増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 パンチャカ・ニパータ聖典(五集:五なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 学びある者の力の章(1.~)

 

1. 簡略の経

2. 詳細の経

3. 苦痛の経

4. 「運ばれるままに」の経

5. 学びの経

6. 入定の経

7. 欲望の経

8. 死滅の経

9. 第一の尊重〔の思い〕なき者の経

10. 第二の尊重〔の思い〕なき者の経

 

2. 力の章(11.~)

 

1. 聞かれたことなきものの経

2. 屋頂の経

3. 簡略の経

4. 詳細の経

5. 見られるべきものの経

6. さらなる屋頂の経

7. 第一の利益の経

8. 第二の利益の経

9. 第三の利益の経

10. 第四の利益の経

 

3. 五つの支分あるものの章(21.~)

 

1. 第一の尊重〔の思い〕なき者の経

2. 第二の尊重〔の思い〕なき者の経

3. 付随する〔心の〕汚れの経

4. 劣戒の者の経

5. 資助されたものの経

6. 解脱のための〔認識の〕場所の経

7. 禅定の経

8. 五つの支分あるものの経

9. 歩行〔瞑想〕の経

10. ナーギタの経

 

4. スマナーの章(31.~)

 

1. スマナーの経

2. チュンディーの経

3. ウッガハの経

4. シーハ軍団長の経

5. 布施における福利の経

6. 〔しかるべき〕時の布施の経

7. 食料の経

8. 信の経

9. 子の経

10. 大いなるサーラ〔樹〕たる子の経

 

5. ムンダ王の章(41.~)

 

1. 〔正しい〕活用の経

2. 正なる人士の経

3. 好ましいものの経

4. 意に適うものを施す者の経

5. 功徳が流れ行くものの経

6. 成就の経

7. 財産の経

8. 得られないものの経

9. コーサラの経

10. ナーラダの経

 

2. 第二の五十なるもの(51.~)

 

(6)1. 〔修行の〕妨害の章(51.~)

 

1. 妨げの経

2. 善ならざるものの集まりの経

3. 精励の支分の経

4. 時の経

5. 母と子の経

6. 師父の経

7. 幾度となく綿密に注視されるべき状況の経

8. リッチャヴィ〔族〕の少年たちの経

9. 第一の年長出家者の経

10. 第二の年長出家者の経

 

(7)2. 表象の章(61.~)

 

1. 第一の表象の経

2. 第二の表象の経

3. 第一の増大の経

4. 第二の増大の経

5. 論議の経

6. 正なる生き方の経

7. 第一の神通の足場の経

8. 第二の神通の足場の経

9. 厭離の経

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

(8)3. 軍人の章(71.~)

 

1. 第一の〔止寂の〕心による解脱の果の経

2. 第二の〔止寂の〕心による解脱の果の経

3. 第一の法の住者の経

4. 第二の法の住者の経

5. 第一の軍人の経

6. 第二の軍人の経

7. 第一の未来の恐怖の経

8. 第二の未来の恐怖の経

9. 第三の未来の恐怖の経

10. 第四の未来の恐怖の経

 

(9)4. 長老の章(81.~)

 

1. 貪るべきものの経

2. 貪欲を離れた者の経

3. 虚言者の経

4. 信なき者の経

5. 忍耐なき者の経

6. 融通無礙〔の智慧〕に至り得た者の経

7. 戒ある者の経

8. 長老の経

9. 第一の〔いまだ〕学びある者の経

10. 第二の〔いまだ〕学びある者の経

 

(10)5. カクダの章(91.~)

 

1. 第一の成就の経

2. 第二の成就の経

3. 説き明かしの経

4. 平穏の住の経

5. 不動〔の境地〕の経

6. 所聞の保持ある者の経

7. 議論の経

8. 林にある者の経

9. 獅子の経

10. カクダ長老の経

 

3. 第三の五十なるもの(101.~)

 

(11)1. 平穏の住の章(101.~)

 

1. 恐れおののきの経

2. 疑いある者の経

3. 大盗賊の経

4. 繊細なる沙門の経

5. 平穏の住の経

6. アーナンダの経

7. 戒の経

8. 〔もはや〕学ぶことなきものの経

9. 四方の者の経

10. 林地の経

 

(12)2. アンダカヴィンダの章(111.~)

 

1. 家に親近ある者の経

2. 随伴の沙門の経

3. 正しい禅定の経

4. アンダカヴィンダの経

5. 物惜〔の思い〕ある者の経

6. 栄誉の経

7. 嫉妬〔の思い〕ある者の経

8. 誤った見解ある者の経

9. 誤った言葉ある者の経

10. 誤った努力ある者の経

 

(13)3. 病の章(121.~)

 

1. 病の経

2. 善く現起された気づきの経

3. 第一の奉仕者の経

4. 第二の奉仕者の経

5. 第一の長寿の経

6. 第二の長寿の経

7. 離住の経

8. 沙門の安楽の経

9. 遍き動乱の経

10. 災厄の経

 

(14)4. 王の章(131.~)

 

1. 第一の輪の随転の経

2. 第二の輪の随転の経

3. 法の王の経

4. 「その方角において」の経

5. 第一の切望の経

6. 第二の切望の経

7. 「少なく眠る」の経

8. 〔多くの〕食事を取る者の経

9. 忍耐なき者の経

10. 聞く者の経

 

(15)5. ティカンダキーの章(141.~)

 

1. 「見下します」の経

2. 「〔作為の心で〕勉励し」の経

3. サーランダダの経

4. ティカンダキーの経

5. 地獄の経

6. 朋友の経

7. 正ならざる人士の布施の経

8. 正なる人士の布施の経

9. 第一の一時的に解脱した者の経

10. 第二の一時的に解脱した者の経

 

4. 第四の五十なるもの(151.~)

 

(16)1. 正なる法の章(151.~)

 

1. 第一の正しい〔道〕たることの決定の経

2. 第二の正しい〔道〕たることの決定の経

3. 第三の正しい〔道〕たることの決定の経

4. 第一の正なる法の忘却の経

5. 第二の正なる法の忘却の経

6. 第三の正なる法の忘却の経

7. 悪しき講話の経

8. 恐れおののきの経

9. ウダーインの経

10. 除き去り難きものの経

 

(17)2. 憤懣〔の思い〕の章(161.~)

 

1. 第一の憤懣〔の思い〕の取り除きの経

2. 第二の憤懣〔の思い〕の取り除きの経

3. 論議の経

4. 正なる生き方の経

5. 問いを尋ねることの経

6. 止滅の経

7. 叱責の経

8. 戒の経

9. 速き感知の経

10. バッダジの経

 

(18)3. 在俗信者の章(171.~)

 

1. 恐れおののきの経

2. 恐れおののきを離れた者の経

3. 地獄の経

4. 怨念の経

5. チャンダーラの経

6. 喜悦の経

7. 商売の経

8. 王の経

9. 在家者の経

10. ガヴェーシンの経

 

(19)4. 林の章(181.~)

 

1. 林にある者の経

2. 衣料の経

3. 木の根元にある者の経

4. 墓場にある者の経

5. 野外にある者の経

6. 常坐〔にして不臥〕なる者の経

7. 〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の経

8. 一坐〔だけの食〕の者の経

9. 〔規定された食〕以後の食を否とする者の経

10. 鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の経

 

(20)5. 婆羅門の章(191.~)

 

1. 犬の経

2. ドーナ婆羅門の経

3. サンガーラヴァ婆羅門の経

4. カーラナパーリンの経

5. ピンギヤーニンの経

6. 大いなる夢の経

7. 雨の経

8. 言葉の経

9. 家の経

10. 出離たるべきものの経

 

5. 第五の五十なるもの(201.~)

 

(21)1. キミラの章(201.~)

 

1. キミラの経

2. 法を聞くことの経

3. 良馬たる馬の経

4. 力の経

5. 心の鬱積の経

6. 結縛の経

7. 粥の経

8. 楊枝の経

9. 歌音の経

10. 気づきが忘却された者の経

 

(22)2. 罵倒する者の章(211.~)

 

1. 罵倒する者の経

2. 言争を為す者の経

3. 戒の経

4. 多く話す者の経

5. 第一の忍耐なきことの経

6. 第二の忍耐なきことの経

7. 第一の浄信なき者の経

8. 第二の浄信なき者の経

9. 火〔の体質〕の経

10. マドゥラーの経

 

(23)3. 長き遊行の章(221.~)

 

1. 第一の長き遊行の経

2. 第二の長き遊行の経

3. 超過の居住の経

4. 物惜〔の思い〕ある者の経

5. 第一の家に親近ある者の経

6. 第二の家に親近ある者の経

7. 財物の経

8. 午後の食事の経

9. 第一の黒蛇の経

10. 第二の黒蛇の経

 

(24)4. 居住者の章(231.~)

 

1. 居住者の経

2. 愛しい者の経

3. 荘厳の経

4. 多くの資益ある者の経

5. 慈しみの経

6. 第一の栄誉に価しない者の経

7. 第二の栄誉に価しない者の経

8. 第三の栄誉に価しない者の経

9. 第一の物惜〔の思い〕ある者の経

10. 第二の物惜〔の思い〕ある者の経

 

(25)5. 悪しき行ないの章(241.~)

 

1. 第一の悪しき行ないの経

2. 第一の身体による悪しき行ないの経

3. 第一の言葉による悪しき行ないの経

4. 第一の意による悪しき行ないの経

5. 第二の悪しき行ないの経

6. 第二の身体による悪しき行ないの経

7. 第二の言葉による悪しき行ないの経

8. 第二の意による悪しき行ないの経

9. 墓所の経

10. 人への浄信の経

 

(26)6. 〔戒の〕成就の章(251.~)

 

1. 「〔戒が〕成就させられるべきです」の経

2. 依所の経

3. 沙弥の経

4. 五つの物惜〔の思い〕の経

5. 物惜〔の思い〕の捨棄の経

6. 第一の瞑想の経

7-13. 第二の瞑想の経等の七なるもの

14. 他の第一の瞑想の経

15-21. 第二の瞑想の経等の七なるもの

 

1. 選出と省略〔の経典〕(272.~)

 

1. 食の指定者の経

2-14. 残りの臥坐所の報知者の経等の十三なるもの

 

2. 学びの境処と省略〔の経典〕(286.~)

 

1. 比丘の経

2-7. 比丘尼の経等の六なるもの

8. アージーヴァカの経

9-17. ニガンタの経等の九なるもの

 

3. 貪欲と省略〔の経典〕(303.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 パンチャカ・ニパータ聖典(五集:五なるものの集まり)

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 学びある者の力の章

 

1. 簡略の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びある者(有学)の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、恥〔の思い〕()の力であり、〔良心の〕咎め()の力であり、精進の力であり、智慧(慧・般若)の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びある者の力があります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『学びある者の力である信の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である恥〔の思い〕の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である〔良心の〕咎めの力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である精進の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である智慧の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 詳細の経

 

2. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びある者の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、精進の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、では、どのようなものが、信の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚り(菩提)に信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、恥〔の思い〕の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、身体()による悪しき行ないを〔恥じ〕、言葉()による悪しき行ないを〔恥じ〕、意()による悪しき行ないを恥じ、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定(等至:専心)を恥じます。比丘たちよ、これは、恥〔の思い〕の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、〔良心の〕咎めの力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、身体による悪しき行ないを〔咎め〕、言葉による悪しき行ないを〔咎め〕、意による悪しき行ないを咎め、諸々の悪しき善ならざる法(性質)への入定を咎めます。比丘たちよ、これは、〔良心の〕咎めの力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、これは、精進の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びある者の力があります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『学びある者の力である信の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である恥〔の思い〕の力を……』『学びある者の力である〔良心の〕咎めの力を……』『学びある者の力である精進の力を……』『学びある者の力である智慧の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 苦痛の経

 

3. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現法:現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)が待っています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「運ばれるままに」の経

 

4. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 学びの経

 

5. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするなら(戒を捨てて還俗する)、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、五つの、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。どのようなものが、五つのものなのですか。『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、信もまた、まさに、有りませんでした』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、恥〔の思い〕もまた、まさに、有りませんでした』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、〔良心の〕咎めもまた、まさに、有りませんでした』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、精進もまた、まさに、有りませんでした』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、智慧もまた、まさに、有りませんでした』〔と〕。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの五つの、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってきます。

 

 比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、苦痛と共にあるもまた、失意と共にあるもまた、涙顔で泣き叫びながらもまた(※)、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、五つの、法(真理)を共にする、賞賛されるべき状況がやってきます。どのようなものが、五つのものなのですか。『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、信もまた、まさに、有りました』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、恥〔の思い〕もまた、まさに、有りました』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、〔良心の〕咎めもまた、まさに、有りました』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、精進もまた、まさに、有りました』『諸々の善なる法(性質)において、あなたには、智慧もまた、まさに、有りました』〔と〕。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、苦痛と共にあるもまた、失意と共にあるもまた、涙顔で泣き叫びながらもまた、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むなら、彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの五つの、法(真理)を共にする、賞賛されるべき状況がやってきます」と。〔以上が〕第五となる。

 

※ テキストには assumukho rudamāno とあるが、PTS版により assumukhopi rudamāno と読む。以下の平行箇所も同様。

 

6. 入定の経

 

6. 「比丘たちよ、すなわち、諸々の善なる法(性質)において、信が現起されたものとして有るかぎり、それまでは、善ならざるものへの入定は有りません。しかしながら、すなわち、まさに、信が消没したものとして有ることから、信なき〔生き方〕が遍く取り囲んで止住し、そこで、善ならざるものへの入定が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が現起されたものとして有るかぎり、それまでは、善ならざるものへの入定は有りません。しかしながら、すなわち、まさに、恥〔の思い〕が消没したものとして有ることから、恥〔の思い〕なき〔生き方〕が遍く取り囲んで止住し、そこで、善ならざるものへの入定が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが現起されたものとして有るかぎり、それまでは、善ならざるものへの入定は有りません。しかしながら、すなわち、まさに、〔良心の〕咎めが消没したものとして有ることから、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕が遍く取り囲んで止住し、そこで、善ならざるものへの入定が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、諸々の善なる法(性質)において、精進が現起されたものとして有るかぎり、それまでは、善ならざるものへの入定は有りません。しかしながら、すなわち、まさに、精進が消没したものとして有ることから、怠惰が遍く取り囲んで止住し、そこで、善ならざるものへの入定が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、諸々の善なる法(性質)において、智慧が現起されたものとして有るかぎり、それまでは、善ならざるものへの入定は有りません。しかしながら、すなわち、まさに、智慧が消没したものとして有ることから、智慧浅き〔生き方〕が遍く取り囲んで止住し、そこで、善ならざるものへの入定が有ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 欲望の経

 

7. 「比丘たちよ、多くのところとして、有情たちは、諸々の欲望〔の対象〕において遊び戯れています。比丘たちよ、良家の子息が、鎌と天秤棒を捨棄して、家から家なきへと出家した者と成るなら、〔それだけで〕『信によって出家した良家の子息』という言葉たるに十分なるものがあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、諸々の欲望〔の対象〕は、若さによって得られるからです──そして、それらが、まさに、どのようなものであれ、そのようなものとして。比丘たちよ、そして、すなわち、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕も、かつまた、すなわち、諸々の中等なる欲望〔の対象〕も、さらに、すなわち、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕も──諸々の欲望〔の対象〕は、〔それらの〕全てが、まさしく、『欲望』という名称に至ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、乳母の放逸に起因して、あるいは、小枝を、あるいは、小石を、口に運ぶとします。まさしく、ただちに、乳母は、急ぎに急いで意を為すでしょう。急ぎに急いで意を為して、急ぎに急いで取り出すでしょう。もし、急ぎに急いで取り出すことができないなら、左手で頭を遍く収め取って、右手で指を釣り針と為して、たとえ、出血してでも取り出すでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、『これは、童子にとって、悩害として存在する。これが、〔悩害として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、そして、まさに、このように(※)為されるべきであるからです──〔童子の〕義(利益)を欲し利益を求める、慈しみ〔の思い〕ある乳母によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて。比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、その童子が、十分に智慧ある年長の者と成ることから、比丘たちよ、今や、乳母は、その童子にたいし配慮なき者と成ります。『今や、童子は、自己によって守られている。〔彼は〕放逸たるに十分ならず(自分の面倒は自分で見る)』と。

 

※ テキストには eta とあるが、PTS版により eva と読む。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、さてまた、何はともあれ、比丘に、諸々の善なる法(性質)において、信によって為されていないものが有り、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕によって為されていないものが有り、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めによって為されていないものが有り、諸々の善なる法(性質)において、精進によって為されていないものが有り、諸々の善なる法(性質)において、智慧によって為されていないものが有るあいだは、比丘たちよ、それまで、その比丘は、わたしによって守護されるべき者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘に、諸々の善なる法(性質)において、信によって為されたものが有り、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕によって為されたものが有り、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めによって為されたものが有り、諸々の善なる法(性質)において、精進によって為されたものが有り、諸々の善なる法(性質)において、智慧によって為されたものが有ることから、比丘たちよ、今や、わたしは、その比丘にたいし配慮なき者と成ります。『今や、比丘は、自己によって守られている。〔彼は〕放逸たるに十分ならず』」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 死滅の経

 

8. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信なき比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、恥〔の思い〕なき比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、〔良心の〕咎めなき比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、怠惰の比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、智慧浅き比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信ある比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、恥〔の思い〕ある比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、〔良心の〕咎めある比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、精進に励む比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、智慧ある比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、死滅せず、正なる法(教え)において確立します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の尊重〔の思い〕なき者の経

 

9. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信なき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、恥〔の思い〕なき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、〔良心の〕咎めなき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、怠惰の比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、智慧浅き比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、死滅し、正なる法(教え)において確立しません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、恥〔の思い〕ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、〔良心の〕咎めある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、精進に励む比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、智慧ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、死滅せず、正なる法(教え)において確立します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の尊重〔の思い〕なき者の経

 

10. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信なき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。比丘たちよ、恥〔の思い〕なき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。比丘たちよ、〔良心の〕咎めなき比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。比丘たちよ、怠惰の比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。比丘たちよ、智慧浅き比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。比丘たちよ、恥〔の思い〕ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。比丘たちよ、〔良心の〕咎めある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。比丘たちよ、精進に励む比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。比丘たちよ、智慧ある比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが、可能となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 学びある者の力の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「簡略、詳細、苦痛、『運ばれる〔ままに〕』があり、第五のものとして、学びとともに、そして、入定、『諸々の欲望〔の対象〕において』があり、死滅、二つの尊重〔の思い〕なき者があり、〔章となる〕」と。

 

2. 力の章

 

1. 聞かれたことなきものの経

 

11. 「比丘たちよ、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、わたしは、証知の完成と完全態に至り得た者として明言します。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、如来のものたる如来の力です。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、精進の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、如来のものたる如来の力があります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 屋頂の経

 

12. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びある者の力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、精進の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びある者の力があります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びある者の力のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の四つの力を〕包摂するものとなり、これが、〔他の四つの力を〕集合するものとなります。すなわち、この、智慧の力です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家にとって、すなわち、この、屋頂が、これが、至高のものとなり、これが、〔家屋を〕包摂するものとなり、これが、〔家屋を〕集合するものとなるように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの五つの学びある者の力のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の四つの力を〕包摂するものとなり、これが、〔他の四つの力を〕集合するものとなります。すなわち、この、智慧の力です。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『学びある者の力である信の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』『学びある者の力である恥〔の思い〕の力を……』『学びある者の力である〔良心の〕咎めの力を……』『学びある者の力である精進の力を……』『学びある者の力である智慧の力を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 簡略の経

 

13. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づき()の力であり、禅定(三昧)の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 詳細の経

 

14. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、信の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、これは、精進の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、気づきの力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、思念し随念する者として。比丘たちよ、これは、気づきの力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、禅定の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、禅定の力と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 見られるべきものの経

 

15. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、では、どこにおいて、信の力は見られるべきですか。四つの預流の支分(正なる人士に慣れ親しむこと・正なる法を聞くこと・根源のままに意を為すこと・法を法のままに実践すること)において、ここにおいて、信の力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、精進の力は見られるべきですか。四つの正しい精励(四正勤)において、ここにおいて、精進の力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、気づきの力は見られるべきですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)において、ここにおいて、気づきの力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、禅定の力は見られるべきですか。四つの瞑想(四禅)において、ここにおいて、禅定の力は見られるべきです。比丘たちよ、では、どこにおいて、智慧の力は見られるべきですか。四つの聖なる真理(四聖諦)において、ここにおいて、智慧の力は見られるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. さらなる屋頂の経

 

16. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの力のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の四つの力を〕包摂するものとなり、これが、〔他の四つの力を〕集合するものとなります。すなわち、この、智慧の力です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家にとって、すなわち、この、屋頂が、これが、至高のものとなり、これが、〔家屋を〕包摂するものとなり、これが、〔家屋を〕集合するものとなるように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの五つの力のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の四つの力を〕包摂するものとなり、これが、〔他の四つの力を〕集合するものとなります。すなわち、この、智慧の力です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の利益の経

 

17. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、自己みずから、戒を実践する者と成り、他者に、戒の成就を受持させません。自己みずから、禅定を実践する者と成り、他者に、禅定の成就を受持させません。自己みずから、智慧を実践する者と成り、他者に、智慧の成就を受持させません。自己みずから、解脱を実践する者と成り、他者に、解脱の成就を受持させません。自己みずから、解脱の知見を実践する者と成り、他者に、解脱の知見の成就を受持させません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、自己の利益のために実践する者と成ります──他者の利益のためではなく」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の利益の経

 

18. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、他者の利益のために実践する者と成ります──自己の利益のためではなく。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、自己みずから、戒を実践する者と成らず、他者に、戒の成就を受持させます。自己みずから、禅定を実践する者と成らず、他者に、禅定の成就を受持させます。自己みずから、智慧を実践する者と成らず、他者に、智慧の成就を受持させます。自己みずから、解脱を実践する者と成らず、他者に、解脱の成就を受持させます。自己みずから、解脱の知見を実践する者と成らず、他者に、解脱の知見の成就を受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、他者の利益のために実践する者と成ります──自己の利益のためではなく」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の利益の経

 

19. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、自己みずから、戒を実践する者と成らず、他者に、戒の成就を受持させません。自己みずから、禅定を実践する者と成らず、他者に、禅定の成就を受持させません。自己みずから、智慧を実践する者と成らず、他者に、智慧の成就を受持させません。自己みずから、解脱を実践する者と成らず、他者に、解脱の成就を受持させません。自己みずから、解脱の知見を実践する者と成らず、他者に、解脱の知見の成就を受持させません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第四の利益の経

 

20. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、戒を実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、戒の成就を受持させます。そして、自己みずから、禅定を実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、禅定の成就を受持させます。そして、自己みずから、智慧を実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、智慧の成就を受持させます。そして、自己みずから、解脱を実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、解脱の成就を受持させます。そして、自己みずから、解脱の知見を実践する者として〔世に〕有り、さらに、他者に、解脱の知見の成就を受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 力の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、聞かれたことなきものと屋頂、簡略があり、さらに、詳細とともに、そして、見られるべきもの、さらなる屋頂があり、さらに、また、利益によって、四つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

3. 五つの支分あるものの章

 

1. 第一の尊重〔の思い〕なき者の経

 

21. 「比丘たちよ、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、調和なき生活者である、まさに、その比丘が、卓越の正行の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。卓越の正行の法(性質)を円満成就させずして、学びある者(有学)の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。学びある者の法(性質)を円満成就させずして、諸戒を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。諸戒を円満成就させずして、正しい見解(正見)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。正しい見解を円満成就させずして、正しい禅定(正定)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、調和ある生活者である、まさに、その比丘が、卓越の正行の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。卓越の正行の法(性質)を円満成就させて、学びある者の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。学びある者の法(性質)を円満成就させて、諸戒を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。諸戒を円満成就させて、正しい見解を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。正しい見解を円満成就させて、正しい禅定を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の尊重〔の思い〕なき者の経

 

22. 「比丘たちよ、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕なき者であり、敬虔〔の思い〕なき者であり、調和なき生活者である、まさに、その比丘が、卓越の正行の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。卓越の正行の法(性質)を円満成就させずして、学びある者の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。学びある者の法(性質)を円満成就させずして、戒の範疇(戒蘊)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。戒の範疇を円満成就させずして、禅定の範疇(定蘊)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。禅定の範疇を円満成就させずして、智慧の範疇(慧蘊)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、梵行を共にする者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者であり、敬虔〔の思い〕を有する者であり、調和ある生活者である、まさに、その比丘が、卓越の正行の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。卓越の正行の法(性質)を円満成就させて、学びある者の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。学びある者の法(性質)を円満成就させて、戒の範疇を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。戒の範疇を円満成就させて、禅定の範疇を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。禅定の範を円満成就させて、智慧の範疇を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 付随する〔心の〕汚れの経

 

23. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、金に付随する汚れです。それらの付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません(作業を施す状態とならない)。どのようなものが、五つのものなのですか。鉄であり、銅であり、錫であり、鉛であり、銀です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、金に付随する汚れがあります。それらの付随する汚れによって近しく汚れた金は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、金が、これらの五つの付随する汚れから解き放たれたものと成ることから、その金は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、正しく行為に近しく至ります(作業を施す状態となる)。そして、その〔装身具〕その装身具を、〔彼が〕望むなら、もしくは、帯であれ、もしくは、耳飾であれ、もしくは、首飾であれ、もしくは、金環であれ、そして、彼の、その義(目的)は適います。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)です。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた心は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、諸々の煩悩()の滅尽のために正しく定められません。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕()です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、心に付随する〔心の〕汚れがあります。それらの付随する〔心の〕汚れによって近しく汚れた心は、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、心が、これらの五つの付随する〔心の〕汚れから解き放たれたものと成ることから、その心は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます。そして、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲()を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒()を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄()を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為()のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 劣戒の者の経

 

24. 「比丘たちよ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(3)事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(4)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(5)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた円満成就に赴かず、軟材もまた円満成就に赴かず、硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(3)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(4)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(5)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 資助されたものの経

 

25. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分によって資助された正しい見解(正見)は、そして、〔止寂の〕心による解脱(心解脱)の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱(慧解脱)の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、正しい見解が、かつまた、戒によって資助されたものとして有り、かつまた、所聞によって資助されたものとして有り、かつまた、論議によって資助されたものとして有り、かつまた、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)によって資助されたものとして有り、かつまた、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)によって資助されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分によって資助された正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 解脱のための〔認識の〕場所の経

 

26. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの解脱のための〔認識の〕場所()です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものに至り得ます。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘のために、教師(ブッダ)が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、その比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、これは、第一の解脱のための〔認識の〕場所です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、これは、第二の解脱のための〔認識の〕場所です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、これは、第三の解脱のための〔認識の〕場所です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、これは、第四の解脱のための〔認識の〕場所です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検することもまたなく、しかしながら、また、まさに、その〔比丘〕に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、その比丘に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成るなら、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、これは、第五の解脱のための〔認識の〕場所です。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの解脱のための〔認識の〕場所があります。そこにおいて、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心は解脱し、あるいは、〔いまだ〕完全に滅尽していない諸々の煩悩は完全なる滅尽に至り、あるいは、〔いまだ〕至り得ていない束縛からの平安という無上なるものに至り得ます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 禅定の経

 

27. 「比丘たちよ、賢明なる者たちとなり、気づきある者たちとなり、無量なる禅定を修めなさい。比丘たちよ、賢明なる者たちとなり、気づきある者たちとなり、無量なる禅定を修めていると、五つの知恵()が、まさしく、各自それぞれに生起します。どのようなものが、五つのものなのですか。『この禅定は、まさしく、そして、現在の安楽あるものであり、さらに、未来に安楽の報い(異熟)あるものである』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、聖なるものであり、財貨なきもの(非俗のもの)である』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、俗人が慣れ親しむものではない』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、寂静で、精妙で、安息を得たものであり、専一なる状態に到達したものであり、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものではない(意識的に作り上げたものではない)』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『また、まさに、わたしは、この〔禅定〕に、気づきある者として入定し、気づきある者として出起する』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。

 

 比丘たちよ、賢明なる者たちとなり、気づきある者たちとなり、無量なる禅定を修めなさい。比丘たちよ、賢明なる者たちとなり、気づきある者たちとなり、無量なる禅定を修めていると、これらの五つの知恵が、まさしく、各自それぞれに生起します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 五つの支分あるものの経

 

28. 「比丘たちよ、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための修行を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための修行となるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、これが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための、第一の修行となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、これが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための、第二の修行となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、これが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための、第三の修行となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、これが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための、第四の修行となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、綿密に注視することの形相(観察の知恵)が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、まさしく、他の者が他の者を綿密に注視するようなものであり、あるいは、立っている者が坐っている者を綿密に注視するようなものであり、あるいは、坐っている者が横になっている者を綿密に注視するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘に、綿密に注視することの形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、これが、聖なる五つの支分ある正しい禅定のための、第五の修行となります。比丘たちよ、このように、まさに、聖なる五つの支分ある正しい禅定が修められ、このように多く為されたとき、比丘が、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている水瓶があるとします。〔まさに〕その、この〔水瓶〕を、どこからであれ、力ある人が傾けるなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる五つの支分ある正しい禅定が、このように修められ、このように多く為されたとき、比丘が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に、四方が堤防に囲まれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている蓮池があるとします。〔まさに〕その、この〔蓮池〕を、どこからであれ、力ある人が堤防を解き放つなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる五つの支分ある正しい禅定が、このように修められ、このように多く為されたとき、比丘が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、聖なる五つの支分ある正しい禅定が、このように修められ、このように多く為されたとき、比丘が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 歩行〔瞑想〕の経

 

29. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの歩行〔瞑想〕における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。放浪に忍耐ある者と成ります。精励に忍耐ある者と成ります。病苦少なき者と成ります。食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが、正しく変化に至ります(消化吸収される)。歩行〔瞑想〕の到達者は、禅定の長き止住者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの歩行〔瞑想〕における福利があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ナーギタの経

 

30. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に到着し、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいる。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、その夜が明けると、沢山の固形の食料を携えて、イッチャーナンガラ〔村〕の密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門小屋の門口に立ちました──〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてながら。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者ナーギタが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、尊者ナーギタに告げました。「ナーギタよ、また、まさに、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちです。沢山の固形の食料を携えて、門小屋の門口に立っています──まさしく、世尊を、さらに、比丘の僧団を、〔納受者に〕指定して」と。「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです」と。

 

 「尊き方よ、今や、世尊は、〔施食を〕お受けください。善き至達者たる方は、〔施食を〕お受けください。尊き方よ、今や、世尊にとって、〔施食を〕お受けする時です。今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行き、赴くでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、諸々の水が向かい行くとおりに転じ行くように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行き、赴くでしょう。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、まさに、そのように、世尊には、戒と智慧があるからです」と。

 

 「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです。(1)ナーギタよ、まさに、食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものに、大小便があるのは、これは、〔まさに〕それの、排出物です。(2)ナーギタよ、まさに、諸々の愛しいものの変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起するのは、これは、〔まさに〕それの、排出物です。(3)ナーギタよ、まさに、浄美ならざる形相(不浄相)への専念〔努力〕に専念する者に、浄美なる形相において、嫌悪なることが確立するのは、これは、〔まさに〕それの、排出物です。(4)ナーギタよ、まさに、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)において、無常の随観ある者として〔世に〕住んでいる者に、接触(:感覚の発生)において、嫌悪なることが確立するのは、これは、〔まさに〕それの、排出物です。(5)ナーギタよ、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住んでいる者に、執取〔の思い〕において、嫌悪なることが確立するのは、これは、〔まさに〕それの、排出物です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 五つの支分あるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの尊重〔の思い〕なき者と付随する〔心の〕汚れがあり、そして、劣戒の者と資助されたものとともに、解脱と禅定と五つの支分あるもの、歩行〔瞑想〕があり、さらに、ナーギタとともに、〔章となる〕」と。

 

4. スマナーの章

 

1. スマナーの経

 

31. 或る時のことです。……略……アナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、スマナー王女が、五百の車とともに、五百の王女たちに取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スマナー王女は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、二者の、等しい信があり、等しい戒があり、等しい智慧がある、世尊の弟子が存在するとします。一者は、施者であり、一者は、施者ならざる者です。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとします。尊き方よ、また、天〔の神〕と成った彼らには、差異が存在し、多様性が存在するのでしょうか」と。

 

 「スマナーよ、存在します」と、世尊は言いました。「スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、天〔の神〕と成った者として存しつつ、その施者ならざる者を、五つの境位によって圧倒します──天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって、天の福徳(盛名)によって、天の権威によって。スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、天〔の神〕と成った者として存しつつ、その施者ならざる者を、これらの五つの境位によって圧倒します」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、それで、もし、それらの二者が、そこから死滅し、この場に帰り来るなら、尊き方よ、また、人間と成った彼らには、差異が存在し、多様性が存在するのでしょうか」と。「スマナーよ、存在します」と、世尊は言いました。「スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、人間と成った者として存しつつ、その施者ならざる者を、五つの境位によって圧倒します──人間の寿命によって、人間の色艶によって、人間の安楽によって、人間の福徳によって、人間の権威によって。スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、人間と成った者として存しつつ、その施者ならざる者を、これらの五つの境位によって圧倒します」〔と〕。

 

 「尊き方よ、また、それで、もし、それらの二者が、家から家なきへと出家するなら、尊き方よ、また、出家した彼らには、差異が存在し、多様性が存在するのでしょうか」と。「スマナーよ、存在します」と、世尊は言いました。「スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、出家した者として〔世に〕存しつつ、その施者ならざる者を、五つの境位によって圧倒します。(1)まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。(2)まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの〔行乞の〕施食を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。(3)まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの臥坐具を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。(4)まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。(5)また、まさに、すなわち、梵行を共にする者たちと共に住むなら、彼らは、彼のために、まさしく、意に適う身体の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔身体の行為〕によって。まさしく、意に適う言葉の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔言葉の行為〕によって。まさしく、意に適う意の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔意の行為〕によって。まさしく、意に適うものとして、多くの提供物を提供します──少しのものを、意に適わないものとして。スマナーよ、すなわち、施者である、その者ですが、彼は、出家した者として〔世に〕存しつつ、その施者ならざる者を、これらの五つの境位によって圧倒します」と。

 

 「尊き方よ、また、それで、もし、それらの二者が、阿羅漢の資質に至り得るなら、尊き方よ、また、阿羅漢の資質に至り得た彼らには、差異が存在し、多様性が存在するのでしょうか」と。「スマナーよ、また、まさに、ここにおいて、これらの者たちには、何であれ、多様性を、わたしは説きません。すなわち、この、解脱と解脱には」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、そして、すなわち、これだけで、まさしく、諸々の布施を施すに十分なるものがあり、諸々の功徳を作り為すに十分なるものがあります。なぜなら、そこで、まさに、天〔の神〕と成った者にもまた、諸々の資益と功徳があり、人間と成った者にもまた、諸々の資益と功徳があり、出家した者にもまた、諸々の資益と功徳があるとは」と。「スマナーよ、このように、このことはあります。スマナーよ、まさに、諸々の布施を施すに十分なるものがあり、諸々の功徳を作り為すに十分なるものがあります。天〔の神〕と成った者にもまた、諸々の資益と功徳があり、人間と成った者にもまた、諸々の資益と功徳があり、出家した者にもまた、諸々の資益と功徳があります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、また、無垢なる月が、虚空の界域を赴きつつ、世における一切の星の群れに、光によって輝きまさるように──

 

 まさしく、そのように、戒を成就した信ある人士たる人は、世における一切の物惜〔の思い〕ある者たちに、施捨によって輝きまさる。

 

 すなわち、また、〔雷鳴を〕鳴り響かせながら、雷光の花飾と百の雲峰ある雨雲が、大地に雨を降らせつつ、高地を〔潤し〕、そして、低地を潤すように──

 

 このように、〔あるがままの〕見を成就した、正等覚者の弟子は、賢者として、物惜〔の思い〕ある者たちを、五つの境位によって圧倒する。

 

 寿命によって、まさしく、そして、福徳によって、かつまた、色艶によって、さらに、安楽によって。彼は、まさに、財物に遍く取り囲まれ、死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. チュンディーの経

 

32. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、チュンディー王女が、五百の車とともに、さらに、五百の少女たちに取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チュンディー王女は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、わたしどもの兄弟として、チュンダという名の王子がいます。彼は、このように言いました。『まさしく、すなわち、帰依所として、覚者のもとに赴いた者として、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者として、帰依所として、僧団のもとに赴いた者として、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として、その者が──あるいは、女であれ、あるいは、男であれ──〔世に〕有るなら、彼は、身体の破壊ののち、死後において、まさしく、善き境遇に再生する──悪しき境遇ではなく』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、世尊に尋ねます。尊き方よ、まさに、どのような形態の教師にたいし浄信した者は、身体の破壊ののち、死後において、まさしく、善き境遇に再生するのですか──悪しき境遇ではなく。どのような形態の法(教え)にたいし浄信した者は、身体の破壊ののち、死後において、まさしく、善き境遇に再生するのですか──悪しき境遇ではなく。どのような形態の僧団にたいし浄信した者は、身体の破壊ののち、死後において、まさしく、善き境遇に再生するのですか──悪しき境遇ではなく。どのような形態の諸戒における円満成就を為す者は、身体の破壊ののち、死後において、まさしく、善き境遇に再生するのですか──悪しき境遇ではなく」と。

 

 「チュンディーよ、およそ、有情たちとしてあるかぎり、あるいは、無足の者たちも、あるいは、二足の者たちも、あるいは、四足の者たちも、あるいは、多足の者たちも、あるいは、形態ある者たちも、あるいは、形態なき者たちも、あるいは、表象ある者たちも、あるいは、表象なき者たちも、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちも、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。チュンディーよ、彼らが、まさに、覚者にたいし浄信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし浄信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし浄信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 チュンディーよ、およそ、諸々の形成された法(教え)としてあるかぎり、聖なる八つの支分ある道は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。チュンディーよ、彼らが、まさに、聖なる八つの支分ある道にたいし浄信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし浄信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし浄信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 チュンディーよ、およそ、諸々の法(教え)としてあるかぎり、あるいは、諸々の形成されたもの(有為)も、あるいは、諸々の形成されたものではないもの(無為)も、離貪〔の法〕は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、驕慢の削除であり、涸渇の調伏であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)の根絶であり、〔輪廻の〕転起の断絶であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃です。チュンディーよ、彼らが、まさに、離貪の法(教え)にたいし浄信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし浄信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし浄信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 チュンディーよ、およそ、あるいは、諸々の僧団としてあるかぎり、あるいは、諸々の僧集としてあるかぎり、如来の弟子の僧団は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)です。チュンディーよ、彼らが、まさに、僧団にたいし浄信した者たちであるなら、彼らは、至高のものにたいし浄信した者たちです。また、まさに、至高のものにたいし浄信した者たちには、至高の報いが有ります。

 

 チュンディーよ、およそ、諸戒としてあるかぎり、聖者たちに愛される諸戒は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。すなわち、この、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕です。チュンディーよ、彼らが、まさに、聖者たちに愛される諸戒における円満成就を為す者たちであるなら、彼らは、至高のものにおける円満成就を為す者たちです。また、まさに、至高のものにおける円満成就を為す者たちには、至高の報いが有ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔信の対象が〕至高なることから、まさに、浄信した者たちとなり、至高の法(教え)を〔常に〕識知している者たちには──無上なる施与されるべき者である、至高の覚者にたいし浄信した者たちには──

 

 離貪と寂止の安楽である、至高の法(教え)にたいし浄信した者たちには──無上なる功徳の田畑である、至高の僧団にたいし浄信した者たちには──

 

 至高のものにたいし、〔常に〕布施を施している者たちには、至高の功徳が増え行く──至高のものとして、そして、寿命が、さらに、色艶、盛名、名誉、安楽、活力が。

 

 至高のものに施す者は、思慮ある者であり、至高の法(性質)において〔心が〕定められた者であり、天の生類として、あるいは、人間として、至高のものに至り得た者となり、歓喜する」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ウッガハの経

 

33. 或る時のことです。世尊は、バッディヤに住んでおられます。ジャーティヤー林において。そこで、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、世尊は、自己を第四の者として、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ウッガハ・メンダカナッタルの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルは、世尊を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッガハ・メンダカナッタルは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしの、これらの少女たちは、〔それぞれが〕夫の家に赴きます。尊き方よ、世尊は、彼女たちに教諭してください。尊き方よ、世尊は、彼女たちに教示してください。すなわち、彼女たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、それらの少女たちに、こう言いました。「少女たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『まさに、母と父は〔娘の〕義(利益)を欲し利益を求める者たちであり、慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、慈しみ〔の思い〕を抱いて、その夫に、〔娘を〕与えるなら、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者たちとして、愛語ある者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。少女たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 少女たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、それらの者たちが、夫にとって、あるいは、「母」ということで、あるいは、「父」ということで、あるいは、「沙門や婆羅門たち」ということで、重き者たちとして有るなら、彼らを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ、そして、やってきたなら、坐と水をもって、〔わたしたちは〕歓迎するのだ』と。少女たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 少女たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、それらのものが、夫にとって、あるいは、「羊毛」ということで、あるいは、「木綿」ということで、内々の生業であるなら、そこにおいて、能ある者たちとして、怠けない者たちとして、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕有るのだ』と。少女たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 少女たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、その者が、夫にとって、あるいは、「奴隷」ということで、あるいは、「召使」ということで、あるいは、「労夫」ということで、内々の家人であるなら、彼らの、そして、為したことを「為したことである」と〔あるがままに〕知り、かつまた、為さなかったことを「為さなかったことである」と〔あるがままに〕知り、さらに、病者たちであるなら、活力の有無を〔あるがままに〕知り、その〔家人〕に、固形の食料を、さらに、軟らかい食料を、各々の分に応じて、〔わたしたちは〕分け与えるのだ』と。少女たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 少女たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『すなわち、夫が、あるいは、財産を、あるいは、穀物を、あるいは、銀を、あるいは、金を、持ってくるなら、それを、守護し保護することで成就させ、そして、そこにおいて、質の悪い者たちではなく、盗み取る者たちではなく、酒乱の者たちではなく、散財する者たちではなく、〔わたしたちは〕有るのだ』と。少女たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。少女たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、意に適う身体ある天〔の神々〕たちの同類として再生します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、常に、熱情ある者として、邁進する者として、その〔妻〕を、一切時において養うなら、一切の欲望〔の対象〕をもたらす男を、夫として、〔妻は〕軽んじない。

 

 さらに、また、安穏の者としてあり、夫を、嫉妬の行ないによって悩まさない。そして、賢者としてあり、夫にとって重き者たちである、全ての者たちを歓迎する。

 

 〔早くに〕起き、怠けず、従者たちを愛護する者となる。夫にとって意に適うことを行ない、集積されたものを守護する。

 

 彼女が、女として、このように行持し、夫の欲と支配に従い行く者であるなら、すなわち、マナーパ(意に適うもの)という名の、それらの天〔の神々〕たちのいるところに、彼女は再生する」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. シーハ軍団長の経

 

34. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、シーハ軍団長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、シーハ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、世尊は、現に見られるものとして、布施の果を報知することができますか」と。

 

 「シーハよ、できます」と、世尊は言いました。「シーハよ、施者たる施主は、多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。シーハよ、すなわち、また、施者たる施主が、多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有るなら、これもまた、現に見られるものとして、布施の果となります。

 

 シーハよ、さらに、また、他に、施者たる施主には、正しくある者たちである、正なる人士たちが親近します。シーハよ、すなわち、また、施者たる施主に、正しくある者たちである、正なる人士たちが親近するなら、これもまた、現に見られるものとして、布施の果となります。

 

 シーハよ、さらに、また、他に、施者たる施主には、善き評価の声が上がります。シーハよ、すなわち、また、施者たる施主に、善き評価の声が上がるなら、これもまた、現に見られるものとして、布施の果となります。

 

 シーハよ、さらに、また、他に、施者たる施主は、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。シーハよ、すなわち、また、施者たる施主が、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行くなら、これもまた、現に見られるものとして、布施の果となります。

 

 シーハよ、さらに、また、他に、施者たる施主は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。シーハよ、すなわち、また、施者たる施主が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するなら、これは、未来のものとして、布施の果となります」と。

 

 このように説かれたとき、シーハ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、これらの四つの、現に見られるものとして、布施の果が告げ知らされました。わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴くのではありません。わたしもまた、これら〔の布施の果〕を知っています。尊き方よ、わたしは、施者たる施主であり、多くの人々にとって、愛しく意に適う者です。尊き方よ、わたしは、施者たる施主であり、わたしに、正しくある者たちである、正なる人士たちが親近します。尊き方よ、わたしは、施者たる施主であり、わたしに、善き評価の声が上がります。『シーハ軍団長は、施者であり、為し手であり、僧団の奉仕者である』と。尊き方よ、わたしは、施者たる施主であり、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。尊き方よ、すなわち、これらの四つの、現に見られるものとして、布施の果が告げ知らされました。わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴くのではありません。わたしもまた、これら〔の布施の果〕を知っています。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、世尊は、このように言いました。『シーハよ、施者たる施主は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します』と。この〔布施の果〕を知りません。また、そして、わたしは、ここにおいて、世尊への信によって赴きます」と。「シーハよ、このように、このことはあります。シーハよ、このように、このことはあります。施者たる施主は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔常に〕施している者は、愛しい者として〔世に〕有る。多くの者たちが、彼に親近する。そして、名誉に、〔彼は〕至り得る。さらに、福徳が、〔彼に〕増え行く。

 

 〔彼は〕愕然と成らない者として、衆に入る。人として、物惜〔の思い〕なき者は、恐れおののきを離れた者として〔世に〕有る。

 

 まさに、それゆえに、賢者たちは、諸々の布施を施す──物惜の垢を取り除いて、安楽を求める者たちとして。

 

 彼らは、長夜にわたり、三十三〔天〕において止住する者たちとなる。彼らは、天〔の神々〕たちの同類となるに至り、喜び楽しむ。

 

 〔彼らは、善行の〕機会を作り為した者たちとして、善なる〔功徳〕を作り為した者たちとして、ここから死滅し、自光〔天の神々〕たちとなり、〔天の〕ナンダナ〔林〕を散策する。

 

 彼らは、そこにおいて、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、愉悦し、歓楽し、歓喜する。

 

 依存なく如なる者(ブッダ)の言葉を為して、善き至達者の弟子たちは、天上において喜び楽しむ」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 布施における福利の経

 

35. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの布施における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。正しくある者たちである、正なる人士たちが親近します。善き評価の声が上がります。在家の法(正義)から離去なき者として〔世に〕有ります。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの布施における福利があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「正しくある者たちの法(正義)に従い行きながら、〔常に〕施している者は、愛しい者として〔世に〕有る。自制ある梵行者たちである、正しくある者たちは、彼に、常に親近する。

 

 彼らは、彼に、一切の苦しみを除き去る法(教え)を説示する。その法(教え)を、彼は、この〔世において〕了知して、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達する」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 〔しかるべき〕時の布施の経

 

36. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔しかるべき〕時の布施です。どのようなものが、五つのものなのですか。来客者のために、布施を施します。旅行者のために、布施を施します。病者のために、布施を施します。飢饉のときに、布施を施します。すなわち、それらのものが、新しい作物や新しい果実であるなら、それらのものを、戒ある者たちにたいし、最初に確立させます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔しかるべき〕時の布施があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「智慧を有するたちは、〔正しい〕時に施す──寛容なる者たちとして、物惜〔の思い〕を離れた者たちとして、〔正しい〕時に、施しを、聖者たちにたいし、〔心が〕真っすぐと成った如なる者たちにたいし。

 

 浄信した意ある、彼の施物は、広大なるものと成る。すなわち、そこにおいて、〔他の者たちが〕随喜するなら、あるいは、〔身体によって〕務めを為すとして、それによって、施物は不足あるものとならず、彼らもまた、功徳の分有者たちとなる。

 

 それゆえに、際限なき心の者となり、〔布施を〕施すがよい。そこにおいて、施されたものが、大いなる果となる、〔そのような布施を〕。諸々の功徳は、他の世において、命あるものたちの立脚地と成る」と。〔以上が〕第六となる。

 

7.(※) 食料の経

 

※ テキストには 9. とあるが、7. と訂正する。

 

37. 「比丘たちよ、食料を施している施者は、納受者たちに、五つの境位を施します。どのようなものが、五つのものなのですか。〔彼は〕寿命を施し、色艶を施し、安楽を施し、活力を施し、弁才を施します。また、まさに、〔彼は〕寿命を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を分有する者と成り、色艶を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、色艶を分有する者と成り、安楽を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、安楽を分有する者と成り、活力を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、活力を分有する者と成り、弁才を施して、あるいは、天の、あるいは、人間の、弁才を分有する者と成ります。比丘たちよ、食料を施している施者は、納受者たちに、これらの五つの境位を施します。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「慧者は、寿命を施す者であり、活力を施す者であり、色艶を施す者であり、弁才を施す者である。安楽の施し手として、思慮ある者は、彼は、安楽に到達する。

 

 寿命を、活力を、色艶を、安楽を、さらに、弁才を、〔それらを〕施して、再生する、その場その場において、長寿の者と〔成り〕、福徳ある者と成る」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 信の経

 

38. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、信ある良家の子息における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、すなわち、それらの者たちが、世において、正しくある者たちであり、正なる人士たちであるなら、彼らは、慈しんでいるときは、まさしく、信ある者を、最初に慈しみます。そのように、信なき者を〔慈しむことは〕ありません。近づいて行っているときは、まさしく、信ある者に、最初に近づいて行きます。そのように、信なき者に〔近づいて行くことは〕ありません。納受しているときは、まさしく、信ある者〔の施物〕を、最初に納受します。そのように、信なき者〔の施物〕を〔納受することは〕ありません。法(教え)説示しているときは、まさしく、信ある者に、最初に説示します。そのように、信なき者に〔説示することは〕ありません。信ある者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、信ある良家の子息における福利があります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻にある大いなるニグローダ〔樹〕が、遍きにわたり、鳥たちの休息所と成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、信ある良家の子息は、多くの人々の、比丘たちの、比丘尼たちの、在俗信者(優婆塞)たちの、女性在俗信者(優婆夷)たちの、休息所と成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「枝と葉と果を具した幹ある大木が根づき、果を成就したなら、鳥たちの立脚地と成るように──

 

 意が喜びとする場所があるとき、鳥たちは、その〔場所〕に慣れ親しみ、影を義(目的)とする者たちは、影に至り行き、果を義(目的)とする者たちは、果を食する者たちとなる。

 

 まさしく、そのように、戒を成就した信ある人士たる人に、謙譲の生活者に、強情ならざる者に、温和なる者に、友誼ある者に、柔和なる者に──

 

 貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れた、煩悩なき者たちは、世における諸々の功徳の田畑は、そのような人に慣れ親しむ。

 

 彼らは、彼に、一切の苦しみを除き去る法(教え)を説示する。彼は、この〔世において〕了知して、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達する」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 子の経

 

39. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの境位を正しく見ながら、母と父は、子が家に生まれるのを求めます。どのようなものが、五つのものなのですか。『あるいは、養われた者として、わたしたちを養うであろう』『あるいは、為すべきことを、わたしたちに為すであろう』『家の伝統は、長きにわたり止住するであろう』『〔家の〕継承物を管理するであろう』『そこで、また、あるいは、命を終えた亡者たちに、施物を供与するであろう』と。比丘たちよ、まさに、これらの五つの境位を正しく見ながら、母と父は、子が家に生まれるのを求めます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「五つの境位を正しく見ながら、賢者たちは、子を求める。あるいは、養われた者として、わたしたちを養うであろう。あるいは、為すべきことを、わたしたちに為すであろう。

 

 家の伝統は、長きにわたり止住するであろう。〔家の〕継承物を管理する。そこで、また、あるいは、亡者たちに、施物を施すであろう。

 

 これらの境位を正しく見ながら、賢者たちは、子を求める。それゆえに、正しくある者たちである、正なる人士たちは、恩を知り恩を感じる者たちとして──

 

 過去に為されたことを随念しながら、母と父を養う。諸々の為すべきことを、彼らに為す──すなわち、〔彼らが〕過去に為した、そのとおりに。

 

 〔母と父の〕教諭を為す者として、〔母と父に〕養われ〔母と父を〕扶養する者として、家の伝統を退失させることなく、信ある者として、戒を成就した者として、子は、賞賛されるべき者と成る」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 大いなるサーラ〔樹〕たる子の経

 

40. 「比丘たちよ、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に依拠して、大いなるサーラ〔樹〕たちは、五つの増大〔の観点〕によって増大します。どのようなものが、五つのものなのですか。枝と葉と葉群〔の観点〕によって増大し、樹皮〔の観点〕によって増大し、外皮〔の観点〕によって増大し、軟材〔の観点〕によって増大し、硬材〔の観点〕によって増大します。比丘たちよ、山の王たるヒマヴァントに依拠して、大いなるサーラ〔樹〕たちは、これらの五つの増大〔の観点〕によって増大します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、信ある良家の子息に依拠して、〔彼の〕家族は、五つの増大〔の観点〕によって増大します。どのようなものが、五つのものなのですか。信〔の観点〕によって増大し、戒〔の観点〕によって増大し、所聞〔の観点〕によって増大し、施捨〔の観点〕によって増大し、智慧〔の観点〕によって増大します。比丘たちよ、信ある良家の子息に依拠して、〔彼の〕家族は、これらの五つの増大〔の観点〕によって増大します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、すなわち、密林の林地のなかに岩山があり、その〔岩山〕に依拠して、それらの木々が増大し、林の長となるように──

 

 まさしく、そのように、戒を成就した信ある良家の子息に、この者に近しく依拠して、そして、妻や子たちも、眷属たちも、増大する──かつまた、僚友たちも、親族の群れも、さらに、すなわち、彼に依拠して生きる者たちも。

 

 彼らは、戒ある〔良家の子息〕の、彼の、戒を、施捨を、さらに、諸々の善き行ないを見ながら、〔それらを、彼に〕従い為す──彼らが、明眼ある者たちとして〔世に〕有るなら。

 

 この〔世において〕(※)、法(正義)〔の道〕を歩んで、善き境遇に至る道を〔歩んで〕、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第十となる。

 

※ テキストには Ima とあるが、PTS版により Idha と読む。

 

 スマナーの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「スマナー、チュンディー、ウッガハ、シーハ、布施における福利あるもの、そして、〔しかるべき〕時と食料と信があり、子とサーラ〔樹〕とともに、それらの十がある」と。

 

5. ムンダ王の章

 

1. 〔正しい〕活用の経

 

41. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、五つのものがあります。これらの、諸々の財物の〔正しい〕活用です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長よ、ここに、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、自己を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。母と父を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。子と妻と奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。これは、第一の諸々の財物の〔正しい〕活用です。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。これは、第二の諸々の財物の〔正しい〕活用です。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって──すなわち、それらの、あるいは、火からの、あるいは、水からの、あるいは、王からの、あるいは、盗賊からの、あるいは、愛しくない者からの、あるいは、相続者からの、諸々の逆境(収奪の危機)が有るとして、そのような形態の諸々の逆境にたいし、諸々の財物によって──防衛のために転起し、安穏なる自己を作り為します。これは、第三の諸々の財物の〔正しい〕活用です。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、五つの供物の為し手と成ります。親族への供物であり、客への供物であり、過去の亡者への供物であり、王への供物であり、天神への供物です。これは、第四の諸々の財物の〔正しい〕活用です。

 

 家長よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって──すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、驕慢と放逸から離間した者たちであり、忍耐と温和において確立した者たちであり、一つのものとして自己を調御し、一つのものとして自己を平静ならしめ、一つのものとして自己を完全なる涅槃に到達させるなら、そのような形態の沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。これは、第五の諸々の財物の〔正しい〕活用です。家長よ、まさに、これらの五つの、諸々の財物の〔正しい〕活用があります。

 

 家長よ、もし、その聖なる弟子が、これらの五つの、諸々の財物の〔正しい〕活用を活用していると、諸々の財物が完全なる滅尽に至るとします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それらが、まさに、諸々の財物の〔正しい〕活用であるなら、そして、わたしは、それらを活用し、そして、わたしの、諸々の財物は完全なる滅尽に至る』と、かくのごとく、彼には、後悔なくあることが有ります。家長よ、もし、その聖なる弟子が、これらの五つの、諸々の財物の〔正しい〕活用を活用していると、諸々の財物が激しく増大するとします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それらが、まさに、諸々の財物の〔正しい〕活用であるなら、そして、わたしは、それらを活用し、そして、わたしの、諸々の財物は激しく増大する』と、かくのごとく、彼には、まさしく、両者ともに、後悔なくあることが有ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『諸々の財物は享受され、養われるべき者たちは養われた。諸々の逆境あるときも、わたしによって超え渡るところとなった。高所に至らせる施物は施され、そこで、五つの供物は作り為された。自制ある梵行者たちである、戒ある者たちは奉仕された。

 

 家に居住している賢者が、それを義(目的)として財物を求める、〔まさに〕その義(目的)は、わたしによって至り得るところとなり、悩み苦しむことなく作り為された』〔と〕。

 

 このことを随念しながら、人として、死すべき者なるも、聖なる法(教え)において安立したなら──まさしく、この〔世において〕、彼を、〔賢者たちは〕賞賛し──〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 正なる人士の経

 

42. 「比丘たちよ、正なる人士が家に生まれるなら、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります──母と父の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、子と妻の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、奴隷と労夫と下僕の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り。朋友や僚友たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、沙門や婆羅門たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる雨雲が、一切の作物を実らせつつ、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、正なる人士が家に生まれるなら、多くの人々の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります──母と父の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、子と妻の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、奴隷と労夫と下僕の、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り。朋友や僚友たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成り、沙門や婆羅門たちの、義(目的)のために〔成り〕、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「多くの者たちに利益ある者は、諸々の財物を管理して、法(正義)に守られた彼を、天神が守護する。多聞の者を、戒と掟を具有した者を、法(正義)において安立した者を、名誉は捨棄しない。

 

 法(正義)に依って立ち、戒を成就し、真理を説き、意に恥〔の思い〕ある者を──まさしく、ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)たる彼を非難することが、誰ができるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕からもまた、賞賛される者となる」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 好ましいものの経

 

43. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、五つのものがあります。これらの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。家長よ、寿命は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものであり、色艶は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものであり、安楽は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものであり、福徳(盛名)は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものであり、諸々の天上は、好ましく愛らしく意に適う、世において得難きものです。家長よ、まさに、これらの五つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)があります。

 

 家長よ、まさに、これらの五つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)の獲得を、あるいは、祈願を因として、あるいは、切望を因として、〔わたしは〕説きません(祈願や切望で得られるものではない)。まさに、これらの五つの、好ましく愛らしく意に適う、世において得難き法(性質)の獲得が、あるいは、祈願を因として、あるいは、切望を因として、有ったなら、この〔世において〕、誰が、何によって、衰退するというのでしょう。

 

 家長よ、まさに、聖なる弟子が寿命を欲するとして、寿命を、あるいは、祈願することも、あるいは、愉悦することも、ふさわしくありません──あるいは、寿命を羨望することも(※)。家長よ、まさに、寿命を欲する聖なる弟子によって、寿命を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されるべきです。なぜなら、寿命を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されたなら、彼に寿命の獲得あるために等しく転起するからです。彼は、あるいは、天の、あるいは、人間の、寿命を得る者と成ります。

 

※ テキストには vāpi hetu とあるが、PTS版により vā pi hetu と読む。かつまた、pi hetu を pihetu と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 家長よ、まさに、聖なる弟子が色艶を欲するとして、色艶を、あるいは、祈願することも、あるいは、愉悦することも、ふさわしくありません──あるいは、色艶を羨望することも。家長よ、まさに、色艶を欲する聖なる弟子によって、色艶を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されるべきです。なぜなら、色艶を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されたなら、彼に色艶の獲得あるために等しく転起するからです。彼は、あるいは、天の、あるいは、人間の、色艶を得る者と成ります。

 

 家長よ、まさに、聖なる弟子が安楽を欲するとして、安楽を、あるいは、祈願することも、あるいは、愉悦することも、ふさわしくありません──あるいは、安楽を羨望することも。家長よ、まさに、安楽を欲する聖なる弟子によって、安楽を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されるべきです。なぜなら、安楽を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されたなら、彼に安楽の獲得あるために等しく転起するからです。彼は、あるいは、天の、あるいは、人間の、安楽を得る者と成ります。

 

 家長よ、まさに、聖なる弟子が福徳(盛名)を欲するとして、福徳を、あるいは、祈願することも、あるいは、愉悦することも、ふさわしくありません──あるいは、福徳を羨望することも。家長よ、まさに、福徳を欲する聖なる弟子によって、福徳を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されるべきです。なぜなら、福徳を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されたなら、彼に福徳の獲得あるために等しく転起するからです。彼は、あるいは、天の、あるいは、人間の、福徳を得る者と成ります。

 

 家長よ、まさに、聖なる弟子が天上を欲するとして、天上を、あるいは、祈願することも、あるいは、愉悦することも、ふさわしくありません──あるいは、諸々の天上を羨望することも。家長よ、まさに、天上を欲する聖なる弟子によって、天上を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されるべきです。なぜなら、天上を等しく転起させる〔実践の〕道が実践されたなら、彼に天上の獲得あるために等しく転起するからです。彼は、諸々の天上を得る者と成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「寿命を、色艶を、福徳を、名誉を、天上を、高貴の家系たることを、諸々の秀逸なる喜びを次から次に切望しているとして──

 

 賢者たちは、諸々の功徳を作り為す〔行為〕のなかでは、不放逸を賞賛する。〔気づきを〕怠らない賢者は、〔この世とあの世の〕両者の義(利益)を収め取る。

 

 そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)であり、〔両者の〕義(利益)の〔あるがままの〕知悉(現観)あることから、慧者は、『賢者』と呼ばれる」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 意に適うものを施す者の経

 

44. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、サーラ〔樹〕の花形の固形の食料です。世尊は、わたしの、その〔意に適うもの〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、棗を添えた豚肉です。世尊は、わたしの、その〔意に適うもの〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、油で揚げた野菜の茎です。世尊は、わたしの、その〔意に適うもの〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味です。世尊は、わたしの、それら〔の意に適うもの〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、諸々のカーシ産の衣です。世尊は、わたしの、それら〔の意に適うもの〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。

 

 「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る』と。尊き方よ、わたしの意に適うものは、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ(※)、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕がある、寝台です。尊き方よ、しかしながら、また、わたしどももまた、このことを知っています。『世尊にとって、このことは、適確ならず』と。尊き方よ、わたしの、この栴檀の延べ板は、百千〔金〕を超えるものに値します。世尊は、わたしの、その〔栴檀の延べ板〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、慈しみ〔の思い〕を抱いて納受しました。そこで、まさに、世尊は、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長に、この随喜するべき〔言葉〕によって随喜しました。

 

※ テキストには gonakatthato paalikatthato とあるが、PTS版により gonakatthato paikatthato paalikatthato と読む。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る。彼が、〔心が〕真っすぐと成った者たちに、衣服を、臥具と食べ物と飲み物を、さらに、種々なる流儀の日用品を、欲するままに施すなら──

 

 かつまた、捨て放たれたものとして、かつまた、解き放たれたものとして、執持することなく〔施物を施すなら〕──阿羅漢たちのことを、田畑の如き者たちと知って、捨て難きものを施捨して、〔まさに〕その、正なる人士は、意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長に、この随喜するべき〔言葉〕によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、他時にあって、命を終えました。そして、命を終えたヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は、或るどこかの意に適う〔天の〕身体に再生しました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ウッガ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ウッガ天子に、世尊は、こう言いました。「ウッガよ、どうでしょう、あなたの志向するとおりですか」と。「世尊よ、たしかに、わたしの志向するとおりです」と。そこで、まさに、世尊は、ウッガ天子に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「意に適うものを施す者は、意に適うものを〔おのずと〕得る。至高のものを施す者は、さらなる至高のものを〔おのずと〕得る。優れたものを施す者は、優れたものを得る者と成る。最勝のものを施す者は、最勝の境位へと近しく至る。

 

 すなわち、至高のものを施す者であり、優れたものを施す者であるなら、さらに、すなわち、最勝のものを施す者であるなら、〔その〕人は、再生する、その場その場において、長寿の者と〔成り〕、福徳ある者と成る」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 功徳が流れ行くものの経

 

45. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらのものは、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、比丘が、その者の衣料を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、比丘が、その者の〔行乞の〕施食を遍く受益しながら……略……。比丘たちよ、比丘が、その者の精舎を遍く受益しながら……略……。比丘たちよ、比丘が、その者の臥床と椅子を遍く受益しながら……略……。

 

 比丘たちよ、比丘が、その者の病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益しながら、無量なる心の禅定を成就して〔世に〕住むなら、その者には、無量なるものとして、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つのものがあり、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、また、そして、これらの五つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの五つの、功徳が流れ行くものを〔具備し〕、善なるものが流れ行くものを具備した、聖なる弟子のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる水域にして大いなる流れがある、多くの恐ろしいものがいて諸々の宝の群れの基底となる、無量なる海洋へと、すなわち、諸々の川が、人の衆や群れに慣れ親しまれながら、多々に流れ行き、近しく至るように──

 

 このように、食べ物を施し飲み物や衣を施す人へと、臥具や坐床や敷物の施者へと、〔そのような〕賢者へと、諸々の功徳の流雨は近しく至る。すなわち、諸々の川が、まさしく、水の運び手として、海洋へと〔流れ行く〕ように」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 成就の経

 

46. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信の成就であり、戒の成就であり、所聞の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの成就があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 財産の経

 

47. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの財産です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信の財産であり、戒の財産であり、所聞の財産であり、施捨の財産であり、智慧の財産です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、信の財産なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、これは、信の財産と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の財産なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の財産と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、所聞の財産なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。比丘たちよ、これは、所聞の財産と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、施捨の財産なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、物惜の垢を離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。比丘たちよ、これは、施捨の財産と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の財産なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、これは、智慧の財産と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの財産があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──

 

 その者に、僧団にたいする浄信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕『貧ならざる者』と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。

 

 それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 得られないものの経

 

48. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位です。どのようなものが、五つのものなのですか。『老の法(性質)が、老いてはならない』という、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位であり、『病の法(性質)が、病んではならない』という……『死の法(性質)が、死んではならない』という……『滅尽の法(性質)が、滅尽してはならない』という……『消失の法(性質)が、消失してはならない』という、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位です。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫のばあい、老の法(性質)が老いるも、彼は、老の法(性質)が老いたとき、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたし独りだけの、老の法(性質)が老いるのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、老の法(性質)が老いる。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者(敵)たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、毒を有する憂いの矢に貫かれた者として、まさしく、自己を、遍く苦しめる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、無聞の凡夫のばあい、病の法(性質)が病むも……略……死の法(性質)が死ぬも……滅尽の法(性質)が滅尽するも……消失の法(性質)が消失するも、彼は、消失の法(性質)が消失したとき、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたし独りだけの、消失の法(性質)が消失するのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、消失の法(性質)が消失する。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、この者は、『無聞の凡夫として、毒を有する憂いの矢に貫かれた者として、まさしく、自己を、遍く苦しめる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子のばあい、老の法(性質)が老いるも、彼は、老の法(性質)が老いたとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけの、老の法(性質)が老いるのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、老の法(性質)が老いる。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者(敵)たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、毒を有する憂いの矢を引き抜いた──それに貫かれた無聞の凡夫が、まさしく、自己を、遍く苦しめる、〔その矢を〕。憂いなき者となり、矢を抜いた者となり、聖なる弟子は、まさしく、自己を、完全なる涅槃に到達させる』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子のばあい、病の法(性質)が病むも……略……死の法(性質)が死ぬも……滅尽の法(性質)が滅尽するも……消失の法(性質)が消失するも、彼は、消失の法(性質)が消失したとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけの、消失の法(性質)が消失するのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、消失の法(性質)が消失する。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、毒を有する憂いの矢を引き抜いた──それに貫かれた無聞の凡夫が、まさしく、自己を、遍く苦しめる、〔その矢を〕。憂いなき者となり、矢を抜いた者となり、聖なる弟子は、まさしく、自己を、完全なる涅槃に到達させる』〔と〕説かれます(※)。

 

※ テキストには parinibbāpetī’’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえ、また、僅かであれ、ここに、義(利益)が得られるとして、〔それは〕憂い悲しみによってに〔あらず〕、嘆き悲しみによってにあらず。この者が苦しみ、憂い悲しんでいるのを見出して、〔彼の〕義(利益)に反する者(敵対者)たちは、わが意を得た者たちと成る。

 

 しかしながら、すなわち、まさに、義(利益)の判別を知る賢者は、諸々の逆境のうちにあるも動揺しないことから、彼の義(利益)に反する者たちは、以前と変わらない〔彼の〕顔を見て、苦しみの者たちと成る。

 

 詠唱によって、呪文によって、善語によって、贈与によって、あるいは、伝統によって、そのとおり、そのとおりに、そこにおいて、義(利益)を得るなら、そのとおり、そのとおりに、そこにおいて、勤しむであろう。

 

 それで、もし、『この義(利益)は、あるいは、わたしによって、あるいは、他者によって、得られるべきものにあらず』〔と〕覚知するなら、憂い悲しむことなく、耐え忍ぶであろう。『行為〔の果〕は、堅固である。今や、何をどう為すというのだろう』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. コーサラの経

 

49. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、マッリカー王妃が、命を終えた者と成ります。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の耳元で告げました。「陛下よ、マッリカー王妃が、命を終えたのです」と。このように説かれたとき、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、苦痛の者となり、失意の者となり、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、苦痛の者となり、失意の者となり、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、五つのものがあります。これらの、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位です。どのようなものが、五つのものなのですか。『老の法(性質)が、老いてはならない』という、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位であり……略……。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえ、また、僅かであれ、ここに、義(利益)が得られるとして、〔それは〕憂い悲しみによってに〔あらず〕、嘆き悲しみによってにあらず。……略……。

 

 ……。『行為〔の果〕は、堅固である。今や、何をどう為すというのだろう』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ナーラダの経

 

50. 或る時のことです。尊者ナーラダは、パータリプッタに住んでいます。クックタ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ムンダ王の愛しく意に適うバッダー王妃が、命を終えた者と成ります。彼は、愛しく意に適うバッダー王妃が命を終えたことから、まさしく、沐浴もせず、塗油もせず、食事も食べず、生業にも専念せず、夜に、昼に、バッダー王妃の肉体に取りすがっています。そこで、まさに、ムンダ王は、倉庫番のピヤカに告げました。「友よ、ピヤカよ、まさに、それでは、バッダー王妃の肉体を、鉄の油桶に入れて、他の鉄の桶で覆い包むのだ。すなわち、わたしたちが、長きにわたり、バッダー王妃の肉体を見られるように」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、倉庫番のピヤカは、ムンダ王に答えて、バッダー王妃の肉体を、鉄の油桶に入れて、他の鉄の桶で覆い包みました。

 

 そこで、まさに、倉庫番のピヤカに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者の、ムンダ王の、愛しく意に適うバッダー王妃が、命を終えたのだ。彼は、愛しく意に適うバッダー王妃が命を終えたことから、まさしく、沐浴もせず、塗油もせず、食事も食べず、生業にも専念せず、夜に、昼に、バッダー王妃の肉体に取りすがっている。いったい、まさに、ムンダ王は、どのような、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、奉侍するべきであるのか。彼の法(教え)を聞いて、憂いの矢を捨棄するであろう、〔どのような、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に〕」と。

 

 そこで、まさに、倉庫番のピヤカに、この〔思い〕が有りました。「この者が、まさに、尊者ナーラダが、パータリプッタに住んでいる。クックタ〔長者〕の林園において。また、まさに、彼に、尊者ナーラダに、このように、善き評価の声が上がっている。『まさしく、そして、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者であり、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』と。それなら、まちがいなく、ムンダ王は、尊者ナーラダに奉侍するべきである。まさしく、おそらく、まさに、ムンダ王は、尊者ナーラダの法(教え)を聞いて、憂いの矢を捨棄するであろう」と。

 

 そこで、まさに、倉庫番のピヤカは、ムンダ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ムンダ王に、こう言いました。「陛下よ、この者が、まさに、尊者ナーラダが、パータリプッタに住んでいます。クックタ〔長者〕の林園において。また、まさに、彼に、尊者ナーラダに、このように、善き評価の声が上がっています。『まさしく、そして、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者であり、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』と。また、すなわち、陛下は、尊者ナーラダに奉侍するべきです。まさしく、おそらく、まさに、陛下は、尊者ナーラダの法(教え)を聞いて、憂いの矢を捨棄するでしょう」と。「友よ、ピヤカよ、まさに、それでは、尊者ナーラダに知らせよ。まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、領土に住している、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、前もって知らせずに近づいて行くべきと思えよう」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、倉庫番のピヤカは、ムンダ王に答えて、尊者ナーラダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ナーラダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、倉庫番のピヤカは、尊者ナーラダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、この者の、ムンダ王の、愛しく意に適うバッダー王妃が、命を終えたのです。彼は、愛しく意に適うバッダー王妃が命を終えたことから、まさしく、沐浴もせず、塗油もせず、食事も食べず、生業にも専念せず、夜に、昼に、バッダー王妃の肉体に取りすがっています。尊き方よ、どうか、尊者ナーラダは、ムンダ王に、すなわち、ムンダ王が、尊者ナーラダの法(教え)を聞いて、憂いの矢を捨棄するであろうように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「ピヤカよ、今が、そのための時と、ムンダ王が思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、倉庫番のピヤカは、坐から立ち上がって、尊者ナーラダを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、ムンダ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ムンダ王に、こう言いました。「陛下よ、まさに、尊者ナーラダによって、機会が作られました。今が、そのための時と、陛下がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。「友よ、ピヤカよ、まさに、それでは、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えさせるのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、倉庫番のピヤカは、ムンダ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、ムンダ王に、こう言いました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と、陛下がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、ムンダ王は、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、クックタ〔長者〕の林園のあるところに、そこへと進み行きました──大いなる王の威力をもって、尊者ナーラダと会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。そこで、まさに、ムンダ王は、尊者ナーラダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ナーラダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ムンダ王に、尊者ナーラダは、こう言いました。

 

 「大王よ、五つのものがあります。これらの、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位です。どのようなものが、五つのものなのですか。『老の法(性質)が、老いてはならない』という、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位であり、『病の法(性質)が、病んではならない』という……『死の法(性質)が、死んではならない』という……『滅尽の法(性質)が、滅尽してはならない』という……『消失の法(性質)が、消失してはならない』という、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位です。

 

 大王よ、無聞の凡夫のばあい、老の法(性質)が老いるも、彼は、老の法(性質)が老いたとき、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたし独りだけの、老の法(性質)が老いるのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、老の法(性質)が老いる。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者(敵)たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。大王よ、この者は、『無聞の凡夫として、毒を有する憂いの矢に貫かれた者として、まさしく、自己を、遍く苦しめる』〔と〕説かれます。

 

 大王よ、さらに、また、他に、無聞の凡夫のばあい、病の法(性質)が病むも……略……死の法(性質)が死ぬも……滅尽の法(性質)が滅尽するも……消失の法(性質)が消失するも、彼は、消失の法(性質)が消失したとき、かくのごとく深慮しません。『まさに、わたし独りだけの、消失の法(性質)が消失するのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、消失の法(性質)が消失する。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。大王よ、この者は、『無聞の凡夫として、毒を有する憂いの矢に貫かれた者として、まさしく、自己を、遍く苦しめる』〔と〕説かれます。

 

 大王よ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子のばあい、老の法(性質)が老いるも、彼は、老の法(性質)が老いたとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけの、老の法(性質)が老いるのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、老の法(性質)が老いる。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者(敵)たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、老の法(性質)が老いたとき、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。大王よ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、毒を有する憂いの矢を引き抜いた──それに貫かれた無聞の凡夫が、まさしく、自己を、遍く苦しめる、〔その矢を〕。憂いなき者となり、矢を抜いた者となり、聖なる弟子は、まさしく、自己を、完全なる涅槃に到達させる』〔と〕説かれます。

 

 大王よ、さらに、また、他に、有聞の聖なる弟子のばあい、病の法(性質)が病むも……略……死の法(性質)が死ぬも……滅尽の法(性質)が滅尽するも……消失の法(性質)が消失するも、彼は、消失の法(性質)が消失したとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけの、消失の法(性質)が消失するのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちの、消失の法(性質)が消失する。また、まさに、まさしく、もし、わたしが、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起するなら、わたしにとって、食事もまた好ましくないであろうし、身体においてもまた、悪しき色艶が現われるであろうし、諸々の生業もまた転起しないであろうし、朋友ならざる者たちもまた、わが意を得た者たちとして存するであろうし、朋友たちもまた、失意の者たちとして存するであろう』と。彼は、消失の法(性質)が消失したとき、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打たず、泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。大王よ、この者は、『有聞の聖なる弟子として、毒を有する憂いの矢を引き抜いた──それに貫かれた無聞の凡夫が、まさしく、自己を、遍く苦しめる、〔その矢を〕。憂いなき者となり、矢を抜いた者となり、聖なる弟子は、まさしく、自己を、完全なる涅槃に到達させる』〔と〕説かれます。

 

 大王よ、まさに、これらの五つの、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、得られない境位があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「たとえ、また、僅かであれ、ここに、義(利益)が得られるとして、〔それは〕憂い悲しみによってに〔あらず〕、嘆き悲しみによってにあらず。この者が苦しみ、憂い悲しんでいるのを見出して、〔彼の〕義(利益)に反する者(敵対者)たちは、わが意を得た者たちと成る。

 

 しかしながら、すなわち、まさに、義(利益)の判別を知る賢者は、諸々の逆境のうちにあるも動揺しないことから、彼の義(利益)に反する者たちは、以前と変わらない〔彼の〕顔を見て、苦しみの者たちと成る。

 

 詠唱によって、呪文によって、善語によって、贈与によって、あるいは、伝統によって、そのとおり、そのとおりに、そこにおいて、義(利益)を得るなら、そのとおり、そのとおりに、そこにおいて、勤しむであろう。

 

 それで、もし、『この義(利益)は、あるいは、わたしによって、あるいは、他者によって、得られるべきものにあらず』〔と〕覚知するなら、憂い悲しむことなく、耐え忍ぶであろう。『行為〔の果〕は、堅固である。今や、何をどう為すというのだろう』」と。

 

 このように説かれたとき、ムンダ王は、尊者ナーラダに、こう言いました。「尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「大王よ、憂いの矢を抜き去るものという名前が、この法(教え)の教相にあります」と。「尊き方よ、たしかに、憂いの矢を抜き去るものです。尊き方よ、まさに、この法(教え)の教相を聞いて、わたしの憂いの矢は捨棄されました」と。

 

 そこで、まさに、ムンダ王は、倉庫番のピヤカに告げました。「友よ、ピヤカよ、まさに、それでは、バッダー王妃の肉体を焼くのだ。さらに、彼女の塔を作るのだ。今日以後、今や、わたしたちは、まさしく、そして、沐浴もし、塗油もし、かつまた、食事も食べ、さらに、生業にも専念するのだ」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ムンダ王の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔正しい〕活用、正なる人士、好ましいもの、意に適うものを施す者と流れ行くもの、そして、成就、財産、境位、コーサラがあり、ナーラダとともに、〔章となる〕」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

(6)1. 〔修行の〕妨害の章

 

1. 妨げの経

 

51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害()となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、憎悪〔の思い〕(瞋恚)は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、疑惑〔の思い〕()は、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものがあります。

 

 比丘たちよ、まさに、その比丘が、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものを捨棄せずして、力なき智慧によって、力弱き〔智慧〕によって、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、山から発し、遠くに赴き、激しい流れとなり、〔何であれ〕運び去る川があり、その〔川〕の両側から、人が、用水口を開くとします。比丘たちよ、まさに、このように、その流れが、川の中間において、散乱し、拡散し、分断したなら、まさしく、遠くに赴くものとして存することはなく、激しい流れとして〔存することも〕なく、〔何であれ〕運び去るものとして〔存することも〕ないでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものを捨棄せずして、力なき智慧によって、力弱き〔智慧〕によって、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、まさに、その比丘が、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものを捨棄して〔そののち〕、力ある智慧によって、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、山から発し、遠くに赴き、激しい流れとなり、〔何であれ〕運び去る川があり、その〔川〕の両側から、人が、用水口を閉めるとします。比丘たちよ、まさに、このように、その流れが、川の中間において、散乱せず、拡散せず、分断しないなら、まさしく、そして、遠くに赴くものとして存し、かつまた、激しい流れとして〔存し〕、さらに、〔何であれ〕運び去るものとして〔存するでしょう〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘が、これらの五つの、〔修行の〕妨げとなり、〔修行の〕妨害となり、心を制圧し、智慧を力弱きものと為すものを捨棄して〔そののち〕、力ある智慧によって、あるいは、自己の義(利益)を知り、あるいは、他者の義(利益)を知り、あるいは、両者の義(利益)を知り、あるいは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 善ならざるものの集まりの経

 

52. 「比丘たちよ、『善ならざるものの集まりである』と説いている者は、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善ならざるものの集まりであるからです。すなわち、この、五つの〔修行の〕妨害です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害であり、憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害であり、疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害です。比丘たちよ、『善ならざるものの集まりである』と説いている者は、これらの五つの〔修行の〕妨害のことを、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、なぜなら、この全部が、善ならざるものの集まりであるからです。すなわち、この、五つの〔修行の〕妨害です」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 精励の支分の経

 

53. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの精励の支分です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。比丘たちよ、まさに、これらの五つの精励の支分があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 時の経

 

54. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの精励のための時ならざるものです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、老いた者として、老に征服された者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第一の精励のための時ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、病んだ者として、病に征服された者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、第二の精励のための時ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、不作と成り、行乞するに難く、〔行乞の〕食が得難く、残飯を受けて〔身を〕保ち行くことが為し易くありません。比丘たちよ、これは、第三の精励のための時ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、森の者たちによる動乱の恐怖が有り、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及びます。比丘たちよ、これは、第四の精励のための時ならざるものです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、僧団が分裂することと成ります。比丘たちよ、また、まさに、僧団が分裂したとき、そして、互いに他と諸々の罵倒が有り、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有り、さらに、互いに他と諸々の分離が有り、かつまた、互いに他と諸々の離別が有り、そこにおいて、まさしく、そして、浄信していない者たちは浄信せず、さらに、一部の浄信している者たちに、〔心の〕他化が有ります。比丘たちよ、これは、第五の精励のための時ならざるものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの精励のための時ならざるものがあります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの精励のための時です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、年少の者として〔世に〕有ります──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者として。比丘たちよ、これは、第一の精励のための時です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。比丘たちよ、これは、第二の精励のための時です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、豊作と成り、行乞するに易く、〔行乞の〕食が得易く、残飯を受けて〔身を〕保ち行くことが為し易くあります。比丘たちよ、これは、第三の精励のための時です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、人間たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、第四の精励のための時です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、僧団が和合し、共に歓喜しながら、論争せず、誦説を一にし、平穏のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、まさに、僧団の和合あるとき、まさしく、そして、互いに他と諸々の罵倒が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有ることもなく、さらに、互いに他と諸々の分離が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の離別が有ることもなく、そこにおいて、まさしく、そして、浄信していない者たちは浄信し、さらに、浄信している者たちに、より一層の状態が有ります。比丘たちよ、これは、第五の精励のための時です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの精励のための時があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 母と子の経

 

55. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サーヴァッティーにおいて、母と子の両者が、雨期の居住所に近しく赴きました──そして、比丘として、さらに、比丘尼として。彼らは、互いに他と、幾度となく、会見することを欲する者たちとして有りました。母もまた、子と、幾度となく、会見することを欲する者として有りました。子もまた、母と、幾度となく、会見することを欲する者として有りました。彼らには、幾度となく、会見することが〔有り〕、交流が有りました。交流が存しているとき、親しみ〔の思い〕が有りました。親しみ〔の思い〕が存しているとき、欲情が有りました。彼らは、欲情した心の者たちとなり、学びを拒絶せずして、挫折を明らかと為さずして、淫事の法(性質)を受用しました(還俗を表明せず、性交に耽った)。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った(※)、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、サーヴァッティーにおいて、母と子の両者が、雨期の居住所に近しく赴きました──そして、比丘として、さらに、比丘尼として。彼らは、互いに他と、幾度となく、会見することを欲する者たちとして有りました。母もまた、子と、幾度となく、会見することを欲する者として有りました。子もまた、母と、幾度となく、会見することを欲する者として有りました。彼らには、幾度となく、会見することが〔有り〕、交流が有りました。交流が存しているとき、親しみ〔の思い〕が有りました。親しみ〔の思い〕が存しているとき、欲情が有りました。彼らは、欲情した心の者たちとなり、学びを拒絶せずして、挫折を明らかと為さずして、淫事の法(性質)を受用しました」と。

 

※ テキストには nisinno とあるが、PTS版により nisinnā と読む。

 

 「比丘たちよ、いったい、どうして、その愚人が思い考えるというのでしょう。『母は、子にたいし貪染せず、また、あるいは、子も、母にたいし〔貪染せず〕』と。比丘たちよ、わたしは、このように、貪るべきものであり、このように、欲するべきものであり、このように、酔うべきものであり、このように、結縛するべきものであり、このように、耽溺するべきものであり、このように、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達に障りを為すものとして、〔これより〕他に、一つの形態()でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の形態です。比丘たちよ、女の形態にたいし、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執している、有情たちは、彼らは、女の形態の支配に赴いた者たちであり、長夜にわたり、憂い悲しみます。

 

 比丘たちよ、わたしは、このように、貪るべきものであり、このように、欲するべきものであり、このように、酔うべきものであり、このように、結縛するべきものであり、このように、耽溺するべきものであり、このように、束縛からの平安という無上なるものへの到達に障りを為すものとして、〔これより〕他に、一つの音声()でさえも……略……一つの臭気()でさえも……一つの味感()でさえも……一つの感触(所触)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、女の感触です。比丘たちよ、女の感触にたいし、貪欲し、貪求し、拘束され、耽溺し、固執している、有情たちは、彼らは、女の感触の支配に赴いた者たちであり、長夜にわたり、憂い悲しみます。

 

 比丘たちよ、女は、赴きながらもまた、男の心を完全に奪い去って止住し、立ちながらもまた……略……坐りながらもまた……臥しながらもまた……笑いながらもまた……話しながらもまた……歌いながらもまた……泣きながらもまた……殺されながらもまた……死にながらもまた、男の心を完全に奪い去って止住します。比丘たちよ、まさに、すなわち、そのことを、『悪魔の遍きにわたる罠である』と、正しく説きつつ説くとして、まさしく、女性のことを、『悪魔の遍きにわたる罠である』と、正しく説きつつ説くべきです。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「剣を手にする者と談じ合い、魔物ともまた談じ合うとして──それに咬まれたなら、生きていられない毒蛇にもまた近づくとして──

 

 まさしく、しかし、独りで、独りの女性と談じ合うべきではない。彼女たちは、気づきが忘却された者を結縛する──色目によって、さらに、笑みによって──

 

 そこで、また、だらしなく衣をまとうことによって、さらに、愛らしい話し方によって。これは、人として、近づき易き者ならず──たとえ、殺されていても、死んでいても。

 

 意が喜びとするのが、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の味感であり、諸々の臭気であり、さらに、諸々の感触であるなら、これらの五つの欲望の属性(五妙欲)は、女の形姿のうちに見られる。

 

 彼らが、欲望の激流に運ばれ、諸々の欲望〔の対象〕を遍知せずにいるなら、時〔の転起〕を〔偏重する者たちであり〕、赴く所を〔偏重する者たちであり〕、輪廻における種々なる生存を偏重する者たちである。

 

 しかしながら、彼らが、諸々の欲望〔の対象〕を遍知して、何も恐れることなく、〔世を〕歩むなら、彼らは、まさに、世において、彼岸に至った者たちとなる──すなわち、煩悩の滅尽に至り得た者(阿羅漢)たちとして」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 師父の経

 

56. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、自らの師父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、自らの師父に、こう言いました。「尊き方よ、今現在、まさしく、そして、わたしの身体は、朦朧としたものが生じ、かつまた、わたしに、諸々の方向は定まらず、かつまた、わたしに、諸々の法(教え)は明白とならず、かつまた、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住し、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しまない者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕が存在します」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、その共住者たる比丘を連れて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この比丘は、このように言いました。『尊き方よ、今現在、まさしく、そして、わたしの身体は、朦朧としたものが生じ、かつまた、わたしに、諸々の方向は定まらず、かつまた、わたしに、諸々の法(教え)は明白とならず、かつまた、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住し、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しまない者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕が存在します』」と。

 

 「比丘よ、まさに、このように、このことは有ります。(1)諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていない者であるなら、(2)食において量を知らない者であるなら、(3)〔眠らずに〕起きていることに専念しない者であるなら、(4)諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察なき者であるなら、(5)夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(菩提分法:四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の三十七菩提分法)の修行への専念〔努力〕に専念しない者として〔世に〕住んでいるなら、すなわち、まさしく、そして、身体は、朦朧としたものが生じたものと成り、かつまた、彼に、諸々の方向は定まらず、かつまた、彼に、諸々の法(教え)は明白とならず、かつまた、彼の心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住し、かつまた、〔彼は〕喜び楽しまない者として梵行を歩み、さらに、彼に、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕が有ります。比丘よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『(1)〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのだ。(2)食において量を知る者として〔世に有るのだ〕。(3)〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に有るのだ〕。(4)諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者として〔世に有るのだ〕。(5)夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住むのだ』と。比丘よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、世尊によって、この教諭によって教え諭され、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、その比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして(※)、その比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

 そこで、まさに、その比丘は、阿羅漢の資質に至り得た者として、自らの師父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、自らの師父に、こう言いました。「尊き方よ、今現在、まさしく、そして、わたしの身体は、朦朧としたものが生じず、かつまた、わたしに、諸々の方向は定まり、かつまた、わたしに、諸々の法(教え)は明白となり、かつまた、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住せず、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しむ者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕は存在しません」と。そこで、まさに、その比丘は、その共住者たる比丘を連れて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この比丘は、このように言いました。『尊き方よ、今現在、まさしく、そして、わたしの身体は、朦朧としたものが生じず、かつまた、わたしに、諸々の方向は定まり、かつまた、わたしに、諸々の法(教え)は明白となり、かつまた、わたしの心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住せず、かつまた、〔わたしは〕喜び楽しむ者として梵行を歩み、さらに、わたしに、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕は存在しません』」と。

 

 「比丘よ、まさに、このように、このことは有ります。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者であるなら、食において量を知る者であるなら、〔眠らずに〕起きていることに専念する者であるなら、諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者であるなら、夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいるなら、すなわち、まさしく、そして、身体は、朦朧としたものが生じたものと成らず、かつまた、彼に、諸々の方向は定まり、かつまた、彼に、諸々の法(教え)は明白となり、かつまた、彼の心を、〔心の〕沈滞と眠気が完全に奪い去って止住せず、かつまた、〔彼は〕喜び楽しむ者として梵行を歩み、さらに、彼に、諸々の法(教え)にたいし疑惑〔の思い〕は有りません。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように、あなたたちは学ぶべきです。『〔わたしたちは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕有るのだ。食において量を知る者たちとして〔世に有るのだ〕。〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして〔世に有るのだ〕。諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者たちとして〔世に有るのだ〕。夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 幾度となく綿密に注視されるべき状況の経

 

57. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべき状況です。どのようなものが、五つのものなのですか。『〔わたしは〕老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。『〔わたしは〕病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。『〔わたしは〕死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。『わたしにとって、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となる』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。『〔わたしは〕行為()を自らのものとする者として、行為を相続する者として、行為を根源とする者として、行為を眷属とする者として、行為を帰依所とする者として、〔世に〕存している──その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔わたしが〕為すなら、その〔行為〕を相続する者と成るのだ』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきですか。比丘たちよ、有情たちには、若さのうちにある若さの驕りが存在します。その驕りに驕慢した者たちは、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、すなわち、若さのうちにある若さの驕りは、それは、あるいは、全てにわたり捨棄され、また、あるいは、些細なものと成ります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきですか。比丘たちよ、有情たちには、無病のうちにある無病の驕りが存在します。その驕りに驕慢した者たちは、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、すなわち、無病のうちにある無病の驕りは、それは、あるいは、全てにわたり捨棄され、また、あるいは、些細なものと成ります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきですか。比丘たちよ、有情たちには、生命のうちにある生命の驕りが存在します。その驕りに驕慢した者たちは、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、すなわち、生命のうちにある生命の驕りは、それは、あるいは、全てにわたり捨棄され、また、あるいは、些細なものと成ります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存している』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、『わたしにとって、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となる』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきですか。比丘たちよ、有情たちには、愛しく意に適う者たちにたいし、すなわち、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が存在します。その貪り〔の思い〕に染まった者たちは、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、すなわち、愛しく意に適う者たちにたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、それは、あるいは、全てにわたり捨棄され、また、あるいは、些細なものと成ります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、『わたしにとって、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となる』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕行為を自らのものとする者として、行為を相続する者として、行為を根源とする者として、行為を眷属とする者として、行為を帰依所とする者として、〔世に〕存している──その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔わたしが〕為すなら、その〔行為〕を相続する者と成るのだ』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきですか。比丘たちよ、有情たちには、身体による悪しき行ないが〔存在し〕、言葉による悪しき行ないが〔存在し〕、意による悪しき行ないが存在します。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、悪しき行ないは、あるいは、全てにわたり捨棄され、また、あるいは、些細なものと成ります。比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、『〔わたしは〕行為を自らのものとする者として、行為を相続する者として、行為を根源とする者として、行為を眷属とする者として、行為を帰依所とする者として、〔世に〕存している──その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔わたしが〕為すなら、その〔行為〕を相続する者と成るのだ』と、あるいは、女によって、あるいは、男によって、あるいは、在家者によって、あるいは、出家者によって、幾度となく綿密に注視されるべきです。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけが、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に存しているのでは〕ない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちは、老の法(性質)ある者たちとして、老を超え行くことなき者たちとして、〔世に存している〕』と。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するもの()は全てにわたり捨棄され、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は終息と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけが、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に存しているのでは〕ない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちは、病の法(性質)ある者たちとして、病を超え行くことなき者たちとして、〔世に存している〕』と。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは全てにわたり捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけが、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に存しているのでは〕ない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちは、死の法(性質)ある者たちとして、死を超え行くことなき者たちとして、〔世に存している〕』と。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは全てにわたり捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りにとってだけ、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となるのではない。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちにとって、愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となる』と。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは全てにわたり捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『まさに、わたし独りだけが、行為を自らのものとする者として、行為を相続する者として、行為を根源とする者として、行為を眷属とする者として、行為を帰依所とする者として、〔世に存しているのでは〕ない──その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔わたしが〕為すなら、その〔行為〕を相続する者と成るのだとして。そこで、まさに、すなわち、有情たちに、帰る所があり、赴く所があり、死滅があり、再生があるかぎり、一切の有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちであり、その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔彼らが〕為すなら、その〔行為〕を相続する者たちと成るのだ』と。彼が、その状況を、幾度となく綿密に注視していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは全てにわたり捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「病の法(性質)ある者たちとして、老の法(性質)ある者たちとして、さらに、死の法(性質)ある者たちとして──すなわち、〔そのような〕法(性質)ある者たちとして、有情たちは、そのとおりにあるのに、凡夫たちは、〔それを〕忌避する。

 

 このような法(性質)ある者たちとして、命あるものたちがあるとき、もし、わたしが、それを忌避するなら、このように〔世に〕住む者である、わたしにとって、このことは、適切なることとして存在せず。

 

 〔まさに〕その、わたしは、このように〔世に〕住みながら、依り所なき〔境地〕を法(真理)と知って、すなわち、無病のうちにあり、かつまた、若さのうちにあり、さらに、生命のうちにある、〔それらの〕驕りも──

 

 一切の驕りを征服した者として〔世に〕存している。離欲を平安と見て、〔まさに〕その、わたしには、邁進〔の思い〕が有った──涅槃を証見しながら。

 

 今現在、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕を受用することができない。梵行を行き着く所とする、不退転の者として〔世に〕有るのだ」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. リッチャヴィ〔族〕の少年たちの経

 

58. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。ヴェーサーリーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、マハー林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために坐りました。

 

 また、まさに、その時点にあって、大勢のリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、〔弦を〕装着した諸々の弓を携えて、犬の群れに取り囲まれ、マハー林のなかを、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、世尊が、或るどこかの木の根元において坐っているのを見ました。見て、〔弦を〕装着した諸々の弓を捨て置いて、犬の群れを一方に追い立てて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態で合掌の者たちとなり、世尊に奉侍します。

 

 また、まさに、その時点にあって、リッチャヴィ〔族〕のマハー・ナーマは、マハー林のなかを、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ(※)、それらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちが、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態で合掌の者たちとなり、世尊に奉侍しているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハー・ナーマは、感興〔の言葉〕を唱えました。「ヴァッジー〔国〕は、〔長きにわたり〕有るであろう」「ヴァッジー〔国〕は、〔長きにわたり〕有るであろう」と。

 

※ PTS版により anuvicaramāno を補う。

 

 「マハー・ナーマよ、また、どうして、あなたは、このように説いたのですか。『ヴァッジー〔国〕は、〔長きにわたり〕有るであろう』『ヴァッジー〔国〕は、〔長きにわたり〕有るであろう』」と。「尊き方よ、これらのリッチャヴィ〔族〕の少年たちは、狂暴で、粗暴で、無作法で、すなわち、また、それらのものが、家々に贈られた菓子であるなら、あるいは、甘蔗のものであろうが、あるいは、棗のものであろうが、あるいは、焼き菓子であろうが、あるいは、飴玉であろうが、あるいは、砂糖菓子であろうが、それらを、奪い取っては奪い取って、喰い尽くします。たとえ、良家の婦女たちであろうが、たとえ、良家の少女たちであろうが、背後から悪戯をします。〔まさに〕その、これらの者たちが、今や、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態で合掌の者たちとなり、世尊に奉侍します」と。

 

 「マハー・ナーマよ、彼が誰であれ、良家の子息に、五つの法(性質)が等しく見出されるなら──あるいは、もしくは、即位灌頂した王たる士族であれ、あるいは、もしくは、国の有力者であれ、あるいは、もしくは、軍団の軍団長であれ、あるいは、もしくは、村の村長であれ、あるいは、もしくは、組合の組合長であれ、また、あるいは、すなわち、家々において各自に権威を振るう者たちであれ──まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、母と父を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。尊敬され、尊重され、思慕され、供養された、母と父は、〔まさに〕その、この者を、善意によって慈しみます。『長きに生きよ、長寿を守れ』と。マハー・ナーマよ、母と父によって慈しまれた良家の子息には、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、ここに、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、子と妻と奴隷と労夫と下僕たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。尊敬され、尊重され、思慕され、供養された、子と妻と奴隷と労夫と下僕たちは、〔まさに〕その、この者を、善意によって慈しみます。『長きに生きよ、長寿を守れ』と。マハー・ナーマよ、子と妻と奴隷と労夫と下僕たちによって慈しまれた良家の子息には、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、ここに、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、田畑や生業において事業を共にする近隣の者たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。尊敬され、尊重され、思慕され、供養された、田畑や生業において事業を共にする近隣の者たちは、〔まさに〕その、この者を、善意によって慈しみます。『長きに生きよ、長寿を守れ』と。マハー・ナーマよ、田畑や生業において事業を共にする近隣の者たちによって慈しまれた良家の子息には、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、およそ、供物の納受者としてあるかぎりの天神たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。尊敬され、尊重され、思慕され、供養された、供物の納受者たる天神たちは、〔まさに〕その、この者を、善意によって慈しみます。『長きに生きよ、長寿を守れ』と。マハー・ナーマよ、供物の納受者たる天神たちによって慈しまれた良家の子息には、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、良家の子息が、奮起と精進によって到達し、腕の力によって遍く蓄積され、汗が流され、法(正義)にかない、法(正義)によって得た、諸々の財物によって、沙門や婆羅門たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。尊敬され、尊重され、思慕され、供養された、沙門や婆羅門たちは、〔まさに〕その、この者を、善意によって慈しみます。『長きに生きよ、長寿を守れ』と。マハー・ナーマよ、沙門や婆羅門たちによって慈しまれた良家の子息には、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。

 

 マハー・ナーマよ、彼が誰であれ、良家の子息に、これらの五つの法(性質)が等しく見出されるなら──あるいは、もしくは、即位灌頂した王たる士族であれ、あるいは、もしくは、国の有力者であれ、あるいは、もしくは、軍団の軍団長であれ、あるいは、もしくは、村の村長であれ、あるいは、もしくは、組合の組合長であれ、あるいは、また、すなわち、家々において各自に権威を振るう者たちであれ──まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「母と父に為すべきことを為す者として、子と妻に利益ある者として、常に〔世に有る〕。家人の義(利益)のために、さらに、すなわち、彼に依拠して生きる者たちであるなら、〔彼らのために〕──

 

 まさしく、そして、両者の利益のために、寛容なる者として、戒ある者として、〔世に〕有る。過去の亡者である親族たちのために、さらに、所見の法(現世)において生きている者たちのために──

 

 沙門たちのために、婆羅門たちのために、さらに、天神たちのために、賢者は、家に居住しながら、法(正義)によって富を産出する者として〔世に〕有る。

 

 彼は、善きことを為して、供養されるべき者と成り、賞賛されるべき者と〔成る〕。まさしく、この〔世において〕、彼を、〔賢者たちは〕賞賛し──〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の年長出家者の経

 

59. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した年長出家者(年長となって出家した者)は、得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、年長出家者で、精緻なる者は、得難くあります。〔正しい〕所作を成就した者は、得難くあります。多聞の者は、得難くあります。法(教え)の講話者は、得難くあります。律の保持者は、得難くあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した年長出家者は、得難くあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の年長出家者の経

 

60. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した年長出家者は、得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、年長出家者で、素直な者は、得難くあります。善く把握されたものを把握する者は、得難くあります。的確に把握する者は、得難くあります。法(教え)の講話者は、得難くあります。律の保持者は、得難くあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した年長出家者は、得難くあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔修行の〕妨害の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「妨げ、集まり、支分、時、母と子、師父、状況、リッチャヴィ〔族〕の少年たち、他に、二つのものがあり、〔章となる〕」と。

 

(7)2. 表象の章

 

1. 第一の表象の経

 

61. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの表象()が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、危険の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の表象の経

 

62. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。無常の表象であり、無我の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の増大の経

 

63. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕増大によって増大しながら、聖なる弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信によって増大し、戒によって増大し、所聞によって増大し、施捨によって増大し、智慧によって増大します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの増大によって増大しながら、聖なる弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者が、信によって〔増大し〕、かつまた、戒によって増大するなら──智慧によって、施捨によって、さらに、同様に、所聞によって〔増大するなら〕──

 

 そのような者である、彼は、正なる人士たる明眼の者であり、まさしく、この〔世において〕、自己の真髄を持す」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の増大の経

 

64. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕増大によって増大しながら、聖なる女性の弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信によって増大し、戒によって増大し、所聞によって増大し、施捨によって増大し、智慧によって増大します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの増大によって増大しながら、聖なる女性の弟子は、聖なる増大によって増大し、そして、〔自己の〕真髄を持す者と成り、さらに、身体の優美を持す者と〔成ります〕」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「その者が、信によって〔増大し〕、かつまた、戒によって増大するなら──智慧によって〔増大し〕、施捨によって、さらに、所聞によって、両者ともに〔増大するなら〕──

 

 そのような者である、彼女は、戒ある女性在俗信者として、まさしく、この〔世において〕、自己の真髄を持す」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 論議の経

 

65. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、論議あるに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、戒の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、禅定を成就した者として〔世に〕有り、さらに、禅定の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、智慧の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の知見の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、論議あるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 正なる生き方の経

 

66. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、正なる生き方あるに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、戒の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、禅定を成就した者として〔世に〕有り、さらに、禅定の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、智慧の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の知見の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、正なる生き方あるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の神通の足場の経

 

67. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、五つの法(性質)を修め、五つの法(性質)を多く為すなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知(阿羅漢果)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たること(不還果)です。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場(神足)を修めます。精進の禅定と……略……。心(専心)の禅定と……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。まさしく、勤勇を、第五のものとして〔修めます〕。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、これらの五つの法(性質)を修め、これらの五つの法(性質)を多く為すなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の神通の足場の経

 

68. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしは、五つの法(性質)を修め、五つの法(性質)を多く為しました。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めました。精進の禅定と……。心の禅定と……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めました。まさしく、勤勇を、第五のものとして〔修めました〕。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、これらの、勤勇を第五のものとする法(性質)を修め、多く為したことから、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせたなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ました。

 

 それで、もし、その〔わたし〕が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望んだなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ました。

 

 それで、もし、その〔わたし〕が、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望んだなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ました」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 厭離の経

 

69. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 諸々の煩悩の滅尽の経

 

70. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 表象の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つの表象、さらに、二つの増大があり、そして、論議とともに、正なる生き方、さらに、二つの神通の足場が説かれ、そして、厭離、諸々の煩悩の滅尽があり、〔章となる〕」と。

 

(8)3. 軍人の章

 

1. 第一の〔止寂の〕心による解脱の果の経

 

71. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、〔止寂の〕心による解脱ある者と成り、さらに〔観察の〕智慧による解脱ある者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、かくのごとくもまた、閂を外した者であり、かくのごとくもまた、堀を埋めた者であり、かくのごとくもまた、柱を引き抜いた者であり、かくのごとくもまた、閂なき者であり、かくのごとくもまた、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂を外した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、無明が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂を外した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、堀を埋めた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、さらなる生存ある生の輪廻が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、堀を埋めた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、柱を引き抜いた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、柱を引き抜いた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の〔止寂の〕心による解脱の果の経

 

72. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔止寂の〕心による解脱の果と福利あるものと〔成り〕、さらに〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、かつまた、〔観察の〕智慧による解脱の果と福利あるものと〔成ります〕。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、〔止寂の〕心による解脱ある者と成り、さらに〔観察の〕智慧による解脱ある者と成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、かくのごとくもまた、閂を外した者であり、かくのごとくもまた、堀を埋めた者であり、かくのごとくもまた、柱を引き抜いた者であり、かくのごとくもまた、閂なき者であり、かくのごとくもまた、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂を外した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、無明が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂を外した者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、堀を埋めた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、さらなる生存ある生の輪廻が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、堀を埋めた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、柱を引き抜いた者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、渇愛が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、柱を引き抜いた者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、閂なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、五つの下なる域に束縛するものが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、閂なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の法の住者の経

 

73. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の住者』『法(教え)の住者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、法(教え)の住者と成るのですか」と。

 

 「(1)比丘よ、ここに、比丘が、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──遍く学得します。彼は、昼のあいだ、その法(教え)の学得によって過ごし、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念しません。比丘よ、この者は、『比丘として、学得多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (2)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。彼は、昼のあいだ、その法(教え)の報知によって過ごし、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘よ、この者は、『比丘として、報知多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (3)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。彼は、昼のあいだ、その読誦によって過ごし、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘よ、この者は、『比丘として、読誦多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (4)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。彼は、昼のあいだ、それらの法(教え)の思考によって過ごし、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘よ、この者は、『比丘として、思考多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (5)比丘よ、ここに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。彼は、昼のあいだ、その法(教え)の学得によって過ごすことがなく、静坐を遠ざけることもまたなく、内なる心の止寂に専念します。比丘よ、まさに、このように、比丘は、法(教え)の住者と成ります。

 

 比丘よ、かくのごとく、まさに、わたしによって、学得多き者が説示され、報知多き者が説示され、読誦多き者が説示され、思考多き者が説示され、法(教え)の住者が説示されました。比丘よ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘よ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘よ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の法の住者の経

 

74. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の住者』『法(教え)の住者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、法(教え)の住者と成るのですか」と。

 

 「(1)比丘よ、ここに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。しかしながら、より以上、その〔法〕の義(意味)を、智慧によって覚知しません。比丘よ、この者は、『比丘として、学得多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (2)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。しかしながら、より以上、その〔法〕の義(意味)を、智慧によって覚知しません。比丘よ、この者は、『比丘として、報知多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (3)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。しかしながら、より以上、その〔法〕の義(意味)を、智慧によって覚知しません。比丘よ、この者は、『比丘として、読誦多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (4)比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。しかしながら、より以上、その〔法〕の義(意味)を、智慧によって覚知しません。比丘よ、この者は、『比丘として、思考多き者であるも、法(教え)の住者ではない』〔と〕説かれます。

 

 (5)比丘よ、ここに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。そして、より以上、その〔法〕の義(意味)を、智慧によって覚知します。比丘よ、まさに、このように、比丘は、法(教え)の住者と成ります。

 

 比丘よ、かくのごとく、まさに、わたしによって、学得多き者が説示され、報知多き者が説示され、読誦多き者が説示され、思考多き者が説示され、法(教え)の住者が説示されました。比丘よ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘よ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘よ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の軍人の経

 

75. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの軍人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の軍人は、まさしく、〔湧き上がる〕塵の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、〔湧き上がる〕塵の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、〔押し寄せる〕旗の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、雄叫びを聞いて、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、雄叫びに耐えるも、しかしながら、また、まさに、打撃があるとき、打ちのめされ、挫折します。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、雄叫びに耐え、打撃に耐え、彼は、その戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住します。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第五の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの五つの軍人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの軍人の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、〔湧き上がる〕塵の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。〔湧き上がる〕塵の先端があるとき、彼には、どのようなことがありますか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、少女が、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者がいる』と聞きます。彼は、それを聞いて、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。〔湧き上がる〕塵の先端があるとき、彼には、このことがあります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、まさしく、〔湧き上がる〕塵の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができないように、比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、〔押し寄せる〕旗の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。〔押し寄せる〕旗の先端があるとき、彼には、どのようなことがありますか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、まさに、『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、少女が、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者がいる』と聞くのではなく、しかしながら、また、まさに、自ら、あるいは、女を、あるいは、少女を、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者を見ます。彼は、それを見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。〔押し寄せる〕旗の先端があるとき、彼には、このことがあります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、〔押し寄せる〕旗の先端を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができないように、比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、雄叫びを聞いて、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。雄叫びがあるとき、彼には、どのようなことがありますか。比丘たちよ、ここに、比丘に、或るどこかの、あるいは、木の根元に赴いた者に、あるいは、空家に赴いた者に、女性が近づいて行って、笑いかけ、語りかけ、嘲笑し、揶揄します。彼は、女性によって、笑いかけられ、語りかけられ、嘲笑され、揶揄されながら、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。雄叫びがあるとき、彼には、このことがあります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、雄叫びを聞いて、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができないように、比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、雄叫びに耐えるも、しかしながら、また、まさに、まさしく、打撃があるとき、打ちのめされ、挫折します。打撃があるとき、彼には、どのようなことがありますか。比丘たちよ、ここに、比丘に、或るどこかの、あるいは、木の根元に赴いた者に、あるいは、空家に赴いた者に、女性が近づいて行って、坐りかけ、横たわり、覆い被さります。彼は、女性によって、坐りかけられ、横たわられ、覆い被されながら、学びを拒絶せずして、挫折を明らかと為さずして、淫事の法(性質)を受用します。打撃があるとき、彼には、このことがあります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、雄叫びに耐えるも、しかしながら、また、まさに、打撃があるとき、打ちのめされ、挫折するように、比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、雄叫びに耐え、打撃に耐え、彼は、その戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住します。戦場の征圧があるとき、彼には、どのようなことがありますか。比丘たちよ、ここに、比丘に(※)、或るどこかの、あるいは、木の根元に赴いた者に、あるいは、空家に赴いた者に、女性が近づいて行って、坐りかけ、横たわり、覆い被さります。彼は、女性によって、坐りかけられ、横たわられ、覆い被されながら、振りほどいて、解き放って、欲するところに立ち去ります。彼は、遠離の臥坐所である、林に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。

 

※ テキストには bhikkhu とあるが、PTS版により bhikkhu と読む。

 

 彼は、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、智慧にとっての、諸々の力弱きものと為すものを〔捨棄して〕、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。戦場の征圧があるとき、彼には、このことがあります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、〔湧き上がる〕塵の先端に耐え、〔押し寄せる〕旗の先端に耐え、雄叫びに耐え、打撃に耐え、彼は、その戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住するように、比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第五の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの五つの軍人の如き人たちが、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の軍人の経

 

76. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの軍人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の軍人は、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入ります。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが打ちのめし、〔命を〕奪います。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入ります。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。彼は、親族たちのところに連れ行かれつつ、まさしく、親族たちに至り得ずして、道の中途において、命を終えます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入ります。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。〔まさに〕その、この者を、親族たちが、奉仕し世話します。彼は、親族たちによって、奉仕され世話されながら、まさしく、その病苦によって、命を終えます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入ります。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。〔まさに〕その、この者を、親族たちが、奉仕し世話します。彼は、親族たちによって、奉仕され世話されながら、その病苦から出起します。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の軍人は、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入ります。彼は、その戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住します。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の軍人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第五の軍人が、世において等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの五つの軍人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの軍人の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。彼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。その女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶せずして、挫折を明らかと為さずして、淫事の法(性質)を受用します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入るようなものです。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが打ちのめし、〔命を〕奪います。比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第一の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。彼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。その女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、まさしく、身体によって遍く焼かれ、心によって遍く焼かれます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、林園に赴いて、比丘たちに告げるのだ。「友よ、〔わたしは〕存しています──貪欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として、貪欲〔の思い〕に打ち負かされた者として。〔わたしは〕梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう」』と。彼は、林園に赴きつつ、まさしく、林園に至り得ずして、道の中途において、学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入るようなものです。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。彼は、親族たちのところに連れ行かれつつ、まさしく、親族たちに至り得ずして、道の中途において、命を終えます。比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。彼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。その女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、まさしく、身体によって遍く焼かれ、心によって遍く焼かれます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、林園に赴いて、比丘たちに告げるのだ。「友よ、〔わたしは〕存しています──貪欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として、貪欲〔の思い〕に打ち負かされた者として。〔わたしは〕梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう」』と。彼は、林園に至り得て、比丘たちに告げます。『友よ、〔わたしは〕存しています──貪欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として、貪欲〔の思い〕に打ち負かされた者として。〔わたしは〕梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう』と。

 

 〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは教諭し教示します。『友よ、諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、屠殺場の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、刃や槍の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。尊者よ、梵行を喜び楽しみたまえ。尊者よ、学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしてはいけません』と。

 

 彼は、梵行を共にする者たちによって、このように教諭され、このように教示されつつ、このように言います。『友よ、たとえ、何であれ、諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれたとして、そこで、まさに、わたしは、まさしく、梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう』と。彼は、学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入るようなものです。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。〔まさに〕その、この者を、親族たちが、奉仕し世話します。彼は、親族たちによって、奉仕され世話されながら、まさしく、その病苦によって、命を終えます。比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第三の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。彼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこにおいて、女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見ます。その女性を、あるいは、だらしなく着衣した者を、あるいは、だらしなく着込んだ者を、見て、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、まさしく、身体によって遍く焼かれ、心によって遍く焼かれます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、林園に赴いて、比丘たちに告げるのだ。「友よ、〔わたしは〕存しています──貪欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として、貪欲〔の思い〕に打ち負かされた者として。〔わたしは〕梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう」』と。彼は、林園に至り得て、比丘たちに告げます。『友よ、〔わたしは〕存しています──貪欲〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として、貪欲〔の思い〕に打ち負かされた者として。〔わたしは〕梵行を保つことができません。学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう』と。

 

 〔まさに〕その、この者に、梵行を共にする者たちは教諭し教示します。『友よ、諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの……略……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれました。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれました。尊者よ、梵行を喜び楽しみたまえ。尊者よ、学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしてはいけません』と。

 

 彼は、梵行を共にする者たちによって、このように教諭され、このように教示されつつ、このように言います。『友よ、邁進します。友よ、努力します。友よ、〔梵行を〕喜びます。友よ、今や、わたしは、学びの挫折を明らかと為して、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りすることはありません』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入るようなものです。彼は、その戦場において、邁進し努力します。邁進し努力している、〔まさに〕その、この者を、他者たちが傷つけます。〔まさに〕その、この者を、〔同僚たちが〕連れ去ります。連れ去って、親族たちのもとに連れ行きます。〔まさに〕その、この者を、親族たちが、奉仕し世話します。彼は、親族たちによって、奉仕され世話されながら、その病苦から出起します。比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第四の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。彼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります──まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起されている気づきによって、諸々の統御されている〔感官の〕機能によって。眼(視覚機能)によって、形態(:眼の対象)を見て、形相を収め取る者(形象を認知し把捉する者)と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳(聴覚機能)によって、音声(:耳の対象)を聞いて……略……。鼻(嗅覚機能)によって、臭気(:鼻の対象)を嗅いで……略……。舌(味覚機能)によって、味感(:舌の対象)を味わって……略……。身(知覚機能)によって、感触(所触:身の対象)に接触して……略……。意(思考機能)によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能(意根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、遠離の臥坐所である、林に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、その軍人が、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、ひしめき合う戦場に入るようなものです。彼は、その戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住します。比丘たちよ、その喩えのように、この人のことを、わたしは説きます。比丘たちよ、このような形態の者としてもまた、ここに、一部の人は〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第五の軍人の如き人が、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。比丘たちよ、まさに、これらの五つの軍人の如き人たちが、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の未来の恐怖の経

 

77. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、林にある者たる比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、独りある者として、林に住む。また、まさに、独りある者として、わたしが林に住んでいると、あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍(さそり)がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足(むかで)がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために』と。比丘たちよ、この第一の未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、林にある者たる比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、独りある者として、林に住む。また、まさに、独りある者として、わたしが林に住んでいると、あるいは、〔わたし自身が〕躓(つまず)いて落ちるであろうし、あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風(体調不良を引き起こす体内の風)が動乱するであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために』と。比丘たちよ、この第二の未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、林にある者たる比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、独りある者として、林に住む。また、まさに、独りある者として、わたしが林に住んでいると、猛獣たちと遭遇するであろう──あるいは、獅子と、あるいは、虎と、あるいは、豹と、あるいは、熊と、あるいは、鬣狗(ハイエナ)と。彼らは、わたしの生命を奪うであろう。それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために』と。比丘たちよ、この第三の未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、林にある者たる比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、独りある者として、林に住む。また、まさに、独りある者として、わたしが林に住んでいると、〔狂暴な〕若者たちと遭遇するであろう──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちと、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちと。彼らは、わたしの生命を奪うであろう。それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために』と。比丘たちよ、この第四の未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、林にある者たる比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、独りある者として、林に住む。また、まさに、林のなかには、猛々しい人間ならざる者(精霊・悪霊)たちが存在する。彼らは、わたしの生命を奪うであろう。それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために』と。比丘たちよ、この第五の未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの未来の恐怖を正しく見ているなら、林にある者たる比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の未来の恐怖の経

 

78. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、年少の者である。若者であり、若き黒髪の者であり、(青年期)を具備した者である。また、まさに、すなわち、この身体に老が触れる、その時が有る。また、まさに、老いた者によっては、老に征服された者によっては、覚者たちの教えに意を為すことは、為し易きことにあらず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することは、為し易きことにあらず。好ましくなく、愛らしくなく、意に適わない、その法(性質)が、わたしにやってくる前に、さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。わたしは、その法(性質)を具備した者となり、老いた者となるもまた、平穏のうちに〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、この第一の未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、病苦少なき者であり、病悩少なき者である。寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者である。また、まさに、すなわち、この身体に病が触れる、その時が有る。また、まさに、病んだ者によっては、病に征服された者によっては、覚者たちの教えに意を為すことは、為し易きことにあらず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することは、為し易きことにあらず。好ましくなく、愛らしくなく、意に適わない、その法(性質)が、わたしにやってくる前に、さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。わたしは、その法(性質)を具備した者となり、病んだ者となるもまた、平穏のうちに〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、この第二の未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かくのごとく深慮します。『まさに、今現在、豊作で、行乞するに易く、〔行乞の〕食が得易く、残飯を受けて〔身を〕保ち行くことが為し易くある。また、まさに、すなわち、不作と成り、行乞するに難く、〔行乞の〕食が得難く、残飯を受けて〔身を〕保ち行くことが為し易くない、その時が有る。また、まさに、行乞するに難きとき、人間たちは、行乞するに易きところ(豊作の地)に、そこへと移り行く。そこにおいて、群集の住が有り、混雑の住が〔有る〕。また、まさに、群集の住が存し、混雑の住が〔存しているとき〕、覚者たちの教えに意を為すことは、為し易きことにあらず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することは、為し易きことにあらず。好ましくなく、愛らしくなく、意に適わない、その法(性質)が、わたしにやってくる前に、さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。わたしは、その法(性質)を具備した者となり、行乞するに難きときもまた、平穏のうちに〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、この第三の未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かくのごとく深慮します。『まさに、今現在、人間たちは和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住む。また、まさに、すなわち、森の者たちによる動乱の恐怖が有り、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及ぶ、その時が有る。また、まさに、恐怖が存しているとき、人間たちは、平安あるところに、そこへと移り行く。そこにおいて、群集の住が有り、混雑の住が〔有る〕。また、まさに、群集の住が存し、混雑の住が〔存しているとき〕、覚者たちの教えに意を為すことは、為し易きことにあらず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することは、為し易きことにあらず。好ましくなく、愛らしくなく、意に適わない、その法(性質)が、わたしにやってくる前に、さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。わたしは、その法(性質)を具備した者となり、恐怖があるときもまた、平穏のうちに〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、この第四の未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かくのごとく深慮します。『まさに、今現在、僧団は和合し、共に歓喜しながら、論争せず、誦説を一にし、平穏のうちに〔世に〕住む。また、まさに、すなわち、僧団が分裂する、その時が有る。また、まさに、僧団が分裂したときは、覚者たちの教えに意を為すことは、為し易きことにあらず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用することは、為し易きことにあらず。好ましくなく、愛らしくなく、意に適わない、その法(性質)が、わたしにやってくる前に、さあ、わたしは、まさしく、前もって、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。わたしは、その法(性質)を具備した者となり、僧団が分裂したときもまた、平穏のうちに〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、この第五の未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの未来の恐怖を正しく見ているなら、比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むに、まさしく、十分なるものがあります──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第三の未来の恐怖の経

 

79. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、未来の時には、比丘たちは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、他者たちに〔戒を〕成就させるでしょう。彼らはまた、卓越の戒に、卓越の心(瞑想)に、卓越の智慧に、教え導くことができません。彼ら(弟子たち)もまた、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、他者たちに〔戒を〕成就させるでしょう。彼らはまた、卓越の戒に、卓越の心に、卓越の智慧に、教え導くことができません。彼ら(弟子の弟子たち)もまた、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、法(教え)の等しき汚点あることから、律の等しき汚点があり、律の等しき汚点あることから、法(教え)の等しき汚点があります。比丘たちよ、これは、第一の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、他者たちに依所を与えるでしょう。彼らはまた、卓越の戒に、卓越の心(瞑想)に、卓越の智慧に、教え導くことができません。彼ら(弟子たち)もまた、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、他者たちに依所を与えるでしょう。彼らはまた、卓越の戒に、卓越の心に、卓越の智慧に、教え導くことができません。彼ら(弟子の弟子たち)もまた、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、法(教え)の等しき汚点あることから、律の等しき汚点があり、律の等しき汚点あることから、法(教え)の等しき汚点があります。比丘たちよ、これは、第二の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)についての議論や問答についての議論を議論しながら、黒の法(性質)に没頭しながら、〔真理を〕覚らないでしょう。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、法(教え)の等しき汚点あることから、律の等しき汚点があり、律の等しき汚点あることから、法(教え)の等しき汚点があります。比丘たちよ、これは、第三の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、すなわち、それらの経典が、如来によって語られた、深遠にして、深遠なる義(意味)ある、世〔俗〕を超えるものにして、空性と結び付いたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとしないでしょうし、耳を傾けないでしょうし、了知のための心を現起させないでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えないでしょう。また、すなわち、それらの経典が、詩人たちによって作られた(※)詩文にして、様々な文字や様々な文型ある、外部の弟子たちによって語られたものであるなら、それらが話されているときに、聞こうとするでしょうし、耳を傾けるでしょうし、了知のための心を現起させるでしょうし、そして、それらの法(教え)を、把握するべきと、遍く学得するべきと、思い考えるでしょう。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、法(教え)の等しき汚点あることから、律の等しき汚点があり、律の等しき汚点あることから、法(教え)の等しき汚点があります。比丘たちよ、これは、第四の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

※ テキストには kavitā とあるが、PTS版により kavikatā と読む。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔世に〕有るでしょう。彼らは、身体が修められていない者たちとして、戒が修められていない者たちとして、心が修められていない者たちとして、智慧が修められていない者たちとして、〔そのように〕存しつつ、長老の比丘たちが、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有るでしょうし、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励まないでしょう。後の人々は、彼らに随従する見解を惹起するでしょう。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有るでしょうし、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励まないでしょう。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、法(教え)の等しき汚点あることから、律の等しき汚点があり、律の等しき汚点あることから、法(教え)の等しき汚点があります。比丘たちよ、これは、第五の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

比丘たちよ、まさに、これらの五つの、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖があります。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第四の未来の恐怖の経

 

80. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、未来の時には、比丘たちは、衣料について、善きものを欲する者たちとして〔世に〕有るでしょう。彼らは、衣料について、善きものを欲する者たちとして〔そのように〕存しつつ、糞掃衣の者たることを遠ざけるでしょうし、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけるでしょうし、村や町や王都に降りて行って住を営むでしょうし、そして、衣料を因として、無数〔の流儀〕に関した不適切で不当な探し求めを起こすでしょう。比丘たちよ、これは、第一の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、〔行乞の〕施食について、善きものを欲する者たちとして〔世に〕有るでしょう。彼らは、〔行乞の〕施食について、善きものを欲する者たちとして〔そのように〕存しつつ、〔行乞の〕施食の者たることを遠ざけるでしょうし、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけるでしょうし、村や町や王都に降りて行って住を営むでしょうし、至高の舌で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、そして、〔行乞の〕施食を因として、無数〔の流儀〕に関した不適切で不当な探し求めを起こすでしょう。比丘たちよ、これは、第二の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、臥坐具について、善きものを欲する者たちとして〔世に〕有るでしょう。彼らは、臥坐具について、善きものを欲する者たちとして〔そのように〕存しつつ、木の根元の者たることを遠ざけるでしょうし、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけるでしょうし、村や町や王都に降りて行って住を営むでしょうし、そして、臥坐具を因として、無数〔の流儀〕に関した不適切で不当な探し求めを起こすでしょう。比丘たちよ、これは、第三の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 


 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、比丘尼や学女や見習い沙門たちと交わる者たちとして、〔世に〕有るでしょうし、〔世に〕住むでしょう。比丘たちよ、また、まさに、比丘尼や学女や見習い沙門たちと交わりが存しているときは、このことが待っています──あるいは、喜び楽しまない者たちとして梵行を歩むでしょうし、あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起するでしょうし、あるいは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう。比丘たちよ、これは、第四の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、未来の時には、比丘たちは、園丁や見習い沙門たちと交わる者たちとして、〔世に〕有るでしょうし、〔世に〕住むでしょう。比丘たちよ、また、まさに、園丁や見習い沙門たちと交わりが存しているときは、このことが待っています──無数〔の流儀〕に関した蓄積物の遍き受益に専念するたちとして〔世に〕住むでしょうし、粗雑なる形相をもまた作り為すでしょう──地についてもまた、緑の葉についてもまた。比丘たちよ、これは、第五の、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖です。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの、今現在は生起せず、未来に生起するであろう、未来の恐怖があります。それら〔の恐怖〕に、あなたたちは目覚めているべきです。さらに、目覚めて〔そののち〕、それらの捨棄のために努力するべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 軍人の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの〔止寂の〕心による解脱の果、そして、二つの法(教え)の住者、さらに、二つの軍人が説かれ、そして、四つの未来があり、〔章となる〕」と。

 

(9)4. 長老の章

 

1. 貪るべきものの経

 

81. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。〔彼は〕貪るべきものについて貪り、怒るべきものについて怒り、迷うべきものについて迷い、激情するべきものについて激情し、驕慢するべきものについて驕慢します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。〔彼は〕貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 貪欲を離れた者の経

 

82. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。貪欲を離れていない者として〔世に〕有り、憤怒を離れていない者として〔世に〕有り、迷妄を離れていない者として〔世に〕有り、そして、偽装ある者として、さらに、加虐ある者として、〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。貪欲を離れた者として〔世に〕有り、憤怒を離れた者として〔世に〕有り、迷妄を離れた者として〔世に〕有り、そして、偽装なき者として、さらに、加虐なき者として、〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 虚言者の経

 

83. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、虚言者として、かつまた、饒舌者として、かつまた、予言者として、かつまた、詐術者として、かつまた、利得による利得の追求者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、虚言者ではなく、かつまた、饒舌者ではなく、かつまた、予言者ではなく、かつまた、詐術者ではなく、かつまた、利得による利得の追求者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 信なき者の経

 

84. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 忍耐なき者の経

 

85. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。諸々の形態に忍耐ある者と成り、諸々の音声に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐ある者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 融通無礙〔の智慧〕に至り得た者の経

 

86. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。義(意味)についての融通無礙〔の智慧〕(義無礙解)に至り得た者として、法(教え)についての融通無礙〔の智慧〕(法無礙解)に至り得た者として、言語についての融通無礙〔の智慧〕(辞無礙解)に至り得た者として、応答についての融通無礙〔の智慧〕(楽説無礙解)に至り得た者として、すなわち、梵行を共にする者たちのための、それらの高下諸々の業務があるなら、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 戒ある者の経

 

87. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)善き言葉ある者として、善き言葉遣いある者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ります。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)である、四つの瞑想(四禅)を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 長老の経

 

88. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者と成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。(1)〔その〕長老が、経歴ある者として、長き出家者として、〔世に〕有ります。(2)在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、多くの人々を取り巻きとする者として、〔世に〕有ります。(3)諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。(4)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔しかしながら、正しい〕見解によって理解されていないものとして。(5)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。彼は、多くの人々を、正なる法(教え)から出起させて、正ならざる法(教え)において確立させます。〔人々は〕『長老の比丘は、経歴ある者であり、長き出家者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者であり、盛名ある者であり、多くの人々を取り巻きとする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者と成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。(1)〔その〕長老が、経歴ある者として、長き出家者として、〔世に〕有ります。(2)在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、多くの人々を取り巻きとする者として、〔世に〕有ります。(3)諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。(4)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(5)正しい見解ある者として、転倒した見なき者として、〔世に〕有ります。彼は、多くの人々を、正ならざる法(教え)から出起させて、正なる法(教え)において確立させます。〔人々は〕『長老の比丘は、経歴ある者であり、長き出家者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者であり、盛名ある者であり、多くの人々を取り巻きとする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。〔人々は〕『長老の比丘は、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者である』〔と〕、かくのごとくもまた、彼に随従する見解を惹起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の〔いまだ〕学びある者の経

 

89. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、解脱したとおりに心を綿密に注視しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の〔いまだ〕学びある者の経

 

90. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、〔いまだ〕学びある比丘が、諸々の業務において明敏であり、多くの義務がある者として、多くの用事がある者として、〔世に〕有り、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、つまらない作業によって昼のあいだを過ごし、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、〔真理に〕随順しない在家の交流によって在家者や出家者たちと交わる者として〔世に〕住み、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、〔正しい〕時ならずに村に入り、昼を過ぎて戻り、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者ではなく、苦難なく得る者ではなく、困難なく得る者ではなく、〔世に〕有り、静坐を遠ざけ、内なる心の止寂に専念しません。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、〔いまだ〕学びある比丘が、諸々の業務において明敏なるも、多くの義務がある者ではなく、多くの用事がある者ではなく、〔世に〕有り、静坐を遠ざけず、内なる心の止寂に専念します。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、つまらない作業によって昼のあいだを過ごさず、静坐を遠ざけず、内なる心の止寂に専念します。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、〔真理に〕随順しない在家の交流によって在家者や出家者たちと交わらない者として〔世に〕住み、静坐を遠ざけず、内なる心の止寂に専念します。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、早朝に村に入らず、昼過ぎに戻らず、静坐を遠ざけず、内なる心の止寂に専念します。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔いまだ〕学びある比丘が、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有り、静坐を遠ざけず、内なる心の止寂に専念します。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 長老の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪るべきもの、貪欲を離れた者、虚言者と信なき者と忍耐なき者、そして、融通無礙〔の智慧〕があり、戒とともに、長老、他に、二つの〔いまだ〕学びある者があり、〔章となる〕」と。

 

(10)5. カクダの章

 

1. 第一の成就の経

 

91. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の成就であり、戒の成就であり、所聞の成就であり、施捨の成就であり、智慧の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの成就があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の成就の経

 

92. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、五つのものなのですか。戒の成就であり、禅定の成就であり、智慧の成就であり、解脱の成就であり、解脱の知見の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの成就があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 説き明かしの経

 

93. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの了知の説き明かし(授記)です。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、了知を説き明かします。悪しき欲求ある者として、欲求に支配された者として、了知を説き明かします。狂者なることから、心の散乱あることから、了知を説き明かします。増上慢によって、了知を説き明かします。まさしく、正しく、了知を説き明かします。比丘たちよ、まさに、これらの五つの了知の説き明かしがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 平穏の住の経

 

94. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの平穏の住です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの平穏の住があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 不動〔の境地〕の経

 

95. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、義(意味)についての融通無礙〔の智慧〕に至り得た者として〔世に〕有ります。法(教え)についての融通無礙〔の智慧〕に至り得た者として〔世に〕有ります。言語についての融通無礙〔の智慧〕に至り得た者として〔世に〕有ります。応答についての融通無礙〔の智慧〕に至り得た者として〔世に〕有ります。解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 所聞の保持ある者の経

 

96. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)を習修しながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)雑事少なく、義務少なく、扶養し易く、諸々の生きるための必需品について善く満ち足りている者として〔世に〕有ります。(2)食少なく、飽食ならざることに専念する者として〔世に〕有ります。(3)睡眠少なく、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。(4)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(5)解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づきを習修しながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 議論の経

 

97. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づきを修めながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)雑事少なく、義務少なく、扶養し易く、諸々の生きるための必需品について善く満ち足りている者として〔世に〕有ります。(2)食少なく、飽食ならざることに専念する者として〔世に〕有ります。(3)睡眠少なく、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。(4)すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論……略……解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づきを修めながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 林にある者の経

 

98. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づきを多く為しながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)雑事少なく、義務少なく、扶養し易く、諸々の生きるための必需品について善く満ち足りている者として〔世に〕有ります。(2)食少なく、飽食ならざることに専念する者として〔世に〕有ります。(3)睡眠少なく、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。(4)林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔世に〕有ります。(5)解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、呼吸についての気づきを多く為しながら、まさしく、長からずして、不動〔の境地〕を理解します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 獅子の経

 

99. 「比丘たちよ、獣の王たる獅子は、夕刻時に、巣から出立します。巣から出立して、〔身体を〕屈伸します。〔身体を〕屈伸して、遍きにわたり、四方を見回します。遍きにわたり、四方を見回して、三回、獅子吼を吼え叫びます。三回、獅子吼を吼え叫んで、餌場へと進み行きます。彼が、もし、また、象に、打撃を与えるなら、まさしく、真剣に、打撃を与えます──真剣ならずに、ではなく。もし、また、水牛に、打撃を与えるなら、まさしく、真剣に、打撃を与えます──真剣ならずに、ではなく。もし、また、牛に、打撃を与えるなら、まさしく、真剣に、打撃を与えます──真剣ならずに、ではなく。もし、また、豹に、打撃を与えるなら、まさしく、真剣に、打撃を与えます──真剣ならずに、ではなく。もし、また、小動物たちに、もしくは、兎や猫たちであろうが、打撃を与えるなら、まさしく、真剣に、打撃を与えます──真剣ならずに、ではなく。それは、何を因とするのですか。『わたしの専念〔努力〕の道が消失してはならない』と〔思うからです〕。

 

 比丘たちよ、『獅子』とは、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘たちよ、すなわち、まさに、如来が、衆に、法(教え)を説示するなら、これは、彼にとって、獅子吼として有ります。比丘たちよ、如来が、もし、また、比丘たちに、法(教え)を説示するなら、如来は、まさしく、真剣に、法(教え)を説示します──真剣ならずに、ではなく。比丘たちよ、如来が、もし、また、比丘尼たちに、法(教え)を説示するなら、如来は、まさしく、真剣に、法(教え)を説示します──真剣ならずに、ではなく。比丘たちよ、如来が、もし、また、在俗信者たちに、法(教え)を説示するなら、如来は、まさしく、真剣に、法(教え)を説示します──真剣ならずに、ではなく。比丘たちよ、如来が、もし、また、女性在俗信者たちに、法(教え)を説示するなら、如来は、まさしく、真剣に、法(教え)を説示します──真剣ならずに、ではなく。比丘たちよ、如来が、もし、また、凡夫たちに、もしくは、食乞いや山民たちであろうが、法(教え)を説示するなら、如来は、まさしく、真剣に、法(教え)を説示します──真剣ならずに、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、如来は、法(教え)を重きとする者であり、法(教え)を尊重する者であるからです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. カクダ長老の経

 

100. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、カクダという名のコーリヤ〔族〕の子息で、尊者マハー・モッガッラーナの奉仕者が、最近のこと、命を終え、或るどこか〔の天〕の、意によって作られる身体に再生したのです。彼には、このような形態の自己状態(個我的あり方・身体)の獲得が有ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、マガダ〔国〕の村の田畑〔の広さ〕あるものとして。彼は、その自己状態の獲得によって、まさしく、自己を〔悩ませることも〕なく、他者を悩ませることもありません。

 

 そこで、まさに、カクダ天子は、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、カクダ天子は、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「尊き方よ、デーヴァダッタには、このような形態の求める所が生起しました。『わたしは、比丘の僧団を維持するのだ』と。尊き方よ、しかしながら、〔その〕心の生起と共に、デーヴァダッタは、その神通から遍く衰退したのです」と。カクダ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、カクダという名のコーリヤ〔族〕の子息で、わたしの奉仕者が、最近のこと、命を終え、或るどこか〔の天〕の、意によって作られる身体に再生したのです。彼には、このような形態の自己状態の獲得が有ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、マガダ〔国〕の村の田畑〔の広さ〕あるものとして。彼は、その自己状態の獲得によって、まさしく、自己を〔悩ませることも〕なく、他者を悩ませることもありません。尊き方よ、そこで、まさに、カクダ天子は、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。尊き方よ、一方に立った、まさに、カクダ天子は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、デーヴァダッタには、このような形態の求める所が生起しました。「わたしは、比丘の僧団を維持するのだ」と。尊き方よ、しかしながら、〔その〕心の生起と共に、デーヴァダッタは、その神通から遍く衰退したのです』と。尊き方よ、カクダ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 「モッガッラーナよ、また、どうなのでしょう、あなたによって、カクダ天子は、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『それが何であれ、カクダ天子が語るなら、その全てが、まさしく、そのように有る──他のように、ではなく』」と。「尊き方よ、わたしによって、カクダ天子は、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『それが何であれ、カクダ天子が語るなら、その全てが、まさしく、そのように有る──他のように、ではなく』」と。「モッガッラーナよ、この言葉を守りなさい(口外してはならない)。モッガッラーナよ、この言葉を守りなさい。今や、その愚人は、まさしく、自己みずから、自己のことを明らかと為すでしょう。

 

 モッガッラーナよ、五つのものがあります。これらの教師が、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。モッガッラーナよ、ここに、一部の教師は、完全なる清浄の戒なき者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の戒ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき戒がある』と〔明言します〕。〔まさに〕その、この者のことを、弟子たちは、このように知ります。『まさに、この尊き教師は、完全なる清浄の戒なき者であり、〔そのように〕存しつつ、「〔わたしは〕完全なる清浄の戒ある者として〔世に〕存している」と明言し、「わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき戒がある」と〔明言する〕。また、まさに、まさしく、もし、わたしたちが、在家者たちに、〔このことを〕告げるなら、彼にとって、意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、そのことが、彼にとって、意に適わないことであるなら、どうして、わたしたちが、そのことを、彼と話し合えるというのだろう。また、まさに、〔在家者が〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、〔彼を〕敬うとして、すなわち、自身が為すであろう、そのことによって、まさしく、自身のことが、〔自ずと〕覚知されるであろう(露見する)』と。モッガッラーナよ、まさに、このような形態の教師を、戒〔の観点〕から、弟子たちは守護します(守秘する)。また、そして、このような形態の教師は、戒〔の観点〕から、弟子たちによる守護(隠蔽)を願い求めます。

 

 モッガッラーナよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、完全なる清浄の生き方なき者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の生き方ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき生き方がある』と〔明言します〕。〔まさに〕その、この者のことを、弟子たちは、このように知ります。『まさに、この尊き教師は、完全なる清浄の生き方なき者であり、〔そのように〕存しつつ、「〔わたしは〕完全なる清浄の生き方ある者として〔世に〕存している」と明言し、「わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき生き方がある」と〔明言する〕。また、まさに、まさしく、もし、わたしたちが、在家者たちに、〔このことを〕告げるなら、彼にとって、意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、そのことが、彼にとって、意に適わないことであるなら、どうして、わたしたちが、そのことを、彼と話し合えるというのだろう。また、まさに、〔在家者が〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、〔彼を〕敬うとして、すなわち、自身が為すであろう、そのことによって、まさしく、自身のことが、〔自ずと〕覚知されるであろう』と。モッガッラーナよ、まさに、このような形態の教師を、生き方〔の観点〕から、弟子たちは守護します。また、そして、このような形態の教師は、生き方〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めます。

 

 モッガッラーナよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、完全なる清浄の法(教え)の説示なき者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の法(教え)の説示ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき法(教え)の説示がある』と〔明言します〕。〔まさに〕その、この者のことを、弟子たちは、このように知ります。『まさに、この尊き教師は、完全なる清浄の法(教え)の説示なき者であり、〔そのように〕存しつつ、「〔わたしは〕完全なる清浄の法(教え)の説示ある者として〔世に〕存している」と明言し、「わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき法(教え)の説示がある」と〔明言する〕。また、まさに、まさしく、もし、わたしたちが、在家者たちに、〔このことを〕告げるなら、彼にとって、意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、そのことが、彼にとって、意に適わないことであるなら、どうして、わたしたちが、そのことを、彼と話し合えるというのだろう。また、まさに、〔在家者が〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、〔彼を〕敬うとして、すなわち、自身が為すであろう、そのことによって、まさしく、自身のことが、〔自ずと〕覚知されるであろう』と。モッガッラーナよ、まさに、このような形態の教師を、法(教え)の説示〔の観点〕から、弟子たちは守護します。また、そして、このような形態の教師は、法(教え)の説示〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めます。

 

 モッガッラーナよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、完全なる清浄の説き明かしなき者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の説き明かしある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき説き明かしがある』と〔明言します〕。〔まさに〕その、この者のことを、弟子たちは、このように知ります。『まさに、この尊き教師は、完全なる清浄の説き明かしなき者であり、〔そのように〕存しつつ、「〔わたしは〕完全なる清浄の説き明かしある者として〔世に〕存している」と明言し、「わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき説き明かしがある」と〔明言する〕。また、まさに、まさしく、もし、わたしたちが、在家者たちに、〔このことを〕告げるなら、彼にとって、意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、そのことが、彼にとって、意に適わないことであるなら、どうして、わたしたちが、そのことを、彼と話し合えるというのだろう。また、まさに、〔在家者が〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、〔彼を〕敬うとして、すなわち、自身が為すであろう、そのことによって、まさしく、自身のことが、〔自ずと〕覚知されるであろう』と。モッガッラーナよ、まさに、このような形態の教師を、説き明かし〔の観点〕から、弟子たちは守護します。また、そして、このような形態の教師は、説き明かし〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めます。

 

 モッガッラーナよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、完全なる清浄の知見なき者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の知見ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき知見がある』と〔明言します〕。〔まさに〕その、この者のことを、弟子たちは、このように知ります。『まさに、この尊き教師は、完全なる清浄の知見なき者であり、〔そのように〕存しつつ、「〔わたしは〕完全なる清浄の知見ある者として〔世に〕存している」と明言し、「わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき知見がある」と〔明言する〕。また、まさに、まさしく、もし、わたしたちが、在家者たちに、〔このことを〕告げるなら、彼にとって、意に適うこととして存さないであろう。また、まさに、そのことが、彼にとって、意に適わないことであるなら、どうして、わたしたちが、そのことを、彼と話し合えるというのだろう。また、まさに、〔在家者が〕衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、〔彼を〕敬うとして、すなわち、自身が為すであろう、そのことによって、まさしく、自身のことが、〔自ずと〕覚知されるであろう』と。モッガッラーナよ、まさに、このような形態の教師を、知見〔の観点〕から、弟子たちは守護します。また、そして、このような形態の教師は、知見〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めます。モッガッラーナよ、まさに、これらの五つの教師が、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 モッガッラーナよ、また、まさに、わたしは、完全なる清浄の戒ある者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の戒ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき戒がある』と〔明言します〕。そして、わたしを、戒〔の観点〕から、弟子たちは守護しません(守秘しない)。かつまた、わたしは、戒〔の観点〕から、弟子たちによる守護(隠蔽)を願い求めません。完全なる清浄の生き方ある者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の生き方ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき生き方がある』と〔明言します〕。そして、わたしを、生き方〔の観点〕から、弟子たちは守護しません。かつまた、わたしは、生き方〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めません。完全なる清浄の法(教え)の説示ある者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の法(教え)の説示ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき法(教え)の説示がある』と〔明言します〕。そして、わたしを、法(教え)の説示〔の観点〕から、弟子たちは守護しません。かつまた、わたしは、法(教え)の説示〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めません。完全なる清浄の説き明かしある者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の説き明かしある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき説き明かしがある』と〔明言します〕。そして、わたしを、説き明かし〔の観点〕から、弟子たちは守護しません。かつまた、わたしは、説き明かし〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めません。完全なる清浄の知見ある者であり、〔そのように〕存しつつ、『〔わたしは〕完全なる清浄の知見ある者として〔世に〕存している』と明言し、『わたしには、完全なる清浄にして完全なる清白の汚染なき知見がある』と〔明言します〕。そして、わたしを、知見〔の観点〕から、弟子たちは守護しません。かつまた、わたしは、知見〔の観点〕から、弟子たちによる守護を願い求めません」と。〔以上が〕第十となる。

 

 カクダの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの成就、説き明かし、平穏、第五のものとして、不動〔の境地〕、所聞、議論、林にある者、そして、獅子、カクダがあり、〔それらの〕十がある」と。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

3. 第三の五十なるもの

 

(11)1. 平穏の住の章

 

1. 恐れおののきの経

 

101. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、学びある者の離怖のための契機となる法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、信なき者に恐れおののきが有るとして、信ある者に、その恐れおののきは有りません。それゆえに、この法(性質)は、学びある者の離怖のための契機となります。

 

 比丘たちよ、すなわち、劣戒の者に恐れおののきが有るとして、戒ある者に、その恐れおののきは有りません。それゆえに、この法(性質)は、学びある者の離怖のための契機となります。

 

 比丘たちよ、すなわち、少聞の者に恐れおののきが有るとして、多聞の者に、その恐れおののきは有りません。それゆえに、この法(性質)は、学びある者の離怖のための契機となります。

 

 比丘たちよ、すなわち、怠惰の者に恐れおののきが有るとして、精進に励む者に、その恐れおののきは有りません。それゆえに、この法(性質)は、学びある者の離怖のための契機となります。

 

 比丘たちよ、すなわち、智慧浅き者に恐れおののきが有るとして、智慧ある者に、その恐れおののきは有りません。それゆえに、この法(性質)は、学びある者の離怖のための契機となります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、学びある者の離怖のための契機となる法(性質)があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 疑いある者の経

 

102. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、『悪しき比丘である』〔と〕、かくのごとくもまた、〔人々に〕疑われ遍く疑いある者と成ります──たとえ、不動〔の境地〕を法(性質)とする者であれ。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、娼婦のもとに通う者として〔世に〕有り、あるいは、寡婦のもとに通う者として〔世に〕有り、あるいは、年増娘のもとに通う者として〔世に〕有り、あるいは、去勢者のもとに通う者として〔世に〕有り、あるいは、比丘尼のもとに通う者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、『悪しき比丘である』〔と〕、かくのごとくもまた、〔人々に〕疑われ遍く疑いある者と成ります──たとえ、不動〔の境地〕を法(性質)とする者であれ」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 大盗賊の経

 

103. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した大盗賊は、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ちます。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、かつまた、平坦ならざるところ(辺境)に依拠した者として〔世に〕有り、かつまた、茂み(林野)に依拠した者として〔世に有り〕、かつまた、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に有り〕、かつまた、財物を施捨する者(贈賄者)として〔世に有り〕、かつまた、独り歩む者(一匹狼)として〔世に有ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、平坦ならざるところ(辺境)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、川の難所に、あるいは、山の平坦ならざるところに、依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、平坦ならざるところに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、茂み(林野)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、草の茂みに、あるいは、木の茂みに、あるいは、叢林に、あるいは、大密林に、依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、茂みに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、王たちに、あるいは、王の大臣たちに、依拠した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、これらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、わたしを守るために義(利益)あることを話すであろう』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、それらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、彼を守るために義(利益)あることを話します。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、力ある者に依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、財物を施捨する者(贈賄者)として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、この財物によって懐柔するのだ』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、その財物によって懐柔します。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、財物を施捨する者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、独り歩む者(一匹狼)として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、まさしく、独りある者としてあり、諸々の収奪の為し手として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。『わたしの諸々の密事が、外に露見してはならない』と〔思うからです〕。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、独り歩む者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これら五つの支分を具備した大盗賊は、〔家の〕境目をもまた断ち切り、強奪物をもまた運び去り、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ちます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した悪しき比丘は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、かつまた、平坦ならざるところ(不正)に依拠した者として〔世に〕有り、かつまた、茂み(見執)に依拠した者として〔世に有り〕、かつまた、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に有り〕、かつまた、財物を施捨する者(贈賄者)として〔世に有り〕、かつまた、独り歩む者(一匹狼)として〔世に有ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、平坦ならざるところ(不正)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、平坦ならざる身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、平坦ならざる言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、平坦ならざる意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、平坦ならざるところに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、茂み(見執)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、誤った見解ある者として、極端を収め取る見解(極論)を具備した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、茂みに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、あるいは、王たちに、あるいは、王の大臣たちに、依拠した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、これらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、わたしを守るために義(利益)あることを話すであろう』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、それらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、彼を守るために義(利益)あることを話します。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、力ある者に依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、財物を施捨する者(贈賄者)として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、この利得によって懐柔するのだ』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、その利得によって懐柔します。このように、まさに、悪しき比丘は、財物を施捨する者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、独り歩む者(一匹狼)として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、まさしく、独りある者としてあり、諸々の最辺境の地方において居住を営みます。彼は、そこにおいて、家々に近づいて行きながら、利得を得ます。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、独り歩む者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これら五つの法(性質)を具備した悪しき比丘は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 繊細なる沙門の経

 

104. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、沙門たちにおける繊細なる沙門として〔世に〕有ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの〔行乞の〕施食を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの臥坐具を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。(2)また、まさに、すなわち、梵行を共にする者たちと共に住むなら、彼らは、彼のために、まさしく、意に適う身体の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔身体の行為〕によって。まさしく、意に適う言葉の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔言葉の行為〕によって。まさしく、意に適う意の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔意の行為〕によって。まさしく、意に適うものとして、多くの提供物を提供します──少しのものを、意に適わないものとして。(3)また、まさに、すなわち、それらの感受されるべき〔苦痛〕として、あるいは、胆汁から等しく現起するもの、あるいは、痰から等しく現起するもの、あるいは、風から等しく現起するもの、あるいは、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合のもの、あるいは、季節の変化から生じるもの、あるいは、変事の襲来から生じるもの、あるいは、突然のもの、あるいは、行為の報い(業報)から生じるものがあるも、彼に、それら〔の感受されるべき苦痛〕は、まさしく、多くは生起しません。〔彼は〕病苦少なき者として〔世に〕有ります。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、沙門たちにおける繊細なる沙門として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、まさに、わたしは、まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの衣料を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの〔行乞の〕施食を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの臥坐具を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。まさしく、〔納受を〕乞われ、多くの病のための日用品たる薬の必需品を遍く受益します──少しのものを、乞われることなく。また、まさに、すなわち、比丘たちと共に住むなら、彼らは、わたしのために、まさしく、意に適う身体の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔身体の行為〕によって。まさしく、意に適う言葉の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔言葉の行為〕によって。まさしく、意に適う意の行為によって、多くのことを実行します──少しのことを、意に適わない〔意の行為〕によって。まさしく、意に適うものとして、多くの提供物を提供します──少しのものを、意に適わないものとして。また、まさに、すなわち、それらの感受されるべき〔苦痛〕として、あるいは、胆汁から等しく現起するもの、あるいは、痰から等しく現起するもの、あるいは、風から等しく現起するもの、あるいは、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合のもの、あるいは、季節の変化から生じるもの、あるいは、変事の襲来から生じるもの、あるいは、突然のもの、あるいは、行為の報いから生じるものがあるも、わたしに、それら〔の感受されるべき苦痛〕は、まさしく、多くは生起しません。わたしは、病苦少なき者として〔世に〕有ります。卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、まさに、すなわち、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くなら、比丘たちよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、『沙門たちにおける繊細なる沙門である』と、正しく説きつつ説くべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 平穏の住の経

 

105. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの平穏の住です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕()ある身体の行為が現起されたものとして有ります。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が……略……慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの平穏の住があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. アーナンダの経

 

106. 或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むのでしょうか」と。「アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有ります──卓越の戒について他者を挑発する者ではなく。アーナンダよ、このことからもまた、まさに、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むでしょう」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、比丘が、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むであろう、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「アーナンダよ、存在します。アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有ります──卓越の戒について他者を挑発する者ではなく。そして、自己について点検する者として〔世に〕有ります──他者について点検する者ではなく。アーナンダよ、このことからもまた、まさに、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むでしょう」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、比丘が、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むであろう、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「アーナンダよ、存在します。アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有ります──卓越の戒について他者を挑発する者ではなく。そして、自己について点検する者として〔世に〕有ります──他者について点検する者ではなく。そして、〔他者に〕覚知されない者として〔世に〕有り、かつまた、その覚知されないことによって思い悩みません。アーナンダよ、このことからもまた、まさに、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むでしょう」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、比丘が、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むであろう、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「アーナンダよ、存在します。アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有ります──卓越の戒について他者を挑発する者ではなく。そして、自己について点検する者として〔世に〕有ります──他者について点検する者ではなく。そして、〔他者に〕覚知されない者として〔世に〕有り、かつまた、その覚知されないことによって思い悩みません。そして、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。アーナンダよ、このことからもまた、まさに、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むでしょう」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、比丘が、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むであろう、他の教相もまた存在するのでしょうか」と。「アーナンダよ、存在します。アーナンダよ、すなわち、まさに、比丘が、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有ります──卓越の戒について他者を挑発する者ではなく。そして、自己について点検する者として〔世に〕有ります──他者について点検する者ではなく。そして、〔他者に〕覚知されない者として〔世に〕有り、かつまた、その覚知されないことによって思い悩みません。そして、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。アーナンダよ、このことからもまた、まさに、比丘は、僧団のなかに住みながら、平穏のうちに〔世に〕住むでしょう。

 

 アーナンダよ、そして、『この平穏の住より、他の平穏の住で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 戒の経

 

107. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒を成就した者として〔世に〕有り、禅定を成就した者として〔世に〕有り、智慧を成就した者として〔世に〕有り、解脱を成就した者として〔世に〕有り、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔もはや〕学ぶことなきものの経

 

108. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 四方の者の経

 

109. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、四方の者(どこにいても悩み苦しまない者・阿羅漢のこと)と成ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、四方の者と成ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 林地の経

 

110. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 平穏の住の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐れおののき、疑いある者、盗賊、繊細、第五のものとして、平穏、アーナンダ、戒、そして、〔もはや〕学ぶことなきもの、四方の者があり、さらに、林地とともに、〔章となる〕」と。

 

(12)2. アンダカヴィンダの章

 

1. 家に親近ある者の経

 

111. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、家に親近ある比丘(行乞のために家を訪問する比丘)は、家々において、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、親愛と信頼なき者として、かつまた、権利なく処理する者として、かつまた、〔その家から〕捨て放たれた者に近しく慣れ親しむ者として、かつまた、耳元で呟く者として、かつまた、乞い過ぎる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した、家に親近ある比丘は、家々において、かつまた、愛しくない者と成り、かつまた、意に適わない者と〔成り〕、かつまた、重くない者と〔成り〕、かつまた、尊ばれない者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、家に親近ある比丘は、家々において、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、親愛と信頼なき者ではなく、かつまた、権利なく処理する者ではなく、かつまた、〔その家から〕捨て放たれた者に近しく慣れ親しむ者ではなく、かつまた、耳元で呟く者ではなく、かつまた、乞い過ぎる者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した、家に親近ある比丘は、家々において、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 随伴の沙門の経

 

112. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した随伴の沙門は、携行するべきではありません。どのようなものが、五つのものなのですか。あるいは、遠過ぎるところを赴き、あるいは、近過ぎるところを〔赴きます〕。満ちた〔師の〕鉢を収め取りません。〔不注意に〕話している〔師〕を、罪の近隣にある〔状態〕から防護しません。〔師が〕話しているなら、中途中途で議論に割り込みます。智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した随伴の沙門は、携行するべきではありません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した随伴の沙門は、携行するべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。あるいは、遠過ぎるところを赴かず、あるいは、近過ぎるところを〔赴き〕ません。満ちた〔師の〕鉢を収め取ります。〔不注意に〕話している〔師〕を、罪の近隣にある〔状態〕から防護します。〔師が〕話しているなら、中途中途で議論に割り込みません。智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した随伴の沙門は、携行するべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 正しい禅定の経

 

113. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、正しい禅定を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、正しい禅定を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、正しい禅定を成就して〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐ある者と成り、諸々の音声に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐ある者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、正しい禅定を成就して〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. アンダカヴィンダの経

 

114. 或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。アンダカヴィンダ〔村〕において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、すなわち、それらの比丘たちが、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちであるなら、アーナンダよ、まさに、それらの比丘たちは、五つの法(性質)において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。『友よ、さあ、あなたたちは、戒ある者たちとして〔世に〕有りなさい。戒条による統御によって統御された者たちとして〔世に〕住みなさい。〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者たちとして、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者たちとして、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びなさい』と、かくのごとく、戒条による統御において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 『友よ、さあ、あなたたちは、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、〔感官の〕守護たる気づきある者たちとして、賢明なる気づきある者たちとして、〔世に〕住みなさい──守護された意を、気づきの守護ある心を、具備した者たちとなり』と、かくのごとく、〔感官の〕機能における統御において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 『友よ、さあ、あなたたちは、談義少なき者たちと成りなさい──談義において制限を為す者たちとなり』と、かくのごとく、談義の制限において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 『友よ、さあ、あなたたちは、林にある者たちと成りなさい。諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用しなさい』と、かくのごとく、身体の隠棲において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。

 

 『友よ、さあ、あなたたちは、正しい見解ある者たちと成りなさい──正しい見を具備した者たちとなり』と、かくのごとく、正しい見において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。アーナンダよ、すなわち、それらの比丘たちが、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちであるなら、アーナンダよ、まさに、それらの比丘たちは、これらの五つの法(性質)において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 物惜〔の思い〕ある者の経

 

115. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 栄誉の経

 

116. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。随知せずして、深解せずして、浄信するべきではない状況において浄信を示します。随知せずして、深解せずして、浄信するべき状況において浄信なきことを示します。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。随知して、深解して、浄信するべきではない状況において浄信なきことを示します。随知して、深解して、浄信するべき状況において浄信を示します。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 嫉妬〔の思い〕ある者の経

 

117. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。そして、嫉妬〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。さらに、物惜〔の思い〕ある者として〔世に有ります〕。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。そして、嫉妬〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。さらに、物惜〔の思い〕なき者として〔世に有ります〕。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 誤った見解ある者の経

 

118. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。そして、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。さらに、誤った思惟ある者として〔世に有ります〕。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。そして、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。さらに、正しい思惟ある者として〔世に有ります〕。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 誤った言葉ある者の経

 

119. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。そして、誤った言葉ある者として〔世に〕有ります。さらに、誤った行業ある者として〔世に有ります〕。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。そして、正しい言葉ある者として〔世に〕有ります。さらに、正しい行業ある者として〔世に有ります〕。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 誤った努力ある者の経

 

120. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。そして、誤った努力ある者として〔世に〕有ります。さらに、誤った気づきある者として〔世に有ります〕。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。そして、正しい努力ある者として〔世に〕有ります。さらに、正しい気づきある者として〔世に有ります〕。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘尼は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 アンダカヴィンダの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「家に親近ある者、随伴の沙門、禅定、アンダカヴィンダ、物惜〔の思い〕ある者、栄誉、嫉妬〔の思い〕ある者、見解があり、言葉とともに、努力があり、〔章となる〕」と。

 

(13)3. 病の章

 

1. 病の経

 

121. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、静坐から出起し、病舎のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、力弱き病者としてある、或るひとりの比丘を見ました。見て、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、彼が誰であれ、力弱き病者としてある比丘を、五つの法(性質)が捨棄しないなら、彼には、このことが期待できます。『まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。また、まさに、彼の、死の表象は、内に善く現起されたものとして有ります。比丘たちよ、彼が誰であれ、力弱き病者としてある比丘を、これらの五つの法(性質)が捨棄しないなら、彼には、このことが期待できます。『まさしく、長からずして、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 善く現起された気づきの経

 

122. 「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、五つの法(性質)を修め、五つの法(性質)を多く為すなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、気づきが、まさしく、内に、善く現起されたものとして有ります──諸々の法(事象)の生成と滅至の智慧のために。身体についての不浄の随観ある者として、食についての嫌悪の表象ある者として、一切の世についての歓楽なき表象ある者として、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、これらの五つの法(性質)を修め、これらの五つの法(性質)を多く為すなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の奉仕者の経

 

123. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した病者は、奉仕し難き者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。〔治癒に〕正当ならざることを為す者として〔世に〕有ります。〔治癒に〕正当なることについて量を知りません。薬を受用する者として〔世に〕有りません。義(利益)を欲する者である病の奉仕者に、事実のとおりに病苦を打ち明ける者として〔世に〕有りません──あるいは、〔病が〕進行しているなら、『進行している』と、あるいは、〔病が〕回復しているなら、『回復している』と、あるいは、〔病が〕止住しているなら、『止住している』と。諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ばない類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した病者は、奉仕し難き者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した病者は、奉仕し易き者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。〔治癒に〕正当なることを為す者として〔世に〕有ります。〔治癒に〕正当なることについて量を知ります。薬を受用する者として〔世に〕有ります。義(利益)を欲する者である病の奉仕者に、事実のとおりに病苦を打ち明ける者として〔世に〕有ります──あるいは、〔病が〕進行しているなら、『進行している』と、あるいは、〔病が〕回復しているなら、『回復している』と、あるいは、〔病が〕止住しているなら、『止住している』と。諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した病者は、奉仕し易き者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の奉仕者の経

 

124. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した病の奉仕者は、病者に奉仕するに十分ではありません。どのようなものが、五つのものなのですか。薬を差配する能力ある者として〔世に〕有りません。正当なるものと正当ならざるものを知らず、正当ならざるものを差し出し、正当なるものを取り去ります。財貨目当ての者として、病者に奉仕します──慈愛の心ある者として、ではなく。あるいは、大便を、あるいは、小便を、あるいは、吐瀉物を、あるいは、唾液を、運び出すことを忌避する者として〔世に〕有ります。病者に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、能力ある者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した病の奉仕者は、病者に奉仕するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した病の奉仕者は、病者に奉仕するに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。薬を差配する能力ある者として〔世に〕有ります。正当なるものと正当ならざるものを知り、正当ならざるものを取り去り、正当なるものを差し出します。慈愛の心ある者として、病者に奉仕します──財貨目当ての者として、ではなく。あるいは、大便を、あるいは、小便を、あるいは、吐瀉物を、あるいは、唾液を、運び出すことを忌避しない者として〔世に〕有ります。病者に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、能力ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した病の奉仕者は、病者に奉仕するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の長寿の経

 

125. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの長寿ならざる法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。正当ならざることを為す者として〔世に〕有ります。正当なることについて量を知りません。かつまた、消化なき食者として〔世に〕有ります。そして、〔正しい〕時ならずに〔行乞に〕歩む者として、さらに、梵行なき者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの長寿ならざる法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの長寿の法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。正当なることを為す者として〔世に〕有ります。正当なることについて量を知ります。かつまた、消化ある食者として〔世に〕有ります。そして、〔正しい〕時に〔行乞に〕歩む者として、さらに、梵行ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの長寿の法(性質)があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の長寿の経

 

126. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの長寿ならざる法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。正当ならざることを為す者として〔世に〕有ります。正当なることについて量を知りません。かつまた、消化なき食者として〔世に〕有ります。そして、劣戒の者として、さらに、悪しき朋友ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの長寿ならざる法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの長寿の法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。正当なることを為す者として〔世に〕有ります。正当なることについて量を知ります。かつまた、消化ある食者として〔世に〕有ります。そして、戒ある者として、さらに、善き朋友ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの長寿の法(性質)があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 離住の経

 

127. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、僧団から離住するに十分ではありません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる臥坐所によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。そして、欲望の思惟多き者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、僧団から離住するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、僧団から離住するに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、離欲の思惟多き者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、僧団から離住するに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 沙門の安楽の経

 

128. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの沙門の苦痛です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる臥坐所によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者として〔世に〕有ります。そして、喜び楽しまない者として梵行を歩みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの沙門の苦痛があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの沙門の安楽です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、喜び楽しむ者として梵行を歩みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの沙門の安楽があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 遍き動乱の経

 

129. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、悪所にある者となり、地獄にある者となる、遍き動乱であり、治癒なきものです。どのようなものが、五つのものなのですか。〔その者によって〕母が生命を奪われた者と成り、父が生命を奪われた者と成り、阿羅漢が生命を奪われた者と成り、〔その者の〕汚れた心によって如来が出血することと成り、〔その者によって〕僧団が分裂することと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、悪所にある者となり、地獄にある者となる、遍き動乱があり、治癒なきものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 災厄の経

 

130. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの災厄です。どのようなものが、五つのものなのですか。親族の災厄であり、財物の災厄であり、病の災厄であり、戒の災厄であり、見解の災厄です。比丘たちよ、あるいは、親族の災厄を因として、あるいは、財物の災厄を因として、あるいは、病の災厄を因として、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。比丘たちよ、あるいは、戒の災厄を因として、あるいは、見解の災厄を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの災厄があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、五つのものなのですか。親族の成就であり、財物の成就であり、無病の成就であり、戒の成就であり、見解の成就です。比丘たちよ、あるいは、親族の成就を因として、あるいは、財物の成就を因として、あるいは、無病の成就を因として、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することはありません。比丘たちよ、あるいは、戒の成就を因として、あるいは、見解の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの成就があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 病の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「病、善く現起された気づき、二つの奉仕者、二つの長寿、離住と沙門の安楽、遍き動乱があり、そして、災厄とともに、〔章となる〕」と。

 

(14)4. 王の章

 

1. 第一の輪の随転の経

 

131. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した転輪王は、まさしく、法(正義)によって、輪を転起させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、転輪王が、かつまた、義(利益)を知る者として、かつまた、法(正義)を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、時を知る者として、かつまた、衆を知る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した転輪王は、まさしく、法(正義)によって、輪を転起させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した阿羅漢にして正等覚者たる如来は、まさしく、法(真理)によって、無上なる法(真理)の輪を転起させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、義(意味)を知る者として、法(教え)を知る者として、量を知る者として、時を知る者として、衆を知る者として、〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した阿羅漢にして正等覚者たる如来は、まさしく、法(真理)によって、無上なる法(真理)の輪を転起させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の輪の随転の経

 

132. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した転輪王の長子は、父が転起させた輪を、まさしく、法(正義)によって随転させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、転輪王の長子が、かつまた、義(利益)を知る者として、かつまた、法(正義)を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、時を知る者として、かつまた、衆を知る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した転輪王の長子は、父が転起させた輪を、まさしく、法(正義)によって随転させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したサーリプッタは、如来が転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく、随転させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、サーリプッタが、義(意味)を知る者として、法(教え)を知る者として、量を知る者として、時を知る者として、衆を知る者として、〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備したサーリプッタは、如来が転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく、随転させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 法の王の経

 

133. 「比丘たちよ、すなわち、また、その者が、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王であるなら、彼もまた、王のものならざる輪を転起させることはありません」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、何が、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王にとって、王なのですか」と。「比丘よ、法(正義)です」と、世尊は言いました。

 

 「比丘よ、ここに、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟(のぼり)として、法(正義)を優位として、家人にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、随従する士族たちにたいし、軍隊の衆にたいし、婆羅門や家長たちにたいし、町や地方の者たちにたいし、沙門や婆羅門たちにたいし、獣や鳥たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。比丘よ、それで、まさに、その、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、家人にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、随従する士族たちにたいし、軍隊の衆にたいし、婆羅門や家長たちにたいし、町や地方の者たちにたいし、沙門や婆羅門たちにたいし、獣や鳥たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、まさしく、法(正義)によって、輪を転起させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 比丘よ、まさしく、このように、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、比丘たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。『(1)このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきではない。(2)このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきではない。(3)このような形態の意の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の意の行為は慣れ親しむべきではない。(4)このような形態の生き方は慣れ親しむべきであり、このような形態の生き方は慣れ親しむべきではない。(5)このような形態の村や町は慣れ親しむべきであり、このような形態の村や町は慣れ親しむべきではない』と。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、比丘尼たちにたいし……略……在俗信者たちにたいし……略……女性在俗信者たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。『(1)このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきではない。(2)このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきではない。(3)このような形態の意の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の意の行為は慣れ親しむべきではない。(4)このような形態の生き方は慣れ親しむべきであり、このような形態の生き方は慣れ親しむべきではない。(5)このような形態の村や町は慣れ親しむべきであり、このような形態の村や町は慣れ親しむべきではない』と。

 

 比丘よ、それで、まさに、その、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、比丘たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、比丘尼たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、在俗信者にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、女性在俗信者にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、まさしく、法(真理)によって、無上なる法(真理)の輪を転起させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「その方角において」の経

 

134. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した即位灌頂した王たる士族は、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、自らのものである、征圧した〔土地〕に住みます。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、即位灌頂した王たる士族が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。(2)富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、蔵と貯蔵庫が遍く満ちた者として、〔世に〕有ります。(3)また、まさに、力ある者として、従順で教諭に即応する四つの支分ある軍団を具備した者として、〔世に〕有ります。(4)また、まさに、彼の参謀は、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、過去と未来と現在の義(利益)について思弁する能力ある者として、〔世に〕有ります。(5)これらの四つの法(性質)が、彼の盛名を亢進させます。彼は、この盛名を第五とする法(性質)を具備した者として、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、自らのものである、征圧した〔土地〕に住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、このように、このことは有ります──〔土地の〕征圧者たちにとっては。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、解脱した心の者として、〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます──出生の成就者としてある、即位灌頂した王たる士族のように。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、蔵と貯蔵庫が遍く満ちた、即位灌頂した王たる士族のように。(3)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり──力の成就者としてある、即位灌頂した王たる士族のように。(4)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として──参謀の成就者としてある、即位灌頂した王たる士族のように。(5)これらの四つの法(性質)が、彼の解脱を亢進させます。彼は、この解脱を第五とする法(性質)を具備した者として、〔彼が〕住む、その〔方角〕その方角において、まさしく、解脱した心の者として、〔世に〕住みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──解脱した心の者たちにとっては」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の切望の経

 

135. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した即位灌頂した王たる士族の長子は、王権を切望します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、即位灌頂した王たる士族の長子が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。(2)形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります。(3)母と父にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。(4)町と地方の者にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。(5)すなわち、それらの、即位灌頂した王たる士族たちの技能の境位である、あるいは、象において、あるいは、馬において、あるいは、車において、あるいは、弓において、あるいは、剣において、そこにおいて、手練の者として、欠くことなく通じる者として、〔世に〕有ります。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、まさに、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として存し、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されない。何ゆえに、わたしが、王権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、王権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、母と父にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、王権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、町と地方の者にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、王権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、すなわち、それらの、即位灌頂した王たる士族たちの技能の境位である、あるいは、象において、あるいは、馬において、あるいは、車において、あるいは、弓において、あるいは、剣において、そこにおいて、手練の者として、欠くことなく通じる者として、〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、王権を切望せずにいられよう』と。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した即位灌頂した王たる士族の長子は、王権を切望します。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を切望します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、まさに、信ある者として〔世に〕存し、如来の覚りに信を置く。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」と。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕存している──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕存している──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、精進に励む者として〔世に〕住む──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、智慧ある者として〔世に〕存している──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう』と。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を切望します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の切望の経

 

136. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した即位灌頂した王たる士族の長子は、副王の権を切望します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、即位灌頂した王たる士族の長子が、(1)かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。(2)形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります。(3)母と父にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。(4)軍隊の衆にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。(5)賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、過去と未来と現在の義(利益)について思弁する能力ある者として、〔世に〕有ります。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、まさに、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として存し、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されない。何ゆえに、わたしが、副王の権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、副王の権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、母と父にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、副王の権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、軍隊の衆にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、副王の権を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、過去と未来と現在の義(利益)について思弁する能力ある者として、〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、副王の権を切望せずにいられよう』と。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した即位灌頂した王たる士族の長子は、副王の権を切望します。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を切望します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕有ります。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、まさに、戒ある者として〔世に〕存し、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶ。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕存している──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、わたしには、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、四つの気づきの確立において心が善く確立した者として〔世に〕存している。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、精進に励む者として〔世に〕住む──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう。わたしは、まさに、智慧ある者として〔世に〕存している──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。何ゆえに、わたしが、諸々の煩悩の滅尽を切望せずにいられよう』と。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を切望します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「少なく眠る」の経

 

137. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの者たちは、夜に、少なく眠り、多く起きています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、女は、男を志向し、夜に、少なく眠り、多く起きています。比丘たちよ、男は、女を志向し、夜に、少なく眠り、多く起きています。比丘たちよ、盗賊は、収奪を志向し、夜に、少なく眠り、多く起きています。比丘たちよ、王は、諸々の王の用事に専念し、夜に、少なく眠り、多く起きています。比丘たちよ、比丘は、束縛を離れることを志向し、夜に、少なく眠り、多く起きています。比丘たちよ、まさに、これらの五つの者たちは、夜に、少なく眠り、多く起きています」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔多くの〕食事を取る者の経

 

138. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の象は、かつまた、〔多くの〕食事を取る者と成り、かつまた、空間を充満する者と〔成り〕、かつまた、〔そこかしこに〕糞便を放つ者と〔成り〕、かつまた、くじを引く者と〔成り〕、まさしく、『王の象』という名称に至りますが、〔それだけのことです〕。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した王の象は、かつまた、〔多くの〕食事を取る者と成り(※)、かつまた、空間を充満する者と〔成り〕、かつまた、〔そこかしこに〕糞便を放つ者と〔成り〕、かつまた、くじを引く者と〔成り〕、まさしく、『王の象』という名称に至りますが、〔それだけのことです〕。

 

※ PTS版により hoti を補う。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、かつまた、〔多くの〕食事を取る者と成り、かつまた、空間を充満する者と〔成り〕、かつまた、臥床や椅子を踏みにじる者と〔成り〕、かつまた、くじを引く者と〔成り〕、まさしく、『比丘』という名称に至りますが、〔それだけのことです〕。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、かつまた、〔多くの〕食事を取る者と成り、かつまた、空間を充満する者と〔成り〕、かつまた、臥床や椅子を踏みにじる者と〔成り〕、かつまた、くじを引く者と〔成り〕、まさしく、『比丘』という名称に至りますが、〔それだけのことです〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 忍耐なき者の経

 

139. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の象は、王に値するものと成らず、王の財物たるものと〔成ら〕ず、まさしく、『王の支分』という名称に至りません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の形態に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、象の兵団を見て、あるいは、馬の兵団を見て、あるいは、車の兵団を見て、あるいは、歩兵の兵団を見て、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の形態に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の音声に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、象の音声を聞いて、あるいは、馬の音声を聞いて、あるいは、車の音声を聞いて、あるいは、歩兵の音声を聞いて、あるいは、諸々の太鼓や小鼓や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声を聞いて、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の音声に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の臭気に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、すなわち、それらの、戦場を行境とする、善き生まれの王の象たちがいるなら、彼らの糞尿の臭気を嗅いで、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の臭気に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の味感に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、一つの、草と水の供給がないがしろにされたなら、あるいは、二つの、あるいは、三つの、あるいは、四つの、あるいは、五つの、草と水の供給がないがしろにされたなら、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の味感に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の感触に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、一つの、勢いある矢に貫かれたなら、あるいは、二つの、あるいは、三つの、あるいは、四つの、あるいは、五つの、勢いある矢に貫かれたなら、沈み込み、落ち込み、〔自己を〕固く保てず、戦場に入ることができません。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の感触に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した王の象は、王に値するものと成らず、王の財物たるものと〔成ら〕ず、まさしく、『王の支分』という名称に至りません。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成らず、〔供物を〕贈られるべき者と〔成ら〕ず、〔供物を〕施与されるべき者と〔成ら〕ず、合掌を為されるべき者と〔成ら〕ず、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成り〕ません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐なき者と成り、諸々の音声に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐なき者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐なき者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の形態に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、貪るべき形態にたいし貪染し、心を定めることができません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の形態に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の音声に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、耳によって、音声を聞いて、貪るべき音声にたいし貪染し、心を定めることができません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の音声に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の臭気に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、鼻によって、臭気を嗅いで、貪るべき臭気にたいし貪染し、心を定めることができません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の臭気に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の味感に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、舌によって、味感を味わって、貪るべき味感にたいし貪染し、心を定めることができません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の味感に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の感触に忍耐なき者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身によって、感触と接触して、貪るべき感触にたいし貪染し、心を定めることができません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の感触に忍耐なき者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成らず、〔供物を〕贈られるべき者と〔成ら〕ず、〔供物を〕施与されるべき者と〔成ら〕ず、合掌を為されるべき者と〔成ら〕ず、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成り〕ません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、諸々の形態に忍耐ある者と成り、諸々の音声に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐ある者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の形態に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、象の兵団を見て、あるいは、馬の兵団を見て、あるいは、車の兵団を見て、あるいは、歩兵の兵団を見て、沈み込まず、落ち込まず、〔自己を〕固く保ち、戦場に入ることができます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の形態に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の音声に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、象の音声を聞いて、あるいは、馬の音声を聞いて、あるいは、車の音声を聞いて、あるいは、歩兵の音声を聞いて、あるいは、諸々の太鼓や小鼓や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声を聞いて、沈み込まず、落ち込まず、〔自己を〕固く保ち、戦場に入ることができます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の音声に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の臭気に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、すなわち、それらの、戦場を行境とする、善き生まれの王の象たちがいるなら、彼らの糞尿の臭気を嗅いで、沈み込まず、落ち込まず、〔自己を〕固く保ち、戦場に入ることができます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の臭気に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の味感に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、一つの、草と水の供給がないがしろにされたとして、あるいは、二つの、あるいは、三つの、あるいは、四つの、あるいは、五つの、草と水の供給がないがしろにされたとして、沈み込まず、落ち込まず、〔自己を〕固く保ち、戦場に入ることができます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の味感に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、諸々の感触に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、あるいは、一つの、勢いある矢に貫かれたとして、あるいは、二つの、あるいは、三つの、あるいは、四つの、あるいは、五つの、勢いある矢に貫かれたとして、沈み込まず、落ち込まず、〔自己を〕固く保ち、戦場に入ることができます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、諸々の感触に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した王の象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の諸々の形態に忍耐ある者と成り、諸々の音声に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の臭気に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の味感に忍耐ある者と〔成り〕、諸々の感触に忍耐ある者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の形態に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、貪るべき形態にたいし貪染せず、心を定めることができます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の形態に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の音声に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、耳によって、音声を聞いて、貪るべき音声にたいし貪染せず、心を定めることができます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の音声に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の臭気に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、鼻によって、臭気を嗅いで、貪るべき臭気にたいし貪染せず、心を定めることができます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の臭気に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の味感に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、舌によって、味感を味わって、貪るべき味感にたいし貪染せず、心を定めることができます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の味感に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の感触に忍耐ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身によって、感触と接触して、貪るべき感触にたいし貪染せず、心を定めることができます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の感触に忍耐ある者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 聞く者の経

 

140. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、かつまた、聞く者と成り、かつまた、殺す者と〔成り〕、かつまた、守護する者と〔成り〕、かつまた、忍耐する者と〔成り〕、かつまた、赴く者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、聞く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、すなわち、この、調御されるべき象の馭者が課す任務であるなら──もしくは、過去に為したことのある〔任務〕であろうが、もしくは、過去に為したことのない〔任務〕であろうが──それを、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、〔その言葉を〕聞きます。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、聞く者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、殺す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、象をもまた殺し、象に乗る者をもまた殺し、馬をもまた殺し、馬に乗る者をもまた殺し、車をもまた殺し(破壊し)、車兵をもまた殺し、歩兵をもまた殺します。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、殺す者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、守護する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、前の身体を守護し、後の身体を守護し、前の〔両の〕足を守護し、後の〔両の〕足を守護し、頭を守護し、〔両の〕耳を守護し、〔両の〕牙を守護し、鼻を守護し、尾を守護し、象に乗る者を守護します。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、守護する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、忍耐する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、戦場に赴き、諸々の槍の打撃に、諸々の剣の打撃に、諸々の矢の打撃に、諸々の斧の打撃に、諸々の太鼓や小鼓や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声に、忍耐ある者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、忍耐する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、王の象は、赴く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、王の象が、すなわち、この、調御されるべき象の馭者が命じる方角であるなら──もしくは、過去に赴いたことのある〔方角〕あろうが、もしくは、過去に赴いたことのない〔方角〕であろうが──その〔方角〕に、まさしく、すみやかに、赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、王の象は、赴く者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した象は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、聞く者と成り、かつまた、殺す者と〔成り〕、かつまた、守護する者と〔成り〕、かつまた、忍耐する者と〔成り〕、かつまた、赴く者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聞く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているときは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聞く者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、殺す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、殺し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、殺す者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、守護する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、守護する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、忍耐する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者と成り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、忍耐する者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、赴く者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、この、この長時にわたり、過去に赴いたことのない方角──すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である、その〔方角〕に、まさしく、すみやかに、赴く者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、赴く者と成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十となる。

 

 王の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔二つの〕輪の随転、王、『その方角において』があり、まさしく、そして、二つの切望、『少なく眠る』があり、〔多くの〕食事を取る者、そして、忍耐なき者があり、さらに、聞く者とともに、〔章となる〕」と。

 

(15)5. ティカンダキーの章

 

1. 「見下します」の経

 

141. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。施して〔そののち〕見下します。共住によって見下します。口に乗せられやすい者として〔世に〕有ります。〔欲の〕妄動ある者として〔世に〕有ります。愚鈍で迷愚の者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、施して〔そののち〕見下すのですか。比丘たちよ、ここに、人が、人に、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を施します。彼に、このような〔思いが〕有ります。『わたしは施す。この者は納受する』と。〔まさに〕その、この者を、施して〔そののち〕見下します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、施して〔そののち〕見下します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、共住によって見下すのですか。比丘たちよ、ここに、人が、人と共に、あるいは、二〔年〕のあいだ、あるいは、三年のあいだ、共住します。〔まさに〕その、この者を、共住によって見下します。比丘たちよ、このように、まさに、人は、共住によって見下します。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、口に乗せられやすい者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、他者の、あるいは、栄誉が、あるいは、栄誉ならざることが、語られているとき、まさしく、すみやかに、それを信じる者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、口に乗せられやすい者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、〔欲の〕妄動ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、移り行く信仰ある者として、移り行く信愛ある者として、移り行く愛情ある者として、移り行く浄信ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、人は、〔欲の〕妄動ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、人は、愚鈍で迷愚の者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)を知らず、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)を知らず、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)を知らず、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)を知りません。比丘たちよ、このように、まさに、人は、愚鈍で迷愚の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 「〔作為の心で〕勉励し」の経

 

142. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、そして、〔作為の心で〕勉励し、さらに、後悔ある者と成ります。そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、そして、〔作為の心で〕勉励し、さらに、後悔ある者と成りません。そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、そして、〔作為の心で〕勉励せず、さらに、後悔ある者と成ります。そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、そして、〔作為の心で〕勉励せず、さらに、後悔ある者と成りません。そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、そして、〔作為の心で〕勉励せず、さらに、後悔ある者と成りません。そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、〔作為の心で〕勉励し、さらに、後悔ある者と成り、そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、まさに、勉励から生じる諸々の煩悩が等しく見出され、後悔から生じる諸々の煩悩が増え行きます。どうか、まさに、尊者は、勉励から生じる諸々の煩悩を捨棄して、後悔から生じる諸々の煩悩を除去して、〔止寂の〕心を、さらに、〔観察の〕智慧を、修めたまえ。このように〔為すなら〕、尊者は、〔まさに〕この、第五の人に、等しく同等の者と成るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、〔作為の心で〕勉励し、さらに、後悔ある者と成らず、そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、まさに、勉励から生じる諸々の煩悩が等しく見出され、後悔から生じる諸々の煩悩は増え行きません。どうか、まさに、尊者は、勉励から生じる諸々の煩悩を捨棄して、〔止寂の〕心を、さらに、〔観察の〕智慧を、修めたまえ。このように〔為すなら〕、尊者は、〔まさに〕この、第五の人に、等しく同等の者と成るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、〔作為の心で〕勉励せず、さらに、後悔ある者と成り、そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、まさに、勉励から生じる諸々の煩悩は等しく見出されず、後悔から生じる諸々の煩悩が増え行きます。どうか、まさに、尊者は、後悔から生じる諸々の煩悩を捨棄して、〔止寂の〕心を、さらに、〔観察の〕智慧を、修めたまえ。このように〔為すなら〕、尊者は、〔まさに〕この、第五の人に、等しく同等の者と成るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、〔作為の心で〕勉励せず、さらに、後悔ある者と成らず、そして、そこにおいて、彼に生起した、それらの悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく死滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊者には、まさに、勉励から生じる諸々の煩悩は等しく見出されず、後悔から生じる諸々の煩悩は増え行きません。どうか、まさに、尊者は、〔止寂の〕心を、さらに、〔観察の〕智慧を、修めたまえ。このように〔為すなら〕、尊者は、〔まさに〕この、第五の人に、等しく同等の者と成るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、これらの四つの人たちは、〔まさに〕この、第五の人〔の観点〕によって、このように教諭され、このように教示されつつ、順次に、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. サーランダダの経

 

143. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、サーランダダ塔廟において着坐し参集している五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、この合間の議論が起こりました。「五つのものがあります。〔これらの〕宝の出現は、世において得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。象の宝の出現は、世において得難くあります。馬の宝の出現は、世において得難くあります。宝珠の宝の出現は、世において得難くあります。婦女の宝の出現は、世において得難くあります。家長の宝の出現は、世において得難くあります。これらの五つの宝の出現は、世において得難くあります」と。

 

 そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、道に下僕を立たせました。「さて、下僕よ、すなわち、おまえが、世尊を見るとき、そこで、わたしたちに告げるのだ」と。まさに、その下僕は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方が、やってきます(※)。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

※ テキストには gacchati とあるが、PTS版により āgacchati と読む。

 

 そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、どうか、サーランダダ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、世尊は、サーランダダ塔廟のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちが着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『五つのものがあります。〔これらの〕宝の出現は、世において得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。象の宝の出現は、世において得難くあります。馬の宝の出現は、世において得難くあります。宝珠の宝の出現は、世において得難くあります。婦女の宝の出現は、世において得難くあります。家長の宝の出現は、世において得難くあります。これらの五つの宝の出現は、世において得難くあります』」と。

 

 「ああ、まさに、欲望〔の対象〕を信念したリッチャヴィ〔族〕の者たちに、まさしく、欲望〔の対象〕を対象として、合間の議論が起こりました。リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕宝の出現は、世において得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律を説示する人は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律が説示されたとして〔それを〕識知する人は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律が説示され〔それを〕識知するとして法(教え)を法(教え)のままに実践する人は、世において得難くあります。恩を知り恩を感じる人は、世において得難くあります。リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、これらの五つの宝の出現は、世において得難くあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ティカンダキーの経

 

144. 或る時のことです。世尊は、サーケータに住んでおられます。ティカンダキーの林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むなら。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むなら。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むなら。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むなら。比丘たちよ、善きかな、比丘が、〔その〕時〔その〕時に、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むなら、気づきと正知の者として〔世に住むなら〕。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むべきですか。『諸々の貪るべき法(事象)において、わたしに、貪欲〔の思い〕が生起してはならない』と、比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むべきですか。『諸々の怒るべき法(事象)において、わたしに、憤怒〔の思い〕が生起してはならない』と、比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むべきですか。『諸々の貪るべき法(事象)において、わたしに、貪欲〔の思い〕が生起してはならず、諸々の怒るべき法(事象)において、わたしに、憤怒〔の思い〕が生起してはならない』と、比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むべきですか。『諸々の怒るべき法(事象)において、わたしに、憤怒〔の思い〕が生起してはならず、諸々の貪るべき法(事象)において、わたしに、貪欲〔の思い〕が生起してはならない』と、比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのような義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むべきであり、気づきと正知の者として〔世に住むべきですか〕。『どこにあっても、どこにおいても、何ひとつも、諸々の貪るべき法(事象)において、わたしに、貪欲〔の思い〕が生起してはならず、どこにあっても、どこにおいても、何ひとつも、諸々の怒るべき法(事象)において、わたしに、憤怒〔の思い〕が生起してはならず、どこにあっても、どこにおいても、何ひとつも、諸々の迷うべき法(事象)において、わたしに、迷妄〔の思い〕が生起してはならない』と、比丘たちよ、まさに、この義(利益)たる所以を縁として、比丘は、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むべきであり、気づきと正知の者として〔世に住むべきです〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 地獄の経

 

145. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 朋友の経

 

146. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、五つのものなのですか。仕事を課します。問題を取り上げます。筆頭の比丘たちにたいし反感ある者として〔世に〕有ります。長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住みます。〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、能力ある者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきではありません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。仕事を課しません。問題を取り上げません。筆頭の比丘たちにたいし反感ある者として〔世に〕有りません。長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住みません。〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、能力ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、朋友として慣れ親しむべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 正ならざる人士の布施の経

 

147. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正ならざる人士の布施です。どのようなものが、五つのものなのですか。恭しくなく施します。心作せずして施します。自らの手でなく施します。捨てられたものを施します。〔布施の果の〕不還を見解とする者として施します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正ならざる人士の布施があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正なる人士の布施です。どのようなものが、五つのものなのですか。恭しく施します。心作して施します。自らの手で施します。捨てられていないものを施します。〔布施の果の〕帰還を見解とする者として施します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正なる人士の布施があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 正なる人士の布施の経

 

148. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正なる人士の布施です。どのようなものが、五つのものなのですか。信によって、布施を施します。恭しく、布施を施します。〔正しい〕時に、布施を施します。こだわりなき心の者として、布施を施します。そして、自己を、さらに、他者を、損壊せずして、布施を施します。

 

 比丘たちよ、また、まさに、信によって、布施を施して、その布施の報いが発現する、その場その場において、そして、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有り、さらに、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、また、まさに、恭しく、布施を施して、その布施の報いが発現する、その場その場において、そして、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有り、すなわち、また、彼にとって、あるいは、『子たち』ということで、あるいは、『妻たち』ということで、あるいは、『奴隷たち』ということで、あるいは、『労夫たち』ということで、あるいは、『召使たち』ということで、〔世に〕有る、それらの者たちも、彼らもまた、従順になり、耳を傾け、了知の心を現起させます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、〔正しい〕時に、布施を施して、その布施の報いが発現する、その場その場において、そして、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有り、さらに、時が至り来たなら、彼の諸々の義(利益)は、多岐にわたるものと成ります。

 

 比丘たちよ、また、まさに、こだわりなき心の者として、布施を施して、その布施の報いが発現する、その場その場において、そして、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有り、さらに、秀逸なる五つの欲望の属性(五妙欲)における受益に、心は傾きます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、そして、自己を、さらに、他者を、損壊せずして、布施を施して、その布施の報いが発現する、その場その場において、そして、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有り、さらに、どこからであれ、彼の諸々の財物に、害障が至り来ることはありません──あるいは、火からも、あるいは、水からも、あるいは、王からも、あるいは、盗賊からも、あるいは、愛しくない者からも、あるいは、相続者からも。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正なる人士の布施があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の一時的に解脱した者の経

 

149. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、解脱したとおりに心を綿密に注視しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、解脱したとおりに心を綿密に注視します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の一時的に解脱した者の経

 

150. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、食において量を知ることです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、一時的に解脱した比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 ティカンダキーの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『施して〔そののち〕見下します』があり、そして、『〔作為の心で〕勉励し』があり、サーランダダとティカンダがあり、さらに、地獄とともに、朋友があり、正ならざる人士と正なる人士とともに、他に、二つの一時的に解脱した者があり、〔章となる〕」と。

 

 第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

4. 第四の五十なるもの

 

(16)1. 正なる法の章

 

1. 第一の正しい〔道〕たることの決定の経

 

151. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。講話を貶めます。講話者を貶めます。自己を貶めます。散乱した心の者として、法(教え)を聞きます。一境ならざる心の者として、そして、根源のままならずに意を為します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。講話を貶めません。講話者を貶めません。自己を貶めません。散乱していない心の者として、法(教え)を聞きます。一境の心の者として、そして、根源のままに意を為します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の正しい〔道〕たることの決定の経

 

152. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。講話を貶めます。講話者を貶めます。自己を貶めます。智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。了知していないものについて了知していると思量する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。講話を貶めません。講話者を貶めません。自己を貶めません。智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。了知していないものについて了知していると思量する者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第三の正しい〔道〕たることの決定の経

 

153. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。偽装ある者として、偽装に遍く取り囲まれた者として、法(教え)を聞きます。咎め立ての心ある者として、欠点を探し求める者として、法(教え)を聞きます。法(教え)の説示者にたいし、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。了知していないものについて了知していると思量する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながらもまた、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。偽装なき者として、偽装に遍く取り囲まれた者ではなく、法(教え)を聞きます。咎め立ての心なき者として、欠点を探し求める者ではなく、法(教え)を聞きます。法(教え)の説示者にたいし、害心なき者として、鬱積が生じない者として、〔世に〕有ります。智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。了知していないものについて了知していると思量する者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の正なる法の忘却の経

 

154. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、真剣に、法(教え)を聞きません。真剣に、法(教え)を遍く学得しません。真剣に、法(教え)を保持しません。真剣に、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しません。真剣に、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践することがありません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、真剣に、法(教え)を聞きます。真剣に、法(教え)を遍く学得します。真剣に、法(教え)を保持します。真剣に、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。真剣に、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の正なる法の忘却の経

 

155. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘たちが、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得しません。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示しません。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者に教授しません。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為しません。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検することがありません。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者に教授します。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第三の正なる法の忘却の経

 

156. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘たちが、悪しく把握された経典を、諸々の悪しく配置された句と文によって遍く学得します。比丘たちよ、悪しく配置された句と文の義(意味)もまた、悪しき教導あるものと成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、頑固で、諸々の〔人を〕頑固に作り為す法(性質)を具備し、忍耐がなく、〔他者の〕教示を上手に把握できない者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるとして、彼らは、経典を、他者に真剣に教授しません。彼らの死後、経典は、根が断ち切られ、帰依なきものと成ります。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、長老の比丘たちが、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちとして、緩慢なる者たちとして、堕落させるものにおける先行者たちとして、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、僧団が分裂することと成ります。比丘たちよ、また、まさに、僧団が分裂したとき、そして、互いに他と諸々の罵倒が有り、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有り、さらに、互いに他と諸々の分離が有り、かつまた、互いに他と諸々の離別が有り、そこにおいて、まさしく、そして、浄信していない者たちは浄信せず、さらに、一部の浄信している者たちに、〔心の〕他化が有ります。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却のために、消没のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)が、正なる法(教え)の、止住のために、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘たちが、善く把握された経典を、諸々の善く配置された句と文によって遍く学得します。比丘たちよ、善く配置された句と文の義(意味)もまた、善き教導あるものと成ります。比丘たちよ、この第一の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘たちが、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、この第二の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるとして、彼らは、経典を、他者に真剣に教授します。彼らの死後、経典は、根が断ち切られず、帰依を有するものと成ります。比丘たちよ、この第三の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、長老の比丘たちが、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その〔人々〕もまた、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、この第四の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、僧団が和合し、共に歓喜しながら、論争せず、誦説を一にし、平穏のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、まさに、僧団の和合あるとき、まさしく、そして、互いに他と諸々の罵倒が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の口撃が有ることもなく、さらに、互いに他と諸々の分離が有ることもなく、かつまた、互いに他と諸々の離別が有ることもなく、そこにおいて、まさしく、そして、浄信していない者たちは浄信し、さらに、浄信している者たちに、より一層の状態が有ります。比丘たちよ、この第五の法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)が、正なる法(教え)の、忘却なきために、消没なきために、等しく転起します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 悪しき講話の経

 

157. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕人たちにとって、〔法の〕講話は、人において、人と比較して、悪しき講話となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信なき者にとって、信についての講話は、悪しき講話となります。劣戒の者にとって、戒についての講話は、悪しき講話となります。少聞の者にとって、多聞についての講話は、悪しき講話となります。物惜の者にとって、施捨についての講話は、悪しき講話となります。智慧浅き者にとって、智慧についての講話は、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、信なき者にとって、信についての講話は、悪しき講話となるのですか。比丘たちよ、信なき者は、信についての講話が話されているとき、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その信の成就を、自己のうちに等しく随観せず、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得ないからです。それゆえに、信なき者にとって、信についての講話は、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、劣戒の者にとって、戒についての講話は、悪しき講話となるのですか。比丘たちよ、劣戒の者は、戒についての講話が話されているとき、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その戒の成就を、自己のうちに等しく随観せず、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得ないからです。それゆえに、劣戒の者にとって、戒についての講話は、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、少聞の者にとって、多聞についての講話は、悪しき講話となるのですか。比丘たちよ、少聞の者は、多聞についての講話が話されているとき、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その多聞の成就を、自己のうちに等しく随観せず、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得ないからです。それゆえに、少聞の者にとって、多聞についての講話は、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、物惜の者にとって、施捨についての講話は、悪しき講話となるのですか。比丘たちよ、物惜の者は、施捨についての講話が話されているとき、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その施捨の成就を、自己のうちに等しく随観せず、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得ないからです。それゆえに、物惜の者にとって、施捨についての講話は、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、智慧浅き者にとって、智慧についての講話は、悪しき講話となるのですか。比丘たちよ、智慧浅き者は、智慧についての講話が話されているとき、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その智慧の成就を、自己のうちに等しく随観せず、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得ないからです。それゆえに、智慧浅き者にとって、智慧は、悪しき講話となります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの人たちにとって、〔法の〕講話は、人において、人と比較して、悪しき講話となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕人たちにとって、〔法の〕講話は、人において、人と比較して、善き講話となります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、信ある者にとって、信についての講話は、善き講話となります。戒ある者にとって、戒についての講話は、善き講話となります。多聞の者にとって、多聞についての講話は、善き講話となります。施捨ある者にとって、施捨についての講話は、善き講話となります。智慧ある者にとって、智慧についての講話は、善き講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、信ある者にとって、信についての講話は、善き講話となるのですか。比丘たちよ、信ある者は、信についての講話が話されているとき、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その信の成就を、自己のうちに等しく随観し、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得るからです。それゆえに、信ある者にとって、信についての講話は、善き講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、戒ある者にとって、戒についての講話は、善き講話となるのですか。比丘たちよ、戒ある者は、戒についての講話が話されているとき、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その戒の成就を、自己のうちに等しく随観し、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得るからです。それゆえに、戒ある者にとって、戒についての講話は、善き講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、多聞の者にとって、多聞についての講話は、善き講話となるのですか。比丘たちよ、多聞の者は、多聞についての講話が話されているとき、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その多聞の成就を、自己のうちに等しく随観し、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得るからです。それゆえに、多聞の者にとって、多聞についての講話は、善き講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、施捨ある者にとって、施捨についての講話は、善き講話となるのですか。比丘たちよ、施捨ある者は、施捨についての講話が話されているとき、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その施捨の成就を、自己のうちに等しく随観し、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得るからです。それゆえに、施捨ある者にとって、施捨についての講話は、善き講話となります。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、智慧ある者にとって、智慧についての講話は、善き講話となるのですか。比丘たちよ、智慧ある者は、智慧についての講話が話されているとき、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、その智慧の成就を、自己のうちに等しく随観し、そして、それを因縁とする喜悦と歓喜を得るからです。それゆえに、智慧ある者にとって、智慧は、善き講話となります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの人たちにとって、〔法の〕講話は、人において、人と比較して、善き講話となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 恐れおののきの経

 

158. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、恐れおののきを起こした者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、恐れおののきを起こした者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、恐れおののきを離れた者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、恐れおののきを離れた者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ウダーインの経

 

159. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ウダーインは、大いなる在家の衆に取り囲まれ、法(教え)を説示しながら、坐った状態でいます。尊者アーナンダは、まさに、尊者ウダーインが、大いなる在家の衆に取り囲まれ、法(教え)を説示しながら、坐った状態でいるのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者ウダーインは、大いなる在家の衆に取り囲まれ、法(教え)を説示します」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、他者たちに、法(教え)を説示することは、為し易きことではありません。アーナンダよ、他者たちに、法(教え)を説示している者によって、内に、五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。『順次のものとして、講話を話すのだ』と、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。『教相を見る者として、講話を話すのだ』と、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。『憐憫〔の思い〕を縁として、講話を話すのだ』と、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。『財貨目当ての者ではなく、講話を話すのだ』と、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。『そして、自己を、さらに、他者を、損壊せずして、講話を話すのだ』と、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです。アーナンダよ、まさに、他者たちに、法(教え)を説示することは、為し易きことではありません。アーナンダよ、他者たちに、法(教え)を説示している者によって、内に、これらの五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者たちに、法(教え)が説示されるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 除き去り難きものの経

 

160. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、生起したなら、除き去り難きものです。どのようなものが、五つのものなのですか。貪欲は、生起したなら、除き去り難きものです。憤怒は、生起したなら、除き去り難きものです。迷妄は、生起したなら、除き去り難きものです。弁才は、生起したなら、除き去り難きものです。訪問の心(「赴かねば」という思い)は、生起したなら、除き去り難きものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、生起したなら、除き去り難きものがあります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 正なる法(教え)の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「三つの正しい〔道〕たることの決定、三つの正なる法(教え)の忘却、まさしく、そして、悪しき講話、恐れおののき、ウダーイン、除き去り難きものがあり、〔章となる〕」と。

 

(17)2. 憤懣〔の思い〕の章

 

1. 第一の憤懣〔の思い〕の取り除きの経

 

161. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの憤懣〔の思い〕の取り除きです。そこにおいて、比丘に、憤懣〔の思い〕が生起したなら、全てにわたり取り除かれるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が生まれるなら、その人にたいし、慈愛〔の思い〕が修められるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。比丘たちよ、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が生まれるなら、その人にたいし、慈悲〔の思い〕が修められるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。比丘たちよ、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が生まれるなら、その人にたいし、放捨〔の思い〕が修められるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。比丘たちよ、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が生まれるなら、その人にたいし、気づきなく意を為さないことが惹起されるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。比丘たちよ、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が生まれるなら、その人にたいし、行為を自らのものとすることが確立されるべきです。『この尊者は、行為を自らのものとする者であり、行為を相続する者であり、行為を根源とする者であり、行為を眷属とする者であり、行為を帰依所とする者であり、その行為を、あるいは、善きものであれ、あるいは、悪しきものであれ、〔彼が〕為すなら、その〔行為〕を相続する者と成るのだ』と。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの憤懣〔の思い〕の取り除きがあります。そこにおいて、比丘に、憤懣〔の思い〕が生起したなら、全てにわたり取り除かれるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の憤懣〔の思い〕の取り除きの経

 

162. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、五つのものがあります。これらの憤懣〔の思い〕の取り除きです。そこにおいて、比丘に、憤懣〔の思い〕が生起したなら、全てにわたり取り除かれるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。友よ、ここに、一部の人は、完全なる清浄の身体の励行なき者として、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、〔世に〕有ります。友よ、このような形態の人にたいしてもまた、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。また、ここに、一部の人は、完全なる清浄の言葉の励行なき者として、完全なる清浄の身体の励行ある者として、〔世に〕有ります。友よ、このような形態の人にたいしてもまた、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。友よ、また、ここに、一部の人は、完全なる清浄の身体の励行なき者として、完全なる清浄の言葉の励行なき者として、〔世に〕有ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得ます。友よ、このような形態の人にたいしてもまた、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。友よ、また、ここに、一部の人は、完全なる清浄の身体の励行なき者として、完全なる清浄の言葉の励行なき者として、〔世に〕有ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得ません。友よ、このような形態の人にたいしてもまた、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。友よ、また、ここに、一部の人は、完全なる清浄の身体の励行ある者として、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、〔世に〕有ります。そして、〔その〕時〔その〕時に(※)、心の開顕と心の浄信を得ます。友よ、このような形態の人にたいしてもまた、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。

 

※ テキストには kālena vā kāla とあるが、PTS版により kālena kāla と読む。

 

 友よ、そこで、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行ある者であるなら、どのように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきですか。友よ、それは、たとえば、また、糞掃衣の者たる比丘が、ぼろ布を道端に見て、左足で押さえて、右足で広げて、すなわち、そこにおいて、丈夫なところがあるなら、それを引きちぎって、〔その布を〕携えて立ち去るように、友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行ある者であるなら、すなわち、彼の、完全なる清浄の身体の励行なきことは、彼の、その〔励行なきこと〕は、その時点において、意が為されるべきではなく、しかしながら、すなわち、まさに、彼の、完全なる清浄の言葉の励行あることは、彼の、その〔励行あること〕は、その時点において、意が為されるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。

 

 友よ、そこで、すなわち、この人が、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、完全なる清浄の身体の励行ある者であるなら、どのように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきですか。友よ、それは、たとえば、また、苔や藻に覆い包まれた蓮池があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その蓮池に入って行って、両の手で、そして、かくのごとく、さらに、かくのごとく、苔や藻を取り去って、合わせた手で〔水を〕飲んで立ち去るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この人が、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、完全なる清浄の身体の励行ある者であるなら、すなわち、彼の、完全なる清浄の言葉の励行なきことは、彼の、その〔励行なきこと〕は、その時点において、意が為されるべきではなく、しかしながら、すなわち、まさに、彼の、完全なる清浄の身体の励行あることは、彼の、その〔励行あること〕は、その時点において、意が為されるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。

 

 友よ、そこで、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、どのように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきですか。友よ、それは、たとえば、また、水たまりのなかに僅かな水があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『水たまりのなかに、まさに、この、僅かな水がある。それで、もし、わたしが、あるいは、合わせた手で〔水を〕飲むなら、あるいは、器で、それを掻き立てたり、それを掻き回したりもするなら、それを、もはや飲めないものに作り為すであろう。それなら、さあ、わたしは、四つん這いになり、ひれ伏して、牛が飲むように〔水を〕飲んで立ち去るのだ』と。彼は、四つん這いになり、ひれ伏して、牛が飲むように〔水を〕飲んで立ち去るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、すなわち、彼の、完全なる清浄ならざる身体の励行なきことは、彼の、その〔励行なきこと〕は、その時点において、意が為されるべきではなく、すなわち、また、彼の、完全なる清浄の言葉の励行なきことは、彼の、その〔励行なきこと〕もまた、その時点において、意が為されるべきではなく、しかしながら、すなわち、まさに、彼が、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、彼の、まさしく、その〔心の開顕と心の浄信〕は、その時点において、意が為されるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。

 

 友よ、そこで、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得ないなら、どのように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきですか。友よ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、彼の、前にもまた、村は遠くに存し、後にもまた、村は遠くに存するとします。彼は、諸々の正当なる食料を得られず、諸々の正当なる薬を得られず、諸々の適切なる奉仕者を得られず、村の外れに導いてくれる者を得られません。〔まさに〕その、この者を、或るひとりの人が、旅の道を行く者としてあり、見るとします。彼は、その人にたいし、まさしく、慈悲〔の思い〕を現起させるでしょうし、まさしく、憐憫〔の思い〕を現起させるでしょうし、まさしく、慈しみ〔の思い〕を現起させるでしょう。『ああ、まさに、この人は、諸々の正当なる食料を得るべきであり、諸々の正当なる薬を得るべきであり、諸々の適切なる奉仕者を得るべきであり、村の外れに導いてくれる者を得るべきである。それは、何を因とするのか。この人が、まさしく、ここに、不幸と災厄を惹起することがあってはならないからだ』と。友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この人が、完全なる清浄の身体の励行なき者であり、完全なる清浄の言葉の励行なき者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得ないなら、友よ、このような形態の人にたいしてもまた、まさしく、慈悲〔の思い〕が現起させられるべきであり、まさしく、憐憫〔の思い〕が現起させられるべきであり、まさしく、慈しみ〔の思い〕が現起させられるべきです。『ああ、まさに、この尊者は、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修めるべきであり、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修めるべきであり、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修めるべきである。それは、何を因とするのか。この尊者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することがあってはならないからだ』と。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。

 

 友よ、そこで、すなわち、この人が、完全なる清浄なる身体の励行ある者であり、完全なる清浄なる言葉の励行ある者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、どのように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきですか。友よ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、種々なる木々に等しく覆われた、蓮池があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その蓮池に入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、〔川から〕上がって、まさしく、そこにおいて、木の影のもとに、あるいは、坐るでしょうし、あるいは、横になるでしょう。

 

 友よ、まさしく、このように、まさに、この人が、完全なる清浄なる身体の励行ある者であり、完全なる清浄なる言葉の励行ある者であり、そして、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、すなわち、また、彼の、完全なる清浄なる身体の励行あることは、彼の、その〔励行あること〕もまた、その時点において、意が為されるべきであり、すなわち、また、彼の、完全なる清浄の言葉の励行あることは、彼の、その〔励行あること〕もまた、その時点において、意が為されるべきであり、すなわち、また、彼が、〔その〕時〔その〕時に、心の開顕と心の浄信を得るなら、彼の、その〔心の開顕と心の浄信〕もまた、その時点において、意が為されるべきです。このように、その人にたいし、憤懣〔の思い〕が取り除かれるべきです。友よ、遍きに浄信ある人を頼りにして、心は浄信します。

 

 友よ、まさに、これらの五つの憤懣〔の思い〕の取り除きがあります。そこにおいて、比丘に、憤懣〔の思い〕が生起したなら、全てにわたり取り除かれるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 論議の経

 

163. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、論議あるに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、戒の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、禅定を成就した者として〔世に〕有り、さらに、禅定の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、智慧の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の知見の成就についての議論があるとき、言及された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、論議あるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 正なる生き方の経

 

164. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。……略……。「友よ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、正なる生き方あるに十分なるものがあります。どのようなものが、五つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、戒を成就した者として〔世に〕有り、さらに、戒の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、禅定を成就した者として〔世に〕有り、さらに、禅定の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、智慧を成就した者として〔世に〕有り、さらに、智慧の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として〔世に〕有り、さらに、解脱の知見の成就についての議論があるとき、為された問いを説き明かす者として〔世に〕有ります。友よ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、梵行を共にする者たちにとって、正なる生き方あるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 問いを尋ねることの経

 

165. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。……略……。「友よ、まさに、彼が誰であれ、他者に問いを尋ねるなら、その全てが、五つの状況によって〔尋ねます〕──あるいは、これら〔の五つの状況〕のなかのどれか一つによって。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、他者に問いを尋ねます。悪しき欲求ある者として、欲求に支配された者として、他者に問いを尋ねます。貶めている者として、他者に問いを尋ねます。了知を欲する者として、他者に問いを尋ねます。そこで、また、あるいは、このような心の者として、他者に問いを尋ねます。『それで、もし、わたしによって問いを尋ねられた者が、まさしく、正しく、説き明かすなら、かくのごとく、このことは、善なるものである。もし、わたしによって問いを尋ねられた者が、まさしく、正しく、説き明かさないなら、わたしは、彼に、まさしく、正しく、説き明かすのだ』と。友よ、まさに、彼が誰であれ、他者に問いを尋ねるなら、その全てが、これらの五つの状況によって〔尋ねます〕──あるいは、これら〔の五つの状況〕のなかのどれか一つによって。友よ、また、まさに、わたしは、このような心の者として、他者に問いを尋ねます。『それで、もし、わたしによって問いを尋ねられた者が、まさしく、正しく、説き明かすなら、かくのごとく、このことは、善なるものである。もし、わたしによって問いを尋ねられた者が、まさしく、正しく、説き明かさないなら、わたしは、彼に、まさしく、正しく、説き明かすのだ』」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 止滅の経

 

166. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。……略……。「友よ、ここに、比丘が、戒を成就した者となり、禅定を成就した者となり、智慧を成就した者となり、表象と感覚の止滅(想受滅)に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します。もし、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達しないなら、物質としての食(段食)を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します」と。

 

 このように説かれたとき、尊者ウダーインは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在しません」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、ここに、比丘が、戒を成就した者となり、禅定を成就した者となり、智慧を成就した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します。もし、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達しないなら、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します」と。

 

 三度また、まさに、尊者ウダーインは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在しません」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「三度に至るまでもまた、まさに、尊者ウダーインは、わたしを弾劾する。かつまた、比丘は、誰であれ、わたしに随喜しない。それなら、さあ、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、ここに、比丘が、戒を成就した者となり、禅定を成就した者となり、智慧を成就した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します。もし、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達しないなら、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します」と。

 

 このように説かれたとき、尊者ウダーインは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在しません」と。

 

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、ここに、比丘が、戒を成就した者となり、禅定を成就した者となり、智慧を成就した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します。もし、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達しないなら、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します」と。

 

 三度また、まさに、尊者ウダーインは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在しません」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「世尊の面前でさえも、まさに、尊者ウダーインは、三度に至るまで、わたしを弾劾する。かつまた、比丘は、誰であれ、わたしに随喜しない。それなら、さあ、わたしは、沈黙の者として存するのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ウダーインに告げました。「ウダーインよ、また、あなたは、何を、意によって作られる身体として信受するのですか」と。「尊き方よ、すなわち、それらの、形態なく(無色)、表象()によって作られる、天〔の神々〕たちです」と。「ウダーインよ、愚者にして明敏ならざるあなたの話したことが、いったい、まさに、何だというのでしょう。あなたもまた、まさに、話すべきことと思い考えるとは」と。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、どうでしょう、まさに、悩まされている長老の比丘を、〔あなたたちは〕見捨てるのですか。アーナンダよ、まさに、悩まされている長老の比丘にたいし、同情〔の思い〕でさえも、まさに、有ることなくあるのでしょうか」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、ここに、比丘が、戒を成就した者となり、禅定を成就した者となり、智慧を成就した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します。もし、まさしく、所見の法(現世)において、了知に達しないなら、物質としての食を食とすることを、まさしく、超え行って、天〔の神々〕たちの同類として──或るどこか〔の天〕に、意によって作られる身体に──再生した者となり、表象と感覚の止滅に、入定することにもまたなり、出起することにもまたなる、この状況は存在します」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊が立ち去ったすぐあと、尊者ウパヴァーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウパヴァーナに、こう言いました。「友よ、ウパヴァーナよ、ここに、〔彼らは〕他の長老の比丘たちを悩み苦しめます。わたしたちは、それによって解き放たれません。友よ、ウパヴァーナよ、また、まさに、稀有ならざることとして、このことはあります。すなわち、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、まさしく、このことに関して述べ伝えるでしょう──ここにおいて、まさしく、尊者ウパヴァーナに応答する、そのとおりに。まさしく、今や、わたしたちには、恐れおののきが起こっているのです」と。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所に近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者ウパヴァーナに、こう言いました。

 

 「ウパヴァーナよ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した長老の比丘が、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成るのですか〕」と。「尊き方よ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。どのようなものが、五つのものなのですか。尊き方よ、ここに、長老の比丘が、(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)善き言葉ある者として、善き言葉遣いある者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ります。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。尊き方よ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。

 

 「ウパヴァーナよ、善きかな、善きかな。ウパヴァーナよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した長老の比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。ウパヴァーナよ、もし、これらの五つの法(性質)が、長老の比丘に等しく見出されないなら、彼のことを、梵行を共にする者たちは、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しないでしょう──〔歯が〕破断し、白髪となり、皺が寄っていることでは。ウパヴァーナよ、しかしながら、すなわち、これらの五つの法(性質)が、長老の比丘に等しく見出されることから、それゆえに、彼のことを、梵行を共にする者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 叱責の経

 

167. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。『〔正しい〕時に、〔わたしは〕説くのだ──〔正しい〕時ならずに、ではなく』『事実によって、〔わたしは〕説くのだ──事実ならざることによって、ではなく』『優しい〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく』『義(道理)を伴った〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく』『慈愛の心ある者として、〔わたしは〕説くのだ──憤怒を内にする者として、ではなく』〔と〕。友よ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、これらの五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。

 

 友よ、ここに、わたしは、一部の人を見ます。激情し、〔正しい〕時ならずに、叱責している者を──〔正しい〕時に、ではなく。激情し、事実ならざることによって、叱責している者を──事実によって、ではなく。激情し、粗暴な〔言葉〕によって、叱責している者を──優しい〔言葉〕によって、ではなく。激情し、義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、叱責している者を──義(道理)を伴った〔言葉〕によって、ではなく。激情し、憤怒を内にする者によって、叱責している者を──慈愛の心ある者によって、ではなく。

 

 友よ、法(正義)ならざることによって叱責された比丘には、五つの行相によって、後悔なくあることが与えられるべきです。『尊者よ、〔正しい〕時ならずに、〔あなたは〕叱責されました──〔正しい〕時に、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『尊者よ、事実ならざることによって、〔あなたは〕叱責されました──事実によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『尊者よ、粗暴な〔言葉〕によって、〔あなたは〕叱責されました──優しい〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『尊者よ、義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、〔あなたは〕叱責されました──義(道理)を伴った〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『尊者よ、憤怒を内にする者によって、〔あなたは〕叱責されました──慈愛の心ある者によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』と。友よ、法(正義)ならざることによって叱責された比丘には、これらの五つの行相によって、後悔なくあることが与えられるべきです。

 

 友よ、法(正義)ならざる叱責者たる比丘には、五つの行相によって、後悔が与えられるべきです。『友よ、〔正しい〕時ならずに、あなたは叱責したのです──〔正しい〕時に、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『友よ、事実ならざることによって、あなたは叱責したのです──事実によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『友よ、粗暴な〔言葉〕によって、あなたは叱責したのです──優しい〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『友よ、義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、あなたは叱責したのです──義(道理)を伴った〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『友よ、憤怒を内にする者として、あなたは叱責したのです──慈愛の心ある者として、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』と。友よ、法(正義)ならざる叱責者たる比丘には、これらの五つの行相によって、後悔が与えられるべきです。それは、何を因とするのですか。すなわち、他の比丘もまた、事実ならざることによって、叱責するべきと思わないように、ということです。

 

 友よ、また、ここに、わたしは、一部の人を見ます。激情し、〔正しい〕時に、叱責している者を──〔正しい〕時ならずに、ではなく。激情し、事実によって、叱責している者を──事実ならざることによって、ではなく。激情し、優しい〔言葉〕によって、叱責している者を──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく。激情し、義(道理)を伴った〔言葉〕によって、叱責している者を──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく。激情し、慈愛の心ある者によって、叱責している者を──憤怒を内にする者によって、ではなく。

 

 友よ、法(正義)によって叱責された比丘には、五つの行相によって、後悔が与えられるべきです。『尊者よ、〔正しい〕時に、〔あなたは〕叱責されました──〔正しい〕時ならずに、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『尊者よ、事実によって、〔あなたは〕叱責されました──事実ならざることによって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『尊者よ、優しい〔言葉〕によって、〔あなたは〕叱責されました──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『尊者よ、義(道理)を伴った〔言葉〕によって、〔あなたは〕叱責されました──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』『尊者よ、慈愛の心ある者によって、〔あなたは〕叱責されました──憤怒を内にする者によって、ではなく。あなたには、後悔あるに十分なるものがあります』と。友よ、法(正義)によって叱責された比丘には、これらの五つの行相によって、後悔が与えられるべきです。

 

 友よ、法(正義)の叱責者たる比丘には、五つの行相によって、後悔なくあることが与えられるべきです。『友よ、〔正しい〕時に、あなたは叱責したのです──〔正しい〕時ならずに、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『友よ、事実によって、あなたは叱責したのです──事実ならざることによって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『友よ、優しい〔言葉〕によって、あなたは叱責したのです──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『友よ、義(道理)を伴った〔言葉〕によって、あなたは叱責したのです──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』『友よ、慈愛の心ある者として、あなたは叱責したのです──憤怒を内にする者として、ではなく。あなたには、後悔なくあるに十分なるものがあります』と。友よ、法(正義)の叱責者たる比丘には、これらの五つの行相によって、後悔なくあることが与えられるべきです。それは、何を因とするのですか。すなわち、他の比丘もまた、事実によって、叱責するべきと思い考えるように、ということです。

 

 友よ、叱責された人は、二つの法(性質)において確立されるべきです──そして、真理において、さらに、激情なくあることにおいて。友よ、もし、また、わたしを、他者たちが──あるいは、〔正しい〕時に、あるいは、〔正しい〕時ならずに、あるいは、事実によって、あるいは、事実ならざることによって、あるいは、優しい〔言葉〕によって、あるいは、粗暴な〔言葉〕によって、あるいは、義(道理)を伴った〔言葉〕によって、あるいは、義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、あるいは、慈愛の心ある者たちとして、あるいは、憤怒を内にする者たちとして──叱責するなら、わたしもまた、まさしく、二つの法(性質)において確立するでしょう──そして、真理において、さらに、激情なくあることにおいて。それで、もし、『この法(性質)は、わたしのうちに存在する』と、〔わたしが〕知るなら、『存在します』と、彼に説くでしょう──『この法(性質)は、わたしのうちに等しく見出されます』と。それで、もし、『この法(性質)は、わたしのうちに存在しない』と、〔わたしが〕知るなら、『存在しません』と、彼に説くでしょう──『この法(性質)は、わたしのうちに等しく見出されません』」と。

 

 「サーリプッタよ、このようにもまた、まさに、あなたによって説かれながら、そこで、また、しかしながら、ここに、一部の愚人たちは、的確に把握しません」と。

 

 「尊き方よ、すなわち、それらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、彼らは、わたしによって、このように説かれながら、的確に把握しません。

 

 尊き方よ、いっぽう、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、駄弁ならざる者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、わたしによって、このように説かれながら、的確に把握します」と。

 

 「サーリプッタよ、すなわち、それらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、彼らのことは、ほうっておきなさい。

 

 サーリプッタよ、いっぽう、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、駄弁ならざる者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、サーリプッタよ、あなたは、彼らに説くべきです。サーリプッタよ、梵行を共にする者たちに教諭しなさい。サーリプッタよ、梵行を共にする者たちに教示しなさい。『梵行を共にする者たちを、正ならざる法(教え)から出起させて、正なる法(教え)において確立させるのだ』と。サーリプッタよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 戒の経

 

168. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、(1)劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、(2)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(3)事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(4)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(5)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた円満成就に赴かず、軟材もまた円満成就に赴かず、硬材もまた円満成就に赴きません。友よ、まさしく、このように、まさに、劣戒の者にとって、戒が衰滅した者にとって、正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 友よ、(1)戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、(2)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(3)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(4)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(5)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。友よ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。友よ、まさしく、このように、まさに、戒ある者にとって、戒が成就した者にとって、正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 速き感知の経

 

169. そこで、まさに、尊者アーナンダが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者と成り、かつまた、善く把握されたものを把握する者と〔成り〕、かつまた、多くのものを把握し、かつまた、彼に把握されたものを忘れないのですか」と。「尊者アーナンダは、まさに、多聞の者です。まさしく、尊者アーナンダに、〔答えが〕明白となれ(尊者みずから答えてください)」と。「友よ、サーリプッタよ、まさに、それでは、聞きたまえ。善くしっかりと、意を為したまえ。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、かつまた、義(意味)に巧みな智ある者として、かつまた、法(教え)に巧みな智ある者として、かつまた、文型に巧みな智ある者として、かつまた、言語に巧みな智ある者として、かつまた、〔語の〕前後〔関係〕に巧みな智ある者として、〔世に〕有ります。友よ、サーリプッタよ、このことから、まさに、比丘は、かつまた、諸々の善なる法(性質)において、速き感知ある者と成り、かつまた、善く把握されたものを把握する者と〔成り〕、かつまた、多くのものを把握し、かつまた、彼に把握されたものを忘れません」と。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、尊者アーナンダによって、これほどまでに、見事に語られたのは。そして、わたしたちは、尊者アーナンダを、これらの五つの法(性質)を具備した者と認めます。『尊者アーナンダは、義(意味)に巧みな智ある者であり、法(教え)に巧みな智ある者であり、文型に巧みな智ある者であり、言語に巧みな智ある者であり、〔語の〕前後〔関係〕に巧みな智ある者である』」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. バッダジの経

 

170. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者バッダジは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バッダジに、尊者アーナンダは、こう言いました。「友よ、バッダジよ、いったい、まさに、何が、諸々の見のなかでは、至高のものなのですか。何が、諸々の聞のなかでは、至高のものなのですか。何が、諸々の安楽のなかでは、至高のものなのですか。何が、諸々の表象のなかでは、至高のものなのですか。何が、諸々の生存のなかでは、至高のものなのですか」と。

 

 「友よ、梵〔天〕が存在します。征服する者であり、征服されない者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者です。すなわち、その梵〔天〕を見るなら、諸々の見のなかでは、これが、至高のものとなります。友よ、アーバッサラ(光音)という名の天〔の神々〕たちが存在します。安楽に満ち溢れ、遍く充溢した者たちです。彼らは、いつであれ、いつかは、感興〔の言葉〕を唱えます。『ああ、安楽だ。ああ、安楽だ』と。すなわち、その音声を聞くなら、諸々の聞のなかでは、これが、至高のものとなります。友よ、スバキンハ(遍浄)という名の天〔の神々〕たちが存在します。彼らは、〔常に〕満ち足りている者たちであり、まさしく、寂静なる安楽を得知します(※)。諸々の安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。友よ、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く天〔の神々〕たちが存在します。諸々の表象のなかでは、これが、至高のものとなります。友よ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に近しく赴く天〔の神々〕たちが存在します。諸々の生存のなかでは、これが、至高のものとなります」と。「まさに、尊者バッダジの、この〔言葉〕は、すなわち、これは、多くの人々〔の言葉〕と合致しますか」と。

 

※ テキストには paivedenti とあるが、PTS版により paisavedenti と読む。

 

 「尊者アーナンダは、まさに、多聞の者です。まさしく、尊者アーナンダに、〔答えが〕明白となれ」と。「友よ、バッダジよ、まさに、それでは、聞きたまえ。善くしっかりと、意を為したまえ。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者バッダジは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、まさに、すなわち、見ている者に、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るなら、諸々の見のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、聞いている者に、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るなら、諸々の聞のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、安楽となった者に、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るなら、諸々の安楽のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、表象ある者に、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るなら、諸々の表象のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、生類としてある者に、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有るなら、諸々の生存のなかでは、これが、至高のものとなります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 憤懣〔の思い〕の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの憤懣〔の思い〕の取り除き、論議、正なる生き方から、問いを尋ねること、止滅、叱責、戒、感知、バッダジがあり、〔章となる〕」と。

 

(18)3. 在俗信者の章

 

1. 恐れおののきの経

 

171. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを起こした者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを起こした者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れた者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れた者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 恐れおののきを離れた者の経

 

172. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れていない者として家に居住します。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れていない者として家に居住します。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れた者として家に居住します。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、恐れおののきを離れた者として家に居住します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 地獄の経

 

173. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 怨念の経

 

174. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、五つのものがあります。〔これらの〕恐怖と怨念を捨棄せずして、〔人は〕『劣戒の者』と説かれ、そして、地獄に再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことであり、与えられていないものを取ることであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、虚偽を説くことであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位です。家長よ、まさに、これらの五つの恐怖と怨念を捨棄せずして、〔人は〕『劣戒の者』と説かれ、そして、地獄に再生します。

 

 家長よ、五つのものがあります。〔これらの〕恐怖と怨念を捨棄して、〔人は〕『戒ある者』と説かれ、そして、天上に再生します。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことであり、与えられていないものを取ることであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、虚偽を説くことであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位です。家長よ、まさに、これらの五つの恐怖と怨念を捨棄して、〔人は〕『戒ある者』と説かれ、そして、天上に再生します。

 

 家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……。

 

 家長よ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……略……。

 

 家長よ、すなわち、虚偽を説く者は……略……。

 

 家長よ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、命あるものを殺すなら、さらに、虚偽の論を語るなら、世において与えられていないものを取るなら、さらに、他者の妻のもとに赴くなら、さらに、その人が、穀物酒や果実酒などの飲み物に〔自らを〕束縛するなら──

 

 五つの怨念を捨棄せずして、『劣戒の者』と説かれ、身体の破壊ののち、智慧浅き者として、彼は、地獄に再生する。

 

 彼が、命あるものを殺さず、虚偽の論を語らず、世において与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、さらに、その人が、穀物酒や果実酒などの飲み物に〔自らを〕束縛しないなら──

 

 五つの怨念を捨棄して、『戒ある者』と説かれ、身体の破壊ののち、智慧を有する者として、彼は、善趣に再生する」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. チャンダーラの経

 

175. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、そして、チャンダーラ(賎民)たる在俗信者として、かつまた、垢たる在俗信者として、さらに、弾劾される在俗信者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。信なき者として〔世に〕有ります。劣戒の者として〔世に〕有ります。祭典や吉事の者として〔世に〕有り、吉事(吉兆・吉瑞)を信受します──行為ではなく。そして、この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めます。さらに、そこ(僧団の外)において、先んじて為すことを為します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、そして、チャンダーラたる在俗信者として、かつまた、垢たる在俗信者として、さらに、弾劾される在俗信者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した在俗信者は、そして、宝玉たる在俗信者として、かつまた、赤蓮たる在俗信者として、さらに、白蓮たる在俗信者として、〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。信ある者として〔世に〕有ります。戒ある者として〔世に〕有ります。祭典や吉事なき者として〔世に〕有り、行為を信受します──吉事ではなく。そして、この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めません。さらに、ここ(僧団)に、先んじて為すことを為します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した在俗信者は、そして、宝玉たる在俗信者として、かつまた、赤蓮たる在俗信者として、さらに、白蓮たる在俗信者として、〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 喜悦の経

 

176. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、五百ばかりの在俗信者たちに取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、まさに、あなたたちは、比丘の僧団に、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちです。家長よ、『わたしたちは、比丘の僧団に、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちである』と、まさしく、それだけで、まさに、満足〔の思い〕が作り為されるべきではありません。家長よ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『どのようなものとして、わたしたちは、〔その〕時〔その〕時に、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むべきなのか』と。家長よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『家長よ、まさに、あなたたちは、比丘の僧団に、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちです。家長よ、「わたしたちは、比丘の僧団に、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちである」と、まさしく、それだけで、まさに、満足〔の思い〕が作り為されるべきではありません。家長よ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。「どのようなものとして、わたしたちは、〔その〕時〔その〕時に、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むべきなのか」と。家長よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです』と。尊き方よ、その時点において、聖なる弟子が、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むなら、五つの状況が、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、欲望を伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、欲望を伴った安楽と悦意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善ならざるものを伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善ならざるものを伴った安楽と悦意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善なるものを伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。尊き方よ、その時点において、聖なる弟子が、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むなら、これらの五つの状況が、その時点において、彼には有りません」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、その時点において、聖なる弟子が、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むなら、五つの状況が、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、欲望を伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、欲望を伴った安楽と悦意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善ならざるものを伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善ならざるものを伴った安楽と悦意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。すなわち、また、彼には、善なるものを伴った苦痛と失意が、それもまた、その時点において、彼には有りません。サーリプッタよ、その時点において、聖なる弟子が、遠離と喜悦を成就して〔世に〕住むなら、これらの五つの状況が、その時点において、彼には有りません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 商売の経

 

177. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、在俗信者によって為されるべきではない商売です。どのようなものが、五つのものなのですか。刃の商売であり、有情の商売(人身売買)であり、肉の商売であり、酔わせるものの商売であり、毒の商売です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、在俗信者によって為されるべきではない商売があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 王の経

 

178. 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『「この人は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、命あるものを殺すことから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことを、まさしく、あるいは、見たこともなく、あるいは、聞いたこともありません。『「この人は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、命あるものを殺すことから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』と。しかしながら、また、まさに、彼に〔悪しき行為があるなら〕、まさしく、そのとおりに、〔彼の〕悪しき行為を、〔人々は、王たちに〕知らせます。『この人は、あるいは、女の、あるいは、男の、生命を奪った』と。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、命あるものを殺すことを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為します。さて、いったい、あなたたちは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、そして、見たことがあり、かつまた、聞いたことがあり、さらに、〔これからも〕聞くでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『「この人は、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、与えられていないものを取ることから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことを、まさしく、あるいは、見たこともなく、あるいは、聞いたこともありません。『「この人は、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、与えられていないものを取ることから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』と。しかしながら、また、まさに、彼に〔悪しき行為があるなら〕、まさしく、そのとおりに、〔彼の〕悪しき行為を、〔人々は、王たちに〕知らせます。『この人は、あるいは、村から、あるいは、林から、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取った』と。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、与えられていないものを取ることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為します。さて、いったい、あなたたちは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、そして、見たことがあり、かつまた、聞いたことがあり、さらに、〔これからも〕聞くでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『「この人は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことを、まさしく、あるいは、見たこともなく、あるいは、聞いたこともありません。『「この人は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』と。しかしながら、また、まさに、彼に〔悪しき行為があるなら〕、まさしく、そのとおりに、〔彼の〕悪しき行為を、〔人々は、王たちに〕知らせます。『この人は、他者の婦女たちにたいし、他者の少女たちにたいし、関係を持った』と。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為します。さて、いったい、あなたたちは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、そして、見たことがあり、かつまた、聞いたことがあり、さらに、〔これからも〕聞くでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『「この人は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、虚偽を説くことから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことを、まさしく、あるいは、見たこともなく、あるいは、聞いたこともありません。『「この人は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、虚偽を説くことから離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』と。しかしながら、また、まさに、彼に〔悪しき行為があるなら〕、まさしく、そのとおりに、〔彼の〕悪しき行為を、〔人々は、王たちに〕知らせます。『この人は、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、義(利益)を、虚偽を説くことによって滅壊した』と。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、虚偽を説くことを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為します。さて、いったい、あなたたちは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、そして、見たことがあり、かつまた、聞いたことがあり、さらに、〔これからも〕聞くでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『「この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことを、まさしく、あるいは、見たこともなく、あるいは、聞いたこともありません。『「この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者である」と、〔まさに〕その、この者を、王たちが捕捉して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れていることを因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為す』と。しかしながら、また、まさに、彼に〔悪しき行為があるなら〕、まさしく、そのとおりに、〔彼の〕悪しき行為を、〔人々は、王たちに〕知らせます。『この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位に専念する者となり、あるいは、女の、あるいは、男の、生命を奪った』『この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位にする者となり、あるいは、村から、あるいは、林から、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取った』『この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位にする者となり、他者の婦女たちにたいし、他者の少女たちにたいし、関係を持った』『この人は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位にする者となり、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、義(利益)を、虚偽を説くことによって滅壊した』と。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を因として、あるいは、殺し、あるいは、結縛し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為します。さて、いったい、あなたたちは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしたちは、そして、見たことがあり、かつまた、聞いたことがあり、さらに、〔これからも〕聞くでしょう」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 在家者の経

 

179. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、五百ばかりの在俗信者たちに取り囲まれ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、彼が誰であれ、白衣の在家者のことを、五つの学びの境処において統御された生業ある者と、〔あなたたちが〕知るなら──卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つのものを、欲するままに得る者と、苦難なく得る者と、困難なく得る者と、〔あなたたちが知るなら〕──彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの学びの境処において、統御された生業ある者と成るのですか。サーリプッタよ、ここに、聖なる弟子が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。これらの五つの学びの境処において、統御された生業ある者と成ります。

 

 どのような、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つのものを、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るのですか〕。サーリプッタよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいし確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼には、この第一の、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、到達が有ります──清浄ならざる心の清浄のために、完全なる清白ならざる心の完全なる清白のために。

 

 サーリプッタよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)にたいし確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。彼には、この第二の、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、到達が有ります──清浄ならざる心の清浄のために、完全なる清白ならざる心の完全なる清白のために。

 

 サーリプッタよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団にたいし確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組にして、八者の人士たる人であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。彼には、この第三の、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、到達が有ります──清浄ならざる心の清浄のために、完全なる清白ならざる心の完全なる清白のために。

 

 サーリプッタよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼には、この第四の、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、到達が有ります──清浄ならざる心の清浄のために、完全なる清白ならざる心の完全なる清白のために。これらの、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つのものを、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成ります〕。

 

 サーリプッタよ、彼が誰であれ、白衣の在家者のことを、これらの五つの学びの境処において統御された生業ある者と、〔あなたたちが〕知るなら──さらに、これらの、卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つのものを、欲するままに得る者と、苦難なく得る者と、困難なく得る者と、〔あなたたちが知るなら〕──彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の地獄について恐怖を見て、諸々の悪を遍く避けるように。聖なる法(教え)を受持して、賢者たる者は、〔それらを〕遍く避けるように。

 

 命ある生類たちを害さないように。〔現に〕見出されるところ(いまここ)において勤しむように。そして、知っていながら、虚偽を話さないように。与えられていないものに偏執しないように。

 

 自らの妻たちで満足し、そして、他者の妻とは離れように。人たる者は、心を迷わす果実酒や蒸留酒を飲まないように。

 

 正覚者を随念するように。そして、法(教え)を随思するように。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を、天の世のために益ある心を、修めるように。

 

 施すべき法(施物)が仕立てられたとき、功徳を義(目的)として願い求めている者にとって、正しくある者たちにたいし最初に施された施物は、広大なる〔果〕あるものと成る。

 

 正しくある者として、まさに、〔わたしは〕言示しよう。サーリプッタよ、わたしの〔言葉を〕聞け。かくのごとく、黒であれ、白であれ、赤であれ、あるいは、黄であれ──

 

 雑色であれ、同色であれ、あるいは、鳩〔色〕であれ、牛たちにおいて、それらの者たちが、どのような〔色〕であれ、これら〔の牛〕たちにおいて、調御された雄牛は生まれる。

 

 忍耐強く、力を成就し、善き速さで進み行く〔雄牛〕であるなら、まさしく、その〔雄牛〕を、〔人々は〕荷に結び付ける──その〔雄牛〕の色を考慮することなく。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、士族であれ、婆羅門であれ、庶民であれ、隷民であれ、チャンダーラ(賎民)やプックサ(非人)であれ、それが、どのような生まれであれ──

 

 それらの者たちが、どのような〔生まれ〕であれ、これらの者たちにおいて、調御された善き掟ある者は生まれる。法(正義)に依って立ち、戒を成就し、真理を説き、意に恥〔の思い〕ある者であるなら──

 

 生と死を捨棄した、梵行の全一者であるなら──〔生の〕重荷を降ろし、〔世の〕束縛を離れ、為すべきことを為した、煩悩なき者であるなら──

 

 一切の法(事象)の彼岸に至る者となり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であるなら──そして、彼において、〔世俗の〕塵を離れる田畑たる者において、施物は、広大なるものと成る。

 

 しかしながら、愚者たちは、〔功徳の田畑を〕識知することなく、思慮浅く、無聞の者たちは、外に、諸々の布施を施すも、まさに、正しくある者たちには近侍しない。

 

 しかしながら、彼らが、正しくある者たちに近侍し、智慧を有し慧者として敬われる者たちに〔近侍するなら〕、そして、彼らの、善き至達者にたいする信は、根元から生じたものとなり、確立したものとなる。

 

 そして、彼らは、天の世に行き、あるいは、この〔世において〕、〔善き〕家に生まれる。賢者たちは、順次に、涅槃に到達する」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. ガヴェーシンの経

 

180. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。まさに、旅の道を行く世尊は、或るどこかの地域において、大いなるサーラ〔樹〕の林を見ました。見て、道から外れて、そのサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そのサーラ〔樹〕の林に深く分け入って、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのだろう。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはない」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのですか。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはありません」と。

 

 「アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、この地域において、城市が有りました──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔城市〕が。アーナンダよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、その城市に近しく依拠して〔世に〕住みました。アーナンダよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊には、ガヴェーシンという名の在俗信者が、諸戒における円満成就を為さない者として〔世に〕有りました。アーナンダよ、まさに、ガヴェーシン在俗信者によって、五百ばかりの在俗信者たちが懺悔させられ勧誘されたのですが、諸戒における円満成就を為さない者たちとして〔世に〕有りました。(1)アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者に、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、これらの五百の在俗信者たちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。そして、〔わたしは〕諸戒における円満成就を為さない者として〔世に〕存している。さらに、これらの五百の在俗信者たちも、諸戒における円満成就を為さない者たちである。かくのごとく、これは、等しく同等なることであり、何であれ、超過のものは存在しない。超過のものあるために、さあ、わたしは〔実践するのだ〕』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者は、それらの五百の在俗信者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの五百の在俗信者たちに、こう言いました。『今日以後、尊者たちは、わたしを、諸戒における円満成就を為す者として認めたまえ』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。『尊貴なるガヴェーシンは、まさに、わたしたちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。まさに、尊貴なるガヴェーシンが、まさに、諸戒における円満成就を為す者と成るのだ。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちは、ガヴェーシン在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガヴェーシン在俗信者に、こう言いました。『今日以後、尊貴なるガヴェーシンは、これらの五百の在俗信者たちをもまた、諸戒における円満成就を為す者たちとして認めたまえ』と。(2)アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者に、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、これらの五百の在俗信者たちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。そして、〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存している。これらの五百の在俗信者たちもまた、諸戒における円満成就を為す者たちである。かくのごとく、これは、等しく同等なることであり、何であれ、超過のものは存在しない。超過のものあるために、さあ、わたしは〔実践するのだ〕』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者は、それらの五百の在俗信者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの五百の在俗信者たちに、こう言いました。『今日以後、尊者たちは、わたしを、梵行者(禁欲清浄行の実践者)として認めたまえ──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者として』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。『尊貴なるガヴェーシンは、まさに、わたしたちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。まさに、尊貴なるガヴェーシンが、まさに、梵行者と成るのだ──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者として。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちは、ガヴェーシン在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガヴェーシン在俗信者に、こう言いました。『今日以後、尊貴なるガヴェーシンは、これらの五百の在俗信者たちをもまた、梵行者たちとして認めたまえ──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者たちとして』と。(3)アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者に、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、これらの五百の在俗信者たちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。そして、〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存している。これらの五百の在俗信者たちもまた、諸戒における円満成就を為す者たちである。そして、〔わたしは〕梵行者として〔世に〕存している──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者として。これらの五百の在俗信者たちもまた、梵行者たちである──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者たちとして。かくのごとく、これは、等しく同等なることであり、何であれ、超過のものは存在しない。超過のものあるために、さあ、わたしは〔実践するのだ〕』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者は、それらの五百の在俗信者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの五百の在俗信者たちに、こう言いました。『今日以後、尊者たちは、わたしを、一食の者として認めたまえ──夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。『尊貴なるガヴェーシンは、まさに、わたしたちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。まさに、尊貴なるガヴェーシンが、まさに、一食の者と成るのだ──夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちは、ガヴェーシン在俗信者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガヴェーシン在俗信者に、こう言いました。『今日以後、尊貴なるガヴェーシンは、これらの五百の在俗信者たちをもまた、一食の者たちとして認めたまえ──夜〔の食事〕を止めた者たちとして、非時に食事することから離れた者たちとして』と。(4)アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者に、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、これらの五百の在俗信者たちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。そして、〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存している。これらの五百の在俗信者たちもまた、諸戒における円満成就を為す者たちである。そして、〔わたしは〕梵行者として〔世に〕存している──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者として。これらの五百の在俗信者たちもまた、梵行者たちである──淫事から、村の法(淫習)から、離れた離行者たちとして。そして、〔わたしは〕一食の者として〔世に〕存している──夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として。これらの五百の在俗信者たちもまた、一食の者たちである──夜〔の食事〕を止めた者たちとして、非時に食事することから離れた者たちとして。かくのごとく、これは、等しく同等なることであり、何であれ、超過のものは存在しない。超過のものあるために、さあ、わたしは〔実践するのだ〕』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン在俗信者は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように』と。アーナンダよ、まさに、ガヴェーシン在俗信者は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。アーナンダよ、また、まさに、〔戒を〕成就したばかりのガヴェーシン比丘は、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。また、そして、ガヴェーシン比丘は、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、それによって、それらの五百の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。『尊貴なるガヴェーシンは、まさに、わたしたちにとって、多くの資益ある者であり、先行者であり、勧誘者である。まさに、尊貴なるガヴェーシンが、まさに、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ。また、ましてや、わたしたちにあっては、なおさらのこと』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の在俗信者たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしたちが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように』と。アーナンダよ、まさに、それらの五百の在俗信者たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

 (5)アーナンダよ、そこで、まさに、ガヴェーシン比丘に、この〔思い〕が有りました。『わたしは、まさに、この無上なる解脱の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有る。ああ、まさに、これらの五百の比丘たちもまた、この無上なる解脱の安楽を、欲するままに得る者たちとして、苦難なく得る者たちとして、困難なく得る者たちとして、〔世に〕存するべきである』と。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの五百の比丘たちは、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。

 

 アーナンダよ、かくのごとく、まさに、ガヴェーシンを筆頭とする、それらの五百の比丘たちは、より上にもより上に、より精妙にもより精妙に、努め励みながら、無上なる解脱を実証しました。アーナンダよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『より上にもより上に、より精妙にもより精妙に、努め励みながら、〔わたしたちは〕無上なる解脱を実証するのだ』と。アーナンダよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 在俗信者の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐れおののき、恐れおののきを離れた者、地獄、怨念、第五のものとして、チャンダーラ、喜悦、商売、王たち、まさしく、そして、在家者があり、ガヴェーシンとともに、〔章となる〕」と。

 

(19)4. 林の章

 

1. 林にある者の経

 

181. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの林にある者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、林にある者として〔世に〕有ります。悪しき欲求ある者が、欲求に支配された者が、林にある者として〔世に〕有ります。狂気から、心の散乱から、林にある者として〔世に〕有ります。覚者たちによって、覚者の弟子たちによって、褒め称えられた、ということで、林にある者として〔世に〕有ります。まさしく、少なき欲求たること(少欲)に依拠して、まさしく、満ち足りていること(知足)に依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、林にある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの林にある者たちがあります。比丘たちよ、これらの五つの林にある者たちのなかでは、すなわち、この、林にある者が、まさしく、少なき欲求たることに依拠して、まさしく、満ち足りていることに依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、林にある者として〔世に〕有るなら、この者は、これらの五つの林にある者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこにおいて、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの五つの林にある者たちのなかでは、すなわち、この、林にある者が、まさしく、少なき欲求たることに依拠して、まさしく、満ち足りていることに依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、林にある者として〔世に〕有るなら、この者は、これらの五つの林にある者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 衣料の経

 

182. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの糞掃衣の者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、糞掃衣の者として〔世に〕有ります。……略……まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、糞掃衣の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの糞掃衣の者たちがあります。……」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 木の根元にある者の経

 

183. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの木の根元にある者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、木の根元にある者として〔世に〕有ります。……略……まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、木の根元にある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの木の根元にある者たちがあります。……」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 墓場にある者の経

 

184. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの墓場にある者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、墓場にある者として〔世に〕有ります。……略……まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、墓場にある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの墓場にある者たちがあります。……」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 野外にある者の経

 

185. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの野外にある者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、野外にある者として〔世に〕有ります。……略……まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、野外にある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの野外にある者たちがあります。……」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 常坐〔にして不臥〕なる者の経

 

186. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの常坐〔にして不臥〕なる者たちです。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の経

 

187. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者たちです。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 一坐〔だけの食〕の者の経

 

188. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの一坐〔だけの食〕の者たちです。……略……。〔以上が〕第八となる。

 

9. 〔規定された食〕以後の食を否とする者の経

 

189. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔規定された食〕以後の食を否とする者たちです。……略……。〔以上が〕第九となる。

 

10. 鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者の経

 

190. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちです。どのようなものが、五つのものなのですか。愚鈍なることから、迷愚なることから、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有ります。悪しき欲求ある者が、欲求に支配された者が、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有ります。狂気から、心の散乱から、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有ります。覚者たちによって、覚者の弟子たちによって、褒め称えられた、ということで、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有ります。まさしく、少なき欲求たることに依拠して、まさしく、満ち足りていることに依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちがあります。比丘たちよ、これらの五つの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちのなかでは、すなわち、この、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者が、まさしく、少なき欲求たることに依拠して、まさしく、満ち足りていることに依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有るなら、この者は、これらの五つの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、牛から乳が、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から酥精があり、そこにおいて、酥精が、至高のものと告げ知らされるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、これらの五つの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちのなかでは、すなわち、この、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者が、まさしく、少なき欲求たることに依拠して、まさしく、満ち足りていることに依拠して、まさしく、謹厳に依拠して、まさしく、遠離に依拠して、まさしく、この〔法〕を義(目的)とすることに依拠して、鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として〔世に〕有るなら、この者は、これらの五つの鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者たちのなかでは、かつまた、至高の者であり、かつまた、最勝の者であり、かつまた、筆頭の者であり、かつまた、最上の者であり、かつまた、最も優れた者です」と。〔以上が〕第十となる。

 

 林の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「林、衣料、木と墓場、野外にある者、常坐、広げられたもの、一坐〔だけの食〕の者があり、そして、〔規定された食〕以後〔の食〕を否とする者と〔鉢に盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者とともに、〔章となる〕」と。

 

(20)5. 婆羅門の章

 

1. 犬の経

 

191. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの過去の婆羅門の法(性質)は、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、過去においては、まさに、婆羅門たちは、婆羅門の女のもとにだけ赴き、婆羅門ならざる女のもとには〔赴き〕ません。比丘たちよ、今現在、婆羅門たちは、婆羅門の女のもとにもまた赴き、婆羅門ならざる女のもとにもまた赴きます。比丘たちよ、今現在、犬たちは、犬の雌のもとにだけ赴き、犬ならざる雌のもとには〔赴き〕ません。比丘たちよ、この第一の過去の婆羅門の法(性質)が、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。

 

 比丘たちよ、過去においては、まさに、婆羅門たちは、〔入胎に適切な〕季節の女のもとにだけ赴き、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとには〔赴き〕ません。比丘たちよ、今現在、婆羅門たちは、〔入胎に適切な〕季節の女にもまた赴き、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとにもまた赴きます。比丘たちよ、今現在、犬たちは、〔入胎に適切な〕季節の雌だけに赴き、〔入胎に適切な〕季節ならざる雌のもとには〔赴き〕ません。比丘たちよ、この第二の過去の婆羅門の法(性質)が、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。

 

 比丘たちよ、過去においては、まさに、婆羅門たちは、婆羅門の女を、まさしく、買うこともなく、売ることもなく、相愛の者だけと共住を、〔家系の〕継続のために等しく転起させます。比丘たちよ、今現在、婆羅門たちは、婆羅門の女を、買うこともまたし、売ることもまたし、相愛の者ともまた共住を、〔家系の〕継続のために等しく転起させます。比丘たちよ、今現在、犬たちは、犬の雌を、まさしく、買うこともなく、売ることもなく、相愛の者だけと共住を、〔子孫の〕継続のために等しく転起させます。比丘たちよ、この第三の過去の婆羅門の法(性質)が、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。

 

 比丘たちよ、過去においては、まさに、婆羅門たちは、蓄積を為しません──財産であろうが、穀物であろうが、銀であろうが、金であろうが。比丘たちよ、今現在、婆羅門たちは、蓄積を為します──財産であろうが、穀物であろうが、銀であろうが、金であろうが。比丘たちよ、今現在、犬たちは、蓄積を為しません──財産であろうが、穀物であろうが、銀であろうが、金であろうが。比丘たちよ、この第四の過去の婆羅門の法(性質)が、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。

 

 比丘たちよ、過去においては、まさに、婆羅門たちは、夕には夕食のために、朝には朝食のために、行乞〔の施食〕を遍く探し求めます。比丘たちよ、今現在、婆羅門たちは、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、残りのものを収め取って立ち去ります。比丘たちよ、今現在、犬たちは、夕には夕食のために、朝には朝食のために、行乞〔の施食〕を遍く探し求めます。比丘たちよ、この第五の過去の婆羅門の法(性質)が、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの過去の婆羅門の法(性質)は、今現在、犬たちにおいて現見され、婆羅門たちにおいては〔現見され〕ません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ドーナ婆羅門の経

 

192. そこで、まさに、ドーナ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ドーナ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ない』と。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、そのとおりです。なぜなら、貴君ゴータマは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、婆羅門たちを、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐に招くことも、ないからです。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、このことは、まさしく、成就あるにあらず(不当である)」と。「ドーナよ、あなたもまた、まさに、〔自らについて〕婆羅門と明言しますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、その〔婆羅門〕のことを、『婆羅門は、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者である』と、正しく説きつつ説くなら、貴君ゴータマよ、まさしく、わたしのこととして、彼のことを、正しく説きつつ説くべきです。貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、婆羅門であり、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です」と。

 

 「ドーナよ、すなわち、それらの者たちが、まさに、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちは、まさに、これらの五つの者たちを、婆羅門と報知します──梵に等しき者を、天に等しき者を、制約ある者を、制約を破壊した者を、第五のものとして、まさしく、婆羅門のチャンダーラ(賎民)を。ドーナよ、あなたは、それらの者たちのなかの、どの者なのですか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、五つの婆羅門たちのことを知りません。そこで、まさに、わたしたちが知っているのは、『婆羅門』という〔名称〕だけです。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、わたしが、これらの五つの婆羅門たちのことを知りうるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、ドーナ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「ドーナよ、では、どのように、婆羅門は、梵に等しき者と成るのですか。ドーナよ、ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。彼は、四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩みます──諸々の呪文を学得しながら。四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩んで、諸々の呪文を学得して、師匠のために、師匠への〔施物の〕財を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。

 

 ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、耕作によらず、商売によらず、牧畜によらず、弓術によらず、仕官によらず、何らかの或る技能によらず、単に、行乞行によって〔身を保ち〕、〔行乞の〕鉢を軽んじることなくあります。彼は、師匠に、師匠への〔施物の〕財を引き渡して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、これらの四つの梵の住(四梵住:慈・悲・喜・捨の四無量心)を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に、再生します。ドーナよ、このように、まさに、婆羅門は、梵に等しき者と成ります。

 

 ドーナよ、では、どのように、婆羅門は、天に等しき者と成るのですか。ドーナよ、ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。彼は、四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩みます──諸々の呪文を学得しながら。四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩んで、諸々の呪文を学得して、師匠のために、師匠への〔施物の〕財を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、耕作によらず、商売によらず、牧畜によらず、弓術によらず、仕官によらず、何らかの或る技能によらず、単に、行乞行によって〔身を保ち〕、〔行乞の〕鉢を軽んじることなくあります。彼は、師匠に、師匠への〔施物の〕財を引き渡して、妻を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。

 

 ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、売ることによらず、買うことによらず、まさしく、婆羅門の女を、浄水〔の施物〕として〔もらい受けます〕。彼は、婆羅門の女のもとにだけ赴きます──士族の女のもとに〔赴か〕ず、庶民の女のもとに〔赴か〕ず、隷民の女のもとに〔赴か〕ず、チャンダーラ(賎民)の女のもとに〔赴か〕ず、山民の女のもとに〔赴か〕ず、下賎の女のもとに〔赴か〕ず、車工の女のもとに〔赴か〕ず、プックサ(非人)の女のもとに赴きません。妊婦のもとに赴かず、授乳者のもとに赴かず、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとに赴きません。ドーナよ、では、何ゆえに、婆羅門は、妊婦のもとに赴かないのですか。ドーナよ、それで、もし、婆羅門が、妊婦のもとに赴くなら、あるいは、童子であれ、あるいは、童女であれ、その者は、まさに、糞坑から生じる者と成ります。ドーナよ、それゆえに、婆羅門は、妊婦のもとに赴きません。ドーナよ、では、何ゆえに、婆羅門は、授乳者のもとに赴かないのですか。ドーナよ、それで、もし、婆羅門が、授乳者のもとに赴くなら、あるいは、童子であれ、あるいは、童女であれ、その者は、まさに、不浄物に圧迫された者と成ります。ドーナよ、それゆえに、婆羅門は、授乳者のもとに赴きません。彼にとって、その婆羅門の女は、まさしく、欲望を義(目的)とする者ではなく、戯れを義(目的)とする者ではなく、喜びを義(目的)とする者ではなく、〔世に〕有ります。婆羅門にとって、婆羅門の女は、まさしく、子孫を義(目的)とする者として、〔世に〕有ります。彼は、淫事を生起させずして、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、これらの四つの瞑想を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。ドーナよ、このように、まさに、婆羅門は、天に等しき者と成ります。

 

 ドーナよ、では、どのように、婆羅門は、制約ある者と成るのですか。ドーナよ、ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。彼は、四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩みます──諸々の呪文を学得しながら。四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩んで、諸々の呪文を学得して、師匠のために、師匠への〔施物の〕財を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、耕作によらず、商売によらず、牧畜によらず、弓術によらず、仕官によらず、何らかの或る技能によらず、単に、行乞行によって〔身を保ち〕、〔行乞の〕鉢を軽んじることなくあります。彼は、師匠に、師匠への〔施物の〕財を引き渡して、妻を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。

 

 ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、売ることによらず、買うことによらず、まさしく、婆羅門の女を、浄水〔の施物〕として〔もらい受けます〕。彼は、婆羅門の女のもとにだけ赴きます──士族の女のもとに〔赴か〕ず、庶民の女のもとに〔赴か〕ず、隷民の女のもとに〔赴か〕ず、チャンダーラの女のもとに〔赴か〕ず、山民の女のもとに〔赴か〕ず、下賎の女のもとに〔赴か〕ず、車工の女のもとに〔赴か〕ず、プックサの女のもとに赴きません。妊婦のもとに赴かず、授乳者のもとに赴かず、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとに赴きません。ドーナよ、では、何ゆえに、婆羅門は、妊婦のもとに赴かないのですか。ドーナよ、それで、もし、婆羅門が、妊婦のもとに赴くなら、あるいは、童子であれ、あるいは、童女であれ、その者は、まさに、糞坑から生じる者と成ります。ドーナよ、それゆえに、婆羅門は、妊婦のもとに赴きません。ドーナよ、では、何ゆえに、婆羅門は、授乳者のもとに赴かないのですか。ドーナよ、それで、もし、婆羅門が、授乳者のもとに赴くなら、あるいは、童子であれ、あるいは、童女であれ、その者は、まさに、不浄物に圧迫された者と成ります。ドーナよ、それゆえに、婆羅門は、授乳者のもとに赴きません。彼にとって、その婆羅門の女は、まさしく、欲望を義(目的)とする者ではなく、戯れを義(目的)とする者ではなく、喜びを義(目的)とする者ではなく、〔世に〕有ります。婆羅門にとって、婆羅門の女は、まさしく、子孫を義(目的)とする者として、〔世に〕有ります。彼は、淫事を生起させずして、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。すなわち、過去の婆羅門たちにとって、制約としてあるかぎり、そこにおいて止住し、それに違犯しません。すなわち、過去の婆羅門たちにとって、制約としてあるかぎり、そこにおいて止住し、それに違犯しない、ということで、ドーナよ、まさに、それゆえに、婆羅門は、『制約ある者』と説かれます。ドーナよ、このように、まさに、婆羅門は、制約ある者と成ります。

 

 ドーナよ、では、どのように、婆羅門は、制約を破壊した者と成るのですか。ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。彼は、四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩みます──諸々の呪文を学得しながら。四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩んで、諸々の呪文を学得して、師匠のために、師匠への〔施物の〕財を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によって──法(正義)ならざることによって、ではなく。

 

 ドーナよ、では、そこにおいて、何が、法(正義)となるのですか。まさしく、耕作によらず、商売によらず、牧畜によらず、弓術によらず、仕官によらず、何らかの或る技能によらず、単に、行乞行によって〔身を保ち〕、〔行乞の〕鉢を軽んじることなくあります。彼は、師匠に、師匠への〔施物の〕財を引き渡して、妻を遍く探し求めます──法(正義)によってもまた、法(正義)ならざることによってもまた、売ることによってもまた、買うことによってもまた、婆羅門の女をもまた、浄水〔の施物〕として〔もらい受けます〕。彼は、婆羅門の女のもとにもまた赴き、士族の女のもとにもまた赴き、庶民の女のもとにもまた赴き、隷民の女のもとにもまた赴き、チャンダーラの女のもとにもまた赴き、山民の女のもとにもまた赴き、下賎の女のもとにもまた赴き、車工の女のもとにもまた赴き、プックサの女のもとにもまた赴きます。妊婦のもとにもまた赴き、授乳者のもとにもまた赴き、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとにもまた赴きます。彼にとって、その婆羅門の女は、まさしく、欲望を義(目的)とする者としてもまた、戯れを義(目的)とする者としてもまた、喜びを義(目的)とする者としてもまた、〔世に〕有ります。婆羅門にとって、婆羅門の女は、子孫を義(目的)とする者としてもまた〔世に〕有ります。すなわち、過去の婆羅門たちにとって、制約としてあるかぎり、そこにおいて止住せず、それに違犯します。すなわち、過去の婆羅門たちにとって、制約としてあるかぎり、そこにおいて止住せず、それに違犯する、ということで、ドーナよ、まさに、それゆえに、婆羅門は、『制約を破壊した者』と説かれます。ドーナよ、このように、まさに、婆羅門は、制約を破壊した者と成ります。

 

 ドーナよ、では、どのように、婆羅門は、婆羅門のチャンダーラと成るのですか。ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。彼は、四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩みます──諸々の呪文を学得しながら。四十八年のあいだ、童貞の梵行を歩んで、諸々の呪文を学得して、師匠のために、師匠への〔施物の〕財を遍く探し求めます──まさしく、法(正義)によってもまた、法(正義)ならざることによってもまた、耕作によってもまた、商売によってもまた、牧畜によってもまた、弓術によってもまた、仕官によってもまた、何らかの或る技能によってもまた、単に、また、行乞行によって、〔行乞の〕鉢を軽んじることなくあります。

 

 彼は、師匠に、師匠への〔施物の〕財を引き渡して、妻を遍く探し求めます──法(正義)によってもまた、法(正義)ならざることによってもまた、売ることによってもまた、買うことによってもまた、婆羅門の女をもまた、浄水〔の施物〕として〔もらい受けます〕。彼は、婆羅門の女のもとにもまた赴き、士族の女のもとにもまた赴き、庶民の女のもとにもまた赴き、隷民の女のもとにもまた赴き、チャンダーラの女のもとにもまた赴き、山民の女のもとにもまた赴き、下賎の女のもとにもまた赴き、車工の女のもとにもまた赴き、プックサの女のもとにもまた赴きます。妊婦のもとにもまた赴き、授乳者のもとにもまた赴き、〔入胎に適切な〕季節ならざる女のもとにもまた赴きます。彼にとって、その婆羅門の女は、まさしく、欲望を義(目的)とする者としてもまた、戯れを義(目的)とする者としてもまた、喜びを義(目的)とする者としてもまた、〔世に〕有ります。婆羅門にとって、婆羅門の女は、子孫を義(目的)とする者としてもまた〔世に〕有ります。彼は、全ての行為(生業)によって、生計を営みます。〔まさに〕その、この者のことを、婆羅門たちは、このように言いました。『何ゆえに、貴君は、婆羅門と明言しながら、全ての行為によって、生計を営むのですか』と。彼は、このように言いました。『君よ、それは、たとえば、また、火が、清らかなものをもまた焼き、清らかならざるものをもまた焼き、そして、それによって、火が汚されないように、君よ、まさしく、このように、まさに、たとえ、もし、婆羅門が、全ての行為によって、生計を営むも、そして、それによって、婆羅門は汚されません』と(※)。全ての行為によって、生計を営む、ということで、ドーナよ、まさに、それゆえに、婆羅門は、『婆羅門のチャンダーラ』と説かれます。ドーナよ、このように、まさに、婆羅門は、婆羅門のチャンダーラと成ります。

 

※ テキストには upalippati とあるが、PTS版により upalippatī’ti と読む。

 

 ドーナよ、すなわち、それらの者たちが、まさに、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちは、まさに、これらの五つの者たちを、婆羅門と報知します──梵に等しき者を、天に等しき者を、制約ある者を、制約を破壊した者を、第五のものとして、まさしく、婆羅門のチャンダーラを。ドーナよ、あなたは、それらの者たちのなかの、どの者なのですか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、このように〔世に〕存しているわたしたちは、婆羅門のチャンダーラさえも円満しません。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. サンガーラヴァ婆羅門の経

 

193. そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白とならないのですか。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となるのですか。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕」と。

 

 「(1)婆羅門よ、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、染料が、あるいは、鬱金が、あるいは、青色〔の染料〕が、あるいは、緋色〔の染料〕が、混ざっている水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているとして、事実のとおりに覚知しないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 (2)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、火によって熱せられ、沸騰し泡立った水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているとして、事実のとおりに覚知しないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 (3)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、苔や藻に覆い包まれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているとして、事実のとおりに覚知しないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 (4)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、風に揺られ、揺れ動き、混沌となり、波立った水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているとして、事実のとおりに覚知しないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 (5)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、混濁し、掻き乱され、泥まみれと成り、暗黒のなかに置かれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているとして、事実のとおりに覚知しないであろうし見ないであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知せず見ず、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。

 

 (1)婆羅門よ、しかしながら、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、あるいは、染料が、あるいは、鬱金が、あるいは、青色〔の染料〕が、あるいは、緋色〔の染料〕が、混ざっていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているなら、事実のとおりに覚知するであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。

 

 (2)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。婆羅門よ、それは、たとえば、また、火によって熱せられず、沸騰せず泡立っていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているなら、事実のとおりに覚知するであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。

 

 (3)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。婆羅門よ、それは、たとえば、また、苔や藻に覆い包まれていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているなら、事実のとおりに覚知するであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。

 

 (4)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。婆羅門よ、それは、たとえば、また、風に揺られず、揺れ動かず、混沌とならず、波立っていない水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているなら、事実のとおりに覚知するであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず……略……。

 

 (5)婆羅門よ、さらに、また、他に、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、その時点において、他者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、その時点において、両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、透明で、澄浄で、混濁なく、光明のなかに置かれた水鉢があり、そこにおいて、人が、眼によって、自らの顔の形相を綿密に注視しているなら、事実のとおりに覚知するであろうし見るであろうように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、その時点において、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住まず、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住ま〕ず、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知するなら、その時点において、自己の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、その時点において、他者の義(利益)をもまた……略……両者の義(利益)をもまた、事実のとおりに覚知し見、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕。

 

 婆羅門よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為された諸々の呪文でさえも明白となりません。ましてや、読誦が為されていないものは〔言うまでもありません〕。婆羅門よ、また、これを因として、これを縁として、それによって、或る時にあっては、長夜にわたり読誦が為されていない諸々の呪文でさえも明白となります。ましてや、読誦が為されたものは〔言うまでもありません〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. カーラナパーリンの経

 

194. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、カーラナパーリン婆羅門が、リッチャヴィ〔族〕の者たちに、仕事を課します。まさに、カーラナパーリン婆羅門は、ピンギヤーニン婆羅門が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ピンギヤーニン婆羅門に、こう言いました。

 

 「さて、いったい、どこから、貴君ピンギヤーニンはお帰りですか──昼のさなかに」と。「君よ、すなわち、沙門ゴータマの現前から、わたしは帰るところです」と。「貴君ピンギヤーニンは、それを、どうお思いですか──沙門ゴータマの智慧と聡慧を。賢者と思いますか」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るというのでしょう。沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るであろう、その者は、まちがいなく、彼もまた、まさしく、そのような者として〔世に〕存しているのです」と。「貴君ピンギヤーニンは、まさに、盛大なる賞賛をもって、沙門ゴータマの智慧を賞賛します」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を賞賛するというのでしょう。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、賞賛される者によって賞賛される者であり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者です」と。「また、貴君ピンギヤーニンは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、沙門ゴータマにたいし、このように大いに浄信したのですか」と。

 

 「(1)君よ、それは、たとえば、また、至高の味に遍く満足した人が、諸々の他の下劣な味を〔もはや〕羨望しないように、君よ、まさしく、このように、まさに、彼の、貴君ゴータマの、法(教え)を──もしくは、経〔の観点〕からも、もしくは、頌歌〔の観点〕からも、もしくは、授記〔の観点〕からも、もしくは、未曾有法〔の観点〕からも──聞く、そのたびごとに、それからあとは、諸々の他の凡俗なる沙門や婆羅門たちの論説を〔もはや〕羨望しません。

 

 (2)君よ、それは、たとえば、また、飢えと力の衰えに打ち負かされた人が、蜜団子に到達するなら、彼は、〔それを〕味わう、そのたびごとに、雑物なしの善き味を、まさしく、得るように、君よ、まさしく、このように、まさに、彼の、貴君ゴータマの、法(教え)を──もしくは、経〔の観点〕からも、もしくは、頌歌〔の観点〕からも、もしくは、授記〔の観点〕からも、もしくは、未曾有法〔の観点〕からも──聞く、そのたびごとに、それからあとは、まさしく、わが意を得ることを得、心の浄信を得ます。

 

 (3)君よ、それは、たとえば、また、人が、栴檀の小片に到達するなら──あるいは、黄栴檀であれ、あるいは、赤栴檀であれ──彼は、〔それを〕嗅ぐ、そのたびごとに──もしくは、根元であれ、もしくは、中間であれ、もしくは、先端であれ──雑物なしの芳しい香りに、まさしく、到達するように、君よ、まさしく、このように、まさに、彼の、貴君ゴータマの、法(教え)を──もしくは、経〔の観点〕からも、もしくは、頌歌〔の観点〕からも、もしくは、授記〔の観点〕からも、もしくは、未曾有法〔の観点〕からも──聞く、そのたびごとに、それからあとは、まさしく、歓喜に到達し、悦意に到達します。

 

 (4)君よ、それは、たとえば、また、人が、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者であり、彼の病苦を、巧みな医師が即座に取り出すように、君よ、まさしく、このように、まさに、彼の、貴君ゴータマの、法(教え)を──もしくは、経〔の観点〕からも、もしくは、頌歌〔の観点〕からも、もしくは、授記〔の観点〕からも、もしくは、未曾有法〔の観点〕からも──聞く、そのたびごとに、それからあとは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)は滅至します。

 

 (5)君よ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしい蓮池があり、そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その蓮池に入って行って、そして、沐浴して、さらに、〔水を〕飲んで、一切の懊悩と疲弊と苦悶を安息させるように、君よ、まさしく、このように、まさに、彼の、貴君ゴータマの、法(教え)を──もしくは、経〔の観点〕からも、もしくは、頌歌〔の観点〕からも、もしくは、授記〔の観点〕からも、もしくは、未曾有法〔の観点〕からも──聞く、そのたびごとに、それからあとは、一切の懊悩と疲弊と苦悶は安息します」と。

 

 このように説かれたとき、カーラナパーリン婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。

 

 「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。

 

 「貴君ピンギヤーニンよ、すばらしいことです。貴君ピンギヤーニンよ、すばらしいことです。貴君ピンギヤーニンよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ピンギヤーニンによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君ピンギヤーニンよ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、彼のもとに、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ピンギヤーニンは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ピンギヤーニンの経

 

195. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、世尊に奉侍します。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちはまた、青の者たちとして有ります──青の色艶で、青の衣で、青の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちはまた、黄の者たちとして有ります──黄の色艶で、黄の衣で、黄の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちはまた、赤の者たちとして有ります──赤の色艶で、赤の衣で、赤の外装の者たちとして。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちはまた、白の者たちとして有ります──白の色艶で、白の衣で、白の外装の者たちとして。まさに、世尊は、彼らに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。

 

 そこで、まさに、ピンギヤーニン婆羅門が、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔それが〕明白となります(思い浮かぶことがあります)。善き至達者たる方よ、わたしに、〔それが〕明白となります」と。「ピンギヤーニンよ、あなたに、〔それが〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。そこで、まさに、ピンギヤーニン婆羅門は、世尊を、〔その〕面前で、適切なる詩偈をもって奉賛しました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「蓮華が、あたかも、善き香りの赤蓮が、早朝に咲き誇り、香りが離れずに存しているようなもの。見よ──光り輝いているアンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)を、空中にある太陽のように輝いている方を」と。

 

 そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、五百の上衣によって、ピンギヤーニン婆羅門を覆い隠しました(随喜し上衣を贈呈した)。そこで、まさに、ピンギヤーニン婆羅門は、それらの五百の上衣によって、世尊を覆い隠しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕宝の出現は、世において得難くあります。どのようなものが、五つのものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律を説示する人は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律が説示されたとして〔それを〕識知する人は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律が説示され〔それを〕識知するとして法(教え)を法(教え)のままに実践する人は、世において得難くあります。恩を知り恩を感じる人は、世において得難くあります。リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、これらの五つの宝の出現は、世において得難くあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 大いなる夢の経

 

196. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、五つの大いなる夢が出現しました。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──大いなる臥所として、この大いなる地が有り、枕として、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)が有り、東の海に安置されたものとして、左手が有り、西の海に安置されたものとして、右手が有り、南の海に安置されたものとして、両の足が有りました。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、この第一の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──臍から、ティリヤーという名の草の類が伸び上がって、天空を打って止住し、〔そこにそのまま〕有りました。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、この第二の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──〔両の〕足から、黒い頭をした白い虫たちが這い上がって、膝頭に至るまで覆い隠しました。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、この第三の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──足元に、種々なる色をした四つの鳥が、四つの方角から到来して、降下して、全白に変成しました。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、この第四の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、糞便の山の、上に上にと歩行するも、糞便によって汚されずにいます。比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、この第五の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──大いなる臥所として、この大いなる地が有り、枕として、山の王たるヒマヴァントが有り、東の海に安置されたものとして、左手が有り、西の海に安置されたものとして、右手が有り、南の海に安置されたものとして、両の足が有ったのは、比丘たちよ、〔それを前兆として〕阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、無上なる正等覚が現正覚されたのです。その現正覚のために、この第一の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──臍から、ティリヤーという名の草の類が伸び上がって、天空を打って止住し、〔そこにそのまま〕有ったのは、比丘たちよ、〔それを前兆として〕阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、聖なる八つの支分ある道が、現正覚して〔そののち〕、天〔の神々〕と人間たちに至るまで善く明示されたのです。その現正覚のために、この第二の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──〔両の〕足から、黒い頭をした白い虫たちが這い上がって、膝頭に至るまで覆い隠したのは、比丘たちよ、〔それを前兆として〕多くの白衣の在家者たちが、命ある限り、帰依所として、如来のもとに赴いたのです。その現正覚のために、この第三の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来の──足元に、種々なる色をした四つの鳥が、四つの方角から到来して、降下して、全白に変成したのは、比丘たちよ、〔それを前兆として〕これらの四つの色(色艶・階級)ある者たちである、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たちは──彼らは、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して、無上なる解脱を実証します。その現正覚のために、この第四の大いなる夢が出現しました。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、他に、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、糞便の山の、上に上にと歩行するも、糞便によって汚されずにいるは、比丘たちよ、〔それを前兆として〕如来は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者としてあり、そして、そこにおいて(※)、如来は、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。その現正覚のために、この第五の大いなる夢が出現しました。

 

※ テキストには ta とあるが、PTS版により tattha ca と読む。

 

 比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たる如来に、これらの五つの大いなる夢が出現しました」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 雨の経

 

197. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、虚空の上において、火の界域が動乱します。それによって、生起した雨雲は消え行きます。比丘たちよ、これは、第一の雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、虚空の上において、風の界域が動乱します。それによって、生起した雨雲は消え行きます。比丘たちよ、これは、第二の雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、虚空の上において、阿修羅のインダ(権力者)たるラーフが、手で水を領受して、大海に捨て放ちます。比丘たちよ、これは、第三の雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、雨雲をもたらす天〔の神々〕たちが、怠る者たちと成ります。比丘たちよ、これは、第四の雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、人間たちが、法(正義)にかなわない者たちと成ります。比丘たちよ、これは、第五の雨についての障りです。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの雨についての障りがあります。それを、占い師たちは知らず、そこにおいて、占い師たちの眼は行き及びません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 言葉の経

 

198. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した言葉は、見事に語られたものとして有り、拙劣に語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります。どのようなものが、五つのものなのですか。かつまた、〔正しい〕時に語られたものとして、〔言葉が〕有ります。かつまた、真理が語られたものとして、〔言葉が〕有ります。かつまた、優雅に語られたものとして、〔言葉が〕有ります。かつまた、義(道理)を伴ったことが語られたものとして、〔言葉が〕有ります。かつまた、慈愛の心によって語られたものとして、〔言葉が〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した言葉は、見事に語られたものとして有り、拙劣に語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 家の経

 

199. 「比丘たちよ、すなわち、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行くなら、そこにおいて、人間たちは、五つの状況によって、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、その時点において、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行っているのを、人間たちが見て、心を浄信させるなら、比丘たちよ、その時点において、その家は、天上〔への再生〕を等しく転起させる〔実践の〕道を実践するものと成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行っているのを〔見て〕、人間たちが、立礼し、敬拝し、坐を与えるなら、比丘たちよ、その時点において、その家は、高貴の家〔への再生〕を等しく転起させる〔実践の〕道を実践するものと成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行っているのを〔見て〕、人間たちが、物惜の垢を取り除くなら、比丘たちよ、その時点において、その家は、大いなる権能を等しく転起させる〔実践の〕道を実践するものと成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行っているのを〔見て〕、人間たちが、能あるままに、力あるままに、分け与えるなら、比丘たちよ、その時点において、その家は、大いなる財物を等しく転起させる〔実践の〕道を実践するものと成ります。

 

 比丘たちよ、その時点において、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行っているのを〔見て〕、人間たちが、遍く問い尋ね、遍く質問し、法(教え)を聞くなら、比丘たちよ、その時点において、その家は、大いなる智慧を等しく転起させる〔実践の〕道を実践するものと成ります。比丘たちよ、すなわち、戒ある者としてある出家者たちが、家に近づいて行くなら、そこにおいて、人間たちは、これらの五つの状況によって、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 出離たるべきものの経

 

200. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの出離たるべき界域です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲望〔の対象〕に意を為していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、離欲に意を為していると、離欲にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、諸々の欲望〔の対象〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、諸々の欲望〔の対象〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、諸々の欲望〔の対象〕の出離と告げ知らされました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、憎悪〔の思い〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、憎悪〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、憎悪〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、憎悪〔の思い〕の出離と告げ知らされました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、悩害〔の思い〕に意を為していると、悩害〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、悩害〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、悩害〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、悩害〔の思い〕の出離と告げ知らされました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、形態に意を為していると、形態にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、形態なきものに意を為していると、形態なきものにたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、形態から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、形態という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、形態の出離と告げ知らされました。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体を有することに意を為していると、身体を有することにたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、身体を有することから、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、身体を有するという縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、身体を有することの出離と告げ知らされました。

 

 彼の、欲望〔の対象〕の喜びもまた悪習とならず、憎悪〔の思い〕の喜びもまた悪習とならず、悩害〔の思い〕の喜びもまた悪習とならず、形態の喜びもまた悪習とならず、身体を有することの喜びもまた悪習とならず、欲望〔の対象〕の喜びにおいてもまた悪習なきことから、憎悪〔の思い〕の喜びにおいてもまた悪習なきことから、悩害〔の思い〕の喜びにおいてもまた悪習なきことから、形態の喜びの喜びにおいてもまた悪習なきことから、身体を有することの喜びにおいてもまた悪習なきことから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪習なき者として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの出離たるべき界域があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 婆羅門の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「犬、ドーナ、サンガーラヴァ、そして、カーラナパーリン、ピンギヤーニン、そして、夢、雨、言葉、家があり、そして、出離たるべきものとともに、〔章となる〕」と。

 

 第四の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

5. 第五の五十なるもの

 

(21)1. キミラの章

 

1. キミラの経

 

201. 或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、尊者キミラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者キミラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか」と。「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、互いに他と、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません」と。

 

 「尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか」と。「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、互いに他と、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 法を聞くことの経

 

202. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、法(教え)を聞くことにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕聞かれていないものを聞きます。〔すでに〕聞かれたものを遍く清めます(明確化する)。疑いを超え渡ります。見解を真っすぐに作り為します。彼の心は浄信します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、法(教え)を聞くことにおける福利があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 良馬たる馬の経

 

203. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬にして良馬たる馬は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。正直であり、速さであり、温厚であり、忍耐であり、温和です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの支分を具備した王の賢馬にして良馬たる馬は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。正直であり、速さであり、温厚であり、忍耐であり、温和です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 力の経

 

204. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、精進の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びある者の力があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 心の鬱積の経

 

205. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の鬱積です。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の鬱積です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い……略……(3)僧団にたいし、疑い……略……(4)学びにたいし、疑い……略……(5)梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の鬱積です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の鬱積があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 結縛の経

 

206. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の結縛です。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の結縛です。

 

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(4)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。……略……(5)或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の結縛です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 粥の経

 

207. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの粥における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。飢えを打破します。渇きを取り除きます。体調を整えます。膀胱を清めます。生のままの残り物を煮沸します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの粥における福利があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 楊枝の経

 

208. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの楊枝の不使用における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。悪印象があります。悪臭がする口と成ります。諸々の味蕾が遍く清まりません。胆汁と痰が食べたものを覆い包みます。食べたものが彼に合いません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの楊枝の不使用における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの楊枝の使用における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。好印象があります。悪臭がする口と成りません。諸々の味蕾が遍く清まります。胆汁と痰が食べたものを覆い包みません。食べたものが彼に合います。比丘たちよ、まさに、これらの五つの楊枝の使用における福利があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 歌音の経

 

209. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、法(教え)を話している者の、引き伸ばされた歌音〔の抑揚〕による危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己みずからもまた、その音にたいし貪染します。他者たちもまた、その音にたいし貪染します。家長たちもまた、『まさしく、すなわち、わたしたちが歌うように、まさしく、このように、まさに、釈子たる沙門たちは歌う』と譴責します。音調をもまた欲している者には、禅定の滅壊が有ります。後の人々が、随従する見解を惹起します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、法(教え)を話している者の、引き伸ばされた歌音〔の抑揚〕による危険があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 気づきが忘却された者の経

 

210. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、気づきが忘却された者として、正知なき者として、眠りに入っている者の、危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。苦痛のうちに眠ります。苦痛のうちに目覚めます。悪夢を見ます。天神たちが守りません。不浄のものを解き放ちます(夢精する)。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、気づきが忘却された者として、正知なき者として、眠りに入っている者の、危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、気づきが現起された者として、正知の者として、眠りに入っている者の、福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。安楽のうちに眠ります。安楽のうちに目覚めます。悪夢を見ません。天神たちが守ります。不浄のものを解き放ちません(夢精しない)。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、気づきが現起された者として、正知の者として、眠りに入っている者の、福利があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 キミラの章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「キミラ、法(教え)を聞くこと、良馬、力、鬱積、結縛、粥、〔楊〕枝、歌〔音〕があり、そして、気づきが忘却された者とともに、〔章となる〕」と。

 

(22)2. 罵倒する者の章

 

1. 罵倒する者の経

 

211. 「比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、彼には、五つの危険が待っています。どのようなものが、五つのものなのですか。あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪ある者と成り、〔道を〕断たれた障害ある者と〔成ります〕。あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起します。あるいは、激しい病悩に接触します。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにとって、罵倒し口撃する者であり、聖者を批判する者であるなら、彼には、これらの五つの危険が待っています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 言争を為す者の経

 

212. 「比丘たちよ、すなわち、その比丘が、言争を為す者であり、紛争を為す者であり、論争を為す者であり、談義を為す者であり者であり、僧団において問題を為す者であるなら、彼には、五つの危険が待っています。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕到達していないものに到達しません。〔すでに〕到達したものから遍く衰退します。悪しき評価の声が上がります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、言争を為す者であり、紛争を為す者であり、論争を為す者であり、談義を為す者であり者であり、僧団において問題を為す者であるなら、彼には、これらの五つの危険が待っています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 戒の経

 

213. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、放逸を事因とする大いなる財物の衰退に遭遇します。比丘たちよ、これは、第一の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者に、戒が衰滅したなら、悪しき評価の声が上がります。比丘たちよ、これは、第二の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れず、愕然と成った者として近づいて行きます。比丘たちよ、これは、第三の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、等しく迷乱した者として命を終えます。比丘たちよ、これは、第四の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、第五の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、劣戒の者の戒の衰滅における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、戒ある者の戒の成就における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、戒ある者は、戒が成就したなら、不放逸を事因とする大いなる財物の範疇に遭遇します。比丘たちよ、これは、第一の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、戒ある者に、戒が成就したなら、善き評価の声が上がります。比丘たちよ、これは、第二の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。比丘たちよ、これは、第三の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、等しく迷乱しない者として命を終えます。比丘たちよ、これは、第四の、戒ある者の戒の成就における福利です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、第五の、戒ある者の戒の成就における福利です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、戒ある者の戒の成就における福利があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 多く話す者の経

 

214. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、多く話す人における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。虚偽を話します。中傷〔の言葉〕を話します。粗暴な〔言葉〕を話します。雑駁な虚論を話します。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、多く話す人における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、明慧によって話す人における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。虚偽を話しません。中傷〔の言葉〕を話しません。粗暴な〔言葉〕を話しません。雑駁な虚論を話しません。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、明慧によって話す人における福利があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の忍耐なきことの経

 

215. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの忍耐なきことにおける危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの人々にとって、愛しくなく意に適わない者として〔世に〕有ります。そして、怨念多き者として〔世に〕有ります。さらに、罪過多き者として〔世に〕有ります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの忍耐なきことにおける危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの忍耐における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。そして、怨念多き者として〔世に〕有りません。さらに、罪過多き者として〔世に〕有りません。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの忍耐における福利があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の忍耐なきことの経

 

216. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの忍耐なきことにおける危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの人々にとって、愛しくなく意に適わない者として〔世に〕有ります。そして、残忍な者として〔世に〕有ります。さらに、後悔ある者として〔世に〕有ります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの忍耐なきことにおける危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの忍耐における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの人々にとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。そして、残忍ならざる者として〔世に〕有ります。さらに、後悔なき者として〔世に〕有ります。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの忍耐における福利があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の浄信なき者の経

 

217. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの浄信なき者における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判します。〔悪しき行ないを〕随知して、識者たちが難詰します。悪しき評価の声が上がります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの浄信なき者における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの浄信ある者における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの浄信ある者における福利があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の浄信なき者の経

 

218. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの浄信なき者における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。浄信していない者たちは浄信せず、さらに、一部の浄信している者たちに、〔心の〕他化が有り、教師の教えは、〔いまだ〕為されていないものとして有り、後の人々は、随従する見解を惹起し、彼の心は浄信しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの浄信なき者における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの浄信ある者における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。浄信していない者たちは浄信し、さらに、浄信している者たちに、より一層の状態が有り、教師の教えは、〔すでに〕為されたものとして有り、後の人々は、随従する見解を惹起し、彼の心は浄信します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの浄信ある者における福利があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 火〔の体質〕の経

 

219. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの火〔の体質〕における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。悪印象の者として、悪しき色艶を作り為す者として、弱き力を作り為す者として、社交を増大させる者として、畜生の議論(無用論・無駄話)を転起させる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの火〔の体質〕における危険があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. マドゥラーの経

 

220. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらのマドゥラーにおける危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。凹凸があることであり、塵が多くあることであり、狂犬がいることであり、猛々しい夜叉がいることであり、〔行乞の〕食が得難いことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つのマドゥラーにおける危険があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 罵倒する者の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「罵倒する者と言争と戒、多く話す者、二つの忍耐なきこと、二つの浄信なき者が説かれ、火〔の体質〕におけるものがあり、そして、マドゥラーとともに、〔章となる〕」と。

 

(23)3. 長き遊行の章

 

1. 第一の長き遊行の経

 

221. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住んでいる者の危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕聞かれていないものを聞きません。〔すでに〕聞かれたものを遍く清めません(明確化しない)。〔すでに〕聞かれたものの一部に熟達なき者と成ります。激しい病悩に接触します。そして、朋友ある者と成りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住んでいる者の危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正しく定められた遊行における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕聞かれていないものを聞きます。〔すでに〕聞かれたものを遍く清めます(明確化する)。〔すでに〕聞かれたものの一部に熟達ある者と成ります。激しい病悩に接触しません。そして、朋友ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正しく定められた遊行における福利があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の長き遊行の経

 

222. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住んでいる者の危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕到達していないものに到達しません。〔すでに〕到達したものから遍く衰退します。〔すでに〕到達したものの一部に熟達なき者と成ります。激しい病悩に接触します。そして、朋友ある者と成りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、長き遊行に、定めなき遊行に、専念する者として〔世に〕住んでいる者の危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正しく定められた遊行における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔いまだ〕到達していないものに到達します。〔すでに〕到達したものから遍く衰退しません。〔すでに〕到達したものの一部に熟達ある者と成ります。激しい病悩に接触しません。そして、朋友ある者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正しく定められた遊行における福利があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 超過の居住の経

 

223. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの超過の居住における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの物品ある者として、多くの物品の蓄積ある者として、〔世に〕有ります。多くの薬ある者として、多くの薬の蓄積ある者として、〔世に〕有ります。諸々の業務において明敏であり、多くの義務がある者として、多くの用事がある者として、〔世に〕有ります。〔真理に〕随順しない在家の交流によって在家者や出家者たちと交わる者として〔世に〕住みます。そして、その居住から立ち去りつつあるなら、期待を有する者として立ち去ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの超過の居住における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正しく定められた居住における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。多くの物品ある者ではなく、多くの物品の蓄積ある者ではなく、〔世に〕有ります。多くの薬ある者ではなく、多くの薬の蓄積ある者ではなく、〔世に〕有ります。諸々の業務において明敏なるも(※)、多くの義務がある者ではなく、多くの用事がある者ではなく、〔世に〕有ります。〔真理に〕随順しない在家の交流によって在家者や出家者たちと交わらない者として〔世に〕住みます。そして、その居住から立ち去りつつあるなら、期待なき者として立ち去ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正しく定められた居住における福利があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

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4. 物惜〔の思い〕ある者の経

 

224. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの超過の居住における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの超過の居住における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの正しく定められた居住における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの正しく定められた居住における福利があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の家に親近ある者の経

 

225. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの家に親近ある者における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。〔他の比丘たちに〕告げずに〔行乞を〕歩む〔過誤〕を犯します。〔女性と〕内密に坐す〔過誤〕を犯します。〔女性と〕隠された坐にある〔過誤〕を犯します。六つもしくは五つ〔の言葉〕より以上に、女性に法(教え)を説示する〔過誤〕を犯します。欲望の思惟多き者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの家に親近ある者における危険があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の家に親近ある者の経

 

226. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、家に親近ある比丘の、限度を超えて家々と交わり〔世に〕住んでいる者の、危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。女性と幾度となく会見することです。会見が存しているとき、交流があります。交流が存しているとき、親しみ〔の思い〕があります。親しみ〔の思い〕が存しているとき、欲情があります。欲情した心の者には、このことが待っています──あるいは、喜び楽しまない者として梵行を歩むでしょうし、あるいは、何らかの或る汚染された罪を惹起するでしょうし、あるいは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするでしょう。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、家に親近ある比丘の、限度を超えて家々と交わり〔世に〕住んでいる者の、危険があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 財物の経

 

227. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、諸々の財物における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。火と相通じるものとして、諸々の財物はあります。水と相通じるものとして、諸々の財物はあります。王と相通じるものとして、諸々の財物はあります。盗賊と相通じるものとして、諸々の財物はあります。愛しくない者たちと、相続者たちと、相通じるものとして、諸々の財物はあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの諸々の財物における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、諸々の財物における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。諸々の財物に依拠して、自己を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。母と父を安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。子と妻と奴隷と労夫と下僕たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。朋友や僚友たちを安楽させ喜悦させ、正しく安楽のうちに守り抜きます。沙門や婆羅門たちにおいて、施物を確立させます──高所に至らせるものとして、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして。比丘たちよ、まさに、これらの五つの諸々の財物における福利があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 午後の食事の経

 

228. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、午後に食事する家における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。すなわち、それらの者たちが、来客の客人たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養しません。すなわち、それらの者たちが、供物の納受者たる天神たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養しません。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、一食の者たちであり、夜〔の食事〕を止めた者たちであり、非時に食事することから離れた者たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養しません。奴隷と労夫と下僕たちが顔を背けながら、行為を為します(不機嫌に奉仕する)。まさしく、そのかぎりのものとして、〔正しい〕時間にしない食事は、滋養なきものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、午後に食事する家における危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの、〔正しい〕時間に食事する家における福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。すなわち、それらの者たちが、来客の客人たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養します。すなわち、それらの者たちが、供物の納受者たる天神たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養します。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、一食の者たちであり、夜〔の食事〕を止めた者たちであり、非時に食事することから離れた者たちであるなら、彼らを、〔正しい〕時に供養します。奴隷と労夫と下僕たちが顔を背けずに、行為を為します(不機嫌に奉仕しない)。まさしく、そのかぎりのものとして、〔正しい〕時間にする食事は、滋養あるものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの、〔正しい〕時間に食事する家における福利があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の黒蛇の経

 

229. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの黒蛇における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。不浄であることであり、悪臭があることであり、恐ろしさを有することであり、恐怖を有することであり、朋友を裏切ることです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの黒蛇における危険があります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの女性における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。不浄であることであり、悪臭があることであり、恐ろしさを有することであり、恐怖を有することであり、朋友を裏切ることです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの女性における危険があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の黒蛇の経

 

230. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの黒蛇における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。忿激することであり、怨恨あることであり、おぞましき毒あることであり、二枚舌あることであり、朋友を裏切ることです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの黒蛇における危険があります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの女性における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。忿激することであり、怨恨あることであり、おぞましき毒あることであり、二枚舌あることであり、朋友を裏切ることです。比丘たちよ、そこで、女性には、この、おぞましき毒性があります。比丘たちよ、多くのところとして、女性は、強き貪欲があります。比丘たちよ、そこで、女性には、この、二枚舌の性質があります。比丘たちよ、多くのところとして、女性は、中傷の言葉があります。比丘たちよ、そこで、女性には、この、朋友を裏切る性質があります。比丘たちよ、多くのところとして、女性は、姦通者としてあります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの女性における危険があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 長き遊行の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの長き遊行が説かれ、超過の居住と物惜〔の思い〕ある者、そして、二つの家に親近ある者、財物、食事、他に、二つの蛇があり、〔章となる〕」と。

 

(24)4. 居住者の章

 

1. 居住者の経

 

231. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、尊ばれない者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。所作の成就者ではなく、行持の成就者ではなく、〔世に〕有ります。多聞の者ではなく、所聞の保持ある者ではなく、〔世に〕有ります。謹厳なる者ではなく、静坐を喜びとする者ではなく、〔世に〕有ります。善き言葉ある者ではなく、善き言葉遣いある者ではなく、〔世に〕有ります。智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、尊ばれない者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、尊ばれる者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。所作の成就者として、行持の成就者として、〔世に〕有ります。多聞の者として、所聞の保持あるとして、〔世に〕有ります。謹厳なる者として、静坐を喜びとする者として、〔世に〕有ります。善き言葉ある者として、善き言葉遣いある者として、〔世に〕有ります。智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、尊ばれる者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 愛しい者の経

 

232. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。(1)戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)善き言葉ある者として、善き言葉遣いある者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ります。(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。(5)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、梵行を共にする者たちにとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 荘厳の経

 

233. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、居住所を荘厳します。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)善き言葉ある者として、善き言葉遣いある者として、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者として、〔世に〕有ります。(4)近づいて行きつつある者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる、能力ある者として〔世に〕有ります。(5)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、居住所を荘厳します」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 多くの資益ある者の経

 

234. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、居住所にとって、多くの資益ある者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。(2)多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。(3)破断と亀裂を修復します。(4)また、まさに、大いなる比丘の僧団が来訪し、種々なる異境の比丘たちがいるなら、近づいて行って、在家者たちに、〔彼らのことを〕告げます。『友よ、まさに、大いなる比丘の僧団が来訪し、種々なる異境の比丘たちがいます。諸々の功徳を作り為したまえ。諸々の功徳を作り為すための時です』と。(5)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、居住所にとって、多くの資益ある者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 慈しみの経

 

235. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、在家者たちを慈しみます。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)卓越の戒を受持させます。(2)法(真理)を見ることにおいて、確たるものとします。(3)近づいて行って、病者たちに、気づきを生起させます。『尊者たちは、具すに値する気づきを現起させたまえ』と。(4)また、まさに、大いなる比丘の僧団が来訪し、種々なる異境の比丘たちがいるなら、近づいて行って、在家者たちに、〔彼らのことを〕告げます。『友よ、まさに、大いなる比丘の僧団が来訪し、種々なる異境の比丘たちがいます。諸々の功徳を作り為したまえ。諸々の功徳を作り為すための時です』と。(5)また、まさに、その食料を、彼に施すなら、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、それを、自己みずから遍く受益し、信施のものを浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、在家者たちを慈しみます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の栄誉に価しない者の経

 

236. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。随知せずして、深解せずして、浄信するべきではない状況において浄信を示します。随知せずして、深解せずして、浄信するべき状況において浄信なきことを示します。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。随知して、深解して、浄信するべきではない状況において浄信なきことを示します。随知して、深解して、浄信するべき状況において浄信を示します。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の栄誉に価しない者の経

 

237. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。居住への物惜〔の思い〕ある者として、居住に遍き貪求ある者として、〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として、家に遍き貪求ある者として、〔世に〕有ります。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく、居住に遍き貪求ある者ではなく、〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく、家に遍き貪求ある者ではなく、〔世に〕有ります。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第三の栄誉に価しない者の経

 

238. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知せずして、深解せずして、栄誉ならざることに値する者の栄誉を語ります。随知せずして、深解せずして、栄誉に値する者の栄誉ならざることを語ります。居住への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。随知して、深解して、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを語ります。随知して、深解して、栄誉に値する者の栄誉を語ります。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の物惜〔の思い〕ある者の経

 

239. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。信施を浪費します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。信施を浪費しません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の物惜〔の思い〕ある者の経

 

240. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。家への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。利得への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。栄誉への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。法(教え)への物惜〔の思い〕ある者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した居住者たる比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 居住者の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「居住者、そして、愛しい者、荘厳、多くの資益ある者、そして、慈しみ〔の思い〕ある者、まさしく、そして、三つの栄誉に価する者、さらに、二つの物惜〔の思い〕ある者もまたあり、〔章となる〕」と。

 

(25)5. 悪しき行ないの章

 

1. 第一の悪しき行ないの経

 

241. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの悪しき行ないにおける危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判します。〔悪しき行ないを〕随知して、識者たちが難詰します。悪しき評価の声が上がります。等しく迷乱した者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの悪しき行ないにおける危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの善き行ないにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの善き行ないにおける福利があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の身体による悪しき行ないの経

 

242. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの身体による悪しき行ないにおける危険です。……略……身体による善き行ないにおける福利です。……略……。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第一の言葉による悪しき行ないの経

 

243. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの言葉による悪しき行ないにおける危険です。……略……言葉による善き行ないにおける福利です。……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第一の意による悪しき行ないの経

 

244. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの意による悪しき行ないにおける危険です。……略……意による善き行ないにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。等しく迷乱しない者として命を終えます。身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの意による善き行ないにおける福利があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第二の悪しき行ないの経

 

245. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの悪しき行ないにおける危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判します。〔悪しき行ないを〕随知して、識者たちが難詰します。悪しき評価の声が上がります。正なる法(教え)から出起します。正ならざる法(教え)において確立します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの悪しき行ないにおける危険があります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの善き行ないにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。正ならざる法(教え)から出起します。正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの善き行ないにおける福利があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の身体による悪しき行ないの経

 

246. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの身体による悪しき行ないにおける危険です。……略……身体による善き行ないにおける福利です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の言葉による悪しき行ないの経

 

247. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの言葉による悪しき行ないにおける危険です。……略……言葉による善き行ないにおける福利です。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の意による悪しき行ないの経

 

248. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの意による悪しき行ないにおける危険です。……略……意による善き行ないにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。自己もまた、自己を批判しません。〔善き行ないを〕随知して、識者たちが賞賛します。善き評価の声が上がります。正ならざる法(教え)から出起します。正なる法(教え)において確立します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの意による善き行ないにおける福利があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 墓所の経

 

249. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの墓所における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。不浄であることであり、悪臭があることであり、恐怖を有することであり、猛々しい人間ならざる者たちの居住所であることであり、多くの人々の悲泣があることです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの墓所における危険があります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの墓場の如き人における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、不浄なる身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、不浄なる言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、不浄なる意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。彼の、不浄たることについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その墓場が不浄であるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 彼には、不浄なる身体の行為を具備した者には、不浄なる言葉の行為を具備した者には、不浄なる意の行為を具備した者には、悪しき評価の声が上がります。彼の、悪臭たることについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その墓場が悪臭があるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 〔まさに〕その、この者を、不浄なる身体の行為を具備した者を、不浄なる言葉の行為を具備した者を、不浄なる意の行為を具備した者を、梵行を共にする博愛なる者たちは、遠く離れて、遍く避けます。彼の、恐怖を有することについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その墓場が恐怖を有するように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 〔まさに〕その、不浄なる身体の行為を具備した者は、不浄なる言葉の行為を具備した者は、不浄なる意の行為を具備した者は、部分を共にする人たちと共に共住します。彼の、猛々しい居住所について、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その墓場が猛々しい人間ならざる者たちの居住所であるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。

 

 〔まさに〕その、この者を、不浄なる身体の行為を具備した者を、不浄なる言葉の行為を具備した者を、不浄なる意の行為を具備した者を、梵行を共にする博愛なる者たちは見て、憤慨の法(性質)を惹起します。『ああ、まさに、わたしたちには苦しみがある。すなわち、わたしたちは、このような形態の人たちと共に共住するのだ』と。彼の、〔梵行を共にする者たちの〕悲泣について、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その墓場が多くの人々の悲泣があるように、比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの墓場の如き人における危険があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 人への浄信の経

 

250. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの人への浄信における危険です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、人が、或る人にたいし、大いに浄信した者として〔世に〕有り、その〔或る人〕は、そのような形態の罪があるなら、僧団が排斥することになる、そのような形態の罪を犯した者として〔世に〕有ります。彼(大いに浄信した者)に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、この人は、まさに、わたしにとって、愛しく意に適う者である。彼が、僧団によって排斥されたのだ』と。〔彼は〕比丘たちにたいし浄信多からざる者と成ります。比丘たちにたいし浄信多からざる者として〔世に〕存しているなら、〔彼は〕他の比丘たちに親近しません。他の比丘たちに親近せずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)を聞きません。正なる法(教え)を聞かずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遍く衰退します。比丘たちよ、これは、第一の人への浄信における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、人が、或る人にたいし、大いに浄信した者として〔世に〕有り、その〔或る人〕は、そのような形態の罪があるなら、僧団が末席に追いやる、そのような形態の罪を犯した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、この人は、まさに、わたしにとって、愛しく意に適う者である。彼が、僧団によって末席に追いやられたのだ』と。〔彼は〕比丘たちにたいし浄信多からざる者と成ります。比丘たちにたいし浄信多からざる者として〔世に〕存しているなら、〔彼は〕他の比丘たちに親近しません。他の比丘たちに親近せずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)を聞きません。正なる法(教え)を聞かずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遍く衰退します。比丘たちよ、これは、第二の人への浄信における危険です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、人が、或る人にたいし、大いに浄信した者として〔世に〕有り、その〔或る人〕は、〔或る〕方角に立ち去った者として〔世に〕有ります。……略……還俗した者として〔世に〕有ります。……略……その〔或る人〕は、命を終えた者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、この人は、まさに、わたしにとって、愛しく意に適う者である。彼が、命を終えたのだ』と。〔彼は〕比丘たちにたいし浄信多からざる者と成ります。比丘たちにたいし浄信多からざる者として〔世に〕存しているなら、〔彼は〕他の比丘たちに親近しません。他の比丘たちに親近せずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)を聞きません。正なる法(教え)を聞かずにいるなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遍く衰退します。比丘たちよ、これは、第五の人への浄信における危険です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの人への浄信における危険があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 悪しき行ないの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪しき行ない、身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ないがあり、〔これらの〕四つのものによって、他に、二つのものがあり、墓所があり、そして、人への浄信とともに、〔章となる〕」と。

 

 第五の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

(26)6. 〔戒の〕成就の章

 

1. 「〔戒が〕成就させられるべきです」の経

 

251. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、〔戒が〕成就させられるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘によって、〔戒が〕成就させられるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 依所の経

 

252. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、依所が与えられるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。……略……。〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの……略……依所が与えられるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 沙弥の経

 

253. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘によって、沙弥が任じられるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇を……。〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇を……。〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を……。〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘によって、沙弥が任じられるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 五つの物惜〔の思い〕の経

 

254. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの物惜〔の思い〕です。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの物惜〔の思い〕のなかでは、これが、嫌悪のものとなります。すなわち、この、法(教え)への物惜〔の思い〕です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 物惜〔の思い〕の捨棄の経

 

255. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕物惜〔の思い〕の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。家への物惜〔の思い〕の……略……。利得への物惜〔の思い〕の……。栄誉への物惜〔の思い〕の……。法(教え)への物惜〔の思い〕の捨棄と断絶のために、梵行は住されます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの物惜〔の思い〕の捨棄と断絶のために、梵行は住されます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の瞑想の経

 

256. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7-13. 第二の瞑想の経等の七なるもの

 

257-263. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、第二の瞑想を……略……不可能となります。……第三の瞑想を……不可能となります。……第四の瞑想を……不可能となります。……預流果を……不可能となります。……一来果を……不可能となります。……不還果を……不可能となります。……阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、第二の瞑想を……略……可能となります。……第三の瞑想を……可能となります。……第四の瞑想を……可能となります。……預流果を……可能となります。……一来果を……可能となります。……不還果を……可能となります。……阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第十三となる。

 

14. 他の第一の瞑想の経

 

264. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第六となる。

 

15-21. 第二の瞑想の経等の七なるもの

 

265-271. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄せずして、第二の瞑想を……略……不可能となります。……第三の瞑想を……不可能となります。……第四の瞑想を……不可能となります。……預流果を……不可能となります。……一来果を……不可能となります。……不還果を……不可能となります。……阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの法(性質)を捨棄して、第二の瞑想を……略……可能となります。……第三の瞑想を……可能となります。……第四の瞑想を……可能となります。……預流果を……可能となります。……一来果を……可能となります。……不還果を……可能となります。……阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、恩を知らず恩を感じないことです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第二十一となる。

 

 〔戒の〕成就の章が第六となる。

 

1. 選出と省略〔の経典〕

 

1. 食の指定者の経

 

272. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した食の指定者(割り振り役)は、選ばれるべきではありません。どのようなものが、五つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴き、憤怒ゆえに非道に赴き、迷妄ゆえに非道に赴き、恐怖ゆえに非道に赴き、指定されたことあるものと指定されたことなきものを知りません。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した食の指定者は、選ばれるべきではありません。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した食の指定者は、選ばれるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがなく、指定されたことあるものと指定されたことなきものを知ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した食の指定者は、選ばれるべきです」と。

 

 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した食の指定者が選ばれたなら、送り出されるべきではありません。……略……選ばれたなら、送り出されるべきです。……愚者と知られるべきです。……賢者と知られるべきです。……掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜きます。……掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜きます。……運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。……運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがなく、指定されたことあるものと指定されたことなきものを知ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した食の指定者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-14. 残りの臥坐所の報知者の経等の十三なるもの

 

273-285. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した臥坐所の報知者(割り当て役)は、選ばれるべきではありません。……略……報知されたことあるものと報知されたことなきものを知りません。……略……臥坐所の報知者は、選ばれるべきです。……略……報知されたことあるものと報知されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……臥坐所の収用者は、選ばれるべきではありません。収用されたことあるものと収用されたことなきものを知りません。……略……臥坐所の収用者は、選ばれるべきです。……略……収用されたことあるものと収用されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……物品の保管者は、選ばれるべきではありません。保護されたことあるものと保護されたことなきものを知りません。……略……物品の保管者は、選ばれるべきです。……略……保護されたことあるものと保護されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……衣料の納受者は、選ばれるべきではありません。納受されたことあるものと納受されたことなきものを知りません。……略……衣料の納受者は、選ばれるべきです。……略……納受されたことあるものと納受されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……衣料の分配者は、選ばれるべきではありません。分配されたことあるものと分配されたことなきものを知りません。……略……衣料の分配者は、選ばれるべきです。……略……分配されたことあるものと分配されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……粥の分配者は、選ばれるべきではありません。分配されたことあるものと分配されたことなきものを知りません。……略……粥の分配者は、選ばれるべきです。……略……分配されたことあるものと分配されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……果実の分配者は、選ばれるべきではありません。分配されたことあるものと分配されたことなきものを知りません。……略……果実の分配者は、選ばれるべきです。……略……分配されたことあるものと分配されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……固形の食料の分配者は、選ばれるべきではありません。分配されたことあるものと分配されたことなきものを知りません。……略……固形の食料の分配者は、選ばれるべきです。……略……分配されたことあるものと分配されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……少量のものの配分者は、選ばれるべきではありません。配分されたことあるものと配分されたことなきものを知りません。……略……少量のものの配分者は、選ばれるべきです。……略……配分されたことあるものと配分されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……衣の収用者は、選ばれるべきではありません。収用されたことあるものと収用されたことなきものを知りません。……略……衣の収用者は、選ばれるべきです。……略……収用されたことあるものと収用されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……鉢の収用者は、選ばれるべきではありません。収用されたことあるものと収用されたことなきものを知りません。……略……鉢の収用者は、選ばれるべきです。……略……収用されたことあるものと収用されたことなきものを知ります。……略……。

 

 ……園丁の監督者は、選ばれるべきではありません。……略……園丁の監督者は、選ばれるべきです。……略……。

 

 ……沙弥の監督者は、選ばれるべきではありません。……略……沙弥の監督者は、選ばれるべきです。……略……。

 

 ……選ばれたなら、送り出されるべきではありません。……略……選ばれたなら、送り出されるべきです。……略……。

 

 ……沙弥の監督者は、愚者と知られるべきです。……賢者と知られるべきです。……掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜きます。……掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜きます。……運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。……運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことがなく、憤怒ゆえに非道に赴くことがなく、迷妄ゆえに非道に赴くことがなく、恐怖ゆえに非道に赴くことがなく、監督されたことあるものと監督されたことなきものを知ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した沙弥の監督者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十四となる。

 

 選出と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

2. 学びの境処と省略〔の経典〕

 

1. 比丘の経

 

286. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、梵行なき者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、梵行ならざることから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した比丘は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2-7. 比丘尼の経等の六なるもの

 

287-292. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘尼は……略……学女は……沙弥は……沙弥尼は……在俗信者は……女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備した女性在俗信者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. アージーヴァカの経

 

293. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したアージーヴァカ(活命者・邪命外道)は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、梵行なき者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備したアージーヴァカは、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9-17. ニガンタの経等の九なるもの

 

294-302. 「比丘たちよ、五つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)は……略……剃髪者の弟子は……結髪者は……遍歴遊行者は……マーガンディカは……テーダンディカは……アールッダカは……ゴータマカは……デーヴァダンミカは、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの五つの法(性質)を具備したデーヴァダンミカは、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十七となる。

 

 学びの境処と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

3. 貪欲と省略〔の経典〕

 

303. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、五つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、危険の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

304. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、五つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。無常の表象であり、無我の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

305. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、五つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

306. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、五つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。信の機能であり、精進の機能であり、気づきの機能であり、禅定の機能であり、智慧の機能です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

307. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、五つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

308-1151. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、五つの法(性質)が修められるべきです。……略……。比丘たちよ、憤怒の……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、五つの法(性質)が修められるべきです。……略……。

 

 どのようなものが、五つのものなのですか。信の力であり、精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。比丘たちよ、放逸の放棄のために、これらの五つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 そのための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「証知のために、遍知のために、完全なる滅尽のために、捨棄のために、滅尽のために、そして、衰失とともに、離貪と止滅、さらに、施捨、放棄があり、これらの十がある」と。

 

 五なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。

 

 そこで、これが章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「学びある者の力、まさしく、そして、力、そして、五つの支分あるもの、スマナー、そして、ムンダと〔修行の〕妨害、そして、表象、さらに、第八のものとして、軍人──

 

 長老、そして、カクダと平穏、第十二のものとして、アンダカヴィンダ、病と王とティカンダ、正なる法(教え)と憤懣〔の思い〕と在俗信者──

 

 まさしく、そして、林と婆羅門、そのように、キミラと罵倒する者、さらに、長き遊行と居住者、悪しき行ないと〔戒の〕成就がある」と。

 

 パンチャカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。