増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 エーカーダサカ・ニパータ聖典(十一集:十一なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 依所の章(1.~)

 

1. 「何を義として」の経

2. 思欲によって為すべきことの経

3. 第一の機縁の経

4. 第二の機縁の経

5. 第三の機縁の経

6. 災厄の経

7. 表象の経

8. 意を為すことの経

9. サッダの経

10. モーラ・ニヴァーパの経

 

2. 随念の章(11.~)

 

1. 第一のマハー・ナーマの経

2. 第二のマハー・ナーマの経

3. ナンディヤの経

4. スブーティの経

5. 慈愛の経

6. アッタカ城市民の経

7. 牛飼いの経

8. 第一の禅定の経

9. 第二の禅定の経

10. 第三の禅定の経

11. 第四の禅定の経

 

3. 同等の章(22.~)

4. 貪欲と省略〔の経典〕(502.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 エーカーダサカ・ニパータ聖典(十一集:十一なるものの集まり)

 

1. 依所の章

 

1. 「何を義として」の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。(1・2)「尊き方よ、諸々の善なる戒は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします」と。

 

 (3)「尊き方よ、また、後悔なくあることは、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします」と。

 

 (4)「尊き方よ、また、歓喜は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします」と。

 

 (5)「尊き方よ、また、喜悦は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします」と。

 

 (6)「尊き方よ、また、静息は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします」と。

 

 (7)「尊き方よ、また、安楽は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします」と。

 

 (8)「尊き方よ、また、禅定は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします」と。

 

 (9)「尊き方よ、また、事実のとおりの知見は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、事実のとおりの知見は、厭離を義(目的)とし、厭離を福利とします」と。

 

 (10)「尊き方よ、また、厭離は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、厭離は、離貪を義(目的)とし、離貪を福利とします。

 

 (11)「尊き方よ、また、離貪は、何を義(目的)とし、何を福利とするのですか」と。「アーナンダよ、まさに、離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。

 

 アーナンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします。後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします。歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします。喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします。静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします。安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします。禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします。事実のとおりの知見は、厭離を義(目的)とし、厭離を福利とします。厭離は、離貪を義(目的)とし、離貪を福利とします。離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の善なる戒は、順次に、至高なるものへと至り行きます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 思欲によって為すべきことの経

 

2. 「(1・2)比丘たちよ、戒ある者には、戒が成就した者には、思欲によって為すべきことはありません──『後悔なくあることが、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、戒ある者に、戒が成就した者に、後悔なくあることが生起するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (3)比丘たちよ、後悔なき者には、思欲によって為すべきことはありません──『歓喜が、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、後悔なき者に歓喜が生起するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (4)比丘たちよ、歓喜した者には、思欲によって為すべきことはありません──『喜悦が、わたしに生起せよ』と。比丘たちよ、すなわち、歓喜した者に、喜悦が生起するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (5)比丘たちよ、喜悦の意ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『わたしの身体は静息せよ』と。比丘たちよ、すなわち、喜悦の意ある者の身体が静息するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (6)比丘たちよ、静息した身体ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『安楽を感受するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、静息した身体ある者が安楽を感受するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (7)比丘たちよ、安楽ある者には、思欲によって為すべきことはありません──『わたしの心は定められよ』と。比丘たちよ、すなわち、安楽ある者の心が定められるのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (8)比丘たちよ、〔心が〕定められた者には、思欲によって為すべきことはありません──『事実のとおりに知り見るのだ』と。比丘たちよ、すなわち、〔心が〕定められた者が事実のとおりに知り見るのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (9)比丘たちよ、事実のとおりに知り見ている者には、思欲によって為すべきことはありません──『厭離するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、事実のとおりに知り見ている者が厭離するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (10)比丘たちよ、厭離した者には、思欲によって為すべきことはありません──『離貪するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、厭離した者が離貪するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 (11)比丘たちよ、離貪した者には、思欲によって為すべきことはありません──『解脱の知見を実証するのだ』と。比丘たちよ、すなわち、離貪した者が解脱の知見を実証するのは、これは、法(真理)たることです。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、離貪は、解脱の知見を義(目的)とし、解脱の知見を福利とします。厭離は、離貪を義(目的)とし、離貪を福利とします。事実のとおりの知見は、厭離を義(目的)とし、厭離を福利とします。禅定は、事実のとおりの知見を義(目的)とし、事実のとおりの知見を福利とします。安楽は、禅定を義(目的)とし、禅定を福利とします。静息は、安楽を義(目的)とし、安楽を福利とします。喜悦は、静息を義(目的)とし、静息を福利とします。歓喜は、喜悦を義(目的)とし、喜悦を福利とします。後悔なくあることは、歓喜を義(目的)とし、歓喜を福利とします。諸々の善なる戒は、後悔なくあることを義(目的)とし、後悔なくあることを福利とします。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、諸々の法(性質)は諸々の法(性質)に流れ行き、諸々の法(性質)は諸々の法(性質)を遍く満たします──此岸から彼岸に至るために」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の機縁の経

 

3. 「比丘たちよ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって、(3)歓喜は、機縁を欠くものと成ります。歓喜が存していないとき、歓喜が衰滅した者にとって、(4)喜悦は、機縁を欠くものと成ります。喜悦が存していないとき、喜悦が衰滅した者にとって、(5)静息は、機縁を欠くものと成ります。静息が存していないとき、静息が衰滅した者にとって、(6)安楽は、機縁を欠くものと成ります。安楽が存していないとき、安楽が衰滅した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(9)厭離は、機縁を欠くものと成ります。厭離が存していないとき、厭離が衰滅した者にとって、(10)離貪は、機縁を欠くものと成ります。離貪が存していないとき、離貪が衰滅した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって、(3)歓喜は、機縁が成就したものと成ります。歓喜が存しているとき、歓喜が成就した者にとって、(4)喜悦は、機縁が成就したものと成ります。喜悦が存しているとき、喜悦が成就した者にとって、(5)静息は、機縁が成就したものと成ります。静息が存しているとき、静息が成就した者にとって、(6)安楽は、機縁が成就したものと成ります。安楽が存しているとき、安楽が成就した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(9)厭離は、機縁が成就したものと成ります。厭離が存しているとき、厭離が成就した者にとって、(10)離貪は、機縁が成就したものと成ります。離貪が存しているとき、離貪が成就した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の機縁の経

 

4. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって、(3)歓喜は、機縁を欠くものと成ります。歓喜が存していないとき、歓喜が衰滅した者にとって、(4)喜悦は、機縁を欠くものと成ります。喜悦が存していないとき、喜悦が衰滅した者にとって、(5)静息は、機縁を欠くものと成ります。静息が存していないとき、静息が衰滅した者にとって、(6)安楽は、機縁を欠くものと成ります。安楽が存していないとき、安楽が衰滅した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(9)厭離は、機縁を欠くものと成ります。厭離が存していないとき、厭離が衰滅した者にとって、(10)離貪は、機縁を欠くものと成ります。離貪が存していないとき、離貪が衰滅した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。友よ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって、(3)歓喜は、機縁が成就したものと成ります。歓喜が存しているとき、歓喜が成就した者にとって、(4)喜悦は、機縁が成就したものと成ります。喜悦が存しているとき、喜悦が成就した者にとって、(5)静息は、機縁が成就したものと成ります。静息が存しているとき、静息が成就した者にとって、(6)安楽は、機縁が成就したものと成ります。安楽が存しているとき、安楽が成就した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(9)厭離は、機縁が成就したものと成ります。厭離が存しているとき、厭離が成就した者にとって、(10)離貪は、機縁が成就したものと成ります。離貪が存しているとき、離貪が成就した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。友よ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第三の機縁の経

 

5. そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに告げました。……略……。「友よ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって、(3)歓喜は、機縁を欠くものと成ります。歓喜が存していないとき、歓喜が衰滅した者にとって、(4)喜悦は、機縁を欠くものと成ります。喜悦が存していないとき、喜悦が衰滅した者にとって、(5)静息は、機縁を欠くものと成ります。静息が存していないとき、静息が衰滅した者にとって、(6)安楽は、機縁を欠くものと成ります。安楽が存していないとき、安楽が衰滅した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(9)厭離は、機縁を欠くものと成ります。厭離が存していないとき、厭離が衰滅した者にとって、(10)離貪は、機縁を欠くものと成ります。離貪が存していないとき、離貪が衰滅した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた……軟材もまた……硬材もまた円満成就に赴きません。友よ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、後悔なくあることは、機縁を欠くものと成ります。後悔なくあることが存していないとき、後悔なくあることが衰滅した者にとって……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって、(3)歓喜は、機縁が成就したものと成ります。歓喜が存しているとき、歓喜が成就した者にとって、(4)喜悦は、機縁が成就したものと成ります。喜悦が存しているとき、喜悦が成就した者にとって、(5)静息は、機縁が成就したものと成ります。静息が存しているとき、静息が成就した者にとって、(6)安楽は、機縁が成就したものと成ります。安楽が存しているとき、安楽が成就した者にとって、(7)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(8)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(9)厭離は、機縁が成就したものと成ります。厭離が存しているとき、厭離が成就した者にとって、(10)離貪は、機縁が成就したものと成ります。離貪が存しているとき、離貪が成就した者にとって、(11)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。

 

 友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。友よ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、後悔なくあることは、機縁が成就したものと成ります。後悔なくあることが存しているとき、後悔なくあることが成就した者にとって……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 災厄の経

 

6. 「比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況あることであり、機会あることです。すなわち、その〔比丘〕が、十一の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇することです。

 

 どのようなものが、十一のものなのですか。(1)〔いまだ〕到達していないものに到達しません。(2)〔すでに〕到達したものから遍く衰退します。(3)諸々の正なる法(教え)は、彼を浄化しません。(4)あるいは、諸々の正なる法(教え)において、増上慢の者と成ります。(5)あるいは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。(6)あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起します。(7)あるいは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。(8)あるいは、激しい病悩に接触します。(9)あるいは、狂気に、あるいは、心の散乱に、至り得ます。(10)等しく迷乱した者として命を終えます。(11)身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況あることであり、機会あることです。すなわち、その〔比丘〕が、これらの十一の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇することです。

 

 比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その〔比丘〕が、十一の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇せずにいることです。

 

 どのようなものが、十一のものなのですか。(1)〔いまだ〕到達していないものに到達しません。(2)〔すでに〕到達したものから遍く衰退します。(3)諸々の正なる法(教え)は、彼を浄化しません。(4)あるいは、諸々の正なる法(教え)において、増上慢の者と成ります。(5)あるいは、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。(6)あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起します。(7)あるいは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。(8)あるいは、激しい病悩に接触します。(9)あるいは、狂気に、あるいは、心の散乱に、至り得ます。(10)等しく迷乱した者として命を終えます。(11)身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その〔比丘〕が、これらの十一の災厄のなかのどれか一つの災厄に遭遇せずにいることです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 表象の経

 

7. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(3)火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(4)風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「アーナンダよ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。「友よ、アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。友よ、アーナンダよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文と文が、適応し、合致し、確執しないとは。すなわち、この、至高なる句において。友よ、今、わたしは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねました。世尊もまた、わたしに、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、この義(意味)を説き明かしました。それは、すなわち、また、尊者サーリプッタが〔説き明かしたように〕。友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、そして、教師の、さらに、弟子の、義(意味)と義(意味)が、文と文が、適応し、合致し、確執しないとは。すなわち、この、至高なる句において」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 意を為すことの経

 

8. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、眼に意を為すべくもなく、形態に意を為すべくもなく、耳に意を為すべくもなく、音声に意を為すべくもなく、鼻に意を為すべくもなく、臭気に意を為すべくもなく、舌に意を為すべくもなく、味感に意を為すべくもなく、身に意を為すべくもなく、感触に意を為すべくもなく、(1)地に意を為すべくもなく、(2)水に意を為すべくもなく、(3)火に意を為すべくもなく、(4)風に意を為すべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、(9)この世に意を為すべくもなく、(10)他の世に意を為すべくもなく、に意を為すべくもなく、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それにもまた意を為すべくもなく、また、しかしながら、意を為すであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、眼に意を為すべくもなく、形態に意を為すべくもなく、耳に意を為すべくもなく、音声に意を為すべくもなく、鼻に意を為すべくもなく、臭気に意を為すべくもなく、舌に意を為すべくもなく、味感に意を為すべくもなく、身に意を為すべくもなく、感触に意を為すべくもなく、地に意を為すべくもなく、水に意を為すべくもなく、火に意を為すべくもなく、風に意を為すべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に意を為すべくもなく、この世に意を為すべくもなく、他の世に意を為すべくもなく、に意を為すべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それにもまた意を為すべくもなく、また、しかしながら、意を為すであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、眼に意を為すべくもなく、形態に意を為すべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それにもまた意を為すべくもなく、また、しかしながら、意を為すであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「アーナンダよ、ここに、比丘が、このように意を為します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、眼に意を為すべくもなく、形態に意を為すべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それにもまた意を為すべくもなく、また、しかしながら、意を為すであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. サッダの経

 

9. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、尊者サッダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サッダに、世尊は、こう言いました。

 

 「サッダよ、まさに、良馬の瞑想するところを瞑想しなさい。野馬の瞑想するところではなく。では、どのように、野馬の瞑想するところと成るのですか。サッダよ、まさに、野馬たる馬は、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、『牧草』『牧草』と思い惑います(ジャーヤティ)。それは、何を因とするのですか。サッダよ、まさに、野馬たる馬には、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、このような〔思いは〕有りません。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。彼は、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、『牧草』『牧草』と思い惑います。サッダよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の野馬たる人は、林に赴くもまた、木の根元に赴くもまた、空家に赴くもまた、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を内に作り為して、瞑想し(ジャーヤティ)、凝思し(パッジャーヤティ)、尋思し(ニッジャーヤティ)、沈思します(アヴァッジャーヤティ)。憎悪〔の思い〕(瞋恚)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕……。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕……。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕……。疑惑〔の思い〕()に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、疑惑〔の思い〕を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。彼は、(1)地にもまた依拠して瞑想し、(2)水にもまた依拠して瞑想し、(3)火にもまた依拠して瞑想し、(4)風にもまた依拠して瞑想し、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して瞑想し、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して瞑想し、(7)無所有なる〔認識の〕場所にもまた依拠して瞑想し、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にもまた依拠して瞑想し、(9)この世にもまた依拠して瞑想し、(10)他の世にもまた依拠して瞑想し、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それにもまた依拠して瞑想します。サッダよ、このように、まさに、野馬たる人の瞑想するところと成ります。

 

 サッダよ、では、どのように、良馬の瞑想するところと成るのですか。サッダよ、まさに、賢馬にして良馬たる馬は、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、『牧草』『牧草』と思い惑いません。それは、何を因とするのですか。サッダよ、まさに、賢馬にして良馬たる馬には、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、このような〔思いが〕有ります。『いったい、まさに、どのような任務を、調御されるべき馬の馭者は、わたしに、今日、為させるのだろう。何を、わたしは、彼のために、備えと為そう』と。彼は、餌桶〔の近く〕に結縛されたなら、『牧草』『牧草』と思い惑いません。サッダよ、まさに、賢馬にして良馬たる馬は、負債あるとおりに、結縛あるとおりに、衰退あるとおりに、失敗あるとおりに、このように、鞭の下されることを等しく随観します。サッダよ、まさしく、このように、まさに、賢馬にして良馬たる人は、林に赴くもまた、木の根元に赴くもまた、空家に赴くもまた、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住まず〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住まず〕……。〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住まず〕……。〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住まず〕……。疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住まず〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知します。彼は、まさしく、(1)地に依拠して瞑想せず、(2)水に依拠して瞑想せず、(3)火に依拠して瞑想せず、(4)風に依拠して瞑想せず、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(7)無所有なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(9)この世に依拠して瞑想せず、(10)他の世に依拠して瞑想せず、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それに依拠して瞑想せず、また、しかしながら、瞑想します。サッダよ、また、そして、このように、瞑想者である、賢馬にして良馬たる人を、インダ(帝釈天)を含み、梵〔天〕を含み、造物主を含む、天〔の神々〕たちは、まさしく、遠く離れて礼拝します。

 

 〔すなわち〕『良馬たる人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたには、依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは、それを〕証知しません』」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サッダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、どのように、瞑想者である、賢馬にして良馬たる人は、まさしく、(1)地に依拠して瞑想せず、(2)水に依拠して瞑想せず、(3)火に依拠して瞑想せず、(4)風に依拠して瞑想せず、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(7)無所有なる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に依拠して瞑想せず、(9)この世に依拠して瞑想せず、(10)他の世に依拠して瞑想せず、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それに依拠して瞑想せず、また、しかしながら、瞑想するのですか。尊き方よ、また、そして、どのように、瞑想者である、賢馬にして良馬たる人を、インダを含み、梵〔天〕を含み、造物主を含む、天〔の神々〕たちは、まさしく、遠く離れて礼拝するのですか。

 

 〔すなわち〕『良馬たる人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたには、依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは、それを〕証知しません』」と。

 

 「サッダよ、ここに、賢馬にして良馬たる人のばあい、地における地の表象は、実体を離れたものとして有ります。水における水の表象は、実体を離れたものとして有ります。火における火の表象は、実体を離れたものとして有ります。風における風の表象は、実体を離れたものとして有ります。虚空無辺なる〔認識の〕場所における虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象は、実体を離れたものとして有ります。識知無辺なる〔認識の〕場所における識知無辺なる〔認識の〕場所の表象は、実体を離れたものとして有ります。無所有なる〔認識の〕場所における無所有なる〔認識の〕場所の表象は、実体を離れたものとして有ります。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象は、実体を離れたものとして有ります。この世におけるこの世の表象は、実体を離れたものとして有ります。他の世における他の世の表象は、実体を離れたものとして有ります。すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象は、実体を離れたものとして有ります。サッダよ、このように、瞑想者である、まさに、賢馬にして良馬たる人は、まさしく、地に依拠して瞑想せず……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、それに依拠して瞑想せず、また、しかしながら、瞑想します。サッダよ、また、そして、このように、瞑想者である、賢馬にして良馬たる人を、インダを含み、梵〔天〕を含み、造物主を含む、天〔の神々〕たちは、まさしく、遠く離れて礼拝します。

 

 〔すなわち〕『良馬たる人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたには、依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは、それを〕証知しません』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. モーラ・ニヴァーパの経

 

10. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。(1)〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇であり、(2)〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇であり、(3)〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、他にもまた、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。(4)神通の神変であり、(5)指摘の神変であり、(6)教示の神変です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、他にもまた、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。(7)正しい見解であり、(8)正しい知恵であり、(9)正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、二つのものなのですか。(10)明知であり、(11)行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。比丘たちよ、梵〔天〕のサナンクマーラによってもまた、この詩偈が語られました。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、サナンクマーラによって語られた、この詩偈は見事に語られました──拙劣に語られたものではなく、義(利益)を伴ったものとして、義(道理)ならざることを伴ったものではなく、わたしに許認されたものとして。比丘たちよ、わたしもまた、このように説きます。

 

 〔すなわち〕『彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる』」と。〔以上が〕第十となる。

 

 依所の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『何を義(目的)として』があり、思欲、三つの機縁があり、そして、災厄とともに、二つの表象、意を為すこと、サッダ、モーラ・ニヴァーパがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 随念の章

 

1. 第一のマハー・ナーマの経

 

11. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」』と。尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか」と。

 

 「マハー・ナーマよ、善きかな、善きかな。マハー・ナーマよ、まさに、このことは、良家の子息である、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、如来に、『尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか』と尋ねることです。マハー・ナーマよ、まさに、(1)信ある者は、達成者と成ります──信なき者ではなく。(2)精進に励む者は、達成者と成ります──怠惰の者ではなく。(3)気づきが現起された者は、達成者と成ります──気づきが忘却された者ではなく。(4)〔心が〕定められた者は、達成者と成ります──〔心が〕定められていない者ではなく。(5)智慧ある者は、達成者と成ります──智慧浅き者ではなく。マハー・ナーマよ、まさに、あなたは、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なる六つの法(性質)を修めるべきです。(6)マハー・ナーマよ、ここに、あなたは、如来を随念するべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──如来を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、覚者の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 (7)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、法(教え)を随念するべきです。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、法(教え)を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──法(教え)を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、法(教え)の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 (8)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、僧団を随念するべきです。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、僧団を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──僧団を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、僧団の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 (9)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、自己の諸戒を随念するべきです──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、戒を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──戒を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、戒の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 (10)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、自己の施捨を随念するべきです。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、施捨を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──施捨を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、施捨の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 (11)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、天神たちを随念するべきです。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。兜率天〔の神々〕たちが存在する。化楽天〔の神々〕たちが存在する。他化自在天〔の神々〕たちが存在する。梵衆天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の戒が等しく見出される。そのような形態の所聞を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の所聞が等しく見出される。そのような形態の施捨を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の施捨が等しく見出される。そのような形態の智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──天神たちを対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて、正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、天神たちの随念を修める』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二のマハー・ナーマの経

 

12. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。

 

 まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」』と。尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか」と。

 

 「マハー・ナーマよ、善きかな、善きかな。マハー・ナーマよ、まさに、このことは、良家の子息である、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、如来に、『尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか』と尋ねることです。マハー・ナーマよ、まさに、(1)信ある者は、達成者と成ります──信なき者ではなく、(2)精進に励む者は、達成者と成ります──怠惰の者ではなく。(3)気づきが現起された者は、達成者と成ります──気づきが忘却された者ではなく。(4)〔心が〕定められた者は、達成者と成ります──〔心が〕定められていない者ではなく。(5)智慧ある者は、達成者と成ります──智慧浅き者ではなく。マハー・ナーマよ、まさに、あなたは、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なる六つの法(性質)を修めるべきです。

 

 (6)マハー・ナーマよ、ここに、あなたは、如来を随念するべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──如来を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、まさに、あなたは、この覚者の随念を、赴いているときもまた修めるべきであり、立っているときもまた修めるべきであり、坐っているときもまた修めるべきであり、臥しているときもまた修めるべきであり、生業に従事しているときもまた修めるべきであり、子たちで溢れる臥所に居住しているときもまた修めるべきです。

 

 (7)マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、あなたは、法(教え)を随念するべきです。……略……(8)僧団を随念するべきです。……略……(9)自己の諸戒を随念するべきです。……略……(10)自己の施捨を随念するべきです。……略……(11)天神たちを随念するべきです。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。……略……。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を……略……所聞を……略……施捨を……略……智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──天神たちを対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、まさに、あなたは、この天神たちの随念を、赴いているときもまた修めるべきであり、立っているときもまた修めるべきであり、坐っているときもまた修めるべきであり、臥しているときもまた修めるべきであり、生業に従事しているときもまた修めるべきであり、子たちで溢れる臥所に居住しているときもまた修めるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ナンディヤの経

 

13. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、サーヴァッティーにある雨期の居住所に近しく赴くことを欲する者として〔世に〕有ります。

 

 まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、「どうやら、世尊が、サーヴァッティーにある雨期の居住所に近しく赴くことを欲しているらしい」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤに、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしもまた、サーヴァッティーにある雨期の居住所に近しく赴くのだ。そこにおいて、まさしく、そして、生業に従事し、さらに、〔その〕時〔その〕時に、世尊と会見することを得るのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにある雨期の居住所に近しく赴きました。まさに、釈迦〔族〕のナンディヤもまた、サーヴァッティーにある雨期の居住所に近しく赴きました。そこにおいて、まさしく、そして、生業に従事し、さらに、〔その〕時〔その〕時に、世尊と会見することを得ました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。

 

 まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」』と。尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか」と。

 

 「ナンディヤよ、善きかな、善きかな。ナンディヤよ、まさに、このことは、良家の子息である、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、如来に、『尊き方よ、種々なる住によって〔世に〕住んでいるのが、〔まさに〕その、わたしたちであるなら、それでは、どのような住によって〔世に〕住むべきですか』と尋ねることです。ナンディヤよ、まさに、(1)信ある者は、達成者と成ります──信なき者ではなく。(2)戒ある者は、達成者と成ります──劣戒の者ではなく。(3)精進に励む者は、達成者と成ります──怠惰の者ではなく。(4)気づきが現起された者は、達成者と成ります──気づきが忘却された者ではなく。(5)〔心が〕定められた者は、達成者と成ります──〔心が〕定められていない者ではなく。(6)智慧ある者は、達成者と成ります──智慧浅き者ではなく。ナンディヤよ、まさに、あなたによって、これらの六つの法(性質)において確立して〔そののち〕、五つの法(性質)において内に気づきが現起させられるべきです。

 

 (7)ナンディヤよ、ここに、あなたは、如来を随念するべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。ナンディヤよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、如来を対象として、内に気づきが現起させられるべきです。

 

 (8)ナンディヤよ、さらに、また、他に、あなたは、法(教え)を随念するべきです。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。ナンディヤよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、法(教え)を対象として、内に気づきが現起させられるべきです。

 

 (9)ナンディヤよ、さらに、また、他に、あなたは、善き朋友たちを随念するべきです。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしの善き朋友たちは、慈しみ〔の思い〕ある者たちであり、〔わたしの〕義(利益)を欲する者たちであり、教諭者たちであり、教示者たちである』と。ナンディヤよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、善き朋友たちを対象として、内に気づきが現起させられるべきです。

 

 (10)ナンディヤよ、さらに、また、他に、あなたは、自己の施捨を随念するべきです。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として』と。ナンディヤよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、施捨を対象として、内に気づきが現起させられるべきです。

 

 (11)ナンディヤよ、さらに、また、他に、あなたは、天神たちを随念するべきです。すなわち、天神たちは、物質としての食(段食)を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者たちであり、それら〔の天神〕たちは、自己の為すべきことを──あるいは、〔自己の〕為したことの蓄積も──等しく随観しません。ナンディヤよ、それは、たとえば、また、時限なき解脱者たる比丘が、自己の為すべきことを──あるいは、〔自己の〕為したことの蓄積も──等しく随観しないように、ナンディヤよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの天神たちは、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者たちであり、それら〔の天神〕たちは、自己の為すべきことを──あるいは、〔自己の〕為したことの蓄積も──等しく随観しません。ナンディヤよ、かくのごとく、まさに、あなたによって、天神たちを対象として、内に気づきが現起させられるべきです。

 

 ナンディヤよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した聖なる弟子は、まさしく、諸々の悪しき法(性質)を捨棄し、〔それらに〕執取しません。ナンディヤよ、それは、たとえば、また、瓶が伏せられたなら、まさしく、水を吐き捨て、吐き捨てられたものを飲み戻さないようなものです。ナンディヤよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、乾燥した草原に火が放たれたなら、まさしく、焼き尽くしながら赴き、焼け跡に逆戻りしないようなものです。ナンディヤよ、まさしく、このように、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した聖なる弟子は、まさしく、諸々の悪しき法(性質)を捨棄し、〔それらに〕執取しません」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. スブーティの経

 

14. そこで、まさに、尊者スブーティが、サッダ比丘と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スブーティに、世尊は、こう言いました。「スブーティよ、この比丘は、どのような名の者ですか」と。「尊き方よ、この比丘は、スダッタ在俗信者の子で、サッダという名の者です。信によって家から家なきへと出家した者です」と。

 

 「スブーティよ、また、どうなのでしょう、この者は、スダッタ在俗信者の子であるサッダ比丘は、信によって家から家なきへと出家した者として、諸々の信の行状において現見されますか」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、信ある者の諸々の信の行状を語るなら、今や、わたしは知るでしょう──あるいは、すなわち、この比丘が、諸々の信の行状において現見されるのか、あるいは、すなわち、〔現見され〕ないのか」と。

 

 「スブーティよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者スブーティは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)スブーティよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (2)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有るなら……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (3)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (4)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (5)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (6)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律理(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律理において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (7)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住むなら──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり──スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (8)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (9)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (10)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります。

 

 (11)スブーティよ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。スブーティよ、すなわち、また、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むなら、スブーティよ、これもまた、信ある者の信の行状と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者スブーティは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、これらの、信ある者の諸々の信の行状が、世尊によって語られました。この比丘には、それら〔の信の行状〕が等しく見出され、そして、この比丘は、これらに〔の信の行状〕おいて現見されます。

 

 (1)尊き方よ、この比丘は、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。

 

 (2)尊き方よ、この比丘は、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。

 

 (3)尊き方よ、この比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。

 

 (4)尊き方よ、この比丘は、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。

 

 (5)尊き方よ、この比丘は、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。

 

 (6)尊き方よ、この比丘は、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理において、高次の律理において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。

 

 (7)尊き方よ、この比丘は、精進に励む者として〔世に〕住みます……略……諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。

 

 (8)尊き方よ、この比丘は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

 

 (9)尊き方よ、この比丘は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 (10)尊き方よ、この比丘は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 (11)尊き方よ、この比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。尊き方よ、すなわち、これらの、信ある者の諸々の信の行状が、世尊によって語られました。この比丘には、それら〔の信の行状〕が等しく見出され、そして、この比丘は、これら〔の信の行状〕において現見されます」と。

 

 「スブーティよ、善きかな、善きかな。まさに、それでは、あなたは、そして、このサッダ比丘と共に〔世に〕住むべきです。スブーティよ、さらに、すなわち、あなたが、如来と会見することを望むときは、このサッダ比丘と共に、如来と会見するために近づいて行くべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 慈愛の経

 

15. 「比丘たちよ、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十一の福利が期待できます。

 

 どのようなものが、十一のものなのですか。(1)安楽のうちに眠ります。(2)安楽のうちに目覚めます。(3)悪夢を見ません。(4)人間たちにとって愛しい者と成ります。(5)人間ならざるもの(精霊・悪霊)たちにとって愛しい者と成ります。(6)天神たちが〔彼を〕守ります。(7)彼に、あるいは、火が、あるいは、毒が、あるいは、刃が、至り行くことはありません。(8)すみやかに心が定められます。(9)顔色が澄浄になります。(10)迷乱なき者として命を終えます。(11)より上なるもの(智慧による解脱)に理解なくあるも、梵の世に近しく赴く者と成ります。比丘たちよ、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、習修され、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの十一の福利が期待できます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アッタカ城市民の経

 

16. 或る時のことです。尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において。また、まさに、その時点にあって、アッタカ城市民のダサマ家長が、パータリプッタに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。

 

 そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、クックタ〔長者〕の林園のあるところに、或るひとりの比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どこに、今現在、尊者アーナンダは住んでいますか。尊き方よ、まさに、わたしどもは、尊者アーナンダと会見することを欲しています」と。「家長よ、彼は、尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。ベールヴァ村において」と。

 

 そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、パータリプッタにおいて、その用事を済ませて、ヴェーサーリーのベールヴァ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものに至り得ます」と。「家長よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた〔一つの法〕が。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた〔一つの法〕なのですか。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。「(1)家長よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第一の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (2)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を……略……(3)第三の瞑想(第三禅)を……略……(4)第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この第四の瞑想もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた〔一つの法〕です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心が解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩が完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (5)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この慈愛という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって……略……あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (6)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……(7)歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……(8)放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この放捨という〔止寂の〕心による解脱もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって……略……あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (9)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって……略……あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 (10)家長よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。……略……(11)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、この無所有なる〔認識の〕場所への入定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。家長よ、これもまた、まさに、一つの法(性質)です。彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって……略……あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。

 

 このように説かれたとき、アッタカ城市民のダサマ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アーナンダよ、それは、たとえば、また、人が、一つの妙なる財宝を探し求めながら、まさしく、一度に、十一の妙なる財宝に到達するようなものです。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一つの不死の門を探し求めながら、〔善き人に〕慣れ親しむことによって、まさしく、一度に、十一の不死の門を得ました。尊き方よ、それは、たとえば、また、人に、十一の門ある家があるようなものです。彼は、その家が燃えているとき、一つ一つの門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、これらの十一の不死の門の、一つ一つの不死の門によってもまた、自己の安穏を為すことができます。尊き方よ、まさに、これらの〔教えを〕他にする異教の者たちは、まさに、師匠のために、師匠の財を遍く探し求めます。また、どうして、わたしが、尊者アーナンダのために、供養を為さないというのでしょう」と。

 

 そこで、まさに、アッタカ城市民のダサマ家長は、そして、ヴェーサーリーの、さらに、パータリプッタの、比丘の僧団を集めて、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そして、一者一者の比丘に、各自に、ひと組の布地をまとわせ、さらに、尊者アーナンダに、三つの衣料を〔まとわせ〕、尊者アーナンダのために、五百の精舎を作らせた、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 牛飼いの経

 

17. 「比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません(尊重しない)。比丘たちよ、まさに、これらの十一の支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。

 

 (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態(:物質)を、『四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成りません。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為()による特相ある者として、愚者はあり、行為による特相ある者として、賢者はある』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成りません。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめず、生起した憎悪の思考を……生起した悩害の思考を……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成りません。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守護せず、眼の機能における統御を惹起しません。耳によって、音声()を聞いて……。鼻によって、臭気()を嗅いで……。舌によって、味感()を味わって……。身によって、感触(所触)と接触して……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践せず、意の機能を守護せず、意の機能における統御を惹起しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成りません。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成りません。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ねず、遍く質問せず、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕せず、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為さず、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知りません。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得ず、法(教え)の信受を得ず、法(真理)を伴った歓喜を得ません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知りません。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知りません。

 

 (9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立(四念処・四念住)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成りません。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りなく搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りなく搾乳する者と成ります。

 

 (11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させず……慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させず、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります(尊重する)。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。

 

 (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態(物質)を、『四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成ります。

 

 (2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為による特相ある者として、愚者はあり、行為による特相ある者として、賢者はある』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成ります。

 

 (3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……生起した悩害の思考を……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成ります。

 

 (4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成ります。

 

 (5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成ります。

 

 (6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知ります。

 

 (7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知ります。

 

 (8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知ります。

 

 (9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成ります。

 

 (10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りを有して搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りを有して搾乳する者と成ります。

 

 (11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させ……慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させ、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の禅定の経

 

18. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(3)火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(4)風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「比丘たちよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の禅定の経

 

19. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の禅定の経

 

20. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。「友よ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。友よ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第四の禅定の経

 

21. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、(1)地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(2)水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(3)火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(4)風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(6)識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(7)無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(9)この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(10)他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、(11)すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく……略……すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。

 

 「友よ、ここに、比丘が、このような表象ある者として〔世に〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。友よ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、まさしく、地について地の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、水について水の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、火について火の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、風について風の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所について虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、識知無辺なる〔認識の〕場所について識知無辺なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、無所有なる〔認識の〕場所について無所有なる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、この世についてこの世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、他の世について他の世の表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、すなわち、この、見られ、聞かれ、思われ、識られ、至り得られ、遍く探し求められ、意によって点検されたものがあるとして、そこでもまた、表象ある者として〔世に〕存するべくもなく、また、しかしながら、表象ある者として〔世に〕存するであろう、〔そのような形態の禅定の獲得が〕」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 随念の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「マハー・ナーマによって、二つのものが説かれ、ナンディヤとともに、スブーティとともに、慈愛、アッタカ、牛飼い、そして、四つの禅定があり、〔章となる〕」と。

 

3. 同等の章

 

22-29. 「比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません(尊重しない)。比丘たちよ、まさに、これらの十一の支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、眼において、無常の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……略……眼において、苦痛の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、無我の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、滅尽の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、衰失の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、離貪の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、止滅の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。……眼において、放棄の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。

 

30-69. ……耳において……鼻において……舌において……身において……意において……。

 

70-117. ……諸々の形態において……諸々の音声において……諸々の臭気において……諸々の味感において……諸々の感触において……諸々の法(意の対象)において……。

 

118-165. ……眼の識知〔作用〕において……耳の識知〔作用〕において……鼻の識知〔作用〕において……舌の識知〔作用〕において……身の識知〔作用〕において……意の識知〔作用〕において……。

 

166-213. ……眼の接触において……耳の接触において……鼻の接触において……舌の接触において……身の接触において……意の接触において……。

 

214-261. ……眼の接触から生じる感受において……耳の接触から生じる感受において……鼻の接触から生じる感受において……舌の接触から生じる感受において……身の接触から生じる感受において……意の接触から生じる感受において……。

 

262-309. ……形態の表象において……音声の表象において……臭気の表象において……味感の表象において……感触の表象において……法(意の対象)の表象において……。

 

310-357. ……形態の思欲において……音声の思欲において……臭気の思欲において……味感の思欲において……感触の思欲において……法(意の対象)の思欲において……。

 

358-405. ……形態の渇愛において……音声の渇愛において……臭気の渇愛において……味感の渇愛において……感触の渇愛において……法(意の対象)の渇愛において……。

 

406-453. ……形態の思考において……音声の思考において……臭気の思考において……味感の思考において……感触の思考において……法(意の対象)の思考において……。

 

454-501. ……形態の想念において……音声の想念において……臭気の想念において……味感の想念において……感触の想念において……法(意の対象)の想念において、無常の随観ある者として〔世に〕住むことが……苦痛の随観ある者として〔世に〕住むことが……無我の随観ある者として〔世に〕住むことが……滅尽の随観ある者として〔世に〕住むことが……衰失の随観ある者として〔世に〕住むことが……離貪の随観ある者として〔世に〕住むことが……止滅の随観ある者として〔世に〕住むことが……放棄の随観ある者として〔世に〕住むことが……略……。

 

4. 貪欲と省略〔の経典〕

 

502. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、十一の法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、十一のものなのですか。(1)第一の瞑想であり、(2)第二の瞑想であり、(3)第三の瞑想であり、(4)第四の瞑想であり、(5)慈愛という〔止寂の〕心による解脱であり、(6)慈悲という〔止寂の〕心による解脱であり、(7)歓喜という〔止寂の〕心による解脱であり、(8)放捨という〔止寂の〕心による解脱であり、(9)虚空無辺なる〔認識の〕場所であり、(10)識知無辺なる〔認識の〕場所であり、(11)無所有なる〔認識の〕場所です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの十一の法(性質)が修められるべきです」と。

 

503-511. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの十の法(性質)が修められるべきです」と。

 

512-671. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの十一の法(性質)が修められるべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「九千の経があり、さらに、より一層のものとして五百〔の経〕があり、五十七の経典がある、アングッタラ〔聖典〕が整備された」と。

 

 エーカーダサカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。

 

 アングッタラ・ニカーヤは〔以上で〕完結となる。