小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

2. ダンマパダ聖典(法句経)

 

【目次】

 

1. 対なるものの章(1.~)

2. 怠らないことの章(21.~)

3. 心の章(33.~)

4. 花の章(44.~)

5. 愚者の章(60.~)

6. 賢者の章(76.~)

7. 阿羅漢の章(90.~)

8. 千の章(100.~)

9. 悪の章(116.~)

10. 棒の章(129.~)

11. 老の章(146.~)

12. 自己の章(157.~)

13. 世の章(167.~)

14. 覚者の章(179.~)

15. 安楽の章(197.~)

16. 愛しいものの章(209.~)

17. 忿激の章(221.~)

18. 垢の章(235.~)

19. 法に依って立つ者の章(256.~)

20. 道の章(273.~)

21. 雑駁なるものの章(290.~)

22. 地獄の章(306.~)

23. 象の章(320.~)

24. 渇愛の章(334.~)

25. 比丘の章(360.~)

26. 婆羅門の章(383.~)

 


 

 

2. ダンマパダ聖典(法句経)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 対なるものの章

 

1. 諸々の法(事象)は、意を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、苦しみが従い行く──〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡に、車輪が〔付き従う〕ように。

 

2. 諸々の法(事象)は、意を先行〔の因〕とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、楽しみが従い行く──影が離れないように。

 

3. 「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、そして、彼らが、彼を怨むなら、彼らの怨みは静まることがない。

 

4. 「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、そして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨みは止み静まる。

 

5. まさに、〔怨みにたいし〕怨みをもって〔為すなら〕、諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕、〔諸々の怨みは〕静まる──これは、永遠の法(真理)である。

 

6. しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。そして、彼らが、そこにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。

 

7. 浄美の随観者(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、諸々の〔感官の〕機能()において統御されていない者を、さらに、食について量を知らない者を、怠惰で精進に劣る者を、彼を、まさに、悪魔は打ち負かす──風が、力の弱い木を〔倒す〕ように。

 

8. 不浄の随観者(不浄のものを「美しくなく価値がない」と見る者)として〔世に〕住んでいる者を、諸々の〔感官の〕機能において善く統御された者を、さらに、食について量を知る者を、信があり精進に励む者を、彼を、まさに、悪魔は打ち負かさない──風が、山の巌(いわお)を〔倒そうとして倒せない〕ように。

 

9. すなわち、無濁ならざる者が、黄褐色の衣(袈裟)をまとうとして、調御と真理()から離れた者は、彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。

 

10. しかしながら、すなわち、汚濁を吐き捨てた者として〔世に〕存し、諸戒において〔心が〕善く定められたなら、調御と真理を具した者は、彼は、まさに、黄褐色〔の衣〕に値する。

 

11. 真髄(:真実・本質)なきものについて真髄と思い、さらに、真髄あるものについて真髄なきと見る者たち──誤った思惟(邪思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達しない。

 

12. しかしながら、真髄を真髄と知って、さらに、真髄なきものを真髄なきものと〔見る者たち〕──正しい思惟(正思惟)を境涯とする者たちは、彼らは、〔法の〕真髄に到達する。

 

13. すなわち、〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。

 

14. すなわち、〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。

 

15. 悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕憂い悲しみ、死してのち憂い悲しむ。〔すなわち〕両所において憂い悲しむ。彼は、〔この世において〕憂い悲しみ、彼は、〔死してのち〕打ちのめされる──自己の行為()の汚れを見て。

 

16. 善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕歓喜し、死してのち歓喜する。〔すなわち〕両所において歓喜する。彼は、〔この世において〕歓喜し、彼は、〔死してのち〕大いに歓喜する──自己の行為の清浄を見て。

 

17. 悪しき〔行為〕を為す者は、この〔世において〕悩み苦しみ、死してのち悩み苦しむ。〔すなわち〕両所において悩み苦しむ。〔この世では〕「わたしは、悪を為した(悪業を作った)」と悩み苦しみ、〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴き、より一層、悩み苦しむ。

 

18. 善き〔行為〕を為した者は、この〔世において〕愉悦し、死してのち愉悦する。〔すなわち〕両所において愉悦する。〔この世では〕「わたしは、善を為した(功徳を作った)」と愉悦し、〔死後は〕善き境遇(善趣)に赴き、より一層、愉悦する。

 

19. たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を多く語るも、それを為す者と成らないなら、怠る人である。他者たちの牛を数えている牛飼いのようなものであり、沙門(修行者)の資質を分け持つ者には成らない。

 

20. たとえ、もし、益を有する〔聖典の言葉〕を僅かに語るも、法(教え)を法(教え)のままに行なう者として〔世に〕有るなら、そして、貪欲()を、かつまた、憤怒()を、迷妄()を捨棄して、心が善く解脱した正知の者は、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取せずにいる者であり、彼は、沙門の資質を分け持つ者と成る。

 

 対なるものの章が第一となり、〔以上で〕終了となる。

 

2. 怠らないことの章

 

21. 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)は、不死の境処である。怠ること(放逸)は、死魔の境処である。〔気づきを〕怠らない者たちは、死ぬことがない(常に目覚めている)。〔気づきを〕怠る者たちは、彼らは、死んだままである。

 

22. 怠らないことについて、賢者たちは、このように、「殊勝のものである」と知って、〔気づきを〕怠らないことに歓喜する──聖者たちの境涯に喜びある者たちとして。

 

23. 彼らは、常久の瞑想者たちであり、常に断固たる勤勉〔努力〕ある者たちである。〔常に気づきを怠らない〕慧者たちは、涅槃〔の境処〕を体得する──束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを。

 

24. 奮起あり、気づき()あり、清らかな行為()あり、〔物事を〕真摯に為し、自制し、法(教え)によって生き、〔気づきを〕怠らない者であるなら、〔彼の〕福徳は〔自ずと〕増え行く。

 

25. 奮起によって、〔気づきを〕怠らないことによって、自制によって、さらに、調御によって、思慮ある者は、洲を作るがよい──それを、激流が押し流さないものとして。

 

26. 怠ることに専念するのが、愚者たちであり、思慮浅き人たちである。しかしながら、思慮ある者は、怠らないことに〔専念する〕──最勝の財を守るように。

 

27. 怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、広大なる安楽に至り得るからである。

 

28. 賢者が、〔気づきを〕怠らないことによって、怠ることを除く、そのとき、智慧(慧・般若)の高楼に登って、憂いなき者となり、憂いある人々を〔見る〕。山に立つ者が、地に立つ者たちを〔見る〕ように、慧者は、愚者たちを、〔智慧の眼で〕注視する。

 

29. 怠りある者たちのなかにいながら怠らない者がいる。眠りについた者たちのなかにいながら多く起きている者がいる。駿馬が、駄馬を〔置き去りにする〕ように、思慮深き者は、〔怠りある者たちを〕捨棄して行く。

 

30. 〔気づきを〕怠らないことによって、天〔の神々〕たちのなかの最勝〔の地位〕に至ったのが、マガヴァント(帝釈天・インドラ神)である。怠らないことを、〔賢者たちは〕賞賛する。怠ることは、〔賢者たちによって〕常に非難されてきた。

 

31. 怠らないことに喜びある比丘は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、束縛するもの()を、微細なるものも、粗大なるものも、火のように焼き尽くしながら去り行く。

 

32. 怠らないことに喜びある比丘は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、〔境涯の〕遍き衰退は有りえず、まさしく、涅槃の現前にある。

 

 怠らないことの章が第二となり、〔以上で〕終了となる。

 

3. 心の章

 

33. 震えおののき、動揺する心を、守り難く、防護し難い〔心〕を、思慮ある者は、真っすぐに作り為す──矢作りが、矢を〔真っすぐにする〕ように。

 

34. 水のなかの隠れ家から引き出され、陸のうえに投げ出された魚のように、この心は震えおののく──悪魔の領域を捨棄するべくも〔捨棄できずに〕。

 

35. 〔心は〕制御し難く、軽やかで、〔自らの〕欲するところへと落ちて行く。心を調御することは、善きことである。心は、調御されたなら、安楽をもたらすものとなる。

 

36. 〔心は〕極めて見難く、極めて精緻で、〔自らの〕欲するところへと落ちて行く。思慮ある者は、心を守るがよい。心は、保護されたなら、安楽をもたらすものとなる。

 

37. 〔心は〕遠くに赴き、独り歩み、肉体なく、〔胸の〕洞窟(心臓)に臥している。彼ら、心を自制する者たち──〔彼らは〕悪魔の結縛から解脱するであろう。

 

38. 心が確立されていない者に、正なる法(教え)を識知せずにいる者に、清信(浄信)が揺らぐ者に、智慧は円満成就しない。

 

39. 心から〔煩悩が〕漏れ出ない者に、心が乱されない者に、善と悪を捨棄した者に、〔眠らずに〕起きている者(惰眠を貪らない者)に、恐怖は存在しない。

 

40. 〔脆く儚い〕水瓶の如きこの身体を〔あるがままに〕知って──〔騒がしく雑然とした〕城市の如きこの心を〔外壁堅固に〕据え置いて──智慧を武器に、悪魔を討つがよい。そして、勝ち得たものを守るがよい。〔かつまた、勝ち得たものに〕固着なく存するがよい。

 

41. 長からずして、まさに、この身体は、地に臥すであろう──識知(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)を離れ、義(用途)なき木片のように捨て放たれ。

 

42. すなわち、敵が敵に、かつまた、あるいは、怨みある者が怨みある者に、為すであろう、その〔悪しきこと〕──それよりも、より悪しきことを、誤って向けられた心は、彼に為すであろう。

 

43. 母も、父も、あるいは、さらに、また、他の親族たちでも、為さないであろう、その〔善きこと〕──それよりも、より勝ることを、正しく向けられた心は、彼に為すであろう。

 

 心の章が第三となり、〔以上で〕終了となる。

 

4. 花の章

 

44. 誰が、この地を征圧するのだろう──そして、夜魔(閻魔)の世を、天を含むこの〔世〕を。誰が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るのだろう〕──巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るように。

 

45. 学びある者(有学)が、〔この〕地を征圧するであろう──そして、夜魔の世を、天を含むこの〔世〕を。学びある者が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るであろう〕──巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るように。

 

46. この身体を、泡沫の如きものと知って、陽炎の法(性質)あるものと、現に正覚している者は、悪魔の諸々の花の矢(迷いの生存)を断ち切って、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に去り行くであろう。

 

47. まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意図ある人を、死魔は取って去り行く──眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

 

48. まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意図ある人を、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕に満足しない者を、死神は〔思いのままに〕支配を為す。

 

49. たとえば、また、蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく、味(蜜)を取って移り行くように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。

 

50. 他者たちの諸々の過ちではなく、他者たちの為したことや為さなかったことではなく、まさしく、自己の、諸々の為したことを、さらに、諸々の為さなかったことを、〔智慧の眼で〕注視するがよい。

 

51. たとえば、また、好ましく、色艶ある花に、香り無きものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為さずにいる者には、果の無きものと成る。

 

52. たとえば、また、好ましく、色艶ある花に、香り有るものがある(※)ように、このように、見事に語られた言葉は、為している者には、果の有るものと成る。

 

※ テキストには sugandhakaṃ とあるが、PTS版により sagandhakaṃ と読む。

 

53. たとえば、また、山積みの花から、多くの花飾の連なりを作るように、このように、死すべき者(人間)として生まれたなら、多くの善きことを為すべきである。

 

54. 花の香りは、風に逆らって行くことがない。栴檀〔の香り〕は、あるいは(※)、タガラ(伽羅)やマッリカー(ジャスミン)〔の香り〕は、〔風に逆らって行くことが〕ない。しかしながら、正しくある者たちの香りは、風に逆らって行く。正なる人士は、一切の方角に香り行く。

 

※ PTS版により vā を補う。

 

55. 栴檀、あるいは、また、タガラ、青蓮、さらに、ヴァッシキー(ジャスミン)──これらの香りある類のなかでは、戒の香りが、無上なるものである。

 

56. すなわち、この、タガラと栴檀〔の香り〕であるが、この香りは、僅かばかりのもの。しかしながら、〔まさに〕その、戒ある者たちの香りは、最上のものであり、天〔の神々〕たちにおいて香りただよう。

 

57. 彼ら、戒を成就した者たちの〔道を〕──不放逸の住者たちの〔道を〕──正しい了知による解脱者たちの道を──悪魔は知らない。

 

58. たとえば、塵芥の〔堆積する〕場となり、廃棄された大道において、そこにおいて、清らかな香りがあり、意が喜びとする、〔美しい〕蓮華が生じるように──

 

59. このように、塵芥の生類(輪廻する有情)たちのなかにおいて、暗愚と成った〔迷える〕凡夫たちに、正等覚者(ブッダ)の弟子は、智慧によって輝きまさる。

 

 花の章が第四となり、〔以上で〕終了となる。

 

5. 愚者の章

 

60. 〔眠れずに〕起きている者に、夜は長い。〔歩みつづけ〕疲れている者に、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)は長い。正なる法(教え)を識知せずにいる愚者たちに、輪廻〔の道〕は長い。

 

61. 〔道を〕歩んでいる者が、もし、自己と同等か、より勝る者に到達しないなら、独り歩むこと(独行)を、断固として為すように。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。

 

62. 「わたしには、子たちが存在する。わたしには、財が存在する」〔と〕、かくのごとく、愚者は〔所有の思いに〕打ちのめされる。まさに、自己は、自己のものとして存在しない(思いのままにならない存在である)。どうして、子たちが、〔自己のものとして存在するであろう〕。どうして、財が、〔自己のものとして存在するであろう〕。

 

63. 〔自己の〕愚かさを思い考える、その愚者は──彼は、それによって、まさしく、賢者でさえある。しかしながら、〔自己を〕賢者と思量する愚者は──彼は、まさに、「愚者」と説かれる。

 

64. もし、愚者が、たとえ、生あるかぎり、賢者に奉侍するとして、彼は、法(真理)を識知しない──すなわち、匙(さじ)が、汁の味を〔識知しない〕ように。

 

65. もし、識者が、寸時でさえも、賢者に奉侍するなら、すみやかに、法(真理)を識知する──すなわち、舌が、汁の味を〔識知する〕ように。

 

66. 愚者たちは、思慮浅き者たちであり、まさしく、自己を朋友ならざるものとして、〔世を〕歩む──〔まさに〕その、辛き果と成る、悪しき行為(悪業)を為しながら。

 

67. それを為して悩み苦しむなら、為したその行為は、善きものではない──その〔行為〕の報い(異熟)を、泣き叫びながら、涙顔で受けるなら。

 

68. しかしながら、それを為して悩み苦しまないなら、為したその行為は、善きものである──その〔行為〕の報いを、悦意の者となり、機嫌よく受けるなら。

 

69. 〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られない、それまでのあいだ、愚者は、〔自己の為す悪しき行為を〕蜜のように思いなす。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られる、そのとき、愚者は、苦を受ける。

 

70. 月ごとに〔断食苦行の真似をして〕、草の先端で食を受ける愚者──彼は、法(真理)を究めた者たちの、十六分の一にも値しない。

 

71. まさに、〔愚者が〕為した悪しき行為は、〔搾りたての〕乳のように、今日のうちには固まらない。灰に覆われた火のように、〔徐々に〕焼き尽くしながら、その愚者に従い行く。

 

72. 義(目的)ならざるもののために、愚者に知識が生まれる、まさしく、そのかぎりは、〔その知識が〕愚者の幸運を打ち砕く──彼の頭を打ち落としながら。

 

73. 〔愚者は〕求める──正しからざる者たちの(※)敬愛を。そして、比丘たちのなかでは尊奉を、かつまた、諸々の居住のなかでは権力を、さらに、他者の家々においては諸々の供養を。

 

※ テキストには asantaṃ とあるが、PTS版により asataṃ と読む。

 

74. 「在家者たちと出家者たちは、両者ともに、まさしく、わたしの為したことを思い考えよ。諸々の為すべきことや為すべきではないこと(諸々の社会的義務)については、何であれ、まさしく、わたしの支配するものとして存するのだ」〔と〕、かくのごとく、愚者の、妄想と欲求は、かつまた、〔我想の〕思量(:自他を比較し価値づける心)は、〔自ずと〕増え行く。

 

75. まさに、他なるものとして、利得を機縁とするものがあり、他なるものとして、涅槃に至るものがある(両者は別個のものである)。このように、このことを証知して、覚者(ブッダ)の弟子たる比丘は、〔自己への〕尊敬に愉悦せず、遠離〔の境地〕を増進するがよい。

 

 愚者の章が第五となり、〔以上で〕終了となる。

 

6. 賢者の章

 

76. 諸々の財宝の〔隠し場所を〕伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするがよい。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。

 

77. 〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。そして、不当なることから〔自己を〕防ぎ護るように。まさに、彼は、正しくある者たちにとって愛しき者と成り、正しからざる者たちにとって愛しからざる者と成る。

 

78. 悪しき朋友たちとは、親しくしないように。最低の人士たちとは、親しくしないように。善き朋友たちとは、親しくするように。最上の人士たちとは、親しくするように。

 

79. 法(真理)の喜悦ある者は、清信した心で、安楽に臥す。聖者によって知らされた法(真理)において、賢者は、常に喜び楽しむ。

 

80. まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。

 

81. たとえば、一なる厚き巌が、風に動じないように、このように、賢者たちは、諸々の非難と賞賛にたいし、〔心が〕動かない。

 

82. たとえば、また、深い湖が、清らかで濁りなきように、このように、賢者たちは、諸々の法(教え)を聞いて、〔心が〕清まる。

 

83. 正なる人士たちは、まさに、一切所において施捨する。正しくある者たちは、欲を欲するままに談論しない。楽しいことに触れたとして、さらに、あるいは、苦しいことに〔触れたとして〕、賢者たちは、高下を見せない。

 

84. 自己を因とせず、他者を因とせず、子を求めず、財を〔求め〕ず、国土を〔求め〕ず、法(正義)ならざることによって、自己の繁栄を求めないなら、彼は、戒ある者として、智慧ある者として、法(正義)にかなう者として、〔世に〕存するであろう。

 

85. 彼ら、人として彼岸に至る者たち──人間たちにおいて、彼らは、僅かである。そこで、この、他の人々は、まさしく、岸辺を走り回っている(迷いの世界を輪廻している)。

 

86. しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち──彼らは、人として、極めて超え難い死魔の領域を〔超え渡って〕、彼岸に至り行くであろう。

 

87. 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるであろう。家から家なきに至り来て、すなわち、〔世俗の者には〕喜び難きところである、遠離〔の境地〕において──

 

88. そこにあって、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、〔真の〕喜びを求めるであろう。賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるであろう。

 

89. 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら──彼らが、〔何も〕執取せずして、執取の放棄に喜びあるなら──彼らは、煩悩()が滅尽した光輝ある者たちであり、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちとなる。

 

 賢者の章が第六となり、〔以上で〕終了となる。

 

7. 阿羅漢の章

 

90. 旅を終え憂いを離れる者に、一切所に解脱した者に、一切の拘束を捨棄した者に、苦悶は見出されない。

 

91. 気づき()ある者たちは、〔家を〕出る。彼らは、家において喜ばない。湖を捨棄して〔去り行く〕白鳥たちのように、彼らは、家々を捨棄する。

 

92. 彼らに、蓄積が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら──彼らの、解脱の境涯が、空にして、かつまた、相なきものであるなら──彼らの境遇(:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔行方〕のように、捉えどころがない。

 

93. 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、そして、〔彼が〕食に依存なき者であるなら──彼の、解脱の境涯が、空にして、かつまた、相なきものであるなら──彼の境処(境地・歩み)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。

 

94. 彼の、諸々の〔感官の〕機能()が、馭者によって善く調御された馬たちのように、〔心の〕止寂(奢摩他・止)に至ったなら、〔我想の〕思量()を捨棄した煩悩なき者を、そのような者である彼を、天〔の神々〕たちさえも羨む。

 

95. 地に等しく、〔何ものにも〕遮られない者──インダの杭(城門に立てられた標柱)の如く、そのように善き掟の者──泥土を離去した〔澄んだ〕湖のような者──そのような者に、諸々の輪廻は有ることなくある。

 

96. 彼の意は、寂静と成る──そして、言葉も、さらに、行為も、寂静と〔成る〕──正しい了知による解脱者にして寂静なる者、そのような者であるなら。

 

97. 〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、そして、〔輪廻の〕鎖を断ち切る、その人──〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者──彼は、まさに、最上の人士である。

 

98. もしくは、村であろうが、林であろうが、もしくは、低地であろうが、高地であろうが、そこにおいて、阿羅漢(人格完成者)たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。

 

99. すなわち、〔世俗の〕人が喜ばないところである、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとっては〕喜ぶべきものとなる。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を探し求める者たちにあらず。

 

 阿羅漢の章が第七となり、〔以上で〕終了となる。

 

8. 千の章

 

100. たとえ、もし、千の言葉あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの義(意味)ある句のほうが、より勝(まさ)っている。

 

101. たとえ、もし、千の詩偈あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの詩偈の句のほうが、より勝っている。

 

102. そして、彼が、百の詩偈を語るとして、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの法(教え)の句のほうが、より勝っている。

 

103. 彼が、戦場において、百万の人間たちに勝利するとして、しかしながら、一つの自己に勝利するなら、彼は、まさに、最上の戦勝者である。

 

104. 〔相手が〕自己であるなら、まさに、〔その〕勝利は、より勝っている。そして、すなわち、この、他の人々に〔勝利するとして、それよりも〕。〔その〕人の自己が調御され、常に自制された歩みあるなら──

 

105. そのような形態の人の勝利を、勝利ならざるものと為すのは、まさしく、天〔の神〕にあらず、音楽神にあらず、梵〔天〕(ブラフマー神)を含む、悪魔にあらず(誰もできない)。

 

106. 彼が、百年のあいだ、月ごとに千〔回〕、祭祀をするとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

 

107. そして、その人が、百年のあいだ、林のなかで祭火(アグニ神)を世話するとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

 

108. あるいは、供えられたものが、あるいは、捧げられたものが、それが何であれ、世において、功徳を期す者が、まる一年のあいだ、祭祀をするとして、その全てでさえも、〔正しい供養の〕四分の一に至らない。〔心が〕真っすぐに赴いた者たちにたいする敬拝のほうが、より勝っている。

 

109. 〔心が真っすぐに赴いた者たちにたいする〕敬拝を戒として、常に年長者を敬う者には、四つの法(性質)が増え行く──寿命、色艶、安楽、活力が。

 

110. 〔心が〕定められていない劣戒の者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、戒ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

111. 〔心が〕定められていない智慧浅き者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、智慧ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

112. 怠惰で精進に劣る者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、断固として精進に励んでいる者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

113. 〔事物の〕生成と衰失(無常)を見ずにいる者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、〔事物の〕生成と衰失を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

114. 不死の境処(涅槃)を見ずにいる者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、不死の境処を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

115. 最上の法(真理)を見ずにいる者であるなら、そして、彼が、百年のあいだ、生きるとして、最上の法(真理)を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

 

 千の章が第八となり、〔以上で〕終了となる。

 

9. 悪の章

 

116. 善きことにおいて急ぐように。悪から、心を防護するように。なぜなら、善を遅く為している者の意は、悪において喜ぶからである。

 

117. もし、人が、悪を為すなら、繰り返し、その〔悪〕を為さないように。その〔悪〕について、欲〔の思い〕を為さないように。悪を積み重ねることは、苦痛である。

 

118. もし、人が、善を為すなら、繰り返し、その〔善〕を為すように。その〔善〕について、欲〔の思い〕を為すように。善を積み重ねることは、安楽である。

 

119. 〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られない、それまでのあいだ、悪しき者もまた、幸いを見る。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られる、そのとき、そこで、悪しき者は、諸々の悪(不幸)を見る。

 

120. 〔自己の為した〕幸いなる〔行為〕が煮られない、それまでのあいだ、幸いなる者(善人)もまた、悪(不幸)を見る。しかしながら、〔自己の為した〕幸いなる〔行為〕が煮られる、そのとき、そこで、幸いなる者は、諸々の幸いを見る。

 

121. 「それは、わたしに帰ってこないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕悪しき〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴の落下で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為を〕蓄積しながら、愚者は、悪〔の報い〕に満ち溢れる。

 

122. 「それは、わたしに帰ってこないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕善き〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴の落下で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為を〕蓄積しながら、慧者は、善〔の報い〕に満ち溢れる。

 

123. 〔人員〕少なき隊商にして、〔かつまた〕大財ある商人が、〔危険に満ちた〕恐怖の道を〔避ける〕ように──〔長く〕生きることを欲する者が、毒を〔避ける〕ように──諸々の悪を遍く避けるがよい。

 

124. もし、手に傷が存在しないなら、手で毒を運ぶことができる。傷なき者に、毒が従い行くことはない。〔悪を〕為さずにいる者に、悪は存在しない。

 

125. 彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る──風に逆らって投げられた微細な塵が、〔投げた者自身に戻り来る〕ように。

 

126. 或る者たちは、〔母の〕胎に生起する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔落ちる〕。善き境遇(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。

 

127. 空中に〔見出され〕ず、海中に〔見出され〕ず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見出され〕ない──そこにおいて止住する者が、〔自己の為した〕悪しき行為から解き放たれる、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見出されない。

 

128. 空中に〔見出され〕ず、海中に〔見出され〕ず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見出され〕ない──そこにおいて止住する者を、死魔が打ち負かすことなき、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見出されない。

 

 悪の章が第九となり、〔以上で〕終了となる。

 

10. 棒の章

 

129. 全ての者たちは、棒(武器)を恐れる。全ての者たちは、死魔に恐怖する。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

 

130. 全ての者たちは、棒を恐れる。全ての者たちにとって、生命は愛しきもの。自己を喩えと為して、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

 

131. 彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害するなら、自己の安楽を探し求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得ない。

 

132. 彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害さないなら、自己の安楽を探し求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得る。

 

133. 誰にであれ、粗暴なことを言ってはならない。言われた者たちは、あなたに言い返すであろう。なぜなら、諸々の激昂の言説は、苦痛であり、諸々の報いの棒(報復)が、あなたを襲うからである。

 

134. それで、もし、あたかも、壊れた銅鑼のように、〔沈黙して〕自己を動かさないなら、あなたに、激昂は見出されず、〔まさに〕この、涅槃に至り得た者として、〔あなたは〕存している。

 

135. たとえば、牛飼いが、牛たちを、棒で餌場に追い立てるように、このように、そして、老は、さらに、死魔も、命あるものたちの寿命を追い立てる。

 

136. そこで、諸々の悪しき行為を為しつつ、愚者は、〔そのことを〕覚らない。思慮浅き者は、自らの諸々の行為によって、火に焼かれた者のように悩み苦しむ。

 

137. 彼が、汚れ(悪意)なく棒(武器)なき者たちを、棒で汚すなら、〔彼は、以下に示す〕十のなかのどれか一つの状況に、まさしく、すみやかに遭遇する。

 

138. 粗暴なる〔苦痛の〕感受(:楽苦の知覚)に、〔財の〕衰退に、そして、肉体の破壊に、あるいは、また、重き病苦に、さらに、心の散乱に、至り得るであろう。

 

139. あるいは、王からの災禍に、そして、凶悪なる誹謗に、さらに、親族たちの完全なる滅尽に、そして、諸々の財物の崩壊に、〔至り得るであろう〕。

 

140. さらに、あるいは、彼の家々を、浄化の火が焼き尽くす。彼は、智慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する。

 

141. 裸身の行にあらず、結髪〔の行〕にあらず、泥〔を塗る行〕にあらず、あるいは、断食〔の行〕、野臥〔の行〕にあらず、塵や埃〔をかぶること〕に〔あらず〕、うずくまったまま〔刻苦〕精励することに〔あらず〕──疑いを超えずにいる人間を清めるのは。

 

142. たとえ、もし、〔装いを〕十分に作り為しているとして(苦行者の装いをせずにいるとして)、〔心を動かさず〕平静に〔世を〕歩むなら──〔心が〕寂静で、〔自己が〕調御された、〔正道〕決定の梵行者(禁欲清浄行の実践者)となり、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて〔世を歩むなら〕──彼は、婆羅門(聖職者)である──彼は、沙門(修行者)である──彼は、比丘(行乞者)である。

 

143. 恥〔の思い〕()で〔身を〕慎む人として、どこの誰が、世において見出されるというのだろう。彼は、眠気を離れ目覚めている──賢い馬が、〔打たれる前に〕鞭を〔注意深く避けている〕ように。

 

144. あたかも、鞭を入れた賢馬のように、〔あなたたちは〕熱情ある者たちとして、畏怖ある者たちとして、〔世に〕有れ。信によって、さらに、戒によって、かつまた、精進によって、禅定(定・三昧)によって、そして、法(真理)の判別によって、明知と行ないを成就した気づきの者たちとなり、この少なからざる苦しみを捨棄するであろう。

 

145. まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、善き掟の者たちは、自己を調御する。

 

 棒の章が第十となり、〔以上で〕終了となる。

 

11. 老の章

 

146. いったい、何の笑いがあるというのだろう、何の喜びがあるというのだろう──常に燃え盛るものとして、〔世界が〕存しているときに。暗黒に覆われているのに、〔あなたたちは〕灯明を探し求めない。

 

147. 見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。

 

148. 老い朽ちた、この形態(:肉体)は、病の巣となり、壊れ崩れるものとして〔存している〕。腐敗の肉身は、朽ち果てる。まさに、死という終極あるのが、生命である。

 

149. すなわち、秋に投げ捨てられた、これらの瓜のように、まさしく、諸々の灰白色の骨があるなら、それらを見て、何の歓楽があるというのだろう。

 

150. 肉と血を塗り付け、諸々の骨で作られた城──そこにおいては、かつまた、老が、かつまた、死魔が、〔我想の〕思量()が、そして、〔虚栄の〕偽装()が、安置されている。

 

151. 美しく彩りあざやかな諸々の王車は、まさに、老い朽ちる。さらに、肉体もまた、老に近づく。しかしながら、正しくある者たちの法(教え)は、老に近づかない。正しくある者たちは、まさに、正しくある者たちと、〔不滅の法を、互いが互いに〕知らしめる。

 

152. この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の智慧は増え行くことがない。

 

153. 無数なる生の輪廻を、〔わたしは〕流転してきた──〔何も〕得ることなく、家の作り手を探し求めながら。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。

 

154. 家の作り手よ、〔おまえは〕存している──〔あるがままに〕見られたものとして。ふたたび、〔おまえが〕家を作ることはないであろう。おまえの全ての梁は壊され、家の屋根は働きを為さない。心は、〔迷いの生存を〕形成する働き(:生の輪廻を施設し造作する働き)を離れるに至り、諸々の渇愛の滅尽に到達した。

 

155. 梵行(禁欲清浄行)を歩まずして、若いときに財を得ずして、まさしく、魚の尽きた沼地にいる、老いた白鷺たちのように、〔彼らは〕痩せ衰える。

 

156. 梵行を歩まずして、若いときに財を得ずして、諸々の過去のことを泣き悲しみながら、使い古された諸々の弓のように、〔彼らは、地に〕臥す。

 

 老の章が第十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

12. 自己の章

 

157. もし、自己を、愛しいものと知るなら、それを、善く守られたものとして、守るがよい。〔若年と壮年と老年の〕三つのなかの、どれか一つの時期を、賢者は、〔眠らずに〕起きているもの(若年・壮年・老年という、人生における三つの区分の、すくなくとも、どれか一つにおいて、人は目覚めるべきである)。

 

158. 第一に、自己こそを、適所において確たるものとするがよい。そこで、他者に教え示すがよい。賢者は、〔世事には〕汚されないもの。

 

159. すなわち、他者に教え示すように、もし、そのとおり、自己に為すなら(自己みずから実践するなら)、〔自己が〕善く調御された者は、まさに、〔他者を〕調御するであろう。なぜなら、自己は、まさに、調御し難くあるからである。

 

160. まさに、自己は、自己の主(あるじ)。まさに、他者の誰が、主として存するというのだろう。まさに、善く調御された自己によって、得難き主を得る。

 

161. まさに、自己によって為された悪が、自己から生じ自己から発生する〔悪〕が、思慮浅き者を打ち砕く──金剛(ダイアモンド)が、石から作られる宝珠を〔打ち砕く〕ように。

 

162. 蔓草が、〔それに〕覆われたサーラ〔樹〕を〔打ち負かす〕ように、彼に、徹底して下劣な戒があるなら、あたかも、〔彼の〕敵が、彼に求めるように、彼は、そのように、自己に為す(自滅する)。

 

163. 為し易きは、諸々の善ならざること、そして、自己にとって諸々の益ならざること。それが、まさに、かつまた、〔自己にとって〕益となり、かつまた、善となるなら、それは、まさに、最高に為し難い。

 

164. すなわち、阿羅漢(人格完成者)たちの教えを、法(真理)によって生きる聖者たちの〔教えを〕、悪しき見解に依存して、思慮浅き者が非難するなら、カッタカ〔草〕の諸果のように、自己を滅ぼすために、〔悪しき報いが〕結果する。

 

165. まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)。

 

166. たとえ、他者の義(道理)が多くあるも、自己の義(道理)を失わないように。自己の義(道理)を証知して、自らの義(道理)を追求する者として存するように。

 

 自己の章が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

13. 世の章

 

167. 下劣な法(教え)に慣れ親しまないように。怠り(放逸)と共に住まないように。誤った見解(邪見)に慣れ親しまないように。世〔俗〕の繁栄ある者として存さないように。

 

168. 奮起するように。〔気づきを〕怠らないように。善き行ないの法(教え)を行なうように。〔善き行ないの〕法(教え)を行なう者は、安楽に臥す──この世において、さらに、他〔の世〕において。

 

169. 善き行ないの法(教え)を行なうように。〔まさに〕その、悪しき行ないを行なわないように。〔善き行ないの〕法(教え)を行なう者は、安楽に臥す──この世において、さらに、他〔の世〕において。

 

170. 泡粒を見るかのように、陽炎(かげろう)を見るかのように、このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ない。

 

171. 来たれ、見よ──彩りあざやかな王車の如き、この世〔のあり様〕を。そこにおいて、愚者たちは沈むが、〔あるがままに〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。

 

172. そして、彼が、過去において〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

173. 彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

174. 暗愚と成ったのが、この世〔の人々〕である。ここにおいて、数少ない者が、〔真実をあるがままに〕観察する──網から解き放たれた僅かな鳥が、天上に赴くように。

 

175. 白鳥たちは、太陽の道(大空)を行き、神通によって、〔聖賢たちは〕虚空を行く。慧者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、〔この〕世から〔彼岸へと〕導かれる(涅槃に到達する)。

 

176. 一なる法(真理)を超え行った、虚偽を説く人にとって、他の世(来世)を否認する者にとって、為さずにいられる悪は存在しない。

 

177. 吝嗇の者たちは、まさに、天の世に行かない。愚者たちは、まさに、布施を賞賛しない。そして、慧者は、布施に随喜しながら、まさしく、それによって、彼は、他所(来世)において、安楽の者と成る。

 

178. 地における一なる王となることよりも、あるいは、天上に赴くことよりも、一切の世の君主となることよりも、預流果(覚りの第一階梯)のほうが、優れている。

 

 世の章が第十三となり、〔以上で〕終了となる。

 

14. 覚者の章

 

179. 彼の勝利は、失われることがない。彼の勝利に、世において、誰であれ、行き着くことはない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、どのような境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

 

180. 彼に、執着の網が〔存在せず〕、どこにであれ、誘い導くための渇愛が存在しないなら、彼を、覚者を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、どのような境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

 

181. 彼ら、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者たち、離欲と寂止に喜びある者たち──彼らを、正覚者たちを、気づき()ある者たちを、天〔の神々〕たちさえも羨む。

 

182. むずかしきは、人間〔の生〕の獲得あること。むずかしきは、死すべき者たちに生命あること。むずかしきは、正なる法(教え)の聴聞あること。むずかしきは、覚者たちの生起あること。

 

183. 一切の悪を為さないこと、善を成就すること、自らの心を遍く清めること──これは、覚者たちの教えである。

 

184. 「忍耐と忍受は、最高の苦行である。涅槃は、最高〔の安楽〕である」〔と〕、覚者たちは説く。他者を害する者は、まさに、出家者にあらず。他者を悩ましている者が、沙門と成ることはない。

 

185. 〔他者を〕批判しないこと、害さないこと、そして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)において統御すること、かつまた、食について量を知ること、かつまた、辺境に臥坐すること、さらに、卓越の心(瞑想)に専念すること──これは、覚者たちの教えである。

 

186. 諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貨幣の雨をもってしても、満足〔の思い〕は見出されない。「諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なく、苦しみである」〔と〕、かくのごとく識知して、賢者は──

 

187. 彼は、天の諸々の欲望〔の対象〕にたいしてさえも、喜びには到達しない。渇愛の滅尽に喜びある者が、正等覚者(ブッダ)の弟子と成る。

 

188. 恐怖に怯えた人間たちは、まさに、多くの帰依所(依存の対象)に行き着く──諸々の山に、さらに、諸々の林に、諸々の林園や樹木や塔廟に。

 

189. まさに、この帰依所は、平安にあらず。この帰依所は、最上にあらず。この帰依所を頼りにしても、一切の苦しみからは解放されない。

 

190. しかしながら、彼が、そして、覚者(:ブッダ)に、かつまた、法(:ダンマ)に、さらに、僧団(:サンガ)に、〔これらを〕帰依所に赴いたなら、〔彼は〕四つの聖なる真理(四聖諦)を、正しい智慧によって見る。

 

191. 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、そして、苦しみの超越を、さらに、苦しみの寂止に至る、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を。

 

192. まさに、この帰依所は、平安である。この帰依所は、最上である。この帰依所を頼りにして、一切の苦しみから解放される。

 

193. 得難きは、善き生まれの人士である。彼は、一切所において生まれず、そこにおいて、その慧者が生まれるなら、その家は、安楽に満ち栄える。

 

194. 安楽なるは、覚者たちの生起あること。安楽なるは、正なる法(教え)の説示あること。安楽なるは、僧団の和合あること。和合者たちの苦行は、安楽である。

 

195. 覚者たちを、もしくは、弟子たちであろうが、供養に値する者たちを供養しているなら──戯論(分別妄想)を超え行き、憂いと嘆きを超え渡った者たちを〔供養しているなら〕──

 

196. 涅槃に到達し、何も恐れない、そのような者たちである、彼らを供養しているなら──この功徳〔の量〕を、これなるものと計測するのは、たとえ、何をもってしても、できないであろう(その功徳の量は計り知れない)。

 

 覚者の章が第十四となり、〔以上で〕終了となる。

 

15. 安楽の章

 

197. 極めて安楽に、まさに、〔わたしたちは〕生きる──怨みある者たちのなかにいながら、怨みなき者たちとして。〔わたしたちは〕住む──怨みある人間たちのなかにいながら、怨みなき者たちとして。

 

198. 極めて安楽に、まさに、〔わたしたちは〕生きる──病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとして。〔わたしたちは〕住む──病いある人間たちのなかにいながら、病いなき者たちとして。

 

199. 極めて安楽に、まさに、〔わたしたちは〕生きる──焦りある者たちのなかにいながら、焦りなき者たちとして。〔わたしたちは〕住む──焦りある人間たちのなかにいながら(※)、焦りなき者たちとして。

 

※ テキストには manassesu とあるが、PTS版により manussesu と読む。

 

200. 極めて安楽に、まさに、〔わたしたちは〕生きる──すなわち、わたしたちには、何も存在しない(無一物である)。〔わたしたちは〕喜悦を食物とする者たちとして〔世に〕有るのだ──あたかも、光音天〔の神々〕たちのように。

 

201. 勝者は、怨恨を生み、敗者は、苦痛のうちに臥す。勝敗を捨棄して、寂静となった者は、安楽のうちに臥す。

 

202. 貪欲()に等しい火は、存在しない。憤怒()に等しい〔悪しき〕賽の目(罪悪)は、存在しない。〔五つの心身を構成する〕範疇()に等しい苦痛は、存在しない。寂静〔の境処〕の他に安楽は、存在しない。

 

203. 飢え(日々空腹になること)は、最高の病である。諸々の〔迷いの生存を〕形成する働き(:生の輪廻を施設し造作する働き)は、最高の苦痛である。このことを事実のとおりに知って、涅槃は、最高の安楽である。

 

204. 無病は、最高の利得である。知足は、最高の財産である。信頼は、最高の親族である。涅槃は、最高の安楽である。

 

205. 遠離の味わいを飲み干して、さらに、寂止の味わいを〔飲み干して〕、懊悩なく悪なき者と成る──法(真理)の喜悦の味わいを飲み干しながら。

 

206. 聖者たちと会見あることは、善きことである。〔彼らと〕共に住むのは、常に、安楽である。愚者たちと会見なくあることで、まさしく、常に、安楽の者として存するであろう。

 

207. まさに、愚者と集いあつまり〔世を〕歩む者は、長時にわたり、憂い悲しむ。愚者たちと共に住むのは、朋友ならざる者(敵)と〔共に住む〕ように、一切時において、苦痛である。しかしながら、慧者は、親族たちの集いのように、共に住むのが安楽である。

 

208. まさに、それゆえに──

 かつまた、慧者としてあり、かつまた、智慧ある者としてあり、かつまた、多聞の者としてあり、忍耐強さを戒とし、〔善き〕掟ある、聖者と、そのような者である、正なる人士と、思慮深き者と、彼と親しくするべきである──星の道に、月が〔従い行く〕ように。

 

 安楽の章が第十五となり、〔以上で〕終了となる。

 

16. 愛しいものの章

 

209. 道理なきことに自己を結び付け、かつまた、道理あることに〔自己を〕結び付けずにいる者──義(道理)を捨棄して、愛しいものを収め取る者は、自己〔の道〕に専念する者たちを羨む。

 

210. 愛しい者たち(愛着の対象)と集いあつまってはならない。いついかなる時も、愛しくない者たち(憎悪の対象)と〔集いあつまってはならない〕。愛しい者たちと会見なくあることは、苦しみである。かつまた、愛しくない者たちと会見あることも、〔苦しみである〕。

 

211. それゆえに、愛しい者を作らないように。まさに、愛しい者を失うことは、悪しきこと(苦しみ)である。彼らに、愛しい者と愛しくない者(愛憎の対象)が存在しないなら、彼らに、諸々の拘束は見出されない。

 

212. 愛しいものから、憂いが生まれ、愛しいものから、恐れが生まれる。愛しいもの〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

 

213. 愛情から、憂いが生まれ、愛情から、恐れが生まれる。愛情〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

 

214. 歓楽から、憂いが生まれ、歓楽から、恐れが生まれる。歓楽〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

 

215. 欲望から、憂いが生まれ、欲望から、恐れが生まれる。欲望〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

 

216. 渇愛から、憂いが生まれ、渇愛から、恐れが生まれる。渇愛〔の拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

 

217. 戒と見を成就し、法(正義)に依って立ち、真理()を説く者を──自己の〔為すべき〕行為()を〔常に〕為している者を──人は、彼を、愛しき者と為す(彼は、誰からも愛される)。

 

218. 告げ知らされることなきもの(涅槃)にたいする欲〔の思い〕が生じた者(涅槃への意欲を起こした者)として、かつまた、〔その〕意に満たされた者として、〔世に〕存するように。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心が縛られない者は、「上流にある者(欲界を離れた者)」と説かれる。

 

219. 長き不在の人が、遠方から〔無事〕安穏に帰ってきたなら、親族や朋友たちは、そして、知人たちも、〔彼の〕帰還を喜ぶ。

 

220. まさしく、そのように、善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)もまた、この世から他〔の世〕へと赴いたなら、諸々の善きこと(功徳)が迎え取る──親族たちが、愛しき者の帰還を〔喜ぶ〕ように。

 

 愛しいものの章が第十六となり、〔以上で〕終了となる。

 

17. 忿激の章

 

221. 忿激〔の思い〕(忿)を捨棄するように。〔我想の〕思量()を捨棄し去るように。束縛するもの()の一切を超越するように。無一物の者に、名前と形態(名色:現象世界)について執着せずにいる者に、彼に、諸々の苦しみが従い行くことはない。

 

222. 迷走する車を阻止するように、彼が、まさに、沸き起こった忿激〔の思い〕を〔調御するなら〕、わたしは、彼を「馭者」と説く。他の人々は、手綱を掴むが、〔それだけのこと〕。

 

223. 忿激なきによって、忿激に勝つように。善によって、不善に勝つように。布施によって、吝嗇に勝つように。真理(真実)によって、偽りを説く者に〔勝つように〕。

 

224. 真理を話すように。忿激しないように。乞われた者は、たとえ、少なくとも施すように。これらの三つの境位によって、天〔の神々〕たちの現前に至るであろう。

 

225. 彼ら、〔生類を〕害さず、常に身体によって統御された牟尼たちは、彼らは行く──死滅なき境位へと。すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところ(涅槃)へと

 

226. 常に〔眠らずに〕起きていて、昼夜に学び、涅槃を志す者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

 

227. アトゥラよ、これは、過去からのことである。これは、今日一日のようなことにあらず。〔人々は〕沈黙して坐っている者を非難し、多く話す者を非難し、節度をもって話す者さえも非難する。世において、非難されずにいた者は、〔どこにも〕存在しない。

 

228. そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、今現在も見出されない。一方的に非難された人も、あるいは、一方的に賞賛された〔人〕も。

 

229. 生活に瑕疵なく思慮ある者を、智慧と戒によって〔心が〕定められた者を、もし、識者たちが、日々に随知して、彼を賞賛するなら──

 

230. まさしく、ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)たる彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からもまた、賞賛される者となる。

 

231. 身体()の動乱を守り押さえるように。身体によって統御された者として存するように。身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを行なうように。

 

232. 言葉()の動乱を守り押さえるように。言葉によって統御された者として存するように。言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを行なうように。

 

233. 意()の動乱を守り押さえるように。意によって統御された者として存するように。意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを行なうように。

 

234. 慧者たちは、身体によって統御された者たちであり、さらに、言葉によって統御された者たちである。慧者たちは、意によって統御された者たちであり、彼らは、まさに、完全無欠の統御者たちである。

 

 忿激の章が第十七となり、〔以上で〕終了となる。

 

18. 垢の章

 

235. 今や、〔あなたは〕枯葉のような者として存している。そして、夜魔(閻魔)の使者たちもまた、あなたを待ち構えている。そして、〔あなたは〕旅路の門に立っている。そして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見出されない。

 

236. 〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作れ。すみやかに努めよ。賢者と成れ。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、天の聖なる境地に近づくであろう。

 

237. そして、今や、〔あなたは〕衰失に導かれた者として存している。〔あなたは〕夜魔の現前に進み行く者として存している。途中、あなたに、住居は存在しない。そして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見出されない。

 

238. 〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作れ。すみやかに努めよ。賢者と成れ。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、ふたたび、生と老に近づくことはないであろう。

 

239. 思慮ある者は、順次に、瞬間瞬間に、少しずつ、鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うがよい。

 

240. 鉄から現起した垢(錆)が、それ(鉄)から出起して、まさしく、それ〔自身〕を喰い尽くすように、このように、諸々の自らの行為()は、罪行者を、悪しき境遇(悪趣)に導く。

 

241. 不誦という垢あるのが、諸々の呪文である。不精という垢あるのが、諸々の家屋である。色艶には、怠惰という垢がある。〔心身を〕守っている者には、放逸という垢がある。

 

242. 婦女には、悪しき行ない(不品行)という垢がある。〔施物を〕施している者には、物惜という垢がある。まさに、諸々の悪しき法(性質)という垢がある──この世において、さらに、他〔の世〕において。

 

243. その垢よりも、さらにひどい垢として、無明という最高の垢がある。比丘たちよ、この垢を捨棄して、無垢の者たちと成れ。

 

244. 生き易きは、恥〔の思い〕がなく、烏の厚かましさがある、厚顔で、傲岸で、尊大で、〔心が〕汚染された者による、生である。

 

245. しかしながら、生き難きは、恥〔の思い〕があり、常に清らかさを探し求め、陰鬱ならず、尊大ならず、清浄の生き方がある、〔常に真実を〕見ている者による、〔生である〕。

 

246. 彼が、命あるものを殺すなら、さらに、虚偽の論を語るなら、世において与えられていないものを取るなら、さらに、他者の妻のもとに赴くなら──

 

247. さらに、その人が、穀物酒や果実酒などの飲み物に〔自らを〕束縛するなら、この者は、まさしく、ここに、〔この〕世において、自己の根元を掘り崩す。

 

248. 君よ、人士たる者よ、このように知りなさい。〔これらの五者の〕自制なき者たちは、悪しき法(性質)の者たちである。貪り〔の思い〕が、そして、法(正義)ならざる〔生き方〕が、あなたを、長きにわたり、苦しみへと追いやってはならない。

 

249. 人は、まさに、信あるままに、清信するままに、〔布施を〕施す。そこにおいて、彼(布施を受ける者)が、他者たちの飲み物と食料に〔心を〕惑わす者と成るなら(他者と自己の施物を比較して、心を動かすなら)、彼は、昼であろうと、夜であろうと、禅定(定・三昧)に到達しない。

 

250. しかしながら、彼の、この〔汚点〕が断絶され、根元から殲滅され、完破されたなら、彼は、まさに、昼であろうと、夜であろうと、禅定に到達する。

 

251. 貪欲()に等しい火は、存在しない。憤怒()に等しい捕捉者は、存在しない。迷妄()に等しい網は、存在しない。渇愛に等しい川は、存在しない。

 

252. 他者たちの罪過は見易く、いっぽうで、自己の〔罪過は〕見難い。まさに、彼は、他者たちの諸々の罪過を、あたかも、籾殻のように、〔誇大に〕暴き立て、いっぽうで、自己の〔罪過は〕覆い隠す──狡猾な賭博師が、〔悪しき〕賽の目を〔隠す〕ように。

 

253. 他者の罪過を随観し、常に譴責の表象(:概念・心象)ある者──彼の、諸々の煩悩は増え行き、彼は、煩悩の滅尽から遠く離れている。

 

254. まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。戯論(空想)に歓楽あるのが、〔世の〕人々である。戯論なきは、如来たちである。

 

255. まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常久のものとして存在しない。覚者たちに、〔心の〕動揺は存在しない。

 

 垢の章が第十八となり、〔以上で〕終了となる。

 

19. 法に依って立つ者の章

 

256. すなわち、無理やり義(道理)を導くことで、それによって、法(正義)に依って立つ者と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、義(道理)を、さらに、義(道理)ならざることを、両者ともに〔正しく〕判別できるなら──

 

257. 無理やりではなく、正しい法(正義)によって他者たちを導くなら、法(正義)の保護ある者であり、思慮ある者として、「法(正義)に依って立つ者」と呼ばれる。

 

258. すなわち、多く語るだけで、それによって、賢者と成るのではない。〔心が〕平安で、怨みなく、恐れなき者が、「賢者」と呼ばれる。

 

259. すなわち、多く語るだけで、それだけで、法(教え)を保つ者と〔成るのでは〕ない。しかしながら、彼が、たとえ、僅かでも、聞いて〔そののち〕、身体によって法(教え)を見るなら、彼が、法(教え)を怠らないなら、彼は、まさに、法(教え)を保つ者と成る。

 

260. すなわち、彼の頭が、白髪となったことで、それによって、彼は、長老(上座)と成るのではない。彼のばあい、年齢を重ねた〔だけのこと〕。〔彼は〕「無駄なる老いぼれ」と説かれる。

 

261. 彼において、かつまた、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、不害があり、自制があり、調御があるなら、彼は、まさに、垢(汚れ)を吐き捨てた慧者であり、「長老」と呼ばれる。

 

262. 言葉遣いのみで、あるいは、蓮華の色艶あることで、嫉妬と物惜〔の思い〕ある狡猾の者が、形姿善き人と成るのではない。

 

263. しかしながら、彼の、この〔汚点〕が断絶され、根元から殲滅され、完破されたなら、彼は、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた思慮ある者であり、「形姿善き者」と説かれる。

 

264. 掟なく、偽りを話している者が、剃髪によって、沙門(修行者)と〔成るのでは〕ない。〔悪しき〕欲求と貪欲〔の思い〕に関与している者が、どうして、沙門と成るのだろう。

 

265. しかしながら、彼が、諸々の微細なると粗大なる悪を、全てにわたり静めるなら、まさに、諸々の悪が静められたことから、〔彼は〕「沙門」と呼ばれる。

 

266. すなわち、他者たちに〔食を〕乞うだけで、それによって、彼は、比丘(行乞者)と成るのではない。腐臭の法(性質)を受持して〔世に有るなら〕、それだけでは、比丘と成らない。

 

267. 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、〔両者ともに〕拒否して、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)となり、〔法を〕究めて、世を歩むなら、彼は、まさに、「比丘」と説かれる。

 

268. 迷乱した形態の無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、〔あたかも〕秤(はかり)を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って──

 

269. 諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕「牟尼」〔と〕呼ばれる。

 

270. すなわち、〔祭祀において〕命あるものたちを害することで、それによって、聖者と成るのではない。全ての命あるものたちを害さないことで、〔彼は〕「聖者」と呼ばれる。

 

271. さにあらず──戒や掟のみによっても、かつまた、あるいは、多聞によっても、さらに、あるいは、禅定(定・三昧)を得ることによっても、あるいは、遠離の臥所によっても──

 

272. 「凡夫の慣れ親しむところならざる離欲の安楽を、〔わたしは〕体得する」〔と〕、比丘よ、信頼〔の思い〕を起こしてはならない──煩悩の滅尽に至り得ていないなら。

 

 法に依って立つ者の章が第十九となり、〔以上で〕終了となる。

 

20. 道の章

 

273. 諸々の道のなかでは、〔聖なる〕八つの支分ある〔道〕(八正道)が最勝である。諸々の真理のなかでは、四つの〔聖なる〕境処(四聖諦)が〔最勝である〕。諸々の法(教え)のなかでは、離貪〔の法〕が最勝である。そして、二足の者(人間)たちのなかでは、眼ある者が〔最勝である〕。

 

274. これこそは、道である。見の清浄のための、他〔の道〕は存在しない。まさに、この〔道〕を、あなたたちは実践しなさい──悪魔を迷妄ならしむ、この〔道〕を。

 

275. まさに、この〔道〕を実践したなら、あなたたちは、苦しみの終極(おわり)を為すであろう。矢を折ることを了知して、わたしによって、あなたたちに、道は告げ知らされた。

 

276. 熱く為すべきは、あなたたちである。如来たちは、〔道を〕告げ知らせる者たちである。〔この道を〕実践する瞑想者たちは、悪魔の結縛から解き放たれるであろう。

 

277. すなわち、「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。

 

278. すなわち、「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。

 

279. すなわち、「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。

 

280. 奮起する時に奮起せずにいる者、若く力があるのに怠け癖を具した者、思惟と意〔の働き〕が沈滞した怠惰の者──怠け者は、智慧によって道を見出すことがない。

 

281. 言葉()を守り、意()によって善く統御され、そして、身体()によって善ならざることを為さないなら、これらの三つの行為の道を清め、聖賢によって知らされた道に達するであろう。

 

282. 〔心の〕制止(瑜伽)あるがゆえに、まさに、英知は生まれる。〔心の〕制止なきがゆえに、英知の消滅がある。実体(:存在)への〔道を〕、さらに、虚無(非有:無)への〔道を〕──この二種の道を〔あるがままに〕知って、すなわち、英知が増え行くままに、そのように、自己を確たるものとするがよい。

 

283. 〔一本の〕木ではなく、林を断て。〔欲の〕林からは、恐怖が生まれる。かつまた、林を、かつまた、林の下生えを、〔両者ともに〕断って、比丘たちよ、〔欲の〕林なき者たちと成れ。

 

284. まさに、女たちにたいする男の〔欲の〕林の下生えが、微塵ばかりでさえも断たれずにある、そのかぎりは、そのあいだ、彼は、まさしく、意が縛られた者となる──乳を飲む子牛が、母〔牛〕にたいするように。

 

285. 自己への愛執〔の思い〕を断て──秋の蓮を、手で〔断ち切る〕ように(※)。善き至達者(ブッダ)によって説示された、涅槃〔の境処〕を、寂静の道こそを、育てよ。

 

※ テキストには kumudaṃ sāradikaṃva とあるが、PTS版により kumudaṃ sāradikaṃ va pāṇinā と読む。

 

286. 「雨期のあいだ、〔わたしは〕ここに住するであろう。冬と夏には、ここに〔住するであろう〕」〔と〕、かくのごとく、愚者は熟慮するが、〔すぐ目の前の〕障り(危険)を覚らない。

 

287. 彼を、子供や家畜に夢中になり執着の意図ある人を、死魔は取って去り行く──眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

 

288. 子供たちは、〔わが身の〕救いのために存在するのではない。父親も、さにあらず。眷属たちもまた、さにあらず。死神に囚われた者の救い手は、親族たちのなかには存在しない。

 

289. この義(利益)たる所以を知って、戒において統御された賢者は、涅槃に至る道を、まさしく、すみやかに清めるであろう。

 

 道の章が第二十となり、〔以上で〕終了となる。

 

21. 雑駁なるものの章

 

290. もし、少量なる安楽を完全に捨て去ることから、広大なる安楽を見ることになるなら、慧者は、少量なる安楽を捨て去るであろう──広大なる安楽を〔常に〕正しく見ている者として。

 

291. 他者に苦痛を与えることで、自己の安楽を求める、怨み〔の思い〕と持ちつ持たれつの者──彼は、怨み〔の思い〕から完全に解き放たれない。

 

292. まさに、その、為すべきことが捨てられ、いっぽうで、為すべきではないことが為されるなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。

 

293. しかしながら、彼らに、常に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)があり、善く努め励むところとなるなら、彼らは、〔もはや〕為すべきではないことに慣れ親しまず、諸々の為すべきことを常に為す者たちとなる。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

 

294. 母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、そして、二者の士族の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、国土(認識作用と認識対象)を従者(喜びと貪り)と共に打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

 

295. 母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、そして、二者の聞経者(婆羅門)の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、第五のものたる虎(疑惑の思い)を打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

 

296. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、常に、覚者(:ブッダ)の在り方についての気づきがある。

 

297. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、常に、法(:ダンマ)の在り方についての気づきがある。

 

298. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、常に、僧団(:サンガ)の在り方についての気づきがある。

 

299. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、常に、身体の在り方についての気づきがある。

 

300. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、不害〔の実践〕に喜びの意がある。

 

301. ゴータマの弟子たちは、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。彼らには、そして、昼に、さらに、夜に、修行〔の実践〕に喜びの意がある。

 

302. 出家は〔為し〕難く、〔出家の生活は〕喜び難きもの。在家〔の生活〕は居住し難く、苦しきもの。同輩との共住は苦しく、苦しみに出会うのが旅行く者(遊行者)。それゆえに、かつまた、旅行く者として存さず、かつまた、苦しみに出会う者として存さぬもの。

 

303. 信ある者となり、戒を成就した者となり、福徳と財物を授与された者は、〔彼が〕親しくする、その〔地域〕その地域で、まさしく、そこかしこで、供養される者となる。

 

304. 正しくある者たちは、遠くにあるも知れわたる──ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山嶺のように。正しからざる者たちは、この場にあるも見られない──あたかも、夜に放たれた諸々の矢のように。

 

305. 独り坐し、独り臥し、独り、休みなく歩み、独り、自己を調御しながら、林の外れで喜びある者として存するがよい。

 

 雑駁なるものの章が第二十一となり、〔以上で〕終了となる。

 

22. 地獄の章

 

306. 事実ならざることを説く者は、地獄に近づく。あるいは、また、彼が、為して〔そののち〕、さらに、「〔わたしは〕為さない」〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄に近づく〕。両者ともどもに、彼らは、下劣な行為の人間たちとして、死してのち、他所(来世)において、等しき者たちと成る。

 

307. 黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、自制なく悪しき法(性質)の者たちが多くいる。悪しき者たちは、彼らは、〔自己の為した〕諸々の悪しき行為(悪業)によって、地獄に再生する。

 

308. すなわち、もし、自制なき劣戒の者が、国人による〔行乞の〕食を受けるなら、熱せられた、火炎の如き鉄の玉を食べたほうが、より勝(まさ)っている(悪業を作って地獄に落ちるよりはまだましである)。

 

309. 〔気づきを〕怠り、他者の妻に近しく慣れ親しむ人は、四つの状況を惹起する。〔すなわち〕善ならざる利得(悪しき報い)あること、欲するままに臥せないこと、第三に、非難〔を受けること〕、第四に、地獄〔に落ちること〕である。

 

310. そして、〔男は〕善ならざる利得ある者となり、かつまた、〔女は〕悪しき境遇ある者となる。恐怖する〔男〕に、恐怖する〔女〕に、そして、歓楽はごく僅か。かつまた、王は、重き棒(罰)を課す。それゆえに、人は、他者の妻とは慣れ親しまぬがよい。

 

311. あたかも、誤って掴んだ茅〔の葉〕が、まさしく、手を傷つけるように、誤って偏執された沙門の資質は、〔沙門その人を〕地獄へと引きずり込む。

 

312. それが何であれ、緩慢な行為であるなら、さらに、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行(禁欲清浄行)であるなら、それは、大いなる果と成らない。

 

313. もし、為すべきなら、これを為し、断固として、これに勤しむがよい。なぜなら、緩慢な遍歴遊行者は、より一層、塵を撒き散らすからである。

 

314. 悪行は、〔為すよりは〕為さずにいたほうが、より勝っている。〔為したその〕悪行が、のちに悩み苦しめる〔からである〕。そして、善行は、〔為さずにいるよりは〕為したほうが、より勝っている。それを為して悩み苦しまない〔からである〕。

 

315. あたかも、辺境にある、内外共に保護された城市のように、このように、自己を保護するがよい。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔この〕瞬間を〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。

 

316. 〔彼らは〕恥ずべきではないところで恥じ、恥ずべきところで恥じない──誤った見解(邪見)を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇(悪趣)に赴く。

 

317. 恐怖なきところで恐怖を見る者たち、さらに、恐怖あるところで恐怖を見ない者たち──誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

 

318. 罪過なきものについて「罪過あり」と思い、さらに、罪過あるものについて「罪過なし」と見る者たち──誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

 

319. しかしながら、罪過あるものを「罪過あり」と知って、さらに、罪過なきものを「罪過なし」と〔見る者たち〕──正しい見解(正見)を受持しながら、〔迷いなき〕有情たちは、善き境遇(善趣)に赴く。

 

 地獄の章が第二十二となり、〔以上で〕終了となる。

 

23. 象の章

 

320. 戦場において、弓から放たれた矢を〔忍受する〕象のように、わたしは、〔他者からの〕責め咎めを忍受するであろう。まさに、劣戒なるかな──〔世の〕多くの人々は。

 

321. 調御された〔象〕を、〔人々は〕戦場へと導く。調御された〔象〕に、王は乗る。〔自己が〕調御された者は、人間たちのなかの最勝の者──彼は、〔他者からの〕責め咎めを忍受する。

 

322. 優れているのは、調御された騾馬たちであり、そして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥ産の良馬)であり、さらに、クンジャラの大いなる象たちである。それよりも優れているのは、自己が調御された者である。

 

323. まさに、これらの乗物では、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴くことはできない──すなわち、善く調御された自己〔という乗物〕で、調御された者が調御によって赴くようには。

 

324. 「財の番人」という名のクンジャラ〔象〕がいる。辛辣なる破壊者で、防護し難く、捕縛されたなら、餌を食べない。クンジャラ〔象〕は、象の林を思念する。

 

325. すなわち、惰眠の者として〔世に〕有るとき、さらに、大飯食いの者として〔世に有るとき〕、眠りこけてはごろ寝をする者となる。餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母の〕胎に近づく。

 

326. かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた──求めるところから、欲するところへと、楽しみあるままに。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう──鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。

 

327. 〔あなたたちは、気づきを〕怠らないこと(不放逸)に喜びある者たちと成れ。自らの心を守れ。難所から自己を引き抜け──汚泥にはまったクンジャラ〔象〕が、〔自らを引き抜く〕ように。

 

328. それで、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい。

 

329. もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

 

330. 独りある者の歩みのほうが、より勝っている。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。そして、諸々の悪しきことを為さず、〔俗事に〕思い入れ少なく、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

 

331. 義(事態)が生じたとき、道友たちがいることは、安楽である。すなわち、いかなるものによっても〔足ることを知り〕、満足〔の思い〕あることは、安楽である。生命の消滅あるとき、〔善き〕功徳あることは、安楽である。一切の苦痛を捨棄することは、安楽である。

 

332. 世において、母を敬うことは、安楽である。さらに、父を敬うことは、安楽である。世において、沙門の資質あることは、安楽である。さらに、梵(婆羅門)の資質あることは、安楽である。

 

333. すなわち、老いてなお、戒あることは、安楽である。確立した信あることは、安楽である。智慧を獲得することは、安楽である。諸々の悪を為さないことは、安楽である。

 

 象の章が第二十三となり、〔以上で〕終了となる。

 

24. 渇愛の章

 

334. 〔気づきを〕怠るままに歩む人間の、渇愛〔の思い〕は増え行く──蔓草が〔生い茂る〕ように。彼は、あの〔世〕からあの〔世〕へと浮きただよう(輪廻を繰り返す)──林のなかで果実を求めている猿のように。

 

335. 渇愛が、世における執着が、この卑しむべきものが、彼を打ち負かすなら、彼の、諸々の憂いは増え行く──雨を得たビーラナ〔草〕のように。

 

336. しかしながら、渇愛を、世における超え難きものを、この卑しむべきものを、彼が打ち負かすなら、彼から、諸々の憂いは落ち行く──蓮〔の葉〕から、水の滴(しずく)が〔落ちる〕ように。

 

337. 〔わたしは〕それを、あなたたちに説く。あなたたちに、幸せ〔有れ〕──ここにおいて集いあつまった、そのかぎりの者たちは。

 渇愛の根を掘り崩せ──ウシーラ(ビーラナ草の根・香料として使う)〔の採取〕を義(目的)とする者が、ビーラナ〔草〕を〔掘る〕ように。あなたたちを、まさしく、流れが葦を〔打ちひしぐ〕ように、悪魔が、繰り返し、打ち砕くことがあってはならない。

 

338. あたかも、また、根が無禍にして堅固であるなら、たとえ、切断された木でも、まさしく、ふたたび成長するように、このように、また、渇愛の悪習(随眠:潜在煩悩)が打破されていないなら、この苦しみは、繰り返し発現する。

 

339. 彼に、意に適うもの(欲望の対象)へと流れ行く、激しい三十六の流れがあるなら、貪欲〔の思い〕に依存した諸々の妄想が、大いなるものとなり、悪しき見解を運び来る。

 

340. 諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止住する。そして、その蔓草が生じたのを見て、智慧によって、〔その〕根を断て。

 

341. 諸々の〔渇愛の〕流れがあり、かつまた、諸々の愛執〔の対象〕があり、人の、諸々の悦意(満足の思い)が有る。彼らは、快楽に依存する者たちであり、安楽を探し求める者たちである。彼らは、まさに、人として、生と老に近しく赴く者たちである。

 

342. 渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。束縛するもの(欲望の対象)に執着〔の思い〕ある有情たちは、長きにわたり、繰り返し、苦しみに近づく。

 

343. 渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。自己の離貪を望んでいる者よ、それゆえに、渇愛〔の思い〕を除き去るがよい。

 

344. 〔まさに〕その、〔欲の〕林の下生えなき者となりながら、〔欲の〕林に向かう者──〔欲の〕林から解き放たれたのに、まさしく、〔欲の〕林へと走り行く。来たれ、見よ、その人を──〔欲の結縛から〕解き放たれたのに、まさしく、〔欲の〕結縛へと走り行く。

 

345. 〔まさに〕その、鉄でできているものも、木でできているものも、そして、葦〔の縄紐〕も──慧者たちは、それを、堅固な結縛と言わない。諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まったもの──子たちにたいする、さらに、妻たちにたいする、〔まさに〕その、期待〔の思い〕なるもの──

 

346. 重くのしかかり、緩やかではあるが、解き放ち難きもの──慧者たちは、これを、堅固な結縛と言う。これをもまた断ち切って、〔慧者たちは〕遍歴遊行する──期待なき者たちとなり、欲望の安楽を捨棄して。

 

347. 彼ら、貪欲〔の思い〕に染まった者たちは、〔渇愛の〕流れに従い行く──蜘蛛が、自ら作った網に〔からまる〕ように。これをもまた断ち切って、慧者たちは行く──期待なき者たちとなり、一切の苦しみを捨棄して。

 

348. 過去にあるものを解き放て(過去の記憶に振り回されない)──未来にあるものを解き放て(未来に期待せず願望を抱かない)──中間(現在)にあるものを解き放て(今この瞬間に執着の対象を作らない)──〔迷いの〕生存()の彼岸に至る者となり。一切所において、意図が解脱した〔あなた〕は、ふたたび、生と老に近づくことはないであろう。

 

349. 乱れた思考の人に、強き貪欲ある浄美の随観者に(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者に)、渇愛〔の思い〕は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。

 

350. しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄〔の表象〕(不浄想:身体を不浄と見る観察)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、〔貪欲の〕終息を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。

 

351. 究極〔の境地〕に赴き、恐慌せず、渇愛を離れ、穢れなき者は、諸々の〔迷いの〕生存の矢を断ち切った。これは、最後の積身である(死後、涅槃に行く)。

 

352. 渇愛を離れ、執取なく、語と句の熟知者として、諸々の文字の配列を〔知り〕、そして、〔それらの〕前後〔関係〕を知るなら、彼は、まさに、「最後の肉体ある者(解脱者)」「大いなる智慧ある者」「大いなる人士たる者」と説かれる。

 

353. わたしは、一切を征服する者として、一切を知る者として、一切の法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。

 

354. 法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。

 

355. 諸々の財物は、思慮浅き者を打ち砕く。しかしながら、彼岸を探し求める者たちを〔打ち砕くことは〕ない。思慮浅き者は、財物にたいする渇愛〔の思い〕のために、他者たちを〔打ち砕く〕ようにして、自己を打ち砕く。

 

356. 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。貪欲()という汚点あるのが、この、〔世の〕人々である。まさに、それゆえに、貪欲から離れた者たちにおいて、施されたものは、大いなる果と成る。

 

357. 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。憤怒()という汚点あるのが、この、〔世の〕人々である。まさに、それゆえに、憤怒から離れた者たちにおいて、施されたものは、大いなる果と成る。

 

358. 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。迷妄()という汚点あるのが、この、〔世の〕人々である。まさに、それゆえに、迷妄から離れた者たちにおいて、施されたものは、大いなる果と成る。

 

359. 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。欲求という汚点あるのが、この、〔世の〕人々である。まさに、それゆえに、欲求から離れた者たちにおいて、施されたものは、大いなる果と成る。

 

 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。渇愛という汚点あるのが、この、〔世の〕人々である。まさに、それゆえに、渇愛から離れた者たちにおいて、施されたものは、大いなる果と成る。

 

 渇愛の章が第二十四となり、〔以上で〕終了となる。

 

25. 比丘の章

 

360. 眼(視覚機能)によって統御することは、善きことである。耳(聴覚機能)によって統御することは、善きことである。鼻(嗅覚機能)によって統御することは、善きことである。舌(味覚機能)によって統御することは、善きことである。

 

361. 身体()によって統御することは、善きことである。言葉()によって統御することは、善きことである。意()によって統御することは、善きことである。一切所において統御することは、善きことである。一切所において統御された比丘は、一切の苦しみから解き放たれる。

 

362. 手によって自制され、足によって自制され、言葉によって自制された、最上の自制者──内に喜び、〔心が〕定められた者──〔常に〕満ち足りている、独りある者──彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。

 

363. 彼が、口によって自制された比丘として、明慧によって話し、〔心が〕高揚せず、義(道理)を〔明らかにし〕、かつまた、法(真理)を明らかにするなら、彼の語るところは、〔蜜のように〕甘美である。

 

364. 法(教え)を喜びとし、法(教え)を喜び、法(教え)を〔常に〕弁別し、法(教え)を〔常に〕随念している比丘は、正なる法(教え)から遍く衰退しない。

 

365. 自らの利得(行乞で得た施物)を軽んじないように。他者たち〔の利得〕を羨む者として歩まないように。他者たち〔の利得〕を羨んでいる比丘は、禅定に到達しない。

 

366. たとえ、もし、〔得られた〕利得が僅かであるも、比丘が、自らの利得を軽んじないなら、休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、その〔比丘〕を、まさに、天〔の神々〕たちは賞賛する。

 

367. 彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、彼は、まさに、「比丘」と説かれる。

 

368. すなわち、慈愛の住者たる比丘は、覚者の教えに清らかな信ある〔比丘〕は、寂静の境処に到達するであろう──形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という安楽〔の境地〕に。

 

369. 比丘よ、この舟〔の水〕を汲み出せ。あなたが〔水を〕汲み出したなら、〔舟は〕軽やかに行くであろう。そして、貪欲を断ち切って、かつまた、憤怒を〔断ち切って〕、そののち、〔あなたは〕涅槃に行くであろう。

 

370. 五つ〔の束縛するもの〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛するもの〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。そして、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・禅定・智慧)をより以上に修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と説かれる。

 

371. 比丘よ、瞑想せよ。〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。欲望の属性(妙欲)に、あなたの心を喜ばせることがあってはならない。怠る者となり、銅の玉を飲み込んではならない。〔欲の炎に〕焼かれる者となり、「これは、苦しみだ」と泣き叫んではならない。

 

372. 智慧なき者に、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)は存在しない。瞑想なき者に、智慧は存在しない。彼において、かつまた、瞑想があり、かつまた、智慧があるなら、彼は、まさに、涅槃の現前にある。

 

373. 〔人のいない〕空家に入り、心が寂静となった比丘が、正しく法(事象)を観察していると、人間ならざる喜びが有る(世俗の喜びを超えた喜びが生起する)。

 

374. 〔五つの心身を構成する〕範疇()の生成と衰失を〔時々刻々に〕触知する、そのたびごとに、〔自己と世界をあるがままに〕識知している者たちの、〔まさに〕その、不死なる喜悦と歓喜を、〔彼は〕得る。

 

375. そこで、このことは、ここに、智慧ある比丘にとって、最初〔に為すべきこと〕と成る。〔感官の〕機能()を守る者となり、〔欲を貪らない〕知足の者となり、そして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)において統御する者となり──

 

376. 休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、善き朋友たちと親しくせよ。友愛の生活ある者として存し、〔正しい〕行ないに巧みな智ある者として存するなら、そののち、歓喜多き者となり、苦しみの終極を為すであろう。

 

377. ヴァッシカー(ジャスミン)が、萎れた花々を解き放つ(落とす)ように、比丘たちよ、このように、そして、貪欲を、かつまた、憤怒を、解き放つのだ。

 

378. 身体が寂静で、言葉が寂静で、〔心が〕善く定められた寂静なる者──世の財貨を吐き捨てた比丘は、「寂静者」と説かれる。

 

379. 自己によって自己を叱咤せよ。自己によって〔自己を〕反省せよ。比丘よ、〔まさに〕その〔あなた〕は、自己が守られた、気づきある者となり、安楽に住むであろう。

 

380. まさに、自己は、自己の主(あるじ)。まさに、他の誰が、主として存するというのだろう。まさに、自己は、自己の赴く所。それゆえに、自己を自制せよ──商人が、賢馬を〔調御する〕ように。

 

381. 歓喜多き比丘は、覚者の教えに清らかな信ある〔比丘〕は、寂静の境処に到達するであろう──形成〔作用〕の寂止という安楽〔の境地〕に。

 

382. 彼が、まさに、青年でありながら、比丘として、覚者の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 

 比丘の章が第二十五となり、〔以上で〕終了となる。

 

26. 婆羅門の章

 

383. 婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕勤しんで、諸々の欲望を除け。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の滅尽を知って、婆羅門よ、〔あなたは〕存している──作られざるもの(涅槃)を知る者として。

 

384. すなわち、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として、婆羅門が〔世に〕有るとき、そこで、彼の一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る──〔彼が、あるがままに〕知っているなら。

 

385. 彼に、彼岸が〔見出されず〕、あるいは、此岸が〔見出されず〕、彼岸と此岸が〔両者ともに〕見出されないなら、懊悩を離れ、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

386. 〔世俗の〕塵を離れ〔林に〕坐す瞑想者を、為すべきことを為した煩悩なき者を、最上の義(目的)を獲得した者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

387. 日は、昼に輝き、月は、夜に明らむ。士族は、武装者として輝き、婆羅門は、瞑想者として輝く。そこで、覚者は、昼夜全てに、威光によって輝く。

 

388. 悪を拒否した者(バーヒタ)、ということで、「婆羅門(ブラーフマナ)」〔と説かれる〕。平静(サマ)なる性行あることから、「沙門(サマナ)」と説かれる。自己の垢を〔常に〕払っている者(パッバージャヤン)は、それゆえに、「出家者(パッバジタ)」と説かれる。

 

389. 婆羅門を打たないように。婆羅門は、彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放たないように。婆羅門を傷つける者は、厭わしい。彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放つなら、彼(婆羅門を打つ者)よりも、厭わしい。

 

390. すなわち、諸々の愛しいものから慎みの意図あるとき、婆羅門にとって、このことは、少なからず、より勝っている。そのたび、そのたびに、害する意が退転することから、そのたび、そのたびに、苦しみは、まさしく、静まる。

 

391. 彼に、身体()と言葉()と意()による悪行が存在しないなら、三つの境位(身・句・意の三業)によって統御された者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

392. 彼から、正等覚者によって説示された法(真理)を識知するなら、謹んで、彼を礼拝するがよい──婆羅門が、祭火に捧げものを〔献じる〕ように。

 

393. 諸々の結髪にあらず、氏姓にあらず、出生にあらず──〔彼が〕婆羅門と成るのは。彼において、かつまた、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、彼は、清らかな者であり、そして、彼は、婆羅門と〔成る〕。

 

394. 思慮浅き者よ、あなたにとって、諸々の結髪が、何になるというのだろう。あなたにとって、皮衣が、何になるというのだろう。あなたには、内なる収め取り(執着)がある。〔あなたは〕外に〔見てくれを〕繕っている。

 

395. 糞掃衣(ぼろ布)を〔身に〕付ける人を、痩せ細り〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がった者を、林のなかで、独り、瞑想している者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

396. そして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、「婆羅門」と説かない。彼が、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、「ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)」という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

397. 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

398. 紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二の邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

399. 罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

400. 忿激せず、掟ある者を、〔渇愛の〕増長なく、戒ある者を、〔自己が〕調御され、最後の肉体ある者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

401. 蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

402. 彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

403. 深遠なる智慧ある者にして思慮ある者を、道と道ならざるものを熟知する者を、最上の義(目的)を獲得した者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

404. 在家の者たちと交わらず、さらに、同様に、家なき者たちと〔交わらず〕、家なくして行く、少なき欲求の者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

405. 動くものたちにたいし、さらに、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

406. 〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

407. 彼の、そして、貪欲()が、かつまた、憤怒()が、〔我想の〕思量()が、さらに、〔虚栄の〕偽装()が、芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように打ち倒されたなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

408. 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それによって、誰であれ、傷つけないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

409. 彼が、この〔世において〕、あるいは、長いものも、あるいは、短いものも、微細なるものと粗大なるものも、浄美なるものと浄美ならざるものも、世において、与えられていないものを、〔何ひとつ〕取らないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

410. この世において、さらに、他〔の世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、願求なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

411. 彼に、諸々の〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)が見出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

412. 彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

413. 月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、生存の愉悦が完全に滅尽した者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

414. 彼が、この障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく懐疑なき者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

415. 彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

416. 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を打破して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

417. 人間の束縛を捨棄して、天の束縛を超え行ったなら、一切の束縛による束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

418. そして、歓楽を、さらに、不満を、〔両者ともに〕捨棄して、〔心が〕清涼と成った者を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切の世を征服する勇者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

419. 彼が、有情たちの死滅を、さらに、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

420. 天〔の神々〕たちが、音楽神や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

421. かつまた、過去に、かつまた、未来に、かつまた、〔その〕中間(現在)において、彼のものが、何も存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

422. 〔勇猛果敢な〕雄牛たる最も優れた勇者を、〔一切の〕征圧者たる偉大なる聖賢を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を──わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

423. 彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 

 婆羅門の章が第二十六となり、〔以上で〕終了となる。

 

 これまでに、全て〔の章〕の最初のものとなる対なるものの章において、十四の事例があり、怠らないことの章において、九つ〔の事例〕があり、心の章において、九つ〔の事例〕があり、花の章において、十二〔の事例〕があり、愚者の章において、十五〔の事例〕があり、賢者の章において、十一〔の事例〕があり、阿羅漢の章において、十〔の事例〕があり、千の章において、十四〔の事例〕があり、悪の章において、十二〔の事例〕があり、棒の章において、十一〔の事例〕があり、老の章において、九つ〔の事例〕があり、自己の章において、十〔の事例〕があり、世の章において、十一〔の事例〕があり、覚者の章において、九つ〔の事例〕があり、安楽の章において、八つ〔の事例〕があり、愛しいものの章において、九つ〔の事例〕があり、忿激の章において、八つ〔の事例〕があり、垢の章において、十二〔の事例〕があり、法(正義)に依って立つ者の章において、十〔の事例〕があり、道の章において、十二〔の事例〕があり、雑駁なるものの章において、九つ〔の事例〕があり、地獄の章において、九つ〔の事例〕があり、象の章において、八つ〔の事例〕があり、渇愛の章において、十二〔の事例〕があり、比丘の章において、十二〔の事例〕があり、婆羅門の章において、四十〔の事例〕があり、ということで、三百と加えて五つの事例がある。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四百二十三〔の詩偈〕を有する〔聖典〕が、四つの真理の分明者(ブッダ)によって、そして、三百と加えて五つの事例のために現起された」と。

 

 ダンマパダにおける諸章のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「対なるものと怠らないこと、心、花、愚者とともに、賢者、阿羅漢、そして、千、悪があり、棒とともに、それらの十がある。

 

 老、そして、自己、そして、世、覚者、安楽があり、そして、愛しいものとともに、忿激、そして、垢、法(正義)に依って立つ者があり、道の章とともに、〔合わせて〕二十がある。

 

 雑駁なるもの、地獄、象、渇愛、そして、比丘、婆羅門があり、これらの二十六の章が、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された」〔と〕。

 

 諸々の詩偈のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「対なるものには二十の詩偈、怠らないことには十二、心の章には十一、花の章には十六〔の詩偈〕が〔有る〕。

 

 そして、愚者には十六の詩偈、賢者には十四、阿羅漢には十の詩偈、千には十六〔の詩偈〕が有る。

 

 悪の章には十三、そして、棒には十七、老の章には十一、自己の章には、それらの十〔の詩偈〕が〔有る〕。

 

 世の章には十二、覚者の章には十三、そして、安楽には、さらに、愛する者の章には、十二の詩偈が有る。

 

 忿激の章には十四、垢の章には二十一、そして、法(正義)に依って立つ者には十七、道の章には十七〔の詩偈〕が〔有る〕。

 

 雑駁なるものには十六の詩偈、地獄には、さらに、象には、十四、渇愛の章には二十四、比丘の章には二十三〔の詩偈〕が〔有る〕。

 

 最上の章たる婆羅門には四十一の詩偈が〔有る〕。四百の詩偈が、さらに、また、他に、二十三〔の詩偈〕が、ダンマパダ集成において、太陽の眷属によって説示された」と。

 

 ダンマパダ聖典は〔以上で〕終了となる。