小部経典(クッダカ・ニカーヤ)
1. クッダカパータ聖典(小誦経)
【目次】
1. 三つの帰依所(三帰文)
2. 十の学びの境処(十戒文)
3. 三十二の行相(三十二身分)
4. 童子の〔十の〕問い(問沙弥文)
5. マンガラ・スッタ(吉祥経)
6. ラタナ・スッタ(三宝経)
7. ティロークッタ・スッタ(戸外経)
8. ニディカンダ・スッタ(伏蔵経)
9. メッタ・スッタ(慈悲経)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
1. クッダカパータ聖典(小誦経)
1. 三つの帰依所(三帰文)
帰依所として、覚者(仏:ブッダ)のもとに、〔わたしは〕赴きます(自帰依仏)。
帰依所として、法(法:ダンマ)のもとに、〔わたしは〕赴きます(自帰依法)。
帰依所として、僧団(僧:サンガ)のもとに、〔わたしは〕赴きます(自帰依僧)。
再度また、帰依所として、覚者のもとに、〔わたしは〕赴きます。
再度また、帰依所として、法(教え)のもとに、〔わたしは〕赴きます。
再度また、帰依所として、僧団のもとに、〔わたしは〕赴きます。
三度また、帰依所として、覚者のもとに、〔わたしは〕赴きます。
三度また、帰依所として、法(教え)のもとに、〔わたしは〕赴きます。
三度また、帰依所として、僧団のもとに、〔わたしは〕赴きます。
三つの帰依所は〔以上で〕終了となる。
2. 十の学びの境処(十戒文)
1. 命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します(不殺生戒)。
2. 与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します(不偸盗戒)。
3. 梵行(禁欲清浄行)ならざることから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します(不邪淫戒)。
4. 虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します(不妄語戒)。
5. 穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します(不飲酒戒)。
6. 非時に食事することから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します。
7. 舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します。
8. 花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します。
9. 高い臥具や大きな臥具〔を使用すること〕から離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します。
10. 金や銀を納受することから離れている〔生き方〕を学びの境処として、〔わたしは〕受持します。
十の学びの境処は〔以上で〕終了となる。
3. 三十二の行相(三十二身分)
この身体において、〔これらのものが〕存在する。
諸々の髪、諸々の毛、諸々の爪、諸々の歯、皮膚が──
肉、腱、骨、骨髄、腎臓が──
心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓が──
腸、腸間膜、胃物、糞、脳味噌が──
胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪が──
涙、膏、唾液、鼻水、髄液、尿が〔存在する〕。ということで──
三十二の行相は〔以上で〕終了となる。
4. 童子の〔十の〕問い(問沙弥文)
1. 「一つ」とは、何であるのか。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちである。
2. 「二つ」とは、何であるのか。そして、名前(名:精神的事象)であり、さらに、形態(色:物質的形態)である。
3. 「三つ」とは、何であるのか。三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。
4. 「四つ」とは、何であるのか。四つの聖なる真理(四聖諦)である。
5. 「五つ」とは、何であるのか。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)である。
6. 「六つ」とは、何であるのか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。
7. 「七つ」とは、何であるのか。七つの覚りの支分(七覚支)である。
8. 「八つ」とは、何であるのか。聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)である。
9. 「九つ」とは、何であるのか。九つの有情の居住所(九有情居)である。
10. 「十」とは、何であるのか。十の支分を具備した者が、「阿羅漢」と説かれる。ということで──
童子の〔十の〕問いは〔以上で〕終了となる。
5. マンガラ・スッタ(吉祥経)
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
2. 〔天神が尋ねた〕「多くの天〔の神々〕たちが、さらに、〔多くの〕人間たちが、諸々の幸福を思い考えました──安穏〔の境地〕を望みながら。〔彼らのために〕最上の幸福を説いてください」〔と〕。
3. 〔世尊は答えた〕「かつまた、愚者たちに慣れ親しまないこと、かつまた、賢者たちに慣れ親しむこと、かつまた、供養されるべき者たちへの供養──これは、最上の幸福です。
4. かつまた、適切なる地に住すること、かつまた、過去(過去世)に作り為した功徳あること、かつまた、自己についての正しい誓願──これは、最上の幸福です。
5. かつまた、多聞(博識)、かつまた、技能(手の器用さ)、かつまた、善く学ばれた律(規律)、さらに、すなわち、見事に語られた言葉(虚偽のない真実の言葉)──これは、最上の幸福です。
6. 母と父に奉仕すること、子と妻を愛護すること、そして、諸々の生業が混乱なきこと──これは、最上の幸福です。
7. かつまた、布施、かつまた、法(正義)の行ない、かつまた、親族たちを愛護すること、諸々の罪過なき行為(業)──これは、最上の幸福です。
8. 悪から遠く離れ離去すること、かつまた、〔人を〕酔わせる飲み物(酒類)から自制すること、かつまた、諸々の法(事象)にたいし〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)──これは、最上の幸福です。
9. かつまた、尊重、かつまた、謙譲、かつまた、知足、知恩の者たること、〔正しい〕時に法(教え)を聞くこと──これは、最上の幸福です。
10. かつまた、忍耐、素直であること、かつまた、沙門たちと会見すること、〔正しい〕時に法(教え)を論じること──これは、最上の幸福です。
11. かつまた、苦行、かつまた、梵行、〔四つの〕聖なる真理(聖諦)を見ること、かつまた、涅槃〔の境処〕を実証すること──これは、最上の幸福です。
12. 世の諸々の法(事物)に触れたとして、彼の心が、動かず、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安であるなら──これは、最上の幸福です。
13. 諸々のこのような〔行為〕を為して、一切所において敗者とならず、一切所において安穏〔の境地〕に至るなら──それは、彼らにとって最上の幸福です」〔と〕。ということで──
マンガラ・スッタは〔以上で〕終了となる。
6. ラタナ・スッタ(三宝経)
1. すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも、まさしく、一切の精霊たちが、悦意の者たちと成れ。そこで、また、〔わたしの〕語るところを、謹んで聞きたまえ。
2. 一切の精霊たちよ、まさに、それゆえに、こころして聞け。人間たる〔世の〕人々に、慈愛〔の心〕を作り為せ。そして、昼に、さらに、夜に、〔あなたたちに〕供物を運ぶ、彼らである。まさに、それゆえに、怠ることなくなく、彼らを守れ。
3. あるいは、この〔世において〕、あるいは、あの〔世において〕、それが何であれ、富としてあるもので──あるいは、すなわち、諸々の天上における精妙なる宝であるとして──如来と等しいものは、けっして、存在しない。これもまた、覚者(仏:ブッダ)における、精妙なる宝である。この真理(諦:真実)によって、安穏有れ。
4. 〔心が〕定められた釈迦〔族〕の牟尼が到達した、〔まさに〕その、不死にして精妙なる、滅尽と離貪──その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。これもまた、法(法:ダンマ)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
5. 最勝の覚者が遍く褒め称えた、〔まさに〕その、清らかなる〔境地〕──それを、〔賢者たちは〕「直後なる禅定(無間定:時を要さず即座に結果が出る禅定)」と言う。その禅定(定・三昧)と等しいものは、〔どこにも〕見出されない。これもまた、法(教え)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
6. すなわち、正しくある者たちに賞賛された、八者の人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)が──これらの四つ組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)が──〔世に〕有る。彼ら、善き至達者(善逝:ブッダの尊称)の弟子たちは、施与されるべき者たちであり、これらの者たちにおいて、諸々の施されたものは、大いなる果となる。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
7. すなわち、堅固なる意をもって〔瞑想の境地に〕しっかりと結び付き、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて〔欲望の対象に〕無欲なる者たち──彼らは、至り得るものに至り得た者たちであり、不死〔の境処〕に入って、寂滅〔の境処〕を空手で得て、受益している。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
8. すなわち、地に依拠したインダの杭(城門に立てられた標柱)が、四〔方〕の風に揺らぐことなく存するように、その喩えのような者を、〔わたしは〕「正なる人士」と説く。彼は、〔四つの〕聖なる真理(聖諦)を的確に見る。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
9. 彼らは、深遠なる智慧ある〔覚者〕によって見事に説示された〔四つの〕聖なる真理を分明する。たとえ、何であれ、彼らが、多く怠る者たちと成るとして、彼らは、第八の生存(有)を取らない(最高で七回までの輪廻のうちに解脱する)。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
10. 彼の、〔あるがままの〕見の成就と、まさしく、共に、まさに、三つの法(性質)が、捨棄されたものと成る──身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、さらに、疑惑〔の思い〕(疑)が、あるいは、また、それが何であれ、〔執着の対象として〕存する、戒や掟(戒禁)が。
11. そして、四つの悪所(地獄・畜生・餓鬼・阿修羅)から解脱し、さらに、六つの極罪を為すこと(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・覚者を傷つけること・僧団を分裂させること・異教の者を師とすること)が不可能となる。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
12. たとえ、何であれ、彼が、身体によって、言葉によって、あるいは、また、心によって、悪しき行為(悪業)を為すとして、彼は、それを隠蔽することが不可能となる。〔涅槃の〕境処を見た者にとって、〔それは〕有りえないことと説かれた。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
13. すなわち、〔四つの〕夏〔の月〕の最初の夏の月(春先)に、先端が〔一斉に〕開花した林の茂みのように、その喩えのように、涅槃に至る優れた法(教え)を、最高の利益のために、〔覚者は、他に先駆けて〕説示した。これもまた、覚者における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
14. 優れた者であり、優れたものを知る者であり、優れたものを与える者であり、優れたものを運び来る者である、無上なる者が、優れた法(教え)を説示した。これもまた、覚者における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
15. 古いもの(旧業)は滅尽し、新しいもの(新業)は発生が存在せず、未来の生存にたいし心が離貪した者たち──彼らは、〔再生の〕種子が滅尽した者たちであり、欲〔の思い〕が成長しない者たちであり、慧者たちは、あたかも、この灯明のように、消え行く(涅槃に到達する)。これもまた、僧団における、精妙なる宝である。この真理によって、安穏有れ。
16. すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、覚者(仏:ブッダ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。
17. すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、法(法:ダンマ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。
18. すなわち、ここに集いあつまった精霊たちであるなら、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、それらの空中にあるものたちも──天〔の神々〕と人間たちに供養される如来を、僧団(僧:サンガ)を、〔わたしたちは〕礼拝する──安穏有れ。ということで──
ラタナ・スッタは〔以上で〕終了となる。
7. ティロークッタ・スッタ(戸外経)
1. 〔餓鬼たちは〕諸々の壁の外に止住する──さらに、諸々の十字路や丁字路に。〔餓鬼たちは〕諸々の門の両脇に止住する──自らの家屋に帰り来て。
2. 沢山の食べ物や飲み物が、固形の食料や軟らかい食料が、〔施食として〕供えられたとき、誰も、彼ら(餓鬼たち)のことを思い浮かべない──有情たちには、〔そのような〕行為の縁(業縁)あるからである。
3. 彼ら(施者たち)が、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るなら、このように、〔彼らは〕施す──〔過去の〕親族たち(餓鬼たち)のために、清らかで精妙なる飲み物と食料を、〔しかるべき〕時に、適確なるものとして。「これは、〔過去の〕親族たるあなたたちのために成れ。〔過去の〕親族たちは、安楽の者たちと成れ」〔と〕。
4. そして、それら〔の餓鬼たち〕は、そこにおいて集いあつまって、集いあつまった〔過去の〕親族たる餓鬼たちは、沢山の食べ物や飲み物にたいし、恭しく随喜する。
5. 「わたしたちのために、親族たち(施者たち)は、長きにわたり生きよ。彼らを因として、〔わたしたちは、安楽を〕得るのだ。そして、わたしたちのために、供養は為された──そして、施者たちは、果なき者たちにあらず」〔と〕。
6. なぜなら、そこにおいて、耕作は存在せず、ここにおいて、牧畜は見出されず、商売やそのようなものは存在せず、金による売買は〔存在せず〕、ここから施されたものによって〔身を〕保ち行くからである──命を終えた餓鬼たちは、そこにおいて。
7. たとえば、高きに雨降った水が、低きへと転じ行くように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。
8. たとえば、諸々の水流が満ち溢れ、海洋を遍く満たすように、まさしく、このように、ここから施されたものは、餓鬼たちのために役立つ。
9. 「わたしのために、〔あの人は〕施した。わたしのために、〔あの人は〕為した──わたしの、親族として、朋友たちとして、そして、友人たちとして」〔と〕、過去に為されたことを随念しながら、餓鬼たちのために、施物を施すべきである。
10. なぜなら、あるいは、泣くことも、あるいは、憂いも、さらに、すなわち、他の、嘆き悲しむことも、それは、餓鬼たちの義(利益)のためにはならず、このように、〔過去の〕親族たちは〔世に〕止住するからである(泣き悲しむことは無意味である)。
11. しかしながら、まさに、この施物が、〔僧団に〕施され、僧団において善く確立されたなら、長夜にわたり、その〔餓鬼の衆〕の利益のためになり、即座に役立つ。
12. そして、それが、親族の法(教え)であり、これが、〔ここに〕実示された。そして、餓鬼たちのために、盛大なる供養が為された。さらに、比丘たちのために、活力となるものが奉施された。あなたたちによって、少なからざる功徳が求め作られたのだ。ということで──
ティロークッタ・スッタは〔以上で〕終了となる。
8. ニディカンダ・スッタ(伏蔵経)
1. 水〔の出る所〕を限度とする〔地中〕深くに、人は、財宝を安置する。「為すべき義(事態)が生起したとき、わたしの義(利益)のために成るであろう(不測の事態の備えとなる)」〔と〕。
2. あるいは、王から悪く言われたなら、〔彼から逃れるために〕。あるいは、盗賊から責め苛まれたなら、〔彼から逃れるために〕。あるいは、借金の解き放ちのために。あるいは、飢饉において、諸々の災害において、〔それらの災難から逃れるために〕。この義(目的)のために、世において、まさに、財宝が安置される。
3. 水〔の出る所〕を限度とする〔地中〕深くに、それほどまでに善く安置され、〔そのように〕存しながらも、それで、彼のために、〔その〕一切が、まさしく、一切時に役立つわけではない。
4. あるいは、〔その〕場から、財宝が死滅する(消失する)。あるいは、彼の表象(想:概念・心象)が迷乱する(忘失する)。あるいは、龍たちが取り去る。あるいは、また、それを、夜叉たちが運び去る。
5. あるいは、また、見ていないなら、愛しからざる相続者たちが取り出す。すなわち、功徳の滅尽が有るとき、この一切が消失する。
6. その者の、布施によって、戒によって、自制によって、さらに、調御によって、財宝は、善く安置されたものと成る──女のものであれ、あるいは、男のものであれ。
7. そして、塔廟において、あるいは、僧団において、人において、あるいは、客たちにおいて、母において、そして、また、父において、さらに、長兄において──
8. この財宝は、善く安置されたものとなり、不可伐のものとなり、〔安置者に〕従い行くものとなる。〔死者を〕捨棄して、〔諸々の財物が〕去り行くべきときに、この〔功徳の財宝〕を取って、〔慧者は、他の世へと〕去り行く。
9. 〔功徳は〕他者たちと共通のものならず、〔この〕財宝は、盗賊が運び去るものにあらず。その財宝が、〔安置者に〕従い行くものであるなら、慧者たる者は、諸々の功徳を作り為すべきである。
10. 天〔の神々〕と人間たちに、一切の欲望〔の対象〕を与えてくれるのが、この財宝である。〔彼らが〕望み求める、まさしく、そのもの、そのものは、〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
11. 善き色艶たること、善き音声たること、善き外貌たること、善き形姿たること、君主となり取り巻きをもつこと──〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
12. 地域の王権、権力、愛しき転輪〔王〕の安楽、諸天における天の王権もまた──〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
13. そして、人間としての得達、かつまた、すなわち、天の世における歓楽、さらに、すなわち、涅槃の得達──〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
14. 〔善き〕朋友の成就(善知識の獲得)に由来して、まさしく、根源のままに〔瞑想に〕専念している者の、明知と解脱の自在なる状態──〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
15. 融通無礙〔の智慧〕(無礙解)、そして、解脱、さらに、すなわち、弟子としての完全態(波羅蜜・到彼岸)、独覚の覚り(独覚菩提)、覚者の境地(仏地)──〔その〕一切が、この〔財宝〕によって得られる。
16. このように、これは、大いなる義(利益)あるものとなる。すなわち、この、功徳の成就(功徳を積むこと)である。それゆえに、慧者たる賢者たちは、〔過去に〕作り為した功徳あることを賞賛する。ということで──
ニディカンダ・スッタは〔以上で〕終了となる。
9. メッタ・スッタ(慈悲経)
1. すなわち、〔まさに〕その、寂静の境処を知悉して、〔実践の〕義(目的)に巧みな智ある者によって為されるべきは、〔以下のとおりとなる〕。有能で、かつまた、〔心が〕真っすぐで、さらに、実直で、かつまた、素直で、柔和で、高慢なき者として、〔世に〕存するように。
2. そして、〔常に足ることを知る〕満ち足りている者として、かつまた、〔他者を煩わさない〕扶養し易き者として、かつまた、為すべきこと(義務)少なく、軽素な生活者として、さらに、〔感官の〕機能(根)の寂静なる者として、かつまた、賢明で、尊大ならず、〔行乞する〕家々にたいし貪求なき者として、〔世に存するように〕。
3. そして、どんなに小さなことであれ、その〔行為〕によって、他の識者たちが批判するなら、〔それを〕習行しないように。一切の有情たちは、安楽の自己ある者たちと成れ。まさしく、安楽で、平安の者たちと成れ。
4. 彼らが誰であれ、命ある生類たちとして〔世に〕存するなら、あるいは、〔心が〕震え動く者(凡夫)たちも、あるいは、〔心が〕震え動かない者(阿羅漢)たちも、〔全て〕残りなく──あるいは、長いものたちも、あるいは、すなわち、大きなものたちも、中なるものたちも、短いものたちも、微細なるものや粗大なるものたちも──
5. あるいは、〔かつて〕見たことがあるものたちも、あるいは、すなわち、〔いまだ〕見たことがないものたちも──あるいは、すなわち、遠くに住するものたちも、遠くないところに〔住するものたちも〕、あるいは、〔いまここに〕生類としてあるものたちも、あるいは、〔未来の〕発生を求めるものたちも、一切の有情たちは、安楽の自己ある者たちと成れ。
6. 他者は他者を欺かないように。どこにおいても、〔それが〕誰であれ、その者を(※)軽んじないように。反目ゆえに、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)ゆえに、互いに他の苦しみを求めないように。
※ テキストには na kañci とあるが、PTS版により naṃ kañci と読む。
7. あたかも、母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、このように、また、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意図を修めるように。
8. そして、一切の世〔の人々〕にたいし、無量なる慈愛(慈)の意図を修めるように。上に、そして、下に、さらに、横に、隔てなく、怨みなく、敵なき〔心〕を〔修めるように〕。
9. 立っているも、歩いているも、あるいは、坐っているも、臥しているも、眠気を離れた者として〔世に〕存する、そのかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づき(念)を、〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、〔賢者たちは〕「この〔世における〕梵の住」と言う。
10. そして、〔誤った〕見解に近しく赴かずして、〔あるがままの〕見を成就した戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除いて(※)、もはや、胎に臥す〔境遇〕にふたたび至り行くことは、まさに、ない。ということで──
※ テキストには vinaya とあるが、PTS版により vineyya と読む。
メッタ・スッタは〔以上で〕終了となる。
クッダカパータ聖典は〔以上で〕終了となる。