜悦の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。第四の瞑想によって、安楽と苦痛の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、形態の表象の、敵対の表象の、種々なる表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象の、【212】捨棄という義(目的)が実現する、ということで……略……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、無所有なる〔認識の〕場所の表象の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、禅定の充満の神通となる。尊者サーリプッタの、禅定の充満の神通である。尊者サンジーヴァの、尊者カーヌコンダンニャの、ウッタラー女性在俗信者の、サーマーヴァティー女性在俗信者の、禅定の充満の神通である。これが、禅定の充満の神通である。

 

17.

 

 [1804](6)どのようなものが、聖者の神通であるのか。ここに、比丘が、それで、もし、「嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。それで、もし、「嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住む。それで、もし、「そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。それで、もし、「そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ」と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住む。それで、もし、「そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕」と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。

 

 [1805]どのように、嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのか。好ましくない事物にたいし、あるいは、慈愛〔の心〕で充満し、あるいは、〔四つの〕界域(地・水・火・風)〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。

 

 [1806]どのように、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのか。好ましい事物にたいし、あるいは、不浄〔の表象〕で充満し、あるいは、無常〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住む。

 

 [1807]どのように、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのか。そして、好ましくない事物にたいし、さらに、好ましい事物にたいし、あるいは、慈愛〔の心〕で充満し、あるいは、〔四つの〕界域〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住む。

 

 [1808]どのように、そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪なる表象ある者として〔世に〕住むのか。そして、好ましい事物にたいし、さらに、好ましくない事物にたいし、あるいは、不浄〔の表象〕で充満し、あるいは、無常〔の観点〕から〔心を〕近しく集中する。このように、そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪なる表象ある者として〔世に〕住む。

 

 [1809]どのように、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、【213】放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住むのか〕。ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。このように、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。これが、聖者の神通である。

 

18.

 

 [1810](7)どのようなものが、行為の報い(業報)から生じる神通であるのか。一切の翼あるものたち(鳥類)の、一切の天〔の神々〕たちの、一部の人間たちの、一部の堕所にある者たちの、〔その神通である〕。これが、行為の報いから生じる神通である。

 

 [1811](8)どのようなものが、功徳者の神通であるのか。転輪王が、四つの支分ある軍団と共に、もしくは、馬丁や牛卒たちを加え含めて、宙を赴く。ジョーティカ家長の、功徳者の神通である。ジャティラ家長の、功徳者の神通である。メンダカ家長の、功徳者の神通である。ゴーシタ家長の、功徳者の神通である。五者の大いなる功徳ある者たちの、功徳者の神通である。これが、功徳者の神通である。

 

 [1812](9)どのようなものが、明呪(呪文)によって作られる神通であるのか。明呪の保持者たちが、明呪を呟いて宙を赴き、虚空において、空中において、象〔兵〕をもまた見示し、馬〔兵〕をもまた見示し、車〔兵〕をもまた見示し、歩〔兵〕をもまた見示し、様々な種類の軍勢をもまた見示する。これが、明呪によって作られる神通である。

 

 [1813](10)どのように、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となるのか。離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、【214】神通となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕の、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの、捨棄という義(目的)が実現する、ということで、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。このように、その場その場に正しい専念を縁とすることから、実現の義(意味)によって、神通となる。これらのものが、十の神通である。

 

 [1814]神通についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 3. 〔法の〕知悉についての言説

 

19.

 

 [1815]【215】「知悉(現観)」とは、何によって、知悉するのか。心によって、知悉する。

 

 [1816]では、もし、心によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それなら、〔彼は〕知恵なき者として知悉するのか。〔彼は〕知恵なき者として知悉するにあらず。知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 

 [1817]では、もし、知恵によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それなら、かつまた、心なきによって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕心なき者として知悉するのか。〔彼は〕心なき者として知悉するにあらず。かつまた、心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 

 [1818]では、もし、かつまた、心によって、かつまた、知恵によって、〔彼が〕知悉するなら、まさに、それなら、かつまた、欲望の行境(欲界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、欲望の行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1819]まさに、それなら、かつまた、形態の行境(色界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、形態の行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1820]まさに、それなら、かつまた、形態なき行境(無色界)の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、形態なき行境の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1821]まさに、それなら、かつまた、行為を自らのものとする心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、行為を自らのものとする心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1822]まさに、それなら、かつまた、真理に随順する心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、真理に随順する心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1823]まさに、それなら、かつまた、過去の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、過去の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1824]まさに、それなら、かつまた、未来の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、未来の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。

 

 [1825]まさに、それなら、かつまた、現在の世〔俗〕の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。かつまた、現在の世〔俗〕の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するにあらず。世〔俗〕を超える道の瞬間において、かつまた、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 

 [1826]どのように、世〔俗〕を超える道の瞬間において、かつまた、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉するのか。世〔俗〕を超える道の瞬間において、生起を優位とする心が、知恵にとっての、因となり、さらに、縁となり、それと結び付いた【216】心が(※)、止滅を境涯とするものとなり、〔あるがままの〕見を優位とする知恵が、心にとっての、因となり、さらに、縁となり、それと結び付いた知恵が、止滅を境涯とするものとなる。このように、世〔俗〕を超える道の瞬間において、そして、現在の心によって、かつまた、知恵によって、〔彼は〕知悉する。

 

※ テキストには Taṃsampayuttaṃ とあるが、PTS版により Taṃsampayuttaṃ cittaṃ と読む。

 

20.

 

 [1827]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。世〔俗〕を超える道の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり、正しい思惟が、〔正しく心を〕固定することの知悉となり、正しい言葉が、遍き収取の知悉となり、正しい行業が、等しく現起するものの知悉となり、正しい生き方が、浄化するものの知悉となり、正しい努力が、励起の知悉となり、正しい気づきが、現起の知悉となり、正しい禅定が、〔心の〕散乱なき〔状態〕の知悉となり、気づきという正覚の支分が、現起の知悉となり、法(真理)の判別という正覚の支分が、精査の知悉となり、精進という正覚の支分が、励起の知悉となり、喜悦という正覚の支分が、充満の知悉となり、静息という正覚の支分が、寂止の知悉となり、禅定という正覚の支分が、〔心の〕散乱なき〔状態〕の知悉となり、放捨という正覚の支分が、審慮の知悉となり、信の力が、不信にたいする、不動の知悉となり、精進の力が、怠惰にたいする、不動の知悉となり、気づきの力が、放逸にたいする、不動の知悉となり、禅定の力が、〔心の〕高揚にたいする、不動の知悉となり、智慧の力が、無明にたいする、不動の知悉となり、信の機能が、信念の知悉となり、精進の機能が、励起の知悉となり、気づきの機能が、現起の知悉となり、禅定の機能が、〔心の〕散乱なき〔状態〕の知悉となり、智慧の機能が、〔あるがままの〕見の知悉となり、優位の義(意味)によって、〔五つの〕機能の知悉となり、不動の義(意味)によって、〔五つの〕力の知悉となり、出脱の義(意味)によって、〔七つの〕覚りの支分の知悉となり、因の義(意味)によって、〔聖なる八つの支分ある〕道の知悉となり、現起の義(意味)によって、〔四つの〕気づきの確立の知悉となり、精励の義(意味)によって、〔四つの〕正しい精励の知悉となり、実現の義(意味)によって、〔四つの〕神通の足場の知悉となり、真実の義(意味)によって、〔四つの〕真理の知悉となり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、〔心の〕止寂の知悉となり、随観の義(意味)によって、〔あるがままの〕観察の知悉となり、一味の義(意味)によって、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の知悉となり、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、双連〔の法〕(心の止寂とあるがままの観察)の知悉となり、統御の義(意味)によって、戒の清浄の知悉となり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄の知悉となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄の知悉となり、解き放ちの義(意味)によって、解脱の知悉となり、理解の義(意味)によって、明知の知悉となり、遍捨の義(意味)によって、解脱の知悉となり、断絶の義(意味)によって、滅尽についての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり、意を為すことが、等しく現起するものの義(意味)によって、知悉となり、接触が、配備の義(意味)によって、知悉となり、感受が、集結の義(意味)によって、知悉となり、禅定が、筆頭の義(意味)によって、【217】知悉となり、気づきが、優位の義(意味)によって、知悉となり、智慧が、それをより上とすることの義(意味)によって、知悉となり、解脱が、真髄の義(意味)によって、知悉となり、不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 

21.

 

 [1828]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。預流道の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 

 [1829]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。預流果の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり……略……安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 

 [1830]いったい、どうして、まさしく、これだけが、知悉となるのか、と〔問うなら〕、まさに、〔そのようなことは〕ない、〔と答える〕。一来道の瞬間において……略……。一来果の瞬間において……。不還道の瞬間において……。不還果の瞬間において……。阿羅漢道の瞬間において……略……。阿羅漢果の瞬間において、正しい見解が、〔あるがままの〕見の知悉となり、正しい思惟が、〔正しく心を〕固定することの知悉となり……略……安息の義(意味)によって、生起なきものについての知恵の知悉となり、欲〔の思い〕(意欲)が、根元の義(意味)によって、知悉となり……略……不死への沈潜たる涅槃が、結末の義(意味)によって、知悉となる。

 

 [1831]〔まさに〕その、この者が、諸々の〔心の〕汚れを捨棄するとして、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するのか、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するのか。〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、〔すでに〕滅尽したものを滅尽させ、〔すでに〕止滅したものを止滅させ、〔すでに〕離れ去ったものを離れ去らせ、〔すでに〕滅却に至ったものを滅却に至らせることになる。それが、過去のものであるなら、〔もはや〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは、と〔問うなら〕、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、〔いまだ〕生じていないものを捨棄し、〔いまだ〕発現していないものを捨棄し、〔いまだ〕生起していないものを捨棄し、〔いまだ〕出現していないものを捨棄することになる。それが、未来のものであるなら、〔いまだ〕存在せず、その〔存在しないもの〕を捨棄することになるのでは、と〔問うなら〕、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄する、ということで、では、もし、〔彼が〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄するなら、まさに、それなら、貪りある者が、貪欲を捨棄することになり、怒りある者が、憤怒を捨棄することになり、迷いある者が、迷妄を捨棄することになり、結縛ある者が、思量を捨棄することになり、偏執ある者が、見解を捨棄することになり、〔心の〕散乱に至った者が、高揚を捨棄することになり、結論なきに至った者(疑惑者)が、疑惑を捨棄することになり、〔悪習を所以に〕強靭に至った者(頑迷固陋の者)が、悪習を捨棄することになり、黒白の〔二つの〕法(性質)が、双連のものとして、まさしく、同等に【218】転起することになり、〔聖者の〕道の修行が、汚染(雑染)のものと成るのでは、〔と問うなら〕──

 

 [1832]まさに、〔彼は〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の未来の〔心の〕汚れを捨棄せず、〔彼は〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄しない、と〔答える〕。では、もし、〔彼が〕諸々の過去の〔心の〕汚れを捨棄せず……略……〔彼が〕諸々の現在の〔心の〕汚れを捨棄しないなら、まさに、それなら、〔聖者の〕道の修行が存在しないことになり、〔沙門の〕果の実証が存在しないことになり、〔心の〕汚れの捨棄が存在しないことになり、法(性質)の知悉が存在しないことになるのでは、と〔問うなら〕、〔聖者の〕道の修行は存在し、〔沙門の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、法(性質)の知悉は存在する、〔と答える〕。たとえば、どのように、そのようなことになるのか。それは、たとえば、また、〔いまだ〕果が生じていない若木があり、〔まさに〕その、この根を、人が切断するとして、すなわち、その木の、〔いまだ〕生じていない諸々の果は、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはないように、まさしく、このように、「諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、生起は因であり、生起は縁である」と、生起における危険を見て、心は、生起なきものに跳入する。生起なきものに心が跳入したことから、すなわち、生起の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、諸々の〔心の〕汚れは、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。このように、「因の止滅あることから、苦の止滅がある。諸々の〔心の〕汚れの発現にとって、転起されたものは因であり、形相は因であり、専業(業を作ること)は因であり、専業は縁である」と、専業における危険を見て、心は、専業なきものに跳入する。専業なきものに心が跳入したことから、すなわち、専業の縁あるものとして〔いずれ〕発現するであろう、諸々の〔心の〕汚れは、それらは、まさしく、〔いまだ〕生じていないものであり、〔もはや〕生じることはなく、まさしく、〔いまだ〕発現していないものであり、〔もはや〕発現することはなく、まさしく、〔いまだ〕生起していないものであり、〔もはや〕生起することはなく、まさしく、〔いまだ〕出現していないものであり、〔もはや〕出現することはない。このように、因の止滅あることから、苦の止滅がある。このように、〔聖者の〕道の修行は存在し、〔沙門の〕果の実証は存在し、〔心の〕汚れの捨棄は存在し、法(性質)の知悉は存在する。ということで──

 

 [1833]〔法の〕知悉についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 4. 遠離についての言説

 

22.

 

 [1834]【219】サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

 [1835]比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……正しい思惟を……略……正しい言葉を……正しい行業を……正しい生き方を……正しい努力を……正しい気づきを修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、〔煩悩の〕放棄へと向かわせる、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。

 

23.

 

 [1836]比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます。

 

 [1837]比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、【220】聖なる八つの支分ある道を修めながら、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解を修めます。……略……正しい思惟を修めます。……正しい言葉を修めます。……正しい行業を修めます。……正しい生き方を修めます。……正しい努力を修めます。……正しい気づきを修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、〔煩悩の〕放棄へと向かわせる、正しい禅定を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます」と。

 

3. 4. 1. 道の支分についての釈示

 

24.

 

 [1838]正しい見解には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。正しい思惟には……略……。正しい言葉には……。正しい行業には……。正しい生き方には……。正しい努力には……。正しい気づきには……。正しい禅定には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 

 [1839]正しい見解には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、特性の遠離、断絶の遠離、安息の遠離、出離の遠離である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の遠離がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の遠離がある。そして、果の瞬間において、安息の遠離がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。正しい見解には、これらの五つの遠離がある。これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1840]正しい見解には、どのような五つの離貪があるのか。鎮静の離貪、特性の離貪、断絶の離貪、安息の離貪、出離の離貪である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の離貪がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の離貪がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の離貪がある。そして、果の瞬間において、安息の離貪がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の離貪がある。正しい見解には、これらの五つの離貪がある。これらの五つの離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1841]【221】正しい見解には、どのような五つの止滅があるのか。鎮静の止滅、特性の止滅、断絶の止滅、安息の止滅、出離の止滅である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の止滅がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の止滅がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の止滅がある。そして、果の瞬間において、安息の止滅がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の止滅がある。正しい見解には、これらの五つの止滅がある。これらの五つの止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1842]正しい見解には、どのような五つの放棄があるのか。鎮静の放棄、特性の放棄、断絶の放棄、安息の放棄、出離の放棄である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の放棄がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の放棄がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の放棄がある。そして、果の瞬間において、安息の放棄がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の放棄がある。正しい見解には、これらの五つの放棄がある。これらの五つの放棄について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。正しい見解には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 

25.

 

 [1843]正しい思惟には……略……。正しい言葉には……。正しい行業には……。正しい生き方には……。正しい努力には……。正しい気づきには……。正しい禅定には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、特性の遠離、断絶の遠離、安息の遠離、出離の遠離である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の遠離がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の遠離がある。そして、果の瞬間において、安息の遠離がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。正しい禅定には、【222】これらの五つの遠離がある。これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1844]正しい禅定には、どのような五つの離貪があるのか。鎮静の離貪、特性の離貪、断絶の離貪、安息の離貪、出離の離貪である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の離貪がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の離貪がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の離貪がある。そして、果の瞬間において、安息の離貪がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の離貪がある。正しい禅定には、これらの五つの離貪がある。これらの五つの離貪について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1845]正しい禅定には、どのような五つの止滅があるのか。鎮静の止滅、特性の止滅、断絶の止滅、安息の止滅、出離の止滅である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の止滅がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の止滅がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の止滅がある。そして、果の瞬間において、安息の止滅がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の止滅がある。正しい禅定には、これらの五つの止滅がある。これらの五つの止滅について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。

 

 [1846]正しい禅定には、どのような五つの放棄があるのか。鎮静の放棄、特性の放棄、断絶の放棄、安息の放棄、出離の放棄である。そして、第一の瞑想を修行していると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の放棄がある。そして、洞察を部分とする禅定を修行していると、諸々の悪しき見解の、特性の放棄がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修行していると、断絶の放棄がある。そして、果の瞬間において、安息の放棄がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の放棄がある。正しい禅定には、これらの五つの放棄がある。これらの五つの放棄について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。正しい禅定には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 

26.

 

 [1847]「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において【223】確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、七つの覚りの支分を修め、七つの覚りの支分を多く為します。……略……七つの覚りの支分を修めながら、七つの覚りの支分を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます。……略……五つの力を修め、五つの力を多く為します。……略……五つの力を修めながら、五つの力を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます。……略……五つの機能を修め、五つの機能を多く為します。……略……。

 

 [1848]比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます。

 

 [1849]比丘たちよ、では、どのように、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、五つの機能を修めながら、五つの機能を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を修めます。……略……気づきの機能を修めます。……略……禅定の機能を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、〔煩悩の〕放棄へと向かわせる、智慧の機能を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、戒に依拠して、戒において確立して、五つの機能を修め、五つの機能を多く為しながら、諸々の法(教え)において、増大に〔至り得〕、成長に〔至り得〕、広大に至り得ます」と。

 

3. 4. 2. 機能についての釈示

 

27.

 

 [1850]信の機能には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。精進の機能には……略……。気づきの機能には……略……。禅定の機能には……略……。智慧の機能には、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 

 [1851]信の機能には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、特性の遠離、断絶の遠離、安息の遠離、出離の遠離である。そして、第一の瞑想を修めていると、〔五つの修行の〕妨害の、鎮静の遠離がある。そして、洞察を部分とする禅定を修めていると、諸々の悪しき見解の、特性の遠離がある。そして、世〔俗〕を超えるものたる滅尽に至る道を修めていると、断絶の遠離がある。そして、果の瞬間において、安息の遠離がある。そして、止滅の涅槃としての、出離の遠離がある。信の機能には、これらの五つの遠離がある。【224】これらの五つの遠離について、欲〔の思い〕(意欲)が生じた者と成り、信を信念した者と〔成り〕、そして、彼の心は、善く確立されたものと〔成る〕。……略……。信の機能には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。

 

 [1852]精進の機能には……略……。気づきの機能には……略……。禅定の機能には……略……。智慧の機能には、どのような五つの遠離があるのか。鎮静の遠離、特性の遠離、断絶の遠離、安息の遠離、出離の遠離である。……略……。智慧の機能には、これらの、五つの遠離があり、五つの離貪があり、五つの止滅があり、五つの放棄があり、十二の依所がある。ということで──

 

 [1853]遠離についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 5. 性行についての言説

 

28.

 

 [1854]【225】「性行」とは、八つの性行がある。振る舞いの道の性行、〔認識の〕場所の性行、気づきの性行、禅定の性行、知恵の性行、道の性行、至り得ることの性行、世の義(利益)の性行である。

 

 [1855]「振る舞いの道の性行」とは、四つの振る舞いの道(行・住・坐・臥)における〔性行である〕。「〔認識の〕場所の性行」とは、六つの内なると外なる〔認識の〕場所における〔性行である〕。「気づきの性行」とは、四つの気づきの確立における〔性行である〕。「禅定の性行」とは、四つの瞑想における〔性行である〕。「知恵の性行」とは、四つの聖なる真理における〔性行である〕。「道の性行」とは、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における〔性行である〕。「至り得ることの性行」とは、四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)における〔性行である〕。「世の義(利益)の性行」とは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちにおける〔性行であり〕、一部の独覚たちにおける〔性行であり〕、一部の弟子たちにおける〔性行である〕。

 

 [1856]そして、誓願を成就した者たちには、振る舞いの道の性行があり、そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちには、〔認識の〕場所の性行があり、そして、不放逸の住者たちには、気づきの性行があり、そして、卓越の心(瞑想)に専念する者たちには、禅定の性行があり、そして、覚慧を成就した者たちには、知恵の性行があり、そして、正しく実践した者たちには、道の性行があり、そして、果に到達した者たちには、至り得ることの性行があり、そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちには、一部の独覚たちには、一部の弟子たちには、世の義(利益)の性行がある。これらの八つの性行がある。

 

29.

 

 [1857]他にも、また、八つの性行がある。信念している者は、信によって行なう。励起している者は、精進によって行なう。現起させている者は、気づきによって行なう。〔心の〕散乱なき〔状態〕を作り為している者は、禅定によって行なう。覚知している者は、智慧によって行なう。識知している者は、識知〔作用〕の性行によって行なう。このように【226】実践した者に、諸々の善なる法(性質)が入来する、ということで、〔認識の〕場所の性行によって行なう。このように実践した者は、殊勝〔の境地〕に到達する、ということで、殊勝〔の境地〕の性行によって行なう。これらの八つの性行がある。

 

 [1858]他にも、また、八つの性行がある。そして、正しい見解には、〔あるがままの〕見の性行がある。正しい思惟には、〔正しく心を〕固定することの性行がある。正しい言葉には、遍き収取(理解・把握)の性行がある。正しい行業には、等しく現起するものの性行がある。正しい生き方には、浄化するものの性行がある。正しい努力には、励起の性行がある。正しい気づきには、現起の性行がある。正しい禅定には、〔心の〕散乱なき〔状態〕の性行がある。これらの八つの性行がある。ということで──

 

 [1859]性行についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 6. 神変についての言説

 

30.

 

 [1860]【227】「比丘たちよ、三つのものがあります。まさに、これらの神変です。どのようなものが、三つのものなのですか。神通の神変であり、指摘の神変であり、教示の神変です。

 

 [1861]比丘たちよ、では、どのようなものが、神通の神変なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え……略([621]参照)……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、これが、神通の神変と説かれます。

 

 [1862]比丘たちよ、では、どのようなものが、指摘の神変なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、形相(行状)によって指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、思考し想念している者の思考の充満の音声を【228】聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、まさに、この思考を思考するであろう』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。比丘たちよ、これが、指摘の神変と説かれます。

 

 [1863]比丘たちよ、では、どのようなものが、教示の神変なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、このように教示します。『〔あなたたちは〕このように思考しなさい。〔あなたたちは〕このように思考してはいけません。〔あなたたちは〕このように意を為しなさい。〔あなたたちは〕このように意を為していけません。〔あなたたちは〕これを捨棄しなさい。〔あなたたちは〕これを成就して〔世に〕住みなさい』と。比丘たちよ、これが、教示の神変と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの神変があります」〔と〕。

 

31.

 

 [1864]離欲が実現する、ということで、神通となり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その離欲を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その離欲が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1865]憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が実現する、ということで、神通となり、憎悪〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1866]光明の表象が実現する、ということで、神通となり、〔心の〕沈滞と眠気を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その光明の表象を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その光明の表象が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1867]〔心の〕散乱なき〔状態〕が実現する、ということで、神通となり、〔心の〕高揚を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その〔心の〕散乱なき〔状態〕を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、【229】清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その〔心の〕散乱なき〔状態〕が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1868]法(性質)〔の差異〕を定め置くことが実現する、ということで、神通となり、疑惑〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その法(性質)〔の差異〕を定め置くことを具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1869]知恵が実現する、ということで、神通となり、無明を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その知恵を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その知恵が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1870]歓喜が実現する、ということで、神通となり、不満〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その歓喜を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その歓喜が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

 [1871]第一の瞑想が実現する、ということで、神通となり、〔五つの修行の〕妨害を変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その第一の瞑想を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その第一の瞑想が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。……略……。

 

 [1872]阿羅漢道が実現する、ということで、神通となり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを変形させる、ということで、神変となる。「彼らが、その阿羅漢道を具備した者たちであるなら、彼らの全てが、清浄なる心の者たちであり、混濁なき思惟の者たちである」と、指摘の神変となる。「また、まさに、その阿羅漢道が、このように習修されるべきであり、このように修められるべきであり、このように多く為されるべきであり、その法(性質)のままなることとして、気づきが、このように現起させられるべきである」と、教示の神変となる。

 

32.

 

 [1873]離欲が実現する、ということで、神通となり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。そして、すなわち、神通でもあり、さらに、すなわち、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が実現する、ということで、神通となり、憎悪〔の思い〕を変形させる、ということで、神変となる。そして、すなわち、神通でもあり、さらに、すなわち、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。光明の表象が実現する、ということで、神通となり、〔心の〕沈滞と眠気を変形させる、ということで、神変となる。……略……。阿羅漢道が実現する、ということで、神通となり、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを変形させる、ということで、神変となる。そして、すなわち、神通でもあり、さらに、すなわち、神変でもあるなら、これが、神通の神変と説かれる。ということで──

 

 [1874]神変についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 7. 等首者についての言説

 

33.

 

 [1875]【230】一切の法(事象)の、正しい断絶における、さらに、止滅における、現起なきこととしての智慧が、等首者(等首:煩悩が滅尽して阿羅漢に成ったその瞬間に命を終える者)の義(意味)についての知恵となる。

 

 [1876]「一切の法(事象)」とは、五つの〔心身を構成する〕範疇、十二の〔認識の〕場所、十八の界域、善なる諸法(性質)、善ならざる諸法(性質)、〔善悪が〕説き明かされない諸法(性質)、欲望の行境の諸法(性質)、形態の行境の諸法(性質)、形態なき行境の諸法(性質)、属するところなき諸法(性質)である。「正しい断絶」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を正しく断絶し、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を正しく断絶し、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を正しく断絶し、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を正しく断絶し、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を正しく断絶し、知恵によって、無明を正しく断絶し、歓喜によって、不満〔の思い〕を正しく断絶し、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を正しく断絶し……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを正しく断絶する。

 

 [1877]「止滅」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を止滅させ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を止滅させ、光明の表象によって、〔心の〕沈滞と眠気を止滅させ、〔心の〕散乱なき〔状態〕によって、〔心の〕高揚を止滅させ、法(性質)〔の差異〕を定め置くことによって、疑惑〔の思い〕を止滅させ、知恵によって、無明を止滅させ、歓喜によって、不満〔の思い〕を止滅させ、第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害を止滅させ……略……阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを止滅させる。

 

 [1878]「現起なきこと」とは、離欲を獲得した者には、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は現起せず、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を獲得した者には、憎悪〔の思い〕は現起せず、光明の表象を獲得した者には、〔心の〕沈滞と眠気は現起せず、〔心の〕散乱なき〔状態〕を獲得した者には、〔心の〕高揚は現起せず、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを獲得した者には、疑惑〔の思い〕は現起せず、知恵を獲得した者には、無明は現起せず、歓喜を獲得した者には、不満〔の思い〕は現起せず、第一の瞑想を【231】獲得した者には、〔五つの修行の〕妨害は現起せず……略……阿羅漢道を獲得した者には、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れは現起しない。

 

 [1879]「等(平等・平静)」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、等であり、憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、等であり、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたことから、光明の表象が、等であり、〔心の〕高揚が捨棄されたことから、〔心の〕散乱なき〔状態〕が、等であり、疑惑〔の思い〕が捨棄されたことから、法(性質)〔の差異〕を定め置くことが、等であり、無明が捨棄されたことから、知恵が、等であり、不満〔の思い〕が捨棄されたことから、歓喜が、等であり、〔五つの修行の〕妨害が捨棄されたことから、第一の瞑想が、等であり……略……〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、等である。

 

 [1880]「首(筆頭・頭目)」とは、十三の首がある。(1)そして、障害の首としての渇愛、(2)そして、結縛の首としての思量、(3)そして、偏執の首としての見解、(4)そして、〔心の〕散乱の首としての〔心の〕高揚、(5)そして、〔心の〕汚染(雑染)の首としての無明、(6)そして、信念の首としての信、(7)そして、励起の首としての精進、(8)そして、現起の首としての気づき、(9)そして、〔心の〕散乱なき〔状態〕の首としての禅定、(10)そして、〔あるがままの〕見の首としての智慧、(11)そして、転起されたものの首としての生命の機能、(12)そして、境涯の首としての解脱、(13)そして、形成〔作用〕の首としての止滅とである。ということで──

 

 [1881]等首者についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 8. 気づきの確立についての言説

 

34.

 

 [1882]【232】サーヴァッティーの因縁となる。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの四つの気づきの確立があります」と。

 

35.

 

 [1883]どのように、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、地の身体を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、身体を随観する。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1884]「修行」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [1885]ここに、一部の者が、水の身体を……略……。火の身体を……。風の身体を……。髪の身体を……。毛の身体を……。表皮の身体を……。皮の身体を……。肉の身体を……。血液の身体を……。腱の身体を……。骨の身体を……。骨髄の身体を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、【233】安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、身体を随観する。身体は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その身体を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「身体における身体の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1886]「修行」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。このように、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住む。

 

 [1887]どのように、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、安楽の感受を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、感受を随観する。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1888]「修行」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。……略……。ここに、一部の者が、苦痛の感受を……略……。苦でもなく楽でもない感受を……。財貨を有する安楽の感受を……。財貨なき安楽の感受を……。財貨を有する苦痛の感受を……。財貨なき苦痛の感受を……。財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を……。財貨なき苦でもなく楽でもない感受を……。眼の接触から生じる感受を……。耳の接触から生じる感受を……。鼻の接触から生じる感受を……。舌の接触から生じる感受を……。身の接触から生じる感受を……。意の接触から生じる感受を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、感受を随観する。感受は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その感受を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の感受における感受の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1889]「修行」とは、四つの修行がある。……略……。このように、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住む。

 

 [1890]どのように、心における心の随観ある者として〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、貪欲を有する心を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を【234】捨棄する。これらの七つの行相によって、心を随観する。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1891]「修行」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義(意味)によって、修行となる。

 

 [1892]ここに、一部の者が、貪欲を離れた心を……略……。憤怒を有する心を……。憤怒を離れた心を……。迷妄を有する心を……。迷妄を離れた心を……。退縮した心を……。散乱した心を……。莫大なる心を……。莫大ならざる心を……。有上なる心を……。無上なる心を……。定められた心を……。定められていない心を……。解脱した心を……。解脱していない心を……。眼の識知〔作用〕を……。耳の識知〔作用〕を……。鼻の識知〔作用〕を……。舌の識知〔作用〕を……。身の識知〔作用〕を……。意の識知〔作用〕を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。……略……放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し……略……放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、心を随観する。心は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その心を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「心における心の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1893]「修行」とは、四つの修行がある。……略……。このように、心における心の随観ある者として〔世に〕住む。

 

 [1894]どのように、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのか。ここに、一部の者が、身体を除いて、感受を除いて、心を除いて、その残りの諸法(性質)を、無常〔の観点〕から随観し、常住〔の観点〕から〔随観し〕ない。苦痛〔の観点〕から随観し、安楽〔の観点〕から〔随観し〕ない。無我〔の観点〕から随観し、自己〔の観点〕から〔随観し〕ない。厭離し、愉悦しない。離貪し、貪欲しない。止滅させ、集起させない。放棄し、執取しない。無常〔の観点〕から随観している者は、常住の表象を捨棄し、苦痛〔の観点〕から随観している者は、安楽の表象を捨棄し、無我〔の観点〕から随観している者は、自己の表象を捨棄し、厭離している者は、愉悦を捨棄し、離貪している者は、貪欲を捨棄し、止滅させている者は、集起を捨棄し、放棄している者は、執取を捨棄する。これらの七つの行相によって、法(性質)を随観する。法(性質)は、現起であり、気づきではなく、気づきは、まさしく、そして、現起であり、さらに、気づきである。その気づきによって、その知恵によって、その法(性質)を、〔彼は〕随観する。それによって説かれる。「諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立の修行」〔と〕。

 

 [1895]【235】「修行」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法(性質)の、〔相互に〕超克なきことの義(意味)によって、修行となる。〔五つの〕機能の、一味の義(意味)によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義(意味)によって、修行となる。習修の義(意味)によって、修行となる。このように、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住む。ということで──

 

 [1896]気づきの確立についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 9. 〔あるがままの〕観察についての言説

 

36.

 

 [1897]【236】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでいる。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに語りかけた。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、こう言った。

 

 [1898]「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕を、常住〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 [1899]比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の形成〔作用〕を、無常〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 [1900]比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕を、安楽〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 [1901]【237】比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の形成〔作用〕を、苦痛〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 [1902]比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、法(事象)を、自己〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 [1903]比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の法(事象)を、無我〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 [1904]比丘たちよ、まさに、その比丘が、涅槃を、苦痛〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 [1905]比丘たちよ、まさに、その比丘が、涅槃を、安楽〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます」〔と〕。

 

37.

 

 [1906]【238】どれだけの行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得するのか。どれだけの行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入るのか。四十の行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1907]どのような四十の行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得するのか。どのような四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入るのか。五つの〔心身を構成する〕範疇を、(1)無常〔の観点〕から、(2)苦痛〔の観点〕から、(3)病〔の観点〕から、(4)腫物〔の観点〕から、(5)矢〔の観点〕から、(6)悩苦〔の観点〕から、(7)病苦〔の観点〕から、(8)他者〔の観点〕から、(9)崩壊〔の観点〕から、(10)疾患〔の観点〕から、(11)禍〔の観点〕から、(12)恐怖〔の観点〕から、(13)災禍〔の観点〕から、(14)動揺するもの〔の観点〕から、(15)滅壊するもの〔の観点〕から、(16)常恒ならざるもの〔の観点〕から、(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、(20)空虚〔の観点〕から、(21)虚妄〔の観点〕から、(22)空〔の観点〕から、(23)無我〔の観点〕から、(24)危険〔の観点〕から、(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、(26)真髄なきもの〔の観点〕から、(27)悩苦の根元〔の観点〕から、(28)殺戮者〔の観点〕から、(29)非生存〔の観点〕から、(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、(31)形成されたもの〔の観点〕から、(32)悪魔の餌〔の観点〕から、(33)生の法(性質)〔の観点〕から、(34)老の法(性質)〔の観点〕から、(35)病の法(性質)〔の観点〕から、(36)死の法(性質)〔の観点〕から、(37)憂いの法(性質)〔の観点〕から、(38)嘆きの法(性質)〔の観点〕から、(39)葛藤の法(性質)〔の観点〕から、(40)〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、である。

 

38.

 

 [1908](1)五つの〔心身を構成する〕範疇を、無常〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、常住であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(2)五つの〔心身を構成する〕範疇を、苦痛〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、安楽であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(3)五つの〔心身を構成する〕範疇を、病〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、無病であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(4)五つの〔心身を構成する〕範疇を、腫物〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、腫物なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(5)五つの〔心身を構成する〕範疇を、矢〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、抜矢であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1909](6)五つの〔心身を構成する〕範疇を、悩苦〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、悩苦なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(7)五つの〔心身を構成する〕範疇を、病苦〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、病苦なきものであり、【239】涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(8)五つの〔心身を構成する〕範疇を、他者〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、他縁なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(9)五つの〔心身を構成する〕範疇を、崩壊〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、崩壊なき法(性質)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(10)五つの〔心身を構成する〕範疇を、疾患〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、疾患なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1910](11)五つの〔心身を構成する〕範疇を、禍〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、禍なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(12)五つの〔心身を構成する〕範疇を、恐怖〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、恐怖なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(13)五つの〔心身を構成する〕範疇を、災禍〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、災禍なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(14)五つの〔心身を構成する〕範疇を、動揺するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、動揺なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(15)五つの〔心身を構成する〕範疇を、滅壊するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、滅壊なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1911](16)五つの〔心身を構成する〕範疇を、常恒ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、常恒であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(17)五つの〔心身を構成する〕範疇を、救護所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、救護所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(18)五つの〔心身を構成する〕範疇を、避難所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、避難所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(19)五つの〔心身を構成する〕範疇を、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、帰依所であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(20)五つの〔心身を構成する〕範疇を、空虚〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、【240】〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、空虚ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1912](21)五つの〔心身を構成する〕範疇を、虚妄〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、虚妄ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(22)五つの〔心身を構成する〕範疇を、空〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、最高の空であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(23)五つの〔心身を構成する〕範疇を、無我〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、最高の義(勝義)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(24)五つの〔心身を構成する〕範疇を、危険〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、危険なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(25)五つの〔心身を構成する〕範疇を、変化の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、変化なき法(性質)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1913](26)五つの〔心身を構成する〕範疇を、真髄なきもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、真髄であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(27)五つの〔心身を構成する〕範疇を、悩苦の根元〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、悩苦の根元ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(28)五つの〔心身を構成する〕範疇を、殺戮者〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、殺戮者ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(29)五つの〔心身を構成する〕範疇を、非生存〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、非生存ならざるものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(30)五つの〔心身を構成する〕範疇を、煩悩を有するもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、煩悩なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1914](31)五つの〔心身を構成する〕範疇を、形成されたもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、形成されたものではないものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に【241】入る。(32)五つの〔心身を構成する〕範疇を、悪魔の餌(マーラーミサ)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、財貨なきもの(ニラーミサ)であり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(33)五つの〔心身を構成する〕範疇を、生の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、生なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(34)五つの〔心身を構成する〕範疇を、老の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、老なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(35)五つの〔心身を構成する〕範疇を、病の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、病なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1915](36)五つの〔心身を構成する〕範疇を、死の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、死なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(37)五つの〔心身を構成する〕範疇を、憂いの法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、憂いなきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(38)五つの〔心身を構成する〕範疇を、嘆きの法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、嘆きなきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(39)五つの〔心身を構成する〕範疇を、葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、葛藤なきものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。(40)五つの〔心身を構成する〕範疇を、〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ている者は、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。「五つの〔心身を構成する〕範疇の止滅は、汚染されたものではないものであり、涅槃である」と、〔あるがままに〕見ている者は、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

39.

 

 [1916](1)無常〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(2)苦痛〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(3)病〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(4)腫物〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(5)矢〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(6)悩苦〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(7)病苦〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(8)他者〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(9)崩壊〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(10)疾患〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 

 [1917](11)禍〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(12)恐怖〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。【242】(13)災禍〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(14)動揺するもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(15)滅壊するもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(16)常恒ならざるもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(20)空虚〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。

 

 [1918](21)虚妄〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(22)空〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(23)無我〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(24)危険〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(26)真髄なきもの〔の観点〕から、ということで、無我の随観となる。(27)悩苦の根元〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(28)殺戮者〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(29)非生存〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 

 [1919](31)形成されたもの〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(32)悪魔の餌〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(33)生の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(34)老の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(35)病の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(36)死の法(性質)〔の観点〕から、ということで、無常の随観となる。(37)憂いの法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(38)嘆きの法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(39)葛藤の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。(40)〔心の〕汚染の法(性質)〔の観点〕から、ということで、苦痛の随観となる。

 

 [1920]これらの四十の行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得する。これらの四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入る。

 

 [1921]これらの四十の行相によって、〔真理に〕随順する受認〔の知恵〕を獲得しつつある者には、これらの四十の行相によって、正しい〔道〕たることの決定に入りつつある者には、どれだけの無常の随観があり、どれだけの苦痛の随観があり、どれだけの無我の随観があるのか。

 

 [1922]〔そこで、詩偈に言う〕「二十五の無我の随観があり、五十の無常の随観があり、まさしく、そして、百二十五の、それら〔の随観〕が、苦痛において説かれる」と。

 

 [1923]〔あるがままの〕観察についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

3. 10. 要綱についての言説

 

40.

 

 [1924]【243】無欲、脱(モッカ)、解脱(ヴィモッカ)、明知の解脱(ヴィムッティ)、卓越の戒、卓越の心、卓越の智慧、静息、知恵、〔あるがままの〕見、清浄、離欲、出離、遠離、放棄、性行、瞑想の解脱、修行、〔心の〕確立、生き方。

 

41.

 

 [1925]「無欲」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から無欲となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕から無欲となる。……略……。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害から無欲となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから無欲となる。

 

 [1926]「脱」「解脱」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。……略……。第一の瞑想によって、〔五つの修行の〕妨害から解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから解き放たれる、ということで、脱となり、解脱となる。

 

 [1927]「明知の解脱」とは、離欲が見出される(ヴィッジャティ)、ということで、明知(ヴィッジャー)となる。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕から解き放たれる、ということで、解脱となる。見出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見出される、ということで、明知の解脱となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が見出される、ということで、明知となる。憎悪〔の思い〕から解き放たれる、ということで、解脱となる。見出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見出される、ということで、明知の解脱となる。……略……。阿羅漢道が見出される、ということで、明知となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れから解き放たれる、ということで、解脱となる。見出されているものは解き放たれる、解き放たれているものは見出される、ということで、明知の解脱となる。

 

 [1928]「卓越の戒」「卓越の心」「卓越の智慧」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄となり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄となる。それが、そこにおいて、統御の義(意味)であるなら、これが、卓越の戒となり、それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)であるなら、これが、卓越の心となり、それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)であるなら、【244】これが、卓越の智慧となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕の統御の義(意味)によって、戒の清浄となり……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れの統御の義(意味)によって、戒の清浄となり、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)によって、心の清浄となり、〔あるがままの〕見の義(意味)によって、見解の清浄となる。それが、そこにおいて、統御の義(意味)であるなら、これが、卓越の戒となり、それが、そこにおいて、〔心の〕散乱なき〔状態〕の義(意味)であるなら、これが、卓越の心となり、それが、そこにおいて、〔あるがままの〕見の義(意味)であるなら、これが、卓越の智慧となる。

 

 [1929]「静息」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を安息させる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を安息させる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを安息させる。

 

 [1930]「知恵」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が、所知の義(意味)によって、知恵となる。憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、所知の義(意味)によって、知恵となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が、所知の義(意味)によって、知恵となる。

 

 [1931]「〔あるがままの〕見」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたことから、離欲が〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる。憎悪〔の思い〕が捨棄されたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、阿羅漢道が〔あるがままに〕見られたことから、〔あるがままの〕見となる。

 

 [1932]「清浄」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲によって清浄となる。憎悪〔の思い〕を捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって清浄となる。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道によって清浄となる。

 

 [1933]「離欲」とは、諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、離欲である。諸々の形態にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、形態なきものである。また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの、縁によって生起したものであるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、憎悪〔の思い〕にとっての離欲となる。光明の表象が、〔心の〕沈滞と眠気にとっての離欲となる。……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての離欲となる。

 

 [1934]「出離」とは、諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、離欲である。諸々の形態にとっては、これが、出離となる。すなわち、この、形態なきものである。また、まさに、それが何であれ、成ったもの、形成されたもの、縁によって生起したものであるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となる。離欲が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての出離となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が、憎悪〔の思い〕にとっての出離となる。……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての出離となる。

 

 [1935]「遠離」とは、離欲が、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕にとっての遠離となる。【245】……略……。阿羅漢道が、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れにとっての遠離となる。

 

 [1936]「放棄」とは、離欲によって、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって、憎悪〔の思い〕を放棄する、ということで、放棄となる。……略……。阿羅漢道によって、〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを放棄する、ということで、放棄となる。

 

 [1937]「性行」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲によって行なう。憎悪〔の思い〕を捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕によって行なう。……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道によって行なう。

 

 [1938]「瞑想の解脱」とは、離欲を瞑想する(ジャーヤティ)、ということで、瞑想となる。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を焼尽させる(ジャーペーティ)、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽させている者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽する(ジャーヤティ)、ということで、諸法(性質)が。焼尽させる(ジャーペーティ)、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。そして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらに、諸々の焼尽させるものを知る(ジャーナーティ)、ということで、瞑想を瞑想する者(ジャーナジャーイン)となる。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を瞑想する、ということで、瞑想となる。憎悪〔の思い〕を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……略……。光明の表象を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔心の〕沈滞と眠気を焼尽させる、ということで、瞑想となる。……略……。阿羅漢道を瞑想する、ということで、瞑想となる。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを焼尽させる、ということで、瞑想となる。瞑想している者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽させている者は、解き放たれる、ということで、瞑想の解脱となる。焼尽する、ということで、諸法(性質)が。焼尽させる、ということで、諸々の〔心の〕汚れを。そして、諸々の焼尽されたものを〔知り〕、さらに、諸々の焼尽させるものを知る、ということで、瞑想を瞑想する者となる。

 

42.

 

 [1939]「修行」「〔心の〕確立」「生き方」とは、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄している者は、離欲を修行する、ということで、修行を成就した者となり、離欲を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立を成就した者となり、〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者となり、〔心の〕確立を成就した者となり、正義に生き、不正に〔生きることが〕なく、正しく生き、誤って〔生きることが〕なく、清浄に生き、汚れて〔生きることが〕ない、ということで、生き方を成就した者となる。〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあり、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行く。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、彼は、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあるからである。

 

 [1940]憎悪〔の思い〕を捨棄している者は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄している者は、光明の表象を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔心の〕高揚を捨棄している者は、〔心の〕散乱なき〔状態〕を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。疑惑〔の思い〕を捨棄している者は、法(性質)〔の差異〕を定め置くことを修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。無明を捨棄している者は、明知を修行する、【246】ということで、修行を成就した者となり……略……。不満〔の思い〕を捨棄している者は、歓喜を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔五つの修行の〕妨害を捨棄している者は、第一の瞑想を修行する、ということで、修行を成就した者となり……略……。〔残りの〕一切の〔心の〕汚れを捨棄している者は、阿羅漢道を修行する、ということで、修行を成就した者となり、阿羅漢道を所以に、心を確立する、ということで、〔心の〕確立を成就した者となり、〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者となり、〔心の〕確立を成就した者となり、正義に生き、不正に〔生きることが〕なく、正しく生き、誤って〔生きることが〕なく、清浄に生き、汚れて〔生きることが〕ない、ということで、生き方を成就した者となる。〔まさに〕その、この者は、このように、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあり、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行く。それは、何を因とするのか。なぜなら、そのように、彼は、修行を成就した者としてあり、〔心の〕確立を成就した者としてあり、生き方を成就した者としてあるからである。ということで──

 

 [1941]要綱についての言説は〔以上で〕終了となる。

 

 [1942]智慧の章が、第三となる。

 

 [1943]そのための摂頌となる。

 

 [1944]〔そこで、詩偈に言う〕「智慧、神通、〔法の〕知悉、遠離、第五に性行、神変、等首者、気づきの確立、〔あるがままの〕観察があり、さらに、要綱とともに、第三の智慧の章において、それらの十がある」と。

 

 [1945]「名前としては、大いなるものの章、双連のものの章、さらに、智慧の章があり、この融通無礙(パティサンビダー)の論書において、まさしく、三つの章がある。

 

 [1946]終極なき方法の諸道において、深遠なる海洋の如く、さらに、すなわち、星々をちりばめた天空や大いなる天然の池のように、〔心の〕制止者たる言説者たちには、広く〔世を〕照らす知恵がある」と。

 

 [1947]パティサンビダーマッガ聖典は〔以上で〕終了となる。