増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 エーカカ・ニパータ聖典(一集:一なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 形態等の章(1.~)

2. 〔修行の〕妨害の捨棄の章(11.~)

3. 行為に適さないものの章(21.~)

4. 調御されていないものの章(31.~)

5. 向けられたものと澄んだものの章(41.~)

6. 指を弾く間の章(51.~)

7. 精進勉励等の章(61.~)

8. 善き朋友等の章(71.~)

9. 放逸等の章(81.~)

10. 第二の放逸等の章(98.~)

11. 法ならざるものの章(140.~)

12. 罪ならざるものの章(150.~)

13. 一者の人の章(170.~)

14. 「これを至高のものとします」の章(188.~)

15. 状況なきことについての聖典(268.~)

16. 一つの法についての聖典(296.~)

17. 清信を作り為す法の章(366.~)

18. 他の指を弾く間の章(382.~)

19. 身体の在り方についての気づきの章(563.~)

20. 不死の章(600.~)

 


 

 

 エーカカ・ニパータ聖典(一集:一なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 形態等の章

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、男の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの形態()でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の形態です。比丘たちよ、女の形態は、男の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、男の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの音声()でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の音声です。比丘たちよ、女の音声は、男の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、男の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの臭気()でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の臭気です。比丘たちよ、女の臭気は、男の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、男の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つ味感()でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の味感です。比丘たちよ、女の味感は、男の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、男の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの感触(所触)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の感触です。比丘たちよ、女の感触は、男の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、女の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの形態でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、男の形態です。比丘たちよ、男の形態は、女の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、女の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの音声でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、男の音声です。比丘たちよ、男の音声は、女の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、女の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの臭気でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、男の臭気です。比丘たちよ、男の臭気は、女の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、女の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの味感でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、男の味感です。比丘たちよ、男の味感は、女の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、女の心を完全に奪い去って止住するものとして、〔これより〕他に、一つの感触でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、男の感触です。比丘たちよ、男の感触は、女の心を完全に奪い去って止住します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 形態等の章が第一となる。

 

2. 〔修行の〕妨害の捨棄の章

 

11. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、浄美の形相(浄相)です。比丘たちよ、浄美の形相に根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

12. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕(瞋恚)が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、敵対の形相(有対相:対峙対立する形相)です。比丘たちよ、敵対の形相に根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

13. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、不満、倦怠、欠伸(あくび)、食後の睡魔であり、さらに、心の畏縮です。比丘たちよ、畏縮した心には、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

14. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心の寂止なき〔あり方〕です。比丘たちよ、寂止していない心の者には、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起し、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

15. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕()が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起し、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

16. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されるものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、浄美ならざる形相(不浄相)です。比丘たちよ、浄美ならざる形相に根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されます」と。〔以上が〕第六となる。

 

17. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が捨棄されるものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、慈愛()という〔止寂の〕心による解脱です。比丘たちよ、慈愛という〔止寂の〕心による解脱に根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕が捨棄されます」と。〔以上が〕第七となる。

 

18. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されるものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、勉励の界域であり、促進の界域であり、勤勉の界域です。比丘たちよ、精進に励む者には、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されます」と。〔以上が〕第八となる。

 

19. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されるものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心の寂止です。比丘たちよ、寂止した心の者には、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されます」と。〔以上が〕第九となる。

 

20. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が捨棄されるものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すこと(如理作意)です。比丘たちよ、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕が捨棄されます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔修行の〕妨害の捨棄の章が第二となる。

 

3. 行為に適さないものの章

 

21. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められていないなら、行為に適さないものと成るものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められていないなら、行為に適さないものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

22. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められたなら、行為に適するものと成るものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められたなら、行為に適するものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

23. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

24. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

25. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められず、明らかと成っていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められず、明らかと成っていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

26. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められ、明らかと成ったなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められ、明らかと成ったなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

27. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められず、多く為されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められず、多く為されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

28. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められ、多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められ、多く為されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

29. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められず、多く為されていないなら、苦痛をもたらすものと成るものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められず、多く為されていないなら、苦痛をもたらすものと成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

30. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、修められ、多く為されたなら、安楽をもたらすものと成るものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められ、多く為されたなら、安楽をもたらすものと成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 行為に適さないものの章が第三となる。

 

4. 調御されていないものの章

 

31. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、調御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、調御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

32. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、調御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、調御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

33. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、保護されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、保護されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

34. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、保護されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、保護されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

35. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、守護されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、守護されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

36. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、守護されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、守護されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

37. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、統御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、統御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

38. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、統御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、統御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

39. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、調御されず、保護されず、守護されず、統御されていないなら、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

40. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、調御され、保護され、守護され、統御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、調御され、保護され、守護され、統御されたなら、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 調御されていないものの章が第四となる。

 

5. 向けられたものと澄んだものの章

 

41. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、稲の穂先が、あるいは、麦の穂先が、あるいは、手で、あるいは、足で、〔目標ならざるところに〕誤って向けられたなら、到達先である、あるいは、〔他の〕手を、あるいは、〔他の〕足を、破壊し、あるいは、出血させるであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、穂先が誤って向けられたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、誤って向けられた心で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、心が誤って向けられたからです」と。〔以上が〕第一となる。

 

42. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、稲の穂先が、あるいは、麦の穂先が、あるいは、手で、あるいは、足で、〔目標に〕正しく向けられたなら、到達先である、あるいは、〔他の〕手を、あるいは、〔他の〕足を、破壊し、あるいは、出血させるであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、穂先が正しく向けられたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、正しく向けられた心で、無明を破壊し、明知を生起させ、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、心が正しく向けられたからです」と。〔以上が〕第二となる。

 

43. 「比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の汚れた心の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の心が汚れているからです。比丘たちよ、また、心の汚れを因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第三となる。

 

44. 「比丘たちよ、ここに、わたしは、一部の清信した心の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。もし、この人が、この時点において、命を終えるなら、〔彼は〕運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の心が清信しているからです。比丘たちよ、また、心の清信を因として、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生します」と。〔以上が〕第四となる。

 

45. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、湖の水が、混濁し、掻き乱され、泥まみれと成ったとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったとして、牡蠣や貝をもまた〔見ないであろうし〕、砂礫や小石をもまた〔見ないであろうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見ないでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、水が混濁しているからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、濁った心で、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、心が混濁しているからです」と。〔以上が〕第五となる。

 

46. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、湖の水が、澄んでいて清らかで混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、水が混濁していないからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、混濁していない心で、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、心が混濁していないからです」と。〔以上が〕第六となる。

 

47. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の樹木の類のなかではンダナ〔樹〕が、すなわち、この、まさしく、そして、柔和なることによって、さらに、行為に適することによって、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、すなわち、このように、修められ、多く為されたなら、そして、柔和と成り、さらに、行為に適するものと〔成る〕ものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、心は、修められ、多く為されたなら、そして、柔和と成り、さらに、行為に適するものと成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

48. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、軽やかに遍く転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、心です。比丘たちよ、さてまた、すなわち、これほどまでに、喩えもまた為し易くなく、それほどまでに、心は、軽やかに遍く転起するものなのです」と。〔以上が〕第八となる。

 

49. 「比丘たちよ、光り輝くものとして、この心はあります。そして、まさに、それはあります──諸々の付加物である付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)によって近しく汚れたものとして」と。〔以上が〕第九となる。

 

50. 「比丘たちよ、光り輝くものとして、この心はあります。そして、まさに、それはあります──諸々の付加物である付随する〔心の〕汚れから解脱したものとして」と。〔以上が〕第十となる。

 

 向けられたものと澄んだものの章が第五となる。

 

6. 指を弾く間の章

 

51. 「比丘たちよ、光り輝くものとして、この心はあります。そして、まさに、それはあります──諸々の付加物である付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れたものとして。それを、無聞の凡夫は、事実のとおりに覚知しません。それゆえに、『無聞の凡夫に、心を修めることは存在しない』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第一となる。

 

52. 「比丘たちよ、光り輝くものとして、この心はあります。そして、まさに、それはあります──諸々の付加物である付随する〔心の〕汚れから解脱したものとして。それを、有聞の聖なる弟子は、事実のとおりに覚知します。それゆえに、『有聞の聖なる弟子に、心を修めることは存在する』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第二となる。

 

53. 「比丘たちよ、たとえ、指を弾く間ほどであれ、もし、比丘が、慈愛の心を習修するなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、空虚ならざる瞑想者として〔世に〕住む。教師の教えを為す者となり、教諭に即応する者となり、国人による〔行乞の〕食を無駄ならずに受益する』〔と〕説かれます。すなわち、それを多く為すなら、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第三となる。

 

54. 「比丘たちよ、たとえ、指を弾く間ほどであれ、もし、比丘が、慈愛の心を修めるなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、空虚ならざる瞑想者として〔世に〕住む。教師の教えを為す者となり、教諭に即応する者となり、国人による〔行乞の〕食を無駄ならずに受益する』〔と〕説かれます。すなわち、それを多く為すなら、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

55. 「比丘たちよ、たとえ、指を弾く間ほどであれ、もし、比丘が、慈愛の心に意を為すなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、空虚ならざる瞑想者として〔世に〕住む。教師の教えを為す者となり、教諭に即応する者となり、国人による〔行乞の〕食を無駄ならずに受益する』〔と〕説かれます。すなわち、それを多く為すなら、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第五となる。

 

56. 「比丘たちよ、それらが何であれ、善ならざるものを部分とし、善ならざるものを項目とする、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、意を先行とするものです。意は、それらの法(性質)の最初に生起し、まさしく、ただちに、諸々の善ならざる法(性質)が〔生起します〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

57. 「比丘たちよ、それらが何であれ、善なるものを部分とし、善なるものを項目とする、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、意を先行とするものです。意は、それらの法(性質)の最初に生起し、まさしく、ただちに、諸々の善なる法(性質)が〔生起します〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

58. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、放逸です。比丘たちよ、放逸の者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第八となる。

 

59. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸です。比丘たちよ、不放逸の者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第九となる。

 

60. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、怠惰です。比丘たちよ、怠惰の者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 指を弾く間の章が第六となる。

 

7. 精進勉励等の章

 

61. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、精進勉励です。比丘たちよ、精進に励む者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第一となる。

 

62. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、大いなる欲求あることです。比丘たちよ、大いなる欲求ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第二となる。

 

63. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)です。比丘たちよ、少なき欲求の者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第三となる。

 

64. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、満ち足りていないことです。比丘たちよ、満ち足りていない者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第四となる。

 

65. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、満ち足りていること(知足)です。比丘たちよ、満ち足りている者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第五となる。

 

66. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第六となる。

 

67. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すこと(如理作意)です。比丘たちよ、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第七となる。

 

68. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正知なきことです。比丘たちよ、正知なき者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第八となる。

 

69. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正知です。比丘たちよ、正知の者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第九となる。

 

70. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、悪しき朋友あることです。比丘たちよ、悪しき朋友ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 精進勉励等の章が第七となる。

 

8. 善き朋友等の章

 

71. 「比丘たちよ、わたしは、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第一となる。

 

72. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕あることから、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第二となる。

 

73. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕あることから、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。〔以上が〕第三となる。

 

74. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない覚りの支分(覚支)が生起せず、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した覚りの支分が修行の円満成就に赴かないものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない覚りの支分が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した覚りの支分が修行の円満成就に赴きません」と。〔以上が〕第四となる。

 

75. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない覚りの支分が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した覚りの支分が修行の円満成就に赴くものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない覚りの支分が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した覚りの支分が修行の円満成就に赴きます」と。〔以上が〕第五となる。

 

76. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この遍き衰退はあります。すなわち、この、親族の遍き衰退です。比丘たちよ、諸々の遍き衰退のなかでは、これを劣等のものとします。すなわち、この、智慧(慧・般若)の遍き衰退です」と。〔以上が〕第六となる。

 

77. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この増大はあります。すなわち、この、親族の増大です。比丘たちよ、諸々の増大のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の増大です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『智慧の増大によって、〔わたしたちは〕増大するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

78. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この遍き衰退はあります。すなわち、この、財物の遍き衰退です。比丘たちよ、諸々の遍き衰退のなかでは、これを劣等のものとします。すなわち、この、智慧の遍き衰退です」と。〔以上が〕第八となる。

 

79. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この増大はあります。すなわち、この、財物の増大です。比丘たちよ、諸々の増大のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の増大です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『智慧の増大によって、〔わたしたちは〕増大するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

80. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この遍き衰退はあります。すなわち、この、福徳(盛名)の遍き衰退です。比丘たちよ、諸々の遍き衰退のなかでは、これを劣等のものとします。すなわち、この、智慧の遍き衰退です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 善き朋友等の章が第八となる。

 

9. 放逸等の章

 

81. 「比丘たちよ、少しばかりのものとして、この増大はあります。すなわち、この、福徳の増大です。比丘たちよ、諸々の増大のなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、智慧の増大です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『智慧の増大によって、〔わたしたちは〕増大するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

82. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、放逸です。比丘たちよ、放逸は、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

83. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸です。比丘たちよ、不放逸は、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

84. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、怠惰です。比丘たちよ、怠惰は、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

85. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、精進勉励です。比丘たちよ、精進勉励は、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

86. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、大いなる欲求あることです。比丘たちよ、大いなる欲求あることは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

87. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、少なき欲求たることです。比丘たちよ、少なき欲求たることは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

88. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、満ち足りていないことです。比丘たちよ、満ち足りていないことは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第八となる。

 

89. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、満ち足りていることです。比丘たちよ、満ち足りていることは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

90. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままならずに意を為すことは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

91. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままに意を為すことは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

92. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正知なきことです。比丘たちよ、正知なきことは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十二となる。

 

93. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正知です。比丘たちよ、正知は、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

94. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、悪しき朋友あることです。比丘たちよ、悪しき朋友あることは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十四となる。

 

95. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友あることは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十五となる。

 

96. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十六となる。

 

97. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十七となる。

 

 放逸等の章が第九となる。

 

10. 第二の放逸等の章

 

98. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、放逸です。比丘たちよ、放逸は、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

99. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸です。比丘たちよ、不放逸は、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

100. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、怠惰です。比丘たちよ、怠惰は、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第三となる。

 

101. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、精進勉励です。比丘たちよ、精進勉励は、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

102-109. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、大いなる欲求あることです。……略……少なき欲求たることです。……満ち足りていないことです。……満ち足りていることです。……根源のままならずに意を為すことです。……根源のままに意を為すことです。……正知なきことです。……正知です。……。〔以上が〕第十二となる。

 

110. 「比丘たちよ、外なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、悪しき朋友あることです。比丘たちよ、悪しき朋友あることは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十三となる。

 

111. 「比丘たちよ、外なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、善き朋友あることです。比丘たちよ、善き朋友あることは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十四となる。

 

112. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、大いなる義(利益)ならざるもののために等しく転起します」と。〔以上が〕第十五となる。

 

113. 「比丘たちよ、内なるものを『支分』と為して、わたしは、すなわち、このように、大いなる義(利益)のために等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの支分でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、大いなる義(利益)のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十六となる。

 

114. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、放逸です。比丘たちよ、放逸は、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十七となる。

 

115. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、不放逸です。比丘たちよ、不放逸は、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十八となる。

 

116. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、怠惰です。比丘たちよ、怠惰は、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第十九となる。

 

117. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、精進勉励です。比丘たちよ、精進勉励は、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二十となる。

 

118-128. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、大いなる欲求あることです。……略……少なき欲求たることです。……満ち足りていないことです。……満ち足りていることです。……根源のままならずに意を為すことです。……根源のままに意を為すことです。……正知なきことです。……正知です。……悪しき朋友あることです。……善き朋友あることです。……諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第三十一となる。

 

129. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕であり、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことです。比丘たちよ、諸々の善なる法(性質)への専念〔努力〕は、諸々の善ならざる法(性質)への専念〔努力〕なきことは、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第三十二となる。

 

130. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)ならざるものを『法(教え)である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第三十三となる。

 

131. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)を『法(教え)ならざるものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第三十四となる。

 

132-139. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、律ならざるものを『律である』と提示するなら……略……律を『律ならざるものである』と提示するなら……略……如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示するなら……略……如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示するなら……略……如来によって習行されていないものを『如来によって習行されたものである』と提示するなら……略……如来によって習行されたものを『如来によって習行されていないものである』と提示するなら……略……如来によって報知されていないものを『如来によって報知されたものである』と提示するなら……略……如来によって報知されたものを『如来によって報知されていないものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第四十二となる。

 

 第二の放逸等の章が第十となる。

 

11. 法ならざるものの章

 

140. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)ならざるものを『法(教え)ならざるものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第一となる。

 

141. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)を『法(教え)である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

142-149. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、律ならざるものを『律ならざるものである』と提示するなら……略……律を『律である』と提示するなら……略……如来によって語られず談じられていないものを『如来によって語られず談じられていないものである』と提示するなら……略……如来によって語られ談じられたものを『如来によって語られ談じられたものである』と提示するなら……略……如来によって習行されていないものを『如来によって習行されていないものである』と提示するなら……略……如来によって習行されたものを『如来によって習行されたものである』と提示するなら……略……如来によって報知されていないものを『如来によって報知されていないものである』と提示するなら……略……如来によって報知されたものを『如来によって報知されたものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 法(教え)ならざるものの章が第十一となる。

 

12. 罪ならざるものの章

 

150. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、罪ならざるものを『罪である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第一となる。

 

151. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、罪を『罪ならざるものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第二となる。

 

152-159. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、軽い罪を『重い罪である』と提示するなら……略……重い罪を『軽い罪である』と提示するなら……略……粗悪なる罪を『粗悪ならざる罪である』と提示するなら……略……粗悪ならざる罪を『粗悪なる罪である』と提示するなら……略……残余を有する罪を『残余なき罪である』と提示するならら……略……残余なき罪を『残余を有する罪である』と提示するな……略……懺悔を有する罪を『懺悔なき罪である』と提示するなら……略……懺悔なき罪を『懺悔を有する罪である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳ならざるものを生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を消没させます」と。〔以上が〕第十となる。

 

160. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、罪ならざるものを『罪ならざるものである』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

161. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、罪を『罪である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第十二となる。

 

162-169. 「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、軽い罪を『軽い罪である』と提示するなら……略……重い罪を『重い罪である』と提示するなら……略……粗悪なる罪を『粗悪なる罪である』と提示するなら……略……粗悪ならざる罪を『粗悪ならざる罪である』と提示するなら……略……残余なき罪を『残余なき罪である』と提示するなら……略……残余を有する罪を『残余を有する罪である』と提示するなら……略……懺悔を有する罪を『懺悔を有する罪である』と提示するなら……略……懺悔なき罪を『懺悔なき罪である』と提示するなら、比丘たちよ、それらの比丘たちは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、多くの功徳を生み出します。さらに、彼らは、この正なる法(教え)を止住させます」と。〔以上が〕第二十となる。

 

 罪ならざるものの章が第十二となる。

 

13. 一者の人の章

 

170. 「比丘たちよ、一者の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します」と。

 

171. 「比丘たちよ、一者の人の出現が、世において得難くあります。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人の出現が、世において得難くあります」と。

 

172. 「比丘たちよ、一者の人が、稀有なる人間として、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人が、稀有なる人間として、世に生起しつつ生起します」と。

 

173. 「比丘たちよ、一者の人の命終が、多くの人々の悩み苦しみと成ります。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人の命終が、多くの人々の悩み苦しみと成ります」と。

 

174. 「比丘たちよ、一者の人が、第二の者なく、同類の者なく、対する者なく、対等の者なく、相似の者なく、対する人なく、同等の者なく、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等の者として、二足の者たちの至高者として、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人が、第二の者なく、同類の者なく、対する者なく、対等の者なく、相似の者なく、対する人なく、同等の者なく、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等の者として、二足の者たちの至高者として、世に生起しつつ生起します」と。

 

175-186. 「比丘たちよ、一者の人の出現から、大いなる眼の出現が有ります。……略……大いなる光明の出現が有ります。……略……大いなる光輝の出現が有ります。……略……六つの無上なるもの(見ることの無上・聞くことの無上・得ることの無上・学ぶことの無上・奉仕することの無上・随念することの無上)の出現が有ります。……略……四つの融通無礙〔の智慧〕(四無礙解:義・法・言語・応答についての融通無礙)の実証が有ります。……略……無数なる界域の理解が有ります。……略……種々なる界域の理解が有ります。……略……明知と解脱の果の実証が有ります。……略……預流果の実証が有ります。……略……一来果の実証が有ります。……略……不還果の実証が有ります。……略……阿羅漢果の実証が有ります。どのようなものが、一者の人なのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来です。比丘たちよ、まさに、この一者の人の出現から、大いなる眼の出現が有ります。……略……大いなる光明の出現が有ります。……略……大いなる光輝の出現が有ります。……略……六つの無上なるものの出現が有ります。……略……四つの融通無礙〔の智慧〕の実証が有ります。……略……無数なる界域の理解が有ります。……略……種々なる界域の理解が有ります。……略……明知と解脱の果の実証が有ります。……略……預流果の実証が有ります。……略……一来果の実証が有ります。……略……不還果の実証が有ります。……略……阿羅漢果の実証が有ります」と。

 

187. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、如来が転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく随転させる者として、〔これより〕他に一者の人でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、サーリプッタです。比丘たちよ、サーリプッタは、如来が転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく随転させます」と。

 

 一者の人の章が第十三となる。

 

14. 「これを至高のものとします」の章

 

1. 第一の節

 

188. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる比丘にして、経歴ある者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、アンニャーシ・コンダンニャです。

 

189. ……大いなる智慧ある者たちのなかでは……。すなわち、この、サーリプッタです。

 

190. ……神通ある者たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・モッガッラーナです。

 

191. ……払拭を説く者(頭陀行者)たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・カッサパです。

 

192. ……天眼ある者たちのなかでは……。すなわち、この、アヌルッダです。

 

193. ……高貴な家系の者たちのなかでは……。すなわち、この、カーリゴーダーヤプッタです。

 

194. ……美妙なる声ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ラクンダカ・バッディヤです。

 

195. ……獅子吼(ししく)者たちのなかでは……。すなわち、この、ピンドーラ・バーラドヴァージャです。

 

196. ……法(教え)の講話者たちのなかでは……。すなわち、この、プンナ・マンターニプッタです。

 

197. ……簡略〔の観点〕によって語られたものの義(意味)を詳細〔の観点〕によって区分する者たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・カッチャーナです」と。

 

 〔以上が〕第一の節となる。

 

2. 第二の節

 

198. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる比丘にして、意によって作られる身体を化作する者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、チューラ・パンタカです。

 

199. ……心の還転に巧みな智ある者たちのなかでは……。すなわち、この、チューラ・パンタカです。

 

200. ……表象()の還転に巧みな智ある者たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・パンタカです。

 

201. ……相克なき住ある者たちのなかでは……。すなわち、この、スブーティです。

 

202. ……施与されるべき者たちのなかでは……。すなわち、この、スブーティです。

 

203. ……林にある者たちのなかでは……。すなわち、この、レーヴァタ・カディラヴァニヤです。

 

204. ……瞑想者たちのなかでは……。すなわち、この、カンカー・レーヴァタです。

 

205. ……精進に励む者たちのなかでは……。すなわち、この、ソーナ・コーリヴィサです。

 

206. ……善き言葉の為し手たちのなかでは……。すなわち、この、ソーナ・クティカンナです。

 

207. ……利得ある者たちのなかでは……。すなわち、この、シーヴァリです。

 

208. ……信によって信念した者たちのなかでは……。すなわち、この、ヴァッカリです」と。

 

 〔以上が〕第二の節となる。

 

3. 第三の節

 

209. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる比丘にして、学びを欲する者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、ラーフラです。

 

210. ……信によって出家した者たちのなかでは……。すなわち、この、ラッタパーラです。

 

211. ……第一のくじ棒を掴み取る者たちのなかでは……。すなわち、この、クンダダーナです。

 

212. ……弁才ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ヴァンギーサです。

 

213. ……遍きにわたる清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ウパセーナ・ヴァンガンタプッタです。

 

214. ……臥坐所を割り当てる者たちのなかでは……。すなわち、この、ダッバ・マッラプッタです。

 

215. ……天〔の神々〕たちにとって愛しく意に適う者たちのなかでは……。すなわち、この、ピリンダヴァッチャです。

 

216. ……速き証知ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ダールチーリヤです。

 

217. ……様々な言説ある者たちのなかでは……。すなわち、この、クマーラ・カッサパです。

 

218. ……融通無礙〔の智慧〕(無礙解)に至り得た者たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・コッティタです」と。

 

 〔以上が〕第三の節となる。

 

4. 第四の節

 

219. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる比丘にして、多聞の者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、アーナンダです。

 

220. ……気づき()ある者たちのなかでは……。すなわち、この、アーナンダです。

 

221. ……〔善き〕境遇ある者たちのなかでは……。すなわち、この、アーナンダです。

 

222. ……〔道心〕堅固ある者たちのなかでは……。すなわち、この、アーナンダです。

 

223. ……奉仕者(世話係・侍者)たちのなかでは……。すなわち、この、アーナンダです。

 

224. ……大いなる衆ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ウルヴェーラ・カッサパです。

 

225. ……家々の清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、カールダーインです。

 

226. ……病苦少なき者たちのなかでは……。すなわち、この、バークラです。

 

227. ……過去における居住(過去世)を随念する者たちのなかでは……。すなわち、この、ソービタです。

 

228. ……律の保持者たちのなかでは……。すなわち、この、ウパーリです。

 

229. ……比丘尼の教諭者たちのなかでは……。すなわち、この、ナンダカです。

 

230. ……諸々の〔感官の〕機能()において門が守られている者たちのなかでは……。すなわち、この、ナンダです。

 

231. ……比丘の教諭者たちのなかでは……。すなわち、この、マハー・カッピナです。

 

232. ……火の界域に巧みな智ある者たちのなかでは……。すなわち、この、サーガタです。

 

233. ……即応即答する者たちのなかでは……。すなわち、この、ラーダです。

 

234. ……粗末な衣料の保持者たちのなかでは……。すなわち、この、モーガラージャンです」と。

 

 〔以上が〕第四の節となる。

 

5. 第五の節

 

235. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる比丘尼にして、経歴ある者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、マハー・パジャーパティー・ゴータミーです。

 

236. ……大いなる智慧ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ケーマーです。

 

237. ……神通ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ウッパラヴァンナーです。

 

238. ……律の保持者たちのなかでは……。すなわち、この、パターチャーラーです。

 

239. ……法(教え)の講話者たちのなかでは……。すなわち、この、ダンマディンナーです。

 

240. ……瞑想者たちのなかでは……。すなわち、この、ナンダーです。

 

241. ……精進に励む者たちのなかでは……。すなわち、この、ソーナーです。

 

242. ……天眼ある者たちのなかでは……。すなわち、この、バクラーです。

 

243. ……速き証知ある者たちのなかでは……。すなわち、この、バッダー・クンダラケーサーです。

 

244. ……過去における居住を随念する者たちのなかでは……。すなわち、この、バッダー・カーピラーニーです。

 

245. ……大いなる証知に至り得た者たちのなかでは……。すなわち、この、バッダカッチャーナーです。

 

246. ……粗末な衣料の保持者たちのなかでは……。すなわち、この、キサー・ゴータミーです。

 

247. ……信によって信念した者たちのなかでは……。すなわち、この、シンガーラカマータルです」と。

 

 〔以上が〕第五の節となる。

 

6. 第六の節

 

248. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる在俗信者(優婆塞)にして、最初に帰依所に赴く者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、タプッサとバッリカの商人たちです。

 

249. ……施者たちのなかでは……。すなわち、この、アナータピンディカ・スダッタ家長です。

 

250. ……法(教え)の講話者たちのなかでは……。すなわち、この、マッチカーサンダ〔の住者〕たるチッタ家長です。

 

251. ……四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)によって衆を愛護する者たちのなかでは……。すなわち、この、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカです。

 

252. ……精妙なるものの施者たちのなかでは……。すなわち、この、釈迦〔族〕のマハー・ナーマです。

 

253. ……意に適う施者たちのなかでは……。すなわち、この、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長です。

 

254. ……僧団の奉仕者たちのなかでは……。すなわち、この、ハッティガーマ〔の住者〕たるウッガタ家長です。

 

255. ……確固たる清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、スーランバッタです。

 

256. ……人に清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ジーヴァカ・コーマーラバッチャです。

 

257. ……信頼ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ナクラピタル家長です」と。

 

 〔以上が〕第六の節となる。

 

7. 第七の節

 

258. 「比丘たちよ、わたしの弟子たる女性在俗信者(優婆夷)にして、最初に帰依所に赴く者たちのなかでは、これを至高のものとします。すなわち、この、スジャーター・セーニヤディータルです。

 

259. ……施者たちのなかでは……。すなわち、この、ヴィサーカー・ミガーラマータルです。

 

260. ……多聞の者たちのなかでは……。すなわち、この、クッジュッタラーです。

 

261. ……慈愛の住者たちのなかでは……。すなわち、この、サーマーヴァティーです。

 

262. ……瞑想者たちのなかでは……。すなわち、この、ウッタラーナンダマータルです。

 

263. ……精妙なるものの施者たちのなかでは……。すなわち、この、コーリヤ〔族〕の子女のスッパヴァーサーです。

 

264. ……病者の奉仕者たちのなかでは……。すなわち、この、スッピヤー女性在俗信者です。

 

265. ……確固たる清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、カーティヤーニーです。

 

266. ……信頼ある者たちのなかでは……。すなわち、この、ナクラマータル主婦です。

 

267. ……聴聞に清信ある者たちのなかでは……。すなわち、この、クラガラ〔の住者〕たるカーリー女性在俗信者です」と。

 

 〔以上が〕第七の節となる。

 

 「これを至高のものとします」の章が第十四となる。

 

15. 状況なきことについての聖典

 

1. 第一の節

 

268. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、形成〔作用の結果〕(:形成されたもの・作られたもの)としてあるものに、常住〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、常住〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されます」と。

 

269. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、安楽〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、安楽〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されます」と。

 

270. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、法(事象)としてあるものに、自己〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、何であれ、法(事象)としてあるものに、自己〔の観点〕から近しく赴くことです。この状況は見出されます」と。

 

271. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、母の生命を奪うことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、母の生命を奪うことです。この状況は見出されます」と。

 

272. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、父の生命を奪うことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、父の生命を奪うことです。この状況は見出されます」と。

 

273. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、阿羅漢の生命を奪うことです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、阿羅漢の生命を奪うことです。この状況は見出されます」と。

 

274. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、汚れた心の者となり、如来を出血させることです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、汚れた心の者となり、如来を出血させることです。この状況は見出されます」と。

 

275. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、僧団を分裂させることです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、僧団を分裂させることです。この状況は見出されます」と。

 

276. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、〔教えを〕他にする者を教師として指定することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、凡夫が、〔教えを〕他にする者を教師として指定することです。この状況は見出されます」と。

 

277. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、一つの世の界域において、二者の阿羅漢にして正等覚者が、前なく後なく〔同時に〕生起することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、一つの世の界域において、まさしく、一者の、阿羅漢にして正等覚者が生起することです。この状況は見出されます」と。

 

 〔以上が〕第一の節となる。

 

2. 第二の節

 

278. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、一つの世の界域において、二者の転輪王が、前なく後なく〔同時に〕生起することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、一つの世の界域において、一者の転輪王が生起することです。この状況は見出されます」と。

 

279. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、女の阿羅漢にして正等覚者が存在することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、男の阿羅漢にして正等覚者が存在することです。この状況は見出されます」と。

 

280. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、女の転輪王が存在することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、男の転輪王が存在することです。この状況は見出されます」と。

 

281-283. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、女が帝釈〔天〕の権能を執行することです。……略……悪魔の権能を執行することです。……略……梵〔天〕の権能を執行することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、男が帝釈〔天〕の権能を執行することです。……略……悪魔の権能を執行することです。……略……梵〔天〕の権能を執行することです。この状況は見出されます」と。

 

284. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、身体による悪しき行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報い(異熟)が発現することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、身体による悪しき行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することです。この状況は見出されます」と。

 

285-286. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、言葉による悪しき行ないある者に……略……。すなわち、意による悪しき行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、意による悪しき行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することです。この状況は見出されます」と。

 

 〔以上が〕第二の節となる。

 

3. 第三の節

 

287. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、身体による善き行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、身体による善き行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することです。この状況は見出されます」と。

 

288-289. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、言葉による善き行ないある者に……略……。すなわち、意による善き行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、意による善き行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することです。この状況は見出されます」と。

 

290. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、身体による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、身体による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することです。この状況は見出されます」と。

 

291-292. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、言葉による悪しき行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、意による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することです。この状況は見出されます」と。

 

293. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、身体による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、身体による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することです。この状況は見出されます」と。

 

294-295. 「比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、言葉による善き行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することです。この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、意による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することです。この状況は見出されます」と。

 

 〔以上が〕第三の節となる。

 

 状況なきことについての聖典が第十五となる。

 

16. 一つの法についての聖典

 

1. 第一の節

 

296. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。覚者の随念です。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。

 

297. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。法(教え)の随念です。……略……。僧団の随念です。……。戒の随念です。……。施捨の随念です。……。天神たちの随念です。……。呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)です。……。死についての気づき(死念:死の不可避と常在性についての気づき)です。……。身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)です。……。寂止の随念です。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。

 

 〔以上が〕第一の節となる。

 

2. 第二の節

 

298. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、誤った見解(邪見)です。比丘たちよ、誤った見解ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。

 

299. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正しい見解(正見)です。比丘たちよ、正しい見解ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。

 

300. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せず、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、誤った見解です。比丘たちよ、誤った見解ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が遍く衰退します」と。

 

301. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起せず、あるいは、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正しい見解です。比丘たちよ、正しい見解ある者には、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が遍く衰退します」と。

 

302. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない誤った見解が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した誤った見解が増大するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままならずに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない誤った見解が生起し、さらに、〔すでに〕生起した誤った見解が増大します」と。

 

303. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない正しい見解が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した正しい見解が増大するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、根源のままに意を為すことです。比丘たちよ、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない正しい見解が生起し、さらに、〔すでに〕生起した正しい見解が増大します」と。

 

304. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、誤った見解です。比丘たちよ、誤った見解を具備した有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。

 

305. 「比丘たちよ、わたしは、それによって、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、正しい見解です。比丘たちよ、正しい見解を具備した有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

306. 「比丘たちよ、誤った見解ある人士たる人には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為(身業)が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為(口業)が……略……さらに、すなわち、意の行為(意業)が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)が──それらの全ての法(性質)が、好ましくないもののために、愛らしくないもののために、意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が悪しきものであるからです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、ニンバ(ニーム・インドセンダン)の種が、あるいは、糸瓜の種が、あるいは、苦瓜の種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、すなわち、地の味を摂取し、さらに、すなわち、水の味を摂取するなら、その全てが、苦きことのために、辛きことのために、快ならざることのために、等しく転起するようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の種が悪しきものであるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、誤った見解ある人士たる人には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましくないもののために、愛らしくないもののために、意に適わないもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が悪しきものであるからです」と。

 

307. 「比丘たちよ、正しい見解ある人士たる人には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましいもののために、愛らしいもののために、意に適うもののために、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が善きものであるからです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、甘蔗の種が、あるいは、米の種が、あるいは、葡萄の種が、水気のある地に置かれ、まさしく、そして、すなわち、地の味を摂取し、さらに、すなわち、水の味を摂取するなら、その全てが、甘きことのために、快なることのために、無雑ざることのために、等しく転起するようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の種が善きものであるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、正しい見解ある人士たる人には、まさしく、そして、すなわち、身体の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、かつまた、すなわち、言葉の行為が……略……さらに、すなわち、意の行為が、見解のとおりに、完結され、受持され、そして、すなわち、思欲が、かつまた、すなわち、切望が、かつまた、すなわち、切願が、さらに、すなわち、諸々の形成〔作用〕が──それらの全ての法(性質)が、好ましいもののために、愛らしいもののために、意に適うもののために、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼の見解が善きものであるからです」と。

 

 〔以上が〕第二の節となる。

 

3. 第三の節

 

308. 「比丘たちよ、一者の人が、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一者の人なのですか。誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。彼は、多くの人々を、正なる法(教え)から出起させて、正ならざる法(教え)において確立させます。比丘たちよ、まさに、この一者の人が、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、世に生起しつつ生起します」と。

 

309. 「比丘たちよ、一者の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します。どのようなものが、一者の人なのですか。正しい見解ある者として、転倒した見なき者として、〔世に〕有ります。彼は、多くの人々を、正ならざる法(教え)から出起させて、正なる法(教え)において確立させます。比丘たちよ、まさに、この一者の人が、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、世に生起しつつ生起します」と。

 

310. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、大いなる罪過を有するものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、誤った見解です。比丘たちよ、誤った見解を最高として、諸々の大いなる罪過を有するものがあります」と。

 

311. 「比丘たちよ、わたしは、すなわち、このように、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、〔これより〕他に、一者の人でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、愚人のマッカリ(マッカリ・ゴーサーラ:六師外道の一者・運命決定論者)です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、河口において、多くの魚たちの、利益ならざるもののために、苦痛のために、不幸のために、災厄のために、捕獲網を仕掛けるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、愚人のマッカリは、思うに、人間のための捕獲網として、多くの有情たちの、利益ならざるもののために、苦痛のために、不幸のために、災厄のために、世に生起したのです」と。

 

312. 「比丘たちよ、法(教え)と律が拙劣に告げ知らされたときは、そして、〔教えを〕受持させる、その〔師匠〕も、かつまた、〔師匠が〕受持させる、その〔教え〕も、さらに、〔教えを〕受持させられた者として、そのとおりそのままに実践する、その〔弟子〕も、それらの全てが、多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が拙劣に告げ知らされたからです」と。

 

313. 「比丘たちよ、法(教え)と律が見事に告げ知らされたときは、そして、〔教えを〕受持させる、その〔師匠〕も、かつまた、〔師匠が〕受持させる、その〔教え〕も、さらに、〔教えを〕受持させられた者として、そのとおりそのままに実践する、その〔弟子〕も、それらの全てが、多くの功徳を生み出します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が見事に告げ知らされたからです」と。

 

314. 「比丘たちよ、法(教え)と律が拙劣に告げ知らされたときは、施者によって、〔施物の正しい〕量が知られるべきです──納受者によって、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が拙劣に告げ知らされたからです」と。

 

315. 「比丘たちよ、法(教え)と律が見事に告げ知らされたときは、納受者によって、〔施物の正しい〕量が知られるべきです──施者によって、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が見事に告げ知らされたからです」と。

 

316. 「比丘たちよ、法(教え)と律が拙劣に告げ知らされたときは、彼が精進に励む者であるなら、彼は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が拙劣に告げ知らされたからです」と。

 

317. 「比丘たちよ、法(教え)と律が見事に告げ知らされたときは、彼が怠惰の者であるなら、彼は、苦痛のうちに〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が見事に告げ知らされたからです」と。

 

318. 「比丘たちよ、法(教え)と律が拙劣に告げ知らされたときは、彼が怠惰の者であるなら、彼は、安楽のうちに〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が拙劣に告げ知らされたからです」と。

 

319. 「比丘たちよ、法(教え)と律が見事に告げ知らされたときは、彼が精進に励む者であるなら、彼は、安楽のうちに〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、法(教え)が見事に告げ知らされたからです」と。

 

320. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、たとえ、少量のものであれ、糞が、悪臭あるものとして有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、たとえ、少量のものであれ、生存()を褒め称えません。もしくは、たとえ、指を弾く間ほどのものであれ」と。

 

321. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、たとえ、少量のものであれ、尿が、悪臭あるものとして有るように……たとえ、少量のものであれ、唾液が、悪臭あるものとして有るように……たとえ、少量のものであれ、膿が、悪臭あるものとして有るように……たとえ、少量のものであれ、血が、悪臭あるものとして有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、たとえ、少量のものであれ、生存を褒め称えません。もしくは、たとえ、指を弾く間ほどのものであれ」と。

 

 〔以上が〕第三の節となる。

 

4. 第四の節

 

322. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、このジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)において、少しばかりのものとして、喜ばしき林園があり、喜ばしき林野があり、喜ばしき土地があり、喜ばしき蓮池があり、そこで、まさに、より多くあるものとして、これこそが、すなわち、この、高みと窪みがあり、川の難所があり、木株や棘の地があり、山の凹凸があるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、陸に生まれる者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、水に生まれる者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

323. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間たちより他に生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

 ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、中央の地方において生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、最辺境の地方において、識者ならざる蛮族の者たちにおいて生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

324. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、智慧ある者たちであり、痴者ならざる者たちであり、蒙者ならざる者たちであり、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力ある者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、智慧浅き者たちであり、痴者たちであり、蒙者たちであり、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力ある者たちではない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

325. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる智慧の眼を具備した者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、無明を具した等しく迷乱した者たちである、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

326. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、如来と会見することを得る、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、如来と会見することを得ない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

327. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得る、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得ない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

328. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持する、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

329. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視する、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

330. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践する、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践しない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

331. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、諸々の畏怖するべき状況において畏怖する、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、諸々の畏怖するべき状況において畏怖しない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

332. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畏怖する者たちとなり、根源のままに精励する、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畏怖する者たちとなり、根源のままに精励しない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

333. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、放下の対象(所縁)を作り為して〔そののち〕、禅定(定・三昧)を得、心の一境性を得る、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、放下の対象を作り為して〔そののち〕、禅定を得ず、心の一境性を得ない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

334. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、至高の食べ物と至高の味の得者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、至高の食べ物と至高の味の得者たちではなく、椀に運ばれた残飯で〔身を〕保ち行く、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

335. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、義(意味)の味の、法(教え)の味の、解脱の味の、得者たちである、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、義(意味)の味の、法(教え)の味の、解脱の味の、得者たちではない、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『義(意味)の味の、法(教え)の味の、解脱の味の、得者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

336-338. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、このジャンブ洲において、少しばかりのものとして、喜ばしき林園があり、喜ばしき林野があり、喜ばしき土地があり、喜ばしき蓮池があり、そこで、まさに、より多くあるものとして、これこそが、すなわち、この、高みと窪みがあり、川の難所があり、木株や棘の地があり、山の凹凸があるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

339-341. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、人間〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

342-344. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

345-347. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、天〔の世〕から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

348-350. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

351-353. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、地獄から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、地獄から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

354-356. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

357-359. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、畜生の胎から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

360-362. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、人間たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

363-365. ……比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、天〔の神々〕たちにおいて生まれ落ちる、それらの有情たちは少なく、そこで、まさに、すなわち、餓鬼の境域から死滅し、地獄において生まれ落ちる……略……畜生の胎において生まれ落ちる……略……餓鬼の境域において生まれ落ちる、まさしく、これらの有情たちは、より多くあります。

 

 〔以上が〕第四の節となる。

 

 ジャンブ洲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 一つの法についての聖典が第十六となる。

 

17. 清信を作り為す法の章

 

366-381. 「比丘たちよ、たしかに、これは、諸々の利得のためになります。すなわち、この、林にある者たることです。……略……〔行乞の〕施食の者たることです。……糞掃衣の者たることです。……三つの衣料の者たることです。……法(教え)の講話者たることです。……律の保持者たることです。……多聞です。……長老の地位です。……所作の成就です。……取り巻きの成就です。……大いなる取り巻きあることです。……良家の子息たることです。……蓮華の色艶あることです。……善き言葉の為し手たることです。……少なき欲求たることです。……病苦少なきことです」と。

 

 十六の清信を作り為す法(性質)は〔以上で〕終了となる。

 

 清信を作り為す法(性質)の章が第十七となる。

 

18. 他の指を弾く間の章

 

382. 「比丘たちよ、たとえ、指を弾く間ほどであれ、もし、比丘が、第一の瞑想(初禅第一禅)を修めるなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、空虚ならざる瞑想者として〔世に〕住む。教師の教えを為す者となり、教諭に即応する者となり、国人による〔行乞の〕食を無駄ならずに受益する』〔と〕説かれます。すなわち、それを多く為すなら、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

383-389. 「比丘たちよ、たとえ、指を弾く間ほどであれ、もし、比丘が、第二の瞑想(第二禅)を修めるなら……略……第三の瞑想(第三禅)を修めるなら……略……第四の瞑想(第四禅)を修めるなら……略……慈愛()という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら……略……慈悲()という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら……略……歓喜()という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら……略……放捨()という〔止寂の〕心による解脱を修めるなら……略……。

 

390-393. ……身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて……略……諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて……略……心における心の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて……略……。

 

394-397. ……諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励するなら……略……諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励するなら……略……諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励するなら……略……諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励するなら……略……。

 

398-401. ……欲〔の思い〕(意欲)の禅定()と精励の形成〔作用〕()を具備した神通の足場(神足)を修めるなら……精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めるなら……心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めるなら……考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めるなら……。

 

402-406. ……信の機能(信根)を修めるなら……精進の機能(精進根)を修めるなら……気づきの機能(念根)を修めるなら……禅定の機能(定根)を修めるなら……智慧の機能(慧根)を修めるなら……。

 

407-411. ……信の力(信力)を修めるなら……精進の力(精進力)を修めるなら……気づきの力(念力)を修めるなら……禅定の力(定力)を修めるなら……智慧の力(慧力)を修めるなら……。

 

412-418. ……気づきという正覚の支分(念覚支)を修めるなら……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めるなら……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めるなら……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めるなら……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めるなら……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めるなら……放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めるなら……。

 

419-426. ……正しい見解(正見)を修めるなら……正しい思惟(正思惟)を修めるなら……正しい言葉(正語)を修めるなら……正しい行業(正業)を修めるなら……正しい生き方(正命)を修めるなら……正しい努力(正精進)を修めるなら……正しい気づき(正念)を修めるなら……正しい禅定(正定)を修めるなら……。

 

427-434. ……内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見、『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成るなら……。

 

435-442. ……形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見るなら……内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見るなら……『浄美である』とだけ信念した者と成るなら……全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住むなら……全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住むなら……全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住むなら……全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住むなら……全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住むなら……。

 

443-452. ……地の遍満を修めるなら……水の遍満を修めるなら……火の遍満を修めるなら……風の遍満を修めるなら……青の遍満を修めるなら……黄の遍満を修めるなら……赤の遍満を修めるなら……白の遍満を修めるなら……虚空の遍満を修めるなら……識知〔作用〕の遍満を修めるなら……。

 

453-462. ……不浄の表象を修めるなら……死の表象を修めるなら……食についての嫌悪の表象を修めるなら……一切の世についての歓楽なき表象を修めるなら……無常の表象を修めるなら……無常についての苦痛の表象を修めるなら……苦痛についての無我の表象を修めるなら……捨棄の表象を修めるなら……離貪の表象を修めるなら……止滅の表象を修めるなら……。

 

463-472. ……無常の表象を修めるなら……無我の表象を修めるなら……死の表象を修めるなら……食についての嫌悪の表象を修めるなら……一切の世についての歓楽なき表象を修めるなら……骨となったものの表象を修めるなら……蛆虫まみれのものの表象を修めるなら……青黒くなったものの表象を修めるなら……切断されたものの表象を修めるなら……膨張するものの表象を修めるなら……。

 

473-482. ……覚者の随念を修めるなら……法(教え)の随念を修めるなら……僧団の随念を修めるなら……戒の随念を修めるなら……施捨の随念を修めるなら……天神たちの随念を修めるなら……呼吸についての気づきを修めるなら……死についての気づきを修めるなら……身体の在り方についての気づきを修めるなら……寂止の随念を修めるなら……。

 

483-492. ……第一の瞑想を共具した信の機能を修めるなら……精進の機能を修めるなら……気づきの機能を修めるなら……禅定の機能を修めるなら……智慧の機能を修めるなら……信の力を修めるなら……精進の力を修めるなら……気づきの力を修めるなら……禅定の力を修めるなら……智慧の力を修めるなら……。

 

493-562. ……第二の瞑想を共具した……略……第三の瞑想を共具した……略……第四の瞑想を共具した……略……慈愛を共具した……略……慈悲を共具した……略……歓喜を共具した……略……放捨を共具した信の機能を修めるなら……精進の機能を修めるなら……気づきの機能を修めるなら……禅定の機能を修めるなら……智慧の機能を修めるなら……信の力を修めるなら……精進の力を修めるなら……気づきの力を修めるなら……禅定の力を修めるなら……智慧の力を修めるなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、空虚ならざる瞑想者として〔世に〕住む。教師の教えを為す者となり、教諭に即応する者となり、国人による〔行乞の〕食を無駄ならずに受益する』〔と〕説かれます。すなわち、それを多く為すなら、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

 他の指を弾く間の章が第十八となる。

 

19. 身体の在り方についての気づきの章

 

563. 「比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、心によって、大海を充満したなら、彼〔の心〕には、諸々の小川が──それらが何であれ、海に赴くものであるなら──内含されているように、比丘たちよ、まさしく、このように、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、修められ、多く為されたなら、彼には、諸々の善なる法(性質)が──それらが何であれ、明知を部分とするものであるなら──内含されています」と。

 

564-570. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します。……大いなる義(利益)のために等しく転起します。……大いなる束縛からの平安(軛安穏)のために等しく転起します。……気づきと正知のために等しく転起します。……〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。……所見の法(現法:現世)における安楽の住(現法楽住)のために等しく転起します。……明知と解脱の果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために等しく転起します。……大いなる義(利益)のために等しく転起します。……大いなる束縛からの平安のために等しく転起します。……気づきと正知のために等しく転起します。……〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。……所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起します。……明知と解脱の果の実証のために等しく転起します」と。

 

571. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、身体もまた静息し、心もまた静息し、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念もまた寂止し、諸々の明知を部分とする法(性質)が、全部もろともに、修行の円満成就に赴きます。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、身体もまた静息し、心もまた静息し、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念もまた寂止し、諸々の明知を部分とする法(性質)が、全部もろともに、修行の円満成就に赴きます」と。

 

572. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が捨棄されます。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善ならざる法(性質)が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善ならざる法(性質)が捨棄されます」と。

 

573. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します」と。

 

574. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、無明が捨棄され、明知が生起し、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)が捨棄され、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)が根絶に赴き、諸々の束縛するもの()が捨棄されます。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、無明が捨棄され、明知が生起し、『〔わたしは〕存在する』という思量が捨棄され、諸々の悪習が根絶に赴き、諸々の束縛するものが捨棄されます」と。

 

575-576. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、智慧による細別のために等しく転起します。……〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のために等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、智慧による細別のために等しく転起します。……〔何も〕執取せずして完全なる涅槃のために等しく転起します」と。

 

577-579. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、無数なる界域の理解が有ります。……種々なる界域の理解が有ります。……無数なる界域についての融通無礙〔の智慧〕が有ります。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたときは、無数なる界域の理解が有ります。……種々なる界域の理解が有ります。……無数なる界域についての融通無礙〔の智慧〕が有ります」と。

 

580-583. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。……一来果の実証のために等しく転起します。……不還果の実証のために等しく転起します。……阿羅漢果の実証のために等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、預流果の実証のために等しく転起します。……一来果の実証のために等しく転起します。……不還果の実証のために等しく転起します。……阿羅漢果の実証のために等しく転起します」と。

 

584-599. 「比丘たちよ、一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、智慧の獲得のために等しく転起します。……智慧の増大のために等しく転起します。……智慧の広大のために等しく転起します。……大いなる智慧たることのために等しく転起します。……多々なる智慧たることのために等しく転起します。……広大なる智慧たることのために等しく転起します。……深遠なる智慧たることのために等しく転起します。……近隣なき智慧たることのために等しく転起します。……広き智慧たることのために等しく転起します。……智慧の多大なることのために等しく転起します。……即座なる智慧たることのために等しく転起します。……軽快なる智慧たることのために等しく転起します。……敏速なる智慧たることのために等しく転起します。……疾走する智慧たることのために等しく転起します。……鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します。……洞察の智慧たることのために等しく転起します。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。身体の在り方についての気づきです。比丘たちよ、まさに、この一つの法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、智慧の獲得のために等しく転起します。……智慧の増大のために等しく転起します。……智慧の広大のために等しく転起します。……大いなる智慧たることのために等しく転起します。……多々なる智慧たることのために等しく転起します。……広大なる智慧たることのために等しく転起します。……深遠なる智慧たることのために等しく転起します。……近隣なき智慧たることのために等しく転起します。……広き智慧たることのために等しく転起します。……智慧の多大なることのために等しく転起します。……即座なる智慧たることのために等しく転起します。……軽快なる智慧たることのために等しく転起します。……敏速なる智慧たることのために等しく転起します。……疾走する智慧たることのために等しく転起します。……鋭敏なる智慧たることのために等しく転起します。……洞察の智慧たることのために等しく転起します」と。

 

 身体の在り方についての気づきの章が第十九となる。

 

20. 不死の章

 

600. 「比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを遍く受益しないなら、彼らは、不死を遍く受益しません。比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを遍く受益するなら、彼らは、不死を遍く受益します」と。

 

601. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍く受益されていないなら、彼らに、不死は遍く受益されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍く受益されたなら、彼らに、不死は遍く受益されたのです」と。

 

602. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍く衰退したなら、彼らに、不死は遍く衰退したのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍く衰退していないなら、彼らに、不死は遍く衰退していないのです」と。

 

603. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが亡失されたなら、彼らに、不死は亡失されたのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが勉励されたなら、彼らに、不死は勉励されたのです」と。

 

604. 「比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを怠ったなら、彼らは、不死を怠ったのです。比丘たちよ、彼らが、身体の在り方についての気づきを怠らなかったなら、彼らは、不死を怠らなかったのです」と。

 

605. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが忘却されたなら、彼らに、不死は忘却されたのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが忘却されていないなら、彼らに、不死は忘却されていないのです」と。

 

606. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが習修されていないなら、彼らに、不死は習修されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが習修されたなら、彼らに、不死は習修されたのです」と。

 

607. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが修められていないなら、彼らに、不死は修められていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが修められたなら、彼らに、不死は修められたのです」と。

 

608. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが多く為されていないなら、彼らに、不死は多く為されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが多く為されたなら、彼らに、不死は多く為されたのです」と。

 

609. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが証知されていないなら、彼らに、不死は証知されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが証知されたなら、彼らに、不死は証知されたのです」と。

 

610. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍知されていないなら、彼らに、不死は遍知されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが遍知されたなら、彼らに、不死は遍知されたのです」と。

 

611. 「比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが実証されていないなら、彼らに、不死は実証されていないのです。比丘たちよ、彼らに、身体の在り方についての気づきが実証されたなら、彼らに、不死は実証されたのです」と。

 

 (世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。)

 

 不死の章が第二十となる。

 

 エーカカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。