中部経典(マッジマ・ニカーヤ)

 

 後分の五十の聖典(後分五十経篇・上)

 

【目次】

 

1. デーヴァダハの章

 

1(101). デーヴァダハの経(1.~)

2(102). 五と三の経(21.~)

3(103). 「どうでしょう、かくのごとく」の経(34.~)

4(104). サーマ村の経(41.~)

5(105). スナッカッタの経(55.~)

6(106). 不動なるものに正当なるものの経(66.~)

7(107). ガナカ・モッガッラーナの経(74.~)

8(108). ゴーパカ・モッガッラーナの経(79.~)

9(109). 大いなる満月の経(85.~)

10(110). 小なる満月の経(91.~)

 

2. 逐次の章

 

1(111). 逐次の経(93.~)

2(112). 六つの清めるものの経(98.~)

3(113). 正なる人士の経(105.~)

4(114). 慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものの経(109.~)

5(115). 多くの界域あるものの経(124.~)

6(116). イシギリの経(133.~)

7(117). 大いなる四十なるものの経(136.~)

8(118). 呼吸についての気づきの経(144.~)

9(119). 身体の在り方についての気づきの経(153.~)

10(120). 形成〔作用〕による再生の経(160.~)

 

3. 空性の章

 

1(121). 小なる空性の経(176.~)

2(122). 大いなる空性の経(185.~)

3(123). めったにないはじめてのことの経(197.~)

4(124). バークラの経(209.~)

5(125). 調御された者の土地の経(213.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 後分の五十の聖典(後分五十経篇・上)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. デーヴァダハの章

 

1(101). デーヴァダハの経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、デーヴァダハという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為(旧業)の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為(新業)を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受()の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう』と。比丘たちよ、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちは、このような論ある者たちです。

 

 比丘たちよ、わたしは、近づいて行って、このような論ある者たちである、ニガンタたちに、このように説きます。『友よ、ニガンタたちよ、本当に、まさに、あなたたちは、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちなのですか。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」』と。比丘たちよ、そして、わたしによって、このように尋ねられた、それらのニガンタたちは、『そのとおり』と明言します。

 

 わたしは、彼らに、このように説きます。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうなのでしょう、あなたたちは、「過去において、わたしたちは、まさしく、〔世に〕有った。〔世に〕有ることがなかったことはない」〔と〕知りますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、また、どうなのでしょう、あなたたちは、「過去において、わたしたちは、まさしく、悪しき行為(悪業)を為した。為すことがなかったことはない」〔と〕知りますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、また、どうなのでしょう、あなたたちは、「あるいは、このような形態の、あるいは、このような形態の、悪しき行為を為した」〔と〕知りますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、また、どうなのでしょう、あなたたちは、「あるいは、これだけの苦痛が滅尽したのだ、あるいは、これだけの苦痛が滅尽するべきである、あるいは、これだけの苦痛が滅尽したとき、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」〔と〕知りますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、また、どうなのでしょう、あなたたちは、まさしく、所見の法(現法:現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知りますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

2. 『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちは、「過去において、わたしたちは、まさしく、〔世に〕有った。〔世に〕有ることがなかったことはない」と知らず、「過去において、わたしたちは、まさしく、悪しき行為を為した。為すことがなかったことはない」と知らず、「あるいは、このような形態の、あるいは、このような形態の、悪しき行為を為した」と知らず、「あるいは、これだけの苦痛が滅尽したのだ、あるいは、これだけの苦痛が滅尽するべきである、あるいは、これだけの苦痛が滅尽したとき、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と知らず、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知りません。このように存しているとき、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものはありません。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。

 

 友よ、ニガンタたちよ、いっぽう、それで、もし、あなたたちが、「過去において、わたしたちは、まさしく、〔世に〕有った。〔世に〕有ることがなかったことはない」と知るなら、「過去において、わたしたちは、まさしく、悪しき行為を為した。為すことがなかったことはない」と知るなら、「あるいは、このような形態の、あるいは、このような形態の、悪しき行為を為した」と知るなら、「あるいは、これだけの苦痛が滅尽したのだ、あるいは、これだけの苦痛が滅尽するべきである、あるいは、これだけの苦痛が滅尽したとき、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と知るなら、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知るなら、このように存しているとき、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものがあります。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。

 

3. 友よ、ニガンタたちよ、それは、たとえば、また、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた人が存するとします。彼は、矢が貫くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させます。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、刃で傷口を切り裂きます。彼は、刃で傷口を切り裂くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、探り針で矢を探します。彼は、探り針で矢を探すことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、矢を引き抜きます。彼は、矢を引き抜くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、解毒のための炭火を傷口に置きます。彼は、解毒のための炭火を傷口に置くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼は、他時にあって、癒えた傷口が表皮を有することによって、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存します。彼に、このような〔思いが〕存します。「わたしは、まさに、過去において、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた者として〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしは、矢が貫くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受した。〔まさに〕その、わたしのために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させた。〔まさに〕その、わたしのために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、刃で傷口を切り裂いた。〔まさに〕その、わたしは、刃で傷口を切り裂くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受した。〔まさに〕その、わたしのために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、探り針で矢を探した。〔まさに〕その、わたしは、探り針で矢を探すことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受した。〔まさに〕その、わたしのために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、矢を引き抜いた。〔まさに〕その、わたしは、矢を引き抜くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受した。〔まさに〕その、わたしのために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、解毒のための炭火を傷口に置いた。〔まさに〕その、わたしは、解毒のための炭火を傷口に置くことを因としてもまた、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受した。その〔わたし〕は、今現在、癒えた傷口が表皮を有することによって、無病の者として、安楽の者として、独存者として、自在者として、欲するところに赴く者として、〔世に〕存している」と。

 

 友よ、ニガンタたちよ、まさしく、このように、まさに、それで、もし、あなたたちが、「過去において、わたしたちは、まさしく、〔世に〕有った。〔世に〕有ることがなかったことはない」と知るなら、「過去において、わたしたちは、まさしく、悪しき行為を為した。為すことがなかったことはない」と知るなら、「あるいは、このような形態の、あるいは、このような形態の、悪しき行為を為した」と知るなら、「あるいは、これだけの苦痛が滅尽したのだ、あるいは、これだけの苦痛が滅尽するべきである、あるいは、これだけの苦痛が滅尽したとき、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と知るなら、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知るなら、このように存しているとき、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものがあります。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。

 

 友よ、ニガンタたちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたたちが、「過去において、わたしたちは、まさしく、〔世に〕有った。〔世に〕有ることがなかったことはない」と知らないことから、「過去において、わたしたちは、まさしく、悪しき行為を為した。為すことがなかったことはない」と知らないことから、「あるいは、このような形態の、あるいは、このような形態の、悪しき行為を為した」と知らないことから、「あるいは、これだけの苦痛が滅尽したのだ、あるいは、これだけの苦痛が滅尽するべきである、あるいは、これだけの苦痛が滅尽したとき、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と知らないことから、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知らないことから、それゆえに、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものはありません。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」』と。

 

4. 比丘たちよ、このように説かれたとき、それらのニガンタたちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」と。彼は、このように言います。「友よ、ニガンタたちよ、まさに、あなたたちには、過去において作り為された悪しき行為が存在する。それを、この辛辣なる難行によって衰尽せしめよ。また、すなわち、ここにおいて、今現在、身体によって統御されたことから、言葉によって統御されたことから、意によって統御されたことから、それは、未来に悪しき行為を作り為さないものとなる。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています』と。

 

5. 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、五つのものがあります。まさに、これらの、まさしく、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。信であり、嗜好であり、聴聞であり、行相による思索(考証)であり、見解の納得による受認(受諾)です。友よ、ニガンタたちよ、まさに、これらの五つの、まさしく、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)があります。そこで、尊者たちにとって、ニガンタたちにとって、過去の時について〔知見ある〕師匠にたいし、何が、信であり、何が、嗜好であり、何が、聴聞であり、何が、行相による思索であり、何が、見解の納得による受認なのですか』と。比丘たちよ、このような論ある者として、まさに、わたしはあるも、ニガンタたちにおいて、何であれ、法(真理)を共にする反駁を等しく随観しません。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、わたしは、それらのニガンタたちに、このように説きます。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有り、強烈な精励が有るなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しますか。いっぽう、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有ることがなく、強烈な精励が有ることがないなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しませんか』と。『友よ、ゴータマよ、その時点において、わたしたちに、強烈な行動が有り、強烈な精励が有るなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。いっぽう、その時点において、わたしたちに、強烈な行動が有ることがなく、強烈な精励が有ることがないなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しません』と。

 

6. 『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有り、強烈な精励が有るなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受します。いっぽう、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有ることがなく、強烈な精励が有ることがないなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しません。このように存しているとき、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものはありません。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。友よ、ニガンタたちよ、それで、もし、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有り、強烈な精励が有り、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しないとします。いっぽう、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有ることがなく、強烈な精励が有ることがなく、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受するとします。このように存しているとき、尊者たちには、ニガンタたちには、それを説き明かすに健全なるものがあります。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。

 

 友よ、ニガンタたちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有り、強烈な精励が有るなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受することから、いっぽう、その時点において、あなたたちに、強烈な行動が有ることがなく、強烈な精励が有ることがないなら、その時点において、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しないことから、〔まさに〕その、あなたたちが、まさしく、自ら、諸々の突発性の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのは、無明によって、無知によって、迷妄によって、報いを受けているのです。「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」』と。比丘たちよ、このような論ある者として、まさに、わたしはあるもまた、ニガンタたちにおいて、何であれ、法(真理)を共にする反駁を等しく随観しません。

 

7. 比丘たちよ、さらに、また、他に、わたしは、それらのニガンタたちに、このように説きます。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。「すなわち、この、所見の法(現世)において感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、未来(来世)において感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『いっぽう、「すなわち、この、未来(来世)において感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、所見の法(現世)において感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。「すなわち、この、安楽として感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、苦痛として感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『いっぽう、「すなわち、この、苦痛として感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、安楽として感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。「すなわち、この、円熟あるものとして感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、円熟なきものとして感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『いっぽう、「すなわち、この、円熟なきものとして感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、円熟あるものとして感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。「すなわち、この、多く感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、少なく感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『いっぽう、「すなわち、この、少なく感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、多く感受されるべきものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。「すなわち、この、感受されるべきものを有する行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、感受されるべきではないものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『いっぽう、「すなわち、この、感受されるべきではない行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、感受されるべきものを有するものと成れ」という、このことは、〔承諾が〕得られるでしょうか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

8. 『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、「すなわち、この、所見の法(現世)において感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、未来(来世)において感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、いっぽう、「すなわち、この、未来(来世)において感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、所見の法(現世)において感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、「すなわち、この、安楽として感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、苦痛として感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、いっぽう、「すなわち、この、苦痛として感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、安楽として感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、「すなわち、この、円熟あるものとして感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、円熟なきものとして感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、いっぽう、「すなわち、この、円熟なきものとして感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、円熟あるものとして感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、「すなわち、この、多く感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、少なく感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、いっぽう、「すなわち、この、少なく感受されるべき行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、多く感受されるべきものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、「すなわち、この、感受されるべきものを有する行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、感受されるべきではないものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られず、いっぽう、「すなわち、この、感受されるべきではない行為は、それは、あるいは、行動によって、あるいは、精励によって、感受されるべきものを有するものと成れ」という、このことも、〔承諾が〕得られません。このように存しているとき、尊者たちにとって、ニガンタたちにとって、行動は、果なきものと成り、精励は、果なきものと〔成ります〕』〔と〕。

 

 比丘たちよ、このような論ある者たちとして、ニガンタたちはあります。比丘たちよ、このような論ある者たちである、ニガンタたちには、十の法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。

 

9. (1)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、ニガンタたちは、過去において悪しく為された行為の為し手たちです。すなわち、今現在、このような形態の諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受する、〔ニガンタたちは〕。(2)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、イッサラ〔天〕(イーシュヴァラ神・自在神)の化作を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、ニガンタたちは、悪しきイッサラ〔天〕によって化作された者たちです。すなわち、今現在、このような形態の諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受する、〔ニガンタたちは〕。(3)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、偶然の状態(運命)を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、ニガンタたちは、悪しき偶然ある者たちです。すなわち、今現在、このような形態の諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受する、〔ニガンタたちは〕。(4)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、ニガンタたちは、悪しき出生ある者たちです。すなわち、今現在、このような形態の諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受する、〔ニガンタたちは〕。(5)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、ニガンタたちは、このような形態の所見の法(現世)における行動ある者たちです。すなわち、今現在、このような形態の諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受する、〔ニガンタたちは〕。

 

 (6)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知するなら、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。(7)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、イッサラ〔天〕の化作を因として、安楽と苦痛を得知するなら、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。もし、有情たちが、イッサラ〔天〕の化作を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。(8)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、偶然の状態を因として、安楽と苦痛を得知するなら、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。もし、有情たちが、偶然の状態を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。(9)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知するなら、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。(10)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知するなら、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、非難されるべき者たちとして、ニガンタたちはあります。比丘たちよ、このような論ある者たちとして、ニガンタたちはあります。比丘たちよ、このような論ある者たちである、ニガンタたちには、これらの十の法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。比丘たちよ、このように、まさに、行動は、果なきものと成り、精励は、果なきものと〔成ります〕。

 

10. 比丘たちよ、では、どのように、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、まさに、征服されたことなき自己を苦痛によって征服させず、かつまた、法(正義)にかなう安楽を遍捨せず、さらに、その安楽にたいし耽溺しない者として〔世に〕有ります。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしが、〔適切なる〕形成〔作用〕(:意志・衝動)を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、この苦痛の因縁に離貪が有る。また、わたしが、放捨しながら放捨(:選択せず差別なき心)を修行していると、この苦痛の因縁に離貪が有る』と。それで、まさに、彼が、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、まさに、すなわち、苦痛の因縁に離貪が有り、そこにおいて、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励します。また、彼が、放捨しながら放捨を修行していると、すなわち、苦痛の因縁に離貪が有り、そこにおいて、放捨を修行します。彼が、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、その苦痛の因縁に離貪が有ります。このようにもまた、彼に、その苦痛の衰尽が有ります。彼が、放捨しながら放捨を修行していると、その苦痛の因縁に離貪が有ります。このようにもまた、彼に、その苦痛の衰尽が有ります。

 

11. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、男が、女にたいし貪染し、心が結縛され、強き欲〔の思い〕があり、強き期待〔の思い〕があるとします。彼が、その女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その男に、この女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見て、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この男は、この女にたいし貪染し、心が結縛され、強き欲〔の思い〕があり、強き期待〔の思い〕があるからです。それゆえに、その女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見て、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょう」と。「比丘たちよ、そこで、まさに、その男に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、この女にたいし貪染し、心が結縛され、強き欲〔の思い〕があり、強き期待〔の思い〕がある。〔まさに〕その、わたしに、この女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見て、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起する。それなら、さあ、わたしは、すなわち、わたしの、この女にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるが、それを捨棄するのだ』と。彼は、すなわち、この女にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕ですが、それを捨棄するでしょう。彼が、他時にあって、その女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見るとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その男に、この女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見て、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この男は、この女にたいし離貪があるからです。それゆえに、その女が他の男を相手に、共に立ち、共に談じ、共に興じ、共に笑っているのを見て、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起することはないでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、まさに、征服されたことなき自己を苦痛によって征服させず、かつまた、法(正義)にかなう安楽を遍捨せず、さらに、その安楽にたいし耽溺しない者として〔世に〕有ります。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしが、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、この苦痛の因縁に離貪が有る。また、わたしが、放捨しながら放捨を修行していると、この苦痛の因縁に離貪が有る』と。それで、まさに、彼が、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、まさに、すなわち、苦痛の因縁に離貪が有り、そこにおいて、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励します。また、彼が、放捨しながら放捨を修行していると、すなわち、苦痛の因縁に離貪が有り、そこにおいて、放捨を修行します。彼が、〔適切なる〕形成〔作用〕を精励していると、〔適切なる〕形成〔作用〕の精励あることから、その苦痛の因縁に離貪が有ります。このようにもまた、彼に、その苦痛の衰尽が有ります。彼が、放捨しながら放捨を修行していると、その苦痛の因縁に離貪が有ります。このようにもまた、彼に、その苦痛の衰尽が有ります。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

12. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かくのごとく深慮します。『安楽なるままに、まさに、わたしが〔世に〕住んでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。いっぽう、苦痛へと、わたしが自己を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。それなら、さあ、わたしは、苦痛へと、自己を精励するのだ』と。彼は、苦痛へと、自己を精励します。彼が、苦痛へと、自己を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。彼は、他時にあって、苦痛へと、自己を精励しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘が、その義(目的)のために、苦痛へと、自己を精励する、彼の、その義(目的)が、完遂されたものと成るからです。それゆえに、他時にあって、苦痛へと、自己を精励しません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、矢作りが、矢を、二つの燃え木のなかで熱し、遍く熱し、真っすぐに作り為し、行為に適するものに〔作り為すようなものです〕。比丘たちよ、すなわち、まさに、矢作りの矢が、二つの燃え木のなかで熱せられたものと成り、遍く熱せられたものと〔成り〕、真っすぐに作り為され、行為に適するものに〔作り為されたことから〕、その矢作りは、他時にあって、その矢を、二つの燃え木のなかで熱し、遍く熱し、真っすぐに作り為し、行為に適するものに〔作り為すことは〕ありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その矢作りが、その義(目的)のために、矢を、二つの燃え木のなかで熱し、遍く熱し、真っすぐに作り為し、行為に適するものに〔作り為す〕、彼の、その義(目的)が、完遂されたものと成るからです。それゆえに、矢作りは、他時にあって、矢を、二つの燃え木のなかで熱し、遍く熱し、真っすぐに作り為し、行為に適するものに〔作り為すことは〕ありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、かくのごとく深慮します。『安楽なるままに、まさに、わたしが〔世に〕住んでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。いっぽう、苦痛へと、わたしが自己を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。それなら、さあ、わたしは、苦痛へと、自己を精励するのだ』と。彼は、苦痛へと、自己を精励します。彼が、苦痛へと、自己を精励していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。彼は、他時にあって、苦痛へと、自己を精励しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘が、その義(目的)のために、苦痛へと、自己を精励する、彼の、その義(目的)が、完遂されたものと成るからです。それゆえに、他時にあって、苦痛へと、自己を精励しません。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

13. 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。

 

14. 彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

 

 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

 

15. 彼は、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能()が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……略……。鼻によって、臭気()を嗅いで……略……。舌によって、味感()を味わって……略……。身によって、感触(所触)と接触して……略……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

 

 彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

 

16. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇()を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、さらに、この聖なる気づき()と正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧(慧・般若)を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定(定・三昧)から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

17. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

18. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。

 

19. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩()の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存()の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、このようにもまた、行動は、果を有するものと成り、精励は、果を有するものと〔成ります〕。比丘たちよ、このような論ある者たちである、如来たちには、十の法(真理)を共にする、賞賛されるべき状況がやってきます。

 

20. (1)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、如来は、過去において善く為された行為の為し手です。すなわち、今現在、このような形態の諸々の煩悩なき安楽の感受を感受する、〔如来は〕。(2)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、イッサラ〔天〕の化作を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、如来は、幸いなるイッサラ〔天〕によって化作された者です。すなわち、今現在、このような形態の諸々の煩悩なき安楽の感受を感受する、〔如来は〕。(3)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、偶然の状態を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、如来は、善き偶然ある者です。すなわち、今現在、このような形態の諸々の煩悩なき安楽の感受を感受する、〔如来は〕。(4)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、如来は、善き出生ある者です。すなわち、今現在、このような形態の諸々の煩悩なき安楽の感受を感受する、〔如来は〕。(5)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知するなら、比丘たちよ、たしかに、如来は、善き所見の法(現世)における行動ある者です。すなわち、今現在、このような形態の諸々の煩悩なき安楽の感受を感受する、〔如来は〕。

 

 (6)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知するなら、賞賛されるべき者として、如来はあります。もし、有情たちが、過去において作り為されたものを因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、賞賛されるべき者として、如来はあります。(7)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、イッサラ〔天〕の化作を因として、安楽と苦痛を得知するなら、賞賛されるべき者として、如来はあります。もし、有情たちが、イッサラ〔天〕の化作を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、賞賛されるべき者として、如来はあります。(8)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、偶然の状態を因として、安楽と苦痛を得知するなら、賞賛されるべき者として、如来はあります。もし、有情たちが、偶然の状態を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、賞賛されるべき者として、如来はあります。(9)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知するなら、賞賛されるべき者として、如来はあります。もし、有情たちが、出生を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、賞賛されるべき者として、如来はあります。(10)比丘たちよ、それで、もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知するなら、賞賛されるべき者として、如来はあります。もし、有情たちが、所見の法(現世)における行動を因として、安楽と苦痛を得知しないとしても、賞賛されるべき者として、如来はあります。比丘たちよ、このような論ある者たちとして、如来たちはあります。比丘たちよ、このような論ある者たちである、如来たちには、これらの十の法(真理)を共にする、賞賛されるべき状況がやってきます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 デーヴァダハの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(102). 五と三の経

 

21. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。未来の極(後際:未来の種々相)についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説します。(1)『表象()ある者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(2)『表象なき者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(3)『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(4)また、あるいは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知し、(5)また、あるいは、或る者たちは、所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)を宣説します。かくのごとく、(1・2・3)あるいは、〔世に〕存している自己を、死後においても、無病のものであると報知し、(4)また、あるいは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知し、(5)また、あるいは、或る者たちは、所見の法(現世)における涅槃を宣説します。かくのごとく、これらは、五と成って、三と成り、三と成って、五と成ります。これは、五と三についての概略です。

 

22. (1)比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちです。それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるもの()として、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきもの(無色)として、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、一なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、種々なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、微小なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、無量なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。また、あるいは、このことを超克している或る者たちがいるなかで、或る者たちは、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、無量にして不動なるものと宣説します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは──それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、一なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、種々なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、微小なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、無量なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。また、あるいは、もしくは、形態ある表象であり、もしくは、形態なき表象であり、もしくは、一なる表象であり、もしくは、種々なる表象である、これらの表象のなかで、すなわち、完全なる清浄のものであり、最高のものであり、至高のものであり、無上なるものであると告げ知らされる、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を、『何であれ、存在しない』と、或る者たちは、無量にして不動なるものと宣説します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたもの(有為)であり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕(諸行)の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

23. (2)比丘たちよ、そこで、すなわち、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちです。それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『表象は、病である。表象は、腫物である。表象は、矢である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、表象なきものである』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。すなわち、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは──それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『わたしは、形態()より他に、感受〔作用〕()より他に、表象〔作用〕()より他に、諸々の形成〔作用〕()より他に、識知〔作用〕()の、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、あるいは、死滅を、あるいは、再生を、あるいは、増大を、あるいは、成長を、あるいは、広大を、報知するであろう』と、このように説くとして、この状況は見出されません。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

24. (3)比丘たちよ、そこで、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちです。それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『表象は、病である。表象は、腫物である。表象は、矢である。表象なきものは、迷妄である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものである』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは──それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、見られ聞かれ思われたものによって識られるべき形成〔作用〕のみによって、この〔認識の〕場所()の成就を報知するなら、比丘たちよ、まさに、このことは、この〔認識の〕場所の成就にとって、災厄と告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、この〔認識の〕場所は、形成〔作用〕による入定(等至:専心)によって至り得られるべきものと告げ知らされません。比丘たちよ、この〔認識の〕場所は、形成〔作用〕の残余による入定によって至り得られるべきものと告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

25. (4)比丘たちよ、そこで、すなわち、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知する、それらの沙門や婆羅門たちです。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちであるなら、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『これらの尊き沙門や婆羅門たちは、全てもろともに、さらなる流れを、まさしく、執着を、宣説する。「かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう。かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう」と。それは、たとえば、また、まさに、商売のために赴きつつある商人に、「これから、わたしに、これが有るであろう。これによって、これを、〔わたしは〕得るであろう」と、このような〔思いが〕有るように、まさしく、このように、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、思うに、商人の如き者たちであることが明白となる。「かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう。かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう」〔と宣説する、これらの尊き沙門や婆羅門たちは〕』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。すなわち、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知する、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは──彼らは、身体を有することを恐怖する者たちであり、身体を有することを遍く忌避する者たちであり、まさしく、身体を有することに、遍く随走し、遍く随転します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、まさに、革紐によって結縛された犬が、堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に、連結されたなら、まさしく、その、あるいは、杭〔の周囲〕を、あるいは、柱〔の周囲〕を、遍く随走し、遍く随転するように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、身体を有することを恐怖する者たちであり、身体を有することを遍く忌避する者たちであり、まさしく、身体を有することに、遍く随走し、遍く随転します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

26. 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの五つの〔認識の〕場所を宣説します──あるいは、これらのなかのどれか一つを。

 

27. 比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。過去の極(前際:過去の種々相)についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説します。(1)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(2)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(3)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(4)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(5)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(6)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(7)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(8)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(9)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(10)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、種々なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(11)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、微小なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(12)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、無量なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(13)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な安楽あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(14)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(15)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、安楽と苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(16)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、苦でもなく楽でもないものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。

 

28. 比丘たちよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいます。(1)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と〔宣説する、それらの沙門や婆羅門たちです〕。彼らに、まさに、まさしく、信より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が有るであろう、という、この状況は見出されません(伝聞の知識があるだけである)。比丘たちよ、また、まさに、各自に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が存していないとき、すなわち、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、そこにおいて、まさしく、知恵の部分のみを遍く清めるのであり、それはまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちにとっての、執取()と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

29. 比丘たちよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいます。(2)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と〔宣説する、それらの沙門や婆羅門たちです〕。……略……。(3)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(4)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(5)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(6)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(7)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(8)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(9)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(10)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、種々なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(11)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、微小なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(12)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、無量なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(13)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な安楽あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(14)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(15)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、安楽と苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……。(16)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、苦でもなく楽でもないものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と〔宣説する、それらの沙門や婆羅門たちです〕。彼らに、まさに、まさしく、信より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が有るであろう、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、また、まさに、各自に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が存していないとき、すなわち、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、そこにおいて、まさしく、知恵の部分のみを遍く清めるのであり、それはまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちにとっての、執取と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

30. 比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住みます(第一禅と第二禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その遠離の喜悦が止滅します。遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その遠離の喜悦が止滅します。遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

31. 比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽(非俗の安楽)を成就して〔世に〕住みます(第三禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その財貨なき安楽が止滅します。財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その財貨なき安楽が止滅します。財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

32. 比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を成就して〔世に〕住みます(第四禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その苦でもなく楽でもない感受が止滅します。苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その苦でもなく楽でもない感受が止滅します。苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

33. 比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受の超越あることから、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受の超越あることから、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観します。たしかに、この尊者は、まさしく、涅槃に正当なる〔実践の〕道を宣説します。そこで、また、しかしながら、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、あるいは、諸々の過去の極についての偏った見解に執取しつつ執取し、あるいは、諸々の未来の極についての偏った見解に執取しつつ執取し、あるいは、諸々の欲望の束縛に執取しつつ執取し、あるいは、遠離の喜悦に執取しつつ執取し、あるいは、財貨なき安楽に執取しつつ執取し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受に執取しつつ執取します。そして、すなわち、まさに、この尊者が、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、それはまた、この尊き、沙門にとっての、婆羅門にとっての、執取と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗雑なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。

 

 比丘たちよ、また、まさに、この、優れた寂静の境処(涅槃)という無上なるものが、如来によって現正覚されました。すなわち、この、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして〔到達する〕解脱です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 五と三の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(103). 「どうでしょう、かくのごとく」の経

 

34. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ピシナーラーに住んでおられます。バリハラナの密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちに、わたしにたいし、どうでしょう、かくのごとく〔思いが〕有りますか。『あるいは、衣料を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、〔行乞の〕施食を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、臥坐具を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する』」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いは〕有りません。『あるいは、衣料を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、〔行乞の〕施食を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、臥坐具を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する』」と。

 

 「比丘たちよ、では、どうやら、あなたたちに、わたしにたいし、このような〔思いが〕有ることはないようです。『あるいは、衣料を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する。……略……。あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する』と。比丘たちよ、そこで、それでは、あなたたちに、どのようなものとして、わたしにたいし、〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いが〕有ります。『世尊は、慈しみ〔の思い〕ある者であり、〔わたしたちの〕利益を求める者であり、慈しみ〔の思い〕を抱いて、法(教え)を説示する』」と。「比丘たちよ、では、どうやら、あなたたちに、わたしにたいし、このような〔思いが〕有るようです。『世尊は、慈しみ〔の思い〕ある者であり、〔わたしたちの〕利益を求める者であり、慈しみ〔の思い〕を抱いて、法(教え)を説示する』と。

 

35. 比丘たちよ、それゆえに、ここに、すなわち、あなたたちに、諸々の法(教え)が、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されました。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)であり、四つの正しい精励(四正勤)であり、四つの神通の足場(四神足)であり、五つの機能(五根)であり、五つの力(五力)であり、七つの覚りの支分(七覚支)であり、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学ぶべきです。比丘たちよ、そして、〔まさに〕その、あなたたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)について種々なる論ある、二つの比丘たち〔の集まり〕が存するとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、これらの尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から種々なるものがあり、さらに、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがある』と。そこにおいて、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から種々なるものがあり、さらに、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあります。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに、さらに、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から種々なるものがあり、さらに、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあります。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに、さらに、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。かくのごとく、悪しく把握されたものが悪しく把握されたものとして保持されるべきであり、善く把握されたものが善く把握されたものとして保持されるべきです。悪しく把握されたものを悪しく把握されたものとして保持して〔そののち〕、善く把握されたものを善く把握されたものとして保持して〔そののち〕、すなわち、法(教え)が、すなわち、律が、それが語られるべきです。

 

36. そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、これらの尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、種々なるものがあるも、文(語形)〔の観点〕から合致する』と。そこにおいて、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、種々なるものがあるも、文(語形)〔の観点〕から合致します。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、種々なるものがあるも、文(語形)〔の観点〕から合致するとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、種々なるものがあるも、文(語形)〔の観点〕から合致します。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、種々なるものがあるも、文(語形)〔の観点〕から合致するとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。かくのごとく、悪しく把握されたものが悪しく把握されたものとして保持されるべきであり、善く把握されたものが善く把握されたものとして保持されるべきです。悪しく把握されたものを悪しく把握されたものとして保持して〔そののち〕、善く把握されたものを善く把握されたものとして保持して〔そののち〕、すなわち、法(教え)が、すなわち、律が、それが語られるべきです。

 

37. そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、これらの尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、合致するも、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがある』と。そこにおいて、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、合致するも、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあります。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、合致するも、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、合致するも、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあります。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさに、義(意味)〔の観点〕から、まさに、合致するも、文(語形)〔の観点〕から種々なるものがあるとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。かくのごとく、善く把握されたものが善く把握されたものとして保持されるべきであり、悪しく把握されたものが悪しく把握されたものとして保持されるべきです。善く把握されたものを善く把握されたものとして保持して〔そののち〕、悪しく把握されたものを悪しく把握されたものとして保持して〔そののち〕、すなわち、法(教え)が、すなわち、律が、それが語られるべきです。

 

38. そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、これらの尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から合致し、さらに、文(語形)〔の観点〕から合致する』と。そこにおいて、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から合致し、さらに、文(語形)〔の観点〕から合致します。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から合致し、さらに、文(語形)〔の観点〕から合致するとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『まさに、尊者たちには、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から合致し、さらに、文(語形)〔の観点〕から合致します。これによってもまた、〔まさに〕その、このことを、尊者たちは知るべきです。すなわち、まさしく、そして、義(意味)〔の観点〕から合致し、さらに、文(語形)〔の観点〕から合致するとおりに。尊者たちは、論争を起こしてはいけません』と。かくのごとく、善く把握されたものが善く把握されたものとして保持されるべきです。善く把握されたものを善く把握されたものとして保持して〔そののち〕、すなわち、法(教え)が、すなわち、律が、それが語られるべきです。

 

39. 比丘たちよ、さらに、〔まさに〕その、あなたたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、或るひとりの比丘に、罪が存し、違犯が存するとします。比丘たちよ、そこで、叱責を急ぐべきではありません。人が近しく注視されるべきです。『かくのごとく、そして、わたしに、悩害なきことが有るであろうし、さらに、他の人に、害障なきことが〔有るであろう〕。なぜなら、他の人は、忿激しない者であり、怨恨なき者であり、堅固な見解なき者であり、放棄し易き者であるからだ。そして、わたしは、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができる』と。比丘たちよ、それで、もし、このように存するなら、〔叱責の〕言葉たるに健全なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、このように存するなら、『まさに、わたしに、悩害なきことが有るであろうが、しかしながら、他の人に、害障が〔有るであろう〕。なぜなら、他の人は、忿激する者であり、怨恨ある者であるも、堅固な見解なき者であり、放棄し易き者であるからだ。そして、わたしは、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができる。また、まさに、このことは、少しばかりのものである。すなわち、この、他の人の害障は。そこで、まさに、このことこそは、より多きものである。〔まさに〕その、わたしが、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができるのは』と。比丘たちよ、それで、もし、このように存するなら、〔叱責の〕言葉たるに健全なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、このように存するなら、『まさに、わたしに、悩害が有るであろうが、しかしながら、他の人に、害障なきことが〔有るであろう〕。なぜなら、他の人は、忿激しない者であり、怨恨なき者であり、堅固な見解なき者であり、放棄し易き者であるからだ。そして、わたしは、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができる。また、まさに、このことは、少しばかりのものである。すなわち、この、わたしの悩害は。そこで、まさに、このことこそは、より多きものである。〔まさに〕その、わたしが、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができるのは』と。比丘たちよ、それで、もし、このように存するなら、〔叱責の〕言葉たるに健全なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、このように存するなら、『まさに、そして、わたしに、悩害が有るであろうし、さらに、他の人に、害障が〔有るであろう〕。なぜなら、他の人は、忿激する者であり、怨恨ある者であり、堅固な見解ある者であり、放棄し難き者であるからだ。そして、わたしは、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができる。また、まさに、このことは、少しばかりのものである。すなわち、この、そして、わたしに、悩害が有るであろうし、さらに、他の人に、害障が〔有るであろうことは〕。そこで、まさに、このことこそは、より多きものである。〔まさに〕その、わたしが、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができるのは』と。比丘たちよ、それで、もし、このように存するなら、〔叱責の〕言葉たるに健全なるものがあります。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、このように存するなら、『まさに、そして、わたしに、悩害が有るであろうし、さらに、他の人に、害障が〔有るであろう〕。なぜなら、他の人は、忿激する者であり、怨恨ある者であり、堅固な見解ある者であり、放棄し難き者であるからだ。そして、わたしは、この人を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させることができない』と。比丘たちよ、このような形態の人にたいし、放捨〔の思い〕()は軽んじられるべきではありません(𠮟責せず放置するべきである)。

 

40. 比丘たちよ、さらに、〔まさに〕その、あなたたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、互いに他と、言葉の収集が生起し、見解の加虐が〔生起し〕、心の憤懣と不興と不満が〔生起するとします〕。そこにおいて、一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、すなわち、まさに、わたしたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、互いに他と、言葉の収集が生起し、見解の加虐が〔生起し〕、心の憤懣と不興と不満が〔生起したのです〕。それを、知っている沙門は難詰するでしょうか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている比丘は、このように説き明かすでしょう。『友よ、すなわち、まさに、わたしたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、互いに他と、言葉の収集が生起し、見解の加虐が〔生起し〕、心の憤懣と不興と不満が〔生起したのです〕。それを、知っている沙門は難詰するでしょう』と。『友よ、また、この法(性質)を捨棄せずして、涅槃を実証できますか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている比丘は、このように説き明かすでしょう。『友よ、この法(性質)を捨棄せずして、涅槃を実証できません』と。

 

 そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、その比丘のことを、より素直であると、〔あなたたちが〕思い考えるなら、その〔比丘〕は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、すなわち、まさに、わたしたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、互いに他と、言葉の収集が生起し、見解の加虐が〔生起し〕、心の憤懣と不興と不満が〔生起したのです〕。それを、知っている沙門は難詰するでしょうか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている比丘は、このように説き明かすでしょう。『友よ、すなわち、まさに、わたしたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、互いに他と、言葉の収集が生起し、見解の加虐が〔生起し〕、心の憤懣と不興と不満が〔生起したのです〕。それを、知っている沙門は難詰するでしょう』と。『友よ、また、この法(性質)を捨棄せずして、涅槃を実証できますか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている比丘は、このように説き明かすでしょう。『友よ、この法(性質)を捨棄せずして、涅槃を実証できません』と。

 

 比丘たちよ、もし、その比丘に、他者たちが、このように尋ねるとします。『尊者によって、まさに、これらの比丘たちは、善ならざるものから出起させられて、善なるものにおいて確立させられたのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている比丘は、このように説き明かすでしょう。『友よ、ここに、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。〔まさに〕その、わたしに、世尊は、法(教え)を説示しました。わたしは、その法(教え)を聞いて、それらの比丘たちに語りました。それらの比丘たちは、その法(教え)を聞いて、善ならざるものから出起し、善なるものにおいて確立しました』と。比丘たちよ、まさに、このように説き明かしている比丘は、まさしく、そして、自己を賞揚せず、かつまた、他者を蔑視せず、さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かします。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 「どうでしょう、かくのごとく」の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(104). サーマ村の経

 

41. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。サーマ村において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住みます。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。思うに、まさしく、殺戮が、まさに、ニガンタ・ナータプッタの者たちにおいて転起します。すなわち、また、ニガンタ・ナータプッタの弟子である白衣の在家者たちは、彼らもまた、ニガンタ・ナータプッタの者たちにたいし、厭離している様子であり、離貪している様子であり、反発している様子です。すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。

 

42. そこで、まさに、見習い沙門のチュンダが、パーヴァーにおいて雨期を過ごし、サーマ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、見習い沙門のチュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、チュンダよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに答えました。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、見習い沙門のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この見習い沙門のチュンダが、このように言いました。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさしく、まさに、世尊の死後、僧団において、論争が生起してはならない。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するであろう』」と。

 

43. 「アーナンダよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたたちに、諸々の法(教え)が、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されました。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。アーナンダよ、まさに、あなたは、これらの法(教え)において、たとえ、二者の比丘であれ、種々なる論ある者たちを見ますか」と。「尊き方よ、すなわち、わたしに、諸々の法(教え)が、世尊によって、証知して〔そののち〕説示されました。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。尊き方よ、まさに、わたしは、これらの法(教え)において、たとえ、二者の比丘であれ、種々なる論ある者たちを見ません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊に敬虔と敬慕の形態ある人たちが〔世に〕住むとして、彼らもまた、世尊の死後、僧団において、論争を生じさせるでしょう──あるいは、厳格なる生き方についても、あるいは、卓越の戒条(増上波羅提木叉:戒律条項)についても。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するでしょう」と。「アーナンダよ、その論争は、少しばかりのものです。すなわち、この、あるいは、厳格なる生き方についても、あるいは、卓越の戒条についても。アーナンダよ、まさに、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、僧団において、論争が生起しつつ生起するなら、その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するでしょう」と。

 

44. アーナンダよ、六つのものがあります。これらの論争の根元です。どのようなものが、六つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に漏出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に漏出なきことが有ります。

 

45. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。……略……嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。……略……狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。……略……悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。……略……自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……僧団にたいし……学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に漏出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に漏出なきことが有ります。アーナンダよ、まさに、これらの六つの論争の根元があります。

 

46. アーナンダよ、四つのものがあります。これらの問題です。どのようなものが、四つのものなのですか。論争の問題であり、批判の問題であり、罪の問題であり、義務の問題です。アーナンダよ、まさに、これらの四つの問題があります。アーナンダよ、また、まさに、これらの七つの問題の止寂があります。諸々の生起しては生起した問題が止寂し止み静まるために、面前の調伏(現前毘尼:関係者全員による裁定)が施されるべきであり、記憶による調伏(憶念毘尼:違犯者の潔白宣言による裁定)が施されるべきであり、迷乱なき調伏(不痴毘尼:違犯者が心神喪失の場合の裁定)が施されるべきであり、明言によって執行されるべきもの(自言治:違犯者の自白による裁定)であり、多数決(多人語:関係者以外を含む多数者による裁定)であり、彼の悪行の告発(覓罪相:言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)であり、草の覆い(如草覆地:弁論と和解による裁定)です。

 

47. アーナンダよ、では、どのように、面前の調伏(関係者全員による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、あるいは、『法(教え)である』と、あるいは、『法(教え)ならざるものである』と、あるいは、『律である』と、あるいは、『律ならざるものである』と、論争します。アーナンダよ、それらの比丘たちは、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、法(教え)の指針を熟思するべきです。法(教え)の指針を熟思して、すなわち、そこにおいて、合致するとおり、そのとおりに、その問題を寂止させるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、面前の調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、面前の調伏によって。

 

48. アーナンダよ、では、どのように、多数決(関係者以外を含む多数者による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、もし、それらの比丘たちが、その居住所において、その問題を寂止することができないなら、アーナンダよ、すなわち、それらの比丘たちよりもより多くの比丘たちがいる居住所があるなら、その居住所に赴くべきです。アーナンダよ、そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、法(教え)の指針を熟思するべきです。法(教え)の指針を熟思して、すなわち、そこにおいて、合致するとおり、そのとおりに、その問題を寂止させるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、多数決と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、多数決によって。

 

49. アーナンダよ、では、どのように、記憶による調伏(違犯者の潔白宣言による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪(波羅夷)によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出したまえ──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。アーナンダよ、まさに、その比丘には、記憶による調伏が施されるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、記憶による調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、記憶による調伏によって。

 

50. アーナンダよ、では、どのように、迷乱なき調伏(違犯者が心神喪失の場合の裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出したまえ──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、狂気に至り得ました──心の転倒に。〔まさに〕その、狂者であるわたしによって、多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。わたしは、それを思い出しません。迷乱したわたしによって、このことが為されたのです』と。アーナンダよ、まさに、その比丘には、迷乱なき調伏が施されるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、迷乱なき調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、迷乱なき調伏です。

 

51. アーナンダよ、では、どのように、明言されたものによる執行(違犯者の自白による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、叱責された者として、あるいは、叱責されていない者として、罪を思い出し、開顕し、明瞭と為します。アーナンダよ、その比丘によって、より年長の比丘が(※)──近づいて行って、一つの肩に上衣を掛けて、〔両の〕足を敬拝して、ひざまずいて坐って、合掌を差し出して──このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊き方よ、わたしは、某名の罪を犯したのです。それを懺悔します』と。彼は、このように言います。『〔あなたは〕見ますか』と。『たしかに、〔わたしは〕見ます』と。『未来に統御できますか』と。『統御します』と。アーナンダよ、このように、まさに、明言されたものによる執行と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、明言されたものによる執行によって。

 

※ テキストには vuḍḍhatara bhikkhu とあるが、PTS版により vuḍḍhataro bhikkhu と読む。

 

52. アーナンダよ、では、どのように、彼の悪行の告発(言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出したまえ──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。友よ、しかしながら、まさに、わたしは、このような形態の少しばかりの罪を、〔罪を〕犯した者として思い出します』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、まさに、この、少しばかりの罪を犯して〔そののち〕、尋ねられずにあるとして、〔それを〕明言するでしょう。また、どうして、わたしが、このような形態の重罪を犯して、尋ねられたのに明言しないというのでしょう──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、あなたは、まさに、この、少しばかりの罪を犯して〔そののち〕、尋ねられずにあるなら、〔それを〕明言しないでしょう。また、どうして、あなたが、このような形態の重罪を犯して、尋ねられたのに明言するというのでしょう──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出します──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。戯れから、わたしによって、このことが説かれました。焦りから、わたしによって、このことが説かれました。「わたしは、〔まさに〕その、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません──あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを」』と。アーナンダよ、このように、まさに、彼の悪行の告発と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、彼の悪行の告発によって。

 

53. アーナンダよ、では、どのように、草の覆い(弁論と和解による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られるところと成ります。アーナンダよ、それらの比丘たちの、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、一方の側の比丘たちのなかで、明敏なる比丘によって──坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、合掌を手向けて──僧団が説諭されるべきです。

 

 『尊き方よ、僧団は、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。わたしたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、この多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。すなわち、僧団にとって健全なるものに至り得るところであるなら、わたしは、まさしく、そして、すなわち、これらの尊者たちの罪も、さらに、すなわち、自己の罪も、まさしく、そして、これらの尊者たちの義(利益)のために、さらに、自己の義(利益)のために、僧団の中において、草の覆いによって説示しましょう──重大な罪過を除いて、在家に関係したものを除いて』と。

 

 そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、明敏なる比丘によって──坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、合掌を手向けて──僧団が説諭されるべきです。

 

 『尊き方よ、僧団は、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。わたしたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、この多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。すなわち、僧団にとって健全なるものに至り得るところであるなら、わたしは、まさしく、そして、すなわち、これらの尊者たちの罪も、さらに、すなわち、自己の罪も、まさしく、そして、これらの尊者たちの義(利益)のために、さらに、自己の義(利益)のために、僧団の中において、草の覆いによって説示しましょう──重大な罪過を除いて、在家に関係したものを除いて』と。

 

 アーナンダよ、このように、まさに、草の覆いと成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、草の覆いによって。

 

54. アーナンダよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。アーナンダよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 アーナンダよ、もし、あなたたちが、これらの六つの記憶されるべき法(性質)を受持して転起させるなら、アーナンダよ、すなわち、あなたたちが甘受できない、〔まさに〕その、言葉の道を、あるいは、微細なるものであれ、あるいは、粗大なるものであれ、まさに、あなたたちは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)を受持して転起させなさい。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 サーマ村の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(105). スナッカッタの経

 

55. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされるところと成ります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、「どうやら、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたらしい(※)。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と耳にしました。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたらしい。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。尊き方よ、すなわち、それらの比丘たちが、世尊の現前において、了知を説き明かしました。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。尊き方よ、どうでしょう、それらの比丘たちは、まさしく、正しく、了知を説き明かしたのですか。それとも、ここにおいて、一部の比丘たちが存在し、増上慢によって、了知を説き明かしたのですか」と。

 

※ テキストには byākatā hoti とあるが、平行箇所により hoti を削除する(PTS版は、この箇所を省略)。

 

56. 「スナッカッタよ、すなわち、それらの比丘たちが、わたしの現前において、了知を説き明かしました。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。ここにおいて、一部の比丘たちが存在し、まさしく、正しく、了知を説き明かしました。また、ここに、一部の比丘たちが存在し、増上慢によって、了知を説き明かしました。スナッカッタよ、そこで、すなわち、まさしく、正しく、了知を説き明かした、それらの比丘たちですが、彼らにとって、それは、まさしく、そのとおりと成ります。また、すなわち、増上慢によって、了知を説き明かした、それらの比丘たちですが、スナッカッタよ、そこで、如来に、このような〔思いが〕有ります。『彼らのために、法(教え)を説示するのだ』と。スナッカッタよ、そして、ここにおいて、如来に、このような〔思いが〕有ります。『彼らのために、法(教え)を説示するのだ』と。そこで、また、そして、ここに、一部の愚人たちは、問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねます。スナッカッタよ、そこで、すなわち、また、如来に、このような〔思いが〕有るとして、『彼らのために、法(教え)を説示するのだ』と、そのばあいはまた、他なるものに成ります(翻意する)」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、法(教え)を説示するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「スナッカッタよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

57. 「スナッカッタよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。スナッカッタよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。

 

58. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、世の財貨を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、世の財貨を信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、不動なるもの(初禅から識無辺処までの禅定)に関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、人が、自らの、あるいは、村から、あるいは、町から、長きにわたり外在している者が存するとします。彼は、その、あるいは、村から、あるいは、町から、立ち去ったばかりの或るひとりの人を見ます。彼は、その人に、その、あるいは、村の、あるいは、町の、そして、平安であることを、かつまた、豊作であることを、さらに、少病であることを、尋ねます。彼に、その人は、その、あるいは、村の、あるいは、町の、そして、平安であることを、かつまた、豊作であることを、さらに、少病であることを、伝えます。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、その人の〔言葉を〕、聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させるでしょうか、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、世の財貨を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、世の財貨を信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、不動なるものに関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『まさに、不動なるものという束縛するものによる、まさに、束縛を離れた者なるも、世の財貨を信念した人士たる人である』と。

 

59. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、不動なるもの(初禅から識無辺処までの禅定)を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、不動なるものを信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、世の財貨に関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、結節から散り落ちた枯れ葉が、緑になることが不可能となるように、スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、不動なるものを信念した人士たる人にとって、それらの世の財貨という束縛するものは、それらは〔すでに〕散り落ちたのです。彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『まさに、世の財貨という束縛するものによる、まさに、束縛を離れた者なるも、不動なるものを信念した人士たる人である』と。

 

60. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、無所有なる〔認識の〕場所を信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、不動なるもの(初禅から識無辺処までの禅定)に関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、広々とした岩盤が、二様に破壊されたなら、連鎖なきものと成るように、スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、無所有なる〔認識の〕場所を信念した人士たる人にとって、それらの不動なるものという束縛するものは、それらは〔すでに〕破壊されたのです。彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『まさに、不動なるものという束縛するものによる、まさに、束縛を離れた者なるも、無所有なる〔認識の〕場所を信念した人士たる人である』と。

 

61. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、無所有なる〔認識の〕場所に関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、快意なる食料を、食べた人が吐き捨てるようなものです。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人には、その食べたものにたいし、ふたたび食欲が存するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この食べたものは、嫌悪なるものと等しく思認されているからです」と。「スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を信念した人士たる人にとって、それらの無所有なる〔認識の〕場所という束縛するものは、それらは〔すでに〕吐瀉されたのです。彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『まさに、無所有なる〔認識の〕場所という束縛するものによる、まさに、束縛を離れた者なるも、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を信念した人士たる人である』と。

 

62. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の人士たる人が、正しく涅槃を信念した者として〔世に〕存することです。スナッカッタよ、まさに、正しく涅槃を信念した人士たる人には、まさしく、そして、それに適切なる議論が確立し、かつまた、それの法(性質)のままに、刻々に思考し、刻々に想念し、かつまた、それがある人に親近し、さらに、それによって、歓悦を惹起します。また、そして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に関係する議論が議論されているとき、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、かつまた、それがある人に親近せず、さらに、それによって、歓悦を惹起しません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕(椰子の木)が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、正しく涅槃を信念した人士たる人にとって、それらの表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所という束縛するものは、それらは、寝が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。彼は、このように知られるべき者として存するでしょう。『まさに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所という束縛するものによる、まさに、束縛を離れた者であり、正しく涅槃を信念した人士たる人である』と。

 

63. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕存することです。『渇愛()は、沙門によって、まさに、矢と説かれた。無明という毒の汚れある者は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕によって悩み苦しむ。わたしの、その渇愛の矢は捨棄され、無明という毒の汚れは取り去られ、わたしは、正しく涅槃を信念した者として〔世に〕存している』と。このように、〔我想の〕思量(:思い上がりの心)ある者は、彼には、真実ならざるものが存しています。彼は、それらのものが、正しく涅槃を信念した者にとって不当なるものであるなら、それらのものに専念します。眼によって、不当なる形態を見ることに専念し、耳によって、不当なる音声に専念し、鼻によって、不当なる臭気に専念し、舌によって、不当なる味感に専念し、身によって、不当なる感触に専念し、意によって、不当なる法(意の対象)に専念します。彼が、眼によって、不当なる形態を見ることに専念し、耳によって、不当なる音声に専念し、鼻によって、不当なる臭気に専念し、舌によって、不当なる味感に専念し、身によって、不当なる感触に専念し、意によって、不当なる法(意の対象)に専念していると、貪欲〔の思い〕が、〔彼の〕心を転落させます。彼は、心が貪欲〔の思い〕によって転落したことで、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。

 

 スナッカッタよ、それは、たとえば、また、まさに、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた人が存するとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させます。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、刃で傷口を切り裂きます。刃で傷口を切り裂いて、探り針で矢を探します。探り針で矢を探して、矢を引き抜き、毒の汚れを取り去り、依り所を有する残り〔の毒〕を『依り所を有する残り〔の毒〕』と知っている者として、彼に、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、あなたの、矢は引き抜かれ、毒の汚れは取り去られました。依り所を有する残り〔の毒〕があるも、しかしながら、あなたの、障りたるに十分ならず。まさしく、そして、諸々の正当なる食料を食べるべきです。あなたが、諸々の不当なる食料を食べていると、傷が膿あるものとして存することになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。かつまた、〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清めるべきであり、〔その〕時〔その〕時に、傷口に塗油するべきです。あなたが、〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清めず、傷口に塗油せずにいると、膿と血が傷口を遍く覆い包むことになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。さらに、熱風のなかで歩むことに専念してはいけません。あなたが、熱風のなかで歩むことに専念していると、塵や穂先が傷口を悪化させることになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。さて、人士たる者よ、そして、〔あなたは〕傷を守護する者として、傷を治癒する者として、〔世に〕住むべきです』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしの、矢は引き抜かれ、毒の汚れは取り去られた。依り所を有する残り〔の毒〕があるも、しかしながら、わたしの、障りたるに十分ならず』と。彼は、まさしく、そして、諸々の不当なる食料を食べます。彼が、諸々の不当なる食料を食べていると、傷が膿あるものとして存します。かつまた、〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清めず、かつまた、〔その〕時〔その〕時に、傷口に塗油しません。彼が、傷を洗い清めず、傷口に塗油せずにいると、膿と血が傷口を遍く覆い包みます。さらに、熱風のなかで歩むことに専念します。彼が、熱風のなかで歩むことに専念していると、塵や穂先が傷口を悪化させます。そして、〔彼は〕傷を守護する者ではなく、傷を治癒する者ではなく、〔世に〕住みます。彼の、そして、この不当なる所作によって、不浄があり、毒の汚れは取り去られたとして、依り所を有する残り〔の毒〕があり、その両者によって、傷は、拡大に至ります。彼は、傷が拡大に至ったことで、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。

 

 スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、この状況が見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕存することです。『渇愛は、沙門によって、まさに、矢と説かれた。無明という毒の汚れある者は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕によって悩み苦しむ。わたしの、その渇愛の矢は捨棄され、無明という毒の汚れは取り去られ、わたしは、正しく涅槃を信念した者として〔世に〕存している』と。このように、〔我想の〕思量ある者は、彼には、真実ならざるものが存しています。彼は、それらのものが、正しく涅槃を信念した者にとって不当なるものであるなら、それらのものに専念します。眼によって、不当なる形態を見ることに専念し、耳によって、不当なる音声に専念し、鼻によって、不当なる臭気に専念し、舌によって、不当なる味感に専念し、身によって、不当なる感触に専念し、意によって、不当なる法(意の対象)に専念します。彼が、眼によって、不当なる形態を見ることに専念し、耳によって、不当なる音声に専念し、鼻によって、不当なる臭気に専念し、舌によって、不当なる味感に専念し、身によって、不当なる感触に専念し、意によって、不当なる法(意の対象)に専念していると、貪欲〔の思い〕が、〔彼の〕心を転落させます。彼は、心が貪欲〔の思い〕によって転落したことで、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。スナッカッタよ、まさに、これは、聖者の律における死です──すなわち、〔彼が〕学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするのは。スナッカッタよ、まさに、これは、死ぬほどの苦しみです──すなわち、この、〔彼が〕何らかの或る汚染された罪を惹起するのは。

 

64. スナッカッタよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕存することです。『渇愛は、沙門によって、まさに、矢と説かれた。無明という毒の汚れある者は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕によって悩み苦しむ。わたしの、その渇愛の矢は捨棄され、無明という毒の汚れは取り去られ、わたしは、正しく涅槃を信念した者として〔世に〕存している』と。まさしく、正しく、涅槃を信念した者として〔世に〕存していると、彼は、それらのものが、正しく涅槃を信念した者にとって不当なるものであるなら、それらのものに専念しません。眼によって、不当なる形態を見ることに専念せず、耳によって、不当なる音声に専念せず、鼻によって、不当なる臭気に専念せず、舌によって、不当なる味感に専念せず、身によって、不当なる感触に専念せず、意によって、不当なる法(意の対象)に専念しません。彼が、眼によって、不当なる形態を見ることに専念せず、耳によって、不当なる音声に専念せず、鼻によって、不当なる臭気に専念せず、舌によって、不当なる味感に専念せず、身によって、不当なる感触に専念せず、意によって、不当なる法(意の対象)に専念せずにいると、貪欲〔の思い〕が、〔彼の〕心を転落させることはありません。彼は、心が貪欲〔の思い〕によって転落していないことで、まさしく、死に遭遇することもないでしょうし、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕ないでしょう。

 

 スナッカッタよ、それは、たとえば、また、まさに、毒を有し深く塗装された矢に貫かれた人が存するとします。彼のために、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、〔毒〕矢の治癒者である医師を奉仕させます。彼のために、〔毒〕矢の治癒者である、その医師は、刃で傷口を切り裂きます。刃で傷口を切り裂いて、探り針で矢を探します。探り針で矢を探して、矢を引き抜き、毒の汚れを取り去り、依り所を有する残り〔の毒〕を『依り所を有する残り〔の毒〕』と知っている者として、彼に、このように説きます。『さて、人士たる者よ、まさに、あなたの、矢は引き抜かれ、毒の汚れは取り去られました。依り所を有する残り〔の毒〕があるも、しかしながら、あなたの、障りたるに十分ならず。まさしく、そして、諸々の正当なる食料を食べるべきです。あなたが、諸々の不当なる食料を食べていると、傷が膿あるものとして存することになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。かつまた、〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清めるべきであり、〔その〕時〔その〕時に、傷口に塗油するべきです。あなたが、〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清めず、傷口に塗油せずにいると、膿と血が傷口を遍く覆い包むことになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。さらに、熱風のなかで歩むことに専念してはいけません。あなたが、熱風のなかで歩むことに専念していると、塵や穂先が傷口を悪化させることになりますが、〔そのようなことが〕あってはいけません。さて、人士たる者よ、そして、〔あなたは〕傷を守護する者として、傷を治癒する者として、〔世に〕住むべきです』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしの、矢は引き抜かれ、毒の汚れは取り去られた。依り所を有する残り〔の毒〕があるも、しかしながら、それは、わたしの、障りたるに十分ならず』と。彼は、まさしく、そして、諸々の正当なる食料を食べます。彼が、諸々の不当なる食料を食べていると、傷が膿あるものとして存することはありません。〔その〕時〔その〕時に、傷を洗い清め、〔その〕時〔その〕時に、傷口に塗油します。彼が、傷を洗い清めず、傷口に塗油せずにいると、膿と血が傷口を遍く覆い包むことはありません。さらに、熱風のなかで歩むことに専念しません。彼が、熱風のなかで歩むことに専念せずにいると、塵や穂先が傷口を悪化させることはありません。そして、〔彼は〕傷を守護する者として、傷を治癒する者として、〔世に〕住みます。彼の、そして、この正当なる所作によって、さらに、この、毒の汚れは取り去られ、依り所を有する残り〔の毒〕もなく、その両者によって、傷は平癒します。彼は、傷が平癒したことで、まさしく、死に遭遇することもないでしょうし、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕ないでしょう。

 

 スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、この状況が見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕存することです。『渇愛は、沙門によって、まさに、矢と説かれた。無明という毒の汚れある者は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕と憎悪〔の思い〕によって悩み苦しむ。わたしの、その渇愛の矢は捨棄され、無明という毒の汚れは取り去られ、わたしは、正しく涅槃を信念した者として〔世に〕存している』と。まさしく、正しく、涅槃を信念した者として〔世に〕存していると、彼は、それらのものが、正しく涅槃を信念した者にとって不当なるものであるなら、それらのものに専念しません。眼によって、不当なる形態を見ることに専念せず、耳によって、不当なる音声に専念せず、鼻によって、不当なる臭気に専念せず、舌によって、不当なる味感に専念せず、身によって、不当なる感触に専念せず、意によって、不当なる法(意の対象)に専念しません。彼が、眼によって、不当なる形態を見ることに専念せず、耳によって、不当なる音声に専念せず、鼻によって、不当なる臭気に専念せず、舌によって、不当なる味感に専念せず、身によって、不当なる感触に専念せず、意によって、不当なる法(意の対象)に専念せずにいると、貪欲〔の思い〕が、〔彼の〕心を転落させることはありません。彼は、心が貪欲〔の思い〕によって転落していないことで、まさしく、死に遭遇することもないでしょうし、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕ないでしょう。

 

65. スナッカッタよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、これが、ここにおいて、義(意味)となります。スナッカッタよ、『傷』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)の同義語です。スナッカッタよ、『毒の汚れ』とは、まさに、これは、無明の同義語です。スナッカッタよ、『矢』とは、まさに、これは、渇愛の同義語です。スナッカッタよ、『探り針』とは、まさに、これは、気づき()の同義語です。スナッカッタよ、『刃』とは、まさに、これは、聖なる智慧の同義語です。スナッカッタよ、『〔毒〕矢の治癒者である医師』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。

 

 スナッカッタよ、その比丘が、まさに、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)において統御された為し手として、『〔生存の〕依り所は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、〔生存の〕依り所なき者となり、依り所の消滅において解脱した者となりながら、あるいは、〔生存の〕依り所において、身体を設置し、あるいは、心を生起させるであろう、という、この状況は見出されません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この飲むに適する銅杯を飲むでしょうか。すなわち、『これを飲んで〔そののち〕、わたしは、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』〔と〕知るなら」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、六つの接触ある〔認識の〕場所において統御された為し手として、『〔生存の〕依り所は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、〔生存の〕依り所なき者となり、依り所の消滅において解脱した者となりながら、あるいは、〔生存の〕依り所において、身体を設置し、あるいは、心を生起させるであろう、という、この状況は見出されません。スナッカッタよ、それは、たとえば、また、恐るべき毒ある毒蛇がいるとします。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。スナッカッタよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この恐るべき毒ある毒蛇に、あるいは、手を、あるいは、指を、与えるでしょうか。すなわち、『これに咬まれたなら、わたしは、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』〔と〕知るなら」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「スナッカッタよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、まさに、六つの接触ある〔認識の〕場所において統御された為し手として、『〔生存の〕依り所は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、〔生存の〕依り所なき者となり、依り所の消滅において解脱した者となりながら、あるいは、〔生存の〕依り所において、身体を設置し、あるいは、心を生起させるであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たリッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 スナッカッタの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(106). 不動なるものに正当なるものの経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、諸々の欲望〔の対象〕は、無常であり、虚妄であり、虚偽であり、虚偽の法(性質)です。比丘たちよ、これは、幻惑〔の策略〕によって作られたものであり、愚者の虚論です。そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、これは、両者ともに、悪魔の領域であり、悪魔の境域であり、悪魔の撒餌であり、悪魔の餌場です。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる意図あるものが──諸々の強欲〔の思い〕もまた、諸々の憎悪〔の思い〕もまた、諸々の激昂〔の思い〕もまた──等しく転起します。まさしく、それらは、ここに随学している聖なる弟子の、障りのために発生します。比丘たちよ、そこで、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、これは、両者ともに、悪魔の領域であり、悪魔の境域であり、悪魔の撒餌であり、悪魔の餌場である。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる意図あるものが──諸々の強欲〔の思い〕もまた、諸々の憎悪〔の思い〕もまた、諸々の激昂〔の思い〕もまた──等しく転起する。まさしく、それらは、ここに随学している聖なる弟子の、障りのために発生する。それなら、さあ、わたしは、広大で莫大な心で、世を征服して、意によって確立して、〔世に〕住むのだ。まさに、わたしが、広大で莫大な心で、世を征服して、意によって確立して、〔世に〕住んでいると、それらの悪しき善ならざる意図あるものは──諸々の強欲〔の思い〕もまた、諸々の憎悪〔の思い〕もまた、諸々の激昂〔の思い〕もまた──それらは有ることなくあるであろう。それらの捨棄あることから、そして、わたしの心は、微小ならざるものと成るであろうし、無量にして善く修められたものと〔成るであろう〕』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所()にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、不動なるもの(第四禅)に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕()が、不動なるものに近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第一の不動なるものに正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

67. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、それが何であれ、形態()であるなら、一切の形態は、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、不動なるもの(空無辺所)に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、不動なるものに近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第二の不動なるものに正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態の表象も、これは、両者ともに、無常である。それが無常であるなら、それは、愉悦するに十分ならず、迎合するに十分ならず、固執するに十分ならず』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、不動なるもの(識無辺所)に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、不動なるものに近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第三の不動なるものに正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

68. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態の表象も、そして、すなわち、不動なるものの表象も、全ての表象が、そこにおいて、これらのものが、残りなく止滅するなら、これは、寂静であり、これは、精妙である。すなわち、この、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)である』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、無所有なる〔認識の〕場所に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第一の無所有なる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

69. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、無所有なる〔認識の〕場所に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第二の無所有なる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

70. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『わたしは、どこにであれ、何にとってであれ、何ものにおいてであれ、〔存在せ〕ず、そして、わたしのものは、どこにであれ、何においてであれ、何ものであれ、存在しない』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、無所有なる〔認識の〕場所に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、第三の無所有なる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態の表象も、そして、すなわち、不動なるものの表象も、さらに、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の表象も、全ての表象が、そこにおいて、これらのものが、残りなく止滅するなら、これは、寂静であり、これは、精妙である。すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)である』と。彼が、このように実践し、それを多く〔為す〕住者であるなら、〔認識の〕場所にたいし、〔彼の〕心は浄信します。浄信が存しているとき、あるいは、今現在、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定し、あるいは、智慧によって信念します。身体の破壊ののち、死後において、この状況が見出されます。すなわち、それと等しく転起する識知〔作用〕が、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴くものとして存することです。比丘たちよ、これは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道と告げ知らされます」と。

 

71. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、このように、放捨〔の思い〕()を獲得します。尊き方よ、いったい、まさに、その比丘は、完全なる涅槃に到達するのでしょうか、あるいは、完全なる涅槃に到達しないのでしょうか」と。「アーナンダよ、また、ここにおいて、一部の比丘は、完全なる涅槃に到達するでしょうし、また、ここにおいて、一部の比丘は、完全なる涅槃に到達しないでしょう」と。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、また、ここにおいて、一部の比丘は、完全なる涅槃に到達するのですか、また、ここにおいて、一部の比丘は、完全なる涅槃に到達しないのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、このように、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、その放捨〔の思い〕に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、その放捨〔の思い〕に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、〔彼の〕識知〔作用〕は、それに依拠したものと成り、それに執取あるものと〔成ります〕。アーナンダよ、執取〔の思い〕を有する比丘は、完全なる涅槃に到達しません」と。「尊き方よ、また、その比丘は、どこに執取しながら執取するのですか」と。「アーナンダよ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に」と。「尊き方よ、おっしゃるところとして、その比丘は、執取〔の思い〕の最勝のものに執取しながら執取するのですか」と。「アーナンダよ、その比丘は、執取〔の思い〕の最勝のものに執取しながら執取します。アーナンダよ、まさに、これは、執取〔の思い〕の最勝のものです。すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所は。

 

72. アーナンダよ、ここに、比丘が、このように実践する者として〔世に〕有ります。『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう。それが、〔生存として〕存在し、それが、〔生存として〕有るものであるなら、それを、〔わたしは〕捨棄するのだ』と、このように、放捨〔の思い〕を獲得します。彼は、その放捨〔の思い〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、その放捨〔の思い〕に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住せずにいると、〔彼の〕識知〔作用〕は、それに依拠したものと成らず、それに執取あるものと〔成り〕ません。アーナンダよ、執取〔の思い〕なき比丘は、完全なる涅槃に到達します」と。

 

73. 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、おっしゃるところとして、〔それぞれの禅定に〕依拠しては依拠して、わたしたちのために、世尊によって、激流の超脱が告げ知らされました。尊き方よ、また、どのようなものが、聖なる解脱なのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘である聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。『そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望〔の対象〕も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の欲望の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の欲望の表象も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態も、そして、すなわち、所見の法(現世)の諸々の形態の表象も、さらに、すなわち、未来の諸々の形態の表象も、そして、すなわち、不動なるものの表象も、かつまた、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の表象も、さらに、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象も、これは、身体を有するもの(有身)である──すなわち、身体を有するものであるかぎりは。これは、不死である──すなわち、この、〔何も〕執取せずして〔到達する〕心の解脱(阿羅漢果の心解脱)は』と。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、不動なるものに正当なる〔実践の〕道が説示され、無所有なる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道が説示され、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に正当なる〔実践の〕道が説示され、〔それぞれの禅定に〕依拠しては依拠して、激流の超脱が説示され、聖なる解脱が説示されました。アーナンダよ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。アーナンダよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。アーナンダよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 不動なるものに正当なるものの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(107). ガナカ・モッガッラーナの経

 

74. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。そこで、まさに、ガナカ(計算者)・モッガッラーナ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ガナカ・モッガッラーナ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、このミガーラマータルの高楼には、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が見られるようなものです──すなわち、この、階段の最後の段に至るまで。貴君ゴータマよ、まさに、これらの婆羅門たちにもまた、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が見られます──すなわち、この、学問において。貴君ゴータマよ、まさに、これらの射手たちにもまた、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が見られます──すなわち、この、弓術において。貴君ゴータマよ、まさに、計算を生計とする計算者である、わたしたちにもまた、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が見られます──すなわち、この、算術において。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、内弟子を得て、最初に、このように数えさせます。『一に一を。二に二を。三に三を。四に四を。五に五を。六に六を。七に七を。八に八を。九に九を。十に十を』と。貴君ゴータマよ、わたしたちは、百をもまた数えさせ、より一層をもまた数えさせます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、この法(教え)と律においてもまた、まさしく、このように、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が〔見られ〕、報知することができますか」と。

 

75. 「婆羅門よ、この法(教え)と律においてもまた、まさしく、このように、順次の学びと順次の所作と順次の〔実践の〕道が〔見られ〕、報知することができます。婆羅門よ、それは、たとえば、また、能ある馬の調御者が、賢馬にして良馬たる馬を得て、まず最初に、轡(くつわ)について、懲罰を課し、そこで、より以上に、懲罰を課すように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、如来は、調御されるべき人を得て、最初に、このように教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、戒ある者として〔世に〕有りなさい。戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい』と。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有ることから、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住むことから、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶことから、〔まさに〕その、この者を、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られている者として〔世に〕有りなさい。眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者と〔成っては〕いけません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践しなさい、眼の機能を守護しなさい、眼の機能における統御を惹起しなさい。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成ってはいけません。付随する特徴を収め取る者と〔成っては〕いけません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践しなさい、意の機能を守護しなさい、意の機能における統御を惹起しなさい』と。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、比丘が、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ることから、〔まさに〕その、この者を、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、食において量を知る者として〔世に〕有りなさい。審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食するべきです──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」』と。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、比丘が、食において量を知る者として〔世に〕有ることから、〔まさに〕その、この者を、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕住みなさい。昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めなさい。夜の初夜(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めなさい。夜の中夜(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営むべきです(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後夜(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めなさい』と。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、比丘が、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ることから、〔まさに〕その、この者を、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有りなさい──前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として、大小便の行為のとき、正知を為す者として、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として』と。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、比丘が、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有ることから、〔まさに〕その、この者を、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近しなさい』と。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

 

76. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らにたいし、わたしの、この、このような形態の教示が有ります。いっぽう、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩()の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存()に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らには、これらの法(性質)が、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)のために等しく転起し、さらに、気づきと正知のために〔等しく転起します〕」と。

 

 このように説かれたとき、ガナカ・モッガッラーナ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君ゴータマの弟子たちは、貴君ゴータマによって、このように教諭され、このように教示されつつ、全ての者たちが、究極の目的である涅槃に達するのですか(※)、それとも、一部の者たちは達しないのですか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達するでしょうし、一部の者たちは達しないでしょう」と。

 

※ テキストには ārādhentntti とあるが、PTS版により ārādhenti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、まさしく、涅槃が止住し、涅槃に至る道が止住し、貴君ゴータマが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、貴君ゴータマの弟子たちが、貴君ゴータマによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達し、一部の者たちは達しないのですか」と。

 

77. 「婆羅門よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。婆羅門よ、それを、どう思いますか。あなたは、ラージャガハに至る道に巧みな智ある者ですか」と。「君よ、そのとおりです。わたしは、ラージャガハに至る道に巧みな智ある者です」と。「婆羅門よ、それを、どう思いますか。ここに、ラージャガハに赴くことを欲する人がやってくるとします。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『尊き方よ、わたしは、ラージャガハに赴くことを求めます。〔まさに〕その、わたしに、ラージャガハへの道を指示してください』と。〔まさに〕その、この者に、あなたは、このように説くでしょう。『さて、人士たる者よ、さあ、この道は、ラージャガハに赴きます。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、何某という名の村を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、何某という名の町を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、ラージャガハの、喜ばしき林園を、喜ばしき林を、喜ばしき地を、喜ばしき蓮池を、見るでしょう』と。彼は、あなたによって、このように教諭され、このように教示されつつ、悪しき道を赴いて西に向かって赴くとします。そこで、第二のラージャガハに赴くことを欲する人がやってくるとします。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『尊き方よ、わたしは、ラージャガハに赴くことを求めます。〔まさに〕その、わたしに、ラージャガハへの道を指示してください』と。〔まさに〕その、この者に、あなたは、このように説くでしょう。『さて、人士たる者よ、さあ、この道は、ラージャガハに赴きます。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、何某という名の村を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、何某という名の町を見るでしょう。そのまま、しばらく赴きなさい。そのまま、しばらく赴いて、ラージャガハの、喜ばしき林園を、喜ばしき林を、喜ばしき地を、喜ばしき蓮池を、見るでしょう』と。彼は、あなたによって、このように教諭され、このように教示されつつ、〔無事〕安穏にラージャガハに赴くとします。婆羅門よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、まさしく、ラージャガハが止住し、ラージャガハに至る道が止住し、あなたが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、人が、あなたによって、このように教諭され、このように教示されつつ、一者は、悪しき道を赴いて西に向かって赴き、一者は、〔無事〕安穏にラージャガハに赴くのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここにおいて、わたしが、何を為すというのでしょう。貴君ゴータマよ、わたしは、道を告げ知らせる者です」と。

 

 「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに──まさしく、涅槃が止住し、涅槃に至る道が止住し、わたしが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達し、一部の者たちは達しません。婆羅門よ、ここにおいて、わたしが、何を為すというのでしょう。婆羅門よ、わたしは、如来として、道を告げ知らせる者です」と。

 

78. このように説かれたとき、ガナカ・モッガッラーナ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、これらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、貴君ゴータマは、彼らと共に共住しません。

 

 いっぽう、すなわち、それらの者たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、駄弁ならざる者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、貴君ゴータマは、彼らと共に共住します。

 

 貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、根の香りであるなら、黒の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、それらが何であれ、芯の香りであるなら、赤の栴檀が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、それらが何であれ、花の香りであるなら、ヴァッシカ(ジャスミン)が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、まさしく、このように、貴君ゴータマの教諭は、今日、諸々の法(教え)における最高のものです。

 

 貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 ガナカ・モッガッラーナの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(108). ゴーパカ・モッガッラーナの経

 

79. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において、世尊が完全なる涅槃に到達したすぐあと。また、まさに、その時点にあって、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王が、パッジョータ王のことを危惧しながら、ラージャガハを修復させます(防備を強化する)。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、ゴーパカ(警護者)・モッガッラーナ婆羅門の仕事場のあるところに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門の仕事場のあるところに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、貴君アーナンダは、来たれ。尊者アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。長きのはてに、まさに、貴君アーナンダは、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。貴君アーナンダは、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者アーナンダは、設けられた坐に坐りました。まさに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──すなわち、〔それらの〕法(性質)を具備した者として、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマが〔世に〕有ったのですが、それらの法(性質)を、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、具備した、〔そのような者は〕」と。「婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──すなわち、〔それらの〕法(性質)を具備した者として、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が〔世に〕有ったのですが、それらの法(性質)を、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、具備した具備した、〔そのような者は〕。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方です。また、そして、弟子たちは、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住みます──〔世尊の〕そのあとに〔教えを〕具備した者たちとして」と。まさに、そして、尊者アーナンダの、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門を相手にする、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成りました。

 

 そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門が、ラージャガハにある仕事場を訪問しながら、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門の仕事場のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「貴君アーナンダよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「婆羅門よ、ここに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門は、わたしに、こう言いました。『貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──すなわち、〔それらの〕法(性質)を具備した者として、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマが〔世に〕有ったのですが、それらの法(性質)を、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、具備した具備した、〔そのような者は〕』と。このように説かれたとき、わたしは、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──すなわち、〔それらの〕法(性質)を具備した者として、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が〔世に〕有ったのですが、それらの法(性質)を、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、具備した具備した、〔そのような者は〕。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方です。また、そして、弟子たちは、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住みます──〔世尊の〕そのあとに〔教えを〕具備した者たちとして』と。婆羅門よ、これが、まさに、わたしたちの、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門を相手に〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、あなたがお越しになったのです」と。

 

80. 「貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──彼によって、貴君ゴータマによって、『この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう』と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕」と。「婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、『この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう』と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕」と。「貴君アーナンダよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、『この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう』と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕」と。「婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、『この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう』と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕」と。「貴君アーナンダよ、また、そして、このように、帰依所がないとき、何が、和合の因となるのですか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしたちは、帰依所がないのではありません。婆羅門よ、わたしたちは、帰依所を有する者たちであり、法(教え)を帰依所とします」と。

 

 「『貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──彼によって、貴君ゴータマによって、「この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、「この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、〔あなたは〕説きます。『貴君アーナンダよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、「この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、「この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、〔あなたは〕説きます。『貴君アーナンダよ、また、そして、このように、帰依所がないとき、何が、和合の因となるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしたちは、帰依所がないのではありません。婆羅門よ、わたしたちは、帰依所を有する者たちであり、法(教え)を帰依所とします』と、〔あなたは〕説きます。貴君アーナンダよ、また、〔あなたによって〕語られた、このことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。

 

81. 「婆羅門よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、比丘たちのために、学びの境処が制定され、戒条が指定され、存在します。〔まさに〕その、わたしたちは、斎戒(布薩)のその日、すなわち、或る村落地に近しく依拠して住むかぎりの、それらの全ての者たちが、一所に参集します。参集して、そのために、それが転起するなら、それを要請します。もし、それが話されているとき、比丘に、罪が有り、違犯が有るなら、わたしたちは、彼を、法(教え)のとおりに、教示されたとおりに、処置します」と。

 

 「おっしゃるように、まさに、貴君たちが処置するのではなく、まさに、法(教え)が処置します。貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──その者を、あなたたちが、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む、〔そのような者は〕」と。「婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──その者を、わたしたちが、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む、〔そのような者は〕」と。

 

 「『貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──彼によって、貴君ゴータマによって、「この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、「この者は、わたしの死後、あなたたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、〔あなたは〕説きます。『貴君アーナンダよ、また、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、「この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、あなたたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──僧団によって等しく思認され、大勢の長老たる比丘たちによって、「この者は、世尊の死後、わたしたちの帰依所と成るであろう」と据え置かれ、すなわち、わたしたちが、今現在、奉施するべき、〔そのような者は〕』と、〔あなたは〕説きます。『貴君アーナンダよ、また、そして、このように、帰依所がないとき、何が、和合の因となるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、わたしたちは、帰依所がないのではありません。婆羅門よ、わたしたちは、帰依所を有する者たちであり、法(教え)を帰依所とします』と、〔あなたは〕説きます。『貴君アーナンダよ、いったい、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しますか──その者を、あなたたちが、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む、〔そのような者は〕』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──その者を、わたしたちが、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む、〔そのような者は〕』と、〔あなたは〕説きます。貴君アーナンダよ、また、〔あなたによって〕語られた、このことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。

 

82. 「婆羅門よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、十の浄信するべき法(性質)が告げ知らされ、存在します。わたしたちのなかの或る者において、これらの法(性質)が等しく見出されるなら、その者を、わたしたちは、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、十のものなのですか。

 

 (1)婆羅門よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。

 

 (2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。

 

 (3)〔いかなる〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。

 

 (4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

 

 (5)無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 (6)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも

 

 (7)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 (8)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 (9)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 (10)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 婆羅門よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者によって、これらの十の浄信するべき法(性質)が告げ知らされました。わたしたちのなかの或る者において、これらの法(性質)が等しく見出されるなら、その者を、わたしたちは、今現在、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。

 

83. このように説かれたとき、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、ウパナンダ軍団長に語りかけました。「軍団長よ、それを、どう思いますか。このように(※)、すなわち、これらの尊き者たちは、尊敬するべき者を尊敬し、尊重するべき者を尊重し、思慕するべき者を思慕し、供養するべき者を供養していますか」〔と〕。「たしかに、これらの尊き者たちは、尊敬するべき者を尊敬し、尊重するべき者を尊重し、思慕するべき者を思慕し、供養するべき者を供養しています。そして、まさに、この者を、それらの尊き者たちが、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しないなら、そこで、そうしますと、誰を、それらの尊き者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むというのでしょう」と。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「また、貴君アーナンダは、今現在、どこに住んでいますか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、今現在、ヴェール林に住んでいます」と。「貴君アーナンダよ、また、どうでしょう、ヴェール林は、まさしく、そして、喜ばしく、かつまた、音声少なく、さらに、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切ですか」と。「婆羅門よ、たしかに、ヴェール林は、まさしく、そして、喜ばしく、かつまた、音声少なく、さらに、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切です──すなわち、そのように、守護者たちであり、警護者たちである、あなたたちのような者たちがいることで」と。「貴君アーナンダよ、たしかに、ヴェール林は、まさしく、そして、喜ばしく、かつまた、音声少なく、さらに、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切です──すなわち、そのように、瞑想者たちであり、瞑想を戒とする者たちである、貴君たちがいることで。貴君たちは、まさしく、そして、瞑想者たちであり、さらに、瞑想を戒とする者たちです。

 

※ テキストには bhava senāpati とあるが、PTS版により eva senāpati と読む。

 

 貴君アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしもですが、彼は、貴君ゴータマは、ヴェーサーリーに住んでいます。マハー林の楼閣堂において。貴君アーナンダよ、そこで、まさに、わたしは、マハー林の楼閣堂のあるところに、彼の、貴君ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、また、そして、彼は、貴君ゴータマは、無数の教相によって、瞑想についての講話を話しました。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、そして、瞑想者として、さらに、瞑想を戒とする者として、〔世に〕有りました。また、そして、彼は、貴君ゴータマは、全ての瞑想を褒め称えました」と。

 

84. 「婆羅門よ、しかしながら、まさに、彼は、世尊は、全ての瞑想を褒め称えたのではありません。また、彼は、世尊は、全ての瞑想を褒め称えなかったのでもありません(※)。婆羅門よ、では、彼は、世尊は、どのような形態の瞑想を褒め称えなかったのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。憎悪〔の思い〕(瞋恚)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、憎悪〔の思い〕を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、〔心の〕沈滞と眠気を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、〔心の〕高揚と悔恨を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。疑惑〔の思い〕()に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。彼は、まさしく、疑惑〔の思い〕を内に作り為して、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思します。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、このような形態の瞑想を褒め称えませんでした。

 

※ テキストには vaṇṇesīti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 婆羅門よ、では、彼は、世尊は、どのような形態の瞑想を褒め称えたのですか。婆羅門よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、このような形態の瞑想を褒め称えました」と。

 

 「貴君アーナンダよ、おっしゃるように、彼は、貴君ゴータマは、非難するべき瞑想を非難し、賞賛するべき瞑想を賞賛しました。貴君アーナンダよ、では、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「婆羅門よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門は、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、ゴーパカ・モッガッラーナ婆羅門は、マガダ〔国〕の大臣であるヴァッサカーラ婆羅門が立ち去ったすぐあと、尊者アーナンダに、こう言いました。「すなわち、まさに、わたしたちが、貴君アーナンダに尋ねた、その〔問い〕を、まさに、貴君アーナンダは説き明かしませんでした」と。「婆羅門よ、まさに、あなたに、言いませんでしたか。『婆羅門よ、まさに、たとえ、一者の比丘であれ、存在しません──すなわち、〔それらの〕法(性質)を具備した者として、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が〔世に〕有ったのですが、それらの法(性質)を、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、具備した、〔そのような者は〕。婆羅門よ、まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方です。また、そして、弟子たちは、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住みます──〔世尊の〕そのあとに〔教えを〕具備した者たちとして』」と。

 

 ゴーパカ・モッガッラーナの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(109). 大いなる満月の経

 

85. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、わたしは、世尊に、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、世尊が、わたしの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「比丘よ、まさに、それでは、あなたは、自らの坐に坐って、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。

 

86. そこで、まさに、その比丘は、自らの坐に坐って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)はあるのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です」と。「比丘よ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇はあります。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です」と。

 

 「尊き方よ、善きかな」と、まさに、その比丘は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊に、さらなる問いを尋ねました。「尊き方よ、また、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、何を根元とするのですか」と。「比丘よ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、欲〔の思い〕を根元とします」と。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして、執取があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのですか(両者は別のものですか)」と。「比丘よ、まさに、まさしく、そのものとして、執取があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのでもなく、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのでもまたありません。比丘よ、すなわち、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があるなら、それは、そこにおいて、執取となります」と。

 

 「尊き方よ、また、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇における欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の相違性は存在するのでしょうか」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。比丘よ、このように、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の相違性は存在します」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、〔五つの心身を構成する〕範疇に、範疇の名辞が有るのですか」と。「比丘よ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、形態の範疇と説かれます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、感受〔作用〕の範疇と説かれます。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、諸々の形成〔作用〕の範疇と説かれます。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、これは、識知〔作用〕の範疇と説かれます。比丘よ、このことから、まさに、〔五つの心身を構成する〕範疇に、範疇の名辞が有ります」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、形態の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、感受〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、表象〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、諸々の形成〔作用〕の範疇の報知があるのですか。何を因として、何を縁として、識知〔作用〕の範疇の報知があるのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)を因として、四つの大いなる元素を縁として、形態の範疇の報知があります。接触()を因として、接触を縁として、感受〔作用〕の範疇の報知があります。接触を因として、接触を縁として、表象〔作用〕の範疇の報知があります。接触を因として、接触を縁として、諸々の形成〔作用〕の範疇の報知があります。比丘よ、まさに、名前と形態(名色)を因として、名前と形態を縁として、識知〔作用〕の範疇の報知があります」と。

 

87. 「尊き方よ、また、どのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が有るのですか」と。「比丘よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘よ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。「比丘よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、感受〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、感受〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、感受〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。表象〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、表象〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、表象〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、表象〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。諸々の形成〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、諸々の形成〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、諸々の形成〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、諸々の形成〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘よ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。

 

88. 「尊き方よ、いったい、まさに、形態の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか。感受〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか。表象〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか。諸々の形成〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか。識知〔作用〕の、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離なのですか」と。「比丘よ、それが、まさに、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽です。すなわち、形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険です。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。比丘よ、それが、感受〔作用〕を縁として……表象〔作用〕を縁として……諸々の形成〔作用〕を縁として……識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽です。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛あり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険です。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離です」と。

 

89. 「尊き方よ、また、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるのですか」と。「比丘よ、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。比丘よ、まさに、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあります」と。

 

90. そこで、まさに、或るひとりの比丘に、このような心の思索が浮かびました。「かくのごとく、ああ、まさに、形態は、自己ならざるものである。感受〔作用〕は、自己ならざるものである。表象〔作用〕は、自己ならざるものである。諸々の形成〔作用〕は、自己ならざるものである。識知〔作用〕は、自己ならざるものである。自己ならざるものによって為された諸々の行為()が、どうして、自己に接触するというのだろう」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その比丘の心の思索を了知して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、無明を具した無知なる愚人が、渇愛を優位とする心で、教師の教えを超え去るべきと思い考えることです。『かくのごとく、ああ、まさに、形態は、自己ならざるものである。感受〔作用〕は、自己ならざるものである。表象〔作用〕は、自己ならざるものである。諸々の形成〔作用〕は、自己ならざるものである。識知〔作用〕は、自己ならざるものである。自己ならざるものによって為された諸々の行為が、どうして、自己に接触するというのだろう』と。比丘たちよ、まさに、わたしによって教導された者たちとして、あなたたちはあります──その場その場に、諸々の法(教え)において。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。

 

 大いなる満月の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(110). 小なる満月の経

 

91. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、十五〔日〕において、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正ならざる人士を知ることです──『この尊き者は、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、また、正ならざる人士は、正なる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、まさに、このこともまた、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、正ならざる人士が、正なる人士を知ることです──『この尊き者は、正なる人士である』と。比丘たちよ、正ならざる人士は、正ならざる法(性質)を具備した者として〔世に〕有り、正ならざる人士の信愛ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の思弁ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の考量ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の言葉ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の行業ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の見解ある者として〔世に〕有り、正ならざる人士の布施を施します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕()なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎め()なき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の信愛ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、信なき者たちであり、恥〔の思い〕なき者たちであり、〔良心の〕咎めなき者たちであり、少聞の者たちであり、怠惰の者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、智慧浅き者たちであるなら、彼にとって、彼らは、朋友たちと成り、彼らは、道友たちと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の信愛ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の思弁ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の思弁ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の考量ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた考量し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた考量し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた考量します。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の考量ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の言葉ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の言葉ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の行業ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の行業ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の見解ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の見解ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正ならざる人士は、正ならざる人士の布施を施すのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士は、恭しくなく布施を施し、自らの手ではなく布施を施し、心作せずして布施を施し、捨てられたものを布施として施し、〔布施の果の〕不還を見解とする者として布施を施します。比丘たちよ、このように、まさに、正ならざる人士は、正ならざる人士の正ならざる人士の布施を施します。

 

 比丘たちよ、彼は、正ならざる人士は、このように、正ならざる法(性質)を具備した者であり、このように、正ならざる人士の信愛ある者であり、このように、正ならざる人士の思弁ある者であり、このように、正ならざる人士の考量ある者であり、このように、正ならざる人士の言葉ある者であり、このように、正ならざる人士の行業ある者であり、このように、正ならざる人士の見解ある者であり、このように、正ならざる人士の布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、すなわち、正ならざる人士たちの境遇()があり、そこにおいて再生します。比丘たちよ、では、何が、正ならざる人士たちの境遇なのですか。あるいは、地獄であり、あるいは、畜生の胎です。

 

92. 比丘たちよ、いったい、まさに、正なる人士は、正なる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正なる人士である』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、この状況は見出されます。すなわち、正なる人士が、正なる人士を知ることです──『この尊き者は、正なる人士である』と。比丘たちよ、また、正なる人士は、正ならざる人士を知るのでしょうか──『この尊き者は、正ならざる人士である』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、まさに、この状況もまた見出されます。すなわち、正なる人士が、正ならざる人士を知ることです──『この尊き者は、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、正なる人士は、正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有り、正なる人士の信愛ある者として〔世に〕有り、正なる人士の思弁ある者として〔世に〕有り、正なる人士の考量ある者として〔世に〕有り、正なる人士の言葉ある者として〔世に〕有り、正なる人士の行業ある者として〔世に〕有り、正なる人士の見解ある者として〔世に〕有り、正なる人士の布施を施します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきが現起された者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる法(性質)を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の信愛ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、信ある者たちであり、恥〔の思い〕ある者たちであり、〔良心の〕咎めある者たちであり、多聞の者たちであり、精進に励む者たちであり、気づきが現起された者たちであり、智慧ある者たちであるなら、彼にとって、彼らは、朋友たちと成り、彼らは、道友たちと〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の信愛ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の思弁ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の思弁ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の考量ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために考量せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために考量せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために考量しません。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の考量ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の言葉ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の言葉ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の行業ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の行業ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の見解ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の見解ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、正なる人士は、正なる人士の布施を施すのですか。比丘たちよ、ここに、正なる人士は、恭しく布施を施し、自らの手で布施を施し、心作して施し、捨てられていないものを布施として施し、〔布施の果の〕帰還を見解とする者として布施を施します。比丘たちよ、このように、まさに、正なる人士は、正なる人士の正なる人士の布施を施します。

 

 比丘たちよ、彼は、正なる人士は、このように、正なる法(性質)を具備した者であり、このように、正なる人士の信愛ある者であり、このように、正なる人士の思弁ある者であり、このように、正なる人士の考量ある者であり、このように、正なる人士の言葉ある者であり、このように、正なる人士の行業ある者であり、このように、正なる人士の見解ある者であり、このように、正なる人士の布施を施して、身体の破壊ののち、死後において、すなわち、正なる人士たちの境遇があり、そこにおいて再生します。比丘たちよ、では、何が、正なる人士たちの境遇なのですか。あるいは、大いなる天〔の神〕たることであり、あるいは、大いなる人間たることです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる満月の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 デーヴァダハの章は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「デーヴァダハ、五と三、『どうでしょう、かくのごとく』があり、サーマとスナッカッタ、そして、正当なるものとガナとゴーパカと大いなる満月と小なる満月があり、〔章となる〕」と。

 

2. 逐次の章

 

1(111). 逐次の経

 

93. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、サーリプッタは、賢者です。比丘たちよ、サーリプッタは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、多々なる智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、敏速なる智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、疾走する智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、鋭敏なる智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、洞察の智慧ある者です。比丘たちよ、サーリプッタは、半月のあいだ、逐次の法(性質)の〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を観察します。比丘たちよ、そこで、これが、サーリプッタの逐次の法(性質)の〔あるがままの〕観察におけるものと成ります。

 

94. 比丘たちよ、ここに、サーリプッタが、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、第一の瞑想において、諸々の法(性質)が──かつまた、思考が、かつまた、想念が、かつまた、喜悦が、かつまた、安楽が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、第二の瞑想において、諸々の法(性質)が──かつまた、内なる浄信(心の清浄)が、かつまた、喜悦が、かつまた、安楽が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、第三の瞑想において、諸々の法(性質)が──かつまた、安楽が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、第四の瞑想において、諸々の法(性質)が──放捨が、苦でもなく楽でもない感受が、静息による心の無念慮が、気づきの清浄が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)が──かつまた、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)が──かつまた、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。そして、すなわち、無所有なる〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)が──かつまた、無所有なる〔認識の〕場所の表象が、かつまた、心の一境性が、接触が、感受が、表象が、思欲が、心が、欲〔の思い〕が、信念が、精進が、気づきが、放捨が、意を為すことが──彼に、それらの法(性質)が、逐次に定め置かれたものと成ります。彼に、それらの法(性質)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。彼は、このように覚知します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

95. 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、その入定から、気づきある者として出起します。彼は、その入定から、気づきある者として出起して、すなわち、諸々の法(性質)が、過ぎ去り、止滅し、変化したなら、それらの法(性質)を等しく随観します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離が存在する』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことが存在する』と、〔思いが〕有ります。

 

96. 比丘たちよ、さらに、また、他に、サーリプッタが、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。彼は、その入定から、気づきある者として出起します。彼は、その入定から、気づきある者として出起して、すなわち、諸々の法(性質)が、過ぎ去り、止滅し、変化したなら、それらの法(性質)を等しく随観します。『このように、まさに、これらの法(性質)は、有ることなくして発生し、有って〔そののち〕滅し行く』と。彼は、それらの法(性質)にたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。彼は、『より上なる出離は存在しない』と覚知します。彼に、まさしく、『それを多く為すことは存在しない』と、〔思いが〕有ります。

 

97. 比丘たちよ、すなわち、まさに、彼のことを、『聖なる戒において、自在に至り得た者であり、完全態(波羅蜜・到彼岸)に至り得た者であり、聖なる禅定において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者であり、聖なる智慧において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者であり、聖なる解脱において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、サーリプッタのこととして、彼のことを、『聖なる戒において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者であり、聖なる禅定において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者であり、聖なる智慧において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者であり、聖なる解脱において、自在に至り得た者であり、完全態に至り得た者である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、財貨の相続者ではない』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、サーリプッタのこととして、彼のことを、『世尊の、子であり、正嫡であり、口から生まれた者であり、法(教え)から生じる者であり、法(教え)によって化作された者であり、法(教え)の相続者であり、財貨の相続者ではない』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、サーリプッタは、如来が転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく、随転させます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 逐次の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(112). 六つの清めるものの経

 

98. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、了知を説き明かします。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。比丘たちよ、その比丘の語ったことは、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、問いが尋ねられるべきです。『友よ、四つのものがあります。彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの語用です。どのようなものが、四つのものなのですか。見られたものについて見られたものと説く者であり、聞かれたものについて聞かれたものと説く者であり、思われたものについて思われたものと説く者であり、識られたものについて識られたものと説く者です。友よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの四つの語用があります。また、尊者が、どのように知っていると、どのように見ていると、これらの四つの語用において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか』と。比丘たちよ、比丘が、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、これが、説き明かしのための法(教え)のままなるものと成ります。『友よ、まさに、わたしは、見られたものにたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。友よ、まさに、わたしは、聞かれたものにたいし……略……。友よ、まさに、わたしは、思われたものにたいし……。友よ、まさに、わたしは、識られたものにたいし、接近なく、離去なく、依存なく、結縛なく、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます。友よ、まさに、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、これらの四つの語用において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです』と。比丘たちよ、『善きかな』と、その比丘の語ったことは、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。『善きかな』と、語ったことを、大いに喜んで、随喜して、さらなる問いが尋ねられるべきです。

 

99. 『友よ、五つのものがあります。彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの〔心身を構成する〕執取の範疇(取蘊)です。どのようなものが、五つのものなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。友よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があります。また、尊者が、どのように知っていると、どのように見ていると、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか』と。比丘たちよ、比丘が、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、これが、説き明かしのための法(教え)のままなるものと成ります。『友よ、まさに、わたしは、形態を、「力なきものであり、消え去るものであり、安堵なきものである」と見出して、すなわち、形態にたいする諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、まさに、わたしは、感受〔作用〕を……略……。友よ、まさに、わたしは、表象〔作用〕を……。友よ、まさに、わたしは、諸々の形成〔作用〕を……。友よ、まさに、わたしは、識知〔作用〕を、「力なきものであり、消え去るものであり、安堵なきものである」と見出して、すなわち、識知〔作用〕にたいする諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、まさに、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです』と。比丘たちよ、『善きかな』と、その比丘の語ったことは、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。『善きかな』と、語ったことを、大いに喜んで、随喜して、さらなる問いが尋ねられるべきです。

 

100. 『友よ、六つのものがあります。彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの界域()です。どのようなものが、六つのものなのですか。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。友よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの六つの界域があります。また、尊者が、どのように知っていると、どのように見ていると、これらの六つの界域において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか』と。比丘たちよ、比丘が、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、これが、説き明かしのための法(教え)のままなるものと成ります。『友よ、まさに、わたしは、地の界域に、自己〔の観点〕から近しく赴きませんでした。そして、地の界域に依拠したものに、自己であると〔近しく赴き〕ませんでした。そして、すなわち、地の界域に依拠した諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、まさに、わたしは、水の界域に……略……。友よ、まさに、わたしは、の界域に……。友よ、まさに、わたしは、火の界域に……。友よ、まさに、わたしは、風の界域に……。友よ、まさに、わたしは、虚空の界域に……。友よ、まさに、わたしは、識知〔作用〕の界域に、自己〔の観点〕から近しく赴きませんでした。そして、識知〔作用〕の界域に依拠したものに、自己であると〔近しく赴き〕ませんでした。そして、すなわち、識知〔作用〕の界域に依拠した諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、まさに、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、これらの六つの界域において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです』と。比丘たちよ、『善きかな』と、その比丘の語ったことは、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。『善きかな』と、語ったことを、大いに喜んで、随喜して、さらなる問いが尋ねられるべきです。

 

101. 『友よ、また、まさに、六つのものがあります。彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの内と外の〔認識の〕場所()です。どのようなものが、六つのものなのですか。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態()であり、そして、耳であり、さらに、諸々の音声()であり、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気()であり、そして、舌であり、さらに、諸々の味感()であり、そして、身であり、さらに、諸々の感触(所触)であり、そして、意であり、さらに、諸々の法(:意の対象)です。友よ、まさに、彼によって、世尊によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、正しく告げ知らされた、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所があります。また、尊者が、どのように知っていると、どのように見ていると、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのですか』と。比丘たちよ、比丘が、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、これが、説き明かしのための法(教え)のままなるものと成ります。『友よ、眼において、形態において、眼の識知〔作用〕(眼識)において、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、すなわち、欲〔の思い〕も、すなわち、貪欲も、すなわち、愉悦も、すなわち、渇愛も、そして、すなわち、諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、耳において、音声において、耳の識知〔作用〕(耳識)において……略……。友よ、鼻において、臭気において、鼻の識知〔作用〕(鼻識)において……。友よ、舌において、味感において、舌の識知〔作用〕(舌識)において……。友よ、身において、感触において、身の識知〔作用〕(身識)において……。友よ、意において、法(意の対象)において、意の識知〔作用〕(意識)において、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、すなわち、欲〔の思い〕も、すなわち、貪欲も、すなわち、愉悦も、すなわち、渇愛も、そして、すなわち、諸々の接近と執取も、心の諸々の確立と固着と悪習も、それらの滅尽と離貪と止滅と施捨と放棄あることから、「わたしの心は解脱したのだ」と覚知します。友よ、まさに、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所において、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱したのです』と。比丘たちよ、『善きかな』と、その比丘の語ったことは、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。『善きかな』と、語ったことを、大いに喜んで、随喜して、さらなる問いが尋ねられるべきです。

 

102. 『また、尊者が、どのように知っていると、どのように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)が完破されたのですか』と。比丘たちよ、比丘が、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、これが、説き明かしのための法(教え)のままなるものと成ります。『友よ、過去において、まさに、わたしは、在家者として有り、〔そのように〕存しつつ、無知なる者として〔世に〕有りました。〔まさに〕その、わたしに、あるいは、如来は、あるいは、如来の弟子は、法(教え)を説示しました。わたしは、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得しました。その〔わたし〕は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮しました。「在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ」と。

 

 友よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みました。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みました。梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有りました。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有りました。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有りました。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有りました。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有りました。

 

 その〔わたし〕は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有りました。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有りました。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有りました。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有りました。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有りました。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有りました。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有りました。売買から離間した者として〔世に〕有りました。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有りました。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有りました。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有りました。

 

 その〔わたし〕は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有りました。その〔わたし〕は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発しました。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、友よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有りました。その〔わたし〕は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発しました。その〔わたし〕は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知しました。

 

103. その〔わたし〕は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ませんでした。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起しました。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ませんでした。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起しました。その〔わたし〕は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知しました。

 

 その〔わたし〕は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有りました。

 

 その〔わたし〕は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近しました。その〔わたし〕は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐りました──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。

 

 その〔わたし〕は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めました。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めました。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めました。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めました。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めました。

 

104. その〔わたし〕は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。

 

 その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために心を向かわせました。その〔わたし〕は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに証知し、「これは、苦しみの集起である」と、事実のとおりに証知し、「これは、苦しみの止滅である」と、事実のとおりに証知し、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに証知しました。「これらは、諸々の煩悩である」と、事実のとおりに証知し、「これは、諸々の煩悩の集起である」と、事実のとおりに証知し、「これは、諸々の煩悩の止滅である」と、事実のとおりに証知し、「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、「解脱したのだ」と、知恵が有りました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。友よ、まさに、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は完破されました』と。比丘たちよ、『善きかな』と、その比丘の語ったことは、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。『善きかな』と、語ったことを、大いに喜んで、随喜して、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者と等しく随観します』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 六つの清めるものの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(113). 正なる人士の経

 

105. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、では、正なる人士の法(性質)を、そして、正ならざる人士の法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、正ならざる人士の法(性質)なのですか。比丘たちよ、ここに、正ならざる人士が、高貴の家から出家した者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、高貴の家から出家した者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、高貴の家から出家した者たちではない』と。彼は、その高貴の家たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これは、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、高貴の家たることによって、あるいは、諸々の貪欲()の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒()の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄()の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、高貴の家から出家した者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その高貴の家たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これは、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、大いなる家から出家した者として〔世に〕有ります。……略……大いなる財物ある家から出家した者として〔世に〕有ります。……略……秀逸なる財物ある家から出家した者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、秀逸なる財物ある家から出家した者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、秀逸なる財物ある家から出家した者たちではない』と。彼は、その秀逸なる財物あることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、秀逸なる財物あることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、秀逸なる財物ある家から出家した者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その秀逸なる財物あることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

106. 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。彼は、その知名あることによって(※)、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、知名あることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その知名あることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

※ テキストには ñattena とあるが、PTS版により ñātattena と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではない』と。彼は、その利得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、利得によって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その利得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、多聞の者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、多聞の者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、多聞の者たちではない』と。彼は、その多聞によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、多聞によって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、多聞の者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その多聞によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、律の保持者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、律の保持者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、律の保持者たちではない』と。彼は、その律の保持者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、律の保持者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、律の保持者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その律の保持者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、法(教え)の講話者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、法(教え)の講話者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、法(教え)の講話者たちではない』と。彼は、その法(教え)の講話者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、法(教え)の講話者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、法(教え)の講話者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その法(教え)の講話者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

107. 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、林にある者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、林にある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、林にある者たちではない』と。彼は、その林にある者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、林にある者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、林にある者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その林にある者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、糞掃衣の者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、糞掃衣の者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、糞掃衣の者たちではない』と。彼は、その糞掃衣の者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、糞掃衣の者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、糞掃衣の者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その糞掃衣の者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、〔行乞の〕施食の者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、〔行乞の〕施食の者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔行乞の〕施食の者たちではない』と。彼は、その〔行乞の〕施食の者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、〔行乞の〕施食の者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、〔行乞の〕施食の者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その〔行乞の〕施食の者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、木の根元にある者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、木の根元にある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、木の根元にある者たちではない』と。彼は、その木の根元にある者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、木の根元にある者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、木の根元にある者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その木の根元にある者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、墓場にある者として〔世に〕有ります。……略……野外にある者として〔世に〕有ります。……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に〕有ります。……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に〕有ります。……一坐〔だけの食〕の者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、一坐〔だけの食〕の者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、一坐〔だけの食〕の者たちではない』と。彼は、その一坐〔だけの食〕の者たることによって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、一坐〔だけの食〕の者たることによって、あるいは、諸々の貪欲の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の憤怒の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはなく、あるいは、諸々の迷妄の法(性質)が完全なる滅尽に至ることはない。たとえ、もし、一坐〔だけの食〕の者として〔世に〕有ることなくも、しかしながら、彼が、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕有るなら、彼は、そこにおいて、供養されるべき者となり、彼は、そこにおいて、賞賛されるべき者となる』と。彼は、まさしく、〔実践の〕道を内に作り為して、その一坐〔だけの食〕の者たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

108. 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、第一の瞑想への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、第一の瞑想への入定の得者たちではない』と。彼は、その第一の瞑想への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、第一の瞑想への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕(渇愛を起こさないあり方)が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その第一の瞑想への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、第四の瞑想への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、第四の瞑想への入定の得者たちではない』と。彼は、その第四の瞑想への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、第四の瞑想への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その第四の瞑想への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が全てに、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者たちではない』と。彼は、その虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者たちではない』と。彼は、その識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者たちではない』と。彼は、その無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、無所有なる〔認識の〕場所への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その無所有なる〔認識の〕場所への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正ならざる人士が、全てにわたり無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者たちではない』と。彼は、その表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。比丘たちよ、これもまた、正ならざる人士の法(性質)です。比丘たちよ、しかしながら、まさに、正なる人士は、かくのごとく深慮します。『まさに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定についてもまた、それに関わらない〔あり方〕が、世尊によって説かれた。「まさに、あれやこれや思い考えるも、そののち、それは、他なるものと成る」』と。彼は、まさしく、それに関わらない〔あり方〕を内に作り為して、その表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。比丘たちよ、これもまた、正なる人士の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正なる人士が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この比丘は、何であれ思い考えず、どこにおいてであれ思い考えず、何によってであれ思い考えません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 正なる人士の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(114). 慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものの経

 

109. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものを、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、身体の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その身体の励行を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、言葉の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その言葉の励行を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、意の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その意の励行を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、心の生起をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その心の生起を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、表象の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その表象の獲得を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、見解の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その見解の獲得を、互いに他なるものとして。比丘たちよ、わたしは、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その自己状態の獲得を、互いに他なるものとして」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

110. 『比丘たちよ、わたしは、身体の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その身体の励行を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきです。

 

111. 尊き方よ、どのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。尊き方よ、このような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。尊き方よ、このような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、身体の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その身体の励行を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、わたしは、言葉の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その言葉の励行を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の言葉の励行は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の言葉の励行は、慣れ親しむべきです。

 

112. 尊き方よ、どのような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。また、まさに、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。尊き方よ、このような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。尊き方よ、このような形態の言葉の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、言葉の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その言葉の励行を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、わたしは、意の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その意の励行を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の意の励行は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の意の励行は、慣れ親しむべきです。

 

113. 尊き方よ、どのような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、屠殺されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。尊き方よ、このような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。尊き方よ、このような形態の意の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、意の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その意の励行を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

114. 『比丘たちよ、わたしは、心の生起をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その心の生起を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の心の生起は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の心の生起は、慣れ親しむべきです。

 

 尊き方よ、どのような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕を共具した心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕を共具した心で〔世に〕住み、悩害〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、悩害〔の思い〕を共具した心で〔世に〕住みます。尊き方よ、このような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕を共具しない心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕を共具しない心で〔世に〕住み、悩害〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、悩害〔の思い〕を共具しない心で〔世に〕住みます。尊き方よ、このような形態の心の生起に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、心の生起をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その心の生起を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

115. 『比丘たちよ、わたしは、表象の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その表象の獲得を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の表象の獲得は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の表象の獲得は、慣れ親しむべきです。

 

 尊き方よ、どのような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕を共具した表象で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕を共具した表象で〔世に〕住み、悩害〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、悩害〔の思い〕を共具した表象で〔世に〕住みます。尊き方よ、このような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕を共具しない表象で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕を共具しない表象で〔世に〕住み、悩害〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、悩害〔の思い〕を共具しない表象で〔世に〕住みます。尊き方よ、このような形態の表象の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、表象の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その表象の獲得を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

116. 『比丘たちよ、わたしは、見解の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その見解の獲得を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の見解の獲得は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の見解の獲得は、慣れ親しむべきです。

 

 尊き方よ、どのような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。尊き方よ、このような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 尊き方よ、どのような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。尊き方よ、ここに、一部の者は、このような見解ある者として〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。尊き方よ、このような形態の見解の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、見解の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その見解の獲得を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

117. 『比丘たちよ、わたしは、自己状態(個我的あり方・身体)の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その自己状態の獲得を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の自己状態の獲得は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の自己状態の獲得は、慣れ親しむべきです。

 

 尊き方よ、どのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。尊き方よ、加害〔の思い〕を有する自己状態の獲得を発現させていると、〔輪廻の〕遍く終了された状態なきために、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。尊き方よ、加害〔の思い〕なき自己状態の獲得を発現させていると、〔輪廻の〕遍く終了された状態あるために、諸々の善なる法(性質)が激しく増大し、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退します。『比丘たちよ、わたしは、自己状態の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その自己状態の獲得を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します」と。

 

118. 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

 『比丘たちよ、わたしは、身体の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その身体の励行を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、わたしによって、この〔言葉〕が説かれました。サーリプッタよ、そのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきではありません。サーリプッタよ、しかしながら、まさに、そのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の身体の励行は、慣れ親しむべきです。

 

 サーリプッタよ、どのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。サーリプッタよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。サーリプッタよ、このような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。

 

 サーリプッタよ、どのような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するのですか。サーリプッタよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。サーリプッタよ、このような形態の身体の励行に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大します。『比丘たちよ、わたしは、身体の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その身体の励行を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、わたしは、言葉の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます……略……。『比丘たちよ、わたしは、意の励行をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます……略……。『比丘たちよ、わたしは、心の生起をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます……略……。『比丘たちよ、わたしは、表象の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます……略……。『比丘たちよ、わたしは、見解の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます……略……。

 

 『比丘たちよ、わたしは、自己状態の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その自己状態の獲得を、互いに他なるものとして』と、また、まさに、かくのごとく、わたしによって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。サーリプッタよ、そのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の自己状態の獲得は、慣れ親しむべきではありません。サーリプッタよ、しかしながら、まさに、そのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の自己状態の獲得は、慣れ親しむべきです。

 

 サーリプッタよ、どのような形態の自己状態の獲得に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するのですか。サーリプッタよ、加害〔の思い〕を有する自己状態の獲得を発現させていると、〔輪廻の〕遍く終了された状態なきために、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退します。サーリプッタよ、加害〔の思い〕なき自己状態の獲得を発現させていると、〔輪廻の〕遍く終了された状態あるために、諸々の善なる法(性質)が激しく増大し、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退します。『比丘たちよ、わたしは、自己状態の獲得をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。そして、その自己状態の獲得を、互いに他なるものとして』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです。

 

119. サーリプッタよ、わたしは、眼によって識知されるべき形態をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。サーリプッタよ、わたしは、耳によって識知されるべき音声をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。サーリプッタよ、わたしは、鼻によって識知されるべき臭気をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。サーリプッタよ、わたしは、舌によって識知されるべき味感をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。サーリプッタよ、わたしは、身によって識知されるべき感触をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。サーリプッタよ、わたしは、意によって識知されるべき法(意の対象)をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。『サーリプッタよ、わたしは、眼によって識知されるべき形態をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、眼によって識知されるべき形態をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、耳によって識知されるべき音声をもまた……略……このような形態の耳によって識知されるべき音声は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の耳によって識知されるべき音声は、慣れ親しむべきです。……このような形態の鼻によって識知されるべき臭気は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の鼻によって識知されるべき臭気は、慣れ親しむべきです。……このような形態の舌によって識知されるべき味感は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の舌によって識知されるべき味感は、慣れ親しむべきです。……サーリプッタよ、わたしは、身によって識知されるべき感触をもまた……このような形態の身によって識知されるべき感触は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の身によって識知されるべき感触は、慣れ親しむべきです。……略……。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、意によって識知されるべき法(意の対象)をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、意によって識知されるべき法(意の対象)をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します」と。

 

120. 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。『サーリプッタよ、わたしは、眼によって識知されるべき形態をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、わたしによって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。サーリプッタよ、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきではありません。サーリプッタよ、しかしながら、まさに、そのような形態の眼によって識知されるべき形態に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の眼によって識知されるべき形態は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、眼によって識知されるべき形態をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、耳によって識知されるべき音声をもまた……略……このような形態の耳によって識知されるべき音声は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の耳によって識知されるべき音声は、慣れ親しむべきです。……このような形態の鼻によって識知されるべき臭気は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の鼻によって識知されるべき臭気は、慣れ親しむべきです。……このような形態の舌によって識知されるべき味感は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の舌によって識知されるべき味感は、慣れ親しむべきです。……このような形態の身によって識知されるべき感触は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の身によって識知されるべき感触は、慣れ親しむべきです。……略……。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、意によって識知されるべき法(意の対象)をもまた……略……このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の意によって識知されるべき法(意の対象)は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、意によって識知されるべき法(意の対象)をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです。

 

121. サーリプッタよ、わたしは、衣料をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた。……略……。サーリプッタよ、わたしは、〔行乞の〕施食をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、臥坐具をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、村をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、町をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、城市をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、地方をもまた……。サーリプッタよ、わたしは、人をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。『サーリプッタよ、わたしは、衣料をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、衣料をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、〔行乞の〕施食をもまた……略……。このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきです。……。『サーリプッタよ、わたしは、臥坐具をもまた……略……。このような形態の臥坐具は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の臥坐具は、慣れ親しむべきです。……。『サーリプッタよ、わたしは、村をもまた……略……。このような形態の村は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の村は、慣れ親しむべきです。……このような形態の町は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の町は、慣れ親しむべきです。……このような形態の城市は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の城市は、慣れ親しむべきです。……このような形態の地方は、慣れ親しむべきではありません。……このような形態の地方は、慣れ親しむべきです。……略……。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、人をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、世尊によって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。尊き方よ、そのような形態の人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような人は、慣れ親しむべきではありません。尊き方よ、しかしながら、まさに、そのような形態の人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の人は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、人をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、世尊によって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します」と。

 

122. 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。『サーリプッタよ、わたしは、衣料をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、わたしによって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。サーリプッタよ、そのような形態の衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきではありません。サーリプッタよ、しかしながら、まさに、そのような形態の衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、衣料をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。(すなわち、最初のもののように、そのように詳知されるべきである)。このような形態の〔行乞の〕施食は……。このような形態の臥坐具は……。このような形態の村は……。このような形態の町は……。このような形態の城市は……。このような形態の地方は……。

 

 『サーリプッタよ、わたしは、人をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、また、まさに、かくのごとく、わたしによって、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。サーリプッタよ、そのような形態の人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の人は、慣れ親しむべきではありません。サーリプッタよ、しかしながら、まさに、そのような形態の人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の人は、慣れ親しむべきです。『サーリプッタよ、わたしは、人をもまた、二種類〔の観点〕によって説きます──慣れ親しむべきものとしてもまた、慣れ親しむべきではないものとしてもまた』と、かくのごとく、わたしによって説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです。

 

123. サーリプッタよ、もし、全ての士族たちもまた、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。サーリプッタよ、もし、全ての婆羅門たちもまた……略……。サーリプッタよ、もし、全ての庶民たちもまた……。サーリプッタよ、もし、全ての隷民たちもまた、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知するなら、全ての隷民たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。サーリプッタよ、もし、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕もまた、天〔の神〕や人間を含む人々も、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者サーリプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 慣れ親しむべきものと慣れ親しむべきではないものの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(115). 多くの界域あるものの経

 

124. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の恐怖が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。それらが何であれ、諸々の災禍が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。それらが何であれ、諸々の災難が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、葦の家から、あるいは、草の家から、解き放たれた火が、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、屋頂ある家々をもまた焼くように、比丘たちよ、まさしく、このように、それらが何であれ、諸々の恐怖が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。それらが何であれ、諸々の災禍が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。それらが何であれ、諸々の災難が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者から、ではなく。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、恐怖を有する者として、愚者はあり、恐怖なき者として、賢者はあります。災禍を有する者として、愚者はあり、災禍なき者として、賢者はあります。災難を有する者として、愚者はあり、災難なき者として、賢者はあります。比丘たちよ、賢者から〔生起する〕恐怖は存在しません。賢者から〔生起する〕災禍は存在しません。賢者から〔生起する〕災難は存在しません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕賢者たちとして、考察者たちとして、〔世に〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、賢者として、『考察者』という言葉たるに十分なるものがあるのですか」と。「アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、かつまた、界域()に巧みな智ある者として〔世に〕有り、かつまた、〔認識の〕場所()に巧みな智ある者として〔世に〕有り、かつまた、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起)に巧みな智ある者として〔世に〕有り、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)に巧みな智ある者として〔世に〕有ることから、アーナンダよ、このことから、まさに、比丘は、賢者として、『考察者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

125. 「尊き方よ、また、どのようなことから、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるのですか」と。「アーナンダよ、まさに、これらの十八の界域があります。眼の界域(眼界)であり、形態の界域(色界)であり、眼の識知〔作用〕の界域(眼識界)であり、耳の界域(耳界)であり、音声の界域(声界)であり、耳の識知〔作用〕の界域(耳識界)であり、鼻の界域(鼻界)であり、臭気の界域(香界)であり、鼻の識知〔作用〕の界域(鼻識界)であり、舌の界域(舌界)であり、味感の界域(味界)であり、舌の識知〔作用〕の界域(舌識界)であり、身の界域(身界)であり、感触の界域(触界)であり、身の識知〔作用〕の界域(身識界)であり、意の界域(意界)であり、法(意の対象)の界域(法界)であり、意の識知〔作用〕の界域(意識界)です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの十八の界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるとおりに」と。「アーナンダよ、これらの六つの界域が存在します。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの六つの界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるとおりに」と。「アーナンダよ、これらの六つの界域が存在します。安楽の界域であり、苦痛の界域であり、悦意の界域であり、失意の界域であり、放捨の界域であり、無明の界域です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの六つの界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるとおりに」と。「アーナンダよ、これらの六つの界域が存在します。欲望の界域であり、離欲の界域であり、憎悪〔の思い〕ある界域であり、憎悪〔の思い〕なき界域であり、悩害〔の思い〕ある界域であり、悩害〔の思い〕なき界域です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの六つの界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるとおりに」と。「アーナンダよ、これらの三つの界域が存在します。欲望の界域(欲界)であり、形態の界域(色界)であり、形態なき界域(無色界)です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの三つの界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、『界域に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるとおりに」と。「アーナンダよ、これらの二つの界域が存在します。形成されたもの(有為)の界域であり、形成されたものではないもの(無為)の界域です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの二つの界域を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことからもまた、まさに、『界域に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

126. 「尊き方よ、また、どのようなことから、『〔認識の〕場所に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるのですか」と。「アーナンダよ、また、まさに、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所があります。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり、まさしく、そして、耳であり、さらに、諸々の音声であり、まさしく、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気であり、まさしく、そして、舌であり、さらに、諸々の味感であり、まさしく、そして、身であり、さらに、諸々の感触であり、まさしく、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)です。アーナンダよ、すなわち、まさに、これらの六つの内と外の〔認識の〕場所を、〔あるがままに〕知ることから、〔あるがままに〕見ることから、アーナンダよ、このことから、まさに、『〔認識の〕場所に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

 「尊き方よ、また、どのようなことから、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘が、このように覚知します。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行:意志・衝動)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)がある。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』〔と〕。アーナンダよ、このことから、まさに、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

127. 「尊き方よ、また、どのようなことから、『状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)に巧みな智ある比丘』という言葉たるに十分なるものがあるのですか」と。「アーナンダよ、ここに、比丘が、『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、形成〔作用の結果〕(:形成されたもの・作られたもの)としてあるものに、常住〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、常住〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、安楽〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、何であれ、形成〔作用の結果〕としてあるものに、安楽〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、何であれ、法(事象)としてあるものに、自己〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、何であれ、法(事象)としてあるものに、自己〔の観点〕から近しく赴くことである。この状況は見出される』と覚知します。

 

128. 『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、母の生命を奪うことである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、母の生命を奪うことである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、父の生命を奪うことである。……略……阿羅漢の生命を奪うことである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、汚れた心の者となり、如来を出血させることである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、汚れた心の者となり、如来を出血させることである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、僧団を分裂させることである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、僧団を分裂させることである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、〔正しい〕見解を成就した人が、〔教えを〕他にする者を教師として指定することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、凡夫が、〔教えを〕他にする者を教師として指定することである。この状況は見出される』と覚知します。

 

129. 『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、一つの世の界域において、二者の阿羅漢にして正等覚者が、前なく後なく〔同時に〕生起することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、一つの世の界域において、まさしく、一者の、阿羅漢にして正等覚者が生起することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、一つの世の界域において、二者の転輪王が、前なく後なく〔同時に〕生起することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、一つの世の界域において、まさしく、一者の、転輪王が生起することである。この状況は見出される』と覚知します。

 

130. 『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、女の阿羅漢にして正等覚者が存在することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、男の阿羅漢にして正等覚者が存在することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、女の転輪王が存在することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、男の転輪王が存在することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、女が帝釈〔天〕の権能を執行することである。……悪魔の権能を執行することである。……梵〔天〕の権能を執行することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、男が帝釈〔天〕の権能を執行することである。……悪魔の権能を執行することである。……梵〔天〕の権能を執行することである。この状況は見出される』と覚知します。

 

131. 『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、身体による悪しき行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報い(異熟)が発現することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、身体による悪しき行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、言葉による悪しき行ないある者に……略……。すなわち、意による悪しき行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、言葉による悪しき行ないある者に……略……。すなわち、意による悪しき行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、身体による善き行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、身体による善き行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、言葉による善き行ないある者に……略……。すなわち、意による善き行ないある者に、好ましくなく愛らしくなく意に適わない報いが発現することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、言葉による善き行ないある者に……略……。すなわち、意による善き行ないある者に、好ましく愛らしく意に適う報いが発現することである。この状況は見出される』と覚知します。

 

 『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、身体による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、身体による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、言葉による悪しき行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、言葉による悪しき行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による悪しき行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、身体による善き行ないある者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、身体による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することである。この状況は見出される』と覚知します。『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、言葉による善き行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することである。この状況は見出されない』と覚知します。『しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、言葉による善き行ないを保有する者が……略……。すなわち、意による善き行ないを保有する者が、それを因縁とすることから、それを縁とすることから、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することである。この状況は見出される』と覚知します。アーナンダよ、このことから、まさに、『状況あることと状況なきことに巧みな智ある者』という言葉たるに十分なるものがあります」と。

 

132. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、『多くの界域』ともまた、それを保持しなさい。『四つの局面』ともまた、それを保持しなさい。『法(真理)の鏡』ともまた、それを保持しなさい。『不死の雷鼓』ともまた、それを保持しなさい。『無上なる戦場の征圧』ともまた、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 多くの界域あるものの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(116). イシギリの経

 

133. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。イシギリ山において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──このヴェーバーラ山を」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、このヴェーバーラ山にもまた、まさしく、他の呼称と他の通称が、〔過去に〕有りました。

 

 比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──このパンダヴァ山を」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、このパンダヴァ山にもまた、まさしく、他の呼称と他の通称が、〔過去に〕有りました。

 

 比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──このヴェープッラ山を」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、このヴェープッラ山にもまた、まさしく、他の呼称と他の通称が、〔過去に〕有りました。

 

 比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──このギッジャクータ山(霊鷲山)を」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、また、まさに、このギッジャクータ山にもまた、まさしく、他の呼称と他の通称が、〔過去に〕有りました。

 

 比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──このイシギリ山を」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、このイシギリ山には、まさしく、この呼称とこの通称が、〔過去にも〕有りました。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、五百の独覚たちが、このイシギリ山において、長き居住ある者たちとして〔世に〕有りました。彼らは、この山に入りつつあるときは見られますが、入ったなら〔もはや〕見られません。〔まさに〕その、このことを見て、〔人々は〕このように言いました。『この山は、これらの聖賢(イシ)たちを飲み尽くす(ギラティ)』と。まさしく、『イシギリ』『イシギリ』という呼称が、〔それによって〕生起しました。比丘たちよ、独覚たちの名前を告げ知らせましょう。比丘たちよ、独覚たちの名前を述べ伝えましょう。比丘たちよ、独覚たちの名前を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

134. 「比丘たちよ、アリッタという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ウパリッタという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、タガラシキンという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ヤサッシンという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、スダッサナという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ピヤダッシンという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ガンダーラという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ピンドーラという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ウパーサバという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、ニータという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、タタという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、スタヴァントという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。比丘たちよ、バーヴィタッタという名の独覚が、このイシギリ山において、長き居住ある者として〔世に〕有りました。

 

135. 〔そこで、詩偈に言う〕『すなわち、有情の真髄たる者たちが、煩悶なく願望なき者たちが、まさしく、各自に、覚り(菩提)に到達した。矢を抜いた者たちの、最上の人たる者たちの、彼らの名を述べ伝える、わたしの〔言葉を、あなたたちは〕聞きなさい。

 

 アリッタ、ウパリッタ、タガラシキン、ヤサッシン、スダッサナ、そして、善き正覚者たるピヤダッシン、ガンダーラ、ピンドーラ、さらに、ウパーサバ、ニータ、タタ、スタヴァント、バーヴィタッタ──

 

 スンバ、スバ、マトゥラ、そして、アッタマ、アタッスメーガ、アニーガ、スダータ、〔生存に〕導くもの(渇愛)が滅尽した独覚たちにして、偉大なる威力ある、かつまた、ヒングー、かつまた、ヒンガ──

 

 二者のジャーリン牟尼、そして、アッタカ、さらに、コーサッラ覚者、さらに、スバーフ、ウパネーミサ、ネーミサ、サンタチッタ、サッチャ、タタ、そして、賢者たるヴィラジャ──

 

 カーラ、ウパカーラ、ヴィジタ、そして、ジタ、かつまた、アンガ、かつまた、パンガ、かつまた、グッティジタ、苦しみの根元である〔生存の〕依り所を捨棄した、パッシン、悪魔の軍隊に勝利した、アパラージタ──

 

 サッタル、パヴァッタル、サラバンガ、ローマハンサ、ウッチャンガマーヤ、アシタ、アナーサヴァ、マノーマヤ、そして、思量()の切断者たるバンドゥマント、そして、タダーディムッタ、離垢の者たるケートゥマント──

 

 そして、ケートゥンバラーガ、マータンガ、アリヤ、さらに。アッチュタ、アッチュタガーマ、ブヤーマカ、スマンガラ、ダッビラ、スパティッティタ、アサイハ、そして、ケーマービラタ、ソーラタ──

 

 ドゥランナヤ、サンガ、さらに、また、ウッジャヤ、他の、牟尼にして至上の勤勉者たるサイハ、〔四者の〕アーナンダと〔四者の〕ナンダと〔四者の〕ウパナンダの十二者、最後の肉身の保持者たるバーラドヴァージャ──

 

 ボーディ、マハー・ナーマ、さらに、また、ウッタラ、ケーシン、シキン、スンダラ、ドヴァーラバージャ、生存の結縛の切断者たるティッサとウパティッサ、ウパシキン、そして、渇愛の切断者たるシカリ──

 

 貪欲を離れた覚者として〔世に〕有った、マンガラ、苦しみの根元である網の切断者たるウサバ、寂静の境処に到達した、ウパニータ(※)、ウポーサタ、スンダラ、サッチャナーマ──

 

※ テキストには ajjhagamopanīto とあるが、PTS版により ajjhagam’ Upaīto と読む。

 

 ジェータ、ジャヤンタ、パドゥマ、そして、ウッパラ、パドゥムッタラ、ラッキタ、そして、パッバタ、マーナッタッダ、ソービタ、ヴィータラーガ、そして、善く解脱した心の覚者たるカンハ──

 

 そして、これらの者たちは、さらに、他の、偉大なる威力ある者たちも、〔生存に〕導くもの(渇愛)が滅尽した独覚たちである。彼らを、一切の執着を超え行った偉大なる聖賢たちを、完全なる涅槃に到達した無量なる者たちを、〔あなたたちは〕敬拝しなさい』」と。

 

 イシギリの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(117). 大いなる四十なるものの経

 

136. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちに、機縁を有するものであり、必需品を有するものである、聖なる正しい禅定(正定)を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、機縁を有するものであり、必需品を有するものである、聖なる正しい禅定なのですか。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)があり、正しい思惟(正思惟)があり、正しい言葉(正語)があり、正しい行業(正業)があり、正しい生き方(正命)があり、正しい努力(正精進)があり、正しい気づき(正念)があり、比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの七つの支分を必需品とする、心の一境性であるなら、比丘たちよ、これは、聖なる正しい禅定と説かれます──『機縁を有するもの』ともまた〔説かれ〕、『必需品を有するもの』ともまた〔説かれます〕。比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。誤った見解を『誤った見解』と覚知し、正しい見解を『正しい見解』と覚知します。それは、彼にとって、正しい見解と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った見解なのですか。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』とは、比丘たちよ、これは、誤った見解です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、わたしは、正しい見解をもまた、二つに説きます。比丘たちよ、煩悩を有し(有漏)、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい見解が存在します。比丘たちよ、聖なるものにして、煩悩なく(無漏)、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい見解が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい見解なのですか。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』とは、比丘たちよ、これは、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい見解です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる心の者であり、煩悩なき心の者である、聖なる道を保有する者の、聖なる道を修めている者の、智慧、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、正しい見解という道の支分は、比丘たちよ、これは、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい見解と説かれます。彼は、誤った見解の捨棄のために努力し、正しい見解の成就のために〔努力します〕。それは、彼にとって、正しい努力と成ります。彼は、気づきある者として、誤った見解を捨棄し、気づきある者として、正しい見解を成就して〔世に〕住みます。それは、彼にとって、正しい気づきと成ります。かくのごとく、これらの三つの法(性質)は、正しい見解に、遍く随走し、遍く随転します。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい努力であり、正しい気づきです。

 

137. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。誤った思惟を『誤った思惟』と覚知し、正しい思惟を『正しい思惟』と覚知します。それは、彼にとって、正しい見解と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った思惟なのですか。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。比丘たちよ、これは、誤った思惟です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。比丘たちよ、わたしは、正しい思惟をもまた、二つに説きます。比丘たちよ、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい思惟が存在します。比丘たちよ、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい思惟が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。比丘たちよ、これは、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい思惟です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい思惟なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる心の者であり、煩悩なき心の者である、聖なる道を保有する者の、聖なる道を修めている者の、考慮、思考()、思惟、専注、細かい専注、心の固定、言葉の形成〔作用〕(語行)です。比丘たちよ、これは、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい思惟と説かれます。彼は、誤った思惟の捨棄のために努力し、正しい思惟の成就のために〔努力します〕。それは、彼にとって、正しい努力と成ります。彼は、気づきある者として、誤った思惟を捨棄し、気づきある者として、正しい思惟を成就して〔世に〕住みます。それは、彼にとって、正しい気づきと成ります。かくのごとく、これらの三つの法(性質)は、正しい思惟に、遍く随走し、遍く随転します。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい努力であり、正しい気づきです。

 

138. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。誤った言葉を『誤った言葉』と覚知し、正しい言葉を『正しい言葉』と覚知します。それは、彼にとって、正しい見解と成ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った言葉なのですか。虚偽を説くことであり、中傷の言葉であり、粗暴な言葉であり、雑駁な虚論です。比丘たちよ、これは、誤った言葉です。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。比丘たちよ、わたしは、正しい言葉をもまた、二つに説きます。比丘たちよ、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい言葉が存在します。比丘たちよ、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい言葉が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい言葉です。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい言葉なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる心の者であり、煩悩なき心の者である、聖なる道を保有する者の、聖なる道を修めている者の、四つの言葉による悪しき行ないから、離れること、離れ去ること、離間、離断です。比丘たちよ、これは、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい言葉と説かれます。彼は、誤った言葉の捨棄のために努力し、正しい言葉の成就のために〔努力します〕。それは、彼にとって、正しい努力と成ります。彼は、気づきある者として、誤った言葉を捨棄し、気づきある者として、正しい言葉を成就して〔世に〕住みます。それは、彼にとって、正しい気づきと成ります。かくのごとく、これらの三つの法(性質)は、正しい言葉に、遍く随走し、遍く随転します。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい努力であり、正しい気づきです。

 

139. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。誤った行業を『誤った行業』と覚知し、正しい行業を『正しい行業』と覚知します。それは、彼にとって、正しい見解と成ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った行業なのですか。命あるものを殺すことであり、与えられていないものを取ることであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)です。比丘たちよ、これは、誤った行業です。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。比丘たちよ、わたしは、正しい行業をもまた、二つに説きます。比丘たちよ、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい行業が存在します。比丘たちよ、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい行業が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい行業です。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい行業なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる心の者であり、煩悩なき心の者である、聖なる道を保有する者の、聖なる道を修めている者の、三つの身体による悪しき行ないから、離れること、離れ去ること、離間、離断です。比丘たちよ、これは、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい行業と説かれます。彼は、誤った行業の捨棄のために努力し、正しい行業の成就のために〔努力します〕。それは、彼にとって、正しい努力と成ります。彼は、気づきある者として、誤った行業を捨棄し、気づきある者として、正しい行業を成就して〔世に〕住みます。それは、彼にとって、正しい気づきと成ります。かくのごとく、これらの三つの法(性質)は、正しい行業に、遍く随走し、遍く随転します。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい努力であり、正しい気づきです。

 

140. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。誤った生き方を『誤った生き方』と覚知し、正しい生き方を『正しい生き方』と覚知します。それは、彼にとって、正しい見解と成ります。比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った生き方なのですか。虚言であり、饒舌であり、予言であり、詐術であり、利得による利得の追求です。比丘たちよ、これは、誤った生き方です。比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、わたしは、正しい生き方をもまた、二つに説きます。比丘たちよ、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい生き方が存在します。比丘たちよ、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい生き方が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって生計を営みます。比丘たちよ、これは、煩悩を有し、功徳を分有し、〔生存の〕依り所あるものを報いとする、正しい生き方です。比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる心の者であり、煩悩なき心の者である、聖なる道を保有する者の、聖なる道を修めている者の、誤った生き方から、離れること、離れ去ること、離間、離断です。比丘たちよ、これは、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、道の支分たる、正しい生き方と説かれます。彼は、誤った生き方の捨棄のために努力し、正しい生き方の成就のために〔努力します〕。それは、彼にとって、正しい努力と成ります。彼は、気づきある者として、誤った生き方を捨棄し、気づきある者として、正しい生き方を成就して〔世に〕住みます。それは、彼にとって、正しい気づきと成ります。かくのごとく、これらの三つの法(性質)は、正しい生き方に、遍く随走し、遍く随転します。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい努力であり、正しい気づきです。

 

141. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。比丘たちよ、正しい見解ある者には、正しい思惟が発生します。正しい思惟ある者には、正しい言葉が発生します。正しい言葉ある者には、正しい行業が発生します。正しい行業ある者には、正しい生き方が発生します。正しい生き方ある者には、正しい努力が発生します。正しい努力ある者には、正しい気づきが発生します。正しい気づきある者には、正しい禅定が発生します。正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。正しい知恵ある者には、正しい解脱が発生します。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、八つの支分を具備した〔いまだ〕学びある者(有学)は、十の支分を具備した阿羅漢と成ります。(そこでもまた、正しい知恵によって、無数の悪しき善ならざる法(性質)が離れ去り、〔無数の善なる法が〕修行の円満成就に赴きます。)

 

142. 比丘たちよ、そこで、正しい見解が、先行と成ります。比丘たちよ、では、どのように、正しい見解が、先行と成るのですか。比丘たちよ、正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして(※)、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……略……。比丘たちよ、正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい行業ある者にとって、誤った行業は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい努力ある者にとって、誤った努力は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい気づきある者にとって、誤った気づきは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。比丘たちよ、正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。そして、正しい解脱という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、二十の善なる項があり、二十の善ならざる項がある、大いなる四十なるものという法(教え)の教相が転起させられました──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の教相〕が。

 

143. 比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、この大いなる四十なるものという法(教え)の教相を、難詰し弾劾するべきと思い考えるなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、十の、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。『もし、貴君が、正しい見解を難詰するなら、そして、すなわち、誤った見解ある者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは──彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』『もし、貴君が、正しい思惟を難詰するなら、そして、すなわち、誤った思惟ある者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは──彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』『もし、貴君が、正しい言葉を難詰するなら……略……』『もし、貴君が、正しい行業を難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい生き方を難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい努力を難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい気づきを難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい禅定を難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい知恵を難詰するなら……』『もし、貴君が、正しい禅定を難詰するなら、そして、すなわち、誤った禅定ある者たちである、〔それらの〕沙門や婆羅門たちは──彼らは、貴君にとって供養するべき者たちとなり、彼らは、貴君にとって賞賛するべき者たちとなる』〔と〕。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、この大いなる四十なるものという法(教え)の教相を、難詰し弾劾するべきと思い考えるなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの十の、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。すなわち、また、オッカラ〔の住者〕たるヴァッサやバンニャたちが、それらの者たちが、無因論者たちとして、無作論者たちとして、非存論者たちとして、〔世に〕有ったのですが、彼らでさえも、大いなる四十なるものという法(教え)の教相を、難詰するべきではなく弾劾するべきではないと思い考えました。それは、何を因とするのですか。〔自己への〕非難と攻撃と論詰の恐怖あるからです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる四十なるものの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(118). 呼吸についての気づきの経

 

144. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に──かつまた、尊者サーリプッタとともに、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナとともに、かつまた、尊者マハー・カッサパとともに、かつまた、尊者マハー・カッチャーヤナとともに、かつまた、尊者マハー・コッティカとともに、かつまた、尊者マハー・カッピナとともに、かつまた、尊者マハー・チュンダとともに、かつまた、尊者アヌルッダとともに、かつまた、尊者レーヴァタとともに、かつまた、尊者アーナンダとともに、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に。

 

 また、まさに、その時点にあって、長老の比丘たちは、新参の比丘たちに教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、二十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、三十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、四十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。そして、それらの新参の比丘たちは、長老の比丘たちによって教諭され教示されつつ、前から後へと〔順次に〕、秀逸なるものを〔知り〕、殊勝なるものを知ります。

 

145. また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔雨季の〕充足のとき、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この実践によって励んだ者として、〔わたしは〕存しています。比丘たちよ、この実践によって励んだ心の者として、〔わたしは〕存しています。比丘たちよ、それゆえに、ここに、より一層しっかりと、精進に励みなさい──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために。わたしは、まさしく、ここに、サーヴァッティーにおいて、〔雨期の〕第四の月のコームディー〔の満月〕を待ちます」と。まさに、地方の比丘たちは、「どうやら、世尊は、まさしく、そこにおいて、サーヴァッティーにおいて、〔雨期の〕第四の月のコームディー〔の満月〕を待つらしい」と耳にしました。それらの地方の比丘たちは、世尊と会見するために、サーヴァッティーに至り着きます。そして、まさに、それらの長老の比丘たちは、より一層しっかりと、新参の比丘たちに教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、二十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、三十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。一部の長老の比丘たちはまた、四十者の比丘たちにもまた教諭し教示します。そして、それらの新参の比丘たちは、長老の比丘たちによって教諭され教示されつつ、前から後へと〔順次に〕、秀逸なるものを〔知り〕、殊勝なるものを知ります。

 

146. また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔雨期の〕第四の月のコームディー〔の満月〕の満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、虚論なきは、この衆です。比丘たちよ、虚論なくある、この衆は、清浄で、真髄において確立しています。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆は、〔供物を〕捧げられるべきであり、〔供物を〕贈られるべきであり、〔供物を〕施与されるべきであり、合掌を為されるべきであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆においては、少なく施されたものが多くのものと成り、多く施されたものがより多くのものと〔成ります〕。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆は、世〔の人々〕にとって会見するに得難くあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この比丘の僧団はあります。比丘たちよ、そのような形態のものとして、この衆はあります。そのような形態の衆と会見するためには、幾数ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)を、肩袋をかけてであろうが、赴くに十分なるものがあります。

 

147. 比丘たちよ、この比丘の僧団においては、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちである、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなる、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。

 

 比丘たちよ、この比丘の僧団においては、四つの気づきの確立(四念処・四念住)の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、四つの正しい精励(四正勤)の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。……略……四つの神通の足場(四神足)の……五つの機能(五根)の……五つの力(五力)の……七つの覚りの支分(七覚支)の……聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、慈愛〔の心〕()の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。……慈悲〔の心〕()の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む……歓喜〔の心〕()の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む……放捨〔の心〕()の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む……不浄の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む……無常の表象の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、このような形態の比丘たちもまた存在します。比丘たちよ、この比丘の僧団においては、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)の修行への専念に専念する者たちとして〔世に〕住む、比丘たちが存在します。比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。比丘たちよ、呼吸についての気づきが、修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます。

 

148. 比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。

 

 あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。

 

149. 比丘たちよ、では、どのように、呼吸についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。比丘たちよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知するなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、諸々の身体において、このように、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、諸々の感受において、このように、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を定めつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を定めつつ、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきを説きません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕離貪の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕止滅の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、比丘たちよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 比丘たちよ、このように、まさに、呼吸についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。

 

150. 比丘たちよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。比丘たちよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて──その時点において、彼の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分(念覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分(精進覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 精進に励む者に、喜悦は財貨なきもの(非俗のもの)として生起します。比丘たちよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分(喜覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。比丘たちよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分(軽安覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。比丘たちよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分(定覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分(捨覚支)は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

151. 比丘たちよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて──その時点において、彼の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。比丘たちよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 精進に励む者に、喜悦は財貨なきものとして生起します。比丘たちよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。比丘たちよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。比丘たちよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。比丘たちよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。比丘たちよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。

 

152. 比丘たちよ、では、どのように、七つの覚りの支分が修められ、どのように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。比丘たちよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 呼吸についての気づきの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(119). 身体の在り方についての気づきの経

 

153. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果となり、大いなる福利となると、これほどまでに、〔見事に〕説かれたのは」と。まさに、このことはあり、そして、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果となり、大いなる福利となると、これほどまでに、〔見事に〕説かれたのは』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

154. 「比丘たちよ、では、どのように、身体の在り方についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このように、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします──それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って綿密に注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、死んで一日の、あるいは、死んで二日の、あるいは、死んで三日の、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

155. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

 

156. 比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼には、諸々の善なる法(性質)が──それらが何であれ、明知を部分とするものであるなら──内含されています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、誰にとってであれ、心によって、大海を充満したなら、彼〔の心〕には、諸々の小川が──それらが何であれ、海に赴くものであるなら──内含されているように、比丘たちよ、まさしく、このように、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為されたなら、彼には、諸々の善なる法(性質)が──それらが何であれ、明知を部分とするものであるなら──内含されています。

 

 比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、重い岩塊を、水気のある粘土の堆積のうえに放り投げるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その重い岩塊は、水気のある粘土の堆積のなかに侵入〔の機会〕を得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪があり、そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、空っぽで、空の水瓶があり、そこで、人が、水の荷を携えてやってくるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、水を注ぐことを得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。

 

157. 比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、軽い糸玉を、全てが硬材で作られている戸板のうえに放り投げるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、その軽い糸玉の、全てが硬材で作られている戸板のなかへの侵入〔の機会〕を得るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪があり、そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている水瓶があるとします。そこで、人が、水の荷を携えてやってくるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、水を注ぐことを得るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。

 

158. 比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において(※)、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている水瓶があるとします。〔まさに〕その、この〔水瓶〕を、どこからであれ、力ある人が傾けるなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に、四方が堤防に囲まれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている蓮池が存するとします。〔まさに〕その、この〔蓮池〕を、どこからであれ、力ある人が堤防を解き放つなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

※ テキストには ta tatre とあるが、PTS版により tatra tatreva と読む。

 

159. 比丘たちよ、身体の在り方についての気づきが、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十の福利が期待できます。(1)不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者と成り、かつまた、不満〔の思い〕が彼を打ち負かすことはなく、生起した不満〔の思い〕を征服して〔世に〕住みます。

 

 (2)恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と成り、かつまた、恐怖と恐ろしさが彼を打ち負かすことはなく、生起した恐怖と恐ろしさを征服して〔世に〕住みます。

 

 (3)寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者と成り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。

 

 (4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

 

 (5)彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 (6)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

 

 (7)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 (8)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 (9)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 (10)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、身体の在り方についての気づきが、習修され、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの十の福利が期待できます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 身体の在り方についての気づきの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(120). 形成〔作用〕による再生の経

 

160. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、形成〔作用〕(:意志・衝動)による再生を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

161. 「比丘たちよ、ここに、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を具備した者として〔世に〕有り、施捨を具備した者として〔世に〕有り、智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

162. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を具備した者として〔世に〕有り、施捨を具備した者として〔世に〕有り、智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、婆羅門の大家たちの……略……家長の大家たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

163. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を具備した者として〔世に〕有り、施捨を具備した者として〔世に〕有り、智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『四大王天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

164. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を具備した者として〔世に〕有り、施捨を具備した者として〔世に〕有り、智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『三十三天〔の神々〕たちは……略……。『耶摩天〔の神々〕たちは……。『兜率天〔の神々〕たちは……。『化楽天〔の神々〕たちは……。『他化自在天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

165. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を具備した者として〔世に〕有り、施捨を具備した者として〔世に〕有り、智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『千梵〔天〕は、長寿の者であり、色艶ある者であり、安楽多き者である』と。比丘たちよ、千梵〔天〕は、千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、一つのアーマンダ〔の果実〕を手のうえに為して綿密に注視するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、千梵〔天〕は、千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、千梵〔天〕の同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

166. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『二千梵〔天〕は……略……。『三千梵〔天〕は……。『四千梵〔天〕は……。『五千梵〔天〕は、長寿の者であり、色艶ある者であり、安楽多き者である』と。比丘たちよ、五千梵〔天〕は、五千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、五つのアーマンダ〔の果実〕を手のうえに為して綿密に注視するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五千梵〔天〕は、五千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、五千梵〔天〕の同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

167. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を具備した者として〔世に〕有り、所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『十千梵〔天〕は、長寿の者であり、色艶ある者であり、安楽多き者である』と。比丘たちよ、十千梵〔天〕は、十千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十千梵〔天〕は、十千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、十千梵〔天〕の同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

168. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『百千梵〔天〕は、長寿の者であり、色艶ある者であり、安楽多き者である』と。比丘たちよ、百千梵〔天〕は、百千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある細工師によって溶炉の口において極めて巧みに精錬されたジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、百千梵〔天〕は、百千の世の界域を、充満して、信念して、〔世に〕住みます。すなわち、また、そこにおいて、有情たちが再生したなら、彼らをもまた、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、百千梵〔天〕の同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

169. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『光天〔の神々〕たちは……略……。『微小光天〔の神々〕たちは……。『無量光天〔の神々〕たちは……。『光音天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、光音天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

170. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『微小浄天〔の神々〕たちは……略……。『無量浄天〔の神々〕たちは……。『遍浄天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、遍浄天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

171. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『広果天〔の神々〕たちは……略……。『無煩天〔の神々〕たちは……無熱天〔の神々〕たちは……。『善現天〔の神々〕たちは……。『善見天〔の神々〕たちは……。『色究竟天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、色究竟天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

172. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、長きに止住する者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、『虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

173. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、長きに止住する者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

174. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く天〔の神々〕たちは……略……。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に近しく赴く天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、長きに止住する者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、そして、それらの形成〔作用〕は、さらに、〔それらの〕住は、このように修められ、このように多く為され、そこへの再生のために等しく転起します。比丘たちよ、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そこへの再生のために等しく転起します。

 

175. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、信を具備した者として〔世に〕有り、戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、この比丘は、どこにおいてであれ、再生することはありません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 形成〔作用〕による再生の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 逐次の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「逐次と清めるものと人士の法(性質)、慣れ親しむべきものと多くの界域の区分、覚者の名誉と名前があり、四十なるものとともに、呼吸、身体の在り方、再生があり、〔章となる〕」〔と〕。

 

3. 空性の章

 

1(121). 小なる空性の経

 

176. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、ナガラカという名の町があります。尊き方よ、そこにおいて、わたしは、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、わたしは、今現在、空性の住によって、多くを住みます』と。尊き方よ、どうでしょう、この〔言葉〕は、わたしによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれていますか」と。「アーナンダよ、たしかに、この〔言葉〕は、あなたによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれています。アーナンダよ、過去においてもまた、今現在もまた、わたしは、空性の住によって、多くを住みます。アーナンダよ、それは、たとえば、また、このミガーラマータルの高楼が、象や牛や馬や騾馬〔の観点〕によって空であり、金や銀〔の観点〕によって空であり、男や女の集合〔の観点〕によって空であり、まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、比丘の僧団を縁として、一なることが──存在するように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、村の表象に意を為さずして、人間の表象に意を為さずして、林の表象を縁として、一なることに意を為します。林の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、村の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、人間の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、林の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、村の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、人間の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、林の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

177. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、人間の表象に意を為さずして、林の表象に意を為さずして、地の表象を縁として、一なることに意を為します。地の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、百の杭によって善く打たれ、皺が離れ去った雄牛の皮のように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、すなわち、この地の、高みと窪みを、川の難所を、木株や棘の地を、山の凹凸を、その全てに意を為さずして、地の表象を縁として、一なることに意を為します。地の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、人間の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、林の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、地の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、人間の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、林の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、地の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

178. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、林の表象に意を為さずして、地の表象に意を為さずして、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることに意を為します。虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、林の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、地の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、林の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、地の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

179. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、地の表象に意を為さずして、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることに意を為します。識知無辺なる〔認識の〕場所の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、地の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、地の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

180. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、無所有なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることに意を為します。無所有なる〔認識の〕場所の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、無所有なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、無所有なる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

181. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、無所有なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることに意を為します。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、無所有なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象を縁として、一なることが──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

182. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、無所有なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、無相なる〔止寂の〕心の禅定を縁として、一なることに意を為します。無相なる〔止寂の〕心の禅定にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『すなわち、無所有なる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、まさしく、この、六つの〔認識の〕場所ある身体を縁として、生命を縁とする〔懊悩のみ〕が──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、無所有なる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、まさしく、この、六つの〔認識の〕場所ある身体を縁として、生命を縁とする〔空性ならざるもの〕が──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

183. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、無所有なる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象に意を為さずして、無相なる〔止寂の〕心の禅定を縁として、一なることに意を為します。無相なる〔止寂の〕心の禅定にたいし、彼の心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼は、このように覚知します。『まさに、この無相なる〔止寂の〕心の禅定もまた、行作されたものであり、行思されたものである。また、まさに、それが何であれ、行作されたものであり、行思されたものであるなら、それは、無常であり、止滅の法(性質)である』と覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。彼は、このように覚知します。『すなわち、欲望の煩悩を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、生存の煩悩を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。すなわち、無明の煩悩を縁として存在する、諸々の懊悩であるが、ここに、それら〔の懊悩〕は存在しない。まさしく、しかしながら、この懊悩のみが──すなわち、この、まさしく、この、六つの〔認識の〕場所ある身体を縁として、生命を縁とする〔懊悩のみ〕が──存在する』と。彼は、『この表象の在り方は、欲望の煩悩〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、生存の煩悩〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『この表象の在り方は、無明の煩悩〔の観点〕によって、空である』と覚知し、『まさしく、しかしながら、この空性ならざるものが──すなわち、この、まさしく、この、六つの〔認識の〕場所ある身体を縁として、生命を縁とする〔空性ならざるもの〕が──存在する』と、かくのごとく、まさに、そこにおいて、まさに、それが有ることなくあるなら、それによって、それを空なるものと等しく随観し、いっぽう、そこにおいて、それが、残余のものとして有るなら、その存在しているものを、『これが存在する』と覚知します。アーナンダよ、このようにもまた、彼に、この、事実のとおりの、転倒なく、完全なる清浄の、空性の顕現が有ります。

 

184. アーナンダよ、まさに、また、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住んだなら、彼らの全てが、まさしく、この完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住みました。アーナンダよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住むであろうなら、彼らの全てが、まさしく、この完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住むでしょう。アーナンダよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住むなら、彼らの全てが、まさしく、この完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、それゆえに、ここに、『完全なる清浄の最高にして無上なる空性を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる空性の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(122). 大いなる空性の経

 

185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。また、まさに、その時点にあって、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎において、数多くの臥坐所が設けられ、〔そこに〕有ります。まさに、世尊は、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎において、数多くの臥坐所が設けられているのを見ました。見て、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎において、数多くの臥坐所が設けられている。いったい、まさに、ここに、大勢の比丘たちが住んでいるのか」と。

 

186. また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、大勢の比丘たちと共に、釈迦〔族〕のガターの精舎において、衣料の〔仕立て〕作業を為しています。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、釈迦〔族〕のガターの精舎のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎において、数多くの臥坐所が設けられています。いったい、まさに、ここにおいて、大勢の比丘たちが住んでいるのですか」と。「尊き方よ、釈迦〔族〕のカーラケーマカの精舎において、数多くの臥坐所が設けられています。ここにおいて、大勢の比丘たちが住んでいます。尊き方よ、わたしたちに、衣料を作り為す時が転起します(衣料を仕立てる時期になりました)」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに歓喜する者である、比丘は、美しく輝くことがありません。アーナンダよ、まさに、社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに歓喜する者である、その比丘が、すなわち、その、離欲の安楽でもあり、遠離の安楽でもあり、寂止の安楽でもあり、正覚の安楽でもある、その安楽を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るであろう〕、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、独り、衆から隠棲し、〔世に〕住むなら、その比丘には、このことが期待できます。すなわち、その、離欲の安楽でもあり、遠離の安楽でもあり、寂止の安楽でもあり、正覚の安楽でもある、その安楽を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るであろう〕、という、この状況は見出されます。

 

 アーナンダよ、まさに、社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに歓喜する者である、その比丘が、あるいは、暫時のものとして、欲するところの〔止寂の〕心による解脱(色界禅定と無色界禅定時における一時的な解脱)を、あるいは、暫時ならざるものとして、不動なる〔解脱〕を、成就して〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、独り、衆から隠棲し、〔世に〕住むなら、その比丘には、このことが期待できます。あるいは、暫時のものとして、欲するところの〔止寂の〕心による解脱を、あるいは、暫時ならざるものとして、不動なる〔解脱〕を、成就して〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されます。

 

 アーナンダよ、わたしは、そこにおいて、〔欲に〕染まり喜び楽しむままにある形態()の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起しないであろう、一つの形態でさえも、等しく随観することがありません。

 

187. アーナンダよ、また、まさに、この住は、如来によって現正覚されました。すなわち、この、一切の形相に意を為さないことから、内に、空性を成就して〔世に〕住むことが。アーナンダよ、そこで、もし、如来が、この住によって〔世に〕住んでいると、近づいて行く者たちとして、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちが有るなら、アーナンダよ、そこで、如来は、まさしく、遠離に向かい行く心で、遠離に傾倒する〔心〕で、遠離に傾斜する〔心〕で、隠棲を義(目的)とする〔心〕で、離欲を喜び楽しむ〔心〕で、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成った〔心〕で、何はともあれ、まさしく、〔彼らを〕追い立てることに関係した話を為す者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、もし、また、比丘が、『内に、空性を成就して〔世に〕住むのだ』と望むなら、アーナンダよ、その比丘によって、まさしく、内に、心が、確立させられるべきであり、静止させられるべきであり、専一に作り為されるべきであり、定められるべきです。

 

188. アーナンダよ、では、どのように、比丘は、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、このように、まさに、比丘は、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。彼は、内に、空性に意を為します。彼が、内に、空性に意を為していると、空性にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『まさに、わたしが、内に、空性に意を為していると、内に、空性にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しない』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。彼は、外に、空性に意を為します。……略……。彼は、内と外に、空性に意を為します。……略……。彼は、不動なるもの(無色界禅定)に意を為します。彼が、不動なるものに意を為していると、不動なるものにたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『まさに、わたしが、不動なるものに意を為していると、不動なるものにたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しない』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

 アーナンダよ、その比丘によって、まさしく、その、以前の禅定の形相にたいし、まさしく、内に、心が、確立させられるべきであり、静止させられるべきであり、専一に作り為されるべきであり、定められるべきです。彼は、内に、空性に意を為します。彼が、内に、空性に意を為していると、空性にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『まさに、わたしが、内に、空性に意を為していると、内に、空性にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱する』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。彼は、外に、空性に意を為します。……略……。彼は、内と外に、空性に意を為します。……略……。彼は、不動なるもの(無色界禅定)に意を為します。彼が、不動なるものに意を為していると、不動なるものにたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『まさに、わたしが、不動なるものに意を為していると、不動なるものにたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱する』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

189. アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、歩行〔瞑想〕に傾くなら、彼は歩行します。『このように歩行しているわたしに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、立つ〔瞑想〕に傾くなら、彼は立ちます。『このように立っているわたしに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、坐禅〔瞑想〕に傾くなら、彼は坐ります。『このように坐っているわたしに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、臥す〔瞑想〕に傾くなら、彼は臥します。『このように臥しているわたしに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことはないであろう』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

 アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、議論に傾くなら、彼は、すなわち、この議論が、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するなら──それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものですが、『かくのごとく、このような形態の議論を、〔わたしは〕議論しないのだ』と、まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、この議論が、謹厳にして、心の開顕に正当なるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するなら──それは、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、『かくのごとく、このような形態の議論を、〔わたしは〕議論するのだ』と、まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

 アーナンダよ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘の心が、思考に傾くなら、彼は、すなわち、それらの思考が、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するなら──それは、すなわち、この欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考ですが、『かくのごとく、このような形態の諸々の思考を、〔わたしは〕思考しないのだ』と、まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの思考が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら──それは、すなわち、この、離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考ですが、『かくのごとく、このような形態の諸々の思考を、〔わたしは〕思考するのだ』と、まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

190. アーナンダよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。アーナンダよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。そこにおいて、比丘によって、幾度となく、自らの心が綿密に注視されるべきです。『いったい、まさに、わたしに、これらの五つの欲望の属性において──あるいは、どれか一つにおいて、あるいは、どれか一つの〔認識の〕場所において──生起する、心の慣行が存在するのか』と。アーナンダよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、このように覚知するなら、『まさに、わたしに、これらの五つの欲望の属性において──あるいは、どれか一つにおいて、あるいは、どれか一つの〔認識の〕場所において──生起する、心の慣行が存在する』と、アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『すなわち、まさに、これらの五つの欲望の属性にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは、わたしによって〔いまだ〕捨棄されていない』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、このように覚知するなら、『まさに、わたしに、これらの五つの欲望の属性において──あるいは、どれか一つにおいて、あるいは、どれか一つの〔認識の〕場所において──生起する、心の慣行は存在しない』と、アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『すなわち、まさに、これらの五つの欲望の属性にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは、わたしによって〔すでに〕捨棄された』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。

 

191. アーナンダよ、まさに、これらの〔心身を構成する〕執取の範疇があります。そこにおいて、比丘は、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住むべきです。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。彼が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいると、すなわち、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は、それは捨棄されます。アーナンダよ、このように存している、このことを、比丘は、このように覚知します。『すなわち、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、「〔わたしは〕存在する」という思量は、それは、わたしによって〔すでに〕捨棄された』と。まさに、かくのごとく、そこにおいて、正知の者と成ります。アーナンダよ、まさに、これらの法(性質)は、あなたにとって、一方的に善なるものであり、善なるものから至り来るものであり、聖なるものであり、世〔俗〕を超えるものであり、パーピマント(悪魔)による参入なきものです。アーナンダよ、それを、どう思いますか。どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、弟子は、たとえ、しりぞけられながらも、教師に付き従うに値するのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

192. 「アーナンダよ、まさに、弟子は、教師に付き従うに値しません──すなわち、この、経なるものも、頌歌なるものも、授記なるものも、それを因とするなら。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、彼にとって、それらの法(性質)は、長夜にわたり、所聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとしてあるからです。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、この議論が、謹厳にして、心の開顕に正当なるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するなら──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、アーナンダよ、まさに、このような形態の議論を因として、弟子は、たとえ、しりぞけられながらも、教師に付き従うに値します。

 

 アーナンダよ、まさに、このように存しているとき、師匠の災禍が有り、このように存しているとき、内弟子の災禍が有り、このように存しているとき、梵行者の災禍が有ります。

 

193. アーナンダよ、では、どのように、師匠の災禍が有るのですか。アーナンダよ、ここに、一部の教師が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのような隠棲者として〔世に〕住んでいると、婆羅門や家長たちが、まさしく、そして、町の者たちが、さらに、地方の者たちが、〔彼のもとに〕来集します。彼は、来集した婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、耽溺しながら欲念し、貪求〔の思い〕を起こし、贅沢に逆戻りします。アーナンダよ、これは、災禍ある師匠と説かれます。師匠の災禍によって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、彼を打破しました。アーナンダよ、このように、まさに、師匠の災禍が有ります。

 

194. アーナンダよ、では、どのように、内弟子の災禍が有るのですか。アーナンダよ、また、まさに、まさしく、その教師の弟子が、その教師の遠離を増進させながら、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのような隠棲者として〔世に〕住んでいると、婆羅門や家長たちが、まさしく、そして、町の者たちが、さらに、地方の者たちが、〔彼のもとに〕来集します。彼は、来集した婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、耽溺しながら欲念し、貪求〔の思い〕を起こし、贅沢に逆戻りします。アーナンダよ、これは、災禍ある内弟子と説かれます。内弟子の災禍によって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、彼を打破しました。アーナンダよ、このように、まさに、内弟子の災禍が有ります。

 

195. アーナンダよ、では、どのように、梵行者の災禍が有るのですか。アーナンダよ、ここに、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのような隠棲者として〔世に〕住んでいると、婆羅門や家長たちが、まさしく、そして、町の者たちが、さらに、地方の者たちが、〔彼のもとに〕来集します。彼は、来集した婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、耽溺しながら欲念することがなく、貪求〔の思い〕を起さず、贅沢に逆戻りしません。アーナンダよ、また、まさに、まさしく、その教師の弟子が、その教師の遠離を増進させながら、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼が、そのような隠棲者として〔世に〕住んでいると、婆羅門や家長たちが、まさしく、そして、町の者たちが、さらに、地方の者たちが、〔彼のもとに〕来集します。彼は、来集した婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、耽溺しながら欲念し、貪求〔の思い〕を起こし、贅沢に逆戻りします。アーナンダよ、これは、災禍ある梵行者と説かれます。梵行者の災禍によって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、彼を打破しました。アーナンダよ、このように、まさに、梵行者の災禍が有ります。

 

 アーナンダよ、そこで、まさしく、そして、すなわち、この師匠の災禍も、さらに、すなわち、内弟子の災禍も、それらよりも、この梵行者の災禍は、まさしく、そして、より苦痛の報いあるものであり、さらに、より辛辣なる報いあるものであり、さらに、また、堕所のために等しく転起します。

 

196. アーナンダよ、それゆえに、ここに、わたしのことを、朋友の掟によって取り扱いなさい。敵の掟によって〔取り扱っては〕いけません。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

 アーナンダよ、では、どのように、教師を、弟子たちは、敵の掟によって取り扱うのですか──朋友の掟によって、ではなく。アーナンダよ、ここに、教師が、弟子たちに、法(教え)を説示します──〔彼らの〕利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて。『これは、あなたたちの利益のために』『これは、あなたたちの安楽のために』と。彼の〔言葉を〕、弟子たちは、聞こうとせず、耳を傾けず、了知のための心を現起させません。そして、教師の教えから外れて行持します。アーナンダよ、このように、まさに、教師を、弟子たちは、敵の掟によって取り扱います──朋友の掟によって、ではなく。

 

 アーナンダよ、では、どのように、教師を、弟子たちは、朋友の掟によって取り扱うのですか──敵の掟によって、ではなく。アーナンダよ、ここに、教師が、弟子たちに、法(教え)を説示します──〔彼らの〕利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて。『これは、あなたたちの利益のために』『これは、あなたたちの安楽のために』と。彼の〔言葉を〕、弟子たちは、聞こうとし、耳を傾け、了知のための心を現起させます。そして、教師の教えから外れて(※)行持しません。アーナンダよ、このように、まさに、教師を、弟子たちは、朋友の掟によって取り扱います──敵の掟によって、ではなく。

 

※ テキストには vokkama とあるが、PTS版により vokkamma と読む。

 

 アーナンダよ、それゆえに、ここに、わたしのことを、朋友の掟によって取り扱いなさい。敵の掟によって〔取り扱っては〕いけません。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。アーナンダよ、わたしは、あなたたちのために、すなわち、陶工が、諸々の生の新造の器を〔扱う〕ように、そのように勤しむことはありません。アーナンダよ、制御しては制御して、〔わたしは〕説くでしょう。アーナンダよ、反復しては反復して、〔わたしは〕説くでしょう。その者が真髄であるなら、彼は止住するでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる空性の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(123). めったにないはじめてのことの経

 

197. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──知るからです。『このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような名の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような姓の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような戒の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような法(性質)の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような智慧の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような住の者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた。『このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った』ともまた」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、それらの比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさしく、そして、如来たちは、めったにない者たちであり、さらに、めったにない法(性質)を具備した者たちです。友よ、まさしく、そして、如来たちは、はじめての者たちであり、さらに、はじめての法(性質)を具備した者たちです」と。まさに、このことはあり、そして、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。

 

198. そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通たることは、偉大なる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、如来は、過去の覚者たちのことを──完全なる涅槃に到達し、〔妄想の〕虚構を断ち、〔再生の〕行程を断ち、〔輪廻の〕転起が完全に消尽し、一切の苦しみを超克した者たちのことを──知るからです。「このような生まれの者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた。「このような名の者たちとして……。「このような戒の者たちとして……。「このような法(性質)の者たちとして……。このような智慧の者たちとして……。「このような住の者たちとして……。「このような解脱者たちとして、それらの世尊たちは〔世に〕有った」ともまた』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者アーナンダは、わたしたちに、こう言いました。『友よ、まさしく、そして、如来たちは、めったにない者たちであり、さらに、めったにない法(性質)を具備した者たちです。友よ、まさしく、そして、如来たちは、はじめての者たちであり、さらに、はじめての法(性質)を具備した者たちです』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

 

199. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、あなたに、より一層しっかりと、如来の、めったにないはじめての諸々の法(性質)が明白となれ(それを語りなさい)」と。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、菩薩は、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体に再生しました』と。尊き方よ、すなわち、また、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体に再生したのは、尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、菩薩は、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体において止住しました』と。尊き方よ、すなわち、また、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体において止住したのは、尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

200. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、菩薩は、寿命のあるかぎり、兜率〔天〕の身体において止住しました』と。尊き方よ、すなわち、また、菩薩が、寿命のあるかぎり、兜率〔天〕の身体において止住したのは、尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、菩薩は、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入りました』と。尊き方よ、すなわち、また、菩薩が、気づきと正知の者として、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入ったのは、尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

201. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、兜率〔天〕の身体から死滅して、母の子宮に入るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。「ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している」と。そして、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺します。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

202. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、四者の天子が、〔彼を〕守護するために、四方に近しく赴きます。「あるいは、彼を、菩薩を、あるいは、菩薩の母を、あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、あるいは、誰であれ、悩ますことがあってはならない」』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

203. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母は、〔生来の〕性向によって〔自ずと〕戒ある者として〔世に〕有ります──命あるものを殺すことから離去した者として、与えられていないものを取ることから離去した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離去した者として、虚偽を説くことから離去した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離去した者として』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、男たちにたいする欲望の属性を伴った意図が生起せず、そして、菩薩の母は、誰であろうが、〔欲に〕染まった心の男によって犯されざる者として〔世に〕有ります』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母は、五つの欲望の属性の得者として〔世に〕有ります。彼女は、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

204. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、まさしく、何であろうが、病苦が生起することはありません。菩薩の母は、安楽の者として、疲弊しない身体の者として、〔世に〕有ります。そして、菩薩の母は、胎内に至った菩薩を見ます──全ての手足と肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能ある者として。アーナンダよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して綿密に注視します。「これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている」と。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、菩薩が、母の子宮に入った者として〔世に〕有るとき、菩薩の母には、まさしく、何であろうが、病苦が生起することはありません。菩薩の母は、安楽の者として、疲弊しない身体の者として、〔世に〕有ります。そして、菩薩の母は、胎内に在る菩薩を見ます──全ての手足と肢体があり、劣ることなき〔感官の〕機能ある者として』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

205. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、菩薩が生まれて七日のうちに、菩薩の母は、命を終え、兜率〔天〕の身体に再生します』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、また、まさに、すなわち、他の婦女たちが、あるいは、九〔月〕のあいだ、あるいは、十月のあいだ、胎児を、子宮で守り抜いて出産するように、このように、菩薩を、菩薩の母が出産することは、まさに、ありません。菩薩の母は、まさしく、十月のあいだ、菩薩を、子宮で守り抜いて出産します』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、また、まさに、すなわち、他の婦女たちが、あるいは、坐り、あるいは、横になり、〔その状態で〕出産するように、このように、菩薩を、菩薩の母が出産することは、まさに、ありません。菩薩の母は、菩薩を、まさしく、立った〔状態〕で出産します』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、最初に、天〔の神々〕たちが彼を受け止めます。そのあとで、人間たちが〔受け止めます〕』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

206. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、菩薩は、地に、まさしく、至り得ることなく〔世に〕有ります。四者の天子が、彼を受け止めて、母の前に据え置きます。「王妃よ、わが意を得た者と成りたまえ。あなたの子は、偉大なる権能ある者として〔世に〕生起したのです」』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、まさしく、清潔なる者として出ます──水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、何であれ、不浄物に汚されず、清浄なる者として、清潔なる者として。アーナンダよ、それは、たとえば、また、宝珠の宝が、カーシ産の衣のうえに置かれたなら、まさしく、宝珠の宝は、カーシ産の衣を汚さず、カーシ産の衣もまた、宝珠の宝を汚しません。それは、何を因とするのですか。両者ともに清浄なることからです。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、まさしく、清潔なる者として出ます──水に汚されず、粘液に汚されず、血に汚されず、何であれ、不浄物に汚されず、清浄なる者として、清潔なる者として』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、二つの水の流れが、空中から出現します。一つは、冷たいものとして、一つは、熱いものとして。それによって、菩薩のために、水によって為すべきことを為します──そして、母のためにも』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

207. 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、生まれると同時に、菩薩は、均等なる〔両の〕足で地に立って、北に向かい、七歩を交互に赴きます。白の傘蓋が差し掛けられるなか、そして、全ての方角を眺め見ます。そして、威厳ある言葉を語ります。「世の至高者として、わたしは存している。世の最尊者として、わたしは存している。世の最勝者として、わたしは存している。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない」』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します。

 

 尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、すなわち、菩薩が、母の子宮から出るとき、そこで、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、それらの、世の中間域の無蓋にして無覆なる、暗黒も、漆黒の闇も──そこにおいてはまた、このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日の光も出現しないのですが──そこにおいてもまた、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って。すなわち、また、そこにおいて再生した有情たちも、彼らもまた、その光輝によって、互いに他を了解します。「ああ、まさに、他の有情たちもまた、ここに再生した者たちとして存している」と。そして、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺します。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現します──天〔の神々〕たちの天の威力を、まさしく、超え行って』と。尊き方よ、すなわち、また……略……尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します」と。

 

208. 「アーナンダよ、それゆえに、ここに、このことをもまた、如来の、めったにないはじめての法(性質)として、あなたは保持しなさい。アーナンダよ、ここに、如来に、諸々の感受()が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の表象()が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の思考()が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。アーナンダよ、このことをもまた、如来の、めったにないはじめての法(性質)として、まさに、あなたは保持しなさい」と。「尊き方よ、すなわち、また、世尊に、諸々の感受が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の表象が……略……諸々の思考が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至するのは、尊き方よ、このことをもまた、世尊の、めったにないはじめての法(性質)として、わたしは保持します」と。

 

 尊者アーナンダは、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔尊者アーナンダの言葉を〕正しくお認めに成りました。そして、わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 めったにないはじめてのことの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(124). バークラの経

 

209. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者バークラは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者バークラの、過去の在家の道友である、無衣行者のカッサパが、尊者バークラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者バークラを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、無衣行者のカッサパは、尊者バークラに、こう言いました。

 

 「友よ、バークラよ、〔あなたが〕出家者として〔世に〕存し、どれだけの長さとなりますか」と。「友よ、わたしが出家者となり、八十年です」と。「友よ、バークラよ、また、この八十年をもってして、あなたに、何回、淫事の法(性質)が受用されましたか」と。「友よ、カッサパよ、まさに、わたしに、このように尋ねるべきではありません。『友よ、バークラよ、また、この八十年をもってして、あなたに、何回、淫事の法(性質)が受用されましたか』と。友よ、カッサパよ、しかしながら、まさに、わたしに、このように尋ねるべきです。『友よ、バークラよ、また、この八十年をもってして、あなたに、何回、欲望の表象が過去に生起したのですか』」と。「友よ、バークラよ、また、この八十年をもってして、あなたに、何回、欲望の表象が過去に生起したのですか」と。

 

210. 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、欲望の表象が過去に生起したのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、欲望の表象が過去に生起したのを証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、憎悪の表象が……略……悩害の表象が過去に生起したのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、悩害の表象が過去に生起したのを証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、欲望の思考が過去に生起したのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、欲望の思考が過去に生起したのを証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、憎悪の思考が……略……悩害の思考が過去に生起したのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、悩害の思考が過去に生起したのを証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

211. 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、家長の衣料を受けたのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、家長の衣料を受けたのを証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、刃で衣料を断ち切ったのを証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、刃で衣料を断ち切ったのを証知しないのは……略……保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、針で衣料を縫ったのを証知しません」〔と〕。……略……染料で衣料を染めたのを証知しません」〔と〕。……カティナの衣料を縫ったのを証知しません」〔と〕。……梵行を共にする者たちのために、衣料の〔仕立て〕作業に従事したのを証知しません」〔と〕。……招待を受けたのを証知しません」〔と〕。……『ああ、まさに、誰であれ、わたしを招待するべきである』と、このような形態の心が過去に生起したのを証知しません」〔と〕。……家の中に坐ったのを証知しません」〔と〕。……家の中で食べたのを証知しません」〔と〕。……付随する特徴から、女性の形相を把捉者となり、〔把捉したのを〕証知しません」〔と〕。……女性に、法(教え)を説示者となり、もしくは、四つの句の詩偈でさえも、〔説示したのを〕証知しません」〔と〕。……比丘尼の在所に近づいて行ったのを証知しません」〔と〕。……比丘尼に、法(教え)を説示者となり、もしくは、四つの句の詩偈でさえも、〔説示したのを〕証知しません」〔と〕。……学女に、法(教え)を説示者となり、もしくは、四つの句の詩偈でさえも、〔説示したのを〕証知しません」〔と〕。……沙弥尼に、法(教え)を説示者となり、もしくは、四つの句の詩偈でさえも、〔説示したのを〕証知しません」〔と〕。……出家させる者となり、〔出家させたのを〕証知しません」〔と〕。……〔戒を〕成就させる者となり、〔成就させたのを〕証知しません」〔と〕。……依所を与える者となり、〔与えたのを〕証知しません」〔と〕。……沙弥に奉仕させる者となり、〔奉仕させたのを〕証知しません」〔と〕。……沐浴者となり、浴室において、〔沐浴したのを〕証知しません」〔と〕。……沐浴者となり、塗粉によって、〔沐浴したのを〕証知しません」〔と〕。……梵行を共にする者の五体の按摩に従事する者となり、〔従事したのを〕証知しません」〔と〕。……病苦が過去に生起したのを──もしくは、僅かばかりのあいだでさえも──証知しません」〔と〕。……薬を携帯する者となり、もしくは、ハリタキ〔草〕の欠片(かけら)でさえも、〔携帯したのを〕証知しません」〔と〕。……寄り掛かり板に寄り掛かる者となり、〔寄り掛かったのを〕証知しません」〔と〕。……臥を営む者となり、〔営んだのを〕証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが……略……保持します。

 

 「友よ、わたしが出家者となり、八十年のあいだ、村の外れの臥坐所において、雨期〔の滞在〕に入る者となり、〔雨期の滞在に入ったのを〕証知しません」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、八十年をもってして、雨期〔の滞在〕に入る者となり、〔雨期の滞在に入ったのを〕証知しないのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 「友よ、まさに、わたしは、七日のあいだだけ、帰依所となり、国人による〔行乞の〕食を受けました。そこで、第八〔日〕に、了知が生起しました」〔と〕。すなわち、また、尊者バークラが、七日のあいだだけ、帰依所となり、国人による〔行乞の〕食を受けたのは、そこで、第八〔日〕に、了知が生起したのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

212. 「友よ、バークラよ、わたしが、この法(教え)と律において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。まさに、無衣行者のカッサパは、この法(教え)と律において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに(※)、〔戒を〕成就したばかりの尊者カッサパは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者カッサパは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

※ PTS版により kho を補う。

 

 そこで、まさに、尊者バークラは、他時にあって、鍵を携えて、精舎から精舎へと近づいて行って、このように言いました。「尊者たちよ、出で来たれ。尊者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、完全なる涅槃が有るでしょう」と。すなわち、また、尊者バークラが、鍵を携えて、精舎から精舎へと近づいて行って、このように言ったのは、「尊者たちよ、出で来たれ。尊者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、完全なる涅槃が有るでしょう」と、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持します。

 

 尊者バークラは、比丘の僧団の中において、まさしく、坐者として完全なる涅槃に到達しました。すなわち、また、尊者バークラが、比丘の僧団の中において、まさしく、坐者として完全なる涅槃に到達したのは、このことをもまた、尊者バークラの、めったにないはじめての法(性質)として、わたしたちは保持する、ということです。

 

 バークラの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(125). 調御された者の土地の経

 

213. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、見習い沙門のアチラヴァタが、林の小屋に住んでいます。そこで、まさに、ジャヤセーナ王子が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、見習い沙門のアチラヴァタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、見習い沙門のアチラヴァタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャヤセーナ王子は、見習い沙門のアチラヴァタに、こう言いました。

 

 「君よ、アッギヴェッサナ(アチラヴァタ)よ、このことを、わたしは聞きました。『ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいるなら、心の一境性を体得するであろう』」と。「王子よ、このように、このことはあります。王子よ、このように、このことはあります。ここに、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいるなら、心の一境性を体得するでしょう」と。「どうか、わたしに、貴君アッギヴェッサナは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示されたまえ」と。「王子よ、まさに、あなたに、わたしは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示することはできません。王子よ、なぜなら、そして、わたしが、あなたに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示するとして、しかしながら、あなたは、わたしの語ったことの義(意味)を了知しないでしょう。それは、わたしにとって、疲弊として存するでしょう。それは、わたしにとって、悩害として存するでしょう」と。「貴君アッギヴェッサナは、わたしに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示されたまえ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、貴君アッギヴェッサナの語ったことの義(意味)を了知するでしょう」と。「王子よ、まさに、あなたに、わたしは、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示しましょう。それで、もし、あなたが、わたしの語ったことの義(意味)を了知するであろうなら、かくのごとく、このことは、善なるものです。もし、あなたが、わたしの語ったことの義(意味)を了知しないであろうなら、自らの〔見解〕のとおりに止住するべきであり、そこにおいて、わたしに、さらなる問い返しをするべきではありません」と。「貴君アッギヴェッサナは、わたしに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示されたまえ。それで、もし、わたしが、貴君アッギヴェッサナの語ったことの義(意味)を了知するであろうなら、かくのごとく、このことは、善なるものです。もし、わたしが、貴君アッギヴェッサナの語ったことの義(意味)を了知しないであろうなら、自らの〔見解〕のとおりに止住するでしょう。わたしは、そこにおいて、貴君アッギヴェッサナに、さらなる問い返しをしないでしょう」と。

 

214. そこで、まさに、見習い沙門のアチラヴァタは、ジャヤセーナ王子に、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を説示しました、このように説かれたとき、ジャヤセーナ王子は、見習い沙門のアチラヴァタに、こう言いました。「貴君アッギヴェッサナよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいるなら、心の一境性を体得するであろうことです」と。そこで、まさに、ジャヤセーナ王子は、見習い沙門のアチラヴァタに、そして、状況なきことを〔知らせて〕、さらに、機会なきことを知らせて、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、見習い沙門のアチラヴァタは、ジャヤセーナ王子が立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のアチラヴァタは、すなわち、ジャヤセーナ王子を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 このように説かれたとき、世尊は、見習い沙門のアチラヴァタに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、すなわち、それが、離欲によって知られるべきものであり、離欲によって見られるべきものであり、離欲によって至り得られるべきものであり、離欲によって実証されるべきものであるなら、それが、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。それを、まさに、諸々の欲望〔の対象〕の中に住している者であり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益している者であり、諸々の欲望の思考によって喰い尽くされている者であり、欲望の苦悶によって遍く焼かれている者であり、欲望〔の対象〕を遍く探し求めることに思い入れある者である、ジャヤセーナ王子が、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。

 

215. アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──存するとします。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御された者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御された者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです(できます)」〔と〕。「いっぽう、すなわち、それらの二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか。それは、たとえば、また、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象のように、あるいは、調御されるべき馬のように、あるいは、調御されるべき牛のように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(できません)」〔と〕。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それが、離欲によって知られるべきものであり、離欲によって見られるべきものであり、離欲によって至り得られるべきものであり、離欲によって実証されるべきものであるなら、それを、まさに、諸々の欲望〔の対象〕の中に住している者であり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益している者であり、諸々の欲望の思考によって喰い尽くされている者であり、欲望の苦悶によって遍く焼かれている者であり、欲望〔の対象〕を遍く探し求めることに思い入れある者である、ジャヤセーナ王子が、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。

 

216. アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなる山があるとします。それで、こののち、二者の道友が、その、あるいは、村から、あるいは、町から、出立して、手の合図によって、その山のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、一者の道友は、下にあって山麓に立ち、一者の道友は、山の上に登ります。それで、こののち、下にあって山麓に立つ道友は、山の上に立つ道友に、このように説きます。『友よ、すなわち、あなたは、山の上に立ち、何を見ますか』と。彼は、このように説きます。『友よ、まさに、わたしは、山の上に立ち、喜ばしき林園を、喜ばしき林野を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を、見ます』と。

 

 彼は、このように説きます。『友よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、あなたが、山の上に立ち、喜ばしき林園を、喜ばしき林野を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を、見ることです』と。それで、こののち、山の上に立つ道友は、下へと山麓に降りて、その道友の腕を掴んで、山の上に登らせて、しばらく落ち着かせて、このように説きます。『友よ、すなわち、あなたは、山の上に立ち、何を見ますか』と。彼は、このように説きます。『友よ、まさに、わたしは、山の上に立ち、喜ばしき林園を、喜ばしき林野を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を、見ます』と。

 

 彼は、このように説きます。『友よ、まさしく、今や、まさに、あなたの語ったこととして、わたしたちは、このように知ります。「友よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、あなたが、山の上に立ち、喜ばしき林園を、喜ばしき林野を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を、見ることです」と。また、そして、まさしく、今や、あなたの語ったこととして、わたしたちは、このように知ります。「友よ、まさに、わたしは、山の上に立ち、喜ばしき林園を、喜ばしき林野を、喜ばしき土地を、喜ばしき蓮池を、見ます」』と。彼は、このように説きます。『友よ、また、まさに、そのように、わたしは、この大いなる山によって覆われ、見るべきものを見ませんでした』と。

 

 アッギヴェッサナよ、ジャヤセーナ王子は、これよりもより大いなるものである、無明の塊によって、覆われ、妨害され、覆い被され、覆い包まれています。それで、まさに、すなわち、それが、離欲によって知られるべきものであり、離欲によって見られるべきものであり、離欲によって至り得られるべきものであり、離欲によって実証されるべきものであるなら、それを、まさに、諸々の欲望〔の対象〕の中に住している者であり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益している者であり、諸々の欲望の思考によって喰い尽くされている者であり、欲望の苦悶によって遍く焼かれている者であり、欲望〔の対象〕を遍く探し求めることに思い入れある者である、ジャヤセーナ王子が、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。アッギヴェッサナよ、それで、もし、まさに、あなたに、ジャヤセーナ王子のために、これらの二つの喩えが明白となるなら、ジャヤセーナ王子は、稀有ならざることとして、あなたに浄信するでしょう。そして、浄信した者として、あなたに、浄信の行相を作り為すでしょう」と。「尊き方よ、また、どうして、わたしに、ジャヤセーナ王子のために、稀有ならざるものとして、これらの二つの喩えが明白となるというのでしょう──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの二つの詩偈〕が。それは、たとえば、また、世尊に〔明白となるように〕」と。

 

217. 「アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、即位灌頂した王たる士族が、象の猟師に告げるとします。『友よ、象の猟師よ、さあ、あなたは、王の象に乗って、象の林に入って、林にある象を見つけて、王の象の首に連結しなさい』と。アッギヴェッサナよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、象の猟師は、即位灌頂した王たる士族に答えて、王の象に乗って、象の林に入って、林にある象を見つけて、王の象の首に連結します。それで、こののち、王の象は、〔林にある象を、象の林から〕野外に連れ出します。アッギヴェッサナよ、これだけで、まさに、林にある象は、〔象の林から〕野外に赴いた者と成ります。アッギヴェッサナよ、なぜなら、ここ(象の林)において貪求あるのが、林にある象たちであるからです──すなわち、この、象の林です。それで、こののち、象の猟師は、即位灌頂した王たる士族に告げます。『陛下よ、まさに、野外に赴いた者として、林にある象はあります』と。アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、それで、こののち、即位灌頂した王たる士族は、象の調御者に告げます。『友よ、象の調御者よ、さあ、あなたは、林にある象を調御しなさい。まさしく、そして、諸々の林の戒(習性)の消去のために、まさしく、かつまた、諸々の林の思念と思惟の消去のために、まさしく、さらに、諸々の林の懊悩と疲弊と苦悶の消去のために、村の外れにおいて喜び楽しませるために、諸々の人間に愛される戒において受持させるために』と。

 

 アッギヴェッサナよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、象の調御者は、即位灌頂した王たる士族に答えて、大いなる柱を地に埋めて、林にある象の首に連結します。まさしく、そして、諸々の林の戒の消去のために、まさしく、かつまた、諸々の林の思念と思惟の消去のために、まさしく、さらに、諸々の林の懊悩と疲弊と苦悶の消去のために、村の外れにおいて喜び楽しませるために、諸々の人間に愛される戒において受持させるために。それで、こののち、象の調御者は、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の諸々の言葉で呼び慣わします。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、林にある象が、象の調御者の、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の諸々の言葉で呼び慣わされながら、〔言葉を〕聞こうとし、耳を傾けることから、了知の心を現起させます。それで、こののち、象の調御者は、草と食糧と水を供与します。

 

 アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、林にある象が、象の調御者の草と食糧と水を納受することから、そこで、象の調御者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、今や、林にある象は生きるであろう』と。それで、こののち、象の調御者は、より以上の任務を課します。『さあ、取れ。さあ、置け』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、林にある象が、象の調御者の〔指令である〕取ることと置くことにたいし、言葉を為す者と成り、教諭に即応する者と〔成ることから〕、それで、こののち、象の調御者は、より以上の任務を課します。『さあ、前進せよ。さあ、後進せよ』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、林にある象が、象の調御者の〔指令である〕前進と後進にたいし、言葉を為す者と成り、教諭に即応する者と〔成ることから〕、それで、こののち、象の調御者は、より以上の任務を課します。『さあ、起きろ。さあ、坐れ』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、林にある象が、象の調御者の〔指令である〕起きることと坐ることにたいし、言葉を為す者と成り、教諭に即応する者と〔成ることから〕、それで、こののち、象の調御者は、不動という名のより以上の任務を課し、大きな延べ板を、鼻に連結します。そして、槍を手にする人が、首の上に坐った状態でいます。かつまた、遍きにわたり、槍を手にする人たちが、取り囲んで立った状態でいます。さらに、象の調御者が、長い槍の棒を掴んで前に立った状態でいます。その〔林にある象〕は、不動の任務を課されながら、まさしく、〔両の〕前足を動かさず、〔両の〕後足を動かさず、前身を動かさず、後身を動かさず、頭を動かさず、〔両の〕耳を動かさず、〔両の〕牙を動かさず、尾を動かさず、鼻を動かしません。その林にある象は、刃の攻撃に、剣の攻撃に、矢の攻撃に、他の敵の攻撃に(※)、諸々の太鼓や小鼓や竹や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声に、忍耐ある者と成り、一切の邪曲と汚点を捨て置き、汚濁を取り除いた、王に値するものと〔成り〕、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

※ テキストには sarapattappahārāna とあるが、PTS版により parasattuppahārāna と読む。

 

218. アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。

 

 彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。アッギヴェッサナよ、これだけで、まさに、聖なる弟子は、野外に赴いた者と成ります。アッギヴェッサナよ、なぜなら、ここ(五つの欲望の属性)において貪求あるのが、天〔の神々〕と人間たちであるからです──すなわち、この、五つの欲望の属性です。それで、こののち、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、戒ある者として〔世に〕有りなさい。戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい』と。

 

 アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、戒ある者として〔世に〕有ることから、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住むことから、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶことから、それで、こののち、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有りなさい。眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成ってはいけません。……略……。(すなわち、ガナカ・モッガッラーナの経典におけるように、そのように詳知されるべきである)。

 

219. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、象の調御者が、大いなる柱を地に埋めて、林にある象の首に連結するようなものです──まさしく、そして、諸々の林の戒(習性)の消去のために、まさしく、かつまた、諸々の林の思念と思惟の消去のために、まさしく、さらに、諸々の林の懊悩と疲弊と苦悶の消去のために、村の外れにおいて喜び楽しませるために、諸々の人間に愛される戒において受持させるために。アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、聖なる弟子にとって、これらの四つの気づきの確立(四念処・四念住)は、心を〔随観に〕連結するものと成ります──まさしく、そして、諸々の家に依拠した戒の消去のために、まさしく、かつまた、諸々の家に依拠した思念と思惟の消去のために、まさしく、さらに、諸々の家に依拠した懊悩と疲弊と苦悶の消去のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。

 

220. アッギヴェッサナよ、それで、こののち、如来は、より以上に教導します。『比丘よ、さあ、あなたは、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みなさい。そして、欲望を伴った思考を思考してはいけません。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みなさい。そして、欲望を伴った思考を思考してはいけません』と。

 

 彼は、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

221. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 その比丘は、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者と成り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有り、一切の貪欲と憤怒と迷妄を捨て置き、汚濁を取り除いた、〔供物を〕捧げられるべき者と〔成り〕、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

222. アッギヴェッサナよ、もし、また、老練の王の象が、調御されず、教導されず、命を終えるなら、まさしく、『調御されざる死として命を終えた老練の王の象』という名称に至ります(名づけられる)。アッギヴェッサナよ、もし、また、中堅の王の象が……略……。アッギヴェッサナよ、もし、また、年少の王の象が、調御されず、教導されず、命を終えるなら、まさしく、『調御されざる死として命を終えた年少の王の象』という名称に至ります。アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、もし、また、長老の比丘が、煩悩が滅尽せず、命を終えるなら、まさしく、『調御されざる死として命を終えた長老の比丘』という名称に至ります。アッギヴェッサナよ、もし、また、中堅の比丘が……略……。アッギヴェッサナよ、もし、また、新参の比丘が、煩悩が滅尽せず、命を終えるなら、まさしく、『調御されざる死として命を終えた新参の比丘』という名称に至ります。

 

 アッギヴェッサナよ、もし、また、老練の王の象が、善く調御され、善く教導され、命を終えるなら、まさしく、『調御された死として命を終えた老練の王の象』という名称に至ります。アッギヴェッサナよ、もし、また、中堅の王の象が……略……。アッギヴェッサナよ、もし、また、年少の王の象が、善く調御され、善く教導され、命を終えるなら、まさしく、『調御された死として命を終えた年少の王の象』という名称に至ります。アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、もし、また、長老の比丘が、煩悩が滅尽し、命を終えるなら、まさしく、『調御された死として命を終えた長老の比丘』という名称に至ります。アッギヴェッサナよ、もし、また、中堅の比丘が……略……。アッギヴェッサナよ、もし、また、新参の比丘が、煩悩が滅尽し、命を終えるなら、まさしく、『調御された死として命を終えた新参の比丘』という名称に至ります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た見習い沙門のアチラヴァタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 調御された者の土地の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。