中部経典(マッジマ・ニカーヤ)

 

 根元の五十の聖典(根本五十経篇・上)

 

【目次】

 

1. 根元の教相の章

 

1. 根元の教相の経(1.~)

2. 一切の煩悩の経(14.~)

3. 法の相続者の経(29.~)

4. 恐怖と恐ろしさの経(34.~)

5. 穢れなき者の経(57.~)

6. 「望むなら」の経(64.~)

7. 衣装の経(70.~)

8. 謹厳の経(81.~)

9. 正しい見解の経(89.~)

10. 大いなる気づきの確立の経(105.~)

 

2. 獅子吼の章

 

1(11). 小なる獅子吼の経(139.~)

2(12). 大いなる獅子吼の経(146.~)

3(13). 大いなる苦しみの範疇の経(163.~)

4(14). 小なる苦しみの範疇の経(175.~)

5(15). 推知の経(181.~)

6(16). 心の鬱積の経(185.~)

7(17). 林野の辺境の経(190.~)

8(18). 蜜団子の経(199.~)

9(19). 二種の思考の経(206.~)

10(20). 思考の様相の経(216.~)

 

3. 喩えの章

 

1(21). 鋸の喩えの経(222.~)

2(22). 蛇の喩えの経(234.~)

3(23). 蟻塚の経(249.~)

4(24). 乗り継ぎ車の経(252.~)

5(25). 撒餌の経(261.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 根元の五十の聖典(根本五十経篇・上)

 

1. 根元の教相の章

 

1. 根元の教相の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウッカッターに住んでおられます。スバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、一切の諸法(事象)の根元の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

2. 「比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、地を地として表象します。地を地として表象して、地を思認し、地について思認し、地として思認し、地を『わたしのものである』と思認し、地に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を水として表象します。水を水として表象して、水を思認し、水について思認し、水として思認し、水を『わたしのものである』と思認し、水に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 火を火として表象します。火を火として表象して、火を思認し、火について思認し、火として思認し、火を『わたしのものである』と思認し、火に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 風を風として表象します。風を風として表象して、風を思認し、風について思認し、風として思認し、風を『わたしのものである』と思認し、風に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

3. 生類たちを生類として表象します。生類たちを生類として表象して、生類たちを思認し、生類たちについて思認し、生類として思認し、生類たちを『わたしのものである』と思認し、生類たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 天〔の神々〕たちを天〔の神々〕として表象します。天〔の神々〕たちを天〔の神々〕として表象して、天〔の神々〕たちを思認し、天〔の神々〕たちについて思認し、天〔の神々〕として思認し、天〔の神々〕たちを『わたしのものである』と思認し、天〔の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 造物主を造物主として表象します。造物主を、造物主として表象して、造物主を思認し、造物主について思認し、造物主として思認し、造物主を『わたしのものである』と思認し、造物主に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 梵〔天〕を梵〔天〕として表象します。梵〔天〕を梵〔天〕として表象して、梵〔天〕を思認し、梵〔天〕について思認し、梵〔天〕として思認し、梵〔天〕を『わたしのものである』と思認し、梵〔天〕に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 光音〔天の神々〕たちを光音〔天の神〕として表象します。光音〔天の神々〕たちを光音〔天の神〕として表象して、光音〔天の神々〕たちを思認し、光音〔天の神々〕たちについて思認し、光音〔天の神〕として思認し、光音〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思認し、光音〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 遍浄〔天の神々〕たちを遍浄〔天の神〕として表象します。遍浄〔天の神々〕たちを遍浄〔天の神〕として表象して、遍浄〔天の神々〕たちを思認し、遍浄〔天の神々〕たちについて思認し、遍浄〔天の神〕として思認し、遍浄〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思認し、遍浄〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 広果〔天の神々〕たちを広果〔天の神〕として表象します。広果〔天の神々〕たちを広果〔天の神〕として表象して、広果〔天の神々〕たちを思認し、広果〔天の神々〕たちについて思認し、広果〔天の神〕として思認し、広果〔天の神々〕たちを『わたしのものである』と思認し、広果〔天の神々〕たちに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 アビブー〔神〕(非色の四蘊を征服した表象なき生存)をアビブー〔神〕として表象します。アビブー〔神〕を、アビブー〔神〕として表象して、アビブー〔神〕を思認し、アビブー〔神〕について思認し、アビブー〔神〕として思認し、アビブー〔神〕を『わたしのものである』と思認し、アビブー〔神〕に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

4. 虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を虚空無辺なる〔認識の〕場所として表象します。虚空無辺なる〔認識の〕場所を虚空無辺なる〔認識の〕場所として表象して、虚空無辺なる〔認識の〕場所を思認し、虚空無辺なる〔認識の〕場所について思認し、虚空無辺なる〔認識の〕場所として思認し、虚空無辺なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思認し、虚空無辺なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を識知無辺なる〔認識の〕場所として表象します。識知無辺なる〔認識の〕場所を識知無辺なる〔認識の〕場所として表象して、識知無辺なる〔認識の〕場所を思認し、識知無辺なる〔認識の〕場所について思認し、識知無辺なる〔認識の〕場所として思認し、識知無辺なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思認し、識知無辺なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を無所有なる〔認識の〕場所として表象します。無所有なる〔認識の〕場所を無所有なる〔認識の〕場所として表象して、無所有なる〔認識の〕場所を思認し、無所有なる〔認識の〕場所について思認し、無所有なる〔認識の〕場所として思認し、無所有なる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思認し、無所有なる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として表象します。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として表象して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を思認し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所について思認し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所として思認し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を『わたしのものである』と思認し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

5. 見られたものを見られたものとして表象します。見られたものを見られたものとして表象して、見られたものを思認し、見られたものについて思認し、見られたものとして思認し、見られたものを『わたしのものである』と思認し、見られたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 聞かれたものを聞かれたものとして表象します。聞かれたものを聞かれたものとして表象して、聞かれたものを思認し、聞かれたものについて思認し、聞かれたものとして思認し、聞かれたものを『わたしのものである』と思認し、聞かれたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 思われたものを思われたものとして表象します。思われたものを思われたものとして表象して、思われたものを思認し、思われたものについて思認し、思われたものとして思認し、思われたものを『わたしのものである』と思認し、思われたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 識られたものを識られたものとして表象します。識られたものを識られたものとして表象して、識られたものを思認し、識られたものについて思認し、識られたものとして思認し、識られたものを『わたしのものである』と思認し、識られたものに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

6. 一なることを一なることとして表象します。一なることを一なることとして表象して、一なることを思認し、一なることについて思認し、一なることとして思認し、一なることを『わたしのものである』と思認し、一なることに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 種々なることを種々なることとして表象します。種々なることを種々なることとして表象して、種々なることを思認し、種々なることについて思認し、種々なることとして思認し、種々なることを『わたしのものである』と思認し、種々なることに愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 一切を一切として表象します。一切を一切として表象して、一切を思認し、一切について思認し、一切として思認し、一切を『わたしのものである』と思認し、一切に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 涅槃を涅槃として表象します。涅槃を涅槃として表象して、涅槃を思認し、涅槃について思認し、涅槃として思認し、涅槃を『わたしのものである』と思認し、涅槃に愉悦します。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔いまだ〕遍知されていないものがあるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 凡夫を所以にする、第一の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

7. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認してはならず、地について思認してはならず、地として思認してはならず、地を『わたしのものである』と思認してはならず、地に愉悦してはなりません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されるべきであるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音〔天の神々〕たちを……。遍浄〔天の神々〕たちを……。広果〔天の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認してはならず、涅槃について思認してはならず、涅槃として思認してはならず、涅槃を『わたしのものである』と思認してはならず、涅槃に愉悦してはなりません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されるべきであるから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 〔いまだ〕学びある者を所以にする、第二の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

8. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩()の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存()に束縛するもの()の完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音〔天の神々〕たちを……。遍浄〔天の神々〕たちを……。広果〔天の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『彼には、〔それが〕遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする、第三の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

9. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。貪欲()の滅尽あることからであり、貪欲を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。貪欲の滅尽あることからであり、貪欲を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする、第四の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

10. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。憤怒()の滅尽あることからであり、憤怒を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。憤怒の滅尽あることからであり、憤怒を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする、第五の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

11. 比丘たちよ、すなわち、また、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。迷妄()の滅尽あることからであり、迷妄を離れたことからです。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。迷妄の滅尽あることからであり、迷妄を離れたことからです。

 

 煩悩の滅尽者を所以にする、第六の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

12. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『如来には、終極が遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『如来には、終極が遍知されたから』と、〔わたしは〕説きます。

 

 如来を所以にする、第七の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

13. 比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来もまた、地を地として証知します。地を地として証知して、地を思認せず、地について思認せず、地として思認せず、地を『わたしのものである』と思認せず、地に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『愉悦は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、『生存から生がある』『生類には老と死がある』と〔知るからです〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『如来は。全てにわたり、諸々の渇愛の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、無上なる正等覚を現正覚したのだ』と、〔わたしは〕説きます。

 

 水を……略……。火を……。風を……。生類たちを……。天〔の神々〕たちを……。造物主を……。梵〔天〕を……。光音天〔の神々〕たちを……。遍浄天〔の神々〕たちを……。広果天〔の神々〕たちを……。アビブー〔神〕を……。虚空無辺なる〔認識の〕場所を……。識知無辺なる〔認識の〕場所を……。無所有なる〔認識の〕場所を……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を……。見られたものを……。聞かれたものを……。思われたものを……。識られたものを……。一なることを……。種々なることを……。一切を……。涅槃を涅槃として証知します。涅槃を涅槃として証知して、涅槃を思認せず、涅槃について思認せず、涅槃として思認せず、涅槃を『わたしのものである』と思認せず、涅槃に愉悦しません。それは、何を因とするのですか。『愉悦は、苦しみの根元である』と、かくのごとく見出して、『生存から生がある』『生類には老と死がある』と〔知るからです〕。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『如来は。全てにわたり、諸々の渇愛の、滅尽あることから、離貪あることから、止滅あることから、施捨あることから、放棄あることから、無上なる正等覚を現正覚したのだ』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 如来を所以にする、第八の理趣と境地の範囲は〔以上で〕終了となる。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。それらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜ばなかった、ということです。

 

 根元の教相の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2. 一切の煩悩の経

 

14. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、一切の煩悩の統御(律儀)の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

15. 「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者にではなく、〔あるがままに〕見ていない者にではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、かつまた、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説くのですか。そして、根源のままに意を為すこと(如理作意)であり、さらに、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩は生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩は捨棄されます。

 

16. 比丘たちよ、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在します。

 

 見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

17. 比丘たちよ、では、どのようなものが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せず、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しません。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せずにいながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知せずにいながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為し、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為すことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為さないことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。

 

18. 彼は、このように、根源のままならずに意を為します。『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』と。あるいは、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ります。『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』と。

 

19. 彼が、このように、根源のままならずに意を為していると、六つの見解のなかのどれか一つの見解が生起します。あるいは、『わたしの自己は存在する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します(真理であると誤認する)。あるいは、『わたしの自己は存在しない』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己ならざるものを表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己ならざるものによって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。そこで、また、あるいは、彼に、このような見解が有ります。『すなわち、わたしのこの自己は、説くものであり、感受されるべきものであり、その場その場に、諸々の善悪の行為()の報い(異熟)を得知する。また、まさに、その、わたしのこの自己は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。比丘たちよ、これは、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛と説かれます。比丘たちよ、見解の束縛によって束縛された無聞の凡夫は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

20. 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知し、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知します。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知しながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為さず、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

 

 彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為さないことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為すことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が捨棄されます。

 

21. 彼は、『これは、苦しみである』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの集起である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、根源のままに意を為します。彼が、このように、根源のままに意を為していると、三つの束縛するもの(三結)が捨棄されます──身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)が、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)が。比丘たちよ、これらは、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

22. 比丘たちよ、では、どのようなものが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、眼の機能(眼根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、眼の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、眼の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。根源のままに審慮して〔そののち〕、耳の機能(耳根)における統御によって……略……鼻の機能(鼻根)における統御によって……略……舌の機能(舌根)における統御によって……略……身の機能(身根)における統御によって……略……意の機能(意根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、意の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、意の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

23. 比丘たちよ、では、どのようなものが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、〔行乞の〕施食を受用します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行(禁欲清浄行)の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 根源のままに審慮して〔そののち〕、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を受用します──生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、〔そのように〕受用していないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が受用していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

24. 比丘たちよ、では、どのようなものが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者と成り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、耐え忍んでいないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が耐え忍んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

25. 比丘たちよ、では、どのようなものが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、狂暴な象を遍く避け、狂暴な馬を遍く避け、狂暴な牛を遍く避け、狂暴な犬を──蛇を、木株を、棘の地を、暗坑を、深淵を、どぶ池を、水たまりを──遍く避けます。そのような形態の坐所ならざるところに坐っている者を、そのような形態の托鉢所ならざるところを歩んでいる者を、そのような形態の悪しき朋友たちに親しんでいる者を、梵行を共にする識者たちが、諸々の悪しき境位に位置づけるなら、彼は、そして、その坐所ならざるところを、かつまた、その托鉢所ならざるところを、さらに、それらの悪しき朋友たちを、根源のままに審慮して〔そののち〕、遍く避けます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、遍く避けていないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が遍く避けていると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

26. 比丘たちよ、では、どのようなものが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、除去しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が除去していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

 修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

 

27. 比丘たちよ、では、どのようなものが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、修行しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が修行していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有りません。比丘たちよ、これらは、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

 

28. 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘にとって、それらが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、見〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、統御〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、受用〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、除去〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、修行〔の観点〕から捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、一切の煩悩が統御によって統御され、〔世に〕住む。渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量()の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 一切の煩悩の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3. 法の相続者の経

 

29. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、そして、あなたたちが、わたしの財貨の相続者たちと成るなら──法(教え)の相続者たちではなく──それによって、あなたたちもまた、〔他者から〕指摘されるべき者たちと(※)成るでしょう。『教師の弟子たちは、財貨の相続者たちとして〔世に〕住む──法(教え)の相続者たちではなく』と。それによって、わたしもまた、〔他者から〕指摘されるべき者と成るでしょう。『教師の弟子たちは、財貨の相続者たちとして〔世に〕住む──法(教え)の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、しかしながら、あなたたちが、わたしの法(教え)の相続者たちと成るなら──財貨の相続者たちではなく──それによって、あなたたちもまた、〔他者から〕指摘されるべき者たちと成らないでしょう。『教師の弟子たちは、法(教え)の相続者たちとして〔世に〕住む──財貨の相続者たちではなく』と。それによって、わたしもまた、〔他者から〕指摘されるべき者と成らないでしょう。『教師の弟子たちは、法(教え)の相続者たちとして〔世に〕住む──財貨の相続者たちではなく』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』と。

 

※ テキストには ādiyā とあるが、PTS版により ādissā と読む。以下の平行箇所も同様。

 

30. 比丘たちよ、ここに、わたしが、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者として存するとします。そして、わたしの〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存するとします。そこで、二者の比丘が、飢えと力の衰えに打ち負かされ、やってくるとします。彼らに、わたしは、このように説くとします。『比丘たちよ、まさに、わたしは、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者として存しています。そして、わたしの、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存しています。それで、もし、望むなら、〔それを〕食べなさい。もし、あなたたちが食べないなら、今や、わたしは、あるいは、緑が少ないところに捨てるでしょうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるでしょう』と。そこで、一者の比丘に、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、世尊は、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者である。そして、世尊の、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存在する。それで、もし、わたしたちが食べないなら、今や、世尊は、あるいは、緑が少ないところに捨てるであろうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるであろう。また、まさに、世尊によって、このことが説かれた。「比丘たちよ、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません」と。また、まさに、これは、財貨のなかの或る一つである。すなわち、この、〔行乞の〕施食は。それなら、さあ、わたしは、この〔行乞の〕施食を食べずして、まさしく、この飢えと力の衰えとともに、このように、この夜と昼を過ごすのだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を食べずして、まさしく、この飢えと力の衰えとともに、このように、その夜と昼を過ごすとします。そこで、第二の比丘に、このような〔思いが〕存するとします。『まさに、世尊は、食事を終え、充足し、遍く満ち、遍く了し、義(目的)とするだけ、満腹した者である。そして、世尊の、この〔行乞の〕施食は、超過の法(性質)あるものとして、捨てるべき法(性質)あるものとして、存在する。それで、もし、わたしたちが食べないなら、今や、世尊は、あるいは、緑が少ないところに捨てるであろうし、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めるであろう。それなら、さあ、わたしは、この〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、この夜と昼を過ごすのだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、その夜と昼を過ごすとします。比丘たちよ、たとえ、何であれ、その比丘が、その〔行乞の〕施食を食べて、飢えと力の衰えを除き去って、このように、その夜と昼を過ごすとして、そこで、まさに、わたしにとって、まさしく、この最初の比丘は、かつまた、より供養されるべき者であり、かつまた、より賞賛されるべき者です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、それは、その比丘にとって、長夜にわたり、少なき欲求たること(少欲)のために、満ち足りていること(知足)のために、謹厳のために、扶養し易きことのために、精進勉励のために、等しく転起するであろうからです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、わたしの法(教え)の相続者たちと成りなさい。財貨の相続者たちと〔成っては〕いけません。わたしには、あなたたちにたいする慈しみ〔の思い〕が存在します。『どのようなわけであれ、弟子たちは、わたしの法(教え)の相続者たちと成るべきである──財貨の相続者たちではなく』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者(善逝:ブッダの尊称)は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

31. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しないのですか。また、そして、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学するのですか」と。「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、いったい、まさに、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しないのですか。友よ、ここに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しません。かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しません。さらに、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有ります。友よ、そこで、長老の比丘たちは、三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しない』と、この第一の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しない』と、この第二の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとしてある』と、この第三の状況によって、長老の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。友よ、長老の比丘たちは、これらの三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。友よ、そこで、中堅の比丘たちは……略……新参の比丘たちは、三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学しない』と、この第一の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったのに、しかしながら、それらの法(性質)を捨棄しない』と、この第二の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちとして(※)、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとしてある』と、この第三の状況によって、新参の比丘たちは、非難されるべき者たちと成ります。友よ、新参の比丘たちは、これらの三つの状況によって非難されるべき者たちと成ります。友よ、このことから、まさに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学しません。

 

※ テキストには Bāhulikā ca honti とあるが、PTS版により honti を削除する。

 

32. 友よ、また、そして、どのようなことから、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学するのですか。友よ、ここに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学します。かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄します。さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有ります。友よ、そこで、長老の比丘たちは、三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学する』と、この第一の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄する』と、この第二の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとしてある』と、この第三の状況によって、長老の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、長老の比丘たちは、これらの三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、そこで、中堅の比丘たちは……略……新参の比丘たちは、三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。『教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちとして、遠離に随学する』と、この第一の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『かつまた、教師が、それらの法(性質)の捨棄を言ったなら、そして、それらの法(性質)を捨棄する』と、この第二の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。『さらに、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとしてある』と、この第三の状況によって、新参の比丘たちは、賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、新参の比丘たちは、これらの三つの状況によって賞賛されるべき者たちと成ります。友よ、このことから、まさに、教師が遠離し、〔世に〕住んでいるとき、弟子たちは、遠離に随学します。

 

33. 友よ、そこで、そして、貪欲()は悪しきものであり、さらに、憤怒()は悪しきものです。そして、貪欲の捨棄のために、さらに、憤怒の捨棄のために、中なる〔実践の〕道(中道)が存在し、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。友よ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。友よ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 友よ、そこで、そして、忿激(忿)は悪しきものであり、さらに、怨恨()は悪しきものです。……略……そして、偽装()は悪しきものであり、さらに、加虐()は悪しきものです。……そして、嫉妬()は悪しきものであり、さらに、物惜()は悪しきものです。……そして、幻惑()は悪しきものであり、さらに、狡猾()は悪しきものです。……そして、強情()は悪しきものであり、さらに、激昂()は悪しきものです。……そして、思量()は悪しきものであり、さらに、高慢(過慢)は悪しきものです。……そして、驕慢()は悪しきものであり、さらに、放逸は悪しきものです。そして、驕慢の捨棄のために、さらに、放逸の捨棄のために、中なる〔実践の〕道が存在し、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。友よ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。友よ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 法の相続者の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4. 恐怖と恐ろしさの経

 

34. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、これらの者たちは、貴君ゴータマを指定して、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、貴君ゴータマは、彼らにとって先行者であり、貴君ゴータマは、彼らのために多く〔の利益〕を作り為す者であり、貴君ゴータマは、彼らの督励者であり、また、そして、その人々は、貴君ゴータマに随従する見解を惹起します」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、すなわち、それらの者たちは、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、わたしは、彼らにとって先行者であり、わたしは、彼らのために多く〔の利益〕を作り為す者であり、わたしは、彼らの督励者であり、また、そして、その人々は、わたしに随従する見解を惹起します」と。「貴君ゴータマよ、まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所です。為し難きは、喜び難きは、遠離です。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去るのです」と。「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所です。為し難きは、喜び難きは、遠離です。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去るのです」と。

 

35. 「婆羅門よ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしにもまた、この〔思い〕が有りました。『まさに、征服し難きは、まさに、諸々の林地や林野の辺境であり、諸々の辺地の臥坐所である。為し難きは、喜び難きは、遠離である。独りあるとき、思うに、諸々の林が、禅定を得ずにいる比丘の意を運び去る』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄ならざる身体の行業ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、完全なる清浄ならざる身体の行業という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、完全なる清浄ならざる身体の行業ある者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、完全なる清浄の身体の行業ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、完全なる清浄の身体の行業ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この完全なる清浄の身体の行業あることを(※)、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

※ テキストには parisuddhakāyakammata とあるが、PTS版により parisuddhakāyakammantata と読む。

 

36. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、完全なる清浄ならざる言葉の行業ある者たちとして……略……完全なる清浄ならざる意の行業ある者たちとして……略……完全なる清浄ならざる生き方ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、完全なる清浄ならざる生き方という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、完全なる清浄ならざる生き方ある者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、完全なる清浄の生き方ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、完全なる清浄の生き方ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この完全なる清浄の生き方あることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

37. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、強欲〔の思い〕ある者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、強欲〔の思い〕と諸々の欲望〔の対象〕にたいする強き貪染という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、強欲〔の思い〕ある者ではなく、諸々の欲望〔の対象〕にたいし強き貪染ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、強欲〔の思い〕なき者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、強欲〔の思い〕なき者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この強欲〔の思い〕なきことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

38. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、憎悪している心の者たちとして、汚れた意と思惟ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、憎悪している心と汚れた意と思惟という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、憎悪している心の者ではなく、汚れた意と思惟ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、慈愛の心ある者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、慈愛の心ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この慈愛の心あることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

39. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に遍く取り囲まれた者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれる汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

40. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心が〕高揚している者たちとして、寂止していない心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、高揚し寂止していない心という汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心が〕高揚している者ではなく、寂止していない心の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、寂止した心の者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、寂止した心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この、寂止した心の者たることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

41. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、疑いある者たちとして、疑惑ある者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、疑いと疑惑ある汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、疑いある者ではなく、疑惑ある者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、疑惑〔の思い〕を超えた者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、疑惑〔の思い〕を超えた者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この疑惑〔の思い〕を超えたことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

42. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、自己を賞揚し他者を蔑視する者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、自己を賞揚し他者を蔑視する汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、自己を賞揚し他者を蔑視する者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この自己を賞揚せず他者を蔑視しないことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

43. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、驚愕ある者たちとして、恐れる類の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、驚愕と恐れる類の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、驚愕ある者ではなく、恐れる類の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、身の毛のよだちが離れ去った者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、身の毛のよだちが離れ去った者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この身の毛のよだちが離れ去ったことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

44. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、利得と尊敬と名声を欲している者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、利得と尊敬と名声を欲する汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、利得と尊敬と名声を欲している者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、少なき欲求の者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、少なき欲求の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この少なき欲求たることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

45. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、怠惰で精進に劣る者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、怠惰で精進に劣る汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、怠惰で精進に劣る者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、精進に励む者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、精進に励む者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この精進に励むことを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

46. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、気づき()を忘却している者たちとして、正知なき者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、気づきが忘却され正知なき汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、気づきが忘却された者ではなく、正知なき者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、気づきが現起された者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、気づきが現起された者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この気づきが現起されていることを、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

47. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔心が〕定められていない者たちとして、散乱した心の者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、定められず散乱した心の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、〔心が〕定められていない者ではなく、散乱した心の者では〔なく〕、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、禅定(定・三昧)を成就した者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、禅定を成就した者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この禅定の成就を、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

48. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、智慧浅き者たる蒙者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するなら、智慧浅き者たる蒙者の汚点を因として、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、善ならざる恐怖と恐ろしさを招き寄せる。また、まさに、わたしは、智慧浅き者たる蒙者ではなく、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、智慧(慧・般若)を成就した者として、わたしは存している。なぜなら、すなわち、まさに、聖者たちは、智慧を成就した者たちとして、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用し、わたしは、彼らのなかの随一の者であるからだ』と。婆羅門よ、わたしは、この智慧の成就を、自己のうちに正しく見ながら、より一層の安寧を惹起しました──林における住のために。

 

 十六の教相は〔以上で〕終了となる。

 

49. 婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、すなわち、それらの、証知され特定された夜である、十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に、そのような形態の夜においては、すなわち、それらの、霊園があり、霊林があり、霊木があり、禍々しく身の毛のよだちを有する、そのような形態の臥坐所に住むのだ。まさしく、おそらく、まさに、わたしは、恐怖と恐ろしさを見るであろう』と。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、すなわち、それらの、証知され特定された夜である、十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に、そのような形態の夜においては、すなわち、それらの、霊園があり、霊林があり、霊木があり、禍々しく身の毛のよだちを有する、そのような形態の臥坐所に住みます。婆羅門よ、そして、そこにおいて、わたしが住んでいると、あるいは、鹿がやってきたり、あるいは、孔雀が小枝を落とし、あるいは、風が落ち葉を揺らします。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『これが、まちがいなく、その恐怖と恐ろしさとしてやってくるのだ』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうして、わたしが、何はともあれ、恐怖を待つ者となり、〔虚しく〕住むというのだろう。それなら、さあ、わたしは、事実のとおりにあるわたしのもとに、その恐怖と恐ろしさが、事実のとおりにやってくるままに、まさしく、事実のとおりにある者として、その恐怖と恐ろしさを、事実のとおりに取り除くのだ』と。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが歩行していると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、歩行している〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、立たず、坐らず、横になりません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが立っていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、立っている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、歩行せず、坐らず、横になりません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが坐っていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、坐っている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、横にならず、立たず、歩行しません。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしが横になっていると、その恐怖と恐ろしさがやってきます。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、すなわち、まさしく、横になっている〔わたし〕が、その恐怖と恐ろしさを取り除くまで、それまでは、まさしく、坐らず、立たず、歩行しません。

 

50. 婆羅門よ、また、まさに、或る沙門や婆羅門たちが存在します。まさしく、夜を、〔そのように〕存しているのに、『昼である』と表象し、まさしく、昼を、〔そのように〕存しているのに、『夜である』と表象します。わたしは、これを、それらの沙門や婆羅門たちの迷妄の住におけるものと説きます。婆羅門よ、また、まさに、わたしは、まさしく、夜を、〔そのように〕存しているなら、『夜である』と表象し、まさしく、昼を、〔そのように〕存しているなら、『昼である』と表象します。婆羅門よ、すなわち、まさに、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くなら、婆羅門よ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

51. 婆羅門よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成りました。気づきは現起され、忘却なきものと〔成りました〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成りました〕。心は定められ、一境のものと〔成りました〕。婆羅門よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。

 

52. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の初夜(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

53. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の夜の中夜(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

54. 婆羅門よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。婆羅門よ、まさに、わたしには、夜の後夜(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

55. 婆羅門よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『今もまた、まちがいなく、沙門ゴータマは、貪欲を離れていない者であり、憤怒を離れていない者であり、迷妄を離れていない者であり、それゆえに、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する』と。婆羅門よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。婆羅門よ、まさに、わたしは、二つの義(利益)たる所以を正しく見ながら、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用します──そして、自己の所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)を正しく見ながら、さらに、後の人々を慈しみながら」と。

 

56. 「貴君ゴータマによって──すなわち、そのように、阿羅漢にして正等覚者によって──慈しまれた形態あるは、まさに、この、後の人々です。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態()を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 恐怖と恐ろしさの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5. 穢れなき者の経

 

57. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知します。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知します。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます」と。

 

58. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか。友よ、サーリプッタよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか」と。

 

59. 「友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、より完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、より完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。

 

 友よ、モッガッラーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます。友よ、モッガッラーナよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます」と。

 

60. 「友よ、『穢れ』『穢れ』と説かれます。友よ、いったい、まさに、これは、何の同義語なのですか。すなわち、この、『穢れ』〔とは〕」と。「友よ、まさに、これは、諸々の悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕罪を犯した者として存している。しかしながら、わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知るべきにあらず』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、『罪を犯した者である』と知ることです。『わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知る』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。わたしのことを、比丘たちは、内密に叱責するべきである──僧団の中において、ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、僧団の中において叱責することです──内密に、ではなく。『わたしのことを、比丘たちは、僧団の中において叱責する──内密に、ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。対する人を有する者(同等の者)が、わたしを叱責するべきである──対する人なき者ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、対する人なき者が、その比丘を叱責することです──対する人を有する者ではなく。『対する人なき者が、わたしを叱責する──対する人を有する者ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、教師は、まさしく、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、教師が、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示することです。教師が、その比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示する。教師は、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、比丘たちは、まさしく、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきである。比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、比丘たちが、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ることです。比丘たちが、その比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ること、ではなく。『比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入る。比丘たちは、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入らない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきである。他の比丘は、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ることです。その比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得る。わたしは、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきである。他の比丘は、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜することです。その比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜すること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜する。わたしは、食堂において、食事を終えた者として随喜しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘尼たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……在俗信者(優婆塞)たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘尼たちは……略……在俗信者たちは……略……女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる衣料の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる〔行乞の〕施食の得者として存するべきである。……略……諸々の精妙なる臥坐具の……略……諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。

 

 友よ、まさに、これは、これらの悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。

 

61. 友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適わない〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪〔の思い〕が確立し、さらに、忌避〔の思い〕が確立し、飢えている者たちにもまた、食欲は存さないでしょう──満腹している者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。

 

62. 友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味を置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適う〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪ならざる〔思い〕が確立し、さらに、忌避ならざる〔思い〕が確立し、満腹している者たちにもまた、食欲が存するでしょう──飢えている者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです」と。

 

63. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「友よ、モッガッラーナよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語ってください)」と。「友よ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ギリッバジャ(ラージャガハの別名)において。友よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、車工の子のサミーティが、車の外輪を加工します、〔まさに〕その、この者のもとに、以前に車工の子であるアージーヴァカ(活命者・邪命外道)のパンドゥプッタが現われるところと成ります。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、このような心の思索が浮かびました。『ああ、まさに、この者は、車工の子のサミーティは、この外輪の、かつまた、この湾曲を、かつまた、この歪曲を、かつまた、この汚点を、加工するべきである。このように、この外輪は、湾曲を離去し、歪曲を離去し、汚点を離去し、清浄なるものとなり、芯において確立したものとなり、存するべきである』と。友よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、心の思索が有るなら、そのとおり、そのとおりに、車工の子のサミーティは、その外輪の、かつまた、その湾曲を、かつまた、その歪曲を、かつまた、その汚点を、加工します。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタは、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちました。『思うに、心臓から心臓を了知して加工するのだ(わたしの心を読んで作業する)』と。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、尊者サーリプッタは、彼らのために、この法(教え)の教相によって、思うに、心臓から心臓を了知して加工するのです。

 

 いっぽう、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです──まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』と。友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン)の花飾を、あるいは、アティムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置くように、友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです──まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』」と。まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者は、互いに他の見事に語られたものを等しく随喜した、ということです。

 

 穢れなき者の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6. 「望むなら」の経

 

64. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びなさい。

 

65. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者として、かつまた、意に適う者として、かつまた、重き者として、かつまた、尊ばれる者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想(禅・静慮)を放却しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者(瞑想修行に励む者)として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『それらの者たちの諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『すなわち、〔わたしの〕親族たちや血縁たちが命を終えた亡者たちとなり、浄信した心の者たちとして、わたしのことを随念するなら、彼らのために、その〔功徳〕は、大いなる果となり、大いなる福利となり、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

66. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、不満〔の思い〕はわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した不満〔の思い〕を征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕恐怖と恐ろしさを打ち負かす者として〔世に〕存するべきだ。そして、恐怖と恐ろしさはわたしを打ち負かすべきではなく、〔わたしは〕生起した恐怖と恐ろしさを征服しては征服して〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕存するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住むべきだ──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)である』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

67. 比丘たちよ、もし、比丘が、『三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者として〔世に〕存するべきだ──堕所の法(性質)なき者として、決定の者として、正覚を行き着く所とする者として』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者として〔世に〕存するべきであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者として〔世に〕存するべきだ──そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者として、その世から戻り来る法(性質)なき者として』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

68. 比丘たちよ、もし、比丘が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における……略……諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 比丘たちよ、もし、比丘が、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

69. 比丘たちよ、もし、比丘が、『〔わたしは〕諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)を、〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、まさしく、諸戒における円満成就を為す者として、内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として、〔世に〕存するべきです。

 

 『比丘たちよ、戒を成就した者たちとして、戒条を成就した者たちとして、〔世に〕住みなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 「望むなら」の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7. 衣装の経

 

70. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、悪しく染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄ならざる色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄ならざることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されているとき、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、完全なる清浄にして完全なる清白の衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、善く染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄の色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄なることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されていないとき、善き境遇が待っています。

 

71. 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)なのですか。強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れです。怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れです。偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れです。加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れです。嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れです。物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れです。幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れです。狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れです。強情は、心の、付随する〔心の〕汚れです。激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れです。思量は、心の、付随する〔心の〕汚れです。高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れです。

 

72. 比丘たちよ、それで、まさに、その比丘は、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕を捨棄し、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕を捨棄し、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激を捨棄し、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨を捨棄し、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装を捨棄し、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐を捨棄し、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬を捨棄し、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜を捨棄し、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑を捨棄し、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾を捨棄し、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情を捨棄し、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂を捨棄し、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量を捨棄し、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢を捨棄し、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢を捨棄し、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸を捨棄します。

 

73. 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激が捨棄されたものと成り、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨が捨棄されたものと成り、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装が捨棄されたものと成り、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐が捨棄されたものと成り、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬が捨棄されたものと成り、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜が捨棄されたものと成り、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑が捨棄されたものと成り、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾が捨棄されたものと成り、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情が捨棄されたものと成り、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂が捨棄されたものと成り、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量が捨棄されたものと成り、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢が捨棄されたものと成り、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢が捨棄されたものと成り、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸が捨棄されたものと成ることから──

 

74. 彼は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。

 

75. また、まさに、すなわち、限界まで、彼の、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものと成り、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。彼は、『覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『法(教え)にたいする……略……。『僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『また、まさに、すなわち、限界まで、わたしの、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものとなり、吐き捨てられたものとなり、解き放たれたものとなり、捨棄されたものとなり、放棄されたものとなる』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

 

76. 比丘たちよ、それで、まさに、その比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装が、澄んだ水に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、また、あるいは、金が、溶炉の口に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。

 

77. 彼は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

78. 彼は、『これが存在する』『下劣なるものが存在する』『精妙なるものが存在する』『この表象を具したものには、より上なる出離が存在する』と覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、内なる沐浴によって沐浴した者である』〔と〕説かれます」と。

 

79. また、まさに、その時点にあって、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「さてまた、貴君ゴータマは、バーフカー川に赴きますか──沐浴するべく」と。「婆羅門よ、バーフカー川に、何があるというのでしょう。バーフカー川が、何を為すというのでしょう」と。「貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、浄域として敬われています。貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、功徳として敬われています。また、バーフカー川において、多くの人々は、〔過去に〕為した悪しき行為(悪業)を流し去ります」と。そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「バーフカー〔川〕に、そして、アディカッカー〔川〕に、ガヤー〔川〕に、また、スンダリカー〔川〕に、サラッサティー〔川〕に、そして、パヤーガー〔川〕に、さらに、バーフマティー川に、愚者が、たとえ、常に飛び込むも、黒き行為は清まらない。

 

 スンダリカー〔川〕が、何を為すというのだろう──パヤーガー〔川〕が、何を──バーフカー川が、何を。怨みある者を、罪障を作った者を、悪しき行為あるその人を、まさに、清めない。

 

 まさに、清浄の者には、常に春がある。清浄の者には、常に斎戒(布薩)がある。清浄の者にして清らかな行為ある者には、常に掟が成就する。婆羅門よ、まさしく、ここに、沐浴せよ。一切の生類たちにたいし、平安なることを為せ。

 

 それで、もし、〔あなたが〕虚偽を話さないなら、それで、もし、命あるものを害さないなら、それで、もし、与えられていないものを取らないなら、〔あなたが〕信ある者であり、物惜なき者であるなら、ガヤー〔川〕に赴いて、何を為すというのだろう。あなたにとって、ガヤー〔川〕が飲み水であるもまた」と。

 

80. このように説かれたとき、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

 

 衣装の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8. 謹厳の経

 

81. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・チュンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、自己の論に関係したものが、あるいは、世の論に関係したものが。尊き方よ、いったい、まさに、比丘が、〔教えにおける〕初等のものだけに意を為していると、このように、これらの見解の捨棄が有り、このように、これらの見解の放棄が有りますか」と。

 

82. 「チュンダよ、すなわち、これらの無数〔の流儀〕に関した見解が、世に生起します──あるいは、自己の論に関係したものが、あるいは、世の論に関係したものが。チュンダよ、これらの見解が、そして、そこにおいて生起し、かつまた、そこにおいて悪習となり、さらに、そこにおいて慣行となるも、それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって(※)見ていると、このように、これらの見解の捨棄が有り、このように、これらの見解の放棄が有ります。

 

※ テキストには sammappaññā とあるが、PTS版により sammappaññāya と読む。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、所見の法(現世)における安楽の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

 チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住み、彼に、このような〔思いが〕存することです。『〔わたしは〕謹厳によって〔世に〕住む』と。チュンダよ、また、まさに、これらのものは、聖者の律において、謹厳と説かれません。これらのものは、聖者の律において、寂静の住と説かれます。

 

83. チュンダよ、また、まさに、ここに、あなたたちによって、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、害する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、害さない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、命あるものを殺すことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、与えられていないものを取る者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、梵行なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、梵行ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、虚偽を説く者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、虚偽を説くことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、中傷の言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、中傷の言葉から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、粗暴な言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、粗暴な言葉から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、雑駁な虚論ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、雑駁な虚論から離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、強欲〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、強欲〔の思い〕なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、憎悪している心の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、憎悪していない心の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った見解ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい見解ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った思惟ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい思惟ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った言葉ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい言葉ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った行業ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい行業ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った生き方ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい生き方ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った努力ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい努力ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った気づきある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい気づきある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った禅定ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい禅定ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った知恵ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい知恵ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、誤った解脱ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、正しい解脱ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。

 

 『他者たちが、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、〔心が〕高揚した者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔心が〕高揚しない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、疑惑〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、疑惑〔の思い〕を超えた者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、忿激する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、忿激しない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、怨恨ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、怨恨なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、偽装ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、偽装なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、加虐ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、加虐なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、嫉妬ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、嫉妬なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、物惜ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、物惜なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、狡猾ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、狡猾なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、幻惑ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、幻惑なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、強情ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、強情なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、高慢ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、高慢なき者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、頑固な者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、素直な者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、悪しき朋友ある者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、善き朋友ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、放逸の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、不放逸の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、信なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、信ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、恥〔の思い〕()なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、恥〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、〔良心の〕咎め()なき者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、〔良心の〕咎めある者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、少聞の者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、多聞の者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、怠惰な者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、精進に励む者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、気づきが忘却された者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、気づきが現起された者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、智慧浅き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、智慧を成就した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。『他者たちが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者たちとして〔世に〕有るのだ』と、謹厳が為されるべきです。

 

84. チュンダよ、諸々の善なる法(性質)においては、心の生起もまた、多く〔の利益〕を作り為すものと、まさに、わたしは説きます。身体と言葉によって順守されるべきものにおいては、また、何の論があるというのでしょう。チュンダよ、それゆえに、ここに、『他者たちが、害する者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、害さない者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。『他者たちが、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、命あるものを殺すことから離間した者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。……。『他者たちが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者たちとして〔世に〕有るも、わたしたちは、ここにおいて、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者たちとして〔世に〕有るのだ』と、心が生起させられるべきです。

 

85. チュンダよ、それは、たとえば、また、平坦ならざる道が存するなら、その〔道〕の回避のために、他の平坦な道があるようなものです。チュンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、平坦ならざる渡し場が存するなら、その〔道〕の回避のために、他の平坦な渡し場があるようなものです。チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、回避のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。与えられていないものを取る者としてある人士たる人にとって、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。梵行なき者としてある人士たる人にとって、梵行なきことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。虚偽を説く者としてある人士たる人にとって、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。中傷の言葉ある者としてある人士たる人にとって、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。粗暴な言葉ある者としてある人士たる人にとって、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。雑駁な虚論ある者としてある人士たる人にとって、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、回避のために成ります。強欲〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、回避のために成ります。憎悪している心の者としてある人士たる人にとって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、回避のために成ります。誤った見解ある者としてある人士たる人にとって、正しい見解は、回避のために成ります。誤った思惟ある者としてある人士たる人にとって、正しい思惟は、回避のために成ります。誤った言葉ある者としてある人士たる人にとって、正しい言葉は、回避のために成ります。誤った行業ある者としてある人士たる人にとって、正しい行業は、回避のために成ります。誤った生き方ある者としてある人士たる人にとって、正しい生き方は、回避のために成ります。誤った努力ある者としてある人士たる人にとって、正しい努力は、回避のために成ります。誤った気づきある者としてある人士たる人にとって、正しい気づきは、回避のために成ります。誤った禅定ある者としてある人士たる人にとって、正しい禅定は、回避のために成ります。誤った知恵ある者としてある人士たる人にとって、正しい知恵は、回避のために成ります。誤った解脱ある者としてある人士たる人にとって、正しい解脱は、回避のために成ります。

 

 〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者としてある人士たる人にとって、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことは、回避のために成ります。〔心が〕高揚した者としてある人士たる人にとって、〔心が〕高揚しないことは、回避のために成ります。疑惑〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、疑惑〔の思い〕を超えたことは、回避のために成ります。忿激する者としてある人士たる人にとって、忿激なきことは、回避のために成ります。怨恨ある者としてある人士たる人にとって、怨恨なきことは、回避のために成ります。偽装ある者としてある人士たる人にとって、偽装なきことは、回避のために成ります。加虐ある者としてある人士たる人にとって、加虐なきことは、回避のために成ります。嫉妬ある者としてある人士たる人にとって、嫉妬なきことは、回避のために成ります。物惜ある者としてある人士たる人にとって、物惜なきことは、回避のために成ります。狡猾ある者としてある人士たる人にとって、狡猾なきことは、回避のために成ります。幻惑ある者としてある人士たる人にとって、幻惑なきことは、回避のために成ります。強情ある者としてある人士たる人にとって、強情なきことは、回避のために成ります。高慢ある者としてある人士たる人にとって、高慢なきことは、回避のために成ります。頑固な者としてある人士たる人にとって、素直なことは、回避のために成ります。悪しき朋友ある者としてある人士たる人にとって、善き朋友あることは、回避のために成ります。放逸の者としてある人士たる人にとって、不放逸は、回避のために成ります。信なき者としてある人士たる人にとって、信は、回避のために成ります。恥〔の思い〕なき者としてある人士たる人にとって、恥〔の思い〕は、回避のために成ります。〔良心の〕咎めなき者としてある人士たる人にとって、〔良心の〕咎めは、回避のために成ります。少聞の者としてある人士たる人にとって、多聞は、回避のために成ります。怠惰な者としてある人士たる人にとって、精進勉励は、回避のために成ります。気づきが忘却された者としてある人士たる人にとって、気づきが現起されていることは、回避のために成ります。智慧浅き者としてある人士たる人にとって、智慧の成就は、回避のために成ります。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、回避のために成ります。

 

86. チュンダよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、下なる域に至るべきものであり、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、上なる域に至るべきものであるように、チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、上なる域のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、上なる域のために成ります。……略……。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、上なる域のために成ります。

 

87. チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されません。チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまっていない者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されます。チュンダよ、まさに、自己みずから調御されず教導されず完全なる涅槃に到達していない者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されません。チュンダよ、まさに、自己みずから調御され教導され完全なる涅槃に到達した者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されます。チュンダよ、まさしく、このように、まさに、害する者としてある人士たる人にとって、不害は、完全なる涅槃のために成ります。命あるものを殺す者としてある人士たる人にとって、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。与えられていないものを取る者としてある人士たる人にとって、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。梵行なき者としてある人士たる人にとって、梵行なきことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。虚偽を説く者としてある人士たる人にとって、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。中傷の言葉ある者としてある人士たる人にとって、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。粗暴な言葉ある者としてある人士たる人にとって、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。雑駁な虚論ある者としてある人士たる人にとって、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。強欲〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。憎悪している心の者としてある人士たる人にとって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、完全なる涅槃のために成ります。誤った見解ある者としてある人士たる人にとって、正しい見解は、完全なる涅槃のために成ります。誤った思惟ある者としてある人士たる人にとって、正しい思惟は、完全なる涅槃のために成ります。誤った言葉ある者としてある人士たる人にとって、正しい言葉は、完全なる涅槃のために成ります。誤った行業ある者としてある人士たる人にとって、正しい行業は、完全なる涅槃のために成ります。誤った生き方ある者としてある人士たる人にとって、正しい生き方は、完全なる涅槃のために成ります。誤った努力ある者としてある人士たる人にとって、正しい努力は、完全なる涅槃のために成ります。誤った気づきある者としてある人士たる人にとって、正しい気づきは、完全なる涅槃のために成ります。誤った禅定ある者としてある人士たる人にとって、正しい禅定は、完全なる涅槃のために成ります。誤った知恵ある者としてある人士たる人にとって、正しい知恵は、完全なる涅槃のために成ります。誤った解脱ある者としてある人士たる人にとって、正しい解脱は、完全なる涅槃のために成ります。

 

 〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者としてある人士たる人にとって、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去ったことは、完全なる涅槃のために成ります。〔心が〕高揚した者としてある人士たる人にとって、〔心が〕高揚しないことは、完全なる涅槃のために成ります。疑惑〔の思い〕ある者としてある人士たる人にとって、疑惑〔の思い〕を超えたことは、完全なる涅槃のために成ります。忿激する者としてある人士たる人にとって、忿激なきことは、完全なる涅槃のために成ります。怨恨ある者としてある人士たる人にとって、怨恨なきことは、完全なる涅槃のために成ります。偽装ある者としてある人士たる人にとって、偽装なきことは、完全なる涅槃のために成ります。加虐ある者としてある人士たる人にとって、加虐なきことは、完全なる涅槃のために成ります。嫉妬ある者としてある人士たる人にとって、嫉妬なきことは、完全なる涅槃のために成ります。物惜ある者としてある人士たる人にとって、物惜なきことは、完全なる涅槃のために成ります。狡猾ある者としてある人士たる人にとって、狡猾なきことは、完全なる涅槃のために成ります。幻惑ある者としてある人士たる人にとって、幻惑なきことは、完全なる涅槃のために成ります。強情ある者としてある人士たる人にとって、強情なきことは、完全なる涅槃のために成ります。高慢ある者としてある人士たる人にとって、高慢なきことは、完全なる涅槃のために成ります。頑固な者としてある人士たる人にとって、素直なことは、完全なる涅槃のために成ります。悪しき朋友ある者としてある人士たる人にとって、善き朋友あることは、完全なる涅槃のために成ります。放逸の者としてある人士たる人にとって、不放逸は、完全なる涅槃のために成ります。信なき者としてある人士たる人にとって、信は、完全なる涅槃のために成ります。恥〔の思い〕なき者としてある人士たる人にとって、恥〔の思い〕は、完全なる涅槃のために成ります。〔良心の〕咎めなき者としてある人士たる人にとって、〔良心の〕咎めは、完全なる涅槃のために成ります。少聞の者としてある人士たる人にとって、多聞は、完全なる涅槃のために成ります。怠惰な者としてある人士たる人にとって、精進勉励は、完全なる涅槃のために成ります。気づきが忘却された者としてある人士たる人にとって、気づきが現起されていることは、完全なる涅槃のために成ります。智慧浅き者としてある人士たる人にとって、智慧の成就は、完全なる涅槃のために成ります。自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者としてある人士たる人にとって、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易きことは、完全なる涅槃のために成ります。

 

88. チュンダよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、謹厳の教相が説示され、心の生起の教相が説示され、回避の教相が説示され、上なる域の教相が説示され、完全なる涅槃の教相が説示されました。チュンダよ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。チュンダよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。チュンダよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、まさに、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・チュンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四十の句が説かれ、五つの連鎖が説示された──謹厳という名の経典が、海洋の如く深遠なるものとして」と。

 

 謹厳の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9. 正しい見解の経

 

89. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、『正しい見解(正見)』『正しい見解』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成るのですか〕」と。

 

 「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、善ならざるものを覚知し、さらに、善ならざるものの根元を覚知することから、そして、善なるものを覚知し、さらに、善なるものの根元を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、善ならざるものであり、どのようなものが、善ならざるものの根元であり、どのようなものが、善なるものであり、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことは、善ならざるものです。与えられていないものを取ることは、善ならざるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)は、善ならざるものです。虚偽を説くことは、善ならざるものです。中傷の言葉は、善ならざるものです。粗暴な言葉は、善ならざるものです。雑駁な虚論は、善ならざるものです。強欲〔の思い〕は、善ならざるものです。憎悪〔の思い〕は、善ならざるものです。誤った見解は、善ならざるものです。友よ、これは、善ならざるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善ならざるものの根元なのですか。貪欲()は、善ならざるものの根元です。憤怒()は、善ならざるものの根元です。迷妄()は、善ならざるものの根元です。友よ、これは、善ならざるものの根元と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、善なるものなのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、善なるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、善なるものです。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、善なるものです。強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。正しい見解は、善なるものです。友よ、これは、善なるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものの根元です。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものの根元です。迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものの根元です。友よ、これは、善なるものの根元と説かれます。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、善ならざるものを覚知し、このように、善ならざるものの根元を覚知することから、このように、善なるものを覚知し、このように、善なるものの根元を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠:貪りの潜在煩悩)を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習(瞋随眠:怒りの潜在煩悩)を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習(見慢随眠:自我意識の潜在煩悩)を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

90. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、食(動力源・エネルギー)を覚知し、かつまた、食の集起を覚知し、かつまた、食の止滅を覚知し、さらに、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、食であり、どのようなものが、食の集起であり、どのようなものが、食の止滅であり、どのようなものが、食の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。渇愛()の集起あることから、食の集起があります。渇愛の止滅あることから、食の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、食の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、食を覚知し、このように、食の集起を覚知し、このように、食の止滅を覚知し、このように、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

91. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、苦しみを覚知し、かつまた、苦しみの集起を覚知し、かつまた、苦しみの止滅を覚知し、さらに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、苦しみであり、どのようなものが、苦しみの集起であり、どのようなものが、苦しみの止滅であり、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。友よ、これは、苦しみと説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、これは、苦しみの集起と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。友よ、これは、苦しみの止滅と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道と説かれます。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、苦しみを覚知し、このように、苦しみの集起を覚知し、このように、苦しみの止滅を覚知し、このように、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

92. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、さらに、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、老と死であり、どのようなものが、老と死の集起であり、どのようなものが、老と死の止滅であり、どのようなものが、老と死の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟は、友よ、これは、老と説かれます。友よ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の破壊、死体の捨置、生命の機能(命根)の断絶は、友よ、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、友よ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、老と死を覚知し、このように、老と死の集起を覚知し、このように、老と死の止滅を覚知し、このように、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

93. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、さらに、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生であり、どのようなものが、生の集起であり、どのようなものが、生の止滅であり、どのようなものが、生の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得は、友よ、これは、生と説かれます。生存()の集起あることから、生の集起があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生を覚知し、このように、生の集起を覚知し、このように、生の止滅を覚知し、このように、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

94. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生存を覚知し、かつまた、生存の集起を覚知し、かつまた、生存の止滅を覚知し、さらに、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生存であり、どのようなものが、生存の集起であり、どのようなものが、生存の止滅であり、どのようなものが、生存の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。執取()の集起あることから、生存の集起があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生存の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生存を覚知し、このように、生存の集起を覚知し、このように、生存の止滅を覚知し、このように、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

95. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、執取を覚知し、かつまた、執取の集起を覚知し、かつまた、執取の止滅を覚知し、さらに、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、執取であり、どのようなものが、執取の集起であり、どのようなものが、執取の止滅であり、どのようなものが、執取の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの四つの執取があります。欲望〔の対象〕への執取であり、見解への執取であり、戒と掟への執取であり、自己の論への執取です。渇愛()の集起あることから、執取の集起があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、執取の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、執取を覚知し、このように、執取の集起を覚知し、このように、執取の止滅を覚知し、このように、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

96. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、渇愛を覚知し、かつまた、渇愛の集起を覚知し、かつまた、渇愛の止滅を覚知し、さらに、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、渇愛であり、どのようなものが、渇愛の集起であり、どのようなものが、渇愛の止滅であり、どのようなものが、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの渇愛の体系があります。形態()の渇愛であり、音声()の渇愛であり、臭気()の渇愛であり、味感()の渇愛であり、感触(所触)の渇愛であり、法(:意の対象)の渇愛です。感受(:楽苦の知覚)の集起あることから、渇愛の集起があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、渇愛を覚知し、このように、渇愛の集起を覚知し、このように、渇愛の止滅を覚知し、このように、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

97. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、感受を覚知し、かつまた、感受の集起を覚知し、かつまた、感受の止滅を覚知し、さらに、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。接触(:感覚の発生)の集起あることから、感受の集起があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、感受を覚知し、このように、感受の集起を覚知し、このように、感受の止滅を覚知し、このように、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

98. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、接触を覚知し、かつまた、接触の集起を覚知し、かつまた、接触の止滅を覚知し、さらに、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、接触であり、どのようなものが、接触の集起であり、どのようなものが、接触の止滅であり、どのようなものが、接触の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの接触の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)の集起あることから、接触の集起があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、接触の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、接触を覚知し、このように、接触の集起を覚知し、このように、接触の止滅を覚知し、このように、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

99. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、六つの〔認識の〕場所を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、さらに、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の集起であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの〔認識の〕場所があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。名前と形態(名色:心と身体)の集起あることから、六つの〔認識の〕場所の集起があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、六つの〔認識の〕場所を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

100. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、名前と形態を覚知し、かつまた、名前と形態の集起を覚知し、かつまた、名前と形態の止滅を覚知し、さらに、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、名前と形態であり、どのようなものが、名前と形態の集起であり、どのようなものが、名前と形態の止滅であり、どのようなものが、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。感受()、表象()、思欲()、接触()、意を為すこと(作意)は、友よ、これは、名前と説かれます。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)は、友よ、これは、形態と説かれます。かくのごとく、そして、この名前は、さらに、この形態は、友よ、これは、名前と形態と説かれます。識知〔作用〕(:認識作用)の集起あることから、名前と形態の集起があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、名前と形態を覚知し、このように、名前と形態の集起を覚知し、このように、名前と形態の止滅を覚知し、このように、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

101. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、識知〔作用〕を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、識知〔作用〕であり、どのようなものが、識知〔作用〕の集起であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、識知〔作用〕を覚知し、このように、識知〔作用〕の集起を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

102. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の集起であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の形成〔作用〕を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

103. 「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、無明を覚知し、かつまた、無明の集起を覚知し、かつまた、無明の止滅を覚知し、さらに、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、無明であり、どのようなものが、無明の集起であり、どのようなものが、無明の止滅であり、どのようなものが、無明の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、友よ、これは、無明と説かれます。煩悩の集起あることから、無明の集起があります。煩悩の止滅あることから、無明の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、無明の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、無明を覚知し、このように、無明の集起を覚知し、このように、無明の止滅を覚知し、このように、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

104. 「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

 

 「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、煩悩()を覚知し、かつまた、煩悩の集起を覚知し、かつまた、煩悩の止滅を覚知し、さらに、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、煩悩であり、どのようなものが、煩悩の集起であり、どのようなものが、煩悩の止滅であり、どのようなものが、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。無明の集起あることから、煩悩の集起があります。無明の止滅あることから、煩悩の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、煩悩を覚知し、このように、煩悩の集起を覚知し、このように、煩悩の止滅を覚知し、このように、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 正しい見解の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10. 大いなる気づきの確立の経

 

105. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 概略

 

106. 「比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。

 

 どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

 

 概略は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の呼吸の部

 

107. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、轆轤(ろくろ)師が、あるいは、轆轤師の内弟子が、あるいは、長く引きつつ、『〔わたしは〕長く引く』と覚知し、あるいは、短く引きつつ、『〔わたしは〕短く引く』と覚知するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知()あるためのみに、気づき()あるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 呼吸の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の振る舞いの道の部

 

108. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 振る舞いの道の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の正知の部

 

109. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 正知の部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の嫌悪のものに意を為すことの部

 

110. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします──それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って綿密に注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと綿密に注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する』と。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 嫌悪のものに意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の界域に意を為すことの部

 

111. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域()〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、綿密に注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 界域に意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。

 

 身体の随観の九つの墓所の部

 

112. (1)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、死んで一日の、あるいは、死んで二日の、あるいは、死んで三日の、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……(4)骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……(5)骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……(6)連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……(8)山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……(9)腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 九つの墓所の部は〔以上で〕終了となる。

 

 十四の身体の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 感受の随観

 

113. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、安楽の感受(楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦痛の感受(苦受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する安楽(世俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき安楽(非俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の感受において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の感受が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 感受の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 心の随観

 

114. 比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、心において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『心が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 心の随観は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔修行の〕妨害の部

 

115. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が存在しているのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が存在しているのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した憎悪〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕沈滞と眠気の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕高揚と悔恨の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、疑惑〔の思い〕()が存在しているのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した疑惑〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 妨害の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔心身を構成する〕範疇の部

 

116. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 〔心身を構成する〕範疇の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の〔認識の〕場所の部

 

117. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、内と外の六つの〔認識の〕場所(六処)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、眼を覚知し、さらに、諸々の形態()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するもの()が生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、耳を覚知し、さらに、諸々の音声()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、鼻を覚知し、さらに、諸々の臭気()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、舌を覚知し、さらに、諸々の味感()を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、身を覚知し、さらに、諸々の感触(所触)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 そして、意を覚知し、さらに、諸々の法(:意の対象)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 〔認識の〕場所の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の覚りの支分の部

 

118. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、七つの覚りの支分(七覚支)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、気づきという正覚の支分(念覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、気づきという正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、精進という正覚の支分(精進覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、精進という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、喜悦という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、静息という正覚の支分(軽安覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、静息という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、禅定という正覚の支分(定覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、禅定という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 あるいは、内に、放捨という正覚の支分(捨覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、放捨という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。

 

 かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 覚りの支分の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観の真理の部

 

119. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、四つの聖なる真理(四聖諦)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

 苦しみという真理についての釈示

 

120. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理(苦諦)なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。

 

121. 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。

 

122. 比丘たちよ、では、どのようなものが、老なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、比丘たちよ、これは、老と説かれます。

 

123. 比丘たちよ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶は、比丘たちよ、これは、死と説かれます。

 

124. 比丘たちよ、では、どのようなものが、憂いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂いは、比丘たちよ、これは、憂いと説かれます。

 

125. 比丘たちよ、では、どのようなものが、嘆きなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあることは、比丘たちよ、これは、嘆きと説かれます。

 

126. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛、身体の属性としての不快、身体の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、苦痛と説かれます。

 

127. 比丘たちよ、では、どのようなものが、失意なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛、心の属性としての不快、意の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、失意と説かれます。

 

128. 比丘たちよ、では、どのようなものが、葛藤なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤することは、比丘たちよ、これは、葛藤と説かれます。

 

129. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触や法(意の対象)として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する者たちとして有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合、遭遇、配備、混合の状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみと説かれます。

 

130. 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちとして──あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、兄弟が、あるいは、姉妹が、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが──有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合なきこと、遭遇なきこと、配備なきこと、混合なき状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみと説かれます。

 

131. 比丘たちよ、では、どのようなものが、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみなのですか。比丘たちよ、生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、老の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、老の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、老が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、病の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、病の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、病が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、死の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、死が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。

 

132. 比丘たちよ、では、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これらのものは、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみと説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

 集起という真理についての釈示

 

133. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の識知〔作用〕()は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の接触()は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 眼の接触から生じる感受()は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の表象()は、世において……略……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の思欲()は、世において……略……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の渇愛()は、世において……略……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の思考()は、世において……略……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。

 

 形態の想念()は、世において……略……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 止滅という真理についての釈示

 

134. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の識知〔作用〕は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の接触は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 眼の接触から生じる感受は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の表象は、世において……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の思欲は、世において……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の渇愛は、世において……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の思考は、世において……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。

 

 形態の想念は、世において……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

 道という真理についての釈示

 

135. 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これは、正しい見解と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。比丘たちよ、これは、正しい思惟と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい言葉と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい行業と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。比丘たちよ、これは、正しい生き方と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、正しい努力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、正しい気づきと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、正しい禅定と説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。

 

136. かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。

 

 真理の部は〔以上で〕終了となる。

 

 法の随観は〔以上で〕終了となる。

 

137. 比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七年のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知(阿羅漢果)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たること(不還果)です。

 

 比丘たちよ、七年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六年のあいだ修めるなら……略……五年のあいだ……四年のあいだ……三年のあいだ……二年のあいだ……一年のあいだ……。比丘たちよ、一年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七月のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、七月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六月のあいだ修めるなら……略……五月のあいだ……四月のあいだ……三月のあいだ……二月のあいだ……一月のあいだ……半月のあいだ……。比丘たちよ、半月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七日のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです(※)。

 

※ テキストには anāgāmitā’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

138. 『比丘たちよ、これは、一路の道です──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる気づきの確立の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 根元の教相の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「根元と善き統御と法(教え)の相続者、恐ろしさと穢れなき者と『望むなら』と衣装、謹厳と正しい見解と気づきの確立があり、同等のものなく、善く完結された、優れた章となる」〔と〕。

 

2. 獅子吼の章

 

1(11). 小なる獅子吼の経

 

139. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、『まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの』と、比丘たちよ、このように、このことを、〔あなたたちは〕正しく獅子吼として吼え叫びなさい。

 

140. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『また、尊者たちには、どのような安堵があり、どのような活力があり、それによって、尊者たるあなたたちは、このように説くのですか。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」』と。比丘たちよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさに、わたしたちに告げ知らされた、四つの法(性質)が存在します。それらを、わたしたちは、自己のうちに正しく見ながら、このように説きます。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」と。では、どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、まさに、わたしたちには、教師にたいする浄信が存在し、法(教え)にたいする浄信が存在し、諸戒における円満成就を為す者たることが存在します。また、まさに、法(教え)を共にする者たちは、愛しく意に適う者たちです──まさしく、そして、在家者たちも、さらに、出家者たちも。友よ、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさに、わたしたちに告げ知らされた、四つの法(性質)があります。それらを、わたしたちは、自己のうちに正しく見ながら、このように説きます。「まさしく、ここに、沙門があり、ここに、第二の沙門があり、ここに、第三の沙門があり、ここに、第四の沙門がある。他の沙門たちによる諸々の異論は、空無なるもの」』と。

 

141. 比丘たちよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、まさに、わたしたちにもまた。教師にたいする浄信が存在します──その者が、わたしたちの教師であるなら。わたしたちにもまた。法(教え)にたいする浄信が存在します──それが、わたしたちの法(教え)であるなら。わたしたちもまた、諸戒における円満成就を為す者たちです──それらが、わたしたちの諸戒であるなら。わたしたちにとってもまた、法(教え)を共にする者たちは、愛しく意に適う者たちです──まさしく、そして、在家者たちも、さらに、出家者たちも。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性(相違点)があるのですか──すなわち、この、まさしく、そして、あなたたちに、さらに、わたしたちに』と。

 

 比丘たちよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、まさに、どうでしょう、目的は一つですか、それとも、目的は多々にありますか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、目的は一つです。目的は多々にありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、貪欲を有する者のためにあるのですか、それとも、貪欲を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、貪欲を離れた者のためにあります。その目的は、貪欲を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、憤怒を有する者のためにあるのですか、それとも、憤怒を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、憤怒を離れた者のためにあります。その目的は、憤怒を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、迷妄を有する者のためにあるのですか、それとも、迷妄を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、迷妄を離れた者のためにあります。その目的は、迷妄を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、渇愛を有する者のためにあるのですか、それとも、渇愛を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、渇愛を離れた者のためにあります。その目的は、渇愛を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、執取を有する者のためにあるのですか、それとも、執取を離れた者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、執取を離れた者のためにあります。その目的は、執取を有する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、知ある者のためにあるのですか、それとも、知なき者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、知ある者のためにあります。その目的は、知なき者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、共感し反感する者のためにあるのですか、それとも、共感せず反感しない者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、共感せず反感しない者のためにあります。その目的は、共感し反感する者のためにあるのではありません』と。

 

 『友よ、また、その目的は、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者のためにあるのですか、それとも、虚構なきものを喜びとし虚構なきものを喜ぶ者のためにあるのですか』と。比丘たちよ、正しく説き明かしている、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その目的は、虚構なきものを喜びとし虚構なきものを喜ぶ者のためにあります。その目的は、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者のためにあるのではありません』と。

 

142. 比丘たちよ、これらの二つの見解があります。そして、生存の見解(有見)であり、さらに、非生存の見解(非有見)です。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、生存の見解に〔思いが〕付着し、生存の見解に近しく赴き、生存の見解に固着した者たちであるなら、彼らは、非生存の見解に反感ある者たちです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、非生存の見解に〔思いが〕付着し、非生存の見解に近しく赴き、非生存の見解に固着した者たちであるなら、彼らは、生存の見解に反感ある者たちです。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの二つの見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼らは、貪欲を有する者たちであり、彼らは、憤怒を有する者たちであり、彼らは、迷妄を有する者たちであり、彼らは、渇愛を有する者たちであり、彼らは、執取を有する者たちであり、彼らは、知なき者たちであり、彼らは、共感し反感する者たちであり、彼らは、虚構を喜びとし虚構を喜ぶ者たちであり、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの二つの見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知するなら、彼らは、貪欲を離れた者たちであり、彼らは、憤怒を離れた者たちであり、彼らは、迷妄を離れた者たちであり、彼らは、渇愛を離れた者たちであり、彼らは、執取を離れた者たちであり、彼らは、知ある者たちであり、彼らは、共感せず反感しない者たちであり、彼らは、虚構を喜びとせず虚構を喜ばない者たちであり、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

143. 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの執取です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望への執取であり、見解への執取であり、戒や掟への執取であり、自己の論への執取です。比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知するも、見解への執取の遍知を報知せず、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、これらの三つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知するも、見解への執取の遍知を報知せず、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知するも、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、これらの二つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知するも、戒や掟への執取の遍知を報知せず、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知するも、自己の論への執取の遍知を報知しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、この一つの状況を、事実のとおりに遍知しないからです。それゆえに、一切の執取の遍知を説く者たちと明言している、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、彼らは、一切の執取の遍知を、正しく報知しません。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知するも、自己の論への執取の遍知を報知しません。

 

 比丘たちよ、まさに、このような形態の法(教え)と律においては、すなわち、教師にたいする浄信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、法(教え)にたいする浄信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、諸戒における円満成就を為す者たることは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされず、すなわち、法(教え)を共にする者たちにおける愛しく意に適うことは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

 

144. 比丘たちよ、しかしながら、まさに、一切の執取の遍知を説く者と明言している、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、一切の執取の遍知を、正しく報知します。欲望への執取の遍知を報知し、見解への執取の遍知を報知し、戒や掟への執取の遍知を報知し、自己の論への執取の遍知を報知します。比丘たちよ、まさに、このような形態の法(教え)と律においては、すなわち、教師にたいする浄信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、法(教え)にたいする浄信は、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、諸戒における円満成就を為す者たることは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされ、すなわち、法(教え)を共にする者たちにおける愛しく意に適うことは、それは、正しき至達あるものと告げ知らされます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

 

145. 比丘たちよ、では、これらの四つの執取は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。これらの四つの執取は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘の、無明が捨棄されたものと成り、明知が生起したものと〔成ることから〕、彼は、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、まさしく、欲望への執取に執取せず、見解への執取に執取せず、戒や掟への執取に執取せず、自己の論への執取に執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる獅子吼の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(12). 大いなる獅子吼の経

 

146. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでいます。城外の都の西の密林において。また、まさに、その時点にあって、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあとの者として〔世に〕有ります。彼は、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語ります。「沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者サーリプッタは、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語っているのを耳にしました。「沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、リッチャヴィ〔族〕の子息のスナッカッタが、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあと、彼は、ヴェーサーリーの衆のなかで、このような言葉を語ります。『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに。しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる』」と。

 

147. 「サーリプッタよ、まさに、この者は、愚人のスナッカッタは、忿激する者です。また、そして、忿激ゆえに、彼のこの言葉は語られました。サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタは、『栄誉ならざることを、〔わたしは〕語るのだ』と〔思いつつ〕、まさしく、如来の栄誉を語ります。サーリプッタよ、なぜなら、これは、如来の栄誉であるからです。すなわち、このように、〔彼は〕説きます。『しかしながら、まさに、すなわち、その義(目的)のために、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現する。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成る。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成る。明現状態と〔成る〕。超没状態と〔成る〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴く──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為す──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴く──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行く──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわす。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させる』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞く──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、愚人のスナッカッタには、わたしについて、まさに、この、法(真理)による類推もまた、有りはしないでしょう。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知する。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知する。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知する。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知する。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知する。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知する。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知する。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知する。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知する。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知する。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知する。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知する。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知する。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知する。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知する。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知する。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知する』と。

 

148. サーリプッタよ、また、まさに、十のものがあります。これらの、如来にとって、如来の力となるものです。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、十のものなのですか。

 

 (1)サーリプッタよ、ここに、如来は、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (2)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の、〔それらの有する〕報い(異熟)を、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の、〔それらの有する〕報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (3)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、一切所に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (4)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、無数なる界域()と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、無数なる界域と種々なる界域ある世〔の一切〕を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (5)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、有情たちの種々なる信念あることを、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (6)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、他の有情たちと他の人たちの機能()の上下なることを、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、他の有情たちと他の人たちの機能の上下なることを、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (7)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の、〔それらの有する〕汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と禅定と入定の、〔それらの有する〕汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (8)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (9)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 (10)サーリプッタよ、さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。サーリプッタよ、すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、サーリプッタよ、これもまた、如来にとって、如来の力と成ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 サーリプッタよ、まさに、これらの十の、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

149. サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

150. サーリプッタよ、四つのものがあります。これらの、如来のものたる離怖〔のあり方〕です。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。どのようなものが、四つのものなのですか。

 

 (1)『正等覚者と明言しているあなたの、これらの法(教え)は、現正覚されたものにあらず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)『煩悩の滅尽者と明言しているあなたの、これらの煩悩は、完全に滅尽されていない』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (3)『また、まさに、それらの、あなたによって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (4)『また、まさに、その義(目的)のために、あなたによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱とならず』と、そこで、まさに、わたしのことを、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、あるいは、天〔の神〕が、あるいは、悪魔が、あるいは、梵〔天〕が、あるいは、世において、誰であれ、法(真理)を共にする〔言葉〕で叱責するであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 サーリプッタよ、まさに、これらの四つの、如来のものたる離怖〔のあり方〕があります。それらの離怖を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

151. サーリプッタよ、八つのものがあります。まさに、これらの衆です。どのようなものが、八つのものなのですか。士族の衆であり、婆羅門の衆であり、家長の衆であり、沙門の衆であり、四大王〔天〕の衆であり、三十三〔天〕の衆であり、悪魔の衆であり、梵〔天〕の衆です。サーリプッタよ、まさに、これらの八つの衆があります。サーリプッタよ、まさに、これらの四つの離怖を具備した如来は、これらの八つの衆に近づいて行き、入り行きます。(1)サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します(記憶している)──幾百の士族の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしと、まさしく、そして、共に坐った過去のことを、かつまた、共に談じた過去のことを、さらに、共に関わった過去の諸々の論議を、〔それらを証知します〕。そこで、まさに、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、恐れおののきが、現われるであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 (2)サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──幾百の婆羅門の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。……略……(3)家長の衆を……(4)沙門の衆を……(5)四大王〔天〕の衆を……(6)三十三〔天〕の衆を……(7)悪魔の衆を……(8)梵〔天〕の衆を、〔そこに〕近づいて行く者として。そこで、また、わたしと、まさしく、そして、共に坐った過去のことを、かつまた、共に談じた過去のことを、さらに、共に関わった過去の諸々の論議を、〔それらを証知します〕。そこで、まさに、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、恐れおののきが、現われるであろう、という、この形相を、サーリプッタよ、〔わたしは〕等しく随観しません。サーリプッタよ、この形相を、わたしは等しく随観せずにいながら、平安に至り得た者として、恐怖なき〔境地〕に至り得た者として、離怖に至り得た者として、〔世に〕住みます。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

152. サーリプッタよ、四つのものがあります。まさに、これらの胎です。どのようなものが、四つのものなのですか。卵生の胎であり、胎生の胎であり、湿生の胎であり、化生の胎です。(1)サーリプッタよ、では、どのようなものが、卵生の胎なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、卵殻を破って生まれるなら、サーリプッタよ、これは、卵生の胎と説かれます。(2)サーリプッタよ、では、どのようなものが、胎生の胎なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、胞衣(えな)を破って生まれるなら、サーリプッタよ、これは、胎生の胎と説かれます。(3)サーリプッタよ、では、どのようなものが、湿生の胎なのですか。サーリプッタよ、まさに、すなわち、それらの有情たちが、あるいは、腐敗した魚において生まれるなら、あるいは、腐敗した骸(むくろ)において、あるいは、腐敗した粥において、あるいは、どぶ池において、あるいは、水たまりにおいて、生まれるなら、サーリプッタよ、これは、湿生の胎と説かれます。(4)サーリプッタよ、では、どのようなものが、化生の胎なのですか。天〔の神々〕たちであり、地獄にある者たちであり、そして、一部の人間たちであり、さらに、一部の堕所にある者たちです。サーリプッタよ、これは、化生の胎と説かれます。サーリプッタよ、まさに、これらの四つの胎があります。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

153. サーリプッタよ、五つのものがあります。まさに、これらの境遇()です。どのようなものが、五つのものなのですか。地獄であり、畜生の胎であり、餓鬼の境域であり、人間たちであり、天〔の神々〕たちです。(1)サーリプッタよ、そして、地獄を、かつまた、地獄に至る道を、かつまた、地獄に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(2)サーリプッタよ、そして、畜生の胎を、かつまた、畜生の胎に至る道を、かつまた、畜生の胎に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(3)サーリプッタよ、そして、餓鬼の境域を、かつまた、餓鬼の境域に至る道を、かつまた、餓鬼の境域に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(4)サーリプッタよ、そして、人間たちを、かつまた、人間の世に至る道を、かつまた、人間の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。(5)サーリプッタよ、そして、天〔の神々〕たちを、かつまた、天の世に至る道を、かつまた、天の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。サーリプッタよ、そして、涅槃を、かつまた、涅槃に至る道を、かつまた、涅槃に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。さらに、実践したそのとおりに、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。

 

154. (1)サーリプッタよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その火坑を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この火坑に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その火坑に落ち、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生し、諸々の強烈で辛辣で一方的な苦痛の感受を感受しているのを。

 

 (2)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生し、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、糞に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、糞坑があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その糞坑を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この糞坑に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その糞坑に落ち、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生し、諸々の強烈で辛辣な苦痛の感受を感受しているのを。

 

 (3)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生し、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、平坦ならざる土地の部分に生じた、葉群が希薄で影がまばらな木があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その木を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この木に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その木の影のもとに、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生し、諸々の苦痛多き感受を感受しているのを。

 

 (4)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生し、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に生じた、葉群が厚く影が濃い木があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その木を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この木に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その木の影のもとに、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生し、諸々の安楽多き感受を感受しているのを。

 

 (5)サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、高楼があり、そこで、その〔高楼〕には、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、楼閣があり、そこで、その〔楼閣〕には、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕がある、寝台があります。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その高楼を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この高楼に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その高楼において、その楼閣において、その寝台において、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生し、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。

 

 サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みながら、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、清冽で、美しい岸辺がある、蓮池があり、さらに、その〔蓮池〕の遠く離れていないところに、濃い密林があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、一路の道をとおり、まさしく、その蓮池を志向して、やってくるとします。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『すなわち、まさしく、この蓮池に至り着くとおり、そのとおりに、この尊き人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、〔彼は〕見るでしょう──〔まさに〕その、この者が、その蓮池に入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、一切の懊悩と疲弊と苦悶を安息させて、〔蓮池から〕上がって、その密林において、あるいは、坐り、あるいは、横になり、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。他時にあって、人間を超越した清浄の天眼によって、〔わたしは〕見ます──〔まさに〕その、この者が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みながら、諸々の一方的な安楽の感受を感受しているのを。サーリプッタよ、まさに、これらの五つの境遇があります。

 

 サーリプッタよ、その者が、このように知っている者であり、このように見ている者である、まさに、わたしのことを、『沙門ゴータマに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕は存在しない。沙門ゴータマは、考慮に侵されたものとして、法(教え)を説示する──考察に追尋するものとして、自らの弁才のままに』と、このように説くなら、サーリプッタよ、その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、比丘が、戒を成就し、禅定を成就し、智慧を成就したなら、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達するように、サーリプッタよ、このように、これと同様に、〔わたしは〕説きます。その言葉を捨棄せずして、その心を捨棄せずして、その見解を放棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

155. サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──四つの支分を具備した梵行を、〔実践し〕歩む者として。苦行者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の苦行者として〔世に〕有ります。粗行者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の粗行者として〔世に〕有ります。忌避者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の忌避者として〔世に〕有ります。遠離者であるなら、まさに、〔わたしは〕最高の遠離者として〔世に〕有ります。(1)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの苦行者たることについて、このことが有ります。〔わたしは〕無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。その〔わたし〕は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。その〔わたし〕は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。

 

 その〔わたし〕は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。

 

 その〔わたし〕は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。サーリプッタよ、まさに、わたしの苦行者たることについて、このことが有ります。

 

156. (2)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの粗行について、このことが有ります。年代物の塵と埃が身体に蓄積され、皮苔を生じたものと成ります。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、ティンドゥカ〔樹〕の木株が年代物となり蓄積され、皮苔を生じたものと成るように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、年代物の塵と埃が身体に蓄積され、皮苔を生じたものと成ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いは〕有りません。『ああ、まさに、わたしは、この塵と埃を手で擦り取るのだ。また、あるいは、他者たちが、わたしの、この塵と埃を手で擦り取るのだ』と。サーリプッタよ、このような〔思い〕さえも、わたしには有りません。サーリプッタよ、まさに、わたしの粗行について、このことが有ります。

 

 (3)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの忌避について、このことが有ります。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、気づきある者として前進し、まさしく、気づきある者として後進します。すなわち、水滴のなかに至るまでもまた、わたしに、憐憫〔の思い〕が現起するところと成ります。『わたしが、難所に赴いた小さな命あるものにたいし、殺害を惹起することがあってはならない』と。サーリプッタよ、まさに、わたしの忌避について、このことが有ります。

 

 (4)サーリプッタよ、そこで、まさに、わたしの遠離について、このことが有ります。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、或るどこかの林所に深く分け入って、〔世に〕住みます。すなわち、あるいは、牛飼いを、あるいは、牧畜者を、あるいは、草運びを、あるいは、薪運びを、あるいは、木こりを、見るとき、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回ります。それは、何を因とするのですか。『わたしを、彼らが見ることがあってはならず、かつまた、わたしが、彼らを見ることがあってはならない』と〔思うからです〕。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、人間たちを見て、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回るように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、すなわち、あるいは、牛飼いを、あるいは、牧畜者を、あるいは、草運びを、あるいは、薪運びを、あるいは、木こりを、見るとき、林から林へ、茂みから茂みへ、低地から低地へ、高地から高知へと、飛び回ります。それは、何を因とするのですか。『わたしを、彼らが見ることがあってはならず、かつまた、わたしが、彼らを見ることがあってはならない』と〔思うからです〕。サーリプッタよ、まさに、わたしの遠離について、このことが有ります。

 

 サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、すなわち、牛小屋から、それらの、雌牛たちが出て行き、牛飼いたちが離れ去ったなら、そこにおいて、四つん這いになり、近づいて行って、すなわち、それらが、幼く乳を飲む子牛たちの牛糞であるなら、それら〔の牛糞〕を、まさに、〔わたしは〕食します。サーリプッタよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、自らの糞尿が、完全に消尽することなく有るあいだは、まさしく、自らの糞尿を、まさに、〔わたしは〕食します。サーリプッタよ、まさに、わたしの大いなる汚物食について、このことが有ります。

 

157. サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、或るどこかの禍々しき密林に深く分け入って住みます。サーリプッタよ、そこで、まさに、禍々しき密林の禍々しさについて、このことが有ります。すなわち、誰であれ、貪欲を離れていない者が、その密林に入るなら、多くのところとして、諸々の身の毛がよだちます。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、すなわち、それらの、降雪時の寒い冬の間の八つの夜であるなら、そのような形態の夜においては、夜を野外に住み、昼を密林に〔住みます〕。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月においては、昼を野外に住み、夜を密林に〔住みます〕。サーリプッタよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この詩偈〕が。

 

 〔すなわち〕『彼は熱せられ、まさしく、そして、彼は凍りつき(※)、独り、禍々しき林のなか、裸で、かつまた、火にあたることもなく、探求し追求する者として、牟尼はある』と。

 

※ テキストには sosinno とあるが、PTS版により so sīno と読む。

 

 サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、墓場において、諸々の骸骨を敷いて、臥を営みます。サーリプッタよ、さてまた、まさに、わたしのもとに、牧童たちが近づいて行って、唾をもまた吐き、小便をもまたし、砂をもまた振りまき、〔両の〕耳孔にもまた木片を差し入れます。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知しません──彼らにたいし、悪しき心を、〔憤慨し〕生起させる者として。サーリプッタよ、まさに、わたしの放捨()の住について、このことが有ります。

 

158. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『食によって、清浄がある』と。彼らは、このように言いました。『〔わたしたちは〕諸々の棗によって〔身を〕保ち行くのだ』と。彼らは、棗をもまた喰い、棗の粉をもまた喰い、棗の汁をもまた飲みます。無数〔の流儀〕に関した棗の品種を遍く受益します。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──まさしく、一つの棗を、食として食する者として。サーリプッタよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、大いなるものとして、棗は有ったのだ』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、そのときもまた、まさしく、これを最高とするものとして、棗は有りました。それは、たとえば、また、今現在のように。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、まさしく、一つの棗を、食として食していると、身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。サーリプッタよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、その場において、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。

 

159. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『食によって、清浄がある』と。彼らは、このように言いました。『〔わたしたちは〕諸々の豆によって、〔身を〕保ち行くのだ』……略……『〔わたしたちは〕諸々の胡麻によって、〔身を〕保ち行くのだ』……略……『〔わたしたちは〕諸々の米によって、〔身を〕保ち行くのだ』と。彼らは、米をもまた喰い、米の粉をもまた喰い、米の汁をもまた飲みます。無数〔の流儀〕に関した米の品種を遍く受益します。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは証知します──まさしく、一つの米を、食として食する者として。サーリプッタよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、大いなるものとして、米は有ったのだ』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、そのときもまた、まさしく、これを最高とするものとして、米は有りました。それは、たとえば、また、今現在のように。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、まさしく、一つの米を、食として食していると、身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。サーリプッタよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、その場において、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。サーリプッタよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。サーリプッタよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。

 

 サーリプッタよ、まさに、わたしは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その為し難きことを為すことによっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。それは、何を因とするのですか。まさしく、この聖なる智慧の、到達なくあるからです。すなわち、この聖なる智慧は、〔それに〕到達したなら、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となります。

 

160. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『輪廻によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に輪廻したことのない、その輪廻は、得るに易き形態のものではありません(浄居天以外はすべて輪廻してきた)。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に輪廻するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう(浄居天において涅槃に到達するであろう)。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『再生によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に再生したことのない、その再生は、得るに易き形態のものではありません。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に再生するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『居住によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、諸々の浄居天より他に、この長時にわたり、わたしが過去に居住したことのない、その居住は、得るに易き形態のものではありません。サーリプッタよ、もし、わたしが、諸々の浄居天に居住するなら、この世にふたたび戻り来ることはないでしょう。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『祭祀によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、この長時にわたり、わたしが過去に祭祀したことのない、その祭祀は、得るに易き形態のものではありません。そして、それは〔為されました〕──まさに、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している〔わたし〕によって、あるいは、婆羅門の大家として〔世に存しているわたしによって〕。

 

 サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『祭火の世話によって、清浄がある』と。サーリプッタよ、また、まさに、すなわち、この長時にわたり、わたしが過去に世話したことのない、その祭火は、得るに易き形態のものではありません。そして、それは〔為されました〕──まさに、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕存している〔わたし〕によって、あるいは、婆羅門の大家として〔世に存しているわたしによって〕。

 

161. サーリプッタよ、また、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『すなわち、この尊き人が、年少の者として〔世に〕有り、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるかぎり、まさしく、そのかぎりは、最高の智慧と聡慧を具備した者として〔世に〕有る。しかしながら、すなわち、まさに、この尊き人が、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、〔世に〕有ることから、そこで、彼から、智慧と聡慧が遍く衰退する』と。サーリプッタよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。サーリプッタよ、また、まさに、わたしは、今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、八十の者として、わたしの年齢は転起します。サーリプッタよ、ここに、わたしの、四つの弟子〔の衆〕が、百年の寿命ある者たちとして、百年の生命ある者たちとして、〔世に〕存するとします──最高の、かつまた、気づきを、かつまた、境遇を、かつまた、〔道心〕堅固を、さらに、最高の智慧と聡慧を、具備した者たちとして。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練した弓術の達人が、矢で軽々と難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すように、このように、旺盛なる気づきある者たちとして、このように、旺盛なる〔善き〕境遇ある者たちとして、このように、旺盛なる〔道心〕堅固ある者たちとして、このように、最高の智慧と聡慧を具備した者たちとして。彼らが、わたしに、四つの気づきの確立に関連しては関連して、問いを尋ねるなら、そして、わたしは、尋ねられては尋ねられた者として、彼らに説き明かすでしょうし、さらに、説き明かされたものを、わたしによって説き明かされたものとして、〔彼らは〕保持するでしょうし、かつまた、わたしに、二度とふたたび質問しないでしょう。サーリプッタよ、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、如来の法(教え)の説示は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょうし、如来の法(教え)の句と文は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょうし、如来の問いへの応答は、まさしく、完全に消尽することなく存するでしょう。そこで、わたしの、それらの四つの弟子〔の衆〕は、百年の寿命ある者たちとして、百年の生命ある者たちとして、百年が経過して、命を終えるでしょう。サーリプッタよ、もし、また、〔あなたたちが〕わたしを臥床に持ち運ぶとして、如来に、智慧と聡慧の他化は、まさしく、存在しません。サーリプッタよ、まさに、すなわち、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』と、正しく説きつつ説くなら、わたしのこととして、彼のことを、『迷妄の法(性質)なき有情として、世に生起したのだ──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために』〔と〕、正しく説きつつ説くべきです」と。

 

162. また、まさに、その時点にあって、尊者ナーガサマーラは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者ナーガサマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、なぜなら、さてまた、この法(教え)の教相を聞いて、わたしの諸々の身の毛がよだったからです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「ナーガサマーラよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『諸々の身の毛のよだちの教相』と、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ナーガサマーラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる獅子吼の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(13). 大いなる苦しみの範疇の経

 

163. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。「友よ、沙門ゴータマは、諸々の欲望の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の欲望の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の形態の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の感受の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の感受の遍知を報知します。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは」と。そこで、まさに、それらの比丘たちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。

 

164. そこで、まさに、それらの比丘たちは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、このような〔思いが〕有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、わたしたちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。『友よ、沙門ゴータマは、諸々の欲望の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の欲望の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の形態の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の形態の遍知を報知します。友よ、沙門ゴータマは、諸々の感受の遍知を報知します。わたしたちもまた、諸々の感受の遍知を報知します。友よ、ここに、まさに、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか──あるいは、沙門ゴータマの、あるいは、わたしたちの、すなわち、この、あるいは、法(教え)の説示と法(教え)の説示とでは、あるいは、教示と教示とでは』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。

 

165. 「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、また、何が、諸々の欲望の悦楽であり、何が、〔諸々の欲望の〕危険であり、何が、〔諸々の欲望の〕出離なのですか。何が、諸々の形態の悦楽であり、何が、〔諸々の形態の〕危険であり、何が、〔諸々の形態の〕出離なのですか。何が、諸々の感受の悦楽であり、何が、〔諸々の感受の〕危険であり、何が、〔諸々の感受の〕出離なのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。

 

166. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の悦楽なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の欲望の悦楽です。

 

167. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって──もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇(苦蘊)であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

168. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

169. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

170. 比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の出離なのですか。比丘たちよ、それが、まさに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、欲望の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の欲望の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の欲望を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の欲望を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の欲望の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の欲望を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ(※)、実践したそのとおりに、諸々の欲望を遍知することになる、という、この状況は見出されます。

 

※ テキストには samādapessantntti とあるが、PTS版により samādapessanti と読む。

 

171. 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の悦楽なのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、士族の少女で、あるいは、婆羅門の少女で、あるいは、家長の少女で、あるいは、十五歳の者が、あるいは、十六歳の者がいるとします──高過ぎず、低過ぎず、痩せ過ぎず、太り過ぎず、黒過ぎず、白過ぎず、〔そのような者です〕。比丘たちよ、その時点において、彼女は、浄美にして、色艶の輝きある、最高の者としてありますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、それが、まさに、浄美と色艶の輝きを縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形態の悦楽です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の危険なのですか。比丘たちよ、ここに、他時にあって、まさしく、その婦人を見るとします。生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去り、歯が破断し、白髪の者となり、抜け毛の者となり、禿頭の者となり、皺の者となり、斑点だらけの五体の者となるのを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥しているのを──他者たちによって出起させられ、他者たちによって横臥させられているのを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

172. 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──あるいは、死んで一日となり、あるいは、死んで二日となり、あるいは、死んで三日となり、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……連結が離れ去り、〔四〕方と〔四〕維に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、その婦人を見るとします。墓所に捨てられた肉体を──白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。比丘たちよ、それを、どう思いますか。〔まさに〕その、以前の浄美と色艶の輝きですが、それは消没し、危険が出現したのでは」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、これもまた、諸々の形態の危険です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の形態の出離なのですか。比丘たちよ、それが、諸々の形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形態の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の形態を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の形態を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形態の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の形態を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の形態を遍知することになる、という、この状況は見出されます。

 

173. 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の悦楽なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、その時点において、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、その時点において、まさしく、加害〔の思い〕なき感受を感受します。比丘たちよ、わたしは、加害〔の思い〕なき〔あり方〕を最高のものとして、諸々の感受の悦楽と説きます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……。比丘たちよ、その時点において、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むなら……略……。比丘たちよ、その時点において、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、その時点において、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁せず、その時点において、まさしく、加害〔の思い〕なき感受を感受します。比丘たちよ、わたしは、加害〔の思い〕なき〔あり方〕を最高のものとして、諸々の感受の悦楽と説きます。

 

174. 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の危険なのですか。比丘たちよ、すなわち、諸々の感受が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の感受の危険です。

 

 比丘たちよ、では、何が、諸々の感受の出離なのですか。比丘たちよ、それが、諸々の感受において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受の出離です。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の感受の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の感受を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の感受を遍知することになる、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の感受の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、彼らが、まさに、あるいは、自ら、諸々の感受を遍知し、あるいは、他者を、そのとおりそのままに受持させ、実践したそのとおりに、諸々の感受を遍知することになる、という、この状況は見出されます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる苦しみの範疇の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(14). 小なる苦しみの範疇の経

 

175. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、長夜にわたり、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しています。『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)である。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と。尊き方よ、そして、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しているのですが、『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れである。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、そこで、また、しかしながら、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住します。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『いったい、まさに、わたしに、どのような法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのだろう。それによって、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのだ』」と。

 

176. 「マハー・ナーマよ、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのです。それによって、あなたに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのです。マハー・ナーマよ、なぜなら、そして、あなたに、その法(性質)が、内に〔すでに〕捨棄されたものと成っていたなら、あなたは、家に居住しないでしょうし、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しないでしょう。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあることから、それゆえに、あなたは、家に居住し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益するのです。

 

177. 『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、マハー・ナーマよ、かくのごとく、もし、また、聖なる弟子に、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達しないなら〕、そこで、まさに、彼は、それまでのあいだ、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成りません。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、聖なる弟子に、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達することから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達することから〕、そこで、まさに、彼は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成ります。

 

 マハー・ナーマよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしにもまた、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、その〔わたし〕は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達せず、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達せず〕、そこで、まさに、わたしは、それまでのあいだ、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しませんでした。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、その〔わたし〕が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達したことから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達したことから〕、そこで、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しました。

 

178. マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の悦楽なのですか。マハー・ナーマよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。マハー・ナーマよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。マハー・ナーマよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の欲望の悦楽です。

 

 マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって──もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

179. マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、大勢のニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちが、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において、坐を拒絶する常立行者たちとして〔世に〕有り、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。マハー・ナーマよ、そこで、まさに、わたしは、夕刻時に、静坐から出起し、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、それらのニガンタたちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、いったい、どうして、あなたたちは、坐を拒絶する常立行者たちとなり、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するのですか』と。マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、それらのニガンタたちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」と。彼は、このように言います。「ニガンタたちよ、まさに、あなたたちには、過去において作り為された悪しき行為(悪業)が存在する。それを、この辛辣なる難行によって衰尽せしめよ。また、すなわち、ここにおいて、今現在、身体によって統御されたことから、言葉によって統御されたことから、意によって統御されたことから、それは、未来に悪しき行為を作り為さないものとなる。かくのごとく、諸々の古い行為(旧業)の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為(新業)を作り為さないことから、未来に漏出なくあり、未来に漏出なくあることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています』と。

 

180. マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、わたしは、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちは、「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」と知らず、「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」と知らず、「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」と知らず、「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」と知らず、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知りません。友よ、ニガンタたちよ、このように存しているとき、すなわち、世において、残忍で、血の手をもち、残酷な生業ある者たちが、人間たちのなかに生まれ落ちたとして、それらの者たちが、ニガンタたちのもとで出家するのでは』と。『友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です』と。

 

 『たしかに、尊者たちによって、ニガンタたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、まさしく、わたしは、そこにおいて〔このように〕問い返されるべき者としてあります。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。『友よ、ゴータマよ、たしかに、わたしたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、このことは、さておくとしましょう。今やまた、わたしたちは、尊者ゴータマに尋ねます。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか──あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、まさに、それでは、まさしく、あなたたちに、そこにおいて問い返します。すなわち、あなたたちのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、六つの夜と昼のあいだ……略……五つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……二つの夜と昼のあいだ……一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

 

 『友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、二つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……五つの夜と昼のあいだ……六つの夜と昼のあいだ……七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。このように存しているとき、誰が、より安楽の住ある者ですか。あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、わたしですか』と。『このように存しているとき、まさしく、尊者ゴータマは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王よりも、より安楽の住ある者です』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 小なる苦しみの範疇の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(15). 推知の経

 

181. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・モッガッラーナは、バッガ〔国〕に住んでいます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「友よ、もし、また、比丘が、『尊者たちは、わたしに説いてください。尊者たちによって説かれるべき者として、〔わたしは〕存しています』と申し出るとして、しかしながら、彼が、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、説くべき者と思い考えず、かつまた、教示するべき者と思い考えず、さらに、その人にたいし、信頼を惹起するべき者と思い考えません。

 

 友よ、では、どのようなものが、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)なのですか。友よ、ここに、比丘が、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する(※)言葉を放つ者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

※ テキストには kodhasāmantā とあるが、PTS版により kodhasāmanta と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕頑固に作り為す法(性質)です。

 

182. 友よ、もし、また、比丘が、『尊者たちは、わたしに説いてください。尊者たちによって説かれるべき者として、〔わたしは〕存しています』と申し出るとして、かつまた、彼が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、そこで、まさに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、まさしく、そして、説くべき者と思い考え、かつまた、教示するべき者と思い考え、さらに、その人にたいし、信頼を惹起するべき者と思い考えます。

 

 友よ、では、どのようなものが、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)なのですか。友よ、ここに、比丘が、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自己を高尚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者ではなく、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者ではなく、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁しないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できます。友よ、すなわち、また、比丘が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できるなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有るなら、これもまた、〔人を〕素直に作り為す法(性質)です。

 

183. 友よ、そこで、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように推知するべきです。『すなわち、まさに、この人が、悪しき欲求ある者であり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、自己を賞揚し他者を蔑視する者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕に征服された者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕に征服された者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、忿激する者であり、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕忿激する者ではなく〔世に〕有るのだ、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放たないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者に逆襲するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者に逆襲しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者を指弾するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者を指弾しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、叱責者に反駁するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、叱責者に反駁しないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、叱責者によって叱責され、〔自己の〕行状について弁解できないなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕叱責者によって叱責されたとして、〔自己の〕行状について弁解できるのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、偽装ある者であり、加虐ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕偽装ある者ではなく、加虐ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、嫉妬ある者であり、物惜ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕嫉妬ある者ではなく、物惜ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、狡猾ある者であり、幻惑ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕狡猾ある者ではなく、幻惑ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、強情ある者であり、高慢ある者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕強情ある者ではなく、高慢ある者ではなく、〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

 『すなわち、まさに、この人が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者であるなら、この人は、わたしにとって、愛しくない者であり、意に適わない者である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存するなら、わたしもまた、他者たちにとって、愛しくない者として、意に適わない者として、〔世に〕存するであろう』と。友よ、このように知っている比丘は、『〔わたしは〕自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有るのだ』と、心を生起させるべきです。

 

184. 友よ、そこで、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕悪しき欲求ある者として、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自己を賞揚し他者を蔑視する者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自己を賞揚せず他者を蔑視しない者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に征服された者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする怨恨ある者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕を因とする執念ある者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕忿激する者として、忿激〔の思い〕に由縁する言葉を放つ者として、〔世に〕存していない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に逆襲しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者を指弾しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁するのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁する』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、叱責者に反駁しない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、他から他へとはぐらかさず、外に議論を移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できないのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できない』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕叱責者によって叱責された者として〔世に〕存するなら、〔自己の〕行状について弁解できる』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘は、まさしく、自己みずから、自己のことを、このように綿密に注視するべきです。『いったい、まさに、どうなのだろう、〔わたしは〕自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存しているのでは』と。友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、〔わたしは〕自らの見解に偏執せず、保持するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕存している』と、このように知るなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、全ての、これらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を綿密に注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成るようなものです──『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。友よ、まさしく、このように、まさに、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、全ての、これらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。友よ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、全てもろともに、これらの悪しき善ならざる法(性質)が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観するなら、友よ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として」と。

 

 尊者マハー・モッガッラーナは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 推知の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(16). 心の鬱積の経

 

185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼の、この第一の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。

 

186. 彼には、どのような五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第二の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第三の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住むなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。

 

187. 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 彼には、どのような五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信します。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信します。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく浄信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。

 

188. 彼には、どのような五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(4)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住まないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むことがありません。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むことがないなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。

 

189. 彼は、欲〔の思い〕(意欲)の禅定()と精励の形成〔作用〕()を具備した神通の足場(神足)を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。まさしく、勤勇を、第五のものとして〔修めます〕。比丘たちよ、それで、まさに、彼が、このように、勤勇とともに十五の支分(五つの心の鬱積の捨棄・五つの心の結縛の断絶・四つの神通の足場・勤勇)を具備した比丘であるなら、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達の可能ある者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、これらのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このように、勤勇とともに十五の支分を具備した比丘は、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 心の鬱積の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(17). 林野の辺境の経

 

190. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、林野の辺境の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

191. 「比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その林野の辺境から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

192. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その林野の辺境から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

193. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る』と。比丘たちよ、その比丘は、その林野の辺境に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

194. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この林野の辺境に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、その林野の辺境に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

195. 比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの村に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの町に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの城市に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るどこかの地方に近しく依拠して〔世に〕住みます。……略……或るひとりの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その人から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

196. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ません。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起せず、かつまた、定められていない心は定められず、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至らず、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ない』と。比丘たちよ、その比丘は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、その人から立ち去るべきであり、住するべきではありません。

 

197. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、困難をもって将来される。また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として……略……。臥坐具を因として……略……。病のための日用品たる薬の必需品を因として、家から家なきへと出家したのではない。そこで、また、そして、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る』と。比丘たちよ、その比丘は、その人に住するべきであり、立ち去るべきではありません。

 

198. 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの人に近しく依拠して〔世に〕住みます。彼が、その人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来されます。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、まさに、この人に近しく依拠して〔世に〕住む。〔まさに〕その、わたしが、この人に近しく依拠して〔世に〕住んでいると、まさしく、そして、現起していない気づきは現起し、かつまた、定められていない心は定められ、かつまた、完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、さらに、至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得る。さらに、すなわち、まさに、これらの、出家者によって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、それらは、難少なくして将来される』と。比丘たちよ、その比丘は、その人に住するべきであり、立ち去るべきではありません」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 林野の辺境の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(18). 蜜団子の経

 

199. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニもまた、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、杖に頼って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニは、世尊に、こう言いました。「沙門は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか」と。「友よ、すなわち、説く者としてあるとして、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住することがないように、また、そして、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象()が悪しき習いとなることがないように、友よ、まさに、わたしは、このように説く者であり、このように告げ知らせる者です」と。

 

 このように説かれたとき、釈迦〔族〕のダンダパーニは、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去りました。

 

200. そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、ニグローダ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カピラヴァットゥに〔行乞の〕食のために入りました。カピラヴァットゥにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝の根元において、昼の休息のために坐りました。比丘たちよ、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニもまた、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林のあるところに、そこへと近づいて行きました。マハー林に深く分け入って、べールヴァ〔樹〕の若枝のあるところに、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、杖に頼って、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、釈迦〔族〕のダンダパーニは、わたしに、こう言いました。『沙門は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか』と。

 

 比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、釈迦〔族〕のダンダパーニに、こう言いました。『友よ、すなわち、説く者としてあるとして、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住することがないように、また、そして、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象が悪しき習いとなることがないように、友よ、まさに、わたしは、このように説く者であり、このように告げ知らせる者です』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、釈迦〔族〕のダンダパーニは、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去りました」と。

 

201. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、世尊は、何を説く者であり、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、世において、誰とであれ口論して止住しないのですか。尊き方よ、また、そして、どのように、世尊に、諸々の欲望〔の対象〕による束縛を離れた者として〔世に〕住んでいる、その婆羅門に──懐疑なく、悔い〔の思い〕を断ち、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕を離れた者に──諸々の表象が悪しき習いとならないのですか」と。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の敵対〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の見解の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の疑惑〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の思量の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の無明の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことの終極です。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

202. そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。

 

203. 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。

 

204. 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

 友よ、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触(:感覚の発生)です。接触という縁あることから、感受(::楽苦の知覚)があります。それを感受するなら、それを表象します。それを表象するなら、それを思考します。それを思考するなら、それを虚構します。それを虚構するなら、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となります──過去と未来と現在の眼によって識知されるべき諸々の形態において。友よ、かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。……略……。友よ、かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。それを感受するなら、それを表象します。それを表象するなら、それを思考します。それを思考するなら、それを虚構します。それを虚構するなら、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となります──過去と未来と現在の意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)において。

 

 友よ、彼は、まさに、眼が存しているとき、形態が存しているとき、眼の識知〔作用〕が存しているとき、接触という概念(施設)を報知するであろう、という、この状況は見出されます。接触という概念が存しているとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。感受という概念が存しているとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。表象という概念が存しているとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。思考という概念が存しているとき、虚構の表象と名称の慣行という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。友よ、彼は、まさに、耳が存しているとき、音声が存しているとき……略……鼻が存しているとき、臭気が存しているとき……略……舌が存しているとき、味感が存しているとき……略……身が存しているとき、感触が存しているとき……略……意が存しているとき、法(意の対象)が存しているとき、意の識知〔作用〕が存しているとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。接触という概念が存しているとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。感受という概念が存しているとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。表象という概念が存しているとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。思考という概念が存しているとき、虚構の表象と名称の慣行という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されます。

 

 友よ、彼は、まさに、眼が存していないとき、形態が存していないとき、眼の識知〔作用〕が存していないとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。接触という概念が存していないとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。感受という概念が存していないとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。表象という概念が存していないとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。思考という概念が存していないとき、虚構の表象と名称の慣行という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。友よ、彼は、まさに、耳が存していないとき、音声が存していないとき……略……鼻が存していないとき、臭気が存していないとき……略……舌が存していないとき、味感が存していないとき……略……身が存していないとき、感触が存していないとき……略……意が存していないとき、法(意の対象)が存していないとき、意の識知〔作用〕が存していないとき、接触という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。接触という概念が存していないとき、感受という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。感受という概念が存していないとき、表象という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。表象という概念が存していないとき、思考という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。思考という概念が存していないとき、虚構の表象と名称の慣行という概念を報知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。尊者たちよ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

205. そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり……略……。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘よ、それを因縁として、人に、虚構の表象と名称が慣行となるとして、もし、ここにおいて、愉悦するべきものが〔存在せず〕、迎合するべきものが〔存在せず〕、固執するべきものが存在しないなら、まさしく、これは、諸々の貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の敵対〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の見解の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の疑惑〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の思量の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の無明の悪習の終極であり、まさしく、これは、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことの終極です。ここにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)は、完全に残りなく止滅します」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。「比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、それは、たとえば、また、飢えと力の衰えに打ち負かされた人が、蜜団子に到達するなら、彼は、〔それを〕味わう、そのたびごとに、雑物なしの善き味を、まさしく、得るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、心の才覚に恵まれた比丘は、この法(教え)の教相の義(意味)を、智慧によって近しく注視する、そのたびごとに、わが意を得ることを、まさしく、得るでしょうし、心の浄信を、まさしく、得るでしょう。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『蜜団子の教相』と、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蜜団子の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(19). 二種の思考の経

 

206. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、二種に為しては二種に為して、思考のうちに住むのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、これが、そして、すなわち、欲望の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪の思考であるなら、さらに、すなわち、悩害の思考であるなら、これを、一つの部分と為し、これが、そして、すなわち、この離欲の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪なき思考であるなら、さらに、すなわち、悩害なき思考であるなら、これを、第二の部分と為しました。

 

207. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、欲望の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この欲望の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した欲望の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。

 

208. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪の思考が生起します。……略……悩害の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した悩害の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。

 

 比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、欲望の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、離欲の思考を捨棄したなら、欲望の思考を多く為したなら、彼の、その心は、欲望の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪の思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害なき思考を捨棄したなら、悩害の思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害の思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の農繁期に、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼は、それらの牛たちを、そこかしこにおいて、棒によって打ち、逆に打ち、押さえ付け、防ぎ守ります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その牛飼いは、それ(牛の放置)を因縁として、あるいは、殴打を、あるいは、結縛を、あるいは、収奪を、あるいは、難詰を、見るからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ました。

 

209. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、離欲の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この離欲の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。

 

210. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪なき思考が生起します。……略……悩害なき思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害なき思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、離欲の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、欲望の思考を捨棄したなら、離欲の思考を多く為したなら、彼の、その心は、離欲の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪なき思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害なき思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害の思考を捨棄したなら、悩害なき思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害なき思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、全ての作物が村の外れに運び込まれたとき、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼には、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、野外に赴き、まさしく、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの牛たちがいる』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの法(性質)がある』と。

 

211. 比丘たちよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成りました。気づきは現起され、忘却なきものと〔成りました〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成りました〕。心は定められ、一境のものと〔成りました〕。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。

 

212. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の初夜(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

213. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し……略……かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の中夜(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

214. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の後夜(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

215. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、林地の森のなかに大いなる低き湖沼があり、〔まさに〕その、この〔湖沼〕に、大いなる鹿の群れが近しく依拠して住んでいるとします。その〔大いなる鹿の群れ〕の、義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を閉ざし、悪しき道を開き、〔囮の〕雄獣を設置し、〔囮の〕雌獣を据え置きます。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、その大いなる鹿の群れの、義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を開き、悪しき道を閉ざし、〔囮の〕雄獣を取り去り、〔囮の〕雌獣を放逐します。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『大いなる低き湖沼』とは、まさに、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『大いなる鹿の群れ』とは、まさに、これは、有情たちの同義語です。比丘たちよ、『義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する人』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『悪しき道』とは、まさに、これは、八つの支分ある誤った道の同義語です。それは、すなわち、この、誤った見解であり、誤った思惟であり、誤った言葉であり、誤った行業であり、誤った生き方であり、誤った努力であり、誤った気づきであり、誤った禅定です。比丘たちよ、『〔囮の〕雄獣』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。比丘たちよ、『〔囮の〕雌獣』とは、まさに、これは、無明の同義語です。比丘たちよ、『義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する人』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘たちよ、『平安で、安穏で、喜悦に至るべき道』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道の同義語です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、平安で、安穏で、喜悦に至るべき道は開かれ、悪しき道は閉ざされ、〔囮の〕雄獣は取り去られ、〔囮の〕雌獣は放逐されました。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 二種の思考の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(20). 思考の様相の経

 

216. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、卓越の心(瞑想)に専念する比丘によって、五つの形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意が為されるべきです。彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、石工が、あるいは、石工の内弟子が、繊細な楔で、粗雑な楔を、打ち砕き、引き抜き、取り出すように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意が為されるべきです。彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

217. (2)比丘たちよ、もし、その比丘が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の危険が近しく注視されるべきです。『かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、善ならざるものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、財貨を有するもの(世俗のもの)である。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、苦痛の報い(異熟)あるものである』と。彼が、それらの思考の危険を近しく注視していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、首に掛けられたなら、苦悩し、自責し、忌避するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の危険が近しく注視されるべきです。『かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、善ならざるものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、財貨を有するものである。かくのごとくもまた、わたしの諸々の思考は、苦痛の報いあるものである』と。彼が、それらの思考の危険を近しく注視していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

218. (3)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の、思念なく意を為さないことが惹起されるべきです。彼が、それらの思考の、思念なく意を為さないことを惹起していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、眼の視野にやってきた諸々の形態の見なきことを欲する者として存するなら、彼は、あるいは、〔眼を〕閉じるであろうし、あるいは、他を顧みるであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら……それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

219. (4)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考の、思念なく意を為さないことを惹起しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、それらの思考の、思考を形成する働き()の様相に意が為されるべきです。彼が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、急いで赴くとします。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、急いで赴くのだ。それなら、さあ、わたしは、ゆっくりと赴くのだ』と。彼は、ゆっくりと赴きます。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、ゆっくりと赴くのだ。それなら、さあ、わたしは、立つのだ』と。彼は、立ちます。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、立っているのだ。それなら、さあ、わたしは、坐るのだ』と。彼は、坐ります。彼に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、どうして、わたしは、坐っているのだ。それなら、さあ、わたしは、横になるのだ』と。彼は、横になります。比丘たちよ、まさに、このように、その人は、振る舞いの道の粗雑なるもの粗雑なるものを回避して、振る舞いの道の繊細なるもの繊細なるものを営為します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考の、思念なく意を為さないことを惹起しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら……それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

220. (5)比丘たちよ、もし、その比丘が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心が、制御されるべきであり、圧迫されるべきであり、撃滅されるべきです。彼が、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御していると、圧迫していると、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を、あるいは、喉を、あるいは、肩を、掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘が、それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──まさしく、生起するなら、比丘たちよ、その比丘によって、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心が、制御されるべきであり、圧迫されるべきであり、撃滅されるべきです。彼が、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。

 

221. (1)比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、その形相に由来して、その形相に意を為していると、諸々の悪しき善ならざる思考が──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──生起することから、彼が、その形相から、善なるものを伴った他の形相に意を為していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(2)それらの思考の危険を近しく注視しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(3)それらの思考の、思念なく意を為さないことを惹起しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(4)それらの思考の、思考を形成する働きの様相に意を為しながらもまた、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。(5)歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御していると、圧迫していると、撃滅していると、すなわち、諸々の悪しき善ならざる思考は──欲〔の思い〕を伴ったものもまた、憤怒を伴ったものもまた、迷妄を伴ったものもまた──それらは捨棄され、それらは滅至します。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、諸々の思考の教相の道における自在者であり、その思考を望むなら、その思考を思考するであろう。その思考を望まないなら、その思考を思考しないであろう。渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 思考の様相の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 獅子吼の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「小なる獅子吼と優れた身の毛のよだち、大いなる〔苦しみの範疇〕と小なる苦しみの範疇と推知の経、鬱積と辺境と蜜団子と二種の思考と五つの形相の講話があり、さらなる章となる」〔と〕。

 

3. 喩えの章

 

1(21). 鋸の喩えの経

 

222. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者モーリヤ・パッグナが、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいます(過度な交友を持っていた)。尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。それで、もし、誰であれ、比丘が、尊者モーリヤ・パッグナの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、尊者モーリヤ・パッグナは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、尊者モーリヤ・パッグナの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいます。尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます。それで、もし、誰であれ、比丘が、尊者モーリヤ・パッグナの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、尊者モーリヤ・パッグナは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、尊者モーリヤ・パッグナの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。尊き方よ、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいます」と。

 

223. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、モーリヤ・パッグナに告げなさい。『友よ、パッグナよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者モーリヤ・パッグナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者モーリヤ・パッグナに、こう言いました。「友よ、パッグナよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者モーリヤ・パッグナは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、モーリヤ・パッグナに、世尊は、こう言いました。

 

 「パッグナよ、本当に、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいるのですか。パッグナよ、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいるのですか。それで、もし、誰であれ、比丘が、あなたの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、それによって、あなたは、激情し、わが意を得ない者となり、問題をもまた作り為します。また、それで、もし、誰であれ、比丘が、それらの比丘尼たちの面前で、あなたの栄誉ならざることを語るなら、それによって、それらの比丘尼たちは、激情し、わが意を得ない者たちとなり、問題をもまた作り為します。パッグナよ、まさに、あなたは、比丘尼たちを相手に、このように交わる者として〔世に〕住んでいるのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「パッグナよ、まさに、あなたは、信によって家から家なきへと出家した、良家の子息ではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

224. 「パッグナよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息である、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちを相手に、限度を超えて交わる者として〔世に〕住んでいるなら。パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたの面前で、それらの比丘尼たちの栄誉ならざることを語るなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕(意欲)が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたの面前で、それらの比丘尼たちに、手で打撃を与えるなら、石で打撃を与えるなら、棒で打撃を与えるなら、刃で打撃を与えるなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、面前で、あなたの栄誉ならざることを語るなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 パッグナよ、それゆえに、ここに、もし、また、誰であれ、あなたに、手で打撃を与えるなら、石で打撃を与えるなら、棒で打撃を与えるなら、刃で打撃を与えるなら、パッグナよ、そこで、また、あなたは、それらの欲〔の思い〕が家〔の生活〕に依拠したものであり、それらの思考が家〔の生活〕に依拠したものであるなら、それらを捨棄するべきです。パッグナよ、そこで、また、あなたは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく』と。パッグナよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

225. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、或る時のことです。比丘たちが、わたしの心を喜ばせました。比丘たちよ、ここに、わたしは、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益します。比丘たちよ、まさに、わたしは、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、一坐の食を受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、一坐の食を受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。比丘たちよ、わたしに、それらの比丘たちにたいし、為すべき教示は有りませんでした。比丘たちよ、わたしには、それらの比丘たちにたいし、為すべきこととして気づきの生起だけが有りました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、それらの比丘たちにたいし、為すべき教示は有りませんでした。比丘たちよ、わたしには、それらの比丘たちにたいし、為すべきこととして気づきの生起だけが有りました。比丘たちよ、それゆえに、ここに、あなたたちもまた、善ならざるものを捨棄しなさい。諸々の善なる法(性質)において専念を為しなさい。まさに、このように、あなたたちもまた、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなるサーラ〔樹〕の林があるとします。そして、その〔林〕は、諸々のエーランダ〔の蔓〕に等しく覆われ、存しているとします。その〔林〕の、義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する、誰かしら或る人が現われるとします。彼は、すなわち、それらが、屈曲し滋養を奪い去るサーラ〔樹〕の枝であるなら、それらを断ち切って、外に運び出し、林の内を善く清められたものに清めます。また、すなわち、それらが、真っすぐで善き生まれのサーラ〔樹〕の枝であるなら、それらを正しく守り抜きます。比丘たちよ、まさに、このように、このサーラ〔樹〕の林は、他時にあって、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あなたたちもまた、善ならざるものを捨棄しなさい。諸々の善なる法(性質)において専念を為しなさい。まさに、このように、あなたたちもまた、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。

 

226. 比丘たちよ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、ヴェーデーヒカーという名の主婦が〔世に〕有りました。比丘たちよ、ヴェーデーヒカー主婦には、このように、善き評価の声が上がっています。『ヴェーデーヒカー主婦は、温和なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静なる者である』と。比丘たちよ、また、まさに、ヴェーデーヒカー主婦には、カーリーという名の奴婢が〔世に〕有りました──能ある者であり、怠けない者であり、善く差配された生業ある者として。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方には、このように、善き評価の声が上がっている。「ヴェーデーヒカー主婦は、温和なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静なる者である」と。いったい、まさに、どうなのだろう。わたしの尊貴なる方は、いったい、まさに、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さないのだろうか、それとも、存していないのだろうか、それとも、まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さないのだろうか──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、尊貴なる方を審査するのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、渋面を為しました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、より一層しっかりと、尊貴なる方を審査するのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、まさしく、さらに遅く昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、さらに遅く昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、さらに遅く昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、わが意を得ない言葉を放ちました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。まさしく、わたしの、これらの生業が善く差配され、それによって、わたしの尊貴なる方は、まさしく、内に怒りが存していながら、明らかと為さない──存していないのではなく。それなら、さあ、わたしは、より一層しっかりと、尊貴なる方を審査するのだ』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、まさしく、さらに遅く昼に起きました。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦は、カーリー奴婢に、こう言いました。『おや、まあ、カーリーよ』と。『尊貴なる方よ、何でしょうか』と。『さて、どうして、さらに遅く昼に起きたのですか』と。『尊貴なる方よ、まさに、何でもありません』と。『悪しき奴婢よ、まさに、まあ、何でもないのに、さらに遅く昼に起きたとは』と、激情し、わが意を得ない者となり、閂の楔を掴んで、頭に打撃を与え、頭を破り裂きました。比丘たちよ、そこで、まさに、カーリー奴婢は、破断し血が滴り出る頭で、近所の者たちに、不平を言いました。『尊貴なる方よ、見てください、温和なる方の行為を。尊貴なる方よ、見てください、謙譲なる方の行為を。尊貴なる方よ、見てください、寂静なる方の行為を。なぜなら、どうして、まさに、一者の奴婢が昼に起きた、ということで、激情し、わが意を得ない者となり、閂の楔を掴んで、頭に打撃を与え、頭を破り裂くというのでしょう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴェーデーヒカー主婦には、他時にあって、このように、悪しき評価の声が上がりました。『ヴェーデーヒカー主婦は、狂暴なる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、謙譲ならざる者である。ヴェーデーヒカー主婦は、寂静ならざる者である』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、すなわち、諸々の意に適わない言葉の道が触れないかぎり、まさしく、それまでのあいだは、温和なるうえにも温和なる者として〔世に〕有り、謙譲なるうえにも謙譲なる者として〔世に〕有り、寂静なるうえにも寂静なる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、比丘に、諸々の意に適わない言葉の道が触れることから、そこで〔はじめて〕、比丘は、『温和なる者』と知られるべきであり、『謙譲なる者』と知られるべきであり、『寂静なる者』と知られるべきです。比丘たちよ、その〔比丘〕が、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を因として、素直な者と成り、素直であることを惹起するなら、わたしは、その比丘を、『素直な者』と説きません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、その衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を得ずにいるなら、素直な者と成らず、素直であることを惹起しないからです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、その比丘が、まさしく、法(教え)を尊敬しながら、法(教え)を尊重しながら、法(教え)を思慕しながら、法(教え)を供養しながら、法(教え)を敬恭しながら、素直な者と成るなら、素直であることを惹起するなら、わたしは、その比丘を、『素直な者』と説きます。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『まさしく、〔わたしたちは〕法(教え)を尊敬しながら、法(教え)を尊重しながら、法(教え)を思慕しながら、法(教え)を供養しながら、法(教え)を敬恭しながら、素直な者たちと成るのだ、素直であることを惹起するのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

227. 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──(1)あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──(2)あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──(3)あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──(4)あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──(5)あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象(所縁)として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

228. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この大いなる地を、地ならざるものと為すのだ』と。彼は、そこかしこを掘り崩し、そこかしこに撒き散らし、そこかしこに唾を吐き、そこかしこに小便をします。『〔おまえは〕地ならざるものと成る。〔おまえは〕地ならざるものと成る』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この大いなる地を、地ならざるものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この大いなる地は、深遠で、量りようがないからです。それは、地ならざるものと為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく地に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

229. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、あるいは、塗料を、あるいは、鬱金(うこん)を、あるいは、青〔の染料〕を、あるいは、深紅〔の染料〕を、携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この虚空において、形態を加工し、形態の出現あるものと為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この虚空において、形態を加工し、形態の出現あるものと為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この虚空は、形態なく、外見なくあるからです。そこにおいて、形態を加工し、形態の出現あるものと為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって……略……。『まさしく、そして……。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく虚空に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

230. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、燃え盛る草の松明(たいまつ)を携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、ガンガー川は、深遠で、量りようがないからです。それは、燃え盛る草の松明で、ガンガー川を等しく熱し、等しく遍く熱するに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって……略……。『まさしく、そして……。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なくガンガー川に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

231. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、鞣(なめ)されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮があるとします。そこで、人が、あるいは、小枝を、あるいは、小石を、携えて、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、この、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮を、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、その人は、この、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮を、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、鞣されたうえにも善く鞣され善く完全に鞣され、柔和で綿のようで、サラサラと音のしない、バラバラと音のしない、猫皮であるからです。それは、あるいは、小枝で、あるいは、小石で、サラサラと〔音を〕為し、バラバラと〔音を〕為すに為し易くはなく、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの言葉の道です。それらによって、他者たちは、あなたたちに説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時によって、あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって──あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざるによって──あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって──あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって──あるいは、慈愛の心から、あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、あるいは、〔しかるべき〕時によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、〔しかるべき〕時ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、事実によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、事実ならざるによって。比丘たちよ、あるいは、優しい〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、粗暴な〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、義(利益)を伴った〔言葉〕によって、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、義(利益)を伴わない〔言葉〕によって。比丘たちよ、あるいは、慈愛の心から、他者たちは説きつつ説くでしょう──あるいは、憤怒を内にすることから。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく猫皮に等しき心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

232. 比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸(のこぎり)で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、その〔比丘〕が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません。比丘たちよ、そこで、また、あなたたちは、このように学ぶべきです。『まさしく、そして、わたしの心は、変化することなく有るのだ。かつまた、悪しき言葉を放たないのだ。さらに、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、慈愛の心ある者として、〔世に〕住むのだ──憤怒を内にする者ではなく。そして、その人を、慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ。さらに、彼を対象として、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく加害〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

233. 比丘たちよ、そして、この鋸の喩えの教諭に、あなたたちが、幾度となく、意を為すなら、比丘たちよ、すなわち、あなたたちが甘受できない、〔まさに〕その、言葉の道を、あるいは、微細なるものであれ、あるいは、粗大なるものであれ、まさに、あなたたちは見ますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」〔と〕。「比丘たちよ、それゆえに、ここに、この鋸の喩えの教諭に、幾度となく、意を為しなさい。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 鋸の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(22). 蛇の喩えの経

 

234. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。まさに、大勢の比丘たちは、「どうやら、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と耳にしました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「友よ、アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちはまた、この、悪しきものである悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問します。「友よ、アリッタよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、アリッタよ、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました」と。このようにもまた、まさに、それらの比丘たちによって、尋問され、審問され、査問されながら、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、まさしく、その、悪しきものである悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。

 

235. すなわち、まさに、それらの比丘たちは、この、悪しきものである悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのです。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、『どうやら、鷹匠の過去あるアリッタという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。『友よ、アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、この、悪しきものである悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問しました。『友よ、アリッタよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、アリッタよ、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました』と。尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしたちによって、尋問され、審問され、査問されながら、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、まさしく、その、悪しきものである悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、この、悪しきものである悪しき見解から、鷹匠の過去あるアリッタ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、わたしたちは、この義(事態)を、世尊に告げます」と。

 

236. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に告げなさい。『友よ、アリッタよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、鷹匠の過去あるアリッタ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「友よ、アリッタよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、世尊は、こう言いました。「アリッタよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず』」と。

 

 「尊き方よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、およそ、これらの、世尊によって説かれた、障りとなる諸々の法(性質)は、それらは、受用している者の障りとなるに十分ならず」と。「愚人よ、まさに、誰のものとして、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。愚人よ、まさに、わたしによって、無数の教相によって、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれたのではないですか。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、肉片の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、草の松明の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、火坑の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、夢の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、借り物の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、木の果の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。愚人よ、そこで、また、しかしながら、あなたは、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。愚人よ、まさに、それは、あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、この者は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、この法(教え)と律において、熱を為した者としてもまたありますか」よ。「尊き方よ、まさに、どうして、存するというのでしょう。尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。このように説かれたとき、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、世尊は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、鷹匠の過去あるアリッタ比丘に、こう言いました。「愚人よ、まさに、あなたは、この、自らの悪しきものである悪しき見解によって、〔そのとおりに〕覚知されるでしょう。ここに、わたしは、比丘たちに質問しましょう」と。

 

237. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、あなたたちもまた、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しますか。すなわち、この者が、鷹匠の過去あるアリッタ比丘が、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出すように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、無数の教相によって、わたしたちに、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──世尊によって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました」と。「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知します。比丘たちよ、まさに、無数の教相によって、まさに、障りとなる諸々の法(性質)は、障りと説かれました──わたしによって。また、そして、それらは、受用している者の障りとなるに十分なるものがあります。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、骨の鎖の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。そこで、また、しかしながら、この者は、鷹匠の過去あるアリッタ比丘は、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。まさに、それは、彼にとって、愚人にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。比丘たちよ、彼が、まさに、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他に、欲望の表象より他に、諸々の欲望の思考より他に、諸々の欲望〔の対象〕を受用するであろう、という、この状況は見出されません。

 

238. 比丘たちよ、ここに、一部の愚人たちは、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視されず、納得がなく受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、悪しく把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が悪しく把握されたからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、蛇を義(目的)として蛇を探し求める人が、蛇を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、大いなる蛇を見ます。〔まさに〕その、この〔蛇〕を、あるいは、蜷局において、あるいは、尾において、掴みます。その蛇は、反転して、彼の、あるいは、手に、あるいは、腕に、あるいは、どれか一つの手足や肢体に、咬みつくでしょう。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、蛇が悪しく掴まれたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の愚人たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視されず、納得がなく受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領しません。彼らにとって、それらの法(教え)は、悪しく把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が悪しく把握されたからです。

 

239. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視します。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視され、納得があり受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、ではなく、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、ではなく、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領します。彼らにとって、それらの法(教え)は、善く把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が善く把握されたからです。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、蛇を義(目的)として蛇を探し求める人が、蛇を遍く探し求めるために歩んでいるとします。彼は、大いなる蛇を見ます。〔まさに〕その、この〔蛇〕を、山羊足の棒によって、善く制御されたものに制御します。山羊足の棒によって、善く制御されたものに制御して、頭において、善く掴まれたものとして掴みます。比丘たちよ、たとえ、何であれ、その蛇が、その人の、あるいは、手を、あるいは、腕を、あるいは、どれか一つの手足や肢体を、諸々の蜷局で包むとして、そこで、まさに、彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇することも、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇することも〕、まさしく、ありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、蛇が善く掴まれたからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息たちは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼らは、その法(教え)を遍く学得して、それらの法(教え)の義(意味)を、智慧によって近しく注視します。彼らにとって、それらの法(教え)は、智慧によって、義(意味)が近しく注視され、納得があり受認されます。彼らは、まさしく、そして、〔他者への〕論詰という福利あることから、ではなく、さらに、『かくのごとく〔云々〕』〔と批判する他者の〕論の解消という福利あることから、ではなく、法(教え)を遍く学得します。さらに、その義(目的)のために、法(教え)を遍く学得する、そして、その〔法〕の、その義(目的)を、〔彼らは〕受領します。彼らにとって、それらの法(教え)は、善く把握されたものとしてあり、長夜にわたり、利益のために、安楽のために、等しく転起します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の法(教え)が善く把握されたからです。比丘たちよ、これゆえに、ここに、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたたちが〕了知するなら、そのように、それを保持するべきです。また、そして、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたたちが〕了知しないなら、あなたたちは、そこにおいて、わたしに質問するべきです──また、あるいは、すなわち、明敏なる比丘たちが存するなら、〔彼らに質問するべきです〕。

 

240. 比丘たちよ、超脱を義(目的)として、筏の喩えの法(教え)を、あなたたちに説示しましょう──掴み取ることを義(目的)として、ではなく。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、大いなる水域を見るとします──危惧を有し恐怖を有する此岸を、平安にして恐怖なき彼岸を。しかしながら、彼に、渡し舟は存在しません──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。彼に、このような〔思いが〕存します。『これは、まさに、大いなる水域である。危惧を有し恐怖を有する此岸であり、平安にして恐怖なき彼岸である。しかしながら、わたしに、渡し舟は存在しない──あるいは、此岸から彼岸に至るために超え渡る橋も。それなら、さあ、わたしは、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡るのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、草や薪や枝や葉を寄せ集めて、筏を結び縛って、その筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ります。超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。それなら、さあ、わたしは、この筏を、あるいは、頭に載せて、あるいは、肩に掲げて、欲するところに立ち去るのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、このように為すなら、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、では、どのように為すなら、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょうか。比丘たちよ、ここに、超え渡り彼岸に至った、その人に、このような〔思いが〕存します。『多く〔の利益〕を作り為すものとして、まさに、わたしの、この筏はある。わたしは、この筏に依拠して、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、努め励みながら、〔無事〕安穏に彼岸に超え渡ったのだ。それなら、さあ、わたしは、この筏を、あるいは、陸に引き揚げて、あるいは、水に沈めて、欲するところに立ち去るのだ』と。比丘たちよ、このように為すなら、まさに、その人は、その筏において為すべきことを為す者として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、超脱を義(目的)として、筏の喩えの法(教え)が、わたしによって説示されました──掴み取ることを義(目的)として、ではなく。比丘たちよ、あなたたちに説示された筏の喩えの法(教え)を了知しているなら、あなたたちによって、諸々の法(教え)もまた捨棄されるべきです。ましてや、諸々の法(教え)ならざるものは〔言うまでもありません〕。

 

241. 比丘たちよ、六つのものがあります。これらの見解の拠点です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。感受〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。表象〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。諸々の形成〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。識知〔作用〕()を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。(2)すなわち、また、それが、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それをもまた、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。(3)すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点を、それをもまた、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、(4)形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。感受〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。表象〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。諸々の形成〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。(5)すなわち、また、それが、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、それをもまた、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。(6)すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点を、それをもまた、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。このように等しく随観している者は、彼は、〔何も〕存していないとき、思い悩むことがありません」と。

 

241. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか──外に〔何も〕存していないとき、思い悩むことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに有ったが、それは、まさに、わたしに存在しない』『まさに、わたしに存するべきであるが、それを、まさに、わたしは得ない』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘よ、このように、まさに、外に〔何も〕存していないとき、思い悩むことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、存在しますか──外に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有りません。『まさに、わたしに有ったが、それは、まさに、わたしに存在しない』『まさに、わたしに存するべきであるが、それを、まさに、わたしは得ない』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘よ、このように、まさに、外に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか──内に〔何も〕存していないとき、思い悩むことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有ります。『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。彼は、一切の見解の拠点と確立と妄執と固着と悪習の根絶のために、一切の形成〔作用〕の止寂のために、一切の依り所の放棄のために、渇愛の滅尽のために、離貪のために、止滅のために、涅槃のために、法(教え)を説示している、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、〔言葉を〕聞きます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、〔わたしは〕断絶するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕消失するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕有ることなくあるのだ』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘よ、このように、まさに、内に〔何も〕存していないとき、思い悩むことが有ります」と。

 

 「尊き方よ、また、存在しますか──内に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことは」と。「比丘よ、存在します」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、一部の者に、このような〔思いが〕有りません。『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。彼は、一切の見解の拠点と確立と妄執と固着と悪習の根絶のために、一切の形成〔作用〕の止寂のために、一切の依り所の放棄のために、渇愛の滅尽のために、離貪のために、止滅のために、涅槃のために、法(教え)を説示している、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、〔言葉を〕聞きます。彼に、このような〔思いは〕有りません。『ああ、まさに、〔わたしは〕断絶するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕消失するのだ。ああ、まさに、〔わたしは〕有ることなくあるのだ』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘よ、このように、まさに、内に〔何も〕存していないとき、思い悩まないことが有ります。

 

243. 比丘たちよ、〔あなたたちは〕執持できますか──その執持〔の対象〕(所有物)を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、〔そのような〕執持〔の対象〕です。

 

 比丘たちよ、〔あなたたちは〕執取できますか──その自己の論への執取に。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その自己の論への執取を。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その自己の論への執取を。すなわち、その者が執取していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕自己の論への執取です。

 

 比丘たちよ、〔あなたたちは〕依拠できますか──その見解の依所に。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です。比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その見解の依所を。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──その見解の依所を。すなわち、その者が依拠していると、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しない、〔そのような〕見解の依所です。

 

244. 比丘たちよ、あるいは、自己が存しているとき、『わたしの自己に属するものである』という〔思いが〕存しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、あるいは、自己に属するものが存しているとき、『わたしの自己である』という〔思いが〕存しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、かつまた、自己が、かつまた、自己に属するものが、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、認知されずにあるとき、すなわち、また、『それは、世である。それは、自己である。それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として、死してのち、〔世に〕有るであろう。常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』という、その見解の拠点は、比丘たちよ、まさに、これは、全部が全部、愚者の法(教え)ではないですか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、どうして、存さないというのでしょう。尊き方よ、まさに、全部が全部、愚者の法(教え)です」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。感受〔作用〕は……略……。「表象〔作用〕は……。「諸々の形成〔作用〕は……。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

 

 「尊き方よ、無常です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

 

 「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。

 

 「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

 

 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

245. 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいし厭離し、感受〔作用〕にたいし厭離し、表象〔作用〕にたいし厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいし厭離し、識知〔作用〕にたいし厭離します。厭離しながら(※)、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、かくのごとくもまた、閂を外した者であり、かくのごとくもまた、堀を埋めた者であり、かくのごとくもまた、柱を引き抜いた者であり、かくのごとくもまた、閂なき者であり、かくのごとくもまた、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者である』〔と〕説かれます。

 

※ テキストには nibbidā とあるが、PTS版により nibbinda と読む。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂を外した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、無明が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂を外した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、堀を埋めた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、さらなる生存ある生の輪廻が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、堀を埋めた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、柱を引き抜いた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、柱を引き抜いた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成ります。

 

246. 比丘たちよ、このように、まさに、心が解脱した比丘を、インダ(帝釈天)を含み梵〔天〕を含み造物主を含む天〔の神々〕たちが探し求めながらも、『これが、如来の依拠するところの識知〔作用〕である』と、到達することはありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさしく、所見の法(現世)において、わたしは、如来を、『随知されることなき者』と説きます。比丘たちよ、このように説く者であり、このように告げ知らせる者である、まさに、わたしを、或る沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『虚無論者の沙門ゴータマは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存(非有)を報知する』と。比丘たちよ、そして、すなわち、わたしがあるとおりではなく、さらに、すなわち、わたしが説くとおりではなく、そのように、わたしを、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗します。『虚無論者の沙門ゴータマは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と非生存を報知する』と。比丘たちよ、そして、わたしは、過去において、さらに、今現在も、まさしく、そして、苦しみを報知し、さらに、苦しみの止滅を〔報知します〕。比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるとして、比丘たちよ、そこで、如来に、憤懣〔の思い〕は有りません──不興もなく、心の不満もなく。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、比丘たちよ、そこで、如来に、歓嘆〔の思い〕は有りません──悦意もなく、心の浮揚もなく。比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、比丘たちよ、そこで、如来に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、このことは、過去において遍知されたことであり、そこにおいて、わたしに、このような形態の諸々の所作が為されるのだ』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるとして、そこで、あなたたちは、憤懣〔の思い〕を〔作り為すべきでは〕なく、不興を〔作り為すべきでは〕なく、心の不満を作り為すべきではありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、そこで、あなたたちは、歓嘆〔の思い〕を〔作り為すべきでは〕なく、悦意を〔作り為すべきでは〕なく、心の浮揚を作り為すべきではありません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、もし、また、他者たちが、あなたたちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するとして、そこで、あなたたちに、このような〔思いが〕存するべきです。『すなわち、まさに、このことは、過去において遍知されたことであり、そこにおいて、わたしに、このような形態の諸々の所作が為されるのだ』と。

 

247. 比丘たちよ、それゆえに、ここに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、感受〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、表象〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それらは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それを、どう思いますか。すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも、あるいは、自己に属するものでも、ないからです」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、感受〔作用〕は……略……。比丘たちよ、表象〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……略……。比丘たちよ、識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。

 

248. 比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、〔自己を〕報知するための〔輪廻の〕転起は〔もはや〕存在しません(輪廻の施設はありえない)。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が捨棄されたなら、彼らの全てが、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)が捨棄されたなら、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、彼らの全てが、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、比丘たちの、三つの束縛するものが捨棄されたなら、彼らの全てが、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)に従い行く者たちであり、信に従い行く者たちであるなら、彼らの全てが、正覚を行き着く所とする者たちです。比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、それらの者たちに、わたしにたいする、信のみがあり、愛情のみがあるとして、彼らの全てが、天上を行き着く所とする者たちとなります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蛇の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(23). 蟻塚の経

 

249. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者クマーラ・カッサパは、アンダ林に住んでいます。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンダ林を照らして、尊者クマーラ・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、尊者クマーラ・カッサパに、こう言いました。

 

 「比丘よ、比丘よ、この蟻塚は、夜に発煙し、昼に炎上します。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、閂を見ました。『幸いなる者よ、閂があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、閂を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、膨張した〔蛙〕を見ました。『幸いなる者よ、膨張した〔蛙〕がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、膨張した〔蛙〕を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、二様の道を見ました。『幸いなる者よ、二様の道があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、二様の道を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、器を見ました。『幸いなる者よ、器があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、器を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、亀を見ました。『幸いなる者よ、亀がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、亀を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、屠殺場を見ました。『幸いなる者よ、屠殺場があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、屠殺場を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、肉片を見ました。『幸いなる者よ、肉片があります』と。婆羅門は、このように言いました。『思慮ある者よ、肉片を引き揚げよ。思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら、龍を見ました。『幸いなる者よ、龍がいます』と。婆羅門は、このように言いました。『龍は、ほうっておけ。龍を、打ってはならない。龍に、礼拝を為せ』と。

 

 比丘よ、まさに、あなたは、近づいて行って、世尊に、これらの問いを尋ねるべきです。そして、すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。比丘よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。

 

250. そこで、まさに、尊者クマーラ・カッサパは、その夜が明けると、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者クマーラ・カッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンダ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。尊き方よ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、比丘よ、この蟻塚は、夜に発煙し、昼に炎上します。婆羅門は、このように言いました。「思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ」と。思慮ある者は、刃を取って掘り崩しながら……略……また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません』と。尊き方よ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。尊き方よ、いったい、まさに、何が、蟻塚であり、何が、夜に発煙することであり、何が、昼に炎上することであり、何が、婆羅門であり、何が、思慮ある者であり、何が、刃であり、何が、掘り崩すことであり、何が、閂であり、膨張した〔蛙〕であり、何が、二様の道であり、何が、器であり、何が、亀であり、何が、屠殺場であり、何が、肉片であり、何が、龍なのですか」と。

 

251. 「比丘よ、『蟻塚』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、この身体の同義語です。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、昼に、生業に励んで、夜に、刻々に思考し、刻々に想念するなら、これは、夜に発煙することです。比丘よ、すなわち、まさに、夜に、刻々に思考し、刻々に想念し、昼に、身体によって、言葉によって、意によって、生業に従事するなら、これは、昼に炎上することです。

 

 比丘よ、『婆羅門』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘よ、『思慮ある者』とは、まさに、これは、〔いまだ〕学びある者(有学)たる比丘の同義語です。

 

 比丘よ、『刃』とは、まさに、これは、聖なる智慧の同義語です。比丘よ、『掘り崩すこと』とは、まさに、これは、精進勉励の同義語です。

 

 比丘よ、『閂』とは、まさに、これは、無明の同義語です。『閂を引き揚げよ』〔とは〕、無明を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『膨張した〔蛙〕』とは、まさに、これは、忿激と葛藤の同義語です。『膨張した〔蛙〕を引き揚げよ』〔とは〕、忿激と葛藤を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『二様の道』とは、まさに、これは、疑惑の同義語です。『二様の道を引き揚げよ』〔とは〕、疑惑を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『器』とは、まさに、これは、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)の同義語です。それは、すなわち、この、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害の、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害の、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害の、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害の、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害の、〔同義語です〕。『器を引き揚げよ』〔とは〕、五つの〔修行の〕妨害を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『亀』とは、まさに、これは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)の同義語です。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)の、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)の、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)の、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)の、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)の、〔同義語です〕。『亀を引き揚げよ』〔とは〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『屠殺場』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲)の同義語です。眼によって識知されるべき諸々の形態()で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものの、耳によって識知されるべき諸々の音声()で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気()で……略……舌によって識知されるべき諸々の味感()で……略……身によって識知されるべき諸々の感触(所触)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものの、〔同義語です〕。『屠殺場を引き揚げよ』〔とは〕、五つの欲望の属性を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『肉片』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。『肉片を引き揚げよ』〔とは〕、愉悦と貪欲を捨棄せよ。『思慮ある者よ、刃を取って掘り崩せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります。

 

 比丘よ、『龍』とは、まさに、これは、煩悩が滅尽した比丘の同義語です。『龍は、ほうっておけ。龍を、打ってはならない。龍に、礼拝を為せ』とは、これが、この〔言葉〕の義(意味)となります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者クマーラ・カッサパは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 蟻塚の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(24). 乗り継ぎ車の経

 

252. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、大勢の出生地にある比丘たちが、出生地において雨期を過ごし、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、出生地において、梵行を共にする出生地にある比丘たちにとって、このように敬愛されているのですか。『かつまた、自己みずから、少なき欲求の者であり、かつまた、少なき欲求たること(少欲)についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、満ち足りている者であり、かつまた、満ち足りていること(知足)についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、遠離の者であり、かつまた、遠離についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者であり、かつまた、〔世俗と〕交わりなきことについての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、精進に励む者であり、かつまた、精進勉励についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、戒を成就した者であり、かつまた、戒の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、禅定を成就した者であり、かつまた、禅定の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、智慧を成就した者であり、かつまた、智慧の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、解脱を成就した者であり、かつまた、解脱の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、解脱の知見を成就した者であり、かつまた、解脱の知見の成就についての議論を、比丘たちに為す者である。梵行を共にする者たちにとって、教諭者であり、教授者であり、〔教えを〕見示する者であり、受持させる者であり、激励する者であり、感動させる者である』」と。「尊き方よ、プンナという名の尊者マンターニプッタは、出生地において、梵行を共にする出生地にある比丘たちにとって、このように敬愛されています。『かつまた、自己みずから、少なき欲求の者であり、かつまた、少なき欲求たることについての議論を、比丘たちに為す者である。かつまた、自己みずから、満ち足りている者であり……略……。梵行を共にする者たちにとって、教諭者であり、教授者であり、〔教えを〕見示する者であり、受持させる者であり、激励する者であり、感動させる者である』」と。

 

253. また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタが、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「尊者プンナ・マンターニプッタには、諸々の利得がある。尊者プンナ・マンターニプッタには、諸々の善く得られた利得がある。すなわち、梵行を共にする識者たちが、教師の面前で、〔彼の徳に〕触れては触れて、〔彼の〕栄誉を語る。そして、それに、教師は大いに随喜する。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちもまた、いつであれ、いつかは、尊者プンナ・マンターニプッタと共に集いあつまることになるであろう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるであろう」と。

 

254. そこで、まさに、世尊は、ラージャガハにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、「どうやら、世尊が、サーヴァッティーに到着し、サーヴァッティーに住んでおられるらしい。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において」と耳にしました。

 

255. そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。

 

256. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、あなたは、すなわち、プンナという名のマンターニプッタ比丘を、幾度となく賛じ称えながら、〔世に〕有りました。彼が、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、アンダ林のあるところに、そこへと立ち去ったのです──昼の休息のために」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、急ぎの様子で、坐具を取って、背後から背後へと、尊者プンナ・マンターニプッタに付き従いました──〔彼の〕頭を眺め見ながら。そこで、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタは、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。まさに、尊者サーリプッタもまた、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者プンナ・マンターニプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者プンナ・マンターニプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者プンナ・マンターニプッタに、こう言いました。

 

257. 「友よ、わたしたちによって、世尊のもと、梵行が住されます」と。

 

 「友よ、そのとおりです」と。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、心(瞑想)の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、疑いの超渡の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄を義(目的)として……略……疑いの超渡の清浄を義(目的)として……略……道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)として……略……〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)として……略……。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、それでは、何を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、疑いの超渡の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、道と道ならざるものの知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、〔実践の〕道の知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「友よ、また、どうなのでしょう、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃があるのですか」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、戒の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、心の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、見解の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と……略……疑いの超渡の清浄は……道と道ならざるものの知見の清浄は……〔実践の〕道の知見の清浄は……。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。『友よ、また、どうなのでしょう、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃があるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは、さにあらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。

 

258. 「友よ、もし、世尊が、戒の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、心の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、見解の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、疑いの超渡の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、道と道ならざるものの知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、〔実践の〕道の知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、世尊が、知見の清浄を、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知するなら、まさしく、執取を有するものを、〔そのように〕存しているものを、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃と報知することになります。友よ、もし、これらの法(性質)より他に、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃が有ったなら、凡夫が完全なる涅槃に到達するでしょう。友よ、なぜなら、凡夫は、これらの法(性質)より他にあるからです。友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。

 

259. 友よ、それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、サーヴァッティーに滞在していると、サーケータにおいて、何らかの或る緊急の用事が生起するとします。彼のために、かつまた、サーヴァッティーの中途にあって、かつまた、サーケータの中途にあって、〔家臣たちは〕七つの乗り継ぎ車を調達します。友よ、そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、サーヴァッティーの内宮の門から出立して、第一の乗り継ぎ車に乗ります。第一の乗り継ぎ車から、第二の乗り継ぎ車に至り得ます。第一の乗り継ぎ車を捨て、第二の乗り継ぎ車に乗ります。第二の乗り継ぎ車から、第三の乗り継ぎ車に至り得ます。第二の乗り継ぎ車を捨て、第三の乗り継ぎ車に乗ります。第三の乗り継ぎ車から、第四の乗り継ぎ車に至り得ます。第三の乗り継ぎ車を捨て、第四の乗り継ぎ車に乗ります。第四の乗り継ぎ車から、第五の乗り継ぎ車に至り得ます。第四の乗り継ぎ車を捨て、第五の乗り継ぎ車に乗ります。第五の乗り継ぎ車から、第六の乗り継ぎ車に至り得ます。第五の乗り継ぎ車を捨て、第六の乗り継ぎ車に乗ります。第六の乗り継ぎ車から、第七の乗り継ぎ車に至り得ます。第六の乗り継ぎ車を捨て、第七の乗り継ぎ車に乗ります。第七の乗り継ぎ車から、サーケータの内宮の門に到着します。まさしく、ただちに、内宮の門に至り、〔そのように〕存している〔王〕に、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、このように尋ねます。『大王よ、あなたは、この乗り継ぎ車によって、サーヴァッティーからサーケータ内宮の門に到着したのですか』と。友よ、いったい、まさに、どのように説き明かしながら、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきですか」と。

 

 「友よ、このように説き明かしながら、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです。『ここに、わたしが、サーヴァッティーに滞在していると、サーケータにおいて、何らかの或る緊急の用事が生起した。〔まさに〕その、わたしのために、かつまた、サーヴァッティーの中途にあって、かつまた、サーケータの中途にあって、〔家臣たちは〕七つの乗り継ぎ車を調達した。そこで、まさに、わたしは、サーヴァッティーの内宮の門から出立して、第一の乗り継ぎ車に乗った。第一の乗り継ぎ車から、第二の乗り継ぎ車に至り得た。第一の乗り継ぎ車を捨て、第二の乗り継ぎ車に乗った。第二の乗り継ぎ車から、第三の乗り継ぎ車に至り得た。第二の乗り継ぎ車を捨て、第三の乗り継ぎ車に乗った。第三の乗り継ぎ車から、第四の乗り継ぎ車に至り得た。第三の乗り継ぎ車を捨て、第四の乗り継ぎ車に乗った。第四の乗り継ぎ車から、第五の乗り継ぎ車に至り得た。第四の乗り継ぎ車を捨て、第五の乗り継ぎ車に乗った。第五の乗り継ぎ車から、第六の乗り継ぎ車に至り得た。第五の乗り継ぎ車を捨て、第六の乗り継ぎ車に乗った。第六の乗り継ぎ車から、第七の乗り継ぎ車に至り得た。第六の乗り継ぎ車を捨て、第七の乗り継ぎ車に乗った。第七の乗り継ぎ車から、サーケータの内宮の門に到着したのだ』と。友よ、このように説き明かしながら、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、正しく説き明かしつつ説き明かすべきです」と。

 

 「友よ、まさしく、このように、まさに、戒の清浄は、心の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、心の清浄は、見解の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、見解の清浄は、疑いの超渡の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、疑いの超渡の清浄は、道と道ならざるものの知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、道と道ならざるものの知見の清浄は、〔実践の〕道の知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、〔実践の〕道の知見の清浄は、知見の清浄を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものであり、知見の清浄は、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)とする、まさしく、そのかぎりのものです。友よ、まさに、〔何も〕執取せずして完全なる涅槃を義(目的)として、世尊のもと、梵行は住されます」と。

 

260. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者プンナ・マンターニプッタに、こう言いました。「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『プンナ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『マンターニプッタ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、尊者プンナ・マンターニプッタによって、諸々の深遠なるうえにも深遠なる問いが、〔それらに〕触れては触れて、説き明かされました。梵行を共にする者たちには、諸々の利得があります。梵行を共にする者たちには、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、尊者プンナ・マンターニプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら。たとえ、もし、下帯によって、梵行を共にする者たちが、尊者プンナ・マンターニプッタを、頭で持ち運びながら、会見するために得るとして、奉侍するために得るとして、彼らにもまた、諸々の利得があります。彼らにもまた、善く得られたものがあります。わたしたちにもまた、諸々の利得があります。わたしたちにもまた、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちが、尊者プンナ・マンターニプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら」と。

 

 このように説かれたとき、尊者プンナ・マンターニプッタは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『ウパティッサ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『サーリプッタ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「ああ、まさに、教師に適する弟子を相手に話し合っていながら、まさに、知らなかったとは。『尊者サーリプッタである』と。まさに、それで、もし、わたしたちが、『尊者サーリプッタである』と知るなら、これほどまでにもまた、〔長きものとして〕弁じることは、まさに、ないでしょう。友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、尊者サーリプッタによって、諸々の深遠なるうえにも深遠なる問いが、〔それらに〕触れては触れて、尋ねられました。梵行を共にする者たちには、諸々の利得があります。梵行を共にする者たちには、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、尊者サーリプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら。たとえ、もし、下帯によって、梵行を共にする者たちが、尊者サーリプッタを、頭で持ち運びながら、会見するために得るとして、奉侍するために得るとして、彼らにもまた、諸々の利得があります。彼らにもまた、善く得られたものがあります。わたしたちにもまた、諸々の利得があります。わたしたちにもまた、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちが、尊者サーリプッタを、会見するために得るなら、奉侍するために得るなら」と。

 

 まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者もまた、互いに他の見事に語られたものを等しく随喜した、ということです。

 

 乗り継ぎ車の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(25). 撒餌の経

 

261. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、猟師は、獣類たちに、撒餌を、〔このように〕撒きません。『獣類たちは、わたしが撒いたこの撒餌を遍く食べながら、長寿の者たちとなり、色艶ある者たちとなり、長きにわたり、長時のあいだ、〔身を〕保ち行け』と。比丘たちよ、しかしながら、まさに、猟師は、獣類たちに、撒餌を、このように撒きます。『獣類たちは、わたしが撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べるであろう。深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起するであろう。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起するであろう。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成るであろう──この撒餌において』と。

 

262. 比丘たちよ、そこで、第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りました──猟師のこの撒餌において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

263. 比丘たちよ、そこで、第二の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成った──猟師のこの撒餌において。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間しました。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住みました。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退しました。活力と精進が、遍く衰退したとき、まさしく、その、猟師が撒いた撒餌に戻りました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りました──猟師のこの撒餌において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

264. 比丘たちよ、そこで、第三の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは、猟師が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住んだ。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成る。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退した。活力と精進が、遍く衰退したとき、まさしく、その、猟師が撒いた撒餌に戻った。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者と成った──猟師のこの撒餌において。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処(すみか)を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において』と。彼らは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──猟師のこの撒餌において。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらの第三の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第三の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く食べ、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第三の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを』と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲みました。比丘たちよ、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第三の獣類たちの巣を見ました。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第三の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。

 

265. 比丘たちよ、そこで、第四の獣類たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第三の獣類たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の獣類たちは、このように等しく思い考えた。『すなわち、まさに、それらの第一の獣類たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において」と。彼らは、猟師が撒いたこの撒餌に近しく依拠して、棲処を営んだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しなかった。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しなかった。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らなかった──猟師のこの撒餌において。

 

 そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有った。「まさに、これらの第三の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第三の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く食べ、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第三の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを」と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲んだ。まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第三の獣類たちの巣を見た。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。まさに、このように、それらの第三の獣類たちもまた、猟師の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、すなわち、そして、猟師の、さらに、猟師の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において』と。彼らは、すなわち、そして、猟師の、さらに、猟師の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、猟師が撒いたこの撒餌に深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔猟師の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──猟師のこの撒餌において。

 

 比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『まさに、これらの第四の獣類たちは、狡猾なる者たちとして、欺瞞ある者たちとして、存している。まさに、これらの第四の獣類たちは、神通ある者たちとして、別格の者たちとして、存している。かつまた、まさに、〔彼らは〕撒いたこの撒餌を遍く食べ、かつまた、彼らの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、〔わたしたちは〕知らない。それなら、さあ、わたしたちは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲むのだ。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちは〕第四の獣類たちの巣を見るであろう。すなわち、彼らが、潜みに赴くところを』と。彼らは、撒いたこの撒餌を、遍きにわたり、地域もろともに、諸々の大きな棒と網で取り囲みました。比丘たちよ、まさしく、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第四の獣類たちの巣を見ませんでした。すなわち、彼らが、潜みに赴いたところを。比丘たちよ、そこで、そして、猟師に、さらに、猟師の衆に、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしたちが、第四の獣類たちを刺激するなら、刺激された彼らは、他の者たちを刺激するであろう。刺激された彼らは、他の者たちを刺激するであろう。このように、獣類たちは、撒いたこの撒餌を、全てにわたり、完全に解き放つであろう。それなら、さあ、わたしたちは、第四の獣類たちを捨て放つのだ』と。比丘たちよ、まさに、そして、猟師は、さらに、猟師の衆は、第四の獣類たちを捨て放ちました。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第四の獣類たちは、猟師の神通の威力から完全に解き放たれました。

 

266. 比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『撒餌』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の同義語です。比丘たちよ、『猟師』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『猟師の衆』とは、まさに、これは、悪魔の衆の同義語です。比丘たちよ、『獣類たち』とは、まさに、これは、沙門や婆羅門たちの同義語です。

 

267. 比丘たちよ、そこで、第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りました──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第一の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第一の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

268. 比丘たちよ、そこで、第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成った──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。(※)彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間しました。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住みました。彼らは、そこにおいて、野菜を食物とする者たちともまた成り、粟を食物とする者たちともまた成り、野生米を食物とする者たちともまた成り、革屑を食物とする者たちともまた成り、苔を食物とする者たちともまた成り、糠を食物とする者たちともまた成り、飯汁を食物とする者たちともまた成り、胡麻粉を食物とする者たちともまた成り、草を食物とする者たちともまた成り、牛糞を食物とする者たちともまた成り、林の根や果を食する者たちとして、落ちた果を受益する者たちとして、〔身を〕保ち行きました。

 

※ テキストの Te sabbaso nivāpabhojanā lokāmisā paiviramisu, bhayabhogā paiviratā araññāyatanāni ajjhogāhetvā vihareyyāmāti. を、PTS版により削除する。

 

 〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退しました。活力と精進が遍く衰退したとき、〔止寂の〕心による解脱は、遍く衰退しました。〔止寂の〕心による解脱が遍く衰退したとき、まさしく、その、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、それらの世の財貨に、戻りました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しました。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起しました。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りました──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第二の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第二の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

269. 比丘たちよ、そこで、第三の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住んだ。彼らは、そこにおいて、野菜を食物とする者たちともまた成り……略……落ちた果を受益する者たちとして、〔身を〕保ち行った。〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、草と水が消滅するとき、彼らの身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成る。彼らの、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体の活力と精進は、遍く衰退した。活力と精進が遍く衰退したとき、〔止寂の〕心による解脱は、遍く衰退した。〔止寂の〕心による解脱が遍く衰退したとき、まさしく、その、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、それらの世の財貨に、戻った。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べた。彼らは、そこにおいて、深入りして耽溺し、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起した。驕慢した者たちとして存しながら、放逸を惹起した。放逸の者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成った──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において』と。

 

 彼らは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。しかしながら、また、まさに、このような見解ある者たちと成りました。『世〔界〕は、常久である』ともまた、『世〔界〕は、常久ではない』ともまた、『世〔界〕は、終極がある』ともまた、『世〔界〕は、終極がない』ともまた、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』ともまた、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』ともまた、『如来は、死後に有る』ともまた、『如来は、死後に有ることがない』ともまた、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』ともまた、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』ともまた。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第三の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれませんでした。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第三の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第三の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

270. 比丘たちよ、そこで、第四の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えました。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔が撒いたこの撒餌に……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ」と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第三の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。「すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。すなわち、また、それらの第二の沙門や婆羅門たちは、このように等しく思い考えた。『すなわち、まさに、それらの第一の沙門や婆羅門たちは……略……。まさに、このように、それらの第一の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間するのだ。恐怖の食べ物から離間し、諸々の林所に深く分け入って住むのだ』と。彼らは、全てにわたり、撒餌の食料から、世の財貨から、離間した。……略……。まさに、このように、それらの第二の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において」と。

 

 彼らは、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、近しく依拠して、棲処を営んだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べた。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しなかった。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しなかった。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らなかった──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。しかしながら、また、まさに、このような見解ある者たちと成った。「世〔界〕は、常久である」ともまた……略……「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」ともまた。まさに、このように、それらの第三の沙門や婆羅門たちもまた、悪魔の神通の威力から完全に解き放たれなかった。それなら、さあ、わたしたちは、すなわち、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営むのだ。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べるのだ。深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しないのだ。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しないのだ。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成らないのだ──猟師のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において』と。

 

 彼らは、すなわち、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所で、そこで、棲処を営みました。そこで、棲処を営んで、悪魔が撒いたこの撒餌に、さらに、これらの世の財貨に、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べました。彼らは、そこにおいて、深入りせずして耽溺することなく、諸々の食料を食べながら、驕慢を惹起しませんでした。驕慢しない者たちとして存しながら、放逸を惹起しませんでした。放逸しない者たちとして存しながら、〔悪魔の〕欲するままに為される者たちと成りませんでした──悪魔のこの撒餌において、さらに、この世の財貨において。比丘たちよ、まさに、このように、それらの第四の沙門や婆羅門たちは、悪魔の神通の威力から完全に完全に解き放たれました。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの第四の獣類たちのように、その喩えのように、わたしは、これらの第四の沙門や婆羅門たちを説きます。

 

271. 比丘たちよ、では、どのように、そして、悪魔の、さらに、悪魔の衆の、赴かない所があるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり』〔と〕説かれます」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 撒餌の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。