小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

4. イティヴッタカ聖典(如是語経)

 

【目次】

 

1. 一なるものの集まり(1.~)

 

1. 1. 第一の章(1.~)

 

1. 1. 1. 貪欲の経(1.)

1. 1. 2. 憤怒の経(2.)

1. 1. 3. 迷妄の経(3.)

1. 1. 4. 忿激の経(4.)

1. 1. 5. 偽装の経(5.)

1. 1. 6. 思量の経(6.)

1. 1. 7. 一切の遍知の経(7.)

1. 1. 8. 思量の遍知の経(8.)

1. 1. 9. 貪欲の遍知の経(9.)

1. 1. 10. 憤怒の遍知の経(10.)

 

1. 2. 第二の章(11.~)

 

1. 2. 1. 迷妄の遍知の経(11.)

1. 2. 2. 忿激の遍知の経(12.)

1. 2. 3. 偽装の遍知の経(13.)

1. 2. 4. 無明という妨害するものの経(14.)

1. 2. 5. 渇愛という束縛するものの経(15.)

1. 2. 6. 第一の学びある者の経(16.)

1. 2. 7. 第二の学びある者の経(17.)

1. 2. 8. 僧団の分裂の経(18.)

1. 2. 9. 僧団の和合の経(19.)

1. 2. 10. 汚れた心の経(20.)

 

1. 3. 第三の章(21.~)

 

1. 3. 1. 清信した心の経(21.)

1. 3. 2. 慈愛の経(22.)

1. 3. 3. 両者の義の経(23.)

1. 3. 4. 骨の塊の経(24.)

1. 3. 5. 虚偽を説くことの経(25.)

1. 3. 6. 布施の経(26.)

1. 3. 7. 慈愛の修行の経(27.)

 

2. 二なるものの集まり(28.~)

 

2. 1. 第一の章(28.~)

 

2. 1. 1. 苦痛の住の経(28.)

2. 1. 2. 安楽の住の経(29.)

2. 1. 3. 悩み苦しめられるべきものの経(30.)

2. 1. 4. 悩み苦しめられるべきではないものの経(31.)

2. 1. 5. 第一の戒の経(32.)

2. 1. 6. 第二の戒の経(33.)

2. 1. 7. 熱情ある者の経(34.)

2. 1. 8. 第一の「たぶらかすことにあらず」の経(35.)

2. 1. 9. 第二の「たぶらかすことにあらず」の経(36.)

2. 1. 10. 悦意の経(37.)

 

2. 2. 第二の章(38.~)

 

2. 2. 1. 思考の経(38.)

2. 2. 2. 説示の経(39.)

2. 2. 3. 明知の経(40.)

2. 2. 4. 智慧の遍き衰退の経(41.)

2. 2. 5. 白き法の経(42.)

2. 2. 6. 生じたものではないものの経(43.)

2. 2. 7. 涅槃の界域の経(44.)

2. 2. 8. 静坐の経(45.)

2. 2. 9. 学びの福利の経(46.)

2. 2. 10. 〔眠らずに〕起きている者の経(47.)

2. 2. 11. 悪所にある者の経(48.)

2. 2. 12. 悪しき見解の経(49.)

 

3. 三なるものの集まり(50.~)

 

3. 1. 第一の章(50.~)

 

3. 1. 1. 根元の経(50.)

3. 1. 2. 界域の経(51.)

3. 1. 3. 第一の感受の経(52.)

3. 1. 4. 第二の感受の経(53.)

3. 1. 5. 第一の探し求めの経(54.)

3. 1. 6. 第二の探し求めの経(55.)

3. 1. 7. 第一の煩悩の経(56.)

3. 1. 8. 第二の煩悩の経(57.)

3. 1. 9. 渇愛の経(58.)

3. 1. 10. 悪魔の領域の経(59.)

 

3. 2. 第二の章(60.~)

 

3. 2. 1. 功徳行の基盤の経(60.)

3. 2. 2. 眼の経(61.)

3. 2. 3. 機能の経(62.)

3. 2. 4. 時の経(63.)

3. 2. 5. 悪しき行ないの経(64.)

3. 2. 6. 善き行ないの経(65.)

3. 2. 7. 清廉たることの経(66.)

3. 2. 8. 沈黙たることの経(67.)

3. 2. 9. 第一の貪欲の経(68.)

3. 2. 10. 第二の貪欲の経(69.)

 

3. 3. 第三の章(70.~)

 

3. 3. 1. 誤った見解ある者の経(70.)

3. 3. 2. 正しい見解ある者の経(71.)

3. 3. 3. 出離するべきものの経(72.)

3. 3. 4. より寂静なるものの経(73.)

3. 3. 5. 子の経(74.)

3. 3. 6. 旱魃の者の経(75.)

3. 3. 7. 安楽を切望することの経(76.)

3. 3. 8. 壊れ去るものの経(77.)

3. 3. 9. 界域あることから合流することの経(78.)

3. 3. 10. 遍き衰退の経(79.)

 

3. 4. 第四の章(80.~)

 

3. 4. 1. 思考の経(80.)

3. 4. 2. 尊敬の経(81.)

3. 4. 3. 天〔の神〕の声の経(82.)

3. 4. 4. 五つの前兆の経(83.)

3. 4. 5. 多くの人々の利益の経(84.)

3. 4. 6. 不浄の随観ある者の経(85.)

3. 4. 7. 法を法のままに実践する者の経(86.)

3. 4. 8. 盲者を作り為すものの経(87.)

3. 4. 9. 内なる垢の経(88.)

3. 4. 10. デーヴァダッタの経(89.)

 

3. 5. 第五の章(90.~)

 

3. 5. 1. 至高の清信の経(90.)

3. 5. 2. 生き方の経(91.)

3. 5. 3. 大衣の端の経(92.)

3. 5. 4. 火の経(93.)

3. 5. 5. 近しき注視の経(94.)

3. 5. 6. 欲望の再生の経(95.)

3. 5. 7. 欲望の束縛の経(96.)

3. 5. 8. 善き戒の経(97.)

3. 5. 9. 布施の経(98.)

3. 5. 10. 三つの明知ある者の経(99.)

 

4. 四なるものの集まり(100.~)

 

4. 1. 婆羅門の法の祭祀の章(100.~)

 

4. 1. 1. 婆羅門の法の祭祀の経(100.)

4. 1. 2. 得易きものの経(101.)

4. 1. 3. 煩悩の滅尽の経(102.)

4. 1. 4. 沙門や婆羅門たちの経(103.)

4. 1. 5. 戒を成就した者たちの経(104.)

4. 1. 6. 渇愛の生起の経(105.)

4. 1. 7. 梵〔天〕たちを有するものの経(106.)

4. 1. 8. 多く〔の利益〕を作り為す者たちの経(107.)

4. 1. 9. 虚言の経(108.)

4. 1. 10. 川の流れの経(109.)

4. 1. 11. 歩みの経(110.)

4. 1. 12. 戒を成就した者たちの経(111.)

4. 1. 13. 世の経(112.)

 


 

 

4. イティヴッタカ聖典(如是語経)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 一なるものの集まり

 

1. 1. 第一の章

 

1. 1. 1. 貪欲の経

 

1. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たること(不還性・欲界に帰らないこと)の保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、貪欲()という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、貪欲〔の思い〕で貪るなら、有情たちは、悪しき境遇(悪趣)に赴く。その貪欲〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔貪欲の思いを〕捨棄する。〔貪欲の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

1. 1. 2. 憤怒の経

 

2. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、憤怒()という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、憤怒〔の思い〕で怒るなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その憤怒〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔憤怒の思いを〕捨棄する。〔憤怒の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

1. 1. 3. 迷妄の経

 

3. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、迷妄()という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、迷妄〔の思い〕で迷うなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その迷妄〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔迷妄の思いを〕捨棄する。〔迷妄の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

1. 1. 4. 忿激の経

 

4. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、忿激(忿)という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、忿激〔の思い〕で忿激するなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その忿激〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔忿激の思いを〕捨棄する。〔忿激の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

1. 1. 5. 偽装の経

 

5. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、偽装()という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、偽装〔の思い〕で偽装するなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その偽装〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔偽装の思いを〕捨棄する。〔偽装の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

1. 1. 6. 思量の経

 

6. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、思量()という一つの法(性質)を捨棄しなさい。わたしは、あなたたちにとって、不還たることの保証人です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、思量〔の思い〕で思量するなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その思量〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔思量の思いを〕捨棄する。〔思量の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

1. 1. 7. 一切の遍知の経

 

7. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一切を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、一切を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、一切を一切にわたり〔正しく〕知って、一切の義(意味)において、〔欲に〕染まらないなら、彼は、まさに、一切を遍知して、彼は、一切の苦しみを超え行ったのだ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

1. 1. 8. 思量の遍知の経

 

8. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、〔我想の〕思量(自我意識)を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、〔我想の〕思量を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔我想の〕思量を具した、この人々は、思量の拘束ある〔人々〕であり、〔迷いの〕生存()を喜ぶ〔人々〕である。思量を遍知せずにいる者たちは、さらなる生存へと帰り来る者たちである。

 

 しかしながら、すなわち、〔我想の〕思量を打破して、思量の消滅〔の境地〕(涅槃)において解脱した者たちは、彼らは、思量の拘束を征服する者たちであり、一切の苦しみを超え行ったのだ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

1. 1. 9. 貪欲の遍知の経

 

9. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、貪欲〔の思い〕を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、貪欲〔の思い〕を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、貪欲〔の思い〕で貪るなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その貪欲〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔貪欲の思いを〕捨棄する。〔貪欲の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

1. 1. 10. 憤怒の遍知の経

 

10. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、憤怒〔の思い〕を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、憤怒〔の思い〕を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、憤怒〔の思い〕で怒るなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その憤怒〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔憤怒の思いを〕捨棄する。〔憤怒の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第一の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲と憤怒、さらに、迷妄、忿激と偽装、思量、一切(一切の遍知)、思量(思量の遍知)のあとに、ふたたび、貪欲(貪欲の遍知)と憤怒(憤怒の遍知)の二つが明示され、章と言い、第一のものと〔説かれる〕」と。

 

1. 2. 第二の章

 

1. 2. 1. 迷妄の遍知の経

 

11. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、迷妄〔の思い〕を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、迷妄〔の思い〕を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、迷妄〔の思い〕で迷うなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その迷妄〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔迷妄の思いを〕捨棄する。〔迷妄の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

1. 2. 2. 忿激の遍知の経

 

12. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、忿激〔の思い〕を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、忿激〔の思い〕を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、忿激〔の思い〕で忿激するなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その忿激〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔忿激の思いを〕捨棄する。〔忿激の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

1. 2. 3. 偽装の遍知の経

 

13. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、偽装〔の思い〕を証知せず遍知せずにいる者は、そこにおいて、心を離貪させず捨棄せずにいる者であり、苦しみの滅尽の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、偽装〔の思い〕を証知し遍知している者は、そこにおいて、心を離貪させ捨棄している者であり、苦しみの滅尽の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、偽装〔の思い〕で偽装するなら、有情たちは、悪しき境遇に赴く。その偽装〔の思い〕を正しく了知して、〔あるがままに〕観察する者たちは、〔偽装の思いを〕捨棄する。〔偽装の思いを〕捨棄して、いついかなる時であれ、この世には戻らない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

1. 2. 4. 無明という妨害するものの経

 

14. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、〔まさに〕その、妨害するもの()によって妨害された人々が、長夜にわたり、流転し輪廻するものとして、〔これより〕他に、一つの妨害するものでさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、無明という妨害するものです。比丘たちよ、まさに、無明という妨害するものによって妨害された人々は、長夜にわたり、流転し輪廻します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「このように、それによって覆われた人々が、昼夜にわたり輪廻するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも存在しない。すなわち、迷妄(:無知)によって、〔人々は〕覆われている。

 

 しかしながら、彼らが、迷妄を打破して、闇の塊を破ったなら、彼らは、ふたたび輪廻することなく、彼らに、〔輪廻の〕因は見出されない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

1. 2. 5. 渇愛という束縛するものの経

 

15. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、〔まさに〕その、束縛するもの()によって束縛された有情たちが、長夜にわたり、流転し輪廻するものとして、〔これより〕他に、一つの束縛するものでさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、渇愛という束縛するものです。比丘たちよ、まさに、渇愛という束縛するものによって束縛された有情たちは、長夜にわたり、流転し輪廻します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 この危険(患・過患)を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づき()ある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

1. 2. 6. 第一の学びある者の経

 

16. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者である、比丘にとって──束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住んでいる者にとって──〔それを〕『内なる支分である』と為して、およそ、このように多くの資益あるものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)です。比丘たちよ、根源のままに意を為している比丘は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修行します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「根源のままに意を為すことは、〔いまだ〕学びある者たる比丘のための法(性質)である。最上の義(目的)に至り得るために、このように多く〔の利益〕を作り為すものは、他に存在しない。根源のままに精励している比丘は、苦しみの滅尽に至り得るであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

1. 2. 7. 第二の学びある者の経

 

17. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、〔いまだ〕学びある者であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者である、比丘にとって──束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住んでいる者にとって──〔それを〕『外なる支分である』と為して、およそ、このように多くの資益あるものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある比丘は、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修行します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「その比丘が、善き朋友ある者であり、敬虔〔の思い〕を有し、尊重〔の思い〕を有し、朋友たちの言葉を〔言われたとおりに〕為しているなら、正知と気づきの者となり、順次に、〔彼は〕至り得るであろう──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽に」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

1. 2. 8. 僧団の分裂の経

 

18. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。僧団の分裂です。比丘たちよ、また、まさに、僧団が分裂したとき、まさしく、そして、互いに他と諸々の言争(いいあらそい)が有り、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有り、さらに、互いに他と諸々の分離が有り、かつまた、互いに他と諸々の離別が有り、そこにおいて、まさしく、そして、清信していない者たちは清信せず、さらに、一部の清信している者たちに、〔心の〕他化が有ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「僧団を分裂させる者は、悪所にある者となり、地獄にある者となり、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者となる(一劫のあいだ地獄に住む)。党派を喜びとする者は、法(正義)ならざるものに依って立つ者である。〔彼は〕束縛からの平安〔という無上なるもの〕から転落し、和合の僧団を分裂させて、カッパのあいだ、地獄において煮られる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

1. 2. 9. 僧団の和合の経

 

19. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。僧団の和合です。比丘たちよ、また、まさに、僧団の和合あるとき、まさしく、そして、互いに他と諸々の言争が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有ることもなく、さらに、互いに他と諸々の分離が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の離別が有ることもなく、そこにおいて、まさしく、そして、清信していない者たちは清信し、さらに、清信している者たちに、より一層の状態が有ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「安楽なるは、僧団の和合であり、さらに、和合者たちの資助である。〔僧団の〕和合を喜ぶ者は、法(正義)に依って立つ者である。〔彼は〕束縛からの平安〔という無上なるもの〕から転落せず、僧団を和合のものと為して、カッパのあいだ、天上において歓喜する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

1. 2. 10. 汚れた心の経

 

20. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の汚れた心の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の心が汚れているからです。比丘たちよ、また、まさに、心の汚れを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「ここに、一部の汚れた心の人のことを知って、そして、覚者(ブッダ)は、比丘たちの現前において、この義(道理)を説き明かした。

 

 もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕地獄に再生するであろう。なぜなら、彼の心が汚れているからである。

 

 あたかも、〔ものを〕運んで放ち置くように、まさしく、このように、そのような種類の者は〔悪しき境遇に再生する〕。まさに、心の汚れを因として、有情たちは、悪しき境遇に赴く」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第二の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「迷妄(迷妄の遍知)、忿激(忿激の遍知)、さらに、偽装(偽装の遍知)、無明(無明という妨害するもの)、渇愛(渇愛という束縛するもの)、そして、二つの学びある者、分裂(僧団の分裂)、和合(僧団の和合)、人(汚れた心)があり、章と言い、かくのごとく、第二のものと説かれる」と。

 

1. 3. 第三の章

 

1. 3. 1. 清信した心の経

 

21. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の清信した心の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の心が清信しているからです。比丘たちよ、また、まさに、心の清信を因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「ここに、一部の清信した心の人のことを知って、そして、覚者は、比丘たちの現前において、この義(道理)を説き明かした。

 

 もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕善き境遇に再生するであろう。なぜなら、彼の心が清信しているからである。

 

 あたかも、〔ものを〕運んで放ち置くように、まさしく、このように、そのような種類の者は〔善き境遇に再生する〕。まさに、心の清信を因として、有情たちは、善き境遇に赴く」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

1. 3. 2. 慈愛の経

 

22. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、諸々の功徳を恐れてはいけません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の功徳ですが、これは、好ましく愛らしく愛しく意に適う安楽の同義語です。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、長夜にわたり作り為された諸々の功徳の、好ましく愛らしく愛しく意に適う報い(異熟)を、〔自ら〕経験したものとして証知します(記憶している)。〔わたしは〕七年のあいだ、慈愛の心を修めて、七つの展転された〔カッパ〕と還転されたカッパ(壊劫と成劫)のあいだ、この世に、ふたたび帰り来ませんでした(世界が崩壊と生成を七回繰り返すあいだ、この世に再生しなかった)。比丘たちよ、まさに、カッパが展転しているときは、光音〔天〕に近しく赴く者として〔世に〕有り(光音天に再生する)、カッパが還転しているときは、空無なる梵〔天〕の宮殿に再生します(梵天界に再生する)。

 

 比丘たちよ、そこにあって、まさに、〔わたしは〕梵〔天〕(ブラフマー神・創造神)として〔世に〕有ります。大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者です。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、三十六回、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕として〔世に〕有りました。幾百回、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有りました。また、地域の王権については、何の論があるというのでしょう(言うまでもないことである)。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、これは、わたしの、どのような行為()の果であるのか、どのような行為の報いであるのか。それによって、わたしは、今現在、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者であるのだ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これは、わたしの、三つの行為の果であり、三つの行為の報いである。その〔行為〕によって、わたしは、今現在、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者であるのだ』と。それは、すなわち、この、布施であり、調御であり、自制です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、未来の先に安楽の生成ある、まさしく、功徳〔の行為〕を、学ぶなら──そして、布施を、かつまた、正しい性行を、さらに、慈愛の心を、修めるなら──

 

 安楽の集起ある、これらの三つの法(性質)を修めて、賢者は、憎悪〔の思い〕なき安楽の世に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

1. 3. 3. 両者の義の経

 

23. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を、正しく収め取って〔世に〕止住します──まさしく、そして、所見の法(現法:現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。諸々の善なる法(性質)において〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)です。比丘たちよ、まさに、この、一つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を、正しく収め取って〔世に〕止住します──まさしく、そして、所見の法(現世)の義(利益)を、さらに、未来の〔義〕を」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「賢者たちは、諸々の功徳を作り為す〔行為〕のなかでは、怠らないことを賞賛する。〔気づきを〕怠らない賢者は、〔この世とあの世の〕両者の義(利益)を収め取る。

 

 そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来(来世)における義(利益)であり、〔両者の〕義(利益)の〔あるがままの〕知悉(現観)あることから、慧者は、『賢者』と呼ばれる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

1. 3. 4. 骨の塊の経

 

24. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一者の人が、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、流転し輪廻しているとして、〔その〕骨の鎖は、〔その〕骨の塊は、〔その〕骨の集積物は、たとえば、この、ヴェープッラ山のように、このように、大いなるものとして存するでしょう。それで、もし、〔その骨を〕集める者が存するとして、しかしながら、運び込まれた〔骨〕が消えて無くなることはないでしょう」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「一なるカッパのあいだ〔輪廻する〕一者の人の骨の積量は、『山に等しき集積物として存するであろう』と、偉大なる聖賢によって説かれた。

 

 また、まさに、このことが告げ知らされた。それは、『大いなるヴェープッラ山〔に等しきもの〕となり、マガダ〔国〕のギリッバジャ(王舎城の別名)にあるギッジャクータ〔山〕(霊鷲山)を超えるものとなる』〔と〕。

 

 しかしながら、すなわち、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を──苦しみを、苦しみの生起を、そして、苦しみの超越を、さらに、苦しみの寂止に至る、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を──正しい智慧(慧・般若)によって見ることから──

 

 その人は、最高でも七回、〔生と死の輪廻を〕流転して〔そののち〕、苦しみの終極を為す者と成る──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽あることから」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

1. 3. 5. 虚偽を説くことの経

 

25. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、一つの法(性質)を、人士たる人が超え行ったなら、『彼にとって、為しえない悪しき行為は、何であれ、〔存在し〕ない』と、わたしは説きます。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。比丘たちよ、すなわち、この、正知の者として虚偽を説くこと(故意に嘘をつくこと)です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「一なる法(真理)を超え行った、虚偽を説く人にとって、他の世(来世)を否認する者にとって、為さずにいられる悪は存在しない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

1. 3. 6. 布施の経

 

26. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、布施と分与の報いを、すなわち、わたしが知るように、このように、もし、有情たちが知るなら、施さずして食べることはなく、そして、物惜の垢が、彼らの心を完全に奪い去って止住することはないでしょう。たとえ、それが、彼らに存する、最後の一口であり、最後の一握りであるとして、それで、もし、彼らに、〔施物を〕納受する者たちが存するなら、たとえ、それからでも、分け与えずして食べることはないでしょう(乞い求める者がいるかぎり施すであろう)。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あたかも、わたしが知るように、このように、有情たちが、布施と分与の報いを知らないことから、それゆえに、施さずして食べ、そして、物惜の垢が、彼らの心を完全に奪い去って止住するのです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、偉大なる聖賢によって説かれたとおりに、このように、もし、有情たちが知るなら──すなわち、大いなる果と成るとおりに、分与の報いを〔知るなら〕──

 

 物惜の垢を取り除いて、清信した心で、聖者たちにたいし、〔正しい〕時に〔施物を〕施すであろう──そこにおいて、施されたものが、大いなる果となるところに。

 

 そして、食べ物を、多くの者たちに施して、施物を、施与されるべき者たちにたいし〔施して〕、施者たちは、ここから死滅し、人間たる〔境遇〕から、天上に赴く。

 

 そして、天上に赴いた彼らは、そこにおいて、欲するままに欲する者たちとなり、歓喜する。物惜〔の思い〕なき者たちは、分与の報いを受領する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

1. 3. 7. 慈愛の修行の経

 

27. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、それらが何であれ、〔生存の〕依り所(依存の対象)あるものとしての、功徳行の基盤(福業事)であるなら、それらの全てが、慈愛の心による解脱の十六分の一にも値せず、まさしく、慈愛の心による解脱は、それらを圧倒して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、星の形態あるものの光は、それらの全てが、月の光の十六分の一にも値せず、まさしく、月の光が、それらを圧倒して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、〔生存の〕依り所あるものとしての、功徳行の基盤であるなら、それらの全てが、慈愛の心による解脱の十六分の一にも値せず、まさしく、慈愛の心による解脱は、それらを圧倒して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、〔生存の〕依り所あるものとしての、功徳行の基盤であるなら、それらの全てが、慈愛の心による解脱の十六分の一にも値せず、まさしく、慈愛の心による解脱は、それらを圧倒して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、夜の早朝の時分に、明けの明星が、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、〔生存の〕依り所あるものとしての、功徳行の基盤であるなら、それらの全てが、慈愛の心による解脱の十六分の一にも値せず、まさしく、慈愛の心による解脱は、それらを圧倒して、そして、光り輝き、かつまた、輝き渡り、さらに、遍照します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、彼が、気づきの者として、無量なる慈愛〔の心〕を修めるなら、〔生存の〕依り所の滅尽を〔常に〕見ている〔彼〕の、諸々の束縛するものは、些細なものと成る。

 

 もし、汚れなき心の者(怒りや憎しみなどの悪意なき者)が、たとえ、一者であれ、命あるものを慈愛するなら、それによって、〔彼は〕智者と成る。そして、一切の命あるものたちを意によって慈しみながら、聖者として、多大なる功徳を作り為す。

 

 すなわち、王たる聖賢たちは、有情たちが群れつどう地を征圧して、〔種々なる〕祭祀をしながら、〔各地を〕遊歴した──馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕を、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕を。

 

 彼らは、慈愛の心が善く修められた者〔の報い〕の十六分の一さえも受領しない──月の光と一切の星の群れのように。

 

 彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させず、〔他者に〕勝たず、〔他者をして他者に〕勝たせないなら、一切の生類にたいし、慈愛〔の心〕を部有する者であり、彼には、何をもってしても、怨み〔の思い〕はない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

 第三の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「心(清信した心)、慈愛、両者の義、ヴェープッラ山の塊(骨の塊)、正知の者として虚偽を説くこと(虚偽を説くこと)、そして、布施、慈愛の修行がある。

 

 そして、これらの七つの経があり、さらに、前の二十〔の経〕があり、諸々の一つの法(性質)について、包摂すること二十七の経典がある」と。

 

 一なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。

 

2. 二なるものの集まり

 

2. 1. 第一の章

 

2. 1. 1. 苦痛の住の経

 

28. (※)まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

※ テキストには (Dve dhamme anukkaṭi) とあるが、不要と見て削除する(PTS版も記載なし)。

 

 「比丘たちよ、二つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現法:現世)において、悩苦を有し、葛藤を有し、苦悶を有し、苦痛のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っています。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていないことであり、さらに、食について量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦を有し、葛藤を有し、苦悶を有し、苦痛のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「眼、そして、耳、さらに、鼻、舌、身、そのように、意──ここに、比丘たる彼の、これらの門が守られていないなら──

 

 食について量を知らず、諸々の〔感官の〕機能において統御されていない、その〔比丘〕は、身体の苦痛に〔到達し〕、心の苦痛に〔到達し〕、〔最高の〕苦痛に到達する。

 

 〔常に〕身体が焼かれていることで、〔常に〕心が焼かれていることで、そのような者は、もしくは、昼であろうが、夜であろうが、苦痛のうちに〔世に〕住む」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

2. 1. 2. 安楽の住の経

 

29. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)が待っています。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、さらに、食について量を知ることです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っています」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「眼、そして、耳、さらに、鼻、舌、身、そのように、意──ここに、比丘たる彼の、これらの門が善く守られているなら──

 

 そして、食について量を知り、さらに、諸々の〔感官の〕機能において統御された、その〔比丘〕は、身体の安楽に〔到達し〕、心の安楽に〔到達し〕、〔最高の〕安楽に到達する。

 

 〔常に〕身体が焼かれていないことで、〔常に〕心が焼かれていないことで、そのような者は、もしくは、昼であろうが、夜であろうが、安楽のうちに住む」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

2. 1. 3. 悩み苦しめられるべきものの経

 

30. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの悩み苦しめられるべき法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、善を為さなかった者として、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者として、恐怖からの救護所を作り為さなかった者として、悪を為した者として、残忍なることを為した者として、罪障を作り為した者として、〔世に〕有ります。彼は、『わたしは、善を為さなかった』〔と〕、かくのごとくもまた悩み苦しみ、『わたしは、悪を為した』〔と〕、かくのごとくもまた悩み苦しみます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの悩み苦しめられるべき法(性質)があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体()による悪しき行ないを為して、そして、諸々の言葉()による悪しき行ないを〔為して〕、意()による悪しき行ないを為して、さらに、すなわち、他の、汚点を伴ったもの(世に存するかぎりの罪悪)を〔為して〕──

 

 善なる行為()を為さずして、多くの善ならざる〔行為〕を為して、彼は、智慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

2. 1. 4. 悩み苦しめられるべきではないものの経

 

31. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの悩み苦しめられるべきではない法(性質)です。どのようなものが、二つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、善を為した者として、善なる〔功徳〕を作り為した者として、恐怖からの救護所を作り為した者として、悪を為さなかった者として、残忍なることを為さなかった者として、罪障を作り為さなかった者として、〔世に〕有ります。彼は、『わたしは、善を為した』〔と〕、かくのごとくもまた悩み苦しまず、『わたしは、悪を為さなかった』〔と〕、かくのごとくもまた悩み苦しみません。比丘たちよ、まさに、これらの二つの悩み苦しめられるべきではない法(性質)があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体による悪しき行ないを捨棄して、そして、諸々の言葉による悪しき行ないを〔捨棄して〕、意による悪しき行ないを捨棄して、さらに、すなわち、他の、汚点を伴ったものを〔捨棄して〕──

 

 善ならざる行為を為さずして、多くの善なる〔行為〕を為して、彼は、智慧を有する者として、身体の破壊ののち、天上に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

2. 1. 5. 第一の戒の経

 

32. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つの法(性質)を具備した人は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、悪しき戒(依存の対象になった形だけの戒律)であり、さらに、悪しき見解(執着の対象になった特定の見解)です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した人は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、悪しき戒を、さらに、悪しき見解を、彼が、これらの二つの法(性質)を具備した人であるなら、彼は、智慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

2. 1. 6. 第二の戒の経

 

33. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つの法(性質)を具備した人は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、善き戒であり、さらに、善き見解です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した人は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、善き戒を、さらに、善き見解を、彼が、これらの二つの法(性質)を具備した人であるなら、彼は、智慧を有する者として、身体の破壊ののち、天上に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

2. 1. 7. 熱情ある者の経

 

34. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、熱情なき者は、〔良心の〕咎めなき者は、比丘として、正覚の可能なき者であり、涅槃の可能なき者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能なき者です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、熱情ある者は、〔良心の〕咎めある者は、比丘として、正覚の可能ある者であり、涅槃の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、熱情なく〔良心の〕咎め()なき者であり、怠惰で精進に劣る者であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)多き者であり、恥〔の思い〕()なく礼を欠く者であるなら、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが不可能となる。

 

 しかしながら、彼が、〔常に〕気づき()ある賢明なる瞑想者であり、さらに、熱情あり〔良心の〕咎めある怠りなき者であるなら、生と老に束縛するものを断ち切って、まさしく、この〔世において〕、無上なる正覚を体得するであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

2. 1. 8. 第一の「たぶらかすことにあらず」の経

 

35. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、この梵行(禁欲清浄行)は、人をたぶらかすことを義(目的)として住されるのではなく(実践され完成されるのではない)、人に取り入ることを義(目的)として〔住されるのでは〕なく、利得や尊敬や名声や福利を義(目的)として〔住されるのでは〕なく、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』と〔住されるのでは〕ありません。比丘たちよ、そこで、まさに、この梵行は、まさしく、そして、〔心身の〕統御を義(目的)として住され、さらに、〔煩悩の〕捨棄を義(目的)として〔住されます〕」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔心身の〕統御を義(目的)として、〔煩悩の〕捨棄を義(目的)として、伝え聞きではない〔真の〕梵行を、涅槃への沈潜に至るものを、彼は、世尊は、〔世に〕説示した。

 

 この道は、大いなる者たちによって、大いなる聖賢たちによって、追い求められたものであり、それぞれの者たちが、覚者によって説示された、そのとおりに、それを実践するなら、教師の教えを〔教えのとおりに〕為す者たちとして、苦しみの終極を為すであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

2. 1. 9. 第二の「たぶらかすことにあらず」の経

 

36. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、この梵行は、人たぶらかすことを義(目的)として住されるのではなく、人に取り入ることを義(目的)として〔住されるのでは〕なく、利得や尊敬や名声や福利を義(目的)として〔住されるのでは〕なく、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』と〔住されるのでは〕ありません。比丘たちよ、そこで、まさに、この梵行は、まさしく、そして、〔真理の〕証知を義(目的)として住され、さらに、〔苦しみの〕遍知を義(目的)として〔住されます〕」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔真理の〕証知を義(目的)として、〔苦しみの〕遍知を義(目的)として、伝え聞きではない〔真の〕梵行を、涅槃への沈潜に至るものを、彼は、世尊は、〔世に〕説示した。

 

 この道は、大いなる者たちによって、大いなる聖賢たちによって、追い求められたものであり、それぞれの者たちが、覚者によって説示された、そのとおりに、それを実践するなら、教師の教えを〔教えのとおりに〕為す者たちとして、苦しみの終極を為すであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

2. 1. 10. 悦意の経

 

37. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります。どのようなものが、二つのものなのですか。諸々の畏怖するべき状況において畏怖することであり、そして、畏怖する者が根源から精励することです。比丘たちよ、まさに、これらの二つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「賢者は、諸々の畏怖するべき状況において、まさしく、畏怖するであろう。熱情ある賢明なる比丘は、智慧(慧・般若)によって正しく注視して──

 

 このような住ある熱情ある者は、寂静なる生活者として、〔心が〕高揚しない者として、心の止寂(奢摩他・止)に専念する者となり、苦しみの滅尽に至り得るであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第一の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つの比丘(苦痛の住・安楽の住)、悩み苦しめられるべきもの、悩み苦しめられるべきではないものがあり、〔二つの〕他所(第一の戒・第二の戒)とともに、熱情ある者、二つの『たぶらかすことにあらず』があり、悦意とともに、それらの十がある」と。

 

2. 2. 第二の章

 

2. 2. 1. 思考の経

 

38. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来には、二つの思考()が、多く慣行となります。そして、平安の思考が、さらに、遠離〔の思考〕が。比丘たちよ、如来は、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜びとする者であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜ぶ者です。比丘たちよ、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜びとし、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜ぶ、〔まさに〕その、如来には、この者には、まさしく、この思考が、多く慣行となります。『わたしは、〔自らの〕この振る舞いによって、あるいは、〔心が〕震え動く者(凡夫)も、あるいは、〔心が〕震え動かない者(阿羅漢)も、誰であれ、悩まさないのだ』と。

 

 比丘たちよ、如来は、遠離を喜びとする者であり、遠離を喜ぶ者です。比丘たちよ、遠離を喜びとし、遠離を喜ぶ、如来には、〔まさに〕その、この者には、まさしく、この思考が、多く慣行となります。『それが、善ならざるものであるなら、それは、捨棄されたものとしてある』と。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、あなたたちもまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜びとする者たちとして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜ぶ者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、まさに、その、あなたたちが、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜びとする者たちとして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜ぶ者たちとして、〔世に〕住んでいると、まさしく、この思考が、多く慣行となるでしょう。『わたしたちは、〔自らの〕この振る舞いによって、〔心が〕震え動く者も、あるいは、〔心が〕震え動かない者も、誰であれ、悩まさないのだ』と。

 

 比丘たちよ、遠離を喜びとする者たちとして、遠離を喜ぶ者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、まさに、その、あなたたちが、遠離を喜びとする者たちとして、遠離を喜ぶ者たちとして、〔世に〕住んでいると、まさしく、この思考が、多く慣行となるでしょう。『何が、善ならざるものであるのか。何が、〔いまだ〕捨棄されていないのか。何を、〔わたしたちは〕捨棄するのか』」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔誰も〕成し遂げられないことを成し遂げる覚者たる如来には、彼には、二つの思考が慣行となる。平安の思考が、第一のものとして言示され、そののち、遠離〔の思考〕が、第二のものとして明示された。

 

 〔世の〕闇を除去する者にして彼岸に至った偉大なる聖賢を、彼を、得るべきものに至り得た自在者にして煩悩()なき者を、〔世の〕毒を超え渡る者にして渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者を、彼を、まさに、最後の肉身を保つ牟尼を、悪魔〔の領域〕を捨棄し〔生と〕老の彼岸に至る者と、〔わたしは〕説く。

 

 たとえば、山の頂きの巌に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、その喩えのように、一切に眼ある思慮深き者は、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

2. 2. 2. 説示の経

 

39. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来には、教相〔の観点〕によって、二つの法(教え)の説示が有ります。どのようなものが、二つのものなのですか。『悪を、悪しきものとして、〔あるがままに〕見よ』と、これは、第一の法(教え)の説示です。『悪を、悪しきものとして、〔あるがままに〕見て、そこにおいて、厭離し、離貪し、解脱せよ』と、これは、第二の法(教え)の説示です。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来には、教相〔の観点〕によって、これらの二つの法(教え)の説示が有ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「覚者たる如来の、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者の、教相の言葉を見よ。そして、二つの法(教え)が明示された。

 

 心を、悪しきものとして、〔あるがままに〕見よ。さらに、また、そこにおいて、離貪せよ。そののち、〔あなたたちは〕心が離貪した者たちとなり、苦しみの終極を為すであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで──

 

 〔以上が〕第二となる。

 

2. 2. 3. 明知の経

 

40. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、無明を先行として、諸々の善ならざる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)があり、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)があります。比丘たちよ、しかしながら、まさに、明知を先行として、諸々の善なる法(性質)への入定あることから、まさしく、ただちに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎め(慚愧)があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「この世において、さらに、他〔の世〕において、これらの悪しき境遇は、それらが何であれ、一切が、無明を根元とするものであり、〔悪しき〕欲求と貪欲〔の思い〕の積み重ねとなるものである。

 

 そして、すなわち、悪しき欲求ある者と〔成り〕、恥〔の思い〕なき者と〔成り〕、礼を欠く者と成ることから、そののち、〔彼は〕悪を生み出し、それによって、悪所(地獄)に赴く。

 

 それゆえに、そして、欲〔の思い〕を、かつまた、貪欲〔の思い〕を、さらに、無明を、〔常に〕離貪させながら、〔常に〕明知を生起させている比丘は、一切の悪しき境遇を捨棄するであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

2. 2. 4. 智慧の遍き衰退の経

 

41. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、彼らが、聖なる智慧から遍く衰退した者たちであるなら、彼らは、極めて遍く衰退した有情たちです。彼らは、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦を有し、葛藤を有し、苦悶を有し、苦痛のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、彼らが、聖なる智慧から遍く衰退していない者たちであるなら、彼らは、遍く衰退していない有情たちです。彼らは、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住みます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っています」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「見よ──智慧の遍き衰退によって、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天を含む世〔の人々〕を。『これは、真理である』と〔迷いのままに〕思いなす。

 

 まさに、智慧は、世における最勝のものである。すなわち、これは、〔あるがままの〕洞察に至るものであり、それによって、生と生存(迷いの輪廻)の完全なる滅尽を正しく覚知する。

 

 天〔の神々〕たちは、そして、人間たちは、彼らを、正覚者にして気づきある者たちを、敏速なる智慧ある最後の肉体を保つ者たちを、羨む」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

2. 2. 5. 白き法の経

 

42. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの白き法(性質)が、世〔の人々〕を警護します。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、恥〔の思い〕であり、さらに、〔良心の〕咎めです。比丘たちよ、もし、これらの二つの白き法(性質)が、世〔の人々〕を警護しないなら、ここに、あるいは、『母である』と、あるいは、『叔母である』と、あるいは、『叔父の妻である』と、あるいは、『師匠の妻である』と、あるいは、『導師たちの妻である』と、覚知されないでしょう。すなわち、山羊と羊のように、鶏と豚のように、犬と野狐(ジャッカル)のように、世〔の人々〕が、混合〔の状態〕に赴いたなら。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの二つの白き法(性質)が、世〔の人々〕を警護することから、それゆえに、あるいは、『母である』と、あるいは、『叔母である』と、あるいは、『叔父の妻である』と、あるいは、『師匠の妻である』と、あるいは、『導師たちの妻である』と、覚知されるのです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「もし、彼らに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めが、そして、一切時に見出されないなら、彼らは、〔道を〕外れた者たちであり、楽しみを〔生の〕根元とする者たちであり、生と死〔の輪廻〕に至る者たちである。

 

 しかしながら、彼らに、恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めがあるなら、常に正しく〔気づきが〕現起しているなら、彼らは、梵行が育ち実った者たちであり、正しくある者たちであり、さらなる生存が滅尽した者たちである」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

2. 2. 6. 生じたものではないものの経

 

43. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの(有為)』ではないもの(涅槃)は存在します。比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの』ではないものが有ることなくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『生じたもの』ではなく『成ったもの』ではなく『作り為されたもの』ではなく『形成されたもの』ではないものが存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知されるのです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「生じたもの、成ったもの、生起したもの、作り為されたもの、形成されたもの、常恒ならざるもの、老と死の群結にして病の巣たる滅し壊れるもの──

 

 食の導きを起源とするものは、それは、喜ぶべくも十分ならず。それからの出離は、寂静なるもの、考慮の行境ならざるもの(思考の範囲を超えたもの)、常恒なるもの──

 

 生じたものではないもの、生起したものではないもの、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処(涅槃)である。諸々の苦しみの法(性質)の止滅は、形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止は、安楽である」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

2. 2. 7. 涅槃の界域の経

 

44. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの涅槃の界域です。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、〔生存の〕依り所という残りものを有する涅槃の界域(有余依涅槃界)であり、さらに、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔生存の〕依り所という残りものを有する涅槃の界域なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有ります。彼の、五つの〔感官の〕機能は、〔いまだ〕それらの打破(破壊)なきことから、まさしく、止住します(機能を保持し存続する)。〔彼は〕意に適うものと意に適わないものを経験し、楽と苦を得知します。彼の、〔まさに〕その、貪欲()の滅尽は、憤怒()の滅尽は、迷妄()の滅尽は、比丘たちよ、これは、『〔生存の〕依り所という残りものを有する涅槃の界域』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさしく、ここに、一切の感覚は、彼の愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るでしょう(安息し止滅する)。比丘たちよ、これは、『〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの二つの涅槃の界域があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「眼ある者(ブッダ)によって、〔一切に〕依存なく如(にょ)なる者によって、これらの二つの涅槃の界域が明示された。まさに、一つの界域は、この〔世における〕、所見の法(現世)のものにして、〔生存の〕依り所という残りものを有するもの(有余依)であり、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)の消滅である。また、〔もう一つの界域は〕未来のものにして、〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)であり、そこにおいては、諸々の〔迷いの〕生存が、全てにわたり止滅する。

 

 彼ら、この形成されたものではない境処を了知して、心が解脱し、〔迷いの〕生存に導くものの消滅ある者たち──彼らは、法(真理)の真髄に到達する者たちであり、滅尽〔の境地〕に喜びある者たちである。彼らは、如なる者たちは、一切の〔迷いの〕生存を捨棄したのだ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

2. 2. 8. 静坐の経

 

45. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、静坐(独坐)を喜びとする者たちとして、静坐を喜ぶ者たちとして、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者たちとして、瞑想(禅・静慮)を放却しない者たちとして、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者たちとして、諸々の空家を活用する者(瞑想専念者)たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、静坐を喜びとする者たちとして、静坐を喜ぶ者たちとして、内なる心の止寂に専念する者たちとして、瞑想を放却しない者たちとして、〔あるがままの〕観察を具備した者たちとして、諸々の空家を活用する者たちとして、〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が待っています。まさしく、所見の法(現世)における、了知(阿羅漢果)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たること(不還果)です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼ら、心が寂静となった賢明なる者たちは、そして、気づきある瞑想者たちは、法(事象)を正しく〔あるがままに〕観察する──諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者たちとなり。

 

 怠らないこと(不放逸)に喜びある寂静者たちは、怠ること(放逸)に恐怖を見る者たちであり、〔境涯の〕遍き衰退は有りえず、まさしく、涅槃の現前にある」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

2. 2. 9. 学びの福利の経

 

46. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、学びの福利ある者たちとして、より上なる智慧ある者たちとして、解脱を真髄とする者たちとして、気づきを優位とする者たちとして、〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、学びの福利ある者たちとして、より上なる智慧ある者たちとして、解脱を真髄とする者たちとして、気づきを優位とする者たちとして、〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が待っています。まさしく、所見の法(現世)における、了知(阿羅漢果)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たること(不還果)です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「円満成就した学びある者にして法(真理)の捨棄なき者を、より上なる智慧ある者にして生の滅尽と終極を見る者を、彼を、まさに、最後の肉身を保つ牟尼を、悪魔〔の領域〕を捨棄し〔生と〕老の彼岸に至る者と、〔わたしは〕説く。

 

 それゆえに、常に、瞑想を喜ぶ〔心が〕定められた者たちとして、生の滅尽と終極を見る熱情ある者たちとして、比丘たちよ、軍団を有する悪魔を征服して、生と死の彼岸に至る者たちと成れ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

2. 2. 10. 〔眠らずに〕起きている者の経

 

47. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、そして、比丘は、〔眠らずに〕起きている者として、気づきと正知の者として、〔心が〕定められた者として、歓喜ある者として、かつまた、清らかな信ある者として、さらに、そこにおいて、諸々の善なる法(性質)において〔正しい〕時に〔あるがままに〕観察する者として、〔世に〕存し、〔世に〕住むがよい。比丘たちよ、比丘が、〔眠らずに〕起きている者として、気づきと正知の者として、〔心が〕定められた者として、歓喜ある者として、かつまた、清らかな信ある者として、さらに、そこにおいて、諸々の善なる法(性質)において〔正しい〕時に〔あるがままに〕観察する者として、〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が待っています。まさしく、所見の法(現世)における、了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔眠らずに〕起きている者たちは、これを聞け。〔まさに〕その〔あなたたち〕が、眠りについた者たちであるなら、〔まさに〕その〔あなたたち〕は、目覚めよ。〔眠らずに〕起きていることは、眠りにつくことよりも、より勝(まさ)っている。〔眠らずに〕起きている者に、恐怖は存在しない。

 

 そして、彼が、〔眠らずに〕起きている者であり、気づきと正知の者であり、〔心が〕定められた者であり、歓喜ある者であり、かつまた、清らかな信ある者であるなら、彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者、彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するであろう。

 

 まさに、それゆえに、〔眠らずに〕起きていることに親しむように。熱情ある賢明なる比丘は、瞑想の得者として、生と老に束縛するものを断ち切って、まさしく、この〔世において〕、無上なる正覚を体得するであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

2. 2. 11. 悪所にある者の経

 

48. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つのものがあります。『これだ』〔という執着の思い〕を捨棄せずして、悪所にあり地獄にある、これらの者たちです。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、梵行者ではないのに梵行者と明言する者であり、さらに、すなわち、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩んでいる者を根元ならず梵行ならざることによって〔誹謗し〕攻撃する者です。比丘たちよ、まさに、これらの二つの、『これだ』〔という執着の思い〕を捨棄せずして、悪所にあり地獄にある者たちがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「事実ならざることを説く者は、地獄に近づく。あるいは、また、彼が、為して〔そののち〕、さらに、『〔わたしは〕為さない』〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄に近づく〕。両者ともどもに、彼らは、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、死してのち、他所(来世)において、等しき者たちと成る。

 

 黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、自制なく悪しき法(性質)の者たちが多くいる。悪しき者たちは、彼らは、〔自己の為した〕諸々の悪しき行為(悪業)によって、地獄に再生する。

 

 すなわち、もし、自制なき劣戒の者が、国人による〔行乞の〕食を受けるなら、熱せられた、火炎の如き鉄の玉を食べたほうが、より勝(まさ)っている(悪業を作って地獄に落ちるよりはまだましである)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十一となる。

 

2. 2. 12. 悪しき見解の経

 

49. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、二つの悪しき見解(常見と断見)に遍く取り囲まれた天〔の神々〕と人間たちがいます。或る者たちは、〔有るところのものに〕執着し、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱します。そして、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見ます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着するのですか。比丘たちよ、天〔の神々〕と人間たちは、生存(:実体)を喜びとする者たちであり、生存を喜ぶ者たちであり、生存を等しく歓喜する者たちです。彼らのばあい、生存の止滅のために、法(教え)が説示されているとき、〔彼らの〕心は、跳入せず、清信せず、確立せず、信念しません。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものに〕執着します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱するのですか。また、まさに、或る者たちは、まさしく、生存によって、苦悩しつつ、自責しつつ、忌避しつつ、非生存(非有:虚無)に愉悦します。『君よ、すなわち、まさに、この自己は、身体の破壊ののち、死後において、断絶し、消失し、死後において、有ることなきことから、この〔非生存〕は、寂静である、この〔非生存〕は、精妙である、この〔非生存〕は、あるがままのものである』と(※)。比丘たちよ、このように、まさに、或る者たちは、〔有るところのものから〕逸脱します。

 

※ テキストには yāthāvanti とあるが、PTS版により yathāvanti と読む。

 

 比丘たちよ、では、どのように、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見るのですか。ここに、比丘が、〔世に〕有るところのもの(:実体的存在として認識される現象世界)を、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見ます。〔世に〕有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、〔世に〕有るところのものの厭離と離貪と止滅のために、〔道の〕実践者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、眼ある者たちは、〔あるがままに〕見ます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼らが、有るところのものを、有るところのもの〔の観点〕から、〔あるがままに〕見て、さらに、有るところのものの超越を〔実践し成就して〕、生存にたいする渇愛〔の思い〕の完全なる滅尽あることから、有るところのとおりに解脱するなら──

 

 彼は、まさに、有るところのものの遍知ある者であり、彼は、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者であり、有るところのものの非生存あることから、〔その〕比丘は、さらなる生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十二となる。

 

 第二の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの〔感官の〕機能(苦痛の住・安楽の住)、二つの悩み苦しめられるべきもの(悩み苦しめられるべきもの・悩み苦しめられるべきではないもの)、戒による他の二つのもの(第一の戒・第二の戒)、〔良心の〕咎めなき者(熱情ある者)、そして、二つの『たぶらかすことにあらず』があり、畏怖するべきもの(悦意)とともに、それらの十がある。

 

 思考、説示、明知、智慧(智慧の遍き衰退)があり、第五に、法(白き法)とともに、生じたものではないもの、界域(涅槃の界域)、静坐、学び(学びの福利)があり、そして、〔眠らずに〕起きている者とともに、まさしく、そして、悪所(悪所にある者)と見解(悪しき見解)とともに、二十二〔の経〕が明示された」と。

 

 二なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。

 

3. 三なるものの集まり

 

3. 1. 第一の章

 

3. 1. 1. 根元の経

 

50. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善ならざるものの根元(不善根)です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()は、善ならざるものの根元です。憤怒()は、善ならざるものの根元です。迷妄()は、善ならざるものの根元です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善ならざるものの根元があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

3. 1. 2. 界域の経

 

51. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの界域()です。どのようなものが、三つのものなのですか。形態の界域(色界)であり、形態なき界域(無色界)であり、止滅の界域(涅槃)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの界域があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「形態の界域を遍知して、諸々の形態なき〔界域〕において確立せず、彼らが、止滅〔の界域〕において解脱するなら、彼らは、人として、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちである。

 

 不死なる界域を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき〔界域〕を、身体によって体得して、〔生存の〕依り所の放棄を実証して、煩悩なき者となり、正等覚者(ブッダ)は、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処を説示する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

3. 1. 3. 第一の感受の経

 

52. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受(:楽苦の知覚)です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの感受があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔心が〕定められた者にして、正知と気づきの者たる、覚者の弟子は、そして、諸々の感受を、さらに、諸々の感受の発生を、〔あるがままに〕覚知する。

 

 そして、そこにおいて、これら〔の感受〕が止滅するところ──〔すなわち、涅槃の境処を〕、さらに、滅尽に至る道を、〔あるがままに覚知する〕。諸々の感受の滅尽あることから、比丘は、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

3. 1. 4. 第二の感受の経

 

53. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受であり、苦痛の感受であり、苦でもなく楽でもない感受です。比丘たちよ、安楽の感受は、『苦である』と見られるべきです。苦の感受は、『矢である』と見られるべきです。苦でもなく楽でもない感受は、『無常である』と見られるべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘にとって、安楽の感受が、『苦である』と見られたものと成り、苦痛の感受が、『矢である』と見られたものと成り、苦でもなく楽でもない感受が、『無常である』と見られたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、聖者として、正しく見る者として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させ、正しく〔我想の〕思量の寂止あることから、苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、安楽〔の感受〕を、『苦痛である』と見たなら、苦痛〔の感受〕を、『矢である』と見たなら、苦でもなく楽でもない寂静なるものを、それを、『無常である』と見たなら──

 

 すなわち、そこにおいて、解脱することから、彼は、まさに、正しく見る比丘である。〔あるがままの〕証知が完成された寂静者である。彼は、まさに、束縛を超え行く牟尼(沈黙の聖者)である」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

3. 1. 5. 第一の探し求めの経

 

54. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔心が〕定められた者にして、正知と気づきの者たる、覚者の弟子は、そして、諸々の探し求め(貪欲の思い)を、さらに、諸々の探し求めの発生を、〔あるがままに〕覚知する。

 

 そして、そこにおいて、これら〔の探し求め〕が止滅するところ──〔すなわち、涅槃の境処を〕、さらに、滅尽に至る道を、〔あるがままに覚知する〕。諸々の探し求めの滅尽あることから、比丘は、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

3. 1. 6. 第二の探し求めの経

 

55. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの探し求めです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの探し求めがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔利得のための〕梵行の探し求めと共に、欲望〔の対象〕の探し求めがあり、〔迷いの〕生存の探し求めがあり、『かくのごとく、真理である』〔と断定し盲信する〕偏執があり、諸々の〔悪しき〕見解の境位の積み重ねがある(特定の主義主張への固執固着がある)。

 

 一切の貪欲が離貪した者にとって、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者にとって、諸々の探し求めは放棄され、諸々の〔悪しき〕見解の境位は完破された。諸々の探し求めの滅尽あることから、比丘は、願望なき者となり、懐疑なき者となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

3. 1. 7. 第一の煩悩の経

 

56. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの煩悩()です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔心が〕定められた者にして、正知と気づきの者たる、覚者の弟子は、そして、諸々の煩悩を、さらに、諸々の煩悩の発生を、〔あるがままに〕覚知する。

 

 そして、そこにおいて、これら〔の煩悩〕が止滅するところ──〔すなわち、涅槃の境処を〕、さらに、滅尽に至る道を、〔あるがままに覚知する〕。諸々の煩悩の滅尽あることから、比丘は、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

3. 1. 8. 第二の煩悩の経

 

57. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの煩悩です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの煩悩があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼の、欲望の煩悩が滅尽し、そして、無明〔の煩悩〕が離貪され、生存の煩悩が完全に滅尽したなら、〔彼は〕解脱者として、依り所なき者として、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

3. 1. 9. 渇愛の経

 

58. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの渇愛です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の渇愛(欲愛:欲望の対象への渇愛)であり、生存の渇愛(有愛:常住・実体への渇愛)であり、非生存の渇愛(非有愛:断滅・虚無への渇愛)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの渇愛があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「渇愛の束縛よって束縛された者たち、種々なる生存にたいする〔渇愛の思いに〕心が染まった者たち、彼らは、悪魔の束縛によって束縛された者たちであり、束縛からの平安なき人たちであり、〔これらの〕有情たちは、輪廻に赴く──生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。

 

 しかしながら、彼ら、渇愛〔の思い〕を捨棄して、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者たちは──彼らは、まさに、世において、彼岸に至った者たちとなる──すなわち、煩悩の滅尽に至り得た者(阿羅漢)たちとして」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

3. 1. 10. 悪魔の領域の経

 

59. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、悪魔の領域を超え行って、太陽のように光り輝きます。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、悪魔の領域を超え行って、太陽のように光り輝きます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「戒、禅定、そして、智慧(戒・定・慧の三学)──彼に、これら〔の学び〕が善く修められたなら、〔彼は〕悪魔の領域を超え行って、太陽のように光り輝く」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第一の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「根元と界域、さらに、二つの感受、そして、二つの探し求め、二つの煩悩があり、そして、渇愛あることから、さらに、悪魔の領域あることから、章と言い、かくのごとく、最上の第一のものと〔説かれる〕」と。

 

3. 2. 第二の章

 

3. 2. 1. 功徳行の基盤の経

 

60. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの功徳行の基盤(福業事)です。どのようなものが、三つのものなのですか。布施によって作られる功徳行の基盤であり、戒によって作られる功徳行の基盤であり、修行によって作られる功徳行の基盤です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの功徳行の基盤があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、未来の先に安楽の生成ある、まさしく、功徳〔の行為〕を、学ぶなら──そして、布施を、かつまた、正しい性行を、さらに、慈愛の心を、修めるなら──

 

 安楽の集起ある、これらの三つの法(性質)を修めて、賢者は、憎悪〔の思い〕なき安楽の世に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

3. 2. 2. 眼の経

 

61. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの眼です。どのようなものが、三つのものなのですか。肉の眼であり、天の眼であり、智慧の眼です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの眼があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「肉の眼、天の眼、無上なる智慧(慧・般若)の眼──最上の人士(ブッダ)は、これらの三つの眼を告げ知らせた。

 

 肉の眼には、生起があり、天の眼には、〔修行の〕道がある。無上なる智慧の眼──その〔眼〕から、知恵()が生起した──その眼の獲得あることから、一切の苦しみから解き放たれる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

3. 2. 3. 機能の経

 

62. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの機能()です。どのようなものが、三つのものなのですか。『了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう』という機能であり、了知の機能であり、了知者の機能です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの機能があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔いまだ〕学びつつある学びある者(有学)に、真っすぐな道に従い行く者に、滅尽〔の境地〕において、第一の知恵(預流道)が〔生起し〕、そののち、無間の了知(預流果)が〔生起する〕。

 

 そののち、了知による解脱者に、如なる者に、まさに、知恵(阿羅漢果)が有る。『わたしには、不動なる解脱がある』と、〔迷いの〕生存に束縛するものの滅尽あることから。

 

 彼は、まさに、〔正覚に至る〕機能を成就した者であり、寂静の境処(涅槃)に喜びある寂静者であり、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

3. 2. 4. 時の経

 

63. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの時です。どのようなものが、三つのものなのですか。過去の時であり、未来の時であり、現在の時です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの時があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「告知されるべきもの(教説)に〔固執の〕表象(:概念・心象)ある有情たちは、告知されるべきもののうちに止住する者たちである。〔彼らは〕告知されるべきものを遍知せずして、死魔の束縛へと帰り行く。

 

 しかしながら、告知されるべきものを遍知して、告知する者のことを思い考えず、意によって無上なる寂静の境処を体得した解脱者は──

 

 彼は、まさに、告知されるべきものの成就者、寂静の境処に喜びある寂静者、〔法を〕究めて〔法に〕慣れ親しむ者、法(真理)に依って立つ者、〔真の〕知に至る者であり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

3. 2. 5. 悪しき行ないの経

 

64. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの悪しき行ないです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体()による悪しき行ないであり、言葉()による悪しき行ないであり、意()による悪しき行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの悪しき行ないがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体による悪しき行ないを為して、そして、諸々の言葉による悪しき行ないを〔為して〕、意による悪しき行ないを為して、さらに、すなわち、他の、汚点を伴ったもの(世に存するかぎりの罪悪)を〔為して〕──

 

 善なる行為()を為さずして、多くの善ならざる〔行為〕を為して、彼は、智慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

3. 2. 6. 善き行ないの経

 

65. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善き行ないです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善き行ないがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体による悪しき行ないを捨棄して、そして、諸々の言葉による悪しき行ないを〔捨棄して〕、意による悪しき行ないを捨棄して、さらに、すなわち、他の、汚点を伴ったものを〔捨棄して〕──

 

 善ならざる行為を為さずして、多くの善なる〔行為〕を為して、彼は、智慧を有する者として、身体の破壊ののち、天上に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

3. 2. 7. 清廉たることの経

 

66. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの清廉たることです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の清廉たることであり、言葉の清廉たることであり、意の清廉たることです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの清廉たることがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体が清らかで、言葉が清らかで、心が清らかで、煩悩なき者を、〔三つの〕清廉たることが成就した清らかな者を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

3. 2. 8. 沈黙たることの経

 

67. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの沈黙たることです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の沈黙たることであり、言葉の沈黙たることであり、意の沈黙たることです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの沈黙たることがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕沈黙たることが成就した牟尼(沈黙の聖者)を、〔賢者たちは〕『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

3. 2. 9. 第一の貪欲の経

 

68. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、誰であれ、彼の、貪欲〔の思い〕が捨棄されず、憤怒〔の思い〕が捨棄されず、迷妄〔の思い〕が捨棄されていないなら、比丘たちよ、この者は、『悪魔の〔結縛に〕結縛された者、彼に、悪魔の罠が装着されたのだ、パーピマント(悪魔)の欲するままに為される者となる』〔と〕説かれます。比丘たちよ、誰であれ、彼の、貪欲〔の思い〕が捨棄され、憤怒〔の思い〕が捨棄され、迷妄〔の思い〕が捨棄されたなら、比丘たちよ、この者は、『悪魔の〔罠に〕結縛されない者、彼に、悪魔の罠が解除されたのだ、パーピマントの欲するままに為される者とならない』〔と〕説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼の、そして、貪欲が、かつまた、憤怒が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、彼を、自己を修めた随一の者を、梵と成った如来を、怨恨と恐怖を超え行った覚者を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

3. 2. 10. 第二の貪欲の経

 

69. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、誰であれ、彼の、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、貪欲〔の思い〕が捨棄されず、憤怒〔の思い〕が捨棄されず、迷妄〔の思い〕が捨棄されていないなら、比丘たちよ、この者は、『波を有し、波濤を有し、渦を有し、鰐を有し、羅刹を有する、〔輪廻の〕海を超え渡っていない』〔と〕説かれます。比丘たちよ、誰であれ、彼の、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、貪欲〔の思い〕が捨棄され、憤怒〔の思い〕が捨棄され、迷妄〔の思い〕が捨棄されたなら、比丘たちよ、この者は、『波を有し、波濤を有し、渦を有し、鰐を有し、羅刹を有する、〔輪廻の〕海を超え渡った。〔海を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』〔と〕説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼の、そして、貪欲が、かつまた、憤怒が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、彼は、鰐を有し、羅刹を有し、波の恐怖を有する、この超え難き〔輪廻の〕海を超え渡った。

 

 執着を超え行き、死魔〔の領域〕を捨棄し、依り所なき者は、さらなる生存なきために、苦しみを捨棄した。滅却〔の道〕に至った者は、彼は、量ることに至らない。『〔彼は〕死魔の王を迷わせた』と、〔わたしは〕説く」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第二の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「功徳(功徳行の基盤)、眼、さらに、諸々の機能、そして、時、二つの行ない(悪しき行ない・善き行ない)、清廉(清廉たること)、沈黙(沈黙たること)、さらに、二つの貪欲があり、ふたたび、章と言い、最上の第二のものと〔説かれる〕」と。

 

3. 3. 第三の章

 

3. 3. 1. 誤った見解ある者の経

 

70. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、説くのではありません。比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。比丘たちよ、そして、また、まさしく、それが、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「意を誤って向けて、さらに、言葉を誤って語って、この〔世において〕、人は、身体によって、諸々の行為を誤って為して──

 

 この〔世における〕短き生において、少聞にして功徳を作り為さない者は、彼は、智慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

3. 3. 2. 正しい見解ある者の経

 

71. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、説くのではありません。比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』〔と〕。比丘たちよ、そして、また、まさしく、それが、自ら知ったものであり、自ら見たものであり、自ら見出したものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「意を正しく向けて、さらに、言葉を正しく語って、この〔世において〕、人は、身体によって、諸々の行為を正しく為して──

 

 この〔世における〕短き生において、多聞にして功徳を作り為す者は、彼は、智慧を有する者として、身体の破壊ののち、天上に再生する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

3. 3. 3. 出離するべきものの経

 

72. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの出離するべき界域です。どのようなものが、三つのものなのですか。諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、離欲です。諸々の形態()にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、形態なきもの(無色)です。また、まさに、それが何であれ、『成ったもの()』『形成されたもの(有為)』『縁によって生起したもの(縁已生)』であるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの出離するべき界域があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「欲望〔の対象〕からの出離を知って、さらに、諸々の形態の超越を〔知って〕、一切の形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)の止寂を、一切時に体得している熱情ある者は──

 

 すなわち、そこにおいて、解脱することから、彼は、まさに、正しく見る比丘である。〔あるがままの〕証知が完成された寂静者である。彼は、まさに、束縛を超え行く牟尼(沈黙の聖者)である」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

3. 3. 4. より寂静なるものの経

 

73. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、諸々の形態(色界)より、諸々の形態なきもの(無色界)は、より寂静なるものとなります。諸々の形態なきものより、止滅〔の界域〕(涅槃)は、より寂静なるものとなります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、すなわち、形態〔の界域〕に近しく赴く有情たちも、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕に止住する者たちも、止滅〔の界域〕を覚知することなく、さらなる生存へと帰り来る者たちである。

 

 しかしながら、彼らが、諸々の形態〔の界域〕を遍知して、諸々の形態なき〔界域〕において確立せず、彼らが、止滅〔の界域〕において解脱するなら、彼らは、人として、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちである。

 

 不死なる界域を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき〔界域〕を、身体によって体得して、〔生存の〕依り所の放棄を実証して、煩悩なき者となり、正等覚者(ブッダ)は、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる境処を説示する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

3. 3. 5. 子の経

 

74. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの子たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。『優秀なる生まれの者』『善き生まれの者』『劣悪なる生まれの者』という、〔三つの子たちです〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、子は、優秀なる生まれの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、子の母と父が、覚者(:ブッダ)を帰依所に赴いた者たちではなく、法(:ダンマ)を帰依所に赴いた者たちではなく、僧団(:サンガ)を帰依所に赴いた者たちではなく、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間していない者たちとして、与えられていないものを取ることから離間していない者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間していない者たちとして、虚偽を説くことから離間していない者たちとして、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者たちとして、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして。しかしながら、彼らの子が、覚者を帰依所に赴いた者として、法(教え)を帰依所に赴いた者として、僧団を帰依所に赴いた者として、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として。比丘たちよ、まさに、このように、子は、優秀なる生まれの者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、子は、善き生まれの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、子の母と父が、覚者を帰依所に赴いた者たちとして、法(教え)を帰依所に赴いた者たちとして、僧団を帰依所に赴いた者たちとして、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者たちとして、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちとして、虚偽を説くことから離間した者たちとして、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちとして、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして。彼らの子もまた、覚者を帰依所に赴いた者として、法(教え)を帰依所に赴いた者として、僧団を帰依所に赴いた者として、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として。比丘たちよ、まさに、このように、子は、善き生まれの者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、子は、劣悪なる生まれの者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、子の母と父が、覚者を帰依所に赴いた者たちとして、法(教え)を帰依所に赴いた者たちとして、僧団を帰依所に赴いた者たちとして、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間した者たちとして、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちとして、虚偽を説くことから離間した者たちとして、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちとして、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして。しかしながら、彼らの子が、覚者を帰依所に赴いた者ではなく、法(教え)を帰依所に赴いた者ではなく、僧団を帰依所に赴いた者ではなく、〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離間していない者として、与えられていないものを取ることから離間していない者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間していない者として、虚偽を説くことから離間していない者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間していない者として、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として。比丘たちよ、まさに、このように、子は、劣悪なる生まれの者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの子たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「賢者たちは、優秀なる生まれの者を、善き生まれの者を、子として求める。〔まさに〕その、家を絶やす者と成る、劣悪なる生まれの者を、〔子として〕求めない。

 

 すなわち、〔善き〕在俗信者(優婆塞)たちと成る、まさに、これらの子たちは、世において、信ある者たちであり、戒を成就した者たちであり、寛容なる者たちであり、物惜〔の思い〕を離れ者たちであり、層雲から解き放たれた月が〔輝き渡るように〕、諸衆のなかで光り輝く」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

3. 3. 6. 旱魃の者の経

 

75. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。旱魃に等しき者であり、地域的な降雨ある者であり、一切所に雨を降らせる者です。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、旱魃に等しき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、全ての者たちに施す者として〔世に〕有りません──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちに、食べ物を、飲み物を、衣を、乗物を、花飾や香料や塗料を、臥所や住居や灯明を、〔何であれ、施しません〕。比丘たちよ、まさに、このように、人は、旱魃に等しき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、地域的な降雨ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、一部の者たちにとって施す者として〔世に〕有り、一部の者たちにとって施す者として〔世に〕有りません──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちに、食べ物を、飲み物を、衣を、乗物を、花飾や香料や塗料を、臥所や住居や灯明を、〔一部の者たちに施し、一部の者たちに施しません〕。比丘たちよ、まさに、このように、人は、地域的な降雨ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、一切所に雨を降らせる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、全ての者たちに施します──沙門や婆羅門や困窮者や放浪者や乞食者や乞い求める者たちに、食べ物を、飲み物を、衣を、乗物を、花飾や香料や塗料を、臥所や住居や灯明を、〔何であれ、施します〕。比丘たちよ、まさに、このように、人は、一切所に雨を降らせる者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「沙門にたいし〔分け与え〕ない──婆羅門にたいし〔分け与え〕ない──困窮者や放浪者や乞食者にたいし〔分け与え〕ない──食べ物を、そして、飲み物を、食料を得ても分け与え〔ない〕。まさに、彼のことを、最低の人士たる彼のことを、〔賢者たちは〕『旱魃に等しき者』と言う。

 

 一部の者たちには施さず、一部の者たちには献じる。まさに、彼のことを、思慮ある人たちは、『地域的な降雨ある者』と言う。

 

 行乞し易き者と言われる人士(一切所に雨を降らせる者)は、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者であり、〔常に〕歓喜しながら〔誰にたいしても食べ物と飲み物を〕ふるまい、『与えよ』『与えよ』と語る。

 

 あたかも、また、雨雲が、〔雷鳴を〕鳴り響かせて、叫喚して、雨を降らせ、まさしく、降り注ぐままに、高地を、そして、低地を、水で潤すように──

 

 まさしく、このように、ここに、一部の者は、そのような人として〔世に〕有る。法(正義)によって集めて、奮起して財に到達したなら、〔わが家に〕至り得た乞食者たちを、正しく、食べ物と飲み物によって満足させる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

3. 3. 7. 安楽を切望することの経

 

76. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの安楽を切望している者は、賢者となり、戒を守るべきです。どのようなものが、三つのものですか。『賞賛が、わたしに到来せよ』と〔切望している者は〕、賢者となり、戒を守るべきです。『諸々の財物が、わたしに生起せよ』と〔切望している者は〕、賢者となり、戒を守るべきです。『身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのだ』と〔切望している者は〕、賢者となり、戒を守るべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの安楽を切望している者は、賢者となり、戒を守るべきです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「賞賛を、そして、富の利得を、死してのち天上における歓喜を、〔これらの〕三つの安楽を切望している者は、思慮ある者となり、戒を守るように。

 

 たとえ、もし、悪を為さずにいるとして、〔悪を〕為している者に仕え親しむなら、悪において疑いある者と成り、そして、彼には、栄誉ならざることが増進する。

 

 そのような者を朋友と為し、かつまた、そのような者に仕え親しむなら、彼は、まさに、そのような者と成る。まさに、そのようなものとして、共に住むこと(他者との付き合い)はある。

 

 〔他者と〕慣れ親しんでいる〔愚者〕は、慣れ親しんでいる〔他者〕を〔汚す〕。〔他者と〕接触した〔愚者〕は、〔他者と〕接触しながら、他者を〔汚す〕。毒塗りの矢が〔他の〕矢束を〔汚す〕ように、〔汚れある者は〕汚れなき者を汚す。慧者は、汚れの恐怖あることから、悪しき者の友として存することは、まさしく、ない。

 

 その人が、草の葉先で、腐った魚を包むなら、〔それらの〕草もまた、腐〔臭〕を放つ。このように、愚者に仕え親しむことはある。

 

 しかしながら、その人が、パラーサ〔樹の葉〕で、タガラ(香料)を包むなら、〔それらの〕葉もまた、芳〔香〕を放つ。このように、慧者に仕え親しむことはある。

 

 それゆえに、葉の器のように、自己の報いとなるものを知って、賢者は、正しからざる者たちには仕え親しまず、正しくある者たちと慣れ親しむべきである。正しからざる者たちは、〔人を〕地獄に導き、正しくある者たちは、〔人を〕善き境遇に至り得させる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

3. 3. 8. 壊れ去るものの経

 

77. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、この身体は、壊れ去るものです。識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は、離貪の法(性質)です(崩壊し散逸する)。一切の〔生存の〕依り所(依存の対象)は、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、身体を壊れ去るものと知って、さらに、識知〔作用〕を消え去るものと〔知って〕、諸々の〔生存の〕依り所のうちに恐怖を見て、〔彼は〕生と死〔の輪廻〕を超え行った。最高の寂静に得達して、自己を修めた者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

3. 3. 9. 界域あることから合流することの経

 

78. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、界域あることから、有情たちは、有情たちと共に合流し合体します。下劣なるものへの信念ある有情たちは、下劣なるものへの信念ある有情たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある有情たちは、善きものへの信念ある有情たちと共に合流し合体します。

 

 比丘たちよ、過去の時にもまた、まさしく、界域あることから、有情たちは、有情たちと共に合流し合体しました。下劣なるものへの信念ある有情たちは、下劣なるものへの信念ある有情たちと共に合流し合体しました。善きものへの信念ある有情たちは、善きものへの信念ある有情たちと共に合流し合体しました。

 

 比丘たちよ、未来の時にもまた、まさしく、界域あることから、有情たちは、有情たちと共に合流し合体するでしょう。下劣なるものへの信念ある有情たちは、下劣なるものへの信念ある有情たちと共に合流し合体するでしょう。善きものへの信念ある有情たちは、善きものへの信念ある有情たちと共に合流し合体するでしょう。

 

 比丘たちよ、今現在、現在の時にもまた、まさしく、界域あることから、有情たちは、有情たちと共に合流し合体します。下劣なるものへの信念ある有情たちは、下劣なるものへの信念ある有情たちと共に合流し合体します。善きものへの信念ある有情たちは、善きものへの信念ある有情たちと共に合流し合体します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔他者との〕交わりから、〔欲の〕林の下生えが生じ、〔他者との〕交わりなきによって、〔それは〕断たれる。小さな木片に登っても、すなわち、大海においては沈み行くように──

 

 このように、怠惰の者を頼りにして、善き生ある者もまた沈み行く。それゆえに、彼を遍く避けるがよい──精進に劣る怠惰の者を。

 

 〔世俗から〕遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むがよい」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

3. 3. 10. 遍き衰退の経

 

79. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、三つのものですか。比丘たちよ、ここに、〔いまだ〕学びある比丘が、作業を喜びとする者として、作業を喜ぶ者として、作業を喜びとすることに専念する者として、〔世に〕有ります。談義を喜びとする者として、談義を喜ぶ者として、談義を喜びとすることに専念する者として、〔世に〕有ります。睡眠を喜びとする者として、睡眠を喜ぶ者として、睡眠を喜びとすることに専念する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、三つのものですか。比丘たちよ、ここに、〔いまだ〕学びある比丘が、作業を喜びとする者ではなく、作業を喜ぶ者ではなく、作業を喜びとすることに専念する者ではなく、〔世に〕有ります。談義を喜びとする者ではなく、談義を喜ぶ者ではなく、談義を喜びとすることに専念する者ではなく、〔世に〕有ります。睡眠を喜びとする者ではなく、睡眠を喜ぶ者ではなく、睡眠を喜びとすることに専念する者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「作業を喜びとし、談義を喜びとし、かつまた、睡眠を喜びとし、〔心が〕高揚している、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが不可能となる。

 

 まさに、それゆえに、為すべきこと(義務)少なく、眠り少なく、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕存するがよい。彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが可能となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第三の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの見解(誤った見解ある者・正しい見解ある者)、出離(出離するべきもの)、形態(より寂静なるもの)、子があり、そして、旱魃の者とともに、さらに、安楽(安楽を切望すること)、壊れ去るもの、界域(界域あることから合流すること)があり、遍き衰退とともに、それらの十がある」と。

 

3. 4. 第四の章

 

3. 4. 1. 思考の経

 

80. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善ならざる思考()です。どのようなものが、三つのものですか。軽蔑なきことに関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、他者への憐憫に関係した思考です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善ならざる思考があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「軽蔑なきことに〔心が〕束縛された者は、利得と尊敬に尊重〔の思い〕ある者は、僚友たちと愉悦を共にする者は、束縛するものの滅尽から遠く離れている。

 

 そして、彼が、子供や家畜を捨棄して、かつまた、諸々の収集物を放擲するなら、彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが可能となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

3. 4. 2. 尊敬の経

 

81. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬なきことに征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、かつまた、〔他者からの〕尊敬に、かつまた、〔他者からの〕尊敬なきことに、その両者に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、説くのではありません。比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬なきことに征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、かつまた、〔他者からの〕尊敬に、かつまた、〔他者からの〕尊敬なきことに、その両者に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。比丘たちよ、そして、また、まさしく、それが、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、〔他者からの〕尊敬なきに征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』〔と〕。

 

 比丘たちよ、わたしによって、〔このように〕見られました。『〔これらの〕有情たちは、かつまた、〔他者からの〕尊敬に、かつまた、〔他者からの〕尊敬なきに、その両者に征服された者たちであり、心が完全に奪い去られた者たちである。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらに、同様に、〔他者から〕尊敬なくあるとして、〔彼の〕禅定(定・三昧)が動揺せず、不放逸の住者としてあるなら──

 

 〔まさに〕その、常久なる瞑想者を、繊細にして〔正しい〕見解ある観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕『正なる人士』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

3. 4. 3. 天〔の神〕の声の経

 

82. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで、時から時に合わせて放たれます。どのようなものが、三つのものですか。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家することを思い考えるなら、その時点において、天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで放たれます。『この聖なる弟子は、悪魔を相手に戦うことを思い考える』と。比丘たちよ、この第一の天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで、時から時に合わせて放たれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その時点において、聖なる弟子が、七つの覚りの項目の法(菩提分法:四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の三十七菩提分法)のために修行への専念に専念する者として〔世に〕住むなら、その時点において、天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで放たれます。『この聖なる弟子は、悪魔を相手に戦う』と。比丘たちよ、この第二の天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで、時から時に合わせて放たれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その時点において、聖なる弟子が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、その時点において、天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで放たれます。『この聖なる弟子は、戦場の征圧者である。まさしく、その主戦場を征圧して、〔そこに〕居住する』と。比丘たちよ、この第三の天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで、時から時に合わせて放たれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの天〔の神〕の声が、天〔の神々〕たちのなかで、時から時に合わせて放たれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「戦場を征圧した正等覚者の弟子を見て、天神たちもまた、恐れおののきを離れた大いなる者を礼拝する。

 

 『善き生まれの人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたは、勝利し難きものを征服した。死魔の軍団に勝利して、解脱〔の境地〕によって〔一切に〕妨げなき〔あなた〕を〔礼拝する〕』〔と〕。

 

 かくのごとく、まさに、この者を、〔所期の〕意図に至り得た者を、天神たちは礼拝する。それによって、死魔の支配に行き着くことになる、まさに、彼の、その〔契機〕を見ないがゆえに」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

3. 4. 4. 五つの前兆の経

 

83. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、すなわち、天〔の神〕が、天の身体から死滅する法(性質)ある者と成るとき、彼に、五つの前兆が出現します。『諸々の花飾が萎れる』『諸々の衣が汚れる』『〔両の〕脇から諸々の汗が出る』『身体に色艶の衰えが現われる』『天〔の神〕として、自らの〔天の〕坐を喜び楽しまない』という、〔五つの前兆が〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、この〔天の神のこと〕を、〔他の〕天〔の神々〕たちは、『死滅する法(性質)ある者として、この天子はある』と、かくのごとく見出して、三つの言葉によって随喜します(※)。『君よ、この〔天の世〕から、善き境遇に赴け』『善き境遇に赴いて、善く得られた利得を得よ』『善く得られた利得を得て、〔信が〕善く確立された者と成れ』〔という、三つの言葉によって〕」と。

 

※ テキストには anumodenti とあるが、PTS版により anumodanti と読む。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何が、天〔の神々〕たちにとって、『善き境遇に赴くこと』と名づけられたのですか。尊き方よ、そして、何が、天〔の神々〕たちにとって、『善く得られた利得』と名づけられたのですか。尊き方よ、また、何が、天〔の神々〕たちにとって、『〔信が〕善く確立された者』と名づけられたのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、人間たることが、天〔の神々〕たちにとって、『善き境遇に赴くこと』と名づけられました。すなわち、人間と成った者として〔世に〕存しつつ、如来によって知らされた法(教え)と律において、〔彼が〕信を獲得するなら、比丘よ、まさに、これが、天〔の神々〕たちにとって、『善く得られた利得』と名づけられました。また、まさに、彼の、その信は、固着し、根元から生じ、確立し、堅固で、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、動かしようのないものと成ります。比丘よ、まさに、これが、天〔の神々〕たちにとって、『〔信が〕善く確立された者』と名づけられました」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、天〔の神〕が、寿命の消滅あることから、天の身体から死滅するとき、随喜する天〔の神々〕たちの、三つの声が放たれる。

 

 〔第一に〕『君よ、この〔天の世〕から、善き境遇に赴け。人間たちとの共住〔という善き境遇〕に』〔と〕。〔第二に〕『人間と成り、正なる法(教え)において、無上なる信を得よ』〔と〕。

 

 〔第三に〕『あなたの、その信は、固着し、根元から生じ、確立し、〔世に〕存するであろう──〔覚者によって〕見事に知らされた正なる法(教え)において、生あるかぎり、動かしようのないものとなり。

 

 身体による悪しき行ないを捨棄して、そして、諸々の言葉による悪しき行ないを〔捨棄して〕、意による悪しき行ないを捨棄して、さらに、すなわち、他の、汚点を伴ったもの(世に存するかぎりの罪悪)を〔捨棄して〕──

 

 身体による善なる〔行為〕を為して、言葉による多くの善なる〔行為〕を〔為して〕、意による善なる〔行為〕を為して、無量にして依り所なき〔行為〕を〔為して〕──

 

 そののち、〔身体という〕依り所ある〔人間としての〕功徳を、それを、布施によって、多く作り為して、他の死すべき者(人間)たちをもまた、正なる法(教え)と梵行において、確たるものとせよ』〔と〕。

 

 すなわち、天〔の神々〕たちが、〔死滅する〕天〔の神のこと〕を知るとき、この慈しみ〔の思い〕によって、『天〔の神〕よ、〔善き境遇に〕至り行け』〔と〕、繰り返し、死滅しつつある〔天の神〕に随喜する(※)」と。

 

※ テキストには anumodenti とあるが、PTS版により anumodanti と読む。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

3. 4. 5. 多くの人々の利益の経

 

84. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「三つのものがあります。これらの人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。比丘たちよ、この第一の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その教師(如来)の、弟子が、阿羅漢として、煩悩の滅尽者として、〔梵行の〕完成者として、為すべきことを為した者として、〔生の〕重荷を置いた者として、自らの義(目的)に至り得た者として、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者として、正しい了知による解脱者として、〔世に〕有ります。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。比丘たちよ、この第二の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その教師の、弟子が、〔いまだ〕学びある者(有学)として、〔道の〕実践者として、多聞の者として、戒と掟の具有者として、〔世に〕有ります。彼もまた、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。比丘たちよ、この第三の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「まさに、第一の者として、世における偉大なる聖賢である、教師(ブッダ)がいる。彼に付き従う弟子として、自己を修めた者(阿羅漢)がいる。さらに、他にまた、〔道の〕実践者として、多聞の者であり、戒と掟の具有者である、〔いまだ〕学びある者(有学の聖者)がいる。

 

 これらの三者は、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者たちである。光の作り手たちであり、法(真理)の言示者たちである。彼らは、不死の門を開き、多くの人々を(※)束縛から解き放つ。

 

※ テキストには hujjanaṃ とあるが、PTS版により bahujjanaṃ と読む。

 

 彼らが〔誰であれ〕、無上なる先導者(ブッダ)によって見事に説示された〔法の〕道に従い行くなら──彼らが〔誰であれ〕、善き至達者(ブッダ)の教えに怠りなくあるなら──まさしく、この〔世において〕、苦しみの終極を為す」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

3. 4. 6. 不浄の随観ある者の経

 

85. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、身体における不浄の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい。そして、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が、内に、全面に、善く現起されたものたものとして、あなたたちに有りなさい。一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)における無常の随観ある者たちとして〔世に〕住みなさい。比丘たちよ、身体における不浄の随観ある者たちとして〔世に〕住んでいると、すなわち、浄美なる界域(身体)にたいする貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠:貪りの潜在煩悩)は、それは捨棄されます。呼吸についての気づきが、内に、全面に、善く現起されたものたなら、すなわち、諸々の外なる思考を依拠とする諸々の悩苦の項目は、それらは有りません。一切の形成〔作用〕における無常の随観ある者たちとして〔世に〕住んでいると、すなわち、無明は、それは捨棄され、すなわち、明知は、それは生起します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「身体における不浄の随観ある者は、呼吸についての気づきある者は、一切の形成〔作用〕の止寂を一切時に見ている熱情ある者は──

 

 すなわち、そこにおいて、解脱することから、彼は、まさに、正しく見る比丘である。〔あるがままの〕証知が完成された寂静者である。彼は、まさに、束縛を超え行く牟尼(沈黙の聖者)である」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

3. 4. 7. 法を法のままに実践する者の経

 

86. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘には、これが、法(真理)のままなるものと成ります。説き明かしのために、法(教え)を法(教え)のままに実践する者が、すなわち、かくのごとく、語っているなら、法(真理)だけを語り、法(真理)ならざることを〔語ら〕ず、あるいは、思考しているなら、法(真理)の思考だけを思考し、法(真理)ならざる思考を〔思考せ〕ず、また、あるいは、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「法(教え)を喜びとし、法(教え)を喜び、法(教え)を〔常に〕弁別し、法(教え)を〔常に〕随念している比丘は、正なる法(教え)から遍く衰退しない。

 

 もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、内に静まっている心は、まさしく、寂静〔の境処〕に到達する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

3. 4. 8. 盲者を作り為すものの経

 

87. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させる、善ならざる思考です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、欲望の思考は、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。憎悪の思考は、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。悩害の思考は、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させる、善ならざる思考があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、盲者を作り為さないものであり、眼を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、智慧の増大あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃を等しく転起させる、善なる思考です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、離欲の思考は、盲者を作り為さないものであり、眼を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、智慧の増大あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃を等しく転起させるものです。憎悪なき思考は、盲者を作り為さないものであり、眼を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、智慧の増大あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃を等しく転起させるものです。悩害なき思考は、盲者を作り為さないものであり、眼を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、智慧の増大あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃を等しく転起させるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、盲者を作り為さないものであり、眼を作り為すものであり、知恵を作り為すものであり、智慧の増大あるものであり、悩苦を項目としないものであり、涅槃を等しく転起させる、善なる思考があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「三つの善なる思考(離欲の思考・憎悪なき思考・悩害なき思考)を思考するべきである。また、三つの善ならざる〔思考〕(欲望の思考・憎悪の思考・悩害の思考)を放却するべきである。彼は、まさに、諸々の思考と諸々の想念を静める──雨が塵を完破し〔静める〕ように。彼は、まさに、思考の寂止ある心によって──彼は、まさしく、この〔世において〕──寂静の境処(涅槃)に正しく到達したのだ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

3. 4. 9. 内なる垢の経

 

88. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。憤怒()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。迷妄()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものがあります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「義(道理)ならざるものを生むのが、貪欲〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、貪欲〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 しかしながら、彼が、貪欲〔の思い〕を打ち倒して、貪るべきものについて貪らないなら、彼から、貪欲〔の思い〕は捨棄される──蓮〔の葉〕から、水の滴が〔落ちる〕ように。

 

 義(道理)ならざるものを生むのが、憤怒〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、憤怒〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 しかしながら、彼が、憤怒〔の思い〕を打ち倒して、怒るべきものについて怒らないなら、彼から、憤怒〔の思い〕は捨棄される──〔枝の〕結節から、ターラ〔樹〕の熟した〔果〕が〔落ちる〕ように。

 

 義(道理)ならざるものを生むのが、迷妄〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、迷妄〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 しかしながら、彼が、迷妄〔の思い〕を打ち倒して、迷うべきものについて迷わないなら、彼は、一切の迷妄を打破する──昇り行く太陽が、闇を〔破る〕ように」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

3. 4. 10. デーヴァダッタの経

 

89. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つの正ならざる法(性質)に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタ(提婆達多・調天:ブッダを裏切りサンガを分裂させた)は、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者であり(一劫のあいだ地獄に住む)、治癒なき者です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、悪しき欲求あることに征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。比丘たちよ、悪しき朋友あることに征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です。また、まさに、より上なる為すべきことが存しているのに、ほんの些細な殊勝〔の境地〕の到達によって、中途において完成〔の思い〕を惹起しました。比丘たちよ、まさに、これらの三つの正ならざる法(性質)に征服され、心が完全に奪い去られたデーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「誰であれ、世において、悪しき欲求ある者として、けっして、生起してはならない。悪しき欲求ある者たちの、〔赴く〕境遇のとおりに、それを、このことによってもまた、知りなさい。

 

 〔すなわち〕『賢者』と呼称され、『自己を修めた者』と思認され、『デーヴァダッタ(調天)』として〔世に〕聞こえた者は、〔その〕盛名によって、燃え盛る〔炎〕のように、〔世に〕止住した。

 

 彼(デーヴァダッタ)は、〔覚者と〕同等に歩む者として(※)、如来である彼(ブッダ)を襲って、四つの門ある恐怖の無間地獄に至り得たのだ。

 

※ テキストには pamāṇamanuciṇṇo とあるが、注釈書により samāṇamanuciṇṇo と読む。

 

 まさに、彼が、悪しき行為(悪業)を為さずにいる汚れなき者を裏切るなら、まさしく、彼に、悪〔の報い〕が触れる──汚れた心の者に、礼を欠く者に。

 

 彼が、毒の瓶で、海を汚そうと思うも、彼は、それによって、〔海を〕汚すことはできない。なぜなら、海は、恐ろしく大きいからである。

 

 まさしく、このように、彼が、〔悪しき〕論によって、如来を害するも──正しき至達者にして、心が寂静となった者を〔害するも〕──彼(如来)においては、〔その〕論が成長することはない。

 

 賢者は、そのような者(如来)を、朋友と為すべきであり、そして、彼と慣れ親しむべきである。彼の道に従い行く比丘は、苦しみの滅尽に至り得るであろう」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第四の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「思考と尊敬と声(天〔の神〕の声)、死滅(五つの前兆)と世(多くの人々の利益)、不浄(不浄の随観ある者)、法(法を法のままに実践する者)と盲者を作り為すものと垢(内なる垢)があり、デーヴァダッタとともに、それらの十がある」と。

 

3. 5. 第五の章

 

3. 5. 1. 至高の清信の経

 

90. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの至高の清信です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。比丘たちよ、彼らが、覚者にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 比丘たちよ、およそ、諸々の法(教え)としてあるかぎり、あるいは、諸々の形成されたもの(有為)も、あるいは、諸々の形成されたものではないもの(無為)も、離貪〔の法〕は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、驕慢の削除であり、涸渇の調伏(取り除き)であり、基底(阿頼耶:執着)の根絶であり、転起(輪廻)の断絶であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃です。比丘たちよ、彼らが、離貪の法(教え)にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 比丘たちよ、およそ、あるいは、諸々の僧団としてあるかぎり、あるいは、諸々の僧集としてあるかぎり、如来の弟子の僧団は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)です。比丘たちよ、彼らが、僧団にたいし清信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし清信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし清信した者たちには、至高の報いが有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの至高の清信があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔信の対象が〕至高なることから、まさに、清信した者たちとなり、至高の法(性質)を〔常に〕識知している者たちには──施与されるべき無上にして至高なる者である、至高の覚者(:ブッダ)にたいし清信した者たちには──

 

 離貪と寂止の安楽である、至高の法(:ダンマ)にたいし清信した者たちには──無上なる功徳の田畑である、至高の僧団(:サンガ)にたいし、清信した者たちには──

 

 至高のものにたいし、〔常に〕布施を施している者たちには、至高の功徳が増え行く──至高のものとして、そして、寿命が、さらに、色艶、盛名、名誉、安楽、活力が。

 

 至高のものに施す者は、思慮ある者であり、至高の法(性質)において〔心が〕定められた者であり、天の生類として、あるいは、人間として、至高のものに至り得た者となり、歓喜する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

3. 5. 2. 生き方の経

 

91. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、これは、諸々の生き方のなかの極たるものです。すなわち、この、食乞いです。比丘たちよ、これは、世における呪いです。『〔おまえは〕食乞いとして、鉢を手にする者として、〔世を〕渡り歩く』という、〔この罵倒の言葉は〕。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この〔生き方〕に、それに、良家の子息たちは近づきます──義(利益)たる所以ある者たちとして、義(利益)たる所以を縁として。まさしく、王に強制されたからでもなく、盗賊に強制されたからでもなく、借金に苦悩するからでもなく、恐怖に苦悩するからでもなく、生き方として〔生来の〕性向であるからでもなく、そして、また、まさに、『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔これらに〕沈んだ者たちとして、〔わたしたちは〕存している。苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。比丘たちよ、そして、この良家の子息は、このように出家者となります。しかしながら、彼は、強欲〔の思い〕ある者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強烈な貪欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、火葬の薪が、両〔側〕から燃やされたとして、中間において糞が行き及んだもの(汚物で燃え残ったもの)は、薪たる義(用途)を、まさしく、村においても充満せず、林においても〔充満し〕ないようなものです(村と林の両所で役に立たない)。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。かつまた(※)、在家の財物から遍く衰退し、かつまた、沙門の資質たる義(目的)を円満成就させません」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

 「在家の財物から遍く衰退し、さらに、幸せ薄く、沙門の資質たる義(目的)を打ち捨てる──滅び行く者は、火葬の薪のように消え行く。

 

 黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、自制なく悪しき法(性質)の者たちが多くいる。悪しき者たちは、彼らは、〔自己の為した〕諸々の悪しき行為(悪業)によって、地獄に再生する。

 

 すなわち、もし、自制なき劣戒の者が、国人による〔行乞の〕食を受けるなら、熱せられた、火炎の如き鉄の玉を食べたほうが、より勝っている(悪業を作って地獄に落ちるよりはまだましである)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

3. 5. 3. 大衣の端の経

 

92. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、たとえ、もし、比丘が、〔わたしの〕大衣の端を掴んで、背後から背後へと付き従い、〔わたしの〕足〔の跡〕に、彼の足を置きつつあるも、しかしながら、彼が、強欲〔の思い〕ある者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強烈な貪欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)として、〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼は、わたしにとって、まさしく、遠く離れているのであり、そして、わたしも、彼にとって〔遠く離れているのです〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、法(真理)を見ないからです。法(真理)を見ずにいる者は、わたしを見ません。

 

 比丘たちよ、たとえ、もし、その比丘が、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)のところに住むも、しかしながら、彼が、強欲〔の思い〕なき者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強烈な貪欲〔の思い〕なき者として、心に憎悪〔の思い〕なき者として、汚れた意と思惟なき者として、気づきが現起された者として、正知の者として、〔心が〕定められた者として、一境心の者として、〔感官の〕機能が統御された者として、〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼は、わたしにとって、まさしく、現前にあり、わたしも、彼にとって、〔まさしく、現前にあります〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、法(真理)を見るからです。法(真理)を見ている者は、わたしを見ます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「たとえ、もし、〔わたしに〕付き従う者として〔世に〕存するも、かつまた、大いなる欲求ある者であり、悩苦ある者であるなら、彼が──動揺〔の思い〕に従い行く者が、動揺なき者にとって、涅槃に到達していない者が、涅槃に到達した者にとって、貪求ある者が、貪求を離れた者にとって──さてまた、どれほどまでに遠く離れているかを、見よ。

 

 しかしながら、すなわち、法(真理)を証知して、法(真理)を了知して、賢者としてあり、そして、無風の湖のように、動揺〔の思い〕なく、〔心が〕止み静まるなら──

 

 彼が──動揺なき者が、動揺なき者にとって、さらに、涅槃に到達した者が、涅槃に到達した者にとって、貪求なき者が、貪求を離れた者にとって──さてまた、どれほどまでに現前にあるかを、見よ」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

3. 5. 4. 火の経

 

93. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの火です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲の火であり、憤怒の火であり、迷妄の火です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの火があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「貪欲の火は、諸々の欲望〔の対象〕に貪欲し、耽溺している、死すべき者(人間)たちを焼く。また、憤怒の火は、命あるものを殺す、憎悪している人たちを〔焼く〕。

 

 また、迷妄の火は、聖なる法(教え)について熟知者ならざる、等しく迷乱した者たちを〔焼く〕。これらの火のことを知らずにいる者たちは、身体を有すること(有身)を喜ぶ人々である。

 

 彼らは、増大させる──地獄を、そして、諸々の畜生の胎を、阿修羅を、餓鬼の境域を──悪魔の結縛から解き放たれない者たちとして。

 

 しかしながら、すなわち、正等覚者の教えに、夜に、昼に、専念する者たちは、彼らは、貪欲の火を寂滅させる──常に、不浄の表象(不浄想:身体を不浄と見る観察)ある者たちとして。

 

 また、最上の人たちは、慈愛〔の心〕によって、憤怒の火を寂滅させる。また、すなわち、この、〔あるがままの〕洞察に至る、〔真実の〕智慧によって、迷妄の火を〔寂滅させる〕。

 

 それらの賢明なる者たちは、夜に、昼に、休みなく、〔これらの三つの火を〕寂滅させて、残りなく、完全なる涅槃に到達し、残りなく、苦しみを超え行った。

 

 聖なる見ある者たちは、〔真の〕知に至る者たちは──賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には帰り来ない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

3. 5. 5. 近しき注視の経

 

94. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、彼の識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず(固着せず)、〔何も〕執取せずして思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「七つの執着(渇愛・見解・思量・忿激・無明・煩悩・悪行)を捨棄した者にとって、〔迷いの生存に〕導くもの(煩悩)を断ち切った比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

3. 5. 6. 欲望の再生の経

 

95. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの欲望の再生です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、現起している欲望〔の対象〕ある者たちであり、化作を喜ぶ者(化楽)たちであり、他によって化作されたものに自在の転起ある者(他化自在)たちです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの欲望の再生があります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「そして、現起している欲望〔の対象〕ある者たちは──それらの、自在の転起ある天〔の神々〕たちや化作に喜びある天〔の神々〕たちは──さらに、すなわち、他の、欲望の享受者たちは──〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 この危険を知って、欲望の享受者たちのなかにいながら、賢者は、一切の欲望〔の対象〕を完全に捨て去るであろう──それらが、天のものであれ、さらに、それらが、人間のものであれ。

 

 〔賢者たちは〕愛しい形態や快楽〔の思い〕に拘束された超え難き〔欲望の〕流れを断ち切って、残りなく、完全なる涅槃に到達し、残りなく、苦しみを超え行った。

 

 正しく見る者たちは、〔真の〕知に至る者たちは──賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には帰り来ない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

3. 5. 7. 欲望の束縛の経

 

96. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、欲望の束縛よって束縛され、生存の束縛よって束縛された者は、〔この世への〕帰還ある者であり、〔今〕この場の〔迷いの〕あり方に帰り来る者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、欲望の束縛による束縛を離れ、生存の束縛よって束縛された者は、不還たる者(欲界の生存に帰らない者)であり、〔今〕この場の〔迷いの〕あり方に帰り来ない者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、欲望の束縛による束縛を離れ、生存の束縛による束縛を離れた者は、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として〔世に〕有ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「欲望の束縛によって束縛された者たち、さらに、同様に、生存の束縛によって〔束縛された者たち〕、〔これらの〕有情たちは、輪廻に赴く──生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。

 

 そして、すなわち、諸々の欲望を捨棄して〔そののち〕、煩悩の滅尽に至り得ない者たちは、生存の束縛に束縛された者たちであり、『不還たる者たち』と説かれる。

 

 しかしながら、彼ら、まさに、疑念を断ち、〔我想の〕思量とさらなる生存が滅尽した者たちは──彼らは、まさに、世において、彼岸に至った者たちとなる──すなわち、煩悩の滅尽に至り得た者(阿羅漢)たちとして」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

3. 5. 8. 善き戒の経

 

97. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、比丘は、善き戒ある者として、善き法(教え)ある者として、善き智慧ある者として、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、善き戒ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き戒ある者と成ります。かくのごとく、善き戒ある者として。

 

 では、どのように、善き法(教え)ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、七つの覚りの項目の法(菩提分法:四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の三十七菩提分法)のために、修行への専念に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き法(教え)ある者と成ります。かくのごとく、善き戒ある者として、善き法(教え)ある者として。

 

 では、どのように、善き智慧ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、善き智慧ある者と成ります。

 

 かくのごとく、善き戒ある者として、善き法(教え)ある者として、善き智慧ある者として、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼に、身体と言葉と意による悪行が存在しないなら、彼を、まさに、恥の意ある比丘を、〔賢者たちは〕『善き戒ある者』と言う。

 

 彼に、七つの正覚に至る法(教え)が善く修められたなら、彼を、まさに、〔渇愛の〕増長なき比丘を、〔賢者たちは〕『善き法(教え)ある者』と言う。

 

 彼が、まさしく、この〔世において〕、苦しみと自己の滅尽を覚知するなら、彼を、まさに、煩悩なき比丘を、〔賢者たちは〕『善き智慧ある者』と言う。

 

 それらの法(性質)を成就し、煩悶なく、疑念を断ち、一切の世に依存なき者を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

3. 5. 9. 布施の経

 

98. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、これらの二つの布施があります。そして、財貨の布施であり、さらに、法(教え)の布施です。比丘たちよ、これらの二つの布施のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の布施です。

 

 比丘たちよ、これらの二つの分与があります。そして、財貨の分与であり、さらに、法(教え)の分与です。比丘たちよ、これらの二つの分与のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の分与です。

 

 比丘たちよ、これらの二つの資助があります。そして、財貨の資助であり、さらに、法(教え)の資助です。比丘たちよ、これらの二つの資助のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の資助です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、〔賢者たちが〕最高にして無上なるものと言った布施──すなわち、世尊が褒め称えた分与──至高なる田畑(福田)にたいし、清信した心の者であるなら、〔あるがままに〕覚知している識者であるなら、誰が、時において、祭祀せずにいられよう(供養せずにいられない)。

 

 まさしく、そして、彼らが、〔教えを〕語り、さらに、同様に、〔教えを〕聞き、善き至達者(ブッダ)の教えにたいし、清信した心の者たちであるなら──彼らが、善き至達者の教えにおいて、怠らない者たちであるなら──彼らの、その最高の義(目的)は、清浄となる(成就する)」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

3. 5. 10. 三つの明知ある者の経

 

99. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、法(真理)によって、三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)ある者を、婆羅門と報知します。他の者を、〔それらしい〕虚論を談じたのみで、〔婆羅門と報知し〕ません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、わたしは、法(真理)によって、三つの明知ある者を、婆羅門と報知し、他の者を、〔それらしい〕虚論を談じたのみで、〔婆羅門と報知し〕ないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼には、この第一の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼には、この第二の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼には、この第三の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。比丘たちよ、このように、まさに、わたしは、法(真理)によって、三つの明知ある者を、婆羅門と報知します。他の者を、〔それらしい〕虚論を談じたのみで、〔婆羅門と報知し〕ません」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり──

 

 これらの三つの明知によって、三つの明知ある婆羅門と成る。わたしは、彼を『三つの明知ある者』と説く──他の、〔それらしい〕虚論を談じている者は、さにあらず」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

 第五の章は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「清信(至高の清信)と生き方と大衣(大衣の端)、火があり、近しき注視とともに、再生(欲望の再生)と欲望(欲望の束縛)と善きもの(善き戒)、布施があり、法(三つの明知ある者)とともに、それらの十がある」と。

 

 三なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。

 

4. 四なるものの集まり

 

4. 1. 婆羅門の法の祭祀の章

 

4. 1. 1. 婆羅門の法の祭祀の経

 

100. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、常に、乞いに応じる婆羅門として、〔布施のために〕手を洗い清めた者として、最後の肉身を保つ者として、無上なる医師として、〔毒〕矢の治癒者として、〔世に〕存しています。あなたたちは、〔まさに〕その、わたしの、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちであり、法(教え)から生じる者たちであり、法(教え)によって化作された者たちであり、法(教え)の相続者たちです。財貨の相続者たちではありません。

 

 比丘たちよ、これらの二つの布施があります。そして、財貨の布施であり、さらに、法(教え)の布施です。比丘たちよ、これらの二つの布施のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の布施です。

 

 比丘たちよ、これらの二つの分与があります。そして、財貨の分与であり、さらに、法(教え)の分与です。比丘たちよ、これらの二つの分与のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の分与です。

 

 比丘たちよ、これらの二つの資助があります。そして、財貨の資助であり、さらに、法(教え)の資助です。比丘たちよ、これらの二つの資助のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の資助です。

 

 比丘たちよ、これらの二つの祭祀があります。そして、財貨の祭祀であり、さらに、法(教え)の祭祀です。比丘たちよ、これらの二つの祭祀のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、法(教え)の祭祀です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「すなわち、物惜〔の思い〕なく、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある如来が、法(教え)の祭祀を執り行なったなら、そのような者である彼を、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者を、〔迷いの〕生存の彼岸に至る者を、有情たちは礼拝する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第一となる。

 

4. 1. 2. 得易きものの経

 

101. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、まさしく、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それらは、罪過なきものです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、諸々の衣料のなかでは糞掃衣(ぼろ布)が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の食料のなかでは〔施しの〕握り飯が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の臥坐所のなかでは木の根元が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、諸々の医薬品のなかでは腐尿(腐った牛の尿)が、そして、些少のものであり、さらに、得易きものであり、かつまた、それは、罪過なきものです。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、まさしく、そして、些少のものがあり、さらに、得易きものがあり、かつまた、それらは、罪過なきものです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、少値のものによって、さらに、得易きものによって、かつまた、罪過なきものによって、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有ることから、わたしは、これを、彼にとって(※)、『沙門の資質の支分として、随一のもの』と説きます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

※ テキストには imassāhaṃ とあるが、注釈書により idamassāhaṃ と読む。

 

 「些少のものによって、さらに、得易きものによって──罪過なきものによって〔常に〕満ち足りている者には、臥坐と衣料と飲食(衣食住)に関して、心の悩苦が有ることもなく、方々にあって打ちのめされることもない。

 

 さらに、すなわち、沙門の資質に随順するものとして、彼に告げ知らされた諸々の法(教え)が、〔それらが〕収め取られ、〔常に〕満ち足りている者には──比丘として、〔気づきを〕怠らない者には」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第二となる。

 

4. 1. 3. 煩悩の滅尽の経

 

102. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます。〔あるがままに〕知っていない者に、ではなく、〔あるがままに〕見ていない者に、ではなく。比丘たちよ、では、何を、〔あるがままに〕知っている者に、何を、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。比丘たちよ、『これは、苦しみである』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、『これは、苦しみの集起である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「〔いまだ〕学びつつある学びある者(有学)に、真っすぐな道に従い行く者に、滅尽〔の境地〕において、第一の知恵(預流道)が〔生起し〕、そののち、無間の了知(預流果)が〔生起する〕。

 

 そののち、了知による解脱者に、最上の解脱の知恵(阿羅漢果)が〔生起し〕、『諸々の束縛するもの()は滅尽したのだ』と、滅尽についての知恵が生起する。

 

 まさしく、しかし、この、一切の拘束を解き放つ涅槃〔の境処〕は、怠惰で〔あるがままに〕識知していない愚者によって到達されるべきものではない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第三となる。

 

4. 1. 4. 沙門や婆羅門たちの経

 

103. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、これらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら──

 

 彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。

 

 しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を覚知するなら──

 

 心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第四となる。

 

4. 1. 5. 戒を成就した者たちの経

 

104. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、戒を成就した者たちであり、禅定を成就した者たちであり、智慧を成就した者たちであり、解脱を成就した者たちであり、解脱の知見を成就した者たちであり、教諭者たちであり、教授者たちであり、見示者たちであり、訓戒者たちであり、激励者たちであり、感動者たちであり、正なる法(教え)の十分に正しき告知者たちであるなら、比丘たちよ、それらの比丘たちと会見することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに聴聞することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに近づいて行くこともまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに奉侍することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちを随念することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。比丘たちよ、それらの比丘たちに従い出家することもまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、わたしは説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、そのような形態の比丘たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍していると、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇もまた、修行の円満成就に赴き、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇もまた、修行の円満成就に赴き、〔いまだ〕円満成就なき智慧の範疇もまた、修行の円満成就に赴き、〔いまだ〕円満成就なき解脱の範疇もまた、修行の円満成就に赴き、〔いまだ〕円満成就なき解脱の知見の範疇もまた、修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、さらに、このような形態のそれらの比丘たちは、『教師たち』ともまた説かれ、『先導者たち』ともまた説かれ、『相克を捨棄する者たち』ともまた説かれ、『闇を除去する者たち』ともまた説かれ、『光明を作り為す者たち』ともまた説かれ、『光輝を作り為す者たち』ともまた説かれ、『灯火を作り為す者たち』ともまた説かれ、『松明の保持者たち』ともまた説かれ、『光の作り手たち』ともまた説かれ、『聖者たち』ともまた説かれ、『眼ある者たち』ともまた説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「歓喜を作り為す境位(真の喜びの因となるもの)は、これは、〔あるがままに〕識知している者たちに有る──すなわち、この、自己を修めた者たちに、法(教え)によって生きる聖者たちに。

 

 彼らは、正なる法(教え)を輝き照らし、光り輝かせる──光の作り手たちとして、光明を作り為す慧者たちとして、相克を捨棄する眼ある者たちとして。

 

 まさに、彼らの教えを聞いて、賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には帰り来ない」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第五となる。

 

4. 1. 6. 渇愛の生起の経

 

105. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの渇愛の生起です。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、あるいは、衣料を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、〔行乞の〕施食を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、臥坐具を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。比丘たちよ、まさに、これらの四つの渇愛の生起があります。そこにおいて、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第六となる。

 

4. 1. 7. 梵〔天〕たちを有するものの経

 

106. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、それらの家は、梵〔天〕たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、往古の天神たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、往古の師匠たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、〔供物を〕捧げるべき者たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。

 

 比丘たちよ、『梵〔天〕たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『往古の天神たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『往古の師匠たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『〔供物を〕捧げるべき者たち』とは、これは、母と父の同義語です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、母と父は、子供たちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、育成者たちであり、養育者たちであり、この世の見示者たちであるからです」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「母と父は、『梵〔天〕たち』と〔説かれ〕、『往古の師匠たち』と説かれる。そして、子供たちにとって、〔供物を〕捧げるべき者たちであり、子孫にたいし、慈しみ〔の思い〕ある者たちである。

 

 まさに、それゆえに、賢者は、彼らを、礼拝するべきであり、かつまた、尊敬するべきである。食べ物によって、さらに、飲み物によって、衣によって、かつまた、臥具によって、塗油によって、沐浴によって、そして、〔両の〕足を洗い清めることによって。

 

 母と父にたいする、その世話によって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第七となる。

 

4. 1. 8. 多く〔の利益〕を作り為す者たちの経

 

107. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、婆羅門や家長たちは、あなたたちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちです。彼らは、あなたたちに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって奉仕する者たちです。比丘たちよ、あなたたちもまた、婆羅門や家長たちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちです。すなわち、彼らに、〔あなたたちは〕法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。比丘たちよ、このように、互いに他に依拠して、この梵行は住されます(実践され完成される)──激流の超出を義(目的)として、正しく苦しみの終極を為すために」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「家を有する者(在家者)たちが、かつまた、家なき者(出家者)たちが、両者が、互いに他に依拠したなら、束縛からの平安という無上なるものを、正なる法(教え)を、達成する。

 

 そして、家なき者たちは、家を有する者たちにおいて、衣料を、〔病のための〕日用品を、臥坐具を、危難の除去〔という便宜〕を、受容する。

 

 いっぽう、在家の家主たちは、善き至達者(ブッダ)に依拠して、阿羅漢たちに信を置く者たちとなり、聖なる智慧によって瞑想する者たちとなる。

 

 この〔世において〕、善き境遇(善趣)に至る道である法(正義)〔の道〕を歩んで、天の世において、喜びある者たちとなり、欲するままに欲する者たちとなり、歓喜する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第八となる。

 

4. 1. 9. 虚言の経

 

108. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、すなわち、誰であれ、比丘たちが、虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちではありません。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちであり、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起せず〕、成長を〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘たちが、虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちではなく、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たち──彼らは、正等覚者によって説示された法(教え)において成長しない。

 

 虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たち──彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法(教え)において成長する」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第九となる。

 

4. 1. 10. 川の流れの経

 

109. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、愛しい形態があり快い形態がある川の流れによって下に運ばれるとします。〔まさに〕その、この者に、岸に立つ眼ある人が、〔彼を〕見て〔そののち〕、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、たとえ、何であれ、まさに、あなたが、愛しい形態があり快い形態がある川の流れによって下に運ばれるも、しかしながら、ここにおいて、下に、湖が──波を有し、渦を有し、鰐を有し、羅刹を有する〔湖〕が存在する。さて、人士たる者よ、あなたは、その湖に至り得て〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するのであり、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するのだ〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、その人の声を聞いて、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、流れに反することに努めるでしょう。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『川の流れ』とは、まさに、これは、渇愛の同義語です。

 

 比丘たちよ、『愛しい形態』『快い形態』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)の同義語です。

 

 比丘たちよ、『下に、湖が』とは、まさに、これは、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の同義語です。

 

 比丘たちよ、『波の恐怖』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。

 

 比丘たちよ、『渦』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の同義語です。

 

 比丘たちよ、『鰐』『羅刹』とは、まさに、これは、女性の同義語です。

 

 比丘たちよ、『流れに反すること』とは、まさに、これは、離欲の同義語です。

 

 比丘たちよ、『かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努めること』とは、まさに、これは、精進勉励の同義語です。

 

 比丘たちよ、『岸に立つ眼ある人』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「束縛からの平安を未来に切望している者は、諸々の欲望〔の対象〕を、苦しみと共にまた、捨棄するであろう。心が善く解脱した正知の者は、その場、その場に、解脱〔の境地〕を体得するであろう。彼は、『〔真の〕知に至る者』『梵行の完成者』『世の終極に至る者』『彼岸に至った者』と説かれる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十となる。

 

4. 1. 11. 歩みの経

 

110. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめないなら、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情なき者』『〔良心の〕咎めなき者』『常に連続して怠惰で精進に劣る者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘に、あるいは、欲望の思考が、あるいは、憎悪の思考が、あるいは、悩害の思考が、生起するとして、比丘たちよ、もし、比丘が、それを甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめるなら、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「もしくは、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、彼が、家〔の生活〕に依拠した悪しき思考(世俗の欲望に縛られた思考)を思い考えるなら──

 

 彼は、邪道を実践する者であり、諸々の〔人を〕迷わすものに耽溺する者である。そのような比丘は、最上の正覚を体得することが不可能となる。

 

 しかしながら、彼が、歩いていようが、立っていようが、あるいは、また、坐っているも、臥しているも、思考〔の働き〕を静めて、思考の寂止に喜びあるなら、彼は、そのような比丘は、最上の正覚を体得することが可能となる」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十一となる。

 

4. 1. 12. 戒を成就した者たちの経

 

111. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい。

 

 比丘たちよ、あなたたちが、戒を成就した者たちとして〔世に〕住んでいると、戒条を成就した者たちとして、戒条による統御によって統御された者たちとして、〔世に〕住んでいると、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学んでいると、より上なる為すべきこととして、何が存するというのでしょう。

 

 比丘たちよ、もし、また、歩いている比丘の、強欲〔の思い〕が離れ去ったものと成り、憎悪〔の思い〕が離れ去ったものと成り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が離れ去ったものと成り、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が離れ去ったものと成り、疑惑〔の思い〕()が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、歩いている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、立っている比丘の、強欲〔の思い〕が離れ去ったものと成り、憎悪〔の思い〕が……略……〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、立っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、坐っている比丘の、強欲〔の思い〕が離れ去ったものと成り、憎悪〔の思い〕が……略……〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、坐っている比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます。

 

 比丘たちよ、もし、また、臥している比丘の、強欲〔の思い〕が離れ去ったものと成り、憎悪〔の思い〕が……略……〔心の〕沈滞と眠気が……〔心の〕高揚と悔恨が……疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成り、精進が勉励され、退去なきものと成り、気づきが現起され、忘却なきものと〔成り〕、身体が静息し、懊悩を有さないものと〔成り〕、心が定められ、一境のものと〔成るなら〕、比丘たちよ、臥している比丘はまた、このような有り方の者として、『熱情ある者』『〔良心の〕咎めある者』『常に連続して精進に励み自己を精励する者』と説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「比丘よ、〔常に心を〕傾けている者として、歩くように。〔常に心を〕傾けている者として、立つように。〔常に心を〕傾けている者として、坐すように。〔常に心を〕傾けている者として、臥すように。〔常に心を〕傾けている者として、〔この身体を〕曲げるように。〔常に心を〕傾けている者として、この〔身体〕を伸ばすように。

 

 上に、横に、後に、およそ、地上に赴く所があるかぎり、そして、諸々の法(事象)を正しく注視する者となり、〔五つの心身を構成する〕範疇()の生成と衰失を〔正しく注視する者となる〕。

 

 このような住ある熱情ある者を、寂静なる生活者を、〔心が〕高揚しない者を、心の止寂において適正なる者を、常に気づきある者として学んでいる者を、そのような種類の者である比丘を、〔賢者たちは〕『常に自己を精励する者』と言う」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十二となる。

 

4. 1. 13. 世の経

 

112. まさに、このことが、世尊によって説かれ、阿羅漢によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。

 

 「比丘たちよ、世は、如来によって現正覚され、如来は、世による束縛を離れた者です。比丘たちよ、世の集起は、如来によって現正覚され、世の集起は、如来の捨棄するところとなりました。比丘たちよ、世の止滅は、如来によって現正覚され、世の止滅は、如来の実証するところとなりました。比丘たちよ、世の止滅に至る〔実践の〕道は、如来によって現正覚され、世の止滅に至る〔実践の〕道は、如来の修行するところとなりました。

 

 比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識()られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、すなわち、その〔全て〕が、如来によって現正覚されたことから、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚し、そして、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら、すなわち、この中間において、〔彼が〕語り、談じ、釈示するものは、その全てが、まさしく、そのとおりに成り、他なるものと〔成ら〕ず、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、如来は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、それゆえに、『如来』と説かれます」と、この義(道理)を、世尊は説きました。そこにおいて、このことは、かくのごとく説かれます。

 

 「一切の世を証知して、一切の世において真実のとおりに〔証知して〕、一切の世の束縛を離れ、一切の世において〔一切に〕近づかない者──

 

 彼は、まさに、一切を征服する慧者であり、一切の拘束からの解放者である。〔正覚の〕体得者には、最高の寂静がある。何も恐れない、涅槃〔の境処〕がある。

 

 この、煩悩が滅尽した覚者は、煩悶なき者であり、疑念を断った者である。一切の行為()の滅尽に至り得た者であり、〔生存の〕依り所の消滅(涅槃の境処)において解脱した者である。

 

 この、世尊にして覚者たる彼は、この、無上なる獅子は、天を含む世〔の人々〕のために、梵の輪(不滅の真理)を転起させた。

 

 かくのごとく、天〔の神々〕たちは、そして、人間たちは──彼らは、覚者を帰依所に赴き、集いあつまって、彼を、恐れおののきを離れた偉大なる者を、礼拝する。

 

 『〔心を〕調御する者たちのなかの、最勝の調御者である。〔心を〕寂静ならしむ者たちのなかの、聖賢たる寂静者である。〔心を〕解放させる者たちのなかの、至高の解放者である。〔心を〕超渡させる者たちのなかの、優れた超渡者である』〔と〕。

 

 まさに、かくのごとく、この、恐れおののきを離れた偉大なる者を、〔天の神々と人間たちは〕礼拝する。『天を含む世において、あなたに対する人は存在しない』」と。

 

 この義(道理)もまた、世尊によって説かれ、かくのごとく、わたしは聞きました。ということで、〔以上が〕第十三となる。

 

 四なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「婆羅門(婆羅門の法の祭祀)と得易きもの、知っている者(煩悩の滅尽)、沙門(沙門や婆羅門たち)と戒(戒を成就した者たち)、渇愛(渇愛の生起)、梵〔天〕(梵〔天〕たちを有するもの)、多く〔の利益〕を作り為す者たち、虚言と人(川の流れ)があり、歩みと成就した者たち(戒を成就した者たち)と世とともに、〔それらの〕十三がある」と。

 

 経の綱要となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二十七〔の経〕の一なるものの集まりがあり、二十二の経が包摂された二なるもの〔の集まり〕があり、智慧と〔心の〕止寂の等しき三なるもの〔の集まり〕があり、そして、かくのごとく、すなわち、この、十三〔の経〕の四なるもの〔の集まり〕がある。

 

 過去の方たちは、百を超えること十二の経を包摂して集録した。阿羅漢たちは、長き止住のために、それを、名としては、『かくのごとく説かれたもの(イティヴッタカ)』と言った」と。

 

 イティヴッタカ聖典は〔以上で〕終了となる。