相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)
詩偈を有するものの部(有偈篇・上)
【目次】
1. 天神に相応するもの(1.~)
1. 葦の章(1.~)
1. 激流を超え渡ることの経
2. 解放の経
3. 導かれるべきものの経
4. 「過ぎ行く」の経
5. 「どれだけのものを断つのですか」の経
6. 起きているものの経
7. 確知されていないものの経
8. 見事に忘却されたものの経
9. 〔我想の〕思量を欲する者の経
10. 林の経
2. ナンダナ〔林〕の章(11.~)
1. ナンダナ〔林〕の経
2. 「喜び楽しむ」の経
3. 「子に等しきは存在せず」の経
4. 士族の経
5. 騒ぎ立てるものの経
6. 睡眠と倦怠の経
7. 為し難きものの経
8. 恥〔の思い〕の経
9. 小屋たる者の経
10. サミッディの経
3. 刃の章(21.~)
1. 刃の経
2. 「接触する」の経
3. 結髪の経
4. 意の防護の経
5. 阿羅漢の経
6. 灯火の経
7. 〔欲望の〕流れの経
8. 大いなる財産の経
9. 四つの輪の経
10. 羚羊のような脛の経
4. サトゥッラパ〔天〕の身体ある者の章(31.~)
1. 「正しくある者たちと」の経
2. 物惜〔の思い〕ある者の経
3. 「善きかな」の経
4. 「存在しない」の経
5. 譴責の表象ある者の経
6. 信の経
7. 集いの経
8. 石片の経
9. 第一の雨雲の娘の経
10. 第二の雨雲の娘の経
5. 燃えているものの章(41.~)
1. 燃えているものの経
2. 「何を施す者が」の経
3. 食べものの経
4. 一つの根の経
5. 至上なる方の経
6. 仙女の経
7. 林を育成する者の経
8. ジェータ林の経
9. 物惜〔の思い〕ある者の経
10. ガティーカーラの経
6. 老の章(51.~)
1. 老の経
2. 「老なきことから」の経
3. 朋友の経
4. 基盤の経
5. 第一の生むものの経
6. 第二の生むものの経
7. 第三の生むものの経
8. 悪路の経
9. 伴侶の経
10. 詩人の経
7. 征服の章(61.~)
1. 名前の経
2. 心の経
3. 渇愛の経
4. 束縛するものの経
5. 結縛するものの経
6. 侵されているものの経
7. 繫がれているものの経
8. 塞がれているものの経
9. 欲求の経
10. 世の経
8. 「断ち切って」の章(71.~)
1. 「断ち切って」の経
2. 車の経
3. 富の経
4. 雨の経
5. 「恐れている」の経
6. 「老いない」の経
7. 権力の経
8. 欲する者の経
9. 〔旅の〕路銀の経
10. 灯火の経
11. 相克なき者の経
2. 天子に相応するもの(82.~)
1. 第一の章(82.~)
1. 第一のカッサパの経
2. 第二のカッサパの経
3. マーガの経
4. マーガダの経
5. ダーマリの経
6. カーマダの経
7. パンチャーラ・チャンダの経
8. ターヤナの経
9. 月〔の天子〕の経
10. 日〔の天子〕の経
2. アナータピンディカの章(92.~)
1. チャンディマサの経
2. ヴェンドゥの経
3. ディーガラッティの経
4. ナンダナの経
5. チャンダナの経
6. ヴァースダッタの経
7. スブラフマーの経
8. カクダの経
9. ウッタラの経
10. アナータピンディカの経
3. 種々なる異教の者たちの章(102.~)
1. シヴァの経
2. ケーマの経
3. セーリンの経
4. ガティーカーラの経
5. ジャントゥの経
6. ローヒタッサの経
7. ナンダの経
8. ナンディヴィサーラの経
9. スシマの経
10. 種々なる異教の弟子たちの経
3. コーサラに相応するもの(112.~)
1. 第一の章(112.~)
1. 年少者の経
2. 人の経
3. 老と死の経
4. 愛しいものの経
5. 守られた自己の経
6. 少なき者たちの経
7. 裁きの場の経
8. マッリカーの経
9. 祭祀の経
10. 結縛の経
2. 第二の章(122.~)
1. 七者の結髪者たちの経
2. 五者の王たちの経
3. 大量に調理されたものの経
4. 第一の戦いの経
5. 第二の戦いの経
6. マッリカーの経
7. 不放逸の経
8. 善き朋友の経
9. 第一の子なき者の経
10. 第二の子なき者の経
3. 第三の章(132.~)
1. 人の経
2. 祖母の経
3. 世の経
4. 弓術の経
5. 山の喩えの経
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
詩偈を有するものの部(有偈篇・上)
1. 天神に相応するもの
1. 葦の章
1. 激流を超え渡ることの経
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。「敬愛なる方よ、いったい、どのように、あなたは、激流を超え渡ったのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、〔何にも〕止住せず、〔作為なく〕苦労せずに、激流を超え渡りました」と。「敬愛なる方よ、また、すなわち、どのように、あなたは、〔何にも〕止住せず、〔作為なく〕苦労せずに、激流を超え渡ったのですか」と。「友よ、すなわち、まさに、わたしが、〔何かに止住し〕停滞するとき、そのときは、まさに、〔激流に〕沈みます。友よ、すなわち、まさに、わたしが、〔作為して〕苦労するとき、そのときは、まさに、〔激流に〕運び去られます。友よ、このように、まさに、わたしは、〔何にも〕止住せず、〔作為なく〕苦労せずに、激流を超え渡りました」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「長きのはてに、まさに、〔わたしは〕見る──完全なる涅槃に到達した〔真の〕婆羅門を──〔何にも〕止住せず、〔作為なく〕苦労せずに、世における執着を超え渡った方を」と。
その天神は、この〔言葉〕を言いました。教師(ブッダ)は、〔天神の言葉を〕正しくお認めに成りました(天神に随喜した)。そこで、まさに、その天神は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 解放の経
2. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。
「敬愛なる方よ、まさに、あなたは、有情たちの解放と解脱と遠離を知りますか」と。
「友よ、まさに、わたしは、有情たちの解放と解脱と遠離を知ります」と。
「敬愛なる方よ、また、すなわち、どのように、あなたは、有情たちの解放と解脱と遠離を知りますか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「愉悦〔の思い〕と〔迷いの〕生存の完全なる滅尽あることから、表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)と識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の消滅あることから、諸々の感受〔作用〕(受:認識対象を感受し楽苦の価値づけをする働き)の止滅と寂止あることから」〔と〕。
「友よ、このように、まさに、わたしは、有情たちの解放と解脱と遠離を知ります」と。
3. 導かれるべきものの経
3. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「生命は、〔老によって〕導かれる。寿命は、僅かである。老によって導かれた者に、諸々の救護所は存在しない。この恐怖を、死のうちに見ている者は、諸々の功徳を作り為すべきである──〔未来に〕安楽をもたらすものとして」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「生命は、〔老によって〕導かれる。寿命は、僅かである。老によって導かれた者に、諸々の救護所は存在しない。この恐怖を、死のうちに見ている者は、世の財貨を捨棄するべきである──寂静〔の境処〕を見る者として」と。
4. 「過ぎ行く」の経
4. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「諸々の時は過ぎ行き、諸々の夜を超え渡る。諸々の青春の属性は、〔その持ち主を〕順次に捨棄する。この恐怖を、死のうちに見ている者は、諸々の功徳を作り為すべきである──〔未来に〕安楽をもたらすものとして」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の時は過ぎ行き、諸々の夜を超え渡る。諸々の青春の属性は、〔その持ち主を〕順次に捨棄する。この恐怖を、死のうちに見ている者は、世の財貨を捨棄するべきである──寂静〔の境処〕を見る者として」と。
5. 「どれだけのものを断つのですか」の経
5. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「どれだけのものを断つべきですか。どれだけのものを捨棄するべきですか。そして、どれだけのものをより以上に修めるべきですか。どれだけの執着を超え行く比丘が、『激流を超え渡った者』と説かれますか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「五つ〔の束縛するもの〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つべきです。五つ〔の束縛するもの〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するべきです。そして、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・禅定・智慧)をより以上に修めるべきです。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、『激流を超え渡った者』と説かれます」と。
6. 起きているものの経
6. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「どれだけのものが起きているとき、〔どれだけのものが〕眠っているのですか。どれだけのものが眠っているとき、〔どれだけのものが〕起きているのですか。どれだけのものによって、〔人は〕塵を取着しますか。どれだけのものによって、〔人は〕完全なる清浄となりますか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔善き〕五つのもの(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)が起きているとき、〔悪しき五つのものは〕眠っています。〔悪しき〕五つのもの(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)が眠っているとき、〔善き五つのものは〕起きています。〔悪しき〕五つのものによって、〔人は〕塵を取着します。〔善き〕五つのものによって、〔人は〕完全なる清浄となります」と。
7. 確知されていないものの経
7. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「彼らに、諸々の法(教え)が確知されず、諸々の他の論のうちに導かれるなら、彼らは、眠りについた者たちであり、目覚めることがなく、彼らには、目覚めるための時が〔要る〕」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼らに、諸々の法(教え)が見事に確知され、諸々の他の論のうちに導かれないなら、彼らは、正覚者たちであり、正しい了知ある者たちであり、正しからざるもののうちにありながら、正しく〔世を〕歩む」と。
8. 見事に忘却されたものの経
8. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「彼らに、諸々の法(教え)が見事に忘却され、諸々の他の論のうちに導かれるなら、彼らは、眠りについた者たちであり、目覚めることがなく、彼らには、目覚めるための時が〔要る〕」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼らに、諸々の法(教え)が忘却されず、諸々の他の論のうちに導かれないなら、彼らは、正覚者たちであり、正しい了知ある者たちであり、正しからざるもののうちにありながら、正しく〔世を〕歩む」と。
9. 〔我想の〕思量を欲する者の経
9. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)を欲する者に、この〔世において〕、調御は存在しない。〔心が〕定められていない者に、寂黙は存在しない。独り、林に住みながら、〔気づきを〕怠る者は、死魔の領域の彼岸へと超え渡らないであろう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔我想の〕思量を捨棄して、自己が善く定められた者──善き心の者となり、一切所に解脱した者──独り、林に住みながら、〔気づきを〕怠らない者は、彼は、死魔の領域の彼岸へと超え渡るであろう」と。
10. 林の経
10. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「林に住んでいる寂静なる梵行者(禁欲清浄行の実践者)たちにとって、〔日に〕一食を食べている〔だけ〕の者たちにとって、何によって、〔彼らの〕色艶は澄浄になるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔彼らは〕過去を憂い悲しまず、未来を渇望しません。現在あるもの(現物として施されたもの)によって、〔身を〕保ち行きます。それによって、〔彼らの〕色艶は澄浄になります。
未来を渇望することから、過去を憂い悲しむことから、これによって、愚者たちは干上がります──刈り取られた緑の葦のように」と。
葦の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「激流、解放、導かれるべきもの、『過ぎ行く』があり、そして、『どれだけのものを断つのですか』があり、起きているもの、確知されていないもの、見事に忘却されたものがあり、〔我想の〕思量を欲する者とともに、林について、第十のものが説かれ、それによって、章と呼ばれる」〔と〕。
2. ナンダナ〔林〕の章
1. ナンダナ〔林〕の経
11. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事(過去世)ですが、或るひとりの三十三〔天〕の身体ある天神が、〔天の〕ナンダナ林において、仙女たちの群れに取り囲まれ、天の五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみながら、その時に、この詩偈を語りました。
〔すなわち〕『〔天の〕ナンダナ〔林〕を見ない、それらの者たちは、彼らは、〔真の〕安楽を覚知しない。天人たちの居住所を、盛名ある三十〔三天の神々〕たちの〔居住所を、彼らが見ないなら〕』と。
比丘たちよ、このように説かれたとき、或るひとりの天神が、その天神に、詩偈をもって答えました。
〔すなわち〕『愚者よ、あなたは覚知しない──すなわち、阿羅漢たちの言葉のとおりに。無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である』」と。
2. 「喜び楽しむ」の経
12. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「子をもつ者は、子たちによって喜び楽しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって喜び楽しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は、人の喜び楽しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、喜び楽しむことがない」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「子をもつ者は、子たちによって憂い悲しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって憂い悲しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所は、人の憂い悲しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、憂い悲しむことがない」と。
3. 「子に等しきは存在せず」の経
13. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「子に等しき愛は存在せず、牛に合致する財は存在しない。日に等しき輝きは存在せず、海は、最高の流れである」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「自己に等しき愛は存在せず、穀物に等しき財は存在しない。智慧(慧・般若)に等しき輝きは存在せず、雨は、まさに、最高の流れである」と。
4. 士族の経
14.
〔天神が、詩偈に言う〕「士族(王)は、最勝の二足者である。荷牛は、〔最勝者の〕四足者である。妻たちの最勝者は、年若き者である。さらに、すなわち、子たちの〔最勝者は〕、先に生まれる者である」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「正覚者は、最勝の二足者である。良馬は、〔最勝者の〕四足者である。妻たちの最勝者は、従順なる者である。さらに、すなわち、子たちの〔最勝者は〕、忠実なる者である」と。
5. 騒ぎ立てるものの経
15.
〔天神が、詩偈に言う〕「正午の時がやってきて、鳥たちが〔枝に〕群れ集まったとき(※)、密林が、まさしく、騒ぎ立てると、わたしに、その恐怖が明白となる」と。
※ テキストには sannisīvesu とあるが、PTS版により sannisinnesu と読む。以下の平行箇所も同様。
〔世尊が、詩偈に言う〕「正午の時がやってきて、鳥たちが〔枝に〕群れ集まったとき、密林が、まさしく、騒ぎ立てると、わたしに、その喜びが明白となる」と。
6. 睡眠と倦怠の経
16.
〔天神が、詩偈に言う〕「睡眠、倦怠、欠伸(あくび)、不満、食後の睡魔──これによって、聖なる道は、この〔世において〕、命あるものたちに顕現しない」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「睡眠、倦怠、欠伸、不満、食後の睡魔──それを、精進によって追い払って、聖なる道は清浄となる」と。
7. 為し難きものの経
17.
〔天神が、詩偈に言う〕「為し難きは、そして、忍受し難きは、沙門の資質です──さらに、明敏ならざる者によっては。まさに、そこにおいては、多くの煩わしきことがあり、そこにおいて、愚者は沈み行きます。
幾日のあいだ、沙門の資質を歩むべきですか。もし、心を防護しないなら、諸々の妄想の支配に従い行く者となり、歩々に沈み行くでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「亀が、諸々の肢体を自らの甲羅のなかに〔収めるように〕、比丘は、諸々の意の思考を収めながら、依存なき者となり、他者を傷つけずにいます。完全なる涅槃に到達した者は、誰をも批判しないのです」と。
8. 恥〔の思い〕の経
18.
〔天神が、詩偈に言う〕「恥〔の思い〕(慚)で〔身を〕慎む人として、どこの誰が、世において見出されるというのだろう。彼は、〔他者の〕非難を離れ目覚めている──賢馬が、〔打たれる前に〕鞭を〔注意深く避けている〕ように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「恥〔の思い〕で〔身を〕慎む者たちは、数少ない。彼らは、常に気づきある者たちとして〔世を〕歩む。苦しみの終極に至り得て、正しからざるもののうちにありながら、正しく〔世を〕歩む」と。
9. 小屋たる者の経
19.
〔天神が、詩偈に言う〕「どうでしょう、あなたに、小屋たる者は存在しないのですか。どうでしょう、巣たる者は存在しないのですか。どうでしょう、相続する者たちは存在しないのですか。どうでしょう、〔あなたは〕結縛するものから解き放たれた者として存在するのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「たしかに、わたしに、小屋たる者は存在しません。たしかに、巣たる者は存在しません。たしかに、相続する者たちは存在しません。たしかに、〔わたしは〕結縛するものから解き放たれた者として存在します」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「わたしは、何を、あなたの小屋たる者と説くのですか。何を、あなたの巣たる者と説くのですか。何を、あなたの相続する者と説くのですか。わたしは、何を、あなたの結縛するものと説くのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「母を、〔わたしの〕小屋たる者と説きます。妻を、〔わたしの〕巣たる者と説きます。子たちを、〔わたしの〕相続する者たちと説きます。渇愛を、わたしの結縛するものと説きます」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「善きかな、あなたに、小屋たる者は存在しません。善きかな、巣たる者は存在しません。善きかな、相続する者たちは存在しません。善きかな、〔あなたは〕結縛するものから解き放たれた者として存在します」と。
10. サミッディの経
20. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。タポーダーの林園(温泉精舎)において。そこで、まさに、尊者サミッディは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく温泉を照らして、尊者サミッディのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、宙に立ち、尊者サミッディに、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「比丘よ、〔あなたは〕食べずして行乞します。まさに、〔あなたは〕食べて〔そののち〕行乞しません。比丘よ、食べて〔そののち〕行乞するのです。時が、あなたを過ぎ行くことがあってはいけません」と。
〔尊者サミッディが、詩偈に言う〕「まさに、〔死の〕時を、わたしは知りません。〔死の〕時は覆われ、見られません。それゆえに、〔わたしは〕食べずして行乞します。時が、わたしを過ぎ行くことがあってはいけません」と。
そこで、まさに、その天神は、地に止住して、尊者サミッディに、こう言いました。「比丘よ、あなたは、年少の出家者であるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なくあります。比丘よ、人間の諸々の欲望〔の対象〕を享受したまえ。現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけてはいけません」と。
「友よ、まさに、わたしは、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけることはありません。友よ、しかしながら、まさに、わたしは、時を要するものを捨棄して、現に見られるものを追いかけます。友よ、なぜなら、世尊によって説かれたからです。『諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があります。この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです』」と。
「比丘よ、では、どのように、世尊によって説かれた、諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があるのですか。どのように、この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものなのですか」と。
「友よ、わたしは、まさに、新参者であり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者です。わたしは、それを、詳細〔の観点〕によって告げ知らせることができません。この方は、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、ラージャガハに住んでおられます。タポーダーの林園において。近づいて行って、彼に、世尊に、この義(意味)を尋ねたまえ。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。
「比丘よ、彼は、世尊は、他の大いなる権能ある天神たちに取り囲まれ、わたしどもが近づいて行こうにも、まさに、為し易きことではありません。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、近づいて行って、彼に、世尊に、この義(意味)を尋ねるなら、わたしどももまた、法(教え)を聞くために到来できます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サミッディは、その天神に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッディは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、わたしは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく温泉を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、宙に立ち、この詩偈をもって語りかけました。
〔すなわち〕『比丘よ、〔あなたは〕食べずして行乞します。まさに、〔あなたは〕食べて〔そののち〕行乞しません。比丘よ、食べて〔そののち〕行乞するのです。時が、あなたを過ぎ行くことがあってはいけません』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その天神に、詩偈をもって答えました。
〔すなわち〕『まさに、〔死の〕時を、わたしは知りません。〔死の〕時は覆われ、見られません。それゆえに、〔わたしは〕食べずして行乞します。時が、わたしを過ぎ行くことがあってはいけません』と。
尊き方よ、そこで、まさに、その天神は、地に止住して、わたしに、こう言いました。『比丘よ、あなたは、年少の出家者であるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期を具備した者であるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なくあります。比丘よ、人間の諸々の欲望〔の対象〕を享受したまえ。現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけてはいけません』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その天神に、こう言いました。『友よ、まさに、わたしは、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけることはありません。友よ、しかしながら、まさに、わたしは、時を要するものを捨棄して、現に見られるものを追いかけます。友よ、なぜなら、世尊によって説かれたからです。「諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があります。この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです」』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、その天神は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、では、どのように、世尊によって説かれた、諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があるのですか。どのように、この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものなのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その天神に、こう言いました。『友よ、わたしは、まさに、新参者であり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者です。わたしは、それを、詳細〔の観点〕によって告げ知らせることができません。この方は、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、ラージャガハに住んでおられます。タポーダーの林園において。近づいて行って、彼に、世尊に、この義(意味)を尋ねたまえ。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです』と。
尊き方よ、このように説かれたとき、その天神は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、彼は、世尊は、他の大いなる権能ある天神たちに取り囲まれ、わたしどもが近づいて行こうにも、まさに、為し易きことではありません。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、近づいて行って、彼に、世尊に、この義(意味)を尋ねるなら、わたしどももまた、法(教え)を聞くために到来できます』と。尊き方よ、それで、もし、その天神の言葉が、真なるものであるなら、その天神は、まさしく、ここに、遠く離れていないところにいます」と。
このように説かれたとき、その天神は、尊者サミッディに、こう言いました。「比丘よ、尋ねなさい。比丘よ、尋ねなさい。すなわち、わたしが到着したからには」と。
そこで、まさに、世尊は、その天神に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「告知されるべきもの(教説)に〔固執の〕表象(想:概念・心象)ある有情たちは、告知されるべきもののうちに止住する者たちである。〔彼らは〕告知されるべきものを遍知せずして、死魔の束縛へと帰り行く。
しかしながら、告知されるべきものを遍知して、告知する者のことを思い考えない、まさに、彼には、その〔告知されるべきもの〕は有ることなくあり、かくのごとく、それによって、彼のことを説こうにも、彼には、〔その告知されるべきものは〕存在しない」〔と〕。
「夜叉(天神)よ、それで、もし、〔あなたが〕識知するなら、〔このことの義を〕説きなさい」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊き方よ、どうか、世尊は、わたしのために、すなわち、わたしが、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって知るべく、そのように、語ってください」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するであろう。〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有ることなくある」〔と〕。
「夜叉よ、それで、もし、〔あなたが〕識知するなら、〔このことの義を〕説きなさい」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、また、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊き方よ、どうか、世尊は、わたしのために、すなわち、わたしが、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって知るべく、そのように、語ってください」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔彼は〕捨棄した──〔虚構の〕名称を。〔彼は〕到達しなかった──〔高慢と〕軽侮〔の思い〕に。〔彼は〕断った──この〔世において〕、名前と形態(名色:心と身体)にたいする渇愛〔の思い〕を。彼を、拘束を断ち煩悶なく願望なき者を、天〔の神々〕と人間たちは、遍く探し求めながら、〔ついに〕到達しなかった──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、あるいは、諸々の天上において、一切の住居地において」〔と〕。
「夜叉よ、それで、もし、〔あなたが〕識知するなら、〔このことの義を〕説きなさい」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」〔と〕。
〔天神が、詩偈に言う〕「言葉(口)によって、意(意)によって、あるいは、身体(身)によって、一切の世において、何であれ、悪を為さないように。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、気づき(念)と正知の者として、義(道理)ならざることを伴った苦しみに慣れ親しまないように」と。
ナンダナ〔林〕の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ナンダナ〔林〕、まさしく、そして、『喜び楽しむ』があり、さらに、『子に等しきは存在せず』があり、士族、そして、騒ぎ立てるもの、そして、睡眠と倦怠、為し難きもの、恥〔の思い〕、第九のものとして、小屋たる者があり、サミッディによって、第十のものが説かれ、〔章となる〕」と。
3. 刃の章
1. 刃の経
21. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。
2. 「接触する」の経
22.
〔天神が、詩偈に言う〕「そして、〔それに〕接触せずにいる者に、〔それは〕接触しない。しかしながら、〔それに〕接触している者に、そののち、〔それは〕接触するであろう。それゆえに、〔それに〕接触している者に、汚れなき者を汚す者に、〔その報いは〕接触する」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る──風に逆らって投げられた細かい塵が、〔投げた者自身に戻り来る〕ように」と。
3. 結髪の経
23.
〔天神が、詩偈に言う〕「内に結髪あり、外に結髪あり、〔世の〕人々は、結髪によって結束されています。ゴータマ(ブッダ)よ、それを、あなたに尋ねます。誰が、この結髪を解きほぐすのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら、熱情ある賢明なる比丘として、彼は、この結髪を解きほぐすでしょう。
それらの者たちの、そして、貪欲(貪)が、かつまた、憤怒(瞋)が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、〔彼らは〕煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちであり、彼らの結髪は〔すでに〕解きほぐされたのです。
そこにおいて、そして、名前(名:精神的事象)が、さらに、形態(色:物質的形態)が、残りなく破却されるなら──かつまた、敵対〔の表象〕(有対想:自己に対峙対立する表象)と形態の表象(色想)が〔残りなく破却されるなら〕──ここにおいて、この結髪は断ち切られます」と。
4. 意の防護の経
24.
〔天神が、詩偈に言う〕「そのもの、そのものから、意を防護するなら、そのもの、そのものから、苦しみは、彼に至らない。彼が、全てのものから、意を防護するなら、彼は、全ての苦しみから解き放たれる」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「全てのものから、意を防護するべきではない。自制された自己を具すに至った意は、さにあらず。そして、そのもの、そのものから、悪しきものが〔生起する、そのたびに〕、そのもの、そのものから、意を防護するべきである」と。
5. 阿羅漢の経
25.
〔天神が、詩偈に言う〕「すなわち、比丘が、〔為すべきことを〕為した阿羅漢として〔世に〕有るとします──煩悩が滅尽した者として、最後の肉身を保つ者として。彼は、『わたしは、〔これを、彼らに〕説く』ともまた説くでしょうか、彼は、『わたしに、〔これを、彼らは〕説く』ともまた説くでしょうか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、比丘が、〔為すべきことを〕為した阿羅漢として〔世に〕有るとします──煩悩が滅尽した者として、最後の肉身を保つ者として。彼は、『わたしは、〔これを、彼らに〕説く』ともまた説くでしょうし、彼は、『わたしに、〔これを、彼らは〕説く』ともまた説くでしょう。智者は、世における呼称を〔あるがままに〕知って、彼は、ただの語用として語用するでしょう」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「すなわち、比丘が、〔為すべきことを〕為した阿羅漢として〔世に〕有るとします──煩悩が滅尽した者として、最後の肉身を保つ者として。いったい、まさに、その比丘は、〔我想の〕思量(慢:自他を比較し価値づける心)を具すに至って、彼は、『わたしは、〔これを、彼らに〕説く』ともまた説くでしょうか、彼は、『わたしに、〔これを、彼らは〕説く』ともまた説くでしょうか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔我想の〕思量を捨棄した者に、諸々の拘束は存在しません。彼の、〔我想の〕思量と諸々の拘束は、一切が砕破されました。彼は、思い考えることを超克した者であり、思慮深き者として、彼は、『わたしは、〔これを、彼らに〕説く』ともまた説くでしょうし、彼は、『わたしに、〔これを、彼らは〕説く』ともまた説くでしょう。智者は、世における呼称を〔あるがままに〕知って、彼は、ただの語用として語用するでしょう」と。
6. 灯火の経
26.
〔天神が、詩偈に言う〕「世において、どれだけの灯火がありますか。それらによって、世〔の人々〕が光り輝く、〔どれだけの灯火がありますか〕。世尊に、〔それを〕尋ねるためにやってきて、どのように、わたしたちは、それを知るべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「世において、四つの灯火があります。ここにおいて、第五のものは見出されません。日は、昼に輝き、月は、夜に明らみます。
そこで、火は、昼夜に、その場その場において輝き、正覚者は、諸々の輝くもののなかの最勝の者であり、この光り輝きは、無上なるものです」と。
7. 〔欲望の〕流れの経
27.
〔天神が、詩偈に言う〕「どこから、諸々の〔欲望の〕流れは退転するのですか。どこにおいて、〔輪廻の〕転起は転起しないのですか。どこにおいて、そして、名前(名)が、さらに、形態(色)が、残りなく破却されるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そこにおいて、そして、水も、地も、火も、風も、依って立つことなく、ここから、諸々の〔欲望の〕流れは退転します。ここにおいて、〔輪廻の〕転起は転起しません。ここにおいて、そして、名前が、さらに、形態が、残りなく破却されます」と。
8. 大いなる財産の経
28.
〔天神が、詩偈に言う〕「大いなる財産ある者たちも、大いなる財物ある者たちも、国土ある士族たちもまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいし十分に作り為すことなく、互いに他を貪り求めます。
〔欲への〕思い入れが生じ、生存の流れに従い行く、それらの者たちのなかにいながら、どのような者たちが、ここに、渇愛〔の思い〕を捨棄したのですか。どのような者たちが、世において思い入れなくあるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「家を捨棄して出家し、子供と家畜と愛しい者を(※)捨棄して、そして、貪欲を捨棄して、かつまた、憤怒を〔捨棄して〕、さらに、無明を離貪させて、煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちは、彼らは、世において思い入れなくあります」と。
※ テキストには viyaṃ とあるが、PTS版により piyaṃ と読む。
9. 四つの輪の経
29.
〔天神が、詩偈に言う〕「偉大なる勇者よ、四つの輪(行住坐臥の振る舞い)があり、九つの門(身体の九門)があり、〔汚物に〕満ち、貪欲によって束縛された、汚泥から生じたものがあります。どのように、〔正しい〕行道が有るのでしょうか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、さらに、悪しき欲求と貪欲を〔断ち切って〕、渇愛を根ごと引き抜いて、このように、〔正しい〕行道が有るでしょう」と。
10. 羚羊のような脛の経
30.
〔天神が、詩偈に言う〕「羚羊のような脛をした、痩せ細り、食少なく、〔味覚の対象に〕妄動なき勇者に、獅子のように独り歩む龍象たる方に、諸々の欲望〔の対象〕に期待なき方に、近づいて行って、〔わたしたちは〕尋ねます。どのように、苦しみから解き放たれるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「世における五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が、第六のものとして意〔の対象〕(法)が、〔あなたたちに〕知らされました。ここにおいて、欲〔の思い〕を離貪させて、このように、苦しみから解き放たれます」と。
刃の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「刃とともに、まさしく、そして、『接触する』があり、結髪、意の防護があり、阿羅漢とともに、灯火、〔欲望の〕流れがあり、そして、大いなる財産とともに、四つの輪によって、第九のものが〔説かれ〕、羚羊のような脛とともに、それらの十がある」と。
4. サトゥッラパ〔天〕の身体ある者の章
1. 「正しくある者たちと」の経
31. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、より勝ることは有るが、より悪しきことは、さにあらず」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、智慧は得られるが、他からは、さにあらず」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、憂い悲しみの中で憂い悲しまない」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、親族たちの中で光り輝く」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、有情たちは、善き境遇(善趣)に赴く」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、有情たちは、常久に安立する」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊に、こう言いました。「世尊よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。「あなたたちの全ての〔言葉が〕、見事に語られました──教相〔の観点〕によって。さらに、また、わたしの〔言葉を〕もまた聞きなさい」〔と〕。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、一切の苦しみから解き放たれる」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの天神たちは、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 物惜〔の思い〕ある者の経
32. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「そして、物惜あることから、さらに、放逸あることから、このように、布施は施されない。功徳を望んでいる者によって、〔あるがままに〕識知している者によって、施されるべき〔布施〕と成る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「物惜〔の思い〕ある者が、まさしく、それがために恐怖し、〔布施を〕施さないなら、それこそが、施さずにいる者にとっての恐怖である。物惜〔の思い〕ある者が、それがために恐怖するなら、そして、飢えが、さらに、渇きが、まさしく、その愚者を襲う──この世において、さらに、他〔の世〕において。
それゆえに、物惜〔の思い〕を取り除いて、〔世俗の〕垢を征服する者となり、布施を施すがよい。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「諸々の道を共に旅行く者のように、彼らが、少ないなかで献じ捧げるなら、彼らは、死者たちのなかにいながら、死ぬことがない。これは、永遠の法(真理)である。
或る者たちは、少ないなかから献じ捧げ、或る者たちは、多いなかから施そうとしない。少ないなかから施された施物は、千に等しきものと量られた」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「施し難きものを施している者たちに、為し難き行為を為している者たちに、正しからざる者たちは従わない。正しくある者たちの法(性質)は、捉えどころがない。
それゆえに、そして、正しくある者たちと正しからざる者たちには、ここから赴く所として、種々なる〔境遇〕が有る。正しからざる者たちは、地獄に行き、正しくある者たちは、天上を行き着く所とする」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊に、こう言いました。「世尊よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。
「あなたたちの全ての〔言葉が〕、見事に語られました──教相〔の観点〕によって。さらに、また、わたしの〔言葉を〕もまた聞きなさい」〔と〕。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、また、落穂拾い〔の行〕を歩み、そして、妻を養いながら、少ないなかで〔常に〕施している者──〔彼は〕法(正義)〔の道〕を歩むであろう。千の祭祀者たちの百千〔の祭祀〕であれ、それらは、そのような種類〔の布施〕の〔十六分の〕一にさえも値しない」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊に、詩偈をもって語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「どうして、この、広大にして莫大なる祭祀は、正しい者によって施された〔布施〕の価値に至らないのですか。どのように、千の祭祀者たちの百千〔の祭祀〕であれ、それらは、そのような種類〔の布施〕の〔十六分の〕一にさえも値しないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、或る者たちは、正しからざることに固着し、〔施物を〕施す──〔命あるものたちを〕切断して、屠殺して、そこで、憂い悲しませて〔そののち〕。その施物は、涙顔のものであり、棒(暴力)を有するものであり、正しい者によって施された〔布施〕の価値に至らない。
このように、千の祭祀者たちの百千〔の祭祀〕であれ、それらは、そのような種類〔の布施〕の〔十六分の〕一にさえも値しない」と。
3. 「善きかな」の経
33.
サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、大勢のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「そして、物惜あることから、さらに、放逸あることから、このように、布施は施されない。功徳を望んでいる者によって、〔あるがままに〕識知している者によって、施されるべき〔布施〕と成る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな。さらに、また、少ないなかでの布施もまた、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「或る者たちは、少ないなかから献じ捧げ、或る者たちは、多いなかから施そうとしない。少ないなかから施された施物は、千に等しきものと量られた」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかでの布施もまた、善きかな。さらに、また、信による布施もまた、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「そして、布施を、さらに、戦いを、〔両者を〕同等のものと、〔賢者たちは〕言う。正しくある者たちは、たとえ、少なくあるも、多くの者たちに勝利する。たとえ、もし、少なくあるも、信を置きつつ施すなら、まさしく、それによって、彼は、他所(他の世)において、安楽の者と成る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかでの布施もまた、善きかな。信による布施もまた、善きかな。さらに、また、法(正義)によって得た〔財〕の布施もまた、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「すなわち、人が、法(正義)によって得た〔財〕の、奮起と精進によって到達した〔財〕の、布施を施すなら、その人は、〔死してのち〕夜魔(閻魔)〔の領域〕のヴェータラニー〔川〕を超え行って、諸々の天なる境位へと近しく至る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかでの布施もまた、善きかな。信による布施もまた、善きかな。法(正義)によって得た〔財〕の布施もまた、善きかな。さらに、また、〔正しく〕弁別して〔施す〕布施もまた、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「〔正しく〕弁別して〔施す〕布施は、善き至達者たる方(ブッダ)の賞賛するところとなる。彼らが、ここに、生あるものの世において、施与されるべき者たちであるなら、これらの者たちにおいて、施されたものは、諸々の大いなる果となる──あたかも、善き田畑に蒔かれた諸々の種のように」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「敬愛なる方よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかでの布施もまた、善きかな。信による布施もまた、善きかな。法(正義)によって得た〔財〕の布施もまた、善きかな。〔正しく〕弁別して〔施す〕布施もまた、善きかな。さらに、また、命あるものたちにたいし自制ある者もまた、善きかな」〔と〕。
〔その天神が、詩偈に言う〕「彼が、命ある生類たちを傷つけることなく〔世を〕歩み、他者の非難あることから、悪を為さないなら(悪しき評判を恐れて悪行を控えるなら)、〔人々は〕恐怖ある者を賞賛する。まさに、そこにおいて、〔恐怖なき〕勇士を〔賞賛し〕ない。まさに、〔悪しき報いの〕恐怖あることから、正しくある者たちは、悪を為さない」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊に、こう言いました。「世尊よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。
「あなたたちの全ての〔言葉が〕、見事に語られました──教相〔の観点〕によって。さらに、わたしの〔言葉を〕もまた聞きなさい」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、信あることから、布施は、多種に賞賛された。しかしながら、布施よりも、まさに、法(真理)の句こそは、より勝っている。なぜなら、かつまた、過去においても、かつまた、より過去においても、正しくある者たちは、智慧を有する者たちとして、まさしく、涅槃〔の境処〕に到達したからである」と。
4. 「存在しない」の経
34. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「人間たちにおいて、諸々の欲望〔の対象〕は、常住のものとして存在しない。この〔世には〕、諸々の欲するべきもの(欲望の対象)が存在する。それらのうちに結縛され、それらのうちに放逸となり、〔この世に〕ふたたび帰り来ない〔境地〕に〔至らず〕、死魔の領域から帰り来ない人となる」と。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「欲〔の思い〕から生じるもの、〔それは〕悩苦である。欲〔の思い〕から生じるもの、〔それは〕苦しみである。欲〔の思い〕の調伏(取り除き)あることから、悩苦の調伏がある。悩苦の調伏あることから、苦しみの調伏がある」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、世における諸々の彩りあざやかなものは、それらは、欲望〔の対象〕ではない。妄想の貪欲が、人にとって、欲望〔の対象〕となる。世における諸々の彩りあざやかなものは、まさしく、そのとおりに、〔妄想のままに〕止住する。そこで、ここにおいて、慧者たちは、欲〔の思い〕を取り除く。
忿激〔の思い〕を捨棄するように。〔我想の〕思量を捨棄し去るように。束縛するものの一切を超越するように。無一物の者に、名前と形態(名色:心と身体)について執着せずにいる者に、彼に、諸々の苦しみが従い行くことはない。
〔彼は〕捨棄した──〔虚構の〕名称を。〔彼は〕到達しなかった──〔高慢と〕軽侮〔の思い〕に。〔彼は〕断った──この〔世において〕、名前と形態にたいする渇愛〔の思い〕を。彼を、拘束を断ち煩悶なく願望なき者を、天〔の神々〕と人間たちは、遍く探し求めながら、そして、〔ついに〕到達しなかった──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが──あるいは、諸々の天上において、一切の住居地において」と。
かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔詩偈に言う〕「もし、彼を、そのように解脱した者を、天〔の神々〕と人間たちが──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが──まさに、見なかったとして、最上の人を、〔世の〕人たちの義(利益)を行なう者を、彼を、それらの者たちが礼拝するなら、彼らは、賞賛されるべき者たちと〔成りますか〕」と。
「モーガラージャンよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「比丘よ、彼を、そのように解脱した者を、それらの者たちが礼拝するなら、彼らもまた、賞賛されるべき者たちと成ります。比丘よ、法(教え)を了知して、疑惑を捨棄して、彼らもまた、執着を超え行く者たちと成ります」と。
5. 譴責の表象ある者の経
35. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の譴責の表象ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、宙に立ちました。宙に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「〔現に〕存している自己を他なるものとして、すなわち、〔事実とは〕他なるものとして、〔施者に〕知らせるなら、彼の、その食するところは、盗みによって〔得たものとなる〕──賭博師の、欺きによって〔得た儲け〕のようなもの。
まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「このことは、語るばかりでは、あるいは、一方的に聞くのでも、まさに、できない──すなわち、この、堅固なる〔実践の〕道があり、それによって、慧者たる瞑想者たちが、悪魔の結縛から解き放たれるとして、〔その道に〕従い行くことは(※)。
※ テキストには Anukkamitave sakkā とあるが、PTS版により Anukkamituṃ ve sakkā と読む。
世〔の人々〕の様態を知って、まさに、慧者たちは、〔悪しき行為を〕作り為さない。〔あるがままに〕了知して、涅槃に到達した慧者たちは、世における執着を超え渡ったのだ」と。
そこで、まさに、それらの天神たちは、地に止住して、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちは、過誤を犯しました──あたかも、愚者たちであるかのように、あたかも、迷乱した者たちであるかのように、あたかも、智者ならざる者たちであるかのように。すなわち、わたしたちは、世尊のことを、挑むべき者と思い考えたのです。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちの、過誤を、過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。そこで、まさに、世尊は、笑みを浮かべました(懺悔を受け容れず笑い流した)。そこで、まさに、それらの天神たちは、より一層激しく譴責しながら、宙に舞い上がりました。或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を言いました。
〔天神が、詩偈に言う〕「懺悔している者たちの過誤を、彼が、もし、受け容れないなら、内に怒りある者であり、憤怒〔の思い〕を重んじる者であり、彼は、怨みを解き放ちます(撒き散らす)」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「もし、〔彼に〕過誤が見出されず、そして、ここに、〔過誤からの〕離去が〔もはや〕存在せず、かつまた、諸々の怨みが静まらないなら、どうして、ここに、智者として存在するというのでしょう(怨みなくあるからこそ智者として世にある)」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「誰に、諸々の過誤が見出されないのですか。誰に、〔過誤からの〕離去が〔もはや〕存在しないのですか。誰が、等しき迷妄を惹起しなかったのですか。そして、誰が、常に気づきある慧者なのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「如来に、覚者に、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者に、彼に、諸々の過誤は見出されません。彼に、〔過誤からの〕離去は〔もはや〕存在しません。彼は、等しき迷妄を惹起しませんでした。まさしく、彼は、常に気づきある慧者です」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「懺悔している者たちの過誤を、彼が、もし、受け容れないなら、内に怒りある者であり、憤怒〔の思い〕を重んじる者であり、彼は、怨みを解き放ちます。その怨みを、〔わたしは〕大いに喜びません。あなたたちの過誤を、〔わたしは〕受け容れます」と。
6. 信の経
36. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「信は、人にとって、伴侶として有る。もし、信なき〔生き方〕が確立せず〔止住しないなら〕、そして、盛名が、さらに、名誉が、そののち、彼に有る。肉体を捨棄して、そして、彼は、天上に赴く」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕を捨棄するように。〔我想の〕思量を捨棄し去るように。束縛するものの一切を超越するように。無一物の者に、名前と形態について執着せずにいる者に、彼に、諸々の執着〔の思い〕が従い行くことはない」と。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「怠ること(放逸)に専念するのが、愚者たちであり、思慮浅き人たちである。しかしながら、思慮ある者は、怠らないこと(不放逸)に〔専念する〕──最勝の財を守るように。
怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、最高の安楽に至り得るからである」と(※)。
※ テキストには sukha’’ntntti とあるが、PTS版により sukhan’’ti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。
7. 集いの経
37. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥの大いなる林において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。さらに、十の世の界域から、天神たちの多くのところが、参集した状態でいます──世尊を見るために、そして、比丘の僧団を〔見るために〕。そこで、まさに、四者の浄居〔天〕の身体ある天神たちに、この〔思い〕が有りました。「この方は、まさに、世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられる。カピラヴァットゥの大いなる林において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。さらに、十の世の界域から、天神たちの多くのところが、参集した状態でいる──世尊を見るために、そして、比丘の僧団を〔見るために〕。それなら、さあ、わたしたちもまた、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、世尊の現前において、各自に詩偈を語るのだ」と。
そこで、まさに、それらの天神たちは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、浄居天において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、それらの天神たちは、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「山林において、大いなる集いがあり、天の衆たちが集いあつまっている。〔わたしたちは〕やってきた──この法(教え)の集いに、敗れることなき僧団を見るために」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「そこにあって、比丘たちは、〔心を〕定めた。自己の心を、真っすぐに作り為した。馭者が、諸々の手綱を掴んで〔馬たちを操る〕ように、賢者たちは、諸々の〔感官の〕機能(根)を守る」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「杭を断ち切って、閂を断ち切って、インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)を取り払って、動揺なき者たちとなり、彼らは、〔世を〕歩む──信ある者たちとなり、〔世俗の〕垢を離れる者たちとなり、眼ある方(ブッダ)によって善く調御された、若き象たちは」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「彼らが誰であれ、帰依所として、覚者のもとに赴いたなら、彼らは、悪所の地に赴かないであろう。人間の肉身を捨棄して、天の身体を円満成就させるであろう」と。
8. 石片の経
38. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。マッダクッチの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、世尊の足は、石片によって傷つくところと成ります。諸々の激しい〔苦痛の〕感受(受:楽苦の知覚)が、まさに、世尊に転起します──肉体のものとして、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受が。それら〔の苦痛の感受〕を、まさに、世尊は、気づきと正知の者として耐え忍びます──打ちのめされることなく。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──足に足を重ねて、気づきと正知の者として。
そこで、まさに、七百のサトゥッラパ〔天〕の身体ある天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくマッダクッチを照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、或る天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、龍象たる方である。そして、龍象たることによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、獅子たる方である。そして、獅子たることによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、良馬たる方である。そして、良馬たることによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、雄牛たる方である。そして、雄牛たることによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、忍耐強き方である。そして、忍耐強きことによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、沙門ゴータマは、調御された方である。そして、調御あることによって、肉体のものとして生起した、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受を、気づきと正知の者として耐え忍ぶ──打ちのめされることなく」と。
そこで、まさに、他の天神は、世尊の現前において、この感興〔の言葉〕を唱えました。「見よ──善く修められた禅定(定・三昧)を、そして、善く解脱した心を、かつまた、曲がることなく、かつまた、逸れることなく、さらに、形成〔作用〕(行:意志・衝動)を有し制御して防護に至ることなき〔心〕を(意志的努力なしに定められ防護されている心のあり方を見よ)。すなわち、このような形態の、龍象たる人士を、獅子たる人士を、良馬たる人士を、雄牛たる人士を、忍耐強き人士を、調御された人士を、超越されるべき者と思い考えるなら、見なきより他の、何だというのだろう(盲者以外の何ものでもない)」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「五つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちが、苦行者たちとして、百年のあいだ行なうも、しかしながら、彼らの心は、正しく解脱せずにいる。下劣なる義(目的)と形態ある彼らは、彼岸に至る者たちにあらず。
渇愛〔の思い〕に囚われ、掟と戒に結縛された者たちが、粗野な苦行を、百年のあいだ行なうも、しかしながら、彼らの心は、正しく解脱せずにいる。下劣なる義(目的)と形態ある彼らは、彼岸に至る者たちにあらず。
〔我想の〕思量を欲する者に、この〔世において〕、調御は存在しない。〔心が〕定められていない者に、寂黙は存在しない。独り、林に住みながら、〔気づきを〕怠る者は、死魔の領域の彼岸へと超え渡らないであろう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔我想の〕思量を捨棄して、自己が善く定められた者──善き心の者となり、一切所に解脱した者──独り、林に住みながら、〔気づきを〕怠らない者は、彼は、死魔の領域の彼岸へと超え渡るであろう」と。
9. 第一の雨雲の娘の経
39. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、雨雲の娘のコーカナダーが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくマハー林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、雨雲の娘のコーカナダーは、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「ヴェーサーリーの林に住んでいる、有情の至高者たる正覚者を、コーカナダーとして〔世に〕存する、わたしは──雨雲の娘のコーカナダーは──敬拝します。
『眼ある方によって、法(真理)が随覚されたのだ』〔と〕、まさしく、聞くところが、かつて存しました。〔まさに〕その、わたしは、今や、じかに知ります──牟尼の〔言葉を〕、説示している善き至達者の〔言葉を〕。
彼らが誰であれ、聖なる法(教え)を罵倒しながら〔世を〕歩む、思慮浅き者たちであるなら、〔彼らは〕おぞましき叫喚〔地獄〕へと近しく至り、長夜にわたり、苦しみを経験します。
しかしながら、彼らが、まさに、聖なる法(教え)において、忍耐と寂止を具した者たちであるなら、〔彼らは〕人間の肉身を捨棄して、天の身体を円満成就させるでしょう」と。
10. 第二の雨雲の娘の経
40. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、雨雲の娘のチューラ・コーカナダーが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくマハー林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、雨雲の娘のチューラ・コーカナダーは、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「雷光の光輝と色艶ある、雨雲の娘のコーカナダーは、ここに到来しました。そして、覚者を、さらに、法(教え)を、礼拝しながら、そして、これらの義(道理)ある詩偈を語りました。
たとえ、多くの教相(具体的説明・法門)によっても、まさに、それを、〔わたしは〕区分するでしょう──そのようなものとして、法(教え)はあります。簡略の義(意味)を、〔わたしは〕談論するでしょう──それが、わたしの意によって探知されたものであるかぎりは。
〔すなわち〕『言葉によって、意によって、あるいは、身体によって、一切の世において、何であれ、悪を為さないように。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、気づきと正知の者となり、義(道理)ならざることを伴った苦しみに慣れ親しまないように』」と。
サトゥッラパ〔天〕の身体ある者の章が第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「『正しくある者たちと』があり、物惜〔の思い〕ある者とともに、『善きかな』があり、『存在しない』があり、譴責の表象ある者たち、信、集い、石片、二つの雨雲の娘があり、〔章となる〕」と。
5. 燃えているものの章
1. 燃えているものの経
41. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「家が燃えているとき、すなわち、〔家から〕器を運び出すなら、その〔器〕は、彼にとって、義(利益)のために成る。しかしながら、そこにおいて、その〔器〕が焼かれるなら、さにあらず。
このように、老によって、そして、死によって、燃えているものとして、世があるなら、布施によって、まさしく、〔財を〕運び出すべきである。施されたものは、善く運び出されたものと成る。
〔他に〕施されたものは、安楽の果と成る。施されなかったものは、それは、そのようには成らない。盗賊たちが、王たちが、〔財を〕運び去る。火が、〔財を〕焼き尽くし、〔財は〕滅し行く。
そこで、終極には、執持〔の対象〕(所有物)と共に、肉体を捨棄する。思慮ある者は、このことを了知して、そして、〔自ら正しく〕受益し、さらに、〔他者に〕施すがよい。〔自らの〕威力のままに、そして、〔他者に〕施して、さらに、〔自ら正しく〕受益して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。
2. 「何を施す者が」の経
42.
〔天神が、詩偈に言う〕「何を施す者が、活力を施す者と成るのですか。何を施す者が、色艶を施す者と成るのですか。何を施す者が、安楽を施す者と成るのですか。何を施す者が、眼を施す者と成るのですか。そして、誰が、一切を施す者と成るのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「食べものを施す者が、活力を施す者と成ります。衣を施す者が、色艶を施す者と成ります。乗物を施す者が、安楽を施す者と成ります。灯明を施す者が、眼を施す者と成ります。
そして、彼は、一切を施す者と成ります──彼が、在所を施すなら。そして、彼は、不死を施す者と成ります──彼が、法(教え)を教示するなら」と。
3. 食べものの経
43.
〔天神が、詩偈に言う〕「天〔の神々〕と人間たちの両者は、まさしく、食べ物を大いに喜びます。そこで、すなわち、食べ物を大いに喜ばない、まさに、その夜叉とは、誰なのでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼らが、その〔食べ物〕を、信によって施し、浄信した心によって〔施すなら〕、まさしく、その食べ物は、〔彼らに〕親近します──この世において、さらに、他〔の世〕において。
それゆえに、物惜〔の思い〕を取り除いて、〔世俗の〕垢を征服する者となり、布施を施すべきです。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成ります」と。
4. 一つの根の経
44.
〔天神が、詩偈に言う〕「一つの根(無明)を、二つの渦(常見・断見)を、三つの垢(貪・瞋・痴)を、五つの石(色・声・香・味・触)を、海の十二の渦(十二処)を、〔地獄の〕深淵を、聖賢(ブッダ)は超え渡った」と。
5. 至上なる方の経
45.
〔天神が、詩偈に言う〕「至上の名ある方を、精緻なる義(道理)を見る方を、〔解脱の〕智慧を与える方を、欲望〔対象〕と〔生存の〕基底に執着なき方を、一切を知る思慮深き方を、彼を、見よ──聖なる道を進み行く偉大なる聖賢(ブッダ)を」と。
6. 仙女の経
46.
〔天神が、詩偈に言う〕「仙女たちの群れが喚呼し、魔物たちの群れが慣れ親しむ、その林は、『モーハナ(迷妄ならしむもの)』という名があります。どのように、行道(脱出の道)が有るのでしょうか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「『真っすぐなもの』という名の、その道があります。『恐れなきもの』という名の、その方角があります。『曲がりなきもの』という名の、〔その〕車があります──諸々の法(真理)の輪と結び付いたものとして。
その〔車〕の歯止めは、恥〔の思い〕(慚)です。その〔車〕の幌は、気づき(念)です。正しい見解(正見)を先導とする法(真理)を、わたしは、馭者と説きます。
彼に、このようなものとして、乗物があるなら、女であれ、あるいは、男であれ、彼は、まさに、この乗物によって、まさしく、涅槃の現前にあります」と。
7. 林を育成する者の経
47.
〔天神が、詩偈に言う〕「どのような者たちの功徳が、そして、昼に、さらに、夜に、常に増大するのですか。法(正義)に依って立ち、戒を成就した、どのような者たちが、人として、天上に赴く者たちとなるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それらの者たちが、人として、橋を作り、林園を育成し、林を育成する者たちであるなら──それらの者たちが、在所を施すなら、そして、水飲場を〔施し〕、さらに、井戸を〔施すなら〕──
それらの者たちの功徳は、そして、昼に、さらに、夜に、常に増大します。法(正義)に依って立ち、戒を成就した、それらの者たちは、人として、天上に赴く者たちとなります」と。
8. ジェータ林の経
48.
〔天神が、詩偈に言う〕「まさに、そのジェータ林は、これは、聖賢の僧団が慣れ親しむところです。法(教え)の王(ブッダ)が住するところにして、わたしに喜悦を生むところです。
行為(業)、そして、明知、さらに、法(教え)、戒、最上の生き方──これによって、死すべき者(人間)たちは清浄となります。姓によって、あるいは、財によって、〔清浄となるのでは〕ありません。
まさに、それゆえに、賢者たる人が、自己の義(利益)を正しく見ながら、根源のままに法(教え)を弁別するなら、このように、そこにおいて、〔彼は〕清浄となります。
サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するでしょう」と。
9. 物惜〔の思い〕ある者の経
49.
〔天神が、詩偈に言う〕「それらの者たちが、ここに、世において、物惜〔の思い〕ある者たちであり、吝嗇の者たちであり、口撃する者たちであり、他者たちが施していると障りを為す人たちであるなら──
彼らには、どのようなものとして、報い(異熟)があり、そして、どのようなものとして、未来があるのですか。世尊に、〔それを〕尋ねるためにやってきて、どのように、わたしたちは、それを知るべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それらの者たちが、ここに、世において、物惜〔の思い〕ある者たちであり、吝嗇の者たちであり、口撃する者たちであり、他者たちが施していると障りを為す人たちであるなら──
地獄に、畜生の胎に、夜魔の世に、再生します。それで、もし、人間たる〔境遇〕に至るなら、貧者の家に生まれます。
そこにおいては、衣服と食物と歓楽と遊興は、苦難をもって得られます。愚者たちは、他者から願い求めるとして、それもまた、彼らには得られません。所見の法(現法:現世)においては、この報いがあり、そして、未来においては、悪しき境遇(悪趣)があります」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「まさに、かくのごとく、このことを、〔わたしたちは〕識知します。ゴータマよ、他のことを、〔わたしたちは〕尋ねます。それらの者たちが、ここに、人間たる〔境遇〕を得た者たちとして、寛容なる者たちであり、物惜〔の思い〕を離れた者たちであり──
覚者にたいし浄信した者たちであり、そして、法(教え)にたいし〔浄信した者たちであり〕、さらに、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、彼らには、どのようなものとして、報いがあり、そして、どのようなものとして、未来があるのですか。世尊に、〔それを〕尋ねるためにやってきて、どのように、わたしたちは、それを知るべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それらの者たちが、ここに、人間たる〔境遇〕を得た者たちとして、寛容なる者たちであり、物惜〔の思い〕を離れた者たちであり、覚者にたいし浄信した者たちであり、そして、法(教え)にたいし〔浄信した者たちであり〕、さらに、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、これらの者たちは、天上において(※)光り輝きます──そこにおいて、彼らが再生するなら。
※ テキストには saggā とあるが、PTS版により sagge と読む。
それで、もし、人間たる〔境遇〕に至るなら、富者の家に生まれます。そこにおいては、衣服と食物と歓楽と遊興は、苦難なくして得られます。
他者によって運び込まれた諸々の財物にたいし、自在〔天〕のように歓喜します。所見の法(現世)においては、この報いがあり、そして、未来においては、善き境遇(善趣)があります」と。
10. ガティーカーラの経
50.
〔天神が、詩偈に言う〕「無煩〔天〕に再生し、〔そこにおいて〕解脱した七者の比丘たちがいます──貪欲と憤怒が完全に滅尽した者たちとなり、世における執着を超え渡った者たちです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「では、誰が、それらの者たちであり、汚泥を、極めて超え難き死魔の領域を、超えたのですか。誰が、人間の肉身を捨棄して、天の束縛を過ぎ行ったのですか」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「ウパカ、そして、パラガンダ、さらに、プックサーティの、それらの三者であり、バッディヤ、そして、カンダデーヴァ、さらに、バーフラッギ、シンギヤです。彼らは、人間の肉身を捨棄して、天の束縛を過ぎ行きました」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「悪魔の罠を捨棄する者たちの、彼らの、巧みな智を(※)、〔あなたは〕語ります。誰の法(教え)を了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのですか」と。
※ テキストには Kusalī とあるが、PTS版により Kusalaṃ と読む。
〔天神が、詩偈に言う〕「世尊より他に、〔誰も存在し〕ません。あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。すなわち、あなたの、法(教え)を了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのです。
そこにおいて、そして、名前が、さらに、形態が、残りなく破却される、その法(教え)を、ここに了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「深遠なる言葉を、〔あなたは〕語ります。識知し難く、極めて覚り難き〔言葉〕を。誰の法(教え)を了知して、あなたは、このような言葉を語るのですか」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「かつて、〔わたしは〕瓶の作り手として〔世に〕存しました。ヴェーカリンガにおいて、陶工として、母と父を養う者として、カッサパ〔世尊〕(過去仏)の在俗信者(優婆塞)として、〔世に〕存しました。
淫事の法(性質)から離れた者であり、財貨なき梵行者であり、あなたと同村の者として〔世に〕有りました。かつて、〔わたしは〕あなたの友人として〔世に〕有りました。
〔まさに〕その、わたしは、これらの解脱した七者の比丘たちを覚知します──貪欲と憤怒が完全に滅尽した者たちとなり、世における執着を超え渡った者たちを」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そのとき、このように、このことは存しました──バッガヴァ(ガティーカーラ)よ、すなわち、〔あなたが〕語るとおりに。かつて、〔あなたは〕瓶の作り手として〔世に〕存しました。ヴェーカリンガにおいて、陶工として、母と父を養う者として、カッサパ〔世尊〕の在俗信者として、〔世に〕存しました。
淫事の法(性質)から離れた者であり、財貨なき梵行者であり、わたしと同村の者として〔世に〕有りました。かつて、〔あなたは〕わたしの友人として〔世に〕有りました」と。
〔そして、詩偈に言う〕「このように、このことは有りました──過去の友人たちの〔その〕出会いは。自己を修めた者たちであり、最後の肉体を保つ者たちである、両者の〔その出会いは〕」と。
燃えているものの章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「燃えているもの、『何を施す者が』があり、食べ物、一つの根と至上なる方、仙女、林を育成する者とジェータ〔林〕があり、物惜〔の思い〕ある者とともに、ガティーカーラがあり、〔章となる〕」と。
6. 老の章
1. 老の経
51.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、老がある、それまでに、善きこととなるのですか。いったい、何が、止住したなら、善きこととなるのですか。いったい、何が、〔世の〕人たちにとって、宝となるのですか。いったい、何が、盗賊たちに奪われ難きものとなるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「戒が、老がある、それまでに、善きこととなります。信が、止住したなら、善きこととなります。智慧が、〔世の〕人たちにとって、宝となります。功徳が、盗賊たちに奪われ難きものとなります」と。
2. 「老なきことから」の経
52.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、老なきことから、善きこととなるのですか。いったい、何が、〔心に〕確立されたなら、善きこととなるのですか。いったい、何が、〔世の〕人たちにとって、宝となるのですか。いったい、何が、盗賊たちに奪われないものとなるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「戒が、老なきことから、善きこととなります。信が、〔心に〕確立されたなら、善きこととなります。智慧が、〔世の〕人たちにとって、宝となります。功徳が、盗賊たちに奪われないものとなります」と。
3. 朋友の経
53.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、〔家から〕離れ住んでいる者にとって、朋友となるのですか。いったい、何が、自らの家において、朋友となるのですか。何が、義(事態)が生じた者にとって、朋友となるのですか。何が、未来の朋友となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「隊商が、〔家から〕離れ住んでいる者にとって、朋友となります。母が、自らの家において、朋友となります。道友が、義(事態)が生じた者にとって、繰り返し、朋友と成ります。自ら作り為した諸々の功徳が、それが、未来の朋友となります」と。
4. 基盤の経
54.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、人間たちにとって、基盤となるのですか。いったい、何が、この〔世において〕、最高の友人となるのですか。いったい、何に、生類たちは依拠して生きるのですか──すなわち、地に依拠した者たちである、〔それらの〕命あるものたちは」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「子たちが、人間たちにとって、基盤となります。そして、妻が、最高の友人となります。雨に、生類たちは依拠して生きます──すなわち、地に依拠した者たちである、〔それらの〕命あるものたちは」と。
5. 第一の生むものの経
55.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、人を生むのですか。いったい、彼の何が、走り回るのですか。いったい、何が、〔生と死の〕輪廻を惹起したのですか。いったい、何が、彼にとって、大いなる恐怖となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「渇愛が、人を生みます。彼の心が、走り回ります。〔執着している〕有情が、〔生と死の〕輪廻を惹起しました。苦しみが、彼にとって、大いなる恐怖となります」と。
6. 第二の生むものの経
56.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、人を生むのですか。いったい、彼の何が、走り回るのですか。いったい、何が、〔生と死の〕輪廻を惹起したのですか。何から、完全に解き放たれないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「渇愛が、人を生みます。彼の心が、走り回ります。〔執着している〕有情が、〔生と死の〕輪廻を惹起しました。苦しみから、完全に解き放たれません」と。
7. 第三の生むものの経
57.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、人を生むのですか。いったい、彼の何が、走り回るのですか。いったい、何が、〔生と死の〕輪廻を惹起したのですか。いったい、何が、彼の行き着く所となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「渇愛が、人を生みます。彼の心が、走り回ります。〔執着している〕有情が、〔生と死の〕輪廻を惹起しました。彼の行為(業)が、行き着く所となります」と。
8. 悪路の経
58.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、悪路と告げ知らされたのですか。いったい、何が、夜に、昼に、滅尽あるものとなるのですか。何が、梵行(禁欲清浄行)にとって、垢となるのですか。何が、水なき沐浴となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「貪欲が、悪路と告げ知らされました。命数が、夜に、昼に、滅尽あるものとなります。婦女が、梵行にとって、垢となります。ここにおいて、この人々は執着します。そして、苦行が、さらに、梵行が、それが、水なき沐浴となります」と。
9. 伴侶の経
59.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、人にとって、伴侶と成るのですか。そして、いったい、何が、この者を教えるのですか。さらに、何を大いに喜ぶ者が、死すべき者(人間)として、一切の苦しみから解き放たれるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信が、人にとって、伴侶と成ります。そして、智慧が、この者を教えます。涅槃を大いに喜ぶ者が、死すべき者として、一切の苦しみから解き放たれます」と。
10. 詩人の経
60.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、諸々の詩偈にとって、因縁となるのですか。いったい、何が、それらにとって、特徴となるのですか。いったい、何に、諸々の詩偈は、等しく依拠しているのですか。いったい、何が、諸々の詩偈にとって、依拠する所となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「韻律が、諸々の詩偈にとって、因縁となります。諸々の文字が、それらにとって、特徴となります。名前に、諸々の詩偈は、等しく依拠しています。詩人が、諸々の詩偈にとって、依拠する所となります」と。
老の章が第六となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「老、『老なきことから』があり、朋友、基盤、そして、三つの生むもの、そして、悪路、さらに、伴侶があり、詩人によって満たされ、章となる」と。
7. 征服の章
1. 名前の経
61.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、〔世の〕一切を征服したのですか。何よりも、より一層のものは見出されないのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行ったのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「名前が、〔世の〕一切を征服しました。名前よりも、より一層のものは見出されません。名前という一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行きました」と。
2. 心の経
62.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は導かれるのですか。いったい、何によって、〔世の人々は〕引き回されるのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行ったのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「心によって、世〔の人々〕は導かれます。心によって、〔世の人々は〕引き回されます。心という一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行きました」と。
3. 渇愛の経
63.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は導かれるのですか。いったい、何によって、〔世の人々は〕引き回されるのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行ったのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「渇愛によって、世〔の人々〕は導かれます。渇愛によって、〔世の人々は〕引き回されます。渇愛という一つの法(性質)の支配に、まさしく、一切の者たちは従い行きました」と。
4. 束縛するものの経
64.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。いったい、何を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれます」と。
5. 結縛するものの経
65.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、結縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。いったい、何を捨棄することで、一切の結縛するものを断ち切るのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「愉悦が、結縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それ(世の人々)にとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、一切の結縛するものを断ち切ります」と。
6. 侵されているもの(※)の経
※ テキストには Attahata とあるが、PTS版により Abbhāhata と読む。
66.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は侵されているのですか。いったい、何によって、〔世の人々は〕取り囲まれているのですか。何の矢によって、〔世の人々は〕貫かれているのですか。何のために、〔世の人々は〕常に燻られているのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「死魔によって、世〔の人々〕は侵されています。老によって、〔世の人々は〕取り囲まれています。渇愛の矢によって、〔世の人々は〕貫かれています。欲求のために、〔世の人々は〕常に燻られています」と。
7. 繫がれているものの経
67.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は繫がれているのですか。いったい、何によって、〔世の人々は〕取り囲まれているのですか。いったい、何によって、世〔の人々〕は塞がれているのですか。何のうちに、世〔の人々〕は止住しているのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「渇愛によって、世〔の人々〕は繫がれています。老によって、〔世の人々は〕取り囲まれています。死魔によって、世〔の人々〕は塞がれています。苦しみのうちに、世〔の人々〕は止住しています」と。
8. 塞がれているものの経
68.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は塞がれているのですか。何のうちに、世〔の人々〕は止住しているのですか。いったい、何によって、世〔の人々〕は繫がれているのですか。いったい、何によって、〔世の人々は〕取り囲まれているのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「死魔によって、世〔の人々〕は塞がれています。苦しみのうちに、世〔の人々〕は止住しています。渇愛によって、世〔の人々〕は繫がれています。老によって、〔世の人々は〕取り囲まれています」と。
9. 欲求の経
69.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何によって、世〔の人々〕は結縛されるのですか。何を調伏することで、〔世の人々は〕解き放たれるのですか。いったい、何を捨棄することで、一切の結縛するものを断ち切るのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「欲求によって、世〔の人々〕は結縛されます。欲求を調伏することで、〔世の人々は〕解き放たれます。欲求を捨棄することで、一切の結縛するものを断ち切ります」と。
10. 世の経
70.
〔天神が、詩偈に言う〕「何において、世〔の人々〕は生起し、何にたいし、〔世の人々は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為すのですか。何に、世〔の人々〕は執取して、何について、世〔の人々〕は打ちのめされるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「六つのもの(色・声・香・味・触・法)において、世〔の人々〕は生起し、六つのものにたいし、〔世の人々は〕親愛〔の情〕を為します。まさしく、六つのものに、〔世の人々は〕執取して、六つのものについて、世〔の人々〕は打ちのめされます」と。
征服の章が第七となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「名前、そして、心、そして、渇愛、そして、束縛するもの、結縛するもの、侵されているもの、繫がれているもの、塞がれているもの、欲求があり、世とともに、それらの十がある」と。
8. 「断ち切って」の章
1. 「断ち切って」の経
71. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何を断ち切って、安楽のうちに臥すのですか。いったい、何を断ち切って、憂い悲しまないのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の打倒を、ゴータマよ、〔あなたは〕喜ぶのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕を断ち切って、安楽のうちに臥します。忿激〔の思い〕を断ち切って、憂い悲しみません。天神よ、先端が〔蜜のように〕甘美な忿激という毒根の打倒を、聖者たちは賞賛します。まさに、それを断ち切って、憂い悲しみません」と。
2. 車の経
72.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、車の標識となるのですか。いったい、何が、火の標識となるのですか。いったい、何が、国土の標識となるのですか。いったい、何が、婦女の標識となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「旗が、車の標識となります。煙が、火の標識となります。王が、国土の標識となります。夫が、婦女の標識となります」と。
3. 富の経
73.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となるのですか。いったい、何が、善く行なわれたなら、安楽をもたらすのですか。いったい、何が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものとなるのですか。どのように生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言うのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となります。法(教え)が、善く行なわれたなら、安楽をもたらします。真理が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものとなります。智慧によって生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言います」と。
4. 雨の経
74.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、諸々の隆起しているものでは、最勝のものとなるのですか。いったい、何が、諸々の落下しているものでは、優秀のものとなるのですか。いったい、何が、進み行く者たちのなかでは、いったい、何が、説いている者たちのなかでは、優秀のものとなるのですか」と。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「種が、諸々の隆起しているものでは、最勝のものとなります。雨が、諸々の落下しているものでは、優秀のものとなります。牛たちが、進み行く者たちのなかでは、子が、説いている者たちのなかでは、優秀のものとなります」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「明知が、諸々の隆起しているものでは、最勝のものとなります。無明が、諸々の落下しているものでは、優秀のものとなります。僧団が、進み行く者たちのなかでは、覚者が、説いている者たちのなかでは、優秀のものとなります」と。
5. 「恐れている」の経
75.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何を、この〔世において〕、無数の人民たちは恐れているのですか──そして、道が、無数の場所に説かれたとして。ゴータマよ、広き智慧ある方よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。何において安立した者は、他の世を恐れないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「言葉を、さらに、意を、正しく向けて、身体によって諸々の悪を為さずにいる者が、多くの食べ物と飲み物ある家に居住しながら、信ある者であり、柔和なる者であり、分与する者であり、寛容なる者であるなら、これらの四つの法(性質)において安立した者は、法(教え)において安立した者となり、他の世を恐れません」と。
6. 「老いない」の経
76.
〔天神が、詩偈に言う〕「何が、老いるのですか。何が、老いないのですか。いったい、何が、『悪路』と説かれるのですか。いったい、何が、諸々の法(教え)にとって、障害となるのですか。いったい、何が、夜に、昼に、滅尽あるものとなるのですか。何が、梵行にとって、垢となるのですか。何が、水なき沐浴となるのですか。
世において、どれだけの瑕疵がありますか。そこにおいて、富が安立しない、〔どれだけの瑕疵がありますか〕。世尊に、〔それを〕尋ねるためにやってきて、どのように、わたしたちは、それを知るべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「死すべき者(人間)たちの形態が、老います。名前と氏姓が、老いません。貪欲が、『悪路』と説かれます。
貪り〔の思い〕が、諸々の法(教え)にとって、障害となります。命数が、夜に、昼に、滅尽あるものとなります。婦女が、梵行にとって、垢となります。ここにおいて、この人々は執着します。そして、苦行が、さらに、梵行が、それが、水なき沐浴となります。
世において、六つの瑕疵があります。そこにおいて、富が安立しない、〔六つの瑕疵があります〕。そして、怠けがあり、さらに、放逸があり、奮起なきがあり、自制なきがあり、眠気があり、さらに、倦怠があるなら、それらの〔六つの〕瑕疵を、あなたは、全てにわたり避けるべきです」と。
7. 権力の経
77.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、世において、権力あるものとなるのですか。いったい、何が、諸々の物品のなかでは、最上のものとなるのですか。いったい、何が、世において、刃の垢となるのですか。いったい、何が、世において、癌となるのですか。
いったい、誰を、〔彼が物品を〕運び去っているなら、〔人々は〕阻止するのですか。いっぽう、誰が、〔彼が物品を〕運び去っているとして、〔人々にとって〕愛しい者となるのですか。いったい、誰を、〔彼が〕繰り返しやってくるとして、賢者たちは大いに喜ぶのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「支配が、世において、権力あるものとなります。婦女が、諸々の物品のなかでは、最上のものとなります。忿激〔の思い〕が、世において、刃の垢となります。盗賊たちが、世において、諸々の癌となります。
盗賊を、〔彼が物品を〕運び去っているなら、〔人々は〕阻止します。沙門が、〔彼が物品を〕運び去っているとして、〔人々にとって〕愛しい者となります。沙門を、〔彼が〕繰り返しやってくるとして、賢者たちは大いに喜びます」と。
8. 欲する者の経
78.
〔天神が、詩偈に言う〕「何を、義(利益)を欲する者であるとして、与えるべきではないのですか。何を、死すべき者(人間)であるとして、遍捨するべきではないのですか。いったい、何を、善きものとして、解き放つべきであり、そして、悪しきものとして、解き放つべきではないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「人は、自己を、与えるべきではありません。自己を、遍捨するべきではありません。言葉を、善きものとして、解き放つべきであり、そして、悪しきものとして、解き放つべきではありません」と。
9. 〔旅の〕路銀の経
79.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、〔旅の〕路銀を結び縛るのですか(確保するのか)。いったい、何が、諸々の財物にとって、依拠する所となるのですか。いったい、何が、人を引き回すのですか。いったい、何が、世において、捨棄し難きものとなるのですか。何において、多々なる有情たちは結縛されたのですか──あたかも、雌鳥が、罠によって〔捕獲される〕ように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信が、〔旅の〕路銀を結び縛ります。吉祥が、諸々の財物にとって、依拠する所となります。欲求が、人を引き回します。欲求が、世において、捨棄し難きものとなります。欲求において、多々なる有情たちは結縛されました──あたかも、雌鳥が、罠によって〔捕獲される〕ように」と。
10. 灯火の経
80.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、何が、世において、灯火となるのですか。いったい、何が、世において、〔眠らずに〕起きているものとなるのですか。いったい、何が、行為において生き方を共にする者たちのものとなるのですか。何が、それにとって、振る舞いの道(行為のあり方)となるのですか。
いったい、何が、怠け者を、そして、怠け者ならざる者を、母が子を〔養う〕ように養うのですか。いったい(※)、何に、生類たちは依拠して生きるのですか──すなわち、地に依拠した者たちである、〔それらの〕命あるものたちは」と。
※ PTS版により su を補う。
〔世尊が、詩偈に言う〕「智慧が、世において、灯火となります。気づきが、世において、〔眠らずに〕起きているものとなります。牛たちが、行為において生き方を共にする者たちのものとなります。畦が、それにとって、振る舞いの道となります。
雨が、怠け者を、そして、怠け者ならざる者を、母が子を〔養う〕ように養います。雨に、生類たちは依拠して生きます──すなわち、地に依拠した者たちである、〔それらの〕命あるものたちは」と。
11. 相克なき者の経
81.
〔天神が、詩偈に言う〕「いったい、どのような者たちが、ここに、世において、相克なき者たちとなるのですか。どのような者たちの、住するところ(生のあり方)が滅びないのですか。どのような者たちが、ここに、欲求を遍知するのですか。どのような者たちに、常に自由があるのですか。
いったい、どのような者を、彼を、確立者として、母と父と兄弟は敬拝するのですか。いったい、どのような者を、ここに、〔彼が〕劣った生まれの者であるも、士族たちは敬拝するのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「沙門たちが、ここに、世において、相克なき者たちとなります。沙門たちの、住するところが滅びません。沙門たちが、欲求を遍知します。沙門たちに、常に自由があります。
沙門を、彼を、確立者として、母と父と兄弟は敬拝します。沙門を、ここに、〔彼が〕劣った生まれの者であるも、士族たちは敬拝します」と。
「断ち切って」の章が第八となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「『断ち切って』があり、そして、車、さらに、富(※)、雨、『恐れている』があり、『老いない』があり、権力、欲する者、〔旅の〕路銀、灯火があり、そして、相克なき者とともに、〔章となる〕」と。
※ テキストには cittañca とあるが、PTS版により vittaṃ ca と読む。
天神に相応するものは〔以上で〕完結となる。
2. 天子に相応するもの
1. 第一の章
1. 第一のカッサパの経
82. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、カッサパ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カッサパ天子は、世尊に、こう言いました。「比丘のことを、世尊は明示しました。しかしながら、比丘のための教示は、さにあらず」と。「カッサパよ、まさに、それでは、まさしく、それが、ここにおいて、明白となれ(それを語りなさい)」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「学ぶがよい──見事に語られた〔法〕を、そして、沙門の従事すること(瞑想)を、さらに、静所で独坐することを、かつまた、心の寂止を」と。
カッサパ天子は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天子の言葉を〕正しくお認めに成りました(天子に随喜した)。そこで、まさに、カッサパ天子は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 第二のカッサパの経
83. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、カッサパ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「比丘が、心が解脱した瞑想者として〔世に〕存し、もし、心臓の獲得(阿羅漢たること)を望むなら、そして、世の生成と衰失を知って、善き心の者となり、依存なき者となり、それを福利とする者となる」と。
3. マーガの経
84. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、マーガ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、マーガ天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天子が、詩偈に言う〕「いったい、何を断ち切って、安楽のうちに臥すのですか。いったい、何を断ち切って、憂い悲しまないのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の打倒を、ゴータマよ、〔あなたは〕喜ぶのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕を断ち切って、安楽のうちに臥します。忿激〔の思い〕を断ち切って、憂い悲しみません。ヴァトラブー(天子)よ、先端が〔蜜のように〕甘美な忿激という毒根の打倒を、聖者たちは賞賛します。まさに、それを断ち切って、憂い悲しみません」と。
4. マーガダの経
85. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、マーガダ天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天子が、詩偈に言う〕「世において、どれだけの灯火がありますか。それらによって、世〔の人々〕が光り輝く、〔どれだけの灯火がありますか〕。世尊に、〔それを〕尋ねるためにやってきて、どのように、わたしたちは、それを知るべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「世において、四つの灯火があります。ここにおいて、第五のものは見出されません。日は、昼に輝き、月は、夜に明らみます。
そこで、火は、昼夜に、その場その場において輝き、正覚者は、諸々の輝くもののなかの最勝の者であり、この光り輝きは、無上なるものです」と。
5. ダーマリの経
86. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ダーマリ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ダーマリ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「倦むことなき婆羅門によって為されるべきは、この精励です。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄することで、それによって、〔迷いの〕生存を願い求めません」と。
「ダーマリよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「〔真の〕婆羅門に、為すべきことは存在しません。まさに、〔真の〕婆羅門は、為すべきことを為した者です。
諸々の川のなかで依って立つ所を得ない、それまでは、人は、全ての五体をもって苦労します。しかしながら、依って立つ所を得て、彼が、陸に立ったなら、まさに、彼岸に至った者となり、まさしく、彼は、〔もはや〕苦労しないのです。
ダーマリよ、〔真の〕婆羅門には、煩悩が滅尽した賢明なる瞑想者には、この喩えがあります。生と死の終極に至り得て、まさに、彼岸に至った者は、彼は、〔もはや〕苦労しないのです」と。
6. カーマダの経
87. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、カーマダ天子は、世尊に、こう言いました。「世尊よ、為し難きことです。世尊よ、極めて為し難きことです」と。
「カーマダよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「あるいは、また、〔いまだ〕学びある者(有学)たちは、戒において〔心が〕定められ、為し難きことを為す。自己が安立したことから、家なき〔あり方〕を具した者には、安楽をもたらす満足〔の思い〕が有る」と。
「世尊よ、得難きものは、すなわち、この、満足〔の思い〕です」と。
「カーマダよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「あるいは、また、心の寂止に喜びある者たちは、得難きものを得る(※)。彼らの意が、そして、昼に、さらに、夜に、修行に喜びあるなら」と。
※ テキストには labhantntti とあるが、PTS版により labhanti と読む。
「世尊よ、定め難きものは、すなわち、この、心です」と。
「カーマダよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「あるいは、また、〔感官の〕機能の寂止に喜びある者たちは、定め難きものを定める(※)。彼らは、死魔の網を断ち切って、カーマダよ、聖者たちは赴く」と。
※ テキストには samādahantntti とあるが、PTS版により samādahanti と読む。
「世尊よ、赴き難く平坦ならざるは、〔この〕道です」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「あるいは、また、赴き難く平坦ならざる〔道〕において、カーマダよ、聖者たちは赴く。聖者ならざる者たちは、平坦ならざる道において、頭を下に落ち行く。聖者たちには、平坦なる道がある。まさに、聖者たちは、平坦ならざる〔道〕において、平坦なる〔道〕を〔歩む〕(不正の世にありながら正義の道を歩む)」と。
7. パンチャーラ・チャンダの経
88. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、パンチャーラ・チャンダ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「煩雑なるもののうちにありながら、まさに、〔出離の〕空間となるものを、広き思慮ある方(ブッダ)は見出した──すなわち、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を覚った、覚者として、〔世俗から〕退去した雄牛たる牟尼は」と。
「パンチャーラ・チャンダよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「あるいは、また、煩雑なるもののうちにありながら、涅槃〔の境処〕に至り得るための法(真理)を見出す(※)──すなわち、〔心が〕正しく善く定められた者たちとして、彼らは、気づき(念)を獲得したのだ」と。
※ テキストには vindantntti とあるが、PTS版により vindanti と読む。
8. ターヤナの経
89. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、過去の異教の祖師たるターヤナ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ターヤナ天子は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕勤しんで、諸々の欲望を除け。諸々の欲望を捨棄せずして、牟尼は、一なるところに再生せず(禅定を得ない)。
もし、為すべきなら、これを為し、断固として、これに勤しむがよい。なぜなら、緩慢な遍歴遊行者は、より一層、塵を撒き散らすからである。
悪行は、〔為すよりは〕為さずにいたほうが、より勝っている。〔為したその〕悪行が、のちに悩み苦しめる〔からである〕。そして、善行は、〔為さずにいるよりは〕為したほうが、より勝っている。それを為して悩み苦しまない〔からである〕。
あたかも、誤って掴んだ茅〔の葉〕が、まさしく、手を傷つけるように、誤って偏執された沙門の資質は、〔沙門その人を〕地獄へと引きずり込む。
それが何であれ、緩慢な行為であるなら、さらに、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行であるなら、それは、大いなる果と成らない」と。
ターヤナ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、過去の異教の祖師たるターヤナという名の天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、ターヤナ天子は、わたしの現前において、これらの詩偈を語りました。
〔すなわち〕『婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕勤しんで、諸々の欲望を除け。諸々の欲望を捨棄せずして、牟尼は、一なるところに再生せず。
もし、為すべきなら、これを為し、断固として、これに勤しむがよい。なぜなら、緩慢な遍歴遊行者は、より一層、塵を撒き散らすからである。
悪行は、〔為すよりは〕為さずにいたほうが、より勝っている。〔為したその〕悪行が、のちに悩み苦しめる〔からである〕。そして、善行は、〔為さずにいるよりは〕為したほうが、より勝っている。それを為して悩み苦しまない〔からである〕。
あたかも、誤って掴んだ茅〔の葉〕が、まさしく、手を傷つけるように、誤って偏執された沙門の資質は、〔沙門その人を〕地獄へと引きずり込む。
それが何であれ、緩慢な行為であるなら、さらに、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行であるなら、それは、大いなる果と成らない』と。
比丘たちよ、ターヤナ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。比丘たちよ、ターヤナの〔これらの〕詩偈を把握しなさい。比丘たちよ、ターヤナの〔これらの〕詩偈を遍く学得しなさい。比丘たちよ、ターヤナの〔これらの〕詩偈を保持しなさい。比丘たちよ、ターヤナの〔これらの〕詩偈は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。
9. 月〔の天子〕の経
90. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、月の天子が、阿修羅のインダ(権力者)たるラーフラに捕捉された状態でいます(月食)。そこで、まさに、月の天子は、世尊を随念しながら、その時に、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「覚者よ、勇者よ、あなたに、礼拝が存せ。〔あなたは〕一切所に解脱者として存しています。〔わたしは〕煩いのうちに〔道を〕行く者として存しています。〔まさに〕その、わたしの、帰依所と成れ」と。
そこで、まさに、世尊は、月の天子に関して、阿修羅のインダたるラーフに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「月〔の天子〕は、帰依所として、阿羅漢たる如来のもとに赴いたのです。ラーフよ、月〔の天子〕を解き放ちなさい。覚者たちは、世〔の人々〕に慈しみ〔の思い〕ある者たちです」と。
そこで、まさに、阿修羅のインダたるラーフは、月の天子を解き放って、急ぎの様子で、阿修羅のインダたるヴェーパチッティのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、一方に立ちました。一方に立った、まさに、阿修羅のインダたるラーフに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、詩偈をもって語りかけました。
〔ヴェーパチッティが、詩偈に言う〕「ラーフよ、いったい、どうして、まさしく、急ぎながら、月〔の天子〕を解き放ったのだ。畏怖する様子でやってきて、いったい、どうして、まさしく、恐怖し、〔あなたは〕立つのだ」と。
〔ラーフが、詩偈に言う〕「わたしの頭は、七様に裂けるであろう──生きているとして、〔もはや〕安楽を得ないであろう──覚者に詩偈を唱えられた者として存するのに、もし、月〔の天子〕を解き放たないなら」と。
10. 日〔の天子〕の経
91. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、日の天子が、阿修羅のインダ(権力者)たるラーフラに捕捉された状態でいます(日食)。そこで、まさに、日の天子は、世尊を随念しながら、その時に、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「覚者よ、勇者よ、あなたに、礼拝が存せ。〔あなたは〕一切所に解脱者として存しています。〔わたしは〕煩いのうちに〔道を〕行く者として存しています。〔まさに〕その、わたしの、帰依所と成れ」と。
そこで、まさに、世尊は、日の天子に関して、阿修羅のインダたるラーフに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「日〔の天子〕は、帰依所として、阿羅漢たる如来のもとに赴いたのです。ラーフよ、日〔の天子〕を解き放ちなさい。覚者たちは、世〔の人々〕に慈しみ〔の思い〕ある者たちです。
彼(日の天子)は、暗黒の闇における光の作り手にして、遍照する日輪の気高き威光ある者です。ラーフよ、空中を歩みながら、〔彼を〕飲み込んではいけません。ラーフよ、わたしの子孫である日〔の天子〕を解き放ちなさい」と。
そこで、まさに、阿修羅のインダたるラーフは、日の天子を解き放って、急ぎの様子で、阿修羅のインダたるヴェーパチッティのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、一方に立ちました。一方に立った、まさに、阿修羅のインダたるラーフに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、詩偈をもって語りかけました。
〔ヴェーパチッティが、詩偈に言う〕「ラーフよ、いったい、どうして、まさしく、急ぎながら、日〔の天子〕を解き放ったのだ。畏怖する様子でやってきて、いったい、どうして、まさしく、恐怖し、〔あなたは〕立つのだ」と。
〔ラーフが、詩偈に言う〕「わたしの頭は、七様に裂けるであろう──生きているとして、〔もはや〕安楽を得ないであろう──覚者に詩偈を唱えられた者として存するのに、もし、日〔の天子〕を解き放たないなら」と。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つのカッサパ、さらに、マーガ、マーガダ、ダーマリ、カーマダ、パンチャーラ・チャンダ、ターヤナがあり、月〔の天子〕と日〔の天子〕とともに、それらの十がある」と。
2. アナータピンディカの章
1. チャンディマサの経
92. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、チャンディマサ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、チャンディマサ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「まさに、彼らは、獣たちが蚊のいない薮に〔去り行く〕ように、安穏〔の境地〕に至るであろう──〔四つの〕瞑想を成就して、〔心が〕専一にして賢明なる気づきある者たちは」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、彼らは、魚が網を断ち切って〔逃げ去る〕ように、彼岸に至るであろう──〔四つの〕瞑想を成就して、〔気づきを〕怠らずに相克を捨棄する者たちは」と。
2. ヴェンドゥの経
93. 一方に立った、まさに、ヴェンドゥ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「まさしく、安楽の者たちとして、それらの人間たちは、善き至達者(ブッダ)に奉侍して、ゴータマの教えに専念して(※)、〔気づきを〕怠らずに随学します」と。
※ テキストには Yuñjaṃ とあるが、PTS版により yuñja と読む。
「ヴェンドゥよ」と、世尊が〔詩偈に言う〕「すなわち、わたしによって説かれた教示の句に随学する、瞑想者たちは、彼らは、時において〔気づきを〕怠らずにいる者たちであり、死魔の支配に赴く者たちとして〔世に〕存するべくもありません」と。
3. ディーガラッティの経
94. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、ディーガラッティ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくヴェール林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ディーガラッティ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「比丘が、心が解脱した瞑想者として〔世に〕存し、もし、心臓の獲得(阿羅漢たること)を望むなら、そして、世の生成と衰失を知って、善き心の者となり、依存なき者となり、それを福利とする者となる」と。
4. ナンダナの経
95. 一方に立った、まさに、ナンダナ天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天子が、詩偈に言う〕「ゴータマよ、広き智慧ある方よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。世尊には、〔何にも〕覆われていない〔あるがままの〕知見があります。
どのような種類の者を、〔賢者たちは〕戒ある者と説くのですか。どのような種類の者を、〔賢者たちは〕智慧ある者と説くのですか。どのような種類の者が、苦しみを超え行って振る舞うのですか。どのような種類の者を、天神たちは供養するのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼が、戒ある者であり、智慧ある者であり、自己を修めた者であるなら──〔心が〕定められ、瞑想を喜ぶ、気づきある者であるなら──彼の、一切の憂いは、離れ去り、捨棄されたのであり、〔彼は〕煩悩が滅尽した者であり、最後の肉身を保つ者です。
そのような種類の者を、〔賢者たちは〕戒ある者と説きます。そのような種類の者を、〔賢者たちは〕智慧ある者と説きます。そのような種類の者は、苦しみを超え行って振る舞います。そのような種類の者を、天神たちは供養します」と。
5. チャンダナの経
96. 一方に立った、まさに、チャンダナ天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天子が、詩偈に言う〕「いったい、どのように、〔貪欲の〕激流を超えるのですか──昼に、夜に、休みなく。誰が、立脚地なく支えなき深淵に沈まないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「一切時に戒を成就した者は、〔心が〕善く定められた智慧ある者は、精進に励み自己を精励する者は、超え難き激流を超え渡ります。
欲望の表象を離れた者は、形態の束縛を超え行く者は、愉悦〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者は──彼は、深淵に沈みません」と。
6. ヴァースダッタの経
97. 一方に立った、まさに、ヴァースダッタ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、身体を有するという見解を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。
7. スブラフマーの経
98. 一方に立った、まさに、スブラフマー天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天子が、詩偈に言う〕「この心は、常に恐れています。この意は、常に怯えています──諸々の〔いまだ〕生起していない為すべきことについて、そこで、さらに、諸々の〔すでに〕生起したことについて。それで、もし、恐れていない〔あり方〕が存するなら、〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔七つの〕覚り〔の支分〕の苦行より他に〔何も〕ありません。〔感官の〕機能における統御より他に〔何も〕ありません。一切の放棄より他に〔何も〕ありません。命あるものたちの安穏を、〔わたしが〕見るのは」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
8. カクダの経
99. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーケータに住んでおられます。アンジャナ林の鹿園において。そこで、まさに、カクダ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンジャナ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カクダ天子は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、〔あなたは〕愉悦しますか」と。「友よ、何を得たというのでしょう」と。「沙門よ、まさに、それでは、〔あなたは〕憂悲しますか」と。「友よ、何を失ったというのでしょう」と。「沙門よ、まさに、それでは、まさしく、愉悦することもなく、さらに、憂悲することもないのですか」と。「友よ、そのとおりです」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「比丘よ、どうでしょう、あなたは、悩苦なき者なのですか。どうでしょう、愉悦は、〔あなたに〕見出されないのですか。どうでしょう、あなたを、独り坐す〔あなた〕を、不満は押し流さないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「夜叉(天子)よ、わたしは、まさに、悩苦なき者です。そこで、愉悦は、〔わたしに〕見出されません。そこで、わたしを、独り坐す〔わたし〕を、不満は押し流しません」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「比丘よ、どのように、あなたは、悩苦なき者なのですか。どのように、愉悦は、〔あなたに〕見出されないのですか。どのように、あなたを、独り坐す〔あなた〕を、不満は押し流さないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「悩苦が生じた者には、まさに、愉悦があります。愉悦が生じた者には、まさに、悩苦があります。『愉悦なく、悩苦なき比丘である』〔と〕、友よ、このように、〔わたしのことを〕知りなさい」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「長きのはてに、まさに、〔わたしは〕見る──完全なる涅槃に到達した〔真の〕婆羅門を──愉悦なく、悩苦なき比丘を──世における執着を超え渡った方を」と。
9. ウッタラの経
100. ラージャガハの因縁となります。一方に立った、まさに、ウッタラ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「生命は、〔老によって〕導かれる。寿命は、僅かである。老によって導かれた者に、諸々の救護所は存在しない。この恐怖を、死のうちに見ている者は、諸々の功徳を作り為すべきである──〔未来に〕安楽をもたらすものとして」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「生命は、〔老によって〕導かれる。寿命は、僅かである。老によって導かれた者に、諸々の救護所は存在しない。この恐怖を、死のうちに見ている者は、世の財貨を捨棄するべきである──寂静〔の境処〕を見る者として」と。
10. アナータピンディカの経
101. 一方に立った、まさに、アナータピンディカ天子は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「まさに、そのジェータ林は、これは、聖賢の僧団が慣れ親しむところです。法(教え)の王(ブッダ)が住するところにして、わたしに喜悦を生むところです。
行為(業)、そして、明知、さらに、法(教え)、戒、最上の生き方──これによって、死すべき者(人間)たちは清浄となります。姓によって、あるいは、財によって、〔清浄となるのでは〕ありません。
まさに、それゆえに、賢者たる人が、自己の義(利益)を正しく見ながら、根源のままに法(教え)を弁別するなら、このように、そこにおいて、〔彼は〕清浄となります。
サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するでしょう」と。
アナータピンディカ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天子は、わたしの現前において、これらの詩偈を語りました。
〔すなわち〕『まさに、そのジェータ林は、これは、聖賢の僧団が慣れ親しむところです。法(教え)の王が住するところにして、わたしに喜悦を生むところです。
行為、そして、明知、さらに、法(教え)、戒、最上の生き方──これによって、死すべき者たちは清浄となります。姓によって、あるいは、財によって、〔清浄となるのでは〕ありません。
まさに、それゆえに、賢者たる人が、自己の義(利益)を正しく見ながら、根源のままに法(教え)を弁別するなら、このように、そこにおいて、〔彼は〕清浄となります。
サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するでしょう』と。
比丘たちよ、その天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。
このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、その者は、まちがいなく、アナータピンディカ天子として〔世に〕有るのです。アナータピンディカ家長は、尊者サーリプッタにたいし大いに浄信した者として〔世に〕有りました」と。「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、すなわち、まさに、考慮によって至り得るかぎりのものが、それが、あなたによって獲得されました。アーナンダよ、まさに、その者は、アナータピンディカ天子です」と。
アナータピンディカの章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、チャンディマサ、そして、ヴェンドゥ、そして、ディーガラッティ、ナンダナ、チャンダナ、そして、ヴァースダッタ、スブラフマーがあり、さらに、カクダとともに、第九のものとして、ウッタラが説かれ、第十のものとして、アナータピンディカがあり、〔章となる〕」と。
3. 種々なる異教の者たちの章
1. シヴァの経
102. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、シヴァ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、シヴァ天子は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、より勝ることは有るが、より悪しきことは、さにあらず。
まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、智慧は得られるが、他からは、さにあらず。
まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、憂い悲しみの中で憂い悲しまない。
まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、親族たちの中で光り輝く。
まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、有情たちは、善き境遇に赴く。
まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、有情たちは、常久に安立する」と。
そこで、まさに、世尊は、シヴァ天子に、詩偈をもって答えました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさしく、正しくある者たちと、親交するように。正しくある者たちと、親愛を為すように。正しくある者たちの正なる法(教え)を了知して、一切の苦しみから解き放たれる」と。
2. ケーマの経
103. 一方に立った、まさに、ケーマ天子は、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「愚者たちは、思慮浅き者たちであり、まさしく、自己を朋友ならざるものとして、〔世を〕歩む──〔まさに〕その、辛き果と成る、悪しき行為(悪業)を為しながら。
それを為して悩み苦しむなら、為したその行為は、善きものではない──その〔行為〕の報いを、泣き叫びながら、涙顔で受けるなら。
しかしながら、それを為して悩み苦しまないなら、為したその行為は、善きものである──その〔行為〕の報いを、悦意の者となり、機嫌よく受けるなら。
それを、自己の益と知るなら、それを、まさしく、前もって為すべきである。明慧ある慧者は、〔愚かな〕車夫の思念によって勤しむべきではない。
あたかも、〔愚かな〕車夫が、なだらかで平坦な大道を捨棄して、平坦ならざる道に乗り上げて、車軸が切断され、思い惑うように──
このように、法(正義)〔の道〕から立ち去って、法(正義)ならざる〔道〕へと転じ行って、死魔の門に至り得た愚か者は、車軸が切断された〔車夫〕のように思い惑う」と。
3. セーリンの経
104. 一方に立った、まさに、セーリン天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「天〔の神々〕と人間たちの両者は、まさしく、食べ物を大いに喜びます。そこで、すなわち、食べ物を大いに喜ばない、まさに、その夜叉とは、誰なのでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼らが、その〔食べ物〕を、信によって施し、浄信した心によって〔施すなら〕、まさしく、その食べ物は、〔彼らに〕親近します──この世において、さらに、他〔の世〕において。
それゆえに、物惜〔の思い〕を取り除いて、〔世俗の〕垢を征服する者となり、布施を施すべきです。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成ります」と。
「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。
〔すなわち〕『彼らが、その〔食べ物〕を、信によって施し、浄信した心によって〔施すなら〕、まさしく、その食べ物は、〔彼らに〕親近します──この世において、さらに、他〔の世〕において。
それゆえに、物惜〔の思い〕を取り除いて、〔世俗の〕垢を征服する者となり、布施を施すべきです。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成ります』と。
尊き方よ、過去の事(過去世)ですが、〔わたしは〕セーリン(※)という名の王として〔世に〕有りました──施者として、施主として、布施の栄誉を説く者として。尊き方よ、〔まさに〕その、わたし〔の城市〕の、四つの門において、布施は施されました──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちのために。尊き方よ、そこで、まさに、宮女〔の衆〕が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『まさに、陛下の布施は施されますが、わたしたちの布施は施されません。どうか、わたしたちもまた、陛下に依拠して、諸々の布施を施し、諸々の功徳を作り為したいものです』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、〔世に〕存している──施者として、施主として、布施の栄誉を説く者として。「〔わたしたちは〕布施を施すのだ」と説いている者たちに、何をどう説くというのだろう(彼らには反論できない)』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、第一の門を、宮女〔の衆〕に与えました。そこにおいて、宮女〔の衆〕の布施は施され、わたしの布施は減りました。
※ テキストには sirī とあるが、PTS版により serī と読む。
尊き方よ、そこで、まさに、随従する士族たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『まさに、陛下の布施は施され、宮女〔の衆〕の布施は施されますが、わたしたちの布施は施されません。どうか、わたしたちもまた、陛下に依拠して、諸々の布施を施し、諸々の功徳を作り為したいものです』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、〔世に〕存している──施者として、施主として、布施の栄誉を説く者として。「〔わたしたちは〕布施を施すのだ」と説いている者たちに、何をどう説くというのだろう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、第二の門を、随従する士族たちに与えました。そこにおいて、随従する士族たちの布施は施され、わたしの布施は減りました。
尊き方よ、そこで、まさに、軍隊の衆が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『まさに、陛下の布施は施され、宮女〔の衆〕の布施は施され、随従する士族たちの布施は施されますが、わたしたちの布施は施されません。どうか、わたしたちもまた、陛下に依拠して、諸々の布施を施し、諸々の功徳を作り為したいものです』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、〔世に〕存している──施者として、施主として、布施の栄誉を説く者として。「〔わたしたちは〕布施を施すのだ」と説いている者たちに、何をどう説くというのだろう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、第三の門を、軍隊の衆に与えました。そこにおいて、軍隊の衆の布施は施され、わたしの布施は減りました。
尊き方よ、そこで、まさに、婆羅門や家長たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『まさに、陛下の布施は施され、宮女〔の衆〕の布施は施され、随従する士族たちの布施は施され、軍隊の衆の布施は施されますが、わたしたちの布施は施されません。どうか、わたしたちもまた、陛下に依拠して、諸々の布施を施し、諸々の功徳を作り為したいものです』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、〔世に〕存している──施者として、施主として、布施の栄誉を説く者として。「〔わたしたちは〕布施を施すのだ」と説いている者たちに、何をどう説くというのだろう』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、第四の門を、婆羅門や家長たちに与えました。そこにおいて、婆羅門や家長たちの布施は施され、わたしの布施は減りました。
尊き方よ、そこで、まさに、家来たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『まさに、今や、陛下の布施は、誰にも施されません』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、それらの家来たちに、こう言いました。『まさに、それでは、申し付ける。すなわち、諸々の外なる地方において、収益が産出されるなら、それから、半分を、内宮に運び入れ、半分を、まさしく、その場において、布施として施すのだ──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちのために』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、このように長夜にわたり作り為された諸々の功徳の、このように長夜にわたり作り為された諸々の善なる法(性質)の、〔それらの〕完全なる終極に到達しません──あるいは、『これだけのものが、功徳である』と、あるいは、『これだけのものが、功徳の報いである』と、あるいは、『これだけのあいだ、天上において止住するべきである』と、かくのごとく。尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。
〔すなわち〕『彼らが、その〔食べ物〕を、信によって施し、浄信した心によって〔施すなら〕、まさしく、その食べ物は、〔彼らに〕親近します──この世において、さらに、他〔の世〕において。
それゆえに、物惜〔の思い〕を取り除いて、〔世俗の〕垢を征服する者となり、布施を施すべきです。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成ります』」と。
4. ガティーカーラの経
105. 一方に立った、まさに、ガティーカーラ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「無煩〔天〕に再生し、〔そこにおいて〕解脱した七者の比丘たちがいます──貪欲と憤怒が完全に滅尽した者たちとなり、世における執着を超え渡った者たちです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「では、誰が、それらの者たちであり、汚泥を、極めて超え難き死魔の領域を、超えたのですか。誰が、人間の肉身を捨棄して、天の束縛を過ぎ行ったのですか」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「ウパカ、そして、パラガンダ、さらに、プックサーティの、それらの三者であり、バッディヤ、そして、カンダデーヴァ、さらに、バーフラッギ、サンギヤです。彼らは、人間の肉身を捨棄して、天の束縛を過ぎ行きました」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「悪魔の罠を捨棄する者たちの、彼らの、巧みな智を(※)、〔あなたは〕語ります。誰の法(教え)を了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのですか」と。
※ テキストには Kusalī とあるが、PTS版により Kusalaṃ と読む。
〔天子が、詩偈に言う〕「世尊より他に、〔誰も存在し〕ません。あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。すなわち、あなたの、法(教え)を了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのです。
そこにおいて、そして、名前が、さらに、形態が、残りなく破却される、その法(教え)を、ここに了知して、彼らは、生存の結縛を断ったのです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「深遠なる言葉を、〔あなたは〕語ります。識知し難く、極めて覚り難き〔言葉〕を。誰の法(教え)を了知して、あなたは、このような言葉を語るのですか」と。
〔天子が、詩偈に言う〕「かつて、〔わたしは〕瓶の作り手として〔世に〕存しました。ヴェーカリンガにおいて、陶工として、母と父を養う者として、カッサパ〔世尊〕(過去仏)の在俗信者(優婆塞)として、〔世に〕存しました。
淫事の法(性質)から離れた者であり、財貨なき梵行者であり、あなたと同村の者として〔世に〕有りました。かつて、〔わたしは〕あなたの友人として〔世に〕有りました。
〔まさに〕その、わたしは、これらの解脱した七者の比丘たちを覚知します──貪欲と憤怒が完全に滅尽した者たちとなり、世における執着を超え渡った者たちを」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そのとき、このように、このことは存しました──バッガヴァ(ガティーカーラ)よ、すなわち、〔あなたが〕語るとおりに。かつて、〔あなたは〕瓶の作り手として〔世に〕存しました。ヴェーカリンガにおいて、陶工として、母と父を養う者として、カッサパ〔世尊〕の在俗信者として、〔世に〕存しました。
淫事の法(性質)から離れた者であり、財貨なき梵行者であり、わたしと同村の者として〔世に〕有りました。かつて、〔あなたは〕わたしの友人として〔世に〕有りました」と。
〔そして、詩偈に言う〕「このように、このことは有りました──過去の友人たちの〔その〕出会いは。自己を修めた者たちであり、最後の肉体を保つ者たちである、両者の〔その出会いは〕」と。
5. ジャントゥの経
106. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。大勢の比丘たちが、コーサラ〔国〕に住んでいます。ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓の林の小屋において、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちとなり。
そこで、まさに、ジャントゥ天子は、斎戒のその日、十五〔日〕において、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「かつて、ゴータマの弟子たる比丘たちは、安楽に生きる者たちとして〔世に〕存した──求めることなく〔行乞の〕食を探し求める者たちとして、求めることなく臥坐所を〔探し求める者たちとして〕。世において、無常なることを知って、彼らは、苦しみの終極を為した。
〔しかしながら、今の比丘たちは〕村の村長たちのように、自己を〔他者にとって〕養い難きものと為して、〔施物を〕食べては食べて、〔すぐに〕横たわる──他者の家々に耽溺する者たちとなり。
僧団に合掌を為して、ここに、わたしは、一部の者たちに説く。彼らは、〔導き手に〕捨てられた主なき者たちであり、亡者たちのように、まさしく、そのように、彼らはある。
すなわち、まさに、〔気づきを〕怠る者たちとして〔世に〕住む、彼らに関して、わたしの語るところである。すなわち、〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住む、それらの者たちに、わたしは礼拝を為す」と。
6. ローヒタッサの経
107. サーヴァッティーの因縁となります。一方に立った、まさに、ローヒタッサ天子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、さてまた、まさに、そこ(世の終極)においては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しないとして、尊き方よ、いったい、まさに、その、世の終極は、赴くことによって、あるいは、知ることが、あるいは、見ることが、あるいは、至り得ることが、できるのでしょうか」と。「友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、『赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません」と。
「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません』と。
尊き方よ、過去の事ですが、〔わたしは〕ローヒタッサという名の聖賢として〔世に〕有りました──ボージャ族の宙を赴く神通者として。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の速さが有りました。それは、たとえば、また、まさに、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練し訓練した弓術の達人が、矢で軽々と、まさしく、難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の歩幅が有りました。それは、たとえば、また、東の海から西の海ほどに。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような形態の求める所が生起しました。『赴くことによって、わたしは、世の終極に至り得るのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、このような形態の速さを具備した者として、そして、このような形態の歩幅によって、まさしく、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年のあいだ赴いて、まさしく、世の終極に至り得ずして、まさしく、中途に、命を終えたのでした。
尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『友よ、まさに、そこにおいては、〔何も〕生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない、〔まさに〕その、世の終極を、「赴くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである」と、わたしは説きません』」と。
「友よ、また、まさに、世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すことを、わたしは説きません。友よ、そして、また、わたしは、まさしく、この、〔一〕ヴヤーマ(尋:長さの単位・一ヴヤーマは約二メートル)ばかりの、表象を有し意を有する死体(肉体)において、そして、世を、かつまた、世の集起を、かつまた、世の止滅を、さらに、世の止滅に至る〔実践の〕道を、〔人々に〕報知します」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「赴くことによって至り得るべきにあらず──世の終極は、いついかなる時も。そして、世の終極に至り得ずして、苦しみからの解き放ちは存在しない。
それゆえに、まさに、世〔の一切〕を知る、思慮深き者は──世の終極に至る、梵行の完成者は──〔心が〕静まった者は、世の終極を知って、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」と。
7. ナンダの経
108. 一方に立った、まさに、ナンダ天子は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「諸々の時は過ぎ行き、諸々の夜を超え渡る。諸々の青春の属性は、〔その持ち主を〕順次に捨棄する。この恐怖を、死のうちに見ている者は、諸々の功徳を作り為すべきである──〔未来に〕安楽をもたらすものとして」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の時は過ぎ行き、諸々の夜を超え渡る。諸々の青春の属性は、〔その持ち主を〕順次に捨棄する。この恐怖を、死のうちに見ている者は、世の財貨を捨棄するべきである──寂静〔の境処〕を見る者として」と。
8. ナンディヴィサーラの経
109. 一方に立った、まさに、ナンディヴィサーラ天子は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「偉大なる勇者よ、四つの輪(行住坐臥の振る舞い)があり、九つの門(身体の九門)があり、〔汚物に〕満ち、貪欲によって束縛された、汚泥から生じたものがあります。どのように、〔正しい〕行道が有るのでしょうか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、さらに、悪しき欲求と貪欲を〔断ち切って〕、渇愛を根ごと引き抜いて、このように、〔正しい〕行道が有るでしょう」と。
9. スシマの経
110. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、わたしたちにとって〔好ましくある〕サーリプッタは、あなたにとってもまた好ましくありますか」と。
「尊き方よ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、尊者サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう。尊き方よ、尊者サーリプッタは、賢者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、大いなる智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、多々なる智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、敏速なる智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、疾走する智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、鋭敏なる智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、洞察の智慧ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、少なき欲求の者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、満ち足りている者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、遠離している者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、〔世俗と〕交わりなき者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、精進に励む者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、説き手です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、言葉に忍耐ある者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、叱咤者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、悪の難詰者です。尊き方よ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、尊者サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう」と。
「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう。アーナンダよ、サーリプッタは、賢者です。アーナンダよ、サーリプッタは、大いなる智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、多々なる智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、敏速なる智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、疾走する智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、鋭敏なる智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、洞察の智慧ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、少なき欲求の者です。アーナンダよ、サーリプッタは、満ち足りている者です。アーナンダよ、サーリプッタは、遠離している者です。アーナンダよ、サーリプッタは、〔世俗と〕交わりなき者です。アーナンダよ、サーリプッタは、精進に励む者です。アーナンダよ、サーリプッタは、説き手です。アーナンダよ、サーリプッタは、言葉に忍耐ある者です。アーナンダよ、サーリプッタは、叱咤者です。アーナンダよ、サーリプッタは、悪の難詰者です。アーナンダよ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう」と。
そこで、まさに、スシマ天子が、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、大いなる天子の衆に取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、スシマ天子は、世尊に、こう言いました。
「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、尊者サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう。尊き方よ、尊者サーリプッタは、賢者です。尊き方よ、大いなる智慧ある者です。尊き方よ、多々なる智慧ある者です。尊き方よ、敏速なる智慧ある者です。尊き方よ、疾走する智慧ある者です。尊き方よ、鋭敏なる智慧ある者です。尊き方よ、洞察の智慧ある者です。尊き方よ、少なき欲求の者です。尊き方よ、満ち足りている者です。尊き方よ、遠離している者です。尊き方よ、〔世俗と〕交わりなき者です。尊き方よ、精進に励む者です。尊き方よ、説き手です。尊き方よ、言葉に忍耐ある者です。尊き方よ、叱咤者です。尊き方よ、尊者サーリプッタは、悪の難詰者です。尊き方よ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、尊者サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう。
尊き方よ、まさに、わたしもまた、天子の衆のもとに近づいて行った、まさしく、そのたびごとに、まさしく、この、多くの音声を聞きます。『尊者サーリプッタは、賢者です。尊者は、大いなる智慧ある者です。尊者は、多々なる智慧ある者です。尊者は、敏速なる智慧ある者です。尊者は、疾走する智慧ある者です。尊者は、鋭敏なる智慧ある者です。尊者は、洞察の智慧ある者です。尊者は、少なき欲求の者です。尊者は、満ち足りている者です。尊者は、遠離している者です。尊者は、〔世俗と〕交わりなき者です。尊者は、精進に励む者です。尊者は、説き手です。尊者は、言葉に忍耐ある者です。尊者は、叱咤者です。尊者サーリプッタは、悪の難詰者です』と。尊き方よ、まさに、愚者ならざる者であるなら、〔心が〕汚れていない者であるなら、〔心が〕迷乱していない者であるなら、心が転倒していない者であるなら、尊者サーリプッタが、まさに、誰にとって好ましくないというのでしょう」と。
そこで、まさに、スシマ天子の衆は、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、わが意を得た者たちとなり、歓喜した者たちとなり、喜悦と悦意を生じた者たちとなり、高下諸々の色艶と輝きを示します。
それは、たとえば、また、まさに、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、スシマ天子の衆は、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、わが意を得た者たちとなり、歓喜した者たちとなり、喜悦と悦意を生じた者たちとなり、高下諸々の色艶と輝きを示します。
それは、たとえば、また、まさに、能ある細工師によって溶炉の口において極めて巧みに精錬されたジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、スシマ天子の衆は、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、わが意を得た者たちとなり、歓喜した者たちとなり、喜悦と悦意を生じた者たちとなり、高下諸々の色艶と輝きを示します。
それは、たとえば、また、まさに、秋の時分の、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜の早朝の時分に、明けの明星が、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、スシマ天子の衆は、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、わが意を得た者たちとなり、歓喜した者たちとなり、喜悦と悦意を生じた者たちとなり、高下諸々の色艶と輝きを示します。
それは、たとえば、また、まさに、秋の時分の、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、スシマ天子の衆は、尊者サーリプッタの栄誉が話されているとき、わが意を得た者たちとなり、歓喜した者たちとなり、喜悦と悦意を生じた者たちとなり、高下諸々の色艶と輝きを示します。
そこで、まさに、スシマ天子は、尊者サーリプッタに関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「サーリプッタは、『賢者』と呼称された者であり、忿激せず、欲求少なく、温和で、〔自己が〕調御された者であり、教師(ブッダ)の栄誉を運び行く聖賢である」と。
そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに関して、スシマ天子に、詩偈をもって答えました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「サーリプッタは、『賢者』と呼称された者であり、忿激せず、少欲で、温和で、〔自己が〕調御された者であり、雇われ者が(※)〔報酬を待つように〕、善く調御された者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ」と。
※ PTS版により bhatiko を補う。
10. 種々なる異教の弟子たちの経
111. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、大勢の種々なる異教の弟子の天子たちが、かつまた、アサマが、かつまた、サハリが、かつまた、ニーカが、かつまた、アーコータカが、かつまた、ヴェーガッバリが、かつまた、マーナヴァ・ガーミヤが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくヴェール林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、アサマ天子は、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)に関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「ここに、〔人が〕切断され殺されたとき、〔諸財の〕打破と衰退があるとき、カッサパは、悪しき〔報い〕を、また、あるいは、善き〔功徳〕を、自己のものと等しく随観しない。彼は、まさに、信頼できる〔教え〕を告げ知らせた。教師として、敬慕するに値する」と。
そこで、まさに、サハリ天子は、マッカリ・ゴーサーラ(六師外道の一者・運命決定論者)に関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「忌避〔の行〕たる苦行によって自己が善く統御された者は、人との紛争の言葉を捨棄して、〔心が〕平静となり、罪過を有するものから離れた、真理を説く者であり、まさに、まちがいなく、そのような者は、悪を為さない」と。
そこで、まさに、ニーカ天子は、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)に関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「忌避の者にして賢明なる比丘として、四つの制戒によって善く統御された者は、見られたものを、そして、聞かれたものを、〔そのとおりに〕告げ知らせている者であり、もはや、罪障ある者として〔世に〕存することは、まさに、ないであろう」と。
そこで、まさに、アーコータカ天子は、種々なる異教の者たちに関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「パクダカ・カーティヤーナとニガンタは、さらに、また、すなわち、これらのマッカリとプーラナも、衆徒の教師にして沙門の資質に至り得た者たちであり、まさに、まちがいなく、彼らは、正なる人士たちから遠きにあらず」と。
そこで、まさに、ヴェーガッバリ天子は、アーコータカ天子に、詩偈をもって答えました。
〔天子が、詩偈に言う〕「習行を共にしたところで、卑賎なるは、野狐(ジャッカル)である。野狐は、いついかなる時も、獅子と等しきにあらず。裸で、虚偽を説き、衆徒の教師なるも、疑いある習行者にして、正しくある者たちとは同等の者ならず」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、ヴェーガッバリ天子に憑依して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「忌避〔の行〕たる苦行に専従し、遠離〔の行〕を守りながら、そして、すなわち、形態(色)に固着し、天の世に愉悦ある者たちは、彼らは、まさに、正しく教示する──他の世のために、人間たちとして」と。
そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって答えました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それらが何であれ、あるいは、この〔世において〕、あるいは、あの〔世において〕、諸々の形態は、そして、それらが、空中において光輝と色艶あるも、ナムチ(悪魔)よ、おまえが賞賛する、それらのものは、まさしく、全てが、魚たちを殺戮するために放たれた餌のようなもの」と。
そこで、まさに、マーナヴァ・ガーミヤ天子は、世尊に関して、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔天子が、詩偈に言う〕「ヴィプラ〔山〕が、ラージャガハ〔の山々〕のなかの最勝の山と呼ばれ、セータ〔山〕が、ヒマヴァント〔の山々〕のなかの最勝のものと〔呼ばれ〕、太陽が、空を赴く者たちのなかの〔最勝のものと呼ばれ〕──
海が、諸々の水域のなかの最勝のものと〔呼ばれ〕、そして、月が、星々のなかの〔最勝のものと呼ばれるように〕、天を含む世〔の人々〕にとって、覚者は、至高の者と呼ばれる」と。
種々なる異教の者たちの章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「シヴァ、そして、ケーマ、そして、セーリン、ガティ、そして、ジャントゥ、ローヒタ、ナンダ、そして、ナンディヴィサーラ、スシマがあり、種々なる異教の者たちとともに、それらの十がある」と。
天子に相応するものは〔以上で〕完結となる。
3. コーサラに相応するもの
1. 第一の章
1. 年少者の経
112. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマもまた、わたしたちに、『無上なる正等覚を現正覚した者である』と明言しますか」と。「大王よ、まさに、すなわち、彼のことを、『無上なる正等覚を現正覚した者である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、正しく説きつつ説くべきです。大王よ、まさに、わたしは、無上なる正等覚を現正覚した者です」と。
「貴君ゴータマよ、すなわち、また、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている、それらの沙門や婆羅門たちも──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)であり、マッカリ・ゴーサーラ(六師外道の一者・運命決定論者)であり、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)であり、サンジャヤ(※)・ベーラッタプッタ(六師外道の一者・不可知論者)であり、パクダ・カッチャーヤナ(六師外道の一者・要素構成論者)であり、アジタ・ケーサカンバラ(六師外道の一者・唯物論者)ですが──彼らもまた、わたしによって、『「無上なる正等覚を現正覚した者である」と明言しますか』と、〔問いを〕尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『無上なる正等覚を現正覚した者です』と明言することはありません。また、どうなのでしょう、貴君ゴータマは、まさしく、そして、生まれにおいては年少者であり、さらに、出家においても新参者です」と。
※ テキストには sañcayo とあるが、PTS版により sañjayo と読む。
「大王よ、四つのものがあります。まさに、これらのものは、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません。どのようなものが、四つのものなのですか。大王よ、士族は、まさに、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません。大王よ、蛇は、まさに、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません。大王よ、火は、まさに、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません。大王よ、比丘は、まさに、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません。大王よ、まさに、これらの四つのものは、『年少者である』と見下すべきではなく、『年少者である』と貶めるべきではありません」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「生まれを成就した士族(王)を、善き生まれの盛名ある者を、『年少者である』と見下すべきではない。人は、彼を貶めるべきではない。
なぜなら、必ずや、彼は、人間のインダ(国王)たる士族として、王権を得て〔そののち〕、忿激した彼は、王の棒(刑罰)をもって、彼(士族を見下した者)にたいし、激しく臨むからである。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──自己の生命を守りつつ。
もしくは、村であろうが、林であろうが、そこにおいて、曲がり行くものを見るなら、『年少者である』と見下すべきではない。人は、彼を貶めるべきではない。
蛇は、高下諸々の色艶をもって、威光ある者となり、〔世を〕歩む。彼は、男を──そして、或る時は、女を──愚者を襲って咬むであろう。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──自己の生命を守りつつ。
沢山のものを食物とする光あるものを、〔大地を〕浄化し黒き道とする〔火〕を、『年少者である』と見下すべきではない。人は、彼を貶めるべきではない。
まさに、彼は、燃料を得て、〔大地を〕浄化する大いなるものと成って、彼は、男を──そして、或る時は、女を──愚者を襲って焼き尽くすであろう。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──自己の生命を守りつつ。
すなわち、〔大地を〕浄化し黒き道とする火が、林を焼き尽くすとして、諸々の昼夜の経過あるとき、そこにおいて、諸々の若芽が生まれる。
しかしながら、すなわち、まさに、戒を成就した比丘が、威光をもって焼き尽くすなら、彼には、子供たちも、家畜たちも、相続者たちも、財も、見出されない。彼らは、後継者なく、相続者なく、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)たちと成る。
まさに、それゆえに、賢者たる人は、自己の義(利益)を正しく見ながら、曲がり行く〔蛇〕に、そして、〔大地を〕浄化する〔火〕に、かつまた、福徳ある士族に、さらに、戒を成就した比丘に、まさしく、正しく、励行するべきである」と。
このように説かれたとき、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
2. 人の経
113. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起するのですか」と。
「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲(貪)という法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒(瞋)という法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、迷妄(痴)という法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の内に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が」と。
3. 老と死の経
114. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、〔世に〕生まれた者には、老と死より他に、〔何が〕存在しますか」と。「大王よ、まさに、〔世に〕生まれた者には、老と死より他に、〔何も〕存在しません。大王よ、すなわち、また、彼らが、士族の大家たちであり、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物があるとして、彼らにもまた、〔世に〕生まれたからには、老と死より他に、〔何も〕存在しません。大王よ、すなわち、また、彼らが、婆羅門の大家たちであり……略……家長の大家たちであり、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物があるとして、彼らにもまた、〔世に〕生まれたからには、老と死より他に、〔何も〕存在しません。大王よ、すなわち、また、彼らが、比丘たちであり、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるとして、彼らの、この身体もまた、破壊の法(性質)あるものであり、捨置の法(性質)あるものです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「美しく彩りあざやかな諸々の王車は、まさに、老い朽ちる。さらに、肉体もまた、老に近づく。しかしながら、正しくある者たちの法(教え)は、老に近づかない。正しくある者たちは、まさに、正しくある者たちと、〔不滅の法を、互いが互いに〕知らしめる」と。
4. 愛しいものの経
115. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『いったい、まさに、どのような者たちにとって、愛しいものとして、自己はあるのか。どのような者たちにとって、愛しくないものとして、自己はあるのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『そして、まさに、彼らが誰であれ、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なうなら、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はある。たとえ、何であれ、彼らが、「わたしたちにとって、愛しいものとして、自己はある」と、このように説くとして、そこで、まさに、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はある。それは、何を因とするのか。なぜなら、愛しくない者が、愛しくない者に為すであろう、すなわち、その〔行為〕を、彼らは、まさしく、自己みずから、自己に為すからである。それゆえに、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はある。しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、彼らにとって、愛しいものとして、自己はある。たとえ、何であれ、彼らが、「わたしたちにとって、愛しくないものとして、自己はある」と、このように説くとして、そこで、まさに、彼らにとって、愛しいものとして、自己はある。それは、何を因とするのか。なぜなら、愛しい者が、愛しい者に為すであろう、すなわち、その〔行為〕を、彼らは、まさしく、自己みずから、自己に為すからである。それゆえに、彼らにとって、愛しいものとして、自己はある』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、まさに、彼らが誰であれ、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なうなら、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はあります。たとえ、何であれ、彼らが、『わたしたちにとって、愛しいものとして、自己はある』と、このように説くとして、そこで、まさに、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はあります。それは、何を因とするのですか。なぜなら、愛しくない者が、愛しくない者に為すであろう、すなわち、その〔行為〕を、彼らは、まさしく、自己みずから、自己に為すからです。それゆえに、彼らにとって、愛しくないものとして、自己はあります。大王よ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、彼らにとって、愛しいものとして、自己はあります。たとえ、何であれ、彼らが、『わたしたちにとって、愛しくないものとして、自己はある』と、このように説くとして、そこで、まさに、彼らにとって、愛しいものとして、自己はあります。それは、何を因とするのですか。なぜなら、愛しい者が、愛しい者に為すであろう、すなわち、その〔行為〕を、彼らは、まさしく、自己みずから、自己に為すからです。それゆえに、彼らにとって、愛しいものとして、自己はあります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「もし、自己を、愛しいものと知るなら、それを、悪しき〔行為〕と結び付けるべきではない。悪行を為す者によるなら、安楽は、まさに、それは、得易きものと成らない。
死神に囚われ、人間の生存を捨棄しつつあるとして、まさに、何が、彼にとって、自らのものと成るのか。そして、何を取って、〔彼は、他の世に〕赴くのか。さらに、何が、彼にとって、従い行くものと成るのか──影が離れないように。
そして、善き〔行為〕が、さらに、悪しき〔行為〕が、〔それらの〕両者があり、それを、この〔世において〕、死すべき者(人間)が為すなら、まさに、それが、彼にとって、自らのものと成る。そして、それを取って、〔彼は、他の世に〕赴く。さらに、それが、彼にとって、従い行くものと成る──影が離れないように。
それゆえに、善き〔行為〕を為すべきである──未来の蓄積となる〔善き行為〕を。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成る」と。
5. 守られた自己の経
116. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『いったい、まさに、どのような者たちにとって、守られたものとして、自己はあるのか。どのような者たちにとって、守られていないものとして、自己はあるのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『そして、まさに、彼らが誰であれ、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なうなら、彼らにとって、守られていないものとして、自己はある。たとえ、何であれ、彼らを、まさしく、象〔兵〕の衆が守り、あるいは、馬〔兵〕の衆が守り、あるいは、車〔兵〕の衆が守り、あるいは、歩〔兵〕の衆が守るとして、そこで、まさに、彼らにとって、守られていないものとして、自己はある。それは、何を因とするのか。なぜなら、この守りは、外なるものとしてあり、この守りは、内なるものではないからである。それゆえに、彼らにとって、守られていないものとして、自己はある。しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、彼らを、まさしく、象〔兵〕の衆が守らず、あるいは、馬〔兵〕の衆が守らず、あるいは、車〔兵〕の衆が守らず、あるいは、歩〔兵〕の衆が守らないとして、そこで、まさに、彼らにとって、守られたものとして、自己はある。それは、何を因とするのか。なぜなら、この守りは、内なるものとしてあり、この守りは、外なるものではないからである。それゆえに、彼らにとって、守られたものとして、自己はある』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、まさに、彼らが誰であれ、身体による悪しき行ないを行ない……略……彼らにとって、守られていないものとして、自己はあります。それは、何を因とするのですか。大王よ、なぜなら、この守りは、外なるものとしてあり、この守りは、内なるものではないからです。それゆえに、彼らにとって、守られていないものとして、自己はあります。大王よ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、彼らを、まさしく、象〔兵〕の衆が守らず、あるいは、馬〔兵〕の衆が守らず、あるいは、車〔兵〕の衆が守らず、あるいは、歩〔兵〕の衆が守らないとして、そこで、まさに、彼らにとって、守られたものとして、自己はあります。それは、何を因とするのですか。大王よ、なぜなら、この守りは、内なるものとしてあり、この守りは、外なるものではないからです。それゆえに、彼らにとって、守られたものとして、自己はあります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「身体によって統御することは、善きことである。言葉によって統御することは、善きことである。意によって統御することは、善きことである。一切所において統御することは、善きことである。一切所において統御された恥〔の思い〕ある者は、『守られた者』と呼ばれる」と。
6. 少なき者たちの経
117. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『すなわち、秀逸のうえにも秀逸なる諸々の財物を得て〔そののち〕、まさしく、そして、酔わず、かつまた、酔い痴れず、さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいし貪求〔の思い〕を起こさず、かつまた、有情たちにたいし邪行を実践しない、それらの有情たちは、世において、少なくある。そこで、まさに、すなわち、秀逸のうえにも秀逸なる諸々の財物を得て〔そののち〕、まさしく、そして、酔い、かつまた、酔い痴れ、さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいし貪求〔の思い〕を起こし、かつまた、有情たちにたいし邪行を実践する、まさしく、これらの有情たちは、世において、より多くある』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、すなわち、秀逸のうえにも秀逸なる諸々の財物を得て〔そののち〕、まさしく、そして、酔わず、かつまた、酔い痴れず、さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいし貪求〔の思い〕を起こさず、かつまた、有情たちにたいし邪行を実践しない、それらの有情たちは、世において、少なくあります。そこで、まさに、すなわち、秀逸のうえにも秀逸なる諸々の財物を得て〔そののち〕、まさしく、そして、酔い、かつまた、酔い痴れ、さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいし貪求〔の思い〕を起こし、かつまた、有情たちにたいし邪行を実践する、まさしく、これらの有情たちは、世において、より多くあります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の欲望〔の対象〕の享受に貪染し、諸々の欲望〔の対象〕に耽溺し貪求する者たちは、〔自己の〕錯誤を覚らない──鹿たちが、仕掛けられた奸計に〔気づかない〕ように。のちに、これらの者たちには、辛きものが有る。なぜなら、〔行為の〕報いは、悪しきものとして存するからである」と。
7. 裁きの場の経
118. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、裁きの場に坐ったわたしは、士族の大家たちもまた、婆羅門の大家たちもまた、家長の大家たちもまた──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある者たちが──欲望〔の対象〕を因とし、欲望〔の対象〕を因縁とし、欲望〔の対象〕を事因として、正知しつつ虚偽を語っているのを見ます。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『今や、裁きの場は、わたしには十分である。今や、裁きの場があるなら、幸顔の者が覚知されるであろう(別の者にやらせる)』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、すなわち、また、それらの、士族の大家たちが、婆羅門の大家たちが、家長の大家たちが──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある者たちが──欲望〔の対象〕を因とし、欲望〔の対象〕を因縁とし、欲望〔の対象〕を事因として、正知しつつ虚偽を語るなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の欲望〔の対象〕の享受に貪染し、諸々の欲望〔の対象〕に耽溺し貪求する者たちは、〔自己の〕錯誤を覚らない──魚たちが、仕掛けられた捕獲網に〔気づかない〕ように。のちに、これらの者たちには、辛きものが有る。なぜなら、〔行為の〕報いは、悪しきものとして存するからである」と。
8. マッリカーの経
119. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、マッリカー王妃と共に、優美なる高楼の上に至るところと成ります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、マッリカー王妃に、こう言いました。「マッリカーよ、いったい、まさに、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在するであろうか」と。「大王よ、まさに、わたしにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しません。大王よ、また、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在しますか」と。「マッリカーよ、まさに、わたしにとってもまた、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しない」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、高楼から降りて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、マッリカー王妃と共に、優美なる高楼の上に至り、マッリカー王妃に、こう言いました。『マッリカーよ、いったい、まさに、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在するであろうか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、マッリカー王妃は、わたしに、こう言いました。『大王よ、まさに、わたしにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しません。大王よ、また、あなたにとって、自己より他に、何であれ、より愛しいものが存在しますか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、マッリカー王妃に、こう言いました。『マッリカーよ、まさに、わたしにとってもまた、自己より他に、何であれ、より愛しいものは存在しない』」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「全ての方角を、心して訪ね回って、自己よりもより愛しいものに、どこにであれ、まさしく、到達しなかった。このように、他者たちにとっても、自己は、個々それぞれに愛しいものであり、それゆえに、自己〔の幸せ〕を欲する者は、他者を害さぬがよい」と。
9. 祭祀の経
120. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、設営中の大いなる祭祀が有ります。かつまた、五百の雄牛が、かつまた、五百の雄の子牛が、かつまた、五百の雌の子牛が、かつまた、五百の山羊が、かつまた、五百の羊が、祭祀を義(目的)として〔祭祀の〕柱に連行された状態でいます。すなわち、また、彼にとって、あるいは、「奴隷」ということ、あるいは、「召使」ということで、あるいは、「労夫」ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒(刑罰)に怯え、恐怖に怯え、涙顔の者たちとなり、泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。
そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、設営中の大いなる祭祀が有ります。かつまた、五百の雄牛が、かつまた、五百の雄の子牛が、かつまた、五百の雌の子牛が、かつまた、五百の山羊が、かつまた、五百の羊が、祭祀を義(目的)として〔祭祀の〕柱に連行された状態でいます。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔の者たちとなり、泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕は、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕は──それらの大いなる辛苦ある大いなる祭祀は、大いなる果と成らない。
そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、そこにおいて、様々な種類の者たちが殺されるなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、その祭祀には近しく至らない。
しかしながら、それらの者たちが、祭祀に辛苦なく、常に先祖のための〔祭祀〕を執り行なうなら、そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、ここにおいて、様々な種類の者たちが殺されないなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、この祭祀へと近しく至る。
思慮ある者は、この〔祭祀〕を執り行なうべきである。この祭祀は、大いなる果となる。まさに、この〔祭祀〕を執り行なっている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。そして、祭祀は、広大なるものと成り、さらに、天神たちも浄信する」と。
10. 結縛の経
121. また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって、大勢の人の衆が結縛させられ、〔世に〕有ります。一部の者たちはまた、諸々の縄によって、一部の者たちはまた、諸々の枷によって、一部の者たちはまた、諸々の鎖によって。
そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって、大勢の人の衆が結縛させられました。一部の者たちはまた、諸々の縄によって、一部の者たちはまた、諸々の枷によって、一部の者たちはまた、諸々の鎖によって」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔まさに〕その、鉄でできているものも、木でできているものも、そして、葦〔の縄紐〕も──慧者たちは、それを、堅固な結縛と言わない。諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まったもの──子たちにたいする、さらに、妻たちにたいする、〔まさに〕その、期待〔の思い〕なるもの──
重くのしかかり、緩やかではあるが、解き放ち難きもの──慧者たちは、これを、堅固な結縛と言う。これをもまた断ち切って、〔慧者たちは〕遍歴遊行する──期待なき者たちとなり、欲望の安楽を捨棄して」と。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「年少者、人、老、愛しいもの、守られた自己、少なき者たち、裁きの場、マッリカー、祭祀と結縛があり、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. 七者の結髪者たちの経
122. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、門小屋の外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
また、まさに、その時点にあって、脇毛や爪や体毛を長くした、かつまた、七者の結髪者たちが、かつまた、七者の離繋者(ジャイナ教徒)たちが、かつまた、七者の無衣者たちが、かつまた、七者の一衣者たちが、かつまた、七者の遍歴遊行者たちが、カーリ(升目の単位・一石)の天秤棒を担いで、世尊から遠く離れていないところを通り過ぎます。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、かつまた、七者の結髪者たちの、かつまた、七者の離繋者たちの、かつまた、七者の無衣者たちの、かつまた、七者の一衣者たちの、かつまた、七者の遍歴遊行者たちの、彼らのいるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、名前を告げ聞かせました。「尊き方たちよ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」……略……「尊き方たちよ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、かつまた、七者の結髪者たちが、かつまた、七者の離繋者たちが、かつまた、七者の無衣者たちが、かつまた、七者の一衣者たちが、かつまた、七者の遍歴遊行者たちが、彼らが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、それらの、あるいは、阿羅漢たちが、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちが、世におられるとして、これらの者たちは、彼らのなかの或るひとりなのでしょうか」と。
「大王よ、まさに、このことは、知り難いことなのです。欲望の享受者たる在家者である、あなたによっては──子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者によっては──『あるいは、これらの者たちは、阿羅漢たちであるのか、あるいは、これらの者たちは、阿羅漢道に入定した者たちであるのか』という、〔このことは〕。
大王よ、まさに、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、強靱は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕」と。
「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『大王よ、まさに、このことは、知り難いことなのです。欲望の享受者たる在家者である、あなたによっては──子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者によっては──「あるいは、これらの者たちは、阿羅漢たちであるのか、あるいは、これらの者たちは、阿羅漢道に入定した者たちであるのか」という、〔このことは〕。大王よ、まさに、戒は、共住によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、清廉は、対話によって知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、強靱は、諸々の逆境において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕。大王よ、まさに、智慧は、論議において知られるべきです。そして、それは、まさに、暫しのあいだではなく、長い時間をかけて〔知られるべきであり〕、意を為していない者ではなく、意を為している者によって〔知られるべきであり〕、智慧浅き者ではなく、智慧ある者によって〔知られるべきです〕』と。
尊き方よ、これらの者たちは、わたしの家来たちでありまして、盗賊として、密偵として、地方を偵察して巡り行きます。彼らが、最初に偵察し、わたしは、そのあとで訪ねるのです。尊き方よ、今や、彼らは、その塵と垢を流し去って、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとい、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいるでしょう」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「色艶や形態(容貌や外見)によって、人は、善知の者となるのではない。暫しのあいだの会見によって、〔人を〕信頼するべきではない。なぜなら、善き自制者たちの特徴によって、自制なき者たちは、この世を歩むからである。
土の耳飾のような、金で覆われた銅の半銭のような、それらしい形態をした者がいる。〔彼らは〕取り巻きたちに覆われ、世を歩む──内に清浄ならず、外に美しく輝きながら」と。
2. 五者の王たちの経
123. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、パセーナディを筆頭とする五者の王たちに──五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいる〔彼ら〕に──この合間の議論が起こりました。「いったい、まさに、何が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものであるのか」と。そこで、一部の者たちは、このように言いました。「諸々の形態(色)が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである」と。一部の者たちは、このように言いました。「諸々の音声(声)が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである」と。一部の者たちは、このように言いました。「諸々の臭気(香)が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである」と。一部の者たちは、このように言いました。「諸々の味感(味)が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである」と。一部の者たちは、このように言いました。「諸々の感触(触・所触)が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである」と。すなわち、まさに、それらの王たちは、互いに他を説得することができなかったことから──
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それらの王たちに、こう言いました。「敬愛なる方たちよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「敬愛なる方よ、わかりました」と、まさに、それらの五者の王たちは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えました。
そこで、まさに、それらの、パセーナディを筆頭とする五者の王たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、五者の王であるわたしたちに──五つの欲望の属性を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいる〔わたしたち〕に──この合間の議論が起こりました。『いったい、まさに、何が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものであるのか』と。一部の者たちは、このように言いました。『諸々の形態が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである』と。一部の者たちは、このように言いました。『諸々の音声が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである』と。一部の者たちは、このように言いました。『諸々の臭気が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである』と。一部の者たちは、このように言いました。『諸々の味感が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである』と。一部の者たちは、このように言いました。『諸々の感触が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものである』と。尊き方よ、いったい、まさに、何が、〔五つの〕欲望〔の属性〕のなかの至高のものなのですか」と。
「大王よ、まさに、わたしは、『意に適うことを最終極とするものが、五つの欲望の属性において至高のものとなる』と説きます。大王よ、一部の者にとって、まさしく、それらの形態は、意に適うものとして有ります。一部の者にとって、まさしく、それらの形態は、意に適わないものとして有ります。そして、それらの形態によって、彼が、わが意を得た者と成り、思惟が円満成就した者と〔成るなら〕、彼は、それらの形態より、他の形態を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。彼にとって、それらの形態は、最高のものとして有ります。彼にとって、それらの形態は、無上のものとして有ります。
大王よ、一部の者にとって、まさしく、それらの音声は、意に適うものとして有ります。一部の者にとって、まさしく、それらの音声は、意に適わないものとして有ります。そして、それらの音声によって、彼が、わが意を得た者と成り、思惟が円満成就した者と〔成るなら〕、彼は、それらの音声より、他の音声を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。彼にとって、それらの音声は、最高のものとして有ります。彼にとって、それらの音声は、無上のものとして有ります。
大王よ、一部の者にとって、まさしく、それらの臭気は、意に適うものとして有ります。一部の者にとって、まさしく、それらの臭気は、意に適わないものとして有ります。そして、それらの臭気によって、彼が、わが意を得た者と成り、思惟が円満成就した者と〔成るなら〕、彼は、それらの臭気より、他の臭気を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。彼にとって、それらの臭気は、最高のものとして有ります。彼にとって、それらの臭気は、無上のものとして有ります。
大王よ、一部の者にとって、まさしく、それらの味感は、意に適うものとして有ります。一部の者にとって、まさしく、それらの味感は、意に適わないものとして有ります。そして、それらの味感によって、彼が、わが意を得た者と成り、思惟が円満成就した者と〔成るなら〕、彼は、それらの味感より、他の味感を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。彼にとって、それらの味感は、最高のものとして有ります。彼にとって、それらの味感は、無上のものとして有ります。
大王よ、一部の者にとって、まさしく、それらの感触は、意に適うものとして有ります。一部の者にとって、まさしく、それらの感触は、意に適わないものとして有ります。そして、それらの感触によって、彼が、わが意を得た者と成り、思惟が円満成就した者と〔成るなら〕、彼は、それらの感触より、他の感触を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、〔もはや〕切望しません。彼にとって、それらの感触は、最高のものとして有ります。彼にとって、それらの感触は、無上のものとして有ります」と。
また、まさに、その時点にあって、チャンダナンガリカ在俗信者が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、チャンダナンガリカ在俗信者は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります(詩偈が思い浮かびます)。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「チャンダナンガリカよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。
そこで、まさに、チャンダナンガリカ在俗信者は、世尊の面前で、それに適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔チャンダナンガリカが、詩偈に言う〕「蓮華が、あたかも、善き香りの赤蓮が、早朝に咲き誇り、香りが離れずに存しているようなもの。見よ──光り輝いているアンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)を、空中にある太陽のように輝いている方を」と。
そこで、まさに、それらの五者の王たちは、チャンダナンガリカ在俗信者に、五つの上衣をまとわせました。そこで、まさに、チャンダナンガリカ在俗信者は、それらの五つの上衣を、世尊にまとわせた、ということです。
3. 大量に調理されたものの経
124. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、大量に調理された料理を食べます。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事を終え、大息し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、食事を終え、大息するのを見出して、その時に、この詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「人間として、常に気づきある者として、得られた食料について、〔正しい〕量を知っている者であるなら、彼にとって、諸々の〔苦痛の〕感受は、些細なものと成る。〔彼は〕寿命を守りながら、徐々に老い行く」と。
また、まさに、その時点にあって、スダッサナ学徒は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の背後に立った状態でいます。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、スダッサナ学徒に告げました。「親愛なる者よ、スダッサナよ、さあ、あなたは、世尊の現前において、この詩偈を遍く学得して、わたしに、食事の提供があるとき、食事の提供があるときに、〔それを〕語りなさい。そして、わたしは、あなたに、毎日、百カハーパナ(貨幣の単位)、百カハーパナを、常なる手当として転起させるであろう」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、スダッサナ学徒は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、世尊の現前において、この詩偈を遍く学得して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に食事の提供があるとき、まさに、〔それを〕語ります。
〔すなわち〕「人間として、常に気づきある者として、得られた食料について、〔正しい〕量を知っている者であるなら、彼にとって、諸々の〔苦痛の〕感受は、些細なものと成る。〔彼は〕寿命を守りながら、徐々に老い行く」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、順次に〔食を減らし〕、少食を最高とする〔状態〕に安立しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、他時にあって、五体が極めて軽やかとなり、手で五体を擦りながら、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。「彼は、世尊は、両者の義(利益)によって、まさに、わたしを慈しんだ。まさしく、そして、所見の法(現世)のものとして、さらに、未来のものとして」と。
4. 第一の戦いの経
125. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、四つの支分ある軍団を武装して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃しました。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、「どうやら、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、四つの支分ある軍団を武装して、わたしを〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、四つの支分ある軍団を武装して、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に迎撃しました。そこで、まさに、そして、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、さらに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、戦いを交わしました。また、まさに、その戦いにおいて、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を打ち負かしました。そして、打ち負かされたコーサラ〔国〕のパセーナディ王は、まさしく、自らの王都であるサーヴァッティーに撤退しました。
そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、四つの支分ある軍団を武装して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃しました。尊き方よ、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、『どうやら、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、四つの支分ある軍団を武装して、わたしを〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃したらしい』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、四つの支分ある軍団を武装して、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に迎撃しました。尊き方よ、そこで、まさに、そして、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、さらに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、戦いを交わしました。尊き方よ、また、まさに、その戦いにおいて、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を打ち負かしました。尊き方よ、そして、打ち負かされたコーサラ〔国〕のパセーナディ王は、まさしく、自らの王都であるサーヴァッティーに撤退しました」と。
「比丘たちよ、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、悪しき朋友ある者であり、悪しき道友ある者であり、悪しき友人ある者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者です。比丘たちよ、まさしく、今日、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、この夜を、苦痛のうちに臥します──敗者として」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「勝者は、怨恨を生み、敗者は、苦痛のうちに臥す。勝敗を捨棄して、寂静となった者は、安楽のうちに臥す」と。
5. 第二の戦いの経
126. そこで、まさに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、四つの支分ある軍団を武装して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃しました。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、「どうやら、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、四つの支分ある軍団を武装して、わたしを〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、四つの支分ある軍団を武装して、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に迎撃しました。そこで、まさに、そして、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、さらに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、戦いを交わしました。また、まさに、その戦いにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を打ち負かしました。そして、彼を、生け捕りにして捕捉しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、この〔思い〕が有りました。「たとえ、何であれ、この者は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、まさに、わたしが裏切らずにいるのに裏切る。そこで、また、しかしながら、わたしの甥として〔世に〕有る。それなら、さあ、わたしは、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王の、全ての象〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての馬〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての車〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての歩〔兵〕の衆を完全に奪い去って、彼を、まさしく、生きながら放免するのだ」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王の、全ての象〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての馬〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての車〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての歩〔兵〕の衆を完全に奪い去って、彼を、まさしく、生きながら放免しました。
そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、四つの支分ある軍団を武装して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃しました。尊き方よ、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、『どうやら、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、四つの支分ある軍団を武装して、わたしを〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に進撃したらしい』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、四つの支分ある軍団を武装して、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を〔敵として〕、すなわち、カーシー〔国〕に迎撃しました。尊き方よ、そこで、まさに、そして、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、さらに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、戦いを交わしました。尊き方よ、また、まさに、その戦いにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王を打ち負かしました。そして、彼を、生け捕りにして捕捉しました。尊き方よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、この〔思い〕が有りました。『たとえ、何であれ、この者は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、まさに、わたしが裏切らずにいるのに裏切る。そこで、また、しかしながら、わたしの甥として〔世に〕有る。それなら、さあ、わたしは、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王の、全ての象〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての馬〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての車〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての歩〔兵〕の衆を完全に奪い去って、彼を、まさしく、生きながら放免するのだ』と。
尊き方よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王の、全ての象〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての馬〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての車〔兵〕の衆を完全に奪い去って、全ての歩〔兵〕の衆を完全に奪い去って、彼を、まさしく、生きながら放免しました」と。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔それが〕彼にとって役立つ、それまでのあいだ、人は、まさしく、〔それを〕奪い取る。しかしながら、他者たちが奪い取る、そのとき、奪い取られた彼は、〔ふたたび、それを〕奪い取る。
〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られない、それまでのあいだ、愚者は、まさに、〔その〕状況を、〔道理あるものと〕思いなす。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られる、そのとき、そこで、〔彼は〕苦しみを受ける。
殺す者は、殺す者を得る。勝つ者は、勝つ者を得る。そして、罵る者は、罵る者を〔得る〕。そして、悩ます者は、悩ます者を〔得る〕。そこで、行為(業)の還転によって、奪い取られた彼は、〔ふたたび、それを〕奪い取る」と。
6. マッリカーの経
127. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の耳元で告げました。「陛下よ、マッリカー王妃が、娘様を出産しました」と。このように説かれたとき、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、わが意を得ない者と成りました。
そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、わが意を得ないことを知って、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「人の君主よ、まさに、女もまた、一部の者は、男よりも(※)より勝っている。〔すなわち、彼女が〕思慮ある者であり、戒ある者であり、姑を天とする者であり、夫に掟ある者であるなら。
※ テキストには posa とあるが、PTS版により posā と読む。
彼女に生まれる、その男は、勇士と成り、方角の長(王)と〔成る〕。そのような者として、善き妻の子は、王権をもまた行使する」と。
7. 不放逸の経
128. サーヴァッティーの因縁となります。……一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。それは、両者の義(利益)を──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を──正しく収め取って〔世に〕止住します」と。
「大王よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。それは、両者の義(利益)を──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を──正しく収め取って〔世に〕止住します」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。それは、両者の義(利益)を──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を──正しく収め取って〔世に〕止住します」と。
「大王よ、まさに、不放逸が、一つの法(性質)です。それは、両者の義(利益)を──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を──正しく収め取って〔世に〕止住します。かくのごとく、大王よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、大王よ、まさしく、このように、まさに、不放逸が、一つの法(性質)です。それは、両者の義(利益)を──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を──正しく収め取って〔世に〕止住します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「寿命を、色艶を、福徳を、名誉を、天上を、高貴の家系たることを、諸々の秀逸なる喜びを次から次に切望しているとして──
賢者たちは、諸々の功徳を作り為す〔行為〕のなかでは、不放逸を賞賛する。〔気づきを〕怠らない賢者は、〔この世とあの世の〕両者の義(利益)を収め取る。
そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来(来世)における義(利益)であり、〔両者の〕義(利益)の〔あるがままの〕知悉(現観)あることから、慧者は、『賢者』と呼ばれる」と。
8. 善き朋友の経
129. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。そして、それは、まさに、善き朋友ある者のためであり、善き道友ある者のためであり、善き友人ある者のためであり、悪しき朋友ある者のためではなく、悪しき道友ある者のためではなく、悪しき友人ある者のためではない』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされました。そして、それは、まさに、善き朋友ある者のためであり、善き道友ある者のためであり、善き友人ある者のためであり、悪しき朋友ある者のためではなく、悪しき道友ある者のためではなく、悪しき友人ある者のためではありません」と。
「大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。釈迦〔族〕の者たちには、ナガラカという名の町があります。大王よ、そこで、まさに、アーナンダ比丘が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。大王よ、一方に坐った、まさに、アーナンダ比丘は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、これは、梵行にとって、半分のものとなります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです』と。
大王よ、このように説かれたとき、わたしは、アーナンダ比丘に、こう言いました。『アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、まさに、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてあります。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることです。アーナンダよ、比丘が、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者であるなら、このことが期待できます。〔彼は〕聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を修めるでしょうし、聖なる八つの支分ある道を多く為すでしょう。
アーナンダよ、では、どのように、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為すのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい見解(正見)を修めます。……略……正しい思惟(正思惟)を修めます。……略……正しい言葉(正語)を修めます。……略……正しい行業(正業)を修めます。……略……正しい生き方(正命)を修めます。……略……正しい努力(正精進)を修めます。……略……正しい気づき(正念)を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、正しい禅定(正定)を修めます。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、聖なる八つの支分ある道を修め、聖なる八つの支分ある道を多く為します。アーナンダよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。「すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである」と。
アーナンダよ、まさに、善き朋友である、わたしに由来して、生の法(性質)ある有情たちは、生から完全に解き放たれ、老の法(性質)ある有情たちは、老から完全に解き放たれ、病の法(性質)ある有情たちは、病から完全に解き放たれ、死の法(性質)ある有情たちは、死から完全に解き放たれ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)ある有情たちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤から完全に解き放たれます。アーナンダよ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。「すなわち、これは、梵行〔そのもの〕であり、まさしく、全体としてある。すなわち、この、善き朋友あることであり、善き道友あることであり、善き友人あることである」』と。
大王よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『〔わたしは〕善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有るのだ』と。大王よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
大王よ、あなたが、善き朋友ある者となり、善き道友ある者となり、善き友人ある者となるなら、この、一つの法(性質)が、近しく依拠して住むべきものとなります──諸々の善なる法(性質)における不放逸が。
大王よ、あなたが、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住んでいると、随従する宮女〔の衆〕に、このような〔思いが〕有るでしょう。『王は、まさに、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住む。さあ、わたしたちもまた、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むのだ』と。
大王よ、あなたが、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住んでいると、随従する士族たちにもまた、このような〔思いが〕有るでしょう。『王は、まさに、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住む。さあ、わたしたちもまた、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むのだ』と。
大王よ、あなたが、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住んでいると、軍隊の衆にもまた、このような〔思いが〕有るでしょう。『王は、まさに、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住む。さあ、わたしたちもまた、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むのだ』と。
大王よ、あなたが、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住んでいると、町や地方〔の衆〕にもまた、このような〔思いが〕有るでしょう。『王は、まさに、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住む。さあ、わたしたちもまた、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むのだ』と。
大王よ、あなたが、不放逸に近しく依拠して、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住んでいると、自己もまた、保護され守護されたものと成るでしょう。宮女〔の衆〕もまた、保護され守護されたものと成るでしょう。蔵と貯蔵庫もまた、保護され守護されたものと成るでしょう」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の秀逸なる財物を、次から次に望み求めているとして、賢者たちは、諸々の功徳を作り為す〔行為〕のなかでは、不放逸を賞賛する。
〔気づきを〕怠らない賢者は、〔この世とあの世の〕両者の義(利益)を収め取る。そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来(来世)における義(利益)であり、〔両者の〕義(利益)の〔あるがままの〕知悉あることから、慧者は、『賢者』と呼ばれる」と。
9. 第一の子なき者の経
130. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、昼のさなかに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。
「尊き方よ、ここに、サーヴァッティーにおいて、長者の家長が、命を終えたのです。わたしは、子なき者の所有物を、それを、王の内宮に没収して、〔すなわち、わたしは〕やってきます。尊き方よ、まさしく、黄金としては、八百万になります。白銀としては、また、何の論があるというのでしょう。尊き方よ、また、まさに、その長者の家長には、このような形態の食事の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕酸えた粥を添え物とする屑米を食べます。このような形態の衣装の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕麻の三切れの衣を〔身に〕付けます。このような形態の乗物の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕葉の覆いで保たれている老朽した車で出かけます」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、まさに、正ならざる人士は、諸々の秀逸なる財物を得ても、まさしく、自己を安楽させ喜悦させることもなく、母と父を安楽させ喜悦させることもなく、子と妻を安楽させ喜悦させることもなく、奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させることもなく、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させることもなく、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させることもありません──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。このように、正しく遍く受益されていない、彼の、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。大王よ、このように、彼の、それらの財物は、正しく遍く受益されないまま、完全なる滅尽に至ります──遍き受益ではなく。
大王よ、それは、たとえば、また、人間なき地に蓮池があり、水は澄み、水は冷たく、水は快く、水は白く、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしくあり、その〔水〕を、人が、まさしく、運ばず、飲まず、沐浴せず、あるいは、すなわち、日用のものと為さないなら、大王よ、まさに、このように、その水は、正しく遍く受益されないまま、完全なる滅尽に至ります──遍き受益ではなく。大王よ、まさしく、このように、まさに、正ならざる人士は、諸々の秀逸なる財物を得ても、まさしく、自己を安楽させ喜悦させることもなく、母と父を安楽させ喜悦させることもなく、子と妻を安楽させ喜悦させることもなく、奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させることもなく、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させることもなく、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させることもありません──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。このように、正しく遍く受益されていない、彼の、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。大王よ、このように、彼の、それらの財物は、正しく遍く受益されないまま、完全なる滅尽に至ります──遍き受益ではなく。
大王よ、しかしながら、まさに、正なる人士は、諸々の秀逸なる財物を得ては、自己を安楽させ喜悦させ、母と父を安楽させ喜悦させ、子と妻を安楽させ喜悦させ、奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させ、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。このように、正しく遍く受益されている、彼の、それらの財物を、まさしく、王たちが運び去ることもなく、盗賊たちが運び去ることもなく、火が焼くこともなく、水が運ぶこともなく、愛しからざる相続者たちが運び去ることもありません。大王よ、このように、彼の、それらの財物は、正しく遍く受益されるまま、遍き受益に赴きます──完全なる滅尽ではなく。
大王よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、蓮池があり、水は澄み、水は冷たく、水は快く、水は白く、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしくあり、そして、その〔水〕を、人が、運びもまたし、飲みもまたし、沐浴もまたし、あるいは、すなわち、日用のものともまた為すなら、大王よ、まさに、このように、その水は、正しく遍く受益されるまま、遍き受益に赴きます──完全なる滅尽ではなく。大王よ、まさしく、このように、まさに、正なる人士は、諸々の秀逸なる財物を得ては、自己を安楽させ喜悦させ、母と父を安楽させ喜悦させ、子と妻を安楽させ喜悦させ、奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させ、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。このように、正しく遍く受益されている、彼の、それらの財物を、まさしく、王たちが運び去ることもなく、盗賊たちが運び去ることもなく、火が焼くこともなく、水が運ぶこともなく、愛しからざる相続者たちが運び去ることもありません。大王よ、このように、彼の、それらの財物は、正しく遍く受益されるまま、遍き受益に赴きます──完全なる滅尽ではなく」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「人間なき地にある、冷たい水のようなもの。飲まずにいるなら、それは、涸渇へと至り行く。このように、俗人は、財を得ても、まさしく、自己みずから受益せず、〔他者にも〕施さない。
しかしながら、慧者たる識者は、諸々の財物に到達して、彼は、〔自己みずから〕受益し、さらに、為すべきことを為す者と成る。彼は、親族たちの群れを養って、〔人の〕雄牛たる者は、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。
10. 第二の子なき者の経
131. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、昼のさなかに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。
「尊き方よ、ここに、サーヴァッティーにおいて、長者の家長が、命を終えたのです。わたしは、子なき者の所有物を、それを、王の内宮に没収して、〔すなわち、わたしは〕やってきます。尊き方よ、黄金としては、千万になります。白銀としては、また、何の論があるというのでしょう。尊き方よ、また、まさに、その長者の家長には、このような形態の食事の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕酸えた粥を添え物とする屑米を食べます。このような形態の衣装の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕麻の三切れの衣を〔身に〕付けます。このような形態の乗物の受益が有りました。〔すなわち、彼は〕葉の覆いで保たれている老朽した車で出かけます」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。大王よ、過去の事ですが、その長者の家長は、タガラシキンという名の独覚を、〔行乞の〕施食によって奉施しました。〔召使たちに〕『〔行乞の〕食を、沙門に施せ』と言って、坐から立ち上がって、立ち去りました。また、しかしながら、施して〔そののち〕、『この優れた〔行乞の〕食を、あるいは、奴隷たちが、あるいは、労夫たちが、食べるべき』と、のちに、後悔ある者と成りました。また、さらに、所有物を動機として、兄弟の独り子の生命を奪いました。
大王よ、すなわち、まさに、その長者の家長が、タガラシキンという名の独覚を、〔行乞の〕施食によって奉施した、その行為の報い(業報)によって、七回、善き境遇に、天上の世に、再生しました。まさしく、その行為の報いの残りによって、七回、まさしく、このサーヴァッティーの長者たる権を為しました。大王よ、すなわち、まさに、その長者の家長が、施して〔そののち〕、『この優れた〔行乞の〕食を、あるいは、奴隷たちが、あるいは、労夫たちが、食べるべき』と、のちに、後悔ある者と成った、その行為の報いによって、秀逸なる食事の受益に、彼の心は傾かず、秀逸なる衣装の受益に、彼の心は傾かず、秀逸なる乗物の受益に、彼の心は傾かず、秀逸なる五つの欲望の属性の受益に、彼の心は傾きません。大王よ、すなわち、まさに、その長者の家長が、また、さらに、所有物を動機として、兄弟の独り子の生命を奪った、その行為の報いによって、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、この、七度目となる、子なき者の所有物が、王の蔵に収容されます。大王よ、まさに、その長者の家長の、そして、以前の功徳は完全に滅尽し、さらに、新しい功徳は蓄積されませんでした。大王よ、また、今日、長者の家長は、大いなる叫喚地獄において煮られます」と。「尊き方よ、このように、長者の家長は、大いなる叫喚地獄に再生したのですか」と。「大王よ、このように、長者の家長は、大いなる叫喚地獄に再生したのです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「穀物、財産、銀、金、あるいは、また、それが何であれ、〔彼に〕存在する、執持〔の対象〕(所有物)は──奴隷たち、労夫たち、召使たち、さらに、すなわち、彼に依拠して生きる者たちも──
〔その〕一切が、取ることなくして、去り行くべきものであり、〔その〕一切が、捨置に至るものである。しかしながら、すなわち、身体によって為し、言葉によって〔為し〕、あるいは、心によって〔為す、その行為は〕──
まさに、それが、彼にとって、自らのものと成る。そして、それを取って、〔彼は、他の世に〕赴く。さらに、それが、彼にとって、従い行くものと成る──影が離れないように。
それゆえに、善き〔行為〕を為すべきである──未来の蓄積となる〔善き行為〕を。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成る」と。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「結髪者たち、五者の王たちがあり、そして、大量に調理された料理とともに、戦いによって、二つのものが説かれ、マッリカー、そして、不放逸によって、二つのものが〔説かれ〕、子なき者によって、二つのものが説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。
3. 第三の章
1. 人の経
132. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。闇から闇を行き着く所とする者であり、闇から光を行き着く所とする者であり、光から闇を行き着く所とする者であり、光から光を行き着く所とする者です。
大王よ、では、どのように、人は、闇から闇を行き着く所とする者と成るのですか。大王よ、ここに、一部の人は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。そして、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。
大王よ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、暗黒から暗黒に赴き、あるいは、闇から闇に赴き、あるいは、血の垢から血の垢に赴くように、大王よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。大王よ、このように、まさに、人は、闇から闇を行き着く所とする者と成ります。
大王よ、では、どのように、人は、闇から光を行き着く所とする者と成るのですか。大王よ、ここに、一部の人は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラの家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサの家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。そして、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
大王よ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、地から長椅子に登り、あるいは、長椅子から馬の背に登り、あるいは、馬の背から象の肩に登り、あるいは、象の肩から高楼に登るように、大王よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。大王よ、このように、まさに、人は、闇から光を行き着く所とする者と成ります。
大王よ、では、どのように、人は、光から闇を行き着く所とする者と成るのですか。大王よ、ここに、一部の人は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。そして、彼は、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者として。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、光から闇を行き着く所とする者と成ります。
大王よ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、高楼から象の肩に降り、あるいは、象の肩から馬の背に降り、あるいは、馬の背から長椅子に降り、あるいは、長椅子から地に降り、あるいは、地から暗黒に入り行くように、大王よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。大王よ、このように、まさに、人は、光から闇を行き着く所とする者と成ります。
大王よ、では、どのように、人は、光から光を行き着く所とする者と成るのですか。大王よ、ここに、一部の人は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。そして、彼は、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者として。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
大王よ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、長椅子から長椅子に移り行き、あるいは、馬の背から馬の背に移り行き、あるいは、象の肩から象の肩に移り行き、あるいは、高楼から高楼に移り行くように、大王よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。大王よ、このように、まさに、人は、光から光を行き着く所とする者と成ります。大王よ、まさに、これらの四つの人が、世において等しく見出されつつ存しています」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「王よ、貧しき人がいる。〔彼は〕信なき者として〔世に〕有る──物惜〔の思い〕ある者として、吝嗇の者として、悪しき思惟の者として、誤った見解の者として、礼を欠く者として。
沙門たちを、あるいは、また、婆羅門たちを、あるいは、また、他の乞食者たちを、罵倒し口撃する。〔彼は〕『〔施すものは〕存在しない』と〔他者を〕悩ます者として〔世に〕有る。
乞い求めている者たちに食料を施している者を、〔彼は〕妨げる。王よ、人の君主よ、そのような人が、死につつあるなら、おぞましき地獄へと近しく至る。〔彼は〕闇から闇を行き着く所とする者である。
王よ、貧しき人がいる。〔彼は〕信ある者として〔世に〕有る──物惜〔の思い〕なき者として、最勝の思惟の者として、混乱なき意図の人として、〔他者に〕施す。
沙門たちを、あるいは、また、婆羅門たちを、あるいは、また、他の乞食者たちを、立ち上がって敬拝する。〔彼は〕正しい行ないを学ぶ。
乞い求めている者たちに食料を施している者を、〔彼は〕妨げない。王よ、人の君主よ、そのような人が、死につつあるなら、三十三〔天〕の境位へと近しく至る。〔彼は〕闇から光を行き着く所とする者である。
王よ、もし、富める人なるも、〔彼は〕信なき者として〔世に〕有る──物惜〔の思い〕ある者として、吝嗇の者として、悪しき思惟の者として、誤った見解の者として、礼を欠く者として。
沙門たちを、あるいは、また、婆羅門たちを、あるいは、また、他の乞食者たちを、罵倒し口撃する。〔彼は〕『〔施すものは〕存在しない』と〔他者を〕悩ます者として〔世に〕有る。
乞い求めている者たちに食料を施している者を、〔彼は〕妨げる。王よ、人の君主よ、そのような人が、死につつあるなら、おぞましき地獄へと近しく至る。〔彼は〕光から闇を行き着く所とする者である。
王よ、もし、富める人なるも、〔彼は〕信ある者として〔世に〕有る──物惜〔の思い〕なき者として、最勝の思惟の者として、混乱なき意図の人として、〔他者に〕施す。
沙門たちを、あるいは、また、婆羅門たちを、あるいは、また、他の乞食者たちを、立ち上がって敬拝する。〔彼は〕正しい行ないを学ぶ。
乞い求めている者たちに食料を施している者を、〔彼は〕妨げない。王よ、人の君主よ、そのような人が、死につつあるなら、三十三〔天〕の境位へと近しく至る。〔彼は〕光から光を行き着く所とする者である」と。
2. 祖母の経
133. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。
「尊き方よ、わたしの祖母が、命を終えたのです。老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者です。尊き方よ、また、まさに、祖母は、わたしにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。尊き方よ、『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と、もし、また、象の宝によって、わたしが、〔祖母の命を〕得るであろうなら、象の宝をもまた、わたしは施すでしょう──『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と。尊き方よ、『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と、もし、また、馬の宝によって、わたしが、〔祖母の命を〕得るであろうなら、馬の宝をもまた、わたしは施すでしょう──『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と。尊き方よ、『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と、もし、また、優れた村によって、わたしが、〔祖母の命を〕得るであろうなら、優れた村をもまた、わたしは施すでしょう──『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と。尊き方よ、『わたしの祖母が、命を終えてはならない』と、もし、また、地方や地域によって、わたしが、〔祖母の命を〕得るであろうなら、地方や地域をもまた、わたしは施すでしょう──『わたしの祖母が、命を終えてはならない』」と。「大王よ、一切の有情たちは、死の法(性質)ある者たちであり、死を結末とする者たちであり、死を超え行くことなき者たちです」と。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『一切の有情たちは、死の法(性質)ある者たちであり、死を結末とする者たちであり、死を超え行くことなき者たちです』」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。一切の有情たちは、死の法(性質)ある者たちであり、死を結末とする者たちであり、死を超え行くことなき者たちです。大王よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の陶工の器は、まさしく、そして、生のものであれ、さらに、焼いたものであれ、それらの全てが、破壊の法(性質)あるものであり、破壊を結末とするものであり、破壊を超え行くことなきものであるように、大王よ、まさしく、このように、まさに、一切の有情たちは、死の法(性質)ある者たちであり、死を結末とする者たちであり、死を超え行くことなき者たちです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「一切の有情たちは、〔いずれ〕死ぬであろう。まさに、死という終極あるのが、生命である。すなわち、〔為した〕行為のとおりに、〔彼らは〕赴くであろう──善と悪の果に近しく赴く者たちとして。悪しき生業ある者たちは、地獄に〔落ち〕、そして、善き行為ある者たちは、善趣に〔赴く〕。
それゆえに、善き〔行為〕を為すべきである──未来の蓄積となる〔善き行為〕を。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成る」と。
3. 世の経
134. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起するのですか」と。「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲(貪)という法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒(瞋)という法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、迷妄(痴)という法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、世〔の人々〕に、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、生起しつつ生起します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……。
〔世尊が、詩偈に言う〕「貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が」と。
4. 弓術の経
135. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どこにおいて、布施は、施されるべきですか」と。「大王よ、そこにおいて、まさに、心が浄信するところです」と。「尊き方よ、また、どこにおいて、施されたものは、大いなる果となるのですか」と。「大王よ、まさに、他なるものとして、『どこにおいて、布施は、施されるべきですか』〔という〕、このことはあり、また、他なるものとして、『どこにおいて、施されたものは、大いなる果となるのですか』〔という〕、このことはあります。ということで、大王よ、まさに、戒ある者に施されたものは、大いなる果となります──劣戒の者においては、そのようなことはありません。大王よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、あなたに戦争が現起し、戦場での合戦が存するとします。そこで、士族の年若き者がやってくるとします。手練の者ではなく、手技が為されず、訓練が為されず、弓術が為されず、恐怖し、驚愕し、恐懼し、〔すぐにも〕逃げ去る者が。その人を、〔あなたは〕養いますか。かつまた、あなたにとって、義(目的)は、そのような人にありますか」と。「尊き方よ、その人を、わたしは養いません。かつまた、わたしにとって、義(目的)は、そのような人にありません」と。「そこで、婆羅門の年若き者がやってくるとします。手練の者ではなく……略……。そこで、庶民の年若き者がやってくるとします。手練の者ではなく……略……。そこで、隷民の年若き者がやってくるとします。手練の者ではなく……略……かつまた、わたしにとって、義(目的)は、そのような人にありません」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、あなたに戦争が現起し、戦場での合戦が存するとします。そこで、士族の年若き者がやってくるとします。手練の者で、手技が為され、訓練が為され、弓術が為され、恐怖せず、驚愕せず、恐懼せず、逃げ去らない者が。その人を、〔あなたは〕養いますか。かつまた、あなたにとって、義(目的)は、そのような人にありますか」と。「尊き方よ、その人を、わたしは養います。かつまた、わたしにとって、義(目的)は、そのような人にあります」と。「そこで、婆羅門の年若き者がやってくるとします。……略……。そこで、庶民の年若き者がやってくるとします。……略……。そこで、奴隷の年若き者がやってくるとします。手練の者で、手技が為され、訓練が為され、弓術が為され、恐怖せず、驚愕せず、恐懼せず、逃げ去らない者が。その人を、〔あなたは〕養いますか。かつまた、あなたにとって、義(目的)は、そのような人にありますか」と。「尊き方よ、その人を、わたしは養います。かつまた、わたしにとって、義(目的)は、そのような人にあります」と。
「大王よ、まさしく、このように、まさに、それがどのような家からであれ、もし、また、〔彼が〕家から家なきへと出家した者として〔世に〕有るなら、そして、彼が、五つの支分を捨棄した者として、五つの支分を具備した者として、〔世に〕有るなら、彼において、施されたものは、大いなる果と成ります。どのような五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)を捨棄した者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕(瞋恚)を捨棄した者として〔世に〕有り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄した者として〔世に〕有り、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄した者として〔世に〕有り、疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。どのような五つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。かくのごとく、五つの支分を捨棄し五つの支分を具備した者において、施されたものは、大いなる果となります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「その若者において、弓術〔の才〕が〔見出され〕、そして、活力と精進が見出されるなら、彼を、戦いを義(目的)とする王は養うべきである。勇士ならざる者を、生まれを縁として〔養うことは〕ない。
まさしく、そのように、彼において、忍耐と温和の法(性質)が確立されたなら、聖なる生活者たる思慮ある者を、たとえ、〔彼が〕劣った生まれの者であれ、供養するべきである。
〔心が〕喜ぶべき諸々の庵所を作らせ、ここにおいて、多聞の者たちを住させるべきである。そして、荒野に水場を、さらに、難所に諸々の橋を、作るべきである。
食べ物と飲み物と固形の食料を、さらに、衣と臥坐具を、〔心が〕真っすぐと成った者たちにたいし、浄信した心で施すべきである。
まさに、すなわち、〔雷鳴を〕鳴り響かせながら、雷光の花飾と百の雲峰ある雨雲が、大地に雨を降らせつつ、高地を〔潤し〕、そして、低地を潤すように──
まさしく、そのように、信ある者にして聞ある者は、食料を準備して、乞食者たちを満足させる──食べ物と飲み物によって、賢者たる者として。
〔彼は、常に〕歓喜しながら〔誰にたいしても食べ物と飲み物を〕ふるまい、『与えよ』『与えよ』と語る。まさに、彼の、その〔言葉〕は、天が雨を降らせているかのように、響きあるものと成る。その広大なる功徳の流雨は、施す者に〔歓喜の〕雨を降らせる」と。
5. 山の喩えの経
136. サーヴァッティーの因縁となります。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と「尊き方よ、王たる士族たちには──即位灌頂し、権力の驕りに驕慢し、欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕に遍く取り囲まれ、地方の安定に至り得、大いなる地の圏域を征圧して占拠している者たちには──すなわち、それらの、王として為すべきことが有り、それらにたいし、まさに、わたしは、今現在、思い入れを起こしているのです」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、東の方角から、人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、東の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──雲に等しき大いなる山を。全ての命あるものたちを叩き潰しながらやってきます。大王よ、すなわち、あなたに為すべきことがあるなら、それを為したまえ』と。そこで、西の方角から、第二の人が、あなたのもとにやってくるとします。……略……。そこで、北の方角から、第三の人が、あなたのもとにやってくるとします。……略……。そこで、南の方角から、第四の人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、南の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──雲に等しき大いなる山を。全ての命あるものたちを叩き潰しながらやってきます。大王よ、すなわち、あなたに為すべきことがあるなら、それを為したまえ』と。大王よ、このような形態の大いなるものがあるとき、大いなる恐怖が生起し凶事があるとき、人間の滅尽があるとき、人間たることが得難くあるとき、あなたの為すべきこととして、何が存在するのですか」と。
「尊き方よ、このような形態の大いなるものがあるとき、大いなる恐怖が生起し凶事があるとき、人間の滅尽があるとき、人間たることが得難くあるとき、わたしの為すべきこととして、何が存在するというのでしょう──法(教え)の行ないより他に、正しい行ないより〔他に〕、善なるものを作り為すことより〔他に〕、功徳を作り為すことより〔他に〕」と。
「大王よ、まさに、あなたに、〔わたしは〕告げます。大王よ、まさに、あなたに、〔わたしは〕知らせます。大王よ、まさに、あなたに、老と死が転じ行きます。大王よ、もし、老と死が転じ行きつつあるとき、あなたの為すべきこととして、何が存在するのですか」と。「尊き方よ、さてまた、老と死が転じ行きつつあるとき、わたしの為すべきこととして、何が存在するというのでしょう──法(教え)の行ないより他に、正しい行ないより〔他に〕、善なるものを作り為すことより〔他に〕、功徳を作り為すことより〔他に〕。尊き方よ、王たる士族たちには──即位灌頂し、権力の驕りに驕慢し、欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕に遍く取り囲まれ、地方の安定を得、大いなる地の圏域を征圧して占拠している者たちには──すなわち、それらの象〔兵〕による戦いが有るとして、尊き方よ、それらの象〔兵〕による戦いにもまた、〔為すべきことの〕境遇は存在せず、〔為すべきことの〕境域は存在しません──老と死が転じ行きつつあるときは。尊き方よ、王たる士族たちには──即位灌頂し……略……占拠している者たちには──すなわち、また、それらの馬〔兵〕による戦いが有るとして……略……車〔兵〕による戦いが有るとして……略……歩〔兵〕による戦いが有るとして、尊き方よ、それらの歩〔兵〕による戦いにもまた、〔為すべきことの〕境遇は存在せず、〔為すべきことの〕境域は存在しません──老と死が転じ行きつつあるときは。尊き方よ、また、まさに、この王家においては、助言者たる大臣たちが存在し、彼らは、義(利益)に反する者(敵対者)たちがやってきたとして、諸々の智略によって打ち砕くことができるのですが、尊き方よ、それらの智略による戦いにもまた、〔為すべきことの〕境遇は存在せず、〔為すべきことの〕境域は存在しません──老と死が転じ行きつつあるときは。尊き方よ、また、まさに、この王家においては、沢山の黄金が、まさしく、そして、地上に在るものとして、さらに、宙空に依って立つものとして、等しく見出され、わたしたちは、義(利益)に反する者たちがやってきたとして、その財産によって打ち砕くことができるのですが、尊き方よ、それらの財産による戦いにもまた、〔為すべきことの〕境遇は存在せず、〔為すべきことの〕境域は存在しません──老と死が転じ行きつつあるときは。尊き方よ、さてまた、老と死が転じ行きつつあるとき、わたしの為すべきこととして、何が存在するというのでしょう──法(教え)の行ないより他に、正しい行ないより〔他に〕、善なるものを作り為すことより〔他に〕、功徳を作り為すことより〔他に〕」と。
「大王よ、このように、このことはあります。大王よ、このように、このことはあります。老と死が転じ行きつつあるとき、為すべきこととして、何が存在するというのでしょう──法(教え)の行ないより他に、正しい行ないより〔他に〕、善なるものを作り為すことより〔他に〕、功徳を作り為すことより〔他に〕」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「あたかも、また、諸々の広大なる巌(いわお)が、山から、天空を打って、四方を粉砕しながら、遍きにわたり巡り行くように──
このように、そして、老は、さらに、死魔は、命あるものたちに転じ行く。士族たちを、婆羅門たちを、庶民たちを、隷民たちを、チャンダーラ(賎民)やプックサ(非人)たちを、誰であろうが、遍く避けず、まさしく、一切を打ち砕く。
そこにおいては、象〔兵〕たちの地なく、車〔兵〕たちの〔地〕なく、歩〔兵〕の〔地〕なく、さらに、また、智略による戦いによっても、あるいは、財産〔による戦い〕によっても、勝つことはできない。
まさに、それゆえに、賢者たる人は、自己の義(利益)を正しく見ながら、覚者(仏:ブッダ)にたいし、そして、法(法:ダンマ)にたいし、さらに、僧団(僧:サンガ)にたいし、慧者は、信を確たるものとするがよい。
すなわち、身体によって、言葉によって、あるいは、心によって、法(正義)〔の道〕を歩んだなら、まさしく、この〔世において〕、彼を、〔賢者たちは〕賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。
〔以上が〕第三の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「人、祖母、世、弓術、山の喩えがあり、最勝の覚者によって、この、コーサラについての五なるものが説示された」と。
コーサラに相応するものは〔以上で〕完結となる。