小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

5. スッタニパータ聖典(経集)

 

【目次】

 

1. 蛇の章(1.~)

 

1. 1. 蛇の経(1.~)

1. 2. ダニヤの経(18.~)

1. 3. 犀の角の経(35.~)

1. 4. 耕作者バーラドヴァージャの経(76.~)

1. 5. チュンダの経(83.~)

1. 6. 滅びの者の経(91.~)

1. 7. 賎民の経(116.~)

1. 8. 慈愛の経(143.~)

1. 9. ヘーマヴァタの経(153.~)

1. 10. アーラヴァカの経(183.~)

1. 11. 勝利の経(195.~)

1. 12. 牟尼の経(209.~)

 

2. 小なるものの章(224.~)

 

2. 1. 宝の経(224.~)

2. 2. 生臭の経(242.~)

2. 3. 恥の経(256.~)

2. 4. 幸福の経(261.~)

2. 5. スーチローマの経(273.~)

2. 6. 法の行ないの経(276.~)

2. 7. 婆羅門の法にかなう者の経(286.~)

2. 8. 舟の経(318.~)

2. 9. 「何が、戒ですか」の経(326.~)

2. 10. 奮起の経(333.~)

2. 11. ラーフラの経(337.~)

2. 12. ニグローダ・カッパの経(345.~)

2. 13. 正しい遍歴遊行なるものの経(361.~)

2. 14. ダンミカの経(378.~)

 

3. 大いなるものの章(407.~)

 

3. 1. 出家の経(407.~)

3. 2. 精励の経(427.~)

3. 3. 善く語られたものの経(452.~)

3. 4. スンダリカ・バーラドヴァージャの経(457.~)

3. 5. マーガの経(491.~)

3. 6. サビヤの経(515.~)

3. 7. セーラの経(553.~)

3. 8. 矢の経(579.~)

3. 9. ヴァーセッタの経(599.~)

3. 10. コーカーリカの経(662.~)

3. 11. ナーラカの経(684.~)

3. 12. 二なることの随観の経(729.~)

 

4. 八なるものの章(772.~)

 

4. 1. 欲望の経(772.~)

4. 2. 洞窟についての八なるものの経(778.~)

4. 3. 汚れについての八なるものの経(786.~)

4. 4. 清浄についての八なるものの経(794.~)

4. 5. 最高についての八なるものの経(802.~)

4. 6. 老の経(810.~)

4. 7. ティッサ・メッテイヤの経(820.~)

4. 8. パスーラの経(830.~)

4. 9. マーガンディヤの経(841.~)

4. 10. 「〔身体の〕破壊の前に」の経(854.~)

4. 11. 紛争と論争の経(868.~)

4. 12. 小さなまとまりの経(884.~)

4. 13. 大きなまとまりの経(901.~)

4. 14. 迅速の経(921.~)

4. 15. 自己の棒の経(941.~)

4. 16. サーリプッタの経(961.~)

 

5. 彼岸に至るものの章(982.~)

 

 諸々の序の詩偈(982.~)

 

5. 1. アジタ学徒の問い(1038.~)

5. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問い(1046.~)

5. 3. プンナカ学徒の問い(1049.~)

5. 4. メッタグー学徒の問い(1055.~)

5. 5. ドータカ学徒の問い(1067.~)

5. 6. ウパシーヴァ学徒の問い(1075.~)

5. 7. ナンダ学徒の問い(1083.~)

5. 8. ヘーマカ学徒の問い(1090.~)

5. 9. トーデイヤ学徒の問い(1094.~)

5. 10. カッパ学徒の問い(1098.~)

5. 11. ジャトゥカンニ学徒の問い(1102.~)

5. 12. バドラーヴダ学徒の問い(1107.~)

5. 13. ウダヤ学徒の問い(1111.~)

5. 14. ポーサーラ学徒の問い(1118.~)

5. 15. モーガラージャン学徒の問い(1122.~)

5. 16. ピンギヤ学徒の問い(1126.~)

 

 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈(1130.~)

 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈(1137.~)

 


 

 

5. スッタニパータ聖典(経集)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 蛇の章

 

1. 1. 蛇の経

 

1.(1) 彼が、広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除き去る〕ように、沸き起こった忿激〔の思い〕(忿)を取り除くなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(1)

 

2.(2) 彼が、池に生えている蓮の花を〔水に〕入って〔折り取る〕ように、貪欲〔の思い〕()を残りなく断ち切ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(2)

 

3.(3) 彼が、激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、渇愛〔の思い〕()を残りなく断ち切ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(3)

 

4.(4) 彼が、極めて力の弱い葦の橋を大激流が〔押し流す〕ように、〔我想の〕思量(:自他を比較し価値づける心)を残りなく壊し去ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(4)

 

5.(5) 彼が、〔花なき〕無花果〔の木々〕に花を尋ね求める者のように、諸々の〔迷いの〕生存()において真髄(:真実・本質)に到達しなかったなら(迷いの生存を真実と誤認しなかったなら)、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(5)

 

6.(6) 彼に、諸々の〔心の〕動乱が、〔心の〕内から存在しないなら、そして、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を超克した者であり、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(6)

 

7.(7) 彼の、諸々の思考()が砕破され、内に残りなく善く整えられたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(7)

 

8.(8) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(8)

 

9.(9) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と知って、世にあるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(9)

 

10.(10) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪り〔の思い〕を離れたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(10)

 

11.(11) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、貪欲()を離れたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(11)

 

12.(12) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、憤怒()を離れたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(12)

 

13.(13) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れるものである」と、迷妄()を離れたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(13)

 

14.(14) 彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)が存在せず、そして、諸々の善ならざる根元(不善根:貪・瞋・痴の三毒)が完破されたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(14)

 

15.(15) 彼に、何であれ、諸々の懊悩から生じるものが存在せず、〔迷いの〕此岸に帰り来るための諸々の縁が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(15)

 

16.(16) 彼に、何であれ、諸々の〔欲の〕林の下生えから生じるものが存在せず、〔迷いの〕生存の結縛のための諸々の因となる妄想が〔存在しないなら〕、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(16)

 

17.(17) 彼が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、煩悶なく、懐疑を超え、矢を抜いた者となるなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する──蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。ということで(※)──(17)

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 蛇の経が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 2. ダニヤの経

 

18.(18) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「わたしは、飯を炊き、乳を搾った者として、〔世に〕存しています。マヒー〔川〕の岸辺に、〔妻子や下僕たちと〕共に存する住居があります。小屋は〔しっかりと〕覆われ、火が焚かれています。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(1)

 

19.(19) かくのごとく、世尊(ブッダ)は〔言った〕「わたしは、忿激せず、鬱積〔の思い〕を離れ去った者として、〔世に〕存しています。マヒー〔川〕の岸辺に、一夜の住居があります。小屋(身体)は開かれ(煩悩の覆いなく)、〔貪欲の〕火は寂滅しています。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(2)

 

20.(20) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「蝿や蚊たちは、見出されません。牛たちは、草が生い茂った沼地を歩み、たとえ、雨がやってきたとして、耐え抜くでしょう。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(3)

 

21.(21) かくのごとく、世尊は〔言った〕「〔しっかりと〕結び縛られ、頑丈に作られた筏が、〔かつて〕存しました。〔渇愛の思いを〕取り除いて、激流を超え、彼岸に至ったのです。〔もはや〕筏に、義(意味)は見出されません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(4)

 

22.(22) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「わたしの牛飼い女(妻)は、従順で、〔欲の〕妄動なき者です。長夜にわたり、共に住み、意に適う者です。何であれ、彼女についての悪しき〔話〕を、〔わたしは〕聞きません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(5)

 

23.(23) かくのごとく、世尊は〔言った〕「わたしの心は、従順で、解脱しています。長夜にわたり、完全に修められ、善く調御されています。また、わたしに、悪は見出されません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(6)

 

24.(24) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「わたしは、自己の稼ぎで〔自らを〕養う者として、〔世に〕存しています。さらに、共に存するべき、わたしの子供たちも、無病〔息災〕です。何であれ、彼らについての悪しき〔話〕を、わたしは聞きません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(7)

 

25.(25) かくのごとく、世尊は〔言った〕「わたしは、誰の雇われでもなく、〔世に〕存しています。一切の世において、〔行乞で〕得たものによって歩みます。〔もはや〕雇われることに、義(意味)は見出されません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(8)

 

26.(26) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「〔わたしには〕子牛たちが存在します。乳牛(母牛)たちが存在します。〔過去に子を〕宿したことのある雌牛たちが〔存在します〕。〔過去に子を〕宿したことのない雌牛たちもまた存在します。ここには、牛たちの長たる雄牛もまた存在します。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(9)

 

27.(27) かくのごとく、世尊は〔言った〕「〔わたしには〕子牛たちは存在しません。乳牛たちは存在しません。〔過去に子を〕宿したことのある雌牛たちは〔存在しません〕。〔過去に子を〕宿したことのない雌牛たちもまた存在しません。ここには、牛たちの長たる雄牛もまた存在しません。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(10)

 

28.(28) かくのごとく、ダニヤ牛飼いが〔言った〕「〔深く〕掘られた諸々の杭は揺るぎなく、ムンジャ〔草〕で作られている諸々の縄は新しく、善く綯われています。まさに、乳牛たちでさえも、断ち切ることはできないでしょう。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(11)

 

29.(29) かくのごとく、世尊は〔言った〕「雄牛のように、諸々の結縛を断ち切って、象が蔦葛を〔踏み敷く〕ように、〔諸々の束縛を〕踏み砕いて、わたしは、胎に臥す〔境遇〕にふたたび近づくことはないでしょう。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ」〔と〕。(12)

 

30.(30) そして、低地を〔潤し〕、さらに、高地を潤しながら、まさしく、ただちに、大雲が雨を降らせた。天が雨を降らせているのを聞いて、ダニヤは、この義(意味)を語った。(13)

 

31.(31) 〔ダニヤ牛飼いが言った〕「わたしたちには、まさに、諸々の少なからざる利得があります。すなわち、わたしたちは、世尊を見たのです。眼ある方よ、帰依所として、あなたのもとへと、〔わたしたちは〕近しく至ります(覚者に帰依します)。偉大なる牟尼(ブッダ)よ、あなたは、わたしたちの教師と成ってください。(14)

 

32.(32) かつまた、牛飼い女も、かつまた、わたしも、従順にして、善き至達者(ブッダ)のもと、梵行(禁欲清浄行)を歩みます。生と死の彼岸に至り、苦しみの終極を為す者たちと成ります」〔と〕。(15)

 

33.(33) かくのごとく、悪魔パーピマントが〔言った〕「子をもつ者は、子たちによって喜び楽しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって喜び楽しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は、人の喜び楽しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、喜び楽しむことがない」〔と〕。(16)

 

34.(34) かくのごとく、世尊は〔言った〕「子をもつ者は、子たちによって憂い悲しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって憂い悲しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所は、人の憂い悲しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、憂い悲しむことがない」〔と〕。ということで──(17)

 

 ダニヤの経が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 3. 犀の角の経

 

35.(35) 一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼らのなかの唯の一者でさえも害さずにいる者は、〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。犀の角のように、独り、歩むがよい。(1)

 

36.(36) 交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る。愛執〔の思い〕に従い、この苦しみは発生する。愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険(患・過患)を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(2)

 

37.(37) 朋友たちや知人たちを慈しみながら(情をかけつつ)、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自他の〕義(利益)を失う。この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(3)

 

38.(38) あたかも、〔枝や根が〕広く絡みついた竹のように、子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、〔まさに〕その、期待〔の思い〕がある。〔まとわりつくものが何もない〕竹の子のように、〔何にたいしても〕執着せずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(4)

 

39.(39) たとえば、縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなか、求めるままに餌場へと赴くように、識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(5)

 

40.(40) 道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において。〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(6)

 

41.(41) 道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る。そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る。愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(7)

 

42.(42) 四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る。いかなるものによっても満足している者となり、諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(8)

 

43.(43) 出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く、さらに、家に居住している在家の者たちも〔救い難い〕。他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(9)

 

44.(44) あたかも、落葉した黒檀のように、諸々の在家の特徴を取り去って、勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(10)

 

45.(45) それで、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た者となり、気づき()ある者として、彼とともに、歩むがよい。(11)

 

46.(46) もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。(12)

 

47.(47) たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する。最勝の者たちであるなら、同等の者たちであるなら、道友として慣れ親しむべきである。これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(13)

 

48.(48) 細工師の子が見事に仕立てた、金の光り輝く〔二つの腕輪〕を見て、〔まさに、その〕二つ〔の腕輪〕が、腕にあって相打っているのを〔見て〕、犀の角のように、独り、歩むがよい。(14)

 

49.(49) このように、伴侶(連れの者)と共にあるなら、わたしには、虚論の言葉が、あるいは、執着が、存するであろう。この恐怖を、未来に見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(15)

 

50.(50) まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態()で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(16)

 

51.(51) これは、わたしにとって、かつまた、疾患であり、かつまた、腫物であり、かつまた、禍であり、かつまた、病であり、かつまた、矢であり、かつまた、恐怖である。この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(17)

 

52.(52) そして、寒さを、さらに、暑さを、飢えを、渇きを、諸々の風と熱を、かつまた、諸々の虻と蛇を──これらを、一切もろともに征服して、犀の角のように、独り、歩むがよい。(18)

 

53.(53) 肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある、巨大な象のように、諸々の群れを避けて、林のなかで喜びのままに住んでいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(19)

 

54.(54) 〔他者との〕社交を喜ぶ者には、すなわち、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろう、その状況は〔見出され〕ない。太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞いて、犀の角のように、独り、歩むがよい。(20)

 

55.(55) 諸々の見解の狂騒を超克し、〔正道の〕決定に至り得た、道の獲得者(預流道の成就者)となり、「〔わたしは〕知恵()が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない」〔と〕、犀の角のように、独り、歩むがよい。(21)

 

56.(56) 妄動なく、虚言なく、涸渇なく、偽装なく、汚濁と迷妄を取り払い、一切の世にたいし依存なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(22)

 

57.(57) 悪しき道友を、義(道理)ならざるものを見る者を、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を、遍く避けるがよい。〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい。(23)

 

58.(58) 多聞にして法(教え)を保つ者と、秀逸にして即応即答〔の智慧〕ある朋友と、親しくするがよい。諸々の義(利益)を了知して、疑いを取り除くがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい。(24)

 

59.(59) 世における、遊興と歓楽を、さらに、欲望の安楽を、十分ならずと為して、〔何も〕期待せずにいる者となり、飾り立ての境位から離れた、真理を説く者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(25)

 

60.(60) そして、子と妻、さらに、父と母、諸々の財産、諸々の穀物、かつまた、諸々の眷属──限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、犀の角のように、独り、歩むがよい。(26)

 

61.(61) 「これは、執着〔の対象〕である。ここにおいて、福楽は小さく、悦楽は少なく、ここにおいて、苦痛は、より一層のものである。これは、〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、思慧ある者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(27)

 

62.(62) 水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、炎が焼け跡に引き返さないように、犀の角のように、独り、歩むがよい。(28)

 

63.(63) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、〔感官の〕機能()を守り、意を守護し、〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むがよい。(29)

 

64.(64) 諸々の在家の特徴を取り払って、あたかも、葉に等しく覆われたパーリチャッタ〔樹〕のように、黄褐色の衣(袈裟)をまとい、〔家から〕出て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(30)

 

65.(65) 諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪求を為すことなく、〔欲の〕妄動なき者となり、他者を扶養する〔義務〕なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み、家々に心が縛られない者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(31)

 

66.(66) 心の〔有する〕五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って、依存なき者となり、愛執と憤怒を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(32)

 

67.(67) そして、楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらに、まさしく、過去における、悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕、放捨(:選択せず差別なき心)と止寂(奢摩他・止:専一不動の心)の清浄なる〔境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(33)

 

68.(68) 最高の義(勝義:涅槃)に至り得るために、精進に励み、畏縮した心なく、怠惰な生活なく、断固たる勤勉〔努力〕ある者となり、強靭と活力を具有した者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(34)

 

69.(69) 静坐と瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を遠ざけずにいる者となり、諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり、諸々の生存のうちに危険を触知する者となり(苦しみの生をあるがままに知り見る者となり)、犀の角のように、独り、歩むがよい。(35)

 

70.(70) 〔気づきを〕怠らず〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり、聾唖ならざる聞ある気づきの者となり、法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(36)

 

71.(71) 諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むがよい。(37)

 

72.(72) たとえば、牙の力ある獅子が、〔敵を〕打ち負かして、獣たちの王となり、〔一切を〕征服して歩むように、諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むがよい。(38)

 

73.(73) 慈愛〔の心〕()を、放捨〔の心〕()を、慈悲〔の心〕()を、さらに、歓喜〔の心〕()を、〔これらの四つの無量なる心による〕解脱を、〔正しい〕時に〔常に〕習修しながら、一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(39)

 

74.(74) そして、貪欲()を、かつまた、憤怒()を、迷妄()を捨棄して、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、生命の消滅に動じずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(40)

 

75.(75) 〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、かつまた、慣れ親しむ。今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの。自己を義(利益)とする智慧(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である。犀の角のように、独り、歩むがよい。ということで(※)──(41)

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 犀の角の経が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 4. 耕作者バーラドヴァージャの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。ダッキナー・ギリにあるエーカ・ナーラーという婆羅門の村において。また、まさに、その時点にあって、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門の五百ばかりの鋤(すき)が、〔種の〕蒔き時にあたり、〔牛たちに〕取り付けられ、〔仕事場に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門の仕事場のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門の〔作業者たちへの食事の〕給仕が転起します(配食の最中だった)。そこで、まさに、世尊は、〔食事の〕給仕のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。

 

 まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、行乞〔の施食〕のために立っているのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、わたしは、まさに、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます。沙門よ、あなたもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きたまえ。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べたまえ」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、わたしもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます」と。「さてまた、まさに、わたしどもは、貴君ゴータマの、あるいは、軛を、あるいは、鋤を、あるいは、鋤先を、あるいは、刺し棒を、あるいは、荷牛たちを、見ません。そこで、また、そして、貴君ゴータマは、このように言います。『婆羅門よ、まさに、わたしもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます』」と。

 

 そこで、まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

76.(76) 〔耕作者バーラドヴァージャが尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『耕作者である』〔と〕明言なさいます。しかしながら、〔わたしどもは〕あなたの耕作を見ません。すなわち、〔わたしどもが〕あなたの耕作を知りうるように、〔問いを〕尋ねられた者として、〔あなたの〕耕作を、わたしどもに説いてください」〔と〕。(1)

 

77.(77) 〔世尊は答えた〕「信が、種です。苦行が、雨です。わたしのばあい、智慧(慧・般若)が、軛(くびき)と鋤(すき)です。恥〔の思い〕()が、轅(ながえ)です。意が、結び紐です。わたしのばあい、気づき()が、鋤先と刺し棒です。(2)

 

78.(78) 身体が守られた者として、言葉が守られた者として、食については腹において〔自己を〕制した者として、〔わたしは〕真理()という草刈りを為します。わたしのばあい、温和な〔心〕が、解き放ち(放牧)です。(3)

 

79.(79) わたしのばあい、精進が、束縛からの平安(軛安穏)に運んでくれる荷駄牛です。〔その荷駄牛は〕引き返すことなく、赴きます──すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところ(涅槃)へと。(4)

 

80.(80) このように、これが、〔わたしの〕耕作であり、耕作するところです。それは、不死の果と成ります。この耕作を耕作して、〔人は〕一切の苦しみから解き放たれます」と。(5)

 

 そこで、まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、大きな銅の鉢に粥を〔いっぱいに〕盛り付けて、世尊に差し出しました。「貴君ゴータマは、粥を食べたまえ。貴君は、耕作者です。なぜなら、すなわち、貴君ゴータマは、不死の果となる耕作を耕作するからです」と。

 

81.(81) 〔世尊は言った〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕は、食べるべきにあらず。婆羅門よ、〔常に〕正しく見ている者たちにとって、これは、法(正義)にあらず。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります。婆羅門よ、法(正義)が存しているときは、これが、生活〔のあり方〕となります。(6)

 

82.(82) 煩悩()が滅尽し、悔恨〔の思い〕が寂止した、全一者たる偉大なる聖賢には、そして、他の、食べ物と飲み物で奉仕しなさい。なぜなら、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成るからです」と。(7)

 

 「貴君ゴータマよ、そこで、では、誰に、わたしは、この粥を施すことになるのですか」と。「婆羅門よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、彼が、その粥を食べたとして、正しく変化に至るであろう(消化吸収できる)、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、まさに、わたしは見ません。婆羅門よ、まさに、それでは、あなたは、その粥を、あるいは、緑が少ないところに捨てなさい、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めなさい」と。

 

 そこで、まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、その粥を、命あるものがいない水のなかに沈めました。そこで、まさに、水のなかに入れられた、その粥は、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげます。それは、たとえば、また、まさに、昼に等しく熱せられた鋤先が、水のなかに入れられたなら、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげるように、まさしく、このように、水のなかに入れられた、その粥は、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげます。

 

 そこで、まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。

 

 まさに、耕作者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。ということで──

 

 耕作者バーラドヴァージャの経が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 5. チュンダの経

 

83.(83) かくのごとく、鍛冶屋の子のチュンダが〔尋ねた〕「〔わたしは〕尋ねます──多大なる智慧ある牟尼(ブッダ)に、法(真理)の主たる渇愛を離れた覚者に、最上の二足者たる方に、馭者たちのなかの最も優れた方に。世において、どれだけの沙門(修行者)たちがいるのですか。どうか、それを説いてください」〔と〕。(1)

 

84.(84) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「チュンダよ、四者の沙門たちがいます。第五の者は存在しません。彼らのことを、じかに〔問いを〕尋ねられた者として、あなたに明らかにしましょう。〔第一の沙門は〕道の勝利者です。そして、〔第二の沙門は〕道の説示者です。そして、〔第三の沙門は〕道に生きる者です。さらに、すなわち、〔第四の沙門として〕道を汚す者がいます」〔と〕。(2)

 

85.(85) かくのごとく、鍛冶屋の子のチュンダが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰のことを、道の勝利者と説くのですか。道の告知者(道の説示者)は、どのように、無比なる者と成るのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、道に生きる〔その沙門のことを〕、わたしに説いてください。さらに、道を汚す者のことを、わたしに明らかにしてください」〔と〕。(3)

 

86.(86) 〔世尊は答えた〕「彼が、懐疑を超え、矢を抜き、涅槃〔の境処〕に喜びある、貪求なき者であるなら、天を含む世の導き手である、そのような者を、覚者たちは、道の勝利者と説きます。(4)

 

87.(87) 彼が、この〔世において〕、最高のものを『最高のものである』と知って、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を告知し区分するなら、彼のことを、疑いを断ち〔心に〕動揺なき牟尼(沈黙の聖者)を、比丘たちのなかの第二の者である、道の説示者と言います。(5)

 

88.(88) 彼が、見事に説示された法(教え)の境処たる〔聖なる〕道に生きる、自制と気づきの者であるなら、諸々の罪過なき境処に〔常に〕慣れ親しんでいる者であるなら、比丘たちのなかの第三の者である、道に生きる者と言います。(6)

 

89.(89) 善き掟の者(出家者)たちの覆いを作り為して(善人を装い)、傲岸で、尊大で、家を汚す者──幻術師(偽善者)で、自制なく、籾殻〔のような者〕──〔いかにも〕それらしい形態で〔道を〕歩んでいる者──彼は、道を汚す者です。(7)

 

90.(90) そして、すなわち、聞があり智慧を有する在家の聖なる弟子が、これらの者たちのことを理解したなら、『〔比丘たちの〕全てが、〔道を汚す〕このような者たちにあらず』と知って、かくのごとく見て、彼の信は退失せず、まさに、どうして、汚れた者と汚れなき者を、清浄の者と清浄ならざる者を、等しき者と為すというのでしょう(混同せず明確に区別する)」〔と〕。ということで──(8)

 

 チュンダの経が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 6. 滅びの者の経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

91.(91) 〔天神が尋ねた〕「ゴータマ(ブッダ)よ、滅びつつある人のことを、わたしどもは尋ねます。〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました。何が、滅びつつある者の入り口(原因)ですか」〔と〕。(1)

 

92.(92) 〔世尊は答えた〕「識知し易い者として、栄える者は〔世に〕有ります。識知し易い者として、滅びの者は〔世に有ります〕。法(真理)を欲する者として、栄える者は〔世に〕有ります。法(真理)を嫌う者として、滅びの者は〔世に有ります〕」〔と〕。(2)

 

93.(93) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第一の滅びの者です。世尊よ、第二の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(3)

 

94.(94) 〔世尊は答えた〕「彼にとって、正しからざる者たちは、愛しき者たちとして〔世に〕有ります。正しくある者たちを愛しき者と為さず、正しからざる者たちの法(性質)を選ぶ──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(4)

 

95.(95) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第二の滅びの者です。世尊よ、第三の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(5)

 

96.(96) 〔世尊は答えた〕「その人が、睡眠を戒とし、集会を戒とし、かつまた、奮起せず、怠け者で、怒ることで知られる者であるなら──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(6)

 

97.(97) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第三の滅びの者です。世尊よ、第四の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(7)

 

98.(98) 〔世尊は答えた〕「彼が、母を、あるいは、父を、若さ〔の盛り〕が去り、老い朽ちた者を、〔やれば〕できる者として存していながら、養わないなら──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(8)

 

99.(99) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第四の滅びの者です。世尊よ、第五の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(9)

 

100.(100) 〔世尊は答えた〕「彼が、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいは、また、他の乞食者を、虚偽の論で騙すなら──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(10)

 

101.(101) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第五の滅びの者です。世尊よ、第六の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(11)

 

102.(102) 〔世尊は答えた〕「多大なる富ある人が、黄金を有し食料を有する者が、諸々の美味なるものを独りで食べる──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(12)

 

103.(103) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第六の滅びの者です。世尊よ、第七の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(13)

 

104.(104) 〔世尊は答えた〕「その人が、出生を強がり、財産を強がり、かつまた、氏姓を強がり、自らの親族を軽んじるなら──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(14)

 

105.(105) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第七の滅びの者です。世尊よ、第八の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(15)

 

106.(106) 〔世尊は答えた〕「その人が、女について質悪く、酒について質悪く、かつまた、博打(ばくち)について質悪く、得たもの、得たものを、失ってしまうなら──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(16)

 

107.(107) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第八の滅びの者です。世尊よ、第九の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(17)

 

108.(108) 〔世尊は答えた〕「自らの妻たちに満足せず、娼婦たちに見とれ、他者の妻たちに見とれる──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(18)

 

109.(109) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第九の滅びの者です。世尊よ、第十の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(19)

 

110.(110) 〔世尊は答えた〕「若さ〔の盛り〕を超えた男が、ティンバル〔樹の果実〕の乳房ある〔若い女〕を導き入れ、彼女への嫉妬で〔夜も〕眠らない──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(20)

 

111.(111) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第十の滅びの者です。世尊よ、第十一の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(21)

 

112.(112) 〔世尊は答えた〕「酒乱や浪費の女を、あるいは、また、そのような男を、権力あるところに置く──それが、滅びつつある者の入り口です」〔と〕。(22)

 

113.(113) 〔天神が尋ねた〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。彼は、第十一の滅びの者です。世尊よ、第十二の者のことを、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。(23)

 

114.(114) 〔世尊は答えた〕「財物が少なく、〔それでいて〕渇愛の大きい者が、士族の家に生まれ、かつまた、彼が、王権を切望する──それが、滅びつつある者の入り口です。(24)

 

115.(115) 世における、これらの滅びの者たちのことを、賢者は、〔あるがままに〕正しく注視して、〔あるがままの〕見を成就した聖者となり、彼は、至福の世に親近します」〔と〕。ということで──(25)

 

 滅びの者の経が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 7. 賎民の経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに行乞〔の施食〕のために入りました。また、まさに、その時点にあって、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門の住居地において、燃え盛る祭火が有り、捧げものが差し出されました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔の施食〕のために歩みながら、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 まさに、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「坊主よ、まさしく、そこに──沙門よ、まさしく、そこに──賎民よ、まさしく、そこに──立っていろ」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、さてまた、あなたは、あるいは、賎民のことを、あるいは、〔人を〕賎民に作り為す諸々の法(性質)を、知っていますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、あるいは、賎民のことを、あるいは、〔人を〕賎民に作り為す諸々の法(性質)を、知りません。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、わたしが、あるいは、賎民のことを、あるいは、〔人を〕賎民に作り為す諸々の法(性質)を、知りうるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

116.(116) 〔世尊は言った〕「その人が、忿激する者であるなら、そして、怨恨ある者であるなら、さらに、〔為した〕悪を偽装する者であるなら、堕落した見解の幻術師(偽善者)であるなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(1)

 

117.(117) あるいは、一なる生まれのもの(胎生)であれ、あるいは、また、二なる生まれのもの(卵生)であれ、彼が、この〔世において〕、命あるものを害するなら──彼に、命あるものにたいする思いやりが存在しないなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(2)

 

118.(118) 彼が、村々を、さらに、町々を、打破し、占領し、圧制者と呼称されたなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(3)

 

119.(119) もしくは、村においてであろうが、林においてであろうが、〔まさに〕その、他者たちにとって、わがものとされたもの(私有物)を、盗みごころから、与えられていないのに取るなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(4)

 

120.(120) 彼が、まさに、借金を抱えておきながら、叱責されるとなると、『あなたからの借金は、まさに、存在しない』と逃げるなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(5)

 

121.(121) 彼が、まさに、微々たるものを欲することから、道行く人を殺して、微々たるものを奪い取るなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(6)

 

122.(122) 自己を因とし、他者を因とし、さらに、財を因として、その人が、じかに〔問いを〕尋ねられた者(教え手)として、虚偽を説くなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(7)

 

123.(123) 彼が、親族たちの〔妻たちと通じるなら〕、あるいは、友人たちの妻たちと通じるなら──〔それも〕無理強いで、あるいは、了解のうえでも──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(8)

 

124.(124) 彼が、母を、あるいは、父を、若さ〔の盛り〕が去り、老い朽ちた者を、〔やれば〕できる者として存していながら、養わないなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(9)

 

125.(125) 彼が、母を、あるいは、父を、兄弟を、姉妹を、姑を、言葉で傷つけ、悩ますなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(10)

 

126.(126) 彼が、義(意味)を尋ねられた者として存していながら、義(意味)ならざることを教え、隠されていることを告げるなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(11)

 

127.(127) 彼が、悪しき行為()を為しておきながら、『〔誰も〕わたしのことを知ってはならない』と求めるなら──彼が、生業を隠している者であるなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(12)

 

128.(128) 彼が、まさに、他者の家に赴いて、御馳走を食べておきながら、〔客として〕やってきた者を歓迎しないなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(13)

 

129.(129) 彼が、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいは、また、他の乞食者を、虚偽の論で騙すなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(14)

 

130.(130) 彼が、婆羅門を、あるいは、沙門を、食事の時がやってきたのに、言葉で悩ませ、かつまた、〔食を〕与えないなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(15)

 

131.(131) 彼が、この〔世において〕、正しからざる者たちの〔論を〕説き、迷妄に包まれ、微々たるものを求め願っているなら──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(16)

 

132.(132) 彼が、そして、自己を褒め上げ、さらに、他者たちを見下すなら、自らの思量によって、下劣な者となる──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(17)

 

133.(133) 〔他者を〕悩ませ、かつまた、吝嗇で、悪しき欲求があり、物惜〔の思い〕があり、狡猾で、恥〔の思い〕なく(無慚)、〔良心の〕咎めなき者(無愧)──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(18)

 

134.(134) 彼が、覚者(ブッダ)を誹謗するなら、さらに、あるいは、彼の弟子を、遍歴遊行者であれ、あるいは、在家者であれ、〔誹謗するなら〕──彼のことを、『賎民である』と知るがよい。(19)

 

135.(135) 彼が、まさに、阿羅漢(人格完成者)ならざる者として存していながら、『阿羅漢である』〔と〕明言するなら、梵を含む世における盗賊であり、この者は、まさに、最低の賎民です。(20)

 

136.(136) すなわち、それらの、わたしによって明示された者たちが──これらの者たちが、まさに、賎民と説かれた者たちです。〔人は〕出生によって、賎民(非人)と成るのではありません。〔人は〕出生によって、婆羅門(聖職者)と成るのではありません。行為によって、賎民と成ります。行為によって、婆羅門と成ります。(21)

 

137.(137) それを、このことによってもまた知りなさい──すなわち、わたしの〔示す〕、この実例のとおりに。チャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)の子で、『犬殺しのマータンガ』として〔世に〕聞こえた者がいます。(22)

 

138.(138) 彼は、マータンガは、〔まさに〕その、極めて得難い、最高の福徳に至り得た者であり、多くの士族たちや婆羅門たちが、彼の奉仕にやってきました。(23)

 

139.(139) 天の乗物に乗って、彼は、〔世俗の〕塵を離れる大いなる道を〔行き〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、梵の世(梵天界)に近しく赴く者と成りました(梵天界に再生した)。〔チャンダーラ族という〕出生は、彼を妨げませんでした──梵の世の再生あることから。(24)

 

140.(140) 〔聖典の〕読誦者の家に生まれ、呪文を眷属とする婆羅門たちが、彼らが、諸々の悪しき行為のうちにあるのが、一度ならず見受けられます。(25)

 

141.(141) まさしく、所見の法(現世)において非難されるべき者たちであり、そして、未来(来世)においては悪しき境遇(悪趣)があります。〔婆羅門という〕出生は、彼らを妨げません──悪しき境遇あることから、あるいは、非難から。(26)

 

142.(142) 〔人は〕出生によって、賎民と成るのではありません。〔人は〕出生によって、婆羅門と成るのではありません。行為によって、賎民と成ります。行為によって、婆羅門と成ります」と。(27)

 

 このように説かれたとき、祭火者バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」〔と〕。ということで──

 

 賎民の経が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 8. 慈愛の経

 

143.(143) すなわち、〔まさに〕その、寂静の境処を知悉して、〔実践の〕義(目的)に巧みな智ある者によって為されるべきは、〔以下のとおりとなる〕。有能で、かつまた、〔心が〕真っすぐで、さらに、実直で、かつまた、素直で、柔和で、高慢なき者として、〔世に〕存するように。(1)

 

144.(144) そして、〔常に足ることを知る〕満ち足りている者として、かつまた、〔他者を煩わさない〕扶養し易き者として、かつまた、為すべきこと(義務)少なく、軽素な生活者として、さらに、〔感官の〕機能の寂静なる者として、かつまた、賢明で、尊大ならず、〔行乞する〕家々にたいし貪求なき者として、〔世に存するように〕。(2)

 

145.(145) そして、どんなに小さなことであれ、その〔行為〕によって、他の識者たちが批判するなら、〔それを〕習行しないように。一切の有情たちは、安楽の自己ある者たちと成れ。まさしく、安楽で、平安の者たちと成れ。(3)

 

146.(146) 彼らが誰であれ、命ある生類たちとして〔世に〕存するなら、あるいは、〔心が〕震え動く者(凡夫)たちも、あるいは、〔心が〕震え動かない者(阿羅漢)たちも、〔全て〕残りなく──あるいは、長いものたちも、あるいは、すなわち、大きなものたちも、中なるものたちも、短いものたちも、微細なるものや粗大なるものたちも──(4)

 

147.(147) あるいは、〔かつて〕見たことがあるものたちも、あるいは、すなわち、〔いまだ〕見たことがないものたちも──あるいは、すなわち、遠くに住するものたちも、遠くないところに〔住するものたちも〕、あるいは、〔いまここに〕生類としてあるものたちも、あるいは、〔未来の〕発生を求めるものたちも、一切の有情たちは、安楽の自己ある者たちと成れ。(5)

 

148.(148) 他者は他者を欺かないように。どこにおいても、〔それが〕誰であれ、その者を(※)軽んじないように。反目ゆえに、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)ゆえに、互いに他の苦しみを求めないように。(6)

 

※ テキストには na kañci とあるが、PTS版により na kañci と読む。

 

149.(149) あたかも、母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、このように、また、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意図を修めるように。(7)

 

150.(150) そして、一切の世〔の人々〕にたいし、無量なる慈愛の意図を修めるように。上に、そして、下に、さらに、横に、隔てなく、怨みなく、敵なき〔心〕を〔修めるように〕。(8)

 

151.(151) 立っているも、歩いているも、あるいは、坐っているも、臥しているも、眠気を離れた者として〔世に〕存する、そのかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づきを、〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、〔賢者たちは〕「この〔世における〕梵の住」と言う。(9)

 

152.(152) そして、〔誤った〕見解に近しく赴かずして、〔あるがままの〕見を成就した戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除いて(※)、もはや、胎に臥す〔境遇〕にふたたび至り行くことは、まさに、ない。ということで──(10)

 

※ テキストには vinaya とあるが、PTS版により vineyya と読む。

 

 慈愛の経が第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 9. ヘーマヴァタの経

 

153.(153) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔言った〕「今日、十五〔日〕は、斎戒〔の日〕(布薩)です。〔神聖にして〕天なる夜が、やってきたのです。至上の名ある方(ブッダ)に、〔世の〕教師たる方に、ゴータマ〔世尊〕に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」〔と〕。(1)

 

154.(154) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、如(にょ)なる方の意は、一切の生類にたいし、善く向けられていますか。どうでしょう、好ましいものにたいし、さらに、好ましくないものにたいしても、彼の、諸々の思惟は、〔分け隔てなく〕自在に為されていますか」〔と〕。(2)

 

155.(155) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔答えた〕「さてまた、彼の、如なる方の意は、一切の生類にたいし、善く向けられています。そして、好ましいものにたいし、さらに、好ましくないものにたいしても、彼の、諸々の思惟は、〔分け隔てなく〕自在に為されています」〔と〕。(3)

 

156.(156) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕与えられていないものを取ることはないですか。どうでしょう、命あるものたちにたいし自制ある者ですか。どうでしょう、〔気づきを〕怠ること(放逸)から遠く離れていますか。どうでしょう、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を遠ざけることはないですか」〔と〕。(4)

 

157.(157) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、与えられてないものを取りません。そして、命あるものたちにたいし自制ある者です。そして、〔気づきを〕怠ることから遠く離れています。覚者は、瞑想を遠ざけません」〔と〕。(5)

 

158.(158) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕虚偽を話すことはないですか。どうでしょう、言葉の用途が滅尽した者(言葉づかいが乱れた者)ではないですか。どうでしょう、陰口を言うことはないですか。どうでしょう、雑談を語ることはないですか」〔と〕。(6)

 

159.(159) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔答えた〕「さてまた、彼は、虚偽を話しません。さらに、言葉の用途が滅尽した者ではありません。さらに、陰口を言いません。かつまた、明慧によって、義(道理)のあることを語ります」〔と〕。(7)

 

160.(160) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕諸々の欲望〔の対象〕に染まることはないですか。どうでしょう、〔彼の〕心は、混濁なくありますか。どうでしょう、〔彼は〕迷妄を超越した者ですか。どうでしょう、諸々の法(事象)について眼ある者ですか」〔と〕。(8)

 

161.(161) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、諸々の欲望〔の対象〕に染まりません。そして、〔彼の〕心は、混濁なくあります。〔彼は〕一切の迷妄を超越した者です。覚者は、諸々の法(事象)について眼ある者です」〔と〕。(9)

 

162.(162) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕明知の成就者ですか。どうでしょう、清浄の行ないある者ですか。どうでしょう、彼の、諸々の煩悩は滅尽していますか。どうでしょう、〔彼に〕さらなる生存が存在することはないですか」〔と〕。(10)

 

163.(163) かくのごとく、サーターギラ夜叉が〔答えた〕「まさしく、そして、〔彼は〕明知の成就者です。さらに、清浄の行ないある者です。彼の、一切の煩悩は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しません」〔と〕。(11)

 

164.(163A) 〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為を、さらに、言葉の用途(言葉の正しい使用)を、成就しています。明知と行ないの成就者を、彼を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに賞賛します」〔と〕。(12)

 

165.(163B) 〔サーターギラ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為を、さらに、言葉の用途を、成就しています。明知と行ないの成就者を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに随喜します。(13)

 

166.(164) 牟尼の心は、〔正しい〕行為を、さらに、言葉の用途を、成就しています。明知と行ないの成就者に、ゴータマ〔世尊〕に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」〔と〕。(14)

 

167.(165) 〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「羚羊のような脛をした、痩せ細り、食少なく、〔味覚の対象に〕妄動なき勇者に、林のなかで〔常に〕瞑想している牟尼に、ゴータマ〔世尊〕に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです。(15)

 

168.(166) 獅子のように〔常に〕独り歩む龍たる方に、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき方に、近づいて行って、死魔の罠の解き放ちを、〔わたしたちは〕尋ねるのです」〔と〕。(16)

 

169.(167) 〔世尊にたいし、サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「〔真理を〕告知し〔真理を〕伝授する方に、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、怨恨と恐怖〔の思い〕を超え行った覚者に、ゴータマ〔世尊〕に、わたしたちは尋ねます」〔と〕。(17)

 

170.(168) かくのごとく、ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「何において、世〔の人々〕は生起し、何にたいし、〔世の人々は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為すのですか。何に、世〔の人々〕は執取して、何について、世〔の人々〕は打ちのめされるのですか」〔と〕。(18)

 

171.(169) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ヘーマヴァタよ、六つのもの(色・声・香・味・触・法)において、世〔の人々〕は生起し、六つのものにたいし、〔世の人々は〕親愛〔の情〕を為します。まさしく、六つのものに、〔世の人々は〕執取して、六つのものについて、世〔の人々〕は打ちのめされます」〔と〕。(19)

 

172.(170) 〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「そこにおいて、世〔の人々〕が打ちのめされるとして、その執取とは、どのようなものなのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、〔迷いの世からの〕出脱〔の道〕を説いてください。どのように、苦しみから解き放たれるのですか」〔と〕。(20)

 

173.(171) 〔世尊は答えた〕「世における五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が、第六のものとして意〔の対象〕(法)が、〔あなたたちに〕知らされました。ここにおいて、欲〔の思い〕を離貪させて、このように、苦しみから解き放たれるのです。(21)

 

174.(172) これが、あなたたちに真実のとおりに告げ知らされた、〔迷いの〕世からの出脱〔の道〕です。これを、わたしは、あなたたちに告げ知らせます。このように、苦しみから解き放たれるのです」〔と〕。(22)

 

175.(173) 〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「いったい、誰が、この〔世において〕、〔貪欲の〕激流を超えるのですか。誰が、この〔世において〕、〔輪廻の〕海を超えるのですか。誰が、立脚地なく支えなき深淵に沈まないのですか」〔と〕。(23)

 

176.(174) 〔世尊は答えた〕「一切時に戒を成就した者は、〔心が〕善く定められた智慧ある者は、内に〔正しい〕思弁ある気づきの者は、超え難き激流を超えます。(24)

 

177.(175) 欲望の表象(:概念・心象)を離れた者は、一切の束縛するもの()を超え行く者は、生存の愉悦が完全に滅尽した者は──彼は、深淵に沈みません」〔と〕。(25)

 

178.(176) 〔サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「深遠なる智慧ある方を、精緻なる義(道理)を見る方を、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存に執着なき方を、一切所に解脱した方を、天の道を進み行く偉大なる聖賢を──彼を、見よ。(26)

 

179.(177) 至上の名ある方を、精緻なる義(道理)を見る方を、智慧を与える方を、欲望の基底(渇愛と見解)に執着なき方を、一切を知る思慮深き方を、聖なる道を進み行く偉大なる聖賢を──彼を、見よ。(27)

 

180.(178) すばらしい夜明けとすばらしい目覚めの今日、まさに、わたしたちは、すばらしいものを見ました。激流を超えた煩悩なき方を、すなわち、正覚者を、見たのです。(28)

 

181.(179) 神通と福徳ある、これらの千の夜叉たちは、全ての者たちが、あなたを帰依所に行き着きます(覚者に帰依します)。あなたは、わたしたちにとって、無上なる教師です。(29)

 

182.(180) 〔まさに〕その、わたしたちは、村から村へ、山から山へと、渡り歩くでしょう──正覚者を礼拝しながら、そして、法(教え)が見事に法(教え)たることを〔礼拝しながら〕」〔と〕。ということで──(30)

 

 ヘーマヴァタの経が第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 10. アーラヴァカの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。アーラヴァカ夜叉の居所において。そこで、まさに、アーラヴァカ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出て行け」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は出て行きました。「沙門よ、入れ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は入りました。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出て行け」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は出て行きました。「沙門よ、入れ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は入りました。

 

 四度また、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出て行け」と。「友よ、まさに、それでは、わたしは、〔もはや〕出て行くことはないでしょう。それが、あなたにとって為すべきことであるなら、それを為しなさい」と。

 

 「沙門よ、おまえに、問いを尋ねよう。それで、もし、わたしに、〔答えを〕説き明かさないなら、あるいは、おまえの心を投げ放つ、あるいは、おまえの心臓を切り裂く、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つ」と。

 

 「友よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、彼が、あるいは、わたしの心を投げ放ち、あるいは、わたしの心臓を切り裂き、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つであろう、その者を、まさに、わたしは見ません。友よ、ですが、ともあれ、あなたは尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。そこで、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

183.(181) 〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、何が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となるのですか。いったい、何が、善く歩まれたなら、安楽をもたらすのですか。いったい、何が、まさに、諸々の味のなかでは、より美味なるものとなるのですか。どのように生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言うのですか」〔と〕。(1)

 

184.(182) 〔世尊は答えた〕「信が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となります。法(教え)が、善く歩まれたなら、安楽をもたらします。真理()が、まさに、諸々の味のなかでは、より美味なるものとなります。智慧(慧・般若)によって生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言います」〔と〕。(2)

 

185.(183) 〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのように、〔貪欲の〕激流を超えるのですか。いったい、どのように、〔輪廻の〕海を超えるのですか。いったい、どのように、苦しみを超え行くのですか。いったい、どのように、完全なる清浄となるのですか」〔と〕。(3)

 

186.(184) 〔世尊は答えた〕「信によって、〔貪欲の〕激流を超えます。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔輪廻の〕海を〔超えます〕。精進によって、苦しみを超え行きます。智慧によって、完全なる清浄となります」〔と〕。(4)

 

187.(185) 〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのように、智慧を得るのですか。いったい、どのように、財を見出すのですか。いったい、どのように、名誉に至り得るのですか。どのように、朋友たちと〔交友を〕結ぶのですか。この世から他の世へと、どのように、死してのち、憂い悲しまないのですか」〔と〕。(5)

 

188.(186) 〔世尊は答えた〕「涅槃〔の境処〕に至り得るために、阿羅漢(人格完成者)たちの法(教え)に信を置き、〔法を〕聞こうとしている、明眼で〔気づきを〕怠らない者は、智慧を得ます。(6)

 

189.(187) 適切なることを為し、重荷をにない、奮起する者は、財を見出します。真理によって、名誉に至り得ます。〔常に〕与えている者は、朋友たちと〔交友を〕結びます。(7)

 

190.(188) すなわち、信ある〔在家の〕家主に、真理と法(教え)と〔道心〕堅固と施捨が、これらの四つの法(性質)があるなら、彼は、まさに、死してのち、憂い悲しみません。(8)

 

191.(189) さあ、他の多々なる沙門や婆羅門たちにもまた、尋ねなさい。すなわち、この〔世において〕、真理と調御と施捨と忍耐よりも、より一層のものが見出されるなら」〔と〕。(9)

 

192.(190) 〔アーラヴァカ夜叉が言った〕「いったい、どうして、今や、〔他の〕多々なる沙門や婆羅門たちに尋ねられましょう。すなわち、わたしは、今日、覚知します──それは、未来(来世)における義(利益)となります。(10)

 

193.(191) まさに、わたしの義(利益)のために、覚者は、アーラヴィーに住するべく、やってきたのです。すなわち、わたしは、今日、覚知します──そこにおいて、施されたものは、大いなる果となります。(11)

 

194.(192) 〔まさに〕その、わたしは、村から村へ、都から都へと、渡り歩くでしょう──正覚者を礼拝しながら、そして、法(教え)が見事に法(教え)たることを〔礼拝しながら〕」〔と〕。ということで──(12)

 

 アーラヴァカの経が第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 11. 勝利の経

 

195.(193) もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも──〔身体を〕伸ばし、〔身体を〕曲げる──これが、身体の動きである。(1)

 

196.(194) 骨と腱で束縛され、皮と肉で塗装され、皮膚によって隠蔽された身体は、事実のとおりに見られない。(2)

 

197.(195) 〔身体は〕腸で満ち、胃で満ち、肝臓、膀胱、心臓、肺臓、腎臓、そして、脾臓で〔満ち〕──(3)

 

198.(196) 鼻水、唾液、そして、汗で〔満ち〕、さらに、脂肪で〔満ち〕、血液、髄液、そして、胆汁で〔満ち〕、さらに、膏で〔満ちている〕。(4)

 

199.(197) そして、この〔身体〕の、九つの流れからは、不浄物が、一切時に流れ出る。眼からは眼糞が〔流れ出る〕。耳からは耳糞が〔流れ出る〕。(5)

 

200.(198) さらに、鼻からは鼻水が〔流れ出る〕。口からは、或るときには、胆汁を吐き、さらに、痰を吐く。身体からは汗と垢が〔流れ出る〕。(6)

 

201.(199) そして、この〔身体〕の、空洞の頭蓋は、脳味噌で満たされている。無明によって〔特定のものを〕偏重する愚者は、それ(身体)を、「浄美である(美しく価値がある)」と思いなす。(7)

 

202.(200) しかしながら、彼が、死者となり、〔地に〕臥す、そのとき、膨張し、青黒くなり、墓場に捨てられたなら、親族たちは、〔彼について〕期待なき者たちと成る。(8)

 

203.(201) そして、犬たちが、さらに、野狐(ジャッカル)たちが、狼たちが、蛆虫たちが、彼を喰う。さらに、すなわち、他の、〔死体を食物とする〕命あるものたちが存在し、烏たちが、さらに、鷲たちが、〔彼を〕喰う。(9)

 

204.(202) 覚者の言葉を聞いて、比丘は、この〔世において〕、智慧ある者となる。彼は、まさに、それ(身体)を遍知する。なぜなら、事実のとおりに見るからである。(10)

 

205.(203) 「すなわち、この〔身体〕のように、そのように、この〔死体〕は〔かつて存していた〕。すなわち、この〔死体〕のように、そのように、この〔身体〕は〔いずれ存するであろう〕」〔と〕、かつまた、内に、かつまた、外に、身体についての欲〔の思い〕を離貪させるであろう。(11)

 

206.(204) 欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が離貪した、その比丘は、この〔世において〕、智慧ある者となる。不死なる寂静に、死滅なき涅槃の境処に、到達したのだ。(12)

 

207.(205) この二足の者(人間)は、不浄で、悪臭があり、〔諸々の手段によって、悪臭から〕守られている(※)。種々なる死骸(汚物)で遍く満ち、そこかしこから、〔汚物が〕流れ出ている。(13)

 

※ テキストには parihārati とあるが、PTS版により parihīrati と読む。

 

208.(206) このようなものである〔不浄の〕身体によって、すなわち、傲慢たるべく思いなし(他者に褒められたいと思い考え)、あるいは、他者を見下すなら、見なきより他の、何だというのだろう(盲者以外の何ものでもない)。ということで──(14)

 

 勝利の経が第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

1. 12. 牟尼の経

 

209.(207) 親愛〔の情〕から、恐怖が生じ、家〔の思い〕から、塵が生まれる。家なく、親愛〔の情〕なきこと──これは、まさに、牟尼(沈黙の聖者)の〔あるがままの〕見である。(1)

 

210.(208) 彼が、生じたもの(煩悩)を断ち切って、生まれつつあるものを成長させず、それに〔成長の機会を〕与えないなら、彼を、〔慧者たちは〕「独り歩む牟尼」と言う。彼は、偉大なる聖賢は、寂静の境処を見た。(2)

 

211.(209) 〔迷いの生存の〕諸々の根拠を究明して、〔その〕種子を撃破して、それに〔潤いとなる〕愛執〔の思い〕を与えないなら、彼は、まさに、生の滅尽と終極を見る牟尼であり、〔誤った〕考えを捨棄して、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)。(3)

 

212.(210) 一切の〔妄執が〕固着する場を了知して、それらのなかの唯の一つでさえも欲さずにいるなら、彼は、まさに、貪求〔の思い〕を離れた、貪求なき牟尼であり、〔為すに〕苦労することはない(もはや業を作らない)。なぜなら、彼岸に至った者として〔世に〕有るからである。(4)

 

213.(211) 一切を征服し、一切を知る、思慮深き者を、一切の法(事象)に汚されない者を、一切を捨棄し、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者を──まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(5)

 

214.(212) 智慧の力があり、戒と掟を具有した者を、〔心が〕定められ、瞑想を喜ぶ、気づきある者を、執着から解き放たれ、〔心に〕鬱積なく煩悩なき者を──まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(6)

 

215.(213) 〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕独り歩む牟尼を──諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、諸々の非難と賞賛にたいし、〔心が〕動揺しない者を、他者に導かれず、他者たちを導く者を──まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(7)

 

216.(214) 彼にたいし、他者たちが極端な言葉を説くも、彼が、水浴場にある柱のように〔どっしりと〕構えているなら、彼を、貪りを離れ、〔感官の〕機能が善く定められた者を、まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(8)

 

217.(215) 彼が、まさに、梭(機織の道具・シャトル)のように真っすぐに自己を安立し、諸々の悪しき行為(悪業)を忌避し、そして、不正と正義〔の両者〕を〔あるがままに〕考察しているなら、まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(9)

 

218.(216) 彼が、自己を自制し、悪を為さず、青年でありながら、そして、中年であるも、自己を制した牟尼であるなら、彼は、〔誰にも〕悩まされず、誰をも悩まさない。まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(10)

 

219.(217) 他者の施しに依拠して生きる者(出家者)が、〔行乞の〕食を得るとして、それが、至高のものからであれ、中等のものからであれ、あるいは、残りものからであれ、褒めるに十分ならず、また、不平を説くこともないなら(褒めもせず貶めもしないなら)──まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(11)

 

220.(218) 彼が、若くありながら、何ものにも縛られないなら、淫事から離れ〔独り〕歩んでいる牟尼を、驕りと怠りから離れた解脱者を、まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(12)

 

221.(219) 世〔のあり様〕を了知して、最高の義(勝義:涅槃)を見る者を──〔貪欲の〕激流と〔輪廻の〕海を超え渡って、拘束を断ち、依存なく、煩悩なく、そのような者である彼を──まさしく、彼をもまた、慧者たちは、「牟尼」と知る。(13)

 

222.(220) 〔在家と出家の〕両者は、等しからず──住も生活も遠く離れてる。在家者は、妻を養う者である。そして、善き掟の者(出家者)は、我執なき者である。在家者は、他の命あるものを殺傷することに自制なくあるが、〔自己を〕制した牟尼は、常に命あるものたちを守護する。(14)

 

223.(221) たとえば、青首の孔雀が宙を赴くも、白鳥の速さには、いついかなる時であれ、近づかないように、このように、在家者は、比丘には太刀打ちできない──林のなかで〔常に〕瞑想している、遠離の牟尼には。ということで──(15)

 

 牟尼の経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

 蛇の章が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「蛇、まさしく、そして、ダニヤ、そして、角、そのように、耕作者、チュンダ、まさしく、そして、滅びの者、賎民、慈愛の修行──

 

 サーターギラ、アーラヴァカ、そして、勝利、そのように、牟尼があり、これらの十二の経があり、『蛇の章』と説かれる」と。

 

2. 小なるものの章

 

2. 1. 宝の経

 

224.(222) すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも、まさしく、一切の精霊たちが、悦意の者たちと成れ。そこで、また、〔わたしの〕語るところを、謹んで聞きたまえ。(1)

 

225.(223) 一切の精霊たちよ、まさに、それゆえに、こころして聞け。人間たる〔世の〕人々に、慈愛〔の心〕を作り為せ。そして、昼に、さらに、夜に、〔あなたたちに〕供物を運ぶ、彼らである。まさに、それゆえに、怠ることなくなく、彼らを守れ。(2)

 

226.(224) あるいは、この〔世において〕、あるいは、あの〔世において〕、それが何であれ、富としてあるもので──あるいは、すなわち、諸々の天上における精妙なる宝であるとして──如来と等しいものは、けっして、存在しない。これもまた、覚者(:ブッダ)における、精妙なる宝である。この真理(:真実)によって、安穏有れ。(3)

 

227.(225) 〔心が〕定められた釈迦〔族〕の牟尼が到達した、〔まさに〕その、不死にして精妙なる、滅尽と離貪──その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。これもまた、法(:ダンマ)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(4)

 

228.(226) 最勝の覚者が遍く褒め称えた、〔まさに〕その、清らかなる〔境地〕──それを、〔賢者たちは〕「直後なる禅定(無間定:時を要さず即座に結果が出る禅定)」と言う。その禅定(定・三昧)と等しいものは、〔どこにも〕見出されない。これもまた、法(教え)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(5)

 

229.(227) すなわち、正しくある者たちに賞賛された、八者の人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)が──これらの四つ組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)が──〔世に〕有る。彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべき者たちであり、これらの者たちにおいて、諸々の施されたものは、大いなる果となる。これもまた、僧団(:サンガ)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(6)

 

230.(228) すなわち、堅固なる意をもって〔瞑想の境地に〕しっかりと結び付き、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて〔欲望の対象に〕無欲なる者たち──彼らは、至り得るものに至り得た者たちであり、不死〔の境処〕に入って、寂滅〔の境処〕を空手で得て、受益している。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(7)

 

231.(229) すなわち、地に依拠したインダの杭(城門に立てられた標柱)が、四〔方〕の風に揺らぐことなく存するように、その喩えのような者を、〔わたしは〕「正なる人士」と説く。彼は、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を的確に見る。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(8)

 

232.(230) 彼らは、深遠なる智慧ある〔覚者〕によって見事に説示された〔四つの〕聖なる真理を分明する。たとえ、何であれ、彼らが、多く怠る者たちと成るとして、彼らは、第八の生存()を取らない(最高で七回までの輪廻のうちに解脱する)。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(9)

 

233.(231) 彼の、〔あるがままの〕見の成就と、まさしく、共に、まさに、三つの法(性質)が、捨棄されたものと成る──身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、さらに、疑惑〔の思い〕()が、あるいは、また、それが何であれ、〔執着の対象として〕存する、戒や掟(戒禁)が。(10)

 

234.(231) そして、四つの悪所(地獄・畜生・餓鬼・阿修羅)から解脱し、さらに、六つの極罪を為すこと(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・覚者を傷つけること・僧団を分裂させること・異教の者を師とすること)が不可能となる。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(11)

 

235.(232) たとえ、何であれ、彼が、身体によって、言葉によって、あるいは、また、心によって、悪しき行為(悪業)を為すとして、彼は、それを隠蔽することが不可能となる。〔涅槃の〕境処を見た者にとって、〔それは〕有りえないことと説かれた。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(12)

 

236.(233) すなわち、〔四つの〕夏〔の月〕の最初の夏の月(春先)に、先端が〔一斉に〕開花した林の茂みのように、その喩えのように、涅槃に至る優れた法(教え)を、最高の利益のために、〔覚者は、他に先駆けて〕説示した。これもまた、覚者における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(13)

 

237.(234) 優れた者であり、優れたものを知る者であり、優れたものを与える者であり、優れたものを運び来る者である、無上なる者が、優れた法(教え)を説示した。これもまた、覚者における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(14)

 

238.(235) 古きもの(過去の業)が滅尽し、新たな発生が存在せず、未来の生存にたいし心が離貪した者たち──彼らは、〔再生の〕種子が滅尽した者たちであり、欲〔の思い〕が成長しない者たちであり、慧者たちは、あたかも、この灯明のように、消え行く(涅槃に到達する)。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。(15)

 

239.(236) すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、覚者(:ブッダ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。(16)

 

240.(237) すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、法(:ダンマ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。(17)

 

241.(238) すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、僧団(:サンガ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。ということで──(18)

 

 宝の経が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 2. 生臭の経

 

242.(239) 〔過去仏カッサパに、苦行者ティッサが尋ねた〕「さてまた、諸々のサーマーカ(雑穀の一種)やチングーラカ〔草〕やチーナカ〔豆〕を、葉の果(野菜)を、根の果(根菜)を、蔓の果(果実)を──〔すなわち〕正しくある者たちの法(教え)によって得たもの(規則どおりに採取したもの)を食べている者たちは、欲を欲するままに偽りを話しません。(1)

 

243.(240) それが〔何であれ〕、上手に作り為され見事に盛り付けされたものを食べている者は──〔すなわち〕他者たちによって布施され供与された精妙なるものを、諸々の米からなる食べ物を、遍く受益している者は──カッサパ(迦葉:過去仏)よ、彼は、生臭(なまぐさ)ものを食べたのです。(2)

 

244.(241) 諸々の米からなる食べ物を、上手に調理された諸々の鳥肉とともに遍く受益しながら、梵〔天〕(ブラフマー神)の眷属(過去仏カッサパ)よ、あなたは、『わたしにとって、生臭は、適確ならず』と、まさしく、かくのごとく語ります。カッサパよ、この義(意味)を、あなたに尋ねます。あなたの〔説く〕生臭は、どのような流儀のものですか」〔と〕。(3)

 

245.(242) 〔過去仏カッサパは答えた〕「命あるものを殺すこと、〔命あるものを〕打つことと切ることと縛ること、〔物を〕盗むこと、虚偽を説くこと、欺くこと、さらに、騙すこと、〔役に立たない〕学問に従事すること、他者の妻と慣れ親しむこと──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(4)

 

246.(243) 彼ら、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たち、諸々の味にたいし貪求ある者たち、不浄の状態と交わる者たち、『〔何であれ〕存在しない』という見解ある者(断見論者)たち、不正なる者たち、捉えどころなき者(教え難き者)たち──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(5)

 

247.(244) 彼ら、粗野な者たち、凶悪な者たち、陰口を言う者たち、朋友を裏切る者たち、慈悲なき者たち、高慢の者たち、さらに、誰にも施さず、施さないことを戒とする者たち──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(6)

 

248.(245) 忿激、驕慢、強情、反抗、幻惑、嫉妬、そして、大言壮語、さらに、思量()と高慢(過慢)、正しからざる者たちとの親愛──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(7)

 

249.(246) 彼ら、悪を戒とする者たち、借金を踏み倒し告げ口をする者たち、裁きにおいて奸計ある者たち、この〔世において〕、それらしい形態をする者(偽善者)たち──彼ら、この〔世において〕、罪障を作る、人として最低の者たち──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(8)

 

250.(247) 彼ら、この〔世において〕、命あるものたちにたいし自制なき人たち──他者たちのものを取って、害することに専念する者たち──残忍で劣戒の者たち、粗暴で礼を欠く者たち──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(9)

 

251.(248) これら〔の命あるものたち〕にたいし、貪求ある者たち、〔行く手を〕遮る者たち、殺害する者たち──彼ら、常に〔正しからざることに〕専念し、死してのち、闇に行き着き、頭を下に、地獄へと落ち行く、〔迷える〕有情たち──これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(10)

 

252.(249) 諸々の魚肉を食べざることにあらず、裸身でいることにあらず、剃髪することにあらず、結髪することに〔あらず〕、埃〔をかぶること〕に〔あらず〕、諸々の粗い鹿皮〔をまとうこと〕に〔あらず〕、祭火への捧げものの勤行にあらず、あるいは、また、それらの、世における多くの不死の苦行、諸々の呪文や供犠、諸々の祭祀や季節の勤行に〔あらず〕──疑いを超えずにいる人間を清めるのは。(11)

 

253.(250) すなわち、それら〔の感官の機能〕において〔心が〕守られた者となり、〔感官の〕機能を征圧した者として〔世を〕歩むなら、法(正義)に依って立つ者として、正直と温厚を喜ぶ者として、執着を超え行き、一切の苦しみを捨棄した慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(認識対象)に汚されません」〔と〕。(12)

 

254.(251) かくのごとく、世尊(過去仏カッサパ)は、繰り返し、この義(意味)を告げ知らせた。呪文の奥義に至る者(苦行者ティッサ)は、それを知った。牟尼は、様々な詩偈によって、〔それを〕明示した──生臭なく、〔何にも〕依存せず、〔何によっても〕捉えどころなき者は。(13)

 

255.(252) 覚者の見事に語られた句を聞いて、生臭なく一切の苦しみを除き去る〔教え〕を〔聞いて〕、〔苦行者ティッサは〕謙虚な意で如来を敬拝し、まさしく、その場において、出家することを選んだ。ということで──(14)

 

 生臭の経が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 3. 恥の経

 

256.(253) 恥〔の思い〕を超え行き、忌避している〔恥なき者〕を──「わたしは、〔あなたの〕友として存在する」と語りながら、諸々のできる行為を引き受けずにいる〔不実の者〕を──彼のことを、「この者は、わたしの〔友〕ではない」と、かくのごとく識知するがよい。(1)

 

257.(254) 彼が、〔実行が〕付従しない愛しい言葉を、朋友たちのあいだで作り為すなら、賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。(2)

 

258.(255) 彼が、〔朋友にたいし〕常に〔警戒を〕怠らない者であるなら、〔友情の〕破壊を危惧する者であるなら、〔相手の〕欠点だけを随観する者であるなら、彼は、朋友ではない。しかしながら、〔母の〕胸に子が臥すように、彼のうちにあり、彼が、他者たち〔の介入〕による〔友情の〕破壊なき者であるなら、彼は、まさに、朋友である。(3)

 

259.(256) 歓喜を作り為す境位(喜びの因となる精進努力)を、賞賛をもたらす安楽(涅槃に導く精進努力)を、果の福利ある者は修める──人としての重荷を運びながら。(4)

 

260.(257) 遠離の味わいを飲み干して、さらに、寂止の味わいを〔飲み干して〕、懊悩なく悪なき者と成る──法(真理)の喜悦の味わいを飲み干しながら。ということで──(5)

 

 恥の経が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 4. 幸福の経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

261.(258) 〔天神が尋ねた〕「多くの天〔の神々〕たちが、さらに、〔多くの〕人間たちが、諸々の幸福を思い考えました──安穏〔の境地〕を望みながら。〔彼らのために〕最上の幸福を説いてください」〔と〕。(1)

 

262.(259) 〔世尊は答えた〕「かつまた、愚者たちと慣れ親しまないこと、かつまた、賢者たちと慣れ親しむこと、かつまた、供養されるべき者たちへの供養──これは、最上の幸福です。(2)

 

263.(260) かつまた、適切なる地に住すること、かつまた、過去(過去世)に作り為した功徳あること、かつまた、自己についての正しい誓願──これは、最上の幸福です。(3)

 

264.(261) かつまた、多聞(博識)、かつまた、技能(手の器用さ)、かつまた、善く学ばれた律(規律)、さらに、すなわち、見事に語られた言葉(虚偽のない真実の言葉)──これは、最上の幸福です。(4)

 

265.(262) 母と父に奉仕すること、子と妻を愛護すること、そして、諸々の生業が混乱なきこと──これは、最上の幸福です。(5)

 

266.(263) かつまた、布施、かつまた、法(正義)の行ない、かつまた、親族たちを愛護すること、諸々の罪過なき行為()──これは、最上の幸福です。(6)

 

267.(264) 悪から遠く離れ離去すること、かつまた、〔人を〕酔わせる飲み物(酒類)から自制すること、かつまた、諸々の法(事象)にたいし〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)──これは、最上の幸福です。(7)

 

268.(265) かつまた、尊重、かつまた、謙譲、かつまた、知足、知恩の者たること、〔正しい〕時に法(教え)を聞くこと──これは、最上の幸福です。(8)

 

269.(266) かつまた、忍耐、素直であること、かつまた、沙門たちと会見すること、〔正しい〕時に法(教え)を論じること──これは、最上の幸福です。(9)

 

270.(267) かつまた、苦行、かつまた、梵行、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を見ること、かつまた、涅槃〔の境処〕を実証すること──これは、最上の幸福です。(10)

 

271.(268) 世の諸々の法(事物)に触れたとして、彼の心が、動かず、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安であるなら──これは、最上の幸福です。(11)

 

272.(269) 諸々のこのような〔行為〕を為して、一切所において敗者とならず、一切所において安穏〔の境地〕に至るなら──それは、彼らにとって最上の幸福です」〔と〕。ということで──(12)

 

 幸福の経が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 5. スーチローマの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ガヤーに住んでおられます。タンキタの石床にあるスーチローマ夜叉の居所において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、カラ夜叉が、かつまた、スーチローマ夜叉が、世尊から遠く離れていないところを通り過ぎます。そこで、まさに、カラ夜叉は、スーチローマ夜叉に、こう言いました。「この者は、沙門だ」と。〔スーチローマ夜叉は言いました〕「この者は、〔本物の〕沙門ではない。この者は、〔格好だけの〕似非沙門だ。あるいは、すなわち、彼が、〔本物の〕沙門であるのか、あるいは、すなわち、彼が、〔格好だけの〕似非沙門であるのか、〔わたしが〕知る、それまでは」と。

 

 そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、身体を近づけました。そこで、まさに、世尊は、身体を離しました。そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、わたしを恐れるのか」と。「友よ、まさに、わたしは、あなたを恐れません。ですが、ともあれ、あなたに触れることは、悪しきことなのです」と。

 

 「沙門よ、おまえに、問いを尋ねよう。それで、もし、わたしに、〔答えを〕説き明かさないなら、あるいは、おまえの心を投げ放つ、あるいは、おまえの心臓を切り裂く、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つ」と。

 

 「友よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、あるいは、わたしの心を投げ放ち、あるいは、わたしの心臓を切り裂き、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つであろう、その者を、まさに、わたしは見ません。友よ、ですが、ともあれ、あなたは尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

273.(270) 〔スーチローマ夜叉が尋ねた〕「そして、貪欲()は、さらに、憤怒()は、因縁としてどこから〔生じるのですか〕。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、どこから生じるのですか。諸々の思考()は、どこから現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てるのですか〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」〔と〕。(1)

 

274.(271) 〔世尊は答えた〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じます〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じます。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てます〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように。(2)

 

274.(272) 〔それらは〕愛執〔の思い〕から生じるものであり、自己から発生したものです──ニグローダ〔樹〕の幹から生じる〔枝や葉〕のように。〔それらは〕諸々の欲望〔の対象〕に多々に絡みついています──林にはびこる蔓草のように。(3)

 

275.(273) 彼らが、それが因縁としてどこから〔発生したのか〕を覚知するなら、彼らは、それを除き去ります。夜叉よ、聞きなさい。彼らは、超え難く、過去に超えられたことなき、この激流を超えます──さらなる生存なきために」〔と〕。ということで──(4)

 

 スーチローマの経が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 6. 法の行ないの経

 

276.(274) 法(教え)の行ない(法行)を、梵行を──これを、〔賢者たちは〕「最上の富」と言う。たとえ、もし、家から家なきへと出家した者として〔世に〕有るも──(1)

 

277.(275) もし、彼が、駄弁の類の者であり、〔他者を〕害することを喜ぶ獣愚の者であるなら、彼の生は、より悪しきものとなり、自己の塵を増大させる。(2)

 

278.(276) 紛争を喜ぶ比丘は、迷妄の法(性質)に覆われた者であり、覚者によって説示された法(教え)を、たとえ、告げ知らされたとして、知ることはない。(3)

 

279.(277) 自己を修めた者たちを害している者は、無明によって〔特定のものを〕偏重する者であり、〔心の〕汚染(雑染)が地獄に至る道であることを知らない。(4)

 

280.(278) 堕所に入った者は、胎から胎へと、闇から闇へと〔輪廻する〕。彼は、まさに、そのような比丘は、死してのち、苦を受ける。(5)

 

281.(279) たとえば、糞坑が、年を経たものとして存するなら、〔汚物によって〕等しく満たされるように、そして、彼が、このような形態の者として存するなら、穢れを有する者は、まさに、清め難い。(6)

 

282.(280) 比丘たちよ、彼を、このような形態の者を、家〔の生活〕に依存する者(世俗の欲望に縛られた者)と知りなさい──悪しき欲求ある者と、悪しき思惟ある者と、悪しき習行と境涯ある者と。(7)

 

283.(281) 全ての者たちは、和合の者たちと成って(一致団結して)、彼を厭い離れよ、殻を取り払え、屑を取り去れ。(8)

 

284.(282) そののち、沙門ではないのに「沙門である」と思量する、籾殻たちを追い払え。悪しき欲求ある者たちを、悪しき習行と境涯ある者たちを、取り払って──(9)

 

285.(283) 〔あなたたちは〕気づきある清浄の者たちとして、清浄の者たちと共住を営むのだ。そののち、〔あなたたちは〕賢明なる和合の者たちとして、苦しみの終極を為すであろう。ということで──(10)

 

 法の行ないの経が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 7. 婆羅門の法にかなう者の経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、大勢のコーサラ〔国〕の婆羅門の大家たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの婆羅門の大家たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、今現在、婆羅門たちは、過去の婆羅門たちの婆羅門の法(性質)において現見できますか」と。「婆羅門たちよ、まさに、今現在、婆羅門たちは、過去の婆羅門たちの婆羅門の法(性質)において現見できません」と。「貴君ゴータマは、どうか、わたしたちに、過去の婆羅門たちの婆羅門の法(性質)を語ってください。それで、もし、貴君ゴータマにとって、負担でないなら」と。「婆羅門たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、それらの婆羅門の大家たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

286.(284) 〔世尊は言った〕「過去の聖賢たちは、自制された自己ある〔真の〕苦行者たちとして〔世に〕存しました。五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、自己の義(目的)を歩みました。(1)

 

287.(285) 〔過去の〕婆羅門たちに、家畜たちは存在しませんでした。黄金なく、穀物なく、〔聖典の〕読誦を財産とし穀物とする者たちとして〔世に〕存し、梵という財宝(心身における最高のあり方)を警護しました。(2)

 

288.(286) すなわち、彼らのために、作り為され、準備され、存していた、門口の食(施しの食)は、〔人々は〕それを、信によって作り為されたものを探し求める者たち(行乞者)に施すべきと思い考えました。(3)

 

289.(287) 種々に染められた諸々の衣によって、諸々の臥具によって、そして、諸々の住居によって、栄える地方や国土の者たちは、それらの婆羅門たちを礼拝しました。(4)

 

290.(288) 婆羅門たちは、不可侵の者たちとして、不可伐の者たちとして、法(真理)に守護された者たちとして、〔世に〕存しました。誰であれ、家々の戸口において、全てにわたり、彼らを妨げませんでした。(5)

 

291.(289) 四十八年のあいだ、彼らは、童貞の梵行を歩みました。かつて、婆羅門たちは、明知と行ないの遍き探求を行ないました。(6)

 

292.(290) 婆羅門たちは、他者〔の妻〕のもとに赴きませんでした。彼らは、また、妻を買うこともありませんでした。まさしく、相愛の者と共に住むこと(夫婦生活)を、一緒になって喜び合いました。(7)

 

293.(291) 〔適切なる〕その時より他には、月経で離れている〔妻〕に向かって、〔その〕間、婆羅門たちは、まさに、淫事の法(性質)に赴きません(性交しない)。(8)

 

294.(292) そして、〔人々は、彼らの〕梵行を、かつまた、戒を、正直を、温厚を、苦行を、温和を、かつまた、不害を、さらに、また、忍耐を、褒め称えました。(9)

 

295.(293) すなわち、彼らのなかの最高の者として存した、断固たる勤勉〔努力〕ある梵(婆羅門)は、彼は、あるいは、また、夢の中でさえも、淫事の法(性質)に赴きませんでした。(10)

 

296.(294) ここに、識者の類の者たちである、或る者たちは、彼の行持に随学しながら、そして、〔彼の〕梵行を、かつまた、戒を、さらに、また、忍耐を、褒め称えました。(11)

 

297.(295) 〔彼らは〕米を、臥具を、衣を、さらに、酥(バター)と油を、乞い求めて、法(正義)によって集めて、そののち、祭祀を営みました。(12)

 

298.(296) 準備された祭祀において、彼らは、まさに、牛たちを殺しませんでした。母が、父が、兄弟が、あるいは、さらに、また、他の親族たちが、そうであるように、わたしたちにとって、牛たちは、彼らにおいて諸々の薬が生まれる、最高の朋友たちであり──(13)

 

299.(297) そのように、〔わたしたちに〕食べ物を与え、かつまた、活力を与え、色艶を与え、安楽を与えてくれるのが、これら〔の牛たち〕であり、この義(利益)たる所以を知って、彼らは、まさに、牛たちを殺しませんでした。(14)

 

300.(298) 繊細にして、大いなる身体の、色艶と福徳ある〔過去の〕婆羅門たちは、諸々の自らの法(性質)によって、諸々の為すべきことや為すべきではないことに邁進する者たちであり、〔彼らが〕世に転起した、そのあいだ、この人々は、安楽に満ち栄えました。(15)

 

301.(299) 〔しかしながら〕彼らに、転倒〔の表象〕が存しました(不実の思いが生まれた)──微細な〔欲の喜び〕から、〔まさに、その〕微細なものを、〔欲望の対象として〕見て、さらに、王の華やかさを〔見て〕、〔装いを〕十二分に作り為した女性たちを〔見て〕──(16)

 

302.(300) さらに、良馬を繋ぎ見事に作られた諸々の車を〔見て〕、諸々の彩りあざやかな刺繍を〔見て〕、等分に計量され区分された諸々の住居地を〔見て〕、さらに、諸々の住居を〔見て〕──(17)

 

303.(301) 牛たちの輪に遍く囲まれ、美女たちの群れを擁する、巨万の人間の財物を、婆羅門たちは貪り求めました。(18)

 

304.(302) 彼らは、そこにおいて、諸々の呪文を編纂して、オッカーカ〔王〕(甘蔗王:古代の大王)のもとへと、そこへと近しく赴きました。〔彼らは言いました〕『〔あなたは〕多大なる財産と穀物ある者として〔世に〕存している。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある』〔と〕。(19)

 

305.(303) そして、そののち、婆羅門たちに説得された、車上の雄牛たる王は、馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕を、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕を、これらの祭祀を執り行なって、財を、婆羅門たちに与えました。(20)

 

306.(304) 牛たちを、そして、臥具を、かつまた、衣を、〔装いを〕十二分に作り為した女性たちを、さらに、良馬を繋ぎ見事に作られた諸々の車を、諸々の彩りあざやかな刺繍を──(21)

 

307.(305) 等分に〔計量され〕見事に区分された諸々の喜ばしき住居地を種々なる穀物で満たして、財を、婆羅門たちに与えました。(22)

 

308.(306) そして、彼らは、そこにおいて、財を得て、蓄積することを喜び合いました。〔自らの〕欲求に沈んだ彼らの渇愛〔の思い〕は、より一層、増大しました。彼らは、そこにおいて、諸々の呪文を編纂して、ふたたび、オッカーカ〔王〕のもとへと近しく赴きました。(23)

 

309.(307) 〔彼らは言いました〕『そして、水が、さらに、地が、黄金が、財産や穀物が、そうであるように、このように、牛たちは、人間たちのものである。まさに、それは、命あるものたちの必需品である。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある』〔と〕。(24)

 

310.(308) そして、そののち、婆羅門たちに説得された、車上の雄牛たる王は、幾百千の牛たちを、祭祀において屠らせました。(25)

 

311.(309) 〔牛たちは〕足によって〔害すること〕なく、角によって〔害すること〕なく、何によってであれ、まさに、〔人を〕害することはありません。牛たちは、羊と等しく温和で、瓶に乳を出してくれます。それら〔の牛たち〕を、王は、角を掴まえて、刃でもって屠らせました。(26)

 

312.(310) そののち、天〔の神々〕たちは、そして、祖霊たちは、インダ(インドラ神・帝釈天)は、阿修羅や羅刹たちは、『法(正義)にあらず』と泣き叫びました──すなわち、牛のうえに刃が落ちたので。(27)

 

313.(311) かつては、欲求(本能)と飢餓(空腹になること)と老化という三つの病〔だけ〕が、〔人間たちに〕存在しました。しかしながら、家畜たちの屠殺から、〔新たに〕九十八〔の病〕が起こりました。(28)

 

314.(312) この法(正義)ならざることが、過去のこととして、諸々の棒(暴力)のなかの〔一つの〕現われとして、〔世に〕有りました。汚れなき者たちが殺され、祭祀をする者たちは、法(正義)から転落します。(29)

 

315.(313) このように、この微細な法(性質)が、過去のこととして〔世に有り〕、識者によって非難されました。そこにおいて、このようなことを見るので、人々は、祭祀者を非難します。(30)

 

316.(314) このように、法(正義)が失われたとき、隷民と庶民たちは分裂し、士族たちは多々に分裂し、妻は亭主を軽蔑しました。(31)

 

317.(315) 士族たちは、そして、梵〔天〕(ブラフマー神)の眷属たちは、さらに、すなわち、他の、氏姓に守られた者たちも、出生の論(分相応の生き方)を放却して、諸々の欲望の支配へと従い行きました」と。(32)

 

 このように説かれたとき、それらの婆羅門の大家たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」〔と〕。ということで──

 

 婆羅門の法にかなう者の経が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 8. 舟の経

 

318.(316) まさに、彼から、法(真理)を、人が識知するなら、彼を、天神たちがインダ(インドラ神・帝釈天)を〔供養する〕ように、供養するがよい。供養された彼は、その〔人〕にたいし清信した心の者となり、多聞の者として、法(真理)を明らかと為す。(1)

 

319.(317) その〔法〕を義(目的)と為して、こころして聞いて、慧者は、法(教え)を法(教え)のままに実践しながら、識者と〔成り〕、〔法を〕分明する者と〔成り〕、そして、精緻の者と成る──彼が、〔気づきを〕怠らず、そのような〔多聞の者〕と親しくするなら。(2)

 

320.(318) しかしながら、小なる愚者に仕え親しんでいる者は、そして、義(目的)に至らない者に〔仕え親しんでいる者は〕、さらに、嫉妬〔の思い〕ある者に〔仕え親しんでいる者は〕、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を分明せずして、疑いを超えることなく、死に近づく。(3)

 

321.(319) たとえば、人が川に入って、〔それも〕水の流れ速き大水〔の川〕に〔入って〕、彼〔自身〕が〔流れに〕運ばれつつ、流れのままに赴く者であるなら、どうして、彼が、他者たちを超え渡すことができるというのだろう。(4)

 

322.(320) まさしく、そのように、法(真理)を分明せずして、多聞の者たちの〔説く〕義(道理)をこころして聞かずして、自ら、知ることなく、疑いを超えずにいるなら、どうして、彼が、他者たちを納得させることができるというのだろう。(5)

 

323.(321) たとえば、また、櫂と舵の保有者として有る者が、堅固な舟に乗って、そこにあって、〔操舵の〕手段を知る巧みな智ある思慧ある者であるなら、彼は、そこにおいて、他の多くの者たちをもまた超え渡すであろうように──(6)

 

324.(322) このように、また、彼が、〔真の〕知に至り自己を修めた者として〔世に有るなら〕、多聞にして不動なる法(真理)の者として〔世に〕有るなら、彼は、まさに、〔法を〕覚知している者であり、他者たちを納得させるであろう──耳を傾け〔成道の〕機縁を具有した者たちを。(7)

 

325.(323) まさに、それゆえに、正なる人士と親しくするがよい──まさしく、そして、思慮ある者と、さらに、多聞の者と。義(意味)を了知して、〔常に〕実践しているなら、彼は、法(教え)の識知者となり、安楽を得るであろう。ということで──(8)

 

 舟の経が第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 9. 「何が、戒ですか」の経

 

326.(324) 〔比丘が尋ねた〕「何が、戒ですか。何が、励行ですか。諸々のどのような行為を育てつつ、人は、正しく、〔法に〕安立した者として存するのですか、かつまた、最上の義(目的)に至り得るのですか」〔と〕。(1)

 

327.(325) 〔世尊は答えた〕「年長者を敬い、嫉妬〔の思い〕なき者として存するように。かつまた、導師たちと会見するための〔正しい〕時を知る者として存するように。法(真理)の言説が発せられた〔その〕瞬間を知る者となり(法話の機会を逃すことなく)、諸々の見事に語られた〔言葉〕を、真剣に聞くように。(2)

 

328.(326) 〔正しい〕時に導師たちの現前に赴くように。強情を放却して、謙譲の生活者となり、義(道理)と法(真理)と自制と梵行を、まさしく、そして、随念し、さらに、励行するように。(3)

 

329.(327) 法(真理)を喜びとし、法(真理)を喜び、法(真理)に安立し、法(真理)の判別を知る者となり、法(真理)を汚す論を習行することが、まさしく、ないように。諸々の見事に語られた真実〔の言葉〕によって導かれるように。(4)

 

330.(328) 笑い、呟き、嘆き、怒り、〔過去に〕為した幻惑、虚言、貪求、思量、激昂、粗野、汚濁を、かつまた、耽溺を、〔それらを〕捨棄して、驕りを離れ、自己を安立した者となり、〔世を〕歩むように。(5)

 

331.(329) 諸々の見事に語られた〔言葉〕は、〔あるがままに〕識知されたものを真髄とします。そして、所聞(学識)は、〔あるがままに〕識知された禅定(定・三昧)を真髄とします。その人が、〔気づきを〕怠り、〔物事を〕無理強いする者として〔世に〕有るなら、彼には、かつまた、智慧も、かつまた、所聞も、増えることはありません。(6)

 

332.(330) しかしながら、彼らが、聖者によって知らされた法(教え)を喜ぶ者たちであるなら、彼らは、言葉によって、意によって、かつまた、行為によっても、無上なる者たちです。彼らは、〔心の〕寂静と〔心の〕温和と禅定を確立した者たちであり、所聞の〔真髄に〕、さらに、智慧の真髄に、到達したのです」〔と〕。ということで──(7)

 

 「何が、戒ですか」の経が第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 10. 奮起の経

 

333.(331) 奮起せよ。〔瞑想するために〕坐れ。眠ることで、あなたたちに、何の義(利益)があるというのだろう。まさに、病んでいる者たちに、矢に貫かれ苦しんでいる者たちに、何の眠りがあるというのだろう。(1)

 

334.(332) 奮起せよ。〔瞑想するために〕坐れ。〔心の〕寂静のために、断固として学べ。〔気づきを〕怠るあなたたちを識知して、死魔の王が、〔あなたたちを〕迷わすことがあってはならない──〔彼の〕支配に従い行く者たちとなり。(2)

 

335.(333) 〔まさに〕その〔執着の思い〕あるがゆえに、天〔の神々〕たちは、かつまた、人間たちも、〔限定された特定のものを〕義(目的)として、〔それに〕依存し、〔そこに〕止住する。〔まさに〕この、執着〔の思い〕を、〔あなたたちは〕超え渡れ。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔この〕瞬間を〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。(3)

 

336.(334) 怠ること(放逸)は、塵である。怠ることがあり、怠ることから生み落とされる塵がある。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、明知によって、自己の矢を引き抜くがよい。ということで──(4)

 

 奮起の経が第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 11. ラーフラの経

 

337.(335) 〔ラーフラに、世尊は尋ねた〕「どうであろう、幾度となく共に住んでいることから、賢者たる者(サーリプッタ)を見下すことはないかな。どうであろう、人間たちにとって松明の保持者たる者は、あなたによって敬われているかな」〔と〕。(1)

 

338.(336) 〔ラーフラが答えた〕「わたしは、幾度となく共に住んでいることから、賢者たる方(サーリプッタ)を見下すことはありません。人間たちにとって松明の保持者たる方は、わたしによって常に敬われています」〔と〕。(2)

 

339.(337) 〔世尊は言った〕「意が喜びとする愛しい形態である、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、信によって家から出て、苦しみの終極を為す者と成れ。(3)

 

340.(338) 善き朋友たちと親しくせよ。そして、辺地の臥坐所に──騒音少なく、〔世俗から〕遠離した〔臥坐所〕に〔慣れ親しめ〕。食について量を知る者と成れ。(4)

 

341.(339) 衣料について、さらに、〔行乞の〕施食について、日用品(薬品)について、臥坐具について──これらについて、渇愛〔の思い〕を為してはならない。〔迷いの〕世に、ふたたび帰り来ることがあってはならない。(5)

 

342.(340) 戒条(波羅提木叉:戒律条項)において、さらに、五つの〔感官の〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)において、統御された者と〔成れ〕。おまえに、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が〔常に〕存せ。厭離〔の思い〕多き者と成れ。(6)

 

343.(341) 貪欲を伴った浄美なる相(美しく価値あるように見えるもの)を遍く避けよ。不浄〔の表象〕(不浄想:身体を不浄と見る観察)によって、一境に善く定められた心を修めよ。(7)

 

344.(342) さらに、無相〔の表象〕を修めよ。思量の悪習(慢随眠)を廃棄せよ。そののち、思量の寂止あることから、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むであろう」と。(8)

 

 かくのごとく、まさに、世尊は、尊者ラーフラを、これらの詩偈によって、幾度となく教え諭しました。ということで──

 

 ラーフラの経が第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 12. ニグローダ・カッパの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。アッガーラヴァ塔廟において。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサの師父であるニグローダ・カッパという名の長老が、アッガーラヴァ塔廟において、完全なる涅槃に到達してほどなく有ります。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者ヴァンギーサに、このような心の思索が浮かびました。「いったい、まさに、わたしの師父は、完全なる涅槃に到達したのだろうか、それとも、完全なる涅槃に到達していないのだろうか」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『いったい、まさに、わたしの師父は、完全なる涅槃に到達したのだろうか、それとも、完全なる涅槃に到達していないのだろうか』」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

345.(343) 〔尊者ヴァンギーサが尋ねた〕「まさしく、所見の法(現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、〔まさに〕その、至上の智慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしは〕尋ねます。アッガーラヴァにおいて、比丘が、命を終えました。知名ある者であり、盛名ある者であり、自己が寂滅した者です。(1)

 

346.(344) 世尊よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。彼は、あなたを礼拝しながら、〔苦からの〕解き放ちを期す者として、精進に励む者として、断固として法(真理)を見る者として、〔世を〕歩みました。(2)

 

347.(345) 釈迦〔族〕の方よ、一切に眼ある方よ、わたしたちは、全てもろともに、彼のことを、〔あなたの〕弟子のことを、了知することを求めます。わたしたちの〔両の〕耳は、〔あなたの答えを〕聞くために待ち構えています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる方として〔世に〕存しています。(3)

 

348.(346) わたしたちの疑惑を、まさしく、断ち切ってください。それを、わたしに説いてください。広き智慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者であるかを、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください──千の眼ある帝釈〔天〕(インドラ神)が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。(4)

 

349.(347) それらが何であれ、諸々の拘束は、この〔世における〕、諸々の迷妄の道も、諸々の知恵なき徒も、諸々の疑惑の境位も、それらは、如来に至り得て〔そののち、もはや〕有ることなくあります。なぜなら、〔如来の〕この眼は、〔世の〕人たちのなかの最高のものであるからです。(5)

 

350.(348) もし、人士たる方が、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を、あたかも、風が層雲を〔吹き払う〕ように、まさに、しっかりと打ち払わないなら、一切の世は、まさしく、〔迷妄に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちもまた、光り輝くことはないでしょう。(6)

 

351.(349) しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手たちとして〔世に〕有ります。勇者よ、〔まさに〕その、あなたのことを、わたしは、まさしく、そのとおりに思います。〔あるがままの〕観察者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近しく赴いたのです。諸衆のなか、わたしたちに、カッパ(ニグローダ・カッパ)のことを明らかにしてください。(7)

 

352.(350) 麗しき方よ、麗しき言葉を、すみやかに発してください──白鳥が、〔首を〕もたげて、おもむろに〔鳴く〕ように、吟じてください──美しく整えられた、まろやかな声で。まさしく、全ての者たちが、〔心が〕真っすぐに赴いた者たちとなり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。(8)

 

353.(351) 残りなく生と死を捨棄した清き方に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちには、欲することを〔究明して〕為すことはなく、しかしながら、如来たちには、〔是非を〕究明して為すことがあるからです。(9)

 

354.(352) 〔正しく〕成就された説き明かし(授記)は、これは、正しく真っすぐな智慧ある、あなたの正しく把握するところです。この最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の智慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはいけません。(10)

 

355.(353) 彼此における聖なる法(教え)を見出しておきながら、至上の勇者たる方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはいけません。あたかも、炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が、水を〔望み求める〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。所聞〔の雨〕を降らせてください。(11)

 

356.(354) それ(涅槃)を義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行を歩みました。どうでしょう、彼の、その〔義〕は、無駄ならずにあり、彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのでしょうか、それとも、〔生存の〕依り所という残りものを有する者(有余依)として〔命を終えたのでしょうか〕。〔彼が〕解脱者として有った、そのとおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。(12)

 

357.(355) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを、名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛〔の思い〕を、〔カッパは〕この〔世において〕断ちました。生と死を、残りなく超えました」〔と〕。かくのごとく、世尊は説いた──五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝者たる方は。(13)

 

358.(356) 〔尊者ヴァンギーサが言った〕「第七の聖賢たる方よ、〔まさに〕この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて、〔心が〕清まります(より信を強くする)。わたしが尋ねたことは、まさに、無駄ならざるもの。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。(14)

 

359.(357) すなわち、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、覚者の弟子(カッパ)は、〔世に〕有りました。幻術師の死魔が広げた堅固な網を断ち切ったのです。(15)

 

360.(358) 世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初となるもの(執着の起源・根本原因)を見ました。カッパーヤナ(カッパ)は、まさに、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです」〔と〕。ということで──(16)

 

 ニグローダ・カッパの経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 13. 正しい遍歴遊行なるものの経

 

361.(359) 〔対話者が尋ねた〕「多大なる智慧ある牟尼に尋ねます。〔激流を〕超え、彼岸に至り、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した方に〔尋ねます〕。家から出て、諸々の欲望〔の対象〕を除き去って〔そののち〕、どのように、比丘として、彼は、世において、正しく遍歴遊行するのですか」〔と〕。(1)

 

362.(360) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「彼にとって、諸々の幸福〔の占い〕が完破されたなら──諸々の天変地異〔の占い〕が〔完破され〕、そして、諸々の夢〔の占い〕が〔完破され〕、さらに、諸々の特相〔の占い〕が〔完破されたなら〕──彼は、幸福〔と不幸の思い〕という〔心の〕汚点を捨棄した者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(2)

 

363.(361) 諸々の人間〔の欲望の対象〕にたいし、さらに、また、天の諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を取り除くなら、比丘として、〔迷いの〕生存を超え行って、法(真理)を行知して、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(3)

 

364.(362) 諸々の中傷〔の言葉〕に背を向けて、忿激〔の思い〕と吝嗇〔の思い〕を捨棄するなら、比丘として、〔他者にたいする〕共感と反感(好き嫌いの感情)を捨棄した者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(4)

 

365.(363) かつまた、愛しいものも、かつまた、愛しくないものも、〔愛憎ともに〕捨棄して、〔何も〕執取せずして、どこにであれ、依存なき者は、諸々の束縛するものから解き放たれた者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(5)

 

366.(364) 彼が、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)について、真髄に至らず(真実として認めず)、諸々の執取〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除くなら、彼は、依存なき者であり、他者に導かれない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(6)

 

367.(365) 言葉によって、かつまた、意によって、かつまた、行為によって、〔他者を〕遮ることなく(他者にたいし敵意なくあり)、正しく法(真理)を見出して、〔常に〕涅槃の境処を望み求めている者──彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(7)

 

368.(366) 彼が、比丘として、『〔人は〕わたしを敬拝する』と傲慢にならず、たとえ、罵られたとして〔他者を〕怨まず、他者から食料を得ても驕り高ぶらないなら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(8)

 

369.(367) かつまた、貪り〔の思い〕も、かつまた、〔迷いの〕生存も、〔両者ともに〕捨棄して、そして、〔命あるものを〕切ることや縛ることから離れたなら、比丘として、彼は、懐疑を超え、矢を抜いた者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(9)

 

370.(368) 自己にとって適切なることを見出して、そして、比丘として、世において、誰であれ害さないなら、真実なるままに法(真理)を見出して、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(10)

 

371.(369) 彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)が存在せず、そして、諸々の善ならざる根元(不善根:貪・瞋・痴の三毒)が完破されたなら、彼は、願望なき者であり、〔何も〕願い求めない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(11)

 

372.(370) 煩悩()が滅尽し、〔我想の〕思量(:自他を比較し価値づける心)が捨棄され、一切の貪りの道を超克し、〔心身が〕調御され、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した者──彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(12)

 

373.(371) 信があり、聞があり、〔正道の〕決定(正しい実践方法)を見る者が、〔特定の〕党派に赴く者たちのなかにいながら〔特定の〕党派に走り行かない慧者としてあり、貪欲と憤怒を〔取り除き〕、敵対〔の思い〕を取り除くなら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(13)

 

374.(372) 清浄なる勝者、〔迷妄の〕覆いが開かれた者、諸法(事象)について自在なる者、彼岸に至る者、動揺なき者、形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)の止滅の知恵に巧みな智ある者──彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(14)

 

375.(373) 諸々の過去のことについて、さらに、また、諸々の未来のことについて、妄想を超え行った者、超え行って〔そののち〕清浄の智慧ある者、一切の〔認識の〕場所(:認識対象)から解き放たれた者──彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう。(15)

 

376.(374) 〔涅槃の〕境処を了知して、〔迷妄の覆いが〕開かれた〔あるがままの〕法(真理)を行知して、諸々の煩悩の捨棄を見て、一切の〔生存の〕依り所(依存の対象)の完全なる滅尽あることから、まさに、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう」〔と〕。(16)

 

377.(375) 〔対話者が言った〕「世尊よ、まさに、たしかに、このことは、まさしく、そのとおりです。すなわち、彼が、このような住ある者となり、〔心身が〕調御された比丘として、一切の束縛するものの束縛を超克したなら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでしょう」〔と〕。ということで──(17)

 

 正しい遍歴遊行なるものの経が第十三となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 14. ダンミカの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ダンミカ在俗信者(優婆塞)が、五百の在俗信者たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ダンミカ在俗信者は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

378.(376) 〔ダンミカが尋ねた〕「ゴータマよ、広き智慧ある方よ、あなたに尋ねます。どのように為す者が、善き弟子と成るのですか。あるいは、彼が、家から家なきへと至り行くとして、また、あるいは、家ある在俗信者たちであるとして。(1)

 

379.(377) なぜなら、あなたは、天を含む世〔の人々〕の赴く所()を、さらに、〔その〕行き着く所を、〔あるがままに〕覚知するからです。かつまた、精緻なる義(道理)を見る者として、〔あなたと〕比較できる者は〔世に〕存在しません。まさに、あなたのことを、〔賢者たちは〕『最も優れた覚者』と説きます。(2)

 

380.(378) あなたは、一切の知恵と法(真理)を確たるものとして、有情たちを慈しみながら、〔法を〕明らかにします。一切に眼ある方よ、〔あなたは〕覆いが開かれた者として〔世に〕存しています。〔世俗の〕垢を離れ、一切の世において、光り輝きます。(3)

 

381.(379) エーラーヴァナという名の龍の王が、〔あなたのことを〕『勝者である』と聞いて、あなたの現前にやってきました。彼もまた、あなたと話し合って、〔法に〕到達しました。『善きかな』と、〔あなたの教えを〕聞いて、満足した様子です。(4)

 

382.(380) 毘沙門〔天〕王のクヴェーラもまた、法(真理)を遍く尋ねながら、あなたのもとに近づきます。慧者よ、あなたは、〔問いを〕尋ねられた者として、彼にもまた、〔法を〕説きます。さらに、また、彼も、〔あなたの教えを〕聞いて、満足した様子です。(5)

 

383.(381) 彼らが誰であれ、これらの論争を戒とする異教の者(外道)たちは、もしくは、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)たちであろうと、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちであろうと、〔彼らの〕全てが、智慧によってあなたを超え行くことはありません。立ち止まっている者が、行きつつある者を、急ぎ赴く者を、〔追い越せない〕ように。(6)

 

384.(382) 彼らが誰であれ、これらの論争を戒とする婆羅門たちは、さらに、また、〔世に〕存する年長の婆羅門たちも、誰であれ、あなたにたいしては、〔彼らの〕全てが、義(目的)に縛られた者(他者に問い尋ねる者)たちとして〔世に〕有ります。さらに、また、すなわち、他の、〔自らを〕論者と思いなしている者たちも。(7)

 

385.(383) まさに、この法(教え)は、精緻なるものであり、かつまた、安楽なるものです。世尊よ、すなわち、この〔法〕は、あなたによって見事に説かれました。〔わたしたちは〕全てもろともに、まさしく、その〔法〕を、聞こうとしています。最勝の覚者よ、〔問いを〕尋ねられた者として、その〔法〕を、わたしたちに説いてください。(8)

 

386.(384) これらの比丘たちは、全てもろともに等しく坐り、さらに、また、在俗信者(優婆塞)たちも、まさしく、そのように、〔法を〕聞くことを〔求めます〕。〔さあ、みなさん〕聞いてください──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚され、見事に語られた〔真実の〕法(教え)を──天〔の神々〕たちが、ヴァーサヴァ(インドラ神・帝釈天)の〔言葉を聞く〕ように」〔と〕。(9)

 

387.(385) 〔世尊は答えた〕「比丘たちよ、わたしの〔言葉を〕聞きなさい。あなたたちに聞かせましょう──〔煩悩を〕払い落とす、〔真実の〕法(教え)を。そして、全ての者たちは、その〔法〕を歩みなさい。義(道理)を見る者は、思慧ある者は、その〔法〕に、出家者に随順する振る舞いの道(出家者にふさわしい行為のあり方)に、慣れ親しむように。(10)

 

388.(386) 比丘は、まさに、時ならざる〔時〕(午後)に、〔村を〕渡り歩かないように。そして、〔正しい〕時(午前中)に、〔行乞の〕食のために村を歩むように。なぜなら、〔正しい〕時に歩まない者に、諸々の執着〔の思い〕がつきまとうからです。それゆえに、覚者たちは、時ならざる〔時〕には〔村を〕歩まないのです。(11)

 

389.(387) かつまた、諸々の形態(:眼の対象)も、かつまた、諸々の音声(:耳の対象)も、かつまた、諸々の味感(:舌の対象)も、諸々の臭気(:鼻の対象)も、かつまた、諸々の接触(:身の対象)も、それらは、有情たちを夢中にさせます。これらの諸法(事象)にたいする欲〔の思い〕を取り除いて、彼(比丘)は、〔正しい〕時に、〔すなわち、村人たちの〕朝食〔の時間〕に、〔村に〕入るように。(12)

 

390.(388) そして、比丘は、〔正しい〕時分に〔行乞の〕食を得て、独り、静所に戻って、坐すように。内に思念ある者は、自己を制御した状態となり、意を外に放たないように。(13)

 

391.(389) それで、もし、また、彼が、〔別の〕弟子と談じ合うなら、あるいは、他の者と〔談じ合うなら〕、あるいは、誰であれ、比丘と〔談じ合うなら〕、〔まさに〕その、精妙なる法(教え)を述べ伝えるように。中傷〔の言葉〕ではなく、他者への批判〔の言葉〕でもまたなく。(14)

 

392.(390) まさに、或る者たちは、論に反駁します。それらの智慧僅かな者たちを、〔わたしたちは〕賞賛しません。彼らに、そこかしこから、諸々の執着〔の思い〕がつきまといます。まさに、彼らは、そこにおいて、心を遠くに赴かせます(妄想する)。(15)

 

393.(391) 〔行乞の〕食に、精舎に、そして、臥坐具に、さらに、大衣の塵を洗い流す水に──善き至達者(ブッダ)によって説示された法(教え)を聞いて、〔正しく〕究明して〔そののち〕──優れた智慧ある〔覚者の〕弟子は、慣れ親しむように(規則どおりに受用するべきである)。(16)

 

394.(392) まさに、それゆえに、〔行乞の〕食について、そして、臥坐具について、さらに、大衣の塵を洗い流す水について──これらの法(事物)について汚されない者として、比丘はあります。あたかも、蓮〔の葉〕に、水の滴が〔着かない〕ように。(17)

 

395.(393) いっぽう、そのように為す者が〔覚者の〕善き弟子と成る、在家者の行持を、あなたたちに説きましょう。なぜなら、すなわち、比丘の法(教え)の全部は、これは、執持〔の対象〕(所有物)を有する〔在家者〕によっては触れることができないからです(実行できない)。(18)

 

396.(394) 〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、殺させないように。さらに、〔命あるものを〕殺している他者たちを認めないように。すなわち、動かないものたちも、さらに、すなわち、動くものたちも、世に存する、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて〔害さずにいるように〕(不殺生戒)。(19)

 

397.(395) それから、〔第二に〕目覚めている弟子は、どこにおいても、何であれ、与えられていないものを遍く避けるように。〔他者をして他者から〕奪わせないように。奪っている者を認めないように。一切の与えられていないものを遍く避けるように(不偸盗戒)。(20)

 

398.(396) 〔第三に〕識者たる者は、燃え盛る火坑を〔避ける〕ように、梵行ならざること(淫事)を遍く避けるように。また、梵行をできずにいる者は、他者の妻を犯さないように(不邪淫戒)。(21)

 

399.(397) 〔第四に〕あるいは、集会に赴いたとして、あるいは、衆のうちに赴いたとして、独りあり、ただの一者にであれ、虚偽を話さないように。〔他者をして虚偽を〕話させないように。〔虚偽を〕話している者を認めないように。一切の事実ならざることを遍く避けるように(不妄語戒)。(22)

 

400.(398) さらに、〔第五に〕酔わせる飲み物(酒類)を嗜まないように。彼が、この〔不飲酒の〕法(教え)を喜ぶ在家の者であるなら、それ(飲酒)を、『狂気という終極あるもの』と知って、〔他者に酒を〕飲ませないように。〔酒を〕飲んでいる者を認めないように。(23)

 

401.(399) なぜなら、愚者たちは、〔酒による〕驕りから、諸々の悪を為し、さらに、また、他の人たちを、怠りある者たちと為さしめるからです。愚者たちに欲せられ、〔世の人々を〕狂気ならしめ、迷妄ならしむ、この善ならざる〔認識の〕場所(:領域・範囲)を避けるように(不飲酒戒)。(24)

 

402.(400) 〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。そして、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫事〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜には非時の食料を食べないように。(25)

 

403.(401) 〔第七に〕花飾を〔身に〕付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕じかに大地のうえに広げた臥床で臥すように。苦しみの終極に至る覚者によって明示された、まさに、この〔法〕を、〔賢者たちは〕『八つの支分ある斎戒(布薩)』と言います。(26)

 

404.(402) そして、そののち、半月〔ごと〕の第八日に、かつまた、十四日と十五日に、斎戒に入って、さらに、神変月には、清信した意図ある者となり、八つの支分を具した完全無欠の形態ある〔斎戒〕を〔守るように〕。(27)

 

405.(403) そして、そののち、斎戒に入ったなら、朝には、比丘の僧団に、食べ物によって、さらに、飲み物によって、清信した心で随喜しながら、識者たる者は、〔自らの〕分のままに分け与えるように。(28)

 

406.(404) 法(正義)によって、母と父を養うように。彼は、法(正義)にかなう商売に従事するように。この〔法〕を〔常に〕転起させている、怠りなき在家者は、『自光』という名の天〔の神々〕たちのもとに近づきます(自光天に再生する)」〔と〕。ということで──(29)

 

 ダンミカの経が第十四となり、〔以上で〕終了となる。

 

 小なるものの章が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「宝と生臭、そして、恥、幸福があり、スーチローマとともに、そして、法(教え)の行ない、婆羅門、舟、『何が、戒ですか』と奮起──

 

 さらに、ラーフラ、そして、カッパ、そのように、遍歴遊行なるもの、そして、ダンミカがあり、十四〔の経〕があり、知者たちは、『小なるものの章』と言う」と。

 

3. 大いなるものの章

 

3. 1. 出家の経

 

407.(405) 〔尊者アーナンダが言った〕「〔世尊の〕出家〔の経緯〕を、〔あるがままに〕述べ伝えましょう──眼ある方が出家した、そのとおりに──〔常に正しく〕考察している方が、彼が、出家することを正しく選んだ、そのとおりに。(1)

 

408.(406) 『この在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕場所(:領域・範囲)である』と〔見て〕、『出家は、まさしく、〔塵の積もらない〕野外にある』と見て、〔世尊は〕出家しました。(2)

 

409.(407) 出家して、身体による悪しき行為(悪業)を避けました。言葉による悪しき行ないを捨棄して、生き方を完全に清めました。(3)

 

410.(408) 覚者は、ラージャガハ(王舎城)に赴きました──マガダ〔国〕のギリッバジャ(王舎城の別名)に。優れた〔聖者の〕特相を〔身体に〕ちりばめた方は、〔行乞の〕食のために〔歩を〕運びました。(4)

 

411.(409) 高楼に立ったビンビサーラ(マガダ国王)は、彼を見ました。〔聖者の〕特相を成就した方を見て、この義(意味)を語りました。(5)

 

412.(410) 〔王は言いました〕『諸君よ、このことをこころして聞け。〔彼は〕形姿麗しく、偉丈夫で、清らかである。さらに、行ないを成就し、かつまた、〔一〕ユガ(:長さの単位・一ユガは約二メートル)ばかりを〔隙なく〕見ている。(6)

 

413.(411) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、気づき()ある者である。この者は、卑しい家から〔出た者〕のようには〔見え〕ない(人品卑しからぬ者である)。王の使者たちよ、走れ。比丘は、どこに赴くのだろう』〔と〕。(7)

 

414.(412) 〔王に〕命じられた、それらの王の使者たちは、〔覚者の〕背後から後を追いました──『比丘は、どこに赴くのだろう。どこにおいて、住居と成るのだろう』〔と〕。(8)

 

415.(413) 〔感官の〕門が守られ、善く統御された方は、〔行乞のために〕歩々淡々と歩みながら、すみやかに、鉢を〔施物で〕満たしました──正知と気づきの者として。(9)

 

416.(414) 〔行乞の〕食の行(托鉢行)を歩んで、城市から出て、牟尼は、パンダヴァ〔山〕へと〔歩を〕運びました。ここにおいて、住居と成るのでしょう。(10)

 

417.(415) 〔覚者が〕住居へと近しく赴いたのを見て、三者の使者たちは、〔覚者のもとに赴き、一方に〕近坐しました。彼らのうち、一者だけは、〔王宮に〕帰って、王に知らせました。(11)

 

418.(416) 〔使者は言いました〕『大王よ、この比丘は、パンダヴァ〔山〕の東に〔赴き〕、山窟において、獅子のように、虎や雄牛のように、坐っています』〔と〕。(12)

 

419.(417) 使者の言葉を聞いて、士族(ビンビサーラ王)は、立派な乗物とともに、急ぎの様子で出発しました──パンダヴァ山のあるところへと。(13)

 

420.(418) 彼は、乗物の〔行ける〕地まで行って、乗物から降りて、士族は、徒歩の者となり、〔覚者のもとへと〕近づいて行って、彼に近づいて、〔一方に〕近坐しました。(14)

 

421.(419) 坐って〔そののち〕、王は、記憶されるべき話を〔交わし、出会いを〕喜び合いました(対面の挨拶をした)。そののち、彼は、〔覚者と〕話を交わして、この義(意味)を語りました。(15)

 

422.(420) 〔王は尋ねました〕『かつまた、若くある者として、かつまた、年少の者として、〔あなたは〕存しています──〔人生の〕最初を生きる若者として。崇高なる色艶を成就した者であり、生まれよき士族のようです。(16)

 

423.(421) 軍隊の先端を美しく荘厳しながら、象たちの群れに囲まれた者と〔成りたまえ〕。〔わたしが、あなたに〕施しましょう──諸々の財物を受けたまえ。〔わたしに、あなたの〕生まれを告げ知らせたまえ──〔問いを〕尋ねられた者として』〔と〕。(17)

 

424.(422) 〔世尊は答えました〕『王よ、〔この方角を〕真っすぐに、ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓に、財と勇を成就した地方があります。コーサラ〔国〕に家ある〔王〕のものです。(18)

 

425.(423) まさに、姓としては、アーディッチャ(太陽)であり、まさに、生まれとしては、釈迦〔族〕であり、その家から出家した者として、〔わたしは〕存しています。諸々の欲望〔の対象〕を望み求める者ではありません。(19)

 

426.(424) 諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険(患・過患)を見て、離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、〔刻苦〕精励するために、〔出家の道を〕赴くでしょう。ここにおいて、わたしの意は喜びます』」〔と〕。ということで──(20)

 

 出家の経が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 2. 精励の経

 

427.(425) 〔世尊は言った〕「ネーランジャラー川に向かい、〔刻苦〕精励によって自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)、〔まさに〕その、わたしに──束縛からの平安(軛安穏)に至り得るために、努め勤しんで瞑想している〔わたし〕に──(1)

 

428.(426) ナムチ(悪魔)が、同情の言葉を語りながら、近づいてきた」〔と〕。〔悪魔が言った〕「あなたは、痩せ細り色艶の衰えた者として、〔世に〕存しています。あなたの死は、現前にあります。(2)

 

429.(427) 死が千分なら、あなたの生は〔ただの〕一分。君よ、生きたまえ。生あることは、より勝(まさ)っています。生きている〔あなた〕は、諸々の〔善き〕功徳を作るでしょう。(3)

 

430.(428) そして、あなたが、梵行を歩んでいると、さらに、祭火を捧げていると、多大なる功徳が積まれます。精励によって、何を為すというのでしょう。(4)

 

431.(429) 精励への道は、赴き難く、為し難く、征服し難きものです」〔と〕。悪魔は、これらの詩偈を話しながら、覚者の現前に立った。(5)

 

432.(430) 彼に、そのように説く悪魔に、世尊は、この〔言葉〕を説いた。〔世尊は言った〕「怠りの眷属よ、パーピマント(悪魔)よ、その義(目的)によって、〔おまえが〕ここにやってきたとして──(6)

 

433.(431) 功徳による義(利益)は、わたしには、微塵ばかりもまた見出されない。しかしながら、彼らには、功徳による義(利益)が〔見出される〕──悪魔は、彼ら(世俗の功徳に利益を見る者たち)に説くのがふさわしい。(7)

 

434.(432) 〔わたしには〕信が存在する。そのように、精進が〔存在する〕。かつまた、わたしには、智慧が見出される。このように自己を精励するわたしに、また、どうして、〔おまえは〕生を問い尋ねるというのだろう(刻苦精励以外の生に意味はない)。(8)

 

435.(433) この風(瞑想の気息)は、諸々の川の流れでさえも干上がらせるであろう。さてまた、どうして、自己を精励するわたしの血が干上がらないというのだろう。(9)

 

436.(434) 血が干上がっているとき、胆汁は〔干上がり〕、さらに、痰も干上がる。諸々の肉が滅尽しているとき、心は、より一層、清信する。わたしの禅定(定・三昧)は、かつまた、気づき()も、かつまた、智慧(慧・般若)も、より一層、安立する。(10)

 

437.(435) このように〔世に〕住んでいる〔わたし〕の、最上の〔苦痛の〕感受(:楽苦の知覚)に至り得た〔わたし〕の──〔まさに〕その、わたしの──心は、諸々の欲望〔の対象〕について期待なくある。見よ──自らの自己の清浄なることを。(11)

 

438.(436) おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』であり、第四〔の軍団〕は、『渇愛』と呼ばれる。(12)

 

439.(437) おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞と眠気』であり、第六〔の軍団〕は、『恐怖』と呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』であり、おまえの第八〔の軍団〕は、『偽装と強情』である。(13)

 

440.(438) 利得、名声、尊敬は、さらに、すなわち、誤って得られた盛名も、そして、それが、自己を褒め上げ、さらに、他者たちを見下すとして──(14)

 

441.(439) ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る。(15)

 

442.(440) この〔わたし〕は、ムンジャ〔草〕(戦闘継続の意思表示に使う)を守り抜くであろう。厭わしきものとして存せ──わたしの生命は。すなわち、もし、敗者として生きるなら、戦場で死んだほうが、わたしには、より勝っている。(16)

 

443.(441) 或る沙門や婆羅門たちは、ここ(悪魔の攻撃)において沈み、〔もはや〕見えない。そして、その道を、〔彼らは〕知らない──それによって、善き掟の者たちが赴く、〔まさに、その道を〕。(17)

 

444.(442) 遍きにわたり、旗をひるがえし、待ち受けている、軍勢を有する悪魔を見て、〔わたしは〕戦いへと出向くであろう。わたしを、〔この〕境位から〔一歩でも〕動かすことがあってはならない。(18)

 

445.(443) すなわち、おまえのその軍団を、天を含む世〔の人々〕が打ち負かさずとも、おまえのその〔軍団〕を、智慧によって、〔わたしは〕破り去るであろう──〔焼く前の〕生(なま)の鉢を石で〔打ち砕く〕ように。(19)

 

446.(444) 〔正しい〕思惟を自在に為して、かつまた、しっかりと確立した気づきを〔自在に為して〕、国から国へと、〔わたしは〕渡り歩くであろう──弟子たちを多々に教え導きながら。(20)

 

447.(445) わたしの教えを為す者たちは、彼らは、〔気づきを〕怠らず、自己を精励する者たちである。〔おまえが〕欲さずとも、彼らは赴くであろう──すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところ(涅槃)へと」〔と〕。(21)

 

448.(446) 〔ナムチが言った〕「〔わたしは〕七年のあいだ、歩から歩へと、世尊についてまわったが、〔彼の〕弱点には、〔ついに〕到達しなかった──正覚者の、気づきある者の、〔彼の弱点には〕。(22)

 

449.(447) 〔愚かな〕烏が、脂肪の色をした岩〔の周り〕を、〔肉を求めて〕歩き回ったようなもの。『さてまた、ここにおいて、柔和なるものが見つかるであろうか。さてまた、美味なるものが存するであろうか』〔と〕。(23)

 

450.(448) そこにおいて、美味なる〔肉〕を得ずして、烏は、ここから立ち去った。〔脂肪の色をした〕岩に近づいて、〔馬鹿を見た〕烏のように、ゴータマを厭離して、〔わたしたちは〕離れ去るのだ」〔と〕。(24)

 

451.(449) 憂い悲しみに打ち負かされた彼の脇から、琵琶が落ちた。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した。ということで──(25)

 

 精励の経が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 3. 善く語られたものの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した言葉は、善く語られたものとして有り、悪しく語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、善く語られた〔言葉〕を語ります──悪しく語られた〔言葉〕ではなく。まさしく、法(教え)〔の言葉〕を語ります──法(教え)ならざる〔言葉〕ではなく。まさしく、愛慕ある〔言葉〕を語ります──愛慕なき〔言葉〕ではなく。まさしく、真理(真実)〔の言葉〕を語ります──偽り〔の言葉〕ではなく。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した言葉は、善く語られたものとして有り、悪しく語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

452.(450) 〔世尊は言った〕「正しくある者たちは言う。『善く語られた〔言葉〕は、最上のものである』〔と〕──〔それが、第一である〕。『法(教え)〔の言葉〕を話すように。法(教え)ならざる〔言葉〕ではなく』〔と〕──それが、第二である。『愛慕ある〔言葉〕を話すように。愛慕なき〔言葉〕ではなく』〔と〕──それが、第三である。『真理(真実)〔の言葉〕を話すように。偽り〔の言葉〕ではなく』〔と〕──それが、第四である」と。(1)

 

 そこで、まさに、尊者ヴァンギーサが、坐から立ち上がって、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります(詩偈が思い浮かびます)。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。

 

453.(451) 〔尊者ヴァンギーサが言った〕「まさしく、その言葉を語るがよい──その〔言葉〕によって、自己を苦しめず、かつまた、他者たちを害さないなら。それは、まさに、善く語られた言葉である。(2)

 

454.(452) まさしく、愛慕ある言葉を語るがよい──その言葉が、〔皆に〕喜ばれるものであるなら──その〔言葉〕が、諸々の悪しきものを取らずして、他者たちに語る、愛慕あるものであるなら。(3)

 

455.(453) 真理は、まさに、不死の言葉である。これは、永遠の法(真理)である。真理において、そして、義(道理)において、さらに、法(教え)において、〔自己を〕確立した正しくある者たちは、〔このように〕言う。(4)

 

456.(454) 涅槃〔の境処〕に至り得るために、苦しみの終極を為すために、覚者が語る、〔まさに〕その、平安の言葉──それは、まさに、諸々の言葉のなかの最上のものである」〔と〕。ということで──(5)

 

 善く語られたものの経が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 4. スンダリカ・バーラドヴァージャの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。スンダリカー川の岸辺において。また、まさに、その時点にあって、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門が、スンダリカー川の岸辺において、祭火に捧げものをし、祭火の捧げものを世話します。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、祭火に捧げものをして、祭火の捧げものを世話して、坐から立ち上がって、遍きにわたり、四方を見回しました。「いったい、まさに、誰が、この捧げものの残りを食べるべきなのか」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、遠く離れていないところの、或るどこかの木の根元において、〔衣料を〕頭まで包着し、坐っているのを見ました。見て、左手で捧げものの残りを掴んで、右手で長口の水瓶を掴んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門の足音で〔その来訪を知り〕、頭を顕わにしました。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、「この尊き者は、剃髪者だ。この尊き者は、剃髪坊主だ」と、まさしく、そこから、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、たとえ、剃髪者なるも、ここに、一部の者たちは、婆羅門たちとして〔世に〕有る。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って、〔彼の〕出生を尋ねるのだ」と。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「貴君は、どのような出生ですか」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

457.(455) 〔出生を尋ねるバーラドヴァージャ婆羅門に、世尊は答えた〕「〔わたしは〕婆羅門として、まさに、存するにあらず。王子にあらず、庶民にあらず、あるいは、〔他の〕いかなる者としても、存するにあらず。凡夫たちの氏姓(迷いの者たちの生のあり様)を遍く知って、無一物で、明慧ある者として、〔わたしは〕世を歩みます。(1)

 

458.(456) 大衣を着け、家なき者として、髪を剃り、自己が寂滅した者として、〔わたしは〕歩みます──この〔世において〕、人間たちに汚されることなく。婆羅門よ、〔あなたは〕氏姓についての問いを、わたしに尋ねますが、〔それは〕健全なるにあらず」〔と〕。(2)

 

459.(457) 〔婆羅門が言った〕「君よ、まさに、婆羅門たちは、婆羅門たちを相手に、『貴君は、まさに、婆羅門ですか』と尋ねます」〔と〕。(3)

 

460.(457) 〔世尊は言った〕「まさに、もし、あなたが、〔自己のことを〕『婆羅門である』〔と〕説くなら、かつまた、わたしのことを『婆羅門ではない』と説くなら、〔わたしは〕三句二十四字の、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)を、それを、あなたに尋ねます」〔と〕。(4)

 

461.(458) 〔婆羅門が尋ねた〕「何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは、士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか」〔と〕。(5)

 

462.(458) 〔世尊は答えた〕「『すなわち、〔世の〕終極に至り、〔真の〕知に至る者が、祭祀の時に、彼への捧げものを得るなら、彼に〔捧げものをした祭祀は〕成功するであろう』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(6)

 

463.(459) かくのごとく、婆羅門が〔言った〕「彼を、そのような〔真の〕知に至る者を、〔わたしどもが〕見たなら、まさに、たしかに、彼に捧げものをした〔祭祀〕は成功するでしょう。まさに、あなたさまのような方たちを見ないので、他の人が〔祭祀の〕献菓を受けるのです」〔と〕。(7)

 

464.(460) 〔世尊は言った〕「婆羅門よ、それゆえに、ここに、あなたは、〔正しい〕義(道理)を義(目的)とする者(真理の探究者)として、近づいて行って尋ねなさい。寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なく、思慮深き者を、ここに、まさしく、たぶん、見出すでしょう(誰に捧げものをするべきか、わたしに尋ねなさい)」〔と〕。(8)

 

465.(461) 〔婆羅門が尋ねた〕「貴君ゴータマよ、わたしは、祭祀を喜ぶ者であり、祭祀を執り行なうことを欲する者ですが、わたしは、〔真の祭祀を〕覚知しません。貴君は、わたしに、〔真の祭祀を〕教示してください。そこにおいて、捧げものをしたなら、〔その祭祀が〕成功するであろう、その〔祭祀の対象〕を、わたしに説いてください」〔と〕。(9)

 

 〔世尊は答えた〕「婆羅門よ、それなら、まさに、あなたは、耳を傾けなさい。あなたに、法(真理)を説示しましょう。

 

466.(462) 出生を尋ねてはいけません。そして、行ない〔こそ〕を尋ねなさい。火は、まさに、〔元の木が何であれ、あらゆる〕薪から生まれます。たとえ、卑しい家系の者でも、〔道心〕堅固の牟尼として、恥〔の思い〕で〔身を〕慎む者は、善き生まれの者として〔世に〕有ります。(10)

 

467.(463) 真理によって調御され、〔心身の〕調御を具し、知の終極に至る、梵行の完成者──彼にたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(11)

 

468.(464) 彼ら、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者となり、梭(機織の道具・シャトル)のように真っすぐに歩む、自己が善く自制された者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(12)

 

469.(465) 彼ら、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪りを離れ、〔感官の〕機能が善く定められた者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(13)

 

470.(466) 執着することなく世を渡り歩き、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して、常に気づきある者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(14)

 

471.(467) 彼が、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、〔一切を〕征服して歩む者であるなら──彼が、生と死の終極を知ったなら──完全なる涅槃に到達した者であり、湖水のように〔心が〕清涼となった者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(15)

 

472.(468) 同等の者たち(過去の覚者たち)とは等しくあり、同等ならざる者たちとは遠くにあり、如来として、終極なき智慧ある者として、〔世に〕有り、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔何にも〕汚されない者は、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(16)

 

473.(469) 彼のうちに、幻惑〔の策略〕()が住みつかず、〔我想の〕思量()が〔住みつか〕ないなら──彼が、貪欲を離れ、我執なく、願望なく、忿激を除き、自己が寂滅した者であるなら──彼が、〔真の〕婆羅門として、憂いの垢を運び去ったなら、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(17)

 

474.(470) 彼が、意の固着(執着の思い)を運び去ったなら──彼に、何であれ、諸々の執持〔の対象〕(所有物)が存在しないなら──この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取せずにいる者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(18)

 

475.(471) 彼が、〔心が〕定められた者(禅定者)となり、激流を超え渡ったなら──そして、法(真理)を、最高の見解によって了知したなら──煩悩が滅尽した者であり、最後の肉身を保つ者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(19)

 

476.(472) 彼の、諸々の生存()の煩悩が、さらに、諸々の粗野な言葉が、砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しないなら──彼は、〔真の〕知に至る者であり、一切所に解脱した者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(20)

 

477.(473) 彼に、諸々の執着〔の思い〕が存在しないなら、執着を超え行く者であり──彼が、〔我想の〕思量()ある有情たちのなかにいながら、〔我想の〕思量なき有情であるなら──田畑や地所(苦しみの原因)と共に、〔世の〕苦しみを遍く知って、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(21)

 

478.(474) 願望〔の思い〕に依存せずして、遠離〔の境地〕を見る者となり、他者によって知られるべき見解を超克した者となり、彼に、何であれ、諸々の〔欲望や執着の〕対象(所縁)が存在しないなら、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(22)

 

479.(475) 〔あるがままに〕行知して、彼の、彼此なる諸々の法(事象)が砕破され、滅却に至り、〔もはや〕存在しないなら、〔心が〕寂静となった者であり、執取の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(23)

 

480.(476) 束縛するものと生の滅尽と終極を見る者となり、彼が、貪りの道を残りなく除き去ったなら、清浄で、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)なく、〔世俗の〕垢を離れ、汚濁なき者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(24)

 

481.(477) 彼が、自己のために自己を随観せず(自己について妄想しない)、〔心が〕定められた者となり、〔心が〕真っすぐに赴いた者となり、自己を安立した者となるなら、彼は、まさに、〔心に〕動揺なく鬱積なく疑いなき者であり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します。(25)

 

482.(478) 彼に、何であれ、諸々の迷いの起因が存在せず、そして、一切の法(事象)に知見ある者であるなら、かつまた、最後の肉体を保ち、そして、無上にして至福の正覚に至り得た者であるなら、このことから、精神の清浄があり、如来として、献菓〔を受ける〕に値します」〔と〕。(26)

 

483.(479) 〔婆羅門が言った〕「そして、わたしの捧げものは、真理の捧げものとして存せ。すなわち、〔真の〕知に至る方(ブッダ)を、そのような方を、〔わたしは〕得たのです。まさに、梵〔天〕(ブラフマー神)が証人です。世尊よ、わたしの〔献菓を〕納めてください。世尊よ、わたしの献菓を受けてください」〔と〕。(27)

 

484.(480) 〔世尊は言った〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕は、食べるべきにあらず。婆羅門よ、〔常に〕正しく見ている者たちにとって、これは、法(正義)にあらず。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります。婆羅門よ、法(正義)が存しているときは、これが、生活〔のあり方〕となります。(28)

 

485.(481) 煩悩が滅尽し、悔恨〔の思い〕が寂止した、全一者たる偉大なる聖賢には、そして、他の、食べ物と飲み物で奉仕しなさい。なぜなら、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成るからです」〔と〕。(29)

 

486.(482) 〔婆羅門が言った〕「世尊よ、善きかな、わたしは、そのとおりに、〔その者を〕識知するでしょう──すなわち、わたしのような者の施物を受けてくれるであろう、〔その者を〕──祭祀の時においては、その者を遍く探し求めながら〔供養するでしょう〕──あなたの教えに至り得て〔そののちは〕」〔と〕。(30)

 

487.(483) 〔世尊は言った〕「彼の、諸々の激昂〔の思い〕が離れ去り、彼の、心が濁りなく、彼の、〔心の〕沈滞が除かれたなら、そして、諸々の欲望〔の対象〕から解き放たれた者であり──(31)

 

488.(484) 諸々の境界の終極にあるもの(煩悩)を取り除く者に、生と死の熟知者に、牟尼の資質を成就した牟尼に、祭祀〔の場〕にやってきたそのような者に──(32)

 

489.(485) 渋面を取り除いて、合掌の者となり、礼拝しなさい、食べ物と飲み物によって供養しなさい。このように〔為すなら〕、諸々の施物は成功します(功徳を作り為す)」〔と〕。(33)

 

490.(486) 〔婆羅門が言った〕「覚者として、貴君は、献菓〔を受ける〕に値します。無上なる功徳の田畑(福田)です。一切の世〔の人々〕にとって供物〔の受者〕たる方です。貴君に施されたものは、大いなる果となります」〔と〕。(34)

 

 そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました。……略……阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。ということで──

 

 スンダリカ・バーラドヴァージャの経が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 5. マーガの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。そこで、まさに、マーガ学徒が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マーガ学徒は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、施者として、施主として、寛容なる者として、乞いに応じる者として、法(正義)によって諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって諸々の財物を遍く探し求めて、法(正義)によって得た諸々の財物によって、法(正義)によって到達した〔諸々の財物〕によって、一者にもまた施し、二者にもまた施し、三者にもまた〔施し〕、四者にもまた〔施し〕、五者にもまた〔施し〕、六者にもまた〔施し〕、七者にもまた〔施し〕、八者にもまた〔施し〕、九者にもまた〔施し〕、十者にもまた施し、二十者にもまた〔施し〕、三十者にもまた〔施し〕、四十者にもまた〔施し〕、五十者にもまた施し、百者にもまた施し、より一層にもまた施します。貴君ゴータマよ、どうでしょう、わたしは、このように施しながら、このように祭祀をしながら、多くの功徳を生み出しますか」と。

 

 「学徒よ、たしかに、あなたは、このように施しながら、このように祭祀をしながら、多くの功徳を生み出します。学徒よ、すなわち、まさに、施者として、施主として、寛容なる者として、乞いに応じる者として、法(正義)によって諸々の財物を遍く探し求め、法(正義)によって諸々の財物を遍く探し求めて、法(正義)によって得た諸々の財物によって、法(正義)によって到達した〔諸々の財物〕によって、一者にもまた施し……略……百者にもまた施し、より一層にもまた施すなら、彼は、多くの功徳を生み出します」と。そこで、まさに、マーガ学徒は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

491.(487) かくのごとく、マーガ学徒が〔尋ねた〕「ゴータマに、寛容なる方に、わたしは尋ねます。黄褐色〔の衣〕(袈裟)を着け、家なき者として歩む方に、〔わたしは尋ねます〕。すなわち、乞いに応じる施主たる在家者が、功徳を義(目的)に祭祀をするとして──功徳を期す者が、この〔世において〕、食べ物と飲み物を、他者たちに施しながら〔祭祀をするとして〕──祭祀をしている者の捧げものは、どのように清まるのですか」〔と〕。(1)

 

492.(488) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガよ、すなわち、乞いに応じる施主たる在家者が、功徳を義(目的)に祭祀をするとして──功徳を期す者が、この〔世において〕、食べ物と飲み物を、他者たちに施しながら〔祭祀をするとして〕──そのような者は、施与されるべき者たちによって、〔目的を〕達成するでしょう(供養するにふさわしい者に施すことで、捧げものは清まる)」〔と〕。(2)

 

493.(489) かくのごとく、マーガ学徒が〔尋ねた〕「すなわち、乞いに応じる施主たる在家者が、功徳を義(目的)に祭祀をするとして──功徳を期す者が、この〔世において〕、食べ物と飲み物を、他者たちに施しながら〔祭祀をするとして〕──世尊よ、わたしに、施与されるべき者たちのことを告げ知らせてください」〔と〕。(3)

 

494.(490) 〔世尊は答えた〕「彼ら、まさに、執着〔の思い〕なく世を渡り歩き、無一物で、全一者たる、自己を制した者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(4)

 

495.(491) 彼ら、一切の束縛するものと結縛するものを断ち切る、調御者にして解脱者たち、煩悶なく願望なき者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(5)

 

496.(492) 彼ら、一切の束縛するものから解き放たれた、調御者にして解脱者たち、煩悶なく願望なき者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(6)

 

497.(493) そして、貪欲()を、さらに、憤怒()を、迷妄()を捨棄して、煩悩が滅尽した、梵行の完成者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(7)

 

498.(494) 彼らのうちに、幻惑〔の策略〕が住みつかず、〔我想の〕思量が〔住みつか〕ない、煩悩が滅尽した、梵行の完成者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(8)

 

499.(494) 彼ら、貪欲を離れ、我執なく、願望なく、煩悩が滅尽した、梵行の完成者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(9)

 

500.(495) 彼ら、まさに、諸々の渇愛のうちに陥ることなく、激流を超えて歩む、我執なき者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(10)

 

501.(496) この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる生存のために、彼らに、渇愛〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(11)

 

502.(497) 彼ら、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者となり、梭(機織の道具・シャトル)のように真っすぐに歩む、自己が善く自制された者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(12)

 

503.(498) 彼ら、ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪りを離れ、〔感官の〕機能が善く定められた者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(13)

 

504.(499) 貪りを離れ、〔心の〕動乱なく、〔心が〕静まった者たち──この〔世において〕、〔一切を〕捨棄して、彼らに、〔もはや〕赴く所(来世)が存在しないなら──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(14)

 

505.(500) 生と死を残りなく捨棄して、一切の懐疑を超克した者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(15)

 

506.(501) 彼ら、自己を洲(依り所)として世を渡り歩き、無一物で、一切所に解脱した者たち──彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(16)

 

507.(502) まさに、ここにおいて、彼らが、このことを、それそのとおりに知るなら、『これは、最後〔の生存〕である。さらなる生存は存在しない』と、彼らにたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。すなわち、功徳を期す婆羅門として、祭祀をするのであるなら。(17)

 

508.(503) 〔まさに〕その、〔真の〕知に至り、瞑想を喜ぶ、気づきある者──正覚に至り得た者にして、多くの者たちの帰依所となる者──彼にたいし、〔正しい〕時に、捧げものを献じるがよい。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら」〔と〕。(18)

 

509.(504) かくのごとく、マーガ学徒が〔尋ねた〕「たしかに、無駄ならざるものとして、わたしの諸々の問い尋ねは有りました。世尊は、わたしに、施与されるべき者たちのことを告げ知らせてくれました。まさに、ここにおいて、あなたは、このことを、それそのとおりに知ります。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(19)

 

510.(505) すなわち、乞いに応じる施主たる在家者が、功徳を義(目的)に祭祀をするとして──功徳を期す者が、この〔世において〕、食べ物と飲み物を、他者たちに施しながら〔祭祀をするとして〕──世尊よ、わたしに、祭祀の成就のことを告げ知らせてください」〔と〕。(20)

 

511.(506) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガよ、祭祀をしなさい。祭祀をしながら、そして、一切所において、心を清信させなさい。祭祀は、祭祀をする者にとって、対象(所縁:依り所)となるものです。ここにおいて、〔心が〕確立して、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を捨棄します。(21)

 

512.(507) 彼は、貪りを離れ、怒りを取り除いて、無量なる慈愛の心を〔常に〕修めながら、夜に、昼に、常に〔気づきを〕怠ることなく、無量なる〔慈愛の心〕を、全ての方角に充満します」〔と〕。(22)

 

513.(508) 〔マーガ学徒が尋ねた〕「誰が、清浄となり、解脱し、はたまた、結縛されるのですか。どのような自己によって、〔彼は〕梵の世(梵天界)に赴くのですか。牟尼よ、〔問いを〕尋ねられた者として、知らずにいるわたしのために、説いてください。世尊よ、なぜなら、わたしは、今日、〔生き〕証人としての梵〔天〕(ブッダ)を見たからです。なぜなら、あなたは、まさに、真に、梵〔天〕(ブラフマー神)に等しい方として〔世に〕存しているからです。光輝ある方よ、どのように、〔彼は〕梵の世に再生するのですか」〔と〕。(23)

 

514.(509) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガよ、彼が、祭祀をするとして、そのような者は、施与されるべき者たちによって、三種類の祭祀の成就(祭祀の前後とその最中において心が清まること)を達成するでしょう。『このように、正しく祭祀をして〔そののち〕、乞いに応じる者は、梵の世に再生する』と、〔わたしは〕説きます」と。(24)

 

 このように説かれたとき、マーガ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」〔と〕。ということで──

 

 マーガの経が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 6. サビヤの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。また、まさに、その時点にあって、サビヤ遍歴遊行者の過去〔世〕の血縁者である天神によって指定された諸々の問いが有ります。「サビヤよ、すなわち、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あなたによって、これらの問いを尋ねられ、〔答えを〕説き明かすなら、彼の現前において、〔あなたは〕梵行を歩むがよい」と。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、その天神の現前において、それらの問いを収め取って、すなわち、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、それらの沙門や婆羅門たちであるなら──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパであり、マッカリ・ゴーサーラであり、アジタ・ケーサカンバラであり、パクダ・カッチャーナであり、サンチャヤ・ベーラッタプッタであり、ニガンタ・ナータプッタですが──彼らに、近づいて行って、それらの問いを尋ねます。彼らは、サビヤ遍歴遊行者によって、諸々の問いを尋ねられ、解答できません。解答できずにいながら、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。そして、また、まさしく、サビヤ遍歴遊行者に問い返します。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパ……略……ニガンタ・ナータプッタであるが──彼らは、わたしによって、諸々の問いを尋ねられ、解答できない。解答できずにいながら、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。そして、また、ここにおいて、まさしく、わたしに問い返す。それなら、さあ、わたしは、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、諸々の欲望〔対象〕を遍く受益するのだ」と。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、この者もまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆をもち、かつまた、衆の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って、沙門ゴータマに、これらの問いを尋ねるのだ」と。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、また、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、長老たちにして、経験あり、長きにわたり出家し、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちも──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパ……略……ニガンタ・ナータプッタであるが──彼らもまた、わたしによって、諸々の問いを尋ねられ、解答できない。解答できずにいながら、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。そして、また、ここにおいて、まさしく、わたしに問い返す。また、どうであろう、沙門ゴータマは、わたしによって、これらの問いを尋ねられ、〔答えを〕説き明かすであろうか。なぜなら、沙門ゴータマは、まさしく、そして、生まれとしては青年であり、さらに、出家としても新参者であるからだ」と。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「『まさに、青年の沙門である』と、見下すべきではなく、貶めるべきではない。そして、たとえ、青年であるも、沙門ゴータマは、この者は、大いなる神通ある者として、大いなる威力ある者として、〔世に〕有る。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って、沙門ゴータマに、これらの問いを尋ねるのだ」と。

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、ラージャガハのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ラージャガハの、ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパのあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

515.(510) かくのごとく、サビヤが〔言った〕「疑いある者として、疑惑ある者として、〔わたしは〕やってきました。諸々の問いを尋ねることを待ち望んでいる者です。〔あなたは〕それら〔の問い〕の終極を為す者と成ってください。〔あなたは〕諸々の問いをわたしに尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(1)

 

516.(511) かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、〔あなたは〕遠くからやってきた者として存しています。諸々の問いを尋ねることを待ち望んでいる者です。〔わたしは〕それら〔の問い〕の終極を為す者と成りましょう。〔わたしは〕諸々の問いをあなたに尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、あなたに説き明かしましょう。(2)

 

517.(512) サビヤよ、わたしに、問いを尋ねなさい。それが何であれ、〔あなたが〕意によって求めるなら。わたしは、あなたの、まさしく、その〔問い〕その問いの、終極を為しましょう」〔と〕。(3)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者に、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。すなわち、まさに、わたしは、他の沙門や婆羅門たちにおいては、〔問いを尋ねる〕行為の機会すらもまた得なかったのに、それが、沙門ゴータマによって、わたしのために、〔まさに〕この、〔問いを尋ねる〕行為の機会が作り為されたのだ」と。〔サビヤ遍歴遊行者は〕わが意を得た者となり、歓喜した者となり、勇躍する者となり、喜悦と悦意が生じた者となり、世尊に、問いを尋ねました。

 

518.(513) かくのごとく、サビヤが〔尋ねた〕「何に至り得る者を、『比丘』と言うのですか。何によって、『温和なる者』と〔言うのですか〕。そして、どのように、『調御された者』と言うのですか。どのように、『覚者』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(4)

 

519.(514) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サビヤよ、自己みずから為した〔実践の〕道によって、完全なる涅槃に至り、疑いを超えた者──かつまた、虚無(非有:無)を、かつまた、実体(:存在)を、〔両者ともに〕捨棄して、さらなる生存(再有)が滅尽した、〔梵行の〕完成者──彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕。(5)

 

520.(515) 一切所において、〔愛憎の思いを〕放捨し、気づきある者──彼は、一切の世において、誰であれ害しません──〔激流を〕超えた、〔心に〕濁りなき沙門──彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が存在しないなら、彼は、『温和なる者』〔と呼ばれます〕。(6)

 

521.(516) 彼の、諸々の〔感官の〕機能が、内に、さらに、外に、一切の世において修められたなら──この〔世〕を、さらに、他の世を、〔あるがままに〕洞察して、〔自己を〕修めた者となり、〔死の〕時を待ちます──彼は、『調御された者』〔と呼ばれます〕。(7)

 

522.(517) 輪廻を、死滅と再生の両者を──〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)の全部を〔あるがままに〕弁別して、〔世俗の〕塵を離れ去り、穢れなく、清浄なる者を、生の滅尽に至り得た者を、彼を、『覚者』と言います」と。(8)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、わが意を得た者となり、歓喜した者となり、勇躍する者となり、喜悦と悦意が生じた者となり、世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

523.(518) かくのごとく、サビヤが〔尋ねた〕「何に至り得る者を、『婆羅門』と言うのですか。何によって、『沙門』と〔言うのですか〕。そして、どのように、『沐浴者』と〔呼ばれるのですか〕。どのように、『龍』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(9)

 

524.(519) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サビヤよ、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善くしっかりと定められ、自己を安立した者──彼は、輪廻を超え行って、全一者となります──〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます。(10)

 

525.(520) 〔心が〕静まった者となり、善と悪を捨棄して、〔世俗の〕塵を離れる者となり、この〔世〕を、さらに、他の世を、〔あるがままに〕知って、生と死を超克した者──真実なることから、如なる者は、『沙門』〔と〕呼ばれます。(11)

 

526.(521) 一切の悪しき〔行為〕を、内に、さらに、外に、一切の世において洗い清めて(沐浴して)、〔時間の〕妄想ある天〔の神々〕と人間たちのなかにいながら、〔時間の〕妄想に至りません(輪廻しない・妄想しない)──彼を、『沐浴者』と言います。(12)

 

527.(522) 世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛を捨て去って、〔一切の〕結縛を〔捨て去って〕、一切所において執着しない、解脱者──真実なることから、如なる者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。(13)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は……略……世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

528.(523) かくのごとく、サビヤが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰を、『田畑の勝者』と説くのですか。何によって、『智者』と〔言うのですか〕。そして、どのように、『賢者』と〔呼ばれるのですか〕。どのように、『牟尼』という名で呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(14)

 

529.(524) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サビヤよ、天の〔田畑〕を、さらに、人間の〔田畑〕を、梵の田畑を──田畑の全部(認識の領域・行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の田畑の根元の結縛から解き放たれた者──真実なることから、如なる者は、『田畑の勝者』〔と〕呼ばれます。(15)

 

530.(525) 天の〔蔵〕を、さらに、人間の〔蔵〕を、梵の蔵を──蔵の全部(認識の領域・行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の蔵の根元の結縛から解き放たれた者──真実なることから、如なる者は、『智者』〔と〕呼ばれます。(16)

 

531.(526) 内に、さらに、外に、両者の白きもの(内外の認識の領域・十二処)を〔あるがままに〕弁別して、清浄の智慧ある者となり、黒と白(悪業と善業)を超克した者──真実なることから、如なる者は、『賢者』〔と〕呼ばれます。(17)

 

532.(527) かつまた、正しからざる者たちの、かつまた、正しくある者たちの、〔両者の〕法(性質)を、内に、さらに、外に、一切の世において〔あるがままに〕知って、天〔の神々〕と人間たちに供養されるべき者──彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれます〕」と。(18)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は……略……世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

533.(528) かくのごとく、サビヤが〔尋ねた〕「何に至り得る者を、『〔真の〕知に至る者』と言うのですか。何によって、『随知者』と〔言うのですか〕。そして、どのように、『精進ある者』と〔呼ばれるのですか〕。どのようなことで、『善き生まれの者』という名と成るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(19)

 

534.(529) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サビヤよ、この〔世において〕、それら〔の知〕が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、知の全部を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(:楽苦の知覚)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者』〔と呼ばれます〕。(20)

 

535.(530) 名前と形態(名色:現象世界)という虚構(戯論:分別妄想)を〔あるがままに〕随知して、内に、さらに、外に、病の根元を〔あるがままに随知して〕、一切の病の根元の結縛から解き放たれた者──真実なることから、如なる者は、『随知者』〔と〕呼ばれます。(21)

 

536.(531) この〔世において〕、一切の悪しき〔行為〕から離れた者──地獄の苦しみを超え行って、精進を住居とする者──彼は、精進ある者であり、精励ある者であり、真実なることから、如なる者は、『慧者』〔と〕呼ばれます。(22)

 

537.(532) 彼の、まさに、諸々の結縛が刈り取られ、内に、さらに、外に、執着の根元が〔刈り取られ〕、一切の執着の根元の結縛から解き放たれた者──真実なることから、如なる者は、『善き生まれの者』〔と〕呼ばれます」と。(23)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は……略……世尊に、さらなる問いを尋ねました。

 

538.(533) かくのごとく、サビヤが〔尋ねた〕「何に至り得る者を、『聞経者(婆羅門)』と言うのですか。何によって、『聖者』と〔言うのですか〕。そして、どのように、『行ないある者』と〔呼ばれるのですか〕。どのようなことで、『遍歴遊行者』という名と成るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き明かしてください」〔と〕。(24)

 

539.(534) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サビヤよ、〔覚者の教えを〕聞いて、世における一切の法(事象)を証知して──それが何であれ、〔世に〕存するもので、罪を有するものと罪なきものを〔証知して〕──〔それらを〕征服した懐疑なき解脱者を、一切所に煩悶なき者を、『聞経者(婆羅門)』と言います。(25)

 

540.(535) 諸々の煩悩()を断ち切って、諸々の〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を〔断ち切って〕、知ある者は、彼は、胎に臥す〔境遇〕に近づきません(再生せず解脱する)──三種類の表象(:欲望の表象・憎悪の表象・悩害の表象)を除いて、〔欲望の〕の汚泥(欲望の対象)を〔除いて〕、〔時間の〕妄想に至りません(輪廻しない・妄想しない)──彼を、『聖者』と言います。(26)

 

541.(536) 彼が、この〔世において〕、諸々の行ないについて至り得るべきものに至り得た者となり、智者として、一切時に法(真理)を了知するなら──心が解脱した者となり、一切所において執着せず、彼に、諸々の敵対〔の思い〕が存在しないなら──彼は、『行ないある者』〔と呼ばれます〕。(27)

 

542.(537) 上に、下に、あるいは、また、横に、〔その〕中間において、その行為()が、苦なる報いあるものとして存するなら、〔それを〕遍く避けて、遍知して歩む者──幻惑〔の策略〕を、〔我想の〕思量を、さらに、また、貪欲〔の思い〕と忿激〔の思い〕を、〔それらを遍く避けて、遍知して歩む者〕──名前と形態(名色:現象世界)の完全なる終極を為した、至り得るべきものに至り得た者を、彼を、『遍歴遊行者』と言います」と。(28)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、わが意を得た者となり、歓喜した者となり、勇躍する者となり、喜悦と悦意が生じた者となり、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。

 

543.(538) 〔遍歴遊行者サビヤが言った〕「広き智慧ある方よ、諸々の沙門の論争に依存したものとして、そして、それらの六十〔の異説〕があり、さらに、それらの三つ〔の異説〕があります(梵網経に説かれる六十二見と有身見)。表象と文字に〔依存したものでもあり、転倒した〕表象に依存したものでもある、〔それらの六十三の〕異説を取り除いて、〔あなたは〕激流と闇を〔超えて〕去り行きました。(29)

 

544.(539) 〔あなたは〕苦しみの終極に至る方として、彼岸に至る方として、〔世に〕存しています。〔あなたは〕阿羅漢(人格完成者)として、正等覚者として、〔世に〕存しています。あなたのことを、煩悩が滅尽した方と、〔わたしは〕思います。苦しみの終極を為す方よ(※)、〔あなたは〕光輝ある方として、思慧ある方として、多大なる智慧ある方として、わたしを超え渡してくれました。(30)

 

※ テキストには dukkhassantakaraṃ とあるが、PTS版により dukkhassantakara と読む。

 

545.(540) 〔まさに〕その、わたしが疑ってきたことを、〔あなたは〕了知しておられました。〔その〕疑惑から、わたしを超え渡してくれました。あなたに、礼拝〔有れ〕。牟尼よ、諸々の寂黙の道において至り得るべきものに至り得た方よ、〔心に〕鬱積なき方よ、太陽の眷属よ、〔あなたは〕温和なる方として〔世に〕存しています。(31)

 

546.(541) 〔まさに〕その、かつて存した、わたしの疑いですが、眼ある方よ、それを、〔あなたは〕わたしに説き明かしてくれました。たしかに、〔あなたは〕牟尼として、正覚者として、〔世に〕存しています。あなたに、諸々の妨害()は存在しません。(32)

 

547.(542) そして、あなたの、一切の葛藤は、砕破され、分断されました。〔心が〕清涼と成った方です。〔心身の〕調御に至り得た方です。〔道心〕堅固の方です。真の勤勉〔努力〕ある方です。(33)

 

548.(543) 龍のなかの龍たる方に、〔常に真理を〕語る偉大なる勇者に、〔まさに〕その、あなたに、全ての天〔の神々〕たちが随喜します──ナーラダとパッバタ〔の神々たち〕も、両者ともに。(34)

 

549.(544) 善き生まれの人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。天を含む世において、あなたに対する人は存在しません。(35)

 

550.(545) あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。(36)

 

551.(546) あなたの、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は超え行かれました。あなたの、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき方として、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した方として、〔世に〕存しています。(37)

 

552.(547) あたかも、麗しき白蓮が、〔汚〕水のなかにありながら、汚されることがないように、このように、あなたは、かつまた、善(功徳)についても、かつまた、悪(功徳なきもの)についても、〔その〕両者に汚されません。勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。サビヤは、教師を敬拝します」〔と〕。ということで──(38)

 

 そこで、まさに、サビヤ遍歴遊行者は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。

 

 「サビヤよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望みながら、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。まさに、サビヤ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。……略……。また、まさに、尊者サビヤは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。ということで──

 

 サビヤの経が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 7. セーラの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナという名のアングッタラーパ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ケーニヤ結髪者は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らしめる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。このように説かれたとき、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに清信しています」と。

 

 再度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに清信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。再度また、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに清信しています」と。

 

 三度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに清信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、自らの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、朋友や僚友たちに、親族や血縁たちに、呼びかけました。「諸君よ、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、わたしの〔言葉を〕聞いてください。沙門ゴータマが、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕に招かれたのです。それで、わたしのために、身体による支援(労働奉仕)を為してほしいのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ケーニヤ結髪者の、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、ケーニヤ結髪者に答えて、一部の者たちはまた、諸々の竈を掘り、一部の者たちはまた、諸々の薪を切り裂き、一部の者たちはまた、諸々の器を洗い清め、一部の者たちはまた、水瓶を据え付け、一部の者たちはまた、諸々の坐を設置します。また、ケーニヤ結髪者は、まさしく、自ら、円形堂を設えます。

 

 また、まさに、その時点にあって、セーラ婆羅門が、アーパナに滞在しています。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じ、かつまた、三百の学生たちに諸々の呪文(聖典)を教えます。

 

 また、まさに、その時点にあって、ケーニヤ結髪者は、セーラ婆羅門にたいし大いに清信している者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちに取り囲まれ、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、セーラ婆羅門は、ケーニヤ結髪者の庵所において、一部の者たちがまた、諸々の竈を掘っているのを……略……一部の者たちがまた、諸々の坐を設置しているのを、また、ケーニヤ結髪者が、まさしく、自ら、円形堂を設えているのを、見ました。見て、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君ケーニヤに、あるいは、嫁とりが有るのですか、あるいは、嫁やりが有るのですか、あるいは、大祭祀が現起したのですか、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのですか」と。

 

 「貴君セーラよ、わたしに、あるいは、嫁とりが有るのではなく、あるいは、嫁やりが〔有るのではなく〕、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのでもまたありません。ですが、また、まさに、わたしに、大祭祀が現起したのです。釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが存在します。アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのです。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに……略……覚者であり、世尊である』と。彼が、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事に招かれたのです」と。「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」〔と〕。「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」と。

 

 そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、評判でさえも、世において得難きものである。すなわち、この、『〔彼は〕覚者である』という、〔このことは〕。また、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇()だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕」〔と〕。「貴君ケーニヤよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでいますか」と。

 

 このように説かれたとき、ケーニヤ結髪者は、右腕を差し出して、セーラ婆羅門に、こう言いました。「貴君セーラよ、この青い林の列があるところです」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、それらの学生たちに告げました。「諸君よ、音声少なく、歩に歩を置きつつ(静かな歩調で)、やってきなさい。まさに、彼らは、世尊たちは、近づき難き者たちであり、獅子のように〔常に〕独り歩む者たちです。君よ、そして、わたしが、沙門ゴータマを相手に話し合う、そのときは、諸君よ、中途中途で、わたしの議論に割り込んではいけません。諸君は、わたしの議論の終了を待ちなさい」と。

 

 そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)について、さらに、広くて長い舌(広長舌)について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。

 

 そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、セーラ婆羅門は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、セーラ婆羅門が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。

 

 そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就したものとして具備している──円満成就していないものとして、ではなく。しかしながら、まさに、彼のことを、あるいは、覚者であるのか、あるいは、〔覚者では〕ないのか、〔わたしは〕知らない。また、まさに、このことを、わたしは聞いた。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして、『すなわち、それらの者たちが、阿羅漢たちとして、正等覚者たちとして、〔世に〕有るなら、彼らは、自らについての褒め称え〔の言葉〕が話されているとき、自己を明らかと為す』と。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマを、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。

 

553.(548) 〔セーラ婆羅門が言った〕「円満成就した身体の、極めて好ましき者であり、善き出生の、典雅なる見た目ある者であり、世尊よ、〔あなたは〕黄金の色艶ある者として〔世に〕存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として〔世に〕存しています。(1)

 

554.(549) まさに、善き出生の人に有る、それらの特徴ですが、それらの偉大なる人士の特相の全てが、あなたの身体において〔見られます〕。(2)

 

555.(550) 清らかな眼で、美しい顔立ちで、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者であり、〔あなたは〕沙門の僧団の中央において、太陽のように光り輝きます。(3)

 

556.(551) 美しき見た目ある比丘にして、黄金に似た皮膚ある者です。このように、最上の色艶をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。(4)

 

557.(552) 〔あなたは〕車上の雄牛たる転輪王として〔世に〕有るのがふさわしい──四辺を征圧する、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)のイッサラ(イーシュヴァラ神・自在神)として。(5)

 

558.(553) 士族たちは、財物ある王たちは、あなたに従い行く者たちと成れ。ゴータマよ、王のなかの王として、人間のインダ(インドラ神・帝釈天)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。(6)

 

559.(554) かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、わたしは、王として〔世に〕存しています。無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させます──〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」〔と〕。(7)

 

560.(555) かくのごとく、セーラ婆羅門が〔尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕明言します。ゴータマよ、〔あなたは、自らについて〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させる』と語ります。(8)

 

561.(556) いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕貴君の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転起させた、その法(真理)の輪を、誰が随転させるのですか」〔と〕。(9)

 

562.(557) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラよ、わたしが転起させた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタ(舎利弗)が随転させます。(10)

 

563.(558) 証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、わたしによって、捨棄されるべきものは捨棄されました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しています。(11)

 

564.(559) わたしにたいし、疑いを取り除きなさい。婆羅門よ、信念しなさい。正覚者たちと一度ならず会見することは、得難きこととして〔世に〕有ります。(12)

 

565.(560) 彼らが一度ならず世に出現することは、まさに、得難きこととして〔世に有ります〕。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしは、正覚者として、〔毒〕矢の治癒者として、無上なる者として、〔世に存しています〕。(13)

 

566.(561) 梵と成った者(最高の人格者)として、〔他に〕比類なき者として、悪魔の軍団を撃破する者として、一切の朋友ならざる者を自在に為して、何も恐れず、歓喜します」〔と〕。(14)

 

567.(562) 〔自らの弟子たちに、セーラ婆羅門が言った〕「諸君よ、このことを、眼ある方(ブッダ)が語る、そのとおりに、こころして聞け──〔毒〕矢の治癒者が、偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。(15)

 

568.(563) 梵と成った方を、〔他に〕比類なき方を、悪魔の軍団を撃破する方を、見て〔そののち〕、誰が、清信しないというのだろう。黒き生まれの者でさえも、〔清信するであろう〕。(16)

 

569.(564) すなわち、求める者は、わたしに従え。あるいは、すなわち、求めない者は、去れ。ここに、わたしは、優れた智慧ある方の現前において、出家するであろう」〔と〕。(17)

 

570.(565) 〔弟子たちは言った〕「もし、このように、正等覚者の教えが(※)、貴君(セーラ婆羅門)にとって好ましくあるなら、わたしたちもまた、優れた智慧ある方の現前において、出家するでありましょう」〔と〕。(18)

 

※ テキストには sammāsambuddhasāsane とあるが、PTS版により sammāsambuddhasāsanaṃ と読む。

 

571.(566) 〔セーラ婆羅門が言った〕「これらの三百の婆羅門たちは、合掌を為し、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前において、〔わたしたちは〕梵行を歩むでありましょう」〔と〕。(19)

 

572.(567) かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、現に見られ時を要さない〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学んでいる者の出家は、無駄ならざるものとなります」〔と〕。ということで──(20)

 

 まさに、セーラ婆羅門は、衆と共に、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、その夜が明けると、自らの庵所において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。

 

 そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、これらの詩偈をもって随喜しました。

 

573.(568) 〔世尊は言った〕「祭祀は、祭火への供え物を頂点とします。韻文の頂点は、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)です。人間たちの頂点は、王です。諸々の川の頂点は、海洋です。(21)

 

574.(569) 星々の頂点は、月です。諸々の輝くものの頂点は、太陽です。功徳を望みながら祭祀をする者たちにとって、頂点となるのは、まさに、僧団(:サンガ)です」と。──(22)

 

 そこで、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、これらの詩偈をもって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者セーラは、衆と共に、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして……略……。また、まさに、尊者セーラは、衆と共に、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

 そこで、まさに、尊者セーラは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、詩偈をもって語りかけました。

 

575.(570) 〔出家した尊者セーラが言った〕「眼ある方よ、すなわち、〔わたしたちが〕あなたを帰依所としてやってきた、〔それより〕このかた、〔今日で〕第八〔日〕となります。世尊よ、〔わたしたちは〕存しています──あなたの教えにおいて、七夜をもって調御された者たちとして。(23)

 

576.(571) あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。(24)

 

577.(572) あなたの、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は超え行かれました。あなたの、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき方として、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した方として、〔世に〕存しています。(25)

 

578.(573) これらの三百の比丘たちは、合掌を為し、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。龍たちよ、教師を敬拝せよ」〔と〕。ということで──(26)

 

 セーラの経が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 8. 矢の経

 

579.(574) この〔世において〕、死すべき者(人間)たちの生命は、無相にして、了知されることなく、かつまた、困難で、かつまた、微小で、そして、それは、苦によって束縛されている。(1)

 

580.(575) それによって、〔世に〕生まれた者たちが死なずにすむ、まさに、その方策は存在しない。老に至り得てもまた、死がある。まさに、このような法(性質)あるのが、命あるものたちである。(2)

 

581.(576) 熟した諸果には、早く落ちるがゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある。(3)

 

582.(577) たとえば、また、陶工の作った諸々の土器が、〔それらの〕全てが、破壊を結末とするように、このように、死すべき者たちの生命はある。(4)

 

583.(578) かつまた、青年たちも、かつまた、大人たちも、彼らが愚者たちであれ、そして、彼らが賢者たちであれ──全ての者たちが、死魔の支配に至り行く──全ての者たちが、死魔〔の支配〕を行き着く所とする。(5)

 

584.(579) 死魔に打ち負かされた彼らが〔他の世に〕赴きつつあるとして、他の世からは、父が子を救うことはなく、また、あるいは、親族たちが親族たちを〔救うこともない〕。(6)

 

585.(580) 見よ──〔死に行く者を〕見ているだけの親族たちを、個々に泣き叫んでいる〔親族〕たちを。死すべき者たちの、まさしく、一者一者が、屠殺される牛のように、〔死へと〕導かれる。(7)

 

586.(581) このように、世〔の人々〕は、そして、死魔によって、さらに、老によって、悩み苦しめられている。それゆえに、慧者たちは、世〔の人々〕の行く末を〔あるがままに〕知って、憂い悲しまない。(8)

 

587.(582) 来た者の、あるいは、去った者の──彼の道を、〔あなたは〕知らない。〔生と死の〕両極を正しく見ずに、〔あなたは〕義(意味)なく、嘆き悲しむ。(9)

 

588.(583) もし、嘆き悲しんでいる者が、〔嘆き悲しむことで〕何らかの義(利益)を引き出すなら、そして、明眼の者は、これ(嘆き悲しむこと)を為すであろう(※)──等しく迷乱した者となり、自己を害しながらも。(10)

 

※ テキストには kayirā ce naṃ とあるが、PTS版により kayirā c’enaṃ と読む。

 

589.(584) まさに、泣き悲しむことで、憂い悲しむことで、心の寂静に至り得ることはない。まさに、より一層、苦が生起し、そして、肉体が打ちのめされる。(11)

 

590.(585) 自己によって自己を害しつつ、痩せ細り色艶の衰えた者と成るも、それによって、亡者たちがどうにかなることはない。嘆き悲しむことは、義(利益)なきこと。(12)

 

591.(586) 憂い悲しみを捨棄せずにいる人は、より一層、苦を受ける。命の終わりを泣き悲しんでいる者は、憂い悲しみの支配に従い行く者である。(13)

 

592.(587) 〔他の世へと〕去り行く、他の者たちをもまた、見よ──〔自己の作り為した〕行為のままに、〔他の世へと〕近しく赴く人たちを。死魔の支配に帰り来て、この〔世において〕、まさしく、震えおののいている、命あるものたちを〔見よ〕。(14)

 

593.(588) まさに、あれやこれや思い考えるも、〔現実の〕それは、〔常に〕その〔思い〕とは他なるものと成る。見よ──世〔の人々〕の行く末を。このように、変じ異なる状態がある〔だけのこと〕。(15)

 

594.(589) たとえ、百年のあいだ、生きるとして、また、あるいは、若くある者が、より一層〔生きるとして〕、親族たちの群れとは別れ別れに成り、この〔世において〕、生命を捨棄する。(16)

 

595.(590) それゆえに、阿羅漢の〔教えを〕聞いて、嘆き悲しみ〔の思い〕を取り除くがよい。命を終えた亡者を見て、「この者は、わたし〔の力〕では、〔もはや、どうにも〕できない」と。(17)

 

596.(591) あたかも、燃える家を水で消し止めるように、このように、また、慧者にして智慧を有する者は、賢者にして智者たる人は、生起した憂い悲しみを、すみやかに〔消し静めるがよい〕──風が、綿を吹き飛ばすように。(18)

 

597.(592) 自己の、嘆き悲しみを、そして、渇望〔の思い〕を、さらに、失意〔の思い〕を──自己の安楽を探し求めている者は、自己の矢を引き抜くがよい。(19)

 

598.(593) 矢が引き抜かれた者は、〔何にも〕依存せず、心の寂静に至り得て、一切の憂い悲しみを超え行き、憂い悲しみなく、涅槃に到達した者と成る。ということで──(20)

 

 矢の経が第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 9. ヴァーセッタの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちが、イッチャーナンガラ〔村〕に滞在しています。それは、すなわち、この、チャンキン婆羅門であり、タールッカ婆羅門であり、ポッカラサーティ婆羅門であり、ジャーヌッソーニ婆羅門であり、トーデイヤ婆羅門であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちです。そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちが、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつあると、この合間の議論が起こりました。「君よ、どのように、〔人は〕婆羅門と成るのですか」と。

 

 バーラドヴァージャ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないことから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。

 

 ヴァーセッタ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、そして、戒ある者として、さらに、掟を成就した者として、〔世に〕有ることから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、ヴァーセッタ学徒も、バーラドヴァージャ学徒を説得することができませんでした。

 

 そこで、まさに、ヴァーセッタ学徒は、バーラドヴァージャ学徒に告げました。「貴君バーラドヴァージャよ、まさに、この方が、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた……略……覚者であり、世尊である』と。貴君バーラドヴァージャよ、行きましょう。沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、沙門ゴータマに、この義(意味)を尋ねるのです。すなわち、沙門ゴータマが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒に答えました。

 

 そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァーセッタ学徒は、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

599.(594) 〔ヴァーセッタ学徒が尋ねた〕「わたしたちは、両者ともに、〔他者も〕承認し〔自らも〕明言する、三つのヴェーダ〔の知〕ある者たちとして存しています(ヴエーダ聖典の精通者である)。わたしは、ポッカラサーティの、この者(バーラドヴァージャ)は、タールッカの、学徒です。(1)

 

600.(595) すなわち、三つのヴェーダについて告げられたなら、そこにあって、〔わたしたちは〕全一の者たちとして存しています。〔わたしたちは〕詩句に通じ文典に精通する者たちとして存しています。〔聖典の〕詠唱については師匠と同等の者たちとして。(2)

 

601.(596) ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしたちに、出生の論について論争が存在します。『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕、バーラドヴァージャは、かくのごとく語ります。しかしながら、わたしは、『行為()によって、〔婆羅門と成る〕』〔と〕説きます。眼ある方よ、このように知ってください。(3)

 

602.(597) 〔まさに〕その、わたしたちは、両者ともに、互いに他を説得することができません。『正覚者』として〔世に〕聞こえた貴君に尋ねるために、〔わたしたちは〕やってきました。(4)

 

603.(598) すなわち、滅〔の期間〕を過ぎた月(満月)に向かって、人々が合掌の者たちとなり、敬拝しながら礼拝するように、このように、世において、〔人々は〕ゴータマを〔礼拝します〕。(5)

 

604.(599) 世に生起した眼たる方に、ゴータマに、わたしたちは尋ねます。出生によって、婆羅門と成るのですか、それとも、行為によって、〔婆羅門と〕成るのですか。知らずにいるわたしたちに説いてください──すなわち、〔わたしたちが〕婆羅門のことを知りうるように」〔と〕。(6)

 

605.(600) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ヴァーセッタよ、〔まさに〕その、あなたたちに、わたしは説き明かしましょう──順次に、真実のとおりに、命あるものたちの出生の区分を。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります(それらは相異なるものとして存している)。(7)

 

606.(601) 草や木々のことをもまた、知りなさい──そして、また、〔それらは、自ら〕明言しないとして。それらには、出生によって作られる徴表(種による差異)があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(8)

 

607.(602) それから、蛆虫たちのことを、さらに、蟋蟀(こおろぎ)たちのことを、蟻たちに至るまで、〔それらのことをもまた、知りなさい〕。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(9)

 

608.(603) 四足のものたちのことをもまた、知りなさい──そして、小さいものたちのことを、大きいものたちのことを。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(10)

 

609.(604) 足が腹で、胸で赴き、長い背をもつ〔蛇〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(11)

 

610.(605) それから、水にあり、水を餌場とする、魚たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(12)

 

611.(606) それから、翼があり、翼を乗物として、宙を赴く〔鳥〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。(13)

 

612.(607) すなわち、これらの出生において、出生によって作られる徴表が個々にあるように、このように個々にある、出生によって作られる徴表は、人間たちにおいては存在しません。(14)

 

613.(608) 諸々の髪になく、頭になく、〔両の〕耳になく、〔両の〕眼になく、口になく、鼻になく、〔両の〕唇になく、あるいは、〔両の〕眉に〔なく〕──(15)

 

614.(609) 首になく、〔両の〕肩になく、腹になく、背になく、尻になく、胸になく、陰部になく、淫事(性行為のあり方)になく──(16)

 

615.(610) 〔両の〕手になく、〔両の〕足になく、〔両手の〕指になく、あるいは、〔両手の〕爪に〔なく〕、〔両足の〕脛になく、〔両足の〕膝になく、色になく、あるいは、声に〔なく〕、出生によって作られる徴表は、まさしく、〔人間たちにおいては〕ありません。すなわち、他の諸々の出生におけるようには。(17)

 

616.(611) そして、〔他の〕諸々の肉体において、各自それぞれに〔見出される〕、この〔徴表〕は、人間たちにおいては見出されません。そして、〔各自それぞれの〕区別は、人間たちにおいては、呼称によって呼ばれます。(18)

 

617.(612) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、牧畜に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、耕作者であり、婆羅門ではありません。(19)

 

618.(613) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、多々なる技能によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、技術者であり、婆羅門ではありません。(20)

 

619.(614) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、売り買いに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、商人であり、婆羅門ではありません。(21)

 

620.(615) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、他者に仕えることで生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、下僕であり、婆羅門ではありません。(22)

 

621.(616) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、与えられていないものに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、盗賊であり、婆羅門ではありません。(23)

 

622.(617) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、弓術に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──軍人であり、婆羅門ではありません。(24)

 

623.(618) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、司祭職によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は(※)、祭祀者であり、婆羅門ではありません。(25)

 

※ テキストには eso とあるが、PTS版により so と読む。

 

624.(619) まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、村を〔領し〕、さらに、国土を領するなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、王であり、婆羅門ではありません。(26)

 

625.(620) そして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、『婆羅門』と説きません。それで、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、『ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)』という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(27)

 

626.(621) 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(28)

 

627.(622) 紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二の邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(29)

 

628.(623) 罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(30)

 

629.(624) 忿激せず、掟ある者を、〔渇愛の〕増長なく、戒ある者を、〔自己が〕調御され、最後の肉体ある者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(31)

 

630.(625) 蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(32)

 

631.(626) 彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(33)

 

632.(627) 深遠なる智慧ある者にして思慮ある者を、道と道ならざるものを熟知する者を、最上の義(目的)を獲得した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(34)

 

633.(628) 在家の者たちと交わらず、さらに、同様に、家なき者たちと〔交わらず〕、家なくして行く、少なき欲求の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(35)

 

634.(629) 動くものたちにたいし、さらに、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(36)

 

635.(630) 〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(37)

 

636.(631) 彼の、そして、貪欲()が、かつまた、憤怒()が、〔我想の〕思量()が、さらに、〔虚栄の〕偽装()が、芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように打ち倒されたなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(38)

 

637.(632) 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それによって、誰であれ、傷つけないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(39)

 

638.(633) 彼が、この〔世において〕、あるいは、長いものも、あるいは、短いものも、微細なるものと粗大なるものも、浄美なるものと浄美ならざるものも、世において、与えられていないものを、〔何ひとつ〕取らないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(40)

 

639.(634) この世において、さらに、他〔の世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、願求なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(41)

 

640.(635) 彼に、諸々の〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)が見出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(42)

 

641.(636) 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(43)

 

642.(637) 月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、生存の愉悦が完全に滅尽した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(44)

 

643.(638) 彼が、この障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく懐疑なき者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(45)

 

644.(639) 彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(46)

 

645.(640) 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を打破して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(47)

 

646.(641) 人間の束縛を捨棄して、天の束縛を超え行ったなら、一切の束縛による束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(48)

 

647.(642) そして、歓楽と不満〔の両者〕を捨棄して、〔心が〕清涼と成った者を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切の世を征服する勇者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(49)

 

648.(643) 彼が、有情たちの(※)死滅を、さらに、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(50)

 

※ テキストには ttānaṃ とあるが、PTS版により sattānaṃ と読む。

 

649.(644) 天〔の神々〕たちが、音楽神や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(51)

 

650.(645) かつまた、過去に、かつまた、未来に、かつまた、〔その〕中間(現在)において、彼のものが、何も存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(52)

 

651.(646) 〔勇猛果敢な〕雄牛たる最も優れた勇者を、〔一切の〕征圧者たる偉大なる聖賢を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(53)

 

652.(647) 彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。(54)

 

653.(648) まさに、世において、この呼称があり、名前や氏姓は、〔そのようなものとして〕想い描かれた〔だけの〕ものです。慣習(世俗:社会通念)から生まれ来たものであり、その場、その場に、〔そのように名づけられ〕想い描かれた〔だけの〕ものです。(55)

 

654.(649) 無知なる者たちには、長夜にわたり悪しき習いとなった、悪しき見解があります。無知なる者たちは、わたしたちに説きます──『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕。(56)

 

655.(650) 出生によって、婆羅門と成るのではありません。出生によって、婆羅門ならざる者と成るのではありません。行為によって、婆羅門と成ります。行為によって、婆羅門ならざる者と成ります。(57)

 

656.(651) 行為によって、耕作者と成ります。行為によって、技術者と成ります。行為によって、商人と成ります。行為によって、下僕と成ります。(58)

 

657.(652) 行為によって、また、盗賊と成ります。行為によって、また、軍人と〔成ります〕。行為によって、祭祀者と成ります。行為によって、また、王と成ります。(59)

 

658.(653) このように、このことはあり、事実のとおりに、賢者たちは、行為を見ます──縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見る者たちとして、行為の報い(業報)を熟知する者たちとして。(60)

 

659.(654) 行為によって、世は転起します。行為によって、人々は転起します。進み行く車の楔(車軸に車輪を固定する部品)のように、行為という結縛あるのが有情たちです。(61)

 

660.(655) 苦行によって、梵行によって、自制によって、さらに、調御によって──これによって、婆羅門と成ります。これは、最上の婆羅門〔の境地〕です。(62)

 

661.(656) 三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を成就した者が、〔心が〕寂静となった者が、さらなる生存が滅尽した者が──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──識者たちにとっては、梵〔天〕であり、帝釈〔天〕なのです」と。(63)

 

 このように説かれたとき、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」〔と〕。ということで──

 

 ヴァーセッタの経が第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 10. コーカーリカの経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、コーカーリカ比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サーリプッタとモッガッラーナは、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。

 

 再度また、まさに……略……三度また、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、たとえ、何であれ、わたしにとって、世尊が、信を置ける頼りになる方であるとして、そこで、まさに、サーリプッタとモッガッラーナは、まさしく、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。三度また、世尊は、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を清信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。

 

 そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そして、コーカーリカ比丘が立ち去ったすぐあと、〔彼の〕全身は、芥子粒ほどの諸々の吹出物で充満したものと成りました。芥子粒ほどのものと成って〔そののち〕、緑豆ほどのものと成りました。緑豆ほどのものと成って〔そののち〕、大豆ほどのものと成りました。大豆ほどのものと成って〔そののち〕、棗の核ほどのものと成りました。棗の核ほどのものと成って〔そののち〕、棗ほどのものと成りました。棗ほどのものと成って〔そののち〕、アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成りました。アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成りました。未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、ビッラ〔の果実〕(パパイヤ)ほどのものと成りました。ビッラ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、破れました。そして、膿が、さらに、血が、流れ出ました。そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、まさしく、その病苦によって、命を終えました。そして、命を終えたコーカーリカ比丘は、パドゥマ地獄(紅蓮地獄)に再生しました──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて。

 

 そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーカーリカ比丘が、命を終えたのです。尊き方よ、そして、命を終えたコーカーリカ比丘が、パドゥマ地獄に再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると……略……。比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしに右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、パドゥマ地獄における寿命の量となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、パドゥマ地獄における寿命の量は。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。「尊き方よ、また、諸々の喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。

 

 「比丘よ、それは、たとえば、また、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリ(重さの単位・一石)の胡麻の積み荷があるとします。その〔胡麻の積み荷〕から、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、一つ一つの胡麻を取り出すとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリの胡麻の積み荷は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、一つのアッブダ地獄〔の寿命〕は、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのニラッブダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のニラッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアババ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアババ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアハハ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアハハ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアタタ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアタタ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのクムダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のクムダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのソーガンディカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のソーガンディカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのウッパラカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のウッパラカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのプンダリーカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のプンダリーカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのパドゥマ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、また、まさに、パドゥマ地獄に、コーカーリカ比丘は再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

662.(657) まさに、人が生まれたなら、口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ──悪語(悪口)を話しながら。(1)

 

663.(658) 彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する(自ら罪過を選び取る)──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。(2)

 

664.(659) この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら(悪意を抱き非難するなら)、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。(3)

 

665.(660) 百千(十万)の三十六のニラッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、さらに、五つのアッブダ(数の単位・巨大数)〔年〕のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕。(4)

 

666.(661) 事実ならざることを説く者は、地獄に近づく。あるいは、また、彼が、為して〔そののち〕、さらに、「〔わたしは〕為さない」〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄に近づく〕。両者ともどもに、彼らは、下劣な行為の人間たちとして、死してのち、他所(来世)において、等しき者たちと成る。(5)

 

667.(662) 彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る──風に逆らって投げられた微細な塵が、〔投げた者自身に戻り来る〕ように。(6)

 

668.(663) 彼が、貪欲の対象に束縛された者であるなら、彼は、言葉によって、他者たちを誹謗する──信なく、吝嗇で、寛容ならず、物惜〔の思い〕があり、〔他者を〕中傷することに束縛された者として。(7)

 

669.(664) 口悪しき者よ、〔あるがままの〕事実を離れた聖ならざる者よ、生類を殺す悪しき者よ、悪行を為す者よ、人でなしの〔悪しき〕賽の目よ、劣悪な生まれの者よ、この〔世において〕、多く話してはならない。〔おまえは〕地獄にある者として存している。(8)

 

670.(665) 〔おまえは〕益なきことのために、塵を撒き散らし、罪障を作る者(罪人)となり、寂静なる者たちを非難する。多くの悪しき行ないを行なって、長夜にわたり、まさに、深淵(地獄)に赴く。(9)

 

671.(666) 誰のものであれ、〔為した〕行為は、まさに、滅することがない。その〔行為〕は、かならず至り行き、〔行為の〕主が、まさしく、〔その報いを〕得る。罪障を作る愚か者は、他の世において、自己のうちに苦しみを見る。(10)

 

672.(667) 鉄の杭が打たれた場に、鋭い〔刃の〕切っ先ある鉄の串に、〔彼は〕近づく。そこで、熱せられた鉄の玉に似た食料が、〔彼に〕適切なる、そのとおりのものとして、存在する。(11)

 

673.(668) まさに、〔獄卒たちは〕説くときは麗美に説かない。〔優しく〕駆け寄ってこない。救いに近づいてこない。〔地獄に落ちた者たちは〕広げられた炭火のうえに臥し、火が等しく燃え盛るなかに入る。(12)

 

674.(669) そして、〔獄卒たちは、地獄に落ちた者たちを〕網で覆って、そこにおいて、諸々の鉄製の槌で打つ。まさしく、漆黒の暗所に、〔地獄に落ちた者たちは〕入って行く。まさに、その〔漆黒の暗所〕は、あたかも、諸々の霧のように広がっている。(13)

 

675.(670) そこで、また、火が等しく燃え盛る銅製の釜に入る。まさに、それらの火に等しき〔釜〕のなかで浮きただよい、長夜にわたり煮られる。(14)

 

676.(671) そこで、罪障を作る者は、膿と血が混ざり合う〔釜〕のなかで、そこにおいて、何と、煮られるのだ。〔身体を〕臥す、その〔方向〕その方向で、そこにおいて、〔膿と血に〕触れながら、〔膿と血で〕汚される。(15)

 

677.(672) 罪障を作る者は、蛆虫が住居とする水のなかで、そこにおいて、何と、煮られるのだ。〔外に〕赴こうにも、まさに、縁さえも存在しない。なぜなら、大釜は遍きにわたり、全てが等しくあるからだ。(16)

 

678.(673) また、鋭い剣の葉をもつ林に──〔地獄に落ちた者たちは〕五体を切り刻まれ、それに入る。〔獄卒たちは〕釣針で舌を収め取って、〔彼らを〕引き裂いては引き裂いて、打つ。(17)

 

679.(674) そこで、また、〔彼らは〕ヴェータラニー〔川〕の難所たる鋭い切っ先に、剃刀の切っ先に近づく。悪を為す愚か者たちは、諸々の悪を為して、そこにおいて落ちる。(18)

 

680.(675) まさに、そこにおいて、泣き叫んでいる者たちを、黒やまだらの犬たちが、さらに、大烏たちの群れが喰い、野狐(ジャッカル)たちや大鷲たちや鷹たちが、さらに、烏たちが啄む。(19)

 

681.(676) すなわち、罪障を作る人が触れる(経験する)、ここ(地獄)での生活は、まさに、これは、苦難である。それゆえに、この〔世において〕、命の残りあるうちは、為すべきことを為す者として存するべきである──かつまた、人として、驕り高ぶることなく。(20)

 

682.(677) すなわち、パドゥマ地獄に連れて行かれた者たちであるが、彼ら〔の寿命〕は、知者たちによって、積み荷のなかの胡麻〔の数に等しい〕と数えられた。まさに、五つの千万ナフタ(那由他:数の単位・巨大数)〔年〕と成り、さらに、他にも、十二の百千万〔年〕と〔成る〕。(21)

 

683.(678) すなわち、ここに説かれた諸々の苦なる地獄があるかぎり、そこにおいてもまた、それまでのあいだ、長きにわたり住さねばならない。それゆえに、清らかで博愛なる善徳の者たちにたいし、常に、言葉と意を遍く守るべきである。ということで──(22)

 

 コーカーリカの経が第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 11. ナーラカの経

 

684.(679) 歓嘆を生じ、満足した、三十〔三天〕の衆たちが、そして、帝釈〔天〕のインダ(インドラ神)が、さらに、清らかな衣の天〔の神々〕たちが、衣を掴んで〔振り回し〕、あまりに極めて賛嘆しているのを、アシタ聖賢は、昼の休息のときに見た。(1)

 

685.(680) 勇躍し、歓喜した意の、天〔の神々〕たちを見て、そこにおいて、心を為して、この〔言葉〕を言った。〔アシタ聖賢が尋ねた〕「何を〔縁として〕、天〔の神々〕たちの群れは、あまりに極めて善き様子なのですか。何を縁として、〔あなたたちは〕衣を掴んで振り回すのですか。(2)

 

686.(681) すなわち、また、阿修羅たちと戦いが存し、神々たちに勝利があり、阿修羅たちが敗れたときも、そのときでさえも、このような、身の毛のよだつ〔歓喜〕はありません。どのような未曾有〔の出来事〕を見て、神々たちは歓喜しているのですか。(3)

 

687.(682) 口笛を吹き、かつまた、歌い、かつまた、〔楽器を〕奏で、かつまた、〔両の〕手を打ち、かつまた、舞い踊ります。メール(須弥山)の頂きに住するあなたたちに、わたしは尋ねます。敬愛なる方たちよ、わたしの疑念を、すみやかに払い落としてください」〔と〕。(4)

 

688.(683) 〔天の神々たちは答えた〕「彼が、菩薩が、優れた宝である無比なる方が、人間の世における利益と安楽を義(目的)として生まれたのです──釈迦〔族〕の者たちの村に、ルンビニーの地方において。それで、〔わたしたちは〕満足した者たちとなり、あまりに極めて善き様子で存しています。(5)

 

689.(684) 彼は、一切の有情たちのなかの最上者たる方であり、至高の人たる方であり、人の雄牛たる方であり、一切の人々のなかの最上者たる方です。『聖賢〔の集まる所〕(イシパタナ)』という呼び名ある林において、〔法の〕輪を転起させるでしょう──獣たちの征服者たる力ある獅子が、〔林のなかで〕吼え叫んでいるかのようにして」〔と〕。(6)

 

690.(685) その声を聞いて、彼(アシタ聖賢)は、急ぎ、〔人間の世に〕降り行った。そのとき、スッドーダナ(浄飯:ブッダの父親)の居所に近しく赴き(※)、坐って、そこにおいて、釈迦〔族〕の者たちに、この〔言葉〕を言った。〔アシタ聖賢が尋ねた〕「童子は、どこにおられますか。わたしもまた、〔童子に〕相見えることを欲する者です」〔と〕。(7)

 

※ テキストには upāvisi とあるが、PTS版により upāgami と読む。

 

691.(686) そののち、まさしく、溶炉の口のなかで名工によって精錬された黄金のように輝く童子を、吉祥なるがゆえに至上の色艶をもち光り輝いている子供を、釈迦〔族〕の者たちは、アシタという呼び名ある〔聖賢〕に見せた。(8)

 

692.(687) 炎のように光り輝いている童子を見て──天空を赴く星のなかの雄牛(月)のように清浄で、秋に雲から解き放たれた太陽のように輝いている〔童子〕を〔見て〕──〔アシタ聖賢は〕歓嘆を生じ、広大なる喜悦を得た。(9)

 

693.(688) そして、無数の枝(骨)と千の円輪をもつ傘蓋(王侯や貴人が使う日除けの大傘)を、神々たちは、空中に保持した。黄金の棒(柄)の諸々の払子(柄の先に毛や布を束ねた虫除けの道具)が飛び交うも、払子や傘蓋を持つ者たちは、〔その姿が〕見えない。(10)

 

694.(689) カンハシリという呼び名ある結髪の聖賢(アシタ)は、黄の毛布のうえの金貨のような〔童子〕を見て、そして、白の傘蓋が頭上に保持されている〔童子〕を〔見て〕、勇躍する心の者となり、悦意の者となり、〔童子を〕受け取った。(11)

 

695.(690) さてまた、釈迦〔族〕の牛主(童子)を受け取って、〔童子の身体に聖者の特相を〕求め願う者は(※)、〔聖者の〕特相と呪文の奥義に至る者として、清信した心で、言葉を発した。〔アシタ聖賢は言った〕「この〔童子〕は、無上なる方です。二足の者(人間)たちのなかの最上者たる方です」〔と〕。(12)

 

※ テキストには jigīsato とあるが、PTS版により jigiṃsako と読む。

 

696.(691) そこで、〔アシタ聖賢は〕自己の先行きを随念しながら、善からざる様子で、諸々の涙を流す。〔それを〕見て、釈迦〔族〕の者たちは、泣いている聖賢に言った。〔釈迦族の者たちが尋ねた〕「もしや、童子に、〔将来、何か〕障りが有るのではないですか」〔と〕。(13)

 

697.(692) 善からざる〔様子の〕釈迦〔族〕の者たちを見て、聖賢は言った。〔アシタ聖賢は答えた〕「わたしは、童子について、益なきことを随念しているのではありません。さらに、また、彼に、障りが有るのでもありません。この方は、劣れる者ではありません。〔あなたたちは、童子にたいし〕卓越の意図ある者たちと成りなさい。(14)

 

698.(693) この童子は、至高の正覚を体得するでしょう。彼は、最高の清浄を見る者として、法(真理)の輪を転起させるでしょう。この方は、多くの人々に益と慈しみ〔の思い〕ある者であり、彼の梵行は、広く知られるものと成るでしょう。(15)

 

699.(694) しかしながら、この〔世において〕、わたしの残る寿命は、長くはありません。そこで、〔童子が正覚を得る〕中途で、わたしに命終が有るでしょう。〔まさに〕その、わたしは、忍耐強さでは同等の者なき方の法(教え)を聞くことはないでしょう(成道後のブッダから教えを受けることができない)。それで、〔わたしは〕苦悩し、災厄に陥った、悩苦ある者として、〔いまここに〕存しているのです」〔と〕。(16)

 

700.(695) 彼は、釈迦〔族〕の者たちに広大なる喜悦を生んで、梵行者(アシタ聖賢)は、〔王の〕内宮から出て行った。彼は、自らの甥を慈しみながら、忍耐強さでは同等の者なき方の法(教え)において受持させた(成道後のブッダから教えを受けるべく申し伝えた)。(17)

 

701.(696) 〔甥のナーラカに、アシタ聖賢は言った〕「すなわち、後に、『覚者でである』『正覚に至り得た方が、法(真理)の道を、〔世に〕開く』という評判(覚者の生起を告げる声)を、〔おまえが〕聞くとき、〔彼のもとに〕赴いて、そこにおいて、〔彼の〕教義を遍く問い尋ねながら、その世尊のもとで、梵行を歩むのだ」〔と〕。(18)

 

702.(697) そのような〔他者の〕益に意ある者によって、未来における最高の清浄を見る者によって──彼(アシタ聖賢)によって教示された、〔まさに〕その、ナーラカ(アシタ聖賢の甥)は、功徳の積量を蓄積し、勝者〔の出現〕を待ち望みながら、〔感官の〕機能を守り、〔世に〕住していた。(19)

 

703.(698) 優れた勝者の〔法の〕輪の転起についての評判を聞いて、〔彼のもとに〕赴いて、聖賢の雄牛(ブッダ)を見て、〔ナーラカは〕清らかな信ある者となり、最勝の牟尼の資質を、最も優れた牟尼に尋ねた──アシタという呼び名ある〔聖賢〕の教えが具現したときに。ということで──(20)

 

 諸々の序の詩偈は〔以上で〕終了となる。

 

704.(699) 〔ナーラカが尋ねた〕「アシタ〔聖賢〕の、この言葉は、真実のとおりに了知されました。ゴータマよ、それ(牟尼の資質)を、あなたに、一切の法(事象)の彼岸に至る方に尋ねます。(21)

 

705.(700) 〔家から〕家なきへと近しく至り、行乞の行を求め願っている者のために、牟尼よ、〔問いを〕尋ねられた者として、最上の境処たる牟尼の資質を、わたしに説いてください」〔と〕。(22)

 

706.(701) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「牟尼の資質を、あなたに教え知らせましょう。為し難く征服し難い〔牟尼の資質〕を、さあ、それを、あなたに言い示しましょう。〔自らを〕堅く保つのです。断固たる者と成りなさい。(23)

 

707.(702) 村においては、罵倒されても敬拝されても、〔心を〕等分に作り為すように。意の怒りを守り押さえるように。寂静にして、傲慢ならずに、〔村を〕歩むように。(24)

 

708.(703) 林苑においては、高下諸々のことが現じ来ます──火炎の如く〔危険で、避けるべきものとして〕。女たちは、牟尼を誘惑します。彼女たちが、まさに(※)、彼を、誘惑することがあってはなりません。(25)

 

※ テキストには tāsu とあるが、PTS版により tā su と読む。

 

709.(704) 淫事の法(性質)から離れた者となり、彼此における諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、動くものと動かないものにたいし、〔全ての〕命あるものたちにたいし、〔行く手を〕遮ることなく(敵意を抱かず)、執着しない者となり──(26)

 

710.(705) 『すなわち、わたしがあるように、そのように、これらのものたちはある。すなわち、これらのものたちがあるように、そのように、わたしはある』〔と〕、自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。(27)

 

711.(706) そこにおいて、〔迷える〕凡夫が執着している、かつまた、〔悪しき〕欲求を、かつまた、貪欲〔の思い〕を、〔それらを〕捨棄して、眼ある者は、〔道を〕実践するように、この地獄を超えるように。(28)

 

712.(707) 腹を満たさず〔正しく〕量られた食の者として、欲求少なく〔味に〕妄動なき者として、〔世に〕存するように。常に、〔心の〕欲求にたいし、無欲にして無求なる者は、涅槃に到達した者と成ります。(29)

 

713.(708) 彼は、〔行乞の〕食の行(托鉢行)を歩んで〔そののち〕、林の外れへと〔歩を〕運ぶように。木の根元に近しく止住し、坐所を具した牟尼は──(30)

 

714.(709) 彼は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者として、林の外れで喜びある者として、〔世に〕存するように。自己を満足させながら、木の根元において瞑想するように。(31)

 

715.(710) そののち、夜の明け方には、村の外れへと〔歩を〕運ぶように。〔村の者の〕招きを、さらに、村からの〔施物の〕提供を、喜ばないように。(32)

 

716.(711) 牟尼は、村に至って〔そののち〕、家々を無理強いで歩まないように。食糧を探し求めるに言説を断ち、画策された言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を話さないように。(33)

 

717.(712) 『すなわち、〔施物を〕得たなら、これは〔これで〕善きことである。得なかったとして、〔これはこれで〕善なることである』と、まさしく、〔得ても得なくても〕両者ともに、彼は、如なる者として、まさしく、木〔の根元〕に戻ります。(34)

 

718.(713) 彼は、鉢を手に〔家々を〕渡り歩きつつ、唖でもないのに唖と思われます。施しが少なくても蔑むことはなく、施す者を見下すこともないでしょう。(35)

 

719.(714) まさに、高下諸々の〔実践の〕道が、沙門(ブッダ)によって明示されました。彼岸(涅槃)に二度行くことはないとして、この〔道〕は、一度のものとは思い考えられません(高下の道がある)。(36)

 

720.(715) そして、すなわち、〔輪廻の〕流れを断ち切った比丘に、執着〔の思い〕は存在せず、為すべきことと為すべきではないことを捨棄した者に、苦悶〔の思い〕は見出されません。(37)

 

721.(716) 牟尼の資質を、あなたに教え知らせましょう。剃刀の切っ先にある如く、〔世に〕有るように(剃刀の切っ先に塗られた蜜を舐めるのが人間の生である、と自戒する)。舌を上顎に付けて、腹において自制された者として、〔世に〕存するように。(38)

 

722.(717) そして、陰鬱ならざる心の者として、〔世に〕存するように。さらに、また、多く思い考えないように。生臭ならず、〔何にも〕依存せず、梵行を行き着く所とする者となり──(39)

 

723.(718) 独り坐すことを学ぶように。かつまた、沙門の従事すること(瞑想)を〔学ぶように〕。独りあることは、〔覚者によって〕寂黙〔の道〕と告げ知らされました。もし、独りあるなら、〔あなたは、独りあることを〕喜び楽しむでしょう。そこで、〔あなたは〕十方に光り輝くでしょう。(40)

 

724.(719) 慧者たちの話を聞いて、欲望を捨て去る瞑想者たちの〔話を聞いて〕、そののち、そして、恥〔の思い〕を、さらに、信〔の思い〕を、わたしにならう者は、より一層、作り為すように。(41)

 

725.(720) それを、諸々の川〔の喩え〕によって識知するべきです。諸々の溝のなかにおいては、さらに、諸々の峡谷のなかにおいても、〔それらの〕小さな流れは、騒ぎ立てながら行きますが、諸々の大河は、沈黙のままに行きます。(42)

 

726.(721) それが、不足のものであるなら、それは、騒ぎ立てます。それが、満ちているなら、それは、まさしく、寂静なのです。愚者は、〔中身が〕半分の瓶の如きもの。賢者は、〔水が〕満ちた湖のようなもの。(43)

 

727.(722) すなわち、沙門が、多くを語るとして、〔その言葉は〕義(道理)を伴い、〔益を〕具しています。〔あるがままに〕知っている者として、彼は、法(真理)を説示します。〔あるがままに〕知っている者として、彼は、多くを語ります。(44)

 

728.(723) そして、すなわち、〔あるがままに〕知っている者として、自己を制しているなら──〔あるがままに〕知っている者として、多くを語らないなら──彼は、牟尼であり、寂黙〔の道〕に値します──彼は、牟尼であり、寂黙〔の道〕に到達したのです」〔と〕。ということで──(45)

 

 ナーラカの経が第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 12. 二なることの随観の経

 

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。

 

 「『比丘たちよ、すなわち、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)があるとして、比丘たちよ、あなたたちにとって、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)を聞くために、何が、機縁となるのですか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、彼らは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『諸々の法(性質)の二なることを事実のとおりに知るために、まさしく、そのかぎりにおいて』と。では、何を、〔あなたたちは〕二なることと説きますか。

 

 (1)『これは、苦しみである。これは、苦しみの集起である』と、これが、一つの随観となります。『これは、苦しみの止滅である。これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現法:現世)における了知(阿羅漢たること)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りもの(有余依)が存しているなら、不還たること(この世に帰り来ないこと)です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

729.(724) 「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら──(1)

 

730.(725) 彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧(慧・般若)による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。(2)

 

731.(726) しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道を覚知するなら──(3)

 

732.(727) 心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。(4)

 

 (2)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、〔生存の〕依り所(依存の対象)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の〔生存の〕依り所の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

733.(728) 「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生する。すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づく。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり」と。(5)

 

 (3)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、無明(無知)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

734.(729) 「彼らが、繰り返し、生と死の輪廻に行き着くなら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)に〔行き着くなら〕、まさしく、無明によって、その赴く所がある。(6)

 

735.(730) なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、この、長きに輪廻するところとなったからである。しかしながら、彼らが、明知に至った有情たちであるなら、彼らは、さらなる生存には赴かない(輪廻的あり方を超越する)」と。(7)

 

 (4)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の形成〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

736.(731) 「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(8)

 

737.(732) 『苦しみは、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険(患・過患)を知って、一切の形成〔作用〕の止寂あることから、諸々の表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)の破却あることから、このように、苦しみの滅尽は有る。このことを、真実のとおりに知って──(9)

 

738.(733) 正しく見る者たちは、〔真の〕知に至る者たちは──賢者たちは、正しく了知して、悪魔の束縛を征服して、さらなる生存には赴かない」と。(10)

 

 (5)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、識知〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

739.(734) 「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕。識知〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(11)

 

740.(735) 『苦しみは、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、比丘は、識知〔作用〕の寂止あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(12)

 

 (6)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、接触(:感覚の発生)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、接触の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

741.(736) 「彼ら、接触に打ち負かされた者たちにとって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちにとって、邪道を実践する者たちにとって、束縛するもの()の滅尽は、遠く離れている。(13)

 

742.(737) しかしながら、彼らが、接触を遍知して、〔正しく〕了知して、〔心の〕寂止に喜びある者たちであるなら、彼らは、まさに、接触の寂止あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(14)

 

 (7)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、感受(:楽苦の知覚)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の感受の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

743.(738) 「もしくは、安楽であろうが、苦痛であろうが、苦でもなく楽でもないものと共に、そして、内に、さらに、外に、それが何であれ、感受されたものが存在するなら──(15)

 

744.(739) 『これは、苦しみである』と知って、『虚偽の法(性質)である』『壊れ崩れるものである』〔と知って〕、接触しては接触して、〔その〕衰失を〔常に〕見ている者(瞬間瞬間の知覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、このように、そこにおいて、〔あるがままに〕識知する。比丘は、諸々の感受の滅尽あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(16)

 

 (8)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、渇愛〔の思い〕()という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、渇愛〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

745.(740) 「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(17)

 

746.(741) この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(18)

 

 (9)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、執取〔の思い〕()という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、執取〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

747.(742) 「〔迷いの〕生存()は、執取〔の思い〕という縁から〔発生する〕。〔作られたものとして〕有るものは、苦を受ける。生まれたものには、死が有る。これは、苦しみの発生である。(19)

 

748.(743) それゆえに、執取〔の思い〕の滅尽あることから、賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には赴かない」と。(20)

 

 (10)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕(意欲の発動)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、勉励〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

749.(744) 「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の勉励〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(21)

 

750.(745) 『苦しみは、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、一切の勉励〔の思い〕を放棄して、勉励〔の思い〕なき〔境地〕において解脱した者にとって──(22)

 

751.(746) 〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕を断ち切った者にとって、心が寂静となった比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しない」と。(23)

 

 (11)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食(生存の動力源)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の食の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

752.(747) 「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食という縁から〔発生する〕。諸々の食の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(24)

 

753.(748) 『苦しみは、食という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、一切の食を遍知して、一切の食に依存なき者となる。(25)

 

754.(749) 無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩の完全なる滅尽あることから、〔食について正しく〕究明して〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立つ者となり、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。(26)

 

 (12)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、動揺〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

755.(750) 「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の動揺〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(27)

 

756.(751) 『苦しみは、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、まさに、それゆえに、〔心の〕動揺を放棄して、諸々の形成〔作用〕を破却して、〔心の〕動揺なく、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(28)

 

 (13)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『〔何かに〕依存する者には、動揺が有る』と、これが、一つの随観となります。『〔何にも〕依存しない者は、動揺しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

757.(752) 「〔何にも〕依存しない者は、動揺しない。しかしながら、〔何かに〕依存する者は、〔常に〕執取している。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(29)

 

758.(753) 『諸々の依存〔の対象〕のうちに、大いなる恐怖がある』〔と〕、この危険を知って、〔何にも〕依存せず、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(30)

 

 (14)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、『諸々の形態(:色界禅定)より、諸々の形態なきもの(無色:無色界禅定)は、より寂静なるものとなる』と、これが、一つの随観となります。『諸々の形態なきものより、止滅〔の界域〕(涅槃)は、より寂静なるものとなる』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

759.(754) 「そして、すなわち、形態〔の界域〕に近しく赴く有情たちも、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕に止住する者たちも、止滅〔の界域〕を覚知することなく、さらなる生存へと帰り来る者たちである。(31)

 

760.(755) しかしながら、彼らが、諸々の形態〔の界域〕を遍知して、諸々の形態なき〔界域〕において確立せず、彼らが、止滅〔の界域〕において解脱するなら、彼らは、人として、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちである」と。(32)

 

 (15)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、真理である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、虚偽である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、虚偽である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、真理である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

761.(756) 「見よ──自己ではないものについて『自己である』と思量し、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天を含む世〔の人々〕を。『これは、真理である』と〔迷いのままに〕思いなす。(33)

 

762.(757) まさに、あれやこれや思い考えるも、〔現実の〕それは、〔常に〕その〔思い〕とは他なるものと成る。なぜなら、〔現実の〕それは、その〔思い〕にとっては、虚偽のものとして有るからである。まさに、移り行く、虚偽の法(事象)として〔有るからである〕(無常・苦・無我のものとしてある)。(34)

 

763.(758) 涅槃〔の境処〕は、迷妄ならざる法(事象)であり、それを、聖者たちは、『真理である』と知る。彼らは、まさに、真理の知悉(現観)あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(35)

 

 (16)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、楽しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、苦しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、楽しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

764.(759) 「諸々の形態(:眼の対象)、諸々の音声(:耳の対象)、諸々の味感(:舌の対象)、諸々の臭気(:鼻の対象)、諸々の接触(:身の対象)は、さらに、諸々の法(:意の対象)の全部は、そして、諸々の好ましく愛らしく意に適うもので、『〔世に〕存在する』と言われる、そのかぎりのものは──(36)

 

765.(760) これらのものは、まさに、天を含む世〔の人々〕にとって、楽しみと等しく思認されたものである。しかしながら、そこにおいて、これらのものが止滅するなら、それは、彼らにとって、苦しみと等しく思認されたものとなる。(37)

 

766.(761) 身体を有する〔という誤った見解〕(有身見)の破却は、聖者たちによって、『楽しみである』と見られた。〔あるがままに〕見ている者たちの、この〔ものの見方〕は、一切の世〔の人々〕とは、正反対のものとして有る。(38)

 

767.(762) それを、他者たちが、『楽しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『苦しみである』と言う。それを、他者たちが、『苦しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『楽しみである』と知る。(39)

 

768.(762・763) 見よ──了知し難き法(真理)を。等しく迷乱した者たちは、ここにおいて、無知なる者たちとなる(※)。〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ていない者たちには、暗黒が〔有る〕。(40)

 

※ テキストには etthaviddasu とあるが、PTS版により ettha aviddasū と読む。

 

769.(763) そして、正しくある者たちには、〔迷妄の覆いが〕開かれた〔あるがままの真実〕が有る──〔あるがままに〕見ている者たちに、光明が〔有る〕ように。獣愚の者たちは、法(真理)の熟知者ならざる者たちであり(※)、〔法の〕現前にあるも、〔法を〕識知しない。(41)

 

※ テキストには maggā dhammassa kovidā とあるが、PTS版により magā dhammass’akovidā と読む。

 

770.(764) 生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた者たちによって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちによって、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が善く正覚されることはない。(42)

 

771.(765) 聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境処を正覚するにふさわしいというのだろう──その境処を正しく了知して、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達するからには」と。(43)

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊が語ったことを大いに喜びました(※)。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。ということで──

 

※ テキストには abhinandunti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 二なることの随観の経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔経〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「真理、〔生存の〕依り所、そして、無明、諸々の形成〔作用〕、第五のものとして、識知〔作用〕、接触と感受されるべきもの、渇愛〔の思い〕、執取〔の思い〕と勉励〔の思い〕と食、動揺〔の思い〕、動揺、形態、真理があり、苦しみとともに、〔それらの〕十六がある」と。

 

 大いなるものの章が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、出家、そして、精励、そして、善く語られたもの、スンダリ(スンダリカ)、マーガの経、そして、サビヤ、セーラがあり、そして、矢と説かれる。

 

 そして、また、ヴァーセッタ、コーカーリ(コーカーリカ)、ナーラカ、二なることの随観があり、これらの十二の経が、『大いなるものの章』と説かれる」と。

 

4. 八なるものの章

 

4. 1. 欲望の経

 

772.(766) 欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら、たしかに、喜悦の意ある者と成る──人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て。(1)

 

773.(767) もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして、人に、欲〔の思い〕が生じたとして、それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら、矢に貫かれた者のように悩み苦しむ。(2)

 

774.(768) 足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として。(3)

 

775.(769) 田畑、地所、あるいは、黄金、牛や馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を、その人が貪り求めるなら──(4)

 

776.(770) 彼を、諸々の力なきものが押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。そののち、彼に、苦しみが従い行く──壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように。(5)

 

777.(771) それゆえに、人は、常に気づきある者となり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる。ということで──(6)

 

 欲望の経が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 2. 洞窟についての八なるものの経

 

778.(772) 〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者──迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止住している人──まさに、そのような種類の者は、彼は、遠離〔の境地〕から遠くにある。なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである。(1)

 

779.(773) 〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存()の快楽に結縛された者たち、彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のものによる解脱(他者・他物を依り所とする解脱)は、〔どこにも存在し〕ないからである。未来に、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる。あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら。(2)

 

780.(774) 諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、遍く迷乱した者たち──しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。「死滅した〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう」〔と〕。(3)

 

781.(775) まさに、それゆえに、人は、まさしく、この〔世において〕、学ぶように。それが何であれ、世において、「不正である」と知るなら、それを因として、不正を行なうことがないように。慧者たちは言う。「まさに、この生命(寿命)は、僅かである」〔と〕。(4)

 

782.(776) 〔わたしは〕見る──世において、震えおののいている〔人々〕を──諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を。下劣な人たちは、死魔の門にて泣き喚く──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(5)

 

783.(777) 見よ──わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)のなかで、震えおののいている者たちを──水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。このことをもまた見て、我執なき者として〔世を〕歩むように──諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり(何も執着せず、世を歩むべきである)。(6)

 

784.(778) 〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように──〔感官とその対象の〕接触(:感覚の発生)を遍く知って、貪求なき者となり。〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為すこと〕、それを為さずにいる者は──慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない。(7)

 

785.(779) 〔心中の〕表象(:概念・心象)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように──諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)となり。〔貪欲の〕矢を引き抜き、〔気づきを〕怠ることなく〔世を〕歩んでいる者は、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない。ということで──(8)

 

 洞窟についての八なるものの経が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 3. 汚れについての八なるものの経

 

786.(780) また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く。そこで、また、まさに、〔自説こそが〕真理である〔という、高慢と我執の〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕が、どこにも存在しない。(1)

 

787.(781) まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう──欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が。〔諸々の特定の見解について〕「〔それらは〕完全である」〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう。(2)

 

788.(782) その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を、まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら──彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら──彼のことを、智者たちは、「聖ならざる法(性質)の者」と言う。(3)

 

789.(783) しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が、「かくのごとく、わたしは」と、諸々の戒について誇らずにいるなら──彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら──彼のことを、智者たちは、「聖なる法(性質)の者」と説く。(4)

 

790.(784) 彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である。(5)

 

791.(785) まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して(対象化し特別視して)、それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において、法(見解)を放棄し、かつまた、執取する。(6)

 

792.(786) まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない。かつまた、幻惑〔の策略〕()も、かつまた、〔我想の〕思量()も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は、彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。(7)

 

793.(787) まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、自己と自己ではないものが、〔両者ともに〕存在しないのだから。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ。ということで──(8)

 

 汚れについての八なるものの経が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 4. 清浄についての八なるものの経

 

794.(788) 「〔わたしは〕見る──清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る」〔と〕、このように、〔自己の観点で〕証知しながら、「〔これこそ〕最高である」と〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する(盲信する)。(1)

 

795.(789) もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、依り所(依存の対象)を有する者であり、〔自己ではない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである。(2)

 

796.(790) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、「〔事実ならざる〕他のものである」と〔見て〕、清浄を言わない。かつまた、善(功徳)についても、かつまた、悪(功徳なきもの)についても、〔両者ともに〕汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる。(3)

 

797.(791) 前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち──動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する──猿が、枝を掴んでは放つようなもの。(4)

 

798.(792) 諸々の掟を、自ら受持して、人は、〔特定の〕表象(:概念・心象)に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き智慧ある者となり、高下に赴かない。(5)

 

799.(793) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として〔世を〕歩んでいる者を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(6)

 

800.(794) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、彼ら(智慧ある者たち)は、「〔これこそ〕究極の清浄である」と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(執着の対象)を捨てて、世において、どこにも、〔自分勝手な〕願望を作らない。(7)

 

801.(795) 〔執着の対象として〕執持されたものを、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。ということで──(8)

 

 清浄についての八なるものの経が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 5. 最高についての八なるものの経

 

802.(796) 諸々の見解について、「〔これこそ〕最高である」と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、「劣る」と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる。(1)

 

803.(797) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して、他の一切を「劣る」と見る。(2)

 

804.(798) あるいは、また、それを、智者たちは、「拘束」と説く──それに依存する者が、他を「劣る」と見るなら。まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように。(3)

 

805.(799) あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕「等しい」と見なさないように。あるいは、また、「劣る」「勝る」〔と〕思いなさないように。(4)

 

806.(800) 自己を捨棄して、執取せずにいる者は──彼は、〔いかなる〕知恵にたいしてもまた、依存を為さない。彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない。(5)

 

807.(801) 彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕──彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して。(6)

 

808.(802) 彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(7)

 

809.(803) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)。ということで──(8)

 

 最高についての八なるものの経が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 6. 老の経

 

810.(804) まさに、この生命(寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ。(1)

 

811.(805) わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、〔賢者は〕家に居住しないように。(2)

 

812.(806) それを、人が、「これは、わたしのものである」と思いなすも、それは、死によってもまた失われる。このことをもまた知って、賢者は、わたし(ブッダ)にならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように。(3)

 

813.(807) たとえば、また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、このように、また、〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない。(4)

 

814.(808) 〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは、彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり、人が亡者となるなら、告げ知らすべきものとして、名前だけが残る。(5)

 

815.(809) わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕を捨棄して〔世を〕歩んだ──〔無一物に〕平安を見る者たちとなり。(6)

 

816.(810) 〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら──〔彼のことを、賢者たちは〕「彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである」〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら。(7)

 

817.(811) 一切所において、牟尼は、依存なき者となり、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。彼のうちに、嘆きや物惜〔の思い〕は〔存在しない〕──たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように。(8)

 

818.(812) たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように──たとえば、蓮華に、水が着かないように──このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない。(9)

 

819.(813) まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから。ということで──(10)

 

 老の経が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 7. ティッサ・メッテイヤの経

 

820.(814) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕「淫事に束縛された者の悩み苦しみのことを──敬愛なる方よ、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」〔と〕。(1)

 

821.(815) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッテイヤよ、淫事に束縛されたなら、まさしく、また、教えは忘却され、そして、〔彼は〕誤って実践します。〔淫事に束縛された〕彼のうちには、この聖ならざる〔汚点〕があります。(2)

 

822.(816) 過去においては独り〔世を〕歩んで、〔そののち〕彼が、淫事に慣れ親しむなら、世における迷走する乗物のような彼のことを、〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います。(3)

 

823.(817) 〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も、彼のそれは、まさしく、また、衰退します。このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように。(4)

 

824.(818) 諸々の思惟(妄想)に打ち負かされた彼は、貧者のように当惑します。そのような種類の者は、他者たちの〔自分に関する悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります。(5)

 

825.(819) そこで、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します。これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます。(6)

 

826.(820) 〔過去においては〕『賢者』と呼称され、独り歩むこと(独行)を〔心に〕確立した者が、そこで、また、淫事に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます。(7)

 

827.(821) 牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って、独り歩むことを、断固として為すように。淫事に慣れ親しまないように。(8)

 

828.(822) 遠離こそを学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と〕思いなさないなら、彼は、まさに、涅槃の現前にあります。(9)

 

829.(823) 〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔世を〕歩んでいる者を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」〔と〕。ということで──(10)

 

 ティッサ・メッテイヤの経が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 8. パスーラの経

 

830.(824) 〔対話者パスーラに、世尊は答えた〕「〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。それ(自説)に依存する者たちが、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら、〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々それぞれに固着しているのです。(1)

 

831.(825) 彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と競い合い、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして。(2)

 

832.(826) 衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります。(3)

 

833.(827) すなわち、彼の論を、〔人々が〕『遍く劣る』と言うなら、問尋の審査者たちが『〔あなたの論は〕排斥された』と〔言うなら〕、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです。(4)

 

834.(828) これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、興奮と失望が有ります。このことをもまた見て、論難の言説を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです。(5)

 

835.(829) また、あるいは、衆の中で〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者と成るとして、彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります──意が〔そう〕有ったとおりの、〔まさに〕その義(利益)に至り得て(想定どおりの結果になって慢心する)。(6)

 

836.(830) その傲慢なるもの──それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます。このことをもまた見て、論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。(7)

 

837.(831) たとえば、王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこに去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い〕は、まさしく、過去において〔消滅し〕、存在しないのです(「これこそが、真理である」と主張するための「これ」という思いは、もはや存在しない)。(8)

 

838.(832) すなわち、〔特定の〕見解に執持して論争し、そして、『これこそが、真理である』と説く、それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません──論が生じたとき、敵視を為す者たちは。(9)

 

839.(833) また、すなわち、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩み、諸々の見解によって見解を遮られることがない者たちがいます。パスーラよ、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう──彼らには、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないのです。(10)

 

840.(834) そこで、あなたは、〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました──意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら。清き者(ブッダ)とともに、〔あなたは、論争という〕軛(くびき)を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです」〔と〕。ということで──(11)

 

 パスーラの経が第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 9. マーガンディヤの経

 

841.(835) 〔世尊は言った〕「渇愛(タンハー)を、不満(アラティ)を、さらに、貪欲(ラガー)を、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫事(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも有りませんでした。この糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」〔と〕。(1)

 

842.(836) 〔マーガンディヤが尋ねた〕「もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、〔すなわち〕多くの人のインダ(国王)たちに切望された女性〔という宝〕を〔求めないなら〕、悪しき見解を、戒や掟を、生命(生き方)を、さらに、〔迷いの〕生存への再生を、いったい、〔あなたは〕どのようなものと説くのですか」〔と〕。(2)

 

843.(837) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガンディヤよ、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして、〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」〔と〕。(3)

 

844.(838) かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕「それら〔の見解〕が、〔執持の対象として〕想い描かれた、諸々の〔断定的〕判断であるとして、牟尼よ、まさに、それらに執持せずして、〔あなたは〕説きます──『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を。それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」〔と〕。(4)

 

845.(839) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガンディヤよ、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」〔と〕。(5)

 

846.(840) かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を信受します」〔と〕。(6)

 

847.(841) かくのごとく、世尊は〔言った〕「マーガンディヤよ、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。(7)

 

848.(842) 『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう。〔しかしながら、これらの〕三つの様相について〔心が〕動かずにいるなら、『等しい』『勝る』という〔思いは〕、彼には有りません。(8)

 

849.(843) 〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって、論に関わるというのでしょう。(9)

 

850.(844) 家を捨棄して、目印なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです。(10)

 

851.(845) それら〔の見解〕から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、龍たる者(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。たとえば、汚水に生える、棘ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらに、泥に汚されないように、このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです。(11)

 

852.(846) 〔真の〕知に至る者は、見解によって(※)〔導かれることが〕なく、思想によって、彼が〔我想の〕思量()に至ることもありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教〕行為()によって〔導かれることも〕なく、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に近しく導かれないのです。(12)

 

※ テキストには diṭṭhiyāyako とあるが、PTS版により diṭṭhiyā と読む。

 

853.(847) 〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。智慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。そして、〔特定の〕表象を〔収め取り〕、さらに、〔特定の〕見解を収め取った、それらの者たちが──彼らが、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」〔と〕。ということで──(13)

 

 マーガンディヤの経が第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 10. 「〔身体の〕破壊の前に」の経

 

854.(848) 〔対話者が尋ねた〕「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか。ゴータマよ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」〔と〕。(1)

 

855.(849) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(過去の記憶)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者──彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。(2)

 

856.(850) 忿激せず、恐慌せず、誇らず、悔やまず、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者──彼は、まさに、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。(3)

 

857.(851) 未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(:感覚の発生)について遠離を見る者は、そして、諸々の見解について導かれません。(4)

 

858.(852) 〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、かつまた、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません。(5)

 

859.(853) 諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は、かつまた、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の智慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(真理を確信した者に信仰は不要であり、無執着の者には離貪という行為自体が存在しない)。(6)

 

860.(854) 利得(行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません。そして、〔他者を〕遮らない者(他者に悪意なき者)は、諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません。(7)

 

861.(855) 〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕は存在しません。(8)

 

862.(856) 彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら──(9)

 

863.(857) 諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、彼を、〔わたしは〕『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。(10)

 

864.(858) 彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです。(11)

 

865.(859) そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです。(12)

 

866.(860) 貪求〔の思い〕を離れ、物惜〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔時間の〕妄想に至りません(輪廻しない・妄想しない)。(13)

 

867.(861) 彼に、世において、自らのものが存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、さらに、諸々の法(見解)にたいし赴かず、彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」〔と〕。ということで──(14)

 

 「〔身体の〕破壊の前に」の経が第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 11. 紛争と論争の経

 

868.(862) 〔対話者が尋ねた〕「諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量()と高慢(過慢)は、それらは、どこから発生したのですか。どうか、それを説いてください」〔と〕。(1)

 

869.(863) 〔世尊は答えた〕「諸々の紛争と諸々の論争は、愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)から発生しました。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は、〔それらもまた、愛しいものから発生しました〕。諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜〔の思い〕に束縛されたものであり、そして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、諸々の中傷〔の思い〕があります」〔と〕。(2)

 

870.(864) 〔対話者が尋ねた〕「世における諸々の愛しいものは、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──それらが、人の未来のために有るとして」〔と〕。(3)

 

871.(865) 〔世尊は答えた〕「世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれ(欲の思い)から〔発生しました〕──それらが、人の未来のために有るとして」〔と〕。(4)

 

872.(866) 〔対話者が尋ねた〕「世における欲〔の思い〕は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、〔因縁としてどこから発生したのですか〕──あるいは、また、それらの法(性質)が、沙門によって説かれたとして」〔と〕。(5)

 

873.(867) 〔世尊は答えた〕「〔まさに〕その、『快がある、不快がある』と、世において、〔人々が〕言うところの、その〔二者〕(快と不快)に依存して、欲〔の思い〕は発生します。諸々の形態(:妄想によって固定され実体化した形相)のうちに、〔表象として妄想した〕虚無(非有:無)を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体(:存在)を〔見て〕、人は、世において、〔断定的〕判断を為します。(6)

 

874.(868) 忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、これらの法(性質)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者(概念的二項対立図式)に〔依存して〕、存在します。懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです。〔このように〕知って、〔これらの〕諸法(性質)は、沙門によって説かれました」〔と〕。(7)

 

875.(869) 〔対話者が尋ねた〕「そして、快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあるのですか。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてどこから〔発生するのか〕を、このことを、わたしに説いてください」〔と〕。(8)

 

876.(870) 〔世尊は答えた〕「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(:感覚の発生)から〔発生しました〕。接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。(9)

 

877.(871) 〔対話者が尋ねた〕「世における接触(感覚の発生)は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。何が存在していないとき、我執は存在しないのですか。何が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しないのですか」〔と〕。(10)

 

878.(872) 〔世尊は答えた〕「かつまた、名前(:妄想によって固定され概念化した言葉)を、かつまた、形態(:妄想によって固定され実体化した形相)を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕。諸々の執持〔の対象〕は、因縁として欲求(潜在的な心の衝動)から〔発生しました〕。欲求が存在していないとき、我執は存在しません。形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません」〔と〕。(11)

 

879.(873) 〔対話者が尋ねた〕「どのように行知した者の形態は、実体を離れるのですか。楽は、さらに、また、苦は、どのように、実体を離れるのですか。このことを、〔それが〕実体を離れる、そのとおりに、わたしに説いてください。それを、〔わたしたちは〕知りたいのです。かくのごとく、わたしの意は成りました」〔と〕。(12)

 

880.(874) 〔世尊は答えた〕「表象としての表象ある者(既存の表象に随従する者)ではなく、表象を離れる表象ある者(異常な表象を妄想する者)ではなく、また、表象なき者(表象を有さない者)ではなく、実体を離れた表象ある者(表象を超越した者)ではなく、このように行知した者の形態は、実体を離れます。なぜなら、諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕からです」〔と〕。(13)

 

881.(875) 〔対話者が尋ねた〕「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。まさに、或る者たちは、いったい、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説くのですか──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。あるいは、また、これ(形態の非有)とは他のものを説くのですか」〔と〕。(14)

 

882.(876) 〔世尊は答えた〕「まさに、或る者たちは、また、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説きます(常住論)──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)について、〔別の誤った〕教義を説きます(断滅論)──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら。(15)

 

883.(877) しかしながら、これらの者たちを、『〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って──牟尼にして〔あるがままの〕考察者たる彼は、〔彼らのことを〕依存〔の対象〕ある者たちと知って──解脱者は、知って〔そののち〕、〔無益な〕論争に至らず、〔真の〕慧者は、種々なる生存のために行知することがありません(輪廻的あり方を超越する)」〔と〕。ということで──(16)

 

 紛争と論争の経が第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 12. 小さなまとまりの経

 

884.(878) 〔対話者が尋ねた〕「互いに自らの見解に固着している者たちは、〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きます。『彼が、このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている』『このことを非難している彼は、全一者ではない』〔等々と〕。(1)

 

885.(879) このように、また、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕執持して論争します。そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。(2)

 

886.(880) 〔世尊は答えた〕「もし、他者の法(見解)を承認しないでいるとして、〔それによって、他者が〕愚者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、智慧の劣る者と成るなら、まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、智慧の極めて劣る者たちと〔成ります〕。これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔各自の〕見解に固着しています。(3)

 

887.(881) まさしく、そして、自らの見解によって、〔これらの者たちが〕浄白の者たちと〔成ることは〕ありません。〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成るなら〕、彼らのなかに、智慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります。なぜなら、彼らの見解は、ともに、そのように、〔各自に〕完全であるからです。(4)

 

888.(882) わたしは、『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです──それを、愚者たちが、互いに他と競い合い、〔『これは、真実である』と〕言うとして。〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが、まさに、それゆえに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」〔と〕。(5)

 

889.(883) 〔対話者が尋ねた〕「それを、或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら、それを、他の者たちは、『虚妄である。虚偽である』と言います。このように、また、〔世の迷える沙門たちは、自らの見解に〕執持して論争します。何ゆえに、沙門たちは、一つのことを説かないのですか」〔と〕。(6)

 

890.(884) 〔世尊は答えた〕「まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません。それについて、人々が、覚知しているなら、論争することはないでしょう。〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕唱えます。それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、一つのことを説かないのです」〔と〕。(7)

 

891.(885) 〔対話者が尋ねた〕「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか。諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、種々に多くあるのですか。あるいは、彼らは、〔自己の〕考え(自説)を、〔独善的に『真理である』と〕思い込んでいるのですか」〔と〕。(8)

 

892.(886) 〔世尊は答えた〕「種々に多くある〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ありません。〔盲信された虚妄の〕表象より他に〔真理はあり〕、世における諸々の常住なるものは、〔真理ではありません〕。そして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考えを〔独善的に〕想い描いて、『〔自説は〕真理である』『〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います。(9)

 

893.(887) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます。〔断定的〕判断(自己顕示の道具としての主義・主張)に立脚して、〔他者を〕嘲笑しつつ、そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います。(10)

 

894.(888) まさしく、すなわち、他者を『愚者である』と決め付けることで、それによって、そして、自己を『智者である』と言います。自ら、自己によって、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、彼は、〔一方的に〕他者を軽侮し、まさしく、それ(自説)を、〔独善的に〕説きます。(11)

 

895.(889) まさしく、錯誤の見解によって、〔自らについて〕『完全である』〔と見る〕彼は、〔我想の〕思量によって驕慢した者であり、〔自らについて〕『円満成就した者である』と思量する者です。まさしく、自ら、自らについて、〔自らの〕意で灌頂しているのです(自らを自らの手で王位に就けている)。なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。(12)

 

896.(890) もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成るなら〕、〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に智慧の劣る者と成ります。そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成るなら〕、誰であれ、沙門たちのうちに、愚者は存在しなくなります。(13)

 

897.(891) 『彼らが、これ(自説)より他の法(見解)を宣説するなら、彼らは、清浄に反する者たちであり、全一者たちではない』〔と〕、このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔自説を〕説きます。まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです。(14)

 

898.(892) 〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔思いが〕固着し、自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです。(15)

 

899.(893) あるいは、また、自らの道において、断固として〔自らの正しさを〕説いている者が、ここにおいて、どうして、他者を、『愚者である』と決め付けられるというのでしょう。彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでしょう──他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ。(16)

 

900.(894) 〔断定的〕判断に立脚して、自ら、〔独善的に〕思量して、その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります。〔しかしながら〕一切の〔断定的〕判断を捨棄して、〔真の慧者たる〕人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為さないのです」〔と〕。ということで──(17)

 

 小さなまとまりの経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 13. 大きなまとまりの経

 

901.(895) 〔世尊は言った〕「彼らが誰であれ、これらの〔各自の〕見解に固着している者たちは、『これ(自説)こそが、真理である』と〔独善的に〕論争します。彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕非難を招き寄せます。そこで、たとえ、そこにおいて、〔一部の〕賞賛を得るとして。(1)

 

902.(896) まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません。〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます。このことをもまた見て、論争しないように──論争なき境地を、平安と証見しながら。(2)

 

903.(897) それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義(世俗:通念化した特定の世界観)は──まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう──見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が。(3)

 

904.(898) 〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います──〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして。『まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ』〔と〕──〔迷いの〕生存に導かれた者たちは、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています。(4)

 

905.(899) それで、もし、戒や掟から死滅した者(喪失者)と成るなら、〔為すべき宗教〕行為()を失って、動揺します。〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します──家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように。(5)

 

906.(900) あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕、清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう。(6)

 

907.(901) あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕、声高に清浄を唱えます──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(7)

 

908.(902) まさに、〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。あるいは、また、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず(渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」〔と〕。(8)

 

909.(903) 〔対話者が尋ねた〕「或る者たちが、〔まさに〕その、〔自らの〕法(見解)を、『最高である』と言うなら、いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、『劣る』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。(9)

 

910.(904) 〔世尊は答えた〕「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、円満成就したものと言い、いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います。このように、また、〔自らの法に〕執持して論争し、互いに自らの主義〔だけ〕を、真理と言います。(10)

 

911.(905) もし、他者に誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成るなら〕、諸々の法(見解)のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでしょう。なぜなら、〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法(見解)を、『劣る』と説くからです──自ら〔の法〕において、断固として〔自らの正しさを〕説きながら。(11)

 

912.(906) また、彼らの〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)は、まさしく、真実と〔成るでしょう〕──〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛する、そのとおりに。〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう。なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです。(12)

 

913.(907) 〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれることが存在しないのです。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです。(13)

 

914.(908) 『〔わたしは〕知る。〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を』〔と〕、或る者たちは、見解によって清浄を信受します。もし、〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(他者・他物)によって、清浄を説きます。(14)

 

915.(909) 〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態(名色:現象世界)を、〔常住と〕見ます。あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を、〔常住と〕知るのです。〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ──あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(邪見)によって、清浄を説かないからです。(15)

 

916.(910) 〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません。〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です。それ(自説)に依存する者が、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら、彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです。(16)

 

917.(911) 〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして。(17)

 

918.(912) 牟尼(沈黙の聖者)は、ここに、〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は、〔特定の見解に〕執持する者ではありません──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして。(18)

 

919.(913) 諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は、欲〔の思い〕に至る者ではありません──また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません。(19)

 

920.(914) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れています。彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません」〔と〕。ということで──(20)

 

 大きなまとまりの経が第十三となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 14. 迅速の経

 

921.(915) 〔対話者が尋ねた〕「太陽の眷属よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。偉大なる聖賢よ、遠離を、さらに、寂静の境処を、〔あなたに尋ねます〕。比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか──何であれ、世において、執取することなく」〔と〕。(1)

 

922.(916) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように。それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。(2)

 

923.(917) 内に、そこで、あるいは、また、外に、それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように。〔ただし〕それによって、〔心の〕強靭(固着・強制)を為さないように。なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕(涅槃)ではないからです。(3)

 

924.(918) それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように。『より劣る』〔と〕、そこで、あるいは、また、『等しい』〔と思わないように〕。無数なる形態〔の特質〕を体得したとして、自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように。(4)

 

925.(919) 比丘は、内こそを、寂止するように。他のものから、寂静を探し求めないように。内なる寂静に、自己は存在しません。あるいは、自己ではないものが、どうして、〔存在するというのでしょう〕。(5)

 

926.(920) たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように、このように、〔心が〕安立した動揺なき者として存するように。比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕(心の高ぶり)を為さないように」〔と〕。(6)

 

927.(921) 〔対話者が尋ねた〕「開かれた眼ある方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました──自ら体現した法(真理)として、危難を取り除くことを。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔実践の〕道を説いてください。戒条(波羅提木叉:戒律条項)を〔説いてください〕。そこで、あるいは、また、禅定(定・三昧)を〔説いてください〕」〔と〕。(7)

 

928.(922) 〔世尊は答えた〕「〔両の〕眼による妄動ある者(眼による刺激を探し求める者)として、まさしく、存さないように。村の議論(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように。そして、味について貪り求めないように。さらに、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。(8)

 

929.(923) すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。そして、〔迷いの〕生存を渇望しないように。さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように。(9)

 

930.(924) そこで、諸々の食べ物を、諸々の飲み物を、さらに、また、諸々の固形の食料を、諸々の衣を──〔それらを〕得ても、蓄積を為さないように。そして、それらを得ないでいるとして、思い悩まないように。(10)

 

931.(925) 瞑想者は、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)として存さないように。悔恨〔の思い〕から離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように。そこで、諸々の坐所と臥所として、比丘は、音声少なきところに住むように。(11)

 

932.(926) 眠りを多く為さないように。熱情ある者として、〔眠らずに〕起きていることに親しむように。倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように。(12)

 

933.(927) 魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように。そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように。(13)

 

934.(928) 〔他者の〕非難に動揺しないように。比丘は、〔他者から〕賞賛されたとして、傲慢にならないように。物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。忿激〔の思い〕を、そして、中傷〔の思い〕を、除き去るように。(14)

 

935.(929) 〔生活を〕売買に立脚しないように。比丘は、どこにおいても、批判を為さないように。そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように。利得(行乞の施物)を欲して、人と談じないように。(15)

 

936.(930) そして、比丘は、自慢する者として存さないように。さらに、画策された言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を語らないように。尊大に学ばないように。口論となる言説を発しないように。(16)

 

937.(931) 虚偽の言葉に導かれないように。正知の者として、諸々の狡猾なことを為さないように。そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように。(17)

 

938.(932) あるいは、〔迷える〕沙門たちや凡夫たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて悩まされたとして、彼らに、粗暴な〔言葉〕で言い返さないように。なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです。(18)

 

939.(933) そして、この法(教え)を了知して、比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように。(19)

 

940.(934) まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です。伝え聞きではない、自ら体現した法(真理)を、〔彼は〕見ました。まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」〔と〕。ということで──(20)

 

 迅速の経が第十四となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 15. 自己の棒の経

 

941.(935) 〔対話者に、世尊は答えた〕「自己の棒(暴力)から、恐怖が生じたのです。見なさい──確執ある人々を。〔まさに、その〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたたちに〕述べ伝えましょう──わたしが、〔世の苦しみを〕畏怖した、そのとおりに。(1)

 

942.(936) あたかも、水少なきところの魚たちのように震えおののいている人々を見て、互いに他の者たちと〔敵対し〕反目する者たちを見て、わたしを、恐怖〔の思い〕が侵しました。(2)

 

943.(937) 世は、遍きにわたり、真髄なく〔常住ならざるもの〕。一切の方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕。自己の居所を求めつつ、〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした。(3)

 

944.(938) まさしく、しかし、最後には〔互いに敵対し〕反目する者たちを見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました。そこで、ここにおいて、〔わたしは〕矢を見ました──心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き〔矢〕を。(4)

 

945.(939) その矢に貫かれた者は、一切の方角に走ります。まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません。(5)

 

946.(940) そこにおいて、諸々の学び(学芸)が随説されるも、それらが、世において、諸々の拘束されたもの(執着の対象)としてあるなら、それらを追い求める者として存さないように。諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して、自己の涅槃を学ぶように。(6)

 

947.(941) 真理の者として存するように。尊大ならず、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕。忿激しない者となり、貪欲の悪を、物欲〔の思い〕(物惜の心)を、牟尼として超え渡るように。(7)

 

948.(942) 眠気と倦怠と〔心の〕沈滞(昏沈)を打ち負かすように。怠り(放逸)と共に住まないように。涅槃の意ある人となり、高慢〔の思い〕に止住しないように。(8)

 

949.(943) 虚偽の言葉に導かれないように。形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように。そして、〔我想の〕思量を遍く知るように。無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように。(9)

 

950.(944) 古いものを喜ばないように。新しいものにたいし愛着〔の思い〕を為さないように。失われつつあるものについて憂い悲しまないように。惹き付けるもの(渇愛の思い)に依存する者として存さないように。(10)

 

951.(945) 〔わたしは〕貪求〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます。〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔『大いなる激流』と〕説きます。〔欲望の〕対象(所縁:欲望の対象として想い描かれた認識対象)を、〔対象の〕妄想(遍計:認識対象を欲望の対象として想い描く心の働き)を、『超え難き欲望の汚泥』〔と説きます〕。(11)

 

952.(946) 牟尼は、真理から外れずして、〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます。彼は、一切を放棄して、彼は、まさに、『寂静者』と説かれます。(12)

 

953.(947) 彼は、まさに、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です。法(真理)を知って、依存なき者となります。彼は、世において、正しく振る舞う者です。この〔世において〕、誰をも羨みません。(13)

 

954.(948) 彼は、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を超え渡ったのであり、世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕、彼は、〔もはや〕憂い悲しまず、悩みません──〔渇愛の〕流れを断ち切った、結縛なき者となり。(14)

 

955.(949) それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう。(15)

 

956.(950) 彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、彼は、まさに、世において、〔何も〕失いません。(16)

 

957.(951) 彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら、彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく、『わたしには、〔何も〕存在しない』と憂い悲しみません。(17)

 

958.(952) 嫉視なく、貪求なく、動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります。〔心が〕動かない者のことを尋ねられたなら、それを、福利として、〔わたしは〕説きます。(18)

 

959.(953) 〔心に〕動揺なく、〔あるがままに〕識知している者に、作為〔の思い〕は、何であれ、存在しません。〔作為の〕勉励から離れた彼は、一切所に平安を見ます。(19)

 

960.(954) 牟尼は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。彼は、寂静なる者です。物惜〔の思い〕を離れた者です。〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません」〔と〕。ということで──(20)

 

 自己の棒の経が第十五となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 16. サーリプッタの経

 

961.(955) かくのごとく、尊者サーリプッタが〔尋ねた〕「これより過去において、わたしには見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがありません──このように、麗しき論者にして〔世の〕教師たる方(ブッダ)は、兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は。(1)

 

962.(956) すなわち、天を含む世〔の人々〕に〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は、一切の闇を除き去って、まさしく、独り、〔真の〕喜びに到達しました。(2)

 

963.(957) その覚者に、依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました──この〔世における〕、多くの結縛された者たちのために。(3)

 

964.(958) 〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって、〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕にとって、あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕、あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕──(4)

 

965.(959) 諸々の高下の臥所において、そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか。音なき臥坐所において、まさに、それらに(※)〔遭遇しても〕動揺しないのが、比丘であるとして。(5)

 

※ テキストには yehi とあるが、マハー・ニッデーサ(大義釈)により ye hi と読む。

 

966.(960) 〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。辺地の臥坐所において、それらを征服するのが、比丘であるとして。(6)

 

967.(961) 彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)として存するべきですか。彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕、諸々の境涯(行為のあり方)として存するべきですか。自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって、どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか。(7)

 

968.(962) 彼は、どのような学びを受持して、〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか」〔と〕。(8)

 

969.(963) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「サーリプッタよ、〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕があります──〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、もし、〔彼が〕慣れ親しんでいるなら。正覚を欲する者のために、法(真理)のままなる、そのとおりに、それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。(9)

 

970.(964) 慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように。比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕を歩む者(戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり、虻と蚋(ぶゆ)たちに、蛇たちに、人間たちとの接触(悪人と遭遇すること)に、四足〔の動物〕たちに、〔恐怖しないように〕。(10)

 

971.(965) また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちに──たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても──恐慌しないように。そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように。(11)

 

972.(966) 病いに罹り、飢えに襲われたとして、寒さを、厳しい暑さを、耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして、精進に勤しんで、断固として為すように。(12)

 

973.(967) 盗みを為さないように。虚偽を話さないように。動くものと動かないものたち(一切の生類)に、慈愛〔の心〕で接するように。意に混濁あることを識知するなら、そのときは、『黒き者(悪魔)の徒である』と、除き去るように。(13)

 

974.(968) 忿激と高慢の支配に赴かないように。それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように。そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように。(14)

 

975.(969) 智慧を尊んで、善に喜悦ある者となり、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥所における不満〔の思い〕を打ち負かすように。四つの嘆き悲しみの法(事象)を打ち負かすように。(15)

 

976.(970) 『いったい、何を食べようか』『あるいは、どこで食べようか』『まさに、苦しみのうちに臥した』『今日は、どこで臥そうか』〔という〕、嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕思考()を、〔いまだ〕学びある者(有学)は、目印なくして歩む者となり、取り除くように。(16)

 

977.(971) そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て、彼は、量を知るように──ここに、満足を義(目的)として。彼は、それら(衣食)にたいし〔自己を〕守り、村においては〔自己を〕制して歩み、たとえ、〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように。(17)

 

978.(972) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように。放捨(:選択せず差別なき心)に励んで、自己が定められた者となり、〔誤った〕考えへの志欲を、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように。(18)

 

979.(973) 諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕喜ぶように。梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように。限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕放つように。〔世の〕人の論を法(事象)として、〔あれこれと〕思い考えないように。(19)

 

980.(974) そこで、他に、世における、五つの塵があります。それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように。諸々の形態(:眼の対象)と諸々の音声(:耳の対象)にたいする、さらに、諸々の味感(:舌の対象)と諸々の臭気(:鼻の対象)と諸々の接触(:身の対象)にたいする、貪り〔の思い〕を打ち負かすように。(20)

 

981.(975) 比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり、これらの諸法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように。彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者、彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう」〔と〕。ということで──(21)

 

 サーリプッタの経が第十六となり、〔以上で〕終了となる。

 

 八なるものの章が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「欲望、そして、洞窟、そして、汚れ、そして、清浄、最高、老、そして、メッテイヤ、そして、パスーラ、マーガンディ(マーガンディヤ)、〔身体の〕破壊の前に──

 

 紛争、そして、二つのまとまり、まさしく、さらに、迅速、自己の棒という優れた経があり、長老の問い(サーリプッタ)とともに、〔それらの〕十六がある。かくのごとく、これらの全ての経が、八なるものの章に属するものとなる」と。

 

5. 彼岸に至るものの章

 

 諸々の序の詩偈

 

982.(976) 無所有〔の境地〕を切望しながら、呪文の奥義に至る婆羅門(バーヴァリ)は、コーサラ〔国〕の喜ばしき都から、南の道へと赴いた。(1)

 

983.(977) 彼は、アッサカ〔国〕とアラカ〔国〕が接する境域、ゴーダーヴァリー〔川〕の岸辺において、かつまた、落穂によって、かつまた、果実によって、住していた。(2)

 

984.(978) そして、そのすぐ近くには、広大なる村が有り、その〔村〕から生じた収益で、大いなる祭祀を営んだ。(3)

 

985.(979) 大いなる祭祀を執り行なって、ふたたび庵所に入った。その〔庵所〕に帰り戻ったところ、他の婆羅門がやってきた。(4)

 

986.(980) 足が傷つき、〔喉が〕渇き、歯には泥、頭には塵の、その〔婆羅門〕は、そして、彼(バーヴァリ)のもとに近づいて行って、五百〔金〕を乞う。(5)

 

987.(981) 〔まさに〕その、この〔婆羅門〕を見て、バーヴァリは、坐所に招き入れた。そして、〔体調が〕楽であるか、〔具合が〕善いかを尋ね、この言葉を説いた。(6)

 

988.(982) 〔バーヴァリは言った〕「およそ、まさに、わたしのもので、〔あなたに〕施すべき法(施物)は、〔その〕全てが、わたしによって〔他者に〕差し出されました(他に施してしまった)。梵(婆羅門)よ、わたしを許したまえ。わたしには、五百〔金〕は存在しないのです」〔と〕。(7)

 

989.(983) 〔婆羅門が言った〕「それで、もし、わたしが乞うているのに、貴君が施さないなら、〔今から〕第七の日には、おまえの頭は、七様に裂けてしまえ」〔と〕。(8)

 

990.(984) 虚言者〔の婆羅門〕は、〔呪いの〕行作をして、彼は、〔このような〕恐ろしい〔言葉〕を述べ伝えた。彼の、その言葉を聞いて、バーヴァリは、苦しみの者と成った。(9)

 

991.(985) 憂いの矢に射抜かれ、食なく、打ち萎れ、そこで、また、このような心では、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)にあるも、意は喜ばない。(10)

 

992.(986) 恐れわななく苦しみの者を見て、〔彼の〕義(利益)を欲する天神が、バーヴァリのもとに近づいて行って、この言葉を説いた。(11)

 

993.(987) 〔天神は言った〕「彼は、頭のことを覚知しません。彼は、財を義(目的)とする虚言者です。頭のことについて、あるいは、頭が落ちることについて、彼に、知恵()は見出されません」〔と〕。(12)

 

994.(988) 〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、貴君(天神)は、知っておられます。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください。頭のことを、さらに、頭が落ちることを。あなたの、その言葉を聞きましょう」〔と〕。(13)

 

995.(989) 〔天神は答えた〕「わたしもまた、これを知りません。ここにおいて、わたしに、知恵は見出されません。頭のことについては、さらに、頭が落ちることについては、まさに、ここにおいて、〔一切を知る〕勝者たちの見るところです」〔と〕。(14)

 

996.(990) 〔バーヴァリが尋ねた〕「そこで、それでは、誰が知っているのですか──この地の圏域において、頭のことを、さらに、頭が落ちることを。天神よ、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。(15)

 

997.(991) 〔天神は答えた〕「カピラヴァットゥの都から出られた、世の導き手がおられます。オッカーカ王(甘蔗王:古代の大王)の後裔にして、釈迦族の方である、光の作り手がおられます。(16)

 

998.(992) 婆羅門よ、まさに、その方は、正覚者です。一切の法(事象)の彼岸に至る方です。一切を証知する力に至り得た方です。一切の法(事象)に眼ある方です。一切の行為()の滅尽に至り得た方です。〔生存の〕依り所の滅尽(涅槃の境処)において解脱した方です。(17)

 

999.(993) その方は、覚者です。世尊です。眼ある方は、世において、法(教え)を説示します。あなたは、赴いて、それ(頭と頭が落ちること)を尋ねなさい。その方は、あなたに、それを説き明かすでしょう」〔と〕。(18)

 

1000.(994) 「正覚者」という言葉を聞いて、バーヴァリは、勇躍する者と成った。彼の憂いは、〔もはや〕些細なものとして存した。そして、〔彼は〕広大なる喜悦を得た。(19)

 

1001.(995) 彼は、バーヴァリは、わが意を得た者となり、勇躍する者となり、感嘆〔の思い〕が生じた者は、その〔正覚者〕のことを、天神に尋ねる。〔バーヴァリが尋ねた〕「どこの村において、また、あるいは、町において、あるいは、どこの地方において、世の主たる方はおられますか。そこにおいて、〔わたしどもは〕赴いて、正覚者と、最上の二足者たる方と、会見するのです」〔と〕。(20)

 

1002.(996) 〔天神は答えた〕「コーサラ〔国〕の都のサーヴァッティー(舎衛城)において、勝者はおられます。多大なる智慧ある方です。優れた広き思慮ある方です。その方は、釈迦族の方で、〔生の〕重荷を離れ、煩悩なき方です。〔頭と〕頭が落ちることを知る、人の雄牛たる方です」〔と〕。(21)

 

1003.(997) そののち、〔バーヴァリは〕徒弟たちに呼びかけた──呪文の奥義に至る婆羅門たちに。〔バーヴァリは言った〕「学徒たちよ、来たれ、〔わたしは〕告げ知らせるであろう。わたしの言葉を聞け。(22)

 

1004.(998) その方が一度ならず世に出現することは、これは、得難きことである。その方が、今日、世に生起したのだ。『正覚者』として〔世に〕聞こえた方である。すみやかに、サーヴァッティーに赴いて、最上の二足者たる方と会見するのだ」〔と〕。(23)

 

1005.(999) 〔学徒たちが尋ねた〕「婆羅門よ、それでは、どのように、〔わたしたちは〕知るのでしょう──〔その方を〕見て、『覚者である』と。〔その方を〕知らないわたしたちに、〔その見分け方を〕説いてください。すなわち、わたしたちが、その方を知りうるように」〔と〕。(24)

 

1006.(1000) 〔バーヴァリは答えた〕「まさに、諸々の呪文(ヴェーダ聖典)において伝えられてきた、諸々の偉大なる人士の特相がある。そして、三十二〔の特相〕が、完全なるものとして、順次に告げ知らされたのだ。(25)

 

1007.(1001) その方の五体において、これらの〔三十二の〕偉大なる人士の特相が有るなら、その方の赴く所()は、二つだけである。まさに、第三のものは見出されない。(26)

 

1008.(1002) それで、もし、家に居住するなら、〔彼は〕この地を征圧するであろう。棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治する。(27)

 

1009.(1003) そして、それで、もし、その方が、家から家なきへと出家するなら、〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者にして阿羅漢(人格完成者)たる無上なる者と成る。(28)

 

1010.(1004) 〔わたしの〕出生を、さらに、氏姓を、〔わたしが有している〕特相を、〔わたしが通じている〕諸々の呪文を、〔わたしの〕徒弟たちのことを、さらに、他にも、頭のことを、さらに、頭が落ちることを、まさしく、意によって尋ねよ(言葉に出さず、心で尋ねよ)。(29)

 

1011.(1005) すなわち、〔その方が〕妨げなく見る覚者として〔世に〕有るなら、意によって問いが尋ねられたとき、言葉によって答えるであろう」〔と〕。(30)

 

1012.(1006) バーヴァリの言葉を聞いて、〔彼の〕徒弟である十六者の婆羅門たちは──アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグーは──(31)

 

1013.(1007) ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカは──トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニは──(32)

 

1014.(1008) バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤは──(33)

 

1015.(1009) 各自が衆師たる者たちであり、〔彼らの〕全てが、一切の世〔の人々〕に〔名の〕聞こえた者たちであり、瞑想を喜ぶ瞑想者たちであり、過去(前世)〔の善き行ない〕の残り香(薫習:過去の業の潜勢力)を香らせた慧者たちである。(34)

 

1016.(1010) 〔彼らは〕バーヴァリを敬拝して、さらに、彼に右回り〔の礼〕を為して、結髪と皮衣を〔身に〕付け、全ての者たちが、北に向かって出発した。(35)

 

1017.(1011) アラカ〔国〕のパティッターナへ、昔〔の都〕の(※)マーヒッサティーへと、そのとき。さらに、また、ウッジェーニーへ、ゴーナッダへ、ヴェーディサへ、ヴァナサという呼び名あるところへと。(36)

 

※ テキストには purimāhissatiṃ とあるが、PTS版により purimaṃ māhissatiṃ と読む。

 

1018.(1012) さらに、また、コーサンビーへ、サーケータへ、さらに、最上の都のサーヴァッティーへ、セータブヤーへ、カピラヴァットゥへ、さらに、クシナーラーの都へと。(37)

 

1019.(1013) さらに、パーヴァーへ、ボーガの城市へ、ヴェーサーリーへ、マガダの都へ、さらに、意が喜びとする喜ぶべきところ、〔美しき〕パーサーナカの塔廟へと。(38)

 

1020.(1014) 〔喉が〕渇いた者が、冷たい水を〔求める〕ように、商人が、大きな利得を〔求める〕ように、炎暑に焼かれた者が、影を〔求める〕ように、〔彼らは〕大急ぎで、山に登った。(39)

 

1021.(1015) その時点において、世尊は、比丘の僧団に囲まれ、比丘たちに、法(教え)を説示する──林のなかで獅子が吼えるように。(40)

 

1022.(1016) アジタは見た──百光の太陽のような覚者を──あたかも、十五〔夜〕の月のように、円満成就〔の境地〕に至り着いた〔覚者〕を。(41)

 

1023.(1017) そこで、彼の五体において、さらに、円満成就の特徴(偉大なる人士の特相)を見て、一方に立ち、欣喜した者となり、諸々の意による問いを尋ねた。(42)

 

1024.(1018) 〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師の〕生まれ(年齢)に関して、説いてください。氏姓を説いてください。有している特相を〔説いてください〕。諸々の呪文における最奥義〔に到達しているか〕を説いてください。婆羅門(バーヴァリ)は、どれだけの者に教えていますか」〔と〕。(43)

 

1025.(1019) 〔世尊は答えた〕「百二十年の寿命、そして、彼は、氏姓としてはバーヴァリ、彼の五体において、三つの特相があります。三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)の奥義に至る者です。(44)

 

1026.(1020) 諸々の特相を、さらに、諸々の古伝を、語彙を含み活用を含め、五百〔の徒弟〕に教えます。自らの法(教え)における最奥義に至った者です」〔と〕。(45)

 

1027.(1021) 〔アジタが尋ねた〕「最上の人よ、疑いを断つ方よ、バーヴァリの〔三つの〕特相についての〔あなたの〕精査を明示してください。わたしたちに、疑うところが有ってはいけません」〔と〕。(46)

 

1028.(1022) 〔世尊は答えた〕「〔バーヴァリは〕顔を舌で覆い隠します。彼の眉間には白毫があります。覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)があります。学徒よ、このように知りなさい」〔と〕。(47)

 

1029.(1023) まさに、何であれ、問いを、〔言葉によって〕聞かずに、〔意によって〕聞いて、〔その〕問いが〔正しく〕説き明かされたとき、全ての人は、感嘆〔の思い〕が生じ、〔世尊に〕合掌を為し、熟慮する。(48)

 

1030.(1024) 「いったい、誰が──あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)であれ、あるいは、また、スジャーの亭主たるインダ(インドラ神)であれ──意によって問いが尋ねられたとき、このことを、誰に答えるというのだろう」〔と〕。(49)

 

1031.(1025) 〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭のことを、さらに、頭が落ちることを、遍く問い尋ねます。世尊よ、それを説き明かしてください。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。(50)

 

1032.(1026) 〔世尊は答えた〕「『無明が、頭である』と知りなさい。明知は、頭(無明)を落とすものにして、諸々の信と気づき()と禅定(定・三昧)に、〔涅槃への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進に、結び付いています」〔と〕。(51)

 

1033.(1027) そののち、学徒は、大いなる感嘆〔の思い〕で〔身を〕堅くして、一つの肩に皮衣を掛けて、〔世尊の両の〕足に、頭をもって平伏した。(52)

 

1034.(1028) 〔アジタが言った〕「敬愛なる方よ、バーヴァリ婆羅門は、徒弟たちと共に、勇躍する心の者となり、悦意の者となり、眼ある方よ、貴君の〔両の〕足を敬拝します」〔と〕。(53)

 

1035.(1029) 〔世尊は答えた〕「バーヴァリ婆羅門は、徒弟たちと共に、安楽の者と成れ。さらに、また、あなたも、安楽の者と成れ。学徒よ、長きにわたり生きよ。(54)

 

1036.(1030) では、バーヴァリの、あるいは、あなたの、全ての者たちの、一切の疑念に〔答えましょう〕。〔問い尋ねの〕機会が作り為されました。それが何であれ、〔あなたたちが〕意によって求めるなら、〔それを〕尋ねなさい」〔と〕。(55)

 

1037.(1031) 正覚者によって〔問い尋ねの〕機会が作り為され、坐って、合掌の者となり、そこにおいて、アジタは、第一の問いを、如来に尋ねた。(56)

 

 諸々の序の詩偈は〔以上で〕終了となる。

 

5. 1. アジタ学徒の問い

 

1038.(1032) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕「世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世の人々)にとっての汚れと説くのですか。いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕」〔と〕。(1)

 

1039.(1033) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「アジタよ、世〔の人々〕は、無明によって覆われています。物欲〔の思い〕(物惜の心)あるがゆえに、怠り〔の思い〕(放逸の心)あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕」〔と〕。(2)

 

1040.(1034) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、〔それらの〕流れの防護となり、〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか」〔と〕。(3)

 

1041.(1035) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「アジタよ、世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして、気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり、〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます。智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」〔と〕。(4)

 

1042.(1036) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕「まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、すなわち、気づきが〔説かれました〕。敬愛なる方よ、では、名前と形態(名色:現象世界)を、これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか」〔と〕。(5)

 

1043.(1037) 〔世尊は答えた〕「〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが、アジタよ、それを、あなたに説きましょう。そこにおいて、そして、名前(:精神的事象)が、さらに、形態(:物質的形態)が、残りなく破却されるとして──識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます」〔と〕。(6)

 

1044.(1038) 〔尊者アジタが尋ねた〕「そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」〔と〕。(7)

 

1045.(1039) 〔世尊は答えた〕「諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように。意に濁りなき者として存するように。一切の法(事象)に巧みな智ある者として、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」〔と〕。ということで──(8)

 

 アジタ学徒の問いが第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問い

 

1046.(1040) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕「誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか。誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。誰が、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか。誰を、『偉大なる人士である』と、〔あなたは〕説くのですか。誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか」〔と〕。(1)

 

1047.(1041) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッテイヤよ、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)──渇愛を離れた、常に気づきある者──〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘──彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません。(2)

 

1048.(1042) 彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません。彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」〔と〕。ということで──(3)

 

 ティッサ・メッテイヤ学徒の問いが第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 3. プンナカ学徒の問い

 

1049.(1043) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕「動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは、士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(1)

 

1050.(1044) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「プンナカよ、彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは、プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」〔と〕。(2)

 

1051.(1045) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですが、世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(3)

 

1052.(1046) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「プンナカよ、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛()ある者たちであり、〔迷いの〕生存()にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(4)

 

1053.(1047) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕「もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら──敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕──そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(5)

 

1054.(1048) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「プンナカよ、世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。ということで──(6)

 

 プンナカ学徒の問いが第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 4. メッタグー学徒の問い

 

1055.(1049) かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」〔と〕。(1)

 

1056.(1050) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーよ、まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました。それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します。(2)

 

1057.(1051) すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり」〔と〕。(3)

 

1058.(1052) 〔尊者メッタグーが尋ねた〕「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。(4)

 

1059.(1053) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーよ、あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(5)

 

1060.(1054) 〔尊者メッタグーが言った〕「そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(6)

 

1061.(1055) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これらのもの(認識の対象)にたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように。(7)

 

1062.(1056) このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として──〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して──知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」〔と〕。(8)

 

1063.(1057) 〔尊者メッタグーが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(9)

 

1064.(1058) 牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら、そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう。龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください」〔と〕。(10)

 

1065.(1059) 〔世尊は答えた〕「彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕、まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです。そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です。(11)

 

1066.(1060) そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕、種々なる生存にたいする、この執着を捨てて──彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。ということで──(12)

 

 メッタグー学徒の問いが第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 5. ドータカ学徒の問い

 

1067.(1061) かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」〔と〕。(1)

 

1068.(1062) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい──まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」〔と〕。(2)

 

1069.(1063) 〔尊者ドータカが言った〕「わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します。釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」〔と〕。(3)

 

1070.(1064) 〔世尊は答えた〕「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」〔と〕。(4)

 

1071.(1065) 〔尊者ドータカが言った〕「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください──わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく」〔と〕。(5)

 

1072.(1066) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ドータカよ、あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(6)

 

1073.(1067) 〔尊者ドータカが言った〕「そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(7)

 

1074.(1068) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ドータカよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」〔と〕。ということで──(8)

 

 ドータカ学徒の問いが第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 6. ウパシーヴァ学徒の問い

 

1075.(1069) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで、〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それに依存し、この激流を超えるのです」〔と〕。(1)

 

1076.(1070) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァよ、無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり、『〔何も〕存在しない』という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり、夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい」〔と〕。(2)

 

1077.(1071) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のもの(他者・他物)を捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱(有想解脱)における最高のもの(無所有の境地)において解脱した者──いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか」〔と〕。(3)

 

1078.(1072) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァよ、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにおいて解脱した者──彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう」〔と〕。(4)

 

1079.(1073) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら、一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕、まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」〔と〕。(5)

 

1080.(1074) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァよ、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです(名づけを離れた存在となる)」〔と〕。(6)

 

1081.(1075) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常久に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。(7)

 

1082.(1076) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァよ、滅却に至った者には、量るもの(:認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」〔と〕。ということで──(8)

 

 ウパシーヴァ学徒の問いが第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 7. ナンダ学徒の問い

 

1083.(1077) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕「『世において、諸々の牟尼が存在する』〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕。さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕」〔と〕。(1)

 

1084.(1078) 〔世尊は答えた〕「見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず──ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして。煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、『牟尼たちである』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(2)

 

1085.(1079) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(3)

 

1086.(1080) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ナンダよ、彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(4)

 

1087.(1081) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら、そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(5)

 

1088.(1082) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ナンダよ、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(6)

 

1089.(1083) 〔尊者ナンダが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、激流を超えた者たちである』と、わたしもまた説きます」〔と〕。ということで──(7)

 

 ナンダ学徒の問いが第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 8. ヘーマカ学徒の問い

 

1090.(1084) かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕「ゴータマ(ブッダ)の教えより以前に、『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした。(1)

 

1091.(1085) さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください。牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(2)

 

1092.(1086) 〔世尊は答えた〕「この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが、死滅なき涅槃の境処です。(3)

 

1093.(1087) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり、世における執着を超えた者たちです」〔と〕。ということで──(4)

 

 ヘーマカ学徒の問いが第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 9. トーデイヤ学徒の問い

 

1094.(1088) かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」〔と〕。(1)

 

1095.(1089) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「トーデイヤよ、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、他の解脱は〔存在し〕ません」〔と〕。(2)

 

1096.(1090) 〔尊者トーデイヤが尋ねた〕「彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか。彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか。釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように、一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください」〔と〕。(3)

 

1097.(1091) 〔世尊は答えた〕「彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません。彼は、智慧ある者です。しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません。トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい──無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」〔と〕。ということで──(4)

 

 トーデイヤ学徒の問いが第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 10. カッパ学徒の問い

 

1098.(1092) かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕「大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください。そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして」〔と〕。(1)

 

1099.(1093) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「カッパよ、大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう。(2)

 

1100.(1094) 無一物にして無執取であること──これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、『涅槃である』と、〔わたしは〕説きます──『老と死魔の完全なる滅尽である』〔と〕。(3)

 

1101.(1095) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません。彼らは、悪魔の従僕たちではありません」〔と〕。ということで──(4)

 

 カッパ学徒の問いが第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 11. ジャトゥカンニ学徒の問い

 

1102.(1096) かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました。〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください。(1)

 

1103.(1097) なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです──光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように。広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」〔と〕。(2)

 

1104.(1098) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい。離欲〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたには、何も見出されてはなりません。(3)

 

1105.(1099) それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう。(4)

 

1106.(1100) 婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は見出されません──それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」〔と〕。ということで──(5)

 

 ジャトゥカンニ学徒の問いが第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 12. バドラーヴダ学徒の問い

 

1107.(1101) かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍たる方の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。(1)

 

1108.(1102) 勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。(2)

 

1109.(1103) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「バドラーヴダよ、執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら、まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。(3)

 

1110.(1104) それゆえに、〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように──死魔の領域において執着するこの人々を、『執取〔の対象〕に執着する者たちである』と〔あるがままに〕見ながら」〔と〕。ということで──(4)

 

 バドラーヴダ学徒の問いが第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 13. ウダヤ学徒の問い

 

1111.(1105) かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕「〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください」〔と〕。(1)

 

1112.(1106) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウダヤよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること、そして、〔心の〕沈滞を除き去ること、諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること──(2)

 

1113.(1107) 放捨()と気づき()という清浄なる〔境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕──〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。(3)

 

1114.(1108) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」〔と〕。(4)

 

1115.(1109) 〔世尊は答えた〕「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」〔と〕。(5)

 

1116.(1110) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕「どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されるのですか。〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」〔と〕。(6)

 

1117.(1111) 〔世尊は答えた〕「かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕(:楽苦の知覚)を愉悦せずにいる者──このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されます」〔と〕。ということで──(7)

 

 ウダヤ学徒の問いが第十三となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 14. ポーサーラ学徒の問い

 

1118.(1112) かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕「〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち、過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。(1)

 

1119.(1113) 実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の、一切の身体を捨棄する者の、『かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない』と〔あるがままに〕見ている者の──〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような種類の者は、どのように導かれるのですか」〔と〕。(2)

 

1120.(1114) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ポーサーラよ、一切の識知〔作用〕の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります。解脱したことを〔知り〕、その行き着く所を〔知ります〕。(3)

 

1121.(1115) 無所有〔の境地〕の発生を知って、『愉悦は、〔人を〕束縛するものである』と〔知ります〕。このように、このことを証知して、そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します。〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる彼には、この真実の知恵があります」〔と〕。ということで──(4)

 

 ポーサーラ学徒の問いが第十四となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 15. モーガラージャン学徒の問い

 

1122.(1116) かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕「わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが、眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした。しかしながら、『天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる』と、わたしは聞きました。(1)

 

1123.(1117) この世〔の人々〕も、他の世〔の人々〕も、天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も、福徳あるゴータマの、あなたの、見解を証知しません。(2)

 

1124.(1118) このような崇高なる見者に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ないのですか」〔と〕。(3)

 

1125.(1119) 〔世尊は答えた〕「モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません」〔と〕。ということで──(4)

 

 モーガラージャン学徒の問いが第十五となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 16. ピンギヤ学徒の問い

 

1126.(1120) かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕「老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ、眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕。わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」〔と〕。(1)

 

1127.(1121) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ピンギヤよ、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです」〔と〕。(2)

 

1128.(1122) 〔尊者ピンギヤが言った〕「四方(東西南北)に、四維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、上に、下に、これらの十方に──あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在しないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」〔と〕。(3)

 

1129.(1123) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ピンギヤよ、渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを、〔常に〕見ながら、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです」〔と〕。ということで──(4)

 

 ピンギヤ学徒の問いが第十六となり、〔以上で〕終了となる。

 

 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は、パーサーナカ塔廟において、〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに、〔問答を〕要請された者として、尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました。もし、また、一つ一つの問いの、義(意味)を了知して、法(性質)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践するなら、老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう。彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある、ということで、それゆえに、この法(教え)の教相には、まさしく、「彼岸に至るもの」という同義語があります。

 

1130.(1124) アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグーは──ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカは──(1)

 

1131.(1125) トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニは──バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤは──(2)

 

1132.(1126) これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた──行ないを成就した聖賢のもとへと。諸々の精緻なる問いを尋ねつつ、最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた。(3)

 

1133.(1127) 覚者は、彼らに説き明かした──諸々の問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで、牟尼は、婆羅門たちを満足させた。(4)

 

1134.(1128) 覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、満足させられた彼らは、優れた智慧ある方の現前において、梵行を歩んだ。(5)

 

1135.(1129) すなわち、一つ一つの問いに覚者が説示したとおり、そのとおりに、彼が実践するなら、〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう。(6)

 

1136.(1130) 最上の道を修めている者は、此岸から彼岸に至るであろう。それは、彼岸に至るための道であり、それゆえに、『彼岸に至るもの』と〔呼ばれる〕。(7)

 

 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈

 

1137.(1131) かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕「〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう。(1)

 

1138.(1132) 〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄()を捨棄した方の、〔我想の〕思量()と〔虚栄の〕偽装()を捨棄する方の、栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。(2)

 

1139.(1133) 〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです。(3)

 

1140.(1134) たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、また、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです。(4)

 

1141.(1135) ゴータマの教えより以前に、『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。(5)

 

1142.(1136) 独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です。(6)

 

1143.(1137) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」〔と〕。(7)

 

1144.(1138) 〔バーヴァリが言った〕「その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう──ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(8)

 

1145.(1139) その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」〔と〕。(9)

 

1146.(1140) 〔ピンギヤは言った〕「わたしは、その方から、離れ住むことはありません──婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(10)

 

1147.(1141) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです。(11)

 

1148.(1142) 〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で──婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく。夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです。(12)

 

1149.(1143) そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは──これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に、まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです。(13)

 

1150.(1144) 老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです。(14)

 

1151.(1145) 汚泥に臥し震えおののきながら、〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました──激流を超えた煩悩なき方を」〔と〕。(15)

 

1152.(1146) 〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」〔と〕。(16)

 

1153.(1147) 〔ピンギヤは言った〕「この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります(より信を強くする)──牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕。〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は、〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です。(17)

 

1154.(1148) 上天〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です。(18)

 

1155.(1149) それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に、〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」〔と〕。ということで──(19)

 

 彼岸に至るものの章が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

 経の摂頌

 

1. 蛇、そして、また、ダニヤ、犀の角、そして、耕作者(耕作者バーラドヴァージャ)、チュンダ、まさしく、さらに、生存(滅びの者)、そして、賎民、そして、為すべきこと〔で始まる経〕(慈愛)、ヘーマヴァタ、さらに、夜叉(アーラヴァカ)、勝利の経、優れた牟尼の経、ということで──

 

2. 優れた第一のものとして作成され、十二の経を保持し、見事に区分された、優れた章がある。〔世俗の〕垢を離れる眼ある方によって説示された、〔その〕優れた章は、「蛇」という〔名のものとして〕伝え聞かれる。

 

3. 宝と生臭、恥と幸福という名のもの、そして、スーチローマとカピラ、婆羅門の法(性質)にかなう者、舟、そして、「何が、戒ですか」〔の経〕と奮起、そして、ラーフラ、さらに、また、ヴァンギーサ(ニグローダ・カッパ)──

 

4. そして、ここにおいて、また、正しい遍歴遊行なるもの、優れたダンミカの経が見事に区分され、第二〔の章〕においては十四の経を保持し、それを、優れた「小なるものの章」と〔人々は〕言う。

 

5. 出家と精励と善く語られたものという名のもの、献菓、そして、まさしく、さらに、マーガ、サビヤ、まさしく、ケーニヤ(セーラ)、矢という名のもの、優れたヴァーセッタ、そして、また、カーリカ(コーカーリカ)──

 

6. 優れたナーラカの経が見事に区分され、そのように、まさしく、さらに、それを随観する者(二なることの随観)があり、第三〔の章〕においては十二の経を保持する、〔その〕優れた章は、「大なるもの」という名のものとして伝え聞かれる。

 

7. 欲望と洞窟についての八なるものと邪悪〔についての八なるもの〕という名のもの、優れた清浄〔についての八なるもの〕、最高についての八なるものという名のもの、老、優れたメッテイヤが見事に区分され、パスーラとマーガンディヤ、「〔身体の〕破壊の前に」〔の経〕──

 

8. 紛争と論争、そして、まとまりの両者(小さなまとまり・大きなまとまり)、迅速と自己の棒とサーリプッタがあり、第四〔の章〕においては十六の経を保持し、それを、優れた「八なるものの章」と〔人々は〕言う。

 

9. 喜ぶべきマガダ地方の優れた地域にして〔過去に〕作り為した功徳ある住居地において、美しく区分された優れたパーサーナカ塔廟において、最勝の衆師たる世尊は住していた。

 

10. 二つの住居に到来するにあたり、十二ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)の衆となり、伝えるところでは、十六者の婆羅門たちに、〔世尊は、問いを〕尋ねられた者として、〔彼らの〕問いにたいし、〔彼らの〕十六の問いの行為にたいし、〔的確に〕明示し、法(教え)を与えた。

 

11. 義(意味)を明示し文(文型)を円満した〔法〕を、最高の平安を生む法(教え)を、勝者は、至高の二足者たる方は、世〔の人々〕の益のために説示した。種々様々な多くの法(教え)ある優れた経を、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を解き放つことを因とする優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

12. 文(文型)と義(意味)ある句が等しく結び付いた〔経〕を、文字が了解され喩えが的確なる〔経〕を、世の彷徨の知恵(邪知)を滅壊する優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

13. 諸々の貪欲()の垢を、垢なきものを、至高にして〔世俗の〕垢を離れるものを、諸々の憤怒()の垢を、垢なきものを、至高にして〔世俗の〕垢を離れるものを、諸々の迷妄()の垢を、垢なきものを、至高にして〔世俗の〕垢を離れるものを、世の彷徨の知恵を滅壊する優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

14. 諸々の〔心の〕汚れの垢を、垢なきものを、至高にして〔世俗の〕垢を離れるものを、諸々の悪しき行ないの垢を、垢なきものを、至高にして〔世俗の〕垢を離れるものを、世の彷徨の知恵を滅壊する優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

15. 諸々の煩悩()の結縛と束縛を、〔心の〕汚れなきものを、さらに、〔修行の〕妨害()となる三つの垢を、〔まさに〕その、〔心の〕汚れを解き放つことを因とする優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

16. 無垢にして一切の〔心の〕汚れを除き去るものを、貪欲と離貪〔の両者〕に不動で憂いなきものを、寂静にして精妙で極めて見難い法(教え)たる優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

17. さらに、貪欲を、憤怒を、破壊されることなく存しているものを、〔一つの〕胎と四つの境遇()ある五つの識知〔作用〕()を、救護所の蔓草たる渇愛の歓楽の覆いを解き放つ優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

18. 深遠で極めて見難く優雅で精緻なるものを、賢者によって知られるべき精妙なる義(意味)あるものを、世の彷徨の知恵を滅壊する優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

19. 九つの支分ある花の花飾と首飾あるものを、機能()と瞑想()と解脱によって区分されたものを、八つの支分ある道を保持する優れた乗物たる優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

20. ソーマ(神酒)の如く〔世俗の〕垢を離れる完全なる清浄あるものを、海の如く種々様々な宝あるものを、花に等しく太陽の如き威光ある優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

21. 平安なる至福にして安楽で清涼で寂静なるものを、死魔の救護所として最高なるものを、最高の義(勝義)を、〔まさに〕その、善く涅槃に到達した見を因とする優れた経を、至高の二足者たる方は説示した。

 

 スッタニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。