相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)
範疇の部(蘊篇・下)
【目次】
2(23). ラーダに相応するもの(160.~)
1. 第一の章(160.~)
1. 悪魔の経
2. 有情の経
3. 生存に導くものの経
4. 遍知するべきものの経
5. 沙門たちの経
6. 第二の沙門たちの経
7. 預流たる者の経
8. 阿羅漢の経
9. 欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経
10. 第二の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経
2. 第二の章(170.~)
1. 悪魔の経
2. 悪魔の法の経
3. 無常の経
4. 無常の法の経
5. 苦痛の経
6. 苦痛の法の経
7. 無我の経
8. 無我の法の経
9. 滅尽の法の経
10. 衰失の法の経
11. 集起の法の経
12. 止滅の法の経
3. 懇願の章(182.~)
1-11. 悪魔等の経の十一なるもの
12. 止滅の法の経
4. 近坐の章(194.~)
1-11. 悪魔等の経の十一なるもの
12. 止滅の法の経
3(24). 見解に相応するもの(206.~)
1. 預流の章(206.~)
1. 風の経
2. 「これは、わたしのものである」の経
3. 「それは、自己である」の経
4. 「かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく」の経
5. 「布施された〔施物の果〕は存在しない」の経
6. 「為している者に」の経
7. 因の経
8. 大いなる見解の経
9. 「常久である」の見解の経
10. 「常久ではない」の見解の経
11. 「終極がある」の経
12. 「終極がない」の経
13. 「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある」の経
14. 「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある」の経
15. 「如来は、死後に有る」の経
16. 「如来は、死後に有ることがない」の経
17. 「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」の経
18. 「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」の経
2. 第二の赴くものの章(224.~)
1. 風の経
18. 「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」の経
19. 「形態あるものとして、自己は」の経
20. 「形態なきものとして、自己は」の経
21. 「かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は」の経
22. 「まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は」の経
23. 「一方的に安楽あるものとして」の経
24. 「一方的に苦痛あるものとして」の経
25. 「安楽と苦痛あるものとして」の経
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
3. 第三の赴くものの章(250.~)
1. 「諸々の風は〔吹か〕ない」の経
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
4. 第四の赴くものの章(276.~)
1. 「諸々の風は〔吹か〕ない」の経
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
4(25). 参入した者に相応するもの(302.~)
1. 眼の経
2. 形態の経
3. 識知〔作用〕の経
4. 接触の経
5. 接触から生じるものの経
6. 形態の表象の経
7. 形態の思欲の経
8. 形態の渇愛の経
9. 地の界域の経
10. 範疇の経
5(26). 生起に相応するもの(312.~)
1. 眼の経
2. 形態の経
3. 識知〔作用〕の経
4. 接触の経
5. 接触から生じるものの経
6. 表象の経
7. 思欲の経
8. 渇愛の経
9. 界域の経
10. 範疇の界域の経
6(27). 〔心の〕汚れに相応するもの(322.~)
1. 眼の経
2. 形態の経
3. 識知〔作用〕の経
4. 接触の経
5. 接触から生じるものの経
6. 表象の経
7. 思欲の経
8. 渇愛の経
9. 界域の経
10. 範疇の界域の経
7(28). サーリプッタに相応するもの(332.~)
1. 遠離から生じるものの経
2. 思考なきものの経
3. 喜悦の経
4. 放捨の経
5. 虚空無辺なる〔認識の〕場所の経
6. 識知無辺なる〔認識の〕場所の経
7. 無所有なる〔認識の〕場所の経
8. 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の経
9. 止滅の入定の経
10. スーチムキーの経
8(29). 龍に相応するもの(342.~)
1. 単純なるものの経
2. より精妙なる者たちの経
3. 斎戒の経
4. 第二の斎戒の経
5. 第三の斎戒の経
6. 第四の斎戒の経
7. 所聞の経
8. 第二の所聞の経
9. 第三の所聞の経
10. 第四の所聞の経
11-20. 卵生の布施の資益の経の十なるもの
21-50. 胎生等の布施の資益の経の三十なるもの
9(30). 金翅鳥に相応するもの(392.~)
1. 単純なるものの経
2. 「運び去ります」の経
3. 〔善と悪の〕両者を為す者たちの経
4-6. 第二の〔善と悪の〕両者を為す者たちの経等の三なるもの
7-16. 卵生の布施の資益の経の十なるもの
17-46. 胎生等の布施の資益の経の三十なるもの
10(31). 音楽神の衆に相応するもの(438.~)
1. 単純なるものの経
2. 善き行ないの経
3. 根の香りの施者の経
4-12. 硬材の香り等の施者の経の九なるもの
13-22. 根の香りの布施の資益の経の十なるもの
23-112. 硬材の香り等の布施の資益の経の九十なるもの
11(32). 雲に相応するもの(550.~)
1. 単純なるものの経
2. 善き行ないの経
3-12. 冷雲の布施の資益の経の十なるもの
13-52. 熱雲〔等〕の布施の資益の経の四十なるもの
53. 冷雲の経
54. 熱雲の経
55. 暗雲の経
56. 風雲の経
57. 雨雲の経
12(33). ヴァッチャ・ゴッタに相応するもの(607.~)
1. 形態について知なきことの経
2. 感受〔作用〕について知なきことの経
3. 表象〔作用〕について知なきことの経
4. 諸々の形成〔作用〕について知なきことの経
5. 識知〔作用〕について知なきことの経
6-10. 形態について見なきこと等の経の五なるもの
11-15. 形態について知悉なきこと等の経の五なるもの
16-20. 形態について随覚なきこと等の経の五なるもの
21-25. 形態について理解なきこと等の経の五なるもの
26-30. 形態について省察なきこと等の経の五なるもの
31-35. 形態について近察なきこと等の経の五なるもの
36-40. 形態について精察なきこと等の経の五なるもの
41-45. 形態について正視なきこと等の経の五なるもの
46-50. 形態について綿密の注視なきこと等の経の五なるもの
51-54. 形態について現見の行為なきこと等の経の四なるもの
55. 識知〔作用〕について現見の行為なきことの経
13(34). 瞑想に相応するもの(662.~)
1. 禅定を根元とする入定の経
2. 禅定を根元とする止住の経
3. 禅定を根元とする出起の経
4. 禅定を根元とする健全性の経
5. 禅定を根元とする対象の経
6. 禅定を根元とする境涯の経
7. 禅定を根元とする導引の経
8. 禅定を根元とする真剣に為す者の経
9. 禅定を根元とする常久に為す者の経
10. 禅定を根元とする正当に為す者の経
11. 入定を根元とする止住の経
12. 入定を根元とする出起の経
13. 入定を根元とする健全性の経
14. 入定を根元とする対象の経
15. 入定を根元とする境涯の経
16. 入定を根元とする導引の経
17. 入定を根元とする真剣に為す者の経
18. 入定を根元とする常久に為す者の経
19. 入定を根元とする正当に為す者の経
20-27. 止住を根元とする出起の経等の八なるもの
28-34. 出起を根元とする健全性の経等の七なるもの
35-40. 健全性を根元とする対象の経等の六なるもの
41-45. 対象を根元とする境涯の経等の五なるもの
46-49. 境涯を根元とする導引の経等の四なるもの
50-52. 導引を根元とする真剣の経等の三なるもの
53-54. 真剣を根元とする常久に為す者の経等の二なるもの
55. 常久を根元とする正当に為す者の経
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
範疇の部(蘊篇・下)
2(23). ラーダに相応するもの
1. 第一の章
1. 悪魔の経
160. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者ラーダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、『悪魔』『悪魔』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、悪魔なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態が存しているとき、あるいは、悪魔として存するであろうし、あるいは、殺害者として〔存するであろうし〕、また、あるいは、それが死ぬのです。ラーダよ、それゆえに、ここに、あなたは、形態を、『悪魔』と見なさい。『殺害者』と見なさい。『〔それは〕死ぬ』と見なさい。『病』と見なさい。『腫物』と見なさい。『矢』と見なさい。『悩苦』と見なさい。『悩苦として有るもの』と見なさい。それを、彼らが、このように見るなら、彼らは、正しく見ます。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、あるいは、悪魔として存するであろうし、あるいは、殺害者として〔存するであろうし〕、また、あるいは、それが死ぬのです。ラーダよ、それゆえに、ここに、あなたは、形態を、『悪魔』と見なさい。『殺害者』と見なさい。『〔それは〕死ぬ』と見なさい。『病』と見なさい。『腫物』と見なさい。『矢』と見なさい。『悩苦』と見なさい。『悩苦として有るもの』と見なさい」と。
「尊き方よ、また、正しく見ることは、何を義(目的)とするのですか」と。「ラーダよ、正しく見ることは、まさに、厭離を義(目的)とします」と。「尊き方よ、また、厭離は、何を義(目的)とするのですか」と。「ラーダよ、厭離は、まさに、離貪を義(目的)とします」と。「尊き方よ、また、離貪は、何を義(目的)とするのですか」と。「ラーダよ、離貪は、まさに、解脱を義(目的)とします」と。「尊き方よ、また、解脱は、何を義(目的)とするのですか」と。「ラーダよ、解脱は、まさに、涅槃を義(目的)とします」と。「尊き方よ、また、涅槃は、何を義(目的)とするのですか」と。「ラーダよ、〔あなたは〕問い〔の限度〕を超え行きました。〔あなたは〕問いの最極を収め取ることができませんでした。ラーダよ、なぜなら、梵行は、涅槃への沈潜であり、涅槃を行き着く所として、涅槃を結末として、住されるからです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 有情の経
161. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『有情』『有情』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『有情』と説かれるのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、そこにあって、執着したのであり(サッタ)、そこにあって、強く執着したのです(ヴィサッタ)。それゆえに、『有情(サッタ)』と説かれます。感受〔作用〕にたいし……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし……。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、そこにあって、執着したのであり、そこにあって、強く執着したのです。それゆえに、『有情』と説かれます。
ラーダよ、それは、たとえば、また、あるいは、童子たちが、あるいは、童女たちが、諸々の砂の家で遊び戯れるようなものです。さてまた、何はともあれ、それらの砂の家にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして〔世に〕有るかぎり──欲〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者たちとして──それまでは、それらの砂の家に、執着し、遊楽し、懇望し、わがものと〔錯視〕します。ラーダよ、しかしながら、すなわち、まさに、あるいは、童子たちが、あるいは、童女たちが、それらの砂の家にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者たちとして〔世に〕有ることから──欲〔の思い〕を離れ去った者たちとして、愛情〔の思い〕を離れ去った者たちとして、涸渇〔の思い〕を離れ去った者たちとして、苦悶〔の思い〕を離れ去った者たちとして、渇愛〔の思い〕を離れ去った者たちとして──そこで、まさに、それらの砂の家を、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、撒き散らし、砕破し、砕き去り、遊楽なきものと為します。ラーダよ、まさしく、このように、まさに、あなたたちもまた、形態を、撒き散らし、砕破し、砕き去り、遊楽なきものと為しなさい。渇愛の滅尽のために実践しなさい。感受〔作用〕を、撒き散らし、砕破し、砕き去り、遊楽なきものと為しなさい。渇愛の滅尽のために実践しなさい。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を、撒き散らし、砕破し、砕き去り、遊楽なきものと為しなさい。渇愛の滅尽のために実践しなさい。識知〔作用〕撒き散らし、砕破し、砕き去り、遊楽なきものと為しなさい。渇愛の滅尽のために実践しなさい。ラーダよ、まさに、渇愛の滅尽は、涅槃です」と。〔以上が〕第二となる。
3. 生存に導くものの経
162. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『生存に導くもの』『生存に導くもの』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、生存に導くものであり、どのようなものが、生存に導くものの止滅なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、これは、生存に導くものと説かれます。それらの止滅は、生存に導くものの止滅です。感受〔作用〕にたいし……。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし……。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら……確立と固着と悪習としてあるなら、これは、生存に導くものと説かれます。それらの止滅は、生存に導くものの止滅です」と。〔以上が〕第三となる。
4. 遍知するべきものの経
163. サーヴァッティーの因縁となります。尊者ラーダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。
「ラーダよ、では、諸々の遍知するべき法(性質)を、そして、遍知を、さらに、遍知ある人を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ラーダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「ラーダよ、では、どのようなものが、諸々の遍知されるべき法(性質)なのですか。ラーダよ、まさに、形態は、遍知されるべき法(性質)です。感受〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。表象〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。識知〔作用〕は、遍知されるべき法(性質)です。ラーダよ、これらは、諸々の遍知されるべき法(性質)と説かれます。ラーダよ、では、どのようなものが、遍知なのですか。ラーダよ、すなわち、まさに、貪欲の滅尽であり、憤怒の滅尽であり、迷妄の滅尽です。ラーダよ、これは、遍知と説かれます。ラーダよ、では、どのようなものが、遍知ある人なのですか。『阿羅漢』と説かれるべき者が存在します。すなわち、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕。ラーダよ、これは、遍知ある人と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 沙門たちの経
164. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。ラーダよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、ラーダよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。ラーダよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、ラーダよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二の沙門たちの経
165. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。ラーダよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。
7. 預流たる者の経
166. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。ラーダよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知することから、ラーダよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。
8. 阿羅漢の経
167. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、五つのものがあります。これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり……略……識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。ラーダよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ることから、ラーダよ、この者は、『比丘として、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第八となる。
9. 欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経
168. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、まさに、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。感受〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、その感受〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、それらの形成〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それを捨棄しなさい。このように、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され……略……生起なき法(性質)と成るでしょう」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第二の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の経
169. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、まさに、形態にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、その形態は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。感受〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、その感受〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。表象〔作用〕にたいし……。諸々の形成〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、それらの形成〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう。識知〔作用〕にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、それらを捨棄しなさい。このように、その識知〔作用〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。〔以上が〕第十となる。
〔以上が〕ラーダに相応するものの第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「悪魔、有情、生存に導くもの、遍知されるべきもの、二つの沙門たち、預流たる者、そして、阿羅漢、他に、二つの欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があり、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. 悪魔の経
170. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『悪魔』『悪魔』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、悪魔なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、悪魔です。感受〔作用〕は、悪魔です。表象〔作用〕は、悪魔です。諸々の形成〔作用〕は、悪魔です。識知〔作用〕は、悪魔です。ラーダよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。
2. 悪魔の法の経
171. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『悪魔の法(性質)』『悪魔の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、悪魔の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、悪魔の法(性質)です。感受〔作用〕は、悪魔の法(性質)です。表象〔作用〕は、悪魔の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、悪魔の法(性質)です。識知〔作用〕は、悪魔の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 無常の経
172. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無常』『無常』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無常なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 無常の法の経
173. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無常の法(性質)』『無常の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無常の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、無常の法(性質)です。感受〔作用〕は、無常の法(性質)です。表象〔作用〕は、無常の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、無常の法(性質)です。識知〔作用〕は、無常の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 苦痛の経
174. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『苦痛』『苦痛』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、苦痛なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、苦痛です。感受〔作用〕は、苦痛です。表象〔作用〕は、苦痛です。諸々の形成〔作用〕は、苦痛です。識知〔作用〕は、苦痛です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 苦痛の法の経
175. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『苦痛の法(性質)』『苦痛の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、苦痛の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、苦痛の法(性質)です。感受〔作用〕は、苦痛の法(性質)です。表象〔作用〕は、苦痛の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、苦痛の法(性質)です。識知〔作用〕は、苦痛の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 無我の経
176. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無我』『無我』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無我なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 無我の法の経
177. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無我の法(性質)』『無我の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無我の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、無我の法(性質)です。感受〔作用〕は、無我の法(性質)です。表象〔作用〕は、無我の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、無我の法(性質)です。識知〔作用〕は、無我の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 滅尽の法の経
178. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『滅尽の法(性質)』『滅尽の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、滅尽の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、滅尽の法(性質)です。感受〔作用〕は、滅尽の法(性質)です。表象〔作用〕は、滅尽の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、滅尽の法(性質)です。識知〔作用〕は、滅尽の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 衰失の法の経
179. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『衰失の法(性質)』『衰失の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、衰失の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、衰失の法(性質)です。感受〔作用〕は、衰失の法(性質)です。表象〔作用〕は、衰失の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、衰失の法(性質)です。識知〔作用〕は、衰失の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。
11. 集起の法の経
180. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『集起の法(性質)』『集起の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、集起の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、集起の法(性質)です。感受〔作用〕は、集起の法(性質)です。表象〔作用〕は、集起の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、集起の法(性質)です。識知〔作用〕は、集起の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 止滅の法の経
181. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『止滅の法(性質)』『止滅の法(性質)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、止滅の法(性質)なのですか」と。「ラーダよ、まさに、形態は、止滅の法(性質)です。感受〔作用〕は、止滅の法(性質)です。表象〔作用〕は、止滅の法(性質)です。諸々の形成〔作用〕は、止滅の法(性質)です。識知〔作用〕は、止滅の法(性質)です。ラーダよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十二となる。
〔以上が〕ラーダに相応するものの第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、悪魔、さらに、悪魔の法(性質)、他に、無常によって、二つのものが〔説かれ〕、そして、苦痛によって、二つのものが説かれ、さらに、無我によって、まさしく、そのように〔二つのものが説かれ〕、滅尽と衰失と集起があり、止滅の法(性質)とともに、十二のものがある」と。
3. 懇願の章
1-11. 悪魔等の経の十一なるもの
182. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。
「ラーダよ、まさに、それが、悪魔であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、悪魔なのですか。ラーダよ、形態は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。感受〔作用〕は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。表象〔作用〕は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。諸々の形成〔作用〕は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。識知〔作用〕は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。ラーダよ、まさに、それが、悪魔であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。
183. 「ラーダよ、まさに、それが、悪魔の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。
184. 「ラーダよ、まさに、それが、無常であるなら……略……。
185. 「ラーダよ、まさに、それが、無常の法(性質)であるなら……略……。
186. 「ラーダよ、まさに、それが、苦痛であるなら……略……。
187. 「ラーダよ、まさに、それが、苦痛の法(性質)であるなら……略……。
188. 「ラーダよ、まさに、それが、無我であるなら……略……。
189. 「ラーダよ、まさに、それが、無我の法(性質)であるなら……略……。
190. 「ラーダよ、まさに、それが、滅尽の法(性質)であるなら……略……。
191. 「ラーダよ、まさに、それが、衰失の法(性質)であるなら……略……。
192. 「ラーダよ、まさに、それが、集起の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。
12. 止滅の法の経
193. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。
「ラーダよ、まさに、それが、止滅の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、止滅の法(性質)なのですか。ラーダよ、形態は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。感受〔作用〕は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。表象〔作用〕は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。諸々の形成〔作用〕は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。識知〔作用〕は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。ラーダよ、まさに、それが、止滅の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。
懇願の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、悪魔、さらに、悪魔の法(性質)、他に、無常によって、二つのものが〔説かれ〕、そして、苦痛によって、二つのものが説かれ、さらに、無我によって、まさしく、そのように〔二つのものが説かれ〕、滅尽と衰失と集起があり、止滅の法(性質)とともに、十二のものがある」と。
4. 近坐の章
1-11. 悪魔等の経の十一なるもの
194. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、まさに、それが、悪魔であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、悪魔なのですか。ラーダよ、形態は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。識知〔作用〕は、悪魔です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。ラーダよ、まさに、それが、悪魔であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。
195. 「ラーダよ、まさに、それが、悪魔の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。
196. 「ラーダよ、まさに、それが、無常であるなら……略……。
197. 「ラーダよ、まさに、それが、無常の法(性質)であるなら……略……。
198. 「ラーダよ、まさに、それが、苦痛であるなら……略……。
199. 「ラーダよ、まさに、それが、苦痛の法(性質)であるなら……略……。
200. 「ラーダよ、まさに、それが、無我であるなら……略……。
201. 「ラーダよ、まさに、それが、無我の法(性質)であるなら……略……。
202. 「ラーダよ、まさに、それが、滅尽の法(性質)であるなら……略……。
203. 「ラーダよ、まさに、それが、衰失の法(性質)であるなら……略……。
204. 「ラーダよ、まさに、それが、集起の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。……略……。
12. 止滅の法の経
205. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者ラーダに、世尊は、こう言いました。「ラーダよ、まさに、それが、止滅の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、では、何が、止滅の法(性質)なのですか。ラーダよ、形態は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり……略……。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……略……。諸々の形成〔作用〕は……略……。識知〔作用〕は、止滅の法(性質)です。そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです。ラーダよ、まさに、それが、止滅の法(性質)であるなら、そこで、あなたは、欲〔の思い〕を捨棄するべきであり、貪り〔の思い〕を捨棄するべきであり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を捨棄するべきです」と。
近坐の章が第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、悪魔、さらに、悪魔の法(性質)、他に、無常によって、二つのものが〔説かれ〕、そして、苦痛によって、二つのものが説かれ、さらに、無我によって、まさしく、そのように〔二つのものが説かれ〕、滅尽と衰失と集起があり、止滅の法(性質)とともに、十二のものがある」と。
ラーダに相応するものは〔以上で〕完結となる。
3(24). 見解に相応するもの
1. 預流の章
1. 風の経
206. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林において。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。
「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの集起についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの止滅についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 「これは、わたしのものである」の経
207. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』」と。……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。
3. 「それは、自己である」の経
208. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『それは、自己である。……略……変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『それは、自己である。……略……変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『それは、自己である。それは、世である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。
4. 「かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく」の経
209. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『かつまた、〔わたしは〕存するべくもなく、かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく、〔わたしは〕有ることなくあるであろうし、わたしのものは、〔何も〕有ることなくあるであろう』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 「布施された〔施物の果〕は存在しない」の経
210. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報い(異熟)は存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される(唱えられる)。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら(生命の死後存続を認めるなら)、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略……身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略……身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略……身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略……身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略……。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 「為している者に」の経
211. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『為しているも、為させているも……略……善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『為しているも、為させているも……略……善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『為しているも、為させているも……略……善は存在せず、善の帰還は存在しない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『為しているも、為させているも……略……善は存在せず、善の帰還は存在しない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『為しているも、為させているも……略……善は存在せず、善の帰還は存在しない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第六となる。
7. 因の経
212. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。……略……楽と苦を得知する』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。……略……楽と苦を得知する』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。……略……楽と苦を得知する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。……略……楽と苦を得知する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。……略……楽と苦を得知する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。
8. 大いなる見解の経
213. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず(他に影響を及ぼさない)。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、誰の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為に五百のものがあり、そして、五つの行為(眼・耳・鼻・舌・身)があり、さらに、三つの行為(身業・口業・意業)があり、そして、諸々の行為(身業と口業)があり、さらに、諸々の半分の行為(意業)があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパ(中劫)があり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七つの深淵があり、さらに、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万のカッパがあり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう」という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、ほどけながら楽と苦を去り行く』」と。
「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく……略……楽と苦を去り行く』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく……略……楽と苦を去り行く』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく……略……楽と苦を去り行く』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく……略……ほどけながら楽と苦を去り行く』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第八となる。
9. 「常久である」の見解の経
214. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『世〔界〕は、常久である』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『世〔界〕は、常久である』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『世〔界〕は、常久である』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『世〔界〕は、常久である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『世〔界〕は、常久である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『世〔界〕は、常久である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第九となる。
10. 「常久ではない」の見解の経
215. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『世〔界〕は、常久ではない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき……略……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『世〔界〕は、常久ではない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『世〔界〕は、常久ではない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十となる。
11. 「終極がある」の経
216. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『世〔界〕は、終極がある』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 「終極がない」の経
217. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『世〔界〕は、終極がない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある」の経
218. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十三となる。
14. 「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある」の経
219. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十四となる。
15. 「如来は、死後に有る」の経
220. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『如来は、死後に有る』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十五となる。
16. 「如来は、死後に有ることがない」の経
221. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『如来は、死後に有ることがない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十六となる。
17. 「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」の経
222. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十七となる。
18. 「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」の経
223. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。……略……。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「すなわち、また、この、見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたもの、至り得られたもの、遍く探し求められたもの、意によって探索されたものは、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、すなわち、そして、これらの状況について、まさに、聖なる弟子の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみについてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの集起についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの止滅についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成り、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についてもまた、彼の疑いが捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『聖なる弟子として、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十八となる。
〔以上が〕預流の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「風、『これは、わたしのものである』『それは、自己である』『かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく』『存在しない』『為している者に』があり、そして、因があり、第八のものとして、大いなる見解とともに──
そして、『世〔界〕は、常久である』があり、さらに、『常久ではない』があり、そして、『終極がある』があり、さらに、『終極がない』があり、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解〕があり、さらに、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解〕があり──
『如来は、死後に有る』という〔見解〕があり、『如来は、死後に有ることがない』という〔見解〕があり、〔『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』があり〕、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』があり、〔章となる〕」と。
2. 第二の赴くものの章
1. 風の経
224. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……略……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します(※)。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。〔以上が〕第一となる。
※ テキストには uppajjeyya とあるが、PTS版により uppajjati と読む。
225-240. (最初の章におけるように、十八の説き明かしが詳知されるべきである。)〔以上が〕第十七となる。
18. 「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」の経
241. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。〔以上が〕第十八となる。
19. 「形態あるものとして、自己は」の経
242. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕は……略……。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。〔以上が〕第十九となる。
20. 「形態なきものとして、自己は」の経
243. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。(省略となる。)〔以上が〕第二十となる。
21. 「かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は」の経
244. サーヴァッティーの因縁となります。……。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十一となる。
22. 「まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は」の経
245. ……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十二となる。
23. 「一方的に安楽あるものとして」の経
246. ……。『一方的に安楽あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十三となる。
24. 「一方的に苦痛あるものとして」の経
247. ……。『一方的に苦痛あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十四となる。
25. 「安楽と苦痛あるものとして」の経
248. ……。『安楽と苦痛あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十五となる。
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
249. ……。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、苦しみが存しているとき、苦しみに執取して、苦しみに固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十六となる。
〔以上が〕第二の省略〔の経典の章〕となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「風、『これは、わたしのものである』『それは、自己である』『かつまた、わたしのものは、〔何も〕存するべくもなく』『存在しない』『為している者に』があり、そして、因があり、第八のものとして、大いなる見解とともに──
『常久である』があり、まさしく、そして、『常久ではない』があり、さらに、『終極がある』と『終極がない』が説かれ、『そのものとして、生命があり』があり、さらに、『他なるものとして、生命があり』があり、如来によって、四つのものが〔説かれ〕──
『形態あるものとして、自己は〔世に〕有る』があり、そして、『形態なきものとして、自己は〔世に〕有る』があり、『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は〔世に〕有る』があり、『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は〔世に〕有る』があり、『一方的に安楽あるものとして、自己は〔世に〕有る』があり──
『一方的に苦痛あるものとして、自己は〔世に〕有る』があり、『安楽と苦痛あるものとして、自己は〔世に〕有る』があり、『苦でもなく楽でもないものとして、自己は〔世に〕有る』があり、ということで、これらの二十六の経が、二度目に説示された」と。
3. 第三の赴くものの章
1. 「諸々の風は〔吹か〕ない」の経
250. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが存しているとき、それに執取して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが存しているとき、それに執取して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』」と。〔以上が〕第一となる。
251-274. (第二の章におけるように、二十四の経が満たされるべきである。)〔以上が〕第二十五となる。
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
275. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが存しているとき、それに執取して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「……略……変化の法(性質)であるなら、さて、いったい、それに執取せずして〔そののち〕、このような見解が生起するでしょうか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、それが、無常であるなら、それは、苦痛です。それが存しているとき、それに執取して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。……略……。〔以上が〕第二十六となる。
〔以上が〕第三の省略〔の経典の章〕となる。
4. 第四の赴くものの章
1. 「諸々の風は〔吹か〕ない」の経
276. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『諸々の風は吹かない。諸々の川は流れない。妊婦たちは産まない。月と日は、あるいは、昇り行くことも、あるいは、離れ去ることも、なく、止住する石柱のように止住している』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。感受〔作用〕が存しているとき……略……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『諸々の風は吹かない。……略……止住する石柱のように止住している』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。
比丘たちよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。
277-300. (第二の章におけるように、二十四の経が満たされるべきである。)〔以上が〕第二十五となる。
26. 「苦でもなく楽でもないものとして」の経
301. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、いったい、まさに、何が存しているとき、何に執取して、何に固着して、このような見解が生起するのですか。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。
「比丘たちよ、まさに、形態が存しているとき、形態に執取して、形態に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。感受〔作用〕が存しているとき……。表象〔作用〕が存しているとき……。諸々の形成〔作用〕が存しているとき……。識知〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕に執取して、識知〔作用〕に固着して、このような見解が生起します。『苦でもなく楽でもないものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と。
比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。
比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二十六となる。
〔以上が〕第四の省略〔の経典の章〕となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「最初の赴くものにおいて、十八の説き明かしがあり、第二の赴くものにおいて、二十六のものが詳知されるべきであり──
第三の赴くものにおいて、二十六のものが詳知されるべきであり、第四の赴くものにおいて、二十六のものが詳知されるべきである」と。
見解に相応するものは〔以上で〕完結となる。
4(25). 参入した者に相応するもの
1. 眼の経
302. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、眼は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。耳は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。鼻は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。舌は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。身は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。意は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、彼に、まさに、これらの法(性質)が、このように、智慧によって、適量に納得があり受認されるなら、この者は、『法(教え)に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように覚知し、このように見るなら、この者は、『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 形態の経
303. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、諸々の形態は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の音声は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の臭気は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の味感は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の感触は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。諸々の法(意の対象)は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、彼に、まさに、これらの法(性質)が、このように、智慧によって、適量に納得があり受認されるなら、この者は、『法(教え)に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように覚知し、このように見るなら、この者は、『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。
3. 識知〔作用〕の経
304. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、眼の識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。耳の識知〔作用〕は……。鼻の識知〔作用〕は……。舌の識知〔作用〕は……。身の識知〔作用〕は……。意の識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第三となる。
4. 接触の経
305. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、眼の接触は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。耳の接触は……。鼻の接触は……。舌の接触は……。身の接触は……。意の接触は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 接触から生じるものの経
306. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、眼の接触から生じる感受は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。耳の接触から生じる感受は……略……。鼻の接触から生じる感受は……略……。舌の接触から生じる感受は……略……。身の接触から生じる感受は……略……。意の接触から生じる感受は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 形態の表象の経
307. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態の表象は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。音声の表象は……。臭気の表象は……。味感の表象は……。感触の表象は……。法(意の対象)の表象は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第六となる。
7. 形態の思欲の経
308. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態の思欲は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。音声の思欲は……。臭気の思欲は……。味感の思欲は……。感触の思欲は……。法(意の対象)の思欲は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。
8. 形態の渇愛の経
309. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態の渇愛は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。音声の渇愛は……。臭気の渇愛は……。味感の渇愛は……。感触の渇愛は……。法(意の対象)の渇愛は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第八となる。
9. 地の界域の経
310. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、地の界域は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。水の界域は……。火の界域は……。風の界域は……。虚空の界域は……。識知〔作用〕の界域は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として……略……正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第九となる。
10. 範疇の経
311. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、形態は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。感受〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。識知〔作用〕は、無常であり、変化あるものであり、他なる状態あるものです。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように、信を置き、信念するなら、この者は、『信に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、彼に、まさに、これらの法(性質)が、このように、智慧によって、適量に納得があり受認されるなら、この者は、『法(教え)に従い行く者として、正しい〔道〕たることの決定に参入した者であり、正なる人士の境地に参入した者であり、凡夫の境地を超克した者であり、すなわち、行為を為して〔そののち〕、あるいは、地獄に〔再生し〕、あるいは、畜生の胎に〔再生し〕、あるいは、餓鬼の境域に再生することになる、その行為を為すことが不可能となり、さらに、すなわち、預流果を実証しないあいだ、それまでは、命を終えることが不可能となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、彼が、これらの法(性質)を、このように覚知し、このように見るなら、この者は、『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十となる。
参入した者に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、さらに、接触があり、そして、感受とともに、さらに、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十がある」と。
5(26). 生起に相応するもの
1. 眼の経
312. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、眼の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、耳の、生起であり、止住であり……略……。それが、鼻の、生起であり、止住であり……。それが、舌の、生起であり、止住であり……。それが、身の、生起であり、止住であり……。それが、意の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、眼の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、耳の、止滅であり……略……。それが、鼻の、止滅であり……。それが、舌の、止滅であり……。それが、身の、止滅であり……。それが、意の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第一となる。
2. 形態の経
313. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、諸々の形態の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、諸々の音声の、生起であり、止住であり……略……。それが、諸々の臭気の、生起であり、止住であり……。それが、諸々の味感の、生起であり、止住であり……。それが、諸々の感触の、生起であり、止住であり……。それが、諸々の法(意の対象)の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、諸々の形態の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、諸々の音声の、止滅であり……略……。それが、諸々の臭気の、止滅であり……。それが、諸々の味感の、止滅であり……。それが、諸々の感触の、止滅であり……。それが、諸々の法(意の対象)の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第二となる。
3. 識知〔作用〕の経
314. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、眼の識知〔作用〕の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、意の識知〔作用〕の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、眼の識知〔作用〕の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、意の識知〔作用〕の、止滅であり……略……老と死の滅至です」と。〔以上が〕第三となる。
4. 接触の経
315. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、眼の接触の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、意の接触の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、眼の接触の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、意の接触の、止滅であり……略……老と死の滅至です」と。〔以上が〕第四となる。
5. 接触から生じるものの経
316. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、眼の接触から生じる感受の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、意の接触から生じる感受の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、眼の接触から生じる感受の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、意の接触から生じる感受の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第五となる。
6. 表象の経
317. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、形態の表象の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、法(意の対象)の表象の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、形態の表象の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、法(意の対象)の表象の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第六となる。
7. 思欲の経
318. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、形態の思欲の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、法(意の対象)の思欲の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、形態の思欲の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、法(意の対象)の思欲の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第七となる。
8. 渇愛の経
319. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、形態の渇愛の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。それが、法(意の対象)の渇愛の、生起であり、止住であり……略……老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、形態の渇愛の、止滅であり……略……老と死の滅至です。……略……。それが、法(意の対象)の渇愛の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第八となる。
9. 界域の経
320. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、地の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら……略……老と死の出現です。それが、水の界域の……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の……。それが、虚空の界域の……。それが、識知〔作用〕の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、地の界域の、止滅であり……略……老と死の滅至です。それが、水の界域の……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の……。それが、虚空の界域の……。それが、識知〔作用〕の界域の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第九となる。
10. 範疇の界域の経
321. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、まさに、形態の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、感受〔作用〕の……。それが、表象〔作用〕の……。それが、諸々の形成〔作用〕の……。それが、識知〔作用〕の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。比丘たちよ、しかしながら、それが、形態の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、感受〔作用〕の……。それが、表象〔作用〕の……。それが、諸々の形成〔作用〕の……。それが、識知〔作用〕の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第十となる。
生起に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、さらに、接触があり、そして、感受とともに、さらに、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十がある」と。
6(27). 〔心の〕汚れに相応するもの
1. 眼の経
322. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、眼にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)です。それが、耳にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、鼻にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、舌にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、身にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、意にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の心の、付随する〔心の〕汚れが捨棄されたものと成ることから、そして、彼の心は、離欲に向かい行くものと成ります。離欲が遍く修められた心は、証知によって実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第一となる。
2. 形態の経
323. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、諸々の形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、諸々の音声にたいする……。それが、諸々の臭気にたいする……。それが、諸々の味感にたいする……。それが、諸々の感触にたいする……。それが、諸々の法(意の対象)にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の心の、付随する〔心の〕汚れが捨棄されたものと成ることから、そして、彼の心は、離欲に向かい行くものと成ります。離欲が遍く修められた心は、証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 識知〔作用〕の経
324. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、眼の識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、耳の識知〔作用〕にたいする……。それが、鼻の識知〔作用〕にたいする……。それが、舌の識知〔作用〕にたいする……。それが、身の識知〔作用〕にたいする……。それが、意の識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の心の、付随する〔心の〕汚れが捨棄されたものと成ることから、そして、彼の心は、離欲に向かい行くものと成ります。離欲が遍く修められた心は、証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 接触の経
325. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、眼の接触にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。耳の接触にたいする……。それが、鼻の接触にたいする……。それが、舌の接触にたいする……。それが、身の接触にたいする……。それが、意の接触にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の……略……証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 接触から生じるものの経
326. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、眼の接触から生じる感受にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。耳の接触から生じる感受にたいする……。それが、鼻の接触から生じる感受にたいする……。それが、舌の接触から生じる感受にたいする……。それが、身の接触から生じる感受にたいする……。それが、意の接触から生じる感受にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の……略……証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 表象の経
327. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態の表象にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。音声の表象にたいする……。それが、臭気の表象にたいする……。それが、味感の表象にたいする……。それが、感触の表象にたいする……。それが、法(意の対象)の表象にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の……略……証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 思欲の経
328. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態の思欲にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。音声の思欲にたいする……。それが、臭気の思欲にたいする……。それが、味感の思欲にたいする……。それが、感触の思欲にたいする……。それが、法(意の対象)の思欲にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の……略……証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 渇愛の経
329. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態の渇愛にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。音声の渇愛にたいする……。それが、臭気の渇愛にたいする……。それが、味感の渇愛にたいする……。それが、感触の渇愛にたいする……。それが、法(意の対象)の渇愛にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の……略……証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 界域の経
330. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、地の界域にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、水の界域にたいする……。それが、火の界域にたいする……。それが、風の界域にたいする……。それが、虚空の界域にたいする……。それが、識知〔作用〕の界域にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの六つの状況にたいし、比丘の心の、付随する〔心の〕汚れが捨棄されたものと成ることから、そして、彼の心は、離欲に向かい行くものと成ります。離欲が遍く修められた心は、証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 範疇の界域の経
331. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、それが、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。それが、感受〔作用〕にたいする……。それが、表象〔作用〕にたいする……。それが、諸々の形成〔作用〕にたいする……。それが、識知〔作用〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、これは、心の、付随する〔心の〕汚れです。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの五つの状況にたいし、比丘の心の、付随する〔心の〕汚れが捨棄されたものと成ることから、そして、彼の心は、離欲に向かい行くものと成ります。離欲が遍く修められた心は、証知して実証されるべき諸々の法(性質)において、行為に適するものとして現出します」と。〔以上が〕第十となる。
〔心の〕汚れに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、さらに、接触があり、そして、感受とともに、さらに、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十がある」と。
7(28). サーリプッタに相応するもの
1. 遠離から生じるものの経
332. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。
そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者サーリプッタは、今日、どのような住によって〔世に〕住んだのですか」と。
「友よ、ここに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、『わたしは、第一の瞑想に入定する』と、あるいは、『わたしは、第一の瞑想に入定したのだ』と、あるいは、『わたしは、第一の瞑想から出起したのだ』と、このような〔思いは〕有りません」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者サーリプッタに、あるいは、「わたしは、第一の瞑想に入定する」と、あるいは、「わたしは、第一の瞑想に入定したのだ」と、あるいは、「わたしは、第一の瞑想から出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第一となる。
2. 思考なきものの経
333. サーヴァッティーの因縁となります。まさに、尊者アーナンダは……略……。見て、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者サーリプッタは、今日、どのような住によって〔世に〕住んだのですか」と。
「友よ、ここに、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、『わたしは、第二の瞑想に入定する』と、あるいは、『わたしは、第二の瞑想に入定したのだ』と、あるいは、『わたしは、第二の瞑想から出起したのだ』と、このような〔思いは〕有りません」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者サーリプッタに、あるいは、「わたしは、第二の瞑想に入定する」と、あるいは、「わたしは、第二の瞑想に入定したのだ」と、あるいは、「わたしは、第二の瞑想から出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第二となる。
3. 喜悦の経
334. サーヴァッティーの因縁となります。まさに、尊者アーナンダは……略……。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者サーリプッタは、今日、どのような住によって〔世に〕住んだのですか」と。
「友よ、ここに、わたしは、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、『わたしは、第三の瞑想に入定する』と、あるいは、『わたしは、第三の瞑想に入定したのだ』と、あるいは、『わたしは、第三の瞑想から出起したのだ』と、このような〔思いは〕有りません」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者サーリプッタに、あるいは、「わたしは、第三の瞑想に入定する」と、あるいは、「わたしは、第三の瞑想に入定したのだ」と、あるいは、「わたしは、第三の瞑想から出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第三となる。
4. 放捨の経
335. サーヴァッティーの因縁となります。まさに、尊者アーナンダは……略……。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者サーリプッタは、今日、どのような住によって〔世に〕住んだのですか」と。
「友よ、ここに、わたしは、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、『わたしは、第四の瞑想に入定する』と、あるいは、『わたしは、第四の瞑想に入定したのだ』と、あるいは、『わたしは、第四の瞑想から出起したのだ』と、このような〔思いは〕有りません」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者サーリプッタに、あるいは、「わたしは、第四の瞑想に入定する」と、あるいは、「わたしは、第四の瞑想に入定したのだ」と、あるいは、「わたしは、第四の瞑想から出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第四となる。
5. 虚空無辺なる〔認識の〕場所の経
336. サーヴァッティーの因縁となります。まさに、尊者アーナンダは……略……。「友よ、ここに、わたしは、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。……略……出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第五となる。
6. 識知無辺なる〔認識の〕場所の経
337. サーヴァッティーの因縁となります。まさに、尊者アーナンダは……略……。「友よ、ここに、わたしは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。……略……出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第六となる。
7. 無所有なる〔認識の〕場所の経
338. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者サーリプッタは……略……。「友よ、ここに、わたしは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。……略……出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第七となる。
8. 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の経
339. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者サーリプッタは……略……。「友よ、ここに、わたしは、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。……略……出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第八となる。
9. 止滅の入定の経
340. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者サーリプッタは……略……。「友よ、ここに、わたしは、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅から出起したのだ』と、このような〔思いは〕有りません」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は、長夜にわたり、善く完破されたことから、それゆえに、尊者サーリプッタに、あるいは、「わたしは、表象と感覚の止滅に入定する」と、あるいは、「わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ」と、あるいは、「わたしは、表象と感覚の止滅から出起したのだ」と、このような〔思いが〕有ることはない、ということです。〔以上が〕第九となる。
10. スーチムキーの経
341. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、その〔行乞の〕施食を、或るどこかの壁の根元に依拠して受益します。そこで、まさに、スーチムキー女性遍歴遊行者が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「沙門よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、〔あなたは〕顔を下にして食べているのですか」と。「姉妹よ、まさに、わたしは、顔を下にして食べているのではありません」と。「沙門よ、まさに、それでは、顔を上にして食べているのですか」と。「姉妹よ、まさに、わたしは、顔を上にして食べているのではありません」と。「沙門よ、まさに、それでは、顔を〔四〕方(東西南北)にして食べているのですか」と。「姉妹よ、まさに、わたしは、顔を〔四〕方にして食べているのではありません」と。「沙門よ、まさに、それでは、顔を〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)にして食べているのですか」と。「姉妹よ、まさに、わたしは、顔を〔四〕維にして食べているのではありません」と。
「『沙門よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、〔あなたは〕顔を下にして食べているのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『姉妹よ、まさに、わたしは、顔を下にして食べているのではありません』と、〔あなたは〕説きます。『沙門よ、まさに、それでは、顔を上にして食べているのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『姉妹よ、まさに、わたしは、顔を上にして食べているのではありません』と、〔あなたは〕説きます。『沙門よ、まさに、それでは、顔を〔四〕方にして食べているのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『姉妹よ、まさに、わたしは、顔を〔四〕方にして食べているのではありません』と、〔あなたは〕説きます。『沙門よ、まさに、それでは、顔を〔四〕維にして食べているのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『姉妹よ、まさに、わたしは、顔を〔四〕維にして食べているのではありません』と、〔あなたは〕説きます。
沙門よ、そうしますと、どのように、〔あなたは〕食べているのですか」と。「姉妹よ、まさに、彼らが誰であれ、沙門や婆羅門たちが、畜生知たる地相術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営むなら、姉妹よ、これらの沙門や婆羅門たちは、『顔を下にして食べている』と説かれます。姉妹よ、まさに、彼らが誰であれ、沙門や婆羅門たちが、畜生知たる占星術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営むなら、姉妹よ、これらの沙門や婆羅門たちは、『顔を上にして食べている』と説かれます。姉妹よ、まさに、彼らが誰であれ、沙門や婆羅門たちが、使者や使節に赴くことへの専念〔努力〕によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営むなら、姉妹よ、これらの沙門や婆羅門たちは、『顔を〔四〕方にして食べている』と説かれます。姉妹よ、まさに、彼らが誰であれ、沙門や婆羅門たちが、畜生知たる人相術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営むなら、姉妹よ、これらの沙門や婆羅門たちは、『顔を〔四〕維にして食べている』と説かれます。
姉妹よ、それで、まさに、わたしは、畜生知たる地相術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営まず、畜生知たる占星術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営まず、使者や使節に赴くことへの専念〔努力〕によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営まず、畜生知たる人相術によって、〔そのような〕誤った生き方によって生計を営みません。法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めます。法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めて食べています」と。
そこで、まさに、スーチムキー女性遍歴遊行者は、ラージャガハにおいて、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように告げました。「釈子たる沙門たちは、法(正義)にかなう食を食する。釈子たる沙門たちは、罪過なき食を食する。釈子たる沙門たちに、〔行乞の〕食を施したまえ」と。〔以上が〕第十となる。
サーリプッタに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「遠離から生じるもの、思考なきもの、喜悦、第四のものとして、放捨、まさしく、そして、虚空、識知、無所有があり、『表象あるにもあらず』とともに、第九のものとして、止滅が説かれ、さらに、第十のものとして、スーチムキーが〔説かれ、章となる〕」と。
8(29). 龍に相応するもの
1. 単純なるものの経
342. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの龍の胎です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生の龍たちであり、胎生の龍たちであり、湿生の龍たちであり、化生の龍たちです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの龍の胎があります」と。〔以上が〕第一となる。
2. より精妙なる者たちの経
343. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの龍の胎です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生の龍たちであり、胎生の龍たちであり、湿生の龍たちであり、化生の龍たちです。比丘たちよ、そこで、卵生の龍たちよりも、そして、胎生〔の龍〕たちは、かつまた、湿生〔の龍〕たちは、さらに、化生の龍たちは、より精妙なる者たちとなります。比丘たちよ、そこで、そして、卵生〔の龍〕たちよりも、さらに、胎生の龍たちよりも、そして、湿生〔の龍〕たちは、さらに、化生の龍たちは、より精妙なる者たちとなります。比丘たちよ、そこで、そして、卵生〔の龍〕たちよりも、かつまた、胎生〔の龍〕たちよりも、さらに、湿生の龍たちよりも、化生の龍たちは、より精妙なる者たちとなります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの龍の胎があります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 斎戒の経
344. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の卵生の龍たちは、斎戒(布薩)に入り、そして、身体を放棄した者たちと成るのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の卵生の龍たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、過去において、わたしたちは、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、意によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、意によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生したのだ。それで、もし、今日、わたしたちが、身体によって善き行ないを行なうなら、言葉によって善き行ないを行なうなら、意によって善き行ないを行なうなら、このように、わたしたちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。さあ、わたしたちは、今現在、身体によって善き行ないを行なうのだ、言葉によって善き行ないを行なうのだ、意によって善き行ないを行なうのだ』と。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の卵生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成ります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第二の斎戒の経
345. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の胎生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成るのですか」と。「比丘よ、ここに……略……。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の胎生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成ります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第三の斎戒の経
346. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の湿生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成るのですか」と。「比丘よ、ここに……略……。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の湿生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成ります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第四の斎戒の経
347. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の化生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成るのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の化生の龍たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、過去において、わたしたちは、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、意によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしたちは、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、意によって〔善と悪の〕両者を為す者たちとして、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生したのだ。それで、もし、今日、わたしたちが、身体によって善き行ないを行なうなら、言葉によって善き行ないを行なうなら、意によって善き行ないを行なうなら、このように、わたしたちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。さあ、わたしたちは、今現在、身体によって善き行ないを行なうのだ、言葉によって善き行ないを行なうのだ、意によって善き行ないを行なうのだ』と。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の化生の龍たちは、斎戒に入り、そして、身体を放棄した者たちと成ります」と。〔以上が〕第六となる。
7. 所聞の経
348. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生するのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有り、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有り、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞(知識)が有ります。『卵生の龍たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の所聞の経
349. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、胎生の龍たちの同類として再生するのですか」と。……略……。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、胎生の龍たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第三の所聞の経
350. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、湿生の龍たちの同類として再生するのですか」と。……略……。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、湿生の龍たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第四の所聞の経
351. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生するのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有り、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有り、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『化生の龍たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第十となる。
11-20. 卵生の布施の資益の経の十なるもの
352-361. 一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生するのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『卵生の龍たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として……略……再生します」と。……略……。彼は、飲み物を施します。……略……。彼は、衣装を施します。……略……。彼は、乗物を施します。……略……。彼は、花飾を施します。……略……。彼は、香料を施します。……略……。彼は、塗料を施します。……略……。彼は、臥具を施します。……略……。彼は、居住所を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の龍たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第二十となる。
21-50. 胎生等の布施の資益の経の三十なるもの
362-391. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、胎生の龍たちの……略……湿生の龍たちの……略……化生の龍たちの同類として再生するのですか」と。
「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『化生の龍たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……飲み物を施します。……略……灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、化生の龍たちの同類として再生します」と。
(これらの省略によって、十〔の経典〕十の経典が〔それぞれに〕作り為されるべきであり、このように、四つの胎について、四十の説き明かしが有り、また、最初の十の経典と共に〔合わせて〕五十の経典が有る、ということになる。)
龍に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「単純なるもの、より精妙なる者たち、そして、四つの斎戒、さらに、四つの『彼に、〔このような〕所聞が』があり、そして、四十の布施の資益があり、〔行乞の〕食から〔の四十の経を含む〕五十の経が、龍について見事に明示された」と。
9(30). 金翅鳥に相応するもの
1. 単純なるものの経
392. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの金翅鳥の胎です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生の金翅鳥たちであり、胎生の金翅鳥たちであり、湿生の金翅鳥たちであり、化生の金翅鳥たちです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの金翅鳥の胎があります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 「運び去ります」の経
393. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの金翅鳥の胎です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生の……略……。比丘たちよ、まさに、これらの四つの金翅鳥の胎があります。比丘たちよ、そこで、卵生の金翅鳥たちは、卵生の龍たちだけを運び去ります──胎生〔の龍〕たちではなく、湿生〔の龍〕たちではなく、化生〔の龍〕たちではなく。比丘たちよ、そこで、胎生の金翅鳥たちは、そして、卵生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、さらに、胎生の龍たちを運び去ります──湿生〔の龍〕たちではなく、化生〔の龍〕たちではなく。比丘たちよ、そこで、湿生の金翅鳥たちは、そして、卵生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、かつまた、胎生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、さらに、湿生の龍たちを運び去ります──化生〔の龍〕たちではなく。比丘たちよ、そこで、化生の金翅鳥たちは、そして、卵生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、かつまた、胎生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、かつまた、湿生〔の龍〕たちを〔運び去り〕、さらに、化生の龍たちを運び去ります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの金翅鳥の胎があります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 〔善と悪の〕両者を為す者たちの経
394. サーヴァッティーの因縁となります。或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『卵生の金翅鳥たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第三となる。
4-6. 第二の〔善と悪の〕両者を為す者たちの経等の三なるもの
395-397. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、胎生の金翅鳥たちの……略……湿生の金翅鳥たちの……略……化生の金翅鳥たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『化生の金翅鳥たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第六となる。
7-16. 卵生の布施の資益の経の十なるもの
398-407. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『卵生の金翅鳥たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として……略……再生します」と。……略……。彼は、飲み物を施します。……略……。彼は、衣装を施します。……略……。彼は、乗物を施します。……略……。彼は、花飾を施します。……略……。彼は、香料を施します。……略……。彼は、塗料を施します。……略……。彼は、臥具を施します。……略……。彼は、居住所を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、卵生の金翅鳥たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第十六となる。
17-46. 胎生等の布施の資益の経の三十なるもの
408-437. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、胎生の金翅鳥たちの……略……湿生の金翅鳥たちの……略……化生の金翅鳥たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体によって〔善と悪の〕両者を為す者として、言葉によって〔善と悪の〕両者を為す者として、意によって〔善と悪の〕両者を為す者として、〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『化生の金翅鳥たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……飲み物を施します。……略……灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、化生の金翅鳥たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第四十六となる。
(このように、〔行乞の〕食による〔四十の経を含む〕四十六の経典が有る。)
金翅鳥に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「単純なるもの、まさしく、そして、『運び去ります』があり、さらに、四つの〔善と悪の〕両者を為す者たち、四十の布施の資益があり、金翅鳥について見事に明示された」と。
10(31). 音楽神の衆に相応するもの
1. 単純なるものの経
438. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちなのですか。比丘たちよ、根の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、硬材の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、軟材の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、樹皮の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、外皮の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、葉の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、花の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、果の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、味の香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、香りの香りに住している天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、これらの者たちは、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 善き行ないの経
439. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『音楽神の身体ある天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、音楽神の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 根の香りの施者の経
440. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『根の香りに住している天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、諸々の根の香りの施者と成ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第三となる。
4-12. 硬材の香り等の施者の経の九なるもの
441-449. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、硬材の香りに住している天〔の神々〕たちの……略……軟材の香りに住している天〔の神々〕たちの……樹皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……外皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……葉の香りに住している天〔の神々〕たちの……花の香りに住している天〔の神々〕たちの……果の香りに住している天〔の神々〕たちの……味の香りに住している天〔の神々〕たちの……香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『硬材の香りに住している天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、硬材の香りに住している天〔の神々〕たちの……軟材の香りに住している天〔の神々〕たちの……樹皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……外皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……葉の香りに住している天〔の神々〕たちの……花の香りに住している天〔の神々〕たちの……果の香りに住している天〔の神々〕たちの……味の香りに住している天〔の神々〕たちの……香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、諸々の硬材の香りの施者と成ります。……略……。彼は、諸々の軟材の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の樹皮の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の外皮の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の葉の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の花の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の果の香りの施者と成ります。……。彼は、諸々の味の香りの施者と成ります。彼は、諸々の香りの香りの施者と成ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第十二となる。
13-22. 根の香りの布施の資益の経の十なるもの
450-459. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『根の香りに住している天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……。彼は、飲み物を施します。……略……。彼は、衣装を施します。……略……。彼は、乗物を施します。……略……。彼は、花飾を施します。……略……。彼は、香料を施します。……略……。彼は、塗料を施します。……略……。彼は、臥具を施します。……略……。彼は、居住所を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、根の香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第二十二となる。
23-112. 硬材の香り等の布施の資益の経の九十なるもの
460-549. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、硬材の香りに住している天〔の神々〕たちの……略……軟材の香りに住している天〔の神々〕たちの……樹皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……外皮の香りに住している天〔の神々〕たちの……葉の香りに住している天〔の神々〕たちの……花の香りに住している天〔の神々〕たちの……果の香りに住している天〔の神々〕たちの……味の香りに住している天〔の神々〕たちの……香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『香りの香りに住している天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……。彼は、飲み物を施します。……略……。彼は、衣装を施します。……略……。彼は、乗物を施します。……略……。彼は、花飾を施します。……略……。彼は、香料を施します。……略……。彼は、塗料を施します。……略……。彼は、臥具を施します。……略……。彼は、居住所を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、香りの香りに住している天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第百十二となる。
(このように、〔行乞の〕食による〔百の経を含む〕、そして、一百と、さらに、十二の、〔合わせて百十二の〕経典が有る。)
音楽神の衆に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、単純なるもの、善き行ない、まさに、他に、十の施者、百種の布施の資益があり、音楽神について見事に明示された」と。
11(32). 雲に相応するもの
1. 単純なるものの経
550. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、雲の身体ある天〔の神々〕たちを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、雲の身体ある天〔の神々〕たちなのですか。比丘たちよ、冷雲の天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、熱雲の天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、暗雲の天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、風雲の天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、雨雲の天〔の神々〕たちが存在します。比丘たちよ、これらの者たちは、雲の身体ある天〔の神々〕たちと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 善き行ないの経
551. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、雲の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『雲の身体ある天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、雲の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、身体の破壊ののち、死後において、雲の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、雲の身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第二となる。
3-12. 冷雲の布施の資益の経の十なるもの
552-561. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、冷雲の天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『冷雲の天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、冷雲の天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、冷雲の天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、冷雲の天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第十二となる。
13-52. 熱雲〔等〕の布施の資益の経の四十なるもの
562-601. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、熱雲の天〔の神々〕たちの……略……暗雲の天〔の神々〕の……略……風雲の天〔の神々〕の……略……雨雲の天〔の神々〕たちの同類として再生するのですか」と。「比丘よ、ここに、一部の者は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『雨雲の天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、雨雲の天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、食べ物を施します。……略……。彼は、灯具を施します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、雨雲の天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、ここに、一部の者は、身体の破壊ののち、死後において、雨雲の天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。〔以上が〕第五十二となる。
53. 冷雲の経
602. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或るときは、冷たく成るのですか」と。「比丘よ、まさに、冷雲の天〔の神々〕たちが存在します。すなわち、彼らに、『それなら、さあ、わたしたちは、自らの喜びのために住するのだ』と、このような〔思いが〕有るとき、彼らの、その心の誓願に従って、冷たく成ります。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或るときは、冷たく成ります」と。〔以上が〕第五十三となる。
54. 熱雲の経
603. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或るときは、熱く成るのですか」と。「比丘よ、まさに、熱雲の天〔の神々〕たちが存在します。すなわち、彼らに、『それなら、さあ、わたしたちは、自らの喜びのために住するのだ』と、このような〔思いが〕有るとき、彼らの、その心の誓願に従って、熱く成ります。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或るときは、熱く成ります」と。〔以上が〕第五十四となる。
55. 暗雲の経
604. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或るときは、暗く成るのですか」と。「比丘よ、まさに、暗雲の天〔の神々〕たちが存在します。すなわち、彼らに、『それなら、さあ、わたしたちは、自らの喜びのために住するのだ』と、このような〔思いが〕有るとき、彼らの、その心の誓願に従って、暗く成ります。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或るときは、暗く成ります」と。〔以上が〕第五十五となる。
56. 風雲の経
605. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或るときは、風が有るのですか」と。「比丘よ、まさに、風雲の天〔の神々〕たちが存在します。すなわち、彼らに、『それなら、さあ、わたしたちは、自らの喜びのために住するのだ』と、このような〔思いが〕有るとき、彼らの、その心の誓願に従って、風が有ります。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或るときは、風が有ります」と。〔以上が〕第五十六となる。
57. 雨雲の経
606. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或るときは、天が雨を降らせるのですか」と。「比丘よ、まさに、雨雲の天〔の神々〕たちが存在します。すなわち、彼らに、『それなら、さあ、わたしたちは、自らの喜びのために住するのだ』と、このような〔思いが〕有るとき、彼らの、その心の誓願に従って、天が雨を降らせます。比丘よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或るときは、天が雨を降らせます」と。〔以上が〕第五十七となる。
五十七の経典は〔以上で〕終了となる。
雲に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「単純なるもの、そして、善き行ない、五十の布施の資益があり、冷〔雲〕、そして、熱〔雲〕、さらに、暗〔雲〕、風と雨の雲があり、〔それらの五十七がある〕」と。
12(33). ヴァッチャ・ゴッタに相応するもの
1. 形態について知なきことの経
607. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、形態について知なきことから、形態の集起について知なきことから、形態の止滅について知なきことから、形態の止滅に至る〔実践の〕道について知なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第一となる。
2. 感受〔作用〕について知なきことの経
608. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、感受〔作用〕について知なきことから、感受〔作用〕の集起について知なきことから、感受〔作用〕の止滅について知なきことから、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について知なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第二となる。
3. 表象〔作用〕について知なきことの経
609. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、表象〔作用〕について知なきことから、表象〔作用〕の集起について知なきことから、表象〔作用〕の止滅について知なきことから、表象〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について知なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第三となる。
4. 諸々の形成〔作用〕について知なきことの経
610. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、諸々の形成〔作用〕について知なきことから、諸々の形成〔作用〕の集起について知なきことから、諸々の形成〔作用〕の止滅について知なきことから、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について知なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第四となる。
5. 識知〔作用〕について知なきことの経
611. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について知なきことから、識知〔作用〕の集起について知なきことから、識知〔作用〕の止滅について知なきことから、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について知なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第五となる。
6-10. 形態について見なきこと等の経の五なるもの
612-616. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、形態について見なきことから……略……形態の止滅に至る〔実践の〕道について見なきことから……略……感受〔作用〕について……表象〔作用〕について……。「ヴァッチャよ、まさに、諸々の形成〔作用〕について見なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について見なきことから……略……。識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について見なきことから……略……。〔以上が〕第十となる。
11-15. 形態について知悉なきこと等の経の五なるもの
617-621. サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、形態について知悉なきことから……略……形態の止滅に至る〔実践の〕道について知悉なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、感受〔作用〕について知悉なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、表象〔作用〕について知悉なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、諸々の形成〔作用〕について知悉なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について知悉なきことから……略……。〔以上が〕第十五となる。
16-20. 形態について随覚なきこと等の経の五なるもの
622-626. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について随覚なきことから……略……形態の止滅に至る〔実践の〕道について随覚なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、感受〔作用〕について……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、表象〔作用〕について……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、諸々の形成〔作用〕について……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について随覚なきことから……略……識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について随覚なきことから……略……。〔以上が〕第二十となる。
21-25. 形態について理解なきこと等の経の五なるもの
627-631. サーヴァッティーの因縁となります。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について理解なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について理解なきことから……略……。〔以上が〕第二十五となる。
26-30. 形態について省察なきこと等の経の五なるもの
632-636. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について省察なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について省察なきことから……略……。〔以上が〕第三十となる。
31-35. 形態について近察なきこと等の経の五なるもの
637-641. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について近察なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について近察なきことから……略……。〔以上が〕第三十五となる。
36-40. 形態について精察なきこと等の経の五なるもの
642-646. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について精察なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について精察なきことから……略……。〔以上が〕第四十となる。
41-45. 形態について正視なきこと等の経の五なるもの
647-651. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について正視なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について正視なきことから……略……。〔以上が〕第四十五となる。
46-50. 形態について綿密の注視なきこと等の経の五なるもの
652-656. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「ヴァッチャよ、まさに、形態について綿密の注視なきことから……略……。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について綿密の注視なきことから……略……。〔以上が〕第五十となる。
51-54. 形態について現見の行為なきこと等の経の四なるもの
657-660. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起するのですか──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。「ヴァッチャよ、まさに、形態について現見の行為なきことから、形態の集起について現見の行為なきことから、形態の止滅について現見の行為なきことから、形態の止滅に至る〔実践の〕道について現見の行為なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、感受〔作用〕について現見の行為なきことから……略……感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について現見の行為なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、表象〔作用〕について現見の行為なきことから……略……表象〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について現見の行為なきことから……略……。
サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、諸々の形成〔作用〕について現見の行為なきことから……略……諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について現見の行為なきことから……略……。〔以上が〕第五十四となる。
55. 識知〔作用〕について現見の行為なきことの経
661. サーヴァッティーの因縁となります。「ヴァッチャよ、まさに、識知〔作用〕について現見の行為なきことから、識知〔作用〕の集起について現見の行為なきことから、識知〔作用〕の止滅について現見の行為なきことから、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について現見の行為なきことから、このように、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と……略……あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕。ヴァッチャよ、まさに、これを因として、これを縁として、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した悪しき見解が、世に生起します──あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と、〔これらの悪しき見解が〕」と。〔以上が〕第五十五となる。
ヴァッチャ・ゴッタに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「知なきこと、まさしく、そして、見なきこと、知悉なきこと、随覚なきこと、理解なきこと、省察なきことがあり、近察なきこととともに、精察なきこと、正視なきこと、綿密の注視なきこと、現見の行為なきことがあり、〔それらについて五十五の経がある〕」と。
13(34). 瞑想に相応するもの
1. 禅定を根元とする入定の経
662. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精(醍醐)があり、そこで、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第一となる。
2. 禅定を根元とする止住の経
663. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、止住に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこで、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第二となる。
3. 禅定を根元とする出起の経
664. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、出起に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、出起に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、出起に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第三となる。
4. 禅定を根元とする健全性の経
665. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、健全性に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、健全性に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第四となる。
5. 禅定を根元とする対象の経
666. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、対象に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、対象に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、対象に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第五となる。
6. 禅定を根元とする境涯の経
667. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第六となる。
7. 禅定を根元とする導引の経
668. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第七となる。
8. 禅定を根元とする真剣に為す者の経
669. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、真剣に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、真剣に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、真剣に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、真剣に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、真剣に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第八となる。
9. 禅定を根元とする常久に為す者の経
670. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、常久に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、常久に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第九となる。
10. 禅定を根元とする正当に為す者の経
671. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、禅定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、正当に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、禅定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、正当に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、禅定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十となる。(〔以上が〕禅定を根元とするものとなる。)
11. 入定を根元とする止住の経
672. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、止住に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 入定を根元とする出起の経
673. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、出起に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、出起に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 入定を根元とする健全性の経
674. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、健全性に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十三となる。
14. 入定を根元とする対象の経
675. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、対象に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、対象に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十四となる。
15. 入定を根元とする境涯の経
676. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十五となる。
16. 入定を根元とする導引の経
677. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十六となる。
17. 入定を根元とする真剣に為す者の経
678. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、真剣に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、真剣に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、真剣に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、真剣に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十七となる。
18. 入定を根元とする常久に為す者の経
679. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、常久に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、常久に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで……略……かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十八となる。
19. 入定を根元とする正当に為す者の経
680. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、入定に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、正当に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、入定に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、正当に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこで、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、入定に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十九となる。(〔以上が〕入定を根元とするものとなる。)
20-27. 止住を根元とする出起の経等の八なるもの
681-688. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、止住に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、出起に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、止住に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、止住に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、出起に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第二十となる。(前の根元とするもののように、第二十七の止住を根元とする正当に為す者の経に至るまで、八つの経典が満たされるべきである。〔以上が〕止住を根元とするものとなる。)
28-34. 出起を根元とする健全性の経等の七なるもの
689-695. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、出起に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく。……禅定において、健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく。……まさしく、禅定において、出起に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、出起に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、健全性に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第二十八となる。(前の根元とするもののように、第三十四の出起を根元とする正当に為す者の経に至るまで、七つの経典が満たされるべきである。〔以上が〕出起を根元とするものとなる。)
35-40. 健全性を根元とする対象の経等の六なるもの
696-701. サーヴァッティーの因縁となります。……禅定において、健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく。……禅定において、対象に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく。……まさしく、禅定において、健全性に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、健全性に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、対象に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第三十五となる。(前の根元とするもののように、第四十の健全性を根元とする正当に為す者の経に至るまで、六つの経典が満たされるべきである。〔以上が〕健全性を根元とするものとなる。)
41-45. 対象を根元とする境涯の経等の五なるもの
702-706. サーヴァッティーの因縁となります。……禅定において、対象に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく。……禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく。……まさしく、禅定において、対象に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、対象に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第四十一となる。(前の根元とするもののように、第四十五の対象を根元とする正当に為す者の経に至るまで、五つの経典が満たされるべきである。〔以上が〕対象を根元とするものとなる。)
46-49. 境涯を根元とする導引の経等の四なるもの
707. サーヴァッティーの因縁となります。……禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく。……禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく。……まさしく、禅定において、境涯に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこで、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、境涯に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第四十六となる。
708. ……禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、真剣に為す者ではなく。……略……(〔前のように〕詳知されるべきである)。〔以上が〕第四十七となる。
709. ……禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。……略……。〔以上が〕第四十八となる。
710. ……禅定において、境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。……略……。〔以上が〕第四十九となる。(〔以上が〕境涯を根元とするものとなる。)
50-52. 導引を根元とする真剣の経等の三なるもの
711. サーヴァッティーの因縁となります。……禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、真剣に為す者ではなく。……禅定において、真剣に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく。……まさしく、禅定において、導引に巧みな智ある者ではなく、さらに、禅定において、真剣に為す者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、導引に巧みな智ある者として、かつまた、禅定において、真剣に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第五十となる。
712. ……禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。……略……。〔以上が〕第五十一となる。
713. ……禅定において、導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。……略……。〔以上が〕第五十二となる。(〔以上が〕導引を根元とするものとなる。)
53-54. 真剣を根元とする常久に為す者の経等の二なるもの
714. サーヴァッティーの因縁となります。……禅定において、真剣に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。……禅定において、常久に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、真剣に為す者ではなく。……まさしく、禅定において、真剣に為す者ではなく、さらに、禅定において、常久に為す者ではなく、〔世に〕有ります。……かつまた、禅定において、真剣に為す者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として……略……かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第五十三となる。
715. ……禅定において、真剣に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。……略……。〔以上が〕第五十四となる。
55. 常久を根元とする正当に為す者の経
716. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想者たちです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、常久に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、正当に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、禅定において、正当に為す者として〔世に〕有ります──禅定において、常久に為す者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、まさしく、禅定において、常久に為す者ではなく、さらに、禅定において、正当に為す者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、ここに、一部の瞑想者は、かつまた、禅定において、常久に為す者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、そこで、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこで、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、すなわち、この者が、瞑想者として、かつまた、禅定において、常久に為す者として、かつまた、禅定において、正当に為す者として、〔世に〕有るなら、この者は、これらの四つの瞑想者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第五十五となる。(すなわち、五十五の説き明かしが有るように、そのように詳知されるべきである。)
瞑想に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「禅定、入定、そして、止住、出起があり、さらに、健全性と対象とともに、境涯、導引、真剣、常久、そこで、また、正当があり、〔それらについて五十五の経がある〕」と。
範疇の部(蘊篇)が第三となる。
その〔部〕のための摂頌となる
〔そこで、詩偈に言う〕「範疇、そして、ラーダに相応するもの、見解と参入した者、生起、〔心の〕汚れ、そして、サーリプッタ、龍、金翅鳥、音楽神、雲、ヴァッチャと瞑想があり、ということで、範疇の部において、〔それらの〕十三がある」と。
範疇の部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。