相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)
大いなるものの部(大篇・下)
【目次】
8(52). アヌルッダに相応するもの(899.~)
1. 静所に赴いた者の章(899.~)
1. 第一の静所に赴いた者の経
2. 第二の静所に赴いた者の経
3. スタヌ〔池〕の経
4. 第一のカンダキンの経
5. 第二のカンダキンの経
6. 第三のカンダキンの経
7. 渇愛の滅尽の経
8. サララ堂の経
9. アンバパーリーの林の経
10. 激しい病の者の経
2. 第二の章(909.~)
1. 千のカッパの経
2. 神通の種類の経
3. 天耳の経
4. 心の探知の経
5. 状況の経
6. 行為の受持の経
7. 一切所に至るものの経
8. 種々なる界域の経
9. 種々なる信念の経
10. 機能の上下なることの経
11. 瞑想等の経
12. 過去における居住の経
13. 天眼の経
14. 諸々の煩悩の滅尽の経
9(53). 瞑想に相応するもの(923.~)
1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章(923.~)
1-12. 瞑想等の経の十二なるもの
5. 激流の章(967.~)
1-10. 激流等の経
10(54). 呼吸に相応するもの(977.~)
1. 一つの法の章(977.~)
1. 一つの法の経
2. 覚りの支分の経
3. 単純なるものの経
4. 第一の果の経
5. 第二の果の経
6. アリッタの経
7. マハー・カッピナの経
8. 灯明の喩えの経
9. ヴェーサーリーの経
10. キミラの経
2. 第二の章(987.~)
1. イッチャーナンガラの経
2. 疑うべきものの経
3. 第一のアーナンダの経
4. 第二のアーナンダの経
5. 第一の比丘たちの経
6. 第二の比丘たちの経
7. 束縛の捨棄の経
8. 悪習の根絶の経
9. 時間の遍知の経
10. 諸々の煩悩の滅尽の経
11(55). 預流に相応するもの(997.~)
1. ヴェールドヴァーラの章(997.~)
1. 転輪王の経
2. 梵行への沈潜の経
3. ディーガーヴ在俗信者の経
4. 第一のサーリプッタの経
5. 第二のサーリプッタの経
6. 棟梁たちの経
7. ヴェールドヴァーラの者たちの経
8. 第一の煉瓦作りの居住所の経
9. 第二の煉瓦作りの居住所の経
10. 第三の煉瓦作りの居住所の経
2. 王の林園の章(1007.~)
1. 千の比丘尼の僧団の経
2. 婆羅門たちの経
3. アーナンダ長老の経
4. 悪趣の恐怖の経
5. 悪趣と堕所の恐怖の経
6. 第一の朋友や僚友たちの経
7. 第二の朋友や僚友たちの経
8. 第一の天の遊行の経
9. 第二の天の遊行の経
10. 第三の天の遊行の経
3. サラナーニの章(1017.~)
1. 第一のマハー・ナーマの経
2. 第二のマハー・ナーマの経
3. 釈迦〔族〕のゴーダーの経
4. 第一の釈迦〔族〕のサラナーニの経
5. 第二の釈迦〔族〕のサラナーニの経
6. 第一のアナータピンディカの経
7. 第二のアナータピンディカの経
8. 第一の恐怖と怨念が寂止したものの経
9. 第二の恐怖と怨念が寂止したものの経
10. リッチャヴィ〔族〕のナンダカの経
4. 功徳が流れ行くものの章(1027.~)
1. 第一の功徳が流れ行くものの経
2. 第二の功徳が流れ行くものの経
3. 第三の功徳が流れ行くものの経
4. 第一の天の境処の経
5. 第二の天の境処の経
6. 天の同僚の経
7. マハー・ナーマの経
8. 雨の経
9. カーリゴーダーの経
10. 釈迦〔族〕のナンディヤの経
5. 詩偈を有する功徳が流れ行くものの章(1037.~)
1. 第一の流れ行くものの経
2. 第二の流れ行くものの経
3. 第三の流れ行くものの経
4. 第一の大いなる財産の経
5. 第二の大いなる財産の経
6. 単純なるものの経
7. ナンディヤの経
8. バッディヤの経
9. マハー・ナーマの経
10. 支分の経
6. 智慧を有する者の章(1047.~)
1. 詩偈を有するものの経
2. 雨期を過ごした者の経
3. ダンマディンナの経
4. 病者の経
5. 預流果の経
6. 一来果の経
7. 不還果の経
8. 阿羅漢果の経
9. 智慧の獲得の経
10. 智慧の増大の経
11. 智慧の広大の経
7. 大いなる智慧の章(1058.~)
1. 大いなる智慧の経
2. 多々なる智慧の経
3. 広大なる智慧の経
4. 深遠なる智慧の経
5. 不放逸の智慧の経
6. 広き智慧の経
7. 智慧の多大の経
8. 即座なる智慧の経
9. 軽快なる智慧の経
10. 敏速なる智慧の経
11. 疾走する智慧の経
12. 鋭敏なる智慧の経
13. 洞察の智慧の経
12(56). 真理に相応するもの(1071.~)
1. 禅定の章(1071.~)
1. 禅定の経
2. 静坐の経
3. 第一の良家の子息たちの経
4. 第二の良家の子息たちの経
5. 第一の沙門や婆羅門たちの経
6. 第二の沙門や婆羅門たちの経
7. 思考の経
8. 思弁の経
9. 口論となる議論の経
10. 畜生の議論の経
2. 法の輪の転起の章(1081.~)
1. 法の輪の転起の経
2. 如来たちの経
3. 範疇の経
4. 内なる〔認識の〕場所の経
5. 第一の保持の経
6. 第二の保持の経
7. 無明の経
8. 明知の経
9. 顕示の経
10. 真実の経
3. コーティ村の章(1091.~)
1. 第一のコーティ村の経
2. 第二のコーティ村の経
3. 正等覚者の経
4. 阿羅漢の経
5. 諸々の煩悩の滅尽の経
6. 朋友の経
7. 真実の経
8. 世の経
9. 遍知されるべきものの経
10. ガバンパティの経
4. シーサパー林の章(1101.~)
1. シーサパー林の経
2. カディラの葉の経
3. 棒の経
4. 衣の経
5. 百の槍の経
6. 命あるものの経
7. 第一の太陽の経
8. 第二の太陽の経
9. インダの杭の経
10. 論を義とする者たちの経
5. 深淵の章(1111.~)
1. 世についての思弁の経
2. 深淵の経
3. 大いなる苦悶の経
4. 楼閣の経
5. 毛の経
6. 暗黒の経
7. 第一の穴がある軛の経
8. 第二の穴がある軛の経
9. 第一の山の王たるシネールの経
10. 第二の山の王たるシネールの経
6. 知悉の章(1121.~)
1. 爪先の経
2. 蓮池の経
3. 第一の合流の経
4. 第二の合流の経
5. 第一の大いなる地の経
6. 第二の大いなる地の経
7. 第一の大いなる海の経
8. 第二の大いなる海の経
9. 第一の山の喩えの経
10. 第二の山の喩えの経
7. 第一の生の穀物と省略〔の経典〕の章(1131.~)
1. 「他に」の経
2. 辺境の経
3. 智慧の経
4. 穀物酒の経
5. 水の経
6. 母を敬う者たちの経
7. 父を敬う者たちの経
8. 沙門の資質ある者たちの経
9. 婆羅門の資質ある者たちの経
10. 敬う者たちの経
8. 第二の生の穀物と省略〔の経典〕の章(1141.~)
1. 命あるものを殺すことの経
2. 与えられていないものを取ることの経
3. 諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの経
4. 虚偽を説くことの経
5. 中傷の経
6. 粗暴な言葉の経
7. 雑駁な虚論の経
8. 種子類の経
9. 非時に食事することの経
10. 香料や塗料の経
9. 第三の生の穀物と省略〔の経典〕の章(1151.~)
1. 舞踏と歌詠の経
2. 高い臥具の経
3. 金や銀の経
4. 生の穀物の経
5. 生の肉の経
6. 少女の経
7. 奴婢や奴隷の経
8. 山羊や羊の経
9. 鶏や豚の経
10. 象や牛や馬の経
10. 第四の生の穀物と省略〔の経典〕の章(1161.~)
1. 田畑や地所の経
2. 売買の経
3. 使者の経
4. 秤の詐欺の経
5. 賄賂の経
6-11. 切断等の経
11. 五つの境遇と省略〔の経典〕の章(1172.~)
1. 人間〔の世〕からの死滅と地獄の経
2. 人間〔の世〕からの死滅と畜生の経
3. 人間〔の世〕からの死滅と餓鬼の境域の経
4-5-6. 人間〔の世〕からの死滅と天〔の神々〕たちと地獄等の経
7-9. 天〔の世〕からの死滅と地獄等の経
10-12. 天〔の世〕から人間たちと地獄等の経
13-15. 地獄から人間たちと地獄等の経
16-18. 地獄から天〔の神々〕たちと地獄等の経
19-21. 畜生から人間たちと地獄等の経
22-24. 畜生から天〔の神々〕たちと地獄等の経
25-27. 餓鬼から人間たちと地獄等の経
28-29. 餓鬼から天〔の神々〕たちと地獄等の経
30. 餓鬼から天〔の神々〕たちと餓鬼の境域の経
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
大いなるものの部(大篇・下)
8(52). アヌルッダに相応するもの
1. 静所に赴いた者の章
1. 第一の静所に赴いた者の経
899. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者アヌルッダに、このような心の思索が浮かびました。「誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのだ。誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのだ」と。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、尊者アヌルッダの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、尊者アヌルッダの面前に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成るのですか」と。
「友よ、ここに、比丘が、内に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、身体における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、身体における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、身体における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。
内に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、外に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、諸々の感受における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の感受における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の感受における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住み、それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。
内に、心における……略……。外に、心における……略……。内と外に、心における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、心における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、心における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり……略……強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。
内に、諸々の法(性質)における……略……。外に、諸々の法(性質)における……略……。内と外に、諸々の法(性質)における集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の法(性質)における衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、内と外に、諸々の法(性質)における集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
彼が、それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住み……略……そこにおいて、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。友よ、このようなことから、まさに、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第二の静所に赴いた者の経
900. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者アヌルッダに、このような心の思索が浮かびました。「誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が亡失されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は亡失されたのだ。誰であれ、彼らに、四つの気づきの確立が勉励されたなら、彼らに、正しく苦しみの滅尽に至るものである、聖なる道は勉励されたのだ」と。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、尊者アヌルッダの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、尊者アヌルッダの面前に出現しました。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成るのですか」と。
「友よ、ここに、比丘が、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
内に、心における……略……。外に、心における……略……。内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり……略……強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
内に、諸々の法(性質)における……略……。外に、諸々の法(性質)における……略……。内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、このようなことから、まさに、比丘に、四つの気づきの確立が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。
3. スタヌ〔池〕の経
901. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。スタヌ〔池〕の岸辺において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。
「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、下劣なる法(性質)を下劣なるものとして〔あるがままに〕証知し、中等なる法(性質)を中等なるものとして〔あるがままに〕証知し、精妙なる法(性質)を精妙なるものとして〔あるがままに〕証知しました」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一のカンダキンの経
902. 或る時のことです。かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、サーケータに住んでいます。カンダキン林において。そこで、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、〔いまだ〕学びある比丘は、どのような諸々の法(性質)を成就して〔世に〕住むべきですか」と。
「友よ、サーリプッタよ、〔いまだ〕学びある比丘は、四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、サーリプッタよ、〔いまだ〕学びある比丘は、これらの四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二のカンダキンの経
903. サーケータの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、どのような諸々の法(性質)を成就して〔世に〕住むべきですか」と。「友よ、サーリプッタよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、サーリプッタよ、〔もはや〕学ぶことなき比丘は、これらの四つの気づきの確立を成就して〔世に〕住むべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第三のカンダキンの経
904. サーケータの因縁となります。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたことから、千の世を証知します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 渇愛の滅尽の経
905. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに答えました。尊者アヌルッダは、こう言いました。
「友よ、四つのものがあります。これらの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、渇愛の滅尽のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、渇愛の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。
8. サララ堂の経
906. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。サララ堂において。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、比丘たちに告げました。……略……こう言いました。「友よ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるようなものです。そこで、大勢の人の衆が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。『わたしたちは、このガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すのだ〕、西に傾倒するものと〔為すのだ〕、西に傾斜するものと為すのだ』と。友よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その大勢の人の衆は、ガンガー川を、西に向かい行くものと〔為すでしょうか〕、西に傾倒するものと〔為すでしょうか〕、西に傾斜するものと為すでしょうか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「友よ、ガンガー川は、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであり、それは、西に向かい行くものと〔為すに〕、西に傾倒するものと〔為すに〕、西に傾斜するものと為すに、為し易くはないからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その大勢の人の衆は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。
「友よ、まさしく、このように、まさに、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為している、比丘に、あるいは、王たちが、あるいは、王の大臣たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族たちが、あるいは、血縁たちが、諸々の財物を運び込んで申し出るとします。『さて、人士たる者よ、さあ、どうして、おまえのこれらの黄褐色〔の衣〕はよれよれなのだ。どうして、〔おまえは〕剃髪し、皿を〔携えて〕渡り歩くのだ。さあ、下劣なところへと逆戻りして(還俗して)、そして、諸々の財物を享受せよ、さらに、諸々の功徳を作り為せ』と。
友よ、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為している、まさに、その比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。友よ、なぜなら、すなわち、その心は、長夜にわたり、遠離に向かい行くものであり、遠離に傾倒するものであり、遠離に傾斜するものであり、その〔心〕が、まさに、下劣なところへと逆戻りするであろう、という、この状況は見出されないからです。友よ、では、どのように、比丘は、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為すのですか(※)。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、このように、まさに、比丘は、四つの気づきの確立を修め、四つの気づきの確立を多く為します」と。〔以上が〕第八となる。
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9. アンバパーリーの林の経
907. 或る時のことです。かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者サーリプッタは、ヴェーサーリーに住んでいます。アンバパーリーの林において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し……略……。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。
「友よ、アヌルッダよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。尊者アヌルッダは、今現在、どのような住によって、多くを住むのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、今現在、多くを住みます。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、多くを住みます」と。
「友よ、まさに、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、まさに、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、威厳ある言葉を語っている尊者アヌルッダの、まさしく、面前で、〔それを〕聞いたのです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 激しい病の者の経
908. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。アンダ林において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダに、こう言いました。
「どのような住によって、尊者アヌルッダが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しないのですか」と。「友よ、まさに、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、わたしが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しません。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、これらの四つの気づきの確立において心が善く確立した者として、わたしが〔世に〕住んでいると、肉体のものとして生起した諸々の苦痛の感受は、心を完全に奪い去って止住しません」と。〔以上が〕第十となる。
静所に赴いた者の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「静所に赴いた者によって、二つのものが説かれ、スタヌ〔池〕、三つのカンダキン、渇愛の滅尽とサララ堂、そして、アンバパーリー、病の者があり、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. 千のカッパの経
909. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダと共に……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者アヌルッダに、こう言いました。
「尊者アヌルッダは、どのような諸々の法(性質)を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、わたしは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、まさに、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、大いなる神知たることに至り得たのです。友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、千のカッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)を随念します」と。〔以上が〕第一となる。
2. 神通の種類の経
910. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます」と。〔以上が〕第二となる。
3. 天耳の経
911. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。〔以上が〕第三となる。
4. 心の探知の経
912. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 状況の経
913. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 行為の受持の経
914. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の、〔それらの有する〕報い(異熟)を、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 一切所に至るものの経
915. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 種々なる界域の経
916. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 種々なる信念の経
917. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 機能の上下なることの経
918. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第十となる。
11. 瞑想等の経
919. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、瞑想と解脱と禅定と入定の、〔それらの有する〕汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 過去における居住の経
920. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 天眼の経
921. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します」と。〔以上が〕第十三となる。
14. 諸々の煩悩の滅尽の経
922. 「友よ、また、そして、わたしは、これらの四つの気づきの確立を修め、多く為したことから、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十四となる。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる神知、神通、天〔耳〕、心の探知、状況、行為、一切所と界域と信念、機能、瞑想、三つの明知があり、〔章となる〕」と。
アヌルッダに相応するものが第八となる。
9(53). 瞑想に相応するもの
1. ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章
1-12. 瞑想等の経の十二なるもの
923-934. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの瞑想(禅)です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの瞑想(四禅)があります」と。
「比丘たちよ、それは、たとえば、また、ガンガー川が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、四つの瞑想を修めながら、四つの瞑想を多く為しながら、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。
ガンガー〔川〕と省略〔の経典〕の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「六つの東に向かい行くものがあり、さらに、六つの海に向かい行くものがあり、これらの二つの六つのものが十二〔の経〕として有り、それによって、章と呼ばれる」と。
不放逸の章が〔第二の章として〕詳知されるべきである。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「如来、足跡、屋頂、根、そして、芯、ヴァッシカ、王、月と太陽があり、衣によって、第十の句があり、〔章となる〕」と。
力によって為されるべきことの章が〔第三の章として〕詳知されるべきである。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「力、そして、種子、そして、龍、木があり、瓶とともに、穂先があり、さらに、虚空とともに、二つの雨雲、船、来客、川があり、〔章となる〕」と。
探し求めの章が〔第四の章として〕詳知されるべきである。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「探し求め、様相、煩悩、そして、生存、三つのものとしての苦なること、鬱積、そして、垢、さらに、煩悶、感受、渇愛、そして、渇愛(タシナー)があり、〔章となる〕」と。
5. 激流の章
1-10. 激流等の経
967-976. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するものです。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕であり、〔我想の〕思量であり、〔心の〕高揚であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、四つの瞑想が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの、証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、これらの四つの瞑想が修められるべきです」と。〔前の経典のように〕詳知されるべきである。〔以上が〕第十となる。(すなわち、道に相応するもののように、そのように詳知されるべきである。)
激流の章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「激流、束縛、執取、拘束があり、そして、悪習とともに、欲望の属性、〔修行の〕妨害、範疇、下なる〔域〕と上なる域があり、〔章となる〕」と。
瞑想に相応するものが第九となる。
10(54). 呼吸に相応するもの
1. 一つの法の章
1. 一つの法の経
977. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに……略……こう言いました。「比丘たちよ、一つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)です。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づき(念)を現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。
2. 覚りの支分の経
978. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、呼吸についての気づきを共具した、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。
3. 単純なるものの経
979. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一の果の経
980. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二の果の経
981. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。
比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、七つの果として、七つの福利が期待できます。どのようなものが、七つの果であり、七つの福利なのですか。(1)まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達します。(2)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達しないなら、そこで、死の時において、了知に達します。(3)もし、まさしく、所見の法(現世)において、前もって、了知に達せず、もし、死の時において、了知に達しないなら、そこで、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。(4)……略……再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。(5)……略……形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。(6)……略……形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。(7)……略……上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたとき、これらの、七つの果として、七つの福利が期待できます」と。〔以上が〕第五となる。
6. アリッタの経
982. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は……略……こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちは、まさに、呼吸についての気づきを修めなさい」と。このように説かれたとき、尊者アリッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、まさに、呼吸についての気づきを修めます」と。「アリッタよ、また、すなわち、どのように、あなたは、呼吸についての気づきを修めるのですか」と。「尊き方よ、わたしにとって、諸々の過去の欲望〔の対象〕にたいし、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は捨棄され、わたしにとって、諸々の未来の欲望〔の対象〕にたいし、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕は離れ去り、そして、わたしにとって、内と外に、諸々の法(性質)にたいし、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)は善く取り除かれています。その〔わたし〕は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、呼吸についての気づきを修めます」と。
「アリッタよ、『これは、呼吸についての気づきとして存在する。これが、〔呼吸についての気づきとして〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。アリッタよ、しかしながら、また、すなわち、呼吸についての気づきが、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アリッタは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「アリッタよ、では、どのように、呼吸についての気づきは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成るのですか。アリッタよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アリッタよ、このように、まさに、呼吸についての気づきは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成ります」と。〔以上が〕第六となる。
7. マハー・カッピナの経
983. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッピナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐った状態でいます。まさに、世尊は、尊者マハー・カッピナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──この比丘の身体の、あるいは、揺れ動きを、あるいは、震えおののきを」と。「尊き方よ、すなわち、また、その尊者が、あるいは、僧団の中で坐っているのを、あるいは、独りで静所に坐っているのを、わたしたちが見るとき、そのときもまた、その尊者の身体の、あるいは、揺れ動きを、あるいは、震えおののきを、わたしたちは見ません」と。
「比丘たちよ、その禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるなら、比丘たちよ、その比丘は、その禅定を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者です。比丘たちよ、では、どのような禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるのですか。
比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたことから、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあります。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたとき、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあるのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、そして、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたとき、身体の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、まさしく、有ることなくあり、心の、あるいは、揺れ動きが、あるいは、震えおののきが、有ることなくあります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 灯明の喩えの経
984. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。
比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。
比丘たちよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしもまた、この住によって、多くを住みます。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって、多くを住んでいると、まさしく、身体も疲弊せず、〔両の〕眼も〔疲弊せ〕ず、そして、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『まさしく、わたしの、身体も疲弊するべきではなく、〔両の〕眼も〔疲弊するべきでは〕なく、そして、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『すなわち、わたしに、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟があるなら、それらは捨棄されるのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『そして、嫌悪ならざるものを、さらに、嫌悪のものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘が、もし、また、『全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、この、呼吸についての気づきという禅定が、善くしっかりと意が為されるべきです。
比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたとき、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。
彼が、もし、安楽の感受を(※)感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。
※ テキストには Sukhaṃ ce vedanaṃ とあるが、PTS版により So sukhaṃ ce vedanaṃ と読む。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します」と。〔以上が〕第八となる。
9. ヴェーサーリーの経
985. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語ります。
そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしは求めます──半月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。
そこで、まさに、それらの比丘たちは、「世尊は、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語る」と、無数の行相と区別ある不浄の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます。彼らは、この身体〔の観点〕によって、苦悩し、自責し、忌避しながら、刃を持つ者(殺害者)を遍く探し求めます。或る日には、十者であろうが、比丘たちは刃を持ち、或る日には、二十者であろうが……略……或る日には、三十者であろうが、比丘たちは刃を持ちます(自死する)。
そこで、まさに、世尊は、その半月が経過して、静坐から出起し、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、いったい、まさに、どうして、虚弱者と成ったかのように、比丘の僧団はあるのですか」と。「尊き方よ、また、なぜなら、そのように、〔彼らは〕『世尊は、無数の教相をもって、不浄の講話を話し、不浄の栄誉を語り、不浄の修行の栄誉を語る』と、無数の行相と区別ある不浄の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住むからです。彼らは、この身体〔の観点〕によって、苦悩し、自責し、忌避しながら、刃を持つ者を遍く探し求めます。或る日には、十者であろうが、比丘たちは刃を持ち、或る日には、二十者であろうが……略……或る日には、三十者であろうが、比丘たちは刃を持ちます。尊き方よ、どうか、世尊は、他の教相を告げ知らせたまえ。すなわち、この比丘の僧団が、了知において確立するように」と。
「アーナンダよ、まさに、それでは、すなわち、ヴェーサーリーに近しく依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、すなわち、ヴェーサーリーに依拠して〔世に〕住む、あるかぎりの比丘たちの、彼らの全てを集会所に集めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、集まりました──比丘の僧団が。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、世尊は、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、この、呼吸についての気づきという禅定もまた、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月に、巻き上げられた塵と埃を、まさしく、ただちに、時ならざる大いなる雨雲が、即座に消没させ、寂止させるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させるのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、まさしく、そして、寂静となり、かつまた、精妙となり、かつまた、無雑となり、かつまた、安楽の住となり、さらに、生起しては生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、即座に消没させ、寂止させます」と。〔以上が〕第九となる。
10. キミラの経
986. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。
このように説かれたとき、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。三度また、まさに、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。
このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、呼吸についての気づきという禅定を語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。
「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知するなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、それは、たとえば、また、大きな四つ辻において、大いなる砂の塊があるとします。もし、また、東の方角から(※)、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕き、もし、また、西の方角から……略……もし、また、北の方角から……略……もし、また、南の方角から、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕きます。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みつつもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕き、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みつつもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕きます」と。〔以上が〕第十となる。
※ テキストには disāyaṃ とあるが、PTS版により disāya と読む。
一つの法(性質)の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、一つの法(性質)、覚りの支分、そして、単純なるもの、二つの果、アリッタ、カッピナ、灯明、ヴェーサーリーがあり、そして、キミラとともに、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. イッチャーナンガラの経
987. 或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、わたしは求めます──三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。
そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それで、もし、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、沙門ゴータマは、どのような住によって、雨期の居住の多くを住むのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、世尊は、呼吸についての気づきという禅定によって、雨期の居住の多くを住みます』と。比丘たちよ、ここに、わたしは、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と覚知し……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と覚知し、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と覚知します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)のために、さらに、気づきと正知のために、等しく転起します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、『聖者の住である』ともまた、『梵の住である』ともまた、『如来の住である』ともまた、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 疑うべきものの経
988. 或る時のことです。尊者ローマサカンビヤは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、尊者ローマサカンビヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ローマサカンビヤを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、尊者ローマサカンビヤに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして、如来の住があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があるのですか(両者は別のものですか)」と。
「友よ、マハー・ナーマよ、まさに、まさしく、そのものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして、如来の住があるのではありません。友よ、マハー・ナーマよ、まさに、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります。友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害を……略……疑惑〔の思い〕(疑)という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。
友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、これらの五つの〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。
友よ、マハー・ナーマよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され……略……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害は……略……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害は……略……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。
友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、これらの五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります。
友よ、マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。友よ、マハー・ナーマよ、そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、わたしは求めます──三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します──食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として』と。友よ、マハー・ナーマよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。
友よ、そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、それで、もし、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。「友よ、沙門ゴータマは、どのような住によって、雨期の居住の多くを住むのですか」と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。「友よ、まさに、世尊は、呼吸についての気づきという禅定によって、雨期の居住の多くを住みます」と。比丘たちよ、ここに、わたしは、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知し、長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知します。……略……。「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と覚知し、「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と覚知します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです。
比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住のために、さらに、気づきと正知のために、等しく転起します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです』と。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第一のアーナンダの経
989. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。
「アーナンダよ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「アーナンダよ、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます。
アーナンダよ、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く……略……『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕安楽の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。
アーナンダよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。アーナンダよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
精進に励む者に、喜悦は財貨なきもの(非俗のもの)として生起します。アーナンダよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。アーナンダよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。アーナンダよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。(すなわち、最初の気づきの確立のように、このように詳知されるべきである。)
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。アーナンダよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。
アーナンダよ、どのように、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。アーナンダよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第二のアーナンダの経
990. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「アーナンダよ、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。
アーナンダよ、では、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。アーナンダよ、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。「アーナンダよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き……略……。アーナンダよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第一の比丘たちの経
991. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「比丘たちよ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。
「尊き方よ、また、まさに、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「比丘たちよ、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。
「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き……略……。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二の比丘たちの経
992. そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。「比丘たちよ、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます。比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。
「比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。
比丘たちよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら……略……『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として……略……『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として……略……『〔わたしは〕安楽の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。
比丘たちよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。比丘たちよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
精進に励む者に、喜悦は財貨なきものとして生起します。比丘たちよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。比丘たちよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。比丘たちよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
比丘たちよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。……略……。
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。
比丘たちよ、では、どのように、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第六となる。
7. 束縛の捨棄の経
993. 「比丘たちよ、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 悪習の根絶の経
994. 「……悪習の根絶のために等しく転起します。……。〔以上が〕第八となる。
9. 時間の遍知の経
995. 「……時間の遍知のために等しく転起します。……。〔以上が〕第九となる。
10. 諸々の煩悩の滅尽の経
996. 「……諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起するのですか。……悪習の根絶のために等しく転起するのですか。……時間の遍知のために等しく転起するのですか。……諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、束縛の捨棄のために等しく転起します。……略……。悪習の根絶のために等しく転起します。……略……。時間の遍知のために等しく転起します。……略……。諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「イッチャーナンガラ、疑うべきもの、他に、二つのアーナンダ、〔二つの〕比丘たち、束縛、悪習、時間、諸々の煩悩の滅尽があり、〔章となる〕」と。
呼吸に相応するものが第十となる。
11(55). 預流に相応するもの
1. ヴェールドヴァーラの章
1. 転輪王の経
997. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は……略……こう言いました。「比丘たちよ、たとえ、何であれ、転輪王が、四つの洲の権力者にして君主たる王権を為して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、彼が、そこにおいて、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、かつまた、天の五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむも、彼が、四つの法(性質)を具備していないなら、そこで、まさに、彼は、まさしく、地獄から完全に解き放たれず、畜生の胎から完全に解き放たれず、餓鬼の境域から完全に解き放たれず、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれていないのです。比丘たちよ、たとえ、何であれ、聖なる弟子が、〔施しの〕握り飯によって〔身を〕保ち行き、かつまた、諸々のぼろ布を〔身に〕付けるも、彼が、四つの法(性質)を具備しているなら、そこで、まさに、彼は、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれているのです。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、そして、すなわち、四つの洲(四大陸)の獲得があり、さらに(※)、すなわち、四つの法(性質)の獲得があるとして、四つの洲の獲得は、四つの法(性質)の獲得の、十六分の一にも値しません」と。〔以上が〕第一となる。
※ PTS版により ca を補う。
2. 梵行への沈潜の経
998. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼らに、そして、信があり、さらに、戒があり、浄信があり、法(教え)の見があるなら、彼らは、まさに、〔正しい〕時に信受する──梵行への沈潜という安楽を」と。〔以上が〕第二となる。
3. ディーガーヴ在俗信者の経
999. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、ディーガーヴ在俗信者は、父であるジョーティカ家長に告げました。「家長よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きたまえ。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝したまえ。『尊き方よ、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きたまえ。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「息子よ、わかった」と、まさに、ジョーティカ家長は、ディーガーヴ在俗信者に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジョーティカ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ディーガーヴ在俗信者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。
そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、ディーガーヴ在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者に、こう言いました。「ディーガーヴよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。「ディーガーヴよ、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有るのだ。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有るのだ──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を』〔と〕。ディーガーヴよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。
「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者です。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者です──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を」と。「ディーガーヴよ、それでは、ここに、あなたは、これらの四つの預流の支分において確立して〔そののち〕、より上なる六つの明知を部分とする法(性質)を修めるべきです。ディーガーヴよ、ここに、あなたは、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として、無常についての苦痛の表象ある者として、苦痛についての無我の表象ある者として、捨棄の表象ある者として、離貪の表象ある者として、止滅の表象ある者として、〔世に〕住みなさい。かくのごとく、ディーガーヴよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。
「尊き方よ、すなわち、これらの六つの明知を部分とする法(性質)が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、一切の形成〔作用〕において、無常の随観ある者として、無常についての苦痛の表象ある者として、苦痛についての無我の表象ある者として、捨棄の表象ある者として、離貪の表象ある者として、止滅の表象ある者として、〔世に〕住みます。尊き方よ、しかしながら、また、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさしく、まさに、このジョーティカ家長が、わたしの死後、悩苦を惹起してはならない』」と。「息子よ、ディーガーヴよ、あなたは、このように意を為してはならない。息子よ、ディーガーヴよ、さあ、あなたは、まさしく、すなわち、世尊があなたに言った、まさしく、そのことに、あなたは、善くしっかりと、意を為しなさい」と。
そこで、まさに、世尊は、ディーガーヴ在俗信者を、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ディーガーヴ在俗信者は、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、彼が、世尊によって、簡略の教諭によって教え諭された、ディーガーヴという名の在俗信者が──彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、ディーガーヴ在俗信者は、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、ディーガーヴ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一のサーリプッタの経
1000. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者アーナンダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し……略……。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されたのですか。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「友よ、まさに、四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』〔と〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二のサーリプッタの経
1001. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、まさに、『預流の支分』『預流の支分』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、預流の支分なのですか」と。「尊き方よ、まさに、正なる人士に慣れ親しむことは、預流の支分であり、正なる法(教え)を聞くことは、預流の支分であり、根源のままに意を為すことは、預流の支分であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、預流の支分です」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、正なる人士に慣れ親しむことは、預流の支分であり、正なる法(教え)を聞くことは、預流の支分であり、根源のままに意を為すことは、預流の支分であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することは、預流の支分です。
サーリプッタよ、まさに、『流れ』『流れ』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、流れなのですか」と。「尊き方よ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)は、流れです。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、流れです。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
サーリプッタよ、まさに、『預流たる者』『預流たる者』と、このことが説かれます。サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなものが、預流たる者なのですか」と。「尊き方よ、まさに、すなわち、この聖なる八つの支分ある道を具備した者は、この者は、預流たる者と説かれます。〔まさに〕その、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、すなわち、この聖なる八つの支分ある道を具備した者は、この者は、預流たる者と説かれます。〔まさに〕その、この者は、尊者として、このような名の者と〔説かれ〕、このような姓の者と〔説かれます〕」と。〔以上が〕第五となる。
6. 棟梁たちの経
1002. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。また、まさに、その時点にあって、イシダッタとプラーナの棟梁たちが、サードゥカに滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。
そこで、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、道に下僕を立たせました。「さて、下僕よ、すなわち、おまえが、阿羅漢にして正等覚者たる世尊がやってくるのを見るとき、そこで、わたしたちに告げるのだ」と。まさに、その下僕は、二日か三日のあいだ、〔道に〕立ち、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、イシダッタとプラーナの棟梁たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、イシダッタとプラーナの棟梁たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方がやってきます。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、イシダッタとプラーナの棟梁たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『サーヴァッティーから、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『サーヴァッティーから、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、マガダ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、マガダ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得ないことが有り、失意が有ります。『わたしたちから遠くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マガダ〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マガダ〔国〕から、カーシ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『カーシ〔国〕から、ヴァッジー〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『ヴァッジー〔国〕から、マッラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『マッラ〔国〕から、コーサラ〔国〕に遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』と。
尊き方よ、また、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、サーヴァッティーに遊行〔の旅〕へと立ち去るであろう』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊は有るであろう』と。尊き方よ、すなわち、わたしたちが、世尊のことを、『コーサラ〔国〕から、サーヴァッティーに遊行〔の旅〕へと立ち去ったのだ』と聞くとき、その時点において、わたしたちには、わが意を得たことが有り、悦意が有ります。『わたしたちから近くに、世尊はおられる』」と。
「棟梁たちよ、それゆえに、ここに、在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道なのです。出家は、〔塵の積もらない〕野外にあります。棟梁たちよ、また、そして、あなたたちにとって、不放逸たるに十分なるものがあります」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちには、この煩わしきものより他の煩わしきものが存在します。まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものです」と。「棟梁たちよ、また、どのようなものが、あなたたちにとって、この煩わしきものより他の煩わしきものであり、まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものなのですか」と。
「尊き方よ、ここに、わたしたちは、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、庭園のある地に出かけることを欲する者と成るとき、すなわち、それらが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の王室の象たちであるなら、それらを整えて、すなわち、彼女たちが、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の愛しく意に適う夫人たちであるなら、彼女たちを、或る者は前に、或る者は後に、坐らせます。尊き方よ、また、まさに、それらの婦人たちには、このような形態の香りが有ります。それは、たとえば、また、まさに、香り箱が開かれている、まさしく、そのあいだのように、すなわち、香りによって飾り立てられた王女たちの、その〔香り〕は。尊き方よ、また、まさに、それらの婦人たちには、このような形態の身体の感触が有ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、木綿のように、あるいは、生綿のように、すなわち、安楽のうちに生長した王女たちの、その〔身体の感触〕は。尊き方よ、また、まさに、その時点において、象もまた守られるべきものとして有り、それらの婦人たちもまた守られるべき者たちとして有り、自己もまた守られるべきものとして有ります。尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、それらの婦人たちにたいし、悪しき心を生起する者たちとなり、証知することはありません(恐れ多くて目を向けられない)。尊き方よ、これは、まさに、わたしたちにとって、この煩わしきものより他の煩わしきものであり、まさしく、そして、より煩わしきものであり、さらに、より煩わしきものと名づけられたものです」と。
「棟梁たちよ、それゆえに、ここに、在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道なのです。出家は、〔塵の積もらない〕野外にあります。棟梁たちよ、また、そして、あなたたちにとって、不放逸たるに十分なるものがあります。棟梁たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。棟梁たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。物惜の垢が離れ去った心で家に住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。棟梁たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
棟梁たちよ、あなたたちは、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。また、まさに、それが何であれ、家に施すべき法(施物)があるなら、その全てが、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました。棟梁たちよ、それを、どう思いますか。それらの、コーサラ〔国〕にいる人間たちで、すなわち、あなたたちと等しく同等の者たちとして、どれだけの種類の者たちがいますか。すなわち、この、布施の分与について」と。「尊き方よ、わたしたちには、諸々の利得があります。尊き方よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちのために、世尊は、このように覚知します」と。〔以上が〕第六となる。
7. ヴェールドヴァーラの者たちの経
1003. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェールドヴァーラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェールドヴァーラ〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と(※)。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
※ PTS版により ti を補う。
そこで、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしたちは、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちです。『子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用し、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するべきである』〔と〕。このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちである、〔まさに〕その、わたしたちのために、貴君ゴータマは、すなわち、わたしたちが、子たちで溢れる臥所に居住し……略……善き境遇に、天上の世に、再生できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。
「家長たちよ、自己に関係した法(教え)の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、それらのヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「家長たちよ、では、どのようなものが、自己に関係した法(教え)の教相なのですか。家長たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者として〔世に〕存している。或る者が、まさに、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者であるわたしの生命を奪うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する者である他者の生命を奪うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう(他者にそのようなことはできない)』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしのものである、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者のものである、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取るなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしの妻たちにたいし、関係を持つなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者の妻たちにたいし、関係を持つなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この身体の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしの義(利益)を、虚偽を説くことによって破壊するなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者の義(利益)を、虚偽を説くことによって破壊するなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと朋友たちを、中傷の言葉によって分裂させるなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と朋友たちを、中傷の言葉によって分裂させるなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。……略……。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと、粗暴な言葉によって話し合うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と、粗暴な言葉によって話し合うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が……略……。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
家長たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『或る者が、まさに、わたしと、雑駁な語りによって、雑駁な虚論によって、話し合うなら、わたしにとって、このことは、愛しく意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、他者と、雑駁な語りによって、雑駁な虚論によって、話し合うなら、他者にとってもまた、そのことは、愛しくなく意に適わないこととして存するであろう。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、他者にとってもまた、この法(性質)は、愛しくなく意に適わないことである。すなわち、まさに、わたしにとって、この法(性質)が、愛しくなく意に適わないことであるなら、どうして、わたしが、他者を、その〔法〕と結び付けるというのだろう』と。彼は、かくのごとく深慮して、そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕の栄誉を語ります。このように、彼の、この言葉の励行は、三つの点で完全なる清浄と成ります。
彼は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。家長たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、これらの七つの正なる法(性質)を、これらの四つの望むべき状況を、具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。
このように説かれたとき、ヴェールドヴァーラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第一の煉瓦作りの居住所の経
1004. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、サールハという名の比丘が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、ナンダーという名の比丘尼が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スダッタという名の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、スジャーターという名の女性在俗信者が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
「アーナンダよ、命を終えたサールハ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、命を終えたナンダー比丘尼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、命を終えたスダッタ在俗信者は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者であり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、命を終えたスジャーター女性在俗信者は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です。
アーナンダよ、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、人間と成った者が命を終えるのは。もし、それぞれの者が命を終えたとき、〔あなたたちが〕近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、アーナンダよ、これは、如来にとって、悩害としてもまた存するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、法(真理)の鏡という名の法(教え)の教相を説示しましょう。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。
アーナンダよ、では、どのようなものが、法(真理)の鏡という法(教え)の教相なのですか。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。
アーナンダよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第八となる。
(三つの経典もまた同一の因縁となる。)
9. 第二の煉瓦作りの居住所の経
1005. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、アソーカという名の比丘が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、アソーカーという名の比丘尼が、命を終えたのです。……略……。尊き方よ、アソーカという名の在俗信者が、命を終えたのです。……略……。尊き方よ、アソーカーという名の女性在俗信者が、命を終えたのです。彼女には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
「アーナンダよ、命を終えたアソーカ比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。……略……。(前の説き明かしによって同一の因縁となる。)
アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第三の煉瓦作りの居住所の経
1006. 一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、カッカタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。尊き方よ、カリバという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、ニカタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、カティッサハという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、トゥッタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、サントゥッタという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、バッダという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が……略……。尊き方よ、スバッダという名のニャーティカ〔村〕の在俗信者が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか。
アーナンダよ、命を終えたカッカタ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。アーナンダよ、カリバ在俗信者は……略……。アーナンダよ、ニカタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、カティッサハ在俗信者は……略……。アーナンダよ、トゥッタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、サントゥッタ在俗信者は……略……。アーナンダよ、バッダ在俗信者は……略……。アーナンダよ、スバッダ在俗信者は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。(全ての者たちが同一の境遇ある者たちと為されるべきである。)
アーナンダよ、五十者を超える命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。アーナンダよ、九十者を優に超える命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。アーナンダよ、五百と六者余りの命を終えたニャーティカ〔村〕の在俗信者たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。
アーナンダよ、また、まさに、このことは、稀有なることではありません。すなわち、人間と成った者が命を終えるのは。もし、それぞれの者が命を終えたとき、〔あなたたちが〕近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、アーナンダよ、これは、如来にとって、悩害としてもまた存するでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、法(真理)の鏡という名の法(教え)の教相を説示しましょう。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。
アーナンダよ、では、どのようなものが、法(真理)の鏡という法(教え)の教相なのですか。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』〔と〕。
アーナンダよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。アーナンダよ、これは、まさに、その、法(真理)の鏡という法(教え)の教相です。それを具備した聖なる弟子は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第十となる。
ヴェールドヴァーラの章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「王、沈潜とディーガーヴ、他に、二つのサーリプッタ、棟梁たち、ヴェールドヴァーラの者たち、煉瓦作りの居住所において、三つのものがあり、〔章となる〕」と。
2. 王の林園の章
1. 千の比丘尼の僧団の経
1007. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。王の林園において。そこで、まさに、千の比丘尼の僧団が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、世尊は、こう言いました。
「比丘尼たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘尼たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘尼たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。
2. 婆羅門たちの経
1008. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、婆羅門たちは、上昇に至るものという名の〔実践の〕道を報知します。彼らは、弟子たちに、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、まさしく、早朝に起きて、東に向かって行きなさい。〔まさに〕その、あなたは、溝を回避してはいけません。淵を〔回避しては〕いけません。木株を〔回避しては〕いけません。棘ある箇所を〔回避しては〕いけません。どぶ池を〔回避しては〕いけません。水たまりを〔回避しては〕いけません。そこにおいて、倒れ落ちるなら、まさしく、そこにおいて、死を待つのです。さて、人士たる者よ、このように、あなたは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう』と。
比丘たちよ、また、まさに、その、このことは──婆羅門たちの、この愚かな道行きは、この迷乱した道行きは──厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、わたしは、聖者の律において、上昇に至る〔実践の〕道を報知します。それは、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
比丘たちよ、では、どのようなものが、上昇に至る〔実践の〕道であり、それは、一方的に、厭離のために……略……涅槃のために、等しく転起するのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、これは、まさに、その、上昇に至る〔実践の〕道であり、一方的に、厭離のために……略……涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。
3. アーナンダ長老の経
1009. 或る時のことです。かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、まさに、どれだけの諸々の法(性質)の捨棄あることから、どれだけの諸々の法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されたのですか。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「友よ、まさに、四つの法(性質)の捨棄あることから、四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。
どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、まさに、そのような形態の覚者にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の覚者にたいする浄信なきことが、〔彼には〕有りません。友よ、そして、まさに、そのような形態の覚者にたいする確固たる浄信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の覚者にたいする確固たる浄信が、〔彼には〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。
友よ、そして、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする浄信なきことが、〔彼には〕有りません。友よ、そして、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする確固たる浄信が、〔彼には〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。
友よ、そして、まさに、そのような形態の僧団にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の僧団にたいする浄信なきことが、〔彼には〕有りません。友よ、そして、まさに、そのような形態の僧団にたいする確固たる浄信を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の僧団にたいする確固たる浄信が、〔彼には〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。
友よ、そして、まさに、そのような形態の劣戒の資質を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の劣戒の資質が、〔彼には〕有りません。友よ、そして、まさに、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒が、〔彼には〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が。友よ、まさに、これらの四つの法(性質)の捨棄あることから、これらの四つの法(性質)の具備を因として、このように、この人々は、世尊によって授記されました。『預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。〔以上が〕第三となる。
4. 悪趣の恐怖の経
1010. 「比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣の恐怖を超越した者と成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣の恐怖を超越した者と成ります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 悪趣と堕所の恐怖の経
1011. 「比丘たちよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣と堕所の恐怖を超越した者と成ります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、一切の悪趣と堕所の恐怖を超越した者と成ります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第一の朋友や僚友たちの経
1012. 「比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。覚者にたいする確固たる浄信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕において。比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、これらの四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第二の朋友や僚友たちの経
1013. 「比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。覚者にたいする確固たる浄信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。
比丘たちよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょうが、まさしく、しかし、覚者にたいする確固たる浄信を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこで、この他化は──彼が、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕において。比丘たちよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょうが、まさしく、しかし、聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこで、この他化は──彼が、まさに、聖者たちに愛される諸戒を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、すなわち、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、すなわち、〔それらの者たちが〕聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、これらの四つの預流の支分において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第一の天の遊行の経
1014. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の身体ある天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第二の天の遊行の経
1015. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の身体ある天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第三の天の遊行の経
1016. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、三十三天において出現しました。そこで、まさに、大勢の三十三〔天〕の身体ある天神たちが、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの天神たちに、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。
「友よ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります。友よ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。友よ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります」と。
「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、覚者にたいする確固たる浄信の具備が有るのは。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、覚者にたいする確固たる浄信の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善きかな、まさに、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒の具備が有るのは──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕の。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、聖者たちに愛される諸戒の具備を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、預流たる者たちとなり、堕所の法(性質)なき者たちとなり、決定の者たちとなり、正覚を行き着く所とする者たちとなります」と。〔以上が〕第十となる。
王の林園の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「千と婆羅門とアーナンダ、他に、二つの悪趣、二つの朋友や僚友たちが説かれ、さらに、三つの天の遊行があり、〔章となる〕」と。
3. サラナーニの章
1. 第一のマハー・ナーマの経
1017. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このカピラヴァットゥは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れ、群集で溢れています。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、あるいは、世尊に奉侍して、あるいは、意を修めることができる比丘たちに〔奉侍して〕、夕刻時に、カピラヴァットゥに入りつつあると、迷走する象ともまた遭遇し、迷走する馬ともまた遭遇し、迷走する車ともまた遭遇し、迷走する荷車ともまた遭遇し、迷走する人ともまた遭遇します。尊き方よ、その時点において、〔まさに〕その、わたしの、世尊を対象とする気づきは、まさしく、忘却され、法(教え)を対象とする気づきは忘却され、僧団を対象とする気づきは忘却されます。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『もし、わたしが、この時点において、命を終えるなら、わたしには、どのような〔死後の〕境遇があるのだろう、どのような未来の運命があるのだろう』」と。
「マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕。マハー・ナーマよ、すなわち、誰にであれ、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり、戒が遍く修められた心があり、所聞が遍く修められた心があり、施捨が遍く修められた心があり、智慧が遍く修められた心があるなら、まさに、すなわち、彼の、まさに、この身体が、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるも、それを、まさしく、ここに、あるいは、烏たちが喰い、あるいは、鷲たちが喰い、あるいは、鷹たちが喰い、あるいは、犬たちが喰い、あるいは、野狐(ジャッカル)たちが喰い、あるいは、様々な種類の命あるものの類が喰うも、しかしながら、すなわち、まさに、彼の心が、長夜にわたり、信が遍く修められ……略……智慧が遍く修められたなら、それは、上に赴くものと成り、殊勝〔の境地〕に至るものと〔成ります〕。
マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、酥の瓶を、あるいは、油の瓶を、深い湖水のなかに入って、破壊するとします。そこで、すなわち、あるいは、砂礫が、あるいは、小石が、〔瓶の中に〕存在するなら、それは、下に赴くものとして存するでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、そこで、あるいは、酥が、あるいは、油が、〔瓶の中に〕存在するなら、それは、上に赴くものとして存するでしょう──殊勝〔の境地〕に至るものとして。マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にであれ、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり……略……智慧が遍く修められた心があるなら、まさに、すなわち、彼の、まさに、この身体が、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるも、それを、まさしく、ここに、あるいは、烏たちが喰い、あるいは、鷲たちが喰い、あるいは、鷹たちが喰い、あるいは、犬たちが喰い、あるいは、野狐たちが喰い、あるいは、様々な種類の命あるものの類が喰うも、しかしながら、すなわち、まさに、彼の心が、長夜にわたり、信が遍く修められ……略……智慧が遍く修められたなら、それは、上に赴くものと成り、殊勝〔の境地〕に至るものと〔成ります〕。マハー・ナーマよ、また、まさに、あなたには、長夜にわたり、信が遍く修められた心があり……略……智慧が遍く修められた心があります。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第二のマハー・ナーマの経
1018. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このカピラヴァットゥは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れ、群集で溢れています。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、あるいは、世尊に奉侍して、あるいは、意を修めることができる比丘たちに〔奉侍して〕、夕刻時に、カピラヴァットゥに入りつつあると、迷走する象ともまた遭遇し、迷走する馬ともまた遭遇し、迷走する車ともまた遭遇し、迷走する荷車ともまた遭遇し、迷走する人ともまた遭遇します。尊き方よ、その時点において、〔まさに〕その、わたしの、世尊を対象とする気づきは、まさしく、忘却され、法(教え)を対象とする気づきは忘却され、僧団を対象とする気づきは忘却されます。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『もし、わたしが、この時点において、命を終えるなら、わたしには、どのような〔死後の〕境遇があるのだろう、どのような未来の運命があるのだろう』」と。
「マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。マハー・ナーマよ、恐れてはいけません。あなたには、悪しきものならざる死が有るでしょう。悪しきものならざる命終が〔有るでしょう〕。マハー・ナーマよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。
マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、木が、東に向かい行くものであり、東に傾倒するものであり、東に傾斜するものであるとします。その〔木〕が、根において切断されたなら、どちらに倒れ落ちるでしょうか」と。「尊き方よ、向かい行くところであり、傾倒するところであり、傾斜するところです」と。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、涅槃に向かい行く者と成り、涅槃に傾倒する者と〔成り〕、涅槃に傾斜する者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。
3. 釈迦〔族〕のゴーダーの経
1019. カピラヴァットゥの因縁となります。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、釈迦〔族〕のゴーダーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。「ゴーダーよ、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕」と。
「マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、これらの三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。
マハー・ナーマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕」と。「ゴーダーよ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ゴーダーよ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕」と。
「マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。まさしく、世尊は、このことを知るでしょう──これらの法(性質)を、あるいは、具備した者であるか、あるいは、具備していない者であるかを」と。「ゴーダーよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、かつまた、釈迦〔族〕のゴーダーは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、わたしは、釈迦〔族〕のゴーダーのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。『ゴーダーよ、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕』と。尊き方よ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のゴーダーは、わたしに、こう言いました。
『マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。「世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である」と。マハー・ナーマよ、まさに、わたしは、これらの三つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。マハー・ナーマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知しますか〕』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、釈迦〔族〕のゴーダーに、こう言いました。『ゴーダーよ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ゴーダーよ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、預流たる人と了知し、堕所の法(性質)なき者と〔了知し〕、決定の者と〔了知し〕、正覚を行き着く所とする者と〔了知します〕』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のゴーダーは、わたしに、こう言いました。『マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。マハー・ナーマよ、待ちたまえ、あなたは。まさしく、世尊は、このことを知るでしょう──これらの法(性質)を、あるいは、具備した者であるか、あるいは、具備していない者であるかを』と。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように浄信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団と比丘尼の僧団が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように浄信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、かつまた、比丘の僧団と比丘尼の僧団が〔存し〕、かつまた、在俗信者たちが〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように浄信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、比丘の僧団と比丘尼の僧団と在俗信者たちが〔存し〕、かつまた、女性在俗信者たちが〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように浄信した者と認めてください。尊き方よ、ここに、何らかの或る法(性質)の生起が生起するとして、片側に、世尊が存し、片側に、比丘の僧団と比丘尼の僧団と在俗信者たちと女性在俗信者たちが〔存し〕、かつまた、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が〔存するとして〕、まさしく、世尊のおられるところに、まさしく、そこに、わたしは存するでしょう。尊き方よ、世尊は、わたしのことを、このように浄信した者と認めてください」と。「ゴーダーよ、このように説く者であるなら、あなたは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、何を説きますか」と。「尊き方よ、このように説く者であるなら、わたしは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマのことを、健全なることより他に、善巧なることより他に、何であれ、説くことはありません」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一の釈迦〔族〕のサラナーニの経
1020. カピラヴァットゥの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終えた者と成ります。彼は、世尊によって授記されました。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びの挫折を惹起し、酒を飲んでいたのに」と。
そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼は、世尊によって授記されました。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びの挫折を惹起し、酒を飲んでいたのに』」と。
「マハー・ナーマよ、すなわち、その者が、長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者であるなら、彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。マハー・ナーマよ、まさに、すなわち、その者のことを、『長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者である』と、正しく説きつつ説くなら、釈迦〔族〕のサラナーニのことを、『長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者である』と、正しく説きつつ説くべきです。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者です。彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。
マハー・ナーマよ、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、そして、解脱を具備した者です。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、しかしながら、解脱を具備した者ではありません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……〔世に〕有りません。僧団にたいする……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……〔世に〕有りません。僧団にたいする……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。マハー・ナーマよ、もし、また、これらの大家たちが、見事に語られたものと拙劣に語られたものを了知するなら、そして、わたしは、これらの大家たちを授記するでしょう。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。また、ましてや、釈迦〔族〕のサラナーニにおいては、なおさらのこと。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、死の時において、学びを受持しました」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二の釈迦〔族〕のサラナーニの経
1021. カピラヴァットゥの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終えた者と成ります。彼は、世尊によって授記されました。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びにおける円満成就を為さない者として〔世に〕有ったのに」と。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、釈迦〔族〕のサラナーニが、命を終え、彼は、世尊によって授記されました。『預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の釈迦〔族〕の者たちが、群集して、集いあつまって、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ここにおいて、今や、誰が、預流たる者と成らないというのだろう。なぜなら、そこで、まさに、釈迦〔族〕のサラナーニが命を終え、彼が、世尊によって授記されたからだ。「預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である」と。釈迦〔族〕のサラナーニは、学びにおける円満成就を為さない者として〔世に〕有ったのに』」と。
「マハー・ナーマよ、すなわち、その者が、長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者であるなら、彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。マハー・ナーマよ、まさに、すなわち、その者のことを、『長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者である』と、正しく説きつつ説くなら、釈迦〔族〕のサラナーニのことを、『長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者である』と、正しく説きつつ説くべきです。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、長夜にわたり、在俗信者としてあり、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いた者です。彼が、どうして、堕所に赴くというのでしょう。
マハー・ナーマよ、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、そして、解脱を具備した者です。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者であり、疾走する智慧ある者であり、しかしながら、解脱を具備した者ではありません。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……。僧団にたいし……略……。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれています。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……〔世に〕有りません。僧団にたいし……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。
マハー・ナーマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、まさに、覚者にたいし、一向に赴いた者として、大いに浄信した者として、〔世に〕有りません。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいし……略……〔世に〕有りません。僧団にたいし……略……〔世に〕有りません。敏速なる智慧ある者ではなく、疾走する智慧ある者ではなく、さらに、解脱を具備した者でもありません。しかしながら、また、彼には、これらの法(性質)が──信の機能が……略……智慧の機能が──有ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。マハー・ナーマよ、この人もまた、まさに、地獄に赴かない者であり、畜生の胎に赴かない者であり、餓鬼の境域に赴かない者であり、悪所と悪趣と堕所に赴かない者です。
マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、悪しき地にして、木株が引き抜かれていない、悪しき田畑があるとします。そして、破断し、腐敗し、熱風に打破され、しっかりと保管されていない、諸々の未熟ならざる種が存し、さらに、天が正しく流雨を授けないなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、ここに、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、〔世に〕有ります。わたしは、これを、悪しき田畑〔の喩え〕において説きます。そして、その法(教え)のもと、弟子が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正の実践者として、法(教え)に従い行く者として、〔世に〕住みます。わたしは、これを、悪しき種〔の喩え〕において説きます。
そして、マハー・ナーマよ、それは、たとえば、また、善き地にして、木株が善く引き抜かれた、善き田畑があるとします。そして、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種が存し、さらに、天が正しく流雨を授けるなら、さて、いったい、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「マハー・ナーマよ、まさしく、このように、まさに、ここに、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕として、寂止のために等しく転起するものとして、正等覚者によって知らされたものとして、〔世に〕有ります。わたしは、これを、善き田畑〔の喩え〕において説きます。そして、その法(教え)のもと、弟子が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正の実践者として、法(教え)に従い行く者として、〔世に〕住みます。わたしは、これを、善き種〔の喩え〕において説きます。また、ましてや、釈迦〔族〕のサラナーニにおいては、なおさらのこと。マハー・ナーマよ、釈迦〔族〕のサラナーニは、死の時において、学びにおける円満成就を為す者として〔世に〕有りました」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第一のアナータピンディカの経
1022. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、アナータピンディカ家長に答えて、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。
そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者アーナンダを随伴の沙門として、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。
「家長よ、まさに、そのような形態の覚者にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の覚者にたいする浄信なきことが、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、覚者にたいする確固たる浄信が、あなたには存在します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、覚者にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の法(教え)にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の法(教え)にたいする浄信なきことが、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、法(教え)にたいする確固たる浄信が、あなたには存在します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、法(教え)にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の僧団にたいする浄信なきことを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の僧団にたいする浄信なきことが、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、僧団にたいする確固たる浄信が、あなたには存在します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、僧団にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の劣戒の資質を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の劣戒の資質が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、聖者たちに愛される諸戒が、あなたには存在します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が。また、そして、あなたが、〔まさに〕それらの、聖者たちに愛される諸戒を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った見解を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った見解が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい見解が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい見解を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った思惟を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った思惟が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい思惟が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい思惟を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った言葉を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った言葉が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい言葉が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい言葉を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った行業を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った行業が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい行業が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい行業を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った生き方を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った生き方が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい生き方が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい生き方を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った努力を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った努力が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい努力が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい努力を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った気づきを具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った気づきが、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい気づきが、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい気づきを、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った禅定を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った禅定が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい禅定が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい禅定を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った知恵を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った知恵が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい知恵が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい知恵を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう。
家長よ、まさに、そのような形態の誤った解脱を具備した無聞の凡夫が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、そのような形態の誤った解脱が、あなたには存在しません。家長よ、そして、まさに、正しい解脱が、あなたには存在します。また、そして、あなたが、〔まさに〕その、正しい解脱を、自己のうちに等しく随観していると、〔苦痛の〕感受は、即座に安息するでしょう」と。
そこで、まさに、アナータピンディカ家長の諸々の〔苦痛の〕感受は、即座に安息しました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、かつまた、尊者サーリプッタを、かつまた、尊者アーナンダを、まさしく、自らの〔献上用の〕盛り物によって給仕しました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、尊者サーリプッタが食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、尊者サーリプッタは、これらの詩偈によって随喜しました。
〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──
その者に、僧団にたいする浄信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。
それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。
そこで、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長に、これらの詩偈によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。「尊き方よ、アナータピンディカ家長が、尊者サーリプッタによって、そして、この〔教諭〕によって、さらに、この教諭によって、教え諭されたのです」と。「アーナンダよ、サーリプッタは、賢者です。アーナンダよ、サーリプッタは、大いなる智慧ある者です。なぜなら、そこで、まさに、四つの預流の支分を、十の行相とともに区分するからです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第二のアナータピンディカの経
1023. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、尊者アーナンダのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、アナータピンディカ家長に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。
「家長よ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した無聞の凡夫には、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、無聞の凡夫が、覚者にたいする浄信なきことを具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、覚者にたいする浄信なきことを、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。
家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、法(教え)にたいする浄信なきことを具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、法(教え)にたいする浄信なきことを、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。
家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、僧団にたいする浄信なきことを具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、僧団にたいする浄信なきことを、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。
家長よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫が、劣戒の資質を具備した者として〔世に〕有ります。また、そして、彼が、〔まさに〕その、劣戒の資質を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。家長よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した無聞の凡夫には、恐懼が有り、驚愕が有り、未来の死の恐怖が有ります。
家長よ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した有聞の聖なる弟子には、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、覚者にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。
家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、法(教え)にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。
家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。また、そして、彼が、〔まさに〕その、僧団にたいする確固たる浄信を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。
家長よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。また、そして、彼が、〔まさに〕それらの、聖者たちに愛される諸戒を、自己のうちに等しく随観していると、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません。家長よ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した有聞の聖なる弟子には、恐懼は有ることなく、驚愕は有ることなく、未来の死の恐怖も有りません」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、わたしは恐れません。どうして、わたしが恐れるというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……法(教え)にたいする……略……僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。尊き方よ、さらに、すなわち、これらの、在家者の適正なる学びの境処(戒律)が、世尊によって説示されました。それらの何であれ、破断を、自己のうちに等しく随観しません」と。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。家長よ、あなたによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第一の恐怖と怨念が寂止したものの経
1024. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、すなわち、まさに、そして、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。
どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。(2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……。(3)家長よ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……略……。(4)家長よ、すなわち、虚偽を説く者は……略……。(5)家長よ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位あることから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。
どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)法(教え)にたいする……略……。(3)僧団にたいする……略……。(4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。
では、彼の、どのような聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。家長よ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。
家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第二の恐怖と怨念が寂止したものの経
1025. サーヴァッティーの因縁となります。……略……。「比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、この聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第九となる。
10. リッチャヴィ〔族〕のナンダカの経
1026. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカに、世尊は、こう言いました。
「ナンダカよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ナンダカよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ナンダカよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
ナンダカよ、また、そして、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、天の寿命ともまた、人間〔の寿命〕ともまた、結び付いた者と成り、天の色艶ともまた、人間〔の色艶〕ともまた、結び付いた者と成り、天の安楽ともまた、人間〔の安楽〕ともまた、結び付いた者と成り、天の福徳(盛名)ともまた、人間〔の福徳〕ともまた、結び付いた者と成り、天の権威ともまた、人間〔の権威〕ともまた、結び付いた者と成ります。ナンダカよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、説くのではありません。ナンダカよ、しかしながら、また、まさに、まさしく、それが、わたしによって、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます」と。
このように説かれたとき、或るひとりの下僕が、リッチャヴィ〔族〕の大臣であるナンダカに、こう言いました。「尊き方よ、沐浴の時間です」と。「〔おまえに〕申し付ける。今や、外なる沐浴は、これは十分である。内なる沐浴が有るのだ、これで十分である。すなわち、この、世尊にたいする浄信である」と。〔以上が〕第十となる。
サラナーニの章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「マハー・ナーマによって、二つのものが説かれ、そして、ゴーダー、二つのサラナ、二つのアナータピンディカがあり、さらに、怨念と恐怖によって、二つのものが〔説かれ〕、第十のものとして、リッチャヴィ〔族〕が説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。
4. 功徳が流れ行くものの章
1. 第一の功徳が流れ行くものの経
1027. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。これは、第二の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。これは、第三の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第二の功徳が流れ行くものの経
1028. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第三の功徳が流れ行くものの経
1029. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一の天の境処の経
1030. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、天〔の神々〕たちの天の境処があります──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二の天の境処の経
1031. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、何が、天〔の神々〕たちの天の境処であるのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、今現在、天〔の神々〕たちのことを、加害なき〔あり方〕を最高とする者たちと聞く。また、まさに、そして、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはない。たしかに、わたしは、天の境処の法(性質)を具備した者として〔世に〕住む』と。これは、第一の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、何が、天〔の神々〕たちの天の境処であるのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、今現在、天〔の神々〕たちのことを、加害なき〔あり方〕を最高とする者たちと聞く。また、まさに、そして、わたしは、何であれ──あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも──悩ますことはない。たしかに、わたしは、天の境処の法(性質)を具備した者として〔世に〕住む』と。これは、第四の、天〔の神々〕たちの天の境処です──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、天〔の神々〕たちの天の境処があります──清浄ならざる有情たちの清浄のために、完全なる清白ならざる有情たちの完全なる清白のために」と。〔以上が〕第五となる。
6. 天の同僚の経
1032. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者を、わが意を得た天〔の神々〕は、同僚として話しかけます。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。すなわち、それらの天神たちが、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちとして、ここから死滅し、そこに再生した者たちであるなら、それら〔の天神〕たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしたちは、そのような形態の覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちとして、そこから死滅し、ここに再生したのだ。聖なる弟子もまた、そのような形態の覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として、天〔の神々〕たちの現前に行くであろう』と。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。すなわち、それらの天神たちが、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちとして、ここから死滅し、そこに再生した者たちであるなら、それら〔の天神〕たちに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしたちは、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちとして、そこから死滅し、ここに再生したのだ。聖なる弟子もまた、そのような形態の聖者たちに愛される諸戒を具備した者として、天〔の神々〕たちの現前に行くであろう』と。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した者を、わが意を得た天〔の神々〕は、同僚として話しかけます」と。〔以上が〕第六となる。
7. マハー・ナーマの経
1033. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、在俗信者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、帰依所として、覚者のもとに赴いた者として〔世に〕有り、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者として〔世に〕有り、帰依所として、僧団のもとに赴いた者として〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者として〔世に〕有ります」と。
「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、すなわち、まさに、在俗信者が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ることから、マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、戒を成就した者として〔世に〕有ります」と。
「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、信を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、信を成就した者として〔世に〕有ります」と。
「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、施捨を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、施捨を成就した者として〔世に〕有ります」と。
「尊き方よ、また、どのようなことから、在俗信者は、智慧を成就した者として〔世に〕有るのですか」と。「マハー・ナーマよ、ここに、在俗信者が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。マハー・ナーマよ、このことから、まさに、在俗信者は、智慧を成就した者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 雨の経
1034. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子の、そして、すなわち、覚者にたいする確固たる浄信も、かつまた、すなわち、法(教え)にたいする確固たる浄信も、かつまた、すなわち、僧団にたいする確固たる浄信も、さらに、すなわち、聖者たちに愛される諸戒も、これらの法(性質)は、流れ行きながら、彼岸に至って、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。
9. カーリゴーダーの経
1035. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕の女のカーリゴーダーに、世尊は、こう言いました。
「ゴーダーよ、四つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる女性の弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。どのようなものが、四つのものなのですか。ゴーダーよ、ここに、聖なる女性の弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。ゴーダーよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる女性の弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。
「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出され、さらに、わたしは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしは、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。また、まさに、それが何であれ、家に施すべき法(施物)があるなら、その全てが、戒ある者たちに、善き法(性質)ある者たちに、差別なく分配されました」と。「ゴーダーよ、あなたには、諸々の利得があります。ゴーダーよ、あなたには、善く得られたものがあります。ゴーダーよ、あなたによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第九となる。
10. 釈迦〔族〕のナンディヤの経
1036. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、その聖なる弟子に、四つの預流の支分が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、存在しないなら、尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、その聖なる弟子は、放逸の住者となるのですか」と。
「ナンディヤよ、まさに、その聖なる弟子に、四つの預流の支分が、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、存在しないなら、わたしは、彼のことを、『外の者にして凡夫の側に立つ者』と説きます。ナンディヤよ、さらに、また、聖なる弟子が、まさしく、そして、放逸の住者と成り、さらに、不放逸の住者と〔成る〕、そのとおりに、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「ナンディヤよ、では、どのように、聖なる弟子は、放逸の住者と成るのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、その覚者にたいする確固たる浄信で満足し、より以上に努力しません──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛のうちに〔世に〕住みます。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。
ナンディヤよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、それらの聖者たちに愛される諸戒で満足し、より以上に努力しません──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜は有りません。歓喜が存していないとき、喜悦は有りません。喜悦が存していないとき、静息は有りません。静息が存していないとき、苦痛のうちに〔世に〕住みます。苦痛ある者には、心が定められません。心が定められていないとき、諸々の法(性質)は明らかと成りません。諸々の法(性質)が明らかと成らないことから、まさしく、『放逸の住者』という名称に至ります。ナンディヤよ、このように、まさに、聖なる弟子は、放逸の住者と成ります。
ナンディヤよ、では、どのように、聖なる弟子は、不放逸の住者と成るのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、その覚者にたいする確固たる浄信で満足せず、より以上に努力します──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように不放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。
ナンディヤよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼は、それらの聖者たちに愛される諸戒で満足せず、より以上に努力します──昼に、遠離のために、夜に、静坐のために。彼が、このように放逸となり、〔世に〕住んでいると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。心が定められたとき、諸々の法(性質)は明らかと成ります。諸々の法(性質)が明らかと成ることから、まさしく、『不放逸の住者』という名称に至ります。ナンディヤよ、このように、まさに、聖なる弟子は、不放逸の住者と成ります」と。〔以上が〕第十となる。
功徳が流れ行くものの章が第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「三つの流れ行くものが説かれ、そして、二つの天の境処、同僚、マハー・ナーマ、雨、そして、カーリ〔ゴーダー〕、ナンディヤがあり、〔章となる〕」と。
5. 詩偈を有する功徳が流れ行くものの章
1. 第一の流れ行くものの経
1037. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。
比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──
このように、食べ物や飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の(※)施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第一となる。
※ テキストには Seyyāni paccattharaṇassa とあるが、PTS版により Seyyānisajjattharaṇassa と読む。
2. 第二の流れ行くものの経
1038. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。
比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこにおいて、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──
このように、食べ物や飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の(※)施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第二となる。
※ テキストには Seyyāni paccattharaṇassa とあるが、PTS版により Seyyānisajjattharaṇassa と読む。
3. 第三の流れ行くものの経
1039. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これは、第一の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。
比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これは、第四の、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものがあります。
比丘たちよ、まさに、これらの四つの、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となるものを具備した聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となる』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、功徳を欲する者が、善なるものにおいて確立し、不死〔の境処〕に至り得るために、道を修めるなら、彼は、法(教え)の真髄に到達し、滅尽を喜ぶ者となり、死魔の王の到来あるも動揺しない」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第一の大いなる財産の経
1040. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある』と説かれます。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある』と説かれます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第二の大いなる財産の経
1041. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、大いなる盛名がある』と説かれます。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、『富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、大いなる盛名がある』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。
6. 単純なるものの経
1042. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。
7. ナンディヤの経
1043. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のナンディヤに、世尊は、こう言いました。「ナンディヤよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。ナンディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。ナンディヤよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。
8. バッディヤの経
1044. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のバッディヤに、世尊は、こう言いました。「バッディヤよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。バッディヤよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。バッディヤよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。
9. マハー・ナーマの経
1045. カピラヴァットゥの因縁となります。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、世尊は、こう言いました。「マハー・ナーマよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。マハー・ナーマよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第九となる。
10. 支分の経
1046. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの預流の支分です。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの預流の支分があります」と。〔以上が〕第十となる。
詩偈を有する功徳が流れ行くものの章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「三つの流れ行くものが説かれ、さらに、大いなる財産によって、二つのものが〔説かれ〕、単純なるもの、ナンディヤ、バッディヤがあり、マハー・ナーマと支分とともに、それらの十がある」と。
6. 智慧を有する者の章
1. 詩偈を有するものの経
1047. 「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)を具備した聖なる弟子は、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──
その者に、僧団にたいする浄信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。
それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第一となる。
2. 雨期を過ごした者の経
1048. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、サーヴァッティーにおいて雨期を過ごし、カピラヴァットゥに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、「どうやら、或るひとりの比丘が、サーヴァッティーにおいて雨期を過ごし、カピラヴァットゥに到着したらしい」と耳にしました。
そこで、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カピラヴァットゥの釈迦〔族〕の者たちは、その比丘に、こう言いました。「尊き方よ、どうでしょう、世尊は、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、世尊は、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、どうでしょう、サーリプッタとモッガッラーナは、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、サーリプッタとモッガッラーナもまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、どうでしょう、比丘の僧団は、まさしく、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、比丘の僧団もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「尊き方よ、また、あなたに、何であれ、この雨期の間に、世尊の、面前で聞き、面前で受けたものが存在しますか」と。「友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』と。
友よ、他にもまた、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』と。
友よ、他にもまた、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう、それらの比丘たちは、僅かです。そこで、まさに、すなわち、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである、まさしく、これらの比丘たちは、より多くあります』」と。〔以上が〕第二となる。
3. ダンマディンナの経
1049. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、ダンマディンナ在俗信者が、五百の在俗信者たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、まさに、ダンマディンナ在俗信者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、わたしたちに教諭してください。尊き方よ、世尊は、わたしたちに教示してください。すなわち、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。
「ダンマディンナよ(※)、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらを、〔その〕時〔その〕時に成就して〔世に〕住むのだ』と。ダンマディンナよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。「尊き方よ、まさに、このことは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している、まさに、わたしたちによっては、為し易きことではありません──すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらを、〔その〕時〔その〕時に成就して〔世に〕住むことは。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちのために、まさに、五つの学びの境処(戒律)において止住している〔わたしたち〕のために、より上なる法(教え)を説示してください」と。
※ テキストには dhammadinnaṃ とあるが、PTS版により dhammadinna と読む。
「ダンマディンナよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有るのだ。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略………。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有るのだ──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を』と。ダンマディンナよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。
「尊き方よ、すなわち、これらの四つの預流の支分が、世尊によって説示されました。それらの法(性質)は、わたしたちにおいて等しく見出され、さらに、わたしたちは、それらの法(性質)において現見されます。尊き方よ、まさに、わたしたちは、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者たちです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする……略……。僧団にたいする……略……。聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちです──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を」と。「ダンマディンナよ、あなたたちには、諸々の利得があります。ダンマディンナよ、あなたたちには、善く得られたものがあります。あなたたちによって、預流果が説き明かされました」と。〔以上が〕第三となる。
4. 病者の経
1050. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為します。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」と。まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、「どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。『三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう』」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちが、世尊のために、衣料の〔仕立て〕作業を為すらしい。「三月が経過して、衣料が仕立てられたなら、世尊は、遊行〔の旅〕に出発するであろう」』」と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けていません。『智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、〔このように〕教諭されるべきである』」と。
「マハー・ナーマよ、智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、四つの安堵させられるべき法(性質)によって安堵させられるべきです。『尊者よ、安堵したまえ。尊者には、覚者にたいする確固たる浄信が存在します。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。尊者よ、安堵したまえ。尊者には、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……略……聖者たちに愛される諸戒が存在します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕が』と。
マハー・ナーマよ、智慧を有する在俗信者が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となるなら、智慧を有する在俗信者によって、これらの四つの安堵させられるべき法(性質)によって安堵させて〔そののち〕、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、母と父にたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、母と父にたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、まさに、死ある者であり、死の法(性質)ある者です。それで、もし、また、尊者が、母と父にたいする期待〔の思い〕を作り為すとして、まさしく、死ぬことになり、もし、また、尊者が、母と父にたいする期待〔の思い〕を作り為さないとして、まさしく、死ぬことになるのです。尊者よ、すなわち、あなたの、母と父にたいする期待〔の思い〕ですが、どうか、それを捨棄したまえ』と。
もし、彼が、『すなわち、わたしの、母と父にたいする期待〔の思い〕ですが、それは捨棄されました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、まさに、死ある者であり、死の法(性質)ある者です。それで、もし、また、尊者が、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕を作り為すとして、まさしく、死ぬことになり、もし、また、尊者が、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕を作り為さないとして、まさしく、死ぬことになるのです。尊者よ、すなわち、あなたの、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕ですが、どうか、それを捨棄したまえ』と。
もし、彼が、『すなわち、わたしの、子と妻たちにたいする期待〔の思い〕ですが、それは捨棄されました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『また、尊者には、人間のものである五つの欲望の属性(五妙欲)にたいする期待〔の思い〕が存在しますか』と。もし、彼が、『わたしには、人間のものである五つの欲望の属性にたいする期待〔の思い〕が存在します』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕より、天の諸々の欲望〔の対象〕は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。尊者よ、どうか、人間の諸々の欲望〔の対象〕から、心を出起させて、四大王天〔の神々〕たちにたいし、心を信念させたまえ』と。
もし、彼が、『人間の諸々の欲望〔の対象〕から、わたしの心は出起し、四大王天〔の神々〕たちにたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、四大王天〔の神々〕たちより、三十三天〔の神々〕たちは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。尊者よ、どうか、四大王天〔の神々〕から、心を出起させて、三十三天〔の神々〕たちにたいし、心を信念させたまえ』と。
もし、彼が、『四大王天〔の神々〕たちから、わたしの心は出起し、三十三天〔の神々〕たちにたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、三十三天〔の神々〕たちより、耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕は……略……。友よ、まさに、他化自在天〔の神々〕たちより、梵の世は、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です。尊者よ、どうか、他化自在天〔の神々〕から、心を出起させて、梵の世にたいし、心を信念させたまえ』と。もし、彼が、『他化自在天〔の神々〕たちから、わたしの心は出起し、梵の世にたいし、心は信念しました』と、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、梵の世もまた、常住ならず、常恒ならず、身体を有すること(有身)に属しています。尊者よ、どうか、梵の世から、心を出起させて、身体を有することの止滅にたいし、心を近しく集中したまえ』と。
もし、彼が、『梵の世から、わたしの心は出起し、身体を有することの止滅にたいし、心を近しく集中するのだ』と、このように説くなら、マハー・ナーマよ、このように、まさに、心が解脱した在俗信者には、煩悩から心が解脱した比丘と、何であれ、多様性(相違点)を、〔わたしは〕説きません──すなわち、この、解脱〔の観点〕から、解脱として」と。〔以上が〕第四となる。
5. 預流果の経
1051. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 一来果の経
1052. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一来果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 不還果の経
1053. 「……略……不還果の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。
8. 阿羅漢果の経
1054. 「……略……阿羅漢果の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 智慧の獲得の経
1055. 「……略……智慧の獲得の実証のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 智慧の増大の経
1056. 「……略……智慧の増大のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。
11. 智慧の広大の経
1057. 「……略……智慧の広大のために……略……等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。
智慧を有する者の章が第六となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「詩偈を有するもの、雨期を過ごした者、そして、ダンマディンナ、病者、四つの果、獲得、増大があり、さらに、広大たることとともに、〔章となる〕」と。
7. 大いなる智慧の章
1. 大いなる智慧の経
1058. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる智慧たることのために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、大いなる智慧たることのために(※)等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。
※ テキストには mahāpaññatā とあるが、PTS版により mahāpaññattāya と読む。以下の平行箇所も同様。
2. 多々なる智慧の経
1059. 「……多々なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。
3. 広大なる智慧の経
1060. 「……広大なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。
4. 深遠なる智慧の経
1061. 「……深遠なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。
5. 不放逸の智慧の経
1062. 「……不放逸の智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。
6. 広き智慧の経
1063. 「……広き智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 智慧の多大の経
1064. 「……智慧の多大なるために(※)等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。
※ テキストには Paññābāhullā とあるが、PTS版により Paññābāhullāya と読む。
8. 即座なる智慧の経
1065. 「……即座なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。
9. 軽快なる智慧の経
1066. 「……軽快なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。
10. 敏速なる智慧の経
1067. 「……敏速なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。
11. 疾走する智慧の経
1068. 「……疾走する智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。
12. 鋭敏なる智慧の経
1069. 「……鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十二となる。
13. 洞察の智慧の経
1070. 「……洞察の智慧たることのために等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、洞察の智慧たることのために等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。
大いなる智慧の章が第七となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなるもの、多々なるもの、広大なるもの、深遠なるもの、不放逸のもの、広きもの、多大なるもの、即座なるもの、軽快なるもの、敏速なるもの、疾走するもの、鋭敏なるものがあり、そして、洞察あるものとともに、〔章となる〕」と。
預流に相応するものが第十一となる。
12(56). 真理に相応するもの
1. 禅定の章
1. 禅定の経
1071. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、禅定(定・三昧)を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、禅定を修めなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 静坐の経
1072. 「比丘たちよ、静坐において、〔心の〕制止を惹起しなさい。比丘たちよ、静坐する比丘は、事実のとおりに覚知します。では、何を、事実のとおりに覚知するのですか。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、静坐において、〔心の〕制止を惹起しなさい。比丘たちよ、〔心が〕定められた比丘は、事実のとおりに覚知します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第一の良家の子息たちの経
1073. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理(四聖諦)を事実のとおりに知悉するために〔出家しました〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家するでしょう〕。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家します〕。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家したなら……略……出家するであろうなら……略……出家するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために〔出家します〕。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第二の良家の子息たちの経
1074. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉します。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、良家の子息たちが、正しく家から家なきへと出家した者たちとして、事実のとおりに知悉したなら……略……知悉するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第一の沙門や婆羅門たちの経
1075. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚したなら……略……現正覚するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二の沙門や婆羅門たちの経
1076. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚を明示したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚を明示するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、事実のとおりに現正覚を明示するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示します。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、過去の時に、事実のとおりに現正覚を明示したなら……略……現正覚するであろうなら……略……知悉するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚として明示します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 思考の経
1077. 「比丘たちよ、諸々の悪しき善ならざる思考を思考してはいけません。それは、すなわち、この、欲望の思考を、憎悪の思考を、悩害の思考を。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思考は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。
比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが思考しているなら、『これは、苦しみである』と思考するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思考するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思考は、義(利益)を伴ったものであり、これらは、初等の梵行たるものであり、これらは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 思弁の経
1078. 「比丘たちよ、悪しき善ならざる思弁を(※)思弁してはいけません。あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。
※ テキストには cittaṃ とあるが(PTS版も同様)、以下の記述により cintaṃ と読む。
比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが思弁しているなら、『これは、苦しみである』と思弁するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と思考するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と思弁するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思弁するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 口論となる議論の経
1079. 「比丘たちよ、口論となる議論を議論してはいけません。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った』『あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)』『〔あなたは〕存している──糾弾された者として。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。
比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが議論しているなら、『これは、苦しみである』と議論するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と議論するべきです。……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 畜生の議論の経
1080. 「比丘たちよ、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論してはいけません。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。
比丘たちよ、そして、まさに、あなたたちが議論しているなら、『これは、苦しみである』と議論するべきであり、『これは、苦しみの集起である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と議論するべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と議論するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この議論は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
禅定の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「禅定、静坐、他に、二つの良家の子息たち、〔二つの〕沙門や婆羅門たち、思考、思弁、口論となるもの、議論があり、〔章となる〕」と。
2. 法の輪の転起の章
1. 法の輪の転起の経
1081. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げました。「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽への専念であり(快楽主義)、さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義)。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
比丘たちよ、では、どのようなものが、その中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみという聖なる真理です。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。病もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの集起という聖なる真理です。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅という聖なる真理です。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見(如実知見)が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。
比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た五人組の比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。
また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。
また、そして、世尊によって、法(真理)の輪が転起させられたとき、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。四大王天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……略……梵衆天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。
まさに、かくのごとく、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔歓呼の〕声音が上がりました。かつまた、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺しました。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現しました──天〔の神々〕たちの天の威力を超え行って、ということです。
そこで、まさに、世尊は、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った、ということです。〔以上が〕第一となる。
2. 如来たちの経
1082. 「比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、如来たちに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、如来たちに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第二となる。
3. 範疇の経
1083. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)』と説かれるべきものが存在します。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 内なる〔認識の〕場所の経
1084. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。『六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)』と説かれるべきものが存在します。どのようなものが、六つのものなのですか。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛であり、生存の渇愛であり、非生存の渇愛です。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第一の保持の経
1085. 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。「尊き方よ、苦しみを、まさに、わたしは、世尊によって説示された第一の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの集起を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第二の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの止滅を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第三の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第四の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。
「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された(※)四つの聖なる真理を保持しています。比丘よ、苦しみを、まさに、わたしによって説示された第一の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの集起を、まさに、わたしによって説示された第二の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの止滅を、まさに、わたしによって説示された第三の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を(※※)、まさに、わたしによって説示された第四の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、このように、まさに、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持しなさい」と。
※ テキストには desitānīti とあるが、PTS版により ti を削除する。
※※ テキストには dukkhanirodhagāminī paṭipadā とあるが、PTS版により dukkhanirodhagāminipaṭipadaṃ と読む。
「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二の保持の経
1086. 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。
「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持していますか」と。「尊き方よ、苦しみを、まさに、わたしは、世尊によって説示された第一の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみは、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第一の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみを、第一の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第一の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。尊き方よ、苦しみの集起を、まさに、わたしは、世尊によって説示された……略……。尊き方よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、まさに、わたしは、世尊によって説示された第四の聖なる真理として保持しています。尊き方よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第四の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、第四の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第四の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、世尊によって説示された四つの聖なる真理を保持しています」と。
「比丘よ、善きかな、善きかな。比丘よ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって説示された(※)四つの聖なる真理を保持しています。比丘よ、苦しみを、まさに、わたしによって説示された第一の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみは、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第一の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみを、第一の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第一の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。比丘よ、苦しみの集起を、まさに……略……。比丘よ、苦しみの止滅を、まさに……略……。比丘よ、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を(※※)、まさに、わたしによって説示された第四の聖なる真理として、そのように、それを保持しなさい。比丘よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、すなわち、沙門ゴータマによって説示された、第四の聖なる真理ではない』と、このように説くとして、わたしが、この苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を、第四の聖なる真理として拒絶して、他の苦しみを、第四の聖なる真理として報知することになる、という、この状況は見出されません。比丘よ、このように、まさに、あなたは、わたしによって説示された四つの聖なる真理を保持しなさい」と。
※ テキストには desitānīti とあるが、PTS版により ti を削除する。
※※ テキストには dukkhanirodhagāminī paṭipadā とあるが、PTS版により dukkhanirodhagāminipaṭipadaṃ と読む。
「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 無明の経
1087. 一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『無明』『無明』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、無明であり、かつまた、どのようなことから、無明を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知は、苦しみの集起についての無知は、苦しみの止滅についての無知は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、比丘よ、これは、無明と説かれます。かつまた、このことから、無明を具した者と成ります」と。
「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 明知の経
1088. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『明知』『明知』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、明知であり、かつまた、どのようなことから、明知を具した者と成るのですか」と。「比丘よ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵は、苦しみの集起についての知恵は、苦しみの止滅についての知恵は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵は、比丘よ、これは、明知と説かれます。かつまた、このことから、明知を具した者と成ります」と。
「比丘よ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 顕示の経
1089. 「比丘たちよ、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、わたしによって報知されました。そこにおいては、無量の語があり、無量の文があり、無量の顕示があります。『かくのごとくもまた、これは、苦しみという聖なる真理である』と。比丘たちよ、『これは、苦しみの集起という……略……。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅という……略……。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、わたしによって報知されました。そこにおいては、無量の語があり、無量の文があり、無量の顕示があります。『かくのごとくもまた、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 真実の経
1090. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、『これは、苦しみである』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの集起である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの止滅である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』とは、これは、真実であり、これは、真実を離れざるものであり、これは、他ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものがあります。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
法(真理)の輪の転起の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「法(真理)の輪、如来たち、範疇があり、そして、〔認識の〕場所とともに、さらに、二つの保持、無明、明知、顕示、真実があり、〔章となる〕」と。
3. コーティ村の章
1. 第一のコーティ村の経
1091. 或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。コーティ村において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、苦しみという聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。苦しみの集起という聖なる真理の……略……。苦しみの止滅という聖なる真理の……略……。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理の、随覚なく、理解なきことから、このように、この、長時にわたる、流転があり、輪廻があったのです──まさしく、そして、わたしに、さらに、あなたたちに。比丘たちよ、〔まさに〕その、この、苦しみという聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの集起という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅という聖なる真理は、随覚され、理解され、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理は、随覚され、理解され、生存の喝愛は断絶され、生存に導くものは滅尽し、今や、さらなる生存は存在しません」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「四つの聖なる真理の、事実のとおりの見なきことから、長時にわたり、輪廻してきたのだ──まさしく、それら〔の生〕それらの生において。
〔まさに〕その、これら〔の真理〕は、〔事実のとおりに〕見られた。生存に導くものは完破され、苦しみの根元は断絶され、今や、さらなる生存は存在しない」と。〔以上が〕第一となる。
2. 第二のコーティ村の経
1092. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、これらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕──
そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら、彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。
しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕──
そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を覚知するなら、心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである(※)。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。〔以上が〕第二となる。
※ テキストには Sabbā とあるが、PTS版により Bhabbā と読む。
3. 正等覚者の経
1093. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚したことから、如来は、『阿羅漢にして正等覚者』と説かれます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 阿羅漢の経
1094. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚したなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚するであろうなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚するなら、彼らの全てが、四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、阿羅漢にして正等覚者たちが、事実のとおりに現正覚したなら……略……現正覚するであろうなら……略……現正覚するなら、彼らの全てが、これらの四つの聖なる真理を事実のとおりに現正覚します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 諸々の煩悩の滅尽の経
1095. 「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者に、〔あるがままに〕見ていない者に、ではなく。比丘たちよ、では、何を、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。『これは、苦しみである』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの集起である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの止滅である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 朋友の経
1096. 「比丘たちよ、まさに、誰であれ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。
どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、誰であれ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、まさに、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、比丘たちよ、彼らは、あなたたちによって、これらの四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 真実の経
1097. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理は、真実であり、真実を離れざるものであり、他ならざるものであり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 世の経
1098. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は聖者であり、それゆえに、『〔四つの〕聖なる真理』と説かれます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 遍知されるべきものの経
1099. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの聖なる真理です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理があります。比丘たちよ、まさに、これらの四つの聖なる真理には、遍知されるべき聖なる真理が存在し、捨棄されるべき聖なる真理が存在し、実証されるべき聖なる真理が存在し、修行されるべき聖なる真理が存在します。
比丘たちよ、では、どのようなものが、遍知されるべき聖なる真理なのですか。比丘たちよ、苦しみは、遍知されるべき聖なる真理であり、苦しみの集起は、捨棄されるべき聖なる真理であり、苦しみの止滅は、実証されるべき聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道は、修行されるべき聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. ガバンパティの経
1100. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、チェータ〔国〕に住んでいます。サハンチャニカにおいて。また、まさに、その時点にあって、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集している大勢の長老の比丘たちに、この合間の議論が起こりました。『友よ、いったい、まさに、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ますか』と。
このように説かれたとき、長老の比丘である尊者ガバンパティは、比丘たちに、こう言いました。「友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘たちよ、その者が、苦しみを〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの集起を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道をもまた〔あるがままに〕見ます。その者が、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を〔あるがままに〕見るなら、彼は、苦しみをもまた〔あるがままに〕見、苦しみの集起をもまた〔あるがままに〕見、苦しみの止滅をもまた〔あるがままに〕見ます』」と。〔以上が〕第十となる。
コーティ村の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「二つのヴァッジー、正等覚者、阿羅漢、諸々の煩悩の滅尽、朋友、そして、真実、そして、世、遍知されるべきもの、ガバンパティがあり、〔章となる〕」と。
4. シーサパー林の章
1. シーサパー林の経
1101. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。シーサパー林において。そこで、まさに、世尊は、僅かなシーサパー〔樹〕の葉を手で収め取って、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、わたしが手で収め取った僅かなシーサパー〔樹〕の葉ですか、すなわち、この、上のシーサパー林にあるものですか」と。「尊き方よ、世尊が手で収め取った僅かなシーサパー〔樹〕の葉は、少しばかりのものです。そこで、まさに、まさしく、これらのものは、より多くあります。すなわち、この、上のシーサパー林にあるものです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさしく、このことは、より多くあります。すなわち、証知して〔そののち〕、あなたたちに、わたしによって告げ知らされなかったことです。比丘たちよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって告げ知らされなかったのですか。比丘たちよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって告げ知らされなかったのです。
比丘たちよ、では、何が、わたしによって告げ知らされたのですか。比丘たちよ、『これは、苦しみである』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの集起である』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの止滅である』と、わたしによって告げ知らされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、わたしによって告げ知らされました。
比丘たちよ、では、何ゆえに、このことは、わたしによって告げ知らされたのですか。比丘たちよ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、このことは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、わたしによって告げ知らされたのです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. カディラの葉の経
1102. 「比丘たちよ、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、あるいは、諸々のカディラの葉の、あるいは、諸々のサララの葉の、あるいは、諸々のアーマラカの葉の、器を作って、あるいは、水を、あるいは、ターラ〔樹〕の葉を、運ぶのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。
比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、あるいは、諸々の蓮の葉の、あるいは、諸々のパラーサの葉の、あるいは、諸々のマールヴァーの葉の、器を作って、あるいは、水を、あるいは、ターラ〔樹〕の葉を、運ぶのだ』と、この状況は見出されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 棒の経
1103. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、宙空高く投げられた棒が、一度はまた、根元から落ち、一度はまた、先端から落ちるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明の妨害ある有情たちは、渇愛の束縛ある〔有情たちは〕、流転し輪廻しながら、一度はまた、この世から他の世に赴き、一度はまた、他の世からこの世に赴きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 衣の経
1104. 「比丘たちよ、あるいは、衣が、あるいは、頭が、燃えているとき、何が、為すべきこととして存するでしょう」と。「尊き方よ、あるいは、衣が、あるいは、頭が、燃えているとき、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです」と。
「比丘たちよ、燃えている、あるいは、衣を、あるいは、頭を、〔それすらも〕放捨して、意を為さずして、〔いまだ〕知悉されていない四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 百の槍の経
1105. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、百年の寿命ある者であり、百年の生命ある者であり、〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたを、早刻時に、〔人々は〕百の槍で打ち、日中時に、百の槍で打ち、夕刻時に、百の槍で打つであろう。さて、人士たる者よ、〔まさに〕その、あなたは、毎日、毎日、三つの〔百の槍〕で〔打たれ〕、三つの百の槍で打たれながら、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年が経過して、〔いまだ〕知悉されていない四つの聖なる真理を事実のとおりに知悉するであろう』と。
比丘たちよ、義(利益)たる所以ある良家の子息であるなら、〔このことは〕近しく赴くに十分なるものがあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあるからです。諸々の槍の打撃の、諸々の剣の打撃の、諸々の矢の打撃の、諸々の斧の打撃の、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、そして、このように、このことは存するでしょう。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、苦痛と共に、失意と共に、四つの聖なる真理の知悉を説きません。比丘たちよ、そして、また、わたしは、まさしく、安楽と共に、まさしく、悦意と共に、四つの聖なる真理の知悉を説きます。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 命あるものの経
1106. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、すなわち、このジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)にある草と木と枝と葉を、それを断ち切って、一所に集めるとします。一所に集めて、串を作るとします。串を作って、すなわち、大海における大いなる命あるものたちであるなら、それらを大いなる串に刺し、すなわち、大海における中なる命あるものたちであるなら、それらを中なる串に刺し、すなわち、大海における繊細なる命あるものたちであるなら、それらを繊細なる串に刺すとします。比丘たちよ、しかしながら、大海における粗雑なる命あるものたちは、完全に消尽することなく存するでしょう。
そこで、このジャンブ洲にある草と木と枝と葉は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。比丘たちよ、これよりも、大海における繊細なる命あるものたちは、より多くあり、それらを串に刺すことは、為し易きことではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、自己状態(個我的あり方・身体)の繊細なることからです。比丘たちよ、このように、大いなるものとして、まさに、悪所はあります。このように、大いなるものである、まさに、悪所から、完全に解き放たれ、〔正しい〕見解を成就した人は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の太陽の経
1107. 「比丘たちよ、昇りつつある太陽には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、日の出です。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの聖なる真理の事実のとおりの知悉には、これが先行となり、これが前兆となります。すなわち、この、正しい見解です。比丘たちよ、その比丘には、このことが期待できます。『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知するでしょうし……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するでしょう。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の太陽の経
1108. 「比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、世において、月と太陽が生起しないかぎり、それまでは、まさしく、大いなる光明と大いなる光輝の出現は有ることなく、そのときは、暗闇が有り、漆黒の闇が〔有り〕、それまでは、まさしく、夜と昼は覚知されず、月と半月は覚知されず、季節と年月は覚知されません。
比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、月と太陽が生起することから、そこで、大いなる光明と大いなる光輝の出現が有り、そのときは、まさしく、暗闇は(※)有ることなく、漆黒の闇も〔有ること〕なく、そこで、夜と昼が覚知され、月と半月が覚知され、季節と年月が覚知されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、さてまた、何はともあれ、世において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が生起しないかぎり、それまでは、まさしく、大いなる光明と大いなる光輝の出現は有ることなく、そのときは、暗闇が有り、漆黒の闇が〔有り〕、それまでは、まさしく、四つの聖なる真理の告知と説示と報知と確立と開顕と区分と明瞭にする行為は有りません。
※ テキストには andhakāratamaṃ とあるが、PTS版により andhatamaṃ と読む。
比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が生起することから、そこで、大いなる光明と大いなる光輝の出現が有り、そのときは、まさしく、暗闇は有ることなく、漆黒の闇も〔有ること〕なく、そこで、まさに、四つの聖なる真理の告知と説示と報知と確立と開顕と区分と明瞭にする行為が有ります。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. インダの杭の経
1109. 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げます。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、軽い、あるいは、木綿が、あるいは、生綿が、風に取られ、平坦な土地の部分に置かれたようなものです。〔まさに〕その、この〔綿〕を、東の風が西に吹き寄せるでしょうし、西の風が東に吹き寄せるでしょうし、北の風が南に吹き寄せるでしょうし、南の風が北に吹き寄せるでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、生綿が軽いからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げます。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げることはありません。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、鉄の杭が、あるいは、インダの杭(城門に立てられた標柱)が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるようなものです。東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、インダの杭の基部が深く、善く埋められているからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、他の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、顔を見上げることはありません。『まちがいなく、この尊き方は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕善く見られたからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 論を義とする者たちの経
1110. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、東の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、十六クック(長さの単位・一クックは約五十センチ)の石柱があるとします。その〔石柱〕の、まさに、八クックは基部の支分として下にあり、八クックは基部の上にあります。東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、石柱の基部が深く、善く埋められているからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、東の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。西の方角から、たとえ、もし……略……。北の方角から、たとえ、もし……略……。南の方角から、たとえ、もし、論を義(目的)として論を探し求める、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『彼の論を論破するのだ』と、やってくるとして、その〔比丘〕を、まさに、正なる法(教え)によって、あるいは、等しく動転させることになり、あるいは、等しく激動させることになり、あるいは、等しく動揺させることになる、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕善く見られたからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
シーサパーの章が第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「シーサパー、カディラ、棒、衣があり、そして、百の槍とともに、命あるもの、二種の太陽の喩え、そして、インダの杭、論者たちがあり、〔章となる〕」と。
5. 深淵の章
1. 世についての思弁の経
1111. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、過去の事ですが、或るひとりの人が、ラージャガハから出て、『世についての思弁を思弁するのだ』と、スマーガダー蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、スマーガダー蓮池の岸辺において、世についての思弁を思弁しながら、比丘たちよ、まさに、その人は、スマーガダー蓮池の岸辺において、四つの支分ある軍団が、蓮の根茎に入りつつあるのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。『狂者として、まさに、わたしは存している。乱心者として、まさに、わたしは存している。すなわち、世に存在しないものを、それを、わたしは見たのだ』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、城市に入って、大勢の人の衆に告げました。『狂者として、まさに、わたしは存している。乱心者として、まさに、わたしは存している。すなわち、世に存在しないものを、それを、わたしは見たのだ』と。『さて、人士たる者よ、また、あなたは、どのように、狂者であり、どのように、乱心者なのだ。さらに、何が、世に存在しないものであり、それを、あなたは見たのだ』と。『尊き方よ、ここに、わたしは、ラージャガハから出て、「世についての思弁を思弁するのだ」と、スマーガダー蓮池のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、スマーガダー蓮池の岸辺において、世についての思弁を思弁しながら、尊き方よ、まさに、わたしは、スマーガダー蓮池の岸辺において、四つの支分ある軍団が、蓮の根茎に入りつつあるのを見ました。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、狂者であり、このように、乱心者なのです。さらに、これが、世に存在しないものであり、それを、わたしは見たのです』と。『さて、人士たる者よ、あなたは、たしかに、狂者であり、たしかに、乱心者である。さらに、これは、世に存在しないものであり、それを、あなたは見たのだ』と。
比丘たちよ、また、まさに、その人は、まさしく、事実として、それを見たのです──事実ならざることではなく。比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、まさに、敗北した阿修羅たちは、恐怖し、蓮の根茎をとおって、阿修羅の都に入ったのです──まさしく、天〔の神々〕たちを迷わせながら。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、世についての思弁を思弁してはいけません。あるいは、『世〔界〕は、常久である』と、あるいは、『世〔界〕は、常久ではない』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がある』と、あるいは、『世〔界〕は、終極がない』と、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、あるいは、『如来は、死後に有る』と、あるいは、『如来は、死後に有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』と、あるいは、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、これらの思弁は、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。
比丘たちよ、まさに、あなたたちが思弁しているなら、『これは、苦しみである』と思弁するべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と思弁するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この思弁は、義(利益)を伴ったものであり、これは、初等の梵行たるものであり、これらは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 深淵の経
1112. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、行きましょう。パティバーナの峰のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、大勢の比丘たちと共に、パティバーナの峰のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、或るひとりの比丘が、パティバーナの峰にある大いなる深淵を見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、これは、大いなる深淵です。尊き方よ、極めて恐怖させる深淵です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、この深淵より他の深淵で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみます。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しむ者たちとして、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作します。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作して、生の深淵にもまた落ち行き、老の深淵にもまた落ち行き、死の深淵にもまた落ち行き、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行きます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみません。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまない者たちとして、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作しません。彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、死を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕をもまた行作せずして、生の深淵にもまた落ち行かず、老の深淵にもまた落ち行かず、死の深淵にもまた落ち行かず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行きません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 大いなる苦悶の経
1113. 「比丘たちよ、大いなる苦悶という名の地獄が存在します。そこにおいては、それが何であれ、眼によって、形態を見るなら、まさしく、好ましくない形態のものとして見ます──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして見ます──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして見ます──意に適う形態のものではなく。それが何であれ、耳によって、音声を聞くなら……略……。それが何であれ、鼻によって、臭気を嗅ぐなら……略……。それが何であれ、舌によって、味感を味わうなら……略……。それが何であれ、身によって、感触と接触するなら……略……。それが何であれ、意によって、法(意の対象)を識知するなら、まさしく、好ましくない形態のものとして識知します──好ましい形態のものではなく。まさしく、愛らしくない形態のものとして識知します──愛らしい形態のものではなく。まさしく、意に適わない形態のものとして識知します──意に適う形態のものではなく」と。
このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それは、大いなる苦悶です。尊き方よ、まさに、それは、極めて大いなる苦悶です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、この苦悶より他の苦悶で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ……略……喜び楽しむ者たちとして……略……行作し……略……行作して、生の苦悶によってもまた遍く焼かれ、老の苦悶によってもまた遍く焼かれ、死の苦悶によってもまた遍く焼かれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦悶によってもまた遍く焼かれます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず……略……喜び楽しまない者たちとして……略……行作せず……略……行作せずして、生の苦悶によってもまた遍く焼かれず、老の苦悶によってもまた遍く焼かれず、死の苦悶によってもまた遍く焼かれず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦悶によってもまた遍く焼かれません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 楼閣の経
1114. 「比丘たちよ、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの集起という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、楼閣の、下に家屋を作らずして、上に家屋を乗せるのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉せずして、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されません。
比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、或る者が、『わたしは、楼閣の、下に家屋を作って、上に家屋を乗せるのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、或る者が、『わたしは、苦しみという聖なる真理を事実のとおりに知悉して……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を事実のとおりに知悉して、正しく苦しみの終極を為すのだ』と、このように説くなら、この状況は見出されます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 毛の経
1115. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者アーナンダは、大勢のリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、公会堂において、弓術を為しながら、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通しているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、手練の者たちである。まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、極めて手練の者たちである。なぜなら、そこで、まさに、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すからだ」と。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、わたしは、大勢のリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、公会堂において、弓術を為しながら、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通しているのを見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、手練の者たちである。まさに、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、極めて手練の者たちである。なぜなら、そこで、まさに、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すからだ』」と。
「アーナンダよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、あるいは、より為し難くあり、あるいは、より征服し難くありますか。すなわち、はるか遠くから、繊細なる鍵穴に、矢を、矢継ぎ早に失敗なく通すことですか、あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことですか」と。「尊き方よ、これこそが、まさしく、そして、より為し難くあり、さらに、より征服し難くあります。あるいは、すなわち、百様に破断された毛の端を、〔矢の〕端で貫くことです」と。「アーナンダよ、そこで、まさに、〔賢者たちは〕より貫き難きものを貫きます。すなわち、〔彼らは〕『これは、苦しみである』と、事実のとおりに理解し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに理解します。
アーナンダよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 暗黒の経
1116. 「比丘たちよ、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒が〔存在し〕、漆黒の闇が存在します。そこにおいては、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光によっても、〔見ることを〕経験しません」と。
このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それは、大いなる暗黒です。尊き方よ、まさに、それは、極めて大いなる暗黒です。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。「比丘よ、存在します。まさに、この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものが」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、この暗黒より他の暗黒で、かつまた、より大いなるものであり、かつまた、より恐怖させるものなのですか」と。「比丘よ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ、老を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しみ……略……喜び楽しむ者たちとして……略……行作し……略……行作して、生の暗黒にもまた落ち行き、老の暗黒にもまた落ち行き、死の暗黒にもまた落ち行き、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の暗黒にもまた落ち行きます。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、生を等しく転起させる諸々の形成〔作用〕を喜び楽しまず……略……喜び楽しまない者たちとして……略……行作せず……略……行作せずして、生の暗黒にもまた落ち行かず、老の暗黒にもまた落ち行かず、死の暗黒にもまた落ち行かず、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の暗黒にもまた落ち行きません。彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の穴がある軛の経
1117. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海において、一つの穴がある軛(くびき)を投げ入れるとします。そこで、また、盲目の亀が存するとします。その〔亀〕は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、盲目の亀は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるでしょうか」と。「尊き方よ、すなわち、たしかに、いつであれ、いつかは、長時が経過して〔そののち、首を導き入れるでしょう〕」と。
「比丘たちよ、よりすみやかに、まさに、その盲目の亀が、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるとして、比丘たちよ、まさしく、しかし、一度、愚者が堕所に赴いたなら、人間たる〔境遇を得ること〕を、わたしは、〔そのように〕説きません。
それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいては、法(正義)の行ないが〔存在せず〕、正しい行ないが〔存在せず〕、善なるものを作り為すことが〔存在せず〕、功徳を作り為すことが存在しないからです。比丘たちよ、ここにおいては、互いに他を喰うことが〔転起し〕、力の弱い者を喰うことが転起するからです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の穴がある軛の経
1118. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この大いなる地が、一つの水として存するとします。そこで、人が、一つの穴がある軛を投げ入れるとします。〔まさに〕その、この〔軛〕を、東の風が西に吹き寄せるでしょうし、西の風が東に吹き寄せるでしょうし、北の風が南に吹き寄せるでしょうし、南の風が北に吹き寄せるでしょう。そこで、盲目の亀が存するとします。その〔亀〕は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、盲目の亀は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるでしょうか」と。「尊き方よ、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、盲目の亀が、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がりつつ、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるのは」と。
「比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、人間たる〔境遇〕を得るのは。比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起するのは。比丘たちよ、このように、偶然のこととして、このことはあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯するのは(※)。比丘たちよ、それでありながら、この、人間たる〔境遇〕が得られたのであり、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起したのであり、そして、如来によって知らされた法(教え)と律が、世において点灯します。
※ テキストには dibbati とあるが、PTS版により dippati と読む。以下の平行箇所も同様。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第一の山の王たるシネールの経
1119. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるシネール(須弥山)に、七つの緑豆ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるシネールですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるシネールと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あること(預流たる者に残存する苦しみ)は、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇(苦蘊)と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第二の山の王たるシネールの経
1120. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この、山の王たるシネールが、七つの緑豆ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールですか、あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの残された石粒ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるシネールと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
深淵の章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「思弁、深淵、苦悶、楼、そして、毛と暗黒があり、さらに、穴によって、二つのものが説かれ、他に、二つのシネールがあり、〔章となる〕」と。
6. 知悉の章
1. 爪先の経
1121. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 蓮池の経
1122. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、広さとしては、五十ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)となり、幅としては、五十ヨージャナとなり、高さ(深さ)としては、五十ヨージャナとなる、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている蓮池があるとします。そこから、人が、草の先端で水を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、草の先端で取り出された水ですか、あるいは、すなわち、蓮池の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、蓮池の水です。草の先端で取り出された水は、少しばかりのものです。草の先端で取り出された水は、蓮池の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 第一の合流の経
1123. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこから、人が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、合流の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、合流の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 第二の合流の経
1124. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、その水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 第一の大いなる地の経
1125. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地に、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子ですか、あるいは、すなわち、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 第二の大いなる地の経
1126. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地が、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地ですか、あるいは、すなわち、あるいは、七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の大いなる海の経
1127. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海から、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、大いなる海の水ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、大いなる海の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の大いなる海の経
1128. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海の水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、大いなる海の水と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 第一の山の喩えの経
1129. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に、七つの芥子粒ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして……略……〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 第二の山の喩えの経
1130. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァントが、七つの芥子粒ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントですか、あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの残された石粒ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません。すなわち、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
知悉の章が第六となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「爪先、蓮池、他に、二つの合流、二つの地、二つの海、そして、これらの二つの山の喩えがあり、〔章となる〕」と。
7. 第一の生の穀物と省略〔の経典〕の章
1. 「他に」の経
1131. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少しばかりのものであり、そこで、まさに、すなわち、人間たちより他に生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 辺境の経
1132. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の中央の地方において生まれ落ちる、それらの有情たちは少しばかりのものであり、そこで、まさに、すなわち、諸々の最辺境の地方において、識知なき蛮族たちのなかにおいて、生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 智慧の経
1133. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる智慧の眼を具備した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、無明を具した等しく迷乱した者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 穀物酒の経
1134. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 水の経
1135. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、陸に生まれる者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、水に生まれる者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 母を敬う者たちの経
1136. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、母を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、母を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 父を敬う者たちの経
1137. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、父を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、父を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 沙門の資質ある者たちの経
1138. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、沙門の資質ある者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、沙門の資質なき者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 婆羅門の資質ある者たちの経
1139. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、婆羅門の資質ある者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、婆羅門の資質なき者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 敬う者たちの経
1140. ……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、家における最尊者を敬う者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、家における最尊者を敬わない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……」と。〔以上が〕第十となる。
第一の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第七となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「『他に』があり、辺境、智慧、穀物酒と水、さらに、また、母を敬う者たちと父を敬う者たち、沙門の資質、婆羅門と敬う者たちがあり、〔章となる〕」と。
8. 第二の生の穀物と省略〔の経典〕の章
1. 命あるものを殺すことの経
1141. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。
2. 与えられていないものを取ることの経
1142. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、与えられていないものを取ることから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、与えられていないものを取ることから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの経
1143. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 虚偽を説くことの経
1144. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、虚偽を説くことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、虚偽を説くことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 中傷の経
1145. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、中傷の言葉から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、中傷の言葉から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 粗暴な言葉の経
1146. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、粗暴な言葉から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、粗暴な言葉から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 雑駁な虚論の経
1147. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、雑駁な虚論から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、雑駁な虚論から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 種子類の経
1148. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、種子類や草木類を損壊することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、種子類や草木類を損壊することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 非時に食事することの経
1149. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、非時に食事することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、非時に食事することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 香料や塗料の経
1150. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十となる。
第二の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第八となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「命あるもの、与えられていないもの、『諸々の欲望〔の対象〕にたいする』があり、そして、虚偽を説くこと、中傷、粗暴、雑駁な虚論、そして、種子、非時、香料があり、〔章となる〕」と。
9. 第三の生の穀物と省略〔の経典〕の章
1. 舞踏と歌詠の経
1151. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。
2. 高い臥具の経
1152. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 金や銀の経
1153. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、金や銀を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、金や銀を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 生の穀物の経
1154. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、生の穀物を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、生の穀物を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 生の肉の経
1155. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、生の肉を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、生の肉を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 少女の経
1156. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、婦女や少女を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、婦女や少女を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 奴婢や奴隷の経
1157. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、奴婢や奴隷を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、奴婢や奴隷を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 山羊や羊の経
1158. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、山羊や羊を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、山羊や羊を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 鶏や豚の経
1159. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、鶏や豚を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、鶏や豚を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 象や牛や馬の経
1160. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、象や牛や馬や騾馬を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十となる。
第三の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第九となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「舞踏、臥具、銀、穀物、肉、少女、奴婢、まさしく、そして、山羊や羊、鶏や豚と象があり、〔章となる〕」と。
10. 第四の生の穀物と省略〔の経典〕の章
1. 田畑や地所の経
1161. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、田畑や地所を納受することから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、田畑や地所を納受することから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。
2. 売買の経
1162. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、売買から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、売買から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 使者の経
1163. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、使者や使節として赴くことから離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、使者や使節として赴くことから離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 秤の詐欺の経
1164. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 賄賂の経
1165. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、賄賂や騙しや欺きや邪行から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第五となる。
6-11. 切断等の経
1166-1171. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間していない者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり……略……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。〔以上が〕第十一となる。
第四の生の穀物と省略〔の経典〕の章が第十となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「田畑、売〔買〕、そして、使者、秤の詐欺、賄賂、切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制があり、〔章となる〕」と。
11. 五つの境遇と省略〔の経典〕の章
1. 人間〔の世〕からの死滅と地獄の経
1172. そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第一となる。
2. 人間〔の世〕からの死滅と畜生の経
1173. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、畜生の胎において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 人間〔の世〕からの死滅と餓鬼の境域の経
1174. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第三となる。
4-5-6. 人間〔の世〕からの死滅と天〔の神々〕たちと地獄等の経
1175-1177. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第六となる。
7-9. 天〔の世〕からの死滅と地獄等の経
1178-1180. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第九となる。
10-12. 天〔の世〕から人間たちと地獄等の経
1181-1183. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十二となる。
13-15. 地獄から人間たちと地獄等の経
1184-1186. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十五となる。
16-18. 地獄から天〔の神々〕たちと地獄等の経
1187-1189. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第十八となる。
19-21. 畜生から人間たちと地獄等の経
1190-1192. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十一となる。
22-24. 畜生から天〔の神々〕たちと地獄等の経
1193-1195. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十四となる。
25-27. 餓鬼から人間たちと地獄等の経
1196-1198. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十七となる。
28-29. 餓鬼から天〔の神々〕たちと地獄等の経
1199-1200. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、畜生の胎において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。……略……。〔以上が〕第二十九となる。
30. 餓鬼から天〔の神々〕たちと餓鬼の境域の経
1201. ……略……。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、四つの聖なる真理が、〔あるがままに〕見られなかったからです。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理であり、苦しみの集起という聖なる真理であり、苦しみの止滅という聖なる真理であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。
比丘たちよ、それゆえに、ここに、『これは、苦しみである』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの集起である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅である』と、〔心の〕制止が為されるべきであり、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔心の〕制止が為されるべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第三十となる。
五つの境遇と省略〔の経典〕の章が第十一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「六つのものとして、また、『人間〔の世〕から死滅し』があり、『天〔の世〕から死滅し』があり、『地獄から』があり、畜生と餓鬼の境域があり、三十の量ある境遇の章となる」と。
真理に相応するものが第十二となる。
大いなるものの部(大篇)が第五となる。
その〔部〕のための摂頌となる
〔そこで、詩偈に言う〕「道と覚りの支分があり、気づきとともに、機能、正しい精励、力と神通の足場とアヌルッダ、瞑想と呼吸に相応するもの、預流、そして、真理があり、かくのごとく、『大いなるものの部』と説かれる」と。
大いなるものの部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。