相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 因縁の部(因縁篇・下)

 

【目次】

 

2(13). 知悉に相応するもの(74.~)

 

1. 爪先の経

2. 蓮池の経

3. 合流の水の経

4. 第二の合流の水の経

5. 地の経

6. 第二の地の経

7. 海の経

8. 第二の海の経

9. 山の経

10. 第二の山の経

11. 第三の山の経

 

3(14). 界域に相応するもの(85.~)

 

1. 種々なることの章(85.~)

 

1. 界域の種々なることの経

2. 接触の種々なることの経

3. 「接触の種々なることではなく」の経

4. 感受の種々なることの経

5. 第二の感受の種々なることの経

6. 外なる界域の種々なることの経

7. 表象の種々なることの経

8. 「遍き探し求めの種々なることではなく」の経

9. 外なる接触の種々なることの経

10. 第二の外なる接触の種々なることの経

 

2. 第二の章(95.~)

 

1. 七つの界域の経

2. 因縁を有するものの経

3. 煉瓦作りの居住所の経

4. 下劣なる信念ある者の経

5. 歩行〔瞑想〕の経

6. 詩偈を有するものの経

7. 信なき者の合流の経

8. 信なき者を根元とするものの経

9. 恥〔の思い〕なき者を根元とするものの経

10. 〔良心の〕咎めなき者を根元とするものの経

11. 少聞の者を根元とするものの経

12. 怠惰の者を根元とするものの経

 

3. 行為の道の章(107.~)

 

1. 〔心が〕定められていない者の経

2. 劣戒の者の経

3. 五つの学びの境処の経

4. 七つの行為の道の経

5. 十の行為の道の経

6. 八つの支分あるものの経

7. 十の支分あるものの経

 

4. 第四の章(114.~)

 

1. 四つの界域の経

2. 「正覚より過去において」の経

3. 「歩みました」の経

4. 「もし、このことがないなら」の経

5. 一方的な苦痛の経

6. 愉悦の経

7. 生起の経

8. 沙門や婆羅門たちの経

9. 第二の沙門や婆羅門たちの経

10. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

4(15). 始源が思い考えられないものに相応するもの(124.~)

 

1. 第一の章(124.~)

 

1. 草と木の経

2. 地の経

3. 涙の経

4. 乳の経

5. 山の経

6. 芥子粒の経

7. 弟子たちの経

8. ガンガーの経

9. 棒の経

10. 人の経

 

2. 第二の章(134.~)

 

1. 悪しき境遇の者の経

2. 安楽の者の経

3. 三十ばかりの者たちの経

4. 母の経

5. 父の経

6. 兄弟の経

7. 姉妹の経

8. 息子の経

9. 娘の経

10. ヴェープッラ山の経

 

5(16). カッサパに相応するもの(144.~)

 

1. 満ち足りている者の経

2. 〔良心の〕咎めなき者の経

3. 月の如き者たちの経

4. 家に親近ある者の経

5. 老いた者の経

6. 教諭の経

7. 第二の教諭の経

8. 第三の教諭の経

9. 瞑想と神知の経

10. 在所の経

11. 衣料の経

12. 「死後に」の経

13. 正なる法の模造品の経

 

6(17). 利得と尊敬に相応するもの(157.~)

 

1. 第一の章(157.~)

 

1. 辛酸の経

2. 釣針の経

3. 亀の経

4. 長い毛の経

5. 糞虫の経

6. 雷の経

7. 塗り毒の経

8. 野狐の経

9. ヴェーランバの経

10. 詩偈を有するものの経

 

2. 第二の章(167.~)

 

1. 金の鉢の経

2. 銀の鉢の経

3-10. スヴァンナ金貨の経等の八なるもの

 

3. 第三の章(170.~)

 

1. 女性の経

2. 美女の経

3. 独り子の経

4. 独り娘の経

5. 沙門や婆羅門たちの経

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

7. 第三の沙門や婆羅門たちの経

8. 表皮の経

9. 縄の経

10. 比丘の経

 

4. 第四の章(180.~)

 

1. 「分裂させました」の経

2. 善なるものの根元の経

3. 善なる法の経

4. 白の法の経

5. 「立ち去ったすぐあとに」の経

6. 五百の車の経

7. 母の経

8-13. 父の経等の六なるもの

 

7(18). ラーフラに相応するもの(188.~)

 

1. 第一の章(188.~)

 

1. 眼の経

2. 形態の経

3. 識知〔作用〕の経

4. 接触の経

5. 感受の経

6. 表象の経

7. 思欲の経

8. 渇愛の経

9. 界域の経

10. 範疇の経

 

2. 第二の章(198.~)

 

1. 眼の経

2-10. 形態等の経の九なるもの

11. 悪習の経

12. 離れ去ったものの経

 

8(19). ラッカナに相応するもの(202.~)

 

1. 第一の章(202.~)

 

1. 骨の経

2. 〔肉〕片の経

3. 〔肉〕塊の経

4. 皮のない者の経

5. 剣の毛の経

6. 刃の経

7. 矢の経

8. 針の毛の経

9. 第二の針の毛の経

10. 瓶の睾丸の経

 

2. 第二の章(212.~)

 

1. 「頭に至るまで」の経

2. 糞を喰う者の経

3. 皮のない女の経

4. 青白い者の経

5. 焼きただれた者の経

6. 頭のない者の経

7. 悪しき比丘の経

8. 悪しき比丘尼の経

9. 悪しき学女の経

10. 悪しき沙弥の経

11. 悪しき沙弥尼の経

 

9(20). 喩えに相応するもの(223.~)

 

1. 屋頂の経

2. 爪先の経

3. 家の経

4. 鍋の経

5. 刃の経

6. 弓の使い手の経

7. 楔の経

8. 丸太の経

9. 象の経

10. 山猫の経

11. 野狐の経

12. 第二の野狐の経

 

10(21). 比丘に相応するもの(235.~)

 

1. コーリタ(マハー・モッガッラーナ)の経

2. ウパティッサ(サーリプッタ)の経

3. 瓶の経

4. 新参の者の経

5. スジャータの経

6. ラクンダカ・バッディヤの経

7. ヴィサーカの経

8. ナンダの経

9. ティッサの経

10. テーラという名の者の経

11. マハー・カッピナの経

12. 道友の経

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 因縁の部(因縁篇・下)

 

2(13). 知悉に相応するもの

 

1. 爪先の経

 

74. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉(現観)ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あること(預流たる者に残存する苦しみ)は、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇(苦蘊)と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 蓮池の経

 

75. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、広さとしては、五十ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)となり、幅としては、五十ヨージャナとなり、高さとしては、五十ヨージャナとなる、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている蓮池があるとします。そこから、人が、草の先端で水を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、草の先端で取り出された水ですか、あるいは、すなわち、蓮池の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、蓮池の水です。草の先端で取り出された水は、少しばかりのものです。草の先端で取り出された水は、蓮池の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 合流の水の経

 

76. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、そこから、人が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、合流の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、合流の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の合流の水の経

 

77. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そこにおいて、これらの大河が──それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが──合流し合体するとして、その水が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した合流の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 地の経

 

78. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる地に、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子ですか、あるいは、すなわち、大いなる地ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの置き据えられた土団子は、大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の地の経

 

79. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる地が、七つの棗〔の実〕の核ほどの土団子を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地ですか、あるいは、すなわち、七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地です。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、少しばかりのものです。七つの棗〔の実〕の核ほどの残された土団子は、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる地と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 海の経

 

80. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海から、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を取り出すとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴ですか、あるいは、すなわち、大いなる海の水ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、取り出された水滴は、大いなる海の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の海の経

 

81. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる海が、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水ですか、あるいは、すなわち、二つの、あるいは、三つの、残された水滴ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水です。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、少しばかりのものです。あるいは、二つの、あるいは、三つの、残された水滴は、完全に滅尽し完全に消尽した大いなる海の水と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 山の経

 

82. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に、七つの芥子粒ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるヒマヴァントと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の山の経

 

83. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァントが、七つの芥子粒ほどの石粒を除いて、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントですか、あるいは、すなわち、七つの芥子粒ほどの残された石粒ですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、少しばかりのものです。七つの芥子粒ほどの残された石粒は、完全に滅尽し完全に消尽した山の王たるヒマヴァントと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第三の山の経

 

84. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、山の王たるシネール(須弥山)に、七つの緑豆ほどの石粒を置き据えるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒ですか、あるいは、すなわち、山の王たるシネールですか」と。

 

 「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、山の王たるシネールです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、少しばかりのものです。七つの緑豆ほどの置き据えられた石粒は、山の王たるシネールと比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にして〔正しい〕見解を成就した人たる知悉ある者にとって、これこそは、より多くあります。すなわち、この、完全に滅尽し完全に消尽した苦しみです。残されたものは、少しばかりのものです。すなわち、この、最高で七回〔の再生〕あることは、完全に滅尽し完全に消尽した過去の苦しみの範疇と比較して、まさしく、百分の一にも至らず、千分の一にも至らず、百千分の一にも至りません。比丘たちよ、このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の知悉です。このように、大いなる義(利益)あるのが、まさに、法(真理)の眼の獲得です」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 知悉に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「爪先、蓮池、そして、二つの合流の水、二つの地、二つの海、そして、三つの山の喩えがあり、〔章となる〕」と。

 

3(14). 界域に相応するもの

 

1. 種々なることの章

 

1. 界域の種々なることの経

 

85. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域()の種々なることを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域(眼界)であり、形態の界域(色界)であり、眼の識知〔作用〕の界域(眼識界)であり、耳の界域(耳界)であり、音声の界域(声界)であり、耳の識知〔作用〕の界域(耳識界)であり、鼻の界域(鼻界)であり、臭気の界域(香界)であり、鼻の識知〔作用〕の界域(鼻識界)であり、舌の界域(舌界)であり、味感の界域(味界)であり、舌の識知〔作用〕の界域(舌識界)であり、身の界域(身界)であり、感触(所触)の界域(触界)であり、身の識知〔作用〕の界域(身識界)であり、意の界域(意界)であり、法(意の対象)の界域(法界)であり、意の識知〔作用〕の界域(意識界)です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 接触の種々なることの経

 

86. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触()の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり、耳の界域であり、鼻の界域であり、舌の界域であり、身の界域であり、意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのですか。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触(眼触)が生起します。耳の界域を縁として、耳の接触(耳触)が生起します。鼻の界域を縁として、鼻の接触(鼻触)が生起します。舌の界域を縁として、舌の接触(舌触)が生起します。身の界域を縁として、身の接触(身触)が生起します。意の界域を縁として、意の接触(意触)が生起します。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「接触の種々なることではなく」の経

 

87. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのですか──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起します──眼の接触を縁として、眼の界域が生起するのではなく。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起します──意の接触を縁として、意の界域が生起するのではなく。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 感受の種々なることの経

 

88. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受()の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのですか。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起し、眼の接触を縁として、眼の接触から生じる感受が生起します。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起し、意の接触を縁として、意の接触から生じる感受が生起します。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の感受の種々なることの経

 

89. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。眼の界域であり……略……意の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのですか──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、眼の界域を縁として、眼の接触が生起し、眼の接触を縁として、眼の接触から生じる感受が生起します──眼の接触から生じる感受を縁として、眼の接触が生起するのではなく──眼の接触を縁として、眼の界域が生起するのではなく。……略……。意の界域を縁として、意の接触が生起し、意の接触を縁として、意の接触から生じる感受が生起します──意の接触から生じる感受を縁として、意の接触が生起するのではなく──意の接触を縁として、意の界域が生起するのではなく。比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起します──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 外なる界域の種々なることの経

 

90. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり、音声の界域であり、臭気の界域であり、味感の界域であり、感触の界域であり、法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 表象の種々なることの経

 

91. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象()の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのですか。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し、形態の表象を縁として、形態の思惟が生起し、形態の思惟を縁として、形態の欲〔の思い〕が生起し、形態の欲〔の思い〕を縁として、形態の苦悶が生起し、形態の苦悶を縁として、形態の遍き探し求めが生起します。……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の思惟が生起し、法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起し、法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の苦悶が生起し、法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起します。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「遍き探し求めの種々なることではなく」の経

 

92. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起します──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起するのですか──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として……略……法(意の対象)の遍き探し求めが生起します──法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の苦悶が生起するのではなく──法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起するのではなく──法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の思惟が生起するのではなく──法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の表象が生起するのではなく──法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の界域が生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起します──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 外なる接触の種々なることの経

 

93. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起し、接触の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起し、感受の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起し、欲〔の思い〕の種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起し、苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……利得の種々なることが生起するのですか。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し、形態の表象を縁として、形態の思惟が生起し、形態の思惟を縁として、形態の接触が生起し、形態の接触を縁として、形態の接触から生じる感受が生起し、形態の接触から生じる感受を縁として、形態の欲〔の思い〕が生起し、形態の欲〔の思い〕を縁として、形態の苦悶が生起し、形態の苦悶を縁として、形態の遍き探し求めが生起し、形態の遍き探し求めを縁として、形態の利得が生起します。……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の思惟が生起し、法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の接触が生起し、法(意の対象)の接触を縁として、法(意の対象)の接触から生じる感受が生起し、法(意の対象)の接触から生じる感受を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起し、法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の苦悶が生起し、法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起し、法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の利得が生起します。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として……略……遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の外なる接触の種々なることの経

 

94. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し、思惟の種々なることを縁として、接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起し、遍き探し求めの種々なることを縁として、利得の種々なることが生起します──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の……略……欲〔の思い〕の……感受の……接触の……思惟の……表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。比丘たちよ、では、どのようなものが、界域の種々なることなのですか。形態の界域であり……略……法(意の対象)の界域です。比丘たちよ、これは、界域の種々なることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起し……略……接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の……遍き探し求めの……利得の種々なることが生起するのですか──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく……略……欲〔の思い〕の……感受の……接触の……思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、形態の界域を縁として、形態の表象が生起し……略……。法(意の対象)の界域を縁として、法(意の対象)の表象が生起し、法(意の対象)の表象を縁として……略……法(意の対象)の遍き探し求めが生起し、法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の利得が生起します──法(意の対象)の利得を縁として、法(意の対象)の遍き探し求めが生起するのではなく──法(意の対象)の遍き探し求めを縁として、法(意の対象)の苦悶が生起するのではなく──法(意の対象)の苦悶を縁として、法(意の対象)の欲〔の思い〕が生起するのではなく──法(意の対象)の欲〔の思い〕を縁として、法(意の対象)の接触から生じる感受が生起するのではなく──法(意の対象)の接触から生じる感受を縁として、法(意の対象)の接触が生起するのではなく──法(意の対象)の接触を縁として、法(意の対象)の思惟が生起するのではなく──法(意の対象)の思惟を縁として、法(意の対象)の表象が生起するのではなく──法(意の対象)の表象を縁として、法(意の対象)の界域が生起するのではなく。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、界域の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起し、表象の……略……思惟の……接触の……感受の……欲〔の思い〕の……苦悶の……遍き探し求めの……利得の種々なることが生起します──利得の種々なることを縁として、遍き探し求めの種々なることが生起するのではなく──遍き探し求めの種々なることを縁として、苦悶の種々なることが生起するのではなく──苦悶の種々なることを縁として、欲〔の思い〕の種々なることが生起するのではなく──欲〔の思い〕の種々なることを縁として、感受の種々なることが生起するのではなく──感受の種々なることを縁として、接触の種々なることが生起するのではなく──接触の種々なることを縁として、思惟の種々なることが生起するのではなく──思惟の種々なることを縁として、表象の種々なることが生起するのではなく──表象の種々なることを縁として、界域の種々なることが生起するのではなく」と。〔以上が〕第十となる。

 

 種々なることの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「界域、そして、接触、さらに、この、『ではなく』があり、他に、二つの感受があり、これが、内なる五なるものとなり、界域、そして、表象、さらに、この、『ではなく』があり、他に、二つの接触があり、これが、外なる五なるものとなる」と。

 

2. 第二の章

 

1. 七つの界域の経

 

95. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、七つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、七つのものなのですか。光明の界域であり、浄美の界域であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)の界域であり、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)の界域であり、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)の界域であり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)の界域であり、表象と感覚の止滅(想受滅)の界域です。比丘たちよ、まさに、これらの七つの界域があります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象と感覚の止滅の界域は、尊き方よ、いったい、まさに、これらの界域は、何を縁として覚知されるのですか」と。

 

 「比丘よ、すなわち、この、光明の界域は、この界域は、暗黒を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、浄美の界域は、この界域は、浄美ならざるものを縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、形態を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、虚空無辺なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、識知無辺なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、無所有なる〔認識の〕場所を縁として覚知されます。比丘よ、すなわち、この、表象と感覚の止滅の界域は、この界域は、止滅を縁として覚知されます」と。

 

 「尊き方よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、表象と感覚の止滅の界域は、尊き方よ、いったい、まさに、これらの界域は、どのような入定として至り得られるべきですか」と。

 

 「比丘よ、かつまた、すなわち、この、光明の界域は、かつまた、すなわち、浄美の界域は、かつまた、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の界域は、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の界域は、これらの界域は、表象による入定として至り得られるべきです。比丘よ、すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の界域は、この界域は、形成〔作用〕の残余による入定として至り得られるべきです。比丘よ、すなわち、この、表象と感覚の止滅の界域は、この界域は、止滅による入定として至り得られるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 因縁を有するものの経

 

96. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、欲望の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。憎悪の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。悩害の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、欲望の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。憎悪の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。悩害の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。比丘たちよ、欲望の界域を縁として、欲望の表象が生起し、欲望の表象を縁として、欲望の思惟が生起し、欲望の思惟を縁として、欲望の欲〔の思い〕が生起し、欲望の欲〔の思い〕を縁として、欲望の苦悶が生起し、欲望の苦悶を縁として、欲望の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、欲望の遍き探し求めを遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、憎悪の界域を縁として、憎悪の表象が生起し、憎悪の表象を縁として、憎悪の思惟が……略……憎悪の欲〔の思い〕が……憎悪の苦悶が……憎悪の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、憎悪の遍き探し求めを遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、悩害の界域を縁として、悩害の表象が生起し、悩害の表象を縁として、悩害の思惟が……略……悩害の欲〔の思い〕が……悩害の苦悶が……悩害の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、悩害の遍き探し求めを遍く探し求めながら、無聞の凡夫は、三つの状況によって、誤って実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明(たいまつ)を、乾燥した草原に置くとして、まさしく、すみやかに、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、もし、消し止めないなら、比丘たちよ、まさに、このように、それらの、草や木片に依拠する命あるものたちは、彼らは、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が──生起した、不正に至った表象を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせないなら、彼は、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っています。

 

 比丘たちよ、離欲の思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。憎悪なき思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。悩害なき思考は、因縁を有するものとして生起します──因縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、離欲の思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。憎悪なき思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。悩害なき思考は、因縁を有するものとして生起するのですか──因縁なきものではなく。比丘たちよ、離欲の界域を縁として、離欲の表象が生起し、離欲の表象を縁として、離欲の思惟が生起し、離欲の思惟を縁として、離欲の欲〔の思い〕が生起し、離欲の欲〔の思い〕を縁として、離欲の苦悶が生起し、離欲の苦悶を縁として、離欲の遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、離欲の遍き探し求めを遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、憎悪なき界域を縁として、憎悪なき表象が生起し、憎悪なき表象を縁として、憎悪なき思惟が……略……憎悪なき欲〔の思い〕が……憎悪なき苦悶が……憎悪なき遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、憎悪なき遍き探し求めを遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、悩害なき界域を縁として、悩害なき表象が生起し、悩害なき表象を縁として、悩害なき思惟が……略……悩害なき欲〔の思い〕が……悩害なき苦悶が……悩害なき遍き探し求めが生起します。比丘たちよ、悩害なき遍き探し求めを遍く探し求めながら、有聞の聖なる弟子は、三つの状況によって、正しく実践します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明を、乾燥した草原に置くとして、〔まさに〕その、この〔火〕を、まさしく、すみやかに、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、消し止めるなら、比丘たちよ、まさに、このように、それらの、草や木片に依拠する命あるものたちは、彼らは、不幸と災厄を惹起しないでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が──生起した、不正に至った表象を、まさしく、すみやかに、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせるなら、彼は、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)が待っています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 煉瓦作りの居住所の経

 

97. 或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに、告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、界域を縁として、表象が生起し、見解が生起し、思考が生起します。このように説かれたとき、尊者カッチャーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、この、正等覚者ならざる者たちについて、『正等覚者たちである』という見解は、尊き方よ、いったい、まさに、この見解は、何を縁として覚知されるのですか」と。

 

 「カッチャーナよ、大いなるは、まさに、この界域です──すなわち、この、無明の界域です。カッチャーナよ、下劣なる界域を縁として、下劣なる表象が生起し、下劣なる見解が〔生起し〕、下劣なる思考が〔生起し〕、下劣なる思欲が〔生起し〕、下劣なる切望が〔生起し〕、下劣なる切願が〔生起し〕、下劣なる人が〔生起し〕、下劣なる言葉が〔生起し〕、下劣なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、下劣なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 カッチャーナよ、中等なる界域を縁として、中等なる表象が生起し、中等なる見解が〔生起し〕、中等なる思考が〔生起し〕、中等なる思欲が〔生起し〕、中等なる切望が〔生起し〕、中等なる切願が〔生起し〕、中等なる人が〔生起し〕、中等なる言葉が〔生起し〕、中等なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、中等なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 カッチャーナよ、精妙なる界域を縁として、精妙なる表象が生起し、精妙なる見解が〔生起し〕、精妙なる思考が〔生起し〕、精妙なる思欲が〔生起し〕、精妙なる切望が〔生起し〕、精妙なる切願が〔生起し〕、精妙なる人が〔生起し〕、精妙なる言葉が〔生起し〕、精妙なるものを、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『彼には、精妙なる再生がある』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 下劣なる信念ある者の経

 

98. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 歩行〔瞑想〕の経

 

99. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者マハー・モッガッラーナもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者マハー・カッサパもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者アヌルッダもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者プンナ・マンターニプッタもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者ウパーリもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、尊者アーナンダもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。まさに、デーヴァダッタもまた、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしています。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──サーリプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、大いなる智慧ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──モッガッラーナが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、大いなる神通ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──カッサパが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、払拭を説く者(頭陀行者)たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──アヌルッダが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしていているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、天眼ある者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──プンナ・マンターニプッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしていているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、法(教え)の講話者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──ウパーリが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、律の保持者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──アーナンダが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、多聞の者たちです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──デーヴァダッタが、大勢の比丘たちと共に、世尊から遠く離れていないところで、歩行〔瞑想〕をしているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、全ての者たちが、悪しき欲求ある者たちです。

 

 比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 詩偈を有するものの経

 

100. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞が糞と合流し合体するように、尿が尿と合流し合体するように、唾液が唾液と合流し合体するように、膿が膿と合流し合体するように、血が血と合流し合体するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。過去の時にもまた……略……。未来の時にもまた、まさに……略……。今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。下劣なるものへの信念ある者たちは、下劣なるものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、乳が乳と合流し合体するように、油が油と合流し合体するように、酥が酥と合流し合体するように、蜜が蜜と合流し合体するように、糖が糖と合流し合体するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに……未来の時にもまた、まさに……今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。善きものへの信念ある者たちは、善きものへの信念ある者たちと共に合流し合体します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔他者との〕交わりから、〔欲の〕林の下生えが生じ、〔他者との〕交わりなきによって、〔それは〕断たれる。小さな木片に登っても、すなわち、大海においては沈み行くように──

 

 このように、怠惰の者を頼りにして、善き生ある者もまた沈み行く。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──精進に劣る怠惰の者を。

 

 〔世俗から〕遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むべきである」と。〔以上が〕第六となる。(※)

 

※ PTS版により Chaṭṭha を補う。

 

7. 信なき者の合流の経

 

101. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕()なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎め()なき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体しました。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体しました。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体しました。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体しました。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体しました。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体しました。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体するでしょう。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体するでしょう。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体するでしょう。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体するでしょう。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体するでしょう。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体するでしょう。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに……略……未来の時にもまた、まさに……略……今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。……略……。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 信なき者を根元とするものの経

 

102. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。比丘たちよ、過去の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体しました。……略……。比丘たちよ、未来の時にもまた、まさに、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体するでしょう。……略……。

 

 比丘たちよ、今現在もまた、まさに、現在の時に、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。(1)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……(第一番目のように詳知されるべきである)。(2)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(3)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(4)

 

 「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(5)〔以上が〕第八となる。

 

9. 恥〔の思い〕なき者を根元とするものの経

 

103. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから……略……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(2)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(3)

 

 「……。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(4)〔以上が〕第九となる。

 

10. 〔良心の〕咎めなき者を根元とするものの経

 

104. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(2)

 

 「……。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(3)〔以上が〕第十となる。

 

11. 少聞の者を根元とするものの経

 

105. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……。(1)

 

 「……。少聞の者たちは、少聞の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。多聞の者たちは、多聞の者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。(2)〔以上が〕第十一となる。

 

12. 怠惰の者を根元とするものの経

 

106. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。怠惰の者たちは、怠惰の者たちと共に合流し合体します。気づきが忘却された者たちは、気づきが忘却された者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。精進に励む者たちは、精進に励む者たちと共に合流し合体します。気づきが現起された者たちは、気づきが現起された者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します。……略……」と。〔以上が〕第十二となる。

 

〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これらの七つのものとして、そして、因縁を有するもの、さらに、煉瓦作りの居住所とともに、下劣なる信念、歩行〔瞑想〕、詩偈を有するもの、第七のものとして、信なき者があり──

 

 信なき者を根元とする五つのもの、恥〔の思い〕なき者を根元とする四つのもの、〔良心の〕咎めなき者を根元とする三つのもの、そして、少聞の者によって、二つのものが〔説かれ〕──

 

 怠惰の者が、一なるものとして説かれ、三つの五なるものとして、〔合わせて十五の〕経典があり、〔全て合わせて〕二十二の経が説かれ、第二の章と呼ばれる」と。

 

3. 行為の道の章

 

1. 〔心が〕定められていない者の経

 

107. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。〔心が〕定められていない者たちは、〔心が〕定められていない者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。〔心が〕定められた者たちは、〔心が〕定められた者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 劣戒の者の経

 

108. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。信なき者たちは、信なき者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕なき者たちは、恥〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めなき者たちは、〔良心の〕咎めなき者たちと共に合流し合体します。劣戒の者たちは、劣戒の者たちと共に合流し合体します。智慧浅き者たちは、智慧浅き者たちと共に合流し合体します。

 

 信ある者たちは、信ある者たちと共に合流し合体します。恥〔の思い〕ある者たちは、恥〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。〔良心の〕咎めある者たちは、〔良心の〕咎めある者たちと共に合流し合体します。戒ある者たちは、戒ある者たちと共に合流し合体します。智慧ある者たちは、智慧ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 五つの学びの境処の経

 

109. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは、与えられていないものを取る者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちと共に合流し合体します。虚偽を説く者たちは、虚偽を説く者たちと共に合流し合体します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは、命あるものを殺すことから離間した者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取ることから離間した者たちは、与えられていないものを取ることから離間した者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちと共に合流し合体します。虚偽を説くことから離間した者たちは、虚偽を説くことから離間した者たちと共に合流し合体します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 七つの行為の道の経

 

110. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは、与えられていないものを取る者たちと共に合流し合体します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちと共に合流し合体します。虚偽を説く者たちは、虚偽を説く者たちと共に合流し合体します。中傷の言葉ある者たちは、中傷の言葉ある者たちと共に合流し合体します。粗暴な言葉ある者たちは、粗暴な言葉ある者たちと共に合流し合体します。雑駁な虚論ある者たちは、雑駁な虚論ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは……略……。与えられていないものを取ることから離間した者たちは……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは……。虚偽を説くことから離間した者たちは……。中傷の言葉から離間した者たちは、中傷の言葉から離間した者たちと共に合流し合体します。粗暴な言葉から離間した者たちは、粗暴な言葉から離間した者たちと共に合流し合体します。雑駁な虚論から離間した者たちは、雑駁な虚論から離間した者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 十の行為の道の経

 

111. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。命あるものを殺す者たちは、命あるものを殺す者たちと共に合流し合体します。与えられていないものを取る者たちは……略……。欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちは……。虚偽を説く者たちは……。中傷の言葉ある者たちは……。粗暴な言葉ある者たちは……。雑駁な虚論ある者たちは、雑駁な虚論ある者たちと共に合流し合体します。強欲〔の思い〕ある者たちは、強欲〔の思い〕ある者たちと共に合流し合体します。憎悪している心の者たちは、憎悪している心の者たちと共に合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。

 

 命あるものを殺すことから離間した者たちは……略……。与えられていないものを取ることから離間した者たちは……。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちは……。虚偽を説くことから離間した者たちは……。中傷の言葉から……。粗暴な言葉から……。雑駁な虚論から離間した者たちは、雑駁な虚論から離間した者たちと共に合流し合体します。強欲〔の思い〕なき者たちは、強欲〔の思い〕なき者たちと共に合流し合体します。憎悪していない心の者たちは、憎悪していない心の者たちと共に合流し合体します。正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 八つの支分あるものの経

 

112. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。誤った思惟ある者たちは……略……。誤った言葉ある者たちは……。誤った行業ある者たちは……。誤った生き方ある者たちは……。誤った努力ある者たちは……。誤った気づきある者たちは……。誤った禅定ある者たちは、誤った禅定ある者たちと共に合流し合体します。正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します。正しい思惟ある者たちは……略……。正しい言葉ある者たちは……。正しい行業ある者たちは……。正しい生き方ある者たちは……。正しい努力ある者たちは……。正しい気づきある者たちは……。正しい禅定ある者たちは、正しい禅定ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 十の支分あるものの経

 

113. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさしく、界域あることから、有情たちは合流し合体します。誤った見解ある者たちは、誤った見解ある者たちと共に合流し合体します。誤った思惟ある者たちは……略……。誤った言葉ある者たちは……。誤った行業ある者たちは……。誤った生き方ある者たちは……。誤った努力ある者たちは……。誤った気づきある者たちは……。誤った禅定ある者たちは、誤った禅定ある者たちと共に合流し合体します。誤った知恵ある者たちは、誤った知恵ある者たちと共に合流し合体します。誤った解脱ある者たちは、誤った解脱ある者たちと共に合流し合体します。

 

 正しい見解ある者たちは、正しい見解ある者たちと共に合流し合体します。正しい思惟ある者たちは……略……。正しい言葉ある者たちは……。正しい行業ある者たちは……。正しい生き方ある者たちは……。正しい努力ある者たちは……。正しい気づきある者たちは……。正しい禅定ある者たちは……。正しい知恵ある者たちは、正しい知恵ある者たちと共に合流し合体します。正しい解脱ある者たちは、正しい解脱ある者たちと共に合流し合体します」と。〔以上が〕第七となる。

 

 七つの経典のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔心が〕定められていない者、劣戒の者、そして、五つの学びの境処、七つの行為の道が説かれ、そして、十の行為の道とともに、第六のものとして、八つの支分あるものが説かれ、さらに、第七のものとして、十の支分あるものとともに、〔章となる〕」と。

 

 行為の道の章が第三となる。

 

4. 第四の章

 

1. 四つの界域の経

 

114. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの界域があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「正覚より過去において」の経

 

115. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、地の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。水の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。火の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか。風の界域の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、地の界域を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、地の界域の悦楽である。すなわち、地の界域が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、地の界域の危険である。それが、地の界域において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、地の界域の出離である。それが、水の界域を縁として……略……。それが、火の界域を縁として……略……。それが、風の界域を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、風の界域の悦楽である。すなわち、風の界域が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、風の界域の危険である。それが、風の界域において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、風の界域の出離である』〔と〕。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「歩みました」の経

 

116. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、地の界域の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、地の界域の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、地の界域の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、地の界域の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの地の界域の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

 比丘たちよ、わたしは、水の界域の……略……。比丘たちよ、わたしは、火の界域の……。比丘たちよ、わたしは、風の界域の悦楽を遍く探し求めるために〔道を〕歩みました。それが、風の界域の悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、風の界域の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、風の界域の危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、風の界域の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、風の界域の出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、あるかぎりの風の界域の出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「もし、このことがないなら」の経

 

117. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、地の界域の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが地の界域にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、もし、このことが、水の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……略……。比丘たちよ、もし、このことが、火の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら……略……。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、風の界域の出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが風の界域にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域の出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし出離します。

 

 比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、これらの有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 一方的な苦痛の経

 

118. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、もし、このことが、地の界域が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが地の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域において悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし貪染します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、水の界域が……略……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、火の界域が……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、風の界域が一方的な苦痛であり、苦痛が従い行き、苦痛が入り込み、安楽が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが風の界域にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域において悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし貪染します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、地の界域が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが地の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、地の界域において苦痛が存在することから、それゆえに、有情たちは、地の界域にたいし厭離します。

 

 比丘たちよ、まさに、もし、このことが、水の界域が……略……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、火の界域が……。比丘たちよ、まさに、もし、このことが、風の界域が一方的な安楽であり、安楽が従い行き、安楽が入り込み、苦痛が入り込まない、〔という、このことが〕有ったなら、有情たちが風の界域にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、風の界域において苦痛が存在することから、それゆえに、有情たちは、風の界域にたいし厭離します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 愉悦の経

 

119. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、彼が、地の界域に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。彼が、水の界域に愉悦するなら……略……。彼が、火の界域に愉悦するなら……。彼が、風の界域に愉悦するなら、彼は、苦しみに愉悦します。彼が、苦しみに愉悦するなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼が、地の界域に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます。彼が、水の界域に愉悦しないなら……略……。彼が、火の界域に愉悦しないなら……。彼が、風の界域に愉悦しないなら、彼は、苦しみに愉悦しません。彼が、苦しみに愉悦しないなら、『彼は、苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 生起の経

 

120. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それが、地の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。それが、水の界域の……略……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の、生起であり、止住であり、発現であり、出現であるなら、これは、苦しみの生起であり、諸々の病の止住であり、老と死の出現です。

 

 比丘たちよ、しかしながら、それが、まさに、地の界域の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です。それが、水の界域の……略……。それが、火の界域の……。それが、風の界域の、止滅であり、寂止であり、滅至であるなら、これは、苦しみの止滅であり、諸々の病の寂止であり、老と死の滅至です」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 沙門や婆羅門たちの経

 

121. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

122. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの界域です。どのようなものが、四つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの四つの界域の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

123. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、地の界域を覚知せず、地の界域の集起を覚知せず、地の界域の止滅を覚知せず、地の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……水の界域を覚知せず……火の界域を覚知せず……風の界域を覚知せず、風の界域の集起を覚知せず、風の界域の止滅を覚知せず、風の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、地の界域を覚知し、地の界域の集起を覚知し、地の界域の止滅を覚知し、地の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら……略……水の界域を覚知し……火の界域を覚知し……風の界域を覚知し、風の界域の集起を覚知し、風の界域の止滅を覚知し、風の界域の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第四の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つのもの、『過去において』があり、『歩みました』があり、そして、『もし、このことがないなら』があり、さらに、苦痛とともに、そして、愉悦、生起、三つの沙門や婆羅門たちがあり、〔章となる〕」と。

 

 界域に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

4(15). 始源が思い考えられないものに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 草と木の経

 

124. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、すなわち、この、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)にある草と木と枝と葉を、それを断ち切って、一所に集めて、それぞれが四アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の小片と為して、『これは、わたしの母である』『これは、わたしの、その母の母である』と置き据えるとします。比丘たちよ、その人の母の母たちは、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、この、ジャンブ洲にある草と木と枝と葉は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 地の経

 

125. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、この大いなる地を、それぞれが棗〔の実〕の核ほどの土団子と為して、『これは、わたしの父である』『これは、わたしの、その父の父である』と置き据えるとします。比丘たちよ、その人の父の父たちは、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、この大いなる地は、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 涙の経

 

126. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、母の死を経験しました。〔まさに〕その、あなたたちが(※)、母の死を経験していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、父の死を経験しました。……略……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、兄弟の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、姉妹の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、息子の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、娘の死を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、親族の災厄を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、財物の災厄を経験しました。……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちは、病の災厄を経験しました。〔まさに〕その、あなたたちが、病の災厄を経験していると、意に適わない者たちとの結合あることから、意に適う者たちとの別離あることから、泣き叫び泣き悲しみながら、満ち溢れ流れ出た涙です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

※ テキストには vā とあるが、以下に続く平行箇所により vo と読む(PTS版は、この箇所を省略)。

 

4. 乳の経

 

127. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、飲んできた母の乳です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 山の経

 

128. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……林園において。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)〔の量〕となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、カッパは。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、大いなる巌の山があり、広さとしては、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)となり、幅としては、〔一〕ヨージャナとなり、高さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、断絶なく、空洞なく、一なる厚きものとしてあるとします。〔まさに〕その、この〔山〕を、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、カーシ産の衣で、一回、一回、擦るとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、大いなる巌の山は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、カッパは、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、このように、長いのです──カッパは。比丘よ、まさに、このように、長い、諸々のカッパがあるなか、一つのカッパが輪廻されたのではありません。一つの百カッパが輪廻されたのではありません。一つの千カッパが輪廻されたのではありません。一つの百千のカッパが輪廻されたのではありません。それは、何を因とするのですか。比丘よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……。比丘よ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 芥子粒の経

 

129. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、カッパ〔の量〕となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、カッパは。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と……略……あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、鉄の城市があり、広さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、幅としては、〔一〕ヨージャナとなり、高さとしては、〔一〕ヨージャナとなり、諸々の芥子粒を団子に固めたものが満ちているとします。そこから、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、一つ一つの芥子粒を取り出すとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、大いなる芥子粒の集積物は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、カッパは、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、このように、長いのです──カッパは。比丘よ、まさに、このように、長い、諸々のカッパがあるなか、一つのカッパが輪廻されたのではありません。一つの百カッパが輪廻されたのではありません。一つの千カッパが輪廻されたのではありません。一つの百千のカッパが輪廻されたのではありません。それは、何を因とするのですか。比丘よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 弟子たちの経

 

130. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけ多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなったのですか」と。「比丘たちよ、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘たちよ、できます」と、世尊は言いました。「比丘たちよ、ここに、百年の寿命ある者たちであり、百年の生命ある者たちである、四者の弟子たちが存するとします。彼らが、毎日、毎日、百千のカッパを〔随念し〕、百千のカッパを随念するとします。比丘たちよ、彼らによって、まさしく、〔いまだ〕随念されていない、諸々のカッパが存するでしょう。そこで、まさに、それらの、百年の寿命ある者たちであり、百年の生命ある者たちである、四者の弟子たちは、百年が経過して、命を終えるでしょう。比丘たちよ、このように、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ガンガーの経

 

131. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どれだけ多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなったのですか」と。「婆羅門よ、まさに、多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、喩えを為すことはできますか」と。「婆羅門よ、できます」と、世尊は言いました。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、このガンガー川が、そして、そこから発出し、さらに、そこにおいて、大いなる海に注ぎ入る、この中途にある、その砂は、それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の砂となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の砂となる』と、〔計測できません〕。婆羅門よ、それよりも、まさに、より多くのカッパが、去り行くところとなり、超え行くところとなりました。それらは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。婆羅門よ、このように、長夜にわたり、まさに、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。婆羅門よ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 このように説かれたとき、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 棒の経

 

132. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、宙空高く投げられた棒が、一度はまた、根元から落ち、一度はまた、中間から落ち、一度はまた、先端から落ちるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明の妨害ある有情たちは、渇愛の束縛ある〔有情たちは〕、流転し輪廻しながら、一度はまた、この世から他の世に赴き、一度はまた、他の世からこの世に赴きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 人の経

 

133. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、一者の人が、カッパのあいだ、流転し輪廻しているとして、〔その〕骨の鎖は、〔その〕骨の塊は、〔その〕骨の集積物は、たとえば、この、ヴェープッラ山のように、このように、大いなるものとして存するでしょう。それで、もし、〔その骨を〕集める者が存するとして、しかしながら、運び込まれた〔骨〕が消えて無くなることはないでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一なるカッパのあいだ〔輪廻する〕一者の人の骨の積量は、『山に等しき集積物として存するであろう』と、偉大なる聖賢によって説かれた。

 

 また、まさに、このことが告げ知らされた。それは、『大いなるヴェープッラ山〔に等しきもの〕となり、マガダ〔国〕のギリッバジャ(ラージャガハの別名)にあるギッジャクータ〔山〕を超えるものとなる』〔と〕。

 

 しかしながら、すなわち、〔四つの〕聖なる真理(聖諦)を──苦しみを、苦しみの生起を、そして、苦しみの超越を、さらに、苦しみの寂止に至る、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を──正しい智慧(慧・般若)によって見ることから──

 

 その人は、最高でも七回、〔生と死の輪廻を〕流転して〔そののち〕、苦しみの終極を為す者と成る──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽あることから」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、草と木、地、涙、そして、乳、山、芥子粒、弟子たち、ガンガー、そして、棒があり、さらに、人とともに、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. 悪しき境遇の者の経

 

134. 世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、すなわち、悪しき境遇となり悪しき〔身体〕を具した者を、〔あなたたちが〕見るなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『この長時にわたり、わたしたちもまた、このような形態〔の境遇〕を経験したのだ』と。それは、何を因とするのですか。……略……。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 安楽の者の経

 

135. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、すなわち、安楽の者にして極めて福楽なる者を、〔あなたたちが〕見るなら、ここにおいて、結論に至るべきです。『この長時にわたり、わたしたちもまた、このような形態〔の境遇〕を経験したのだ』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 三十ばかりの者たちの経

 

136. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちが、全てが林にある者たちであり、全てが〔行乞の〕施食の者たちであり、全てが糞掃衣の者たちであり、全てが三つの衣料の者たちであるも、全てが束縛を有する者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちは、全てが林にある者たちであり、全てが〔行乞の〕施食の者たちであり、全てが糞掃衣の者たちであり、全てが三つの衣料の者たちであるも、全てが束縛を有する者たちである。それなら、さあ、わたしは、すなわち、まさしく、この坐において、彼らの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱するように、そのように、これらの者たちに、法(教え)を説示するのだ」と。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血ですか、あるいは、すなわち、四つの大いなる海にある水ですか」と。「尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちが、世尊によって説示された法(教え)を了知するとおりに、尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、わたしたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません」と。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、このように、わたしによって説示された法(教え)を了知します。比丘たちよ、これこそが、より多くあります。すなわち、あなたたちが、この長時にわたり、流転し輪廻しながら、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、牛として〔世に〕存しながら、牛たる生類として、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、水牛として〔世に〕存しながら、水牛たる生類として、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です……略……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、雄牛として〔世に〕存しながら、雄牛たる生類として……略……山羊として〔世に〕存しながら、山羊たる生類として……鹿として〔世に〕存しながら、鹿たる生類として……鶏として〔世に〕存しながら、鶏たる生類として……豚として〔世に〕存しながら、豚たる生類として……。比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『村を襲う盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『障害ある盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──比丘たちよ、長夜にわたり、あなたたちが、『他者の妻と交わる盗賊たちである』と捕捉されて、頭を断ち切られ、満ち溢れ流れ出た血です──まさしく、しかし、四つの大いなる海にある水ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、三十ばかりのパーヴァー〔の住者〕たる比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 母の経

 

137. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に母と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 父の経

 

138. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に父と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 兄弟の経

 

139. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に兄弟と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 姉妹の経

 

140. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に姉妹と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 息子の経

 

141. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に息子と成ったことなき者です。……略……解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 娘の経

 

142. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、その有情は、得るに易き形態の者ではありません──すなわち、この長時にわたり、過去に娘と成ったことなき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあるからです。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されないからです。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、あなたたちによって、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ヴェープッラ山の経

 

143. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないものとしてあります。無明の妨害ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『パーチーナヴァンサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『ティヴァラ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、ティヴァラなる人間たちには、四万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、ティヴァラなる人間たちは、パーチーナヴァンサ山に、四日で登り、四日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ヴィドゥラとサンジーヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『ヴァンカカ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『ローヒタッサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、ローヒタッサなる人間たちには、三万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、ローヒタッサなる人間たちは、ヴァンカカ山に、三日で登り、三日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊には、ビッヨーサとウッタラという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、このヴェープッラ山には、まさしく、『スパッサ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、人間たちには、まさしく、『スッピヤ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、スッピヤなる人間たちには、二万年の寿命の量が有りました。比丘たちよ、スッピヤなる人間たちは、スパッサ山に、二日で登り、二日で降ります。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、ティッサとバーラドヴァージャという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、見なさい。まさしく、そして、この山の、その呼称は消没し、かつまた、それらの人間たちは命を終え、さらに、その世尊は完全なる涅槃に到達したのです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。……略……解脱するに十分なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、まさに、今現在、このヴェープッラ山には、まさしく、『ヴェープッラ』という呼称が生起しました。比丘たちよ、また、まさに、今現在、これらの人間たちには、まさしく、『マーガダカ(マガダの者)』という呼称が生起しました。比丘たちよ、マーガダカなる人間たちの寿命の量は、少なく、僅かにして、軽きものであり、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。比丘たちよ、マーガダカなる人間たちは、ヴェープッラ山に、寸時で登り、寸時で降ります。比丘たちよ、また、まさに、今現在、わたしは、世に生起した阿羅漢にして正等覚者です。比丘たちよ、また、まさに、わたしには、サーリプッタとモッガッラーナという名の、組なる弟子があります──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、すなわち、まさしく、そして、この山の、この呼称が消没し、かつまた、これらの人間たちが命を終え、さらに、わたしが完全なる涅槃に到達することになる、その時が有るでしょう。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常住ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、常恒ならざるものです。比丘たちよ、このように、諸々の形成〔作用〕は、安堵なきものです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ティヴァラたちには、『パーチーナヴァンサ〔山〕』〔という呼称〕があり、ローヒタッサたちには、『ヴァンカカ〔山〕』〔という呼称〕があり、スッピヤたちには、『スパッサ〔山〕』という〔呼称〕があり、そして、マーガダカたちには、『ヴェープッラ〔山〕』〔という呼称〕がある。

 

 無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪しき境遇の者、まさしく、そして、安楽の者、三十〔ばかりの者たち〕、母があり、そして、父とともに、兄弟、姉妹、さらに、息子、娘、ヴェープッラ山があり、〔章となる〕」と。

 

 始源が思い考えられないものに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

5(16). カッサパに相応するもの

 

1. 満ち足りている者の経

 

144. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、衣料を得なくても、思い悩みません。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩みません。さらに、〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、臥坐具を得なくても、思い悩みません。さらに、臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、この者は、カッサパは、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩みません。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『いかなる衣料によっても満ち足りている者たちとして、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有るのだ。さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こさないのだ。そして、衣料を得なくても、思い悩まないのだ。さらに、衣料を得ても、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するのだ。(このように、全てが為されるべきである。)

 

 いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者たちとして……略……。いかなる臥坐所によっても満ち足りている者たちとして……略……。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者たちとして、そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有るのだ。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こさないのだ。そして、病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩まないのだ。さらに、病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと相同の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 〔良心の〕咎めなき者の経

 

145. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者サーリプッタは、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、まさに、この〔言葉〕が説かれます。『熱情なき者は、〔良心の〕咎めなき者は、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達の可能なき者である。しかしながら、まさに、熱情ある者は、〔良心の〕咎めある者は、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者である』と。

 

 友よ、いったい、まさに、どのようなことから、熱情なき者と成り、〔良心の〕咎めなき者と〔成り〕、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能なき者なのですか。また、そして、どのようなことから、熱情ある者と成り、〔良心の〕咎めある者と〔成り〕、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者なのですか」と。「友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為さず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為しません。友よ、このように、まさに、熱情なき者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔良心の〕咎めなき者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めず、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めません。友よ、このように、まさに、〔良心の〕咎めなき者と成ります。友よ、このように、まさに、熱情なき者は、〔良心の〕咎めなき者は、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能なき者です。

 

 友よ、では、どのように、熱情ある者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為し、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、熱勤を為し、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が……略……熱勤を為します。友よ、このように、まさに、熱情ある者と成ります。

 

 友よ、では、どのように、〔良心の〕咎めある者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)が生起しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)が捨棄されずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せずにあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎め、『わたしに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が止滅しつつあり、義(利益)ならざるもののために等しく転起するであろう』と、〔心が〕咎めます。友よ、このように、まさに、〔良心の〕咎めある者と成ります。友よ、このように、まさに、熱情ある者は、〔良心の〕咎めある者は、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 月の如き者たちの経

 

146. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、〔あなたたちは〕月の如き者たちとして、家々に近づいて行きなさい──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者たちとして、家々においては尊大ならざる者たちとして。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、身体を退去して、心を退去して、あるいは、古井戸を検分するように、あるいは、山の凹凸を〔検分するように〕、あるいは、川の難所を〔検分するように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔あなたたちは〕月の如き者たちとして、家々に近づいて行きなさい──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者たちとして、家々においては尊大ならざる者たちとして。

 

 比丘たちよ、カッサパは、月の如き者として、家々に近づいて行きます──まさしく、身体を退去して、心を退去して、常に新参の者として、家々においては尊大ならざる者として。比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘が、家々に近づいて行くに値するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、虚空において、手を動かしました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、この手が、虚空において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘が、家々に近づいて行きつつあるとして、〔彼の〕心は、家々において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されません。『利得を欲する者たちは、〔利得を〕得よ。功徳を欲する者たちは、諸々の功徳を作り為せ』と。すなわち、自らの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成るように〕、このように、他者たちの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成ります〕。比丘たちよ、このような形態の比丘は、まさに、家々に近づいて行くに値します。

 

 比丘たちよ、カッサパが、家々に近づいて行きつつあるとして、〔彼の〕心は、家々において、絡め取られず、捕捉されず、結縛されません。『利得を欲する者たちは、〔利得を〕得よ。功徳を欲する者たちは、諸々の功徳を作り為せ』と。すなわち、自らの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成るように〕、このように、他者たちの利得によって、わが意を得た者と成り、悦意の者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘には、完全なる清浄ならざる法(教え)の説示が有り、どのような形態の比丘には、完全なる清浄の法(教え)の説示が有るのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、浄信するべきである。さらに、浄信した者たちとして、わたしに、浄信の行相を作り為すべきである』と、比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘には、完全なる清浄ならざる法(教え)の説示が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、了知するべきである。また、さらに、了知して、そのとおりそのままに実践するべきである』と、かくのごとく、法(教え)の善き法(教え)たることを縁として、他者たちに、法(教え)を説示するなら、慈悲〔の思い〕を縁として、憐憫〔の思い〕を縁として、慈しみ〔の思い〕を抱いて、他者たちに、法(教え)を説示するなら、比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘には、完全なる清浄の法(教え)の説示が有ります。

 

 比丘たちよ、カッサパは、このような心の者として、他者たちに、法(教え)を説示します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、『ああ、まさに、〔彼らは〕わたしの法(教え)を聞くべきである。また、そして、法(教え)を聞いて、了知するべきである。また、さらに、了知して、そのとおりそのままに実践するべきである』と、かくのごとく、法(教え)の善き法(教え)たることを縁として、他者たちに、法(教え)を説示し、慈悲〔の思い〕を縁として、憐憫〔の思い〕を縁として、慈しみ〔の思い〕を抱いて、他者たちに、法(教え)を説示します。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと相同の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 家に親近ある者の経

 

147. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。どのような形態の比丘が、家に親近ある者と成るに値するのですか。どのような形態の比丘が、家に親近ある者と成るに値しないのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は……略……。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、このような心の者として、家々に近づいて行くなら、『わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行きつつある、その比丘に、〔人々が〕施さないなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。多くのものではなく、僅かなものを施すなら……略……。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら……略……。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、比丘は悩まされます。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知します。比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘は、家に親近ある者と成るに値しません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、このような心の者として、家々に近づいて行くなら、『それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。他者の家々において、「わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に(※)施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない」〔と思い考えたところで〕』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行きつつある、その比丘に、〔人々が〕施さないなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。多くのものではなく、僅かなものを施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、比丘は悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。比丘たちよ、まさに、このような形態の比丘は、家に親近ある者と成るに値します。

 

※ テキストには dīghaññeva とあるが、PTS版により sīghaññeva と読む。

 

 比丘たちよ、カッサパは、このような心の者として、家々に近づいて行きます。『それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。他者の家々において、「わたしに、まさしく、〔人々は〕施せ。施さないことがあってはならない。わたしに、まさしく、多くのものを施せ。僅かなものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、精妙なるものを施せ。粗末なものを〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、即座に施せ。遅鈍に〔施すことが〕あってはならない。わたしに、まさしく、恭しく施せ。恭しくなく〔施すことが〕あってはならない」〔と思い考えたところで〕』と、比丘たちよ、もし、このような心の者として、家々に近づいて行きつつある、そのカッサパに、〔人々が〕施さないなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。多くのものではなく、僅かなものを施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。精妙なるものではなく、粗末なものを施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。即座ではなく、遅鈍に施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。恭しくではなく、恭しくなく施すなら、それによって、カッサパは悩まされません。彼は、それを因縁として、苦痛と失意を得知しません。比丘たちよ、まさに、あるいは、カッサパ〔の実例〕によって、あなたたちに、〔わたしは〕教諭します。また、あるいは、すなわち、カッサパと相同の者が存しているなら、〔その者によって〕。また、そして、教諭されたあなたたちは、そのとおりそのままに実践するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 老いた者の経

 

148. このように、わたしは聞きました。……略……。ラージャガハのヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、今や、あなたは、老いた者として〔世に〕存しています。そして、あなたにとって、これらの捨てられた麻布の糞掃衣は重い。カッサパよ、それゆえに、ここに、あなたは、まさしく、そして、諸々の家長の衣料を保持し、かつまた、諸々の招待〔食〕を受益し、さらに、わたしの現前において住みなさい」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、糞掃衣の者であり、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、三つの衣料の者であり、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、少なき欲求の者であり、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、満ち足りている者であり、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、遠離している者であり、さらに、遠離の栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です」と。

 

 「カッサパよ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者なのですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です──そして、自己の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を正しく見ながら、さらに、後の人々を慈しみながら。まさしく、おそらく、まさに、後の人々は、随従する見解を惹起するでしょう。『すなわち、まさに、覚者に随覚した弟子たちとして〔世に〕有った、それらの者たちは、彼らは、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者たちとして、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちとして……略……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、糞掃衣の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、三つの衣料の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、少なき欲求の者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、満ち足りている者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、遠離している者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちとして……〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、精進に励む者たちとして、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのだ』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、これらの二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、長夜にわたり、まさしく、そして、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者であり……略……まさしく、そして、糞掃衣の者であり……まさしく、そして、三つの衣料の者であり……まさしく、そして、少なき欲求の者であり……まさしく、そして、満ち足りている者であり……まさしく、そして、遠離している者であり……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者であり……まさしく、そして、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者です」と。

 

 「カッサパよ、善きかな、善きかな。カッサパよ、まさに、あなたは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者です。カッサパよ、それゆえに、ここに、あなたは、まさしく、そして、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持し、かつまた、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、林において住みなさい」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 教諭の経

 

149. ラージャガハのヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです。尊き方よ、ここに、わたしは、そして、アーナンダの共住者であるバンダという名の比丘が、さらに、アヌルッダの共住者であるアビジカという名の比丘が、互いに他を、所聞によって説き伏せているのを見ました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。

 

 そこで、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、そして、アーナンダの共住者であるバンダ比丘に、さらに、アヌルッダの共住者であるアビジカ比丘に、〔彼らに〕告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。

 

 「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、互いに他を、所聞によって説き伏せるのですか。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、あなたたちは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。『比丘たちよ、さあ、あなたたちは、互いに他を、所聞によって説き伏せなさい。「比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか」』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、もし、まさに、あなたたちが、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しないのなら、愚人たちよ、そこで、それでは、どうして、あなたたちは、何を知りながら、何を見ながら、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者たちとして〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せるのですか。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしたちは、過誤を犯しました──あたかも、愚者たちであるかのように、あたかも、迷乱した者たちであるかのように、あたかも、智者ならざる者たちであるかのように。すなわち、わたしたちは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者として〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』と。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしたちの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「比丘たちよ、たしかに、あなたたちは、過誤を犯しました──あたかも、愚者たちであるかのように、あたかも、迷乱した者たちであるかのように、あたかも、智者ならざる者たちであるかのように。すなわち、あなたたちは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者として〔世に〕存しつつ、互いに他を、所聞によって説き伏せました。『比丘よ、さあ、誰が、より多く語るであろうか、誰が、より美しく語るであろうか、誰が、より長く語るであろうか』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたたちが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたたちの、その〔懺悔〕を受け容れます。比丘たちよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の教諭の経

 

150. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです。尊き方よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、黒分(月が欠ける期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても衰退し、円輪〔の観点〕によっても衰退し、光〔の観点〕によっても衰退し、高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 尊き方よ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『〔良心の〕咎めなき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『怠惰の人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『智慧浅き人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『忿激する人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。尊き方よ、『教諭者たる比丘たちが存在しない』とは、これは、遍き衰退です。

 

 尊き方よ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、白分(月が満ちる期間)における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 尊き方よ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『〔良心の〕咎めある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『精進に励む人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『智慧ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『忿激しない人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。尊き方よ、『教諭者たる比丘たちが存在する』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。

 

 「カッサパよ、善きかな、善きかな。カッサパよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、黒分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても……略……高さと広さ〔の観点〕によっても衰退するように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら……略……恥〔の思い〕が存在しないなら……〔良心の〕咎めが存在しないなら……精進が存在しないなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。カッサパよ、『信なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。カッサパよ、『恥〔の思い〕なき人士たる人』……略……『〔良心の〕咎めなき人士たる人』……『怠惰の人士たる人』……『智慧浅き人士たる人』……『忿激する人士たる人』……。カッサパよ、『怨恨〔の思い〕ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退です。カッサパよ、『教諭者たる比丘たちが存在しない』とは、これは、遍き衰退です。

 

 カッサパよ、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、白分における月には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、まさしく、色艶〔の観点〕によっても増大し、円輪〔の観点〕によっても増大し、光〔の観点〕によっても増大し、高さと広さ〔の観点〕によっても増大するように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在するなら……略……恥〔の思い〕が存在するなら……〔良心の〕咎めが存在するなら……精進が存在するなら……諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在するなら、彼には、すなわち、あるいは、夜が〔来るも〕、あるいは、昼が来るも、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 カッサパよ、『信ある人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。カッサパよ、『恥〔の思い〕ある人士たる人』……略……『〔良心の〕咎めある人士たる人』……『精進に励む人士たる人』……『智慧ある人士たる人』……『忿激しない人士たる人』……。カッサパよ、『怨恨〔の思い〕なき人士たる人』とは、これは、遍き衰退なきものです。カッサパよ、『教諭者たる比丘たちが存在する』とは、これは、遍き衰退なきものです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第三の教諭の経

 

151. ラージャガハのカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパに、世尊は、こう言いました。「カッサパよ、比丘たちに教諭しなさい。カッサパよ、比丘たちに、法(教え)の講話を為しなさい。カッサパよ、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに教諭するべきであり、あるいは、わたしか、あるいは、あなたか、〔どちらかが〕比丘たちに、法(教え)の講話を為すべきです」と。

 

 「尊き方よ、まさに、今現在、比丘たちは、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちです」と。「カッサパよ、また、まさに、そのようにあるも、過去において、長老の比丘たちは、まさしく、そして、林にある者たちとして、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちとして、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、糞掃衣の者たちとして、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、三つの衣料の者たちとして、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、少なき欲求の者たちとして、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、満ち足りている者たちとして、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、遠離している者たちとして、さらに、遠離の栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちとして、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのであり、まさしく、そして、精進に励む者たちとして、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちとして、〔世に〕有ったのです。

 

 そこで、すなわち、比丘が、まさしく、そして、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者として、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、糞掃衣の者として、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、三つの衣料の者として、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、少なき欲求の者として、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、満ち足りている者として、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、遠離している者として、さらに、遠離の栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者として、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者として、まさしく、そして、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招きます。『比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、学びを欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ』と。

 

 カッサパよ、そこで、新参の比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、その比丘が、まさしく、そして、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者として……略……まさしく、そして、糞掃衣の者として……まさしく、そして、三つの衣料の者として……まさしく、そして、少なき欲求の者として……まさしく、そして、満ち足りている者として……まさしく、そして、遠離している者として……まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者として……まさしく、そして、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招く。「比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、学びを欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ」』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 カッサパよ、いっぽう、今現在、長老の比丘たちは、まさしく、そして、林にある者たちではなく、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、〔行乞の〕施食の者たちではなく、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、糞掃衣の者たちではなく、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、三つの衣料の者たちではなく、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、少なき欲求の者たちではなく、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、満ち足りている者たちではなく、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、遠離している者たちではなく、さらに、遠離の栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、〔世俗と〕交わりなき者たちではなく、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者たちではなく、まさしく、そして、精進に励む者たちではなく、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者たちではありません。

 

 そこで、すなわち、比丘が、〔人々に〕知られた者であり、盛名ある者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招きます。『比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、梵行を共にする者を欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ』と。

 

 カッサパよ、そこで、新参の比丘たちに、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、その比丘が、〔人々に〕知られた者であり、盛名ある者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有るなら、彼を、長老の比丘たちは、坐に招く。「比丘よ、来たれ。この比丘は、どのような名の者ですか。まさに、この比丘は、幸いなる者です。まさに、この比丘は、梵行を共にする者を欲する者です。比丘よ、来たれ。この坐に坐りたまえ」』と。彼らは、そのとおりそのままに実践するでしょうし、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。カッサパよ、まさに、すなわち、そのことを、『梵行者たちは、梵行者の災禍によって悩まされ、梵行者たちは、梵行者の切望によって切望する者たちとなる』と、正しく説きつつ説くなら、カッサパよ、今現在、そのことを、『梵行者たちは、梵行者の災禍によって悩まされ、梵行者たちは、梵行者の切望によって切望する者たちとなる』と、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 瞑想と神知の経

 

152. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天耳の界域によって……略……遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)を、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 在所の経

 

153. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッサパは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、アーナンダよ、赴きなさい。あなたは、多くの義務があります。あなたは、多くの用事があります」と。再度また、尊者アーナンダは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、アーナンダよ、赴きなさい。あなたは、多くの義務があります。あなたは、多くの用事があります」と。三度また、尊者アーナンダは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「尊き方よ、カッサパよ、行きましょう。或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行くのです」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者アーナンダを随伴の沙門として、或るどこかの比丘尼たちの在所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、大勢の比丘尼たちが、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、尊者マハー・カッサパは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、それらの比丘尼たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、トゥッラティッサー比丘尼は、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。「また、どうして、尊貴なるマハー・カッサパは、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダの面前で、法(教え)を語るべきと思い考えるのでしょう。それは、たとえば、また、まさに、針商人が、針職人の現前において、針を売るべきと思い考えるかのように、まさしく、このように、尊貴なるマハー・カッサパは、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダの面前で、法(教え)を語るべきと思い考えます」と。

 

 まさに、尊者マハー・カッサパは、トゥッラティッサー比丘尼が語っている、この言葉を耳にしました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、わたしが、針商人なのでしょうか、あなたが、針職人なのでしょうか、それとも、わたしが、針職人なのでしょうか、あなたが、針商人なのでしょうか」と。「尊き方よ、カッサパよ、お許しください。女性は愚者なのです」と。「友よ、アーナンダよ、あなたは待ちなさい。僧団が、あなたのことを、より以上、近しく注視することがあってはいけません(過度の注目があってはならない)。

 

 友よ、アーナンダよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられましたか。『比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、アーナンダもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、まさに、わたしは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられました。『比丘たちよ、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます』と。……略……。(九つの順次の住の入定の〔詳細が〕、さらに、五つの神知の詳細が、このように知られるべきである。)

 

 友よ、アーナンダよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられましたか。『比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、アーナンダもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、まさに、わたしは、世尊の面前で、比丘の僧団において、取り上げられました。『比丘たちよ、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、カッサパもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。

 

 友よ、或る者が、わたしの六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を、覆い隠すべきと思い考えるなら、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の象を、あるいは、七ラタナ半の〔象を〕、ターラ〔樹〕の葉で覆い隠すべきと思い考えるでしょう」と。

 

 また、そして、トゥッラティッサー比丘尼は、梵行から死滅した、ということです。〔以上が〕第十となる。

 

11. 衣料の経

 

154. 或る時のことです。尊者マハー・カッサパは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、ダッキナーギリにおいて、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダの、三十ばかりの共住者の比丘たちが、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りした者(還俗者)たちと成ります──多くのところとして、年若く有る者たちです。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ダッキナーギリにおいて、喜びのままに、遊行〔の旅〕を歩んで、ラージャガハのヴェール林のカランダカ・ニヴァーパのあるところに、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、尊者マハー・カッサパは、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どれだけの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されたのですか」と。

 

 「尊き方よ、カッサパよ、まさに、三つの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されました──極めて〔心を〕惑わす人たちの制御のためと博愛なる比丘たちの平穏の住のために、悪しき欲求ある者たちが徒党を組んで僧団を分裂させることがあってはならないように、さらに、家々への憐憫〔の思い〕のために。尊き方よ、カッサパよ、まさに、これらの三つの義(利益)たる所以を縁として、世尊によって、家々において三者で食することが報知されました」と。

 

 「友よ、アーナンダよ、そこで、それでは、どうして、あなたは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちである、これらの新参の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩むのですか。思うに、〔あなたは〕作物を殲滅する〔道〕を歩むのです。思うに、〔あなたは〕家々を害障する〔道〕を歩むのです。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの衆は破損します。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの新人たちは崩壊します。まさしく、この年若き者は、量を了知しませんでした」と。

 

 「尊き方よ、カッサパよ、たとえ、わたしの頭に諸々の白髪が生えたとして、そこで、また、しかしながら、今日もまた、わたしたちは、尊者マハー・カッサパの少年向けのお説教から解き放たれません」と。「友よ、アーナンダよ、また、なぜなら、そのように、あなたは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちである、これらの新参の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩むからです。思うに、〔あなたは〕作物を殲滅する〔道〕を歩むからです。思うに、〔あなたは〕家々を害障する〔道〕を歩むからです。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの衆は破損します。友よ、アーナンダよ、まさに、あなたの新人たちは崩壊します。まさしく、この年若き者は、量を了知しませんでした」と。

 

 まさに、トゥッラナンダー比丘尼は、「どうやら、尊貴なるマハー・カッサパによって、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダが、少年向けのお説教で指弾されたらしい」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、トゥッラナンダー比丘尼は、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。「また、どうして、尊貴なるマハー・カッサパは、〔教えを〕他にする異教の過去ある者として〔世に〕存しつつ、賢き牟尼にして尊貴なるアーナンダを、少年向けのお説教で指弾するべきと思い考えるのでしょう」と。まさに、尊者マハー・カッサパは、トゥッラナンダー比丘尼が語っている、この言葉を耳にしました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、たしかに、トゥッラナンダー比丘尼によって、無理やり、審慮なき言葉が語られました。友よ、すなわち、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家したのちは、阿羅漢にして正等覚者たる世尊より、彼より、他に、他の者を、教師として指定することを(※)、〔わたしは〕証知しません(記憶しない)。友よ、過去において在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、諸々の布地の断片からなる大衣を作らせて、すなわち、世における阿羅漢たちである、彼らを〔師父に〕指定して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。

 

※ テキストには uddisitā とあるが、PTS版により uddisitu と読む。

 

 〔まさに〕その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、旅の道を行く者として、かつまた、ラージャガハの、かつまた、ナーランダーの、それぞれの中途にあるバフプッタ塔廟において、坐っている世尊を見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『そして、まさに、わたしが、教師を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである。かつまた、まさに、わたしが、善き至達者を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである。さらに、まさに、わたしが、正等覚者を見るべきであるなら、まさしく、世尊を見るべきである』と。友よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その場において、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています。尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています』と。友よ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『カッサパよ、すなわち、まさに、このように、一切の心を具備した弟子を、まさしく、知らずにいながら、「〔わたしは〕知る」と説くなら、まさしく、見ずにいながら、「〔わたしは〕見る」と説くなら、彼の頭もまた打ち砕かれるでしょう。カッサパよ、また、まさに、わたしは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と説き、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と説きます。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「強きものとして、わたしに、恥〔の思い〕()と〔良心の〕咎め()が現起するところと成るのだ──長老の者たちにたいし、新参の者たちにたいし、中堅の者たちにたいし」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「それが何であれ、善なるものを伴った法(教え)を聞くなら、その全てを、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞くのだ」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 カッサパよ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。「そして、わたしの身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)は、快楽(安楽)を共具したものとしてあり、衰退しないのだ」と。カッサパよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです』と。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊は、わたしを、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。友よ、まさに、わたしは、まさしく、七日のあいだ、相克を有する者として、国人による〔行乞の〕食を受けました。第八〔日〕に、了知が生起しました。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊は、道から入り込んで、或るどこかの木の根元に近づいて行きました。友よ、そこで、まさに、わたしは、諸々の布地の断片からなる大衣を四重に設けて、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、ここに坐ってください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう』と。友よ、まさに、世尊は、設けられた坐に坐りました。友よ、坐って、世尊は、まさに、わたしに、こう言いました。『カッサパよ、まさに、あなたの、この、諸々の布地の断片からなる大衣は柔らかい』と。『尊き方よ、世尊は、わたしの、諸々の布地の断片からなる大衣を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』と。『カッサパよ、いっぽう、あなたは、わたしの、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持することになります』と。『尊き方よ、わたしは、世尊の、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を保持します』と。友よ、それで、まさに、わたしは、諸々の布地の断片からなる大衣を、世尊に委ねました。いっぽう、わたしは、世尊の、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣を収めました。

 

 友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣が納受された者である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、わたしのこととして、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、諸々の捨てられた麻布の糞掃衣が納受された者である』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 友よ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、わたしは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて……略……。(九つの順次の住の入定の〔詳細が〕、さらに、五つの神知の詳細が、このように知られるべきである。)

 

 友よ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。友よ、或る者が、わたしの六つの神知を、覆い隠すべきと思い考えるなら、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)の象を、あるいは、七ラタナ半の〔象を〕、ターラ〔樹〕の葉で覆い隠すべきと思い考えるでしょう」と。

 

 また、そして、トゥッラナンダー比丘尼は、梵行から死滅した、ということです。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 「死後に」の経

 

155. 或る時のことです。かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者サーリプッタは、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このようにもまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「友よ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「友よ、まさに、このようにもまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。「友よ、では、何ゆえに、このことは、世尊によって説き明かされなかったのですか」と。「友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、世尊によって説き明かされなかったのです」と。

 

 「友よ、そこで、そうしますと、何が、世尊によって説き明かされたのですか」と。「友よ、『これは、苦しみである』と、まさに、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの集起である』と、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅である』と、世尊によって説き明かされました。『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、世尊によって説き明かされました」と。「友よ、では、何ゆえに、このことは、世尊によって説き明かされたのですか」と。「友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、このことは、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、世尊によって説き明かされたのです」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 正なる法の模造品の経

 

156. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・カッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、過去において、まさしく、そして、諸々の学びの境処(戒律)は、〔今よりも〕より少なく有ったのですか、さらに、比丘たちは、〔今よりも〕より多く、了知(阿羅漢果)において確立したのですか。尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、今現在、まさしく、そして、諸々の学びの境処は、〔過去よりも〕より多くあるのですか、さらに、比丘たちは、〔過去よりも〕より少なく、了知において確立するのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように、このことは(※)有ります。有情たちが退失しつつあるとき、正なる法(教え)が消没しつつあるとき、まさしく、そして、諸々の学びの境処は、〔過去よりも〕より多く有り、さらに、比丘たちは、〔過去よりも〕より少なく、了知において確立します。カッサパよ、すなわち、世において、正なる法(教え)の模造品が生起しない、それまでは、正なる法(教え)の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、正なる法(教え)の模造品が生起することから、そこで、正なる法(教え)の消没が有ります。

 

※ テキストには Evañceta とあるが、PTS版により Evañheta と読む。

 

 カッサパよ、それは、たとえば、また、すなわち、世において、金の模造品が生起しない、それまでは、世において、金の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、金の模造品が生起することから、そこで、金の消没が有るように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、世において、正なる法(教え)の模造品が生起しない、それまでは、正なる法(教え)の消没は有りません。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において、正なる法(教え)の模造品が生起することから、そこで、正なる法(教え)の消没が有ります。

 

 カッサパよ、まさに、地の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、水の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、火の界域が正なる法(教え)を消没させることはなく、風の界域が正なる法(教え)を消没させることはありません。そこで、まさに、すなわち、この正なる法(教え)を消没させる、それらの愚人たちが、まさしく、ここに、生起します。カッサパよ、それは、たとえば、また、船が、まさしく、最初から、沈むものとしてあるように、カッサパよ、まさに、このように、正なる法(教え)の消没が有るのではありません。

 

 カッサパよ、五つのものがあります。まさに、これらの堕落するべき法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。カッサパよ、ここに、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住みます。カッサパよ、まさに、これらの五つの堕落するべき法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 カッサパよ、五つのものがあります。まさに、これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。カッサパよ、ここに、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、禅定にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住みます。カッサパよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 カッサパに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、満ち足りている者、〔良心の〕咎めなき者、月の如き者たち、家に親近ある者、老いた者、そして、三つの教諭、瞑想と神知、在所、衣料、『死後に』があり、正なる法(教え)の模造品があり、〔それらの十三がある〕」と。

 

6(17). 利得と尊敬に相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 辛酸の経

 

157. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 釣針の経

 

158. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、漁師が、餌を付けた釣り針を深い湖水に投げ入れ、〔まさに〕その、この〔釣針〕を、或るどこかの餌を眼にする魚が飲み込むようなものです。比丘たちよ、まさに、このように、その魚は、漁師の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、漁師の欲するままに為される者となります。

 

 比丘たちよ、『漁師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『釣針』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、生起した利得と尊敬と名声を、味わい、欲するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔の釣針を飲み込み、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 亀の経

 

159. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、過去の事ですが、或るどこかの湖水において、大いなる亀の家系が、長き居住あるものとして〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、或るひとりの亀が、或るひとりの亀に、こう言いました。『親愛なる亀よ、まさに、あなたは、この地域に赴いてはいけません』と。比丘たちよ、まさに、その亀は、その地域に赴きました。〔まさに〕その、この〔亀〕を、猟師が、〔糸の付いた〕銛(もり)で貫きました。比丘たちよ、そこで、まさに、〔銛で貫かれた〕その亀は、〔忠告した〕その亀のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行きました。比丘たちよ、まさに、〔忠告した〕その亀は、〔銛で貫かれた〕その亀が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、〔銛で貫かれた〕その亀に、こう言いました。『親愛なる亀よ、どうでしょう、あなたは、その地域に赴きませんでしたか』と。『親愛なる亀よ、まさに、わたしは、その地域に赴きました』と。『親愛なる亀よ、また、どうなのでしょう、支障なき者として、損壊なき者として、〔あなたは〕存していますか』と。『親愛なる亀よ、まさに、支障なき者として、損壊なき者として、〔わたしは〕存しています。しかしながら、わたしに、この糸が存在します──背後から背後へと付き従うものとして』と。『親愛なる亀よ、〔あなたは〕存しています──たしかに、支障ある者として、たしかに、損壊ある者として。親愛なる亀よ、なぜなら、この糸によって、あなたの、そして、父たちも、さらに、祖父たちも、不幸を惹起し、災厄を惹起したからです。親愛なる亀よ、今や、あなたは、去りたまえ。今や、あなたは、わたしたちの〔朋友〕にあらず』と。

 

 比丘たちよ、『猟師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『〔糸の付いた〕銛』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、『糸』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、生起した利得と尊敬と名声を、味わい、欲するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、貪求ある者であり、〔糸の付いた〕銛によって、不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 長い毛の経

 

160. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、長い毛の雌羊が、棘ある茂みに入るようなものです。その〔雌羊〕は、そこかしこにおいて絡め取られ、そこかしこにおいて捕捉され、そこかしこにおいて結縛され、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼は、そこかしこにおいて絡め取られ、そこかしこにおいて捕捉され、そこかしこにおいて結縛され、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 糞虫の経

 

161. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞を食べ糞が充満し糞に満ち溢れた糞虫がいるとします。かつまた、その〔糞虫〕の前には、大いなる糞の堆積があるとします。その〔糞虫〕は、それによって、他の糞虫たちを軽んじます。『まさに、わたしは、糞を食べ糞が充満し糞に満ち溢れた者である。かつまた、わたしの前には、この大いなる糞の堆積がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。そして、彼は、そこにおいて、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ食べた者と成り、かつまた、翌日〔の食事〕に招かれ、さらに、彼の、〔行乞の〕施食は満ちています。彼は、林園に赴いて、比丘の衆徒の中で誇示します。『そして、〔わたしは〕義(目的)とするだけ食べた者として〔世に〕存し、かつまた、翌日〔の食事〕に招かれた者として〔世に〕存し、さらに、わたしの、この〔行乞の〕施食は満ちている。そして、〔わたしは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、功徳少なき者たちであり、権能少なき者たちであり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちにあらず』と。彼は、その利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、他の博愛なる比丘たちを軽んじます。比丘たちよ、まさに、その愚人にとって、それは、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 雷の経

 

162. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、雷電が、誰に到来せよというのでしょう(誰もそれを望まない)。〔いまだ〕学びある者に、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者に、利得と尊敬と名声が至り得よというのでしょう。

 

 比丘たちよ、『雷電』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 塗り毒の経

 

163. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、塗り毒を具した毒まみれの矢で、誰を貫けというのでしょう(誰もそれを望まない)。〔いまだ〕学びある者に、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者に、利得と尊敬と名声が至り得よというのでしょう。

 

 比丘たちよ、『矢』とは、まさに、これは、利得と尊敬と名声の同義語です。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 野狐の経

 

164. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐(ジャッカル)の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この老いた野狐は、ウッカンダカ(疥癬)という名の病の類に罹り、まさしく、洞窟に赴くも喜ばず、木の根元に赴くも喜ばず、野外に赴くも喜ばず、赴くところ〔赴く〕ところで、立つところ〔立つ〕ところで、坐るところ〔坐る〕ところで、横になるところ〔横になる〕ところで、そこかしこにおいて、不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、まさしく、空家に赴くも喜ばず、木の根元に赴くも喜ばず、野外に赴くも喜ばず、赴くところ〔赴く〕ところで、立つところ〔立つ〕ところで、坐るところ〔坐る〕ところで、横になるところ〔横になる〕ところで、そこかしこにおいて、不幸と災厄を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ヴェーランバの経

 

165. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、虚空の上に、ヴェーランバという名の諸々の風が吹きます。そこにおいて、すなわち、鳥が赴くなら、〔まさに〕その、この〔鳥〕を、諸々のヴェーランバの風が投げ放ちます。諸々のヴェーランバの風に投げ放たれた、その〔鳥〕の、まさしく、〔両の〕足は他へと赴き、〔両の〕翼は他へと赴き、頭は他へと赴き、身体は他へと赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づき()によって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能()によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。彼の、衣料を、他者たちが運び去り、鉢を、他者たちが運び去り、坐具を、他者たちが運び去り、針箱を、他者たちが運び去ります──諸々のヴェーランバの風に投げ放たれた鳥の〔肢体〕のように。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 詩偈を有するものの経

 

166. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人を見ます──〔他者からの〕尊敬に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを。比丘たちよ、また、ここに、わたしは、一部の人を見ます──〔他者からの〕尊敬なき〔状態〕に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを。比丘たちよ、また、ここに、わたしは、一部の人を見ます──かつまた、〔他者からの〕尊敬に、かつまた、〔他者からの〕尊敬なき〔状態〕に、その両者に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらに、同様に、〔他者から〕尊敬なくあるとして、〔彼の〕禅定(定・三昧)が動揺せず、不放逸の住者としてあるなら(※)──

 

※ テキストには appamāavihārino とあるが、PTS版により appamādavihārino と読む。

 

 〔まさに〕その、常久なる瞑想者を、繊細にして〔正しい〕見解ある観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕『正なる人士』と言う」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「辛酸、釣針、亀、そして、長い毛、糞虫、雷、塗り毒、野狐があり、ヴェーランバとともに、詩偈を有するものがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 第二の章

 

1. 金の鉢の経

 

167. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、銀粉に満ちた金の鉢を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 銀の鉢の経

 

168. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、金粉に満ちた銀の鉢を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3-10. スヴァンナ金貨の経等の八なるもの

 

169. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、スヴァンナ金貨を因としても……略……たとえ、百のスヴァンナ金貨を因としても……たとえ、シンギー金貨を因としても……たとえ、百のシンギー金貨を因としても……たとえ、地に遍く満ちる黄金を因としても……たとえ、何らかの或る財貨を因としても……たとえ、生命を因としても……たとえ、地方の美女を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの鉢、さらに、二つのスヴァンナがあり、他に、二つのシンギーとともに、地、何らかの或る〔財貨〕と生命があり、地方の美女とともに、〔それらの〕十がある」と。

 

3. 第三の章

 

1. 女性の経

 

170. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、或る女性が、或る者の、彼の心を完全に奪い去って止住しないとして、利得と尊敬と名声は、彼の心を完全に奪い去って止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 美女の経

 

171. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、或る地方の美女が、或る者の、彼の心を完全に奪い去って止住しないとして、利得と尊敬と名声は、彼の心を完全に奪い去って止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 独り子の経

 

172. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、信ある女性在俗信者は、愛しく意に適う独り子のことを、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『息子よ、そして、チッタ家長が、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である在俗信者たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、そして、チッタ家長であり、さらに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカです。『息子よ、それで、もし、まさに、あなたが、家から家なきへと出家するなら、息子よ、サーリプッタとモッガッラーナが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、サーリプッタとモッガッラーナです。『息子よ、しかしながら、まさに、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、あなたに、利得と尊敬と名声が至り得ることがあってはいけません』と。比丘たちよ、もし、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、その比丘に、利得と尊敬と名声が至り得るなら、それは、彼にとって、障りと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 独り娘の経

 

173. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり……略……到達の障りとなるものです。比丘たちよ、信ある女性在俗信者は、愛しく意に適う独り娘のことを、このように、正しく祈願しつつ祈願するべきです。『可愛い娘よ、そして、クッジュッタラー女性在俗信者が、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルが、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である女性在俗信者たちにとって、これは秤(はかり)であり、これは基準です。すなわち、この、そして、クッジュッタラー女性在俗信者であり、さらに、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータルです。『可愛い娘よ、それで、もし、まさに、あなたが、家から家なきへと出家するなら、可愛い娘よ、そして、ケーマー比丘尼が、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕が、そのようにあるように、〔あなたも〕そのような者と成れ』と。比丘たちよ、わたしの弟子である比丘尼たちにとって、これは秤であり、これは基準です。すなわち、この、そして、ケーマー比丘尼であり、さらに、ウッパラヴァンナー〔比丘尼〕です。『可愛い娘よ、しかしながら、まさに、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、あなたに、利得と尊敬と名声が至り得ることがあってはいけません』と。比丘たちよ、もし、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図するところに至り得ていない者である、その比丘尼に、利得と尊敬と名声が至り得るなら、それは、彼女にとって、障りと成ります。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 沙門や婆羅門たちの経

 

174. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、そして、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

175. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の沙門や婆羅門たちの経

 

176. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声を事実のとおりに覚知せず、利得と尊敬と名声の集起を覚知せず、利得と尊敬と名声の止滅を覚知せず、利得と尊敬と名声の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……覚知するなら……略……自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 表皮の経

 

177. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 縄の経

 

178. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な〔馬の〕毛の縄で、脛を巻いて引きずり、その〔縄〕が、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、表皮を断ち、表皮を断って、皮を断ち、皮を断って、肉を断ち、肉を断って、腱を断ち、腱を断って、骨を断ち、骨を断って、骨髄を損なって止住します。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 比丘の経

 

179. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、たとえ、その比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であるとして、彼にとってもまた、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きます」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、煩悩が滅尽した比丘の、何にとって、利得と尊敬と名声は、障りとなるのですか」と。「アーナンダよ、まさに、すなわち、彼の、その不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)ですが、それにとって、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、彼が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、諸々の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に到達するのですが、彼の、それら〔の安楽の住〕にとって、『利得と尊敬と名声は、障りとなる』と、わたしは説きます。アーナンダよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはないのだ』と。アーナンダよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第三の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、女性、美女、そして、子、そして、独り娘、三つの沙門や婆羅門たち、表皮、そして、縄があり、比丘とともに、〔章となる〕」と。

 

4. 第四の章

 

1. 「分裂させました」の経

 

180. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、僧団を分裂させました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 善なるものの根元の経

 

181. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの善なるものの根元は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 善なる法の経

 

182. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの善なる法(性質)は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 白の法の経

 

183. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸です。比丘たちよ、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタの白の法(性質)は、断絶に赴きました。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「立ち去ったすぐあとに」の経

 

184. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、芭蕉が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、竹が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、葦が、自己を打ち殺すために果を結び、滅び行くために果を結ぶように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、雌騾馬が、自己を打ち殺すために妊娠し、滅び行くために妊娠するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、自己を打ち殺すために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起し、滅び行くために、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声は生起しました」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔成熟した〕果は、まさに、芭蕉を損なう。〔成熟した〕果は、竹を〔損ない〕、〔成熟した〕果は、葦を〔損なう〕。あたかも、〔妊娠した〕胎が、雌騾馬を〔損なう〕ように、〔他者の〕尊敬は、悪しき人を損なう」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 五百の車の経

 

185. 世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴きます。さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせます。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴きます。さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせます」と。「比丘たちよ、デーヴァダッタの利得と尊敬と名声を羨んではいけません。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴くとして、さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせるとして、比丘たちよ、デーヴァダッタには、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、狂暴な山犬の鼻に胆汁を振りかけるなら、比丘たちよ、まさに、このように、その山犬は、より一層激しく、より狂暴に、存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、さてまた、何はともあれ、デーヴァダッタのために、アジャータサットゥ王子が、五百の車とともに、夕に、朝に、奉仕に赴くとして、さらに、食事の提供者となり、五百の〔献上用の〕盛り物を運ばせるとして、比丘たちよ、デーヴァダッタには、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸です。……略……。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 母の経

 

186. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、母を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8-13. 父の経等の六なるもの

 

187. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔彼の〕心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。『さてまた、この尊者は、たとえ、父を因としても……略……たとえ、兄弟を因としても……たとえ、姉妹を因としても……たとえ、子を因としても……たとえ、娘を因としても……たとえ、妻を因としても、正知しつつ虚偽を語ることはない』と。他時にあって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、利得と尊敬と名声に征服され、心が完全に奪い去られた者となり、正知しつつ虚偽を語っているのを。比丘たちよ、このように、まさに、利得と尊敬と名声は、辛酸であり、辛辣であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りとなるものです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『生起した利得と尊敬と名声を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。そして、生起した利得と尊敬と名声が、わたしたちの心を完全に奪い去って止住することはないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 〔以上が〕第四の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『分裂させました』があり、根元、二つの法(性質)、『立ち去った〔すぐあとに〕』があり、車、母、父、そして、兄弟、姉妹、子、娘、妻があり、〔章となる〕」と。

 

 利得と尊敬に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

7(18). ラーフラに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 眼の経

 

188. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略〔の観点〕によって、法(教え)を説示してください。すなわち、世尊の法(教え)を聞いて、わたしが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。

 

 「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいしてもまた厭離します。……。鼻にたいしてもまた厭離します。……。舌にたいしてもまた厭離します。……。身にたいしてもまた厭離します。……。意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 形態の経

 

189. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の音声は……。「諸々の臭気は……。「諸々の味感は……。「諸々の感触は……。「諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、諸々の形態にたいしてもまた厭離します。……。諸々の音声にたいしてもまた厭離します。……。諸々の臭気にたいしてもまた厭離します。……。諸々の味感にたいしてもまた厭離します。……。諸々の感触にたいしてもまた厭離します。……。諸々の法(意の対象)にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 識知〔作用〕の経

 

190. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の識知〔作用〕は……略……。「鼻の識知〔作用〕は……。「舌の識知〔作用〕は……。「身の識知〔作用〕は……。「意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。鼻の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。舌の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。身の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。意の識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 接触の経

 

191. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触は……略……。「鼻の接触は……。「舌の接触は……。「身の接触は……。「意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の接触にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の接触にたいしてもまた厭離します。……。鼻の接触にたいしてもまた厭離します。……。舌の接触にたいしてもまた厭離します。……。身の接触にたいしてもまた厭離します。……。意の接触にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 感受の経

 

192. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触から生じる感受は……略……。「鼻の接触から生じる感受は……。「舌の接触から生じる感受は……。「身の接触から生じる感受は……。「意の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼の接触から生じる感受にたいしてもまた厭離します。……略……。耳の……。鼻の……。舌の……。身の……。意の接触から生じる感受にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 表象の経

 

193. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の表象は……略……。「臭気の表象は……。「味感の表象は……。「感触の表象は……。「法(意の対象)の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の表象にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の表象にたいしてもまた厭離します。……。臭気の表象にたいしてもまた厭離します。……。味感の表象にたいしてもまた厭離します。……。感触の表象にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の表象にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 思欲の経

 

194. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の思欲は……略……。「臭気の思欲は……略……。「味感の思欲は……。「感触の思欲は……。「法(意の対象)の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の思欲にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の思欲にたいしてもまた厭離します。……。臭気の思欲にたいしてもまた厭離します。……。味感の思欲にたいしてもまた厭離します。……。感触の思欲にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の思欲にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 渇愛の経

 

195. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の渇愛は……略……。「臭気の渇愛は……。「味感の渇愛は……。「感触の渇愛は……。「法(意の対象)の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態の渇愛にたいしてもまた厭離します。……略……。音声の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。臭気の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。味感の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。感触の渇愛にたいしてもまた厭離します。……。法(意の対象)の渇愛にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 界域の経

 

196. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。地の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「水の界域は……略……。「火の界域は……。「風の界域は……。「虚空の界域は……。「識知〔作用〕の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、地の界域にたいしてもまた厭離します。……略……。水の界域にたいしてもまた厭離します。……。火の界域にたいしてもまた厭離します。……。風の界域にたいしてもまた厭離します。……。虚空の界域にたいしてもまた厭離します。……。識知〔作用〕の界域にたいしてもまた厭離します。……略……覚知します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 範疇の経

 

197. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離します。……略……。感受〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。表象〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離します。……。識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、接触があり、そして、感受とともに、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十がある」と。

 

2. 第二の章

 

1. 眼の経

 

198. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「耳は……略……。「鼻は……。「舌は……。「身は……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいしてもまた厭離します。……。鼻にたいしてもまた厭離します。……。舌にたいしてもまた厭離します。……。身にたいしてもまた厭離します。……。意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。(この省略によって、十の経典が作り為されるべきである。)〔以上が〕第一となる。

 

2-10. 形態等の経の九なるもの

 

199. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の音声は……。「諸々の臭気は……。「諸々の味感は……。「諸々の感触は……。「諸々の法(意の対象)は……。

 

 ……。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の識知〔作用〕は……。「鼻の識知〔作用〕は……。「舌の識知〔作用〕は……。「身の識知〔作用〕は……。「意の識知〔作用〕は……。

 

 ……。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触は……。「鼻の接触は……。「舌の接触は……。「身の接触は……。「意の接触は……。

 

 ……。眼の接触から生じる感受は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「耳の接触から生じる感受は……。「鼻の接触から生じる感受は……。「舌の接触から生じる感受は……。「身の接触から生じる感受は……。「意の接触から生じる感受は……。

 

 ……。形態の表象は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の表象は……。「臭気の表象は……。「味感の表象は……。「感触の表象は……。「法(意の対象)の表象は……。

 

 ……。形態の思欲は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の思欲は……。「臭気の思欲は……。「味感の思欲は……。「感触の思欲は……。「法(意の対象)の思欲は……。

 

 ……。形態の渇愛は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「音声の渇愛は……。「臭気の渇愛は……。「味感の渇愛は……。「感触の渇愛は……。「法(意の対象)の渇愛は……。

 

 ……。地の界域は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「水の界域は……。「火の界域は……。「風の界域は……。「虚空の界域は……。「識知〔作用〕の界域は……。

 

 ……。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「感受〔作用〕は……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「ラーフラよ、このように見ながら……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 悪習の経

 

200. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 離れ去ったものの経

 

201. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラーフラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成るのですか」と。「ラーフラよ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。

 

 それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。ラーフラよ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しの思量が離れ去り、意図は、種々に超越され、寂静となり、善く解脱したものと成ります」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼、そして、形態、識知〔作用〕、接触、そして、感受、表象、思欲、渇愛、界域があり、範疇とともに、それらの十があり、悪習、まさしく、そして、離れ去ったものがあり、それによって、章と呼ばれる」と。

 

 ラーフラに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

8(19). ラッカナに相応するもの

 

1. 第一の章

 

1. 骨の経

 

202. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者ラッカナは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山に住んでいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者ラッカナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッカナに、こう言いました。「友よ、ラッカナよ、行きましょう。ラージャガハに〔行乞の〕食のために入るのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山から降りつつ、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「友よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、笑みの表明があるのですか」と。「友よ、ラッカナよ、まさに、この問いのための時ではありません。世尊の現前において、わたしに、この問いを尋ねたまえ」と。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者ラッカナは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラッカナは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「ここに、尊者マハー・モッガッラーナは、ギッジャクータ山から降りつつ、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。友よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、笑みの表明があるのですか」と。

 

 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、骨の列が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔骨の列〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、諸々の肋骨の隙間から、啄み、引き裂き、引き離します。その〔骨の列〕は、まさに、苦悩の声を上げます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態のものとしてもまた、まさに、有情が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、夜叉が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得が〔世に〕有るとは』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、弟子たちは、眼と成った者たちとして〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、弟子たちは、知と成った者たちとして〔世に〕住みます。なぜなら、そこで、まさに、弟子は、このような形態のものを、あるいは、知るであろうし、あるいは、見るであろうし、あるいは、実証を為すであろうからです。比丘たちよ、まさしく、過去において、その有情は、わたしによって見られた者として〔世に〕有りました。しかしながら、また、わたしは、〔その有情のことを〕説き明かしませんでした。もし、わたしが、このことを説き明かすとして、しかしながら、他者たちは、わたしに信を置かないでしょう。彼らが、わたしに信を置かないなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠牛者として〔世に〕有りました。彼は、その行為の報い(業報)によって、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、このような形態の自己状態の獲得を得知します」と。(〔以下の〕全ての経典に、まさしく、これが省略となる。)〔以上が〕第一となる。

 

2. 〔肉〕片の経

 

203. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、肉片が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔肉片〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔肉片〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠牛者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔肉〕塊の経

 

204. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、肉塊が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔肉塊〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔肉塊〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、捕鳥者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 皮のない者の経

 

205. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、皮のない男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔皮のない男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔皮のない男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠羊者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 剣の毛の経

 

206. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、剣の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔剣の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔剣の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、屠豚者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 刃の経

 

207. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、刃の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔刃の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔刃の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、捕鹿者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 矢の経

 

208. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、矢の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔矢の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔矢の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、懲罰者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 針の毛の経

 

209. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、針の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔針の毛ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔針の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、馭者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の針の毛の経

 

210. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、針の毛ある男が宙空を赴いているのを見ました。その〔針の毛ある男〕の、それらの針の毛は、頭に突き入って、顔から出て行き、顔に突き入って、胸から出て行き、胸に突き入って、腹から出て行き、腹に突き入って、〔両の〕腿から出て行き、〔両の〕腿に突き入って、〔両の〕脛から出て行き、〔両の〕脛に突き入って、〔両の〕足から出て行きます。その〔針の毛ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、密告者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 瓶の睾丸の経

 

211. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、瓶の睾丸ある男が宙空を赴いているのを見ました。その〔瓶の睾丸ある男〕は、赴きつつあるもまた、まさしく、それらの睾丸を、肩に乗せて赴き、坐りつつあるもまた、まさしく、それらの睾丸のうえに、坐ります。〔まさに〕その、この〔瓶の睾丸ある男〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔瓶の睾丸ある男〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、村の詐欺師として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

 〔以上が〕第一の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「骨と〔肉〕片の両者は、屠牛者たちとして、〔肉〕塊は、捕鳥者として、皮のない者は、屠羊者として、剣〔の毛ある者〕は、屠豚者として、刃〔の毛ある者〕は、捕鹿者として、矢〔の毛ある者〕は、懲罰者として、針〔の毛ある者〕は、馭者として、そして、すなわち、〔針の毛で〕縫われる、まさに、その〔針の毛ある者〕は、密告者として、睾丸を運ぶ者は、村の詐欺師として、〔世に〕有った」と。

 

2. 第二の章

 

1. 「頭に至るまで」の経

 

212. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。ラージャガハのヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、糞坑のなかに頭に至るまで潜っている男を見ました。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、他者の妻と交わる者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第一となる。

 

2. 糞を喰う者の経

 

213. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、糞坑のなかに潜っている男が両の手で糞を喰っているのを見ました。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、〔心が〕汚れた婆羅門として〔世に〕有りました。彼は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、比丘の僧団を食事に招いて、諸々の桶を糞で満たして、こう言いました。『さあ、諸君よ、義(目的)とするだけ、まさしく、そして、食べたまえ、さらに、運び去りたまえ』と。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 皮のない女の経

 

214. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、皮のない女が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔皮のない女〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔皮のない女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、まさしく、このラージャガハにおいて、姦通者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 青白い者の経

 

215. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、悪臭がする青白い女が宙空を赴いているのを見ました。〔まさに〕その、この〔青白い女〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔青白い女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、まさしく、このラージャガハにおいて、占相者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 焼きただれた者の経

 

216. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、炒られ焼きただれ〔炭火を〕振りまかれた女が宙空を赴いているのを見ました。その〔焼きただれた女〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この女は、カリンガ王の第一王妃として〔世に〕有りました。彼女は、嫉妬〔の思い〕に支配され、敵〔の女〕に炭火を振りまきました。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 頭のない者の経

 

217. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、頭のない不具者が宙空を赴いているのを見ました。彼の胸には、まさしく、そして、〔両の〕眼が有り、さらに、口が〔有ります〕。〔まさに〕その、この〔頭のない不具者〕に、鷲たちもまた、烏たちもまた、鷹たちもまた、群集しては群集して、啄み、引き裂き、引き離します。その〔頭のない不具者〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この有情は、まさしく、このラージャガハにおいて、ハーリカという名の刑罰執行者として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 悪しき比丘の経

 

218. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、比丘が宙空を赴いているのを見ました。彼の、大衣もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、鉢もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、腰帯もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、身体もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成っています。その〔比丘〕は、まさに、苦悩の声を上げます。……略……。比丘たちよ、この比丘は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、悪しき比丘として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 悪しき比丘尼の経

 

219. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、比丘尼が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき比丘尼として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 悪しき学女の経

 

220. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、学女が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき学女として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 悪しき沙弥の経

 

221. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、沙弥が宙空を赴いているのを見ました。彼の、大衣もまた、燃え盛り……略……悪しき沙弥として〔世に〕有りました。……略……。〔以上が〕第十となる。

 

11. 悪しき沙弥尼の経

 

222. 「友よ、ここに、わたしは、ギッジャクータ山から降りつつ、沙弥尼が宙空を赴いているのを見ました。彼女の、大衣もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、鉢もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、腰帯もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成り、身体もまた、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成っています。その〔沙弥尼〕は、まさに、苦悩の声を上げます。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態のものとしてもまた、まさに、有情が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、夜叉が〔世に〕有るとは。このような形態のものとしてもまた、まさに、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得が〔世に〕有るとは』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、弟子たちは、眼と成った者たちとして〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、弟子たちは、知と成った者たちとして〔世に〕住みます。なぜなら、そこで、まさに、弟子は、このような形態のものを、あるいは、知るであろうし、あるいは、見るであろうし、あるいは、実証を為すであろうからです。比丘たちよ、まさしく、過去において、その沙弥尼は、わたしによって見られた者として〔世に〕有りました。しかしながら、また、わたしは、〔その沙弥尼のことを〕説き明かしませんでした。もし、わたしが、このことを説き明かすとして、しかしながら、他者たちは、わたしに信を置かないでしょう。彼らが、わたしに信を置かないなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。比丘たちよ、この沙弥尼は、カッサパ正等覚者の〔聖なる〕言葉あるとき、悪しき沙弥尼として〔世に〕有りました。彼女は、その行為の報いによって、幾年、幾百年、幾千年、幾百千年のあいだ、地獄において煮られました。まさしく、その行為の報いの残りによって、このような形態の自己状態の獲得を得知します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 〔以上が〕第二の章となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、〔糞〕坑のなかに潜っている者は、彼は、他者の妻と交わる者として、糞を喰う者は、〔心が〕汚れた婆羅門として、〔世に〕有った。

 

 皮のない女は、姦通者として〔世に〕有った。青白い女は、占相女として〔世に〕有った。

 

 焼きただれた者は、敵〔の女〕に炭火を振りまいた。頭を断たれた者は、刑罰執行者として〔世に〕有った。

 

 〔悪しき〕比丘と〔悪しき〕比丘尼と〔悪しき〕学女と〔悪しき〕沙弥は、さらに、〔悪しき〕沙弥尼は──

 

 〔彼らは〕カッサパ〔世尊〕の律において出家を〔得るも〕、まさしく、そのとき、悪しき行為を作り為した」と。

 

 ラッカナに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

9(20). 喩えに相応するもの

 

1. 屋頂の経

 

223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂の根絶あることから、それらの全てが根絶に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、無明を根元とするものであり、無明に集結するものであり、無明の根絶あることから、それらの全てが根絶に至ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 爪先の経

 

224. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、爪先に僅かな砂塵を載せて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より多くありますか。あるいは、すなわち、この、わたしが爪先に載せた僅かな砂塵ですか、あるいは、この、大いなる地ですか」と。「尊き方よ、これこそが、より多くあります。すなわち、この、大いなる地です。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、これは、少しばかりのものです。世尊が爪先に載せた僅かな砂塵は、大いなる地と比較して、計測にもまた至らず、比較にもまた至らず、小部分にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間たちより他に生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 家の経

 

225. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、何であれ、それらの家が、女が多く、男が少ないなら、それら〔の家〕は、押し込み強盗の盗賊たちによって砕破され易く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められず、多く為されていないなら、彼は、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちによって砕破され易く成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、何であれ、それらの家が、女が少なく、男が多いなら、それら〔の家〕は、押し込み強盗の盗賊たちによって砕破され難く成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為されたなら、彼は、人間ならざる者たちによって砕破され難く成ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 鍋の経

 

226. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、早刻時に、百の鍋を、布施として施し、すなわち、日中時に、百の鍋を、布施として施し、すなわち、夕刻時に、百の鍋を、布施として施すとして、あるいは、すなわち、早刻時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、あるいは、すなわち、日中時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、あるいは、すなわち、夕刻時に、もしくは、僅かばかりのあいだでさえも、慈愛の心を修めるなら、これは、それよりもより大いなる果となります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 刃の経

 

227. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、鋭い切っ先の刃があるとして、そこで、人がやってくるとします。『わたしは、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その人は、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させることが、可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この鋭い切っ先の刃を、あるいは、手で、あるいは、拳で、引き曲げ、折り曲げ、反転させることは、為し易くはないからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘に、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、もし、人間ならざる者が、彼の心を、投げ放つべきと思い考えるとして、そこで、まさに、まさしく、その人間ならざる者は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 弓の使い手の経

 

228. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちが存し、四方に立っているとします。そこで、人がやってくるとします。『わたしは、これらの四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちの四方から放たれた矢を、〔それらが〕地に着かないあいだに掴み取って持参するのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔彼には〕『速くある人として、最高の速さを具備した者』という言葉たるに十分なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、たとえ、もし、一者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人の放たれた矢を、〔それが〕地に着かないあいだに掴み取って持参するなら、〔それだけで〕『速くある人として、最高の速さを具備した者』という言葉たるに十分なるものがあります。四者の強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人たちのばあいは、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、そして、そのとおりに、その人の速さがあるなら、さらに、そのとおりに、月と日の速さは、それよりもより急速なるものとしてあります。比丘たちよ、そして、そのとおりに、その人の速さがあり、かつまた、そのとおりに、月と日の速さがあるなら、さらに、そのとおりに、それらの天神たちは月と日の前を走り、それらの天神たちの速さはあります。それよりもより急速なるものとして、諸々の寿命を形成する働き()は滅尽します。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 楔の経

 

229. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、過去の事ですが、ダサーラハ〔族〕の者たちに、アーナカという名の小鼓が有りました。ダサーラハ〔族〕の者たちは、アーナカが結束されたとき、それに、他の楔を設置しました。比丘たちよ、すなわち、アーナカ小鼓の古い皮と板が消没した、まさに、その時と成り、楔の群結だけが残りました。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、未来の時に、比丘たちは成るでしょう。すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとしないでしょうし、耳を傾けないでしょうし、了知のための心を現起させないでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えないでしょう。

 

 また、すなわち、それらの経典が、詩人たちによって作られた詩文にして、様々な文字や様々な文型ある、外部の弟子たちによって語られたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとするでしょうし、耳を傾けるでしょうし、了知のための心を現起させるでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えるでしょう。比丘たちよ、このように、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものである、これらの経典の消没が有るでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとするのだ、耳を傾けるのだ、了知のための心を現起させるのだ、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えるのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 丸太の経

 

230. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、今現在、リッチャヴィ〔族〕の者たちは、丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、鍛錬のうちに〔世に〕住みます。ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、彼らへの侵入〔の機会〕を得ず、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、未来の時には、リッチャヴィ〔族〕の者たちは、繊細なる者たちと〔成り〕、柔和で柔弱なる手足ある者たちと成るでしょう。彼らは、諸々の柔和なる臥所のなかで、諸々の綿の枕のうえで、日の出に至るまで、臥を営むでしょう。ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王は、彼らへの侵入〔の機会〕を得るでしょうし、〔侵入の〕対象を得るでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在、比丘たちは、丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住みます。悪魔パーピマントは、彼らへの侵入〔の機会〕を得ず、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、未来の時には、比丘たちは、繊細なる者たちと〔成り〕、柔和で柔弱なる手足ある者たちと成るでしょう。彼らは、諸々の柔和なる臥所のなかで、諸々の綿の枕のうえで、日の出に至るまで、臥を営むでしょう。悪魔パーピマントは、彼らへの侵入〔の機会〕を得るでしょうし、〔侵入の〕対象を得るでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕丸太を枕とし、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 象の経

 

231. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの新参の比丘が、限度を超えて家々に近づいて行きます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。「尊者は、限度を超えて家々に近づいて行ってはいけません」と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、このように言いました。「まさに、これらの長老の比丘たちが、まさに、家々に近づいて行くべきと思い考えるのです。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと」と。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの新参の比丘が、限度を超えて家々に近づいて行きます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。『尊者は、限度を超えて家々に近づいて行ってはいけません』と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、このように言いました。『まさに、これらの長老の比丘たちが、まさに、家々に近づいて行くべきと思い考えるのです。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』」と。

 

 「比丘たちよ、過去の事ですが、林所に大いなる湖沼があり、その〔湖沼〕に、象たちが近しく依拠して住んでいます。彼らは、その湖沼に入って行って、鼻で蓮の根茎を引き抜いて、善く洗い落としたものに洗い落として、泥のないものを噛んで飲み下します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成り、かつまた、活力のために〔成り〕、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、ありません。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、それらの大いなる象たちに随学しながら、幼い象の子獣たちが、その湖沼に入って行って、鼻で蓮の根茎を引き抜いて、善く洗い落としたものに洗い落とさずして、泥を有するものを噛まずして飲み下します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成らず、かつまた、活力のために〔成ら〕ず、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、長老の比丘たちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼らは、そこにおいて、法(教え)を語ります。彼らに、在家者たちは、浄信の行相を作り為します。彼らは、その利得を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成り、かつまた、活力のために〔成り〕、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、ありません。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、それらの長老の比丘たちに随学しながら、新参の比丘たちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。彼らは、そこにおいて、法(教え)を語ります。彼らに、在家者たちは、浄信の行相を作り為します。彼らは、その利得を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益します。彼らにとって、それは、まさしく、そして、色艶のために成らず、かつまた、活力のために〔成ら〕ず、さらに、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、その利得を、〔わたしたちは〕受益するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 山猫の経

 

232. サーヴァッティーに住んでおられます。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、限度を超えて家々にたいし関係を持ちます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。「尊者は、限度を超えて家々にたいし関係を持ってはいけません」と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、〔家々から〕離れません。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの比丘が、限度を超えて家々にたいし関係を持ちます。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言いました。『尊者は、限度を超えて家々にたいし関係を持ってはいけません』と。その比丘は、比丘たちに説かれながら、〔家々から〕離れません」と。

 

 「比丘たちよ、過去の事ですが、隙間やどぶやごみためで、柔らかな鼠を狙いながら、止住している山猫が有りました。『すなわち、この柔らかな鼠が、餌場へと出て行くとき、まさしく、そこにおいて、その〔鼠〕を捕らえて喰うのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その柔らかな鼠は、餌場へと出て行きました。〔まさに〕その、この〔鼠〕を、山猫は捕らえて、無理やり、噛まずして飲み下しました。その柔らかな鼠は、その〔山猫〕の、腸をもまた喰い、腸間膜をもまた喰いました。その〔山猫〕は、それを因縁として、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇しました〕。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、それを因縁として、あるいは、死に遭遇し、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇します〕。比丘たちよ、まさに、これは、聖者の律における死です──すなわち、〔彼が〕学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのは。比丘たちよ、まさに、これは、死ぬほどの苦しみです──すなわち、この、〔彼が〕何らかの或る汚染された罪を惹起するのは。そのような形態の罪からの出起が覚知されるも。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入るのだ──まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起されている気づきによって、諸々の統御されている〔感官の〕機能によって』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 野狐の経

 

233. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この老いた野狐は、ウッカンダカ(疥癬)という名の病の類に罹っています。彼は、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに赴き、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに立ち、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに坐り、求めるところ〔求める〕ところに、そこかしこに横になるも、彼にはまた、冷たい風が吹き渡ります。比丘たちよ、すなわち、ここに、一部の〔自らを〕釈子(仏弟子)と明言する〔悪しき比丘〕が、たとえ、このような形態のものであれ、自己状態の獲得を得知できるなら、まさに、善きこととして存するでしょう。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕不放逸の者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 第二の野狐の経

 

234. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、夜の早朝の時分に、吠えている老いた野狐の〔声を〕聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、その老いた野狐においては、それが何であれ、恩を知り恩を感じることが存するでしょうが、まさしく、しかし、ここに、一部の〔自らを〕釈子と明言する〔悪しき比丘〕においては、それが何であれ、恩を知り恩を感じることは存するべくもありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕恩を知り恩を感じる者たちとして〔世に〕有るのだ。そして、まさに、わたしたちにたいし為されたことは、たとえ、僅かでも消失しないのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 喩えに相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「屋頂、爪先、家、鍋、刃、弓の使い手、楔、丸太、象、山猫、二つの野狐があり、〔それらの十二がある〕」と。

 

10(21). 比丘に相応するもの

 

1. コーリタ(マハー・モッガッラーナ)の経

 

235. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。

 

 尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「友よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『「聖なる沈黙の状態」「聖なる沈黙の状態」と説かれる。いったい、まさに、どのようなものが、聖なる沈黙の状態なのだろうか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。これは、「聖なる沈黙の状態」と説かれる』と。友よ、それで、まさに、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みました。友よ、〔まさに〕その、わたしが、この住によって〔世に〕住んでいると、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となります。

 

 友よ、そこで、まさに、世尊が、わたしのもとに、神通によって近づいて行って、こう言いました。『モッガッラーナよ、モッガッラーナよ、婆羅門よ、聖なる沈黙の状態に放逸であってはいけません。聖なる沈黙の状態において、心を確立させなさい。聖なる沈黙の状態において、心を専一なる状態に作り為しなさい。聖なる沈黙の状態において、心を定めなさい』と。友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、すなわち、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『教師によって資助された弟子にして、大いなる神知たることに至り得た者である』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ウパティッサ(サーリプッタ)の経

 

236. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、ここに、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『それの変化と他なる状態あることから、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する、〔まさに〕その、何らかのものが、世において、いったい、まさに、存在するのだろうか』と。友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それの変化と他なる状態あることから、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する、〔まさに〕その、何らかのものは、世において、まさに、存在しない』と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、教師(ブッダ)の変化と他なる状態あることからもまた、まさに、あなたに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は生起しないのですか」と。「友よ、教師の変化と他なる状態あることからもまた、まさに、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は生起しないでしょう。また、しかしながら、わたしに、このような〔思いが〕存するでしょう。『ああ、まさに、〔世の〕教師たる方が消没したのだ──偉大なる権能ある方が、偉大なる神通ある方が、偉大なる威力ある方が。まさに、それで、もし、世尊が、長きにわたり、長時のあいだ、〔世に〕止住するなら、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、それは存するであろう』」と。また、なぜなら、そのように、尊者サーリプッタの、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は、長夜にわたり、善く完破されたからであり、それゆえに、教師の変化と他なる状態あることからもまた、尊者サーリプッタに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は生起するべくもない、ということです。〔以上が〕第二となる。

 

3. 瓶の経

 

237. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて、同じ精舎(僧房)のなかに。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。

 

 「友よ、モッガッラーナよ、まさに、あなたには、澄浄になった諸々の〔感官の〕機能があり、完全なる清浄にして完全なる清白の顔色があります。まちがいなく、尊者マハー・モッガッラーナは、今日、寂静の住によって〔世に〕住みました」と。「友よ、まさに、わたしは、今日、粗雑なる住によって〔世に〕住みました。しかしながら、また、わたしに、法(教え)の議論が有りました」と。「また、誰を相手に、尊者マハー・モッガッラーナに、法(教え)の議論が有ったのですか」と。「友よ、世尊を相手に、まさに、わたしに、法(教え)の議論が有りました」と。「友よ、まさに、世尊は、今現在、遠くにあり、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。いったい、まさに、どうなのでしょう、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊のもとに、神通によって近づいて行ったのですか、それとも、世尊が、尊者マハー・モッガッラーナのもとに、神通によって近づいて行ったのですか」と。「友よ、まさに、わたしが、世尊のもとに、神通によって近づいて行ったのではなく、世尊が、わたしのもとに、神通によって近づいて行ったのでもまたありません。しかしながら、また、わたしの天眼は、すなわち、世尊に至るまで、このかぎりにおいて、清浄となりました──さらに、天耳の界域も。世尊の天眼もまた、すなわち、わたしに至るまで、このかぎりにおいて、清浄となりました──さらに、天耳の界域も」と。「また、すなわち、どのように、尊者マハー・モッガッラーナに、世尊を相手に、法(教え)の議論が有ったのですか」と。

 

 「友よ、ここに、わたしは、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、「精進に励む者」「精進に励む者」と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、精進に励む者と成るのですか』と。友よ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『モッガッラーナよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と。モッガッラーナよ、このように、まさに、精進に励む者と成ります』と。友よ、このように、まさに、わたしに、世尊を相手に、法(教え)の議論が有りました」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)にとって、小さな石粒が、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあるように、まさしく、このように、まさに、わたしたちは、尊者マハー・モッガッラーナにとって、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあります。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、大いなる権能ある者であり、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者であり、望んでいるなら、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、〔世に〕止住できます」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、大いなる塩の瓶にとって、小さな塩粒が、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあるように、まさしく、このように、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタにとって、ただの引き立て役として、まさしく、そのかぎりにおいてあります。まさに、尊者サーリプッタは、世尊によって、無数の教相をもって、賛嘆され、褒め称えられ、賞賛されました。

 

 〔すなわち〕『サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するであろう』」と。

 

 まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者は、互いに他の見事に語られ見事に談じられたものを等しく随喜した、ということです。〔以上が〕第三となる。

 

4. 新参の者の経

 

238. サーヴァッティーに住んでおられます。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの新参の比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、或るひとりの新参の比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、その比丘に告げなさい。『友よ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、世尊に答えて、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、こう言いました。「友よ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘よ、本当に、まさに、あなたは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入って、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠るのですか──衣料を作る時であるのに、比丘たちの務めを為さずに」と。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、自らの為すべきことを為します」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その比丘の心の思索を了知して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、この比丘を譴責してはいけません。比丘たちよ、まさに、この比丘は、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者であり、苦難なく得る者であり、困難なく得る者であり、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「これは、緩慢に励んで、にあらず──これは、僅かな強さによって、にあらず──到達するべき涅槃は、全ての苦しみの解き放ちは。

 

 そして、この年少の比丘は、この最上の人士たる者は、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. スジャータの経

 

239. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者スジャータが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者スジャータが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさしく、両者によって、この良家の子息は、美しく輝きます。そして、すなわち、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、この比丘は、美しく輝く──真っすぐに成った心によって。別離した者であり、束縛を離れた者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ラクンダカ・バッディヤの経

 

240. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ラクンダカ・バッディヤが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者ラクンダカ・バッディヤが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──醜き色艶の、醜き外見の、猫背で、比丘たちに貶められている様子の、この比丘がやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この比丘は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。そして、すなわち、その比丘が過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定(等持)は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「白鳥たちも、白鷺たちも、さらに、孔雀たちも、象たちも、斑ある鹿たちも、全ての者たちが、獅子に恐怖する──身体における対比は、〔ここに〕存在せず。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、たとえ、もし、年少の者なるも、智慧ある者であるなら、まさに、彼は、そこにおいて、偉大なる者と成る。〔美しい〕肉体ある愚者は、まさしく、さにあらず」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ヴィサーカの経

 

241. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させるのですか。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。「尊き方よ、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ヴィサーカ・パンチャーラプッタに、こう言いました。「ヴィサーカよ、善きかな、善きかな。ヴィサーカよ、善きかな、まさに、あなたは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し……略……義(意味)を識知させる、究竟にして、〔何にも〕依拠することなき、〔そのような〕言葉によって」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「賢者が愚者たちと混ざり合い、語らずにいるなら、〔彼のことを、人々が〕知ることはない。しかしながら、不死の境処を説示し語っているなら、〔彼のことを、人々は〕知る。

 

 〔彼は〕語るであろう、顕示するであろう、差し出すであろう──聖賢たちの旗である法(教え)を。見事に語られた旗あるのが、聖賢たちである。まさに、法(教え)は、聖賢たちの旗である」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ナンダの経

 

242. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊の母方の叔母の子である尊者ナンダが、表裏に打ち叩かれた諸々の衣料を着込んで、〔両の〕眼に〔黒の〕塗料をつけて、輝く鉢を取って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ナンダに、世尊は、こう言いました。「ナンダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、表裏に打ち叩かれた諸々の衣料を着込むことであり、そして、〔両の〕眼に〔黒の〕塗料をつけることであり、さらに、輝く鉢を保持することです。ナンダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることです。すなわち、あなたが、かつまた、林にある者として、かつまた、〔行乞の〕施食の者として、かつまた、糞掃衣の者として、〔世に〕存することであり、そして、諸々の欲望〔の対象〕に期待なき者となり、〔世に〕住むことです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。……略……教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「わたしは、いつ、ナンダを見るのだろう──林にある糞掃衣の〔ナンダ〕を、知られざる落穂によって〔身を〕保ち行く〔ナンダ〕を、諸々の欲望〔の対象〕に期待なき〔ナンダ〕を」と。

 

 そこで、まさに、尊者ナンダは、他時にあって、かつまた、林にある者として、かつまた、〔行乞の〕施食の者として、かつまた、糞掃衣の者として、そして、諸々の欲望〔の対象〕に期待なきとなり、〔世に〕住んだ、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. ティッサの経

 

243. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊の父方の叔母の子である尊者ティッサが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました──苦痛の者となり、失意の者となり、諸々の涙をこぼしながら。そこで、まさに、世尊は、尊者ティッサに、こう言いました。「ティッサよ、いったい、まさに、どうして、あなたは、一方に坐っているのですか──苦痛の者となり、失意の者となり、諸々の涙をこぼしながら」と。「尊き方よ、また、なぜなら、そのように、比丘たちが、わたしに、遍きにわたり、嘲笑の言葉でもって皮肉を為したからです」と。「ティッサよ、また、まさに、そのように、あなたは、説き手としてあるも、しかしながら、言葉に忍耐ある者ではありません。ティッサよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、説き手としてあるも、しかしながら、言葉に忍耐ある者ではないことです。ティッサよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることです。すなわち、あなたが、かつまた、説き手として、かつまた、言葉に忍耐ある者として、〔世に〕存することです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「いったい、どうして、〔あなたは〕忿激するのか。忿激してはならない。ティッサよ、忿激なくあるのは、あなたにとって優れている。ティッサよ、なぜなら、梵行は、忿激と思量と偽装の調伏を義(目的)として住されるからである」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. テーラという名の者の経

 

244. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、テーラという名の或るひとりの比丘が、まさしく、そして、独住者として、さらに、独住の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。彼は、独り、村に、〔行乞の〕食のために入り、独り、戻り、独り、静所に坐り、独り、歩行〔瞑想〕に従事します。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、テーラという名の或るひとりの比丘が、独住者としてあります──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、テーラ比丘に告げなさい。『友よ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と。まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者テーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、テーラ比丘に、こう言いました。「友よ、テーラよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者テーラは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者テーラに、世尊は、こう言いました。「テーラよ、本当に、まさに、あなたは、独住者としてあるのですか──さらに、独住の栄誉を説く者として」。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「テーラよ、また、すなわち、どのように、あなたは、独住者としてあるのですか──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。「尊き方よ、ここに、わたしは、独り、村に、〔行乞の〕食のために入り、独り、戻り、独り、静所に坐り、独り、歩行〔瞑想〕に従事します。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、独住者としてあります──さらに、独住の栄誉を説く者として」と。

 

 「テーラよ、『これは、独住として存在する。これが、〔独住として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。テーラよ、そして、また、すなわち、独住が、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに……略……。「テーラよ、では、どのように、独住は、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成るのですか。テーラよ、ここに、それが過去のものであるなら、それは捨棄され、それが未来のものであるなら、それは放棄され、そして、諸々の現在の自己状態の獲得にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が善く取り除かれているなら、テーラよ、このように、まさに、独住は、詳細〔の観点〕によって、円満成就したものと成ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「一切を征服し、一切を知る、思慮深き者を、一切の法(事象)に汚されない者を、一切を捨棄し、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者を──わたしは、その人を『独住者』と説く」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. マハー・カッピナの経

 

245. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者マハー・カッピナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者マハー・カッピナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──色白く、痩身で、高い鼻の、この比丘がやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、この比丘は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。そして、すなわち、その比丘が過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる。

 

 日は、昼に輝き、月は、夜に明らむ。士族は、武装者として輝き、婆羅門は、瞑想者として輝く。そこで、覚者は、昼夜全てに、威光によって輝く」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 道友の経

 

246. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者マハー・カッピナの共住者である、二者の道友の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、それらの比丘たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──カッピナの共住者である、これらの道友の比丘たちがやってくるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、これらの比丘たちは、彼らは、大いなる神通ある者たちであり、大いなる威力ある者たちであり、そして、すなわち、それらの比丘たちが過去に入定したことのない、〔まさに〕その入定は、得るに易き形態のものではなく、さらに、すなわち、〔その〕義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、これらの道友の比丘たちは、長夜にわたり、共に赴く者たちとしてあり、彼らの正なる法(教え)は合致する──覚者によって知らされた法(教え)において。

 

 カッピナに善く教導された者たちであり、聖者によって知らされた法(教え)において、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 比丘に相応するものは〔以上で〕完結となる。

 

 その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「コーリタ、そして、ウパティッサ、さらに、また、瓶と呼ばれ、新参の者、スジャータ、そして、バッディ(ラクンダカ・バッディヤ)、ヴィサーカ、ナンダ、そして、ティッサ、そして、テーラという名の者、カッピナがあり、さらに、道友とともに、〔それらの〕十二がある」と。

 

 因縁の部(因縁篇)が第二となる。

 

 その〔部〕のための摂頌となる

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「因縁と知悉と界域があり、始源が思い考えられないものとともに、カッサパ、尊敬とラーフラとラッカナがあり、喩えと比丘とともに、部となる」と。

 

 それによって、第二と呼ばれる、ということで──

 

 因縁の部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。